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4章 人生第三毛作の演出 総合物流経営コンサル - a
いきいき ハツラツ わが人生は四毛作! 4章 人生第三毛作の演出 総合物流経営コンサルタント (前篇ー1) ① 新会社設立までのドキュメント(二話) 弁護士を立てて、退職金や株式売却額などの退社条件を話し合いました。三 十二年間にわたる私の功労は決して少なくありませんでしたので、応分の評価 を求めるのは当然だと考えました。 ちなみに、一株当たりの純資産評価額は原株価の二十数倍になってました。 何せ同族意識や私物化意識の強い交渉相手でしたので、(双方の)弁護士先生 もホトホ ト困った風情でした。後日のことですが、妥結までになんと半年間掛か ることになりました。その間は、私にとっていささか難儀でした。新会社設立資金 はおろ か、準備資金も充分でなかったのです。 何せこの私は蓄財には長けてませんでした。私物化することに罪意識さえ持 っていたものです。非計画的な決断で、会社と家庭を捨てて出たものですから、 何の用意もしていませんでした。 株式の譲渡価格や退職金など、退社条件を交渉する一方で、肝心の私自身 は正直言って、先の見通しなんて具体的にはありませんでした。「お家騒動」の 延長線上で、いさぎよく「わが身を引いた」カッコウでしたから、計画性なんて何 にもなかったのです。ないナイ尽くしでした。冒頭に述べたように、もともと私の 人生は「非計画的」でしたから…。 ( 一話) 新会社設立趣意書は小論文・社名は合成英語名 とは言いましても、理想だけはあっという間に「構築」しました。曰く、『新会社 設立趣意書 総合物流・経営コンサルタント事業へ転換を決意した私の動機と目 的…』がそれでした。四百字詰め原稿用紙に八十四枚、小論文、といった感じの 趣意書。自分自身の頭を整理するために書いたようなもの。有言実行ってな気 持ちもありました。 傑作だった、と今にして思うことは新会社の社名『ロジタント』(Logitant)。こと さら、今ハヤリのカタカナ社名を狙った分けではありません。これにはちゃんとし たコンセプトがあるのです。 コンサルタントを目指した私の意図の原点は、お世話になったトラック運送業 界へ何らかの形で「恩返し」することにありました。 そこで思いついたのが自称、「総合物流・経営コンサルタント」。最初は荷主業 界とトラック運送業界のはざまにあって、コーディネーター的役割をしてみたい な、と思いました。 社名の基盤は「ロジスティクス(LOGISTICS)。英語の Logistics(ロジステック ス・後方支援)広義の意味で「物流」と称します。本来は「兵站(へいたん)学 (術)」という軍隊用語。輸送・補給・宿営に関する兵学の一部門です。 「かの湾岸戦争を勝利に導いたのがロジスティクスだ」と、『山動く』の著者・ W.G.パゴ二ス現役・陸軍中将(当時)は著しています。十三万台の車両と燃料 と、五十万人の将兵を運び、食べさせ、住まわせ、安全に帰還させた「後方支 援」がロジスティクスです。 そこで思いついたのは、「ロジスティクスのコンサルタント」、すなわち、 Logistics Consultant の「合成語」を思いつきました。 当初のネイミングの語源はそうだったのですが、その後しばらくして、もう一つ の語源を思いついたのでした。「Logic consultant(正しい論理のコンサルタント)」 です。コジつけでないのがミソ。必然の理ってなものと自らが言い聞かせてご満 悦です。 元来私は、理論家経営者を目指しました。帝王学の『原理原則をわきまえて行 動する』がその原点。悪く言えば「理屈っぽい」、良く言えば「理路整然」ってなこ とになるでしょう。事実、書いたり喋ったりするには、後者の能力が求められま す。 『成功は常識の積み重ねなり』は現在に至る私のオリジナル格言。青春時代 に培った「発明克己心」も、それから出ていると思います。 さて、話は前後しますが、社名を含めて、新規事業への構想を纏める前から、 アクションを起こしました。その第一歩は、しかるべき所へ「本社事務所」を設け ることでした。 ( 二話) 新会社事務所は無理しても市内中央へ 一匹狼のコンサルタントですので、自宅を事務所にすればイイことだし、一番 安上がりなことは百も承知でした。SOHO(Small Office Home Office)で す。当 初、くだんの同居カノジョもそれを勧めました。にもかかわらず、中央へ出たかっ たのです。柄にもなくか、どうかは別にして、とにかく市内のど真ん中 に自分の 「城」を持ちたかったのです。それもわが生まれ故郷の大手町が第一希望。いま さら故郷へ錦を飾るってなことでもないくせに、帰省本能でしょうか。 新会社本社事務所予定地は、結果的に千田町になりました。奇しくも、私が被 爆した広島電鉄本社の近くです。更に奇縁なことは、(前述しましたが)当時の場 所 に建っている現在の広島電鉄本社ビルの一角に、新会社の取引銀行である 広島銀行大手町支店の出張所がありました。私が被爆した職場事務所だった所 にデス。 キャッシングに行くたびに、当時を思い出したものです。 かくして決めた新会社本社事務所で、一九九三(平成五)年五月、退社条件交 渉妥結の約五カ月前のことでした。 迂闊にも、新会社設立資金は持ち合わせず、全ては弁護士先生の交渉結果 待ちってな状態だったのです。 三歳下の実弟が気をきかして会社設立「軍資金」をポイと貸してくれました。学 生時代に兄貴に世話になったお礼にと思ってくれたのでしょう。長男のボクは当 時、働きながら定時制高校通い、大学進学も断念。その代わりにせめて弟は、 の思いで神戸の大学へ資金送りし、結婚も先にした(させた)弟でした。 彼は英語力を武器にアブダビ石油で活躍し、現在は多くの孫たちに囲まれて、 悠々自適の生活。兄貴の私は当時満七十四歳にして現役並みの働き蜂。われ ら兄弟の生き様二態は、高齢社会の生き方サンプルたり得るでしょう。 コンサルタントは中央に事務所を構えてこそ情報を収集することが出来るの だ、と資力もないまま、イイ気なものでした。電話、ファクス、コピー器、空調器、 - 45 - テレビ、オーディオ、書棚などの最低必需品は揃えました。ワープロは? パソ コンは? と、これらは後日の話の種です。 弁護士先生同士の交渉が長引く様を横目に、暗中模索のコンサルタント業へ 転身。その中で、一つのことを頭に描いていました。 ② 新会社の処女作活動は 『個人トラック制度導入への提言』論文執筆 前職時 代の「個人トラック制度は是か非か?」の肯定版 書くことがまんざら嫌いではなかった私は、前職現役中に幾つかの論文を書 きました。懸賞論文受賞作品も幾つかありました。 新 会社設立により経営コンサルタントに転身した私には当面取り組むべき一 つのテーマがありました。前職時代に業界紙に連載で発表した論文「個人トラッ ク制度は是か非か?」がそれ。実は、この論文の趣旨を「積極的な論調」で再現 する「改訂版」の論文執筆を考えついたのです。これを経営コンサルタントとして の「処女作的事業」と位置付けました。 『個人トラック』ってなあに? という声が聞こえてきそうです。一寸ばかり専門的 になって恐縮ですが、一般大衆の方々にもまんざら無縁ではないことですの で、ちょっとご関心を頂戴したいと思います。 トラック運送業界の「規制」の一つに、『最低車両数規制』というものがありま す。トラック運送免許(現在は許可)を取得する際に『最低必要保有台数』を確保 することが条件の一つ。人口規模に応じて「五両、七両、十両以上」と決められて います。 物流先進諸国の欧米ではこんなものはありません。「開業の自由化」は日本 よりずっと進んでいるからです。「一匹狼の個人トラック業」が認められているの です。英語では「Owner-Operator」と言いますが、日本には認められていない制 度です。 前職時代から私は、これに目を付けていました。一九九〇(平成二)年五月、 この制度を業界に示して、その是非を問いかける論文を発表したのです。ある 業界紙に十一回連載されました。『個人トラック制度は是か非か?』がその論題 でした。 現役時代でしたので、運輸省や業界(トラック協会)へのインパクトを気にし て、若干遠慮もありましたので、柔らかく、中立的な表現を選んだものでした。 「是か非か?」がその論調を想像させるでしょう。 面白いことは、当時の中国運輸局長さん(故人)が、『面白そうですね。書いて みなさいよ』と励ましてくれたものでした。後年この私の提言が物議をかもすこと になるのですが、それは後の項に譲るとして先にすすみます。 当時、業界紙にしばしば取材記事で出た私でした。異色の多角経営者ってイメ ージもあったからでしょう。「論客」ってなことで、よく意見を求められたりしたもの です。とりわけ規制緩和に関する私見は大胆でした。 肝心の十一回連載で掲載された論文は、当初、大きな波紋を呼びませんでし た。拙論があまりにも時代の先取りをしていたからでしょう。規制の中で安住す ることになれているニッポン人にとって、既定路線を覆すような提言には関心を 見せない、という一面もあるからです。 さて、前職のトラック運送会社から引退し、新会社を設立してフリーになった私 - 46 - が思いついた「処女作」活動があります。それは「個人トラック制度導入への提 言」と題する規制緩和提言論文を堂々と発表すること。前職時代に発表した「個 人トラック制度は是か非か?」の改訂版、肯定版の論文寄稿です。 具体的には、「前回の論文を提言方式に改めること。そしてその論文発表と同 時に米ック取材旅行を実施し、その体験論文を後日発表する」という企画です。 前者の論文は『個人トラック制度導入への提言』明らかに、提言調に全面改著 することでした。かくして、新会社の処女作的仕事としてその執筆作業に入りまし た。四百字詰め原稿用紙に」手書きで、一三五枚、字数にして約五万語になりま した。 退社条件の弁護士交渉を継続する中での執筆活動でしたが、かれこれ二カ 月かかりました。その原稿を見て感無量の思いが去来します。原稿用紙による 執筆活動がそれをもって、事実上最後になりました。後述するワープロを導入し たからです。 後日のことですが、延べ八回連載に及んだその論文は、毎たび、全面ぶち抜 きでした。第一回の掲載を会社設立日に焦点を合わせました。それに先だって、 同紙は囲み写真記事で私の「新会社設立」をカッコ良く紹介してくれました。ちょ っぴり手のこんだ幕開けを演じたのです。 ③ 退社挨拶状&新会社設立挨拶状 延べ五千通を一週間の間を置いて発送 退社示談金交渉が大詰めになるに従って、設立登記関連の書類づくりや、二 種類の挨拶状づくりに着手しました。 前職在任期間中の三十数年間に、各界各層の方々から頂いたお名刺は三万 数千枚。余りにも突然の「転身」ですので、さぞかし多くの方々が「?!」と思わ れるに 違いない、と思いました。公職も多く持たされていた私でしたので、他業 界の人脈も多くありました。それだけに、この方々だけには是非ともご挨拶をし ておか なくっては、と選んだ方々は約二千五百人でした。 実はそのご挨拶状は、二種類のものを用意したのです。「退社挨拶状」と「新 会社設立挨拶状」でした。前者は二つ折り、後者はその一週間後の発送予定の もので、三つ折り封書でした。それぞれの書状に私の心情を表現しました。 二種類の封書を並べて、表書きを同時にしました。一週間の間隔を置いて投 函するために、片手落ちのないよう、正確を期すためでした。その数、実に延べ 五千通。表書きは下手くそでも毛筆で書きました。 こうした「演出」にはワケがありました。「吉田の美学」と言ったらキザかも知れ ませんが、名実共にわが人生への成果と、新たな選択を有言実行で表現したか ったのです。 あるマスコミがその二つの書状を評価して書いてくれた記事が心に残ります。 私の人生にとって劇的とも言える、第二人生との決別。