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私の戦争 八代市 宮村富美子(81) ゴーッと云う遠くからの地響き、やがて

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私の戦争 八代市 宮村富美子(81) ゴーッと云う遠くからの地響き、やがて
私の戦争
八代市
宮村富美子(81)
ゴーッと云う遠くからの地響き、やがてガタガタ、ガリガリ、ギギギーと何にも例え難い
音に驚き家の外に飛び出しました。
咸興駅から、咸鏡南道、道庁舎までの広い直線道路の異常な状態。…それは進攻してきた
第一陣のソ連軍の戦車隊の威圧的な異様な光景でした。いまだに忘れられない、昭和二十年
八月十六日の早朝の事件です。
前日の玉音放送は良く聞き取れず、それでも戦争が終わった、敗けたのだとは何となく理
解出来ていました。…が、それ以後が…。丁度小学校六年の夏休み中でしたから、登校する
事なく、後日学校より「在学証明書」が一通送られてきただけです。仲の良かったお友だち
の消息も一人も判りません。「卒業証書」を持たぬまま今に至っています。
間もなく土地の(朝鮮人)保安隊が家族調べの名目で廻ってき、それから直ぐでした。夜、
門の戸を「マダム、マダム。」と、けわしく叩くソ連兵達と、逃げ廻る私たちの鬼ごっこが
始まりました。奥座敷の出窓から飛び降りてお隣に逃げ、女がいないと諦めて帰っていくと、
今度はお隣の女の方も一緒に我が家にという状態でした。家に残っていたのは、祖母と弟で
したが、祖母は気丈な人で「マダムは自分だ。」と言い、入れ歯をはずして見せたら「ノー。」
と手を振り帰ったそうです。今でも弟は塀の上から覗いていたソ連兵が忘れられないと話し
ています。
ある朝、名前を呼ばれながら「ドンドン」と激しく門を叩かれるので母が出ていくと、私
達より北の清津におられた坂本さんの奥様でした。「スコップ貸して!父ちゃんが殺され
た!」と泣き崩れられ、訳を聞くと汽車で引き揚げ南下中に咸興駅で降ろされ、駅前広場で
野宿中、ソ連兵の女狩り(漁り?)に逢い「ギャーッ」という女性の声に班長としての責任
を感じられたのでしょうか、ご主人が頭を上げられた瞬間、「ズドン!」と一発、銃殺され
たとの事。あれからどこに埋められたか奥様とも連絡する術もなく、両親は何時も気にして
おりました。引き揚げ後の落ち着き先とか伝え合う余裕なぞなかったのでしょう。
その頃父は四十歳過ぎでしたが、招集を受けて京城の部隊にいました。冬が来る前に三十
八度線を北上し、越境して帰ってきていました。家族が心配だったとか。「ビックリ」しま
したが嬉しかったです。軍服、毛布等持って帰った品全部を祖母と母がオンドル、風呂と焚
口で時ならぬ奮闘していました。この頃、私は男の子の様に丸坊主になっていました。父は
驚いていましたが、何の抵抗もなくクリクリになりましたね。身の安全が第一でしたから。
しばらくすると少しは世間が落ち着きました。ソ連の憲兵隊が入ってきたのです。第一陣
で進攻したのは囚人部隊だったとか。しかも近くの税務署だった所を没収したので、私の家
も将校たちの宿舎にすると追い出されました。
父は建築業で、当時鴨緑江開発の工事に関わっておりました。追い出されて引っ越す時に
は、父の下で働いていた朝鮮の方が「奥さん、僕が保管してあげるよ。」と、柳行李を何個
も預かって持っていったもののそのまま音信不通。
幸い私達がお世話になったのは日本人牧師様のお宅で、心安く一室を提供してくださり、
お二人で朝の礼拝をされる静かな声と讃美歌の澄んだ空気、何とも言い表せないひと時でし
