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第二章 フラ ン シ スコ ・ザビエルの天 皇 ・ 将 軍 認 識

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第二章 フラ ン シ スコ ・ザビエルの天 皇 ・ 将 軍 認 識
第二章 フランシスコ・ザビエルの天皇・将軍認識
はじめに
フランシスコ・ザビエルは日本布教にあたって、まず「日本国王( rei de Japão
)」 のい
る 所 へ 赴 き 、 次 いで 諸 大 学 を 訪 れ る 計 画 を 立 て て い た 。 こ の 計 画 は 、 来 日 前 か ら 入 京 す る
)
1
(
と複数形になってい
まで一貫したものであった。このうち、諸大学については universidades
る こ と か ら 、 京 都 及 び そ の 周 辺 に 位 置す る 諸 寺 院で あ る と 考 えて 間 違 いな い 。 問 題 は 「 日
本国王」である。
筆者は、前章においてイエズス会宣教師の書翰から「国王( rei
)」が誰を指すのかを検
討した。そ の結果、ザ ビエル入京を契機に「 国王」の該当者が 天皇 ・将軍 から 大名へと変
化 す る 点、 国の 捉 え 方 も 日 本 全 国 から 戦 国 大 名 領 国 単 位 へと 変 化 し た 点 を 明 ら かに し た 。
こ れ は 、 戦 国 期 の 日 本 を 統 一 国 家 と 理 解 せ ず 、 複 数 の 大 名 領 国 か ら な る 国 家で あ る と の 認
識 に 改 め た こ と を 意 味 す る も ので あ っ た と 結 論 づ け た 。 し か し 、 前 章 で は ザ ビ エ ル 入 京 以
前 の 「 国 王 」 を 天 皇 ・ 将 軍 と し た も の の 、 い ず れ か 片 方 を 指す の か 、 そ れ と も 両 者 を 指す
の か と い っ た 具 体 的 な 検 討 は 保 留 に して い た 。 そこ で 、 本 章 で は こ の 課 題 に 取 り 組 む こ と
にしたい。
と こ ろ で 、 ザ ビ エ ル が 謁 見 し よ う と し た 「 国 王 」 に 関 す る 研 究 が こ れ ま で 皆 無で あ っ た
かといえば、実はそうではない。清水紘一氏がこの問題を検討している 。従来、ザビエル
)
2
(
の謁見しようとした「国王」は天皇であったという理解が一般的であった 。これに対して、
)
3
(
氏は 、来 日 後 の 日 本 発 信 書 翰 に 書 か れ た「 国 王 」 関 連 記 事 を 分 析 し た 結果 、 宣 教師 の間で
日 本 の 「 国 王 」 と して 認 識 さ れ て い た の は 、 来 日 前 は 天 皇 と 将 軍 、 来 日 後 は 将 軍 で あ る と
結論づけた。
清水 氏の 実証的な分 析 に より、 ザビエルの 「 国王」 認 識や 国王訪 問計画が よ り鮮明にな
ったといえよう。しかし、この結論によって新たな疑問が浮かびあがったように思われる。
それは天皇の存在である。ザビエルは来日前天皇を日本の最高の「国王」と認識しており、
実際入京時には天皇訪問を試みている 。この事実をとっても、来日後天皇を無視したとは
)
4
(
考えにくい。ザビエルは来日後天皇をどのような存在として認識していたのであろうか。
そこ で 、 こ の 疑 問 を 解 決 す る た め に も 、 ザ ビ エ ル 書 翰 に 記 さ れて い る 「 国 王 」 が 誰 を 指
す の か と い う 視 点 に と ど ま ら ず 、 天 皇 ・ 将 軍 が ど の よう に 認 識 さ れ て い た の か と いう 角 度
「国王(
)」の該当者分析
rei
)」の該当者 を 検
rei
からも検討する必要があろう。以下、両視点からの検討を試みることにしたい。
一
ザ ビ エ ル の 天 皇 ・ 将軍 認 識 を 考え る た め に も 、 ま ず 最 初 に 「 国 王 (
の 該 当 者 分析 を 行 い た い 。 ザ ビ エル 書 翰 か ら「 国 王 」 関
証する必要がある。本節では、 rei
連箇所を抽出し、表にまとめてみた。ザビエルが日本布教を決意して日本情報収集に努
めた時期か ら 検索し、 日本 布教後 コ ー チンにて 発信した 書翰まで の 二四件を取 り上げ た。
こ の 二 四 件 以 外 は 、 「 国 王 」 の 該 当 者 が 大 名 で あ る ので 除 外 し た 。 な お 、 ザ ビ エ ル 没 後 で
あるが、天皇を指す事例が一五五四年付、ゴア発ポルトガルのイエズス会員宛ペドロ・デ・
アルカソヴァ書翰に六件あるので、参考までに載せた。以下、表をもとに検証していく。
1 来日以前の「国王」の該当者
日 本 の 権 力 者 に 関 す る 最 初 の 詳 細 な 報 告 書 は 、 ニ コ ラ オ ・ ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告で あ
る 。 ザ ビ エ ル は 日 本 布 教 を 決 意 す る と 、 そ の 情 報 収 集 を ラ ン チ ロ ッ ト に 依 頼 し た 。ラ ン チ
ロットはイタリア出身のイエズス会宣教師で、当時はゴアの聖パウロ学院の院長であった。
彼 は 、 ゴ ア に 来 た 日 本 人 ア ン ジ ロ ー に 教 理 教 育 を 施 す か たわ ら 、 日 本 に 関 す る 情 報 を 聴 取
し た 。 そ れ が 日 本 報 告 で あ る 。 そ の た め 、 彼 の 作 成 し た 日 本 報 告 は ザ ビ エ ル に と って 貴 重
な資料となり、日本の権力者に関してもこの報告をもとに理解したに違いない。
同報告については、岸野久氏の詳細な研究がある 。同報告は四種類あり、その内最初の
)
5
(
も の は 一 五 四 八 年 夏 に ゴ アで 作 成 さ れ た 「 第 一 日 本 情 報 第 一 稿 」 で あ る 。 こ れ を 読 ん だ イ
ンド総督ガルシア・デ・サァがさらに世俗的な情報を求めたため、別に作成されたのが「第
二 日 本 情 報 」で あ る 。 そ の 後 、ラ ン チ ロ ッ ト に よ って 改 編 さ れ た も の が 「 第 一 日 本 情 報 第
イエズス会日本書翰集』 には、第一日本情報(六号書翰)と第二
二 稿 ・ 第 三 稿 」で あ り 、 計 四 種 類 の 報 告 書が 存 在す る こ と に な っ た 。 東 京 大 学 史 料 編 纂 所
編『日本関係海外史料