第三人生への転身で したの で、その時の私の心情を挨拶状の文面に凝縮したのです。本稿初期原稿では、 その二つの挨拶状を挿入したものでした。 ④ 示談交渉妥結・会社設立登記完了! - 47 - 示談交渉の最終期日を平成五年九月三十日と定めて、弁護士先生にご尽力 願っていたのですが、期日ギリギリのその日をもって「示談成立」しました。待望 のお金が入ったのです! 待ってました! とばかり、資本金一千万円を振り込 みました。広島銀行は私の生まれ故郷の大手町支店です。同時に、定款認証手 続きなど 一連の設立登記作業も待ち構えたように実行しました。あらかじめ表 書きを終えていた二種類の挨拶状の内、『退社のご挨拶状』を投函したのはそ の翌日でし た。 あらかじめ日取りを頭に入れていた「十月七日大安吉日」を選んで、設立登記 のすべてを無事完了。示し合わせたように、その三日前の十月四日、業界紙 が、私の「転身情報」と「新会社設立計画」を囲み写真記事で大きく報道してくれ ました。 『個人トラック制度導入への提言』論文の連載第一号が、設立日の十月七日 号だったのです。此処でも吉田流(?)の演出が発揮されました。 もう一つの挨拶状『新会社設立のご案内』は、設立翌日八日に投函。第一報 から丁度一週間の間を置いての発送でした。こうした二段構えの波状的な挨拶 状の発送には、私なりのしたたかな計算がありました。『何故、吉田さんは退社 したの? また何かやるの?』といった印象を持って頂くことが第一報。その感 触が乾か ない間を置いて、『やっぱり吉田さんはやった!』と思って頂くのが第 二報の「効果」でした。 余りにも突拍子な退社(引退)だったものですから、それなりの「事情説明」 を、しかも印象的にしておいた方がイイだろうというのがホンネ。これも私の美 学だったのかも知れません。ともあれ、ここまでのシナリオを設定して、その通り に実行したのは確かに一つのドラマを演出したみたいでした。 ⑤ 訪米を前にした幾つかの準備 訪米計画を前に、心がけた幾つか準備がありました。 両足に補装具を着けたことから、半世紀にわたって片時も離さなかった(せな かった)ステッキを渡米中は使わない! と密かに決心。そんために、早朝の団 地内 ウォーキング、それもステッキ無しで、かれこれ一年間やり通しました。最 大で五キロメートルも歩きました。わが人生で初めての体験です。一歩一歩を踏 みしめながら、「神さま、歩く力を与えてください!」と祈りながら―。 『個人トラック制度導入への提言』論文を寄稿し、米国取材体験記の執筆寄稿 を新聞社に約束をした私は、具体的な準備に入りました。 話は前後しますが、その一年前の一九九二年十月、ある得難い機会がありま した。訪米への「足掛かり」に繋がった出来事でした。 全日本トラック協会主催(京都会場)の『日米トラック運送事業環境問題シンポ ジウム』に参加したのです。「環境」そのものへの関心より、米国側のパネリスト の顔ぶれに関心がありました。長年にわたり全ト協の委員を務めていたゆえの 機会でした。 米国運輸省運輸規則部副部長のロバート・サーバー氏、米国環境保護庁製造 業(自動車)担当部長のチャールズ・フリード氏、それに米国トラック協会環境部 長(いずれも当時)のアレン・シェーファー氏の三人が、目指す人物でした。 - 48 - シンポジウム後のパーティーで、話し掛ける機会を狙いました。前述した米国 のフランチャイズ事業(ジーバート自動車防錆処理事業)の広島県フランチャイ ザーであったことから、その事業知名度などを、この目と耳で確かめることを目 的の一つにしていたのです。 抜け目なくアプローチして、語りかけました。嬉しかったことは、その三人と も、即座に『Oh, Ziebart!』と反応したことでした。政府高官が知っているのだから というのが、当時の私の自負心をくすぐりました。 そのこと自体は別段、当時の時点でどうでもよいことになったのですが、その 三人の中で米国トラック協会(ATA)シェーファーさんとの出会いが、その一年後 に大きな手助けになりました。よもや、そのシェーファーさんが一年後の私の米 国取材旅行の良き「足掛かり」の役割りをしてくれる人物になってくれること は、 思いもよらなかったというのが、実感でした。 新会社設立数カ月前から同氏と文通を始めました。よく覚えてくれてました。 何百人のシンポジュウム出席者の中で、英語で話し掛けた稀有なニッポン人、し かも ステッキを持った足の不自由な参加者でしたから印象深かったのでしょう。 存在感を相手に与える意味では、私のハンディーは有利です。 彼に米国取材旅行計画を伝えたら、凄く喜んでくれ、ファックス交信が始まりま した。ちなみに、当時はまだEメールはありませんでした。ともあれ、頼って行け る所(人物)が出来たのす。これでひとまず渡米計画の足掛かりがOKとなりまし た。 さて、私の米国単身取材旅行計画には、膝元から反対者がありました。私が 当時同居していたカノジョの姉婿です。大手自動車メーカーの首脳の一人で、以 前同社の米国工場の副社長を務めた人物です。 その彼が、私の「単独米国取材旅行三十三日間」なる計画を指して言いまし た。『そりゃあ無茶だ。一週間ぐらいで切り上げて帰りなさいよ! 無謀だ! 米 国一人旅をそんなに甘く考えるべきでないよ…』とまで助言してくれました。 もっとも、そうした彼の言葉は私の不自由な身体を気づかってのことだったこ ともあったと思います。無理もありません。 私が予約までしたレンタカーがありました。当時はフォード・トーラス車が私の 愛車。レンタカー会社のハーツ社に、同じトーラス車をデトロイト空港へ用意する よう手配していたのです。無謀にも、と今度は私の反省でしたが、「単独米国大 陸横断ドライブ旅行」を頭に描いていたのです。その目的は、道中各地のトラッ ク・ステーション(米国ではトラック・ストップ)で取材することだったのです。しか し、これだけは無条件で義兄の助言を受けてキャンセルしました。 このことを除いて、すべて予定通り、私は計画断行を決意しました。一九九三 年十月十八日(成田発)がその出発予定日。同義0兄が、それでは、と言って手 配してくれたのが、自動車メーカーの米国工場と取引関係の運送業者でした。後 輩の同社副社長を始め、昔の部下数名に連絡して三日間だけの面倒見を頼ん でくれました。 離日前に立てた米国滞在計画は、それが唯一のスケジュール。その後は、か の米国トラック協会(ATA)のシェーファー氏を頼って、後はケセラセラ。無謀と言 えば確かにそうでした。当の本人はケロっとしたものでした。楽天家の私ではあ りましたが、何と言っても、英語に自信があったからです。 三十三日間滞在中に、只の一度もトラブルに出くわすことなく、無事初期の目 - 49 - 的を終えて帰国したのは後日の物語です。 ⑥米国三十三日間・オーナー・オペレーター・システム(個人トラック制度) 単身取材旅行体験記(十八話) 一九九三年十月十八日(月)、成田発ノースウェスト機で単身飛び立ちました。 くだんの拙著「個人トラック制度導入への提言」の第一回の掲載を見届けてでし た。八回シリーズになったその寄稿論文、何と「全面ぶち抜き」。同紙始まって以 来のことと、後日知りました。読者へのインパクトは強烈でした。後述します が、 それが縁で数年後にクライアントが誕生しました。 翌年正月のハワイ家族旅行(カノジョと娘)を含め、三十二日間に及んだ米国 取材旅行でしたが、帰国後、その体験記を書きました。業界で造詣の深い、ある 大学の教授が、その拙著寄稿論文(十五回連載)を評して業業界紙に書かれた 言葉を冒頭に記しておきましょう。 『本紙で吉田祐起さんが書いておられたアメリカのオーナー・オペレーターに ついての連載を興味深く読んでいまして、納得はしておりました。もっとも、吉田 さんの連載は人との関係とか都市だとかが極めて面白く、すぐれた紀行文を楽 しむような読み方をしてしまいましたので、なにか文化人類学的な興味のほうに いってしまったと反省しております…』 同教授は私へのお手紙で、『…楽しく読ませていただいております。単にオー ナー・オペレーターの調査報告ではなく、一人の男の青春物語だと思います …』 この取材体験記は、写真も含めば結構一冊の単行本にもなるほどのボリュー ム。十八話からなるのですが、紙面の都合で大幅に短縮します。 (一話)渡米直後の情報収集はタクシー・オペレーター 現地での英語ヒヤリングの難しさは覚悟していたものの、実態は予想以上。特 にタクシー・オペレーターとの会話(ヒヤリング)には、ことのほか難儀しました。 行き先ぐらいを告げるのでしたら、相手もその気で話しかけてきませんが、私の 場合は乗った途端に、取材の目的でいきなり、「失礼ですが、お宅はオーナーオ ペレーター(日本式に言えば個人タクシー)ですか?」とか、「トラック業界のオー ナー・オペレーター・システムを勉強しに日本からやってきました…」とやったも のですから、当方の英語力は本場仕込みだろうと思ってか、矢継ぎ早に沢山の 言葉が跳ね返ってきました。 「あなたは私より上手に英語を喋れるのですね」と言いながら、本気で平素思 っていることなどを喋りはじめたのにはちょっと、参りました。 ほとんどのタクシーは車を会社からリースし、諸経費を自己負担する事実上 の個人タクシー(個タク)。印象的だったことは、タクシー・オペレーターは概して 黒人や異民族で、白人のオペレーターはほとんど出会いませんでした。収入も 極めて低く、最低賃金にも満たないとぼやいていました。 (二話)自動車メッカ・デトロイト市で得た最初の貴重な書籍 私が最初にアメリカの土地を踏んだのは、一九八八年六月で、同じデトロイト - 50 - 空港。義兄が手配してくれていた自働車メーカーの日本人スタッフ三人が出迎え てく れました。同社のフラットロック工場へ直行し、義兄の後任社長(日本人)と 懇談したあとに、案内してもらったのが五年前に行ったことのある「ジーバート自 動車防錆処理事業」のフランチャイズ本部。五年ぶりに再会したハートマン会長 が、しげしげと私の姿と顔を見ながら言いました。「以前よりずっと若くて幸せ そ うですね…」と、不思議そうな表情。 正直言って嬉しかったです。『両足の補装具のお陰で姿勢も良くなって、以前 よりずっと歩けるようになったし、それに若いカノジョと一緒だから…』と、言った ら、心底から喜んでくれました。 三日目に、ある世界的大手運送会社の営業所に連れていってもらいました。 あらかじめ私の目的が伝えられていたことから、五、六人のスタッフが会議室で 待って いてくれました。気楽な気持ちで取材する考えだった私は、正直言って 少し緊張しました。会議形式の取材に応じる体制で迎えてくれたからです。 「オーナー・オペレーター」の実態論議に入ってしばらくすると、一人の重役さ んが自室に戻って持ち出してきた部厚い書籍。『これ進呈しますよ』と私の手に 渡してくれた表紙をみると、『Management of Owner-Operator Fleets』 (オーナ ー・オペレーターの管理)著者はデイヴィッド・マイスターハーヴァード大学助教 授・一九八〇年。オーナー・オペレーター・システムに関する宝庫と も言える書 籍との出会いでした。帰国後に同助教授との接触を試みましたが、その数年前 に肺がんで死去されたという情報が入りました。 (三話)五年前の訪米機中で知り合った米人と感激の再会 同 じ日の晩、抱き合って再会を喜び合った米人がいました。五年前の私の最 初の渡米(一九八八年)の際、羽田空港発デトロイト行きノースウェスト機内で、 偶然、私の前の席にいたマシューさんという米人技師です。その彼と再会したの です。当時、機内で大いに語り合い、写真もパチパチ撮った人で、住所をメモっ て いたのです。何時か再会をと言って別れた人でした。五年間の空白も、その 気になれば郵便で交流できたものですが、それっきりになっていました。今では E メールで簡単に交流できますが、当時は先進国米国でも未踏の通信手段だ ったのです。 彼に電話したら、びっくり仰天してホテルへ飛んできました。