...

Title 劇場としての世界 : 17世紀西欧における演劇と思想の交流 史

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

Title 劇場としての世界 : 17世紀西欧における演劇と思想の交流 史
Title
劇場としての世界 : 17世紀西欧における演劇と思想の交流
史
Author(s)
矢橋, 透
Citation
[岐阜大学教養部研究報告] no.[34] p.[277]-[286]
Issue Date
1996-09
Rights
Version
岐阜大学教養部フランス語研究室 (The Faculty of General
Education, Gifu University)
URL
http://repository.lib.gifu-u.ac.jp/handle/123456789/3941
※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。
岐阜大学教養部研究報告第34号 ( 1996)
277
劇場 と し て の世界
17世紀西欧にお ける演劇 と思想の交流史
矢 橋
透
フ ラ ンス語研究室
(1995年 6 月28日受理)
L e monde comme un th6atre
Histgire de la communication entre le th6atre et la pens6e
au χⅦes16cle occidenta1-
T6 rou
Y A BA SE
昨今, 16世紀末か ら17世紀初頭 にかけて興隆 し た懐疑主義思想 を再評価 し , それ との関連
で デカ ル ト を初め とする近代思想 ・科学思想 を見なおそ う とす る傾向が著 しい (1)。 中世 には
ほ と ん ど忘れ去 られていた古代の懐疑主義思想 は, 対抗宗教改革の動 きの中で カ ト リ ッ ク側
に よ っ て , プ ロ テ ス タ ンテ ィ ズムの主観主義的傾向を独断論 と して批判す る ために導入 され
たのだが, それは後に中世的知の根幹 を な していた ア リ ス ト テ レス主義の独断論 を も突 き崩
し, ひいては近代思想 ・科学を成立 させる原動力 と なっ たのである。 こ う七 た思想史におけ
る懐疑主義の大 きな影響力の影は, こ れまで余 り指摘 さ れて こ なかっ たのだが, 。演劇史にお
いて も見出だ さ れるので はないか ? と言 う の も, 懐疑主義はア リ ス ト テ レス = トマ ス主義の
直観的 ・ 日常的世界観 を破壊 し, それに よ っ て世界は演劇 と 同様の 「仮象世界」, シ ミ ュ ラー
ク ルの世界 と化 して し ま っ た。 それ故演劇 はこ の時代の思想 にある種の世界観 ・ 思考モ デル
を提示 していた と考え られ, 実際こ の時期の思想的著述には, 後に見る よ う に演劇的比喩が
数多 く 見出ださ れる。 また演劇の方 も, 自らの知的前衛性を意識 し, 自己言及的な メ タ演劇
的 な世界 を展開す る。 それが まず, 劇 中劇 を偏愛 し世界が劇場であ る こ と を繰 り返 し述べた
て るバロ ッ ク演劇で ある こ と は も う 言 う まで も ないで あ ろ う 。 こ の時代, 思想 と演劇は明ら
か に通底 し あ っ て いたので あ る。
しか し, 私か こ れまで, そ う し た懐疑主義思想お よびそれを乗 り越 え よ う とす る思想の動
きの反映を見 よ う と して きたのは主に, バ ロ ッ ク の次の時代のいわゆる古典主義期の劇作家
た ち , コ ルネイ ユ, ラ シーヌ , そ して特 にモ リ エ ールの作品の中にで あっ た。 モ リエールは,
矢
278
透
橋
思想への関心が非常に強かっ た こ とが知 られている。 彼は, ルク レチ ウスの 「物の本質につ
いて 」 を翻訳 し よ う と して いた こ とが同時代の証言 に よっ て伝 え られて いる。 と こ ろ が, ル
ク レチ ウス は当時は, その師のエ ピク ロス と と も に唯物論 と して, 古代の思想中最 も危険な
もの と見倣 さ れていたので あ り, ク ト ンが言 う よ う に, そ れ を翻訳 し よ う とす る こ と は,
「単なる人文主義者の気晴 ら しで はな く 」, ま さ に 「問題に参画する行為であっ た」 (2) ので あ
る。 また彼 は, ガ ッサ ンデ ィ やラ ・ モ ッ ト ・ ル ・ ヴァイ エ , あ るいはデ ・ ハ ロー と い っ た当
時代表的な懐疑主義者= 自由思想家 と見倣 さ れていた人た ち と交流があっ た こ と も伝 え られ
ている (3) が, ガ ッサ ンデ ィ は言 う まで もな く けエ ピ ク ロ ス の近代への復興 に最 も貢献 し た
