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武士は食わねど高楊枝 - タテ書き小説ネット

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武士は食わねど高楊枝 - タテ書き小説ネット
武士は食わねど高楊枝
一森 一輝
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
武士は食わねど高楊枝
︻Nコード︼
N1872BU
︻作者名︼
一森 一輝
︻あらすじ︼
プロポーズを予定していた日、若者は化け物じみた力を持つ少年
に殺された。そして転生を経て、この世界が生前好んでいたファン
タジー的世界であることを知る。だが、文字に触れるたび、妙な違
和感を突き付けられた︱︱そんなある日、父の剣の稽古を受けるべ
く向かった道場に、﹃武士は食わねど高楊枝﹄と記された、掛軸が
あることを知った。
1
︱︱亜人という存在と彼らが持つ﹃魔法﹄という技術によって、フ
ァンタジー化を遂げた地球の見聞録。
※注意 この作品にはそれなりに鬱展開が存在します。一章はほと
んどありませんが、二章、三章での落差にご注意を。また、主人公
の一章交代が存在します。アクロバティックな進行をしますので、
その点だけご留意ください。
2
プロローグ
その日は、プロポーズの日だった。
若者は、鼻歌を奏でながら跳ねるような調子で歩いていた。デー
トの待ち合わせ場所へ向かうのである。服装は硬すぎず、しかし会
社に着ていくには上品なスーツだ。少々夕食で奮発すると言ってあ
ったから、彼女も少し察しているかもしれない。
カバンの中には、指輪が入っている。最近のダイヤは安いものが
あるが、若者は定石通り給料三か月分の物を選んだ。ぴったりの値
段だったのだ。運命であったとしか思えなかった。
待ち合わせ場所は、いつも通り駅から斜向かいの本屋に決めてい
た。もっとも、普通なら中に入って何か目ぼしい小説を探すのだが、
今回はそういう気分ではなかった。だから、店頭で立ち尽くしてい
る。こんなのも、偶にはいい。
若者も彼女も、本好きだった。出会いは理系で有名な大学のサー
クルの飲み会の中、少々の疎外感が切っ掛けで仲良くなったように
思う。共通の好みのジャンルは、ファンタジー。なんだか子供っぽ
いと、お互い笑ったのを覚えている。
自分が一番好きなジャンルは剣豪小説で、彼女の一番好きなジャ
ンルはミステリー。二番目がどちらもファンタジーで、三番目は互
いの一番を交換したような具合となっていた。
多分、それが大きかったのだ。本好きで一度盛り上がり、﹃ブレ
3
イブ・ストーリー﹄で二度目に盛り上がり、更に﹃眠狂四郎無頼控
え﹄、﹃匣の中の失楽﹄と続いた。
あの時は、酒の事もあり二人ともおかしかった。思い出すだけで
懐かしくもあって、顔が熱くもある。
見渡して彼女が居ない事を知った。時間は五分前。暇を持て余す
のもなんだったから、持ってきた小説を読むことに決めた。古本屋
で、少しボロけた不思議な表紙につられて買ってしまったのだ。内
容は分からない。買った本ではあまり後悔しないタイプだから、別
にどんな内容でも良かった。
彼女もこの本を持っていて、何でも主人公がすぐに死んでしまう
のだという。語り手と主人公が別なのかと聞けば、﹃読めば分かる
よ﹄との事だった。酷いネタバレだとも思ったが、若者はあまり気
にしない性質である。
読み出し、確かに主人公がすぐに死んでしまった。ページをめく
りながら、推理小説だろうかと目星を付けた。語る彼女の様子が、
意気揚々として可愛らしかったからだ。頬を上気させ、身ぶり激し
く語るのである。
だが数ページ後、主人公は生まれ変わりを果たしていた。
吹き出す若者。思わず、口をあんぐりと開けてしまっていた。理
解に数秒を要し、その後に騙されたと口の中で呟く。そういう絡繰
りか、と小説をななめ読みする。
主人公が生まれ変わった先は、いわゆるファンタジー世界という
奴だった。しかも、現実の地球に即したところがある。﹁こんな小
4
説が﹂と言葉を漏らして、一番後ろのページを開く。今年に出た初
版だったらしい。
﹁結構最近じゃないか﹂
言って、集中力の途切れに一度彼女の影を探し、時計を見た。ま
だ三分ある。彼女は時間ぴったりに来るのが趣味なので、再び本に
視線を落とした。三分なんてアッという間だ。
その時、身を竦ませるような轟音が聞こえた。瞬間、躰が怯えた
ように微動した。しかし、本からは目を離さなかった。目の前の高
いビルには、大画面で何かの宣伝をやっている。恐らくそれだろう
から、気にするまでもなかったのだ。
しかし、通りがかりの人にぶつかられては若者も黙ってはいられ
なかった。取り落とした本を拾いながら、文句を言おうとして顔を
上げた。
そこには、喧騒があった。
煙が、上がっている。その元には車があった。高価そうなデザイ
ンだったが、見るも無残にひしゃげていた。ぽかん、と若者は口を
開ける。大きな十字路の、中心。他の車は危機を察してその前で止
まっていて、煙を上げる一台が事故に遭った理由が分からなかった。
﹁⋮⋮とりあえず、通報した方がいいのかな﹂
距離的には近いはずだが、感覚的には遠かった。突飛な出来事は、
近くにあっても別世界、という気持ちがある。平和慣れした、日本
人独特の感覚なのかもしれない。
5
110に電話を鳴らしながら、煙を上げる車を眺めていた。中の
人は大丈夫なのだろうか、と心配になる。その時、車が破裂した。
部品が弾け飛び、通りがかりの数人に当たった。
若者の目の前で、一人の男性がザクロの様に潰れた。
﹁⋮⋮うわ、うわ、うわ﹂
あまりの非日常性に、目を剥いて後ずさった。電話を落としてし
まい、慌てて拾い上げる。それにしても、繋がるのが遅すぎた。し
ばし待つも答えは来ず、誰かが通報しているだろうと苛立ちにコー
ル音を切った。
電話に向けていた視線を上げると、煙を上げている車の近くに少
年がいる事に気付いた。おや、と思う。次の瞬間、絶句した。彼は、
人間の頭らしきものを持っている。
どうやら、五十代くらいの男性の物の様だった。その下からは、
綱のように伸びる黄色い何かがある。
背骨だ、と何故か分かった。
﹁⋮⋮え? 映画の、撮影?﹂
戸惑いのあまり、そんな事を思った。撮影現場に、たまたま居合
わせてしまったのではないかと。少なくとも、現実にこんな事が起
こるよりかはあり得る話だった。
だが、そこら中に満ちる鉄臭さが、現実であると断言していた。
6
突拍子のない状況に恐慌状態に陥りかけるが、寸前で思い至った。
もうすぐ、彼女が来る。
慌てて、腕時計を見た。もう、一分を切っている。視線を巡らす
と、三十メートル先に青ざめ、泣きそうな表情をした彼女を見つけ
た。
そして騒動の中心に居た少年が、こちらを見ていることに気付い
た。
今度こそ若者はパニックを起こした。逃げろと言えば、彼女にも
注目が行くかもしれない。
だが、このままでは彼女は逃げ出さないかも知れなかった。若者
がここにいるかもしれないという理由が、彼女を縛る可能性は高い。
彼女は、優しいのだ。
少年は、充血した赤い瞳をこちらに向けて、ぶつぶつと何かを呟
いている。そして、少しずつ近づいて来ていた。そこで若者は、震
える手で携帯を取り出した。
メールで、彼女への文面を開く。そこにこう記した。
﹃ごめん。風邪ひいちゃったから、今日のデート、無かった事にし
て﹄
書いていて、涙が零れた。プロポーズの事も記したかったが、そ
んなことをすれば彼女はきっと感付いてしまう。俯きながら、祈る
7
ように送信ボタンを押した。手の震えのあまり、携帯を落としてし
まった。若者は、携帯を拾わなかった。
少年が眼前に立っている。睨み付けて、問うた。
﹁何で、こんな事を﹂
﹁⋮⋮﹂
少年が何を言っているのかは、若者には到底聞き取れなかった。
細かな羅列は、ただ劣等感と狂気にまみれている。振動音が、若者
の耳に響いた。それから、視界が真っ黒に染まった。
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1話 ファンタジー
真っ暗で、しかし暖かな場所で漂っていた。
だが、それも唐突に終わった。
辺りには、幸せが満ちている。何故かそんな風に思ったが、すぐ
にそんな雰囲気が変化し始めた。
幸せの代わりに、焦燥がその場に満ちた。
足を力強く持ち上げられる。抗う事は出来なかった。臀部に走る
痛み。思わず声を上げると、困惑が辺りを包んだ。
瞬間、口をふさがれる。呼吸の出来ぬ苦しさに悶えると、拘束が
解かれ更に周囲の困惑が大きくなったように感じた。
湯につけられ安堵する。何となしに目を開けると、白い部屋が目
に入った。
病院だ。と何故か直感した。
事実は小説よりも奇なり。と言うが、まさか小説の通り生まれ変
わってしまうとはついぞ夢にも思わなかった。
そんな事を、元、若者は思う。
9
だが周囲を見渡す限りでは、おおよそファンタジーには見えない。
現代医療、と言う言葉が思い浮かぶ程度には現代的だ。
そんなことを考えるのは死の直前まで読んでいた小説のせいだろ
うか。
と、元若者は思っていた。
だが母親らしい人物を見て、おや、となる。見事に整った顔立ち
はいい。遺伝的に有難い。しかし混じり気なしの真っ白な髪に、同
じように白い肌だ。アルビノと言う言葉が浮かぶが、その眼の色は
蒼天を思わせる気持ちのいい青色である。
こんな人間がいるのかと手を伸ばすと、母親は微笑んで元若者の
頭を撫でた。むず痒く、拒否すべく動こうとした時に、気付いた。
母親の背中辺りから、羽らしきものが生えている。
雲行きが怪しくなってきたぞ。と元若者は思った。ともすれば、
髪から眼、ひいては翼まで、全てコスプレという想像に至る。しか
も見た瞬間に違和感を抱かない程の熟練度だ。その翼さえ様になっ
ているのだから恐ろしい。
仮にも人の母親が、しかも産婦人科の病院で、である。
訝しく思いながら機会を見て鏡で自らの姿を見たところ、自分の
髪は見事な黒色であった。まずい、と思ったが、目の色は青であり、
そこ辺りはちゃんと遺伝なのかと安心した。
まさか、眠っている我が子にカラーコンタクトを入れるほどのア
ホではないと信じたい。
10
優しそうな笑みがどこか歪んで見えるのは、気のせいだろうか。
しかしそうなると、自分の国籍は何処になるのだろう、と元若者、
赤子ながら一丁前に考えた。
周囲の人間は、全員が流暢な日本語で話している。母もそうで、
だがその容姿は明らかに日本人ではない。
恐らくは父親が日本人なのだろう。と見当を付けた。
生まれて初めて、父親に会った。
というのも、ちょくちょく来ていたのだがその度に元若者は眠っ
ていたのだという。
そもそもこんな生まれたばかりの時期から目が開いているのは異
常だという話を聞いて、基本的には目を瞑り、必要な時に限り薄目
を開けるという体制を初日から取り始めたのだが、その所為かそれ
以前に赤子の体のせいか、そのまま眠ってしまうという事が多かっ
たのである。
父は、厳格そうな顔つきだった。
切れ長の目をしていて、口を一文字に結んでいる。更には渋い着
物を着ていて、江戸時代か、と元若者、内心で突っ込んだ。イケメ
ンだな、と思うよりも前に、恐そうだと言う印象を受けた。
けれど、恐いだけという事でもないらしい。元若者を抱き上げた
時、ふっとほころばせた表情が非常に魅力的である事を知った。こ
れはモテる。と元若者は少しだけ恨めしくなる。
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というか、この父ならば妻のコスプレという奇行を真っ先に切っ
て捨てそうなものだったが、何かを言う様子もない。
もしかしたら強そうなのは外見だけなのか。
また、父は数回に一度赤子をその胸に抱いてきていた。
一歳上の、姉、であるらしい。
生前兄弟の居なかった元若者には、少々新鮮だった。話を聞くと
ころ白羽と言う名前らしく、しかし髪の色は黒い。しかも眼の色が
父親譲りの日本人らしい茶色である。
こうなると、カラーコンタクト説がかなり現実味に帯びてくる。
そしてそれは大変なことだ。
おい父親、しっかりしろ、と思ったが、偶然居合わせた女性の看
護師のミスで赤ん坊の元若者の上にカルテが落ちてきた時、父はや
っぱり恐いのだと知った。
ものすごい剣幕だったように記憶している。しかも、声を荒げて
いないのだ。看護師は涙目で震えきってしまい、紆余曲折の末院長
が土下座して、父がそこまでする必要は無かったとバッサリ切って
捨てるという事になった。
確かに看護師は中々謝らなかったが、どちらかと言うと謝れなか
ったという方が正しいのだ。理由は父の恐ろしさに他ならない。し
かしそれを自覚していないらしく、ばっさり切って捨てた直後に母
に頭を引っ叩かれていた。
瞬間口論になったものの、最後に父は納得し院長に土下座して終
わるというシュールな結末に終わったが、それにより父と母の立場
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は対等で、しかも母は常識人かつしっかりした性格という事が分か
った。
その為、余計に母のコスプレの意味が分からなくなった。
元若者が自らの名を、総一郎、と知ったのはだいぶ遅い事に入院
の七日間が終わり、母と共に家に行く最中であった。
﹁そういえば、総一郎には翼が生えていなかったのか?﹂
そんな自らを抱き上げる父の言葉が、彼に自らの名を教えた。
と共に、元若者、もとい総一郎はぎょっとした。
﹁ええ。だから、小学校の魔法の授業も、普通の子と同じになると
思う﹂
﹁そうか。白羽とは違うのだな。⋮⋮しかし、生まれながらに炎と
光の属性の魔法は使える、と﹂
﹁うん、そういう事になるわね﹂
そうか、と父が相槌を打つのを聞きながら、この夫婦は一体何を
言っとるのだ、と総一郎は思った。しかし、会話の度に表情に合わ
せて形を変える母の翼を見ていると、総一郎はもしかしたらと思う
ようになる。
もしかしたら、日本語らしきこの言語は日本語ではないのかもし
れない。
もしかしたら、日本らしきこの国は日本ではないのかもしれない。
もしかしたら、地球らしきこの世界は地球ではないのかもしれな
13
い。
ファンタジーだ。と総一郎は死ぬ間際に呼んだあの小説を思い出
した。
14
2話 彼女
二歳のある日、総一郎は何故、自分は死に別れた彼女の事を思い
出さなかったのだろう、と思った。
髪が長くなり、ある程度ちゃんとした体形を得た三歳の姉、白羽
が、生前かつてアルバムで見た、読書好きの彼女の幼き姿に瓜二つ
であると気付いた瞬間であった。
総一郎は、とても早熟な子であると良く言われた。
一歳の初めには姉である白羽をあやし始め、二歳の初めの夏にク
イズ番組に食い気味に答えを呟いたのが露見し、家族中が騒然とな
った。
あの荘厳な父でさえ、目を丸くしていた。
逆に、姉である白羽は、少しだけ育ちが遅い、と言われていた。
しかし、と総一郎は思う。それはただ単に自分が前世の記憶を残
しているから早熟であるだけで、姉である白羽だって、成長は早い
方であると思う。
二歳丁度には片言ながら文章で話し、親譲りの気性の強さを見せ
つけた。我が儘をよく言ったが、その度に叱られ、その度にまぁま
ぁ上手い言い訳をした。だがその大抵が総一郎に罪を押し付ける形
になっていて、無言で総一郎が彼女の頬を抓ると、その上、父の雷
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が彼女の頭上に落ち、泣きに泣いた。
普通よりもしっかりしているだろうに、と総一郎は白羽の頭を撫
でる。大人しく撫でさせてくれるのは、いつまでだろうか、と思う
と、寂しくなる。
気付いたのは、そんなある日、白羽が、足の届かない椅子に座り、
本を読んでいる時だった。
口を尖がらせて、熱心に見つめている。ふと、総一郎は惹きつけ
られて、﹁白ねえ、何やっているの?﹂と聞いたところ、﹁お父さ
んの本読んでるの﹂、と返されたのだ。生憎と持ち手が逆さまだっ
たが、その姿が、総一郎には妙に懐かしかった。
そこで、思い出した。
死ぬ間際、恐怖に歪んだ彼女の泣きそうな表情。血の臭い。音を
立てて昇る炎。そして、あの少年。
息を呑んだ。何で忘れていたのだろう、と思った。思って、総一
郎は、今更になってから、恐怖のために泣きじゃくった。
生まれて初めての総一郎の号泣に、家族の内の、誰一人それを宥
めることが出来なかった。
それ以来、総一郎はふさぎ込むようになった。形無き何者かに怯
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えるようになった、と言っても、間違いはあるまい。母は悩み、父
も悩み、白羽だけは単純に不満そうに頬を膨らませた。
しっかりとしたといえども、まだ三歳。自分よりも一年新参であ
る総一郎が、両親の注目を一身に浴びている事に、嫉妬したのであ
る。
彼女の悪戯は多岐にわたった。玩具を壊しおしゃぶりを隠した。
しかし総一郎はその二つにまるっきり興味を抱かないので、結局、
辞め時を見失った悪戯の途中を母に見咎められて、諭されるように
叱られて泣いた。
次にトイレの鍵を閉め、裏窓から脱出するという妙に賢い悪戯を
仕出かした。総一郎が動くのはここ最近、トイレと食事と睡眠とい
う、動物染みた物のみになっていたため、それを読んでタイミング
よく行った。
しかし総一郎は二歳の為、漏らしてしまっても、今まで漏らさな
かった分かえって両親に心配されるだけで、逆効果だった。
そんな訳で、白羽は総一郎に対して、直接攻撃と言う手段に出た。
睨み顔で、白羽は総一郎の眼前に立っていた。腰に手を当てての、
母が起こる時の真似である。しかし三歳。最初に何を言えばいいの
かが分かっておらず、とりあえず﹁ダメでしょ!﹂と、総一郎に怒
鳴りつけた。
﹁⋮⋮何が、駄目なの?﹂
﹁何でも、ダメなの!﹂
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一層睨み顔をきつくするが、三歳児が怒ったところで可愛らしい
事には変わりはない。勝気そうな釣り眉がさらに上がっているのが、
たまらなく愛おしい。そういう無邪気なところが生前の総一郎の彼
女にどこか似ていて、総一郎が対応を嫌がらない相手は今の所白羽
だけとなっていた。
﹁そんな抽象的なことを言われたって、分からないよ﹂
﹁分かるの! 分からなきゃいけないの!﹂
ちゅうしょうてき、とはどういう意味かとすら考えない白羽は、
言葉尻だけを拾い上げて癇癪を起している。
総一郎は、中身自体は青年であるので、何とか彼女の思惑をくみ
取ろうと会話を続けた。
﹁白ねえは、今、何で怒っているの? 何が嫌で、そういう事を
言うの?﹂
﹁だって、お父さんも、お母さんも、みんな総ちゃんの所に居て、
私だけ、一人ぼっち⋮⋮﹂
言いながら、白羽、表情が泣き顔に歪んでいく。慌てて、﹁ごめ
んね﹂と総一郎は言うが、何が理由でそのようになっているかは、
彼自身にも自覚がない。
両親の気遣いが感じられると、すぐに自室に引っ込んでしまう為、
気を遣われているという自覚自体が、そもそもなかったのである。
だが総一郎は、白羽と話をしているだけで、少しずつ元気になっ
ていく。それも無自覚であったが、流暢に話す総一郎を見て、白羽
はふと、こんなことを言った。
﹁総ちゃん。何で、あんなに恐がってたの?﹂
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言われて、総一郎はどきりとした。こんな小さな子にも分かるほ
ど、自分は怯えていたのだと、事実を突きつけられた。
言うべきか悩み、小さい子にも分かるよう、噛み砕いた上で単語
を置き換えて、まごつきながら、告白した。
﹁大切な玩具が、あったんだ。他の玩具全てに代えても守りたい、
宝物だった。
だけど、他の玩具全てを上げたのに、玩具を壊す癖がある子に、も
しかしたら取られちゃったかもしれないんだ﹂
﹁取り返せばいいのに﹂
﹁取った子が、今何処に居るかも分からないんだ。⋮⋮ううん。違
う。別に、取られるだけなら、良いんだよ﹂
訝しげな表情で総一郎を見つめる白羽。取られた物は取り返すべ
きだと、勝気な彼女は思っている。また、父もそのように育ててい
たのである。
しかし、次に総一郎が言った言葉に、彼女は何故か総毛立つよう
な思いをした。
﹁その子が玩具を大切にしてくれれば、僕は満足なんだ﹂
俯き、震える声で言った総一郎の耳に、突如、大きな翼が羽ばた
くような音が聞こえた。しかも、虚ろだった目には、床越しに、目
が眩むほどの光が届いた。
思わず視線を上げて、総一郎は目を剥いた。白羽の体が、目映く
19
光っている。そして、その背中からは、見事な翼が生えていた。
﹁な、何? それ⋮⋮﹂
戸惑いながら言った総一郎の頬にその小さな手を当てて、白羽は
優しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと笑いかけた。
その瞬間から、白羽の事が総一郎には生前の彼女にしか見えなく
なってしまう。ぽろぽろと零れ落ちる涙に、総一郎は戸惑った。そ
んな彼を、白羽は優しく抱き留め、こんなことを言った。
﹁ありがとうね、メール。私の事を、助けてくれようとしたんでし
ょ?﹂
えっ、と総一郎は白羽の顔を見た。彼女の表情は白羽の物でなく、
完全に彼女の物に変わっていた。
﹁ち、違うよ。俺はただ、デートの時に風邪をひいちゃっただけで、
﹂
﹁貴方は、寸前で断りを入れるような人じゃない。ただ、プロポー
ズの事だけは、言って欲しかったな。⋮⋮あんな別れ、悲しすぎる
よ﹂
彼女だ。と総一郎は確信した。彼女が、ここにいる。異世界に来
てしまった自分より一足先に来て、自分を待っていてくれたのだ、
と。
﹁でも、言ったら、君は感づくじゃないか。優しい君は、俺を助け
ようと考えるじゃないか。そんなことで君が死んだら、報われない
よ。だから、言えなかったんじゃないか。だから、言わなかったん
20
じゃないか⋮⋮!﹂
﹁そうだよね。ごめんね? 貴方、メールしながら、泣いてたよね。
怖かったもんね。だから私、助かったよ? 貴方が命を掛けてくれ
たから、私、助かったよ?﹂
彼女の表情は、くしゃくしゃに歪んでいった。それは、若者も一
緒だ。お互いに名前を呼び、抱き合って泣きじゃくる。
その日を境に、総一郎は元気を取り戻していった。
﹁天使の慰め、ですか?﹂
﹁ああ、そうだ﹂
父は、茶をすすりながら、そう言った。
今回の白羽の行動は、彼女の種族、﹃天使﹄に伝わる本能的な行
動の一つらしい。
﹁﹃天使﹄の血が白羽は強く、その証拠にあの子の背中には、小さ
な羽が生えていた。逆に、﹃人間﹄の血が強いお前には、羽が生え
ていない。この違いは幼い頃はほぼ無いも等しいのだが、今回の件
で大きく表に出た。
天使の慰め、というのは、天使の三大欲求の一つにも数えられて
いる、﹃求人本能﹄から来た能力と言っていい。効果は、対象とす
る相手が、もっとも言って欲しい言葉を、最も救いとなる仕草で言
う事だ。当然嘘も混じる事になるが、それを聞いても相手は憤慨し
ないとすら言われている。
その点、総一郎はどうだ?﹂
21
﹁⋮⋮確かに、嘘かもしれないと言われるとショックですが、怒る
気にはなれません﹂
﹁そうか﹂
平然と相槌を打ち、再び、父は茶を啜った。その後彼は、隣の扉
を一瞥する。総一郎の視線も、その後に続いた。
隣の部屋では、白羽は母から天使で居るために必要な事を教え込
まれているらしい。父は今しがた三大欲求の一つと言ったが、求人
本能は人間でいう性欲に匹敵するもので、この状況は、有り体に言
うとかなり早くに生理が来たような物なのだという。
﹁しかし、何で僕なのでしょう﹂
﹁何がだ?﹂
﹁何で、僕に対して、求人本能が起こったのでしょう﹂
家族の住むこの街は、都会だ。生前の日本よりも、文明が進んで
いるようにさえ思われる。その反面浮浪者なども居て、そんな人に
こそ求人本能が起こるのではないかと、総一郎は思ったのだった。
﹁総一郎、それは違うぞ﹂
しかし、父に否定されてしまう。
﹁そもそも、求人本能と言うのは、このように急激な開花をするも
のではないのだ。天使たちが、生きていくうちにゆっくりと芽生え
さえていく。そもそも天使と言うのは寿命が長い。これほど早くに
開花したとなると、正直将来が恐ろしいとさえ思える﹂
﹁では、何故開花したのですか?﹂
22
﹁それは、その必要があったからだ﹂
父は、総一郎の目を、真っ直ぐに見つめる。
﹁天使は、強く、優しく、英雄にさえ成り得る人間が深く悩んでい
る時、それに自然と惹き寄せられ、肉体的にも精神的にも距離を限
りなく縮めて、初めてこのような急激な開花をする。つまり、お前
はその条件に満たしていたのだ﹂
﹁いえ、そんな。僕なんか、優しいなんて言っても見捨てるのが怖
いだけですし、強くも、無いです。ましてや、英雄なんてありえま
せん﹂
﹁しかし、白羽は開花した﹂
父の一言で、総一郎は何も言えなくなってしまう。
それに、と付け加える。
﹁お前は見捨てるのが怖いと言うが、普通は逆なのだ。助けて、そ
れを裏切られるのが怖く、何もしないという場合が多い。その時点
で、お前は強さを持っている。それに、優しさもだ。
英雄的であるかは、まだ分からない。だが、今の世では、明晰な
頭脳さえ持っていれば、いくらでも世に名を残すことが出来る時代
だ。
今度、母さんに魔法を教えてもらいなさい。早いというかもしれ
ないが、私が許したと言えば、アレも譲るだろう﹂
それと、これだ。と父は木刀を総一郎に手渡した。
﹁これは⋮⋮?﹂
23
﹁桃の木の木刀だ。毎日それで、素振りをしなさい。手に馴染んだ
ら、稽古をつけよう﹂
嫌と言うなら、やらないが、と父は目を瞑りながら言う。しかし
総一郎、生前は剣豪小説を読みふけるほど、刀という物に惚れ込ん
でいる。
嵌ったのが社会人になってからの為、遅いと考えやらなかったが、
こんな幼少から稽古をつけてもらえるなら、願ったり叶ったりであ
る。
その目の輝きようを見て、父は﹁ならば、励め﹂といって、席を
立ってしまう。
木刀を見つめながら、総一郎は笑みと共に吐息を漏らした。
24
3話 母の魔法
引っ越しを終えて、総一郎と白羽は一息を吐いた。
とはいえ二歳児三歳児。手伝うどころか邪魔者扱いされ、荷物に
指一本触れさせてもらえなかったが、それでも慌ただしい雰囲気は
彼らにも伝わっていた。
そんな二人を見た白髪碧眼の母親、ライラは、ジトッとした目で
彼らを見ながら、こんなことを言った。
﹁本当に疲れたのはこっちよ﹂
そりゃそうだ。と、中身が二十歳越えしている総一郎は、こっそ
り苦笑いを浮かべた。
その村の名は、あつかわ村と言った。あつかわ。﹁かわ﹂は、恐
らく﹁川﹂が微妙に変形したのだろう、と推測できる漢字が当てら
れていて、しかし﹁あつ﹂に相当する漢字は物凄く複雑だった。﹁
中﹂がその漢字の骨格として使われているのも、妙に納得がいかな
い。
むぅ、と難しい顔をしながら、﹁あつかわ村へ﹂と書かれた、山
道に在りそうな古い標識を、総一郎を睨みつける。
︱︱この世界は、何なのだろう。
彼は文字を触れる度に、そんな事を思う。
25
例えば、﹁総一郎﹂という名は明らかに日本人の名前だ。姉であ
る﹁白羽﹂もそう。しかし母である﹁ライラ﹂は違う。完全に、外
国の名前である。
逆に、総一郎はいまだ父の名を知らない。知ればある程度の基準
が出来るだろうに、と歯がゆくなる。
彼がその名を知る人間は、自分含めてその三人だけなのだ。
自動翻訳なのか。と初めは思っていた。簡単に言えば、アメリカ
の﹁アンダーソン﹂さんが、自分の目や耳を通すと﹁下村﹂さんに
変わる。これは少々違う気がするが、ニュアンス的には、そんな風
に総一郎は考えていた。
けれど、母親であるライラの名を知って、違うのだと判断した。
地球と、似て非なる世界。そんな推論を立てた。だが、二歳児が
得られる情報は酷く少ないため、確かめる術がない。
とはいえ、効率的な情報源であるはずの、パソコンらしき端末は、
見つからない訳ではなかった。だが、操作方法が分からない。総一
郎が今の所パソコン的な物体であると見破った唯一のそれは、使用
しない時は布の様になっていたのだ。ぴん、と伸ばすと、硬質化し
てディスプレイを映し出すのである。
SFだ。と思った。生前では、数冊読んだ程度の、正直専門外の
分野だった。
だというのに、場所によっては︱︱たとえば、こんな田舎では、
標識が寂びれた木製であったりもするのだから、節操がない。
﹁総ちゃん? 何を標識なんかとにらめっこしているの、あなた﹂
26
﹁ううん。何でもない﹂
母に呼ばれ、その後へ付いていく。そこには、白羽も居た。
これより図書館へ向かい、本を借りるのである。
父の許可が下りた、魔法に関する本を。
母の手の先に、ふわふわと浮かぶ、光の球があった。
次に彼女は何かを呟き、光の球にくすぶるような振動が起こり始
める。
最後に、皮切りの様な一言。投げられたボールの様に飛んで行っ
た光の球は、空き缶にぶつかり、爆ぜた。
缶が、ばらばらになって宙を舞う。その光景に総一郎はぽかんと
口を開け、逆に白羽は﹁おー﹂と言う歓声と共にぱちぱちと不格好
な拍手をした。
﹁今の魔法は光球と呼ばれる、光魔法の初歩中の初歩。白羽は、属
性魔法ではこれしか使えないけど、総一郎はこれを含む属性魔法全
てを使えるわ﹂
﹁えー!? ずーるーいー!﹂
可愛らしく牙を剥いてこちらを睨んでくる白羽。それに母は、﹁
大丈夫よ﹂と彼女の黒髪を撫でる。
彼女達の顔立ちは似ているが、親子にしてはどこか足りないよう
な感じがする。何が足りないのだろうと総一郎が見つめている中、
母を続けた。
27
﹁白羽。貴方は、光魔法以外の属性魔法が使えない代わりに、天使
の種族魔法が使える。はっきり言って、天使の種族魔法に勝てるほ
ど属性魔法を使いこなす人なんて、そうは居ないのよ?﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ええ﹂
母が微笑みかけると、白羽はあどけなく破顔した。次いで、勝ち
誇る様に総一郎を見る。その姿に総一郎は﹁凄いねぇ﹂と笑いなが
ら、姉の頭をよしよしする。
﹁凄いでしょー﹂
姉の純粋さはいつまでも消えないでいて欲しいと、総一郎は思っ
た。
﹁⋮⋮本当、総一郎は大人びているわね。子供の反応じゃないでし
ょ、それ﹂
ぼそっと呟いたのは母である。総一郎はそれを聞き苦笑しかける
が、子供らしくないだろうと思い、堪える。白羽に至っては、聞き
逃したのか﹁え?﹂と母の顔を見上げていた。
ちなみに白羽は母の膝の上、総一郎は母の隣に座っているという
次第である。
自然豊かなあつかわ村の、公園のベンチであった。
母の、総一郎とは反対側のスペースには、図書館から借りた魔法
28
書、魔術書の入れられた袋が置かれている。図書館で借りられるよ
うな物なのかと訝しがったが、母が新書の魔術書欄を見て、﹁続編
出たんだ⋮⋮。明日辺り買いに行こうかしら﹂と独り言をしている
のを聞き、割と安価なのかもしれないと思い至った。
総一郎の家は、田舎の少し大きめの家を、一括で購入できる程度
の中流家庭である。余談だが、父の職業は知らない。無駄に謎の多
い父であった。
﹁じゃあ、みんな一緒に呪文を唱えましょう﹂
え、いきなり? と思う総一郎を置いてきぼりにして、母と白羽
は先ほどと同じ呪文を唱えた。母は言うまでもなく、白羽も発音が
いい。呪文は歌に似ていて、聞き心地の良い物だった。慌てて総一
郎はそれに続くが、少々音程がずれている。
﹁総一郎、慌てなくていいのよ。落ち着いて、ゆっくり唱えるの﹂
言われ、一度深呼吸を挟んでから、総一郎はもう一度唱えた。白
羽のようにすぐに様になった、という事は無いが、まぁまぁの出来
である。
呪文と言っても、唱えるだけで発動はしないのか、と総一郎は一
人ごちた。
﹁ん。まぁ、及第点ね。一応、発動はするはず﹂
﹁ママ、ママ、ねぇ、しーちゃんはー?﹂
いつの間にか母の膝の上で、彼女に向かって膝立ちになる白羽。
母は白羽に笑いかけながら、﹁しーちゃんはねー、すっごくお上手
29
だったよ。そりゃもう、普通以上の威力が出るくらい﹂と言う。
﹁やったぁ!﹂ともろ手を上げる姉を見守りながら、総一郎は母に
尋ねた。
﹁発音がいいと、威力が高くなるの?﹂
﹁うん、そう。まぁ大人になると面倒くさいから大抵の人は無詠唱、
もとい、何も言わずにやっちゃうんだけど、それでもやっぱり綺麗
に発音した方が、威力は出る。それだけ加護の主に聞こえやすくな
るって事だからね﹂
﹁加護?﹂
﹁ええ。私たちみたいな生まれながらに属性持ちの﹃亜人﹄と、契
約、えー、約束をして、その属性魔法との親和性、じゃない、⋮⋮
やり易さ? を貰い受けるの。諸外国⋮⋮じゃなかった、ええと、
他の国では加護もなしに自前の魔力と魔法親和性だけでやる人も多
いんだけど、この国では義務教育課程のかなり序盤で可能な限りの
全属性の加護を受けられるようになって⋮⋮あ、やば、難しい言葉
ばっかり使ってた。ええと、ちょっと待ってね総ちゃん。⋮⋮ええ
とー?﹂
﹁大体言いたいことは分かるよ。お母さん﹂
﹁え、嘘。先に言っておくけど、﹃ギムキョウイク﹄は外国語じゃ
ないからね?﹂
﹁中学生までだよね﹂
﹁ううん高校生まで、⋮⋮って、ちょっと待って総ちゃん? 何で
30
貴方、中学生って言葉知っているの? それ以前に何で中学生だと
思ったの? いや、確かにかなり前はその位だったって聞いたこと
あるけど⋮⋮﹂
﹁むー! 二人ばっかり話しててつまんない!﹂
﹁ああ! ごめんね、しーちゃん。そうだね、みんなで話そうね﹂
慌ててむくれる白羽に目を合わせ、その頭を撫でる母。総一郎は
口を滑らせてしまった、と気まずい気持ちで目を逸らす。家に帰っ
たら追求されるのだろうかと思いながら、﹁お母さん、魔法の続き
を教えて﹂と話題を逸らすついでにねだってみる。
﹁え? ああ、うん。⋮⋮じゃあ二人とも、次は、実際に光球を撃
ってみようか﹂
もう!? と二度目の驚きを示す総一郎に、﹁やったぁ!﹂と声
を上げる白羽。母は﹁さっきの私の方が驚いたんだからね﹂と総一
郎の頭を撫でる。撫でたがりは遺伝か、と思わなくもない。
﹁じゃあ二人とも、光球は手のひらから、だいたい十センチ離れた
ところに現れるから、手を上げて、あそこに並べた缶に向けましょ
う﹂
言われた通りにする総一郎。﹁何でー?﹂と聞く白羽に、﹁向け
ないと危ないし、それにそうしないと缶に当たらないよ?﹂と言い
聞かせる母。白羽は理屈が分かると、すぐに言う事を聞いた。
﹁魔法っていうのは、イメージと呪文によって発動するのよ。呪文
の方は割と融通が利くけど、イメージはそれそのものを想像しない
31
と意味がないから、頑張って。
貴方達には私の天使の血が流れているから、血が手のひらに集ま
っていくのを想像するの﹂
言われたとおりに想像しても、それだけでは何も起こらない。こ
れから呪文を唱えるだけで本当に魔法が使えるのかと眉を顰める総
一郎だが、そんな彼の事を尻目に、白羽は呪文を唱え始める。
その手のひらから、光が零れ、球体に集まっていった。
﹁うん、上手上手﹂
落ち着いた母の声音に、これくらいは出来て当然なのか、と驚く。
それに続いて、彼も力みながら呪文を唱えた。手のひらに血が集ま
る感覚。そして、呪文によりそれが体外へ放出され、球体になる。
そんな想像をした。
手が、光に帯びた。驚いて呪文を止めてしまうと、光球も崩れ、
霧散してしまった。
﹁ダメよ、総ちゃん。呪文は途切れさせずに言わないと発動しない
んだから﹂
母の声と共に、白羽の手から光球が飛んでいった。狙いが少しず
れたのか、缶の間横を通り過ぎていく。不機嫌そうに唸る白羽。﹁
もう一度やってごらん﹂と母は言う。
姉と共に、総一郎は再挑戦する。イメージと、呪文。だが、その
時彼の脳裏に、母の魔法の呪文の唱え方がよぎった。
32
︱︱あの時、母は一字一句、聞き取りやすいように呪文を区切っ
ていたはずだ。
しかし、光球は崩れなかった。そうなると、途切れさせずに言わ
ないと、というのは、厳密には違うのか。彼女が区切った場所で総
一郎も呪文を取り止める。﹁呪文を止めちゃダメでしょ﹂とやんわ
り叱る母の言葉を聞き流し、区切りながら呪文を唱える。
次の一小節で、光球がぶるぶると震えだした。母の時と同じだ、
と彼は記憶と今を重ね合わせる。
皮切りの一言。狙いを定めた光球は、缶に当たり、爆ぜた。
﹁おー﹂と歓声を上げてから、自らの負けに気付いて白羽は頬を膨
らませる。静かに絶句する母に目をやって、言った。
﹁第二・第三小節だけを抜き出して、握った石とかを弾き飛ばす事
って出来たりするの?﹂
その瞬間、母を大きく息を呑んだ。すぐさま、恐らく携帯であろ
う棒状の金属を取り出して、ブラインド式に伸ばした電磁ディスプ
レイで電話をかけ始める。
そして、言った。
﹁お父さん! 我が家に、我が家に天才が生まれたわよ!﹂
総一郎が発見した第二小節の呪文は、それのみを取り出して使う
33
と、一般的に﹃物理魔術﹄と呼ばれるものになるのだという。
事実、総一郎が言った﹁石を弾き飛ばす﹂と言うのも当然できた
し、それを用いて移動物の加速、巨大物の運搬、果ては空中歩行さ
えも出来るのだとか。
ちなみに﹃魔法﹄と﹃魔術﹄の違いは、イメージと呪文、才能、
︵この国においてのみ含む︶加護だけで行えるものを﹃魔法﹄、そ
の魔法からある程度の法則性を見出し、既存の科学知識と絡めて行
われる物を﹃魔術﹄と言うらしい。魔法は才能や加護がものを言う
所も大きいが、魔術は知識と魔力さえあれば、それで身を立てるこ
とも出来るのだという。
﹁だけど、魔法は発展のしようがないからともかく、魔術はここ最
近に発見されたものなの。魔法の台頭は三百年近くも昔の話だけど、
魔術はここ数十年。それを、総一郎は発見したの。何のヒントも無
しにね。それは、凄い事なのよ? 白羽が開花した理由も、何とな
く分かった気がするわ﹂
妙に大人びている理由もね、と付け足し、母は総一郎に微笑んだ。
日も暮れてしまった、帰り道の事だ。
上機嫌ながら、少々困ったように眉尻を垂れる母の隣に、総一郎
が居た。その反対には不機嫌気味に俯き、泣きだし掛けている白羽
が。
理由は母が総一郎ばかり褒める事と、光球が序盤の二個しか当た
らなかった為である。それに対して、総一郎は詠唱を区切るため、
上手く狙いをつけることが出来、放った光球はほとんど当たる事と
なった。
それを嫉妬しているのが分かったので、用意されていた十個の缶
34
の内、三個当てたところで止めたのだが、結局当てた数が姉に勝っ
てしまい、機嫌が直らなかったという次第である。
勝ちを譲ることに関しては、正直何の躊躇いも無かったと言うの
に、勝ってしまった。
総一郎の本音としては、白羽を勝たせてあげて、﹁流石、白ねえ
!﹂とよいしょし、ご機嫌になって踊り始める白羽が見たかったの
である。彼女は、嬉しくなり過ぎると思わず踊り出してしまうのだ。
姉が可愛らしい、と言うのももちろんあったが、﹃彼女﹄に瓜二
つの白羽の事を、総一郎が愛していない訳が無かった。だからこそ、
想定していない形で姉を傷つけてしまったことが、残念でならない。
もっとも、三歳児であるから、すぐにそんな事は忘れてしまうの
だが。総一郎も生前は子供と触れ合う機会が少なく、どうにも繊細
な手つきになり過ぎてしまうのだった。
夕暮れで、三人の顔が赤く染まっている。その足元からは、真ん
中が長い三つの影が、あぜ道に濃く伸びかかっていた。
白羽の居る右側には、山があった。もう少し進むと、頂上の神社
へと続く石階段がある。逆に、総一郎側の左手には、田んぼがあっ
た。コオロギが跳ね、数匹の鳴き声が夕方の田舎道を満たしている。
その山の木々の中から、彼らの十数歩先に、人が現れた。
しかし、様子をもう一度よく見直すと、総一郎は、人なのか? と首を傾げてしまう。姿形は人だったが、どうにも頷けないのだ。
その人物は、痩せぎすで、薄汚いボロを身に纏っていた。肌は黒
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人の健康的な黒さでなく、死にかけの病人を思わせる、嫌悪感の湧
き立つ黒色をしていた。節々に見える四肢は細いのに筋張っていて、
捕まったら逃れられそうには思えない。そして、とてつもなく醜悪
な表情をしていた。
目が赤く、歯茎がむき出しになっている。鼻は極端に低く、異様
な存在感を放つのだ。耳を澄ますと常に何かぶつぶつと言っている
ようで、更に耳を凝らした時、総一郎は息を呑んだ。
﹁人が食いたい﹂
それを、何度も繰り返していたのである。
奴は、人がいる事に気付いたようで、ゆっくりとこちらを向いた。
と共に、﹁おおぅ⋮⋮!﹂とおぞましい喜びを示す。その注目は、
最終的に白羽に向かった。怯えたような声を出し、白羽は母の服を
強く掴む。
﹁下がってなさい﹂と母が総一郎と白羽を、自らの後ろに隠した。
その眼は、見たこともないほどに鋭い。
﹁貴方、﹃人食い鬼﹄よね? 何でこんな所に居るのかしら。⋮⋮
ここは﹃食人種専用居住区﹄じゃないわよ。貴方達は、そこから出
たら法律違反だったでしょう﹂
﹁いやいや、何をおっしゃられますか奥様。ここは﹃共住区﹄です
ぞ? 我ら﹃亜人﹄と、﹃人間﹄が一緒に住む場所⋮⋮。現に、貴
女だって天使でしょう? ならば、私が居て悪い道理がありません。
⋮⋮それとも何だ。貴女は私たちが人を食わねば生きていけないと
言う理由だけで、同じ亜人を差別するのか﹂
36
前半の言葉は、舐める様に抑揚のある声で、後半は、ぞっとする
ような低い声で、その人食い鬼は言った。母は奴を睨みながら、恐
がる様子も無しに、言う。
﹁だって、危険じゃない。それ以前に、食人種専用居住区だって、
不便ではないはずよ。政府の計らいで、食糧には困らないでしょう
し。それなのに破って出てきたのは、貴方が単に生きている人間が
泣き叫ぶのを見聞きしながら、﹃食事﹄がしたいだけでしょう?﹂
﹁⋮⋮くっ、くくくくく、ぎゃぁっはははははは! 何もしてこね
ぇんだな! 予想通り奴隷使役権持ちじゃねぇってこった! そう
だよなァ? 持っていたらつべこべ言わずに﹃ひれ伏せ﹄の一言だ
もんなァ! いやぁしかし、俺は運がついているぜ。こんな別嬪に
柔らかそうなガキ二人、しかも片方は美味そうな幼女じゃねぇか⋮
⋮。女と糞餓鬼はここで食っちまうにしても、そこの可愛子ちゃん
はしばらく殺さないでおこうかなァ⋮⋮。きひっ、きひひひひひひ
!﹂
涎をだらだらと垂らしながら、気違いの様に喚く人食い鬼。その
姿が一層恐ろしく、総一郎の体はガタガタと震えていた。しかし、
白羽はそれ所ではない。名指しで呼ばれ、﹁しばらくは殺さない﹂
と言われたのだ。彼女は幼すぎて何も分からないだろうが、総一郎
には痛いほど分かる。人食い鬼の股間は、強く勃起していた。
﹁ママぁ⋮⋮、総ちゃぁん⋮⋮!﹂
恐怖に顔を歪めて号泣する白羽の手を、総一郎は強く握った。そ
れを見た母は、﹁強いのね、総一郎は﹂と言って、二人の頭に手を
乗せた。鬼に背を向けているというのに、怯える様子もない。くる
りと振り返って、背中で弟に縋る我が娘に、母はこう言った。
37
﹁しーちゃん、よく見てなさい。これが、天使の種族魔法よ﹂
じりじりと近づく人食い鬼。それを毅然と睨みながら、母は祈る
ように手を組んだ。
﹁主よ﹂
大きな音を立てて、隠していた彼女の翼が広がる。
それに、鬼は呆然となった。とろん、と表情を蕩けさせ、身動き
が取れなくなっている。飢えた獅子の様な雰囲気が、消えた。白羽
が、﹁あ⋮⋮﹂と声を出す。
﹁貴方の忠実な僕たる私の、目の前にいる愚かな鬼に、贖罪と祝福
をお与えください﹂
静かに母は、呪文を唱えた。声は聞き取れたはずなのに、知覚が
出来ない。その呪文を、思わずと言った風に、白羽は復唱した。そ
れも同じように、総一郎には聞き取れなかった。
母の翼が、大きく羽ばたいた。羽だけが舞い散り、それが鬼にま
で届く。そして、鬼に触れた。一瞬の、出来事だった。
鬼の体が、羽の当たったところから、全て同じ白い羽に変わった
のだ。
元があの醜悪な鬼だとは到底思えない、大量の綺麗な白い羽だけ
が、そこに残された。地に落ちて、一つずつ、空気に解ける様に消
えていく。総一郎は、目を剥いてその光景を見つめる自分に気付い
38
た。
﹁ね? 天使の種族魔法は、こんなにも強いの。だから白羽、属性
魔法が上手くいかなくたって、気にする事は無いのよ?﹂
そう言って、母は小さな姉に、屈んで、目線を合わせながら笑い
かけた。﹁ママぁ⋮⋮!﹂と泣きながら母に抱きつく白羽。その震
える背中を、ゆっくりとさする。
﹁総一郎も、強かったわね。よく、泣き出さなかった﹂
男の子だ、と軽く二回、頭を叩かれた。少々胸を打たれながら、
﹁うん﹂と確かに頷く。そして、笑った。﹁本当大人びてる﹂と母
は苦笑する。
我が母は、偉大だ。そして、その魔法も。
その話は、食卓に上がった。誰ともなく、である。それを聞いた
父は、家族全員の顔色を確認して、ただ、﹁そうか﹂とだけ言った。
それだけかと思えば、小さな声で﹁良かった﹂と呟いている。感情
を表に出すのが、苦手なだけなのかもしれない。そんな風に、父を
評した。
それからというもの、総一郎は母が借りてきた魔法書、魔術書を
熱心に読むようになった。次いで、試している。元々親和性があっ
たのか、弱弱しいながら電気魔法が使えた。炎もだが、こちらは母
の遺伝で、使用を禁じられている。
39
母曰く、電気魔法の才能は、化学魔術向きだ、との事。
﹁そうなの?﹂
﹁まぁね。電気で分子に干渉して、物体を変化させる、っていうの
が化学魔術だから。それに、今のうちに微弱な電気魔法の使い方を
覚えておけば、後々加護をもらってから面白いわよ∼? 私が小さ
い頃にもそういう子が居てね。そりゃあもう物凄かったんだから﹂
悪戯っぽく笑う母に、元気に総一郎は頷き返した。
40
4話 父の刀
風を断ち割る木刀の音が、庭中に満ちた。
家の庭は、土がむき出しになっている場所が多い。とは言っても
荒れているという事ではなく、むしろ自然が多かった。秋になれば
紅葉がきれいで、夏になればその木が木陰になってくれ、昼寝に向
いているのだ。
また、池もあって、その中では鯉が泳いでいた。しかし錦鯉とい
う事は無く、ただの真鯉だった。時折、捕まえて水桶に移し、土を
吐かせて食うのである。
その庭で、総一郎は父から貰い受けた、桃の木の木刀を振ってい
た。何故桃の木なのだろうと思うが、父には父なりの考えがあるの
だろう、と総一郎は思っている。もしかしたら、手近だからと言う
だけなのかもしれないが。庭に生えている、桃の若木に目を向ける。
そして今、庭の地面には、雪が敷き詰められていた。木刀を振る
い、足踏みをするたびに、雪がつぶれて、じゃっ、じゃっ、と音が
する。
総一郎、三歳になったばかりの、冬の朝の事であった。
父は本当に強いのだろうか、と思ったことがあった。
41
確かに父には底知れぬ迫力がある。白羽も、悪戯がばれて父に叱
られることはあっても、父に悪戯をしたことは今の所一度もない。
逆に、総一郎は良く悪戯をされる。だというのに罪が露見した時、
彼にそれを擦り付けるのだ。白羽は自分の事が嫌いなのだろうかと、
少々悩むこともある。
しかしそうなると、彼女は打って変わって彼に優しくなった。お
菓子をわざわざ持って来たり、お気に入りの玩具を笑顔で渡してき
たりと、目に見える変わり様なのである。
それを母に伝えたところ、
﹁しーちゃんは照れ屋さんだからねぇ、多分、あの子が一番好きな
のは総ちゃんだと思うよ?﹂
との事。
ついでに父の事も聞いてみると、
﹁絶対に本気で怒らせちゃ駄目だからね。⋮⋮まぁ、そんなことで
きる人がいるのかも分からないけど﹂
と、最初血相を変え、最後には遠い目をしていた。
取り敢えず、強い事には強いのだろう。と思っている。
そんな確証の得られない中、総一郎は言われるように刀を振って
いた。型はある程度まともになっただろう、と言われてから、めっ
きり音沙汰なしである。早朝刀を振っているところに出くわしても、
父は一瞥のみで何を言う気配も見せなかった。屋敷の端の道場にも、
42
入らせてもらえぬままである。
︱︱これで、本当に稽古を付けてくれるのか。
そんな風に、総一郎、父親を疑う事も少なくなかった。
さりとて、まだ総一郎は三歳。木刀を振らせてもらっているだけ
でも、かなり早い方だと思う。何せ、いまだ三歳だ。生前自分が三
歳のころ、一体何をしていたか。恐らく、白羽にも劣っていたに違
いない。
そんな風に想いながら、視線を落とした。小さな自分の体躯には
ちょうどいい長さだが、大人からしてみれば脇差もいいところであ
る。
はぁ、と嘆息をし、空を見上げる。いい具合に日も昇ったことだ
し、そろそろ朝食の時間だろう。てとてとと駆けながら、総一郎は
屋敷に入っていく。
そんな、ある日の事であった。
いつも通り総一郎は、早朝五時を回る前に、自然に目を開けた。
日は、昇っていないようだ。上体を起こし、目を擦る。冬故に肌寒
さが身に染みる。ぶるっ、と身を震わせて、総一郎は足早に廊下を
駆けた。
早朝に起き、朝食になるまで木刀を振る。毎日の習慣だった。
早朝にやれ、と言われたわけではなかった。しかし総一郎、剣豪
43
小説の影響をもろに受けて、素振りを早朝以外に有り得ないと思い
込んでいる。母にその事を聞かれ前述の様に答えたら、凄まじい勢
いで抱きつかれた。曰く、可愛らしくて仕方が無かったとの事。
母の感性は、よく分からない。
冷水で顔を洗い、本格的に目を覚ます。次いでコップ二杯の水を
勢いよく飲み干し、道着に着替えて木刀を手に取った。
裸足で、薄暗い冷え切った廊下を走っていく。
そして靴を取って、庭に出る。その直前で、ぴたりと止まった。
雪が、しんしんと降り積もっていた。
出鼻を挫かれ、不満に頬を膨らませる総一郎。この三年間で、子
供らしい仕草が板についた。しかし、そうして居ても何も変わらな
い。それは分かっていても、空を睨み続ける。
﹁どうしたのだ、そんな所で﹂
振り向くと、浴衣に黒い着物を羽織った父がそこに立っていた。
冬だろうが夏だろうが、父は変わらない。いつも和服を着て、鋭い
無表情をしている。
﹁雪で、外に出られないのです。これでは、素振りが出来ません﹂
総一郎は、敬語で答えた。しかし強要されている訳ではない。た
だ、何となく使わねばならない気がするのだ。また、同じ理由で白
羽も父には敬語を使う。
44
﹁ふむ⋮⋮﹂
それを聞いた父は、思案顔になった。
次いで、言う。
﹁では、道場の方に来い。ある程度ものになっていたら、稽古をつ
ける﹂
言うが早いか、踵を返して道場の方へと向かってしまう。それに
慌てて、総一郎は木刀を手に、父の後をついて行った。
十歩ほど歩いてから、ふわっ、何かが湧きだす。とうとう、と言
う期待が、ふつふつと膨らんでいく。それに気付いて、口端が少し
ずつ弛むのが分かった。
下駄をはき、道場の入り口までの短い道を、少しの雪に打たれな
がら早足で歩く。
道場は、屋敷の敷地の端にあった。聞いたところ、総一郎の為に
作ったのだという。ぎょっとした総一郎だが、母は明るく﹁お父さ
んには私が言った事は秘密ね?﹂と人差し指を口に当てて微笑んで
いた。ああ見えて、父は我が子に甘いのだという。
言われて、納得できない訳ではない。感情に任せて怒鳴り散らさ
れたことなど、白羽にも一度だってない。
総一郎はそもそも、叱られた経験すらあったのか無かったのか分
かったものではないが、良い子にしているとよく駄菓子を買っても
らったと思う。そして、それを白羽に嫉妬され、二人で分けるので
ある。
45
両親二人が甘やかさない分、自分こそが姉を甘やかそうと決めた
総一郎であった。
父の後から、道場の入り口をくぐる。
その中はしん、と静まり返っていた。日が入っていないせいで、
薄暗い。だが、静寂の中に荘厳さがあった。おお、と声にならない
歓声と共に、総一郎は道場内を見回した。
白い壁に、木の床。どれもこれもが新品で、真新しさを放ってい
る。屋敷自体は中古と言うか、売りだしていたものを買ったらしい
のだが、ここだけは新しく建てたという事がよく分かった。てとて
とと駆けまわっていると、真ん中奥の掛け軸に気が付く。
﹃武士は食わねど高楊枝﹄
見事な達筆だ、と思うが、この言葉が剣術に向いているのか、と
総一郎は疑問に首を傾げた。確かこの格言には、武士が清貧を重ん
ずることを象徴していたはずだ。もしや、この節操のない世界には、
未だに武士と言うものが居るのか、と考える。しかし、それが剣術
に向いた言葉とは、到底思えない。
﹁総一郎﹂
呼ばれて、振り返った。父が、二つの刀を手に立っている。
目を凝らし、はて、と首を傾げた。何やら黒光りしているようで、
漆塗りと言う言葉が連想される。だが、その言葉が示すのは真剣だ。
まさか三歳に持たせるまい。
﹁これを抜き、対峙する。それに多少耐えることが出来たら、これ
46
からは本格的に稽古をつけることにする﹂
よいな、と質され、強く頷いた。︱︱しかし、抜く? 木剣に抜
くも何もないだろうに。
そんな風に、物事を常識で測っている総一郎は、受け取るまで気
付きはしなかった。
まず、手渡された刀の重さに驚いた。次いで、それが鍔鳴りをさ
せたことに血の気が引いた。震える手で、柄を握り、僅かに抜く。
白い光が、そこから漏れたようにさえ、総一郎には思えた。
﹁⋮⋮これは⋮⋮?﹂
﹁真剣だ。鞘を払え、総一郎﹂
父は言ってから、手本を見せる様に鞘を払った。音がして、鞘は
脇にそっと置かれる。そのまま父は、総一郎の前に真剣を構えた。
闇を斬るような白さを、刀は放っている。
息を、呑み下した。手が、震えた。必死の思いで、父の言葉を思
い出す。対峙。対峙という事は、父と斬り合うのか? いや、そん
なはずはない。しかし、それではこの気迫は何なのだ? ﹁総一郎﹂
と名を呼ばれ、しどろもどろになりながら鞘を払う。
手の内に、父の物と全く同じ白さを放つ、人殺しの道具が現れた。
﹁あ⋮⋮!﹂
47
取り落としかけて、しかし叱責を浴びる前に構えることが出来た。
構え、震える息を吐き出す。大丈夫、と自分に言い聞かせる。毎朝
の素振りが生きたのか、構えだけは様になっていた。
冬だというのに、暑い。しかし寒さもあって、気が変になりそう
だった。気付けば、汗が珠になって、いくつも肌を滴り落ちている。
暑さによるものか、それとも冷や汗なのか、総一郎には判別がつか
ない。
そこで、気圧されるような感じがして、はっと顔を上げた。
父が、刀を構えて自分を睨みつけている。
震えだす体を、止めることは出来なかった。死が、眼前に立って
いる。人食い鬼を見た時に感じたそれよりも、強く、耐えがたい死
が。
息を深く吸い、深く吐き出す。それを、何度も繰り返した。震え
は止まらずとも、呼吸によって、辛うじて耐え忍ぶことは出来る。
その時、父の剣先が僅かに上がった。それだけで、総一郎の震えは
止まった。だが逆に、動くことが出来なくなった。
動けないまま、ぼう、と闇に佇む父を見つめる。汗が頬を伝い、
顎に溜り、落ちていった。頭が、朦朧としている。次第に、父が闇
に溶けていく。
刀だけが、宙に浮いていた。
見つめていると、少しずつ刀を大きくなっていった。恐ろしい、
と言う思いが大きくなる。総一郎は、泣き出す寸前だった。
48
けれど、未だ崩れない。その時に、刀が一瞬ぶれて見えた。
総一郎の体を、恐怖が覆い尽くした。
短い悲鳴を上げながら、渾身の力で後ろに飛びのいた。体勢を崩
し、倒れ込んでしまう。父は、動いていない。だというのに、自分
のこの見苦しさは何だ。
股間に、じわ、と温かさが滲んだ。止めようとしても、止まらな
い。総一郎はとうとう泣き出していた。隠すようにたくし上げても、
次々に袴が濡れてしまい、終わりが見えない。
悔しさが、湧きあがった。歯を食いしばり、嗚咽を止めようとす
る。恥ずかしかった。たとえ肉体の年齢が三歳であろうと、こんな
事は許されないと思った。
その時、父の声が上がった。
顔を上げると、口元を押さえている。躰を折り、振るわせていて、
次第に堪え切れなくなっていくようだった。そしてついに、堰が切
れた。
﹁⋮⋮く、くく、くはっ、はっ、はははははははははははは!﹂
涙を滲ませての、大笑いである。
ぽかん、と口を開けて、総一郎はそんな父を見つめていた。父が
こんなにも大笑いするところを、初めて見た。腹を抱えて苦しそう
にしている。そして、そうか、と喜色の滲む瞳で、こちらを見た。
49
﹁そうか、何となく思っていたが、⋮⋮くはっ、ま、まさか天稟が
あるとは思わなかった⋮⋮﹂
父はそのまま、しばらく、くつくつと笑っていた。それも終わり、
優しげな眼で、言う。
﹁袴を、洗ってきなさい。今までお漏らしをあまりしなかっただけ
に、白羽に見られると恥ずかしいだろう﹂
我に返り、しかし涙が浮き出た。︱︱こんな様では、稽古などつ
けてもらえるものか。そのように想い、とぼとぼと俯きがちに外に
出ていく、途中で、父はこう言った。
﹁明日から、日に一度、稽古をつける﹂
え、と思って振り返ると、そこにはもう表情を引っ込めてしまっ
た父が立っていた。見つめ返されて、慌てて風呂場に向かう総一郎。
﹁総ちゃん。また、お父さんのおけいこ行くの?﹂
﹁うん。まぁ、いつも、二、三時間で終わるから、それまで一人で
遊んでてよ。白ねぇ﹂
﹁むー! 総ちゃんの馬鹿! あっち行け!﹂
ぷりぷり怒って部屋を出ていってしまう白羽。しかし、稽古が終
わるちょっと前辺りに一人が寂しくなって、半泣きで稽古を見学し
50
にくる辺り、非常に可愛らしいと思う。
稽古をつけると言われてから、一か月が経っていた。
そろそろ雪も解け始め、若葉が地面に芽吹き出す季節である。足
音ははっきりと聞こえるものの、足踏みをしているようでなかなか
春にはなり切れていない。
そういえば、四月になったら自分も幼稚園に入るのか、と思う。
白羽はすでに入っていて、家にいるのは単に日曜日だからだ。
生前のこの年の自分には、曜日と言う概念があったかな、などと
考える。考えながら、道着に着替えて足早に道場に向かう。
稽古は、素面素小手、何の装備も付けないという、虐待染みた物
だった。
だが、竹刀の上、手加減はされている。竹刀とは言ってしまえば
固い鞭の様な物で、痛みは有れど、易々と死ぬ事は無い。
その上、総一郎は避けるという事が得意な節があった。
当たると痛い。しかも、この三歳の体では、そう何度も打たれれ
ば骨を折るなどの、大怪我をしてしまう。そんな風に考えると、自
然と相手の得物に恐怖がへばりつき、実物よりも少しだけ大きく見
えるのだ。
そして、総一郎はそれを避ける様にしていた。当然、初心者故に
間に合いはしないが、当たるのは恐怖によって肥大した竹刀の影。
一瞬だけ早く避ける事となり、最近では大抵の攻撃を避けることが
出来た。
51
そのお蔭なのか、かつて真剣を振るわれた時の恐怖というものは、
心を縛り付けるものではなく、目に映るもの、という風に変わった。
それ故、稽古中の父からは常に煙のようなものが立ち上るのが見え
た。
多分、恐怖しているのだろうと思う。態度に出ないだけだ。とは
いえ日常生活では普通の寡黙なお父さんをしているので、数日もす
れば慣れてしまった。総一郎は存外図太い性質なのだ。よほどのこ
とがない限り、引きずらない。
構えたまま、機を狙った。こちらが攻めねばならないとなると、
総一郎は弱かった。どうしても、足が竦む。
今日の稽古にも、その悪い癖が出た。一段落してから、父に尋ね
る。
﹁お父さん。どうすれば、足が竦まなくなるのでしょうか﹂
しかし、父の答えは何処か懐疑的だ。
﹁竦むことの、何が問題なのだ﹂
﹁え? いえ、だって、踏み込まねば、打ちこめないではないです
か﹂
それを聞いて、父はじっと総一郎を見つめた。無表情の奥は窺い
知れず、思わず硬直してしまう。
ふい、と視線を外してから、父は続けた。
﹁総一郎。お前は、何か勘違いをしている﹂
52
﹁⋮⋮というと﹂
﹁私が教えているのは剣であって、剣道ではない。試合で勝たせよ
うなどとは、端から思ってはいないのだ。お前は、稽古の間はただ
避け続けていればいい﹂
﹁ですが、それでは勝てません﹂
﹁お前は、勝つために剣を習っているのか? そもそも、何に勝つ
つもりだ﹂
言われて、何も言い返すことは出来なかった。休憩も終わり、稽
古が再開される。
父と、正面から対峙していた。
向き合ってから、すぐに決着がつくことは少ない。切り結ぶ、切
っ掛けがないと、互いに身じろぎさえしないのである。いや、むし
ろ、身じろぎが切っ掛けとなる事さえあって、そうなると身じろぎ
をした総一郎がきれいに面を食らう事になる。父は、身じろぎした
姿など一度も見たことが無かった。
そのように痛い目に何度か会うと、躰が痛みを覚えて、対峙して
いる間は隙が極端に少なくなっていった。といっても、それは自分
で感じるだけなのだろう。父に至っては、隙しかないように思える。
それを狙って踏み込めたのは最初だけだった。今は、もうしない。
状況は、膠着している。互いに動かず、ぼんやりと父の姿が宙に
解けていく。
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微睡むのに、近いと総一郎は思っていた。輪郭が残る時もあれば、
少しずつ真っ暗になる時もある。その間に踏み込まれ、打たれたこ
とは、何故か一度もなかった。だが、そのまま何もせずに倒れ込ん
だことはある。脱水症状という事で、当時は結構な騒ぎになった。
不意に、父の姿が戻った。今回は、それが切っ掛けとなった。
同時に踏み込み、しかし寸前で足が竦んで、横に跳んだ。打たれ
ずに済むが、情けない、と自らを叱咤する。
そこで、父が竹刀を下した。
﹁時間だ。ここで終わりにする﹂
﹁ありがとうございました!﹂
お辞儀をすると、父も同じように頭を下げた。道場を出ていくの
を見ながら、総一郎はふと思う。
︱︱自分は、まだ弱い。もっと、強くならねばならない。
思い出すのは、かつての人食い鬼である。聞けば、奴のような存
在は、少なくないという。そして、その被害は馬鹿に出来ないと。
次あった時、果して白羽を守れるのか。そのように考え、そうい
えば今日は、彼女が見学に来なかった。と気付く。
時計を見た。いつもより、一時間ほど早めに終わった事を、総一
郎は知った。
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5話 般若の面
春が訪れ、桜が満開になる季節に、お隣さんが引っ越してきた。
般若と言う姓の四人家族だという。
家族構成は父母に息子一人娘一人。大体我が家と同じだが、息子
である兄、図書君は、もう小学校を卒業するのだとか。逆に、妹の
琉歌ちゃんは総一郎と同い年らしい。
かつて時代小説を読み過ぎて少々感覚がマヒしている総一郎。図
書と言う戦国時代的な名前を聞いても何の反応も示さず、母にこん
な事を尋ねた。
﹁こんな辺鄙な村に引っ越し?﹂
﹁辺鄙とかいうんじゃありません。この村には亜人が住んでいるし、
自然も多いから、子供を育てる環境としてもかなりいい場所なのよ
? 子供はやっぱり自然の中で育てなくちゃ﹂
言いながら、洗濯物を干していく母。うららかな春の日差しを真
っ向から浴びて、その艶やかな白髪と白磁の肌は良く映えている。
父は、こんな母に惚れたのだろうか。どのような馴れ初めだった
のだろうかと想像すると、思わず口元が綻ぶ総一郎だ。父の青春時
代ほど想像できないものは無い。
﹁総ちゃーん! 遊ぼー?﹂
55
てとてとと駆けてくるのは白羽だった。先ほどまで部屋で一人、
絵本を読んでいたが、一人きりである事に気付いて寂しくなったの
だろう。
白羽は、母の白磁の肌を受け継いでいた。また、天使の翼も。自
分が受け継いだのは青色の目だけだった。顔の作りは母に似ている
とは言われるが。
ふと、家族か。と思う総一郎である。生前の家族は、平々凡々と
していた。父は会社員で、母は専業主婦だ。兄弟は居なかった。可
もなければ不可もない。しかし、不満もなかったのだからいい家族
だったのかもしれないと思う。
親孝行できなかったな。とだけ思った。目を細める。僅かに、何
かが込み上げかけた。
直後、白羽の体当たりで感慨の何もかもが吹き飛んだ。
﹁総ちゃん! 聞いてるの?﹂
無邪気な大声で尋ねる姉に、﹁聞いてるから耳元で叫ばないでね。
あと、体当たり駄目。白ねえの方が大きいんだから﹂と押し除ける。
耳がキーンとしていて、思い切り縁側の床に倒れ込んだものだから
体が妙に痛い。少々呻くと、泣きそうな顔で﹁大丈夫? 痛いの?﹂
と聞いてくる。怒るに怒れない、と内心苦い顔で、﹁大丈夫だよ﹂
と笑った。
﹁それで、白ねえは何がしたいの?﹂
﹁魔法! ﹃こうきゅう﹄をバーン! ってやってね、果物取るの
56
! お隣さん家のさくらんぼ!﹂
﹁うんそれ窃盗﹂
舌っ足らずだが、恐らく﹃こうきゅう﹄とは﹃光球﹄と言う、母
から教わった光魔法だろう。と見当を付けた。というかアレをぶつ
けたら、さくらんぼなど木っ端みじんになりそうなものだが。
﹁ダメ?﹂
﹁駄目﹂
頷くと白羽は悔しげに瞳に涙をためた。親の仇と言わんばかりに
睨んでいる。困った総一郎は、母に振り向いて救援を求める。だが
母は、信じられないことを言った。
﹁いいんじゃないの? 別に﹂
﹁えぇ!?﹂
総一郎の驚き様に驚く母。総一郎はあまり大きく感情を出さない
ところがあるので、仕方がないともいえる。
﹁いや、でもお隣さん家のさくらんぼでしょ? 昨日引っ越してき
たばっかりの﹂
﹁うん﹂
﹁なら⋮⋮総一郎。カムカム﹂
57
ちょいちょい、と手招きする母に近づいて、耳を貸す。
﹁貴方達は幼稚園生なんだから、多少の犯罪は大目に見てくれるで
しょ。それに、お隣さんのさくらんぼといっても、引っ越してきた
ばかりで自分が育てたわけじゃないんだから、そこまで怒らないは
ずよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁それに、盗みに行けば家の子ともむしろ仲良くなれるんじゃない
? ほら、切っ掛けっていうか﹂
﹁⋮⋮むぅう﹂
﹁⋮⋮仕方がない。じゃあネタバレしちゃうけどね、お隣さんの家
の子ってちょっと内向的なんですって。だから、来てくれたらさく
らんぼなんて幾らでもあげるから、遊んであげて欲しい。って般若
さん家の奥さんが言ってたのよ﹂
﹁すでに許可があるって事?﹂
﹁そ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
恐らくこれほどまでに打算的な説得で納得する三歳児は、総一郎
を除いて居ないだろう。と思われているのだろうな、と考えさせる
母の説得完了直後の微妙な表情である。そんな顔するくらいならも
っとましな説得考えろよ。と総一郎、頭の中でつい語気が荒くなる。
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しかし、母の提案もなかなかのものであった。どうせ幼稚園はこ
の村には一つしかない。つまり、どうあがいても同学年の﹁般若琉
歌﹂ちゃんとの邂逅は免れないのだから、早いとこ顔合わせはして
おくに越した事は無いという事だ。
ちなみにその幼稚園だが、これが辺鄙な村の割に中々充実してい
る。清潔感があり、腐った床板などの、あつかわ村にあったイメー
ジが皆無なのだ。他には入試試験における児童的演技に骨が折れた
が、隠しきれずにぽろりと漏らす大人の雰囲気の度に面接の先生が
戸惑うので、それがまた面白かったように思う。
ふむ、と吟味する総一郎。それを期待混じりに見つめる白羽と、
苦笑いしながら眺める母。白羽をちら、と見つめて、問うた。
﹁白ねえ、さくらんぼ好き?﹂
﹁うん! 好き! 総ちゃんと同じくらい、大好き!﹂
あら、と口元を綻ばせながら、満面の笑みで言う白羽と思わず顔
を紅潮させる総一郎との間で視線を左右させる母。総一郎はそんな
中、明るいため息を吐きながら頭を掻いた。
さくらんぼと同等というのはどうかと思うけれど、子供にとって
はそんな物なのかもしれない。
﹁仕方がないなぁ⋮⋮。じゃあ、白ねえ。一緒にさくらんぼ取りに
行こっか﹂
元気に頷く姉を見ながら、総一郎、自分は俗に言うシスコンなの
だろうかと空を仰いだ。
59
見つかるタイミングはいつでも良かった。
さくらんぼを取れずとも良かったとさえ言える。
総一郎の目的は、あくまで般若家との親交である。子供らしさを
存分に前に出せば、恐らく親は籠絡できる。あとの問題は子供だが、
子供好きである総一郎は多少嫌がられても苦ではない。
また、少々の計算もあった。
総一郎はこの世界についてあまりにも無知だ。それを、中学校に
なったばかりだという般若家兄の図書君から、聞き出せたらいいな
と思っていた。
母は子供の教育熱心というか、あまり不必要な知識に触れさせた
がらなかったのだ。総一郎の求める知識が、あまりにも多いから触
発されたという所もあるとはいえ。逆に父は口数が少なすぎる。稽
古がまた打ち切られ、毎朝の素振りのみに戻ってしまった理由も、
未だわからずじまいであった。
しかし、それらは余り急いで求める必要はなかったと思う。とり
あえず、危険を冒す必要はないはずだ。
風が、強く総一郎と白羽の頬を撫でつけた。それに、言い表しが
たい心持ちで、目を細める。
屋根の、上であった。
60
さくらんぼをパクってくる許可を出した直後、白羽は総一郎を抱
えて羽を広げた。そして一羽ばたきで屋根の上へと舞い上がり、今
は目の周りに指で眼鏡を作って、﹁むむぅ⋮⋮﹂と目を凝らしてい
る。視線の先には般若家の庭があった。また、その中には見事なさ
くらんぼを実らせる桜の木が、僅かに風に葉をそよがせているよう
に見える。
庭に、人は居ない。来そうな気配もない。
このままだと成功してしまいそうだ。と総一郎、難しい顔で口元
に手を当てた。
﹁総ちゃん! ⋮⋮ごほん。では、任務を教えます⋮⋮!﹂
何かの番組で影響されたのか、渋い顔を作る白羽。睨めっこをし
ているのかとさえ思える愛らしい表情だったが、総一郎、何とかこ
らえた。
﹁私が総ちゃんに羽をあげる、⋮⋮ますので、総ちゃんはそれでさ
くらんぼを取ってきてください。両手で抱えられるくらい持ってこ
れたら、任務は終わりの時間です﹂
﹁何かおかしくない? 白ねえ﹂
﹁んー?﹂
言っている意味が分からないのか首を傾げられた。それに総一郎
は、おいおい説明しよう、と後回し。その前に、本題の方向修正を
する。
61
﹁それなら、白ねえが飛んでいった方が早いんじゃない? 僕翼使
い慣れてないし﹂
というか今回が初めてである。
しかし白羽。小癪にも筋の通った説明を返した。
﹁それだとダメなの。だってしーちゃん、ピカー! ってなったら、
目がチカチカして何も見えないもん。だけど、総ちゃんなら大丈夫
でしょ? それに、翼はしーちゃんが動かすから、総ちゃんは何も
心配しなくておーけー﹂
激しい身振り手振りの説明に、む、と言葉を詰まらせてしまった。
それに白羽は、無邪気に﹁だから、早く準備して?﹂と総一郎の背
中を押す。
白羽が言っているのは、恐らく援護射撃の事だと思う。万が一庭
に般若家の誰かが出てきた時、光球を放つと言っているのだ。
しかし、それは般若家の人に攻撃するという意味ではない。光球
はそのままの状態で当たれば殺傷能力があるが、途中で炸裂させ、
フラッシュバンのような目眩ましの技としても使うことも可能なの
だ。
その際に、総一郎の目は有用になる。総一郎の目は母、天使であ
るライラから受け継がれたものであって、光に対して強い耐性があ
るのだ。
こんな説明を受けた。
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﹃神様ってね、常に物凄い光っているの。人間の目に本当の姿を見
られないようにね。だけど、それで私たちが見えなければ世話が無
いじゃない?﹄
だそうだ。道理にかなっているのかどうかは知らない。
﹁⋮⋮分かったよ。じゃあ、翼をちょうだい?﹂
仕方ない。白羽がなかなか合理的な考えをしたのだから、ここは
成長を促すためにごねずにいよう。そんな風に考え、ため息と共に
言った。
﹁ん!﹂
白羽の体を容易に覆い隠すほどの、巨大な、純白の翼は、一つ羽
ばたいて大量の羽を散らした。そのうち二枚が総一郎の背中に触れ、
白羽の物と遜色のない翼に変わり、彼の体をふわりと宙に浮かせる。
そして、そのままゆっくりと空中を滑降し始めた。
妙な感慨と共に、総一郎は複雑な歓声を漏らした。足をバタバタ
させても、何も変わらず悠然と宙を滑っていく。これが、空を飛ぶ
という事なのか。口が、感動に自然と綻んでしまう。
木が、近づいてきた。
この高度なら、きっと苦労することもなくさくらんぼを取れるだ
ろう。だが、何か変だ、と勘付く。移動が止まらない。このままだ
とぶつかってしまう。
﹁白ねえー! 止めてー!﹂
63
大声でいうものの、返事はない。聞こえていないのか。もう一度
呼ぼうとしたが、その時間は残されていなかった。﹁し、﹂まで言
ったところで、総一郎は木にぶつかって潰れた。
思いのほか、大きな音がした。
木を微かに揺らすほどの衝撃に、白羽の翼が取れて、ずるずると
地面に落ちていった。痛い。としかめっ面をする。その頭に、さく
らんぼが落ちてきた。しばし見つめ、汚れを軽く払ってから口に運
ぶ。うん、美味しい。
﹁総ちゃん大丈夫!? 痛くな⋮⋮さくらんぼしーちゃんにもちょ
うだい!﹂
白羽が、そんな言葉と共に上手い事翼を使って飛んできた。結局
来るならそのほうが良かったのではないかとも思うが、事前に言わ
なかった自分も悪い。誰も最初から失敗するとは考えなかったのだ
から、それに関しては触れない事にした。
ただ、さくらんぼをあげる前に、けじめとしてこれだけは言わせ
る。
﹁白ねえ。その前に、ごめんなさいは?﹂
﹁⋮⋮ぅぅ、ごめんなさい⋮⋮﹂
素直でよろしい。とさくらんぼを渡し、総一郎は立ち上がった。
臀部を叩いて土を落としつつ、目の前にそびえたつ高い塀を見上げ
る。大人なら首一つ出る程度の高さだが、幼稚園入学当初の総一郎
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にはなかなかに小高い壁だ。
この向こうに、我が家があると考えると、素早く逃げる事は自分
には出来ない。横目ですっぱそうな顔をした白羽を見る。さくらん
ぼがまだ若かったのだろうか。ともあれ、彼女に関しては翼で塀を
軽々と飛び越えられそうではあった。
見つかるなら不自然が無いようにしたい総一郎である。まぁこの
年頃なら見つかってもぽかんとして居そうなものだが、あまり馬鹿
扱いされるのも気分が悪い。こういう辺り、総一郎は、自分は人間
が出来ていないな、と思う。
改めて、庭を見やった。芝生が多く、端っこの方にバーベキュー
用と思われるコンロ的な物体が置かれている。引っ越し祝いか何か
で使うのか。他には裏口のわきに手洗い用の蛇口などもあり、近く
にホースが巻かれている。肝心の裏口には髪を肩口で切り揃えた、
小さな女の子が立って居、怯えた様子で涙目になっているようであ
った。
手にはじょうろが置かれている。そして、自分の背後に花壇が。
あー、と総一郎は納得した。横でぴょんぴょんさくらんぼを取ろ
うと奮闘する白羽の肩を叩く。
﹁総ちゃあぁん⋮⋮。取れなーい⋮⋮﹂
﹁白ねえ、さくらんぼが欲しいなら翼を使いなさい。というか、あ
の子琉歌ちゃんじゃない?﹂
指で示すと、人見知りしそうな雰囲気を醸す垂れ眉がびくっと肩
を跳ねさせ、逆に勝気な釣り眉は﹁あ、﹂と間抜けな声を漏らした。
65
﹁え、えぇっと! ︱︱︱!﹂
﹁ちょい待ち白ねえ! 呪文ストップ!﹂
あまりの驚きに力が入り過ぎ、白羽ごと倒れてしまう。それを切
っ掛けに垂れ眉の琉歌ちゃんが我に返り、踵を返して泣き叫んだ。
﹁お兄ちゃぁぁあああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁん!﹂
ガチ泣きである。
うわヤバい! と冷や汗を感じる総一郎。さくらんぼ泥棒は微笑
ましさがあるが、邂逅直後に我が子を泣かせるような子供は受け入
れがたいだろうと危惧したのだ。どうしよ、と考えつつも、子供ら
しい可愛い声だな、と思う総一郎。﹃琉歌﹄という名が、良く似合
っていた。
その直後、琉歌ちゃんの倍の体躯を持つ、少々細身で神経質そう
な顔つきの少年が出て来る。何故か頭に般若の面をつけているが、
被ってはおらず、顔の横に引っ付けているという状態だ。兄の図書
君だろう、と見当を付ける。ぼさぼさの頭を掻き、泣きつく妹が煩
そうだった。もしかしたら琉歌ちゃんは泣き虫で、これはいつもの
事なのかもしれない。と考える。
だが、さしもの図書君も、総一郎たちを見て驚いたように目を剥
いた。戸惑ったように琉歌ちゃんを見つめている。総一郎は、その
間にどのように言えば解決するか思案し始めていた。そして、それ
がいけなかった。
66
白羽という危なっかしい姉から、目を離してはならなかったのだ。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱︱︱︱︱︱︱︱︱!﹂
詠唱を、いつの間にか終える間際な姉の掌には、かつて作った物
の倍の大きさを誇る光球が浮かんでいた。すでに運動エネルギーに
該当する部位を唱えてしまったのか、微かに振動している。驚愕に
固まる総一郎を尻目に、皮切りの一言が終わった。
巨大な光球は、猛スピードで飛んでいく。般若兄弟と総一郎たち
のちょうど真ん中あたりを通りすがった時に、音もなく、鮮烈に弾
けた。
凄まじいまでの光量が、庭を包み込む。
しかし、総一郎はその中でも目が効いた。しかしそうは言っても
彼でさえパニックに陥っている。どうすれば無かったことに出来る
のか。最悪白羽を引き吊り倒して一緒に土下座させれば何とかなる
のか。
取り敢えず逃げて、後日謝りに行こう。そう決めて目を覆いなが
らもだえる白羽の手を掴んだ時、総一郎は信じられないものを見た。
光球が破裂した時の光は、一瞬では終わらない。魔力を込めた分、
光量が多くなるのは当然だが、どちらかというと持続時間の方が長
くなるのだ。
その中で、目を片手で覆いながら号泣する妹を庇いつつ、兄であ
る図書君は目をしっかと開いていた。失明しかねない光なのに大丈
夫なのか、と思う総一郎。しかし、その手のひらに禍々しいまでの
67
黒い球が出た時、何となく察した。
闇の球は飛び、丁度光球が弾けた場所で、同じように炸裂する。
光と闇は相殺され、全員の視界が正常に戻った。
﹁いきなり光球で目眩ましたぁ、餓鬼がいい度胸じゃねぇか!﹂
悪鬼の如く表情を歪ませて、図書君は総一郎たちを一喝した。そ
の言葉に、はっと我に返る総一郎。ここなのではないか。謝るなら
ばここしかないのではないか。
しかし、白羽の行動は、総一郎の謝罪より数段速かった。
既に繋がっていた手をさらに強く握りしめ、白羽は弟を連れて駆
けだした。転びかけながら思わずそれに追従してしまい、十数歩走
ったところで頭を抱える。当然、図書君は怒りの表情で追いかけて
くる。その表情はまるで般若の面のようだ。どこか遠い気分で、あ、
今自分上手いこと言った。と無気力な半笑いを浮かべる。
般若家の庭は、完全に閉じているという訳でなく、家と塀の隙間
からも行き来が出来るようになっていた。大人だと少々面倒だが、
子供だと苦もない。という程度の幅だ。
そこを、必死の形相で逃げる二つの影。そしてそれを追う般若の
面に、置いてけぼりにされ、一層悲しげになる垂れ眉。あの子は不
遇の子のようだ。機会があれば優しくしよう。と、総一郎、現実逃
避しながら固く決めた。
しかし、白羽が早いというのもあるが、躰がかなり成長していて
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容易に図書君が隙間を通れなかったのだろう。どちらもほぼ同じ速
さで、差は広がりもしなければ狭まりもしない。このままなら逃げ
切れる。と安堵した瞬間。目の前に般若の面が現れた。
面ではなく、良く見たら本物だった。
恐怖に息を呑む姉と、気が遠くなる弟。姉は単純に般若の面らし
きその容姿だろうが、総一郎のそれはもっと複雑だ。推理せずとも
分かる。完全に血縁者だった。
﹁親父! そいつらを捕まえてくれ!﹂
声変わりしていないのに妙に迫力のある声が、総一郎たちを追い
縋った。次いで離れ、親父さんに届く。般若の面の形相が、くわっ、
と更に恐ろしげになった。
﹁﹃止まれぃ!﹄﹂
何処か現実離れした声に、白羽は恐怖の表情で失神する。総一郎
はそれに加え、このどうしようもなさに、泣きたい心持ちで気が遠
くなるのを感じていった。
風の当たる涼やかな感触に、ぼんやりと総一郎は薄目を開けた。
ちりん、ちりん、と風に揺られ、風鈴が鳴る。真正面には、木製
の天井が見えた。薄暗く、夕方なのだろう。と思う。しかし、見慣
れない天井だ。ここは一体何処なのか。
69
体を起こすと、少し驚いたような声がした。半眼で横を見れば、
誰とも知れぬ妙齢の女性。だが雰囲気どおりではないのだろう。落
ち着いているため、三十代あたりかと考える。
そこで、はっきりと目が覚めた。
慌てて周囲を見回すと、少々うなされ気味の白羽が横に寝ていた。
奥の方には、先ほどの般若の面の人、恐らく般若家の親父さんだろ
う。親父さんは、カタカタとパソコンを打っていたが、総一郎が起
きたのを知って、おや、という感じにこちらを見る。
一目で完全にパソコンだと分かる物体を見つけた事にも気づかず
に、総一郎、すかさず居直り、正座で深々と般若家夫婦に深々と頭
を下げた。
﹁姉を止められなくて、ごめんなさいでした﹂
土下座である。
それにむしろ困ってしまったような様子の般若夫婦。戸惑いがち
に、母親らしき人が尋ねてきた。
﹁えっと⋮⋮、貴方は、何処の家の子なの?﹂
﹁こちらの隣の、武士垣外家の長男、総一郎です。重ね重ね、申し
訳なく⋮⋮!﹂
﹁ああ、いや、それはいいんだ﹂
親父さんが般若顔を困らせて、深い声で言った。
70
﹁いや、引っ越したばかりだが、噂通りの大人びた子だね、総一郎
君は。しかし、今回の事は一体どういう事なんだい? 図書は怒っ
ているし、琉歌は泣きっぱなしだ。まぁ、琉歌はいつも通りだし、
図書も怒りっぽいところがあるのだが、それでもあの光はどういう
事だい﹂
﹁⋮⋮姉が先走ってしまいまして⋮⋮﹂
と総一郎は一連の流れを説明する。最初は、さくらんぼが美味し
そうでちょっと取りに行こうと思った、から、出来うる限り総一郎
自身が罪をかぶるような形で説明する。トドメに反省した顔だ。般
若夫妻は、いいんだよ、気にしなくても。と笑って言ってくれた。
計算ずくが少し混ざっているのが、本来の罪悪感に混ざって一層
申し訳ない総一郎である。
そこに、眠ってしまった琉歌ちゃんを抱えた図書君が扉を開いて
入ってきた。
﹁あ、起きたんだ。あのアワアワしてた使えない弟の方か﹂
こら図書! と言われ、困り顔で肩を竦めながら、図書君は妹を
ソファに横たえる。どうやら図書君、口が悪いらしい。
生前にも口が悪い友達が居たので、あまり気にはしない。そいつ
はにやにやと嫌らしく笑いながら言うので、淡々と無表情に言う彼
の方がどちらかというと好感が持てた。
﹁姉を止められなくてごめんなさいでした﹂
﹁ん、何だよ。しっかりした弟じゃないか。そうだぞ。この暴走が
71
過ぎるアホ姉を止めるのはお前の役目だろうが﹂
﹁三歳児四歳児に思い切り怒鳴る中学生もどうかと思うけど﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁⋮⋮失礼、口が滑りました﹂
口を押さえつつ、総一郎は片手謝りをした。白羽を馬鹿にされる
と沸点が低くなるらしい。
だが、図書君は怒り出すと言うよりは戸惑ってしまったようで、
謝罪を受けて、慌てて相槌を打った。中学生らしい中学生だ、と思
う。仲良くなれば、得意げに知識を披露してくれそうではあった。
そこに、白羽が起きだしてきた。上体を起こし、眠たげに瞳を擦
っている。
﹁白ねえ、大丈夫? 一人で歩ける?﹂
﹁んー⋮⋮。眠いー⋮⋮!﹂
﹁ちなみにちゃんと起きて歩かないと、般若さん家に迷惑かけたっ
てお父さんに言いつけるから﹂
﹁はいっ! 起きますっ!﹂
舌っ足らずながら、パッと目を見開いた白羽。じゃあ帰ろう。と
手を握ると、妙に視線を感じて首を傾げながら尋ねた。
﹁どうしました?﹂
72
﹁え、ああ、いや⋮⋮﹂
本当に大人びた子だね。と繕うように般若さん家の大黒柱が言っ
た。追従するようにお母さんがぎこちなく笑い、まだ空気を読み切
れないお年頃な図書君だけ、﹁すげぇ⋮⋮﹂と漏らしている。
﹁では、失礼しました。後日また、何か果物を持ってお伺いします
ので﹂
白羽の頭を下げさせつつ、自身もお辞儀して、玄関まで案内して
もらった。そして、玄関を出て数歩したところで、気付いた。
﹁演技するの忘れた⋮⋮!﹂
んん? と首を傾げる白羽を、何でもないから気にしないでいい
よ? と頭を撫でて誤魔化す。
やっちゃったなぁ⋮⋮。というボヤキは、夕方の空にゆっくりと
溶けていった。
73
6話 幸せの島の歌 ︻上︼
幼稚園では、不自然なく子供たちの世話に終始すると決めていた。
総一郎、幼稚園に入って一年が過ぎ、年中さんになった夏の事で
ある。
園児たちが、初夏の日差しを浴びながら、無邪気に遊びまわって
いた。鬼ごっこをするやんちゃな男の子たちに、砂場で泥団子を作
っておままごとをする女の子たち。それを暖かな陽気の中で眺めつ
つ、総一郎は一つ、欠伸をかます。
この幼稚園の周囲には自然が多く、木陰となってくれる木も多い。
その下で、総一郎は鬼ごっこにも飽きて、木の根にもたれ掛かって
昼寝をしていた。とは言えど、本当に眠っている訳ではない。薄目
を開けて、ぼんやりとしている、というのが正しいか。
幼稚園での総一郎の扱いは、みんなのまとめ役にして問題児とい
うような物だった。
みんなのまとめ役は良く考えもせずに行動していたら、子供好き
が祟ってそうなっていて、かといって問題児の称号が、考えて行動
した結果かといえば、考えてなどいなかったとしか答えられない。
総一郎、最近になって自分が好奇心に身を任せ突っ走る癖がある
のを知った。
74
子供だから、視野狭窄になっているのだろうか、と考えることが
ある。自制が効かない訳ではないが、自制するという発想に辿り着
く前に行動していることもしばしばなのだ。
前世ではさすがにそんな事は無かったから、この子供の体が原因
なのかもしれないと踏んでいた。それが真実であってほしい、とい
う希望もある。
﹁総一郎くーん! みんなもう集まってるから、戻ってきなさーい
!﹂
遠くから呼ぶ声に、やばっ、と身を起こして駆け出していく。
﹁それじゃあみんな! 先生が話そうとしているから静かにしてね
ー!﹂
総一郎が大声で言うと、喧騒がピタッと止まる。そして振り返り、
先生の複雑な表情を見てから、やっちゃった⋮⋮、とばつが悪く視
線を逸らした。
先生が呼びかけるのを聞いてから、それに追従する程度の聡い子
は、居ない訳ではない。だが先生が大声を出そうと息を深く吸い込
んだ瞬間に、ちら、と見やり先んじて喧騒を鎮めるような処世術を
身に着けている子は、恐らく総一郎をおいて他に居ない。
何で子供らしく振る舞えないのかなぁ⋮⋮、と眉間を摘まむ総一
郎であるが、それがさらに周囲の目が困惑することに気付かない辺
り、まだまだ子供だとも言える。
75
戸惑い気味に笑いながら、先生は言った。
﹁え、えー、じゃあ、みんな! 今からプリントを渡すから、忘れ
ずにお父さんお母さんに見せる様にしてね!﹂
複数人居る内の、先生の一人からプリントを受け取った。見ると、
林間学校についてという文字が、軽快に踊っている。下に小さく載
せられた予定表の中に、民謡の学習だのと記されているのを見つけ
た。歌か、と思う総一郎。連想して、自然と目が、ある少女の事を
探し始めた。
隅っこの方に、嫌そうに眉を垂れさせてプリントを睨みつける女
の子を見つける。
般若琉歌。武士垣外家のお隣さんの、一人娘だった。
夏、夜になると、自然豊かなあつかわ村では、蛍が光を灯して飛
び回る。
武士垣外家の庭も、その例に漏れない。真鯉が泳ぐ池の水を求め
て、この近くには多くの蛍が生息していた。夜にもなると、真鯉の
動きが緩慢になるのと反比例するように、蛍は活発に飛び回るので
ある。
そして、総一郎は蛍が満ちる庭の、中心に立っていた。
夜ながら蒸し暑い。微かに、汗ばんでいる。周囲には蛍の光がく
るくると回って居、中には明らかに蛍の光の大きさでない光源も漂
76
っていた。
時折ごく近くにまで寄ってくるため、その正体は分かっていた。
炎の形をしていて、熱を感じさせずに宙を舞っている。名を、鬼火
と言った。日本ではメジャーな妖怪だが、夜に庭に出ると大抵一つ
はあった為、この世界でもそうなのだろうと思っている。
風情があるとは思うものの、見る度にこの世界は節操がない、と
呆れを覚えた。
だが、今は気にするまい。一つ息を吐き出して、軽く二回、こめ
かみを指で突いた。次いで、脳内で呪文を暗唱する。
それによって、ぱっ、と周囲が光に照らされた。昼間と、全く同
じほどの明るさである。
無論、総一郎にはまだ小さな太陽を作り出すだけの技術はない。
これはただ、目に光魔法を使い、視界に映る可視光線の範囲を広げ
たという事だった。
総一郎はそのまま地面を見やり、握るのに丁度良さげな石を拾い
上げた。それを掴みながら、物理魔術の運動エネルギーを呪文によ
って込めると、振動がはじまり、掴んでいられなくなる。離すとそ
れは、手から十センチばかり遠ざかり、止まった。斥力ではない。
石を地面へ向けても、落ちてはいかなかった。
ここで皮切りとなる呪文を唱えると、込めた魔力の分だけ速く飛
んでいく。逆に、その呪文を逆から唱えると、魔力は総一郎へと戻
り、石は地面に落ちるのだ。
77
しかし、今はそのどちらもしない。代わりに、電気魔法を唱えた。
現時点で総一郎の電気魔法に対する親和性は、低い。その為相当に
魔力を込めないと、理想の結果にはつながらないのである。
魔力は、使えば使うほどに増えていくと言われている。オーバー
ワークのない筋肉の様な物だと、テレビで言っていた。使いすぎて
も、無理が来ないという事らしい。
その為、残る魔力の全てを込めた。
僅かな疼痛。その分だけ、紫電は強く石に纏わりついていく。
狙うは、この一年で仲良くなった般若兄妹の兄に作ってもらった、
土像だった。形は鎧騎士であるらしかったが、お世辞にも似ている
とは言えない。
それに向け、石を放った。
凄まじい勢いで飛んで行く石。しかし堅く作ったそうなので、そ
れのみでは壊せない事を、身をもって知っていた。それを見られて
随分馬鹿にされたので、今回は、そのリベンジの意図も含んでいる。
飛んで行く途中、地面から土の様な物が舞いあがった。飛びゆく
石に追従し、鏃のような形になる。最後に、突き刺さった。轟音と
共に、石が土像の深くにまで潜ったのか、ひびが入っている。
しかし、崩れない。
と思うのも一瞬である。
78
束の間遅れて、土像は爆散した。硬質な音と共に、瓦礫に成れ果
てていく。疼痛は消えなかったが、おし、と拳を握った。気付けば
光魔法も切れていて、周囲には闇と、蛍や鬼火の光が戻っている。
﹁おー。今の、やったの総一郎か﹂
感心しているようにも、気が抜けているようにも聞こえる、成長
期のガラガラ声。そこにはぼさぼさ髪に、般若の面を頭の端に引っ
付けた、般若家の兄、図書が塀から肩上を覗かせていた。表情はぼ
んやりと微笑みを浮かべている。高いはずの塀に手を掛け、﹁よっ
せい﹂と軽い調子で飛び越えて、総一郎に寄って来た。恐らく、物
理魔術を使ったのだ。
﹁相変わらず、すげぇな総一郎。一つ言っとくけど、土製でも鋼程
度の硬度はあったんだからな? それをまぁこんな軽々とやっちゃ
ってさぁ⋮⋮。頭おかしいんじゃねぇの、お前﹂
﹁図書にぃの口に悪さに比べたら全然だよ﹂
﹁お前の口の悪さも相当だがな﹂
﹁ははは﹂
﹁本当、四歳児とは思えない落ち着きようだよな、お前は⋮⋮﹂
言いつつも、彼の口元は弧を描いている。軽口をたたき合うのが、
楽しいのだろう。相手が四歳児であるという現実味のなさも、それ
に拍車をかけているように思える。
﹁しっかし、今のはどうやったんだ? お前の年では、単純な魔力
79
押しじゃあれは壊せないだろ。金属の塊みたいなものなんだから﹂
﹁うん。だから、この庭の砂鉄に手伝ってもらったんだ﹂
﹁それなら魔力押しの方が強いんじゃないか?﹂
﹁ううん。一緒に打って砂鉄をあの中に入れたら、磁力による引力
を、斥力に切り替えたんだよ。そうすると、内側から崩壊するんだ﹂
﹁えっぐ⋮⋮!﹂
図書はそう言って、顔を顰めた。生物に使ったらどうなるのかを
想像したのだと思う。
この世界の子供は、どこか生命を軽く見るところがあった。最低
限の倫理は持ち合わせていても、決断を迫られると躊躇わないよう
な部分がある。図書に限った事ではないとはいえ、気に食わない総
一郎だ。
しかし、ここで突っかかるのには意味がないと考え、自粛する。
余談だが、総一郎の電気魔法親和力は、低いと言えど物理魔術に比
べれば強い方だった。しかし加護を受けていくにつれてその差は逆
転するというから、この攻撃方法はあまり意味をなさないかもしれ
ない、と少し徒労を嘆いてみる。当然、他の子どもと違って、使う
予定などなかったが。
頭を振った。変な風に根に持つのは、もう終わりにする。
話題を、変えよう。
﹁そういえば、幼稚園の林間学校って、るーちゃんどんな反応して
る? 連れていくのが難しそうなら、手伝うけど﹂
80
﹁は? 林間学校? そんなの家族の誰も話してねーぞ?﹂
﹁⋮⋮ちょっと予想はしてた﹂
あの人見知りの臆病娘なら、言われない限り隠していてもおかし
くはない。
﹁マジかよあいつ⋮⋮。どうやって叱ろうかな⋮⋮、でもなぁ⋮⋮、
叱るとすぐ泣きだして、結局、話を聞いてないんだよな⋮⋮﹂
あのバカ、とこめかみをぐりぐりとやる図書。口は悪いが、芯に
は優しさが通っている。口の悪さも、それを強く気にしてしまうよ
うな相手には、意識して鳴りを潜めさせる一面があった。
思わず口にしてから必死になって取り繕うため、その慌てようが
面白く、どこか可愛らしいのだ。
﹁まぁ、それは図書にぃが気にしなくても、おじさんおばさんが気
に揉んでくれるよ。あの二人なら、そう怖い事は無いよね? 少な
くとも僕のとこに比べたら﹂
﹁総一郎パパは論外だ。あの人の怖さは人じゃない﹂
﹁図書にぃのお父さんもかなり怖いと思うけど⋮⋮﹂
﹁外見だけなの知ってんだろ﹂
はぁ、と嘆息して、図書は頭を掻いて踵を返した。﹁おやすみな
さい﹂というと、同じ言葉が返ってくる。それを聞きながら額に滲
む汗を、ぐい、と拭い、総一郎は縁側へと駆けていった。
81
林間学校当日まで、琉歌との接触は無かった。
総一郎はそんなことに気付きもせず、考えなしにバスに乗り込む
園児たちを整列させ、先生の微妙な視線に気付いて、ビクッ、と身
を竦ませた。
いつも通りの事であったが、心なしか担任の先生の目つきが鋭い。
どうしたのだろうか。と考える。あつかわ村の幼稚園は、先生同
士の仲がいいので有名だ。総一郎は去年の時点で既にやらかしてい
た為、まさか今更、自分のせいで変な事は言われないだろう。
首を傾げながら、考え始めた。しかしバスに乗るよう呼びかけら
れて、思考はすぐに寸断されてしまう。
車内から、外の風景を眺めつつ、ため息を吐いた。流れていく景
色と、背後からぶつかってくる園児たちの騒ぎ声。心温まる調和を
感じながら、総一郎は何処か不安を感じていた。
この林間学校は、二日間という短い期間の物だった。例えば以前
例に出した民謡の学習で言えば、今日の夜に少し練習して、その後
みんなで合唱するという予定が立てられている。
民謡、と聞くたびに、総一郎は琉歌の事を思い出した。視線がそ
の姿を探し始めるが、位置が悪いのか見つからない。
82
ぽつりと、﹁大丈夫かな﹂と漏らした。いまだ幼稚園に馴染み切
れていない琉歌の事だ。少々の不安に顔を顰めて、しばし経ってか
ら、納得した。
不安の正体の一端が、掴めて来ていた。
バスが止まりそこから園児たちが吐き出されていく。奔放に走り
出す子たちがしばしばいる中、総一郎が声を出そうとすると先生の
声がそれを遮った。ちら、と見やると勝ち誇った顔でこちらを横目
で見つめている。可愛い先生だな、と総一郎は苦笑を浮かべた。
無秩序に集まる園児たちを潜り抜けながら、総一郎は琉歌を探し
た。
雑踏の中に見つけるが、声を掛けようとした瞬間に先生の説明が
始まってしまう。もどかしい気分で終わるのを待ち、再び彼女が居
た場所を見ると、すでにその姿は無い。
その後、諦めずに自然と遊具が咲き誇る公園で、総一郎は男友達
と適当に遊びつつ、移動を繰り返して探してみた。しかし何処にも
琉歌の姿は見当たらないままである。
時には、女の子たちにも聞いた。
だが、クラス全員に聞きまわっても詳細が得られない事に気付い
てから、総一郎は焦燥に駆られた。
﹁どうしよう。るーちゃん、迷子になったのかな﹂
言いながら、一人寂しく眉を垂れさせて、泣いている少女の姿を
83
想像した。だが、それだけでは終わらなかった。茂みの中から、痩
せぎすの、餓えた鬼が、のそりと這い出して、その姿を捉えた。
身の毛が、よだった。
軽く今まで遊んでいた友達に別れを告げて、総一郎は足早に駆け
て行った。すると先生を見つけ、瞬間頭が冷えていく。
自分の思い過ごしであるかもしれない、そのように考え、落ち着
けた。
おずおずと、総一郎は先生に近づいて行った。次いで、琉歌の姿
を見ていないか尋ねる。
﹁琉歌ちゃん? んー、私は知らないけど⋮⋮﹂
﹁そうですか、ありがとうございます﹂
言いつつ、そこを離れることにした。引率の先生は、あと四人い
る。その全てに聞いても誰も知らないようならば、その時に迷子の
可能性を伝えればいい。そう踵を返すと、﹁ああ、待って﹂と後ろ
髪をひかれた。
﹁何ですか?﹂
﹁あのね、総一郎君。琉歌ちゃんの事が好きなのはいいのだけれど、
すこし、相手の気持ちを考えてあげた方がいいと思うのよ﹂
訳が分からず、首を傾げる総一郎。そんな言い方では、自分がま
るで、彼女に付きまとっているかのようではないか。
84
﹁確かに家は隣ですけど、ここしばらくは会ってないですよ?﹂
﹁え! そ、そうなの⋮⋮?﹂
言うと、目に見えて先生はたじろいだ。恐らく本人による相談だ
ったのだろう。しかし、信用度では総一郎の方が上だ。今の所彼は、
﹃人生で一度も嘘をついたことが無い﹄を地で行っている。嘘を吐
く必要がそもそも無かったからなのだが、対する琉歌は、都合が悪
い事を隠す癖があった。
別れを告げ、走りながら考える。自分は何故、琉歌に嫌われてし
まったか。理由は多分、図書に林間学校の事を伝えたからだろう。
どうせ後日にメルポコが来るのだから一緒だとはいえ、そんな細か
い事は分かるまい。
だから、総一郎を避けていた。すぐに見失ったのは、きっと逃げ
たからに違いない。けれど、と考える総一郎である。果して琉歌は、
それを先生に伝えるだろうか? あの、誰にでも人見知りを起こす
琉歌が。
きな臭い。そんな風に感じながら、駆けていく。
人気が、少しずつ少なくなっていった。
体力が限界を迎え、立ち止まり、躰を折って荒い息を吐いた。近
くの冷水器でのどを潤しつつ、ポケットからハンカチを出して濡ら
し、軽く全身の汗を拭う。びしょびしょの布を絞りながら、周囲を
見回した。場所が分からない。
85
迷子探しが迷子になってしまった。何となく憮然としてしまう総
一郎である。
とはいえ、この公園は広い為、必ず一定間隔で地図の描かれた看
板が用意されている。それを探しながらぽてぽてと歩いた。曲がり
角を過ぎると、すぐに見つかる。
そしてそこには、琉歌が立っていた。
﹁あ、るーちゃん居た!﹂
思わず声を上げると、木陰の中で蹲っていた琉歌は、一瞬身を竦
ませ、安堵が滲んだ表情で、こちらへ駆け寄ってくる。それを抱き
とめて、﹁何でこんな所に居たの?﹂と問うと、言葉にならない声
と共に、泣きじゃくり始めてしまった。
﹁どうしたの? 迷子になって、寂しかったの?﹂
垂れ眉を一層垂れさせる琉歌は、しかしその問いに首を振った。
そういえば、と思う総一郎。元々彼女は、自分を嫌って避けていた
のではなかったか。
﹁ねぇ、るーちゃん。一旦、深呼吸しよっか。ほら、大きく吸って、
吐いて﹂
琉歌は息を震わせながらも、大きく息を吸った。それを何度か繰
り返させると段々と彼女も落ち着いてくる。そこで、もう一度訪ね
た。
﹁それで、るーちゃん。一体、何があったの?﹂
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﹁あのね、総くん。恐いおじさんが居てね、私の事を追いかけてく
るの﹂
﹁え? そ、それってどういう⋮⋮﹂
俯きがちな琉歌は、意を決したように顔を上げ、総一郎の瞳を見
つめた。次いで、その眼が恐怖に剥かれる、はっとして総一郎は振
り返った。
その後に残ったのは、頭に走る鈍痛と、脱力する感覚だけだった。
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6話 幸せの島の歌 ︻中︼
甲高い、すすり泣く声で、総一郎は目を覚ました。
周囲は薄暗く、しかし光が差していないという訳ではないらしい。
高い位置に窓があって、しかし磨りガラスらしく陰影しかわからな
い。床はタイルが敷き詰められていて、何もなく殺風景な場所だっ
た。そこで総一郎は起き上がろうとして、出来ない事を知った。手
首と足首が、封じられている。
泣き声の方に目を向けると、琉歌が自分と同じ体勢で転がされて
いた。
しかも、彼女の方にだけ猿ぐつわがされている。
顔が、無意識のうちに引き攣っていくのが分かる。ぐるぐると、
かつて出会った人食い鬼の姿が頭の中で渦巻いている。このまま、
自分は死ぬのか。せっかく新たな生を授かって、彼女に瓜二つな姉
と出会うことが出来て、だというのに、何もせずに食われて死ぬの
か。
かつかつと、音が聞こえた。足音だと、直感する。蝶番が、軋み
を上げた。欠伸をしながら、目つきの悪い男が部屋に入ってくる。
﹁よう、元気にしてたか家畜ども﹂
下卑た笑みを浮かべて、男はしゃがみ込み、総一郎と琉歌の顔を
睥睨した。家畜。恐らく自分たちを喰らう心積りなのだろう。何か
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下手なことを言っても意味はないと判断し、総一郎はだんまりを決
め込む。
しかし、琉歌は余計に泣き声を上げた。猿ぐつわ越しに、泣きじ
ゃくりながら喚いている。すると、男の視線はそちらへ向かった。
まずい、と思いながら、恐怖に何も出来ない。
父と対峙した時の事を思い出した。踏み込む、勇気が出ないのだ。
﹁ん∼? 何だ嬢ちゃん。何でこんな事をするのか気になるのか?﹂
舌を伸ばして、奴は彼女の頬を舐めた。身を竦ませ、琉歌は硬直
する。
それを奴は、心底楽しみながら言った。
﹁オジサンたちはなぁ、人食いなんだ。人食い鬼は俺だけだが、他
の仲間も人食いを覚えちまった人でなしばかりなんだよ。だが、皆
でつるんでいると、どうしても量が足りねぇ。大人ならどこにでも
いるが、俺たちゃそんな偏食家ってわけでもない。喰うなら旨くて
悲鳴の綺麗なガキを喰いてぇんだ。
するとどうだ。ガキがこぞって旅行としゃれ込もうってんじゃね
ぇか。これを狙わない手はねぇってな。大人も数人いるが、聞いた
限りの人数なら勝てないまでもちょろまかすくらい出来そうなんで
な。
言ってる意味分かるか? 嬢ちゃんだけじゃない、お友達も一緒
に食っちまおうってんだ。︱︱だからほら、さっさと泣き喚けよ!
固まってんじゃねぇ! 今すぐ食っちまうぞ!﹂
奴は拳を固めて、琉歌の頬を強かに殴りつけた。それを皮切りに、
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彼女は大声で泣き始める。その柔らかそうな頬はすぐに赤く腫れて
いき、増え続ける涙の痕を見ながら、目つきの悪い鬼は大声を上げ
て笑った。
﹁これだよなァ、これ! やっぱりガキの悲鳴ってのは聞き心地が
いい! ほら、お前もだんまり決め込んでねぇで泣くんだよ! あ
と数人ちょろまかして来たら、全員喰っちまうんだからな!﹂
腹部を蹴りぬかれ、総一郎は一瞬宙に浮いた。息が出来ない。し
かし、鬼の笑い声を聞いていると、そんな事がどうでも良くなるよ
うな気がしていた。強く鬼を睨みつける。すると奴は、﹁あん?﹂
と表情を顰め、しゃがみ込んで総一郎の髪を掴んだ。
﹁何だ、その顔﹂
﹁黙れよ。大人が、子供に手を上げていいと思っているのか﹂
﹁はぁ? 何だそりゃ。お前、子供のくせに何言ってんだ﹂
そんな言葉と共に、総一郎は床に強く頭を打ち付けられた。鼻が
折れ、血が流れる。だが、構わなかった。怒りが、痛みを消してい
た。
﹁泣けよ、何ガン付けてんだよ! お前みたいな糞餓鬼、今ここで
殺しちまってもいいんだからな!﹂
言葉の回数だけ、総一郎の頭は足で床に叩きつけられた。頭が割
れたのか、目の上から血が出ている。しかし、総一郎は睨み続けた。
数度繰り返してなお睨み続ける総一郎に、微かに鬼は怯みを見せた。
90
﹁⋮⋮くそ、何だこいつ、調子出ねぇな。ムカつくったらありゃし
ねぇ。⋮⋮ああ、そういや丁度いいのが居たな。おい、坊主。俺は
な、ロリはいけてもショタを犯す気はおきねぇんだ。だが、例外が
居ない訳じゃあない。言ってる意味分かるか? 分からねぇよな。
それでいい。とりあえず、地獄を見せてやるから、待ってろよ﹂
手を離し、総一郎の頭は地面に落とされた。受け身を取るだけの
体力は残っておらず、ゴンッ、と硬い音を立てる。鬼は意気揚々と
出ていった。
足音が遠ざかり、ふっと消える。十秒の間。力ない視線でこちら
を見る琉歌に、﹁大丈夫だよ﹂と微笑みかける。
それからさらに数分が経った。何が起こるということもない。し
かし、奴の言葉を聞く限りでは、総一郎を犯す輩を連れてくるよう
に聞こえた。
その想像が、総一郎には出来ない。ただ、具体的に考えようとす
ると、妙な恐ろしさが体の中心に湧き上がるような感覚がある。
靴音が、再び聞こえ始めた。あの人食い鬼ではない。どこか、性
根の深いところにある嫌らしさのようなものが、音からにじみ出て
いた。扉が、開く。
﹁ハァーイ、威勢のいい可愛子ちゃんが居るって聞いたのだけれど。
あら! 本当に可愛いじゃない! やっだぁ∼もぅ、早く私に知ら
せてくれればよかったのに∼﹂
にやにやと笑みを浮かべながら総一郎に寄って来たのは、サル顔
の男だった。服の色はピンクなどの極彩色で、趣味の悪さが窺える。
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見た瞬間に、怖気が湧き立った。しかし、恐怖を押し殺して総一郎
は睨み返す。
﹁やだ! 本当に威勢がいいのね。もう、すっごい好みだわぁ∼!
虐め倒して泣き叫んでくれたら、私、我を失っちゃうかも。でも、
それはまだ。まずは、貴方の過去を覗いとかないとね?﹂
﹁⋮⋮過去?﹂
サル顔の変態の言葉に、総一郎は疑問の声を上げた。﹁ええ、そ
う﹂と奴は相槌を打つ。
﹁私はね、種族名を﹃覚﹄っていうの。知ってるかしら? あら!
知ってるのね! でもそこの不細工! は知らないみたいだから
∼、お姉さん、特別に教えてあげちゃう。可愛子ちゃんにブス、私
はね? 他人の心を読むことが出来ると言われているの。でも、私
は強いから、もっと他の事も見れちゃう。例えば︱︱﹂
琉歌の事をこき下ろしつつ、ずい、と総一郎の瞳を深く覗き込ん
だ。
﹁貴方の過去とか、未来とか⋮⋮、ね?﹂
総一郎は、思わず目を剥いた。過去を、覗き見られる。何でもな
いように思えるが、ただ、こいつだけには見られたくないという感
情が起こった。思い出が、穢される。そんな風にさえ﹁あら、貴方
外見どおりの年齢じゃないのね。お姉さんびっくり﹂
﹁見るな!﹂
92
思わず出していた声に、帰ってきたのは拳だった。床とサンドイ
ッチにされ、頭が朦朧としている。脳震盪を起こさせられたのだ。
と思った。
﹁いやぁよ、こんな面白い物。ふんふんふん。あら、こんなすごい
死に方しちゃって。彼女が居たのね。で、プロポーズの日に死んじ
ゃうとか、可哀想すぎて笑いが止まらないわ。それに今はー、⋮⋮
凄いのね。もう物理魔術の練習なんかしているの。本当、残念でな
らないわ。貴方がもしここで死んでいなければ、歴史に名を残せた
かもしれなかったのに。⋮⋮逆に、そんなすごい子を、今の食べ時
に食べてしまえる私は幸運よねぇ∼! ︱︱って、アレ?﹂
︱︱﹃未来がある﹄。きょとんとした表情で、呆然と覚は呟いた。
困惑の声と共に、その瞳孔が開いていく。
﹁えっ、えっ? 何で貴方未来があるの? おかしいでしょ。今か
ら私が食い殺すのに、何で貴方まだ生きているのよ。ねぇ、⋮⋮あ、
え、嘘。そんな、私、目が合っちゃった? 何よ、こいつ。気持ち
悪、え、嫌、嫌だ。こっち、こっち来ないでよ! ねぇ! 来るな
! 来るなっつってんだろ! 殺すぞ!﹂
途中から慌てたように男声になって、総一郎から遠ざかりつつ手
を振り回す覚。その表情は壁に背中をぶつけてから、どうしようも
ない恐怖に歪んだ。泣きながら半狂乱で手を振っている。そして、
大口を開け、絶叫の一端をのぞかせた瞬間だった。
悲鳴ごと、奴は潰れた。
鈍い破裂音と共に、顔の大部分が膨れて割れた。そこから血と膿
があふれ出し、奴の体を伝って地面へと落ちていく。破裂音は、連
93
続した。躰の表面を、余すところなく破裂させ、その中から血と膿
を溢れさせた。
そして覚はくずおれ、自らの血だまりに沈んでいった。
痙攣はしているものの、白目を剥いている。触れずとも分かった。
奴はもう、絶命していた。
何故、こんな事が起きた。と総一郎はパニックに陥った。震え、
何を考えていいのか分からない。その時、琉歌の声が聞こえた。彼
女を見ると、眉を垂れさせ、すがるような目をしている。
﹁⋮⋮逃げないと﹂
ぽつりと漏らすと、総一郎は自らの拘束具を見やった。縄は、火
で燃える。使用は禁止されていたものの、呪文自体は覚えていた。
物理魔術以前の段階で詠唱を止め、縄を焼き切った。同じように
足も対処し、自由を得る。
総一郎はしゃがみ、琉歌と視線を合わせた。
﹁るーちゃん。今、僕たちは物凄く危険な場所に居る。あいつらに
出会ったら、たぶん僕たちは何も出来ずに捕まるだろう。それは、
嫌だよね? だから、静かにしていることを、約束してくれるかな﹂
こくこく、と琉歌は必死に首を縦に振った。総一郎は頷き返して、
拘束を解いてやる。
﹁じゃあ、静かに移動しようね﹂
94
小声で告げて、光魔法で自分と琉歌を不可視にする。無音に出来
れば完璧だったが、音魔法は属性的にあるのかさえ分からなかった。
少しだけドアを開け、周囲を見渡す。ドアは一直線の廊下に面し
ていて、右からは馬鹿笑いが聞こえるので、恐らく人食いたちのた
まり場になっているのだろう。
声を聞く限りしばらくは大丈夫そうだ、と判断して、総一郎はド
アを出、左を見た。誰も居ない。手招きして、琉歌とともに歩いて
いく。曲がり角を通ると、行き止まりである事を知った。しかし、
ドアがある。入るべきか、入らざるべきか。
﹁⋮⋮どうせ、このままでは脱出できないしね﹂
窓があるのでそこからの脱出を考えたが、総一郎の物理魔術は物
を弾き飛ばす以外の事が出来ない。図書の様に高く飛びあがるとい
う事は無理なのだ。また、琉歌を抱えるだけの膂力もない。
少し待ってて。と言い残し、総一郎は曲がり角の先の廊下の、右
側にあるドアに近づいた。泣きそうな表情で琉歌が追従してくるが、
念を押して留ませる。危険があっても、琉歌を守り切るだけの経験
を、総一郎は得ていないのだ。
警戒しながら、扉を開いた。中は暗い。総一郎たちが拘束されて
いた部屋と、全く同じ殺風景な内装。誰の気配もしないため、大き
く開けた。足を踏み入れる寸前で、気付き、止まる。何かが、こち
らに背を向けて立っていて、しかし目前にするまでわからなかった。
その人物の背丈は低かった。総一郎や、琉歌と同じほどの幼さを
思わせる。人間のシルエットをしているが、何も着ていないようで、
95
薄暗い中に白い肌が浮き上がっているようだ。ただ、暗闇に佇むそ
の姿を見て、何故か、寒気が下りた。ゆっくりと、その人物は振り
返る。
総一郎は、一も二もなく逃げだした。
すぐに飛び退き、扉を閉めた。炎魔法でドアノブを溶かし、琉歌
の手を掴んで、全速力で元居た部屋に戻る。死臭。しかし、あそこ
に比べたらまだマシだ。
﹁駄目だ、アレだけは、駄目だ﹂
総一郎は知っていた。あの幽霊染みた雰囲気を纏う、瓜二つの存
在。出会ったら死ぬと言われる、不可避の化け物。幸い総一郎の姿
ではなかったから良かったが、琉歌が部屋の中をのぞいて居たら、
きっと大変なことになっていた。
ドッペルゲンガー。もう一人の自分と言われる幽霊。それは、琉
歌と全く同じ外見で、闇の中に立っていた。
危う過ぎる。琉歌に見せるだけで、もしくは奴が総一郎の姿をし
ていただけで、どちらかの生命は永遠に奪われていた事だろう。落
ち着け、と言い聞かせる。
しかし、これで一つ謎が解けた。琉歌によるものだと思われた先
生への告げ口は、琉歌の孤立を狙ったことだったのだろう。用意周
到だ。くそ、と毒づく。もっと、自分が琉歌を見ていてあげればよ
かったのだ、という後悔が、薄く総一郎にもたれ掛かる。
琉歌を見やった。彼女の容姿はあの般若の面が如き顔の父を持つ
とは、到底思えない程に整っていた。目につく特徴は眉が常に垂れ
96
下がっている事で、また、人見知りで気弱なところがある。それに
加え、注意して聞けば、その魅力ある可愛らしい声に気付けるだろ
う。
その三つが相成って、今の彼女は見ているこちらが辛いほどだっ
た。先ほどからずっと震え、声を殺しながら細い涙を流し続けてい
る。右の頬は先ほど殴られたため、痛々しく腫れ上がっていた。そ
れを見ることが出来るのは、今は総一郎だけである。互いの姿が見
えなくなっては困るため、そういう風に魔法を調整したのだ。
ふと、尋ねてしまった。答えが、分かり切った問いを。
﹁大丈夫? るーちゃん﹂
言ってから、はっとした。大丈夫な訳がないのは、一目瞭然であ
った。もし白羽にこんなことを言ったなら、あの勝気な姉は怒り出
し、けれど語彙が足りずに訳が分からなくなって号泣し始めた事だ
ろう。
慌てて、謝ろうとした。だが、ずっと握っていた手を両手で握り
返されて、何も言えなくなってしまう。
琉歌の表情が、強く総一郎の網膜に焼き付いた。垂れ眉なのは変
わらず、口を一生懸命への字口にして、今だけでも涙をこらえよう
としている。
﹁大丈夫だもん。⋮⋮総くんが居るから、大丈夫だもん⋮⋮!﹂
その声は、涙に滲んでいた。しかし言葉が、人を惹きつける強い
魔力を持っている。
総一郎はどうしようもなくその言葉に元気づけられた。と共に、
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決心が着く。自分も、琉歌に負けず劣らず恐怖していたのだ。その
事に今更気付かされるとは、自分も未熟だ。そう思い、微笑んだ。
﹁うん、ありがとう、心配してくれて。るーちゃんは、優しいね﹂
包み込むように抱きしめた。背中を二度軽くたたいてやり、少し
離れて、目を合わせる。﹁行くよ。付いてきて﹂といえば、大きな
頷きが返ってきた。
ドアを再度開け、まず左の方を凝視する。ドッペルゲンガーの気
配はない。ただ、日が少し落ちて、薄闇が濃くなっただけだ。そこ
には、何も居ない。恐れる必要も、ない。
人食いたちの、たまり場へ向かう。
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6話 幸せの島の歌 ︻下︼
ドアを開ける。中から響いてくる笑い声の大きさが、より大きく
なった。琉歌は身を竦ませるが、手を強く握ると息を吐き出して表
情を引き締めてくれる。
ひっそりと、中に入った。先ほどの目つきの悪い人食い鬼と、オ
ークを思わせる豚鼻の太っちょ、ヤギの様な角と蝙蝠の羽をはやし
た細身の悪魔が、トランプをやっている。他に仲間は居なかったが、
今出払っているだけで実際はもう少し多いのかもしれない。奥の方
に外へとつながる扉を見つけたが、豚鼻が邪魔で開けそうになかっ
た。
やっているのはポーカーらしかった。部屋中を、総一郎は見渡す。
目当ての物は、すぐに見つかった。
息を殺して琉歌と共に近くの机の下に潜り込み、そこから上にあ
った電話らしき物体を取る。笑い声が上がる度に琉歌の体が震えあ
がった。総一郎も、心臓の動悸が速い。
慎重に弄っていれば、番号入力の画面が出た。父への番号は覚え
ている。それを、震える手で押した。そして、通話ボタンを押す。
寸前で、ドアが開く音がした。
見ると、琉歌のドッペルゲンガーが立っていた。
﹁!﹂
急いで琉歌の目をふさぐ。見えたかどうか尋ねると、戸惑ったよ
99
うな返事が返ってきた。見えていなかったという事だろう。一息吐
いて、その動向を探った。躰中に、鼓動が反響している。ふとすれ
ば、叫びを上げてしまいそうなほどに。
彼女は、いつの間にか服を着て、ぽてぽてと歩き人食い鬼の裾を
引っ張った。奴は威圧しながら振り向くが、しばし睨んだ後﹁どう
した﹂と尋ねる。彼女は、琉歌とそっくりな声音で言った。
﹁居なくなってた、二人とも。あと、覚も死んでた﹂
﹁はぁ!?﹂
﹁でも、近くに居る。きっとこの部屋の中。ついでに、他のメンバ
ーは幼稚園の先生方に皆殺されたっぽいから、早いとこ確保してず
らかろうよ﹂
ドッペルゲンガーは、視線を部屋中にめぐらせている。それが自
然に、総一郎たちの方を注視し始めた。目が合う訳ではない。細か
な事は分からないようなのは伝わる。
だが、それでも彼女は、なにがしかを見抜いている。
﹁マジかよ面倒くせぇなぁ⋮⋮。って事はちょっと待ておい。もし
かしてこれチップ的に⋮⋮﹂
﹁私の総取りですね﹂
﹁オ、オレも食べさせてほしい。男のガキの、イ、一部分でいいか
らさ⋮⋮﹂
紳士的にしゃべる悪魔と、どもる低い声の豚鼻。どうやらポーカ
100
ーの結果の事を言っているようだった。見れば、チップの大山が一
つ、二枚程その群れから外れていて、他には空白があるだけである。
﹁まぁ、その位ならいいですよ。右足と、⋮⋮あと、性器は要りま
せんので譲ります。でも、女の子は譲りません﹂
﹁あー! くそっ。今回俺は何にもなしかよヒモジイなぁ⋮⋮。お
い、お前、食わせろとまでは言わないから、せめてその姿で抱かせ
てくれよ。あの泣き顔見てからずっと、ムラムラしてんだよ﹂
﹁んー、まぁ、上手い事ガキ見つけられたらいいよ?﹂
ドッペルゲンガーは妖艶に微笑を浮かべる。幼さと艶やかさの共
存。総一郎は、本物の琉歌と見比べて、胸のむかつきを覚える。
﹁おっしゃあ! ⋮⋮ていうか、この部屋に居るんだよな? 見え
ねんだけど﹂
﹁魔法使ってるんじゃないの。光魔法﹂
それを聞いた瞬間、鬼と悪魔が同時に顔を顰めた。
﹁マジかよ。幼稚園児で魔法使うようなの、今までのヤマでいなか
ったぞ?﹂
﹁運が悪かったんだね。チームの半分が死んでることで分かってた
と思うけど﹂
﹁欲張りすぎたかなぁ? つうか、光魔法ってヤバくね。お前喰ら
ったらイチコロじゃん﹂
101
﹁そう言うことを言わないでください! すでに子供たちはこの中
に居るのですよ!﹂
悪魔は必死になって人食い鬼を怒鳴りつけた。それに、﹁はっは
っは! 死んじまえ死んじまえ! そんでお前の分け前は俺がもら
う﹂と笑う鬼。
﹁⋮⋮ったく。まぁいいです。とりあえず逃げ出される前に見える
ようにしておきましょう﹂
深い声で、悪魔は呪文を唱えた。聞き覚えのあるものだ。呪文が
かつて、図書が言っていたのと全く同じであることを思い出す。時
間はもうないと直感した。遮二無二、総一郎は通話ボタンを押す。
小さなコール音。三回鳴っても繋がらない。詠唱はもうほとんど
終わりかけだ。頼む。と念じる。総一郎の手を、琉歌が一層力強く
握る。詠唱が終わる。闇の塊が部屋に放たれる。
﹁はい。武士垣外ですが﹂
繋がった。
﹁お父さん! 助けてください!﹂
居たぞ! と誰ともなく声が上がった。次いで、総一郎は間髪入
れず光球を放つ。
光が、爆散した。
102
その一撃は、敵味方関係なしに視界を奪った。だが、総一郎だけ
は目を剥いて周囲を見渡している。悪魔はこの一撃で大きく体力を
奪われたらしく、目を押さえ、脂汗を流して呻き始めた。琉歌や他
の連中も同じように目を押さえている。
ただ、その中で平然と佇んでいるのは、琉歌のドッペルゲンガー
だけだった。
その姿を見て、怖気がたった。
ひたひたと、ドッペルゲンガーは歩き始めた。こちらに向かって
いるが、目は総一郎へと向かっていない。焦点が合っていないよう
にさえ思った。しかし、見えている。だから、このように歩けるの
だ。
総一郎は、少し下がって近くの棒状の物を手に取った。ただのペ
ンで、当然竹刀代わりになるはずもなかったが、態勢を取るとシン、
と心が落ち着く。
そして、琉歌の幻影に炎弾を打つ。
ドッペルゲンガーは顔に炎弾を直撃させ、吹き飛んだ。
総一郎の炎魔法に対する親和力は、光と同等に強い。天使は炎か
ら作られたというから、母の遺伝なのだろう。また炎は光に似てい
るが、こちらの方が攻撃に向いていると言うので、慣れないながら
使う事にした。しかし、魔力を少々こめ過ぎたらしい。ドッペルゲ
ンガーの顔は、焼け爛れ、溶けて目玉が落ちていった。
﹁⋮⋮ひっ﹂
103
部屋中を包み込んでいた光が、残滓を残して消え去った。無事に
動ける二人の化け物が目を開ける。そこに映るのは躰を折って過呼
吸を起こす悪魔に、無残に殺された仲間の少女、そして目的であっ
た二人の獲物の姿である。少年の獲物は仲間の少女を見つめながら
カタカタと震え、少女はその後ろに縋り付きながら、目を瞑って泣
いている。
﹁⋮⋮ちっ、二人やられちまったか。まぁいい。豚。二人で山分け
だ。坊主は殺してもいいが嬢ちゃんは殺すな。お前も腹いせに犯し
たいだろう﹂
﹁な、仲間がたくさん、死んだ。人間に関わると、良い事無い﹂
﹁⋮⋮ぁあ、そっか。お前、俺が無理やり連れてきたんだっけ。お
前も人食いだもんな。俺と同じで、人を食わなきゃ生きられない。
⋮⋮さっさとこいつら連れて逃げよう。仲間はまた、見つければい
い﹂
靴音が近づき、硬直する総一郎の頭を殴りつけた。二発目を食ら
う前に総一郎は我を取り戻し、飛び退いて睨む。それを人食い鬼は、
どこか冷めた様子ながら憎らしそうに睨み返した。唸るような口調
で言う。
﹁⋮⋮何だよ、その眼は﹂
総一郎は答えない。絶えず、敵二人の行動に目を配っている。鬼
が、舌打ちをした。馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、奴は口
を開く。
104
﹁なぁ、坊主。お前は自覚ないんだろうが、実はこの状況、結構均
衡してるんだぜ? 魔法ってのは、簡単なのでも結構楽に相手を殺
せる。魔力を余計に籠めたり、少し趣向を凝らせば、それはほとん
ど確実になるんだ。だから、ほら、見ろよ。坊主の魔法で、こいつ、
死んじまったじゃねぇか﹂
鬼は、足元の、琉歌にそっくりなドッペルゲンガーを蹴り飛ばし
た。残った片方の瞳が、虚ろにあらぬ方向を見つめている。
﹁だからよ、俺はこの状況が結構怖い訳だ。俺みたいなろくでなし
でも、仲間と同じくらいには、自分の命が惜しいからな﹂
矛盾だらけの言葉は、しかし強い自嘲が込められているように総
一郎には聞こえた。訝しく思いながら、無意識に敬語で尋ねる。
﹁⋮⋮なら、何故食人種の居住区から出てきたのですか。あそこか
ら出ない事には、命の危険なんてないはずです。食糧だって、犯罪
者の﹃物﹄を支給されているから、事足りていると母から聞きまし
た﹂
﹁︱︱ああ、お前もそう言う訳か。いや、期待していたわけじゃな
いんだけどなぁ⋮⋮。やっぱ、相容れねぇよ。天と地が引っくり返
ったって、お前らとは相容れない﹂
頭を掻きながら、はぁ、と鬼はため息を吐いた。下を向いて、落
ち込んだようにため息を吐いている。総一郎は相手の言葉の心理が
つかめず、眉を顰めた。
鬼は、呟くように言う。
105
﹁豚、殺せ﹂
はっとして、総一郎は横を向いた。オークが、鉄製の棍棒を振り
かぶっている。体勢を崩していなかったのが幸いし、琉歌を連れて
避けることが叶った。だが、部屋の隅に追い詰められたことを覚る。
両人に目を配るが、同時に来られたら琉歌を守りながらいなすだけ
の自信が無い。
どちらかを突き崩すことが出来れば、と思考する。その時、大柄
なオークの姿が、先日砕いた図書作成の土像と被った。敵は大柄だ
が、あれを使えば間違いなく死ぬ。ここに砂鉄は無いが、生物を殺
すだけなら電気魔法を素直に使えばよいだけだ。
次いで、自らが砕いたあの無残なまでの土像の残骸が、虚ろに横
たわる、琉歌のドッペルゲンガーと重なった。そして、この世界の
人々の、表層に出ない残酷さが総一郎にもたれ掛かる。
殺すという言葉が目の前に浮かんで、動けなくなった。
硬直した総一郎の首を、衝撃が襲った。総一郎の軽い体はいとも
容易く持ち上げられ、目を剥いて真っ直ぐな視線で射抜かれた。人
食い鬼はそのまま、総一郎を締め殺そうとしている。余計な事は、
もう何も言わないと決めているようだった。
総一郎は、苦しみと共に意識が少しずつ遠のいていくのを感じな
がら、先ほどの鬼の言葉を思い出す。奴は、自分の命と仲間の命が
同じほどの重さであると言った。それは、どういう意味なのか。
自分の命が軽いのか、仲間の命が重いのか。
106
前者ではないように思えた。しかし、後者と言うには仲間の死を
軽く扱いすぎている。
だが、総一郎はドッペルゲンガーを蹴り飛ばした足に、何か労わ
るようなものが見えた気がしたのだ。ただの、気のせいであるのか。
少なくとも、その言葉は嘘ではないと思っている。
次いで、相容れないという言葉。自分は道理を話しているだけだ
ったのに、帰ってきた表情は失望だった。それも、何度も多くの他
者に尋ね、繰り返されてきた失望だ。
意識が、飛び飛びになる。大切なものが、遠ざかっていく。そこ
に、甲高い、可愛らしい声が響いた。
﹁総くんを離してよぉっ!﹂
総一郎の体が地に落ちた。咽ながら意識を明確に取り戻す。何故、
と鬼を見上げた。強張った顔で、奴は琉歌を見つめている。
﹁⋮⋮ああ、そういえば、嬢ちゃんを捕まえるのにも手こずったっ
け﹂
その瞬間、外との唯一の接点であるドアが、爆裂と共に鬼を巻き
込んで吹き飛んでいく。
総一郎たちの、幼稚園の先生たちが、そこに鋭い目で立っていた。
﹁オークはお願いします。僕は鬼をやりますんで。あと、手が空い
たら死にぞこないを処理しといて下さい﹂
他クラスを受け持つ男の先生が、そんな言葉と共に鬼に掴みかか
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った。腕が一瞬膨れ上がり、鬼の腕を引きちぎる。机の上に組み伏
せて﹁こっち済みました﹂と他の先生に告げた。冷たい表情は、ど
こか寒気がするほどだ。
鉄製の棍棒をもったオークには、華奢で、優しいのが人気な、総
一郎と琉歌の受け持ちの、女の先生が相対していた。すぐに間合い
も何も考えず、先生は前掛けをなびかせ、身を落としてオークに駆
ける。
それを叩き伏せる様に力を籠めて、オークは棍棒を振り下ろした。
先生は自らの命を刈り取ろうとする棍棒に触れ、吹き飛ばされる
前に紫電を走らせた。途端そこから棍棒は粒子状になり、先生の手
首に巻きつくように吹いた風によって、彼女の手の中に運ばれる。
オークの驚愕に対して、冷たささえ無い鋭い無表情の先生。再び
の紫電と共に、かつて禍々しい棍棒であった鉄の粒子は鋭利な両刃
の剣に変わり、飛びこむような斬撃に、オークの体は軽く断ち割ら
れた。ずれ落ちたオークの上半身を、顔に剣を刺して磔にし、パン
パン、と手を払う。
死にぞこないと呼ばれた悪魔は、年配の女性の先生によって、光
魔法で灰にさせられていた。いつの間にか奥の部屋の探索を終えた
のか、﹁こっちも死体があっただけで大丈夫でしたよ∼﹂といつも
と変わらない柔和な声を出している。
﹁畜生っ! お前らはいつもそうだ! 四の五の言わずに俺達を殺
していく!﹂
煩く喚きたてるのは、唯一生き残った人食い鬼だ。
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﹁おい、お前、他に攫った子は居るか? もしくはすでに食った子﹂
﹁⋮⋮ああ、居るぜ。そこに倒れてる、眼玉の飛び出した奴がそう
だ。だっつうのにお前らが来たせいで全部喰いきれなかった! こ
りゃその嬢ちゃんも無駄死にだなあ!﹂
﹁⋮⋮これ、ドッペルゲンガーじゃないですか? 琉歌ちゃんの。
でもそんな都合よく現れるかなぁ⋮⋮。あ、ミミックとのハーフと
かですかね? 危ないなぁ﹂
﹁多分そうね。下手な嘘ついちゃって。捕まって悔しいなら、出て
こなきゃいいじゃない。食べ物はあるんだから﹂
女性二人の言葉に歯噛みして、項垂れる人食い鬼。ぼそぼそと、
﹁畜生⋮⋮﹂と心底悔しそうに漏らしている。だが、そこには憎し
みが消えていた。ただ、何かを惜しむような色がある。
﹁⋮⋮一応処理した場合、始末書が必要だから聞いておくぞ。何故、
出て来た﹂
男の先生が、冷静な声音で尋ねた。馬鹿にするように鼻で笑い返
し、睨みながら鬼は言う。
﹁俺は、人食い鬼だ。人を食わなきゃ生きられねぇ﹂
﹁だが、犯罪者たちの死体が、必ず十分な量支給されるだろ﹂
総一郎と、全く同じ返答。繰り返されてきた失望は、どこか悲し
さを含んでいた。涙のまざる、寸前のような声。再度項垂れて、鬼
109
は呟く。
﹁⋮⋮本当、お前らとは相容れねぇなぁ。お前らが持ってくんのは、
人じゃなくて人の抜け殻だ。︱︱ああ、本当、お前らとは相容れね
ぇよ。たとえ天地が逆転しても、たとえ世界が終わっても、お前ら
とは、絶対に相容れねぇ﹂
﹁そうか﹂
男の先生は、感情の伴わぬ声音と共に、鬼の頭を机に叩き付けた。
ザクロを地面に叩き付けたように、血と脳、脳漿が、放射状に飛び
散る。
その内の一滴が、総一郎の頬に飛んだ。思わず拭いとって、その
正体に気付き、総一郎は﹁あ、﹂と声を漏らした。何故か、寂しさ
の様な物が血の一滴と共に指先から落ちていく。
﹁総一郎君も、琉歌ちゃんも、よく、無事でいてくれたね。頑張っ
たね。もう、大丈夫だよ﹂
先ほどの無表情が掻き消えるほど情緒豊かに嬉しさと涙を混ぜて、
受け持ちの先生は総一郎と琉歌を、しゃがんで、強く抱きしめた。
改めて見直せば、恐ろしいほどに冷たかった男の先生の表情が人
情味あふれる安堵に変わっていて、年配の女性は表情こそ変わらな
いものの、棘の有った雰囲気が消えている。琉歌が、先生の胸の中
で号泣を始めた。頷きながら、先生は彼女の頭を撫でている。
男の先生が、しゃがみ、総一郎と目線を合わせて笑顔を浮かべた。
﹁総一郎君、良く頑張った。君の電話があったから、僕たちは君た
110
ちを助けることが出来た。本当にありがとう﹂
顔をくしゃくしゃにして笑いながら、総一郎の髪をくしゃくしゃ
に撫でる。総一郎が﹁僕は父にしか電話できなかったのですが﹂と
言えば、﹁君のお父さんは警察だからね、逆探知で場所を割り出し
て教えてくれたんだ﹂と言った。受け持ちの先生が抱擁を止め、立
ち上がって子供二人の手を握る。
﹁やっぱり、この二人はショックが大きすぎますから、林間学校は
止めて、この子たちだけ家に送りましょう﹂
﹁そうだね。お父さんが迎えに来てくれるらしいから。総一郎君は
そうしよう。琉歌ちゃんのとこは共働きだからなぁ⋮⋮。僕は引率
があるから、どうしたもんか﹂
﹁私が面倒見ててもいいですよぉ。どうせ窓際族ですし﹂
﹁い、いや、そんなことないですよ!﹂
三人の先生は、気づけばにこやかに歓談していた。それが、総一
郎には何処か遠くの出来事のように思える。本来なら、もっと危機
感を持ってしかるべきなのではないか。
受け持ちの先生に連れられて、総一郎と琉歌は外に連れ出されて
いった。そこからの記憶は曖昧だ。ただ、父が来て、﹁般若さんと
は近くの家で、親交もあるので私が連れ帰ります﹂と告げて、二人
一緒に帰れた事だけが、ぼんやりと思いだされる。
何かがおかしいと思いながら、父の運転する車の後部座席で、総
一郎は琉歌と一緒に、安堵と寝苦しさを覚えながら、一時、溶ける
111
様に眠っていた。
翌日、白羽を連れて、般若家の図書の部屋を訪ねていた。琉歌も
居て、総一郎を見つけると﹁総くーん!﹂と垂れ眉を精一杯上げな
がら駆け寄ってくる。
女の子二人が勝手に遊ぶのを横目で見ながら、総一郎は図書と話
をした。自然と話題は昨日の拉致の事になる。図書は、軽いため息
と共に、総一郎の肩を叩きながら﹁災難だったな﹂と言った。あま
りにも軽い反応に総一郎が微妙な顔をすると、﹁ああいや、﹂と弁
解を始める。
﹁ごめん。やっぱり、最初に拉致られるのは恐いよな。うん。すま
ん、気遣いが足りなかった。みんな通る道とはいえ、恐い事には変
わりないもんな﹂
その言葉が、総一郎には信じられない。
﹁⋮⋮みんな?﹂
﹁ああ、みんなだ。俺を含めてな。でも、生き残れたのはもちろん、
友達が目の前で食われるなんて事にならなかったのは、やっぱ幸運
だった。いや、俺が不運だったのかな﹂
﹁⋮⋮図書にぃは、あるの?﹂
緊張と共に尋ねると、遠くを見る様な表情で、図書は首肯する。
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﹁二回な。初めの時は、お前とそう変わらない年だった。二回とも
目の前で友達が食われてな。俺は仮面があるから、珍味だって後回
しにされたり、ゲテモノだって言われて、押し付け合いをされたり
してた。親父の遺伝なんだけどな、これ。
︱︱目の前で食われた友達は、合計で三人だ。初めに食われたの
は仲が良かった女の子でな、初恋だったのかもしれない。あの時の
様子からしてみれば、犯されてたんだと思う。当時は、訳が分から
なくてな。苦しそうだっつって、でも怖くて、隅っこで震えてたよ。
その時は本当に衝撃的でさ、しばらくその子の泣き声が耳にこびり
ついてんの。二回目にもなると、今のお前以下とはいえ魔法も使え
たからさ、友達が食われてるのを見ながら、どうやって逃げようか
必死に考えてた﹂
今はもう、襲い掛かられない。図書は、そう締めた。次いで、琉
歌に目をやる。
﹁ありがとうよ。琉歌を守ってくれて。あと、お前自身が食われな
いで居てくれて。お前が食われてたら、たぶん今、あいつはああや
って元気では居られなかったと思う。俺自身がそうだったからな。
大抵は、ずっと寝込んじまうんだ。
小学生の頃は、偶にいたよ。一週間二週間と、ずっと休み続ける
奴。知らない間に居なくなってた奴も、少し、居た﹂
﹁⋮⋮本当に、みんなが通る道なんだ﹂
﹁ああ、親御さんに、聞いてみろよ。間違いなく、あるって言われ
るぜ﹂
﹁⋮⋮何で、そんな奴らが保護されてるの? 皆が通るなら、皆が
怖いと思っているって事じゃないか。皆殺しにされたっておかしく
113
ないくらいだ﹂
﹁さぁな。実際、そういう運動家もいるよ。だけど、不思議とその
まま放置されてる。都会には出ないからな。人道的見地から、奴隷
扱いでなら残してもいいんじゃないかっていう奴もネットには居る
し、そういうリスクを背負っても保護する価値があるのではないか
って、政府の陰謀論を掲げる奴も居る。日本の闇の一つって訳だ。
あんまり頭突っ込むとえらい目見る事って、結構世には多いんだぜ。
今後のために覚えとけ﹂
ぽつん、と言葉が途切れる。無言を苦にするような関係は終わっ
ていたから、無理に話そうともしなかった。そのまま、二人で琉歌
を眺める。すると、総一郎はふと思い出した。
﹁そういえば、僕、るーちゃんに助けられたんだけど、どういう事
か分かる?﹂
﹁琉歌が? ⋮⋮どうやってお前を﹂
﹁僕が絞殺されそうになった時、るーちゃんが﹃止めて﹄って言っ
たんだよ。そしたら、拘束する力が無くなったんだ﹂
﹁あー、そりゃ、アレだ。セイレーンの喉を持ってるからな。あい
つ﹂
え、と総一郎は目を丸くする。セイレーンとは、魔力のある歌声
を持つ、頭が麗しい女性で、躰が鳥という魔物である。
﹁そうなの? でも、おばさんは別にセイレーンの要素無かったよ
ね﹂
114
﹁違うよ。お袋は正真正銘の人間だ。セイレーンは親父の方﹂
﹁⋮⋮ごめん、意味が分からない﹂
般若家の大黒柱は、文字通り般若の面が顔と化した怪人物だ。
﹁んー、と話せば長くなるんだが、あの般若の面は、元々親父のじ
ゃないんだよ﹂
頭を掻いて、言いづらそうに目を瞑る図書。
﹁昔振った女が実は鬼女だったらしくてな。呪われたんだと。で、
実際の所親父の遺伝子的には、セイレーンと何かの妖怪とのハーフ、
と人間とのハーフって事らしくて、まぁ、それが琉歌に行ったんだ
な。逆に俺は親父の呪いの遺伝子継いだからこんなんになってる。
で、琉歌の産声に全員が涙したから、こりゃセイレーンの遺伝子
を継いでいるんだろう。って事で、琉歌って名前になった。幸せの
島の歌という訳だ﹂
﹁幸せの島ってどういう事?﹂
﹁ん? 何だよ、総一郎。知らないのか? 何だ、お前、落ち着き
具合とか語彙の豊富さとかこいつ神童じゃないか? とか思ってた
けど、普通のクソガキじゃねぇか﹂
﹁幸せの島って?﹂
﹁⋮⋮俺が悪かったよ﹂
115
分かればいい。
﹁幸せの島っていうのは普通に、琉球の事だよ。この国以上に亜人
と人間が入り乱れて、黒人も白人も関係ない。この国は他の国から
追い出された亜人ばっかり受け入れるから、黄色人種以外は入りに
くいんだよな。それに比べて、食人種以外の全てを受け入れて、世
界最高の幸福度を誇るから、幸せの島なんだと。観光地でさ、ほら、
﹃琉歌﹄の琉は、琉球の琉って書くし﹂
﹁⋮⋮ちょっと待って? 琉球? ︱︱沖縄じゃなくて?﹂
﹁ん? ああ、それは昔の呼び方だな。独立したから今は違う。っ
ていうか総一郎。お前やっぱり知ってんじゃねぇか﹂
片眉を顰めて見せる図書だが、総一郎の頭の中は、静かに、混乱
の極みにあった。沖縄。琉球。︱︱地球にしか、無いはずの言葉。
確かめるため、総一郎は質問を重ねる。
﹁図書にぃ。この星の名前って、もしかして地球? この国の名前、
日本だったりする?﹂
﹁お、おう。そうだけど⋮⋮、何か、総一郎、様子がおかしくない
か?﹂
﹁⋮⋮いや、大丈夫。じゃあ最後に聞きたいんだけど﹂
深呼吸をする。昨日の人食い鬼だけでも頭がパンクしかけていた
のに、そこにこれでは容量オーバーもいいところだった。しかし、
聞ける内に、聞かねばならない。総一郎は、生唾を飲み下して尋ね
116
た。
﹁いま、西暦何年?﹂
﹁⋮⋮2362年だけど﹂
﹁⋮⋮﹂
引き攣った笑顔と共に、総一郎の息は止まった。ぽふ、とソファ
に倒れ込み、乾いた笑い声を上げる。何もかもが、総一郎の予想を
超えていた。情報の処理を終えられる、自信が無い。
﹁おーい。大丈夫かー?﹂
そんな総一郎の声無き叫びにも気付かず、図書は、少々強めに頭
を叩いてくる。数発貰った後に、﹁痛いよ!﹂と言いながらその手
を叩き落とした。﹁いって!﹂と図書が手を押さえるが、そんなこ
とは知らない。
﹁こっちはいろんなことがあり過ぎてパニックになってるんだよ!
そっとしておくれよ! そろそろ知恵熱が出そうなんだ!﹂
﹁うわ、分かったよ。分かったからそんな怒るなよ⋮⋮。そうだ。
総一郎、お詫びにさ、琉歌が歌う、琉球の歌を聞いて行かないか?﹂
﹁どういう事﹂
憮然とする総一郎に、取り繕ったような明るい表情で図書は答え
る。
117
﹁琉歌はさ、親父に自分の名前の由来を聞いてから、親父のパソコ
ン占領して、良く琉球の歌を聞いてるんだよ。歌詞も覚えちまった
らしいからさ﹂
言って、図書は琉歌を呼んだ。総一郎が聞きたがっていると告げ
られると、琉歌は総一郎を少し見つめてから、顔を赤らめて視線を
逸らした。せっかくだし駄目かな、と問うと、了承してくれる。
総一郎は図書と白羽に挟まれて座りながら、琉歌が歌いだすのを
見つめていた。最初は照れて上手くいかなかったものの、言葉を連
ねていると、しっくり、様になっていく。
目を瞑り、琉歌は歌っていた。甲高い可愛らしい声は、歌いだし
た途端に深みを出した。声は高いままなのに、聞く者の胸を打つ。
連想されるのは、優しげな風だった。海岸近くの草原の中に自分
は立っていて、ただ吸い込まれるような晴天と、包み込む海があっ
た。ざわめく緑の上で、その二つが青く境界を失くしている。
隣に座っていた白羽が立ち上がった。目をキラキラと輝かせてい
て、てとてと駆けて、琉歌の周りでノリノリと踊りだす。その可愛
らしさに、少年二人は軽く吹き出した。
総一郎から、情報過多の為に起こった頭痛らしきものが霧散して
いた。そこには爽快感があるばかりで、知らぬ間に一定のリズムが
体全体に染み込んでいく。
今だけは、何もかもを忘れよう。ただ、はっきりと幸せの島の姿
と、その上で楽しげに踊る天使を見て、総一郎は事件以来の、本当
の笑みを浮かべた。
118
翌日、気になって図書の話をした。ほとんどの子供が人食い鬼に
拉致されるという話。父はこう答える。
違うのですか?﹂
﹁気づかない間に、日本という国は物騒になったものだな﹂
﹁⋮⋮え?
﹁違うというか、何だ。そういう話は、子供に聞かせる脅し文句の
典型だ。分別がつけばそうでないことも分かるが、冗談混じりに流
布を続ける者もいる。人生で平均して一度は遭遇するのが人食い鬼
というものだが、大抵は狩り取るべき弱者にすぎない。子供を拉致
出来ても、ことに及ぶ前に見つかり殺される。般若さんのところの
せがれなどは、不運な例だ。勿論、お前もな、総一郎﹂
﹁⋮⋮つまり、図書にぃは話を盛ったと?﹂
﹁故意ではないだろう。嘘を信じてしまう子供の無垢さだ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
総一郎は曖昧に頷いて、父の部屋を後にした。そして、呟く。
﹁陰謀論ってコワイナー﹂
少し歩くと、白羽が居た。遊びに誘われたから、快く付き合った。
119
7話 冬の図書館
隣家である般若家の第二子にして長女、垂れ眉が愛嬌の琉歌は、
懐いた相手に対して接触過多になる所がある。
自分の世話を一番に焼いてくれる兄、般若の面を頭端に付けた図
書には、暇と彼自身の許可さえあればその膝に座って鼻歌を歌い、
彼女の大の親友にして総一郎の姉、天使の血を色濃く継ぐ白羽には、
遊ぶ時はほぼ常にその手を握っている。
そして、肝心の総一郎には、去年の夏に助けてもらってからは会
うたびに飛びついてくる。大変可愛らしいが、子供ゆえの加減のな
さで、少々ながら辟易していた。
何故こんなことを言うのか。それは、琉歌が総一郎のファースト
キスを奪ったからである。
かなり唐突な事だったように、総一郎は思う。
寒空の遠くに、太陽が輝いていた。しかし雲もあり、いずれ隠さ
れてしまうのかと思うと、少々の鬱憤がさらに重くなるような気が
していた。
年越しが済み、子供たちが互いの、武士垣外家、般若家からそれ
ぞれお年玉をもぎ取ってから数日した、ある日の事だ。積雪の上を
白羽と二人、ふかふかの重装備で歩いていた。
正月らしい遊びは、全て正月中に終わらせてしまって、暇だった
のである。
120
かと言って正月に関係ない遊び、例えば雪合戦は大分前にこなし
てしまっていた為、やろうにもやれない。しかもその顛末が、年が
一番上だからと図書が魔法を込めた雪玉で集中放火されたため、嫌
がって相手にしてくれなくなったという、考えられうる最悪の物だ
ったのだ。
総一郎は寒い中で暴れまわるほど元気が有り余っている訳ではな
かったので、形だけ参加する、という程度に留めたが、正真正銘の
子供たちにそんな理屈は通じない。大人しい気質のある琉歌はまだ
マシだった。しかし、白羽がいけなかった。
あのバカ姉は、あろう事か光球で総一郎を除く全員の視界を奪っ
たのち、必死に図書へ、大量の雪玉をぶつけたのである。
手加減を知らない子供は恐いと痛感した総一郎だ。
その様を思い出し、周囲の空気の寒さとは無関係に、ブルリと体
を震わせる。横に居る白羽に﹁どーしたの? 総ちゃん﹂と尋ねら
れ、思わずぎこちない返事をしてしまった。
だが、何処へ行こうと暇である事に変わりは無く、それならば、
という理屈で般若家を訪ね、図書の部屋の扉をノックした。
そこで迎え入れられた時、琉歌に抱きつきついでに唇を奪われた
のだ。
部屋全体が、沈黙に満ちていた。
琉歌だけがそれに気付かず、総一郎から唇を放して嬉しそうに顔
を紅潮させる。次いで、てとてとと図書の後ろに隠れてしまう。
121
﹁⋮⋮総一郎⋮⋮?﹂
仁王立ちで名を呼んだのは、図書だった。口の形は弧を描いてい
るが、どう見ても笑みではない。
それを感じ取り、総一郎、慌てて弁解する。
﹁誰にどんな非が有るとは言わないけど、とりあえず言えるのは、
僕の今の心境が娘のファーストキスをもらっちゃって、嬉しい様な
申し訳ない様な父親の気持ちに限りなく近い物だって事だよ﹂
﹁スゲー現実味のある返しで、お兄さん怒る気も失せちゃったよこ
の野郎⋮⋮﹂
項垂れて重いため息を吐く図書。出会った当初は幼さの残る悪餓
鬼と言った風情だったのが、今はある程度の分別もついて、口の悪
さも控えめな、大人の雰囲気を纏い始めている。
ふと気になって、総一郎は尋ねた。
﹁そういえば、図書にぃって今何年生だっけ﹂
﹁中学二年の終わりだよ。お前らが幼稚園を卒業するのと同時に、
俺も高校へ上がるって訳だ﹂
﹁ふーん﹂
何となく頷く総一郎。それを凝視していたのは、白羽だった。﹁
総ちゃん﹂と名を呼ばれ、振り向くと頭を叩かれる。
﹁⋮⋮痛いんだけど、白ねえ﹂
122
﹁知らないもん。総ちゃんのバーカ﹂
目の下に人差し指を当て、舌を出して子供らしい挑発をする白羽。
総一郎は、刹那、呆然としながら、その姿に生前の﹃彼女﹄の姿を
垣間見てしまう。
二歳の時の白羽の開花以来、少しずつ白羽が﹃彼女﹄に似ている
という理由を除き、ただ自分の姉として深く愛することが出来るよ
うになった総一郎。だが、普段と違う行動を取られると、どうして
も﹃彼女﹄の姿がチラつく。
そしてその度に、総一郎は心臓を鋭く抉られるような感覚を覚え
た。助けられなかったのではないか、と言う考えが、脳裏をよぎる
のである。
白羽はそんなことも知らずに、琉歌を遊びに誘っていた。今日は、
ゲームをやるらしい。その姿を、防衛本能に近い形で苦笑しながら、
根っこで深く沈黙していると、ぽん、と頭に手を置かれた。
見上げると、図書が困ったような、愛嬌のある笑みを浮かべてい
る。
﹁琉歌。﹃LIFE GAME﹄は右端にあったはずだから、それ
ならやっていいぞ。他は全部俺のクリアデータだから触るなよー﹂
はーい。と清涼な声が返ってくる。見れば、少女二人は目と耳を
覆う、それぞれ青色と銀色の、レンズのない眼鏡の様な物をつけて
いた。こっそりと琉歌が、さらに首裏に小さなカチューシャの様な
物を付けようとしていたが、図書に見咎められしぶしぶしまう。そ
の代りに彼女たちは、少しサイズの大きい手袋をはめた。
123
﹁えっと⋮⋮何? あれ﹂
﹁ん? ゲームだけど﹂
﹁え、いや⋮⋮。ううん。あのメガネみたいな奴と手袋は分からな
いでもないけど、るーちゃんが首にこっそりつけようとして他のは
何? アレだけは正体が分からないんだけど﹂
﹁ああ、VRシステムな。アレは偶にジャックとかされて危険だか
ら、小さい内はやらせない方がいいんだ。ジャックされた末にその
中で殺されたり、逆に人を殺しちゃって、罪に問われるなんて子供
が一時期続出したらしいからな。大人もだけど、それはまぁ、自業
自得だし﹂
﹁⋮⋮﹂
そっかぁ、いわゆる﹃脳直﹄かぁ。なんてことを思わないでもな
い総一郎、微妙な笑みのまま、言葉を耳から耳に聞き流した。本当、
SFなんだかファンタジーなんだか、訳が分からない世界だ。
そんな時、かつて話された﹃琉球﹄の言葉が思い浮かぶ。琉歌の
名前の由来で、幸せの島とされる場所。かつて沖縄であるかと問え
ば、図書はそれに是と答えた。また、この国が日本であると聞いて
も、答えは同じであった。
奇妙な矛盾に、総一郎は眉を顰める。結局それっきり情報も結論
もなく、ただ悶々としたりそのまま忘れたりして日々が過ぎていっ
てしまった。そんな時、どうしようか、と考える総一郎に、渡りの
船が訪れた。
124
﹁じゃあ、家のゲームには占領されちまったから、図書館にでも行
くか。総一郎はいろんなことに興味を示すから、よかったら、教え
てやるよ﹂
頭に置かれていた手が取り払われ、図書は箪笥を開きコートを取
り出した。慌てて、総一郎もそれに追従する。
ざくざくと、足音が聞こえる。
それ以外の音は無い。左斜め上の方を見ると、分厚い上着を羽織
る図書の、白い息があった。一定の間隔で吐き出され、風船のよう
に膨らんだと思えば、次の瞬間には消えてしまう。
総一郎は、視線を前に戻した。自分の目の前にも白い息が現れ、
そして消えていく。その向こうに見える、一部だけ高く残った雪を、
体重を乗せて踏み潰した。また、ざく、と音がする。すでに足跡だ
らけの雪道に、新しい、小さな足跡が出来上がる。
しばらくは、無言で歩いていた。話すべきことがなく、その意思
もなかった。そのままでいると、木の標識が見えてくる。﹁あつか
わ村へ﹂と記された、寂びれたものだ。相変わらず、読めない複雑
な字体をしている。
そこで、ふと総一郎は思う。
﹁図書にぃ、これって、何でこんな字を書くの?﹂
125
﹁ん?﹂
声をかけると図書の視線が総一郎へ行き、その指差す方向へ向か
った。標識を見て、﹁あー﹂と漏らす。言葉を探すように唸りなが
ら、頭を掻いていた。それが彼の癖である事を、最近になって知っ
た。
歩くのを再開しつつ、図書は語る。
﹁あの字はな? 環境依存文字っつって、常用語じゃないんだよ。
この村だけでしか使わない文字っていうか。意味、分かるか? も
っと噛み砕いた方がいいなら言えよ?﹂
﹁ううん、大丈夫。⋮⋮でも、それなら何でこの字が使われるよう
になったの? 常用語で書けばいいじゃないか﹂
﹁んー、まぁ、アレだ。もうちょっと村の方に戻るとさ、神社に続
く石階段があるだろ?﹂
﹁あるね。僕はまだ参拝したことないんだけど﹂
﹁小一の夏休みになったら、嫌でもするさ。⋮⋮それで、その神社
の山には、かなり多くの日本妖怪に分類される亜人たちが住んでて
な、そいつらが、﹃この村の名前はこんな名前ではない。正しい字
を使え!﹄って五月蝿かったらしいんだよ。
その頃にはかなり前で止まってた亜人たちの文化も、相当現代の
感覚に追いついてきていて、似合わないなりに署名なんか集めちゃ
ってさ。俺に加護をくれた石頭の爺様もが必死に笑み作って愛想振
り撒いてんだからもう爆笑ものなんだよ! 俺が加護よこせっつっ
た時は﹃礼儀が足りん﹄って思いっきり頭に拳骨落しやがった爺様
126
が﹃署名御願いしま∼す﹄なんて猫なで声出してんだぜ!? いや
ぁ、そん時は笑った笑った﹂
言いながら、口元を押さえてくつくつと笑う図書。馬鹿にするよ
うな色も口調から窺えたが、どちらかと言うと親しみを込めた物で
あると知る。嫌いな相手を、﹃爺様﹄とは呼ぶまい。
﹁その人、今どうしているの?﹂
﹁ん? ああ⋮⋮、確か、お前が生まれる寸前で死んじまったって
聞いたよ。俺はその時この村に居なかったから、葬式には行けなか
った。⋮⋮思い出すと、ちょっとだけ悔しくなるな。アンタから貰
った金属魔法の加護で、こんなに俺は化学魔術上手くなったんだぞ
って見返してやりたかったんだけどさ﹂
口端を少し歪めながら、図書は軽く笑った。総一郎は、偶に思う。
彼は人の死に触れすぎなのではないかと。
しかし、聞く限りでは一般的な事のようにも思えた。総一郎自身、
まだあまり、この世に生れ落ちてから年月が立ったわけでもない。
生きていく内に多く経験していくのかと思うと、少し、恐ろしくな
る。
再びの沈黙。図書は少し上を向いて、空を見上げているようだっ
た。釣られて見ると、空の色は薄暗く淀んでいる。このままなら、
今日もまた、雪が降るのだろう。
歩いていると、地面の感覚が変わった。今までは少し滑り気を含
む土だったが、気付けばしっかりした踏み応えが返ってくるように
なった。石畳で、そろそろ町なのだと理解する。
127
その頃から、目の前から雪を踏む、ざく、と言う音が聞こえるよ
うになった。
遠くを見ると、女性が歩いてきている。しかし少々身なりがみす
ぼらしく見えた。人食い鬼とは比べ物にならないが、しかし暮らし
ぶりは裕福そうにも見えない。
手首を握られる。見ると、図書の顔が少々強張っていた。小声で、
﹁何も言うな。刺激したらやばい﹂と忠告を受ける。
何事もなく通りすがり、そのまま彼女の姿は見えなくなっていっ
た。ただ、通りすがる瞬間に見えた、怪しく光る首元の紋様が、総
一郎の目を惹いた。
﹁奴隷紋だ。半径二十メートルに人がいると、輝いて知らせるんだ
よ。あの印は多分、下級奴隷紋。つまり、あの人は軽犯罪者だって
事だ﹂
ぼそりと、図書は言った。詳しく聞こうとすると、﹁人目がある
場所で話すことじゃない。図書館で教える﹂とだけ、不愛想に言わ
れる。見れば、寒そうだった彼の額には、薄く汗が滲んでいた。
目の前に表示されたディスプレイには、先ほど見た紋様が描かれ
ていた。似たようなものが他にも数種同ページに描かれていて、下
級、中級、上級と格が上がるごとにその複雑さを増していく。指を
動かし次ページを見ると、それを刻まれる条件を事細かに記してい
た。万引きなど軽犯罪を犯したものに下級、窃盗などの中級犯罪と
されるものを犯した場合中級、そして人殺しなどの重犯罪者らは、
上級のそれが刻まれるらしい。
128
そこまで見て、図書はそのディスプレイを閉じ、﹃刑法入門﹄と
示されたアイコンを端のアイコンに持っていってから、出て来た小
さなデータカードを抜き出した。ケースに入れ、目の前の返却ボッ
クスに挿し込む。すると吸い込まれ、消えてしまった。きっと今頃、
保管所に収納されている事だろう。
﹁とまぁ、犯罪者ってのはこんな風に扱われるんだ。軽犯罪用の下
級奴隷紋でも、押されればかなり見下される。軽犯罪っつっても常
習犯くらいしか押されないものだしな。本来下級奴隷紋は、中級犯
罪者だけど情状酌量の余地がある相手に押されるべき物なんだよ。
そういう意味では、あの女の人は少し可哀想な人だったのかもしれ
ないな﹂
目線を待ち受け画面に落したまま、図書は言った。総一郎は、そ
の言葉に眉を顰めざるを得ない。
﹁何で、奴隷紋を押すの? それでおしまいなの? 刑務所は?﹂
﹁刑務所って⋮⋮。いや、似たものはあるにはあるけど。︱︱たま
に思うんだけどさ、総一郎って時代小説をよく読むのか? 第二次
日中戦争以前しか、刑務所なんてものは使われてないんだぜ? い
や、正確には使えなくなったっていうべきなのかね﹂
﹁⋮⋮ちょっと待って。すでに情報が絡まってしっちゃかめっちゃ
かになりそうな臭いがする。えっと、順を押さえて説明してくれな
い? まず、刑務所が何故使われなくなったのか﹂
﹁んなもん、刑務所っていうのは要するに罪人を拘束する所だろ?
でも、今日の日本人を拘束する手立てなんか無いに等しいんだか
129
ら、そんなもの、無くていいだろうに﹂
﹁一応聞くけど、何で拘束できないの?﹂
﹁義務教育課程で元素分解からの再構成を習う国だからなぁ。しか
も、それを防ぐ手立てがない。魔法っていうのは便利でもあるけど、
防ぐ手立てがないっていうのはやっぱり不便なものだよ。要約すれ
ば、拘束具も監獄も、脱出の阻止に対して意味をなさない。だから
廃れたんだろうよ﹂
﹁それで奴隷紋になるんだ﹂
﹁奴隷っつっても本当に奴隷って訳ではないらしいんだけどな。日
本の研究家たちが遺跡で偶然発掘したのを流用してて、元々の用途
が奴隷の拘束だったから、形式的に奴隷紋って呼んでるらしい。押
されたら二度と外す事が出来ない辺り恐いよな。ちなみに、今はそ
の名前を変えようっていう動きがあるらしいぜ。奴隷っていう言葉
を使うのは、やっぱり、外聞が悪いんだとさ。授業で言ってたよ﹂
ふぅん。と口元に手を当て、脳内で言葉を噛み砕く総一郎。余談
だが、刑務所や拘留所と共に裁判所が縮小されたため、その分の有
能な人間は、教育分野に流れていったという。この日本には私立が
無く、すべて公立ながら、全て諸外国とは比べ物にならない教育を
施されているとのだと。
身をもってそれを知るのは、総一郎が小学校に入ってからである。
﹁奴隷紋の格っていうのは、強制力と、その有効範囲によるものな
んだ。
まず下級は、警察とか、あとは食人種専用居住区に出入りする業
130
者が持っている﹃奴隷使役権﹄っていう権利が無いと命令できない。
それに、強制力を持つ命令も、無力化するための言葉だけしか力を
持たないらしいんだよ。しかも、使った場合滅茶苦茶始末書書かさ
れるらしいし。そういえば警察官らしいから、総一郎パパなんかも
持っているんじゃないか? 次に、中級奴隷紋。誰にでも命令できるけど、やっぱり効力は低
いし、必要な時以外に使ったらお縄をもらうのが自分になっちまう
んだと。中級までは人権があるからな。かなり風当たりは酷いらし
いけど。まぁ、上級程じゃないさ。
で、上級。こっちは人権もない。好き勝手命令できるし、それが
刑罰だって主張する本もある。今の世の中は読心が簡単に出来るか
らいいけど、冤罪があった時代なんかではこんな重い刑は成り立た
ないよな。大抵は、そこらの悪餓鬼に﹃駆除だ﹄って殺されるのが
落ちらしいぜ。ただ、救いがない訳じゃなくて、一応保護する場所
があるらしい。その中だけでは上級奴隷も人権があるんだが、一年
に一回くらいは襲撃されたっていうニュースを見るな﹂
頭を掻いたりこめかみを押さえたりしながらの図書の説明を、総
一郎は自分なりに咀嚼していった。刑務所での懲役は事実上不可能
なため、奴隷紋による代用をしているという事なのか。そして、冤
罪も無い為それで成り立っていると。しかし、その不可能になって
しまう理由は取り除けないのだろうか。少し考え、腑に落ちた。
取り除いてしまうと、そもそも自衛すらできなくなるのだ。人食
い鬼が居て、それ以上に義務教育で魔術を習った先駆者たちが居る。
その中には、不埒な考えを持つ者もいるだろう。故に、取り除けな
い。
ふと、母に助けられたことを思い出した。その時自分が奴隷紋に
気付かなかっただけで、母はちゃんと、人食い鬼の下級奴隷紋を見
131
つけていたのだろう。
﹁⋮⋮良く知ってるね。図書にぃって、結構頭良かったりするの?﹂
﹁ん。まぁ、そこそこじゃないか? こういうのは調べているだけ
でも楽しいし。そもそも授業で習うからな。俺は文系なんだ。⋮⋮
今になって気付いたけどさ、俺難しい固有名詞ばっかり使ってなか
ったか? 意味ホントに分かってるか?﹂
﹁心配しなくても大丈夫だよ。それで次は、⋮⋮第二次日中戦争に
ついて知りたい﹂
﹁というと、歴史だな。でも、第二次日中戦争だけやるのは偏って
ないか? 今は中国も細かい名前は変わってるし﹂
﹁今は何なの?﹂
﹁中華民主共和国﹂
﹁民主制になったんだ﹂
﹁まぁ、第二次戦争で日本に勝った後、四国干渉でほとんど実利無
かったらしいからな。崩壊したのも無理ないんだと。反日で盛り上
がって、盛り上がりすぎた結果の暴動だ。すぐに国家が引っくり返
ったらしいし。今じゃ、日中関係はアメリカとのそれを上回ってる
からな。まぁ、時代っていうのは読めないもんだよ。鬼畜米兵なん
つってたのが、WWⅡで日本惨敗した後にはお互い滅茶苦茶仲良く
してんだもんな。しかも世界の嫌われ者だった日本が、いつの間に
か世界中で一番優しい国に名乗りを上げるほどにまでなった。今じ
ゃあ亜人受け入れを真っ先にしたから、世界一裕福な国って言われ
132
てるほどだ﹂
ちょっと資料取ってくる、と席を立った図書の饒舌に、好きなん
だなぁ、と思いつつ、こめかみに手を当てて必死に要約する。
確かに、総一郎の生前でも、中国の反日デモはニュースでよくや
っていた。また、戦争をしないと書かれた憲法改正の動きも、水面
下で行われているという話を聞いたことがある。それが高じて戦争
になり、中国が勝ったものの﹃四国干渉﹄によってほぼ実利が無く、
崩壊してしまった。実利が無いというのは、きっとギリギリの戦い
だったのだろう。後の図書の話では、日露戦争の日本の戦い方に似
ていたという。局地戦での勝利を重ねて、早くに講和条約に持って
行ったのだ。
しかし﹃四国干渉﹄とは何か。首を傾げ、戻ってきた図書に詳細
を尋ねる。先ほどの電子媒体とは違う、紙の本をぺらぺらとめくり
ながら、図書は答えた。
﹁四国干渉は、三国干渉のもじりだな。三国干渉は知ってるか?﹂
﹁うん。前に日本が中国に勝って、でも欧米列強に脅されて、リャ
オトン半島を返したんだよね。で、欧米列強は中国に﹃金貸したり
優遇したんだから、土地、貸してくれるよね?﹄って笑顔で脅して
⋮⋮﹂
﹁お前それ五歳児の歴史の覚え方じゃねぇよ⋮⋮。まぁ、それと同
じことが中国に起こったんだな。当時の中国は嫌われてたし。で、
欧米列強は日本の﹃金山﹄を奪っていったと﹂
﹁金山? 日本にそんな物、多くは無いよね﹂
133
﹁言葉の綾だ。俺が悪かったな。当時の日本の﹃金山﹄っていうの
は、やっぱりその工業力だったと言われてる。ようは技術よこせっ
て言われたんだな。あと、厄介者だった亜人を押し付けられた。今
はそのお蔭で、日本はほぼ国際関係の頂点に立っていられるんだけ
ど﹂
一度言葉を止めさせ、思考する。日中間で戦い、負け、しかし助
けられた。ここまでは納得できる。生前の地続きで、考えられない
訳ではなかったからだ。日本が負けたと聞いても、驚くほどではな
かった。文系の友人が生前に複数いて、議論していたような記憶が
残っている。それを聞きながら、どっちに転んでもおかしくないと
思ったものだ。
だが、亜人に至っては違う。完全に、生前の常識の外に居た。あ
の、気の違った化け物染みた少年もそうだ。思い出すと、微かに心
臓が鼓動を速める。しかし、それだけだった。僅かの緊張は有れど
も、気にするほどではない。割り切ったと、総一郎は自分を評して
いる。信じ込んでいると言ってもいい。
﹁厄介者⋮⋮。そういえば、亜人っていつから出てきたの?﹂
﹁2013年の冬。マヤ歴が終わった頃からだな﹂
総一郎、眉を顰めつつ、反論する。
﹁2012年じゃなくて?﹂
﹁当時はそれが主流だったんだけど、亜人の登場がそこらへんだっ
たから、じゃあそっちなんじゃね? って説が今の所主流になって
る﹂
134
﹁⋮⋮じゃあ、何で出現し始めたの?﹂
﹁難しい質問だな。今はまぁ、食人種なんかが居るものの、まずま
ず平和な時代だから研究されているっていうのは聞いたことがある
んだけどさ。やっぱり、そこらへんは未だ分かっていない。
亜人の存在は今や当たり前とは言えど、ダーウィンの進化論を無
視した存在なんだよな。一時は人類の出所すら疑われたらしいんだ
けど、﹃魔法﹄っていう明らかに異質な技術がそれを否定した。大
体おかしいだろ。人類とはかけ離れた容姿をしている奴が、平然と
人間との間に子供を残すの。⋮⋮まぁ、そこは生物の範囲だから俺
の管轄外として、だ﹂
で、ここからが本題。図書はにやりと笑いながら、開いた本を総
一郎に差し出した。その眼は、無邪気に輝いている。
﹁亜人っていうのはさ、国によって物凄い扱いが変わる存在だった
んだよな。どこにでも居て、何処も同じような性質の奴らがそろっ
ているのに、それを迫害したり共存したり猫かわいがりしたり駆除
したりと様々なんだ。例えば、イギリス﹂
図書は指で示す先には、人間と亜人らしき存在が、争っている風
刺絵が描かれていた。人間の背後には神らしき巨大な存在が立って
いて、逆に亜人たちの頭上の雲は黒く立ち込めている。亜人の内の、
半分以上が森の方へ敗走していた。
﹁この国は四国干渉で、一番多くの亜人を日本に押し付けた国だと
言われている。宗教が原因で亜人と戦って内戦状態に近かったとこ
ろを、アメリカとの共同で戦争を取りやめて、亜人たちに銃を向け
ながら日本に送ったらしい。当初一番扱いに困ったのは、この国の
135
亜人たちだって話だ。今でも亜人受け入れをしてない唯一の先進国
だよ。その所為で、大分経済が滞ってるあたりお笑い草だけどな﹂
次はアメリカ。言いながら、図書はページをめくった。風刺画の
中心に二人のアメリカ人が立っていて、片方は亜人とにこやかに握
手をし、片方は下卑た笑みと共に亜人を銃殺している。その上には、
何故かUFOが飛んでいた。よく見れば、銃を乱射するアメリカ人
の銃も、どこか奇妙な形状だ。
﹁この国の魔法は、日本、中国に次ぐ世界第三位の物だと言われて
いる。魔術の発展は日本に比肩し得るものがあるんだが、いかんせ
ん加護を受けるっていう文化が薄い。日本では小1の夏休みにリス
トアップされた、ほぼ全ての属性加護を受けさせるのに対して、ア
メリカでは亜人の加護じゃなく、本人の素養だけでやらせているら
しいな。電気魔法の使い手なんかは、それだけで一級の研究職に付
けるんだとよ。
その代りに、亜人の扱いが少々酷いところがあるな。昔の黒人差
別に似たところがあるっていえば、分かりやすいか? それに対し
て、亜人たちは暴力で返しているから、地位向上が望めない。難し
い話だな。
あとは、宇宙人との交信を総一郎が生まれる前辺りに発表してい
たはず。魔法に関係のない科学文明のみで言えば、地球上では頂点
に居るような国だ。まぁ、大国は大国って事だろ﹂
三番はインド。言いながら、ページが捲られる。幾つもの勢力が、
互いにそれぞれ睨み合っていた。中心に神らしき存在が居るのもあ
れば、メンバーの半数が亜人であるグループもある。
﹁この国は面白いぞ。というか、ここあたりから広がる中東全体な
んだが⋮⋮。なんてったって混沌としている。宗教が多くてな、互
136
いに睨みを利かせているんだ。四国干渉で押し付けた亜人の数が一
番少ないのもこの国だったっけ。他の三国のご機嫌を上手い事取っ
て、莫大な利益を上げて先進国の仲間入りをした国でもある。
ただ、亜人の登場以来ほとんど内戦しているんだよな。だから、
情報が少ないんだよ。これだけ面白い国もないのになぁ⋮⋮。早く
終わらないものかね、内戦﹂
で、ラストの日本。総一郎の目に飛び込んできた風刺画には、都
市を渡り歩く青年の姿が描かれている。その横を通りすがるのは、
若者らしい服装に身を包んだ亜人だ。頭から耳が出ている辺り、猫
などが年を経て妖怪と化した物なのだろう。背後には建設中のビル
が建っており、鬼らしき赤い肌の偉丈夫が物資を運んでいる。絵の
端には、亜人と人間の恋人達が仲睦まじそうに笑いあいながら歩い
ていた。
﹁俺たちの国は、今からしてみれば何処よりも幸運だったとされて
いる。四国干渉で敗戦の傷跡なんてほぼなかったし、日本にはそも
そも八百万の神々の思想があるからな。この神様しか信じない、と
かの堅苦しい考えが無かったんだ。さらに細かいことを言えば、当
時はファンタジーブームが来ていてな。ファンタジーが流行るのは
民衆の心が荒んでいる証拠だ、なんて言う本もあるんだが、今回に
限ってはそれもうまく作用した。
ここからが面白い話なんだけど、亜人は何処の国でも原産の亜人
っていうのが居て、日本なんかは種類も数も多かったのに、諸外国
に比べて妖怪が出ただの出ないだのと言う話題は、全然表面に出て
来なかったらしいんだよ。さて問題だ総一郎。それは、何でだと思
う?﹂
表面化に出ない。しかし、存在はしていた。ならば、表面化に出
ない理由があったという事だ。どうでもいいが、考え過ぎて少々頭
137
が熱い。
総一郎、少し朦朧とする頭を捻って答えた。
﹁⋮⋮隠す人がいた?﹂
その言葉に、図書は口を開いて目を見開いた。
﹁おお! 凄いな、正解だ。
厳密に言うと匿う人が多かったんだよな。日本人は当時優しい国
で、また妖怪を受け入れるような土壌があった。人食い鬼みたいな
のは論外にしても、不気味ながら可愛らしさのある妖怪っていうの
が自分に助けを求めに来たのを、当時やっていたアニメだの漫画だ
のの影響で、保護する人、特に子供が多かったんだ。
そこに、四国干渉で押し付けられた多くの亜人が来日してくる。
最初は言葉さえ通じなかったんだが、元々子供に触発された大人た
ちの運動で、妖怪の存在がすぐに受け入れられてしまっていたから
後はとんとん拍子で事が進んだ。
そしてそこに、亜人と仲良くして加護っていうのをもらう人間が
出てくる訳だ﹂
図書は頭端の般若の面を鼻歌交じりに少し揺らしながら、本を閉
じ、また別の本を開いた。題名は﹃近代日本史∼亜人との共存∼﹄
と書かれている。ページをぱらぱらと捲りながら、図書は目ぼしい
単語を見つけ次第、総一郎に指し示した。﹃加護﹄やら、﹃教育革
命﹄だのと言う単語だ。
﹁亜人は優しくしてくれた日本人に、何かがあった時はこの力を使
えっつって、自分の力を親しい人間に譲渡し始めた。最初は大抵の
奴らがそれを隠していたんだが、やがてぼろが出てきてな、政府に
138
ばれて研究対象にされたんだと。
それで研究が進んでいく内に、その加護を使って悪事を働く人間
が出てきたんだ。そこで、政府は﹃この技術は秘匿するべきではな
い﹄と考え、すぐにでも義務教育に突っ込んだ。その所為で義務教
育が高校にまで長期化して、ついでに教育革命で日本は諸外国に比
べてとんでもない高等教育をするようになったらしい。俺の世代は
自覚ないんだけどな。例えば、昔は掛け算が九九だったのが、今で
は九九九九っていう、二ケタの掛け算の暗唱に伸びたとか。そう考
えると昔の教育ってやっぱ遅れてんだなとか思うよ﹂
少々の嘲りを交えて、図書は笑っていた。反面、総一郎は気まず
さに少し目を逸らす。そうか、では小学校に入ったら、二桁の掛け
算をやられる羽目になるのか。総一郎、かつて理系分野に進んだと
はいえ、別に二桁の掛け算を暗唱しようなどと考えた事は無い。
ちょっとばかし、日本凄い、と思わないでもなかった。
と同時に、ぐらりと総一郎は体を揺らし、机に突っ伏す。
﹁おい総一郎、どうした?﹂
﹁ん⋮⋮いや、アレだよ。知恵熱﹂
﹁⋮⋮一歳くらいに発症するものじゃなかったか、それ﹂
﹁五歳児には少々容量が多かったのさ⋮⋮﹂
力なく笑う総一郎を見つつ、苦笑いしながら図書はその頭をなで
る。その感触を受けながら、総一郎は少し目を閉じた。我が兄貴分
の手は、彼の知識と同じほどに大きい。
139
撫でるのも好きだが、最近は撫でられるのもいい物だと思うよう
になった。知識こそ持ち得ているものの、自分がまだ子供であると
いう自覚もだ。
図書の知識は、正直言って中学二年生にしておくには勿体無いほ
どである。謙遜で﹃そこそこ﹄と評していたが、社会人の知識を持
つ総一郎を舐めてはいけない。大学で知り合った、文系の友人に匹
敵するものを図書は持っている。そして、そこまで彼が深く知って
いたからこそ、総一郎のどこか夢を見ているような感覚は遠ざかっ
た。
混雑する情報の中、ぽつりと浮かび上がる事実がある。
そしてそれは、白羽以外の相手に漏らすことは、許されない事だ
った。
﹁ただいま﹂
﹁お帰り総ちゃん!﹂
てとてと駆け来た白羽は、靴もまだ脱ぎ切っていない総一郎の手
を掴んで引っ張ろうとした。武士垣外家の玄関で、一旦般若家を訪
ねたところ、姉がもう帰宅したとの知らせを受けて、帰ってきたと
ころである。
総一郎は、いつもならそこで苦笑しながら、白羽についていく場
面だった。しかし、今回ばかりはそれが出来なかった。引っ張られ
た手を引っ張り返し、白羽を引き留めた。彼女はきょとんとしなが
140
ら振り返る。それに、抱きついた。
この姉弟は、お互いが幼稚園に入ってからは、あまり抱きつくと
いう事をしなくなっていた。それはひとえに総一郎の気遣いによる
ものだったが、白羽もそれを自然と受け入れていた節があった。
だからこそなのだろう、白羽の表情には、微かな困惑が湧いてい
た。尋ねようとする気配を、総一郎は先んじて止めた。
﹁ごめん、白ねえ。⋮⋮何も言わないで﹂
震えが支配した声に、白羽は何も言えなくなる。
次いで、声を押し殺してすすり泣く声が、玄関を薄く満たした。
それ以外の音は何も聞こえない。総一郎の、堪える様な、小さな嗚
咽だけが、時折しゃくり上がる。雪はもう降り始めていて、玄関は
家の中でも一等寒い。二人の間にだけ、暖かな温度がある。
︱︱この世界は、総一郎の前身である若者の死の、地続きにあっ
た。そこからもう、三百年余りの月日が経っている。三百年の壁は
途方もなく大きい。そして、その先に﹃彼女﹄が立っていた。
彼女は、もういない。どんな形であれ、その生涯は幕を閉じたの
だろう。それは、若者の死のすぐ後なのか。それとも、それとは何
の関係もない死を遂げたのか。だとしたら、それは幸せだったのか。
ぐるぐると、寂寥の念が総一郎の頭の中で渦巻いている。
︱︱どんな形にせよ、もう﹃若者﹄は一人だった。ただそれが寂
しくて、総一郎は泣いていた。
141
冬の肌寒さが、身に染みる。
142
挿話1 英国少年
ある冬の終わり。父が電話で何やら話していた。その時は何とも
思わなかったのだが、その後白羽と遊んで風呂に入って出てきても
まだ続けているものだから、内心で女子高校生を連想しつつ、メモ
紙を探してきて、父の袖を引っ張ってこのように掲げた。
﹃誰と何を話しているのですか?﹄
紙とペンを渡すと、父はさらさらとこのように書く。
﹃かつての友人だ。今度日本に来るらしい﹄
﹃外国人?﹄
﹃英国の者だ。学生時代、留学してきた。お前と同い年の子供が居
てな。家族で遊びに来るというから、来たら仲良くしてやるといい﹄
なるほど、と総一郎は納得し、少々楽しみに思いながら部屋に戻
った。白羽と兼用で、帰ると彼女が何やら作業をしている。
集中しているようなので、一区切りしてから話しかけようと様子
を見ていた。後ろから覗くと、紙に何やら絵を描いているようだ。
見れば、小学校の課題であるらしい。隅っこの方に﹁しゅくだい﹂
と印刷されている。
それを、白羽は鼻歌を歌いながら上機嫌で書いていた。恐らく、
これは象だろう。お世辞にもうまいとは言えないが、年ごろを考え
143
ればこんなものかという程度だ。
気分がのって来たのか、鼻歌だった﹁ぞうさん﹂を声に出して歌
い始める。微笑ましい気持ちで、それを見守っていた。総一郎の存
在になかなか気づかない辺り、クスリとしてしまう。
﹁そーうちゃん、そーうちゃん、おー鼻が長いのね﹂
﹁歌止めて﹂
嫌な替え歌だった。
その時白羽は初めて弟の存在に気づき、振り向きながら﹁ん?﹂
と首を傾げる。
﹁あ、総ちゃん総ちゃん! 見て見てこれ! 学校でね、しゅくだ
いなの!﹂
﹁へぇ、そうなんだ。何書いてるの?﹂
先ほどの推察をおくびにも出さず、総一郎は尋ねる。
﹁ゾウになった総ちゃん!﹂
﹁止めなさい﹂
歌に全くの誇張がなかったことにびっくりだった。
そのように言うと、むくれて﹁何でー?﹂とジト目の白羽。﹁む
しろ何でそれを選んだの﹂と問い返すと、﹁似合いそうだったんだ
144
もん﹂という謎の感性が総一郎の前に現れる。
﹁⋮⋮じゃあ分かった。僕だけじゃなく、家族全員が象になってる
ならいいよ﹂
﹁え∼。しーちゃん象ヤダ﹂
﹁じゃあなおさら僕を象にしないでよ!﹂
子供の勝手な言い分に、総一郎怒髪天である。しかし白羽はどこ
吹く風、しばし思案してから、何かに気付く。
﹁あ、でもブタさんならいいよ? お母さんは羊で、お父さんが虎
!﹂
﹁お父さんお母さんは妥当だからおいておいて、⋮⋮何故白ねえが
ブタ?﹂
﹁だって、おいしいでしょ?﹂
﹁うん。そうだね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁え? おいしいからなりたいの!?﹂
﹁あ、でも前に食べたウサギの料理もおいしかったから、やっぱり
そっちで﹂
﹁⋮⋮そっか。頑張って﹂
145
﹁うん!﹂
元気に頷いてから、再びお絵かきに没頭する白羽。総一郎、ちょ
っと姉の将来が心配になりつつあった。
しかも、近々遊びに来る子供のことは伝えられずじまいである。
数日後、予告されていた通りにチャイムが鳴った。外国の人と話
すという経験が、総一郎には前世含めて非常に少ない。そのため、
不安と期待がないまぜになっていた。一方白羽は一人縁側で日を浴
びながら昼寝している。
ドアを開けると、父よりも背の高い白人が立っていた。見るから
に外国人の風体に威圧され、総一郎は慌ててしまう。それに男性は
困った風に、日本語で訊いてきた。
﹁えっと⋮⋮、君がソウイチロウ君ですか?﹂
﹁⋮⋮日本語ペラペラですね﹂
﹁エッ、あ、ああ。ありがとう﹂
現在総一郎は五歳である。
日本語が喋れるのかと安心する。そうか、なら子供の方の言うこ
とが全く分からなかった場合でも、最悪彼に聞けば何とかなるとい
う事だ。
安堵して、あとは友人が増えるという楽しみだけが残った総一郎。
146
Fergus
name?﹂
am
Gurinder.
男の子が父親の後ろから走ってきて、総一郎は気軽に﹁ハロー!﹂
I
you
とあいさつする。
s
﹁Hello!
What
﹁マイネームイズ、ソウイチロウ・ブシガイト﹂
﹁Souichirou?﹂
﹁うん。あってるよ。発音上手いね﹂
すべて英語で喋るなど不可能なので日本語で話すと、意外にも褒
められたのが分かったのか照れたような反応を示す少年。多分⋮⋮
ファーガスと呼べばよいのだろう。結構テンション高めなので付き
合いやすそうな感触だ。
彼は総一郎と大体同じ体格で、栗毛をしている。目が大きくて、
愛嬌のある顔をしていた。
家に招き入れると、父が出てきた。ファーガスの父親は﹁おお!
懐かしい⋮⋮!﹂と両手を広げて、父をハグする。対する父は平
然と﹁ここは日本だ﹂と一刀両断。顔を押さえて押しのける。
﹁お前が、ファーガスか﹂
﹁ハ⋮⋮ハイ⋮⋮﹂
ファーガスは緊張した面持ちで日本語の相槌を打った。彼の父も、
ハラハラしながら見守っている。前情報があったのだろう。確かに
147
父は、日本でぺちゃくちゃ英語を話す外国人とかが嫌いそうではあ
る。
だが、雰囲気とは異なって父は寛容だ。少なくとも、努力が見え
る幼子を叱りつける事はない。
﹁そうか。これから二週間、よろしく頼む﹂
言いながら、優しくファーガスの頭を撫でる父。その口元には、
よく見なければわからないほどの薄い笑みが浮かんでいた。家族で
さえ見るのがレアなため、ちょっとうらやましくなる。
﹁ソウイチロウ君。ファーガスはまだ日本語を話せないが、日本に
来たら日本語以外耳にできなくなると言い聞かせてある。先ほどの
自己紹介は省くとしても、是非我が子のために日本語だけで話して
やってくれ﹂
﹁はい。了解しました﹂
﹁ははは! お前の言うとおり、明晰な子だな。ほら、ファーガス
もあいさつしなさい﹂
ファーガスの父親は父に向かって笑いかけ、我が子の背を押す。
﹁ヨロシュクオネギャイシマス!﹂
﹁⋮⋮結構習得早いんじゃないかな。これ﹂
少なくとも、ネイティブレベルの父親の日本語を何となく掴めて
いる。五歳でこれなら、すぐにでも話せるようになるだろう。
148
ファーガス親子は、少年の祖父の介護という理由でイギリスに残
った彼の母親を除いた二人で、我が家に二週間前後逗留する予定に
なっているのだという。
父もその用事にかかわっているらしく、そのためにホテルではな
く我が家になったのだと。ちなみに、日本の観光をまともにできる
のは三日程度らしい。割と余裕があるなと思う総一郎だ。
我が家は広く、余っている部屋などがあったため、それを客人に
宛がった。母であるライラなどはファーガスの父親と面識があるら
しく、﹁あらやだ懐かしい!﹂と両手を合わせて喜んでいたほどな
ので、その辺りもスムーズに進んだようだ。
スムーズでないとすれば、多分この場面くらいの物だろう。
﹁⋮⋮誰?﹂
﹁オゥ、アー、⋮⋮ハジメマシテ?﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁いやあの、白ねえ? 何で僕の背中から出てこないの? という
か白ねえって人見知りするタイプじゃなかったよね﹂
﹁ぅー⋮⋮!﹂
軽いノリで姉を紹介するとファーガスを連れてきたのだが、肝心
の白羽は警戒モード。天使のくせにどちらかというと獣人っぽい。
戸惑っているファーガスを一旦置いておき、部屋の隅にて白羽と
149
向かい合って聞き出してみる。
﹁で、白ねえ、何でそんな感じになってるの? ファーガス君に失
礼でしょ﹂
﹁しかし、すじょうも知れぬやからをうけいれる事はできぬのだよ
⋮⋮﹂お前誰だ。
﹁お父さんの友達の息子だよ﹂
﹁嘘だ! そんな話聞いてないもん!﹂
謎の頑なさを見せつける白羽。もしかしたら、仲間外れにされた
と感じて拗ねているのかもしれない。
ふぅむ、と顎に手をやり考える。白羽が馬鹿にしたように総一郎
の真似をしているが、それは放置だ。
そして、考え付いた。
﹁ちゃんと仲良くできたら、白ねえの言う事なんでも聞いてあげ﹂
﹁ハローファーガス! アイアムシラハ! ナイストーミーツー!﹂
電光石火だった。
そんな風にして、三人は打ち解けて行った。白羽はファーガスに
向けて一方的にしゃべり、総一郎はそれに手の仕草を加えたり、逆
150
にファーガスに喋らせようと日本語を教えたりした。
らしきもの
幼子は、言語の習得が早いという。周囲の会話を、だんだん聞き
取っていくのだ。挨拶の時を除いて総一郎たちは英語を使わなかっ
たため、それに触発されたというのもあって、彼の日本語の発達は
著しいものがあった。
﹁ソウイチロウ! シラハ! 遊びイク! ズショニィ!﹂
﹁いいよー! じゃあみんなで、しゅっぱーつ!﹂
﹁おー!﹂
白羽の上げる手に、総一郎も追従。言葉が通じれば、事細かな人
物像が見えてくる。ファーガスは活発で、人当たりのいい少年だっ
た。五歳の割に、分別もある。この年頃のこの正確では我儘も多か
ろうに、彼は駄々をこねようとする素振りさえ、いまだ見せていな
かった。
好ましい少年である。だが、そんな素朴な特徴が霞むほどの才能
が、彼にはあった。
それが露見したのは、公園で遊んでいた時の事である。
あつかわ村には、野良犬、野良猫の類が多い。とはいっても完全
な野良というのではなく、村が世話しているのが、日中は放し飼い
されているという次第だった。公園は特にそれらの動物が集まりや
すい。地面が砂利でなく、子供が転んでも痛くないように配慮され
た特殊な作りになっていたから、寝心地がいいのだろう。
151
そこにファーガスを連れて行ったとき、彼は犬猫の多さに口端を
引きつらせていた。動物が苦手なのだろうかと考えていると、有り
得ないことが起きた。
ファーガスが公園に足を踏み入れた瞬間、同時に全ての犬猫が立
ちあがり、彼に向けて突進してきたのである。
それは、あまりにもシュールな絵だった。ファーガスは取り乱し
て、慌てて踵を返すが遅く、次の瞬間には数匹の猫が飛び掛かり、
それに足が少し遅くなったところで中くらいの犬がしがみつき、大
型犬が彼の息の根を止め、デブ猫がダメ押しをした。
﹁ファーガスぅ!?﹂
総一郎、驚愕である。
急いで図書などに手伝ってもらい救出すると、息絶え絶えに泣き
笑いを浮かべる少年が引きずり出された。ともあれこんな状態では
無事に遊べないという事で、いつもは温和でのんびりとしていたは
ずの小さな猛獣たちと格闘しつつ家に戻った。
その日の夜。ファーガスの父親に尋ねると渋い顔で首をひねられ
た。
﹁んー、何と言うかね。彼の祖父⋮⋮つまりは私の父なんだが、大
農場主で、昔からよく遊びに行っていたんだよ。その頃から動物に
懐かれるようになったから、多分そんな感じだと思うんだが⋮⋮ね﹂
﹁懐かれるとかそういうレベルじゃなかったですよ⋮⋮? ちなみ
に、ファーガスパパは﹂
152
﹁⋮⋮人並み、かな﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
遺伝とかではないらしい。
そんな状態ではろくに外では遊べないから、というのもあって、
ファーガスに合わせて家の中で数日遊んでいた。だが、本人はそれ
が満足できなかったらしく、その上自分が気を遣われているという
do
no
Go!﹂
I
go!
