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(サンフランシスコ・シアトル班)に参加して

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(サンフランシスコ・シアトル班)に参加して
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
第 回在北米被爆者健診
回在北米被爆者健診
(サンフランシスコ・シアトル班)に参加して
(サンフランシスコ・シアトル班)に参加して
―津波や原発事故の状況も説明して―
広島県医師会常任理事 柳 田 実 郎
第 回の在北米被爆者健康診断事業は、 月 日から 月 日にかけてロサンゼルスとホ
ノルルで、 月 日から 月 日にかけてサンフランシスコとシアトルで行われ、柳田がサ
ンフランシスコ・シアトル班の団長として参加した。 月 日広島を発ち、関空経由でサン
フランシスコに飛び、 月 日から 日間、St
.Mar
yMedi
calCent
erで健診を行った。 月
日にはシアトルに移動、 月 日から 日間、シアトルの Paci
f
i
cMedi
calCent
erで健診
を行い、 月 日成田経由で広島に無事帰着した。団員は、医師 名と事務職 名の計 名
であり、受診者は、サンフランシスコ
名、シアトル 名の計
名であった。
■ 東日本大震災と原発事故の影響
前回の第 回在北米被爆者健康診断事業は、
一昨年の新型インフルエンザ(H N )流行
の影響で、例年 ~ 月に行われるところが、
~ 月にずれこんだ。今回も、 月に東日本
大震災があり、日本医師会の大方のスケジュー
ルが ヵ月近く遅れ、その影響で、広島県医師
会のスケジュールも ヵ月近く遅れ気味になっ
ていた。そのために、諸々の行事が 月に集中
したきらいがあり、柳田の担当分野も大変に忙
しかった。
ご承知の通り、東日本大震災・津波・原発事
故に関する報道は、瞬く間に全世界を駆け巡り、
広島県医師会やIPPNW日本支部にも、世界
中から数々の励ましのメールや支援金が送られ
てきたが、サンフランシスコやシアトルの健診
の関係者からも、お見舞いと励ましのメールが
複数届いていた。この返事の中で、
「広島県医師
会としては、今回の健診の期日は、 ~ 月の
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
ままで変更するつもりはない」旨、早くから意
思表示していた。
月中旬ころ、サンフランシスコのスーパー
バイザーであるジョン・ウメクボ先生から、
「北
米健診の概説とともに、津波と原発事故につい
て、英語で 時間くらい話して欲しい。メディ
アも呼ぶのでよろしく」というメールが来たた
め引き受けたものの、パワーポイントの準備を
する時間がまったくない。やっと出発 日前か
ら、北米健診の準備に取りかかることができた
が、震災や原発に関する英語のサイトから、写
真や説明文をコピーして、ノートパソコンのデ
スクトップに張り付けるのがやっとであった。
ただし、原発事故について説明するためには、
福島での放射線による汚染について述べる前に、
放射線の種類、核分裂と臨界、原発と原爆の違
い、原発の種類と沸騰水型原子炉の構造、福島
原発の壊れた部分とチェルノブイリ・TMI
(スリーマイル島)との違いなどを説明する必要
がある。ゆえに、資料(ネタ)集めも多岐の分
野にわたった。
(表
)
サンフランシスコ・シアトル班・団員名簿
団
氏 名
やなぎ だ
じつろう
長
柳田 実郎
副団長
津村 裕昭
団
員
団
員
団
員
団
員
団
員
つ むら
なかはら
ひろあき
ひで き
中原 英樹
おか だ
たけのり
岡田 武規
たつかわ
よし み
立川 佳美
え がわ
み
さ
江川 美砂
く
ぼ
た みつのぶ
久保田益亘
年(平成
年) 月
日( )
■サンフランシスコに向け出発
今回のサンフランシスコ・シアトル班の団員
は、柳田実郎団長(内科:県医師会常任理事、
広島市医師会運営・安芸市民病院)
、津村裕昭副
団長(外科:広島市立舟入病院)
、中原秀樹団員
(外科:県立広島病院)、岡田武規団員(内科:
広島赤十字・原爆病院)、立川佳美団員(内科:
放射線影響研究所)、江川美砂団員(産婦人科:
広島大学病院)
、久保田益亘団員(内科:広島大
学病院)、中元一望団員(県医師会事務局)、篠
田英雄団員(放影研疫学部)、河野直樹団員(広
島市健康福祉局原爆被害対策部)
、森博之団員
(長崎市原爆被爆対策部)の 名であった。
月 日(水)の午前 時 分より、広島駅
の新幹線乗り場で出発式が行われた。新本稔県
医師会常任理事(会長代理)から主催者挨拶が
あり、柳田が団長挨拶を行い、土肥博雄広島赤
十字・原爆病院長から激励の言葉が述べられ、
時半過ぎの新幹線で大阪に向かい、関西空港
からサンフランシスコに向けて出発した。
(表
所 属 ・ 役 職
内
広島県医師会 常任理事
広島市医師会運営 安芸市民病院 副院長
/
(水) S.F.
外
広島市立舟入病院 外科部長
/
(木) S.F. 表敬訪問(SF医師会)
外
県立広島病院 消化器・乳腺・
移植外科部長
/
(金) S.F.