思想家であ り, ク ト ン も認める よ う に, 彼のルク レチ ウスの翻訳がその思想に影響 さ れた も
ので あっ た可能性は強いのである。 このよ う にモ リエ ールは, 彼の青春期 に時代全体 を蔽っ
ていた懐疑主義的雰囲気 をおいて も, 個人的に も懐疑主義思想 と深い関わ りがあ っ た こ とが
推測 さ れる ので あ る。
二
ご
‥
更に, 以上述べて きた伝記的事実に加えて, モ リ エ ールは, テキス ト の中で はっ き り と懐
疑主義に言及 して さ えい るので あ る。 それは, 1664年 1月に初演 さ れた コ メ デ ィ ー ・ バ レ ー
『強制結婚』犬においてであ り, そ こで は, ラ イバルの 「ア リ ス ト テ レス主義の博士」 パ ンク
ラス と と も に,イ ピュ ロ ン主義の博士」 マ ルフ ュ リ ウスが登場 している ( あ ら ゆる問題 に対
して判断を保留す る ピュ ロ ン派は言 う まで も な く , 否定的断定 を こ と とす る ア カ デーメ イ ア
派 と と も に, 古代懐疑論の代表的な もので あ り/, 近代の懐疑主義思想の復興において最 も大
きな役割を果た した) 。 この作品のス ト ー リ ーは, 中年男のス ガナ レルが√浮気性 の若い娘
と結婚す る かど う か迷い, 二 人の博士 を初め様々な人に助言 を仰 ぐが, 結局娘の兄 に破談に
す る な ら決闘を し ろ と凄 まれて泣 く 泣 く 承諾する と い う単純な もので, むしろ華やかなバレー
の間をつ な ぐ簡単な台本 と いっ た印象 もある。 しか し√少々穿 っ た見方をすれば, ア リ ス ト
テ レス派 と ピュ ロ ン派 と い う 当時の二大哲学を初め, 魔術師やジプ シー占いにまで助けを求
める主人公の姿は, 近代初めの知の混迷の時代にゆき迷 う 精神 を象徴 している と も考え られ
るで あ ろ う 。 さ て , く だんのピ ュ ロ ン主義者は, ス ガナ レルのす るあ ら ゆる問いに対 して ,
「それはあ り う る」 とか 「場合による」 と いっ たふ う に確言 を避ける。 埓が開かな い こ と に
業 を煮や し たス ガナ レルは, 最後 には彼 を殴 り=, マ ルフ ュ リ ウスが怒る と , 殴っ た こ と は確
実 と は言え ない と懐疑主義者のお株 を奪 う 。 この場面には実は原型があるのであっ て, それ
はラ ブ レーの第三の書 「パ ン タ グ リ ュ エ ル物語」 中35章か ら36章にかけて, 結婚す る か否か
迷 う パニ ュ ルジュ が, ピュ ロ ン派の懐疑主義哲学者の ト ルウイ ヨ ーガ ンに是非 を問い, 哲学
者がのら り く ら り と言い逃れる場面である ( 「殴 り」 の落ち はこの場合はない) 。 設定が極め
て似通っ て い る こ とか ら して , モ リ エ ールがラ ブ レーのこ の場面 を知っ て いた こ と は間違い
がないだろ う が, ポプキン も指摘する よ う に(4),
ト ルウイ ヨ ーガ ンの答弁が矛盾 し た断定 を
含むは ぐ ら か し に過 ぎないのにたい して, マ ルフ ュ リ ウス の答弁は全て の問い にたい して確
言 を避けて お り, ピュ ロ ン主義者の答弁 と してず っ と正確 なので ある。 古代ギ リ シ ヤの懐疑
論の最 も包括的な解説書で ある セ ク ス トス ・ エ ンペ イ リ コ ス の 「ピュ ロ ン哲学の概要」 のラ
テ ン語訳の出版が1569年で あ り, モ リ エ ールの懐疑主義思想への理解は, ラ ブ レーに比 して
はる かに深 まっ て いる。 モ リ エ ールが ピュ ロ ン主義 を明確 に意識 していた こ と を証明す る も
ので あろ う 。
劇場 と しての世界
- 17世紀西欧における演劇 と思想 の交流史 -
279
以上, モ リエ ールと懐疑主義思想の関係 を, 伝記的事実 とテ キス ト 中の言及 と い う , いわ
ば表層的な レベルで跡づけて きたわけだが, 私は過去の論文においては, モ リエ ールの多 く
の作品を貫通するテーマ的な流れとい う , よ り深層的 ・ 内容的な レベルで, 懐疑主義 ( と,
それを乗 り越え よ う とする思想的運動) との関係を追っ て きたのであっ た。 具体的に言えば,
「偽 り の外観 fausse apparence」 , 「反仮面 anti-masque」 , 「勝 ち誇 る仮面 masquetriom-
phant」, 「善いぺてん師 (仮面)
bonimposteur ( masque)」 と い う 四つのテーマ の変遷 と
してモ リ エ ールの作品を捉 え よ う と し て きた。 それぞれのテ ーマ と懐疑主義思想 との関連を,
補足的な指摘 を行いなが ら今一度辿っ て ゆこ う 。