Why
Let's
outside!
outside!
go
のが分かったのかもしれない。少しむっとした風に、この様に言う
のだ。
go
﹁Let's
t
﹁なんかめっちゃ怒ってるよ総ちゃん。なんて言ってるか分かる?﹂
﹁外行こうよって感じかな⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
白羽でさえ絶句するほどのハングリー精神である。
﹁あとファーガス、違うよ。ゴー、行く。アウトサイド、外。僕の
真似して? 外に行きたい﹂
﹁ソトにいきタイ?﹂
﹁うん。そうそう﹂
153
﹁ソトにいきたい!﹂
﹁総ちゃんって教育ねっしんさんなんだねぇ⋮⋮﹂
そんな会話もあって、外で遊ぶことになった。しかし、このまま
では二の舞になるばかりだ。般若兄妹にも掛け合って、出来うる限
りファーガスの負担が軽くなるもの、また、折角の彼の才能を生か
せるような遊びを考えた。
すると仕掛けも大仰になって、その場ですぐにという訳にもいか
ず、ファーガスを宥めすかして翌日まで待ってもらった。彼はしば
し憤然としていたが、サプライズには時間がかかるというような内
容を伝えたら、口端をにやけさせつつも、仕方がないなぁ、と言う
風なリアクションをした。
翌日、ファーガス含む五人は、ブシガイト家の庭で今回の遊びの
説明の為、皆で集まっていた。総一郎と図書が説明役。それ以外は
聴衆である。
﹁じゃあ、説明を始めるね。今回の遊びは鬼ごっこ。ただし、鬼は
この中の一人じゃなく、公園に居る犬猫たちだ﹂
犬、猫、と言う単語を教えていたのもあって、ファーガスの顔か
らスッと血の気が引いた。怖がるようなリアクションと共に仰け反
るが、総一郎は﹁違う違う﹂と笑って否定する。
﹁ファーガス一人が追いかけられるんじゃなく、一緒に協力し合っ
て逃げるんだよ。具体的には、図書にぃ以外の全員でね。⋮⋮あー。
一緒、トゥギャザー﹂
154
﹁一緒、逃げる。⋮⋮どのヨウに、スル?﹂
﹁じゃあ、論より証拠ってことで。︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹂
総一郎は呪文を唱え。手から出した光球を、全員の間でさく裂さ
せた。ただし光は一瞬で、目がちかちかするほどの物でもなかった
はずだ。
﹁な、何? 何したの? 総くん﹂
﹁琉歌、落ち着け。説明用にあらかじめ鏡を用意してある﹂
図書が取り出した手鏡を見て、ファーガスが﹁Mirror?﹂
と声を出す。
﹁これは日本語で鏡って呼ぶんだ。鏡、な。で、ほら、それで琉歌
と総一郎と白羽を見てみろよ﹂
﹁⋮⋮?﹂
ファーガスは恐る恐ると言った感じに、鏡越しでそれぞれを見始
めた。次いですぐに目を剥いて歓声を上げる。
﹁えっ、何々!? ちょっと見せて!﹂
いの一番に食いついたのは白羽だった。驚いて声も出ないファー
ガスから手鏡を奪い、自分の顔を見て興奮のあまり悲鳴を上げてい
る。
155
﹁総ちゃん総ちゃん! 凄いよほら! るーちゃんもほら!﹂
手鏡に映し出されたのは、二人のファーガスの姿だ。そう。つま
り先ほどの光魔法は、ここに居る四人の姿をファーガスの物に偽る
というものだった。
﹁総一郎と話し合ってな。この鬼ごっこのルールはもう分ったろ?
それを見て追いかけてくる犬猫たちから逃げる。で、名前の通り
捕まったらゲームオーバーって訳だ。俺は襲われて死んだ奴を回収
するから安心しろ。そのための器械も作った﹂
the
magic
of
そう言って、図書はリュック型の小道具を取り出した。そして装
is
着し、少々呪文を唱えると彼の体が浮き始める。
this
Wow!﹂
﹁Whether
Japan!
﹁何て?﹂
﹁これが日本の魔法か! スゲェ! ってよ﹂
﹁お兄ちゃんすごーい! だっこー!﹂
﹁脈絡なさすぎるけどいいや。来い﹂
兄に抱き上げられる琉歌を見て、スキンシップ好きはそう簡単に
治りそうもなさそうだと総一郎は他人事。ついでにファーガスに目
を向けて、教え始める。
﹁はい、ファーガス。﹃これが日本の魔法か! スゲェ!﹄﹂
156
﹁コレが日本のマホウカ! スゲェ!﹂
﹁発音結構いいよねー、ファーガスって。ところでファーガスって
長いから呼び方変えたい。ファーちゃんとかどう?﹂
﹁ファーチャン?﹂とファーガス。
﹁何故ちゃんになったのさ﹂
﹁総ちゃんも総ちゃんじゃん﹂
﹁あっ、確かに﹂
ドッグス&キャッツ鬼ごっこ。ここに開幕である。
四人は冷や汗を流しながら、恐る恐る公園に近づいた。図書も、
リュックで宙に浮きながら固唾をのんで見守っている。
中々に緊迫した状況だが、ふと我に返ると酷いものだ。光魔法の
偽装によって、互い以外には四人ともファーガスの姿をしているよ
うに見える。そんな少年らがじりじりと公園に寄っていき、その背
後で高校生がリュックを背負ってぷかぷかと浮いているわけである。
滑稽とかそういうレベルじゃない。シュルレアリズムの戸を強くた
たいている。
そのため総一郎は一人だけ口元が少し緩んでいたが、琉歌が公園
に足を踏み入れても動物たちが反応しないことに、全員がおや、と
首を傾げる。
157
﹁⋮⋮今日は、反応しないね﹂
総一郎の声に、それぞれが賛同を示す。きょとんとした面持ちで
次々公園に足を踏み入れるが、何事もない。それでもファーガスた
だ一人は緊張していて、﹁もう大丈夫だよ﹂と彼を引っ張って公園
に連れ込んだ瞬間、空気が変わった。
日向ぼっこに集まっていた動物のことごとくが、ぎらついた目を
全員に向けている。
総一郎は、半ば感心していた。やはり、これはファーガスにのみ
ある才能なのだと。しかしその一方で、姿が全員同じならば、動物
たちにはその区別がつかないというのも事実らしい。
危機察知能力が一番高かったのは、総一郎とファーガスだった。
踵を返すのも、走り出すのも、その速ささえすべて同じだった。
対して出遅れた少女二人は必死にこちらへ走ってくるが、琉歌の声
などもうほとんど涙声だ。
普通なら子供と犬の追いかけっこなど成立するはずもないが、今
は魔法という便利なものがある時代だ。当然図書によって、その配
慮はすでになされている。具体的には速度と安全性だ。転んでも怪
我をしづらい親切設計である。
だが、それでも犬猫を圧倒するほどのものではない。あまりに簡
単では、楽しい余興として成り立たないからだ。よって足の速い犬
は少年たちに簡単に追い付けられる。しかしこの追いかけっこはタ
ッチされたら負けなのではなく、制圧されたら脱落という内容だ。
バランスは取れていると言っていい。
158
そのような状況であったので、ファーガス共々、総一郎は見事犬
猫から距離を取ることに成功していた。しかし背後から、号泣にも
近い悲鳴が上がる。そして白羽の﹁るーちゃぁああん!﹂と言う声。
愛しき声を持つ垂れ眉の少女は見事散ったらしい。南無。
﹁ダイジョブ!? ルカ、ダイジョブ!?﹂
﹁分からないけど図書にぃが救ってくれてるはず。というかこのま
まだと、白ねえの方が心配だよ、僕は﹂
全力疾走の中、二人で会話を交わす。そこに、乱入する者があっ
た。
﹁ふっふっふー、お姉ちゃんをなめちゃ駄目だよ、総ちゃん﹂
﹁えっ?﹂
真後ろから聞こえた言葉に、総一郎は驚愕を示す。そこまで彼女
の足は速かっただろうか疑ったのだ。
その真相は、すぐに明らかになった。羽ばたくような音が聞こえ
て、白羽は悠然と二人の前に姿を現した。羽は巨大化し、少年たち
の頭ほどの低空で、彼女は風を切って飛んでいる。
﹁あっ、ズルい。流石白ねえ! このくらいの事は普通にやると思
ってた!﹂
﹁ズルイ! ズルイ!﹂
159
﹁うっ、五月蝿い二人とも! 捕まんなきゃいいの! ふんだ! 総ちゃんだけは助けてあげようと思ってたのに!﹂
ぷんぷんとふて腐れた様子で、白羽は少しずつ上昇していく。し
かし改めて考えると、翼とは非常に有利なものである。制空権を握
るのはそのまま勝利に直結しかねない。そう思い、そろそろ息が切
れそうだと考えて歯噛みしていた。
すでに白羽は民家の屋根近くを飛んでいた。とっくに二人の五メ
ートルは先を行っている。それを羨ましく思っていると、彼女はこ
ちらをちらと振り返って、この様に言った。
﹁ふふーん! 悔しかったらここまでおいで︱!﹂
その、まさにその瞬間だった。屋根に乗っていたらしい数匹の猫
が、白羽に向かって飛び移ったのは。
意識していなかった横槍に、白羽は﹁ふぇっ?﹂と間抜けな声を
漏らして体勢を保てなくなった。そのまま少しずつ墜落していき、
最後には猫と共に地面に潰れる。その後の結末は言うまでもないだ
ろう。一つ言葉にするとすれば、二人が追い抜かした二秒後に﹁に
ゃー!﹂と言う悲鳴が上がったくらいか。
﹁白ねぇぇぇぇぇええええええええええ!﹂
今は亡き姉の無念に感じ取って、総一郎は吠える。亡くすには惜
しい人だった。しかし二人は明日を見なければならない。
とはいえ、動物の群れはすぐ背後に迫りつつある。すでに地形は
見覚えのあるものではなくなっていて、曲がり角を右に言った時、
160
総一郎は絶望を知った。
行き止まり。
my
GOD!﹂と叫ぶ。
五歳児には遥か高き塀が、そこにそびえ立っていた。総一郎は顔
を引きつらせ、ファーガスが﹁Oh
振り返ると、獣たちはすでにいて、じりじりと近寄ってきていた。
二人して後退し、背中を塀にぶつける。
﹁⋮⋮ファーガス、行くんだ﹂
﹁行ク? 俺⋮⋮only?﹂
﹁そう。僕が、踏み台になる。ファーガスは、そこからよじ登れば
いい﹂
身振りを交えて話すと、彼は理解したのかぶんぶんと頭を振った。
それにソウイチロウは、﹁ファーガス!﹂と強く名を呼ぶ。
﹁こんな状況を作り出してしまう君だからこそ、僕は生き残ってほ
しい。ここまで来たら、君以外のだれも生き残るべきではないんだ。
ファーガス。生きてくれ。そして願わくば、僕のことを忘れないで
いてくれ⋮⋮﹂
その言葉の全てが伝わったのかどうかは、定かではない。しかし
do
not
forget
you!﹂
彼は少年の手を掴んで、﹁ソウイチロウ!﹂と叫ぶ。
﹁I
161
﹁⋮⋮ああ、頼むよ﹂
総一郎は、言うが早いか地面にしゃがみ込む。ファーガスはすぐ
にその肩の上に靴を脱いで足をのせ、総一郎とほぼ同時に立ち上が
った。そして軽く蹴られて、彼は塀の向こうへたどり着く。総一郎
はその衝撃に抗わず、倒れていく。
そこに、猛獣の群れが襲った。
奴らは総一郎を上から押さえつけ、身動きをとれなくした。その
恐怖に溜まらず叫び声を上げたが、助けに来るものはない。早く、
早く図書よと考えていると、少しずつ多くの犬猫の顔が寄ってきて、
舌が伸びてくる。
﹁止めろ、止めてく、うわぁあぁぁあああああああああああ⋮⋮︱
︱︱︱︱︱!﹂
︱︱かくして、そこに︵ペロペロ︶地獄が展開された。
⋮⋮余談だが、総一郎が叫び声を上げた一分後には、最後の断末
魔が上がっていたという。
その一件を経て、二人は竹馬の友ともいえる仲になった。お互い
を認め合ったというべきだろう。特にファーガスから総一郎にかけ
ての信頼が厚く、お菓子などをもらっても少しだけ総一郎にプレゼ
ントするといった次第だ。白羽が対向して総一郎にお菓子をプレゼ
ントし、最終的にファーガス、白羽の意地の張り合いになったのが
162
記憶に新しい。
そんな風に日は過ぎゆき、気づけばお別れの日になっていた。フ
ァーガスの手には、子猫が入った籠が握られている。何でもあの日、
ファーガスを唯一慰めるようにしてくれた一匹なのだという。真偽
がどうかは置いておき、彼がいたく気に入ったのだと。
別れは盛大に行われた。母が腕によりをかけた料理を作り、父さ
えも余興として楽器を弾いたほどだ。ちなみに手にした楽器はギタ
ーだった。イメージが崩壊したものだ。上手かったが。
﹁ファーガス、またね﹂
﹁マタナ、ソウイチロウ﹂
付きっ切りで教え込んでいたため、彼の日本語の上達っぷりはな
かなかのものだった。ファーガスは手を振って、歩き去っていき、
再びこちらを向いて手を振り、また少し歩いては手を振った。
総一郎もまた、答えるように手を振り続けていた。彼の姿が、見
えなくなるまで。
少年の、春の一幕の出来事だった。
163
8話 見えない翼 ︻上︼
総一郎は、自分が何処へ行こうと、みんなのまとめ役にして問題
児である事は変わらないのか。と少し考えるようになった。
小学校入学して、数日の事。春の桜がすっかり散ってしまって、
少々寂しい通学路を、白羽、琉歌と一緒に歩く。
彼女たちは、総一郎の三歩先を行っていた。和気藹々と会話にい
そしんでいる。ただその話題が女の子特有のそれだったため、総一
郎は混ざることが出来なかった。
視線を巡らせば、多くの亜人の小学生が、総一郎たちと同じよう
に歩いていた。いつか図書に聞いた話では、日本における亜人の人
数は大体七割を占めるという。だが、その内人間との混血でない物
は二割にも満たないのだとか。
幼稚園で亜人の存在にあまり気付かなかったのは、その特徴が成
長の不足によりあまり発現していなかったかららしい。白羽の羽が、
当初は非常に小さかったような物か。と納得したのを覚えている。
故に、周囲にはあまりにも無節操な特徴を持つ子供たちであふれ
ていた。髪色が赤青黄色などは当然。緑も居れば、稀に母の様な白
すらも居た。それだけでなく、頭辺りから生える耳や、背中にある
多種類の羽。人間の形をしていない子でさえ普通に歩いている。
その様子に、入学式の総一郎はわくわくして飛び上がった。今は
あんまりだ。当日ハッスルしすぎた為、厳重注意を食らったのであ
る。具体的な事は言うまい。しかも、それだというのに幼稚園の癖
が抜けきらずクラスメイト達を御してしまったため、初日から馬脚
164
を現す結果となってしまった。
その上、教師にとって性質の悪い事に、子供ゆえの真っ直ぐさと
無鉄砲さを抑えきれない総一郎には、今、やりたいことがあった。
それはもう、夢中になれることが。
授業中の総一郎は、先生の話など聞いていない。厳密に言えば完
全に聞いていないという事ではなく、知らない事があれば勿論聞き、
メモした上で記憶にとどめる。しかしそんな事はそうある訳でもな
かった故、その間、総一郎はひたすらに数学をやっていた。
具体的に言うと、ユークリウッド幾何学、解析学、代数学のさわ
り。高等学校で使う程度の数学式である。
つまる所、総一郎は、自分が空中歩行するために必要な物理魔術
呪文に、必要な魔力を計算していた。
総一郎は、前世、物理学に携わっていた。と言っても専門家とい
う訳ではなく、理系分野に進んだ為、人よりは少しわかるという程
度だ。
だが、物理学自体はかなり好きな方だった。
そもそも総一郎。数学が大のお気に入りである。ちょうど数学の
第一の壁辺りにぶつかっているはずの図書から言わせてみれば、﹃
数学はクソだ﹄とのことだったが、これはこれ、それはそれという
事で、あまり気にしていない。ちょっとばかり激論を交わしたのみ
である。
165
そもそも物理魔術と言うのは、中学までは自らの行動を手助けす
る程度でしか使われない。銃弾と同じ速度で飛んでくる物体を素手
で受け止めるだとか、その物体を壊さずにそっくりそのままの速さ
で跳ね返すだとか、後はいつか図書が使っていたように自分の運動
を加速して通常困難な行動を行うといった程度の物だ。正直それだ
けでもなかなかに凄まじいが、その程度では空中歩行は不可能だと
いう。
詰まる所、空中歩行は高校三年生、当然理系分野に進んだ者がや
っと習得できるか否かの技術なのだ。
しかし、そんなファンタジー性溢れる﹃魔法﹄を聞いた総一郎が、
夢中にならない訳が無かった。
総一郎は現時点で理系大学の中堅より少し上、大体彼の時代で言
うMARCHよりちょっとだけランクの下がった大学を修了した程
度の知識がある。現時点ではそれに届くか分からないが、古典物理
学程度ならなんとかと言った程度だ。つまり、彼には空中歩行を為
し得るだけの頭脳があった。
それに加え、彼には空に対する憧れもあった。そう強い物ではな
いが、しかし出来るならば努力は惜しまないという程度にはやる気
に満ちている。というのも、般若家との邂逅で白羽に翼を授かった
のが、未だに記憶に残っていたのだ。あのむず痒くもわくわくする
感じは、子供の夢見がちな体を制御させない程に、力ある好奇心と
なっていた。
割り出した数字の下に一本の線を引き、その長い線の端に、二本
の斜線を入れる。若者であった頃からの、数学で答えを出した時の
癖だった。次いで、先生の目が黒板に向かう瞬間、総一郎は周囲の
166
子らに給食と引き換えに黙って貰う様に言ってから、光魔法で姿を
消す。そして音を立てずに教室を脱してから、ひっそりと裏庭に出
た。
誰も居ない裏庭には、奇妙な高揚をもたらす何かがあるように思
える。並ばなければ使えない人気の遊具にも、今は静かに木陰が覆
う。
一つ伸びをしてから、総一郎は軽くジャンプした。体の調子はい
い。今度はしゃがみ、総一郎なりに高く飛びあがった。重心がずれ
ない事に、一つ頷く。足の中心をイメージしながら、物理魔術を唱
えた。そして皮切りの呪文と共に、力いっぱい飛び上がる。
とてつもない勢いで、総一郎の軽い体は空へと弾かれた。
下を見る。地面は遠い。大体、三階建て程度のビル程度の高さに
は飛び上れたようだ。小学一・二年の教室がある、小さい方の校舎
部分の屋根が総一郎三人分ほど彼の下にある。総一郎は、更に足に
力を込めた。呪文。落下し始める前に、総一郎はさらに飛び上がる。
ぐん、と引き離されるような感覚。あの近かった屋根さえも、も
はや遠い。あまりの高さに、少々気が遠くなる総一郎だ。しかし、
彼の数式はここからやっと有用になる。
高い跳躍だけなら、それは誰にでも出来る事だった。その後に、
いかに美しく空に留まるか。一番の課題はそれなのである。
まず総一郎は、無難に着地から試すことにした。
着地の考え方は簡単だった。重力による加速度を無くしてしまえ
ば良い。手元から足元に落とすボールは痛くないが、富士山ほどの
167
高さから落とせば間違いなく致命傷になってしまう。ようは、富士
山の高さを手元のそれに変えるという訳だ。
それには物理魔術で常に同じだけの反作用を地面に向けて放てば
よい。手元から足元の力だけ残して、余分な重力は相殺してしまお
うという考えだった。だが総一郎、少々詰めが甘かった。
﹁えっ、うわっ!﹂
体勢が、崩れたのだ。
慌てて呪文を唱え、反作用を地面に放つ。しかし、角度が浅い。
微かにだが、落下速度は確実に上がっていった。一度目の跳躍程度
の高さなら良かっただろう。しかし、二度も飛び上がってしまった
今の高さは、総一郎の未熟な四肢を粉々にしかねない。
その時になって、自分がいかに愚かな真似をしたのかを総一郎は
自覚した。少しずつ上がる落下速度に、冷や汗が首から頬へと上が
っていく。次いで、逆立つ髪先から離れてしまった。
地面はもう近い。これ以上強い物理魔術の呪文を、総一郎は知ら
なかった。魔力を込めれば何とかなりそうなものの、万が一の為に
回復魔法用の魔力くらいは取っておきたい。
そんな風に思っていたところ、低めの校舎の屋上に気付いた。斜
め下へ向けていた手を無理やりに横に向け、条件を満たす最大限の
魔力を込めて、呪文を叫ぶ。
総一郎の体は弾かれるようにして、屋上へと上手く転がり込んだ。
168
身を強く打ち付け、地面に擦れて擦り傷を作った。所々に打撲が
ある。それを光魔法で治し、服についた埃などを軽く払ってから、
空を見上げた。先ほどまで自分はあの場所に居たのだと思うと、少
々の恐怖と高揚が彼を襲う。
余談だが、光魔法は単純な光と言う意味と、聖なる物の象徴と言
う二つの意味があった。回復に関しては後者が該当し、逆に悪魔や
幽霊などはそれによって強い痛みを感じるという。逆に、天使の血
を継ぐ総一郎なんかは、それが上手く作用していた。
屋上は、一・二年生には許されていない。大体、五・六年生の専
用とされていて、少しだけ遠くを見れば六年生のフロアに直接繋が
る大窓が見えた。
それはともあれ、と思いつつ、再度空を見上げる。一度の跳躍は、
目測でおおよそ十メートル程。二十メートルで危うかったのだから、
これからは十五メートル程でやれば丁度いいのではないかと考えて
いると、授業の終わりを示すチャイムが鳴った。
硬直したまま、頬の引き攣りを感じた。本当はそれまでに教室に
戻るつもりだったのだが、もとより時間を見てすらいなかったのだ
から、詰めが甘いと言うよりは阿呆の一言のほうが良く似合ってい
ると言える。
その後、総一郎は高学年の誰がしかの告げ口により居場所を特定
され、担任教師に物理魔術で宙に浮かされながら連行されるという
貴重な体験を得た。
背後から聞こえた少女の﹃何? どうしたの、あの子﹄の声が、
鋭く胸に突き刺さった。
169
そんな総一郎だから、入学してから数週間後の家庭訪問にはひど
く怯えた。
彼は、しばしば先生の手伝いや、級友へと助言や手助けをする。
それもこれも前世の記憶があってこその行動ではあるものの、その
記憶さえなければ学校の授業を真面目に聞いて、恐らく授業中勝手
に抜け出して空中をくるくる回りだすという愚行を起こさなかった
であろうことに間違いはない。
その為、総一郎の評価は易々とは下されなかった。何故それを総
一郎が知っているかと言えば、言葉巧みに誘導して先生を愚痴らせ
たからである。
総一郎は、自分の有能さ自体は自覚していても、それを強く意識
していないのだ、と言う風に自分を客観的に見つめていた。必要以
上に目立つのはあまり好ましくないとは思っていても、好奇心には
負けるという程度であった。
そもそも総一郎、知識はあるし、自己も確立していたが自我の成
長が今一つ遅い。級友に比べたら目覚ましいが、彼の知識年齢から
してみればそこから二十歳引いて丁度いいという事になる。
事実これは、やる事もなく自分の行動を思考し吟味するという暇
な事極まりない作業を、数時間行い、やっと辿り着いた結論だった。
現在の自分は、前世のそれに比べて精神面においても多く違いが
見つかる。それはつまり、この躰自体の未熟さや、経験の無さに起
因するのだろう、と総一郎は半ば確信をもって考えていた。
170
だからこそ、これほどまでに破天荒な行動を取るし、それを自覚
したころには全て終わっているという次第になる。自分も、まだま
だ子供なのだ。故に、両親、特に父からの叱責は想像するのも恐ろ
しいという具合になっていた。
そして当日、躰を微かに強張らせつつ、総一郎は耳をダンボにし
ていた。空を飛ぶ小ゾウである。実際ちょくちょく空中に飛び上が
る辺りあながち嘘でもない。
本を読むふりをして聞き耳をたて続けてから三時間強。とうとう
家の中に呼び鈴が鳴った。総一郎は手にしていた本を投げ出し、駆
け足気味に玄関へと向かう。音を立てて開いた先に居た先生に、縋
り付きつつひそひそ告げた。
﹁母には僕の蛮行の全てを晒してもいいので父にだけは猫をかぶら
せてください。大丈夫です。母もなんだかんだ厳しいので、しっか
り叱られます。ただ、父に告げたら僕が明日から学校に来られなく
なるかもしれないので、極力お願いしたいです﹂
﹁武士垣外君は言う事為す事極端だね⋮⋮。蛮行って自分で言うか。
︱︱まぁ、そこまでの事を言うつもりはないから、奥の方で遊んで
いなさい。確か、武士垣外白羽ちゃんは、君の姉だろう﹂
﹁⋮⋮言質は、取りましたからね﹂
﹁君、本当に六歳?﹂
念押しに対して帰ってきた言葉を聞き流し、丁重にお辞儀をして
から奥に引っ込む総一郎。一旦は本当に奥まった部屋に戻るが、隙
を見て光魔法で姿を消し、先生の後を付いていく。
171
余談だが担任の先生は、優しげな、眼鏡をかけた男性教諭で、耳
が長く聞けばエルフの血を引いているという。
故に聴覚が良いらしく、二度近く後を着けていた背後に振り返ら
れた。総一郎は学校で物理魔術こそ派手に使うものの、魔法は姿を
消す光魔法くらいしか使わないのが彼の身を助けたようで、先生は
首を捻りながら渡り廊下を進んでいく。
⋮⋮あと、気のせいかもしれないが背後から総一郎の物とは少し
違う足音がするので、もしかしたら白羽が総一郎の様に姿を消して
付いて来ているかもしれない。
少なくとも、二度目の先生が振り返った理由は総一郎の足音では
なかった。偶に見えない柔らかなものにぶつかるので多分間違って
ないだろう。
両親と小さな机を挟んで座る先生。総一郎は、その、机の脇に小
さく身を下した。ちら、と白髪の母の視線がこちらに向かうのに気
付き、両手を合わせて拝むようにする。軽い嘆息を聞いて先生に向
かい直すのを見て、胸を一つ撫で下ろすことが出来た。
白羽らしき感触も、隣から感じる。総一郎はいい加減面倒くさく
なったので、その手首らしき場所を掴んで呪文を唱え直した。白羽
の姿が眼前に現れ、彼女が驚愕の声を出す前に口をふさぎ、﹃お口
にチャック﹄のジェスチャー。何度か頷くのを確認して、開放する。
﹁こんにちは。武士垣外総一郎君の担任を務めさせていただいてお
ります。あ、これ実家から貰った物なので、良かったらどうぞ﹂
﹁これはこれは、ご丁寧に﹂
172
先生のお土産を受け取りつつ、柔らかに微笑する母。総一郎の時
代は先生がこんな事をするのは珍しい事で、少しだけ驚いた。白羽
は単純にお菓子がどんなものか覗こうと、座ったまま背伸びしてい
る。小食の割に食い気の多い姉だった。
そしてついに自分の評価が伝えられるのか、と表情を硬くしてい
た総一郎だったが、次に始まったのはなんてことのない雑談で、も
どかしい気分を味あわされることとなった。野菜の値段の上昇とか
どうでもいい、と母を睨みつける。そこで、父が口を開いた。
﹁では、雑談はこのくらいにしておいて、日頃の総一郎はどうです
か﹂
さすがの父であった。
それに先生は少々慌てつつ、資料をカバンから取り出した。﹁え
えと⋮⋮﹂と言葉を探している。
﹁総一郎君は、非常に頭のいい子ですね。それに優しく、みんなの
まとめ役やフォローを買って出ています。ただ、授業中に良く抜け
出すので、素行がいいとは決して言えません。集中力もあるのです
が、自分の興味のある分野にしか発揮しないところもあります﹂
先生がものすごい勢いで裏切っていた。
父の前だけでは、と念を押したのに、全然聞き入れてくれていな
かった。﹁そうですか﹂と淡々と答える父だが、雰囲気が鋭くなっ
ているのを強く感じた。剣気ともいうのだろうか。数年前に止めて
しまった、立会いの稽古を強く思い出させられる。
173
しかし、先生もそこで終わらなかった。
﹁ただ、その集中力が素晴らしい。それに、集中力を発揮しない分
野でも、その必要が無いからなのだろう。と思わせるだけの実力が
あります。彼が集中力に欠けるのは大抵算数の時間なのですが、こ
れをご覧ください﹂
先生は資料の中から一つのノートを取り出した。達筆な﹃一年 二組 武士垣外 総一郎﹄の字が、その表紙に記されている。父に
頼んで書いてもらったものだ。
失くしたと思ったら、と恨みがましく先生を睨むが、当然届きは
しない。ついで、開かれた。そこに書かれていた文字を見て、母は
息を呑み、父も目を剥く。
﹁総一郎君の数学知識は、少なくとも高校生のそれを凌駕していま
す。私も理系分野でしたので分かるのですが、これは物理魔術の﹃
空中浮遊式﹄と呼ばれる物です。また、彼は算数の授業が始まると、
しばらくは熱心にノートで計算をしているのですが、しばらくする
と油断している内に消えてしまうんですね。それで副担任の先生に
後を頼んで探しに行くのですが、どうやら物理魔術で飛び回ってい
るみたいなんです﹂
言葉の内容は褒める趣旨であるのに、その表情は深刻だった。見
れば、母も血の気をひかせている。父は表情こそ変えないものの、
剣気はいまだ健在であった。白羽に耳元で﹁何でみんな落ち込んで
るの﹂と聞かれ、混乱に強張る顔を、﹃分からない﹄と横に振る事
しかできない。
﹁知っての通りでしょうが、物理魔術における﹃空中浮遊﹄は、高
所に飛び上がる大変危険な技術です。彼の式は完璧に近い物ですが、
174
彼自身は物理魔術を使い始めてまだ日が浅いように思えます。本来
物理魔術は、高所からの落下に耐えるだけの生物魔術、身体にかか
る負荷を十分に和らげられる程度に熟練した化学魔術を持って初め
て練習できるのです。しかし、まだ総一郎君は夏休みの課題である、
﹃全属性の加護習得﹄すら終えていません。彼の知能なら化学魔術
程度はすぐに中学生レベルにまで追いつけるでしょうが、今はやは
り危険の一言に尽きるでしょう﹂
沈黙が、部屋中に満ちた。内心かなりの焦燥に駆られながら、総
一郎は練習内容を思い出す。確かに、高所からの落下は失敗が多く、
生傷は絶えなかった。しかし、それも光魔法で何とかなる程度であ
る。そこまで考え、緩やかに首を振った。
ほぼ毎回、本来なら全治二週間もするような怪我をするという事
は、それが自分の実力に不相応な証拠だ。きっと、物理魔術は控え
ざるを得なくなる。そう考えると、じわ、と涙が滲んだ。物理魔術
は痛みを伴う。だが、空の中に身を置くその﹃魔法﹄は、総一郎に
とって大事なものの一つだった。
その涙を、白羽は拭い取った。彼女は小学生になってから、少し
だけ大人びた面を見せるようになった。唇だけで﹁ありがとう﹂と
告げると。母に似た、柔らかな微笑を見せてくれる。
悲しかった。しかし、止めなければならないと言うなら、致し方
ない。
﹁ですので、厳重に注意をお願いします。⋮⋮こんな所ですか。あ
とは、本人にも反省の色は伺えますので、叱りすぎないようにして
下さい﹂
175
では、失礼します。と席を立つ先生。母はそれを見送るべく席を
立ち、父は少々深めに先生へお辞儀をした。しかし立ち上がらず、
正座のままで正面を見据えている。
先生が出ていき、襖は閉じられた。部屋の中に居るのは父と白羽、
それに総一郎の三人だけとなる。何故か動き出しにくい雰囲気が、
その場に張りつめていた。しばらくして、父は言う。
﹁聞いた通りだ、総一郎。これより、物理魔術の一切を禁ずる﹂
見えないはずであったのに、父の言葉を確かに総一郎に向かって
いた。逆らう事を許さぬ声色に、反抗は出来なかった。目の前の道
を取り払われた様な閉塞感に項垂れ、力なく、﹁⋮⋮はい﹂と答え
る。
魔法が解け、父の視線がこちらを向いた。されど、何を言うとも
なくそれは逸らされ、退室していってしまう。
覚悟は決めていたはずであるのに、この寂寥は何なのか。力を込
めて、総一郎は涙を拭った。
176
8話 見えない翼 ︻下︼
武士垣外白羽は、怒っていた。何故、弟が目標を失わねばならな
いのか、と憤慨していた。
彼女の弟、総一郎は、優しくて頭がいい代わりに、泣き虫なとこ
ろがあった。しかし虐められて泣くのではない。弱いという事でな
く、時折訳の分からないタイミングで泣く。それが白羽には不思議
で、しかしいつの間にか、支えてあげたいと思うようになった。
しかし、今回は違った。白羽にも、総一郎が泣いた理由は理解で
きるものだった。
総一郎は、最近﹃ぶつりまじゅつ﹄という物に凝っていた。漢字
が難しいので尋ねたところ、このように読むのだと弟に教わった。
総一郎は自分よりも頭がいい。昔はそれが悔しかったようにも思っ
たが、学校に入ってからは彼が特別なのだと分かって、嫉妬する気
も失せてしまった。
それ以前に、白羽は総一郎の事が大好きだったのだ。何故かと問
われればまず﹁優しいから﹂と答え、二番目はと聞かれれば﹁頭が
いいから﹂と答え、三番目はと問われれば困ってしまうのだが、本
当の理由は今の自分では言葉に表せないような気もしていた。
いや、三番目の理由はある。それは、﹁頑張り屋さん﹂だからだ。
彼は目標を定めたら目をキラキラと輝かせて頑張る。その姿を見
るのが、白羽は一等好きだった。生傷をこさえても気付かない時さ
177
えあって、指摘すると途端に痛がり始める。すぐに魔法で治してし
まうのだが、その慌てようが可愛いと白羽は思っていた。
そして、だからこそ、その目標を禁じた父に対して強い怒りを感
じていた。
しかし、相手が父ではさしもの白羽も分が悪い。彼女はクラスで
一番魔法が使えるが、父に魔法を放ったが最後、どんな目にあわさ
れるか分かった物ではなかったのだ。実際にそこまでやられた事は
無かったが、想像するのも恐ろしいという雰囲気を、父は纏ってい
た。だから、直接何かを言うのは避けたい。というか、自分には出
来ない。
だから白羽は、こっそり総一郎に、自分から教えてあげようと思
っていた。
白羽は、当然、物理魔術の知識など持っていない。だが、その代
りに﹃飛翔﹄経験だけなら、総一郎を大きく上回っている自信があ
った。
しかしそのように言っても、総一郎は首を縦に振らなかった。
頑なに断るのではない。﹁今は、必要ないみたいだから﹂と言っ
て、寂しげに笑うのである。それが白羽には不満で食い下がるのだ
が、撫でられたり遊びに誘われたりお菓子を渡されたりと、多くの
手管でいつの間にか頭から抜けている。
︱︱総ちゃんは、卑怯だ。そのように白羽は思う。そして、臆病
者だ、とも。やりたい事があるならば、反対を押しのけてでもすれ
ばいい。しかし弟の怯えの向かう先が、単純に父ではないのが何と
178
なく感じ取れたから、白羽にはどうにも難しい。
﹁琉歌ちゃんはどうすればいいと思う?﹂
そんなことを、ある日尋ねていた。手を繋ぎながら武士垣外家の
縁側で、琉歌と共にアイスを食べていた。一口食べると口の中で一
瞬ふくらみ、その後名残を残しながら溶けていくのである。
総一郎はこれが好きで、最初に食べた時の驚き様と言ったら、﹁
可愛い﹂の一言だった。ただ、直後にこのアイスの製法を調べたが
ったのには彼独特の感性と言うか、共感は出来なかったけれど。
﹁んー。でも、授業中に抜け出すのはいけない事だと思う⋮⋮﹂
シャリシャリとアイスを齧りながら、いつもより少し眉を垂れさ
せて、琉歌は言った。訳が分からず詳細を尋ねると、件の﹃ぶつり
まじゅつ﹄をしに、たびたび授業を抜け出していたのだという。ま
た、その時の怒られようは尋常でなかったとか。
ふぅむ。と顎に手を当てて考えてみる。総一郎の真似だ。面白が
って真似していたら、いつの間にか自分も癖になってしまった。
このままでは、総一郎は﹃ぶつりまじゅつ﹄を諦めてしまうかも
しれない。それだけは何とかしたい白羽である。しかし、だからと
言ってその術が彼女にはなかった。
むむむむと、白羽、顔を顰めて唸りだす。考えども考えども答え
らしきものが浮かばず、苛立ちも相成って、顔色が凄い事になって
いた。とうとう頭がパンクを起こし、上半身を倒れ込ませる。
﹁白ちゃん行儀悪い﹂
179
﹁総ちゃんみたいなこと言わないの。⋮⋮あっそうだ﹂
琉歌を見ていると、唐突に思い出すことがあった。自分たちだけ
で考えるから分からないのだ。しかし、年上からならば、いい意見
が聞けそうだと白羽は思い浮かんだ。
その為、翌日般若家を訪ね、琉歌の兄、図書に教えを乞う事にし
た。
﹁図書さん図書さん。何でかわかる?﹂
﹁んー、あいつの性格からして。分からない事もないんだけどなぁ
⋮⋮。と言うか白羽。知り合って結構経つんだから、いい加減呼び
方統一しろ﹂
﹁図書お兄ちゃん早く教えて!﹂
﹁この姉弟は人の話をろくに聴きやがらねぇ⋮⋮!﹂
顔を覆って嘆く図書。何度見てもこの人は面白いなぁと白羽は思
う。総一郎が教えてくれた事で、彼が言うには﹁ふざけるとちゃん
と反応してくれるから楽しいよ﹂との事だった。やっぱり総一郎は
凄い。
﹁あいつの入れ知恵か!﹂
言葉に出ていたようだった。
しかし、そこで怒りださない辺りが図書のいいところだ。自分の
180
怒りを、﹁それはそうと﹂と言う感じに横に置いておける。そして
気付けば消えているのだから、これほどまでにいい人はなかなか居
ないのではないか。と言うのは総一郎の弁であった。
図書はしばし、思案するように目を瞑り、頭を掻く。次いで、ぽ
つりぽつりと言った。
﹁総一郎はな、白羽。正直、頭の中がはっきり言ってお前よりも遥
か年上なんだよ﹂
﹁⋮⋮それは、何となく分かる﹂
﹁お前もなかなか鋭いよな。天使だからか? でさ、それだから相
手の気持ちがよく分かるんだよ。聞けば授業中に抜け出すのは良く
していたっていうのに、家庭訪問からピタッとしなくなったんだろ
? じゃあ、原因は何だと思う﹂
真正面から、図書は見つめてくる。白羽は、必死に考えた。考え
に考えると、極稀に、思考が壁を突き破ったかのように、物事が何
処までも分かるようになる事がある。そういう時は、必ずと言って
いいほど、勝手に翼が広がった。
今回もそうだった。音を立てて翼が広がり、図書が後ずさって小
さな声を漏らす。それと同時に、白羽は言うのだ。強い、確信をも
って。
﹁お父さんお母さんに、心配を掛けたくないから?﹂
﹁⋮⋮まぁ、それが妥当だろうな﹂
181
一度頷いてから、白羽は翼を閉じた。目を伏せながら、どうすべ
きか考える。両親に心配させたくない。大怪我をしたら顔向けがで
きない。それを、家庭訪問で自覚した。
この感情は強い。取り払うことは出来ないし、してはならない事
だとも思う。しかし、それでは総一郎の可能性が一つ潰えてしまう。
ならば、他の角度から攻めるべきか。
自分の知る語彙から、言葉を選別した。どのように言えば総一郎
は動くのか。
今の白羽にとっては、何故悩んだのか分からなくなる程に簡単な
問題だった。
その日、般若家で散々遊んだあと、家に帰り、総一郎を探した。
弟は縁側でぼんやり池を眺めていて、時折何かを投げ込んだりする。
鯉が食いついていくから、きっと餌なのだろう。そしてまたぼんや
りしだすのだから無気力だ。
﹁そーうーちゃん。あっそびーましょ﹂
背後から言いつつ、こっそり魔法で姿を隠す。白羽には光魔法以
外の属性魔法が使えなかったが、その分総一郎に勝っている所があ
った。
故に、総一郎は白羽が光魔法で姿を消した時、見破ることが出来
ない。母から、天使の目を受け継いでいるというのに。逆もしかり
だが、母からは白羽も総一郎も見破れるらしいので、やはり実力と
182
いう事だろう。
弟は予想通り、振り返って白羽の姿を探した。しかし見つからな
いらしく、怪訝そうに眉を顰めている。その脇を、そろりそろりと
通り抜けていった。翼を静かに広げて、姿を消したまま空中に飛び
上がる。
魔法が解け、それが丁度総一郎に見つかった。満面の笑みを向け
ると、彼は微笑ましげに苦笑する。﹁総ちゃん総ちゃん﹂とおいで
おいでをすれば、﹁どうしたの?﹂と首を傾げた。
﹁一緒に、お空行こう? 山の上で、お星さま見たいの﹂
あつかわ村では、空気が澄んでいるせいもあって、空には満天の
星が広がる。春ももう終盤で、夜になっても暖かい。だから、とい
う訳だった。しかし、案の定総一郎は首を横に振る。
﹁駄目だよ。今から山を登るのは、僕たちには危ない。あ、そうだ。
それなら、お父さんお母さんにいえば、連れて行ってくれるかもし
れないね。じゃあ、そうしようか﹂
﹁ダメ! 総ちゃんと、二人で行くの﹂
﹁だから、危ないって言ったよね。お菓子食べる?﹂
その手には乗ってやるものか。
﹁それは︱︱お星さま見ながら、食べる。それよりも、危ないって
言ったって、空から行けば問題ないでしょ? 空を自由に飛び回る
のは、最近じゃあ天狗さんとか、私みたいな天使とかくらいしかい
183
ないよ。それに、天狗さん、優しかったし﹂
﹁⋮⋮ごめんね。物理魔術は、禁じられているから﹂
また、﹃物理魔術﹄だ。白羽はそう思い、少し目を細めた。それ
が丁度睨んだように見えたのか、総一郎はもう一度、﹁ごめん﹂と
悲しげに微笑する。
いつもなら、ここで言いくるめられてしまう。しかし、今日ばか
りはそうならない。
﹁じゃあいいもん。私一人で見てくるから﹂
総一郎は、えっ、と言う顔をした。
﹁白ねえ、それは駄目だよ。こんなに暗いうちに一人で山なんかに
行ったら、人食い鬼に食べられちゃうよ?﹂
﹁別にいいもん、食べられたって。総ちゃん来てくれないんでしょ
? なら、一人で行く﹂
﹁分かった。僕が悪かった。だから、行かないでよ。じゃなきゃあ、
殺されちゃうんだよ? もう、家に帰って来れないんだよ?﹂
﹁⋮⋮それなら、﹂
白羽は、総一郎を真正面から見据えた。躰は強張っていて、涼し
い気候だというのに汗をかいていた。天使の本能が、彼の心情を汲
み取る。
語彙の中から、一番鋭い言葉を選んだ。自分でさえも、躊躇うよ
184
うなものを。
﹁私が殺されても、総ちゃんは﹃物理魔術﹄を使ってくれないんだ﹂
その瞬間、総一郎は目の色を変えた。
白羽の堪えようとして震えてしまった声に、彼は息を呑む。言葉
を発しようとしているが、喉で詰まって意味を持つ物になっていな
い。白羽は、構わず彼に背を向けて翼を羽ばたかせた。何度も繰り
返すと、地面がどんどん遠ざかっていく。
白羽は、天使だ。しかし、地上で暮らしているため、高く上がり
すぎるとどうしても不安が募る。ただ、今回はそれが無かった。そ
の代り、それに似た不安が彼女の胸を柔く締め付けた。
子供は、ちょっとした事でよく泣く。親の死に目を想像しただけ
で、嗚咽を止められなくなる。
そういう意味では、白羽は少し大人だ。
十分に遠ざかってから、振り向いて家を探した。見つけ、しかし
総一郎の姿が無い事に気付く。念入りに周囲を見渡すが、居ない。
追いかけてきて、くれなかったのか。
そこで初めて、目に滲む物があった。大切に思っているのは、自
分だけなのかと疑った。
だが、このまま帰る訳にもいかなかった。人食い鬼に食われるつ
もりは毛頭なかったが、星を見て帰るといったのだから、それは意
地でもしなければならない。一つ翼を羽ばたかせて、山の上の小高
185
い木を目掛けて飛んで行った。
上を見上げると、一番星が輝いている。赤く染まりきった空は、
少しずつ青みを増している。
目的地であった木の上に、翼でバランスを取りながら、白羽はち
ょこんと座った。前に一度登ったことがあって、その時に、座りづ
らいと頂上の部分を光の刃で切り落とし、彼女が座れるだけの小さ
な切り株にしていた。
横を見ると、同じように若い年輪が見える。その時に、ついでと
ばかり、総一郎の場所として作っておいた場所だった。
目元を拭う。泣いてなんかいない。来てくれなくたっていい。総
一郎に﹃物理魔術﹄を諦めさせたくないのは、ただの白羽の我が儘
だ。だから、がっかりなんてしない。いや、する。ただし、それは
あくまで作戦が失敗したからであって、それ以外の理由なんてない。
﹁⋮⋮総ちゃんの、バーカ﹂
呟くように言った。小さな言葉は、黄昏時の空気に溶けていって
しまう。それが、悲しかった。誰にも聞かれないのが悔しくて、も
う一度だけ繰り返した。
﹁ダメじゃないか、そんなことを言っちゃあ。大事な弟なんだろう
?﹂
突然の声に、横を向いた。見れば、見知らぬ少女が、横の切り株
に座っている。逆光があって、細部があまり認識できない。少しず
つ、日が沈んでいく。
186
﹁え、な、何? 誰? っていうか、何で総ちゃんのこと知ってる
の?﹂
白羽は戸惑いながら問うた。次いで日もようやく沈み、その少女
の容姿をやっと認識できるようになる。
彼女は、少し意地悪げな笑みを浮かべていた。容姿は無表情で居
れば息を呑むほどに美しく、笑みがその可憐さを蠱惑的なものに変
えている。背格好は白羽より十数センチ高く、大体小学校四年生程
の体躯をしていた。だが不思議な事に、それで完成しているという
印象を受ける。
成長した姿が思い描けない、とでも言えばいいのだろうか。
﹁そりゃあ知っているよ。なんたってボクは、神様だからね﹂
にやっ、と一層笑みを大きくする少女。白羽は、少し考えてから
こう答えた。
﹁何処の神様なの?﹂
﹁何処って⋮⋮?﹂
初めて笑みを消し、少々の困惑を見せる神様。
﹁だって、この山の神様はあなたじゃないもん。だから、何処から
かなって思ったの?﹂
白羽の言葉と同時に、少女の姿をした神様は、何かを嘆くように
187
顔を片手で覆った。
﹁⋮⋮あー。そういえば、この国には八百万の神々なんて言う概念
があったんだっけ。めんどくさいなぁ⋮⋮。そういえば﹃どんな神
とも敵対すべからず﹄なんて憲法出来ていたのを思い出したよ。そ
の分じゃあこの国は無理かな﹂
まぁいいか、と手を下す。一瞬ぞっとするような奥底のない無表
情に白羽は息が止まるが、すぐにそこには意地悪な笑みが戻り、軽
く、一息つくことが出来た。
﹁さっきの質問だけどね、白羽ちゃん。ボクはまぁ⋮⋮そうだね、
イギリスとか、アメリカとか、エジプトとか、そっちの方の神様な
んだ。こんな姿でも全知全能だからね、君の事も、君の弟の事も分
かった。いや、それにしてもここは星が綺麗だね。星を見るために
ここに来たの?﹂
﹁うん。⋮⋮そう﹂
﹁へぇ、いやしかし、この景色はいいな。特に、この季節がいい。
春には秋の星座が見えないからね。忌々しい魚座が視界に入ってこ
ないっていうのは、中々に行幸だ﹂
﹁どういう事?﹂
﹁ううん、こっちの話。⋮⋮でさ、ちょっと聞きたいことがあるん
だけど、いいかな﹂
﹁う、うん。いいよ?﹂
188
正直得体のしれないこの少女が少し怖い白羽だったが、帰るに帰
れない状況なので、大人しく質問を促す。
﹁君の弟君の名前って、何?﹂
﹁⋮⋮え? 知っているんじゃないの?﹂
﹁いやぁ、全知全能なんだけど、それよりも強い力っていうのがや
っぱりあってね。ほら、神様なんて、こんな小さな国にさえ八百万
柱も居るんだし﹂
﹁⋮⋮総一郎、だけど﹂
﹁うんうん。ありがとう、総一郎君だね。了解了解。もう、二度と
忘れないよ﹂
﹁う⋮⋮ん﹂
背筋に、薄ら寒さが立ち上っている。しかし、ずい、と顔を近づ
けてきた少女の神様は、白羽を逃がす気配はない。
﹁それで、総一郎君は一体何を一番大切にしているのかな。もしく
は、彼が持っている秘密とかでもいいんだけど﹂
﹁え、そ、そんなの知らないし、知ってても教えないよ。何? 何
で、そんな事を知りたがるの?﹂
少女は、笑みを消した。
﹁﹃教えろ﹄﹂
189
言葉の背後に蠢く何かが、白羽から情報を奪い取っていった。そ
の喪失感が堪らなく恐ろしくて、しかし、声を上げることも叶わな
い。何かが、纏わりついて邪魔をしている。泣きたいのに、指一本
動かすことが出来ないのだ。
﹁ふむ、成程、本当に知らないのか。⋮⋮ま、いいや。じゃあ、手
に入れたらちょうだいよ。あとは︱︱そうだね。親切な白羽ちゃん
に、神様から一言アドバイス﹂
立ち上がりながら、猫のように嗤う少女。その躰は少しずつ、空
中に解けて行く。
﹁こういう時は大声を出すとすっきりするよ。今ここで、試して御
覧﹂
そして、少女の姿は跡形もなくなった。しばし呆然としてから、
白羽は再び空を見上げる。
﹁⋮⋮あれ、いつの間にか暗くなってる﹂
ボーっとしてたのかな。と首を傾げた。そのまま輝き出す星々を
見つめていると、また孤独感に襲われて、寂しくなってくる。ふと、
大声を出したくなった。切り株の上に立ち上がり、叫ぶ。
﹁総ちゃんの、バーカ!﹂
帰ってくる木霊を聞いて、まずまず溜飲が下がった白羽は、再び
座り直し、改めて星を見つめた。満天とまでいかずとも、それなり
の量の星が見える。あと一時間もすれば、きっといつも通り星々が
190
光りはじめるのだろう。ふんす、と鼻息を出してしかめっ面の白羽。
﹁白ねえ、見つけた!﹂
下からの声に、間髪入れず振り向いた。遥か遠くの地面で、総一
郎が手を振っている。
来てくれたのか。と少々嬉しくなる白羽。﹁迎えに来たよー! 早く下りておいでー!﹂と言う総一郎だが、遅い。そう簡単に許し
てなるものかとばかり、﹁総ちゃんなんか知らないもん!﹂と反抗
してみる。
遠くの方で、むっとした顔が見えた。続いて微かな挙動があり、
興味につられ覗き込む。
次の瞬間、総一郎の体が白羽よりも高い場所に飛び上がった。
﹃おわっ﹄
二人の声が重なる。総一郎は高く飛び過ぎていて、白羽はそれに
驚きバランスを崩してしまった。高所の切り株から転げ落ちる。し
かし羽を広げれば自由に飛べるため、別に問題ではない。
問題なのは、それにいち早く反応してしまった総一郎の方だった。
まるでロケットの様に速く、総一郎は動いた。そして翼を広げか
けた白羽にぶつかり、二人纏めて、空中を錐もみしながら飛んで行
く。ぐるぐる回って平衡感覚がおかしくなった。地面がどっちか分
からない。
191
すぐ横を見れば、恐怖と混乱に顔が引きつった総一郎が居た。し
かしその手は確かに自分を掴んでいて、それが白羽には嬉しい。そ
れに加え、その引き攣った表情にもどこか愛嬌があった。仕方ない
なぁ、とか、そんな風に思う。
回転が止まるよう、強く翼を羽ばたかせた。周囲を素早く見渡し、
地面がどちらか知る。その反対に飛ぶよう、また一つ。ただ、体力
がもう残っていないので、近くに不時着した。
ぼふっ、と群生したツツジの茂みに突っ込む。細かな枝が沢山二
人をひっかいたが、別に特別痛いという事もない。
ヘロヘロに目を回した総一郎が、頭に数枚葉を乗せながら﹁ごめ
んね。白ねえ﹂とよろけながらの両手謝りをしてくる。礼儀はしっ
かりしているのに、何故か彼は、あまり悪びれない。そんなところ
も、白羽は好きだった。嬉しいお蔭で、弟への好きが溢れている。
﹁総ちゃん。探しに来てくれて、ありがと。もしかしたら、来てく
れないかと思った﹂
﹁それは有り得ないよ。何たって白ねえだもの﹂
﹁そう?﹂
﹁うん﹂
嬉しくて、くすくすと笑いだしてしまう。そんな自分を見ながら、
総一郎は微笑んでいた。愛しさのあまり、飛びつくように抱きしめ
る。再び、ツツジの内側へ。
192
たくさんの枝に引っかかれながら、二人一緒に脱出した。今度ば
かりは少し傷が見えている。疲れたので、汚れなさそうな場所を見
つけて、横たわった。同時に総一郎もそこに寝転んで、顔を見合わ
せてから笑う。示し合わせたような動作が、面白かった。
﹁⋮⋮ねぇ、総ちゃん﹂
そのまましばらく無言で居て、二人で空を見上げていた。星空の
明かりを浴びながら、ふと、彼に言わねばならない事を思い出す。
﹁何? 白ねえ﹂
空を見上げながらの言葉に、少しむっとする。ただ、ここで怒っ
ては台無しだと思って、堪えた。﹁実はね、﹂と切り出す。
﹁私、本当はみんなより少し大人なんだ﹂
﹁⋮⋮どういう事?﹂
やって振り向いてくれた。今度は逆に、こちらがそっぽを向いて
やる。
﹁私、総ちゃんのお蔭で、物凄く早くに﹃開花﹄したでしょう? だから、躰じゃなくて、心の中身がみんなより育つのが早いの﹂
﹁どれくらい?﹂
﹁どれくらい、って聞かれると困っちゃうんだけど、今は大体、十
⋮⋮二とか、三とかだって聞いてる。お母さんが、偶に病院に連れ
て行ってくれるの。精神病院。特殊な例らしいからね。でも、いつ
193
もって訳じゃ無いんだけど﹂
﹁⋮⋮時々、勝手に翼が広がっちゃうことあるよね。その時?﹂
﹁気付いてたの?﹂
﹁薄々、そんな気はしてた﹂
言って、苦笑する総一郎。
﹁なんだ。秘密がってた私が馬鹿みたい。まぁ、そこまで隠す気は
無かったけどね。⋮⋮それで、ここからが本題なんだけど、総ちゃ
んって、本当は私よりもずっと精神年齢高いでしょ﹂
﹁ばれてた?﹂
﹁うん。そうじゃないと、説明できない事もあるし。ちなみに、何
歳なの?﹂
﹁人生経験ってだけなら、大体三十代の前半くらい。精神年齢は、
昔より自制聞かないから分からないかな。だから、白ねえの事は、
正直、娘みたいに思っている所がある﹂
総一郎は、少し意地悪な笑みをした。誰かに似ていると思ったが、
その誰かは思い出せない。唸りながらジトッと睨むと、困ったよう
に苦笑した。次いで彼は、少しトーンを落として尋ねてくる。
﹁⋮⋮誰にも、内緒にするって、約束できる?﹂
﹁⋮⋮う、うん﹂
194
﹁実はさ、僕、前世があるんだ。まぁさっきに人生経験とか言っち
ゃったから丸分かりなんだけど。それでね、そこには、魔法とか、
亜人とか、夢の溢れる存在の居ない、ここよりも少しつまらない場
所だったんだ﹂
もちろん、そこそこに楽しんでいたけどね、と付け加える。
﹁でも、ここに来て魔法が使えるようになって、物凄く楽しかった
んだ。お父さんに剣の稽古とかつけてもらってさ。今は素振りだけ
だけど、また、やってもらえればいいなって思う。だから、楽しく
て調子に乗っちゃったんだ。物理魔術が危険だなんて、良く考えれ
ばすぐに分かりそうな事だったのに﹂
だからね、と少しさみしそうに総一郎は言う。白羽は、それに向
き合う。
﹁お父さんお母さんに心配かけちゃうから、物理魔術は出来ないん
だ。これは、白ねえに言われても変わらない﹂
﹁⋮⋮確かに、総ちゃんの﹃物理魔術﹄下手だったねぇ⋮⋮﹂
難しい顔で頷くと、少々ショックを受けたのか、複雑な面持ちで
視線を逸らされてしまった。しかし、と白羽は考える。
﹁前から言ってるけど、それなら私が手伝えばいいんじゃないのか
な? 少なくとも、総ちゃんを墜落させないだけの実力はあると思
う﹂
﹁でも、心配させちゃうよ﹂
195
﹁大丈夫。少なくともお母さんからの支持は得られると思う。私に
飛翔術を教えてくれた張本人だもん。あとはお父さんだけど、お父
さんは話して分からない人じゃない。でも、それは総ちゃんが自分
で話した時。他の人が言ったって、相手してくれないから﹂
﹁もしかして白ねえ⋮⋮﹂
白羽は、わざとらしく笑って誤魔化した。
﹁別にいいの。それより、どうするの? ここまで言っても、﹃物
理魔術﹄やりたくない?﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、目を瞑った。しばらく、無言でいる。決めあぐねてい
るのか。仕方なしと考え立ち上がった時、彼は一つ、ため息を吐い
た。
﹁うん。やっぱりやりたい。それに、ここでやらないなんて、ここ
まで体張ってくれた白姉に申し訳ない。今日あたり、帰ったらお父
さんと話してみるよ﹂
言うが早いか、軽い調子で総一郎は立ち上がった。手を握られ、
思わず握り返す。
その顔を見ると、彼は柔らかく笑った。
﹁歩くと遠いし、一緒に、飛んでかえろっか﹂
196
白羽は、湧き上がる喜色に、うん、と元気に頷いた。
後日、総一郎は父の元へ直談判をしに行った。
本当は当日のつもりだったが、遅くまで外に言ってたことを母に
こっぴどく叱られ、父も心なし不機嫌そうだったため、戦略的撤退
により後日改める事となったのだ。すでに母は味方に付いていて、
後は父を陥落するのみである。
小さな和室で、父と弟が静かに向かい合っている。その様子を、
白羽は襖越しに見守っていた。総一郎の方が万倍頭がいいのだから
意味などないだろうが、彼が困ったら助けねばと言う強い意志がそ
こに在った。
しかし、結末は呆気のない物であった。
﹁お父さん。物理魔術をさせてください﹂
﹁いいだろう﹂
﹃え?﹄
思わず声を出してしまう白羽。それが丁度総一郎の物と重なって、
マズイ、とばかり口を押える。
﹁白羽も、入ってきなさい。総一郎を焚き付けたのはお前だろう﹂
言われ、ばつが悪く、口元をもにょもにょさせながら入っていっ
197
た。総一郎と目が合い、苦笑し合う。父が、そこで一つ咳ばらいを
した。弟の隣に正座して、姿勢を正しておく、
﹁総一郎、そして白羽。お前たちもすでに分かっているだろうが、
物理魔術と言うのは危険な技術だ。人間は脆い。そして、総一郎が
使おうとするその技術は、人間に比べ、はるかに丈夫な魔物を一撃
で屠る事が叶うだけの、非常に力強い能力だ。その使用には、細心
の注意が必要なのはわかるな﹂
﹁はい﹂
総一郎の芯の通った声に、白羽は慌てて追従する。
﹁幸い総一郎が今回使おうとしているのは危険性だけで言えば低い
物だが、そもそもお前は﹃空中浮遊式﹄を履き違えている。着地に
あれほど細かい反作用を使うのは、手間が掛かる上に危険性の高い
方法だ。着地だけなら終端速度の法則を使えばいいだろう﹂
﹁僕も最初はそう思ったのですが、まだ風の加護が無いのです﹂
﹁何だと﹂
顔を上げる父だが、同じように白羽も驚いていた。そういえば総
一郎は小学一年生で、まだ夏休みに入ってもいない。何だか年上の
ように感じているから、白羽には不思議な感覚だった。
﹁失念していた。そうか、総一郎はまだ夏休みを迎えていないのだ
ったな。︱︱となると、化学魔術でもまた一悶着あるのか。⋮⋮ま
ぁいい。ならば、総一郎。お前は夏休みの加護会得まで物理魔術を
禁じるが、それが終わり次第禁を解く。空中浮遊は母さんや白羽に
198
聞くと良い﹂
﹁⋮⋮本当に、良いのですか?﹂
おずおずと尋ねる総一郎を、父は静かに見つめ、目を閉じた。小
さく開いて、答える。
﹁本来ならば、ここで止めるのが親の役目なのだろうと思う。しか
し、今回ばかりは違う。そのようにも、思えるのだ﹂
﹁父さん⋮⋮?﹂
夢現に居るかのような話し方に、総一郎は困惑の声を上げた。白
羽はしかし、何故か父の次の言葉が分かるような気がしていた。心
の中で、呟いてみる。
︱︱総ちゃんは、頭がいい。
﹁総一郎。お前は、頭がいい。物理魔術を教えても、お前ならば使
いこなせる。私は、そのように思った。禁じられてそれでもなお使
うのを止めなければ、私は、決してお前に物理魔術の習得を許さな
かっただろう。しかしお前は白羽のため以外には使おうともしなか
った。それが答えなのだ﹂
当たった。とひっそりほくそ笑む白羽。油断していたところに、
父に名を呼ばれて驚きに身を竦ませる。
﹁な、何ですか!﹂
﹁白羽。お前は、自分が総一郎に劣っていると思っていて、それを
199
受け入れている節があるな。しかし、だとしても姉はお前だ。総一
郎が危うくなったとき、お前が弟を止めなければならない。その事
を、よく心得ておけ﹂
驚きに尾を引かせつつも、返事をした白羽。それに頷いて、父は
すっくと立ち上がり、部屋を出ていった。二人だけがぽつんと残さ
れ、少しずつ開いた襖から日が入ってくる。
﹁白ねえ﹂
横からの声に、白羽は総一郎の顔を見た。そこには、翳りが一欠
けらもない穏やかな笑みが、夏の匂いをさせて輝いている。
﹁ありがとう。白ねえのおかげだよ﹂
面を向かって言われ、なんだか小っ恥ずかしくなってしまう。そ
の為赤面してもじもじすると、白羽の頭を撫でて一人で外に行って
しまった。
急いで外に出ると、彼は暑くなってきた太陽の光の中で、上を見
つめていた。視線を辿ると、眩しさに目がくらんでしまう。空に輝
く太陽は、今日は一等強い輝きを持っていた。ふと弟に視線を戻す
と、空に手を伸ばしている。
﹁⋮⋮あ﹂
その時、白羽は総毛だつような感覚を覚えた。どこかでこれと全
く同じ経験をしたことがある。とも思った。気付けば翼はいつもよ
り一回り大きく開いていて、力を入れずとも飛び上がれそうだ。
200
しかし、今の白羽にはそんな事はどうでも良かった。日に手を伸
ばす総一郎から、目が離せないのである。何かが、その背中に見え
る様にも思えた。見えもしないのに、翼だと確信した。
その時、ふと風の声が白羽の耳を掠めた。振り向くが、気のせい
だと思い、また総一郎の方へと目を向ける。
︱︱教えてくれてありがとう︱︱
そんな、蠱惑的な声が、聞こえた気がした。
201
9話 あやかしの森 ︻上︼
一学期終業式の早朝。総一郎はいつもと変わらず、日課の素振り
をしていた。
あつかわ村の朝は、夏であろうと寒い。清廉、と言ってもいい。
どこまでも澄んでいて、一息吸うと、身が引き締まる。だから、い
つも深呼吸を終えてから素振りに入った。
木刀の風を断ち割る音を聞いていると、総一郎は、少しずつ意識
が外界から遠ざかっていくような気がする。昔はそうなると少し恐
ろしさを感じて、疲れたと言い訳をして終わらせてしまうのだが、
今はそのまま続けていた。そうすると、気付けば何もかもが胸の内
から消えていくのだ。真白になる。その感覚に、惹き付けられてい
るのだろう。
しかし、ある程度すればふっと我に返る。その時は大抵汗でびし
ょ濡れになっていて、軽く井戸水で体を流してから、また家に戻っ
た。
今日もその繰り返しのはずで、ふっと我に返り、道着を脱いで井
戸水を浴びる。道着はこれでもう三着目だ。一枚目も二枚目も、成
長と共に着られなくなってしまった。木刀も、一度新調している。
タオルで躰中の水滴を拭う。そして縁側に置いていた服に着替え
る。その最中で、何かがこちらを見ていることに気付いた。見れば
塀の上で、三毛猫が人間の様に片足を立てて座っている。
202
手早く着替えてから、総一郎はそれに駆け寄った。よく見れば小
さな荷物を背負っていたり、靴をはいたりしていた。その割には服
を着ていない辺り雑だ。
﹁よぉ! 朝から精が出るじゃねぇか坊主。名前、何て言うんで﹂
﹁僕は武士垣外総一郎。そっちは?﹂
﹁俺か? 俺は見ての通りケットシーだ﹂
ほぅ、と頷く総一郎。猫又にも似ているが、尻尾が二つに分かれ
ていない。その代りに人間臭い仕草が妙に似合っていて、これがケ
ットシーか。と納得する。
﹁名前はタマ﹂
納得を返せ。
﹁⋮⋮聞いた瞬間猫又にしか見えなくなっちゃったんだけど﹂
﹁あんな爺婆どもと一緒に済んじゃねぇよ。俺はまだ、生まれて五
年くらいだ﹂
﹁了解。﹃爺婆ども﹄ね。その言葉ちゃんと猫又に伝えておくよ﹂
﹁はっ?﹂
﹁冗談だよ﹂
少々の意趣返しに成功して、軽く笑う総一郎。それに、ふぅん。
203
と値踏みするような視線をタマはよこした。ちょっとだけ、むっと
する。
﹁何さ。少しからかっただけで﹂
﹁いやいや、別に悪意を持っている訳じゃあないさ。ただ、これが
噂の総一郎か。と少しばっかり腑に落ちたんだ﹂
﹁⋮⋮噂?﹂
総一郎、何の事かさっぱりわからない。そんな彼に、念を押すよ
うにタマは頷く。
﹁そうだ、噂の、だ。
というのもな? 俺は基本的に日本中を旅してまわる風来坊って
奴なんだが、ここの山にちょいと邪魔するぜってな具合に挨拶しに
行ったらよ、何でもそろそろ餓鬼どもが加護を貰いにわんさか山に
参拝しにくるっていうじゃねぇか。それによ、おおこりゃ面白ぇと
飛びついて、今年の注目の餓鬼は誰だと聞いて回ったら、満場一致
でお前を名指したのよ。
そんで、ちょいと抜け駆けしてお前の事を見に来たって訳なんだ
が、いやいやなんの。小学生らしからぬ、食えない性格した奴じゃ
あねぇか﹂
ぱんっ、と膝を叩く靴を履いた猫だが、総一郎は不可解そうに首
を捻った。
﹁僕、そんな亜人の人たちと話した事なかったんだけど﹂
﹁そりゃあお前、加護を貰いに来るその日まで、みんな気を遣って
204
待ってくれてんのよ。ここの奴らは皆いい奴だぜ? 偶に馬鹿が居
るらしいが、まぁ気にするほどじゃあねぇってこった。⋮⋮でよ。
とりあえず、もっとこっち寄んな﹂
﹁え、な、何するつもり?﹂
﹁しっ! ⋮⋮こっそり、今のうちにお前に加護をやろうっつって
んだ﹂
聞いて数瞬。思わず小さな歓声を上げてしまう総一郎。忍ぶよう
に喉でくつくつと、ケットシーは笑っている。小さく、﹁手、出せ
や﹂と言われ、その通りにした。
血が出るほど強く、引っかかれた。
﹁痛い! 騙された!﹂
﹁こらこらこらこら、人聞きの悪いことを言うんじゃねぇ! 加護
に必要だからやったってだけだ。もうちょっと落ち着きな、総一郎﹂
宥められて、憮然としながらも静まった。しかし、改めて手をま
じまじと見つめると、おや、と気付く事がある。その浮き出た血を
舐め取った。その下に、傷口は無い。
﹁そら、言った通りじゃねぇか。つー訳で、俺とお前の間に今、契
約が結ばれた。今後は俺の加護を自由に使えるって訳だ。喜べ﹂
﹁ありがとう!﹂
﹁⋮⋮所々可愛げあるのがむしろむかつくな﹂
205
﹁何で⋮⋮﹂
困った声を返しながらも、総一郎、ほくほく顔である。さっそく
試そうと思うも、そもそも何属性か聞いていなかった。尋ねると、
﹁俺か? 俺は無属性よ﹂
﹁無属性って?﹂
﹁ふん。まぁ、何だ。どの属性でもねぇって事は、つまりアレだ。
親和力が全部物理魔術にいくって事よ﹂
反応がしづらかった。
﹁い、いや、つってもアレだからな! 属性に幾分の親和力が物理
魔術に還元されるって事で、無属性はより物理魔術が強くなるって
事だから、別段悪いって事じゃあねぇんだからな!﹂
﹁⋮⋮いや、うん。それでも、ありがとう。ある意味、人生初の加
護にぴったりだと思う﹂
そういって、総一郎は表情をほころばせた。ジンワリと、胸に滲
む仄かな嬉しさがある。それに対し、タマは頭の横をポリポリと掻
きながら、言いづらそうな調子で言った。
﹁⋮⋮総一郎。それ、お前の初めての加護じゃないぞ。確か鬼火が
自慢してたらしいから、それがお前の初加護だ﹂
﹁君は僕のフォローをことごとく無駄にしていくね!﹂
206
と言うか夏に出てきて偶に﹁あつっ!﹂ってなってうざいと思っ
ていた鬼火に初加護を貰っていたのが、少しショックな総一郎だっ
た。多分、その﹁あつっ!﹂の時に加護を貰っていたのだろう。地
味な嫌がらせだと思っていたら加護だったとは。言えよ、と思わな
くもない。
そんな風に考え込んで、難しい表情の総一郎。ケットシーのタマ
は立ち上がり、別れを告げようとする素振りを見せた。
﹁ん。帰るの?﹂
﹁おう。加護は授けたし、お前の人柄を見てくるっていう目的は果
たせたしな⋮⋮っと。いけねぇ、いけねぇ。俺としたことが忘れち
まうところだった﹂
二足直立の三毛猫は、ぼやきつつ器用に頭を掻いた。少し図書を
思い出す。
﹁総一郎、夏休みの宿題で、お前は五行にエレメンタル、後は雷だ
の重力だの時間だの闇だのと、多くの属性の加護を得てくるってい
うお題を課される。それでここ一帯の小学生たちは、あの神社につ
ながる山に入って、亜人たちから加護を貰うのが古くからの慣習な
のは知ってんな?﹂
﹁うん。友達の兄ちゃんから聞いてるよ﹂
﹁そいつは何より。それでな、お前、夏休みに入ったら、すぐに山
に入れ。今日終業式なんだろ? さすがに今日とは言わねぇが、明
日の早いうちには頼むぜ﹂
207
﹁え? 何でさ﹂
﹁何でもこうねぇよ。こっちの奴らはお前が山に来るのをうずうず
して待ってんだ。夏休み終盤なんかに行ったらお前、奴らある程度
満足しちまってるから、大抵の奴らはまともに相手なんかしてくれ
ねぇぜ﹂
一寸首を傾げて思案し始める総一郎。つまり、今行けば少々亜人
たちは興奮気味の為、こぞって加護を与えに来てくれるという事な
のか。確かにそれはお得だ。
﹁⋮⋮なるほど。了解したよ。明日行けるかどうかは分からないけ
ど、なるべく早いうちに行く。それでいいんだね?﹂
﹁おう。じゃあ、確かに伝えたからな。そうそう、あとは、今のう
ちに集められる情報は出来る限り集めちまいな。山の中には一部だ
が危ない場所がある。マヨヒガとか、スナークの狩猟区とかな。気
を付けるに越したことはねぇ。それじゃあ、あばよ﹂
一度高く伸びをして、タマは総一郎に背を向け、のらりくらりと
遠ざかっていった。ある程度の距離が出来ると奴の物らしき鼻歌が
聞こえてきて、楽しそうだなぁ、と微笑ましい。
ふむ、と顎に手を当てて考えだす総一郎。少し視線を上げれば、
件の山の一部が目に入った。あそこに、登る。そして、そこで加護
を得る。
﹁物理魔術の解禁に加えて、次は化学魔術、生物魔術も出来るよう
になるって事か⋮⋮﹂
208
夢がいま、総一郎の目の前一杯に広がっていく。思わず笑い声が
漏れて、それを偶々見かけた白羽に﹁総ちゃん、ちょっと気持ち悪
い⋮⋮﹂と言われてしまった。
夏の暑き日差しが、総一郎を照らしている。
もう、小学一年生の夏休みなのか。と、時間の速さに少し驚く。
総一郎に課せられた習得せねばならない属性は、はっきり言って
雑多を極めた。
しかし、これでも他の人に比べればすこし少ないというのだから
驚かされる。
彼が課された属性は、まず五行の火以外、水、土、金、木、の四
つ、それに加え、エレメンタルに重複していない風、また雷に氷、
毒、音、重力、時間、精神の全てだ。先述の通り、火、さらに光と
闇の二つが省かれていて、その理由は必要が無いから、という事に
なるらしい。
というのも、総一郎の火属性、光属性は、天使の血を継いでいる
のもあって、普通に加護を受けるよりも数段強い物になっているの
だという。更に総一郎は鬼火たちに火の加護を複数受けているから、
ポテンシャルだけで言うならそこらの成人男性を軽く上回っている
のだとか。
とはいえ、更なる習得を禁じるという訳ではないらしい。取れる
209
なら取っておけという事なのだろう。
逆に、闇属性は天使の血による純粋な光属性に阻まれて、習得は
不可能であるという。通常ならどちらも得られるのだが、総一郎に
限っては光が強すぎるのだと。
ともあれ、この十二個の加護を得る必要がある。うむ。ひとまず
言わせてもらおうか。
﹁絶対多すぎでしょこれ。しかも何? 精神とか時間とか毒とか重
力とか怖いよ! 小学生に何やらせるつもりなのさ!﹂
﹁俺に言ってどうすんだよ!﹂
総一郎の絶叫に耳をふさいで抗議する図書だが、そんなことは知
らない。彼は既にこの道を通ったのだ。通ったのなら有罪である。
ギルティ。
﹁うるせぇ、ボケッ!﹂
怒られてしまった。
﹁とまぁ、ちょっと溜飲下がったから感情をぶつけるのは止めるこ
とにするけど。これやっぱりおかしいよ。最初見たとき何事かと思
ったもの。ねぇ、るーちゃん﹂
﹁うん!﹂
﹁琉歌はいつの間にか総一郎にべったりだな。と言うか猫被るの止
めろよ。どうせいつかぼろが出、痛ってぇ蹴んな!﹂
210
﹁お兄ちゃんのばかっ、変なこと言わないで!﹂
﹁で、話を戻すけどね、変なこと言う図書にぃ﹂
﹁お前ら俺のこと嫌いなのか⋮⋮?﹂
だんだん気の毒になってきたので止める。もう高校生なのだから、
こんな事で涙目にならないでほしい。とか思いつつこう言う所が魅
力的なのかもしれないとも思う。総一郎の考え癖だ。初見の人はそ
れをぼぉっとしていると言い、付き合いが長いとアホ面をしている
という。言うのは主に図書である。苛立たしくなって総一郎も一発
入れた。
無言でやり返されて涙目になる総一郎。
﹁⋮⋮で、明日山に入ろうと思うのだけど、何か注意した方がいい
事とかある?﹂
﹁総一郎って結構行動速いよな。琉歌はどうするんだ?﹂
﹁じゃあ琉歌も一緒に行くー﹂
﹁⋮⋮まぁ、どうせどっかで離れ離れにされるんだけどな﹂
﹁え?﹂
﹁いや、なんでもねぇ。それで、注意すべき事か⋮⋮。普通にして
る分には、山登りの道具を一通りそろえておけば問題は無い。ただ、
これは親がついていけないからな。スナーク狩猟区と、マヨヒガに
211
気を付けるくらいか。⋮⋮いや、総一郎ならマヨヒガに行っても戻
って来られそうだな。あそこの加護は豊富だし。︱︱総一郎。お前
は、スナーク狩猟区だけ気を付けろ。琉歌は、それに加えてマヨヒ
ガだ。だけど、総一郎が一緒に居るなら別に気にする事は無い。問
題はスナーク狩猟区だな﹂
﹁何かケットシーの人もそんなこと言ってたんだけど、スナーク狩
猟区って何? あと、マヨヒガってのも﹂
﹁あ、琉歌ちょっとジュース取りに行くけど、飲みたい人いる?﹂
男子二人は肯定を返し、琉歌は頷いて部屋を出て行ってしまった。
図書は気にせず話を続けようとしたが、総一郎はふと気付き、ぽつ
りと言葉を漏れる。
﹁るーちゃんって、いい子に育ったよね﹂
見れば総一郎と図書のコップに中身が残っていない。かと思えば
琉歌のコップにはまだ中身が残っていたりするのだから、総一郎と
しては感心してしまう。そして、あまり自己主張せずに出ていく。
どう見ても大人の所作だ。
﹁⋮⋮ん、そうか? 何かいっつも手を握ったりでまだ兄離れして
ないのかってちょっと不安になったりもするんだが﹂
﹁でも嬉しいでしょ?﹂
﹁まぁ、懐かれてるっていうのは伝わってくるからな﹂
少し照れたように、図書は頭を掻いた。確かに彼は愛情を持って
212
妹に接してきたのだから、嬉しくない訳はないだろう。
﹁ひとまず、るーちゃんが居ないから危険な場所の話は中断するこ
とにしようか。そういえばさ、あの山では、加護の内幾つの物を貰
えるの?﹂
﹁ん? 人によりけりだろ。亜人から気に入られなきゃ何もくれな
いし﹂
﹁じゃあ、仮に全員に気に入られたとしたら、どうなるの?﹂
﹁んー、そうだな。大抵は貰えるんだろうが⋮⋮、ああ、そういえ
ばマヨヒガに行かないともらえないのが四つあったな﹂
﹁多っ。その場合どうするのさ⋮⋮﹂
﹁そりゃ、アレだよ。他の場所で貰うんだよ。そうだなぁ⋮⋮重力、
雷、毒に、金属だったかな﹂
﹁あ、でもサブ的なのが多いね。雷以外﹂
﹁いや、雷はいざとなったら風で何とかなるからサブだろ。金属も
土の発展形だし。毒もそうだな。だから、是が非でもとっておきた
いのは重力だ。重力はいいぞマジで。色々捗る﹂
﹁一体何をするの?﹂
﹁これがあると物理魔術が滅茶苦茶楽になる﹂
その言葉に総一郎食いついた。
213
﹁その話詳しく!﹂
﹁本当お前物理魔術大好きだな!﹂
少々総一郎の喰いつきぶりに引く図書であったが、それでもいろ
いろと教えてくれた。そもそも重力魔法と言うのは物理魔術の根底
をなすもので、これが無い物理魔術など考えられない程であるとい
う。
﹁重力魔法で自分の重さをほとんど消しておけば落下して危ない事
なんかないだろ? お前が物理魔術をやるなって言われたのは、重
力魔法も使わないガチな奴だったからだよ。重いっていうのは戦闘
で有利だからな。重いのに身軽っていうのが理想形だ。でも危険性
が高い。それをやってたのが総一郎、お前だ﹂
﹁なるべく初心者的な簡単に奴しかやってないつもりだったんだけ
どなぁ⋮⋮﹂
﹁やっぱり基本知識が若干足りてないなお前は。時代小説好きはい
いけど、もっと最近のもの読めよ﹂
そう言われると、総一郎、苦笑しか返せない。そうこうしている
と、琉歌が戻ってくる。話題が、危険な場所についてに戻った。再
度、﹃スナーク狩猟区﹄と﹃マヨヒガ﹄の話を促す。
﹁まず、スナーク狩猟区だが、これは分かりやすい目印があるから、
それを避ければいい﹂
﹁⋮⋮ていうか、そもそもスナークって何なの?﹂
214
小首を傾げて尋ねる琉歌。相変わらずの声の可愛さだ。時折拘束
してくすぐりたくなるのだが、果して総一郎がやったらセーフなの
かアウトなのか。
﹁あー、スナークっていうのはな⋮⋮。こう、アレだよ。食べると
味はしないんだけど、何処となくウィルオウィスプの匂いがすると
いうか⋮⋮﹂
﹁うん、ごめん。全っ然伝わってこない。て言うかウィルオウィス
プの匂いって何さ﹂
そもそも食用なのかという話だ。食感がコリコリしているとかど
うでもいい。
﹁いや、なんていうか、説明し辛いんだよ。夜行性で、尻尾が生え
ているのは確定してるんだけど、ひげが生えてたり這えてなかった
り、羽が有ったり無かったり﹂
﹁羽が有るのと無いのとじゃ物凄く差があるよ⋮⋮?﹂
﹁そうなんだよなぁ⋮⋮。狩ろうとして抵抗すらしない奴もいるし、
逆に出会ってしまったなら、もうその相手は静かに闇に消え失せて
しまい二度と現れることが出来なくなる、なんて奴も居る。そいつ
は一番危険な種で、ブージャムって呼ばれているな。そいつに遭う
可能性を考慮して、スナーク狩猟区には入らない方がいいんだ﹂
﹁総くん⋮⋮﹂
怖いのか静かに総一郎にしがみつく琉歌。だが、総一郎としては
215
それ所ではない。
﹁⋮⋮おし。もう、外見的な特徴はクダクダになりそうだからいい
として、ウィルオウィスプの匂いが分からないんだけど。鬼火と同
じで良いのかな﹂
﹁いや、だいぶ違う。と言うか鬼火ってにおいないだろ。何て言え
ばいいんだろうな、こう、ちょっとだけいい感じの焦げ臭いにおい
と言うか、かと思えば硫黄というか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮臭いはパスで。他には特徴ある?﹂
﹁んー、冗談を言うと厳粛な顔でため息を吐かれるな。あ、でもお
世辞は効くとか﹂
﹁⋮⋮他には?﹂
﹁更衣車が好きらしくて、何処にでも持って行ってるっていうのは
聞いたことある﹂
﹁更衣車? ⋮⋮あの、水着に着替えるためのスペース?﹂
﹁ああ。常に抱えているのもいれば、粉々にして鳥の巣みたいにす
る奴も居るし。そこはまぁスナークによりけり﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁さぁ?﹂
﹁そっか⋮⋮。⋮⋮うん。僕スナークなんて大嫌いだ﹂
216
吐き捨てる様に言うと、﹁総一郎は混乱に弱いよな﹂と苦笑する
図書。腕に伝わる微かな震えに横を向いて、﹁という訳だから﹂と
切り出した。
﹁るーちゃん。夜にスナーク狩猟区の目印を見つけたら、ダッシュ
で逃げよう。僕はその時ばかりは脇目も振らず必死に逃げるから、
取り残されたくなかったら、るーちゃんも遅れずについてきてね?﹂
﹁総くんが冷たい!﹂
何と人聞きの悪いことを。
﹁で、マヨヒガについて教えてくれる?﹂
﹁ん? スナークはもういいのか?﹂
﹁⋮⋮図書にぃなんて大嫌いだ﹂
﹁分かったよ。俺が悪かった﹂
大分疲れ切った様子の総一郎の一睨みに加え、それを見た琉歌の
咎めるような視線まで来るとさしもの図書も反省するようだ。苦笑
が両手謝りにグレードアップしている。
﹁マヨヒガはスナークに比べればなんてことねぇよ。ただ単に日本
原産の亜人たちが居る大屋敷の異空間みたいな感じか。ただ、人食
いが居る場合があってな。積極的には喰わないけど、あったら喰う
みたいなスタンスの奴だから、異空間なのもあって見逃されている
っていう場合がある。それが唯一危険なのかな。ただ、化け物の面
217
をしてれば意外とばれないからそれを探すのも一手だ﹂
﹁仮面でばれないなら苦労しないよ﹂
﹁いや、ばれない。実証済みだ﹂
﹁誰が?﹂
﹁俺が﹂
まさかの経験談である。微妙な表情になる総一郎と、素直に感心
と驚きを示す琉歌。
どうでもいいが、こういう表情を見ると、琉歌は素直すぎるので
はないかと総一郎は思ったりする。白羽があの幼い容姿で中身がし
っかりしているから、感覚がマヒしているだけと言う可能性もあっ
たが。
﹁お兄ちゃん、⋮⋮どうだった? 怖くなかった?﹂
﹁ああ、俺も魔法は既にある程度使えたからな。自分の身を守るく
らいできたさ﹂
﹁すごーい!﹂
ぱちぱちと小さな手を叩く妹と、少し誇らしげになる兄を冷めた
目で見つめながら、総一郎は一言。
﹁⋮⋮兄妹愛って素晴らしいよね﹂
218
﹁おいお前止めろ。含みのあることを言うのはやめろ!﹂
そんな風にして、話は次第に逸れていった。気付けば暗くなって
いて、あまり明日の事を話せなかったと気付くのは、自宅の玄関を
開けた時であった。
はっとするが、しかし危険な場所については聞けたことだし、こ
んな物でよいのか。と釈然としないながら納得しておく。家に入っ
て母に明日行くと告げれば、すぐに登山用のもろもろの道具は用意
して貰えた。幼い頃の特権と言っていいだろう。
白羽にも少しばかり尋ねたが、加護を貰える相手が少なかったた
め、友達についていく程度であまり積極的には参加しなかったらし
い。ただマヨヒガには入ったらしく、その感想は、
﹁何か面白い人いっぱいいた! 光属性の加護をくれる人も、一人
だけいたよ!﹂
との事であった。どうやら亜人を食おうとする輩はマヨヒガには
居ないのだろう。それなら喉の事を前面に押し出せば琉歌も安全だ、
と少し安堵を覚える。
そうして、多くの事を気に揉みながらも、期待に胸ふくらませて
総一郎は床に入った。なかなか寝付けなかったのは、ご愛嬌だ。
219
9話 あやかしの森 ︻下︼
目の前には、木漏れ日の掛かる石階段が延々と続いていた。
背後からは夏の日差し。右手にはじんわりと汗の滲む手があった。
ちら、と横を見てみれば、緊張した面持ちの琉歌がじっと石階段の
向こうを見つめている。軽く手を引くと、こちらを向いた。声をか
ける。
﹁じゃあ、行くよ。るーちゃん﹂
﹁う、うう⋮⋮。ホントに? ホントに行くの? 他の日じゃだめ
?﹂
﹁いいけど、その時はるーちゃん一人だよ?﹂
﹁う、ううう⋮⋮! 隕石落ちれば行かなくていい? 隕石落ちた
らいいよね?﹂
﹁隕石落ちないから﹂
どれだけ彼女は追い詰められているのだろう。
﹁ほら、行くよ﹂
言って手を引っ張ると、非常に渋い顔ながら抵抗せずについてき
た。そのまま、木漏れ日の階段を上っていく。
220
耳を澄ますと、鳥の鳴き声が耳に入る。そして、自分の息。琉歌
のものも、自分より少々荒いながら聞こえていた。総一郎は鍛えて
いるからまだまだ余裕があったが、琉歌はきっと辛いのだろう。握
る手から力が失われている。
そんな中、ふと思い立った。琉歌とは長い付き合いではあるもの
の、二人きりで何かをしたという事は少ない。記憶を遡ってみれば、
誘拐事件のそれに行きついてしまい、おや? と首を傾げざるを得
ない程だった。ファーストキスの相手同士とは思えない。と言うの
は当人二人以外にとって禁句だったりする。主に兄姉のご両人だ。
だから、少し話をしようと思い、大体一時間歩いたところで休憩
の声を掛けようとした。琉歌は無口な性質なので、総一郎はこれを
機にたくさん話そうと期待していた。
しかし、振り向くとそこに居たのは知らない天狗だった。
総一郎、絶句である。
だが、そんな彼の様子を見て、赤ら顔の長鼻天狗は愉快そうに、
にっ、と笑った。次いでその背に生える巨大な翼により、総一郎を
抱えて空高くへと舞い上がる。
一瞬で、視界は真っ青に変わった。
驚きやら混乱やらで、思わず大声で叫びだす総一郎に、答える様
にして天狗は高笑いを上げた。呵々大笑と言った風情の天狗は、総
一郎の絶叫に負けぬほどの声を張り上げ尋ねてきた。
﹁お前が総一郎だな! 話は聞いている、ずいぶんと優秀な奴らし
221
いではないか! そんな貴様に問うてやろう! 儂の加護、風の魔
を欲しいか!﹂
パニックではあるものの、ほぼ即答を返す。﹁はい! 欲しいで
す!﹂
﹁うむ! 混乱の最中にありながら、加護を求むその貪欲さよし!
されば︱︱!﹂
凄まじい速度で空を飛びまわる天狗と、抱えられる総一郎。天狗
の大声がそこまで行ったときに、拘束する力が消えた。
無論、総一郎は空中をブーメランさながらの回転で飛んで行く。
﹁我が加護を尋常の百人力やろう! 風を操りその命、落さずして
見せよ!﹂
辛うじて捉えた視界に映るのは、扇を力強く振った天狗の姿であ
った。次いで鋭い風の音。無数の痛みが総一郎を襲い、小さく長い、
血の軌跡が空中に描かれる。
そして笑い声が聞こえだし、次第に遠のいていくのが分かった。
恐らく、何が有ろうと助けないという意思表示なのだろう。回転し
すぎてすでに目が回って居たが、そうも言っていられないらしい。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
!﹂
半ば叫びながら、総一郎は風魔法の呪文を唱えた。
222
呪文だけならば全属性の物を覚えていた。それぞれ法則性があっ
た為、自然と覚えてしまったのだ。唱えたのは風魔法の防御呪文。
飛来物から身を守るのに適している魔法と言うが、この場合は総一
郎が飛来物である。
ともあれ、効果はあったようだった。
森の木々に突っ込み、枝によって衝撃を和らげながら、総一郎は
段階的に落ちていった。最後にぼてっ、と地面に墜落するのと同時
に魔法の効力が消え、起き上がりつつ地面に生える草に顔をひっか
かれる。﹁痛い﹂と呟くが、この程度で済んだのならば僥倖と言う
べきだろう。
﹁危なかった⋮⋮﹂
安堵の嘆息をし、見上げれば、緑に滲む太陽の光が透けて見えた。
あそこから、落ちてきた。木がクッションになるというのは良くあ
る話だが、毎度それが通じるという訳はない。その時、自分は何を
すれば助かるかと言う具合に、思考は傾く。
ふと、父の言っていた終端速度と言うのを思い出す。終端速度と
言うのは簡単に言えば、重力による加速度と空気抵抗が釣り合った
状態。ようはそれ以上加速しない落下速度がいずれ至る最後の事を
指している。ここのキモは、重力加速度の対である空気抵抗だ。
ひとしきり考えたところで、総一郎は立ち上がった。どのような
呪文を用いればいいのかもある程度見当がついて、我に返ったので
ある。周囲を見渡すとそこは平地で、足元には総一郎の腰まで至る
長い草、天を覆うは小高い木々の葉であった。
223
﹁るーちゃん、大丈夫かな﹂
ぽつりと漏らす。亜人たちもあの子にはそう手荒なことはしない
と思いたいが、それでもあの人見知りが平穏に加護を授かっていけ
るとは思えない。
とはいえ、急を要する物でもないだろうと決着をつけ、周囲を見
渡した。
︱︱ここは山のどの辺りなのか。最初歩いていた階段の様な物は
無く、しかも平面で、山ではなく森を思わせる趣だ。木々が鬱蒼と
していて、ただの森ではなく樹海と言い表す方が正しいのかもしれ
ない。
そんな事を思案していると、背後から物音がして、何気なく振り
返ってみたりする。しかし、何もいない。
﹁⋮⋮いや﹂
気配が、ある。
総一郎はまず自身の息を殺し、長い草の中に身を隠して、気配の
方向へとひっそり進んでいった。念押しに少しの迂回を決め、息を
殺しきれない三メートルの距離に入った途端、蛙よろしく飛びつい
ていく。
聞こえたのは、可愛らしい甲高い少女の物と思われる声。もう一
つは、それに隠れて聞き逃しかけた、老爺の低い呻き声ともいうべ
き物である。
224
追記するならば、そのどちらも総一郎の手の内に収まってしまっ
た。
これが純粋な子供ならばある程度の躊躇を見せるところだろうが、
総一郎は生憎と純粋な天然ものとは訳が違った。亜人だろうと分か
っていた為、逃げるという事はまり考慮せずに解放した。
そこに居たのは、妖精らしき羽をはやした身長十センチ強の緑服
を着た美しい少女に、尻尾に火がついたぬめりと言うものを感じさ
せない赤い皮膚のトカゲであった。
﹁ちょっと! いきなり何するのよ!﹂
手のひらサイズの妖精らしき少女の抗議に、﹁いやー﹂と答える。
﹁さっき油断していたら、天狗様に攫われて物凄い量の風の加護︱
︱百人力とか言ってたかな、それはさすがに嘘だろうけど︱︱を授
けられていきなり空中に投げ出されちゃったものだから、ちょっと
余計に警戒しちゃって。ごめんね﹂
﹁アンタ物凄いこと言ってるの自覚ある?﹂
﹁嘘だとしても、凄まじく利発な小僧である事は確かであろうよ﹂
亜人にも呆れられる辺り、何なんだろうとか思う総一郎だ。
それにしても、と妖精は翅を羽ばたかせつつも隣のトカゲに言う。
﹁こいつ天狗とか言ってたわよね。あの十年に一人加護をあげるか
あげないかの﹂
225
﹁おお、言って居った言って居った。なれば小僧、その百人力たる
言葉、嘘でないかもしれぬぞ?﹂
﹁え? 本当に﹂
うむ。と恭しく頷くトカゲ。尻尾が燃えているのが気になって、
少しだけ手を近づけてみると、思った以上に熱い。
などと油断していると、その火で手を焼かれた。
﹁みんな僕に何の恨みがあるのさ!﹂
﹁これこれ。そう急くのは止めなさい。これは加護だよ。高名なる
火の精霊、サラマンダーの加護だ﹂
涙目だった表情をきょとんとさせて、総一郎はトカゲもといサラ
マンダーを見た。前世でも、名前自体は知っていた。しかし、こん
なに小さかっただろうか。
﹁いやいや何の。今加護を与えて分かったが、小僧、もしや名を総
一郎とは言わないか?﹂
﹁えっ? あの有名な?﹂
ある種確信を持った質問をするサラマンダーと、それに心当たり
があったのかびっくりしたような妖精。何故自分はこれほどまでに
知られているのか、自覚のない総一郎は憮然としている。
﹁そりゃ加護をほとんど手に入れて無い様な子供が物理魔術使って
飛び回ってるなんて話を聞いたら、誰だって噂にするでしょう?﹂
226
妖精の言葉で自覚して、強張った笑みで視線を逸らす。すると妖
精は、わくわくした面持ちで尋ねてきた。
﹁ねぇねぇ、それで、天狗ちゃんになんて言ったの? あいつの事
だから黙って加護を授ける訳はないと思うのだけれど!﹂
﹁え? ああ、何かいきなり攫われたのはもう言ったよね。それで
飛び回りながら加護が欲しいかって言われて、欲しいって答えたら
くれたけど放り出されちゃった。⋮⋮って、それだけなんだけど。
ん? いやちょっと待って、今天狗様にちゃん付けした?﹂
﹁ずいぶんな肝っ玉だな、総一郎。確かに天狗が加護を惜しげもな
く渡した理由が分かるわい﹂
﹁普通空中に攫われたら降ろしてくらいしか言えないわよねぇ﹂
﹁⋮⋮で、その肝っ玉にしか加護を与えない天狗様をちゃん付けで
きる君は何なの?﹂
二度尋ねると、妖精の少女は不敵な笑みを作って視線を鋭くした。
火の精霊に目を向けると、彼は請け負うのを示すように頷く。
﹁こやつはな、風の精霊シルフィードだ。あやかしの格としては天
狗に似たり寄ったりともいえるな﹂
﹁そうなの?﹂
﹁まぁね。あたしの場合は追い出されてここに来たんじゃなくて、
分身を作って潜り込ませたって形だし。だから世界中のどこにでも
227
居るわよ﹂
アンタもそうよね。とシルフィードはサラマンダーに尋ねた。肯
定を返す火トカゲである。
﹁じゃあ、あたしだけあげないのも何だから、ほらっ﹂
風の妖精による巨大な鎌鼬が、総一郎を襲った。大きな傷に似た
血が流れ、激痛が走る。だが、一瞬だ。血が滴り、拭えば同じよう
に痛みも消えた。
﹁痛くない加護って無いの⋮⋮?﹂
﹁そこはまぁ、我慢だの﹂
﹁我慢あるのみよ、総一郎﹂
からからと笑う二人の亜人が、少々恨めしい心持ちになった。
加護を授かる時は、大抵この二種類だった。
突発的に襲われ、加護を授かり放り出されたのち、その扱い方を
見られる︵ある程度使えなければ死ぬ︶。逆に総一郎から行動し、
雑談中に冗談交じりで授けられる。どの相手も今まで貰った加護の
事を言うと大盤振る舞いしてくれたが、その真偽は分かった物では
ない。
﹁あとはマヨヒガの四つと、水、氷、音に時間だったかな⋮⋮﹂
228
まだ八つもある。とぼやきながら、足元の草を踏み分け総一郎は
歩いていた。日も少しずつ落ちていき、木の多い森の中は、村のそ
れに比べて一層暗い。
これまでに手に入れた加護は上記の八つ以外。その中でも総一郎
が気に入ったのは、木と精神の二つだった。というのも、その二つ
は今まで未開拓であった生物魔術に置いて、根幹をなす程に重要な
位置を占めているのである。
木の加護は、古木の精霊を名乗るドライアドと言う美女から授か
った。彼女は総一郎の事を前々から直接知っていて、物心つく前は
良く抱かせてもらっていたと語った。
確かに見覚えがある人だと雑談していた所、﹁好きな人は居るの
?﹂とか、﹁大きくなっても女の子にモテなかったら、私の所に来
ない?﹂だのと妙な方向に向かっていったので、加護を貰い次第早
々に引き揚げたのだ。
木の加護は曰く、生物魔術を使うに当たって欠かすことは出来な
いのだという。加護の大半は有機物を前提としていないため、唯一
の例外である木属性だけが、生物魔術に携われると。
逆に精神魔法は、生物魔術の高等系。知的生命体に関する技術で、
大いに役立つらしい。
それを授けたのは、﹃覚り﹄と言う毛むくじゃらのサルであった。
かつて総一郎を襲った人食いの一人である。けれど、やはりという
か亜人にも良い個体悪い個体と言う物は居るという事で、少々総一
郎をからかうに留めた彼は、きっといい個体なのだろうと総一郎は
229
思っている。
詳しく聞けば、精神魔法のとても難易度の高い物は確かに生物魔
術に用いるが、精神魔法のおおよそは、もっと単純なものであるら
しい。
具体的に言えばテレパシーだの感情変化だの。と言った具合だ。
勿論精神魔法のほとんどは犯罪に含まれるが、状況によってはかな
り役に立つため情状酌量が効きやすいとも言っていた。こちらに関
しては、あまり使う気の起こらない総一郎だ。
ちなみに、そんな総一郎は今、少々の焦りを感じていた。
予定では、一日二日駆けて山に通い、多くの亜人たちから加護を
貰うつもりではあったものの、山で野宿する気は毛頭なかったのだ。
しかし、日はもう落ちかけ、帰り道も分からない。
ここが何処であるのか、聞かない訳ではなかった。しかしどの相
手でも、面白げな表情で目を逸らし、加護を与えてすぐに消えてし
まう。そうこうしている内にとうとう追い詰められた総一郎は、開
口一番に尋ねようと心に決めた。その末、今に至っている。
正直言うと、少し泣きたい気分だったりした。
﹁⋮⋮頑張れ、まだ大丈夫﹂
子供の体は、自制が効かない。それは好奇心に対してもだし、寂
しさや怖さに対しても顕著だ。大丈夫。まだ非常食用のお菓子は尽
きていない。そんな風にして言い聞かせた。
230
ざわ、とどよめきが頭上で走った。暗い森の木々の上には、ある
時から何かが総一郎に付いて回り、くすくすと小さな笑い声を漏ら
すようになっていた。初めは苛立たしく思っていた総一郎だったが、
試しに魔法を放っても変わらないその様子に、自我を持たない亜人
なのかもしれないと思い定めた。もっとも、そんな存在を亜種と言
う前提でも人と認めてよいのかはなはだ疑問だったが。
﹁⋮⋮だけど﹂
今、その様子が変わったように感じた総一郎は、ぼんやりと上を
見上げた。くすくす笑いは収まって、ざわざわと耳障りに話してい
る。その具体的な内容は分からなかった。音魔法が使えれば、話は
別なのかもしれないが。
しばらくすると、何かが逃げていくような音がした。それが連続
し、最後には何も聞こえなくなる。
居なくなったのだ。と何となく分かった。
﹁⋮⋮何があったんだろ﹂
呟くが、帰ってくるのは静寂である。益もないと見做し、総一郎
は再び歩き始めた。
すると奇妙な事に、オーイ、と誰かが何者かを呼ぶような声が聞
こえだした。少々、顔色を明るくさせて、駆けていく。
暗闇は、総一郎の妨げにはならない。光魔法で微弱な魔力を費や
せば、今では何時間も視界を明るくしていられる。オーイ、と言う
声は一定の感覚で繰り返されていた。段々、近づいている実感もあ
231
った。
だが、ある所に至って、総一郎はぴた、と足を止めた。
何故なのかは、分からなかった。ただ、切迫したものが眼前にあ
る。目を細め、その正体を見抜こうとした。何者かの、意思。それ
が自分に向いている。正体は、自然に理解できた。
ザックの中から、念のためと持たされた、木刀を抜き放った。
そこから一歩踏み出すことに、躊躇は無かった。踏み出し、強い
足取りで歩んでいく。オーイと言う声は、先ほどの誘うような物で
なく、どこか威嚇するような色を帯び始めた。気圧されている。そ
う思い、一度木刀を振るえば、余分な恐怖は落ちていった。しかし、
全てが無くなるという事は無い。
オーイ、と言う声は、激しさを剥きだしにしていった。油断させ
る呼び声でも、総一郎が惑わされず、それが不服だったのかもしれ
なかった。総一郎自身、何故気付けたか未だ分からない。ただ、躰
が止まったのだ。
ここだ。と思った。オーイ、と言う声が、その瞬間に消えた。ザ
ックを脱ぎ捨て、木刀を構えた。見回して探そうとも考えたが、元
々視認できる相手ではない可能性もあった。
風に、木がざわめいている。亜人の物でない音を聞くのは、久々
な気がした。涼しいと思いながら、目を閉じる。光魔法も、解除し
た。
あるのはただ、鋭い静寂である。
232
父との立会いを、思い出した。ここ数年、やっていない。しかし
何度も反芻し素振りをしたため、その記憶は根強かった。それが、
一瞬よぎった時に、思わず木刀を、振るっていた。
何かを、捉えた感触があった。目を開くが、そこには何もない。
ただ、存在していることだけが知覚できた。風魔法で手ごたえを探
ると、確かに何かが横たわっていた。
倒したと思って、気が緩んでいたのだろう。その隙を突かれ、総
一郎は四方から轟音に襲われた。
耳をふさぎ、耐える。だが、そこで悪意を感じられない事に気付
いた。もしや、と思い、音魔法の呪文を唱える。周囲の音を、拾う
魔法だ。
﹃これでうまい事尋ねられずに加護を渡せたな﹄
﹃ああ、しかし、カヨーオヤシ。お前木刀で切られていたが、大丈
夫だったのか? 確か総一郎が持っていたのは桃の木刀だろう。奴
は太刀筋もいい。下手をすると致命傷だ﹄
﹃そうだな。ばあさんに言って治してもらおう。実の所、非常に痛
むんだ。しかし、噂に聞いていたが、恐ろしい小僧だな。白羽ちゃ
んも中々に破天荒だったが﹄
﹁そこまでして道を教えたくないのか!﹂
総一郎、絶叫である。
233
それが聞こえたのか、やばいやばいと慌てた様子で逃げていくカ
ヨーオヤシほか数人。少し面白かったため追おうとも思わなかった
が、ここまで来ると何かの意志があると思えてならない。
ともあれ、音魔法取得である。
﹁また振り出しだぁ⋮⋮﹂
疲れた声音で項垂れつつ歩く。今度に至っては、上からの笑い声
も聞こえなくなった。音魔法の取得によるものなのだろうか。その
場合は、聞かれたらまずい事があるという事になる。
やはり、意図があるのだろう。その事が、自然と腑に落ちた。と
はいえ、分かる訳もない。どうでもいいから家に帰してください。
切実に願う。
何かにぶつかり、千切れる感触を得た。我に返り足元を見ると、
テープの断片が落ちている。
見れば、前方一帯が、そのテープに囲まれているようだった。一
体何だこれはと拾ってみると、何やら書かれている。
﹁えーと? ⋮⋮﹃一度でいいから見てみたい、女房がへそくり隠
すとこ﹄⋮⋮え、何これ見たことある﹂
どうでもいいが笑点はいまだにやっているのだろうか。
そんな訳の分からないことが書かれたテープを見て、盛大に眉を
顰める総一郎である。こういうのは立ち入り禁止と書くのが相場な
のではないか。悪戯にしてもセンスが無さすぎる。そんな風に考え、
234
首を振りながら嘆息した。書かれている内容はこの一つでなく、テ
ープが伸びる限りに延々と、バリエーション豊かに続いている。
﹁一体何が目的だったんだろ﹂とぼやきながら、何となしにテープ
をひっくり返した。するとそこにははっきりと禁止と言う文字が躍
っていて、おや、と思い読み直す。
﹁﹃これより先スナーク狩猟区。危険につき立ち入り禁止﹄⋮⋮﹂
背筋に、怖気が走った。
バッと顔を上げ、空を見る。空は暗い。もう夜と言っても過言で
はないだろう。手先の震えを押さえながら、破ってしまったテープ
の先を見た。光魔法で明るくすると、ちらちらと遠くの方に何かが
見えた。
総一郎は怯えと共に思う。︱︱その白い外観に、四角いシルエッ
ト。もしやあれは、着替えをするための﹃更衣車﹄と言う奴なので
はないだろうか︱︱
その時、その四角いシルエットが、微かに動いた。
総一郎は回れ右からの全力疾走を行った。脇目も振らずにただ必
死に足を前に出し、腕を振る。顔が引きつっているのは承知してい
た。視界が恐怖に滲むのも知っていた。ただ、それでも総一郎は走
り続けた。わき腹が痛くても、呼吸が苦しくても。
五分近く走っていただろうか。とうとう力尽きた総一郎は、突然
の脱力と共に地面に身を投げ出した。土が顔を汚し、肌が露出した
部分を草がひっかいていく。恐怖からは逃れられたものの、転んだ
235
拍子に目に入った満天の夜空に、小学生の総一郎は泣かざるを得な
かった。
状況は冗談の様な物だったが、その真っ只中に居る彼にとっては
ただ事では済まされないのである。
そんな時、おや、と言う声が聞こえて、すすり泣きながらも顔を
上げた。視界に映るは優しげな老婆の姿である。
﹁どうしたのかね、坊や、こんな所で寝転んで。もしかして帰れな
くなったのかい? それなら、家にお出でなさいな。すでに先客が
いるけれど、坊や一人くらいならなんとかなるさね﹂
言った老婆は、総一郎を軽々と背負い、気遣う様にして歩いて行
った。耳元で﹁ありがとう、おばあさん﹂と辛うじて呟いたが、頭
の中では山姥が出てくる昔話を思い浮かべていたのは、ここだけの
秘密である。
236
10話 マヨヒガ
その家の中は、暗いながらも囲炉裏の火で、ぼんやりと明るく光
っていた。囲炉裏には鍋があり、湯気を上げている。夏なのに不釣
り合いな、と考えたが、いつの間にか妙に寒く感じて、違和感も何
処かへ行ってしまった。
﹁総くん!﹂
そしてそこには、今朝離れ離れにされたはずの、琉歌が座ってい
た。立ち上がり駆け寄ってこようとしたが、総一郎を背負う老婆は、
やんわりとそれを止めた。
﹁これこれ、この子は疲れて居るから、あんまりはしゃいではいけ
ないよ﹂
言われて、しょんぼりと項垂れた琉歌。降ろされて、無言で頭を
撫でてやると、表情を静かにほころばせてくれた。解れる様が、非
常に可愛らしいのだ。
鍋の中身を椀に移して、老婆は総一郎に差し出した。座って一口
すすると、躰に活力が漲った。動き出したくなるというのではない。
ただ、芯を取り戻すというような感じだった。
﹁どうだい? お味は﹂
﹁とても美味しいです。⋮⋮ありがとうございます、本当に﹂
237
﹁坊や、お前さんはまだ小さな子供だ。礼なんて堅い事は考えず、
ただ美味しいと言ってくれればこっちは満足なのさ﹂
言って、優しげに皺だらけの顔を微笑させる。総一郎は、答える
様に笑みを返した。
その後老婆は、少々危ない作業に入るから、襖からこちらへは来
ないように言った。二人は了承し、自然、話は今日の出来事になっ
ていく。
﹁るーちゃんは、あの後どうなったの?﹂
尋ねると、琉歌は唸りつつ眉根を寄せた。それでも垂れ眉が治ら
ないのが、総一郎を和ませる。
﹁天狗さんに攫われてね、山の上のお寺の方に行ったの。そしたら
いっぱい人が出てきて、天狗さんと戦い出してね、私にもいっぱい
痛いのが当たって⋮⋮﹂
﹁やっぱりそっちも大変だったか﹂
ほら、と彼女がザックから出したぼろぼろの服を見て苦笑いする
ものの、彼女が体験した騒動はすべて演技だったのだろうという事
が、総一郎には予想できた。総一郎自身、数分前に仕組まれた事件
で、無理やり加護を授けられている。恐らく、琉歌に当たった攻撃
の全ては加護だったのだろう。人見知りの彼女に対して、中々に上
等な手段だ。
﹁総くんは?﹂
238
聞かれて、淀みなく総一郎は語りだした。昼間何度もされた問い
である。琉歌は驚いたり、感慨深そうに頷いたりと聞く側に嬉しい
反応を返してくれ、最後には﹁総くんも大変だったんだねぇ⋮⋮﹂
で締めた。
柔らかに会話が途切れ、しばし無言になる。思い出したように琉
歌は椀の中身を啜り、総一郎もそれに追従した。
﹁いつの間にか、寒くなったね。夏休みだよね? 今﹂
﹁うん、総くん。⋮⋮静かだね、ここ﹂
静謐な言葉は、囲炉裏の中に吸い込まれて、消えてしまったよう
だった。疲れは当然あるはずで、しかし眠いとも思わない。それは
琉歌も同じなようで、暇そうに﹁むぅ⋮⋮﹂と声を漏らしていた。
ふいに気になって、老婆が入っていった襖を見やった。琉歌の視
線も総一郎を辿り、襖に向かった。
﹁⋮⋮何、やっているんだろうね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
どちらがどちらの台詞を言ったのかも、思い出せない。ただ二人
は、何をしているという自覚も無しに、こっそりと、小さく襖を開
けていた。金属を擦るような、妙な音が聞こえる。そういえば、危
険な作業をしているのだっけ、と思い出した。
襖の先は、ほとんどが暗がりの中にあった。唯一小さな豆電球が、
老婆を照らしている。総一郎は半ば偏見の様に、庖丁を研いでいる
239
のかもしれない、と思った。けれど、どうしてもそれが間違いの様
には思えない。
時折、喉を引くつかせるような声が聞こえた。笑っているのだと
しか、考えられなかった。そこで初めて、自分が妙な雰囲気に呑ま
れているという考えが産まれた。深呼吸をする。少し、落ち着く。
だが、その時琉歌が、妙なことを言った。
﹁総くん、聞こえた?﹂
視線だけで、琉歌を見た。そこには抜け落ちたような表情と、青
ざめた顔がある。聞こえた、とは、何を指すのか。
暗闇中で、気配が動いた。
視線を戻すと、豆電球の光が消えていた。襖の先には、ただ色濃
い闇があるばかりである。寒いのに、背筋に一粒の汗が落ちていく。
光魔法を使って細かな様子をうかがう勇気は、総一郎にはなかった。
琉歌と共に、あとずさった。同時に、暗闇の中から、一歩の足音
が聞こえた。総一郎たちが下がる度、足音が一歩追ってくる。琉歌
が、総一郎の手を掴んできた。その手は、震えていた。
二人の背が、壁に入り口の戸にぶつかった。外は風が強いのか、
ガタガタと音を立てている。襖が、音と共に全て開いた。闇から、
不気味な無表情を湛えた老婆がぬっと出て来る。
﹁坊や⋮⋮、お嬢ちゃん⋮⋮、入ってらならぬと、言っただろう⋮
⋮?﹂
240
﹁い、いやその、悪気が有った訳という事ではなくて、ですね⋮⋮
!﹂
苦しい言い訳だ。と思う。老婆の口調からして、覗かれるだけで
も嫌な事であったのには違いが無い。静かながら恐ろしさを纏って
いた。目が、据わっているのである。
そして襖から数歩進み、その手に握られた包丁を見て取った刹那、
総一郎は心を決めた。
琉歌の手を引き、戸を開ける。
強い寒風が、総一郎たちを襲った。眼前に白がる真っ白な景色に
瞠目したものの、構わずに走っていった。怒り狂ったような、低く
も甲高い罵声が背後から来たが、それはむしろ総一郎たちの足を速
めるに至った。何を言ったのかは聞き取れなかった。ただ、恐ろし
さがすぐ後ろから迫っていた。
しかし、こんな雪の中ではろくに耐えることは叶わないだろう。
総一郎は火魔法を体内で使い、体温を維持することも出来たが、吹
雪の中でただ火を燃やすだけでは、琉歌は持ち堪えられまい。魔力
も、いつ途絶えるか分かった物ではないのだ。
総一郎は、その為小さな小屋を探した。最悪の場合は、先ほどの
場所に戻ってもいい。光魔法と音魔法が使える総一郎にとって、完
全なる隠伏は不可能ではなかったからだ。しかし、老婆は追ってき
ているのか、その喚き声が聞こえる。内容は、吹雪がかき消してい
た。
241
近くを探ると、納屋のような建物を見つけた。鍵がかかっていた
が、扉が木製だったので、木魔法で操って鍵をかけたまま入った。
暗いが、問題は無い。目に光魔法を使えば、余計な光なしに物を捉
えられる。
震える琉歌と共に、納屋の奥へ向かった。寒いと凍える彼女に火
魔法で炎を出し、光魔法で自分たち同様に隠匿する。音も、漏らさ
ないようにした。これで一息が吐ける。そう思った瞬間に、扉があ
いた。
老婆が、吹雪を纏って現れた。
寒気が、小屋の中に吹き荒れた。いけない、と火魔法を消す。姿
も見えないし、音もない。だが、火を灯せば温度が上がる。
物陰からその様子を窺っていたが、しばらくすると詰まれた樽な
どに遮られて、老婆の影を見失ってしまった。立ち上がり追いかけ
ようかとも思ったが、琉歌が恐怖と寒さに震えて動けなくなってい
たので、断念することとした。彼女の表情は泣くのを必死に堪えて
いると言った風情で、その健気な様子に、﹁泣いてもいいんだよ﹂
と伝えた。
声は、漏れないのだ。
しがみ付く様に総一郎の背に手を伸ばし、琉歌は縋る様にすすり
泣いた。その背中を軽くたたきながら、風魔法で気配を探る。総一
郎とは少し離れていたが、動きから察するに、視界や音に頼った探
し方はしていないようだった。
危うい。総一郎一人なら老婆に立ち向かうという選択肢もある。
242
だが、琉歌を連れている今、彼女に凄惨な殺し合いを見せる訳には
いかなかった。と同時に、背後から気配を感じた。
目を剥いて、すかさず総一郎は振り返る。何やら妙に無気力な視
線と、総一郎の攻撃的な視線がぶつかる。
漬物石らしき巨大な石についた目が、総一郎を凝視していた。
﹁⋮⋮あんちゃん。大変やなぁ⋮⋮﹂
ぼんやりとした様子の漬物石の声。慌てて総一郎、その声を音魔
法で老婆から隠す。
﹁何、一体。君は誰?﹂
﹁わし? わしは見ての通り漬物石。そっちは? もしかして今日
境内で遊ばれてた琉歌ちゃん? それともスナークが怖い総一郎?﹂
﹁どっちも。ところで、ねぇ、聞いてもいいかな? おばあさんに
家に招かれて、出たら何故か外が雪山になってて、その上おばあさ
んに追いかけられてるんだけど﹂
﹁ああ、あの婆さん、山姥やからね。本当は寝込み襲うのがいつも
なんやけど、包丁研いでるところ見たん? まぁ、あの人、人の子
喰うのが生きがいやから。でも、それ以上は分からんもん。わし、
漬物石やし﹂
何なら、分かる人のとこ、連れてったろか? そんな風に言った
漬物石に、琉歌が手を握ったのが分かった。
243
俯くと、丁度彼女と目が合う。垂れ眉が、きりりとしていた。よ
ほど怖かったのだろう。目に力がこもっている。
戸惑い気味に、総一郎、肯定を返した。
﹁じゃ、じゃあ、お願いします﹂
﹁了解。ほんじゃあちょっと、そこから動かんといてね﹂
よっせ、と言う掛け声と共に、石は微動した。何が起こるのか。
そんな視線が集中し、しばしの間があった。緊張が高ぶり、けれど
時間を取り過ぎピークを超える。その瞬間に巨大な石は高く飛びあ
がり、総一郎と琉歌を、一息に押しつぶした。
﹁おいそこの餓鬼ども。一体、どうやってここに来た﹂
しわがれた声に反応して、総一郎は覚醒した。うつ伏せの状態で、
腕を使って上体を起こす。手を突いた場所は板張りの部屋らしく、
目につく物が扉と、神棚に飾られた二振りの扇のみな、非常に簡素
な空間だった。
先ほどまでなかった強い光に、目が眩んだ。光魔法は、最小限だ
ったのだ。慣れるまで手でひさしを作りながら天井を仰ぎ、しかし
光は見つからなかった。かと言えば影はしっかり出来ているのだか
ら、奇妙の一言である。声がする。琉歌が目を覚ます。
﹁やい、聞いてんのか、そこの坊ちゃん嬢ちゃん。ぎゃはははは!﹂
244
先ほどの物とは違う、軽薄な声が総一郎たちを呼んだ。二人そろ
って、きょろきょろと周囲を見回していると﹁こっちだ、こっち﹂
と言われた。
声に導かれ、神棚の近くまで行く。飾られた二振りの扇には、そ
れぞれ風神と雷神が描かれていた。そこまですれば、総一郎にも声
の主が理解できる。
﹁えっと、喋っているのは君?﹂
﹁うむ。我は雷神の扇。そして﹂
﹁俺は風神の扇って訳だ。ぎゃはははは!﹂
問うた瞬間にぬるりと動き出した扇の中の風神雷神に、どこか夢
を見ているような気分で、総一郎は曖昧に返事をした。琉歌が硬い
表情で総一郎の手を握る。無言で、総一郎は握り返した。
﹁それで、ここは何処なの?﹂
﹁おい、餓鬼。それは我の質問に答えてからにしてもらおうか﹂
﹁そうだそうだ。ぎゃはははは!﹂
憮然としながらも総一郎、彼等に答える事とした。
﹁漬物石に、この状況の理由を教えてくれる人の元へ、連れて行っ
てくれると言われたんだ﹂
﹁ほぅ⋮⋮?﹂
245
雷神は興味深そうに扇の中で身を乗り出し、風神は納得がいった
ように何度か頷きを繰り返した。雷神に促されて、詳しい事情を説
明する。
﹁それはな、ここがマヨヒガだからだ﹂
雷神が、顎に手を当てて言った。﹁おうよ﹂と風神が言葉を継ぐ。
﹁坊ちゃん嬢ちゃんが入った山姥の家もマヨヒガ。出た先の雪山も
マヨヒガ。納屋もマヨヒガだし、当然、ここもマヨヒガって事にな
るのよ﹂
﹁どういう事なの⋮⋮?﹂
弱ったように眉をさらに垂れさせて、琉歌が力なく漏らした。総
一郎も良く理解できず、﹁もう一度お願い﹂と言う。
﹁だからよ、ここはマヨヒガなんだって。マヨヒガ。現代語で言や
ぁ、迷い家、って事になんのかね。しかし、坊ちゃん嬢ちゃん。ア
ンタらまずいぜ。このままじゃあ、外には出られない﹂
﹁⋮⋮何で﹂
﹁それはな、お前らが山姥の飯を食らったからだ。マヨヒガの飯を
食えば、マヨヒガの住人になる。それはつまり、外に出られなくな
るという事だ﹂
よく分からないまま、総一郎は渋い顔で頷いていた。このままだ
と助からないと言っているのだけは分かったからだ。﹁外に出るに
246
は、どうすればいいのかな﹂と尋ねると、雷神が鼻を鳴らした。
﹁浅ましい餓鬼だ。ここでの説明も、冥土の土産ほどにはなっただ
ろう。大人しく山姥に食われてしまえ。お前たちが来れたように、
奴もここへ来れるのだからな﹂
心無い言葉を吐いた雷神に、総一郎怒りを覚えた。すぅと息を吸
い、宣言するように言い放った。
﹁︱︱頭に来た。お前神様だろ。助言くらいくれたっていいじゃな
いか﹂
嘲笑うように鼻で払い、雷神は言の葉を返してくる。
﹁そんなことを言う礼儀知らずの餓鬼に、助言をやる義理は無いな﹂
﹁義理、ね。義理が無ければ人を助けない神様か。そりゃあご利益
なんてある訳がない。助言をしてくれないのも当然だ﹂
﹁⋮⋮あまり、不愉快にさせてくれるなよ。我が雷を使えば、貴様
などすぐに焼け焦げてしまうのだからな﹂
﹁そんな事を言うのは何で? 怒っているから? それとも傷つい
ているから?﹂
﹁怒っているからに決まっているだろう﹂
﹁具体的に言うなら、どんな気分なのさ﹂
﹁川で溺れている者を、助けなかったからと言って責められる様な
247
気分だ﹂
﹁何でその人を助けなかったの? 助けてあげればいいじゃない﹂
﹁そんなことをしたら、溺れ死ぬのは我だ。この神体はあくまで扇
故な﹂
﹁それで、君は僕たちを助けたら、溺れて死ぬの?﹂
そこまで言って、雷神は口を噤んだ。にこ、と笑いかける総一郎
に雷神は釈然としないながらも、鼻を鳴らして横を向いた。そこに
は、もう敵意は無いらしい。総一郎は、それを感じ取りながら言っ
た。
﹁ちなみに僕は、川で溺れている所を水泳が得意な人に見殺しにさ
れかけている気分だ。その人のせいで死んだら、呪い殺してやりた
いほどに腸が煮えくり返っている﹂
言ってから、総一郎はスイカより一回りも二回りも大きい火の玉
を、両手のひらに一つずつ出現させた。小さく爆ぜる様な音が、常
にその周りで起こっている。総一郎以外の、その場にいる全員が息
を呑んだ。
﹁僕は、自分が大切だ。だけど、それよりも大切なものもいっぱい
知ってる。君は、それを捨てると言った。僕は、それが許せない﹂
淡々と、無表情の言葉に、雷神は瞠目して呻き声を出した。風神
は炎球を見つめながら乾いた笑いを漏らし、琉歌は静かにパニック
を起こしている。人の気も知らないで、と少し思う総一郎。
248
﹁お前の負けだよ、雷神。流石は神童と名高い総一郎だ。神を言い
負かすだなんてよ。ほら、早く謝っちまいな﹂
﹁な、何を言う。我は言い負かされてなどおらぬ!﹂
﹁じゃあ、全員ともども燃えるかい?﹂
﹁それならば、お前が風で消せばいいだろう!﹂
﹁何か今は、そうしたくない気分なのさ。ほら、早くしな。本気の
目だぜ。こいつは﹂
ぐ、と言葉を詰まらせ、雷神は総一郎を睨みつけた。しかしすぐ
に意気消沈し、絞り出すような言葉と共に項垂れる。
﹁⋮⋮すまなかった﹂
確かに聞き入れ次第、炎を消して微笑んだ。
﹁うん。じゃあ、仲直りしよう﹂
溜飲も下がって手を差し出す総一郎に、雷神は渋い表情をした。
それに対し総一郎は、﹁違うよ﹂と言う。
﹁僕らは加護を受けにこの山に入ったんだ。外はもう、夏だからね﹂
﹁⋮⋮ああ、そういう事か。ならば、そうだな、都合がいい﹂
苦笑して、雷神は総一郎と琉歌に雷を飛ばした。視界に花火が散
るような痛みに顔を顰めたが、これくらいなら我慢できる。そんな
249
風に考えていると、妙な映像が見えた。記憶にはない情景だ。
仰々しく飾られた小刀に、傍らの徳利。それらは部屋の奥にあっ
て、中央には美しい純白の肌を持った女性が座っていた。身に纏う
白装束が、奇妙な存在感を放っている。
﹁マヨヒガから脱する方法の一つだ。自らの血を垂らした特殊な酒
を呑む。それだけでいいのだが、生憎と守っているのは雪女と言う
手練れでな。総一郎、お前でも恐らくは勝てないだろう。その魔法
の手腕は中々のものであるが、雪女のそれは、人を食らう事に掛け
ては他の追随を許さぬ﹂
﹁どうすればいいかな﹂
﹁奴は男を嫌っている。見かけ次第殺して喰うと酒の席ではよく自
慢していてな、それ程に嫌いらしい。逆に女は一晩の間は話し相手
にされる。翌日の朝には喰ってしまうのだが、それも待たずに殺し
てしまったという話は聞かないな﹂
﹁成程⋮⋮。じゃあるーちゃん、頼める?﹂
﹁えっ?﹂
マヨヒガの扉は、住人達の意思によって自由につながる先を変え
る。先ほどの場所は扇の間と言うらしく、マヨヒガにある部屋の中
でも一等格の高い間であるらしい。ご神前でもあったのだから、頷
ける話だ。
250
その為、この部屋は何処へでもつなげられるようで、扉を出れば
雪道につながるだろう、と雷神は言った。しかしその先に進むので
なく、すぐに扉に戻るように、と風神が注意を加えた。雪女の屋敷
に直接入ればすぐに見つかってしまう為、一度外に出て、琉歌だけ
が素直に雪女に招かれる、と言う具合にすると、丁度いいのだと。
その間に総一郎は、ばれないように身を潜めて小刀と徳利を奪い、
自らの血を垂らして酒を呑む。そうすればきっと元の場所に戻れる
だろうという話だった。しかし、総一郎は琉歌の事も考えなければ
ならない。唸った少年だったが、﹁厠に行くと言えば何とかなんだ
ろ﹂という風神のデリカシーのない提案で、一応の所は落ち着いた。
そして今、総一郎は雪女の屋敷の、梁の上にしがみついていた。
眼下では、テンションの高い雪女にぎこちなく頷く琉歌の姿が見
えた。人見知りの琉歌を快活な口調で悪気なく困らせる彼女は、と
ても人を食うようには見えなかったが、あの優しげな老婆でさえ豹
変したのだから、むざむざ姿を現す気にはなれない。
奥の小部屋に、小刀と徳利があるという話だった。見せられた映
像は少し古いらしく、風神が細かな訂正をしてわかった事だ。
落ちないように、総一郎は梁の上を渡っていった。登るときは家
の外から部屋に上がり、そこから木魔法でくぐれるだけの空洞を作
った。小部屋の真上に辿り着く。下を見て、眉を顰める。
問題は、いかにして降りるかという事だった。
光、音魔法には、前述のとおり欠点がある。熱は隠せないし、今
回の場合は振動、床の軋みなどに注意を払わねばならない。
251
重力魔法が使えれば、と総一郎は無い物ねだりをした。マヨヒガ
にしかないという話だったが、もう少し扇の神たちに相談して得て
おけばよかったと、そんな事を思う。自嘲気に短く自重を軽くする
呪文を唱えた。途端、躰の調子に違和を感じた。
おや、と思い少しの跳躍。天井に頭を打ち、墜落する。
﹁痛っ、ていうか、ちょっ、マズイ!﹂
掴み損ねて、頭上の梁へ手を伸ばした。届かずに遠ざかっていき、
地面にぶつかった。頭をもろに打ったが、涙が滲む程度のものだ。
気付かれていないかまず確認して、首を傾げる。
﹁考えられるとしたら、漬物石の時かな﹂
呟きつつ小部屋全体に音魔法をかけ、小さく扉を開いて身を滑り
込ませるように侵入した。言われたとおり、仰々しい小刀と徳利が
あった。非常時ともなると対応が難しそうなので、今のうちに指先
を小刀で切って、自らの血を酒に落しておく。他者の物が混ざって
も平気だという話を聞いて、あらかじめ計画に組み込んであった事
だ。
これで、総一郎は今すぐにでもマヨヒガを脱することが出来る。
しかし、やるべきことはまだまだ多い。
小刀と徳利に、光、音魔法をかけ、持ち運ぶ。帰りがけに雪女に
物凄く可愛がられている琉歌の首元を、三回、独特のリズムで叩い
て、通り過ぎて行った。厠を探すと、綺麗に手入れされた場所を見
つける。少々奥まった場所に置いて、彼女が来るのを待った。
252
そして総一郎、五分後に耐えきれず立ち上がった。
妙な予感がしていた。嫌な予感とも、言いきれない。それが、琉
歌がなかなか来ない事に対してなのかも、判別がつかなかった。広
間に戻ると、相変わらず雪女に琉歌は抱きしめられている。
重力魔法をかけ直し、半ば浮くようにしてひょこひょことその様
子を窺いに行った。雪女は相変わらずにこにこと琉歌を抱きしめて
何かを囁いている。次いで琉歌を見ると、その表情は切迫していた。
戸惑う総一郎。彼女にも彼の事は見えておらず、その顔が恐怖に
歪み、涙を零しかけている。だが、その原因が分からなかった。体
温が、抜け落ちる様な感覚が、総一郎を襲った。
そこで、総一郎は気付いた。琉歌の手足。その先が、色を失って
いる。凍らされたのだと、確信を得る。
木刀を、抜いた。
雪女の頭蓋に振り下ろした。奴はしかし寸前で目を剥いて、身を
傾かせて避けきった。鋭い声が、総一郎に突き刺さった。直後に、
巨大な氷柱が来た。
避ける。遅い。かすり傷を負う。傷口が凍っている。音を立てて、
周囲に亀裂が入った。火魔法で溶かし、そのまま焦がした。血は出
ない。痛みだけが身を苛む。
﹁何となくいる気がしては居たのよね⋮⋮﹂
253
不敵な笑みと共に、琉歌を拘束し直す雪女。対して総一郎は、顔
を必死に引き締めて、歯を食いしばり痛みを堪えていた。木刀を構
えるが、剣先が僅かに震えている。勝てる相手ではない。そのよう
にも、思う。
︱︱火魔法を使えば、雪女は弱い。雷神が、出ていく寸前の二人
に言った言葉だった。確かに、傷を焼くべく使った時、雪女の表情
は分かりやすく引き攣った。その一方で、だが、とも思う。火魔法
を使えば、殺すかもしれない。琉歌そっくりに化けた、あのドッペ
ルゲンガーの様に。
殺せない、ただ、何となく分かった。前世をあの太平の世に置く
総一郎にとって、殺人は何処までも忌避すべき行為だった。
だから、殺さないと決めて、その上で火魔法を使うことにした。
槍のような形をした火を、二本。片手に一本ずつ乗せた。雪女が、
躰を緊張させる。その眼前に、投げた。
火の槍は地面に突き刺さり、火柱を上げた。
総一郎、すかさず自分と琉歌に光魔法をかけ、駆け出した。琉歌
の小さな手を引いて、走る。雪女が、音で判断したのだろう、巨大
な氷柱を作り出し、こちらへ投げようとした瞬間だった。総一郎が、
音魔法をかける寸前と言ってもいいだろう。
﹁止めてよ! 何で意地悪するの!﹂
力ある言葉が、その場全員の魔法を止めた。刹那動きを止めた総
一郎を、小さな手が引っ張っていく。その後ろ姿を見て、苦笑させ
254
られた。
︱︱相変わらず、意識してない時にハッとさせてくれる子だ。
駄目押しとばかり、木魔法で雪女の動きを阻害した。もがいてい
る姿が、琉歌に連れられて見えなくなる。そこからは総一郎も足を
速め、彼女を件の場所へ案内した。
琉歌の小指を小刀で切り、その血を垂らす。そして、呷る。同時
に、咆哮が聞こえた。雪女のそれだ。風味が強かったことに起因す
る少々の抵抗感が、掻き消された。二人は慌てたようにして酒を飲
み下す。
途端、視界が歪み始めた。三半規管がおかしくなったのか、地面
との並行が測れず、琉歌とぶつかりあって、地面に倒れていく。
目を、覚ました。
そこは、暗い部屋だった。自らの状況を確認すると、見たことも
ないながら寝間着だと分かる浴衣を着ていて、腰までが布団に包ま
れていた。横を見ると、同じく呆然とした様子の琉歌が自分の布団
をじっと見つめており、二人の気配に呼応したのか、部屋に光が差
し込んだ。
﹁おや、どうかしたかい? 二人そろって起きあがって﹂
視線をよこすと、人の子を食うのが生きがいと言われていたはず
の山姥が、きょとんとして子供たちを見つめていた。そこには悪意
と言うものが無く、かつてのあの恐ろしい表情が思い出せなくなる。
255
﹁どうしたんだい? 何か、恐い夢でも見たのかい?﹂
言葉を受けて、琉歌が﹁夢⋮⋮?﹂と呟きを漏らした。彼女はい
つの間にか微睡んでいて、目を擦って眠り始めてしまう。
それを見た老婆は、そっと襖を閉じた。総一郎も強い眠気があり、
琉歌に倣って寝てしまおうかとも考えた。しかし、そこで妙な感覚
を覚えた。中々厠に来ない琉歌を迎えに行くとき、抱いた感覚だ。
総一郎、もしやと思い、毒魔法を使った。
毒魔法の、眠気に対する相殺の呪文だった。案の定効き、﹁やっ
ぱりだ﹂と確信を持って言った。立ち上がり、襖を開ける。針で何
か縫物をしている老婆が、こちらを見た。
﹁おや、眠れなくなってしまったのかね﹂
﹁⋮⋮はい、そんなところです﹂
答えて、総一郎は老婆の隣に座った。囲炉裏には火など焚かれて
おらず、夏の暑さと夜の寒さが拮抗している。涼しい、と思いなが
ら、確認するように、ぽつりと尋ねた。
﹁未成年に酒を呑ませるのは、どうかと思いますよ?﹂
﹁⋮⋮いいのさ、毒魔法は下手すりゃ致命傷だ。酒程度で済めば、
それに留めておく方がいいんだよ﹂
老婆、もとい山姥は、綻ぶように笑った。成程、と思いながら総
一郎も笑い返す。尋ねたいことは、多くあった。どれから行こうか、
256
と高揚する。
﹁しかし、お前さんたちには眠り薬を盛っておいたんだがね。どう
いうことだい?﹂
待っていれば、山姥から問いが来て、少し考え、答えを返す。
﹁毒魔法です。もしかしたらと思って使ったら、出来たんです。で
も、なんだか不思議ですね。この場合、毒が薬になった﹂
﹁そんなものだよ、世の中はね。ちょうどいい分量なら、大抵のも
のは薬さ。やりすぎるから毒になる﹂
そんな風にして、色々な事を尋ねた。あの小刀は金属魔法の加護
であったとか、風神雷神の性格は、実際の所反対であるとか、雪女
は手練れには違いない物の、本来は静かな優しい女であるとかだ。
﹁みんな、演技をしていたんですね﹂
﹁そうさ。自分を最初から最後まで偽りで作っておくと、おかしな
所で綻びが出ない。総一郎には看破されてしまったがね。雷神の言
うとおり、神童って事なんだろう﹂
﹁褒めても何も出ませんよ﹂
﹁誰もそんなの期待しちゃいないさ﹂
くつくつと、笑っていた。夜長の話は、楽しかった。でも、と総
一郎は山姥に問う。
257
﹁なんで、そんな演技をしていたのですか?﹂
﹁それはね、マヨヒガが人食い鬼に攫われた時のための、訓練だか
らだよ。いざと言うときにここでのことを思い出して、そのお蔭で
生き延びられたという子は多いんだよ? だから、親は子にマヨヒ
ガは恐い所だと教え、子供はここで必死に頭を捻る。ここで得られ
る加護も多いしね。ちなみに総一郎。お前さん達は、その中でも一
番難しい道を行った﹂
﹁確かに、雪女さんのアレは恐かったですが﹂
﹁そうだね。だが、雪女は氷の加護を与える者の中じゃあ、かなり
強い力を持っている。風神雷神もそうだ。けど、風神の方は堅物で
癇癪持ちだから、性格が逆である演技をして、雷神が子供に酷いこ
とを言って気を惹くのさ。本来は、マヨヒガの中でも子供好きで知
られているのだが﹂
﹁⋮⋮もし僕が雷神様でなく、風神様と口げんかをしていたらどう
なっていたんでしょう﹂
﹁そんなのは風神がお前さんを勢いで殺してしまって終わりさ。そ
うなったら大変だから、性格を入れ替えているのだからね﹂
神に喧嘩を売るなんて、見かけによらず血の気の多い子だよ。と
心底面白そうに喉を鳴らして笑う山姥に、少々恥ずかしい気分にな
る。その時、ふと思い出したように山姥が聞いてきた。
﹁そういえば、総一郎。お前さん、取っていない加護はあるかい?﹂
﹁ああ、はい。あとは、水と時間です﹂
258
﹁水は、河童が居る池を通る道を教えよう。明日、琉歌ちゃんと一
緒に行くと良い。時間は⋮⋮すまないね。マヨヒガまでに授けられ
ていないって事は、相手に気に入られなかったのかもしれない。気
難し屋だから、仕方がないと思っておくれ﹂
そうですかと相槌を打ち、自然と会話が終わった。寝直すべく襖
を開けてみると、琉歌が安穏とした闇の中で、安らかに寝息を立て
ている。ふと、思い出すことがあった。
︱︱雪女との、殺し合い。あの時自分は、相手の事を殺せないと
感じた。命の価値が、などと高尚な事は言わない。多分、性分なの
だろうという思いがある。
けれど、その感情は後悔とは程遠かった。逆に、ドッペルゲンガ
ーはいまだに彼の記憶の奥深くに根付いている。後悔かは分からな
い。ただ、思い出すと色々なことが判別できなくなるのだ。
布団にくるまりながら、その後、色々な事を考えた。加護、殺人、
琉歌。今日の出来事を超えて、白羽、父、母、図書、魔術、歴史。
それぞれが渦巻き、眠気と共に溶け合っていく。
ただ、とうとう寝付いた総一郎の口元には、朗らかな笑みだけが
張り付いていた。
259
11話 虹色の珠
その道は、川辺にあった。
流れは遅いが、底が見透かせない深い川だった。何かが潜んでい
る、と言う気配がある。実際、潜んでいるのだろう。河童が住んで
いると聞いて、ここを歩いているのだ。
マヨヒガからの、帰り道だった。
空は、雨の降らない曇天だった。その為、総一郎と琉歌は、少々
早足で進んでいた。河童が祀られている小さな祠がその先にあるら
しく、そこにたどり着くまでに河童に声を掛けられなければ、山姥
に渡されたキュウリを投げ込めばよいという話だった。そうすれば
河童が現れ、二人に水の加護を与えてくれると。
時間の加護は、帰るまでに何かなければ、他の神社などで貰うと
良いと言われた。大抵の子供はこの山で、一部の加護を重点的に貰
い、他の貰えなかった加護を他の神社で授かるのだとか。
確かに偏りがあると、総一郎も思っていた。総一郎の場合、火、
風、光、木、雷の加護が妙に多かった。琉歌の場合だと、水、氷、
音、精神の四つである。同種の加護を与える亜人の人格と言う物は
ある程度似通っていて、好く子供の性格もそうなのだろう、と言う
話だった。それがいずれ、得意分野を分けるのだろうと。
余談だが、あの堅物の振りをしていた本性がひょうきんらしい雷
神は、誰よりも多く総一郎に自らの加護を与えていたらしい。山姥
260
から下山寸前に聞いた話だったが、雷神は自分に食って掛かる童な
ど初めてだったそうなので、たいそう気に入ったのだと。風神も加
護を与えたがっているから、また気が向いたら来ると良いとの事だ
った。
神様を脅すなどという暴挙に性根では怯えていた総一郎だったか
ら、これを聞いて大きな荷が下りた気分だった。
﹁⋮⋮雨、降りそうだね﹂
ぽつりと、琉歌が呟いた。見れば、空を見上げている。これは、
早く下りた方がよさそうだと、総一郎も思った。黒々と山にもたれ
る空一面の雲は、時折、雷の前兆なのか光を放っているのである。
﹁うん。早く河童さんに加護を貰って、帰る事にしよう﹂
総一郎は琉歌の手を握り、小走りを始めた。古びた木の標識は、
山の中腹だという事を示している。この川辺の道は、正規の登山道
の一つらしかった。
しばらく走っていると、川が滝に変わった。総一郎は滝横の階段
を軽やかに下りていく。滝壺の端に、祠があった。現代の物とも、
総一郎の前世の時代とも違う、亜人がただの妖怪であった頃の、小
さな、年季が入った古めかしいそれだ。
﹁総くん﹂
﹁うん。多分、ここだ﹂
祠には、河童らしき小さな石像が荘厳ささえ湛えて座っていた。
261
水虎という字が見当たったが、山姥の話ではそれで大丈夫なのだと
いう。互いに見つめ頷き合い、キュウリをそれぞれ一本ずつ滝壺へ
投げ入れた。ちょうど滝に巻き込まれて深くに潜っていく。
同時、二人の足元の水辺にブクブクと水泡が立った。円形の影が
浮かび上がり、次第に濃さを増していく。そして、皿が現れた。ま
た、緑の体躯もだ。
﹁山姥のお使いか? ご苦労さん。ええっと⋮⋮琉歌ちゃんに、総
一郎だったか。聞いてるよ。加護が欲しいんだって?﹂
水面からの眼が、二人を見つめた。﹁はい﹂と強く答える総一郎
と﹁う、うん﹂と戸惑い気味に答える琉歌。その様子を見て、琉歌
には暖かな目を、逆に総一郎には冷たい視線をよこした。ブクブク
と、河童の口元辺りに水泡が浮かぶ。それは何処か、ため息を思わ
せる。
﹁⋮⋮琉歌ちゃんにはやるよ。ただ、総一郎にはあんまりやりたく
ねぇなぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮聞くけど、何で?﹂
﹁なんかよ、お前、子供らしくねぇんだよなぁ。子供らしい馬鹿さ
は持っているっていう話だったが、一目見ただけじゃあわからねぇ。
俺はよ、子供が好きなんだ。子供と相撲取るのが昔からの楽しみだ
ったんだが、⋮⋮お前は嫌がりそうだなぁ⋮⋮﹂
今度は分かりやすく嘆息する河童に、むっと口を尖らせた。別に
総一郎、子供らしい遊びが嫌いなわけではない。ただ、初対面の時
はしっかりしておきたいというだけだ。
262
しかし、今回の場合はそれがマイナスに働いたという事なのか。
子供に子供らしさを求める相手というのは、当然いる。思えば、そ
ういう輩は加護を与える時も最初は渋っていたような記憶があった。
土蜘蛛などがそうで、その時は難儀したと思い出す。
だから総一郎、河童の要求を受けることにした。
﹁いいよ。相撲の勝負、受ける﹂
﹁その言葉が、何か大人ぶってて嫌なんだがなぁ⋮⋮﹂
ぐっとなるが、総一郎、二段構えで言う二段目の言葉がまだ控え
ていた。
﹁河童さん。何か勘違いしているようだけど、僕はこの天候でやろ
うって言っているんだよ?﹂
﹁あん?﹂
渋面で、河童は空を仰いだ。そこには、気分が重苦しくなるほど
の曇天がある。いずれ雨が降るのは、誰の目に見ても明らかだ。
総一郎、訝しげな視線を送られながら、不敵に笑う。
﹁河童の皿は、晴れの日は乾きやすい。逆に雨の日はいつだって潤
っている。皿が潤っている河童は強い。その河童に、勝負を挑みた
い﹂
﹁⋮⋮その心は?﹂
263
口元を歪ませて笑いつつある河童に、こう答えた。
﹁その方が、楽しそうじゃないか﹂
﹁⋮⋮おし、その話乗った!﹂
水しぶきを上げて、河童は滝壺から飛び上がった。二人を飛び越
えてその背後に降り立ち、森に向かって﹁オイ! お前ら聞いたか
!? 神童と名高い総一郎が、かつて水虎水神と呼ばれたこの河童
に相撲を取ろうってよ! 興味がある奴は寄って来い! 一世一代
の大相撲を見せてやる!﹂
言うが早いか、わらわらと亜人たちが木陰から姿を現した。半分
近くが総一郎に加護を与えた人物で、知らない亜人たちも琉歌の反
応を見る限り見たことがあるらしい。ちなみに反応というのは総一
郎の背中に隠れるというものだ。流れ弾が痛かったのだろう。
﹁ちょっ、ちょっと待ってよ。話が大きすぎない!?﹂
﹁いいんだよ。煽る時はこのくらい煽っておいた方が。それより、
規律を確認しておくがよ、総一郎、まず二本先取り勝負なのと、魔
法の禁止だ。あとは、急所を狙っちゃならんという位か。それ以外
は相撲の常識内で何でもアリ。当然、相手を転ばせるか枠から出す
かで勝利だ﹂
河童は言って、ノームという土と木の妖精に土俵作りを命じた。
小人の老人の妖精は陰気に承り、その陰気さと裏腹に素早く美しい
円形の土俵を作っていく。
264
かくして、相撲が執り行われた。土俵は大きくも小さくもない。
前世のテレビ中継のそれと大体同じようにも思える。ギャラリーは
多かった。天狗などが大声で総一郎を応援し、滝壺から顔を出す河
童の仲間らしき亜人たちが、河童に野次を飛ばす。
﹁おい河童、分かってんだろうな! 相手はあの総一郎とはいえ、
まだまだ餓鬼だ! まさか華を持たせてやらねぇって訳はねぇだろ
うな!﹂
﹁うるせぇ! こいつは皿が潤った俺を負かしてやるっつったんだ
! そこまで舐められちゃあ本気出さなきゃ男がすたるってもんよ
!﹂
﹁やーい、この負けず嫌い﹂
﹁黙れ座敷童!﹂
河童のその人気ぶりに、苦笑を隠せない総一郎である。きっと、
憎めない人物なのだろう。そんな事を考えていると、先ほど河童に
野次を飛ばした、総一郎にとって初対面の座敷童が彼に向かってこ
んなことを言ってくる。
﹁総一郎。その糞生意気な河童を黙らせてやったら、私がお前に格
別の加護をやる。私の加護は精神に音、時間の三つだ。お前は確か
時間の加護を持っていなかったろう。ついでに運も良くなるぞ﹂
その言葉を聞いて、総一郎、俄然やる気が出た。
相撲の審判であるところの行司を務める山姥が、ザックを脱いだ
総一郎と、ある程度湿ったままの河童との間に立って、﹁はっけよ
265
い﹂と声をかける。両人とも片拳を地面に着き、皮切りの声を待っ
た。
風は、強い。総一郎の背後の森が、ざわめくのが聞こえる。河童
の背後の滝つぼが、波立つのが見える。
﹁のこった!﹂
残る片拳を地面につけ、お互いに掴み合った。河童は力が強い。
その事は知っていたから、初めから受け流すつもりだった。しかし、
掴む手が強く、易々とは流せない。
だが、それで良かった。
まだ、雨は降っていない。その間は、河童の皿は乾き続けている
のだ。ちょくちょくフェイントを入れると、面白いように皿から水
を零してくれた。力が弱まるのが分かったから、そうなってからは
存分に攻めた。
一番勝負は、総一郎の寄り切りに終わった。
﹁⋮⋮く、くそ⋮⋮。水が乾くの、待って居やがったな⋮⋮!﹂
ぜぇぜぇと息を吐く河童。だが、これでも総一郎はかなりギリギ
リの戦いだった。疲労具合は大体同じである。総一郎もまた、河童
と同じように息を吐いていた。
そして二番勝負。再び向き合い、﹁のこった!﹂の声でぶつかり
合う。
266
しばらくは、拮抗していた。先ほどの場合、最初は総一郎が押さ
れていて、時間がかかると河童が力を弱めてきていた。今回もそう
なるはずだったが、ついにともいうべきか、雨が降り始めてしまっ
たのだった。
しかも、豪雨である。
琉歌はどうやら数人の亜人に雨を凌いでもらっているようだった
が、総一郎はびしょ濡れだった。その所為か段々と寒さを感じて、
力が入らないようになる。逆に河童は、総一郎を圧せる最初の力を
維持するようになった。
二番勝負の結果は、押し出しだった。
﹁へっ。この方が面白いって言った割には、元気がないじゃねぇか﹂
豪雨の中、転んで泥だらけになった自分を見下ろしながらの河童
の言葉に、総一郎は歯を食いしばった。︱︱このままでは、負ける。
眉を顰めて立ち上がりつつ、頭を捻った。服についた泥を払う。改
めて、河童の弱点を探る。
体格差は、ほとんどないに等しい。河の童と言うだけあって、そ
の体躯は総一郎と似たり寄ったりだ。しかし、力が強い。雨に皿が
潤っている今は、一勝目の様に姑息にはいかない。
かといって、それをダシに魔法の許可を求めるのも無謀だった。
昨日の朝ならいざ知れず、今のそれは強力過ぎる。
けれど、このまま負けるのも癪なのだ。
267
知恵を絞り唸るも、策は浮かばない。河童に対する知識と言って
も、皿が乾けば力が減ると言った常識レベルしか無いのである。西
洋ならもう少し行けるのにな、と思う。ファンタジー小説が好きだ
ったが、日本の妖怪ものというのは意外と少ないのだ。
そんな総一郎を待たずして、三番勝負が始まった。合図と共に動
き出す。河童は前へ。総一郎はとりあえず横へ。
﹁おっと﹂
よろめく河童を背後から捕らえ、押していく。
少しの間は、それで行けると思ったものだった。勘違いも甚だし
い。体勢を立て直した河童は容易く総一郎を突き飛ばし、体をしっ
かりとつかんで押していく。抵抗もままならなかった。
︱︱終わった。
総一郎は苦渋の表情で堪えながらも、そんな風に確信していた。
観客たちも、それを悟ったかのような雰囲気がある。負けてなるも
のかという足腰の踏ん張りは、力強くも頼りない。
河童の表情は、勝ち誇っている。それが、総一郎には腹立たしく
て仕方が無かった。総一郎、平素には大人びているが、記憶以外は
心身ともに子供なのだ。このまま負けると思うと、涙が出るほど悔
しくなる。
その時だった。
﹃河童は片腕のどちらかが脆いから、それを狙うと良いよ﹄
268
幼いながら、何処か媚と艶を感じさせる、琉歌の可愛さとは別種
な声が、総一郎に助言した。
豪雨の音は大きい。しかし、その妨げを苦にもしていないような、
囁くのにも似た声だった。総一郎への応援、河童への応援、どちら
も豪雨に負けぬよう大声を張り上げているのに。
その声の主が誰であるのか、気になった。しかし、その余裕が無
い。押し出される寸前で、河童の腕へと手を伸ばす。左腕。攻撃を
防ぐにも至らない反抗。右腕。あまりにも軽い手応え。
見れば河童の右腕は、血すら出さずに千切れていた。
﹁なっ、お前それ⋮⋮!﹂
驚愕の表情の河童に、総一郎は大きな隙を見つけた。彼の体を掴
んで、自分ごと引きずり倒すようにする。河童は、抗おうともしな
かった。出来なかったのかもしれない。
﹁決まり手うっちゃり! 勝者は総一郎じゃ!﹂
予想だにしていなかった河童の腕が千切れるというハプニングを
前に、観客たちは異様なまでに沸き上がった。
﹁⋮⋮すごい。あんなに降ってたのに、もう止んでる﹂
﹁総くんの勝利を祝ってね、雲を飛ばしてくれた人がいたんだって。
269
天狗さんじゃなかったから誰だろうってみんな言ってたけど。それ
にしても、凄いね。河童さんも座敷童さんも物凄い一杯加護をくれ
たんでしょ? 見てた人たちも結構くれてたし﹂
﹁うん。何て言うか、みんないい人たちだった﹂
﹁ねー﹂
下山しながら、ぼんやりと話していた。加護も全て揃い、ほくほ
く顔の総一郎だ。琉歌は知らないが、腕を返す返さないで加護の吊
り上げや一生溺れないという特典も手に入れている。
暢気に二人で童謡を歌いながらも、あの声は結局誰だったのだろ
うと思った。道はいつの間にか神社につながる石段に変わっていて、
これを下れば昨日の朝出発したあの場に戻るのだろう。
そして、見覚えのある場所についた。ここから数十分もいけば、
確実に辿り着く。その時、不意に琉歌の気配が消えた。握り合って
いた手も同様である。
﹁やぁ、初めまして総一郎君﹂
振り向くと、そこには絶世の美少女が立っていた。
純白の肌に、優しげな双眸。幼さと妖艶さの矛盾なき両立。背丈
は総一郎より少し高い程度で、到底山に登るのには向かないであろ
う、薄絹の服を着ていた。
﹁⋮⋮君は、一体誰? るーちゃんは、何処へ行ったの?﹂
270
半ば呆然としながら、総一郎は尋ねていた。それに、きょとんと
したように彼女は答える。
﹁琉歌ちゃんは、先ほど君とはぐれちゃっただろう? それを、探
しているんじゃなかったっけ?﹂
ああ、そうかと首肯する。確かに、その通りだ。
﹁で、ボクの事だっけ。ボクはね、神様だよ。この山の、っていう
訳じゃあないんだけど、神様。その証明としては、この晴れた空が
ボクからの総一郎君の勝利へ捧ぐプレゼントってことで、どうかな
?﹂
にこにこと満面の笑みを総一郎に向ける神様。何とも愛らしい神
様ではあるものの、そこには亜人らしさというものが無い。
﹁あ、その表情は疑っているね。じゃあ、そんな総一郎君には加護
をあげよう! ありがたーく受け取ってね!﹂
言ってから、階段をひょこひょこ下りて総一郎と並ぶ少女の神様。
そこまで言った所で、彼の目を見つめながら、﹁う∼ん?﹂と首を
傾げた。
﹁何か、覗いているのが居るね﹂
﹁え?﹂
﹁いやいや、こっちの話。⋮⋮うん、これで御仕舞。という訳で、
加護をあげましょう!﹂
271
ていや、と可愛らしい掛け声と共に、彼女は総一郎に向かってし
っぺをした。大して痛くもない加護に、やる事もなく苦笑する。そ
れに、﹁えへへ﹂と笑う神様。
﹁じゃあまたね、総一郎君。ちなみにボク、いろんな国の神様だっ
たりするから、イギリスとかエジプトとか行った時には、会いに行
くからね!﹂
﹁あ、ちょっと待って﹂
﹁ん? どうしたの?﹂
手を振って遠ざかろうとする神様を呼び止め、総一郎は問うた。
﹁君、有名な神様なら多分名前があると思うんだ。だから、有った
らで良いから、教えてくれない?﹂
神の多くは、名を持っている。サラマンダーやシルフィードなど
の力が強い亜人もそうだ。しかし、力が弱くなるとその限りではな
い。多すぎず少なすぎない彼らは、住む場所と種族名だけで通ずる
ため、名を欲しない者もいる。
彼女は、自らを複数国の神だと自称した。つまり、それだけメジ
ャーな神であるという事だ。そのように思っていたのが見透かされ
たのか、恥ずかしそうに﹁いやぁ⋮⋮﹂と赤面してしまう。
﹁ボクはそんな、有名な神様じゃないよ。多分、総一郎君は名前も
聞いたことが無いくらいだと思う。ただ、⋮⋮そうだね。今のご時
世調べれば何でも出て来ちゃうから、少し捻って⋮⋮うん﹂
272
にか、と総一郎に笑いかけ、少女は言った。
﹁ボクの事は、ナイ。ナイって呼んでよ。この国でも、﹃持たない
神﹄って呼ばれることもあるし﹂
﹁﹃持たない神﹄?﹂
﹁そう。まぁ、それだけマイナーって事なんだけどね。じゃあ、改
めてバイバイ﹂
元気に手を振って、ナイは行ってしまった。新たな加護と言うが、
結局、何属性かも聞きそびれた。嵐のような子だったな、と総一郎、
仮にも神を子ども扱いする。
﹁まぁ、加護は無いより合った方がいいしね﹂
言いながら、ぴょんぴょんと石階段を一段飛ばしに下っていく。
すると琉歌の姿が見えてきて、更には白羽、図書が山のふもとに立
っていることが分かった。
﹁ただいま、みんな。⋮⋮どうしたの? そんな驚いた顔して﹂
﹁どうしたもこうしたも無ぇだろうが﹂
仏頂面になって言ったのは、図書だった。
﹁急にはぐれたって聞いたけど、大丈夫だったの?﹂と白羽。
﹁うん、それは大丈夫﹂
273
﹁でも、不思議だね、ここは一本道なのに﹂
言って、白羽は石階段を見上げた。綿々と連なり、木陰の奥に見
えなくなっていく。
﹁ま、ともあれ無事に終わったって事だな。加護の習得おめでとう
二人とも。何事も無くてよかった。総一郎、スナークには遭えたか
?﹂
﹁危うく遭いかけて全力で逃げたよ。あの立ち入り禁止のテープに
落語の常套句みたいなのが書いてあった時には何事かと思った﹂
﹁ああ、アレか! でも別に逃げる事は無かったと思うぜ? ブー
ジャムなんかは本当に奥の奥にしかいないんだから。外回りに居る
のは全部優しいスナークだ﹂
﹁狩りやすい位置に狩りやすいのが居るんだ⋮⋮﹂
﹁スナークは訳分からんからな。それで、琉歌も加護はどうだった
?﹂
﹁えっとね、水と氷と音と精神が沢山もらえたよ。それでね、総く
んが凄いの! 加護皆貰ったんだって!﹂
﹁おぉ、すげぇ!﹂
にかっと笑いながら、図書は二人の頭を乱暴に撫でた。髪の毛が
くしゃくしゃになるが、その乱暴さが不思議に嬉しい。
その後、兄と姉に二人は思い出話をさせられた。天狗に投げられ
274
たという総一郎の話に白羽が顔を真っ赤にして憤慨したり、マヨヒ
ガで雪女にほっぺを舐められてひんやりしたという琉歌の話に図書
が大笑いしたりと、家路を歩きながら加護習得の山登りが終わった
のを感じていた。
河童と相撲を取った事を話す時には、全員で般若家にて昼食を取
っていた。武士垣外家は両親ともにそれぞれ用が有って出かけてい
るという事で、預かってもらう様に言われていたのだと。﹁すいま
せん﹂と総一郎が頭を下げると、般若の面そのものの顔を一層険し
くしながら、図書達の父は﹁いやいやいいんだよ。長い付き合いだ
しね﹂と相好を崩してくれた。この表情が相好を崩したと分かった
のは、一体知り合って何ヶ月してからだろう。
﹁河童かぁ、懐かしいな。俺も加護を貰う為に相撲を取った気がす
る﹂
図書は表情を柔らかくして、そんな事を呟いた。
﹁⋮⋮河童さんって、やっぱり誰にでも相撲を取るの?﹂
﹁まぁ、あの人は相撲好きだからな。俺の場合なんかは、夏休みの
加護習得に登る前から山に入り浸っててさ、いつも勝ってるから今
回も楽勝だろうと思ってかかったら、もう滅茶苦茶強いんだよ。何
回負けたか分からないくらいになってさ、でも悔しかったから日が
暮れるまで挑んでたら、気付いた時には投げ飛ばしてた。力なんか
ろくに入ってなかったはずなのにな。多分気を効かせてくれたんだ
ろうけど、当時は嬉しかったんだよなぁ⋮⋮。そういえば、総一郎
はどうやって勝ったんだっけか﹂
﹁え? それはもう、皿から水を零させたり手を千切ったり﹂
275
﹁⋮⋮総一郎はやっぱりおかしい。性格は至って普通の優しい少年
って感じなのに、結果が伴ってない。何だお前、アホか﹂
﹁アホとは何さ、知能派って呼んでよ﹂
﹁いや、ホント、水を零すは分かるし、皿を壊すも分からなくはな
い。ただ腕を千切るのは有り得ない﹂
﹁どっちかというと皿の方が致命的なんじゃない? 腕はすぐにく
っついたよ?﹂
そこから少々の口論に発展しかけたが、琉歌の﹁食事中はもう少
し静かにして﹂の一言でしょぼんとなる少年たち。白羽は少し前か
ら会話に混ざりたそうにしていた為、女友達の兄貴分と実弟への一
喝によって、安堵の様な落胆の様な複雑な表情をしている。
それから数時間。会話は途切れる事を知らず、四人でそれぞれの
加護話を話していると、とうとう総一郎たちの母、ライラが迎えに
現れた。ザックを背負い玄関へ向かう過程で、思い出したような様
子の図書が、総一郎を呼び止める。
﹁総一郎、お前、迷宮って興味あるか?﹂
﹁⋮⋮迷宮?﹂
少年、言葉こそ小さいながら、目に輝きを灯しだす。
﹁そうだ、迷宮だ。いやさ、俺、最近友達と良く潜って、魔物とか
から素材剥いで小遣い稼ぎしてるんだよ。総一郎も加護を得たし、
276
近所のそれは危険度も少ないしで、お前の迷宮デビューにはぴった
りだと思うんだよな。危ないと思った時には友達もひきつれてフォ
ローするし﹂
﹁⋮⋮魔物って、亜人とは違うの?﹂
﹁あんま差は無いんだけど、知性理性が無い物を指すな。迷宮に居
る大抵はそういう奴らだ。︱︱で、どうよ﹂
﹁もちろん興味ある。けど、僕なんか足手纏いじゃないかな。図書
にぃの友達って、学校の、って事でしょ? そこらへんは大丈夫な
の?﹂
﹁⋮⋮誰にも言うなよ?﹂
﹁うん﹂
図書は総一郎に耳を寄せ、ぼそりと言った。
﹁⋮⋮実は、好きな子にお前の事言ったら、会ってみたいって言っ
ててな。それで一緒に迷宮潜る約束しちゃったんだよ﹂
総一郎、思わず噴き出した。
﹁ちょっ、ちょっとお前、笑うなよ! こっちは真剣なんだぞ!﹂
﹁い、⋮⋮いや、くはっ、だって図書にぃがそんな初々しい事言う
か⋮⋮、ぷっ、はは、あっはははははは! そっか! 図書にぃも
とうとう恋の病を患いましたか!﹂
277
﹁大声で言うんじゃねぇ! ああ、くそ! 言わなきゃよかった!﹂
﹁いやいや、行くよ! 行かせて貰いますとも! ちゃんとお膳立
てもしてあげるから楽しみにしてて!﹂
﹁お前のお膳立ては恐いんだよ!﹂
半ば追い立てられるようにして、総一郎は荷物を抱えて玄関へ向
かった。白羽は母と一緒にすでに靴を履いていて、やっと来た彼に
﹁遅いよ、総ちゃん﹂と膨れ面で文句を言う。
それに片手謝りをしながら、靴を履いて外に出た。いつの間にか
日は暮れて、すぐにでも夜になるだろう。随分と話し込んでいたの
だな、と思う。時間が経つのは、こんなにも早い。
︱︱生まれてから今まで、一瞬だった。
母に夕食は何がいいかと尋ねられて、総一郎は思案した。あれで
もないこれでもないと考えている内に、焦れた白羽に提案され、そ
れに乗っかりハンバーグに決まる。何とも子供らしい夕食だ。
それも食べ終え、総一郎の前世で言うテレビジョンに相当する電
化製品の番組を見ていると、父が帰ってきた。相変わらずの無口だ
が、ただいまの次に発した﹁総一郎、加護は貰えたか?﹂という無
愛想ながらの気遣いが、総一郎には嬉しかった。
︱︱だが、平穏な日常という物は、いつ瓦解するかも分からない。
父も食事を終えて、総一郎たちに近づいてくるようだった。総一
郎も白羽も番組に夢中だったから振り返りもせず、足音でそのよう
278
に思ったのだ。スン、という音が聞こえた。番組を見続けながら、
臭いを嗅ぐ音だとぼんやり推察した。
﹁⋮⋮闇の、匂いがする。色濃い、渾沌とした匂いが﹂
その言葉を、総一郎は初め、意識すらしていなかった。
しかし、肩を掴まれ力づくで振り返させられた時、そうもいかな
くなった。痛いという不快感に瞬間顔を顰めたが、父の抜身の刀の
ような視線を前に、何も言えなくなった。
﹁総一郎、立て﹂
何か悪い事を仕出かしたような気分で、困惑と共に立ち上がる。
父はそんな総一郎を、頭のてっぺんからつま先の先まで、射竦める
ように見回した。次いで、命ずる。
﹁総一郎。︱︱︱︱︱︱︱︱︱、と唱えろ﹂
それは、総一郎が使えるはずもない、闇魔法の呪文だった。
﹁あ、あの、父さん﹂
﹁分かっている。分かった上で、唱えろと言っているのだ﹂
父に抗う気は、起きなかった。言われるがままに、闇魔法を唱え
る。そそぐ魔力は、今の火魔法の加護量でも爪先にライター程度の
火が灯るか否か、というほど少なくした。
使える訳がない。それは確信にも近かった。白羽が試しとばかり
279
街中に住む亜人に加護を貰っても、光でも火でもない時は何の効果
もなかったのだ。直接見た話ではないとはいえ、嘘である意味もな
かった。
けれど、総一郎の意に反して、構えた手の平には小さな黒い靄の
様な物が出来上がった。総一郎は目を剥き、母も﹁嘘、﹂と驚愕の
声を漏らした。その時、その靄が微かに横に揺れ動いた。
襲い掛かる様に、小さな靄は色濃い闇の球体へと膨れ上がった。
成長の仕方は、歪だった。まるで触れるものすべてを呑み込もう
としていたように見えた。球体は膨れ上がるにつれて球体で無くな
り、奇妙な形の細菌の様に増え続けた。白羽の怯える声が聞こえて、
取りやめようとした。しかし、出来なかった。
気付けば父の木刀が、闇の球体を砕いていた。
パァッ、と闇の残滓が散り、空気の中に溶けて行く。それを総一
郎は、呆然としながら眺めている。茶の間は、恐いほどに静かだ。
父が、総一郎を呼ぶ。
﹁次は、︱︱︱︱、だ﹂
聞いたこともない呪文を、考えもせず唱えた。手の先に浮かぶの
は、何とも判別のつかない、虹色ともいえる複雑な輝きを放つ球体
だった。こちらは爆発的に巨大化もしない。ただ、ここにあるだけ
で恐ろしいという雰囲気を醸していた。
﹁総一郎、消せ﹂
280
言われたとおり、消した。すんなりと消えたが、今度は忍び寄る
ような恐怖が総一郎の背中にしがみついた。自分に何が起こったの
か。躰の芯まで、震えている。
縋る様に、父を見つめた。思案顔で、目を瞑っている。しばらく
は、そのままだった。緊張の糸が切れる寸前で、父が目を開けた。
﹁総一郎。お前の夏休みは今日をもって終わった。明日からは毎日
稽古をつける。それを、心しておけ﹂
踵を返した父を、追いかけることは出来なかった。
誰もかれもが、黙りこくっている。母のライラは我が子を思い引
き攣った表情で頭を抱え、白羽は総一郎に怯えた視線をよこしてい
る。総一郎は、脳内で先ほどの呪文を反芻した。闇、そして、あの
謎の玉虫色の輝き。不意に、図書との約束を思い出し、もう行けな
くなったのか、と虚ろに思う。
夏の夜には、虫の鳴き声も響かない。
281
12話 蟻とも蚊とも
見慣れない天井だった。
周囲はまだ薄暗い。早朝に起きる総一郎にとってはいつもの事だ
が、それにしてもおかしい。上体を起こしてみれば、白羽が居なか
った。本来なら、自分の布団の近くで幸せそうに布団を抱きしめて
いるというのに。
そこで、﹁ああ﹂と思い出した。荘厳ささえある、この板張りの
大部屋。そして、奥に佇む﹃武士は食わねど高楊枝﹄の掛け軸。そ
うと思えば、風を断ちきるような素振りの音が聞こえてくる。きっ
とそれは、父の物なのだろう。
﹁そっか。昨日から、道場で寝る事になったんだっけ⋮⋮﹂
緩く瞳を閉じながら、総一郎は呟く。怖いほどの風断ちの音が響
く中、立ち上がった。
素振りは、欠かせない日課だった。故にしないという訳にもいか
ず、父の隣でする事になるのかと居心地の悪い気分で外へ出たのだ
った。しかし丁度終わる所だったらしく、入れ替わる形になって肩
透かしを食らった。
その後一時間程度の素振りを終え、井戸水で汗を流すべく井戸水
を汲むと、その中に蟻が浮いていた。摘まむが、ピクリともしない
為、死んでいるのだと判断する。
282
溺死する蟻は珍しい。その様は奇妙に物悲しく、少し眉を垂れさ
せながら、総一郎はその名もなき蟻の墓を作った。土饅頭の中に蟻
を入れ、転がっていた木片を突き刺す。墓だと言われなければ、誰
も分からないようなそれだ。総一郎は、きっと自分でさえすぐに忘
れるのだろうと考え、それがまた悲しさを呼び、目を細める。
道場に帰ると、父は新聞紙を広げ、その上で何かを削っていた。
聞けば、総一郎の新しい木刀であるという。形になるまでは長いだ
ろうから、待っていろとの事だった。
するともういい時間だったので、朝食を取った。変わらない白羽
の﹁頂きます﹂を聞いて、別段昨日の事は大したことではなかった
のかとも思ったが、母が寝込んでいるとの話を聞いて考えが変わっ
た。その世話を白羽に看させるという父の命令に、抗う者はいなか
った。
そして今、総一郎は父に渡された漆塗りの刀を見つめている。
﹁抜け﹂
父はそれが、まるで自分への言葉だったかのように、なだらかに
刀を抜いた。寸前まで渋面だったのが、抜き終わる頃にはいつもの
鋭い無表情に戻っている。白刃は、記憶にたがわぬ鋭い光を湛えて
いた。反射の様にして、総一郎も刀を抜く。
対峙していると、数年前の事を思い出した。闇の中に浮かぶ真剣。
一瞬の殺気。
それが、総一郎の気管を真綿で締めるようにした。眼前に立つ父
の迫力は、変わる所が無い。それどころか、増しているような気さ
283
えしていた。その体躯は、少しずつ大きくなり、微動もしていない
のに捉え所がなくなる。そして、総一郎の腰は砕けた。
気付けば、珠のような汗が浮いていた。
しかし、父はそんな総一郎を見ても、不満げな様子は無かった。
叱責された事などなかったが、それだけに恐ろしかった為に少年は
安堵に荒い息を吐く。父はそれを見て静かに言った。目を剥いて、
その顔を見る。
﹁総一郎。これより日毎、真剣で対峙する。今日は、ここまでにし
ておこう。竹刀を取って来なさい﹂
聞いてしばらく硬直していたが、再度の声で我に返り、駆けてい
く。打ち合いは無論、素面素小手で行われた。何度か総一郎を打ち
のめすと、父は竹刀を木刀に変えた。一度打たれた途端、相手の刀
が肥大化して見える、あの恐ろしい感覚が蘇った。
翌日からは、総一郎の起床時間が一時間早くなった。
父に命ぜられた通り、加護を貰ったあの山を登るためである。石
階段を十往復して来いと言われ、無謀だとも思ったが、反抗しよう
とは思わなかった。
素振りを済ませ、水を数本持参して、入り口に立った。息を深く
ついて、駆けあがる。すぐに、息が切れた。折り返し地点である頂
上の神社は、見えもしない。
初めて頂上に辿り着いた時、朝食の時間を過ぎていた。急いで階
段を駆け下りたが、家には帰ることが出来なかった。水の横に、握
284
り飯が二つ、置いてあったのだ。それは優しさの様で、十往復が終
わるまで帰って来るなという意思表示でもあった。
十往復が終わるころには、日も暮れかかっていた。
石段にもたれながら、自分は何をしているのだろう、という気分
にさせられた。酷く、無為な事のように思えたのだ。烏の鳴き声に、
俯いて歯を食いしばった。昼食を抜いていたが、食欲はとうに失せ
ていた。
徒労感を抱えて帰ると、木刀を渡された。昨日削っていたものを、
完成させたのだという。それを生気無き瞳でじっと見つめていた時
に、ぽん、と頭に手が乗った。次の﹁よくやった﹂の声で、初めて
報われたという気がした。
真剣での立会は、行われた。少しだけ腰砕けになるまでの時間が
伸びたと言われ、誇らしい気分になれた。
その日総一郎は、正体を失くして泥の様に眠った。
夏休みのあの日から、ずっとそんな日々の連続だった。
山を登らせられて、真剣で対峙し、木刀で打ち合う。意外にも、
真剣での立会が一番辛かった。しかしそれだけ、何かがある、とい
うようにも思った。
実際、何かを掴みかけている、という感覚があった。雲を掴むよ
うでもあったが、いずれ掴める、というのは確信にも近かった。
285
だが、不意に総一郎は、魔法に対する渇望に襲われた。
剣だけでは、満足できなかったのである。それを父に伝えた所、
一拍置いて許可が出た。一週間に一度、白刃にて対峙するのみで稽
古を終えるという日が作られた。日曜日の今日が丁度その日で、禁
断症状が出掛かっていた総一郎は、目をギラギラと輝かせて魔法書
を読み漁った。
今読むのは、闇魔法について言及している新書である。
闇属性の加護を与える亜人というのは、存外に少ない。というの
も、その大抵は悪魔に偏られるからである。日本の妖怪などでは夜
雀なども与えてくれるようだったが、大抵は夜叉や鬼女、中には魔
王と称される山本五郎左衛門なんかも、闇属性を授けたという記述
が載っていた。
総一郎の予想では、あの﹃ナイ﹄と名乗った少女の加護である事
は、確かな事だった。しかし、それにしては明朗にして可憐な少女
であったので、悩ましい事である。一通りその本は読んでしまった
が、それ以上の情報は出てこなかった。
﹁ふー﹂
声半分息半分と言った風な吐息。頭がいい具合に痺れる感覚に、
畳に転がりぼんやりと虚空を眺めた。ふと視線を感じて横を見る。
襖が微かに開いているが、そこに人影はない。無いながら、分かっ
てしまった。笑いながら、声をかける。
﹁白ねえ、出ておいでよ﹂
286
言うと、露見したのが恥ずかしいとでもいう様に、唇をもごもご
させた僅かに赤面している白羽が、光魔法を解いて姿を現した。
総一郎は自分用に持ってきておいたお菓子袋を引っ張りだし、分
けるようにして白羽とつついた。頭の軋みも取れて、立ち上がる。
まだ、日は高い。その為、白羽を空中散歩に誘った。
子犬の様な愛らしい笑顔で、白羽は首肯する。
翼を広げた白羽が飛び上がるのを見ながら、総一郎はまず重力魔
法で自重を軽くした。更に風魔法を身に纏い、最初だけ物理魔法を
使って飛びあがる。それで白羽を追い越すと、ムキになって彼女は
総一郎を追い越し返す。総一郎も笑いながら、風魔法で白羽の上に
浮き昇った。
そんな他愛のないやり取りが連続して、いつの間にか遥か高くに
舞い上がっていた。町がフィギュアの様に細かく小さい。そんな景
色に感動しながら、総一郎は不思議な全能感に包まれていた。と同
時に思う。ただ剣だけの勝負ならいざ知らず、魔法も交えれば父と
の稽古でも、一本くらいならばとれるのではないかと。
周囲を見回しても、白羽以外に上空を飛ぶ人間はいない。殊更、
空高くを飛んではならないという法律や規則もないというのに、で
ある。それはつまり、ここまで飛び上がることそのものが、困難だ
からではないだろうか。この景色は、毎日見ても薄れる事は無いほ
どに美しいのだから。
そんな風に思ってから、稽古に対する真摯な態度は変わらずとも、
総一郎は父を侮るともいえない、小さな不満を溜めこむようになっ
287
た。
稽古を始めた理由を、教えてくれない。というのが最も比率の高
い不満だった。三種の稽古は、それぞれ辛いながらも納得できる。
しかし、今まで気配もなかった稽古を再開させた理由くらい、と思
ったのだ。
そして、とうとう鬱憤を晴らすべく、総一郎は父に直談判を敢行
した。
﹁お父さん、何で、稽古を再開しようと思ったのですか?﹂
真っ直ぐな目で尋ねたのは、山登りにも慣れた夏休み最後の日の、
午後の事だ。真剣での対峙は終わり、竹刀での打ち合いに入る直前
の空白時間を狙ったのである。
父はそんな総一郎を、無表情のまま、何処か値踏みするように見
据えていた。総一郎は、それに負けるつもりは少しもなかった。睨
み合っていると、父はふいと視線を逸らして﹁付いて来い﹂とだけ
言った。
そこは、掛け軸の裏にあった。
掛け軸は取っ払うと、分かりにくい扉があった。それに驚く暇も
なく父は入っていき、総一郎も追っていく。電気をつけると、その
中の部屋は小さいのにも拘らず雑多な古ボケた本で溢れていて、﹁
書斎だ﹂と一言父は言った。
だが、それで終わりではなかった。
288
父は部屋の中央にあった机を退かし、床を探った。しばしそれが
続くと、父は何らかの感触を得たようで、その場所を強く押して床
戸を開けた。まるでも何もない、秘密扉である。その階下には無機
的な階段が伸びていて、最後には闇に呑みこまれていった。
父はその手に光魔法を灯し、部屋に投げ入れた。闇は一瞬の内に
光に食い破られ、常人にも問題ない程度の光量を保ち始める。父に
連れられ、下りて行った。階段は、急だ。
そこに在るのも、本だった。だが、上階のような煤けた雰囲気は
無い。古いのだと推察できるものは有れど、どれも整理整頓され、
それぞれ妙な存在感を放っている。ある一冊に目を惹かれ、それに
手を伸ばそうとした瞬間に、父はそれを制止した。その声は、隠し
きれない必死さがあった。
﹁⋮⋮お父さん。ここは一体⋮⋮﹂
父は問いに答えないまま、黒々とした数冊の本を取り出した。そ
の数冊を見て、総一郎は思わず息を呑んでいた。存在感、どころで
はない。禍々しい瘴気を纏っている。
﹁この本は、まだ安全な方だ。見ても、害はない﹂
逆に言えば、見るだけで害を及ぼす本がこの部屋には在るという
事だった。
恐る恐る、総一郎は覗き込んだ。アラビア辺りの字が気違い染み
た羅列を残していて、見るだけで嫌な気分になってくる。本に視線
を落としたまま、父は闇魔法を授けた者に心当たりはあるかと問う
た。
289
﹁多分、女の子だったと思います。自分が神であると、言っていま
した。確か、イギリスや、エジプトなどの国の神だと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮名は、聞いたのか﹂
﹁ナイ、と。日本では、かつて﹃持たない神﹄と呼ばれたとの事で
す﹂
﹁容姿は、どうだ? 醜いか、それとも美しいのか﹂
﹁可愛らしい、子でした﹂
言いきってから、総一郎は震えるように息を吐き出した。息が詰
まるとも言うのか。吐き気とも知らぬ不快感が、喉のあたりにへば
りついている。
﹁⋮⋮そうか﹂
目を瞑って、父は言った。数瞬の間があり、ため息とともに緩く
開かれる。何か特定のページを探しているのか、紙擦れの音と共に
捲られていった。そして、手が止まる。
その中央には、しなびた人のような、足が三本の、頭が舌のよう
に尖った怪物が描かれていた。
﹁お前に闇魔法の加護を与えたのは、恐らくコレだ。﹃無貌の神﹄。
持たない、というのは、きっと顔の事だろう。渾沌を好み、破滅を
誘う。外宇宙の強大な神々の内の一柱だ﹂
290
﹁ずいぶんな言い様だね。総一郎君のお父さん?﹂
総一郎は、バッと顔を上げた。総一郎と父の眼前。そこに、愛ら
しい笑顔を浮かべたナイが立っている。
﹁⋮⋮お前が、件の﹃ナイ﹄か﹂
﹁うん。︱︱でも、ひっどいなぁ∼。こんなにすぐにバラされちゃ
うなんて、思ってもみなかったよ。どうしようかな。腹いせに殺し
て、総一郎君の記憶も消して帰ろうかな?﹂
笑みは、いつの間にか歪さを灯していた。蝋燭の火に、油を足し
ていく様にも似ている。総一郎は、一歩下がって警戒態勢を取った。
幸い、手にしていた木刀は手放していない。しかし父は動じもせず
に、淡々と尋ねていく。
﹁何故、総一郎に興味を持った﹂
﹁だって、こんなに可愛いんだもん!﹂
ナイは飛び上がり、総一郎に押し倒してその唇を吸った。もがい
て逃れようとするが、上手くいかない。ナイの力が強いのではなく、
思い通りにさせない方法を熟知していると言えば正しいのか。
彼女の短い髪が顔にかかり、甘い匂いが香った。睡蓮の花にもよ
く似ている。甘く、女を意識させる匂いだった。舌が口に入るのを、
必死に拒む。
集中した反動か、その手は、彼の幼いながら引き締められた肢体
を柔らかく撫でつけた。快感が走り、余計にもがく総一郎。ナイは
291
唇を放して、淫靡に笑った。伝う涎が、少年と女神を結び付ける。
総一郎が暴れたせいなのか、その衣服は少々の乱れを見せていた。
﹁下らない誤魔化しは止めろ﹂
父の何処までも冷静な声が、部屋中に響いた。
一瞬、ナイの表情が抜け落ち、しかし喜悦を含んだそれに戻って
いく。馬乗りからしな垂れかかるようにすると、その体温が一層近
く感じられた。純白の柔肌の感触が、総一郎の体の血の巡りを加速
させていく。耳元に、囁かれた。
﹁⋮⋮総一郎君のお父さんって、厄介だね。本当に、ここで殺しち
ゃおっかな﹂
止めろという言葉は、力なく首を絞める手によって阻まれた。だ
が、その表情は慈愛に満ちているようにさえ見える。母親が赤子を
抱く視線。愛しい恋人を感じる唇。ある種の期待を込めた目は総一
郎から外され、ゆったりと背中を曲げながら、ナイは上体を起こし
て肩越しに父を見やる。
﹁︱︱そこまで言うなら、教えてあげるよ。総一郎君はね、⋮⋮特
別なんだ﹂
父に向けられた笑みは、先ほどの歪なそれだ。ならば、先ほどの
愛しいそれは何なのだ、と訝しむ気持ちが湧く。
﹁総一郎君が生まれた同日同時刻、数人の赤ちゃんが、世界中の様
々な文化圏で生まれ落ちた。その間には、人間である事くらいしか、
共通点が無いような子供たちだ。でも、ただ一つだけ、共通点があ
292
る事をボクは知った。⋮⋮何だと思う?﹂
父は変わらず、唇を一文字に引き締めている。
﹁ボクにも、ある先からの未来が見えないんだ﹂
面白くて仕方がないという声だった。
﹁ある程度なら、見える。けど、それ以上はいけないっていうのか
な。木っ端妖怪がその先まで見ようとしていて苛立たしいから殺し
てしまったけれど、多分、放っておいても奴は死んだよ。多くの神
を従えるボクでさえ、総一郎君の未来は少ししか見えない﹂
﹁少しって、どのくらいなの?﹂
険しい顔で、総一郎はナイを見上げた。ナイは視線を戻し、にこ、
と笑って言う。
﹁大体、二年後くらいかな。一種の、契機があるんだと思う。それ
がまだ確定していないから、見えない。その先の未来が、どの様に
なるのかがね﹂
そのまま、彼女は立ち上がり、目を細めて父を見た。笑んでいる
ものの、敵意が滲んでいる。﹁じゃあ、そろそろかな﹂と言った。
女神の目の色が、金色に変わる。
﹁これだけ可愛い息子さんの事を教えてあげたんだ。冥土の土産に
はちょうどいいでしょ? そういえば、総一郎君、マヨヒガで雷神
が同じようなことを言っていたね。あの時の様に、ボクを止めてみ
る?﹂
293
総一郎は、ナイの手を握り拘束しようとした。しかしその手は空
を切り、ナイは気付けば父の目の前に居る。
﹁何か、言い残すことはあるかな﹂
長身の父を見上げながら、人差し指の先を使い、艶めかしい仕草
でその顎筋を撫でる。父は死に直面しても変わらず、冷たい声と共
にその指を平手で打ちすえた。
﹁ここは、私の家だ。今すぐ、出て行って貰おうか﹂
凄惨な笑みと共に、ナイの指先が空中を走った。禍々しい赤い印
が、くすんだように光りはじめる。それを、父は刀を振るって砕い
た。赤い印は、煙の様になって掻き消えた。
その刀を、ナイは奪い取っていた。返す刃で父を両断しようとし
ている。素早く、外れはしないだろうと思わせる剣筋。父はそのま
ま、背後の壁を叩いた。
ナイが、躰を折って崩れ落ちた。
父は変わらず、力を入れず壁を叩いている。独特の、規則性のな
いように思えるリズムだった。這いつくばった女神は、驚愕と憎悪
に染めた表情で、苦しげに父を見上げる。父はもう、彼女の事を見
ようともせず、総一郎に命じた。
﹁総一郎、これの首を刎ねろ。お前の持つ木刀ならば、可能だ﹂
その言葉に、総一郎は恐怖した。ナイの言葉も恐ろしかったが、
294
それは総一郎に殺人を強要させるものではなかったから、ここまで
恐ろしいとは思わなかった。だが、今は違うのだ。父は本気で、総
一郎に殺しをさせようとしている。
だが、そんな総一郎の様子を見て、父は最後とばかり壁を強く叩
くだけだった。崩れ落ちたナイには脇目も振らず、総一郎の木刀を
取り上げて振るう。ナイの首が、あっさりと飛んだ。その断面から
黒い煙が湧いて出てきた瞬間に、最初から何も居なかったように、
ナイの死体は姿を消した。
﹁光、音、そして空間魔法だ。お前に知覚できないようにしてから、
ここから消した﹂
﹁⋮⋮空間魔法とは、何ですか﹂
﹁いつかお前に出させた、あの虹色に輝く魔法だ﹂
もうここに用は無いとばかり、父は踵を返し、﹁もう奴は日本に
は来れない。だが、油断するな。死んだという訳ではないのだ﹂と
総一郎に告げて、階段を上り始めた。
結局、稽古を始めた理由は告げられない。しかし、尋ねるのは愚
かな事だった。すたすたと上る父の後姿を見送りながら、総一郎は
一度、軽い力で壁を叩いた。﹁お前にはまだ早い﹂という言葉に、
ビクッと身を震わせて、急いでその後を追っていく。
これは、その日の夜食の事だ。
295
﹁白羽。総一郎と手合せする気はあるか?﹂
父の言葉に、子供たち二人は顔を上げた。そもそもの意味が分か
らないとでも言いたげに、白羽は﹁え?﹂と首を傾げている。
﹁ライラ、白羽はどの程度だ﹂
﹁天使としては半人前って所かしら﹂
﹁⋮⋮そうか。まぁ、その程度ならいいだろう。総一郎、一度、白
羽と手合せをしろ﹂
言われて、戸惑う姉弟。総一郎は言う。
﹁ちょっと待ってください。白ねえは、光、火魔法は使えますが、
それだけじゃないですか。稽古をつけないで手合せなんて無謀です﹂
﹁私は、そのお前の驕りを正したいのだ﹂
父の言葉に呆然となる。驕りとは、どういう事か。それでは、総
一郎が白羽に負けるとでも言うのか。
総一郎、と父が呼ぶ。
﹁今回の件で、私は自らの考えが浅薄であった事を知った。お前は、
過ぎるほどに謙虚であったほうが良い。蟻とも、蚊とも言えない。
それが、お前自身の強さであると﹂
﹁⋮⋮そこまで、白ねえは強いのですか?﹂
296
﹁白羽、どうだ﹂
男たちの視線が、白羽に向かう。少女は一瞬考え込んだが、結局、
首を傾げた。
﹁やってみるまでは、分かんないよ﹂
勝つ可能性を加味した判断は、総一郎に反骨心を抱かせた。白羽
は母に何か教えてもらっている事はあったが、総一郎の様に辛い修
行という物を経ていない。しかし、父は勝つと思っているのだ。そ
れならば、今までの稽古が実を結ばないではないか。
半ば意地になって、夕食の残りをかっ込み、総一郎は立ち上がっ
た。﹁ごちそう様!﹂と叩き付けるようにして、道場に向かう。
素振りをし始め、十分が経った頃に、白羽と父が現れた。白羽は
総一郎と目が合うと、挑むように輝く瞳で、好戦的に笑みを浮かべ
てくる。総一郎は、敵意を見せるように木刀を振った。風断ちの音。
頭が冴えていく。
お互いに一定の距離を取り合って、向かい合った。総一郎は木刀
を構え、白羽は何も持っていない。魔法を使っていいのかと父に問
えば、当然だとの事だった。
﹁総ちゃん。忘れてるみたいだから言うけど、私、種族魔法が使え
るから、結構強いんだよ?﹂
﹁あんなの、風で飛ばせば何とかなるじゃないか。そんなのは強い
とは言わないよ﹂
297
言い返すと、白羽はむっと唇を尖らせた。総一郎は少し大人げな
いことを言ったと思ったが、白羽は気にするタイプでもないし、む
しろ手合せに対する意気も揚がるだろうと考え、弁解は口にしなか
った。
﹁では、双方︱︱始め﹂
﹁主よ﹂
いつかの母の様に手を組んだ白羽が、俯いて、言葉と共に翼を広
げた。改めて見れば、記憶より一回り大きいような気もする。翼か
ら羽根が舞い、彼女の周囲を包み込んだ。問題にもならない、と視
線を鋭くし、総一郎は駆け出す。
先ほどの通り、風魔法を使った。羽根は易々と吹き飛んで行き、
瞬時に白羽を肉薄にする。すかさず木刀を振るった。総一郎の得物
は、白羽の胴体を両断した。
﹁え?﹂
彼女の体は瞬時に崩壊し、大量の羽根に変わる。幻覚だと気付い
た時には遅かった。白羽の翼の断片は、総一郎に大量に付着してい
た。
﹁地に下り立つ為の、羽ばたきを下さい﹂
総一郎に触れた多くの白き小さな翼は、その微毛を自らの分身と
して、白羽のそれと全く同じに生まれ変わった。総一郎はそれらが
一度に羽ばたくことによって、強い力で地面に押しつぶされる。
298
その力を失くすべく、風魔法を使い体のあちこちから生える翼の
周囲から空気を奪った。羽は、空気があるから羽ばたける。しかし
それにも関わらず、総一郎の枷は外れなかった。
﹁無駄だよ、総ちゃん。その翼は主から賜った、﹃飛ぶ﹄という概
念を纏ったものだから、物理⋮⋮だっけ? そういう原理から、外
れてるの﹂
お父さん、これで終わりで良いですか? という白羽の素っ気な
い宣言に、強くもがき続けた。脱出することは、叶わなかった。十
秒近く、父の冷めた視線を受け続け、総一郎が力を失ったのと同時
に、立会いの終了が告げられた。
﹁えっと⋮⋮。じゃあね、総ちゃん﹂
試合前と何ら変わりのない声音に、総一郎は深い衝撃を受けた。
羽根による拘束が無くなっても、立ち上がれなかった。ただ、今ま
での苦労は何だったんだ。と思わせられる。脱力している間は、何
も起こらなかった。歯を食いしばった瞬間に、涙が伝った。
総一郎にとって、白羽は守るべき相手だった。何よりも、大切に
しなければならない存在だった。
それも碌に適わないのだと知ると、重たい無力感が全身を包み込
んだ。
﹁総一郎、それがお前の今の強さだ。守りたい相手にさえ、負ける。
その事を、心に刻み込め﹂
父の足音が、段々と遠ざかっていく。道場の電気が消され、暗闇
299
が満ちた。やむなく、総一郎は立ち上がり外に出た。人のいる場所
に、居たくなかったのだ。
満月が、空高くに輝いていた。しかし蛍は飛んでいない。鬼火も、
今日は居ないようだった。総一郎以外、何も居ない。それが有難い
ようで、何故か寂しさが募った。
その時、腕に蚊が止まっているのに気付いて、考える前に叩いて
いた。手を退ければ、潰れて死んだ蚊が掌にこびり付いている。
父の言葉が、脳裏によぎった。井戸の脇を見れば、いつか建てた
蟻の墓がある。
﹁弱かったからだ﹂
ぽつりと、呟いていた。蟻は、溺れない。だが、あの蟻は特別弱
く、故に溺死した。蚊も、同じだ。総一郎に気付かれないだけの力
量が無く、叩き殺された。
﹃蟻とも、蚊とも言えない﹄。それほど、総一郎は弱い。ぐ、と噛
み締めて、月を見上げる。
重力魔法で自重を軽くし、物理魔術、風魔法をひたすらに使って
も、到底届かない成層圏のその先。その存在すら知覚せず、総一郎
は中空で驕っていた。
蟻や、蚊と同じなのだ。何も知らず、自分の弱さも分からない。
潰れて手に付いた蚊の死骸を、総一郎はじっと見つめていた。
月の光を一身に浴びながら、一人静かに磨り潰す。
300
挿話2 ある少年の初恋︻上︼
母から、﹁久々にファーガス君に会いたい?﹂と尋ねられた。
とある、夏の日の事だった。総一郎は父との稽古を終えて、白羽
と共に食べるためのアイスを二つ、手にしていた。少年は小さなタ
オルを首にかけながら、きょとんとして言う。
﹁こっちに来られるの?﹂
﹁ええ。あちらの方も休暇中で、来たいって五月蝿いんですって。
総一郎はどう?﹂
どう、と尋ねられれば、嬉しくないわけがなかった。二年ぶりの
再会だろうか。顔のにやける感覚を覚えつつ、﹁本当に? いつ来
るの?﹂と返す。
﹁分かんないけど⋮⋮、多分、この夏中には来られると思うわよ﹂
﹁ほう⋮⋮。おおぉぅ。ヤバい。何か嬉しくなってきた。ちょっと
白ねえと一緒に空中レースしてくる。時速五百くらいまでならいい
よね?﹂
﹁五十にしときなさい。アイス食べながら五百キロも出したら、一
瞬で風に持ってかれた挙句、落ちたアイスで人が死ぬわよ?﹂
﹁分かったよ。じゃあ、食べ終わったら﹂
301
﹁ならよし﹂
﹁行ってきまーす! 白ねえ∼!﹂
総一郎は、アイスを両手に走り出した。木の床を走ると、裸足の
せいでぺたぺたと音がする。障子などが開け放たれた家の中で、セ
ミの鳴き声が反響している。
総一郎の心は、踊っていた。久しぶりの親友との再会である。
実のところを言うと、ファーガスとは連絡を良くとっていた。
日本国内ではだいぶ無理をさせていたから、メールでくらいは英
語でやろうと持ちかけた。しばらくはそうだったが、唐突に彼が、
文法が滅茶苦茶の日本語で、日本語での文通にしてくれと頼みこん
できて、それ以来そのようになっていた。
理由は、定かではない。だが、やはり彼の語学力には目覚ましい
ものがあった。今では一週間に二、三回ほどメールを交わすのだが、
とりあえず文面の上ではネイティブレベルの練度となっている。
そのため、母からの﹁いついつに来るから、準備しておきなさい﹂
というような言葉を、総一郎は待ち望んでいた。あれから数年も経
っていないが、スピーカーとして彼はどれほど日本語を話せるよう
になっているだろう。それを除いても、総一郎が今まで身に着けた
魔法などを披露するのは楽しみだった。亜人の友人︱︱たとえば、
タマを紹介するのも同じだ。
302
母からファーガスの来訪を告げられた翌日、ワクワクしながら総
一郎は家中をうろうろしていた。その後ろを、白羽が付いて来てい
る。
そうすぐに来るはずもない事は、理解していた。しかし、子供の
体と言うものは厄介なもので、心躍る出来事が待っていると、どう
にも耐え切れずそわそわしてしまうのだ。
そんな風にして家中を徘徊し、父に奇妙な目で見られ、途端に恥
ずかしくなって二人で身を縮こまらせつつ早足で逃げていると、玄
関に通りがかった時に丁度呼び鈴が鳴った。
白羽が、それに一早く反応した。彼女は来訪者に対して、自分で
戸を開けるのが好きなのだ。そして、﹁えぇぇぇぇぇぇえええええ
ええええ!?﹂と叫ぶ。
﹁何々!? どうしたの白ね、えっ﹂
二人は、ただ唖然として口を開ける。開けた玄関の向こうにあっ
たのは、栗毛の少年の姿だった。ソウイチロウとほとんど同じ背丈
の彼は、不釣り合いなほど大きなボストンバッグを肩に背負ってい
る。キーホルダーに、猫の写真が付いていた。
﹁ファーガス!﹂
﹁ソウイチロウ! 久しぶり!﹂
ファーガスが両手を広げたので、思わず総一郎も西洋式の挨拶に
倣いハグをした。そのまま﹁シラハも久しぶり!﹂と軽くハグを交
わす。ソウイチロウの少し戸惑い気味のそれに対し、彼女のそれは
303
﹁ファーちゃんお久ー!﹂とノリノリだ。
﹁うわ、メールが凄いから少し予想してたけど、もうすでにネイテ
ィブレベルじゃないか! というか、いつ日本に来たの?﹂
﹁あれ? 親父伝いで連絡は行ってたと思うんだけどな﹂
首を傾げるファーガス。そこに、パタパタと駆けてくる足音が聞
こえてきた。﹁久しぶり∼、ファーガス君。よく来たわねー﹂と母
が出迎える。
﹁⋮⋮母さん?﹂
﹁⋮⋮テヘっ﹂
﹁二児の母がいまさら何やってんの⋮⋮﹂
どうやら母のドッキリだったらしい。最近思うのだが、白羽の生
来のユーモアは彼女の遺伝なのではないか。
しかし、それだけに驚きと嬉しさもひとしおだったのは確かなこ
とだ。改めて礼を言う気にはならないが、腹を立てるほどのもので
はないだろう。
ともかく、ファーガスを迎え入れた。当然父にもすでに連絡が行
っていて、﹁よく来た。数週間、くつろいでいくと良い﹂と一言言
って、また自室に引っこんでしまった。
今回訪問したのは、ファーガス一人という事だった。しかし、小
学二年生がたった一人で国際旅行などできる訳もない。言うまでも
304
なく両親に付き添われたのだが、その二人は息子を置いて結婚記念
旅行と決め込んでいるとか。何ともむず痒い話である。
そんな風にして滞在することになったファーガスだったが、二度
目という事もあり、武士垣外家になじむのは前回に比べても早かっ
た。日本語の上達っぷりが非常なものだったというのもあるだろう。
日本人特有の音便やら、ら抜き言葉などの機微も抑えているのだか
ら恐れ入る。
その日は時期的には夏休み中盤で、総一郎たちの学校が始まるの
と同時に彼は祖国へ帰っていくらしい。中々の長期滞在だ。
そんな訳だから、一週間が過ぎる頃、ほとんど彼は武士垣外家の
一員と化していた。亜人の紹介なども済ませて、今ではタマを頭に
乗せて、彼の指導を受けながら総一郎と碁を打ったりする。
今日も、そうしていた。ファーガスはボードゲームがあまり強く
なく、しかし頭が悪いわけではないので、タマに教わった戦法で総
一郎を苦しめる時もよくある。
﹁いいか、ファー坊。総一郎は頭がいい。だが、それはお前さんも
同じだ。冷静に、使える技を使っていきゃあいいんだよ。有効な手
札が無かったら、考えて作り出せ。いざとなりゃあ、俺が助言をく
れてやる﹂
﹁頼みにしてるぜ、相棒﹂
﹁⋮⋮何だか、僕悪役みたいでヤダなぁ﹂
再会したファーガスには、改めて気づかされた生来らしき魅力が
305
あった。人々の中心に自然と立っているような雰囲気があるとでも
言おうか。寛容さと情熱。総一郎に置いては、情熱の矛先など剣と
魔法にくらいしか向かないから、彼には一歩及ばないと言ったとこ
ろだろう。
特にそれが不満という事でもなく、ただそんな風に認識している
というだけだった。どちらにせよ総一郎はファーガスの親友で、付
き合いこそ短いが般若兄妹などと並ぶ位置にいるというのは間違い
のない事なのだ。
もちろん、白羽は最上位に位置している。
そんな彼女だが、今日は般若家に遊びに行っている。なにやら、
図書が新しくゲームを買ったので、混ざってくるという話だった。
総一郎が行かなかったのは、最近、ファーガスとの碁打ちが予想
以上に面白くなってきたからだ。
タマと直接碁を打つ時もあるが、大抵は総一郎が勝つ。だが彼が
指導という立場で、打つのはあくまでファーガスという状況ならば、
なかなかに強い。総一郎が負かされる日も近いだろう。
﹁そういえば、ファーガスが拉致った猫ちゃん。今どうしてる?﹂
﹁拉致ってねぇし。元気にしてるよ。人懐っこくて、それがまた可
愛くて﹂
﹁名前は?﹂
﹁アメリア﹂
306
﹁結構しっかりした名前付けたね。いい名だ﹂
﹁ありがとよ﹂
パチ、と総一郎は白石を打つ。ファーガスは長考をしないから、
すぐに次の手が来て総一郎の手番になる。総一郎は器用な性質で、
雑談しながらも手を試行錯誤できた。もっとも、雑談の方はより一
層雑になるのだが。
﹁ファー坊。ここはどうすべきか教えたな?﹂
﹁⋮⋮ああ! そういえば使えるな。了解。⋮⋮ってーと、ふむ﹂
﹁あの、二人とも。今は僕の手番だからね?﹂
謎のプレッシャーが総一郎に圧し掛かる。そういう話は自分の手
番で言ってほしい。
しかし、彼が来てからすでに二週間は経っているが、それでも随
分と打ち解けたものである。タマなどほとんど毎日遊びに来るよう
になり、その上ずっとファーガスの頭の上に引っ付いている。他の
亜人たちにも好かれていて、法律がなければ彼に加護を与えたかっ
たという人物は後を絶たない。
もちろん動物への魅了は健在で、その上熟練度が増してものすご
いことになっていた。口では簡単に言い表せないほどで、一例をあ
げるとするならば、ファーガスと鬼ごっこをするときはこちらにも
魔法を使わせてほしいと思うレベルである。
307
﹁イギリスでの土産話とかある?﹂
﹁んー、そうだな。友達とポーカーやってたら、あっちで一番仲の
いい奴がロイヤルストレートフラッシュ出したことがあってさ﹂
﹁おお。凄いね、それ﹂
﹁ただし他の奴らは全員危機を察知して、その回のゲームを降りて
いたという﹂
﹁悲しい!﹂
奇跡の無駄遣いである。
﹁ちなみにその時のファーガスの手札は?﹂
﹁ブタ﹂
﹁せめて空気読んであげなよ⋮⋮﹂
﹁いや、そいつ分かりやすくってなぁ⋮⋮﹂
微笑ましげな笑みを浮かべるファーガス。それに総一郎は違和感
を覚える。
﹁⋮⋮それって、もしかして女の子?﹂
﹁えっ、はっ!? 何で分かった!?﹂
﹁総一郎の勘の良さは、亜人仲間の間でも有名だからな﹂
308
くつくつと、ファーガスの頭の上でタマが笑っていた。﹁うるさ
い﹂とファーガスは彼を下ろして膝に乗せ、のど元を撫でまくりは
じめる。
﹁うっ、やめ、う、あ。はぁあ⋮⋮﹂
﹁目に見えて脱力したね、タマ﹂
ゴロゴロと喉を鳴らし始める彼の姿は、はっきり言って普通の猫
と大差ない。いつものてやんでい口調もどこへやら。流石は動物の
類に滅法強いファーガスである。
﹁⋮⋮で? どんな子なの? お名前は?﹂
﹁⋮⋮言いたくない﹂
﹁そんなぁ。言ってよ、折角なんだから。どうせ、僕はその人と会
う機会なんて訪れないんだろうし﹂
肘で軽くファーガスをつつく。すると彼は難しい顔をしてから、
ハッ、と名案を思い付いたように顔色を明るくした。そして、やり
返すような意地悪な笑みを総一郎に向けてくる。
﹁じゃあ、総一郎の好きな人︱︱シラハとルカの二人から、きっか
り選んでもらおうか! それが出来たら話してやらないでもないけ
ど、⋮⋮ふっふっふ。出来ないだろ?﹂
﹁白ねぇ。ほら、早く言ってよ。好きな人の名前﹂
309
﹁お前少しは迷えよ! ルカが可哀想だろ!﹂
琉歌と図書なら相当迷ったが、生憎と白羽は総一郎の中でずば抜
けた位置にいるのは前述のとおりである。言い忘れていたが、白羽
の次は父だ。総一郎は家族思いなのである。
総一郎の即答に﹁畜生⋮⋮﹂と悔しがるファーガス。一体どれほ
ど日本語を学べばここまですらすらとこれほど多くの語彙が出てく
るのかと、総一郎は甚だ疑問だった。
﹁それで? 何て名前?﹂
﹁⋮⋮クリスタベル・アデラ・ダスティン﹂
﹁なんかすごい名前だね﹂
﹁まぁな。何たって、貴族だし﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
彼は今、何と言った?