)
6
(
日 本 情 報 ( 七 号 書 翰 ) が 掲 載 さ れ 、 第 一 情 報 第 二 稿 ・ 第 三 稿 に の み 記 さ れて い る 部 分 は 、
編 者 に よ っ て 補 足 さ れ て い る 。 よ って 、 同 書 翰 集 を 使 用 す る こ と で 、 四 種 類 あ る ラ ン チ ロ
ットの日本報告は網羅できることになる。
表によれば、第一情報である六号書翰には三件「国王( rei
) 」 が 登 場 す る 。最 初 に 日 本
)によって支配されている」と記されている(表 No.1
)。 r
hum rey
の「全土が一人の国王(
が
)」とある以上どちらか片方でなけ
ey天皇か将軍を指すことは間違いない。「一人( hum
は、「最高の国王( r
ればならないが、この部分から特定することはできない 。次の表 No.2
)
7
(
)はその国の言葉で皇( Vo
)と呼ばれています」と書かれている。「国王」=
ey prymçypal
「 皇 」 す な わ ち 天 皇 で あ る こ と か ら 、ラ ン チ ロ ッ ト の 考 え る 「 国 王 」 は 天 皇 で あ っ たこ と
が判明する。
御所)と呼ばれている最高の王(
Guoxy
)」
o rei primcipal
続 いて 第 二 情 報 で あ る 七 号 書 翰 を 見 て い こ う 。 同 書 翰 に は 「 国 王 」 の 事 例 が 一 件 確 認 で
きる。「彼等の間ではグォシー(
)。「グォシー」は御所すなわち将軍を指すと考えられ、将軍も「国王」で
とある(表 No.4
あるとの認識をもっていたことになる。
以 上 、ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告 で は 、 「 国 王 」 は 天 皇 を 指す 場 合 と 将 軍 を 指 す 場 合 に 分
かれること、つまり、両者を日本の「国王」と認識していたことが明らかになった。
そ の 後 、 ザ ビ エ ル は 来 日 す る ま で に 数 多 く の 書 翰 を 出 して い る が 、 そ の う ち 七 通 に 「 国
王 」 の 記 事 が 認 め ら れ る 。 内 容 は 、 国 王 訪 問 を 計 画 して い る 記 事 、 国 王 へ の 贈 り 物 の 準 備
に 関 す る 記 事 、 大 学 情 報 ( 国 王 の 居 住す る 近 く に 大 学 が あ ると いう 形で )で 、 八 件確 認で
~ No.12
)。八件すべてが rei
という単数形で表記されているため、天皇か将軍
きる(表 No.5
のいずれかを指していなければならない。しかしながら、それを特定する記述がない以上、
「 天 皇 と 将 軍 の い ず れ か 」 と い う こ と し か 分 か ら な い 。 よ って 、 単 数 形 で は あ る が 、 両 者
を念頭に置いていると考えるほかない。
2 ザビエル来日後から入京までの「国王」の該当者
現 存す る ザ ビ エ ル 来 日 後 か ら 入 京 ま で の 日 本 発 信 書 翰 は 、 管 見 の 限 り 鹿 児 島 発 書 翰 だ け
で あ る 。 清 水 紘 一 氏 は こ の 鹿 児 島 発 ザ ビ エ ル 書 翰 か ら 「 国 王 」 の 該 当 者 に つ い て 詳 細な 分
析を行っている。氏の研究をもとに検証していくことにしたい。
ザ ビ エ ル は 鹿 児 島 か ら 数 通 の 書 翰 を 発 信 し て い る が 、 そ の う ち 「 国王 」 が 登 場 す る 書 翰
~
No.13
)
17「国王」が登
は 三 通 あ る 。ま ず 、 一 五 四 九 年 一 一月 五 日 ( 天 文 一 八 年 一 〇 月 一 六 日 ) 付 、 鹿 児 島 発 ゴ ア
のイエズス会員宛ザビエル書翰である 。この書翰には五件(表
)
8
(
場する。
Nos chegamos a ella em tempo que
【史料1(表
)】
No.13
.王
.や国の有力な領主達が居住し
私達が当 地に到着し たのは 、日 本の首都で あ り、国
ている都に赴くには逆風の吹いていた時期でした(
os ventos erão contrarios para ir a Miáco, que hé a principal cidade de Iapão, donde el rei,
)。[傍点筆者(以下同様)]
e os maiores senhores do reino residem.
)
9
(
【史料2(表 No.14,15
)】
坂 東 は 非 常 に 大 き な 所 領 で あ り 、 同 地 に は 太 守 六 人 が いて 、 彼 等 の う ち の 一 人 は 有
Bandóu hé huma senhoria mui grande, onde há seis duques, &
.である日本
力 者で あ り 、 そ の 者 に 全 員 が 従 属 して い ま す 。 こ の 有 力 者 は 都 の 大 な る 王
.王
.に服従しています(
の国
antre elles há hum principal, ao qual todos obedecem. Este principal tem obediencia ao rei
)。
de Iapam, que hé o gran rei de Miáco.
)
0
1
(
【史料3(表
)】
No.16.17
.王
.の安全通交証を持参すれば、シナ人から虐待を受け
その国[中国] へは日本の国
)
1
1
(
ず に 無 事 に 行 く こ と が で き ま す 。 日 本 の 国 王 が 私 達 の 友 人 と な り 、 そ して 彼 か ら こ の
China, ao qual se
安 全 通 交 証 を た や す く 入 手 す る こ と が で き る こ と を 、 私 達 は 神 に 信 頼 して お り ま す 。
.王
.がシナの国王の友人であり、……(
私はあなた方に、日本のこの国
pode ir seguramente, sem receber mão tratamento dos chinas, levando salvo conduto do rei
de Iapão, o qual confiamos em Deos que sera nosso amigo, e que facilmente se alcançara
)。
delle seguro: porque vos faço saber que este rei de Iapão hé amigo del rei da China,......