彼とはくだんの会 社のスタッフ連中と合流して食事を一緒しました。二人きりになった時、彼が今度 は俺が奢るからと言って、バーで飲みながらの人生談義、午前一時を過ぎまし た。その時に、彼がしみじみした口調で語った言葉があります。気に入り、私が メ モしたものがあるのです。『 We all have burdens to bear. It's not so much the burdens that counts, but the way you bear it."(人間誰しも何がしかの重荷を負う ものだが、大事なことはその重みの大小でなく、それを如何に受け止めて生き ていくかにある)』別れる時はハギングしながら涙が出ました。 その彼が、翌年、私の誕生日に電話を掛けてきました。ちょうど、ある運送会 社の社長が来訪され、同社で結成された労組のことで相談を受けていたところ でした。数分間の電話歓談でしたが、同社長が何とも不思議そうな顔をして私の 英語電話の様子を見ておられたのが想い出です。彼との出会いのエピソードを 手短に話したら、別世界のような…と。 - 51 - ( 四話) A T A のシェーファーさんと再会・一人旅のスタート 前出のATAのシェーファーさんを、その本部に訪ねました。首都ワシントンの 近郊のヴァージニア。京都以来の再会です。あった途端、日本流に深くお辞儀し て、「こんにちわ!」 同氏があらかじめ用意してプリントしてくれていた日程表に添って行動。主要 ポストの人物たちとデスクを挟んでの対談取材が始まりました。 図書館担当の女性チーフが、あらかじめ用意していた分厚い書物のコピーをく れました。ある米人作家が書いたインデペンデント・トラッカー(オーナーオペレ ーターの別名)の「同乗体験記」で、彼女は、『ユウキがしようとしているのに似 てますね…』 延べにして一週間はATAに出入りした私でしたが、同女史曰く、『今までに多く の日本人業者の視察団が来たけど、一時間くらいの「ブリーフィング」(概況説 明)を聞いたら、そそくさと帰っていく。ユウキみたいに長時間、何日もこうして取 材する人は珍しいデス』 シェーファーさんが資料を見せて、もし良かったらと誘ってくれたのが『1993 ATA Management Conference & Exhibition』 (一九九三年度ATA経営セミナー・ 展示会)でした。総会も含めた恒例の年次大会で、各種セミナーや関連商品の 展示会です。参加者は二千人という大イベン ト。願ってもないことと、直ぐさま飛 びつきました。それではと、シェーファーさんの鶴のひと声で、参加料(三百ド ル)は無料で申し込みました。 二日目のATA取材では、そのためにと待っていてくれた人物がいました。オ ーナーオペレーターで身を起こして、かなりの規模に育て、現在は経営コンサル タントでのんびりやっている人。何だかこの辺りは私の人生に似たものがあるお 方です。 後日のことですが、最終訪問地のロサンゼルスで再会し、邸宅を訪問した時 にお会いした彼の奥さんは植物人間の病の床。フィリピン女医さんを月二千ドル で住み 込ませていました。その翌年発生したロサンゼルス大地震の際に、同 家は大破し、修復したが、家内は死んだ、と書き送ってきました。 ( 五話) 第一週のウイーク・エンドを効率よく過ごす ホテルで予約していた観光バスに乗りそこね、慌ててタクシーを飛ばして次の スポットの首都ワシントン・ユニオン駅まで追いかけました。観光バスでは日本 人は私一人で、その他は白人客。かれたちは「お上りさん」かなと、話し掛けたら 殆どがヨーロッパの人たちでした。 洗礼された歯切れのイイ英語でガイドする黒人オペレーター氏に、運転席の 真後ろに席をとってよく話し掛けました。大学卒、貫祿充分ってな感じの巨漢。マ イクを片手に持ったままハンドルを握る姿を見て、ハンズフリー・マイクを使った 方が安全ではないの? と言ったら、「このほうが気合が入るから!」 日本では 考えられない光景も、自己責任の国なればこそ。 J.F.ケネディーも眠る、アーリントン・セメタリー(墓地)は、ことのほか印象 的。ケネディーの墓前で行われる儀仗兵の交替場面を観ようとする人たちで一 - 52 - 杯。戦争は罪悪ではあるものの、一旦国が決めたことなら、文句も言わずに戦 場に身を 挺して死んでいくことを辞さないのは彼らの国民性。そうした同胞たち の霊に対して、現代のアメリカ国民が示す敬意の姿には胸を打たれました。国 旗を掲揚したり、国歌を斉唱することすら文句を言う学校の先生がいるどこかの 国とはいささか異なる、って気がします。 ホテルの紹介で傭ったリムジン・ハイヤーのオペレーター君は、スペイン系 のジェイミーというハンサム青年。無論彼もオーナー・オペレーター。デラックス な 後部席でなく、助手席に陣取って、彼との会話を楽しみながらの観光。ちなみ に、白人のオペレーターに出会ったのはかれが初めて。さすが高額投資のリム ジン だけに、白人の職業分野と感じました。 かの『U.S. Capitol』(国会議事堂)はこの足で階段を上まで登って夜景を楽しみ ました。リンカーン・メモリアル・ホールでは、かの有名なリンカーンのゲティスイ バーグ演説の全文を壁面に観ました。『…The government of the people, by the people andfor the people shall not perish from the earth(…人民の、人民による、 人民のための…)』で終わる名演説。この名演説を、私は当時から毎朝の朝風 呂のバスタブに身を沈めて朗誦していたものです。 そばで見上げて読んでいた米人男性に、それとなく話し掛けて、そのことを言 いましたら、『それは凄い! 今の私はもう覚えてはいませんが、小学校時代に は覚えさせられたものです。現代っ子はそれがないのが残念です…』と言って 肩をシュリンクしました。もし、再度、訪れる機会を得たら、その壁面を背にして、 朗々と声高にやってみたいもの…と、年甲斐もなく思っています。 ( 六話) 満六十二歳の誕生日をニューヨーク市で迎える 首都ワシントン・ユニオン駅から、生まれて始めてのアメリカ大陸汽車の旅。J R駅のような、あの夥しい構内アナウンスメントはありません。何時の間にやら 発車。 窓に流れる紅葉の景色は格別で、情緒がありました。ビュッフェ車でサンドイ ッチを買うため並んでいたら、後ろから声が掛かかりました。GIカットの軍隊上 が りってな感じの男性。『ポリオの方ですね。私の父もそうなんです。あなたの カーに持って行ってあげますから…』と、自分の持ち物も全部持って、私のカー に 移動してきました。ペンジルヴェニアで降りるんだが、と話しに花が咲きまし た。 かの私のペンフレンドで米人ポリオ女性(アダム・スミスさん)を探しているん だが、と言うと、親父が「ポリオ障害者の会」に属しているから頼んでおきますよ と。今後の連絡のためにと名刺を差し出してくれました。 彼はシステム・エンジニアリング関係の会社の副社長。日本にも海兵隊で滞 在したことがあると懐かしんでくれました。出会った多くの「旅の道ずれ」の一人 でした。 明けて十月二十八日はニューヨークで迎える私の六十二歳誕生日。生涯忘れ がたい想い出の日になりました。わが愛誦の詩 Youth"(青春)『青春とは人生の ある期間をいうのではない、心の在り方をいう…』を英語で諳んじながら、ホテ ルの部屋で自己流の体操をみっちりやりました。心身共に爽快でした。 幸いなことに、同居カノジョの姉の知人がニューヨーク・トラベル会社社長(日 - 53 - 本人)で世話なりました。夜は豪華なディナーの招待に預かりました。お礼の気 持ちで、翌日、同社でお土産品をまとめ買いしました。 立ち寄って昼食をとったのが、ワールド・トレード・センター(世界貿易センタ ー)。初回のテロで爆破されたのは、その前年の一九九二年三月二十六日。六 人の死者と千人以上の負傷者、被害総額五億五千万ドルを出した事件後七カ月 でしたが、その痕跡や雰囲気は微塵もありませんでした。 そのとき、二〇〇一年九月十一日に発生した、飛行機テロで同じビルが崩壊 することを誰が想像したでしょう。 オードリー・ヘップバーン主演のアメリカ映画『ティファニーで朝食を』(一九六 一年)で有名になった『TIFFANY & CO.』で、スナップ写真をと、カメラを構えた瞬 間、前を通りかけた女性店員さんが、 Oh! no! "と遮りました。その瞬間フラッシ ュ!店内撮影はご法度とか。『あっ! すみません! 知らなかったものですか ら。どうしましょう?』とすかさず(英語で)誤ったら、 Oh, it's OK."と、肩をすくめ ながらウインクして許してくれました。カノジョと娘に買ったネックレスより、その 写真の方がはるかに希少価値になり、話題性が増えました。 ところで、ニューヨークから再び首都ワシントンのユニオン駅に降り立った時で す。かのスペイン系のリムジン・オペレーター・ジェイミー君にはあらかじめ、電 話して迎えを頼んでいました。 駅のホームを出てロビーを歩いていたら、一人の見知らぬ青年が私にさっと 歩み寄りました。瞬間ドキッ! しかも、いきなり Yuki!?と。こともあろうに、この ユニオン駅で俺さまの名前を呼んでくる人間がいるのか? 怪しいヤツ? と、 瞬間思っていると、彼が言いました。『私はジェイミーの従兄弟です。彼が急に来 れなくなったので、相棒のボクが来ました』。持ってたバッグを『お持ちします …』 多くの乗客が出入りする中でよく見つけたなと思ったのですが、これも私の足 のハンディーが目印。存在感はバツグン? かれらはいとこ同士の2人でチームを組んで、二十四時間サービス体制をとっ ている「チーム・オーナー・オペレーター」トラックでは、夫婦チームをその後、多 く見かけたものです。 『ジェイミーがあなたのことを凄く褒めてましたよ!』と言ってくれました。また ワシントンに来る機会があったら、ぜひ呼んでくれと言って、別れる時の言葉は 「God bless you!」(神の祝福を!)でした。 ヴァージニアのホテルへ帰った時、顔なじみの案内ガールに“Hello, I'm home!”(ただいま!)と言えば、 Oh, welcome home! "(ああ、お帰りなさい!) と。馴染み客づらを振りまいて、ご機嫌の私でした。 ( 七話)『一九九三年A T A 経営セミナー&展示会』( A T A 年次大会) に参加・二千人の人達との出会い ATAのシェーファーさんの好意に甘え、無料(と言っても宿泊費は自己負担) で参加することになった 1993 ATA Management Conference & Exhibition "の会 場は、フロリダ州オアランド市のマリオット・オアランド・ワールド・リゾート&コン ヴェンション・センター。何かの映画のロケにもなったとかでした。 その会場に向かうマイアミ空港で、乗り継ぎ時間が三時間あったので、待合室で 地図を広げました。その実、渡米第十八日目から向かう十五日間の旅行計画 - 54 - を、そこで練ることになったのです。ケセラ・セラの旅も、ここにきてようやく計画 が満パイになりました。定めたコースはフロリダ→ワシントンDC→ヴァージニア →テネシー→テキサス→アリゾナ→カルフォルニア→帰国でした。 後日のことになるのですが、この行き当たりばったり(?)の計画が、このAT A年次大会で知己を得た多くの人達のお陰で、つつがなく有意義な旅になった のです。 四日間のセミナーは豊富なメニューで一杯。約二千人のトラッカー達夫妻や、 トラック関連機器商品などの関係者で一杯。私にとっては、又とない人脈づくり と、情報収集のチャンス。胸がときめきました。事実、大変な成果を得たのです。 初日の会は、初参加者のためのパーティー。赤いリボンをネームカードにつけ たのが初参加者です。かれらが私のネームを覗き込むようにして『YU~U~KI ~』と声を掛けながら握手を求めてきました。 『日本からオーナー・オペレーター・システムを勉強に来たのです!』