驚きついでに白石を打った。するとファーガスは﹁ん﹂と眉を顰
めて、十秒ほど彼にしては長考した後、パチンと黒石を打つ。繋ぎ
の一手。しかし、どうも何かが潜んでいるようでならない。再び総
一郎は長考し始める。雑談もまた続く。
﹁︱︱貴族?﹂
﹁ああ、貴族﹂
310
﹁あの、舞踏会でらんらん踊りつつ謀略を巡らせ、いざ軍事となっ
たら大きな槍とか弓矢とか使って﹃突撃ー!﹄ってやる人?﹂
﹁ソウイチロウのイメージは中世で止まってるな﹂
﹁仕方ないじゃないか。僕理系だし。そこまで歴史とか政治とかに
は明るくないんだよ﹂
﹁そういう問題でもないだろうけどな⋮⋮。つっても、最近の貴族
はあながちソウイチロウのイメージから外れてない。敵対するのが
亜人になったくらいで﹂
﹁あー、図書にぃが言ってたなぁ、そんな事﹂
﹁だからさ、日本のことを知って俺びっくりしたんだよ。亜人って
言えば、俺たちからしたら﹃夜更かししてると亜人が来て食べられ
ちゃうわよ﹄みたいな全国の母親の常套句の一部にすぎなかったも
んだからさ﹂
﹁日本だと鬼だね。人食い鬼﹂
﹁そうそう。それが日本じゃ陽気に過ごしてるんだよ。ほら、この
ふにゃふにゃになったケットシーみたいにな﹂
﹁ん? あれ? タマ!?﹂
ファーガスに撫でられすぎて、タマは生物として蕩けきったよう
な状態になっていた。目はトロンと虚空を眺め、四肢も弛緩してい
る。まるで、言い方が悪いが、致死量寸前の麻薬を打ったような状
311
態だった。麻薬に致死量があるのかどうかなんて知ったこっちゃな
いが。 仕方ないのでファーガスから受け取って、縁側から地面に降り、
近くの茂みの中に投げ込んだ。﹁おい! そんな乱暴するなよ!﹂
とファーガスが見咎めるが、﹁いいんだよ﹂と少年は答える。
﹁亜人っていうのは、自然に近しい環境に居る限りすぐに正常に戻
るから。今日は多分戻らないだろうけど、明日になったらぴんぴん
して顔を出すよ﹂
﹁⋮⋮そういうもんなのか?﹂
﹁だから日本はこんなに緑化運動に力を入れてるのさ﹂
縁側に戻り、﹁それで、﹂と言いつつ石を打つ。ファーガスはさ
して考える様子もなく、一手を返してくる。︱︱ふむ、今の一手で
は、彼の企みを阻めなかったか。
﹁でも、貴族って身分差とかすごいんじゃない? 僕が言うのもな
んだけど⋮⋮大丈夫なのかと﹂
﹁んー⋮⋮。フラグは立てた﹂
﹁フラグ? ⋮⋮何か聞いた事あるな。何かものすごい昔に、スラ
ングか何かであったような⋮⋮﹂
﹁あれ、これって今は死語なのか?﹂
﹁今って?﹂
312
﹁あ、いや⋮⋮﹂
言葉を濁すファーガス。しかし総一郎も訳が分からず、続く彼の
誤魔化しに乗るしかなかった。
﹁ともかく、縁は切れてないって感じか? うん。まだ脈はある﹂
﹁ほぅ、どうやって?﹂
﹁それを語るには、まず馴れ初めから離さないといけないんだが⋮
⋮。長くなるぜ?﹂
﹁いいよ。どんと来い﹂
ちりん、と風鈴がなった。総一郎の興味はすでにファーガスの話
の方に移っていて、終盤に差し掛かった碁盤も半ばどうでもよくな
っていた。日はすでに傾きつつあり、その赤い光がガラス製の風鈴
を通り、不思議な光を畳に照らし出している。
313
挿話2 ある少年の初恋︻下︼
ファーガスと件の少女︱︱愛称をベルというらしい︱︱との馴れ
初めは、よく聞くが現実にはそうないという珍しいものだった。
非常に簡単に述べるならば、身分を隠したご令嬢と、貴族と知ら
ないまま仲良くなり、挙句の果ては危ない所を助け、そのまま士官
に似た状況になる︱︱というものだ。
実際のところはもう少し複雑な紆余曲折があったが、ここでは省
略しよう。妖精に助けられてオーガという化け物を倒した辺りはも
はやファンタジー小説だったが、意外にもファーガスの語りが上手
かった為、結構楽しかった総一郎だ。
﹁で、その助けてくれた妖精が︱︱何だっけ? シルフィードって
いうの?﹂
﹁ああ。あいつが居なければ、多分俺は今、ここに居ないな﹂
深い感謝を示すように何度か頷くファーガスに、風鈴が連動する
ようになっている。もしやと先ほどから気にはなっていたが、やは
りか。
妖精は、姿を消すことができる。自らの身を守るためだ。しかし、
自分の属性の探知機までは欺けない︱︱そう。たとえば、風にとっ
ての風鈴などだ。
総一郎はそれに目を向けて、呆れ顔を示す。
314
﹁盗み聞きは感心しないよ。シルフィード﹂
﹁だってこいつが褒め殺しにかかってくるんだもん! 大した事し
たつもりじゃないのにこんなに持ち上げられたら、﹃久しぶり∼﹄
なんて気楽に顔出せないわよ!﹂
﹁うわっ、はぁ!? おまっ、何でここに⋮⋮!﹂
風鈴の陰から突風と共に現れたシルフィード。彼女のせいで和室
内に風が荒れ狂い、ついでに碁盤も滅茶苦茶になった。﹁あーあ﹂
と言いつつジト目で見つめると、﹁うっ﹂と彼女はバツの悪そうな
表情になる。
﹁え、いや、ちょっと待ってくれ。何でシルフィードがここに⋮⋮﹂
﹁私、これでも妖精の中では相当上位の存在だからね。分裂して世
界各地にいるし、記憶も人格も共有してるわよ?﹂
﹁⋮⋮すげぇ⋮⋮﹂
﹁分かる。その、それ以外の言葉が全く出てこない感じ、凄い分か
る﹂
握手を求めると、こわばった表情のまま、硬く掌が交わされた。
シルフィードが﹁男の子って分からないわ⋮⋮﹂と顔を覆う。我な
がら、自分たちを基準にするのは間違っていると思ったが。
﹁で、何々? 何の話してるの?﹂
315
﹁ファーガスの初恋。馴れ初めを聞き終わったところだよ﹂
﹁へぇえ! よかったら私も混ぜてよ!﹂
﹁ヤダ。というか、お前ある程度想像できるだろ?﹂
﹁ぶぅー。なんならさ、ほら、助言とかしてあげられるかもしれな
いし﹂
﹁出来そうには思えないんだが﹂
﹁出来るわよ! ね? ほら、総一郎もファーガスに言ってあげて
よ﹂
﹁僕も到底君に助言役が務まるとは思えない﹂
﹁裏切り者! 加護あげたのに、酷い!﹂
人聞きの悪いことを。
しかし、シルフィードを二人でからかっていると、突然ファーガ
スが﹁いや、でも﹂と何事かを呟き、口に拳を当てて目を伏せた。
考え事をしているのかときょとんとしていると、﹁なぁ﹂とシルフ
ィードに向かって話しかける。
﹁亜人って長生きなんだよな? この山にも長寿の人っているか?﹂
﹁え、うん。そうね。私は普通に千ちょっと行ってるし、天狗ちゃ
んも似たようなものだったと思う。サラマンダーは私とまったく一
緒ね。山姥のばあちゃんは、五、六百くらい? 風神雷神はよく分
316
かんない﹂
﹁山姥さんが一番若いんだ⋮⋮﹂
﹁ううん、うちの山で長老として扱われてる奴の中で上げただけよ。
纏めるのとか山姥のばあちゃんが一番うまいから、正直私でも頭上
がらないし。それにそういう例で言ったら、さっきヘロヘロで戻っ
て来たタマとかも、かなり若いくせに切れ者だからね﹂
﹁確かに、碁では山でも五指に入るとか言ってたね﹂
﹁それに勝つ総一郎って何なんだ?﹂
﹁好きこそものの上手なれってね。というか、それを言ったらファ
ーガスの実力もなかなかのものだよ﹂
﹁天狗ちゃんが総一郎にボコボコにのされたときは笑ったわぁ﹂
﹁お前何してんだよ⋮⋮﹂
﹁それはともかく﹂
延々と主旨から遠ざかっていきそうだったので断ち切る。﹁ファ
ーガス﹂と名を呼ぶと、﹁ああ、そうか。悪い﹂と肩を竦めていた。
﹁そういう人たちの中で、身分差を超えた大恋愛をした人っている
か?﹂
﹁ぶっ﹂
317
シルフィードはファーガスの思わぬ質問に吹き出して、﹁ななな、
行き成り何を言うのよ!﹂と大きな動揺を示した。それにファーガ
スは、真摯な瞳でこのように言い放つ。
﹁あの時に一緒に助けた女の子︱︱ベルは、大貴族のご令嬢なんだ。
普通に貴族として登用されたとしても、手が届く領域にいるとは言
い難い。⋮⋮どうしても、一緒になりたいんだ﹂
﹁⋮⋮総一郎と言い、ファーガスといい、最近のガキは何でこう精
神年齢が高いのかしら﹂
︱︱ふつう、付き合いたいとか可愛らしい言葉が出てくるもんで
しょうが。何よ、一緒になりたいって︱︱とシルフィードはぶつぶ
つと、ファーガスの熱気に当てられたのか赤面しつつ呟いた。しば
し考え込んで、﹁仕方ないわね、いいわよ﹂と渋い顔ながら大きく、
何度も頷く。
﹁誰がどうこうっていうのは知らないけど、とりあえず紹介してあ
げる。気さくな連中だし、渋ってもおだてれば話してくれるわよ﹂
﹁良かったじゃないか、ファーガス﹂
二人の言葉に、彼は顔色を明るくした。それはまるで、初恋をし
た少年のようだった。
︱︱しかし、総一郎は振り返ると、この感想を酷く奇妙に思うの
だ。ファーガスは初恋をした少年そのものである。それを何故﹁ま
るで﹂などと思ったのか。
318
翌日、総一郎、ファーガス、そして白羽は三人で山を登っていた。
何故白羽がこの場に居るのかというと、つい総一郎が口を滑らせ
てしまった時﹃身分差を乗り越える方法、しーちゃんも知りたい!
いや、むしろ私も知りたい! 後学のために!﹄と微妙に翼が見
え隠れするほど真剣に申し入れてきた為である。そこにファーガス
を茶化すというような目的も見えなかったため、彼も渋々受け入れ
たのだ。
正直身分差をこえたい相手が居るのかという疑問があったのだが、
それに彼女は﹃身分差というか、大きな障害を越えるための方法を
私は学ばなければならないの! 理由は聞かないで! キャッ☆﹄
とのことだった。最後の﹃キャッ☆﹄には特に意味はないらしい。
そんなわけで山道を歩いていたのだが、ほぼ毎日十一往復する総
一郎と違い、二人はかなりバテ気味だった。仕方のないこととはい
え、これでは話を聞くころに二人ともぐったりしてしまう。
﹁⋮⋮おし。白ねえは先に翼で頂上まで行ってて。僕とファーガス
は︱︱風魔法でどうにかしてみる﹂
﹁ぜぇ、ぜぇ⋮⋮。⋮⋮それ、大丈夫なの? ファーちゃん⋮⋮死
なない?﹂
﹁頑張ってみる﹂
﹁ちょっと、待て⋮⋮。お前、何を、やらせるつもりだ⋮⋮!﹂
呼吸の荒いファーガスに重力魔法をかける。次に自分にも掛けて、
319
風魔法で一気に吹き上げた。木の葉が舞い上がるように、二人は急
上昇する。
﹁ちょっ、なっ、はぁぁぁああああああああ!?﹂
大絶叫のファーガスに、﹁大丈夫だよ、ファーちゃん! いざと
なったら私がキャッチ&リリースするから!﹂と励ましている。多
分地上でリリースすると言いたいのだろうが、この言い方だとさら
に高い所から放り出されそうでもある。
﹁マジ無理! マジ無理! 俺、高所恐怖症なんだよ! 大量の鳥
に服掴まれて空中に拉致られかけた時以来!﹂
﹁君の動物魅了スキルもとうとう行き着くところまで行ってるね!﹂
何百の鳥が集まればそんなことになるのだろう。
とはいえ、白羽と随分慣らした空中飛行である。その上体重も軽
いから、少々風魔法の掛け方が違うだけでそう難しい所作ではない。
﹁あわわわわわわわわわわわわわわわわ﹂
⋮⋮ファーガスが空中大回転している事を除けばの話だが。
﹁総ちゃん⋮⋮。多分ファーちゃん、地上着いたら吐くよ﹂
﹁何とかならない?﹂
﹁私、翼を貸すことくらいならできるけど﹂
320
﹁それを先に言ってよ!﹂
﹁それを先に言、うわぁぁぁ⋮⋮﹂
﹁ファーガス。弱ってるなら突っ込みは休んでいいんだよ?﹂
彼のハングリー精神も、昔から変わらないようだった。
ともあれ三人は無事山頂に到着した。ファーガスはしばし、そこ
の神社の石畳に手をついてぶるぶると震えていたが︵地面の感触を
確かめたかったらしい︶、シルフィードが迎えに来るころには全員
平静状態に戻り、彼女に神社の中へ案内された。
あつかわ村の神社の中には、大きな鏡がある。それは招魔境と言
う鏡で、くぐるとマヨヒガに入れるのだと。その住人の許可があれ
ば誰でも通過することができ、総一郎や白羽などは日常的にお邪魔
する程度には許可が下りていた。
﹁じゃあ、ファーガス。アンタもそれなりに頭がいいらしいから言
わなくともいいかもしれないけど、あんまり生意気な口は利かない
ようにね? 今日は風神もいるから﹂
﹁あー、風神さまかぁ。あの人へそ曲がりだから対応が難しいんだ
よね﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁まぁね、⋮⋮あはは。でもその割にあの人、人間の中では総一郎
が一番好きだって公言してるくらいだけどね。雷神も相当あんたの
こと気に入ってるけど﹂
321
﹁風魔法の加護を与える亜人って、なんか僕のこと気に入ってくれ
るよね。何で?﹂
﹁んー、割とサバサバしてる所、かな﹂
﹁サバサバしてるって程サバサバしてるつもりはないけれど⋮⋮﹂
﹁でも河童とかからはあんまり好かれないでしょ?﹂
﹁確かに﹂
﹁あいつらちょっと暗い子が好きなのよね。元気づけてやりたくな
るとか言ってたけど、私からしてみれば頭おかしいわよ。あのへち
ゃむくれ﹂
風属性の亜人と水属性は、あまり相性がよくなさそうだ。
マヨヒガに入ると、視界に広がったのは山姥の山小屋だった。こ
こは外が吹雪に覆われていて、しかし囲炉裏の近くや、奥の布団で
横になっているときは温かい。
﹁やぁやぁ、よく来たねぇ三人とも﹂
﹁よう総一郎! 聞いたぜ聞いたぜ。その坊主、何でも俺たちの恋
バナを聞きに来たんだってな! 大妖怪どもからそんな事を聞きた
いだなんて、総一郎の友達らしい、随分と剛毅なやつじゃねぇか!﹂
﹁ふん。よく来たな、総一郎。そして白羽、異国の少年よ。話は聞
いている。まぁ、座れ﹂
322
そう言って迎え入れてくれたのは、順番に山姥、雷神、風神だっ
た。他にも天狗やサラマンダー、何故かタマまで揃っている。昨日
の話に出てきた全員だ。総一郎は一通り見まわしてから問いかける。
﹁ここに居るみなさんが話してくれるのですか?﹂
﹁いいや。語るのは儂と、シルフィードだけだ。他はちょっとした
助言でもと集まった者達よ﹂
﹁ちょっ、何言ってんのよ天狗ちゃん! 私は話さないって言った
でしょ!?﹂
驚き半分怒り半分でキーキー騒ぎ立てるシルフィードに、火を携
える小さなトカゲ、サラマンダーは﹁まぁまぁ﹂と彼女を諌める。
﹁そう怒るでない。我ら光陰の中で、姿を変えず佇むもの。それに
語るのは、野次馬でなく純粋な知的好奇心を持った子供たちだ。意
地悪をせず、堂々と話してやればよい﹂
﹁意地悪をしてるのはサラマンダー、あんたの方でしょうが⋮⋮!﹂
﹁ほっほっほ。バレてしまった﹂
何とも茶目っ気の多いトカゲである。
その後もシルフィードはごねたが、結局彼女は話をすることにな
った。しかし覚悟を決める時間が欲しいという事で、まず天狗のエ
ピソードから語られる。
323
﹁して、大きな身分差をこえた、大恋愛⋮⋮が、ご所望なのだった
な﹂
﹁は、はい﹂
天狗の威圧感に、ファーガスは少々たじろぎ気味である。人柄が
知れれば気さくに付き合えるのだが、初見では難しいだろう。
﹁儂が彼女に惚れたのは︱︱そう、五百年も前の話だった﹂
遠い日の記憶を呼び覚ますように、天狗は目を細めている。
﹁彼女は高貴なさるお方。名前などを軽々しく明かせないほどの雲
の人よ。それ故詳細は伏せさせてもらうが︱︱他の奴らからは﹃正
気か!?﹄と尋ねられたものだ。それだけ身分差もあったし、種族
間の違いもあった。とはいえ、彼女は格の高い神だったから種族差
というものはさしたる問題ではなかったが﹂
﹁神様⋮⋮ですか﹂
﹁ああ。儂も、言ってみれば神の末席を汚す身。広義の意味では相
当上位なのだが﹂
ファーガスはキリスト教だ。したがって日本の八百万の神々とい
う思想は、なかなか理解できるものではない。そのように思ってい
たが、実際のところ、彼はそこまで腑に落ちないという表情を示さ
なかった。おや、と僅かな驚きに唇を突き出す。
﹁しかし恋焦がれる気持ちは止められるものではない。儂もその当
時は若くてな、いやはや、様々な手管を使って彼女を我がものにし
324
ようとしたものよ﹂
﹁そ、それで⋮⋮﹂
ファーガスが、生唾を飲み下しながら身を乗り出す。
﹁うむ、結果から言えば、儂がここに居るのが答えと言うべきだろ
う﹂
その返答にファーガスは、分かりやすく失望を浮かべた。それを
見て、天狗は一瞬きょとんとしてから呵々大笑。彼に近くによって
﹁そう案ずるな少年よ!﹂とバシンバシンその背中を叩く。
﹁失敗したのだと思うかもしれぬがな、それは他人の目と言う邪魔
があっての話だ! 心と心は、今でも繋がっている! 全く。ちょ
いとからかってやろうとしたら、思った以上に悲しそうな顔をする
から困ってしまう。なぁに、心配することはないぞ、少年! 諦め
ずに押したり引いたり回したり蹴破ったりすれば、開かない戸など
ないのだ! 儂からの助言は、まず諦めないこと。次に、考え付く
あらゆる手段を試すことだ﹂
﹁思いついた手段がすべて失敗したら、どうすんですか⋮⋮﹂
﹁そういう時は書物を読め! 友人に相談しろ! 人間というもの
は、たった一人ではあまりに非力だ。しかし儂ら亜人が加護を与え
れば、何処までも強くなる! 総一郎を見て見ろ! こいつはお前
とさして変わらないようにも見えるが、今ではマヨヒガの中でこい
つに勝てる奴など片手に収まるほどだ!﹂
﹁マジか! ソウイチロウ﹂
325
﹁う、うん。まぁ⋮⋮﹂
突如褒められて、総一郎は恐縮だ。話をそらすように、﹁それで、
シルフィードは?﹂と振る。
彼女の姿は、すでに消えていた。
﹁奴め、逃げおったな!﹂
サラマンダーが叫び、風神雷神が﹁何だと!﹂とハーモニーを奏
でた。山姥が﹁油断したねぇ﹂と顔を抑え、タマは﹁ふぁああ⋮⋮﹂
と欠伸する。
﹁む、シルフィードめ。昨日あれだけ暴れたというに、まだ暴れ足
りないか﹂
﹁暴れたってどういうことですか?﹂
総一郎の問いに、天狗は渋く目を瞑る。
﹁昨日この場を設けることを提案したのはシルフィードでな。しか
し、そういう場所では奴の話ほど面白く興味深いものはないのよ。
その癖奴は、ことそれに関してのみ極度の羞恥心を持っていて、話
すのを嫌がる。昨日も説得に五時間格闘してやっと諾と答えたとい
うに⋮⋮。ふふふ、まぁ良い。今日は三人とも帰れ。また明日、ふ
んじばってシルフィードの話を聞かせてやる﹂
その場の亜人のほぼ全員が、ほの暗い表情で笑い始めた。愉快に
話しているが突き詰めれば全員魑魅魍魎の類であり、今の様になる
326
と少年らの恐怖心をあおるには十分な不気味さを纏う事になる。
嫌がっているなら止めてあげたら、と総一郎は言おうかどうか迷
ったが、本当に話をして分からない人たちではないはずだと自らに
納得させた。シルフィードも覚悟を決めたと言いながら逃げている
のだから、有罪無罪で言えば有罪なのだ。マヨヒガ特有の﹃ノリ﹄
という奴なのだろう。麗しき風の妖精に合掌する。⋮⋮別に怖気づ
いたわけではない。
とりあえずその場から、三人は逃げるようにして退散した。ファ
ーガスなど微妙に震えていたほどだ。家に帰るころには治まってい
たが。
そのあとは、特筆することもない、いつも通りの昼下がりだった
と言っていいだろう。しかし、総一郎は昨日今日と強く表れたファ
ーガスへの違和感を、彼と囲碁をするなり遊ぶなりして強めていっ
た。
そして、シルフィードの恋バナを抱腹絶倒して聞いた記憶も薄ら
いでいたある日の夕食。雑談で誕生日の話題になった時、総一郎は
確信した。
総一郎の誕生日は、12月12日であった。
ファーガスも、同じなのだという。
それを知って変な顔をしたのは総一郎だけだった。けれど、単な
る偶然とは思えなかった。食べ終わってからすぐに白羽を含めた三
人で鬼ごっこが始まってしまったから聞く機会も得られず、しばら
くは行き場のない焦燥に悶々としていた。
327
夕方になって、家に帰った。その時、白羽は昼寝を始めていた。
障子が開け放たれて、風が汗を滴らせる少年の頬を撫でていく。真
っ赤な夕焼け。ヒグラシの声が、和室の中で反響している。
﹁⋮⋮ファーガス、少し、尋ねたいことがあるんだけど⋮⋮いい?﹂
総一郎は、とうとう本題を切り出した。すると、総一郎の予想を
裏切って﹁俺にも、総一郎に聞きたいことがあるんだ﹂と言う。
﹁え、あ、それじゃあ、どうぞ﹂
順番を譲ってしまうあたり総一郎も日本人だ。
しかし、ファーガスはそれにクスリと笑って、﹁多分お前と内容
は同じだと思うぜ?﹂と総一郎に人差し指を差し向ける。﹁人を指
さすのは、日本ではよくない事なんだよ﹂と少年自身もマイペース
に注意すると、ファーガスは表情から笑みを消して口を開く。
﹁総一郎。お前、前世の記憶ってあるか?﹂
その言葉に、総一郎は凍りついた。﹁じゃあ、やっぱり﹂と震え
る手で指差すと、﹁指さしはご法度なんだろ?﹂と彼は肩を竦める。
﹁しっかし、不思議な気分だよな。仲のいい友達が、まさか自分と
同じ前世の記憶があるなんて﹂
そう言って、ファーガスはからからと笑う。その反応に、総一郎
は待てよ、と考える。次いで、問うた。
328
﹁ファーガス。ナイ、っていう名前に、聞き覚えは?﹂
﹁あれ、もしかして前世云々って俺の勘違い?﹂
ちょっと焦った風に目をパチパチ開閉させるファーガス。この分
じゃあ、きっと知らないのだろう。
﹁⋮⋮ううん、合ってるよ。凄い偶然だ﹂
総一郎は、それなりに逡巡していたが、結局下手に勘ぐるのは止
めようと考えた。彼がナイの言う﹃子供たち﹄に含まれるのなら、
死ぬ間際の事を思い出させるのも酷だろうし、違うのならば、総一
郎が問いただしても意味はない。
だから、純粋な好奇心から聞いてみる。
﹁ファーガスって、前世何だった?﹂
﹁んー、学生かな。そっちは?﹂
﹁雇われ研究員。安月給だったから大変だったよ﹂
﹁マジか。社会人じゃんか。しかも研究員って何だよ。すげぇ﹂
﹁それがそうでもないんだな。むしろファーガスの学生っていうの
が羨ましいよ。世間の荒波に揉まれる前で﹂
﹁それ言ったらこれから大人になるのが不安になるだろ!﹂
独特の会話は、非常に弾んだ。地震が来ても平然と寝続ける白羽
329
が、五月蝿がって起きるほどである。秘密を分かち合った二人の友
情は、さらに深まった。
しかし、やはり、死ぬ間際の事を、二人は話題に挙げなかった。
総一郎は、当然と言っていいだろう。ファーガスにも、やはりそれ
なりの理由があるのだと、総一郎は解釈していた。
別れは、前回とまったく同じ、屈託のない笑顔だった。
330
13話 修羅の血
﹃武士は食わねど高楊枝﹄の掛け軸の向こうには、隠し小部屋があ
る。そこには何千冊もの魔法魔術に関する蔵書があり、小学二年生
に進級した際入室が許されるようになった。
稽古が無い日は、大抵そこへ足が向かう。今日もそうで、丁度今
日の三冊目を読み終えて次の本を探していた所だった。
目ぼしい本は、と指で題名を次々になぞっていく。すると、妙な
ものを見つけて瞬間眉を顰めた。取り出して、やっと納得する。
これは、アルバムだ。
年号を探すと、総一郎が生まれる十年以上前の物であることが分
かった。意気揚々と捲ると、少年らしくあどけなく笑う父の姿があ
る。
﹁わぁ⋮⋮!﹂
父にもこんな時代があったのか。と少し嬉しくなった。総一郎の
中では父はずっと今の父であったような気がして、それはそれで寂
しいと思っていたからだった。
次のページ、次のページ、と進んでいくと、剣道の大会で優勝す
る父や、母ではない恋人と笑いあう父の写真が出て来た。そこまで
行くと、少しの違和感を覚えるようになる。少年時代の純粋さをそ
のまま受け継いでいった青年の姿。笑顔で制服を着こみ、警察署の
331
門の前で敬礼をしている。
そこから先のページには、写真が無かった。
﹁総一郎、また、こんな所に居たのか﹂
父の声に肩を跳ねさせる総一郎。隠す前に覗きこまれ、﹁⋮⋮あ
あ﹂冷淡な納得を示される。
﹁私がまだ、まともであった頃の写真だな﹂
声を漏らして振り返ると、父は懐かしそうに目を細めてアルバム
を眺めている。警察署で敬礼する最後の写真を何度かその指でなぞ
り、息子の名を呼んだ。
﹁この先の事が、知りたいか?﹂
知りたい、と言おうとした。しかし、その表情には隠しきれない
憂いがあった。それが総一郎を惑わせ、彼の言葉を詰まらせた。父
はただ目を瞑り、﹁そうか﹂とだけ言った。
﹁ならば、決心が着いた時、また来い。無貌の神が言ったように、
あと一年の間ならば答えられるだろう﹂
踵を返して、父は立ち去っていく。道場の方にではなく、地下の
方へ。地下部屋は、立ち入りが許されていない。興味本位で探した
ものの、開き方はとんと分からなかった。
父の開け方を凝視していても、同じだ。同様の所作をしているつ
もりでも、どこか違うのか、手がかりさえ見つからない。けれど冷
332
静になってみれば、行きたいとも思わないのだった。あの陰気な様
子を思い出すだけで、たまに震えがくる。
稽古は、順調といってよかった。
山登りも慣れ、五往復ほど増やされたが、問題にはならなかった。
総一郎は筋肉が付いたのかとも思っていたが、同い年の平均に比べ
て四肢が太いという事もない。父に聞けば、やり方を理解したのだ
と教えられた。前世の常識から考えればやり方の問題では無かろう
とも思ったが、事実総一郎の体躯は人並みを超えない。
竹刀では、もう稽古は行われなくなった。木刀で、素面素小手で
向かい合う。木刀に力いっぱい打たれると容易く骨が折れるのは身
をもって知ったが、それ以来打たれるという事が無くなった。今で
は突きも上段も平然とされるが、総一郎は避けきっている。
真剣での向かい合いは、やっとコツを掴んできたという具合だっ
た。体が動かなくなるような迫力は手練れならば誰でも持っていて、
立会いはそれの押し合いであるという事を知った。だが総一郎は押
し返す方法を知れども、いずれは力が足らず押しつぶされてしまう。
迫力そのものを増やすのは難く、今でも難儀していた。
多かれ少なかれ、上達しているのは自覚している。しかし、それ
でも弱さの実感を拭えなかった。
木刀での立会いで、一度も父に打ち込めていないのがその原因だ
ろうと踏んでいる。
夜明けの日差しが薄々と感じられる秋の山の麓。総一郎はいつも
通り日課をこなすべく、そこで準備運動をしていた。初めに一杯分
333
の水を呑み干し、駆けあがる。
﹁よう! 今日も朝から精が出るじゃねぇか、総一郎!﹂
﹁おはよう! タマ﹂
横を見ると、ケットシーのタマが総一郎と並走している。去年の
暮辺りからのランニング仲間だ。
示し合わせている訳ではなかった。タマが勝手に横を走り始めた
だけだ。彼は他の町に行く途中に総一郎が山登りをするのを知って、
彼がばてるのを茶化すべくもう少し残る事に決めたと言っていた。
休日はよく縁側で茶を飲み碁を打つ間柄なので知った事なのだが、
総一郎が全然ばてない為に、いまだに残っていると。いつか﹁あつ
かわ村はそろそろ最長記録に届きそうだ﹂と彼は笑っていた。
山登りは、慣れると苦ではなくなる。去年は永遠にさえ思えた距
離が、今ではこの程度だ、と思えるようになった。ほぼ毎日、途中
で何らかの亜人たちが総一郎の様子を見に来るので、暇だとも思わ
ない。この一年で、総一郎はこの山の加護のコンプリートを達成し
ていた。マヨヒガは、彼にとってもう庭に等しかった。
朝食前になって、総一郎は十五往復を終えた。持参した水の全て
を呑み干し伸びをして、今日話し相手になった天狗とシルフィード、
そしていつも通りタマに手を振って、家路に着く。その途中で、父
に会った。その手には、握り飯がある。
﹁あ、お父さん。おはようございます﹂
駆け寄って、挨拶をする。それに、少し驚いたように目を開きな
334
がら﹁おはよう﹂と返された。
﹁もう、終わったのか﹂
﹁はい。慣れた物で﹂
にこにことする総一郎。握り飯を置きにくる父に追いつくのが、
彼の目標の一つだった。自分の成長に驚いた顔をされるのは気持ち
がよく、その度に一往復増やされるのも苦にはならない。
父から握り飯を受け取り、齧りながら歩く。こういう時の歩き食
いを注意しない辺り、父も粋だ。帰れば、更に朝食が待っている。
最近の総一郎は、大食らいであった。
朝食後は真剣で向き合い、学校へ行く。総一郎はこの頃になると
授業を抜け出すというやんちゃもしなくなった。退屈だった算数で、
平気で二桁三桁の掛け算が出るようになったからだ。しかも、暗算
でないと間に合わない。一年の時とは違って、今は少し必死である。
気に病むことは、自らの向上だけ。何とも健全な少年の日常だ。
しかし父の過去の一端に触れかけた時点で、そこに影は差し始め
ていたのかもしれない。
夜だった。
総一郎は、今も道場で寝起きしている。父も最初はそうだったが、
いつの間にか居なくなった。道場で寝ているのは、総一郎一人だ。
335
総一郎はこの頃、恐ろしい夢を見る様になった。見ているときは
酷く具体的でおぞましいのだが、起きた途端に不思議な悲愴に変わ
るのだ。その所為で、起き上がりながら訳もなく泣きじゃくる事が
ある。
今もその為に跳び起きて、啜り泣きを終えた所だった。乾きかけ
た涙を拭い、冷めた思考で何をしているのかと問う。
自答は、いつも通り筋立たなかった。
﹁⋮⋮トイレ行こ﹂
ぼそりと呟いて、もそもそと立ち上がる。
今の時代の秋は長い。亜人という存在は兵器の無力さを自らの魔
法で訴え、人間の科学力そのものの確固たる自信を揺るがした。そ
のお蔭なのか、地球温暖化などはとうに逆走を終えてとても良い状
態が保たれているという。総一郎の前世では、秋はとても短い物だ
った。
しかし、それでも終わりかけの秋となると肌寒い物がある。総一
郎は袖同士を繋げ合い、裾を踏んづけ顔以外が外気に触れない状態
で、小走りに進んでいく。
その、途中にあった。
総一郎はちょっと立ち止まり、横を見る。夜半もすぎる時間に襖
越しに行燈の光が漏れていた。風もないのに、ガタガタと揺れてい
る。うっすらと影が見て取れるような気もしたが、中の様子は分か
336
らなかった。
特に興味を抱くという事もなく、一旦は無視して厠へ向かった。
だが道場へ帰る時には目も覚めていて、そこで初めて興味を感じた。
魔法は使わないまま、こっそりと襖を開ける。その先で、父が母
を殺していた。
﹁っ﹂
むわ、と湿気に帯びた空気が総一郎の顔に当たった。父は母の真
っ白に血の気のない、横たわる華奢な体に覆いかぶさって蹂躙して
いる。その様はまるで鬼や悪魔のようでさえあって、まず恐怖が総
一郎を包み込んだ。しかし一瞬遅れて、背中の痺れるような、熱が
込み上げたのも確かな事だった。そこでやっと、殺しているのが勘
違いだと悟った。
母は頬を上気させて切なそうにもがいていた。その声は間違いな
く何かを叫んでいて、音魔法を使っている事に総一郎は感づく。そ
の首を、父は激しく掴み揺さぶった。母が無言で叫びをあげる。音
魔法を使うまでもない。彼らは自らのそれに夢中で、総一郎の存在
になど気付いても居ないのだ。
﹁⋮⋮総ちゃん? 何やってるの?﹂
はっとして、横を向いた。そこには総一郎の様に肌を外気から守
って、眠そうに目を擦る白羽が居た。
総一郎は慌てて白羽を遠ざけようとしたが、遅かった。昼間の両
親とは似ても似つかぬ姿に、幼き少女は総一郎と同じく短い悲鳴を
337
漏らした。
﹁そ、総ちゃん⋮⋮、お母さん、お父さんに虐められてるの?﹂
その声は怯えを含んでいた。縋る様に白羽は総一郎に抱きついて、
細かく震えている。その頭を、総一郎は優しく撫でた。白羽は小学
三年生にしては小柄で、総一郎より背が小さい。母の血だろう。と
いう話だった。襖の奥で、子羊のように貪られる母の。
総一郎は何も言わず、そっと襖を閉じた。聞こえない声によるも
のなのか、障子の振動が手に伝わった。一刻も早く、逃げ出したい
気分だった。それを、白羽が捕らえた。
﹁⋮⋮、白ねえ⋮⋮?﹂
白羽は総一郎の服を強く握りしめて、放そうとしない。俯いた顔
から覗く小さな口は、下唇を噛んでいるようだった。どこか熱っぽ
い口調で、少女は言う。
﹁ねぇ、総ちゃん。今日は前みたいに、一緒に寝ない⋮⋮?﹂
﹁え、⋮⋮いいけど、どうしたの?﹂
俯いたまま、カリカリと人差し指で自分の親指をもどかしそうに
掻きつつ、独白の様にその口が蠢く。
﹁一人で寝るのはね、寂しいの。ずっと我慢してきたんだもん、い
いでしょ?﹂
ゆっくりと顔を上げ、上目遣いで総一郎の目を見つめた。その瞳
338
は、潤んでいる。小さな姉の姿が、僅かに母のそれと被る。
﹁じゃあ、明日にしない? 今はもう夜中だから、少し勿体無いよ﹂
口が勝手に、やんわりとした抵抗を示した。やだ、と白羽は駄々
をこねる。
﹁今日がいいの。明日じゃ、嫌なの⋮⋮! お願い、総ちゃん。一
緒に寝てくれたら、何でもいう事聞くから﹂
総一郎は、その時疼きのような物を感じた。胸の奥が、心臓とは
別の鼓動をしている。我が儘を聞いてあげてもいいかな、と言う気
持が、急に起こった。冷静な自我が、しかしその提案を一蹴した。
﹁何で、今日がいいの? 明日でもいいじゃないか﹂
尋ねても白羽はまた俯いて、下唇を噛みながら﹁今日じゃなきゃ
嫌なの⋮⋮﹂と言うばかりだった。頬は桃色に染まっていて、左手
で総一郎の服を掴み、右手で自分の柔らかそうな寝間着を、皺が寄
るほどに強く握っている。その様が、何故か酷く愛しく映った。抱
きつきたい衝動が、ジワリと体の奥から湧きだした。最近ろくに遊
ぶ時間もないし、今日ぐらいは、と言いかけた瞬間だった。
白羽は二歳の時点で開花して、とっくに生理を迎えていた事を思
い出した。
それが、総一郎の頭を醒ました。衝動は掻き消え、白羽の手を振
り払った。すると白羽は無自覚の内に羽を広げたのか、羽根が散っ
て周囲を舞っている。悪戯に成功したような笑みを浮かべて、再び
総一郎に抱き縋る。
339
﹁つっかまーえたっ﹂
その笑みは、蹂躙される母でなく、貪る父の物だった。
思わず、手が出ていた。掌に走る痺れ。紅葉型に赤く染まる白羽
の頬。きょとんと、何も分かっていない少女の表情。
総一郎はただ彼女の寝室の方向を指差し、厳しい睨み顔で言った。
﹁白ねえ。もう、遅い時間だから寝なさい﹂
﹁え、で、でも⋮⋮﹂
﹁早く!﹂
強固な拒絶を受け、白羽はしばしの瞠目の後、何処までも切なく
沈んだ面持ちで﹁うん﹂と答えた。その瞳には涙が溜まっていて、
ただただ、痛々しい。総一郎は、遠い気持ちで思う。手には、震え
さえある。
されど、問題なのはこれが恐怖によるものでないという事だ。
武者震いであると、言っていい。
震える手を、握りしめた。震えを握り潰そうとした、と言う方が
正しいのか。もっと上手い立ち回りは出来なかったのか、とすでに
消えた姉の背中を想い考える。突如、襖の方から声が聞こえた。
苦しむような、啜り泣きだった。
340
だが、母の物ではない。とすると父しか有り得ないはずだったが、
どうにもその事実が総一郎には受け止められなかった。襖を再び開
けよう、と言う気にもなれず、少しの逡巡が起こる。結局、そのま
ま総一郎は駆け足で道場へ戻り、そのまま悶々としたまま寝付いた
のだった。
翌日の早朝、素振りをしていると、母が姿を現した。
﹁総一郎、いつも頑張っているわね﹂
そういえば、いつだっただろうと考える。母が、総一郎を﹃総ち
ゃん﹄と呼ぶのを止めたのは。
﹁⋮⋮どうしたの、母さん。こんな早くに﹂
悶々として調子も出ず、総一郎はその声に応じた。しかし昨日の
記憶がよぎったせいで、不自然な間が開く。改めて見た母は成人に
しては小柄で、長身痩躯の父と比べると子供のように見える事もあ
った。もっとも、総一郎はまだそれよりも小さかったが。
﹁ううん。何となく、総一郎の素振りが下手になったような気がし
て﹂
母は、その外見に反してモノをずばずば言う。もっと端的に言え
ば毒舌なのか。
その毒舌にぐさりとやられながら、総一郎は無言で素振りを再開
した。﹁怒ってるの?﹂と言うからかい半分の声は、無視した。
341
﹁昨日の夜、見てたでしょ﹂
ぴく、と図星を突かれた総一郎は瞬間身を硬くした。﹁バレバレ﹂
と笑う母の声に少々の安堵を覚えたが、それを自らの子供に突き付
けるのは、教育上どうなのだ、と言う怒りもあった。
だが、視線でそれを悟ったのか、母は笑んだまま視線を伏せて、
﹁分かってるわよ﹂と言う。
﹁白羽には言わない。総一郎は受け止めるだけの土台があるだろう
から、少し、心の整理の手伝いをしてあげようかと思ってね﹂
白羽は総一郎が適当に誤魔化しておいて、と母は手をぱたぱたと
振り、縁側に座った。天を見て、﹁夜明けって綺麗ねー。あの向こ
うには我らが主がいらっしゃるのかしら﹂と呟き、耳打ちするよう
な小さな声で、総一郎に問う。
﹁お父さん、怖い?﹂
﹁⋮⋮恐いよ。ずっと前から﹂
﹁でも、それは恐いだけじゃない、﹃恐い﹄でしょ? お母さんが
言ってるのは、昨日思った、﹃怖い﹄﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁どう思った? アレを見て。変な事言ったら怒るからね﹂
﹁言わないよ。︱︱何て言うか、⋮⋮知らない、何かを見てる気分
になった。母さんも、⋮⋮父さんも、別人に見えた﹂
342
﹁実際、別人みたいなものだしね﹂
﹁えっ?﹂
﹁んふふー﹂
母はお茶目に唇を作って笑っている。思わせぶりな態度に、半眼
で睨む総一郎。母は悪びれずにカラカラと笑いながら謝り、彼に言
う。
﹁ああいう時、私は大抵素が出てるっていうの? 翼が広がった時
っていうか、覚醒版っていうか﹂
﹁自我が天使よりになってるって事?﹂
﹁流石、読書してる子の語彙は豊富ね∼。昔からそう言う所はあっ
たけど、最近の方が子供らしいわよね、総一郎。︱︱まぁ、そうい
う事。逆に言えば、お父さんの状態がおかしいから、私もそれに釣
られてるっていうのかしら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お父さんね、貴方達が生まれてからはしばらく自粛してたんだけ
ど、最近は結構来るのよ。⋮⋮耐えきれない、っていうか。あの人
は、本当に強い人よ。でも、その強さは一人の時にしか発揮できな
い、歪な鎧。守るものが出来ると、改造と補強が必要になるの。定
期的にね﹂
﹁意味が、分からないよ﹂
343
﹁そして、貴方達はお父さんの血を継いでいる﹂
総一郎は、瞬間動けなくなった。昨日の白羽の獰猛な笑みが、色
濃く蘇ったからか。それとも、それに呼応する自らの衝動を感じ取
ったからか。
﹁白羽はまだいい方だって、お父さんが言ってたわ。私の血が強い
からって。でも総一郎の事は、何よりも気に病んでる。自分に似す
ぎたって、そんな風にね﹂
﹁そ、そんなの、実の親なんだから当たり前の事じゃないか﹂
動揺する総一郎に、母は優しく笑うだけだった。しばらくそうし
て居るとだいぶ落ち着いてきて、見計らったように言葉が再開する。
﹁お父さんはね、昔、﹃修羅﹄って呼ばれてた事があるの。かつて
日本に居て、知性があるのに魔獣扱いされて、気付いたら絶滅しち
ゃった、とある亜人に例えて﹂
﹁何で、そんな事が?﹂
﹁理性が無かった、⋮⋮のかな。敵味方関係なく殺し奪うっていう
のがその修羅っていう亜人の特性でね。人食い鬼みたく最初は隔離
して保護しようっていう動きがあったんだけど、力が強すぎて無理
だった。お父さんも、そうだったって聞いてる。初めて会った時の
事は、正直忘れられないもの﹂
﹁⋮⋮お父さんは、人を殺したの?﹂
344
﹁職業が職業だからね。警察の、組織犯罪対策課。精神魔法で相手
の有罪無罪を決めて、検挙と共に略式の処刑を執行する⋮⋮らしい
わ。で、行き着いた仇名が修羅。どんだけ嫌われてたのって話よね。
まぁ、私もあんまり細かい事は知らないんだけど﹂
いつの間にか、総一郎は俯いていた。目蓋を開いているとも閉じ
ているともいえない状態にして、静かに考え込む。父に聞けば、も
っと詳しい話が聞ける。それは父が言った確かな事で、だが聞くだ
けの勇気が無い。
あの無邪気な青年が、父の様な凄まじい強さと寂しさを得る話な
ど、きっと陰惨なものであるに違いないのだ。
総一郎は秋の朝に吹く木枯らしから、冬の足音を聞いた気がした。
345
14話 歩みの延長
父は居間で携帯端末を握り、呆然と見つめていた。しかし総一郎
の存在に気付くと目を瞑ってポケットにしまう。総一郎は既に本日
の稽古を終わらせてしまっていた為、特に気兼ねすることもなく寝
ころんで本を読みだした。
日本の最近の政治経済に関わる本で、総一郎の本領ではなかった
が、前世の商学部の友人を思い出して懐かしい気分になれる。そう
いえば、図書も商学部だとか言っていた。現役か志望かは忘れたが。
﹁総一郎。日本を一言で表すならば、どう言えばいいか分かるか?﹂
一瞬きょとんとして、手元の本をぱらぱらと捲る。首を傾げなが
ら、絞り出すように答えた。
﹁魔法大国⋮⋮でしょうか?﹂
﹁そうだな。大抵は、そう答える。幸せな者なら、幸せの島に最も
近い国とでも答えるかもしれない。だが、どれも私の意見とは合わ
ないものばかりだ﹂
いやに饒舌な父の口調から、機嫌が悪いのだろうか。と推察する。
しかし、それも確信は持てた物ではなかった。父が怒る事など、赤
子であった総一郎の上にカルテが落ちてきた時以来一度もない。
しかし父の吐いた溜息からは、不機嫌な感情しか感じられなかっ
た。
346
﹁︱︱獅子身中の虫。私にとって、日本を表すならばこの言葉しか
ない﹂
その言葉が放たれた時、父の怒りを確信した。
小学三年生の冬。ナイから告げられた二年と言う月日は、そろそ
ろ終わりを告げようとしていた。
学校では簡易的な魔法や魔術、また体術による護身法を習い、模
擬戦と言う形でその成果を測っていたが、総一郎はその模擬戦のみ
参加を許されずに居た。父は何故か学校に対して影響力を持ってい
て、その為だという話である。見学も許されないので、その間はひ
たすら本を読む時間と言う認識だ。
稽古はいつしか、山登りと真剣での向かい合いだけに変わってい
た。木刀での打ち合いは、危険なのでやらないという事だった。危
険と言うなら去年骨が折れた時点で止めるべきだったし、それ以前
に骨折程度なら一般人が完治させられる時代である。訳が分からな
いと首を捻った物だ。
山登りは、今では一人でしていた。喪に服する、と言う空気があ
る。ケットシーのタマが、この秋に人食い鬼と争って死んだのだ。
般若家に去年の暮生まれた、第三子を守っての事だった。総一郎は
何故子供から目を離したのかと般若家のご両親を糾弾し、図書と殴
り合う羽目になった。琉歌とはまだ親交があったが、図書とは顔を
背けあっている。
347
この一年で、人生の先は読めないと言う達観が生まれた。ナイの
予言も、その内の一つだと思い定めるようになった。存在が分かる
だけでも、有難いという気持ちだ。あの兄貴分との仲直りの目処は、
いまだ付いていない。
﹁総一郎﹂
呼ばれて、真剣を抜く。この三年間で、気負いと言う物は消えた。
真剣は、重い。最初は正眼だったが、いつの間にか八双の構えに
変わっていた。これだと、体力の消費が少ないのだ。昔は十分二十
分程度だったが、今では三時間四時間と平気で向かい合う。
気が、総一郎を圧してきた。あの父が発する迫力を、総一郎なり
に命名したのである。それを、まずは受け流す。まともに押し合っ
ていては、体力なぞ長く持つ物ではなかった。
立会いは、ある一定の時間を超えて向かい合っていると、何もか
もが掻き消え、代わりに違うものが見えるようになる。一・二年前
までは、闇の中に浮かぶ一振りの刀だった。今は、父の姿のみが見
える。
総一郎はまだ、父の過去を聞けていない。
圧してくる気が、膨れ上がった。それに耐え、息を吐く。動いて
もいないのに肌が汗ばむのは、いつもの事だ。逆に、父はいつだっ
て涼しい顔で立っている。
受け流しはしなかった。今度は、押し返す。瞬間、闇にはっきり
と浮かぶ父の姿が、確かにぶれた。
348
﹁止めだ﹂
脱力と共に道場内の景観が戻った。父が刀をしまうと、総一郎へ
たり込んでしまう。それを不可解に思えば、気付けば外が暗い。昼
過ぎに始めたはずだったろうと確認しに行きたかったが、そんな余
力は無かった。
大の字に寝転がり、荒い息を吐く。
何かを掴んだような、確信の持てないもやもやとした感じがあっ
た。向かい合っている時、父が二つに割れたような気がしたのであ
る。二人の父は、同様にして対照的だった。感情の全てを隠す父と、
獰猛に微笑む父だ。
﹁総一郎﹂
呼ばれ、振り向く。
﹁明日、お前を試す事にした。乗り越えれば、お前に教えるべきこ
とはたった一つを除いてなくなる。しかし、生半可なものではない
ぞ。覚悟は、決めておけ﹂
﹁はい﹂と総一郎が答えると、父は思い出したように付け加えた。
﹁それと今日は、私もここで寝る。少し、お前に話しておきたいこ
とがあるのだ﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮?﹂
349
総一郎は首を傾げる。
その後しばらくは、本を読んで時間を潰した。化学魔術の応用で、
ドラゴンをいかにして効率よく倒すかと言う思考実験である。想定
される加護の量が総一郎の物より一ケタ少なく、誤字だろうかと首
を捻っていると、就寝時間はすぐに訪れた。今日読めた本は総一郎
にとって少し物足りず、憮然としながら布団にもぐる。
扉の音と共に、父が入ってきたようだった。父と一緒で寝る事に
懐かしさを覚え、総一郎の機嫌は直る。父が布団に入る直前で目が
合うと、微かにその表情は綻んだ。﹁話って、何でしょうか﹂とわ
くわくした心持ちで尋ねる。
﹁もう時間も少ないだろうし、あの掛け軸の事を話しておこうかと
思ったのだ﹂
﹁掛け軸?﹂
総一郎は、﹃武士は食わねど高楊枝﹄と書いたあの達筆を思い出
した。清貧を重んずる江戸時代の武士の言葉。五百年も六百年も前
の人間に向けられた格言。
この世には武士はいない。前世でさえそうだったのだから、当然
と言えば当然だ。そんな言葉が、この道場にはある。比較的裕福な
はずの武士垣外家に。
﹁あの言葉は、武士は腹が減っていても、それを周囲に知らせるこ
となく楊枝を咥えるだけの矜持を見せろと、そう言う意味ではない
のですか?﹂
350
﹁確かに、それが本来の意味だ。しかし、総一郎。私やお前にとっ
て、あの言葉は自らを人間として保ち続けるためには不可欠な言葉
となる﹂
﹁人間として⋮⋮?﹂
訳が分からなかった。人間として自らを保つ。そんなことが出来
ないのは、極少数の狂人以外には居ないだろうに。
そんな疑問を想定していたかのように、﹁今は分からないだろう
が﹂と父は付け加えた。
﹁いずれ、分かるようになる。あの言葉は究極の無私の訓戒であり、
無私の訓戒であるが故、私たちは人間と言う存在に縛り付けられて
居られるのだと﹂
﹁はあ﹂
生返事の総一郎。無私の訓戒と言うのは、確かに頷ける話だ。事
実その言葉に沿ったかのように、名もなき下級武士が甚大な働きを
見せたというのは時代小説好きにとって常識とも言えることである。
しかし、それでも納得がいくものではない。父は恐ろしい物を感じ
させる何かを持って居はすれど、間違いなく人間である。総一郎は、
言うまでもない。
存外に参考にはならなかったと軽い失望を覚えながら、読み途中
の本に思いを馳せつつ総一郎は眠りに落ちていく。
朝になって目を覚ますと、父はもう居なくなっていた。
351
冬の寒さに身を震わせる、という事はもうなくなった。むしろ、
身が引き締まって気持ちが良い。道場から出ると、雪が降っていた。
空模様は明るい為、積もるだけ積もったら止むだろうと思った。
道場が使えるようになってからは、どんな日だって素振りは出来
た。終わらせて風呂場で汗を流した後、父を探した。しかし居らず、
昨日言った﹃試し﹄以外はやるつもりが無いのだろうかと考える。
その時、﹁あ﹂と思い出した。
今日は、タマの一周忌である。
学校帰り、花でも買ってお参りに行こうと考えた。買わずとも、
木魔法で作ってもいい。木魔法で花を芽生えさせるというのは中々
に骨な作業で、繊細で美しい花ほどその難易度は上がった。山の上
の神社には亜人たちの墓場があり、そこにタマは眠っている。木魔
法の成果を見せたら、喜んでくれるだろうと生前の姿を思い浮かべ
た。
黒い服で登校すると、学校ではまたも模擬戦があり、総一郎は暇
だとぼやきながら教室で一人、昨日の本の続きを読み始めた。電子
書籍というものは前世よりも格段に普及していたが、紙の本はいま
だに潰えていない。総一郎は断然紙派の人間であった。仲間は少な
く、図書くらいの物だ。
﹁いい加減仲直りしてくれないかな、あのへそ曲がり﹂
読みながら呟く。すると字を追っていながら全く頭に入って居な
かった事を自覚して、また数ページ戻りだす。その繰り返しだった。
タマの命日だから、なおさら強く意識してしまう。
352
学校が終わり、白羽と一緒にそのまま境内へ向かった。長い階段
だが総一郎は慣れた物で、白羽も疲れる前に翼で飛び上がった為、
頂上に辿り着いてもケロリとしている。
タマの墓の場所は、何度も通ったので覚えていた。境内は中々に
広く、墓場も合わせると総一郎の学校の敷地ほどもある。亜人はこ
こを死に場所に選ぶ者も多いという話だ。良い村であるのは、総一
郎も知っている。
﹁懐かしいよね。私、一度も碁で勝てなかった﹂
﹁タマ、結構強いんだよ。癖があるから、それを見抜ければ楽だっ
たんだけど﹂
入り組んだ墓場を歩く。総一郎はランニング仲間としてタマと付
き合っていたが、白羽も総一郎に会いに来たタマとじゃれるのが大
好きだった。タマは口こそ立石に水だったものの、子供に体を触ら
れたり弄られたりしても碌に抵抗をしない。されるがままであるの
に一丁前に文句をつけるものだから、ちぐはぐさが妙に味を出して
いたものだ。
花を手の上で作りながら進んだ。歩を進めるほど、会話は消えて
いった。辿りつく。先客が居る。
﹁⋮⋮総一郎⋮⋮﹂
般若兄妹が、そこに立っていた。
﹁︱︱図書にぃ。学校は、どうしたの﹂
353
﹁休んだ。ウチの両親はとっくに済ませちまってさ。先、帰ってて
くれって頼んだんだ。二人とも清を守ってくれてありがとうって泣
いてたよ。本当、しつこいっていうか﹂
﹁⋮⋮そう、何で一緒に帰らなかったの?﹂
﹁少し、お前と話がしたくなったんだ﹂
肌寒い風が、二人の頬をなぶった。総一郎は無言で自作の花を供
え、黙祷を捧げる。白羽も、それに追従した。彼女は道すがら買っ
た線香を焚く係だ。
﹁総一郎、まだ、怒ってんのか?﹂
図書は問うてくるが、見当違いも甚だしい。
﹁怒ってなんかないよ、もう。勿論当時は悲しかったし寂しかった
し、その原因を作ったおじさんおばさんの事が憎くもなったけど、
⋮⋮今はただ、怖いだけだ﹂
﹁怖いって﹂
﹁死ぬのが、だよ。自分は当然、周りの人が死ぬのは、もっと怖く
なった﹂
線香が、煙を上げている。風が墓の方向へ吹き、その所為で斜め
に揺らめいていた。総一郎は立ち上がり、図書に無言で手を差し出
す。それを、彼もまた何も言わずしっかと握りしめた。
皆で、神社の方に戻った。天狗はここに在住していて、総一郎た
354
ちを見かけるとちょくちょく本殿の中に招いて菓子をくれる。今日
も、そこでご相伴にあずかった。白羽と琉歌は、天狗と仲のいいシ
ルフィードと菓子をつつき合っている。
天狗は、男子二人と話しながら、一人で酒をかっ喰らっていた。
顔は赤いが、指摘しても﹁元々よ﹂と笑って答える。幸い酒乱では
なかったから、雰囲気がいい具合に弛んだ。
﹁清ちゃん、今何歳だっけ﹂
せい
般若 清。タマに庇われ生き延びた、第三子の事だ。
﹁一歳一か月って所か。確か、総一郎の二日違いだっただろ。前だ
ったか後だったかは忘れたけどさ﹂
﹁そっか、誕生日近いんだっけ。何かプレゼントしてあげればよか
ったな﹂
﹁⋮⋮タマに、命を救われた子の名か。いい名だのぅ。般若 清、
清い悟り。そんな子を救えたなら、タマも本望だろう﹂
天狗はしみじみと呟き、くいと酒を煽った。空になった盃に、再
び透明の酒を注ぐ。
﹁タマって、山に居る時はどうだったんですか?﹂
総一郎が尋ねると、赤ら顔を頷かせ、ぽつぽつと語りだす。
﹁外来の猫又もどきなどと、最初は思っていたな。しかし中々気骨
のある奴で、すぐに迎え入れられた。すぐに出ていくと言いながら、
355
いろいろと困りごとに協力してくれたよ。総一郎、お前と一緒に走
りだした頃だな。出ていくという言葉を口にしなくなったのは﹂
﹁困りごとって何だよ、天狗のおっちゃん﹂
﹁図書坊、お前は幾つになっても口のきき方ってものを覚えないな。
いい加減総一郎を見習ったらどうだ。こいつはお前より小さいのに
ずっとしっかりしているぞ﹂
﹁総一郎は特殊な例だろ、引き合いに出すんじゃねぇよ。それで?
困りごとって﹂
﹁そんな物、困りごとは困りごとだ。力仕事は無理に手伝おうとし
て、すぐに潰れ笑い者になったが他の事の大抵は役に立った。知恵
が回ったな、奴は﹂
﹁碁も強かったな、タマ。そういえば、後輩の子に聞きましたけど
去年のマヨヒガは相当怖かったしいですね﹂
﹁ああ、少しやりすぎたので今年は例年通りに戻した。タマはずっ
と文句を垂れていたがな。去年は狂ったように泣き喚くのが多く出
たから、仕方がないというのに﹂
﹁一体何をやらかしたんだ⋮⋮﹂
﹁んー、僕も遊びに行ったらやられたんだけど、アレは肉体じゃな
く精神に来るね﹂
﹁儂らも少々やっている内に恐ろしくなってな。気骨のある小僧を
見分けるのもやり易くなったが、それ以外は目を覆いたくなる﹂
356
﹁だから何をしたんだお前ら!﹂
図書の叫びに、天狗は呵々大笑し、総一郎も顔を背けてくすくす
と笑いだす。それを見て眉間を押さえる兄に妹が寄ってきて、白羽、
シルフィードを交えてさらに会話は広がっていった。
一段落した時、空は端っこに赤らみを残し、薄暗くなりはじめて
いた。総一郎は図書と仲直りできたと上機嫌で下山し、途中般若兄
妹と別れ白羽と共に空中散歩にいそしんだりしてから家に戻った。
台所では母が夕食を作っていて、白羽はその手伝いに、総一郎は
父が言う試練︵この方がしっくりくる︶を唐突に思い出して、外で
素振りをすることに決めた。幸い雪はやんでいて、靴を履けば何と
かなる程度の積もり具合だ。
時を忘れて木刀を振るい、夕食を済ませても父は帰ってこなかっ
た。
総一郎は最初こそ本を読んで待っていたが、時計が九時を回った
頃から燻るような気持ちになった。いくらなんでも遅すぎる。母も
同じことを考えたようで、父の今の、異動後の職場に電話したが、
今日は有給休暇を使ったとされていてとんと行方がつかめなかった。
だが、本当に焦れているのは総一郎一人だった。母は父の心配な
どしようともしないし、白羽も同様と言うか、あまり興味もないよ
うだった。前々から思っていたが、白羽は父に懐いていないのかも
しれない。
十時を回った頃、父は帰ってきた。
357
泥と涙と血で汚れた、人食い鬼の子を携えて。
﹁⋮⋮お父、さん⋮⋮? それは、一体、﹂
﹁総一郎、先に道場へ戻っていろ。私はこれを拘束し、小奇麗にし
てから向かう﹂
いつもと何ら変わらぬ父の口調が、何処までも恐ろしかった。
逃げる様に、道場へ向かった。自然、目は掛け軸の下に飾られる
二振りの真剣へと向かう。総一郎は自分が何をさせられるのか、半
ば予想が着いていた。だからこそ思考が麻痺し、父が道場に来るま
で何も考えられなかった。
父は相変わらずの鋭い無表情で、手足を最低限紐で拘束しただけ
の人食い鬼の子を地面に投げ出した。その顔にはもう泥や涙、血が
着いておらず、確かに小奇麗だとも言える。
﹁総一郎、これを殺せ﹂
言われながら、抜身の刀を渡された。
総一郎は、それを拒否した。
﹁嫌です。そればかりは、お父さんの言う事でも聞けません﹂
じとっ、と嫌な汗が伝った。父は総一郎の言葉を吟味するように、
息子を見つめたまま鋭く黙りこくっている。視線が外れた。鬼の子
へ父の目は向かい、総一郎も見やる。
358
鬼の子は、傍から見れば普通の子供のように見えた。そうと分か
るのは、紫色の拘束紋と、汚れきったみすぼらしい服を着ていたか
らだ。彼は総一郎たちを見て顔をひきつらせ、目に見えるほど大き
く震えている。
﹁何故、拒否する?﹂
鬼の子を見たまま、父は尋ねてくる。
﹁人道に、反しているからです。無抵抗な存在を、殺すことは出来
ません﹂
﹁無抵抗では無かったぞ。これは、スナーク狩猟区に身を潜めてい
た人食い鬼どもの集落に居た、子供の内の一人だ。人骨らしきもの
も多く散乱していた。頭蓋骨も持ってきたが、見るか?﹂
ぐ、と言葉に詰まる。父は嘘を吐かない。吐く必要もないのだろ
う。きっとその集落とやらも、今頃は跡形もない。
総一郎は、震えながら言い訳を考える。
﹁でも、それでも、僕は殺したくないのです⋮⋮﹂
﹁何故だ﹂
﹁だ、だって、殺すことは、何よりも罪深い事なのではないのです
か⋮⋮?﹂
総一郎もまた、今にも殺されそうな鬼の子の様に震えていた。父
が持つ白刃を見やり、次に芋虫のように地面を転がされる鬼の子を
359
見た。この子を、殺す。こんな、傍から見れば普通の子を。
死んでしまった親友のタマが、脳裏に蘇った。死に目には会えな
かった。火葬場の骨を、箸で摘まんだ。悲しいほど小さな骨だった。
殺すかどうかを考えた、雪女を思い出した。彼女はただマヨヒガ
の一員で、琉歌を殺す気など一欠けらもなかった。だが、総一郎が
本気で殺そうと考えたらどうなっていただろう。彼女が本当に死ん
でしまったら、何が起こったのか。
総一郎が殺した、琉歌に化けたドッペルゲンガーがよぎった。火
魔法は彼女の顔を溶かし、その目玉は飛び出ていた。それを知った
時の、人食い鬼の瞳。総一郎の目を逸らすために行われたあの蹴り
には、仇を討つという労りが無かったか。
体中が、熱かった。汗が、何粒もの珠になって流れた。だという
のに、手足の先は驚くほどに冷たい。気付いたころには、壊死して
しまうのではないかと思うほどだ。
﹁総一郎﹂
父に呼ばれ、身を竦ませた。父は真っ直ぐに総一郎に向かい、諭
すように言う。
﹁お前は、この世が泰平の世であると思っているのだろう。しかし
違う。この世は、乱世だ。他者を殺さずして生きている者など、そ
うは居ない﹂
﹁⋮⋮昨日言った覚悟って、人を殺す覚悟だったんですね⋮⋮﹂
360
力なく、憎々しげにつぶやいた。総一郎は手を強く握り、すぐに
緩ませてしまう。その時、父は言った。
﹁人を殺すときに、覚悟は決めるな。そうなってしまえば、むしろ
今よりも状況は悪化する﹂
驚いて、総一郎は父を見やった。父は何も変わったところが無い。
だが、その言葉は異質だ。
﹁じゃあ、覚悟って﹂
﹁人として在れず、魔道にも堕ちることの出来ない、境界線を歩み
続ける覚悟だ﹂
父の言う事の意味が、分からなかった。ただ、酷く辛い事だとい
うのが、その表情から知れただけだ。総一郎は、絶句したまま固ま
っている。父は言葉を続けた。
﹁人斬りに執着した者の末路は、浅ましくおぞましい。大抵の者に
とって、知る事さえ難しい道だ。しかし総一郎、お前は私の血を濃
く継ぎ過ぎた。人斬りを多くこなせば、まず間違いなくそれに憑か
れる。その為のあの掛け軸だ﹂
﹁だ、だけどそれなら、殺さなければいい話じゃ、﹂
﹁しかしお前は、無貌の神に魅入られた﹂
ぴしゃりと言われ、言葉が継げない。
﹁無貌の神は、幸か不幸か人間の破滅、それも自滅と言う形のもの
361
を一等好んでいる。人間は、甘言に弱く自滅しやすい。しかし、そ
の甘言は修羅にとって意味を為さぬ物だ﹂
﹁⋮⋮でも﹂
﹁そうだ。修羅になればお前の末路は自刃にも劣るものになる。だ
が、それは人であっても同じだ。人から外れ、修羅にも成らぬ。お
前が生きるためには、その均衡にあり続ける以外に術は無いのだ﹂
名を呼ばれる。父の握る白刃が、電気の光を受けて鋭い光を反射
している。それが再び差し向けられた。息を呑むが、拒否は出来な
い。
﹁食事をするように、道を歩んでいくように、お前は人を殺さねば
ならない。人斬りに憑かれるな。人斬りに覚悟を抱くな。憑かれれ
ば修羅になり、覚悟を抱けば人になる。そうなれば終わりだ。お前
は死ぬしかない﹂
震える手が刀に伸びた。受け取り、構える。震えが頂点に達した。
真剣は総一郎の手から離れ、床に落ちて音を立てる。
拾おうとして、しゃがみ、手を伸ばした。触れることは出来なか
った。小さく縮こまって、震え続けた。
﹁⋮⋮そうか﹂
父は地面の刀を拾い、鬼の子に振るった。縄が切れ、拘束が解か
れる。鬼の子は信じられないと言いたげな表情で父の顔を仰ぎ見て、
訳も分からず困惑していた。
362
﹁何処へなりとも行くがいい。お前は今をもって自由となった。何
があろうと、私は一切お前に手を出さないことを誓う。さぁ、行け
!﹂
父の大声に慌てて道場の入り口に向かい、鬼の子は去っていった。
一難を免れたという安堵が、重く体にのしかかった。心臓の音がは
っきりと聞こえる。しかし、父の失望したような声に、動けなくな
った。
﹁総一郎。お前は、この国に居る限り安全だ。だが、この国はもう
すぐ事切れる。そうなればお前は外国へ行かざるを得なくなり、破
滅を招くあの邪神の魔の手は伸びるだろう。それまでに、覚悟は決
めておけ﹂
父は言って、総一郎を置いて道場を出ていった。形あるものは、
何も残らない。ただ、残響だけが耳鳴りになっている。
今も、恐ろしい夢は見る。去年よりもずっと高い頻度で、何が起
こっているのかも大分記憶に残るようになった。
父と、燃え上がる道場の中で相対している。話しているのか、斬
り合いなのかは分からなかった。大抵父が鞘を払ったところで、恐
ろしくなって起き上がる。瞬間は我を忘れるが、道場が炎上してい
ない事を知って安堵に深い息を吐くのだ。
そうして目を覚ました総一郎は、変わらず涙を流していた。何が
悲しいのかは、昔よりも余計に分からなくなった。何故こんな夢を
見るのかも、同じだ。
363
今日は父の事が印象深く残っていて、夢の内容の為泣き終えた後
には目が冴えていた。横になっても寝付くだけの自信が無く、起き
上がりひとまずトイレへ向かう。
去年の秋の事がふいに浮かび、横目で見るも行燈の光さえない。
廊下は冷え切っていて、目を細めて細かく震えながら歩いていく。
用を足しながら、今日の出来事がぐるぐると回った。人を殺す。
何物にも代えがたい、罪深き行為。しかしそれは前世の物でしかな
く、価値観が深くよじれていく。
意図せぬ足音。
総一郎は、それを深く認識しない。記憶には残らなかった。だが
トイレからの光が廊下を照らし、泥まみれの足跡を見つけて眉を顰
めた。
侵入者の軌跡は進むにつれて薄れていき、最後には分からなくな
る。
総一郎は、半ば直感で白羽の部屋に向かった。予想は当たったと
いうべきか、小さく開いている。開けた。見逃したはずの鬼の子が、
刃物を持って白羽の寝間着をまくり上げている。
鬼の子と、目があった。彼は先ほどの怯えの残滓を残しながら、
荒々しき獣性を宿して白羽に触れていた。胸元から彼女の白い肌は
さらけ出され、そこに包丁らしき刃物が突きつけられている。ぽつ、
と血が浮かび上がった。鬼の子は総一郎の背後に父が居ないと知る
や、にたりと笑みを浮かべた。
364
勝利を確信した、下卑た目だった。
鬼の子はさらに強く白羽に刃物を押し付けた。視線は総一郎から
外れていない。ピクリと動いた総一郎に、奴は﹁動くな﹂と言い放
った。目に見える様に刃物を押し付ける力を強める。白羽の呻き。
脳が捩れるような感覚。
道を歩いていくように、人を殺す。
総一郎は、それに失敗した。
音魔法で消音し、風魔法で肉薄にする。鬼の背後の壁を木魔法で
強化し、力いっぱい叩き付けるだけでよかった。
頭を硬化された壁に押し付けられ、奴の頭は粉々に砕け散った。
かつて総一郎と琉歌を拉致した人食い鬼の様に、その頭はザクロが
如く凄惨に飛び散っていく。
返り血の大半が、総一郎に降りかかった。近くに居た白羽も、同
様だったはずだった。だが総一郎はそれを許さなかった。風魔法を
用い、血の軌道を逸らした。
水魔法と風魔法を使い、汚れた壁や床を洗浄した。最後は空間魔
法を使い、鬼の死骸ごと無に帰す。あとは軽く、火魔法で濡れた部
位を乾かすだけでよかった。後始末を終え白羽の服装を直してから、
その頭を幾度か撫でて、総一郎は道場へ帰っていく。
道場は、夜と闇に満ちていた。ふと総一郎は真剣を手に取りたく
なり、奥へと進んでいく。二振りの長刀。触れる前に気付く。
365
﹃武士は喰わねど高楊枝﹄の掛け軸が、強く目に焼き付いた。
究極の無私。だが鬼を殺した時の総一郎の感情は、どす黒き殺意
だった。あの時、何を思って鬼を殺せばよかったのか、総一郎は分
からない余りに顔を押さえて泣きじゃくった。
うずくまり、仰ぎ見る。掛け軸は、ただそこに在るのみだ。しか
しそのお蔭で、自分は魔道に堕ちずに済んだのかと思わされる。
人と修羅。その境界。立ち続けるのは、一体何者で在らねばなら
ないのか。
その数日後。虫に腑臓を食われた獅子は、ついにその身を横たえ
る。
366
15話 決別
テレビに似た立体射影の放送媒体に、総一郎は生まれて初めて砂
嵐が走るのを見た。
武士垣外家で慌てなかったのは、総一郎と父の二人だけだった。
白羽は番組が途中で見られなくなったことに憤り、母は目を剥いて
困惑しながら機械の調子を看ている。総一郎は、その時はまだおや、
と思っただけだった。父は目を伏せて、何かを考え込んでいるよう
だ。
﹁少し、外に出て来る﹂
言い残して、父は居間を出ていった。子供二人は首を傾げ、母は
少し電気屋さんに電話すると受話器を取る。
﹁⋮⋮あれー? 電話が繋がらないんだけど﹂
独り言にようにぼやいて、訝しげに見つめている。そこで総一郎
は、嫌な予感を得た。とはいえ形になるものでもなく、ううむ、と
眉を顰める程度である。
﹁総ちゃん。総ちゃんってもうお父さんのお稽古終わったんでしょ
?﹂
白羽の突然の問いかけに、きょとんとしながらも首肯する。
﹁なら、今日こそ一緒に寝ようよ。それで、こっそり夜更かししよ
367
?﹂
悪戯の相談をするかのような目を輝かせた小声に、一瞬の困惑も
あったが、最後には可愛さのあまり﹁いいよ﹂と笑いながら頭を撫
でた。するとむず痒そうな表情で﹁むぅー﹂と手を払われてしまう。
とうとう撫でられるのが恥ずかしくなる年頃が来たのか、と寂しい
総一郎。一応ながら生まれた時から自我があるため、ほとんど親心
である。
﹁それにしても、お父さんは一体何処に行ったんだろう?﹂
﹁うーん。あ! 私、総ちゃんに話したいことがあったんだ! で
も今は言わない∼。あとで教えてあげるね!﹂
﹁⋮⋮﹂
やはり白羽は、余り父に興味が無いらしい。
そんな風にして適当な事を話していると、母が風呂に入れと言っ
た。﹁面倒だから一緒に入っちゃいなさい﹂との指示に白羽は真っ
赤になってこれを拒否し、結局総一郎は白羽のあと一人で入る事に
なる。昔は一緒に入っていたのに、と姉の弟離れに一層寂しい総一
郎だったが、﹁姉の心弟知らずか⋮⋮﹂と言う母の言葉にぽかんと
した。
ほくほく湯気を上げて頬を上気させた白羽に癒されてから、総一
郎は肩まで深く風呂に浸かった。武士垣外家の風呂は檜で作られた
とかで、それを見つけた父には賞賛を贈るべきであると思いつつふ
んふんと鼻歌を奏でる。入って十分が経った頃には調子が出てきて、
大声で歌っていたところ奇妙なものが見えた為、うん? と歌を止
368
めた。
それは燃え上がる火の様だった。しかし鬼火や狐火という訳では
ないらしい。
その火は恐らく松明によるもので、ぼんやり見つめているとふい
に消える。総一郎はとりあえず大声の歌を再開させつつ、うつらう
つらと考えだす。
︱︱人食い鬼か、そうでないか。先日の残党という事はあるまい。
何せ、自分が殺した鬼の子以外は父が討ったのだ。
少し思考が危ういので、ギュッと目を瞑り頭がピンボケした考え
をひねり出す。
︱︱もしくは、新参の亜人か。そうでもなければこんな時間に大
声で歌う馬鹿は何処のどいつだと見に来た者が居たか。
そんな風に想像していると、恥ずかしくなって自然と声のボリュ
ームは下がっていく。同時に自分は平凡な人間であるという自信が
持て、静かな深い安堵を得た。
風呂から上がると、白羽は総一郎が居間に持ってきておいた本を
読んでいた。顔を顰めて唸っている。
﹁どう? 面白い?﹂
﹁ひぁっ! びっくりしたー。⋮⋮うーん、よく分かんない﹂
だろうね、と答えて本を取り上げる。題名は﹃近代の世界史∼亜
369
人誕生より∼﹄である。未知の種族の登場によりそれぞれの国家情
勢はほとんどが引っくり返って、今も昔もほとんど変わらないのは
アメリカくらいの物だとか書かれていても、分かる小学生は少ない
だろう。
時計を見ればもう寝るにはいい時間で、白羽もそれを知って目を
キラキラさせている。かつての淫靡さは一つも見当たらず、ただ親
しい相手と近くで寝るという最近では珍しい行為が楽しみなのだろ
う。思い出したように総一郎は伝えておく。
﹁白ねえ。僕、もしかしたら夜中に起きるかもしれないけど、気に
しないでね?﹂
﹁ん? 何で起きちゃうの?﹂
首を捻っての愛らしい仕草に、いや、と頭を掻いて誤魔化す総一
郎。けれど彼女はあまり気にした風でもなかったので、彼にとって
は有難かった。
︱︱あの恐ろしい夢はここ最近酷く総一郎を苛んでいる。だが悲
鳴を上げて起きだすという事は、今の所なかった。起きる事は開放
に近く、涙を流せばひとまず落ち着くのを自分でも知っている。だ
から、熟睡した人を起こす程に騒がしくなる事は無いはずだった。
それに白羽が近くに居るというのは、それとなく心強い。
手を握って上機嫌で彼女の寝室に連れて行かれる。和室で、本当
に寝る用途でしか使わない部屋。昔はここで自分も布団を敷いて寝
ていたのだなと思うと、少し感慨深くなった。
白羽は布団に丸まりながら、にこにこと学校の事を話しだす。そ
370
れが前世の彼女の事を思い出させ、懐かしい気分に浸れた。郷愁。
その域を超えないのは、総一郎が真に﹃総一郎﹄になった証しなの
か。
この体に引きずられる事もあれば、前世そのものの気持ちにさせ
られる事もある。前者も後者も、今ではもうなかなか味わえない感
覚であった。その時、やっと前世と現世の無理やりな繋がりが瓦解
した気がした。ああ、とだけ思う。
﹁でね! ⋮⋮? 話聞いてる? 総ちゃん﹂
﹁うん、聞いてるよ﹂
﹁そっか。でね! ムーちゃんたらおかしいの! 常に見えない何
かと戦っててね、必殺技は﹃マインドコントロール﹄なんだって!﹂
﹁ムーちゃんは悪役なのかな?﹂
十中八九語感で決めたのだろうが、将来使えるようになるので止
めた方がいいと思う。
苦笑しながら、目を瞑った。﹁総ちゃん? 寝ちゃったの?﹂と
聞いてくるが、可哀想だけれど無視を決め込む。ちらりと見た所、
時間はとっくに十一時を回っていた。基本的に白羽は十時に寝ると
いうから、これ以上夜更かしさせるのも駄目だと思ったのだ。
白羽はしばらくすると布団をかぶって大きく唸り、その後静かに
なった。穏やかな息から寝てしまったのかとも思ったが、それなら
それで自分も寝てしまおうと決めた。
371
寝付く寸前だった。
半分以上寝ていた。しかし眠りを覚ます物音がした。甲高い音で
ある。叫び声にも似ていた。身を起こすと、﹁総ちゃん⋮⋮?﹂と
白羽も上体を起こして目を擦りだす。そして、叩き付けられるよう
な音。総一郎は光、音魔法を自らと姉に掛け、襖をそっと開ける。
母が頭から血を流し、折れた襖の上で苦しげに呻いていた。
﹁だからよぉ⋮⋮、何処だって聞いてんだろうが⋮⋮。さっさと答
えろよ、⋮⋮なぁ﹂
粗暴な声だった。しかし、それを極力押し殺してもいた。母の両
手は氷づけにされていて、手が組めない。それでは天使の種族魔法
も使えないはずだった。その上で、なぶられているのだと知った。
こちらに背を向けて、その男は母の髪の毛を掴んだ。今ならば容
易く殺せる。しかし、母の手が氷づけにされた理由も考えねばなら
なかった。人食い鬼は、魔法が使えない。そして男の首には拘束紋
がある。
﹃⋮⋮今は、考えるだけ無駄か﹄
声は白羽以外に聞かれない。総一郎は男の服を掴み、雷魔法を使
った。
いや、この場合は化学魔術なのか。
総一郎は、男から奴を構成する電子の一切を奪った。次いでばら
けだす原子を風魔法で適当にまとめ、吸い取った分の電子を元に戻
372
す。それによって奴はタンパク質とも言えない何かに姿を変えた。
血が出ない為、処理が楽なのだ。
火魔法を用いて、母の手を直す。少々やりすぎても、天使は火か
ら生まれたとされる為問題は無かった。次に光魔法でその傷をいや
すと、息絶え絶えに礼を言われた。
﹁お父さんは? 何処に居るの?﹂
問うたのは総一郎である。母は知らないと首を振る。
﹁じゃあ、さっきの氷はどういう事? 人食い鬼は魔法を使えない
はずだよね。それに、何を聞かれてたの?﹂
﹁⋮⋮拘束紋使役権の証明手形の場所。父さんが持ってる。それと
⋮⋮、総一郎。落ち着いて聞いてね﹂
苦しげな母の言葉に、唾を嚥下させた。
﹁さっきの氷は、貴方の想像通り魔法よ。あいつらは魔法を使う﹂
﹁︱︱それってどういう、﹂
﹁説明は後。総一郎、白羽を連れてお父さんの隠し部屋に白羽を連
れて行きなさい。あそこはそう簡単には見つからないから﹂
﹁でも、母さんはどうするのさ﹂
﹁私はちょっと立つのは難しいし、まずは白羽を連れて行ってよ。
お母さんは手が組めるならある程度自分の身は守れるから、白羽を
373
連れて行った後に私に肩でも貸して? ね?﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
白羽の手を握った。次いで引き、駆けていく。
﹁総ちゃん!? お母さん、本当において行っていいの? 何で、
こんな事になってるの?﹂
総一郎は、その言葉を黙殺した。自分でさえ分かってはいないの
だ。答えられる道理もない。しかし命を危うくさせられているのな
ら、やるべき事だけははっきりしている。
廊下を抜け、裸足で道場まで渡り、掛け軸まで連れて行く。二つ
目までは良かった。しかし、三つ目を阻む者がそこに立っていた。
﹁⋮⋮武士垣外のガキか﹂
巨躯の赤鬼であった。拘束紋は付いていない。服装は作務衣にも
似た和服で、手には総一郎と同じだけの大きさの金棒が握られてい
た。少年は少女を少し下がらせ、強く敵を睨みつけた。鬼は、鼻を
鳴らす。
﹁忌々しい目つきだ。同胞を殺した時の奴の目に似ている﹂
﹁何故、こんな事をするんですか。貴方は、拘束紋が付いていない
じゃないですか﹂
﹁復讐だ。同時に革命でもある。貴様に言っても分からないだろう
がな、小僧。名は、何と言う﹂
374
﹁⋮⋮武士垣外、総一郎﹂
﹁そうか、奴の付けそうな名前だ。ひとまず、聞いておこう。貴様
の父は何処だ。答えれば命までは取らん﹂
﹁知らないから、僕は今こんな所で貴方と対峙している﹂
﹁はは、それもそうだな。確かに奴の周りに居た方が、子供だけで
いるよりは安全だ。総一郎、今から儂は貴様を殺そうと思うのだが、
抵抗をするつもりはあるか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あるようだな。目がそう言っている。ならば、お前の得物がここ
にあるだろう。それを取りに行く時間をやる﹂
鬼は言って、ドカッと地面に腰を下ろした。目を瞑り、待ってい
る。白羽の手を引こうとしたら、﹁その娘を隠そうとするなら、そ
いつも殺すぞ﹂と脅され、仕方なしに手を離す。
﹁⋮⋮総ちゃん⋮⋮﹂
﹁大丈夫、大丈夫だから﹂
宥める言葉も、素っ気ない。それは総一郎自身の余裕のなさなの
だろう。この鬼は、先ほどのあれとは訳が違う。明らかに実力が上
の相手であることには、確信が持ててしまった。
道場の端に置いてある木刀を取り、鬼と向かい合った。奴はにた
375
りと笑い、こう言い当てた。
﹁桃の木刀だろう。破邪の力が有り、亜人と魔法に無類の力を発揮
する。下手な真剣よりかは力強い代物だ。奴らしい。全く、奴らし
いにも程がある﹂
くつくつと笑いながら、鬼は立ち上がった。金棒を待ちあげ、振
り下ろす。道場の床は簡単にへこみ、周囲にひびが入った。総一郎
の表情を見て、﹁怖気づいたのか?﹂と笑う。睨み付けながら、八
双に構えた。
勝てる見込みは、薄い。打ち込むだけの隙も、見当たらなかった。
だが、隙が無いと分かるだけでもまだいい。父には、隙しかないよ
うに見える。
膠着が続いた。汗は噴き出て、顎から首元へ下っていく。見上げ
ねばならない程、身長差は大きかった。下手な魔法を打っても弾か
れる。されど何もしてこないのだから、動きようもない。
﹁⋮⋮慎重すぎてつまらんな。どれ、少し焦ってみろ﹂
鬼は言って、宙にいくつもの巨大な炎を出現させた。飛び散り、
道場が燃え上がる。煙。白羽が咳き込むのを見て、すかさず風魔法
で彼女の周りに壁を作った。
﹁どうやら貴様はその娘が大事らしいな。ライラに似ている。とな
ると、その娘も奴の子か。姉か、妹か。判別がし辛いが、まぁいい。
早く来ないと、わしが直接殺してやるぞ﹂
殺気が白羽にも向いたのが分かった。身を竦ませ、動けなくなっ
376
ている。赤鬼が彼女に手を差し向けた瞬間、遮二無二に飛び出した。
考える余裕も吹き飛んでいた。
金棒が、来た。化学魔術で応戦するも、僅かに足りない。最初よ
り二回り小さくなった鈍器が、総一郎を横殴りにした。身が軋み吹
き飛ばされる。木魔法で壁を柔らかくするも、激突のあと地に堕ち
た時、容易くは立ち上がれなかった。
光魔法で回復するだけの時間も同様に無い。追い打ちは迅速で、
床を転がって避ける。肋骨がその衝撃で、数本、確かに砕け切った
のが分かった。間合いを取ってから光で回復するが、生物魔術のよ
うな万全さは無い。
余力を振り絞って、木刀を構えた。再びの八双。怪我のせいで視
界は明滅を繰り返し、意識が朦朧としていた。何故か、鬼の顔から
表情が消えた。気付けば奴の構えは地擦りである。つまり下段の金
棒は防御に徹しているという事で、酷く攻め難い。
睨み合った。次で終わりだという確信もあった。勝つか負けるか
と言う考えには至らなくなっていた。視界は黒く染まる度、父の姿
が浮かび上がる。父にどこまで届くか。最後はそれだけになった。
じわりと、鬼の顔に汗が伝い始めた。総一郎も同じだが、先ほど
より引いてきている。どちらかと言うと骨折による冷や汗に近い。
いずれ崩れると自身を断じた。総一郎は、息を吐いて仕掛ける。
飛び上がった。それを、金棒が捕らえた。総一郎は剛腕に崩れ、
揺らぎ、霧散する。鬼は目を剥いた。幻影と自らの隠伏を解き、投
げ出した木刀を掴む。喉。肉を食い破り、鬼は絶命した。
377
同時に、一度崩れ落ちた。しかし木刀を杖に立ち上がる。白羽ま
でよろけながら歩き、たどたどしく手を引いた。硬直した手はたど
たどしく総一郎を追従し、彼と共に掛け軸の裏の小部屋に入る。
小部屋の中は、炎に包まれていなかった。そうなる想像も出来な
い。何か、神聖なものに守られているように思えた。道場の火消と、
母を連れに戻るため小部屋から出ようとすると、必死な声が総一郎
を止めた。
﹁待って、総ちゃん!﹂
後ろ髪を引かれ、瞬間総一郎は立ち止まる。だが、掴まれた腕を
考える前に力いっぱい払っていた。﹁痛っ﹂と言う彼女の声に、慌
てて、取り繕う様に言った。
﹁ごめんね、白ねえ。でも、やらなきゃならない事だから待ってい
て欲しいんだ。大丈夫、きっとすぐ戻ってくるから﹂
笑いかけると、白羽は息を呑み、胸を突かれた様な表情になった。
総一郎は訳も分からず、疑問に少女の名を呼ぶ。抱きつかれた。そ
の手は、震えていた。
﹁⋮⋮どうしたの? 怖くても、ここなら安全だよ﹂
﹁違うの、総ちゃん。そうじゃないの﹂
声には、涙が滲んでいた。嗚咽は大きくなり、次第に変わってい
く。
﹁総ちゃん、ごめんね? 気付いてあげられなくて、ごめんね?﹂
378
﹁ごめんって、何が? 僕、白ねえに謝られるようなこと、されて
ないよ?﹂
﹁だって、総ちゃん、自分は一人きりだっていう目をしてるもん。
寂しくて、何も自分の事を分かってくれないんだって、そういう目﹂
総一郎は、硬直する。暗がりの小部屋。古ぼけた本の匂い。静か
な涙。白く淡く輝く翼。だが、何処か無為に思えた。無為に思わな
ければ、感情にとらわれてしまい、これから生きていけないのだと
いう恐怖が襲った。
﹁⋮⋮気のせいだよ。だから、放してくれ﹂
﹁あっ﹂
白羽を押しのけて、扉を開ける。すぐに閉め周囲を確認すると、
そこには二人の人食い鬼が立っていた。一人は倒れた巨躯の鬼の様
子を見ているが、もうひとりは訝しげにこちらを見つめていた。光
魔法も音魔法も掛けていたが、勘が良いのかドアの開閉を察知した
ようだ。
﹁魔力、無駄遣いしたな﹂
姿を現すことで、彼らの注意の矛先を扉の存在から自分へと変え
た。こちらを見ていた人食い鬼は立ち上がって機関銃を手にし、も
う一人はぶつぶつと何かを唱え始める。聞いたことがある呪文だ。
風の、飛来物に干渉する魔法だったはずだ。
敵の策略を知り、顔を顰める総一郎。相手を守勢に回しそのまま
379
圧し殺すという戦法だ。突き崩す為に物理魔術と風魔法を使って、
敵を肉薄にする。まずは、銃を使う鬼の小手を打った。そのまま、
他方の首を。
呪文を唱えていた方は、喉を押さえて崩れた。死んではいないよ
うだが、動けもしまい。機関銃の方は取り落とした得物を拾おうと
したのを、総一郎が頭蓋を割った。こちらは、頭の形が明らかに変
形している。死んだ、と言う確信が持てた。
﹁道を歩むように、人を殺す﹂
死骸を見つめながら、呟いた。今はまだ、名状しがたい色をした
感情が、胸中を渦巻いている。何人殺せばその域に辿り着くか。遠
い事しか、分からない。
視界の端を、何かが掠めた。
呪文を唱えていた方が、機関銃を総一郎に向けた。咄嗟に避ける
が、反撃をする余裕が無い。間合いをとって防御壁を作り出すもの
の、敵の突破が難しくなった。魔力も、残り僅かである。
機関銃の音は途切れない。もしかしたら、金属魔法を応用した銃
弾自動生成銃なのかもしれなかった。魔力が尽きるまで、ずっと少
量の魔力を使い続ける。厄介だと舌を打った。
その時、殺気が来た。
考える前に振るった木刀は、いつの間にか横に立っていた人食い
鬼の刀を受けて使えなくなった。銃声は途切れておらず、騙された
のだと悟る。返す刃は避けがたく、浅手に済むも三の太刀は必中に
380
等しい。
しかしそこで、鬼の動きは止まる事となった。総一郎は、寸前で
走った銀閃を見逃してはいなかった。鬼の正中線に赤い筋が入り、
刹那、二つに割れた。血煙を上げ倒れた鬼の向こうには、父が立っ
ていた。
﹁⋮⋮お父さん、今まで一体、どこに行っていたんですか﹂
﹁村の方の賊を斬っていた﹂
﹁村? 村も襲われたのですか?﹂
﹁ああ﹂
相槌を打って、父は転がる三つの死体の内、赤鬼の方に目を向け
た。それに近づき、死に顔に顔を寄せながら尋ねてくる。
﹁これは、総一郎が斬ったのか?﹂
﹁はい。⋮⋮どうしたんですか?﹂
﹁いや、何でもない。⋮⋮ただ、かつての同僚だったという、それ
だけの事だ﹂
言ってから一秒間、父は逝った赤鬼を見つめていた。しかしすぐ
にこちらに向き直り、本題を切り出した。
﹁奴らが狙っているのは、私が持つ拘束紋使役権の証明手形だ。全
国に千ほどあり、散り散りに所持されている﹂
381
﹁奴らって、何ですか﹂
﹁大抵は人食い鬼だ。しかし、協力者が居ない訳ではない。恐らく
だが、奴らは魔法を使っただろう﹂
﹁はい、母さんの手を凍らせていました﹂
﹁人食い鬼は、魔法が使えない。しかしそれはその素質が無いと言
うのでなく、ただ知識が無いだけなのだ。知識があれば、使える。
それだけで奴らは人類の敵で在り得る﹂
﹁何で、そんな事を﹂
﹁屈辱だったのだろう。本来食す対象である人間に、敵であるとも
認識させずに飼い殺される。そして、それを見抜いて手を差し出し
たものが居る。日本の敵だ。しかし正体が分からない﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
﹁無貌の神ではない。日本の転覆は奴好みの展開だろうが、それで
利益を得る者が居る。それも、至極まっとうな手段を使っているに
過ぎない輩だ。奴が関わっているならばもっと渾沌とした状況にな
るだろう。奴は、日本とは異なる﹃魔術﹄を教えるのだ。それを使
いすぎれば人間は狂う﹂
この国はもう終わりだ。淡々と、父は言い切った。総一郎は、と
てもではないが信じられなかった。この騒動は、この家にだけ起こ
った事ではないのか。一歩外に出れば、いつも通りの風景が広がっ
ているのではないのか。
382
﹁⋮⋮じゃあこれから、どうすれば﹂
複雑な心情のまま、身の入らない呟きが漏れた。ナイの手による
ものでないなら、これがその契機なのか。父は瞬間の間をおいて、
とうとうと語りだす。
﹁この騒乱を聞きつけて、きっと諸外国が難民保護と称して、日本
の魔法技術の奪取の為この国にやってくるだろう。大抵はそれに従
い、外国で余生を暮すことになる。︱︱だが、私はこの国に留まる
つもりだ。まず拘束紋の証明手形を集めようと思う。全てを奪還で
きれば、奴らの勢力は地に堕ちる﹂
総一郎、と父が名を呼んだ。いつもよりも、強い語調だったよう
に思う。炎はいつの間にか消えていて、暗がりが道場を満たしてい
た。
闇色に染まる父が、問う。
﹁私と、一緒に来るか?﹂
咄嗟には、答えられなかった。白羽の姿が浮かび、父と並んだ。
父と共に行けば、人と修羅の狭間を歩けるようになるだろう。しか
しそこに白羽はいない。逆に行かなければどうなるのか。日本を出
れば、ナイが現れる。白羽は近くに居るが、その身の安全など知れ
たものではなくなる。
ふと、気付くことがあった。
問いである。当たり前すぎて見失っていた問いだ。生まれてから
383
今の今まで、ついぞ知ることの出来なかった質問。それを、総一郎
は口に出していた。
﹁⋮⋮お父さんは、何と言う名前なのですか?﹂
父はそれを聞き、目を見開いて絶句した。しばしの無言が、道場
に反響する。何となく、気が抜けた空気が漂い始めた。
﹁⋮⋮知らなかったのか﹂
﹁はい。知る機会が無かったので﹂
﹁何故、今問う?﹂
﹁決める前に、聞いておきたいと思ったのです。聞けば、決まる。
そんな気もします﹂
考え込むように父は俯く。目を瞑り、降ろされた手が何かを訴え
るかのように微かに蠢いた。息を吐き、父は視線を逸らしながら言
った。
﹁武士垣外、優だ。優しいと書いて、優。私は、名前負けもいいと
ころだと思っている。こればかりは、笑ってくれても構わない﹂
総一郎は、無意識に息を大きく吸い込んだ。つばを飲み込み、言
葉を探す。言い表し難い、温かな感情が湧きだした。定まらないま
ま、喋る。
﹁⋮⋮いえ、何て言えばいいのか⋮⋮。凄く、お父さんらしい名前
だと思います。僕は、むしろしっくりきました﹂
384
﹁しっくり?﹂
﹁はい。どんな名前も、これ以上には似合わない。そんな風にさえ、
思うのです﹂
確信のまま、総一郎は断言した。父はそれを呆然と見つめていた。
ふいに、何かが父の頬を伝い落ちた。二筋の何か。すぐに拭われ、
父は変わらぬ視線で総一郎を見つめ直し、威勢よく言い放った。
﹁総一郎、やはり、お前は付いてくるな﹂
﹁え?﹂
﹁しかし、そのまま外国へ追い出してもそのまま野垂れ死ぬだけだ
ろう。餞別を三つ、お前にやる。一つは私がかつて使っていた木刀。
もう一つは一冊の本。どちらも隠し部屋の地下にある﹂
﹁もう一つは﹂
﹁お前がすぐに戻ってくれば教えよう。さぁ、早く行け!﹂
﹁は、はい!﹂
慌てて掛け軸まで戻る総一郎。途中で﹁どんな本ですか﹂と問う
と、﹁お前の自由だ、それですべて決まる﹂と言い切られ、訳が分
からないまま急いでドアを開ける。
﹁あ、総ちゃん?﹂
385
ドアの隙間からこちらを窺っていた白羽と机を端に退かし、床を
探る。今までは開かなかったはずが、今回はいとも簡単にその在り
処に辿り着いた。へこむ場所を強く押し込み、地下への道を開く。
光魔法で闇を照らし、そのまま地下へ下りて行った。壁の端に紺
色の長い袋があり、その中に木刀が入っていた。桃の木の、固い手
触り。しかし、本は一体どれを選べばいいのかと、眉を寄せて本棚
を指先でなぞっていく。
﹁コレなんか良いんじゃないかな。﹃魔術の真理﹄。ぼろぼろだけ
どまだ読めるよ?﹂
ナイが、すぐ横に立っていた。
大きく飛び退り身構える。しかし彼女はそれを大した事とも思わ
ず、﹁何だよ、お祝いしに来たっていうのに﹂と肩を竦めた。
﹁何で君がここに居るんだ! それに、お祝いって⋮⋮﹂
﹁ここにある本はかなり力あるものばかりでね、少し異界と化して
いるんだよ。だから入って来れた。⋮⋮で、さっそく本題に入らせ
てもらうけれど、﹂
優しげな目つきになり、ナイは穏やかな口調と共に拍手を始める。
﹁おめでとう。君は見事、その数奇な運命の契機の一つ目を超えた。
総一郎君、やはり君は素晴らしいよ。君の得たこの結果は、おおよ
そ最善と言っていいものだ﹂
﹁⋮⋮どういう事だよ。契機って、日本の転覆じゃあなかったのか。
386
僕はまだ日本に居るっていうのに﹂
﹁何を言うんだい。そんなことは小事に過ぎないよ。ボクはずっと
前から知っていたし、この先の事も分かり切っている。ボクが言っ
たのは、君がお父さんに斬り殺されなかった事さ﹂
総一郎は、言葉を詰まらせた。父に殺される。その反応に、ナイ
は﹁アレ?﹂と首を傾げた。
﹁気付いてなかったの? 意外だなぁ、君って物事を分かり切って
から動いて居そうなものなのに。⋮⋮まぁ、いいさ。それならそれ
で﹂
﹁⋮⋮、っ﹂
総一郎は、踵を返して駆けだした。父に知らせ、ナイが言ったこ
とを尋ねようと思ったのだ。ナイが邪魔しても、父が追い払ってく
れる。しかし無貌の神は、それを先読みしていたようだ。
﹁総一郎君、行かないで。行ったら、白羽ちゃん殺しちゃうよ﹂
いつの間にか、ナイの懐で白羽が拘束されていた。小さなナイフ
を首筋に当てられている。ゴテゴテに装飾されたもので、刃先に乾
いた血がこびりついたナイフだ。
白羽は自らの状況も理解できていないようだった。ただ、﹁え?
⋮⋮え?﹂と総一郎を見つめて困惑している。総一郎は、覚悟を
決めてナイに向き直った。邪な女神は喜ぶような笑みで一度頷く。
﹁素直な子は好きだよ、騙しやすいから﹂
387
﹁⋮⋮お父さんが僕を斬るって、どういう事だ﹂
からかう言葉を黙殺すると、﹁無視するの? 酷いなぁ﹂と不満
げな表情を見せてから、にたりと笑った。それは嘲笑にも似た嫌ら
しいもので、これが本性なのだと警戒を強めた。
﹁物事は単純な話さ。君がお父さんに着いていくと言えば、君は間
違いなく人間性を失った化け物に成り果てる。化け物と言ってもも
ちろん比喩だけれどね。修羅、だっけ? 君たちで呼称するところ
の。そして、お父さんはそれを恐れ、その答えを聞き次第総一郎君
を殺すと決めていた﹂
﹁⋮⋮そ、んな。︱︱いや⋮⋮何で、付いていけば僕は修羅になる
んだよ﹂
﹁それに答えるのは簡単だ。総一郎君のお父さん、武士垣外優その
ものが修羅だからだよ。修羅の血を色濃く継いだ子が修羅道を歩め
ば、出来上がるのは修羅に決まっているだろう? ⋮⋮それにして
も、随分と口調が男の子らしくなったね。それも、そういう事なの
かな﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎は黙りこくる。修羅の血。修羅道。父はこの国に残り旅を
すると言った。この国の反乱勢力を削るために。それ手段は言うま
でもないだろう。ドツボに入る総一郎の思考など気にもかけず、ナ
イは勝手に言葉を続ける。
﹁君のお父さんは、もう上には居ないよ。最後の三つ目の餞別はな
388
くなった。アレを受け取ったら、君は少々強くなりすぎるからね。
そうなれば、ボクの手によるものでない破滅が君を覆い尽くすかも
しれない。それだけは避けたいんだ。ボクは、君に期待しているか
ら﹂
﹁期待って、何だ﹂
﹁教えない、今はね。君はこれからしばらくしない内に外国への渡
航を強制されるだろうし、渡った先で馴染んだ頃に会いに行くよ。
どこがいいかな⋮⋮。そうだ、イギリスとかどうかな。ボクの力も、
日本よりは強くなる場所だ﹂
﹁断る。亜人を迫害する国なんだろ? そんなところ、僕は行かな
い﹂
﹁そんな事言っちゃうんだ。じゃあ、君には呪いを掛けちゃう。イ
ギリスと深く結ばれる呪いをね﹂
指先をくるくると回し、総一郎の心臓に向けたのか、ちょん、と
左胸を触れた。何かをされたという実感はない。
﹁じゃあ、ボクは退散させてもらうよ。そろそろお父さんも勘付き
始めたようだ。戻って来られてもボクの作戦がご破算だしね。じゃ
あまた、イギリスで﹂
闇に吸い込まれるようにして、ナイは消えていく。脱力して本棚
にもたれ掛かると、一冊の本が落ちた。手に持ってみると、﹃美術
教本﹄と書かれた本だと知れた。この場所に置いては異質な本だっ
たが、その気の抜けた感じが面白く、総一郎はこの本を餞別に選ぶ
ことに決めた。
389
﹁⋮⋮あの人、会ったことある﹂
ぽつりと、白羽が呟いた。驚いて総一郎が尋ねると、三年くらい
前、と話し出す。
﹁総ちゃんが物理魔術を禁止されてた時、会って話をしたの。総ち
ゃんの事一杯聞かれた。⋮⋮何で思い出さなかったんだろう。あん
なに恐かったのに﹂
ブルリ、と白羽は身を震わせた。総一郎は上に戻る事を促し、力
なく頷かれた。上に戻り道場に入れど、父はいない。ナイは嘘を吐
かないのだ、と思った。意図して歪ませた真実は伝えるのだろうけ
れど。
木が焼けて、道場の一部は焦げ付いていた。総一郎はふと振り返
り、掛け軸を巻き取り、胸元に入れた。布に包まれた、総一郎には
長すぎる木刀、﹃美術教本﹄も同様に携えている。
そして道場を出て、愕然とした。
ゴウゴウと音を立てて燃え上がっていた。どこまでも赤い炎は、
丑三つ時の闇を煌々と照らしている。焼きつくような赤だった。家
を包むのは、そんな火だった。
声は出せなかった。白羽も同様だ。ただ自失して燃え上がる生家
を眺めていた。思い出が脳裏に去来する。幼すぎた白羽との喧嘩と
も言えないじゃれ合い。母に教えられた魔法。本を読んで過ごした
日の居る部屋。﹁お母さん﹂と白羽が言葉を漏らす。母だ。この中
に居るはずの、母だ。
390
﹁助けなきゃ﹂
ゆっくりと、総一郎は家に近づいて行った。はっと我に返って白
羽がそれを阻む。振り払った。それでもしがみついてきた。
﹁邪魔するなよ。このままじゃ、お母さんが死ぬんだよ!﹂
﹁でもそんなことしたら、総ちゃんが死んじゃうでしょ!?﹂
﹁でも母さんは水魔法が使えないんだ! 火と光だけで、どうやっ
て生き残る!﹂
﹁総ちゃんだって魔力はほとんどないんでしょ? 無謀だよそんな
の!﹂
﹁だけど、僕は助けに戻るって約束したんだ!﹂
総一郎は、いつの間にか涙を流していた。嗚咽は無い。しかし止
まりもしないのだった。必死に拭うが拭いきれない。白羽の手を、
強引に振り払った。
﹁僕の中身は白ねえよりずっと年上なんだ! いつか言ったはずだ
! それが何でわからない!﹂
視界が、次の瞬間ぶれた。頬を張られたのだと知った。白羽が、
涙目で強く総一郎を睨みつけていた。唇をキッと結んで、怒りに震
えている。
﹁それでも、総ちゃんは総ちゃんでしょ!﹂
391
叫ぶような声だった。
﹁前世の記憶があっても、その所為でいろんなこと知ってても、私
より全然大人でも、総ちゃんは総ちゃんでしょ! 生まれた時から
ずっと、私の弟! だから、お願いだから﹂
途端、彼女は力を失った。縋り付く様にして、総一郎に寄りかか
った。抱きつくのではない。服の正面の一部を掴んでいるのだろう。
引っ張られる、感覚があった。
﹁お姉ちゃんの言う事を聞いてよ⋮⋮!﹂
総一郎は、反論が出来なかった。ただ目の前に映る姉のつむじを
見ながら、呆然と首肯する。
気付けば、手を引かれながら走っていた。村は無人で、破壊され
ているものの人食い鬼の姿も見当たらない。だが死骸が所々に有っ
て、父が斬ったのだろうと思った。
前を走る白羽は、大声で泣き喚きながら足を動かしていた。総一
郎は鍛えていたが、町までの道は白羽に走れるような距離ではない。
だが、息切れして止まるという事も無かった。白羽の髪の毛が白く
染まっている。そう見えるのか、実際に染まってしまったのかは分
からなかった。どちらでも信じられた。
避難所についてからは、記憶はもう残っていない。何もかもが消
え失せ、闇が浮かび、そこに居たはずの父も、今や居ない。
総一郎の与り知らぬところで、運命と歴史は流転する。今の幼き
392
彼は、死んだ様に眠りこけていた。命運がまた、彼を誘うまで。
393
1話 勝気なビスクドール︵1︶
起きると、アメリアがファーガスの毛布の上で丸まっていた。
薄暗い真夜中だった。時計を見ると、短針は四時半を指している。
窓から入る弱い光は、電灯の物だ。一つ、猫のような欠伸を噛まし
つつ、寝ぼけ眼を時計から外し、再び自身の愛猫に目を向ける。
日本のとある村で出会ったこの猫は、ファーガスによく懐いてい
る。懐いているというだけならどの動物もそうなのだが︵自分はそ
ういう体質らしい︶、この猫は気遣いというものを知っている。愛
おしい猫なのだ。
そういう性質のために、彼女はファーガスの身じろぎに反応して、
目を覚ましたようだった。弱弱しい寝ぼけた鳴き声をあげ、ファー
ガスの顔にすり寄ってくる。
﹁んっ、朝から甘えん坊だな、こいつ⋮⋮﹂
キスしてから、寝ぼけた半眼のまま喉をなでてやる。ゴロゴロと
気持ちよさそうな声を出し始めた。だが、途中で彼女は焦ったよう
にその手を振り払い、時計に近寄ってぺちぺちと猫パンチ。
﹁ふぁあ⋮⋮。どうしたんだよアメリア⋮⋮。何か時計に恨みでも
あるのか⋮⋮?﹂
彼女に近寄りつつその頭をなでると、アメリアは尻尾をブルンブ
ルンと降り始めた。犬とは違い、猫のしっぽ振りは不機嫌の合図だ。
394
尻尾を誤って踏んづけても怒らないアメリアが、である。ファーガ
スはそれに目を覚まし、自分の何が彼女の不興を買ったのかと戸惑
う。
だが、とうとう彼は気付くのだ。
今日が、何の日であるかを。
﹁⋮⋮あっ。ヤべぇ﹂
ファーガスはダッシュでベッドから飛び起き、冷蔵庫から出した
サンドイッチを温めもせず口にくわえた。そして、急いで着替え始
める。初めてのシャツ、初めてのズボン、初めての上着。だが、初
めて袖を通すというのに彼には感慨を抱く余裕がない。
﹁ありがとうアメリア! 離れ離れでもずっと愛してる!﹂
二分で支度したファーガスは、残された三秒の間アメリアにキス
の嵐を振らせてから家の外に飛び出した。荷物の大半はすでに輸送
済みだが、それでも高速列車での長旅のため、それ相応のダッフル
バッグを抱えている。故に、その走る姿は何とも不恰好だ。
始発はすでに着いていた。ファーガスは急いで改札を通過し、閉
まるギリギリの電車に転がり込む。
そこで、やっと一息つくことができた。しばし達成感の中放心す
る。そんな時、ふと窓ガラスの向こうの自分を見つけた。
﹁⋮⋮随分と、いい格好してんじゃん﹂
服に着せられてるぜ、と教えてやる。けれど、いいのだ。これか
395
ら、少しずつ慣らしていけばいい。
九月。今日は、ファーガスの入学式だ。そして、ベルとの再会の
日でもある。
ファーガス・グリンダーは庶民である。
だが、縁があって貴族御用達の騎士学園への入学が許された。
その話は長くなるのでここではいったん割愛とさせていただこう。
ざっくりというならば、貴族のご令嬢を助ける機会があって、それ
をモノにしたというだけの話だ。あまりに陳腐な話だが、事実なの
だから仕方がない。
そして問題は、ファーガスがそのご令嬢に恋焦がれているという
事だった。届かない恋。身分違いの恋。そのために、ファーガスは
騎士学園などという場違いな進路を選んだ。
もっとも、それを儚い初恋で終わらせるつもりはない。少年なり
の決心だ。
﹁⋮⋮おい坊や! もう終点だ、とっとと起きろ!﹂
﹁うぇ!? ああ、すいません!﹂
ファーガスは覚醒して、頭を下げてから走り出す。
三つ目の乗り換えだった。次は高速列車に乗って、五時間程度そ
396
のままの予定だ。ウェールズが、中途半端にイングランドに近いの
が悪いと思う。スコットランドほど遠ければ、飛行機という手も使
えた。そして三時間だけ高速列車で時間をつぶすのだ。どうせ拘束
時間は大体同じといえど、その方が、遥かに気が紛れそうである。
隣の芝は、という奴だとは分かっているのだが。
無事高速列車に乗り込み、指定席に座る。
﹁このまま五時間⋮⋮。アメリアが恋しい⋮⋮﹂
早くもホームシックを起こし始めるファーガス。全面的に、騎士
学園寮がペット禁止な所為だ。
しかしもがいていても仕方がない。餞別に、友人から本をもらっ
ていた。読書にあまり興味のないファーガスからしてみれば他の物
でもよかったのではないかとも思ったが、確かに電気なしで楽しめ
るのは良い。
﹁俺のケータイ、壊れてて充電滅茶苦茶食うからな⋮⋮﹂
そのケータイは今、ダッフルバックの奥底に眠っているはずだ。
個人的にはそのまま安らかに眠っていてほしいが、後進が居ないの
で老体に鞭打たねばならない。
窓の外を見る。景色が、みるみる飛んでいく。田舎、都会、田舎、
都会⋮⋮。めまぐるしすぎて、のんびりとはいかないようだ。
大人しく、本を読むことにした。存外、面白い。だが面白くとも
眠くなるという事はままある。不思議なことである。
397
目が覚めると、すでにニ時間が経過していた。あと三時間。まだ
三時間だ。もう一眠りと考えていると、整備中とのアナウンスが入
る。どうやら、駅の一つに着いたらしい。気分転換に、ファーガス
は外に出た。
伸びができるというのは素晴らしいことである。少年はまず、売
店で食料を探し始めた。昼食はバックの中に入っていたが、足りる
かどうかは心もとない。ファーガスは大食らいなのだ。
とはいえ売店で売っているものの大抵は、変な味か不味いかのど
ちらかである。特にチップス系は駄目だ。あれは嫌がらせにプレゼ
ントするもので、人間の食べるものじゃない。
﹁クッキーか何かないかな⋮⋮っと﹂
適当に物色してから、良さそうな色合いのものを探す。これでよ
し、と納得してからお勘定を払い、列車内へ足を向けた。と、その
時背後で短い悲鳴が上がる。見れば、少女が小銭をばらまいていた。
﹁あーあ⋮⋮。ドン臭いのがいるもんだな﹂
仕方なしと手伝いに向かうと、ある一人の男性が親切そうに﹁手
伝うよ﹂小銭を拾い始める。だが、ファーガスはギリギリのところ
で見逃さなかった。彼が、少女のポケットから財布をスッた事を。
︱︱まあ、スリは何処にでもいるからな。と思いつつ、ファーガ
スは小銭ひろいをやめて近くの壁に寄り掛かって待機した。小銭を
拾い終えたのか、少女に礼を言われた男がこちらに向かってくる。
ファーガスはその横を通り過ぎつつ、間違えた、とでもいうように
398
肩をぶつけた。﹁すいません﹂と間髪入れずに言いながら、奴のポ
ケットから財布をスる。
﹁おい、これを忘れちゃ意味ないだろ﹂
﹁えっ?﹂
少女に向かって、財布を差し出した。見れば、彼女の服は質実剛
健で、しかし最低限の華美を忘れない、見事な意匠の物だった。
丁度、ファーガス自身のデザインと、似ていないとも言えない。
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
少女もそれに気付いたのか、しばし空白があった。だが列車出発
のブザーが鳴ったからには、声をかけるのも難しい。挨拶もそこそ
こに、二人は車内に入る。
﹁じゃ、お先に﹂
返答を待たず、ファーガスは自席へ向かった。また長い退屈が待
っているのかと本を読みだすが、今度は眠れない。それなら本の内
容に集中すればよいだけなのに、眠ろうと思って読むとどうにもう
まくいかなかった。
﹁⋮⋮本を、読むのですか?﹂
馬鹿丁寧な英語。ファーガスは視線を上げると、見覚えのある少
女がそこに座っている。
399
﹁⋮⋮えーっと?﹂
﹁相席、だったようです。数時間よろしくお願いします﹂
﹁ああ、これはご丁寧に⋮⋮﹂
肩口までの金髪を揺らせて、少女はファーガスの向かいに座った。
長距離列車の座席は、個室のようになっている。向かい合う二人用
の長いすと、それを部屋のように隔てる壁とドアが特徴だ。
しばし、無言。ファーガスは人当たりのいい方だが、何の縁もな
い相手といきなり気さくに話し始めるほどのコミュニケーション能
力の持ち主ではない。その上先ほど別れを告げたのが、どうにも極
まりが悪かった。対する少女は性格が引っ込み思案なようで、気ま
ずそうに下を向いている。
その所為か、自然と少女の容姿を観察してしまっていた。小柄だ
が、年ごろはファーガスと同じくらいだろう。その短い金髪は良く
手入れされているのかさらさらと電車の振動に反応し、こちらから
見て右側にのみ、髪飾りのような三つ編みがさりげなく自己主張し
ている。
趣味がいい、と思った。それが、ファーガスを確信させた。躊躇
いがちにも話しかけてみる。
﹁あの⋮⋮さ、もしかしてだけど﹂
﹁あ⋮⋮、はい。多分、そうです﹂
﹁おぉ! そうなのか﹂
400
主語をまだ言っていないのに、驚くべき理解力である。もしかし
たら彼女自身予想がついていたのかもしれない。
何となく打ち解けられた気がして、安堵を隠さず﹁そっか﹂とフ
ァーガスは相好を崩す。呼応するように、少女も﹁やっぱり﹂と。
﹁そっか。君も騎士候補生か﹂
﹁やっぱり、あなたも猫好きですか﹂
﹁何でバレた?﹂
まったく通じ合えていなかったことに戦慄する。しかも驚愕すべ
きは、彼女の発言が間違っていないという事だ。身も心も捧げた愛
猫が、我が家で自分を待っている。
そのように戦々恐々としていると、少女は小さく噴き出して身を
震わせた。笑っているらしい。唖然としていると、震えた声で﹁す、
すいません﹂と謝られる。
﹁親しみやすそうな人でしたので、ついからかってしまいました。
ごめんなさい﹂
素直に謝られてしまえば、ファーガスも怒りなど湧いてこない。
それどころか、愉快そうな人柄をしていると感心してしまうほどで
ある。
﹁というか、本当、何で俺が猫好きだって分かったんだ?﹂
﹁え? バッグに写真が付いているではないですか﹂
401
改めて確認すると、確かにアメリアの写真がキーホルダーに収ま
ってバッグに取り付けられている。しかし自分にはそんな覚えがな
い。きっと、両親のどちらかがやったのだろう。写真を撮る習慣が
あまりないファーガスだから、有難いやら間が悪いやらで複雑だ。
﹁う、うん。とりあえず見なかったことにしてくれる?﹂
﹁別に恥ずかしがることではないと思いますけど⋮⋮。そう言うな
ら、分かりました﹂
赤面のファーガスはこそこそとキーホルダーをダックの内側に詰
め込んでチャックを締める。﹁それで﹂と話を戻した。
﹁結局君は︱︱﹂
﹁はい、騎士候補生です。私はスコットランド出身なのですが、あ
なたは?﹂
﹁俺は、ウェールズ。だからまぁ、イングランドクラスだな﹂
﹁それは残念です。気の合いそうな相手だと思ったのに﹂
﹁女の子にそういってもらえるなら本望だな。⋮⋮というか、名前
を聞いてなかった﹂
軽口をたたいておきながらこの始末。クスリと笑われ、分不相応
は自粛しようと決める。
﹁そういえばそうでしたね。私は、ローレル・シルヴェスター。ロ
402
ーラと呼んでください。ローレルより呼びやすいですし。出身はス
コットランドのモントローズです。趣味は読書。そしてすみません。
本当は私、犬派なのです。そちらは?﹂
﹁俺は、ファーガス・グリンダー。とりあえず同い年で、出身はウ
ェールズのスランディドノ。こっちは猫派だ裏切り者め。⋮⋮とい
うか思ったんだけど、もしかして庶民上がり?﹂
﹁何故バレたのですか!﹂
﹁いや、言葉遣いが丁寧すぎるなと思ってさ。貴族は丁寧っていう
より格調高い感じだし。お前のは⋮⋮日本人の英語みたいだな。ま
ったく言葉に崩れがない当たりが﹂
﹁そ、そうですか⋮⋮﹂
ショックに頭を抱えだしてしまうローレル。その表情は蒼白で、
そこまで? とファーガスは思ってしまう。別に貴族の坊ちゃん嬢
ちゃんはそんなこと気にしないのだが。彼らにとっては庶民だろう
と友軍なら親友で、亜人なら敵なのだ。
﹁⋮⋮というか、あなたもそうなのですよね?﹂
﹁ん、ああ。縁があってな。俺も庶民上がり。つまり仲間ってこと
だ。クラス違ってもいいじゃん。これからよろしく﹂
﹁はい、よろしくお願いします﹂
くすりと、ローラは微笑する。微笑みが、よく似合う人柄なのだ。
403
早くも友人が一人で来てしまった。とファーガスは嬉しくなった。
スコットランドクラスだから接触機会は少なくなるかもしれないが、
ひとまず滑り出しは上々だ。
﹁ところで、ファーガスは貴族の方と出会う機会があったのですか
?﹂
﹁え?﹂
突然の質問に、趣旨が分からず戸惑ってしまう。
﹁むしろローラは無かったのか? じゃあ何で騎士学園に⋮⋮﹂
﹁私は⋮⋮何と言えばよいのでしょう。体質とも言いますか。その
ため、懇意の貴族の方というのは居ません。だから無理やり言葉遣
いも直したのです﹂
﹁やっぱ素じゃなかったんだなそれ⋮⋮。うーん、そういうのもあ
るのか。俺はとある貴族の子供と仲良くなって、その縁からだな。
卒業したらその家の専属騎士になる予定でいる﹂
﹁進路も決まっているのですか、羨ましいです。私なんて、﹃普通
じゃないからとりあえず入学しなさい﹄などという乱暴な説明に対
抗できず、流れ流され騎士学園はもう目の前という⋮⋮﹂
﹁あー、引っ込み思案っぽいもんな、ローラ﹂
言うと、ちょっとムッとしたらしい少女。しばし目を瞑ってから、
﹁自覚はあります﹂という。
404
﹁ですが、私はその弱さが嫌いです。本当なら意に沿わない提案な
ど突っぱねるところだったのですが、なぜか今回だけは相手の口車
に乗せられてしまい⋮⋮﹂
﹁いや、ごめん。そこまで気にするとは⋮⋮﹂
﹁えっ、あっ、いえ。その、すいません﹂
ローラの感情の波についていけないファーガスの困惑に気付いた
少女は、酷く慌てて首を垂れる。ファーガスは、なるほど、自分は
見誤っていたのだと知った。ビスクドールを思わせるこの美しい少
女は、どうやらなかなかに気が強いようだ。
ファーガスは、余計にローラのことが気に入った。彼も、自らの
弱さを嫌って貴族の︱︱亜人という異形と戦う世界に足を踏み出し
たのだ。友人の向上心は、無いより有った方がいい。
その後、二人は雑談をして時間をつぶした。それぞれの面白いエ
ピソード、ペットの話、ファーガスが手にしていた小説の話を聞か
された時は、いっそう読書欲が湧いたほどだ。
気づけば時計は十二時を回っていて、終点のカンタベリーもすぐ
そこだった。二人は身支度を整えて、列車を出る。すると一等席の
方からわらわらと同じ服装の少年少女たちが出てきて、見ないと思
ったらそっちに居たのかと、二人は静かに驚いていた。
入学式の直前。貴族の生徒を除いて、庶民上がりはまず大聖堂で
洗礼を受ける予定となっている。ファーガスは手短にローラに別れ
を告げて、イングランドクラスの指定の建物へと駆けて行った。そ
れは少年を小さく焦がす、淡い初恋によるものだ。
405
1話 勝気なビスクドール︵2︶
ファーガスは、十二番目に洗礼を受けた。一人ひとり個別に行わ
れ、他人の様子などが見えない。騎士叙勲の洗礼というものは神聖
なもので、聖神法を与え給う神と、その代行者。そして洗礼を受け
る新たな騎士にのみ許されるものなのだという。
要は、部外者はこっち見んなという事だ。
﹁ファーガス・グリンダー。汝はウェールズへの忠誠と奉仕、また
神の敵たる亜人を殲滅することを誓うか﹂
﹁この命を懸けて誓います﹂
﹁ならば汝に騎士の称号と、我らが神の力の一端を与えよう﹂
ステンドガラスから降り注ぐ、柔らかできらびやかな光の束。こ
んな自分でも、この言葉が、この場所が、自分は騎士たるに相応し
い礼儀を身につけさせてくれる。
肩に、杖が置かれた。そして、祝詞。これが終われば、自分は神
の僕として、イギリスだけの技術にして異能︱︱﹃聖神法﹄を授か
る。
儀式は、何事もなく終わった。立ち上がると、何かが変わったよ
うな気がしてならなかった。部屋を出ていく際に、祝詞を唱えてく
ださった神父らしき人に、﹁頑張りなさい。主も私も、応援してい
ますからね﹂と穏やかに励まされ、思わず漲った声で﹁はい!﹂と
言っていた。
406
この後には、入学式が控えている。ファーガスは、騎士になった
ばかりではあったが、面倒で仕方がなかった。これは昔からのこと
で︱︱
頭を、振った。
﹁早送りできたらいいのになぁ⋮⋮﹂
イングランドクラスの集会場所で、指定された順番で並ばされる。
そして、イングランドクラスの教頭の話を、口と目を半開きにして
ボーッと聞いていた。傍から見ればアホ面を晒して突っ立っている
ファーガス。しかし、新入生代表が壇上に上がった瞬間、顔つきが
変わった。
﹁⋮⋮ベル﹂
薄い、銀髪と言っていいほどの金髪を、後頭部で一纏めにした少
女。凛とした面差しは、まっすぐ壇上から民衆へ向けられる。大勢
の人の前に立っても揺るがぬ自信は、流石は大貴族のご令嬢ともい
うべきか。
ファーガスは高揚して、小さく彼女に向かって手を振った。気づ
かれないかもとも思っていたが、構わない。自己満足である。しか
し、彼女は気付いた。目が、合ったのだ。
口だけを動かして、彼女の名を呼ぶ。久々の再会し、胸が躍って
いた。彼女もそうだろうと思っていた。
だがベルが無表情を貫いたまま文章を読み上げ始めた時、何かが
おかしいと気づいた。
﹁⋮⋮ベル⋮⋮?﹂
407
気づかなかっただけとも取れる。それくらい、彼女の表情に変化
はなかった。
粛々と入学式は行われ、気づいたら終わっていた。明日は、施設
の紹介があるのだという。授業がないだけマシか。とファーガスは
欠伸をした。
騎士学園は全寮制で、当然相部屋が採用されている。
といっても、全員が、という訳ではなかった。大貴族など、飛び
抜けた身分の者は、望めば一人部屋になることも可能だった。つま
るところ、ファーガスは相部屋という事だ。どんな人物となるのか
少々ワクワクしている。
﹁えっと⋮⋮。きみ、グリンダー君?﹂
﹁あ、うん。ってことは、ベンジャミン・コネリー・クラークだな。
よろしく、ファーガス・グリンダーだ。ファーガスって呼んでくれ﹂
﹁こちらこそよろしく、ぼくはベンでいいよ﹂
部屋に入ってきた少年と握手した。彼が、相部屋の相手という事
らしい。
少々面長で、のんびりした雰囲気だった。ファーガスは、上手く
やっていければいいのだが、と心配になる。自分が、あまり接した
ことのない人柄だ。昔から、少々あくが強いのに好かれるのである。
408
動物しかり。
だが、軽く話す分には話しやすい相手だった。貴族だが、地位が
高いという訳ではないのだと。﹁貧乏貴族さ﹂と彼が笑っていたの
で、﹁庶民上がりの俺に比べれば全然だっつの﹂と軽く肘でどつき
つつフォローを入れる。
存外気が合って、とりあえずは二人でパーティを組もうと決めた。
パーティというのは、来たる亜人討伐のための班の事だ。聖神法同
様、あまり説明がなされていないが、機会を見てローラや︱︱ベル
も、誘ってみよう。
翌日、学校を案内された。流石は貴族ともいうべきか、古式ゆか
しい気品が失われていない部屋の数々に感動するベンを横目にファ
ーガスはだいぶ参っていた。人工物に対する情緒心が薄いのが原因
だろう。これが登山だったら別人かというほどの態度の差があった
に違いない。
だが、そんな彼も最後の二つには興味を示した。
昼過ぎ。騎士候補生にとって自分の教室などないらしく、毎回毎
回移動教室だと言われた挙句事細かに説明されてげんなりなファー
ガスは、もそもそと昼食を食べ終えて食堂の机に突っ伏していた。
ベンはそんな彼を健気になだめているが、どうも効果が薄い。
﹁だってここまでで面白いこと皆無じゃんどうでもいいよ化学室と
か知らんわ爆発してろよ俺の知らないところで⋮⋮﹂
﹁ま、まぁまぁ。次は野外に出るっていうから、気分転換になると
思うよ?﹂
409
﹁野外ねぇ⋮⋮。ここまでの説明の構成見る限り、とても期待でき
そうには思えないけどな﹂
﹁ま、まぁまぁ⋮⋮﹂
困った風にファーガスをなだめるベン。これでは自分が彼を苛め
ているみたいになってしまうので、仕方なく上体を起こして伸びを
した。自分たちを先導する教官が昼休みの終了を伝え、ぞろぞろと
新騎士候補生たちが付いていく。
﹁さて、これまでは退屈だっただろうが、ここからは騎士の騎士ら
しい施設を説明しよう。まず諸君らには、封筒に入っているタブレ
ットを見てもらいたい﹂
一度外に出て、今居るのは学園の敷地のはずれにある建物の中だ
った。シックな作りで、受付が大量に並んでいる。
スムーズにタブレットを取り出す他の生徒たちの中、ファーガス
は一人、ちょっと戸惑い気味だ。まさか雑に扱っていた封筒の中に
そんな高価なものが入っているとは思わなかったのである。タブレ
ットの形状は市販のケータイにも似ていた。
﹁それは諸君ら専用のものだ。諸君ら騎士候補生は、言うまでもな
く騎士にならねばならない。そして騎士になるという事は、亜人を
倒さねばならないという事だ。そこで、我々はクエスト受注方式を
採用している﹂
何やらゲームの中で聞いたことのあるような単語に、ファーガス
は耳ざとく反応する。
﹁諸君らは、義務教育の他に騎士たる教育を受けねばならない。そ
410
して最も効率のいい方法は、亜人との戦いの中に身を置くことだ。
そのため、最低限必要な技術の習得を推し進めるとともに、諸君ら
には明日からでも亜人の討伐を行ってもらいたい﹂
あちらの、受付に目を向けていただこう、と教官は言う。
﹁今日は説明という事で居ないが、いつもはそこに受付が居る。諸
君らは、彼らと相談して亜人討伐依頼を受け取ってほしい。討伐は、
その亜人を象徴する素材の納品で成功とみなされる。そして、成功
した場合ポイントが支給される。全員、タブレットを起動しなさい﹂
起動⋮⋮、と首を傾げていると、ベンがファーガスのタブレット
のどこかボタンを押した。﹁結構機械音痴なんだね、ファーガス﹂
とからかわれ、﹁面目ない﹂と赤面だ。
﹁起動したら、左上のアプリに触れてもらおう。画面が出てくるは
ずだ。その右上に、﹃10﹄と表示されているポイントを確認して
ほしい。それは、諸君らの知識、権限、金銭に立ち替わるものであ
る。⋮⋮おっと、では、本職が来たので説明を変わっていただこう﹂
受付の奥から、一人の女性が出てきた。身なりがしゃんとした、
美しい人である。彼女はゆっくりとほほ笑み、﹁では、ご説明を引
き継がせていただきます﹂と言った。
﹁ご覧のポイントは、様々なものに変換することが可能です。まず、
先ほど騎士様が言われた知識についてですが、これは騎士候補生様
の聖神法の技術を閲覧できるようにする、という事です。それでは、
メニュー画面の﹃スキルツリー﹄をタッチしてください﹂
よく分からないまま、言われたとおりにする。そこに現れるのは、
411
何本かの、木のように枝分かれする表だ。丸い点がいくつもあり、
その一つに触れると注釈が出た。
﹁⋮⋮﹃ファイア・ソード﹄か﹂
剣に火を纏わせ、その切断力を底上げする。また、敵に悪化し続
けるやけどを負わせ、その体力を奪う。そのようなシンプルな名前
の技が、魅力的なイラストと共に説明されていた。
﹁そちらに表示されているスキルツリーにポイントをつぎ込んでい
ただくと、その聖神法の御業の情報が得られるようになっておりま
す。亜人を討伐すればするほどポイントがたまり、使用できる御業
の数が増えていくという形となっております﹂
何処からともなく、期待に満ちた歓声が上がった。大抵は男子の
ものだが、女子もなかなかに楽しそうな表情をしている。
﹁まず、手始めにその中から御業を選び、ポイントを費やして情報
を開放してみてください。ただし、他人の物をのぞき見するなどの
不正行為があった場合、校則違反としてペナルティが課せられます
ので、くれぐれもそのようなことはしないようにお願いします﹂
その時、数人の男子が短い悲鳴を上げてタブレットを落とした。
彼らは自分たちに注目が集まっていることに気付き、焦ったように
周囲を見回している。
そこに教官が近づいて行って、拳骨を落とした。余談だが、騎士
学園は体罰が存在する。もっとも条件が厳密なため濫用はされない
し、万一濫用された場合でも、生徒が上級生を巻き込んで自主的に
下剋上するため、あまり責任問題には発展しないらしい。
412
﹁と、ペナルティは大体このような感じです。他にはトイレ掃除な
どを行ったうえで、その分のポイントが差し引かれる、などがあり
ます。不正を行った場合タブレットに電流が流れてすぐに露見する
上、最も近くの教師に連絡がいくため、行わない方が無難かと思わ
れます﹂
教官からお叱りを受ける数人に頬を引きつらせつつ、ファーガス
は大人しく自分のスキルの開放にかかった。スキルツリーというだ
けあって、最初は数少ない根元のスキルしか取れないようだ。軽く
全体を見渡してみたが、習得が容易で危険度が少ない物から並べら
れていっている。
﹁えーと、初期状態で獲得可能なのは大体十個だな﹂
ファーガスは、一つ一つ指で触れて、その情報を吟味していく。
スキルツリーは全部で九本。それぞれ分類で、三種類色分けされ
ていた。移動スキル、戦闘スキル、タブレットスキルの三つだ。前
者二つが知識の開放で、最後の一つが機能解放という事だろう。
移動スキルは、﹃ハイ・スピード﹄﹃ハイド﹄﹃サーチ﹄三つ。
戦闘スキルはレイピア用の属性攻撃が四つ。すべて繋がった一本の
木になっている。タブレットスキルは、﹃マップ﹄﹃ガイド﹄の二
つだ。
思わずうなってしまうファーガスだ。少年は、レイピアを使った
ことがない。片手剣と盾が本領なのである。そのためやり切れなさ
に何度かスキルツリーを叩いていると、戦闘スキルのツリーが回転
した。おや? と首をひねりつつ確かめる。すると、﹃レイピア﹄
413
﹃大剣﹄﹃両手剣﹄﹃片手剣﹄﹃双剣﹄﹃弓矢﹄︱︱など、様々な
ツリーが姿を現した。
﹁あ、そういう事か﹂
ファーガスは片手剣のツリーに画面を切り替え、そのままの勢い
で2ポイントの﹃ファイア・ソード﹄﹃アイス・ソード﹄の二つを
取った。次いで、1ポイントの﹃リード・アタック﹄。攻撃を盾で
防ぎやすくなるスキルだ。
﹁残り五ポイントか⋮⋮﹂
だんだん楽しくなってきたファーガス。口端に笑みをにじませつ
つ、スキル選びに熱中する。﹃マップ﹄は、必要不可欠だろう。﹃
ガイド﹄というタブレットに目的地までの道筋を知らせてくれる機
能も、非常に重要だ。土地勘がない山の中では、現在位置の分かる
地図があっても危険は十分存在する。それぞれ1ポイント。残りは、
3だ。
﹁うーん⋮⋮。どれでもいいような、しっかり吟味すべきな様な⋮
⋮﹂
﹃サーチ﹄、つまり索敵のスキルは非常に役立つだろう。だが、
﹃ハイ・スピード﹄も捨てがたい。﹃ハイド﹄、隠れる技能は後回
しでいいだろう。だがいずれ必要になるスキルだ。
﹁無難に索敵いっとくか⋮⋮? っていうか、何だ、これ﹂
端っこにあった﹃クラス・チェンジ﹄のボタンを見つけ、タッチ
する。するとスキルツリー全体がクルリと入れ替わり、右上の文字
414
が﹃スコットランド﹄に切り替わった。﹁えっ﹂と声を出してしま
うファーガス。周囲をうかがうものの、彼以外は全員自分のスキル
選びにのめりこんでいて、反応する者はいない。
﹁⋮⋮取っちゃっていいのか? いや、まずかったら最初から入れ
ないか⋮⋮﹂
スコットランドクラスのスキルツリーを確認すると、移動スキル
は大体同じで、戦闘スキルがだいぶ様変わりしていた。魔法、とい
うとイメージしやすくなるだろう。杖を振りつつ祝詞を唱えて、﹃
ファイア・ボール﹄といく訳だ。タブレットスキルは完全に同じも
のらしい。
アイルランドクラスは、少々趣が違っていた。まず、移動スキル
が五つもある。イングランド、スコットランド共通の物に加え、﹃
ガード﹄﹃ジャンプ﹄の二つ。剣技はイングランドの物とは違い、
剣に炎だのを纏わせないようだ。戦闘スキルは、﹃ハイスピード・
ソード﹄﹃グラビティ・ソード﹄の二つ。ふむ、とファーガスは再
び吟味を始める。
﹁こりゃあ迷うな⋮⋮。個人的にはアイルランドクラスの﹃ジャン
プ﹄ってのが何とも⋮⋮。何々? 全身が羽のように軽くなり、移
動困難な高所でも楽に身動きできます、か。これは取るしかないな﹂
名前のダサさに関しては目を瞑ろう。これで残り1ポイントだ。
1ポイントで取れるのは、スコットランドクラスの戦闘スキルに
全クラスの移動スキル。アイルランドの﹃ガード﹄なんかも例外で
はない。正直移動してないが、このスキル。
415
﹁っていうか、あれ。スコットランドの﹃サーチ﹄だけ移動しなが
ら出来るのか﹂
他のニクラスはその場で特殊な所作と共に地面に剣を突き刺すら
しい。その場でしか、索敵ができないという事だ。敵を認識し続け
られるスコットランドのそれと比べて劣っている。⋮⋮まぁ、スコ
ットランドのそれは酔いやすいと記されているが。
﹁⋮⋮ま、こんなもんだろ﹂
10ポイントを上手く使い切って、ご満悦なファーガスである。
周囲もだんだん選び終えた生徒が増えてきて、互いに自慢し合って
いる。
﹁アレ、びりびりってなんないのか⋮⋮?﹂
﹁ああ、何かね。解放された技術の中身を見せない限りは大丈夫な
んだって﹂
ベンがそのように言いながら近づいてくる。﹁こんな風に取って
みたんだ、どう?﹂とスキルツリーを見せられ、ファーガスは視線
を巡らせた。
﹁レイピアの属性剣が三つ。タブレットは﹃マップ﹄だけ。﹃ハイ
ド﹄と﹃ハイ・スピード﹄、それに⋮⋮﹃サイレント﹄? ﹃ハイ
ド﹄の上位系か﹂
﹁うん。ハイドのスキルは、敵に自分が認知されているかどうかを
知ることができるスキルで、隠れる補助みたいなスキルじゃないか。
それじゃあ心細いから、﹃サイレント﹄で自分の音を消せるスキル
416
を取ったんだ﹂
﹁その割に戦闘スキルの攻撃系を三つも取ってんじゃん。好戦的な
のかそうじゃないのかはっきりしろよ﹂
﹁だって、格好いいじゃないか! レイピアでシュシュシュ! っ
て! まぁ本当のことを言うと両手剣がよかったんだけどね﹂
身振り手振りで興奮を伝えてくるベン。結構面白い奴だなと再認
識しながら、引っかかった発言にこう返す。
﹁あったぞ? 両手剣﹂
﹁えっ? 嘘だよ。騙さないでよファーガスったら﹂
﹁いや、本当だって。ほらここに﹂
彼のタブレットの戦闘スキルを数回たたくと、両手剣のスキルが
出てくる。ちらと見ると、ベンの表情が蒼白になっていた。
﹁ちょっ、ちょっと先生にやり直せないか聞いてくる!﹂
駆け足で教官の元へ向かうベンを見送った。しかし、ファーガス
の表情は少し硬い。
﹁⋮⋮ベンのスキルツリーに、﹃クラス・チェンジ﹄のボタンがな
かった⋮⋮﹂
一度軽く見せられた時は、微かな違和感だった。二度目、戦闘ス
キルの武器入れ替えを行う時にはしっかと確認したが、やはりそこ
417
に﹃クラス・チェンジ﹄の表示はないままだった。
やはりミスなのだろうかと、ファーガスは首を傾げる。もっとも、
自分に非がある訳ではないだろう。まず軽く使ってみて、使えない
ようだったら先生に直談判すればいい。
肩を落としたベンが戻ってきて、それを慰めていると﹁全員再度
注目!﹂という教官の声が響いた。先ほどの声の張り様よりも、び
りびりして威圧的だ。再び受付嬢が話し出す。
﹁ではみなさん。それぞれスキルツリーを開放なさいましたね? それは後日練習していただくとして、次は﹃オープン・エリア﹄を
タッチしてください﹂
従うと、山の鳥瞰図らしきものが出てきた。頂上、中腹、麓の三
つがまず円の線で区別され、更に麓の広い区域は四つほどに分割さ
れている。中腹は二分割。頂上は一つだ。
﹁それらのエリアは、候補生様が亜人討伐を果たした際に得られる
ポイントの総合が、それぞれの規定値に達した場合に解放される仕
組みとなっております。ボットレイ・ヒルは亜人の住まう山で、候
補生様が最も足を運ぶ場所になることでしょう。それぞれフェンス
で仕切られていますので、そのセンサーにタブレットを翳していた
だければフェンスが開く、という仕組みです﹂
﹁質問、いいでしょうか﹂
﹁はい、どうぞ﹂
好奇心旺盛そうな少年が、受付の女性に手を挙げる。
418
﹁そのフェンスって、越えられるものなんですか?﹂
﹁はい。自力で越えることは、不可能ではありません。ですが実力
の伴わないフェンス越えは最悪死の危険性がありますので、絶対に
超えないようにしてください。また、超えた場合にはペナルティが
あります﹂
﹁え、⋮⋮てことは、亜人たちが﹂
﹁それについてはご安心ください。亜人に対してのみ発動される結
界が張られています。それによって、彼らはフェンスに近づこうと
は考えないのです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
他の騎士候補生と同様、よくできたものだと感心する。流石は大
英帝国の貴族学園と言ったところか。
大方の説明が終わったらしく、﹁なお、このポイントはスキルツ
リーに回すだけでなく換金することも可能です。換金した場合の使
い道は制限されておりませんので、武器を買うなり町にショッピン
グに行くなりご自由に﹂と言い残して、受付嬢は一礼の後奥の間に
引っこんでいった。
そして前に出るのは教官である。
﹁うぉっほん! では最後に、修練場に案内しよう! そこで諸君
らは、スキル習得に勤しんでもらうことになる!﹂
419
教官は建物から出て、今度は学園の中心にある広場に生徒たちを
案内した。そこでは数人の候補生たちが打ち合いをしていたり、石
柱に向かって聖神法を発動していたりしていた。
中でも注目を浴びたのは、黒髪で長身の青年が石柱を壊すさまで
ある。新騎士候補生でないギャラリーが何人もいて、一心に彼を見
つめている。
そして青年は、大剣を振るった。特殊なステップだった。大剣の
重さを感じさせない剣速で、石柱に向かって十回以上の攻撃を加え
ていた。
そして、瓦解。
石柱は、いくつものこぶし大のきれいなブロックに小分けにされ
た。新騎士候補生たちが、歓声を上げる。そこでさわやかに汗を流
す彼はこちらに気付き、軽く手を振り︱︱教官に目を向けた途端、
ギャラリー共々慌ててその場から去っていく。
﹁⋮⋮何だ⋮⋮?﹂
その疑問はファーガス一人のものではなかったろう。だが教官は
それを無視して、﹁ここが修練場である!﹂と言い放った。どこか。
先ほどよりも口調が荒々しい。
﹁諸君らは、ここでそれぞれが選んだ武器の使い方を学ぶだろう!