循
広島赤十字・原爆病院 循環器内科
/
(土) S.F. 健診
内
除放射線影響研究所 臨床研究
部健診科 副主任研究員
/
(日) S.F. 健診
/
(月) S.F. 健診予備日
産
広島大学病院 産科婦人科
/
(火) S.F. 健診成績の整理・集計
内
広島大学大学院医歯薬学総合研究科
分子内科学 内分泌・糖尿病内科
/
(水) S.E. サンフランシスコ → シアトル
/
(木) S.E. 表敬訪問(Ki
ng医師会、総領事館)
/
(金) S.E. 関係者との打合わせ、健診準備
/
(土) S.E. 健診
/
(日) S.E. 健診
/
(月) S.E. 健診成績の整理・集計
/
(火)
シアトル発
/
(水)
成田着→広島
広島県医師会 総務課 課長
団 員 しの だ ひで お
(事務) 篠田 英雄
除放射線影響研究所 事務局
人事課長
団 員 こう の なお き
(行政) 河野 直樹
広島市健康福祉局原爆被害対策部
援護課 主査
長崎市原爆被爆対策部調査課
日付
)
日程(サンフランシスコ・シアトル班)
診療科
団 員 なかもと かずもち
(事務) 中元 一望
ひろゆき
団 員 もり
(行政) 森 博之
号)
曜日
都市
行 程
広島→関空→サンフランシスコ
表敬訪問(総領事館)
関係者との打合わせ、健診準備、健康
相談
St
.MaryMedi
calCent
er
2235HayesSt
.SanFranci
sco
Paci
f
i
cMedi
calCent
er
120012t
hS.Seat
t
l
e
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
号)
昭和
年
第1
8
回在北米被爆者健診結果
日 程
健診受診者
Ma
l
e
Fe
ma
l
e
To
t
a
l
健診場所
月
日 第
種郵便物承認
( )内は被爆
世
Ne
w
Ma
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e
Fe
ma
l
e
To
t
a
l
サンフランシスコ
/
/
(第
(第
日目)
日目)
小 計
( )
(
)
( )
( )
( )
(
(−)
( )
)
(
)
( )
(
St
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( )
( )
( )
( )
シアトル
/
/
(第
(第
日目)
日目)
小 計
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
Pa
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i
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cMe
di
c
a
l
Ce
nt
e
r
To
t
a
l
総 計
(
)
(
)
(
)
■ サンフランシスコに到着(またまた異常気象)
日本を発った同じ日の 月 日昌午前 時過
ぎの定刻に、サンフランシスコ空港に到着し、
在サンフランシスコ日本国総領事館の石動明領
事の手助けで、入国審査も速やかに通過した。
到着ロビーでは、遠藤篤会長をはじめとする米
国原爆被爆者協会の方々の出迎えを受けた。
前回のサンフランシスコの健診時は、到着前
日が暴風雨で出発前日が豪雨という異常気象で
あった。アメリカ西海岸は本来、夏涼しく冬温
暖なのではあるが、本年も異常気象と見えて、
昼間の気温が ℃ 以下という日が続いていると
いうことであった。われわれの到着時も、曇り
がちで霧も出ており、長袖シャツにスーツでも
寒いくらいであった。しかしながら、日本の蒸
し暑さから考えると、贅沢な話ではある。
( )
( )
(
)
市役所の近くにある、宿泊場所の Hol
i
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nn
Ci
vi
cCe
nt
e
rに移動しチェックインした。
■ サンフランシスコ 日目(医師会の表敬訪問)
月 日昭は午後 時から、サンフランシス
コ医師会を表敬訪問し、ジョージ・A・フォウ
ラス会長とメアリー・ルー・リクウィンコ事務
局長ならびに 名の理事と面会した。
■ 総領事への表敬と昼食会
全団員は、空港から直接 I
nt
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nat
i
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s
t
r
i
c
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(中華街)に移動し、P&GLo
ungeという
中華料理店で行われる、総領事への表敬を兼ね
た総領事招待の昼食会に参加した。
猪俣弘司総領事と石動領事を団員が囲む形で
行われた会は、猪俣総領事が、本健診を続けて
いる広島県医師会への敬意を述べ、柳田が、毎
回の健診への総領事館の協力への感謝を表し、
記念品を交換し、各団員が自己紹介を行った。
以後は、津波や福島について、サンフランシ
スコの気候や在留邦人について、医師会や各病
院について、総領事のこれまでの任地について
など、話に花が咲いた。
レストランを辞した後は、サンフランシスコ
サンフランシスコ医師会 フォウラス会長
米国の医師会は、専門医の集団であるためか、
日本に比べて医師会の建物や事務局の人数が小
ぶりであり、サンフランシスコ医師会も、小奇
麗な民家が立ち並ぶ一角の、他と同じような作
りの家を借りて、 名くらいの事務局で運営し
ていた。応接室が狭く、テーブルは 人掛け程
度の大きさであるため、柳田、津村副団長、中
元団員、篠田団員の 名で訪問し、相手方も
名の対応であり、計 名で懇談した。
ロサンゼルス郡医師会と同様に、サンフラン
シスコ医師会においても、会長は毎年交代する
ようで、 年前と会長は代わっていた。しかし
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
号)
サンフランシスコ医師会表敬訪問
ながら、リクウィンコ事務局長とポシ・ライア
ン総務部長は数年来勤めており、柳田ともお互
いに面識があったが、実質的には事務局長が全
体を仕切っているようであった。
やはり、津波と福島の話が中心になり、 月に
JMATとして石巻で活動したことなども話し
た。また、サンフランシスコの気候や観光スポッ
トなどにつき、冗談を交えながら談笑した。最後
に記念品を交換したのであるが、それとは別にお
土産としてナパ・ヴァレーのワインをいただい
た。事務局長が、
「赤と白のどちらがいいか」と
聞くので、
「赤がいい」と言うと、 ダース入り
の箱ごと渡された。さらに帰り際に、「やっぱり
白もいるだろう」と 本追加された。記念品も縦
長い花瓶のようであり、計 本の割れものは、宅
配便で広島に送るしかないように思えた。
ところで、昨夜はさらに気温が下がり、十分
暖房を入れずに寝た森団員は風邪をひいてしま
い、熱っぽい顔であった。しかしながら、解熱
剤や抗生物質を飲みながら頑張っていた。
■ サンフランシスコ 日目(朝食会・講演会と健診準備)
月 日晶は、午前 時に、健診会場のセン
ト・メアリー・メディカル・センターに、アン
ナ・チェウン病院長を表敬訪問し、全団員で病
院内での朝食会に参加した。病院側からは、病
院の設立母体である教会の老齢のシスターや医
師・看護師などの職員が院長とともに参加して
おり、病院の職員でもあるスーパーバイザーの
ウメクボ先生も来ておられた。