まず初めに 「偽 りの外観」 であるが, こ れは1640年代か ら50年代にかけてのス カ ロ ン らの
悲喜劇的な作品に頻出 していたテ こー
-マで, 偶然の もた らす視覚 的 ト リ ッ ク に よ る誤解 一
多 く の場合, それによっ て女主人公の貞節が疑われるが, 結末で誤解が晴れる ー
を内容
と してお り, 人間の 「感覚 (視覚) の不確実さ」 とい う 認識をペース と している。 モ リエー
ルはこ のテ ーマ を, 初期喜劇
て採用 してお り, また
「ナヴァ ールの ド ン ・ ガルシー ま たは嫉妬深い王子」
「ス ガナ レルま たは想像上のコ キュ」
におい
で笑劇的に変奏 して い る (5)。
こ う した 「感覚の不確実 さ」 とい う 認識は, 懐疑主義者の理論 的基礎前提であ り, モ ンテー
ニ ュ も 「 レーモ ン ・ ズボンの弁護」 において, 感覚の不充分 さ ・ う つろいやす さ , ( 情念に
影響 された) 錯覚等執拗な感覚批判を行なっている。 人間が感覚によって捉えるのは 「外観=
見かけ」 に過 ぎず, なん ら実体的な もので はない。 17世紀 にお けるモ ンテ ーニ ュ の精神的な
後継者であ り, 前述のよ う にモ リエ ールと も親交のあ っ た ピュ ロ ン主義者 ラ ・ モ ッ ト ・ ル ・
ヴァ イエが言う よう に, 我々は 「見かけ ( apparence) を 自分 に と っ て都合が善い よ う に判
断する幻想 しかない」(6)。 こ う した不安定な感覚的世界の意識は, 当然 「[神の啓示以外 は]
すべては夢 と煙にす ぎない」 ( 「 レーモ ン ・ ズボ ン」) とい う認識へ とつながっ て ゆ く 。 これ
が前述 した よ う に, 世界の仮象性 を執拗に反復す るバ ロ ッ ク文学の認識 と も重なる (7) こ とは
言 う まで もないであろ う 。
さて しかし, 人を 「偽 りの外観」 で欺 く のは, 偶然や事物だけではない。 意識的に人間の
感覚や認識の不確実 さ を突こ う とする, 「仮面」 の人間が存在す る。 タ ルチ ュ フ の登場 であ
る 。 「タ ルチゴ フ またはぺてん師 LeTart可∫
eou l 17nposteur」 はこ れまで は, 当時の社
会 に巣食っ ていた 「偽信者」 を リ ア リ ズム的に描いてい る と考 え られて きたのだが,
「ドン ・
ガ ルシー」 と共通す る 「偽 りの外観」 と 「視覚の不確実さ」 の懐疑主義的なテ ーマ を扱った
作 品と い う 一面を も持っ ているのであ る (8)。 モ リエ ールは 「仮面」 を, 『 ド ン ・ ジュ ア ン』,
『人間嫌い』 と批判的に扱づてお り , そ れが 「反仮面」 のテ ー マ系の作品群 を形成 し てい
る (9)。 と こ ろが, こ う し た 「仮面」 ない し は 「ぺて ん師」 のイ メ ージは, こ の時代懐疑主義
の影響を強 く 受けた思想的作品にも数多 く 現われているのであ る。 まず, モ ンテーニュ の直
接 の弟子で, 懐疑主義思想の興隆に師 と同 じ く らい大 きな貢献 を した ピエール ・ シャロ ンは,
代 表的著作 「知恵」 の中で, 人間の生み出 して きた様々な学説 は互いに矛盾 しあい欺 きあっ
て お り, 彼 らが原理 と称す る もの も 「それによっ て世界が過誤 と虚偽 に満ち る こ と にな る イ
ンチキ (piperie)」(10) に過ぎない と喝破 している。 パスカルも また, モ ンテ ーニュ から大 き
280
矢
橋
透
な影響 を受 けて い る が(11), 『パ ンセ』 と い う 書 物 は, 後 に詳 し く 見 る よ う に 「偽 善者
hypocrite」, 「ぺてん ( 師) imposture (imposteur)」 等 「欺 き」 のイ メ ージに溢れて い る。
更には, ポ プキ ンの言葉 を借 りれば 「懐疑主義の征服者」 である デカ ル ト に も, 深刻 な ピュ
ロ ン主義的危機 で あ る 「誇張 さ れた懐疑」 の過程 にお い て は, 「大 い な る 欺 肺 者 grand
trompeur」 で あ る 「悪 し き霊」 が現われている こ と を忘れて はな ら な いム デ カ ル ト はそ の
後, コ ギ ト ーの第一原理 を発見 し, そ こ か ら完全 な神の明晰判明な観念 を通 じ て , 「我 々を
欺 く こ と はあ り えない」 神の実在性の証明, 更には明晰判明な数学的真理の証明へ と進んで
ゆ く 。 しか し, 以前に も指摘 した よ う に(11), こ のデカ ル ト の 「神」 と,
「タ ルチ ュ フ」 の結
末に登場 し , タ ルチ ュ フ の 「仮面」 に欺かれたオルゴ ンを救う , 絶対的に 「正 しい 目」 を持っ