当然危険があるため、最初は我々教官が訓練を付ける。聖神法に
関しても、基礎は同じだ。だが、発展する諸君らの能力は留まるこ
とを知らないだろう! すぐにでも授業の範囲を追い越し、自分だ
けの聖神法を身に着けていくはずだ。それで大いに結構! それこ
420
そが。意欲的な諸君らの成長こそが、我々教官の喜びだ! 分から
ないところがあったら積極的に聞きに来るといい。我々は諸君らの
成長を何よりも優先する。
︱︱イングランド騎士候補生の諸君! 諸君らはアイルランドク
ラスの力強い剣舞、スコットランドクラスの摩訶不思議な神法が交
じり合った剣技を使うことが可能な、どちらの国よりも優れた民族
である! 誇りを持って、己の研鑽にいそしんでもらいたい!﹂
ここに施設ガイダンスを終了する。教官は恭しく礼をし、新騎士
候補生たちも礼をしてお開きになった。ざわざわと広がる喧騒。そ
の中で、ポイントを割り振って選んだ聖神法の話をしていない生徒
は少ない。
﹁ああ! 明日が楽しみだね、ファーガス! 早くこの聖神法を使
ってみたいよ!﹂
ベンの言葉を、ファーガスも満面の笑みで肯定した。微妙な懸念
はあったが、そんなことがどうでも良くなるくらい少年は高揚して
いた。
テンション高めに、ベンとハイタッチだ。
421
1話 勝気なビスクドール︵3︶
夜の事だった。
ベンと、明日から使う予定の聖神法についていろいろと話してい
た。共に高揚していて、取った聖神法でどのように闘うだとか、タ
ブレットから亜人図鑑を開いてこいつが敵だったらどう戦うかを考
えるとか、そんな事ばかり話していた夜だった。
ノックがして、ドア側に近かったベンが立ちあがった。彼は扉を
開けて、少し外の人物と話した後、﹁ファーガス、君に用事だって﹂
とこちらを向いた。
そこに立っていたのは、明らかに年上の、メガネをかけた少年だ
った。
﹁君が、ファーガス・グリンダーか。どうも初めまして、ぼくはイ
ングランドクラスの寮長を務めるラティマーだ。君には学園長から
呼び出しがかかってる。ちょっと付いて来てもらっていいか?﹂
﹁え、あ、⋮⋮着替えた方がいいですよね﹂
﹁まぁ、出来ればな﹂
ファーガスは一度﹁失礼します﹂と扉を閉めた後、大急ぎで着替
え始めた。ベンが心配そうな表情で﹁何をしでかしたの?﹂と聞い
てきたのが癇に障り、﹁知るかよそんなん!﹂とズボンを穿きなが
ら思わず怒鳴ってしまう。
422
﹁えっと⋮⋮、まぁ、いいや。なんて言えば良いのか分からないけ
ど、とりあえず頑張って﹂
﹁何かフワッとした声援ありがとうよ⋮⋮。じゃあ行ってくる﹂
軽く片手を挙げて、目を細めた笑顔という切ない表情で別れを告
げた。対するベンも、何とも言えない微妙な顔つきだ。もやもやし
ていることだろうし、あとで何があったか教えてやろう。
ラティマー寮長に﹁準備できました﹂と伝えて外に出ると、彼は
そっけない相槌と共に歩き出した。何かしでかした記憶はないが、
懸念材料はある。タブレットにあった、﹃クラス・チェンジ﹄のボ
タンだ。しかも自分は、そこから他クラスの聖神法を取ってしまっ
た。
もし叱られるとしたら、そこだ。しかし、反論できないでもない。
ままならない気持ちで歩いていると、﹁どうして君はそんな渋い顔
をしている﹂と尋ねられる。
﹁あ、いえ。俺、そんな悪いことをしたのかなー、と思いまして﹂
﹁したのか?﹂
﹁え? ⋮⋮いえ、記憶がないので戸惑っているんですけど﹂
﹁そうか、言葉が足りなかったな。君は別に、お叱りを受けるため
に学園長の元に向かっているんじゃない。そんなものは教官で十分
だろう。今回は別件だ﹂
423
﹁別件て⋮⋮﹂
﹁それは、ここでぼくが言う事じゃない。学園長から直接言葉を頂
くんだな﹂
はぁ、と生返事のファーガス。とうとう何の事やらさっぱりとな
ってしまった。半ば投げやりな気分でついていく。
道順は、複雑だった。説明された構造では寮の中央と両端を螺旋
階段が貫いていて、ファーガスたちはまず中央のそれを下りた後に、
東側の螺旋階段の近くの暗証番号入れて扉をくぐり、さらに階段を
下る。すると廊下が現れて、そこを少し歩いてから右に曲がると、
あとは一直線の廊下が伸びていて、豪奢な扉が待ち受けている。
まるで秘密部屋だ、と少年が思うのも無理からぬ話だろう。
なおさら、そんな場所に連れてこられた意味が分からない。
寮長は扉を開け、ファーガスを手招きした。怪訝な顔つきで入っ
ていく。
はたして、そこには十一人の人物がいた。まず、イングランドク
ラスの教頭をはじめとした大人が五人。教頭含む三人は部屋の端で
むっつりと立っていて、もう二人は老齢の女性が椅子に座り、四十
路ほどの男性がそれにつき従うようにそばに立っている。
そして、残る六人はすべて子供だった。二人組が、三つ。どれも
ファーガスと同じような年ごろの少年少女と、こちらの寮長ほどの
青年男女たちという組み合わせだ。関係も似たり寄ったりだろう。
ファーガスは、そんな中ローラを見つけて目をぱちくりさせる。次
いで黒髪の目つきの悪い少年に微妙に威圧されつつ、最後の一人︱
︱ベルを見つける。
424
思わず、声を掛けそうになった。だが寮長に手で諭され、一旦は
つぐむ。
﹁皆さん良く集まってくださいました。どうも初めまして、私は学
園長のヘレン・セルマ・パーソンです。昨日の入学式には出席でき
なくて御免なさいね。何せ先生方の折衝で忙しいものだから﹂
小柄な老女は、そのように言って笑った。見れば教頭たちが、多
かれ少なかれムッとしている。スコットランドクラスの教頭らしき
人など、青筋を浮かべているほどだ。対するアイルランドはすぐに
涼しい顔に戻っている。
﹁さて。じゃあ本題に入らせていただきたいのだけど、特待生であ
るあなたたちに私からちょっと頼みがあるの﹂
﹁⋮⋮特待生なんですか? 俺﹂
﹁ここに居るってことは、そうだろう﹂
ファーガスとラティマー寮長でこそこそ話。おかしいな、と首を
傾げていると、ローラも目をぱちくりさせていた。︱︱なるほど、
多分先生たちの情報伝達ミスだ。
しかし、納得いかないのは自分がなぜそれに選ばれたかという事
だ。学力は標準よりちょっと上という程度で︵いつも意外と言われ
るのが心外である︶、特待生になれるというほどではない。騎士に
ついての能力に関しては、測ってすらないので理由にもならない。
そんなファーガスの戸惑いを置き去りにして、彼女は続ける。
425
﹁あなたたちには、パーティを組んでいただきたいの。本来パーテ
ィっていうのは自分のクラスだけでやるものだけれど、あなたたち
は特待生だから特別にね。お願いできるかしら﹂
﹁あ、はい﹂
﹁分かりました﹂
ファーガス、ローラはそれぞれ了解の意を示した。一瞬互いに視
線を交わし、クスリとほほ笑みを交換する。
実際、大した頼みごとではなかった。何故こんな仰々しい場所に
呼び出されたのかも疑問なほどだ。しかし、収穫がないわけではな
かった。どうやって接触を図ろうかと考えていたベルに、こうして
引き合わせてもらったのだから。
だが、彼女は信じられない言葉を口にした。
﹁私は、お断りさせていただきます。すでに約束している友達がい
ますし︱︱﹂
そこまで言って、彼女は鋭利な視線をぐるりと一周させた。黒髪
の目つきの悪い少年、ローラ、ファーガスときて、微かに、少しず
つその眉が下がる。少年がそこにどんな感情が眠っているのかを考
えようとした。しかし、彼女のきっぱりした声に寸断させられた。
﹁彼らとは、上手くやっていけそうには思えません。では、私はこ
れで﹂
426
貴族流の一礼を済ませて、ベルは足早に去っていった。きょとん
とするのはファーガスだ。穏やかな印象が強かった彼女なのに、一
体全体これはどういう事だろうか。
﹁⋮⋮オレも、こいつらと組む気にはなれませんね。というか誰と
も、ですか。どいつもこいつもオレの足を引っ張る未来しか見えな
い。一人の方が気楽でいいんですよ。だから、今日はここいらで﹂
目つきの悪い少年も、四つある扉の内の一つから出て行ってしま
った。ぽかんとして、ファーガスはローラと目を合わせる。
﹁⋮⋮何なのですか? あの二人は⋮⋮﹂
﹁いや、片方はもっとまともだったはずなんだけどな⋮⋮﹂
ぽかーんと目を丸くする二人を見て、四人の寮長たちが思わずと
言った風に吹きだした。﹁えっ、何ですか?﹂ときょろきょろ見回
すファーガス。
﹁いや、今年の新入生は穏やかなのが多いと思ってね⋮⋮。プっ、
ふふふ⋮⋮﹂
﹁違うだろう。ぼくたちの気性が荒かったんだ。全員アイルランド
の︱︱ナイオネル・ベネディクト・ハワードだったか? そんな風
で、ここで剣を抜いて暴れ出す始末だった﹂
﹁何スかそれ⋮⋮﹂
﹁特待生は大抵、大貴族かつ優秀な人材が選ばれるのですよ。しか
し、そのプライドの高さ、年若いために衝突も激しい。そういう意
427
味では、今年の特待生がぶつかり合わないのは当然と言えば当然で
すね﹂
優しげな口調で、ファーガスたちに教えてくれる学園長。その時、
不意に三教頭全員が消えているのを知ってまたもげんなりしたファ
ーガスだったが、とりあえずは学園地ように先ほどからの質問を投
げかける。
﹁というか、何で俺が特待生なんですか? 知らされてもいないし、
そうなる理由すら分からないんですが﹂
﹁私も、そうです。何故なのですか?﹂
ファーガス、ローラの質疑に、咳ばらいをした男性が一人。
ファーガスはその人を見て、整った髭の持ち主だと思った。長身
痩躯、よりは少し筋肉がついている体躯。もみあげがあごひげと合
体させた上に口髭もあるのに、ぴっちりとした性格を感じさせる顔
つき。目つきが鋭いというのもあるだろう。規則に厳しい鋭さだ。
﹁それは、私が説明しよう。申し遅れた。私はエドモンド・ヒース。
学園の職員ではあるが、教師ではない。学園長の補佐ともいうべき
立場にいるものだ。︱︱さて! 君たちの質問は、﹃なぜ自分が特
待生に選ばれたのか﹄︱︱だったね?﹂
﹁は、はい﹂
どうも独特の雰囲気の持ち主のようである。苦手な部類の人間だ
が、嫌いではないタイプだ。
428
﹁では順番に説明しよう。ではレディファーストという事で、まず
シルヴェスター君について述べよう﹂
﹁はい。何故私なのですか? 他にも、私より優れていそうな人は
居ましたが﹂
﹁それは、君が洗礼を受けない庶民のままで、聖神法を使えたから
だ﹂
え、とファーガスは言葉を詰まらせる。そしてローラに目を向け
て、この様に言った。
﹁そりゃ今更﹃何で﹄も何もないだろローラ⋮⋮﹂
﹁五月蝿いですファーガス﹂
少々縮こまりながら半眼で睨み付けてくるローラに、ファーガス
は降参の意を示すべく両手を上げる。
﹁でも、何でそうなったんだ⋮⋮?﹂
﹁いえ、私にもさっぱり⋮⋮﹂
﹁そう、君たちがパーティを組む理由の内の一つに、彼女の特異体
質の解明も含まれている。そして、グリンダー君。君も彼女と似た
ような理由で、特待生入りになった﹂
Mr.ヒースの言葉に、強張った半笑いで﹁え?﹂と言った。ち
らと盗み見ると、ローラがしたり顔でこちらをニヤニヤ見つめてい
る。
429
﹁⋮⋮それで、一体何なんですか?﹂
﹁君は、ウェールズの騎士だね﹂
﹁はい。そうですけど﹂
﹁しかしね、グリンダー君。本来、ウェールズの騎士なんて存在し
ない。ウェールズ出身者は全てイングランドに組み込まれてしまう
んだ﹂
﹁え? ⋮⋮どういう事ですか?﹂
﹁しかも、確認したうえでは君は全てのクラスの聖神法に適合して
いる。妙だとは思わなかったかね? 君のタブレットにだけ、﹃ク
ラス・チェンジ﹄のボタンがあるんだぞ?﹂
﹁あ、確かに!﹂
﹁私のそれと似たり寄ったりじゃないですか!﹂
﹁ごめんって! 俺が悪かったよ!﹂
後ろからクスクスという嘲笑が聞こえるが、ファーガスは強い子
なので気にしない。顔は熱くないし恥ずかしくもないのである。
﹁ファーガスってもしかして赤面症ですか?﹂
﹁それで、つまるところ俺は全クラスの聖神法が使えるってことで
すね? ついては、使ってもいいと﹂
430
﹁ああ、もちろんだ。だが、出来るだけ他人には伏せるように﹂
ローラを意図的に無視して、ファーガスはMr.ヒースに是非を
問うた。納得できる回答が来て何度か頷きつつ、側面から突き刺さ
る冷たい視線は怖いのでスルー。
﹁という事です。とりあえずは、二人で組んでいただけますか?﹂
﹁はい、わかりました﹂
﹁私も、それに異論はありません﹂
学園長の再確認に、二人は肯定を返した。﹁ところで、いいです
か?﹂とファーガスは片手を挙げる。
﹁何ですか?﹂
﹁いや、自分もさっきのベル︱︱クリスタベル・アデラ・ダスティ
ンみたく既にパーティを約束した友達がいるんですけど、そいつを
混ぜちゃ駄目ですかね﹂
﹁もう居るのですか。凄いですね﹂とローラ。
﹁いや、同じ部屋だからな。仲良くなるのも早いだろ。ローラもそ
うじゃないのか?﹂
﹁私あぶれたみたいで二人部屋を一人で使っているんです⋮⋮﹂
﹁それは、ご愁傷様で⋮⋮﹂
431
ローラの微妙な不幸に手を合わせていると、吟味していたのか少
し唸っていた学園長が、﹁まぁ、いいでしょうか?﹂と言った。
﹁幸いパーティは五人まで組めますから。一人増えても問題ではな
いですよ﹂
﹁よかったですね、ファーガス﹂
﹁ん、ありがと。ローラ﹂
礼を言って、Mr.ヒースからの何かほかに疑問点はないかとい
う問いに首肯して、とりあえずその場はお開きになった。
部屋に帰って、簡単な概略を、自分の全クラス云々を省いたうえ
でベンに伝えた。﹁凄いじゃないか! 特待生なんて!﹂と彼は自
分のことのように喜んでくれて、なるほど、こいつは良い奴なのだ
と思い知った。
その日、夢を見た。ベルの夢だ。久々に会ったからなのだろう。
その姿は、今のそれより幼い。今でもまだ幼いともいえるが、そ
れはファーガスの中身が前世の事で少し大人びているだけだ。
夢の中で、ベルは仏頂面だった。今にも泣きそうな顔で、ファー
ガスの怪我を見つめている。
修業が始まった時、ファーガスは生傷が絶えなかった。盾の使い
432
方が下手だったのだ。
それを治すのが、ベルの役割だった。父親に頼み込んで、方法を
教えてもらったのだという。
﹃何で、ファーガスは笑われていたんだ⋮⋮?﹄
夢の中で、ベルが問うてくる。
﹃笑われるって?﹄
﹃ファーガスは、騎士の才能がないってみんな笑っていた。だから、
いつも怪我をして帰ってくるって﹄
ファーガスの怪我をベルは親の仇のように睨んでいる。しかし、
少年をそのように評した兄弟子たちとの関係は良好だった。
とはいえ、全く蟠りがなかったわけではない。師匠の主人のご令
嬢に気に入られているというのは、やはり最高でもジュニアハイス
クールの生徒にすぎない兄弟子たちにとっては嫉妬の対象だったの
だろう。
親しみもあるが、妬みもある。それ故の言葉だった。ファーガス
にはそれが理解できるから、苛立ちも覚えない。
︱︱それに、ベルが代わりに怒ってくれる。
﹃⋮⋮ファーガス、強くなれ。私は、悔しい。だから強くなってよ。
でなきゃ許さないぞ﹄
433
上目づかいで少年の顔を見つめる彼女の瞳は、零れそうなまでに
潤んでいた。ファーガスは、彼女に向かって首肯する︱︱
﹁︱︱ベル。一体お前に、何があったんだ?﹂
本来なら、誰よりも再会を喜んでくれるはずだった。だか、そう
ならない。理由があるはずなのだ。それを見つけ、取り除かなけれ
ばならない。
ファーガスは、かつて彼女に騎士になると誓ったのだから。
ファーガスは、ベッドから上体を起こす。カーテンから漏れ出る
薄い光。鳥の鳴き声が聞こえ、ベンの健やかな寝息が部屋に微睡を
もたらしている。
朝が、来ていた。
434
1話 勝気なビスクドール︵4︶
授業初日という事で担任ガイダンスが終わり、放課後になった。
手筈通り、ベンと二人でローラを待っている。
﹁⋮⋮それで、女の子︱︱なんだっけ?﹂
﹁ああ、⋮⋮どうした?﹂
﹁ああ、いや、何でもないよ⋮⋮﹂
言葉にはしていなかったが、ファーガスは何となく察してしまっ
た。初心なのだろう。とりあえず、﹁ローラは結構気さくだから付
き合いやすいと思うぞ﹂と教えてやる。そこに、丁度彼女がやって
きた。ぺこり、と頭を下げる。
﹁すいません、お待たせしました﹂
﹁ん、じゃあ行こうぜ﹂
二人を連れだって、ギルドに向かった。ギルドというのは、クエ
ストを受注できる敷地のはずれの建物の事だ。実際はそういう名前
ではないのだろうが、ゲームをよくやる若者らしい発想で命名され、
すぐに広まったのだ。少なくともイングランドクラスでは。
背後で、たどたどしく﹁ど、どうも初めまして、べべ、ベンジャ
ミン・コネリー・クラークです﹂﹁ここ、こちらこそ、よろしくお
願いします。ローレル・シルヴェスターです。ロっ、ローラと呼ん
435
でください﹂と挨拶する二人に、思わず目を覆うファーガス。二人
とも自分の時は平気だったのに何の違いがあるのか。
﹁ところで、ロローラ。お前どんな聖神法取ったんだ?﹂
﹁ロローラじゃないです!﹂
﹁え! 違うの? 僕は嘘を教えられたのか⋮⋮?﹂
﹁え、いや、そういう事ではなくてですね﹂
﹁いやいや。安心してくれベン。こいつはロローラであってるよ﹂
﹁あ、何だ。びっくりしたー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮怒りますよ。というか、クラーク君⋮⋮、いえ、ベンでいい
です。貴方も多分ですが、分かって乗っていましたよね?﹂
﹁え、いや、あはははははは⋮⋮﹂
ローラのジト目に、後頭部を掻きつつ視線を逸らして誤魔化すベ
ン。存外すぐに仲良くなれそうだと安心して、﹁ほら、早くいこう
ぜ﹂と二人を急かす。
ギルド内は、すでに新騎士候補生でいっぱいだった。紐で道筋を
指定する形の、蛇行する長蛇の列ができている。逆に、身長の高い
上級生たちは端っこの方で遠い目をして待機していた。
﹁うわ、もうこんなにいっぱいいます。早く並ばないと﹂
436
﹁そうだね。ってファーガス? 何でちょっと嬉しそうなんだ?﹂
﹁あ、いや、この風景和むなぁって⋮⋮﹂
﹁意味が分かりません⋮⋮﹂
幼さゆえに上級生の気遣いに気付けないローラとベン。いつか彼
女たちもこんな風に端っこで遠い目をして待機する時が来るのだろ
う。気遣いも伝統の内なのかもしれない。
ファーガスたちもとりあえず新騎士候補生という事で、列に並ん
で待っていた。順番が来て、﹁こちらが開きましたよー﹂と声がか
かる。
﹁クエストを受けたいんですけど、手ごろなのありません?﹂
﹁はい、今は⋮⋮ゴブリンの討伐と、その角の回収が一番簡単です
ね。確認しますが、スキルツリーで取った聖神法は試してみました
か?﹂
﹁はい、一通り成功させておきました﹂
﹁は、はい。ぼくも、何とか⋮⋮﹂
﹁あっ、⋮⋮ぶっつけ本番って駄目ですかね﹂
﹁死にますよ? ファーガス﹂
﹁死んじゃうよ? 何でやらなかったの﹂
437
﹁面目ない⋮⋮﹂
両手拝みで謝るファーガス。それに受付嬢は苦笑いしつつ、﹁で
も﹂と言う。
﹁ゴブリン程度なら、武器があれば聖神法なしでも倒せると思いま
すよ。実際、聖気の減少を嫌って強敵にしか聖神法を使わない方も
多いです﹂
﹁あ、そうなんですか?﹂と明るくなるファーガスの顔色。しかし、
打って変わって女性の表情は少し怖くなる。
﹁ですが、ゴブリンは本来群れで行動します。この季節は散らばっ
ていることが多いうえ、他の新騎士候補生様がゴブリンばかり狙う
のでそう危険はありませんが、ゴブリン以外の⋮⋮例えばインプな
どを見かけるかもしれませんが、その時は逃げてください。また、
ゴブリンやコボルトなどの群れに遭遇した場合も同じです﹂
﹁はぁ、そうですか⋮⋮﹂
﹁分かりました、肝に銘じておきます﹂
﹁ファーガス、君は結構緊張感がないね﹂
﹁⋮⋮何かすまん﹂
とりあえずは再度謝っておくものの、そこまでの物か、とも思う。
武器を買い忘れたとかなら大目玉を食らっても分かるが、聖神法の
一つや二つ、多少不慣れでも、と考えてしまう。
むしろ重要視すべきなのは、亜人に対して﹃ビビらないこと﹄で
438
はないかというのがファーガスの持論だった。
しかし逆に言えば、それほど聖神法は頼もしい物なのかもしれな
い。
使ってないファーガスには、分からなかったが。
ともあれ、皆でクエストを受注し、サークルに入った。サークル
はつまるところ瞬間移動装置のようなもので、一息に山まで連れて
行ってくれるらしい。他にも転送陣やら何やら、呼び方は結構適当
だ。
サークル初体験の三人は、それによって山に着いただけで大興奮
だった。周囲のなにもかもが、一瞬にして入れ替わる。その感覚は
筆舌に尽くしがたいものだ。
恐る恐る、と言う具合に、ローラが一歩踏み出した。ファーガス、
ベンもそれに続く。踏むのは木の床でなく土だった。周囲の木々も
確かにそこにあり、それぞれが存在感を放っている。
そのうえ、ただの山や森には無い緊張感があった。耳を澄ませば、
何者かの息遣いを感じられる。遠くから、剣戟の音が聞こえるよう
な気がする。
ファーガスは盾を取り出しつつ、タブレットで﹃リード・アタッ
ク﹄の項を読み始めた。所作は簡単。すぐにでも発動できるだろう。
﹁おし、これでひとまず安心かね。ローラ、索敵は出来るか?﹂
﹁はい。一応とっておきました﹂
439
﹁じゃあ、発動しながら歩こうぜ。その方が安全だ﹂
﹁はい。⋮⋮何か、手馴れてはいませんか?﹂
﹁気のせい気のせい﹂
適当な会話を交わしつつ、タブレットから所作を読み取り、一つ
ずつ試していった。移動系の聖神法はどれも簡単だったが、戦闘系
は少し難しいかもしれない。
踏み固められた土の上を歩きながら、ファーガスはふと気づいて
ベンに尋ねる。
﹁ていうかさ、俺とお前、今日ほとんど一緒だったよな? いつ練
習したんだよ﹂
﹁え? ああ、朝六時前くらいに起きて、修練場に行ったんだよ。
凄いよね。そんな時間でも、上級生が結構いてさ。コツを教えても
らったんだ﹂
﹁あー⋮⋮、そういう事か。ローラもそんな感じ?﹂
﹁は⋮⋮い。私は、みなさんとの待ち合わせ前に少し⋮⋮﹂
﹁道理で遅れるわけだよ。⋮⋮大丈夫か?﹂
﹁索敵でちょっと気持ち悪く⋮⋮あぅっ﹂
よろけた挙句木にぶつかるローラ。すでに相当弱っていたのか、
440
そのまま倒れてしまう。﹁大丈夫か?﹂と助け起こすと、﹁頭が揺
れて気持ち悪いので離してください⋮⋮﹂とすげなく言われる。内
心カチンとくるファーガス。
﹁ベンは﹃サーチ﹄取って⋮⋮ないんだったか﹂
﹁うん、ごめんね⋮⋮﹂
ふむ、と考えてしまう。索敵はこういう場所では何よりも重要な
技能である。最悪、ファーガスの場合は培った勘で何とかなるかも
しれないが、彼らも同時に守るというのは少々きつい。
﹁⋮⋮ローラ。今度、金渡すから杖を買ってきてくれないか?﹂
﹁⋮⋮えっと、ああ、全クラスの聖神法が使えるとか何とか言って
いましたっけ。分かりました﹂
二人、小声で会話し、ファーガスは彼女の了解を得る。本当はロ
ーラの杖を貸してもらって使いたかったが、ベンのいる前でと言う
のは難しい。自前の物があれば、袖に隠して使う事も出来るのだろ
うが。
しばらく動かない方がいいだろうと、皆で話し合って決めた。﹁
すいません。私の所為で⋮⋮﹂とすまなそうにローラが言うので、
﹁ローラ一人に任せた俺たちが悪いんだよ﹂と肩竦めてフォローし
た。
三分も休まないうちだった。ファーガスは、様子を窺うような嫌
らしい気配を感じ取った。何者かが、こちらを見ている。人間のそ
れではないだろう。視線からは、敵意を感じる。
441
﹁二人とも、何かいる気がする。注意してくれ﹂
﹁⋮⋮君が居れば索敵いらないんじゃないか?﹂
﹁バカ、気配の感じる間合いに大勢で入られたら負けるに決まって
んだろ。勝てる量ならこっちから捕捉して、逆なら捕捉される前に
逃げる。⋮⋮そろそろ、来るぜ﹂
鬼が出るか、蛇が出るか。まさかオーガは出るまい。余談だが、
ヒドラくらいならベルの家の裏山で戦わされたことがあった。結果
? もちろんボロ負けだ。
はたして、飛び出てきたのは二匹のゴブリンだった。醜悪な外見
に、ローラとベルの二人は震えあがる。
﹁にっ、逃げなきゃ! 早く逃げなきゃ!﹂
﹁ファーガス! 何で動かないんですか! 早く逃げ﹂
﹁いや、こいつらを殺しに来たんだろうが、俺たちは﹂
ゴブリンの強度は大体人並。対してファーガスの片手剣は長くも
ないが、取り回しやすい軽量型だ。軽く盾を翳しつつ聖神法。襲い
来た鈍器の攻撃が、吸い込まれるようにしてファーガスの木の盾を
叩く。
そして、その隙をついたファーガスは、一匹のゴブリンの首に剣
を突き刺した。強引に抜くと、青色の血が噴き出てもう片方のゴブ
リンの目をつぶす。もう一度、突き。返り血も浴びない。帰ったら
442
盾を洗わねばと思うくらいだ。
﹁⋮⋮ファーガス、凄いね⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい。先ほどは意地の悪いことを言って⋮⋮﹂
﹁え、いや別に、そこまで気にしてなかったんだけど⋮⋮。なんか、
謝らせてごめん﹂
﹁君が謝ってどうするんだよ、ファーガス﹂
三人、軽く噴き出して笑った。とはいえ、予想の範囲内だ。ファ
ーガスも初めは、亜人に遭遇した時に考えたのが﹃逃げなければ﹄
だった。
﹁正直言葉で言っても分からないからな。俺もそうだったからこそ
の実演だよ。つっても、はっきり言ってこの周囲にいる奴らは聖神
法なしでも倒せる程度だと思う。補助にはなると思うけどさ﹂
﹁⋮⋮何か、経験者みたいな口ぶりだね⋮⋮﹂
﹁ベン、お前分かってて言ってるだろ﹂
﹁ってことはやっぱりそうなの!? すでに経験者ってこと!?﹂
﹁そうなのですか! ある意味では納得ですが⋮⋮﹂
﹁︱︱二人とも、出来れば敵地で大声は出さないでもらえると⋮⋮
︱︱﹂
443
言いながら、ファーガスは目を剥いた。背後から、一匹、先ほど
よりもひときわ大きなゴブリンが二人へと忍び寄っていた。振りか
ぶるはボロボロになった両手剣。騎士候補生から奪った物だろうか。
﹁二人とも! 逃げろ!﹂
大声で、そのように指示する。だが、遅かった。両手剣は二人に
向かって滑っていく。そしてファーガスは今更に理解するのだ。︱
︱こういう時のために、聖神法が要るのだと。
その時、もう一つ、空を切る音が走った。
ゴブリンの頭から、矢が生えた。そして横倒しになり、肉が地面
をたたく音が響く。
﹁危ないところだったねー。クリスタベル様が撃たなければ、怪我
してたかも﹂
聞こえたのは、陽気そうな女子の声だった。まず姿を現したのも、
陽気そうに飛び跳ねる少女。茶色の髪を、ローラより少し短めの長
さで切りそろえている。活発な印象だ。腰にかかっているのはレイ
ピア。ただし、彼女は自分で選んでそれにしているように思える。
付随して、もう二人。色濃い金髪と、薄い︱︱銀と言っていいほ
どの髪色。ファーガスは、その名を呼んだ。弓を手に現れた、先ほ
ど矢の射手の名を。
﹁ベル! お前が助けてくれたのか!﹂
﹁え、何? 知り合いですか? ってうわ。ゴブリンが普通に転が
444
ってる。もしかして結構強い? 君も私たちのパーティ入らない?﹂
﹁マーガレット。止めて﹂
﹁はぁい⋮⋮。貴重な戦力が⋮⋮﹂
名残惜しそうに、マーガレットと呼ばれた少女はこちらに視線を
向けている。ベルほどじゃないが、愛嬌のある少女だとファーガス
は評する。
﹁ありがとな。俺じゃあちょっと、助けきれなかった﹂
﹁⋮⋮例には及ばない。人として当然のことをしただけだ﹂
硬い。明らかに外面でしゃべっている。ファーガスはそれが感じ
られて、どうも納得がいかなかった。﹁さ、こいつのツノそぎ落と
してギルドまでもっていきましょうよ!﹂とマーガレットがベルを
催促するのを遮るように、ファーガスは声をかける。
﹁あのさ、ちょっとベル︱︱そこの子と話がしたいんだけど、いい
か?﹂
﹁え? ⋮⋮何? クリスタベル様がいくら可愛いからってナンパ
なんかさせないよ?﹂
﹁いや、そんなんじゃないっての。顔見知りなんだ。駄目か?﹂
﹁⋮⋮クリスタベル様がいいって言うなら﹂
﹁ありがとう﹂
445
礼を言う。だが、ファーガス自身避けられている自覚はあった。
ベル自身が首を振る可能性も考慮した。肝心の彼女は、考え込んで
いる。半ばあきらめて、別の方法を探るかと考え始めた時だった。
﹁少し、皆外してくれないか? 込み入った話になるかもしれない
から﹂
﹁え? は、はい。分かりました⋮⋮﹂
マーガレットは首肯し、ファーガスもローラ、ベンに視線を向け
る。二人は戸惑いつつも従ってくれ、﹁じゃあ、先に下山してるね﹂
と言うベンの言葉に、ファーガスは﹁了解﹂と返す。
ベルはファーガスに背を向けて歩き出した。どうにも話しかけづ
らい雰囲気を彼女は醸していて、ファーガスは渋い顔してついてい
く。すると大きな切り株があって、彼女はそこに腰を下ろした。
﹁⋮⋮どうしたんだ。座らないと疲れると思うけど﹂
﹁あ、ああ﹂
少し、柔らかくなった。ファーガスはその事に気付き、素直に従
う。そして訪れる静寂。ファーガスは、どのように切り出していい
か変わらない。
﹁⋮⋮話すことがあったんじゃないのか?﹂
ベルの言葉は、何だか逃げ出したそうだった。しかし、それが全
てではなかろう。ではなければ、話し合いには応じない。
446
それが後押しになって、ファーガスはたどたどしく話し出す
﹁ひ、⋮⋮久しぶりだな。ベル﹂
﹁うん、久しぶり﹂
﹁数年⋮⋮ぶりだな。閣下と一緒に、実家に戻ってったきりだっけ
か﹂
﹁⋮⋮いい加減、私の父を閣下と呼ぶのは止めてくれないか?﹂
﹁でも閣下じゃん。公爵なんだから﹂
﹁まぁ、そうだけど⋮⋮﹂
少しずつ、ベルの言葉が柔らかくなる。ファーガスの口調も、昔
に戻っていく。
﹁こっちはさ、師匠の修業が続いてたよ。もう厳しいのなんの。で
もその成果もあって、多少は強くなったぜ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁ああ。惜しむらくは兄ちゃんたちがほとんど居なくなっちまった
ことだな。まぁ俺と違って住込みだったから、そういうキツさもあ
ったのかもしれないけど﹂
﹁ファーガスは、どうなの﹂
﹁とりあえず学園入って来いってさ。合格じゃないけど、俺の年基
447
準なら及第点って送り出された。そっちはどうだ? 閣下元気?﹂
﹁元気だけど閣下と呼ぶな﹂
﹁じゃあ何だよ、お父さんって呼んでもいいのかよ?﹂
﹁あんまりふざけていると怒るからね⋮⋮!﹂
ベルは、少しずつ感情を露わにしていった。懐かしくて、可愛ら
しい。そして改めて確認するのだ。︱︱俺は、ベルが好きなのだと。
だから、ファーガスは唐突に本題を切り出す。まだ、彼女の笑顔
を見られていないからだ。
﹁結局、あの後に何があったんだ? 多分だけど、閣下も少し噛ん
でるんだろ? そうでもないのにベルが沈んだ顔のままっていうの
は、考えにくい﹂
ぴた、とベルの動きが止まった。表情を盗み見ると、強張ってい
る。ファーガスは、心の内で失敗したかと額を押さえた。少々踏み
込みすぎたかもしれない。あちゃー、と言った心境だ。
けれど、ベルは意外にも﹁言わなきゃダメかな⋮⋮﹂と言った。
再会してから、最も柔らかい口調。ここは押すべしと、ファーガス
は﹁頼む﹂と強い口調で迫る。
﹁⋮⋮許嫁が、出来たんだ﹂
﹁⋮⋮いい、なずけ﹂
448
ベルの言葉に、ファーガスはオウム返しをした。体の、様々で、
妙な場所に力が入った。苛立ちにも似て、悲しみにも似ている。
﹁⋮⋮何でだ? そんな話が、何で⋮⋮﹂
﹁分からない。もう、そういう時代じゃないはずなのに、父がそう
言ったんだ。いやだって言ったのに、撤回してくれなかった⋮⋮﹂
﹁あ、相手は? 閣下が認めるってことは、この学園には入ってる
んだろ?﹂
﹁⋮⋮ハワードって奴だよ。ファーガスも、一度会ってる。ナイオ
ネル・ベネディクト・ハワード﹂
ファーガスは、口元を押さえて記憶を洗い出す。聞き覚え自体は
あった。そこに、ベルが居た時という縛りを加えれば、出てくるの
は早かった。
﹁あの、目つきの悪い黒髪の奴か﹂
﹁うん。あいつ、あの⋮⋮!﹂
ベルはその時、言葉を呑みこんだ。何かを、言わなかった。ファ
ーガスはそれを見咎め、問いただそうとした。しかし、遅かった。
﹁今日は、もう、いいかな⋮⋮。少し、疲れてしまって﹂
そのように言って、彼女は疲労をにじませて微笑む。しかし、違
うのだ。︱︱俺が見たかったのは、そんな笑みじゃない。
449
﹁⋮⋮ああ、ありがとな。久々に話せて、嬉しかった﹂
﹁うん。⋮⋮じゃあ﹂
軽く手を振って、彼女は去って行こうとした。だが立ち止まって、
微かに震えながら言い捨てるようにこう告げる。
﹁ファーガス。出来れば、ハワードには近づかないで﹂
﹁⋮⋮何で﹂
﹁︱︱危険、だから﹂
ベルは、言葉を置いて次の瞬間には走り出してしまっていた。フ
ァーガスは、先ほどまでの会話を振り返る。︱︱許嫁。そのために
彼女は、ファーガスたちとのパーティ結成を拒んだ。そして、あん
なにも元気を失っている。
やりきれず、山の中を歩いていた。タブレットで聖神法の所作を
確認しつつも、頭の中に入っているような気がしない。
気配を感じ、振り向いた。コボルトが一匹、こちらに向かってい
る。
ファーガスに気付かなかったのかと疑うほど隙だらけだった。軽
く一振りして討伐してしまうが、納得がいかない。コボルトが走っ
てきた方向を見る。何となく、そちらへ歩いていく。
そこで、一人の少年が笑っていた。
450
自身の体ほどもある大剣を自由自在に振り回し、ゴブリン、コボ
ルト、他にもさまざまな種類の亜人を切り殺していく。目つきの悪
い瞳は凄惨に見開かれていて、敵と言う敵を一匹たりとも捉えて逃
さない。
すさまじい強さだった。ファーガスは、奴を知っていた。先ほど
話に挙げたばかりだ。ハワード。奴は最後の一匹を転ばせ、その腹
部に大剣を突き刺し、地面に縫い付ける。その亜人の苦しみに悶え
る様は、まるで羽をもがれた羽虫のようだ。
﹁⋮⋮昨日、居た奴だな﹂
そのまま、奴はこちらに目を向けた。意地の悪そうな笑みが、口
元に貼り付いている。
﹁何だっけか。オレ、お前の名前聞いたっけ?﹂
話しかけられ、どうすべきか迷った。ベルの言う事を信じるなら
ば、無視すべきだ。だが、奴なら許嫁の問題について何か知ってい
るかもしれない。
︱︱ごめん、と心の中でベルに謝った。硬い表情で、ファーガス
は応える。
﹁いいや、言ってねぇよ。けど、お前の名前は知ってる。ナイオネ
ル・ベネディクト・ハワード⋮⋮だよな﹂
﹁ああ、お前は? 覚えてたら覚えとくぜ﹂
﹁ファーガス・グリンダー﹂
451
﹁はぁん⋮⋮。約束はできないな﹂
﹁別に、俺の名前はどうでもいいんだよ。それより⋮⋮お前、ベル
と許嫁なんだってな﹂
﹁ベル⋮⋮クリスタベルか﹂
ハワードは表情をゆがめて舌を打った。苛立たしげな視線が、フ
ァーガスを貫く。
﹁けっ、良かったな。お前の名前、多分忘れねぇぜ。グリンダーだ
ったな? んだよ。クリスタベルを愛称で呼んだり、許嫁の話を知
ってたり。随分親しいらしいな、あの﹃チキンガール﹄と﹂
﹁ベルがどんな目にあったのかも知らない奴が、勝手なことを言う
んじゃねぇ!﹂
口が、勝手に奴を怒鳴りつけていた。しかし、自覚しても止めよ
うとは思わなかった。﹃チキンガール﹄。ああ、ベルに元気がなか
った理由の一つに、それもあったのだ。
そんな風にいきり立つファーガスを、奴は冷めた目で見つめてい
た。鼻で笑って、﹁まぁ、オレには関係ないか﹂と平然と立ち去っ
ていく。
﹁おい、待てよ! 何で許嫁なんて話になったんだよ! 教えろよ
!﹂
しかしハワードは反応するそぶりがない。ファーガスは、それで
452
も叫び続けた。自らの道化っぷりには、気づかない振りだ。
453
1話 勝気なビスクドール︵5︶
翌日、ファーガスは朝食前に、ベンの言葉を信じて早朝の修練場
に出た。時間は五時ほど。むしゃくしゃして黙って出てきたという
背景のため、顔を合わせるのは何だか気が引けたのだ。
ここまでの時間帯になると人も少ないようで、実際二人しかいな
かった。黒い髪で小柄な少年と、同じ髪色の長身の青年。だが、二
人の得物は反比例しているようでもあった。小さい方は大剣で獰猛
に攻め、長身の方は片手剣で軽く流している。
黒髪、と言うとファーガスはアイルランドを連想する。そして、
そこからさらに連想させられるのがハワードだ。
﹁⋮⋮たしか、喧嘩しないように住み分けしろって言われてたよな
⋮⋮﹂
イングランド人は、侵略の歴史もあってスコットランド人、アイ
ルランド人から嫌われている。もちろん、戦争に発展しそうなほど
のものではない。国においての隣人と言うのは、お互いいがみ合う
事が多いのだ。
生憎ファーガスはウェールズ人だが、所属はイングランドクラス
である。突っかかられてもいいことはないだろうと考え、離れたと
ころで練習しようと考えていた。
だが、模擬戦をしているうちの片割れがハワードであることに気
付いて、頭に血がのぼった。
454
﹁ハワード! お前こんなところで何をしてやがる!﹂
住み分けもクソもなく怒鳴りつける。それに反応し、奴はこちら
を向いた。そこに対戦者の模造剣が、ガツンと奴を打ちのめす。
﹁痛ぇっ!﹂
あまりに上手く決まって、きょとんとする青年。ちらとファーガ
スを見やってから一旦ハワードに視線を戻し、肩をすくめて苦言を
呈する。
﹁よそ見をするなよ、ネル。山でこんなことしたら、お前は死ぬか
らな?﹂
﹁いやだってあのクソ野郎が!﹂
﹁声で集中乱そうとするなんて、亜人でもやってくる。つまり実戦
と近い状態だったわけだ。油断したお前が悪い﹂
﹁クッソ⋮⋮!﹂
今日はとりあえず切り上げようと、青年は言った。にしても、ど
こかで見たことがあるような気がする。どこだろうと考えて、﹁あ﹂
と思い出した。
﹁石柱を一瞬でバラバラにした人だ﹂
﹁いや、どちらかと言うと、アイルランドクラスの寮長で覚えてほ
しかったな⋮⋮。イングランドクラスの新騎士候補生たちに見られ
455
てたのは、おれとしては教官から急いで逃げた印象の方が強いんだ﹂
ファーガス意味が分からず首を傾げる。記憶を漁ると、確かにハ
ワードの後ろに立っていたかもしれない。
﹁なるほど、納得の強さですね﹂
﹁君は気性が荒いんだか穏やかなのか分からないね⋮⋮。ネルは間
違いなく荒いが﹂
﹁荒くて悪いかってんだ。けっ﹂
﹁いい育ちでいい言葉遣いができることは分かってるんだから、そ
うしろよネル。どちらかと言うと、そっちの方が素だろ?﹂
﹁うっせぇんですよ、カーシー先輩。部外者はすっこんでて下さ、
うぉっ!?﹂
カーシー先輩と呼ばれたアイルランドクラスの寮長は、奴の足元
に剣を投げつけた。予備動作はほとんどなく、けれど剣は深々と地
面に突き刺さっている。
﹁騎士学園はあまり上下関係がないがな、実力の差だけははっきり
しているんだ。いくら天才児のお前だろうと、今はおれに勝てない
ぞ﹂
﹁分かりましたよ⋮⋮、ったく。兄貴の息がかかってるってだけで
も面倒なのに﹂
﹁ブレナン先生と並ぶおれの恩師なんだよ。それに対して弟の方は
456
⋮⋮。才能だけならお兄さん以上の物があるっていうのに、素行面
がこれじゃあな﹂
﹁けっ﹂
始終いらいらした様子のハワード。﹁で﹂と言う声とともに向け
られた視線は、歪んだ笑みが滲んでいる。怒りのはけ口を見つけた
といわんばかりだ。
﹁お前は相変わらずベルベル言ってんのか? んだよ、そんなに鈴
が好きなら愛しの鶏の首にでもつけとけよ。雌でもちょっとくらい
朝の鳴き声に近づくかもしれないぜ﹂
﹁⋮⋮殺してやろうか、お前﹂
﹁やってみろよ。叩き潰してやる﹂
一触即発。互いに、得物を抜いた。そこに慌てた様子のカーシー
先輩が割り込んんでくる。
﹁お、おい、待てよ二人とも! 何だよ、学園長の見通しは全然当
たってないじゃないか⋮⋮。ともかく、止めるんだ﹂
﹁でもこれじゃあ腹の虫が納まりませんよ!﹂
﹁そうっすよ。それともオレがアンタ共々斬り殺してやろうか﹂
﹁じゃあ、せめて模造剣に持ち替えろ。怪我はしても、死にはしな
いだろう﹂
457
﹁聖神法はありっすかね﹂
﹁なしだ。当たり前だろ﹂
カーシー先輩に問うたハワードはあからさまに舌打ちをした。フ
ァーガスは実力勝負か、と思案する。聖神法を含めた戦いに自信は
ないが、ただの斬り合いなら何とか、という考えだ。
俺はそれでいいぜ、と了承の言葉を打ち出すと、ハワードも観念
して﹁じゃあそれでいいや﹂と言った。だが、その表情は明らかに
ファーガスの事を舐めきっている。
修練場の端から片手用の模造剣を取り出し、自前の盾と合わせた。
といっても、元々盾を担いでいたわけではない。大容量の物体が入
る聖なる腰袋が、剣などと並んで売店で売られているのである。定
価五ユーロ。安い。
二人は武器を構え、にらみ合った。奴が肩に担ぐのは、相変わら
ずの大剣だ。しかしハワードの体格は、それを自由に振り回すほど
の筋力があるように思えない。ファーガスのそれよりも、少々劣っ
ているようにすら見えた。先ほどの模擬戦では、乱暴に振り回して
いる風にしか見えないのに、である。
﹁では、これより模擬戦を始める。ルールは相手に一太刀入れた方
の勝ちとし、また聖神法の使用は認めないものとする。双方、異論
はないな﹂
﹁はい﹂
﹁ここは我慢しときますよ﹂
458
﹁⋮⋮。では、始めッ!﹂
掛け声と同時に、ハワードはファーガスを肉薄にした。それを見
て、ファーガスは悟る。奴の戦闘スタイルは、﹃上手い﹄のだ。己
が持つ力︱︱自分の筋力だけでない。大剣をふるう際に発生する遠
心力や、肩に担いでいるときの位置エネルギー。それさえも、十全
に使いこなしている。
﹁︱︱︱︱︱︱ッ!﹂
ファーガスは飛び退いても意味がないと判断した。そのため、自
身の体をもって奴に正面からぶつかっていく。次いで翳した盾を大
剣の根元にぶつけた。最小限の反動で、その動きが止まる。
﹁おっ﹂
感心したような声を上げるハワードに、ファーガスは﹁余裕ぶっ
こいてんじゃねぇよ!﹂とそのそっ首に片手剣を一突き。しかし、
躱された。奴はにやりと笑って言う。
﹁んだよ。チキンガールが好きなくらいだから、弱いもんだと勘違
いしちまったじゃねぇか﹂
奴の前蹴りが、ファーガスに突き刺さった。寸前で飛びのいたた
め、痛みはあまりない。それよりも、あの体勢を崩されたことの方
が痛かった。取り回しの利く片手剣の間合いだったというのに。
﹁ヒュー。結構やるじゃないか﹂
459
口笛を吹いて、カーシー先輩は相好を崩して観戦している。ファ
ーガスはこんな時でも称賛の声がうれしい性質で、剣を持つ手で親
指を立てる。すると、先輩はちょっとしてから噴き出した。
﹁ぷっ、ははは。これは案外、負けるのはネルになるかもしれない
な﹂
﹁はぁ!? ふざけんじゃねぇっすよ! こいつの何処がオレに敵
うって?﹂
﹁さっき自分で彼のことを評価しただろう、お前。それにネルの強
さの大部分は、聖神法の上手さにあるからな。ほら、よそ見してて
いいのか? やられてしまうぞ、ファーガス君に﹂
﹁クッソ!﹂
逆にこちらからファーガスは迫り、動き出す前の大剣を握る手に
盾を突き出した。奴の上手さは重心制御にある類のもので、アスリ
ートのそれだ。崩せば崩れる。よろけた奴に向かい、ファーガスは
剣をふるった。
だが、無理に振るわれた大剣と相打ちになって片手剣が吹っ飛ん
だ。からからと、地面を滑っていく。﹁オレの勝ちだな︱︱﹂とハ
ワードが隙を見せた瞬間をついた。
つま先で大剣を握る奴の手首を蹴り抜き、その手から獲物が離れ
た一瞬に、奴の横顔へ盾での殴打。
わずか一秒にも満たないような攻防だった。ハワードは地面に腰
をつき、まるで狐に摘ままれでもしたかのような間の抜けた表情を
460
している。
﹁どうですかね﹂
﹁うーん⋮⋮。どうとも言えないな。ファーガス君は、そのままネ
ルの剣を奪ってネルを斬れるかい?﹂
﹁そうですね⋮⋮。少し、難しいかもしれません﹂
横倒しになっている大剣を握る。ここまで重い物なのかと愕然と
しながら、両手で何とか担いでみる。
﹁だが、ファーガス君に予備の得物があったならネルの完敗だな。
ネルは袋からすぐに取り出せるような大きさじゃないし﹂
﹁俺、消耗激しいんで常に五本はストックしてますよ﹂
ほら、と証拠を見せると、カーシー先輩は頷いて﹁それならもう
疑いないだろう﹂と言った。
﹁勝者は、ファーガス君だ。どうだ? ネル。いいお灸になったん
じゃないか﹂
いまだ呆然とするハワードに、先輩は話しかける。するとやっと
奴はゆっくりと顔を動かして、先輩を見た。その頬は、盾の所為で
何処となく赤い。
﹁⋮⋮は? オレが、負けた? いやいや、何言ってんすか。先に
得物を飛ばしたのオレでしょうよ。それが⋮⋮は?﹂
461
﹁ネル。お前は強いが、自信が過剰すぎる。大怪我する前に折られ
て良かったと、おれは思うよ﹂
﹁⋮⋮あり得ねぇ﹂
呆然と、奴は呟いた。さらに、もう一度﹁あり得ねぇ﹂と漏らす。
だが、二回目は酷く怒気を感じさせるものだった。
﹁オレの負けだと? ふざけるなよ貴様、こんな聖神法なしの模擬
戦ごときで。ならもう一度勝負してはみないか? 格の違いと言う
ものを見せてやろう﹂
さっきとは打って変わって丁寧な英語になるハワード。その姿は
どこか滑稽だったが、ファーガスを笑わせないだけの凄味があった。
そこに自分を押し殺すような所はない。カーシー先輩の言うとおり、
本当にこちらが素なのだろう。
﹁ネル! もう模擬戦は終わったんだ! 負け惜しみはいい加減に
しろ!﹂
﹁貴方は黙っていろ! わた、オレはこいつと話してんだ!﹂
自覚して、元の話し方に戻るハワード。それにしても、奴の様子
は尋常ではなかった。怒り狂っていると表現してもいい。何が奴に
そうさせているのかが、ファーガスには分からない。
しかし、捉えようによってはチャンスでもあった。ファーガスは
熟考した振りしてから、﹁いいぜ﹂と答える。
﹁ファーガス君、いいのか⋮⋮?﹂
462
﹁いや別に、俺自身はあんまり勝敗にはこだわってなかったんで。
だが、ハワード。もう一回戦いたいってんなら、約束してくれよ﹂
﹁⋮⋮何を﹂
﹁勝敗にかかわらず、ベルとの許嫁の件について教えろ。それなら、
受けてやる﹂
﹁⋮⋮﹂
まだるっこしいファーガスの要求に、ハワードは憤然とした様子
を隠そうともしなかった。しかし、奴はふて腐れた風に﹁分かった﹂
とだけ言った。そして早くも大剣を構える。どれだけ喧嘩っ早い性
分なのだろうか。と表情に出さないまま少し呆れた。
﹁じゃあ、今回は聖神法あり。⋮⋮だよな﹂
﹁はい。モノホン持ってくる時間も惜しいんで、それでいいです。
さっさと合図してくださいよ﹂
あふれ出る怒気を、油断ならないと評す。先ほどまでの余裕綽々
っぷりは見られないだろう。その上聖神法まで来るのだ。怒涛の攻
めを予想しても、不安は残る。
昨日の討伐で得られたポイントで取った﹃ハード・シェルド﹄︱
︱盾の硬度上昇の所作を、こっそり確認した。確かめてから、先輩
に向かって頷く。
﹁では、⋮⋮口上はもういいな。聖神法あり、真剣はなし。では︱
463
︱始めッ!﹂
再び、迫ってくるだろうと考えていた。だが、奴は意外にも動か
ない。にらみ合いが、始まった。そのまま、ずっと膠着が続いてい
た。時間が過ぎ、少しずつギャラリーが増えていく。何となく気が
引けて、集中力が乱れた時だった。
気づけば、眼前に奴がいた。
とっさに盾を身に引き寄せる。しかし、その強化までは気が回ら
なかった。ぼそりと、奴は何かを言う。恐らく祝詞だ。そして、盾
を砕くほどの重い攻撃。ファーガスは吹っ飛び、頭から地面に墜落
する。動けなかった。酷く、気分が悪い。息をするのも、ままなら
ない。
﹁⋮⋮んだよ、やっぱ雑魚じゃねぇか﹂
﹁ネル、お前!﹂
二人の声が、次第に遠くなっていく。ギャラリーが集まってきて、
ファーガスを呼び掛けているようだった。大丈夫ですよと答えよう
としたが、声が出ない。視界が、霞んでいく。
﹁ファーガス!﹂
最後に、ベルの声が聞こえたような気がした。そうだったらいい
なと思いながら、ファーガスは意識を失った。
464
目が覚めると、保健室のようだった。﹁大丈夫ですか﹂と声がか
かる。
最近よく聞くようになった、綺麗な声と馬鹿丁寧な喋り方。声の
主は、ローラだった。白い部屋に居る彼女は、全体的に薄い色素の
為何処か見にくさを感じる。それだけの白い肌と言うのも中々珍し
い。
﹁⋮⋮気絶してたのか﹂
﹁はい。アレだけ頭を打っておいてここまで無事なのは凄い。と貴
方を看てくれた先生は言っていました﹂
﹁そりゃどうも、って伝えといてくれ﹂
﹁あ、すいません。﹃凄い﹄ではなく﹃凄い石頭だ﹄でした﹂
﹁嬉しくない!﹂
ファーガスの反応を見てから俯いてくすくすと笑うローラ。段々
ファーガスも、こういうやり取りがちょっと好きになってきた節が
ある。
﹁それで、ハワードの方はどうしたのか分かるか?﹂
﹁ああ⋮⋮。ハワード君は、三日間の謹慎を食らったそうです。寮
暮らしですから、可哀想と言うか自業自得と言うか⋮⋮﹂
﹁そうか。ありがとな﹂
465
﹁あと、これをファーガスへ渡すように言われました﹂
そう言って手渡されたのは、メモ紙だった。開くと﹃何でかは知
らん。だからオレも苛ついてんだ﹄と記されている。ファーガスは
しばしぽかんとした後、目を覆って青息吐息。
﹁俺、本当ツイてないな⋮⋮。調子乗って挑戦受けたらぼっこぼこ
だし、収穫もなしかよ!﹂
﹁ご、ご愁傷様です⋮⋮﹂
ローラが気遣うように言ってくれて、少しだけ溜飲が下がる。そ
のためもう一度礼を言って、教室へ帰すことにした。
﹁見舞いに来てくれてありがとうな。俺はもう大丈夫だから、先、
戻ってくれていい﹂
﹁そうですね。では、また﹂
礼と共に、ローラは部屋を出ていった。医務室に治療してくれた
という先生はおらず、戻ってくるまで待っておくことに決める。せ
めて、礼くらいは言いたい。
しかし、ふと考えてしまう事があった。手を、強く握る。すると
部屋の電灯がぱちぱちと言いだし始めて、﹁危ねっ﹂と手を戻す。
﹁駄目だな。どうも、こと戦闘になると意識しちまう。忘れろー、
忘れろー﹂
こめかみを人差し指でぐりぐりとやった。その時、何故かベルと
466
の縁のきっかけとなった事件のことを思い出した。﹁やばいやばい﹂
と言いながら、その場をぐるぐる回る。
あまりに真剣みのない間の抜けた行動をとっていると、心の内も
また、それに従い重苦しさを失っていく。そうして、やっとファー
ガスはいつも通りに戻れるのだ。ちょうど救護の先生が来て、礼を
言って飛び出す。
腹の虫が鳴った。時間を見るとまだ二時限目の途中ほどで、そう
いえば朝食を食べ損ねたのだと気づいた。
467
2話 幼き獣︵1︶
盾による突進。聖神法のサポートを得たそれは、上手い具合にオ
ークを吹き飛ばした。同時に、奴の動きからキレがなくなる。
そこに、ローラの氷弾が迫った。先ほどまで軽々と避けていたオ
ークは、鈍った動きの中辛うじて捨身の右腕で防ぐ。しかし、突き
刺さった氷弾そのものの重みによって体勢を崩し、倒れこんだ。
﹁ベン、今だ!﹂
﹁うんっ!﹂
﹃ハイド﹄で忍び寄っていたベンは、すでに炎を纏う剣の所作を
完了させていた。突き刺すは、首。肉を焼く音と共に、オークの断
末魔が上がる。だが、長くは持たなかった。剣が、気管にまで達し
たのだろう。察したベンは素早く剣を抜き、ファーガスが死に際の
亜人へと近寄っていく。
アイルランドの﹃グラビティ・ソード﹄は、使うと攻撃が酷く重
くなる。本来は人間をまねて鎧などを身に着ける亜人や、筋肉、脂
肪などの装甲を持つ敵を砕くための手段だ。
だが、それで敵の弱点を突けば、敵は苦しむ間もなく絶命する。
﹁⋮⋮ごめんな。俺たちが未熟で﹂
重き剣で、ファーガスはオークの頭蓋を割った。オークから、苦
468
悶の表情が消える。亜人が死ぬ瞬間の表情は、大抵安らかだった。
人間のように、未練や執念と言うものが残らないのだ。
オークの収集部位は、口からはみ出る牙である。図鑑で見た手っ
取り早い方法を使って、大体二十秒で引き抜く。
﹁ふぅー、大分段取り良くなってきたね﹂
﹁そうですね。ベンも亜人を見て驚かなくなりましたし﹂
﹁うるさいな、もう。これでも成長してるんだよ、日々ね﹂
﹁⋮⋮ローラは全く人の事言えないけどな﹂
﹁ファーガスはあっちの方で腕立て伏せでもしていてください﹂
﹁いや、腕立て伏せが必要なのはベンだろ。ベン、やって来い﹂
﹁何で!?﹂
ベル、ハワードは依然として別行動のまま。ファーガスたち三人
は、行動を共にするたびに馴染んでいった。ポイントの稼ぎ方も大
分わかってきて、今では五百ポイント必要な三つ目のエリアを開放
するようになったほどだ。
ベンは隠密系の聖神法を伸ばしていき、戦闘中ほとんど敵に発見
されないというレベルにまで達した。ローラは威力の高い技能を数
多くとり、それを速射、連射のできる固定大砲の地位を確立してい
る。対するファーガスは、少々トリッキーだ。一人でも戦えるし、
二人の援護に徹する事も出来る。
469
中々に、いいパーティになったとファーガスは自負していた。何
となく、から始まった関係だが、長持ちすればいいなと考えていた。
﹁やっぱり、特待生が二人もいるチームっていうのはすごいね。ま
だ第二エリアの︱︱スライムエリアにも届いてないチーム、いっぱ
いあるっていうのに﹂
﹁スライムは嫌だったな⋮⋮。あの、何度切っても意味がない感じ。
すげー嫌だった﹂
﹁そうですか? 結構楽なイメージですけど﹂
﹁それはローラだけでしょ。炎弾連射するだけだったし。けど、そ
の分ポイントの入りがよかったんだよね。ゴブリンなんかよりも全
然﹂
﹁ゴブリン冷静になると弱いですから﹂
﹁だよね! 本当、最初のビビりっぷりが今でも恥ずかしいよ﹂
﹁それ、遠まわしに私の事を攻撃していませんか?﹂
﹁え? 何が?﹂
﹁⋮⋮何でもありません﹂
ローラの自爆に、ファーガスは口を押えてくすくす笑う。むっと
した視線が来たが、彼女はそれ以上突っ込んでこなかった。二人に
﹁クエスト終わったけど、もうちょっと狩ってく?﹂と尋ねる。
470
﹁うーん⋮⋮。私は帰りたいです。空もだいぶ赤らんできましたし﹂
﹁まぁ、そうだな。ベンは?﹂
﹁ちょっと残っていきたいな。あ! でも一人でいいよ? 二人は
帰ってて﹂
﹁⋮⋮そうか? でもそろそろ雪が降る時期だから、一人は危険だ
と思うんだけど﹂
﹁今更そんな、大丈夫だって。今日すぐにって訳じゃないだろうし、
いつもの事でしょ? ぼく気配殺す系の聖神法は大体取っちゃった
くらいだし。あと五個ツリーを進めたら、姿が見えなくなるやつが
取れるくらいなんだから﹂
﹁まぁ⋮⋮それもそうか。じゃあ、いつも付き合えなくて悪いな。
また明日﹂
﹁また明日会いましょう﹂
﹁うん。二人とも、また明日﹂
笑顔で手を振るベンと別れて、ファーガスとローラは少し歩いた。
だが、どちらともなく止まる。同時に、と言ってもいいかもしれな
い。
﹁⋮⋮やっぱりさぁ。何か、隠してる気がするのは俺だけか?﹂
﹁いいえ。少なくとも、私も違和感を覚えていました﹂
471
ここ三週間ほど、ベンはよく一人で山に残るようになった。ちょ
うど、この第三エリア︵通称オークエリア︶に入ってからの事だ。
すでに二十センチ近い背の差がある二人は、互いに視線を交わし
て頷いた。そして、そろりそろりと気配を殺して戻っていく。
すると、案外すぐにベンを発見できた。しかし見つめていると、
彼は勘付いたかのようにキョロキョロと周囲を見渡し始める。こち
らに視線が来たので、ローラを引っ張って、二人で樹の陰に隠れた。
しばらくして、再び覗き見る。一応だが、まだ視認できる距離だ。
﹁クッソ⋮⋮。あいつの﹃ハイド﹄、本当に厄介だな⋮⋮!﹂
﹁しかも、それに関してのみ聖気の燃費が良くなる聖神法も取って
いるらしいですから、基本的に山では常時発動らしいですよ?﹂
﹁道理で何度言っても索敵を取らないわけだ﹂
言いつつ、ファーガスはベルトに挿んでいる杖に触れる。心の中
で祝詞を唱え、触れさえすれば﹃サーチ﹄は発動した。広い範囲で、
周囲の全てを認識する。
﹁どうです?﹂
﹁亜人は数匹いるけど、大体が休息中だな。あんまり近づかない限
りは襲いかかられないはず﹂
﹁じゃあ、気にしなくていいってことですね。さっそくベンを追い
ましょう!﹂
472
二人で息をひそめて進んでいく。彼の﹃ハイド﹄に対し、こちら
の索敵は移動こそ可能な物の常時発動などさせていたら聖気が持た
ない。
聖気というのはもはや言うまでもないだろうが、聖神法に使うエ
ネルギーである。日本で言う魔力に近く、聖神法にのみ使用され、
使い切っても欠乏感などがない代物だ。故に残力確認が生死を分け
る場合も多い。残量メーターは定価十ポンドで売店にて販売中。1
ポイントで十個買える。
﹁⋮⋮中々立ち止まりませんね﹂
﹁だな﹂
木の陰からちらちらのぞき見する二人。距離もあり、遠視などを
使っているから肝心のベンにはバレないものの、傍から見れば奇行
である。
そんな風に時間は過ぎていき、ベンがやっと立ち止まった頃には
すでに夜の帳が下りていた。夜目で、彼が一体何をしているのかも
判然としない。ファーガスはローラに待っているよう指示し、﹃サ
ーチ﹄で樹の裏側をダッシュで伝っていく。
﹁ほら、美味しいか? ケル。たんとお食べ﹂
優しい声だと思った。だが同時に、不安を抱いた。一瞬、近距離
で盗み見る。草むらに隠れていた何かに、餌をやっているらしい。
そのまま、しばらく身をひそめていた。ベンが満足して立ち去っ
た後、タブレットのメール機能でローラを呼び寄せる。
473
﹁⋮⋮それで、どんな具合でした?﹂
﹁もうベンは居ない。別に声を小さくする必要ないぜ﹂
﹁そうですか。それで﹂
急かすローラに、動作で示した。﹁暗くてわかりません﹂と駄々
をこねられるが、しかしすぐに気づいたようだ。
﹁⋮⋮亜人、ですか?﹂
﹁ああ、多分な。ちょっと光頼めるか﹂
﹁は、はい﹂
聖神法で、光が灯った。そして、その正体が照らし出される。
﹁⋮⋮これは⋮⋮!﹂
ローラが、息を呑んだ。ファーガスも、表情がこわばっている。
その獣は、幼かった。犬に準じた体を持っていて、人懐こそうな
視線がこちらに向く。だが、ファーガスたちはそれを受け入れるこ
とができない。
その獣には、頭が三つあった。
ケルベロスの、幼生なのだろう。
474
部屋に帰ると、﹁アレ? 何処行ってたの?﹂と声がかかった。
ベンだ。﹁ちょっとな﹂と苦笑して誤魔化すと、﹁ふぅん﹂と興味
なさそうに納得される。
﹁うーん⋮⋮どれを取ろうかな⋮⋮﹂
二つ並ぶベッドの手前の方に腰掛けるベンは、タブレットを覗き
込みながら次にとる聖神法を吟味しているようだった。スキルツリ
ーは当初は気付かなかったのだが、全体図を見ると非常に大きい。
最初ほとんど1ポイントでスキルが取れて、これでいいのかと疑っ
ていたものだったが、今ではそのくらいにしないと追いつかないの
だと理解している。
﹁ファーガス、どっちがいいと思う?﹂
﹁どれどれ?﹂
タブレットを見せられて、スキルツリーを覗いた。﹁これとこれ
なんだけど﹂と指で二つ示される。隠密系で言えばほとんど終わり
に位置する﹃ハイド・シャドウ﹄と、戦闘系スキルでは最初から二
番目の﹃ファイア・ソード2﹄。
前者の聖神法は、とある習得の難しい所作の後に敵の陰の中に入
ると、たとえ正面だろうと、その上攻撃しようと気づかれなくなる
というものだ。ちなみに後者の聖神法の効果だが、何と無印の﹃フ
ァイア・ソード﹄より一割ほど威力が上がるという驚くべき効果が
ある。
﹁⋮⋮ちょっと思ってたけどさ、ベンは将来暗殺者にでもなるつも
475
りなのか?﹂
﹁え、あ、いや。⋮⋮気づかれずに敵を一体一体屠っていくってい
うのが楽しくて、つい﹂
﹁怖ぇよ。というか、ここまで突き詰めたなら、この学年で一番強
いのってベンになるのかもしれないな﹂
﹁え!? いやいや! そんな事はないよ! 少なくともファーガ
スの方が絶対強いって!﹂
﹁うんにゃ、俺お前に命狙われたら生き残れる気しないもん⋮⋮﹂
苦い顔でそう告げると、遠い目の苦笑いが返ってくる。
﹁でも、別に今の攻撃力でも間に合ってるから、長所を伸ばせばい
いんじゃないか?﹂
﹁そう、かなぁ⋮⋮。でも、もう少ししたらまた次のエリア入れる
ようになるんでしょ?﹂
﹁あ、そっか。そろそろ千ポイントか。そうなると亜人の傾向も変
わるからな。次のエリアって何が多いんだ?﹂
﹁まだポイントがなくって分からないんだよ⋮⋮﹂
﹁あちゃー⋮⋮﹂
ポイントは、非常時のことを考えて常に十は確保しておくという
不文律がある。10ポイントあれば、剣を少なくとも一本は買える
476
からだ。いくら物品が安い購買でも、武器の部類はやはりある程度
の値が張る。
その辺りの分配を考えると、百ポイント近くする﹃ハイド・シャ
ドウ﹄を取るとじり貧になるのだ。敵の生態を知りつつ取るという
事も出来ないし、ファーガス、ローラの二人は基本的にポイントを
残さない性質である。
その上、エリアを開放すると新しいエリアでの狩り以外はなかな
かポイントが貯まらなくなる。しかもエリア解放は今までの総合ポ
イントを基準にしていて、勝手になされてしまうのだ。
﹁うーん⋮⋮、でも、欲しいなぁ⋮⋮! ﹃ハイド・シャドウ﹄⋮
⋮!﹂
葛藤である。こうなるともはや、他人の進言が通ずる領域ではな
いだろう。十字を切りつつ﹁神のご加護があらんことを﹂と祈って
やる。なんだかんだ言ってキリスト教なファーガスだ。
数時間後、寝る前に少し考えた。ベンの事。そして、育てている
らしい亜人の事。ここが日本なら、とがめられる心配すらなかった
だろう。けれど、今となっては扱いが難しい。
ローラに聞いた話では、接近戦に弱いスコットランドクラスは聖
獣と言う聖神法を使って、亜人を使役する場合があると聞いた。大
抵の生徒は杖などを防具兼鈍器として使いつつ聖神法で戦うらしい
が、それでもそういう戦い方が存在していることは確かであると。
ファーガスはもやもやとした気分が晴れなかったが、問いただし
ても意味はないとわかっていた。そうして、仕方なく目を瞑る。
477
翌日の早朝、ファーガスがまだ暗い時間に起き出すと、すでにベ
ンが着替えを終えるところだった。
﹁⋮⋮ベン、早いな﹂
﹁あ、起きたんだファーガス。じゃあ丁度良かったかな﹂
﹁何が?﹂
寝ぼけ眼で尋ねると、タブレットを取り出して、にこやかな笑顔
を浮かべる。
﹁結局取っちゃった!﹂
﹁ベンって、結構思い切りいいよなぁ。分かったよ、練習付き合う﹂
着替えて、共に修練場に向かった。すると、石柱に向かう黒髪の
少年。げ、とファーガスは思う。
﹁死に腐れろやぁぁぁぁああああああ!﹂
大剣を振り回す。乱雑にしか見えない所作。しかし、そこに一切
の無駄がないことをファーガスは知っている。初撃が第三学年相当
の硬度の石柱にひびを入れ、ニ撃、三撃と日々が大きく、細やかに
なっていく。全部で、十六。とうとう石柱が、その重みに自壊した。
﹁おーっ、凄いねぇ﹂
﹁あっ、馬鹿っ、ベン!﹂
478
しかし注意は遅く、修練場の中心で猛威を振るう彼奴に気付かれ
てしまう。
﹁あん? ⋮⋮グリンダーか。怪我は大丈夫か? 頭を打ってさら
にバカになったって聞いたが﹂
﹁元からすでにバカだったみたいな言い方をするんじゃねぇよ! 少なくともお前よか頭いいわ!﹂
﹁へぇ? お前テスト何位だよ﹂
﹁ふっ、意外だろうが三位と言う高順位をキープしてるぜ﹂
﹁そうか、ちなみにオレは一位なんだが﹂
﹁はぁ!?﹂
﹁そういや、聞いた話じゃどうやらオレと同着の奴がいるらしくっ
てな。つまりお前は二人の一位の下にいるって事だ。良かったじゃ
ねぇか。意外に頭いいんだな、見直したぜ﹂
﹁喜べねぇ⋮⋮﹂
﹁いや、こっちとしてはファーガスの意外な頭の良さに凄い驚いて
いるんだけど⋮⋮﹂
ベンの言葉に、曖昧に笑ってごまかす。条件からして、こちらは
負けるのが恥と言うレベルなのだ。
条件と言えば、思い出すのはソウイチロウである。日本に居た、
479
一番の友達。秘密の共有が原因なのか妙に気が合って、しばらくの
間メールでやり取りなどもしていた。
だが、日本が転覆してからと言うもの、一度だって連絡が取れて
いない。彼なら他人から酷く嫌われるという事もないだろうし、幸
せにやっているのだろうが、それでも心配事は尽きなかった。
﹁⋮⋮どうしたの、ファーガス﹂
﹁ん、ああいや。⋮⋮嫌な奴に有っちゃったなと思ってさ﹂
﹁うっわ、滅茶苦茶嫌われてんじゃねぇかオレ。悲しいから八つ当
たりしていいか?﹂
﹁すんなよ。俺はベンの聖神法の実験台になってやらなくちゃなら
ないんだ。お前の相手をしてやる暇なんざねぇんだよ﹂
﹁けっ、そうかよ。⋮⋮そういや、あの噂、聞いたか?﹂
﹁は? ⋮⋮何が﹂
あまりに切り替えの早いハワードの言葉に、主導権を取られつつ
あるファーガス。奴に対して質問を投げかけてしまう。
だが、こういう時にこそ冷たいのがハワードなのだ。
﹁あ、知らねぇんならいいや。あっちで実験やってろよ﹂
﹁⋮⋮悪かったよ。教えてくれ﹂
480
﹁いや、眠い。何だっけ。シルヴェスターはスコットランドクラス
だよな? そっちに聞けばいいんじゃね。オレ、シャワー浴びて二
度寝するからこっちくんな﹂
﹁⋮⋮﹂
口端を引きつらせつつ怒りに打ち震えるファーガス。ベンに懸命
になだめられて、何とか自分を抑える。
﹁何ていうか、マイペースな人だったね⋮⋮。特待生の人?﹂
﹁ああ。あんなのが特待生なんだから、貴族も末だよな﹂
﹁そんなこと言っちゃだめだよファーガス。︱︱じゃあ、付き合っ
てくれる?﹂
﹁おう﹂
ベンは少しファーガスから離れて、指を奇妙に動かした。その動
きは不思議に艶めかしく、目が惹き付けられていってしまう。揺ら
ぎ。はっとファーガスが我に返ると、ベンがそこから消えている。
﹁え? ど、何処だ⋮⋮? 確か陰の中に入るとか言ってたよな⋮
⋮﹂
ファーガスは、自分の陰の上で手を振ってベンが居ないかを確認
する。居ない。とすると、まだ彼は発動していないという事なのか。
木剣を翳しながら、注意深く探していく。
その時、ファーガスは足が何かにけつまずいて転んだ。そして仰
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向けになり︱︱しかし、立てない。
もがく。自分が何かに触れられているという感覚はまるでない。
ただ、自分の体がおかしいために、立つことができなかった。それ
はある意味で、自分の体が乗っ取られたかのような恐怖を抱かせる。
これを、予告なしでやられたらどうだろう。ファーガスは自分で
も、泣くだろうと予想する。
﹁ファーガス、どう?﹂
ベンが、しばらくして姿を現した。いい笑顔が憎らしい。
﹁⋮⋮ベン。お前、凄かったんだな⋮⋮﹂
人間、多大なストレスと共に衰えるというもので、真剣に恐怖感
にやられていたファーガスは、彼の登場と共に息絶え絶えな雰囲気
を纏い始める。
﹁えっと⋮⋮、大丈夫?﹂
﹁大丈夫⋮⋮。ただ、ちょっと一人で考えさせてくれ﹂
﹁そんなにショックだった?﹂
﹁未知って怖ぇなって思わされたよ﹂
深い吐息を漏らして、ファーガスは低い声で漏らした。ベンはそ
んな少年の心の内など知らず、﹁大袈裟だなぁ﹂と笑っている。マ
ジでド突いたろかと静かに怒髪天だ。しかし行動に移す勇気が出な
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い。ヘタレである。
朝食の時間が来て、二人で向かった。食堂の飯は大抵不味いが、
朝食だけは別だ。大味ながら食い甲斐のある食事を口に運びつつも、
視線が勝手にベルを探しているのは、もはや癖と言ってよかった。
今日も、彼女は取り巻きを引きつれて食堂の中央付近に座る。だ
が、彼女だけはいつだって笑っていない。
ハワードの件、そして、彼女自身の問題。様々な要因が、彼女に
笑顔で居させない。直接話せたのも結局初めて山に臨んだあの一度
っきりで、それ以降は話しかける糸口すら掴めていないのだ。
﹁⋮⋮はぁ﹂
﹁傍から見てるとファーガスって乙女だよね﹂
﹁意外と心の中ではどす黒い感情が渦巻いてたりするんだぜ⋮⋮?﹂
﹁はいはい。君にそういうのはまだ一年早いよ。そういえば、デュ
ーク先生とブレナン先生の訓練、どっち取る?﹂
﹁うーん、デューク先生かなぁ⋮⋮。っていうかさ、ブレナン先生
の受け持ちって最近なかったよな? 今はあんのか?﹂
﹁アレ? ⋮⋮どうだったろ。もしかしたらデューク先生のだけだ
ったかもしれない。なんか最近休み気味だよね、ブレナン先生﹂
﹁風邪でもこじらせてんのかな。アイルランドクラスの先生なのに
どのクラスにも分け隔てなくて好きだったんだが﹂
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﹁たまに来る他のクラスの︱︱ヘイ先生とかいっつもブーたれてる
もんね。来るたびに毎回﹃この人本当に大人か?﹄って疑ってるん
だけど﹂
﹁ベンって結構辛口だな﹂
﹁そうでもないよ。ってことは、今日はデューク先生か⋮⋮。あの
先生の授業って楽しいよね﹂
﹁たしかに、ベン向きではあるよな。﹃ハイド﹄とか﹃ハイ・スピ
ード﹄の使い方を教えてくれるやつ﹂
﹁﹃ハイ・スピード﹄で乱戦を駆け抜ける戦闘スタイルも格好いい
んだよね∼。先に﹃ハイド﹄取っちゃったからそっちにしなかった
んだけど。少しくらい迷いたかったな﹂
﹁ベンはどうせ隠密系選んでたよ。お前隠れたドSだし﹂
﹁いや、そんな事はないよ!﹂
﹁嘘だね。同室の俺が一番知ってる﹂
﹁⋮⋮根拠は?﹂
﹁Sはサドのエスでもあるけど、サービスのSでもあるみたいな話
を昔聞いたことがあってな﹂
﹁アレ? 褒められてた?﹂
484
﹁ははは。⋮⋮っと。そろそろ授業始まるな。さっさと食っちまお
う﹂
ゆっくり食べていたベンを急かし、ファーガスも残りの数口をス
プーンでかき込む。そうして、連れ立って教室に向かった。
485
2話 幼き獣︵2︶
その日は、ホームルームがあった。
いつもなら、無い。そもそも、一学年に五百人ほど生徒がいて、
それがたった三つに分けられるものだから、一クラスが非常に多い
という事態になる。そのために更にクラス内で四分割程度にされる
ということもあり、一クラス全員が集められるという事自体が珍し
いことだった。
﹁えー、連絡事項を伝える﹂
講堂で、壇上に登った教官が、単刀直入に切り出した。まっすぐ
な視線で、生徒全員を見渡していく。
﹁最近、第三エリアにケルベロスの幼生を見たという情報があった。
勤勉な諸君らには当然周知の事だろうが、ケルベロスというのは第
六エリアに生息するヘル・ハウンドの突然変異種だ。ケルベロスの
眷属が地表に現れるようになったのが、ヘル・ハウンドだという説
もある。
つまりこのまま成長させてしまうと、第三エリアに第六エリアに
もなかなか現れない、オーガレベルの亜人がうろつくという危機的
事態になりかねないのだ。亜人は成長が早く、諸君らが第三学年に
なるころには成獣になる事だろう。悠長にも聞こえるが、奴らは一
日ごとに強くなる。
見つけたら、すぐにでも討伐せよ! 諸君らには、その実力があ
るはずだ。見事討伐を果たしたものには、報酬として1万ポイント
を与えるように指示してある。放課後、受注しておくように。以上、
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解散!﹂
ざわめきだす生徒たち。それぞれ、誰が一万ポイントを得るかと
興奮している。だが、たった一人だけ顔色を悪くしているものがい
た。ファーガスはちらとベンを見やり、しかし気づかない振りをし
て、﹁ほら、早くいこうぜ﹂と彼を催促する。
﹁う、うん⋮⋮﹂
元気がない。やはり、とファーガスは改めて確信する。しかし、
どうするのか。ファーガスは、ベンの次の行動が分からない。
それに、自分がどうすべきなのかも。
放課後、ギルド近くの校舎の裏側で、ローラを待っていた。
彼女が来るまで、無言でいた。ベンが、俯いて考え込んでいたか
らだ。心の内で﹁バレバレだぞ﹂と教えてやり、直接伝えられない
もどかしさに空を仰ぐ。シルキースカイ。UKの気候と言うものは
変わりやすく、もしかしたら雨が降るかもしれないと思った。
﹁すいません、お待たせしました﹂
スコットランドクラス特有の白いローブを着こんで、ローラは現
れた。ベンが反応薄く﹁じゃあ、ギルドに行こうか﹂と一人で先に
行ってしまうのを見て、少女はファーガスに耳打ちしてくる。
﹁⋮⋮やっぱり、ケルちゃんの件ですかね﹂
﹁ああ⋮⋮。どうでもいいけど、ケルちゃんで通すの止めてくれ﹂
487
言われたとおり、ギルドでケルベロスの幼生の討伐依頼を受注し
た。先ほどからずっと、ベンは上の空だ。ローラが﹁大丈夫ですか
?﹂と尋ねると、少し驚いてから﹁う、うん﹂とぎこちなく頷く。
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは、ただ切ない表情で彼を見つめるしかできない。亜
人と言うものの脅威を、少年は恋焦がれる相手の次に知っている。
そのベルに関しては、彼女が山の入れているという事だけでも心底
感心するほどだ。亜人に対してPTSDを起こしていてもおかしく
はないというのに。
﹁じゃあ、皆行こっか。あと十数ポイントで次のエリアに入れる。
今日が正念場だね﹂
彼はあくまでケルベロス討伐について触れなかった。ファーガス
は、あのあどけない光首の獣を思い出す。
幼生というだけあって、可愛らしいと思わないでもなかった。つ
ぶらな瞳は、普通の子犬と変わらない。日本に行ったことのあるフ
ァーガスだから、それそのものに抵抗感はなかったのだ。しかし素
直に近づけなかったのは、理性によるブレーキなのだろう。
第三エリア。ここまで到達している第一学年は、ファーガスの知
る限りでまず自分たち、次にベルのパーティ、驚くことにハワード
も単独でここまでたどり着き、他にもクラス問わず数える程度だが
居ると聞いている。
その日の進む道は、蛇行していた。ベンが、先頭を務めたのであ
る。後方を守る二人は、それを心配しながら見つめていた。亜人を
488
数匹狩ったが、数匹逃がしたり今更木の根に躓いたりと不調気味だ。
ファーガスは、その内に何となく既視感を抱き始めた。木々の中
で、タブレットも見ていないのに、何処となく見覚えがある。
﹁⋮⋮ファーガス、ここ⋮⋮﹂
ローラの言葉で、はっきりと思い出した。あと少し歩くと、以前
ケルベロスが居た場所に着く。
その時、ベンがはっとして顔を上げた。﹁何か、聞こえない?﹂
と驚くほど静かな声で言う。ファーガスはそう言った彼の目を見て、
息の詰まるような思いをした。︱︱据わっている。だからこそ、少
しだけ気づくのに遅れた。
﹁この近くで、戦闘があるみたいですね⋮⋮﹂
ローラの声に、ファーガスは索敵を行った。ここから百メートル
もない場所で、七人の騎士候補生が一匹の亜人を包囲している。一
パーティの最高人数が五人だから、最低でも二パーティ居る計算だ。
複数のパーティ間の協力があると、報酬のポイントがガクッと下が
る。それでも、1万ポイントは魅力だったのだろう。
﹁⋮⋮行こう、みんな﹂
﹁あっ。待てよ、ベン!﹂
音もなく動き出した彼は、木々の多い森の中で少しずつ正体をな
くしていった。聖神法で加速を掛けたのに、結局見失ってしまう。
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﹁くそっ! ⋮⋮ローラ! ともかく、あっちの戦闘場所に向かお
う! 多分そこに居るはずだ﹂
﹁はい!﹂
二人はまっすぐに進み、針葉樹の森の中で剣戟を交わす人と獣た
ちを捉えた。ケルベロスの幼生は依然としてあどけなく、しかし懸
命に騎士候補生から逃げ回っている。
﹁おや、君たち⋮⋮﹂
上級生らしき人が、ファーガスたちを見つけて近寄ってきた。息
が切れていて、ちょっと休憩と言った具合だ。彼は、ファーガスた
ちの近くの木に寄り掛かりながら問うてくる。
﹁君たちも、ケルベロス討伐を?﹂
﹁あ⋮⋮、ええ。はい﹂
﹁そうか。うーん⋮⋮。まぁ、すでに二パーティだし大差ないか。
それに、二クラス混合ってことは特待生だろうし、戦力にならない
でもない。本当ならあまりアイルランドクラス以外の騎士候補生に
甘い顔をしたくないんだが、こういう非常時は別だ。早いところケ
ルベロスを追い立ててくれよ。下級生が傷つくのは避けたいから﹂
出来るだろう? と言われ、曖昧に頷いた。だが、必死に逃げ惑
うケルベロスを見て、討伐に混ざる気が失せてしまった。︱︱ケル
ベロスは、人間と同じように赤い血をしているらしい。ファーガス
は、足元の草に目を向けた。枯れて黄土色になった小さな花に、真
っ赤な血が付いている。
490
﹁どうした? 早く手伝ってくれよ﹂
不思議そうな顔をして、二人を見つめてくる。それが次第に疑う
ように目になって、﹁おい﹂と強硬な声がかかった。
同時に、﹁ぎゃっ﹂と短い声が上がった。
﹁何だ!?﹂
ケルベロスに今にも剣を突き立てようとしていた生徒が、首を強
く掻いて悶え始めた。彼はぶるぶると震えながら伸びあがり、一度
痙攣してぐったりと脱力する。一拍おいて、崩れ落ちた。枯葉の、
つぶれる音。
﹁何だ⋮⋮? ケルベロスの、能力なのか⋮⋮?﹂
ファーガスたちに話しかけた上級生がそのように推察するが、き
っとそれは外れていた。ファーガスは半ば確信していて、ローラに
ついても同様らしい。
﹁くそっ、早くケルベロスを殺︱︱ぐっ、⋮⋮ぁっ⋮⋮!﹂
一人ひとり、陰もない何者かに片づけられていく。しとしとと、
雨が降り始めた。少しずつ勢いを増していく。一人ずつ気絶させら
れていく。
﹁⋮⋮何、やってるんだよ。ベン⋮⋮!﹂
ファーガスは、震えていた。ベンの姿は、依然として見えない。
491
彼の心も同じだ。音もなく、形もなく、暴走し、亜人のために騎士
候補生に危害を加える。
ケルベロスに迫る一人の騎士候補生が、足を押さえて倒れこんだ。
そこから、血が出ている。ファーガスは、思わず大声を出していた。
﹁止めろッ、ベン! お前、自分が何をやっているのか分かってん
のかよ!﹂
少年の声に、全員が動きを止めた。例外は、ケルベロスだけだ。
幼き獣は、必死に枯草の上を走っていく。そうして、遠く木々に紛
れ、次第に見えなくなった。
﹁⋮⋮ベンって、何だ? もしかして、ベンジャミン・コネリー・
クラークのことを言ってるんじゃないだろうな﹂
イングランドクラスの同級生が、疑わしげな視線を向けてくる。
ファーガスは、自分の発言を思い出して頭が真っ白になった。
﹁何だ? どういう事だ? まさか僕たちは、仲間である騎士候補
生にここまでやられたっていうのか⋮⋮?﹂
上級生の言葉に、ファーガスは取り繕う言葉を見つけられなかっ
た。そして、肩に手を置かれる。ローラが何かうまい言い訳を考え
着いたのかと、思わず期待してしまった。
﹁⋮⋮ファーガス、もういいよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
492
それは、ベンだった。雨の中、彼は進み出る。
﹁すいませんでした。⋮⋮言い訳はしないし、できません。ただ、
⋮⋮﹂
ベンは、それ以上言わずに俯いていた。意識のある上級生が、ま
るで信じられないものを見る目でじろじろとベンを見定めた後、嫌
悪を滲ませた表情で言う。
﹁このことは、ギルドの方に報告させてもらう。覚悟しておけ。た
だの私闘で他の騎士候補生を気絶させたならともかく、⋮⋮お前は
亜人の手助けをしたんだ。そのことを忘れるなよ﹂
彼は、逃げて行ったケルベロスの後を追おうともしないで、まっ
すぐに下山していった。タブレットで救助を頼んでもいたのだろう。
鳥型の聖獣と思しき生物が、聖具を置いてここ一帯に結界を張る。
﹁⋮⋮ごめんね。二人には、迷惑かけた﹂
﹁ベン⋮⋮﹂
ファーガスも、ローラも、かける言葉を見つけられなかった。そ
の場は黙って帰途に着く。その時、ファーガスは頬に当たる雨の冷
たさに驚いてしまう。
空を仰ぐと、雨は雪に変わっていた。
﹁海外旅行に、よく言ったんだ﹂
493
消灯の直後、ベンはそのように語った。
﹁ジャパン、チャイナ、アメリカ、ロシアなんかも行ったかな。観
光地なんかじゃなくて、本物の﹃その国﹄を味わう旅。お父さんが
色んなところに友達がいてさ、そこにしばらく泊めさせてもらうん
だ﹂
﹁⋮⋮旅行か。楽しいよな﹂
﹁うん。それでさ、小さいころは気にならなかったのに、十歳辺り
から何故だろうって不思議に思うようになったんだ﹂
﹁亜人の事か?﹂
﹁そうだよ。そう、亜人の事⋮⋮﹂
しばし、ベンは黙っていた。ファーガスは、それ以上何も言わな
い。だが、言いたいことは理解できた。異文化に入り込むと、自分
の知る世界とは全く違う事に気付いて愕然とすることがある。
亜人。日本では、ただ国民そのものとして扱われていた。アメリ
カでは、一昔前の黒人や、良くてもワーキングプアのような存在。
そしてイギリスでは、知性も理性も有さぬ獣。
考えていると、再びベンが話し出す。
﹁ぼくさ、動物が好きなんだよ。特に、犬。すぐに懐いて来てくれ
て、可愛いんだ﹂
494
﹁⋮⋮そうだな。犬は、動物の中でも特に懐きやすい﹂
﹁実家には居ないけど、旅行先ではよく可愛がらせてもらったよ。
中には、亜人⋮⋮っていうか、そこでは魔獣とか何とかって呼ばれ
てたけど、そういうのがペットの家もあった﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁︱︱何で、なんだろうね。何でこの国だけは、亜人をそこまで毛
嫌いするんだろう﹂
﹁⋮⋮この国っていうか、この国の貴族は、だろ。普通の人は、亜
人の事なんて何にも思っちゃいないんだよ。だって、ほら、接触す
る機会すらないだろ?﹂
﹁そう⋮⋮だよね。貴族が、おかしいんだよ。うん、そうだ。⋮⋮
ありがとう、ファーガス。ちょっと自信ついてきた﹂
﹁ああ、頑張れ。先輩は脅しをかけるようなこと言ってたけど、停
学が関の山だ。何なら、スコットランドクラスの﹃ホーリー・ビー
スト﹄っていう聖神法で、仲間にしちまおうぜ﹂
﹁そんなこと出来るの?﹂
﹁ああ、出来るさ。そしたら1万ポイントが入るし頼もしい仲間も
増える。一石二鳥、濡れ手に粟って奴だ﹂
﹁いいね、それ。じゃあ、そうしよう﹂
﹁頑張ろうぜ﹂
495
﹁うん!﹂
寝る前の会話は、非常に盛り上がった。前途は、希望にあふれて
いると感じた。少しくらい苦難があったって、乗り越えていける。
深夜のテンションと言うものは恐ろしいもので、根拠もなしにそう
思えた。
幸せな時間だった。
翌朝、朝食を二人で取っていた。雑談で、﹁ちょっと何言われる
のか怖いなぁ﹂とベンがぼやいているのを聞いて、﹁気にすんなよ﹂
と笑い飛ばしてやる。
﹁そうかな﹂
﹁ああ、どうせ言っても停学どまりだ﹂
﹁ははは。昨日も言ってたね、それ。⋮⋮でも改めて考えると停学
も結構アレじゃない?﹂
﹁いや、そんだけのことはしたろ⋮⋮﹂
﹁あっ、はい。ごめんなさい﹂
妙な会話を交わしつつ、くつくつと互いに笑っていた。そこに、
声が現れた。
﹁おっと、手が滑った﹂
496
その男子生徒は、ベンの頭に向かって朝食をぶちまけた。﹁熱ッ
!?﹂とベンは悲鳴を上げて立ち上がる。そこに、別の男子生徒の
声がかかる。
﹁おっと、大丈夫かよ﹂
言いながら、その生徒がベンの足を引っかけた。頭から顔の右半
分がスクランブルエッグまみれのベンはほとんど盲目状態で、いい
ようにひっかけられ、スープに足を滑らせて受け身も取れずに転ん
でしまう。
﹁ちょっ、お前ら何してんだよ!﹂
﹁あ? グリンダーお前何言ってんだよ。不幸な事故だろうが﹂
﹁事故!? これが!? お前らあんまりふざけたこと言ってると﹂
﹁ふざけてんのはそこの﹃亜人庇い﹄じゃねぇかよ!﹂
怒声に、ファーガスはたじろいだ。我に返って周囲を見渡すと、
誰も彼もが自分たちに注目している。しかし、助け舟を出そうとい
う人間はいなさそうだった。ベルの姿も、まだ見えない。
﹁な、何、これ⋮⋮?﹂
﹁何、じゃないだろう。君の話をしているのだぞ﹂
上級生が、ベンに冷たく指摘する。いまだ視界が晴れない彼は、
その言葉にびくっ、肩を震わせた。
497
﹁おい、あんたそんな言いぐさ﹂
﹁グリンダー。⋮⋮周り見ろよ﹂
呆れた物言いに、ファーガスははらわたの煮えくり返るような思
いを抱いた。言われなくとも、分かっている。周囲の目が冷たいも
のであるという事など、とうに承知だ。だが、納得できるものでは
ない。
︱︱何だ、これは。確かに馬鹿な事をしたが、たかだか十二、三、
の少年の暴走に、上級生までもがこの対応なのは、あまりにも非情
だ。
﹁⋮⋮チッ。もういい。︱︱大丈夫か? ベン﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
構わず、頭にかかった食べ物を取っ払って立ち上がらせてやる。
そこに、罵倒だの野次だのが飛ぶが、ファーガスは無視した。
ただ、一つを除いて。
﹁何だ、グリンダー! お前は﹃亜人庇い﹄庇いをしようっていう
のかよ!﹂
﹁⋮⋮オーガも見たことのない奴が、何言ってやがる﹂
ファーガスは険しい目つきでその男子騎士候補生を睨み付けた。
奴は、少年に対して訳の分からないという顔をする。にわかもいい
ところだ。分かったようなつもりで居て、実際は何も分かっていな
い。
498
﹁⋮⋮おい、何だよその目つき。喧嘩を売ってるのか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いいぜ、やってやろうじゃんか。みんな! グリンダーとクラー
クをボコボコにしてろうぜ!﹂
わらわらと、第一騎士候補生が集まってくる。上級生はファーガ
スに反感と冷酷の視線を向けながらも、今は静観を決め込んでいた。
喧嘩。ここでやるからには、素手だろう。
ベンに頼る気はなかった。彼は、隠密だからこそのあの実力だろ
うとファーガスは見ている。正面突破なら、ファーガスの守りをか
いくぐれる奴なんかいない。自身で、そのように信じていた。
まず、にらみ合う。一対多において、前者から切り出すのは下策
だ。密集地帯に飛び込んで勝てる道理などない。孤立した一人一人
をつぶす。最初の内に徹底できれば、戦意も削げる。
一人が、来た。
ファーガスは、相手のパンチをわざと顔近くで受けとめ、ひっこ
める手を掴んで引き寄せた。ぐらつく敵に膝蹴りをお見舞いする。
上手く決まれば、それでしばらく立てなくなる。
追い打ちに出ようとした他の奴らは、その様を見て一気に戦意を
失ったようだった。ファーガスの餌食になった男子生徒は、床に倒
れて呻いている。キッツいんだよなぁ、と他人事のように見つめた。
顔を上げて、問う。
499
﹁次、誰だ﹂
強気の奴に強気で向かってくる輩は少ない。ただの無鉄砲か、非
常な肝っ玉の持ち主でない限り、どこか萎縮する。ぶつかり合った
らどちらも怪我をすることが分かっているからだ。
あくまで好戦的なファーガスの態度に、奴らは躊躇いを見せ、仲
間内で﹁お、お前行けよ﹂などと言いあっている。ちら、とバレな
いように上級生たちの様子をうかがう。強い反感を覚えているもの
が多い。引き際とわきまえ、ベンに手を差し伸べた。小声で言う。
﹁さっさと逃げよう﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁ああ、そうだな。朝飯、食い損ねちまった﹂
あえてベンの意図から外れた言葉を返した。そして、にかっ、と
笑う。ベンもやっと相好を崩した。少年の手を掴み、立ち上がろう
とする。
﹁何の騒ぎだ! これは!﹂
その時、食堂中にびりびりと響くダミ声が現れた。ファーガスは
驚き、ベンはすくみ上る。教官はまっすぐにこちらに歩み寄り、騒
ぎの渦中全員を睥睨する。
﹁⋮⋮何があった? 簡潔に述べろ﹂
500
﹁グリンダーが蹴って来たんです!﹂
﹁本当か?﹂
﹁はい。殴りかかられたので﹂
﹁⋮⋮﹂
教官は、周囲を見回した。関与していない生徒は我関せずを目一
杯に示すべく、朝食に没頭している。
﹁私闘が禁じられているのは知っているな、グリンダー﹂
﹁はい﹂
﹁お前もだ。本当に痛がっているわけじゃないだろう。立て﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁細かいことは聞かん。この年頃の私闘など、よくあることだ。故
に、諸君らには一週間の謹慎を申し付ける。今すぐ自室に戻って、
この意味をよく反省しなさい﹂
﹁はい﹂
﹁は、⋮⋮﹂
ファーガスは、その時違和感を覚えた。公平で、正しいことを言
っているように聞こえる教官の言葉。しかし、何かがおかしくはな
いか。
501
﹁⋮⋮どうした? グリンダー﹂
﹁あ、いえ⋮⋮。⋮⋮はい﹂
けれど、ファーガスは違和感の正体に気付けなかった。そのこと
を後悔するのは、謹慎が解ける一週間後になってからだ。
502
2話 幼き獣︵3︶
ベンに関して、あまり心配事はなかった。教官の態度、ファーガ
スの睨みの利かせ方。どちらもある程度うまくいったからだ。故に、
今のファーガスの問題はそれではない。
﹁狩りに行こうぜ行きたい行かせて下さい頼むからぁああ⋮⋮﹂
︱︱暇だった。死ぬほどを付けていいくらい、暇だった。
気の抜けた声で、ベッドに転がりながら鬱憤を吐き出す。こんな
時にアメリアがいれば問題はなかったに違いない。多分時を忘れる
ことができるだろう。
こっそり抜け出して、どこか動物がいないか探してみようかと画
策した。昔は好かれっぷりが制御できなかったため少々苦手な節が
あったが、今はそうでもない。犬でもネコでもラマでもなんでもご
ざれ。どんな動物でも懐かせて見せましょう。
﹁⋮⋮アーメーリーアー⋮⋮﹂
両親の粋な計らいによってつけられたキーホルダーの中のアメリ
アと見つめ合う。短毛種で優雅な長い尻尾を持った美人さんなのだ。
躾も楽で、幼い頃からみゃあみゃあとファーガスの後ろをついてま
わった。平たく言えば娘なのである。
写真をしばし見つめて、吐息を漏らした。不意に虚しさに襲われ
たのだ。脱力して、天井を見つめる。
503
﹁あーあ、ローラにも会えないベルともコンタクト取れないハワー
ドに会わない⋮⋮。あれ、意外にいいことあったな﹂
あと、ベン、ファーガスはぽつりと呟く。
﹁あいつ、大丈夫かな。教官も喧嘩両成敗スタンスだったし、そこ
までの事にはなってないんだろうけど⋮⋮﹂
ベンに手を出したら、ファーガスに絞められる。そのことは身を
持って示したつもりだった。一週間の謹慎とはいえ、一週間が明け
ればファーガスはまた戻ってくる。そんな状況下なら、地味な嫌が
らせはさておき、本当に酷い事にはならないと思った。
しかし、盲目にそのことを信じるつもりもない。帰ってきたベン
の様子を見て、判断しようと考えている。それに、改めて聞きたい
こともあるのだ。
﹁ケル、ねぇ﹂
アメリアを傷つけられれば、ファーガスは激怒するだろう。どん
な理由があれ、彼女が以前のケルベロスのように扱われたら、ファ
ーガスは一人くらい殺していたかもしれない。
これから、どうするべきか。ケルベロスは成長すればどんどんと
大きくなり、最後には人間一人を丸呑みできるほどになる。炎も吐
けば、ヘル・ハウンドの上位種だけあって、迂闊に触れると爆発す
る。そして被害は騎士側にしか出ないという寸法だ。強敵と簡単に
言ってしまうのも、妥当ではないだろう。
504
﹁⋮⋮ベン。お前は一体、これからどうするつもりなんだ?﹂
なあなあじゃあ、済まされない。昨日の話のように手際よく聖獣
にできれば、もう言う事はないだろう。しかし、出来る亜人と出来
ない亜人がいる。それは実力によるもので、ローラやファーガスで
は、きっと出来ないのだ。
夕食の時間帯になって、ドアがノックされた。男子所帯で礼儀正
しいベンも今更そんな事はしないから、﹁どなたですかー﹂と立ち
上がり、扉を開いて迎え入れる。
はたして、そこに立っていたのは見上げるほどの巨躯。教官だっ
た。
﹁⋮⋮教官? どうしたんですか﹂
﹁ああ、グリンダーに夕食を持ってきたのと、報告だ﹂
まず湯気を出す夕食の並べられたプレートを受け取り、それを足
元に置く。﹁それで、報告とは?﹂と尋ねると、平静な瞳で、﹁あ
あ﹂と彼は言った。
﹁グリンダー。貴様は今謹慎の身の上であるため、クラークと同室
のままで居させることは適当でないと判断した。貴様の喧嘩⋮⋮、
おっと、私闘の相手にも、同様の処置をしている﹂
﹁あ、⋮⋮そうですか﹂
厳しすぎはしないか。ファーガスは、改めて違和感を覚えた。﹁
そんなにいけない事をしましたか?﹂と尋ねると、教官の表情が憤
505
怒に染まる。ファーガスは、慌てて取り繕った。
﹁い、いえ! その、薄学な私にどうかその理由をご教授願いたい
なと! そのように思いまして⋮⋮﹂
上目づかいでへりくだるファーガスに、教官はとりあえず矛を収
めたようだった。厳しい目で、彼はこのように言う。
﹁ここは、騎士学園だ。対亜人の独立特務機関の一つであり、騎士
たる者の育成の場だ。文民統制などで手綱を握られた軍とは違い、
我々はあくまで、亜人と敵対している。そのことは分かるな?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
遠回しな説明をする輩は、ファーガスはあまり好みではない。
﹁そして、亜人は多岐を極める。数年に一度、ドラゴンがこの国を
襲うのは知っているだろう﹂
﹁あ、はい。よくニュースになる⋮⋮﹂
﹁そうだ。その時に何が重要になるのかと言えば、それは団結力な
のだ。まず騎士候補生の六年間で小規模の班︱︱パーティの親密な
友情を育み、騎士補佐の四年でさらなる規模の行動の何たるかを知
っていく。ドラゴン討伐は、避けて通れない我が国の課題の一つだ。
いずれは根源ごと断ち切らねばならないが、今はまず、奴らを退け
ることを考えねばならん。
グリンダー、貴様もいずれはドラゴンと戦う事になる。そのため
にも、仲間と争う事を戒めておかねばならないのだ﹂
506
﹁⋮⋮なるほど﹂
そこまで深い考えがあったのか、と渋い顔をしてしまう。それな
ら、仕方ない⋮⋮のかも、しれない。
確かに、一人っきりでこの部屋に謹慎と言うものは、キツいもの
がある。しかも一週間。発狂寸前までいけば、確かにファーガスも
仲間と喧嘩などしまい。
教官は、﹁では﹂と短く言って去って行った。ファーガスは見送
りつつも、ふと考えてしまう。ベンのやったことは、そういう意味
ではファーガスより格段上だ。謹慎二週間などと言い渡されている
かもしれない。
﹁⋮⋮南無。ベン﹂
しかし、謹慎ならば苛められることもないだろうとファーガスは
考えた。存外、気に病むことではなかったのかもしれない。
この一週間、どうしようかと、ファーガスはまずい食事に向かい
つつ考え始める。
一週間が明けた。タブレットが唯一の娯楽であったファーガスは、
ベランダに雪が降っただけでも大喜びしたのが昨日の事。今日の朝
なんかはあまりにハイで、ちょっと取り返しの付きそうにないこと
をしでかしかねなかったので、タブレットでローラに電話して﹁罵
倒してくれ﹂と頼んだ。﹁非常に気持ち悪いです﹂と言われて、頭
が冷えた。
507
それを差し引いても、久々の外の空気と言うものは心地が良かっ
た。五時。修練場で、まばらに人がいる時間帯だ。ローラはスコッ
トランドクラスで修練場に立ち入らないクラスのため、起こして悪
かったと反省してしまう。
ただ、電話越しに声がどうしても喜色ばんでしまったため、何の
返答もなく切られてしまったのがファーガスを普通のテンションに
戻した。
剣を振る。石柱に、聖神法をたたきこむ。筋トレはしていたが、
有酸素運動が足りていない。五個ほど石柱をぶっ壊したところで、
大分鬱憤が晴れた。
﹁少し、上の石柱を試してみるか﹂
パーティを組んでいると、働きがなくてもポイントは分割されて
得点される。済まないと思いつつも、自由に振らせてもらった。高
威力の一撃を引き出す、﹃マーク・チェック﹄と言うものだ。
それは敵に複雑な文様を入れ込んで、そこに何かしら聖神法をた
たきこむ大技である。非常に高度な物で、これを取らなくてもツリ
ーを進められるため、人気がない技でもあるらしい。
硬度が上から三番目の物をひっぱり出してきて、カリカリと文様
を描いていく。周囲の何も知らない上級生は、下級生の無謀な挑戦
に少しの嘲りを含んで見物していた。
それを今から覆すと考えると、ワクワクが止まらない。
文様を辛うじて削り込むように入れ、指定の所作を行う。そして、
508
それ以外で自分が取得している最も強い攻撃法を、その文様に放っ
た。
強い手応え。だが、石柱は割れていない。周囲から漏れ出る苦笑。
何だか悔しく思っていると、文様が少しずつ光り出した。
﹁お、おお?﹂
文様の線が、全体へ少しずつヒビとして延長されていく。割れ目
は段々と空気が通るほど大きなものへ変わり、音が聞こえるまでに
なっていく。
そしてヒビが石柱全体を包み、音質が変わった。
瓦解。あまりにもゆっくりだったが、ファーガスは感動してしま
った。周囲からも歓声が上がる。どんなもんだい、と言う気分にな
る。
気づけばいい時間だったので、次の硬度の石柱に挑むのは止めて
おいた。一旦部屋に戻り、シャワーを浴びて、朝食へ向かう。
ベンの姿は、見かけなかった。
﹁こりゃ、本当に謹慎くらったか﹂
それはそれで致し方なし、と言う気分だった。仕方がないので一
人で食べる。と思っていたのが、横に、乱暴に椅子に座るものがい
た。何だ、と思いそいつに目をやる。
﹁何でお前ここに居るんだよ、ハワード!?﹂
509
﹁あーあー、五月蝿ぇ奴だなてめぇはよ。ったく、朝からよくもそ
んな元気で居られるもんだぜ﹂
五月蝿そうにして、ハワードは耳をふさぐ。そんな奴に、ファー
ガスはジト目で文句を言った。
﹁お前俺より早朝に起きて鍛錬してんだろうが﹂
﹁あれは朝じゃない。早朝なんだよ。あの後部屋でもう一回寝るま
でがルーチンワークだ﹂
﹁何かしょぼいな⋮⋮﹂
﹁うるせぇ﹂
言いながら、早速奴はウィンナーをフォークでかじり出す。食い
方には意図して礼節を取り除いたような粗野さがあり、ファーガス
は何だか呆れてしまう。
﹁それで? 結局何のためにこっちに来たんだよ。まさか自発的に
こっちに来たわけじゃないだろ?﹂
尋ねると、奴は音を出してウィンナーを咀嚼しながら﹁あのゲイ
野郎に連れてこられたんだ﹂親指で背後を指さす。そこに居たのは、
いつか見たカーシー先輩だ。ハワードの兄貴分みたいな御人である。
そしてよく見れば、相席しているのはイングランドクラス寮長に続
く他のクラスの特待生たちだった。
ちなみに、ゲイ野郎と言った瞬間にカーシー先輩はハワードに向
510
って何かを投げた。見事命中し、馬鹿は数秒ほど頭を押さえて突っ
伏す。とはいえ回復も早く、何事無かったかのように話し出した。
馬鹿だから丈夫なのだろう。
﹁何でも、特待生は他のクラスに訪ねてもいいらしいぜ。つっても
ほかの生徒が禁じられている訳じゃねぇんだがよ。アレだ、アレ。
不文律って奴だ。この国の憲法みたく﹂
﹁さらっと憲法持ってくる辺り、やっぱりお前って頭いいのな。行
動自体はクソが付くほど馬鹿なのにさぁ。何か自信なくすわ⋮⋮﹂
﹁ハン、他人と自分を比べてる時点でお察しなんだよ。で、結局シ
ルヴェスターから聞けたか?﹂
﹁⋮⋮何をだ?﹂
﹁は? 聞いてねぇの? クソだなお前﹂
﹁仕方ないだろ。停学食らってたんだから﹂
﹁⋮⋮何で﹂
﹁喧嘩。友達が苛められたからその相手に膝蹴りくらわせて悶絶さ
せてやった﹂
﹁⋮⋮そう、か。ちょっと引っかかるが。まぁいい﹂
﹁そうだよ。そんでお前、結局あの﹃噂﹄って何なんだよ﹂
﹁ん? ああ、もうすでに噂じゃないがな。確固たる事実だ。むし
511
ろ、この学園では知らない奴の方が少ない。⋮⋮情弱のお前は知ら
ないだろうけどな﹂
﹁うるせぇ馬鹿野郎! 教えんならさっさと教えろ!﹂
﹁へいへい、分かってるよ﹂
五月蝿そうにハエを追い払う所作をしつつ、ハワードは食べ物を
飲み込んで、この様に切り出した。
﹁ブレナン先生って知ってるよな? アイルランドクラスの教官な
のに、他のクラスでもきちんとしてるって評判の﹂
﹁ああ﹂
﹁︱︱あの先生な、スコットランドのとある騎士候補生にぶっ殺さ
れたらしいんだわ﹂
無表情で、フォークを虚空に差し向けながらハワードは言った。
ファーガスはあまりの現実味のなさと、しかし不可解にも感じてし
まった怖気に思わず舌打ちをしてしまう。
﹁⋮⋮お前、その冗談はマジでつまらないぞ。今までは苛っとしつ
つも内心笑えたのに﹂
﹁いやいや、マジマジ。冗談じゃねぇからこんなセンスのねぇこと
言ってんだよ。最近姿見ないっていうのは聞いたことなかったか?﹂
﹁聞いたっていうか、知ってはいたけど。それでも殺されたっての
は⋮⋮﹂
512
﹁ま、オレたち特待生なら、後々声もかかるだろ﹂
﹁声って﹂
﹁討伐だよ。決まってんだろ﹂
ファーガスは、その言葉を聞いて硬直した。すると奴はいつの間
にか食い終わっていて、﹁じゃ、また。機会があったらな﹂と消え
て行った。
ベンは、案の定謹慎になっているようだった。始業のベルが鳴る
数分前。一向に現れない彼を思うと、自然にそんな風に推察できた。
しかし、妙ではある。先週ファーガスに突っかかってきた少年た
ちは、教室の前の方を陣取ってぺちゃくちゃと歓談に興じている。
ファーガスに気付いた風もない。普通なら、停学明けで目立つ宿命
であったファーガスに、誰かしら突っかかってきてもおかしくない
と言うのに。
違和感。ちぐはぐな感触。ファーガスは、気持ち悪さに顔をゆが
める。何かがおかしい。しかし、異常性が見当たらない。
ファーガスは後ろから二番目の列の席の、廊下側でない窓際で一
人むっつりと黙り込んでいた。しかし、途中で視線を感じて、やは
り奴らの内の一人がこちらを見ているのかと思い込み、その方向に
睨み付ける。
513
そこに居たのは、ベルだった。彼女はファーガスの視線に驚いた
ように表情をこわばらせる。ファーガスは喧騒で目立たないだろう
のに、思わず言葉無しのジェスチャーで﹃違う﹄と示した。
だが、その先に進まない。ベルはしばらく申し訳なさそうにファ
ーガスを見つめて、少しして泣きそうな顔で俯いてしまった。それ
を、かつてベルの隣にいた女生徒が元気づける。
﹁⋮⋮何だ?﹂
首をひねる。何事かを聞きに行きたかったが、そこまで親しく付
き合っているわけではない。結局、再び頬杖をついて始業を待って
いた。あと、二分。その時に彼は来た。
ぼさぼさの髪。穏やかそうだった顔は、焦燥と倦怠にやつれてい
る。手にした教科書は、ことごとく落書き塗れだった。ファーガス
は、冷水をぶっかけられたような気分になった。声を掛けようとし
たが、彼は机から何かを抜き取ったらすぐに教室から出て行ってし
まう。
﹁⋮⋮お前、謹慎食らってたんじゃなかったのかよ⋮⋮﹂
十秒、呆然とした。五秒で、怒りがふつふつと煮立ち始めた。三
秒で、爆発した。そして一秒もかけず、ファーガスは走り出す。
教室の外に出た。索敵で彼を探す。だが、人が多すぎてわからな
い。仕方なく聴覚強化の聖神法に切り替えた。ごちゃごちゃと周囲
の話し声が聞こえるが、一つ一つ別に聞けるので問題はない。何か
独り言でいいから話してくれ、と願った時こんな会話が飛び込んだ。
514
﹃そういえば、さっき入ってきたみすぼらしい生徒、クラーク君だ
ったよね﹄
﹃うん。しかも荷物まとめて出てったってことは⋮⋮。やっぱり、
退学のうわさ本当だったのかなぁ?﹄
﹃まぁ、そうなんじゃない? クラーク君が庇ったせいで、ケルベ
ロスの幼生もまだ討伐出来てないし⋮⋮。やだよねぇ。その上、あ
いつも山に居るんでしょ?﹄
﹃ケルベロスは見つけたら逃げていくけど、あいつは襲いかかって
くるしね。で、タブレットも壊される。何でなの?﹄
﹃分かんないよ、そんなの﹄
﹁⋮⋮退学って言ったか? ⋮⋮校門﹂
審議を判断する余裕は、ファーガスになかった。再び索敵したと
ころ、校舎から出て校門へ向かう影が、確かに一つある。それも男
だ。体格も、おそらく彼と一致している。
走った。聖神法で身軽になって、窓から校舎を飛び出した。歩い
ていた人物は、ファーガスに気付いて振り返る。そして、﹁ああ﹂
と泣き出した。
﹁久しぶり、ファーガス。一週間ぶりだね。⋮⋮そうか、一週間っ
て、こんなにも長かったんだ﹂
﹁ベン⋮⋮﹂
515
彼は瞳から雫をこぼしながら、あまりに嬉しそうに話す。ファー
ガスは、それに何も言う事が出来なかった。
﹁⋮⋮なぁ、ベン。何があったんだ? 何で、こんな⋮⋮﹂
ファーガスは、震える声をどうにか抑えつつ、ある意味では縋る
ようにベンに問いかけた。彼は﹁ああ﹂と思い出したように自分の
姿を見る。ところどころ破けた制服。健全でないのが一目で分かる
顔色。取り繕うように浮かべる笑顔は、あまりに弱弱しい。
﹁自主退学、することになったんだ。もう、ここには居られないか
ら﹂
﹁居られないって、そんな、何で!﹂
﹁第一に、名誉を守るため。放校処分じゃ、親の顔にまで泥が付い
ちゃうから。第二に、ぼく自身がここにはもう居られないって思っ
たから﹂
﹁⋮⋮苛め、られたのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは、その時のベンの顔をきっと一生忘れられないに違
いない。嗚咽と歪んだ笑顔。具体的な内容を話させることがどんな
に残酷な事なのかを、一瞬で少年は理解した。次いで、カッと燃え
上るような怒りを覚える。
﹁あいつら、殺してやる!﹂
516
﹁待って! 違うんだ! ぼくが亜人をかばったのがいけなかった
んだ!﹂
﹁そんな訳ねぇだろ! お前自身が言ってただろ!? 亜人が市民
権を得ている国もある! 俺はな! 友達に亜人とのハーフがいる
くらいなんだぞ! それが﹂
﹁前例があるんだよ! 二ケタに上るほどの! 全員ぼくみたいに
亜人をかばって弾圧された挙句退学したり放校されたりしてた! ぼくだけじゃないんだよ! ぼくの苛めの筆頭ですら、亜人を庇え
ばこうなるって言ってた! 実際、五年前人気者が亜人を庇ってみ
んなから苛められて退学していったって⋮⋮﹂
ファーガスはベンの必死さに押し黙ってしまう。そして、それほ
どまでに根の深い亜人差別を感じて、恐ろしくなった。
︱︱思い返せば、ベンは事件の前に嫌われていた訳でも軽んじら
れていた訳でもなかったのだ。むしろポイントがずば抜けていたか
ら、少し憧憬の視線を受けていた節だってあったはず。ファーガス
は喧嘩っ早い性分で、それを実感できていなかったが。
﹁だから、ごめん。何にも言わないで、こんなことになって。でも、
少しだけいいことがあったんだよ。ほら﹂
呆然とベンを見つめるファーガスに、彼は一度涙をぬぐってから
タブレットを差し出した。見れば、そこには0ポイントと表示され
ている。
﹁⋮⋮これは、どういう⋮⋮﹂
﹁ぼくが退学していくから、その分のポイントはパーティに還元さ
517
れることになったんだ。さっき手続きを終えたから、タブレットを
見ておいて。⋮⋮総合ポイントには加算されないからエリア解放は
出来ないんだけど、それでも聖神法とか武器に変えることはできる﹂
﹁そんな、これで納得できるわけないだろ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮ファーガスは、真っ直ぐだね。羨ましいよ。もしもファーガ
スが付いててくれれば、ぼくは⋮⋮。ごめん、恨み言みたいになっ
た﹂
初めて、そこでベンは笑った。微かではあったが、本物の笑顔だ
った。再度彼は涙をぬぐって、﹁一つ、頼みがあるんだ﹂と言う。
﹁ファーガスはさ、前から思ってたんだけど、亜人を殺す時済まな
そうにするよね。まるで、本物の人をやむを得ない事情があって手
にかけるみたいだって、そんな風に思ってたんだ﹂
﹁そんな、⋮⋮俺たちの都合で勝手に命を奪うんだ。謝って済む問
題でもないけど︱︱覚悟をもってやるべきだと、思ってる。偽善染
みてるけどな﹂
﹁⋮⋮うん。やっぱり、君しかいない。︱︱ファーガス﹂
ベンは表情を引き締めた。そして、酷く残酷なことを言った。
﹁君が、ケルベロスを殺してほしい。いずれは誰かに殺されるんだ。
ケルベロスが死んでしまうのなら、君の手がいい﹂
﹁⋮⋮何だよ、それ。そんなの、お前が決めていいことじゃないだ
ろ﹂
518
﹁そうだね。ぼくは今、あまりにも驕ったことを言ってる。自覚は
あるんだ。傲慢極まりないって。⋮⋮でも、それでも君の手がいい。
ケルはぼくの四人の親友の内の一人で、多分、彼もそう思っててく
れたと思う。親友が親友に殺されるなら、納得がいくんだよ。⋮⋮
それでも、君は嫌かな﹂
ファーガスはベンの顔色がこれ以上悲愴に染まるのが見たくなく
て、踵を返して﹁分かったよ!﹂と怒鳴りつける。背後から聞こえ
てきた﹁ありがとう﹂は、淡くも色濃い水色だ。
やるせない気持ちで教室に戻ってみると、授業はすでに始まって
いた。先生の説教が飛んでくるが、淡白で、聞き流すとそれ以上は
されなかった。ちらちらとこちらをうかがう視線は、少ない。ベル
が心配そうにしているくらいだ。あの様子なら、少しくらいはベン
の力になってくれたのかもしれない。だが、力が及ばなかったのだ
ろう。致し方ない事だ。
他には、探ったが、感じられなかった。興味がない、という事な
のか。
自分がいじめた相手が、一週間で退学していく。それに何にも感
じ入ることがないとすれば、もはやそれは苛めですらないのだろう。
ファーガスの見通しが甘かったという事なのか。義務感で動いてい
たら、確かに自分如きの脅しなど利くはずもない。
授業などそっちのけで、ファーガスはタブレットをいじっていた。
ポイント。欲しい武器などはなかった。高価な物よりも、最低限の
性能を保った消耗品として多少確保しておきたいくらいだ。そうい
う意味では、足りている。すると、とスキルツリーを開く。
519
﹃ハイド﹄それに連なる、隠密系の聖神法。ファーガスは、ノー
トに計算し始めた。そして与えられたポイントが、ちょうどベンの
とった﹃ハイド・シャドウ﹄に届くと知る。
迷いは、無かった。
520
2話 幼き獣︵4︶
ローラが躊躇いがちに話しかけてきたのは、いつものように放課
後の事だった。今日から、パーティは二人になる。そのことを、彼
女もまた、独自の情報網で知ったのだろう。
﹁⋮⋮寂しくなりますね﹂
﹁ああ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい、ファーガス。何も気づかず、一人で山でポイ
ント稼いで﹃二人も喜んでくれる﹄なんて。⋮⋮私は、馬鹿です⋮
⋮!﹂
ローラは下唇を噛んで、心底悔しそうに表情をゆがめる。それを
見て、ファーガスは安心した。今朝のいつも通りの態度は、何も知
らなかったからなのだと。
﹁⋮⋮ベン、なんて言って狩りに出なかったんだ?﹂
﹁風邪をひいて、こじらせてしまったと言っていました。タブレッ
トで、メールで。⋮⋮私が気付いていれば﹂
﹁もういいよ、ローラ。お前のせいじゃない﹂
﹁でも!﹂
﹁⋮⋮でも、何だよ﹂
521
ファーガスは、ひょっとすればローラを怒鳴りつけてしまいかね
なかった。極力感情を抑えた結果が、これだ。酷く冷たく、素気な
く、しかしローラは、そんなファーガスを見てハッとした。
﹁⋮⋮すいません。熱くなりすぎました﹂
﹁いいよ。そんな事より、話したいことがある﹂
ベンの願い。そのことを伝えると、ローラはしばらく黙った後、
ただ﹁はい﹂と無機質な声で言った。ファーガスは棘のあるひたむ
きさから、無言で首肯して歩き出す。
ギルドに入って、すぐに転送陣に向かった。
久しぶりの山は、雪で覆われている以外、何も変わっていなかっ
た。ただ、悠然とそこにある。雪の下に確かに存在する力強き命た
ち、そして闇の紛れた何者かの敵意。
ケルベロスは、第三エリアに居る。そこを隈なく探せば、見つか
るはずだった。
﹁⋮⋮以前は、ここに居たんですよね﹂
﹁もしかしたら、ベンを待ってここから離れてないかもしれない。
ここを中心に探そう﹂
それぞれ索敵を使って、危険を回避しながら進むよう作戦を立て
た。見つかったら、タブレットで知らせてからケルベロスを監視。
今まで討伐されていないことを考慮すると更に何かしら手を打った
522
方がよいだろうが、全く発見されていない訳ではないらしいので、
ひとまずはこれで行こうと互いに決めた。
一人、﹃サーチ﹄と﹃ハイド﹄を併用して使いながら進んだ。ど
ちらも初期のものだから、聖気を食わず使いやすい。その代り効果
が限定的だが、危険を避けるだけならば十分だった。
処女雪に足跡を残しながら、淡々と進む。作業に没頭していなけ
れば、自責の念に押しつぶされそうになる。
そんな時、いやに明るい声が聞こえた。ファーガスは、その声に
聞き覚えがあって、思わず立ち止まってしまった。
それは、日本語だった。
﹃ははは。そっちも相変わらずだね。うん、はい。じゃあまた、こ
っちからかけるから﹄
タブレットで、電話していたのだと思った。ファーガスは衝撃に、
しばらく動けないでいた。破壊音。ハッとして、そちらへ向かう。
﹁ソウイチロウ!?﹂
名を呼びながら、声のあった場所に飛び込んだ。しかし、そこに
居たのはソウイチロウでなく、五人の倒れ伏した騎士候補生たちだ。
怪我を負っているものは少ない。かといって眠っているかと言えば
そうでなく、誰もが気絶していた。
﹁⋮⋮何だ、これ⋮⋮﹂
523
ファーガスは戦慄する。ある意味では、全員殺されているという
のよりも恐ろしかった。敵を無傷で制圧することは難しい。文字通
りの無傷など、そうとうな実力差がない限り有り得ない。
戦々恐々と周囲を見回していると、転がる生徒たちの間に壊れた
タブレットがあることに気付いた。真っ二つに、割れている。
そういえば、今朝ベンを探しているときに誰かがそんな話をして
いるのを聞いた覚えがあった。騎士候補生に襲いかかり、タブレッ
トを破壊する何者か。
近くにいる。ファーガスはもっと綿密な索敵を行い、この場から
離れようとする人物を見つけた。木を、飛び移って移動しているら
しい。ファーガスも﹃ジャンプ﹄を使用すれば出来なくはないが、
それにしても速い。
必死に追いかけた。不思議と、見失う事はなかった。だが、突如
として消えてしまう。ファーガスはそのまま直進しかけたが、危う
くとどまった。
その先は、崖だった。
﹁危なっ⋮⋮﹂
下を見つめ、仰け反る。自分が落ちたらと考えると、ぞっとした。
とはいえ、ソウイチロウらしき人物はその先に消えてしまっている。
腹ばいになって安全を確保しつつ崖下をうかがってみると、その先
に奇妙なものがあった。
ファーガスは、迂回して崖の麓に下りて行った。そこには、亜人
524
の死体がいくつか散乱している。崖から、勢い余って落ちてしまっ
たのだろう。
その中に、ケルベロスの幼生がいた。三つ首の一つを失い、尖っ
た岩が獣の腹部を貫いている。
﹁⋮⋮﹂
タブレットで、ローラに電話を掛ける。数コールもしないうちに、
繋がった。
﹃ファーガス、見つかりましたか?﹄
﹁⋮⋮何かさ、今日は俺、厄日みたいだな﹂
﹃え?﹄
﹁いや⋮⋮、友達が退学して、その頼みだって、果たせなくて。俺
の手で殺したいなんて思ってなかったけど、これじゃあ、あんまり
にも虚しい﹂
﹃何を、言っているのですか?﹄
﹁ローラ、そのままギルドの方に行っててくれ。俺は、⋮⋮少しし
たら行く﹂
﹃⋮⋮分かりました﹄
ローラの察しの良さに感謝しつつ、通話を切った。そして、ケル
ベロスの死骸の近くに座り込む。
525
﹁⋮⋮お前も、災難だったな。最後くらい、看取ってやるよ﹂
ファーガスはケルベロス討伐の証も取らず、﹃ファイア・ソード﹄
で軽く切り込みを入れた。本人の抵抗があればすぐに消えてしまう
ような炎が、少しずつ大きくなっていく。ここは岩場で、山火事に
なるという事もなかった。死体を炙る嫌なにおいが、周囲に充満す
る。
煙が上がり始めた。ゆらゆらと、昇っていく。ファーガスはその
一番上を見続けようとして、最後にはひっくり返った。
仰向けで、煙を見つめる。
﹁無力だなぁ、俺﹂
そこに込められる万感を知るものは、もはやこの世に一人もいな
い。それが嬉しくもあり、不満でもある。
煙が染みた涙をぬぐって、ファーガスは立ち上がった。こんな事
は、しかし、人生においてざらにあるのだろう。無理が通れば道理
が引っ込む。ファーガスは、決心した。この世の理不尽を許さない
だけの、正当な力を得ようと。
︱︱そしてその決心は、すぐにでも試されることになる。ベンよ
りも理不尽な目に遭い、それでも孤独に抗い続ける、一人の少年と
の再会によって。
526
数日後の夜。ファーガスは暫定的に一人部屋のままの自室で、一
週間の内に溜まっていた宿題をへばりつつも消化していた。
インドア趣味がゲームくらいしか無い物だから、それさえ熱狂的
でないファーガスは基本的に暇だ。することもなく、したくもない
宿題をやらされる羽目になる。憂鬱なのは、終わった後どうしよう
かという事だ。せめてアメリアがここに居ればいいのに。
ベンとは連絡先を交換していて、暇な時ちょくちょくメールを送
った。先ほど送ったばかりで反応がないため、今は時間を持て余し
ているという訳だ。
そんな時、扉がノックされた。ファーガスは孤独を打ち払う存在
の登場に喜びを隠しきれず、﹁はい、どうぞ!﹂と裏返り気味の声
を出す。
﹁う、うん⋮⋮。一体君はどうしたんだ、そんな声を出して⋮⋮﹂
﹁やんごとなき事情と言うやつです。⋮⋮っと、寮長ですか。また
集会で?﹂
﹁ああ。付いて来てくれ﹂
﹁あいあいさー﹂
手早く着替えて、再びあの地下室までの道を辿った。二度目。も
はや、特に感慨も抱かない。
部屋に着くと、すでに全員そろっていた。ローラは小さくこちら
に手を振り、ハワードは一瞥してから興味なさげに欠伸する。ベル
527
は、相変わらずだ。仏頂面で、沈鬱としている。
﹁揃いましたね。どうですか? 少しは打ちとけましたか﹂
﹁学園長先生、お言葉ですがアンタ頭大丈夫ですか?﹂
﹁ネル! 疑うべきはお前の頭だ!﹂
ハワードは畏れ多くも学園長に舐めた口を聞き、背後からカーシ
ー先輩がこぶしを振り下ろす。﹁あぐっ﹂と鈍い悲鳴を上げて、ハ
ワードは患部を抑えて静かになった。
﹁ふふふ、まぁ知っていましたけれどね。とりあえずアイルランド
クラスの二人の仲がいいことは把握したわ﹂
穏やかに笑って、﹁では﹂と学園長は切り出した。表情も、穏や
かなまま引き締まる。
﹁今回は、貴方たちにもとある問題の解決に赴いてほしいの。報酬
は、あなたたちの活躍にかかわらず五百ポイント。その分は先払い
されるわ。さらに、もちろん活躍に応じて追加のポイントを与えま
す﹂
﹁⋮⋮彼の件でしょうか﹂
﹁ええ、ミス・シルヴェスター。スコットランドクラスの貴女は、
多分この中で一番か二番目にこの事をよく知っているでしょう﹂
何だ? とファーガスは思う。﹃彼﹄とは、と考えて、ハワード
に教えてもらった噂のことを思い出した。アイルランドクラスのブ
528
レナン先生を殺し、逃亡したらしい騎士候補生。
後ろに控えていたMr.ヒースが、﹁では、僭越ながらここから
は私が説明しよう﹂はっきりとした口調で話しだした。
﹁諸君らには、アイルランドクラス寮長、カーシー・エァルドレッ
ドの指揮に従い、アイルランドクラス所属のエイブラハム・ブレナ
ン教官を殺害した騎士候補生、ソウイチロウ・ブシガイトの無力化
の依頼を受注してもらう。この依頼は第五、六騎士候補生および騎
士補佐に発注された物だが、危険性が薄いという事で学年問わず特
待生パーティにも依頼している。今回のも、その一環だ﹂
﹁⋮⋮ソウ、イチロウ?﹂
ファーガスは、まるでありえないことが起こったかのような気持
ちで彼の言葉を反芻した。日本人でも、少ない名前。それがイギリ
スともなれば、もはや疑う余地など。
しかし、ソウイチロウはアメリカに行ったはずではなかったのか。
彼は亜人とのハーフで、それ以外に手立てはないはずだった。ファ
ーガスは考える。だが、衝撃が強すぎてまとまらない。
﹁⋮⋮危険性が薄いとは、一体?﹂
ファーガスの葛藤を他所に、ベルの疑わしげな言葉が紡がれる。
Mr.ヒースは、またも明快に答えた。
﹁それは、ソウイチロウ・ブシガイトが騎士候補生を殺さないから
だ。怪我をさせる、と言うのも、最近は少ない﹂
529
﹁だけどそれ、ひっくり返せばどんどん強くなってるってことじゃ
ねぇの?﹂
﹁察しがいいな、ハワード君。流石神童と言われるだけある。︱︱
その通り。今のブシガイトは、大学からわざわざ赴いた騎士補佐で
も無力化できないほどの実力を持っている。騎士候補生で、正面か
ら張り合えるのは各クラスの寮長くらいだろう。確かその調査の依
頼を出していたはずだな?﹂
視線がイングランドクラスの寮長に向けられ、ファーガスをここ
に連れて来た彼は﹁はい﹂と毅然として答える。
﹁最近第六エリアで問題になってきたヘル・ハウンドの大組織化に
ついてですが、十数匹のヘル・ハウンドと交戦中のブシガイトを目
撃、後に観察しました﹂
﹁ヘル・ハウンドって聖神法なしに攻撃すると爆発する奴っすよね。
あの息が硫黄臭い狼﹂
﹁ああ。︱︱戦闘終了後のブシガイトの疲弊を見越した奇襲作戦を
打ち立て、知り合いの中でもトップに上る数人の精鋭を募りました
が、結果から言えばそちらは失敗に終わりました。ヘル・ハウンド
は逃亡した一匹を除き全滅。対するブシガイトは無傷だったため、
こちらの士気の問題もあり、撤退の指示を下さざるを得なかったた
めです﹂
﹁結構です。と、この様に非常に強いため、少しでも戦力を確保し
たかったのですよ。倒せ、などとは言いません。傷の一つでもつけ
られたら大金星です。それに相応のポイントを与えますよ﹂
530
学園長の締めに、ローラ、ハワード、ベルの三人はそれぞれモチ
ベーションに差がありながらも了承した。ファーガスも、その場で
はとりあえず了承を示しておく。その場は解散となり、それぞれ帰
っていく面々。その中で、ファーガスだけはそこに残った。
﹁⋮⋮どうかしましたか? グリンダー君﹂
﹁︱︱あの、ソウイチロウ・ブシガイトって言いましたよね? そ
いつは、目が青い日本人ですか﹂
﹁えぇと⋮⋮、そうでしたっけ? ヒース先生﹂
﹁ええそうですとも学園長﹂
その時点で、ファーガスは疑うのをやめた。次に、こう尋ねる。
﹁じゃあ⋮⋮何でそんなことになったのかを、教えてもらえますか﹂
﹁さぁ、それは私からは何とも言えないですね。何せ聞かされてい
ないものだから﹂
﹁そうですな。︱︱しかし、そこまで気にするのはどういう事なの
かね。まさか、面識があるのか﹂
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは、意図してその問いを無視した。学園長に、尋ねる。
﹁さっき、その、﹃ブシガイト﹄を無力化って言いましたよね。⋮
⋮討伐、ではないんですか?﹂
531
﹁ええ。どんな形であれ、無力化してくだされば私たちは構わない
わ﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
学園長以外の人間の怪訝な顔を横目に、ファーガスは悶々と考え
ていた。殺人。あの、ソウイチロウがそんな事をするのか。何が彼
をそんな風に変えたのか、ファーガスには分からない。
合計で十数日。ソウイチロウと直接会って過ごした日々の総合だ。
それだけだったが、十分だったとファーガスは思っている。
﹁では、自分も失礼します﹂
﹁ええ、お休みなさい﹂
学園長に礼をして、ファーガスは自室に戻っていった。ベッドに
潜ってしばらくの間は、寝付くことが出来なかった。
その翌々日、カーシー先輩から招集がかかった。﹃ブシガイトを
昨日追いつめた。今なら弱っているから、ここで総攻撃をかけて畳
み込みたい﹄のだという。
ファーガスは感情をこらえて、﹁はい﹂と従う意を示すしかなか
った。
擬似的なパーティを組み、カーシー先輩主導の元、転送陣で直接
第六エリアにまで飛んだ。ファーガスは陣から一歩出た時に、今ま
でのエリアとは全く違った雰囲気を感じ取った。連想するのは、活
532
火山の火口近くだ。硫黄臭く、それでいて非常な緊張感がある。
﹁うわっ、噂には聞いてましたがマジでくっせぇ! どうにかなら
ないもんですかね﹂
﹁ならない。慣れろ。硫黄臭いといっても、とりあえず毒性はない
と判明してる﹂
﹁毒なんざどうでもいいんですよ。まずこの不快感をどうにか⋮⋮﹂
﹁じゃあ、ヘル・ハウンドでも全滅させるか? そうすれば臭くな
くなる﹂
﹁分かりました、今年の目標にしますわ﹂
﹁⋮⋮何お前、一人でやるつもりなのかよ﹂
ファーガスの呆れた声に、戦闘を二人で歩いていたハワードが振
り返って﹁当たり前だ。誰が他人の手を借りるかってんだ﹂と不敵
に笑んだ。言い返す気も湧かず、﹁そうかよ﹂と吐き捨てそっぽを
向く。
﹁みんな、そろそろヘル・ハウンド巡回区域に入る。このエリアで
最も警戒すべきはヘル・ハウンドだ。他の亜人は夜行性だから、今
は寝ているため気にしなくていい。ただ、ごくごくたまにオーガが
出現する事も知られている。ヘル・ハウンドは五匹以下なら討伐し、
それ以上なら逃げる。オーガは⋮⋮、まぁ、万一にも出ないだろう
が、もし出たら逃げよう。下手をするとヘル・ハウンドの大群以上
に危険だ﹂
533
﹁オーガ⋮⋮﹂
ファーガスは小さくつぶやいて、こっそりとベルを覗き見た。そ
の言葉だけで、彼女は顔色を真っ青に変えていた。細かく震える彼
女を見て、少し歩調を落とし横に並ぶ。
﹁何だか戦ったことあるみたいな言い方っすね﹂
﹁ああ。おれのパーティは全員やりあったことがあるぞ。初めは無
謀にも討伐してやるって向かっていったものだったが、一撃で五十
ポイントする剣を折られて気が変わったな。ひたすら逃げて、知り
合いの騎士補佐を呼んで、増援と共に戦ってやっと勝利した。攻撃
力もだが、防御がずば抜けているんだな。筋肉が、剣を通さないん
だ﹂
﹁はぁん⋮⋮。いつの話で﹂
﹁去年だ﹂
﹁めっちゃ最近じゃないっすか﹂
嫌そうな声を出すハワード。確かに、第五学年騎士候補生のトッ
プに君臨するパーティを逃げの一手に追いやる存在のことなど、考
えたくはない。︱︱それに、ファーガス自身の記憶にも、深く刻み
込まれている。
﹁ああ、それと、出来れば常に耳を澄ませておいてくれ。索敵でも
いいが、聖気が心配ならしなくていい。交戦中のような音が聞こえ
たら、すぐにでも知らせてほしいんだ﹂
534
﹁ここ一帯が今、対ブシガイト状態になっているのでしょうか?﹂
﹁違ってはいないんだけれどね、シルヴェスターさん。どちらかと
言うと、奴が常に戦っていると考えた方がいい﹂
﹁⋮⋮そうなのですか?﹂
﹁奴にとってみれば、この山に居るものは亜人だろうと我ら騎士候
補生だろうと全て敵なんだ。必然的に、常に戦っていなければなら
ない﹂
﹁⋮⋮そりゃあ、強くもなるわけだ﹂
ファーガスは、低く呟く。思い出せるのは、彼の純粋で輝くよう
な笑顔だけだ。いまだに実感がわかない。きっと、再会するまでず
っとそうなのだろう。
いや、そもそも再会できるのかさえ。
その時、﹁動くな﹂とカーシー先輩が、小さな声で他全員に指示
を出した。次いで﹁そこの木の裏側に全員隠れるんだ﹂と。
ファーガスやハワードは迅速にそれに従った。ローラも、素早さ
こそ足りなかったがすぐに隠れた。しかし、ベルだけは何かを考え
込むような、青白く、沈んだ面持ちで地面を見つめたまま、先ほど
までの進行方向を変えようとしなかった。
﹁ベル! 何やってんだ、早くこっちに来い!﹂
ファーガスの怒鳴り声に我に返ったのか、はっとした彼女は顔を
535
上げてきょとんとした様子で周囲を見回した。そして、その顔から
さらに血の気が引く。ファーガスは、それを見て思わず飛び出して
いた。
目の前から走りくるのは狼らしき生物の群れだった。らしき、と
言うのは、その姿が黒い霧のようなものに覆われていて、判然とし
ないからである。だが、ファーガスは硫黄のにおいが強まるのを知
って、直感した。
﹁こいつらが、ヘル・ハウンドか!﹂
剣と盾を構える。だが、カーシー先輩から叱責が飛んできた。
﹁止めろ! 今すぐ逃げろ! そいつらは聖神法なしに触れれば爆
発する!﹂
その声に反応したのは群れの内の過半数だ。七匹程度がそちらへ
向かい、四匹が依然とこちらに駆けてくる。
﹁クソッ、散れ! これは上官命令だ! 奴らは二匹程度ならすぐ
に撒ける! まず逃げ切って、その後連絡せよ! 総員、散れ!﹂
ファーガスは、狼狽えるベルの手を掴んで走り出した。その手は、
震えている。きっと、ずっとそうだったのだろう。オーガの話が出
てから、ずっと。
﹁ベル! 一緒に逃げ切るぞ!﹂
ベルの返答はない。いまだ、忘我しているのかもしれない。彼女
は亜人恐怖症であって然るべき経験をしている。それを思い出すと、
536
ファーガスはベルの過酷な運命を呪わずにはいられない。
537
2話 幼き獣︵5︶
クリスタベル・アデラ・ダスティンとの邂逅は、プライマリース
クールの入学前後のことだった。
当時ファーガスはベルが貴族だとは知らず、そもそも男だと思っ
ていた。彼女の家を貫通したパブリック・フットパスを通っていた
ところ、遭遇し、仲良くなった。
そんなある日、ベルの敷地内に居るという妖精を探しに行こうと
彼女が言い出した。その敷地内と言うのはこの騎士学園で言う山の
ようなもので、亜人が出るために敷地内に含まれているのだと当時
のベルは知らなかった。
その話には、運よくと言うべきか、運悪くと言うべきか、ファー
ガス以外の友達の全員の都合が合わなかった。
そのため、二人で森に入り、妖精を探すことになった。だが一向
に見つからず、幼さ故の互いの無神経さが祟って、その場で仲違い
し別れた。
ファーガスが方位磁針を持っていて、ベルは地図を用意していた。
ファーガスは森からすぐに出ることができ、ベルだけが森の中に残
されたのだという。
そして森に生息していたオーガに遭遇し、彼女は奴の手の届かな
い木の洞に隠れ、二日間、そのままで過ごしたらしい。
538
ファーガスが嫌な予感に再び森に足を踏み入れ、ようやく彼女を
探し出した時、ベルはそこで胎児のように丸まり、酷く衰弱しなが
らも、恐怖に瞳を閉じることができなくなっていた。
そこでシルフィードと言う妖精に力を借り、またファーガスの﹃
前世﹄のこともあって、何とかオーガの撃退に成功。他の亜人はシ
ルフィードに察知してもらい、避けて通った。
そこからは、言うまでもない話だと思う。ベルを彼女の家族の元
まで届け、事情を話した。しこたま怒られたが、それもまた、当然
のことだ。
そしてベルが再び声を出せるようになるまでに、数カ月の月日が
必要だったのも、当たり前であると言えた。
少しずつ、症状は回復に向かっている。だが、ファーガスはいま
だに彼女があの森の中に魂の一部を置いて来ているのではと疑う時
がある。あの事件が起こるまでの彼女は、もっと苛烈で、礼儀を重
んじる、男と勘違いされても仕方がないような少女だったのだ。
背後から迫るヘル・ハウンドたちは、一向に撒けなかった。奴ら
は互いに常に一定の距離を保っていて、数匹の目から逃れられても、
必ず一匹はファーガスたちを捉えている。
応戦しようと考えたのは 第六エリアのフェンスが見えた頃だ。
せめて一匹でも仕留めておかないと、絶対に奴らから逃れられない。
﹁ベル、援護頼めるか﹂
539
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁了解、じゃあ二匹仕留めたら逃げるから、準備しておいてくれ﹂
ベルの武器は弓矢だ。イングランドクラスでは珍しいスタイルで、
戦い方自体はスコットランドクラスのそれに似ている。要は、中∼
長距離戦という事だ。
そしてそれは、おそらくベルが、肉眼で亜人を捉えてもギリギリ
精神的に安定できる間合いでもあるのだろう。
弓矢と言うのは、賢い選択であったと思う。実際ベルのパーティ
も、ファーガスと前後する形で、第四エリアを開放したと聞いてい
る。
ファーガスは駆け出し、﹃ブリザード・ブレイド﹄と言う攻撃力
の高い聖神法で切りかかる。それだけで、一匹。存外簡単に倒せる
ではないかと思ってしまう。
だが、それは甘い考えだった。
返す刃で牽制。そこにベルの矢が突き刺さった。ヘル・ハウンド
の喉を貫き、一撃で絶命させる。ファーガスはそこで反転し、逃げ
出した。目的を達成したら、余計な事をしない方がいいのは耳がタ
コになるほど教官に叩き込まれている。
走り出す。このまま撒ければいいと思った。そこに、爆発が起き
た。ファーガスはもろに煽りを受けて吹き飛び、雪の上を転がる。
540
﹁ファーガス!﹂
ベルの声が木々の間にこだまする。︱︱何が起こった。ファーガ
スは背中全体に走るひりひりとした痛みと、内臓のよじれるような
吐き気に抗って、震えながらも立ち上がった。
ベルが、必死な表情で駆け寄ってくる。それを横目に、ファーガ
スは腰に差しっぱなしの杖に触れた。索敵。そして、真相を知る。
奴らは、互いに激突することで自らを誘爆させたのだ。
高い知能を持っている。それは、下手をすると亜人らしい特殊能
力よりも厄介だ。ファーガスは考える。反転する自分に対しての、
爆発。つまりは、奴らに自分たちを逃すつもりがないという事の証
左だ。
﹁ベル⋮⋮、逃げろ⋮⋮﹂
﹁置いて行ったら君は死ぬだろう!?﹂
怒りとも後悔とも分からない表情で、ベルは素早くファーガスの
周囲に矢を四つ打ち込んだ。青白く輝く結界が展開される。次いで
彼女は、迫るヘル・ハウンドを弓矢で射た。喉。もんどりうって、
一匹のヘル・ハウンドが雪をまき散らして墜落する。
しかし、もう一匹。一つの矢がその膝を破り、もう一本がその耳
をはぎ取った。しかしそれは、命に届かない。
﹁何で、何で⋮⋮!﹂
ベルは、次第に焦っていく。もはや距離は十メートルもない。距
541
離が近ければ普通は命中率も上がる。けれど彼女は駄目なのだ。手
の震えはヘル・ハウンドが五メートル圏内に入った時ピークを迎え
た。弓を落とし、ベルの表情が幼子のように歪み始める。
﹁クソがッ!﹂
回復途中のファーガスは、体を叱咤し立ち上がった。そして盾を
翳し、ヘル・ハウンドを殴りつける。奴らに効く聖神法は、冷気を
纏っていなければならないと聞いていた。それを発動させる余裕は
なく、ただ背後のベルに被害のいかないよう、﹃ショック・リダク
ション﹄と言う手軽な盾用スキルを使う。
衝撃。だが、吹っ飛んだのはファーガスだけだ。雪の上を跳ね、
再び来た吐き気のような鈍痛に耐えながら、ヘル・ハウンドに目を
やる。奴は痛そうにしているものの、弱っているというよりは苛立
っていた。
ベルを見やる。彼女は依然として手の震えを抑えられないようで、
まるで親の仇のように自分の手を睨み付けていた。援護は期待でき
ない。
仕方ない、と割り切る。ベルに関しては、すぐにそう出来た。痛
みを食いしばり、立ち上がろうとする。しかし右足があらぬ方向へ
曲がっていて、どうにも立ち上がれそうにない。見れば、ヘル・ハ
ウンドとの距離はもはや三メートルもなかった。
︱︱ここで、死ぬのか。
ファーガスは自問する。もちろん、こんなところで死にたくはな
かった。
542
︱︱なら、﹃使う﹄のか。
ファーガスは、酷い恐怖を感じる。しかし、打開策はそれしかな
かった。かつて、ベルを救うためにオーガに使用した。それをきっ
かけに前世のことをまざまざと思いだし、これ以降絶対に使わない
と決めたのだ。
葛藤。平時のファーガスが問われれば、﹃死んでも使うかよ﹄と
即答出来る。しかし、実際に追い込まれるのとは、やはり違った。
体が、半ば無意識に動く。命を渇望し、後悔をも厭おうとしない。
止まれと強く願っても、一歩の余地さえ残されない危機において、
本能は個人の意志を遥かに勝る。
そこに、何かが飛んできた。
それはヘル・ハウンドにぶつかって雪の上を跳ねて行った。爆発
は起こらない。信じられない思いで見やると、ヘル・ハウンドは腹
を破られて絶命していた。何が、と跳ねていった物体に、必死に這
いよっていく。
毛皮を、身にまとっている。だが、獣ではなかった。亜人を殺し
て剥いだのだと、ファーガスは悟る。
﹁⋮⋮ソウ、イチロウ⋮⋮﹂
ファーガスは、戦慄と共に彼の名を呼ぶ。彼は過呼吸を起こし、
酷く苦しそうにあえいでいた。顔には多くのあざがあり、体のいた
る所から失血している。
543
成長している。だが、面影もあった。実感が形容しがたい激情と
共に湧きあがる。自然豊かな日本で数多の亜人と笑いながら戯れて
いた彼が、何故こんなことになっているのだ。
﹁クソがッ⋮⋮! ︱︱敵は、もう、居ないよな﹂
息絶え絶えで、ファーガスは剣を地面に突き刺した。祝詞をあげ、
回復の聖神法を展開する。青白い半球がファーガスを包み、じわじ
わと傷を癒していった。
回復には、一分もかからない。しかし戦闘中に効果的に発動させ
るとなると、使用が難しい程度には時間を食う。
ファーガスは自分を回復させ終わったのち、ソウイチロウにも聖
神法を掛けようとした。だが、木々が密集した方向︱︱ソウイチロ
ウが飛んできた場所が不意に気になって、そちらに目を向けた。
木々の暗がりで、何も見えない。しかし気配があった。色濃い、
むせ返るような気配が。
﹁⋮⋮﹂
唾を呑む。ベルに向かって﹁こっちに来い!﹂と呼んだ。彼女は
慌ただしく駆けてくる。その途中で、それは姿を現した。
漆黒の肌。三メートルあらんばかりの巨躯。鋭く赤い眼光は荒々
しく非情だ。それが、三匹。圧迫感が、ファーガスの呼吸を乱す。
﹁⋮⋮オー、ガ⋮⋮!﹂
544
運が悪い。ファーガスは、歯噛みする。その時、ベルが雪の上で
転んだ。そして、オーガを凝視したまま後ろに下がっていく。
ファーガスは、思わず駆けだしていた。
ベルの前に立ち、オーガを睨みながら彼女に手を差し伸べる。立
ち上がらせた後、ソウイチロウの元へ行くよう指示を出した。次い
で、彼の治療をするように言う。
ベルは頷く。だがすべてを理解出来たのかは疑わしい。それほど
までに、彼女は酷く怯えていた。歯の根は合わず、瞳には涙が浮か
んでいて。いつもの大人びた沈鬱さではない。あどけない、幼子の
恐怖だ。それが、堪らなくファーガスは悔しい。
﹁大丈夫だ﹂と、ベルの手を握って言った。
﹁お前は、何も心配しなくていいんだよ、ベル。全部、俺が何とか
する﹂
少し、震えが納まる。ファーガスは微笑んで、踵を返した。オー
ガの巨躯は、僅か二メートルにまで近づいている。
﹁⋮⋮よう、デカブツ。昔、お前の仲間を殺したぜ。方法は違うが、
お前もそうしてやる﹂
オーガは、こちらの言葉に反応したのかそうでないのか、激しく
息を吐いた。雪の冷気のせいで、熱いその呼吸は湯気のようになっ
て奴の顔を包む。
545
ファーガスは盾を翳し、剣を忍ばせた。盾には衝撃霧散の聖神法。
剣には、ファーガスが持つ中で攻撃力が最も高い﹃フレア・ブレイ
ド﹄の聖神法を準備する。
オーガの拳を待った。襲い来たそれに、盾を突き出す。聖神法も
あって、防ぐことはかなった。何だ、大した事はないじゃないかと、
懐に飛び込む。
突き。それも、聖神法を纏ったそれだ。使用するこちらの持ち手
が熱くなるほどの豪炎を挙げて、剣はオーガの肉を焼いた。手ごた
えを感じ、一旦退く。
﹁どうだ⋮⋮?﹂
ファーガスは、オーガの様子をいぶかしむ。肉は煙を上げて焼か
れ、効果があったかに見えた。だが、すぐにそれが錯覚であったの
だと知る。
オーガは、自身の患部を叩いた。煙は消え、怒りの表情を作るそ
の醜い顔が露わになる。そして、一歩踏み込んで、右こぶしが来た。
とっさに盾を構えると、意外にも軽い手応え。攻撃事態は弱いのか
と推察した途端、真っ二つに割れた。砕けたから衝撃が逃げたのだ
と知って、血の気が引いた。
後退。予備の盾を出しつつ、唾を呑む。予想を遥かに超えた防御
力。こんな奴を、どうやって倒せばよいのだ、ファーガスは下唇を
噛んで考える。
ファーガスの持ちうる最大限の攻撃は効かない。防御だけなら何
となるが、一歩間違えれば死ぬだろう。唯一頭を狙えば何とかなる
546
かもしれないが、それを狙うだけの隙が、果たして奴にあるのか。
自分の持つ手段を、脳内で洗い出す。聖神法そのものの力。組み
合わせ。さらには科学的な考え。パズルのように組み合わせ、敵を
討つ方法を導き出す。
﹁⋮⋮考えながら戦うってのは、性分じゃないんだけどな﹂
やるしかねぇか、畜生。ファーガスは呟き、まず身を隠すべく密
集した木々の中に飛び込んだ。
547
2話 幼き獣︵6︶
ファーガスを見失ったオーガは、すぐにこちらを追いかけてきた。
少々予想外だった。オーガと言う種族は、考えなしに無防備な二
人に近寄っていくと考えていたからだ。その隙を突くつもりだった
が、まぁいい。戦闘が続くだけだ。
ファーガスの狙いは、オーガの脳天に威力増強の﹃マーク・チェ
ック﹄を入れることだ。そこに、もう一度﹃フレア・ブレイド﹄を
叩きこむ。足りなければ、﹃ブリザード・ブレイド﹄だ。熱に次ぐ
冷却は破壊を生む。鉄ならともかく、奴は生物だ。
今は一旦、﹃ハイド﹄で身を隠す。敵に気付かれているかどうか
を知るだけの単純な聖神法だが、それだけに効果的だった。聖神法
の反応がない限り、決してバレてはいないのだから。
﹁隙が欲しいな⋮⋮﹂
ファーガスは、ぽつりと呟く。そして、タブレットを取り出した。
スキルツリーを開き、隠密系統の技能をざっと確認していく。
一定範囲内の音を消す﹃サイレント﹄、自分の音だけを消す﹃セ
ルフ・サイレント﹄、攻撃の直前まで完全に身を隠せる﹃ハイド・
アウト﹄。少しずつ出来ることが多くなり、最後から三番目に﹃ハ
イド・シャドウ﹄があった。敵の影を踏んでいる限り、いくら攻撃
しようと気付かれない。致命傷を与えても敵は動き、陰から出た瞬
間に何もかもが露呈し、敵は自分が死んだのだと悟る︱︱
548
上の二つは、更にやりやすい程度の違いしかなかった。一つ上に
は敵でなくただ陰に隠れればよい﹃ハイド・ダーク﹄、それさえも
必要としない﹃ハイド・カモフラージュ﹄。⋮⋮この程度なら、特
に差とも言えないだろう。
数日の狩りで、十数ポイントが余っている。ファーガスは隠密系
統を閉じ、まず﹃マーク・チェックⅡ﹄を取った。次にアイルラン
ドのスキルツリーを開き、﹃ジャンプ﹄に連なる特殊運動補助系統
に、ポイントを振り分けていく。
ファーガスが立てた計画は、単純だ。﹃ハイド・シャドウ﹄でど
うにか奴の頭に上り、ゆっくりと﹃マーク・チェックⅡ﹄を刻み込
んで、最後に一撃か二撃叩き込んで殺す。それだけだ。
﹁そんで、肝心の手順は⋮⋮っと﹂
﹃ハイド・シャドウ﹄の細かい所作を、スキルツリーから開く。
面倒なことは知っていた。ベン自身も、ファーガスに練習した後
﹁でも、多用はできないね﹂と言っていたほどだ。
しかし、これが使えれば勝利への道はぐんと短くなる。ファーガ
スは覚悟を決めて、その具体的な所作を見た。
﹃対象者の影に、一時間の間に合計五分とどまり続けること。もし
くは、相手に合計五分自分の影を踏ませ続けることが発動条件であ
る。二つの合計時間を統合するため、片方一分、片方四分などでも
発動可能。条件を満たしたのち、祝詞、また指定された所作を行い、
姿を見られないまま対象の影を踏むと、﹁ハイド・シャドウ﹂が発
549
動する。一度発動したらその影を踏んでいる限り何をやっても敵に
存在を気取られない。対象は発動者に触れ、阻害することも絶対に
できない。ただし一つだけ警戒せよ。発動後一度でも対象の陰から
外れれば、発動者はいとも簡単に存在を見つけられるだろう﹄
﹁ムッズ!﹂
ファーガス、思わず絶叫する。とはいえ小声だったが、一瞬﹃ハ
イド﹄のセンサーに反応が上がり、非常に背筋が竦み上がった。急
いで場所を移動し、渋面でタブレットを見る。
﹁とりあえず⋮⋮祝詞は恒例の﹃神よ∼﹄のあれと、所作は⋮⋮。
まぁ、問題って程のもんじゃないな﹂
問題っつったらこっちだこっち。とファーガスは件の文章を指で
なぞっていく。対象の影を五分間、もしくは自分の影を五分間。そ
れなら直接マークを入れた方がと考えたが、改めて﹃チェック・マ
ークⅡ﹄を見ると、素直にあきらめがついた。
﹁暗記しても三十秒はかかるな、こりゃ﹂
暗記してないから二分超ほどか。大人しく、﹃ハイド・シャドウ﹄
の仕掛け方を考える。
ファーガスがまず思いついたのは、木に登りオーガをストーキン
グするという手段である。効率的に自分の影を踏ませることができ
るだろう。次に、﹃ハイド・アウト﹄でオーガの影を踏み続ける。
だが、﹃ハイド・アウト﹄はもって二十秒。ファーガスは、頭の中
で試行錯誤する。
550
とりあえずは、木の上からと言うので問題はないだろう。一番無
難だし、効率もよさそうだ。ファーガスは﹃ジャンプ﹄を使いすい
すいと木の上に登った。そして、オーガが自分の影を踏むよう、微
妙に移動を繰り返す。
﹁⋮⋮木の影が過半数を占めてるけど、多分大丈夫だ⋮⋮よな?﹂
ちょっと不安なファーガスだ。カウントが始まっているかどうか
は、タブレットで知れる。︱︱カウントは、始まっていた。あと数
秒で、ニ分に達する。
なんだ、余裕じゃないか、とファーガスはしたり顔をした。カウ
ントは二分を超え、すぐにでも三分の壁に手が伸びていく。満足し
て、ファーガスはオーガに視線を戻した。
目が、合った。
漆黒の剛腕が迫り、ファーガスは後方へ飛びのいた。だが、そう
うまく他の木へと飛び移れるものでもない。したたかに尻もちをつ
き、雪の上を二転三転する。
そのまま、奴から﹃ハイ・スピード﹄で逃げ出した。オーガの走
行速度は、直線ならば人間を遥かに凌ぐ。ファーガスは何度か奴の
手にかかりそうになりながらも、蛇行、木に登り、枝を飛び回るこ
とによる攪乱で、奴の目を欺いた。
木から降り、再び走る。そして木の陰に隠れて、﹃ハイド﹄を発
動させた。気づかれてはいないようだと、胸を撫で下ろす。
﹁油断したのが痛かったな、畜生。⋮⋮どうする? もう木の上か
551
らは難しいぞ﹂
奴はこれから索敵範囲内に木の上を含めるだろう。事実、ここか
ら伺い見ても、奴は高い頻度で木々の枝を折って確かめている。︱
︱奴の近くで樹に登ることすら、危険かもしれない。
タブレットを見る。蓄積時間は、三分四秒で止まっていた。あと、
二分弱。如何にして貯めるか。
﹁⋮⋮大人しく、プランBだな﹂
背後に忍び寄り、﹃ハイド・アウト﹄で時間をためる。だが、そ
れでは効率が悪いため、まず﹃セルフ・サイレント﹄だけで様子を
見ることに決めた。危険だと感じたら、﹃ハイド・アウト﹄だ。
ファーガスは自身から音を奪って、少しずつオーガに近づいて行
った。聖神法は三つまで併用して発動させられる。﹃ハイド﹄と合
わせれば、﹃ハイド・アウト﹄のタイミングも見極めやすかろう。
こっそりと、オーガの影を踏んだ。息をひそめていれば、存外バ
レない物だ。﹃ハイド・アウト﹄の所作もほとんど終えていて、あ
とは十字を切るだけだった。準備は欠かさない。一秒一秒が、相応
の重さとなってファーガスに圧し掛かる。
残り、三十秒になった。あと十五秒経てば、聖神法による制限時
間付きの迷彩を着込んで最後の五秒で逃げればいい。
そのように考え、ファーガスは少し気を緩める。そういう、詰め
の甘さが彼の弱点だった。
552
オーガはその瞬間を狙ったように踵を返し、ファーガスを真正面
に捉えた。そして迫りくる豪腕。﹁またかよ!﹂と少年は叫び、間
一髪で避ける。
﹃ジャンプ﹄で飛びのいて、十字を切った。聖神法の発動と同時
に、再び、身をかがめて奴の影を踏む。
オーガは姿を消したファーガスが逃げたのだと解釈し、苛立った
ように足早で密集した木々の中を歩き回り出す。ファーガスは﹃ハ
イ・スピード﹄を発動させていたため、特についていくのも苦では
なかった。
﹁あっぶねー。背筋ヒヤッとしたっての﹂
ファーガスの短所が詰めの甘さなら、長所は切り返しの早さだ。
天性の勝負勘のようなものを持っていて、短所によるミスが致命的
なものにならない。
そう何度も見つかって逃げ回るようなへまをしてたまるか、と誰
にともなく勝ち誇る。﹃ハイド・アウト﹄が切れてもオーガはファ
ーガスに気付かず、時間も稼げたとファーガスは一旦身を退いた。
木の陰で息を吐く。何度かひやりとさせられたが、ここまでは順
調だ。
﹁さぁて⋮⋮。ここからはマジで気張ってかないと﹂
今までは逃げられた。だが、次からは逃げられない。一発で成功
し、何もかもやってしまわねば、また最初からになってしまう。我
ながら随分と杜撰な計画であった。しかし単独だと手札が少ないの
553
だ。
ファーガスは、改めて木に登った。そして祝詞と発動の所作。心
臓の鼓動が、先ほどの比ではない。体の調子を確認し、片手剣とは
別に用意していたサバイバルナイフを手にする。敵を倒す用でなく、
持参した食料を開けたり、邪魔な枝葉を斬ったりと言う雑事用だ。
失敗したら、もはやグズグズしている時間はない。さっきまでの
予想と違い、このオーガは囮作戦が効く。ベル一人に、それもソウ
イチロウを連れて下山させるのは非常に心もとなかったが、ファー
ガスがオーガを引付ける間に逃がすしか手がない。
ファーガスは、天に命運を任せるという事が嫌いだ。キリスト教
だが唯物主義的な所がある。要は、心配性なのだ。
﹁俺が今やりあってる間に、変なのに見つかってませんように﹂
他のことを考えると、緊張がだいぶほぐれた。ファーガスはオー
ガに目を向け、再度緊張が襲い来る前に、一息に跳んだ。
そして、オーガの首根っこにしがみつく。
衝撃に、オーガの体が微動した。ファーガスはそれに、ただひた
すら物に掴まる感覚でオーガの首を抱きしめた。オーガは、ファー
ガスに手を伸ばさない。無事、﹃ハイド・シャドウ﹄が発動してい
る。
ゲームを良くするファーガスは、﹁セーブしたい⋮⋮!﹂と渋面
で呟いてからタブレットを取り出した。オーガはいまだファーガス
を探していて、駆け足気味なのでとにかく揺れる。タブレットや何
554
かを落として︱︱などと考えると、ゾッとしなかった。必要以上の
握力を込めて、荷物を握りしめる。
﹃チェック・マークⅡ﹄の紋様を表示させ、それを盗み見ながら
サバイバルナイフでオーガの側頭部に刻んでいく。脳天でないのは、
非常時のことを考えてだ。投げ出されたとき、最悪剣を投げて当た
ればこいつを卒倒させられるかもしれない。
複雑な図形を、念を入れて注意深くナイフで書いていく。オーガ
の肌からは、血すら出ない。どれだけ硬いのだ、と思ってしまう。
隙を見て頸動脈を描き切ってしまえばと言う考えもあったのだが、
それは今のファーガスには出来ないようだった。大人しく浅い傷を
入れ続ける。
奇妙な時間だった。亜人の多く出るこの山で、黙々と芸術の真似
事をしている。その癖頭は揺れに揺れ、しがみつくのに必死なのだ。
あと、二つ線を入れるだけで書き終わる。
一つを、刻みいれた。最後だ、と思うと余裕ができて、周囲を見
回すだけの視界がよみがえる。
オーガは、密集していた木々の中から抜け出していた。ファーガ
スのことを諦めたのかもしれない。
そして、十数メートル先にはベルがいた。オーガを見つけ、動け
なくなっている。
﹃ハイド・シャドウ﹄発動中は、他の人間からも見えなくなると
いう注意書きが先ほどの効果の下に書いてあった。敵から邪魔され
ないための措置という事らしかったが、今回は裏目に出たと言って
555
いい。
ファーガスの姿がオーガの首上に見えたら、流石の彼女でも逃げ
ようという気になっただろう。けれど、今は出来ない。足場が大き
く揺れ、オーガがベルに突進していくのが分かって血の気が引いた。
最後の一描きを側頭部に付け足して、大きく跳躍する。
雪の上を転がった。ベルの三メートル先。ファーガスは立ち上が
り盾を構える。その寸前に、オーガは少年の首を掴んでいた。
掴みあげられる。首に、圧力がかかった。へし折られる。そんな
予感が、ファーガスを貫いた。
必死になってもがく。腰袋から剣を取り出し、オーガの手首に突
き刺した。だが、刺さらない。奴にとって、この剣は幼児用の鋏に
も等しいらしい。
都合の良い援軍など期待は出来なかった。ローラや、ハワード。
カーシー先輩がいたら何も心配することはなかっただろう。ファー
ガスは、気が遠くなりつつあった。首の骨が砕けるのが先か、呼吸
困難で死ぬのが先か。真正面から、オーガの表情が見える。醜く、
愉悦にゆがんでいる。
少年の視界の中に、ベルは居なった。それでも近くにいるはずだ
から、苦しい中声を絞り出す。
﹁逃げろ⋮⋮べ、ル⋮⋮! 俺が死んだら、すぐこいつはッ、おま、
えを殺、す⋮⋮! 早く逃げろッ⋮⋮! あが、ぐぁ⋮⋮﹂
首の骨が軋むような感覚。死ぬのだと思った。体は半ば脱力して
556
いて、﹃使うか﹄使うまいかの葛藤も出来ない。ファーガスは、走
馬灯のようにゆっくりと、今までの記憶をさかのぼっていた。今世
の記憶。UKの独特な古めかしい雰囲気のある趣深い景色と、ベル
を中心とした友人たち、家族。今世が終わると、前世のそれが始ま
る。前世に関しては、時系列に従って思い出された。生まれて、育
って、友達ができて、それがベルに瓜二つで︱︱最後には、﹃あの
情景﹄で終わる。
ここで虫けらのように死ぬのは、贖いになるのだろうか。思って
しまう。いまだファーガスは、前世との決別ができていない。
その時、ファーガスは体にかかった衝撃に我に返った。気づけば、
自分は雪の中で這い蹲っている。何度か激しくせき込んで、状況を
把握するとオーガが側頭部に矢を突き立てて息絶えていた。
﹁ファーガス!﹂
顔を涙で濡らして、ベルは少年に抱き着いてきた。その華奢な体
は、震えている。手には弓。ファーガスは、信じられない気持ちで
尋ねる。
﹁⋮⋮まさか、ベルが⋮⋮?﹂
彼女は感極まったのか、頷きながら泣きじゃくった。それが、フ
ァーガスには堪らなく嬉しい。この情動は、弱り切った彼女を見た
者にしか分からないだろう。
﹁良かったな。⋮⋮本当に、良かった﹂
ファーガスも、彼女を抱きしめ返す。こんな風に甘えてくるベル
557
はまるで、ファーガスの妹のようだった。実際、少年が少女に向け
る感情と言えば、それに近い。どんなに素気なくとも、嫌いになり
きれず心配してしまう。それには様々な要因があった。だが、今そ
れを考えるのは面倒くさい。
ベルに回復してもらい、寝覚めないソウイチロウを担ごうとした。
その時、密集した木々の中から何ものかが出てくる。
また、ヘル・ハウンドか。ファーガスはそのように思った。だが、
違った。もっと、性質の悪い物だった。
オーガが、ニ匹。思わず﹁嘘だろ⋮⋮?﹂と漏らしてしまう。
オーガは通常群れない。だが、臨時に徒党を組むことがあると聞
いていた。それは繁殖期もそうだし、外敵に備える時もそうである
と。
だが、そんなのは余程運が悪くない限り遭遇しないはずなのだ。
オーガは本来夜行性で、他の夜行性の亜人に比べたら少しだけ生活
リズムが崩れやすい。そのために、だいたい一年に一度第六エリア
に現れるのだと。
夜の山は危険度がぐんと高くなる。十万近くポイントを貯めると
第七エリアとして開放されるのだと、イングランドクラスの寮長か
ら聞いた。とはいっても、オーガクラスの化け物などは第十二エリ
ア︱︱夜の第六エリアでも見かけることは滅多にないらしい。一カ
月に一度ほど、観測されると聞いていた。その場合も人数次第では
避けた方が無難なのだ。
ファーガスは、気が遠くなった。怪我はないが、先ほどの首絞め
558
が精神に効いている。立ち向かえと言われても、足が動きそうにな
かった。
逃げられるかを考える。ベルはだいぶ調子が良さそうで、逃げる
だけなら出来そうだった。問題は、ソウイチロウだ。彼を担いでと
なると、逃げ切ることは叶わないだろう。
﹁⋮⋮はぁぁ。ベル、助けを呼んできてくれ。俺がこいつら引付け
とくから﹂
﹁え、でも⋮⋮﹂
﹁いいから。さっきみたいに撃退なんて考えてないし、引付けるだ
けなら危険は少ない。ほら、早く!﹂
﹁う、うん!﹂
ベルが駆けだすのを見届けてから、オーガを見やる。奴らは、フ
ァーガスなど見ていない。どちらもソウイチロウを注視し、警戒し
ているのか中々近づいてこなかった。
﹁マジで、何やってたんだよソウイチロウ⋮⋮﹂
その癖、騎士候補生は無傷で無力化するのだという。起きたらど
んな反応をするのか、ファーガスにはちょっと想像が難しい。
オーガたちはソウイチロウが本当に気絶しているのだと理解し、
近づいてくる。それを遮るべく、ファーガスは立ちふさがった。オ
ーガ二匹は一様に数秒足を止め、すぐに再び一歩踏み出す。
559
﹁無視しようとしてんじゃねぇぞ、この野郎!﹂
炎を纏う剣を、地面に突き刺した。すると地面の雪が急激に昇華
して、濃い湯気が立ち上る。オーガたちはそれに警戒して飛び退い
た。ファーガスは、それに追い打ちをかける。
オーガを足止めするには、奴らに警戒されねばならない。しかし
傷を負わせられるような威力の高い攻撃法が、すぐに発動させられ
るものの中にないのも事実だった。
ファーガスは思考する。敵を殺すほどの物でなくともいい。激昂
させられるだけの痛みを追わせられる方法が、何かないものか。
オーガの一匹が、その漆黒の腕を振るう。冷静に聖神法を発動さ
せ、盾で防いだ。それが、連続で来る。聖神法自体は簡単で、対応
自体は出来たものの、連打の終わりに盾の破損を感じた。あと数回
受ければこの盾は壊れるだろう。勿体なかったが、命には代えられ
ない。次の盾を袋から取り出す。
盾も剣も、通常ファーガスは五つずつ常備していた。盾はすでに
二個費やしたから、残りは手持ちを含めて三個。助けが来るまで持
てばいいのだが。
対する奴らは、自分たちの攻撃を防ぐ外敵と言うのに慣れていな
いのか、ファーガスを警戒し始めたようだった。じりじりと間合い
を変え、挟み撃ちになるよう誘導している。少年は苛立ち、片方の
オーガを睨んだ。目が合う。そういえば、先ほどの合ったとファー
ガスは思い出した。
﹁︱︱そうだ、目だ﹂
560
ファーガスは挟み撃ちにされる間に、正面のオーガに向かって一
息に三つの聖神法を発動させた。﹃ハイ・スピード﹄、﹃ジャンプ﹄
、そして﹃フレア・ブレイド﹄。
跳び上がる。強化された跳躍力は、三メートル近いオーガの正面
にまでファーガスを導いた。奴は彼を捕えようとするが間に合わな
い。そして、剣を突き出す。
剣を回収する間はなかった。だが、初めて効果的なダメージを負
わせたという実感が生まれた。ごうごうと音を立てて燃える片手剣
が、オーガの虹彩を貫いている。絶叫が上がった。太く、低く、猛
獣のうなり声と変わらない。
袋からさらに剣を取り出し、反対側のオーガに目を向けた。オー
ガは唖然としていて、ファーガスの好戦的な笑みを見て感情の見え
ない微動をする。少年は、構わず駆け寄った。止めようとする手が
伸びたが、正面からの攻撃など当たるわけがない。
ファーガスは跳び上がった。再び剣に炎をともし、構える。そし
て、ファーガスの腕が何者かに掴まれた。肉厚なそれが、人間の華
奢な腕を折るなど容易い事だった。
561
2話 幼き獣︵7︶
絶叫を上げるのは、今度はファーガスの番だった。少年は一瞬言
葉失い、次いで熱さに似た痛みを感じて、それをどうにか誤魔化す
為にもがいた。叫んだ。あるいは、断末魔だったのかもしれない。
折られた腕を抱え込もうとした。だが、出来なかった。そもそも、
地面に再び立つことさえファーガスには許されない。腕を負った手
が、力強く少年を拘束して宙づりにしているのだ。
掴んでいるのは、片目を瞑るオーガだった。剣は抜けていたが、
瞼が少し炭化している。焼かれて、血も出ないのだろう。ファーガ
スは今更に後悔する。こういう時のために刺突剣を買っていれば、
目から敵の脳をかき回せたかもしれないのに。
握力はさらに多く掛けられる。ファーガスは、断続的に叫びをあ
げた。最初はただの骨折程度だったのが、今では粉砕骨折の範囲に
とどめていいのかさえ怪しい。文字通り腕を粉々にされているのが
分かった。ここにまで至ると痛みは消え、猛烈な吐き気が少年を襲
った。吐瀉物が、雪を融かす。
腕を開放され、崩れ落ちた。環境が変わったことに対する不快感
が、痛みを再発させる。歯を食いしばるが、嘔吐感に時々悲鳴とも
えずきとも取れる声が漏れた。
オーガは、もはやファーガスに用はないらしかった。二匹とも、
ソウイチロウを取り囲んでいる。そして中心では幽鬼のように立つ
彼の姿があった。手には、木刀が握られている。
562
﹁ソウ⋮⋮イチロウ⋮⋮。逃、げろ⋮⋮。木刀なんかじゃ、そいつ
らは倒せな⋮⋮﹂
再び、嘔吐する。口周りを汚物に濡らし、酷くみじめな気分だっ
た。頭が、ぼうとしている。考えが回らない。
横倒しになった視界の中で、二匹のオーガが同時に腕を振るった。
ソウイチロウは、当たる寸前まで動かない。そしてやっと現れたそ
の動きも、まるでテレビ画面がぶれる様な、小さなものだった。
だが、大きくオーガは跳び退る。
片方のオーガが、酷く荒々しく唸った。しかし、そこにはどうも
張りつめたような感じがある。もう一匹も、声を上げた。それは妙
に甲高く、まるで恐怖の叫びのようだと、ファーガスは朦朧とした
頭で訝る。
そして、その状況を見て頭が冴えた。
叫びをあげた方のオーガの腕が、どちらとも雪の上に落ちていた
のだ。
血が、まるで噴火するようにまき散らされた。雪が黒々と染めら
れていく。ソウイチロウはゆらゆらとそのオーガに近づき、健全な
もう一匹は必死に距離を取った。彼は無慈悲に近づき、腕を失い横
倒しになったオーガの頭蓋に木刀を突き立てる。その様は、プティ
ングにナイフを入れるようにあっさりとしていた。
オーガはもはや、自分のことなど忘れているみたいだと推察する。
背を向けた奴はファーガスの斜め前に立って、近くの背の低い木を
563
引き抜き、奴はそれを武器にしたようだった。対するソウイチロウ
がオーガにどんな表情を向けているのか、少年は初めて知った。
獣。ファーガスは、思わず痛みも忘れて唾を飲み下した。幽鬼な
どとんでもない。消耗した獣が、それでも気力を漲らせて敵の命を
刈り取ろうとしているのだ。
オーガは雄叫びを上げ、遮二無二ソウイチロウに襲いかかった。
ソウイチロウは木刀を構える。剣先が、揺れていた。聖神法の回復
の限界を、彼の疲労や怪我は超えていたのだ。だというのに、オー
ガの唸りに怯む様子はない。むしろ、それに対して爆発寸前の怒り
を抱いているように見えた。
ソウイチロウが、吠える。
応答の雄叫びだった。それでいて、敵を飲み込む咆哮でもあった。
オーガの声さえ掻き消してしまう、何よりも強き獣のそれ。ソウイ
チロウの声に、ファーガスは身の竦むような感覚を覚える。
勝敗は、見るまでもなかった。
オーガの上半身は、斜めに切り落とされた。ずる、と音を立て、
雪の中に沈む。立ち合いの終わりは、あまりにも静かだった。オー
ガの倒れ伏した後には、鳥も鳴かない。
﹁⋮⋮はぁっ、はぁっ⋮⋮﹂
ソウイチロウの呼吸は、乱れていた。声も、枯れている。しかも
息の乱れ方が異様だ。不規則で、ヒューヒューと気味の悪い音が聞
こえる。
564
そのまま、彼は立ち去ろうとした。ファーガスは半ば麻痺した腕
を引きずって、大声で叫ぶ。
﹁おいッ。待ってくれよ、ソウイチロウ!﹂
びく、と彼の体が震えた。ゆっくりと、何かを恐れるように振り
返る。そこには先ほどの獣の残滓がかすかにあるばかりで、少年ら
の年以上の幼い感情が覗えた。
﹁⋮⋮ファー、ガス?﹂
区切られた静寂。一拍おいて、彼の瞳から涙が音もなく伝った。
それが、どうしてもベンを思い出させる。極限にまで追い詰められ
た者の感情の発露なのだと、ファーガスは気付いた。
それから、音もなく彼は崩れ落ちた。ファーガスは任務完了だと
し、彼を運ぼうと考えた。木に這って近づき、寄りかかるようにし
て立ち上がる。妙な高揚があった。恐らく、脳内麻薬と言うやつが
分泌されているせいだろう。
立ち上がると、意外に楽に感じた。ソウイチロウに歩み寄り、彼
を担ごうとする。それはさすがに無謀だったようで、どうにも力が
入らない。如何ともしがたいと首をひねっていると、声が聞こえた。
人間の、声だ。
﹁ファーガス!﹂
﹁ベル!﹂
565
誰よりも早く、彼女は駆け寄ってきた。次いで、少年の砕かれた
腕を見て息を呑む。
﹁そ、その腕⋮⋮﹂
﹁ん、ああ。⋮⋮やっちゃった﹂
﹁いや、何を暢気に言っているのですか。バカなのですか?﹂
﹁確認するまでもねぇょ。馬鹿だ﹂
遅れて駆け寄ってきた二人の冷めた言葉が突き刺さる。名誉の大
負傷を負ったというのに、随分な扱いだった。とはいえ、腕だけだ。
現代医療なら、何とかならないという事もないだろう。出血も少な
い。
﹁⋮⋮それで、そいつ﹂
低い声で、カーシー先輩がソウイチロウに目を向けた。﹁ああ﹂
とファーガスは答える。
﹁はい。ソウイチロウ⋮⋮ブシガイトです﹂
﹁そうか﹂
﹁はい。⋮⋮って、何をしてるんですか!?﹂
彼は、鞘から剣を抜き放っていた。それを、ソウイチロウに差し
向けている。
566
改めて見ると、彼の目が据わっていることに気付いた。彼はファ
ーガスの言葉を無視し、振り下ろそうとする。
それを使える手で盾を翳し、防いだ。カーシー先輩は病的に鋭い
視線を向けてくる。
﹁⋮⋮何のつもりだ﹂
﹁何のつもりだも何もないでしょうが! 何で無抵抗な人間を殺そ
うとしてるんですか!?﹂
﹁こいつは、おれの恩師を殺した。だから、仇だ。討って悪いか﹂
ファーガスは、その言葉に血がのぼる。
﹁黙れ、向こう見ずのクソ餓鬼が! 仇だろうが何だろうが、ソウ
イチロウを殺した時点でお前は﹃人殺し﹄になるんだぞ!﹂
最低限の礼儀を守るはずのファーガスが発した言葉は、周囲の人
間の全員を呆気に取らせた。少年はそのことを自覚し、﹁⋮⋮おっ
と﹂と間の抜けた声を漏らす。
﹁⋮⋮ぷっ、くくく。そうだな、確かにそうだ。先輩よぉ、確かに
人殺しは良くないぜ﹂
意外にも、味方をしたのはハワードだった。にやにやと、奴は先
輩を諭しにかかる。
﹁これじゃあ正当防衛も成り立たないってもんだ。無抵抗な人間殺
567
したら世論を敵に回すのなんか目に見えてるぜ? やるとしてもも
っと別のタイミングがあんでしょうよ﹂
﹁ハワード、お前は味方をしてるんだか引っ掻きまわして楽しんで
るんだかどっちだ﹂
﹁さぁねぇ﹂
首をすくめ、両手を挙げて飄々と奴は言う。それに、カーシー先
輩が怒号を飛ばした。再び、森がざわつき始める。
﹁︱︱ふざけるのもいい加減にしろ! ネル、お前は退いていろ。
そしてグリンダー君、君もだ。君は人間だと言ったが、こいつは人
間じゃなく亜人だ。こいつを殺しても人殺しにはならない。だから、
退け﹂
﹁退ける訳ないでしょうが! アンタ今、自分が何言ってんだか分
かってますか!?﹂
﹁完全に理解している! 分かっていないのは君の方だ! 君は、
大切な人間が惨い殺し方をされたことが無いからそんなことが言え
る!﹂
﹁⋮⋮! ⋮⋮﹂
言い返そうとも考えた。だが、先ほどに比べればファーガスは冷
静で、言葉をぶちまけないだけの理性があった。その上、カーシー
先輩は泣いていた。憎悪をその瞳に宿しながら、ぶるぶると震えて
いる。
568
﹁今すぐ、そこを退いてくれ。でなければ、君ごと叩き斬る﹂
﹁そんな事は許しませんよ、先輩﹂
ベルが、ファーガスの隣に並び立った。しばらく他人の中に紛れ
ていたから、外面を作り直すだけの平静を取り戻したのだろう。強
くカーシー先輩を睨みつけている。
﹁⋮⋮何人来ようと、同じだぞ﹂
﹁いいえ、変わるはず。何故なら、私はトスカーナ大公の娘だから
です。私を殺したとなれば、貴方だけでなく、貴方の家族全員の安
否に関わる。大切な人、と言いましたね。それは、家族に勝るもの
ですか?﹂
﹁家族なんて、おれには居ない。おれを捨てた、屑が居るだけさ﹂
即座に返されて、ベルが言葉を詰まらせた。彼女だけではない。
ファーガスも、ローラも、同じように口を閉ざしてしまう。
だが一人だけ、そんな雰囲気を物ともしない人物がいた。
﹁あー、残念ですね、カーシー先輩。もう時間切れらしいですよ。
逃げる時間が在るか無いか⋮⋮。こりゃ無いな。終わりだ﹂
ハワードが、心底面倒臭げにため息を吐いた。それに、先輩が怪
訝な視線を投げ掛けながら、大剣を雪に突き刺した。目を剥く。
﹁大軍すぎて笑っちゃいますね。少なくとも五十匹は集まってる。
応援呼んでましたけど、そいつらに専用の武器持ってくるように言
569
いましたか?﹂
﹁⋮⋮いや﹂
﹁じゃあ今すぐ逃げましょう。九死に一生くらいは掴めるかもしれ
ませんぜ。グリンダーどもはどうだ? 運に掛けるか、ブシガイト
と共に死ぬか﹂
﹁ちょっ、ちょっと待ってくれ。一体何を言ってる?﹂
﹁﹃サーチ﹄だ、間抜け﹂
言われて、悪態を返しながら使った。腰に差した杖は使える手の
逆側にあり、少々苦労しているとローラが青ざめた言葉を発する。
﹁ヘル・ハウンドの群れです。ものすごい数が、周囲を取り囲んで
⋮⋮﹂
ファーガスは、驚愕を隠せなかった。何故こうもタイミングが悪
いのだ。
辛うじて﹃サーチ﹄上でヘル・ハウンドが囲み切れていない空隙
とソウイチロウの間で、ファーガスは視線を右往左往させる。今す
ぐに逃げれば、何とかなるかもしけない。少なくとも、追手側に死
者は出ないだろう。しかし、その場合ソウイチロウは置いて行かざ
るを得なくなる。
頭を悩ませていると、ベルが小声で﹁ファーガス﹂と穏やかな微
笑と共に名を呼んだ。援軍を呼んできてから、彼女は山に入った時
には考えられなかった程に落ち着いている。
570
﹁⋮⋮ありがとう。私はずっと君に冷たくしてたのに⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮ううん。あとで言うから﹂
すぅ、吐息を吸った。彼女は、入学式の凛々しさを彷彿とさせる
表情を作って、大きくはないが通る声で指示を出し始める。
﹁すいませんが先輩、ハワード、そしてファーガス。三人に、剣を
貸してもらいたい。手もちのそれがないわけじゃないが、安物だか
ら効果がちょっと不安なんです﹂
カーシー先輩は、ひとまず先ほどまでの確執を置いておき﹁策が
あるのかい?﹂と尋ねた。小さくベルは頷き、それぞれから剣を受
け取って︱︱ハワードはこの期に及んでも渋ったが︱︱三つの剣を
等間隔に地面に突き刺していく。
﹁全員、内側に﹂
言われて、従う。ファーガスは、倒れたソウイチロウもその中に
運び込んだ。幸い、咎める余裕のある者はいない。剣は聖神法の布
石に使うらしく、その三点を頂点とした三角形型の結界が、ファー
ガス達を囲っていく。
﹁⋮⋮で? クリスタベル。まさかお前、これで御仕舞って訳じゃ
ないだろうな。俺達が無事で済んでも、このままじゃあ応援の奴ら
がヘル・ハウンドどもにやられちまう。この結界だって、大したも
んじゃない。時間稼ぎにしかならないぜ﹂
571
﹁そ、それについては考えてある。︱︱カーシー先輩。アイルラン
ドクラスで、第六エリア解放済みの貴方にお頼みしたいことがあり
ます﹂
﹁何だい?﹂
﹁﹃ヘル・ハウンド翻訳﹄は取っていますか?﹂
﹁︱︱それがあったか! 分かった、今すぐに取ろう﹂
彼は何かに納得したように、タブレットを開いてスキルツリーを
動かし始めた。ベルに視線を向けると、穏やかな口調で話し始める。
﹁アイルランドの一部では、ヘル・ハウンドを妖精の一種とみなす
地域がある。人間に危害を加えない子供の守り神とされているんだ
って。もともと知性が高いのもあって、アイルランドクラスのスキ
ルツリーには彼らと話せるようになるタブレット・スキルがあるっ
て聞いたことがあったから﹂
ベルを除いた第一年騎士候補生の三人は、一様にして開いた口の
ふさぎ方を忘れた。中でもハワードは、混乱したように声を出し始
める。
﹁おい、おいおいおいおい。ヘル・ハウンドが、何だ? 子供を守
る精霊? あんな班作って一斉攻撃してくる爆発犬が? 冗談にし
ても笑えないだろう﹂
﹁⋮⋮ちょっと素が出てるぜ、ハワード。これ以外方法が無いんだ
から、腹を括れよ。ギャーギャー喚きやがって、男らしくねぇ﹂
572
﹁はぁ、何を言って⋮⋮。チッ、分かったよ。お前らに全部任せる。
オレはもう知らねぇ﹂
ハワードは言ってそっぽを向く。次いで、﹁来たぞ﹂とだけ言っ
た。現れるは、先ほどの獣の大群。闇色の毛、地獄の業火の様な赤
き眼。それが、周囲十ヤードで円を描くように取り囲んでいる。
カーシー先輩はスキルをとっくに取り終わり、今は応援を呼んで
いるようだった。通話が終わり、﹁じゃあ、ちょっと呼びかけてみ
る﹂とタブレットをタッチしながら、厳しい顔で結界の端に寄る。
ヘル・ハウンド側からも、一匹、落ち着いた雰囲気を持つ獣がゆっ
くりと歩み寄ってきた。
その一際大きなヘル・ハウンドは、小さく、敵意のなさそうな声
で吠えた。カーシー先輩はタブレットを見て、唖然と言葉を漏らす。
﹁⋮⋮危害を加えるつもりはない⋮⋮?﹂
ファーガスはその言葉の意味が分からず、頭の中に空白を作った。
それは、その場にいる全員が同じだっただろう。
刹那、その一匹は消えていた。次いで結界が解かれる。
﹁何だ、どういう事だ!﹂
誰の声だったろう、とファーガスは思う。ハワードでも、カーシ
ー先輩でも、この言葉はおかしくない。もしかしたら、ファーガス
自身が言ったのかも知れなかった。反射的に彼は自分の剣を探す。
そして、理解した。
573
﹁あのヘル・ハウンドが剣を抜いたんだ!﹂
﹁だとすれば、奴一匹だけでオーガ並みという事になるぞ!﹂
結界に触れても耐えるだけの体力、剣を抜けば結界を壊せる事を
理解する知能。三本の剣は集まってきた数匹によって、森の中へ投
げ込まれてしまっていた。ゆっくりと歩む、件の一匹。ファーガス
は剣に予備があるが、他の男子二人は顔色から推察するに無いのだ
ろう。
しかし、奴はファーガス達を素通りした。見定める様に一人一人
の事を何秒か見つめては居たものの、歩みを止めはしなかった。奴
は、とうとう辿りつく。そこには、ソウイチロウが地面に倒れてい
る。
﹁な、何をするつもりだ﹂
カーシー先輩が、震える声で言った。ヘル・ハウンドは何の反応
も示さず、ソウイチロウの襟媚を掴んで、引き吊り始める。
無言で、全員が見守った。奴はソウイチロウを、ファーガスの目
の前に落した。
﹁⋮⋮俺に、託すって事か?﹂
ヘル・ハウンドは一度吠える。肯定であると、ファーガスは直感
する。
﹁す、少し待ってくれ。一体全体、どういう事なんだ﹂
574
カーシー先輩が動いた時、ヘル・ハウンドは牙を剥いた。低く唸
り始めると、取り囲む大軍がじりじりとこちらによって来る。険悪
なムードに、動ける者は少ない。例外を上げるならば、当のファー
ガスや、気に留めないハワードくらいのものだ。
﹁言わんでもわかるでしょう? 先輩﹂
﹁だが、ブレナン先生はこいつに殺されたんだぞ! 君も世話にな
ったとか言っていたじゃないか!﹂
﹁それとこれとは話が別ってやつですよ。だから、ここで話を付け
ちまおう。⋮⋮グリンダー。お前はブシガイトを、どうするつもり
だ﹂
﹁そんなの、病院に入れるに決まってる﹂
﹁そうじゃねぇよ。そいつが抱えた罪は、どうやって償わせるって
事だ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ソウイチロウだけが、悪いとは思えない。しかし、司法に任せれ
ば貴族の権力によって、無理やりに有罪に持って行かれかねない。
言葉に詰まったファーガスに代わり、ベルが答える。
﹁それは、司法に任せるしかないと思う﹂
﹁ベル!?﹂
575
﹁ファーガス、君の考えていることは、何となく分かる。けど、我
がグレートブリテンはそこまで腐ってはいないはずだ。それに、い
ざとなっても手はある﹂
﹁それは、君の家の力で無罪に持っていくという事かい?﹂
﹁違います。無理やり有罪に持って行こうとする人間を、退けるだ
けです。私は、私の父に不正を行わせることは出来ません。しかし、
公正さを保つよう言うだけならできます。⋮⋮なる様にしか、なり
ません。それでもあなたは、無理を通そうというのですか?﹂
難しい顔で向き合い、駄目押しにベルは視線を周囲にやった。ヘ
ル・ハウンドたちは少しずつ、着実に近づいてきている。ここで断
れば、ソウイチロウ以外の命もここで失われることになるだろう。
﹁⋮⋮﹂
拒むことは、出来なかったようだ。下唇を噛み締めながら、彼は
下を向く。﹁分かった﹂とだけ、絞り出すように言った。ヘル・ハ
ウンドたちが退いていく。
担ぐのは、消去法でハワードになった。嫌そうな顔をしていたが、
カーシー先輩がソウイチロウに近づけばヘル・ハウンドたちが唸り
出す。
下山中、応援に呼んだ先輩方と合流し、事情を話した。襲い来る
人は居なかった。雰囲気を出した人は居たが、その度に獣の唸り声
がそれを諌めた。
しかし、一件落着とはいかない。この後にこそ、これまでと違う、
576
複雑な戦いがあるのだ。ファーガスは、その場に置いては無力なの
だろう。けれど、何も出来ない訳ではない。
カーシー先輩を見た。時折、彼はハワードに背負われたソウイチ
ロウに目を向ける。そこに込められた思いの丈は、想像もつかない。
空模様は、変わっていた。風も強い。もうすぐ吹雪が吹くのだろ
うと、ファーガスは思った。
577
閑話1 とある病室にて
ソウイチロウの一件は、彼の無罪に終わった。
だが、それは勝訴ではなかった。少なくとも、彼はそのように自
嘲気味に微笑した。
ファーガスとソウイチロウは、それぞれ病院のお世話になること
になった。ファーガスは片腕の極端なまでの骨折。山から帰還後す
ぐに病院に担ぎ込まれ、緊急手術を行わなかったら壊死していたと
告げられた。当時はそんな大げさな、と青ざめた少年だったが、翌
日からは痛みにうなされてろくに眠れたものではなかった。
対するソウイチロウは、体の節々にガタが来ていたのだ、と言う
風に彼は語った。具体的に言えば、栄養失調、折れた後自然回復︵
聖神法による補助含め︶によって間違った繋がれ方をした骨が数か
所、更には精神的な幻覚症状がちらほら、と言う具合で、確かにガ
タが来ていたらしいと納得したのを覚えている。
だが、ファーガスは数度の手術で何とか再び使い物になる程度に
回復するだろうと医師に約束されたし、ソウイチロウはソウイチロ
ウで適切な治療を施していけば、新学期が始まるまでには全快でき
るだろうと言われたらしい。
各自、当初は個室だったが、あの一件から一カ月経った今では同
じ大部屋に移されることになった。ファーガスは歓喜し、ソウイチ
ロウも思わずと言う具合で、相好を崩すのを堪えきれていなかった。
578
あの事件のことを尋ねると、語りにくそうにしながらも、遠回り
に語ってくれた。途中ファーガスが察して押しとどめても﹁聞いて
ほしい﹂と強く言われ、ファーガスは覚悟を決めた。
彼は、核心的なことを言わなかった。だが、ファーガスはベンの
一件もあって、言えないのだと悟った。彼が挙げたのは、前提とし
て自分が亜人とのハーフであることと、やむを得ない事情によりア
メリカ行でなくイギリス行の船に乗ってしまったこと。とりあえず
はイギリスのホームステイ先で平穏に暮らしていたが、亜人への差
別意識をなくそうという考えの教官に様々な報酬と提案を持ちかけ
られ、騎士学園に入ったこと。手違いでそれが露見したこと、その
教官が勝手な行動を起こしたとして懲戒免職を食らったこと。
その先を、彼は語らなかった。言うまでもなかったとも言えたし、
語ろうとしてもファーガスが押しとどめたことだろう。何故露見し
た時点で退学にならなかったのかが酷く疑問だった。その理由を、
ソウイチロウはこう語った。
﹁ファーガスはさ、例えば、悪い事をしたけど、罰を受けていない
人が近くに居たらどうする?﹂
﹁どうするって⋮⋮。そんなの、悪さにもよるだろ﹂
﹁うん、そうだ。悪さによる。でも、人間によってその悪さの基準
っていうのが変わるんだよ。その具体的な悪さが確定すれば、あと
はそれを受け取る側が、裁くべきとかそこまでじゃないとか決める。
教師側は、多分僕への悪感情が騎士候補生たちのプラスになるっ
て見たんだろうね。だから罪に問わなかった。問う必要がなかった
といってもいい。庶民上がりの特殊な子たちも、どうでもよかった
んだろうさ。︱︱逆に、根っからの貴族である騎士候補生は、いま
579
だ亜人とのハーフが騎士学園に在籍しているのが、⋮⋮﹂
﹁ソウイチロウ、無理しなくていい。むしろ、放校させられなかっ
た理由を語るうえでは口が動き過ぎなくらいだ﹂
﹁⋮⋮そうだね、今日は口の滑りがいいみたいだ。ともかく、そん
な感じ﹂
﹁ところで俺は報復行動として誰をぶち殺せばいい?﹂
﹁ぷっ、あはははは⋮⋮。止めてよ、殺すなんて。あの子たちはま
だ子供なんだから﹂
﹁⋮⋮自分たちを虐めた奴らに、そんな事を言えるのか。お前﹂
﹁何にも抵抗が出来なかったら、こんな事にはなっていないよ。確
かに一時前世のことを忘れるくらいだったけど、⋮⋮あいつらの驚
く顔は、ちょっと爽快だった﹂
ファーガスは、ソウイチロウの殺人は正当防衛で片づけられたと
聞いていた。凶器は木剣。襲い来た教官の口の中に、剣先を脳に至
るまで深く突き刺したのだという。その後逃走し、紆余曲折の末今
に至るのだと。
そのあとは、聞きたいことも聞けたとして雑談に興じた。それぞ
れの明るい思い出話を語り合っていると、すぐに消灯時間が訪れた。
ベルが訪ねてきたのは、その翌日。面会が可能になった二日後だ
った。個人部屋に居る時は面会謝絶状態とされていたのである。常
に痛みがあって、悶え続けていたからだ。
580
痛みが完全に引いたのと同時に、面会謝絶が解かれ大部屋になっ
た。そしてソウイチロウとちゃんとした再開を遂げたのだ。
ベルが来たとき、ソウイチロウはちょうど寝ていた。他の病室の
人たちもそれぞれ寝るなりテレビに没頭するなりで、非常にありが
たいタイミングだ。
現れたベルは私服だった。白を基調とした服で、ともすれば消え
てしまうのではと危惧させられるほどに儚げな印象を、少年に抱か
せる。
﹁ファー、ガス﹂
少女は少年を見つけて、酷く複雑な表情をした。嬉しさに頬を緩
ませるようでもあり、安堵に瞳を濡らすようでもある。彼女はそこ
に立ちすくみ、動き出せないでいた。ファーガスは戸惑って、声を
かけると彼女は手で顔を覆いながら肩を震わせる。
﹁良かった⋮⋮! 面会謝絶なんてことになっていたから、何があ
ったのかって、心配で⋮⋮!﹂
ベルはゆっくりと近づいて来て、ファーガスの手を握った。オー
ガにボロボロにされ、壊死しかけた腕だ。それを、痛みの無いよう
優しく包んでいる。
﹁ごめんなさい。私がもっと早くみんなを見つけられれば、ファー
ガスもこんな目に合わずに済んだかもしれないのに⋮⋮﹂
﹁そんなの気にするなよ。こんなのはアレだ、女の子を守った名誉
581
の負傷とか思っとけば、特に苦痛でもなかったさ﹂
﹁ううん。違う、私は、そういう事じゃなくて⋮⋮﹂
少女は、首を振る。すると彼女の白銀のような髪が、尻尾のよう
に揺れた。彼女は口を声なく蠢かし、少し下唇を噛んでから、瞼を
強く瞑ったのち見開く。
﹁私は、ファーガスを避けた。別に、嫌いとかそういうことで避け
てた訳じゃないんだ。でもそれに気付いた時、ファーガスは驚いた
と思うし、多分怒ったとも思う。それなのに、私にあんなに優しく
してくれた⋮⋮。それが嬉しくて、申し訳なくて﹂
﹁ベル⋮⋮﹂
﹁だからね、私も少しずつ勇気を出そうって思ったんだ。もう、フ
ァーガスを避けるなんてことはしないから、昔みたいに一緒に居よ
う?﹂
涙を目端ににじませつつも、ベルは小首を傾げて花のように笑っ
た。ファーガスは、これだと思う。これこそが、自分の見たかった
彼女の笑顔なのだと。
そう思うと、何だか頬の緩みが抑えきれなくなった。ベルはそれ
をしばしきょとんと見つめてから、慎ましやかに吹き出す。そして
くすくすと笑みを零しながら、﹁おやつをもらった犬みたい﹂なん
てことを言う。
﹁あ、そういえば、今回のオーガ殺しとかブシガイト捕獲の功績を
たたえて、一つだけ無理のない範囲で特権を許すって学園長先生が
582
言っていたよ﹂
﹁うーんと? 正直イメージが湧かないんだけど﹂
﹁簡単に言うと、食堂のお菓子を一種類に限り自分だけ無料にする
とか、武器を買う時十パーセント値引きとか。数年に一度そういう
人がいるらしいんだ。⋮⋮本当、ファーガスは凄いよ﹂
﹁何を感慨深そうに言ってんだよ。トドメ刺したのベルのくせにさ﹂
﹁ファーガスあってこそだよ。それで? 私が伝えておくから、何
がいいか考えてみて﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ファーガスは腕を組んで考えてみる。ベルの言っていた菓子だの
武器だのという事には、あまり欲がそそられなかった。確かに十パ
ーセント引きは大きいが、しかしそこまで欲しいとも思わないのだ。
その時、ふと彼に天啓が届いた。少年は息を呑む。﹁そうだ!﹂
と声高々に言った。
﹁アメリアだ!﹂
﹁⋮⋮アメリア?﹂
﹁ファーガスの大切な人なんだっけ﹂
ベルの疑問符に、カーテンで仕切られた隣から声が聞こえた。い
つから起きていたんだソウイチロウ、と恥ずかしくなるが、ベルの
583
﹁えっ﹂と言う声が少年の気の逸れを妨げる。
﹁だっ、大事な人?﹂
﹁大事な人っていうか、確かに大事だけど⋮⋮﹂
﹁そ、そうなんだ⋮⋮﹂
何だか話が奇妙な方向へ向かっているぞ、とファーガスは表情を
渋くする。対してベルは、心なしかショックを受けているようにす
ら見えた。口を半開きにして、高い頻度で瞼を開閉し、気まずそう
に視線をぐるぐる泳がせている。
︱︱これ、アメリアは猫って言った方がいいかななどと考えてい
ると、ふっとベルが穏やかな表情になる。まるで何もかも悟ったよ
うな面持ちだ。それにファーガスは安心し、話題を変えようとする
と、ベルは﹁私、決めた﹂と言う。
﹁ハワードとの婚約、承諾してくるね?﹂
﹁ちょっと待て! なんか絶対勘違いしてるお前!﹂
慌ててベルを引き留めると、隣のベッドから押し殺したような笑
い声が漏れてくる。﹁お前ふざけんなよソウイチロウ!﹂とカーテ
ンを開け放つと、顔を真っ赤にして震える少年の姿があった。
黒髪に黄色い肌と言うアジア人の特徴と、白人でも珍しいのでは
ないかと言うほどすがすがしい青色の目。ソウイチロウはこちらを
ちらと見ながら、笑いをこらえつつ﹁ごめんごめん﹂と片手謝り。
584
﹁件のダスティンさんが、聞いてた以上に真っ直ぐな子っぽかった
から、少しからかいたくなっちゃってさ。いいじゃない。いいコン
ビだと思うよ? ファーガスも真っ直ぐだし﹂
﹁つまるところアレだよな、俺の事もからかいやすいって言ってん
だよな﹂
﹁おっと、なかなか頭が回るじゃないか﹂
﹁今俺スゲェ馬鹿にされてる。ベル、あとで一緒にソウイチロウの
こと闇討ちしてやろうぜ﹂
﹁いやそんな、闇討ちって⋮⋮。︱︱え? 彼、ソウイチロウって
いう名前なの?﹂
﹁気づかれてなかった凄い! イギリスでは目立つ方だと思ってた
のにその辺りのプライド僕ぽっきりだ!﹂
﹁え、え、え。本当に? 彼が、ブシガイト⋮⋮なの?﹂
﹁数日間おかしかったらしいけど、昨日会ったらすでにこんなんだ
った﹂
ファーガスは苦笑い気味に肯定する。ベルはソウイチロウを、酷
く唖然として見つめていた。対する彼は少々タジタジだ。
﹁本当に君が、ブレナン先生を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あー、えっと﹂
585
ソウイチロウは、ベルの問いに狼狽した。ファーガスはため息を
ついて、﹁ベル﹂と窘める。すると彼女はすぐに理由を悟って、﹁
申し訳ない﹂と頭を下げた。﹁こちらこそ﹂と彼は苦笑する。
﹁でも、びっくりした。噂に聞いていたブシガイト像とは全く別物
じゃないか﹂
﹁何て言われてたの?﹂
﹁﹃常に背後を注意しろ、木の上に影が見えたらブシガイトだ﹄っ
て﹂
﹁怖っ! 何だよそれ、人を指して失礼だな。なぁ、ソウイチロウ﹂
﹁え、いや、うん⋮⋮﹂
﹁心当たりあんのかよ!﹂
ソウイチロウは困った風に窓の外を仰いで﹁今日はいい天気だな
⋮⋮﹂なんてことを言っている。完全に黒だった。
﹁本当さ、お前いろいろ謎多すぎんだろ。勝訴の理由がなんだっけ、
﹃魔法を使わなかったことを根拠とした、正当防衛の証明﹄だのな
んだのだっけ?﹂
﹁勝ってないよ、ファーガス。引き分けたんだ。本当なら、スコッ
トランドクラスは解体されていて然るべきだったし、僕自身もそれ
を望んで使わなかった節がある﹂
﹁⋮⋮いや、騎士学園のクラスが解体されるなんてことは有り得な
586
い。UK全国で一つしかない騎士学園のクラスが解体されるなんて、
言ってみれば今の我が国で革命が起きるようなものだよ。対亜人の
後進育成に大きな損害を被るし、もしそうなればドラゴンがこの国
を蹂躙することになる﹂
﹁確かに学園広いからなー。敷地内って言えば、繁華街の方も一応
含まれるんだろ?﹂
﹁ポイントで買い物ができるくらいだから﹂
ファーガスとベルの雑談の狭間、ソウイチロウは、少し意気消沈
した風に言葉を止めた。それは、数秒の事だった。ファーガスはそ
のことをおぼろげに感じ、ベルは気付きもしなかっただろう。そし
て、彼がすぐに元気に話し出す所為で有耶無耶にされてしまうのだ。
﹁で、話戻るけどアメリアちゃんどう? 元気?﹂
﹁あっそうだ! 結局勘違いってどういう事なの、ファーガス!﹂
﹁猫だよ! 俺の愛猫にして愛娘! 要は猫を飼いたいってだけだ
から、ハワードの嫁入りは考え直そうぜ、なっ⋮⋮?﹂
﹁最後の方必死感あふれてたね﹂
﹁あ、何だそうか猫か⋮⋮。触らせてくれる?﹂
﹁もちろん!﹂
﹁なら、止めておきましょう﹂
587
ちょこっと偉そうに腕を組んで満足げにそう言ったベル。そんな
仕草がファーガスの心を力強く鷲掴み、強く揺さぶっている。だが
初心なる少年はそんな事で行動は起こせない。とりあえず全てを見
透かしたようににやにやと笑っている総一郎を、後でのしてやろう
と思っただけだ。
﹁で、結局特権はペットでいいんだね?﹂
﹁ああ、それで頼むよ、ベル。⋮⋮いやぁ、でも楽しみだなぁ。ア
メリア。早く会いたいアメリア!﹂
﹁ファーガス。僕もこんなこと言いたくないけど、親友だからあえ
て言わせてもらうよ。超キモイ﹂
﹁うるせぇシスコン!﹂
﹁ファーガス、言葉に出さなければ気持ち悪くないんだよ?﹂
﹁ちょっと待ってくれ。ベルにそんな困り顔で言われるとマジでへ
こむ﹂
﹁⋮⋮ふふっ、ごめん。私も少し、ファーガスをからかってみたく
なって﹂
﹁あのなぁ⋮⋮﹂
茶目っ気たっぷりに言われると、ファーガスも怒るに怒れなかっ
た。彼女は暢気にくすくすと笑っている。
そんな時、ベルはハッとして、﹁そういえば﹂とソウイチロウに
588
問いを投げかけた。
﹁あの時のヘル・ハウンドって、結局どういう事だったんだ?﹂
﹁あの時?﹂
﹁ソウイチロウを保護したあの日に、ヘル・ハウンドが滅茶苦茶集
まってきて、﹃お前を殺すな﹄みたいに言ってたんだよ﹂
﹁言ってた?﹂
﹁翻訳機があってさ﹂
﹁ほぅ。⋮⋮心当たりがないわけじゃないな。ボス狼っぽいの居た
でしょ﹂
﹁確かに、居たね。私が作った結界が簡単に破られてしまった﹂
﹁そのヘル・ハウンドのことを、僕は勝手にグレゴリーって呼んで
るんだよ。あの山ではライバル的な関係でね。何で助けてくれたの
かはちょっと分からないけど、そんな頭のいい行動をとるっていう
なら、間違いなくグレゴリーだ﹂
﹁グレゴリー⋮⋮。中々いかつい名前だな﹂
﹁最近は停戦協定を結んでたから、そのお蔭かな﹂
﹁停戦協定ってなんだよ⋮⋮﹂
﹁まぁ、色々あってね﹂
589
ソウイチロウは肩をすくめて追及を躱した。語りたくないことな
のか、と訝りながらも、ファーガスは引き下がる。
その後、また来ると言い残して去っていったベルをベッドの上か
ら見送り、扉が閉められるとともに何だか華やかさが失われた気が
してため息が漏れた。次いでソウイチロウをぎろりと睨む。﹁悪か
ったって。次はもっと巧妙にやるから﹂何に対する巧妙さだ
﹁だってほら、あの子って数年前に言ってたファーガスの好きな子
でしょ?﹂
﹁何でバレてんだよ!?﹂
﹁いや、見てたらわかるよ。ついでにあの子もファーガスにべた惚
れっぽかったし﹂
﹁いや、そんな、そんな都合のいいことあるわけが、⋮⋮いやでも、
︱︱いやいやいやいや! そういう甘い考えは自分を傷つけるだけ
なんだぞ、ファーガス!﹂
﹁とはいえ君もダスティンさんもお互いに自分の片思いだって信じ
込んでるからそこもやっぱりお似合いか。よっ、鈍感カップル!﹂
﹁尻に手ぇ突っ込んで奥歯がたがた言わしたろかお前!﹂
﹁凄い懐かしいフレーズ聞いちゃったよ、今日は結構いい日だな﹂
押しても引いてもどうにもならないソウイチロウだった。まった
く引いてないけど。
590
﹁あ、そうそう言い忘れてたことがあったんだ﹂
ぽん、と唐突に、彼は上に開いた手のひらに拳を落とす。そして
こちらに仏のような笑みを浮かべた次の瞬間、カッ、と厳しい表情
になった。
﹁シスコンで何が悪いっていうのさ! 可愛いじゃん白ねえ! あ
のいっつもすっとぼけてる風で意外と人生観出来つつあるところと
か!﹂
﹁言うの遅ぇよ! ⋮⋮っていうか何、シラハもうそんな境地に居
んの? 早っ。アレか、天使だからなのか?﹂
﹁僕ら転生組でも結構手間取ってるっていうのにね。何でかな、生
まれ変わる前とか結構そういうビジョンしっかりしてたはずなんだ
けど﹂
﹁体が子供なんだから、脳も子供ってこったろ﹂
﹁他人の記憶って訳ではないんだけどさ、どうにもままならないこ
とってない?﹂
﹁ある。けど俺の前世自体も結構ガキだったから、強く実感ってい
う事はないんだよなぁ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
ソウイチロウは相槌を打ちつつ、手を口に当てて深く考え込んで
いるようだった。何か、思うところでもあったのか。
591
まぁいいや、とファーガスは投げ出した。それぞれの人生には、
それぞれの苦難、苦悩がある。それは決して他人には理解できない
し、理解しようとしてもいけないのだ、という風にファーガスは捉
えている。人間には分相応と言うものがあって、それを超えてはい
けないのだと。
ファーガスは、ベッドに沈み込んで目を瞑った。飯が一等不味い
病院で、唯一評価できるのはいつでも眠っていい事だった。
592
3話 少年たちの寸暇︵1︶
気に食わないオッサンだった。
黒縁メガネをかけた五十代の中年。痩せてはいるものの、それ以
外に好意的な目を向けろというのも酷な輩だ。上物のスーツを着て、
恐らく日本車でない高価そうな車に乗っていた。金持ちなのだろう。
しかし、それにしてもこの淀んだ眼はどうにか出来ないものか。
﹁何だ、お前は。人の車を薄汚い目で見るんじゃない﹂
どん、と強く押された。力が入らず、無防備に倒れた。その中年
はそれを見て、鼻で笑う。そのまま車に乗り込み、エンジンがかか
った。そしてタイヤが回転する。だが、進まない。
少年は、車の後ろを持ち上げていた。決して筋肉によるものでは
ない。車の中の中年がこちらを見る。その時、奴がどのような反応
をすれば、少年は満足したのだろう。
奴は、何か侮蔑的なことを言った。その詳しい内容は、死を跨い
だ所為かおぼろげだ。
ただそれが、当時の少年の胸に酷く響くものだったことだけを覚
えている。
気づけば少年は激昂し、車を破壊してその中年の脊髄を引き抜い
ていた。それを汚らしいと車にぶつけると爆発し、破片が飛んで一
人死んだ。ここは、人通りが多い。都心の駅の近くだった。
593
少年はもはや正気ではなかった。自分でさえ理解しきれない激情
に呑まれ、あらゆるものに殺意を振りまいた。逃げ惑う民衆を尻目
に、ここ一帯から逃げ出すという事を不可能にした。それもまた、
車を持ち上げたのと同様に可能だった。
誰から殺そうかと吟味していると、逃げ出さず、必死に携帯に向
き合う一人の若者がいた。彼はちらとこちらを見やり、更に焦った
風に携帯で何かをしていた。その瞳にあるのは、とても純粋で真っ
直ぐな強い光だ。
それは、幼き日のソウイチロウによく似ていた。
少年は、ひたひたと近づいていく。あと三歩と言うところで、若
者は携帯を落とした。それを、拾おうともしない。見れば送信完了
の文字が出ていて、用件は済んだのだと少年は理解する。
﹁何で、こんな事を﹂
若者の問いに、いくつもの言い訳が喉まで至った。しかしそれら
は纏まる事なしに、意味の判然としない音の羅列として口から出た。
同時に、少年の手が若者の頭蓋をつぶした。あまりにも、呆気なか
った。
その時、ふと少年は我に返ったのだ。自分はなぜ、彼に言い訳な
どしようと思ったのか。つぶれた死体を見た。︱︱止まれるとした
らここだったのだ。そのように、悟った。
つい、と首を上げた。すると、ガラスに映った自分の姿が見えた。
︱︱いいや。それはもう、ファーガスの体ではなかった。黒い髪。
594
黄色い肌。青い、まるで獣のような血走った目。前世の自分と、山
で再会したソウイチロウが完全に被る。彼は踵を返し、人を殺すた
めに駆け出していく︱︱
﹁行くな、ソウイチロウ!﹂
ファーガスは、思わず飛び起きていた。薄暗い部屋。カーテンか
ら漏れ出る光は弱く、まだ夜明けには時間があるのだろう。
腕が痛んだ。オーガにやられた腕だ。病院に運び込まれてから、
何日が立ったのかも分からない。腕の痛みは覚醒と同時にますます
酷くなり、最後にはうずくまって動けなくなったほどだ。
ソウイチロウと再会した、二日後の朝の事だった。
ファーガスは、ソウイチロウよりも早くに退院することになった。
怪我の症状などはファーガスの方がはるかに酷かったが、治療はむ
しろ簡単だったらしい。ソウイチロウは、それよりも少し遅れて退
院した。退院祝いだとチョコバーを買ってやると、数日後朝の修練
でジュースを奢りかえされた。
そんな風にして、ファーガスは以前よりもスコットランドクラス
に赴く機会が増えた。だが一方で、絡まれることもあった。
二人の少年が、目の前に立っていた。
一人は中肉中背で冷めた様子をしていて、もう一人は背が高くて
595
唇が厚く、どことなく馬鹿っぽい印象を受ける。
﹁⋮⋮えっと、それで何だって?﹂
ファーガスは、頭を掻きながら面倒臭げに言った。実際、その通
りなのだ。耳が悪い振りで立ち去ってもらおうという算段が在った
が、生憎先方には通じなかった。
﹁だから、ブシガイトと関わるのを止めろって言ってるんだよ。迷
惑なんだ。それにお前聞いたぞ。イングランドクラスなんだろ? 何でスコットランドクラスに来てるんだ﹂
﹁あー、ヒューゴとか言ったっけ。俺一応候補生代表の一人みたい
なものでさ、ほら、偶に食堂とかで他クラスの先輩を見た事って無
いか? ああいうのは大抵代表生で、まぁ、何だ。暗黙の了解みた
いなのがあるんだよ﹂
﹁お前が居ると邪魔なんだってのが分かんねぇのか﹂
﹁邪魔って何が﹂
﹁それは、その⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ホリス。しばらく黙っててくれ﹂
小柄なヒューゴが、ため息を吐いた。ホリスは唇を突きだして、
渋く黙り込む。
ファーガスは煮え切らない二人にいい加減苛立ってきて、面倒だ
からと核心をついてやることにした。
596
﹁ソウイチロウは、亜人とのハーフだからって差別を受けてたらし
いな。それがどんなのかは知らないが︱︱そいつらを見つけたら、
俺はぶっ殺してやろうって決めてるんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ヒューゴ。やっぱりこいつ︱︱﹂
荒々しい雰囲気を、二人は出してきた。しかし、ファーガスは室
内とはいえ丸腰ではない。室内で剣を抜けば事だが、盾だけでも負
ける相手とは思わなかった。困るのは、他クラスの領域で喧嘩をし
たという事が、教官に知られる事である。
その時、背後から声が掛かった。
﹁ヒューゴ、ホリス、何をやっているんだい?﹂
振り向くと、そこには色素の薄い金髪をした少年が立っていた。
皮肉っぽい笑みをたたえて、ファーガスに目を向ける。
﹁おや、君は⋮⋮確か、ブシガイトを捕えたらしいグリンダー君じ
ゃないか。聞いてるよ。オーガをほぼ独力で倒したんだろう? 素
晴らしいね。普通ウェールズ出身のイングランドクラス生は少し聖
神法が劣るっていうのが通説なのに﹂
いきなり褒め殺しにかかられ、ファーガスは少し怒気を霧散させ
られた。﹁い、いや、それほどでもないって﹂と恐縮すると﹁いや
いや、自分の実力は素直に打ち出した方がいいよ﹂と肘で軽くつつ
かれる。
597
﹁おっと、申し遅れたね。ぼくの名前はギルバート・ダリル・グレ
アム二世。これからは仲良く頼むよ︱︱っと。そういえば、ウェー
ルズで一つ聞きたいことがあったんだ﹂
﹁おう、何でも聞いてくれ﹂
気が大きくなっているファーガスは、胸を張って答える。それに
グレアムは嬉しそうに首肯して、この様に問うた。
﹁小耳に挟んだんだけど、ウェールズ人って寂しさを紛らわすため
に羊とセックスしているって本当かい?﹂
﹁はぁ!?﹂
あまりにも脈絡がなさ過ぎて、ファーガスは怒りを通り越してた
だただ驚愕した。そのあとに馬鹿にされたのだと気づいたが、﹁お
い、人に対して失礼だろ﹂と言う声にも何処となく力がこもってい
ない。
しかし、そもそも非難されること自体が想定外だったのか、グレ
アムと名乗るその薄い金髪の少年は、気まずそうに肩をすくめる。
﹁冗談が通じないね、君は﹂
﹁冗談にしても過激だから怒ってんだよ。これで怒らないウェール
ズ人は少ないぞ﹂
呆れたように首を振るグレアムに、ため息を吐く。﹁それで﹂と
彼は話を戻した。
598
﹁不穏な表情をしていたけれど、一体何を話していたんだ。⋮⋮ヒ
ューゴ、ホリス﹂
﹁こいつらが、ソウイチロウに近づくな、ってんだと。理由も話さ
ないから対処に困ってんだよ﹂
﹁それは何とも、迷惑をかけたね﹂
﹁ギル!﹂
大声で名を呼び、彼の元へ駆け寄る二人。小声で話し合っている
が、何となく三人の力関係が見えてきた。見たところ、グレアムの
意見が通らないことはなさそうだ。
三人か、とファーガスは思う。多勢に無勢。先ほどの言葉は当て
ずっぽうだったが、事実そうなのかもしれない。とはいえ、グレア
ムはそこまで後ろ暗そうな事をするタイプでもないだろうとは思っ
たが。
彼は虐めをするというよりは、虐める方も虐められる方もどちら
も嫌悪しながら見て見ぬ振りをする。そんな類の人間に見えた。
﹁二人が邪魔をしたね、グリンダー君。よく言って聞かせるから、
ここは許してくれないか?﹂
﹁いや⋮⋮別に、そこまで気を悪くしたわけじゃないしな﹂
﹁ありがとう。じゃあ、ぼく達はもう行くよ。怖い奴も来たしね﹂
599
﹁そうか、じゃあな﹂
軽く挨拶を交わして、グレアムは立ち去って行った。ファーガス
はそれを眺めながら、ぽつりと﹁怖い奴?﹂と呟く。
﹁あれ、ファーガス。どうしたの﹂
声に振り向くと、ソウイチロウが立っていた。それに﹁おう﹂と
明るく返す。
﹁飯を食いに来たんだ。どうせお前、一人だろ?﹂
言うと彼はぷっと噴き出して﹁悪かったね﹂と微笑しながら睨ん
でくる。それに数秒笑ってから、﹁食堂に行こうぜ﹂と指差して誘
った。
が、途中で気付いて指摘する。手に巻き付けられた包帯。そして、
繋ぎとめられた木刀。
﹁⋮⋮右手のそれ﹂
﹁ん? ︱︱ああ。護身用に、携帯してるんだ。僕ってほら、聖神
法苦手だから。ポイントの振り分けも盛大にミスってるし﹂
﹁知識はかなりあるのにな。何でそんなことになっちゃったんだ?﹂
﹁いやぁ、何かこう、手当たり次第に取ってたら⋮⋮やっちゃった﹂
﹁軽っ﹂
600
ソウイチロウは、聖神法について詳しい。病院でいろいろ助言を
もらったのだ。だが、スキルツリーを覗いた限りでは酷い物だった。
ハイド系はコンプリートしてあり、それ以外に攻撃力のあるものが
ない。というか、そもそもハイド系以外には﹃サーチ﹄が一つ取ら
れていただけだ。一番目にあるものだから、質も低いし範囲も狭い。
しかし、ソウイチロウがそんな下手な真似をするようには、ファ
ーガスには到底思えないのだ。理由を聞いてみようと思ったことは
あったが、なぁなぁではぐらかされてしまう。
辿りついた食堂の雰囲気は、少々異様な所があった。
来た時にはすでに、ではなく、来た瞬間から、である。もっと言
えば、ソウイチロウが足を踏み入れた時からだった。
︱︱予想していなかったわけではなかった。亜人を庇っただけの
ベンが自主退学に追い込まれたというのに、亜人とのハーフである
ソウイチロウが、しかも教官の一人を自衛のためとはいえ殺害した
にも拘らず放校処分を食らわずにいるのだから、それは風当たりも
ひどい物だろうと。
敵意の多さは、ベンの時の比ではない。少し身の危険を感じるほ
どのものだ。事実、彼の退院祝いに彼自身から告げられ、これから
は他人のように振る舞おうと持ちかけられた。ファーガスはそれを
突っぱねたが、確かにこれは、相応の警戒が必要かもしれない。フ
ァーガスの表情が、少しだけ硬くなる。
けれど、肝心のソウイチロウに気にした風は無い。意識している
ようでもなく、その心の強さに少し呆れた。食堂の給仕を行うメイ
ドはソウイチロウにも分け隔てない様子で、そこだけは安心できた。
601
﹁⋮⋮ソウイチロウ。やっぱり、お前は凄いよ﹂
﹁そんな事は無いさ。慣れただけだ﹂
ソウイチロウの察しはいい。頭の回転が、速いんだろうとも思う。
メニューを頼んでしばらく談笑していた。周りの事は、気にしな
い事にした。視線が痛いが、ここはイングランドクラスではない。
ソウイチロウと仲良くしていたという噂は、クラスが違えばそう伝
わる物ではないのだ。代表生などに知られない限りは。
﹁よう、グリンダー。あと⋮⋮ブシガイトじゃねぇか! お前こい
つと食ってたのか!?﹂
そう、代表生に知られない限りは。
﹁何でこんな時に限ってお前が来るんだよぉ!﹂
﹁抑揚豊かにそんな事を言うんじゃねーよ。なんかちょこっと同情
しちまいそうになるじねぇか﹂
頭を抱えながら言うと、奴は不機嫌そうに鼻を鳴らして視線をソ
ウイチロウに向けた。ソウイチロウはしばし奴と見つめ合っている
と、やがて納得したように﹁ああ!﹂と声を上げる。
﹁君アレだね、僕に刀傷入れたうちの一人じゃない? 凄いね、こ
の学年には君しかいなかったよ﹂
﹁ちょっと待て、ソウイチロウ。それは褒めるところでもないし、
602
親しげに話しかけるところでもない﹂
だがファーガスの突っ込みを、ソウイチロウは華麗にスルー。さ
らに身を乗り出して、この様に問う。
﹁そういえばさ、確か君お兄さんがいたよね。君と君のお兄さんの
コンビが一番きつかったなぁ﹂
﹁は? 兄貴?﹂
﹁⋮⋮多分カーシー先輩のことを言ってんじゃないか?﹂
﹁あの人は別にオレの兄貴じゃねぇよ!﹂
中々に嫌そうな表情でハワードは大きい声で否定する。でも確か
に言われるとそれっぽい。
﹁まぁまぁリトルブラザー。ちょっと座るといい。一緒にランチを
食べよう﹂
何だか包容力溢れる表情でハワードに着席を勧めるソウイチロウ。
何処となく悪戯っ子っぽい表情だ。何かやらかすつもりだなと思い
つつ、静観する。
案の定食って掛かるハワード。
﹁誰がリトルブラザーだ! 確かにオレには兄が居るが、それは別
にカーシー先輩って訳じゃない!﹂
﹁へぇ。そう言えばダスティンさんって許嫁居たんだよな。この子
603
?﹂
﹁そう。悔しい事にな﹂
﹁無視するんじゃねぇよ!﹂
﹁食事中﹂
﹁そうだぞハワード。食堂でそんなに騒ぐ奴があるか。とりあえず
座れよ﹂
﹁お前ら⋮⋮っ。チッ、分かったよ⋮⋮﹂
奇妙にずれた感情を浮かべて、丸テーブルを囲う少年三人。ファ
ーガスは少々心配そうな顔。ソウイチロウは紳士のような笑みを浮
かべ、ハワードはまるで小うるさい小型犬を思わせる状況だ。
多分ソウイチロウの老獪さが悪いんだと思う。
﹁というか、ブシガイト。お前あんだけ学園引っ掻き回しといて、
よくもまぁ軽々しく人の個人的な問題に首突っ込めるな﹂
﹁ファーガス、ビネガー取って。うん、ありがとう。︱︱そういえ
ば許嫁と半分恋人って事は恋敵なんだよな? そこの所どうなんだ
よハワード君﹂
﹁話聞けよ!﹂
ハワードの嫌味にソウイチロウはどこ吹く風。﹁僕考えたんだけ
どさ﹂と目を輝かせて言って来る。
604
﹁ファーガスの初恋の相手はダスティンさんで、それは今も継続中。
でもハワード君は親同士が認めた許嫁だ。⋮⋮なら、一周回って君
たち二人がくっつけばいいんじゃないかな?﹂
﹃はぁ!?﹄
どういう事だ。気配消してたのに矛先がこっちにも来たぞ。
﹁ちょっと待てちょっと待て! 何!? 何で俺まで巻き込まれて
んの? 余計な事言わなかったじゃん俺!﹂
﹁そういう問題じゃねぇだろグリンダー! お前何一人で助かろう
としてやがる!﹂
﹁いやぁ。でもさ、折衷案としては丁度いいと思うんだよ。勿論僕
にはそんな趣味は微塵たりともないし、想像するだけでも拒否反応
起こすけど、君たちがそういうのなら僕は応援するよ! 遠巻きに
!﹂
﹁遠巻くな遠巻くな! 俺はノーマルだからな、ソウイチロウ!?
ゲイなのはハワードだけだ!﹂
﹁おいグリンダー! お前出まかせもほどほどにしやがれ!﹂
﹁いや、でもカーシー先輩はゲイってお前言ってたろ? それにず
っと一緒にいるお前も逆説的にゲイって事に⋮⋮﹂
﹁アレは冗談だ!﹂
605
﹁あー、大体見えてきた。ファーガスはダスティンさんが好きで、
ダスティンさんはファーガスが好きで、ハワード君はそんな二人に
横恋慕﹂
﹁黙れブシガイトぉ!﹂
ハワードが爆発した。叫んで注目を集めた後、力尽きたのかがっ
くり項垂れて荒い息をついている。
﹁⋮⋮大勝利﹂
﹁流石大将﹂
ハワードに聞こえないよう小声でやり取りして、俯いてくつくつ
と二人は笑った。ハワードが復活と共に天井を仰ぎ見る。落ち着い
たように深く息を吐いて、﹁ブシガイト﹂と呼ぶ。
﹁お前、何であんな事になってたんだ? こんだけ﹃タノシイ﹄お
しゃべりができるような奴の姿じゃなかったぞ、アレは﹂
﹁⋮⋮巡り合わせが悪かったのさ。ファーガスの事を除いてね﹂
奴は横目で食堂内を見回した。嫌悪の表情でこちらにちらちらと
視線をよこす輩は多い。だが、手を出す者はいなかった。⋮⋮彼と
オーガとの戦いを見れば、分かるのだ。ここにいる全員で掛かって
も、ソウイチロウを倒すには心もとない。
ソウイチロウを倒すというのは、数の問題ではない。そんな風に
ファーガスは思う。きっと、本当に強い奴が一人いれば事足りる。
だが、その強い奴がなかなか居ない。
606
﹃能力﹄を使えば、圧勝だろう。しかし、そういう問題でもなか
った。
なにより、ソウイチロウは親友だ。
給仕が新しく来て、ハワードはビーフ&ギネスを頼んだ。だが奴
は、スコットランド風の味付けに顔を顰めて﹁まずくはねぇが﹂と
文句をつけ始めた。
607
3話 少年たちの寸暇︵2︶
ソウイチロウに会うのが、少し難しくなってきていた。
春は終わり、初夏に差し掛かっていた。ソウイチロウはまだ少し
寒がっていたが、この国出身の少年たちは時折上着を脱いで水を被
ったりと、楽しそうにしているのを見る。ファーガスもその一人で、
偶に思い切り日向でのんびりしたくなる。
だが、明るい季節とは裏腹に、問題もあった。きっと、スコット
ランドクラスで自分の存在が知られ過ぎてしまったのだろう。事実
そのようで、すれ違いざまに嫌悪の視線を向けられることも多くな
った。
ファーガスは考え込む。スコットランドクラスに行くと、偶に突
っかかってくる輩などが居てソウイチロウに会えない事がある。い
い方法が無いものだろうかと考え、あそこでなければよいのだと思
った。
勿論、アイルランドクラスはハワード曰くソウイチロウの知名度
が高いらしいから避けなければならない。しかし、イングランドク
ラスならその限りではなかった。山狩りに真剣に参加する騎士候補
生も少なかったようで、顔を知らないものも多い。
今日は、そういう集いだった。イングランドクラスの、複数ある
中で一番狭く人気のない中庭。だが、風景は悪くない。単にここに
至るまでの道が入り組んでいて、面倒だからと違う場所へ向かう人
が多いだけだ。
608
そこに、ソウイチロウを連れて来た。ベルも、彼女の取り巻きか
ら借り受ける形で来てもらった。彼女らはベルの実家の方の従者で
あるらしく、何よりもまずベル自身の意思を尊重すべし、と言われ
ているらしい。
数分後中庭に戻ると、二人は大盛り上がりと言うほどではないが、
何だか静かに話し込んでいた。割り込む前に、少し聞き耳を立てて
みる。
﹁つまるところ、どんなスポーツでも根幹になるのは体重をいかに
乗せられるかってことなんだよ、ベル。相当体力使うけど、体をお
もりの付いたバネみたいにして走ると、一歩一歩の伸びが大きくて、
遅く見えるけど普通に走るよりも速かったりするんだ﹂
﹁いやいや、だからって﹃ハイ・スピード﹄に勝てるっていうのは
言い過ぎだよ、ソウ。聖神法を使っているんだから、言ってみれば
車と同じなんだよ? それにただの走りで追いつこうだなんて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前ら打ち解けるのものすごい早かったな﹂
﹁あ、お帰りファーガス。そしてアメリアちゃんお久﹂
﹁わ! 何々? そのかわいい子がアメリア!?﹂
﹁そうだ、とうとう昨日やって来たんだ! 我が愛しのアメリアが
!﹂
ババーン、と高く掲げると、肝心の愛猫は眠たげに欠伸する。そ
れに対して﹁はにゃーん⋮⋮﹂と完全に無意識で蕩けきった声を漏
609
らすベルは、予想通りの猫好きらしい。入学当初の硬さはどこへや
らだ。
アメリアは芝生に置かれると、きょろきょろと忙しなくベルとソ
ウイチロウの間で視線を彷徨わせ、結局ファーガスの膝に戻ってき
た。それがファーガスには堪らなく可愛らしい。ちなみにベルはシ
ョックだったのかちょっと涙目である。仕方なく、彼女に直接アメ
リアを託す。
猫の鳴きまねを繰り返しながら手元のアメリアと戯れるのを見て
いると、ベルのポニーテールにまとめられた一房の銀髪は、まるで
猫の尾のように見えた。昔の無邪気さが全く失われていない。むし
ろ、猫と戯れている今の方が素なのかもしれない。
﹁⋮⋮何だかうれしそうだね、ファーガス﹂
﹁え? あ、いや、あはははは⋮⋮﹂
気を抜いていたところでのソウイチロウの言葉だったから、ちょ
っと戸惑ってしまった。見れば彼は悪戯っぽい表情をしていたもの
の、すぐに緩んで、安らいだような顔つきになる。﹁お前も何だか
幸せそうだな﹂と言ってやると、臆面もなく﹁まぁね﹂と返された。
﹁こういう、時間がゆっくりとすぎる感じは、すごい好きだ。何だ
か懐かしくなってくる﹂
﹁⋮⋮騎士学園を卒業したら、すぐなんだろ?﹂
﹁うん。それまでの辛抱だ。︱︱ああ、待ち遠しいなぁ﹂
610
椅子にもたれて、ソウイチロウは薄雲が点々と泳ぐ青空を仰いだ。
この空は、アメリカのそれに続いている。
ソウイチロウがこの学園に入ることを了承した理由の一つに、卒
業後の渡米と、アメリカでの姉妹校への編入と言うものがあった︵
もちろんUKでないから騎士学園ではない︶。騎士学園で六年間を
過ごせば、それが叶う。もっとも、当初の彼を騎士学園に通わせ続
けるメリットは、彼曰く形骸化していたらしいのだが。
辛いことがあったという事だけ、ファーガスは知っている。しか
し、そこに具体性はないのだった。今の彼から感じるのは、トラウ
マを背負ったとかそういう生々しい重みよりも、やるせない寂寥が
ふさわしく思う。
ベルからアメリアを取り上げて、ソウイチロウに渡した。残念が
る少女に遠慮しようとしていたが、いざ受け取ると﹁可愛いね﹂と
少し泣きそうな顔で喜ぶのだった。
そんな朗らかな集いの帰り道、ファーガスは三人の先輩方に呼び
出された。
﹁⋮⋮それで、何でこんな所に?﹂
イングランドクラス教室棟を貫通する階段の、一番下にファーガ
スと数人の先輩が立っていた。少し歩くとテラスがあるのだが、こ
こは出入り口としてはあまり使われない場所で、何処か日陰の仄暗
さが染みついている。
まるで不良に絡まれているみたいだ、と少しそわそわしてしまっ
た。貴族だから、そんな事をするような者は少ないのだろうが。い
や、ソウイチロウの件を鑑みると、居る事には居るのか?