お互いに名刺交換や自己紹介をしながら、朝
食を取りつつ、諸々の話題について懇談した後、
ウメクボ先生の先導で、本年新たに開設された
「癌治療クリニック」を見学した。 台のCTと
計 台の化学療法用の椅子とベッドが、広いフ
ロアに大変機能的に配置されていた。
年(平成
年) 月
日( )
化学療法用の椅子
■ 講演会
午前 時 分より、ウメクボ先生の司会で、
柳田の講演が始まった。
ところで柳田は、出発前にネットなどから集め
た画像を切り貼りして、英語の注釈を付けながら、
到着日と翌日の 日間、夜遅くまでPPT(パ
ワーポイント 編集部注)作りを続け、なんとか
間に合わせることができた。しかしながら、日本
語の早口で 時間かかる量を作ってしまっており、
英語では相当の時間超過になってしまう。講演の
予習をする時間もないため、適当にはしょりなが
ら、ぶっつけ本番で喋ることになってしまった。
まず、今回の地震・津波・原発事故に対して、
全世界、特に米国から受けた励ましと支援につ
いて感謝を示すとともに、米軍海兵隊の活躍に
ついても触れた。
本健診については、原爆投下時に広島市内に
いた
名の医師の内、
名が被爆し
名が
殉職したという、戦後の広島の医師会の原点に
ついて触れた後、米国被爆者協会の被爆者健診
と治療の要望が、米国政府やカリフォルニア州
政府に拒絶され、日本政府にも拒絶され、広島
県医師会が受ける形で、本健診や渡日治療が始
まったこと、問題点の解決策やその後の経過な
どを話した。
地震と津波については、現時点での死者数・
行方不明者数・避難者数などとともに、JMA
Tとして活動した石巻市の渡波(わたのは)地
区周辺の様子や、避難所兼救護所である渡波小
学校の様子などを中心に話し、
「東北人は世界で
最も我慢強いのかもしれない」と結んだ。
原発事故については、放射線の種類、核分裂
と臨界、原発と原爆の違い、原発の種類と沸騰
水型原子炉の構造、福島原発の破損部位と放射
能飛散の理由、チェルノブイリやTMIとの違
い、現状と今後の展望などについて話した。
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
はしょりながら話したつもりではあったが、
やはり 分の時間オーバーとなった。しかし聴
衆の反応は比較的良いように思われた。特に、
津波に関する話には、眼を潤ませていた聴衆も
散見されたとのことであった。団員 名にも、
長い講演を辛抱強く聞いていただいた。病院か
らの参加者が 数名と少なかったこともあり、
団員全員の参加は、数的にも大変貴重であった。
講演後、日系紙 Ni
c
hi
Be
iwe
e
kl
yのトモ・ヒ
ライ記者とミシガン州立大学のナオコ・ワケ客
員助教から、本健診についていくつかの質問を
受けた。ヒライ記者からは、津波や原発事故を
報じた 部をいただいた。Ni
c
hi
Beiweekl
yは
タブロイド版の週刊紙であるが、日系紙といっ
て も す べ て 英 語 で あ り、「日 米 Ni
chi
Bei
weekl
y」という新聞のタイトルのところにの
み、日本語(漢字)が使われていた。前回の健
診時に取材に来た「北米毎日」が、直後に休刊
となったこともあったが、取材に来る日系紙も
少なくなっている。
■ 健診の準備
会場であるセント・メアリー・メディカル・
センターのクリニックビル 階の診療が終わる
のを待って、午後 時過ぎから健診会場の設営
を始めた。今回は、遠藤会長が健診の総指揮を、
最若手被曝者(胎内被爆)のマリコ・リンゼー
さんに譲ったため、マリコさんが名実ともに総
指揮者となり、前回にも増して張り切っていた。
今回は、たまたま外科医が 名であるため、
また着替えによる時間の節約のため、婦人科の
部屋を 室に増やしたため、前回と同じ部屋の
配置にはできなかった。ゆえに、被爆者の方々
の間から、
「○○先生が団長で来た時には、心電
図はこの部屋だった」
「それは 年前だから、会
場は別の病院だったよ」などという会話を繰り
返しながら、それでもなんとか部屋割りが決ま
り、持参のスーツケースが開けられ、器具や消
耗品がセットされた。メーカーの違う 台の心
電図の内の 台の使い方がいまいちはっきりせ
ず、心電図係の立川団員が頭を抱えていたこと
などはあったが、サポート医師のケイ・ヤタベ
先生や Fr
i
endofHi
bakus
ha(FOH:被爆者
支援団体)のジェリー・ハンダさんなどの協力
もあり、最終的にはなんとかなりそうなところ
まで行き着いた。
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
■ サンフランシスコ 日目(健診初日)
月 日松は、午前 時 分に健診会場に着
き、午前 時から受付を始めた。中元団員と篠
田団員をはじめ、市行政の河野団員と森団員も、
受付業務に専念した。受診者の名前を確認し台
帳へ記入し、カルテ
や疾患番号記入用紙
など数枚の用紙とと
サ
もに、採血管・検尿
ン
フ
カップ・便潜血キッ
ラ
トなどの検体や心電
ン
シ
図用紙などに貼る
ス
コ
バーコード・シール
健
診
をファイルケースに
受
付
挟み、採血室への導
線を説明するとい
う、結構時間のかか
る作業である。 当然のことながら、受付の周りは人だかりに
なっており、待合用の椅子にも 数名が待って
いた。しかしながら、ボランティアの方々の調
子が上がってくるとともに、混雑は解消されて
いった。
受付が済むと、検査衣に着替えて、身長・体
重を測った後、採血の順番を待ち、採血室に移
動する。採血室では、担当の岡田団員と久保田
団員は、高齢の女性が多い被爆者の細い血管と
格闘していた。以前は、採血したサンプルは、
CBCのみ健診場所の病院で測り、分離した血
清とHbA cのサンプルは、便潜血のサンプ
ルとともに広島に空輸し、広島市医師会検査セ
ンターで測定していた。前回から、すべての検
査は健診場所の病院に依頼することになり、正
常値はそれぞれの病院の検査室の正常値を採用
することになった。
採血開始当初は、 本ずつの採血であったが、
病院に入っている検査会社の職員がやって来て、
「 人 本必要だ」とのたまう。血清の検査が何
箇所か(何台かの機械)に分かれているのか、
血清用の採血管が増えたようである。それでな
くても細い血管から、 本採るのは大変であり、
複数箇所からの採血となることも多かった。ま
た、すでに 本を取り終えていた受診者も、
本の追加分を再度採られるのである。
例年であれば、 人の採血ボランティアの調
子が上がった後は、採血係の内科医は診察室に
移動できていたが、今回は、岡田団員も久保田
団員も、なかなか診察モードになれなかった。
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
次は心電図であるが、 台の心電図は順調に
働き始め、サポート医としてフレスノからかけ
つけていたクレイグ・ラム先生が中心となり、
ボランティアのみで充分こなせており、担当の
立川団員は早くから診察モードであった。
次は婦人科(内診)と外科(甲状腺触診、乳
癌触診、直腸診、便潜血のサンプルを持参しな
かった受診者の採便)である。江川団員は、広
島から持参した日本人用の小型の使い捨てクス
コを駆使し、 日に 件の内診を若さでこなし
た。外科は本来てんてこ舞いで混雑するのであ
るが、今回は外科医が 名であるため、津村団
員と中原団員の仕事も、大変スピーディーに進
み、採血の遅れを取り戻すことができた。
次は内科診察である。前回は、地元テレビが
来ていたため、診察の合間にいろいろとインタ
ビューされ、診察時間を食われたが、今回はミ
シガン大学のワケ先生が、被爆者の方々から聞