た 「国王」 とのアナロ ジー も気づかれねばな らない。 両者は, この感覚 と認識の危機の時代
にあっ て人間の不安を救 う ために導入さ れた, あえて言えば 「理論的構築物」 なのである。
モ リエ ールはレ 「反仮面」 の作品群においては, デカ ル ト の影響の も と に, 懐疑主義的世界
観によ りなが ら もそれを乗 り越え よ う と している よ う に思われる。
しか し, 「仮面」 を痛烈に批判 しつつ も, 「外観」 の誘惑に完全には抗 し きれないアルセス
トの様が描かれた 『人間嫌い』 以降, モ リエ ールの 「仮面」 のテ ーマの扱いには変化が現わ
れて く る ( あたか も, 役者である彼が 「仮面」 を批判する こ と には, 根本的な矛盾があ るか
のよ う に(12) ) 。 『ア ンフ ィ ト リ オン』 や 「ジ ョ ルジュ ・ ダンダ ン また は し て や ら れた亭主」
では, 「仮面」 と 「外観」 に翻弄さ れる人間の様を突 き放 して客観的に描 く よ う にな り ( 「勝
ち誇る仮面」 のテ ーマ系) (13), 更には,
「守銭奴」√「町人貴族」, 『気で病む男』 と い っ た後
期の作品で は, 逆 に肯定的な登場人物たちが, 「仮面」 を用いる こ と で不 当な境 遇か ら脱 出
する様が描かれる よ う になる ( 「善いぺてん師 (仮面) 」 のテーマ系) (14)。 最後のテ ーマ系で
は, 演劇人で あ る作者が, 世界の仮象性 を逆手に と っ て 「演劇的な知」 を武器 と し て世界に
対 して いる かのよ う なので あ る。 こ う してモ リ エ ールが行 き着いた方向は, デカ ル ト のよ う
に確実な実在的真理を追い求めるので はな く , 人間が経験的な仮象的事実 しか認識で きない
こ と を認めて, 仮象的世界の解明にこ そ新科学の進むべ き道 を見出だ した ガ ッ サ ンディ やメ
ルセ ンヌ らの 「構成的または緩和的懐疑主義」 ( ポプキ ン) の立場 との並行性 ・ 類似性 を感
じ させるよ 更には, 人間を取 り巻 く 世界に存在する四つのイ ドラ ( そのう ちの一つは, いみ
じ く も劇場のイ ド ラ と い う , 仮象的世界の演劇性 を象徴す る比喩によっ て呼ばれてい る ) の
シ ミ ュ ラ ーク ル的な幻惑性 を認めなが ら, 誤 りの原因の探索 と実験 によっ て経験的仮象的な
実用的知を発見 し よ う と し, また対人関係において は, 世界のシミ ュ ラークル性を逆手にとっ
た 「精神の衣装」 を勧めている フ ラ ンシス ・ ベーコ ンの立場 (15) と の, よ り積極的な類似 を。
以上, モ リ エ ール作品の大 きなテ ーマ上の流れを四つ に分類 し, それ ら をそれぞれ懐疑主
義思想 と の関連 において見て きた。 それ らのテ ーマ は, 「偽 りの外観」, 「仮面」 と い っ た演
劇的な タ ー ムを基礎 と し て い るが ( そ の他 , 「演 じ る 」ouer」 , 「装 う feindre」 , 「役割
personnag6」 といっ た多 く の演劇的メ タ フ ァーが付随 して使われていた) , そ れは, 懐疑主
義の引き起 こ した ピュ ロ ン主義的危機の過程で生 じた世界の ( 演劇 と 同様の卜仮象化を反映
して いる ゆえなので あ る。 で は, こ う した フ ラ ンス にお ける こ の時代 な らで はの思想 と演劇
の交流現象の最後の例 と して, パス カ ルと の関係 を見てお こ う 。 モ リ エ ールとパス カ ルと は,
活躍 し た領域, 信条等お よそかけ離れた意外な取 り合せだが, 『パ ンセ』 中に は, こ れ まで
劇場 と しての世界
- 17世紀西欧にお ける演劇 と思想の交流史 -
281
見て きたモ リ エールのテーマ系のそれぞれによ く 対応す る断章が存在するのである。 まず,
「偽 り の外観」 のテーマ に対応す るのが, プ レイ ヤー ド版断章92 ( ブ ラ ン シ ュ ッ ビ ッ ク 版断
章83) であ り, そこでは, 人間とは誤謬に満ちた存在で/ 彼に真理を示すべ き理性 と感覚 と
が互い に欺 き あっ て い る こ と が示 さ れる 。
L us sens abusent la raison par de fausses apparences; et cette m 6me piperie qu ils
apportent a l am e, ils la reQoivent d elle & 1eur tour : elle s en revanche. L es passions de
1 ametroublent lessens, et leur font desimpressions fausses. 11smentent et setrompent
在 1 envi.