と言え ば、殆ど異口同音に、『うちの会社もオーナー・オペレーター達と契約しています よ』とか、『私自身もオーナー・オペレーターから創業したんですよ』という言葉が 跳ね返ってきたのは嬉しかったです。 会場は著名なホテルでしたが、日本料理店『ミカド』ってのが目に付き、嬉しく なって一人で入りました。テーブルに着いた途端、前後左右から声が掛かって来 ました。その人達が後日、各地で世話してくれることになったのです。 その一人に、筆頭副社長さんの肩書きを持つ人がいました。『私の会社はオ ーナー・オペレーターを利用したいのだが、チームスターズ・ユニオンが拒否す るんでね…』と、彼は残念そうでした。 再会を約束し合って別れた私は、興奮気味。嬉しさ余って、隣のバーへ入りま した。中年のすっごく魅力的なウエイトレスさんが、甲斐がいしく仕事をしている その真ん前のカウンターに陣取りました。スペイン系の美人です。 彼女を相手取って英会話の訓練をたくらみました。仕事を邪魔しないように、 上手に間をみては話し掛けると、彼女ものってきました。『ユウキさんみたいに 流暢でナチョラルな英語を話す日本人はめずらしい …』つい調子の乗って、高額 (?)のチップを弾んじゃいました。 Oh,no!と遠慮する彼女に、『You deserve it!』 (それだけのことはしてくれたんだから)と恰好イイこと言って…。当夜の人脈づ くりの成果に対する感謝の意を添えてというのが私の心情(?)でした。 ( 八話) 豊富なメニューの各種セミナー&講演会は情報の宝庫 年次大会初日の朝の「インターフェイス・サービス」に参加しました。取材者の 立場を意識して最後列に座りました。印象的でしたので、あえて紙面を割きま す。 英語の Interface は「(異種のものの間の)対話・連絡・意志疎通」を意味しま す。Service はこの場合、「礼拝」に似たものがあります。多民族合体の米国なら ではの、独特の意義を持つ集会であるでしょう。適正な日本語訳は責任が持て ませんので、読者にお任せした方がイイと思います。 教会の牧師先生でなく、“Give Kids The World” という名の会の会長スピーチ がありました。その会は、「子供たちに(ディズニーの)世界を与えよう」の会で、 不治の病にある子供たちに、「ミッキーマウ ス」に会う機会を与えるために設立 - 55 - された会。一九八六年以来、一万六千人の子供たちと、その家族にウォルトディ ズニー・ワールドへ行く夢を与えているのです。キリスト教文明に根ざしたアメリ カン・ヒューマニズムを彷彿させました。 同時進行で様々な協議会やパネルディスカッション、講演等々が、多くの部屋 で行われました。殆どのミーティング・ルームは満席。真剣な参加者の顔が印象 的でした。 首都ワシントンのホワイトハウスより衛星中継で、ファースト・レイディーのク リントン大統領ヒラリー夫人が、大会祝辞を兼ねて「健康医療制度の改革」と題 する講演をしました。この種の会合にファースト・レイディーを担ぎ出すATAもさ ることながら、応じる側もさすが、民主主義国ならではと感じました。 昼食会のスピーチが情熱的でした。『競争舞台における成功』の講演者はフラ ン・ケントンという人。フットボール界の殿堂入りキャリアを持つ伝説的な人物だ そうですが、当時の彼は、年商一億一千五百万ドルのコンピューター・ソフト会社 会長。現役時代のゲーム体験談を交えた話しぶりは名演説で、「Passion”(情 熱)」と題した教訓の神髄と理解しました。 会場ホテル内のくだんの日本料理店『ミカド』で、また人脈を得ました。後日テ ネシーでお世話になることになった人物とそのスタッフです。 “Specialized Carriers & Rigging Associations "(特装重量物運送事業者協会・略称SC&RA)の会長と専 務理事、常務理事の一行でした。ちなみに、日本通運さんもその会員です。 会長のメトラー氏は、かの「イスラエル・PLO暫定自治合意調印式」の折りに、 クリントン大統領に招かれて出席した一人だったそうです。 専務理事のプライマー氏は後日、私が探し求めているポリオ米人女性のア ン・アダムズさんの去就を掴んで教えてくれたのです。彼自身の実兄もポリオだ と聞かされました。 ATAの理事会は、私自身が多くの役職を持った経験から、興味をもって観まし た。大ホールの中央部分にコの字型の役員席。それを一般出席会員が取り巻く ような形の理事会。いわば、公開理事会です。 ロータリークラブやライオンズクラブでお馴染みの「ロバート議事規則」に則っ た会議の進め方を、本場アメリカで垣間見ました。議事進行や会議運営のやり 方はさすが、議会制民主主義の本場だけのことはあるな、と感じ入りました。 極めて中身の濃い分科会や講演会でしたが、主なテーマだけを列記しておき ましょう。 「高裁とセクシャル・ハラスメント」「ヘルス・ケアアメリカにおける新時代」「ヘル ス・ケアは権利か特権か」「管理された競争とは何か?」「国民は自身の医師 を 選ぶことが出来るようになるのか?」「労働と人材資源」「規制政策・国際貿易」 「安全・技術」「ハイウエー政策」「税務政策」「インターモーダリズムは チャンス か脅威か」「環境対策を怠ることの代償コスト」「従業員の補償詐欺行為」「税金チ ップス&トラップス」「安全譓蠇技術は利益を生む」「メディアの 扱い方」「ADA (アメリカ障害者差別禁止法)」ETC.以上のようなたくさんのテーマでしたが、そ の中から二つだけコメントします。 『インターモーダリズム』はトラック、鉄道、船、航空などの輸送形態「モード」を ミックスして効率を上げる「複合輸送システム」を意味します。形容詞は『インター モーダル』です。 - 56 - わが国は同じ意味で『モーダルシフト』という言葉を使っているのですが、これ が完全な「ジャングリッシュ(日本製英語)」であったことを始めて知りました。パ ネルディスカッションのパネリストに、日本では「Modal Shift」という言葉を使って いるのですが、と聞いてみましたら、首を傾げて肩をシュリンクしました。そんな 言葉は英語じゃあないですよ、といった感じだったのです。イヤハヤ …でした。 トラックでは効率が悪いから、鉄道や船など大量輸送機関へ「シフト」(転換) せよ、というのが運輸省の行政指導です。『転換せよ』、では被害者はトラック業 者です。乗ってくる筈はありっこないでしょう。『複合的にやれ(インターモーダル に)』と言えばイイものを、です。この問題を皮肉った論文も私は発表して いま す。 もう一つは、『税金チップス&トラップス』と題した税金対策の講演でした。 “Tips and Traps ”がそれですが、英語の語呂合わせが面白いのです。チップスは「税金のお みやげ」、トラップはその「落とし穴」の意味です。 IRS(Internal Revenue Service ・米国歳入庁で日本の国税庁に当たる)が仕掛 けたトラップスをうまく避けて通ったら、一九九四年度においては大きな節税が 出来る、といた内容でした。脱税に対する社会的な罪悪感はアメリカ的ですが、 節税意識はことの他強いとみました。 ( 九話) 宴たけなわの晩餐会で学んだこと 晩餐会の前のレセプションは、ロビーでグラスを片手にしながらの歓談です。 ギプス君のお陰で歩き回れるのが感激でした。気がついたら、黒人の人はほん の数名 だけ。米国のトラック業界は白人職場社会ってな感じ。ちなみに、後日 の資料で知ったことですが、トラックドライバーは八十%以上が白人です。 二千人の大会場は壮観でした。宴たけなわの真っ最中。ATAのチェアマン・ ロバート・ロバーソン氏が正面ステージに上がって挨拶を述べようとしたので す。ステージ両サイドに設けられたジャイアント・スクリーンに、彼の姿がクロー ズアップされました。 「Good evening, Ladies and Gentlemen!」(皆さん、今晩 は!)と声を張り上げました。途端に、ステージ寄りの席の方からさっと静かにな りました。 ところが、後部の人達は依然としてザワザワ、ガヤガヤが止みません。議長 がやおら間を置きながら、笑みをたたえつつ、再度言いました。「 Now, ladies and gentlemen, once more, Good Evening!」 (さあ、皆さん!もう一度、今晩は!) その瞬間、全会場がシ~ンと一斉に静まり返り、全員の顔はステージに向け られました。静まった観衆もあっぱれですが、そうさせたチェアマンの間の取り 方や喋り方は更に鮮やかでした。 日本では考えられない光景です。ゲスト・スピーカーがしゃべっている時です ら、私語を口にするマナーの悪い日本人社会ですが、見習うべきマナーです。 次期チェアマンとその家族をステージに上げて紹介。家族全員を紹介するあ たりも含めて、考えさせられました。 その後引き続いて宴も佳境に入り、アトラクションのカンツリー・ソングが始ま る前になって始めて、別室で待機していた子供達の入場が許されました。アトラ クションを観る観衆は、子供たちも含めてマナーが実によく、「文化の差」を感じ - 57 - ました。 ( 十話) 最終日はコリン・パウエル将軍の講演& ランチオンで探し求めていた人物との出会い 朝食後の「会員総会」後の記念講演は、かの湾岸戦争で名を馳せたコリン・パ ウエル将軍(後の国務長官)。あたかも同将軍を歓迎するかのような、直前のセ レモ ニーが鮮やかでした。陸・海・空三軍の旗手が、マーチに合わせて整然と ステージに進みました。その間、全員起立で彼らの動きに、身体と視線を向けて 敬意を 表しました。 米国国歌が斉唱されるあたりは、厳粛そのもの。日本人の私も身が引き締ま るのを禁じ得ませんでした。覚えている歌の一つですので、私も大きな声を張り 上げて歌いました。 米国国防長官、参謀議長などの要職にあったパウエル将軍にとって、一九九 三年九月の引退以来、始めての公的出場だったそうです。日本人としては私が 始めてになりました。演題は『危機と変化における経営』。米国国家とトラック業 界が直面するチャレン ジング時代に対する鋭い洞察と、受け止めました。魅力的表現が随所に、かつ 人柄を感じさせる内容であり、洗礼された演出を垣間見ました。約三十分間の質 疑応答に応じ、その都度丁寧に答える将軍の姿は何とも頼もしいものがありまし た。 『大統領の声もありますが…』の質問が飛び出す中で、将軍の応答ぶりはソ ツがありませんでした。しかし、その内容は下手に解釈することはしない方がイ イでしょう。 将軍が退席する時、全員が一斉に起立して、万雷の拍手を送る姿も実にすが すがしかったです。国際人たらんと願うわれら日本人にとって、良い習慣とは分 かっても到底真似ることは出来ないだろうと感じます。 さて、最終日のもう一つの(私にとっての)ハイライトがあります。“Landstar System, Inc.”(ランドスター・システム株式会社)の経営者への接触でした。前に もちょっと出た会社で、大会日程中、会って話す人達に、もし同社の人に出会っ たら私のことを知らせて欲しい、私が会いたがっていることを伝えてほしいと頼 んでいたのです。 私の関心事は、同社が全米随一の大量のオーナー・オペレーター群を「下請 け契約」で傘下に擁していること。ニューヨーク株式市場でベスト五にある超優 秀企業です。 ちなみに、私が得ていた離日直前までの情報は、自社トラックは皆無、傘下の オーナー・オペレーターは約七千人ということでした。三年後では、その数実に、 九千人を突破していました。 最終日の昼食会で、早めに席について、隣の人と話していると、ハンサムな若 いジェントルマンが名刺を差し出しながら、す~と私の隣に座りました。『Brian C. Kinsey, Vice President, Landstar System, Inc.』(ランドスター社・副社長/ブライア ンC・キンゼイ氏)でした! 瞬間、私の胸を横切ったのは、『エッ! こんな若い人があの大会社の副社 長?』