)
2
1
(
清 水 氏 は 三 史 料 の 検 討 の 結 果 、 五 件 の 「 国 王 」 が す べ て 足 利 将 軍 を 指 して い る と 論 じて
【史料2】の坂東に所領をもつ有力者は鎌倉公方あるいは関東管領と解され、
いる 。氏は、
)
3
1
(
そ の 者 が 服 従 して い る 「 国 王 」 は 足 利 将 軍 で あ る と す る 。 ま た 、 【 史 料 3 】 は 勘 合 貿 易 に
触 れ た 記 事 で あ る が 、 氏 は こ こ に み ら れ る 「 国 王 」 が 明 国皇 帝 か ら 冊 封 さ れ た 日 本 国 王 と
解して足利将軍とする。以上の分析は疑う余地もなく、氏に従いたい。
)が確認できる。
No.18
次 は 、 一 五 四 九 年 一 一 月 五 日 付 、 鹿 児 島 発 ゴ ア の ア ン ト ニ オ ・ ゴ メ ス 宛 ザ ビ エ ル 書 翰で
ある 。この書翰には一件「国王」の事例(表
)
4
1
(
Los Padres quando venieren, hazed con el Gouvernador que ma
【史料4(表
)】
No.18
.王
.へ書状と一緒に贈物をする
パードレ 達が来る時 には、(インド)総督が日本の国
ように働きかけて下さい(
)。なぜなら、彼が私
nde algunas piessas y prezientes para el rey de Japán con una carta
達 の 聖 な る 信 仰 に 改 宗 す る よう に な れ ば 、 堺 に 商 館 が 設 け ら れて ポ ル ト ガ ル 国 王 に 十
分 な 現 世 的 利 益 が 齎 さ れ る こ と に な る と 、 神 に あ って 信 じて い る か ら で す 。 そ の 地 は
非 常 に 大 き な 港で あ り 、 ま た 甚 だ 裕 福 な 商 人 が 多 数 い る 都 市で も あ り 、 日 本 の そ の 他
の地方におけるよりも多量の金銀があります。
)
5
1
(
インド総督が「日本国王」宛の書状と贈り物を用意するように、ザビエルがアントニオ・
ゴ メ ス へ 依 頼 して い る 記 事 で あ る 。 「 日 本 国 王 」 が キ リ ス ト 教 に 改 宗 す れ ば 、 堺 に 商 館 が
設 立 さ れ て ポ ル ト ガ ル 国 王 は 多 大 な 利 益 を 得 る こ と が で き る と 伝 達 して い る 。 清 水 氏 は 、
堺商館設立から勘合貿易に関係する記事として、この「日本国王」も足利将軍としている。
堺 商 館 設 立 の 記 事 が 勘 合 貿 易 に 結 びつ く か ど う かは 更 な る 傍 証 が 欲 し い と こ ろ で あ る が 、
この「国王」を天皇と考えるのは不自然であり、やはり将軍とする方が適当と思われる。
~ )
No.19
22確認できる。内容は、都に国王がいるという記事
最 後 に 一 五 四 九 年 一 一 月 五 日 付 、 鹿 児 島 発 マラ ッ カ 長 官 ド ン ・ ペ ド ロ ・ ダ ・ シ ル ヴ ァ 宛
ザビエル書翰 で、四件(表
)
6
1
(
)、その国王への贈り物に関する記事( No.20
)、堺商館設立関連記事( No.21,22
)
( No.19
である。この四件についても清水氏の見解通り「国王」は足利将軍で問題ないといえる。
以 上 、 「 国 王 」 が 誰 を 指す か と いう 視 点 か ら 考 え る な ら ば 、 鹿 児 島 発 信 ザ ビ エ ル 書 翰 三
ザビエル入京後の「国王」の該当者
通に書かれている「国王」の該当者は足利将軍となる。
3
ザ ビ エ ル の 入 京 を 契 機 に 、 「 国 王 」 の 該当 者が 天 皇 ・ 将軍 か ら 大 名 へと 変 化 す る 点に つ
いては、すでに前項で論じた。そこで、本項では「国王」が大名を指す事例は対象外とし、
対象を天皇と将軍に絞って検証していきたい。
ザ ビ エ ル 入 京 後 の 書 翰で 、 「 国 王 」 の 該 当 者 が 天 皇 ・ 将 軍 と な る も の は 、 一 五 五 二 年 一
月 二 九 日 ( 天 文 二 一 年 一 月 四 日 ) 付 、コ ー チ ン 発 ヨ ー ロ ッパ の イ エ ズ ス 会 員 宛 ザ ビ エ ル 書
翰 に二件みられる。ザビエルが在日時のことを回想した場面で登場する。
)
7
1
(
【史料5(表
)】
No.23
.王
.を戴いている人々ですが、彼等が彼に
彼 等 [ 日 本 人と り わ け 武 士 ] は 唯 一 人 の 国
従 わ な く な って か ら 一 五 〇 年 以 上 に な り ま す 。 そ して こ の た め に 、 彼 等 の 間 に 戦 争 が
絶えません。(
Hé
gemte
que tem hum soo rey, porem há mays de cemto e cimpuoenta a
)。
nnos que lhe nom obedecem
)
8
1
(
【史料6(表 No.24
)】
[ ザ ビ エ ル は ] 都 に 到 着 し た の ち 、 私 達 は 数日 間 滞 在 し ま し た 。 私達 は 、 神 の 教 え
Chegados a Myaco, estivemos alguns dias. Traba
.王
.と話そうと努力しました。私
を そ の 国で 説 教 す る た め の 許 可 を 請 願 す る た め に 、 国
達は彼と話すことはできませんでした(
lhamos por falar com el-rey pera lhe pedir licemça, pera em seu regno preguar a ley de D
) 。
eus. Nos pudemos falar com ele.