た。あんな時世だったから余計そう感じたのでしょうか。お二人の消息もわかりません。悲
しいですね。
ソ連という国は肖像画を飾る習慣があり、憲兵隊から父に額造り等いろいろな仕事がきま
した。報酬はお米とか肉とかでしたから家族は食べ物には不自由を感じませんでした。
やがて巡って来た北朝鮮の冬…。大の男の方(旧日本軍人で、軍隊からソ連抑留に送られ
る途中で逃亡できた方々等)が、苦労されている姿を多多見ました。缶詰の空き缶で残飯を
集め、空き家(没収されたもの)を少しずつ解体して燃料に利用。夜は藁筵一枚で寝て、見
かけないと思ったら亡くなられていたとか。何しろ山手に大きな穴が掘ってあり、そこに投
げ入れて埋葬?されたと聞いています。この頃もまだ女の人が殺されて郊外の田んぼに捨て
てあったと耳にしました。
二十一年の春、引き揚げの話がまとまり貨車で出発。途中何度も野宿しました。何のご縁
か男の方二人、荷物等持っていただくのと種々の理由で一緒に帰ってもらいました。新潟と
鹿児島の方でした。おかげでお米も不自由せず、父が手間賃に貰った缶詰等を川の水で炊い
て食べ、丁度今のキャンプ風景だったでしょうか。
三十八度線の川を渡るのは当然夜なので、父が昼間調達しておいた牛車に班全部の方たち
の荷物と祖母を乗せ、三歳の弟は母の背に、五歳の弟は両手を引かれ眠りながら歩いていま
した。私は母が帯をリュックに仕立て直したのを背負っていました。少しでも他の方たちの
荷物が多く運べるようにと願って!結構大きな青と白の縞柄のリュックでしたが。小学六年
であれこそ火事場の馬鹿力だったのでしょうね。
引き揚げ船の順番が来るまで注文津のテントで何日か過ごしました。不衛生な場所でした。
引き揚げ船(貨物船)の中でも疫病が流行り、一週間くらい沖合に停泊、亡くなられた方は水
葬のお別れをしました。
昭和二十一年六月二十二日、山口県仙崎港に上陸し、予定のわからぬ逃避行がやっと終わ
った感じでした。当時港で何か黒ずんだカマボコ?をとても美味しい日本の味だと感じて食
べました。現在の仙崎の蒲鉾からは想像できないのですが、どんな魚が使われていたのでし
ょう。
確か持ち込める金額が一人幾らか制限されていたので、一緒に帰っていただいたお二人に
は、お礼をしたとか。父は二男でしたから、長男の伯父の家に祖母を送り届けるため先ずは
新潟に行きました。満員列車が広島駅に到着した時、原爆が落とされた灰色の町が目の前に
広がっていました。その時、何か戦争、終敗戦、悲惨さをつくづく感じました。
伯父の家の離れに落ち着く間もなく三歳の弟が七月七日、七夕の日に天国へ召されました。
栄養失調でした。「ネェネェ(姉姉)」と何処でも這って追ってきた可愛い弟でした。村外れ
の広場に木を積み上げただけの火葬場で荼毘に付した時は、家からメラメラ燃え昇る火を家
族で見守りました。母が一番辛かったと思います。お乳が出ないと自分を責めていたようで
す。でも他所の国でなく日本の地で葬る事が出来たのがせめてもの救いです。
その後父母の故郷の八代に帰り、苦しい生活ながらも皆さまのお陰で暮らしてこられまし
た。
祖母も何度か新潟と八代の出入りがありましたが、やはり八代が良いと私たちと余生を送
ってくれました。
色々な体験の中で、家族だけでなく人さまとの愛、絆、いつの世も変わらぬ大切なものだ
と感じています。母も生前、時折弟嫁に咸興でお世話になっていた方とかの話をしていたよ
うです。母が亡くなって十五年になりますが、元気な時に二人で話し合って遺しておけば良
かった仕事だったかと今悔んでいます。
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