。こちらがものを言おうとしたら、彼が笑いながら言ったのです。 - 58 - 『大会中、多くの友人が私のところへ来て言うのには、足の不自由な日本人が 私を探していると。あんまり多くの者が言うので、最初は冗談でかつがれている んじゃあないかな、と思ったのですが、本当だったのですね。先程、貴方が会場 へ入って行かれる姿を見たものですから…』 『ああ、どんなに貴方に会いたかったやら! もう諦めかけていたのですよ。 最後の土壇場で会えるなんて!』と叫んだものでした。まるで恋人にでも言うよ うなセリフでした。すべての行事が終了する実に、十五、六分前の出来事だった のです。ドラマチックな出会いでした。 空港行きのシャトルの時間などで、お互いに時間を追われる身でしたので、 多くを語る間もなく、息せき切った会話でした。後日資料は送るけど、と前置きし て話 してくれたことには興味がありました。自社系列のドライバー・トレイニン グ・スクールで営業ドライバー免許を取得させるとか、トラックはもとより、タイヤ や燃料など消耗備品の購入など財政的に便宜を与えている等々でした。 今後の交流を互いに続けようと約束して別れました。有終の美を飾る結果に なりました。帰国して暫くしたら、一連の資料が、彼からどっさりと届きました。 圧巻は、分厚い「Subcontractor Agreement(下請け契約書)」。契約社会にお ける業者間取引の在り方を彷彿とさせる内容です。何ごとも「阿吽の呼吸」で、そ れでいて、後から苦情や不満でトラブルといった日本の経済人が抱える不確実 性を前に、大変に参考になる資料です。 ちなみに、後年、ブライアン氏のことを、通算十年間以上購読した「Transport Tomics」誌で知りました。別の会社を設立して活躍していました。Eメールを送っ たらビックリしていました。 、 ( 十一話) ヴァージニアのS C&R協会でアン・アダムズ夫人死去の報に接す 再々度の登壇ですが、かのポリオの米人女性・アン・アダムズさん。彼女との 最初の文通は、私の第一人生時代にさかのぼります。若干重複しますが、余り にも思い出深い出会いですので、あえて再現します。 何時しか彼女は、フロリダ州はジャクソンヴィル市に移住していました。そこ は大会のあったオアランド市からは百マイルほどの距離でしたので、大会四日 間を通じて、ホテル関係者に頼んで探してもらったものでした。所在不明のま ま、後ろ髪を引かれる思いで同市を離れました。 再びヴァージニアのATA本部へ立ち戻り、SC&R協会を訪問しました。一連 の旅行手続きを頼んでいたかです。専務理事のプライマー氏の実兄もポリオだ ということから、彼にも探してもらう、と言ってくれていた人物です。 彼の部屋に入り、再会を喜ぶ間もなく、彼はあらかじめ用意していた私宛の文 書を無言でそっと手渡しました。彼はデスクに寄り掛かかり、腕組みして目を伏 せました。何事?と、その文書の文字に食い入るように目を通しました。 曰く、『…彼女アン・アダムズ夫人は一九九二年五月十一日フロリダ州ジャク ソンヴィルで死去。享年六十五歳。彼女が一九五〇年にポリオに罹ったという事 実を確認。彼女の子息・ケネス・V.アダムズ博士はジャクソンヴィル在住。電話 は…』 瞬間、私は天を仰ぐように頭を抱え、椅子にのけ反ってしまいました。涙がと めどなく溢れ出てどうしょうもない状態になりました。Oh, no! no!と絶句しました。 - 59 - プライマー氏が、二枚の新聞コピーをくれました。彼女が生前中にした社会活 動のありさまと、訃報を伝える写真付きの新聞記事でした。 思えば、熱心なカトリック教徒の彼女が、当時私に書き送ってくれた手紙に次 のような一節があります。 『…ベッ ドへ寝たっきりになった今の私は、元気であった時代の私より、過去 に出来なかったことを学んだり、読んだり、考えたりすることが出来るようになり ました。 このことは私にとって大きな感謝です。私は神さまがこのような環境を 通して、私に何かを成し遂げさすことを望んでおられると信じています …』 当時、彼女が送ってくれたジュラルミン製のステッキのことは前述しましたが、 半世紀にわたったボクの片腕の役を終えて、今では安らかに安置されていま す。彼女がそうであるように― 当時(一九五三年)彼女が送ってくれた写真もありました。ベッドに横たわる彼 女の側に立っていた可愛い坊やは「ケネス君」。しっかり名前を覚えています。 後日のことですが、その彼に電話を掛けました。無論私のことは知りませんで した。墓参りしたいのだが、と言ったらすごく丁重な言葉でお礼を言ってくれまし た。結局は彼のスケジュールの都合で実現しなかったのですが、何時の日か必 ず墓参するつもりです。 ( 十二話) チームスターズ・ユニオン本部へ乗り込む 再度首都ワシントンに舞い戻った私は、雨の中を顔なじみのタクシー君を伴っ て国際的規模の労働組合本部へ「乗り込み」ました。気負い込むわけではない のですが、チー ムスターズ・ユニオンと言えば「泣く子も黙る」巨大な労働組合。その創設者は米 国映画の主人公にもなりました。経営者にとっては、敬遠される場所ではあるで しょう。 一九〇三年に創設された国際的(アメリカ・カナダ)組織で、正確には、 「InternationalBrotherhood of Teamstars Union」「国際兄弟愛」が前につきます。 当初は、トラック運転手を中心に組織され、最盛期には百八十万人を擁した 由。一九八〇年、カーター大統領時代に実施されたトラック運輸事業の規制緩和 以来、組合員数が激減し、規制緩和後の八二年には約二十四万人に。現在は、 トラック運転手以外のスーパーマーケット店員、看護婦、警察官のメンバーもい るとのこと。 日本人で、しかも労働団体以外の「身分」で、この本部事務所に入った者も珍 しいだろうと思いながら、アポイントをとったマルガンさんという人物に会いまし た。名刺の肩書は「コミュニケーション・コーディネーター」。 『あなたみたいな目的で此処に来た日本人は始めてですヨ』と、デスクの前の 椅子を薦めてくれました。前もって用件を伝えていましたので、ズバリ本論に入 り、 『貴方はオーナー・オペレーター・システムの賛成者ですか?』と質問。彼の 答えは、『反対する、しないの論議じゃあないですよ。半世紀以上も前からある システムですから…』 彼がくれた同労組の『労働協約書』は、小さい字でビッシリ二百ページ。開い て見せてくれた個所が第二十二条第一節から第十八節、全十二ページにわたり Owner-Operators」の条文があるのには驚きました。 - 60 - 個人事業者であって労働組合と何の関係? と思ったら、これには理由(わ け)があるのです。若干専門的になりますが、現代の産業界で「契約社員」とか 「請負制社員」とかいった、いわゆる「生産性に見合う賃金の支払い」が重要視さ れてきていますので、皆さんもご関心は無きにしも非ずと思います。 オーナー・オペレーターの「身分」に関して、米国ではある種の論議がかつて ありました。前述のIRS(米国歳入庁)が税の徴収で目を付けたのが、オーナ ー・オペレーターを「騙る(かたる)」(と同庁が考える)個人事業者。 それを傭う側の元請け業者は、健康保険など厄介な社員並み負担を回避した いのもホンネです。当のオーナー・オペレーターの中には、変な話ですが、自身 の身分保全を図ってチームスターズに加入した時代があったとか。個人事業者 の「駆け込み寺」ってな感じがしなくもありません。言うなれば、『従業員的要素 のあるオーナー・オペレーター』に限っての労働協約条項と考えられます。それ にしても? と首を傾げるような、アメリカ的一面です。 おりしも、米国内はHAFTA(北米自由貿易協定)の是非を巡って大騒ぎ。チー ムスターズは、メキシコの低労働条件や車両整備不良の実態等を理由に、反対 の姿勢を取っているとか。PRビデオを一本くれました。 帰り際に壁に掲げた大きなコカ・コーラのポスターが目にとまりました。労組 が企業の宣伝を? と思ってよく見ると、曰く、“Beware Coca-Cola Classic greed” (用心せよ、コカ・コーラ 旧態依然の貪欲もの)です。「クラシック」には二つの意 味があるのです。同社が伝来の味を変えた新商品を発売した商品と、「昔のまま の味」の商品もあるそうですが、その「旧商品」と「旧態依然」の経営者側をもじっ たのがミソと判読しました。 玄関まで見送ってくれた彼が握手しながら、『貴方の目的が達成されるのを祈 ってますよ』と言ってくれました。 その晩、ホテルでシマッタ!と思わず呟いたことがあります。首都ワシントン にいながら、肝心の「米国運輸省」を訪問しそびれたこと。運輸省には一年前の 京都 でのシンポジュウムで、二人の幹部との人脈があったのに、と残念がった が手遅れでした。その翌朝は次の目的地テネシー州へ飛び立つことになってい たからでした。 ( 十三話) テネシー州のトラック・ストップで終日取材 テネシー州でも目的の一つは、米国トラック協会の元会長メトラ―氏に会うこ と。その二つは、全米にトラック・ストップ網を持つ、「Flying J, Inc.」(フライングJ 株式会社)の一つで終日取材すること。ATA年次大会で知った会社で、残りの訪 問先のテキサス、アリゾナ、カルフォルニアなど至る所にトラック・ストップを網羅 している大手業者です。 テネシー州と言えば私の愛唱歌『テネシー・ワルツ』の本場です。空港に降り 立ってスーツケースが出てくるのを待っていたら、後ろから肩をポンと叩いて『ハ ーイ! ユウキ!』と、メトラー氏。週末にもかかわらず、自身のクルマで迎えて くれました。正直言って嬉しかったデス。 彼の会社は“A. J. Metler Hualing & Rigging, Inc.。主力は重量物運送で、彼の実 父が創業者、彼自身は二代目で会長。長男のアンソニー君が三代目社長。ふ と、彼が身につけているカッコいい黒革メッシュのサスペンダーが目に付きまし - 61 - た。私自身もサスペンダー愛用者ですので、帰国するまでに買っておこう、と思 いました。 自 社のトラックは三百台、下請けのオーナー・オペレーターは二百台。休日 でがら~んとした会社のヤードをぐるっと回わり、その足で三箇所のトラック・ス トッ プを見せてくれ、翌日行く所の店長に紹介してくれ、翌日行く所の店長を紹 介してくれました。朝から晩まで滞在することに大変興味を示し、快諾してくれま し た。 ところで、滞米第二十一日目の早朝。同居のカノジョのジュンコ(淳子)が特に (?)と選んで用意してくれた紺色のトレーニング・ウエアに白のスニーカー。そ のトレーナーの胸には、かの著名なデザイナー「コシノ・ジュンコ」のデザインに よる「Mr. Junko」のメーム入り。 頭の方は、と言えばATAで貰った白のキャップ。正面には星条旗、その下に あしらったキャッチ・フレーズ曰く、「Without Trucks America Stops」(トラックがな ければアメリカの経済が止まる)。この「アメリカ」は米国の全てを意味する者。モ ノやヒトの流れはもとより、経済の全てが止まることを意味します。米国トラック 運送業界のビジネス・コンセプトが伺われると共に、ATAの素晴らしいリーダー シップを垣間見ました。 余談ですが、私が日本へ帰って、『米国取材体験論文』を執筆発表したずいぶ ん後になって、全日本トラック協会がそっくり真似して「 Without Trucks Japan Stops」を標語に掲げました。もっとも、帽子でなく、高速道路料金反対総決起大 会の時のハチマキ。日本的でした。 くだんのトラック・ストップへ乗り込んだのは午前八時。かの店長のところへ真 先に挨拶に行ったら、仕事が済んだら話しにいらっしゃい。彼の名前はチャーリ ー。 朝から晩まで、同じ店に陣取って取材、とあっては朝食もほどほどにし、片っ 端からドライバーをつかまえてインタビュー。カウボーイ姿、ヒゲもじゃら、巨漢と いったタイプの彼らを前に、う~ん、確かに勇気がいりました。