感覚は, 偽 りの外観 によっ て理性 を欺 く 。 次 に, 感覚が魂に与えたのと 同 じイ ンチ キを,
今度は感覚が魂から受け取る。 魂が復讐するのだ。 魂に起こ る情念が感覚 をかき乱 し, 偽
り の印象 を作 り上げる。 感覚 と魂は, 競 っ て嘘をつ き欺 きあ う 。
二
「偽 りの外観」 と い う 表現が もろ に現われてい るが, 後半の 「情念が感覚 をか き乱 して, 偽
りの印象を作 り上げる」 とい う 部分 も, ま さ に, 恋 と嫉妬の情念から 「偽 りの外観」 を構成
して し ま う ド ン ・ ガルシー王子の場合に当た っ ている と言える (16)。
次 に, 「偽 りの外観」 を作 り 出すのが意識的な人 間にな っ た 「仮面」 のテ ーマ で あ るが,
それには例 えば, 自愛を扱っ た P断章130 (B100) が当たろ う 。 そこでは, 対人関係が, 欠
点を他人に覆い隠 し互いに欺 きあいへつ ら いあ う 「永遠のイ リ ュ ージ ョ ン」 に過 ぎない こ と
が述べ られて お り, 最後の部分な どはま さ に 「人間嫌い」 のセ リ メ ーヌ のサ ロ ンの人間関
係(17) の要約 と して も使えそ う なほどで あ る。 以下がこ の断章の結論で あ る。
L homme n est doncqued6guisement, quemensengeet hypocrisie, et en soi-m§meet & 1
6gard des autres.
犬
人間はし たがっ て, それ自身において のに また他人にたい しての仮装 ・ 嘘 ・ 偽善で しか
な い。
「仮装」 が 「仮面」 と等価な演劇的イ メ ージである こ と は言 う まで もないであろ う 。 また前
述の とお り , タ ルチ ュ フ と明らかに結びつけ う る 「偽善 ( 者) 」, 「ペテ ン ( 師) 」 のイ メ ージ
は, イエズス会を念頭に置いた宗教的コ ノ テ ーシ ョ ンを も含んで
『パ ンセ』 中に数多 く 見
ら れ る ので あ る 。
最 後に, 「勝ち誇る仮面」 や 「善いぺて ん師」 のテーマ系 と の関連で は, 「誤謬 と虚偽の女
王」 である 「想像力」 について語る P断章104 (B82) は如何だ ろ う か ? そ こ で は, 弁護士
の大 げさ な 身振 りの 「外観に編 さ れる」 裁判官等, 想像力を介 した様々な誤 りが指摘 されて
ゆ く のだが , 司法官や博士 と並んで, 医者が 「長衣やサ ンダル」 といっ た彼 らの衣服の与え
る威 厳がな ければ 「世間を編す こ と はで きなかっ たで あろ う 」 こ とが指摘 さ れる。 モ リ エ ー
ルも 「気で 病む男 む 皿㎡㎡eimaginaire」 において, 医学が こ う し た人間の想像力が成立
矢
282
橋
透
させて い る もので あ る こ と を執拗 に論 じ, また女中の ト ワネ ッ ト の医者への変装や, 最後の
アルカ ンの医学の学位授与式において , こ う した医者の衣服の持つ偽 りの権威 を暴露 ( かつ
利用) し ている (18)。
以上述べて きた よ う に, パス カ ルと モ リエ ールは, 生年はほぼ同 じで あるが, 全く 異なっ
た領域で 活躍 し, また活躍の時期 もず れているために ( パス カ ルは1662年に死んでお り, 若
い時期 を地方巡業に費や したモ リ エ ールの主要な作品が上演 さ れる場に立ち会いよう がな く ,
また
「パ ンセ」
のいわゆる ポール ・ ロ ワイ ヤル版が出版 さ れる のは1670年で モ リ エ ールの
主要な作品が書かれた後である) 互い に影響を与えた可能性はほと んどないにもかかわらず,
非常 に似通っ た懐疑主義的テ ーマ を大 き く 展開 しているので あ る。 こ のこ と は, いかに懐疑
主義が当時の知的環境 に強い衝撃を与 え, 共通 した精神風土 を形づ く っ て いたかを証明す る
もので あ ろ う 。
劇場 と し ての世界
- 17世紀西欧 にお ける演劇 と思想 の交流史 -
283
のユ ダヤ人」 の主人公であるマ キャペ リ ス ト のユ ダヤ人は, 演劇的な策略を延々と繰 り返す。
と こ ろが彼の場合 は, 最初ははっ き り と し ていた 目的が途中か ら曖昧にな っ て きて , ま さ に
「欲望する機械」 のよ う に, 策略をひたす ら反復 してゆ く 。 彼は, 近代初 めのシ ミ ュ ラ ー ク
ル的な世界の空虚性 を最 も ラ ジカ ルに生 きている よ う なのだ。 最後に, ア グニ ュ ーによれば