)
9
1
(
【 史 料 5 】 は 「 彼 等 」 が 「 唯 一 人 の 国 王 」 を 戴 く と あ る 。 一 五 〇 年 と いう 数 字 を そ の ま
ま信用してよいかは疑問であるが、書翰の書かれた一五五二年の一五〇年以上前といえば、
南 北 朝 期も しく は 足 利 義 満 の 時 代 に あ た る 。 そ の 時すで に 誰 も 従わ な く な っ た 「 国 王 」 と
言えば、天皇を指しているとしか考えられない 。【史料6】の「国王」は明らかに天皇で
)
0
2
(
あ る 。ザビ エ ルが 謁見 を 試み た 相 手は 、将軍 で は な く 天 皇で あ った からで あ る 。 そこで 同
書翰の「国王」の該当者は天皇を指していることが判明する。
次にザビエル没後となるが、一五五四年付、ゴア発ポルトガルのイエズス会員宛ペドロ・
~ )
デ・アルカソヴァ書翰 に、天皇を指すと考えられる「国王」の事例がある(表 No.25
30。
こ れ は 、 ザ ビ エ ル が 京 都 を 訪 れ た と き に 起こ っ た エ ピ ソ ー ド を 伝 え た も ので あ る 。 内 容 は
)
1
2
(
「都 の国王 」が 足 を 洗 った盥を神 聖なも のと して 頭に 被 る 行為を目 撃したこ と 、「 国王」
は 神 聖で は な く な る た め に 足 を 地 面 に つ け な い と いう こ と を 伝 え 聞 い たこ と 、 「 国 王 」 を
偶像の霊魂が見張りをしていることなど、「国王」を異様な権力者として位置づけている。
この書翰の「国王」は明らかに天皇を指していることが分かる。「パードレ・メストレ・
No
フラ ン シ ス コ が こ の 土 地 に い た 時 、 都 か ら 一 個 の 盥 を 持 って き た 人 が 到 着 し ま し た 。 人 び
とは(彼等が聖者と見做している)都の国王がそれで足を洗った、と言っていました(
tempo que o Padre Mestre Francisco estava nesta terra, chegou hum homem de Miáco (que elle
)」 と書かれており、ザビエルが来日した時期の京都には天皇しかいな
s têm como santo
いからである。
)
1
2
(
そ の 後 は 、 ガ ス パ ル ・ ヴ ィ レ ラ に よ って 畿 内 布 教 が 本 格 的 に 展 開 さ れ る ま で 、 天 皇 と 将
軍 に 関 す る 記 事 は 管 見 に 触 れ な い 。こ の 間 、 「 国 王 」 関 連 記 事 は す べ て 大 名 の こ と を 述 べ
ている。しかし、畿内布教が開始されると、畿内の権力者に関する情報も書翰で伝達され、
天 皇 と 将 軍 に つ いて も 触 れ ら れ る よ う に な る 。 一 五 六 〇 年 六 月 二 日 ( 永 禄 三 年 五 月 九 日 )
o Rei chamado G
o principal Rei a quem elles chamão
付、都発豊後のイエズス会員宛ロレンソ書翰には、「御所と称する国王(
)」と「彼ら[日本人]が皇と称する主たる国王(
oxo
)」の記述が見られる 。天皇・将軍両者に Rei
を用いており、ヴィレラの畿内布教段階
Vó
でも両者を「国王」と認識していたことが確認できる。
)
3
2
(
以 上 、 日 本 の 「 国 王 」 の 該 当 者 を ま と める と 以 下 の 通 り と な る 。 来 日 前は 天 皇 ・将 軍 、
来 日 後 か ら 入 京 前 ま で は 将 軍 、 入 京 後 は 天 皇 を 指す 事 例 の み と な る 。 入 京 後 に 天 皇 の み を
指 す 事 例 は 不 自 然で は な い 。 当 時 将 軍 は 三 好 長 慶 と の 抗 争 に 敗 れ た 細 川 晴 元 と と も に 近 江
に 逃 れ て お り 、 京 都 不 在で あ っ た 。 そ の た め 、 宣 教 師 が 天 皇 の み の 記 事 し か 記 さ な か っ た
の は 納 得が いく 。 し か し 、 来 日 後 か ら 入 京 前 まで の 時 期 だ け 「 国 王 」 の 該当 者 が 将軍 と な
る の に は 違 和 感が 残 る 。 来 日 後 か ら 入 京 ま で の 、 「 国 王 」 が 将 軍 を 指す 事 例 は 、 全 て が 状
況 証 拠 に よ っ て 「 将 軍 」 と 比 定 し た も の で 、 ザ ビ エ ル が 将 軍 を 念 頭 に 置 いて 書 いて い る と
は 書翰 から は 読 み 取れ な い。来 日 後 日本 の「 国王 」 を将 軍 と 改 め た な ら ば 、 そ の 理 由を 書
翰 に 記 し た は ず で あ る し 、 京 都 に い な く て も 将 軍 の い る と こ ろ ま で 赴 いて も よ か っ た で あ
ろ う 。 し か し な が ら 、 ザ ビ エ ル は そ う し た 行 動 を と って い な い 。 果 た して ザ ビ エ ル は 来 日
後に日本の「国王」が将軍一人であると認識を改めたのであろうか。
そこ で 、 次 節で は ザ ビ エ ル が 天 皇 ・ 将 軍 を ど う 認 識 し て い た か と い う 、 ザ ビ エ ル の 認 識
二
天皇・将軍認識の変化の有無
ザビエルの天皇・将軍認識
という別の角度から検証していくことにしたい。
1
ザ ビ エ ル が 天 皇 と 将 軍 に 関 す る 詳 細 な 情 報 を 入 手 し た の は 、 前 述 の よ う に ニ コ ラ オ ・ラ
ン チ ロ ット の 日 本 報 告 か らで あ る 。 同 報 告に み ら れ る 天 皇 と 将軍 に 関 す る 記 事 を 引 用 し よ
う。
【史料7】
)によって支配されている、と述べています。その配下に、公爵達(
hum rey
duqu
彼[アンジロー]は最初に、日本の島は六〇〇レグアの長さであり、全土が一人の国
王(
)
)のようなその他の諸領主( senhores
)がいる、と彼は言ってい
esと伯爵達( condes
ま す 。 日 本 全 土 に は 一 四 人 の 領 主 が お り 、こ れ ら 諸 領 主 の う ち 誰 か が 死 ぬ と 、 そ の 嫡
子 が 領 国 の 後 継 者 と な り 、 そ の 他 の 息 子 達 に 対 して 、 彼 等 が つ ね に 長 子 に 従 う と の 条
件で 、 そ の 生 計 の た め に い く ら か の 土 地 を 付 与 し ま す 。 こ の た め 、 彼 等 は 決 し て 領 国
を分割す ることは しま せん。こ れ ら のうち の 最小の領主は一〇〇〇 〇人の戦闘 員 を 持
ち、他の者は各々一五〇〇〇人、二〇〇〇〇人、三〇〇〇〇人の戦闘員を持っている、
と彼は言っています。
(彼が語るには、)最高の国王( rey prymçypal
)はその国の言葉で皇 (Vo)
と呼ばれて
い ま す 。 そ して 、 こ れ は 、 彼 等 の 間 で は 最 高 の 階 級 で す 。 こ の 階 級 の 者 た ち は 他 の 階
)
級の者たちとは結婚しません。そして、この皇は彼等の間では私達の間の教皇( papa
の 如き 存 在 で あ る 、 と 思 わ れ ま す 。 彼 は 世 俗 の 者 に 対 す る の と 同 様 、 こ の 国 に 多 数 い