611
﹁君、ダスティン様と仲がよろしいらしいな﹂
にこやかに、先頭に立つ柔和な表情の少年が言った。ダスティン
﹃様﹄か、とファーガスは密かに警戒する。こういう人物は、大抵
ファーガスに突っかかってくるのだ。兄弟子などが最初そうだった。
しかし、彼はその警戒に気付いて﹁いやいや﹂と苦笑して手を振
った。
﹁別に、僕たちは君に喧嘩を売ろうっていうんじゃない。⋮⋮いや、
どうだろう。内容からしてみれば、文句をいう事になってしまうの
かな﹂
﹁⋮⋮どういう事ですか﹂
﹁だから、そんな睨まないでくれよ。ああ、もう、困ったな﹂
眉を垂れさせて、彼は頭を掻き上げた。するとファーガスよりも
長身の先輩が彼を押しのけて、﹁俺が言う﹂と眼前に立った。
﹁ファーガス・グリンダー。君は即刻、ブシガイトとの関係性を断
て。そうすれば、今ならまだ丸く収まる﹂
﹁⋮⋮俺は、まだそういうのにピンと来てないんですよ。だから、
そういうこと言われるとまず頭が追い付かなくて、その後、今みた
いに頭に来るわけです﹂
ファーガスは、苛立ちを前面に押し出して犬歯を剥きだす。睨み
付けると、長身の彼の目つきが鋭くなる。敵は三人。倒すのは無理
612
にしても、逃げるには問題の無い人数だ。
駆けだすタイミングを計って、足に力を込めた。すると、長身の
彼は何も言わず三人目の先輩を少年の前に押しだした。小柄な少女
である。骨折をしているのかそうでないのか、腕を吊っていた。
意図が分からず、怪訝な顔つきになる。少女は躊躇うように二人
を見ていたが、長身の少年は彼女の肩を掴み、真っ直ぐにファーガ
スに見つめてくる。
その言葉は、信じられない物だった。
﹁彼女は、君のせいで大怪我を負った﹂
ファーガスは、あまりの訳の分からなさに目を剥いて唖然とした。
彼等には知性と言う物がないのかとさえ疑った。いや、躊躇う分だ
け、少女はまともなのかもしれないが。
﹁理由は、アイルランド生が偶々練習していたこいつに喧嘩を吹っ
掛け、いきなり剣で切り付けてきたからだ。そいつは今、謹慎処分
が下されている﹂
ますます、自分とは理由がかけ離れていった。だが、そこまで来
るとファーガスは、一周回って僅かの恐怖を覚えた。引っかかる事
が、一つあったのだ。そして、次に続く彼の言葉が、少年の血を凍
りつかせた。
﹁その馬鹿野郎の弁は、﹃このクラスにブシガイトと仲のいい奴が
いるから﹄だそうだ﹂
613
﹁⋮⋮本当、ですか?﹂
﹁ああ、こんな嘘をついてどうする﹂
その言葉の真剣さに、生唾を呑まざるを得なかった。少し前まで
ならば、こんな与太話は一笑に付すことが出来た。だが、ローラか
らスコットランドクラスがアイルランドクラスに良く喧嘩を吹っ掛
けられると聞いてあったから、身動きがとりにくくなった。
何も言い返すことが出来ずに俯いていると、柔和な表情の先輩が
﹁こっちの都合を押し付けるみたいで悪いけどね。我慢してくれる
と、僕たちも助かるんだ﹂と申し訳なさそうな表情をした。それに、
と彼は付け加える。
﹁彼と早めに手を切っておかないと、本当に危ないのは君とかより
もダスティン様みたいな高貴な人だから﹂
息を呑んだ。顔を上げると、彼等は申し訳ないような顔で別れを
告げてきた。そんな風に言われてしまうと、何を言えばいいのか分
からなくなる。彼らは、ソウイチロウ自体の事を憎んでいるのでは
ないのだ。
昼休みが、来た。
ファーガスは、修練場をじっと見つめていた。ここを通らなけれ
ば、総一郎の居るスコットランドクラスには行けない。足を、踏み
出そうとした。持ち上がらず、歯を食いしばった。
﹁⋮⋮俺は、あいつの親友じゃなかったのかよ﹂
614
声に出すのは、自分を奮い立たせる言葉だ。だが、心の内では記
憶が鮮明に循環している。自分の都合で、不幸になる人が居た。こ
れからもソウイチロウと付き合っていくなら、もっと増えるだろう。
そして、その歯牙がベルにまで及ぶ可能性がある。
携帯を、取り出した。アドレス帳から、ソウイチロウの名を出す。
メール作成画面が開いた。それ以上、指は動かない。動かせない。
板挟みだった。けれど、時間は待ってくれない。焦燥が、ファー
ガスを駆り立てている。
そこに、声が掛かった。
﹁何してんだ? グリンダー。今日もへらへら空気読まずに、スコ
ットランドクラスに乞食をしに行くんじゃねぇのか?﹂
﹁⋮⋮あそこは無料だろ。それなら、お前も乞食じゃねぇか﹂
﹁何言ってんだ。オレは家が金を払ってる。お前は学校が金を払っ
てる。つまり、乞食はお前だけだ﹂
あまりに空気を読まない嘲笑に、ファーガスは本気で苛立った。
やけっぱちになって、奴から離れようと速足で歩きだす。その方向
は曖昧だ。とんぼ返りの様でもあるし、直進の様でもある。
だが奴は、構わず声をかけてくるのだ。
﹁おら、何この程度の冗談で拗ねてやがる。ああ、そうだ。ついで
にクリスタベルも呼べよ。あと、シルヴェスターにも今日の昼食は
615
空けとけって伝えろ﹂
﹁何言ってんだ? お前﹂
﹁︱︱ったく、察しが悪ぃなぁ。一年のラストの実技試験だろうが。
進級にも関わんだ。こんな時くらいはまじめにやるに決まってんだ
ろ﹂
﹁⋮⋮何だそれ﹂
初耳である。
きょとんとする少年に、ハワードはいっそ侮蔑の視線を向けた。
氷よりも冷たいそれだ。流石にここまでの反応を取られるとは思っ
ていなかったため、少したじろいでしまった。
﹁あんまり頭回るタイプじゃないだろうとは思ってたが⋮⋮。グリ
ンダー、お前は馬鹿だな。機転が効かない話は聞かない察しは悪い。
お前のいい所ってどこだよ﹂
﹁うっ、五月蝿ぇな! こっちにも色々あんだよ!﹂
﹁へぇ、そりゃあ興味あるねぇ。何が悩みだよ言ってみやがれ﹂
そんなものは無いだろう、早く謝って楽になれ︱︱そう、しっか
と顔に書かれてあった。思わず殴りたくなるほどのいい笑顔だ。
ファーガスはハワードの緊張感のないアホ面に毒気を抜かれ、こ
めかみを押さえてため息を吐いた。少しむっとした雰囲気が伝わっ
てくる。
616
﹁ソウイチロウの事だよ。ほら、アイルランド生って結構、と言う
かかなりソウイチロウのこと嫌いだろ?﹂
﹁そういや先輩方が喧嘩吹っ掛けてんのよく見るな。どいつもこい
つも苛立ってるし。⋮⋮ああ、そういう。何だよ馬鹿ばっかじゃね
ぇか﹂
眉を顰めて、奴は呆れたように首を振りながら嘆息した。悔しい
事だが、頭だけならば回る奴なのだ。複雑な思いでハワードを見て
いると、奴は唐突に腕を組んで何かを考え始めた。十秒もしない内
に、﹁おっし﹂と腕を解く。
﹁グリンダー。ブシガイトは一応、全員と面識があったよな?﹂
﹁ああ。⋮⋮いや、ローラが微妙かもしれないが⋮⋮。どうだろう、
あの二人は馬が合うか分からないな﹂
﹁ブシガイトが初見で仲良くなれない奴なんかいるのか?﹂
﹁随分と高く評価してんじゃねぇか﹂
﹁まぁ、お前よりはずっとマシだと思ってな﹂
嫌味にファーガスは舌を打つ。
﹁馬が合わないっていうのは、何となくだよ。ほら、どっちも人を
からかうの好きだろ?﹂
﹁⋮⋮同族嫌悪ってか? ブシガイトの圧勝する未来しか見えねぇ
617
が﹂
それはファーガスも同意見だった。スコットランドクラスの聖神
法の実技以外に関して、ソウイチロウがローラに負ける場所がない。
まぁ、容姿は別枠としても。ローラと比べられるのはベルくらいの
ものだ。
﹁まぁ、そこは追々慣らしてきゃあいいだろ。じゃあ、ブシガイト
をオレたちのパーティに混ぜるのに異論はないな?﹂
﹁え? ⋮⋮はぁ!?﹂
藪から棒もいいところの発言はファーガスを驚愕させるには十分
すぎた。ハワードの言うパーティとは、ファーガス、ベル、ローラ、
そしてこの馬鹿ハワードを含めた四人の事を指す。
ソウイチロウの事を秘匿するためには、バラバラのパーティを組
むという事は出来なかったのだ。この四人は、全員ソウイチロウの
入院先を知らされていた。ファーガスなどは相部屋だった程だ。配
慮の様で、実際は学園側が組ませようと考えたのかもしれない。
そして、少なくともソウイチロウの居場所を喧伝するほど彼を憎
む人間は、四人の中に居なかった。そういう意味で、まずカーシー
先輩は知らなかったろう。
そのようにして出来たこの班は、代表生が主体であるため普通混
合しないはずの他クラス同士の生徒が所属した、学年に必ず一つは
ある変わり種となっている。
そして当然、代表生のパーティとするなら優勝候補筆頭であった。
618
ここまで考えていると、少しファーガスも思い出してきたようだ。
イングランドクラスの男子寮長が厳しい目で﹁勝たないと恥だぞ﹂
と言っていたのを覚えている。
ハワードが言っているのは、つまり﹃そこ﹄に問題の渦中である
ソウイチロウを入れようということだった。
﹁お前の方が馬鹿じゃねぇか! バーカ!﹂
﹁ああ!? 黙り腐れこの﹃魔獣にするには核が足りない﹄間抜け
が!﹂
﹁魔獣から核抜いたら、もうそれ魔獣じゃねぇだろうが! ただの
動物だ馬鹿野郎!﹂
﹁⋮⋮君たちは楽しそうだね﹂
﹃何処が!﹄
﹁えっ。ああ、いや、⋮⋮ごめんなさい﹂
通りすがりのように現れたベルが、二人に怒鳴られ委縮した。し
ょぼんとなってしまった彼女にファーガスは慌てはじめ、ハワード
はそっぽを向いて鼻を鳴らす。前から思っていたのだが、この許嫁
同士である二人は本当に仲が悪い。
ベルをなだめすかしたファーガスは、﹁それで﹂と彼女に尋ねる。
﹁昼飯時なのにこんな場所でどうしたんだ?﹂
619
﹁その言葉をそっくり君に返そう。⋮⋮というか、だな。今日はす
こし、ふぁ、ファーガス、君と昼食を取ろうと思っていて⋮⋮﹂
そこまでたいした事という訳でもないのに、顔を赤らめて言われ
た所為で、こちらまで恥ずかしくなってしまう。そこにハワードの
舌打ちが入った物だから、二人はビクッと体を震わせた。
﹁まぁ、いい。とりあえず人も揃ったことだし、スコットランドク
ラス行くぞ﹂
﹁えっ、ちょっ、ちょっと待てよ!﹂
ファーガスの抵抗虚しく、ハワードは二人を引きずって修練場を
横切っていった。さっきの葛藤は一体何だったのだ、と思わせられ
る。
しかし、実のところは少々の感謝もあった。ひとまず今日は、葛
藤に決着を付けないままソウイチロウに会いに行けるのだ。
スコットランドクラスの食堂に入ると、空気が微妙に淀むような
気がした。ソウイチロウの時の様にあからさまではないが、微妙に
視線が集まっている感じがある。
﹁じゃ、オレはシルヴェスターを引っ張ってくる。お前らはブシガ
イト捕まえとけ﹂
軽く手を挙げて、ハワードは駆け出して行ってしまった。呼び止
める間もなく奴は雑踏に消えていく。置いてけぼりにされた二人は、
その行動の速さにちょっとぽかんとした。
620
3話 少年たちの寸暇︵3︶
ソウイチロウを探すにあたって、二人は修練場に足を運んだ。彼
は一人で食事をとるとき一番早い時間帯か、一番遅い時間帯を選ぶ。
何故かと問えば、お互いの為だと返された。それに納得せざるを得
なかった自分が、何故だかさびしかった。
そこには、石柱に向かうソウイチロウの姿があった。右手に木刀
を固定しているのはいつも通りだが、今日は聖神法の練習らしい。
杖を構えて石柱を睨んでいる。
﹁入れ違いになっていたみたいだね﹂
﹁まぁ、一人針のむしろで食事するのも嫌だろうからな﹂
ファーガスが言うと、ベルは少し目を伏せる。そうこうしている
と、ソウイチロウは息を吸い込んだ。恐らく、祝詞の詠唱だ。
﹁﹃神よ! 我が障害に崩壊を﹄﹂
唱えると、杖先に黄土色の光が灯った。杖を振り、飛んで行く。
そして石柱にぶつかった。石の一部が欠ける。
それだけだった。
﹁⋮⋮やっぱり、本当に聖神法下手なんだな、ソウイチロウ﹂
﹁人には一つ二つの不得手があって然るべきなんだよファーガス⋮
621
⋮﹂
何だか遠い目をしていた。
もういいや、と彼は、雑な手つきで木刀を振るった。何の変哲も
ない動作である。だが、先ほどからは考えられない程に容易く、石
柱は崩れ落ちた。それこそ、粉になってしまったのではないかと疑
うほどだ。
こちらを向いて、尋ねてくる。
﹁昼ご飯?﹂
﹁おう﹂
﹁分かった、行くよ。今日はベルも一緒なの?﹂
﹁ああ、うん。ちょっとご相伴にあずかろうと思って﹂
﹁あはは。随分と大げさな言い方をするね。⋮⋮でも、いいの? 君、確か結構いい身分じゃなかったっけ。⋮⋮そんな人が、僕と一
緒にご飯を食べててさ﹂
ファーガスは、その言葉に動揺を隠せなかった。先ほどに言われ
たばかりの言葉は、鋭く少年の胸に突き刺さった。
だが、ベルは﹁大丈夫だよ﹂と妖精のように微笑する。
﹁ファーガスっていう私の騎士が、守ってくれるから﹂
622
言いながら、少女はあまりにも自然に少年の腕を取った。ファー
ガスはそれに体が跳ねるほど驚くが、ベルはそんな事を気にもしな
い。ただ当惑気味なファーガスの目に、明るく咎める様な器用な視
線を返すだけだ。
﹁やっぱり、覚えてない﹂
﹁はい?﹂
﹁いいよ、別に。期待してなかったから、怒ってない﹂
言いつつも頬を膨らませるベルに、更に訳が分からず慌てるファ
ーガス。ソウイチロウは﹁なるほど﹂と言いつつ拳で口元を隠し、
くつくつと笑った。
﹁本当、お似合いのカップルだ﹂
ハッとして、二人は慌ただしく互いの手を放した。そのまま、ひ
とまず食堂へ向かう。
歩いている間、ちらと見るとベルは眉を顰めていた。視線がソウ
イチロウの右手の木刀に向かっているのが分かったから、﹁護身用
だ﹂と伝える。すぐにでも、その意味を実感するだろう。
ソウイチロウが食堂に入った瞬間、その場の雰囲気が色濃く変わ
った。よくもこれだけの状況で耐えられるものだと、ファーガスは
顔を顰めた。初めて体験したベルに至っては、顔を青ざめさせてい
る。
﹁ごめんね、ベル。ファーガスも、いつもありがとう﹂
623
寂しげに笑って、ソウイチロウは言った。﹁開いてる場所は無い
かな﹂と探していると、何かを見つけたのか彼は驚きに声を上げた。
ファーガス達も視線を向ければ、ハワードとローラが並んで食事を
とっている。
﹁おう、遅ぇぞお前ら﹂
﹁⋮⋮﹂
ローラはしばし無言だったが、ファーガスの姿を見つけて﹁あ﹂
と声を上げた。
﹁こっちです。こっち﹂
手招きの様が妙に可愛いものだから、何だか困ってしまう。そこ
に三人が寄っていくと彼女はベルの姿を見つけて﹁どうも、ベル﹂
と軽く会釈し、最後にソウイチロウの姿を発見し硬直した。
﹁⋮⋮お邪魔するね。シルヴェスターさん﹂
ソウイチロウも、あまり打ち解けた様子はない。面識はあっても、
と言う奴だろう。一番距離感が難しい間柄だ。
﹁えっと、ああ、ファーガスと仲がいいんでしたっけ⋮⋮﹂
呟くようにして、ローラは気まずげにソウイチロウから視線を逸
らした。思わず、こっちも気まずくなってしまう。
﹁全員揃ったな。じゃあ、いきなりだが本題に入るぜ﹂
624
気まずくないのは空気の読めないハワードだけだろう。
軽く奴の言葉に相槌を打ちつつ、給仕に幾つかメニューを注文する
﹁再来週、聖神法やその活用法の熟練度を測るクラス混合の試験が
ある。ルールは、簡単に言っちまえばサバイバル戦だ。それぞれ四、
五人程度のパーティを組んで、死なない程度に敵チームを撃破して
いく。採点に関わるのは、まず撃破数、防衛数、後は、その手際だ
な。泥沼戦だと撃破数が多くても評価されない、みたいな感じだ。
範囲はエリア1∼3。エリアの進み具合でグループ分けされるって
寸法だから、敵はそこそこの水準を保ってるだろうな﹂
﹁質問、いいかな?﹂
﹁おう、ブシガイト。どうした?﹂
﹁それ、君たちの話だよね? 僕が聞いてていいの?﹂
一瞬ハワードは訳が分からない、と言う顔をした。けれどすぐに
理解して、こちらをものすごい形相で睨み付けてくる。
まるでスズメバチを噛んだブルドックのような顔だ。それに、う
っ、となってしまうファーガス、素直に謝る。
﹁⋮⋮悪い、言ってなかった﹂
﹁同じくだ⋮⋮﹂とベルが続く。
﹁⋮⋮えっと、ここで私も初耳だと言ったら怒られるのでしょうか﹂
625
とローラ。
﹁ハワードお前も言ってねぇじゃねぇか!﹂
どうにも締まらない馬鹿野郎である。
事情を伝えると、どちらも渋い表情をした。当然ではある。しか
しローラは、不承不承ながらも頷いた。それに、ソウイチロウは驚
く。
﹁えっと⋮⋮いいの? 僕が入っても﹂
﹁同じクラスですから、貴方に組む相手が居ない事は知っています。
そうしたら、仕方がないでしょう﹂
﹁でも、みんなの身の安全はどうなるんだ。僕はもう、そう簡単に
やられるほど弱くないけれど、その所為で君たちに飛び火する可能
性は高いよ﹂
﹁そこは別に問題じゃねぇ。オレは自分で身を守れるし、イングラ
ンド組の二人も気を付けてりゃあ大丈夫だ。強いて挙げるならスコ
ットランドのシルヴェスターだが、別に仲がいい訳でもないんだろ
? ならそのままで居れば気にすることは無いじゃねぇか。むしろ、
お前が俺たちのチームに入る事で、クラス同士のいざこざも鎮火す
るんじゃねぇかなと、オレは踏んでる﹂
﹁⋮⋮というと﹂
﹁喧嘩吹っかけてんのはアイルランドクラスだ。だからこそ、アイ
ルランドクラスにブシガイトと仲のいい奴が居れば弱みが出来る。
626
喧嘩も吹っかけにくくなるはずだ﹂
﹁一理はある⋮⋮のか?﹂
﹁ま、それでも構わず喧嘩吹っかける気違いが少ない事を祈ろうぜ﹂
ファーガスが小首を傾げながらも賛同すると、ハワードは軽薄に
笑った。そうすると丁度料理が運ばれてきて、ひとまず食事を摂る
事になった。
その数日後の朝、早朝の修練から帰ってきたファーガスは、男子
寮のリビングルームに置いてある巨大テレビに、何人もの騎士候補
生が集まっているのを見つけた。
何が流れているのかと気になって近づいてみると、何やらドラゴ
ンについてのニュースがやっているらしい。
ファーガスも、一応だが知っていた。ドラゴンの出現は七年周期
で、大抵一匹がUK全土のどこかに出現する。年によっては二匹、
運が悪ければ三匹現れることもあると聞いたが、今年はその中でも
異常なのだと。
七匹。
一般市民には、三匹現れたと伝えるよう情報規制が敷かれている。
だが、騎士職やその学徒には、寮内のテレビなどの特殊メディアに
よって真実が伝えられていた。
627
今テレビに映る特殊情報は、一般のそれに比べて簡素なものだ。
だが、そこで受ける衝撃は、普通の物より遥かに大きい。
﹁今、ドラゴンは五匹か⋮⋮。でも、兵力の損害が大きいのだろう
?﹂
﹁そうだな。具体的な情報はまだ集計中らしいが、結構酷いと聞い
ている﹂
ファーガスは、世知辛い世の中だなぁと溜息をついた。ドラゴン
など、前世からしてみればあまりに夢のあるキーワードなのに、今
の感覚で言えば追い払わなければいなくならない台風のようなもの
だ。
欠伸をかみ殺しつつ食堂に向かって朝食を済ませた。そうしてみ
ると時間は意外に切迫していて、少々小走りで一時限目の教室に向
かう。
間一髪で、たどり着いた。席は、最後尾を選んで座る。ベンの一
件以来、クラスメイト達に信用がおけなくなったからだった。相手
も今更横に座られれば閉口するだけだろう。
すぐに来ると思われた教師の姿は、しかしなかなか現れなかった。
何事かと考えていると、全く別の教官が来て、﹁今日は緊急の全校
集会が行われることになった。急いで私についてくるよう﹂と言う
が早いか、すぐに踵を返して教室を出て行ってしまう。その場にい
た生徒は戸惑いつつも、急いで彼について行った。
全校集会、とファーガスは眉根を寄せる。そんな事は、今まで一
度もなかった。あってもクラス内で完結していた。そもそも、一ク
628
ラスだけで普通の学校の生徒全員に匹敵するのだ。ファーガスなど
の特待生以外からしてみれば、他クラスなど別の学校にも等しい。
一体何が、と考えていると、広場に着いた。ただ、だだっ広い。
こんな場所があったのかと、気付かなかった自分に愕然とする。
﹁皆さん、急に呼び出してしまってすいません。ともあれ、お早う
御座います﹂
学園長が、壇上に上がってよく通る声で言った。すると、少しざ
わつき始める。一番多いのは、﹁誰? もしかして学園長?﹂と言
う声だ。学園長も知らない生徒たちに再び愕然。大丈夫かこいつら。
そのように考えたが、学園長が続けた言葉で今回が普通の生徒た
ちに露出した初めての機会だったのだと知れて、納得したと同時に
少々呆れた。どれだけ外回りが多かったのだろうか。
話を聞いていると、ドラゴン討伐の手が足りないから、優秀な人
材を引き抜きたいという話らしかった。呼ばれ始めたのを聞いてい
ると、当然と言うか、ほとんど最高学年だった。自分たち一年が呼
ばれることなどあるまいと考え、興味が失せて欠伸が再発する。
名誉なことらしいが、七年周期というと次現れる時ファーガスは
騎士補佐、大学生だ。巡り合せが悪いなぁ、とか思い、今日の狩り
はどうしようかと考え始める。
その時、とある名が呼ばれた。ファーガスは耳を疑い、次の瞬間
に起こった出来事に目を疑った。
﹁い、一年、ソウイチロウ・ブシガイト!﹂
629
ざわめきがその場全体に広がり、スコットランドクラスの方で人
垣が割れた。そこを、つまらなそうな表情で泰然と歩くソウイチロ
ウ。
その雰囲気は、どこか再会した時のそれに戻りつつあった。
彼は三千人以上の敵意を向けられてなお、平気な顔で居た。カー
シー先輩も途中で呼ばれていたが、そんな事は記憶には残らなかっ
た。彼は騎士の称号を叙勲され、数日後には遠征に向かうのだとい
う。
ファーガスは、現実感のなさに呆然としていた。きっと特待生パ
ーティのみんなも同じだろう。
解散させられた後、ソウイチロウからすぐにタブレットで連絡が
来た。山の入り口で集合しよう、とのことだ。行ってみると、少年
が穏やかな笑顔で入り口の木に寄りかかっていた。他のみんなも揃
っている。ファーガスは、黙したまま彼の言葉を待った。
﹁⋮⋮いや∼、びっくりだね﹂
﹁びっくりしたのはこっちだこの野郎!﹂
食い気味に怒鳴り返すと、驚いたのか、一瞬彼は竦んでしまった。
ファーガス、とベルに窘められる。
という訳で、とソウイチロウは言った。
﹁何か来週には出発とか先方がほざいてるから、試験には参加でき
なくなっちゃったみたいだ。まず、そこを謝りたい﹂
630
﹁いや、そこはお前のせいじゃねぇんだから、謝るのは筋違いって
もんだろうが﹂
ハワードが言うと、少しきょとんとしてから、﹁ありがとう、ネ
ル﹂と彼は返す。何だか知らないうちに仲良くなっているみたいで、
ファーガスはあまり面白くなかった。
﹁で、何で選ばれたのか、心当たりはあるのか?﹂
﹁さぁ?﹂
﹁さぁ? って⋮⋮﹂
分からないのかよ。とぶっきら棒に言うと、ごめんと謝られた。
そんな彼に、ローラが疑問を投げかける。
﹁⋮⋮それじゃあ、何でここに来たんですか? メールで済ませて
も良かったのでは?﹂
﹁それは私も思ったよ。何でここに?﹂
女性陣に言葉に、ああ、とソウイチロウは口元で弧を描いた。視
線を山の中に向ける。
﹁山籠もりしたくらいだから、ここの地理には詳しいんだ。学期末
試験は、君たちの場合第三エリアまででしょ? 亜人の群れの行動
範囲とかいい感じの隠れ家とか覚えてるから、教えてあげようかと
思って﹂
631
﹃おぉ!﹄
ベルとハワードが、思わずと言った風に声を漏らした。それがハ
ーモニーを奏でかけ、ハッとしてハワードはベルを睨んだ。ベルは
どちらかと言うと怯えたというか、困っている反応を示す。
相変わらず仲が悪い、とファーガスは思った。力関係は、どちら
かと言うとハワードの方が強い。
﹁という訳だから、置き土産⋮⋮っていうのかな。君たちに伝える
だけ伝えてから、僕は旅立とうと思う﹂
﹁でもさ、やっぱり変だよな。第一年騎士候補生のソウイチロウに
騎士の称号を叙勲するなんて﹂
﹁そんな今更⋮⋮﹂
ソウイチロウは平気でからから笑うのだから、ファーガスでは手
に負えない。
﹁十中八九っていうか、ほぼ間違いなく何かがあるとは思う。でも、
決められたことだしね。仕方がないよ。それに、騎士に叙勲された
ことを嬉しいんだ﹂
﹁騎士候補生にアレだけ迫害された君が?﹂
﹁まぁ、目的があるからね。自力でアメリカまで渡るのは流石に難
しいし﹂
﹁ああ、シラハがいるもんな。あとハンニャ家﹂
632
﹁アメリカ?﹂
ファーガスの相槌を無視して、ぴく、とハワードが反応を示した。
それに気付いたソウイチロウが、﹁ん?﹂と聞き返す。
﹁ブシガイト、お前、アメリカに渡るのか?﹂
﹁うん。そのつもりだよ。まぁ、色々と課題は山積みだけれど﹂
﹁⋮⋮それ、付いて行ってもいいか?﹂
その一言に、ファーガスとベルの二人が噴き出した。﹁おい!﹂
と奴に食って掛かる。
﹁お前ベルと許嫁なんじゃなかったのかよ! それを何だほっぽり
出して、﹃アメリカ行くなら連れて行け﹄︱︱だ!﹂
﹁んだよ。グリンダー、お前はクリスタベルが好きなんだろ? 良
かったじゃねぇか、邪魔者が消えるぞ﹂
﹃なっ⋮⋮!﹄
同時に出た声が重なり、奇妙な唸りが出来た。それさえも恥ずか
しく、二人は赤面する。
恥ずかし紛れに叫ぼうとすると、ソウイチロウに﹁はいはい﹂と
遮られてしまった。
﹁これ以上ここで長話するのも何だから、早い内に山に登ろう﹂
633
そのように纏められると、何も言えなくなってしまうのがファー
ガスだ。感情の発散すべき場所を失った少年は、ベルと共に赤く俯
くことを強いられる事となった。
して、山に登ってからであるが、ソウイチロウはとうとうと語り
出す。
﹁まあ、ぶっちゃけるとこの学年に君たちの相手になるような相手
は居ないよ。だから、僕が伝えるのは、はっきり言って保険程度の
ものでしかないと思う。むしろ試験が詰まらなくなっちゃうか心配
なくらいだ﹂
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
﹁うん。まぁ、一部未知数が居るけどね。少なくとも、僕はこの学
年の子たちが束になっても苦戦しなかったよ。シルヴェスターさん
はちょっと分からないけど、他の三人は修練しているのをよく見る
から分かる。まったく心配がないのがネルで、ファーガスはその次
かな? ベルはベルで戦術のとりようによってはファーガスを上回
る。又聞きで悪いんだけど、シルヴェスターさんも大仰な属性弾を
連発できるらしいし相当強いんでしょ?﹂
ま、言うまでもなく、一番強いのはアイルランドの寮長さんだっ
たけど。と彼は振り向きざまに笑った。そして、立ち止まる。第三
エリアを囲むフェンスが、あと十数ヤード先にある。
﹁じゃあ、ここから少し逸れて、魔獣の近寄らない安全地帯を教え
るよ。その大半は何度か寝床にしてるから、長時間でも辛くはない
はず﹂
634
何だかプロだなぁ⋮⋮と思ってしまうファーガスを、一体誰が責
められようか。その後、逆に魔獣が集まりやすい場所や、地形的に
天然の罠になっている局地的な陽樹林、果てはゴブリン、オークの
群れの行動パターンなどを数日かけて教えてくれ、ソウイチロウを
送り出すことになった。
送別の時の様子は、あえて語るまい。ただ一つ分かったとすれば、
自分が思いの他、涙脆いという事くらいか。ハワードもいつの間に
かソウイチロウと随分仲良くなったようで、﹁アメリカ行くときは
教えろよな!﹂と叫んでいた事に、不可思議な親近感を覚えてしま
った。
ベルも寂しそうだったが、ローラは一人ぎこちなさげに手を振っ
ているだけだった。最後までソウイチロウと親しくはなれなかった
が、人と人との間には相性と言う物がある。無理強いしてもどうに
もならない物だ。
見送り中、他の生徒に向けられる嫌悪の視線は、他の三人はとも
かく、ファーガスは気にしなかった。大抵が数個上の学年だし、い
ざとなった時はワイルドウッドと言う先生を訪ねればいいとソウイ
チロウから聞いていたからだ。
学園内ではあまり権力がないそうだが、政府とのパイプがあるか
ら命の保証はしてくれるという。大人の世界も一枚岩ではないのだ
と、ソウイチロウに言われた。受け売りだけどと、彼は笑っていた。
見送りが終わって、充血した目を少し拭いながら、ファーガスは
深いため息を吐いた。彼は騎士学園で、男友達が少ないのだ。ソウ
イチロウとここまで仲良くなったのは、それも手伝っていたと言え
る。
635
その為見送った翌日、暗い気持ちでイングランドクラスの食堂へ
向かうと、ベルが何も言わずに隣に座ってくれたのが嬉しく、ファ
ーガスはふっと上を向いた。昨日からずっと、涙腺が緩い。
﹁本当、仲がいいんだね。ソウと﹂
ベルは、言いながら笑っていた。ファーガスは照れくさく﹁いい
んだよ、故郷の友達とも泣いて分かれてきたんだから﹂と墓穴を掘
った。
﹁そっか、ファーガスは情が厚いんだ﹂
好意的な解釈にまたもや目がうるうるしたが、流石に午後にもな
ると治っていた。来週には学年末試験である。さぁ、と気合を入れ
た。修練場で石柱に向かう。いつものそれより、硬度の高いそれだ。
そんな折、声を掛けられた。
﹁君、ファーガス・グリンダー君かい?﹂
振り向くと、イングランドクラスの教師が立っていた。ユージー
ン・デューク先生だ。紳士然として、生徒からも人気の高い先生で
ある。ファーガス個人としては、各スキルの具体的な使い方などを
教えてくれるので、面白い授業をする先生だという印象だった。
﹁はい﹂
戸惑いながら答えると、﹁そうかい﹂と穏和に返される。
636
﹁石柱の色がかなり進んでいるね。素晴らしい事だ。これからも精
進しなさい。楽しみにしているよ﹂
﹁はいっ﹂
少々照れくさく、それを跳ねのけるように元気に答えた。彼はそ
の返答に満足したのか、踵を返してイングランドクラスへ帰って行
ってしまう。それをしばし見つめてから、気合を入れて石柱に向か
い直った。
637
3話 少年たちの寸暇︵4︶
山。木々の中、四人で息を潜めていた。周囲では少年少女の声が
聞こえる。全て、自分達の姿を見たかと言う問いかけだった。﹃あ
いつらを見たか﹄﹃いいや、そっちは﹄﹃こっちもだ。引き続き︱
︱﹄ああ、嫌になる。
﹁まさか、全パーティがまずオレ達を狙いに来るとはな﹂
舌打ちにするハワードに、ファーガスは同意せざるを得ない。実
力差の為︱︱もあっただろう。しかし本命は十中八九、ソウイチロ
ウと仲良くしていた弊害だ。
﹁ブシガイトへの恨み言を言っていた者が、確かにいたからね。⋮
⋮しかし、彼はそこまで嫌われるようなことをしたのかな? それ
とも、嫌っていない私たちがおかしいのか⋮⋮﹂
﹁いいえ、ベル。恐らくですが、彼等は嫌いになる理由しかないの
です。ブシガイト君は気の許せる相手以外に対して、とても疎外的
で厳しい態度を取りましたから﹂
﹁ったく、それでオレ達が割食ってりゃ世話ねぇよな﹂
﹁おい、ハワード!﹂
﹁冗談だ。というか、嫌いってだけでここまではしねぇだろ。多分
先輩方の圧力がかかってる。要は見せしめだな﹂
638
再度の舌打ち。ハワードは、そのまま目を瞑ってしまった。考え
込んでいるらしい。
ファーガスも、ひとまず敵がここから離れるまでじっとして居よ
うと決めた。むっつりと黙り込む。そうしていると、自然に思考が
始まった。
さぁ、ここを、どうやって乗り切ろうか。
繰り返すが、この試験はサバイバル戦である。つまりは制限時間
を決め、いかに生き残るか。いかに敵を無力化するか。この二つの
資質と成果を注目される形式となっている。
行動範囲は、ファーガスたちの場合エリア3だ。また極力死傷者
を出さない配慮として、必要以上に強い聖神法の使用は禁止され、
衝撃吸収に有能な、身動きのとりやすい皮鎧が渡されていた。
あとの事は、ほぼ完全に自由とされている。朝の五時に開始され、
深夜二時に終了だ。食事や睡眠時間を狙うのは、定石の一つである
と小耳にはさんだ。
その為ファーガスは、昨晩九時に寝付く健康児っぷりを発揮した
わけだが、目覚めたのが四時で、二度寝した結果いつもより眠くな
ってしまうという大失敗を犯した。
﹁お前バカだろ﹂
ハワードの談である。
639
しかし十分もすれば緊張で眼をさまし、朝食を早い内に詰め込み
ながら作戦を立てることになった。
﹁方針はとりあえず、攻めの姿勢でいいのか? ベル﹂
﹁うん、それでいいと思う。ハワードが一番に攻め入り、ファーガ
スが二撃目を担う。私とローラは遠巻きに援護射撃のつもりだ。ソ
ウに太鼓判を押されたくらいだし、余計な心配をする必要はないは
ず﹂
﹁作戦を立てる時は過ぎるほどに慎重で、行動をするときは大胆に、
と言いますしね﹂
﹁で? クリスタベル。お前は作戦を慎重に考えたか?﹂
ローラの相槌に乗っかって、ハワードがにやりと嫌味を言った。
﹁⋮⋮分かった、考え直そう﹂
﹁おいハワード、変な茶々入れんな﹂
対するベルが、ハワードに弱すぎる。
ため息を吐きながら、杖に触れて簡易的な索敵を行った。何も反
応はない。座りつつ、聖神法を解いた。彼らの居るあなぐらはソウ
イチロウから教えてもらった隠れ家の一つで、確かに過ごしやすか
った。
﹁軽く索敵したけど、別に何も居ないぞ﹂
640
﹁そうですか。じゃあ、具体的な作戦を立てましょう。ブシガイト
君の言っていた通り、山の上から攻めますか?﹂
﹁しばらくはそれで行こう。何か変化があったら、方向転換すれば
いいしね﹂
﹁そうだな。⋮⋮で、ハワード、何やってんだ?﹂
﹁⋮⋮グリンダー。お前はいっぺん、聖神法を最初からやり直した
方がいい﹂
﹁はぁ?﹂
﹁囲まれてる。⋮⋮数えるのも面倒くせぇくらいの人数にな﹂
機嫌が悪そうに言うハワードに、ファーガスは顔を顰めた。念の
ためもう一度索敵を行うと、先ほどまで一つもなかった反応が、彼
等の周りで無数に返ってきた。
﹁⋮⋮何だ、これ。ついさっきは無かったぞ、こんなの!﹂
﹁しかも、これは全て人です。多くのパーティがこの周囲で、偶然
急激に移動して交戦しだした⋮⋮。あり得ないですね﹂
﹁交戦自体そもそもしていないからな。⋮⋮ま、ブシガイトの事を
考えれば、予想の範囲内だ。正直グリンダーのミスでなければ、数
秒でここまで接近できる移動速度ってのが引っかかるが⋮⋮﹂
四人で、目配せし合った。移動か、身を潜めるか。この命題は、
641
考えるまでもない。
﹁狙われてここに集まってんなら、じり貧どころじゃないだろ。全
員、今すぐ逃げよう﹂
﹁ところで私、恐らく走ると息が切れて一人だけ捕まるのですが、
おいて行かれるのでしょうか⋮⋮﹂
﹁グリンダーしか居ないな。大人しく背負え﹂
﹁それが妥当だとは思ったが、お前に言われるとムカついて仕方が
ないな!﹂
﹁あ、何なら置いて行ってくれてもいいんですよ? 戦力が半分に
なるのは避けたいですし﹂
﹁ローラも平然とそんな事言うなよ!﹂
背中は盾があるため、自然とお姫様抱っこになってしまう。ベル
の視線が痛い。
すいません、と謝るローラに、仕方ない事だとファーガスは返し
た。スコットランドクラスの生徒は、本来互いに開いた距離を生か
して、まず籠城用の簡易要塞を作り上げる。彼らの授業が座学ばか
りであるため、そうせざるを得ないのだ。
そして、隙間などから聖神法を飛ばして戦う。スコットランドク
ラスのみ、第一、二年はこの方法を取るため、採点方法も多少異な
った。この場合、見られるのは作り上げた要塞の強度や、命中率だ
ろうか。
642
その為、ローラはこの中で一番体力的に劣っていた。事前にその
事を告げられていなければ、こうもすばやくは対応できなかったろ
う。
それだけ、他クラス混合のパーティと言うのは特殊なのだ。
体力的な浪費が少ないローラに、継続的な索敵を頼む。出来るだ
け制度を上げるため、と目を瞑った彼女は、﹁あっちです﹂と人が
居ないらしい方向を指差した。三人で駆けていく。
木々の暗がり。日が、微かに差し込んでいた。﹁抜けました﹂と
ローラが言った。だが全員止まらず、ひた走っていく。
息は切れなかった。今の所、まだ全員に余裕がある。﹁どうする
?﹂とハワードに尋ねた。ハワードは少し黙っていたが、最後には
意地悪く笑った。
﹁確か、この近くにゴブリンの群れが居たよな?﹂
﹁⋮⋮お前、やっぱり性格悪いわ﹂
﹁はっ。褒め言葉だね﹂
ローラに、敵の状況を訪ねた。ちらほら、気付き始めているとい
う。ベルが﹁本当にやるんだ⋮⋮﹂と顔を顰めた。奴らは一匹一匹
が弱いが、数が多い。その上、こちらがやられた場合などは喰われ
る可能性がある。
﹁何だよ、ベル。文句があるなら言え﹂
643
﹁⋮⋮ないよ。騎士候補生たちを、おびき寄せればいいんだろう?﹂
﹁ああ﹂
ファーガスは、眉を顰める。ベルの、嫌がりながらも従順な態度。
不自然で、気持ち悪いと思った。そして、その元凶であるハワード
を、今更に嫌悪する気持ちが再出した。
前々から思っていたが、何か裏がある。そう思っていると、ロー
ラが目を開けていた。純粋な瞳がこちらを見つめていて、思わずど
きりとしてしまう。
﹁どっ、どうしたんだローラ。索敵はもういいのか?﹂
﹁まだ続けてますよ。目を瞑って集中しなくても、何となく全体像
がつかめてきたので﹂
そうか、と何故か他の二人に聞こえないほど小さな声で返した。
しばらく、そのまま無言で走った。木々が空を覆っているから、今
の時刻は分からない。時計の携帯は、許可されていなかったのだ。
﹁⋮⋮不自然ですよね。多くの事が﹂
ぽつりと呟いたローラの言葉が、深く突き刺さった。自分が気に
する事。自分が無視している事。それが、強く思い出される。
﹁何が、ズレているのでしょう。私には、みんなが隠し事をしてい
る様に見えるのです。あの二人も、ブシガイト君も、彼を虐めてい
たあの三人も、⋮⋮ファーガス、貴方も﹂
644
思わず、手から力が抜けた。ローラが落ちかけるのを、慌てて支
える。短い悲鳴を上げ、彼女はこちらに怯えた表情を向けた。﹁ご
めん、わざとじゃないんだ﹂と謝る。
﹁だ、⋮⋮大丈夫です。皆さん! ここでいったん止まって下さい。
ゴブリンの群れが見つかりました﹂
立ち止まると、ローラはファーガスから離れて少しの距離を歩い
た。注意しながら近づくと、小さく切り立った崖の下にゴブリン達
が生活していた。座って、何かを話し合っている。
﹁ここへ誘い込むのですよね?﹂
﹁ああ、そのつもりだ。追手は?﹂
﹁大体三十人くらいかと。⋮⋮なるほど、先ほど私たちを囲ってい
た人数のだいたい半分です。先輩方の圧力とはどれだけ強力なので
すか﹂
﹁知らん。グリンダー、クリスタベル。お前らは待機だ。ゴブリン
共が変な動きを見せたら知らせろ。一旦オレだけで連中を引き付け
てみる。⋮⋮多分、八割はアイルランドクラスだろうしな。シルヴ
ェスター、多分ならないだろうが、もし危ないと思ったら援護頼む﹂
指示を出してから、すぐに奴はローラの手を引いて駆けて行った。
﹁いつの間にかリーダー面しやがってあの野郎⋮⋮﹂とぼやいてい
ると、後ろでへたり込む気配を感じた。振り向く。ベルが、しゃが
んで辛そうに息を吐いている。
645
﹁どうした、ベル。大丈夫か﹂
﹁う、うん⋮⋮。少し、疲れて﹂
﹁疲れてって⋮⋮。ちょっと走っただけだろ? まだまだ先は長い
んだぞ﹂
﹁そうだね、うん。⋮⋮そっちは大丈夫。こうやって、少しずつ休
んでいれば、ある程度は回復できると思う﹂
弱った笑みを見せられて、これは体の問題ではない、とファーガ
スは感づいた。しばらく間をおいて、彼女の様子を観察する。息は
荒いが、息切れのそれとは違った。ベルはイングランドクラスの女
子の中では一番体力がある。
何故それほど疲れているのか。考えれば、何となく分かった。
﹁ハワードか?﹂
﹁っ﹂
強張った表情が、ファーガスに向いた。次の瞬間にはしがみ付か
れ、震えながら懇願される。
﹁お願いだ、ハワードには何も言わないでほしい。私は、あいつの
中で空気のような存在でありたいんだ。強く意識されるなんて耐え
られないよ⋮⋮!﹂
﹁何だよ、どうしたんだよ? とりあえず、一旦落ち着いてくれ。
⋮⋮ベルがあのバカの前であんまりしゃべりたがらないのも、そう
646
いう事なのか?﹂
﹁⋮⋮気付いてたんだ。隠せていたと、思ってたのに﹂
力なく、彼女は俯いた。強く伸びてきた手は離れ、弱々しく震え
ている。一旦、移動させることにした。木陰で目立たず、ゴブリン
達の様子が見やすい場所を探す。
良い居所を見つけて、そこに腰を落ち着けた。宥めながら、静か
な口調で問う。
﹁ベルもハワードも、何でそんなに仲が悪いんだよ? しかも、嫌
いあう形が歪だ。俺は、ベルが奴を怖がっているようにさえ思う。
⋮⋮それも、まるで亜人みたいにだ﹂
ファーガスの最後の一言に、彼女は過敏に反応した。﹁そこまで
分かっているなら、もう話すことは無いよ﹂と身を竦ませて目を伏
せる。
﹁⋮⋮ハワードは、亜人だ。姿を巧妙に偽ってはいるが、私はそう
確信してる﹂
その言葉に、ファーガスは驚きを隠せない。
﹁一体全体、何でそうなる? あいつは、貴族だ。貴族の血統に、
亜人の血は混ざらないはずだろ﹂
貴族が亜人を憎んでいるから、と言う理由だけではない。どの世
にも人と考えの違う狂人と言うのは存在するからだ。もっとも、ソ
ウイチロウの両親を弾劾するのではない。これはUKの価値観であ
647
る。
貴族の血が亜人に混ざらない。それは、実験を経た結論だった。
百年近く前に、戦力の増強として亜人の摩訶不思議な力に、貴族の
聖神法を掛け合わせた全く新しい兵力の製作が試みられた。しかし、
早期に潰えたのはこの原因があったからだ。
教科書に載るほど、有名な事実である。
﹁それでもっ! ︱︱⋮⋮すまない。確かに、おかしなことを言っ
たね。そうだ、うん。⋮⋮全て、私の思い違いだ﹂
硬い喋り方をしている、とファーガスは悲しくなる。再び、彼女
は心を閉ざそうとしていた。しかし、それでも信じられない。ハワ
ードの馬鹿に、そこまでの業があるとは思えないのだ。
ともあれ、ひとまず彼女の言い分を聞かないと始まらない。ファ
ーガスは、自分の感情を極力抑えて聞き出す。
﹁分かった、ベル。一旦、ハワードは亜人だって仮定しよう。それ
で、何でその事に気が付いたんだ?﹂
﹁ハワードは亜人じゃないよ﹂
﹁仮定だって言ってるだろ?﹂
緊張を和らげるため、微笑して肩を竦めた。それに彼女はしばし
目を瞠ってから、力なく微笑み返す。そして、思い出しながら、ゆ
っくりと語りだした。
648
﹁⋮⋮君と会わなかった三年間の間に、私とハワードは初めて出会
った。その時は何も思わなかったよ。何も話さなかったし。許嫁の
話も、元々なかった。考えても見れば、イングランドとアイルラン
ドの貴族が許嫁なんて奇妙な話だろう?﹂
﹁︱︱まぁ、そうだな﹂
まだ、硬い。ファーガスは、こっそり拳を握りしめる。
﹁実際、会った理由も偶々個人的に親同士の中が良かっただけらし
くて、ハワードも最初、親に無理やり連れて来られたと聞いている
よ。でもその翌年、ハワードの父親が死んだとかで、父ではなく奴
の兄が訪ねてきた。⋮⋮多分、その時だったと思う。話が持ち上が
ったのは﹂
相槌を打ちながら、空を見上げた。日が高くに上っている。ここ
まで早く、時間が過ぎていたのか。だが、雲色が怪しい。雨が降ら
なければよいのだが。
﹁何でそんな話が持ち上がったのかも分からなかったし、何でそん
な提案を父が呑んだのかも分からなかった。彼らが返ってからすぐ
に言われたんだよ。父に﹃ハワード家のナイオネル君と結婚しなさ
い﹄って﹂
﹁⋮⋮どうにもきな臭い話だけど、それがどうして亜人に繋がるん
だ?﹂
﹁⋮⋮扉の隙間から、チラって見たんだよ。笑みが似ていたんだ、
凄く。その所為で、私はあいつに近づかれると、身動きが取れなく
なる﹂
649
君のお蔭で、前よりはマシになったけどね。とベルは笑った。フ
ァーガスは、無言のままでいた。彼女は、二度、ファーガスに視線
を向けて逸らすのを繰り返し、唾を飲み下して、言葉を絞り出した。
﹁⋮⋮私の父に向かって笑いながら話すハワードの笑みが、オーガ
そっくりだった。多分、あいつなんだ。あいつが、父にその話を持
ちかけ、説得した!﹂
ファーガスは、その言葉に絶句せざるを得なかった。中の悪い二
人を見ている限り、到底信じられる話ではない。だが、ベルの表情
は至って真剣で、更にいえば、彼女がこんな冗談をいう訳が無かっ
た。
﹁⋮⋮でも、何で。あいつ、ソウイチロウにアメリカに連れてけと
か言ってただろ?﹂
﹁分からない、分からないんだ。だから、怖いし気持ち悪い。︱︱
でも、話を上げたのが奴の兄でない事は分かってる。だって、全然
その話声が聞こえなかった。ずっと、父とハワードの声が居間の中
で木霊していた! ⋮⋮私は、一体どうすればいいんだ? このま
ま、あの得体の知れないハワードと、大人しく結婚するしかないの
?﹂
唇を戦慄かせながら、ベルはぎこちなくファーガスの服の裾を握
った。けれど、その手は躊躇っている。握り返さねば、彼女はその
手を放してしまう。
ファーガスは、思い余ってベルの事を抱きしめていた。彼女の体
は、思ったよりも華奢だった。体付きの問題ではないだろう。彼女
650
が、それ程弱っているという事だ。
彼女にとって今日は、亜人と一日中一緒に過ごす日であるという
事だった。遠くからの狙撃なら大丈夫になったベルでも、手を伸ば
せば届く距離にそれが居れば身が竦んでしまう。実際にハワードが
亜人かどうかは置いておこう。だが、この状況は間違いなく大きな
ストレスになっていたはずだ。
﹁ファーガス、嫌だよ⋮⋮。亜人と結婚なんてしたくない。私は、
私は⋮⋮っ!﹂
﹁おらボケ共が! こっちだこっち、何だよ見失ってんじゃねぇぞ
このボンクラ! 悔しかったらオレをリンチにしてみやがれ!﹂
﹁クソが! 殺してやる! みんな、あいつを取り囲むんだ! 仲
間が居てもどうせ数人だから、策なんて気にしなくていい!﹂
罵声に次ぐ怒声が、身を隠す二人の体を硬直させた。慌ててゴブ
リン達の様子を確認する。動きは無い。念話が来た。
﹃グリンダー、クリスタベル! ゴブリン共の塩梅はどうだ﹄
﹃⋮⋮問題ない、そのまま突っ込め﹄
﹃了解、シルヴェスターはそのまま二人と合流して、クリスタベル
と共に引き続き援護だ。グリンダーは、気を見て乱闘に参戦しろ!﹄
念話が切れ、沈黙が訪れた。怒涛の状況変化にいつしか抱擁は崩
れ去り、寂しげに佇むベルの姿が在った。
651
﹁⋮⋮ベル﹂
﹁いいんだ、ファーガス。それよりも、今はこの作戦が上手くいく
ように立ち回らないと﹂
自分に言い聞かせるように、彼女は笑った。先ほどまでの弱った
雰囲気は消えている。だが、隠している、と言う風にも取れた。
そこに小走りのローラが来て、うやむやになった。ハワードはゴ
ブリンの群れに突っ込み、追ってきた半分以上を落とすことに成功
した。崖がいいブラインドになったのだ。
ゴブリンは慌てながらもそれぞれに武器を取り出して、騎士候補
生たちに襲い掛かった。ハワードは極力その数を減らさないよう、
追手の騎士候補生から遠く離れつつ、ゴブリンの攻撃を受け流す。
対して、追手であった彼らはゴブリンに防戦一方だ。けが人が出
始めると、援護のため次から次へと崖下に降っていく。ソウイチロ
ウの言うとおりだ、とファーガスは思った。彼らはこの程度でも、
かなり苦戦している。
しばらくすると、ゴブリンは全滅し、息絶え絶えなかつての追手
たち、そしてほぼ無傷のハワードが残された。渋面ながら、ファー
ガスも崖から飛び降りる。
﹁じゃあ、弱ってるところ悪いが二回戦と行かせてもらおうじゃね
ぇか。ひー、ふー、みー⋮⋮数は大体四分の一程度にまでなったか。
成果は上々だな﹂
﹁クソッ、こんな卑怯な手を使って、良いと思っているのか! 先
652
生に言えば、お前らの点数なんてすぐに吹き飛ぶぞ!﹂
﹁おやおや。ここに一人、ルールを正確に認識してない甘々のお坊
ちゃんがあるようだな。この罠が﹃反則だ﹄なんて注意、一度でも
されたか? しかもこの、亜人共がうじゃうじゃ湧く場所でやって
んだぜ? 想定の範囲内だろうが。もっとも、第一年でやる奴はオ
レくらいの者だろうが﹂
﹁⋮⋮挑発もいい加減にしたらどうだよ、ハワード。さっさと気絶
させて他に行こう。更に追手が来ないとは思わないぜ、俺は﹂
﹁それもそうか。じゃあ、行くぞ虫けらども!﹂
ハワードは、雄叫びと共に駆け出した。その先の事は、語るまで
もないだろう。
日が、少しずつ赤くなっていた。
あれ以来、大規模な襲撃には遭わなかった。小規模なものは、や
ったりやられたりしたが、結局は勝てた。
戦果は、イングランドクラスの生徒を三十、アイルランドクラス
が五十、スコットランドクラスは、四。一つの砦を崩したが、それ
以外は既に崩されていたか、見つけられなかった。
索敵もほとんど引っかからなくなって、手持無沙汰で居た。そこ
に、鳥型の聖獣が飛んできた。足に機械を付けている。羽ばたきな
がら、空中で止まった。機械が作動し、立体映像が映し出される。
653
﹁現時刻を以て全パーティの交戦は不可能と判断し、これにて学年
末試験を終了する。それぞれの班は聖獣の放つサークルにのって、
移動するように﹂
詳細は後日、と言い残して、眼前に魔方陣が広がった。きょとん
と全員で目を合わせるが、疲れもあり、言葉も交わさずそれぞれサ
ークルに吸い込まれていった。
その後、教師たちに誘導され部屋に戻った時にはもうクタクタで、
さっとシャワーを浴びたらすぐにベッドに横になってしまった。
タブレットにメールが届いていた事には、しばらくの間気付かな
かった。
試験が終わり、試験休みで結果発表も行われずに数日が経った頃、
不意に暇になってタブレットからメールを開いた。ファーガスは、
昔からあまり携帯を見ない性質である。自分から誰かにメールなど
を送った時は返信を待つべく手元に置いたりするが、通知が来てい
ても面倒で開かない時がままある。
届いているメールは、五件。かつての友人からの近況報告の三通
に腹を抱えて笑い、ベルから届いた﹃お疲れ様﹄にほっこりし、最
後の一通に手が止まった。
ソウイチロウからのメールだ。それだけなら、別になんてことは
無かった。だが、題名に付けられた﹃ごめん﹄の字が、ファーガス
を硬直させた。
不安に思いながら、開封する。
654
﹃ファーガスへ。そちらは今、試験が終わるか否かってところかな。
どう? 多分、君たちの事だから優勝してもおかしくない戦果だと
思う。
僕は今、ドラゴンと戦う騎士団の人の中に混じってるよ。でも、
色々とおかしい事があるんだ。僕はこっちでは、あまり虐められず
に済んでいる。そこは安心してほしい。むしろ、思いのほか好待遇
で戸惑っているくらいだ。それが違和感の理由でもあるのだけれど。
何かが食い違ってる。最近は、僕だけが被害者じゃないんだって、
そんな事を考えるようになった。
行動しなくちゃならないって、そう感じた。だから、ごめん。先
に謝っておくよ。
僕は、イギリスに現存する全てのドラゴンを殺そうと思う。詳し
い理由は、言えば君の方が危険になる可能性があるから、言わない。
だけど、気を付けてくれ。何かが、後ろに居る。その事は、忘れ
ないでほしい。
PS,この文章は残っていると危険だから、君が読み終わったら
自動で消える様に細工をした。元気でね、ファーガス﹄
読み終わった瞬間、強烈な静電気にタブレットをとり落としてし
まった。あまりの痛みとショックにしばらく動けず、十秒近く経っ
てから我に返った。
655
拾うと、気付かぬ間に待ち受け画面に戻っていた。受信メールの
画面を開き、先ほどのメールを探した。
しかし、無い。確かに消えている。
﹁⋮⋮何だよ。何があったんだよ、ソウイチロウ!﹂
背筋から立ち上る恐怖に、ファーガスは震えていた。他人に送っ
たメールを、自らの細工で消す。出来ない事は無いだろう。だが、
ソウイチロウは携帯を持っていても、きっとパソコンを持っていな
かったはずだった。その上、読み終わった直後なんて、ほぼ不可能
だ。
急いで、返信を書いた。祈るような気持ちで、送信した。
一分もしない内に、そんなメールアドレスは存在しないという通
知が来た。
ファーガスに、それ以上出来る事は無かった。
656
4話 黒髪の監視者︵1︶
ファーガスは一人学園長室に呼ばれ、パーソン学園長︵先の全校
集会で初めて名前を知った︶と、その側近のヒース先生の前に立た
されていた。二人の表情は、難しい。怒っているというのではなく、
ただ困難に直面して頭を悩ませていると言った顔つきだった。
老齢ながら若さを損なわない気品の学園長も、今は少々眉間の皺
が濃い。ヒース先生はドラゴン退治から帰って来たとかで、今はギ
プスが足を覆っていた。外国の情報が入って来にくい最近だが、そ
れでも世界的に見て医療が完全に遅れていることが窺える。
﹁⋮⋮グリンダー君。我が騎士学園は、クラス替えを行わない事で
有名なのは知っていますね?﹂
学園長の眉間を揉みながらの言葉に、戸惑いながらファーガスは
相槌を打つ。
﹁その理由は、何故だかわかりますか?﹂
﹁えっと、クラスというか、出身地ごとに聖神法の質が違っている
からですよね?﹂
﹁その通りです。その為教えるカリキュラムが異なるので、クラス
替えと言う物が出来ません。他クラスと交流する機会もないですか
ら、中々互いを敵視の払拭もまた、難しい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
657
嫌な予感にファーガスの表情が段々と引きつっていく。
﹁その上、昨今はある生徒のためにどのクラス事情をこじれている
節があります。早急に、何とかしなくてはなりませんね﹂
﹁そう、ですね﹂
﹁グリンダー君。あなたは特別です、すべてのクラスの聖神法が使
える。それは歴代で初めての事なのです。もはや奇跡と言っても過
言ではないでしょう。そのため、あなたの成長のために出来うる限
り成長を積ませることは、私達教育者の義務と言っても過言ではあ
りません﹂
﹁⋮⋮はい﹂
逃げ出す方法は何かないだろうかとファーガスは考える。たとえ
ば、彼らよりも立場が上の人間などだ。しかし、生憎と学園長は学
園長だった。長である。
﹁故にファーガス・グリンダー。貴方には、アイルランドクラスへ
の編入を命じます。期待していますからね﹂
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは言葉を発しない。ささやかな抵抗のつもりだった。
だが、学園長は構わずに﹁では、用件は伝えましたので退室なさい
?﹂と言うばかりだ。ファーガスは項垂れつつ地下室から出る。
そして、これからの課題を考えた。今日のところはイングランド
658
クラスの寮に居ていいという話だったが、明日にはその引っ越しも
あるらしい。その数日後には、新入生たちの入学式だ。
とりあえず、学業に関する問題は何とかなりそうだった。アイル
ランドクラスの聖神法にも、ある程度の量のポイントを振っていた
からだ。ただし、致命的な問題がないわけではない。
ナイオネル・ベネディクト・ハワード。
ファーガスの宿敵の名である。
奴がいるクラスへの編入など、はっきり言って悪夢でしかない。
それ以前にベルと離ればなれと言うのも痛かった。やっと日常会話
を交わせる仲に戻れたというのに、などと悔しくなってしまう。
部屋に帰ってから、アメリアに﹁俺だけクラス替えだよー、大人
は理不尽だよー﹂と泣きつくと、猫の手でぽんぽんと頭を叩かれる。
慰めてくれる風な所作はアメリアの得意技だ。
そんな彼女を優しく抱きしめつつ、ファーガスは天井を見つめな
がら考え始めた。ちら、と視線だけを動かして、タブレットを見る。
︱︱あのメールの直後、何も出来ない自分に腹が立ち、ネットで
調べたり、図書館に居座っていたローラに手伝わせたりして、ファ
ーガスはソウイチロウの事件や、過去騎士学園がらみで起こった出
来事を洗いざらい調べていた。
しかし、どれも肝心なところでぼかされていたり、ソウイチロウ
の事件などは裁判の痕跡すら残っていない始末だった。これは、明
らかに不可解な事柄である。ファーガスは、裁判の実在さえ疑う余
659
地が出て来たと考えていた。だからスコットランドクラスやアイル
ランドクラスが、いまだ現存しているのでは、と。
それだけならば、もみ消したで一応の納得はいく。しかし、ソウ
イチロウの無罪公表がその仮説をぶち壊しにしているのだ。
ドラゴン討伐の情報は、一匹が順調に倒されたという報告があっ
ただけである。最も苦戦していたドラゴンだったらしく、この分な
らば被害も少なかろうと。
ソウイチロウ自身の情報は、当然分からないままだ。
翌日、Mr.ヒースがやってきて、ファーガスに全く異論をはさ
む余地を与えず、手際よく寮の引っ越しを済ませてしまった。
﹁⋮⋮よろしく、お願いします﹂
﹁こちらこそ﹂
新アイルランドの寮長は、口調こそ丁寧だったが目に見えてやる
気が無かった。ファーガスが、ソウイチロウと仲良くしていた事を
知っているのだ。
三人には、連絡はしておいた。それぞれの反応は様々で、まず学
園の横暴にむっとして閣下に連絡を入れようかどうか吟味し始めた
ベル︵多少怒った程度では絶対にこんなことは言いださない︶、心
配してくれたローラ、返信をよこさないハワードと言った具合であ
る。
前者二人には感謝の返信をしておいたが、最後の一人にはスパム
660
メールを送りつけておいた。
その返信もきていない。新学期、いきなり奴と顔を合わせるのか
と考えると、憂鬱にさせられた。ただでさえ友達が出来そうにない
のに、後ろ盾すらいないありさまという訳だ。
まぁ、あいつはあいつで友達が居なさそうではあったが。
そうして、新騎士候補生たちの入学式、新たに言い渡された集合
場所に向かうと、見慣れない顔ぶれの中に、ファーガスを見つけて
ぎょっとした顔が在った。渋い顔で近づき、低い声で挨拶する。
﹁⋮⋮グリンダー、アレ、趣味の悪い冗談じゃなかったのか﹂
﹁俺はお前みたいにユーモアのセンスが無い訳じゃないんだよ⋮⋮﹂
﹁スパムメールが来てむしろ安心したオレの安堵を返せ、クソ野郎﹂
﹁知るか、タコ﹂
口汚く罵り合う二人だが、どちらも酷く顔色が悪い。ファーガス
は、特に輪をかけていた。周囲がちらちらと、こちらに視線を投げ
かけているのである。
嫌悪と言うには、弱い。とはいえ全く顔が知られていない訳では
ないらしく、偶に中傷的な言葉が聞こえて、軽くへし折れそうにな
った。だが、ソウイチロウはこの数倍キツイ状況に晒されていたの
だと考え、頑張らねば、と自ら奮い立たせた。
﹁ほら見ろよ、あいつお前を指して﹃ブシガイトと仲良くしていた
661
奴だぜ、後で少しオハナシしにいくか﹄って笑ってやがったぜ!﹂
﹁お前それ大声でいう事じゃねぇから!﹂
と、言ったはいいが、ファーガス自体も大声な物だから我に返っ
て口を押さえてしまう。すると件の話していた数人はバツが悪くな
ったらしく、こちらから目を背けていた。
﹁⋮⋮ハワード、お前オレに追い打ち掛けたというよりは⋮⋮﹂
﹁ハッ、自意識過剰なんだよ、この間抜け。⋮⋮どうせ大して行動
範囲が変わるって事もないだろうよ。食事時は、イングランドクラ
スに行くつもりなんだろ?﹂
﹁まぁ、その予定だ﹂
﹁じゃあ変化なんてものはねぇってこった。そう思うと馬鹿らしく
なってく⋮⋮ふぁぁあ。ねみぃ﹂
大あくびをして、それっきり奴はファーガスに構わなくなった。
しばしぽかんとして、﹁いいか、どうでも﹂と彼もそっぽを向く。
ファーガスの編入について、アイルランドクラスの教頭は特に触
れなかった。その為か、入学式も早々と終ったような印象がある。
通常の学業に関しては、震度自体は同じだったため、特に気にか
かることもなかった。だが、ガイダンスで今年に取り掛かる聖神法
の訓練の内容を見て、ファーガスの顔から色が失せた。
昼食時、ひとまずイングラントグラスでベル、ローラと昼食をと
662
っていた。ハワードは﹃せっかくの休みなんだ! 飯なんか後でで
いいだろこの盆暗。まずは狩りだ、狩り!﹄と山に行ってしまった。
ポイントが欲しいのではなくただ単に狩りがしたいらしい。ちょっ
とこれから一年が不安になる。
﹁でさぁ⋮⋮。アイルランドクラスの聖神法って、最初はイングラ
ンドクラスに似てるんだけど、途中からものすごい分岐するのな。
明後日までに五百ポイント貯めなきゃ⋮⋮﹂
﹁明日ではなく、ですか﹂
﹁明日は座学しかないからな。まぁハワードの馬鹿が居るから二百
ポイントは安心できるんだけども﹂
﹁えっ、⋮⋮ってことは、ハワードは一人で八百ポイント稼ぐって
こと? この二日間で?﹂
﹁前に一日であいつがなんポイント稼ぐか計ってたんだけど、大体
そんな感じ﹂
﹁凄いですね⋮⋮﹂
ファーガスはしかめっ面でジャガイモを口に運びながら、﹁食っ
たらすぐに山に行くかな⋮⋮﹂とぼやく。二人も手伝おうかと尋ね
てくれたが、辞退した。雑談で、それぞれ明日は用事があるのだと
知っていたからだ。
それに加え、二人は午後に一緒に街に出ようと約束していたのを
ファーガスは聞いていた。新たな友人関係の結びつきを、邪魔する
わけにはいかない。せめてものという事で、一旦パーティを解除し
てポイントの分散を防いでくれたが。有難いと頭を垂れる。
663
ファーガスは食事を終えて、ため息ひとつ、両手で頬を叩く入魂
一つを経て、エリア4へ向かった。そういえば、パーティの組み直
しがあってエリア5の開放も近い。ここの亜人も、皆は多分強いの
を狙って狩っていることだろう。
亜人情報はすでに解放されていて、バイコーンと言うニつの角を
持つ馬がこのエリアで一番強いようだった。一角獣で知られるユニ
コーンと対を為す、不純をつかさどる怪物とされている。
タブレットで調べると、詳しい生息場所も記されていた。そのほ
うに歩いていくと、何処からか剣劇と気の狂ったような罵声が聞こ
えてくる。ファーガスは感づいて嫌な顔をしつつ、その方向へ歩い
て行った。
果たして、予想通りハワードはそこにいた。五匹のバイコーンに
囲まれて、高笑いを上げながら大剣をふるっている。しかし、おか
しなことが一つだけあった。もう一人、奴と共闘する人物がいたの
だ。
アイルランドらしい緩くウェーブした黒髪が、肩口で切りそろえ
られている。背丈はローラより下かどうか。小柄と言うよりは、幼
さを感じた。それ以上は、距離があってよく分からない。学年が下
なのかと訝ったが、新騎士候補生が第4エリアに入れる訳もない。
というか第二学年で第4エリアなのも何十年ぶりくらいの快挙らし
いが。
彼女の動きは、熟練とは言えないものの洗練されていた。ハワー
ドの動きが才能あふれると表現されるべきならば、こちらはよくこ
の歳でここまで練り上げたと評すべきだろう。
664
敵の動きを紙一重で避け、そこに生じた隙から、弱点に必要な分
だけの攻撃を加える。それは必然的に致命傷となり、例えば今、頸
動脈を描き切られたバイコーンなどは、首から血をまき散らしなが
ら突進を続け、横倒しになって動かなくなった。
﹁⋮⋮強いな、あれは﹂
ああいうタイプの騎士候補生が、きっと﹃マーク・チェック﹄な
どを素早く入れて、強敵を打倒するのだろう。ファーガスはもうあ
の聖神法を使うような状況になるものかと、強く決心したものだ。
ハワードではないが、あのくらい真っ直ぐな戦いの方がファーガス
としては楽なのである。
しかし、全く危なげないという事でもなかった。正面からの攻撃
には迅速で的確な行動も、背後から来るとなると避けるのだけでも
見ているこちらが冷や冷やさせられた。その都度ハワードがフォロ
ーしていたが︵珍しいと思ってしまった︶、ちょっと手が届かない
状況ができていたので、ファーガスは慌てて駆け出す。
﹁おらっ!﹂
バイコーンの横っ面を盾で殴りつけ、怯んだところをアイルラン
ドクラスの上級攻撃で首を落とした。純粋なトドメとしては、アイ
ルランドクラスのそれは優秀なのだ。対するイングランドクラスは、
敵の体力を奪うのに向いている。火傷、凍傷など、長期戦を見越し
た強敵に向いているというべきか。
﹁あん? ⋮⋮グリンダーじゃねぇか。何だお前、何でこんなとこ
ろにいる﹂
665
﹁ポイント稼ぎのためにうろついてたら見つけてな。っていうかハ
ワード、世話役ならもうちょっと徹底してやれよ。今危なかったぞ
?﹂
残るバイコーンは、ハワードとやりあっている一匹だけ。そうな
れば、ファーガスも一々戦闘に集中しろなどとは言わない。この程
度の敵なら、奴はよそ見をしていても勝てるだろうからだ。油断し
て怪我しても、様を見ろとしか思わないし。
﹁余計なお世話だクソ野郎。と言うかアンジェ、俺はお前が大丈夫
だって言い張るから連れて来たんだがな﹂
言いながら、ハワードは相対する二角獣を縦に真っ二つにした。
臓物が零れ落ちるのを予感して、﹁おぇ﹂と舌を出しながらそちら
から目を逸らす。ハワードは手早く角を回収してからこちらに近づ
いてきた。
﹁で、何の用でこの山に入ってきやがった。お前休日に来るほど狩
り好きって訳でも⋮⋮、なるほど分かった。そうかそうか、じゃあ
オレはここで狩りを終えるかね﹂
﹁お前の察しと性格の良さには反吐が出るぜ﹂
﹁ハンッ、褒め言葉だな﹂
睨むファーガスと嘲笑うハワード。どちらがクソ野郎だという話
である。
だが正直な話、嫌がらせだけでハワードが狩りを止めるとも思え
666
なかった。どうせ続けるだろうと高をくくって、﹁それで﹂と少女
に目を向ける。
﹁その娘は? 見たことない顔だけど﹂
﹁あー、こいつはツレだ。気にすんなよ﹂
﹁えっ、あたしに喋らせてくれないんですか? 遥かにネル先輩よ
りも感じ良いからちょっとうずうずしてるくらいなのに﹂
﹁駄目だ、粗大ごみは粗大ごみらしく黙して燃えろ﹂
﹁そんな魔女裁判みたいな!﹂
﹁⋮⋮とりあえず、なんか面白そうな子だってことだけは分かった﹂
それ以前に下級生なのか、と再びの疑問を抱く。その次に、改め
てその容姿を見て驚いた。
彼女は、美貌の持ち主だった。先述のよれた黒い短髪に、ぱっち
りと大きな瞳。それは少し釣っていて、悪戯っぽさが艶めかしい。
しかしその表情は無邪気そのもので、成長が待ち遠しくもあり、し
かし永遠にその間で居て欲しい気もするという、稀有な感情を抱か
せるものだ。
アンジェ、と呼ばれていたか。と考えていると、ハワードの制止
を振り切って彼女はずいと自己紹介をしてくる。
﹁どうも初めまして! あたしの名前はアンジェラ・ブリジット・
ボーフォード。愛称はアンジェです! ネル先輩との関係は従妹!
667
信頼関係は少額の金の貸し借りは出来る程度です!﹂
﹁あんまり信用されてないな、お前﹂
﹁違ぇだろ。グリンダー、オレが曲がりなりにも大貴族の息子であ
ること忘れてないか?﹂
﹁すっかり忘れてた。⋮⋮ってことはアレだ。アンジェが信用され
てないってことだな﹂
﹁何言ってんですか! 超信頼されてますよ!? だってこの偏屈
ヤロウを少しでも知ってるなら分かりますでしょ! こいつが他人
に軽々しく金を貸しますか痛いごめんなさい偏屈とか言って悪かっ
たです嘘ですから﹂
ハワードの予備の小刀の柄で何度か叩かれて頭を庇うアンジェ。
確かに、言われてみれば信頼されていると言えなくもない。
﹁ちなみに何で金を借りたんだ?﹂
﹁え? 借りてませんよ、傍系とはいえ大貴族の血縁ですから。ど
のくらいあたしのこと好きですかって、触れ合う男子がネル先輩以
外に居なかった時期に聞いたら、そんな答えが返ってきました﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
腐れ縁と言うのが一番ふさわしい関係であることだけは理解した
ファーガスだった。
668
4話 黒髪の監視者︵2︶
アイルランドクラスで知り合いがめっぽう少ないファーガスは、
自然とハワードと行動を共にすることが多かった。
人脈的な問題で敬遠されるファーガスと、人格的な問題で敬遠さ
れるハワード。ある意味お似合いの二人は出来る限り互いを避けよ
うとするものの、授業としての修練時などはどうしてもペアを組む
ことが多く、何となく一緒になってしまう。
その所為ともいうべきか、ファーガスは聖神法ありきの対人戦に
滅法強くなった。ハワードは熱心に早朝から修練をし、めきめきと
上達していく。それを指を咥えて見ているのも癪で、最近無理に早
起きしていたのをさらに早め、淡々と一人で訓練を積むハワードに
喧嘩を売るようになった。前にやられた借りを返すのは、そう遠く
ないようにも思える。
奴と早朝にやりあう時は、寸止めは勿論としたうえで、真剣を使
った。本来は騎士補佐や寮長などになって許可をもらわねば許され
なかったが、時間は四時よりも少し早い時間帯だったので、特別に
見とがめられることもなかった。
もちろん見回りを﹃ハイド﹄などで躱して向かうのである。
初めはハワードの挑発だった。恐れたが、反発心の方が強かった。
今では、真剣でやりあう時だけ集中とも違う何処かに至るような気
がしている。
669
互いに、向かい合っていた。
ハワードは、大剣を地面すれすれの場所に剣を構えていた。初見
では、引きずっているようにも見える。奴の戦いは動的だった。一
手目を失敗しても二手目がある。それも駄目なら三手目。自分の攻
撃が最も通りやすい場所を探しながら、その激しい動きが敵の攪乱
にもなっている。それに惑った敵は隙を見せ、そこを深々と貫くと
いう寸法だ。
対するファーガスは、静的ともいえた。敵の動きを盾でいなし、
自分の隙を極限まで少なくする。そして、その残った隙を自信で把
握した後に意図して広げるのだ。そこをついてきた敵は、見事ファ
ーガスの餌食となる。
勝率は五分五分。怪我をしたことは、意外にも無い。ハワードは、
突撃する最初の瞬間を重視する。そのため、中々駆けて来ないこと
も多かった。
今日も、そうだ。奴は三十分ほど構えた後で、舌打ちをして剣を
しまってしまう。
﹁何だよ、どうした﹂
﹁今日は駄目だ。どうもしっくり来ねぇ﹂
寝る、とだけ言って、奴は自室へと帰っていった。そういう時、
ファーガスはきょとんとするばかりだ。
ファーガスも数時間寝なおして、改めて寮を出た。アイルランド
クラスの食堂で朝食を受け取って、適当な場所に座って食べている
670
と﹁お邪魔しますよー﹂と軽快な声で隣に座る少女がいる。
﹁ん、おはようアンジェ。今日は突撃してこないのか?﹂
﹁どうも、おはようですファーガス先輩。いや、流石に食べてる人
にそんな鬼畜なことしませんよ﹂
ちょっとバツが悪そうな表情で笑って、アンジェはファーガスの
隣で朝食を食べ始めた。ハワード同様、口調は貴族らしくないが礼
儀作法は出来ている。
あの一件を皮切りに、アンジェに遭遇する機会が増えた。
彼女はハワードと違って気さく人柄らしく、三回も会えばすぐに
ファーガスに懐いた。こちらのことを発見するとすぐに駆け寄って
きて、あまつさえ抱き付いてくるのだ。
だが、これを可愛らしいで済ませてはいけない。痛いのだ。本当
に痛いのだ。
体重を乗せて飛んでくるため、まず下半身がしっかりしていない
と倒れる。そして押しつぶされ、文句を言われる。まさに踏んだり
蹴ったりと言う奴だ。
訊けばハワードも昔にやられていたらしく、最終的には﹃しねぇ
用に躾けた﹄らしい。何をしたのかと三人そろった時に聞いてみる
と、ハワードは﹁聞きたいか?﹂と底知れぬ笑みを浮かべ、アンジ
ェは何も言わず視線をそむけて細かく震えていた。
怖かったのでファーガスは聞くのを止め、自分なりの方法で対処
671
するように心がけた。今ではファーガスは、修練の一つに更なる長
距離走を加えている。
下半身の強化で倒れなくなってからは、彼女は少々趣向を凝らす
ようになった。その為、数日は大丈夫だったのに、再び押し倒され
るようになってしまった。要は、狙ってやっていたという事だ。ハ
ワード顔負けの性格の悪さである。
趣向を凝らすと言っても様々で、一番印象に残っているのは自重
を重くするものだった。つまるところ、聖神法である。﹃ジャンプ﹄
から五つほど先に存在する技だ。
遠回りな説明になるが、アンジェはほとんどの大貴族の例にもれ
ず、家の領地に亜人の出る森を所有している。これは専門用語で﹃
貴族領内亜人危険区域﹄といい、そこの亜人が溢れて結界を破らな
いように見張るのも貴族の仕事の一つであるらしい。余談だが、結
界を破るほど亜人が発生しないものや、ドラゴンなど偶に発生する
特殊な亜人用に用意された地域は、﹃貴族領外亜人危険区域﹄と呼
ばれている。
そこで、貴族の娘としては珍しいことに、アンジェはファーガス
よろしく師匠を付けて亜人の狩りをしていたらしい。その戦果を入
学後すぐに提出し、大量のポイントを得たのだと。
ハワードもそうで、雑談の折に聞いたところ奴は単独ならばすで
に第五エリアに届くポイントを得ていたらしい。ちなみにファーガ
スは、師匠の指示により戦果を提出していない。地道にやれとのお
達しだ。
そういう背景で彼女はハワードに連れられて第四エリアに行った
672
り、新騎士候補生にしては取り過ぎな程スキルツリーを埋めていた
りしたのである。
そして、その矛先がファーガスに向けられたという訳だ。
﹃ヘヴィ﹄を使って飛びつかれた時は、亜人に背後から突進された
のかと疑った程だった。ファーガスはそれゆえ失神し、大ごとにな
りかけたので、一度きりではあったものの。
それ以来、ファーガスは耐えるのではなく避ける事に意識を向け
た。気配の察知は得意なのだ。しかし、アンジェはよく﹃ハイ・ス
ピード﹄を用いる為、今ではスコットランドクラスの索敵を愛用し
ている。何となく嫌な予感がしたら、発動させるのである。大抵、
背後五十メートル以内に居て、猛スピードで近寄ってきている。
朝食時はあの用に最低限の自粛を見せてくれたが、それ以外の時
などは別だった。今日とて例外ではなく、ファーガスは寸前まで気
付いていないふりをし、五メートル圏内に入った瞬間に横に跳んだ。
﹁ファーガス先パーぁぁあああああああ!?﹂
顔から地面に突っ込んでいくアンジェを、恐ろしがった目で見る
ファーガス。横に居たハワードは、彼女の痴態を指差して爆笑して
いた。加速していた彼女はしばし床を転がり、頭から壁にぶつかる。
ゴン、と鈍い音がした。
﹁⋮⋮大丈夫か、アンジェ?﹂
流石にファーガスも心配で、恐る恐る尋ねてみる。だがローラに
673
護身用に教わった心を読む風の聖神法は忘れない。前々回はそれで
痛い目を見たからである。
けれど前回に克服していたのもあってか、今は不意打ちする元気
もないようだった。頭を押さえ、呻きながら縮こまっている。
﹁ナイスだグリンダー。お前中々やるじゃないか﹂
﹁初めてお前に褒められるのが今だとは、夢にも思ってなかった⋮
⋮﹂
重たい息を吐くファーガスである。それにアンジェは横になった
まま、きっと鋭く睨み付けてくる。
﹁酷いじゃないですかファーガス先輩! あたしの愛を受け止めて
くれたっていいじゃないですか!﹂
﹁軽々しく愛とかいうんじゃない。そろそろ痛い目を見るぞアンジ
ェ﹂
﹁大丈夫です。言う相手は選んでます﹂
﹁ホントしたたかだよなぁ⋮⋮。⋮⋮流石ハワードの親戚﹂
﹁おいお前、そりゃ一体どういう意味だ﹂
﹁そうですよ、それは一体どういう意味ですか! まさかネル先輩
とあたしを一緒にしたんじゃないでしょうね! 失礼じゃないです
か、謝って下さい! 私に!﹂
674
﹁一周回って予想外だわ﹂
﹁アンジェ後で縛って放置な。山で﹂
﹁すいません、マジすいません﹂
ここまでは大体いつもの流れである。
ファーガスは、一度欠伸をした。昼過ぎで少し眠かったのだ。今
は放課後で、いつも通り山に行こうという話になっていた。最近で
は、何となくで始まったような特待生パーティも馴染んだものであ
る。
アンジェも、そこに混じる事が多かった。彼女はベルと気が合い、
ローラとはまさに水と油の関係だ。
女子二人と合流し、サークルで転送され、第四エリアに入った。
アンジェの参加でいったんは遠のいた第五エリアが、最近また近づ
いてきたのだ。
アンジェの実力ははっきり言って四人の中では一番低かった。し
かし彼女は正面からぶつかるのではなく寝首をかくような戦法を得
意としていたため、気付いたら討伐の三分の一が彼女の手柄だった、
なんていう事もままあったりする。そういうところはベンを彷彿と
させた。
それ故、ある意味怖い相手だとファーガスは苦笑気味だ。少なく
とも視野は誰よりも広く、サポート役としては非常に心強い仲間だ
った。
675
そんな彼女だからこそ、気付いたのだろう。
パーティは、よく互いにはぐれてしまう事がある。ファーガス達
はポイント集めのために乱戦を好み、その結果バラバラになってい
たという事が頻繁に起こるのだ。
いつもの様に亜人の群れに飛び込んで行ったら、ファーガスは気
付けばアンジェと二人きりになっていた。敵は全員戦利品ごと回収
済みで、少々休憩に入ろうという段階でそれに気付いたのだ。
﹁ありゃ? 他の皆さんは?﹂
アンジェは、きょとんとして周囲を見回した。ファーガスは索敵
を行うが、何かが引っ掛かるという事もない。相当離れてしまった
のだろう。とはいえ、女子勢はどれも支援的な面が強いため、単独
になるという事はないので安心だ。ハワードに関する心配はするだ
け無駄だろう。
﹁はぐれたっぽいな。これ以上続けるのも危ないし、ここら辺で帰
ろうか﹂
﹁え∼、もうちょっとやりましょうよ。あたし乗り始めたばっかり
なんです﹂
少し暗くなり始めていたが、それでも彼女の頬の紅潮が見て取れ
た。これだけ見れば可愛らしい物だが、その手には亜人の血に濡れ
たダガーがある。凶悪な絵面だ。
ファーガスは少々口端をひきつらせる。アンジェはこれからだと
言うが、遅くなってからの討伐が危険なのは変わらない。どう説得
676
しようかと頭を揉んでいると、ふと彼女が、何処かを注視している
ことに気付いた。
﹁⋮⋮どうしたんだ?﹂
﹁︱︱アレ、先生じゃないですか? イングランドクラスの食堂で
見ました﹂
アンジェが指差す方向へ視線を向けたが、何かが見えるという事
は無かった。念のため索敵をすると、何も見つからない。疑問に近
寄ってみると、やっと一人、人間が見つかった。だが、遠い。索敵
範囲内ギリギリの場所だ。よく気付いたものだと感心する。
﹁あんなところで何をしてるんだ?﹂
普通教師は山に極力入らない物である。オーガが複数発生したな
どの異常事態ならば掃討に入ったりすることがあるが、それ以外の
時は候補生の自立心を伸ばすためと言う名目で、入山を避けるのだ。
﹁ちょっと見て来ます﹂
﹁あっ、ちょっと待て!﹂
制止は遅く、アンジェはすでに駆け出してしまっていた。﹁止め
たいなら捕まえて御覧なさーい、です!﹂と文法がしっちゃかめっ
ちゃかの言葉に、嘆息しつつアイルランドの聖神法で加速した。
走り、彼女に近づいていく。しかし彼女もまた聖神法を使ってい
るらしく、捕まえられたのが件の教師より十メートルも離れていな
い場所と言う事実が、ファーガスを緊張させた。
677
二人して、茂みに隠れこむ。こんな必要があるのかどうかは甚だ
疑問だったが、出ていくタイミングを失った今は、これを続けるし
かない。
﹁⋮⋮何してんでしょうね﹂
小声である。
﹁さぁ。⋮⋮見続けるのか?﹂
﹁だって、気になりません? 折角こんな特等席を得られたんです
から、とりあえずは見ておきましょうよ﹂
﹁微妙なオチが待ってる未来しか見えないんだけどさ﹂
﹁その時は﹃お互いバカでしたねー﹄って笑い合えばいいじゃない
ですか﹂
﹁この場合馬鹿はお前だけだぞ、アンジェ﹂
﹁あぐっ﹂
やり込められた少女は、茂みに深く沈みこんだ。ファーガスは彼
女から視線を外し、教師に目をやる。
イングランドクラスで見たとアンジェに言われたその人物は、フ
ァーガスも何度か話した事がある相手だった。ユージーン・デュー
ク。修練中に、よく褒められたものだ。
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やっとファーガスにも、興味がわき始める。しかしそんな思いと
は裏腹に、彼はすぐにそこを離れ、入り口に方へ向かって行ってし
まった。
﹁⋮⋮お互いバカでしたねーって言ったら、怒ります?﹂
﹁⋮⋮いや、俺もちょっと興味が湧きだしたところで帰られたから、
お互いでいいや﹂
草の中から二人は立ち上がり、デューク先生の居た場所に移動し
た。自然に、キョロキョロと周囲を探ってしまう。何かあるのかと
思ったが、特に見つかりはしない。
﹁何だったんだろうな﹂
﹁さぁ⋮⋮。ん? あれ、これは一体何でしょう﹂
﹁え?﹂
アンジェは少し離れた場所へと駆けつけて、いきなりその身を屈
めた。地面から何かを拾い上げたと見えて、ファーガスは興味に近
寄っていく。
彼女が手にした物は、鍵だった。複雑な形で、防犯機能は高そう
だとファーガスは推測した。
﹁何の鍵だ?﹂
﹁分かりませんが⋮⋮。ふむ、普段山に入らない教師が落としてい
った、謎の鍵、ですか﹂
679
気になりますね。とアンジェが言った。﹁は?﹂とファーガスが
唖然とした声を漏らす。
﹁いつも柔和な教官が、何やら秘密を隠した様子で本来なら絶対に
入らない場所に居た! そしてそれを目撃されたと察知して足早の
その場を去る! しかしそこには鍵が残っていた! もうこれはサ
スペンスの匂いしかしませんね!﹂
﹁おい、ちょっと待て。大丈夫かアンジェ﹂
﹁気になったら何が何でも調べるはあたしの信条! どうやっても
もうあたしの情熱は止めることができません!﹂
﹁⋮⋮そういう風に言われると止めたくなってくるな﹂
﹁止めてくださいそういうこと言わないでくださいトラウマが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ、ハワードか﹂
何となく言いそうではある。
﹁ファーガス先輩!﹂
﹁嫌だ﹂
﹁まだ何も言ってないですってば!﹂
﹁いや、違うんだよ。アンジェの唐突な盛り上がりに付いていけな
くて、半ば嫌悪状態にあるだけだから﹂
680
﹁﹃アンジェの言動の先読みした結果だ﹄、とかよりも嫌な回答が
返ってきました⋮⋮﹂
テンションの差が激しすぎた結果、相手の行動が何もかもつまら
なく感じる時と言うものがあるだろうか。少なくともファーガスに
はある。今である。
確かに、ちょっと自分でも無理やり感がありました。とアンジェ
はごほんと咳払いをした。﹁でも﹂と改めて鍵を見やる。
﹁不思議じゃないですか? 普通に。興味そそられません?﹂
﹁それがどうしても気になるっていうなら、アンジェは騎士なんか
今すぐにやめて探偵になるべきなんだろうな﹂
﹁予想以上にファーガス先輩が冷たいです⋮⋮﹂
﹁いや、だってさぁ⋮⋮﹂
鍵を取って、まじまじと見た。確かに秘密の匂いがしないでもな
い。だが、何の鍵かも分からないのに、彼女ほどに興味を示せとい
うのは酷な話だ。
そうですか、と彼女は残念そうに言った。ファーガスはその落胆
ぶりに謎の罪悪感を抱いて、﹁今度なんか奢ってやるから。これも
俺が返しとくし﹂と諌める。
﹁約束ですからね、スコーン奢ってくださいよ。ネル先輩も大好き
なスコーンを、目の前でパクついてやるんです。基本あの人換金で
681
きるポイント残しませんから﹂
﹁それって意地が悪いようで、実際のところ本当に仲のいいやつ同
士しかできない芸当だからな?﹂
頬を膨らませて年相応の拗ねた顔を見せるアンジェの頭を、ファ
ーガスは思わず撫でていた。黒髪の少女はびくっと過敏に反応して、
それに少年は慌てて謝る。
﹁ご、ごめん。つい手が出た﹂
﹁その言い方だとあたし殴られてますね。⋮⋮いえ、何かこう、あ
れですよ。ファーガス先輩って、人の頭ものすごい撫で慣れてませ
ん?﹂
アンジェの言葉に、ファーガスはハッとした。古傷ともいえない
ような痛みが、胸の内で痛む。﹁別にそんなことないっての﹂と取
り繕いながら、彼女を撫でた手を隠した。
682
4話 黒髪の監視者︵3︶
イングランドクラスへ赴いて、職員室に足を運んだ。そこにはデ
ューク先生がカタカタとノートパソコンで何やら作業をしている。
彼は座学の教師もしているから、その資料でも作っているのだろう
か。
﹁あの、デューク先生﹂
﹁はい? おや、グリンダー君じゃないか。アイルランドクラスに
行ってしまったと聞いたよ。寂しい限りだ﹂
﹁俺も先生の面白い訓練できなくて残念ですよ。っと、本題なんで
すが、これ、多分イングランドクラスの生徒の落とし物だと思うん
ですけど﹂
言いながら、アンジェが見つけた鍵を渡した。
﹁ここ、これは⋮⋮!﹂
ファーガスは、その時のデューク先生の変化に戸惑った。目を見
張り、声も少々詰まっている。だが彼はファーガスの奇異な視線に
気づいて、しばし慌てた末に咳き込んだ。五秒ほど激しくそうして
から、﹁済まなかったね。この歳になると気管が弱くて﹂と冗談を
言う。﹁まだまだお若いでしょうが﹂と突っ込むと、くすっと笑っ
てから﹁責任を持って持ち主に届けておくよ﹂とほほ笑んだ。
その帰り道。ファーガスは冗談に流されかけた疑念を再び思い返
683
していた。本当の中学二年生なら何から何までジョークだったと理
解するのだろうが、ファーガスはそれに比べればまだ人を見る目に
長けている。
﹁けど、まさかアンジェの言ったようなサスペンスの訳があるまい
し﹂
不可思議に思いながら、少年は首を傾げつつアイルランドクラス
に戻った。昼休みだが、そう毎日パーティで集まる必要もないだろ
うという雰囲気がいつしかそこにあって、今日は手軽にハワードと
飯を取ってしまうつもりだった。
待たせたな、と言いつつ席に座ると﹁あ、すまん。お前のこと忘
れてた﹂とすでに八割がた食事を終えているハワードが、咀嚼しな
がら少年に目をむけた。今更この程度で腹を立てるファーガスでは
ない。こっそり奴の脛を蹴り飛ばしておくくらいだ。
地味に痛がるハワードの横に、ため息を吐きつつ座った。﹁何だ
よ辛気臭ぇな、こっち来るんじゃねえ﹂とあまりにも心無い言葉を
吐かれたので、いっそ腹も立たず素直に﹁なぁ﹂と声をかけること
ができた。
纏まらない内容だったが、ハワードは意外にも真剣そうな面持ち
で聞いてくれた。何だ、こいつにも良い所があるではないかと少々
の感動を覚えていると、何故か奴は少し震え始める。
﹁⋮⋮どうした?﹂
﹁い、いや、なな、何でもな、くふっ、何でもねぇよ、ぉ﹂
684
﹁ハワード、お前今笑って﹂
﹁ない。笑ってなどいない。さぁ、さっさと修練に行くぞ。俺たち
はまだまだ強くならねばならないのだから﹂
﹁なんか格調高い話し方になってるけど。え、何にお前は追い込ま
れてんの? 何がお前を素にさせてんだよ﹂
﹁素になどなっていない﹂
嫌な予感しかしない。ファーガスは冷や汗をたらし始める。
﹁︱︱分かった。スコーンを奢ってやる。だから、頼むから何が可
笑しかったのか教えてくれ﹂
﹁⋮⋮お前、いつになったらオレが大貴族の息子だってことを理解
するんだ﹂
対するハワードは嫌そうな顔だ。しかし、アンジェの前情報通り
好物だったようで﹁仕方ねぇなぁ﹂と折れた。これは非常に珍しい
事だ。きっと目がなかったのに違いない。
﹁アンジェの病気が始まったってことだろ? そしてその場にグリ
ンダーが居合わせた。つまり今回の被害者はお前だってことだ﹂
﹁病気? 被害者って﹂
﹁アイツはそういう所があるんだよ。激しく気になったところに事
件ありってな。でも一度くらいはやってもいいと思うぜ。オレは二
度と御免だが、いい経験にはなる﹂
685
﹁どういうこった﹂
﹁オレの経験談なんだけどよ、オレも一度つき合わされて、酷い目
に遭った。その代りと言っては何だが、危機管理能力が身に付いた
な。それが切っ掛けで鍛え始めたから、入学時点でオークの一匹は
勝てるような実力で居られた﹂
﹁具体的に何があったんだよ﹂
﹁オレん家の保護領の森があってよ。そこの結界が一か所破れてた。
見つけたはいいいが、亜人がすでに目を付けて出てこようとしてい
てな。その場の雑魚を、素人が必死こいて駆除するなんていう危な
い目に遭った﹂
﹁当時何歳だ?﹂
﹁十歳。敵も角もちウサギなんていう雑魚だったが、当時はガムシ
ャラだったな﹂
﹁あー、アレ飛んでくるスピード滅茶苦茶速いんだよなぁ。五発喰
らったら、多分お前は死ぬからなって師匠に言われた記憶ある﹂
﹁ただの角もちならいいが、上位種は弾丸うさぎなんて呼ばれてる
からな﹂
﹁場合によっては一撃で腹が破れるとか聞いたことあるし⋮⋮﹂
魔獣狩りの初めに苦労する場面は、誰でも同じらしい。ともあれ、
﹁はぁん﹂とファーガスは腕を組んで考え始めた。
686
確かに、鍵を渡した時のデューク先生の反応は妙だった。そして
今のハワードの話。踏むと唸っていると、﹁無駄無駄﹂と奴は言う。
﹁その場にいた時点でもう手遅れだぜ、グリンダー。さっき言った
ろ? ﹃今回の被害者はお前だ﹄ってな﹂
大人しく修羅場くぐって来いよ。と奴はからからと笑った。食事
を終えたらしく、﹁先修練場行ってるからな﹂と言い残して立ち去
ってしまう。
その放課後。予定が合わず、今日の狩りは各自自由にと言う話に
なった。ベル、ローラはそれぞれ用事。ハワードは当然のように狩
りだった。そこでファーガスは、何となく山に行く気にもなれず、
ぶらぶらと校内を散歩していた。
改めて見ると、騎士学園は貴族が集まる場所なだけあって博物館
のように意匠が凝らされている。そうしていると自分が全く知らな
かった場所などを発見できて、結構楽しい。
スコットランドクラスは一度の経験もなかったため遠慮したが、
イングランドクラスにもお邪魔させていただいた。微妙な差が発見
できて面白かったのだが、その途中で変な人物を発見した。
小柄な女生徒で、緩くウェーブする黒髪の持ち主だった。彼女は
物陰に隠れながら誰かを追っているようで、逆に言えばファーガス
からは丸見え過ぎて滑稽なほどだ。視線を上げてその追われ人を確
認すると、教官、案の定デューク先生だった。
﹁⋮⋮アンジェ﹂
687
﹁ひぅ!﹂
びくっ、と反応して、彼女は振り返った。そこにあった瞳は酷く
怯えていて、それがファーガスだと認めるとホッと胸をなでおろし
たようだった。
﹁何ですかもー、びっくりさせないで下さいよ。マジに心臓止まる
かと思ったじゃないですか﹂
﹁本当にそんな感じの顔でむしろ俺の方が驚かされたっての﹂
まるで世界の終わりを迎えたみたいな顔だったというと想像しや
すいかもしれない。
﹁で、⋮⋮デューク先生を監視してるのか、アンジェ?﹂
﹁はい。よく分かりましたね﹂
﹁分かるわ。何で分からないと思ったよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今決めた。俺もっとアンジェの扱い雑にする﹂
﹁うぇええ!? いや、本当済みませんって! 冗談ですよそんな、
ファーガス先輩も固いお人ですねぇ全く。そんなに頭カッチンコッ
チンだといつか簡単に割れちゃいますよ? そりゃあもう、卵みた
いに。いっそのことハンプティダンプティって呼びましょうか﹂
688
﹁お前の口の悪さは一級品だな⋮⋮﹂
﹁キャッ、褒められちゃいました﹂
﹁ハワードにも勝るとも劣らないんじゃないか?﹂
﹁そんなこと言うなんてあんまりです! 先輩! いくら怒ってた
ってそんな、酷い⋮⋮﹂
﹁涙目になるほどハワードと一緒にされるのが嫌か⋮⋮﹂
とはいえ少し演劇的な口調だから、多分心底という訳ではないの
だろうが。
ふと気になって視線を巡らせると、とうにデューク先生は居なく
なっていた。アンジェもそのことに気付いたのか、﹁あー!﹂と非
難の声を上げる。
﹁どうすんですか! もしかしたらデュークの憎いあんちくしょう
が、今頃ものすごい悪事を働いているかもしれないんですよ! そ
んな事件現場を見逃したらどうしてくれるんですか! 楽しみにし
てたのに!﹂
﹁お気に入りのテレビ番組かっての。いいよもう、今日は。それ以
前にイングランドクラスに入り浸ってると、見つかった時酷いぞ﹂
﹁そう⋮⋮ですね。仕方がありません。確かにあたしも、上級生に
見つかってボコ殴りは嫌ですから﹂
﹁それは相当珍しい例だと思うけどな⋮⋮﹂
689
少なくとも、ソウイチロウが居なくなってからは互いのクラスの
いがみ合いと言うのは鎮まっている。関わり合いにもなりたくない、
というのが通常の感情なのだ。攻撃の理由がない限り、極力無視し
合う関係である。
二人で無難に脱出してから、一旦食堂に向かった。二人分のスコ
ーンを買い、片方をアンジェに与える。
﹁えっ、いいんですか?﹂
﹁ま、俺も先輩だしな﹂
﹁やっほぅ! ︱︱あっ! でもここにネル先輩が居ない!﹂
﹁やっぱ仲良いだろお前ら﹂
ぐぬぬ、と悔しがりつつスコーンにトッピングを加えてかぶりつ
くアンジェに、ファーガスは苦笑交じりの嘆息。次いで笑みを消し
て、問いかけた。
﹁なぁアンジェ。いくら気になるって言ったって、お前のやり方は
趣味が悪い。その上他クラスだから危険もある。痛い目を見る前に
やめておけよ﹂
﹁⋮⋮むぅ﹂
スコーンを口に運ぶ手を止めて、静かに視線を落とす。でも、と
今度は本当に悔しそうに言うのだ。
690
﹁あたしが本当に気になった時って、絶対に何かあるんです。本当
に。⋮⋮まるであたしは、悪魔の化身なのかもって思うくらい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから、責任を持って止めなければならないんです。そうでなき
ゃ、近い将来、死人が出かねないんです⋮⋮!﹂
追いつめられた人間の顔だ、とファーガスは思った。一時期は、
鏡を見る度にずっと見せつけられていたものだ。三百年も前の話だ
が。
﹁そう思う、根拠を教えてくれよ。俺も知らない仲じゃない。出来
ることなら協力してやりたい。でも、どうにも実感がないんだよ。
ハワードにもアンジェのそういう事を聞いたけど、一回きりだろっ
て、どうしても思ってしまう﹂
﹁一回きりじゃないんです。ネル先輩っていうと、結界の解れの話
でしょう? あの一回こっきりだったら、あたしだってこんな面倒
なことしませんって﹂
﹁︱︱聞かせてくれるか?﹂
﹁⋮⋮はい。隠すようなことは一つしかありませんし。だから誰に
も言わないでくださいね?﹂
﹁分かった分かった﹂
沈痛な表情を見せたり、かと思えばすぐに相好を崩したり、忙し
ない後輩である。
691
﹁ネル先輩の事件は、時期的には三番目なんですよね。最初に気に
なったのは五歳の頃。対象はお父さんでした。付いてきた結果は、
お父さんの浮気。口止めに相当おもちゃを買ってもらいましたし、
相手の女性とも別れさせました﹂
﹁⋮⋮まぁ、大したことと言えばそうだけどさ﹂
﹁次に、本屋で見た変な人を追いかけたら、危うく殺されるところ
でした。当時の連続殺人犯だったらしいんですね。家に電話を掛け
たら近衛の人がいい感じに犯人をぼこぼこにして助けてくれました。
警察の人に表彰されましたね。嬉しかったです﹂
﹁危険すぎるだろ﹂
﹁三番目は、ネル先輩の言った通り。結界が解れて、亜人が出てき
そうでした。亜人っていうのは、他の国はともかくこの国では人に
害をなし、時によっては食らうもの達です。発見できなければ、何
人死者が出たか分かりません﹂
﹁⋮⋮そりゃあ﹂
﹁あと二つありますけど、まぁ、大体今までのと同じ感じです。そ
して、今回が六度目。だんだん危険度が上がってますから、何とし
ても止めたいんです﹂
﹁なるほど⋮⋮なぁ﹂
彼女の好奇心が曰く付きであることは、恐らく事実なのだろう。
こんなつまらない嘘をハワードが吐くわけがないし、アンジェもこ
692
んな凝った嘘を語って楽しむ人間でも年頃でもないはずだ。
それに、とファーガスはアンジェを真正面から見つめ返す。彼女
の表情は真剣そのもので、そこにはひたむきな義務感が強く灯って
いるようにファーガスには思えた。
︱︱ファーガスは吟味する。証拠としてなら、物的なそれを別と
しても八割方信用出来る。残りの二割は、荒唐無稽な話を排除しよ
うとする常識の存在だ。けれど、三百年前からは想像も出来なかっ
た亜人の出現を鑑みると、その常識さえどうなのかと考えてしまう。
﹁⋮⋮分かったよ。とりあえず、アンジェの話を信用する﹂
笑いながら、少年は言った。取り立てて信じない必要もないと思
ったからだ。監視はアンジェ一人でやるから危険なのであって、元
イングランドクラスであったファーガスがうろつく限りは、多少な
りとも危険が薄れると考えている。
ソウイチロウの話は、最近では話題にも上がらないのだ。
﹁本当ですか!﹂
アンジェは、跳び上がりそうなほどに喜んでいた。それが、ファ
ーガスにはくすぐったい。﹁協力っていうのは、不審がられないよ
うに付いて来いってことだろ?﹂と確認を取ると、首肯が返ってき
た。なら、問題はない。
﹁なら、精々付き合わせてもらうさ。別に忙しいって訳じゃないし
な﹂
693
﹁はい!﹂
その喜び方があまりに素直で、可愛いな、なんてことを思ってし
まう。それは恋ではなかったが、これからこいつには、多分いいよ
うに使われてしまうんだろうなと、そう思い明るいため息が出たの
だった。
694
5話 トリックスターは毒を吐く︵1︶
﹁ひー、ひー、そっ、そうか⋮⋮。くっ、アンジェに妙な動きをし
た教官の監視を突き合うように言われて⋮⋮プフッ、付き合うって
答えちまってって訳⋮⋮もー無理だ! くはははははははは! 馬
鹿じゃねぇの! あんな地雷女の引っかかるとか、お前見る目なさ
すぎだろ! あっはははははははははははは!﹂
﹁今日もお前の毒舌っぷりは最高潮だな。いい加減野垂れ死んでく
れよ、俺の知らないところで﹂
アンジェの監視に付き合う旨を一応話したところ、ハワードはこ
のように爆笑した。苛々しつつ、ファーガスはそれを聞き流す。
﹁それで? 進展はあったのかよ﹂
﹁んー、一週間経ったけど別に。ぶっちゃけ飽きた﹂
﹁まぁそうだろうな﹂
終始ニヤニヤしているハワードを見るのは珍しい事だったが、そ
れに価値を感じる少年ではない。正直言って殴りたい、この笑顔。
﹁つっても、お前の言い分じゃあすでに俺は被害者だったんだろ?
じゃあ別に爆笑される筋合いなんざねぇよ﹂
﹁は? オレ、そんなこと言ったか?﹂
695
ファーガスは無言で奴の脛に蹴りを入れる。だがハワードはそれ
を察知していたようで、小さな所作で容易くかわした。余計に苛立
ちの募るファーガス。
﹁いつか殺して山に埋めてやるからな⋮⋮﹂
﹁分かった分かった、冗談だっての。ったく、これだからハンプテ
ィ・ダンプティはよぉ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どうやら殴らなければならない奴が一人増えたらしいな﹂
﹁あ、ファーガス先輩! こんな所に居たんですか探しまし⋮⋮、
え、ちょっと。何で剣を抜いてるんですか? ここ食堂ですよ? ちょっと! ここに亜人は居ませんよ!?﹂
ファーガスは嘘の怒りを瞳に燃やし、ハワードは再び指を指して
爆笑し、アンジェは戸惑い逃げ惑う。そんな小さな騒動が、ファー
ガスのアイルランドクラスでの日常だった。
実際、ファーガスはアイルランドクラスに移ってから他の二人と
は少々疎遠気味になっている節があった。ベルとは毎晩メールでや
り取りをしていたが、直接会う機会というのは少ない。ローラとも、
狩りくらいでしか会わない。
これは由々しき事態であると、ファーガスは憤然としていた。何
に対する怒りかと問われると、しばし考えた後に少年は﹁自分﹂と
答えるのだろう。ローラはただの友達だからともかく、ベルとの距
離感の遠さは忌々しい。
如何とすべきか。そのように考えて、これからは彼女を頻繁にデ
696
ートに誘おうと決心した。先立つものも、無くはない。ファーガス
は換金できるポイントが二十溜まっているのを確認する。メールで
打診すると、一分もしないうちに肯定の返信が来てファーガスは狂
喜乱舞した。
第二学年騎士候補生になってからのファーガスの輪と言うものは、
その二つだった。日常としてのアイルランドクラスの三人組、ベル
と友達以上恋人未満の関係。
それ以外は、何もなかった。特待生として皆の先を行く成績を示
してはいるものの、ハワードと共にいると優越感と言うものを抱く
余裕もない。常に実力ギリギリの相手に向かうから、次の瞬間自分
が死んでいないことだけが重要だ。他人と比べる機会もなかった。
ソウイチロウの謎めいたメールも、興味が薄れ始めていたといっ
ていい。寮内のテレビで映し出される情報は、淡々としている。ド
ラゴンはあと三匹。二匹はまだ探索中らしかったが、﹁三百年前に
UKを焼き尽くした黒龍に比べたら、最近のドラゴンなんて雑魚だ
よなぁ﹂なんて舐めた言葉を口にする生徒もいる。市民用でなく、
機密情報を隠さない寮のテレビでもネガティブな放送がないのだか
ら、当然とも言えた。
時は過ぎゆき、十二月になった。
クリスマスを、ベルと共に祝おうと考えていた。雪は降るだろう
か。去年ぎくしゃくして逃したクリスマスだから、ことさらファー
ガスはホワイトクリスマスを望んでいる。
ある日の事。ベルとデートをした翌日のことだった。うきうき気
697
分でハワードに愛想良く話しかけたら、奴はあろう事か無視を決め
込んだ。大してムカッ腹が立った訳ではなかったが、テンションが
高いファーガスはハワードに不良のような頭の悪い喧嘩の売り方を
し、やっとそこで奴が思案顔でいた事に気付いた。
﹁⋮⋮どうしたんだ、お前﹂
﹁︱︱仕方ない。彼らを率いて少し検証してみようか⋮⋮。ん? グリンダーいつからお前そこに居やがった。顔も近くて気持ち悪ぃ
し。やっぱお前ゲイか?﹂
﹁んな訳ねぇだろ! 昨日もデートしてきたばっかだよこの野郎!﹂
﹁ハン。良いご身分なこった。せいぜいクリスタベルとも仲良くし
てやってくれ。⋮⋮で、話は変わるが、少し放課後付き合え。山行
くぞ﹂
﹁は?﹂
狩りに行く、ではなく、山に行く。ファーガスは、その僅かな違
いに顔をしかめる。
﹁⋮⋮別にいいけどさ。改めて言うなんて、何をやらかすつもりだ
?﹂
﹁後で言う。オレはこのあと少し用事があるんでな。お前も放課後
すぐ出れるよう準備しておけ﹂
言うが早いか、ハワードは早歩きで去って行ってしまった。奇妙
な顔をして、一人残されたファーガスは呟く。
698
﹁まだ分かったなんて一言も言ってないんだが⋮⋮﹂
気分が高揚していたのもあって、別にいいか、と言う気分だった。
時間が余っていたので何かないかと鞄を探すと、ソウイチロウに貸
してもらいっぱなしの本が出土する。
放課後、襟首を掴まれて振り返ると、案の定ハワードだった。﹁
行くぞ﹂と催促され、﹁おう﹂と答えながら立ち上がる。
﹁なぁ、ハワード。結局、何の用なんだ?﹂
﹁は? 言ってなかったか﹂
ギルドの中。言いながら、転送陣に二人は足を踏み入れた。もは
や見慣れた木々の陰影が、豊かな表情を持って二人を出迎える。
﹁後で話すってお前が言って、それきりだっての﹂
﹁サーチ﹂
歩きながら一言、ぴしゃりと言われて、ファーガスは黙り込む。
ハワードは、早足を保ったまま、ぽつぽつと話し出した。
﹁昨日、暇だったからアイルランドクラスのツレと狩りに来てよ、
索敵した時に妙なものが引っかかったんだ。オーガみたいな馬鹿で
かい体躯に、オーガみたいな人に似た体形の亜人だ﹂
﹁じゃあ、オーガなんじゃねぇのか? ⋮⋮と言うかそれ以前にお
前友達なんかいたのか?﹂
699
﹁居るに決まってんだろクソが。それにそいつは友達じゃねぇ、あ
くまでツレ︱︱と言うかアンジェだ﹂
﹁アンジェ友達扱いすら受けてないのか、可哀想だな﹂
﹁でよ、本当ならツレを置いて一人で挑戦しに行ってた所だったが、
生憎と一つだけ決定的に異なる点があってな、結局諦めた。何だか
わかるか?﹂
﹁⋮⋮体の色とかか?﹂と、分からず苦し紛れに答えるファーガス
である。対するハワードはと言えば、急に躰を折って震えだした。
﹁プッ、クッ、ハハハハハハハハハハハ! 何だ、グリンダー。お
前アレか? 亜人もゲームみたいに、色が変わったら強くなるとか
考える性質か? 2Pカラーか?﹂
﹁五月蝿ぇな! 違うなら何なんだよ!﹂
﹁数だ﹂
急激に下がった声のトーン。周囲の音が、唐突に気になりだした。
ざわざわと木々が静かに騒いでいる。
﹁強いが希少。滅多に出ない。そして、出ても第六エリアだけ。だ
から奴らは掃討されずにこの山に残ってる。増えすぎたら、騎士候
補生如きじゃ対応できないからだ﹂
ここは、第四エリアだ。そして、オーガというのは夜行性で、言
ってみれば第十二エリアでの亜人である。それが、大量に。おおよ
700
そ信じられる話ではない。信じたいとも思わない。
﹁⋮⋮何匹見付かったんだ?﹂
﹁ざっと二百は下らなかった。しかも、超の付く密集っぷりだ。流
石のオレでもぞっとしたね。ありゃあ﹂
そろそろだ。奴は言って、少しずつ歩調を落としていった。きょ
ろきょろと周囲を見回し、﹁あった﹂と、とある一本の木に駆け寄
っていく。
見ればそこには、剣で切り付けたような跡が残っていた。
﹁ここで昨日、﹃サーチ・ブロード・アウトルック﹄を掛けた。お
前もやってみろ﹂
命令しながら、奴自身も索敵の所作を行う。ファーガスはそれに
従い、杖に触れた。
﹁⋮⋮何も引っかからないぞ。唯一強いて挙げられるなら、俺の横
に居るらしい勘違い野郎だけだ﹂
﹁⋮⋮チッ。移動したか? だが、奴らはあの時動く気配が無かっ
たはず⋮⋮。ま、仕方ないな。どうせ興味本位だ。じゃあ普通に、
狩りでもするか﹂
あまりに自然に誤魔化していて、ファーガスは思わず吹き出して
しまった。だがそれを見咎めないハワードではない。苛立った声で
恫喝してくる。
701
﹁何だ、グリンダー。いきなり笑い出して笑いだして。何がそんな
におかしいのだ。言ってみよ﹂
﹁素が出てるぞハワード! 何だ言ってみよって、いつの時代だよ。
ぷっ、あはははははは!﹂
﹁分かった、始末してやるからそこに直れ!﹂
﹁止めろ! ふふっ、切っ先をこっちに向けるな!﹂
﹁だから笑うなと言っている!﹂
ぎりぎりと歯ぎしりするハワードを見て、そういえばこいつは自
分よりも中々に背が低いのだという事を思い出した。そう考えると
奴も意外に愛嬌が有る。
その刹那、二人は己らに向けられた強烈な殺気に反応した。視線
が捉えたのは、一匹の猟犬︱︱ヘル・ハウンドだ。自分達から大体
十メートル離れた場所で、こちらに視線を送っている。
その体躯は、通常よりも大きなものだった。この、普通のヘル・
ハウンドとは異なる警戒感、そして値踏みするような視線から感じ
られる知性。かつて病院で話された、ソウイチロウが名づけたとい
うヘル・ハウンドの事を思い出す。
﹁⋮⋮グレゴリーか?﹂
﹁グレゴリー? ⋮⋮何だそりゃ﹂
﹁ソウイチロウが名づけたらしいんだ。ヘル・ハウンドの群れの一
702
つの長で、⋮⋮ほら、ソウイチロウを殺すか殺さないかって時に、
前に出てきた一匹だ。⋮⋮でも、何でここに居るんだ? 結界があ
るはずなのに﹂
﹁ああ、﹃油断なき警戒﹄ってか。⋮⋮マジかよ、ヘル・ハウンド
ってのは、成長すると結界を食い破ってエリアを移動できるように
なんのか。それともこいつが特別なのか? ︱︱事実はどうあれ、
あんまり相手にゃしたくない相手だな﹂
コマッタ、と頭を掻きながら、片眉をキュッと下げて表情を作る
ハワード。変に多彩な顔芸が腹立たしい。
すると、グレゴリーらしき一匹はくるりとこちらに尻尾を向け、
てくてくと歩き出してしまった。と思うと、こちらに振り向いて立
ち止まる。
﹁付いて来いって事か?﹂
﹁フン、面白いじゃねぇか。付いていったらヘル・ハウンドの大軍
が襲い掛かってきた︱︱みたいなのだったら、オレはもう爆笑だぜ﹂
﹁その前に死ぬだろ﹂
﹁バカ。笑いながら死ぬってのは、人生で究極の目標だろうが﹂
﹁俺はベッドの上で死にたいね﹂
﹁じゃあ引っ叩かれた尻みたいな顔して、ここで待ってろよ。オレ
は行く﹂
703
早足で進んでいくハワードに、ファーガスは舌を打って付いてい
った。グレゴリーはそれきり彼らの事を気にせず、木々を縫って進
んでいく。
ハワードは、鼻歌交じりだった。ファーガスは本当にヘル・ハウ
ンドの大軍が来たらと考え、背筋の冷えるような思いで歩いている。
木々の奥。何か、広場のような物があるとファーガスは気付いた。
腐葉土の床。針葉樹の海。深い、声のような物が聞こえた。﹁何だ
よ。ここ、案外山の入り口から近いぜ﹂とハワードは剣を抜きつつ
文句を言っている。
そして、そこに着いた。
ヘル・ハウンドの大軍は、待っていなかった。あるのは広場の様
な開けた場所だけだ。切り立った崖が、二人の前にそびえ立ってい
る。木々の高さは高く、広い空間と言えど光が差しそうな所じゃな
い。
グレゴリーが、凄味のある声で崖に向かって一度吠えた。彼は一
度ファーガスに振り向き、今度は軽く吠え、立ち去っていく。
﹁⋮⋮何だったんだ?﹂
﹁さぁてね。⋮⋮で、さっきから聞こえる変な声はここから聞こえ
んのか?﹂
ハワードはいつの間にか崖の前に立ち、コツコツと剣先で叩いて
いた。﹁切れ味が鈍るぞ﹂と忠告してやると、﹁大剣ってのは戦場
では鈍器として使うもんだぜ﹂としたり顔で言われる。
704
﹁こっち来いよ、グリンダー。そんでちょっと叩いてみろ﹂
手招きされ、いやいやながら従った。叩くと、何やら不思議な手
応えが返ってくる。
﹁これは⋮⋮空洞なのか?﹂
﹁らしいな。しかも、結構薄いぜ﹂
壊してみっか。とハワードが言った。ファーガスは土砂崩れを懸
念して止めようとしたが、これは少しばかり遅すぎた。
轟音。土煙。ファーガスは至近距離にいた為、思い切りそれを吸
ってしまった。咽に咽て、呼吸が戻ってから﹁おいハワードお前!﹂
と怒鳴りつけると、奴の表情がどうしようもなく強張っている事を
知った。
﹁⋮⋮ハ、ハハハ⋮⋮。予想はしてたが、目の前にあるとなると、
少しこれは⋮⋮﹂
ファーガスは、先ほどから聞こえてくる深い声が遮るものを失っ
た事を知った。直接聞こえてくるそれは、いつか聞いたものとほと
んど同じだ。唯一違いを挙げるなら、その密度。
ゆっくりと首を動かし、直視した。ファーガスの目の前にあるの
は、まず今まで崖の壁だった土の中から露出した材質不明の黒い棒。
酷く頑丈だろうそれが、いくつも連続して少年たちの前に生えてい
る。その中心には、無骨な錠があった。
705
そしてファーガスは、その奥の陰に潜む﹃群れ﹄を見た。次いで、
呼吸を忘れてしまった。
罪人が如く牢屋に入れられた何百匹ものオーガが、こぞって少年
たちを見つめている。
ファーガスは、声を出さずに後ずさった。躰が、震えている。見
てはならない物を見てしまった。その事だけが、頭を埋め尽くした。
﹁に、⋮⋮逃げなっ﹂
﹁待て、グリンダー。迂闊に動くな。大声を出すな﹂
ハワードはオーガ達に目を向けながら、極限まで押し殺した声で
ファーガスに告げた。続けて、生唾を飲み下し、奴は剣を地面に差
した。索敵の所作だ。
﹁何してんだよ! 今そんなことしたって意味がないだろ!? 今
すぐ逃げ、﹂
﹁黙れと言っているのがわからないか! ⋮⋮囲まれてるんだよ、
オレたちは﹂
﹁⋮⋮は?﹂
予想もしてなかった返答に、頭が真っ白になる。
﹁囲まれてる⋮⋮? 誰に﹂
﹁ほぼ間違いなく、この﹃檻﹄を作った野郎にな。⋮⋮木の上。人
706
数は、︱︱ざっと十五、いや、十六、十七⋮⋮。っ、クソッ! 奴
らオレの索敵を妨害しやがった! って事は何だ! この檻を作っ
た奴らは騎士って事かよ!﹂
目を瞑っていたハワードは、突然激昂して立ち上がった。訳が分
からないまま立ち竦むファーガスの手を取って、﹁こっちだ! ぼ
けっとしてんじゃねぇタコ助!﹂と大声を出される。
そのまま、二人は駆け出した。ファーガスは、その中で躍起にな
ってローラのやっていた索敵の所作を思い出す。うろ覚えのそれは
辛うじて発動し、少年にハワードの言葉が真実であると教えた。
逃げ出す二人を、大勢囲んでいた内の三人が追っている。その内、
大人は一人だった。他二人はファーガス達と同年だと程の体躯であ
る。上を見ると、がさがさと木々の葉が鳴っていた。﹁もうすぐサ
ークルに着く!﹂とハワードに告げられ、全速力で走った。
木々を抜ける。転送陣に飛び込む。光が満ち、視界に映る光景が
変わった。警戒して瞬間サークルを振り返ったが、何者かが現れる
という気配はない。
ファーガスとハワードはアイルランドの寮に戻るまで、結局足を
止めることは出来なかった。
707
5話 トリックスターは毒を吐く︵2︶
森の木々を縫って、闇が膨らんでいた。
ソウイチロウからの助言を思いだし、ファーガスはワイルドウッ
ド先生に相談した。しばらく彼は考え込んで、﹁あまり公にしても、
君たちに被害が行く可能性がある。信用できる先生にだけ話を流し
ておくから、場所を教えて欲しい﹂と言った。
そしてハワードや他数名の教師も連れだって、少年は森と対峙し
ていた。夜。痛いほどの静寂が満ちるこの時間に、騎士が森に居る
という事はまずないと考えていい。居る可能性があるとするなら、
よほど事情を抱えた者だけだ。
︱︱例えば、何百匹ものオーガを隠しているとか。
想像して、ファーガスはブルリと体を震わせた。周囲の教師たち
は皆それぞれに手練れで、少なくともファーガス達の命は約束して
くれるという話だったが、それでも恐怖と言う物はある。
そんなファーガスを、ハワードは見咎めた。
﹁おい、グリンダー。あんまりブルってんなら、寮に帰ってクリス
タベルに抱きついててもいいんだぜ? ﹃恐いよー、助けてよー﹄
ってな﹂
﹁黙れよ、ハワード。お前こそ足が震えてるぜ。恐いのは、本当は
お前なんじゃねぇのか?﹂
708
﹁ハンッ、馬鹿言え。これは武者震いってんだ。知ってるか? そ
れともお前には難しすぎて分からないか?﹂
﹁知ってるっての。⋮⋮ああ、面倒くせぇ。ハワードが怯えを誤魔
化すために突っかかってくるから、いつもの数倍ウザったいな﹂
﹁ああ!? お前ふざけた事言ってんじゃ、﹂
﹁二人とも。こっちは支度を終えたから、早速先導してくれ﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮チッ。了解しました﹂
ワイルドウッド先生に声を掛けられ、ハワードは大人しく引き下
がった。そして、きょろきょろと周囲を見回して、﹁こっちです﹂
と足早に進んでいく。
深夜の山は、夜行性の亜人が出る。そして、それは本来なら第十
エリアとして扱われるものだった。教官たちは亜人避けをしている
らしいが、それを除いても真っ暗な山の姿と言うのはそこ知れぬ恐
ろしさがある。
﹃ライト・アイ﹄を発動させて歩きながら﹁随分と迷いなく歩く
もんだな﹂と声をかけると、奴は軽く、近くにあった木を叩いた。
注視すれば、小さなキズがある。そういう事かと納得した。
注意深く進み、索敵担当の先生からも何ら問題発生の声が上がら
ず、奴から到着の言葉が出たのは案外すぐの事だった。
709
そこで、雲行きが変わった。
ふと、張りつめる静寂を改めて意識した。先日は、こうではなか
った。オーガの群れの深くおぞましい声が、地の底から響くように
この周囲を満たしていたはずだった。件の広間に出て、ファーガス
はハワードを追い越し檻に近づく。
だが、居ない。
オーガなど、一匹もいない。
﹁⋮⋮どういう事だ⋮⋮?﹂
ファーガスが、目を剥いて後ずさった。ハワードもそのただなら
ぬ様子を感じ取り、駆け寄ってくる。次いで空の檻を見て、頭を掻
いていた。
﹁⋮⋮してやられたな。奴ら、行動が早すぎんだろ﹂
クソが、とハワードは毒づいた。教師たちが集ってきて、説明を
求む視線をよこす。
幸い、檻の鉄格子があった為ファーガス達の信用が失われること
は無かった。だが、底知れぬ薄ら寒さは、結局拭えずに終わった。
久しぶりに、皆で集まっていた。
710
翌日の早朝。肌寒くなってきて、皆防寒用の騎士服を着込んでい
た。アンジェは朝が弱いと言って来ていないが、それ以外は修練場
に居る。
ファーガスが言い出したことだった。最近狩りも困難なことが少
なくなり、ローラなどは実力の底上げを称して、単独で山に入るこ
とが多いと聞いた。基本はベルと共にしていると聞いたが、それで
も近距離向きのメンバーが居ない。
それはいけないと考えたファーガスは、早朝に集まって模擬戦を
やろうと言い出した。女子二人は快諾し、抵抗しそうなハワードは
元より早朝でほぼ毎日ファーガスと模擬戦をしている。ただ今日は
初めての事だったのもあって、真剣でのそれはやめておこうと持ち
かけた。ハワードは特に異も唱えず、眠そうに首肯した。
﹁グリンダー、覚悟!﹂
﹁甘いっ!﹂
﹁ファーガス、そこだ! ハワードの剣なんて盾で使えなくしちゃ
え!﹂
﹁ハワード君! ここで負けたら恥ずかしいですよ! ファーガス
はへし折られて強くなるタイプですから、へし折れる時期に存分に
へし折っちゃって下さい!﹂
﹁オレへの声援があるようで無いんだが!?﹂
﹁﹃神よ! 我が手に勝利のご加護を!﹄﹂
711
﹁お前、二クラスの聖神法同時にこなすんじゃねぇよ!﹂
故に今日のハワードとの手合せでは、それぞれ致死威力の出る技
を避けた聖神法有りの組手という事になった。こちらだと、少しハ
ワードの方がファーガスを圧倒する。逆に言えば、ファーガスがハ
ワードよりも真剣でのやりあいになれているともいえるのか。
そういう背景もあって、出来うる限りファーガスはハワードの虚
をつく戦い方をしようと心がけていた。そうでないと、いいように
やり込められてしまう。
けれど奴自身もゴリ押しが上手く、意表を突くタイミングで最大
限の攻めをしてくるものだから、圧された状態での鍔迫り合いで膠
着してしまった。ファーガスは地面に寝転がって剣を握り、ハワー
ドはそれを上から押し切ろうとしている。
力の拮抗は崩れず、次第に相互の罵倒に変わったところで予鈴が
鳴った。お互い舌打ちして離れる。応援二人からタオルを受け取っ
て、明日の組み合わせを相談してそれぞれのクラスに帰っていった。
﹁⋮⋮ベルVSローラか。どっちが勝つと思う?﹂
﹁クリスタベルに百ポンド﹂
﹁じゃあローラに一ポンド。お前負けたら百ポンド寄越せよ﹂
﹁レートは⋮⋮釣り合ってんだか釣り合ってねぇんだかわからねぇ
な。まぁいいや。賭けに勝ってお前から金をぶんどったっていう事
実が重要だ﹂
712
﹁ローラにベルへの精神攻撃方法教えとこ﹂
﹁お前本当にクリスタベルの事好きなんだろうな?﹂
﹁お前から勝ち取った百ポンドで奢ってやんだよ﹂
﹁貴族からしたら端金だが⋮⋮。と言うかそこまでシルヴェスター
は弱いのか? その前提で話してたが﹂
﹁いいや? ちょくちょく二人でやってるけど、五回に二回はロー
ラが勝つぞ。ベルは強いけど、対近距離の敵に対してだけだし。遠
距離VS遠距離じゃあ互いの技量だけだろ﹂
﹁⋮⋮賭け金の設定マズったか﹂
こうして思うと、案外ハワードとの会話にも慣れた物だ、とファ
ーガスは一年前を顧みる事がある。奴が皮肉を言いだすのは会話の
初めが多く、一度話題が決まればあまり言い出さない。もっとも、
ファーガスがよほどアホな事を言わない限りだが。
昼前。アイルランドクラスは体術の中に聖神法を取り込む形のも
のがほとんどだから、必然的に体育の時間が非常に多い。毎日一回
は当然。日によっては二時間連続に行われることもある。
午後や、もしくは朝の二時間ならばよいのだ。しかし昼前の二時
間となると、空腹と言う非常に強大な敵が現れてしまう。
つまりは今日がその日で、ファーガスとハワードは二人とも空腹
に視線をぎらつかせながら、よろよろと着替え、再び修練場に戻っ
た。
713
そこに、彼女が現れた。
﹁ファーガスセーンパーイ!﹂
隙を突かれた。とファーガスは目を剥いた。しかし時はすでに遅
し。腹部へのタックルを食らって、少年は倒れこむ。傍から見れば
ファーガスは、警察に取り押さえられる犯人のようなものだ。
﹁ふっふっふー。今日は逃がしませんからね。放課後監視に付き合
うというまで、私は先輩のことを逃がしませんよ∼!?﹂
﹁分かった、分かったから放せ。なんか視線が集まり始めてるから﹂
﹁嫌です。何故ならあたしは先輩のことを愛しているから!﹂
﹁マジで止めてくれ!﹂
﹁うーん、それは嫌だなぁ⋮⋮。何かそんな嫌なことが吹き飛ぶく
らいのいいことがあればいう事を聞いてあげてもいいんだけどなぁ
⋮⋮﹂
﹁︱︱俺はオーガを倒して学園側から特権をもらってる。そしてそ
の特権ってのは、愛猫を部屋で飼ってもいいって内容だ﹂
﹁分かりました。短毛種? それとも長毛?﹂
﹁短いな﹂
﹁肉球プニプニ﹂
714
﹁言うまでもない﹂
﹁仕方ありませんねぇ⋮⋮﹂
のそのそとファーガスの上から退いて立ち上がるアンジェ。ファ
ーガスも立ち上がると、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてハワ
ードが少年を見つめている。
﹁⋮⋮何だよ﹂
﹁いやぁ? 別に。ただグリンダー君はオモテになるんだなぁと思
っただけでね﹂
﹁⋮⋮何かすごい嫌な予感がするのは俺だけか﹂
﹁気のせいだ気のせい。なるほどねぇ。クリスタベルの次にはアン
ジェか⋮⋮。そんでシルヴェスターの方は寄ってこないっていうあ
たりが何とも⋮⋮くくっ﹂
﹁含みが不愉快だから殴っていいか?﹂
﹁やってみろよ。やれるならな﹂
ハワードは嫌らしい笑みを崩さない。それにファーガスは違和感
と抱くと共にウンザリして、﹁やっぱいいや﹂とその場を辞す。
一人足早に食堂に向かっていると、違和感の理由がツッコミ不在
だったからだと気付いた。
715
イングランドクラスの食堂に行くと、ファーガスを見つけてパァ
ッ、と花が咲くように表情を綻ばせた後、ハッとしてから頬を不機
嫌気にぷっくりと膨らませる少女の姿を見つけた。彼女に相席して
いたほかの女子たちは、察して音もなく退席していく。
﹁ここで食べるのも久しぶりだな﹂
﹁ふん、今更何の用があってこんなところに来たのさ。アイルラン
ドクラスでアンジェとかと一緒に食べていればいいじゃないか﹂
食事を受け取って彼女の隣に置くと、ぷいとベルはそっぽを向い
た。デートなどはこちらがくすぐったくなるほどすぐに返信してく
れるのに、それとこれとは話が別という事らしい。素直な拗ね方が、
何ともいえず愛らしく思える。
しかし、こういう拗ね方をされてもファーガスには対応のし方が
分からなかった。そんなに女子の扱いに長けている訳ではないのだ。
だから少年は、アワアワと困り果ててしまう。
そこに、助け舟が訪れた。
﹁ベル、あんまり困らせてはかわいそうですよ﹂
﹁⋮⋮じゃあ、仕方がないから許してあげる。その代りもっとイン
グランドクラスにおいでよ? 私だって寂しいんだから﹂
﹁了解したよベル。そんで、ありがとなローラ﹂
﹁いえいえ﹂
716
彼女はトレーを手に、ゆっくりとベルの正面に座った。聞けば、
イングランドクラスのベルのグループ内に、ローラはよく混ざって
食べていたらしい。もっとも、自分がスコットランドクラスだとは
明かしていないらしかったが。
﹁いらない騒動を起こしたくはなかったので﹂
との弁である。
それを無難な判断だと思いながら三人で食べていると、アイルラ
ンド組の二人が現れた。ハワード曰く﹁アンジェがお前を探して、
オレがそれに付き合わされた﹂のだそうだ。その癖アンジェが座る
のがファーガスでなくベルの隣だというのだから、彼女らしい。
そのまま雑談をしていると、ファーガスとアンジェの交わす声が
段々と大きくなっていった。その話題は、デューク先生の監視につ
いてである。
﹁飽きた﹂
﹁飽きてません﹂
﹁俺は飽きた﹂
﹁先輩は飽きてません!﹂
﹁ちょっ、私を挟んで喧嘩をするの止めてくれないか?﹂
後輩の前だから、ベルの口調が貴族らしい格調高さを纏っている。
しかしそんな彼女の弱い制止など、二人の前には網で風を捕えるよ
717
うなものだった。
﹁お前が決めるな! 飽きたかどうかは俺の主観だろ!﹂
﹁いいえそんな事はないです! だってあの人がウナギのゼリー寄
せを食べてた時二人で爆笑したじゃないですか!﹂
﹁したよ!? 確かにしたさ! でもそれとこれと話が別だろ!﹂
﹁うるっせぇな馬鹿二人﹂
﹁⋮⋮﹂
ローラは黙って耳をふさいでいる。
﹁あの、ちょっと二人とも﹂
﹁でも付き合ってくれるって言ったじゃないですか!﹂
﹁だからって、少しサボったら人前で恥をかかせるのはおかしいだ
ろってことだよ! アメリア触らせてやらんぞ!﹂
﹁そんな! 鬼畜! 人でなし!﹂
﹁⋮⋮﹂
ベルを挟んでじゃれ合っていると︵多分傍から見たら喧嘩にしか
見えない︶ベルが静かに両腕を上げた。何だと思い口論を止めてそ
の手を視線で追うと、そのまま落下してきた拳が二人の脳天に墜落
する。
718
﹁静かにしろ、二人とも﹂
﹃申し訳ありませんでした⋮⋮﹄
痛みに呻きつつ頭を抑える少年少女。互いにこっそりキッ、と睨
み合う。じゃれ合いが本物の喧嘩に変わりつつある瞬間である。し
かしベルが再び両手を上げたので互いにサッと視線を明後日の方向
へ。争いは未然に防がれた。
﹁この三人の中で馬鹿じゃないのはクリスタベルだけらしいな﹂
﹁同感です﹂
会話に置いてけぼりの二人がつまらなそうに毒づいた。ローラが
本当に冷たい顔でそんなことを言うのを初めて見たので、ちょっと
ファーガスは戸惑ってしまう。
﹁というか、監視って何なんだ、二人とも。しかも先生なんて⋮⋮。
何があったの?﹂
﹁なぁに、こいつら二人が馬鹿なだけだ﹂
ハワードはそういう切り口から、これまでの事情を掻い摘んで説
明した。なるほど、と言う風にベルが頷く。そしてしばらく無言で
居て、思いつめたような顔で尋ねてくる。
﹁⋮⋮ファーガス、何となく気になったんだけど、いい?﹂
﹁はいはい先輩、何でもどうぞ﹂
719
﹁粗大ごみ、空気読め﹂
﹁この世で最も空気読めない人に言われると思いませんでした﹂
ベルの咳払いに、アイルランドの二人は黙る。
﹁いいけど、何だ?﹂
﹁オーガの檻のカギ穴がどんなふうだったか、覚えてる?﹂
その瞬間、ファーガスは血の凍るような思いをした。実際、ファ
ーガスは数秒凍りついたように動けなくなった。
オーガの檻の話は、関係者以外にも噂と言う形で広まっている。
緘口令が敷かれていたが、誰が人の舌を押さえておくことができる
かという事だ。現実味のある話ではないから、あくまで怪談のよう
な雰囲気で広まっていることが幸いだったが。
ただし、このパーティ内では体験者が二人もいるという事で、ハ
ワードが軽い調子にぺらぺらと喋ってしまい、事実であると認識さ
れてしまっていた。ファーガスも唐突に詰め寄られ、咄嗟に裏を取
られてしまったのだ。
見れば、皆薄気味の悪そうな顔をしている。周囲の喧騒が、遠く
感じられた。
720
5話 トリックスターは毒を吐く︵3︶
ベルも、デューク先生の監視に付き合う事になった。
懇意にしている教官だから、二人が彼に対して失礼のないように
見張るとの言い分だった。しかしその顔色は何処か不安そうで、自
分もある程度この一件に噛んでいないと不安だったという事なのだ
ろう。
ファーガスはそれを止めず、アンジェも﹁心強いです!﹂と快諾
した。彼女はベルの腕前を知っている。又聞きだったが、ハワード
にけしかけられてベルに喧嘩を売ったところ、ボコボコにのされた
のだそうだ。弓の腕がいいのは知っていたが、ファーガスは直接や
りあったことがないため実感がいまいち湧かず、聞いた当時はきょ
とんとしたものである。
つまりは、アンジェも怖気づいているところがあったという事だ
った。気が強い彼女だが、それも致し方なかろう。何せ、この件に
は大量のオーガが絡んでいるのだ。
オーガとは、騎士候補生にとって恐怖の象徴として語られる。第
一代にはおおよそ関わることもないから告げられないが、それ以降
の第六エリアに届く学年には数々の逸話と共に、教官たちに怖がら
せられるのだ。歴代でも百人近い候補生が殺されているらしく、第
六学年でも特待生でない限りは全力で逃げろと教え込むと聞いた。
逆を言えば、ファーガスらがオーガを打倒したのは非常な快挙と
されているらしかった。スコットランドクラスにまでその評判が響
721
いていたのを知った時は、ファーガスも取れると同時に驚いた。
そういう背景もあり、今は雑談を交わしている三人組と言うスタ
ンスで、先生を監視していた。距離は五十メートル前後離れている。
聖神法があるから、それでもどうにかなるのだ。
﹁⋮⋮で、どうです、ホシの動きは﹂
﹁まだ動いてないが、油断するな。奴は刃物を持っている﹂
﹁君たち楽しそうだな﹂
警部っぽく聖神法で見張りつつ会話を交わす。雰囲気づくりのた
めに購買で二人してそれっぽい騎士服を買ってくるあたり、我なが
らふざけている。
とはいえあまりふざけ過ぎるのも良くないと考え、その騎士服を
脱いでもっと暖かい、冬用の本来の服を着込んだ。先ほどのそれは
薄手で寒かったのだ。
﹁それで、動きはないですね﹂
﹁ない。ずーっと修練場でずーっと候補生の修練具合をずーっと微
笑み気味に見守ってる﹂
﹁一時間動きがないからね﹂
﹁だんだん銅像と区別つかなくなってきた⋮⋮﹂
﹁あたしはあいつが公園を徘徊する爺に見えてきました﹂
722
﹁君たちそろそろ怒られるぞ﹂
というか怒るぞ、とベルは二人を睨み付ける。ファーガス、アン
ジェは我に返ってしょんぼりと項垂れる。
それだけ、動きがなかったのだ。連日、おかしいことなど何一つ
としてなかった。何故彼を見張っているのかという事すら疑問にな
ってくるほどだ。しかし、記憶の中には確固たる謎が煙を身に包ん
でそこに佇んでいる。
﹁でもそれだけ暇なんですよ。唯一面白い事と言ったらデューク先
生の毎日の食事くらいで﹂
﹁食事?﹂
﹁あの人毎回面白いもん食うんだよ﹂
﹁おかしいな⋮⋮。前に﹃私は結構美食家でね﹄と言っていたのだ
けれど﹂
﹃それはおかしい﹄
﹁えっ﹂
重なった二人の言葉に、ベルは戸惑ったような表情で声を漏らす。
﹁⋮⋮何を食べるの?﹂
﹁何ってことはないんだけどさぁ⋮⋮﹂
723
﹁とりあえずマーマイトを塗りますからね﹂
﹁え、えぇ⋮⋮﹂
ここで注釈しておくが、マーマイトは、はっきり言えば塩気が多
く臭いジャムのような物だ。しかし何故かUK全土で愛されている。
何か他のものに例えるなら、外国人から見た納豆とも言うべきか。
マーマイトを使ったジョークに、﹁賞品にマーマイトを一年分貰っ
たんだ。一ビンさ!﹂というものがある。健康にもいいらしい。
﹁スコッチエッグにマーマイト塗りたくっていた時には何事かと思
いましたよ﹂
﹁いや、だからあれは遠回しなスコットランド批判なんだって。そ
うじゃないといろいろ説明が付かない﹂
スコッチエッグというのはありていに言えばゆで卵が中心には言
ったメンチカツなのだが、そこにマスタードを掛けるでもなくマー
マイトという考えはちょっとファーガスには理解できない。
スコットランドクラスに行ったときは、ファーガスはこれを良く
頼んだ。到底マーマイトに合うとは思えない。というかパンでさえ
合っているとは言い難い。
﹁⋮⋮そんな⋮⋮!﹂
ベルは予想以上にショックを受けていた。いや、そこまでは、と
思ったが、彼女の次の言葉は衝撃だった。
724
﹁⋮⋮ローラに、仲間が居たなんて⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て!﹂
﹁はぁ!? あのへそ曲がり味覚狂ってんじゃないですか!?﹂
二人して大声を上げてしまう。それが注目をひいて、三人して咳
払いして誤魔化した。多分ベルの癖がうつったのだろう。
﹁⋮⋮何でですか?﹂
﹁あ、いや、⋮⋮何か。好きらしい﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁うん⋮⋮﹂
だいぶファーガスの中でローラのキャラがぶっ壊れていたが、と
りあえずは置いておこう。もしかしたら夢に出るかもしれないが、
気にしない。気にしないのだ。
形容しがたい心地になって、三人は再びデューク先生に目をやる。
怪しいから調べ始めたはずの人物。それが、目を細めて和やかに生
徒たちの成長を見守っている︱︱
﹁俺、そろそろ駄目だ。あの人に直接問い詰めるか何かしないと気
が待ちそうにない﹂
﹁あたしもです。ちょっとファーガス先輩。一緒にあの野郎に殴り
込みに行きましょう。それで言ってやるんです。﹃お前の味覚どう
725
なってんだよ!﹄って⋮⋮﹂
﹁二人ともやめて。特にアンジェは主旨がすでに違う﹂
﹁だって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だっても何もないよ。男の子がそんな泣き言言わない。アンジェ
も無言でしゃくりあげない﹂
だいぶ頭の中がこんがらがって、知恵熱を起こしそうになった幼
児のような状況の二人である。トドメは多分ローラだった。
仕方がないので、その日は一旦帰ることにした。また、明日から
は直接監視と言うのでなく、修練の合間合間で見張っていようとい
う話になった。二人が模擬戦をして、一人がこっそりと監視すると
いう具合である。
そのように変えてからは、非常に気持ちが楽になった。デューク
先生にはほとんど変化などなかったし、ハワードがあくせく稼いで
くれるポイントで手に入れた新しいスキルの練習も出来て、存外有
意義だったと思う。
しかし、ある日の事。見張りのために山にもいかず修練をしてい
るのだと忘れかけていた時。ファーガスは、模擬用の弓矢で︵相手
に当たると衝撃が全て着色料に変わるという極限まで殺傷力を抑え
たもの︶ペンキの海に突っ込んだの? と尋ねたくなるくらいにベ
ルにボコされるアンジェを仏の微笑みで見守っていると、不意にデ
ューク先生の姿が見えなくなっていることに気付く。
726
きょろきょろと周囲を見回すが、居ない。三人は放課後になって
から一番乗りでここに来たから、多分一度も訪れていないのだろう。
時間を確認しても、いつもならすでに現れているはずの時間帯だ
った。ファーガスは違和感を覚えつつ、模擬戦に決着がついたのを
見計らって話を持ちかける。
翌日は、様子見だった。その日だけという可能性もあったからだ。
しかし、その日もデューク先生は来ない。いよいよこれはおかしい
と考え、三人は修練場ではなく直接見張る体制に切り替える。
彼は、職員室にいた。盗み見ると、そこには陰鬱な表情があった。
今までの先生を見ている限りでは、信じられないほどの落ち込み様
だ。
﹁⋮⋮﹂
誰も、茶化そうとしなかった。ファーガスの頭によぎるのは、修
練場を見ている彼の穏やかな微笑みだ。
怪しい。アンジェのそんな言葉から始まった一連の行動だったも
のの、デューク先生自体に悪感情は湧かなかった。それだけの善人
だったのだ。それが沈んだ表情で居るというのは、落ち着かない。
それに、自分たちの所為ではないかという微かな疑問もあった。
何かがあったのだろうというのは、疑うまでもない事だった。し
かし、これ以上の情報を得るにはただ見張るだけでは難しい。
727
アンジェが、調査の役を買って出た。その間、二人は休んでいて
欲しいとのことだ。お言葉に甘え、ファーガスは久しぶりの完全休
暇に身を投じる。
⋮⋮とはいっても、暇なのだった。
折角だからベルをデートにでも誘おうかと考えた。しかし、最近
ベルが勉強できていないというようなことを呟いていた気がする。
ファーガスはまだ心配の必要がないのに人のことを邪魔するのは気
が引けて、仕方なく一人きりで街に繰り出していた。
ぶらぶらと、散歩する。街中の野良猫が少年に追従しているが、
気にするほどの事でもない。改めて歩いていると、発見も多かった。
ファーガスは、古き良きイングランドの風景というものが好きだっ
た。その中を、しみじみと進む。
ベルと出会った。
﹁アレ? 今日勉強じゃなかったのか?﹂
﹁へっ? ファー⋮⋮﹂
だんだんと細められる目に射すくめられ、ファーガスは何か悪い
事をしただろうかと狼狽。しかしその視線がファーガスの背後に向
けられているのを知って、振り返った。猫たちが、行列をなしてニ
ャーニャーと歌っている。
﹁⋮⋮入院中のあれを思い出すね﹂
728
﹁ああ⋮⋮、アレな。ベルが見舞いに来るたびに大体三匹ずつセラ
ピー用の猫が集まってるっていう﹂
﹁ソウも最後の方遠い目をしていたもんね﹂
野良猫の大合唱に、通行人の視線は釘づけだ。一人で街に出ると
きは基本こうなるので、本当に暇な時くらいにしかやらないのだが。
二人以上で居ると、大抵一匹も来なくなる。だからデートのときは
差支えがないのだ。
ベルはしばし猫を見つめていたが、その内すっと屈んで手招きし
始める。いつの間にかその表情も少し蕩け気味だ。
しかし、猫たちはそんなのには見向きもしなかった。一分ほどや
り続けたがその間ずっと無視され続けたので、ベルは唐突に立ち上
がってスカートを叩いて直した。
﹁どこかお店入ろうよ。そこでお昼ご飯食べよ?﹂
﹁いいけど⋮⋮用があったんじゃなかったのか?﹂
﹁⋮⋮だってファーガスが誘ってくれなかったんだもん﹂
﹁あ、なるほど。申し訳ない﹂
﹁いいよ、結果オーライだし。そこのお店でいいよね?﹂
ベルが指差す方向に、二人は歩いていく。当然猫もついてきたの
で、追い払わねばと手でそのジェスチャーをする。
729
﹁シッシッ﹂
﹃フシャ︱!﹄
﹁うわっ、うわぁ!﹂
十数匹の猫の一斉の威嚇は空恐ろしいものがある。二、三匹ほど
本当に襲いかかってくるあたり本当に怖い。
それも何とかいなして、いつもとさして変わらないデートが始ま
った。しかし、実はベルはそう思っていなかったりする。彼女にと
ってはただの友達とのお出かけで、それがファーガスにも物足りな
い。
いつになったら仲が接近するのかと考えると、なかなか難しいの
だ。
その時である。
﹁おや、君たち仲がいいね﹂
二人に、声が掛かった。紳士的で穏やかな声だった。振り向くと、
デューク先生が立っている。二人は思わず言葉を失った。
﹁え、いやいや。そこまで驚かなくてもいいんじゃないか? それ
に、君たちの仲は学園中に知れ渡っているだろう。私も積極的に広
めるつもりはないしね﹂
﹁デュ、デューク先生、何でこんな所に﹂
730
ファーガスがどもりながら尋ねると、﹁ん?﹂と彼は一瞬考え込
んでから、﹁ああ﹂と答え始める。
﹁私は元々市井の人間でね。グリンダー君、君と同じって訳だよ。
騎士団に入らず学園の教官として働く人間は、存外そういう人間が
多いんだ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
他に言葉もなく、何だか阿呆の物言いをしてしまった。取り繕う
ように、﹁先生も息抜きに来たんですか?﹂と尋ねる。
﹁⋮⋮ああ、そうだね。教師をしていると、やはり疲れる事も多い
から﹂
言葉を濁すような言い方だった。ファーガスは気になったが、言
葉にするほど明確な物ではない。すると、ベルが口を開いた。
﹁何か、悩みでもあるのですか?﹂
﹁そんな顔を⋮⋮していたかい?﹂
﹁はい。良ければ、教えてくださいませんか?﹂
彼女は一旦席を立ち、ファーガスの隣に座った。こちらへ、と指
し示し対面への着席を促す。﹁いやそんな、水を差すような真似を
出来ないよ﹂と先生は言うが、そこにファーガスは﹁大丈夫ですよ。
それより、お悩みがあるなら吐きだしちゃったほうが楽ですよ﹂と
笑いながら援護に回る。
731
そこはかとなくだが、ベルの目論見は理解していたのだ。何しろ
監視対象である。自分たちの悪ふざけが彼に勘付かれ、もしそれが
原因なのだとしたら、すぐにでも止めなければならない。
彼の顔色が悪かった時から、ずっともやもやとした感情があった。
人を監視してプライバシーを侵害し、勝手にその人物を嘲笑う。客
観視すればただの悪質行為だ。今更ながらに、何故自分がノセられ
てしまったのかが分からない。
半ば止める決心をしながら、ファーガスは先生に目をやった。デ
ューク先生はしばらく遠慮していたが、気遣うような言葉を投げか
け続けたらあっさりと折れた。やはり、生半可な悩みではないのだ
ろう。
﹁⋮⋮実は、ストーカーが居るらしくてね﹂
﹁先生に、ですか﹂
﹁ああ﹂
ファーガスの相槌に、先生が頷いた。やはり、と思った丁度その
時、ファーガスの携帯が鳴る。﹁失礼します﹂とこっそりのぞき見
ると、﹁仕方がない。アンジェに言ってすぐにでも止めよう﹂と書
かれたメールが出た。差出人は当然ベルだ。微かに首肯すると、頷
き返された。
しかし、次の先生の言葉が、何もかもひっくり返した。
﹁とても、悪質なんだ。部屋は荒らされたし、ちょっと、人には見
732
せられないような姿の写真をメールで送られてきた。フリーメール
だったから、何を返信しようと無駄だろう。私も騎士だから、何と
言うか、警察にも頼りにくくてね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
ベルの漏らした声に、ファーガスは咎める意図を込めて、軽く彼
女の脇を突いた。はっとして、彼女は表情を元に戻す。
けれどデューク先生は気付いた様子もなく、顔を顰めながら続け
る。
﹁その考えが分からないんだ。嫌がらせ目的なのは、最近分かって
きた。だけど、それにしては何処か⋮⋮、冷淡な気さえする。まる
で、与えられた仕事をこなすような、そんな⋮⋮﹂
﹁何で、そんな事が分かるんですか⋮⋮?﹂
﹁偶に、視線を感じるんだ。ストーカーっていうと、ねっとりした
物を思い浮かべることも多いと思う。だけど⋮⋮、それは、凄く冷
たい﹂
彼はそこまで語って、突如我に返ったのか目を剥いた。﹁私は、
教え子に何を語っているんだ⋮⋮?﹂と疑問に口を苦悶に歪め、逃
げる様に離れて行ってしまう。
﹁⋮⋮何かあるっていうのは、本当だったんだね﹂
﹁マジかよ︱︱尋常じゃなかったぞ、あの顔﹂
733
見合わせて、その恐怖を共有した。ベルが、ファーガスの袖に手
を伸ばした。弱々しく端を掴まれ、それを放して彼女の手を強く掴
み返す。
734
5話 トリックスターは毒を吐く︵4︶
アンジェにデューク先生から聞いた事を告げた。彼女もまた、信
じられないというように瞠目して、しばらくの間硬直する。
﹁⋮⋮ちょっと、それは予想外でしたね﹂
﹁でも、どうするつもりなの? 君たちは。私は、止めるべきなの
かどうかも、よく分からなくなっているのだけれど﹂
﹁俺は続けた方がいいんじゃないかって思う。申し訳ない話だけど、
散々あの人の細かいところを物笑いの種にしたんだ。俺達じゃない
方の犯人を捕まえるまでが、筋なんじゃないか?﹂
﹁でも、それはきっと騎士だよ﹂
ベルの低い声に、ファーガスは難しい顔をする。何もかもが、こ
んがらがっている印象だ。馬鹿ではないが、天才でもないファーガ
スには少し難しい。
沈黙が、下りた。それを、柏手で打ち破る少女が一人。
﹁ともかく、物事は動き出したって事です。私たちも動かなければ、
置いて行かれます。置いて行かれるって事はつまり、情報が足りず
に危ない目に遭いかねないって事です。必死に付いていくしかあり
ません﹂
アンジェは、強い口調でそう言い放った。根拠は、彼女の経験に
735
基づくものなのだろう。すでに聞かされているから、その重みが分
かった。ファーガスが頷くと、ベルもそれに追従する。
﹁では、これからは先生だけじゃなく周囲にも気を配る事にしまし
ょう。大丈夫です。私は今まで、失敗したことがありませんから!﹂
あまりに無邪気な言葉に、二人は笑った。アンジェは笑わせるつ
もりなどなかったのか、その反応に戸惑っている。
デューク先生の顔色は、日に日に悪くなっていった。
だが、一向にその犯人というのは現れなかった。先生の部屋の扉
の前に仕掛けた小さな監視カメラにも、何かが引っ掛かった様子は
ない。デューク先生が出入りしているだけだ。
仕掛けを提案し実行したのは、案の定というか、アンジェだった。
奴の技術は、もはやその筋の職種レベルなのではないかと、ファー
ガスはこっそり疑っている。
ともあれ、結果は出ていない。ファーガス達の監視に真剣みが入
って久しいが、だから何だという話なのだ。
﹁⋮⋮俺達って一体何をやってるんだろうな﹂
﹁いつか成果が出る。そう信じるしかないんだと、私は思う﹂
﹁さっさと事っ件、おっきなっいかっ、なー!﹂
﹁アンジェはとりあえず黙ってろ﹂
736
﹁⋮⋮ファーガス、私たちは一体何をしているんだろう?﹂
﹁ほら見ろ! お前のふざけた台詞の所為で、ベルがちょっとナー
バス入っちゃっただろうが!﹂
アンジェはまだまだお子ちゃまなので、人の気持ちというものを
測りかねているところがあった。監視などという提案をしてきたの
も、そこに起因するのだろう。
監視場所は、アイルランドクラスの図書館。そこから、ファーガ
スは﹃ディティクション﹄という実体のない遠隔カメラを作り出す
聖神法を習得し、デューク先生を見張っていた。
非常に監視について都合のいい聖神法だった。見つけた時は、こ
れで苦行がなくなると喜んだものだ。しかし唯一欠点は、必要ポイ
ント数が異常に高いという事だ。
仕方なく三人はポイントを折半し、一人がスキルツリーを開き、
他の二人は他人の感覚を共有する﹃ジョイント・センス﹄というも
ので視界を共にしていた。今回白羽の矢が立ったのは、スキルツリ
ー解放までに最も必要ポイントの少なかったファーガスである。
先生に今すぐ何かが起こるとも考えられず、ファーガスは集中力
が途切れて窓の外を見やった。真っ白な世界が、そこには広がって
いる。
今年も、雪が降った。クリスマスまで、もう近い。
ファーガスは、ちらりとベルを盗み見る。だが感覚が共有されて
いるのを思い出して、すぐに逸らした。これでは、彼女の顔を視認
737
することさえできない。嘆息して、ファーガスは﹃ディティクショ
ン﹄に意識を集中させる。
神経が過敏になっているデューク先生は、時折、訳もなく周囲を
見回すことがあった。
何かに警戒している。という雰囲気があった。人通りの多い場所
では滅多に行われず、逆に人気のない場所ではたびたびしていた。
その眼には隈が出来ていて、酷く充血している。
行動も少しずつ異常をきたし始め、修練場にはめっきり赴かなく
なりつつあった。目に見える異常が、まるでファーガスとベルの二
人が彼の愚痴を聞いた日を境に日常を侵食しているようだ。
それはファーガスに、まるで自分が原因となって彼を病ませてい
るような不快感を与えた。
一日、一日と彼が徐々に意気消沈していくさまをまざまざと見せ
つけられ、一週間経つ頃には放課後が酷く憂鬱だった。ベルはいつ
の間にか消えていた。記憶の片隅にファーガスを止めるよう誘って
くれたような気がしていたが、それが現実の事なのかもぼんやりし
ている。
変わらないのは、アンジェだけだった。ハワードの稼ぐポイント
で自身も﹃ディティクション﹄を身に着け、より一層、真剣みを増
してデューク先生を見張っている。
﹁⋮⋮アンジェは、見てて辛くならないのか?﹂
﹁え?﹂
738
ふとした瞬間に、ファーガスは尋ねていた。我に返って、﹁いや、
何でもない﹂と首を振る。
﹁︱︱確信がありますから﹂
﹁え?﹂
﹁何か悪いことが起きるっていう、確信がありますから。だから﹂
アンジェは聖神法に集中しながら、鋼のような言葉をファーガス
の眼前に突き出した。それに、少年は発動中の術式など忘れて呆然
とする。
言葉に詰まっていると、一度少女は術を解いて伸びをした。﹁疲
れますねー、これ﹂と無邪気な笑みを向けてくる。
﹁辛いなら、やめてもいいですよ?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁さっきからそれしか言ってませんけど、大丈夫ですか? とうと
うハンプティ・ダンプティの殻が割れましたか﹂
﹁割れてねぇよ﹂
﹁おし、会話できる程度には元気になりましたね﹂
そう言って、アンジェは勝ち誇ったような顔。そして再び相好を
崩して、ファーガスに言葉をかける。
739
﹁あたし的には、ベル先輩にやめようって言われた時点で折れると
思ってたんですよ。それでも付き合ってくれると言ってくれた時に
はびっくりしたくらいです﹂
﹁⋮⋮そんなこと言ったか﹂
﹁言ってはないですね。でも、集合場所にいてくれました﹂
無理することないですよ。とアンジェは言う。
﹁あたしは従兄の戦闘狂と一緒で、何処かしらネジが外れてますか
ら。でも、ファーガス先輩は普通で、ちゃんとしてます。少しでも
顔見知りの相手が元気失っていく様なんて見れたものじゃないでし
ょう。だから、良いんです﹂
まだ職員室で仕事してるし、大丈夫だよね。と独り言をして、ア
ンジェはファーガスの手を取る。
﹁それじゃあ踏ん切りがつかないっていうなら、あたしが奢って一
区切りつけてあげましょう! 感謝してくださいよー? あたしが
驕るなんてそうは無い事なんです。言って見ればレアですよ、レア
!﹂
﹁⋮⋮そう、か。うん、ありがとな﹂
結構優しい面もあるではないかと、少年は見直した。ファーガス
の礼に、﹁ふふーん﹂とアンジェは鼻高々にふんぞり返る。
椅子から立たされ、引きずられるように歩いていた。そのまま進
740
むと、修練場に到る。何処へ行くつもりだと考えていると、イング
ランドクラスへ足が向かっていた。慌てて異議を申し立てる。
﹁おい、そっちは違うだろ。アイルランドクラスはあっちだぞ!﹂
﹁ああ、イングランドクラスのスコーンって、悔しいことにアイル
ランドクラスのよりおいしいんですよ。あっ! 奢るもの秘密にし
ようと思ってたのに言っちゃった!﹂
﹁いつも以上にすっ呆けてるけど大丈夫か?﹂
﹁そんな事ないですって!﹂
アンジェが顔を紅色に染めて言い返してくるものだから、それだ
け恥ずかしかったのかとファーガスは苦笑い。次いで、我ながら細
かい事を気にしてしまったと少し後悔した。
しかし、とファーガスは首をひねる。改めて、何故彼女を止めた
のだろうと考えた。そして、思い至るのだ。やはり止めなければな
らない理由がある。﹁おい!﹂と呼び止めるたが、間に合わなかっ
た。
﹁⋮⋮何で、アイルランドクラスの生徒が、こんな所に居るんだ?﹂
デューク先生が、そこに立っていた。土気色の顔で、気味の悪い
陰気な表情をしている。かつての面影は何処にもない。
ファーガスは、呼吸を忘れた。確かに、彼からはしばらく目を離
していた。しかし、それでも今会ってしまうとは、何と間の悪い!
741
アンジェは驚きのあまり、瞠目したまま彼に指をさす。不可能で
はない移動時間。けれど、不自然でもあった。彼女はどもり気味の
言葉で、混乱のままに口を開いてしまう。
﹁な、何でデューク先生が、ここに⋮⋮?﹂
﹁それは、どういう意味だ?﹂
ファーガスは、アンジェの口を閉ざそうとした。その時、足がも
つれた。転ばない。だが、その言葉は遮るものなしに発せられてし
まった。
﹁だって、さ、さっきまで職員室に居たはずじゃ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何⋮⋮?﹂
その瞬間のデューク先生の変貌ぶりは凄まじかった。疲れたよう
な半眼がカッと見開かれ、恐怖が顔全体に染み込んだ。後ずさりな
がら、彼は唇をわななかせる。そして、こちらに指差しながら、大
声で言い放つのだ。
﹁あっ⋮⋮悪魔め! お前の魂胆は分かっている! どうせ口封じ
に私を殺すつもりなのだろう!? そんな事はお見通しだ! 全て
暴いてやる! お前たちがしてきた悪辣な虐待も、匿っている大量
のオーガも!﹂
﹁オーガ? 先生、今オーガと言いましたか?﹂
ファーガスは、思わず口を挟んでいた。彼は少年を見て息を呑む、
逃げ腰で、走り出そうとしながらも、必死の形相で叫びだした。
742
﹁グリンダー君! 君は早くここから逃げなさい! 一番危険なの
は君だ! 君は殺される為にこの学園に連れてこられたのだ!﹂
﹁は? え、ちょっと待ってくださいよ! ねぇ!﹂
デューク先生は、すでに走り出してしまっていた。ファーガスは
走り出し、それにアンジェが必死についてくる。
だが、途中で上級生に足止めを食らった。彼らも先生ほどではな
いにしろ困惑した表情で、二人の腕を掴んでくる。
﹁おい、どうしたんだ!? さっきやつれたデューク先生が必死に
走っていったぞ? なぁ、何か知ってるなら教えてくれよ。おれ達
先生がどんどん弱っていくのを心配してたんだ﹂
﹁うっさいですね、邪魔すんじゃないですよ! こちとら遊びじゃ
ねぇんです!﹂
アンジェの怒気に当てられ、上級生たちは硬直した。ファーガス
も、彼等から逃げる様に走っていく。デューク先生の影は、山への
転送陣へと吸い込まれた。二人もそれに続く。視界が、真っ白な山
の雪景色に早変わりする。
先生の姿は消えていた。それでも、兎にも角にも山へと入るしか
なかった。走りながら血眼になって探す。一体彼は、何処に居る。
森のざわめきは、先生の痕跡さえ隠してしまうようだった。雪に
残る足跡は、あてにならない。少しの降雪なら、大抵の騎士候補生
は構わず入山してしまうからだ。
743
曇り空。したがって、木々の間にも薄闇が佇んでいた。何百回と
入った山だ。迷う事は無い。しかし、先生の居場所までは分からな
いのだ。
﹁アンジェ! 二手に分かれよう! 通信の聖神法は出来るな!?﹂
﹁はい! では先輩、また!﹂
予想していたかのような、素早い応答である。有難いと思いなが
ら、ファーガスは走った。索敵を行う。スコットランドクラスのそ
れは、感覚的な負荷に耐えられれば動きながらでも可能だ。
走りながら、何か引っかかる物はないかと探した。亜人たちは、
この際無視する。今は日が落ち始めた時間帯だ。人間は少ないはず
だから、虱潰しに当たっていけばいい。
駆けまわっていると、一人の人間が引っ掛かった。亜人と交戦中
らしい。恐らくデューク先生ではないだろうとあたりを付けたが、
掛け声に聞き覚えがあり、猫の手にはなるだろうと、そちらへ向か
っていく。
﹁おら死ねクソ兔! 人の臓物ぶち撒けようとすんなら、される覚
悟は当然あるんだろうな!﹂
﹁⋮⋮傍から見たら、動物虐待にしか見えないな﹂
﹁あん?﹂
角を持ち、足が異常に発達した兔を大剣でなぶり殺しにする十四
744
歳の少年が、そこには居た。前世の記憶を持つファーガスだから言
えることだが、奴は少々強すぎはしまいか。
﹁グリンダーかよ。どうした、息上げて。女の裸でも見て興奮した
か?﹂
﹁んだよお前も思春期かよ﹂
﹁思春期真っ盛りの奴に言われたかねぇな﹂
からからと嘲笑うハワードに嘆息し、﹁手を貸せ﹂と言った。奴
は数秒訝しげに片眉を跳ねあげるが、すぐに察して嫌らしく笑う。
﹁何かあったな。しかもその表情は、お前ら三馬鹿が見張ってたあ
のデュークとかいう教官の事だろう﹂
﹁お前のその察しの良さには本当頭が下がるよ。だから手伝え。お
前好みの秘密を、あの人は握ってるかもしれない﹂
ハワードの趣向に合わせた言葉に、奴は簡単に引っかかった。し
かし次の瞬間には顔を顰めてしまう。鼻を鳴らして、奴はぼやいた。
﹁本当なら少し焦らすつもりだったんだが。良い様に扱われてるみ
たいで腹が立つな﹂
﹁いいから、早くしろ。さっさと見つけないと、大変なことになる
かもしれない﹂
﹁大変な事って﹂
745
﹁分からない。ただ、予感がするだけだ﹂
﹁⋮⋮へいへい、分かったよ﹂
ぐちぐちと文句を垂れながら、ハワードは大剣を背中にしまった。
軽い身のこなしでこちらに近づいてくる。
746
5話 トリックスターは毒を吐く︵5︶
ハワードは大剣を携えてファーガスに追従する。剣を持ちながら
の走行というものは、聖神法を発動させていてもなかなかに難しい
ものだ。それを身軽にやってのけるのだから、日夜狩りを続けてき
ただけはある。ファーガスも、そろそろ現場に復帰しなければと考
える今日この頃だ。
その上、この雪の中である。奴の実力の上り幅は、生半可なもの
ではない。
﹁この山ん中に居んだろ? 了解、了解。後は⋮⋮、そうだな。鍵
の件があったか﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ、あの檻だな。実は複数見つけてんだ。もっとも、中身が
詰まってるのは知らないが﹂
︱︱場所が移されることがあるなら、その中の一つが引っかかる
かもしれねぇ。奴はにやりと笑って、駆け出した。酷く早い。ファ
ーガスも、聖神法を使って付いていく。
デューク先生の居場所。﹃サーチ﹄で探してはいるが、一向に見
つからない。どれだけの速度で走って行ったのか。ファーガスはど
こか、背筋の冷えるような気持になる。
ハワードの道筋は、複雑怪奇と言ってよかった。木々に印でもつ
747
けてあるのかと考えたが、どうも違うらしい。﹁気付かれたら移さ
れちまうんでな。頭の中にだけ叩きこめば、バレやしねぇ﹂と、ま
るで心を読んだかのようなタイミングで注釈する。
﹁ちなみに、グリンダー。あのオーガの檻ってはよ。実は二種類が
あるんだぜ﹂
﹁二種類?﹂
﹁おう。一種類目は崖をくりぬいて土で隠すやり方。何か所か見つ
けたんだが、こっちはもう用済みらしくてな。きっと俺達が見つけ
ちまったのが悪かったんだろう﹂
﹁それで﹂
﹁問題はもう一種類の方だ。こっちは、面白い。オレも最初気付か
なかったし、気付いた時には驚いた。さぁてグリンダー、それは一
体何だと思う﹂
﹁ここぞとばかりに焦らしやがって⋮⋮。分からねぇよ。素直に教
えろ﹂
﹁チッ、つまんねぇ奴だな。︱︱地面だ。地面の中に、奴には今埋
め込まれている可能性が高い﹂
﹁地面⋮⋮?﹂
﹁檻があんだよ。でっかい檻が、地面から大体三十センチくらいに
天井が来るまで、深くに埋められてんだ。はっきり言って、馬鹿だ
と思わざるを得なかった。こんな事までしてオレに見つかってんだ
748
から、正真正銘の馬鹿だってな﹂
﹁⋮⋮はぁ。それで、その肝心の地下牢ってのは、何処にあるんだ
よ?﹂
﹁お前の足元﹂
﹁はい?﹂
口を引きつらせるファーガスに、ハワードはにやりと意地悪く笑
った。大剣を振りかざし、斬りかかる。驚き飛び退くと、奴の大剣
は地面に突き刺さった。聖神法を発動していたのだろう。土は過剰
な威力に爆散していく。
口に入った土を吐き出して、顔中を拭った。文句を言うべく目を
開けると、そこには鉄の板らしきものが入っている。軽く、剣で叩
いた。手応えは重厚だ。
ファーガスは理解し、間髪入れずに索敵を発動した。亜人は引っ
かからない。だが、人間が三人引っかかった。﹁居たぞ!﹂と言い
ながら遠く離れた何者かの方向に指をさす。ハワードは、獰猛な笑
い声を上げながらそちらへと駆けだした。
奴に追従する。聖神法を使った超速度で、まるで車に乗っている
みたいに木々が後ろへ飛んで行く。人間の影は、もうすぐそこだ。
前方で、荒々しい歓声が上がった。ファーガスも見つける。地面に
跪き何がしかを行う、デューク先生だ。
﹁そいつだ! その人がデューク先生だ!﹂
749
﹁おらてめぇ! 一体何をしてやが︱︱その鍵は何だ!﹂
ピクリと、少年は反応する。鍵。走りながらも、さっと血の気が
引いた。まさか。
ハワードは、更にその速度を上げた。ファーガスが付いていけな
い程のそれである。奴は﹁邪魔だ!﹂と叫んで自身の大剣を落とし、
デューク先生に近づいていく。
だが、それでも、遅かった。
まるでシンバルを殴ったような音が、ここ一帯に木霊した。地面
から、黒光りする、巨大な手が飛び出し、一番近くに居た先生を捕
まえた。彼はその握力に血を吐き、叩き潰された。手は、一旦それ
を捨て置きながら、本体を地の底から這いずりださせる。
索敵に、新しく亜人が一匹引っかかった。
少年はその時、新たな発見をした。
︱︱ああ、そうか。この索敵は、下方向に働ないのだ。
思考を半ば放棄した証拠を示すような、半開きの口だった。亜人
は、血濡れのデューク先生を改めてひっつかみ、貪りだす。
﹁⋮⋮ハハッ、こりゃ、やべぇ﹂
かつて檻を見つけた時よりは、ハワードには軽口をたたくだけの
余裕があるらしかった。冷や汗を伝わせるだけで、表情から笑みを
消していない。
750
しかし、予想通り、その一匹だけではなかった。
蓋の外された檻の中から、新たに何匹かのオーガが出てきた。そ
れは連続し、空腹に皆、目をぎらつかせていた。ファーガスは、震
えながら後退する。一体、何人が死ぬ? そんな事を考えれば、も
うおしまいだ。少年は動けなくなるに決まっていた。
﹁⋮⋮でも﹂
奥の手は、あるにはある。
けれどそれを使えば、もっと酷い事にもなりかねない。
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは、歯を食いしばった。オーガはどんどんとその数を
増していく。あの﹃能力﹄は、もろ刃の剣だ。ベルを助けようと必
死だった幼少期に一回使ってしまったが、それ以来一度もしていな
い。今後も、発動させないつもりだった。自分や、その他数人が死
ぬくらいでも、使う気はさらさらなかった。
でも、とファーガスは考える。これだけのオーガは、天秤に掛け
れば、使うに値するのかもしれない。一人でも死者が少ない可能性
があるのなら、使うべきなのか? 葛藤は、彼一人なら永遠に続い
たのだろう。そして、時間切れで、結局使う羽目になったのだ。
しかし幸いなことに、ここにはファーガスの葛藤を簡単に打ち砕
く存在が一人いた。
751
﹁何固まってんだクソグリンダー! さっさと逃げて、結界を強化
させるぞ!﹂
強く蹴り転ばせられて、少年は呻いた。オーガの何匹かがこちら
に気付く。ハワードは、それに構わないつもりらしかった。﹁ほら
立て!﹂とファーガスに命令し、二秒返事がないと再び殴りつけて
くる。
﹁っ、痛ぇんだよ、馬鹿ハワード!﹂
立ち上がり、蹴り返した。奴はその攻撃を防ぎ、鼻で笑った。少
年は毒づく。そして一度オーガの群れに目をやってから、逃げ出し
た。その途中、尋ねる。
﹁結界を強化ってどういう事だよ﹂
﹁そのまんまだ。先生方に﹃危険な亜人が居て怖いです﹄って泣き
ついて、しばらくの間誰にも通過できなくしてもらう。通常用の結
界を通りかねない強力な亜人に対する、非常措置だ。亜人はドラゴ
ンでもない限り出られないし、逆に騎士も同じになる。そうなった
ら、その場所はもう立ち入れない区域って訳だ。自然に問題が落ち
着くのを待つしかねぇ﹂
抜け目なく大剣を回収したハワードに、走りながら相槌を打った。
アンジェに通信を入れる。
﹃アンジェ、聞こえるか?﹄
﹃はい? 何ですか﹄
752
オーガの事を知らなそうな、暢気な声だった。ファーガスはそれ
に少々の罪悪感を覚える。
﹃⋮⋮デューク先生がオーガに殺された。今、大量のオーガが湧き
だしてる。早く逃げろ。今、何処に居る?﹄
﹃えっ、やっ、山の麓辺りです。見付からなかったので、一度応援
を呼ぼうかと思ってたんですが﹄
﹃じゃあ、応援は呼ばずに結界の強化を頼んでくれ。俺達もすぐに
脱出する﹄
それだけ言って、ファーガスは乱暴に通信を切った。ハワードは、
硬い表情で、前方を見続けながら言う。
﹁アンジェが居るのか﹂
﹁⋮⋮ああ、済まない。こんな事になるとは、思ってなかったんだ﹂
﹁それで? あのバカは何処だ﹂
﹁すぐに山から出られる場所に居た。結界の強化も頼んでおいた。
後は、俺達が逃げ出すだけだ﹂
森はもはや闇が満ち満ち、気味の悪い空間が形成されていた。二
人は走り続ける。風が、強い抵抗として感じる。
背後の上方から、強く何かを打ち付けるような音がした。それは
断続的に続いていく。木を、飛び移っているのだ。﹁来るぜ﹂と奴
は言った。﹁分かってる﹂と少年は返す。
753
目の前に降り立つ、一匹の黒い影。闇の王は、二人の前に君臨す
る。
﹁⋮⋮さっき、あのアホ教師を殺した個体だな。どうも、体付きが
普通の奴らに比べて発達している。こいつは群れのボスって事か。
道理で入り口に居る訳だ﹂
ハワードは、舌を打った。隙を見て逃げられるかと伺ったが、大
分離れた位置を駆けていた自分達に追いついたのだ。逃げても、ま
た捕まえられる。もしかしたら、結界を抜けてしまうかもしれない。
それだけは避けなければならなかった。ファーガス達は、剣を構え
る。
﹁グリンダー。お前は防げ。盾持ってんだろ﹂
﹁無茶言うな。あんな奴の攻撃をまともに食らって、無事で要れる
訳がない﹂
﹁何も全部受けろってんじゃねぇ。要は、囮になれってこった。お
前が気を引けば、こっちはやり易くなる。オレの剣の殺傷力の高さ
は知ってんだろ?﹂
﹁⋮⋮分かったよ、ったく。その代り、外すなよ﹂
﹁言われるまでもねぇ!﹂
ハワードは、跳躍した。ひときわ巨躯のオーガはそれを目で追う
が、ファーガスが斬りかかると奴を注意から外した。
754
重い。ファーガスは、苦い顔をする。オーガの攻撃が、酷く重い
のだ。盾で、受け流してもなお、手が痺れる。
隙を見て、布石の一つでも入れてやろうと画策する。上手くいけ
ば、腕の一本くらいは落せるはずだ。
漆黒の大腕を、ファーガスは何度かいなし、小さなキズを付けて
いった。模様は複雑で、騎士学園に入るまで見た事もなかったもの
ばかりだ。騎士しか使えない技術の癖に、秘匿性が非常に高いので
ある。
それ故、時間が経っても、たった一つでさえ満足には付けられな
かった。唯一誇れるのは、致命傷を貰っていないという事か。お釈
迦になった盾は一つだけ。︱︱いや、そういう問題ではない。そも
そもハワードは一体何処へ。
そう思っていた瞬間である。
怒号にも似た掛け声が、空から降ってきた。月からの逆光があり、
ただ影にしか思えない。しかし、正体は考えるまでもなかった。
そこに、オーガの剛腕が唸った。カウンターか、とファーガスは
予想を立てた。奴が体を捻って、黒い鬼に一撃を食らわすのは、目
に見えるようだった。
だからこそ、息を呑んだ。
﹁ハワード!﹂
闇の王の手は、影を貫いていた。ファーガスは、我を忘れて駆け
755
寄った。オーガに、剣で斬りかかる。
その時、鬼は崩れ落ちた。
少年は、硬直した。オーガは、両足を失っていた。すると、一つ
の影が奥に立っていることに気付く。ファーガスは、力が抜けてし
まった。
﹁いやー、やっぱ亜人ってのは能無しばっかだな。隙がでかいのな
んの﹂
ハワードは、鼻で笑う。それに対し、顔の半分を手で覆うファー
ガスだ。事実が明かされれば、﹃そんな事だろうと思った﹄としか
感じない。
﹁お前なぁ、そういう事すらなら先に言っとけよ。一瞬びっくりし
ただろうが﹂
﹁何だよ、心配でもしたのか? らしくもねぇ﹂
﹁ああそうとも。心配したさ。お前が居なくちゃオーガ殺しもかっ
たるいからな!﹂
煽りの応酬である。ハワードはその片手間にオーガの頭を潰して
いるのだから、抜け目ない。
ため息を吐いて、﹁さっさと出ようぜ﹂と声を掛けた。オーガは、
本来そこまで足が速くない。意外にも簡単に倒せたから、余裕を持
って山から出ていけるはずだ。
756
﹁ちょっと待て、今オーガの首掻き切るから﹂
﹁単位は充分だろ⋮⋮?﹂
﹁アホ、戦利品だよ。オレの目標は歴代トップの戦績残して殿堂入
りすることだからな﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
苦い顔で相槌を打つ。倒れ伏したオーガの巨躯を見て、それにし
ても、と思った。去年に比べて、我ながら途轍もない進歩をしてし
まった。かつて、オーガは大人数でないと倒せなかったのだ。今の
上級生の、ほとんどがそうである。
ファーガスは、確かにその点では優秀だ。だが、彼が二人、いや、
三人か四人いても、このボスオーガに勝てたとは言い難い。
ハワードを見る。今なら、ソウイチロウと戦ってもいい所まで行
くのではないかとすら、疑わせる実力。ファーガスの上達ぶりも、
奴の影響はかなり強いのだと思う。本当に強いのだ。それだけは、
認めざるを得ない。
別の意味で、再び嘆息した。ハワードは、暢気にその巨躯のオー
ガの頭を切り落として、血が漏れ出ても良いようにビニール袋で包
み、何でも入る腰袋に突っ込んだ。鼻歌交じりである。やはり、好
きこそものの上手なれなのか。
というか、光景が猟奇的で怖いのだが。
そう呆れていた矢先であった。
757
ハワードの背後で、何者かが蠢く気配があった。ファーガスは、
最初違和感を抱くだけだったが、次第に焦燥に駆られた。奴の名を
呼ぶ。察して、その背後を向く。
巨躯のオーガの一撃。ハワードは、間一髪のところで大剣を翳し
た。鈍い金属音が響き、奴は地面を転がっていく。
ファーガスは、戦慄した。
もう一匹居たのか、と。
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5話 トリックスターは毒を吐く︵6︶
筋骨隆々の肢体が、転がって無防備になった生意気小僧に向かっ
て飛びかかった。同胞の仇を取る意気込みに充ちた、酷く荒々しい
怒気を放っていた。
ハワードは、しかし先の一撃に大剣を折られ、呆然としていた。
ファーガスは決死の思いで自らの剣を投げつける。それは顔に刺さ
り、黒鬼は痛みに声を漏らし、追撃とばかり、少年は盾による殴打
を繰り出した。
﹁お前、何アホ面晒してんだ! さっさと逃げるぞ! というか、
その大剣に予備は無いのかよ!﹂
手を取り、無理やり立ち上がらせた。奴は、少年に目を向けたま
まきょとんとしている。まるで、心底驚くような事を知ったと言わ
んばかりの顔つきであった。
ファーガスは、袋から予備の剣を取り出した。オーガに刺さった
物は、勿体無いが放置だ。ハワードは予備を取り出さないから、無
いのだろうと推測して﹁倍にして返せよ﹂と奴に、残る数本の剣の
一つを渡した。
山を走りながら、索敵を行った。オーガは、まだ立ち直っていな
い。山の外への距離も、数十分もしない内に出られるだろう。これ
ならいける。だが、そう上手くいくものではない。
夜は、比較的亜人の動きが活発になる。昼は横を素通りしても大
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丈夫な種族が、夜になると襲い掛かってくることもある。それが原
因で、夜はエリアナンバーが吊り上るのだ。逃げるだけでも、命の
危険を孕んでいる。
道中には、多くの邪魔者が現れた。ゴブリン、オークは鉄板。運
の悪い事に、スライムの大軍が占めていて、迂回しなければならな
い道もあった。各エリアごとの転送陣はすでに消えていて、恐らく
結界が張られたと同時に使い物にならなくしたのだろう。亜人が学
園に入っては困るからだ。
幸い、フェンスのカギはタブレットを翳す必要がなくなっていた。
そのため、ほとんど素通りだ。そうしていると、いつしか索敵範囲
外に出てしまったあのオーガの事が心配になった。いつ襲って来る
かが分からない。ただでさえ、夜は危険なのに。
眼前に現れる敵の、アキレス腱などの重要な腱だけを撫で斬って、
脅威でなくしてから走り出す。そういう、最低限の安全を確保する
方法で、ファーガスは進んだ。ハワードは、何かを考えているよう
だった。奴らしくもない陰鬱な思案顔で、俯いたまま走っている。
そうして、やっとの事で出口が現れた。ファーガスは、より一層
速度を出して走り出す。だが、背後で断続的なあの音が聞こえ始め
た。足を素早く運びながら、索敵をする。する必要もなかったが、
恐怖の為にせざるを得なかった。
﹁クソ、あと少しなのに!﹂
先ほどのオーガが、迫っていた。しかも、その数百ヤード後ろに
はオーガの大軍が迫っている。相手にしている暇はない。ひたすら
駆け続ける。
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そういえば、と思い立った。結界は、一体どうなっているのか。
今すぐに発動せねば、奴らは山から出てきてしまうだろう。悪夢の
体現。ファーガスは更なる聖神法を掛けて、足を進める。ボスオー
ガへの余力はない。
それでも、巨人が如き怪物は、ファーガスの前に現れた。顔に傷
を負っているから間違いは無かった。その横をすり抜ける。奴の攻
撃は、ぎりぎりの所で躱すことが出来た。山から、出た。出られて
しまった。素早く、踵を返す。オーガが、通常の結界に阻まれ、一
度墜落した。ファーガスは、安堵する。このオーガでも、通常の結
界は超えられないのか。
しかし奴は、地に降り立ってから、力を溜めはじめた。諦めない
のかとぞっとする。何度か、殴打が続いた。マズイ、と歯噛みする。
結界が、視認できるレベルにまで摩耗し始めた。
最後とばかり怪物は気に飛び上がって、強烈な一打を繰り出そう
とした。ファーガスは、身体を硬直させ、見ているしかなかった。
聖気はもうない。
﹁⋮⋮見てるだけなら、貸せ﹂
ハワードが、言った。奴はファーガスが貸した一本と、彼から奪
った一本で双剣を構えた。オーガは結界を打ち破る。奴は、それに
空中で応戦した。
飛び上がり、身体を捻っていた。そして、繰り出される連撃。ダ
メージはあまりない。ハワードの攻撃力はあの大剣があってこその
物なのだと知った。オーガは、怯んでいる。逆に言えば、怯んでい
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るだけだ。
それが、一体いつまで続いたろう。オーガの大軍が、木々の合間
から盗み見えるまでに近づいてきた。ハワードとオーガの対戦に、
決定打はない。ファーガスは、空を仰いだ。使うしかないのか。夜
空にはいつしか雲が掻き消えていて、都市部でないこの周囲は星が
良く見える。
ファーガスは、プラネタリウムが嫌いだった。吸い込まれそうで、
怖い。
﹁クソがッ! さっさと死に腐れろ、このゴキブリ野郎!﹂
ハワードの焦燥の咆哮すら、夜空は吸い込んで消してしまう。フ
ァーガスは、自分の周りの人たちの事を想った。呑まれたくない。
だが、失いたくもないのだ。そして、覚悟しかける。
彼の肩を、叩く者が現れた。
﹁もう大丈夫だ。よく頑張った﹂
振り向く。ワイルドウッド先生が、そこで柔和な笑みを浮かべて
いる。
﹁全員! 射て︱︱︱︱!﹂
背後から、数多くの弓矢がオーガの頭を貫いた。奴はよろけ、森
の中へと倒れ込む。だが、その体勢はまるで、見えない壁に寄りか
かるようだ。結界は、発動していた。
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向かい来るオーガの大軍も、そこから一歩も出られはしなかった。
ファーガスは、力が抜けて足腰がぐらついた。そこを、彼の名を呼
びながら支えてくれる人が居た。ベルの顔を見て、安心のあまり嗚
咽が出た。彼女は何も言わず、抱きしめてくれる。
﹁⋮⋮フー。危ない所だった。しかし、安心してくれ。もう、奴ら
が出て来ることは無いよ﹂
ワイルドウッド先生は緊張が解けたのか、その笑みに疲労が見え
た。ファーガスも落ち着いて、今更に弓矢は珍しいのにな、と疑問
を抱く。見れば、ベルを除いて全員スコットランドクラスの教官だ
った。納得する。
しばし、休んだ。ファーガスとハワードはそれぞれに治療を受け、
今までの緊張に対して脱力していた。使わなくてよかったと、改め
て思った。そうだ。こんな﹃能力﹄一生使わなくていい。
少年は改めて立ち上がり、体をほぐしていた。そこに、ばつの悪
そうにハワードが歩いてくる。﹁一時はどうなるかと思ったぜ﹂と
からかうと、﹁お前も昔に比べて口が悪くなったな﹂と言われた。
お前の影響だろう。
﹁⋮⋮何というか、ありがとな。クリスタベルも、よくやってくれ
た﹂
﹁わ、私はただ、アンジェに言われて来ただけだ。まぁ肝心のアン
ジェが今ちょっと気分悪くて寝込んでいるのだけど﹂
﹁バカの話はいい。オレは、お前の手柄の事を言ってる。クリスタ
ベルの矢はオーガの脳天の、一番痛ぇ場所を貫いてた。それは確か
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な事だろうが﹂
﹁それは⋮⋮そうだけど﹂
ベルは、少々落ち着かない面持ちで歯切れ悪く答えた。彼女のハ
ワード嫌いは根が深い。それに対して奴の今の素直さは一体どうい
う事か。
﹁⋮⋮どうした? オーガの一撃の打ち所が悪かったのか?﹂
﹁うるせぇ、タコ。︱︱オレは、今までお前らの事を侮っていたん
だなって、痛感しただけだ。悪かったな。山の中で、世話掛けた﹂
﹁⋮⋮俺はだいぶ慣れてたけどな﹂
﹁水を差すようなこと言うんじゃねぇよ!﹂
身ぶり激しく突っ込むハワード。ファーガスはそれが妙におかし
くて、くつくつと笑いだした。奴は笑うんじゃねぇ。としかめっ面
をしていたが、笑い続けていると、まずベルがつられ、結局はハワ
ードも笑い出してしまった。
﹁ともかく。改めて、これからよろしく﹂
﹁らしくないな。どっかで落ちが用意されてんのか?﹂
﹁落ちなんてねぇっての。最初はオレも餓鬼だったというか、⋮⋮
そういう事だ﹂
﹁そうかい﹂
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握手をし、これでやっと頑なだったハワードと親しくなれた気が
して、不思議に頬が緩む感じがあった。そうだ。と少年は思い至る。
どうせなら、友人の輪は広い方がいい。ベルの苦手意識も、今のタ
イミングに解消してしまおう。
﹁そういえばさ、ハワード。ベルの話ではお前がベルの父親に許嫁
話を持ち掛けたって聞いたんだが、真相を教えてくれよ﹂
﹁はぁ!?﹂
文字通り、ハワードは驚愕した。顎が限界にまで開かれ、もう少
し開いたら外れてしまうのではないかとファーガスは想像する。ち
ょっと笑えた。
﹁えっ、ふぁっ、ファーガス!? 君は一体何を言ってるんだ!?﹂
﹁だってさ、今の内にこういう蟠りはなくしておいた方がいいだろ
? と言うか間違いなく事実じゃねぇよ﹂
﹁⋮⋮いや、でも﹂
怯えにちらちらとハワードへ視線を向けるベル。ハワードは、彼
女に呆れたというか評価を取り消したような視線を向けつつも、深
い深い息を吐き出した。
﹁そんな訳ないだろうが⋮⋮。あれは、兄貴が無理に取り付けた話
だ。しかもすぐにお前の親父が受け入れちゃったんだから世話が無
い﹂
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﹁何でお父様が﹂
﹁何でも、娘に着いた悪い虫を取り払いたいとか言ってたっけな﹂
﹁あ﹂
ファーガスはすっと視線を外へやる。斜め下に俯くような感じだ。
﹁⋮⋮なるほど、そういう繋がりか。そういえば昔馴染みだのって
いう話は聞いたことあるな。どこから聞いたのかは忘れたが﹂
﹁えっ、じゃっ、じゃあ。君がお父様と楽しそうに話していたのは
何なんだ!﹂
﹁ん? そんな昔の事覚えてねぇよ。んー⋮⋮だが、あのおっさん
に会ったのって三回程度だしな。⋮⋮ちょっと話が変わるが、お前
の親父は甘党か?﹂
﹁あ、ああ。無類の茶菓子好きだ﹂
﹁あ、俺全部わかっちゃったわ﹂
﹁言うんじゃねぇぞ。絶対に言うんじゃねぇぞ﹂
﹁それは振りか?﹂
﹁フリって何だ?﹂
﹁えっと、どういう事なんだ⋮⋮?﹂
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﹁簡単に言うと、ハワードとベルのお父様が、茶菓子の話で盛り上
がり過ぎちゃったって事﹂
﹁えっ﹂
﹁言うなっつったろうがぁ!﹂
ハワード、本日二度目の大爆発である。ソウイチロウが前にハワ
ードの事を弄り倒していたが、こいつはそういう扱いでいいのかも
しれない。
ったく。と髪を掻き上げる黒髪の少年は、存外まんざらでもなさ
そうだった。そういえば大声をよく出すから、そういうのが好きな
のかもしれない。ファーガスもカラオケでストレスを発散するタイ
プだ。それに、あんまり甘党の事は、言うほどは恥じていないらし
い。ベルの視線を受けても、照れている様子は無かった。
ワイルドウッド先生に、今日は三人とも帰りなさい。と言われた。
後の事は、大人に任せろという事らしい。﹁もっとも、後日事の次
第は聞かせてもらうがね﹂と先生は注釈した。ファーガスは疲れ声
で肯定を返す。
帰り道。蟠りも消え、三人で話しながら歩いていた。別れる寸前
で、﹁そういや﹂とハワードは言葉を繋ぐ。
﹁お前らの事、これから名前で呼んでもいいか?﹂
﹁お、おう﹂
﹁う、うん。そうだね﹂
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﹁照れてんじゃねぇよ。何だお前ら、愛嬌あるな﹂
片眉を跳ねあげて、表情を作りながら奴は笑う。
﹁オレの事は、⋮⋮まぁ、何でもいいぜ。一番多い呼び方は、ネル
だな。お袋だけは、ミドルネームからとっと、ベネ、って呼ぶ﹂
あとは、と彼は視線を浮かせた。数秒経ってから、こう続ける。
﹁誰に呼ばれたかも覚えてないが、頭文字から、ナイ、って呼ばれ
ることもあるな。まぁ、自由に呼んでくれ﹂
﹁⋮⋮ナイって、何か女の子みたいな愛称だな﹂
﹁ホントだな。まぁ、呼ばれても別に気にはしねぇが﹂
﹁んー﹂
ファーガスは、ベルと目を合わせた。無難な物でいいだろう。
﹁これからよろしくな、ネル﹂
﹁ネル、よろしくね﹂
﹁ああ﹂
それぞれと握手して、ファーガス達は分かれた。と言っても、途
中まではネルとファーガスは一緒である。試しに美味いスコーンを
店の話を振ると、見事なまでに食いついてきて、思わず笑ってしま
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った。
就寝前。今更気付いて自室のカーテンを閉める寸前、夜空に見入
ってしまった。そして、不意に思いつくのはクリスマスだ。
急いでタブレットを開きネットに接続する。クリスマスは︱︱雪
だ。ホワイトクリスマスが、もうすぐ近くに迫っている。
ファーガスは、あまりの期待に胸を弾ませた。今年こそ、ベルと
のクリスマスを楽しむのだ。そして︱︱出来れば、はっきりと告白
もしてしまいたい。
OKは、貰えるだろうか。貰えるだろう、という安易な決めつけ
と、貰えなかったらどうしよう、という万一に備える不安が両者互
角にせめぎ合っている。
星空を見つめていると、心臓が苦しかった。﹁早く寝よう﹂と、
はやる気持ちを押さえつけ、ファーガスは駆け足気味にベッドに飛
び込む。
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6話 白の中の黒︵1︶
事情聴取が終わって、ファーガスは背伸びをした。
改めて知ったのだが、騎士学園の中で起こった事に関して警察は
関与しないらしい。その為、ファーガスの向かいに座ったのはワイ
ルドウッド先生だった。質問も最低限で、むしろ情報を提供してく
れさえした。
事の顛末は、デューク先生の乱心に終始していたという。
彼の言ったという悪質なストーカーなどという存在は居らず、そ
の痕跡も残っていなかった。彼の部屋は荒らされてはいた物の、彼
以外の指紋は見つからなかったそうだ。
さらには、乱心の理由として最も重要視されているのが、彼の麻
薬の接種である。UKでの麻薬は、諸外国の中でも流通が激しい。
貧民街などいけば簡単に売人が寄ってくるほどで、騎士の格好さえ
していなければ購入も容易らしい。その為検挙も楽なのだが、如何
せん数が多かった。ゴキブリの様に、いくら潰しても出て来るのだ。
麻薬を摂取していたのは彼だけでなく、他にも結構な人数が居た
ようだ。今秘密裏に逮捕している最中なのだとか。オーガに関して
は、彼らは長い時間をかけて亜人を罠にはめて確保していたのだと
いう。どうやって移動させたかは、未だ分かっていない。有力な説
としては、騎士たちが摂取していた麻薬を餌などに混入して、それ
により操っていたのではないか。というものがある。
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ファーガスはその事実を聞いて、いたたまれない気持ちになった。
世間的には純粋な被害者である彼だから、その事も考慮されたのだ
ろう。一時間もせず、解放された。
ソウイチロウの件は、どうだったのだろうと考えた。まさか騎士
学園の中で裁いたのか。それではあの結果にならないだろう。だが、
外で裁けば、どうなったのか。ソウイチロウの無罪だけでは成り立
たないような気もする。実在を危ぶむなどという、馬鹿な事は考え
ないが。
ともあれ、自由だ。明日のクリスマスに備えてケーキを買いに学
園を出ようとすると、校門でローラが外行きの服を着込んで歩いて
いるのを見た。白を基調としたゆったりした服で、その所為か、尚
更人形のような外見となっている。
﹁お、久しぶり。買い物か? それにしては荷物が多いようだけど
⋮⋮﹂
﹁あ、ファーガス、お久しぶりです。今回の件は、お疲れ様でした﹂
﹁ん、ありがとう﹂
聞こえなかったのかと思ったが、そういう訳でもないらしい。彼
女は一度自分の服装を見直してから、﹁ああ﹂と言った。
﹁私は、今から帰省するところなんです。許可も貰ってあります﹂
﹁え? そうなのか。何でだ?﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
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ローラは、少し気まずいという顔をしてから、このように続ける。
﹁私が住んでいた町の近くの村が、ドラゴンに襲われて壊滅したと
聞きました。一応連絡も取れたのですが、学園の方から帰ってもい
いとの許可が下りて、⋮⋮流石に、心配で﹂
ファーガス、度肝を抜かれた。目を剥いて、慌てながら言う。
﹁そりゃ大変だ! 呼び止めてごめん。ほら、早く行かなきゃ! ああ、気が効かなかったな。荷物でも持つか?﹂
﹁え!? い、いえ。大丈夫ですよ。ファーガスもいろいろあって
忙しいでしょうし﹂
﹁いいや、大丈夫だ。今は丁度時間が空いてるから。ほら、これ重
いだろ? よっこいせっ、⋮⋮と﹂
ローラの荷物を担ぎ上げて、﹁駅でいいよな﹂と聞いた。たどた
どしく首肯され、先導する。遠慮はしばらく続いていたのだが、聞
き入れずに雑談をしていたらいつの間にかなくなっていた。
雑談は自然と、ドラゴンの話になった。討伐は順調で、被害も軽
微であるという。騎士学園からの卒業生たちは、かなりの戦果を挙
げたと聞いた。
﹁風を操るドラゴン。東洋から来たとされる、巨大な蛇のようなド
ラゴン。あと、巨大なサイのようなドラゴンも倒されたと聞きまし
た﹂
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﹁すぐに討伐された二匹に次ぐ三匹か⋮⋮。サイみたいな奴って、
俺の直感だと意外に強い気がする﹂
﹁確かに、良い情報がなかなか入ってきませんでしたね。凄いです、
ファーガス﹂
ぱちぱちと拍手され、ちょっとだけ照れてしまう。それで頭を少
し掻いてから、他の情報も聞き出していく。
その中に、ソウイチロウの情報は当然なかった。大丈夫だろうか
と心配する。また、虐められてはいないか。ソウイチロウは、一人
でも強い。だが、脆さはあるのだ。そこを突かれてしまえば、本当
に呆気なく崩れてしまう事を、ファーガスは知っている。
付き合いはネルよりも短いが、親友と言えばまずソウイチロウが
思い浮かぶ。それだけ、相性が良いのだろう。しかし、引き離され
てしまう事も多かった。悩み事が無いと、またバカ話がしたいなと、
空を仰ぐこともしばしばだ。
ソウイチロウの事を考えると、これまでにあった様々な不可解に
ついて思考がいく。デューク先生の事も、ちゃんと納得がいったと
は言い難い。しかし、今はローラと話しているのだ。少しだけ首を
振って、彼女との会話に集中した。
歩きながら、こちらの近況と言うか、事件の顛末を伝えた。口封
じもされていなかったし、別に怒られはしないだろう。麻薬の事を
伝えると、ローラは酷く気分の悪そうな表情になった。
﹁どうした?﹂
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﹁⋮⋮いえ、私の遠い親戚で、ドラッグの為に人生が滅茶苦茶にな
った人が居たので⋮⋮﹂
教えてくれて、有難うございます。そのように、彼女はファーガ
スの話を遮った。あらかた話していたし、彼女の顔を見ていればそ
の気も失せる。デリカシーが無かったかなと、ちょっと悩んでしま
う。
駅に着いて、別れを告げた。﹁しばらくすれば、帰ってくるんだ
よな?﹂と聞くと﹁ええ、勿論です﹂と微笑される。
﹁じゃあな﹂
﹁はい、また﹂
手を振って、別れた。後には、僅かな寂寥が残った。
駅に帰るまでに、ファーガスはちょっとしたお土産を買って帰っ
た。この国の料理店は不味い場所も多いが、不思議な事に茶菓子は
美味い事が多い。自分、ベル、ネル、後はアンジェの分である。ロ
ーラにも買ってやればよかったと、少し後悔した。先に立たずだ。
学園に返ってから、ベルたちの事を見つけられずに、ぶらぶらと
歩いていた。すると、上級生の何人かが、こちらに近づいてくる。
皆笑顔だ。薄気味悪く、少年は微妙な顔つきで避けるように歩く。
捕まった。
﹁何スか!﹂
﹁おう、お前凄いじゃねぇか! お前がグリンダーだよな? よし、
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先輩が飯奢ってやろう。おい、グリンダー様が昼食をご所望だぞ!
お前らも少し金出せ﹂
﹁何でだよ、言い出しっぺのお前だけ出せよ﹂
﹁良いだろ? 何たって学園を救った英雄の一人だぜ?﹂
﹁は?﹂
ファーガスは、呆然とそんな声を漏らした。流石に上級生たちも
不審に思って、躊躇いがちに問うてくる。
﹁もう一度聞くけど、お前はファーガス・グリンダーだよな?﹂
﹁は、はい﹂
﹁デューク先生が血迷って集めた大量のオーガに、いち早く気付い
て山からの脱出を防いだ﹂
﹁確かに、そうですけど⋮⋮﹂
﹁お前紛らわしいんだよ! もっと胸張れ!﹂
﹁痛ってぇ!﹂
背中をバシンとやられ、呻くファーガスである。何故か知らない
上級生数人に肩を組まれ、大所帯で歩いた。彼らは意気揚々と歌を
歌っている。UKの国家であった。ちょっと怖い。
けれどファーガスは、ノリが良かった。合間合間に褒め殺され、
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歌え歌えと煽られれば、歌いだしてしまう。
﹁おお主よ、我らが神は立ち上がり!﹂
﹃敵を蹴散らし、追走させ!﹄
﹁姑息な罠をも破りたもうた!﹂
﹃我らの望みは汝に在り!﹄
﹃神よ我らを守りたまえ!﹄
ファーガス、上級生たちと続いて、最後には全員で歌った。二番
である。一番の途中でファーガスは細々と歌い出し、今は誰よりも
声を出している。
﹁⋮⋮何やってんだ、お前﹂
きょとんとしているのはネルである。それを見つけた上級生たち
は、それぞれ﹁お﹂と声を漏らす。
﹁もう一人英雄が見つかったぞー!﹂
﹁いや、オレアイルランドクラスなんでいいっス﹂
﹁アイルランドクラスだとかそんな事はどうでもいいんだよ! ほ
ら、お前も来い! 何だよ、お前オーガと一人でやり合ってたそう
じゃないか! どんだけ強いんだよ、今度おれと手合せしろ!﹂
﹁は? え、うわ! 何だアンタら。はぁ!?﹂
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ネルも同じように巻き込まれ、肩を組まされた。無理やり隣同士
にさせられ、奴は小さく﹁どういう事だ? こりゃ﹂と尋ねてくる。
﹁俺達を英雄扱いして、祝杯でもやろうってんだと。良かったな。
驕ってくれるらしいからスコーン食い放題だぜ﹂
学園で出される食事は、朝昼晩を抜けば有料になる。例えばスコ
ーンなどがその筆頭だ。さらには、カレーなど自国の食文化から外
れるメニューもその範囲である。
その言葉に、ネルは目を輝かせた。しかし、と妙な顔をする。
﹁この先輩方ってよ、多分だがイングランドクラスだろ﹂
﹁まぁ⋮⋮、そうだろうな。去年に見覚えあるし。⋮⋮それがどう
かしたか?﹂
﹁いいや⋮⋮。随分仲良くなったもんだと思ってな。まぁいい。ス
コーンが食べ放だ、もとい、有料の飯でも無料だってんなら腹いっ
ぱい食わなきゃな!﹂
﹁本音が今漏れてたぞー﹂
貴族にとってはスコーンなど安い物だろうとは思ったが、無料飯
と言うのが良いらしい。得した気分になるのだとか。貴族でもそん
な風に思うのかと、少し意外だった。
その途中、ベルやアンジェも先輩方に発見され、大所帯での宴が
始まった。別校舎の騎士候補生たちもこちらへ訪れ、こっそりとこ
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ちらの校舎の生徒たちに泡の出る麦茶を振る舞っていた。ファーガ
スはなかなか行ける性質なので、ぐびぐびとやって大いに盛り上が
った。その途中、片隅に置きっぱなしの手荷物を見て、苦笑した。
買ってきた茶菓子は、後回しになりそうだ。
祝杯は、事件の収拾の為に特別あてがわれた休日を丸々潰した。
そこら中に貴族の様に酔った先輩方が倒れ伏している。ファーガス
はザルなので割とけろりとしていた。もちろん酒なんてこれっぽっ
ちも飲んでいないよ?
