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そ う 願 えば願 う 程死にたく

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そ う 願 えば願 う 程死にたく
私は女神と
茨田 凛
死にたくなる。誰かに愛されたいと、そう願えば願う
程死にたくなってくる。死の痛みは考えない。自分の周
りにいる人が皆泣き、咽ぶ、暖かな葬式を想像する。喪
服姿の人々が立ち並ぶ路上は必ず濡れている。冷たい雨
が降っている。
白い靄に皆が霞んで、
妄想はより暖かだ。
靄に包みこまれ、眠っているような気分になるから。
どこか遠くに行きたいと思って、走って、走って、走
っている最中、どうしてこうも孤独なんだろう。悲しい
はずの光景に、涙は目に浮かぶだけ。零れはしない。
心臓が張り裂けそうなのに、アクセルを放すことがで
きない。
﹁お早う、僕の小鳥ちゃん﹂
ロサにそう言われ私は揺り起こされた。仰向けの姿勢
のまま後ろに手を突きゆっくり体を起こすと、ロサが髪
を梳いてくれた。指の感じが、絡まった髪を通して伝わ
ってくる。上から下へ、目が覚めていく。窓から差す光
と、曇りガラスを通した緑を見つめながら、私は気持ち
が高揚していくのを感じた。思わず声が零れる。
﹁これだけで、綺麗な朝﹂
その一言でロサはふふ、と笑う。ただでさえ開けてい
るかいないか分からない程細い目を、一層細めて。男ら
しいというよりは寂しさを感じる無精ひげの顔に、薄い
笑みを浮かべていた。
﹁そうだね。でも、君に見て貰いたいんだ。⋮⋮女神﹂
最後の一言は私の耳に唇を近づけて囁いた。私が何も
返さない内に、ロサは私の手を探り引っ張り上げる。抵
抗せず従う。
ロサはコンクリート敷きの床と、私が寝ていた一段高
い畳との段差に立て掛けていた白杖を手に取った。そし
てサンダルを突っかけ、アルミサッシの戸を開ける。私
は白杖を持っていない方の手に繋がれたまま、裸足で外
に出る。
土と雑草と小石の感触を足に感じながら歩いた。
土の細かい粒やねじれた草の葉が、足にへばり付く。小
走りで、痛いアスファルトの上を抜ける。それから芝生
の上を歩き、また土の上を歩いて、四角い建物を二つ通
り過ぎ、その角で曲がった。辺りに人影はなく、通気口
のファンが、風で自然に回っている。
さらにもう一つ角を曲がると、
﹁ここだよ。昨日咲いたんだ﹂
爽やかで、何か飛び散った汁のような匂い。それが私
を包んだ。
レモンを齧った時に似た味が鼻と口に広がる。
少しの苦みも、激しすぎる酸味もない透明な匂い。心地
よい香りに私は目を細める。
﹁ほら、見事だろ? この香り。この花弁の連なり方。
外側の花弁が内側の花弁を、なるたけ優しく、それでい
てしっかり守ろうとしているんだ。だからこんなに、
﹂
美しい、と言ってロサは駆け寄り、その白バラに跪い
た。彼は両手でそれを撫で始める。歯を見せて笑ってい
た。
十数枚かそれ以上に多くの花弁が重なり、丸くなるこ
とで出来る、半球状のバラ。殆どのバラが道行く人に見
えるよう、フェンスに沿って植えられているのに対し、
これは少し内側に植えられている。一つの種類を植える
時、彼はその中の一本を自分用にとっておくのだ。中で
も豊かな一本を仲間とは相容れない存在にする。孤独な
ものを彼は愛する。
﹁何ていう名前のバラなの﹂
﹁マダム・ハーディ﹂
私が聞くと、口元を服の袖で拭いながら答えた。拭っ
たのは、バラから零れた露。彼は朝の習慣としてそれを
飲んでいた。熱心な声は続ける。
﹁パリのリュクサンブール宮の庭師、アレクサンドル・
アルディが妻に捧げた花なんだよ。この花の写真が載る
図鑑には、彼らの話が永劫ともに添えられていくのだろ
うね。幸せな人達だね。ん、さて﹂
ロサが立ち上がり伸びをした。彼はバラの露からエネ
ルギーと言うよりは、体の節を動かし易くするための油
を貰っているのではと思う。彼の体がやけに軽くなった
ように見えるのだ。伸びを合図に、私はそれまでの少し
離れた位置からバラに近づいた。ロサとバラとの朝の交
わりには、決して立ち入ってはいけないような雰囲気が
ある。静かなる朝の一幕。観客は舞台に上がれない。私
はそう思っていた。
立ったまま花を眺める。そうしていると、脇に彼が立
ち、花の丁度中心を指して私に尋ねた。
﹁ここを見てご覧。何色だい?﹂
﹁緑﹂
率直に答える。白い中に黄緑の芯が、ボタンのように
埋め込まれていた。
﹁そう、これはグリーン・アイって言うんだ。花の芯だ
よ。
これには一本の雄蕊もついていない。
そう一本もね。
正に、輝くために﹂
言いながらロサが私の肩を、白杖を持っていない方の
手で撫でていた。肩から髪、眉、眉と目の間と手は移動
し、最後に頬で止まる。私の体は自然にロサと正面で向
かい合うよう回った。顎を少し持ち上げられている感じ
になる。この位置からロサを見上げると、私はロサのバ
ラになったような気がした。先程撫でられ舐められたあ
の純白の花と同じような状況に、自分が陥っているよう
に思われた。
しかし、それはロサもまた同じなのかもしれない。奇
妙な妄想に囚われているという点では。この時の私を、
彼は女神だと言う。
﹁本当に綺麗ね。
強いけれど、
爽やかで甘くない香りも。
このホワイトとグリーンによく合っている﹂
﹁ そ の グリ ー ン は 宝 石 の よう に 、 輝 いて 見 え る か い ?