る 聖 職 者 に 対 して も 権 限 を 持 って い ま す 。 彼 は あ ら ゆ る 事 柄 に 対 し て 絶 対 的 な 権 能 を
所 有 して い ま す が 、 誰 か を 裁 く こ と を 命 じ る こ と は 決 し て し ま せ ん 。 し か し 、 彼 は 私
)同様に彼等の中の他の者に全責任を委ねている、と彼(ア
達の間の皇帝(
Emperador
と呼ばれています。彼は日本全体につ
ンジロー)は言っています。その者は御所 (Goxo)
)、武将(
señhores
)及び士卒(
capitanes
solda
)と支配権( imperyo
) を 所 持 し て いま す が 、 彼 は 前 述 の 皇 に 服
いての命令権( mando
従 して い ま す 。 そ して 御 所 が 皇 を 訪 ね て 行 く 時 に は 床 に 膝 を つ け る 、 と 彼 ( ア ン ジ ロ
ー)は述べています。また彼は諸領主(
)とからなる大きな政庁を持ち、裁判や戦争の任務を帯びてはいるけれども、もし
dos
も 御 所 が 何 か 悪 い 事 件 を 企て よ う と す れ ば 、 皇 は 彼 か ら 領 国 を 奪 い 取 る こ と が で き る
し 、ま た そ れが 価 値あ るこ とで あ るな ら ば 、 彼 の 首 を 斬 るこ と がで き る 、と 彼 [ ア ン
ジロー]は言っています。
)
4
2
(
こ れ に よ る と 、 天 皇 は 教 皇 の よ う な 存 在で あ る と い う 。 そ し て 、 世 俗 の 者 に も 聖 職 者 に
対 して も 権 限 が あ り 、 あ ら ゆ る 事 柄 に 対 して 絶 対 的 な 権 限 が あ る と 記 さ れて い る 。 天 皇 は
日 本 の 絶 対 権力 者 と し て 理 解 さ れ て い る こ と が 読 み 取 れ る 。 そ の あ と に 、 天 皇 は 全 責 任 を
)」に委ねているとある。将軍は日本全体の命令権・
皇帝のような存在である「御所( Goxo
支 配 権 を 有 し 、 大 き な 政 庁 を 持 っ て 裁 判 や 任 務 を 帯 びて い る 。 そ の 将 軍 も 最 終 的 に は 天 皇
に服従しており、何か悪い事件を企てようとすれば処罰されると記されている。
こ の 日 本 報 告 の 内 容 が 、 当 該 期 日 本 の 天 皇 ・将 軍 の 関 係 を 説 明 し たも の と し て 正 確 な 記
述で あ る か ど う か は こ こ で は 問 わ な い 。 重 要 な の は 、 ザ ビ エ ル は 天 皇 と 将 軍 を と も に 「 国
) 」 と 認 識 し て い た が 、 両 者 が 対 等 な 関 係 に あ る と は 捉 え ず 、 将 軍 は 天皇 か ら 委 任
王( rei
された権力者で、最終的な権限は天皇にあるとの認識をもっていた点である。
以 上 の 天 皇 と 将 軍 に 対す る 認 識 を 来 日 後 改 め た形跡は 見られるので あろう か 。来日後 の
「 国 王 」 関 連 記 事 は 、 ザ ビ エ ル の 日 本 布 教 計 画 の 中で 登 場す る 。 そ の 該当 者 は 、 当 該 期 日
本 の 社 会 情 勢 か ら 考 え て 将 軍 の こ と を 指 して い る 点 は 前 節 で 述 べ た 。 そ れ で は 、 ザ ビ エ ル
の 視 点 か ら 考 えて も 同 様 のこ と が い え る の だ ろ う か 。 ザ ビ エ ル は 天 皇 と 将 軍 を 明 確 に 区 別
して 報 告 し て いな い た め 、 日 本 の 布 教方 針 か ら 「 国王 」 認 識 の 変 化 の 有 無を 探 るこ と にす
る。
来 日 前 ザ ビ エ ル は 、 日 本 布 教 に 際 して 「 国 王 」 と 諸 大 学 の 訪 問 を 計 画 に 立 て て い た 。 来
日 後 の 鹿 児 島 発 書 翰 に も こ の こ と が 記 さ れ て お り 、 内 容 も 「 国王 」 の 住 む 京都 に 関 す る 情
Hay out
報 が 具 体 的 に 記 さ れ て い る 。 諸 大 学 訪 問 に つ いて も 同 様 で 、 来 日 前 ま で は 京 都 に 関 す る 大
学情報だけであったが、来日後には「坂東と称する別の大学が甚だ遠い所にあり(
)」 と情報もより豊富になっていった。
ra universidade mui longe, a qual se chama Bandóu
つ ま り 、 「 国王 」 と 諸 大 学 に 関 す る 情 報 は 、 来 日 後 に 変 化は な く 、 具 体 化 さ れ たと 読 み 取
)
5
2
(
)」)
Vó
れるのである。従って、「国王」に対する認識も変化はなかったと考えられる。もし、「国
王」認識に変化があったならば、すでにザビエルは日本の「国王」には天皇(「皇(
)」)がいるとの認識をもっていたのであるから、両者を区別して
と将軍(「御所( Goxo
報告することも可能であったはずである。
例えば、ザビエル入京後の書翰には、それが読みとれ る記事があ る。ザビエ ルは入京後
「 国 王 」 を 天皇 ・将 軍 か ら 大 名 へ と 認 識 を 改 め た 。 ザ ビ エ ル 書 翰 に は 「 彼 [ 天 皇 ] に は そ
の臣民達が服従していないという情報を得( E depoys que tivemos emfformação que nom hé
)」た 、「その地[京都]は(宣教する)状況にない( a terra nom est
obedecido dos seus
)
6
2
(
)」 という記述があり、「国王」に対する認識の変化が窺える。
ava em desposyção
また、ガスパル・ヴィレラ畿内布教段階では、天皇と将軍についてこのように記されてい
)
7
2
(
る。
【史料8】
たいへん身分の高い坊主(仏僧)の仲介で、司祭は日本の全ての領主が服従しており、
日 本 全 国 の 国 王で あ る 御 所 と 称す る 国 王 ( 将 軍 足 利 義 輝 ) の も と に 話 を し に 行 き ま し
た 。 な ぜな ら ば 、 同 じ く 都 に 居 住 し ( 天 ) 皇 と 称す る 主 た る 国 王 は 尊 位 し か な い が 、
por intercessam
こ の 御 所 は 命 令 権 を 有 して お り ま す 。 彼 は 司 祭 を た い へ ん 気 に 入 っ た 様 子 を 示 し 、 自
身が用いた盃で司祭に飲物を与えました。これは友情の印であります(
de hum Bonzo mui honrado, foi o padre falar ao Rei chamado Goxo, a quem todos os sño
res de Iapaõ: porque o principal Rei a quem elles chamão Vó, que tambem residem em M
iáco, não tem mais que dinidade, mas este Goxo tem o mãdo, o qual mostrou que logava
muito com o padre, & lhe deu de beber pola taça por onde elle bebeo, que he sinal de am
) 。
izade.