き取りをしていた程度であり、診察が中断され
ることもなく、スムースに進んだ。
あらかじめ内科の先生方には、 人に最低
分はかけるようにお願いしていた。
「普段 分程
度が当たり前の診察に慣れていると、 分以上
もいったい何をすれば良いのか?と思ったが、
実際にいろいろな話を聞いていると、 分は
あっという間に過ぎてしまい、 分近くかかる
こともあった」との久保田団員の言葉が、この
健診の特徴を表している。
岡田団員も立川団員も、同様に速すぎず遅す
ぎずの診察を心がけていただいた。柳田はとい
うと、英語しか喋れない被爆 世や 世をもっ
ぱら診察した。被爆者の受診者は、徐々に減少
しているが、 世のみならず 世まで受診する
時代になってきている。相談の内容も、高齢の
親(被爆者)のADLの低下や認知症、福島原
発事故や牛肉の放射能汚染についてなど、本人
の健康とは関係ないことの方が多かった。健康
に問題なく、特に相談事もない方には、石巻の
津波被害の話などもした。
内科の診察が済むと、希望者のみ行政相談を
受けていただく。河野団員と森団員が、被爆者
手帳の申請、医療費の請求、渡日治療の申し込
みなどの相談を受けるのである。国内のみで可
能であった申請が、海外でもできるようになっ
た直後の健診では、たくさんの相談で大変で
あった。時間が経過した今回は、いずれの相談
も少なく、渡日治療の該当者も多くなく、両名
とも、被爆時の話や身の上相談的な話を聞くこ
とに、多くの時間を費やした。
号)
年(平成
年) 月
日(
)
以上で健診は終了し、最後に受付でカルテな
どの紙類がそろっているか確認し、交通費を渡
して終了となる。しかしながら、被爆者の多く
が高齢化しており、ファイルケース内の紙類を、
あちらこちらに落としている方もおられ、確認
作業が重要になっている。これらに留意しなが
ら、中元団員も篠田団員も大変スピーディーに
こなしていた。
午前中の診察が終了すると、被爆者の方々が
持参された、おむすびや漬物をはじめ、ひじき
や煮付けなど手作り料理に舌鼓を打った。また
ラム先生から、地元フレスノの名物であるドラ
イド・フルーツを詰めた大きなかごをいただい
た。
午後 時から診察を再開したが、非常にス
ムースに始まり、 時過ぎころには、本日受診
が予定されていた、 世・ 世 名を含む 名
の診察が終了した。
■ サンフランシスコ 日目(健診 日目)
月 日掌は、前日と同様に午前 時から受
付を開始した。 日目ということで、順調に滑
り出し、大きな問題もなく、前日同様の内容の
健診が進んだ。バスによる団体受診もあったが、
全員の努力で、午後の早い時間帯には、サンフ
ランシスコの健診を滞りなく終えることができ
た。結局この日は予定通り、 世・ 世 名を
含む 名の受診があり、 日間で 世・ 世
名を含む
名の健診を行った。この内、新た
な受診者は 名であった。
■ 健診の反省会
荷物の整理が終わったのも午後 時台であっ
たため、翌朝に予定されていた団員 名とボラ
ンティア被爆者数名による反省会を、前倒しで
引き続き行うことになり、健診会場の中央にあ
る待合室に椅子を集め、車座になって座った。
サンフランシスコ反省会
(
)
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
最初に柳田が、被爆者協会の役員とボラン
ティアの方々に、本事業への協力に対する感謝
の言葉を述べ、
「本健診がいつまで続けられるか
は分からないが、今のところ日本政府も止めた
いとは言って来ていないので、しばらくは続け
られるのではないかと思われる。本健診は、ボ
ランティアなしでは実行が不可能であり、サン
フランシスコでは、被爆者の方々がボランティ
アの中心となっておられるが、いずれも高齢化
されており、若い人をボランティアに引き入れ
る必要があるが、簡単ではないと思われる。広
島県医師会の事業は、会員の会費で運営されて
いるので、会員の意思や時の会長の考えに左右
されるところもある。もし日本政府が支援事業
を中止したと仮定した時、広島県医師会が再度
独自の資金で続けることができるかは不明であ
る。しかしながら、現在の碓井会長の考えは、
『北米の被爆者が健診を希望されている限り、最
後の 人まで続けたい』というものである」と
述べた。
これを受ける形で遠藤会長が、健診団と広島
県医師会に感謝を表した後、
「ボランティアの高
齢化は大きな問題で、なんとかしたいが、なか
なか解決しない。自分も体力が落ち、健康問題
もあるので、今回から健診の差配をマリコさん
にお願いした。 世の中にも力になってくれて
いる人もあり、このような人を少しでも増やし
ていきたい」と述べた。
次に各団員から、それぞれお礼と印象が述べ
られた。その中で、極めて具体的な指摘として、
「受診者の方は、カルテとともに、自分の荷物と
服を袋に入れて持ち歩くスタイルになっており、
見ていて大変だと思う。荷物預かり(クローク)
を受付に作った方が良いのではないか?」とい
う意見が複数出され、被爆者協会で次回までに
検討していただくことになった。
続いて被爆者の方々から、お礼と意見が述べ
ら れ た。そ の 中 で、「 ヵ 月 後 に 健 診 結 果
(データ)が送られてくるが、異常値があれば
ホームドクターに相談することになる。しかし
ながら、心電図については『異常あり』とのみ
書いてあって、異常の内容も分からず、心電図
のコピーも付いていない。米国では保険の関係
で、心電図ですら簡単にはとれないので、コ
ピーがないと以前のものと比較できない」とい
うものであった。確かにもっともなことである
ため、早速中元団員から広島県医師会事務局に、
すべての健診結果に心電図のコピーが添付でき
ないかが、メールで伝えられた。
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
以上で反省会は終了し、健診関係者は解散し
た。
■ サンフランシスコ 日目(被爆者協会主催の懇親会)
月 日捷は、予定されていた健診の反省会
が前日に済んだため、午前中は空白になった。
よって、食品や水の買い出しの他は、ホテルの
部屋にこもって本報告書を書いていた。
ふと窓の外を見ると、大きな四角い凧のよう
なものに字が書かれてあるのを、軽飛行機が
引っ張り、街の上空を何度も大きく旋回してい
るのが見えた。どこかの店のオープニングの広
告ではないかと思われたが、こちららしい発想
のように思えた。またこの宣伝方法はシアトル
でも見かけた。
■ 被爆者協会主催の懇親会
午後 時からは、高級日本料理(寿司)店
Yo
s
hi
’
sで被爆者協会主催の懇親会が行われた。
会場の料理店には 時半ころに着いたので、
時になるまで医師会のリクウィンコ事務局長と
世間話をした。その中で、
「医師会の建物は小さ
いので、講演会などは他の場所を借りるのか?」
という柳田の質問に、
「市内の病院のカンファラ
ンス・ルームを使っている」とのことであっ
た。また、学術的な活動とともに、州政府や
郡・市行政に対するロビー活動も重要な業務だ
ということであった。
全団員や被爆者協会の方々をはじめ、サンフ
ランシスコ医師会の会長・事務局長・部長、セ
ント・メアリー・メディカル・センターのシス
ターと検査部長、Fr
i
endofHi
bakus
ha(FO
H:被爆者支援団体)のメンバーが、計 名く
らい参加された。
Yos
hi
’
s懇親会
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
最初に柳田を筆頭に、各団員が自己紹介と健
診の印象を述べ、遠藤会長が、サンフランシス
コ医師会のフォウラス会長、リクウィンコ事務