名前がユウキだ から、それ行け!ってなものでした。 幾つかの質問を頭の中に用意して臨んだものですから、出足は極めて流暢 にやりました。と、相手がこの私をネイティヴ・スピーカーと思ったかどうか、ジャ ンジャンまくしたてて話してきました。一瞬戸惑いもしましたが、何とか初期の目 的は達成。 初老のドライバー氏とかなりの時間話した後で、始めて知ったのが、彼は奥さ んとチームでやってるということ。「細君は何処?」と聞くと、「トラックで寝ている んだ」。連れそって出ていくと、彼女は運転台でニコニコ顔で愛想を振りまいてく れました。 『チーム・オペレーター生活はどうです?』と問えば、“Oh, I love it !”(大好き よ!)と即座に跳ね返ってきたのが印象的でした。 オーナー・オペレーターたちを取材して感じた「共通点」がありました。彼らの 人生観そのものが違うのです。「I am my own boss.」(俺はオレ自身のボス、オレ は経営者だ)といった自負と、“Entrepreneurship”(起業家精神)の持ち主である、 という自負とを持っているのです。 オーナー・オペレーターたちに必ず聞いてみた質問の一つに、『カンパニー・ ドライバー(サラリーマン)の方が安定して気楽だと思うのが、今までにそれにな - 62 - りたいと思ったことがあるか?』この問いに対する彼らの答えは百%、「No!」もし くは、「Never!」(全然ない!)。 ところで、似た質問を、今度はカンパニー・ドライバーにしてみました。『あなた はかつて「オーナー・オペレーター」になりたいと思ったことがありますか?』殆 どの反応は『ああ、勿論あるとも…設備資金があれば、のことだがね…』 たった一人が即座に、「No!」 と答えました。年収五万ドルのチームスターズ労 組員。米国のカンパニー・ドライバーの平均年収が三万三千五百八十ドル(当 時)という中で、五万ドルは破格 の額です。かの強力な労働組合であるがゆえ の高収入なのです。それに安住した姿勢を垣間見ました。同労組の組合員数が 激減の傾向にあるのは、企業競争力失 墜を恐れる労使の対応の結果でしょう。 十 数時間の取材インタビューは十四、五名。いささか疲れて帰り際に、くだん の店長に挨拶かたがた話しにいきました。『オーナー・オペレーターとカンパニ ー・ ドライバーを比べてどう思います?』と聞くと、年配者にふさわしい答えが跳 ね返ってきました。『人それぞれですよ。でもオーナー・オペレーターたちはやせ ても枯れても経営者ですからねエ…』 翌日、メトラー会長がホテルへ迎えにきてくれて、彼の会社を訪問。その際に 見た同社の経営理念「Our Commitment To Quality」(優秀性に対するわが社の 誓い)のひとコマは含蓄がありました。 『…私どもの第一の義務は顧客、そのたま顧客。私どものサービスを利用さ れるすべてのユーザー各位。…最大可能な限りのコストダウンを心掛けるもの の、私どもの「優秀性の名声」を犠牲にするものではありません …』 同社が従業員や下請け業者向けに発行する「週報」には、冒頭に聖書の言葉 があしらわれいました。キャッチ・フレーズは「We all make a difference!」(われら 総員で格差を生む!)商品やサービスの「差別化」が問われる時代ですが、資 本主義の本場米国でその先行ぶりを垣間見た感じでした。 ( 十四話) ダラス市でベンチャー経営者親子との出会い ケネディー大統領暗殺現場で始めて転んだ! テキサス州ダラス空港へ降り立って拾ったタクシー君は、パングラデッシュ系 のアジと名乗るオーナー・オペレーター。不景気で売上が三割ダウンして、最低 賃金 にもならないとボヤいていました。母国では大学で建築を学んだとか、イ ンテリジェンスを感じさせる人物で、日本で働きたいので力になって欲しい、と真 顔で 訴えられました。 ホテルのテレビがダラス市内で二人の警官が殺害されたニュースを報道して ました。ダラスと言えばかのJFK暗殺で知られる街。渡米前からマークしていた 街でした。 翌朝の観光バスを予約したところが、時間を取り違えてミスったのを機に、フ ロリダ年次大会で知り合った「Safety System, Inc.」(安全システム株式会社)の青 年重役カルビン氏に電話してみました。NAFTA(北米自由貿易協定)問題を語り 合った仲でしたが、彼の会社の仕事には触れずじまいでした。 運良く在社していた彼に、今晩ホテルで一緒に食事をしないか、と誘ったら即 座にOK。その彼が四、五分で電話してきて、ウチの副社長も会いたいと言って いるのでということで三人で会食を約束。 - 63 - 日中はダラス市郊外のトラック・ストップで取材。店内は満席。一人の気の良さ そうなドライバー君が一人でポツンといった感じで食事しているのを見て、近寄 り『相席でよろしいですか?』と声をかけたら、Sure!でなく Please!と、丁重な言葉 が珍しかった感じ。オハイオ州から来たステーゲルさんというオーナー・オペレ ーター。 今までに会ったドライバー諸氏とは異なった雰囲気でシャイな人。こちらが尋 ねる以外はあまり喋ろうとしない。写真を撮らせてよと言えば、「Oh, no!」と、はに かんだところをパチリ。 結局この人物と二時間以上も席を共にしました。『ちょっと、失礼』と私の前で 奥さんに電話しました。『私はこの仕事が性に合ってるんだ。上司や同僚等に気 をつかう必要がないから…』 やおら彼が取り出したのは、幾重にも折り畳み式になった名刺みたいなも の。かれこれ三十センチもの長さの「得意先電話帳」。『良かったらこの会社へ行 ってみたら? こ の近くだよ。アポイントをとってあげるよ』その場でアポイントしてくれました。 じゃあ、そうしようということで、彼に感謝の意をこめて「It's on me.」(ボクがお ごるよ)と言ってレジへ。「Oh, no!」と遠慮する彼と固く握手して別れた彼の後ろ姿 が何となくほのぼのといった感じでした。 店内にパトロール警官が駐在していました。『民間のお店でパトロールは珍し いのでは?』と水を向けると、『??』といった感じ。何と面白いことには、彼自身 が三年間のオーナー・オペレーター体験者。三十分後にフリーになるので、ゆっ くり話そうと約束していたのですが、タクシーが来たので残念、と言って別れまし た。 アジ君の代役ドライバー氏が、くだんの会社へ行くのにナビゲーター役や秘 書みたいな役割をしてくれることになりました。訪問した会社はかの有名な Southern Pacific Co.の小会社で、自社のトラックはゼロの純然たるオーナー・オ ペレーターの専門会社です。 リクルート用のパンフレットが興味ありました。曰く、『私どもの会社は次の条 件を提供します・・・』とあり、十二項目の条件は、『低額の開業資金・運賃毎日支 払い・路税、燃料税当社支払い(中略)強制配車無し・全国連絡網有り(と続き、最 後に)競合する自社トラック無し』等々でした。 自社ドライバーとオーナー・オペレーターを競合させるのが経営者側の魂胆 (?)というのが否定出来ないのが通例ですが、この会社はオーナー・オペレー ター専門会社ゆえに、あえて自社トラックはいませんからご安心をとPRしている みたい。さすがでした。 夕方まで付き合ってくれたかのドライバー君には、君のお陰だ、と言って三 十%のチップをはずんで別れました。 ところで、その晩にホテルで会食したカルビン氏とボスの副社長との出会い が帰国して後にエピソードを生むのですが、此処で記しておいたほうがイイでし ょう。 あるベンチャー・ビジネス起業家親子との出会いです。「日本人でユウキが最 初の訪問者だ」と言って会社を案内してくれました。未だ産業機密で詳しくは言え な いのだが、と前置きして、若旦那の親父さん社長が語ってくれたのは、彼が 発明したというコンピューター安全装置器具とのことだったのです。 - 64 - 『時期がきたら必ず知らせるから、その時は日本の総代理店になってくれ』私 自身若い時に実用新案を取得するなど、発明心は旺盛でしたので、殊のほか興 味津々。 『そのコンピューター機器とやらは、ブレーキング・システムにリンクし ているの?』と、言えば、『…ノー…』と口ごもり、『じゃあ、他のメカニズムに?』 にも『ノー…』たたみかけて『ではドライバーに?』と言えば、『う~ん、イエース アンド・ノー、もうこれ以上聞かないで!』ってな調子でした。 帰国して後に彼から舞い込んできた「商談」で始めて知ったのでした。それは トレーラーとトラクターを連結する「第五輪軸」という連結装置の「安全装置」。日 本みたいに治安の良い国では考えられないことですが、駐車中にそのピンをイ タズラされて、走行中に連結が外れて事故を起こすことを防ぐ装置だったので す。 事実、日本のある専門会社にその商談を持ち込んでみました。社長や幹部も 私に会いに来ました。くだんの副社長・チャックが専門家を連れて日本に来るこ とにまで話が発展しました。ところで、結果は? 彼の会社が共同経営者に「乗 っ取られた」ことで、ジ・エンドになりました。 その発明商品の真価の程を云々することは、この際必要ではありませんが、 ダラス市の彼の会社で私が忠告してやったことがあるのです。株式の保有率で した。画期的な新商品への先行投資に見合う保有株の維持についてで、五十 一%は大丈夫か? と念を押してやったものでした。前述した「支配株主権」に 関して苦い経 験をしたからです。 帰国して彼らからの情報によると、中古トラックの販売会社を設立したとか、 倉庫を購入してエンジン修理工場を建設したとかで急成長。急激な投資資金で 内心大丈夫かな? と案じたものでした。 社長の親父さんは人の良さそうな職人上がりの経営者で、その息子のチャッ クも若過ぎる、といった印象が強かったのです。心配した通りになりました。気の 毒でした。何かあったら手紙を、と書き送ってやりましたが、その後は音信不通 です。 話しは前後しますが、かのJ.F.ケネディー大統領暗殺現場を訪れました。オ ズワルドが籠もって狙撃したとされる旧・テキサス学校教科書保管倉庫ビル六 階。現在はダラス地方行政ビルですが、六階の全フロアは記念展示室として永 久保存されています。 じっくり観て回れば七十五分はかかるとされる、この展示室での写真はご法 度。沢山のパネルを観ながら、当時のアナウンサーがその事件を報道する録音 が流れるのを聴いて、昔を思い出しました。 一九六三年の出来事は鮮明です。当時私は、運転中のクルマ(セドリック)で、 AFRS(駐留軍放送)を聴いていました。英語のリスニング訓練を兼ねていたの です。突然番組が中断され、臨時ニュースが入りました。「…Our President has been assassinated…」だったと記憶しています。Assassinated (暗殺された)という 単語を私は当時知りませんでしたが、ニュースが続く中で「Killed」(殺された)と いう言葉が出てきて分かりました。 その丁度三十年後の一九九三年に、このスポットで同じ言葉を耳にするとは、 感無量でした。この記念すべき日にもう一つの思い出が出来たのでした。 滞米二十四日目のこの日までステッキ無しで一度もつまずいて倒れたことの なかった私が、始めて地面に手をついたのでした。くだんの記念館の玄関でマッ - 65 - トに足をとられて前のめりに躓いたのです。後日のことですが、滞米三十二日間 あとにも先にもなかった出来事になりました。 ところで、JFKと言えば必ず思い出すのは彼の名セリフ『…国家が国民に何 をしてくれるかを問うのでなく、今や国民が国家に対して何が出来るかを自問自 答すべきだ…』です。 私が所属したトラック協会や多くの団体の役職にあって、よく引用した言葉で す。団体組織とその会員の関係にあって会員のとるべき姿勢への示唆として、 彼のこの言葉をよく引用したものでした。 ( 十五話) アリゾナ州フェニックス市で従姉妹と三十年ぶりの再会 ・ 渡米二十一日目にして始めてプライベートな日がやってきたような感じでし た。