)
8
2
(
前 節で も 少 し 触 れ た が 、 一 五 六 〇 年 六 月 二 日 付 、 ロ レ ン ソ 書 翰 の 一 部で あ る 。 こ の 書 翰
に は 、 天 皇 と 将 軍 の こ と が 記 さ れ て お り 、 天 皇 は 尊 位 の ほ か は 持 た な い 「 国 王 」 と して 、
将 軍 は 権 力 を 有 し て い る 「 国 王 」 と し て 書 か れて い る 。 ロ レ ン ソ は 、 ザ ビ エ ル に 出 会 って
キ リ シ タ ン と な り 、 京 都 布 教 に 尽 力 し た 日 本 人 イ ル マ ン で あ る 。 彼 は 日 本 人で あ る の で 、
天 皇 と 将 軍 に つ いて は 外 国 人 宣 教 師 よ り 正 確 に 把 握 し て い た は ず で あ る 。 そ の ロ レ ン ソ が
天 皇 と 将 軍 に 対 して こ の よ う な 説 明 を し な け れ ば な ら な か っ た の は 、 受 取 手 の 外 国 人 宣 教
師 が 両 者 を 区 別 して 理 解 して い な か っ た た め と 考 え ら れ る 。 ロ レ ン ソ が 両 者 を 「 国 王 」 と
し て 説 明 し て い る の が 何 よ り の 証 拠で あ る 。 も し 、 ザ ビ エ ル 来 日 後 天 皇 と 将 軍 を 区 別 し て
捉 え て い れ ば 、 ロ レ ン ソ も こ の よ う な 説 明 を す る 必 要 が な か っ たで あ ろ う 。 つ ま り 、 永 禄
年 間 の 畿 内 布 教 開 始 段 階 に な って 、 宣 教 師 は よ う や く 天 皇 と 将 軍 を 区 別 し て 把 握 す る よ う
になったのである 。よって、ザビエル来日前後で日本の国王に対する認識の変化はないと
)
9
2
(
いう結論に達する。
以上、ザビエルが当初立てていた「国王」訪問計画を変更したという記述がない点、「国
王 」 に 対 す る 認 識 の 変 化 が 読 み 取 れ る 記 述が な い 点 か ら 、 来 日 前 後 で 天 皇 ・ 将 軍 に 対 す る
認 識 の 変 化 は な か っ た と 考 え ら れ る 。 従 って 、 ザ ビ エ ル 来 日 後 も 、 入 京 ま で は ラ ン チ ロ ッ
トの日本報告による権力者情報を踏襲していたといえる。
2 二人の「国王」の関係
こ れ ま で の 検 証 に よ って 、 ザ ビ エ ル は 来 日 以 前 か ら 入 京す る ま で 、 天 皇 と 将 軍 両 者 を 日
本 の 「 国 王 」 と して 認 識 して い た こ と を 明 ら か に し た 。 し か し な が ら 、 解 決 し な け れ ば な
らない問題を二、三残しているので、その点を検討していきたい。
第 一 に 、 来 日 後 の 「 国 王 」 の 該 当 者 が 将 軍 と な る 点 を ど う 理 解す る かで あ る 。 前 節 の 分
析 結 果で は 、 来 日 後 の 鹿 児 島 発 書 翰 に 見 ら れ る 「 国 王 」 は 明 ら か に 将 軍 を 指 し て い た 。こ
の 情 報 は お そ ら く ザ ビ エ ル が 鹿 児 島 で 都 情 報 の 収 集 に 努 めて 得 た も の で あ ろ う 。 勘 合 貿 易
の話から分かるように、内容自体は将軍のことを話したものと考えて間違いない。しかし、
ザ ビ エ ル が こ の 情 報 を 将 軍 に 関 す る も ので あ っ た と 認 識 して い た か ど う か と い う 問 題 は 、
このことと別個に考えなければならない。
そ れ で は 、 ザ ビ エ ル は こ の 将 軍 情 報 を ど の よ う に 認 識 して い た の だ ろ う か 。 ザ ビ エ ル の
権 力 者 認 識 は 、 入 京す る まで ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告 を 踏 ま えて い る こ と は す で に 明 ら か
に し た 。 同 報 告 に は 、 天 皇 が 将 軍 に 全 責 任 を 委 ね て い る と いう 記 述 が あ っ たが 、こ のこ と
に 注 目 す れ ば 、 将 軍 に 関 す る 情 報 を 入 手 し て も 、 そ れ は 将 軍 独 自 の 権 限で は な く 、 天 皇 か
ら 委 任 さ れ た も ので あ る と の 判 断 を 持 っ た の で は な いだ ろ う か 。 情 報 を 提 供 す る 側 は 将 軍
の こ と を 話 し た と して も 、 受 け 取 る 側 の ザ ビ エ ル の 方 は 将 軍 と 天 皇 を 区 別 して 捉 え な か っ
た の で あ る 。 つ ま り 、 個 々 の 文 脈 の 中 で 「 国 王 」 が 指 す 対 象 は 将 軍 で あ って も 、 ザ ビ エ ル
の認識の上では天皇を切り離して将軍のみのことを指しているわけではないのである。
第二は、「国王」は天皇と将軍両者を指すのに、なぜ reis
という複数形表記がされずに、 r
と
eiいう単数形で表記されているのかという疑問である。日本の「国王」が天皇と将軍両者
と複数形表記され た事例として スペイン
ならば、当然複数形の表記になるはずである。 reis
を挙げるこ とがで きる 。スペインで は 、 イサ ベルと フ ェ ルナ ンド夫 妻に よる 共 同統治が 行
という複数形で表記されている 。
われた。そのためスペインの「国王」は reis
し か し 、 日 本 の 場 合 、 天 皇 と 将 軍 に よ る 共 同 統 治 と い う 支 配 体 系 を と って お ら ず 、 こ の
)
0
3
(
点 ス ペ イ ン と は 根 本 的 に 異 な って い る 。 ザ ビ エ ル も ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告 か ら 、 天 皇 が
将 軍 に 全 責 任 を 委 ね て い る と いう 認 識 を も っ て お り 、 共 同 統 治 と い う 理 解 は な い 。 そ の た
という複数形の表記にならず、 rei
と単数形表記されたのであろう。
め、スペインのような reis
こ の 単 数 形 表 記 と 関 連 して 、 宣 教 師 の 書 翰 に 「 一 人 の 国 王 」 と い う 表 記 が あ る こ と が 読
み 取 れ る 。 ザ ビ エ ル 布 教 期 に は 、 二 件 確 認で き る 。 一 つ は ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告 第 一 情
)」によって支配されていると
hum rey
報 ( 前 掲 【 史 料 7 】 ) で 、も う 一 つ は 一 五 五 二 年 一 月 二 九 日 付 ザ ビ エ ル 書 翰 ( 前 掲 【 史 料