局長、ポシ・ライアン総務部長と、セント・メ
アリー・メディカル・センターのメアリー・キ
ルガリフ・シスター、女性の検査部長を紹介し
た後、被爆者の方々を順に紹介した。最後に
ジェリーさんが、ご主人を含むFOHの参加者
を順に紹介し、懇談に移った。その後、ウメク
ボ先生ご夫妻が遅れて到着され、紹介された。
柳田は、向かいに座っているライアン部長と、
柳田の子どもたちや孫について話したり、リク
ウィンコ局長やシスターあるいはジェリーさん
などと短い話をしたが、大部分の時間は両隣の
遠藤会長とフォウラス会長との話に費やされた。
遠藤会長とは、健診や被爆者協会のことととも
に、ご自身の健康問題についても話題になった。
フォウラス会長は、大変快活で饒舌な方で
あった。両親ともギリシャからの移民で、自身
も年 回はギリシャの親戚のところに遊びに行
くという。会長からは、津波や原発事故につい
てもいろいろ質問があり、その都度説明を繰り
返した。会長は、
「自分は 歳の内科医だが、そ
ろそろ人生に変化を求めるため、 年前から英
国の医師免許を取る努力をしていた。大変だっ
たがなんとか取れたので、来年医師会長の任期
が終わったら、英国に移住するかもしれない」
とのことであった。
「英国での仕事のあては?保
険制度が違うが、十分な収入が得られる見込み
は?」という柳田の質問に、
「まったく分からな
い」とのことであった。 最後に柳田が、津波や原発事故に対する米国
からの支援に感謝の意を示し、本健診への各協
力団体への謝辞を述べ、遠藤会長が閉会の辞を
述べ、会は終了した。
ところで、前回までは、必要経費や健診会場
の 病 院 や 協 力 団 体 へ の 謝 礼 な ど は、多 額 の
キャッシュ(米ドル)として持参していたが、
今回は中元団員が、トラベラーズ・チェックで
持参していた。しかしながら、トラベラーズ・
チェックの最高額は
米ドルであるため、
枚あまりの枚数になる。先日中元団員に求めら
れ、チェックの ヵ所ずつに、柳田のサインを
無造作に書いた。
しかしながら、本日マリコさんが銀行に持参
した際、サインが不完全だから支払できないと
言われたと、会の後で分かった。マリコさん持
参のチェックを確認すると、確かにすべての
チェックで、サインの箇所が指定の線と違う欄
号)
年(平成
年) 月
日(
)
外であり、年月日も書いていなかった。
さあ大変。マリコさんとジェリーさんは、シ
アトルに発つ日に空港まで見送りに来ていただ
くことになっているので、マリコさんについて
は、後でサインを修正し、後日空港で渡すこと
になった。
ジェリーさんはというと、すでに帰宅してお
り連絡方法が分からない。ホテルに帰った後、
中元団員が被爆者の方々に電話をし、なんとか
ジェリーさんの携帯番号を手に入れた。ジェ
リーさんには、すぐ連絡がつき、空港にチェッ
クを持参していただき、その場で柳田がサイン
を修正することになった。
しかしながら、ウメクボ先生は空港には来る
予定にはなっていないので、病院かクリニック
を訪問して修正する必要がある。幸いジェリー
さんが、ウメクボ先生の携帯番号を家に持って
いるとのことであり、後で知らせていただき、
ウメクボ先生に電話した。ウメクボ先生は、す
でにチェックをセント・メアリー・メディカ
ル・センターに渡しており、明朝病院事務に確
認して電話をいただけることになった。
■ サンフランシスコ
日目
月 日昇は、他の団員とは別行動とし、柳
田はチェックの修正に専念することになった。
午前 時 分ころ、ウメクボ先生から、 時
分にメディカル・センターに来て欲しいと電話
があり、タクシーで駆けつけた。
ウメクボ先生と、メディカル・センターの経
理部門(正確には寄付を集める部門)に行き、
枚のチェックのサインを書きなおし、タク
シーを待つ 分あまりの間、ウメクボ先生と話
した。ウメクボ先生が、いまだ日本に来られた
ことがないことに関して、
「歓待するのでぜひご
夫婦で来てください」と言うと、
「引退したら行
けるかもしれない」との返事であった。
しかしながらウメクボ先生は、健診のスー
パーバイザーとして、サンフランシスコ医師会
と の 仲 立 ち も し て い た だ き、セ ン ト・メ ア
リー・メディカル・センターの医師として、同
センターを健診会場に使用する手助けもしてい
ただいており、サンフランシスコの健診のキー
マンに引退されると健診ができなくなる。ウメ
クボ先生には当分の間、日本に来ていただけな
い方が良いようにも思えた。
この日は朝から、出鼻をくじかれた感じにな
り、ホテルにこもって、メールの返信や文章書
(
)
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
きにいそしんだ。その中には、講演時に質問を
受けた Ni
c
hi
Beiweekl
yのヒライ記者からの追
加質問もあった。
「現在日本には、何人くらいの
被爆者がいるのか?被爆による癌の増加はどれ
くらいなのか?当初、米国政府や日本政府は財
政支援しなかったとのことだが、最初の健診の
資金は誰が出したのか?」などであった。この
内、被爆者数については、河野団員から広島市
に問い合わせていただくことになった。
■ サンフランシスコ 日目(シアトルに出発)
月 日昌は、午前 時にホテルを出て、空
港に向かった。空港には、遠藤会長、マリコさ
んなど被爆者の方 名と、ジェリーさんが見送
りに来てくれていた。
早速、ジェリーさんのチェックのサインを修
正し、マリコさんに修正したチェックを渡し、
柳田のサンフランシスコでの仕事は、すべて終
了した。 分あまり、被爆者の方々やジェリー
さんと世間話をした後、午後 時 分の飛行機
で、 時間弱かけてシアトル・タコマ空港に到
着した。
空港から車で 分かけて、シアトルのダウン
タウンにあるルネッサンス・ホテルに移動した。
ホテルには、被爆者であり健診の世話役でもあ
る、ジーン・フジタさん、リクコ・タナカさん、
キヨコ・ナカニシさんが出迎えておられた。夜
は、 名の被爆者の方々と夕食をともにした。
歳になるジーンさんは、長年野菜や果物の
買い付けを仕事にしておられ、
「毎朝 時から買
い付けに出かける。しんどいのでもう辞めたい」
とのことであった。ちなみに、ジーンさんのお
母さんのメリー・フジタさんは、被爆者協会の
世話役を長くされていたが、 年前に 歳で亡
くなられた。「自分の家系は、長生きをする家
系」なのだそうで、当分仕事は続けられるので
はないかと思われた。
またジーンさんから、「どうやって、広島の
医師会は何人もの医者をアメリカに派遣できる
のか?何故広島の医師会や広島の病院は、自腹
を切ってまでこの事業を続けるのか?」との質
問があった。
「それが広島の医師や病院の使命で
あると思っているから」と説明したが、米国人
的には、なかなか理解しづらいことのようで
あった。
ホテルに帰って、ヒライ記者への返信メール
も書いた。河野団員からのデータ「平成 年
月 日現在の被爆者手帳所持者数、在外を含む
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
全国:
, 人、うち広島市: , 人」を
示し、在外が , 人くらいと考えれば、日本国
内は
, 人くらいではないかと答えた。また
発癌については、放影研の Gy(グレイ)当
たりの各悪性腫瘍の相対危険度を示し、北米健
診の開始時には、資金はすべて広島県医師会が
支出したと書いた。
r
i
さんから、陣中見舞いとともに、子ど
また Ge
もや孫の健康への被爆の影響を心配している被爆
者がいるというメールを受け取った。「 世につ