ベルは下戸で、呑まずに紅茶と茶菓子で優雅に楽しんでいた。が、
今は気持ち悪そうにしている。酒臭さに当てられて軽い酩酊状態ら
しかった。本当に飲んでいたら病院送りになるタイプである。
ネルは、そこに倒れている。その顔は真っ赤だ。アンジェはその
上に折り重なっていた。何だかんだでこの二人は仲がいい。
ベルを介抱し、酒臭いイングランドクラスの食堂から出た。イン
グランドクラス以外の人間は、精々が英雄だとからかわれたアイル
ランドクラスの三人だけだ。仲が良いと言ってもその程度らしい。
そこで、少々困ったことに気付いた。もしや、三クラス全てで宴の
肴にされるのか。
予想しているだけでも、すでに萎え始めた。楽しいは楽しいのだ
が、こういうのは偶にやるからいいのだ。繰り返し行えば、飽きが
来て疲れがたまる。
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﹁ありがとう、ファーガス﹂
﹁いいや、気にすんな。それに、ベルははっきり言って軽い﹂
気持ち悪そうにしていたから肩を担ぐのでなくお御姫様抱っこを
選んだのだが、中々いい収まり方をした。軽いと言われ、頬を紅潮
させるのだから愛嬌が有る。降ろしてと言われても、降ろしたくな
い程だ。もっとも、中々言われないから案外抱かれ心地はいいのか
もしれない。
今日は、星が綺麗だった。﹁そうだ!﹂と閃く。ベル、とその名
を呼んだ。
﹁これからさ、酔い気覚ましに二人で星を見に行かないか?﹂
﹁え?﹂
言うが早いか、学園を出た。近くに開けた公園があり、その中央
には小高い丘があるのだ。そこに上ると一階建ての多いUKの建物
は視界から消え、満天の星空が見える。ここは都心ではないから、
星の輝きが電灯などにかき消されることは無いのだ。
本当はそのままで行こうとしたのだが、学園から出ようとした所
で流石に照れたらしく、降ろすように言われてしまった。残念でな
らなかったものの、腕が疲れて自分から言い出すよりはいいと思い
直した。ファーガスの腕は太く、どちらかと言うと白筋が多い感じ
なのだ。持続力が無いのである。
辿りつくと、誰もいなかった。寒い為だろう。スコットランドク
ラスの聖神法で、火を灯す。﹁いつの間にか多芸になったね﹂とベ
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ルは微笑んだ。
﹁昔の君は、不器用もいいところだった。あの頃は私も狭量だった
なぁ。ファーガスが簡単な所で詰まってしまうのが、何故だか分か
らないけど許せなかった﹂
昔、と言われ、知り合って間もない頃の事だと気付くのに少しか
かった。確かに、あの頃は体がもっと小さかったというのもあるし、
それ以上に記憶の混濁が激しかった時期だ。ソウイチロウは生まれ
た時から記憶があったというから分からないだろうが、途中から蘇
った自分のような場合は、何でもないような場面でたびたびフラッ
シュバックが起こり、呆然としてしまったのだ。不器用であった最
たる理由である。
また、と不意に思った。今日は、良くソウイチロウのことを思い
出す。再び会う事が出来るのは、いつの事なのだろう。そう考える
と、少し寂しい。
﹁⋮⋮ファーガス?﹂
ボーっとしていたのか、ベルに声を掛けられる。ハッとして、直
前までの会話を思い出し、肩を竦めた。
﹁許せないって⋮⋮、怖いな。こりゃ、もっと頑張らないと﹂
言いながら、愛しさが募って彼女の頭を撫でた。そうすると、恥
ずかしげに身をくねらせて、ベルは少年の手を受け入れてくれる。
﹁そうだよ、もっと頑張って。何せ、君は私の騎士なんだから﹂
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甘えるような声だった。それで、ファーガスは堪らなくなった。
下唇をかみしめて、勇気を振り絞ろうとする。
だから、不意を突かれた。
﹁ファーガス、私ね、⋮⋮君のことが、好きだよ﹂
﹁へっ?﹂
驚いて彼女の顔を見直すと、少女はぷいと後ろを向いてしまって
いた。けれど、炎が灯っているから耳まで赤いのがバレバレだ。
対して、少年の頭は、パンクしかけていた。ベルの顔の赤さは何
だか可愛らしい物があるが、ファーガスのそれはもはや爆発寸前の
風船である。真っ赤と言うか赤黒い。赤黒いというか、赤グロかっ
た。
ベルは、何も言わない。答えを、待っているのだ。ファーガスは、
微かに震える。彼に注がれる空気は、もはや限界だ。
強く、勢い良く、ベルの手を握った。小さくて、冷たくて、でも
熱かった。
少年は、とうとう破裂する。精一杯の告白の言葉を、放つつもり
だった。
そうなる、はずだった。
咆哮。それは、二人の体を完全に委縮させた。状況を把握するよ
う鍛え上げてきたはずの少年少女らの体は、全くと言っていいほど
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動かなかった。大気が揺れ、二人は本能的な恐怖に意識することな
く互いの体を引き寄せあう。
ファーガスの小さな光源に、空で何か黒きものがよぎった。再び
の咆哮。ファーガスは怯えたが、二度目故に動けないという事はな
い。
ベルを抱えて、立ち上がった。同時に、空から雷が落ちるような
音がした。すさまじい光に、少し遅れてくる凄絶な音。だが、空に
雲などはないのだ。焦燥に急かされながら、空を見上げる。雷は、
落ちるのでなく横方向に︱︱空を飛び回る黒き物体に放たれている
ようだ。誰が放っているのかは、分からない。
﹁ファーガス、これ、一体何が起こって⋮⋮!?﹂
﹁わ、分からない。とりあえず、学園に戻ろう。あそこなら、ドラ
ゴンが来ても安全だってされてる﹂
再び、空が明るくなった。ベルの手を取って駆け出しつつ、小さ
く振り返る。星空を焼き尽くすかのような、極大の炎。それが放射
状に放たれ、周囲を照らしている。何が空を飛んでいるのか。何と
何が戦っているのか。
﹁嘘⋮⋮﹂
ベルが、声を漏らす。ファーガスも、息を呑む。
それは、真っ黒な鱗に覆われたドラゴンだった。この国を滅ぼさ
ん限りに蹂躙したといわれる、伝説のドラゴン。
782
炎は消え、その中で小さな光が流れた。流星を連想させられたが、
ファーガスは酷く嫌な予感に襲われた。もはや背後を顧みることな
く、二人は学園に向かってかけていく。
校門をくぐるか否かのところで、眼前に光が墜落した。近くで見
ると、光は聖神法のそれにも似ていた。光は消え、暗闇の中で何か
がうめき声をあげていると知った。ますます予感が増して、少年は
少女の制止を振り切り、その元へ向かう。
石畳の上で血まみれでいる、人間らしき影。
ベルは口を押え、顔を真っ青にした。剣で戦うため慣れているは
ずのファーガスでさえ、息を呑んだ。墜落の衝撃で腕は千切れ、う
つ伏せに這いつくばっている。その周囲の石畳は、砕けていた。
﹁おい、アンタ! 大丈夫か!? 生きてるのか!?﹂
﹁ぅぐ⋮⋮、ぁ⋮⋮!﹂
その声を聞いて、ぞっとした。憎悪に満ちた声。だが、それ以上
に恐ろしかったのは、その声に聴き覚えがある事だった。
﹁⋮⋮ソウイチロウ? お前、ソウイチロウなのか?﹂
違うと答えてくれ。そのような儚い思いは、彼が顔を上げた事に
よって粉々に打ち砕かれた。
﹁⋮⋮殺す。⋮⋮殺してやる⋮⋮!﹂
ソウイチロウは、弱々しく這い出した。しかし、ファーガスは気
783
付いた。そこに腕が千切れて、転がってはいなかったか。にもかか
わらず、何故彼は二つの腕を持っている。
聖神法で、光を灯した。その所為で、ファーガスはソウイチロウ
の、その呪われた姿を直視することになった。かつて強い輝きを湛
えていたその瞳は、今はどす黒く淀んでいる。片腕は異形に染まり、
もう片方の腕も衝撃に耐えかねて滅茶苦茶だ。動ける躰ではなかっ
た。だというのに、彼は執念で動いていた。
しかし、最後には力なく潰えた。どうすれば良いのか、ファーガ
スは戸惑った。ベルが、﹁とにかく医務室へ﹂と叫んだところに、
血相を変えたワイルドウッド先生が、こちらに呼びかけてきた。
﹁二人とも! ここで一体何をしているんだ!? 中に早く入りな
さい! 死にたいのか!﹂
ベルとソウイチロウを抱えたファーガスは、先生のその怒声に恐
慌状態に陥りかけた。彼はファーガスが背負う彼を見て呼吸を止め、
首を振ってから﹁とにかく、中へ!﹂と駆け足気味につれていく。
ファーガスは先生に引っ張られながら、呆然としていた。先生の
怒号、ベルの泣きじゃくる声。何もかもが狂いゆく中で、ファーガ
スはいつの間にか時計が十二時ぴったりを指していることに気が付
いた。十二時。それは、零時でもある。日付が変わった。ファーガ
スは、ぽつりとつぶやく。
﹁クリスマスに、なったのか⋮⋮﹂
三度、咆哮が上がった。黒き龍の羽ばたきによって雲が運ばれて
きたのか、窓の外には雪が降っていた。
784
6話 白の中の黒︵2︶︵前書き︶
※アメリアは死にません
785
6話 白の中の黒︵2︶
起きると、そこは教室だった。ファーガスは、ここに寝かされた
理由を、何度も繰り返される破壊音によって思い出す。
今少年たちが生きていられるのは、ドラゴンをも弾く結界がある
からだった。しかし、話ではもって一日だとされている。ここに寝
かされたのは、少しでも結界を強くするためだと聞いていた。守る
範囲を、狭めているのだ。
厩舎を守ろうとすると、結界の寿命が縮む。その上、すでに壊さ
れているようだった。瓦礫が、窓の外から見えた。ファーガスはそ
れを見つめ、一度息を呑んでから、諦めた。
﹁無理にこっちに来させちゃって、ごめんな、アメリア。すぐ俺も
そっちに行くから、寂しくても、少しだけ我慢しててくれよな﹂
頭上から降ってくる、断続的な破壊音。結界を、ドラゴンが破ろ
うとしているらしい。これが破られればオーガ達も解放されてしま
うのだという話を、昨晩ワイルドウッド先生に説明された気がする。
見回すと、ネルが居た。目に手を当てて、呻いている。
﹁⋮⋮よう﹂
﹁⋮⋮おう、ファーガスか﹂
ネルは、元気が無かった。視線を伏せ、﹁何だかなぁ⋮⋮﹂とぼ
やく。
786
﹁酒盛りしてた自分が恥ずかしいってのかな。でも、やれる事もね
ぇんだよ。二日酔いで頭ガンガンしてんのに、迎え酒で治すことも
出来やしねぇ﹂
﹁迎え酒は体に悪いとかいうから、止めとけよ﹂
﹁⋮⋮そうだな。生きて明後日を迎えられれば、止めることにする﹂
自嘲気に、彼はそう言った。ファーガスは、破壊音の方角に目を
向ける。
窓の外には、雪が降っていた。はらはらと、積もっていく。昨日
から、降り始めたのだ。それがずっと続いていて、やはりドラゴン
が雲を集めてきたのだろう、例年見ない積もり様だ。
﹁何にも、出来ないのか?﹂
﹁出来ねぇよ。あのドラゴンを追ってた騎士団が、上手い事奴を殺
してくれるのを待つだけだ﹂
ドラゴンは、天災に良く例えられる。ベテランで、死に物狂いの
騎士が、何百人も決死の攻撃をして、やっと殺すことが出来る天災。
教室の同級生たちもしばらくすると次々起きだして、誰も彼も、
何秒かに一回響く破壊音の度に身を竦ませていた。ファーガスは、
しばらく俯いていた。だが、とうとうに立ち上がる。
﹁⋮⋮どうしたんだよ﹂
787
﹁なぁ、ネル。俺達はさ、⋮⋮多分、死ぬんだろ?﹂
ネルは、答え辛そうな様子もなかった。肩をすくませて、﹁ああ﹂
と言う。
それを聞いた同級生たちは、怒声を上げた。だが、二人はそれを
黙殺したまま、話を続ける。
﹁だからさ、ちょっと最後にこの校舎を見て回ろうって思ってさ﹂
﹁そうかよ﹂
行って来いよ、と言われ、首肯した。クラスメイトの怒号はネル
に向かって、ファーガスは気にもかけずに教室から出た。あいつの
事だ。何を言われたって心配はない。
近いから、アンジェの元に赴いた。彼女はファーガスを見つける
なり、涙を零しながら駆け寄ってきた。腰のあたりに抱きつかれる。
﹁ふぁ、ファーガス先輩⋮⋮!﹂
﹁おいおい、泣くなよ﹂
﹁だって、このまま、みんな死ぬんですよ? 怖く、無いんですか
?﹂
﹁⋮⋮正直、分からない。俺って貴族の出じゃないからさ、黒いド
ラゴンってのがどれだけ怖いのかが、ピンとこないんだ﹂
伝承自体は、知っている。歴史の授業でも、学ばされる。国を挙
788
げて、戦ったドラゴン。伝承では奴らはドラゴンを将として、数多
の亜人と共に襲い来たらしい。そこで武勲を立てた者が、現在の貴
族の大半を占めているのだ。
﹁私たちも、歴史みたいに全員殺されるんです。いえ、それだけじ
ゃないですよ。国中の、多分、半分があの黒い龍に殺されるんです
⋮⋮!﹂
アンジェは今、真面ではなかった。手は病気かと思うほどに激し
く震え、もはやファーガスの存在を正しく認知しているのかも疑問
だった。同じクラスらしい女子生徒が、﹁すいません﹂と謝って、
彼女を引きはがした。その顔は、涙と鼻水でぼろぼろだった。
その場から去り、途中でローラを羨ましく思った。彼女は、素晴
らしい悪運に恵まれている。ドラゴンの前日にここを離れたのだ。
ちょっと笑ってしまう位の運の良さである。
修練場を渡って、イングランドクラスに行った。その途中、件の
ドラゴンの姿を見ることになった。︱︱ああ、何度見ても、黒い。
漆黒の、一枚でファーガスの盾をこえるだろう頑丈さだろう鱗で、
見上げるほどの巨躯が包まれている。前足を振りかぶり、結界へと
一撃。耳障りな破壊音と共に一瞬現れる罅は、もはや空を覆うよう
だ。
奴はファーガスを睥睨し、再び修練場の真上に一撃を入れた。す
ぐに消え、さらに一撃。ヒビが、着々と大きくなっている。これが
結界全体に及ぶようになったら、結界は砕け、何もかもが蹂躙され
るのだろう。
イングランドクラスに着くと、ベルが居なかった。昔のクラスメ
789
イトに聞くと、彼女はつい先ほどいなくなってしまったと聞いた。
彼女を失うという恐怖が、その時実体となってファーガスを苦しめ
た。
走った。学園中を、走り回った。外聞なんてものを気にはしなか
った。だから、修練場で駆け足気味のベルを見つけた時、酷く彼は
安堵した。
﹁ベル!﹂
名を呼ぶと、彼女はこちらを向いた。涙がすでにいくつも落ち、
目元が赤く腫れていた。彼女は少年の名を呼んで、その胸に飛び込
んでくる。その華奢な体躯を、力いっぱい抱きしめた。
﹁ファーガス、ファーガス⋮⋮! 私、あり得ないのにっ、見つけ
ださないと君が死んでしまうんじゃないかって、心配で⋮⋮!﹂
珠のような涙の連なりを見ていると、ファーガスは失いたくない
と思ってしまう。永遠に、失いたくない。ベルを自分から奪おうと
するものを、俺は︱︱
﹁ベル﹂
名を、呼んだ。少女が顔を上げたのを見つめて、キスをした。彼
女は目を白黒させて、結局ファーガスを受け入れた。目を瞑り、頬
をりんごのように染めている。そして、再び人粒の涙がこぼれるの
だ。
唇を、離した。少女は﹁ファーガス⋮⋮﹂と少年の名を呼んで、
再び滂沱のような涙を流し始める。
790
﹁ファーガス、ファーガス。好き、好きだよ。誰よりも、何よりも。
だから、もっと強く抱きしめて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
嗚咽交じりの声に、ファーガスはベルを抱きしめることで答えた。
彼女は、ファーガスの腕の中で泣きじゃくる。それこそ、赤子のよ
うだった。
﹁ベル、愛してる。お前の、銀色の髪が好きだ。お前の、真っ白な
肌が好きだ。少し甘えん坊で、猫に目がなくて、普段は格調高い話
し方なのに、二人っきりになると崩した英語を使うようなことろが、
本当に好きなんだ﹂
﹁私も、愛してる。私のために、命まで投げ出してくれる君が、誰
よりも心配で、誰よりも好きなの⋮⋮!﹂
二度目のキスは、ベルからだった。しょっぱい、涙の味がした。
ファーガスの、彼女を奪われたくないという気持ちが強くなる。こ
んな理不尽なことが、あっていいのか?
しばらくベルを宥めてから、﹁今、付き合いの深い人たちに別れ
を告げてきてたんだよ﹂という事を伝える。もう、粗方それも終わ
ってしまった。︱︱いや、まだ一人だけ、残っている。
﹁ちょっと、ソウイチロウの見舞いに行かないか﹂
﹁⋮⋮そうだね、付き合うよ﹂
791
二人は、手を繋いで歩き始めた。彼は、一応スコットランドクラ
ス所属という事で、スコットランドクラスの医務室に運ばれたと、
ワイルドウッド先生に聞かされた。
医務室には、彼以外の何物も存在しなかった。ただ、ソウイチロ
ウだけが無垢な寝息を立てている。その服装は、先生方に着替えさ
せられたのだろう、入院患者そのものだった。
﹁⋮⋮なぁ、ソウイチロウ。お前、ドラゴンと戦ってたのか?﹂
ファーガスの言葉に、ソウイチロウは答えない。視線をずらすと、
患者服の端から見える異形の右手があった。人間の物ではない。ソ
ウイチロウが何と人間のハーフなのかを教えられていなかったが、
何だったのだろう、と考えてしまう。
見る者に、背筋の凍るような感覚を抱かせる、外見だった。
ベルは、それに手を伸ばし、しかし触れることが出来なかった。
その気持ちは分かった。吸い込まれるような魔力をその右手は持っ
ていて、しかし恐怖心が近づくにつれて増し、最後には触れようと
した自分を知って恐怖するのだ。
﹁他には、仲間が居たのか? もしかして、一人で戦ってたのか?
そんな訳、無いよな? いくらお前だって⋮⋮﹂
ソウイチロウは、目覚めない。だが、彼に仲間が居たようには思
えなかった。たった一人で、戦ってきたのだ。やろうと思えば、こ
んな少年にだって、出来る事なのだ。
ファーガスだって、本当に心を決めれば、ドラゴンを屠る事も可
792
能だろう。
だが、その先にあるのは阿鼻叫喚の地獄だ。それを防げるだけの
力が、自分に備わっているのか。自信はない。しかし、それ以上に
今、ベルを失うことが恐ろしかった。
この﹃能力﹄から逃げるためにファーガスは騎士になった。この
﹃能力﹄以外の確固たる力を、果たして自分は手に入れられたのか。
﹁⋮⋮ソウイチロウ。何で、お前はそんなに強いんだよ。俺にも、
分けてくれよ。その強さが、羨ましいよ⋮⋮﹂
ファーガスは、泣いていた。ドラゴンを直視しても感情は動かな
かったのに、ソウイチロウを見ていると、泣けてきてしまった。ベ
ルは、困惑した風にファーガスとソウイチロウとの間で、視線を右
往左往している。
その時、ぴょんとファーガスの膝に飛び乗る小さな動物がいた。
それを見て、ファーガスは歓喜に震える。
﹁アメリア! お前、生きててくれたのか!﹂
彼女は少年の喜びに、答えるように一鳴きしてからその顔を舐め
た。そして、いつの間にか懐いていたのか、ベルの膝に飛び移って
何も知らない無垢さで暖を取るように丸くなる。
ベルはそれを見つめて、酷く優しそうな顔をした。﹁よく見たら、
雪だらけじゃない﹂と言って、固まって氷のようになった粒を取り
払ってその背中を撫で整えていく。
793
それを見て、少年は守らなければいけないと決心した。もはや、
迷ってなどいられない。
﹁⋮⋮ベル。お前は、アイルランドクラスに行っててくれ﹂
﹁え? 一人でって、事?﹂
﹁いいから、頼むよ。アンジェがさ、酷いんだ。混乱してて、ずっ
と泣きじゃくってる。あいつも猫好きらしくってさ。アメリアを抱
かせたら、落ち着くと思うんだ﹂
﹁何で? 何で、それを私に頼むの? ⋮⋮嫌だ。ファーガス、馬
鹿な事を考えるのは止めてよ。私は、君の亡骸なんか見たくないよ
!﹂
﹁大丈夫だ、ベル。落ち着いてくれ。⋮⋮俺だって、勝算のない戦
いに身を投じるつもりなんてない。死ぬだけなら、ベルと一緒がい
い﹂
﹁駄目だよ! そんな、勝てる訳⋮⋮﹂
﹁そもそも、戦うなんて言ってないだろ? 見物しに行くんだよ。
どうせ、結界からは俺だって出られないんだから。大丈夫。すぐに
戻ってくる﹂
だから、信じてくれ。そのように言ってほほ笑むと、ベルは涙を
零しながら、﹁絶対だから。絶対、帰ってきてよ﹂と歯を食いしば
りながら言ってくれる。ファーガスは、ベルを引き寄せて頬にキス
をした。そして、彼女を顧みずに部屋を出る。
794
外に出た。ドラゴンの足元だった。灯台下暗しとでも言おうか、
奴はファーガスの存在に気が付かない。
そこで、しばらく胡坐をかいて座っていた。雪の上でも、寒くな
かった。昼飯には、昨日食べなかった三人への茶菓子を食らう。酷
く、甘い。
もしかしたら、騎士団の一太刀が駆けつけて、夕方までにドラゴ
ンを討伐してくれるかもという、叶わないだろう願いがあった。し
かし、誰一人そこには現れなかった。﹁だろうな﹂と一人呟いて、
彼は立ち上がった。
夕方になった。晴れ間がのぞき、白い雪をぼんやりと橙色に染め
ている。
ドラゴンの攻撃に走るヒビは、とうとう地面にまで到達しようと
していた。音も、金属的なものになっていた。薄い、何層にも重ね
られたガラスが、砕けるような音。それが、耳鳴りがするほど近距
離で響いている。
﹁オーイ!﹂
声を張り上げると、ドラゴンは一度で気付いてこちらに顔を寄せ
た。黒く、神々しささえある、偉大なる龍の王。かつてUKを壊滅
寸前にまで追いやった覇者に、よく似た災害。
奴の攻撃は、ファーガスの近くで行われ始めた。腰袋から剣と盾
を一つずつ取り出して装備する。もう、終わりだと思った。結界は、
壊れる。
795
音が、辺り一帯に響いた。ガラスそのものだと、ファーガスは思
った。結界を取り除くと、奴の威圧感が遮るものなしに伝わった。
強風に吹かれたような幻覚を見た。仰け反り、直立することも初め
は叶わなかった。
ファーガスは、使うぞ、と思った。だが、肝心の場面で、震えた。
過去の記憶が、まざまざと蘇った。少年は、泣き声で言う。歯をカ
チカチと言わせながら、嗚咽交じりの声で懇願する。
﹁た、頼むよ。貴方達の、二倍の数の命を救うために使うんだ。だ
から、お願いだよ。使っても、いいだろ? 頼むから、許してくれ
よ⋮⋮!﹂
勝手な言い分だった。赦しは、当然下りなかった。だが、ファー
ガスは﹃使った﹄。黒龍の一撃に、少年はちっぽけな盾を翳した。
隕石を思わせる音が響いた。ドラゴンの爪による攻撃は、凄まじ
いまでの反動を持って弾かれた。奴の腕は既にぼろぼろだ。鱗はほ
とんど剥がれ、爪は砕けている。
二撃目。反対の腕が来て、同じように防いだ。どちらの腕も、全
く同一の末路を辿った。赤々とした大量の血が、蛇口をひねったよ
うに垂れ流れている。
ドラゴンは、息を吸い込んだ。火を吐き、ファーガスは防ぐ。炎
は全て防がれ、ドラゴンは自らの炎に焼かれた。悶え、苦しんでい
る。
ファーガスは、剣を掲げた。その手は、今にも取り落としてしま
いそうなほどに強く震えていた。自分から、攻撃する。それは、少
796
年のトラウマを深くえぐっていた。
そして、その剣は振るわれた。一太刀目に片腕が落ち、もう一太
刀で両腕になった。三度振るわれ足が落ち、四度目でドラゴンはダ
ルマになった。
最後の一太刀で、首が落ちた。
ファーガスは、剣も盾も落とし、顔を覆った。強く、歯を食いし
ばる。耐えきれずに絶叫した。
﹁こんなの、戦いじゃねぇよ! 虐殺以外の、何だってんだよ!﹂
うずくまり、号泣した。泣き声は、虚しく響いた。
そんな少年に、声を掛ける者があった。
﹁⋮⋮何を、泣いているんだ。ファーガス﹂
﹁え⋮⋮﹂
振り向くと、ソウイチロウが半眼でこちらを見つめていた。着替
えたのか、しっかりとした服装で居る。彼は少年からすっと視線を
外し、八つ裂きになった龍に目を向けた。
﹁これは、君が?﹂
﹁⋮⋮あ、ああ⋮⋮﹂
﹁そっか﹂
797
強いね、とだけ。それ以上の事を、彼は言おうとしなかった。そ
のまま通り過ぎようとしたから、呼び止めた。
﹁そ、ソウイチロウ。お前、何処へ行くつもりだよ。お前の居場所
は、ここだろ? 帰ってきたんだろ?﹂
﹁違うよ。僕は、ドラゴンを殺しに来ただけだ。その場所が、たま
たまここだった﹂
﹁でも、居なくなる理由だって無いだろうが! なぁ、頼むからい
てくれよ!﹂
﹁⋮⋮ごめん。これから、最後の龍を殺しに行かなくちゃならない
んだ﹂
﹁最後の龍? 何だよ、それ。じゃあお前は、ドラゴンを殺してき
たっていうのかよ。そんな、ぼろぼろで、たった一人で⋮⋮﹂
ファーガスは、気付けば再び涙を流していた。訳も分からないま
ま、言葉を発している。ソウイチロウは、それをやんわり否定した。
﹁僕は、いつもはあんまり苦戦しないよ。今回だけだ。ここまで追
い込まれたのは﹂
ごめんね、と彼は謝ってきた。ドラゴンは、自分を追ってきたの
だと彼は語った。ここに墜落しなければ、君の手を煩わせる必要は
無かったと。
そして、居なくなろうとする。ファーガスは、必死に呼び止める。
798
﹁何で、何で行っちゃうんだよ! ドラゴンなんて、騎士団に人に
任せればいいだろ?﹂
﹁僕も、一応騎士団の一人なんだけど﹂
﹁そんな事言ってるんじゃない! 総一郎一人がそんなに頑張る必
要は、無いって事だ!﹂
﹁そうだね。でも、ドラゴンを殺さなくては、何をしていいのか僕
には分からないんだ﹂
﹁そんなの、みんな一緒だろ!? 皆、何で自分が生まれてきたの
かも分からないままに生きてんだ! 俺だってそうだ! でも、必
死に頑張ってる﹂
ソウイチロウは、苛立ち始めたようだった。眉を顰め、﹁ねぇ﹂
と問うてくる。
﹁ファーガスは、一体何が言いたいんだ? そもそも、何で僕を呼
び止める。友達だって言ったって、付き合いがそこまで深い訳じゃ
ないだろう? 何でそこまで、必死に⋮⋮﹂
﹁お前は、昔の俺に似てるんだよ!﹂
彼は、少年のその言葉を聞いて、意味が分からないという顔をし
た。見るからに不快そうな表情だ。
﹁君に、僕みたいな時期があったとは思えないけれど﹂
799
﹁あったんだよ! ずっとずっと昔に、あったんだ! 俺以外は知
らないけど、あったんだよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮話にならない。僕はもう行くよ﹂
強硬に立ち去ろうとしたから、思わずファーガスはソウイチロウ
の手を掴んでいた。その反応は苛烈だった。彼はまるで、怯えを全
身で表現するかの如くその手を払った。
少年は衝撃を受ける。ソウイチロウから見てさえ、この﹃能力﹄
は異常なのだと痛感させられた。彼もこの反応にだけは罪悪感を抱
いたのか、﹁済まない﹂と小さく言う。
取り繕うような口調でだった。
﹁君は、強いね、ファーガス。僕なんか、あの黒い龍に何度挑んで
も勝てなかった。それを、これほどまでに一方的に殺した。⋮⋮僕
を捕まえた時だって、こんな風に出来たんじゃないか、君は⋮⋮﹂
ソウイチロウの歯の根は、段々合わなくなって言った。彼は踵を
返す。逃げるような慌ただしさがあった。
それでも言い逃げされるのは悔しくて、何か呼び止める言葉がな
いかと探した。ファーガスは、ソウイチロウが右手に手袋をつけて
いるのを見つけた。考える前に、言っていた。
﹁お前の右手、見たぞ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
800
ソウイチロウは、足を止めた。振り向いた顔は、今までの無感情
の物とは大違いだった。悪鬼が如き顔つきで、彼は詰め寄ってくる。
口調も、心なしか荒い。
﹁おい、ファーガス。君が僕の右手を見たから、何だってんだ。気
味が悪いと思ったって? 気持ち悪いって? そんな事は十も承知
なんだよ! 誰の右手だと思ってんだ!﹂
ファーガスはその怒気に当てられて動けなかった。言うだけ言っ
て、ソウイチロウは道端に唾を吐き捨てて遠ざかっていく。マナー
の授業を受けていないのに、ファーガスよりもしっかりしていた。
それが悲しくって、追いすがるように言葉を掛けた。ソウイチロウ
は、振り向かないまま歩き続ける。
﹁ソウイチロウ! お前、それでどうするんだよ! ドラゴンを皆
殺して! そんな訳分かんねぇ右手に悩まされて、それでお前、何
になるんだよ!﹂
﹁それが分かれば、僕はこんなに苦しんでなんかいない!﹂
ソウイチロウはこちらに目も向けず、しかし立ち止まって、嗚咽
の混じった怒声を上げた。風が吹き荒れ、ファーガスに痛いまでの
雨粒が当たった。見れば、空にはいつの間にか暗雲が垂れ込めてい
る。嵐だ、とファーガスは思った。嵐の様に、泣いている。
風は唸りを上げ、見る見るうちに強くなった。ファーガスは転び、
立ち上がる事さえできない。これも、ソウイチロウの所業なのか。
どれだけの術を、彼は持っているのか。
ついには、眼も開けられなくなった。そして、解けていく。目が
801
開けられるようになったときには、ソウイチロウの姿はもう何処に
もなかった。空を見上げる。小さな影が、宙を飛んでいる。
﹁ソウイチロウ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱!﹂
少年は、叫んだ。きっとそれは、届かなかった。
802
閑話2 聞き耳
ファーガスは、単独でドラゴンを殺した英雄として扱われた。ネ
ルはどうも様子が変だと思いながら、宴の中、一人壁の花を決め込
んで、クイとこっそり仕入れてもらったワインを煽っていた。
奴とは、しばらく会えていない。クリスタベルが会いたがってい
たが、そんな余裕はないらしかった。今朝方、学園長とハルバルキ
テクダサッタ騎士団の団長サマが、ファーガスに勲章を与えていた。
奴は、終始硬い表情だった。緊張ではない。罪悪感に類する物だろ
うとネルは感じ、その上で首を捻っていた。
宴でも、女子たちがこぞってダンスに誘っていた。今回は公式の
それなので、歌ったりが無い代わりに躍ったりがある。どちらかと
言うと、ネルは前者の方が好きだ。貴族なんて堅っ苦しい真似はし
たくない。問題は、自分の素がその堅っ苦しい口調であるところだ。
生まれと言う物はどうにも御しがたい。人間とは無い物ねだりで、
ぐれた事のない人間ほどアウトローに憧れる。だがよく考えてもみ
ろ。アウトローとは法の埒外という事だ。殺されても法は守ってく
れないという事だ。
﹁そのスリル、いつか味わってみたいもんだね﹂
一人、笑う。次いで、杯を傾ける。
ブシガイトが来たという話もあったが、結局よく分からないまま
消えてしまった。あいつは果して、自分とのアメリカ行きの話を覚
803
えているのだろうか。覚えていないだろうな。と呑み干した。奴の
人生は、どうも波乱が満ちていそうな雰囲気がある。あんな小事、
覚えては居られないだろう。
ちなみにだが、ネルの見たところ波乱の人生を抱えているのはも
う二人いる。一人は、言うまでもなくファーガスだ。だが、もう一
人は会話すらしたこともない。だというのに、直感した。
その人物を、ネルは探していた。そうでなければ、今頃菓子類を
食べつくして腹を抱えて呻いている所だ。
ネルの正装は、着ている自分は違和感しかないが、他者から見れ
ばそれなりらしい。不思議でもあり、迷惑でもある。
﹁あの、私と踊って下さいますか?﹂
﹁生憎とね。オレが舞えるのは剣舞くらいなんだ﹂
気障ったらしくて胸やけの起こしそうなセリフである。だが、素
直に﹃退け!﹄などと言ってしまうと、後々兄からオシカリの電話
がかかってくるから出来ないのだ。
とまぁ、取り繕ったはいいものの、ネタとして言うならこの台詞
ほど面白い物はない。笑い所は真に受けてうっとりするかぽかんと
するかの二択に迫られた、女のリアクションである。問題なのが、
こんなのでもうっとりしてしまうバカ女が一定数いる事だ。他は大
抵苦笑いをして離れて行ってくれるからいいのだが。
使い所は今回のような大きな宴の時。例えば国王陛下の誕生日や、
皇太子殿下の以下同文。年に六回はあると思っていい。今年は七回
804
だ。
﹁私と、踊っていただけますか?﹂
﹁生憎とね。オレが舞えるのは剣舞くらいなんだ﹂
﹁⋮⋮熱でもあるのか、ネル?﹂
﹁ん、何だよクリスタベルか﹂
顔を見ずに言ったら仰け反られてしまい、珍しい反応だと思った
ら許嫁だった。そろそろ兄貴を殴りにいかないとと思う最近だ。し
かし奴は強いので大剣が三本は必要だろう。
﹁どうした? お前がオレにダンスを申しこむなんて。気でも違っ
たか?﹂
﹁⋮⋮君はいい加減、言葉遣いと言う物を改めた方がいいんじゃな
いか﹂
﹁良いんだよ、貴族なんてそろそろ止めるから。それより渡米の手
段用意しておいてくれよ。ブシガイトと一緒に行くからよ﹂
﹁その、彼の事を話したい。だから、したくもないダンスをしよう
なんて言ったんだ﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
確かに、物陰に隠れて索敵に気を配るよりは疲れなさそうだ。ダ
ンスとはそもそも、近くに居た適当な異性とするものである。よほ
805
ど壁の花でもない限り、変な噂が立つことは⋮⋮。
あ。
﹁いや、やっぱりダンスは止めにしよう﹂
﹁え? 今納得しかけたじゃないか﹂
﹁良いんだよ。談話室で落ち着きたいんだ﹂
珍しいことを言うな、と唇を尖らせるクリスタベルだ。愛嬌が有
るとは思うのだが、どうにも琴線に触れない。ファーガスに見せる
あの甘えた感じなど尚更だ。生理的に無理と言う奴なのだろう。と
ことん相性が悪い。
ネルは適当に受け取ったジュースを呑み干して、強く机に置いた。
クリスタベルは咎めるような視線をよこしたが、口にはしない。無
駄だと分かっている眼だ。
﹁⋮⋮あのドラゴンは、ブシガイトが連れてきたのだと、ファーガ
スから聞いた﹂
﹁へぇ、マジか。いつ聞いたんだ? そんな暇があったのか﹂
﹁暇、というか。私が無理やり押しかけようとしたタイミングと、
ファーガスが強行に逃げ出したタイミングが丁度合ったんだ。少し
だけど、話せた﹂
﹁キスはしたか?﹂
806
﹁はっ!?﹂
見る見るうちに、クリスタベルの顔は赤く染まった。からからと
笑うネルである。面白い奴だ。しかしつまらなくもある。何故なら、
この反応は完全に予想できたからだ。
次にこのジュンスイムクな少女は、どうせ﹁君には関係ないだろ
う!﹂などと言うのだろう。
﹁君には関係ないだろう!﹂
﹁一字一句的中、⋮⋮っと。まぁ、それはどうでもいいんだよ。ほ
ら、さっさと話しやがれ﹂
﹁⋮⋮誤解は解けても、やはり私は君と合わない﹂
﹁そうだろうな。だって、オレが合わしてないんだから﹂
﹁⋮⋮ファーガスの様子が変わったのは、ドラゴンが結界を破壊す
るのを待つしか出来ない間に、ブシガイトを見舞った時だ﹂
無視か。と思った。正しい判断だと、心の中で褒めてやる。
﹁詳しく話せ﹂
﹁ブシガイトの手が、何と言うか、⋮⋮不気味と言うか、気色悪い
というか、それでいて、思わず触りたくなってしまうような⋮⋮。
形容しがたい、妙な形に歪んでいたんだ。それを見て、ファーガス
は泣き出した。そして突然ドラゴンを見てくると言って﹂
807
﹁それで、今に至るってか。ファーガス様々だな﹂
﹁彼を、侮辱しているのか?﹂
﹁はぁ? んな訳ねぇだろ。オレは、ブシガイトも、ファーガスも、
ついでにお前も、友人だと思ってるし尊敬してるぜ? ファーガス
は特に命の恩人だしな﹂
﹁⋮⋮どこから何処までが嘘だ?﹂
﹁聞きたいか?﹂
﹁いいや、ごめんだよ﹂
だろうな。
その後も彼女は何か話したがっていたが、ネルは聞きたいことは
全部聞いたと彼女を置いて会場へ戻った。
パーティは佳境に至ったともいうべきか、ほとんどの人間がワル
ツやら何やらと踊っていた。こんな物の何が楽しいのか、ネルには
理解が出来ない。
それを横目に、目を瞑って考えていた。だが、案外底が浅く、す
ぐに目を開けてため息を吐いた。
﹁唯一分からないのは、ブシガイトの手だけだな﹂
世の中には科学を含めた様々な技術がある。それによる何かでは
あるのだろう。だが、分からない。ネルが存在を知るのは、聖神法
808
を除けば知名度の高い技術のみである。
これ以上は、考えても出ないだろう。そのように結論付けて、再
び奴を探しに歩き出した。⋮⋮と、その前にスコーンのお代わりに
行こう。先ほど三つ食べたが、クリスタベルと話していたら物足り
なくなった。
今度は五つほどさらに盛り付け、その内の一つをほくほく顔で咀
嚼しながら探した。見付からず、ホールに戻って中央で踊るファー
ガスを見る。無理に笑っているのが丸分かりだった。それも知らず
に嬉しそうに相手をする女子を、ネルは軽蔑する。無能は嫌いだ。
﹁あいつ踊りっぱなしだな。最終的に何人と踊るのかね﹂
からからと笑った。最初の一人はクリスタベルだったし、その辺
りは別に双方気にしていないだろう。その時、何となく外に出よう
かと思った。吹雪ではないにしろ、雪が降っている。一人になりた
かった。寒くても良かった。
﹁おぉう、ちょっと予想以上だな﹂
コートを大量に着込んでも、かなり厳しい寒さである。せめてス
コーンだけでも置いてくれば良かったか。ネルはそう考え手元のス
コーンに手を伸ばす。やっぱりこんな美味い物を放置するなんて間
違っているな。
雪が積もったテラスで少しずつ固くなっていくスコーンをもくも
くと齧りつつ、ネルは奴が一体何処に居るのだろうと考えていた。
今回のパーティは全クラス合同で、スコットランドのあいつも探せ
ばいるはずなのである。しかし、とんと姿が見えない。
809
さくりさくりと雪を踏み踏み。最後のスコーンに手を掛け、﹁凍
ってんじゃん⋮⋮﹂と皿ごと投げ捨てて歩調を早めた。すると、何
処からともなく声が聞こえて来るではないか。にやりとするネルだ。
勘が当たったらしい。
音もなく近づいていく。声は、二つ。ばれないように角から覗き
見ると、少年と少女が何がしかを話しているらしかった。聴覚を拡
張する聖神法で、盗み聞く。
片方は、アンジェだった。もう一人は、目的の相手︱︱ギルバー
ト・ダリル・グレアム二世だ。
ビンゴ。と声に出さずに呟いた。ネルは上機嫌で、彼ら二人の会
話に耳を傾ける。
﹃ともかく、これでFの英雄化に成功しましたね。後は救世主様が
︱︱今、どうしてるんでしたっけ﹄
﹃さぁね。だがアレは狂っていないから、話が出来る状態でここに
戻って来るとは思うよ。ともかく、今はF⋮⋮じゃないね。英雄の
メンタルを、ある程度崩しておかないとならない﹄
﹃救世主様みたいにですか?﹄
﹃嫌な言い方をするな。だって、預言に書かれていたんだぞ? 心
苦しくても、従わない訳はいかないだろう。ワイルドウッド先生は
今どうだい?﹄
﹃大丈夫だって言ってました﹄
810
﹃まぁ、そうだろうね。あの人は父の片腕だった訳だし。それで、
騎士団の方に行った人たちは無事かい?﹄
﹃凶報です。一人死にました﹄
﹃⋮⋮死因は?﹄
﹃何者かに首を刈り取られた事まで分かっています。犯人は不明。
あたしたちには永遠に分からないだろうとなっています﹄
﹃またそれか⋮⋮。この一件、それがあまりにも多くはないかい?
国の存亡がかかった一大案件ではあるけれど、どうにも不可解な
点が多い。何で揃うのかが、分からない行動も多いし﹄
﹃救世主様の件も、あの方法以外ではあたしたちが破滅するらしか
ったですしね﹄
﹃偶に、怖くなるよ。ぼくの最初の役割を伝えられた時もそうだっ
たし、⋮⋮それに、今も﹄
﹃⋮⋮そうですよね。何で、ここで会話することが合わせになるん
だと思います?﹄
﹃分からないよ。全ての真実は、最終的には救世主様しか理解でき
ないってなっているしね﹄
﹃英雄とは、その辺りが真逆ですね﹄
﹃彼も、可哀想な人間の一人だよ。後、前回の事件におけるEとか
811
も、また、ね﹄
﹃罪悪感がこう⋮⋮はい﹄
﹃しかし、仕方のない事でもある﹄
﹃この国とは、天秤に掛けられませんから﹄
じゃあ、と二人は分かれてその場から離れていった。ネルは一人、
﹁ははぁん⋮⋮?﹂とわざとらしい声を漏らし、一人くつくつと笑
っていた。
812
7話 銀世界︵1︶
ファーガスは騎士候補生とその教官たちという名の観客の前で、
結界を眼前に立っていた。結界で封鎖されたオーガ達の山は、雪を
被った木々に覆われて森閑と佇んでいる。
﹁グリンダー君。君の役割は覚えているね?﹂
﹁はい。オーガを、殲滅すればいいんですよね﹂
﹁ああ、その通りだ。この山は騎士候補生の育成に非常に有用な土
地で、出来る事なら手放すわけにはいかない。⋮⋮必ず、成し遂げ
てくれよ﹂
﹁ええ、勿論です﹂
まるでパフォーマンスのようなやり取りだと、クリスタベルは思
った。彼はこちら側︱︱観客たる他の騎士候補生に、笑顔で手を振
っている。そこに陰が差しているのを、一体この中の何人が気付い
ているのだろうか。
ファーガスはその後封鎖の解かれた山に入り、再び結界が山を包
み込んだ。名残惜しそうに、彼は結界に触れる。そこに、一体どん
な感情が込められていたかは、少女には理解が及ばない。
そのまま山の中に入っていったファーガスを見て、ベルは顔を顰
めた。学校側の思惑は、分からないでもない。その上ファーガスの
ドラゴンを一方的に屠った実力があれば、リスクなしに山を取り戻
813
せるのだ。使わない手はないだろう。
けれど、少女はそんな大人たちの薄汚さが許せなかった。とはい
え、行動を起こそうにも起こせない。だからこうやって歯がゆく見
守るしかないのかもしれなかった。
﹁おうおう、あんだけ煽っといて、いざ本人が消えたらそのまま解
散か。まぁ、そりゃそうだな。ただ待つなんてクソの役にも立ちや
しねぇ﹂
今日は、特別措置で休日扱いになっている。ファーガスを手厚く
扱う為と教師たちは言っているが、単純に山がこの状態では授業が
碌にできないだけだろうと、ベルは吐き捨てるような気持ちでいた。
ネルの言うとおり、ファーガスが見えなくなってから騎士候補た
ちは各々自由に散らばり始めた。ベルも彼等の立場なら、そうした
だろう。だが、ファーガスと深い付き合いの彼女からしたら、ただ
ただ苛立たしい。
﹁で、どうすんだ、クリスタベル。本気でここで待つのか?﹂
﹁うん。私は、私だけは、待つよ﹂
﹁そうかい。まぁ、ファーガスも喜んでくれるだろうよ。ただでさ
えあのヤベェ能力と、⋮⋮あと、ブシガイトの事で悩んでたからな。
ダイスキナガールフレンドが居りゃあ、気も紛れるだろ﹂
﹁そういう君の話し方が、私は嫌いだよ﹂
少女は言ってから、簡易的に用意された魔方陣近くのベンチにち
814
ょこんと座った。するとどういう事だろう。ネルもまた、彼女の隣
にドカッと座り込む。
﹁⋮⋮どういう風の吹き回し?﹂
﹁別に。しばらく山に入ってねぇから、ちょっと眺めようかとな﹂
﹁多分、君にとっては暇そのものだと思うけど﹂
﹁そこら辺に抜かりはねぇよ。ゲームは持参済み。昼食のサンドイ
ッチと間食のスコーンも十個持って来てある。しかも今回は前回の
失敗を生かして保温してるしな﹂
﹁君は甘党なのを隠しもしなくなったね⋮⋮。というか前回の失敗
って何?﹂
ネルは返事をせず、山の方に目を向けている。ベルも少しの間彼
に視線を注いでいたが、結局止めて、ファーガスは何をしているの
だろうと山を視界の中心に置いた。
今日は、ここ最近の中でも冷える日だった。雪は降っていないが、
天気予報では近日中に降ると言われている。その為、二人の服装は
厚かった。ベルは意地になってもう一時間寒い中待っているが、ネ
ルはと言えばゲーム片手にスコーンを齧ってほくほく顔で居るのだ
から、世の中は不公平だと感じざるを得ない。
そうして居ると、ワイルドウッド先生が魔方陣の中から現れた。
彼はこちらに目を向けて、﹁ずっと彼を待っていたのかい?﹂と目
を丸くする。
815
﹁はい。それで、何故先生がこんな所に?﹂
﹁そっすね、何で⋮⋮、先生が⋮⋮﹂
﹁ネル。喋るか食べるか、どっちかにしたらどう?﹂
会話の途中にもかかわらず黙々とスコーンを齧るネルに、ベルは
呆れた。そんな二人に苦笑したワイルドウッド先生は、﹁いや﹂と
手を振る。
﹁もう、終わったそうなんだよ。だから、結界を解きに来たんだ﹂
﹁え、終わったって⋮⋮?﹂
クリスタベルは、意味が分からずにきょとんとしてしまうる逆に
ネルは察したのか、﹁⋮⋮あいつマジ化け物だな﹂と嫌そうな顔を
した。
﹁え、どういう事なの﹂
﹁だーかーらー、ファーガスがたった一時間で百か二百居たオーガ
を狩りつくしたんだとよ。︱︱っと。ほら、英雄様のお出ましだ﹂
ネルの視線の先には、ファーガスの姿があった。一時間前に入山
した時と、全く変わらない様子で、結界に触れている。
ワイルドウッド先生によって結界が解かれ、ファーガスは﹁あー、
寒﹂と言って腕の服を擦り合わせた。
﹁お疲れさま﹂
816
﹁⋮⋮いいえ、大した手間じゃなかったですよ﹂
はは、と先生の労いに乾いた声で笑うファーガスが悲しくて、ベ
ルは少年の名を声高に呼んだ。意外そうに見開かれた瞳に向かって、
少女は駆けより、強く抱きつく。
﹁ヒュー、熱いね﹂
ネルがからかうように言ったが、そんな事は気にもならなかった。
ファーガスは慌てたように手を動かしていたが、最後には躊躇いが
ちに少女を包み込んでくれた。
﹁心配してくれたのか?﹂
﹁心配じゃない訳がないじゃないか、バカっ!﹂
こんな、子供の様な事しか言えない自分が、後になって恥ずかし
い。
こっそりと、ファーガスの部屋にお邪魔することになった。初心
なベルは同年代の威勢の部屋に入ることなど人生で初めてで、顔を
真っ赤にしてかすかに震えているほどだ。
だが、扉を開けた途端駆け寄ってきたアメリアを前にして、少女
はそんな小さな緊張などいつの間にか脱ぎ去ってしまっていた。人
懐こい猫はすでにベルを好いてくれていて、手を広げると腕の中に
飛び込んで来る。
817
﹁アメリアー! 会いたかったよ、いつも君はすべすべしてるね∼﹂
﹁⋮⋮ベルってさ、将来子煩悩な母親になるんだろうなって予想が
付くよな﹂
﹁は、母親っ!? そ、そんな、照れるよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ほんと、態度が砕けた時のベルの態度は気さくで、︱︱可愛
いよ﹂
﹁か、かわっ﹂
二度目の驚きを示そうとした所で、少女はファーガスの表情に暗
い物があるのに気付き、口を噤む。言われなくても、察しはついた。
山に討伐に入る前は酷く怯えていて、出てきた時、彼は人知れず涙
を流していたほどなのだ。
人智を超えた、すさまじい力。
直視したことのある人間は、今のところただの一人もいない。黒
いドラゴンも、オーガたちも、彼が孤独に人知れず屠り、残ったの
はその骸だけだ。
その凄惨ぶりたるや、目を背けたくなるほどのものであるらしい。
ドラゴンのそれは有用な研究資料であるのにも拘らず、騎士補佐以
上でないと見るのさえ禁止されているとか。
だが、それではファーガス自身はどうなるのだと、ベルは思う。
彼は、自分と同じ第二学年ではないか。それなのに、オーガまで殲
818
滅しろというのは矛盾にしてもあからさますぎる。
アメリアを抱きしめつつ彼の様子を窺うが、ファーガスはただ虚
空を見つめているばかりだ。気晴らしに付き合えればという考えで
提案し、勇気を振り絞ってきたというのに、これでは何の意味もな
い。
泣き言を言ってほしかった。愚痴を垂れてほしかった。そうして
もらえなければ、ベルはただの役立たずだ。空気も読まず、傷つい
た友人の前で猫を撫でている馬鹿でしかない。
しかし、自分まで陰鬱な表情をするのは嫌だった。人を明るくす
るには、まず自分からなのだと、少女は信じている。
ファーガスが、口を開いた。辛いという内容でなく、単なる雑談
だった。すぐに途切れ、またも彼は考え込んでしまう。これでは、
駄目だ。
ああ、神よ。私は羞恥というものに人一倍弱いのだ。それなのに、
更に勇気を振り絞れというのか。これはつまり試練なのか。乗り越
えれば、幸福は待っているのか。
クリスタベルは敬虔なキリスト教徒である。そういう意味では、
騎士学園に入ってから試練の多い事!
﹁ね、ねぇ、ファーガス。冬休みに私に家に来ない?﹂
何でもない風に誘おうとしたが、声が震えていた。それさえ取り
繕おうと努力しているものの、顔には熱がこもっている。
819
しかし、ファーガスは混乱と驚愕を少量ずつブレンドしたような
表情で、戸惑い気味に首肯する。ベルの赤面には目が行っていない
ようにも見えた。ここで押し切れと、神が少女にエールを送ってい
る。
﹁本当に? 来てくれる?﹂
﹁⋮⋮ああ。いい気晴らしになると思う。ソウイチロウの行方とか、
いろいろ気になることはあるけど︱︱、少し、休みたいな。そうい
えば、久々に師匠にも会えるってことになるのか。そう考えると、
楽しみだ﹂
﹁やった! あ、いや。う、うん。じゃあ、連絡を入れておくから、
急にいけなくなったとかは無しだよ!﹂
﹁分かった、分かった﹂
苦笑して、ファーガスはベルの頭を撫でてくれた。この、偶に見
せてくれる大人びた雰囲気が、ベルは好きだった。いつもは同世代
の少年と同じで馬鹿な行動をとったりして呆れさせられたりもする
のに、不意にずっと年上と話している気分になって、心臓が跳ねる
のだ。
冬休みは、すぐに訪れた。二人は帰省する騎士候補生たちに混ざ
り、電車を待っていた。あまり騒がれるのも嫌だったから、あらか
じめ買っていたマフラー、サングラスなどで身を隠している。もっ
とも、貴族の子女の中では別の意味で目立っていたが。
その日は、雪が淡く降っていて何もかもが綺麗に思えた。歩くた
びに雪がサクサクと潰れ、景色から彩りを奪わない程度に花を添え
820
る。その時ばかりはファーガスも軽やかな笑顔を見せてくれて、嬉
しかった。自分の選択は間違っていなかったのだと。
﹁ファーガス、来たよ﹂
﹁うん﹂
手持ちの籠から顔を出すアメリアを宥めつつ、列車に乗り込んで
予約していた席を探した。二等車にしかファーガスが乗ったことが
ないと言っていたから、特上の一等車である。ベル自体は割と質素
でも構わない性質なのだが、それを聞いてはいてもたってもいられ
なかった。
ベルは車内の個室に入り、﹁ほら、早くっ﹂とファーガスを呼ん
だ。彼は苦笑しつつも従い、少女の横に座る。
それが何だか楽しくって、頬が自然に緩んでしまった。﹁嬉しそ
うだな﹂と穏やかに言われたから、﹁それはそうだよ﹂と返す。
﹁冬休み中、ほとんど君と一緒に居られるんだもの。だから、その、
⋮⋮えへへ﹂
ベルは、照れ屋だ。直接的なことを言おうとすると、どうしても
照れてしまう。冬だというのに﹁何か少し暑いね﹂と手をパタパタ
と仰ぐ自分が、尚更恥ずかしくて、収拾がつかない。
ごまかし紛れにダッフルバッグからお菓子を取り出して、ファー
ガスに与えた。ポリポリと食べる横顔には不思議な愛嬌があって、
ベルは好きだった。少し食べかすがこぼれるのも可愛らしく、それ
を這い出してきたアメリアが舐め取って食べているのは一層堪らな
821
かった。恋は盲目と言うだけかもしれないが。そして言うまでもな
いが猫には全盲だ。
列車が、出発した。お菓子を口にしつつ、アメリアの背を撫でて
いるファーガスからとりとめのない話が始まる。
﹁師匠ってさ、今は調子どうなんだ?﹂
﹁ん。まぁ、昔に比べたら少し寡黙になったけど、まだまだ元気だ
よ。ファーガスに会えば、もっと元気になるかも。何せ一番弟子だ
からね﹂
師匠、というのはクリスタベルの父であるアダム・バート・ダス
ティンの執事、フェリックス・カーティスという老紳士の事だ。も
ともと父の教官だったらしいのだが、様々な経緯で今の位置に落ち
着いたのだと。詳しくは知らないが、並々ならぬ敬意を父に払って
いるので、そうとうな事件があったのだろうとベルは勝手に思って
いる。
﹁一番弟子ったってなぁ⋮⋮。あのひと相手のこと考えずにバンバ
ンしごくから、それに潰れたり逃げたりする人が多いだけだろ? 俺の時なんかは運良く家が別で楽だったからまだ弟子で居られるだ
けで﹂
ファーガスは謙遜する。この国で謙遜などをする人間を見た事が
なかったから、出会った当時は奇妙に思ったものだ。肩を竦めて、
少女は否定を返す。
﹁ううん。君の根性は凄いって何度も褒めていたのを、私は覚えて
いるからね。まぁ剣の才能よりも盾の才能があるとか何とかよく分
822
からないことを言っていたけど﹂
﹁なんつーかなぁ⋮⋮。俺は、怪我はあんまりしないんだけど、敵
を仕留めるのが苦手なタイプっていうかさ。それに引き換え師匠の
アレは凄いよな﹂
﹁ああ、アレね﹂
﹁素手だからな﹂
﹁千切るものね﹂
﹁俺は聖神法を使っているっていう前提でも、あの人が本当に人間
なのか疑問に思ってる﹂
﹁それは失礼じゃないか? 師匠に対して﹂
﹁だって師匠ってオークをブン投げるんだぜ!? あいつらの平均
体重が何ポンドかベル知ってんだろ!?﹂
﹁⋮⋮確かに、千はあるって聞いているけどさ﹂
大体、フェリックスの自重の五、六倍ほどだろうか。それを持ち
あげて、まるでホールのように扱うのだから、もはや笑うしかない。
﹁だからたまーに、無性に見たくなるんだよ。師匠の格闘﹂
﹁その感覚は分かるよ。凄いもんね﹂
﹁バッタバッタ投げ倒すのが気持ちよくってなぁ⋮⋮﹂
823
﹁アレはストレス解消になるよ﹂
﹁ストレスと言えばあんまりベルのお父さんに会いたくないなぁ⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮うん﹂
自分の親ではあるが、同意見だった。思い出すのは、ネルの言葉。
父が言っていたという﹁悪い虫を払いたい﹂とのセリフ。
ファーガスが邪険に扱われる姿を見たくないのは当然、改まって
父に距離を取るように言われるなど、想像するだけでも嫌だった。
しかし、遭遇するのは可能性にすぎない。父は多忙の人で、幼少時
はともかく、騎士学園に入ってからは帰省をしても会えなかったこ
とだってあった。
その時は寂しかったが、今考えると好都合だ。帰ってこないでく
ださい、と祈る。この事実を知ったら、多分父は泣くかもしれない。
親子仲は割といい方だ。
そんな時、ファーガスが思いつめたように﹁ベル!﹂と自分の名
を呼んだ。しばしきょとんとしてから、その瞳の真摯さに鼓動が早
くなる。顔も熱い。軽い調子で、何? と返すつもりが、﹁は、は
い! 何でしょう!?﹂となった。恋人に対して、我ながら緊張し
すぎだ。
﹁俺はお前が好きだ﹂
﹁え!? う、うん﹂
824
何だろう、とさらに鼓動が早くなる。体が微かに震えている。こ
のままキスでもされてしまうのか。こんな日中で、と体いう事を聞
かなくなる。
﹁だから、ベルのお父さんに気に入られたい。ベルとの交際を、難
しいかもしれないけど、受け入れてもらいたい﹂
﹁︱︱うん⋮⋮!﹂
いいや、違う。もっと、ファーガスは真剣に考えてくれていたの
だ。それを自分は、と少し反省するとともに、やはり彼は凄い人な
のだと尊敬してしまう。そして、それが非常に嬉しかった。自分の
ことを、そこまでちゃんと考えてくれているのだと。
﹁⋮⋮だから、その、お父さんが好きなお菓子とかを教えてもらえ
ると⋮⋮﹂
﹁君は最後まで決まらない奴だな!﹂
がっかりだった。途中までよかったのに、策がワイロ大作戦とい
うのが本当にがっかりだった。
しかしファーガスは、ベルの怒りの理由が分からないのか﹁えっ
?﹂と間抜けな声を出すばかり。頭を冷やせという代わりに、ぷい
とそっぽを向いてやった。一人寂しく猛省すればよいのである、こ
んなおバカさんは。
そんな風にして、列車で長距離を移動した。もちろん仲直りは途
中でしたが、別の理由で何度か喧嘩した。怒るのはベルの時もあれ
825
ばファーガスの時もあって、最後には気が付いたら会話が再開して
いるという次第だった。
気づけば日が傾き始め、景色が薄紅色に染め上げられていく。ア
ナウンスが響いた。もうすぐ、我が家だ。
826
7話 銀世界︵2︶
家にファーガスを招く。昔は、いつもの事だった。しかし改めて
こうしていると、どうにもそわそわしてしまう。
駅から出て、まず向かったのはケーキ屋だった。ファーガスが熱
心にケーキを選び抜き、﹁丁重に、丁重にお願いします!﹂とチッ
プも大盤振る舞いして、包装を頼み込んでいた。
そこまでする必要もないのに、と少々呆れつつ財布を開こうとす
ると、﹁こういう時くらいは自腹を切らせてくれよ﹂とやんわり押
しとどめられてしまった。それが嬉しいような、不満なような気も
するクリスタベルだ。
そうして準備を整えて改めて実家に向かったが、思いの外値が張
ったらしく﹁⋮⋮これを安物とか言ったらさすがに切れてもいいよ
な﹂と暗い顔色で呟いていた。君は人の家で一体何を言っているん
だ。
﹁だってさ、ポイントもこの日のために貯めた上、ほとんどすべて
換金してきたんだぜ? それなのにケーキだけで一割消えるとか⋮
⋮。いや、マジでヤバい。何がヤバいって物価がヤバい。どうなっ
てんだここ。ここだけ無保険者にとっての病院かっての﹂
﹁例えがいまいち分からないけれど⋮⋮﹂
﹁知ってたか。庶民かつ無保険の妊婦さんは、金がないから生んだ
その日に赤ちゃん連れて家に帰るんだぜ﹂
827
﹁えっ﹂
という雑談をいくつか交わしていると、家に到着した。
自分の家を描写するというのは、結構難しい。物事を捉えるには
主観というものが必要で、自分にとって当たり前の物を言い表すと
いうのは、常識の再確認のような気恥ずかしさがある。
だから、ここは簡単に事実を述べておくがよいだろう。ベルの家
は四階建ての屋敷が中央に一つ。それを取り囲むようにして、庭園
がある。今のような冬にもよく映えるため、ベルのお気に入りの場
所の一つだった。
あとは、森がある。貴族領内亜人危険区域だ。ダスティン家の称
号でもあるトスカーナ公は、五つほどの家とその付近の亜人危険区
域を保有している。父の多忙さも、ここに起因していると言ってい
い。
主観的に言っていいのならば、中々の物だとひそかに自慢でもあ
った。封建時代のような堅苦しさは無いものの、使用人を雇ってま
で屋敷を維持させているのである。そのためファーガスがどのよう
な反応をするのか楽しみでもあったし、出来れば褒めてもらいたい
と期待していた。
﹁そ、そういえば、君がこっちの別荘に来るのは初めてだったね。
どうかな、私の家は﹂
言いながら、ちょっと図々しいだろうかと思ってしまう。これだ
と、称賛を催促しているみたいだと思ったからだ。考え過ぎなのか
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もしれなかったが、これがベルの性分なのである。それに対して、
ファーガスは呆けたように目も口も大きく開けた。
﹁どうもこうもないな、こりゃあ。意匠もサイズも何もかも凄いと
しか言えないっての。ホント、すげぇ﹂
﹁そ、そうかな⋮⋮﹂
内心飛び跳ねてひゃっほーい、とか言っているくせに、外面だけ
は取り繕うベル。﹁じゃあ、案内するよ!﹂と言った声は少々裏返
っていて、ファーガスに困った顔をされて結構恥ずかしかった。
﹁あ、おかえりなさいまし、お嬢様﹂
﹁ああ、ご苦労様です﹂
庭師のおじさんが出てきて、ベルに帽子を取って会釈した。ファ
ーガスも﹁どうも﹂と挨拶すると﹁お、やあやあ﹂と大仰に手を上
げる。
﹁お嬢様の恋人ですか。うーん、初々しくていいなぁ﹂
﹁え、あはは。そうなんですよ。本当可愛くて﹂
﹁⋮⋮!﹂
少し照れたように後ろ頭を掻くファーガスと、顔を真っ赤にして
俯きつつ本心では狂喜乱舞中のベル。最近思うのだが、間違いなく
ファーガスが自分を好きなのよりも、自分は彼を好いていると思う。
出なければこんなに態度に差が出る訳がない。
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ちょっと不公平だ、とむくれる。むくれてもファーガスが愛しく
て堪らないのだから、はっきり言って重傷だ。多分今夜が峠だろう。
越えられない類の。
庭園を横切って家に入ると、酷くがらんとしていた。薄暗いどこ
ろか豪華さがマイナスに働き、何処かおどろおどろしい雰囲気があ
る。
とはいえいつもの事で、電気を付けたり、使用人を数人呼べばす
ぐに活気づくことをベルは知っていた。だから引き気味のファーガ
スにも狼狽しない。かすかに心に傷がつくばかりである。
﹁家族は誰もいないらしいね。ちょっと寂しくなりそうだ﹂
そうファーガスに微笑みかけ、適当な客室を宛がう事に決めた。
家族が誰もいない。つまり、父もいないという事だ。好都合である。
﹁客室は二階にあるから、付いてきて﹂
勇気を出して、ファーガスの手を取って先導した。よく頑張った
と自分を褒めてやりたい。
階段を上がり、長い廊下を歩いていく。ここの雰囲気は、どこか
騎士学園に似ていた。父が似せたのかもしれない。理由は分からな
かったが。
しかし、手を握っていてわかるのが、ファーガスがこの家の雰囲
気に気圧されているという事だった。ありていに言えば、怯えてい
る。それに呆れた瞬間だった。渡り廊下の途中、ガタガタと揺れる
830
扉が右横に現れて、彼はひときわ大きく身を竦ませる。
﹁何! この扉何!?﹂
﹁⋮⋮多分家政婦さんじゃないかな。家開けている時でも必ず一人
はいるんだ。ほこりが積もってしまうから﹂
﹁怖がった俺が馬鹿みたいだな!﹂
もしかしたら怯えているというよりは、単純にテンションが高い
だけなのかもしれない。
軽く四回ほどノックすると案の定家政婦さんが出てきた。﹁客人
が居るのでお茶の用意をお願いします﹂と指示を出すと、年老いた
彼女は少し間延びした返事と共に歩き去っていく。
客室へ案内し、﹁家政婦さんに呼ばれたらテラスまで来てね﹂と
告げて、ベルは一旦自室に行く。開け放った扉の向こうにあるのは、
簡素な部屋だ。五つある家を順繰りしていたから、自室に何かを置
くという習慣が付かなかった。むしろ学園の寮の部屋の方が荷物も
多い。相部屋のマーガレットのおかげもあって、人間味ある部屋に
なっていたはずだ。
そうだ、マーガレット。と思い至って、ベルはイングランドクラ
スの中の数少ない友人の一人である彼女にメールを送った。ファー
ガスと自分との仲を応援してくれる、有難い友人だ。進行状況だけ
でも伝えておかねばとタブレットを開くと、すでにメールが届いて
いた。
﹃愛しのカレと、一つ屋根の下二人きり! これで何もせずに帰っ
831
てきたら、マジでヘタレって呼びますからね!﹄
﹁⋮⋮私はまだ十四歳なんだけど⋮⋮﹂
友人の耳年増にも困ったものである。とりあえず返信として﹃キ
スなら済ませたから黙ってなさい﹄と書いて送信。そこまでやって
我に返り、﹁あっ、駄目!﹂とキャンセルボタンを押すも時すでに
遅し。送信完了の文字を見て顔を覆う。
﹁マーガレットに対して、油断しすぎだよ。私⋮⋮﹂
ヘタレと呼ばれることはなくなっただろうが、帰ったら相当冷や
かされるに違いない。父が用意してくれた柔らかなベッドに飛び込
んで、シーツを抱きしめ声を出して悶えた。顔が熱いと鏡を見ると、
赤面している。最近赤面しやすくなった。ファーガスのせいだ、と
再びじたばたする。
ともかく、自分もある程度準備を済ませておかねば。ようやくや
る気を出したベルは、握り拳を作りながら立ち上がる。そして、ま
ずは各自休暇中の使用人たちに、帰宅の知らせを入れた。
問題は、次である。
家具などはあまりおかれていない自室だが、服自体は溢れるほど
ある。それが全ての家に散り散りに保管されているから、ここに来
たらこの組み合わせ、と言う風な楽しみが出来ていた。ベルの美的
センスはなかなかよく、即決するくせにマーガレットなどからもお
世辞でなく褒められるほどなのだ。が、人目に触れない部分、組み
合わせと言うものがない場所ほど、刻苦したりする。
832
つまり、下着である。
﹁⋮⋮服はまぁ、今日は室内から出ないだろうし、少し浅手のふん
わりした印象の物にして﹂
繻子織のゆったりした、それでいて気取りすぎてないドレスを身
にまとい、到着まで維持していたポニーテールを取った。騎士学園
では激しい運動があるからこのままにしていたけれど、羽目を外す
時は髪型をいじる楽しみが増えるのだ。
とはいえ、それすら﹁シュシュでこう、肩口から前に出して、下
の方で纏める感じでいっか。うん、お嬢様っぽい﹂と即決からの自
画自賛で〆てしまう。表情も精々微笑くらいで、そこまで感情が左
右しない。
そして、タンスを開けて﹁む﹂と唸る。
色とりどりの、下着を丸めたものがそこに整然と並べられている。
多種多様なそれらを、ベルは一つ一つ吟味し始めた。こういうも
のは、コーディネートに関係ないので、完全にその日の気分で決め
てしまう。
そう、それこそが、ベルにとっての難関なのである。
﹁むむむむむむむ﹂
ベルの場合、洋服はまず手近な三つの中からパッと決めて、そこ
から決まった組み合わせとなる。一度来たものは家政婦さんが洗っ
てから奥の方にしまうので、他の物を全部着るまでは二度と着ない
833
というローテーションが確立していて、あまり思考を必要としない。
だが、下着は︱︱そう言うのがない。洗い途中の物以外の三十個
以上の中から、完全にその日の気分だけで選ぶと決めている。
いつもなら、これもまぁ、即決だ。しかし、今日ばかりは違う。
思い人が、一つ屋根の下に居るのだ。
見られないはずだ。しかし、絶対とは言い切れない。ベルも思春
期の少女であり、つまるところ、全く興味がないわけではない。と
はいえ淑女たる者絶対に自分からは見せないし見せてたまるかとも
思っているが!
という訳で、迷う。俄然、迷う。ここに至るまでは冷静にぱっぱ
と決めるのに、ここだけは考え過ぎて目を回す。
﹁ここは、はしたない子だと思われないように白と青のストライプ
で。⋮⋮いや、子供っぽいかな。じゃあ、ちょっと大胆にこの紐⋮
⋮。駄目、ほどけたらと思うと勇気が出ない。じゃあいっそのこと
このクマさんの⋮⋮。こっちは子供っぽ過ぎる! じゃあ、⋮⋮あ、
あああ、穴!? 何で穴あきなんてものが私の箪笥に!?﹂
大分迷走中のクリスタベル。結局無難なものを選ぶあたりヘタレ
である。
ともあれ着替えもいい感じに終わり、準備万全、と姿見を見て満
足する。あとは、これをファーガスに見せに行って⋮⋮と、褒めら
れたらという妄想ににやけてしまうのは、恋する少女としては致し
方ない事なのだと留意してもらいたい。
834
下着までみられる方の妄想は、少々ベルにはハードルが高かった。
これは一体、どういう事なのだろう。
晩餐だった。広間の長テーブルにて、ベル含む六人が食事を口に
運んでいる。
﹁どうした、クリス。フォークがあまり進んでいないようだが⋮⋮﹂
﹁い、いえ。何でもありません。父上﹂
ファーガス、自分。本当なら、それだけのはずだった。しかし、
それより四人も人数が多い。
﹁食い終わった。なぁ、トスカーナ公。ちょいと森に出て、狩りを
してきてもいいか?﹂
﹁こら、ネル。仮にも公爵閣下にその言葉遣いは何だ﹂
﹁いいんだよ、ナイオネル君の事は昔から知っている。そう肩肘を
張る年頃でもないのだ。ゆっくりさせてやるといい。なぁ、フェリ
ックス﹂
﹁ほっほっほ。そうですな、そのくらいでよろしいでしょう﹂
ネル、その兄、ベルの父上に、その執事にしてファーガスの師匠
でもあるフェリックス。彼ら四人は、何故かベルたちがこの家に到
着した三十分後ほどに現れた。
835
聞けば偶然だという事だったが、やすやすと納得できるわけもな
い。食い下がると、ネルが渋い顔で頭を掻きつつ﹁運が悪かったな。
マジで﹂と言った。今回この四人が集まったのは、ネルとベルの婚
約の解消の話をするためなのだという。
ちなみにファーガスが尋ねていたのだが、ネルがこの時渋い顔を
していたのは﹁オレが意図しない形で嫌がらせになってても、達成
感がねぇんだよ﹂とのことだった。徹底していると思ったものだ。
もちろん悪い意味で。
﹁しかし、私たちが帰ってきてから全く言葉を発していないな、フ
ァーガス。どうした? 体調でも、悪いか﹂
﹁⋮⋮いいえ、ちょいと緊張しているだけですよ﹂
彼の師匠であるフェリックスに言われ、ハハ、と硬くファーガス
は笑う。しかしベルからしてみれば、ファーガスの委縮っぷりは手
に取るようにわかった。
昔から、ファーガスは我が家の執事であるフェリックスを前にす
ると竦みを見せると思っていた。無知な昔は、それを父に倣って軟
弱だと認識していた。今は違う。よくもまぁ、﹃耐えられるものだ﹄
と思ってしまう。
殺気。それを、クリスタベルも騎士学園で嫌と言うほど学んだ。
事実、多くの命を奪った。そうしたから、分かるのだ。師匠たる我
が家の執事が、弟子たる彼にどれだけの殺気を向けているのか。
自分には向けられていない。それでも、行動が少しつっかえる。
あまりに鋭いそれは、一般人には感じ取ることが難しいだろう。だ
836
が、ベルには目に浮かぶようなのだ。フェリックスがテーブルをな
ぎ倒し、ファーガスを撲殺する情景が。
﹁⋮⋮﹂
しかし、父はそれを咎めない。フェリックスの稽古に、口出しし
ないと決めているのだ。ネルの兄も、すでに聞き及んでいたのか触
れようとしない。
食事中くらいは、と自分が助け舟を出すべきなのだろうか。その
ように覚悟を決めかねていると、給仕に盛り付けを頼んだファーガ
スが買ったケーキを、意外にも上品に食べていたネルが﹁つーかよ﹂
と機嫌悪そうに言った。
﹁話には聞いてたが、目の前でやられると折角のケーキがまずくな
っちまうんだ。やるなら時を選ぶなりなんなりしてくれねぇかな﹂
﹁おっと、これは御客人に失礼しました。では、食事中は慎ませて
いただきます﹂
ふっ、と空気が軽くなった。すると、ファーガスの動きも滑らか
になる。良かったと思っていると、ファーガスがネルに礼を言った。
乱暴な手つきで﹁気にすんな﹂と示している。
ちくりと、胸が痛んだ。自分がもっと早くに覚悟を決められれば、
と小さな後悔をした。
次からは、と決心する。ベルには生来の臆病さがあった。それを、
いずれ無くしてしまう。当面の目標だ。
837
その日は、蟠りとも、淀みともいえる居心地の悪さを感じただけ
で終わった。夜中、ベッドで横になりながら、目を瞑りつつ考えて
いた。
天蓋付きのベッドの中、シルクの長そでフリースを着、月の光に
包まれながら布団を抱きしめている。寒さは、気にしない。ただ、
今は思考に耽っていたかった。
今日、晩餐の時にあった、あの嫌な感じ。
自分ではない。明らかに、ファーガスに向けられていた。フェリ
ックスはただ淡々と、久しぶりの弟子と再会して高ぶっているだけ
のようにも思われたが、他の二人︱︱父とネルの兄らしき人は、フ
ァーガスの存在を歓迎しているようには思えなかった。
それ以前に、ネルも婚約の解消を本格的に話し合うなら、こちら
に一報入れてほしかったというのもある。
不満に、寝返りを打った。今日は、寝つきが悪そうだ。
長くなった銀の髪が、ベッドの上に広がっている。その一部を掬
い取り、薄目を開けてくるくると弄っていた。再び瞼を閉じる。だ
が、髪の毛弄りは止めない。
﹁⋮⋮ファーガス﹂
愛しい恋人の名を口にする。それは全く意識しなかった言葉で、
思わずつぶやいていた自分を知って、羞恥に目を強く瞑る。だが、
周りに人は誰もいないのだと改めて思って、馬鹿らしくなった。
838
﹁⋮⋮ファーガス﹂
今度は、意識的な呟きだった。考えるのは、彼の異能の事。きっ
と、父も知っている。昔を思い出すと、父のファーガスに対する態
度は、今日ほど冷たいものではなかったようにも思えるのだ。その
原因には、その事もあるのではないかとベルは疑っている。
瞼が、少しずつ落ちてきた。髪の毛をいじる手も、いつの間にか
止まっている。
寝る前に、一度でいいから彼の笑顔が見たかった。父たちが来て
から、一度も見られていないような気がしている。
839
7話 銀世界︵3︶
ファーガスとフェリックスの修業が、久方ぶりに再開したと聞い
ていた。
そもそも始まったと言えば再会当日から始まっていた様な気もし
たが、あれは小手調べで、本格的なそれはその翌日から始まったの
だと。
実家に帰ってきてから、一週間前後が過ぎていた。
ファーガスは、ベルの望んだような休暇を十分には取れていない
ようだった。しかし、フェリックスとの修業がそれと同等の役割を
果たしてくれているらしく、少しずつ元気になっているようにも思
える。﹁やっぱ師匠強ぇわ﹂と傷いっぱいではにかむ姿は、心配な
がらも微笑ましい。
父も、婚約解消の話以外に置いてはほとんど休暇を取るつもりで
この家に移ったと言っていた。この家は下賜された領地の中でも一
等風光明媚で、特に冬はこの地の海抜が高いのもあり、樹氷などが
酷く美しい。危険区域の森も他に比べて亜人の増殖が緩やかで、趣
味としてのハンティングをいそしんでいればいいという気楽な土地
だった。
穏やかな場所では、緩やかな時間が流れる。少々の嫌な雰囲気も、
ぼんやりと薄れつつあった。太陽と夜は目まぐるしく交代を繰り返
しているが、それすらここの住人には遠い事のように思われる。
840
ベルは人並みに早起きで、ガラスの二重の壁に囲まれたテラスに
て、早朝紅茶を飲むのが楽しみの一つだった。
ファーガスも頑張ってそれに付き合おうとしてくれているが、フ
ェリックスの手が伸びてくると、すぐに外に出て行ってしまう。聞
けば模擬戦という事だ。
今日も、そうだった。
ベルは、いつもの通りアメリアを膝に抱いて、自分で淹れたアッ
サムのミルクティーを音もなく啜っていた。暖かいテラスの外では
わずかに雪が降っている。昨晩からそのようで、ガラスの壁を見る
と雪とテラス内の地面に段差ができていた。
テラスの中に置かれている家具は、父の趣味からロココ風だ。人
工芝も敷かれていて、室温のこともあり、ここだけ季節を大幅に先
取りしてしまったようになっている。くるくると巻かれた蔓のよう
なデザインのテーブルや椅子は、外の風景と比べてみると何とも滑
稽だ。それが、案外好きでもあった。
春や夏にこのテラスに来ても、あまり面白味はない。冬のこの、
ここだけが切り取られて春に帰られてしまった風な雰囲気が、可愛
らしいのだ。
膝の上で、アメリアが鳴いた。あまり鳴かない猫なので、どうし
たのだろうと思っていると屋敷の方の扉に気配が現れる。なるほど、
と納得した。主従の関係はかなり強いらしい。
﹁おはよう、ファーガス﹂
841
﹁ん、えっ?﹂
今は少し早すぎるくらいには早朝で、人がいるとは考えていなか
ったのかもしれない。戸惑ったらしいファーガスはテラスに足を踏
み込みつつきょとんとした顔でいて、そこにアメリアが駆けていき、
彼の顔を見上げて﹁みゃぉう﹂と鳴いた。
﹁随分と早起きなんだな、ベル。それにアメリアも。二人ともおは
よう﹂
アメリアを抱き上げて挨拶しつつ、彼はベルの向かいに腰かけた。
少女はすでに用意してあったティーカップに自分と同じものを注ぎ、
ファーガスに渡す。
﹁良い香りだな。ダージリンか?﹂
﹁ううん、アッサム﹂
何だかバツの悪い表情でファーガスは再度ミルクティーに口をつ
け、﹁うん、美味い﹂と悔しそうに言った。小さな間違えを誤魔化
すファーガスが愛おしく、両手で頬杖を突き、頬のゆるみを感じな
がら彼の姿を見つめる。
そうしていると、ふとガラスに映った自分の姿が目に入った。ロ
ココの丸テーブルで両手の頬杖をし、意中の男の子を見つめる自分。
それがあまりにも﹃らしく﹄て、恥ずかしさに姿勢を整える。
﹁⋮⋮何で背筋を正したんだ?﹂
﹁気にしないで⋮⋮﹂
842
危なかった。これをファーガスに指摘されていたら、多分自分は
悶死していた。
﹁︱︱でも、何かこういうのっていいな。早朝から、恋人の淹れた
紅茶を静かに飲む。しかもこんなきれいな雪景色だ。ベルにあつら
えたような場所だよな、ここ﹂
クリスタベルは悶死した。
具体的には、顔に火が付いたので思い切りテーブルに伏せた。
﹁⋮⋮さっきから様子がおかしいけど、何かあったか、ベル﹂
﹁何でもないよっ、バカ⋮⋮!﹂
﹁何てこった。ベルが反抗期に入った﹂
朝のファーガスは、結構飄々としている。新しい彼の一面を見つ
けたが、素直にうれしいと思うには恥ずかしすぎた。
そんな風にして、穏やかに早朝を過ごしていた。今のファーガス
には恥ずかしがるだけ損だと考えて、ベルも多少は恥をかき捨てる。
そうすると気兼ねがなくなって、少女の心も落ち着きを取り戻し
ていった。するとアメリアがファーガスのところに行ったっきりな
ことに気付いて、寂しさに返却を求める。
殺気が感じられたのは、その時だった。
843
ベルよりも、数瞬早くファーガスは反応した。立ち上がり、﹁ほ
ら﹂とアメリアを渡して防寒用のコートを羽織り出す。そこまで至
ればベルにも察しはついた。ファーガスが杖に触れて﹃サーチ﹄を
発動させながら、テラスの外に出る扉を開く。
外の寒気が、テラス内に入ってくる。﹁じゃ﹂とファーガスが手
を上げたから、ベルも﹁行ってらっしゃい﹂と微笑んで見送った。
彼は走り去り、その数秒後にフェリックスが訪れる。
﹁もう、ファーガスと一緒に居られて楽しかったのに﹂
﹁数時間も待てば十分でしょう。それに、今でないと朝食に間に合
いません﹂
ベルは、フェリックスには少しだけ我儘が言える。物心ついた時
にはすでに居て、祖父のような感覚だった。もっとも、本当の祖父
はすでに他界していたのだが。
﹁では、少々ファーガスを絞って参ります。ご見学なさいますかな
?﹂
﹁ううん。私が居ない方が、ファーガスも全力を出せると思うから。
どう? 彼﹂
﹁中々ですな。しかし、ドラゴンを︱︱、古にこの国を滅ぼしかけ
たドラゴンを単騎にて滅ぼしたといわれると、納得はいきかねます﹂
﹁⋮⋮あまり、厳しくしないであげてね。本当は、ファーガスの慰
安旅行のつもりでここに帰ってきたんだから﹂
844
﹁大丈夫ですよ。少なくとも、修練に集中できていないという事は
ありません。今はまだ、機を見るつもりで居ます﹂
﹁そう。⋮⋮それなら、良いんだけど﹂
ベルの渋い表情に、我が家の執事は苦笑気味だ。フェリックスの
話では集中力的には問題ないらしいし、やっぱり見に行こうかと考
える。どちらかと言うと彼のスパルタの方が危険度は高いのではな
いかと訝った。
と、ふとベルは思い出す。ファーガスが来る前、自分も彼を師事
していた時期があったのだ。幼い年頃で、割と厳しくされたような
気もするが、ファーガスが来るよりも前には止めてしまっていた。
﹁そういえばフェリックス。話は変わるんだけど、私もあなたを師
匠と呼んでいた時期があったよね? 確かいずれ騎士学園に入るん
だから、みたいな理由だったけど、それなら私もやるべきなのかな﹂
﹁いいえ? お嬢様はやる必要がないから、お父様と私で話し合っ
て取りやめることにしたのです。お忘れですか?﹂
﹁え、う、うん⋮⋮?﹂
やる必要がない? とベルは首を傾げる。それは一体どう受け取
ればよいのか。少し考えて、恐らく自分が騎士らしい戦闘職には就
かないだろうから、と言う解釈を付けた。女は女の仕事をという事
か。なるほど、頑張れファーガス。
﹁では、これにて失礼しますぞ、お嬢様﹂
845
﹁行ってらっしゃい﹂
執事服で、それ以上に羽織るものを必要とせず、フェリックスは
ファーガスを追ってテラスから出て行った。その走る速さは、大体
ファーガスの1.5倍ほどだ。ファーガスも明らかに﹃ハイ・スピ
ード﹄を使っていたというのに、我が家の執事のそれは見るからに
おかしい。
⋮⋮しかし、ファーガスとフェリックスの模擬戦。興味がないと
言えば、嘘になる。けれど見に行ってはファーガスの集中力をそい
でしまうと、フェリックスに直接言葉にして自粛したのだ。行きた
くても、行けない。
とはいえ、こうしてこのまま一人でミルクティーを飲んでいるの
も寂しかった。アメリアが居るから耐えられないという訳でもない
が、ネルあたりに見つかってからかわれるのも癪である。
そんな状況に、追い打ちをかけるかのようにお茶が切れた。
﹁⋮⋮﹂
テラスの扉を見る。雪の地面に足跡が二つ、綿々と続いている。
だが、とベルは首を振って我慢。悶々と空になったティーカップを
見つめていると、ハッとした。
﹁ファーガスの集中力を乱さないように、隠れて見学すればいいん
だ!﹂
私は実は天才なんじゃないかと自画自賛。恥ずかしがり屋のくせ
に、クリスタベルは自惚れ屋でもある。
846
コートを室内から引っ張り出して、白い息を吐き吐き走っていっ
た。足跡が途中で折れて、危険区である森へと突っ込んでいる。し
かしこの森の亜人はほとんどが夜行性で、日中は暴れてもそうそう
目を覚まさない。きっと一対一の対決になっているのだろうと、生
唾を飲み下して森へと入っていく。
一応だが、弓は持参していた。自分も、そこそこの戦闘能力を持
っている。ファーガスやネルとは比べるべくもないが、それ以外の
女子︱︱ローラやアンジェと比較すれば、多分だが一番強いのでは
ないかと思っていた。断じていうが、これだけは自惚れじゃない。
入っていくと、だんだん罵倒やら怒鳴り声やら地響きやらの音が
聞こえ始めた。随分と騒がしくやりあっているのだと、弓をいつで
も打てるように警戒しておく。何か飛来物があれば、聖神法を込め
た矢で粉砕できないこともない。
そう思っていた折、ベルの顔の横、五十センチほどの距離に木が
突き刺さった。
﹁⋮⋮﹂
ギギギ、と壊れかけのロボットのような動きで、ベルは横を向く。
斜めに地面にめり込んだ、木。枝などと言う生っちょろい話ではな
い。人間五人分ほどの針葉樹が、雪に塗れて埋まっている。
﹁これ下手したら死ぬよね! フェリックス何やってんの!?﹂
思わず口調が乱れる。警戒していて、本当に良かったと思った。
正直反応は全くできていなかったが。
847
声の聞こえる方を確認し、そこに徹底して遮蔽物を経由しながら
移動した。そして、とうとう模擬戦︵?︶の行われている場所に辿
り着く。
﹁油断するな! 脅威はまだ去って居らんぞ!﹂
フェリックスの怒号。二人の戦闘は、肉薄していた。我が家の執
事は顔のしわに似合わないほどのアグレッシブさで空中からファー
ガスに殴り掛かる。
それに、ファーガスは素早い所作で杖を取り出して足元に振るっ
た。祝詞が聞こえたような気がしたが、早口すぎて聞き取れない。
すると、突如として雪が爆発し、真っ白な蒸気が辺りを覆い尽くし
た。火属性の聖神法だと気付いたのは、その時だ。
﹁むん!﹂
体勢を低くしてフェリックスが飛んできた方向へ駆け抜けるファ
ーガスと、強大な拳圧で蒸気を薙ぎ払うその師匠。しかし視界が晴
れた時にはすでにファーガスは木の陰に隠れていて、フェリックス
は振り終わった手を手持無沙汰に上げながら、眉を寄せて強い眼光
を周囲にばら撒いていた。
﹁隠れるか! それもまた良し! このまま私から逃げおおせたな
ら、今日の所は開放してやる!﹂
甘言が、ピクリとファーガスに反応させた。それに笑うフェリッ
クスに気付いて、ベルは息を呑む。
848
﹁そこか!﹂
フェリックスは、とてつもない速さで駆けだした。それに、ファ
ーガスも勘付いて走り出す。その時、不意にフェリックスは立ち止
まった。ファーガス、ベルも共に訝ると、彼はこのように演説を始
める。
﹁⋮⋮ファーガス、勝負に勝つために必要な事は、前に教えたな?﹂
その視線は、真っ直ぐにファーガスを貫いているようだった。フ
ァーガスは戸惑いに動けなくなっている。
﹁一つは、純粋なる力。腕力、脚力、持久力に克己心。己の体に付
随する力の全て。一つは、勝負勘。何が勝ち馬か、何が負け犬か、
見抜く眼とその度胸。最後の一つは、知恵。相手の裏を掻く、勝利
への執念。それに伴う、悪知恵﹂
フェリックスは、くるりと踵を返してファーガスから遠ざかって
いった。きょとんと彼を見つめ、ファーガスに視線を戻した時、ベ
ルは何が起こったのかを悟る。
ファーガスの背後には、氷漬けの巨木が突き刺さっていた。
﹁お前に足りないのは、最後の一つだ﹂
氷が、急激に膨らんで爆発した。ファーガスは何事かもわかって
いないだろう。空中を錐揉みしながら吹き飛んで、処女雪の中に墜
落する。
﹁ファーガス!﹂
849
ベルは思わず叫んで、ファーガスのそばへと駆けよっていった。
それに、フェリックスが﹁大丈夫でございますよ﹂と好々爺然とし
た微笑みを向けてくる。
﹁今のそれには、殺傷力がありません。純粋に吹き飛ばすだけのも
のなのですな。とはいえ、気絶させるくらいには衝撃があります。
失神しているのは確かですから、介抱してやってもらえれば幸いで
す﹂
﹁言われなくてもするよ!﹂
ベルは怒り気味に答えた。ファーガスはザ・気絶と言う感じに大
口を開けて白目を剥いている。ちょっと怖い。
とりあえずそれを何とかしてから、怪我がないか探した。呼吸も
整っている。よし、とベルは意気込んでファーガスを担ごうとする
が、彼を運べるほど筋力もないのだった。﹁代わりましょうか?﹂
とフェリックスに尋ねられて、しぶしぶ頷いてしまう程度には。
ファーガスを家に連れて帰ると、ネルがファーガスに向けて人差
し指を向け、腹を抱えて笑い出したのに苛立った。フェリックスも
﹁では、朝食の準備をしてまいりますので﹂と勝手に居なくなって
しまうし。
ファーガスにとって味方の少ない場所だと、ベルは微妙に落ち込
む。せめて自分だけは彼にとって快い相手で居ようと、強く決心し
なおした。
ネルに手伝いを頼んで、ファーガスを彼の客室まで運んだ。文句
850
を言っていたが、昔と違い恐怖感と言うのも薄れていたので、強く
お願いすることができた。運んでいる最中もぐちぐち言っていたが、
それには目を瞑った。
ファーガスはなかなか目を覚まさず、ただ待っていることに焦れ
たクリスタベルは、ネルに看護を頼んでファーガスに呑ませる用の
紅茶を淹れに部屋を出る。
851
7話 銀世界︵4︶
ベルが部屋に戻った時、ファーガスはすでに目を覚まして、いつ
の間にかやってきていたアメリアを抱きつつ、ネルと何やら話して
いたようだった。﹁お帰り﹂と出迎えられる。
﹁ファーガス、大丈夫だった? フェリックスが君を持ち帰って来
た時思い切り白目を剥いて口を開けていたものだから、そこから魂
でも出かかっているんじゃないかと心配で⋮⋮﹂
﹁実際そういう亜人居るしな﹂
﹁本気でアホ面晒してたんだな、俺⋮⋮﹂
聞けばファーガスが起きたのはつい先ほどの事で、気絶させられ
た事をネルにからかわれていたのだという。﹁介抱してくれたんだ
ってな、ありがと﹂と少々恥じながら、両手を合わせて感謝を示す
ファーガスと、追従して鳴き声を開けるアメリア。⋮⋮しかし、こ
の両手を合わせる所作は一体何なのだろう。
﹁いいよ、気にしなくて﹂
ベルは言いながら、ティーカップに紅茶を注いだ。彼は一啜りし
て、﹁アッサムだな﹂と人差し指を立てる。﹁ううん、ダージリン﹂
とベルはやんわり否定。ファーガスが固まるのと同時に、アメリア
が主人の腕をぺしぺしやり出す。
﹁⋮⋮﹂
852
﹁ネル、無言でニヤニヤするの止めろ﹂
﹁じゃあアレだ、指さして爆笑すればいいわけだ。⋮⋮いや、でも
改めるとそこまでは面白くねぇな。クリスタベル、オレにも茶をく
れ﹂
﹁うん、はい﹂
﹁⋮⋮ちょっと待ってくれ。今のこの、俺の宙ぶらりんな心境は一
体どうすれば﹂
﹁二人とも、ラスクを持ってきたけど、食べる﹂
﹃食べる﹄
見事声が重なったが、今更二人は細かい事を気にしない。それな
りの信頼関係が築けているという事だろう。ネルの事を昔怖がって
いたベルだから、それを思うとどうにも今が不思議に思えてくる。
ネルと言えば、彼自身の兄に婚約解消を賭けた勝負を持ちかけ、
勝利したという武勇伝を思い出す。しかし、父はいまだ首を縦にも
横にも振っていないと聞いた。その視線は、どうやらファーガスに
向いているらしいとベルは直感している。父は、勘がいい。ベルに
遺伝したと言いにくいのが、複雑だったが。
ラスクをかじる二人を眺めながら、ベルも紅茶に口を付けた。す
ると、ネルはベルが居なかった間の話を再開させる。
﹁しっかし、お前の実力なら本気でどうこうしようと思ったらどう
853
にもならない物なんかねぇだろ。だっつうのに、何でお師匠サマに
は負けてやるんだ? あんなみっともない様を晒すくらいなら、ぼ
っこぼこにしちまえばいいじゃねぇか﹂
﹁俺は! ⋮⋮あの力が嫌いなんだよ。逆にさ、あんなの使って楽
しいか?そりゃあストレスも何もない生活が送れるだろうけど、そ
んなの詰まらなくないか?﹂
﹁⋮⋮ま、ファーガスが使いたくないってんなら、別にオレはどう
でもいいがよ﹂
表情を作りつつ、彼は視線を窓の外へ投げかけた。雪が、朝より
も勢いを増している。今年はよく降るな、とベルは思う。アメリア
も外の雪降りを眺めていた。
﹁それで、そっちの方の話し合いはどうなってんだよ﹂
ファーガスが、話題を変えた。ネルは、ファーガスの言葉に﹁あ
あ﹂と嫌そうな顔をする。
﹁難航してる。というか、反対派がオレたち子どもだけだから、ど
うにもならん﹂
﹁は? お前の兄貴がどうにかしてくれるんじゃなかったのか?﹂
﹁あンのクソ兄貴め。せっかく必死こいて模擬戦で負かしてやった
ら、ここにきていきなり手の平返しやがって。ただじゃおかねぇか
らな⋮⋮﹂
﹁それ、肉親に対して吐く言葉じゃねぇよ⋮⋮﹂
854
﹁まぁ、二人は兄弟仲があまり良くないからね﹂
クリスタベルが困り顔をすると、ファーガスが﹁そうなのか?﹂
と聞いてくる。少女の脳裏に、過去の記憶が去来した。彼ら兄弟が
我が家に遊びに来たのは数えるほどだったが、ほとんど毎回真剣を
持ち出して大喧嘩になっていたはずだ。その割に怪我などはなかっ
たけれど。
しかし当のネルはと言うと、とぼけた顔で﹁ハ? ナニ言ッテン
デスカ? 仲良イニ決マッテンダロ﹂と両手を上げて他を竦める。
﹁なるほど、クロだな﹂
﹁でしょ?﹂
二人が苦笑すると、ネルは明後日の方向に向けて鼻を鳴らす。し
かし、とベルは考えてしまう。ネルの兄上まで手のひらを返したと
したら、この話はもはや無くなったも同然かもしれない。︱︱身震
いが、した。下唇を、強く噛む。
その時ネルが﹁よっと﹂と立ち上がった。そして、訊いてくる。
﹁おい、クリスタベル。ファーガスのお師匠様は、一体どこに居る
?﹂
﹁多分、父のところだと思う﹂
﹁は? ゲイ?﹂
855
﹁怒るよ?﹂
思った以上に低い声が出て、ネルはわずかに怯みを見せた。クリ
スタベル自身も若干驚いていると、すぐにいつもの状態に戻ったネ
ルが、﹁初めてクリスタベルの事怖いと思ったぜ今。おぉう、こっ
わ! 怖いついでにお師匠サマに挑んで来っから、ちょいと待って
な!﹂と部屋を出て行ってしまう。
﹁⋮⋮行っちゃったね﹂
﹁行ったな﹂
﹁勝てると思う?﹂
﹁有り得ないだろ﹂
﹁そうだね、じゃあ、賭けはなしってことで﹂
﹁驚いた。ベルもそんな冗談言うんだな﹂
﹁ファーガスの影響だよ? 私とローラの模擬戦で、ネルと賭けを
やったでしょ﹂
﹁何でそこまでばれてんだ⋮⋮?﹂
﹁ネルが言ってたよ﹂
﹁アンの馬鹿⋮⋮!﹂
ファーガスが拳を固めて、壁の向こうに居るのだろうネルを睨み
856
付けていた。そんな所作がベルには可笑しく感じられて、くすくす
と笑い声を漏らしてしまう。
するとファーガスも、ベルと同じようにくつくつと笑いだした。
しばらくそうしていたが、ネルの事を完全に放置するというのも何
か起こしそうで怖い。仕方なくアメリアを置いて二人は部屋を出て、
彼がどこへ行ったのかを探し始めた。
索敵でもよかったが、聴覚拡大の聖神法を使った。ネルは、基本
的に騒がしいからだ。そうしていると、こんな声が聞こえてくる。
﹃ファーガスのお師匠サマ! 軽くオレと手合せ願えねぇか!﹄
﹁執務室だ﹂とファーガスは言った。
﹁多分だけど師匠もいる。ベルパパとネルの兄貴に関しては分から
ん﹂
﹁執務室だね、じゃあ行こう!﹂
二人は駆け出した。廊下を走り抜け、螺旋階段をファーガスに追
従して数段飛ばしで下り、執務室に着く。荒い息。その所為なのか
扉の向こうからは、何も聞こえてこない。顔を見合わせた後、意を
決しドアノブに手を掛けた。
扉を開けると、そこに居たのは父とネルの兄だった。彼らはチェ
スを打っている最中のようで、向けられた表情には歓迎の色が少な
く思える。
﹁えと⋮⋮、先ほどネルを見ませんでした?﹂
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﹁ああ、あいつなら君のお師匠さんを連れて外に出ていったよ﹂
ネルの兄は、気さくそうな口調でそのように言った。会釈をして、
部屋から出ていこうとする。だが、それを引き留める声があった。
﹁少し待ちたまえ、グリンダー君。それに、クリス﹂
﹁ハイっ!﹂
ファーガスはベルが驚くくらいの勢いで姿勢を正し、そのまま油
の足りていない機械のように、ぎこちなくクリスタベルの父に向き
直った。どれだけ緊張しているのだ、と少し呆れてしまう。
﹁な、何でございましょう﹂
﹁君の活躍は、学校の方から聞いているよ。ドラゴンを殺したんだ
ってね﹂
﹁⋮⋮ええ、まぁ﹂
ファーガスは、言葉を濁した。触れられたくない話題だったのだ
ろう。逃げ出したそうにしていたが、堪えている。
﹁まぁ、そこに座りなさい﹂
父の言葉に、二人は従った。ファーガスはベルを見て、深く頷く。
一体何だというのだろう。人の心が読めないクリスベルは、こっそ
り首を傾げている。
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﹁凄いじゃないか。しかも、黒い龍だ。フェリックスでさえそんな
ことは出来ないと断言していた﹂
﹁いえいえ、そんな。聖神法だけで勝ったのなら俺も自信満々で居
られたでしょうけど、違いますから﹂
﹁違う、と。具体的には、どういう事なんだい﹂
﹁すいません。それは、勘弁してください﹂
﹁⋮⋮ふむ、そうか。悪かったね、言いにくい事を訊いてしまった
ようだ﹂
ファーガスは、酷く居心地が悪そうだった。そんな風にした父に
怒りを覚えると同時に、ベルはなぜそこまで彼が自らの力を忌避す
るのかと訝った。目を瞑り、自省する。興味本位で他人の傷口に触
れようとするなど、愚かしい事だ。
父はしばらく何かを考える様に、口に手を当てていた。ネルの兄
も黙ってファーガスに視線を注いでいる。﹁では、ちょっと決闘の
様子を見て来ます﹂ファーガスは立ち上がり、ベルの手を引いたと
ころだった。
﹁クリスタベルと、ナイオネル君の婚約の事だがね﹂
その言葉に、二人は硬直した。一層真剣な目をして座り直すと、
父は言葉を再開させる。
﹁今の世は、封建社会ではない。別に家柄にこだわる理由もない。
私と彼の父が懇意の仲だったから、つい許嫁の契りを結んでしまっ
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たに過ぎないのだと言われれば、私は反論を持つことが出来ないだ
ろう。実際、クリスタベルが妻の命を継ぐようにして生まれた時か
らは、メイドも減らし、私がいつ死んでもクリスタベルはこの世を
生き抜けるよう、逞しく育ててきたつもりだ。だから、貴族などと
いう亜人との争いに身を投ず面倒な生き方を止めて、平民の人生を
歩むという道だって、私は許さない訳ではない﹂
父はそこで改めてファーガスの瞳を見つめた。強い眼光が、彼を
貫いている。
﹁しかし、その為には確証が居る。大事な一人娘を、預けてもいい
相手なのかという、確証がね﹂
﹁どうすれば、それを示せますか﹂
噛みつくように、ファーガスは返答する。父はそんな彼の事を痛
々しげな眼で見てから、このように続けた。
﹁グリンダー君。私はいまだに、君と邂逅した時の事が忘れられな
いのだよ。君は私に責められた時、泣いて力を求めた。私は、君の
姿が力を求める無力な少年だとは、とても思えなかった。事実、君
は聖神法でない方法でドラゴンを殺したんだろう?﹂
﹁⋮⋮それは、そうですが﹂
不安だった。ファーガスは冷や汗を垂らし、父の目は据わってい
る。ネルの兄は、ただ黙って経緯を見守っていた。ベルは、自分に
何か出来ることはないかと思考を巡らせ始める。
﹁私はね、グリンダー君。君に似た目をした人間に会った事がある。
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とても奇異な場所だ。当ててごらん﹂
﹁⋮⋮大学、とか?﹂
﹁いいや、刑務所だ。亜人との﹃獣姦﹄をしたという男を見に行っ
た時に、ちらと他の罪人とほんの少しだけ話す機会があってね。︱
︱自らの行いを酷く後悔しているという罪人の目に、あの時の君の
眼はそっくりだった。今も、君はドラゴンを殺した方法について言
及しようとすると、目に後悔が浮かぶ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁単刀直入に聞こう。君は一体、過去に何を仕出かした? 少なく
とも、それを聞くまで私は婚約に関して言及する気はないよ﹂
﹁自分も、そのつもりだよ。それに、ネルは性格に問題があるから、
せっかく捕まえておいた魚を逃がしたくはないんだよね﹂
﹁人の娘を捕まえて、魚呼ばわりか﹂
﹁すいません、おじさん。でも、弟の事を心配する気持ちは分かる
でしょう? たった二人の兄弟ですから﹂
ネルの兄が茶々を入れ、場の空気が少し緩んだ。ここだ、とベル
はファーガスの手を取り、立ち上がらせる。ファーガスは地面を見
つめて、尋常でない表情でいた。それはまるで︱︱父の言うとおり、
過去の罪を暴かれた罪人のような顔つきだ。
ベルは、素早く部屋から飛び出して、そのまま﹁さぁ、当初の予
定通り、ネルを探そうよ﹂と笑いかけた。﹁聞かないのか⋮⋮?﹂
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と問われても、無視だ。自分から言い出さないという事は、言いた
くないという事なのだから。
ファーガスは、途中で激しく頭を振った。何事かと思っていると、
すぐに顔を上げて﹁もう大丈夫だ﹂と少年らしい純朴な表情で笑う。
それが嬉しくて、﹁早く行こう? フェリックスにネルがやられち
ゃうよ﹂と彼から顔を背けて走り出す。
戦闘の音は激しく、聖神法を使うまでもないほど追跡は簡単だっ
た。
雪の為傘を片手に四苦八苦しながら森へ侵入すると、彼等の声ま
でも聞こえる様になってきた。見れば、此処から十数メートル離れ
た場所で、二人の人影がぶつかり合っている。木陰に隠れながら、
ベルは様子を窺った。
﹁っぁああ! クッソ、また外した! ジジイさっさとオレに華を
持たせてくれよ!﹂
﹁ほっほっほ。丁重にお断りさせていただきます。今はファーガス
の師匠を下りられませんので﹂
﹁チョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロ⋮⋮。あー、
ムカつく! さっさとくたばれ、老いぼれ!﹂
﹁まだまだナイオネル様のような若造には負けていられませんな﹂
案の定、ネルは良いようにフェリックスに扱われていた。しかし、
彼の顔は罵倒しながらも楽しくて仕方がないというように、大きな
笑みが浮かんでいる。
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彼の戦闘狂っぷりは、相変わらずのようだ。クリスタベルは、肩
を竦めて嘆息した。
しばらくして決着の時が訪れたようだった。ネルが決めに行くべ
く大振りしたのを見計らい、師匠はその手首を後ろ側から押さえて、
得物を奪い取った。追撃とばかり、鳩尾に一発。﹁キュウ﹂とまる
で人形のような声を上げて、ネルは崩れ落ちる。
﹁ファーガス! こっちへ来て運ぶのを手伝いなさい! クリスタ
ベル様も手を貸していただけると非常にありがたいのですが!﹂
﹁お、おう。今行く!﹂
﹁フェリックス、少し待ってて!﹂
二人は木々の間を縫って、ネルの介抱に向かった。ネル本体はフ
ェリックスがファーガスよろしくお姫様のように抱き上げ、残る二
人で彼の得物を運搬した。しかし、重い。こんな物をどうやって振
り回しているのだと、運びながら渋い顔になる。
ネルは、彼の部屋に入れて一分もしない内に目を覚ました。
フェリックスは手応えと何かが違ったのか、自身の手を見ながら
首を傾げている。ファーガスは﹁ほらよ﹂と覚醒した彼にパイを投
げ渡した。小さい一品ではあったものの、口でキャッチした上に一
回も手を使わずに完食したのを見て、少し表情が強張った少女。
﹁いやー、予想以上に強かったな、爺さん。老いぼれとか言ったの
は冗談だから許せよな﹂
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﹁いやいやなんの、ナイオネル様の表情がとても明るく豊かでした
から、私も不快には思いませんでしたよ﹂
﹁ん? そう? 何だよ謝って損した﹂
﹁一概にも損とは言えませんぞ? 少なくとも、謝られた事で私は
ナイオネル様の事が少し好きになりました。⋮⋮もっとも、今の発
言で帳消しとなりましたが﹂
﹁ゲイかよ、って茶々入れようとしたら先にオチ取られた、クッソ
!﹂
﹁お前何処で悔しがってんだよ馬鹿かよ﹂
﹁ファーガス、ネルに何を言っても無駄だって﹂
﹁それもそうか﹂
﹁うっせーボケ共﹂
軽口を笑顔で叩き合う四人。ネルは一息つきなおしてから﹁うわ
ー、負けたー﹂と改めて頭を抱えた。ファーガスは、俺の師匠を簡
単に倒されてたまるかと言う風なジト目で、ネルを見つめている。
それを、ネルがいやらしい目で見つめ返した。傍から見れば男同
士が無言で見つめ合っている図の完成であり、背筋に嫌なものが走
ったベルはネルを強く睨み付ける。しかし肝心の彼はそれを無視。
ファーガスの﹁何だよ﹂と嫌そうな声に、ようやく反応する。
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﹁なぁ、負けたら悔しいよな? 久々に負けてそう思ったけどよ、
そうすっと尚更お前の事が訳分からなくなるんだよ﹂
﹁は? 何言ってんだ?﹂
﹁勝てるのに負ける。しかも、負けるのが嫌だと思いながらだ。そ
こまでして使いたがらない理由ってのが、オレにはいまいち分から
ん。そう思うよな? お師匠サマ﹂
﹁⋮⋮そうですな。私としては、いつになったら詳細を聞かせてく
れるのかと弟子に期待しておりましたが﹂
その言葉に、ファーガスは唇を引き締めて硬直する。彼らがファ
ーガスの異常な力について話しているのだと勘付いたからだ。今の
ファーガスの様子は、先ほど詰問された時のそれと同じだ。
しかし、フェリックスは肝心なところを言わないまま、ベルが淹
れた紅茶を啜った。﹁お嬢様、腕を上げましたな﹂と老人らしく笑
っている。
ファーガスは渋い顔でいたが、唐突に時計を見上げて﹁あれ?﹂
と声を漏らす。
﹁そろそろ、昼食の時間だな﹂
﹁あ、うん。そうだね﹂
﹁⋮⋮俺、朝飯食ってないな﹂
﹁あっ﹂
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ベルはそのことをすっかり忘れていて、弁解しようとして上手く
いかず、あわあわと理路整然としないことを口走った。ファーガス
は﹁いいよ、忘れてたんだろ﹂と笑ってくれたが、代わりにベルは
自己嫌悪に陥るタイプだ。
有無を言わせず、全員を食堂まで連れて行った。フェリックスに
も睨みを利かせたら、﹁分かりました、分かりました﹂と困ったよ
うに笑う。どうやら、今日のところは断念してくれるみたいだ。
昼食を食べ、しばらくゆっくりし、夕食後、ファーガスに連れら
れていく。行き先を告げられることはなく、しばしぽかんとし、一
瞬だけドキドキして、到着した場所にフェリックスとネルが居たこ
とで全て察した。
空を見上げる。夜。我が領の亜人が、こぞって起き出す時間帯だ。
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、ベル? 足踏んでる。ちょっと退いてく、痛い痛い痛い。
え、何。どうしたベル﹂
そんなやり取りを経つつも、四人は夜の森へと身を投じた。
ざく、と処女雪に自らの軌跡を刻む。足には雪の感触と腐葉土の
感触が返ってきて、森を歩いているのだとしみじみさせられる。夜
は目が効かないのもあって、緑の匂いが朝よりも充満しているよう
に感じられた。
﹁さぁて⋮⋮獲物は何処に居やがるか﹂
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ネルがまるで殺人鬼のような声音でくつくつと笑った。ファーガ
スはそれを、後ろから軽く蹴り飛ばす。避けられていた。少し苛立
ったように舌打ちしている。仲のいい事だ。
﹁まさか休暇中にまで亜人を見る事になるとは思わなかったよ⋮⋮﹂
ベルは、何とも言えない心持でそう言った。弱い力でファーガス
の袖を掴む。しかしこれでは弓矢を使えないと我に返って、惜しみ
ながら矢をあらかじめつがえておく。
フェリックスは最前列で、無言のまま変わらない歩調をもって進
んでいた。しばらくそうしていると、﹁来ますぞ、クリスタベル様、
ナイオネル様。ファーガスも、気を引き締めなさい﹂と忠告してく
る。
その声に反応して、三人は共に武器を構えた。敵は五匹。どれも
獣だ。前方は獅子、後方は蛇、肩口からは牡山羊の頭が生えている
︱︱キマイラである。
﹁キマイラが五匹! 蛇は毒を飛ばすから、光の聖神法を使うぞ!
目がくらまないように準備してくれ!﹂
祝詞を唱え、ファーガスが杖を振ると、パッとここ一帯が明るく
なった。味方は全員備えていたからすぐに行動を再開できたが、キ
マイラはそうもいかない。
たじろいだ魔獣たちに、まずネルが飛び掛かった。大剣が、一匹
の胴体を両断する。そこに、ベルが続く。矢が、一匹の頭を貫いて
絶命させた。
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﹁ファーガス、隙が出来たよ!﹂
叫ぶ。そして、影がよぎる。⋮⋮しかし、どういう事だろうか。
ファーガスは、何もしない。
﹁ファーガス?﹂
いまだ距離があり、振り向くだけの余裕もあった。ベルは、きょ
ろきょろと周囲をうかがう。﹁おいおいどーしたぁあ!?﹂と大声
でネルは大剣をふるっている。だが、見えない。ファーガスの姿が
︱︱それに、フェリックスも。
﹁え?﹂
ベルは、ただ呆気にとられるばかりである。
その、数十分後。ファーガスはクリスタベルとネルの二人に発見
された。彼は泥と雪にまみれ、底知れぬ恐怖に身を焦がしていた。
ただ何かを謝り続け、泣きじゃくる彼を宥める事はベルにすら出来
なかった。そんな戸惑うばかりの自分を、彼女は憎んだ。
それ以来、ファーガスは部屋から出ようとしない。
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間話 とある終焉の始まり、あるいは予兆
﹁⋮⋮お前も飽きないな﹂
﹁何がだ、ネル﹂
最近、より一層堅苦しくなった口調で、クリスタベルは言い放っ
た。ネルは呆れて、﹁別に﹂とだけ言ってそっぽを向く。彼女はい
つものように、ファーガスの部屋に入っていった。
仕方がなく、ネルはぶらぶらと歩いていた。この付近は、日中は
暇なのだ。亜人が大抵夜行性だから、狩りが出来ないのである。か
といって、街に繰り出すのも自分らしくない。すると必然、暇を持
て余してしまう。
彼は、趣味が少なかった。亜人狩りと他人をからかう事、あとは
スコーンなど上手い茶菓子を食う時くらいしか、ネルは幸せを感じ
ることがない。ファーガスたちに気を利かせてこんな場所まで赴い
たが、やはりそんな義理をする必要はなかったのかもしれなかった。
無慈悲なようだが、碌に効果をなしていないうえ、ファーガスが
あの様ではそう思わざるを得なかったのだ。
﹁あーあ、馬鹿馬鹿しい﹂
ネルは呟きながら、久々に兄貴のもとへ足を運んだ。仲がいい︱
︱訳ではない。しかし、軽口をたたく程度の仲ではある。軽口とい
うのはつまり、暇がつぶれるという事だった。利用しない手はない。
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何処にいるのかと探していると、クリスタベルの親父さんが出て
きた。﹁トスカーナ公﹂と呼びかけようとしたが、改めて考えると
長い。閣下でいいか、と判断し、手を上げる。
﹁こんちわっす、閣下﹂
﹁君は前々から思っているが、掴みどころのない奴だね﹂
﹁取り柄ですから﹂
﹁言い切ってしまうあたりが潔い﹂
どうでもいい話だが、閣下とは妙に気が合うネルである。
﹁んで、閣下は何でこんなところに? ファーガスの様子なら変わ
りがないようですけど﹂
﹁ん、んん。⋮⋮そうか﹂
﹁何スか? もしかして、今更になって罪悪感を覚えてるとか?﹂
﹁⋮⋮ネル君。君は事情を知っていたのか﹂
﹁いいえー? 誰も何にも教えてくれねぇもんで。みんな冷たいっ
すよねー。だから、オレの推測スキルがここまで上がっちまったん
ですよ﹂
ネルは言いながら、クックと笑った。閣下の指示で、ファーガス
のお師匠様がファーガスを半ば拉致し、詰問した結果が、今の状況
870
だとネルは判断している。
ネルの笑い声に閣下は少々気味悪げな表情をするが、他人の目を
気にしない性質の彼にはどうでもいいことだった。
﹁⋮⋮そうだね。罪悪感と言えば、罪悪感だ。それに加えて、私た
ちも何も彼から引き出すことが出来なかった。精々が、フェリック
スでさえ訳も分からないまま、無傷で気絶させられたという事だけ
だ。情報に違わず、英雄たる凄まじい力だよ、あれは﹂
﹁⋮⋮ドラゴンを一方的に殺すこともできれば、本来実力が上の人
間を傷一つ負わせずに気絶させる事も出来る力⋮⋮って訳っすね。
なぁるほど。確かに酷い﹂
そして恐ろしい。付け加えるように呟くと、閣下は顔をこわばら
せる。とはいっても、僅かなものだ。ファーガスやクリスタベルに
は分からない程度の微細さである。
そのまま閣下に別れを告げ、ネルは歩いていく。誰か居まいかと
歩いていくが、特にめぼしい人物は見当たらなかった。彼の兄貴も
またそうである。﹁あのくそ野郎どこ行った﹂と苛立ち始める。
結局何もなく、欠伸をしながら自分にあてがわれた部屋に戻った。
中央まで歩き、ぼんやりと立ち尽くす。つまらない、と思った。ひ
どく、つまらない。
﹁⋮⋮何か、面白いこと起こんねぇもんか﹂
その言葉は渇いていた。ネルは、退屈が嫌いだ。行き過ぎると、
死ぬよりも恐ろしいという気持ちになる。
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﹁どうすりゃいい。眠ってる亜人をぶち殺して回れば少しは楽しい
か? いや、それならいっその事、この家の誰かを殺してから、誰
も出られないように封鎖でもするか。はは、クローズドサークルの
完成だ。いや、でも少し待てよ? 最後までオレが犯人だとバレず
に完全殺人が成立しても、面白くも何ともねぇ﹂
焦りのあまり、荒唐無稽な言葉が口から飛び出した。頭を抱え、
指先でトントンとこめかみを叩く。ファーガスのところに茶々を入
れに行ってもよかったが、大した反応が返ってくる事もなさそうだ。
そもそも、クリスタベルが邪魔である。
気づけばくるくるとその場を歩き始めていた。同じ場所で円を描
くように歩き続ける。
﹁⋮⋮そんなに、暇かい?﹂
﹁あぁ?﹂
唐突に現れた声に、ネルは振り向いた。そこに立っているのは、
薄笑いを張り付けた少女である。年のころは︱︱九か、十。酷く整
った容姿をしていて、しかしネルには、どうにも嫌な気分にさせら
れる。
﹁お前、何者だ? 何処から入ってきた﹂
﹁違うだろう? 自制心を働かせなくてもいいんだ。素直に、君の
聞きたい事を聞けばいい﹂
﹁⋮⋮なら、遠慮なく言わせてもらうが﹂
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口調が、硬くなる。素が、出始めている。
﹁貴様は、何故オレにそっくりなんだ? ︱︱いや、違う。容姿は
全然似てない。しかし、鏡を見ているような気分にさせられる︱︱
貴様は、何者だ?﹂
﹁﹃鏡﹄だよ。ボクは君にとっての鏡だし、君はボクにとっての鏡
だ﹂
言いながら、少女は一歩こちらに近づいてきた。敵意は感じられ
ない。しかし。
﹁自己紹介がまだだったね。ボクは、シャナイ。愛称は、ナイ。フ
ァミリーネームとかその他もろもろは、面倒だから省いてもいいよ
ね? 今日は君に、挨拶をしに来たんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
同族嫌悪。ネルは、表情を渋めて崩さない。辛うじて﹁挨拶とは、
何故﹂と答えたばかりだ。
﹁何故も何もないさ。暇を、しているんだろう? なら、手伝って
もらおうと思って﹂
﹁手伝う?﹂
そこまで行って、耳を傾けかけている自分が居ることに気付いた。
ハッとして切り捨てようとした時、ナイと名乗る少女の言葉がネル
の興味を引付ける。
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﹁私ね、ソウイチロウ・ブシガイトっていう男の子に、恋してるの﹂
﹁⋮⋮ブシガイト﹂
何故、その名が出てくる。
ネルは、しばし目を瞑って考えた。そして、一旦彼女の話を聞こ
うと決める。暇だったのは事実だし、いざとなれば亜人として斬り
捨ててしまえばいいと考えた。そもそも、自分に剣を抜かせるなど
亜人くらいにしかできまい。
そのように考えると、やっと余裕が出てきた。いつもの通り口端
を歪めて﹁いいじゃねぇか。話してみろよ﹂と笑う。
﹁何処から話せばいいのかな。とりあえず、前提としてボクが人の
未来どころか、どんなふうに生きてどんな風に死ぬかという事すら
わかってしまうってことを知っていてもらいたいんだけどね﹂
いつもなら、その不可解な言動に﹁はぁ?﹂と嫌悪まみれの疑問
を投げかけるところだ。けれど、今日は違った。考えるよりも前に、
自分が考えるよりも素直な返答をしていた。
﹁︱︱それは、随分とつまらない人生だな﹂
その言葉に、少女は肩を竦めて微笑する。
﹁でしょ? ボクが何をしたらどうなるかだって完全無欠にお見通
しなんだもん。飽き飽きしちゃうよ。でも、総一郎君は違うの。で
も、それだけで好きになるほどボクは単純じゃないんだよ?﹂
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﹁へぇ﹂
﹁総一郎君はね、可愛いの。一生懸命で、頑張ってるときなんか目
をキラキラさせちゃって。でも、ものすごくかっこいい時もあるの。
敵意をむき出しで唸る姿なんか、もう背筋がゾクッとしちゃうんだ﹂
少女は、語り出した。その様は恍惚に頬を紅潮させて、少女と言
うよりは女の顔をしていた。語る相手は、誰でもよかったのだろう
と思わせられる。自分である必要などなかったのだろうと。
しかし不思議にも、ネルの中で確かに正体の知れぬ感情が動いた。
﹁⋮⋮ずいぶんと、惚れ込んでんだな﹂
﹁うんっ﹂
彼女は、自分とネルは鏡合わせだというようなことを言った。そ
の上、ネルは自分自身で彼女を同族と認めてしまっている。いや、
それすらも正確な表現ではないのだ。まったく同じ土俵から始まっ
たのに、追い抜かれているような感覚。言うなれば︱︱
︱︱羨望、もしくは、嫉妬?
﹁⋮⋮チッ﹂
﹁そういえば、君には居る? そういう人﹂
有り得ねぇ。そのように呟こうとした瞬間、ナイの言葉が寸断し
た。ネルは、苛立って舌を打つ。
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﹁んなもん居るかよクソッ垂れ。どいつもこいつも底が浅くてよぉ。
一緒にいて楽しいと思った奴なんていねぇよ﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁嘘ついてどうす、⋮⋮いや、でも﹂
その時、ネルの脳裏に去来するものがあった。それは、一カ月ほ
ど前の記憶だ。死ぬ前に黒きドラゴンを拝み、最初の犠牲者になる
ならば、そんなに悪い人生ではなかったと思えるのではないかと考
えていたのだ。
しかし、そこで見たのはそのドラゴンを赤子の手をひねるがごと
く圧倒した、ファーガスの姿だった。
﹁⋮⋮あの時ばっかりは、興奮したなァ。ファーガスの野郎も、な
かなかやるじゃんとか、思っちまった﹂
﹁ふぅん。初めて凄いって思わせてくれた友人、かぁ﹂
いいね。とナイは笑った。でも、ボクの総一郎君も負けないんだ
から。と。
﹁はぁ? 何言ってやがる。聞いた話じゃあ、そのドラゴンにブシ
ガイトは惨敗したらしいじゃねぇか。純粋な力なら、ファーガスが
圧倒してるに決まってんだろうが﹂
﹁その純粋な力に、精神力は含まれないの? 浅はかな考えだね。
同じ化身の身として恥ずかしいよ。もっとも、君もボクも、そこま
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で高い知性は与えられていないのだけれど﹂
﹁化身? まるでオレ達の本体が神みたいな言い草だな﹂
﹁そうだよ?﹂
きょとんとした様子で言う少女。そこでネルは我に返った。何を
無駄にしゃべくっているのだろうと顔を顰め、改めてナイを見る。
九、十歳ほどの、小便臭いガキではないか。自分の情けなさに、
ため息を吐いた。
﹁⋮⋮帰れ。オレは無神論者だ﹂
﹁いいや、正確に言うならば、君は神とあがめられるほど力を持っ
た宇宙人の化身なんだよ。その事実はこの星に広く分布する一神教
の理念と矛盾しない。それに、君の無神論も同じだ﹂
﹁分かった分かった。力が抜けて怒鳴り散らす気にもなれねぇ。こ
こはな、貴族の領地なんだ。分かるか? 貴族。あの、亜人を倒し
て市民を守っている代わりに、クソほどエラそうにふんぞり返って
いる奴らの事だよ。怖いだろ? 分かったらほら、さっさと出て行
くんだ﹂
生まれて初めてかもしれないほどの優しさを振りまいて、やんわ
りと少女の背中を押した。﹁いいの?﹂と言う言葉が返ってくる。
﹁君の忌み嫌う﹃暇﹄と言うものを、抹殺できるよ? それとも、
無知なまま人間として生き、退屈を欠伸混じりに追い払う人生のま
まで、いいのかな﹂
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脅し、と言うよりは、はっきりとした質問のように感じられた。
それに一瞬停止したネルは、素早く反転するナイに不覚を取ったこ
とを自覚する。
彼女はネルに飛びついて、じっと目を合わせてきた。ネルは腰袋
から剣を抜き出そうとしたものの、途中で手が止まる。
少女の瞳からは、全てが流れ込んできていた。
過去、未来、そのすべて。しかし、例外が居る。少女の言うブシ
ガイト︱︱そして、ファーガス。なるほどと、腑に落ちた。説明が
付いた。
酷く面白い取り組みだと、ネルは評する。それはある数種の植物
の種を育て、自分の好きな作物を探す行為にも似ていた。
地道だ。しかし、それもまたいい。ネルは、嗤う。つい先ほどま
での自分を。そして、﹃祝福されし子供たち﹄以外の全てを。
﹁いいぜ、お前がしたい事は分かった。協力してやる。だが、やは
りオレはファーガスに賭ける﹂
﹁ボクは、言わずもがなという事にしておくよ。すでに仕込みはほ
とんど終えているしね。最後に土俵を整えてあげるだけだ。そちら
側も、頼むよ﹂
﹁ああ、任せろ﹂
言葉を交わし終えて、少女は窓の方に寄って行った。しかし立ち
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去る前に、﹁おっと﹂と振り返る。
﹁そういえば、君の名前を聞くのを忘れていたよ。教えてくれる?﹂
﹁ああ、そうだったか﹂
ネルは︱︱いや、今更そのようには名乗るまい。口を開いて、彼
は嗤った。
﹁オレの名は、ナイオネル。ファミリーネームとかは面倒だから省
くぜ。︱︱愛称は、ナイだ﹂
879
7話 銀世界︵5︶
ファーガスは、ソファーに座って天井を仰いでいた。その隣に、
ベルは寄り添っている。
﹁ファーガス、いい天気だからテラスに行ってお茶でもしない? こっそり父上の秘蔵のお菓子を持ち出して﹂
﹁いや⋮⋮、ごめん。そういう気分じゃないんだ﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
ファーガスの返事がつれなくて、ベルは意気消沈してしまう。し
かし、いつもは自分を引っ張って行ってくれるファーガスが沈んで
いるときこそ、自分が元気で居なければならないのだと自らを叱咤
した。頑張れクリスタベル! こんなことで彼の恋人が務まるか!
あらましは、父上やフェリックスから聞いていた。夜の狩りに出
ようというのは口実で、ファーガスの﹃能力﹄がどんなものである
かを確かめに行こうとしたと聞いて、少女は激昂し、二人を叱り付
けた。久々に怒ってしまったと彼女は少し後悔している。その所為
もあってか、二人は今静かだ。
この部屋は、薄暗い。不意に、そう感じた。カーテンはベルが開
け放ったが、それでも日が入り切っていないように思われた。アメ
リアも、何だか寒そうにソファーの上で丸くなっている。
ファーガスに目を向けると、俯いて深刻そうな表情をしていた。
880
何があったのだろう。何が、あのすぐに立ち直ることのできるファ
ーガスをここまで打ちのめしたのだろう。
﹁⋮⋮ねぇ、ファーガス。私は、絶対に君の味方だよ? 絶対に裏
切らないし、絶対に君から離れていくつもりはない。⋮⋮だから、
君の言う不思議な力のことを、教えてくれると嬉しい。もちろん、
使えなんて言わないよ。約束する﹂
数日間何も変わらないままで、鬱憤が溜まっていたのかもしれな
い。気づけばそんなことを口にしていて、﹁ごめん、何でもないん
だ。気にしないで﹂と手と顔を振ると、ファーガスは力ない瞳で少
女を見て、﹁いや⋮⋮﹂と言った。
﹁そうだな、ベルには、教えておきたいと思っていたんだ。でも、
一応﹃能力﹄は使うよ。どうせ今更使おうと使うまいと同じだし、
見なきゃ信じられないことを言うからな。⋮⋮あと、さっきの約束
は反故にしてくれてもいい﹂
その言葉に反応して、ベルはファーガスに言葉をぶつけようとし
た。だが、彼が言った﹁あのツボを見てくれ﹂との言葉に、いった
ん矛を収める。
﹁今から、あのツボをここから粉々にする﹂
目を向けると、客室のすべてに飾られるツボがあった。値段はあ
まりしない量産品だ。本当に価値のあるものは、父上の部屋くらい
にしか飾られていない。
何をするつもりだと訝って、ベルはファーガスに目を向けなおす。
彼は親指と中指を合わせていた。指でも鳴らすつもりなのか。
881
彼の指が鳴った。連動するようにツボが砕け、ベルは身をすくま
せる。
だが、それで終わりではなかった。さらに二度、ファーガスは指
を鳴らす。ツボの破片はそのたびに細かく砕け、彼の言った通り砂
粒の大きさにまで変わる。
﹁⋮⋮俺は、今何をしたかわかるか?﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
ベルは考えるが、さっぱり見当がつかなかった。ドラゴンを殺し
たのと、フェリックスを気絶させた事。それと、まるで繋がるとこ
ろがないように思った。
ファーガスは、さみしげに笑いながら言った。
﹁これは、俺が鳴らした指の音を、衝撃波と同等まで強化したんだ。
今まで俺が使ったのも、全部強化。ドラゴンの攻撃を倍以上の力に
して返す盾と、振るだけでその延長上にあるすべてを切り裂く剣。
師匠の時のは、触れると気絶させられる剣だった﹂
﹁強化? 強化って⋮⋮﹂
﹁いや本当、それだけなんだよ。だけど、﹃能力﹄には限界がない
し、使ったことによるデメリットみたいなのも一切ない。手に入れ
るために努力する必要もない。人生のどっかしらのタイミングで、
偶然、手に入れてしまう。そういうものなんだよ、これは﹂
882
もういいか? とファーガスは言った。その眼には、怖がるよう
な拒絶の色があった。出て行けという事なのか。ベルは納得がいか
ず、問うた。
﹁それなら、何でそのことをひた隠すんだ? 使ってもデメリット
なんかないんだろう?それなら、何で⋮⋮﹂
﹁もういいだろ、出て行ってくれ﹂
﹁嫌だ! 全部話してくれなきゃ﹂
﹁頼むから、出て行ってくれ!﹂
その声は、部屋中の物をランダムに破壊した。テレビが割れ、ベ
ッドが破け、棚が砕けた。彼は、ベルを睨み付けている。それに、
少女は体の動かなくなるような恐怖を抱く。
だが、ベルはそれが我慢ならなかった。非常な理不尽に襲われて
いる心地がした。煮え滾るような激情が、彼女の中で湧き上がって
いく。
﹁⋮⋮許さないよ、ファーガス﹂
﹁何だって?﹂
﹁君は、私のことを好きだと言った。私も、君のことが好きだ。な
のに、君は何も私に言わないで私のことを拒む。それは、理不尽だ
よ。私は、そんな横暴許さない﹂
﹁ベル、お前何言って﹂
883
ファーガスは論旨の筋立たないベルの言葉に困惑して、意識に隙
間を作った。ベルはその間隙をついて、彼の襟首を引き寄せてキス
をした。ファーガスは目を剥き、ベルは目をつむる。
数秒して開放すると、彼は混乱したのかどもりながら﹁な、な、
何を考えてんだよ、ベル!﹂と後ろにバランス悪く下がった。少女
はそこに追いすがり、彼の胴体を掴んで押す。彼は転びそうになり
ながら後退し、ついに倒れこんだ。そこには、ベッドがあった。
ベルは素早くファーガスの上に馬乗りになった。瞬間下唇を噛ん
だが、すぐに止めた。自分自身が弱気でいたら、脅しではなくなる。
まっすぐにファーガスの目を見つめて、ベルは言い放った。
﹁ファーガス、君がすべて言ってくれないなら、私は君を襲う﹂
﹁襲うって、もう襲ってんだろ、これ﹂
﹁違うよ。違う意味での、﹃襲う﹄だ﹂
言いながら、ひどく顔が熱かった。けれど我慢して、毅然とした
表情を保っている。ファーガスは意味を理解して、口を唖然と開閉
し、渋面で横を向く。
﹁ベル。それは、⋮⋮卑怯だ。逃げ道ないじゃんか、そんな言い方
されてさ﹂
﹁君が私に説明せずに追い払おうとしたのは、これよりももっと酷
かった⋮⋮! だってそれは、君が私に価値なんてないって言って
884
いるようなものだ! 私なんて、どうでもいいんだって⋮⋮﹂
ベルは、ファーガスの降参を聞いて堪らなくなった。彼に怒りを
抱いてから崩さないと決めた態度は、それをきっかけに瓦解した。
激情は表に吹き出し、涙が珠になって彼の胸元に垂れ落ちる。
その滴を、拭う手が現れた。ベルが我に返ると、ファーガスが彼
女の眼もとに指を当てている。
﹁悪かったよ。そんなつもりじゃなかった。⋮⋮本当はさ、墓まで
持って行くつもりだったのになぁ。何でこんなことになったんだか﹂
諦めたような表情で、ファーガスは言う。﹁ちょっといいか?﹂
と言われ、ベルは彼の上から退いた。彼はおきあがり、ベッドの端
で嘆息する。そのまま薄目でしばし沈黙していた。再び張りつめ始
めた空気が、ベルにファーガスの覚悟を感じさせる。
﹁⋮⋮俺にはさ、前世の記憶があるんだ﹂
﹁前世?﹂
﹁そう。前世。ソウイチロウの出身国って覚えてるか?﹂
﹁ジャパン⋮⋮だったよね﹂
﹁ん。前世の俺はそこ出身で、ちょっとした出来事をきっかけにこ
の﹃能力﹄を自覚したんだ﹂
﹁⋮⋮今更ぼかすなんて見苦しいぞ、ファーガス﹂
885
﹁いや、本当にちょっとした事なんだよ。なんて言えばいいんだろ
うな⋮⋮。学校でさ、当時流行ってたおまじないをやったんだ。恋
の魔法とか言ってさ、その時はクラス中が男女関係なく仲がいいっ
ていう珍しい環境で、仲のいい友達に誘われてやった。そのお呪い
っていうのは、特殊な呪文を掛けた意中の人の持ち物を持っている
と結ばれるっていう、有りがちなものだった。平凡だなと思いなが
らやって⋮⋮、その時、俺はこの﹃能力﹄を自覚した﹂
﹁⋮⋮何が起こったんだ?﹂
﹁俺が、所有者に惚れろと念じたものを持っている奴は、間違いな
くその呪いの対象者に惚れられた。効果が強すぎて、まるで人を操
る魔法の杖みたいな扱いをされてたな。俺は実験半分っていうか、
調子に乗って個人用じゃなく集団用の物を作って、あまりの効果に
血の気が引いた﹂
﹁⋮⋮それで﹂
﹁⋮⋮結果から言えば、俺は見ず知らずの人を百人以上殺すことに
なった﹂
ベルは、言葉を失った。何故とは聞けなかった。ファーガスはひ
どく苦しそうに﹁何でそうなったかは聞かないでくれ。話せないん
だ。思い出すだけで﹂まで言ったところで、口に手を当てて喉を鳴
らした。彼は垂れかけた涎をぬぐい、潤んだ瞳で絨毯を見つめる。
﹁あの時の俺は、精神的に病んでたんだ。一番の友達に裏切られた
り勝手に死なれたりして、世界なんか滅んじまえってずっと思って
た。そこに、態度の悪いおっさんがいてさ。こんな﹃能力﹄がなけ
れば悪態ついてスルーしたはずだったのに、あったからつい使っち
886
まった。⋮⋮これが、初めての殺人﹂
はっきりと思い出せるんだ、とファーガスは語る。
﹁覚える気なんてなかったのに、どんな人をどんな風に殺したかを
はっきりと覚えてる。今では、それが頭によぎるたびに申し訳なく
て堪らなくなるんだ。俺なんかの八つ当たりで死んだんだぞ? こ
の命をいくつ使ったって謝りきれねぇよ!﹂
﹁⋮⋮ファーガス﹂
もういいと、言おうとした。けれど、ファーガスは頭を振りなが
ら、半狂乱でその情景を紡ぎあげていく。
﹁最初の人は、頭を引き抜いたんだ。頭から背骨伸びた部分と、穴
の開いた胴体が残った。無性に汚いって思ってさ! それを強化し
て、思い切り車にぶつけたんだ。車は爆発して、その破片が当たっ
て一人死んでた﹂
﹁ファーガス、もう﹂
﹁⋮⋮その次の、三番目の人がさ、一番俺の中に焼き付いてんだよ。
みんながわーきゃー逃げてく中で、一人だけ厳しい顔で立ち止まっ
て、何を必死に考えてた。携帯を取り出したのかな。俺が近づく前
か後に必死に何かをして、最後に携帯を落として、拾おうともしな
かった﹂
﹁もういいよ、ファーガス﹂
﹁その人がさ、俺に聞くんだよ。﹃何で君は﹄って。その眼が凄い
887
強くてさ。総一郎に似てたっけな⋮⋮。だからあいつと俺は、仲良
くなれたのかな。どうしてもほっとけなくて。︱︱俺が止まれると
したら、あの時だったんだろうな。止まれなかったから、老人も殺
したし、五歳くらいの子供も殺した。その、五歳くらいの子さ、殺
した後に持ってたゲーム機を見たら、音ゲーがものすごい上手かっ
たんだよ! ハードモードがことごとく解放されててさ。俺が殺し
てなかったら、将来ミュージシャンになっていたのかもしれないな﹂
﹁ファーガス。だから、もういいって﹂
﹁俺に立ち向かってきた若い人も居たっけな。珍しくて、思わず殺
し方が残虐になった。あの時のドラゴンみたいに、四肢をそぎ落と
したんだ! それでも、その人は簡単には屈しなかった。すげぇっ
て思ったよ。四肢が全部なくなってダルマみたいになっても俺のこ
とを睨んできてよ。こんなところで死んじゃいけない人だって思っ
た。気づいたら死んでたけど﹂
﹁ファーガス! もういいって何度も!﹂
﹁それで好き勝手やってたら、俺みたいな﹃能力﹄を持った、俺よ
りはるかに強い女の子にぶち殺された﹂
﹁⋮⋮え⋮⋮﹂
﹁死ぬ間際に、正気に戻れた。その子にありがとうって伝えたら、
﹃心よりのご冥福をお祈りします﹄って、本当に悲しそうに顔で言
ってくれてさ﹂
﹁⋮⋮﹂
888
﹁あの時、俺は本当に救われたんだよ。だから、前世のことをあん
まり引きずらずに、今までやってこれたんだ。⋮⋮もっとも、この
﹃能力﹄が露見して、また難しくなり始めてるけど﹂
過ちを繰り返すことだけは、したくないんだ。ファーガスは、そ
ういって切なげに笑った。ベルは彼に縋り付き、震えながらしのび
泣く。
﹁⋮⋮俺、どうすればいいのかな。どうやったら、みんな死なずに
済むのかな﹂
﹁分からないよ。でも、君がどうしてその﹃能力﹄を使いたがらな
いのかが分かった。⋮⋮私からも、みんなに言う。もう君には、絶
対に使わせないから⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮ああ。二人で頑張って﹂
﹁はぁ? そんな甘っちょろいこと言って何とかなる訳ねぇだろ。
お前ら揃いも揃ってバカだな﹂
二人は同時に顔を上げた。その先には、いつも以上に舐め腐った
態度で自分たちをあざけるネルが立っている。
﹁⋮⋮ネル。今のは、許さない。ファーガスがどれだけ苦しんだと
思って!﹂
﹁知らん知らん。つーか、外野は黙っとけ。︱︱よう、ファーガス。
一部始終聞かせてもらったぜ。別に、信じるとか信じないとか、今
更無粋なことはいわねぇよ。聖神法で、嘘か真かくらいは簡単に分
かるしな﹂
889
﹁⋮⋮じゃあ、何のつもりだ﹂
﹁そうツンケンすんなよ。その﹃能力﹄、オレが引き受けてやって
もいいぜって話だ﹂
﹁⋮⋮﹂
ベルはファーガスと目配せして、ともに真偽判断の聖神法を行っ
た。だが、ネルは驚くべきことに嘘をついていなかった。ファーガ
スは、顔から表情の一切を失う。
﹁⋮⋮本当なのか? 俺の﹃能力﹄を、持って行ってくれるのか?﹂
﹁ああ、本当だとも。しかも、お前から受け取ったところでオレは
使えないことも分かってる。要はお前専用武器の譲渡って訳だ。ゲ
ーム好きなら、言いたいことわかるだろ?﹂
﹁この﹃能力﹄が、事実上この世から消え失せるってことなのか?
︱︱そんなことが、本当に⋮⋮﹂
ファーガスは、体を打ち震わせながらネルを見つめていた。ベル
はしかし、何かがおかしくはないかと疑って、ネルに問う。
﹁その方法を、君はどこで知ったんだ? いきなりそんなことを言
うなんて、不自然が過ぎるぞ、ネル﹂
﹁ンなもん本を読んだに決まってんだろ? ファーガスも言ってた
じゃねぇか。奴は奴よりはるかに強いオンナノコに殺されたんだろ
? つまるところ、ファーガスだけじゃねぇってこった。そりゃ何
890
かしらの情報は残ってるだろうさ﹂
﹁⋮⋮それに、行き着いたってこと﹂
﹁おうとも﹂
ネルは、泰然と口端を歪めている。だが、どうも違和感があった。
ベルの記憶では、もう少し彼は好感のもてる人間だったはずだ。し
かし、今はどうだろう。嘲笑が彼の本質にまで染み着いたかのよう
に、彼が不気味に笑っていない状況が想像できない。
﹁で、どうする? ファーガス。オレに一つ、任せてみるか?﹂
﹁本当なんだな? 本当に、この﹃能力﹄からおさらば出来るんだ
な?﹂
﹁ああ、約束しよう。ベルも、それでいいな?﹂
﹁⋮⋮出来ると、言うのなら﹂
﹁じゃあ、決まりだ。ファーガス。お前はこの瞬間から﹃能力﹄を
失う﹂
ネルが、ファーガスの頭に手を伸ばした。掴み、瞬間光が散った。
ファーガスは、手を見つめながら感嘆に声を漏らす。
﹁使えない。⋮⋮本当に、使えなくなった!﹂
彼の目からは、涙がこぼれていた。彼は心底嬉しそうにベルを見
て、震えた両手を伸ばしてくる。
891
﹁やった⋮⋮。やったよ⋮⋮、俺、あの﹃能力﹄が使えなくなった
⋮⋮!﹂
﹁︱︱うん。うん⋮⋮!﹂
先ほどまで疑っていたが、ファーガスが喜んでいるのなら問題は
ないだろうと、ベルはファーガスを抱きしめる。泣きじゃくり、足
腰が立たなくなっている彼が、愛おしくて仕方がなかった。ベルは、
これで何もかもがうまくいくのだと、大きな安堵を得る。
﹁⋮⋮ヒヒッ﹂
ネルの歪んだ笑い声は、そんな彼女の耳には入らなかった。
892
8話 我が名を呼べ、死せる獣よ︵1︶
新学期になった。ファーガスは、自らの事情を直接学園長に話し
た。彼女は少し驚いたように目を見張っていたが、しかしすぐに納
得して、﹁各教員に伝えておきます﹂とだけ言った。
幸い、オーガの一件以来事件は起きていないようだった。学園長
と話したのちにワイルドウッド先生と会ったときに、﹁生徒を当て
にしていた自分に気付いて、少し恥ずかしくなったよ﹂と彼は語っ
ていた。教員全員にそういうムードがあったらしく、これからは変
な意味で特別扱いしないから、安心して欲しいとのことだった。
肩の荷が下りた。ファーガスは、そのように感じた。騎士候補生
は、全員とは言わないまでも事情を聞きかじったものが居て、﹁何
だかごめんな﹂と上級生に謝られたとき、恐縮してしまったほどだ。
よくよく考えれば、ファーガスを祝う宴会をやろうと言い出した人
だった。
順風満帆。そのように思いながら、気持ちよく修練場にきた。早
朝である。久しぶりだと思った。今までは、色々あって来られなか
ったような気がする。
すると、先客がいたようだった。自分より、少し背が低い。しか
しその素振りの音は鮮烈である。少し怖いと思ってしまうほどの音。
聞き覚えがあった。
﹁⋮⋮ソウイチロウ?﹂
893
ファーガスの声に反応して、その少年はこちらを向いた。黒い髪、
東洋人らしい顔つき、しかし目はスカイブルーを思わせる蒼色だ。
彼はファーガスを認めて、﹁やぁ﹂と言った。
﹁久しぶり、ファーガス。今日も早いね﹂
ソウイチロウは、暢気にもそう言った。ファーガスは別れ際のこ
とを思い出して動揺し、どもりながら彼を問い詰める。
﹁い、いや。やぁ、じゃねぇだろ! は、はぁ⋮⋮? 何お前平然
とここにいるんだよ。あの時派手に消えてったのは誰だと思って⋮
⋮﹂
﹁あー、⋮⋮うん。あの後色々あって、持ち直したんだ。大丈夫。
これからは、喧嘩する前みたく気軽に接してくれるとありがたいな﹂
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは呆気に取られていたが、何故だか唐突に笑いが込み
上げてきた。そのまま、﹁この野郎!﹂と人差し指を突きつける。
﹁何だよお前! 人に小っ恥ずかしいセリフ吐かせときながら普通
に戻ってきてよ! ふざけんな!﹂
﹁文句を笑いながら言うからファーガスって憎めないんだよなぁ⋮
⋮﹂
二人でくつくつと笑った。その後ファーガスは、ノリでソウイチ
ロウに模擬戦を挑みボコボコにやられた。﹁あのドラゴンを一方的
894
にのしたのは使わないんだ﹂と言われたので、地面にあおむけにな
りながら﹁もう使えないんだ﹂と返す。
﹁そうなの?﹂
﹁ああ。実際、俺はあの﹃能力﹄が嫌いだったからな。ネルが使え
なくできるって言ってたから、してもらった。なんでも文献があっ
たんだとさ﹂
﹁んー、勿体ないとか言ったら怒る?﹂
﹁怒らないけど、ちょっと落ち込む﹂
﹁じゃあ言わないでおこう﹂
﹁ありがとよ﹂
お互いに笑った。笑っていると、良いことしか起こらないのだと
思った。
改めて、模擬戦を申し込んだ。次は聖神法あり、致死性なしのそ
れだ。ソウイチロウに異能なしで勝てると思うほど、ファーガスは
馬鹿ではない。
盾を前面に構えた。ソウイチロウは様子見なのか、こめかみ近く
で木刀を地面に垂直に立てたまま、ファーガスを鋭く見つめている。
盾に、触れた相手を麻痺させる聖神法をかけた。この方法なら、
彼に一矢報う事が出来ると思った。牽制として左腕を突き出すとそ
の盾を蹴ってきて、同時に表情を歪ませる。
895
﹁隙ありだ、ソウイチロウ!﹂
片手の両刃剣を、ファーガスはソウイチロウの胴へ振るった。紙
一重で避けられるが、追撃はできる。追い打ちで彼の懐に飛び込ん
で、返す刃で攻め込む。真剣での模擬戦上でのトドメの攻撃には、
衝撃霧散と相手の体を発光させる聖神法﹃コンバート・ライト﹄が
義務付けられている。光量測定の神具があって、一定以上の光を出
させる威力の場合、その時点で勝利となるのだ。
この聖神法は、非常に簡単に発動できる。ファーガスは心の中で
十字を切ってから、特殊な呼吸を経てソウイチロウに迫った。
その時、突然ファーガスの足がもつれた。完全に勝った気で走っ
ていたから、転ぶ勢いには凄まじいものがある。ソウイチロウを乗
り越えて、地面に墜落し背中を強打した。絶息し、しばらく動けな
くなる。そして、覆いかぶさる影。
﹁えいや﹂
聖神法も何もないただの突き。ファーガスはわざとらしく﹁げふ
っ﹂と言って脱力した。いい所まで行ったと思ったのだが、と悔し
さに歯ぎしりする。
﹁ふー、危なかった。ファーガスが予想以上に強いから、僕思わず
殺しにかかる勢いで反撃しちゃった﹂
﹁怖ぇよ! っていうか、それじゃあ今の足元狂ったの、ソウイチ
ロウの仕業か。痛みも何もなかったけど、一体どうやったんだ?﹂
896
﹁え? 辛うじて使える聖神法を君の足元に仕掛けておいただけだ
よ?﹂
きょとんとして、ファーガスは先ほど自分が転んだ場所を見た。
確かに、不自然な窪みができている。
﹁ファーガスは僕が聖神法苦手なのを知っているからね。特に小規
模に使えば、理解すらできないで追いつめられるのさ﹂
﹁大将やっぱこと戦闘になるとすげーっすわ﹂
﹁褒めても何も出ないよ、全く。⋮⋮そういえば退院祝いのチョコ
バーのお礼してなかったね。今日昼食にスコーンか何かを奢るよ﹂
﹁打ったらものすごい響いてびっくりしてるよ俺﹂
基本お茶目だよなソウイチロウと言うと、彼は頭を掻いて照れた。
その手には、かつてあった木刀を巻きつける包帯も、少し前につけ
られていた手袋もない。真の意味で彼は持ち直したのだと、少年は
嬉しくなった。
それから少しの間武術論を語り合っていると、ローラが来た。﹁
おう、久しぶり﹂と声をかけると彼女は欠伸をしながら手を上げる。
﹁あ、お久しぶりです、ファーガス。⋮⋮というか、ソー。待って
いて下さいと言ったのに置いて行くのは酷くはないですか﹂
﹁だってローレル、基本的に起きるの遅いじゃないか。偶に楽しみ
なことがあると早くに起きるけど。ほら、今だって眠そうにしてる
し﹂
897
﹁⋮⋮お前ら、いつの間に仲良くなったんだ?﹂
﹃え?﹄
二人の声が重なって、ファーガスは全てを察し腹を抱えて笑った。
ニヤニヤとしながら﹁ふぅん、へぇえ!﹂としきりに頷く。
﹁そうか。とうとうソウイチロウにも春が来たか! しかも相手が
ローラ! 仲悪いのかなとか思ってたら、この! このこの!﹂
﹁ちょっ、何、ファーガスがうざい! 何だろ、これ結構新鮮な感
覚!﹂
﹁何でちょっと喜んでいるのですか﹂
﹁ローレルもこっちに来て混ざりなよ! さぁ!﹂
﹁嫌です﹂
﹁さぁ!﹂
﹁ファーガスは黙っていて下さい!﹂
ローラを置いてけぼりに二人で笑っていると、彼女も陰で口元を
緩ませているのが見て取れた。何だかんだと言って、彼女は面白い
ことが好きなのだ。そうでなければ、ソウイチロウと本当に仲良く
なるなど難しいだろう。
ローレルの眠気覚ましに付き合うという名目で、修練場の端に三
898
人で並んで座った。ソウイチロウはまず、この学園の近況を聞いて
きた。彼は目立つのが嫌だからと、昨日は夜中に学園に戻って来た
らしい。
﹁まぁ、そうだな。去年の春に比べたら、全然雰囲気は良いぜ。ク
ラス同士のいざこざもなくなったし。仲が良くなったって程じゃな
いけどな。過ごしやすくなったとは思う﹂
﹁そこに僕が帰ってくるのか⋮⋮。みんな気の毒だな﹂
﹁いやいやいや。ネガティブすぎるぞソウイチロウ。お前ならざま
ぁみろの一言くらいあると思ってたが﹂
﹁人を勝手に底意地の悪いキャラにしないでくれよ。⋮⋮でもどう
だろ、やさぐれてた時なら言ったかもしれない。小声で﹂
﹁注釈が途轍もなく頼りないですよ﹂
﹁違うんだよローラ。ソウイチロウの場合は小声で言うとか言って、
多分普段通りの声で食堂のど真ん中とかで言うんだよ、こいつは﹂
﹁⋮⋮確かに想像できます﹂
﹁アレ? 二人とも僕の人物像おかしくない?﹂
﹁おかしくないおかしくない﹂
﹁これが正しい人物像です﹂
﹁⋮⋮ふーん。いいもん。二人してそんなことを言うなら、僕だっ
899
て考えがあるぞ。具体的にはグレてやる﹂
﹁具体性がどこにもないですが、微妙に恐ろしい気がするので止め
てください﹂
﹁コミカルだなぁ⋮⋮こいつ﹂
貴族の異様なまでの亜人嫌悪がなければ、もしくは彼が亜人でな
ければ、きっとソウイチロウはクラスの輪を超えた人気者になった
はずなのだ。だというのに、疎まれ蔑まれ、時には普段こうして話
している様子からは考えられないほど鋭い目つきで、木刀を翳さね
ばならない。
彼の異様な強さは、そこに起因するところも多いのだろう。それ
に気づいてからは、羨ましいと思うのは失礼だと考えなおした。ち
ょうど、他者から見たファーガスの﹃能力﹄と同じだ。すでにこの
手から失せているとはいえ、前世の記憶は色濃くどす黒い。その記
憶と改めて見つめ合ったからこその、この考えなのかもしれなかっ
た。
ベルやネルにもそれとなく伝えておくといって、他の生徒が来る
前に解散した。ソウイチロウは﹁ネルと仲直りしたの?﹂と首をか
しげていたが、それは時系列的にはソウイチロウとドラゴンの強襲
よりも前だったのは気のせいか。
翌日、いつも人気の少ないイングランドクラスの中庭にて。結構
ソウイチロウと仲の良かったベルは、彼の帰りに素直に喜んでくれ
た。﹁彼との話は興味深くてためになるんだよ!﹂と手を合わせて
900
いる。そんな素直な喜び方に少し嫉妬心を覚えて、ファーガスは少
し嫌なことを言ってしまった。
﹁じゃあ、ソウイチロウと話してた方が、ベルは今よりずっと素晴
らしい人間になれるって訳だ﹂
ファーガスのその言い様に、ベルはきょとんとした。彼女のそん
な無垢な反応に、ファーガスは我に返って﹁あ、いや、⋮⋮悪い﹂
と頭を下げる。するとベルは、ちょっと苛立ったように眉根を寄せ
て、﹁ファーガス﹂と名を呼んでくる。
﹁﹃俺は嫉妬男だ﹄ってほっぺに書くから、目を瞑って﹂
﹁ごめん、本当にごめん! 謝るから止めろ!﹂
恐ろしい復讐に、ファーガスは少々冗談交じりで竦みあがった。
すると、ベルはジト目のまま真っ直ぐファーガスを見つめ続ける。
﹁それなら顎に、﹃嫉妬﹄って﹂
﹁え? ちょっと待ってくれ。冗談じゃなかったのか﹂
動揺に揺れるファーガス。冷や汗が背中を伝う。
﹁じゃあ、おでこに﹃俺はクリスタベルを愛している﹄って﹂
﹁⋮⋮か、髪が伸びるまで待って﹂
非常に吟味して、あまり拒否をしてもさらに怒るかもしれないと
条件付きで了承したら、ベルは何故かちょっと頬を赤くした。﹁不
901
意打ちをされるなんて思ってなかったよ⋮⋮﹂とうつむいて何やら
言っているが、その真意はファーガスには測りかねる。
﹁もういいよ、冗談だから。今の内に言っておくけれど、ファーガ
スは私の事を舐めてるよ?﹂
﹁⋮⋮どういう事だ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮こ!﹂
ベルは、その一文字目を言うのにひどく勇気を費やしたようだっ
た。しかしそこにまで至った彼女にはもはや気負いなどと言うもの
は見受けられず、ぐん、と伸び上がった体に驚いて仰け反ろうとし
たファーガスは、ベルの腕に抱きしめられて逃げ場をなくす。
そして、唇と唇が触れ合った。
﹁⋮⋮こ、こういう、事⋮⋮﹂
﹁⋮⋮!﹂
触れるだけの軽い物だった。しかし、唇を話した時のベルの顔は
真っ赤で、それがファーガスにも伝染していく。
﹁⋮⋮迷い込んだ先はワンダーランド﹂
﹃止めろ!﹄
ファーガスとベルは顔を盛大に紅潮させて怒鳴った。ニヤニヤと
した登場が非常に腹立たしい。ソウイチロウは﹁二人とも、相変わ
902
らず隙だらけだなぁ⋮⋮﹂と微笑ましげに椅子に座る。﹁二人とも
お似合いのカップルで羨ましいです﹂と純粋に羨んでいるらしいロ
ーラも一緒だ。
対するこちらの陣営は酷い物である。ベルなどは勇気を振り絞っ
た挙句に赤っ恥をかいたという致命傷っぷりで、顔を抑えて洒落た
丸テーブルに突っ伏してしまった。ファーガスもベルほどではない
が、大分恥ずかしさにやられている。
ここで反撃をしておかないと、ヤバい。ファーガスはローラの台
詞を糸口に、攻めの一手を繰り出す。
﹁ソウイチロウとローラも結構仲良さそうだったけどな﹂
そのように言うと、ソウイチロウは照れたように破顔して、﹁そ
うかな?﹂と言ってくる。対するローラは淡々としたものだ。﹁は
い﹂と頷くばかりである。⋮⋮相も変わらず気の強い。
﹁すごい⋮⋮。この子相手を目の前にして断言したよ。何この肝っ
玉。ベルも見習ったら?﹂
﹁恥かかせた張本人がそういうことを言わないでよ!﹂
﹁確かに我ながら、相当来るのが早かったとは思うけどさ⋮⋮。正
直先に来られてるなんて微塵も予想してなかったし。でも用心して
もう少し奥に行くくらいの気は利かせた方がいいと思、﹂
﹁冷静に分析しないでよぅ⋮⋮﹂
恥をかき、文句を言い、冷静に返され、恥をかく。赤っ恥スパイ
903
ラルである。
帰ってきたソウイチロウは、何処もおかしな様子がない。そのこ
とに、ファーガスは安心する。色々と不可解なことはあるが、それ
でも日常は帰ってきたのだと。
それから、皆で話をした。すると気づかないうちにアメリアもベ
ルの膝の上に居て、空気が一気に解けた。楽しく、愉快な時間だっ
た。今度は、ネルやアンジェも誘おう。︱︱ファーガスにとって、
この時が幸せの絶頂だった。
904
8話 我が名を呼べ、死せる獣よ︵2︶
ソウイチロウが学園に帰ってきたという噂は、恐ろしいほどの速
さをもって学園中に広まった。
眉を顰める者。恐れる者。殺意を露わにする者。大まかに分けて
も、好意的な反応を示したものはいなかった。ファーガスの仲間は、
別としても。
そのことを忠告したが、ソウイチロウはあまり気にしていないよ
うで、﹁つまり、いつも通りってことでしょ?﹂と安穏と笑ってい
た。その余裕は、かつて目の据わっていた彼を思うと頼りに思えた
が、しかし不安はぬぐえなかった。
ファーガスは﹁頼むから気を付けてくれよ?﹂と忠告して、さら
に少し話してから彼と別れた。最近、ソウイチロウと話す時は、人
気のない場所でやる。互いに話し合って決めた事だ。提案したのは
総一郎だった。
自分よりも、他人の方が大事なのだ。ファーガスに害が及ぶのを、
ひどく恐れている。利他的なようで、それは自分だけなら何とかな
るという傲慢さでもあった。いつかそれがソウイチロウの身を滅ぼ
すような気がしていて、少年は気が気でないのだ。
﹁はぁ⋮⋮一難去って、また一難ってか﹂
ソウイチロウとローラとの密会を終えた帰り道だった。時間は八
時過ぎ。寮の門限は九時ほどなので、急ぐほどでもないが、買い物
905
に行けるほどでもないという時間帯だった。
歩いていると、鳥の鳴き声が聞こえた。雪も溶け、すでに春にな
っていた。陽気というほど暖かくはないが、幾分か過ごしやすくな
った。
ファーガスはふとこのまま帰るのが勿体なく感じて、立ち止まっ
て壁に寄り掛かった。学園の校舎は、光の入りやすい構造になって
いる。だから日中は電気をつけずとも明るいのだが、それは月の光
でも同じことのようだった。
壁の模様や、ステンドガラスが月光に淡く輝いている。ファーガ
スは、自然が好きだった。昔はそうでもなかったのだが、師匠との
訓練の中その魅力に気付いた。
師匠とは、ベルの実家を離れる際に和解できたと思う。使えなく
なったと言っておどけると、彼は数秒の硬直を経て抱腹絶倒した。
きょとんとしたのはファーガスである。そんな反応が返ってくると
は考えていなかったのだ。というか、どんな反応なのか予想がつか
なかった。
ベルとの交際は︱︱どうなのだろうとファーガスは考えてしまう。
ベルパパは、ファーガスに対する態度を一切変えなかった。冷静沈
着にして、厳しい言葉を浴びせる。後者はなくなったが、その材料
がなくなっただけという見方もできた。
再び、歩き始めた。この時間帯では、ベルに会いに行くことも難
しいだろう。素直に寮に帰るつもりだった。しかし、人の気配に立
ち止まる。
906
荒々しい雰囲気だった。索敵に引っかからない為の聖神法をかけ
て、用心しながら進んでいく。
﹁⋮⋮とうとう、始まるな﹂
﹁ああ。確認だが、部屋の番号は何だったか﹂
﹁2010。スコットランドクラスの奴らには話は通してあるんだ
よな?﹂
﹁ああ、もちろん。俺の役割だったからな。そういえば、イングラ
ンドクラスの方はどうなってた?﹂
﹁協力者は増えなかった。ったく、奴らは危機管理能力がなさすぎ
るんだ! 山狩りの時からそうだった。実害がないからって、ブシ
ガイトのことを放置している。いつか奴に脅かされるのは分かって
いるというのに、全く!﹂
ファーガスはその会話を聞いて、またか、と思っていた。どうせ
ソウイチロウにかかれば一網打尽だ。しかし、そのように思い込ん
でいたのを彼らの雑談が打ち壊す。
﹁奴の部屋一帯を爆破するんだっけか? 派手なことをやるよな。
そして、それを防御の聖神法で漏れなく防いで、奴とその部屋だけ
がボロボロになったところを叩く。防音も完璧だから、夜明けまで
に修理を済ませてしまえば問題はない。奴には判断材料がないから
未然に防ぐ手だてもない。上手い作戦だよ、本当﹂
﹁確かにな。爆発の聖神法の威力を倍以上に引き上げる神具なんて、
よく作れたもんだよ。やっぱり、人間必死になれば何でもできるん
907
だろうさ﹂
からからと、彼らは笑った。思わず、腕に力を入れかけているこ
とに気が付いて、ファーガスは呆然とした。今のは、﹃能力﹄発動
の所作ではなかったか。
﹁⋮⋮﹂
ネルに封じられていて、本当に良かった。身近に使うという事に、
慣れかけていたのだ。ファーガスはむしろ緊張がほぐれて、耳を澄
ませることに集中できた。片手に携帯を用意し、ソウイチロウに連
絡を入れる。
しかし、電波が悪いのか送信できなかった。歯がゆい思いをして
いると、ソウイチロウを襲撃しようとしている上級生たちが再びし
ゃべりだす。
﹁⋮⋮そういえば、グリンダーはどうだった。了解はもらえたのか
?﹂
ファーガスは身を竦ませた。今の自分は、彼らに挑んでも勝つこ
とはできないだろう。一方的にやられるに決まっている。無力ゆえ
の恐怖心というものに彼は慣れておらず、常人以上の恐怖が彼を襲
った。
しかし、了解とは何なのか。その答えは、耳を澄ませば聞き取れ
た。
﹁いいや。そもそも、言っていない。前に、ブシガイトと仲良くし
ているイングランドクラスの騎士候補生の話があっただろ? あれ
908
がグリンダーなんだよ﹂
﹁そうなのか!? いや、でも⋮⋮﹂
﹁まぁ、気持ちはわかる。あいつはこの学園の恩人だからな。友人
の殺害を強いるのも酷だと思って、何も知らせず事を進めることに
なった。天才児の方には声をかけたんだが、乗ってくれなかったな﹂
﹁天才児⋮⋮。ああ、ナイオネル・ベネディクト・ハワードか。あ
いつは気にしなくていい。気まぐれなことで有名だから。カーシー
先輩⋮⋮いや、今は先生って言った方がいいのか? あの人も結局、
懐かせきれなかったって言っていたし。今は疎遠だと﹂
﹁へぇー。しっかし、ドラゴンに立ち向かって無事に帰って来られ
たら、すぐに教育実習生として騎士学園に戻れるんだな﹂
﹁あの人の場合は特別だ。後輩の面倒見も良かったし、大学の方も
そのまま進んでいるらしい。二日に一回教官の補佐をやるって聞い
たから、そうすれば会えるぞ﹂
ファーガスが物陰から覗き見ると、話しているのは数人だけだっ
た。他には人がいないが、スコットランドクラスの方へ、一定の間
隔で誰かしらが立っている。見張りなのだと推察した。怖いくらい
に徹底している。
ファーガスはなおさら焦って、ソウイチロウにメールを送信した。
だが、届かない。直接知らせようにも、この状況では不可能だった。
﹁ここ、電波が入らないのか? くそ、なら一旦、寮に帰った方が
都合もいいか⋮⋮﹂
909
息を殺しながら、忍び足で寮の方角へ戻った。時には迂回し、時
には平然と見張りらしい上級生に挨拶しつつ、自室を目指す。そし
て扉を閉めた瞬間、急いで携帯を開いた。再送信。返信は、すぐに
来た。
﹃大丈夫。すでに返り討ちにしたから﹄
﹁は?﹂
ファーガスは、ぽかんと口を開けた。少年の中では、逃げてきた
ソウイチロウを自室で匿うまで考えていたのだ。そういう考えがあ
っての帰宅だったが、拍子抜けしてしまった。
安心して、ファーガスはベッドの上で四肢を伸ばした。力を入れ、
脱力する。そうだ、と。ソウイチロウに限って、心配するだけ無駄
なのだと。
だが、不意に気になってしまった。ソウイチロウは、何故上級生
たちの攻撃を察知できたのだろう。彼は別に、自分が全く理解でき
ない超人という訳ではない。優れた技術を持ちこそすれ、人間の範
疇には収まっている。
なのに、何故襲撃を知れたか。
﹁いや、それを言ったら、あいつ前に、ドラゴンを全滅させるなん
て言わなかったか?﹂
しかも、以前に会った時、それをほぼ実現させたかのような口ぶ
りだった。今まで、なぁなぁで流してきた部分。彼は、いったい何
910
者なのだ?