朝露に照らされて。君の目に。ねえ、どうかな、この花
は、本当に、本当に、美しく⋮⋮﹂
彼が畳みかけるように聞いてきた。私の頬に触れた手
を震わせて。
ああ。私は知らず吐息する。一瞬何か掴もうと思った
手が、空を切る。私は答えていた。
﹁ええ﹂
自分でも声色が変わっているのを自覚する。自分は慈
悲深い女だと傲慢に、けれどもそっと、囁くような声色
へと。ロサに抱きついて胸に顔を押しつける。柔らかな
格子模様のシャツに、唇が触れた。
﹁とてもきれいな緑。あなたが思っている通り﹂
固くて長い指が私の頭を撫でた。
﹁ありがとう、女神。僕のバラは今日も輝いているんだ
ね。幸せだ﹂
言葉とともに深い息を吐いたのが、胸の動きで伝わっ
てくる。私は気持ちがロサに抱きついたままで、腕を下
ろす。そう、気持ちはそのまま。一層強く縮めたままで。
ロサは世界を与えてくれた私に、感謝の息を漏らす。
今日もその美しさを確認出来た喜びで。彼は光を奪われ
た目では見ることの出来ない絵に、心の筆を走らせる幸
せを感じている。
程なくしてロサが歩き始めた。まだ人気のない敷地内
を大股で、美しい姿勢で歩いていく。私は後から、ひょ
こりひょこりとついていった。
ロサと出会ったのは真夜中のことだ。私は足を引きず
りながら、雨上がりの歩道を歩いていた。辺りに人の気
配はない。工場が建ち並んでいる地帯だった。
深い地の底、あるいは深海のような世界。音もなく赤
青黄に変わっていく信号。風がアスファルトの窪んだ水
溜まりに波紋を作っていた。身体を飲み込む夜の匂い。
一人で聞く、木の葉が擦れ合う音。自分の瞳までも藍色
に染まっていく気がした。
等間隔に並んだ街灯に時折照らされながら、歩いてい
く。自分の足下が白く光る度に、スッという文字だけの
世界の音を聞いた。この世にないはずの音だった。
今、体全体の感覚器が黒い水に浸されている。そんな
気がした。この世界のどこにもない意識の中で見る湖の
水だ。足の痛みが曖昧になってくる中で、眠気とない混
ぜになった何かが、体全体に染みてくる。
この黒い湖は何だろう。心の底にある幻影。私はここ
に住む魚か何かだろうか。白い光はサーチライト。何年
も何十年もどこかに沈んでいる私を探り出し、今という
時の中に浮かび上がらせる光。
この光は私を見つけだし、
そしたら、どこに連れていく?