三十年ぶりに再会する七十歳の従姉妹が空港で待ち受けてくれたのです。 私が子供心に憧れの思いを抱いたことのある「カッコいいお姉ちゃん」だったの です。 首都ワシントンから電話した時、「何がなんでも立ち寄って頂戴! もし来れな いのだったら私がロサンゼルスまで出向くわよ!」と誘ってくれた彼女でした。 フェニックス空港に出迎えてくれた彼女と抱き合って再会を喜び合った瞬間、 何だか彼女が小さくなった感じでした。無理もありません、七十歳ですから。そ れに反してこの私は両足に装具したギプスのお陰で、足と背筋がわりあいと伸 びたからでしょう。 七十歳とは思えないようなダイナミックなドライビングで、ハイウエーを百キロ 以上でビュンビュンってな感じでした。『ユウキ、ハンドル握ってみる?』と、『い やア、止しとくわ』と。 彼女がナビゲーターになってくれました。フロリダ州のATA年次大会で再会を 約束した会社( Air Cargo Transit, Inc.)のブラウン社長を訪ねました。彼自身もオ ーナー・オペレーター出身。オーナー・オペレーターとの下請け契約書や運賃協 定書などを参考にと提供してくれました。 日 本へ何時か行きたいが、円高(当時百十円)でホテル代やシンカンセン料 金は高いのだろうとか、熱心に聴いてました。印象的だったのは、グラマーの受 付嬢が 帰る時に、『バイバイ、ユウキ!』と愛想がよかったことです。挨拶の終 わりに必ず名前を呼ぶ習慣は見習うべき会話術です。 ふと考えてみますと、この国に来てはや三週間。随分と頑張って働きました。 貪欲なほど、と言って良かったでしょう。この辺りで少しノンビリしてもイイだろう と自分自身に言いきかせました。 夕食の時、従姉妹の友人で日系混血四世の、すっごくチャーミングな「デボラ」 という女性が一緒でした。彼女の勤め先は“First Interstate Bank of Arizona”(ア リゾナ州際第一銀行)で、その名刺のSM(セールズ・メッセージ)に興味があり ました。“We go extra mile for you.”とありました。直訳すれば『当行はあなたのた めには余分の距離をいきます』ですが、その真意は『顧客の為の先行投資に応 じます』でしょう。 オーナー・オペレーターから融資依頼があるの?と問えば、「Sure! 融資した こともあるし、断ったこともあるわよ。何の事業でもそうだけど…」と可愛い目をク リクリさせながらチャーミング答えました。 - 66 - そのデボラがこの米国取材体験記を執筆中の平成八年五月に広島へ従姉妹 達とやって来ました。高速道路を私の愛車フォード・トーラスでドライブした時、彼 女曰く「Feel at home!」(国にいるみたい!) ( 十六話) 最終訪問地・ロサンゼルスを中心にカルフォルニア州南北縦断 滞米第二十八日目、最終訪問地はロサンゼルス空港に降り立ちました。五年 ぶり。ホテルからやたらと電話をかけまくりました。滞米中にお世話になった 方々へのお礼です。中には、『エッ?! まだアメリカに居るの? そりゃあすご い!』とびっくり。 ロサンゼルスは日本人に馴染み深い。太平洋の向こうはニッポンと思えば感 無量。ひと月近く単身滞米生活をしてきただけに、すごく日本が近くなった! っ て感じ。ホテルロビーで見かけた何組もの日本人ハネムーナーもその思いを一 層強くした感じ。 レストランではビフテキと本場カルフォルニア・ワインを楽しみました。結構イ ケました。帰国前の一週間は肩の力をぐ~んと抜いてリラックスしよう。それにし ても、としみじみ思ったのは、よくぞ事故やトラブルに巻き込まれずにここまで来 れたもの…と。 翌朝レストランで日本経済新聞を久しぶりに読みました。たしか五ドルくらい だったと思います。隣りの席に日本人の新婚カップルが座りました。旦那さんが 英語のメニューを見ながら、小声で、『さっぱり読めんなア…』と困惑気味。する と奥さんが、これは極めて大きな声で(辺りもはばからず、大胆に純粋の日本語 発音で)『ボーイ! ウォーター!』と言った(叫んだ)のです。 思わず私は肩がすくみました。周囲の人たちの視線も一斉に彼女の方へ向 けられました。女性上位時代を意識してか、それとも旦那の不甲斐なさ(?)を頼 りなく 思ってかは分かりませんが、余りの突拍子さと彼女のキツ~イ語調で、私 自身冷や汗が出た感じでした。せめて「プリーズ!」と付け加えておけばイイも のを、と感じたものでした。 当のボーイさん、ではなくウエイターさんは、さすがに顔には出さず、平然と 対応していましたが、イイ雰囲気では決してありませんでした。 海外での日本人のビヘイビアがひんしゅくをかうこと少ない昨今、同胞人とし て穴があったら入りたい気がしました。 水一杯のサービスでも“Thank you!”とか、声をかける時には「Excuse me, sir.」 (ちょっとお願いですが)と、敬語的な言葉を使う彼らの習慣は見習うべきです。 ところで、ロスアンゼルス在住の別の従姉がいます。ヘンリー&マリオンがそ の夫婦の名前で、れっきとした純血日系三世夫婦。いずれも日本語はたどたど しく、旦那の方は殆どダメ。NASA宇宙局のコンピューター技師を定年退職し て、年金生活者で時間は持て余すほど。ということから、帰国直前まで付き合っ てくれました。初日は、カルフォルニア州の南北縦断ドライブ日帰り旅行と洒落 込みました。 彼らの家で何と、私の母の幼女時代の写真を見たのです! 当時九十七歳 の母の、それは九十年前の「時代もの写真」デス。わが母の幼なかりし顔。けっ こう可愛い(かった)らしいお袋を垣間見ました。 カルフォルニア州は最南端のサンディアゴ行き。それには目的がありました。 - 67 - ある人に会うことでした。その人の名前は「ドクター伊藤」彼は東北出身、フルブ ラ イト交換留学生で渡米して、そのまま米国に住みついた人。ミシガン州立大 学の経済学部長を経て、前述したジーバート自動車防錆処理事業の日本法人社 長を務めた方です。 五年前にはデトロイトで再会しながら、その後居所知れず。今回の渡米で最 初に世話になったくだんの自動車工場関係者が居所を掴んでくれたのです。か く言う私は、ずいぶんと人間関係を大事にする人間だな、と思わないではおれま せん。わざわざクルマを飛ばして会いに行ったのですから。 新築のお家を訪問したら、ものすごく喜んで下さいました。数年前に肺がんで 死地を彷徨われたとかで、それゆえに得たとされる博士のひと味も、ふた味も深 められた人生観の一端をお聴きしました。 美しい湖畔の側のレストランで夫妻と昼食を御馳走になりました。話題はご職 業柄、経済問題に集中、日米経営者の物の考え方、経営姿勢の差異などなどで した。 次の日程はサンフランシスコ行き。片道三百七十九マイル(約六百キロメート ル)が、今回の私の米国取材旅行の千秋楽になりました。 ヘ ンリーのクルマはトヨタ車。『米国人の君たちは日本車、日本人の俺さまは 米国車、これぞまさしく国際協調…』ってなことを言いながら、長距離ドライブに スタート。彼は若いときにレーサーになりたかったとかで、さすが一流のドライバ ーぶりを至るところで発揮して見せました。 ハイウエーの法定の速度は五十五マイル(約八十八キロメートル)ですが、日 本と同じように殆どのクルマは百キロ以上でビュンビュンです。その中をすいす いと 巧みにくぐり抜けるように前へ前へと走らす彼のドライブマナー、というより ビベイビアですが、不思議と不安感とか嫌らしさが全くありませんでした。 一年ぶりのサンフランシスだと言うヘンリーが案内してくれた高級レストラン で、美味しいビフテキを食べました。英語が一寸ばかり話せるから、と言ってカッ コいいことを言うつもりはありませんが、滞米中に日本語と英語の宿命的(?)は 差異を感じたことがしばしばあります。 そのレストランでビフテキとカルフォルニア・ワインを楽しんでいるさなかに、金 髪の可愛いっ子ちゃん(ウエイトレス)がさり気なくテーブルに近寄って、「How'd you like it?」(味は如何ですか?お楽しみ頂いてますでしょうか?)と声を掛けて きました。『ああ、美味しいですよ、楽しんでますよ』と応えますと、「Good!」(それ は結構!)と身体ごと受け止めて笑顔で応じました。 マニュアル通り、形通りに、始めと終わりに『いらっしゃいませ! 有り難うご ざいました!』と言う日本人ホステスさんの接客マナーとはひと味もふた味も違 うのです。 そう言えば、フロリダのATA年次大会の合間をみて市内観光バスに乗った時 も同じような感じを受けたのでした。丸暗記したセリフを型通りに喋る日本のバ スガ イドさんに対して、中年の米人女性ガイドさんの話しぶりはと言いますと、 通路を往ったり来たりしてお客と密着したような極めて自然なガイドぶりだった のが 印象的でした。 さて、ホテルへ帰ったところで、カウンターのマネージャーに『夜の街はどうで した?』と聞かれ、咄嗟にかの英語の歌『思い出のサンフランシスコ』の出足の - 68 - 部分「I left my heart in San Francisco…”と大きな声でやりました。大喜びの彼は 「Oh, you sing it so well! Go on!」(巧いジャン。続けてヨ)でも、調子に乗るのはよし ました。 かの有名な「ケーブル・カー」に体験乗車しました。ステップに乗っかってはみ 出た様はよく写真で見ましたが、何とも情緒豊かな交通機関でした。 この街にこのケーブル・カーができたのは一八七三年。馬車が馬もろとも、よ ろけて坂を転げ落ちるのを見た、あるワイヤー・ケーブルのメーカー社長が思い ついたアイディアが発端だそうです。 地下に設置された「動くワイヤー・ケーブル」は、レバー操作で「掴む」ことで動 くのです。そのレバーを戻す(離す)と動きが止まり、同時にもう一本のレバーで ブレーキを掛ける仕組みです。 ということから、オペレーターでもドライバーでもありません。「Grip man」(グリ ップマン・握り手)です。大男のグリップマンが力一杯、エイッとばかりレバーを引 く姿にユーモラスなものを感じました。 『もし力が足らなかったら?』とヘンリーに言えば、(ニヤニヤ笑いながら)『転 がっていくんだ。事実以前にそんな事故があったんだよ』 思えばロサンゼルスからサンフランシスコの往復道中は、片時も「うたた寝」 したことはありませんでした。貪欲なほど観てやろう、聞いてやろう、話してやろ うの連続。随分と欲張り根性を発揮したものだと、われながら感心することしきり でした。 単身でこの国に来て三十四日目。その間、何一つのトラブルや失敗もなく、か つ、予想以上の成果を挙げて帰国の途に着くことが出来たのは感激でした。 ATAの多くのスタッフを始め、同協会の年次大会を中心に全米各地の米国の 友人たちとの出会いが実現したのは、それら多くの人たちの助力のたまもので あることを胸に刻みつつ。 そして、これら多くの友人たちの限りない幸せと繁栄を心より祈念しながらあ の素晴らしい自由の国にサヨナラしました。 ( 十七話) 帰国後日談 ロサンゼルス空港から帰国の機中で、隣り合わせに座った二人の人に例の 調子で話しかけました。一人は黒人の方で東京へ。もう一人の方は白人の方で 沖縄へ帰る ということ。滞米体験の話をしたら、『沖縄ではオーナー・オペレータ ーが沢山いるのを知っているが、ホンシュウ(本州)でそれが無いのは何故?』 それにし ても、その米人がそんなことを知っているとは思いもよりませんでし た。 ちなみに沖縄県のトラック運送会社は約千百社。その内、九百社(人)は個人 トラック業者です。琉球政府時代の貿易物資を個人業者が馬車輸送していたの がその発端とかですが、例外特例の地域です。 彼との話の中に、日本の場合、ダンプトラックの殆どはオーナー・オペレータ ーなんですよと言いましたら、「How come?」(それって、どうして?)と、首を傾げ たり、肩をすくめたり。法治国家でありながら、一方で個人トラックを認めず、他 方でそれが野放しになっていること等々を話したら、ますます「??」