いては、放影研のデータにも差は出ていないし、
自分も 世で両親とも被爆者で、いずれも癌で亡
くなったが、自分自身を含め子どもたちや孫への
健康影響を心配したことはない」旨、返信した。
ネット・メール社会になり、大変便利には
なったが、メールの処理のための睡眠不足は、
こちらに来ても解消されないようである。
■ シアトル
日目
キング郡医師会を表敬訪問
月 日昭は、午前 時 分から、柳田、津
村副団長、中元団員、篠田団員とジーンさんの
名で、市内にあるキング郡医師会を表敬訪問
した。表敬訪問の日は、当初 日で依頼してい
たが、同医師会が財政難のため、金曜日はク
ローズ(休日)としており、やむなく木曜日と
なっていた。ちなみに、医師会の建物も、レン
ガ造りの小ぶりな 階建てであった。
応接室で、リチャード・E・ベンシンガー会
長、チャールズ・ハーニー事務局長、クリス
ティーナ・ラーソン事務局次長と懇談した。例
によって会長は初対面であったが、局長と次長
には面識があった。
型通りの挨拶の交換に続き、ベンシンガー会
長から、北米健診の経緯などについて質問があ
り、諸々説明した。そしてこれまでと同様に、
話題や質問は津波や原発事故のことに変わって
いった。サンフランシスコと同様な説明を繰り
返しながら、「建屋の地下やプールに溜まった
大量の高度汚染水を、セシウム吸着フィルター
を通して、原子炉の冷却水としてやっと循環さ
せることができるようになった。チェルノブイ
リ並みの原子炉の暴走はほぼ回避できたと思う
が、解決に向けた入口に入ったばかりである」
と説明した。また、津波の被害について説明し、
東北人の我慢強さや優れた倫理観についても強
調した。
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
キング郡医師会表敬
総領事館を表敬訪問
午後 時からは団員全員で、ダウンタウンに
ある在シアトル総領事館に、大田清和総領事と
中島健領事を表敬した。
大田総領事の挨拶に続いて、柳田も型通りの
挨拶を行った。いつもなら、ここから自由懇談
になるはずだったが、大田総領事は質問を列記
したメモを取り出して、矢継ぎ早に質問が始
まった。
「広島県医師会が在北米被爆者健診を始めた経
緯は?米国に何人の被爆者がいるのか?北米以
外にも在外被爆者はいるのか?どこの国に何人
いて、どの団体が健診をしているのか?この事
業に外務省はどの程度かかわっているのか?以
前のデータに比べて、何か変わった傾向はある
のか?在外と日本国内で、データの違いはある
のか?…」などなど、本健診の記者会見などで
よく聞かれる質問の大部分が網羅されていた。
これらに一つひとつ答えていき、やっと終わ
りかけたと思ったが、質問はやはり福島のこと
に移った。大田総領事いわく、
「自分たちは放射
線の専門家でもないし、本国から何の情報も与
えられていないにも関わらず、いろいろな質問
を受けて困っている。ここ米国のメディアは、
まるで日本全体が放射能で汚染されているかの
ごとく、日本の牛肉のすべてが放射能汚染して
いるかのごとく放送する。実際に、米国から日
本への渡航者は、激減している」
これに対して柳田が、福島の放射能汚染につ
いて諸々説明した後、「『汚染の程度は非常に低
い』と専門家が説明すると、メディアは『絶対
安全なのか?』と聞く。
『何かが起こる可能性は
ゼロとは言えない』と言うと、可能性があると
ころだけが強調されて報道される。しかしなが
ら、専門家としてはこう言うしかない。すでに
号)
年(平成
年) 月
日(
)
避難指定区域から避難している人に関しては、
ほとんど影響はないと思うが、区域内あるいは
その周辺に長期間住んで、そこで採れたものを
食べ続ければ、なんらかの影響が出るかもしれ
ない。また、外部被曝に関しては、ある程度予
想はつくかもしれないが、内部被曝はホールボ
ディー・カウンターでなければ測定できず、大
きい機械で場所や時間をとり、その測定がやっ
と始まったところである」などと説明した。
当初 分程度の面談を予想していたが、終
わってみると 分かかっていた。国外では、日
本国内以上に正確な情報が不足しており、その
ためネガティブな情報のみ強調されて報道され
ているようであった。柳田としては、サンフラ
ンシスコに着いて以来、日本語で 回と英語で
回、長時間の説明をしており、短時間の説明
も ~ 回行った。津波や原発事故の話には、
やや食傷気味ではあるが、さらに英語で 回程
度は長時間の説明をする必要があるような気が
した。
シアトル 総領事館訪問
■ シアトル 日目(昼食会と健診の準備)
月 日晶は、午後 時から、健診会場であ
るパシフィック・メディカル・センター(パッ
ク・メド)で、健診のボランティアでもある約
名の同センター職員と、遅い昼食をともにし
た。この 名の中には、医師や看護師も含まれ
ている。
全員と名刺交換をした後、リンダ・マーゾナ
所長から歓迎の挨拶があり、柳田がお礼の挨拶
を行い、各人軽い昼食を食べながら、思い思い
に談笑した。ここでもやはり、津波や原発事故
の質問が出たので、
「津波に破壊された街の復興
は、遅々として進んでいない。福島も同じであ
るが、最近明るい兆候も見えてきている」など
説明した。
前回の健診時には、パック・メドのビルの
階より上は、すべてネット販売のアマゾンに貸
しており、その収益の .億円を貧困層の治療費
(
)
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
昼食会
にあてているとのことであった。しかしながら、
昨年アマゾンが他のビルに引っ越してしまい、
階以上は現在空き部屋になっており、その分
収入が減っているのだそうである。
新しいコーディネーター
今回のシアトルでの健診では、スーパーバイ
ザーはリチャード・ルドウィック先生で、コー
ディネーターはルエラ・ブラウンさんであり、
健診のセットアップの大部分は、ルエラさんが
行ってくれた。ルエラさんは、子どものころ両
親とともにフィリピンから移住して来た方で、
まったくナチュラルな英語を話す。タガログ語
(フィリピン語)も話せるため、同センターで、
英語とタガログ語の通訳を兼ねた仕事を、 年
間続けているという。
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
ラさんは、すでに本健診に何度も参加して状況
を良く理解していたが、 ヵ月かけてこの膨大
な資料を読み込んで、健診の準備に臨んだとい
う努力家であった。
今回の健診へのボランティアとしての参加を、
ルエラさんがパック・メドの職員に呼びかけた
ところ、多数の手挙げがあり、そんなにたくさ
んは必要ないため、ルエラさんがその中から
数人を選んだのだという。
聞いたところによると、これまでにパック・
メドに被爆者が受診したことはないだろうとい
う。精神科のショート先生は、ボランティア精
神のみでこの事業を引き受けられ、パック・メ
ドのスタッフがそれを支えてきたのであろうと
思われる。その先生が、信頼できる後継者とし
て、リンダさんを指名し、医師ではないリンダ
さんが熱心に続けられ、そのリンダさんが信頼
できる後継者を指名し、ルエラさんがその期待
に答えたということである。
このように、柳田には信じられないような、
献身的な人々の存在とそのつながりで、シアト
ルの健診は支えられてきたのである。ルエラさ
んとパック・メドのスタッフがいる限り、例え
シアトルの被爆者がさらに高齢化しても、シア
トルでの健診は当分の間問題なく遂行できるも
のと思われた。
健診会場の準備
柳田団長の横がルエラさん
シアトルでの健診は当初、パック・メド勤務
でスーパーバイザーのデニス・ショート先生が