らしくもない無意味で幻想的な疑問が、延々と積み重
なっていった。私は魚になり、子鹿になり、尾長になり、
様々なものに姿を変えながら歩いていった。
いつまでそんな夢の中にいたろうか。幾度目かの光に
照らされると同時に、私の心は現実の網目に掛かり引き
上げられた。その網は、淡い香りだった。風に乗ってい
た。人工的でない、可憐なものだった。
上を見上げる。気がつけばとても明るいところに出て
いた。工場の入り口だ。両脇の門柱とそれから少し入っ
たところ、
合わせて三つの明かりが辺りを照らしている。
そして私の目の先ではその花が、石造りの堅牢な門柱に
這っていた。
小さな小さな八重咲きの花弁。極薄いピンク色が、ベ
タ塗りの闇の中でホログラムのようにチラチラと輝いて
いる。その色が何個も何個も盛大に折り重なって、門柱
を覆い染め上げていた。水溜まりに散った花弁が一カ所
に固まって、鳥の羽根のようにうごうごと波立つ。門は
細く開いていた。私は吸い寄せられるようにして中に足
を踏み入れる。
アスファルトの道が長く伸び、両脇に四角い建物が並
んでいた。道の真ん中にはぽつんと島のように緑があっ
て、さらにその中央に時計がある。午前三時だった。誰
もいないところでも時計は回るのだ、
とぼんやり思った。
回り続けなければ正確に時間を計れないのだから、当た
り前ではある。ただ、一人で回り続けているというのが
不気味だ。空しいとか哀れとか生き物らしい感傷なんて
なくて、それらの何もかもを超越した存在が不気味だっ
た。そう考えている間にも無表情に針は進む。
時計より先に街灯はなく、ただ暗澹とした闇が広がっ
ていた。自分はその黒と白の境界に立っている。引き返
そうと思った。ここに入った理由など、そもそも何もな
い。それに、これ以上ここにいると狂いそうだ。自分の
足音にさえ怖じ気づいてしまうくらいに、今の私は臆病
で過敏で、激しい空想の波に飲まれすぎている。
元来た道を急いで戻り、ふと門柱のところで足を止め
た。見上げると、光による陰影が花を生き物らしく見せ
ていた。どこか不気味な固まりになり揺れている。半開
きの唇で私は立ち竦んだ。陽光に煌めく花びらが、脳裏
に浮かぶ︱︱私もあの花びらになって、散って、水の上
で光って、
沈んでいって︱︱脳内の映像は一瞬黒くなり、
また現実の絵に移り変わった。
その先はどうなるのだろう。塵となり土の一部となる
のか。本当にそうなってしまう自分を想像して、心臓が
おののく。白い骨と粉になる自分。その物体の中に、少
しでも私は残るだろうか。
ほら、また馬鹿馬鹿しい妄想。
詩人でもないのに。私らしくない。と笑って打ち消し
ても、一度脳から染み出た不安は止まらない。動きにな
って足に伝わった。後ずさっていた。
パシャン。
水溜まりを踏んだ。痛む右足で。
バシャン。
尻餅をついた。花弁の浮かぶ水面に。傷ついた足に、
突然体重が掛かったから。水溜まりに、白い斑点が浮か
ぶ。私は手を突き、左足に力を込め立ち上がった。
二つの動き。二つの音。これが私とロサが出会うきっ
かけになった。
﹁そこにいるのは誰なんだい?﹂
それがロサの第一声だった。静まり返った中でただそ
の声が響く。
見つかったという焦りを背中に感じつつも、
不思議な安堵が体に降り注いだ。網ではなくしっかりし
た陶器で湖から掬い上げられた感じ。人の声が頼もしか
った。またこれらの感情とは別に、何かが心臓の内でざ
わめく。雲の間に差す白い光のような、それでいて徐々
に黒く染まっていく地平線の赤のような。
この時のことを思い出すと、頭がグラリとする。あの
花の香が、麻薬のように脳を刺激するのだ。この淡い淡
い塊は、私という空白を足もないのに這い続けている。
モップのお化けに似た重たい体を、
あの時の私のように、
引きずって。白く気味の悪い魔物は足で簡単に潰せてし
まえそうで、そう、きっとただのちっぽけな存在だ。そ
れでもそれは、私にとって魔物なのである。
規則正しいコツコツという音を響かせて、ロサはやっ
て来た。その姿が白い光に照らされる。私は目を見開い
た。雑踏で擦れ違ったら思わず振り返ってしまいそうな
程、真っ直ぐで美しい姿勢。測ればぴったりいつも同じ
なんじゃないかと思うくらい、正確な歩幅。
しかしそれらが作る雰囲気は右手にあるものに全ての
位置を置き換えられた。それがなければ私はその男を、
聖人だとでも思ったかもしれない。曲がらず、ふんぞり
返らず、くねりともせず。堂々とした、清く、限りなく