ペ ン ・ ジ ョ ン ソ ンは, 「バーソ ロ ミ ュ ーの縁 日」 において, 一つの巨大 な劇場 と化 した 「市」
を描いてみせ る (26)。 それは, いかさ ま商売の 「演技」 や様々な 「変装」 に よっ て成 り立っ て
いる。 そ して, そ う した多様な筋が錯綜 したカ オス的世界が, 最後にはあたか もア ダム ・ ス
ミ ス の 「見え ざる手」 に依るかのよ う に大団円へ と 自然に終息 して ゆ く 。 そ こで は, 「劇場」
と 「市場」 がアナロ ジー的に提示 さ れて い るのだ。 以上のよ う に, エ リ ザベス朝の劇作家た
ちは, それぞれの読解格子 と ニ ュ ア ンス が微妙 に異な っ て いる にせ よ, いずれ も演劇 を鍵 と
して, 近代初めの不安定な世界 を解釈 し よ う と しているのである。
次に思想史の方を見渡せば, 例えば ト マス ・ モ ア は, グ リ ー ンブ ラ ッ ト も指摘す る よ う
に(27), 若い頃カ ン タ ベ リ ー大司教の家で小姓 を していた時, そ こ で の即興的な余興演劇 を大
変得意 と していたが, 公的な様々な場で ある役割を巧みに演 じ る と い う 意識は彼の生涯に付
き ま と っ ていた。 彼はそ う した意識 を, 「ユ ー ト ピア」 第一部で実名で 登場す る場 で 述べ て
もいる。 しか し, 彼はそ う した演劇的多重的な生 き方を, 「ユー ト ピア国」 において は私的
生活の抹消 と い う 形で全否定す るのであ る。 終生カ ト リ ッ ク教会の権威に忠実で あっ た彼 に
あっ て は, 演劇はい まだ魅力 と忌避の両義的な存在であ っ た こ とが解 る。 そ う した両義性は,
前に も触れた フ ラ ンシス ・ ベ ーコ ンに も見 られるが, モ ア よ り一世紀ほど後の時代 に生 きた
彼にあっ て は, 演劇的イ メ ージは 「劇場 のイ ド ラ」 に対抗す る 「精神の衣装」, 「第二の自然」
とい う 形で肯定 さ れる方向に動いている と言え る (28)。 そ して, 更に30年ほど若 く 典型的な17
世紀 人 と言っ て よい ト マス ・ ホ ッ ブズは, 「リ ヴァ イ アサ ン」 の第16章においで, コモ ンウェ
ルス の代議制を構成する 「人格 ( パーソ ン) 」 ( パーソ ンは, ホ ッ ブズ 自身も指摘 している よ
う に, 言 う まで も な く ラ テ ン語で 「仮面」 を表すペルソ ナか ら派生 した言葉である) とい う
形で , 演劇的形象を ま さ に近代社会の基本的ルールと して利用す る にいた るので ある (29)。 彼
は, プラ タ スの思想史における ガ ッサンデ ィ やメ ルセ ンヌ と 同様, 人間が仮象的現象 しか認
識で きない こ と を認めてお り, そ う した仮象的世界を演劇的に解釈 してゆ く こ とで近代世界
のルールを構成 して ゆ く 。 このよ う に演劇的な イ メ ージは, フ ラ ンス において も英米圏にお
いて も近化 S想の形成において きわめて大 きな役割を果た している と言えるのである。
゛以上見て きた よ う に, 極めて興味深い こ と にに フ ラ ンス にお いて も イ ギ リ ス において も,
17世紀 と い う 時代 にあ っ て様々な演劇家 と思想家が, 演劇 を鍵概念 と して近代初めに出現 し
た不安定な世界 を解釈 し再構成 し よ う と していた。 どち らの国において も, 前提 と してある
種の危機が存在 し, それが世界を不安定 な仮象の もの と見倣 させている こ とが, その原因で
ある と考 え ら れる。 近代の始 ま りの時代 で ある17世紀 は, また 「全般的危機」 の時代 と言わ
れる (l))。 それは, 経済的な危機 を前提 と す る政治的危機の時代である と と も に, 宗教戦争や
科学革命 を含む精神的危機の時代で あ り , フ ーコ ーによれば, まさ に知のエ ピス テ ーメ ー的
な構 造変革期で あ っ た (31)。 し たがっ て, 宗教戦争 を直接め起源 とす る懐疑主義的な精神的危
284
矢
橋
透
機が強 く 影響 している にせよ ( フ ラ ンスの状況) , 資本主義の浸透による社会構造の変動 と
い う 経済的な危機が強 く 影響 している にせ よ ( アグニ ュ ーによる イ ギ リ ス の状況) , いずれ
にせ よ危機は複合的であ り, こ の演劇的イ メ ージの頻出と い う 現象には様々な領域の要因が