5】)である。
前者の【史料7】は、日本全土が「一人の国王(
)」「伯爵達( condes
)」のような「諸領主( senhores
)」
あり、その配下に「公爵達( duques
が いると 記 さ れて いる 。「諸領 主 」が 何を 指 して いる かが 問題だが 、後で 数 万 の「戦 闘員
)」を持っているとあるので、「領主」は大名と考えていいだろう。大
( homens de peleja
名を 配下に も つ 権力 者 は将軍で あ る ので 、こ の「 国王 」 は 将軍 のこ と を 指して いると 考え
ら れ る 。 し か し 、 宣 教 師 が こ の よ う に 認 識 し て い た か ど う か は 言 及 して いな い た め 、 宣 教
師の認識という点ではこの「国王」を将軍と理解していたとは必ずしもいえない。
【史料7】の後半部分には「最高の国王」は「皇( Vo
)」で あ る と 記さ れて いる 。こ こ
で の 「 国 王 」 は 天 皇 で あ る 。こ の 「 国 王 」 と 前 述 の 「 国 王 」 を 同 一 人 物 と す る な ら ば 、 先
程の内容は 天皇に関す る記事とな る 。しかし 、宣教師は 「 国王」を 天皇と将軍 の両者に対
し て 用 いて い る た め 「 国 王 」 = 天 皇 と 断 言 も で き な い 。 も う 一 つ の 事 例 を 検 討 し て か ら 、
結論を導き出すことにしたい。
São muito belicosos e vivem
後者の【史料5】は、「彼等は唯一人の国王( hum soo rey
)を戴いている人々です」と
記 さ れ て い る 。 「 彼 等 」 が 武 家 を 指す こ と は 、 前 に 「 彼 等 は 非 常 に 好 戦 的 で あ り 、 つ ね に
戦争に明け暮れし、最も勢力ある者が有力な領主となります(
)」 とあることから明らかである。従って、武家が一五〇年以上も前に
sempre em guerras
従わ な くな っ た「 唯 一 人 の 国王 」 は 、 天皇 し かあ りえな い。 そ の証 拠に 、 同 書 翰 の別 の 箇
)
1
3
(
)」
所には、ザビエルが都に滞在し、「国王と話そうと努力( Trabalhamos por falar com el-rey
したという記述が見られる。これは明らかに天皇である。ザビエルの認識上は「唯一人の
)
2
3
(
国王」とあれば天皇を指していることが判明するのである。
つ ま り 、 「 国 王 」 の 該 当 者 と い う 視 点で 考 え る な ら ば 将 軍 に な り そ う な 記 事 も 、 宣 教 師
の 認 識 の 上 で は そう で は な か っ た 。 宣 教 師 は 、 天 皇 と 将 軍 両 者 を 「 国 王 」 と す る も の の 、
絶 対 的 な 権 力 者 は 天 皇 で あ る と 認 識 して い た の で あ る 。 た だ 、 そ の 天 皇 も 将 軍 に 全 責 任 を
委ねていると捉えていたため、両者を明確に区別する必要が生じず、両者に対して「国王」
が 用 い ら れ たと 考え ら れ る 。 し か し 、 「 唯 一 人 の 国 王 」 と 強 調す る 場 合 に は 、 例 外 な く 天
ザビエルの「国王」訪問計画
皇を指しており、日本の最高の「国王」は天皇ただ一人であると認識していたのである。
3
そ れ で は 、 ザ ビ エ ル が 訪 問 し よ う と し た 「 国 王 」 は 誰 だ っ た ので あ ろ う か 。 ザ ビ エ ル 自
身 は 天 皇 と 将 軍 の 名 を 挙 げ て いな い 。 そ こ で 、 京 都 で の ザ ビ エ ル の 行 動 か ら 検 討 して い こ
う。
ま ず 、 天 皇 へ の 訪 問 計 画 が あ っ た か ど う か 考 えて み よ う 。 天 皇 と いう 名 は 出 て いな いも
の の 、 入 京 後 の 書 翰 に は 「 国 王 」 に 謁 見 を 試 み た 記 述が あ る ( 【 史 料 6 】 ) 。 ザ ビ エ ル 入
京時、京都 には 天皇 し かおら ず 、 謁 見しよう と し た「 国 王 」は 天皇で し かあ り えな い。従
って、天皇への訪問計画はあったものと判断することができよう。
そ れで は 、 将 軍 へ の 訪 問 計 画 は あ っ た の だ ろ う か 。 ザ ビ エ ル 入 京 時 の 将 軍 に 関 す る 情 報
は 、 書 翰 か ら は 確 認で き ず 、 フ ロ イ ス 「 日 本 史 」 に の み 見 ら れ る 。 そ の 記 事 は 次 の 通 り で
ある。
【史料9】
足利
Cubosama
司祭[ザビエル]は、全日本の首府( a metropoli de todo Japão
)であるその(都の)町
に 着 いて 、 そ の 地 は 自 ら の 目 的 ( を 遂 げ る の に ) 必 要 と 思 わ れ る 状 態 に は な い こ と を
見出した。すなわち、すべては戦乱で(様相)を変えており、公方様(
)を伴って郊外に(逃れて)いた。そこで司祭は、
義輝)は数人の重臣( alguns senhores
自分をもてなしてくれることになっていた宿主に一通の(紹介)状を手渡したところ、
そ の 人 は さ っ そ く 翌 日 、 ( 司 祭 ) に 一 人 の 従 者 を 伴 わ せ て 、 そこ か ら 十 八 な い し 二 十
里距たったところに住んでいる婿の家へ彼を遣わした 。
)
3
3
(
こ こ に は 将 軍 が 重 臣 を 伴 って 京 都 か ら 離 れ て い る こ と が 記 さ れ て い る 。 こ の 記 事 の 内 容
自 体 は 誤 り で は な い 。 し か し 、 こ の 部 分 は 当 時 の 記 録で は な く 、 フ ロ イ スが 手 を 加え た 可
能性が認められる。まず第一に書翰には将軍関連記事が一切確認できないこと 、第二にザ
)」という文言が確認できないことである。後者に
Cubo
)
4
3
(
ビ エ ル 布 教 期 の 書 翰 に は 「 公 方(
)」を用いており、「公方( Cubo
)」が用いら
ついては、この時期将軍には「御所( Goxo
れ る の は 永 禄 年 間 に 入 って か ら で あ る 。 よ っ て 、 「 日 本 史 」 の 記 事 は 、 当 時 の ザ ビ エ ル の
計画を示したものとは必ずしもいえない。
ま た 、 【 史 料 9 】 の 後 半 部 分 も 書 翰 で は 確 認で き な い 。 松 田 毅 一 氏 は 「 婿 」 を 小 西 立 佐
と 捉 え 、 「 十 八 な い し 二 十 里 距 た っ た と こ ろ 」 を 得 珍 保 内 と して い る が 、 両 者 の 関 連 性 は
不明とする 。これを史実として捉えるには、両者の関連性が確認できてからでなければな
)
5
3
(
らない。現時点では、ザビエルが将軍訪問を計画していたことを示す史料は見い出せない。