正しく、スッと青く光る人。
その手に持つ白杖は、盲人という言葉で私のロサへの
認識を塗りつぶした。あの棒の先は足に先行して道を叩
く。彼の足はその後についてくる。
私は一言も発しなかった。それなのに彼は私の丁度傍
らに、躊躇いもなくやって来た。周囲をぐるぐる回った
り、手探ったりすることなく。驚きの中で私は思わず聞
いていた。
﹁目が悪いんですか?﹂
動きがとても盲人だと思えなかった。自分が不法侵入
していることも忘れていた。彼は舞い散る花の方を見て
口を開いた。門柱の明かりに顔が白く光っていた。
﹁悪いんじゃなくて見えない。君は見えるんだ。見れば
分かるだろう﹂
無表情な声。私は失礼な質問をしてしまったと思い、
何と言っていいか分からなくなった。
﹁すみません⋮⋮﹂
﹁謝らなくていい。別に怒ってはいない。ただ、ね⋮⋮﹂
彼が白杖をコツコツと鳴らす。その音に混じって、ア
スファルトを覆う砂粒の濁った音がした。
﹁うらやましい﹂
ポツリと言われた。風が花を散らせていた。ロサがこ
こに来た時から、風が強くなった気がする。勿体ないと
思うくらい、盛大に花が散る。水面が一定の縞模様を描
いて揺れる。揺れる。
﹁それなら、あげたい﹂
ぼろりと言葉が落ちた。一枚一枚ではなく、房ごと落
下する花のように。自分の言葉だと信じられなかった。
何故こんなことを言ったのか、分からない。こんな見ず
知らずの人に、ともすれば失礼な冗談になりかねない馬
鹿みたいなことを。しかも真剣な調子で、私は言ってい
た。
もしかしてこれは闇夜のせいだろうかと思った。ねっ
とりと星を隠した黒のビロードは、舞台の役者を狂わせ
笑う。不気味な闇夜に、無謀でもいいから何か叫んで提
案したりして、切り裂いてしまいたくなる。晴れの日に
窓際の席が羨ましくなったり、雨の日は靴を履くだけで
も嫌になったりするのと同じように、軽くて仕方ない空
気や天気なんていうものに私達は動かされるのかもしれ
ない。
ああ、何でもいい。何でもいいから膨らませて、風船
のように割ってしまえたら。
﹁私を飼って下さい。お金でじゃなくて。いつかあなた
の本当の目になる日まで。私に餌をください﹂
誓うように、胸に手を当てて私は懇願していた。する
と、今まで花の方ばかり見ていた彼がこちらを向いた。
言葉なく、その口が一二度開け閉めされる。そうして冗
談を馬鹿にするというよりは心底楽しんでいるという風
に、おどけた声を発した。
﹁どう育てたら、君は僕の目になるんだい?﹂
﹁分かりません。知らない。でも、きっとなって見せま
す。あなたの見たいものを、私が見せてあげる﹂
私はますます真剣になってきた。胸に当てた手が温か
い。何だろう、この役回りは。高揚感を伴ったこの台詞
は。これは、そう、まるで私が、
﹁君が光になってくれるとでも?﹂
﹁ええ、私が光に。私が﹂
女神であるかのように。この男に慈悲を与える存在で
あるかのように。振る舞ってはいないか。手が震える。
息が湿り気を伴って、口から漏れた。そんな私の動作に
隣にいる男は注意も向けない。そうでありながら彼は何
でもない様子で、
﹁なるほど。それじゃあ、君は僕の女神だ。僕に光を与
えてくれる女神様。しかし、君にその力はない﹂
と私の心を読んだかのように言った。私は驚きながら
も興奮し、夢中で頷いた。そして慌てて、
﹁はい﹂
と返事した。彼は盲人なのだ。忘れていた。この男の
なめらかすぎる声と芝居がかった口調とが、私にそれを
忘れさせる。
こんな喋り方の男を私は彼以外に知らない。
こんなにも空気を乱さず、流れる声を。知らないが心地
よかった。彼の声につられて私の声音も変わっていく気
がした。現実よりずっとずっと澄んだ声に。
﹁まず、私は足に怪我を、骨折をしているの。それを治
して頂戴。⋮⋮あなただけの手でね﹂
少し考えてから、最後の一言を付け加えた。足に怪我
をしているからと言って病院には絶対行きたくない。元
いた場所、現実というところには戻りたくないのだ。
ああ、とロサは頷いた。驚きはしない。常識を外れて
いることでも聞き入れてくれると確信はしていた。むし
ろ、現実からより遠く離れたことの方を好んでいるよう
な節すらある。例えばこんな風に、
﹁楽しみだね。
僕の愛するバラの色を知ることが出来る。
分かった。君を小鳥のように介抱してあげるよ。作業小
屋でいいかい?﹂
嘘のない口調で言う。これを聞いて私は笑いそうにな
った。
バラ! 小鳥! 小屋!