健診のコーディネーターも兼ねていた。この医
師の引退時に、同医師からリンダ・エレミック
さんにコーディネーターの仕事が申し送られ、
リンダさんの大変熱心な行動力で、この健診は
年以上支えられていた。今回リンダさんが、
ご主人の転勤の都合でピッツバーグに転居に
なったため、リンダさんがルエラさんを次の
コーディネーターに指名し、これまでの健診に
関わる膨大な資料をルエラさんに渡した。ルエ
昼食後、早速健診会場の準備を始めた。今回
の会場は、パック・メドが新たに建て増して、
まだ使い始めていない外来棟であり、 数室の
内の 室あまりを使うことにした。
ルエラさんをはじめ、ボランティア全員に手
伝っていただき、各診察室や採血室・心電図室
などや導線を決めていった。ルエラさんは、大
変明るく活動的な方で、どんな細かい質問や依
頼に対しても、ただちに動いていただき、会場
の準備は瞬く間に終わった。
今回の会場は、診察室の設備も最新であり、
診察台も足踏みスイッチの電動で大変使いやす
か っ た。ま た 心 電 図 は、本 体 の 大 き さ が
c
m× c
mくらいで厚さも薄く、USBでパ
ソコンにつないで解析するという優れ物であっ
た。
■ シアトル
日目(健診初日)
月 日松は、午前 時 分に健診会場に着
いた。健診会場には、ルエラさんなどのボラン
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
健診受付
ティアの方々とともに、数名の被爆者の方々が
すでに到着しておられた。
各自の持ち場の準備と確認を行った後、健診
業務はスムースに流れ出した。ところで、シア
トルは人数が少ないのではあるが、やはり朝一
番の時間帯は受付が込み合う。中元団員と篠田
団員ならびにボランティアの方々も受付業務に
忙しく立ち働いていたが、しばらくすると落ち
着いた。また心電図の一部に、電極の付け間違
いや基線の揺れの激しいものなどがあったため、
心電図の出来栄えは必ず内科医が確認し、問題
があれば取り直すということになった。
ところでこの日の午前中は、健診の流れの確
認や、ボランティアからの諸々の質問に対する
答えと指示を行った後、柳田はもっぱらマスコ
ミ対応にいそしんだ。
まず、午前 時にABC系列の Ko
mo (
チャンネル)のクルーが、テキサスからやって
来た。はじめに廊下で、本健診の意義などを質
問し、柳田が答えるというシーンを撮影した後、
柳田が被爆者を診察しているところを撮りたい
という。ジーンさんが候補者を探してきてくれ、
OKをいただいて診察室に入ったが、見覚えの
ある方であった。
歳の被爆者の男性は、引退した歯科医で、
柳田の先輩医師の叔父に当たる方である。名前
は良く存じ上げており、以前の健診でお見かけ
したこともあった。TVカメラやインタビュ
アーの前にも関わらず、物おじせず余裕の表情
で、自身の被爆体験や福島原発事故への危惧な
どを述べられた。
「被爆時、郊外の軍需工場に動
員されていたため、助かった。他のクラスは皆
市内にいて、ほとんど亡くなっており、自分は
本当に幸運だった。 歳の現在も、病気は持っ
ているがこんなに元気であり、大変幸運だと思
う。明日のことは分からないが、今のところO
Kだ」と、非常に前向きな発言であった。
号)
年(平成
年) 月
日(
)
続いて柳田の番になったが、
「この健診意義は
何か?被爆者に癌はどのくらい増えているの
か?」など、質問が続いた。健診の意義・広島
県医師会の関わり・放影研の悪性腫瘍の相対危
険度のデータなどについて説明した後、マスコ
ミに対するサービスの意味も含めて、被爆 世
である旨説明し、柳田個人の話をした。
「被爆し
た近親者 人の中で、 人が癌で 人が白血病
で亡くなったが、自分にはそれが被爆によるも
のか否かは分からないし、これは誰にも分から
ない。しかしながら、癌や白血病になる確率は、
普通の人より高かったのではないかと思う」と、
被爆者と発癌の関係に関する例示のような説明
にした。
引き続き、この男性受診者の持参による検査
データのコピーを見ながら、柳田が各項目につ
いて説明するくだりが撮影され、 分にもおよ
ぶ Ko
mo の取材は終了した。
やっと理学所見が取れると思っていたら、今
度は地元の有力TVである Ki
ng ( チャンネ
ル)のクルーが、同じような取材をさせて欲し
いと入って来た。くだんの男性被爆者と柳田に
同じような質問をし、 人で話しているところ
も撮影し、 分くらいで終わった。
さらに、Fox系列の地元TVである Chan
nel ( チャンネル)が入って来て、 人に
矢継ぎ早に質問し、 分くらいでサラッと出て
行った。やっと解放されたので、理学所見を取
り、各疾患について再度説明し、男性の甥に当
たる柳田の先輩医師によろしく伝える旨を述べ
て、 時間 分の診察は終わった。
診察室を出ると、日系紙である北米報知の
Kyo
koNo
z
a
wa記者が待っていた。英語より日
本語の方が得意な方であり、もっぱら日本語で
の会話になった。本健診の背景など基本的なと
ころからの質問であったため、被爆者協会が
年にロサンゼルスにできたことから始め、
健診依頼が広島県医師会にやって来るまでの経
緯や、
年に健診が始めるまでの問題解決方
法、南米健診が始まるまでの経緯、韓国被爆者
についてなど説明した後、北米をはじめとする
被爆者健診の目的と成果を説明した。もちろん、
研究やデータ集めが目的ではなく、広島の医師
が被爆関連の問題を自分たちの使命と考えて
行っていることも説明した。この取材も 時間
以上かかり、終わったのは昼をはるかに過ぎて
いた。
この間、健診は順調に進んだ。前回は、バン
クーバーからバスで参加する 人は、国境の通
(
)
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
過に時間がかかったり、休み休み来たため、午
前 時ころに着く予定が、午後 時過ぎの到着
になった。今回は早く出て、ノンストップで
走ったため、バンクーバーからの 人は、午前
時に到着した。ゆえに、参加者はすべて午前
中に来場し、昼過ぎには全員の健診が終了した。
結局この日は、 世 人を含む 人が受診した。
終了後は、ボランティアのスタッフと昼食を
食べながら、健診の話や世間話などで盛り上
がった。
■ シアトル
日目(健診
日目)
月 日掌は、午前 時 分に健診会場に着
いた。この日は受付での停滞もあまりなく、マ
スコミの取材もないため、健診は午前 時から
トップギアで始まった。この日は、不定愁訴を
多数訴える被爆者が数名あり、各科で時間を費
やしていたが、なんとか昼過ぎには終了した。
結局この日は、 世 名を含む 名の受診が
あり、 日間の合計は、 世 名を含む 名で
あった。シアトルでは、新たな受診者はなかっ
た。また、サンフランシスコとシアトルの合計
は、 ・ 世 名を含む
名であり、新たな受
診者は 名であった。またその内訳は、男性
名、女性
名と、女性が多い傾向は変わらな
かった。
ところで、河野団員と森団員による行政相談
は、当初サンフランシスコより少ないと予想して
いたが、実際は 日間で 件とサンフランシス
コより多く、渡日治療の希望もシアトルの方が
多かったため、 名の団員ともずっと相談にか
かりきりであった。
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
長い時間の放送であったという。また、健診会
場に着くと、ボランティアの 人から、今朝の
ニュースに出ていた旨告げられ、握手を求めら
れた。
そうしていると、ルエラさんが、Go
o
gl
e経由
で Ko
moNe
ws
.