混 じ りあ っ て いた と考え られるので ある 。 また, 危機が全般的領域 に関わっ てお り, ま さ に
そ こ で は世界観が問題 と なっ てい る のに伴 っ て, それへの対応で あ る演劇的解釈が現われる
範囲 も当然脱領域的に拡大 してゆ く 。 私は過去の論文で ー モ リ エ ールやコ ルネイユ に従 っ
て ー , レ ト リ ヅク と いっ た文化的装置か ら, 王権 と い う 政治的装置や都市 と い う社会的装
置へ と, 多様な領域を経巡っ て きたが(32), それも上記の理由から当然の成 り行 きであっ た と
言える。 ある種の 「近代」 は, そ う した 「仮面」 が活躍 し幾分 と も 「劇場」 に似通っ た様々
な装置か ら確実に生 まれて きたので ある (33)。 懐疑主義 を初め と す る , こ の近代初めの時代 を
襲っ た様 々な危機 と の関係 において考察 さ れる と き, モ リ エ ールを初め とす る17世紀の演劇
作品は, これまで余 り見せて こ なかっ た思想史を初めとする多様な知 との交流点と しての相
貌 を見せ て く る ので あ る。
注
(1)
Cf. RichardH. Popkin, TheHistory oj` Scepticism jrom Erasmλ
ts to Descartes, Van
Gorcum, 1960. [ リチ ャフ ド ・ H ・ ポプキ ン, 「懐疑 一 近世哲学の源流」 (野田又夫, 岩坪紹夫訳),
紀伊國屋書店, 1981. ] Henri Gouhier, 《Doutem6thodiqueou n6gation m6thodique? 》 ,
叙udesphilosophiques, IX, 1954, pp. 135-62. 佐 々木力 , 『近代 学 問理念 の誕生 』 , 岩波書 店 ,
1992. 田中仁彦, 『デカ ル ト の旅/ デカ ル ト の夢』, 岩波書店, 1990.
(2)
Georges Couton, 《 lntroduction》 de Moti&re (Euures comp1&tes,
Bibli oth6que de la P161ade, 1971, p. XⅦ .
工, Gallimard,
卜
(3)
C1。1bid. , p. XV-χVⅢ.; FrancineMallet, M c
)a re, Grasset, 1990, pp. 252-63.
(4)
ポプ キン, 邦訳書, p. 28-9。
(5)
Cf. 拙論, 「『タ ルチ ュ フ』 -
< 視覚> の劇」, 『フ ラ ンス文化のこ こ ろ ー
駿河台 出版社, 1993, pp. 1-12.
I
.
ゝ
その言語 と文学』,
I
.
(6)
Popkin, 0p.Cit、, p.93卜
(7)
Cf. JeanRousset, £α沿1&rd are& Z 心尹 h ro卯 ee71Fr皿 ce, Jos6 Corti, 1954; G6rard
Genette, F igures l , Seu11, Collections 《 Points》 , 1976, pp. 9-20. [ ジ ェ ラ ー ル ・ ジ ュ ネ ッ ト ,
「可逆的世界」 (拙訳) , 『フ ィ ギュ ール I 』 , 書肆風の薔薇, 1991, pp. 9-25. ]
(8)
Cf. 前掲拙論, pp. 3-5.
(9)
Cf. 拙論, 「二つの仮面 -
△
モ リエ ール 『 ド ン ・ ジュ ア ン』 について」, 『岐阜大学教養部研究報
告』 23, 1987, pp. 229-36. 「仮面の劇 -
モ リエ ール =『人間嫌い』 について」, 『筑波大学 フ ラ ンス
語フ ラ ンス文学論集』 3, 1986, pp. 1-14.
(10)
PierreCharron, 770晩esZes(x?皿 res, SlatkineReprints, 1970 (r61mpressionde1 6dition
de Paris, 1635) , p. 144.
.
(11)
前掲拙論, 「『タ ルチ ュ フ』 -
< 視覚> の劇」, pp. 7-9.
(12)
Cf. 前掲拙論, 「仮面の劇 一 モ リエ ール 『人間嫌い』 について」, pp. 8-12.
■
■■
■
■
劇場 と しての世界
(13)
- 17世紀西欧にお ける演劇 と思想の交流史 -
Cf. 拙論, 「視覚の眩惑者お よび/ あるいは統御者 と しての王 -
285
モ リエ ール 「ア ン フ ィ ト リ オ
ン」 再考」, 「岐阜大学教養部研究報告」 28, 1992, pp. 309-317.