小屋で小鳥を介抱したら小鳥は実は女神。男はその礼
として目を治して貰い愛するバラの色を知る! これこ
そ現実離れ。何というメルヘン。角の取れた丸い世界。
とてもとても楽しい。我慢しきれず、くっくっという笑
い声が漏れた。
﹁ところで、あなたの名前は?﹂
﹁ロサ﹂
私はこの男の名をこうして知ったのだった。ロサの日
本人らしい顔には、
共犯者めいた笑みが爛々としていた。
﹁君は?﹂
﹁女神に名前などないわ﹂
私は言ってやった。歌うように。顎をちょっと持ち上
げて、首を少し曲げて、髪を揺らして。相手の目が見え
ないことなんて構わず、馬鹿らしい程優雅に振る舞おう
とした。何故こんなに愉快なのか分からない。まるで自
分が自分ではないみたいな気がした。この自己喪失感が
愉快の理由ならば、ロサの盲目は私を助長している。
私はわざとらしく人差し指を立てた。
﹁ところで、この美しい花の名前は何て言うの?﹂
﹁ポールズ・ヒマラヤン・ムスクス﹂
ロサは少し得意げに口の端を持ち上げて見せた。目の
大きさは眠っているようなままでも、その口の端だけで
十分に表情が伝わってくる。ただ目の細い人とは違う。
見るという機能を失った故だろうか。常人のそれよりロ
サのものは遙かに器用だった。
﹁蔓性のバラ。壁やテラス、アーチなどを覆うのに最適
な、
とても勢いよく伸びるバラさ。
枝もしなやかだから、
とても扱い易い。それに美しい。この散る花びらは、い
いね。届かない程高いところから来る。花びらが頬や掌
に触れた時の感触は、そうだな、言葉では言い表せない﹂
小さな隙間から溜め息が漏れる。
触れてもいないのに、
その息で自分の唇も生暖かくなっていく気がした。隠す
ように口を指で押さえる。彼は顔を上げて花をじっと見
つめていた。正確に言えば見るという表現は正しくない
だろう。顔を向けている、だろうか。まるで花からの返
事を待っているかのように。
それは暗く、
陰った表情だ。
﹃あなたは何を思っていますか﹄
。私はそんな台詞を、彼
の唇の上に思い浮かべたりした。
少し時間が経った。ロサはさっきとは別の種類の溜め
息を吐いた。その唇には笑みがある。ゆっくりとこちら
を向いた。
目線は合わないのだが、
体を向けられている。
体線が合う、と思った。私は体の真正面からくる気をそ
う呼んだ。背筋が少し震えた。何てこの状況に合った言
葉なんだろう。
ロサが白杖を持っていない方の手を私に差し伸べる。
きょとんとしていると、早く、とロサの口が小さく動い
た。弾かれたように、その手を両手で掴む。冷たく、少
し湿っていた。軽く持ち上げると、何の抵抗もなく重さ
だけが伝わってきた。意外とずっしりしている。ロサの
表情は変わらない。今度は自分の顔のすぐ近くまで持ち
上げてみる。鼓動がうるさかった。
︵この手は私の所有物︶
体の奥の方から声がした。私の心はその通りだと主張
する。人間の所有を知らない少女と、全ての人間を掌に
納める女神と。彼女達は同じ顔をして、私の心臓の辺り
にある椅子に腰掛けている。二人とも無表情。じっと私
を見つめている。二人分の視線の中で私はどんな表情を
しているだろうか。自分ではよく分からない。ただ顔が
熱く、生え際が少し湿ってきている。
私はロサの手を自分の瞼に軽く当てた。目は閉じてい
る。長い息を吐いた。
﹁白に、ピンクが混じった色﹂
私はようやくそれだけ言った。
﹁そうか﹂
呟かれた。冷たい手は私の作った小さな檻を擦り抜け
る。そうして彼の足の脇でぶらりと揺れた。
﹁ そう か ⋮ ⋮。 それは 、柔 ら か い色 か い? 淡 い色 か
い?﹂
﹁はい。この夜と反対の色です﹂
とっさに答えて最後が敬語になってしまう。恥ずかし
かった。名前だけ。たった二色。単純過ぎる表現。自分
で作った役に簡単に墨を付けて汚す。何が女神だ。幼児
以下だ。目の見えない人に、ピンクと白、だなんて。そ
んな色、この人は知らないだろうに。
それ以上何も言えないまましばらく時間が過ぎた。彼
は先程までの女神とか小鳥とかそんな取引などなかった
かのように、無造作に白杖を弄んでいる。細く長いその
棒が私には霞んで見えた。自分の中で不器用という文字
が鐘となり鳴っていた。その鐘には今までしてきた人生
の失敗が、くっきりとした鉄色で刻まれている。ここに
いる理由も、元いた場所も、追い込まれていた状況も全
て思い出して、頭の中に何かが突き抜けていくのを感じ