﹁親友だっていうのは揺るぎないにしろ、⋮⋮﹂
自分の﹃能力﹄には遥か及ばなかった。しかし個人の戦闘能力と
しては有り得ないほどのものがあった。強い。また、それだけでは
ない。そこには尋常ならざる苦難と努力があったはずで、それを改
めて感じ、羨ましいと思うのは失礼だと思い直したのだ。
けれど、それほどの強さ。どうしても危ういと感じてしまうのは、
ファーガスがかつてそうだったからか。
何故ソウイチロウがそれほどまでに至ったのかには、触れようと
は思わない。だが、この状況。破滅の︱︱血にも似た、匂い。
上体を起こす。俯いて、親友を想う。
﹁⋮⋮ソウイチロウ、頼むから、俺の二の舞になるのだけはよして
くれよ﹂
下唇を噛んだ。病院で見た、あの陰惨な夢のことを思い出した。
魔法。かつて日本でソウイチロウが自在に使っていたのを、直接
聞かされるまでファーガスは全く思い出さなかった。
案外さらりと、ソウイチロウは魔法を使ってドラゴンを殺したこ
とを暴露した。その場にいたのはファーガスとソウイチロウ、そし
てローラだけで、彼女もすでに知っていたのだという。
911
魔法の使用は犯罪ではないのか。そのように問いただしたが、必
要悪であるという答えが、酷く冗談めかして返されたのみだった。
彼の元々の立場の事もあって強くは出られず、心の奥の奥に靄が溜
まるのを承知で、彼の軽快な会話に付き合った。
彼の強さがなんであるのかだけは、分かることができた。しかし、
それだけだという気も、ファーガスにはしていた。
ソウイチロウが大勢の上級生たちを返り討ちにしたという噂は、
ほとんど広がることはなかった。
何故とも考えたが、今はきっとなにがしかの魔法を使ったのだろ
うと踏んでいた。
人の心を、魔法で操る。
かつてファーガスが犯した過ちと、寸分違っていない。
考えながら、歩いていた。放課後である。暖かな気候である。本
格的な春になったのだ。今日は魔法陣を使ってすぐに山へ向かうの
ではなく、小さな橋などを渡りつつ、ゆっくり行こうと決めていた。
この時期は、サークルが不人気になる。冬の中枯れていた草木が、
春の訪れとともにパッと緑鮮やかに萌えたって、道が彩に満ち溢れ
るからだ。本来転送陣を介さない山への道などは騎士候補生用に考
慮されておらず、途中には農場なんかがあったりするものだから、
むしろ春の良さが際立つというものだった。
そんな中、亜人ではない可愛らしい子ウサギやまばらに散らばる
912
羊たちを見ると、騎士たちはいやが上にも癒されるのである。ファ
ーガスなんかは祖父が大農場の主だったりするので、動物は慣れ親
しんだ友人ともいえた。
﹁とはいってもこれはなぁ⋮⋮﹂
彼の背後にはメーメー五月蝿い羊たちが、老若男女構わず列を為
して付いて来ている。不思議と好かれる性質なのだ。羨ましがられ
るが、欲しいのなら譲ってやりたい。
周囲には彼の他にも騎士候補生が数人居た。そこにメーメー五月
蝿い大群を引き連れたファーガスが立っていれば、当然注意をひく。
﹁え、あれ何? あの先頭の子何してんの?﹂
﹁つーか、あれグリンダーじゃないか? ほら、あのドラゴンを倒
して俺たちを救ってくれた⋮⋮﹂
﹁でも、何であんな事に?﹂
﹁いや、それは俺も知らないけどさ⋮⋮﹂
ファーガスは立ち止まり、今すぐ引き返して転送陣で移動しなお
すかどうかを真剣に吟味し始めた。するとそこに、喜色に富んだ声
が聞こえてくる。
﹁は? 何やってるんですか、ファーガス先輩﹂
﹁アンジェ⋮⋮﹂
913
振りかえると、口をあんぐりとあけた少女の姿があった。久しぶ
りの再会がこれというのは、何とも間抜けな限りである。
﹁凄いですね⋮⋮。何ですか? フェロモンでも出してるんですか
?﹂
﹁知らねぇよ。昔からこうなんだ。じいちゃん家が酪農家でさ﹂
﹁へぇ、だからファーガス先輩って偶に臭かったんですね﹂
﹁総員、アタック﹂
﹁ぷっ、なんですか? もしかして先輩羊操れるんですか! 凄い
ですねって⋮⋮、え? 本当に羊がなんかこっち向いて⋮⋮、え、
嘘でしょ? ちょっ、ストップ! 待って。ごめんなさい!﹂
﹁総員ー、止まれっ﹂
ぴしっ、と急ブレーキの羊たちに、アンジェは怯えた上目づかい
でファーガスを見つめた。向かって、少年は言う。
﹁命拾いしたな﹂
﹁何かファーガス先輩が怖くなってる!﹂
失敬な。
ともあれ久々の再会である。彼らは冬休みの出来事に花を咲かせ、
そのまま適当にオークなどを数匹狩ってから帰宅を始めた。気づけ
ばもう夕方である。あまりに時間の流れが早い。きっと冬休みに亜
914
人を狩りすぎたせいだ。
欠伸をしながら夕焼け道を歩いた。アンジェはまだ話足りないら
しく、自分の出来事を意気揚々と語っていたが、ある時に少し調子
を変えて、このように訪ねてきた。
﹁そういえば、ファーガス先輩。最近なんか周りが騒がしいんです
けど、あれってどういう事なのかわかります?﹂
﹁⋮⋮それを、何で俺に?﹂
﹁同級生に聞いても誰も知らないって言っていまして、更にはネル
先輩に聞いたら﹃ファーガスが一番詳しいぜ﹄って﹂
ひく、と口端を引きつらせるファーガス。次の模擬戦では容赦し
ない。
﹁⋮⋮俺の友達がさ、ちょいと、嫌われてるんだよ﹂
﹁ちょいと、ですか﹂
﹁ああ、ちょいと、だ﹂
﹁余談ですけど私は血眼で﹃ブシガイト殺す﹄を連呼する上級生を
少なくとも十人強見ているんですが﹂
﹁⋮⋮ちょいと嫌われているじゃないな。ちょいと憎まれている、
だ﹂
﹁凄く嫌われているよりもどす黒い感はありますね﹂
915
﹁でもいい奴なんだぜ? まぁ天才肌のくせに結構抜けてるってい
う妙な奴なんだけど﹂
﹁そんな人柄のお方がちょいと憎まれるなんて想像が付きませんけ
れども﹂
﹁⋮⋮まぁ、何ていうんだ? うん、日本人だからさ﹂
﹁ジャパニーズ? ジャパンっていうと⋮⋮スシ、フジヤマ、ゲイ
シャガールにハラキリで有名な﹂
﹁お前の日本に対する知識の前時代っぷりに俺だいぶ驚かされたよ﹂
﹁あと亜人大国でもありますよね。あんな理性も知性もない奴らと
組んでどうやって社会を成り立たせてるのかと思いましたけど。何
であの国栄えてるのかよくわかりません。あっ、でも数年前滅んだ
んですよね!﹂
﹁元気に言うんじゃねぇよ! というか滅んでないし。一昔前のユ
ダヤ人みたいになってるけど、天皇家もまだ続いてる﹂
﹁で、そのジャパニーズは何でそんな嫌われ、あっ﹂
﹁ネルといいお前といい察しがいいよな⋮⋮﹂
ハーフなんだよ、と言うと、﹁ちょっと会わさせてもらってもい
いですか?﹂と彼女は聞いてきた。ファーガスはあっけに取られて
黙り込む。しばらくして、問い直した。
916
﹁いずれ紹介しようとは思ってたけどさ。自分から言い出すっての
は、一体どういう⋮⋮?﹂
﹁そりゃ、興味湧くじゃないですか。一応人を見る目のあるファー
ガス先輩に持ち上げられてるのに、世間的には評判滅茶苦茶悪い人
︱︱なんて、ねぇ﹂
﹁いや、相槌求められても困るけど。と言うかお前俺のことおだて
てないか?﹂
﹁いえいえそんな。ほら、試しにネル先輩のことをどう評価してる
のか教えてくださいよ。 十年来の幼馴染かつ従妹の私が判断して
あげましょう!﹂
﹁性格の悪いクズ野郎。まぁ感謝の言葉を言える程度にはしっかり
してるけどな﹂
﹁ほら、大当たりじゃないですか! 後半除けば!﹂
﹁オレが何だって?﹂
﹁ひぃっ﹂
突如として現れたネルに、アンジェはおびえた声を漏らす。ファ
ーガスは片手を挙げ、﹁おう﹂と呼びかけた。
﹁冬休み以来だな。⋮⋮で、その服の液体なんだ?﹂
﹁亜人の返り血。っつうかよ、お前らオレの陰口叩いてたろ。なぁ
? アンジェ﹂
917
﹁めめめめめ、滅相もないですよ! ほら、ね? あは、あははは
ははは﹂
﹁﹃性格の悪いクズ野郎。まぁ感謝の言葉を言える程度にはしっか
りしてるけどな﹄﹃ほら、大当たりじゃないですか! 後半除けば
!﹄﹂
﹁一部始終聞かれてた!?﹂
﹁俺のはフォロー入ってるだろ? 普通に本音だし﹂
﹁ちょっ、ファーガス先輩落ち着きすぎじゃないですか!? 慌て
てるの私だけ?﹂
﹁だからテンション高くなってるんだろ、春だから﹂
﹁頭ン中がな﹂
﹁ウッ、傷ついた。傷ついたからおあいこってことで折檻はなしの
方向で⋮⋮﹂
﹁ならねぇよ、クソ女﹂
﹁じゃあ俺先行ってるな?﹂
﹁えっ、ちょっ、平然と置いて行かないでください! え? 嘘で
すよね? ファーガス先輩⋮⋮?﹂
ファーガスは振り返らずに歩き続けた。背後からの﹃裏切り者︱
918
︱!﹄と言う声は、きっと山彦か何かだったのだろう。
ソウイチロウに会わせてやろう、とだけ遠い目で改めて誓った。
919
8話 我が名を呼べ、死せる獣よ︵3︶
ソウイチロウとアンジェの、初めての対面だった。
年下の少女を安心させようとしているのか、ソウイチロウは表情
を微妙に緩めている。対して、アンジェは少し緊張気味だ。しかし、
思い返せばファーガスとの邂逅もこんな感じだったような気がする。
﹁えっと⋮⋮。どうも、初めまして。アンジェラ・ブリズット・⋮
⋮えー、うん。よろしくっ﹂
ソウイチロウ、ミドルネームが若干違う上にファミリーネームを
度忘れしやがった。﹁ブリジット・ボーフォードだ!﹂と小声で知
らせてやるが、アンジェは気にしていないのか何なのか、満面の笑
みかつ緊張の震え声で、かなりの大声であいさつしだす。
﹁ソーチル・ブズィガード先輩ですね! 初めまして!﹂
こっちの名前間違いも相当だった。溜息ばかりが出るファーガス
だ。
﹁⋮⋮という訳で、ソウイチロウ。こいつはアンジェだ。アンジェ
って呼んでやれ。で、アンジェ。こいつはソーチルじゃなくソウイ
チロウだ。呼びにくいならソウとかロウとかそんな風に呼んでやれ﹂
﹁分かりました、じゃあ合わせてソウロウ先輩で!﹂
﹁⋮⋮かつてなくファーガスからの悪意を感じてるんだけど、僕﹂
920
﹁ごめん。これは全く意図してなかった事故だ。だから木刀を握り
しめないでくれ。いやほんと、頼むから﹂
日本語が分からないアンジェは訳も分からず首を傾げている。対
して少年二人は近距離での鍔競りあいと洒落こんだ。当然息切れの
しないソウイチロウが勝つ。次いでボッコボコにされる。
﹁ファーガス先輩がいとも簡単に⋮⋮。噂には聞いてましたが、ヤ
バいですね。ソウロウ先輩﹂
﹁ソウ先輩って呼んでほしいな。呼びにくいでしょ?﹂
﹁ひっ、はい! 了解いたしましたソウ先輩!﹂
﹁うんうん。素直ないい子だ。後輩ができるっていうのも、久しぶ
りで何だか新鮮な気持ちだね﹂
ねぇファーガス。と声がかかる。それに、地面にキスしていたフ
ァーガスは辛うじて﹁そうだな⋮⋮﹂と返すことができた。打ち据
えられた患部をさすりつつ、起き上がる。
﹁クッソー。搦め手なしの試合じゃ敵なしだな﹂
﹁ううん。むしろ搦め手の方が得意だよ? 僕は﹂
﹁⋮⋮恐ろしいことを言うんじゃねぇよ﹂
そういえば以前、格言的なものを聞かされた覚えがあった。何だ
ったか。確かベルが言っていたような気がする。
921
﹁⋮⋮まぁ、﹃常に背後を注意しろ、木の上に影が見えたらブシガ
イトだ﹄。で有名なソウ先輩ですからねー﹂
﹁それだぁ⋮⋮﹂
まっこと油断ならない遣い手である。
そんな訳で、親睦会を称してファーガス、ソウイチロウ、アンジ
ェの三人で狩りと相成った。ベルやローラは、久しぶりに二人で街
に出かけるのだという。
ファーガスが、仕組んだことだった。
会話や相談などの摺合せ上に、この親睦会は成り立っていた。と
いうのも、ただでさえ出不精のローラが、ソウイチロウを心配して
﹁一人にしておくのは不安なのです﹂と過保護な母親みたいな理由
でベルの誘いを拒否したのだ。
違和感を覚えたのは、最近の事だった。早朝の修練で、頻繁にソ
ウイチロウとローラに会えるようになった。彼らは、朝と夕方以外
の時間では会おうと思っても会うことができない。どうやらいつも
一緒に行動しているようで、見る度に仲良くなっているように見え
る。
と言うのは、ひどく優しい表現だ。
共依存。手をつないで現れた二人を見て、ファーガスはその言葉
を思い浮かべた。今日は少年の前では離していたが、それでも数日
しないうちに自分の前でもつなぎ続けるようになるのだろうとファ
922
ーガスは確信してしまう。何かあったのか。訝ったが、その話題に
触れることはできなかった。
ただ、何となく嫌な予感がした。
だから、少しでいい。二人を引き離したくなった。
当事者全員、特にローラから入念に聞き込んで、ローラ自身がベ
ルと外出したがっていない訳ではない事を明確にさせた。ならば都
合の良い形で計画を立てようという話に運び、皆で話し合った結果、
﹁ファーガスに任せられるなら安心です﹂との許しを得たのである。
正直、満足がなかったわけではないが、それより徒労感が強かっ
た。
ソウイチロウが﹁どっちでもいいよ﹂スタンスな事に一層腹が立
った。
結局色々とモヤモヤして、ファーガスはこっそりとソウイチロウ
に尋ねると、こんな回答が返ってきた。
﹁自分で言うのも何だけど、ローレルは僕に惚れ込んでくれている
んだよ。そして、逆も然りってね﹂
驚くほど盛大に惚気られた。ムカついたので殴ったら、全く避け
なくてびっくりした。びっくりついでのクリーンヒットである。ソ
ウイチロウは死んだ。二秒後には生き返ったが。
そんな事を考えつつ歩いていると、﹁ボーっとしてたらヘル・ハ
ウンドに狩られるよ﹂と忠告された。背筋に悪寒が走って、身を引
923
き締める。
ファーガスたちが歩いているのは、第六エリアだった。
ソウイチロウのポイントは、桁が違った。寒さをしのぐためにた
め込んでいたヘル・ハウンドの毛皮やその他諸々をすべて提出した
ら、第十エリアまで解放されたのだと。
ヘル・ハウンドの毛皮は、一度に得られる量が多ければ多いほど、
その価値を増していく。と言うのも、彼らの骸はそう長く保管でき
るものではなく、大量に得られる機会が少ないのに加え、群れが多
ければ多いほど困難な相手となるからだ。
さらに言えば、少量でも多少の加工材料になるが、大量に縒り合
わせて外套を作ると、触れた敵のみを爆発させられるヘル・ハウン
ドそのものの効果を持つ超高級装備品となるのである。そのため、
今のソウイチロウは大富豪である。と思ったのも束の間、大量の装
備品を買うので、現在はほとんどスッカラカンであるらしい。
﹁いやぁ、珍しい効果のある装備品を買い占めていたら、気づけば
二ポイントしかなくて。面白い物ばっかりで研究のし甲斐があるよ。
あ、あらかた調べ終わっちゃった奴とかは、いらないから処分しよ
うと思ってるんだけど、折角ならファーガス使ってくれない?﹂
そんな話があったので、現在ファーガスはヘル・ハウンドの外套
を着込んでいる。これがあれば、奴らに突撃されても爆発しないの
だ。もちろんほかの種族なら当たればあちらだけ爆発する。反動は
微小な安全設計だ。ついでに言えばアンジェも着込んでいた。
そうしていると、噂をすれば影が差すとも言おうか。ヘル・ハウ
924
ンドたちが、大体十匹ほど群れになってファーガスたちを取り囲ん
できた。ソウイチロウだけは外套を着こまず木刀を構え、ぐるりと
周囲を見回してぽつりと呟く。
﹁グレゴリーは、⋮⋮いないね。よし、狩りだー!﹂
猫のいない間にネズミは遊ぶ、と言うことわざを思い出した。何
とも情けない話である。
﹁狩りだー!﹂
とはいえノリの悪いファーガス、アンジェではない。二人して前
のめりでそれぞれの得物を構える。﹁教えた通り、攻撃には全て聖
神法をかけてね﹂と言われ、﹁おう!﹂と持続性の高いアイルラン
ドのそれを掛けた。
乱戦が、始まった。
ファーガス、ソウイチロウが前に出て、アンジェが木々の合間に
隠れた。前者二人はそれぞれ個々に立ち回り、アンジェは隙を見つ
け次第遊撃と言う戦法だ。
ベルやローラなどの遠距離型の人間が居ればもっと布陣も違った
だろうが、全員近距離のアタッカーとなればこんなものである。
しかし、それにしても剣、盾に聖神法をかけ、ヘル・ハウンドの
外套をかぶった状態での奴らは弱い。普通の狼と対峙しているのと
変わらないと思ってしまう。奴らが木などにぶつかって意図的に起
こした爆発さえ、この外套はものともしないのだ。
925
正直、安全すぎて退屈なほどである。
だが、とファーガスは余裕綽々でヘル・ハウンドを切り捨てつつ
総一郎に目をやった。
﹁あいつ、何にも着てないのになぁ⋮⋮﹂
盾もなく、武器はファーガスの剣より少し長い程度の木刀だけだ。
しかし、その動きは惑う所のない滑らかなものである。一振りする
ごとに、ヘル・ハウンドたちが血煙を上げて緑に萌える草花を濡ら
していく。
﹁帰るころには億万長者ですね、ファーガス先輩﹂
敵意のない背後からの気配に、﹁そうだな﹂と笑った。然るべき
装備かあれば、ここまで難敵を狩るのが簡単なのだと思い知らされ
た。
今まで量産品の最も安い武器しか買ってこなかったファーガスだ
から、次からはもっといいものを選ぼうと思った。
とはいえ、ひとまず今はソウイチロウの処分物を借り受けておこ
う。
ソウイチロウは、夕方になっても帰ろうとしなかった。﹁パーテ
ィを解けば、僕は第十エリアまで解放されているから﹂と微笑む。
どうやら、狩りを続けるつもりらしい。疲れ知らずだなと半ば呆れ
つつ、﹁了解、ギルド着いたら伝える﹂とタブレットを掲げて別れ
926
た。
翌日、彼と遭遇することは出来なかった。
その代わりに、ベルとゆっくりする時間が取れた。
ローラとのお出かけの話を聞かされた。映画に誘われて、久々に
見たら楽しかったとか。その後に寄った喫茶店のケーキが物凄く美
味しかったとか。平凡で、楽しそうな体験を。
そんなエピソードの中で、﹁夕方になると、何故だかソウの事が
不安になってしまったみたいでね。残念だけど仕方がないから、帰
宅を早めたんだよ﹂と言う話は、酷く際立って思えた。アメリアの
か細い鳴き声から、何かを伝えようとしている意思すら感じられた。
その、数日後の事。ファーガスは、ソウイチロウと早朝に遭遇し
た。様子が、どこかおかしかった。疲弊のようで、何かが違う。ほ
つれと言うと、しっくりきた。
それほどまでに僅かで、不可解な違和感だった。
いつも通りソウイチロウと模擬戦をして、その後数十分話をして
別れた。ローラは付きっ切りでソウイチロウについて回り、顔色こ
そ変えないものの、ファーガスは気味の悪い感じを受け続けた。ソ
ウイチロウもどこか、彼女を必要としている雰囲気があって、嫌だ
った。
ただ、お互いを好きあっているだけならば、きっとファーガスは
辟易しつつも嫌悪を抱くことはなかったはずなのだ。
927
彼らの距離の近さが酷くもどかしくなって、居てもたってもいら
れず、昼休みに簡単に昼食を済ませた後に二人のことを探し始めた
ことは、我ながら狂的でもあった。
自分がおかしかっただけだったなら。その様にファーガスは思っ
てしまうのだ。
スコットランドクラス。その、図書館にいつもいると聞いていた。
スコットランドクラスの図書館は他の二クラスの物に比べて立派だ。
修練場をほぼ使わないという点も考慮されているのだろう。
幸い、ファーガスはどのクラスの人間からも邪険に扱われるとい
う事がない。元居たクラス、今のクラス、そして来年入るだろうク
ラスであるから誰もが温かい。
スコットランドクラスの図書館に入り、誰か居ないかと探した。
彼らが魔法による隠れ蓑を使っているのは知っていたが、自分の姿
が見えれば解いてくれるだろうという打算もあった。
しかし、居ない。念を入れ全ての席を触れるという奇行を起こし
ても、見つからない。
﹁⋮⋮飯でも食いに行ってんのかな﹂
ファーガスが口に出した言葉は、安穏としている。その反面、彼
が抱く感情は激しかった。追われるような気持をこらえて、小走り
にスコットランドクラスを探し回る。
その途中、声がかかった。
928
﹁やぁ、これはこれは英雄殿。よくぞここまで来たね。どうしたん
だい?﹂
﹁お前は⋮⋮グレアム、だっけ?﹂
﹁ああ。ギルバート・ダリル・グレアム二世。君には少し長かった
かな?﹂
﹁いっつも小馬鹿にしてくれるよな⋮⋮。ネルとは少しベクトルが
違うけどよ﹂
﹁まぁまぁ、天才児と名高い彼と比べられるのは光栄だけれど、と
りあえず世間話はこのあたりにしておこうか﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
自分から切り出すつもりだったが、先手を取られてしまってファ
ーガスは少し戸惑った。﹁ブシガイトのことだろう?﹂とグレアム
は言う。
﹁二階の詠唱室に行くと良い。そこで、面白いことが起こっている
よ﹂
詠唱室? と聞き返すと、﹁そういう教室がスコットランドクラ
スにあるのさ﹂とだけ告げて、彼は去って行った。いろいろ問い詰
めたかったが、やむを得ずファーガスは二階へと駆けていく。詠唱
室は大きく部屋名が掲げられていたので、探すのも楽だった。
少年は、扉を開けた。手ごたえが、奇妙だった。ドアノブを見る
と、こじ開けたような痕跡があった。なおさら急いて、部屋の中に
929
飛び込む。
そこには、血の海があった。
﹁⋮⋮ぁ⋮⋮!﹂
ファーガスは前世の記憶のフラッシュバックによって、半ば叫び
だしそうになった。しかし、堪えた。堪えなければならなかった。
その惨状に、細かくは目を向けない。ただ、大量殺人の犯人が居
るという事実だけ知れれば十分だった。
一体、誰がこんなことを。いや、分かっている。ファーガスだけ
は、理解していた。こんなことが出来る人間は、こんなことをしか
ねない人間は、一人だけだ。
ファーガスは、思わずその場から逃げ出した。
﹁畜生、畜生。何でだよ、それだけは、駄目だったのに。お前にだ
けは、俺の後に続いてほしくなかったのに﹂
走る。涙がこぼれた。虚無感。失望。その根幹にある、とある感
情。そして、いつしかその感情は純化していく。
取り返しのつかない物事は、人間に悲しみと混乱をもたらすのだ。
ファーガスは走り続けた。我を忘れて、行先もなく。
930
8話 我が名を呼べ、死せる獣よ︵4︶
気づけば、夜になっていた。
寮。その、自室。ベンが居なくなってからは、個室。二段ベッド
の下が空いてから、この部屋は広くなった。その端っこで、ファー
ガスはうずくまっていた。
考えるのは、ソウイチロウの事ばかりだ。
彼が、あの惨状を引き起こしたのか。ならば、何故。ぐるぐると、
思考は堂々巡りだ。終わりがない。決着もつかない。
部屋に、電気はつけなかった。入るのは、カーテンから漏れ入る
月光だけ。そういえば、と思ってしまう。前にベルの家で、﹃能力﹄
について悩んだ時も、自分は引きこもっていた。
﹁結構、引きこもり癖があるのかもな、俺﹂
乾いた声で笑った。そしてまた、沈む。
目の前に、血の海が現れた。
周囲には、倒れ伏す騎士候補生たち。自分が持っているものは︱
︱木刀、だろうか? しかし、その境界線ははっきりとしていない。
ただ山盛りの死体がそこら中に散らばっているのだけは確かな事だ
った。
931
その死体の中には、金髪の物もあった。趣味のいい、髪飾りのよ
うな三つ編み。疑って、手を伸ばそうとした。
その時、背後から炎の燃え上るような音が聞こえた。
振り返る。何故か壁に取り付けられた大きな鏡の中で、人々が虐
殺されていく。ファーガスは、駆け寄っていった。そして、貼り付
く。
道路。燃え上っているのは、車のようだった。鏡に映される視界
は絶えず動き、偶に視界にとらえられるその視点の持ち主の手が、
まるで比喩の意味での魔法を使ったように、不可思議な連動性を持
って人に有り得ない死に方をさせていく。
前世の、記憶だった。
ファーガスは、震える。だが、離れることが出来ない。偶に、少
年らしき声が入った。自分の声ではない。これは、ソウイチロウの
︱︱
その時、眼前に何者かが現れた。
少女。身長は酷く低く、若いというよりも幼い。しかしその眼光
は、鋭く、熱かった。敵意。しかし、その中には憐みもある。複雑
な瞳だった。まず間違いなく、幼気な少女の目ではない。鏡はぼん
やりと歪み、それ以上の特徴が覗えなかった。髪の色さえ、炎の照
り返しで金や赤のようにも見える。
少年の、吠える声。彼女へ迫っていく視界。少女は、何も言わず
手元に何かを取り出した。少年は手をふるう。その寸前に、視界が
932
一回転した。
真っ青な空が、視界の全てを覆っていた。
もがいているような、ブレ。地面に押さえつけられているのだ。
少女は近寄って、視界の少し上、恐らく額に何かを張り付けた。視
界は、それでも足掻くのを止めない。一度、視界が大きく横に動い
た。乾いたような音で思い出す。確かこの時、頬を張られていたの
だ。
それきり、足掻くのを止めた。素直に、少女を見上げている。鏡
が、ぼやけ始めた。水気に帯びている。
﹁⋮⋮そっか、こうして、俺は正気に戻れたんだっけな。アンタが
一瞬で俺の事を無力化してそれで⋮⋮﹂
ファーガスは、鏡の向こうに立つ少女を見つめた。彼女は記憶の
涙の歪みのせいで、顔すらろくに見えない。しかし、それでいいの
だ。ただ、自分のような異端的な異能の持ち主は一人ではないとい
う事が、そしてそういう人物の手に掛るという事実がファーガスを
慰めた。
﹃⋮⋮心からのご冥福を、お祈りします﹄
少女の甲高い、沈鬱な声。それは酷い愁いに帯びていた。そして、
ファーガスは言うのだ。
﹁⋮⋮止めてくれて、ありがとう﹂
目を、覚ました。
933
﹁⋮⋮﹂
息が荒い。呼吸を、忘れていたのか。目頭から涙をぬぐって、し
ばし考え込んでいた。様々な事。自分のすべきこと。
詠唱室の惨状がもしソウイチロウの所業ならば、自分こそが止め
なければならない。それが親友たる自分の責務なのだと、ファーガ
スは思う。しかし、抵抗もあった。本当にソウイチロウがしたこと
なのかという、今更な疑問。自分に止められるか、と言う不安。そ
して何より、彼を失いたくないという感情。
ソウイチロウは、人殺しだ。ファーガスの希望的予想を取り除け
ば、その事実はすでに自明である。しかし、ファーガスはそれを咎
めたい訳ではないのだ。
人を殺してはならない。それは法治国家において当然のものであ
る。しかし人間的な意味で言うなら、人殺しを糾弾すべきなのでは
ない。人殺しを重ねた末に、自分を殺してしまうのがいけないのだ。
そうなれば、前世のファーガスのように、自分を止めてくれた人
間に礼を言う事さえかなわなくなる。
立ち上がろうとした。しかし、腰が砕けて出来なかった。その時、
ノックが聞こえた。誰だと顔を上げる。その人物は、すでにこの部
屋に侵入していた。
﹁うっわ、薄暗ぇ部屋だな。お前、唯一の長所である騒々しさがな
934
くなったら、生きてる価値ねぇだろうが。シャキッとしろバカ野郎。
電気付けるぞ﹂
ネルの姿が、入り口に浮かび上がった。
﹁茶菓子も用意出来ねぇのか、気が利かねぇな﹂とうるさかったの
で、ファーガスはしぶしぶ机にラスクを放り投げた。﹁茶はねぇの
か﹂と言ってきたので、冷蔵庫のペットボトルをブン投げてやった。
平然とキャッチするものだから忌々しい。
﹁⋮⋮で、何で来やがった。こんな夜更けに﹂
﹁何言ってんだよ、まだ十時だボケナス﹂
くい、とペットボトルを呷る。次いで、﹁まずいな、こりゃあ﹂
と言いつつ再びラッパ飲み。いつ殴ってやろうかと考えていると、
ネルは一息入れてから口を開いた。
﹁ブシガイト、奴はもう駄目だな。狂っちまってる。手の施しよう
もねぇ﹂
ファーガスは、言葉を詰まらせた。そのまま何も言えないでいる
と、﹁お前も分かってたんだろうが。ファーガス﹂と鋭い視線でね
めつけてくる。
﹁今、奴は人狩りをしてる。とうとう壊れちまったらしいな。シル
ヴェスターとできてたってクリスタベルから聞いたぜ。そんで納得
した。シルヴェスター、死んだんだってな﹂
935
﹁は⋮⋮? 嘘、だろ⋮⋮?﹂
﹁いいや、これが証拠だ﹂
ネルはポケットから、紙の包みをファーガスに手渡してきた。そ
れを、恐る恐る開く。言葉を、失った。ローラの象徴。髪飾りのよ
うな三つ編み。
﹁⋮⋮こ、れ⋮⋮﹂
﹁お前も、友達だったんだっけな。ご愁傷さん﹂
軽い調子に、ファーガスは激昂した。﹁お前!﹂と怒鳴りつける。
しかし、奴に動じた所はない。
ただ、冷淡にファーガスを見つめて問いかけるのだ。
﹁で、どうすんだよ﹂
その一言で、少年の頭は温度を失う。
﹁⋮⋮どうするって、﹂
﹁ブシガイトは人を殺して回ってる。オレが様子見した時に、見つ
かってヤバかった。必死に逃げてたらいつの間にかいなくなってた
けどな。多分他の獲物が見つかったんだろうよ。︱︱ハハ。明日は、
間違いなくブシガイトを殺すために大勢が動くだろうな。そうなり
ゃ、流石のアイツでも終わりかね﹂
936
沈黙。ファーガスは、下唇を噛みしめて震えた。それを横目に、
ネルはペットボトルを呷る。そのまま、一息に飲みほした。上を向
いたままゲップをし、数秒天井を見つめてから、首を落下させてフ
ァーガスの目の前で止める。
﹁お前が、ブシガイトを殺せよ﹂
短い、言葉だった。
ファーガスは、目を伏せた。テーブルを見る。空のポットボトル
が一つ、封を開けていない自分のそれが一つ。ラスクは、誰も手を
付けていない。
目を瞑った。悩んだ。葛藤した。しかし、それは数分前の事だ。
今必要なのは、決めるだけだった。決断には、長くて五秒ほど要る。
五秒後、少年は顔を上げた。
﹁⋮⋮ああ、分かった﹂
覚悟が、決まった。
ファーガスは、自らを叱咤する。武器を装備し、立ち上がる。し
かし、ソウイチロウに渡された高価なものは身に着けない。必要な
のは剣と盾、杖。あとは、何もいらない。
ドアノブに手を掛けた。その時、ネルから声がかかる。
﹁ああ、待て待て。気が早いぜ、ファーガス。餞別だ。ヤベェ死ぬ、
と思ったら、使え﹂
937
渡されたのは、一枚のメモだった。開き、読む。意味不明なアル
ファベットの羅列だが、発音できないという事もなさそうだ。不思
議に数秒で頭に入った。また、複雑な手順。これも、微妙に片手を
動かしていたら、覚えられた。きっと、これでもう忘れない。
﹁⋮⋮何だよ、これ﹂
﹁魔術の呪文だ。日本の魔法の、科学と絡めたやつとか、もしくは
悪魔との契約で得た黒い感じの物でもねぇ。純粋な魔術よ。で、そ
いつの魔術名は﹃破壊﹄ってんだ。直接的でいいだろ?﹂
﹁破壊⋮⋮﹂
紙面に、改めて目を落とした。意味不明な文字の羅列が、急に頼
もしくなってくる。しかし気になって﹁どうやってこれを知ったん
だ?﹂と尋ねた。﹁お前の﹃能力﹄封じた本に書いてあった﹂と端
的に答えられる。
﹁早い所行って来い。手柄、取られたくねぇだろ﹂
﹁手柄じゃねぇよ。俺は、あいつを看取ってやりたいんだ﹂
﹁自分の手で殺してか? はは、人間ってのは傲慢だな、おい﹂
﹁うるせぇな。お前も人間だろうが﹂
﹁⋮⋮ああ、確かにな。オレは人間だよ。ああ﹂
ファーガスは、ネルの奇妙な様子に肩を竦める。次いで、礼を言
938
って部屋から飛び出した。
こんな夜更けに寮から出ると、普通なら大人の誰かしらの呼び止
める声がある。しかし、今回はない。明らかな異変だった。眉を顰
めながら走り出す。そして足を緩め、止めた。
血。
目を凝らすと、何者かが倒れていた。ファーガスは息を呑む。そ
こで、やっと実感した。ソウイチロウは、もう。
立ち尽くさざるを、得なかった。
喪失感が、今更になってファーガスの体を上り詰めた。
﹁︱︱畜生ッ!﹂
自分には、何か出来るはずだった。一時は英雄などと言ってもて
はやされた。その時に、ソウイチロウの話を持ち出せばよかったの
だ。そうすれば、少しはマシになっていたかもしれなかったのに。
そういう思いの中で、しかし燻るような反論も多々存在した。亜
人でもないのに、庇っただけで退学に追い込まれたベン。身を守る
ためとはいえ、何人もの騎士候補生を傷つけたソウイチロウ。そし
て、無罪判決への騎士候補生たちの憤り。先日の襲撃者など、自分
と彼の関係性を把握していた。
狂っているのは、いったい誰なのだろう。ファーガスは、俯いて
考えてしまう。
939
ローラの死。ファーガスには、信じられないことだった。誰がや
ったのだと考えて、きっと騎士候補生の中の何者かがやったのだと
決めつける。再び、ゆっくりと歩き始めた。道行く先には、ポツリ
ポツリと死体が点在している。体格が一回り大きい、教官のそれも
あった。
学校中を、ぼんやりと歩いた。その中に、ソウイチロウは居なか
った。
﹁⋮⋮何で、帰ってきちゃったんだよ。帰ってこなければ、まだ、
誰も死なないでさ⋮⋮﹂
再会した時の喜びを、ファーガスは否定しない。だが、結末がこ
れだなんて、あんまりだった。︱︱予兆自体は感じていた。しかし、
そこまで致命的な状態だったとは、今でも思えないのだ。気付けな
かった自分を、殺してやりたくなる。
前世の記憶がよみがえり、走馬灯のように駆け巡った。陰惨な情
景ばかり、鮮明だ。親友が親友と殺し合う場面を見た。その親友の
生き残った方を自分が殺した。学校で信じられるのは、その二人だ
けだった。あとは、全て敵で。
彼らも、殺した。殺した後に、何も残らなかった。
校舎を出る。すると、アメリアがそこにいた。一つ、鳴き声を上
げる。そのまま、駆け出して行ってしまう。
﹁お、おい! 何でお前⋮⋮﹂
追いかけた。しなやかな肢体が、素早く敷地を駆け抜けていく。
940
﹁待てよ、アメリア!﹂
ファーガスは焦れて、杖に軽く触れて﹃ハイ・スピード﹄で走り
出した。ぐんぐんと、差が縮まっていく。捕まえた時には、寮から
それなりに距離のある校門についていた。季節感も相成って、汗が
噴き出す。
﹁ったく、いつもいい子なのに、今日に限って何でこう、夜にお出
かけなんてしたんだ?悪い子だ、ほれ。うりうり﹂
首を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。相変わらず、愛ら
しい猫である。仕方なく、彼女の為一度部屋に帰ろうと思った。そ
の時、気配を感じる。
暗闇の向こうで、何者かが二人相対していた。ファーガスは、嫌
な予感と共に聖神法でその場を照らす。
ソウイチロウ、そして、ベル。
二人が、ソウイチロウは木刀を持ち、ベルは丸腰で、立っている。
﹁⋮⋮はっ?﹂
ファーガスは、頭が真っ白になった。アメリアが腕から零れ落ち
て着地する。ソウイチロウは、ゆっくりと手を上げた。少年は怒り
に我を忘れた。
﹁ソォオオイチロォォォォォォオオオオオ!﹂
絶叫。咆哮。ファーガスは雄叫びを上げながらソウイチロウに肉
941
薄し、隙だらけの奴に一太刀を入れた。
紙一重の回避。それを、盾で邪魔した。更なる一突き。掠る。だ
が、ソウイチロウが木刀を突きつけてきたため、これ以上の追撃は
出来ない。
ファーガスは、飛び退って唸った。震えている。どういう情動に
よるものかは、分からなかった。ただ、恐怖とも、怒りとも、悲し
みともつかない感情から、全身で震える。
﹁何でだよ! ベルを殺す必要なんてねぇだろうが! お前が憎い
のは、他の騎士候補生だろ!? それとも、それすら分からなくな
っちまったのかよ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮﹂
ソウイチロウの表情は、どこか歪んで、奇妙だった。笑っている
ようでもあり、泣く寸前でもあるように見える。彼はファーガスに
目を向けたまま、ベルから興味を失ったようだった。ひた、とこち
らに一歩近づく。そして、まるで独り言のように言った。
﹁ファーガス。どうせ死ぬのなら、僕は君に殺されたい﹂
決闘をしよう。酷く小さなかすれ声で、ソウイチロウは言った。
木刀の切っ先が、ファーガスに向く。夜は静かで、彼の小さな声さ
え良く聞こえた。
ファーガスは、その様子に一筋の涙を流した。拭う。そして、武
器を構える。
942
﹁言われるまでもねぇ。俺が、お前を止めてやる。︱︱ソウイチロ
ウ﹂
風が吹いた。争闘が、始まった。
943
8話 我が名を呼べ、死せる獣よ︵5︶
二度目の逗留。日本の夏は、イギリスよりもジメッとしていて暑
かった。
﹁王手飛車取り﹂
﹁む、中々ファーガスもやるようになったね。ならこっちはこうだ﹂
ぱち、とソウイチロウは王を横に移動させる。そこに、ファーガ
スは飛車を取ってホクホクだ。﹁じゃあ僕だね﹂とソウイチロウが
さして悔しくもなさそうな声で一手。
﹁詰み﹂
﹁え?﹂
詰んでいた。
﹁⋮⋮あれ?﹂
縁側。蝉が五月蝿かった。風鈴の音だけは、ファーガスのお気に
入りだ。障子を開け放っていると、風が通り抜けやすい。その度に
鳴る静かで涼しい音が、好きだった。
﹁碁は結構強いのに、将棋となると弱いね、ファーガスは﹂
﹁畜生⋮⋮。タマも将棋となると助言もろくにせず帰っちまうしさ﹂
944
﹁将棋できるのなんか、山姥の婆様くらいだからね。僕もあの人に
は勝てないんだ﹂
﹁ふぅん﹂
盤面を崩して、﹁もう一戦やる?﹂と尋ねてくる。しかし、あま
りソウイチロウ自身も乗り気ではないような顔をしていた。﹁いい
や﹂と言い終わる頃にはすでにほとんど片づけて、伸びをして家の
中に入って行ってしまう。
テレビをつけると、ニュースがやっていた。いつもなら、チャン
ネルを回すように言う。だが、特報として映っている事件に興味が
湧いて、変えないように言った。きょとんとした顔で、ソウイチロ
ウはファーガスの顔を見る。
﹃現在特区から脱走した屍食鬼たちは、幼稚園に立てこもっている
模様です。その人数は不明。保育士らは全員殺害され、子供たちが
人質に取られている為突入が困難な状況となっています﹄
﹁⋮⋮何て言うか、日本って治安がいいと思ってたんだけど、そう
でもないみたいだな﹂
﹁え? 治安は良い方だと思うけど﹂
﹁⋮⋮これで?﹂
ファーガスは、目をぱちくりさせながらテレビ画面を指さした。
ソウイチロウはしかし、さして動じた風もなく﹁ブラフだから、あ
れは﹂と薄く笑う。
945
﹁人食い鬼たちは、多分テレビを通して情報を掴もうとしているん
だろうね。そして、警察側にそれが漏れてる。多分五分以内に解決
したって速報が入るよ。日本人なら常識だからね、こんなのは﹂
ソウイチロウが言い終わってすぐに、画面が切り替わった。園児
たちは全員無事に保護され、屍食鬼たちは全滅したという報道が流
れ始める。
﹁え? はぁ!?﹂
﹁人食い鬼関連のニュースは、小学校二年生で習うんだけど、精神
魔法が掛けられていて対応した魔法を使ってみると内容が全然違う
んだ。ファーガスには多分ヤバい感じの状況説明だっただろうけど、
僕にはあのニュースが﹃迷彩突入隊、幼稚園内に入り、状況確認終
了間近﹄と見えていたよ﹂
状況確認が終われば一分弱で彼らを全滅させられるからね。と平
然と言う。ファーガスは、文化の違いに酷い衝撃を受けていた。
﹁で、でも保育士さんが死んでるんだろ?﹂
﹁え? 死んでないよ? ほら﹂
ソウイチロウの言うとおり改めて画面に目を向けると、﹃死者な
し。軽傷一人﹄と文字が出ていた。あんぐりと、ファーガスは口を
開ける。
﹁人食い鬼の犯罪には慣れてるから、日本は。人食い鬼は魔法が使
えない。確実に勝てる幼児しか手を出せない。だから、保育園とか
946
学校教師とかは大抵強い人ばかりなんだ。僕も助けられたことがあ
るよ﹂
﹁え? ⋮⋮ソウイチロウ、じゃあ﹂
﹁まぁ、当時は怖かったよね。今はあいつらが何人来ようと勝てる
けど﹂
ファーガスは、ぺたんと座り込んだ。目を瞑って、唸る。ソウイ
チロウは﹁あーっと、カルチャーショック?﹂と気まずそうな声で
言った。そんな一言で終わらせていい感情でもないと思うのだが。
﹁⋮⋮こういう事って、よくあるのか?﹂
﹁うーん。人生で一回もない人は、当然いるよ。でも逆に、図書に
ぃみたいな何度もさらわれる人も居る﹂
﹁何度もさらわれてんのかよ、あの人﹂
﹁慣れたって笑ってた﹂
﹁⋮⋮﹂
ファーガスは、渋く黙り込む。﹁どうしたの?﹂とソウイチロウ
が覗き込んで来るから、気乗りがしないまま尋ねた。
﹁特区って言ってたけどさ、つまり人食い鬼っていうのは、一応そ
の中では生きていていい、って扱いになってるんだよな?﹂
﹁うん﹂
947
﹁でも、頻繁に脱走して子供をさらって食べようとするわけだ﹂
﹁脱走を止める手段がまだ確立できてないんだよね。何でかわから
ないけど、どうやっても逃げられる。その一方で、事後対策がどん
どん熟練されていくから年々犠牲者が減って行ってもいるんだけど﹂
﹁何で、日本人はあいつらを生かしておくんだ? 全員、殺しちま
えばいいだろ。要はほぼ確実な犯罪予備軍なんだから﹂
﹁あー⋮⋮﹂
そう思うよね、とソウイチロウは苦笑した。その、どこか冷めた
反応に、ファーガスは苛立つ。
﹁訳分かんねぇよ、この国。こんな、ニュースに仕掛け組み込むく
らいなら、折角ほとんどを一か所に集めることが出来てるんだ。皆
殺しちまえばいいじゃんか! どうせ何の役にも立たないんだから
!﹂
ファーガスの怒りに、ソウイチロウは困り顔で笑いながら﹁まぁ
まぁ﹂と諌めるばかりだ。そんな聞き分けのない子供のような扱い
が気に食わず、ファーガスは一層ヒートアップしそうになる。
それを遮るように、ソウイチロウは﹁でもさ、﹂と言った。
﹁日本人は、彼らがどんなに無秩序で無価値でも、生かしておかな
ければならないんだよ﹂
﹁は、はぁ⋮⋮? 何で、そんな⋮⋮﹂
948
﹁だってさ﹂
ソウイチロウは、こちらを見て微笑した。彼はそのまま、何かを
言った。それがきっかけで、ファーガスはソウイチロウの前世を疑
い始めたのだ。
しかし生憎と、ファーガスはその詳細を覚えていない。
剣戟。鍔競合い。不思議なことに、今のところ勝負は拮抗してい
た。
ファーガスは、一度距離を取った。ソウイチロウは木刀の先を揺
らしながら、顎を引いて視線を鋭くしている。表情は、よく分から
ない。喜んでいるようにも見えるが、この殺し合いを楽しんでいる
という風ではなかった。
再び、じりじりと距離を詰めていく。そこから、不意を突くよう
に盾を突き出して迫る。ソウイチロウは、以前の模擬戦に使った麻
痺を警戒して、こちらから見て右に避ける。そこに、ファーガスは
杖を振った。
スコットランドクラスの聖神法。日本の魔法さながらの炎弾が、
ソウイチロウに向かって飛んでいく。
背後に、跳んだ。ファーガスは、盾を投げ飛ばす。そうなると、
彼に逃げ道は一つしか残らない。左に避けたソウイチロウに、ファ
ーガスは切りかかった。当たる。しかし、手ごたえは薄い。
949
﹁⋮⋮皮一枚﹂
ソウイチロウの頬。薄い傷から、血のしずくが伝った。﹁随分と
強くなったね﹂と彼は笑う。
﹁ちょうど良かった。手加減はしたくなかったんだ。今の君なら、
魔法を使っても簡単には死なない﹂
風が、ソウイチロウの周囲でうねり出した。ファーガスは体勢を
低くして、手を目の前に翳す。
凄まじい風圧だった。もしかすれば、飛ばされてしまうかもしれ
ない。そうなったら、終わりだ。手の出しようがないだろう。
圧倒的な力。それは、かつてのファーガス自身を思い出させる。
あの時の黒いドラゴンから見た自分は、こんな感じだったのか。な
らば、何だというのだ。俺は、今自分と対峙しているというのか。
ソウイチロウ。一番の親友だった。そしてきっと、前世にファー
ガスが三番目に殺した、あの青年でもあるのだろう。立場は、まる
っきり入れ替わってしまった。何故だろうと、悲しくなる。
自分は、過去と決別した。対峙しているのは、ソウイチロウだ。
前世の自分ではない。
﹁今度は、こちらから行くよ。ファーガス﹂
言葉と同時に、ソウイチロウの姿が掻き消える。前に披露された
光魔法。音も、同様だった。だが、酷く高ぶったファーガスにとっ
950
て、それはほとんど意味のない一手だった。如何にソウイチロウと
て、消えた直後に高速移動はできないだろう。風も、その手助けを
する程度だ。
そのように直感して、駆け出し、斬った。手ごたえ。しかし、硬
すぎる。殺気を感じて、踵を返しざまに杖の炎で焼き払った。ソウ
イチロウは姿を現し、少し驚いた顔で嬉しそうにしている。
奴は、これが始まってからずっと嬉しそうだ。だが、ソウイチロ
ウは戦闘狂ではない。きっとファーガス以外の相手と対峙してここ
まで手間取っていたなら、酷く不機嫌だったろう。
分かるのだ。何となく。ファーガスは間髪入れずに迫り、片手剣
で素早く五回、六回と細かな突きを繰り出していく。ソウイチロウ
は、為す術もない。木刀でこちらの籠手を打とうとしても、ファー
ガスは察して盾で防ぐだけだ。
ソウイチロウの纏う風が、一段と強くなる。対して、奴の動きが
急に軽やかになった。神経が過敏なまでに鋭くなったファーガスに
は、ソウイチロウの次の手が容易にわかった。飛ぼうとしているの
だ。そうすれば、ファーガスに打つ手はない。
しかし逆に言えば、飛ぶために軽くした体重では、木刀でのダメ
ージなど考えるまでもなかった。
盾を捨てて、ファーガスは全速力で走った。わずかに宙に浮きか
けたソウイチロウは、それを見てぎょっとする。一瞬の隙。急いで
浮き上がろうとしたが、ファーガスはギリギリのところでその足首
を捕まえた。次いで、その側面から剣を突き刺し、内側からアキレ
ス腱を両断した。
951
うめき声。木剣が迫り来たのを、ファーガスは寸前で反応した。
恐らくだが、奴の体重にかかる魔法の効果が切れている。食らえば
致命的な隙になる。負ける。ファーガスはソウイチロウの胸元辺り
を思い切り蹴飛ばして、根っこから強制的に攻撃を止めさせた。反
動でこちらもよろめくが、蹴り足を強く着地させ、そのまま駆け出
す。
﹁ファァァァァァアアアガスゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウ
ウウウウウウゥゥゥ!﹂
﹁ソォォォォオオオオオイチロォォォォォォオオオオオオオオオオ
オオオオオオォォォ!﹂
互いに、互いの名を高く呼び上げた。勝てる。ファーガスは、確
信する。ソウイチロウは、もはや立つことさえままならないだろう。
このまま、攻め手を緩めなければいい。ソウイチロウの土俵は、張
り詰めた緊張との静寂と一瞬の交錯にある。連続する斬り合いでは、
本領など発揮できないのだ。
最後の一手とばかり、ファーガスは走りざまに捨てた盾を拾って
ソウイチロウに投げつけた。しかし、あえて当てない。横を通り過
ぎるだけだ。ただし、掠るほどのギリギリの弾道。そうすれば、斬
りこむときに邪魔にならず、当ててショック状態にさせるのとほぼ
952
同じほどの意識の空白が作れる。
ファーガスの予想通り、掠めた盾を、自分の背後にまでソウイチ
ロウは目で追ってしまった。人間の反射神経による弊害。終わりだ
と、思った。
寂寞が、ファーガスの一太刀を後押しした。
最高の一撃だった。これでソウイチロウを葬るのだと思うと、手
向けが出来たように感じられた。首を狙えば頭が飛ぶような鋭い一
閃。
だが、それは剣に刃が付いていればの話だ。
ファーガスの刃は、折れていた。甲高い音と共に、ソウイチロウ
の背後の地面を滑っていく。
﹁⋮⋮はっ?﹂
ファーガスは一瞬硬直し、我に返って後ろへ飛んだ。ソウイチロ
ウは、座り込んだまま荒く息をついている。それは、怪我によるも
のではなかった。一体、奴は何をした? ファーガスは訝って、座
ったままのソウイチロウに手が出せなくなる。
しばらくして呼吸を整えたソウイチロウは顔を上げた。まっすぐ
に、少年の目を見ている。
﹁すまなかった、ファーガス。模擬戦と実戦を同じにしては駄目だ
ね。君は、遥かに予想よりも強かった。魔法は十中八九使わないだ
ろうと思っていたのに、使ってまで僕は追い込まれた。近距離戦に
953
は向かないんだね、アレ。勉強になったよ。まさか自分を巻き込み
かねないから、ほとんど使えないとは⋮⋮﹂
ソウイチロウは、平然と立ち上がる。見れば、アキレス腱の辺り
が治癒していた。﹁生物魔術だよ﹂と短く告げられる。そんなのア
リかよ、と心の中で毒づく。
﹁随分と余裕かましやがって。何だ? まだ奥の手は残ってるって
か? というか、もしかして今剣が壊れたの、ひょっとしてお前が
やったのか?﹂
﹁うん。そしてそれが奥の手だ。ただし、安心してくれ。これで打
ち止めだから。⋮⋮えっと﹂
ソウイチロウは人差し指を立てて、何かを数えるように数回振っ
た。次いで﹁おし﹂と呟く。顔から、油断や親しみと言ったものの
全てを落ちた。ギラギラと光る眼が、自分の事を強く射ぬいている。
﹁来いッ! ファーガス!﹂
木刀を改めて構える。頭上。あまりに好戦的な姿勢。ファーガス
は剣と盾を装備し直し、それぞれに聖神法をかけて、機を窺う。
隙は、ない。だが僅かながら疲労が見て取れる。それが、数秒後
に隙に転じると見出した。ファーガスは、間を詰める。どちらの得
物も届かない位置で、じりじりと言葉無く挑発する。
苛立ったような身じろぎ。そこに、疲弊から来た一瞬の停止。間
隙を縫い、深く踏み込んだ。剣が、ソウイチロウの胸に突き刺さる。
954
しかし、それは罠だった。
回避からの三発。木刀でひざの裏、腰、のどを打たれた。辛うじ
て最後だけは盾で守ったが、一撃一撃の重さに背面からひっくり返
る。急いで、転がって逃げた。追ってくる。突き。防ぐものの、そ
れにより盾に掛けていた聖神法を解かれ、奴の蹴る足で防御を引っ
ぺがされた。木刀が正面から襲い来て、それを剣で止める。その時、
先ほど打たれた腰に痛みが走った。力の釣り合いが取れなくなり、
吹き飛ばされる。
ファーガスは、今までの攻勢をまるでひっくり返されて、半ば恐
慌状態に陥っていた。今まで、それほどまでに手加減されていたの
かと思うと、腕に震えがくる。
対して、ソウイチロウはむしろ、先ほどよりもはるかに負担が軽
くなったという雰囲気だった。動きも、緩慢なものと鋭い物を織り
交ぜるということが出来ている。ソウイチロウの土俵。引きずり込
まれたと、今更に気付く。
﹁⋮⋮やっぱり、﹃これ﹄は少し卑怯だったかな﹂
ソウイチロウは肩を竦める。ファーガスは袋から予備を取り出す
が、それでも心許なかった。起死回生の案はない。ただ、真正面か
ら圧倒されている。
死ぬのか。ファーガスは、身震いをした。ソウイチロウは、自分
に殺されたいと言った。しかし、額面通りの言葉でない事は明言す
る必要もない。
その時、絞り出すような声が聞こえた。遠く。五十ヤードほど先
955
で、ベルが心配そうな表情でこちらを見つめている。彼女は口をパ
クパクさせ、しかし何も言えないでいた。その顔色は真っ青だった。
酷い緊張と恐怖に支配されていた。
ハッとして、ソウイチロウに視線を戻す。奴はベルを一瞥して、
薄く笑ってからこちらを見た。その時、ファーガスは状況を理解し
た。自分の死は、ただそれだけではない。ベルの命もまた、自分が
担っているのだ。
負けられない。その時、不意にソウイチロウの姿が何者かと重な
った。血まみれで、こわばった表情をして、脊髄の付いた頭を鷲掴
みにする少年︱︱前世に、鏡越しに見つめた自分。
恐怖に、耐えられなくなった。同時に、思い出す。
﹁⋮⋮ネル﹂
ファーガスは、口を開いた。再び間合いを狭め始めていたソウイ
チロウは、その挙動を警戒して足を止める。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
︱﹂
呪文を、放った。次いで、所作を加える。ソウイチロウは、感づ
いたのかこちらに駆け出した。必死な形相。しかし、手の届く寸前
でソウイチロウは倒れた。
濡れ雑巾を、落としたような音がした。
水ぶくれのようなふくらみが全身に浮き上がり、倒れた拍子に潰
956
れたようだった。くつからも液が漏れ出ていて、その所為で倒れた
のだと気づく。ソウイチロウは地面の上でのたうっていた。酷い苦
しみ様で、血が目に入って何も見えていないらしい。彼は、自らの
体から出た血と膿の中でもがき、そのまま動かなくなった。﹃破壊﹄
。文字通り、破壊した。
ネルが、出会いがしらにお見舞いしてやれ、などと威勢よく言わ
なかった理由が分かった。出来れば、彼も使ってほしくなかったの
だ。
﹁⋮⋮ごめん。ごめんな、ソウイチロウ⋮⋮。ちゃんと、殺してや
れなくて。俺が、お前を止められるほど強くなかったから⋮⋮!﹂
こぶしを握り締めて、震えた。涙は、彼に向けて流せなかった。
不甲斐ない。自分は、一番の親友もまともに看取ることが出来ない
のだ。
﹁ファーガス!﹂
ベルの呼び声。少年は、振り返った。すると、飛び込んで来る銀
色の少女。﹁ファーガス、ファーガス﹂と少年の名を連呼しながら、
嗚咽する。
生者に安堵するのも、死者を悼むのも、この場には不釣り合いだ
った。彼女も、きっとその判別がつかなかったから、何も言わない
でいるのだ。ただ、愛しいと思っていることを伝えてくれるために、
名を呼んでいる。
﹁ベル⋮⋮﹂
957
ファーガスも、ベルの事を抱きしめ返した。すると涙が漏れ出て
きて、次第に堪らなくなるのだ。
何故、ソウイチロウを殺さねばならなかったのか。ローラが殺さ
れねばならなかったのか。
亜人への迫害。しかし、それすらも謂れがないと言っていい。当
時のソウイチロウには人間に対する悪意などなかった。それをむや
みに迫害し、反抗したことをやり玉に挙げて弾圧を過激化させた。
ファーガスは、声を上げた。ベルの抱きしめる手が強くなる。
憎悪。復讐。きっと、ファーガスの歩む道の先にそれがある。し
かし、今は悲しみしかないのだ。ただ、いまだ強さを身に付けられ
ない自分が呪わしい。
泣き続けた。何分も、何十分も。涙が枯れるまで、泣こうと思っ
た。
だが、その前に異変が起こった。
呼吸が、突如として苦しくなった。泣き声が詰まり、えずき、咽
始める。ベルがとまどったように﹁ファーガス?﹂と名を呼んだ。
少年は崩れ落ちて、地面に手を突き咳き込む。
水。
嘔吐するように、ファーガスは気管から水を吐きだした。その水
はやがて肺を満たし、ファーガスを地上で溺れさせる。
958
﹁ファーガス? ファーガス!﹂
ベルが、震える手で少年の背中をさする。それは、意味をなさな
かった。不可解な恐怖がファーガスを襲う。けれど、彼を襲ったの
はそれだけではなかった。
﹁﹃破壊﹄と言う魔術は、見た目は派手だけれど相手にダメージを
与えるものでは決してないんだ﹂
存在しえない声が、背後から聞こえた。
﹁ただ、相手の機能を一時的に破壊する。痛みを起こす手錠をかけ
るようなもので、しかも数十分もすれば解けてしまう。僕を殺すん
だったら、この上でとどめを刺さねばならなかった﹂
どこか水気のある足音が、背後から迫ってくる。夜の中、一層濃
い影がファーガスを覆った。﹁ひっ﹂という、ベルの息を呑む声。
﹁だけど、これはそれ以前の問題だ。何故、君がこの呪文を知って
いる? ⋮⋮答えは一つだ。ファーガス。君が、禁じ手を使ってし
まったことに他ならない﹂
水を口より垂れ流しながら、ファーガスは背後を見る。血と膿で
全身を濡らしたソウイチロウが、木刀を片手に酷く冷たい視線を向
けている。
﹁ファーガス。僕は、君に殺されたかったんだ。あんな奴らに騙さ
れて死んでいく運命の君に︱︱君の死体に、殺されたかったわけじ
ゃない﹂
959
木刀が上がり、そして掻き消えた。残像が、目に焼き付いて離れ
ない。
960
1話 変わりゆく空模様︵1︶
この国において、雨は空に溜まっている物なのだという。
だから、土砂降りの時はすぐに止むし、小雨の時は少し長く降る。
だが、それもそう長くはならない。頻繁に降るがみんな慣れっこで、
少なくともこの村に傘を持ち歩く奴なんて居なかった。
﹁今日は雲の流れが速いな﹂
ぽつりと、寝転んだ総一郎は呟いた。英語である。三年の月日は
彼の語学力をそれなりの物に変えた。同時通訳の可能な翻訳機もあ
ったが、総一郎には手の届かない値段だったのだ。
﹁ソウ! こんな所に居たのか﹂
ブレアが屋根の端から顔を出し、総一郎を呼んだ。赤に似た茶髪
の、そばかす交じりの少年である。総一郎の居候先の子供で、他に
ジャスミンとティアが居る。ジャスミンはブレアに似た赤毛で、テ
ィアは黒髪。どちらも彼の妹だった。
﹁うん、空を眺めてたんだ﹂
﹁また訳の分からない事をしてるな。空を眺めて何が楽しいってん
だ。星空でもあるまいし﹂
肩を竦めながら、屋根によじ登ってくる。風が吹き、少年の赤茶
けた髪が揺れた。くせ毛でもわもわと、まるで綿のようだ。
961
﹁暇ならサッカーしようぜ。さっきやってたんだけど負けちゃって
さ。これからソウを交えて二回戦やろうぜって話になってるんだ﹂
﹁僕、そんな上手くないよな﹂
﹁何言ってんだよ。お前が居るだけで相手はビビりだすんだ。これ
だけ良いプレーヤーも中々いないぜ?﹂
総一郎は反論しようとしたが、それよりも前に腕を引っ張られて
結局何も言えなかった。連れられながら、再び空を見る。思い浮か
べるのは、死んでしまった母やもう三年間会っていない父と白羽の
事だ。
この村には、総一郎以外の日本人はいない。
イギリスの空には、一つの雲が孤独に流れていた。
三年前の日本は、騒乱の中にあった。
人食い鬼という明らかな異分子を隔離したとはいえ保護し、その
末にその反乱を起こされたというのは、諸外国に対する大きな醜聞
だった。しかし諸外国はそれをなんら批判せず、ただ優しさを裏切
られた被害者として同情的な意見を寄せた。
何故か。
それは父の言った通り、諸外国が日本の魔法技術を狙っていたか
962
らに他ならない。
最初に日本に訪れたのはアメリカだった。そしてその手腕は見事
と言わざるを得ないものだった。彼らは言葉巧みにアメリカの素晴
らしさ、自国の亜人に対する偏見のなさを説き、人間や亜人のハー
フの大多数を﹃保護﹄した。しかし、かつてアメリカに居た長寿の
亜人たちは移住を拒否した。アメリカはあくまでも自由を重んじた
為、移住に応じたのは七割が人間であった。
次に訪れたのは中国だった。この国は総一郎の前世のイメージを
真逆にしたような国である。発展途上も今は昔。その友好さを近く
の大人から知らされた時、総一郎は舌を巻いたものだ。移住した亜
人の数が一番多いのもこの国で、事実下心が無かったというのも大
きかっただろう。魔法技術においては、日本に次ぐ世界第二位であ
る。
その後に訪れたのはロシアやトルコなど、西欧北欧の裕福な国々
である。しかしインドから中東にかけての国は来なかった。来られ
なかったのだろうという話だ。それぞれの自国の内戦は最近更に激
化とともに拡大しているらしく、中東全体を巻き込んだ戦争になっ
ている為無理もなかったと。激しさのあまり、全く詳細な事情が届
かないというのだから恐ろしい。
最後に訪れたのがイギリスだった。一番人気の無かった国でもあ
る。亜人自身の受け入れはほとんどなく、数少ない移住予定者も途
中でご破算になったという話だった。ハーフも、亜人的な特徴を持
つ者は移住しなかったという。人間についてもあまり居ないらしい。
総一郎の避難所に訪れたのは、アメリカとイギリスの二国のみで
あった。その理由はかつての故郷、あつかわ村のある場所が、田舎
963
とも辺境とも言える場所だったからだ。
避難所はあつかわ村にとって最寄りの街にあった。その周辺はあ
つかわ村ともども山脈に囲まれていて、交通が悪いとは言わないも
のの飛行機の着陸が困難だった。電車機関は人食い鬼どもに破壊さ
れて使えず、それ故、地球最新の科学技術を持つアメリカがまず訪
れた。イギリスが訪れたのは、その町が海沿いだったからだ。泳ぎ
に行った事は無かったが、白羽や般若兄妹と遊びに行った時に寄せ
て返す細波を見た記憶がある。夕日を照り返していて、綺麗な場所
だった。
アメリカかイギリスかと問われ、総一郎は迷わずアメリカと答え
た。白羽も総一郎がそうするならと、同じように答えた。
しかしナイの呪いは、それを許さなかった。
避難民の出発時刻、人食い鬼たちが襲撃した。総一郎は輸送車に
乗り込む直前だった。魔法を身に着けた大勢の人食い鬼たちに欧米
と西欧の二国は太刀打ちできず、ほうほうの体で逃げ出した。そし
て、騒動の内総一郎はイギリスの海軍隊員に抱えられて船に乗せら
れていた。
必死になって白羽を探したが、見つからなかった。
﹁おい! どうしたんだ。うわの空で、そんなんじゃゲームに負け
ちまうよ﹂
﹁ああ、うん。⋮⋮ごめん、少し考え事してたんだ﹂
﹁そうか、まぁいいさ。ゲームが始まったら集中してくれよ﹂
964
﹁もちろん﹂
気前のいいブレアの父に買ってもらったスパイクのつま先で、二
度、軽く地面を叩いた。いつもサッカーをするこのビレッジグリー
ンは、一言で言い表すなら芝生の広場だ。日本の公園とは違い遊具
などは無く、その代りに白のすこし泥で汚れたサッカーゴールが二
つ、ほぼ三十メートルの間隔で向かい合っていた。
相対するチームのメンバーは、ブレアの天敵と言っていいダグラ
スに率いられている。彼は黒髪直毛の強気な少年で、快活なブレア
とは合うようで合わなかった。他に敵が現れた時は手を結ぶのだが、
それ以外では敵対している。けれど、その関係を何だかんだ二人と
も気に入っているようだった。
﹁ようフォーブス。助っ人の黄色い猿はもう来たのか?﹂
﹁はっ! いつもソウが来てからは負けっぱなしの奴が良く言うぜ
!﹂
﹁いいんだよ、ブレア。僕の国では、弱い犬ほどよく吠えるってい
うことわざがあるくらいでさ﹂
﹁あっははは! おいダグラス! 土まみれの子犬! お前のどて
っ腹を蹴飛ばして、キャインって言わせてやろうか!﹂
軽口の応酬。これも今では日常だ。最初はその口の悪さに戸惑っ
ていた総一郎だったが、こういう物なのだと割り切ってからは楽し
むようになった。
965
サッカーの試合は仲間同士で同じチームになり、仲の悪い同士で
分かれる。元々同じチームの奴が、ブレアと喧嘩してダグラスの方
に移っていくなんてこともある。逆もまた然りだ。だが、大抵はそ
の一ゲームが終わり次第仲直りして戻ってくる。要は最低限のルー
ルしかないという事だった。
総一郎は、ブレアの近くで様子を見ながら走っていた。ボールを
奪うのはブレアの仕事で、総一郎が行くと碌な事にはならない。彼
はそういう技術があまりなく、力加減でミスをして怪我をしたりさ
せたりする。
その事は問題になる前の数回で悟った為、今の彼は運び屋兼点取
り屋という扱いだった。ブレアがボールを上手く取り、総一郎はそ
れを受けて走るのだ。
総一郎は、足が速い。きっと、父にやらされた山登りが原因だろ
うと踏んでいた。ボール運びは三年間やり続けて中々の物になった
が、それを抜いても戦力になった。ただただ速いのである。奪われ
ない技術は持っていなかったけれど、誰も追いつけないのだから困
らない。そのお蔭で、チームには重宝されている。
ゴール前に辿り着いた時の総一郎に与えられる選択肢は、三つあ
った。一つは追いついたブレアに渡す。もう一つは、もう一人の点
取り屋であるガヴァンに渡す。ほとんど必ず総一郎はガヴァンに渡
し点を入れてもらう。彼は点取り屋としては誰よりもシュートが上
手い。
最後の選択肢は、その二人が居ない時のみ選ぶ、総一郎自身で入
れるという選択肢だった。
966
﹁︱︱っふ!﹂
思い切り蹴ったボールは、風を切って飛んで行った。しかし、斬
道が悪い。相手キーパーであるダグラスはにやりと笑った。彼は自
チームで鉄壁と呼ばれ、こちらのチームでは土まみれと呼ばれてい
る。かなり守るのが上手いのだが、その度に必死になってボールに
突っ込んでいくのだ。それで一度地面に突撃し、それ以来土まみれ
と呼ばれていた。
ボールは凄まじい勢いながら、ダグラスの掌へまっすぐに飛んで
行った。総一郎の脳裏に、風魔法の呪文が浮かぶ。風で軌道を変え
ればボールはゴールに突き刺さるし、やろうと思えばダグラスごと
貫くことだってできる。だが当然、彼は思うだけでそんな事はしな
い。︱︱その上、それ自体が不可能でもある。
ダグラスに防がれたボールは、彼のキックによって一気に総一郎
側のゴールに近づいた。総一郎は慌てて駆け戻っていく。
﹁惜しかったな﹂
﹁何、次は上手くやるよ﹂
にやりと笑い合ってブレアと走っていく。その途中で、ちらりと
左腕を見やった。鉄製の腕輪。魔法の使用を、感知する機械。
アメリカには、愛国者法と言うものがある。
テロ対策の為には基本的人権を侵されても仕方がないという考え
方のもとに作られた、いわば大の為に小を切り捨てる法律の一つで
あった。その対象者は事実の如何に関わらず、行動やプライバシー
967
を侵害され、出入国もまともに出来なくなる。
総一郎のこの腕輪も、それに似ていると言えた。
とは言っても、行動やプライバシーの侵害と言った事は無い。た
だ、魔法の使用を禁止される。それだけである。魔法が一般に浸透
していないイギリスにおいては、別に困らない物だ。詳しく言えば、
禁止するのは法であって腕輪でない。腕輪は単に、彼の魔法の使用
を感知して政府に伝えるのみだ。
仮に魔法を使用するとどうなるか。
その時は、豚箱に放り込まれるらしい
詳細を話せば裁判で状況分析や未成年である事の情状酌量もあっ
たが、その辺りの詳しい事は総一郎には伝えられていない。総一郎
は現在、十二歳の少年である。今は九月で、もう少しすると日本で
いう中学校の入学式と洒落込む手筈となっていた。
結局ゲームはブレアチームが二点差で勝利し、みんなでハイタッ
チしながら帰路に着く。イギリスの夕方は、ほんのりピンクに色付
いて優しかった。自転車でパブリック・フットパス︱︱日本で言う
あぜ道のような物︱︱を渡っていく。総一郎はねだらないのだが、
ブレアが少し欲しがると彼の父が買ってくれる。ブレアの父である
ジョージおじさんは、恰幅と気前と愛想の良いお父さんだ。
﹁⋮⋮時間が経つのって、早いな。もうここに来てから三年も経つ
んだ﹂
﹁何言ってんだよ。俺にはものすごく長く感じたぜ。その所為で、
968
ソウが俺の弟なのか兄貴なのか忘れちまった﹂
﹁好きな方で良いよ﹂
﹁じゃあ俺は弟∼!﹂
ヒャッホー! と叫びながら小さな丘を勢いよくのぼり、一気に
下っていくブレア。確かに彼の方が弟らしい。総一郎も下りで加速
して、前を行くブレアとの差を縮めていく。
家に入ると、ジャスミンがソファで横になってテレビを見ていた。
最初は総一郎が姿を現す度に姿勢を正して可愛い物だったが、今で
home.
では
だ。最近は文化の違いだと割り切った。
Welcome
は完全に家族と認識されてしまったのか、目もやらずに﹁お帰り∼﹂
Hello.
と言うばかりである。しかも
なく
﹁ティアは何処かな﹂
﹁ンー? 母さんの手伝いでもしてんじゃない?﹂
見えなかったため尋ねると、ジャスミンはそう答えた。そのあま
りの雑さにむっと来て﹁パンツ見えてるよ﹂と指摘してやると、飛
び上がって隠し始めた。そもそもズボンだから見えようがないので
ある。怒鳴られる前に嫌らしい笑みを見せつけ、総一郎は逃げてい
った。こういう時の赤面は、中々可愛らしい物がある。
﹁ティア、手伝いしてるの?﹂
﹁あ、ソウ! お帰り、今日もサッカー勝った!?﹂
969
﹁うん、圧勝だった﹂
飛びついてくるティアを抱き上げて、高く放り、再び掴んで地面
に戻す。ティアは七歳の少女で、家族の中で最初に総一郎と打ち解
けた相手である。二番目がブレアで、最後がジャスミンだ。ご両親
とはいつの間にか、気兼ねと言うものが無くなっていた。
﹁何を作ってるの?﹂
﹁ランカシャー・ホットポット﹂
﹁おお、すごいね﹂
ティアの頭をなでながら言った。イギリスの料理はマズイという
話だったが、今ではモノによると思い定めている。総一郎が初日に
食べさせられたライスプティングという米を使ったどろりとした甘
いデザートは最悪の一言だったものの、美味い物が無い訳ではない。
ランカシャー・ホットポットは、ラム肉やマトンと、ジャガイモ、
玉ねぎを何層にも重ねて焼いた、なかなかイケる一品である。イギ
リスは基本的にシンプルな食べ物なら旨い。
ライスプティングの再来でなかった事にほっとした総一郎は、じ
ゃあとブレアの部屋に戻る。彼とは相部屋で、二段ベッドが置いて
あるのだ。
その後ブレアと部屋でゲームをし、勝ったり負けたりを繰り返し
て時間を潰した。夕食を食べてまたゲームに勤しんでいれば、すぐ
に就寝時間になる。総一郎は、二段ベッドの下の段だった。頼まれ
て譲ったのも理由の一つだが、夜中に抜け出しやすいというのが本
970
当の目的だった。
最近の総一郎は、早朝の素振りをしない。来てから数日はやって
いたのだが、その音が怖いと文句を言われてから自粛することに決
めたのだ。だから、朝の早起きもない。その代りとも言うべきか、
夜に起きるようになった。
深夜、家の皆が寝静まったのを見計らって、総一郎は目を開ける。
魔法なしで音を立てず行動するのにも、だいぶ慣れた。木刀を掴む
のも忘れない。向かうは、家の裏の森である。
浮かぶ月は、満月に近かった。狼男が心配だったが、その時はホ
ブゴブリン達が知らせてくれる。逆に、新月になると月の光が邪魔
を止め、満天の星が見えるようになった。田舎だと、何処の夜空も
変わらないのだと思わせられる。
月明かりも、森に数歩踏みこめば無くなった。代わりに、様子を
窺うような物音が聞こえだす。総一郎はさっと周囲を確認してから、
小さく名乗った。
﹁⋮⋮確かに、ソウイチロウだな。今日はすまないが、ピクシーど
もの泉の方に行ってくれ。ぼくの所は今立て込んでるんだ﹂
﹁分かったよパック。ところで立て込んでるっていうのは?﹂
﹁ボガートの奴が新しい家に住もうとして、手酷く追い払われたっ
て五月蝿いんだ。ここ五百年の人間はまともな奴が居ないっていう
のを分かってないのさ。何たって、頻繁に手伝いをしてやってるぼ
くでさえ本気で祓おうとするんだよ! 悪さばかりするあいつなん
てなおさらだね!﹂
971
憤然と進み出て来ると彼は薄く挿し込む月光に照らされ、その姿
を露わにした。下半身がヤギで上半身が人間の、短い角の生えたパ
ックは苛立ったように﹁ふん!﹂と鼻を鳴らす。
彼はここ一帯に住むホブゴブリンの一人で、ここでは一番長寿の
亜人なのだという。ただ外見は少年なので、その真偽は定かではな
かった。ちゃんとした名前があるらしいのだが、教えて貰えていな
い。︱︱しかしパック。君も中々の悪戯好きではなかったな、と思
わないでもない総一郎。
﹁まぁいいや。じゃあ困ったことがあったら呼んでくれよ、助けに
なるからさ。それと、君がやったダグラスの土まみれ。いまだに彼
そのあだ名で呼ばれてるんだから、悪戯は自重しなよ?﹂
﹁まだあいつその名で呼ばれてるのか! じゃあそうだな、あの子
がその名で呼ばれなくなるまでは自重しているよ﹂
﹁ははは、じゃあまた﹂
軽く手を振って、進んでいく。その途中でフェアリー・リングと
いう奇妙な跡を見つけ、今日はここか、と思いながらその縁の中心
を二回、軽く足で叩く。
﹁ソウ。泉はこっちよ﹂
﹁やぁ、セリア。道案内ありがとう﹂
出てきたのは、悪戯っぽい微笑を浮かべて薄く光る、薄く透けた
翅で飛ぶ手のひらサイズの少女である。瞳の色は緑、鼻は尖って上
972
を向く、美しい容姿をしている。ピクシー全てに当て嵌まる特徴だ
が、その中で一番仲がいいのは彼女だった。
昼でも夜でも、ピクシーである彼女の案内が無いと泉には行けな
い。泉への道のりには結界とも言える断絶があって、許可が無い限
り入れないのだ。
その分とも言うべきか、泉はいつだって美しかった。月明かりを
真っ向から浴びて、透き通った水は泉の底さえ見透かせる。だとい
うのにその水は栄養が豊富らしく、泉の端には綺麗な花が群生して
いて、それを椅子代わりにピクシーたちは飛びまわっているのだっ
た。
﹁じゃあ、場所を借りるね﹂
﹁ええ﹂
言葉は少ない。理由はきっと、セリアが緊張しているからだ。見
れば花の上を遊んでいたピクシーたちも、ピタと動きを止めてこち
らを見ている。その瞳には迷惑そうなものこそない物の、少々の恐
怖が滲んでいた。しかし止めようと言っても断られるのは目に見え
ているから、それもしない。
総一郎はシャツを脱いで、上半身を裸にした。周囲の少年たちよ
りも細身だが、痩せているというよりは引き締まっていた。ただ集
中して、木刀を眼前に構える。しばらくは、そのままでいるのだ。
木刀しか見えなくなったら、緩やかに振り上げ、下す。
空を断ち切る音。
973
振り始めたら、止めはしない。体力がなくなるまで、振り続ける。
視界は現実を映していながらそれを脳に届かせず、感じるのはただ
満ち満ちた夜だけになる。かつて浮かんだはずの父はもうそこに居
ない。代わりに自分と言う存在が、真正面に立っているのだと思う
ようになった。
正面の総一郎は、動かない。ただ構えて、素振りをする総一郎に
向かい続ける。
その表情は、未だうかがえなかった。
﹁っく、⋮⋮フー﹂
疲労に木刀が真剣よりも重くなったら、総一郎は素振りを止める。
それを、一定の基準にしていたのだ。汗を泉で軽く流し、持ってき
たタオルで拭いてから服を着る。見れば、近くの花の上に腰掛けた
セリアが、頬を少し紅潮させてこちらを見ていた。
﹁⋮⋮偶に思うんだけど、何で顔赤くしてこっちを見てるの?﹂
﹁何かねー、最初は怖いんだけど、段々ポカポカしてくるの。のぼ
せるみたいなー﹂
確かに、案内してくれた時よりも呂律が回っていない。
反応に困って苦笑して受け流した。怖い、という気持ちは分から
ないでもない。父の素振りが自分にとってそうだったからだ。しか
し、ポカポカ、とは。伸びをしながら首を傾げる総一郎。
身支度が終わると他のピクシーたちも集まってきたので、少しの
974
間彼女たちとお喋りに興じた。その大抵は人間に対する愚痴である。
日本とイギリスはやはり違う。日本人にとっての亜人は自国民で
あり愉快な同胞だが、イギリスにとっての彼等はいまだに想像上の
生物に過ぎないのかもしれないと思う事がある。イギリス人にとっ
て亜人はそもそも見る機会さえ少ない存在だ。それは総一郎の住む
スコットランドや、他のイングランド、アイルランド、ウェールズ
でも変わらない。
適当に相槌を打ったり小話を披露してから、総一郎は再び森に戻
った。ピクシーの泉に居る間は時が過ぎない為、まだ高くに月が昇
ったままだ。
すると、先ほど出会ったパックと彼の話に出たボガートが、パッ
クの住処の洞窟の近くで静かに話し合っていた。しかしその様子は
真剣そのもので、熱意が籠っているのが一目で分かった。
﹁俺様だってたまには人間の手伝いくらいしてやるよ! だが奴ら
はそれを有難くも思わないし、ミルクの一杯もくれやしねぇんだ!
だったら家畜の腹を蹴っ飛ばして奴らの夢見の悪そうな顔を見た
方がいいだろうが!﹂
﹁それが駄目なんだ! 人間っていうのはソウイチロウみたいな稀
有な奴は除いて、ほとんどがケチで意地っ張りなんだよ! 少しで
も仲良くしたいならこっちが譲って一杯手伝わなきゃならないんだ
! あの老け顔のブラウニーはその点上手くいったじゃないか! あいつは悪戯なんかほとんどしないから、姿を現しても受け入れら
れて引っ越したって話なんだぞ!﹂
﹁俺様は仲良くしたいなんて思わないね! 人間なんか子供を取り
975
換えてやる!﹂
﹁その所為でお前は貴族に殺されかけたんだろ? ちょっとは自重
したらどうだ!﹂
少し位ずつヒートアップしていく会話に、触らぬ神にたたりなし
と息を潜めて森を出た。忍び足でブレアの部屋に戻り、ベッドの下
に潜り込む。
そしてそのまま、総一郎はブレアと同じように寝坊して、彼の母
に怒られるのだ︱︱これがイギリスに来てからの総一郎の日常であ
る。そこに波紋が投げかけられるには、彼の進学予定日の一か月前
まで待たねばなるまい。
976
1話 変わりゆく空模様︵2︶
小雨が、降ってきた。
総一郎とフォーブス兄妹は、道路を歩いているときにその事を知
った。街である。週に一度車で連れて行かれ、大抵はジャスミンと
ティアの買い物の荷物持ちで時間を潰すのだ。
だがこの中で、焦って走り出そうとする者はいなかった。この程
度の雨は日常茶飯事だったからだ。実際、数時間前にも一度降られ
ている。しかし今回の雨量が先ほどの倍くらいになってからは、流
石に建物の中に入って空の様子を見ることになった。
入った店は、骨董品の店だった。古めかしくも妖しい品々で棚は
ごった返している。奥の方には華美な人形なども飾られていて、こ
れで女子陣もしばらくは安静にしてくれるだろうと安心した。
﹁おい、見ろよソウ! この仮面すっげぇぜ!﹂
振り返ると、そこにはアフリカあたりの先住民族が着けていそう
なおどろおどろしい仮面をつけたブレアが立っていた。﹁ウバァー﹂
といかにも少年らしい脅かし声をあげて、顔に当てた仮面を揺らし
ている。
﹁遊ぶのはいいけど壊さないようにね。それ、脆そうだから﹂
﹁じゃあこれなんかどうだ⋮⋮。ほらこの、⋮⋮何だろ、これ?﹂
977
手に取ったのは古めかしい木の棒だった。布の敷き詰められた箱
の中に入っていたらしく、重厚な飴色の木の箱が棚に置いてある。
指揮棒にも似た長さで、しっかりした作りをしていた。
﹁これ! それに軽々しく触るなクソガキ共!﹂
あまりの大声に、総一郎とブレアは身を竦ませた。声のする方を
見ると、腰を曲げたしわくちゃの老爺が凄まじい剣幕でこちらに近
づき、ブレアの手から棒を奪ってしまう。
﹁他のがらくたなら少しはいいがな、これだけは駄目なんだ! 全
く、貴族様の杖になんてことを⋮⋮﹂
﹁え? 貴族って⋮⋮﹂
それを聞いたくせ毛の少年は、蒼い顔でブルリと身を震わせた。
総一郎も体を固まらせ、思わず顔を引き攣らせてしまう。
貴族。それはこの国において最も恐ろしい存在であると共に、ユ
ナイデット・キングダムの存続に最も重要な役割を担う騎士達の事
である。
彼らは、人類に敵対する亜人と戦える唯一の者たちだった。その
理由は単純明快。彼らにしか﹃聖神法﹄が使えないのだ。﹃聖神法﹄
とは平たく言えば日本における﹃魔法﹄である。
この起源は、だいたい第二次日中戦争中辺り、亜人との敵対を決
め悲壮な覚悟と共に決戦を行った人間に、唯一神である神が慈悲を
下さった。そしてその慈悲こそが、貴族の使う﹃聖神法﹄である。
⋮⋮という聖書染みた話にあるらしい。
978
ブレアなんかは学校で習った時に嘘だと言い張っていたが、総一
郎は別段嘘だとも思わなかった。むしろ、日本ではそれが常だった
とさえ言えるのだ。唯一神と断言されるのは癪だったが、貴族の持
ちうる﹃聖神法﹄は日本らしく言えばキリスト教の神の﹃加護﹄と
いう事だろう。と見当を付けている。
だが、と奇妙に思わないでもなかった。総一郎の前世にも、イギ
リスには貴族が居た。しかし彼らは聞いたところによると、一般庶
民とさして変わらない人物であったという。むしろ、それをひた隠
しにする貴族さえいたそうだ。しかし、今は違う。そういう意味で
は真反対と言っていい。
﹁それは友人が済まない事をしました。この通り謝りますので、こ
の事はご内密にお願いします⋮⋮!﹂
﹁う、うむ。そこまで言うなら、儂も許さん事は無い。だが、これ
以上余計な事はするなよ。雨が上がったらすぐに出ていくんだぞ!﹂
﹁ありがとうございます!﹂
丁寧に礼をすると、老爺は﹁全く⋮⋮﹂とぼやきながら杖と入れ
物の箱を持って奥の方に引っこんでいった。ほっと胸をなでおろす。
前述の貴族はその役割故かなりの特権を有していて、問題になると
非常に面倒だったのだ。
そんな風に思っていた矢先、入り口の扉が開き、鈴の音が鳴った。
総一郎とブレアは同時に店の玄関を見やった。そこには、色素の
薄い金髪の少年と、壮年の男性が立っていた。どちらも身なりがい
979
い。だが、どちらかというと少年の方が派手で、壮年の男性は質素
な雰囲気がある。付添い、という言葉が浮かんだ。逆に言えば、少
年が付き添われるような身分であるという事だ。
﹁おい、店主。頼んでいたものは出来たか?﹂
傲慢とも言える態度で少年は奥の方に呼びかけた。総一郎とブレ
アの二人など視界にも入らないという具合に通り過ぎていく。店の
足場は狭く、細い道で彼の肘がブレアに当たり﹁痛っ﹂という声が
漏れても、反応する様子が無かった。
﹁へぇ。ここに完成してございますよ、坊ちゃま﹂
先ほどの老爺が出てきて、ブレアの触ったあの箱を少年に差し出
した。少年は早速箱からステッキを取り出しくるくると振り回す。
﹁なかなか良い手触りだ﹂と満足したように箱にしまった。
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、口角を下げて睨み顔ながらも黙っていた。貴族だろう、
というのは分かり切っていたからだ。ブレアも悟ったのか黙り込ん
でいる。しかし、その気遣いは先方に伝わらなかったようだった。
﹁で、﹂と眉を顰めて総一郎たちに目をやる少年。
﹁店主。こいつらは一体何なんだ? 何で貴族でもない奴が杖屋に
居る?﹂
﹁へ、へぇ。その小僧どもは恐らく、雨止みを待っているのでござ
います。この店は貴族様には杖屋で通っておりますが、庶民には骨
董品屋という認識なんですよ。勿論、大したものはございませんが
980
⋮⋮﹂
﹁ふぅん⋮⋮﹂
卑屈な笑みを浮かべる老爺を一瞥して、少年は総一郎達に視線を
よこした。まるで値踏みするような目つきで、更に総一郎はカチン
とくる。
﹁⋮⋮人の事は、あまりじろじろ見る物ではないと思うけれど﹂
﹁おおっと! まさかミドルクラスの人間に礼儀を注意されるとは
ね。いや、うん。確かにそれは済まない事をした。⋮⋮しかし君は
不思議な容姿をしているな。白人ではない。そこのもじゃもじゃ頭
とは兄弟ではなく友達と言った関係かな? 目の色はこの国の者で
もおかしくはないが⋮⋮しかし、その肌の色⋮⋮ああ、成程。君は
もしかして数年前にグレートブリテンに渡ってきたジャパニーズと
言う奴なのか。あの、汚らわしい亜人を保護して、まんまと騙され
た⋮⋮﹂
﹁喧嘩を売っているなら買う。今すぐ表に出ると良い﹂
﹁おい、ソウ!﹂
ブレアは慌てて総一郎の肩を掴んだが、そんなものは拘束になら
なかった。瞳をずいと近づけて至近距離から睨みつけるが、少々目
を見開くだけでたじろぐような様子はない。絶対の自信を有した目
で、余裕を持って見返していた。
﹁へぇ、貴族のぼくに突っかかるっていうのか。だが生憎、ぼくは
そんな野蛮な事をする気は無いのでね。確かにこの口も過ぎた事を
981
言った。だから、君の無礼と帳消しにしてやるさ﹂
少年はそのまま踵を返し、﹁帰るぞ﹂とだけ告げて店を出ていっ
た。相手が居なくなってしまえば、総一郎の怒りも逃げていくとい
う物だ。息を吐いて肩を竦めて見せると、ブレアは﹁ハラハラさせ
んなよ!﹂と軽く叩いてくる。
雨は結局止まず、集合時間近くになってから、ジョージおじさん
の所までみんなで走った。
帰りは車だった。気まぐれにミドルクラスなのかと聞いたら、肯
定と、何故そう問うたのかという疑問が返ってきた。貴族らしき少
年に言われたと答えると、彼等からしたら貴族とそれ以外でしか分
けていないとの事であった。アッパークラス︱︱いわゆる貴族は、
中流のミドルも下流のワーキングもみておらず、ただ亜人と言う物
を敵視しているだけなのだとか。
外の雨音は途絶える様子を見せなかった。ジャスミンが﹁酷い雨
だわ﹂と窓から空を見上げている。確かに、日本の梅雨にも似たと
ころがあった。﹁ずいぶん冷えるな。今夜は真鍮の猿か﹂とジョー
ジおじさんも渋く言う。長く多く降る雨に不慣れなスコットランド
人は、不安、ティアに関しては恐怖すら感じているような表情をし
ていた。
夜になっても、雨はやまない。むしろ一層激しくなっていくよう
にも感じた。家族全員が熱心にテレビの天気予報に食らいついてい
る。日本の様に娯楽媒体が成長していないのが、亜人の存在を活か
せなかった証拠の様にも取れて何故だか悲しかった。
ニュースもフォーブス家の需要に応えるかのように、熱心に天気
982
予報を伝えている。
そんな時、呼び鈴が鳴った。家族全員が聞き逃したのを見て取っ
て、総一郎は玄関へ駆けて行った。こんな雨の中誰がと思いながら
ドアを開けた。
そこに立っていたのは、年若き青年であった。黒いレインコート
を着て、一瞬闇に紛れて見えなかった。しかしその表情は柔和だっ
た。髭含む無駄毛は無く、その為か﹃薄い﹄という印象を受ける。
﹁失礼します。ここはフォーブスさんの家ですか?﹂
少年であるはずの総一郎に対する丁寧な対応に、瞬間言葉を詰ま
らせつつ首肯する。
﹁そう。という事は、君がソウイチロウ・ブシガイト君で良いのか
な﹂
えっ、と声を漏らすと、青年はニコリと笑った。彼は総一郎に手
紙を差し出す。赤く仰々しい封蝋がしており、その中ではライオン
と鎖につながれたユニコーンが盾を支えていた。
﹁君の進路の事で、少し提案があるんだ。現在の身元引受人である
フォーブスさんと話させて貰えないだろうか。私はシーザー・ワイ
ルドウッド。騎士学園であるソールズベリー校の教師をやっている﹂
彼はそういいながら、しなやかな短杖を取り出した。
983
﹁反対だ! ソウを貴族の元へやる気なんて、私にはさらさら無い
!﹂
ジョージおじさんは開口一番にそう言った。まだ要件を切り出した
だけのMr.ワイルドウッドは、意表を突かれて目をぱちくりさせ
ている。対する我らが父は目を怒らせて鼻息も荒い。下手なことを
言えば青年はこのまま追い出されてもおかしくは無いだろう。
﹁大体、ソウは貴族でもなければ﹃聖神法﹄が使える訳でもない!
この子にそんな不相応な道を行かせる意味が分からないぞ!﹂
そうだそうだと父の援護をするブレア。ティアもそれに続き、ジ
ャスミンは何も言わない代わり、しきりに家族の意見に頷いている。
どうやらフォーブス一家は貴族がそこまで嫌いらしい。総一郎も今
日の事で好きには成れそうにもなかったので、内心でエールを送る。
﹁いえ、彼にはこちらから後々一代限りの騎士の称号と、それに伴
う神の祝福が与えられる手筈となっていますので、その件に関して
は問題ではありません﹂
﹁しかしソウである必要性が無い!﹂
﹁いいえ、有るのです。ではその事を含めて、本題に入らせていた
だきます﹂
ワイルドウッドは身を乗り出した。その動じなさにうっ、とジョ
ージおじさんは呻いてしまう。もっと頑張れおじさんと祈る総一郎。
だが、ワイルドウッドの説明を聞いていくうちに、考えさせられる
ようになる。
984
﹁皆さんは、ソウイチロウ君が人間と亜人とのハーフである事を知
っていましたか?﹂
それを聞いた瞬間、家中が静まり返った。それに戸惑い始めるの
は総一郎一人である。凍りついた居間に雨の音が充満する。雨音は
いまだ激しいままだ。
﹁⋮⋮だから、どうしたんだよ﹂
ぽつりと、ブレアが言った。その眼には敵意がにじみ出ている。
我も忘れて、机を叩いてワイルドウッドを睨みつけた。まくしたて
る様に言う。
﹁ソウはいい奴だ。亜人とのハーフだってそれは変わらない! そ
れでも差別するんなら!﹂
﹁そう、私どもの目的は、まさにそれなんです﹂
ブレアの言葉は、いとも呆気なく遮られた。きょとんと間の抜け
た声が、もじゃもじゃ頭の少年の口かもポロリと零れる。一度に柔
和な笑みを浮かべる青年は、息を深く吐きだしてから落ち着いて切
り出す。
﹁この国はご存じのとおり、諸外国に比べて酷く亜人に対して差別
的です。それは歴史上仕方がないのかもしれませんが、このままで
居れば我らがユナイデット・キングダムは発展途上の汚名を被る事
になりかねない。それだけは、絶対に阻止せねばならない事です。
そこで提案されたのが、亜人とのハーフで、かつ、温和で有名な
日本人と交友を持ち、亜人に対する偏見を消すという政策でした。
ソウイチロウ君はその点では非常に優秀だ。何せここまで家族に大
985
切に思われている。⋮⋮そして、だからこそアッパークラスの騎士
学園への入学にふさわしいのです﹂
お分かりいただけましたでしょうか。と畳み掛ける様に言われて、
ジョージおじさんは呆然と相槌を打った。次いで顎に手を立てて、
眉を寄せて考えだす。
﹁パパ! まさかソウを貴族の高慢ちきの元にやるっていうんじゃ
ないよな!﹂
﹁⋮⋮しかし、亜人とのハーフだと先に知られてしまえば、敬遠さ
れて交友の持ちようがないんじゃいか? それに騎士と言えばまさ
に亜人は天敵だろう﹂
﹁それに関しても問題はありません。ソウイチロウ君は卒業と共に
亜人とのハーフである事を発表する手はずとなっています。彼の努
力次第で、騎士学生の多くが亜人にも善悪がある事を知ってくれる
と私たちは見ています﹂
﹁ふぅむ⋮⋮﹂
﹁パパ!﹂
必死に父に呼びかけるブレアを見ていると、子供の無力さと言う
物を思い知るような気持ちになった。大人の意思次第で簡単に子供
の人生は左右される。だから、このままジョージおじさんに判断を
ゆだねるのも癪だと思ったのだ。
その為、総一郎は一つの問いを投げかける。
986
﹁Mr.ワイルドウッド。質問なのですが、僕が騎士学園に入学し
た場合、一体どのような得があるのでしょうか﹂
﹁奨学金を支払うつもりだよ。勿論、返さなくていい類のものだ。
⋮⋮そう、たとえばアメリカの都市に移り住んで、節約すれば不自
由なく十数年暮らしていく程度にはね﹂
にこり、とワイルドウッドは笑った。彼はきっと、総一郎の事情
を知っているのだろう。それを知った上で、このような事を言って
いる。汚い手口だ。しかし、嫌いじゃない。
﹁行きます。それが亜人の地位向上につながるなら、是非行かせて
ください﹂
﹁ソウ!?﹂
叫んだのは、ブレアではなかった。ジャスミンの甲高い声が、総
一郎の鼓膜を揺らした。彼女は信じられないという風に、目を剥い
て感情の抜けた顔でこちらを見つめていた。
﹁⋮⋮ソウ。お前が行くというなら私は止めることが出来ない。⋮
⋮だが、いいのか? ブレアもジャスミンもティアも、勿論私も妻
も、お前の事は家族のように思っている。この村の何処にも、お前
がずっとここに居て、責める者はいないんだぞ⋮⋮?﹂
ジョージおじさんは、総一郎に悲しそうに言い聞かせた。生き別
れの姉が、アメリカに居る。その事は、ブレア家全員が知っている
のだ。だが、総一郎は首を振る。
﹁⋮⋮違うんです、ジョージおじさん。僕は別に、家族でもないの
987
にこの家にいる事が負い目になっていたとか、そういう事じゃない
んです。僕だって、みんなの事は家族のように思っている﹂
﹁⋮⋮ソウ⋮⋮!﹂
﹁おいで、ティア﹂
涙を瞳に滲ませた妹のような存在を、総一郎は優しく抱き上げた。
毎日鍛えている総一郎には、七歳の少女など重さではなかった。
﹁でも、僕にはいずれ迎えに行かなければならない、血のつながっ
た家族が居る。僕より一歳年上なだけの姉が、たった一人で異国に
居るはずなんです。そういう意味では、今回の奨学金や﹃聖神法﹄
は魅力的です。これ以上にお金をかけてもらう訳にもいきませんし
ね。だから僕は、その騎士学園に行きたい﹂
﹁⋮⋮俺達を、見捨てるって事かよ﹂
﹁違うよ、ブレア。僕の姉は、容姿がほとんど亜人なんだ。白い髪
で、翼が生えてる。この国に亜人差別があったら、連れて戻っては
来れないだろ?﹂
拗ねたような暗い声音での声に、総一郎は優しく返した。ブレア
は袖で目元を拭って、自室の方に駆け出して行ってしまう。総一郎
は、追いかけずにワイルドウッドに向き直った。﹁いい顔つきだ﹂
と褒められる。
﹁正直、ここまですんなり話が通るとは思っていませんでした。あ
りがとう、ソウイチロウ君。では、数日後に迎えに来ますので、今
日はここで失礼します﹂
988
青年は柔和な笑みと共に立ち上がり、玄関で一礼して去っていっ
た。見送った総一郎を見つめる、寂しそうな視線が二つ。それに、
少年は笑いかける。
﹁そんな、寂しそうな顔をしないでよ。永遠の別れじゃないんだか
らさ。いつかきっと戻って来るよ。それまで少しだけバイバイする
ってだけさ﹂
言い終わると、衝撃が来た。腹のあたりにティアの頭が当たって
いて、その短い手は総一郎に強くしがみついている。もう一つ、胸
の真ん中に衝撃。涙目でキッと総一郎を睨んでいる。
﹁⋮⋮絶対、帰ってくるのよね﹂
﹁勿論、約束する﹂
少女の拳は緩やかに解かれ、総一郎は強く握った。随分と好かれ
てしまったものだと、なんだか不思議な気分だった。
他の友人との別れは、思いの他すんなりと行った。
ダグラスは総一郎が亜人とのハーフであると知っても、﹃黄色い
猿﹄という蔑称しか使わなかった。ガヴァンは少々恐る恐るな表情
を出したが、別れの握手を境にいつも通りに戻った。他のサッカー
メンバーもあまり気にした風は無く、﹁亜人が怖いっていうのはも
しかしたら両親の嘘なのではないか﹂という噂が発生するくらいだ
った。実際フォーブス家の母がティアを叱る時にはいつも亜人を引
989
き合いに出していたから、皆の家もそうなのかなとも思わないでも
なかった。
対して、森のホブゴブリン達には総一郎は別れを告げなかった。
元々ホブゴブリン達は若作りの長老であるパックと泉のピクシーた
ち、いたずら者のボガートを除いて各地を転々としているらしく、
パックにその事を切り出そうとしたら﹁言わなくていいよ、いつも
の事だ﹂と言われ、追い返されてしまった。セリアには言っておか
ないと、という強迫観念もあったが︵怒るとボガートが迷わず言う
事を聞くほどに怖い︶、それもパックが引き受けてくれると聞いて
家に引き返した。
迎えは、あの日の三日後に来た。
見送りの日は晴れていて、フォーブス一家とサッカーチームのみ
んなが来た。ダグラスは居なかった。ただブレアの話によると﹁呼
ばれてないからいく道理がない﹂と頑なだったと聞いている。少年
らしい頑固さが妙に愛しく、ブレアに﹁帰ってきたらまたサッカー
しよう﹂と伝えてくれと頼んだ。
車を運転するのは、ワイルドウッドだ。他には誰もいない。それ
を訝しんでいると﹁別に大した理由は無いよ﹂と笑われた。
﹁それにこの一件が詐欺だったら、Mr.フォーブスに見破られて
いただろうしね。いや、彼のコネクションの多さには驚かされた。
ミドルクラスと言っても彼はアッパーミドルだよ。あの分だと相当
な財産を隠し持っているんだろう﹂
﹁どういう事ですか?﹂
990
﹁あまりにも突然の訪問に、いきなり持ち出される不可解な案件。
詐欺だと思ったんだろうね、Mr.フォーブスは。だからそういう
企画があるか、議席持ちの政治家たちに聞いて回って居たらしい。
⋮⋮本当、君は優秀だ。君なら成し遂げてくれるような気もするよ﹂
こちらに向けて、柔和に笑いかけてくる。しかし、その表情は次
の瞬間には酷く固くなっていた。総一郎も、少々身構えながら聞く。
﹁ただ、一応気を付けていて欲しい。亜人に関してのみ、騎士学園
はほとんど治外法権だ。そのほかの人物は、たとえ政府でも亜人関
連となると門外漢で、委縮するしかない。貴族たちは他国の事なん
か考えてもいないからね。だから、貴族院は失われたのだろうが、
裁判を極力有利に進めるだけの権力をいまだに持っているのだから
厄介なんだ。⋮⋮すまない、難しい話をしたかな。まぁ、大人たち
も一枚岩ではないとだけ覚えておいてくれ﹂
﹁⋮⋮ともかく、絶対に知られるなという事ですか?﹂
﹁ああ。︱︱本当にすまないね、こんな役回りを押し付けて。⋮⋮
ほら、降りて。教会に着いた﹂
一瞬くらい低い声音が混ざったが、結局気にする間もなく教会の
中に入れられた。きらびやかに輝くステンド硝子は、総一郎の前世
と同じものだ。いまだに保存されているという事だろう。しかし亜
人との戦争を経ていたから、こういう古い物は貴重なのだという。
総一郎は促されて、偶像の前で片膝をついて礼をさせられた。背
後から、ワイルドウッドが彼の肩に杖を置いた。短杖ではなく長い
儀礼用のものだ。厳かな声で、問われる。打ち合わせ通りにやれば
いい、と総一郎は自らを落ち着かせた。
991
﹁ソウイチロウ・ブシガイト。汝はスコットランドへの忠誠と奉仕、
また神の敵たる亜人を殲滅することを誓うか﹂
亜人の殲滅。そんな気はさらさらなかったが、言葉だけでいいと
言われしぶしぶ了承したくだりだ。
﹁はい、この命を懸けて誓います﹂
﹁ならば汝に騎士の称号と、我らが神の力の一端を与えよう﹂
総一郎は手を組み、偶像に向かって祈りをささげた。目を瞑り、
ずっとそのままでいる。しばらくすればワイルドウッドから合図が
来て、総一郎は目を開けた。これで、総一郎は名実ともに貴族とな
った⋮⋮らしい。
﹁実感が無いです﹂
﹁いずれ出て来るさ。とは言ってもこれは特例だからね。何の寄与
もないのに騎士に成れたのは、いわば報酬の先払いだ。と言っても
楽にしてくれていい。君はただ、学校でみんなと対等に仲良くして
くれればいいのさ。そこから先は大人の仕事だ﹂
ワイルドウッド、いや、ワイルドウッド先生は、そう言って柔ら
かく笑った。
ここはまだ、スコットランドだ。ソールズベリーはイングランド
の端にあるから、ここから飛行機で飛ばねばならない。
総一郎は騎士になった数日後、空港から空を見上げた。晴れてい
992
たと思ったら、また、雨が降り始めたようだった。
993
2話 貴族の園︵1︶
目覚めると、部屋はまだ暗かった。
貴族の子である騎士候補生の寮の部屋は、広い。二段ベッドだが、
粗雑さの感じるところのない一室だ。どちらかと言うと一体感を出
すべく、あえて選ばれたような雰囲気がある。文句をつけるならば、
総一郎には相部屋の人間がない事だった。
その部屋の壁の一番目立つところに、﹃武士は食わねど高楊枝﹄
の掛け軸を飾ってある。洋風のこの部屋に案外似合っていて、総一
郎は満足していた。テレビこそ無いものの、寮の入り口付近にある
談話室に行けば見ることが出来る。
だが、総一郎はそういう物にはあまり興味がわかなかった。今は
ただ、早朝で素振りが出来ることが嬉しい。
カーテンを開いたりベッドを整え直したりと朝の一手間をさっと
終わらせ、部屋の片隅に立てかけてあった父の長い木刀を取って部
屋を出る。
総一郎は、早朝が好きだった。仄暗い空に、僅かながら赤い日が
差している。昔は気付かなかったが、これを朝焼けと呼ぶのだろう。
淡い赤と、色濃い青。それが奇妙に境界線を失くしている様が、何
とも彼の心を惹きつけるのだ。
修練場に出た。本来スコットランドクラスの人間は授業以外使わ
ないのだそうだが、私的に使ってはならないという訳ではないと生
994
返事ながら教えられた。問題を起こすなよと昨日の学校案内で他ク
ラスとの交友で釘を刺された時の口調が、妙に印象的だったのを覚
えている。
円形の修練場の端っこで、木刀を構えた。薄暗い修練場の地面と、
赤と青の混じり合う空が半々の割合で総一郎の視界を占めている。
木刀を一度上げ、振り下ろした。確かな感覚にうなずき、続ける。
振っている内に様々な物が曖昧になり、そうした余分なものから
先に消えていった。最後に残るのは向かい合う自分の姿。そして白
羽の物だろう羽と、﹃武士は食わねど高楊枝﹄の言葉だけである。
﹁おっ﹂
声が聞こえて、素振りを一旦終えて振り返った。背丈から、年長
の少年であるらしいと推察する。黒髪で目は琥珀色、一般的に狼の
目と言われる瞳だ。声変わりも済んでいるようで、なかなか変わら
ない総一郎からしてみれば羨ましい。
﹁っと、邪魔してしまったかな。済まない。ただ、おれよりも早く
にここに来る生徒がいるとは思わなかったもので﹂
﹁いえ、構いませんよ。えっと、先輩もここで練習を?﹂
﹁ああ、とは言っても君の様に熱心に振り続けるような物ではない
のだがね。おれはせいぜい、型の確認と聖神法の短縮詠唱の練習を
しに来ただけだから﹂
聖神法のせの字も分かっていない総一郎には、なんだかその言葉
が格好良く聞こえた。﹃だけだから﹄がいいのである。﹃だけだか
995
ら﹄が。
﹁名前を聞いてもいいかい﹂
﹁ソウイチロウ・ブシガイトです。そちらは﹂
﹁カーシー・エァルドレッドだ。よろしく、ソーチロウ﹂
﹁ソウイチロウです﹂
﹁ふぅむ、発音が難しいな。それにしても中々変わった名前だ﹂
﹁よく言われます。愛称にはこだわらない性質なので、好きに呼ん
でもらって構いませんよ。ところで、何故名前を聞いたのか尋ねて
もいいですか?﹂
﹁ああ、君、新入生だろう? 見た事ないから。それで、こんなに
精力的に素振りをするなんて感心だと思ってね。⋮⋮すこし、恐い
くらいの音だった﹂
﹁ははは﹂
やはりセリア達フェアリーは人間とは感性が違うのだろう。彼女
らが何故頬を赤らめたのかは永遠の謎にしておこうと思い定めた総
一郎だ。
エァルドレッド先輩は用事を思い出したように総一郎を素通りし、
居なくなってしまった。おやと思うものの、自分には関係ないかと
割り切って素振りを再開すると、彼は何処からか石柱のような巨大
な石の塊を数個引きずってきた。見れば修練場の三つある入口︱︱
996
修練場は各三クラスの中央に有り、それぞれの生徒が来れる様にな
っている︱︱付近の倉庫から引っ張り出してきたものらしい。
何となく、かつて図書が作ってくれた土像を思い出す。あの頃は
魔力も加護の数も未熟で、破壊するのに苦労した。
先輩はその石柱を自らの周囲に、円を描くように並べた。それら
を敵に見立てるならば四面楚歌もいい所である。彼は持参してきた
鉄のロングソードを腰に溜め、息を吸い込み始めた。僅かに彼の体
が淡い光に帯びてくる。そして、光が剣までも包み込もうとした瞬
間、ぐるりと彼は体を一回転させ、追従するように剣が石柱を貫通
して走っていった。
先輩は動きを止め、渋く息を吐き出した。剣に両断された石柱は
重力に押され上体を地に落す。見事なものだと思ったが、生憎と彼
が出したのは後悔の声だった。
﹁うーん。まだまだ難しいなぁ⋮⋮。恥ずかしいところを見せてし
まった﹂
﹁えっ、今の成功じゃないんですか﹂
﹁いや、成功の場合は石が完全に粉々になるからね。溜めが短いの
か⋮⋮?﹂
釈然としない風に唸る彼は、結局三度目に成功し石柱を粉々に砕
いていた。
その後、総一郎は数分だけ素振りを続けて、別れを告げ自室に戻
った。カーシー・エァルドレッド。外見や聖神法の使い方からして、
997
アイルランドクラスなのだろう。身体強化の術式が、石を粉々砕い
たのだ。逆に総一郎のスコットランドなんかは、事物干渉しか使え
ない。分かりやすく言えば魔法らしい魔法だという事だった。炎弾
を放ったり、という事になる。イングランドはそのハイブリットな
のだろう。
一旦シャワーで汗を流して、定時の祈りとその後の朝食を済ませ
てから自室に戻り、規定説明のミーティングまで本を読むことにし
た。父から預かった﹃美術教本﹄である。同じ単語が多く出たり、
落丁や乱丁があったりしたが書いてある内容は興味深い。絵を描い
てみようかなと思う程度には。
昨日は列車で見つけて少々思ったに過ぎなかったが、今のように
腰を据えてしまうと本当に趣味として始めてもいいかもしれないと
考えだす。騎士学園の外には街が広がっているから、そこで画材を
探してみようか。
思案していると、持参していた携帯が鳴った。アラーム機能であ
る。騎士と聞くと何だか中世を連想するから、妙な感覚だ。今日授
業が終わったら街を見て回る事に決め、部屋を出る。
施設の説明は昨日終えてあったから、今日はきっと授業の受け方
などについてだろう。
騎士学園の教室は大学のように、後方に行くほど位置が段々に高
くなっていくという造りになっていた。それが教師の数だけあって、
逆に担任の教師という者は居ない。本来この年頃に習う勉学につい
ては貴族以外からも有能な人物が教えてくれ、それ以外の特殊科目
︱︱聖神法の事物干渉、身体強化など︱︱は貴族であり騎士である
お歴々がご高説を講じてくださるらしい。
998
皮肉っぽい紹介になるのは、未だあの杖屋で出会った貴族の坊ち
ゃんが苛立たしく蘇るからである。
今朝会った先輩は貴族にしても親しみやすい相手だった。だが、
総一郎が﹃サー﹄の称号を受けて入ってきたと知ったら、態度を変
えるかもしれない。
少なくとも、警戒はしておいた方がいいだろう。そのようには思
う反面、ファーガスの様な友人に恵まれたらいいな、とも思う。
彼は、一体何をやっているのだろう。他クラスへは容易に行かれ
ないらしいから、想像するしかないのが残念だった。
教室に入ると、一人だけが教室に座っていた。金髪を肩口で切り
そろえた少女が、前から二番目の列に座っている。読書をしていて、
ちらっとこちらに視線をやったものの、それ以上の行動を起こす様
子はなかった。総一郎は声を掛けづらく思い、仕方なしに比較的後
ろの方に座った。
時計を確認して、少々早すぎたのかと考える。総一郎は、フォー
ブス家で買ってもらった本の一冊を取り出して、ぱらぱらと捲りだ
した。
総一郎は本に熱中しやすい性質である。よって本が一段落して顔
を上げた時にはいつの間にか教室の大半が埋まっていて、彼の両サ
イドにも人が座っているという始末だった。
﹁どうしたんだ、そんな慌てて﹂
999
驚いてキョロキョロしていた総一郎に、右隣から声が掛かった。
それに照れつつ頭に手をやり﹁いやぁ、本を読んでたらいつの間に
か人がいっぱい居てびっくりしてさ⋮⋮﹂とその人物に向かい合っ
た。
その少年は、薄い金髪だった。少々皮肉げな笑みを浮かべている
が、そう嫌らしいものではない。癖のような物だろうと推察できる
それだった。細身な所があってあまりスコットランドらしい体格と
は言えない。総一郎は彼の容姿を見て、何かが引っ掛かった。
﹁⋮⋮君、何処かであったことある?﹂
﹁偶然だね、ぼくも今そう思ったんだよ﹂
あまり強い関わり方をしてないという事か、と彼は口元に指を当
て、考えだしたようだった。逆に、こちらはその言い回しを聞いて
誰だか思い出す。
杖屋で遭遇した、あの貴族の子だ。
﹁ああ! 君はいつぞや杖屋に居た⋮⋮﹂
目を丸くして、彼は総一郎を指差した。総一郎はただ居心地悪く
苦笑するのみである。あまり思い出してほしくなかったというのが
本音だ。恐らくだが、彼とは相性が悪い。
しかし総一郎の心持ちに反して、少年は親しげな表情を見せた。
﹁もしかしてあの時の口げんかを気にしているのかい? いやだな、
アレはぼくも悪かったから、お互い様と言っただろう。となると、
1000
ここに来たという事は、君は存外ジャパニーズではないのかな? そういえば君の名前は何と言うんだい?﹂
﹁⋮⋮ソウイチロウ・ブシガイト﹂
﹁ふむ、変わった名前だね。ぼくはギルバート・ダリル・グレアム
二世。ギルと呼んでくれ。あと既に知っているかもしれないが、ぼ
くはモントローズ侯爵の息子だけど︱︱別に身分の差などという事
は気にしなくていい。ここに居る間はぼくも君もただの騎士候補生
なのだからね。まぁ、仲良くやろう、ソウイチロウ﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだね。過去の確執は忘れるべきだ。よろしく、ギ
ル﹂
言って握手する二人。総一郎は、もしかしたらこの少年は悪い奴
ではないのかもしれないと思い始める。少なくとも、お喋りな性格
ではあるようだったが。
﹁それで、君が読んでいるのは一体なんて本なんだい?﹂
﹁これ? まぁ、ちょっとした推理小説さ。﹃弱者の円環﹄ってい
う﹂
ギルの問いに、軽く答える総一郎。虐められっ子をつい殺してし
まった苛めっ子が、事実を少しずつ警察に暴かれて破滅するという
内容だ。少々ハードなので、年齢的に中学一年生になったばかりの
彼には伏せておこうと思う。
だが以外にも、彼はそれを聞いて目を輝かせた。
1001
﹁君も﹃弱者の円環﹄を読んだのか! まさかこの学年であの小説
を読んだ人がいるとは思わなかったよ。中々ハードな内容だからね﹂
﹁僕もまさかだよ⋮⋮﹂
なんて過激な本を読んでいるんだこのクソガキ、とまでは思わな
いが。ちなみに総一郎は精神年齢と言うか経験年齢がもうおっさん
だからいいのである。ノーカンだ。
﹁もう全部読んだのかい?﹂
﹁うん。内容はあんまりよろしくないけど、なんだか気に入っちゃ
ってさ。もう読み返すのは三回目なんだ﹂
﹁そうか。随分と読み込んでいるんだね。あの作者は人を選ぶ代わ
りにとても濃厚な話を書くからぼくも好きなんだよ﹂
数度首を頷かせるギル。仲間を見つけてうれしいのだろう。総一
郎も、読者仲間がすぐに見つかって喜ばしい限りだ。本好きという
のは本の解釈を語り合うのが何よりも楽しいのである。
その例に漏れない彼も、﹁そうだ、ソウイチロウ。知っているか
い?﹂と総一郎を煽ってくる。総一郎も行間を読むのが好きなため、
ある程度なら受け止められる自信があった。
だが、ギルの仮説は総一郎の度肝を抜いた。
﹁本当はね、﹃弱者の円環﹄では、あの破滅していく苛めっ子こそ
が実際は虐められっ子だったんだよ。殺されたのは、虐められっ子
でなく苛めっ子であったとね﹂
1002
﹁⋮⋮何それ﹂
眉を顰める総一郎である。聞いたことが無い上に、不愉快な改変
だ。
しかしギルは気付いた風もなく、﹁実はね﹂と語りだす。
﹁ぼくの父がこの作者と懇意なのだが、彼は伏線として、虐められ
っ子が苛めっ子を殺した後、精神的に病んで自分が苛めっ子であっ
たと勘違いしてしまった、という読み方もできるようにしてあった
らしいんだ。それを聞いてから小説の中身や色合いがガラッと変わ
ってね。普通の読み方もできるが、そういう表裏一体な意味にもと
れる。素晴らしい作家だよ、彼は﹂
言われて、しぶしぶ本を開きなおした。確かに、意味のなさそう
に思えた伏線がことごとく虐められっ子である主人公に絡まってく
る。しかし逆に、今まで苛めっ子であった主人公に絡まっていた伏
線の全てが意味を喪失してしまうという、奇妙な状態になってしま
った。
﹁あまり、好きな読み方じゃないな。これは﹂
﹁まぁね。この小説の一番の醍醐味は、調子に乗っていた苛めっ子
が惨めに破滅していく様だから、それも仕方がないだろう。作者も
読めるというだけで素直に読んでほしかったらしいしね。気付いて
もらえないのは寂しいけれど、という訳だ。⋮⋮おや。教師が来た
ようだね﹂
見れば、段々畑のような学習机の一番下の所に、ローブを羽織っ
1003
た人が立っていた。次第に、教室が静かになっていく。
1004
2話 貴族の園︵2︶
教壇に立つその男性︱︱おそらく教官に、総一郎は見覚えを感じ
た。というか、数日前にあったばかりだ。これで忘れていたら、健
忘症に間違いはないだろう。
﹁ワイルドウッド先生じゃないか﹂
ぽつりとつぶやく総一郎に、ギルが﹁もう教師の名前を覚えたの
か﹂と感心したように言う。ワイルドウッド先生は、変わらず存在
感をあまり発しない柔和な表情で﹁では、規定説明のミーティング
はじめます﹂と声を響かせた。
説明は淡々としていたが、後半、場所を移して受けたタブレット、
亜人の討伐、聖神法の取得方法などの内容は、なかなか興味深い物
だった。一つ不満があるとすれば亜人を討伐せねばならないという
事だったが、こちらでは魔獣すら亜人と呼称するらしいから、きっ
とそういう事なのだろうと解釈している。
タブレットでスキルツリーを開き、いくつか眺めた。しかし自分
が既に使用可能な魔法と比べるとどれも見劣りしてしまって、どう
にも決め難い。ギルが、﹁ぼくはもう決めたよ? イチは、どうす
るんだい﹂と聞いてくる。﹁後でにするよ﹂と肩を竦めて答えた。
正直な話、便利なものがあるとは思えなかったが。
ひとまず、タブレット・スキルと呼ばれるものすべてにポイント
を振った。ここに居る中で少しでも武術をかじっていそうなのは一
握りだったから、最初はこんなものでも大丈夫だろう。
1005
そうすると、五ポイントが余る。スコットランドクラスの聖神法
は、非常に平易な言い方をすると、RPGの魔法使いのようなもの
だ。杖から、炎の球を飛ばしたりする。最初のエリアに属性云々を
気にするような相手が出るとも思えず、﹃ファイア・ボール﹄︵あ
まりにもそのまんまだ︶とその発展形を少し取るにとどめた。これ
で十二分に闘えるはずだ。
しかし、遮るものが居た。ギルだ。﹁あの、済まないが﹂という
風に、頼みごとをしてくる。
﹁ソウイチロウ。ぼくは君とパーティを組みたいと思っているのだ
が、そうなるとバランスというものが大事になる。そのことは分か
るね?﹂
﹁え、うん。確かにそうだね﹂
﹁それで、こう言っては何なのだけれど、﹃サーチ﹄﹃ハイド﹄の
二つを取ってくれないか? できれば支援してほしいという事なの
だけれど⋮⋮﹂
ギルの申し入れに、ふむ、と考え込む総一郎。自分は素手でも、
本当に弱い敵なら何とかなると思う。だがギルは見たところ、武術
をやっていたという事はなさそうだ。体つきで、そういう事は把握
できる。総一郎は﹁仕方ないな、いいよ﹂と言って、﹃ファイア・
ボール﹄に伸ばしていた手を引っ込めて、彼の言うとおりの聖神法
を取った。結局攻撃系の聖神法が一個も取れなかったが、それでも
気にするほどではない。
素手で相手をしろと言われたら、少し戸惑う程度の話だ。
1006
それから残った説明の後に詠唱室と呼ばれる場所に向かった。こ
こで、杖を持たずに発音の練習をする。このクラスだけ他とは違っ
ているのだと考えされられた。他にも実演室などがあって、そこは
実弾射撃場に似ていた。もっと身近に例えるなら、バッターボック
スだろうか。
説明が一通り終わって、多分定型句になっているだろう鼓舞を受
けて、その場は解散した。総一郎は、寮の部屋に向かいながら、自
分のすべきことを考える。
﹁えっと⋮⋮、とりあえず、なるたけ友達を増やせばいいんだっけ﹂
相手は日本で言う中学生で、歩きながら、ふむ、と考えた。反抗
期の年頃。友達付き合いも難しくなる年代。アイデンティティ模索
の時期。
﹁⋮⋮悩んでも仕方がないね。大丈夫、大丈夫。気楽にいけば友達
百人くらい軽い、軽い﹂
前世で友達がそこまで多かったという訳ではないけれど、こうい
う事は楽観的な方がいいと総一郎は知っている。
﹁じゃあ、ここでお別れだね。ソウイチロウ。また明日﹂
﹁うん、また明日。ギル﹂
手を振って別れた。そうだ、と思う。すでに一人、総一郎には友
達がいるのである。良いスタートを切っている。それが、総一郎の
自信になる。
1007
寮の、自室に戻った。
総一郎は、偶然あぶれてしまって二段ベッドが物悲しい一人部屋
で生活することになっていた。朝は気にならなかったが、外で行動
できない夜は少々寂しい。
そのため、総一郎は暇つぶしになるものを探していた。持参して
きた五冊の本はすでに列車内で読み切ってしまったし、一応持って
きたパソコンもあまり使う習慣がない。これは前世からのものだ。
よく同僚に﹁いいから使え現代人﹂とどやされた。しかし今の総一
郎から見れば彼は十分古代人である。今は亡き彼に合掌。とりあえ
ず聖地の方に向いてぺこりとしておく。
﹁お﹂
整理が途中で止まっているカバンの中を漁っていると、書物が出
てきた。何だ、六冊も持ってきていたのかと過去の自分を称賛する
と、違和感に気付いて総一郎は片眉をゆがませる。
﹃美術教本﹄と、そこには記されていた。
﹁父さんの書庫からパクってきた奴じゃないか。そうか、君はこん
なところで眠っていたのか⋮⋮﹂
しまった記憶が少々おぼろに残っているばかりのこの書物に総一
郎は惹かれて、備え付けの勉強机に向かってページをめくり始めた。
なかなか、面白い。そう思い出すと総一郎はぐんぐんと読むスピー
ドを上げていく。読み終わって顔を上げた頃には夕食の時間を過ぎ
ていて、急いで食堂に赴いて職員さんに頭を下げて残りを頂戴した
1008
という次第となった。
貴族の食堂でもすべて美味しいわけではないのだと思わされなが
ら寮に帰ると、談話室に気付いて、こっそりとそこを覗いてみた。
そこには何人かの騎士候補生が、テレビを見ながら談笑している。
小さい少年とほとんど青年と言ってもいいような年の差のある人物
も陽気に話していたため、年齢による格差はないのだろうと見当を
つけた。
総一郎はしかし日本人らしい引っ込み思案を発揮して、入るべき
か入らざるべきかを迷い始めた。すると上級生らしい人物に﹁何を
戸惑っているんだ? ⋮⋮ははぁん? もしかして君は新入生だな
? いいだろう、君には特等席だ﹂とテレビの目の前の座椅子を示
される。
﹁ありがとうございます。いやぁ、下級生が調子に乗ってこんな居
心地の良さそうな場所に居たら、ボコボコにされるんじゃないかっ
て心配で⋮⋮﹂
﹁ははは! 騎士学園には年功序列と言うものはないよ。強ければ
一目置かれるし、ドン臭かったらそれなりの対応をされる。きみは
なかなかジョークが上手いから、ここに座ってもいいんだ﹂
﹁なるほど、分かり易い﹂
ちょっと生意気かなと思いつつも、そのままふざけた態度を崩さ
ず座椅子に座った。ホームドラマが流れているが、疎い総一郎にと
っては何が何やらわからない。
﹁あれ、ソウイチロウじゃないか﹂
1009
そういって姿を現したのは、ギルだった。﹁やぁ﹂と手を上げる
と、彼は先輩の許可を取ってから総一郎の隣を座ってくる。
﹁君は何というか、どこにでもいるね。先回りされているような気
がしてゾッとしないよ﹂
﹁むしろ僕がストーカーされているような気がしてくるのが普通じ
ゃない? この場合は﹂
﹁勘がいいね﹂
﹁何だって、びっくりだ﹂
あまりに静かなトーンで冗談を交わし合うから、背後の先輩たち
が笑いをこらえている。それに気づいて、二人でにやりとした。結
構、彼と自分は似ているのかもしれない。気の合う友達になれそう
で良かったと、総一郎はこっそりご満悦だ。
しばらくテレビ前に居たが、ギルもこういうテレビには疎いとわ
かって二人で部屋の端に移動した。しばらくは面白かった本の話な
どをしていたのだが、途中で﹁それは何だい?﹂と尋ねられ、自分
の手を見る。
﹁あー、これは﹃美術教本﹄って言って、日本から持ってきたもの
なんだ﹂
食堂に行く際に部屋に置き忘れ、そのまま手荷物として持ち歩い
ていた一品である。それに、﹁ほぅ!﹂とギルは感心した風な声を
漏らす。
1010
﹁ソウイチロウ。君は芸術まで心得があるのか。君の博学っぷりに
は舌を巻いていたけれど、これは庶民にしておくには勿体ないほど
の教養だな﹂
﹁いやいや。買いかぶらないでくれよ。これは父にもらって物で、
最近読んだばかりなんだ﹂
﹁ああ、そうなのかい。早とちりしてしまって済まなかったね。ち
なみに、読んでの感想は?﹂
﹁面白かったよ。実際に自分も始めてみようと思うくらいにはね﹂
﹁それは素晴らしい事だ。明日、放課後に画材を買いにいかないか
?﹂
﹁え、クエストをしに行くんじゃ?﹂
﹁いいや、父上から申し付かっているんだよ。先走って狩りに出か
けても、クエスト受注で手間取るし、雑魚相手に怪我をするしでい
い事なんかないってね。明後日、あるいは明々後日にするつもりだ
よ﹂
﹁へぇえ。なら、僕もそれに従っておこうかな﹂
﹁そうしたほうが無難なはずさ﹂
肩を竦められ、そう言うつもりならと頷いた。
翌日の放課後。街に出ると、石造りの建物が多く、中世の色合い
1011
を強く残していると感じた。そういう場所は、独特の雰囲気があっ
て総一郎は好きなのだ。靴が石畳を叩く音も気に入った。
異国の経験があるとそういう細かな違いに目が行って楽しいのだ
が、ギルは馴染み切っているのだろう。﹁ずいぶんと楽しそうだね。
そんなに絵を描くのが楽しみなのかい﹂と少し的外れな事を聞いて
くる。
﹁じゃあ、早速探しに行こう。何処なら売っているんだろう。オイ
! そこの﹂
少々声色を硬くして、ギルは通行人を呼び止めた。最初は怪訝な
表情だったその人は、制服から総一郎達を騎士候補生と見て取って、
急に畏まった態度を取り始める。画材を売る場所を知っているかと
の問いに、彼は肯定を返した。道筋を聞いて、成程と頷くギル。
﹁ソウイチロウ、聞いたかい。街の少々外れの方という事だ﹂
﹁あ、うん⋮⋮。あのさ﹂
﹁ん? 何だい﹂
総一郎は微かに眉を顰めながら、ギルに尋ねる。
﹁仮にもこちらは教えてもらう側なんだからさ、もう少し丁寧な言
い方にしたらどうなんだ?﹂
﹁⋮⋮? おかしなことを言うな、ソウイチロウは。ふむ、しかし
ソウイチロウと呼ぶのは言いなれないな。どうしても妙な訛りが残
る。愛称を聞いてなかったね。何て呼べばいい?﹂
1012
﹁それは好きに呼んでくれて構わないけど⋮⋮。おかしなことって、
どういう事さ﹂
﹁だって、イチ、彼は平民だろう? 僕たち貴族ではないんだ。質
問して答えられなかった相手を殴るというのでもないのだから、よ
く主旨が分からないな﹂
﹁それだけで殴る人がいるの!?﹂
﹁ああ。父の友人が父の主催のパーティに来た時、酒が入っていた
からか我が家のメイドを殴ってね。この時は手が付けられなくて大
変だったよ。普段はいい人なのだが﹂
考え込むように、彼は顎に手を当てた。そこで、やっと総一郎は
実感するのだ。身分差のある社会というものを。
視線を伏せて渋い表情で居たのをギルに指摘され、慌てて取り繕
い、画材を売っている店へと向かった。初心者向けの、描き易い絵
の具などを紹介してもらい、それらを購入する。その後、結局目に
入った喫茶店で一杯の紅茶を飲んで、総一郎達は寮へと戻った。
ギルの対応は、もうそういう物なのだと割り切るしかない事なの
だろうか。
日本からイギリスに移って、多くの文化の違いと言う物に遭遇し
た。郷に入っては郷に従えというから、ある程度は気にせずたのし
くやってきたつもりだ。だが、今回の様に割り切るのに時間がかか
る事もある。亜人をどうしようもない敵対勢力と見做すのもそうだ
ったし、今回の貴族のそれこれというのも同じだ。
1013
何故受け入れられないのだろうと、ベッドで寝転びながら考えた。
きっとそれは、総一郎が貴族ではないからなのだ。
友人の冷たい視線が、自分に向けられるのを恐れる気持ち。
弱い。と声もなく呟いた。こういう時、総一郎の思考は日本語に
置き換わる。祖国が恋しいという感情なのか。
日本の現状は今、闇に包まれている。
人に成り代わった人食い鬼。元々居た亜人。そして取り残された
人々。それらの事は何も分かっていない。日本奪回計画というのも
立ち上がっているが、アメリカ人が立ち上げたような物は行ったっ
きり帰ってこないという話だ。
そもそも、日本の様に加護の概念がある国は少ない。中国は持っ
ているものの、日本に比べて亜人の絶対数が少ないというのがある。
あの国は日本の純亜人の受け入れは一番多かったが、元来あの国に
居る亜人は多くが山に籠っていて、加護を授けてくれる親切なもの
は少なかったのだ。
アメリカでは、日本人難民の受け入れにほぼ失敗の兆しを見せて
いるという。ただの日本人ならまだ良かったのだ。エルフなどの混
血も、初見では分かりにくいから問題は無い。だから難点は、亜人
の特性を強く保持したハーフという事になった。
︱︱白ねえは、今頃何をしてるんだろう。総一郎は想像する。だ
が、過去の記憶と混同し、最後には歪んで破綻してしまうのだ。
1014
その日はまだ、画材に手を付けなかった。
翌日、総一郎は昨日と同じように素振りをこなし、カーシー先輩
︱︱名前で呼ぶのを許してもらった︱︱と軽く雑談をして、シャワ
ーを浴びた。その後気が急いて、誰もいないだろうと予想しながら
も教室に足を運んでいた。
何故なら今日から聖神法を習うのである。教科書は既に配布され
ていたから、初級呪文程度は暗記してしまった程だ。思えば昔から
総一郎にはそういう所がある。端的に言えば好奇心の犬なのだ。
もっとも、杖の細かい振り方の記述がないから、それはスキルツ
リーで解放せよとのことなのだろう。今の内に面倒なのを覚えて、
実戦ですぐに使えるよう、という配慮なのかもしれない。
教室内に足を踏み込むと、予想に反して教室には先客がいた。金
髪を肩口辺りに短く切り揃えた少女である。よく見れば、顔の横辺
りの髪の毛の一部を左右一か所ずつ、三つ編みにしている。自己主
張の少なく、趣味がいいなと思いながら少し遠くの席に座った。彼
女は本を熱心に読んでいたから、近くに座っては邪魔だろうと思っ
たのだ。
やる事もなくその後ろ髪を見つめていると、そういえばスコット
ランドクラスの新入生代表を読み上げていた子だった。そりゃあ熱
心でも不思議はない。と総一郎は興味を失い、昨日と同じように﹃
弱者の円環﹄を読みだした。
しばらくすると、﹁やぁ﹂とギルが総一郎の肩を叩いた。顔を上
げて挨拶すると、他にも二人の男子が総一郎に挨拶する。﹁昨日談
話室で仲良くなってね﹂と紹介してくれた。それぞれ、ホリスとヒ
1015
ューゴという名前らしい。﹁よろしく﹂と二人と握手して、教師が
来るまで雑談した。
ホリスはギルと、ヒューゴは総一郎と相性がいい事が分かった。
ヒューゴはあまり格の高い貴族ではないらしく、気取ったところの
ない総一郎とは話しやすいようだった。ホリスはブラックユーモア
が上手く、それがギルの心を射貫いたらしい。スターリンをネタに
したジョークでギルは爆笑していた。随分と古いネタを⋮⋮。と思
わないでもない総一郎。
そうこうしていると、教師がやってきた。この教室はスコットラ
ンドクラスの端だから、恐らく、ヘイ先生だろう。彼は、スコット
ランドらしい赤毛で恰幅のいい人だった。髭が無く髪も短くて、そ
の清潔感に白いローブと長い木のロッドが良く似合っている。
﹁新騎士候補生たちよ、初めまして! わたしはワルター・ヘイ。
スコットランドクラスにおける、聖神法の教師の一人だ。初めに言
っておくが、スコットランドの聖神法は事物干渉のみと、非常に偏
っている。その為難しいと思われがちだが安心してほしい。何せ私
のような太っちょでさえ習得できるんだ。君たちに出来ない訳がな
い﹂
太っちょのくだりで、数人が噴き出した。総一郎は笑わないまで
も、愛嬌のいい先生だ、と口端に笑みを湛えて彼の演説を眺めてい
る。
だが、ギルは少々不満げな様子だった。﹁先生﹂と声を出す。
﹁仮にも貴方は教師なのだから、己の品格を下げるようなことはし
ないでいただけませんか? ⋮⋮それとも、そうでもしないと生徒
1016
の心を掴めないとか?﹂
﹁嫌な言い方をするものだな、グレアム。だが、わたしが太っちょ
である事は間違いのない事だろう? 君の父上の様に、もっと寛容
になってみるべきだ。彼も誇りを重んじたが、ユーモアを介するこ
とは出来た。今の君は潔癖症だ﹂
にやり、と人の悪い笑みで、ギルを諌めるヘイ先生。さらりとモ
ントローズ侯爵との関係を漏らすあたり、実力者なのだろうと思わ
せられる。彼はその後、﹁では一度、全員の名前を確認しておこう﹂
と名簿を取り出して、生徒の名前を挙げ始めた。
人数が多いのを知っていた為大丈夫かと眉を顰める総一郎だった
が、改めて見れば少ない。どうやらさらに数グループに分けてある
ようだった。当たり前と言えば当たり前だ。
ギルが呼ばれ、ホリス、ヒューゴが連続し、少しして総一郎の名
前が呼ばれる。
だが、何処か様子がおかしかった。
ヘイ先生は総一郎の名を呼ぶ直前、息を呑んだように言葉を詰ま
らせた。すぐに呼び直されたが、そこには憎悪と言っていい感情が
込められていた。僅かに教室が騒がしくなる。戸惑って先生の方に
目を向ければ、彼は仄暗い視線でこちらを凝視していた。
﹁⋮⋮な、何ですか?﹂
﹁︱︱何ですかではないだろうが、この汚らわしい亜人との混血が
!﹂
1017
怒鳴り声が、教室中を反響した。ざわめきが明確な混乱を持って
倍加していく。総一郎は、自分に向けられた言葉が信じられなかっ
た。
﹁何故、それを今言ったのですか? その事は卒業と共に発表する
手はずだったはずですよね⋮⋮?﹂
﹁わたしはそんな事を聞いていない! ⋮⋮ソウイチロウ・ブシガ
イト、その計画を知るこの学園の教師の名を全て上げろ。そうすれ
ば、ひとまずここでお前を討伐するのだけは止めてやる﹂
﹃討伐﹄という単語に、総一郎は頭をガツンと殴りつけられたよ
うな感じがした。彼は、総一郎が人間でさえないと言いたいのか。
周囲の鋭い視線に怯え、静かな恐慌状態で総一郎は何をすること
も出来なかった。身じろぎさえ出来ない緊張が彼を強く縛り付けて
いた。
トン、と音がした。ヘイ先生がロッドの端で教壇を叩いた音らし
かった。彼は目をつぶっている。開くと同時に、こう言った。
﹁ワイルドウッドだな、お前をここに招き入れたのは﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁覚えておけ、亜人。そして新騎士候補生たちもだ。聖神法の風属
性は、音をも司り、相手の心の声さえ聞き取る。中級以上の騎士に、
隠し事は通用しないという事だ。︱︱今回は明白な不備があった為、
この授業は自習とする! その亜人が暴れ出さないよう、見張って
1018
おくよう!﹂
言うが早いか、彼は踵を返して教室から出て行ってしまった。残
るのは新騎士候補生と、その冷たい視線にさらされる総一郎のみと
なった。少年は、恐ろしくてギル達の顔を見ることも出来ない。た
だ、先ほどまで肩が触れ合うほどだった距離がどうしようもなく遠
ざかっているのを、震えるその身で実感する他ないのだった。
1019
2話 貴族の園︵3︶
ギルは、比較的優しい奴だと総一郎は思う。何せ、﹃亜人﹄であ
る総一郎を、パーティに混ぜてくれたのだ。
﹁おい、荷物持ち。きりきり歩けよ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
ヒューゴの叱責に、内心腹を立てながらもきびきび歩いた。正直
な所、遅いのは彼らの方だ。総一郎は息一つ切れていないが、彼は
荷物もないというのにぜはぜはと苦しそうに歩いている。今の言葉
も完全に八つ当たりだ。
亜人とのハーフだと暴露されてから数週間。表立った迫害と言う
ものは、今のところなかった。総一郎自身、子供などに苛められて
たまるかと言う反骨精神がある。しかし波風を立てたくないことも
また事実。そんな折に、ギルがパーティに誘ってきてから、成行き
に任せた結果、今はこんなことをやっている。
彼は総一郎が推察するに、あまり亜人という事を気にしていない
節があるようだった。総一郎も彼だけは友人だと思っていて、偶に
二人きりになった時は、軽口をたたき合っている。
他のメンバーには、仲良く話していたヒューゴ、ホリスがすでに
加わっていて、総一郎をメンバーに迎え入れることに強い抵抗感を
示しているようだった。ヒューゴは線の細く、神経質そうな少年。
1020
ホリスは図体がでかく、どこか間の抜けた雰囲気があった。
﹁⋮⋮そろそろゴブリンが飛び出してくるよ﹂
総一郎のこのパーティでの役割は、基本的に﹃サーチ﹄による索
敵、隠密系統の聖神法を三人に掛けたり、回復系のそれで傷を癒し
たりという事をしていた。戦闘には参加していない。無理に出張る
必要もないというのもあったし、総一郎が出ようとすると彼らは怒
るのだ。
見栄っ張りな少年達である。いまだに意地悪をして、タブレット
の詳しい使い方を教えてくれない。ギルは代わりにスキルを取って
はくれたが、彼も悪乗りしてスキルツリーの進め方を教えてくれな
かった。自分はそれなりに機械音痴なので、閉口してしまう。
総一郎なら多分十秒もかからないゴブリン三体を、彼らは三人で
かかって十分で倒して見せた。﹁ふん、どうだ亜人。おれたちは強
いだろう﹂と言うようなことをホリスは言うが、総一郎は中身が大
人なので﹁ああ、僕にはとても出来ないよ。凄いね君たちは﹂とよ
いしょしておく。
大人びているギルはともかく、他の二人に関しては、子守をさせ
られているという感じがぬぐえなかった。やることなすことすべて
が退屈で、大分自分は参っているな、と我ながらに思ってしまう。
﹁すまない、イチ。少し怪我をしてしまった。﹃ヒーリング・ドロ
ップ﹄は覚えていたよね? それで癒しては貰えないかな﹂
﹁ああ、いいよ。﹃神よ、癒しの雫を与え給え﹄﹂
1021
杖を振ると、小さな水滴が杖の先から垂れ落ちて、ギルの傷口に
しみ込んだ。目に見えるスピードで、傷が癒えている。﹁ありがと
う﹂と肩を竦められたから、﹁どう致しまして﹂と返した。二人も
このくらい礼儀がなっていれば、面倒とは感じないのだが。
その後も狩りを続け、退屈なまま時間が過ぎた。危なげなく、傍
観するのみ。眠いと欠伸をするのは無理からぬことだろう。しかし、
ヒューゴは怒って怒鳴った。彼は短気である。
そのような生活をしばらく続けていると、いつの間にかポイント
が貯まって第二エリアに入れることになったと伝えられた。その頃
には彼らもポイントをつぎ込んでスキルツリーを伸ばし、様々な聖
神法を使いこなすようになった。
総一郎の役割は、変わらない。出てくる魔獣たちはそれなりに厄
介になってきていて、ある意味では自分ならどのように対処するか、
と言う脳内シミュレーションの楽しみが出来たともいえた。それを、
早朝の素振りに取り入れる。実戦と訓練は別物だが、無駄にはなら
ないだろうと思った。
そんな風にマイペースに過ごしていたある日の事。実戦訓練とい
う事で、珍しくスコットランドクラスで集まって修練場に連れられ
てきた。
ヘイ、と言う総一郎を糾弾した教官の引率だったため、総一郎は
警戒に身を固くしながらも素直に連れて行かれる。他の生徒たちは
ほとんどここに来たことがないらしく、何に感心したのか分からな
いが﹁おおー﹂と低い歓声を上げていた。注記しておくが修練場の
1022
造りは学園内でも一等簡素である。
﹁では、諸君らにはこれより模擬戦闘を行ってもらう。具体的に言
えば、聖神法を打ちあって相手を戦闘不能に至らしめるという事だ。
ただし、それだけだとただの殺し合いになってしまう。そのため、
諸君らの杖にはこれを付けてもらおう﹂
壇上に立って体育座りの生徒たちに演説するヘイ先生。でっぷり
としたその体を覆うローブの中から、指輪のようなものを取り出し
た。
﹁これを付けると、相手に痛みと傷を負わせることがなく聖神法を
放つことが出来る。しかも、それによる架空のダメージは蓄積され
るため、聖神法を受けるたび体が重くなり最後には動かなくなると
いう寸法だ。一度このリングを外すとその蓄積ダメージは消える。
先に注意しておくが、リングの付け忘れには十分気を付けるように
! それをやらずに恋人を火だるまにした大馬鹿者が昔に居てだな
⋮⋮﹂
その後簡単なルールやレクチャーをして、各自二人組を作って対
戦しろとのお達しだった。総一郎は皆と同じように立ち上がり、ギ
ルの姿を探す。
すぐに、ギルに続くヒューゴ、ホリスの三人が見つかった。呼び
かけて駆け寄っていくと、案の定二人が嫌そうな視線を向けてくる。
﹁何だよ。お前とは組まないぞ﹂
﹁そっか、それは残念だね。ところでギル、君は?﹂
1023
いつもの様に少しよいしょをしてから本丸へと呼びかける。だが、
肝心のギルは眉を申し訳なさそうに垂らした。
﹁すまないね、イチ。今日は先約が入っているんだ﹂
﹁あー⋮⋮。そう、なんだ。それは仕方がない﹂
内心本当に残念がっている総一郎。しかし、笑顔で彼らを見送っ
た後に、自らの状況の悪さに気付く。
﹁⋮⋮ヤバい。ぼっちだ﹂
しかもそんじょそこらのぼっちではない。クラス単位で嫌われて
いるぼっちである。
むむむ、と考え始める。誰かを誘っても断られることは目に見え
ている。どうしようかなどと思ってはいたが、しかし総一郎はそれ
でもなお気楽だった。
柔らかで包み込むように嫌悪される環境に慣れて、気が緩んでい
たのだ。
普通、こういうあぶれた生徒が居た時に対応するのは教員の役目
である。それは総一郎にも簡単に考えの及んだことで、現状の彼が
すべきだったのは、﹃真っ先に逃げ出すこと﹄だったのだ。
しかし、彼にはもはや時間は残されていなかった。キョロキョロ
と自分よろしくあぶれた生徒を探していると、ぬっと現れた影が総
一郎を覆った。
1024
﹁貴様ッ! 亜人の分際で何を怠けているッ!﹂
頭。横殴りの衝撃。総一郎はあまりに想定外の出来事に、防御一
つとれないまま地面を転がった。視界が赤黒く明滅している。顔を
上げると、そこにはヘイ先生が鬼の形相で見下ろしていた。その狂
気じみた敵意に、総一郎は反射的に身を竦ませる。
﹁ち、違うんです。ペアが居なくて﹂
頭を殴られた衝撃からか、それとも常軌を逸した激情に対する恐
怖からか。総一郎は震えた声で必死に弁解する。教官は総一郎をし
ばし睨み付けた後、﹁そうか﹂と言ってから周囲を見渡し始める。
﹁誰か! ブシガイトの相手を務めるというやつはいないか!﹂
だが誰も手を上げない。彼はそれに特筆すべき反応を示さず、﹁
そうか居ないか。ならばブシガイト、お前の相手は私だ﹂と杖を差
し向けてくる。
その杖は、どちらかと言うと鈍器染みた、脇差ほどの長さの物だ
った。見た限り、重さも相当ある。実際に鈍器として用いているの
だろう。
そうか、アレで殴られたのだ、と総一郎は気付いた。魔獣を狩る
用の道具。それを、彼は平然と生徒に向けたのだ。
亜人の混血とはいえ、自分の生徒に。
それを実感して、総一郎は背筋の凍る思いをした。地面に座りっ
ぱなしの総一郎にヘイ先生の表情がゆがむのを感じ取って、少年は
1025
すぐさま立ち上がる。叱責はギリギリのところで飛ばず、彼は不機
嫌そうに鼻を鳴らした。
﹁では、杖にリングを嵌めろ﹂
言葉に従って、構える。ヘイ先生も先ほど総一郎を殴った杖を構
えた。しかし、そこにリングが嵌まっているのかどうかは定かでは
ない。形状が違うから、判別がつかないのだ。
リングを付けたような所作はなかった。総一郎は自らに、気にし
過ぎだ、と言い聞かせる。しかし、背中を伝う冷や汗が引かない。
﹁それでは尋常に、始めッ!﹂
彼は自分で言ってから、すかさず祝詞を唱えて聖神法を飛ばして
きた。炎弾。総一郎は飛び退いて避ける。背後の地面に落ち、音が
した。焼け、爛れる音。
﹁どうした? 反撃はしないのか?﹂
言いながらも、攻撃の手は止まない。総一郎は逃げ道を封じるよ
うに放たれた絶妙な間隔の二つの氷弾を、まず飛びのいて、次いで
僅かに広がった間隙に身をよじるようにして潜り抜ける。
少し、掠った。騎士服の一部が、凍っていた。
ヘイ先生の目を見る。彼はもはや、反撃の催促も、生徒に打たせ
ようという配慮も見受けられない。
﹁ほら、どんどん行くぞ﹂
1026
微かに、吊り上った口端。狩る側の愉悦。自分が、まるで貴族の
狩りから逃げる獣になったような気分だった。聖神法の球を必死に
避け、躱していく。ヘイ先生も少しずつ苛立ち始め、範囲が大きく、
威力もありそうな攻撃の手が増えていく。
その全てを避けることが出来たのは、単に攻撃の手が一つだった
からだ。一方向から飛んできたから、躱せた。
故に相手が、二人、三人となれば、躱せる可能性はぐんと下がる。
﹁お、先生ブシガイトとやってるんですか。おれも混ぜてください
ませんか?﹂
﹁ああ、いいとも﹂
﹁じゃあ俺も!﹂
﹁ははは。どんと来い﹂
やってきたのは、ヒューゴ、ホリスの二人だった。神経質そうな
少年も、大柄で間の抜けたところのある少年も、どちらも嬉しそう
に杖を振り回している。
総一郎の許可は、予想通り求められなかった。息切れを起こして
いて、咎める声も発せない。彼らはヘイ先生の側に回り、総一郎に
杖を向ける。
﹁じゃあ行くぞブシガイト。いくつ避けられるんだろうな、ははは﹂
1027
ホリスの大声。次いで飛来する聖神法。
躱そうとするが、いくつかが命中した。ヒューゴの二発。痛みは
ない。ただ、確かに体に重みが来た。動きが鈍る。避けるのがさら
に難しくなる。
ホリスからも、一発当てられた。こちらも痛みはないが、大きな
一撃で、鉛を背負わせられているような気分にさせられた。そこに、
興味深そうにこちらを見て、混ざってくる騎士候補生が数名。だん
だんと、じり貧になってくる。
生徒の攻撃は、全て殺傷能力はなかった。食らい続けたが、痛み
は感じなかった。
だが、ヘイ先生の攻撃だけは必死になって避け続けた。足枷の付
いたような体を引きずって、彼の聖神法だけに感じる圧迫感から逃
れるように。
そうこうしていると鐘が鳴り、眼前に迫った教官の攻撃を転がる
ようにして避けたのを最後に、その狩りめいた集中砲火は終わりを
迎えた。最後は地面を転がるしかできなかった総一郎を尻目に、﹁
お前何発当てた? 僕は十二発﹂﹁俺は十五発だぜ﹂などと歓談し
ている。リングが外され、体が軽くなった。その時、やっと自分の
怪我に気が付いた。
﹁⋮⋮地面で転びまくったんだ。当然だよ﹂
何に対する言い訳なのかもわからず、総一郎は立ち上がる。体を
酷使した所為か、四肢が意思とは関係なく震えていた。近くの壁に
寄り、体を支える。少し休んで、叱責が飛ぶよりも前に隊列の中に
1028
紛れた。
何人、自分に対して杖を向けたのだろう。十人は優に超えていた。
女子も、少なからずいたかもしれない。朦朧とする頭で考えている
と、いつの間にか礼が終わって解散させられていた。ふらふらと歩
いていると、背後から低い声が聞こえた。
﹁︱︱運が良かったな﹂
ぞく、と総一郎は固まった。すると、真横をヘイ先生が通り過ぎ
て行った。少年は彼を見つめながら、震えを止めることが出来なか
った。生唾を飲み込む。
ワイルドウッド先生に直訴して、やはりこの学園から逃れようと
決めた。この土壌は、異常だ。学校と言うものが独特の価値観に支
配されやすい事は、総一郎も人並みには知っている。このままでは、
命が危ない。そのように判断して、総一郎はよれた足で駆けていく。
職員室。見渡すが、ワイルドウッド先生は居なかった。自分の授
業を受け持つ先生が数人、嫌悪の視線を総一郎に向けている。それ
から逃げるようにして、顔も知らない先生に近寄って質問を投げか
けた。
﹁あの、ワイルドウッド先生は今どこですか?﹂
彼は少年が総一郎だと知らなかったのか、特別表情を歪めること
はなかった。しかし、何故か奇妙そうに片眉を引き寄せる。
﹁君、知らないのか?﹂
1029
﹁⋮⋮何をです?﹂
嫌な予感がした。
﹁ワイルドウッド先生は、先日懲戒免職を食らったよ。何でも、亜
人との混血を入学させたとかでね﹂
総一郎は、明らかに狼狽した。だが、その教員の﹁大丈夫かい?﹂
という声で我に返る。この動揺が、混血の入学に示されたものだと
受け取ったらしい。総一郎は、必死に自分を操作し、演技する。少
しでも、情報が欲しい。
﹁で、ではその、あ、亜人はどうなる予定なのですか? 近いうち
に退学とか⋮⋮﹂
﹁ああ、それね。建議されたけど、結局そのままにした方が楽だと
いう結論になったよ﹂
﹁それは、どういう⋮⋮﹂
﹁まぁ、君がそうだったように、亜人に対して嫌悪を示す生徒は多
い。自分の親が殺された生徒も少なからずいるからね。そういう生
徒が、勝手に処分してくれるだろうというのが上の判断だよ﹂
﹁処分⋮⋮って﹂
﹁騎士学園は亜人分野に関しては政府よりも権限を持った機関だ。
亜人の混血を内々に処分したとしても露見しない、ある意味では治
外法権だね。万一表に出ても、大事にはならないさ。だから、安心
すると良い。その亜人が暴れても、私たちは迅速に対処できるよ。
1030
それでも怖いなら、友達を呼んで罠にかけてみてもいいんじゃない
か? 山の頂上付近には、頭のいい亜人も出る。その時への予行演
習としてね﹂
あまりに親切そうに言う教員の言葉に、総一郎は演技も忘れて恐
怖を抱いた。その反応に彼はようやく違和感を覚えたようで、﹁お
い、君︱︱﹂と手を伸ばしてくる。他の、総一郎を知っている教員
が﹁おいッ、そいつがその亜人だぞ!﹂と叫んだ。直後、少年は駆
けだす。
余程総一郎が必死の形相をしていたのだろう。数人の騎士候補生
が、何事かと振り返る。それらを無視して、そのまま次の授業にも
向かわず自室に戻った。
ベッドに飛び込み、毛布にくるまって震えていた。下唇を、噛み
しめる。
異常な組織。異常な価値観。ワイルドウッド先生の話は一体何だ
ったのだ、と考えた。政府公認の物ではなかったのか。騎士学校に
は、政府からの要求を退ける権限でもあるというのか。
ブルリと震える。ワイルドウッド先生は、すでに役に立たなくな
っている。それ以外の方法を模索すべきだった。どうにかして、フ
ォーブス家のもとに帰らなければ。
﹁⋮⋮確か、ポイントが換金できたはずだ﹂
総一郎は自前のタブレットを取り出し、四苦八苦しながら操作を
試みた。このタブレットはいやに不親切で、教官の説明を聞いても、
結局一度しかスキルツリーの画面を開くことが出来なかった。たび
1031
たび画面に出てくる﹃エラー。この操作は現在許可されていません﹄
の表示に苛々しつつ、どうにかポイントだけでも見るために画面を
タップし続ける。
そうして、愕然とした。
﹁⋮⋮ゼロ、ポイント⋮⋮?﹂
思わず、タブレットを取り落した。少し考えて、結論に至る。パ
ーティは、パーティ全体でポイントを山分けし、第一エリアより先
に行きたい場合は、パーティ全体のポイントの合計で入れるかどう
かを判定する。パーティの結成は簡単で、組む時は相互の許可が必
要だが、外す時はリーダーが勝手に操作することが出来た。
そしてリーダーは、ギルだ。
﹁つまり、僕は⋮⋮﹂
ただ、荷物持ちと回復をさせられていただけの便利な道具に過ぎ
なかった。
妙な納得があった。総一郎が前に出ようとすると怒るのは、ポイ
ントを取られたくなかったがためだったのだ。少年はまず怒りを覚
え、しかしすぐに冷めていく。
あの三人を、ぶちのめしてやりたい。しかし、攻撃手段を持たな
い総一郎が反抗すれば、待っているのはその何倍もの制裁だ。今日
の訓練は、総一郎が反抗した時の末路を示している。彼らに逆らっ
てはならない。自分の命が惜しいなら。
1032
ならば、逃げるしかない。しかし、無一文で飛び出しても、いず
れ警察に保護されてしまう。その後、フォーブス家の誰かが迎えに
来てくれるという可能性は低い。ここはイングランドで、あっちは
スコットランドだ。移動には飛行機さえ必要である。となると、十
中八九引取り手は騎士学園。そして、この逃亡は反逆とみなされる
に違いない。
手が、なかった。唯一残された道は、地道にポイントを貯めると
いうものだけ。
あまりにディストピア染みた現状に、総一郎は震える事しかでき
なかった。心の支えとなりかけていたギルでさえ、総一郎を利用し
ていたにすぎなかった。
その日以来、総一郎は早朝の素振りを止めた。もし自分の存在を
知る生徒が杖以外の物を振る総一郎を見つけたら、ただで済むはず
がないと思ったから。
1033
2話 貴族の園︵4︶
酷い朝だった。
いつも通り胃がきりきりと痛むのは、もう仕方がない。今の内に
吐いてしまえば、何とか朝食を無駄にせず済む。その為起きてから
込み上げる吐き気を堪えず、便器へ向かって大きく口を開いた。出
るのは胃液だけ。イガイガする喉を洗面台でうがいして、そのまま
顔を洗う。
﹁⋮⋮昨日は、眠れたと思ったのにな﹂
鏡を見ながら呟いた。目の隈は、ここ数日間取れないままだった。
最初の数日は努力して隠そうと思ったが、もうしない。無駄だと悟
ったのだ。
洗面台から出て、ベッドに腰掛けてぼんやりとしていた。木刀へ
と視線が向かうが、何をするというともなく再び宙へ彷徨いだして
しまう。
この時間が、最近では一番楽な時間かもしれない。
辛い事を、考えずに居てもいいからだ。
だが、それもいずれは終わる。終われば、もう泣き言は許されな
い。どんなに辛かろうと、投げ出してはならないのだ。あの場所へ
行かなければならない理由そのものが、もはや破綻しているとはい
え。
1034
朝食へ、向かう。
身なりをどんなに整えても、総一郎の周囲に座る人間はいなかっ
たのだ。だが不運な事に、それは数日前で終わってしまった。今は
横柄な態度で、その場所を占める人物がいる。総一郎の両側を、奴
らは挟み撃ちの様に座る。
﹁やぁ、イチ。おはよう﹂
﹁あ、⋮⋮おはよう﹂
﹁どうしたんだよ、イチ! 元気が無いな、もっと元気出せよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁元気を出せっつってんだろうが! 声が小さいんだよ、この屑が
!﹂
﹁はっ、はい! ごめんなさい!﹂
﹁やれば出来んじゃねぇかよ。怠けてんじゃねぇぞ、コラ!﹂
ヒューゴは言って、総一郎の座る椅子を思い切り蹴り上げた。振
動。痛みがある訳ではない。しかし、怯えが彼の心を支配する。
それを、﹁まぁまぁ﹂と彼の反対に座るギルが諌めた。彼は総一
郎とホリスに挟まれて座っている。その笑みは初対面の時から変わ
った様子が無い。その底しれなさが、総一郎には恐ろしかった。
1035
﹁イチも怯えているじゃないか。ちゃんと謝ったのだし、許してあ
げよう。行動にはちゃんと対価を与えねばならない。そうだろう、
ヒューゴ?﹂
﹁⋮⋮まぁ、ギルが言うんならいいけどさ﹂
しぶしぶと、ヒューゴは引き下がった。ほっと一息を吐く総一郎。
そこで、ホリスがじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
﹁な、何⋮⋮?﹂
﹁︱︱いいや、何でもない。⋮⋮どうしよう。迷うな﹂
ぶつぶつと、彼は総一郎から視線を外した。だが、それでもなお
彼の興味が、自身から逸れていない事を総一郎は知っている。腕に
は、それによる傷跡がいくつも残っている。
状況は、以前よりも致命的なまでに落ち込んだ。その原因は、総
一郎のパーティ脱退の嘆願に端を発している。
パーティを抜けたいと申し出たところ、三人が三人とも難色を示
した。その頃にはギル以外二人も総一郎の利用価値に気が付いてい
たのだ。その薄汚い考えが、少年には透けて見えた。
﹁どうして、そんなことを言うんだい? イチ。君が雑用しかせず、
それが詰まらないから言っているのだろうけど、そのはある意味で
は危険から逃れられているという事なんだよ?﹂
1036
﹁そうだぞ。お前、このパーティから離脱してどうするんだ。まさ
か一からやり直すつもりか? 攻撃用の聖神法も所得していない癖
に。ギルからタブレットの使い方教えてもらわなくていいのかよ﹂
ヒューゴの言葉に、ポイントをたったの少しもくれてはいないだ
ろうが、と言う言葉を飲み込む。完全なタダ働き。しかし、波風を
起こせば自分の身が危ない。
というのも、総一郎には明確な反抗を起こすつもりがなかったか
らだ。総一郎は、亜人の混血。この国において圧倒的なマイノリテ
ィである。魔法を使えば無理やり逃げることくらい叶うかもしれな
いが、その先に待つのは犯罪者の道だ。それでは、不服だった。元
より総一郎は、ブレアの家に白羽を招くことを夢見て入学したのだ。
罪を犯せば、あの家に戻れなくなる。
今はまだ、直ちに生命の危機にはつながらない。強硬手段に出な
くたって、言葉を選べば何とかなる。総一郎は、前向きだった。ま
だ、余裕があったのだ。魔法は、使えば終わりの最後の手段とすら
考えていた。
﹁このままの環境で怠け続けるのは、良くないと思ったんだ。僕は、
みんなの負担になっているっていうのに行動を起こさない自分が許
せなくてね。僕が君たちに追い付くような実力を得られたら、その
時またお願いしたいんだ﹂
綺麗ごとからの詭弁。大人の論法に、ヒューゴ、ホリスの二人は
たじろいだ。総一郎は、確かな手ごたえを得る。しかし二人に対し
て、ギルは飄々としていた。予想通りではあった。彼は、一筋縄で
はいかない相手だ。生意気なガキである。
1037
﹁随分と立派な心がけだね、イチ。素晴らしい事だ。しかし、君は
無鉄砲が過ぎる。もう少し僕たちのパーティに居て、ポイントが貯
まってからにした方がいいんじゃないかい? 君は直接とどめを刺
したわけではないから、多分あまりポイントが貯まっていないと思
うんだよ﹂
嘘をつけ、と思う。そんな制度はないし、自分にポイントが貯ま
っていないのは君が度々パーティから自分を外しているせいだろう、
と。
﹁無鉄砲なわけじゃないさ。きちんと計画は立ててある。大丈夫だ
から﹂
﹁⋮⋮何を理由に大丈夫なんて寝ぼけたことを言っているのか、ぼ
くには分からないね。だんだん苛々してきたよ。もう決めた。君は
パーティから外さない。これは決定事項だ。さぁ、早くみんなで山
に行こう﹂
少年らしく会話を無理やり打ち切って、踵を返すギル。やはり少
年なのだと思って、総一郎はなおも食い下がる。このままなら、行
けると思った。
﹁待ってくれよ。君が僕の事を考えてくれるのはありがたい。でも、
これじゃあだめだろう?﹂
すると、ギルは上半身だけ振り返って総一郎の事を見つめた。そ
の様はどちらかと言うと観察しているようで、不気味だ。
そのまま、ギルはしっかりと総一郎に向き直り、そろそろと近寄
ってきた。眼前にまで迫られて、一歩下がる。
1038
﹁イチ。君、自分のポイントがゼロのままだってことに気付いたね
?﹂
思わず、体が竦んだ。何故気取られたのか分からなかった。その
ことには、さわりすら触れようとしなかったのに。
ギルはおもむろに自前の杖を取り出して、総一郎の喉元に突き付
けた。そこにある表情は、今まで一度も見た事のないような、嫌ら
しい笑みだ。
﹁なら、話は早い。ぼくも君と友達ごっこをするのは疲れたからね。
そろそろ頃合いと思っていたんだよ。︱︱イチ。命が惜しいなら、
逆らわないことだ。一人二人ならどうこうなっても、この学園には
全国から集まってきた騎士候補生が居る、マンモス校なんだからね﹂
︱︱その全てが君の敵になるかもしれないことを、忘れないよう
に。言い捨てて、ギルは踵を返して山へと向かっていく。ヒューゴ、
ホリスは総一郎の肩に手を置いて、﹁じゃあ、これからもよろしく
な、イチ﹂﹁これからは生意気な口をきいたらボコボコにしてやる
から、覚悟してろよ﹂と嘲笑い、ギルへと駆けよっていった。
その日を境にして、総一郎の扱いは少しずつ、家畜や奴隷へのそ
れと近づいて行った。
些細なことで殴られ、時には理由なく蹴り飛ばされた。時折体が
反応して受け止めてしまう事もあったが、その時彼らは﹁亜人が暴
れ出したぞーッ!﹂と大声で叫ぶのだ。すると周囲に居る騎士候補
生たちが全員杖をこちらに向けてきて、教官さえ息せき切って駆け
寄ってくる始末である。
1039
瞬間、いっそのこと反抗してやろうかという考えも浮かぶが、毎
回フォーブス家の記憶がよぎって、すぐに萎んでしまっていた。必
死に誤解を解くべく訴えると、最後には﹁じゃあ殴るから反抗する
な﹂と言われ、十発以上殴られる。それをきっかけに、総一郎は反
抗の虚しさを知った。
魔法の事を、偶に考える。しかし使った瞬間、警察などの国家権
力がひっくるめて敵になる。その事実は、総一郎に躊躇わせるのに
十分だった。少年から余裕がなくなり、日々に対する絶望が増える
度、僅かに輝くその希望が、何にも代えがたいものとなった。
絶望の中に輝く、一筋の希望。そのために、総一郎は行動を起こ
せない。日々に甘んじて、苦しいけれどまだ大丈夫、などと思って
しまう。
謝罪と言う物は、人の心を折る力強い手段である。
謝ってしまったからには、後々それを覆すのは自分にとってマイ
ナスにしかなり得ず、つまり人は本能に近い所でそれを避けようと
する。だから不満があっても、卑屈にへらへらと笑うしかなくなる。
今の総一郎はまさにそのような状況で、更にはギルによる謝り癖
と言う物を付けられた節があった。
﹁罰ゲーム∼﹂
足と後ろ手を縛り上げられて、総一郎は地面に倒れていた。すで
1040
に数回殴られた後なので、その口端には薄っすらと血がこびりつい
ている。
総一郎の目の前に立ち、にやにやと嫌らしく笑いながら見下ろす
のはホリスである。彼はブラックジョークが上手く、それを機にギ
ルと仲良くなった。
﹁じゃあどうしようか。爪でも剥がすか? それとも裸にして広場
に放置しておくか。どっちがいいかな、ギル﹂
﹁さぁ﹂
ギルが肩を竦めたのを見て、﹁じゃあ、どっちもやるか﹂と巨躯
を揺すってホリスは笑う。すでに彼は身長が百八十有り、まだまだ
伸びている最中なのだと言っていた。唇は厚く、コンプレックスで
あるらしい。総一郎の視線が偶然そこに向かった時、異常なまでに
激昂した彼は何度も総一郎を蹴りぬいた。
アイルランドクラスの倉庫からくすねてきたという小刀を手に、
ホリスはゆっくりと近づいてきた。場所はスコットランドクラスの
階段の影だった。人目につかない為、良く連れてこられる。
﹁嫌だ、その小刀で、何をするつもりだよ!﹂
﹁何だよ、人の話を聞かないな。爪を剥がして裸にするんだって言
っただろ﹂
﹁嫌だっ、ごめん! 謝るから! 謝るから助けて!﹂
﹁お断わりだ。お前のせいで昼飯がまずくなったんだから、このく
1041
らいしないと収まらないな﹂
まずくなった、というのは四人で昼食を取っていた際、いち早く
完食した彼が呟いたことだ。曰く、総一郎の様な半魔と共に食事し
たから、味がまずくなったのだと。
しかし、そのような兆候は無かったのである。彼はいつも通り大
量の食事を前に、いつも通りの速さで完食した。それを指摘した総
一郎はヒューゴに﹁じゃあホリスが嘘を吐いてるっていうのかよ!﹂
と恫喝され、思わず謝ってしまった。
そのヒューゴは、大して興味もなさそうに階段下の片隅で聖神法
の教科書を読んでいた。彼はギルに続き騎士としての評価が高く、
その更に下にホリス、最下層に総一郎が居る。
助けを求める様に、上目遣いにギルを見た。こちらを観察するよ
うな視線で見ていた彼は、総一郎の視線に気付いて﹁ああ﹂と声を
漏らす。そして、安心させるようににこやかな笑顔を浮かべて、こ
う言うのだ。
﹁大丈夫だよ、イチ。君は既に謝ったから、ホリスが満足したら解
放してあげる﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁じゃあまずは手の方の爪を剥がすからなー﹂
﹁ぁぐっ⋮⋮!﹂
小刀が、総一郎の指先を抉った。爪の根元。深く突き刺さった小
1042
刀は傷口をさらに広げ、ほじくる様に爪を押し上げていく。
﹁くそ、上手くいかないな﹂
声と共に小刀にかかる力が増す。痛みのあまり絶叫を上げると、
﹁うるせぇ! 勉強してんだから邪魔すんじゃねぇよ!﹂とヒュー
ゴが総一郎に近づき、鳩尾を蹴りぬいた。悶絶し咳き込む総一郎に、
﹁一枚目∼﹂と嬉しそうな声が届く。
再びギルを見て、涙に歪む瞳を向けて﹁助けて﹂と懇願する。
﹁まだ、ホリスは満足していないよ?﹂
目を、剥いた。地獄は終わらないのだと悟った。視界が歪むよう
な感覚。朦朧とする頭に、だいたい等間隔に訪れる激痛が否応なく
総一郎を覚醒させる。
﹁おし、これで手は終わりだな﹂
﹁ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい⋮⋮﹂
ホリスの一仕事終えたような声に、総一郎は繰り返していた。七
枚目を剥がされ終えたころ、総一郎の口にできる言葉はそれだけに
なった。痛みに叫ぶたびヒューゴが剥がし終えた爪を踏みに来るの
で、小さな声でこう呟くしかなくなっていたのだ。意識はもう遠い。
﹁釘一本足りないためにって言うけど、この場合は三本だな﹂
ホリスが、総一郎の爪をジャラジャラと弄びながら言った。爪と
釘のスペルが同じことからのブラックジョークだった。それにヒュ
1043
ーゴは鼻で笑い、ギルは嘲笑うような半眼で総一郎を眺めている。
だが、新たな足音が近づくことによって、場の空気が変わった。
ぴり、張りつめたのが総一郎にも分かった。ここには魔獣実験室
という部屋への扉がある。文字通り魔獣の生態を研究する部屋なの
だが、研究部の上級生は大抵もっと立地や施設が充実した違う方へ
行くので、そう人が来る場所ではなかったのだ。だが、決して来な
い訳ではないらしい。その事を、総一郎は今知った。
﹁助けて!﹂
﹁お前!﹂
ヒューゴの蹴りを、身を硬くして防御した。あまり痛くはない。
爪が剥がされた時の痛みに比べれば、全然だった。もっと大きな声
で繰り返す。近づく足音が早まるのを聞いて、ホリスとヒューゴが
焦り出した。
階下まで下りてきたのは、見も知らぬ教師である。﹁一体何をや
っている!﹂と総一郎へ目を向けて、彼は息を呑んだ。総一郎に駆
け寄り、﹁大丈夫か、君!﹂と呼びかける。男性教諭は三人を強く
睨み付けるが、何故かギルだけは冷静なのが見て取れた。
﹁これはどういう事だ⋮⋮。下手したら刑事罰だぞ!﹂
﹁いや、その、これは⋮⋮﹂
﹁先生、一体何を言っているんですか?﹂
1044
しどろもどろになるヒューゴを押しのけて、ギルが教師の前に立
った。彼はギルに圧されたかのように一歩後ずさり﹁な、何がだ﹂
と瞠目している。
そこに、ギルは笑みさえ湛えて言う。
﹁彼は半魔ですよ? 我ら人間を、今までずっと苦しめてきた亜人
と、そんな存在に罪深くも惑わされた愚物との混血。それが、亜人
や魔獣の天敵である我らが騎士学園になんの手違いか入学した。⋮
⋮殺さないだけ、慈悲があるとは思いませんか?﹂
総一郎は、唾を飲み下した。教師の男性へ視線をやると、丁度目
が合う。声に出さず、助けて、と唇を動かした。縋れるものは彼の
良心だけだった。幸い、聖神法を担当する教官でないから、希望が
あるはずだと思ったのだ。
﹁⋮⋮それを、先に言いたまえ﹂
希望が潰える音が聞こえた。
教師はもう総一郎に一瞥もくれず、扉をくぐって素早く荷物を取
り、逃げる様に階段を上っていった。それを背後に迫る恐怖を感じ
ながら見送った。躰の震えを止めようとしても、止めることは出来
なかった。
﹁イチ⋮⋮。お前、よくも裏切ったな?﹂
振り向くと、尋常でない怒りを漲らせてホリスは立っていた。巨
躯が覆いかぶさるようにして、総一郎を見下ろしている。﹁ギル﹂
と彼は短くリーダーの名を呼んだ。﹁ああ﹂と薄い金髪の少年は答
1045
える。
﹁謝らなくてもいいよ、イチ。謝って済ませるようでは躾にならな
いから﹂
﹁あ、ごめ⋮⋮!﹂
﹁謝らなくてもいいって、言ったよな?﹂
ギルの蹴りが、顔面に直撃した。鼻が折れ、顔中が血で汚れる。
彼はその一発だけで止めて、﹁ホリス、足も全部やっちゃえ﹂と指
示を出した。
﹁覚悟は出来てんだろうなぁ、イチ!﹂
力なき少年はただ、泣きながら謝罪を繰り返すことしか出来ない。
爪剥ぎを計二十回繰り返した総一郎は、絶叫を上げる体力も残っ
てはいなかった。浅い呼吸を早く繰り返すだけで、ホリスが小刀で
刺してもろくな反応をしない。興が削がれたという風に、三人は自
然解散していった。総一郎はそれから数十分動かず、我に返ってか
ら転がっていた小刀で縄を切って手足を開放した。
物を握るのも、ただ歩くだけでも激痛が走った。幸いとも言うべ
きか、余計な荷物などは無い。自前の物はせいぜいが杖くらいで、
この小刀も持って帰ろうという気にはなれなかった。
﹁﹃神よ、癒しの雫を与え給え﹄﹂
1046
水属性の聖神法は、氷などの攻撃はもちろん癒しさえも司ってい
る。その辺りは、やはり日本などの魔法とは違かった。日本におけ
る回復とはあくまで治療や生物魔術であり、光魔法は天使の血を継
ぐ総一郎などにしか効き目はない。
杖先に出た水色の輝きを、何回も爪に落していった。総一郎の聖
気は折れた鼻を治したところで枯渇した。腹部などの痣は治せない
か、と優しく撫でることしか出来ない。
﹁⋮⋮い、いいじゃないか。子供の遊びだ。僕は大人なんだから、
我慢できる。⋮⋮僕は、これくらいじゃあ折れたりしない﹂
﹃武士は食わねど高楊枝﹄。呟く。父のことを思い出す。そうす
ると、少しだけ元気になる。
階段を上ると、もう夜になっていた。月は残念なことに少々欠け
ている。円形は保っているものの、有明と言う所か。ここから順々
に欠けていき、最後には新月に戻るのだろう。
部屋に帰って、ベッドに寝転んだ。このまま寝てしまおうとも考
えたが、眠れない。起き上がってシャワーを浴び、寝間着に着替え
た時にはもはや眠りにつく気分ではなかった。
そういう時、総一郎は画材を引っ張り出して絵を描くことにして
いる。﹃美術教本﹄はまず油絵から教えていて︱︱それが一般的な
事なのかは分からなかったが︱︱故に総一郎もそれに倣ったのだ。
白羽を描こう。無意識に、そんな事を思った。だが、少し書いた
所でムズ痒くなり手が止まってしまう。趣向を凝らそうと考えた。
1047
虐待から解放された反動で、総一郎は少々高揚していた。
電気を消して、真っ暗の中絵の具を取り出した。白はこれだった
はず、と勘でチューブを押しだす。頭の中に描くのは白羽だが、現
実にどう描かれているのかは終わって電気をつけるまで分からない。
けれどその不明確さが、総一郎の手を止めさせなかった。先ほどま
では、理想が高すぎて描けなかったのだろう。
暗闇の中で絵を描くというのは、その時の総一郎にとって快楽で
さえあった。無我夢中になって、頭の中の白い絵の具で白羽を彩る。
あの健気な姉への恋しさが溢れるのが分かった。体温の上昇を感じ
ながら、ひたすらに描きなぐり続けた。
納得するまでしつこく絵の具をキャンバスに塗りたくって、完成
だと自認できたのは二時過ぎだった。日本なら丑三つ時である。ど
んな風になっているかと、胸を躍らせて電気を付けた。
キャンバスに描かれていたのは、見るもおぞましい悪魔だった。
白の絵の具なんて何処にも見えはしなかった。細かな色は混ざり
合って茶色の様に変わってしまっていて、ただはっきりと分かる色
は、赤と黒の二つだけとなっていた。
しかし皮肉なことに、その絵はとても見事だった。それこそ、狙
っていたら到底総一郎には描けない程にである。その絵の中で、お
ぞましさと、悲しさが両立していた。そういえば、悪魔とは神に見
捨てられた天使の成れの果てではなかったか。
﹁は、ははは、あはははは⋮⋮﹂
1048
笑いながら、総一郎は涙を零した。つぅ、と伝う二粒の雫は、そ
れぞれの軌跡を残しながら顎の先で合流し、一つにあわさって首へ
落ちていく。
筆を乱雑に転がし、汚れた前掛けを投げ捨てた。そのままベッド
に寝転んで、シーツにしがみ付き嗚咽を堪える。脳裏では、日本に
居た頃の事を何度も繰り返し思い出す。
だが、肝心の白羽の顔が、時を経る度に薄れて見えにくくなって
いくのだ。
郷愁の念は、総一郎にとって麻薬の禁断症状にも等しい。逢いた
いという感情に振り回されて、訳が分からなくなる。白羽に逢いた
い。あの純粋と無垢を体現したかのような天使の子に会って、力い
っぱい抱きしめたい。︱︱そんな強い欲求が、総一郎に希望を捨て
させない。魔法を使えば、白羽にすら会えなくなる。
ベッドのシーツは、いつの間にか皺くちゃになっていた。それを
直そうと考える前に、総一郎は再び狂おしい感情を抱いて、夢へ誘
われていく。
1049
2話 貴族の園︵5︶
ある寒い日の夕暮。ヒューゴもあまり罵倒して来ず、ホリスによ
る拷問まがいの﹃仕置き﹄もなかった日の寮へと帰る途中の事であ
る。
﹁イチ、今日は君の部屋に、遊びに行ってもいいかい?﹂
ギルのそんな何気ない一言に、総一郎は極度に体を硬直させた。
﹁お、いいじゃんそれ﹂と嬉しそうにホリスが追従する。ヒューゴ
はどうでも良い風だが、ギルが来るなら彼も来るのだろう。嫌だ、
と総一郎は言うことが出来ない。﹃仲良く﹄出来なければ、﹃躾﹄
られるからだ。
﹁う、ん⋮⋮。︱︱いいよ、おい、でよ﹂
喉に声が引っ掛かる感じがあったが、無理やりに押し出した。微
笑みも忘れない。それが彼らにどのように映っているかは分からな
かったが、ヒューゴが怒鳴ってこないからそう悪いものでもないの
だろう。
寮内に入り、﹁こっちだよ﹂と案内しながら、総一郎は途方もな
い焦りに駆られていた。片づけをする時間を、彼等はきっと与えな
いだろう。少しでも汚ければヒューゴに強く叱責され、恐らくそれ
を口実にホリスが何かを始めようとする。
︱︱しかし、それだけならばいいのだ。耐えられない、という事
ではない。日に日に鏡の中の自分が痩せ衰えていくのが見えていた
1050
が、それもいつかは止まる。聖神法の水属性はある程度、精神安定
剤の代わりにも用いることが出来るのだ。
けれど、部屋の中には総一郎が心の支えにしている掛け替えのな
い物がいくつかある。それを、間違いなくギルは見つけるだろう。
廊下を進みながら、総一郎は静かにギルを盗み見た。薄い金髪に
張り付けた笑み。二人の行動は読めても、ギルだけは底知れない。
見つけられて、どうなるか。分からない分だけ、総一郎には恐ろ
しいのだ。
﹁じゃあ、どうぞ⋮⋮﹂
部屋の前に着き、扉を開けようとした。表情がどうしても強張る
から、俯き前髪を垂らすことによって隠した。だから、きょとんと
してしまう。彼らの表情が、総一郎にも読めなかったから。
﹁おや? イチ。部屋の掃除はいいのかい?﹂
﹁え?﹂
思わず顔を上げた。ギルが不思議そうな顔で、総一郎を見ている。
﹁いや、だって君はメイドを雇っていないだろう? 僕なんかは父
からも言われて雇っているけれど、君は爵位が騎士だからそんなも
のを雇う金は無かったはずだ。だから部屋が散らかっているかもし
れないと思っていたのだけど⋮⋮﹂
﹁あ、う、うん。そうだね、でも、⋮⋮いいの?﹂
1051
﹁もちろんだよ。散らかった部屋なんかに招かれるのも不愉快だし
ね。そうだろう? 二人とも﹂
﹁ま、ギルが言うんならいいだろ﹂
﹁その代り汚れてたら、分かってるだろうな?﹂
ヒューゴがやる気なさげに相槌を打ち、ホリスは流れに便乗して
嫌らしく笑った。背筋に怖気が走り、適当に頷いて早々部屋に入る。
﹁イチ? あまり待たせないでくれよ?﹂
時間は、無い。
﹁えっと、まず︱︱﹂
自室に一人きりになってから、総一郎は掃除よりも先に大切なも
のを隠すことに決めた。真っ先に木刀が目についたが、これはむし
ろ隠さない方が目につかないだろう。次に﹃武士は食わねど高楊枝﹄
の掛け軸。これだ、と総一郎は駆け寄る。
早々巻いて、クローゼットの奥に押し込んだ。彼等もまさか、洋
服棚までは漁るまい。﹃美術教本﹄は本棚に容れてあるから、他の
場所に移すのも不自然だ。
反転して、次は彼等に見つからないようにするものを探した。大
切ではないにしろ、見つかると面倒なものだ。悪魔の絵は言うまで
もないだろう。だが、大きすぎる。破壊しても良かったが、その音
で扉を破ってくるかもしれない。苦肉の策で、箪笥の隙間に挿し込
1052
む。見付からない事を願うばかりだ。
その後は、ベッドメイキングを軽くチェックして、埃を何とかす
るだけだった。幸いにも掃除機は備え付けの物がある。手早くこな
して、何とか十分以内に終わらせた。物を隠すのには手間取らなか
ったから、こんな物だろう。
扉を開け、﹁もう入って大丈夫だよ﹂と言った。
﹁掃除が長いんだよ、このウスノロが!﹂
拳が来て、甘んじて受けた。手ごたえが軽くても、ヒューゴは総
一郎の倒れ方が派手ならば満足する。彼の拳が触れた瞬間、その速
さを僅かに上回る程度に吹っ飛んだ。痛みは少ない。総一郎の処世
術だ。
﹁まぁまぁ、まだそんなに経ってないじゃないか。ほら、イチ。謝
って﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁ほら、イチもこう言っている事だし、許してやりなよ﹂
﹁⋮⋮ま、もう一回殴ったからいいんだけどさ﹂
ギルに言われ、不満そうに手を握ったり開いたりするヒューゴ。
本当はもう何発かやりたかったに違いない。
﹁じゃあお部屋を拝見と行こうか﹂
1053
ホリスはそう言って、誰よりも先に総一郎の部屋に踏み込んだ。
ひとしきり見回して、﹁ウーン﹂と首を傾げる。
﹁あまり物が無いなぁ⋮⋮。つまらない部屋だ。イチ、何か面白い
ものは無いのか?﹂
﹁あ、あはは⋮⋮﹂
ホリスなら、まだ笑って誤魔化すことが出来る。ヒューゴもそう
だ。彼ら二人ならしばらくしていれば持参してきた何がしかを出し
てくれるだろう。だが、ギルは違う。
﹁おや、これは?﹂
総一郎は、表情をこわばらせた。見れば、彼は総一郎が書いた悪
魔の絵を高く掲げて眺めている。総一郎は恐怖とも安堵ともつかな
い感情を抱いた。悪魔の絵ならば、せいぜいホリスの拷問程度だろ
う。それで済むのに恐怖もしていたが、同時に安堵もあるのだ。
﹁うわっ、⋮⋮イチ、お前なんてもの持ってやがるんだ!﹂
案の定、ホリスは怒鳴り総一郎の襟首を掴んだ。その表情は怒っ
ているようで、微かに笑みが滲んでいる。彼にはそういう性癖があ
るのだ。それを、今更軽蔑はしない。ホリス含む三人へ嫌悪感を抱
けば、それは直接総一郎に繋がるからだった。
自分への嫌悪は底なし沼である事を、総一郎は本能的に悟ってい
た。
怯えの演技。ただそれだけでいい。ホリスへの対処法だ。それさ
1054
え出来れば、彼は不満を抱かない。拷問まがいの躾は、彼の軽んじ
られているという不満からくる。
だが、今日はそうも行かないようだった。
﹁いや⋮⋮これは見事だよ﹂
﹁え﹂
ホリスは驚いたようにギルを見た。総一郎も声を出さないが驚愕
に目を剥いている。ヒューゴも、絵の近くに歩いて行った。上から
下まで、軽く眺める。
﹁確かに、描いてるものは描いてるものだけど、下手じゃあないな﹂
﹁下手なんてとんでもないよ! これは素晴らしい作品だ。⋮⋮イ
チ、これは君が?﹂
﹁う、うん﹂
﹁そうかい! いや、画材を買うのに付き合ってくれと言われてど
んなものかと思っていたが︱︱うん。これはいいものだよ。貰って
もいいかい?﹂
﹁え、うん、勿論。⋮⋮いいの?﹂
﹁何がだい?﹂
﹁だって、悪魔なんて悪しきものじゃないか。その絵をそんな、評
価しても⋮⋮﹂
1055
﹁いいんだよ。だって悪魔は、亜人ではないからね。いや、居るの
かもしれないけれど、少なくともこの国には居ない。悪魔と戦った
という記述は無いんだ。むしろ、敵は天使の方さ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
総一郎は、漏れ出た声を最後に絶句した。瞠目したまま、呼吸が
止まる。
﹁知らないのか? 天使はUKが危なかったとき、神の使いのはず
なのに逃げたんだぜ。以来天使は人間の敵って事になってんだ﹂
ヒューゴの解説に、﹁そんな﹂と言葉を詰まらせる。耳元まで近
づいてきて、嘲笑うようにギルは囁いた。
﹁イチ。君は聞いた話じゃあ、天使と人間のハーフらしいじゃない
か。もし天使が諸外国の扱っている通りの存在であったなら、君は
虐めになど遭っていないよ﹂
力が抜けるような感覚を総一郎は抱いた。何処か、奥底では期待
していたのかもしれない。亜人とのハーフと言えど天使の子だとさ
え露見すれば、この待遇は変わるのではないかと。
﹁ねぇ⋮⋮。もう、こんな目は嫌じゃないかい?﹂
不意に、ギルの声音が変わった。嘲りから、もっと低く深い物へ。
背後の﹁天使って、そうなのか?﹂﹁ああ、ギルに教えてもらった
んだ。図書館にもあるぜ﹂というホリスとヒューゴの会話を、遠く
に感じさせるような変化だった。
1056
﹁⋮⋮嫌さ。そんなの、嫌に決まってる﹂
﹁そう。そうだよね。うん。⋮⋮じゃあ﹂
ギルはそこで、確かに何かを言いかけた。しかし喉元で止まり、
飲み下してしまう。何だ? と総一郎は訝しんだ。二人に彼は振り
返る。そして、揚々とした声色で命ずるのだ。
﹁ヒューゴ、ホリス。家探しタイムだ。絶対に何か背信的なものが
あるはずだから、容赦なく見つけて壊してやってほしい﹂
﹁はッ⋮⋮!?﹂
ホリスはギルの命令に、喜色を浮かべてクローゼットの扉を開け
た。服をばら撒き、何かを探している。ヒューゴも同じだ。妙に高
揚した様子で目ぼしい物を探している。
﹁止めてよ! 何でこんな事をするのさ!﹂
﹁あ、クソが、放せ!﹂
ホリスに抱きついて、その動きを阻害した。膝蹴りが来るが、堪
える。ヒューゴが駆け寄ってきて、横っ腹につま先が突き刺さった。
これも堪える。堪えられる。
﹁何で、だって?﹂
ギルの蹴りが来た。体格的には彼が一番小さく、その分侮ってい
た。当たる。吹き飛び、壁に激突した。腑臓が捩れるような重い蹴
1057
り。視線を向ければ、杖を掴んでいた。
﹁そんなもの、根拠があるからさ。君は悪魔の絵を持っていただろ
う? それも、悪魔が﹃悪しき者﹄だと理解していながらだ。一つ
あって二つは無いという道理はない。しかも今の抵抗からしてみて
も、間違いなく一つは有るはず。ヒューゴ、ホリス。そのクローゼ
ットを集中的に探してくれ﹂
悶絶し倒れたまま、脂汗の感覚を覚えながら呻いた。止めろ、と
呟くが、擦れて声にならない。﹁お、これか﹂とヒューゴが言った。
手には、巻物を掴んでいる。
﹁止めて、くれ。お願いだから、それだけは⋮⋮﹂
﹁ヒューゴ。見せてくれるかい?﹂
そう言われ、彼はギルに渡した。広げて、よく分からないという
風に首を傾げる。
﹁イチ。これは君の国の言葉か。読めないのだけれど、何て書いて
あるのかな﹂
﹁⋮⋮﹃武士は食わねど高楊枝﹄﹂
言わないよりは、言った方がまだ守られるだろうと判断し、素直
に答えた。武士はこの国で言う騎士であり、意味は清貧を重んずる
ものであると。
﹁ふーん⋮⋮。別に、問題は無いかな?﹂
1058
ギルの言葉に、息を呑んだ。見付かったからには、ほぼ間違いな
く破壊されると思っていたのだ。安堵が胸を中心に広がり、吐息を
漏らす。そして、ギルが言葉を続けた。
﹁君の言葉が本当なら、ね﹂
紙の破ける音。掛け軸が、ギルの手で直接バラバラにされていく。
総一郎は、それに何をすることも出来なかった。目を剥くという事
もなく、ただ見つめる。
﹁⋮⋮何で? 僕は、嘘なんてついてなかったよ﹂
﹁生憎とそれを証明する風属性の聖神法を、ぼくは使うことが出来
ないんだ。だから、仕方ないだろう? 疑わしきは罰す。これで間
違いなく、罪人は裁かれるのだから﹂
﹁そう⋮⋮﹂
何もかもがどうでも良くなるような感覚の中、総一郎は呆然と崩
れた。ギルはそれを見て肩を竦め、﹁まぁ、いいか﹂と探し物を続
ける。本棚も探られたが﹃美術教本﹄は殊更目立たなかったようで、
見過ごされたらしかった。
そうなると、本当にこの部屋にはばれて困るものと言うのは無く
なる。総一郎も特に反応を示さなくなって、ヒューゴもホリスも飽
きてきたようだ。服やゴミで散らかった部屋の片隅で転がる少年は、
目を開けながら何も見てはいない。
﹁仕方ないね。二人とも、今日はこのくらいにしておこうか。じゃ
あね、イチ。部屋は次来る時までにちゃんと片づけておくんだよ﹂
1059
ギルはつまらなそうに言って、総一郎の返答を待たずに外へ出て
いった。次いで、ヒューゴ、ホリスと言う風に着いていく。
その途中、ホリスがドアの横を見て、﹁お﹂と表情を微かな笑み
に染めた。
﹁これいいな。貰っておこう﹂
ホリスの目線が木刀に向いている事を知って、総一郎の中で何か
が切れた。
﹁それに触れるな﹂
低い声に、ホリスは怯えたように手を引っ込めた。声を聞き、ギ
ルが戻ってくる。﹁どうしたんだい?﹂と眉を寄せて、ホリスと総
一郎を見比べた。にやりと笑う。
﹁この木剣が、どうかしたのかい? まるで、人が変わったような
表情じゃないか﹂
﹁それに、それに触るんじゃない。ギル、いくら君とはいえ、許さ
ないぞ﹂
﹁へぇ⋮⋮? ふむ、いくら寛大なぼくとはいえ、今のは腹が立っ
たな。﹃神よ、力の炎を我が腕に授けたまえ﹄﹂
祝詞を唱え、ギルは素早く木刀を掴み、力を込めた。総一郎は憤
1060
怒に身を任せ立ち上がる。だが、駆け出しはしなかった。桃の木刀
はそういう手段に出る限り破壊できない為、まだ理性が働いたのだ。
驚いたように、ギルは手元の木刀を見る。力を全て込めようとも、
桃の木は不可思議な力の全てに干渉されない。
﹁驚いた。君、この木剣をどこで手に入れたんだ? これだけ力を
込めても軋みすらしない﹂
﹁いいから、手を放すんだ。早く。今すぐ!﹂
﹁話をまともに聞かないね、君は。ヒューゴ、ホリス。これを焼却
炉にくべておいてくれ。木だから、燃やせば灰になるはずだ﹂
﹁ギル!﹂
怒鳴りつけても、ギルは押しも押されもしない。二人は彼に木刀
を受け取って、足早に去っていく。木刀を取り返すなら、ギルを倒
さなければならないらしい。総一郎は無言で杖を握った。不敵に笑
いながら、ギルも杖を構える。
﹁お願いだから、退いてくれ。いつも庇ってくれて、感謝してるん
だ﹂
﹁それはどうも。君って、意外と馬鹿だったんだね﹂
杖を突きだし、総一郎は祝詞を叫んだ。
﹁﹃神よ! 敵を討つ風を!﹄﹂
1061
﹁﹃神よ、御身に背く異端者に、その加護を授け給うな﹄﹂
総一郎の杖には何も起こらず、﹁﹃神よ、敵に冷たき氷柱を﹄﹂
というギルの祝詞だけに反応し、水色の光が彼の杖の上に浮かんだ。
振るわれ、現れた三本の氷柱が刺さる。腕、脛、太腿。致命傷を避
ける場所を狙った攻撃を、総一郎は避けることが出来なかった。
文字通り刺すような痛みに崩れ、歯を食いしばり一本ずつ抜いて
いく。腕の氷柱を抜き、脛の氷柱を抜き、太腿のそれが動脈に触れ
ないよう注意しながら少しずつ力を込める。ギルは、そうする総一
郎の手を踏みつけた。睨み付ける少年の顔を、ギルは思い切り蹴り
飛ばす。
﹁正直、見誤っていた節があったよ。そこまで強いのか? という
疑問があったけれど、性根の所はちゃんと守っていたんだね。今回
ここに来れて良かった。君の大事なものをあらかた見つけて壊すこ
とが出来たんだから﹂
﹁⋮⋮何で、何でこんな事をするんだ? 僕は、君に何か嫌な事を
したかな﹂
﹁してたんなら、︱︱チッ﹂
舌を打って、もう一度ギルは涙声の総一郎の顔を蹴り飛ばす。口
の中を切り、口内に鉄臭が充満した。それを、彼は何度も繰り返し
た。途中から顔ではなく腹部を蹴るようになって、反抗的な態度を
へし折るのに十五発。心を折るのにさらに十発。更に五発で総一郎
は回らない滑舌で謝り続け、もう三発で体力を失い何も言うことが
出来なくなった。
1062
﹁⋮⋮明日の模擬戦を、今日の内にやってしまったね。だから明日、
君はぼくでなく他の奴と組んでやってほしい。ヒューゴやホリス、
他にも、スコットランドクラスには君とやりたがっている奴は多い
んだ﹂
総一郎が何も言わなくなったのに満足したのか、ギルはそう言い
捨てて部屋を去っていった。残されるのは服や本がゴミの様に散ら
かった部屋と、その中心で血まみれでいる総一郎だけだった。
1063
2話 貴族の園︵6︶
のそり、と起き上ったのは、深夜の事だった。
目に映るのはまず赤く薄汚れた床と、散乱した総一郎の私物。近
くに転がっていた杖を使い、総一郎はまず自分の傷を癒し始めた。
太腿が一番重症で、次に顔、そして腕、脛と直していく。腹部は、
いつも後回しだった。大抵の状況では、腹は服が隠してくれる。
そして、散乱した服をひっつかみ、適当に畳んでクローゼットの
中に押し込んだ。本も、分類別にちゃんと仕分けて本棚に入れ直す。
﹃美術教本﹄を手に取り、結局残ったのはこれだけだったな、と口
の中で小さく呟いた。
口端が引き攣るのを、堪えた。
作業をすればするほど、視界がぼやけていくのが分かった。口の
戦慄きを、止められない。総一郎はそれを認めたくなかった。心の
支えを全て失った今、認めた瞬間に自分は折れる。その事を、直感
していた。
胸に込み上げるのは、恐怖から焦燥を抜いたものだった。目は拭
わない。どんなに見づらくたって、絶対にしてやるものかと思った。
歯を食いしばり、作業を続ける。水滴が頬を伝う感覚。無視して本
棚に書籍を全て入れ、適当に着替えて電気を消した。
眠気は無かった。でも、無理やりに寝てやろうとした。出来なか
った。微睡に至る時、燃え上がる木刀が見えた。そうなると、絶対
1064
に眠れなかった。
視線が自然と、掛け軸があった場所へと向かった。今は、ゴミ箱
の中だ。木刀も、今頃燃えているのかもしれない。
﹁⋮⋮僕は、大人だ。大人の、はずだったんだ⋮⋮﹂
﹃なのに﹄と言うセリフは、噛み殺した。その先を言ったら、泣
いてしまう。泣いたら、折れてしまう。折れてはならないのだ。自
分は、父の子なのだから。
気分転換に、カーテンを開けて月を見た。三日月。何かを象徴す
るように、見る度に月は欠けていく。それはまるで、記憶の中の白
羽の様だった。最近、少しずつ思い出せなくなっていく。
今目を瞑れば、ギルの貼り付けたような笑みが浮かぶのだ。
﹁⋮⋮も、う﹂
その先は堪える。堪えられなくなったら、その時総一郎は死ぬの
だ。肉体も、その時に生きていてもすぐに後を追う。
涙は、絶対に零さない。零したとしても、それを認めない。再び、
ベッドに戻る。瞼の裏で燃え上がる木刀。明日の模擬戦を思い、恐
ろしくなった。
その時、総一郎はスコットランドクラスにいる事を初めて感謝す
るのだ。スコットランドなら、木剣を渡される事は無い。剣を握ら
ずに済む。剣を︱︱刀を握って負けない限り、総一郎はしばらくの
間生きていられる。
1065
寝つけないまま、夜が明けた。
ドアと一体になっているポストに、何かが入っていた。手紙。送
り主は︱︱ワイルドウッド、と記されている。
﹁ワイルドウッド先生からの、手紙⋮⋮﹂
開ける。そこにあったのは、謝罪に次ぐ謝罪。それに続き、ポイ
ントが百ほど得られる、教員が私的に騎士候補生にポイントを与え
たいときに使用されるナンバーが記されていた。これを使えば、ス
コットランドのフォーブス家までの旅費程度にはなるとのことだっ
た。
﹁遅いよ﹂
総一郎は呟く。タブレットは、少し前にギル達によって破壊され
てしまった。修理と言うか新しい物を頼みたかったが、クエストの
受付の方々は全員総一郎の顔を覚えていて、﹁承れません﹂の一点
張りだ。これは、完全に現状が詰んでいることの証左だった。
続いて記されたのは、独自に調査した、総一郎の親族の住所、そ
して電話番号だった。総一郎は思わず息を呑んでいたが、学園の全
員がタブレットを持っている為、公衆電話の類がない事を思い出し、
結局意味はないのだと諦めてしまった。それでもその電話番号だけ
はしっかり暗記してしまったのは、過去への執着ともいうべきもの
か。
時間が迫りつつあって、総一郎は急いで準備する。そのまま、食
堂へと向かった。
1066
﹁やぁ、イチ。いい朝だね。今日は模擬戦だ。生憎スコットランド
だけだが、なんとアイルランドクラスの先生が実践的な戦闘法を教
えてくれるらしい﹂
騒々しい朝食の中、総一郎を見つけたギルは言った。力なく挨拶
する総一郎を、ヒューゴは罵倒し殴ってくる。受け、倒れた。他の
人にもぶつかった。その人の分も殴られた。いつも通りだ。
朝食を詰め込み、授業を受け、失敗し、ヒューゴに殴られ、ホリ
スが拷問法を提案し、ギルが﹁じゃあ放課後そうしようか﹂と了承
し、昼食を食べ、模擬戦の時間になった。
﹁では、スコットランド初の模擬戦を始める。武器は、杖としても
使える錫杖やメイスなどを用意してあるが、生憎と数が足らず数人
は自前の杖を使ってもらう。何なら木剣があるからそれを使っても
いいが⋮⋮、スコットランドクラスはそれで聖神法は使えないから、
ふざけるとしても程々にな。まぁ、これからは模擬戦の機会も増え
るだろうから自分に合った武器選びの試しという側面もあるため、
一種類の武器の独占はしないように﹂
アイルランドの教官︱︱ブレナン先生は、落ち着いた風にそう言
った。彼はアイルランドらしい黒髪で、たくましい体つきをしてい
る。総一郎の頬が引き攣るのを横目に、ギルが手を挙げて彼に質問
をした。
﹁先生、このクラスには、半魔がいる事を知っていますか?﹂
嫌そうな顔で、首肯する。
1067
﹁ああ、一応聞き及んではいる。それが何と言う名前なのか、どの
様な容姿かまではな。すでに一度問題を起こしていると聞いたから、
⋮⋮私は、容赦はしないつもりだ﹂
ブレナン先生の発言に、スコットランドクラスの生徒の大半が歓
声を上げた。彼を含めた視線の多くが、総一郎に突き刺さっている。
一度起こした問題と言うのは、総一郎がクラス全員に私刑にされた
時の事だろう。
行動を起こす気力もなく、何もせずにいた。舌打ちがいくつか聞
こえ、﹁では、始めとする。各自武器を取って、何人かで組むよう
に!﹂との言葉と共に散らばっていく。
﹁イチ。君はこれを使いなよ。自前の木剣を持っているくらいなん
だから、慣れているだろう?﹂
ギルが、自分のメイスを取りながら総一郎に木剣を渡した。色が
古く、何処か腐っているのかと思うほど柔らかい部分がある。それ
を、総一郎は拒んだ。
﹁何だ? ギルの決定に文句があるのかよ!﹂
ヒューゴの蹴り。条件反射の様に喰らって、総一郎は悶絶した。
﹁嫌です。ごめんなさい。それだけは許してください﹂と懇願する。
頭を地に擦り付ける事さえ厭わなかった。だが、それをギルは当然
のようにせせら笑う。
﹁駄目だ。模擬戦とはいえ、真剣にやるのは当然だろう? 君の本
領を見せておくれよ。君たちも見たいだろう? イチの本気を!﹂
1068
ヒューゴ、ホリスのほかにも、数人のスコットランド生が肯定の
声を上げた。こうなると、もう総一郎には反抗が出来ない。木剣を
握らされた。手が、震えた。自分が今持っているのは﹁死﹂そのも
のなのだとすら思った。
けれど、視界はそれを皮切りに明瞭になった。
﹁⋮⋮アレ?﹂
総一郎は、何よりもまず戸惑った。世界が、自分のイメージとは
真逆の物だったからだ。ホリスが、大きなメイスを持って殴りかか
って来、その後ろではヒューゴがこっそりと聖神法の祝詞を唱えて
いる。困惑と共に、木剣を揺らした。ホリスの懐。突く。崩れる。
その向こうに、呆気にとられた様子のヒューゴが居た。近づいて
籠手を打ち、その手から大きな杖型のロッドを落とす。まるで狐に
つままれたような気分で、その喉を突いた。少し吹っ飛んで、苦し
そうに悶えはじめる。
﹁ブシガイトが、ブシガイトが暴れ出した!﹂
﹁は?﹂
一人の男子生徒の呼び声に反応して、何人もの生徒が駆け寄って
きた。それぞれが祝詞を唱え始めるが、完成間近の生徒を狙って頭
や胴体を打っていくだけで特に苦戦するという事もない。気付けば、
十数人の生徒が総一郎に打たれ倒れ伏していた。気絶は零。全員が
苦しげに悶えている。
﹁⋮⋮﹂
1069
そこで、総一郎はやっと理解し始めた。今の状況がどういう物で
あるのか、そして、今までの惨状がどれだけ異常であったのかを。
しかし、その異常さは人間としてのそれではない。生物的なもので、
もっと言えば弱肉強食的な考えのそれだ。
戸惑いもいつしか消えた。混乱も、焦りもない。アイルランドク
ラスの先生が、使命感とそれを遥かに上回る怒りを携えてこちらに
駆けてくる。
それを眺めていると、総一郎が抱える虚無感が大きくなった。涙
が、頬を伝う。泣いているのだ、とその事実を認めた。認めたから
と言って、精神が死ぬわけがないではないか。
﹁⋮⋮確か、ブレナン先生と言ったか﹂
その動きは速い。しかし、同時に遅くもある。ぽつりと具体的に、
彼の強さを評した。総一郎は木剣を構える。下段。守りの構え。
斜めに、ブレナン先生の剣が総一郎を二つに裂かんと襲い来た。
金属、それも鉄よりも上等の材質だ。総一郎は屈み、手首を柔らか
くして木剣を上に持ち上げる。木剣に緩やかな軌道修正をされ、先
生の剣は総一郎でなく地を抉った。刀身を踏む。ブレナン先生の動
きが、一瞬、確かに止まる。
足を数十センチずらし、彼の剣の柄に足を掛けた。跳躍と同時に、
突く。
飛び上がり離れて着地した総一郎の手に、もはや木剣は存在しな
かった。刹那の静寂。鳥や虫の鳴き声、風のざわめきすら、その場
1070
には有り得なかった。それはきっと、後に訪れる嵐の大きさの為だ。
耳をつんざかんばかりの絶叫。
総一郎は、口から木剣を生やし事切れるブレナン先生に一瞥をく
れてから、これからどうしようかと考えた。騎士学園にはもういら
れない。だから、手早く必要な物だけを回収して逃げるべきだ。
そういえば、と思いつく。焼却炉と言ったが、この学園の焼却炉
ならば炎が聖神法によるものである可能性が僅かにある。それでな
くとも、焼却炉が昨日の時点で稼働していなければ燃えている道理
もないだろう。だから、まずはそれだ。
次に必要な物、と言えば食料だが、それならば山に籠ろうと決め
た。近くには騎士候補生たちが足りない分の単位を補う、亜人や魔
獣の生息する山がある。だから、食料の心配はあまりしないでもい
い。
それに、市街地に出るのは危険だった。警察の手から、逃げ切る
だけの自信が総一郎には無い。山なら、騎士候補生たちが向かって
くる程度だろう。それに、自分よりも上の実力の人間が来ようと、
山の中なら逃げ切るだけの余地がある。
そうと決まれば、善は急げ。修練場から駆け出ていく。妨げよう
とする生徒は居らず、誰も彼も総一郎の接近に怯えるだけだった。
何となく、修練場から出る寸前、総一郎は死体となったブレナン
先生を見やった。大柄な体躯。強かったのだろうとは思う。きっと、
彼が油断せず、総一郎が不意を突くような戦いをしなかったなら負
けていたに違いない程度には。
1071
けれど、それでも確かな事はある。彼の生前に定めた評価を、総
一郎はやはり翻さないのだ。再び、彼をこのように評した。
﹁やっぱり、父さんよりも弱い﹂
興味を失い、木刀と教科書を得るために走り出す。
1072
3話 山月記︵1︶
焼却炉は思った通り聖神法によって動いていたようで、取り出し
た木刀には煤がついているだけだった。
あとは山へ向かうだけだ、と総一郎は顔を上げる。
山の方はどっちの方だったかと思案しながら門の方へ近づくと、
ギルが立っていた。厳しい表情で、総一郎を睨みつけている。
﹁イチ、今すぐ戻って謝るんだ。そうでないと、君は本当に殺され
るぞ﹂
﹁謝ってどうにかなるものとは思わないけど﹂
﹁だとしても、ぼくは此処を退かない。君を動かなくしてあの場に
連れて行く﹂
﹁⋮⋮。しかし、君は僕を殺すとき、恐らく躊躇するだろう?﹂
﹁そうだね。だが、ぼくは殺すなんて一言も﹂
﹁死なない限り戦うのは止めない。来るなら来ると良い。僕は一向
に構わないよ、ギル﹂
ぴり、とギルの表情が僅かに強張った。杖を掴む手が、さらに強
まったのが覗えた。総一郎は何も変わらない。出会った時から、い
つでも跳びかかれる体勢でいる。
1073
﹁さっき君は、ぼくが殺人を躊躇すると言ったけれど、それは当然
じゃないのか? 君がもし躊躇しないなら、何故逃げる。君も、再
び人を殺せと言われたら躊躇うだろう﹂
﹁そうかもしれないな。今は心が凪いでいるが、直前になったら時
化るかもしれない﹂
﹁⋮⋮それは、恐いな。躊躇しないと断言される方が、まだ良かっ
た。︱︱もしかして、イチは今までに人を殺した事があったのかい
?﹂
﹁亜人なら何回かね﹂
﹁⋮⋮。亜人は、日本においては国民では﹂
﹁ああ、そうだ﹂
それを聞いて、ついにギルの表情は凍りついた。敵意を感じなく
なって、総一郎はその隣を通り過ぎる。﹁イチ﹂と名を呼ばれた。
総一郎は、振り返らない。
追手に先回りされても面倒だと考えて、返り血を浴びて訳でもな
し、と室内の転送陣に直接向かった。飛ぶ。景色が、一瞬にして森
に変わる。
そのまま、真っ直ぐに進んだ。厳しい傾斜も、避けなかった。こ
れからは、ここが家となるのだ。そう思うと、迂回しようという心
持が消える。ただ、ロープを持ってくれば良かったかとは思った。
木の蔓などがあれば、代わりになるだろうか。
1074
登り続け、人目を避けるためにフェンスを乗り越え、更に登るそ
の途中、人に会った。
年上の少年たちだ。五人の集団。彼らは総一郎を見て、おや、と
いう顔をした。瞬間総一郎は身構えるが、彼等の目に敵意が見えな
いのに気付いた。手を振られ、振り返す。
﹁どうしたんだ? パーティからはぐれたか?﹂
少年の内、背丈が真ん中の人物に尋ねられた。腰には長いロッド
を付けている。イングランドクラスか、と見て取りながら、にこや
かな表情を作った。表情を作るのは、ここ最近に慣れてしまった。
﹁いえ、最初から一人なんですよ﹂
﹁はぁ!?﹂
一番のっぽの少年が、驚きの声を漏らした。確認すれば、多かれ
少なかれ全員が驚愕に顔を染めている。失敗したかとも思ったが、
はぐれたと言っても好転するとは思えなかった。
﹁えっと⋮⋮。何でそんなに驚いているんですか?﹂
﹁いや、だって⋮⋮。一年だろ、君?﹂
﹁はい﹂
﹁一年じゃパーティ組んでもここには来られないはずだろう。どれ
だけ優秀な生徒でも、絶対に二年か三年の先輩と組んでなきゃこん
1075
な所には来られないはずだ。実際、俺たちも全員第五学年だし﹂
﹁成程。⋮⋮ちなみに、どんな魔獣が出るのか聞いても?﹂
﹁そういうのもタブレットで知れるはずなんだけどなぁ⋮⋮。まぁ、
いいか。
ここはさ、ヘル・ハウンドの群れが支配してるんだ。常に三匹か
四匹で行動してて、その場で全部討伐しないと救援を呼ばれて泥沼
になる。しかも、あいつらは一匹でも随分と強いからな。体当たり
をまともに食らうと、爆発させられるんだ。最悪、奴らは神へと祈
りだせばある程度逃げて行ってくれるんだが、もっと酷いのがオー
ガだな。極稀に居るんだけど⋮⋮正直、騎士候補生に敵う相手じゃ
ない。騎士でも熟練じゃないとちょっと危ないくらいだ﹂
﹁ヘル・ハウンドにオーガですね。⋮⋮確かに、ここにはあまりい
ない方がよさそうだ﹂
﹁だろ? 一人じゃあ危険だし、もし良かったら送っていこうか?