(14)
Cfレ拙論, 「< 善いぺてん師> -
モ リ エ ール 『守銭奴』 における< 演劇的知> 」, 『筑波大学 フ
ラ ンス語フ ラ ンス文学論集』 9, 1994, pp. 195-210. 「仮面のプシコマ キア ー モ リエ ール 『気で病
む男』 と懐疑主義思想」, 『岐阜大学教養部研究報告』 32, 1995, pp. 129-39。
(15)
シャ ン= ク リス ト フ ・ アグニュ ー, 『市場 と劇場 一 資本主義 ・ 文化 ・ 表象の危機1550- 1750年』
( 中里壽明訳) , 平凡社, 1995, pp. 119-22。
(16)
Cf. 前掲拙論, 「 『タ ルチ ュ フ』 -
< 視覚 > の劇」, p. 2。
(17)
Cf. 前掲拙論, 「仮面の劇 一 モ リエール 『人間嫌い』 について」, pp. 1-6。
(18)
Cf. 前掲拙論, 「仮面のプシコマキア ー モ リエ ール 『気で病む男』 と懐疑主義思想」, pp. 1312, pp. 135-6. そ こ で も 指 摘 し た よ う に ,
こ う し た想 像 力 の持 つ 強 力 な (懐 疑 主義 的 ) 効 果 は ,
モ
ンテ ーニ ュ も 強調 し て い る 。
(19)
アグニ ュ ー, 前掲書。
二
(20)
E. R. ク ルチ ウス, 『ヨ ーロ ッパ文学 と ラ テ ン中世』 (南大路振一, 岸本通夫, 中村善也訳 ) , み
すず書房, 1971, pp. 200-10.
(21)
アグニュ ー, 前掲書, p. 32.
(22)
ア ン ・バー ト ン, 「イ リ ュ ージ ョ ンのカ ー シェ イ ク ス ピア と演劇の理念」 ( 青 山誠子訳 ) , 朝 日
出版社, 1981, 第 4 章。
(23)
コ ルネイユ に関 しては, 以下の拙論を参照。 「劇場都市 と仮面たち ー コ ルネ イ ユ の初期喜劇 に
おけるパ リ」, 『岐阜大学教養部研究報告』 31, 1995, pp. 169-83.
(24)
バー ト ン, 前掲書, 第 6 章。
(25)
Cf. ステ ィ ーヴン ・ グリ ーンブラ ッ ト , 『ルネサンスの自己成型 -
モアから シ ェ イ ク ス ピアま
で』 ( 高田茂樹訳) , みすず書房, 1992, 第 5 章。 引用は, p. 284.
(26)
アグニュ ー, 前掲書, pp. 164-7.
(27)
Cf. グリ ーンブ ラ ッ ト, 前掲書, 第 1章。
(28)
注15を参照。
(29)
アグニ ュ ー, 前掲書, p. 138。
(30)
Cf. 『十七世紀危機論争』 (今井宏編訳) , 創文社, 1975 (特に, H ・R ・ ト レヴァ ー= ロ ーパー,
「十七世紀の全般的危機」) 。 また佐々木力, 『科学革命の歴史構造 (上) 」, 講談社学術文庫, 1995,
第一章第二節 「十七世紀 ヨ ーロ ッパの全般的危機」。 前者に掲載 さ れている論争 において , 当初 ト
レヴァ ー= ローパーは, 「全般的」 とい う 言葉を 「西 ヨ ーロ ッパ全般の」 と い う 意味で使 っ て いた
が, 論争の過程で ロー ラ ン ・ ムーニエ ら の意見 を容れて, 政治 ・ 経済史のレベルのみならず, 思想 ・
文化史の レベルを も含めた 「全般」 とい う 意味で もある こ と を認める にいたっ ている。
(31)
Miche1 Foucault, £es mo£s e£ Zes cんoses一四 e arc屁oZoがe & s sc泌nc面 加 mα伍es,
Gallimard, 1966. [ ミ シェ ル ・ フ ーコー, 『言葉 と物 一 人文主義の考古学』 ( 渡辺一民, 佐々木
明訳) , 新潮社, 1974。
(32)
Cf. 拙論, 「レ ト リ ッ ク論争 と オロ ン トのソ ネ ー 十七世紀フラ ンス文学 にお ける象徴理論」,
『岐阜大学教養部研究報告』 29, 1994, pp. 139-46。 前掲 「視覚の眩惑者お よび/ あるいは統御者 と
しての王 -
モ リ エ ール 『ア ン フ ィ ト リ オ ン』 再考」, 「劇場都市 と仮面たち ー コ ルネイユの初期
矢
286
橋
透
喜劇 におけるパ リ」。
(33)
そ う した眩惑的なバロ ッ ク 的装置 -
市-
「仮面」 の礼節理論, レ ト リ ッ ク , 宮廷祝祭, バロ ッ ク 都
と, 懐疑主義的 ( 認識) 装置からなる劇場的な装置 ( と もに世界の仮象性 を前提と している)
は, 17世紀 において, 世界認識の鍵 と してのあ る種の真理の実在 を前提 と し, 内実を重ん じ, 秩序 ・
機能を指向する古典主義的 ( デカ ル ト的) 装置 と対立 していた。 こ れらの装置は, 様々に絡み合い
なが ら 「近代」 を形成 していっ た と考え られるが, やはり古典主義的装置がそのメ イ ンス ト リ ーム
を形づ く っ ていっ た と言える。 それに対 して, 世界の仮象性 ( シ ミ ュ ラ ーク ル性) ・ 相対性 を 自覚
してい る劇場的装置は, ポス ト モ ダニズムに通 じ る面 を持っ てお り, 「近代」 を批判す る オ ル タ ナ
テ イ ヴ的視座 を含んで いる と言え よ う 。
Fly UP