た。
私はこの舞台にいられない。強く思った。絵本のペー
ジから弾き出されてしまった。何て不器用で、不格好な
んだろう。勢いだけで口走って。あの詩人は所詮頭の中
だけのものだ。馬鹿な女の口の中ではどんな言の葉も簡
単に溶けて消える。ああ、忌々しい夜。馬鹿な自分。逃
げ出したい。
羞恥心と後悔が群れになって足から這い上がってくる。
私は駆け出そうとした。が、それは失敗だった。足を怪
我していたのだ。
安酒のような夜は痛みさえ曖昧にする。
少しずつなら動くものの衝動的な動きにはついていけな
い。転ぶ。そう思った。けれども、そうはならなかった。
﹁行こう﹂
ロサに腕を掴まれていた。腕の筋肉がビンと張る。左
足だけが地面に残り、右足は空を蹴った。
﹁どこから来たかは知らない。けど、ある程度歩けるよ
うだね。捻挫かな?﹂
ただただ恥ずかしかった。骨折だなんて。何を大げさ
に考えていたんだろう。バイクで転んだとはいえ、歩け
るのだから。ロサの手ごと腕を下ろし右足を地面に付け
た。
不思議なことに、恥ずかしい気持ちはあったが自分を
責めるような鐘の音は止んでいた。身体のことを優しい
口調で気遣われると、本当に幼い気持ちになる。照れと
懐かしさとで、胸が温かだった。今や私は彼の前で俯く
小さな女の子。忘れていた痛みで、鼻がツンとした。
﹁君の思い通りにしよう。その代わり君も、僕の思い通
りにして貰う。あんまり騒がないでくれよ。僕はこの近
くに小屋を持っている。庭師の作業小屋だ。布団も、シ
ャワーもあるよ﹂
ロサは私を歩かせていた。来た時と同じ迷いのない足
取りで私を小屋へと連れて行く。足が痛むので、つんの
めったような形で大きな歩幅に必死で合わせた。
﹁そこで暮らせばいい。ただ、他の人には見つからない
でおくれ。君は女神なんだからね。小鳥のように大人し
く。いや、小鳥はうるさいかな? さて⋮⋮﹂
アスファルトの道から植え込みの中に入り、四つの建
物の傍を通って、その四つ目の裏に回る。すると幾本か
木があって林のようになっている場所に出た。
﹁ここが今日から君の巣さ﹂
気がつけば辺りが明るくなり始めていた。木々の中心
にあるのは小さな小屋。アルミサッシに、叩けば弾んだ
音が出そうなトタン屋根の、メルヘンからは掛け離れた
住まいだった。
マダム・ハーディを見終わった後、私は一人小屋の畳
にじっと座り、ふとロサの声を思う。自分の膝頭に頬杖
を突いて。あの、真空管のような声を。実際に見たこと
はないけれど、透明なガラスの中でよく分からない金属
器がキラキラ光るイメージが好きだった。彼の声はその
煌めきと分厚いガラスとの間にある空白。音のない空気
だ。それに混じって白杖の音が紫色の電光を発し散る。
目を瞑った。指にガラスの突っ張った感じが伝わってく
る程に、この考えが気に入った。
朝の施しを終え私は、この目に受けた冷たい水色の恩
恵を惜しみ、しばらく小屋に引き籠もる。私はそれを朝
の目薬と呼んだ。私とロサに降り注ぐ空気の粒。その一
滴一滴を左右両方の目に落として見た世界は、丸いレン
ズの作る歪んだ輝きがある。その輝きは緑と白と赤と⋮
⋮様々な色に落ちて世界を溶かした。あんまり日に当た
るとその全てが乾いて無味になってしまう。だから少し
の間は何ものにも触れない。一人でじっとしていたい。
あれから二週間。目まぐるしさなく一瞬で切り替わっ
た世界。可笑しいくらいに私はそれに馴染み、寛いでい
る。コンクリートの玄関に備え付けられた、コンロと水
道。一段高い畳。その奥にシャワー室とトイレ。絵画の
ように掛けられた熊手や枝切り鋏。電話は壁にくっつい
た事務用のもの。テレビもラジオもない部屋で、ただ天
井の剥き出しになった貧弱な梁を見ながら私は想像に耽
った。それはロマンも嫌らしさもない交ぜにして、緑と
肌色の果てを追いかけた永遠に鉤針を止めない編み物。
修正を要しないこれらの考えごとはこの上ない快楽だ。
頭の中の丸い石をどんどん弾いて、飽きたら、外に追い
やる。試されも熱されもしない使い捨ての思考だ。私は
今、砂糖でできた漆喰で作る身勝手な心の城にいる。そ
の中で様々な遊戯をする。ロサに借りた男物のシャツと
ズボンに畳屑をまぶしながら、幼児のように隅から隅ま
で転がる楽しい遊び。また、折り畳み式ちゃぶ台の下に
潜り込み、金具にある穴に指を突っ込んで、冷たさと指
についた跡を楽しむ。ふと見つけた緩んだ螺子を、爪で