Co
m のホームページにある今朝
のニュースの動画を見つけてきた。どうも、 “Hi
r
os
hi
mas
ur
vi
vor
sgets
pec
i
alc
hec
kupsi
n
Se
a
t
t
l
e
”というタイトルで、昨夕と今朝の 回
放 送 さ れ た よ う で あ る。 分 程 度 に お よ ぶ
ニュースは、男性被爆者の被爆時の状況に関す
る話に、廃墟と化した広島の映像などを挟みな
がら、柳田が持参の検査データについて説明し
ているところや、被爆と発癌について話してい
るところなどを映し、男性被爆者の福島原発事
故に対する危惧に触れ、最後に男性被爆者の
「被爆時に生き残ったこと自体、幸運だと思っ
ているし、現在も病気はあるものの、年齢の割
に元気なのは幸運だと思っている」という前向
きな言葉で結んでいた。
Komo ニュース
Komo ニュース
行政相談風景
また、昨日の取材のアウトカムについては、
朝ホテルを出る前に、河野団員が、本日朝 時
分から、柳田と男性被爆者などがABC系列
のニュースに出ていたと知らせてくれた。結構
ボランティアの一部には、ニュースに登場し
ていた人もあったが、自分たちがサポートして
いる健診が、テレビニュースに取り上げられた
こと自体を、皆誇りに感じているようであった。
午後には、皆で昼食を取りながら、健診の無
事な終了とお互いの働きに対するねぎらいなら
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
びに別離の言葉と再会の期待などについて語り
合った。
PMC集合写真
■ シアトル
日目
月 日捷は、健診予備日であったが、特に
遅れて参加する被爆者もないため、自由時間と
した。これまで行けなかった場所に行ったり、
買い物をしたりなど、皆思い思いに街を散策し、
シアトルの街への名残とともに、 週間の快適
な気温への名残を惜しんでいるようであった。
ところでシアトルの天候は、 年のうち ヵ
月間は天気が悪く、いつも曇天で時々霧雨が降
るものの、 月と 月は抜けるような青空が続
くのが常であった。しかしながら本年は、サン
フランシスコと同様に、シアトルも異常気象ら
しく、曇り時々雨という天気が多く、気温も
~ ℃くらいと低めであった。しかしながら、
健診日の土曜日と日曜日は雲ひとつない本来の
夏に戻り、気温も ℃ほどに上がった。湿気が
ないため汗も出ず、長袖シャツでちょうど良い
快適さであった。
一方今回の健診団の印象としては、とにかく
良く歩く団であった。食べるのも良く食べたが、
それを消費するに足る歩行時間であった。文章
書きなどでホテルにこもりがちの柳田を除いて、
全員が寸暇を惜しんで歩き回った。サンフラン
シスコもシアトルも、基本的には碁盤の目構造
であり、地図さえあればどこにでも歩いて行け
号)
年(平成
年) 月
日(
)
るのである。
空いた時間が 時間あれば、すぐに周囲のダ
ウンタウンへ散策に出かけ、 時間もあれば
分以上かかる場所まで行ってしまう。中には、
サンフランシスコの急なアップダウンをものと
もせず、片道 時間以上かけて目的地まで往復
したつわものもいた。
このように自分の足で歩くと、街の地理のみ
ならず、街の雰囲気も良く分かり、その街に、
より親近感を持つようになる。シアトルの健診
終了日のご苦労さんの夕食会などは、レストラ
ンの名前と番地と集合時間を知らせたのみで、
全員ばらばらに街に出た後、時間どおりに夕食
の場所に集合していた。
■ 広島に帰るぞー
月 日昇は、柳田と中元団員とで、午前
時にタクシーでホテルを出てパック・メドに向
かい、ルエラさんから検査データのコピーの束
を受け取った。お互いの健闘をたたえ合い、
年後の再会を期して別れ、ホテルに戻った。
午前 時半ころ、ジーンさん、リクコさん、
キヨコさんに見送られてホテルを出発し、午後
時 分の便で成田空港に飛んだ。翌 日昌の
午後 時過ぎの定刻に成田空港に着き、午後
時半の便で成田空港を飛び立ち、午後 時過ぎ
には広島空港に無事到着し、県医師会事務局の
出迎えを受けた。森団員については、福岡空港
経由で長崎に無事到着したということであった。
帰国後は、いつもの多忙な日常が続いている。
翌日には本健診についての記者会見があり、H
ICARE関連の行事もあり、 月 日にはI
PPNW関連の大阪での講演を引き受けており、
PPTも帰国後に作り始めている。
今回 週間という長丁場、健診をはじめとす
る諸々の行事に活躍いただいた団員の皆さまに
心からお礼申し上げるとともに、サポートいた
だいた県医師会や各団員の派遣施設長の皆さま、
柳田の留守を守っていただいた広島市医師会運
営・安芸市民病院の先生方に深謝申し上げる。
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