帰国途中 の土壇場まで、情報収集した恰好でした。 - 69 - そのとき、機内アナウンス。『積み荷重量の関係で、燃料補給のためアンカレ ッジに立ち寄るので、成田着は約二時間遅れます』途端に彼は『ああ、これじゃ あ沖縄フライトはギブアップだ・・・』と再び肩をシュリンク。 私は、お陰でアラスカ州アンカレッジ空港に一度は立ち寄った「実績」ができ ました。空港は雪で真っ白でした。米国取材は雪が降る前に完了と思ってあの 日程を 選んだのでしたが、異常気象にも遇わず良かった! と思いました。積 雪は、足の不自由な私にとって身動き出来ないことを意味するからです。 成 田空港へ無事着陸した瞬間、さすがに嬉しかったデス! 『ああ、無事に 帰れました! 神さま感謝デス!』がホンネでした。出迎えてくれた実弟・祐司の クルマで彼の横浜の家へ向かう高速道路をスイスイと走りながら、アメリカのハ イウエーをオーバーラップさせました。瞬間、「左側走行」を見て、そうだ! 日本 へ帰ったんだ! が実感でした。 オープンして間もない新広島空港へ帰ったのは、十一月二十二日の正午前。 出迎えてくれたカノジョとロビーで思わず、人目も憚らず(?)ハギングしました。 アメリカ流を真似してではありません! 『本当に、よくもまあ無事で帰れたも の!』と、双方が実感したからでした。 留守中に山ほどの郵便物が米国から届いていました。私にとって宝の山。多 種多様な資料や情報等々で、後年、役立つことになりました。 これら多くの資料や情報の中に埋もれ、果てしない分析に「あせり」も感じた り、連絡や礼状や返事をしたりしなければならない状態の私でした。何より「米国 取材体験記」の執筆も急務でした。 その一方で、私はカノジョに約束していたハワイ旅行がのびのびとなっていま した。お世話になった方々には申し訳ないと思いながら、執筆の合間をみて、そ の年 明けの一月六日、娘も伴ってハワイへ飛び立ちました。米国から届いた資 料の中にハワイでの取材活動に役立つものがあることを確認してのことでした。 (十八話)取材を兼ねたハワイ一週間家族バカンス 私にとってハワイ旅行は十二年ぶり。少しばかりタイムスリップして、初回の ハワイ旅行の時のことに言及します。前回は、前職時代の「米国フランチャイズ 事業二十五周年記念行事」への参加のためでした。 終戦直後の物資不足時代に、ハワイ在住の叔父たちが米や砂糖、衣服、石鹸 等々、おびただしい生活物資をどんどん送ってくれたものでした。 そんなことから、当時私は、セイコー腕時計を三十個ばかり持って始めてハワ イへ行ったのです。親戚一同を集めて謝恩パーティーを開き、お土産にと寄贈。 その当時、一番世話になったのが私の母の実弟・ミツギ叔父さん(当時八十 数歳)って人でした。彼が九十五歳で死去したのが今回の二度目のハワイ旅行 数年前の ことでした。ちなみに、私の母方の親戚筋は長生きの相があるみた いです。同じハワイ在住だった母の叔母さんに至っては百四歳まで生きたそうで す。葬儀の時 のお坊さんの「白骨の御文章」を聞く人たちがクスッと笑った(微 笑んだ)かもしれません。 と言うことから、今回の私の目的の一つはその叔父さんの墓参りでした。 第二の私の目的は、米国本土でお世話になった人たちへの「電話連絡」をす ることでした。ちゃっかりと、国際電話を避けて「国内長距離電話」で安上がりを - 70 - 狙いました。事実、沢山の人たちに電話しました。「目下、執筆多忙中ですので、 ご無沙汰お許しのほど・・・ってな調子。家族とハワイに来ているんですヨ、と言 えば異口同音に「Great!」(そりゃあイイ!) 米国本土から帰国後に届いた先のATA年次大会の出席者名簿で知ったこと の一つが、ハワイの地元業者社長さん。「American Pacific Transport Co. Ltd.」(ア メリカン・パシフィック運送会社)社長のルイスさんがその一人。同じ出席者名簿 で見つけたハワイ運輸協会(通称・HTA)のサカキダ専務理事さんもその一人。 明らかに日系三世か四世の人です。 余談ですが、米国旅行でかれこれ四、五百万円使った上の今回のハワイ家 族旅行です。 その経費のすべてを「調査研究費」で堂々と損金計上するコンタンでしたので、 観光の国ハワイでもちゃっかりと「調査研究業務」をつくりました。 ハワイに着いたその日(木曜日)にすぐハワイ運輸協会(HAT・ Hawaii Transportation Association)に電話しました。週末を控えていたので限られた時間 しかなかったからでした。ミゾカワさんという人が出ました。用件を伝えましたら 「後刻ファクスしますから」と。 そ こで私はすかさず米国本土のATAのシェーファーさんに電話して頼みまし た。「HATにすぐ電話して私のことをよく頼んで!」と。HATからファクスが 入っ たのはその後間もなくのことでした。ATA本部からの連絡を踏まえ、丁重な言葉 で翌日の会合約束が示されていたのです。 一方のルイス社長さんにも電話して「明後日の土曜日しか時間がないのです が…」と遠慮気味に会談を申し入れました。即座に「OK、じゃあ私がホテルへ迎 えに行ってあげる」で、それぞれアポイントが取れました。 HATでは事務局スタッフ五名が待ち受けてくれました。その内三名は日系三 世、四世の方々。HAT会長もテラヤマさんとかで、さすが日系の人たちの活躍 ぶりは目ざましい限りです。 インタビューは約二時間でした。群島州ですので、業界の実態は本土とはか なり違う感じ。オーナー・オペレーターの数は少ないし、その実態はあまり菅掌し ていないようでした。取材旅行の大義名分は一つクリアした感じではありまし た。 ちなみに、全米各州のトラック協会は文字通り「Trucking Assn.」(トラック協会) です。ハワイ州だけが「Transportation Assn.」(運輸協会)バス、タクシー業界も含 んでいるところが他州と異なります。狭い市場性だからでしょう。 帰途はミゾカワさんが送ってくれる車中で、私の親戚のことを話しましたら、 「ファミリーのルーツを知りたいのだが不明です。ヨシダさんが羨ましい」 土曜日の午前八時半、約束どおりルイス社長がクルマでホテル玄関に入って 来ました。 「ブルーのキャディラック」ということですぐ分かりました。手を挙げる私の姿を見 て、さっとクルマから降り、抱き抱えるような風情で握手してくれました。ウィー ク・エンドで申し訳ないと言えば、「Oh, It's my pleasure!」(嬉しいのはこちらだよ)と 歓迎してくれました。 休日でがら~んとした社内は社長室へ案内してくれて、差し向かいの会談が 始まりました。「寿」と大書された額縁や一メートル以上もある大扇子、日本人形 等々、一見して日本調一色といった感じの壁面。以前の彼の有能な秘書が日系 - 71 - 人だったことから日本趣味が身についた由。 彼の会社規模は従業員数にして六十人。色々と話す中で彼が言いました。「A TA本部役員室の壁にずらっと並んでいる歴代のチェアマンの写真を見たかね、 ユウキ? 私の写真があそこにあるんだよ」と。 何と! 彼はATAチェアマン(議長)経験者だったのです。帰国してからあらた めて人名簿を見て確認しました。 それにしても日本だったら先ずこんなことはないでしょう。会社規模が優先す るからです。わがJTA(全日本トラック協会)会長(当時)はかの有名な大会社・ 西濃運輸の田口会長さんです。五、六十台規模の社長さんが全日本トラック協 会の会長なんて想像できっこありません。 ルイス社長さんは文字通りの中小企業経営者。さすが実力主義、ドリームの 国アメリカならではのこと。会社規模より、リーダーシップの方が優先されること は羨ましい限り。業界はもとより産業経済界全体が活性化されるハズです。 ところで、彼の会社ではオーナー・オペレーターを利用していません。米本土 と違って、限られた市場性であるだけに、下請け依存の必要性が極めて低いこ とが想像されました。しかし、オーナー・オペレーター・システムの存在性とか価 値観に関する限り、彼はその強い信奉者です。 運送業者にとって、オーナー・オペレーターの存在が「労務対策上」極めて貴 重な役割を果たしているということから、彼が以前体験したという、「労働組合問 題」を得々と話してくれました。 結成されたユニオンの幹部の一人を自室に呼び入れ、腹を割って話し合っ て、組合を解散させた云々等々の苦労話をしてくれました。人情話は洋の東西を 問いません。 日本にも来たことがあるし、JATとも以前交流したことがあるという彼が言うに は、「今後ともJTAとATAは連絡を密にすべきだが、ユウキは業者体験と英語 力を駆使してこの分野でも活躍すべきだヨ」と。 折角の彼の進言ではあるのですが、かくいう私は後年に至り、個人トラック制 度提言に関する大論文を発表して、規制緩和に反対するJATや運輸省から見れ ば「憎まれ役」になったものですから、彼の期待には当面添えない感じです。 彼との対談は正味三時間半の長談義になりました。正午になって美人の奥さ ん(シルヴィアさん)が入ってきました。私の前で旦那さんにキスする辺りは、映 画のシーンみたい。 昼食を一緒に、と勧めてくれたのですが、午後の約束があるのでと。帰りは彼 女がホテルまで送ってくれました。 ホテルの玄関で降りたものの、前のクルマで動きが取れず、立って見送ろうと する私にイイからどうぞ、という彼女に「日本では人を見送る時、最後まで見届 けるんですから」彼女はクルマの窓から手を振りながら去って行きました。 後日、彼から届いた手紙の中にオーナー・オペレーター・システムに関するコ メントがありました。「It is a necessary part of the industry.」(業界にとっては不可 欠な分野です)「Please keep in touch.」(今後とも連絡し合おう)とも。次回のハワイ 旅行では良き訪問者の一人になるでしょう。取材旅行の大義名分第二弾でした。 ロサンゼルスで世話になった従姉妹の「姉夫婦」とその年取ったお袋さん(私 の伯母)が喜んでくれました。取材仕事を終えて開放された私にとって、本番の バカンスを楽しむ日が来ました。 - 72 - ハワイは多くの日本人にとって恰好の観光地域。多くを語る ことは蛇足に過ぎ ると思います。でも一つだけ、思い出しても吹き出したくなることがあります。マ ウイ島空港のバーでカノジョとカクテルを注文した時のケッ サク。アメリカ人の ユーモアというものでしょうか、それともおおらかさ、というものでしょうか。なん と、グラスの中に「孫の手」(あの背中を掻くときに使 う棒デス)がドカ~ンと差し 込んであったのです。驚くやら、大笑いするやら…。ウエイトレス嬢(これまたす っごいグラマーのヤンキー美人)がやって来て言いました。How's you like it?」 (お味は如何でしか?) そこですかさず彼女に問いました。「これ何のため?」「持ってお帰りなさいよ、 ハハハ…」と、大きなおヒップをゆらゆらさせながらテーブルを後にしました。イ ヤハヤでした。 ふと見ると Made in Taiwan (台湾製)でした。持ちかえったこの「孫の手」君は、 私のデスク上のペンカップの中にドカ~ンと差し込んであります。 取材を兼ねたハワイ旅行はかくして終わりました。オーナー・オペレーター・シ ステム研究のための米国取材旅行の延長線上に位置づけたものでしたが、「ア メリカ合衆国」における取材は大成功だったのです。 大陸本土の一ヶ月以上を含め、何よりも嬉しく感謝したいことは、トラブル皆無 だったということでした。今から考えても不思議なほどでした。 ⑦ 執筆活動開始・ワープロへ六十一歳からの挑戦! (「4章 前篇-2」 につづく) 「1章 逆境をバネにした生い立ち」 に戻る 「2章 人生第一毛作は技術屋自営業人生・・・」 に戻る 「3章人生第二毛作はトラック運送事業経営者人生」 に戻る 「4章 人生第三毛作の演出 総合物流・経営コンサルタン(前篇-1)」 に戻る - 73 -