回しさらに緩めてからまた元に戻す。
一人遊びが昨日と一昨日と同じように、時計のない部
屋で延々と続く。脱力でも虚無でもなく、爽快な空白だ
けが胸の中にあった。それをただ弄んで暮らしている。
押しつぶすことも色を塗ることもなく、この小さな丸い
石を口や指で弄ぶ。
ようやく外に出たのは蒸し暑さに窓を開けたくてたま
らなくなった頃だ。周囲の音に耳を澄ませ、注意深く戸
を開ける。ガシャンガシャンという一定の機械音に混じ
って、
サーザーと道路を車の走る音がする。
足音はない。
私はテッテッと駆ける。足はほぼ治っていた。捻挫して
いたかどうかも疑わしい。痛みはまったくなかった。
今日は昨日教わった花を見に行こう、と私は思った。
門から入ってすぐ右の芝生にある、深紅の花だ。
いつも通り誰にも会わずそこに着く。さっきまで木に
遮られていた風が、顔一面に吹き付けた。それを吸い込
もうと私は口を開ける。太陽がアスファルトの水溜まり
を焼いていた。その光線を弾き返すようにバラが持つ葉
が光っている。先端の尖った長楕円。噛めば鮮烈に苦そ
うな、
艶のある緑。
そしてその葉が支えるルビーレッド。
そう、ルビー。確かに思う。触れれば他の花と変わらぬ
柔さでも、私の目には宝石として映る。眩しい角度で光
る、ダイヤモンドカット。横から見るとこの花は正にそ
んな形をしている。子房のある方が尖った、美しいシン
メトリー。
マダム・ハーディの持つイメージ︱海に沈む幻の珊瑚
であり、貴婦人の履くスカートを下から覗いたような︱
とは対極にある花だ。それはこの容姿からだけではなく
て、名の来歴からもたらされたのかもしれない。
私はそっと昨日を回想した。
バラのことを語る時のロサは、一言で言うと輝いてい
た。端的過ぎるかもしれないが、本当にそうなのだ。そ
の唇は乾くことがなく、その上でなお他のものを欲して
動く。薄く柔い花びらを歯をたてず味わってゆく。シャ
ツのボタンを昼間より一つ多く外したその胸は、動きで
私の目を開かせる。生きているということや自らの中に
ある熱したものを、空気にして吐き出す営み。
朝はこれらを見ても何も感じない。女神である私は、
ロサのバラに対する恍惚を一身に受け清浄化する。より
鮮やかな絵の具を握らせて、菩薩のように微笑み、解放
してやる。欲を肥大化させんがために強い鎖を求めた、
愚かな獣の尾を。私達の祭壇には清々し過ぎる空気と、
認識という安堵、
傲慢な思い込みとが濃厚に漂っていた。
美しい話も汚い話も、バラという名を持つ存在である
というなら、ロサは同じ調子で語るだろう。そこにはバ
ラへの﹁好き﹂ではなくて﹁欲しい﹂があった。けれど
こうまで酔っていながらも、彼の声は話の調子に合って
いる。いつでも、舞台を忘れることがない。愛するバラ
に酔い、夢を語る。昨日もそうだった。
﹁ミス・イーディス・カヴェル﹂
と囁くように私の方を見て言ったが、赤い花びらに向
けた愛撫は止むことなく続けた。そう、ロサは花の名前
を呼んだのだ。
彼女について説明する許しを得るために。
懸命な愛撫を捧げて許しを乞うのだ。
﹁小さくて、けれども強い花だ。アブラムシが付きやす
いのが、少し難点かな? でもしっかりと、たくさんの
花を咲かせる﹂
薄い光を浴びバラと戯れる男を、
ただじっと見下ろす。
彼はその花弁を舐めてはいなかった。ただそっといたわ
っている。
﹁イーディス・カヴェルは立派な女性の名だよ。全ての
人々を愛した女性。第一次世界大戦中、敵味方の別なく
兵士を看護し、敵国の兵士を逃がしたりもした人だ。そ
んなことをしたから、処刑されてしまったけどね﹂
そこでロサは立ち上がった。
立ち上がり、
私に触れる。
あの儀式だ。頭の中が真っ白になり、私の中の女神が微
笑む。得意げな笑みを浮かべて盲目の男を私の内から見
ている。頬に手がある。顔中の血管がそこに集まり彼に
血を送っているかのようだった。その顔全体に走る震え
た刺激に、口を開きかける。だが私が色を与える前に、
彼が声を発した。夢見と快感と奢りとが一瞬沈み、真空
管の声がすとんと落ちてくる。
﹁その色は彼女の血かい?﹂
私はほんの一瞬だけ戸惑い自分に戻ったが、また女神
になりおごそかに答えた。
﹁違うわ。これは気高く、煌めいて燃える色。傷を負い
ながらも戦うような。わざとらしいくらいに歯をむき出
しにした葉も、素敵﹂
情熱を丸くかたどって咲く花。そう思った。私はロサ