以 上 、 ザ ビ エ ル は 入 京 ま で 一 貫 して 天 皇 と 将 軍 両 者 を 「 国 王 」 と 認 識 して い た こ と を 明
ら か に し た 。 ただ し 両 者 の 関 係 は 対 等な も の で は な く 、 天 皇 は 将 軍 に 全 責 任 を 委 ね て い る
が 、 将 軍 は 天 皇 に 服 従 して お り 、 絶 対 的 な 権 力 は 天 皇 に あ る と の 認 識 だ っ た 。 日 本 の 「 国
という複数形表記がされなかったのも、日本の「国王」はスペインのような共同
王」に reis
統 治 を して いな い と 理 解 し た た め で あ る 。 そ の 点 を 踏 ま え て 鹿 児 島 発 書 翰 に 見 ら れ る 「 国
王 」 を 見 て い く と 、 該 当 者 と い う 視 点で 考 え れ ば 確 か に 将 軍 と な る が 、 ザ ビ エ ル ら 宣 教 師
の認識の上で は 、天皇 の情報、あ る いは 天皇 から全責任 を 委ね られ た将軍 情報 とな るので
ある。つまり、宣教師は天皇と将軍を区別して捉えていたわけではなかったことになる。
「 国 王 」 訪 問 計 画 に 関 して は 、 天 皇 訪 問 計 画 は 史 料 か ら 読 み 取 れ る が 、 将 軍 訪 問 に つ い
ては現存の史料から確定することはできない。
おわりに
本 章 で は 、 ザ ビ エ ル の 天 皇 ・ 将 軍 認 識 に つ いて 、 「 国 王 」 の 該 当 者 と い う 視 点 と 、 天 皇
と将軍をどう認識していたのかという視点の二方向から検討を行った。
そ の 結 果 、 個 々 の 文 脈 か ら 「 国 王 」 が 示す 対 象 と 、 ザ ビ エ ル の 認 識 上 の 「 国 王 」 の 対 象
は 区 別 して 考 え る 必 要 の あ る こ と を 明 ら か に し た 。 「 国 王 」 の 該 当 者 と い う 視 点 に 立 っ た
場 合 、 第 一 節で 検 証 し た 通 り 、 来 日 後 か ら 入 京 ま で の 「 国 王 」 は 将 軍 を 指 して い た 。 し か
し 、こ の 時 の 情 報 を ザ ビ エ ルは 将 軍 独 自 の 権 限と して 把 握 して いな か っ た 。 ザ ビ エ ル は 来
日 前 か ら 入 京 ま で 一 貫 し て ニ コ ラ オ ・ラ ン チ ロ ッ ト の 日 本 報 告 か ら の 「 国 王 」 情 報 を 踏 襲
し、天皇と将軍両者を「国王」と認識していたのである。
さ ら に ザ ビ エ ル は 天 皇 と 将 軍 を 「 国 王 」 と 認 識す る も の の 、 両 者 を 対 等と は 理 解 せ ず 、
将軍 は 天皇 から全責任 を委ねられ た 存在と の 認識をも って いた。そ のため、書 翰に 記され
て い る 内 容 自 体 は 将 軍 の こ と を 指 す も ので も 、 ザ ビ エ ル の 認 識 の 上 で は 天 皇 か ら 全 責 任 を
委 ね ら れ た 将 軍 の 情 報 、 あ る い は 天皇 の 情 報 で あ っ た の で あ る 。 特 に 「 一 人 の 国王 」 と い
った場合天皇を指しており、将軍よりも天皇を重視していた。「絶対的な権能を所有して」
い る の は 天 皇 と の 理 解 だ っ た の で あ る 。 従 っ て 、 「 国 王 」 が 誰 を 指 す か と い う 点で は 将 軍
であっても、ザビエルの認識する「国王」は将軍のみを指すことにはならない。
以上の検討結果と前章で検討した権力者・国家認識を総合して、ザビエル布教期の権力者
認 識 に つ い て ま と め た い 。 ザ ビ エ ル は 、 天 皇 と 将 軍 を 「 日 本 国 王 」 と し た 統 一 国 家で あ る
と 理 解 して い た 。 両 者 の 関 係 は 最 高 の 「 国 王 」 を 天 皇 と し 、 そ の 全 責 任 を 委 ね ら れ た 「 国
王 」 が 将 軍 で あ る と い う も ので あ っ た 。こ の 認 識 は ザ ビ エ ル が 入 京 す る ま で 一 貫 し た も の
で あ っ た 。 し か し 、 入 京 して 天 皇 の 非 力 さ を 悟 り 、 当 該 期 の 実 力 者 は 大 名 と り わ け 大 内 義
隆 で あ っ た と の 認 識 に 至 る 。 宣 教 師 は こ の 時 点で 、 大 名 を 「 国 王 」 と 評 価 し 、 日 本 は 各 大
名 領 国 を 一 国 家と す る 複 数 の 国 家 で あ る と 理 解 し た 。こ れ が ザ ビ エ ル 布 教 期 の 日 本 の 権 力
者・国家理解である。
さて 、こ の よ う な ザ ビ エ ル 布 教 期 の 権 力 者 認 識 は 、 当 該 期 の 社 会 情 勢 と 合 致 す る ので あ
ろ う か 。 確 か に 当 時 の 情 勢 を 言 い 得て い る 部 分 も あ り 、 貴 重 な 情 報 も 少 な く な い が 、 正 確
さ と い う 点 で は 邦 文 史 料 よ り は 劣 って い る と 言 わ ざ る を 得 な い 。 特 に 来 日 以 前 の 宣 教 師 の
情 報 は 間 接 的 に 入 手 し た も ので 、 さ ら に そ れ を 西 洋 の 枠 組 み に 当 て は め た た め 大 き な 歪 み
が 生 じ た も の と 考 え ら れ る 。 し か し な が ら 、 重 要 な の は 、 宣 教 師 が そ の 時 点で こ の よ う に
認 識 し て い た と い う 事 実で あ る 。 何 故 宣 教 師 は そ の よ う に 認 識 し た の か 。 こ の 問 題 を 取 り
上 げ る こ と は 、 当 該 期 日 本 の 権 力 ・ 国 家 構 造 を 考え る 上 で 意 義 あ る こ と と 考え る 。 宣 教 師
の 権 力 者 ・ 国 家 認 識 の 変 遷 を 追う こ と に よ っ て 、 外 国 人 の 目 に は 日 本 の 国 家な い し 権 力 者
が ど の よ う に 映 っ た の か 、 そ して 中 近 世 移 行 過 程 を ど の よ う に 認 識 して い っ た の か が 読 み
取れるだろう。
本 章 で 注 目 す べ き 点 は 、 ザ ビ エ ル が 天 皇 と 将 軍 両 者 を 「 国 王 」 と 認 識 して い た こ と で 、
これはガスパル・ヴィレラが畿内布教を行う時も同様であった 。なぜ、宣教師は両者を「国
)
6
3
(
王 」 と 認 識 し た の か 。 ま た 、 今 後 そ れ ぞ れ を ど う い っ た 存 在 と して 捉 え て い く の か 。 こ の
点は、当該期の公武関係を考える上でも重要な論点であるといえよう。
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