のうなじに触れる。ザラザラと毳立ち日に焼けた肌は、
汗蒸れしていた。
私の与える視覚を聴感化し触感化した情報が、絵の具
を作る。書物を漁り膨大かつ細かな知識を得、指と舌で
探っても、一人では確信出来なかった痛み。それを私と
いう棘で知る。一人だけの指だけではなくて、外の風も
取り込んで、壺の中の赤を回していく。これが私の捉え
ようとした女神の役割だ。
ただの冷たい息吹。
話し掛け、
確信を持たせる。私はそれだけの役なのに。それだけで
いいのに、その相手になって指を絡ませたいとこの上も
なく望んでしまう。水色を失った妄想の中では、唇の働
きに、胸の動きに、ロサの中の壺を飲み干したいと願っ
てしまう。体内に取り込みたい。そこに二人でいるので
はなくて、一人でいるみたいになりたい。人の動き方、
人間というものと絶えず繋がっていたい。
ロサが盲目であるからこそ、それらはどうしてもじっ
と見ることが容易で気づいてしまった。人は熱があるの
だ。
私を溶かしてくれるもの。
癒すという次元を超えて、
もしかしたら消してくれるかもしれない。人一個の熱を
手に入れてみたい。けれども、この欲は毒。飲み干して
得られるのは、恐ろしいくらい嫌らしい自分。手放すの
は、ロサとの空っぽな快楽。あの美しい朝がなかったら
私は不気味な塊に成り下がるのだ。
そう思うと恐ろしかった。けれども恐れることなど、
本当はないのだ。そもそもその壺は、人間の私では触れ
ることも出来ない。
彼の熱を得られるのはバラであって、
私じゃない。傷つくだけだ。このねとついた希望は徒労
にしかならない。与えられた女神という役割でのみそこ
は辛うじて見える領域だった。名前のない女神だけがロ
サの前で盲目でない。都合良く作られた女神だけが。
﹁っ!﹂
﹁あ﹂
ロサが声を上げた。うなじから手を離す。思考を引き
出しに放り込み、乱暴に鍵を掛けた。
﹁⋮⋮まったく。赤が欲しいのかい? 女神﹂
彼が首の後ろを拭いながら言った。私は目の前に、自
分の手をかざす。爪の間に赤いものが詰まっていた。ロ
サの血。
﹁あ、これ、
﹂
﹁気にしないでくれ。きっと殺虫剤か毛虫か何かで被れ
たところに、触ってしまったんだろう。でも一応、今度
爪切りを持ってきてあげるよ﹂
その後ロサは私を小屋まで送り、仕事に戻った。それ
から一日中、
引き籠もって過ごした。
爪の間にある赤が、
夜には黒くなっていた。試しに舐めてみると、指の味し
かしなかった。
爪切りは、
マダム・ハーディを見終わった後渡された。
まだ使っていない。戻ってからでいいと思い芝生に腰を
下ろす。今見ると、爪の間に黒いものはもうなかった。
そんなことよりも、今までにないくらい長い爪に驚く。
上げていた手を下ろした。青空に映える赤を見て、溜め
息を吐く。ロサの残像や自分というものを消し去って水
色の中でそれを見れば、小さな愛らしい花にすぎない。
芝生の太陽を吸い込んだ緑の中で、巨大な音符のように
揺れている。また吐息していた。
バラにも女神にもなれない、自分がただ座って、風に
吹かれているだけ。こんな﹁だけ﹂と疑問符ばかりが頭
の中に浮かんで、意識が朦朧とする。小屋に引き籠もっ
て美しいものばかり追いかけても、何一つ変わらない。
迷ってばかりいる。追いかけるものが変わっても追う手
段ばかりが変わらない。鈍足な足と、くわえてばかりい
る指と、多くのものが以前と同じままだ。飛沫を上げて
進む海の魚のような、快活な速さと明るさが欲しい。で
も塩辛い水の中に入る勇気なんて、私にはない。
緑と水色に誤魔化された甘い匂いだらけの世界が、や
はり好きだ。曖昧なままでいい。癒されなくていい。そ
れ程堕落した生活が好きだ。朝に気を取られて、人間ら
しい熱なんて全部捨てて、清らな女神になりたい。最終
的には、バラもロサも見下して。
狭い箱庭の中でなら、それも叶うのではないか。いつ
か私は本当の女神になって、何もかも忘れ笑顔だけ浮か
べる。心臓が張り裂ける思いも、黒い湖に落ちることも
なくなる。ロサをただ喜ばせ、笑わせておきたい。
欲望と孤独が満ちた世界の枠に、もう押し潰されてい
たくないのだ。だから走って、こんな目的地もなく逃げ
てきたのだから。
許されるならこの怠惰な城の内で死ぬまで眠り続けた
い。
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