こっちも帰る途中なんだ﹂
﹁あー、っと。お構いなく。実は、待ってる人がいるかもしれない
んです﹂
﹁一人って言ってなかったか﹂
﹁いや、ちょっと仲違いしまして⋮⋮。強がりみたいなものです﹂
﹁そうか。何か悪いな﹂
﹁いえ、気を遣っていただき、ありがとうございました﹂
1076
手を振り、別れた。途端、総一郎の顔から表情が抜け落ちる。
﹁ヘル・ハウンドにオーガか⋮⋮﹂
日本に居た時読んだ﹃魔獣図鑑﹄という本で、名前とその特性は
知っていた。ヘル・ハウンドは拘束紋を用いて家畜化に成功してお
り、主に警察犬になるのだという。警察犬の本来の役割である、嗅
覚によって何かを探すというのにも使えたが、この犬種は犯罪組織
に対する戦闘によく用いられたとか。それなら父さんが連れていた
のかもしれない、と考えながら、再び真っ直ぐに歩を進める。
そしてオーガ。こちらは、魔獣図鑑に載せられていたものの、利
用価値が低く、そもそもの理性や知性が低い為、日本のそれは一部
の保護されたもの以外駆除されたという。日本においては絶滅危惧
種であり、動物園などで見ることが出来るとか。
﹁国で、随分と変わるものだな﹂
この国の人間が︱︱ひいては貴族が弱いのか。それとも、魔法に
おいて世界一位の日本が強すぎるのか。しかし、今や日本は転覆し
てしまった。
総一郎は、教科書をぱらぱらと捲りだした。新学期の最初に全ペ
ージに一度目を通してあって、記憶が正しければ役に立ちそうな知
識があったはずだ。
その瞬間、背後から殺気を感じ、総一郎は木刀を構えた。眼前か
ら襲い来る獣の大口。木刀を噛ませ、杖を突きつける。
1077
﹁﹃神よ、我が敵に暗闇を﹄﹂
ギルにとらされた聖神法の一つ、﹃ダーク﹄。敵の視界を淀ませ
る効果がある。狙うはその瞳。獣は視界が閉ざされたことによって
木刀を開放し、総一郎はその頭蓋を粉砕した。
素早く確認すると黒々とした靄を纏う獣がさらに三匹、総一郎を
睨みつけていた。これがヘル・ハウンドか、と木刀を上段に直し、
間合いを測る。
︱︱今は三匹居て自分を狩り殺そうとしているが、一匹ずつ削れ
ば恐らく救援を呼ばれるだろう。
素早く、逃がさずに斬らねばならない。腹を括れば道も見える。
総一郎は、わざと隙を作った。二匹が跳びかかってくるが、一匹は
誘いに乗ってこない。
総一郎は、跳びかかる二匹を避けて動かなかった一匹を狙った。
他二匹は仕留めようと思えばいつでもできる。
仕留めた、と思った。頭蓋を捉える軌道。しかし、ヘル・ハウン
ドは身を半回転させて木刀へ食らいついた。動かない。顎に力が入
ったのが見えたが、けれど砕ける様子もなかった。総一郎は、獣の
顎を蹴りぬく。背後から、迫りくる二匹の気配がしていたのだ。
蹴り足が獣に触れた瞬間、爆風が総一郎を襲った。
地面に転がり、絶息した。慌てて体勢を立て直すも、一匹がこち
らへ向かってきている。木刀を握っていた為、突きだした。口の、
その奥。ブレナン先生と同じ場所。
1078
脳を破壊されて死んだ一匹から、他の二匹へ目を戻す。どちらも
総一郎を注視していて、隙と言う物はない。杖を掴んだ。祝詞を唱
える。
﹁﹃神よ、癒しの水を授けたまえ﹄﹂
宿った水色の光を、患部へと投げかけていく。痛みも引き、呼吸
も楽になった。その隙を、先ほど反応しなかった強いヘル・ハウン
ドが狙ってきた。速い。木刀を噛ませ、祝詞を口にする。そこで、
もう一匹が襲い来た。
間に合わない、とそう思った。素手で触れればヘル・ハウンドの
爆発にやられる。桃の木刀だから、ここまでやれているのだ。仕方
なしに、動かせない得物を手放した。祝詞。杖の黒い光を投げかけ、
ヘル・ハウンドの視界を奪う。
その一匹は頭を振り、その拍子に木刀を投げ捨てた。草むらに沈
み、見えなくなる。総一郎は狼狽を示した。死が、そこにうっすら
と形を成し始めている。
そして、二匹が跳んだ。
総一郎はただ脇目も振らずに駆け出した。牙が掠るが、爆発はし
ない。飛び込んだ草むらから木刀を探した。見つける。しかし眼前
にヘル・ハウンドが迫っている。愛刀に、手が届いた。
獣の牙と打ち合い、喉を突いて怯ませた後に頭蓋を打った。
もう一匹、と見回すが、もう影も形も見当たらなかった。逃げら
1079
れたか、と顔を顰める。もうここには居ない方がいいかもしれない。
応援を呼ばれれば、この分だとやられてしまう。
足元に横たわる、ヘル・ハウンドの死骸を見た。外見にそれほど
の差は無かったが、強い一匹ではないと分かった。
山に籠り始めてから、数週が経った。時間感覚はすでに狂ってい
たため、実際のところ何日過ぎたのかは分からない。
﹁待て! 半魔! ブレナン先生の仇!﹂
背後から聞こえてくる怒号。総一郎は、そのしぶとい声にうんざ
りしていた。速度も自分より速いくせに、スタミナ切れと言うもの
を知らないかのような持久力。自分にあるのは地の利だけで、それ
さえも非常に微々たるものだ。
三つか四つ、年上だろうと踏んでいた。それが、三人。クラスは
それぞれ別だったので、恐らく特待生パーティなのだろう。総一郎
は、気の陰に隠れて一時呼吸を整える。
﹁休ませるつもりなんかねぇぞクソが!﹂
声に反応して、総一郎は身をかがめた。耳の痛くなるような鈍い
音。危機感を抱いて走れば、背後の木がズレ落ちるところだった。
普通、一抱えもある木など剣で切れる訳がない。総一郎は今の一撃
が自分を狙ったものであると再認識し、血の凍るような思いをする。
再び、逃げ出した。そうしながら、そうだ、奴らには聖神法があ
1080
るのだと、改めて思った。自分も、使えないわけではない。しかし、
それは片手で数えきれてしまう程度のものだ。総一郎は、絶望的な
気持ちになる。
背後を見る。すでに奴らは集合して、一様に総一郎を直視してい
る。息が、切れ始めた。それでも疾走し続けていると、だんだんと
視界が朦朧としてくる。
山に籠ってからの数週間、総一郎の毎日は常に争闘の中にあった。
殺されないために魔獣を殺し、生きるために魔獣を殺し、騎士候補
生からは徹底して逃げ続けた。生に対する執着が、総一郎にそうさ
せた。いつもギリギリまで追い込まれて、思考も何もかもが途切れ
て、その果てに敵に死体があった。
総一郎は、体力が切れて倒れこむ。そこに、騎士候補生たちが追
い付いた。倒れ伏している少年に近づいて、﹁とうとう捕まえたぞ
⋮⋮!﹂と嫌らしく笑っている。
それぞれの武器が、突きつけられた。総一郎は、もはや何も考え
てはいない。ただ、雰囲気と言うべきものの変容が、手の内でうね
っていることだけが実感できていた。もうすぐ、色を変える。
﹁なるべく苦しむように殺してやるから楽しみにしてろよ?﹂
手首に向けられた鋭さに反応して、総一郎は手の中の空気がはっ
きりと弛緩したことに気付いた。腕を横に滑らせる。少年の手首を
狙っていた剣が地面に刺さる。総一郎は木刀を振った。その少年の、
手首を砕く。
うめき声。力を振り絞って、総一郎は立ち上がった。腕を怪我し
1081
た一人の腕をつかんで、他二人に倒れこませる。怯み。一度深く息
を吸うと、大分意識が安定した。踏みこみ、一人ずつ手を砕いた。
そのまま、坂道を蹴落としてしまう。
﹁や、止めてくれ。悪かったから、頼む、助けて!﹂
残った一人は、総一郎に怯えの視線を向けながら、地面に座った
まま後ずさった。背中が木にぶつかって、下がれなくなる。ちょう
どいいと、総一郎はその頭蓋を蹴り飛ばした。木と足裏にはさまれ
て、彼は意識を失う。
総一郎は力を失った少年から視線を外して、木に寄り掛って嘆息
した。︱︱今回もまた、ギリギリだった。再び重い息が出る。この
ままでは、近いうちに、いつか死ぬような思いをすることになる。
考えろ、と自分に言い聞かせた。折角、あの地獄から解放された
のだ。あの時は、ろくに考えるということが出来なかったように思
える。しかし、今は違う、とは言い切れないのだ。唸る。そして力
を抜いて目を開いた。ぼんやりと視線を彷徨わせていると、彼らの
腰に着いた袋に目が向いた。
﹁⋮⋮そうか、その手があった﹂
総一郎は、彼から袋を強奪した。ついで、坂道の下の方にうずく
まる二人からも回収させてもらう。中身を選別して、食料を片っ端
から自分の袋に詰め込んだ。メモ帳とペンがあったので、それも貰
い受ける。
そうなると頭も働き始め、彼らのタブレットを操作してみた。自
前のそれがすでに失われていたからなのか、触れてもどうという事
1082
はない。スキルツリーさえ盗み見ることが出来てしまって、セキュ
リティの方向性に疑問を抱いた。
とはいえ、平民の人々はこれを見ても使えないのか、と思い直す。
スコットランドクラスの生徒のタブレットを探し、袋から先ほどの
メモ帳を取り出した。
スキルツリーをメモに写し終わり、彼らの周囲に﹃亜人避けの結
界﹄を張った時、すでに日はほとんど落ちていた。久しぶりに、楽
しい時間を過ごした、と言う気分になった。頭を覆っていた靄が、
取れたような感覚だ。見ればそれらの聖神法の中に神の風で体重を
軽くできるものがあった。総一郎は近くの木を見上げる。悪戯っぽ
く、にやりと笑う。
その頂上にまで登ると、日没があった。赤き残光が山々を強く照
らし、一瞬だけ緑色に光って消えていく。少年は、ほぅと溜息をつ
いた。
足元から聞こえてくる唸り声。ヘル・ハウンドのそれだ。ブルリ
と震えながら、総一郎は自らの悪運の強さに感謝しつつ、その場で
夕食と洒落こむ。そうしながら、危機を回避するためには木の上に
居ればよいのだと思った。彼らだって、常に索敵しているわけでは
ないのだから。
それなりに、コツが掴めたかもしれない。総一郎は、そのように
感じた。そうすると、この山が何処か愛おしく感じ始めた。ここに
は危険がある代わりに、自由がある。
ねぐらとして見つけた小さな洞窟に戻り、総一郎は丸くなった。
そこには、煩わしい他者の存在が全くない。
1083
今は、満足だった。胸の内にわだかまるものが、風によって消え
散っていくようなものだった。
その日、山に入って初めて夢を見た。どこか遠く。遠近法のため
に豆粒のようになった獣が、胡乱な瞳で総一郎を見つめていた。
1084
3話 山月記︵2︶
肌寒くなってきた、と思った。雪こそ降っていないものの、明日
にでも降りそうなほど寒い。
イギリスの気候が元々寒いという事にはある程度慣れたつもりだ
ったが、それでも冬になると総一郎には少々辛かった。しかも、今
は山に籠っているのだ。
何か、防寒具が要る。今まで戦ったヘル・ハウンドの毛皮を着な
がらも、そう思わざるを得ない。魔獣は普通の体組織に加え魔法の
元となる﹃核﹄を持っているから、体のつくり自体はあまり強くな
いものも多いのである。
ヘル・ハウンドの場合、あの黒く禍々しい靄が防寒の役目を果た
しているのだろう。
気配。腰の木刀を握り、周囲を見渡す。だが、先方はこちらに気
付いていないようだ。近くの木に登り、息を殺した。見下ろす。数
分後、その下をゴブリンが横切っていった。
ゴブリンの肉は、不味い。魔獣で食えるのはオーク程度である。
元々豚の血統だからというのもあるだろう。それ以外の肉は食えた
物ではないから、騎士候補生を見つけられなかった時はいつも、川
で魚を捕ったり、野草や木の実などを口にしたりしている。
十分にゴブリンが離れたのを感じてから、総一郎は木から下りた。
本当は、ゴブリン如きなら敵ではない。だというのに上るのは、敵
1085
の気配が騎士候補生だったら厄介だからだ。
総一郎は、偶にフェンスを乗り越えて違うエリアに向かう事もあ
るが、大抵は第六エリアで生活している。とすると、相手は必然的
にそれ相応の実力を持っているという事になる。それが、複数。直
接対決に持ち込まれたときは、はっきり言って死にかけた。
それでも魔法を使わないのは、呪文が咄嗟に頭に浮かばないとい
うのもあったし、それ以上に自分に逃げ道を残しておくためだった。
総一郎は山に籠ってサバイバルをしていた方が、どこか生き生き
していた。学園内での暮らしが閉塞感に満ち満ちていたからなのか
もしれない。そうなると頭も少し回るようになって、こんなことを
考えるようになった。
﹃騎士と言う貴族階級の人間たちによる集団リンチが、世間に喧伝
されたらどうなるのか﹄
ただじゃあ済まされない。そんな考えが浮かんだ時、総一郎は思
わずニンマリと笑っていた。正当なる手段の復讐。だが、ここで魔
法を使えばおじゃんになってしまう。
しかし、この考えはある意味では妄想のようなものだった。ブレ
ナン先生の一件はほとんど正当防衛だが、それが通じるとも思えな
い。それに恐らくだが、究極まで追い詰められ、なおかつ魔法を使
うという手段が頭に浮かぶだけの時間があれば、総一郎はためらう
ことなく使うだろう。現時点で、そうなったことがないだけなのだ。
ギリギリで、何とかなっている。
その上、使ってもいいのか。と疑問もあった。魔法を使えば圧倒
1086
できるだろう。総一郎が無傷で敵を甚振れることなど、火を見るよ
りも明らかだ。だが、それは虐めである。使った瞬間、総一郎は奴
らの同類だ。きっと死ぬほどの後悔をする。そういう未来も、透け
て見えた。
余計な事に気が散っていたので、頭を振った。日が昇っているか
ら、今のうちに食料を確保しておこうと動き出す。ヘル・ハウンド
に見つかれば、もうその日はまともに食料を集められなくなるのだ。
奴らに見つかったその時点で二、三匹が戦線から離脱し、救援に
より大勢が襲って来るのである。最初救援は一匹だけだったが、そ
れを最初に潰す総一郎の意図を読んで、そのように変化した。
奴らは頭がいい。思いながら、川へ向かった。偶に魔獣ではない
野生の猪や熊などが居るから、運が良ければその肉が食える。オー
クよりも美味いのである。
そこに、ヘル・ハウンドが居た。
七匹の班である。最近、奴らは常に六匹か七匹で行動するように
なった。数が多ければその倍の数の分隊などが居て、騎士候補生が
多く山に入った日などは総勢五十匹ほどの小隊が森中を闊歩する時
がある。奴らの群れはこの山の総勢で大体三百匹は下らず、それが
五十、六十匹程度で分かれて生活している。
総一郎は、気配を消して奴らの顔を窺った。一匹ずつ確認し、﹁
違う、違う⋮⋮﹂と呟く。最後の一匹を確認し、落胆にため息を吐
いた。グレゴリーが居たのだ。
仕方なく、木刀を掲げて駆けだした。奇襲である。距離も近く平
1087
静を取り戻す時間も与えなかったため、七匹の内一匹を殺せた。ヘ
ル・ハウンドは聖神法があまり効かない代わり、桃の木刀では普通
の狼と対峙する程度の脅威でしかない。
もっとも、触れれば爆発するのはいつも同じだ。爆風が同族には
効かないのだから腹が立つ。
総一郎は、上段に構えた。攻撃的な構えである。それに過敏に反
応して襲い来る一匹。若く、場慣れしていないと大抵上段に構える
だけで跳びかかってくる。
その頭蓋を打ちながら、総一郎は﹁﹃神よ、敵なる魔物に熱き炎
を﹄﹂と祝詞を唱えた。しかし杖には触れない。上段を正眼に変え
て、対峙を続ける。
五匹の内の二匹が、総一郎を挟むように移動した。少年は動かず、
ただ構えを解かずに立つばかりだ。膠着。その隙を突くように、二
匹が逃げ出していく。舌を打った。しばらくの間、ここへは来られ
なくなるだろう。
それに、ぐずぐずしていれば二十匹以上の獣が襲い来る。一度そ
うなったことがあって、その時は指を失ったり片足が動かなくなっ
たりと死ぬような思いをしたものだ。手早く済ませなければならな
い。残り三匹。︱︱いや、二匹か。
杖を取り、その先端に先ほどの祝詞に反応して赤い光が灯った。
それを一匹の足元へ投げかける。川の水が炎の熱に反応し、水柱が
起こった。直接当てても大した威力にはならないが、このように使
えば目隠しにはなる。
1088
作り出した隙を狙い、総一郎を駆けた。木刀を突きだすと、手応
えを得る。水柱が下りて、目に刺さったのだと知った。抜き、痛み
に動けなくなったところで首を打つ。
そうして一匹を仕留めると、背中を向けられた一匹は必ずと言っ
ていい程に跳びかかってくるのである。総一郎は手首のみ反転させ
て、音に頼り木刀を突きだす。蹴り飛ばされた犬のような鳴き声。
振り返り喉を突く。
最後の一匹と向かい合った。グレゴリーとの戦いは、総一郎の構
えで決まる。かつて最初に遭遇したヘル・ハウンドたちの、総一郎
から逃げおおせた一匹である。
総一郎は、彼をグレゴリーと呼んでいた。﹁油断なき警戒﹂とい
う意味だ。彼が居ない時のヘル・ハウンドたちは隠れていればやり
過ごせたが、グレゴリーが居る時だけは必ず発見されてしまう。こ
のように名づけたのは皮肉だった。
出来ればここで殺しておきたい相手ではあったものの、そろそろ
援軍が来る時間帯だ。彼と斬り合えば、一対一でも総一郎は無傷で
は済まない。故に、得物を下段におろした。防御の構え。じりじり
と後退し、彼はある程度の距離をもって踵を返して逃げていく。
﹁今日は、木の実で我慢しておこう﹂
ぽつりと呟いて、総一郎は引き返した。向かう先は寝床である洞
穴である。隠れた場所に在って、まだ奴らには知られていない。だ
が、しばらくしたらまた場所を移すだろう。グレゴリーは、鼻が利
くのだ。
1089
その夜。総一郎は形のみリンゴに似た木の実を齧りながら、騎士
候補生から﹃教えてもらった﹄聖神法を記したメモを読み込んでい
た。時間は恐らく七時か八時ごろで、日はとうに沈み暗くなってい
る。火属性の聖神法で明かりを灯していて、体感でもう一時間ほど
したら寝るつもりだった。
祝詞は既に暗記を済ませていた。スコットランドの聖神法は祝詞
の種類こそ多いものの、難しいのはそれだけである。教科書の巻末
に簡単な効果と全ての祝詞が載っていて、暇つぶしに眺めていたと
ころ覚えてしまったのだ。
だが未だに文句を言いたいのが、その規則性の無さである。必ず
冒頭に﹃神よ﹄が入るのはいいけれど、その先が属性などに関わら
ず法則性が無いのだった。攻撃的祝詞でも、﹃我が敵を﹄や﹃敵な
る魔物﹄、﹃敵を打つ﹄などと、バラエティ豊かなものである。
とはいえ伝えることは多いのか、情報量自体は多く、それが総一
郎にとっては有難かった。何しろ、本来ならばあと二年以上はこれ
を使い続けるはずの物だったのだ。終わりの見えない逃亡を続けて
いる総一郎にとって、これほど興味を引き受けてくれる存在は無い。
いつまで続くのか、と総一郎は偶に思う事がある。何だかんだで、
今はまだ捕まりそうもない。あるいは、ここも一種の迷宮のような
物なのかもしれなかった。そこでは、何年も潜り続けて最深層を目
指すような人物もいると聞いた。
﹁久々に会いたいな、ブレア。ジャスミン、ティアに、ジョージお
じさん、おばさん⋮⋮﹂
山に籠るようになってから、時折彼らの事を思い出すようになっ
1090
た。三年間も一緒に居た、第二の家族。そのように言うと、少し、
堪らなくなる。悶えたいような、暴れたいような、泣きたいような、
そんな気持ちになって、結局何もしないのだ。
目を細め嘆息して、ぱらぱらとページをめくる。その時、総一郎
はある事を思いついた。ページを幾つか巻き戻す。自然、口元に微
かな笑みが浮かんだ。だが、朗らかさなどの快い類ではない。
翌日の早朝、総一郎は山頂へ向かっていた。
ヘル・ハウンドの巣は、山頂近くの谷のような窪みに在る。そこ
に居る彼らは寄り集まり、黒い靄が集合して暗雲の様になっていた。
元々ヘル・ハウンドは個体的な存在でなく、どちらかというと気体
に近い性質を持っている。その為毛皮は継ぎ足さないと時間ととも
に風化していってしまうのだ。グレゴリーにはよく会う為、頻度的
には丁度いいのかもしれない。
また神への敬虔な祈りを苦手としていて︱︱大抵の魔獣がこれを
好まない︱︱それによるものなのか、彼等の影響を一切受けないと
いう人物がごくまれに居るらしい。そういう人は、そもそもヘル・
ハウンドが見えないのだとか。
それ故、その人物を彼らは極端に嫌い、逃げて行ってしまうらし
い。総一郎は実はこちら寄りの人間で、影響をもろに受ける人には、
ヘル・ハウンドは靄がかって居らず大きさが羊や子牛ほどもある、
目が炎のように輝く猟犬のように映るという。余談だが、吐く息が
硫黄の匂いというのも、総一郎には分からなかった。
﹁さて﹂
1091
呟いて、総一郎はグレゴリーを探した。何しろ今まで数々の辛酸
を舐めさせられた相手である。奴が一番ふさわしかろうという思惑
があった。
すると、ぴく、と耳を動かして起き上がる一匹が居た。グレゴリ
ーだ。総一郎は目を瞑り、深く息を吐いた。正念場である。
グレゴリーは周囲を見回して、鼻を微動させた。こちらの方角に
何かあると勘付いて、こちらへ近づいてくる。途中、他の一匹が彼
に着いて行こうと立ち上がったが、一鳴きして抑止した。
彼に家族思いの処があるらしいと気付いたのは、先日の事だった。
彼が居る時のみ総一郎は戦うのだが、その時の仲間に対する態度に
差がある事が分かったのである。昨日などの様に仲間の死をただ邪
魔せず待っている事もあれば、邂逅時の様に積極的に襲って来る事
もある。後者の場合、彼は酷く感情的だ。やはり、個別の群れとい
う物があるのだろう。組んでいるのは付き合いと言う物か。協力と
いうのが正しいかもしれない。
歩いて総一郎の近くまで来たグレゴリーは、きょろきょろと周囲
を見回した。息を潜めて、総一郎は待ち続ける。彼の鼻は鋭い為、
きっと来る。
そして、時期は訪れた。
総一郎は地に隠していたその身を飛び上がらせ、グレゴリーの腹
を突いた。鳴き声をかみ殺した彼は転がって唸り声をあげる。総一
郎は間合いを測らせる時間を与えず、畳み掛けていった。木刀に噛
みつかれ動かせなくなるが、すでに祝詞は唱え終えてある。
1092
その祝詞は、聖属性という特殊な物。効果は﹃聖獣の作成﹄であ
った。
﹃聖獣﹄というのは、はっきり言ってしまえば騎士たちの使い魔
である。ある程度弱らせた魔獣に掛け、相手と自分の実力差に応じ
て成功率が上がり、その魔獣を聖獣に出来るのだ。邪な魔獣をその
場で転生させ、聖なる騎士の僕となるという謳い文句であった。傲
慢な騎士らしい。
総一郎は、その点を割り切っている。使うのに良心の呵責は感じ
なかった。グレゴリーは杖の光を受けて痙攣をはじめ、苦しみだす。
それに総一郎はもう一度祝詞を唱えた。
﹁﹃神よ、邪なる魔に我らが聖なる門へ下る御許可を﹄﹂
黄色い輝きを、グレゴリーに投げつける。痙攣は大きくなり、彼
は意識したように呼吸を大きくし始めた。本当に、頭のいい獣だ。
そうすれば苦痛が和らぐのを知っている。
きっと、もう一度光を投げかければ、彼は完全に自意識を失って
総一郎の﹃聖獣﹄となるのだろう。だが、それが総一郎には惜しく
思えた。言葉が通じるのかは知らなかったが、自己満足でいいと納
得してゆっくりと語りかける。
﹁グレゴリー。君は決して油断をせず、家族を守ろうとした。そし
て、僕はその家族を何匹も殺した。恨んでいるか?﹂
グレゴリーは、何も反応しない。ただ、大きく呼吸を繰り返して
いた。気にせず続ける。
1093
﹁僕は、君と争おうというつもりはないのだ。君は、君の同属の毛
皮を僕が使っているのを見て激怒していたな。まずは、それを謝ろ
う。生きるためにそうして居た。その事を、偽るつもりはない。︱
︱そして、おこがましい頼みなのだが、出来れば僕は君と和解した
い。もっと言えば、家族になってほしい﹂
彼の呼吸が、一時乱れた。咳き込むような突発さはない。偶然か、
それとも。
﹁君は勇敢で慎重、その上高潔だ。最初は分からなかったが、君は
僕が戦闘の意思を持たない時、自分の家族を戻らせて僕に攻撃して
こなかった。そこに僕は、君に対しある種の親しみを感じた。⋮⋮
どうだろうか。僕を、仲間にしては貰えないか﹂
僅かに、首を振ったように見えた。その瞳を覗き込むと、何処か
しら嫌悪の色が見えた気がした。総一郎は、肩を竦める。知ってい
た結末だ。
﹁済まない。一時の気の迷いだ。︱︱﹃神よ、癒しの水を授けたま
え﹄﹂
杖に光を灯し、グレゴリーに投げかけた。途端跳ね起きた彼を見
て、総一郎は﹁治ってよかった﹂と呟く。
逃げる様に、そのまま崖を駆け下りた。山道を歩き慣れている彼
だから、突っかかる事もなく速度はどんどんと上がっていく。燻る
ようだった感情も、それに比例して激情に変わった。
総一郎は、咆哮を上げながら走った。途中遭遇したゴブリンを一
刀にて殺し、オークの頭蓋を断ち割った。
1094
寝床にしていた洞穴に着き、そこに火属性の光を放った。何もか
も燃え上がり、メモ帳と木刀だけが残される。しかし毛皮はどうし
ようもなく燃え上がっていくのだった。それを見た修羅は、再び涙
を流す。激情はまだ残っていた。しかし行き場を失くして、燻るし
かなかった。
総一郎は、歩きはじめる。山の奥へ。孤独の深き暗闇へ。
1095
3話 山月記︵3︶
手練れたちだった。十人。第五、六学年や、騎士補佐の混合パー
ティ。明らかにポイントの為に動いているのではなく、自分を狙い
に来ている。
総一郎は、いつものように木の上から様子をうかがっていた。最
近は、ほとんど地面を歩かない。足跡が付くのが嫌なのだ。普通の
地面なら少しくらいは良いかもしれないが、今は冬。山の地表はほ
とんど厚さ数センチほどの処女雪に覆われていて、迂闊に地面など
歩けなかった。
﹁﹃神よ、彼の地へ静寂の空間を﹄﹂
杖を軽く振って、会話もなく警戒心たっぷりに練り歩く彼らの後
半五人のいる位置に、範囲的な﹃サイレント﹄をもたらす。詳しい
技名は忘れてしまった。
大きく息を吸い、吐きだす。総一郎は飛び出し、後ろから三番目
の少年に向かって落下した。
肉薄。そのまま蹴り飛ばすように押し倒す。彼は総一郎を乗せて
転倒し、周囲に爆発するような粉雪を散らした。ゆっくりとすぎる
時間。誰もが音もなく荒れ狂う総一郎に動けないでいる。少年は彼
の襟首を掴んで引き寄せた。そして、木刀の柄によるこめかみへの
殴打。二度、三度と繰り返せば大抵の人間は気絶する。
そのまま立ちあがり、一番近くにいた少女の頭を掴んで側頭部か
1096
ら木にぶつけた。二人目。大抵、三人目からは抵抗される。
しかし、総一郎は最も強いだろう二人に絞っててっとり早く片づ
けたのだから、残ったのはそれほどの脅威ではなかった。喉を突き、
後頭部から木刀で乱雑にガツンとやり、倒れたところを押さえつけ
て、顎を狙って頭部を踏みつぶした。一息を突く間もなく、五人。
前半を歩く五人の比較的弱い少年少女たちは、気づかずに進んで行
ってしまう。
﹁おい、君たち。五つほど、忘れものだよ﹂
きょとんとした表情で振り返った彼らに、聖神法で腕力を強化し
て倒した内の一人を投げつけた。総一郎は素早く駆けて、木刀を横
に薙ぐ。
一人で、何人もの手練れを同時に倒せる訳がない。そう悟った総
一郎が編み出した、戦法の一つだった。
十人全員を制圧し終えた後、総一郎はいつもの通り彼らの荷物を
漁っていた。
まず食料を確保し、四次元袋︵分かりやすく名付けた︶の中に詰
め込んでいく。次いで彼らのタブレットを奪取し、スキルツリーを
調査。新しい聖神法がないか探す。
﹁⋮⋮今日もはずれっぽいな﹂
スコットランドの生徒三人中二個を調べ終えて、総一郎は嘆息し
1097
た。最初は目が回るほどの量だったというのに、最近はメモ帳にほ
とんど新しく記せない。
最後の一人を調べるべく、その少年の体を調査して、タブレット
を硬く握られた手の中に見つける。画面を見て、ぎょっとした。登
録番号が表示されていて、ほとんど掛けられる寸前だった。
﹁⋮⋮結構詰めが甘いな、僕も﹂
通報されていたら、それなりに厄介なことになっていただろう。
ギリギリのところだったと、総一郎は安堵のため息を吐いた。
その時、不意に気になって画面を見つめる。電話機能。ぽつりと、
呟く。
﹁⋮⋮白ねえに、掛るかな﹂
番号は、覚えていた。しかし、国外である。その上これは騎士候
補生の物。発信機が内蔵されていて、あまり長い時間同じ場所に放
置しておくと、救援依頼と言う形で他の騎士候補生がこの地へ赴く
ことになる。
そのような様々な問題点があったが、総一郎は結局、誘惑には勝
てなかった。恐る恐る番号を押して、その番号が合っているか何度
か確認し、心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、震える手で通話
ボタンを押す。
無機質なコール音。掛った。と思う。心臓が、早鐘のようになっ
ている。だが、総一郎は振り返り、自分が打倒した彼らへと目を向
けた。こんなことをして成果として、白羽と会話をする。その事実
1098
がどうしようもなく罪深い事のように思われて、やはり通話を切ろ
うとした瞬間だった。
﹃はい、もしもしー?﹄
繋がった。
英語。しかし、懐かしき声。電話越しでも、確信した。澄んだ、
この心地よい声音は、正真正銘自分の姉の物であると。
﹃⋮⋮? もしもーし﹄
黙りこくっている総一郎に、声は疑問符をつけて飛んできた。総
一郎の心臓はもはや爆発寸前で、震える声で、つっかえつっかえ言
った。
﹁も、もしもし、⋮⋮武士垣外、総一郎です﹂
日本語で、言った。もし、総一郎の勘違いなら、彼女は英語で疑
問を投げかけてくるだろう。しかし、本人なら。下唇を噛む。手の
震えのあまり、雪へと叩きつけてしまおうかとも思う。果たして、
この電話の相手は。
﹃⋮⋮総、ちゃん⋮⋮? え、嘘。総ちゃんなの?﹄
日本語の返答。総一郎は、笑いのような、嗚咽のような、変な呼
吸をした。泣き笑い。しかし相手それに気づくだけの余裕がないの
か、あわあわと錯乱し始める。
﹃え、本当に!? 本当に総ちゃんなの! ちょっと、お願い。も
1099
う一度声を聞かせて?﹄
必死な懇願に、総一郎は目頭を押さえながら﹁久しぶり、白ねえ﹂
と言う。
﹃⋮⋮﹄
沈黙。あれ、と不安になる。けれど、違った。それは、嵐の前の
静寂にすぎなかった。
﹃︱︱︱︱︱︱ズーニィイイイイイ!! 総ちゃんから! 総ちゃ
んから電話が来たよ! ほらこっち! 早く、ハリー! ほらお前
何やってんだゲームのセーブとかいいから! 総ちゃんだよ総ちゃ
ん! 武士垣外総一郎! いやそんな呆けた反応とか後ででいいか
ら! 早く! 早よ!﹄
﹃ちょっ、ちょっ、はぁ!? 白羽お前こんだけ急かしといて悪戯
だったじゃ許さねぇからな! ⋮⋮えっと、代わりました。般若図
書です。⋮⋮総一郎、なのか?﹄
﹁うん、そうだよ、図書にぃ。⋮⋮久しぶり、武士垣外総一郎です﹂
﹃うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおお! マジか! マジじゃねぇかよお前ふざけんな! いきなりこんなハプニング有り得ねぇだろ! さてはアレだな? お前ら数日前から計画してやがったなこの野郎! 気分がいいから
何でも買ってやる、何がいい!﹄
﹃じゃあコーラ﹄
1100
﹃オシ来た行ってくる!﹄
パシッという物を手渡したような快音。そして何かが走っていく
ような音が遠ざかって行った。総一郎は一瞬ぽかんとして、その様
子を頭に思い浮かべて吹き出した。すると、電話の向こうからもく
すくすと笑い声が聞こえてくる。
﹁そっちは変わらないみたいだね﹂
﹃そんなことないよ。総ちゃんが居ないんだから、お姉ちゃんの毎
日は灰色一色﹄
﹁じゃあ今さっき、無機質な色合いの図書にぃが全力ダッシュで駆
け抜けていったんだ﹂
﹃ううん、ほっぺだけは赤かった﹄
お互いに、意味の分からない会話を交わして笑った。次いで、自
分をこんなにも暖かく思ってくれている人がいるのだと実感して、
声もなく涙を零す。
﹃⋮⋮総ちゃん、ところでいきなりなんだけど、質問いい?﹄
﹁うん﹂
何故今更掛けてきたのか。そんな事を問われるだろうと考えた。
しかし、彼女は想像の斜め上を行く。
﹃⋮⋮私さ、︱︱泣いていい?﹄
1101
﹁何でっ?﹂
﹃いや、何か、感極まってきた⋮⋮﹄
言いながらも声が震えている。戸惑いながら﹁い、いいよ﹂と告
げると、数回しゃくりあげてから、酷く落ち着いた声で言った。
﹃⋮⋮でもいざ泣けって言われると泣けるものでもないよね﹄
﹁何かいろいろ損した気分になったよ⋮⋮﹂
本当に、変わらない。いや、むしろ強化されたと評すべきなのか。
何処までも温かく、親しみに溢れた中身のない会話。意味がない。
しかしだからこそ、そこに親愛の情が満ち満ちるのかもしれない。
﹁そっち、どう? 図書にぃの声は聞けたけど、るーちゃんは元気
? 清ちゃんは? というか、生活はどうしてるの?﹂
﹃そんな一気に聞かれても困っちゃうよ私。んーとね、答えやすい
のから片していくけど。ひとまず現在、私武士垣外白羽はほとんど
般若白羽となっております﹄
﹁居候ってこと?﹂
﹃まぁそんな感じ。んでね、おーい、清ちゃんカモン。え? ブロ
ック? はいはい、あとでお姉ちゃんが作ってあげるからおいで﹄
足音。﹃はい﹄と白羽が声を出して、恐らく受話器を清に渡した。
般若清。タマの命を受け継ぐ少女。
1102
﹃⋮⋮もしもし、初めまして。般若清だ。⋮⋮日本語自信ないんだ
けど、白羽、これでいいのか﹄
﹃う、うーん。なんか、こう。言葉だけ文字に起こすと傲岸不遜な
男の人みたいな雰囲気でそう﹄
﹁声すっごい可愛かったけどね。どうも初めまして、武士垣外総一
郎です。そこにいるおねーちゃんの弟だよ﹂
﹃おお、お前が噂の。さっきお兄ちゃんがダッシュしていくのを見
て何事かと思ってた﹄
﹃その割には微動だにせずブロック積み上げてたけどね﹄
﹁⋮⋮﹂
喋り方と言い、泰然とした様子と言い、酷くユーモアのある五歳
児らしい。ちょっと容姿の想像が付かない総一郎だ。
白羽曰く、﹁小っちゃくて、不機嫌そうなのに可愛くて、図書っ
ちみたく頭に般若のお面をつけてる﹂のだそう。そこに記憶の上の
図書の幼くなったバージョンを加工して重ね合わせると、何となく
想像できた。そしてどうでもいいのだが、いまだ白羽は図書の呼び
方を統一していないらしい。
その辺りを一通り話してから、白羽との会話を再開させた。琉歌
の事。何故最初に聞いたのに、最後に回されたのか。
﹃るーちゃんね、⋮⋮ここには居ないの﹄
1103
﹁⋮⋮居ないって?﹂
﹃総ちゃんとも離れ離れになっちゃったあの襲撃の時、るーちゃん
も一緒に行方不明になってるの。近くに大きな亜人さんが居たから、
多分マヨヒガに避難できてるとは思うんだけど⋮⋮。私たち、今日
まで総ちゃんがイギリス行ったなんてこと知らなかったし﹄
﹁⋮⋮そっか﹂
それ以上の言葉を、総一郎は見つけることが出来なかった。その
時、ふと我に返る。どれほど、自分は話していた? 他の騎士候補
生のタブレットを漁り、時間を確認する。血の気が引いた。早く、
ここを離れなければ。
﹁⋮⋮じゃあ、今日はバイバイ。次も、こっちから電話するから﹂
﹃え? ⋮⋮うん。でも、出来れば私から掛けたいな。駄目?﹄
﹁ごめん、コレ自分の物じゃないんだ。この電話番号にかけても、
僕は出られないから﹂
﹃⋮⋮分かった。じゃあ、また今度ね。絶対電話してよ!﹄
﹁︱︱もちろん﹂
微笑みながら、総一郎は通話を切った。そして宙に放り、木刀で
粉砕する。電話の履歴が残ることは、好ましくなかった。どんな形
であれ、迷惑を掛けたくない。
近づいてくる足音。二十人近いと、総一郎は推測する。木に登っ
1104
て、跳んだ。急いで、逃げていく。
1105
3話 山月記︵4︶
ヘル・ハウンドとの戦闘にも、だいぶ慣れてきた。
奴らは言ってみれば賢い獣にすぎず、一体一体は騎士候補生の手
練れに比べれば一段劣る。グレゴリーは別にしても、他の猟犬たち
を相手にするのはもはやルーチンワークに近く、多数に襲いかから
れても怪我一つしないようになった。
強くなった。その実感が、無いわけではない。しかし、思うのだ。
雑魚を蹴散らせるようになっても、本当に強い何者か一人には、苦
戦させられるものなのだと。
﹁⋮⋮﹂
唸り声。山中。グレゴリーと、相対していた。
周囲には、数匹のヘル・ハウンドの骸。その中に、彼の群れの一
匹、あるいは複数匹が混じっていたのかもしれない。彼は犬歯をむ
き出しにして、憎悪を感じさせる顔つきで威嚇していた。総一郎は
それを、木刀を翳すだけで牽制している。一触即発。緊張が張り詰
めている。
彼とやりあうのは、久しぶりの事だった。今までは圧倒されてい
たが、以前死角を取った時を境に、少しずつ彼を押し返していると
いう感触を得始めた。今では、圧倒しているといっていい。しかし
仕留めたり、四肢を飛ばしたりというような致命的な状況にはなら
なかった。
1106
最後にやりあったのは、二週間近く前の事。最近は、騎士候補生
ばかりを相手にしていた。ヘル・ハウンドも、最近は遭遇しない。
狩りつくしたというよりは、あちらがこっちを避けているような気
がしている。
一つ吠えて、襲い来た。総一郎は、待ち構える。しかし、迎え撃
ちにかかるのは早計だ。グレゴリーは、フェイントを入れる。直接
来ると思わせて、地面に突っ込んで爆発を起こす。
察知していた総一郎は、まず背後に飛びのいてから横に転がった。
立ち上がり確認すると、地面がえぐれている。土煙もひどかったが、
総一郎には天使の目があるため意味がない。そのまま、肉薄にする。
突き。しかし、紙一重でかわされた。そのまま、反転して逃げてゆ
く。
しかしグレゴリーは、十数メートル離れた位置で、感情の窺えな
い瞳でこちらを見てから再び駆け出した。総一郎は、おや、と思う。
もしかしたら、あのヘル・ハウンドたちの中に身内が居たという推
理は間違っていたのかもしれない。
﹁⋮⋮演技をしたってことなのか? ってことは︱︱なるほど、魔
獣にしておくのが惜しいな﹂
人間顔負けの頭の回りようだ。その分だと、総一郎は二度とグレ
ゴリーの群れに遭遇することはないだろう。
少し考えて、今の戦いの意義がどこにあったのかを推察した。も
しかしたら、近くに身内の群れが歩いていたのかもしれない。それ
から、少年の目を逸らした。そういう意図があっても、彼の場合は
1107
おかしくない。
﹁⋮⋮僕よりも、人間らしい考え方だ﹂
総一郎もその場から離れることに決めた。跳躍して、一息に木に
登った。体を支えるために、枝を右手で掴む。その時、微かな違和
感を抱く。
無言で、右手を見つめた。僅かに歪んで見えたが、目を擦ると元
に戻る。また、感触の違い。けれど、少しすると気のせいだったと
考え、忘れてしまうのだ。そういうことが、最近多い。
何かが、変わりつつある。それが好ましい物ではないという事は、
それとなく感じとっていた。己という存在の変容。だとすれば、自
分は何になるのか。
空腹を感じて、総一郎は跳躍した。何か、食うものが欲しい。
山菜などが期待できないこの季節において、有用な食材と言えば
騎士候補生がザックに積んでいる食料、あるいはオークなどの食用
に耐えうる魔獣くらいのものだ。飛び回っていると、総一郎は一匹
でほっつき歩いているオークを見つけた。しめた、と腹をさすりつ
つ、木の上から近づいて、その肩に着地すると同時に木刀を突き下
ろす。
首が落ちた。頸動脈から、血が噴き出す。こうすると、仕留める
とともに血抜きができて便利だった。血が抜けきったのを確認して
から、自前のザックから乾かした枝を取り出し、雪をどかして地面
を露出させてから聖神法で火をともす。
1108
枝が燃え、パチパチと音がし始めた。総一郎はオークの肉を素早
く小分けにして、他の鋭い枝に刺して焚き木のそばに立てておく。
そのまま、しばらく待つのだ。油がしたたり落ち始めたら、焼け具
合を少し確かめた後、齧り付く。
塩が欲しい、と言うようなことを考えたのは初期のころだけで、
今はただ、満腹感を得られれば良かった。味、と言うもの自体がよ
くわからなくなっている節さえある。
騎士候補生の食料を奪って食っても、どこか遠いというような感
じがあった。甘いとか苦いとかは分かるのだが、美味いかと聞かれ
れば、総一郎は答えられないだろう。しかし、それでもまだ、自分
はこのように生きている。それならば何か問題があるか、そんな風
にも思う。
そこに、人が現れた。
気配を気付くまでに、数秒かかった。そして、驚く。肌が粟立つ
ほどの殺気。何故気づかなかったのかが、分からなかった。服装を
見る限り騎士候補生だが、今まで相対した中でも頂点に君臨する強
さが感じられる。
﹁⋮⋮ブシガイト。会うのは、久しぶりだな﹂
﹁そう⋮⋮ですね。顔は、覚えています。名前は確か、カーシー・
エァルドレッドとか言いましたか﹂
﹁ああ、そうだ。お前と少し修練をして︱︱そして、師を殺された
者だ﹂
1109
彼は背中の大剣を抜き、構えた。総一郎は、眉を顰める。正面か
らは、絶対にやりあいたくない相手だった。こういう相手は、集団
で歩いているところを襲撃する際、真っ先に倒す相手なのだ。
総一郎も、正眼に構えた。にらみ合う。膠着し、動かなくなった。
こういう時はきっかけがないと互いに動き出せない。しかし、妙な
手ごたえもある。まるで、時がたつのを待っているかのような︱︱
総一郎は反転し、全速力で逃げだした。
﹁くっ、待て!﹂
声が背後から飛んでくる。総一郎は木の中に紛れて、距離を取る
よりも相手に察知されないことを心掛けた。聖神法で、相手の﹃サ
ーチ﹄から逃れる物を使う。そして木に登り、こちらから探しに行
ってやる。
﹁くそ、何故ばれたんだ。⋮⋮すいません。こちらエァルドレッド。
膠着状態に持ち込んだのですが、何が原因で気付かれたのか。逃げ
られてしまいました、申し訳ありません﹂
やはり、応援を呼んでいた。総一郎は苛立ち、奴の頭上へと移っ
た。けれど、飛び降りない。勘が告げていたのだ。奇襲をかけても、
難しい戦いになると。
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、無言で遠ざかった。彼の﹁殺してやる⋮⋮﹂と言う怨
嗟の声を背に、感心する。彼のように、ブレナン先生の仇と憎悪を
向けてくる輩は少なくなかった。ただ、これほどまでに強く、狡猾
1110
なのは彼だけだ。恐ろしい相手だと溜息をつく。憎悪の手合いのほ
とんどが、感情任せに斬りかかってくるだけの雑魚ばかりだったか
らだ。
感情をぶつけられると、疲れる。それは、どんな相手でも同じだ
った。戦闘の中の殺気、闘気などはもう慣れた。しかし、憎悪に類
する個人的なそれは、山に籠り始めてから苦手になってきた。
快い、と思えるのは、白羽や図書のそれだけだ。彼女たちと話し
ている間は、日本に居た頃の﹃総一郎﹄で居られる。
そう思うと、居ても立っても居られないのだった。少年は木の上
を駆け、騎士候補生を探し求める。
タブレットを手に入れて、総一郎は騎士候補生の入りにくい、ヘ
ル・ハウンドの群れの巡回区域の木の上で座っていた。コール音は
いつも総一郎の気分を弾ませてくれる。この瞬間だけは、総一郎に
も笑顔が浮かぶ。
﹃もしもーし﹄
﹁あ、白ねえ? もしもし、総一郎です﹂
﹃総ちゃん!? え、嘘! 寝る寸前だったのに眠気吹っ飛んじゃ
ったじゃん!﹄
﹁え? あー、時差か﹂
1111
こっちは午後の五時ほどである。日は暮れ始めているが、暗いと
いうほどではない。
﹃まぁいいや。今日の夢見がよくても明日の寝起きは怒髪天ってこ
とで。もー、電話くれるならくれるって言ってくれないとお姉ちゃ
ん驚いちゃうでしょ?﹄
﹁⋮⋮怒髪天なの?﹂
﹃うん。機嫌悪くてわがまま言って、最終的にはずっちんから拳骨
くらってやっと正常モードになる感じ﹄
﹁ずっちん、いや、何でもない。そんなに昔寝起き悪かったっけ?﹂
﹃んーん、最近。何ていうんだろ。日本の枕と比べるとさ、アメ公
の枕柔らかすぎない?﹄
﹁⋮⋮白ねえ、アメリカ人の事アメ公って呼んでんの?﹂
﹃え? あ、⋮⋮えへへ﹄
笑って誤魔化された。可愛いのでよしとする。
﹃ていうか総ちゃん! 私の事ばっかり聞いてズルイ! と言うか
私の言葉尻捕えすぎ! もっと寛容⋮⋮じゃない。論旨ずれてる。
えっとほら、アレだよ。総ちゃんの話ももっとアレしてよ!﹄
﹁ドレするのさ﹂
﹃アレ!﹄
1112
だからアレでは分からないというに。
﹁白ねえも何と言うか、アメリカに行ってからすっ呆けに磨きがか
かったよねぇ﹂
﹃座右の銘が﹁リリカルコミカル﹂だから﹄
﹁⋮⋮マジカルじゃなく?﹂
﹃いや、お姉ちゃん魔法あんまし使えないし。というか何でマジカ
ル?﹄
﹁ううん、こっちの話﹂
前世の記憶が若干後を引いていた。
﹁と言うか座右の銘が白ねえらし過ぎない? 何そのどんびしゃっ
ぷり﹂
﹃お、やっぱり総ちゃんには分かっちゃうかー。でもねでもね? こっちの人たちには不評なの。ずっしょさんは辛うじて﹁いいんじ
ゃねぇ?﹂って半笑いで言ってたけど、他の人たちには﹁姐さん、
お言葉だがそれはない﹂だの、﹁ん、えー、あっと⋮⋮、ごめん⋮
⋮﹂だの﹁白羽は馬鹿だな﹂だの! 理不尽!﹄
﹁最後のが清ちゃんのだって事は分かったけど、最初の一つがおか
しいよね。何、姐さんって。僕以外に弟でもできたの?﹂
﹃私の顔の広さが物を言った結果だよ﹄
1113
﹁やべぇ﹂
﹃総ちゃんが壊れた!?﹄
それ以外の言葉が見つからなかったのだ。
﹁にしても、普通に思いつく座右の銘じゃないよね。もっと格調高
くしたりしない? 偉人の言葉使うとか、謎に古語を使うとか﹂
﹃みんなそうしろって言ってたよ?﹄
﹁尚更何でさ﹂
﹃むー、言葉にしにくいと言いますか。それを詳しく話すには由来
から話さねばならないのですが⋮⋮、はっきり言うよ? 小っ恥ず
かしい﹄
﹁ド直球で言われてびっくり﹂
﹃でも語る。総ちゃんは精々赤面しつつ強がって意気揚々と語るお
姉ちゃんの姿を想像して、時折クスッと笑うと良いでしょう。多分
その度に台詞噛むから﹄
﹁ふふっ﹂
﹃しょう、しょれはにきゃがっ、二か月前のこちょ、こちょでした
⋮⋮﹄
﹁あ、もう凄く想像しやすかった今﹂
1114
電話越しに聞こえる﹃うぉっほん!﹄と言うわざとらしい咳払い。
何だか、らしいなぁ、なんてことを思ってしまう。
﹃そういえば総ちゃんって、差別についてどう思う?﹄
﹁⋮⋮差別?﹂
語り口には、ひょっとすれば気が付かないほど変化がなかった。
普通の事を話すみたいに、彼女は言う。しかし﹃差別﹄と言う言葉
がギリギリのところで総一郎の気を惹いた。それは、少年にとって
の鍵だった。この閉鎖的な現状に、自分を閉じ込めた鍵だ。
﹃二か月前に、⋮⋮授業でやったんだよ。差別の事について。イギ
リスは酷過ぎて亜人がうつっていけないくらいらしいけど、アメリ
カも中々でお姉ちゃんびっくりですよ。具体的なことを言うのはア
レだし、私は何とか上手くやってるけど、⋮⋮亜人に人権がなかっ
たことを知った時は驚いたなぁ﹄
﹁何、それ。亜人に人権を与えていない国が、亜人の受け入れなん
て行ったの?﹂
﹃公民権の制定寸前までいったんだけど、亜人からの協力が少なか
ったのと、大統領の暗殺でおじゃんになっちゃった。対策は立てて
たけど流石に大砲は防げなかったよ防弾ガラス⋮⋮﹄
つばを飲み込む。ケネディ大統領を彷彿とさせる事件。黒人の差
別と、同じことが起こっているというのか。
﹃もちろん、日本人側も手をこまねいているだけじゃないよ。最近
1115
では、警察が動いてくれないなら自警団作ってやるみたいな動きも
ある。正直魔法を使い始めたら銃乱射するしか能のないアメ公なん
かぼっこぼこだしね﹄
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、黙っていた。軽い口調だが、込められた思いには万感
の物がある。﹃痛いこと言っていい?﹄と、白羽は尋ねてきた。自
嘲気な響きには、しかし強い眼差しを感じる。
総一郎はただ軽く肯定のみを示して、先を促した。白羽が今、何
を見つめているのかが気になった。﹃私ね、思うんだ﹄と切り出し
た声色は、軽くも、重くもない。ただ、深さがあった。
﹃歴史の教科書に載っていることが、何故か近くに感じることって
ない? 今、この瞬間も、刻まれつつある歴史の一つなんだって、
そう言う風に。
時代が、動いてる。アメリカに居ると、それが凄い実感できるの。
人と人が繋がって、何かを為す。それが大きくなると、多くの事が
変わる。昨日人気だった大統領が、今日の価値観では演説台から引
き摺り下ろされてリンチにされたり、アメリカ国籍持たない貧しい
人が、明日の価値観では一瞬でミリオネアになれるほどの隠れたお
宝を抱えてたりするかもしれない。そういう不安定で、先の見えな
い世界で、私たちは生きてるんだって。
︱︱日本とは大違い。あそこの時間の流れはとてもゆっくりで、
平穏から外れた事件なんて、人食い鬼のそれ以外遠くにあったもん。
そんな風にこの国で生きてて思ったのが、﹁素直に、楽しく生きよ
う﹂ってこと。それだけは、守っていかなきゃって、何故か思った
の﹄
1116
リリカルは、抒情的という事だ。感情豊かで情緒的な様を指す。
コミカルは、言うまでもないだろう。彼女の明るさの原点だ。
﹃世界には、二種類の要素がせめぎ合ってる。そういう風に、思う
んだよね。笑顔と、暴力。暴力は減れば、笑顔が増える。暴力が増
えれば、笑顔が減る。酸性と塩基性みたいな関係。ちょっと説明違
うかな? で。なら、まず私が笑おうって。だからお姉ちゃんは﹁
リリカルコミカル﹂なのですよ。いかにもバカっぽくて笑えるでし
ょ?﹄
その言葉には、どこか自慢げな様子があった。電話越しに聞こえ
てくる小さな笑い声。酷く、総一郎は感心させられた。あんなにも
幼かった姉が、ここまでに成長したのだと思わせられた。
対する、自分はどうか。幼児どころではない。まるで獣だ。こん
な姿、浅ましくて見せられるはずがない。魔獣を殺して食らい、騎
士候補生を襲って強奪し、︱︱野蛮な獣だ。総一郎は、下唇を噛む。
恥ずかしい、と言う思いが湧きあがる。
﹃でも、最近はちょっと辛いんだ﹄
総一郎は、その言葉に吸い寄せられる。﹁どうしたの?﹂と、少
し必死な声が出る。
﹃総ちゃん。私、総ちゃんに会いたい﹄
﹁⋮⋮うん、僕も会いたい﹂
出来ない相談だった。この山から脱出して、騎士学園から逃げ延
びて、海を越えて、白羽の住む町にたどり着く。自分ひとりの力で
1117
できたら、どんなにいいだろう。
﹃何で会えないのかな。⋮⋮何でこんなに寂しいのかな﹄
声色は、静かで低かった。湿ってはいない。しかし、微かな震え
がある。総一郎は、何も言わない。ただ自分の薄汚れた姿を見て、
臍をかんだ。
﹃私ね、今、自分が何を言いたいのか分からないの。ただ、総ちゃ
んに会いたい。最初の電話がかかってくるまでは、こう言っちゃな
んだけど、大丈夫だった。忙しかったからっていうのもあるけど、
多分総ちゃんが私の中で遠くなっていたから﹄
申し訳なさそうな声色に、﹁お揃いだね﹂と優しく告げる。する
と少しだけ笑って、﹃意地悪﹄と言った。多分、膨れっ面をしてい
るに違いない。仕草だけは、予想がつくのだ。
﹃最初の電話がかかってきた日は、私なかなか眠れなかった。興奮
してたんだろうね。夢に、総ちゃんが出てくるの。昔のままだった。
平和で、楽しくて、日差しが気持ちよくって⋮⋮目覚めた時、泣き
そうになった。電話番号が分からないことを思い出した時は、思わ
ず、少しだけ泣いちゃった。︱︱それからずっと、会えないのが辛
い。ねぇ﹄
喉の、ひくつく音が聞こえた。嗚咽したのだ、と気づいたのは、
いつだったろう。
﹃寂しいよ、⋮⋮会いたいよ。何で会えないの⋮⋮? 私には分か
らないよ。せめて、姿が見たい。声だけじゃ嫌だよ⋮⋮!﹄
1118
それだけ言って、白羽は押し黙った。僅かに、すすり泣きが耳に
届く。受話器を、口元から遠ざけていることが分かった。途中で我
に返って、しかし泣き止むことが出来なかったのだろう。
それから少しして、明るい口調に戻った彼女は自らの涙を茶化し、
嘲り、徹底的なまでにこき下ろした。その声色は何処までも朗らか
で、痛ましかった。総一郎は、また近い内に電話するからと告げて、
切る。
通話を終えた受話器を手に、白羽は一体どうしているだろうと考
えた。何をする事も出来ない自分が虚しくて、タブレットを放り、
打ち砕く。
1119
3話 山月記︵5︶
ファーガスが、背後に居た。
総一郎は半ば恐慌状態に陥って、図書との会話も平静を装いなが
ら早々と切り、タブレットを打ちこわしてから木に登り逃げ出した。
追ってくる気配があったが、風の聖神法で崖をそのまま跳躍した
ところ、それ以上の追跡はなかった。総一郎は、胸をなでおろす。
手は恐怖のあまりいまだ震えていて、逃げ延びた今だからこそ、深
く慚愧の念に駆られるのだ。
﹁日本に居た頃の僕を知る人に、こんな姿を見せられる訳がない﹂
思わず口から出た言葉は、総一郎自身が強く意識していなかった
感情を浮き彫りにした。そして、ああ、と声を漏らす。助けてくれ
るかもしれない相手に、救いの手を求められない。その矛盾は、何
処か自分が、人間から遠ざかったような気持ちにさせる。
﹁⋮⋮僕は、何処までも救えないな﹂
いっそのこと、魔法を使ってしまえば気持ちもすっきりするのか
もしれない。だが、呪文すらも総一郎には定かではなかった。こん
なに記憶力が悪かったか、と考える。
気分の落ち込むことが重なって、総一郎は八方ふさがりに陥った
ような気持になった。右手に、違和感。吐き気が来て、目を瞑り、
開けた。白銀が、赤い光を照り返している。夕日か、と目を瞬かせ
1120
た。
﹁寝て、たのか⋮⋮?﹂
時間の経過に、総一郎は周囲を見回した。どちらにせよ山の中で、
特にどこに居るのかという事は分からない。最近、少年はねぐらを
作らなくなっていた。木の上で座り、聖神法で火をともせば十分夜
を乗り越えられたからだ。
とはいえ、ここが第三エリアであることに間違いはないだろう。
最近第六エリアに入る騎士候補生が少なかったから、タブレット確
保の意味合いでここまで足を延ばしたのだ。生憎と先ほどの会話で
は図書としか話せなかったが、成果と言えば成果である。
総一郎は、背負っていたザックの中から食料を取り出して咀嚼し
始めた。腹が減ったと、そう思った。そのまま、騎士候補生を探し
求める。
一人、歩いているのを見つけた。実力のほどは分からなかったが、
隙があった。総一郎は自分が珍しく雪の上を歩いていることを自覚
して、木に登ってから近づきなおす。
跳び、横転した所を気絶させた。タブレットを奪い、電話を掛け
る。それは、時につながらないことがあった。そういう時は抑鬱的
な気分になる。今だけは、そうならないで欲しかった。白羽と、会
話がしたかった。
﹃⋮⋮もしもし、総ちゃん?﹄
﹁もしもし。こんばんはかな、白ねえ﹂
1121
﹃うん、こんばんは﹄
総一郎は、安堵する。少しずつ、このひとときに依存している自
分が居ることに気づいていた。
自分は、粗暴になりつつある。人を襲う事に、抵抗感はなくなっ
ていた。殺人はしない。しかし、それは相手が子供だからで、大人
であった場合に躊躇するのかは、はっきり言って疑問だった。魔獣
の類は、殺し過ぎたと言っていい。ヘル・ハウンドなど、グレゴリ
ーの群れ以外に生き残りはいないだろう。
﹃それでそれで? 他には誰と仲がいいの?﹄
﹁そうだね、チーム一の点取り屋のガヴァンとは、よく話をするよ。
彼は凄いんだ。何たって牛乳のソムリエを自称しているくらいだか
ら﹂
﹃凄いニッチな世界だね!﹄
とうとう痺れを切らした白羽に﹃総ちゃんの話が聞きたい!﹄と
せがまれ、総一郎はホームステイしていたフォーブス家の話を彼女
に教えていた。とりとめのない話だったが、それでも白羽は満足そ
うだった。
先日寂しいと言って以来、彼女には徹底して弱音を避けようとす
る節があった。
総一郎もそうだが、負けん気が強いのだ。恐らく血だろうとも思
っていた。父の血だ。生来の明るさは、母の血を継いでいるのだろ
1122
う。そういう意味でも、自分は父の血の方が強いのかもしれない。
その日は、何処か話がはずまなかった。総一郎に、特別の変化は
ない。とすれば、変化があったのは白羽の方だろう。話の合間合間
に、何かを切り出そうとして、躊躇っている節がある。それを待っ
ていると、結局怖気づいたのか他の話題に移るのだ。
しかし、完全に諦めたわけではないらしく、言葉を探しているの
も感じ取れた。そして、一つの話題が途切れた時、白羽はこんなこ
とを言った。
﹃ねぇ、⋮⋮総ちゃん。もしもの話なんだけど、いい?﹄
﹁うん、何?﹂
これか、と総一郎は思った。思いながら、周囲の雰囲気がざわめ
き始めたことに気付いた。木の上に登り、少し移動する。見つかり
にくい場所で﹃サーチ﹄を排除すれば、しばらくは見つからないは
ずだった。
﹃もしも総ちゃんの友達がいじめられていた時、総ちゃんはどうす
る?﹄
総一郎は、少しの間言葉を詰まらせた。脳裏に、ここ数カ月の記
憶が去来したからだ。やんわりと利用されていた初期。そこから一
変して、嬉々として拷問染みた︱︱いや、あれは確かな虐待だった。
今更思い出して身分が悪くなるという事もないけれど。それでも、
苛立ちがある。
﹁白ねえの友達、苛められてるの?﹂
1123
電話越しに、呼吸が止まったのが分かった。あの経験への怒りが、
総一郎の気性を激しくさせていた。しばらくして、白羽が﹃うん﹄
と躊躇いがちに言った。実際、隠す気もあまりなかったのだろう。
﹃助けたい。でも、助けたら身近な人︱︱例えばずーにぃとか、清
ちゃんとか、他にも多くの人にも危害が及ぶかもしれない。そう考
えると、どうしていいか分からなくなるの。みんな大事で、優先順
位なんてつけたくない。一人のためにみんなを犠牲にするのも、皆
のために一人を犠牲にするのも嫌。⋮⋮私が少しでもその子のため
に何かできないかって思うとね、その子、﹁白ちゃんまで嫌な目に
遭うから﹂って、泣きそうな顔で笑うんだ。その度、私は何もでき
ない自分を殺してやりたくなる︱︱そういう時、総ちゃんはどうす
る?﹄
切実な思い。しかし、総一郎はそれを一蹴してやりたくなった。
故に、総一郎はわざと高笑いを上げて、﹁随分バカなことで悩んで
るんだね﹂と言ってやる。
﹃⋮⋮何で、そう思うの﹄
感情を押し殺した声。やはり、家族だな、と思う。外柔内剛で、
傍から見れば緩いのに、根っこの奥の奥では激しい物を抱えている
のだ。
﹁だって、白ねえは僕が何を言おうとその子を助けるんでしょ? ああ、さっきの言葉は間違っていたね。その点は謝るよ。白ねえは
悩んでなんかいない。僕が下手なことはしない方がいいって言った
って、結局君はその子を助けて、他の被害が及びそうな人たちを守
る方法も確立させるんだ。白ねえは何だかんだで頭がいい事、僕は
1124
知ってるよ? 馬鹿な振りしてたってね、だって白ねえ、馬鹿って
言われたら内心すごく怒るじゃない︱︱︱ほら。今だって﹂
笑うと、彼女は唖然とした声で﹃そうなの?﹄と言った。﹁ああ、
そうだよ﹂と返してやる。
﹁だから、余計な事を考えずにいじめっ子をぶちのめしてやればい
いんだ。案外、そこで終わって、白ねえが怖がっていた事なんてひ
とっつも起こらないかもしれない。そしたら、その子に怒られるよ
? ﹃何でもっと早く助けてくれなかったの﹄ってさ﹂
﹃⋮⋮ふふっ、絶対そんなこと言う子じゃないもん。まなちゃんは﹄
﹁じゃあ、この話は終わりだね。僕これから宿題やらくちゃならな
いから、一旦切るよ﹂
﹃うん。了解しました。︱︱ありがとね、総ちゃん。総ちゃんのお
かげで、勇気が出た﹄
ばいばい、と言って、電話が切れた。総一郎は、通話が終わって
黒くなったタブレットをしばらく見つめていた。木にぶつけて壊し、
そのまま地面に降り立つ。
すると、そこにはカーシー・エァルドレッドが立っていた。すで
に、大剣を抜いている。ここに居ることは、すでに知られていたの
だ。総一郎も、彼に聞かれないギリギリを狙って会話を打ち切った。
﹁⋮⋮また、君か﹂
﹁前回は逃げられてしまったからな。今回は、小細工なしで行かせ
1125
てもらう。その方が分かりやすいだろう﹂
﹁ああ、そうだな﹂
白羽に言った言葉。それが、早くも総一郎から遠ざかろうとして
いる。まるで、自分に残る人間らしさと言うものを、言葉として放
ったかのような気分だった。あの、気高き姉と話している間に昂ぶ
っていた情熱は、タブレットを壊した瞬間から急激に冷めつつある。
血の臭いが、それを加速させているのだ。この山に満ちる、薄い、
血の臭いが。
嫌だ、と思う。思いながら、総一郎は木刀を上段に構える。何だ、
と苛立つのだ。自分のこの、好戦的な構えに。
少しずつ、変わっていく己を想う。それは白羽と話している間、
全くと言っていいほど表に出なかった。日常生活を過ごしている時
も、ことさら意識するほどではない。しかし、白羽との会話が終わ
った直後などでは、強く出る。
孤独が、焦燥が、電話回線がまるで堰であったかのように、切れ
た瞬間怒涛のごとく襲い掛かってくるのだ。
所詮総一郎の理解者は海の向こうの存在だ。自分がこのような浅
ましい恰好で居るために、肉親に姿をさらす事も出来ない。その姿
を垣間見ることすらできない。先日、白羽はそのことが辛いと言っ
て泣いた。だが、総一郎は泣くことさえできなかった。
孤独の事実が突き付けられるたび、雪山にそよぐ弱い風さえ、総
一郎の体温を奪っていく。山の中で、人間は生きられない。人間は、
社会で生きるものだ。山で生きるのは、獣である。
1126
獣にならずして、どうして生きていられようか?
﹁うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ
ああああああああ!!﹂
訳の分からぬ咆哮を上げて、総一郎は敵に挑みかかる。敵は、そ
れを正面から受けた。剣戟が起こる。勝敗は、決しない。
父が、後ろを向いて立っていた。
燃え盛る炎。父を見た、最後の情景だと気づくのにそう時間はか
からなかった。
目を覚ます。雪の上。周囲を見た。騎士候補生が数人、うなされ
ながら沈んでいる。
自分の姿を見て、総一郎は気を失う寸前のことを思い出した。今
までに戦ったこともないような強さの騎士候補生たちが、こぞって
向かってきたのだ。手練れだった。搦め手を使おうとしても遮られ、
正面から戦うしかなかった。
血。少量だが、雪を汚している。全て、自分の物だった。深手は
負っていない。負っていたら、目覚めることはなかっただろう。
改めて聖神法で傷を癒す。皮一枚。夢の中に父を見た一因には、
恐らく刃物への強い恐怖を思い出したこともあるだろう。父と初め
て真剣で向き合った時、総一郎は失禁した。根の深い記憶だ。それ
だけに、少年の力となっている。
1127
﹁相手の得物が大きく見えたのは、久しぶりだな﹂
当たるより数瞬早く、総一郎に避けさせる。父の教えは、今も息
づいていた。総一郎は立ち上がり、彼らから食料を奪って魔獣払い
をかけてからその場を立ち去る。
木に登って飛び移りながら、今までの比でなく足跡が多い事に気
付いた。その裏付けとしては、最近の騎士候補生の質が今までと段
違いになっていることが挙げられる。
今までの敵は、正面からはどうなのか知らないが、とにかく虚を
突かれることに対して弱かった。聖神法の補助が豊かで多岐にわた
るため、それが効かない相手に戸惑っていたという印象を総一郎は
持っていた。
しかし、最近の敵は違う。常に五人から十人で行動し、そこに隙
らしきものが見当たらないのだ。逆に、油断していてこちらが捕捉
されるという事も多い。
人間が変わった、と言うよりは、組み合わせが変わった、と総一
郎は感じ取った。執念で、今までに有り得なかった結びつきが生ま
れている。スコットランドクラス、アイルランドクラスが手を取り
合っているのだ。イングランドクラスがあまり見かけられないのが
不幸中の幸いだったが、それでもこれまでに比べればあまりに脅威
である。
魔法使いのようなスコットランドクラスと、純粋な剣士のような
アイルランドクラス。一長一短で、なればこそ、互いの短所が消え
ていた。ここにイングランドクラスの敵を確実に弱らせる聖神法が
1128
混ざれば、恐らく致命的なまでに追い込まれるだろう。
敵が、本気になってきた。その結果として、この状況がある。総
一郎は目を瞑り、息を吐いた。開ける。張り詰めた空気は、変わら
ない。
茂みを割って、現れたものが居た。猟犬。グレゴリーは、居ない。
何だ、と総一郎は思う。
﹁それなりに、残党が居るじゃないか﹂
ヘル・ハウンドたちは一様に唸り出す。大体、二十匹ほどだろう
か。かつてない敵の量だ。しかし、危機感は抱かない。
再びの上段。ヘル・ハウンドたちは周囲に散開し、隙を窺うよう
にうろうろと総一郎の周りを彷徨っている。
総一郎は一度鼻を鳴らし、構えを八双に変えた。顔の横で、天を
突くように真っ直ぐに木刀を立てる。そこからは、長い。しかし、
八双はその長時間に耐えるための構えだ。
張りつめた緊張。しかし、総一郎は摩耗しない。時が、少しずつ
足を速める。ヘル・ハウンドたちの動きが少しずつ加速し、ある時
を境に、止まったかのような錯覚を抱いた。
殺気の爆発に反応して、総一郎は膨れ上がる。
背後。飛び掛かる一匹のヘル・ハウンド。大きく踏み込み、一閃
した。手ごたえは、ほとんどなかった。両断したのだと、すぐに気
づいた。
1129
そこから、争闘が始まる。連続して、飛び掛かるヘル・ハウンド。
グレゴリーのように知恵を使うものは居ない。総一郎は杖を抜き、
木刀を突き出す反対側へと聖神法を飛ばす。
﹁﹃神よ、我が敵に凍えし息吹を﹄
小規模の氷弾。猟犬の目に当たり、墜落した。総一郎はヘル・ハ
ウンドたちを切り裂いて、活路を見出す。身を、投げ出した。その
まま何回転かして立ち上がる。爆発。粉雪が、総一郎の体を覆う。
反転し、雪に調子を崩された数匹の首を跳ねた。そうすると、奴
らも警戒心を強くしてくる。わざと隙を大きくして誘った。食いつ
いてくる。鼻で笑った。両断する。
火蓋が切って落とされてから勝敗が決するまで、十分も掛らなか
った。
総一郎は、不意に視線を感じた。何者かが、こちらに視線を投げ
かけている。憎悪の目。しかし、今日はどこか違うものも交じって
いる。どちらかと言うと、好ましい物を見る瞳。しかし、温かさの
ようなものはない。
﹁⋮⋮興味⋮⋮?﹂
待っていたが、しばらくすると消えてしまった。総一郎はヘル・
ハウンドの返り血を落とそうと考え、ひとまず綺麗な雪を探して歩
き始める。
1130
3話 山月記︵6︶
修羅と言う言葉を思い出し、それについて考えるようになった。
父の言葉。戒め。掛け軸のことを思い出す。﹃武士は食わねど高
楊枝﹄。それは究極の無私の言葉であり、それが我らを人たらしめ
るのだと、父は語っていた。
父の血は、修羅の血だと母は語った。その血が、総一郎に受け継
がれている。前世になかった、根の部分に潜む荒々しさのようなも
のを、最近、総一郎は自覚し始めた。自分以外の全てが敵であると
認めた時、総一郎は我を忘れて戦い出す。そうした時、どんなに追
い詰められていても、負けることはないのだ。
もちろん、言葉の綾であることは理解している。先日に思った、
獣と言う言葉と同じだ。人ならざるものであれば、結局は何でもい
いのかもしれない。
しかし獣と言うよりも、修羅であると言った方が、しっくりきた。
そのように感じた自分を知って、総一郎は呆れたものだ。
母は恐らく死に、父も行方をくらませた。白羽だけは、ある程度
分かる。しかし、どちらにせよ海の向こうだ。
一人。孤独。その所為なのか、眠り、目を覚ますたびに、思い浮
かぶ情景がある。闇。その中に佇む、色彩を持たない歪な何者か。
暗闇に呑まれるようなうすら寒さを感じる一方で、その何者かは暗
黒の中でさえ膨れ上がっていくような、生理的な恐怖を抱かせた。
1131
夢ではないのだ。夢を見た、と言う気がしない。ただ、思い浮か
ぶ。それは、過去の思い出がふいに去来する感覚に近い。
その、闇の中の何者かが、きっと修羅であるのだと総一郎は思う。
奴はずっと、総一郎に背を向けている。
五百メートル先に、二十人の騎士候補生たちが集まっていた。
総一郎はこれが今日の本隊だと定めて、木の上をまるで通り抜け
るように走り、跳んだ。聖神法のおかげと言うのもある。しかし、
この山に入ってから身に付けた体の動かし方が、ほとんどの根幹と
なっていた。
身を投げ出すような跳躍。それに次ぐ着地。木の上で繰り返され
るそれは、今ではある種の安定感を湛えて総一郎を進ませる。
一分半。大体それくらいで、総一郎はその二十人の真上に来た。
すでに﹃サーチ﹄の排除を消し、代わりに自らの音を殺している。
ここまで駆けてきた時の速度をそのままに、落下するようにして敵
の一人に絡みついた。木刀で打ち、気絶させる。
総一郎に気付き、慌てて武器を構えるのが数人。それ以外は、数
人いる﹃サーチ﹄係の声が上がらないのを理由にして、何も気づい
ていなかった。そうなれば、かつて本気になる前の、総一郎に良い
様にやられていた連中と変わらない。素早く殴打を繰り返し、全滅
させた。
1132
息を吐く。そして、緊張を緩め掛ける。寸前で、殺気に気付いた。
右。紙一重で躱し、その大剣の側面を叩く。直接受ければ木刀は折
れるだろう。だが、刃のない部分になら使える。
﹁また、君か。最近、毎日君と会っているような気がする﹂
﹁なら、そんな日がすぐにでも終わるよう努力してくれ﹂
﹁嫌だね﹂
カーシー・エァルドレッド。しつこい相手だった。総一郎は、彼
にグレゴリーと同じような評価を下している。何度も立ち会って、
しかし決着がつかないまま、互いに負けないよう立ち振る舞ってい
るのだ。強い。その上、狡猾だった。
しかし、そこに茶々を言えながら現れる者が居た。
﹁あーあー、カーシー先輩、何やってんすか。いち早く気付いて一
旦藪の中に隠れて、奇襲して倒そうってのに失敗してたら意味がな
い。詰めが甘いったらないっすね。メープルシロップより甘いです。
もっともアンタはスコーンに掛けたら不味そうっすけど﹂
﹁いちいちごちゃごちゃ言うんじゃない! 皮肉を言う暇があった
らお前も戦え!﹂
﹁⋮⋮ちょっと待ってくださいよ。今液状のカーシー先輩がかかっ
たスコーンの事想像して吐きそうなんだよ﹂
﹁ネル、お前ふざけるなよ!﹂
1133
黒い髪で、目つきの悪そうな少年だった。見た限りでは、総一郎
と同い年かもしれない。この歳でここに来るほど強いのか、と思う
と警戒心が強まったが、あまりに空気の読まない言葉に総一郎も気
が抜けてしまう。
﹁⋮⋮君は、一体何だ?﹂
﹁ん? まぁ別にいいだろ。そういやちょっと前にヘル・ハウンド
を一斉に相手してるのを見たぜ。あれは笑い声を抑えるのが大変だ
った﹂
﹁⋮⋮﹂
顔に呆れが出てきてしまう総一郎。少々、脱力させられてしまう。
﹁だからよ﹂と彼は続けた。その時、その少年がどれほどの闘気を
隠していたのかを知った。
﹁オレと、いっぺん遣り合ってくれよ﹂
跳躍。旋回。空中から、蛇のようにうねって大剣が襲い来た。カ
ーシー・エァルドレッドのそれよりも少し大きめの剣。それを、い
とも簡単に使っている。
総一郎はそんな不可解な動きに、懐に入ることが出来なかった。
間合いを取る。隙を探すが、どうもおかしい。隙だらけのように見
えてしまうのだ。父を、彷彿とさせた。父もまた、隙しかないよう
に見えた。
﹁⋮⋮君は一体﹂
1134
﹁ナイオネル・ベネディクト・ハワード。オレの名前だ。それ以外
は、今は要らない﹂
再び、向かってくる。聖神法を発動させて、今度は剛直な剣をふ
るった。避けやすく、考える間もなく避けてしまう。それが誘いだ
と気づいたのは、飛び退いた後だ。
大剣は雪を叩き、大きく粉雪が爆散した。しかし、総一郎の目は
母譲りのものだ。目晦ましは効かない。そうであるはずだからこそ、
総一郎は酷く狼狽した。
視界が、白い雪に覆われている。
サッと血の気が引いて、いっそ逃げ出すように後退した。そこに、
追い打ちが来る。杖で応戦するが、弱い。傷を負い、景色がまたた
いた。この山の中で受けた最も深い傷が、連続で総一郎に刻み込ま
れる。
だが、それでも逃げ延びた。背中に、三つか四つの抉られた跡が
できている。指で触れて、知った。息を荒くする。
背後を見ると、血の跡ができていた。これでは、追われるだろう。
してやられた、と思う。目晦ましのハワードと、追撃のエァルドレ
ッド。傷は深いが、命には届くまい。少なくとも、骨は切られてい
なかった。ただ、この傷は痛いというよりも熱い。
祝詞を唱え、傷をいやす。総一郎の聖気量では、気休めにしかな
らなかった。しかし、血は止まる。傷自体は、露出していた。
1135
木の上を見上げる。いち早く、この場から逃げなければならない。
追手は、今も迫っているだろう。木の向こうの空は、すでに夕闇に
包まれていた。奴らはあれでも学徒であるため、大抵、夕方から狩
りを始めるのだ。
食料は、ほとんどない。先ほど強襲した時の戦利品を、何一つ手
に入れられなかったからだ。くそ、と毒づく。食料不足は、少しで
も人間を困窮させるものなのだ。
今日は、騎士候補生を狙わない方が無難だった。となれば、オー
クなどを狩るしかない。総一郎は、周囲を見渡してこの場所がどこ
であるのかを探る。恐らくだが、第六エリアの頂上付近だ。オーク
の肉を得るには、フェンスを越えねばならない。
渋面になりながら、総一郎は木に登って走り始めた。だが、フェ
ンスの眼前にたどり着いて、立ち止まる。
百人近い騎士候補生が、その場で団体を作っていた。
総一郎はそれに、流石に背筋に寒気が下りた。かつてないほどに
負傷している今、本気で決着を付けに来ている。反転し、﹃サーチ﹄
で気づかれないうちに逃げ出した。だが、背後で声が上がる。
総一郎は、聖神法をふんだんに使って駆け続けた。背中の傷が痛
み始めるが、気にはならない。それどころではなかった。生き死に
がかかっているのだ。
追ってきたのが何人なのかはわからなかったが、とにかく魔獣の
群れの住処を多く経由した。少しでも、人数を減らさなければなら
なかった。いつもなら絶対に通らない、群生スライムの住処の上に
1136
も行った。そこで、追手の規模、そしてそこで脱落した大まかな人
数が知れた。
あそこに集まっていた騎士候補生の、八割近くが総一郎を追って
きていたらしかった。しかし、群生スライムに呑まれて、ほとんど
が行動不能になっている。群生スライムとはすなわち、視認が難し
いほどの透明度を誇る、第六エリアの十分の一の全てを覆う粘性魔
獣である。
致死性はない。そのことは、総一郎自身が身をもって知っていた。
だが、害がないとはとても言えない。様々な理由があったが、スナ
ークに続く総一郎の苦手魔獣の一つだった。
﹁⋮⋮それでも、全員じゃないな﹂
少ないが、それでも危機を察して木に登るなどで身の安全を確保
した輩がいる。奴らは、恐らく木の上でも総一郎と互角に遣り合う
奴らだろう。総一郎は、更に逃げていく。息切れは、少し治まった。
そのまま、走る。
グレゴリーの群れの元に向かう可能性は、総一郎の中では排除さ
れていた。
一族を必死に守ろうとする彼に対する、冒涜だったからだ。
しばらく走り、グレゴリーではないヘル・ハウンドの群れにぶつ
けて、数人削った。この辺りで限界だろう。と総一郎は立ち止まり、
雪の中に降り立った。
囲まれたのは、その数十秒後の事だ。
1137
総一郎を包み込み、圧殺するように奴らは集まっていた。構える
者も、構えない者も、総じて視線が鋭い。今までの罠を、全て越え
てきた者達だ。弱い者などいないだろう。
ごくたまに、隙を作って逃げるしかない相手と遭遇する。そんな
輩が、一堂に会している。
無表情で、総一郎は周囲を見回した。彼らは円を描いて総一郎を
囲っている。あまりにも過剰な包囲網だ。木の上にまで視線が感じ
られるのだから恐れ入る。どうやら、木の上は総一郎だけの領域で
はなかったらしい。
減らせるだけは減らした。残りの全てを撒くことは至難の業だ。
それならば、撃退する方がまだいい。総一郎は木刀を構える。八双
であった。誰に向かう訳でもない。息を吸い、吐いた。
総一郎は、それきり動かなくなった。
刀を顔の横に立て、微動だにしない。最初は、そのまま時間が過
ぎた。しかし、焦れる者が出た。
二人の騎士候補生が駆け出し、同時に聖神法を叩き付けてきた。
﹁待て、早まるな!﹂
制止の声が飛んだ。遅い、と総一郎は思う。焦れた者に、勝機は
ないのだ。
一太刀。籠手を打ち、手首を砕いた。そのまま彼の手首を掴んで、
1138
もう一人の前に引っ張る。相手の逡巡。鳩尾を突き、崩した。
それ切っ掛けに、ほぼ全員が総一郎に襲い来た。全員が聖神法を
複数纏っている。総一郎は目を閉じ、開いた。飛び上がる。一人、
叩き潰す。
争闘は、気付けば乱戦の様を呈していた。十人。総一郎が倒した
相手の数である。全員、手首や脛を砕かれて痛みにうずくまってい
た。聖神法でそれらの怪我を直そうとする輩を狙うと、効率がいい。
その上、回復は無駄な行動だ。数人総一郎が見落とした騎士候補生
が居たが、総じてその場から逃げ出してしまっている。
怪我は、まだない。だが、それで有利になったとも言えなかった。
総一郎は、今まで倒した中に自分よりも強い相手は居なかったと
断じた。聖神法の扱いが上手い者は多かったが、その所為で楽をし
てきたのだろう。勝負勘と言う物を身に付けて居ない者が大多数を
占めていた。
息を吐く。切れてはいないが、荒い。呼吸を落ちつけようとした
時に、一人が駆けてきた。聖神法は使っていない。それ故ひどく遅
く見えたが、間合いに入られた瞬間に総一郎は目を剥いた。
跳ぶ。ただし、後ろにである。眼前に剣閃が走った。両手剣だが、
大剣と呼べるほど大きくは無い。両刃ながら、日本刀に似ていた。
盾も持たないのに、隙がない。
総一郎は、八双に構えなおす。相手も、構えた。そこには、独特
な、手の見えない何かがある。隙が目に見えて大きくなった。誘わ
れている。飛び込めば、斬られるだろう。
1139
強い。そう思ったところに、背後から強い殺気が来た。振り返る。
刹那、衝撃に吹っ飛ぶ。
受け身すら取れず、総一郎は積雪の上に転がって立ち上がると、
抜き打ちが襲い来た。躱す。浅いが、それで体の芯を抜かれた気分
になった。
﹁⋮⋮毒か﹂
その相手の足を打ち、転ばせた後踏みつけで気絶させた。毒。解
毒の聖神法は知っていたが、全てに効くような便利なものではない。
まだ大丈夫だとして体勢を整えた。三半規管が危ういが、今しばら
くは立っていられる。
十五人。荒い息のまま、数えた。誰も彼も、総一郎より強い。死
ぬのか、と自問した。目を瞑り、考える。現状は絶望的だ。しかし
不思議に、死は遠い。躰はすぐにでも崩れそうなのに、何故か負け
るとは思えない。
この四面楚歌を、いつか見たことがあると感じた。思い当たるの
は、総一郎が虐められ始めた頃の事である。ヒューゴが総一郎を罵
り、まだ身の程をわきまえ切れていなかった総一郎が反駁した。結
果は、今更言うまでも無かろう。その記憶が、被ったのだ。一対多
はいつもの事だが、敵が圧倒的なのはその二回だけである。
総一郎の顔が、歪んだ。その表情が奇妙だったのだろう。近くの
騎士候補生たちが、怪訝な顔つきになった。どんな感情がそこに現
れたのか、少年には知る術がない。ただ、もう手遅れなのだと思っ
た。この孤独は、癒せない。
1140
白羽の事を思い出す。脳裏に浮かぶのは、ただその愛しき声のみ。
総一郎は結局、姿を晒すことが出来なかった。その浅ましき風貌を
彼女に見せて、拒絶か否かを問うことなどとてもできなかった。
﹁⋮⋮白ねえ、勝手な事言わないでよ。君よりもずっと、僕の方が
白ねえの顔を見たかったんだから﹂
胸が締め付けられるような苦しい思いを、総一郎は殺した。涙ぐ
む声は、血と、殺意の渦にのみこまれて消えていく。総一郎は、奈
落の底に落とされるような気持になった。そして、憎悪した。歯を
食い縛り、木刀を握り締める。
震脚。騎士候補生たちは、一斉に色めきだった。一様に怒りと、
そして同量の怯えを秘めていて、それが総一郎を駆り立てた。底冷
えするような、恐怖である。悲壮なる諦観でもあった。
今宵、総一郎は修羅に成り果てるのだろう。
駆けた。敵の得物が、まるで雨のように降り注いだ。血。咆哮。
総一郎は木刀を振るう。奴らの四肢をへし折った。肉が削げる。だ
が、骨までは折られない。慟哭。自分の中で、小さき何かが抵抗を
するように身を硬くしている。
いつしか、視界は暗転していた。そして、闇に浮き上がる者があ
った。それは自分だった。違う。もっと言えば、騎士学園に入学す
る以前の総一郎だ。懸命に木刀を振っている。目が、合った。
対峙した。木刀の握り方は、彼の方がずっときれいだ。今の総一
郎には、突き詰めたたった一つの物しかない。対して彼は、今の総
1141
一郎が失った全てを保ち続けている。総一郎は、涙を流した。彼は
間合いを詰め、一太刀を食らわせようとする。鋭い。涙が止まらな
くなる程、鋭い太刀筋。
総一郎は、彼の頭蓋を打った。
手応えがあった。殺したとさえ思った。それから、我に返った。
騎士候補生たちは、等しく地に伏せていた。過呼吸気味の荒い息で、
涙を拭う。しかし元より涙などなかったようで、乾いた血の感触だ
けが手に伝わった。
夜の空は、曇っていた。その所為で、余計に暗い。雪の白ささえ
霞んで消えてしまうほどだ。総一郎は歩く。今日の寝床を探さねば
ならない。聖神法で魔獣払いだけ済ませておき、歩み続けた。
その途中で、二人の騎士候補生と出くわした。光で照らされ、し
かし天使の目を持つ総一郎は眩しいとも思わない。
﹁⋮⋮二回目、だな。今日会うのは﹂
荒い息は、収まらなかった。言葉をかけるのすら、億劫なほどだ。
﹁いいや、一度目だ。日付は既に変わっている﹂
﹁もう、そんな時間か﹂
﹁おい、ブシガイト。カーシー先輩が呼んだ応援はどうなった? 何で生きてんだ﹂
﹁全員、倒した。一人も死んでいないはずだ。魔獣払いも済ませた。
1142
だが、その所為で怪我を治すだけの聖気が残っていない﹂
﹁⋮⋮はっ。こりゃあ随分なバカ野郎だな。ただでさえ弱っている
のが丸分かりだってのに、自分から弱みを晒しやがった﹂
﹁ネル。⋮⋮油断はするな。オーガと戦っているつもりで行け﹂
﹁オレ、オーガと戦ったことないんですけど﹂
軽口をたたきながら、二人は襲い来た。総一郎には、それを防ぐ
だけの余裕もない。転がるようにして、一度目は避けた。逃げなけ
れば、と忙しない呼吸を噛み殺しながら、木刀を構える。そして、
跳びかかった。ただし、彼等にではない。
﹁あっ、待て!﹂
年若い方の少年の声が、総一郎を呼んだ。その時には、すでに総
一郎は山を転がりおりている。幸い、地面は雪が覆っていて、それ
が緩衝剤になり死ぬという事は無さそうだった。
転がり切って、平地に出た。広場のように、その空間だけは木が
生えていない。そこで、荒い息を落ち着けた。平時の様にはついぞ
戻らなかったものの、苦しいほどではなくなった。
ある程度余力が戻って、力ない足取りで歩く。解毒程度の聖気は
残っていたから、そうした。すぐに毒は薄れたようだった。総一郎
も、洞穴の様な寝床が無くては寝られない。山の事は知り尽くして
いる。数十分歩けば、辿りつけるはずだ。
しかし背後に聞こえた足音が、総一郎を引き留めた。
1143
人間の物ではない。亜人にしても、ここまで大きな足音となると
総一郎も聞いたことが無かった。熊か何かだろうと踏んで、総一郎
は踵を返す。
正面には、途轍もない巨躯の魔獣が立っていた。肌は黒く、禍々
しい。手には形容しがたい鈍器のような物を握っており、その躰は
筋骨隆々な人間にも似ていた。
奴は、手にする武器を頭上にあげた。あまりにも緩慢な所作で、
総一郎はそれが攻撃の予備動作だと気付けなかった。慌てて避ける
と、地震かと疑うほどの揺れが総一郎の体勢を崩した。打撃が外れ
た事に、奴は怒りの咆哮を上げる。
総一郎は、それがオーガであると直感した。
木刀を、構える。その時、握る手が震えている事に気付いた。総
一郎は、怯えていた。真の死が、目の前にそびえ立っていた。
けれどその反面で、これなのだ、とも思っていた。
血まみれのまま、貪欲な眼で、総一郎は木刀を上段に構える。月
明かりが、二匹の化け物を照らしている。
1144
3話 山月記︵7︶
﹁総ちゃん! あーさーだーよーっ!﹂
揺らされる感覚。微かに目を開くと、朝焼けが滲んだ。胡乱な心
地で目を開くと、視界に真っ直ぐ飛び込んでくる人物がいる。真っ
黒で、長い髪の持ち主だ。
﹁ほら、早く起きて! 朝ごはん覚めちゃうよ﹂
彼女は立ち上がり、障子を閉めて部屋から去っていった。総一郎
は、奇妙に思って周囲を嗅いだ。色濃い、緑の匂い。
明かりがさしこむ先には、彼から近いところから畳、縁側、そし
て開いた障子の先に広がる緑豊かな庭があった。夏の匂いだ、と総
一郎は気付いた。しかし、その中でも一等珍妙なものがあった。膝
立ちで覗き込み、正体を知る。
︱︱図書が製作し、総一郎が破壊した土像だ。
総一郎は、それを見てぽかんと口を開けた。おかしいと思う。だ
が、何がおかしいのかを考えて、おや? となってしまった。
﹁⋮⋮朝ごはん食べよ﹂
とりあえず立ち上がり、居間に向かう。木の床。裸足で歩くと、
ぺたぺたする感じがあった。掃除したばかりだと、そうなる。しば
らくすると薄く埃が積もって、歩くのに違和感を覚えなくなるのだ。
1145
居間には、二人の女性が居た。一人は台所に立っていて、僅かに
自分の背が高い。真っ白な肌と髪。そしてもう一人。見ているだけ
で愛おしさを感じる、黒髪の少女。机に座っていて、総一郎よりも
背が低かった。
﹁あ、おはよう総一郎。昨日はよく眠れた? 暑かったから寝苦し
くなかったかと思って﹂
﹁私は暑かった。そりゃもう、溶けるかと思うくらい﹂
﹁白羽ー。貴方はいつから雪女になったのー?﹂
﹁雪女って、何で名前に雪を入れたがるの? その所為で私のクラ
スのうち、三人も雪の字が入ってるんだよ?﹂
﹁何ちゃんって名前?﹂
﹁雪音ちゃんが一人。雪子ちゃんが二人﹂
﹁あら、被っちゃった﹂
﹁⋮⋮朝から二人とも元気だね﹂
﹁総ちゃん何、もしかして風邪ひいたの?﹂
﹁ひいてないけど⋮⋮﹂
自分は、混乱しているのだろう。と総一郎は自覚している。けれ
ど、その原因が分からない。ふと気付いて、尋ねる。
1146
﹁⋮⋮ねぇ、何で髪の毛が黒いの?﹂
﹁え? ⋮⋮もしかして総ちゃん、私が寝てる間に染めた?﹂
﹁いや、だってあれ以来、君の髪の毛は白く染まって﹂
﹁﹃あれ﹄って、何?﹂
﹁そりゃあ⋮⋮﹂
そこまで言って、口を噤んでしまった。思い出せない。顎に手を
当てると、小ばかにしたように真似してくる彼女。
﹁総一郎、朝の挨拶を聞いてないけどー?﹂
髪の白い女性からの催促で、総一郎は我に返った。﹁うん﹂と頷
いてから、何故だか妙に必要に感じた度胸を蓄えるべく、深く息を
吸った。吐きだし、言う。
﹁おはよう。白ねえ、母さん﹂
おはよう、とどちらも改めて、微笑みと共に返してくる。
﹁え、父さん今居ないの?﹂
﹁うん。ちょっと野暮用だとか言って、数日開けるんだって﹂
1147
学校と急かされて、総一郎は制服に着替えた。制服。つまりは中
学校である。違和感を覚えたが、着替えている内に消えてしまった。
白羽と共に玄関を出て、すぐに隣家に向かった。躊躇わず彼女は
チャイムを鳴らす。鳴らすと言っても呼び鈴で無く、門のカメラに
近づきそのまま声に出して呼ぶのである。小さく緑色の光が付き、
声紋認証だろうかと見当を付ける。
﹃しばし待ってほしい。ほら、琉歌! 総一郎君と白羽ちゃんが迎
えに来てくれてるぞ!早く着替えなさい!﹄
﹃今やってるから五月蝿くしな、うわっ、あわわ!﹄
深い渋みのある声と、この世の物とは思えない程の美しい声。そ
れが随分と軽快に発せられるものだから、総一郎は思わず笑ってし
まった。白羽も、喜色のある声色で﹁早くしないと置いてっちゃう
よ∼﹂と焦らせている。
それから数分も経たない内に、垂れ眉が特徴的な少女が飛び出て
きた。存外に大きく、総一郎と同じほどだろうか。しかしこれ以上
伸びるという気もしない。早熟という言葉を思わせる身長である。
﹁おまっ、お待たせ!﹂
﹁遅いよ、琉歌。あと二秒遅かったらおいて行こうかと思ってた﹂
﹁ぎりぎりセーフだね、良かったぁ⋮⋮﹂
白羽の茶々にそう返すのは、気弱な雰囲気を漂わせる割にはポジ
ティブな考え方を持った少女だった。髪は肩の所で切り揃えていて、
1148
綺麗な亜麻色をしている。⋮⋮が、慌てて支度したせいなのか、服
装に幾つか乱れている所があった。
﹁髪の毛がちょっと跳ねてるのと、襟が一部裏返し。あと、一番致
命的なのがボタンの付け間違えだね。下着が若干覗いてる﹂
﹁えっ、あっ!﹂
男である総一郎に指摘されたものだから、顔を真っ赤にして直し
始めた。何だか微笑ましい気持ちで眺めていると、白羽にわき腹を
強く抓られる。
﹁痛っ、痛たたた。ちょっ、何するの白ねえ。痛いから止め、痛い
っ!! 何!?﹂
﹁年頃の乙女の素肌をにやにやして見てるから! 総ちゃんのエッ
チ! ⋮⋮うん。私今日もお姉さんっぽい﹂
﹁キャラ作りで僕つねられたの⋮⋮?﹂
﹁ちなみにキャラを作らなかったら普通にガゴッってやってるから、
まぁ、ラッキーだったね!﹂
﹁えー⋮⋮感謝したくない⋮⋮﹂
思わず総一郎は、緊張感のない声を漏らしてしまった。彼をおい
ていくような素振りで歩きはじめる白羽に、少しの早足で着いてい
く。
しかし、指摘された部分全てを直した琉歌が、おずおずと上目遣
1149
いで言った。
﹁あ、あの⋮⋮。別に、総くんなら、見ても構わないというか⋮⋮﹂
一瞬目を点にする姉弟。琉歌に背を向けて、こそこそと囁き合う。
﹁やっぱりるーちゃんって狙ってるよね﹂
﹁うん。何かこう、総ちゃんを悩殺! ⋮⋮みたいな﹂
﹁違う! 違うから! 幼馴染だし、ずっと一緒に居るから、今更
気にしないっていう意味で!﹂
﹁あざとい﹂
﹁あざとくないっ!﹂
白羽の真顔の批評に、怒髪天の琉歌。それを見守る総一郎の眼差
しは、気付けば酷く柔らかいものになっていた。それに気付いた琉
歌が、﹁アレ?﹂という。
﹁総くん、何かいい事でもあった?﹂
﹁え⋮⋮何で﹂
﹁何か、幸せの絶頂みたいな顔してたんだもん﹂
言われて、自分の顔に触れた。確かに、緩んでいる。
﹁⋮⋮何でだろ﹂
1150
﹁総ちゃんっていつも幸せそうな顔してるから﹂
ね、と下から白羽は顔を覗きこんでくる。それが可愛らしくて、
相槌を打ちながら頭を撫でた。大人しく撫でさせてくれる。それが
とても嬉しい。
学校に着いた。
途中で、白羽と別れた。琉歌とも、クラスが別だった。図書も学
校の新任として偶に授業を受け持ってくれるが、用がない限りは会
おうとも思わない。適当にクラスの友人に挨拶を交わして、自分の
席に座る。
そして、とりとめのない事をつらつらと考え始めた。違和感と疼
痛が、思考の中で浮き出て、交わり、総一郎に近づいて、消えた。
頭に軽い痛み。気付けば俯いていた顔を上げる。目に入るは赤々と
した教室。そして顔のサイドに般若の面を付けた青年。
﹁おう、起きたか寝坊助﹂
﹁⋮⋮図書にぃより、るーちゃんとか白ねえに起こされたかった﹂
﹁黙れマセガキ。多分あいつらも、部活終わってこっち向かってる
ところじゃないか?﹂
言われて、見回した。教室は人気もなく、夜へとひた走る前兆を
見せている。総一郎は剣道部が無かったため、部活には入っていな
かった。
1151
﹁図書にぃの受け持ってる部活って何だっけ﹂
﹁料理部﹂
﹁うわ、似合わな過ぎてちょっと格好いい﹂
﹁褒められちまったよ畜生が﹂
相変わらず般若の面を顔の横に付けて、図書は苦笑した。彼の仮
面は、生まれ持ったものだ。着け外しは任意だが、躰から取り離す
ことは出来ない。ちなみに被ると身体能力が高まるらしい。
﹁よっ、仮面ライダー般若!﹂
﹁ざけろ﹂
最近彼の取り乱すところが見れず、少々さびしい総一郎だ。
﹁総ちゃーん。起きてますかー、って、ああ! ずーにぃに抜かさ
れた!﹂
﹁またレパートリーが増えたよこのメス餓鬼が⋮⋮﹂
渋くため息を吐く図書に、白羽は気にも留めず総一郎の元へ駆け
寄った。琉歌も全員揃っているのに笑顔を灯し、﹁じゃあ餓鬼ども
はさっさと帰った﹂とぞんざいに兄貴分は、追い払うような手の振
り方をした。
﹁図書にぃは帰らないの?﹂
1152
﹁仕事がまだ残ってんだよ。ま、一時間くらいで帰れるんじゃない
か﹂
総一郎に図書はそう答えて、教室を出ていこうとした。途中で立
ち止まる。その止まり方が不自然で、﹁お兄ちゃんどうしたの?﹂
と琉歌が尋ねた。
だが、図書は何も答えなかった。首を捻る彼らの視界に、図書の
頭上で瞬いた茶色の残像が焼き付いた。どう、と図書は倒れ伏す。
頭頂部の頭蓋骨が、陥没していた。
﹁えっ、お兄ちゃん?﹂
きょとんとしながら図書に駆け寄った琉歌にまでも、﹃それ﹄は
刃を振るった。一撃目に喉を突かれ、兄と同じように頭蓋を打たれ
て倒れ伏す。
﹃それ﹄は、影だった。
荒々しい呼吸。下半身までが知覚できたが、上半身は真っ黒で分
からなかった。長い木刀を手にしている。唯一窺える下半身の服装
も、薄汚い。
﹁えっ、何? どういう事?﹂
白羽が、困惑に声を漏らした。総一郎は棒状の物を探す。掃除用
の箒などが良いのではないか。﹁白ねえ、翼﹂といえば、我に返っ
た彼女も純白の羽を広げて臨戦態勢に入る。
﹃⋮⋮﹄
1153
奴は、無言だった。何も言わず、佇み、次の瞬間には白羽を肉薄
にしていた。白羽の反撃は間に合わず、彼女もまた、地に伏してし
まう。見れば奴は、顔のみを残して判別できるようになっていた。
つまり、肝心の顔だけが分からない。
﹁君は、一体何だ! 何故こんな事をする!﹂
彼らが死んだ、とは到底思えなかった。信じられなかった、の方
が正しいのか。だから、ある程度の平静さを保てた。奴はいつの間
にか手にしていた二つ目の木刀を、総一郎に投げ渡してくる。受け
取り、しばし迷って、結局構えた。
対峙。その時、初めて敵の凄味を知った。獣のような、荒々しさ
がある。だが、本質は違った。獣どころではない。
すぐに、膠着が崩れた。総一郎は振りかぶり、その頭を打とうと
した。敵はそれを、手首を柔らかくして、自分の木刀で総一郎の得
物を受け流すようにして、懐へ飛び込んできた。頭を打たれる。椅
子を巻き込みながら、総一郎は地面に倒れ込んだ。
顔のない﹃奴﹄は、総一郎に近づいてきた。馬乗りになり、首を
絞める。そして、信じられないような力で総一郎の腕を引き抜いた。
絶句。次に、絶叫。
︱︱何なのだ。何が目的でこんな事をするんだ。
このような趣旨の言葉を、半狂乱で叩き付けた。失いゆく多くの
血の匂いにむせ返って、その半分以上は人間の言語の体を為してい
なかったように思われる。奴はただ無関心にそれを聞き流し、有る
1154
のか無いのかも分からないような口で、千切った腕を咀嚼し始めた。
遅い所作ながら、数秒も経たずに奴は腕を完食した。その顔には、
いつしか首がある。反対の腕を千切られた。激痛に身もだえして、
奴の様子を確認するだけの余裕を取り戻した頃にはそれも食べ終わ
ったらしく、見れば奴の顔に顎が出来ていた。
﹁君は⋮⋮。君は、一体何なんだ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮﹂
奴は、答えない。両足を千切られ、総一郎は叫ぶ。そして、気付
けば足は喰われ、奴の口が現れているのだ。
﹁口があるなら、答えられるだろう!? 何で君は﹂
﹁⋮⋮僕も、君の様になりたかった﹂
﹁⋮⋮は?﹂
腹に、木刀が突きたてられた。何度も何度も繰り返され、最後に
は地面にまで貫通した。母の血が原因だろう。奴はそこから内臓を
引き吊りだし、貪っていく。
苦い。そう思った。だというのに奴は喰い続ける。そこで気付い
た。視界に、二つの情景が映っている。一つは、今まで通りの、﹃
奴﹄を見上げる視点。もう一つは、ダルマ同然となった自分を、見
下ろす視点だ。
手を伸ばし、自分を食らうたびに、総一郎は記憶を取り戻してい
1155
った。胴を食い、頭を食った。涙はとうに枯れている。苦い、苦い
と思いながら、食べ続けた。血濡れの床には、もうほとんど残され
ていない。いまだ脈打つ心臓だけが、薄い血の池に波紋を放ってい
る。
心臓に、手を伸ばす。最後だと思い、躊躇う。背後から、声が掛
かった。はっとなって振り返った。
我に返る。オーガの棍棒がぶち当たる。錐もみしながら飛んで行
く。死と、対峙する。
﹁がっ、ぁっ、ごほっ、ごぼっ﹂
総一郎は、崖にぶつかって潰れていた。肋骨が折れ、肺に刺さっ
たのだろうか。咳が止まらず、ついには血を吐いた。寒い、と思う。
雪の寒さは当然あった。だがそうではなく、芯からくる寒さだった。
足音。オーガ特有の、地響きをさせるそれだ。立ち上がろうとす
る。しかし、出来なかった。手も足も、へし折れている。木を文字
通りどけながら、オーガはその姿を現した。
奴も、酷く荒い呼吸をしていた。見れば、いくつもの切り傷があ
った。自分がやったのか、と考える。先ほどまでのアレは、夢のよ
うな物だったのだろう。過呼吸を起こしていて、それ以上は苦しく
て考えられない。
これでは嬲殺しにされる、と焦りが湧いた。けれど、不思議な事
に奴は総一郎に一定の距離以上近づきたがらなかった。オーガは、
1156
近くに生えていた大木に抱きついた。その圧倒的な膂力を以て、引
き抜く。
その大木を持ち上げるオーガの姿は、まるで自分の何倍もの重さ
の物体を持ち上げる蟻に似ていた。
震えている。そんな風に、総一郎は見て取った。文字通り自重の
何倍もの重さの物体だ。オーガの、だいたい五倍以上の長さがある。
それを、総一郎に投げつける気なのだろう。潰される。そう思うと、
恐ろしくなった。
再び、血を吐いた。咳が先ほどから止まらない。吐き気さえあっ
た。昨日の昼から、何も食べていなかったから、特に何が出るとい
う事もない。空腹が足された苦しさに、雪を握りしめた。
冷たい。死ねば、もっと冷たい。
オーガが、投げる気配を見せる。咄嗟の行動だった。
﹁﹃神よっ、万物の縛りが、彼の者により多く与えられんことを﹄﹂
水分不足にかすれた声を捻りだし、杖を振った。なけなしの聖神
法が放たれ、木に宿る。オーガの震えが大きくなった。木の重さに
一秒耐えきって、直後奴は押しつぶされた。
オーガの死でさえこんなにも呆気ないものなのかと思うと、何故
だか酷い孤独を感じた。
﹁⋮⋮咄嗟の場面で魔法じゃなく聖神法が出る辺り、僕もすっかり
騎士候補生なんだな﹂
1157
虚しくつぶやきながら、木に押しつぶされたオーガに這い寄った。
血が、トクトクと流れている。それに、総一郎は口を付けた。いつ
もは、雪解け水を飲む。だが今、ここ一帯の雪には全て、聖神法に
よって毒が混ぜられていた。おぼろげな記憶がある。盗み聞いて知
った事だろう。
鉄臭い。オーガの血も、人間とさして変わる所は無かった。人間
の姿でないから、辛うじて飲めるという程度だ。喉を潤わせて、近
くに飛び散った肉片を拾い、食らった。不味い。しかし、食えない
程ではない。
ふと、思う。肉の食える魔獣は、大抵他の生物の肉を食わない。
オークなどがそうで、奴らが人間を襲うのは、悪戯目的や自衛に過
ぎなかった。逆に、肉を食う魔獣は不味い。ゴブリンなどがその筆
頭だ。
対して、オーガは人肉を食らうという。その割には、ゴブリンよ
りはマシだった。何故だろうと疑問を抱く。少し回復した聖気を遣
って、傷を少しずつ治していく。
肉を食い、血を呑み、少し寝る。それを繰り返していたら、いつ
の間にか夜が明けていた。
朝焼け。夢の中のそれと全く同じに、滲むような光だった。芯か
ら来る寒さも消えない。過呼吸も治らない。だが、動くことが出来
る程度には回復した。
立ち上がり、周囲を見回す。静か過ぎる。胸を押さえて呼吸を落
ち着かせようとしながら、そのように思った。オーガの肉を、もう
1158
ひと塊掴んでかぶりつく。不味いが、何処か血の滾るような気持ち
にさせられる。
歩いた。唐突に、総一郎を待ち構えていたような雰囲気を持った
三匹のオーガに遭遇した。総一郎は、静かに正眼に構える。
オーガ達は、最初の一匹のような不遜な態度を見せず、強い警戒
を露わにして総一郎の周囲を囲い始めた。相打ちが望めない、やり
にくい状態だ。気付けば手が震えていたが、それは怯えではない。
﹁︱︱来い。一匹残らず、殺してやる﹂
言葉に込められる、積極的な殺意。今までの総一郎には、有り得
なかった一言。
オーガの鈍器。それが、三方向から同時にやってきた。一匹ずつ
殺す。そう決めて飛び出し、オーガの一匹の足を両断した。敵を斬
る度に、この木刀は退魔の力を増しているように思われる。数日前
には、両断など出来なかっただろう。
足元を崩されたオーガは倒れ、しかし追撃をする前に、総一郎は
体を鷲掴みにされた。このままでは握り潰される。手に木刀を突き
刺すと嫌がったように振り回され、地面に叩き付けられた。
追撃を、瀕死の体で避ける。聖神法で塞いだ傷も再び開いたよう
だ。力というのは、これほどまでに強力な物なのかと歯ぎしりをす
る。蹴りが、這いつくばる総一郎を打ち上げた。間髪入れず聖神法
を唱えたが、防御が叶った代わりに杖の折れる手ごたえがあった。
木々の間を縫うようにして、総一郎は飛んで行く。そして着地地
1159
点にヘル・ハウンドがいる事に気付いて、ぎりぎりの所で木刀を突
きだした。爆発は避けられたが、ダメージがひどい。伏して、しば
らく立ち上がれそうになかった。
﹁⋮⋮!﹂
人の息遣い。恐らく、騎士候補生の物だろう。昨日の山狩りの、
追加メンバーか。どうでもいい、とだけ思った。どうせ、放ってお
けばオーガの餌食だ。それまでの時間稼ぎにはなるだろう。それま
で、少し休みたかった。
雪の冷たさ。体の、奥深くにまで入り込んでくる。止める術は総
一郎には無かった。ただ、微睡のように凍えていく。
1160
4話 胡蝶の夢︵1︶
血と、争闘。延々と、殺し合う。終わらない回廊。この先にある
ものは、きっと奈落なのだろう。
﹁誰か、鎮静剤! 早く! このままじゃ、拘束具に絡まって窒息
死するぞ!﹂
鬼、獣、それらを含む、化け物ども。それらに交じり合い殺戮を
行う自分が、一体何を根拠に化け物でないと言えるだろうか。
﹁頼むから、落ち着いてくれ! 私たちに君を傷つける意思はない
んだ! 頼む、頼むから!﹂
遠くでは、悲痛そうな表情で自分を見つめる人間が居る。白羽、
父、母、図書、琉歌、その両親、フォーブス家の人々も。だが、そ
の中で一人、強い意志を持って総一郎を睨む視線があった。
﹁君、待ちなさい! 君も治療を受けるんだ!﹂
﹁そんな事は分かってます! でも、ソウイチロウが、ソウイチロ
ウが!﹂
1161
総一郎は、化け物どもを殺しながらその少年の姿を見つめた。少
しだけ、思い出すのに時間が必要だった。そして、ハッとする。総
一郎は、その名を呼んだ。
﹁ファーガス⋮⋮﹂
﹁動きが治まったぞ! 今の内に鎮静剤!﹂
﹁はい!﹂
不意に、化け物どもが姿を消していく。総一郎は、足を止めた。
その先には、幼き日の︱︱それこそ、剣すら握ったこともなかった
時の自分が立っている。そして彼は、首を傾げて、無邪気そうな顔
で聞くのだ。
﹃ねぇ、君は、一体誰?﹄
総一郎は、微笑んで返した。
﹁修羅さ﹂
目覚めた。次いで、総一郎は異常を察知した。ベッドの存在。人
工物。捕えられた。とすれば、待っているのは死だ。ぞくりと体を
震わせる。逃げ出さなければ、そう考えた総一郎を止めたのは、頑
強な鎖だった。
1162
﹁クソッ﹂
もがく。だが、何ともならない。そうして暴れていると、あまり
に唐突な睡魔が来た。瞼が重くなる。思考が回らない。そしてまた、
眠りにつく。
目覚めた。総一郎はベッド、そして手錠の存在に驚き、その次に
前に一度覚醒していたことを思い出した。次に、周囲を見回す。白
い部屋。日光が入るように設計されているが、開かれたカーテンの
間にあるのは鉄格子付きの窓だ。逃がす気はない、という事らしい。
けれど、このまま死を待つつもりは総一郎には無かった。手錠を
外し、逃げ延びる。そのためなら、何でもするつもりだった。
﹁⋮⋮杖﹂
無い。ある訳はないだろう。他の武器も同様だ。しばし考え、思
いつく。魔法。
射出音が、した。
﹁うっ、ぐっ⋮⋮﹂
痛みはない。しかし、あまりに強引な眠りへの誘い。射出音のし
た方向は、分からなかった。倒れこむように、総一郎は眠る。
1163
三度目の覚醒で、総一郎はやっと少し冷静になった。もっと周囲
をくまなく確認し、この場所が病院であることを知る。
天井の四隅には、半球の、黒いガラス窓のようなものが付いてい
る。恐らく監視カメラだろう。そして、暴れる度に麻酔弾か何かを
打たれていた。
﹁ようやく、落ち着いたようだね﹂
人の声に、思わず総一郎は飛び退いた。広いベッドの上、拘束具
の事もあって、ベッドの端に寄るだけだ。鎖が鳴って、ガシャン、
という音がした。
﹁ああ、驚かせてしまったようで済まなかった。⋮⋮君は、利発な
子だと聞いている。この状況が一体どういうものであるのか、分か
るかい?﹂
白衣を着た人物が、問いかけてくる。恐らく、医師だろう。知れ
たのは、それだけだった。総一郎は彼の問いかけに、警戒の無言を
返す。
﹁⋮⋮﹂
﹁分からないなら、無理はしなくていい。まだ十分冷静になったと
いう訳でもないようだし、出直せというなら出直そう﹂
黙っていても埒が明くわけではなさそうだ。総一郎は、口を開く。
﹁⋮⋮ここは、病院ですね。そして僕は、騎士候補生たちに捕獲さ
1164
れた﹂
﹁︱︱! ああ、概ねその通りだ﹂
﹁ですが、それでは辻褄が合わない。騎士候補生に捕獲されたなら、
僕は今頃棺桶、いや、土の中だ。ベッドの上など有り得なかった。
⋮⋮どういう、ことですか﹂
﹁ふむ、思考能力に関しては、欠如の様子は見られない⋮⋮と﹂
﹁質問に答えてください﹂
﹁おおっと、これは済まない。だが、君が落ち着くまでは教えられ
ることが限られているんだ。とりあえず、回復しつつあるという事
は伝えておくよ。暴れたりしなければすぐに手錠もはずれるし、君
の知りたいことも知れるだろう﹂
穏やかに言って、彼は別れを告げて部屋から出て行った。総一郎
は、ため息を吐く。どうやら﹃イイコ﹄にしていない限り、要求は
通らない、ということのようだ。
演技と言うだけなら、総一郎の得意分野だった。ギルのお蔭で、
総一郎は呼吸するように嘘と笑顔を紡ぐことが出来る。
そう考えていると、再び、眠りへの誘いが忍び寄ってきていた。
今回のそれは、強引なものではない。体が、求めているものだとわ
かった。
しかし、今まで散々寝たのではなかったのか、と言う考えも儚く、
総一郎はベッドに倒れこむ。その時、まだ疲れが取れていないのだ
1165
という事にやっと気が付いた。
︱︱手錠が外れたのはその三日後。情報を与えられたのは、五日
後の話だった。
なかなか消えない手錠の跡をさすりつつ、医師の話を聞いていた。
表面上は、にこやかにしている。医師たちが総一郎の敵ではないと
いう事も、最近分かり始めていた。だが、心を開くという事がどう
してもできない。好感は抱いても、そこで止まる。
精神科医の医師は総一郎が抱くそれらの異常を、﹃人間不信﹄で
あると看破した。その露見に酷く総一郎は怯えたものだったが、﹁
これは責められるべきことではないから、安心していいよ﹂と笑い
かけてもらって、やっと一息つくことが出来た。
裁判が行われ、総一郎は無罪になったのだという。
様々な思惑の渦巻いた事件だったらしい、と総一郎は教えられた。
総一郎の夢想染みた﹃魔法を使わなければ﹄と言う願掛けもそれな
りに功を奏した結果だったという。多くの人間を負傷させたが、全
て正当防衛で処理されたと。
だが同時に、相手側も大した罰を下されていないとも伝えられた。
一部の職員の減俸に、ワイルドウッド先生を筆頭とした総一郎の
編入を画策した数名の教員の復帰。罰とも、言えないような罰だっ
た。だが、初犯だからこの程度で済んだのだとも言われた。
1166
相手は、貴族だ。だから、今回は穏便に済まされた。しかし、こ
の一件で方々に弱みを握られた彼らに次はない。警戒して、迂闊に
君には手を出せないだろうから、とその様に諭された。総一郎はそ
の全てを信じられはしなかったが、ひとまずはこの身の安全を約束
されたのだと知った。
それから数日間は、何もなかった。総一郎は様々なことを考えて、
まず白羽に連絡しようと考えた。
毎日、一度は医師が訪ねてくる。そうでなくとも、ナースコール
があった。総一郎は朝一に朝食を届けに来た看護士に、電話を頼む。
担当医師に相談してきますと言って出て行った彼女は、戻ってきた
時に電話を手にしていた。
今、総一郎の手の中で、海を跨いだ通話が繋がろうとしていた。
いい時代になったものだ、と思う。前世の国際通話は、こんなに手
軽ではなかった。
コール音が切れる。声が、聞こえた。
﹃あー、はい、もしもし﹄
図書の声。それに総一郎は素直に少々の落胆と、気の置けない相
手への親しみを示す。
﹁何だ、図書にぃか﹂
﹃何だとは御挨拶だな、総一郎﹄
低いが、微かに笑いの含んだ返答。総一郎は少しだけ笑って、﹁
1167
白ねえと話したいんだけど、今大丈夫?﹂と尋ねた。
﹃あー。それは、ちょっとなぁ⋮⋮﹄
しかし、図書の声音は難しい。
﹁⋮⋮何か、あった?﹂
﹃ん、あ、いや。大したこと⋮⋮、でもあるのかぁ⋮⋮? よく分
からねぇな﹄
﹁何さ、はっきり言ってくれないと分からないよ。早く教えてくれ
!﹂
﹃分かった、分かった。ごめんな、焦らすつもりだった訳じゃない。
いや何、はっきり言っちまえば、白羽が家出してるんだよ、数週間
前からな﹄
﹁そんなッ﹂
﹃まぁ待て、黙って続きを聞け。でだ、俺が大した問題かどうか言
いよどんだのは、白羽が現状どうしているかっていう事を把握して
いるからなんだな。と言うかぶっちゃけあいつ友達ん家居る﹄
﹁⋮⋮。えっと﹂
﹃そもそも、家出の理由も般若家のメンツに愛想を尽かしたってこ
とでもなく、純粋に都合がいいから、って本人が言ってたらしい。
その、泊まっている友達の家の母親がちょくちょく連絡入れてくれ
るんだわ。本人からは音沙汰がない当たりよく分からないんだが、
1168
俺みたいなデリカシーのない奴が思春期の女子中学生の相談相手に
なろうはずもないってな。理由はよく分からんまま放置している。
何か質問は?﹄
﹁⋮⋮それ、そのままにしていていいのかな﹂
﹃家出ってことは、あいつは相当な覚悟を持って行動を起こしたん
だって俺は見てるよ。いずれ問題が解決したら帰ってくるさ。他に
は?﹄
﹁⋮⋮いや、とりあえずは、これでいいよ。そうだね。なら、今日
のところはここまでにしておく﹂
本当は、連絡先を聞きたかった。やっと、自分の顔を見せてやる
ことが出来る。逆に、彼女の姿を見ることが出来る。しかし、白羽
自身が今、問題を解決すべく動いているのだ。それに水を差す道理
もない。
﹁じゃあ、また。この分じゃあしばらくは白ねえと話せそうにない
し、また一年後にでもかけるよ﹂
﹃おい総一郎。お前頼れる図書にぃともっと話したいとは思わねぇ
のか﹄
﹁ははは。ごめん、そろそろ僕宿題に取り掛からないと﹂
﹃さらっと大人な言い方で通話切ろうとすんなよ! ネタなのか違
うのか分かり辛くて地味に傷つくだろ!﹄
﹁あ、やばい。全然聞こえない。もしもーし、もしもーし! 駄目
1169
だなぁ、全然通じないや。仕方ない。じゃあ図書にぃ、切るからね
ー。後ついでに言っておくけど、図書にぃと話す時は十割ネタだか
らねー﹂
﹃ばっちり聞こえてんじゃねぇか馬鹿! まぁいいや、気が向いた
ら連絡して来い! 元気でやれよ、総一郎﹄
返答はしない。ただ、相変わらず良い奴なのだと思いながら、通
話を切った。癖で壊しそうになるが、ギリギリのところで我に返っ
て、きょとんとした顔でこちらを見つめる看護士に﹁ありがとうご
ざいました﹂と告げて受話器を返した。
不思議な感覚だった。どこか、歪んでいる。演技ともいえないよ
うな演技だ。人間の振り。親しい相手だからこそ、自然な会話が行
えた。医師との会話は、もっと不愛想になる。
だが、もやもやとした感じは、その後しばらくしても消えなかっ
た。むしろ、大きくなりつつある。考えれば考えるほど分からなく
なり、最後にはトイレへ向かう間もなく嘔吐した。その時、何かが
切れた。他人との会話への無感動。味覚の欠如。様々な事柄が、変
わった。
ファーガスとちゃんとした形で再会したのは、その更に三日後の
事だ。
精神科医をも欺けるようになった総一郎は、上手く健常者の振り
を続け、大部屋へと移ることになった。﹁まだ全快という訳ではな
さそうだけれど、あなたの積極的に元気になろう! っていう気持
ちを見ている限り、一人にしておくよりもお友達と一緒にいた方が
いいでしょうからね﹂と、そのように医師は語っていた。彼女はき
1170
っと、退室する自分を見つめる総一郎の無感動な瞳のことなど、知
りもしないに違いない。
ともあれ、反射的に吉報に喜ぶという習慣を会得し始めていた総
一郎は、ファーガスとの再会に表情を綻ばせるのを忘れなかった。
本人と対面した時も、上手くいった。
﹁久しぶりだな、ソウイチロウ!﹂
﹁ファーガス! こんなところで会えるなんて思ってなかったよ!﹂
嬉しい。と言う感情は、嘘ではない。だが、遠い所で、自分では
ない誰かが喜んでいる。そんな風に感じてしまって、駄目だった。
罪悪感に一度、人知れず吐いて、それで割り切った。それ以来、他
者との会話には全く動じなくなった。
彼とは、色々な事を話した。互いの近況、思い出話、現状に至る
経緯。その翌日には、ファーガスの彼女︵当人らは違うようなこと
を言っていたが︶が訪ねてきた。その子も交えて三人で話している
と、思った以上に盛り上がった。
クリスタベル・アデラ・ダスティン。銀髪染みた金髪をポニーテ
ールにした、可愛らしい子だった。ファーガスの事が好きなのは一
瞬で分かったし、少し話し込んでいると、過去に彼が語った初恋の
君であることはすぐに知れた。
その一方で総一郎には、彼女についての全く違う角度からの興味
もあった。
彼女が居なくなってからもしばらくファーガスと雑談をして、途
1171
中、話題が途切れた瞬間を狙い、何でもない風を装って総一郎は言
葉をかける。
﹁そういえばさ、ファーガス。ダスティンさんって、僕が捕まった
あの日に僕と会ってる?﹂
﹁ん、おう。気絶してたと思ってたのに、起きてたのか?﹂
﹁んー、なんというか、朧に記憶がある。アレでしょ? オーガが
何匹か襲ってきてた時の﹂
﹁結構しっかり覚えてんじゃん﹂
ファーガスは相好を崩し、﹁それで?﹂と先を促した。総一郎は
一度頷いてから、こう尋ねる。
﹁昔聞いたっきりだから覚えてるか自信ないんだけど、ダスティン
さんって一回オーガに襲われたことがあったよね? しかも、その
恐怖に何日も晒された﹂
﹁⋮⋮ああ、そんな事もあったな。確か三日か四日くらいだな。木
の洞にずっと閉じこもってたんだよ。オーガがその周囲をずっとう
ろついてたらしくってさ。︱︱そう思うとオーガに自力でとどめを
刺したのが、凄い感慨深くなってくるわ。アイツもつらい出来事を
乗り越えたんだな﹂
﹁うん、当事者じゃないから詳しい事は分からないけど、凄い事だ
よ。普通なら、何年も話せなくなっててもおかしくはないんだから
ね﹂
1172
﹁そうなのか? 数日間は会話できなかったって聞いたけど、一週
間もしないうちに亜人関係以外の会話はちゃんとこなせるようにな
ったって聞いたけど﹂
﹁そりゃすごいね。途轍もない心の強さだ﹂
﹁止めろよ、そんなに褒めるなって。そもそも、あいつは割と臆病
な性質だぜ? 買い被りだっての﹂
﹁⋮⋮何でファーガスが照れた上に卑下するのさ﹂
﹁あっ。今の無し! 頼むから本人にはご内密に!﹂
ただの雑談。その様に見せかけたが、実際は違う。気になる、記
憶があった。酷く怯えた表情をしながら、あまりに滑らかな動きで
オーガを仕留めた少女の姿。あやふやで、ともすれば実際にあった
ことなのかどうかわからないような記憶だ。
だが、あの光景が事実ならば、と考える自分が居る。具体的な事
は何も言えない。だが、引っかかりがあるのだ。言い表しがたい、
疑惑のようなものが。
しかし度々訪ねてくるダスティンを見ていても特に気づくことも
なく、次第に気のせいだと思うようになってからすぐに、ファーガ
スは総一郎よりも数週間、早く退院することになった。
別れは大したものにはならず、﹁明日見舞いに来るからな﹂とフ
ァーガスに告げられ、﹁もはや退院する意味ないよね、それ﹂と苦
笑したのを覚えている。
1173
気づけば、総一郎は病室で一人になっていた。
夕焼け。黄昏。逢魔が時。霊的な意味で言えば、深夜などよりこ
ちらの時間の方が、よっぽど危険だという話を耳にしたことがあっ
た。総一郎はベッドから降りて、松葉づえを使ってえっちらおっち
ら自販機に向かう。
無性に、のどが渇いていた。歩けど歩けど、松葉づえの遅さの所
為かなかなか進まない。何ゆえか妙な疲れがあって、息を切らして
立ち止まってしまった。そして、その時になってやっと、廊下の向
こう側から歩いてくる人物がいるのに気が付いた。
華奢で小柄な少女。プライマリースクールの途中ほどの背丈の彼
女は、まるで総一郎の意識の間隙を突くかのようにするりと総一郎
の横を通り過ぎる。そして、その際に囁くのだ。
﹁久しぶり、総一郎君。ごめんね。下準備に忙しくって、こんなに
時間がかかっちゃった。でも、もうすぐ終わるから、それまで良い
子にして待っててね?﹂
その声を聴いてから、総一郎は二秒の時間を過ぎた頃に急激に覚
醒した。勢い良く振り返るが、何者もそこには居ない。目を剥きな
がら、立ち止まる。
﹁⋮⋮ナイ﹂
頭を振って、再び歩き出した。気のせいだ、と思い込もうとして
いる自分と、警戒せよ、と喧伝する自分がせめぎ合っている。
昼と夜が交じり合う夕焼け。それは秩序と混沌の絶え間ない争い
1174
の火花を思わせた。
1175
4話 胡蝶の夢︵2︶
木刀が、黒ずみ始めていた。
部分部分と言うのでなく、全体的に、うっすらと。何故と思った
が、分からなかった。だが、その黒さは何処か血の色に似ている。
雪解けの時期が来て、総一郎は退院することになった。
荷物を片付けながら、ふと気になって見つめていた。もはや、分
身と言ってもいい様な一振りである。自前の杖は折れてしまったが、
復帰したらしいワイルドウッド先生に新しく買ってもらった。
総一郎は木刀を刀袋に入れ、杖を腰に差してリュックを背負った。
世話になった看護師、患者仲間、院長先生にそれぞれ挨拶をして、
病院を出る。
少し歩くと、壁に寄りかかって携帯で暇をつぶす少年が居た。栗
毛で無邪気そうな顔つきをしている。彼は総一郎に気付き相好を崩
して、こちらに手を挙げて合図してきた。
﹁久しぶり、ファーガス﹂
﹁退院おめでとう。ソウイチロウ﹂
早足に、彼の元へ近寄った。軽いハイタッチ。﹁ほれ﹂とチョコ
バーを投げ渡される。
1176
﹁そこの店で買ったんだ。退院祝い﹂
﹁ありがとう。大事に取っておくよ﹂
﹁いや、食え﹂
しぶしぶ封を切り咀嚼する。そのまま、駅へ歩き始めた。
大分、暖かくなってきていた。もっとも、日本の春に比べればま
だまだ寒い。息を白くしながら歩く。途中で昼食の事を聞かれて、
首を振った。それなら、驕ってくれるとの事だ。
適当な店を見つけ、メニューも見ずにフィッシュ&チップスを頼
む総一郎。ファーガスも同様だ。この料理に限って外れは無いし、
大抵の店で売っている。
そこに自分好みの調味料をぶっかけて、口に運んだ。厨房の調理
段階では、何もスパイス類を使わないからだ。旅行に行った日本人
などは、その所為でイギリスの料理がまずいと判断してしまう。ま
ぁ、プレーンすぎるとは思うが。
﹁そういえば、最近どう?﹂
﹁俺の周りは変わらないままだな。ベルに勉強見て貰ったり、ロー
ラは昨日まで休みで帰省中だったからアレだけど、あとハワードと
は会うたび修練場だからいつだって喧嘩勃発だ﹂
﹁充実してるんだね﹂
﹁そっちはどうだ?﹂
1177
﹁記者が来たよ。幾つか話した。そういえば、この事件って世間で
はどういう風に扱われてるのかな﹂
﹁テレビじゃ見てないから、もみ消されてるものだと思ってたが⋮
⋮。もみ消されるなら、普通ソウイチロウが有罪になってるよな﹂
﹁まぁ、いろいろ謎が多いからね、この件は﹂
言いながら白身魚のフライを息で冷ました。次いでパクつく。美
味いといえば、美味い。
﹁平然としてるのな。⋮⋮でさ、それは何だ? 突込み待ち?﹂
﹁何が?﹂
﹁胡椒が山になってんだけど﹂
﹁気のせい﹂
﹁気のせいじゃない!﹂
ファーガスが叫んだせいで胡椒の山が崩れ、﹁あぁっ!﹂と悲鳴
を上げる総一郎。慌ててスプーンでフライの上に戻し始める。
﹁何をするのさ!﹂
﹁え!? 俺が悪いの? 常識から明らかに外れた行動を取ったア
ホを注意しただけなのに?﹂
1178
﹁人の事をアホとかいうから﹂
﹁常識はずれの自覚あるんじゃねぇか﹂
﹁うっ。⋮⋮何勝何敗?﹂
﹁俺の初白星。お前の白星の数なんざ数えてない﹂
﹁君も成長したなぁ﹂
と言いつつ胡椒を大量に付けながら、総一郎はポテトを食べた。
ファーガスはあんぐりと口を開ける。唖然も茫然、という風な表情
だ。
﹁え⋮⋮、ガチ?﹂
﹁うん。まぁ﹂
﹁⋮⋮やっぱ俺の黒星だな。人の趣味に口出すとか人としてなって
ない﹂
﹁ああ、いや⋮⋮﹂
少々人が良すぎる対応に、むしろ総一郎の方が困ってしまう。何
だこの包容力、という感じだ。気になって聞いてみる。
﹁マヨラーってどう思う?﹂
﹁ん、いや別に。いいんじゃないか? 俺もジャムを付け過ぎるこ
とあるし﹂
1179
﹁⋮⋮ファーガスってさ、良く優しいって言われない?﹂
﹁いや。何で?﹂
﹁⋮⋮何でもない。後でジュースでも驕るよ﹂
﹁いやいや。今日はお前のめでたい日なんだから、俺に金遣わせて
くれよ。お返しなら俺の誕生日か何かにしてくれ﹂
微笑と共に肩を竦めるものだから、総一郎は恐縮するばかりであ
る。それからしばらく、無言で食べ続けた。話題が無い時の男の食
事風景なんてこんな物だ。
食べ終わり、一息を吐いた。最後に紅茶で一服してから、店を出
るつもりだった。紅茶はまだ来ない。﹁それで﹂と総一郎は問う。
﹁ファーガスの周囲ってさっきは言ったね。じゃあ、それ以外はど
うなの﹂
﹁⋮⋮ピリついてるよ。平和なのは俺の所︱︱イングランドクラス
だけだ。アイルランドはハワードがいっつも組手終わりに﹃雰囲気
が悪い﹄って愚痴ってきやがるし、偶にローラとかお前の居るスコ
ットランドクラスの奴らが、他のクラスと喧嘩してるのを見るな﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁さぁな。当然ソウイチロウの事もあるんだろうが、喧嘩の種でし
かないって感じだ。不満の根っこは違う気がする。でも、不思議と
イングランドとアイルランドはやり合ってないかな。イングランド
1180
とスコットランドの組み合わせも、多くは無い。大抵はスコットラ
ンドとアイルランドだ﹂
最近、だんだん酷くなってる。そのようにファーガスは言った。
総一郎は口元に手を当てる。考え込むときの癖だった。
今まで、騎士学園の事に目を向けてこなかった。向けるだけの、
余裕が無かったとも言える。しかしこれからは違うのだ。総一郎は
ただ敵として騎士候補生たちと向き合うのでなく、他の立場を探し
ていかなければならない。
障害はある。亜人とのハーフである事が露見した直後よりも、そ
れは多いだろう。だが、意気消沈しては居ない。総一郎も、障害に
負けない程に強くなった。
しかし。
﹁一応、今のうちに言っておくけれど﹂
総一郎は、切り出す。
﹁ファーガス。僕は、学園の中で君に会うつもりはない。そうすれ
ば、多分君は目の敵にされる﹂
何で、とは彼は言わなかった。聡いとも言い切れないが、馬鹿で
はないのだ。しかし睨むような表情で、彼は総一郎を見る。
﹁嫌だね。文句を言われて友達を裏切るようなまねは、俺の主義に
反する﹂
1181
﹁僕だって、自分のせいで友達を危険に遭わせる主義は無い﹂
﹁主義と主義のぶつかり合いって訳だな。じゃあ、そこは互角って
事で論点をずらそう﹂
﹁え、それはどういう⋮⋮﹂
﹁ソウイチロウ。俺はお前とつるんでいたい。ハワードのクソ野郎
は、心底嫌いって訳じゃあないが仲良くは出来ない。お前は俺の唯
一の男友達みたいなもんでさ、気が楽なんだよ。⋮⋮お前はどうだ
? 会わない方がいいってんなら、お前は俺の事が嫌いっていう事
になるんだが﹂
言葉が返せず、口を閉ざす総一郎だ。この論法は、少々ずるい。
特に、若干自信なさそうな表情の変化がある所が。
苦笑して、﹁負けたよ﹂と肩を竦めた。紅茶が来て、また談笑に
戻った。ジャムや砂糖を大量に入れる総一郎と、何も入れないファ
ーガスとの間で﹃どちらが美味いか﹄という論争が起こったが、友
情を確かめ合う会話を経た二人は常に笑っていた。
駅に揺られている間も、寮へ戻る最中も、遮るものは現れず、笑
顔を保たれ続ける。別れた後も、ファーガスは高揚したように歩調
が弾んでいた。
対して、総一郎はまるで感情が抜け落ちたように無表情になる。
﹁⋮⋮僕には、過ぎた友達だな﹂
寮の自室に戻った。そして再び少し出かけてから、鏡の前に立っ
1182
た。顔を洗うというのでない。試したいことが、幾つかあった。
まず、笑った。次に、顔を顰めた。様々な形に表情を変化させて
いく。一通り終わらせてから、過去の思い出を想起した。昔の事は
思い出せないから、最近の事。ファーガスとの談笑。ギル達からの
虐待。グレゴリーからの拒絶。そして後に聞いた彼の保護。もう少
し前に行く。ヒューゴ。ホリス。ギル。ブレア。ジャスミン。ティ
ア。ジョージおじさん。
表情は、一度だって変わっていない。
﹁⋮⋮次﹂
昨日ファーガスと別れてから、数種類の調味料を買い揃えてきた。
食堂には備え付けであるから、当然自前に用意する必要なんてなか
った。
これは、実験用だ。
塩を、指先につけた。舐める。次に、胡椒。砂糖。ビネガー。ど
れも、同じだ。
﹁少し増やすか﹂
指先ほどの量を、一摘まみに変えた。変わらなかったから、もう
少し多くした。繰り返して、昨日の様な山盛りにしてから、やっと
微かに感じた。舌を包むようにしていた多量の塩を、洗面台に吐き
出す。
﹁無くなったわけじゃないのか﹂
1183
大量の水を飲み下しながら、総一郎は独り言を言った。鏡を見る。
まるで、能面のような無表情が浮かんでいる。
我ながら、父に似てきたと思った。しかしまだ、未熟だ。
1184
4話 胡蝶の夢︵3︶
深夜近い早朝に素振りを終わらせた総一郎は、部屋に戻ってから
しばらくの間仮眠を取った。自然に目覚めれば、朝食の時間である。
気負いはない。彼らは、今更怖がる相手ではなかった。
しかし、一つだけ迷う事がある。木刀を持っていくべきか否か。
怖がらせても仕方がないと思い、傘立ての中に入れた。微かな違和
感を抱いたが、気にする程ではない。
扉を開ける。仰々しい絨毯が敷かれた廊下が、目の前に、非常に
長く伸びている。
抵抗感。
足を、前に出した。押し返すような、力が在った。腹に力を込め
て歩き出す。大したことではない。
歩き続け、寮を出た。何か、腹の燻るような感覚がある。力を入
れても消えない。だが、我慢の限界でもなかった。まだ大丈夫。言
い聞かせながら、深呼吸をして歩き続ける。
﹁見ろよ、アレ⋮⋮。もしかして、あいつがあの⋮⋮﹂
たった一人の囁き声。総一郎は、無表情が歪むのを知った。囁き
は、少しずつ大きくなっていく。近づいてくる足音が在った。逃げ
る様に食堂へ向かう。
1185
喧騒が、総一郎を襲った。
人。その、話声。一歩、進む。奇妙なまでに、その音が食堂中を
木霊した。
その一瞬を皮切りに、静寂へ変わった。自分、ただ一人に向かう
視線の矢。
途端、総一郎は耐えきれなくなった。
駆けだした。無我夢中だった。その顔は、昨日の様子からは考え
られない程に表情豊かだった。向かうは、自室だ。走りながら声を
堪えた。きっと、五分もかからなかったろう。だが、永遠にも等し
い時間に感じられた。赤絨毯が、あれほどまでに長いと思わなかっ
た。
部屋に入り、何物をも拒むように、総一郎は固く鍵を閉めた。扉
にもたれてずり落ちる。俯いて、息を整えた。
木刀を手に取る。縋りつく。
﹁駄目だ。駄目だ。駄目だ﹂
震えていた。これほどまでとは、思わなかった。
結局その日、総一郎は朝食を取らなかった。
授業時間近くになってから、やっと落ち着きを取り戻して部屋を
出た。右手には木刀が在り、それを包帯で巻き付けている。ギル達
の虐待に聖神法が間に合わなかったとき、総一郎はよく使った。保
1186
険医の先生に頼ると、傷が深くなったのだ。
歩く。怖いとは思わなかった。寮を出て、囁き声が聞こえた。何
とも思わない。ただ、わずらわしいと思っただけだ。
﹁おい﹂
声がかかり、振り向いた。体格のいい生徒である。年上だろう。
大きな杖を携えている。
﹁お前が、ブシガイトか﹂
﹁そうだ﹂
﹁ブレナン先生を殺して、山に逃げて、多くの騎士候補生に怪我を
負わせた﹂
﹁ああ﹂
﹁⋮⋮何故ここに居られる? 裁判に勝ったからって、いい気にな
っているのか!? ふざけるな! お前が正しいなんて思っている
奴は、この学園には一人だっていやしない! それが分かったら﹂
﹁いい加減五月蝿いな。喧嘩を売るなら、もう少し人を集めてこい。
君一人だと、勝負にもならない﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
その生徒は、たじろいて後退した。敵意の視線が集まったが、気
にならなかった。何が違う、と総一郎は思う。山に籠っているのと、
1187
今。何か一つでも、異なっている事があるか?
また、歩き始めた。初めの授業は、恐らく聖神法の座学だったろ
う。教室に入ると、明らかにざわついた。見知っている顔が、少し
だけ。ギル率いる三人。他は、顔さえ見覚えが無い。
﹁どうも﹂
答えようとする相手は居なかった。むしろ、教室中がしんと静ま
った。総一郎は最後尾の中央に座ると、まばらに居た同列の席の生
徒がこぞって前に移動した。本を読みだす。静かで、集中しやすい
環境だ。
先生が来た。恰幅がいい。ヘイ先生とか言っただろうか。総一郎
を見つけて、憎らしげにこちらを見つめている。
﹁⋮⋮何ですか﹂
﹁⋮⋮では、授業を始める﹂
彼は、総一郎からあからさまに目を逸らした。少年は肩を竦めて
教科書に目を落とす。その時だった。
﹁ヘイ先生! ブシガイトは木剣を持ってきています! いいんで
すか!?﹂
目を向ける。ギルの隣に座る、ヒューゴが言ったらしい。
聞いて、ヘイは総一郎にぎらついた目を向けた。厳しく口元を引
き締めているが、眼は嫌らしく笑っている。
1188
﹁良い訳が無いだろうが! ブシガイト、何故そのようなものを持
ってきた!﹂
﹁持ってきてはいけませんか?﹂
﹁当然だ! さぁ、それをよこしなさい!﹂
こちらに近づきながら、手を差し出してくるヘイに、総一郎は強
い口調で﹁何故!﹂と言葉を叩き付けた。
驚いたように歩みを止める。総一郎は、改めてじっくりと語り聞
かせるような口調で問う。
﹁何故、貴方は持ってきてはいけないと思ったのですか? 校則に
は木刀を持ってきてはいけないなんて書いてありませんよ﹂
﹁そんな事は常識だ。ブシガイト、お前が言っているのは屁理屈と
言う物だ﹂
﹁いいえ、先生。では、授業に木刀を持ってきてはならないという
事柄が、何故常識に含まれるのか考えてみてください﹂
﹁⋮⋮危ないからに、決まっているだろう﹂
﹁そうです。危ないから、木刀などを持ってきてはいけない。︱︱
しかし先生。ここは騎士学園で、僕はその生徒だ。そして、僕を含
むスコットランドクラスの全員が授業に杖を持参している﹂
﹁それが、どうした﹂
1189
﹁スコットランドクラスの生徒が杖を持つ事と、木刀を持つ事。一
体どちらが危険でしょう﹂
意識して浮かべた笑みと共に吐かれた言葉に、ヘイは顔を真っ赤
にした。腰に掛ける杖に手が伸びる。その前に、制止した。
﹁先に言っておきますが、この会話は録音しています。音源はワイ
ルドウッド先生の元に行っていますよ﹂
ぴた、と彼は動きを止めた。ぶるぶると震えているが、杖を掴む
事は無い。その代り、教室の外を指差した。怒鳴りつける口調で言
う。
﹁木剣の所持は認める。だが、私たち教師が授業に置いて大きな権
限を任されているという事は変わらない! 教師に対する極度の反
抗的態度は処罰に値する! 授業を受けても単位はやらん! 即刻
ここを立ち去れ!﹂
そんな事は、痛くも痒くもなかった。学園の聖神法に関わる単位
は、座学も実技も統合される。魔獣を多く討伐すれば、座学の単位
など必要なかった。︱︱そして、だからこそ言った。
﹁嫌です。何故なら、ヘイ先生の授業は非常に分かりやすいからで
す。それはもう、﹃単位が貰えなくても受けたいと思うほどに﹄﹂
さっ、とヘイの顔から血の気が引いた。少年は、ただ柔らかな微
笑を湛えるのみである。数歩彼は後退し、そのまま教壇に戻った。
﹁⋮⋮で、では授業を始める﹂
1190
声は震えていた。総一郎は、笑いを堪えるのに大変だった。授業
が中盤に差し掛かるまで、そんな風でいた。だが、唐突に思った。
︱︱虚しい。
授業が終わり、次の授業も、その次の授業も何気なくこなして、
総一郎は夕方の修練場でしばらく素振りをしてから部屋に戻った。
堂々としていれば、文句は言われない。
修練場に来るのはイングランドとアイルランドだけ。総一郎を一
番憎んでいるのはアイルランドクラスの騎士候補生だが、一番怖が
っているのも彼等だった。イングランドは、見て見ぬふりをしてい
る。
部屋に戻り、シャワーを浴びた。湯を延々と頭に流しながら、総
一郎は棒立ちのまま考えた。
腐っていくような、感覚だった。
病院で、偶に嫌悪の感情を向けられることが在った。脆弱な、そ
ちらに視線を向けると消えてしまう程度のものだ。だが、そこから
始まっていたのかもしれない。山の中の四面楚歌よりも、酷い気分
にさせられるのだ。
不自由。自分を、見失っている。自分とは何だろうと思う。前世
に、何度か考えた。そして自分なりの答えを出したはずだった。そ
れが、あやふやになっている。前世の何倍も難しい事ばかり起きた
から、分からなくなっているのかもしれない。
1191
修羅、という言葉が思い浮かぶ。それすらも曖昧になりかけてい
る。同じく、反目する意味を持つ人間も。修羅ではない、と思う。
だが、人間でもない。半端者であると言ってしまえば、決着はつく。
しかし、父の求める境界線を歩いているという自覚は持てない。
顔から滴り落ちていくシャワーの水滴を見つめていたその時、唐
突に温もりが彼を包んだ。
背後から回される手。白く少女を思わせる細腕だった。背後に立
つ人物は、きっと総一郎よりも身長が低いのだろう。柔肌。安らぎ
が総一郎の中で満ちかけた。そして、息を呑んだ。
目を剥いて振り向いた。総一郎の息は、恐怖に荒くなっていた。
身構えるが、緊張のあまり体が縮こまっているような感じがある。
辛うじて、睨み付けた。
﹁何の真似だ、ナイ﹂
﹁虐められて傷心の総一郎君を慰めてあげようかと思って﹂
風呂場の、狭い空間。たった一歩先に、ナイは一糸纏わぬ姿で立
っていた。その容姿には過去と変わった様子が無い。
かつては総一郎よりも高かった身長はいつしかそのままでつむじ
が見えるほどに小さく見え、その下には細い首、しなやかな鎖骨、
微かな胸のふくらみと、薄っすら窺える肋骨が在った。幼き肢体。
本来なら、情欲を誘うものではないはずの物。
だが、妖艶な魔力を纏っていた。男を惑わすようなそれ。両手で
秘所を隠しながら悪戯っぽく笑うのが、酷く艶めかしく︱︱恐ろし
1192
い。
﹁怯えないでよ、総一郎君。ボクは、君の味方だよ?﹂
﹁何が味方だ。君が邪神でいる事は、とうの昔に知っている﹂
拒絶よりも強い恐怖が総一郎を鷲掴みにしている。一歩間違えれ
ば、底なし沼に呑まれていた。
﹁それでも、ボクが誰よりも何よりも君を気に入っている事に変わ
りは無いよ。︱︱可哀想に。雪山なんていう過酷な環境で、何日も
孤独と戦っていた﹂
泣き顔の様に顔の表情を歪ませながら、ナイは総一郎に抱きつい
てきた。睡蓮の花の匂いは、変わらない。柔らかい、とただ思った。
温かい、とも。ナイでなければ、抱きしめ返せた。その胸にしがみ
付いて、感情を吐露することが出来た。
だが、出来ない。心を奥底に押し込め、歪な鎧で身を守る。首の
根元辺りを押して、深い声で言った。
﹁⋮⋮ナイ。今の僕に、﹃そういうの﹄は効かない﹂
﹁そっか⋮⋮。じゃあ、仕方がないね﹂
本題に入ろっか。言って、寂しげに彼女は微笑する。一度、手を
叩いた。気付けば総一郎は服を着てベッドに座っていて、ナイも同
じくゆったりとした清楚な服を着て彼の目の前に立っていた。
﹁あのまま話すのもいいけど、少し真面目な話になるんだ﹂
1193
﹁⋮⋮君にとって、暇つぶしでない事なんかあるのか?﹂
﹁無いよ。でも全てが暇つぶしなら、その中に優劣が付くのは当然
さ。君たち人間と全く同じだろう? とりわけ、命の危険が遠い人
種とね﹂
指を立てて、ナイは表情と声の調子を変えたようだった。束の間
現れたしんみりとした雰囲気は、夢の様に霧散する。うつつに姿を
露わにするのは、嘲笑に歪められる口元だ。
﹁総一郎君。君はお父さんの部屋から取ってきた﹃美術教本﹄を、
読んだかい?﹂
目の前からナイは消え、総一郎は声の方向を向いた。いつの間に
かベランダは開け放たれ、そこで彼女は薄紅に染まる空を背景にこ
ちらを見つめている。瞬間移動、と言えば分かりやすいだろうか。
狐につままれたような気分︱︱いや、この場合、邪神に弄ばれてい
るというべきか。
﹁⋮⋮読んだけど、それがどうかしたか﹂
﹁あまり、良い返答ではないね、それは﹂
ベランダからも消えていて、気付けば彼女は机の上に座っていた。
そこに置いてある本を手慰みにぺらぺらと捲りながら、上目遣いに、
彼女はさらに問うてくる。
﹁じゃあ、ドラゴンがこの国に攻め入っているというのは?﹂
1194
﹁初耳だ。⋮⋮そうか、その所為で山狩りの時に騎士候補生しかい
なかったのか⋮⋮﹂
﹁やっぱり、君は聡いね。疑問を常に頭の中で溜めておくことが出
来る。そして繋がるワードが見つかり次第、真実を見出すんだ。安
楽椅子探偵に向いているんじゃないかな?﹂
耳元に吐息が掛かる。瞬時に背後に移動してきた彼女を嫌がって、
総一郎は立ち上がろうとした。しかし、ナイは総一郎よりも数枚上
手だ。
体勢を崩させ、総一郎の唇を奪う。もがくが、何も出来なかった。
ナイの腕力は外見相応である。だから、技量が圧倒的すぎるのだろ
う。
否応にも感じてしまう、彼女の体温。唇の柔らかさ。躰が幼いか
らなのだろうか。酷く、熱い。短い髪が、総一郎の顔にかかる。甘
い匂いが鼓動を早くした。やっと彼女が離れた時に、その顔を見て
総一郎は目を逸らした。上気した頬が、少年の目に焼き付いている。
﹁これで、二回目だね。一回目にしたとき、君はまだボクと同じく
らいの背丈だったっていうのに、今じゃあ兄と妹みたいだ。お兄ち
ゃん、って呼んでもいいかな?﹂
﹁早く、退いてくれ。何が目的だ﹂
﹁あはは。まだまだ可愛いね。お兄ちゃんと呼ぶには、ちょっとば
かし不十分かな? しばらくは﹃総一郎君﹄のままにしてあげまし
ょう。⋮⋮あは﹂
1195
総一郎に馬乗りになって、再び、彼女は顔を近づけてくる。だが、
先ほどのじゃれ合うような雰囲気はそこになかった。肌の粟立つ感
覚。蛙を睨みつける蛇の様な表情で、見つめてくる。
﹁︱︱君は数か月後五匹のドラゴンと対峙し、その末に凄惨な敗北
を味わうだろう。だが、それでも君はドラゴンに立ち向かわねばな
らない。何故なら、ドラゴンは君の大切な何かを滅ぼしてしまうか
らだ﹂
﹁⋮⋮口から出まかせは止めろ。君に僕の未来が読めないのは知っ
ている﹂
﹁ああ、読めないよ? けれど、それで諦めたら全知全能の神の名
が廃ってしまう。ラプラスの悪魔もまた、無貌の神の化身の一つだ
からね。ボクにだって近しいことは出来るのさ。⋮⋮けれど、所詮
は計算だよ。ミスがあれば、別の未来があるかも知れない。ドラゴ
ンが来ない未来もあるだろうし、君がドラゴンに打ち勝つ未来だっ
てあるだろう。︱︱どうだい? 少しくらい、やる気になったかな﹂
﹁馬鹿馬鹿しい。そんな話に、乗る気はない﹂
﹁ま、そこは総一郎君の勝手さ。ボクだって少なからず動くから、
計算は少しずつ着々と崩れるだろうしね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁んふふー。睨み顔も可愛いなぁ。じゃあね、総一郎君。また近い
うちに、会う事になると思う。用事もないしね。暇になったら遊び
に行くよ。じゃあ、また﹂
1196
空気に溶ける様に、彼女は消えていく。総一郎は無言で起きあが
り、開け放たれたベランダへの大窓を閉めた。空を見る。夕暮れは、
もう大分藍色に染まりつつある。
しかし、清涼な景色とは裏腹に、総一郎の頭の中は混濁していた。
強烈な少女の顔が頭から離れない。
﹁⋮⋮僕は弱くなった。昔よりも、ずっと﹂
ぽつりと呟いた。多くの事に、耐えきれなくなった。自分は、本
当の意味で﹃総一郎﹄になったのだと思った。前世の事は、既にあ
やふやだ。自我も自己も、残ってはいない。時計を見て、もうこん
な時間なのかと驚いた。
春が来た。冬よりも、着々と日が長くなっている。
1197
4話 胡蝶の夢︵4︶
図書館で、本を読んでいた。静謐な空気が満ちている。床も机も
飴色の木で出来ていて、古びていながら心の休まるここは、総一郎
にとって非常に好ましい場所だった。
ページをめくっているのは、聖神法についての書籍である。貴族
が訳あって外国へ留学し、その際聖神法と魔法、アメリカにおける
特殊銃戦術や、中国の一部の人が使う仙術の違いを強く印象付けら
れたというのが前書きに記されている。しかし亜人に対する差別へ
の言及はないから、アジアへはあまり行っていないようだ。仙術に
ついても友人だとしか書いていない。
著者曰く、聖神法は非常に異質な異能であるらしい。そもそも起
源がここ数百年というのは非常に年季が浅く、また行使できる人間
が貴族階級やその血族だけと限られているのも聖神法だけであると
か。
それに加え、聖神法は異能の中でも飛びぬけて使いづらいらしい。
それは総一郎も確信していたことだ。魔法は加護の概念が薄い外
国では才能に左右される部分も多いが、一等使いやすい技術でもあ
る。
逆に努力にそのまま比例する﹃特殊銃戦術﹄は、簡単に言えば異
能に対抗するだけの効果を持った銃火器を使用するだけの格闘術で、
才能の有無は習得の速度にしか関係が無い。威力は魔法に劣るもの
の、攻撃対象がアフリカ象のサイズまでなら撃退が可能だ。戦闘セ
1198
ンス次第でそれ以上も叶う。その代り、素人にはいちばん縁遠い技
術でもあった。
そして、聖神法はこの特殊銃戦術とだいたい同じ程度の努力を要
して、やっと使い物になる。
しかも、攻撃よりも防御や長寿に着眼点を置いた仙術よりも、威
力が低い。
もちろん亜人登場前の銃火器に比べたらコストも低いし威力も高
い。しかし聖神法なんかを習うならば、まず魔法を軽く試してみた
方がより有意義な人生を歩めるだろう。後書きは、そんな風に締め
られていた。
﹁⋮⋮これが、騎士学園の図書館の蔵書なのか﹂
聖神法を批判する主旨の書籍は珍しいからと手が伸びたのだが、
最後まで悪辣な点を挙げ連ねてフォローをしないとは思わなかった。
確かに魔法に比べて不満の残る聖神法だが、これほどの意見はいっ
そ苛烈である。確かに祝詞も規則性が無く覚えにくいとは思うが。
総一郎は奇妙なまなざしでその本の表紙を眺めていたが、しばら
くして席を立った。この本は言って見れば息抜きで、本当は他の事
を調べていたのだ。
﹃美術教本﹄
ただの美術作品の製作指南書だと、総一郎は思っていた。しかし、
ナイはこの本に何かがある事を匂わせた。父からの言伝では彼女の
言葉に耳を貸してはならないのだそうであったが、そもそもこの本
1199
に限っては父からの餞別である。
何かあるというなら、調べる。好奇心の犬の性であった。
それ故勿論ドラゴンについても調べたのだが、あまり多くの事は
分からなかった。すでに一匹が出現し、その討伐に赴いているとい
う事だけ、偶に寮の談話室でテレビ放送されている程度である。
数冊新たに見繕って、抱えながら戻った。ここには魔法に関する
書籍が非常に少ない。だが、亜人の生態に関わる物ならばかなりの
数が確保されている。何から調べていいか分からないのならば、と
いう事で細かい内容が詰まった亜人についての本を選んだのだ。
もちろん、この内容なら時間を無駄にしないだろうという打算も
あった。総一郎はただでは転ばないのである。事実、山籠もりで野
営にはひとかどの自信がある。
そして席に戻ってみて、おや、とさせられた。
椅子を立っていた隙を突かれたのか、自分の席の隣に、小柄な少
女が座っていた。ナイほど小さい訳ではない。恐らく同学年だろう
と踏んだ。短い金髪が揺れている。
総一郎は、少々難しい顔をした。見回せば、図書館内は混雑して
いる。人が少ないのは総一郎の付近だけだ。彼の悪名が学園中に轟
いている証拠だろう。
少し考えて、気にする事ではないと思った。気を遣う必要性はな
い。ファーガスやその仲間を除けばこの学園には敵しかいないのだ。
椅子を引いて座ると、微かに横の少女が総一郎の顔を見た。一瞬ぎ
1200
ょっとするが、すぐに冷静な顔になって手元の本に目を落とす。
総一郎は、ちら、と彼女を見やった。どこかで見たような顔であ
る。少し考えて、思い出した。クラスで、いつも一番に教室に到着
し、誰とも話さずに読書に耽っている少女だ。
しかし、声をかけるほどの義理もない。総一郎は黙って本を読み
続けた。横で焦れるような雰囲気があったが、無視する。この様子
なら、いずれ逃げていくだろう。
だが、予想に反して少女は﹁あ、あの⋮⋮!﹂と総一郎に向き直
った。意外に、肝の据わった人物であったらしい。だが、どちらに
せよ対応は変わらない。文句を言ってくるなら、正論で論破してや
ればいい。
そんな総一郎の敵愾心に満ちた心構えは、次の彼女の言葉に空ぶ
る事となった。
﹁私は、あなたが悪いとは思っていませんから! だから、その、
⋮⋮それだけ、です﹂
語気が強かったのは最初だけで、最後には主張を見失ってしまっ
たのか、尻すぼみになって締めくくられた。しかし、それに対する
総一郎の衝撃はかなりのものだ。
﹁それは⋮⋮どうも﹂
それ以上の言葉を探せど、一向に見つからない。肩口までの金髪
を揺らしながら、少女も戸惑った風に﹁は、はぁ⋮⋮﹂と目も合わ
せないまま曖昧に頷くばかりだ。
1201
結局、根負けして逃げ出したのは、総一郎の方だった。
翌日、ファーガスと少し話した後に図書館に向かい、昨日と同じ
場所に座って﹃美術教本﹄の解読に取り掛かった。相変わらず、人
が寄り付かない。そうしていると、少し離れた場所で、こちらに視
線をやってぎょっとする姿を見つけた。彼女は、再びおろおろしな
がらこちらに寄ってきて、総一郎の横に座る。
﹁⋮⋮ローレル・シルヴェスター﹂
﹁っ!?﹂
背筋に寒い物が昇ったかのように、少女はブルリと竦みあがった。
髪の毛の中で、金色の三つ編みが大きく揺れる。
何故、自分の名を、とでも言いたげに、シルヴェスターはこちら
を見やった。総一郎は目も合わさないまま、﹁ファーガスに聞いた
んだよ﹂と告げる。一応の納得を見せる少女。しかし、警戒は解か
れていない。
総一郎も、それ以上の興味があったわけではなく、名前の事を告
げただけでしばらくは本を読んでいた。シルヴェスターは恐る恐る
と言う感じに、椅子に座ったまま総一郎から距離をとれるだけとっ
て、そこで読書を始める。
一時間ほど、そうしていた。すると、集中力が切れて、嘆息と共
に本を机に置いたのだ。そのタイミングが、シルヴェスターと被っ
た。それがどうにも気まずく、二人は硬直する。
1202
このまま気にせず何かをするというのは総一郎にも少し敷居が高
く、苦悩の末に、ぽつりとこんなことを尋ねた。
﹁君、何でこの席に?﹂
総一郎の周囲は空いている。しかし斜め前なども空いていたので、
真隣に座る必要は無かったはずだった。その上、隣が彼であると知
っても退こうとしない。不思議に感じていた。
彼女はしばしためらってから、細々とした声で言った。
﹁⋮⋮ここに、いつも座っていたんです。取られた時とか横で勉強
している時は仕方がないですが、隣の人が読書しているくらいなら、
この席に座っていました。それだけです﹂
随分と負けん気が強い少女だった。反骨心旺盛というか、気位が
高いと言ってもいいのかもしれない。少なくとも、総一郎が隣だと
知ってすぐに逃げ出さないのは非常な心の強さである。
それに、先日の言葉。
﹁ファーガスは、気の強い子が好きなのか﹂
﹁はい?﹂
﹁君も、話に良く聞くダスティンさんも、気が強い。そう思っただ
けだ﹂
シルヴェスターは、呆然とこちらを見つめている。総一郎はそれ
っきり彼女に関心を払わず、﹃美術教本﹄に隠された謎を解き明か
1203
そうと図書室の本と教本を読みふける。
その日はいつも通り、何の成果も得られなかった。
ファーガスの紹介で、改めてナイオネル・ベネディクト・ハワー
ドと言う少年と対面した。
貴族にしては荒々しい言葉遣いだが、ネイティブでない総一郎と
しては、こちらの方が貴族言葉よりも聞き取りやすかったりする。
ひょっとすれば言葉遣いがつられてしまうのが難点だったが、それ
以外としてはからかうと乗ってくれる、気の良い奴であるとわかっ
た。
そんな彼と、ある日の早朝に修練場で偶然遭遇した。彼は木刀を
振り続ける総一郎を見つけて、終わるまで待ち、その後にこのよう
に言った。
﹁まるで、何かを斬ってるみてぇな音だな。何を斬ってやがる?﹂
﹁そうだね、強いて言えば空気かな﹂
﹁ハッ、違ぇねぇ﹂
鼻で笑って、彼はこちらに近づいてくる。総一郎は袖で汗をぬぐ
いながら問うた。
﹁あまり、面白くはなかったかな﹂
1204
﹁ん? まぁ﹃自分﹄とか﹃過去﹄とか言ったら指さして笑っただ
ろうけどよ。そういうのは天然ものだから面白いんだよな。とはい
え、クソ真面目に﹃何も斬ってないよ﹄なんて言うよりはマシじゃ
ねぇのか?﹂
﹁君はアレだね、嫌いな作品を読ませて一緒に悪口を言いあったら
楽しそうだ﹂
﹁お、そりゃあオレもやってみたいな。ブシガイトが陰口叩くなん
てのは、金積んでも見れねぇレアものだぜ﹂
﹁そんな純粋な性格はしてないよ?﹂
﹁バカ野郎、皮肉だよ。お前なら陰口叩く前に本人仕留めに行くじ
ゃねぇか﹂
﹁なるほど、リトルブラザー。君はやはりブラックジョークが上手
い﹂
﹁だからリトルブラザーは止めろっつってんだろ!﹂
会話しつつ、互いにくつくつと笑った。ファーガスが居ると、彼
はもう少し仮面を深く被る。新密度がどうこうと言う話ではなく、
それぞれの付き合い方の問題だった。ファーガスは徹底的にいじり
倒しても本気で怒らないため、その方が楽しいのである。
﹁それで、君は何をしに来たのさ。まさか見学だけして帰る、なん
てつまらない事は言わないよね?﹂
﹁ん⋮⋮。そうか、どう言おうか考えてたんだが、そっちも最初か
1205
らその気だったって訳だ。なら、一戦交えようぜ。ルールはそっち
が決めていい﹂
﹁殺す気で来なよ﹂
﹁お前、それマジで言ってんのか?﹂
﹁ああ、僕も殺す気で行くからね﹂
﹁⋮⋮やっぱよう、ブシガイト。お前、表面は穏健に見えて、根っ
この部分でぶっ飛んでんだな﹂
分かりやすい俺なんかより、よっぽど悪質だ。ハワードはそのよ
うに言って、大剣を構える。魔獣を狩るための、自前のそれだ。
総一郎は彼の押してくるばかりの闘気に応えるべく、上段に構え
て臨んだ。彼は、碌に機を待つという事もせず、走り出した。
﹁⋮⋮﹂
総一郎はひとまず落ち着いて、ハワードの太刀筋を観察し始めた。
以前の戦闘の時の、蛇のようにうねる切っ先の記憶はいまだ鮮烈だ。
同じように、斬りかかってくる。それを、見切りにかかる。
様々な角度から、蛇は食らいついてきた。それを、後退すること
で躱す。本来なら、勝負事は踏み込まねば勝てない。だが、今は勝
ち負けを問題にすべきではない。
﹁おらおらおらぁ! どうしたブシガイト! ブルっちまったか!
? えぇ、おい。チキンボーイ!﹂
1206
罵倒してくるのは、ソウイチロウよりも数センチ小さな少年だ。
それが、自らの体躯ほどもある大剣を振り回している。筋肉に頼る
攻撃でなかった。どちらかと言うと、体重移動の巧みさによるもの
だろうか。
この大剣は、総一郎が知る限り最も大きいものだ。他のどんな騎
士候補生も、これほどの物を使う者はいなかった。持ち上がること
はできても、武器として使うには重すぎるのだろう。
全く攻めてこない総一郎に焦れたのか、ハワードはさらに攻撃に
比重を重くしてきた。剣の太刀筋が変わる。蛇のようなうねりが消
え、剛直になった。けれど、よけなければこちらに届く。その上、
次の一撃にすぐに繋がる。
独楽を、連想させる動きだった。体軸をぶれさせず、大剣を振る
う。ここでも、筋肉はほとんどと言っていいほど使われない。総一
郎は、だんだんとハワードの太刀筋の本体が分かってきた。
初見では、荒々しいだけの戦い方。しかしその根幹を占めるのは、
あまりに卓越した技巧である。
総一郎はハワードの剣を紙一重まで見切って、懐へ飛び込んだ。
二歩。次の手が来るのを察知し、その腕を蹴る。そして、木刀を突
きつけた。
対して、ハワードは反転からの大剣の一閃で応じた。封じた攻撃
を、それこそ独楽のように回転し、真反対から放ったのだ。互いに、
大きく離れる。総一郎は唇を引き締めて、ハワードはにやにやと笑
っている。
1207
﹁ちょいと戦法が見抜かれた節があるな。まぁ、二回も見せてるし
当然か。じゃあ、次だ。聖神法使わせてもらうぜ﹂
祝詞を挙げ、剣の纏う空気が変わった。途端、速攻をかけてきた。
今度は、体重移動など気にもしない、酷く真っ直ぐな戦い方だ。
総一郎の得物は、木刀だ。無論、普通に受ければ折れるに決まっ
ている。だがそう言う手合いとの立ち合いは、小慣れたものだった。
ハワードが振るった大剣を後追いするように木刀を振るい、その聖
神法を途切れさせる。﹁はっ?﹂と戸惑った声を出した。それを隙
と見出し、総一郎は肉薄する。
だが、防がれた。総一郎は眉根を寄せる。ハワードは、もはや笑
っていない。距離を取り、構え、動きを止めた。総一郎も、今度は
正眼に構える。硬直。長引くと感じ、こめかみの真横に立てた。八
双である。
シン、と修練場に静寂が下りた。総一郎は、ジワリと汗の流れる
感覚を得た。今までの斬り合いは、ただ動いているだけだった。汗
はかくが、息は切れない。しかし、今は動いてもいないのに汗が噴
いた。張り詰めた空気に、微かに息が切れ始める。
総一郎はこの様な、立ち止まっての相対は自分の本領だと思い込
んでいた。しかし、偶にいるのだ。総一郎と静かに向かい合って、
それでも圧倒してくるような敵が。
ハワード。雲を掴むような相手だと、総一郎は評する。独自の戦
法がいくつかあって、それを使い分けているのだ。だが、これで打
ち止めだ。と言う風にも感じていた。勝負は、ここで着く。
1208
雲。雲を斬るには、どうすればいい。総一郎は目を細める。父と
向かい合った時は、初めは空気と向かい合っているような感覚だっ
た様な気がしている。それが、ある日突然壁になった。高く、越え
られない壁に。
騎士候補生たちは、よほどの手練れでもない限り、はっきりと何
かを感じることはなかった。手練れの場合は、いつも相手は自分に
変わった。数瞬前の自分と向かい合い、その度に斬り捨ててきた。
雲と相対している。と言う気持ちにさせられたのは、初めてだっ
た。捉えどころのなさも勿論ある。しかし、その本性は違った。隠
して、誰にも掴ませないようにしている。だからこその、雲なのだ。
膠着が崩れる未来が、見えなかった。一生向かい合わねばならな
いような、そんな気がした。汗が、より多く伝う。ハワードもまた、
幾筋もの汗に濡れていた。
そこに、番狂わせが起きた。
﹁ハワード! 俺、本当はお前の事を愛していたんだ!﹂
﹁はっ、はぁ!?﹂
ファーガスが横から入れた大声に、ハワードは大きく狼狽した。
総一郎の緊張はその一瞬に解かれ、思わず﹁あ、隙だ﹂と言いなが
ら駆け寄って、胴体に一撃入れる。
﹁ぐぁぁあああああああああああああああああ﹂
1209
﹁悪は滅びた⋮⋮﹂
﹁やった! これで世界に平和が戻るんだ!﹂
ファーガスと適当な事をテンション高めに言い合って、総一郎は
テクテクと彼に近寄って﹁いぇーい﹂とハイタッチ。﹁ちょっと待
てや⋮⋮﹂と恨み深そうにこちらを睨む一対の視線。﹁キャッ怖い
わ﹂とファーガスが裏声で飛び込んできたので、片腕で抱きしめな
がら﹁安心してくれ、マイハニー﹂と言いつつハワードに木刀を向
ける。
﹁魔王よ! お前の時代はもはや終わった! さっさと地獄に落ち
るなりなんなりするがいい! さぁ、ハリーアップ!﹂
﹁急かすんじゃねぇ! 地獄行きを﹃バスに乗り遅れるぞ!﹄みた
いに言うんじゃねぇ! というか、何だお前ら。もしかして示し合
せてやがったのか?﹂
﹁うんにゃ。ソウイチロウが憎きハワード相手に頑張ってたから、
当然のように助けを入れたまで﹂
﹁そして僕はそれに乗ったまで﹂
﹁お前らもう死ね⋮⋮﹂
ハワードは目を覆ってため息をついた。
﹁うっわアイツ軽々しく死ねとか言いやがったよ。あり得ねぇな﹂
﹁ちょっと危ないね、これから近づかないようにしようよ﹂
1210
﹁お前ら二人そろうと凶悪だな!? 何でこの三人になると必ずオ
レが弄られるんだ!?﹂
﹁うーん。数の暴力と言いますか﹂
﹁いっつも俺の事弄ってくれるから、ソウイチロウと言う頼もしい
パートナーが居る時くらい弄りまわしてやろうかと思ってよぉ﹂
﹁ファーガスの目がマジで怖ぇよ⋮⋮﹂
引き気味に言ったハワードに、くつくつと総一郎は笑いをこらえ
られなくなってくる。それにハワードがすぐに乗っかってきて、フ
ァーガスによって高笑いに変わった。中々相性のいいトリオなのか
もしれない。と総一郎は嬉しく思う。心の奥底が冷めていても、ひ
とまず表面は温かいのだ。
一層ハワードと仲良くなって、別れる頃には﹁オレの事はネルで
いいぜ﹂と軽く告げられた。信頼の証のつもりなのか。﹁ああ、よ
ろしく﹂とハイタッチして、別れた。
イギリスの空の上で、雲が風に乗って走っていく。
1211
4話 胡蝶の夢︵5︶
クリスタベル・アデラ・ダスティンとは、良くファーガスを介し
て茶会を開く仲だと言えた。
メンバーはいつも、ファーガス、ベル、ファーガスの愛猫のアメ
リア、そして自分の三人の一匹で行われる。ベル、と言う愛称で呼
び始めたのは、最初のお茶会で妙に打ち解けた時からだ。女性は議
論を嫌うという話を聞いたことがあったが、あの時の雑談は議論染
みていた割にかなり盛り上がった。もっとも内容など全く覚えては
いないのだが。
最近ではもっぱら二人の仲をからかうのが総一郎の役割で、普通
こういうデリケートな話題などそう触れられるものではないのだが、
二人に関してはいくら突いても関係に難が出るという事がない。必
ず彼らは互いに一瞬だけ見合って、すぐにそらし、赤面し合うのだ。
傍から見れば早よくっ付けという感じである。もっというなら爆発
すべきだ。
とはいえ、ファーガスは少々遠慮してくれているというか、会話
の中心に総一郎を据えたがるところがあった。そういう時、総一郎
はベルと様々な事を語り合う。同調し合うというよりは、やはり議
論めいていた。冷静に、ある事柄について掘り下げていくのである。
例えば、こんなことを話したことがあった。
お茶会では、毎回ベルがティーバックを引っ提げて来てくれる。
それをいつものように相伴にあずかっていると、総一郎はふと思い
1212
立って、こんなことを言ったのだ。
﹁ところでさ、ミントティーって不味いよね﹂
議論、勃発である。
﹁⋮⋮何をもってそう判断したの? ちょっとよく聞かせてほしい
んだけど﹂
﹁え? あれ、逆鱗触れた?﹂
﹁ベルは基本、紅茶なら何でも行けるからな﹂
﹁ああ、なるほど。⋮⋮果たしてミントティーが紅茶なのかどうか
は、今は置いておくとしよう。で、先ほどの質問に返答させてもら
うけど、ベル。僕がミントティーを不味いと評したのは、歯磨き粉
の影響が強いかな﹂
﹁そう、⋮⋮なの? 私からしてみれば、特に同じ味とは思わない
けれど﹂
﹁イギリスの奴はちょっと違うね、確かに。ただ、日本のそれはド
ンピシャでミントティーの味がするんだよ。だから、何とも不味く
感じてしまう、という訳だ﹂
﹁でも俺、チョコ味の歯磨き粉使ってるけどチョコ好きだぜ?﹂
﹁えっ、幼稚園児?﹂
﹁ソウイチロウ、もっとこう、オブラートに包んでだな⋮⋮﹂
1213
﹁ファーガスの話に乗っかって言うなら、ソウの説明は間違ってい
ることになるね﹂
﹁うーん。そうかもしれない、けど、嫌いなものは嫌いだから仕方
ないさ。逆に聞くけど、ベルは緑茶好き?﹂
﹁⋮⋮飲んだことがない、かな。けど、ソウ。その質問はちょっと
論旨から逸れてはいない?﹂
﹁そもそもの主旨って何さ﹂
﹁ミントティーは美味しいか、否か﹂
﹁よっ、本日の議題であります!﹂
﹃ファーガス静かに﹄
﹁何だよ二人とも、偶には俺だってボケたい時があるんだよぅ⋮⋮﹂
﹁私はミントティーを美味しいと断定する。ほのかに甘く、何より
あのすっきりとした後味からして、不味いと評すべき点は一切存在
しないはずだよ﹂
﹁むむ、言葉にすると中々反論しにくいな。しかし、それは普遍的
なものではないよね? 人には人の好みがある。ドクターペッパー
が何よりも好きな人も居る一方で、絶対に飲みたがらない人だって
多い。ちなみに二人はどっち派? 僕は結構好きだよ﹂
﹁あれは人間の飲み物じゃない派だな﹂
1214
﹁三日間連続で飲むと確実に飲む習慣がついて止められなくなる派
だよ﹂
﹁⋮⋮ちょっとこの事も話題の槍玉にあげたくなったけど、ひとま
ず後回しにしておこう。ともかく、人の好みに当てはまるかどうか、
その中でもとりわけ、この場では僕の味覚に適合するかが問題にな
っている訳なんだ。それを否定するという事の意味を、君は分かっ
ているのか?﹂
﹁なんかだんだん話が壮大になって来たぞ﹂
﹁いいや、それでも私は否定するよ。君が不味いというのは、間違
いなく先入観の所為だ。日本での歯磨き粉の味に似ているから、と
いうね。でも、ファーガスのチョコ味の歯磨き粉の話が、それを否
定した。なら、この場でもう一度ミントティーを呑んで、先入観に
囚われなくなったソウは、果たして再び、ミントティーを不味いと
いうのかな?﹂
﹁話についていけないのは俺が馬鹿だからなのか? それともこい
つらが馬鹿なせいなのか?﹂
﹁そういう風に言われると、少し自信がなくなってくるね。かつて
味わったミントティーの記憶が曖昧になってくる。と言うかミント
ティーって言葉が半ばゲシュタルト崩壊を起こしてるけど、⋮⋮そ
うだね、今飲んだら、もしかしたら美味しいかもしれない﹂
﹁ふふふ。今回の議論は私の主張が通りそうだね。じゃあ、急いで
ミントティーのパックを持ってくるから、待っていて﹂
1215
席を立ち、てててと走っていくベル。手を振って見送る総一郎。
彼女の姿が見えなくなってから、ぽつりとファーガスに話しかけた。
﹁ミントティーってさ、ミントから精製したお茶の事で合ってるよ
ね?﹂
﹁マジにゲシュタルト崩壊してんじゃねぇよ。合ってるから。そし
てミントはちゃんと歯磨き粉の味付けに使われてるから﹂
﹁うん。⋮⋮何かさ、僕もしかしたら違う紅茶の葉っぱの話をして
いるのかと少し不安に﹂
﹁おーい! 取って来たよー﹂
﹁帰ってくんのクソ早いなアイツ﹂
てててと戻ってきたベルは、すでに魔法瓶の中にミントティーを
入れていたらしく、そのままティーカップに注いだ。何でも、食堂
に問い合わせたら余りがもらえたのだと。
総一郎は、ミントティーを目の前にして香りを嗅いだ。爽やかな、
ミントの匂い。歯磨き粉などという事は考えず、心を静かに保った。
そして、視線が集まるのを感じながら、一口付ける。
ベルの喉が、ごくりとなった。真剣な目で、見つめている。それ
に総一郎は慈愛の微笑みを浮かべて言うのだ。
﹁いや、やっぱ不味いよこれ﹂
と言う風に、馬鹿馬鹿しい事まで喧々諤々と真面目な意見を飛ば
1216
し合う、ある意味これ以上ないほど誠実な間柄であったのだが、そ
んな風に茶会のイメージの強い彼女だったから、修練場で遭遇した
時はそれなりに驚かされたものだ。
﹁⋮⋮君も、こういう所に来るんだね﹂
﹁うーん、まぁ、他の皆が頑張っているからね。私だけ怠けるとい
う訳にもいかないよ﹂
苦手ではあるけど、と呟くベルの姿には、何となく哀愁が漂って
いた。それだけ争いごとに向かない性格をしているという事は、度
々話すことで理解できた。だが、それでも彼女が弓を携える姿を見
ると、ある光景が脳裏をよぎるのだ。
奇妙な光景である。ファーガスの話を聞く限りでは、恐らく在っ
た事ではあるのだろうと考えていた。しかし、記憶は情報に忠実で
はない。
恐怖したような表情で居ながら、的確に要所を矢で射ぬき、その
上でファーガスの刻んだ弱点の印に矢を射たベルの姿。鬼の魔の手
が来ようと、怯えを一層大きくしながらも安直に手を狙わず、足を
地面に縫い付け横倒しにし、ほぼゼロ距離から必殺の一撃を放って
いた。
ベルと疑わしきその少女の動きには、鬼気迫るものがあった。同
時に、既視感も。その正体は分からない。だから、ずっと気になっ
ていたのだ。
﹁ならさ、折角だから模擬戦をしない?﹂
1217
﹁えっ? 私と、ソウが?﹂
﹁うん。とはいっても、手加減は勿論するよ。それに、もしかした
ら負けるかもしれないし。そうすると名前に箔が付くよ?﹂
﹁いらないよ、箔なんて⋮⋮。それに、勝てる訳ないじゃない。私
は一騎士候補生で、君は騎士学園を半ば敵に回して数か月生き延び
た男だよ?﹂
﹁言葉にすると凄いような気もするけど、一度に戦った人数なんて
高が知れているからね。とにかく、やろうよ﹂
﹁強引だなぁ⋮⋮。ファーガスには内緒だよ?﹂
﹁いやごめん、内緒にする意味が分からない﹂
そんな風にどこか気の抜けた会話をしつつ、総一郎は剣を構えた。
早朝の修練場は、この学園が神域であることを強く意識させる。黙
っていれば、何も聞こえない。ただ、景色が白んでいる。
早朝、夜は、総一郎の時間だ。昼間は、奴らを避けて生きている。
ベルが、練習用の矢をつがえた。一呼吸。総一郎は踏み出し、駆
け出す。
様子見に、手心と迫力を込めて近づき、木刀を素早く突き出した。
ベルは、反応しない。少々引きつったような表情で居はするが、攻
撃が当たらないことを理解した上で動かないでいる。
矢。至近距離だったが、軌道が見え見えで避けやすかった。総一
1218
郎は後退する。ベルも再び矢をつがえながら、文句を言った。
﹁手加減なんて言いながら、結構本気じゃないか!﹂
﹁え⋮⋮? 怖がらせはしたけど、全く力は籠めてないよ、僕﹂
﹁怖がらせ、⋮⋮?﹂
戦闘で怖がらせる、と言う発想が、全くベルには無かったらしい。
ぽかんと口を開けて、こちらを見ている。
﹁じゃあ、試しはこんなものでいいね。ベルの実力の程度もある程
度掴めたし。ここからは、聖神法込みで来ていいよ﹂
総一郎は木刀を手元で一回転させ、息を吐き出した。完全に肺を
空にして、三秒。息を吸い始め、満タンにしてから、十秒。
吐き出す。腰に杖に軽く触れ、﹃ハイ・スピード﹄を発動させて
からベルに向かって一息に近づいていく。
ベルは総一郎の気の入りように驚いたような顔をしていたが、そ
れでも矢を放つのを忘れなかった。狙いが、微妙にずれている。こ
れなら叩き落とすまでもないと判断した。
それが、唐突に二つに分かれて腕に絡みついた。
総一郎は呼吸を忘れる。駆け足は瞬間止まり、ベルの第二射を許
すことになった。飛んでくる。二本。だが、総一郎の足元に刺さっ
た。それが結界と化し、行く手を阻む。
1219
ベルの搦め手の上手さに、総一郎は驚愕した。腕に絡まった矢は
すでに取れていたが、彼女に近づくのはより困難になった。ベルは
淡々と矢を放ち続け、結界を大量にはられていく。よく見れば、そ
の口は絶えず小さく祝詞を挙げ続けていた。
これは、と思わせられるような実力の持ち主だった。しかし、こ
の戦法は少々総一郎と相性が悪い。木刀を振るい、結界を破った。
ベルはわずかに瞠目する。総一郎は不敵に笑いながら、再度彼女と
の距離を詰め始める。
思い返せば、これが、この模擬戦でベルが示した最後の表情の変
化だった。
ベルは総一郎の木刀の脅威を知ってから、直接総一郎に矢を向け
るようになってきた。三本が、一度に飛んでくるのだ。それを、切
り払って進む。
一本が、眼前に。それを叩き折ると、腕に二本目が掠る。三本目
の矢は、必ず総一郎の真横を通り過ぎた。矢を避けようという動き
をすると、当たる軌道だ。
息が苦しくなる。久しい感覚だった。ネルと立ち会った時は、息
を荒げはしたものの、苦しいというほどではなかった。けれど、今
は確実に体力をすり減らされている、と言う気分でいる。
汗。目に入るが、拭う余裕さえなかった。途中から、ベルではな
く魔物と戦っているような心持になった。少しずつ、距離は詰まっ
ている。しかし、届く気がしない。
総一郎は素早く息を吐き、横に駆け出した。矢が追ってくるが、
1220
届かない。そのまま攪乱するように動き、相手に近寄っていく。五
本の矢が、一度に襲い来た。二本を落とし、二本を避け、一本を食
らった。足。怪我はしないが、痛みが総一郎の動きを鈍らせる。
肉薄。とうとう、刃の届く距離にたどり着いた。しかし彼女は紙
一重で総一郎の剣を避け、一本の矢を放つ。服に、刺さった。
﹁神よ、我が敵に聖なる鎖を﹂
しまった、と思った時にはもう遅かった。服に刺さった矢が、急
激に総一郎の負荷となる。一瞬背後を見て、分かった。今までの矢
が、陣として機能しているのだ。服の矢を抜くことは難しかった。
飛びくる攻撃を避けながらでは、木刀で効力を失わせることも叶わ
ないだろう。
﹁︱︱︱︱︱︱!﹂
総一郎は歯を食いしばり、ただ重圧に耐えた。﹃ハイ・スピード﹄
と敵の呪縛が相殺し合っている。気づけば離されていた空間。それ
でも、走った。脳の奥が、ちりちりと焦げ付いているような錯覚に
陥る。
視界の明滅。ふと、何かを見たような気がした。獣。己の姿。そ
れ以上は、分からない。気づけばベルが眼前に居た。完全なる無表
情。すでに弓を引いている。総一郎の木刀も、振り下ろす途中だっ
た。
その瞬間、彼女は我に返ったようにハッとした。
矢が、放たれた。頬を掠り、飛び去っていく。総一郎は足を払い、
1221
のど元に木刀を突きつけた。ベルは地面に仰向けになり、総一郎は
それに覆いかぶさっている。
﹁⋮⋮ほら、やっぱり負けた。勝敗が分かってることほどやりたい
ものもないよ、もう﹂
﹁いやいや、⋮⋮そんな。拗ねるには、及ばないよ。剣と弓矢って
いう相性の悪さももちろんあったけど、かなり苦戦させられた。こ
れなら十分名前に箔が付くレベルだよ﹂
﹁ふん。煽てたって曲げたヘソはすぐに直す気はないよ。⋮⋮ちょ
っと退いてくれる? うん、ありがとう﹂
ベルは立ち上がって、久しぶりに汗かいちゃったよ、と額ににじ
む汗を拭った。その後、彼女は軽く総一郎に別れを告げてから﹁シ
ャワーシャワー﹂と言って小走りに遠ざかっていく。総一郎も一旦
はそれを笑顔で見送って、姿が見えなくなってから、手をおろした。
﹁⋮⋮手加減を、された﹂
負けたとは、言いきれない。しかし、勝ちを譲られたことは確か
だった。
修練場を後にし、部屋に向かって歩いていた。ぐるぐると、言い
ようのない感情が渦巻いている。扉を閉めて、息をついた。
﹁ベルちゃん、強かったね﹂
振り向く。だが、誰もいない。幻聴を疑いながら、前を向いた。
ナイが飛びついて来て、総一郎の唇を奪う。
1222
右足を咄嗟に後ろにつきたてて、転倒だけは免れた。ひとしきり
唇を吸ってから、唇だけ離して、焦点がぼやけるほどの近距離で彼
女は微笑む。
﹁うふふー。今日も総一郎君の唇は美味しゅうございます﹂
﹁⋮⋮あんまりふざけるなよ、ナイ﹂
﹁むー、相変わらずつれないなぁ、総一郎君は﹂
少し後ろに下がって、ナイはにやりと笑いながら自分の唇を舐め
る。総一郎は口元を拭いながら、それを渋面で眺めた。いや、と思
い直す。力を抜くと、表情が自らの顔から抜け落ちた。
総一郎は、彼女に対して表情を作らない。作る気もないし、作ら
ずとも心情を見透かされるからだ。
ここの所、ナイは毎日のように総一郎の前に現れる。今日は違う
が、大抵は夜だった。曰く﹁やるべきことはすべて終えてしまった
から、暇なんだよ﹂との事。﹁それが僕の所に繋がる理由が分から
ない﹂と言えば、﹁ボクが君の事をとっても好きだから!﹂と返さ
れた。
どうせ嘘に決まっている。
﹁嘘じゃないのになー。ふんだ。何を言っても信じてくれない総一
郎君なんて嫌い!﹂
べー、と舌を出すナイに、﹁それならここにいる必要はないね﹂
1223
と言って総一郎は一人シャワールームに足を向ける。
﹁ああ! ごめん、総一郎君! だからそんな拗ねないでよ、もう
∼﹂
﹁それで? 要件は?﹂
無いなら帰れという意思を込めて、総一郎は尋ねた。小さな笑い
声が返ってくる。
﹁⋮⋮﹂
沈黙。視線を、投げかける。含み嗤う様に、ナイは語りだした。
﹁総一郎君。君は今、非常に大事な時期に差し掛かっている。ファ
ーガス君を通じて知り合った三人は、誰をとっても君と強い運命に
結ばれているよ﹂
﹁それは、何? また、予言でもしようって?﹂
﹁ううん。彼らの事は、根っこの根っこまで素性が知れているから
ね。﹃君たち﹄とは違うんだ。そして、それを知ってあまりに数奇
なものだから笑ってしまったよ。予言だなんてとんでもない! 知
ってしまえば誰でも、これからの事は予想がつくよ﹂
﹁⋮⋮つまり、何が言いたいのさ﹂
﹁︱︱警戒してほしい。それだけだね、今のところは。一人は、君
の生涯にかかわるとても頼もしい人物になってくれると思う。けれ
ど、残る三人は全員、君と命のやり取りをすることになる。直接的
1224
にも、間接的にも、ね﹂
﹁君は、一体何を言っている?﹂
﹁さぁ? ⋮⋮冗談だよ。あの子たちはみんないい子だから、全員
と、仲良くするんだよ。いい? 返事は?﹂
﹁君に言われるまでもない。言いたいことが言い終わったなら、さ
っさと帰れ﹂
総一郎は、無表情にナイを見つめた。彼女も、総一郎を見つめ返
してくる。そして、わざとらしくため息を吐いた。﹁ちぇ﹂と言う。
﹁神様をそんな風に扱って、罰が当たっても知らないんだからね!﹂
暗くなり始めたベランダの方へ駆けていき、ナイは総一郎に舌を
出した。窓を開け、飛び出してしまう。総一郎はただ、開け放たれ
た窓を閉めに行くためだけにベランダへ立った。
何の気なしに、ナイの消えていった方角を見つめる。呟きが漏れ
た。
﹁ナイ。君が、一体何考えているのか、僕にはさっぱり分からない
し、分かりたくもない﹂
総一郎にとって、ナイは不気味な存在の体現だ。しかし、総一郎
が素で接することが出来るのも彼女だけだというのも事実である。
何を考えているのか、分からない。だが、分かりたくもない、と
いう言葉が真実なのかは、確信できなかった。
1225
ため息を吐いた。頭を振って、服を脱ぎ始める。
1226
4話 胡蝶の夢︵6︶
今日も今日とて、﹃美術教本﹄をめくる。紙は少しずつ傷みはじ
め、もはや内容を丸暗記してしまうほどに読み返しもしたが、それ
でもなお謎は解けない。
総一郎は、嘆息して顔を上げた。深夜三時ほどである。目頭を押
さえてぱちぱちと開閉する。ナイに騙されたのかと考える事もあっ
たが、彼女は総一郎が無駄な苦労をして喜ぶ性質ではない。その為、
信じることにした。
﹁どうしたの? 総一郎君。疲れた?﹂
ちなみに件のナイは、総一郎の膝の上に座って小説を読んでいる。
背の差もあって、客観的には仲の良い兄妹のように見えるのだろ
う。しかしその実態は違う。総一郎に、彼女を退かす術がなかった
のだ。
一度、本気で馴れ馴れしい態度の彼女を部屋から排除しようとし
たことがあった。が、結局自分から離す事さえまともに叶わなかっ
た。彼女の体重移動を巧み過ぎる。ついには倒れた総一郎に馬乗り
になって、キスの嵐を降らせたほどだった。
最近の総一郎は、はっきり言って諦め気味だ。
﹁疲れた。糸口が何処にも見つからないんだけど、これ﹂
1227
事実彼も、ナイのあまりの馴れ馴れしさに釣られてしまっている
節があった。
﹁まぁまぁ、若い内の苦労は買ってでもしろっていうじゃない﹂
﹁言うけどさぁ⋮⋮。見合うものが今の所ないんだよ。本当に何か
あるの? 文中に出て来る美術家とかの名前、片っ端から調べたよ、
僕﹂
﹁ヒントは出さないよ。せいぜい頑張ってねー﹂
いたずらっ子を思わせる笑い方で、ナイは肩をゆすった。それが
何処か白羽を思わせる。︱︱しかし、白羽自体の事は、詳しく思い
出せなかった。ただ、総一郎の中で象徴として残っている。
総一郎は、もう寝ることにした。﹁寝るから退いて﹂と言った時
だけは、素直に従ってくれる。ベッドで横になると、ナイは少年の
顔を覗きこみながら優しげに微笑んだ。そこにどんな意図があるの
かは、分からない。
﹁おやすみなさい、総一郎君。良い夢を見るよう、おまじないを掛
けてあげる﹂
﹁悪夢を見て怖い思いをする年でもないよ﹂
﹁悪夢なんか見せないよ! まったく、失礼しちゃう﹂
指先で、彼女はトンと総一郎の額を突いた。それと共に、急激な
眠気が彼を襲った。
1228
﹁じゃあ、また明日ね﹂
﹁うん、おやすみ⋮⋮﹂
まどろみに、総一郎は溶け出した。完全に眠ってしまう前に、一
度だけ心に文字を並べていく。
﹃ナイ。君が何をたくらんでいようと、僕は思い通りにはならない
からな﹄
そうする事で、総一郎は安心して、今日も一日を終えることが出
来る。
総一郎が、ファーガスたちのパーティに加入することが決まった。
ネルが率先し、それをほぼ全員が快く受け入れてくれたという形
だった。シルヴェスターだけは少々ぎこちなかったが、それは仕方
のない事だ。むしろ、彼女だって騎士候補生の平均からしたら、飛
び抜けて総一郎を嫌っていない部類に入る。
戸惑いもあった。しかし、奇跡の様だとも思っていた。だからこ
そ有難かった。そして同様に、申し訳なかった。
涙を流すほどの感動を、本当なら感じてよい場面だった。それを
あまりに冷ややかに眺める自分が、総一郎の真ん中に立っていた。
︱︱彼らは、一体何が目的なのだろう。その様に懐疑的になって
しまう自分の存在が、堪らなく嫌だった。
1229
人と会話する。その裏で、何事かを疑う。そんな自分に吐き気を
覚えるようになったのは、最近の事だ。唯一、ファーガスだけはそ
うならない。他にはナイもならなかったが、彼女の場合は間違いな
く裏があるので罪悪感がそもそも湧かないのだった。
そんなある日の終末。授業を終えて、総一郎はあてもなく彷徨っ
ていた。
一人きりで山には行けない。暗殺されるほど弱いつもりはなかっ
たが、それでも一人きりであの場所に居るのは気分が悪かった。
かといって、他に行く場所もないのだ。図書館に行く気分でもな
く、仕方がないと、部屋に戻って静かにしているつもりだった。当
然ナイの茶々があるだろうが、我慢しよう。
その時、背後から親しげに肩を叩く人物がいた。振り向く、ファ
ーガスが立っている。
﹁よう、ソウイチロウ。今忙しいか?﹂
﹁まさか。もしかしてそれ嫌味?﹂
﹁お前も中々毒を吐くなぁ。ハワードから悪影響受けてんじゃねぇ
の?﹂
﹁いやいや、そんな事はないって。ところで用は何だよクソ野郎﹂
﹁滅茶苦茶影響受けてんじゃねぇか!﹂
1230
お互い、くつくつと笑った。﹁それで﹂と笑みを湛えながら、総
一郎は尋ねる。
﹁用事は何? 暇だから大抵の事は付き合えるよ﹂
﹁ん? ああ、今日じゃなくて明日なんだけどさ。大丈夫かなと思
って﹂
﹁言わせんなよ、恥ずかしい﹂
﹁⋮⋮何だろう。こういうネタをぶっこんでくる相手と話すのって、
やっぱいいよなぁ﹂
﹁この歳にしてジェネレーションギャップを味わっている、と﹂
﹁そりゃお前、三百年も前だぜ? 三百年前って言ったらなんだ。
何が有名だったっけ?﹂
﹁⋮⋮ジブリ、とか﹂
﹁いの一番にそれが出てくるっていうのが、なんとも総一郎らしい
というか⋮⋮﹂
﹁後は水戸黄門﹂
﹁ん? あれ? とてつもなく迷いない口調で言われたけどあんま
り共感できないぞ?﹂
明日、一緒に遊びに行かないか? と言う誘いだった。総一郎に
は、断る理由がない。強いて言うなら同じように街に出た貴族に見
1231
つかりたくないという事があったが、それについては他人の認識を
ずらす効果のある﹃フェイス・チェンジ﹄と言う聖神法があると教
えられた。
使い道は学年末試験程度と限定されているスキルだが、味方には
そのまま、敵対勢力には違う顔に見えるという効果はなかなかに有
難いものだった。
そんな訳で、翌日、あまり人目につかないよう、午前四時を回っ
たところで学園を出た。そのまま街を抜け、電車に乗る。予定時刻
より少し遅れているのはお国柄だ。
﹁それで、何処に行くんだっけ?﹂
﹁ん? ⋮⋮やべぇどうしよう。決めてなかった﹂
﹁なんと﹂
﹁まぁ適当にやろうぜ。ソウイチロウはどこか行きたいところある
か? 俺はゲーセン行きたい。そしてゲーセンが三百年たった今で
も存在していることに感動したい﹂
﹁僕は本屋だね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ショッピングモール﹂
﹁それだ!﹂
1232
行先決定である。
お高く留まった貴族などこんな場所には来ず、きっと敷地内の町
中で満足するだろうと当たりを付けて、二人はそれほど離れていな
い街のショッピングモールに向かった。
とはいえ、こんな早い時間にやっている訳もない。とすると予定
を少々変更しようという話になった。総一郎は安価で入れる歴史的
建造物の類へ赴くことを提案し、ファーガスはそれに快諾した。
豪奢な建物。調べた通り早い時間から開館しており、二人で入っ
た。イギリスの古い建造物は、日本とは正反対に位置しているよう
に思う。煌びやかなステンドガラス。厳かな石造りの柱、壁。ファ
ーガスはたどたどしい解説をしてくれ、それで詳細を思い出した総
一郎が歴史の人物をどこか小馬鹿にした裏話などを聞かせるなど、
中学生にしては知的で有意義な時間となった。
そこで、何故かネルと遭遇した。
ファーガスと彼の間に戦慄が走ったのは、総一郎にも分かった。
﹁⋮⋮何でお前らがここに居る﹂
﹁こっちのセリフだ馬鹿野郎﹂
腐っても貴族の学園に通う者同士。史跡の中で大声を出す愚かな
真似はしなかった。
﹁というか、は? マジに何でこんな所に居るんだよ。ブシガイト
は分からなくもないが、グリンダー。お前はこういう場所に来ると
1233
頭が痛くなるんじゃなかったのか?﹂
﹁勝手に人をお馬鹿キャラに仕立て上げるな。っつーか、それを言
うならお前の方が意外だっての。何史跡見に来てんだよ。ゲーセン
で十人抜きとかして調子に乗った途端ぼろぼろにのされて、いらい
らしながら戦線離脱したところで遭遇とかの方がまだ納得できたっ
てんだよ﹂
﹁ゲーセン? あー、アーケードセンターの事か。ハッ。あんな下
賤のたまり場になんざ行けるかよ﹂
﹁そーかい。そういや、お前はこれでも大貴族様だったな! ケッ、
気分の悪い。行こうぜ、ソウイチロウ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ソウイチロウ? どうした﹂
微妙に感じ入るところがあって、総一郎はその場にとどまりネル
に視線を送っていた。すると彼は気付いてから数秒無視をし、しか
し耐え切れなくなって﹁何だよ⋮⋮﹂と嫌そうな目を向けてくる。
﹁本当に、ゲーセン嫌い?﹂
﹁だから、あんな下賤のたまり場﹂
﹁ネルはさ、どっちかと言うとアウトローに憧れてるんだよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
1234
﹁立場忘れてたね?﹂
総一郎がにやりとすると、彼は舌を打つ。
﹁つーかよ、オレは一度もアーケードセンターに行ったことがない
んだが、どうなんだ、ありゃあ。暇つぶしになるか?﹂
﹁暇は潰せると思うよ。金も飛んでいくけど﹂
﹁そのまま人生潰す奴もいるけどな⋮⋮﹂
﹁なんか後ろでグリンダーが恐ろしいこと言ってるんだが﹂
﹁んー、そうだね。試しにやってみる? 時間的にはそろそろ開く
と思うし﹂
﹁え? ソウイチロウ、それマジで言ってんのか?﹂
﹁ネルの場合は、嵌まったら嵌まったで勝手に熱中するだろうし、
そうじゃなきゃ目を離した隙に居なくなってるよ。それにそれを差
し引いても、そこまで毛嫌いしなくてもいいんじゃない?﹂
﹁⋮⋮むぅ﹂
総一郎に説得され、ファーガスは不満顔で頷いた。基本は素直な
のである。
﹁仕方ないな、そこまでどうしても行ってみたい⋮⋮ッていうんな
ら、付き合ってやらなくもない﹂
1235
﹁そうだな。そこまで付いて来てほしい⋮⋮ッていうなら、付き合
ってやらないこともねぇ﹂
﹁君たち実は仲良しだろ﹂
ノリが実によく似ていた。
そんな訳で、二人旅から三人旅へ。行先はゲーセンもといアーケ
ードセンターである。何でもイギリスではこう言うのだとか。﹁腕
が鳴るぜ﹂と着いたらすぐに屈伸運動なんかを始めたファーガスで
ある。纏う雰囲気は完全に匠のそれだ。
しかし実際のところ、﹁生まれ変わってから初めてのゲーセンだ
! 懐かしすぎて涙が出てきそうだぜ﹂との言葉をすでに本人から
聞いている為、何とも微笑ましく思ってしまう総一郎だった。つい
でに言うなら彼の横で、勘違いを起こしたのか一緒になって準備体
操を始めるネルが微笑ましいを通り越して可愛い。教えてあげない
方がいいだろう。うん。
﹁⋮⋮? ブシガイト、どうした? お前は準備体操要らないのか
?﹂
﹁ああ、すでに済ませてしまったからね﹂
﹁そうか﹂
﹁⋮⋮はっ?﹂
戸惑った表情で総一郎とネルの間で視線を右往左往させるファー
ガス。にやりと笑うと赤面して、準備体操を止めて片手で顔を覆い
1236
俯いてしまった。愛嬌のある少年達である。
﹁ん、おいグリンダー。準備体操はこんなもんでいいのか﹂
﹁止めてくれ。話しかけるな﹂
﹁はぁ? 何だ、そりゃ。ケンカ売ってんのか?﹂
﹁まぁまぁ、ファーガスも久しぶりに来れて嬉しいんだよ。ほら、
感極まるっていうか﹂
﹁⋮⋮そんな面白い場所なのか、ここは⋮⋮﹂
周囲に視線をやりながら戦慄するネルである。それに、彼の背後
で肩を震わせる総一郎。今回は直接からかうよりも、遠巻きに眺め
ていた方が面白いかもしれない。
訪れたアーケードセンターは、端から端まで三十メートルはある
程度の大きさで、それを内包するショッピングセンターといえば大
きさも想像しやすかろう。大規模なこの建物の中には当然本屋も存
在していた。あとで頃合いを見て行こうと考える。品ぞろえもよさ
そうだし、欲しい本がいくつか見つかるかもしれない。
とはいえそれは、今は置いておく。とりあえず三人はぶらぶらと
彷徨って、何を一番にプレイするかを吟味していた。総一郎はそう
しているといつの間にかはぐれていて、﹁あれ﹂と呟く。
﹁⋮⋮迷子になっちゃった﹂
我ながら暢気なものだ。
1237
そうして歩いていると、更に迷ってしまい、最終的にはゲーセン
から出て店並ぶ道を歩いていた。振り返るも、ゲーセンの姿は消え
ている。
﹁⋮⋮あっれぇ?﹂
おかしいな、と首を傾げる。自分はこんなにも方向音痴だっただ
ろうか。
しかしなんとなく元来た道を戻る気にもなれなくて、そのまま真
っ直ぐに歩いていた。すると本屋を見つけ、お、と思い入店。中で
散策していると、ちょうど目当てのものがあって読み始めてしまっ
た。一ページ読み終わり、捲るときに自分の行動を振り返って客観
視した。ハッと我に返る。
﹁⋮⋮冷静になって考えると、僕はアレか? 頭がお花畑の人か?﹂
流石におかしいと気づく。自分がそれなりに人と違うことは認め
るが、少なくともこっち方面ではない。ぱっぱらぱーではないのだ。
ないはず。
﹁というか、僕は何で一人なのにこんなに晴れやかな気分で居られ
るんだ?﹂
いつもと違う。まるで、騎士学園に入学する以前のような心持。
その時唐突に、頭が、痛んだ。数秒。頭痛が取れた時、思考は霧
散していた。ぼんやりと立っている。その時、あるものを見た。
1238
﹁⋮⋮え? 何であの二人が居るんだ?﹂
ベルと、シルヴェスター。二人が、笑顔で本棚を指さしながら歩
いている。
﹁あ、やぁ! ソウ! どうしたの? こんな所に一人でぼーっと
して﹂
﹁え、⋮⋮そういえば二人が居ない⋮⋮﹂
﹁二人って誰ですか?﹂
シルヴェスターの言葉に、総一郎は﹁ああ﹂と返す。
﹁ファーガスとネル﹂
﹃あの二人が一緒にお出かけ!?﹄
ハモっていた。
﹁偶然時間つぶしてたら遭遇してね。来てほしい道に餌を置いて、
さりげなく退路を塞いで、あれやこれやで三人ゲーセン﹂
﹁と言う割には二人が居ないね﹂
﹁さらっとブシガイト君が空恐ろしいことを言っていたのはスルー
ですかベル⋮⋮﹂
呆れたように肩を落としながらベルに呟くシルヴェスター。総一
郎は少し顎に手を当てて考え、思いついたことを告げてみる。
1239
﹁来る?﹂
﹁行く!﹂
﹁私の意見は黙殺ですか?﹂
﹁⋮⋮嫌?﹂
﹁い、いえ、嫌って程ではないですが⋮⋮﹂
数の暴力が功を奏して、いぇーい、と総一郎とベルはハイタッチ。
何となくだが、内面的に自分と彼女は似ている気がしないでもない。
ひとまず欲しかった本を購入して、道案内をすることになった。
おや、自分は方向音痴ではなかったか? と二人を先導しつつ不安
になったが、特に問題なく目的地にたどり着く。違和感もなく、そ
の中に入っていった。
﹁うわ、結構五月蝿いですね⋮⋮﹂
﹁入ったことないの?﹂
﹁うぇっ? は、はい⋮⋮﹂
戸惑った視線をよこすシルヴェスターに、総一郎は首を傾げる。
そんな少年に少女は目を瞬かせた。何か不可解なことがあるのだろ
う。総一郎の与り知るところではない︱︱
︱︱我に返る。思考の鈍化に気付く。シルヴェスターが戸惑った
1240
理由など、自分の様子の変化以外にあるものか。周囲を見渡す。何
者かが、自分に干渉してきている。誰が犯人かなど、考えるまでも
ない。頭痛。思考が押し戻される。競り合って、負けた。
﹁あー! ソウイチロウ! お前今まで何やってたんだよ!﹂
﹁え? ⋮⋮迷子ってた﹂
﹁ったくよお⋮⋮。お前がいてくれたら俺はこんなに散財すること
もなく⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
落ち込んだ様子のファーガスの背後から、両手から溢れるほどの
アイスを抱えたネルが現れた。紫色のシャーベットアイスを、無表
情にぺろぺろと舐めている。
﹁⋮⋮何となく想像つくけど、何があったの?﹂
﹁ゲームの勝敗で賭けてたんだよ⋮⋮。初めはさ、やっぱり要領知
ってる俺の方が強かったんだけど、途中でこいつプロみたいな気持
ち悪い動きを始めやがって⋮⋮﹂
恨みがましくファーガスが言うと、一歩進み出たネルが総一郎の
肩に手を置いた。しみじみと納得しながら、この様に言う。
﹁ブシガイト。お前の言うとおり、アーケードセンターってのはな
かなか楽しいもんだな。反省したぜ。まさか︱︱グリンダーをボコ
ボコにのして涙目にさせるのが、こんなに楽しいとは思わなかった﹂
1241
﹁黙れくそ野郎! 畜生ッ! こうなったらせめてこのアイス何個
か強奪してってやる!﹂
﹁あっ、テメェ止めろ! 取るな! 全部オレのだ、ああッ!﹂
﹁ほら、ソウイチロウ! ベルにローラも! 急いで食うんだ! この馬鹿に取り返される前に!﹂
﹁お、ありがとう﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁あっ、ああ、ありがとう! ⋮⋮ファーガスからのプレゼント⋮
⋮!﹂
とりあえずベルの分かりやすさには神がかり的なものがあると思
う。
争う二人を眺めながら、黙々とアイスをむさぼる総一郎たち。そ
の隣に並ぶ、小さな影。
﹁⋮⋮幸せそうだねっ、総一郎君﹂
﹁⋮⋮。ナイ。どうしたの? こんなとこ、⋮⋮﹂
唇を噛む。我に、返りかける。それを、彼女は封じた。近寄って
きて、人差し指で額を弾く。ピシッ、と。総一郎は何度か瞬きして、
ナイを見つめる。
﹁今は、楽しみなよ。何も考えず。記憶は、宝物だよ? 大切に作
1242
って、守っていかなきゃ﹂
﹁⋮⋮つまり、どういう事?﹂
﹁美しい物を知ることは、尊い事であるとともに残酷なんだ。見て
いる間はただ心打たれて、崩れる時はあまりにもむごい。言ってみ
れば、悲劇の代償の前払いという所かな。人間としてのボクと、無
謀の神としてのボク。どちらにも矛盾の無い行為だよ﹂
﹁よく、分からないな﹂
﹁うん、それでいいんだ。家に帰ったら、まほうは解けるから﹂
あまりに穏やかで朗らかな微笑みに、総一郎はただ、﹁そっか﹂
とだけ相槌を打った。ファーガスに呼ばれ、駆けつける。
﹁これ、やらないか? レーシングゲーム﹂
﹁いいね。じゃあ、負けた方はネルから余ったアイスを強奪しに行
くってことで﹂
﹁マジかよ⋮⋮。アイツ残りが三つくらいになったからこっちに背
を向けて丸まって食ってんだけど﹂
﹁クマっぽいね﹂
そんな風にして、総一郎は一日を過ごした。穏やかで、和やかで、
楽しい一日。ファーガスとネルは喧嘩ともつかない喧嘩をし、それ
を総一郎が仲裁に入ったりかき回したり、ベルは相変わらずファー
ガスにメロメロ︵死語︶で、シルヴェスターも釣られてくすくすと
1243
笑っている。
奇跡のような、一日だった。
帰り。帰宅して、ナイと二人きりになった。総一郎はベッドに腰
掛けて、視線を伏せている。横にナイは座り、﹁どうしたの?﹂と
問いかけてくる。
﹁⋮⋮まほうは、解けたんだね﹂
一言、告げる。彼女は視線を総一郎から外して、﹁うん﹂と言っ
た。
﹁楽しかったでしょ? あの、胡蝶の夢は﹂
しばし、黙っていた。そのまま、何も言わずに居たかった。けれ
ど、ナイは待っていた。だから、﹁ああ﹂と言った。
﹁いい夢だったよ。本当に﹂
ナイはそれを聞き、ニタリと嗤う。
また、間違えて席を選んでしまった。
日常に回帰した時、変化はこれと言ってあげられなかった。ただ、
今朝にナイが、﹁今日は車輪っぽいね﹂とよく分からないことを言
ったのみだ。︱︱そんな事より、と横目で盗み見る。
1244
これで、三度目のミスだった。総一郎は図書館などで、決まった
場所に座ろうとは考えない。いつもバラバラで、だから稀に、﹃座
らない方がいい席﹄に座ってしまう事がある。そしてそのミスは、
隣に少女が座る事で発覚するのだ。
﹁⋮⋮ぅ。⋮⋮スー、ハー。⋮⋮!﹂
シルヴェスターは、覚悟を決めるべく深呼吸をしたようだった。
そして怯えた様子で、しかしそれを必死に押し殺しながら総一郎の
隣に着席する。
前回は、良かった。ちょうど切り上げる寸前だったから、すぐに
立ち去ることが出来た。けれど災難な事に、今は少々掴めそうな、
調子の良いタイミングだった。彼女を避けるために部屋に戻ったら、
掴める物も掴めないような気がしてならない。
したがって、総一郎は横の空元気を振るう少女の事を、無視する
ことに決めた。非常に心苦しい決断だが、この機を逃す手は無いの
だ。
今回参考にしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチを筆頭とする歴
史上の画家の、絵画の中に隠された秘密について触れる書籍である。
﹃美術教本﹄にも多く取り上げられていたから、糸口になるかもし
れないと心を躍らせていた。
手がかりに、二、三時間ほど没頭して読みふけった。そして﹃美
術教本﹄を顧みて、硬直した。﹃モナ・リザ﹄の左手が男性だから
と言って、一体何になるのだ。他のページもめくって照らし合わせ
てみたが、何かが読み取れるという事もない。
1245
頭を抱えて、深くため息を吐き出した。そろそろ諦めてもいいだ
ろうかと、今夜にでもナイに打診してみよう。一か月も研究して何
も出なかったのならば、縁が無かったのだ。もうしばらく﹃美術教
本﹄の表紙も見たくない。
そんな風にしていると、訝しむような表情で、シルヴェスターが
こちらを見ていることに気付いた。今までだとほぼ誰に対しても気
を張っていたから大人びた小気味の良い言い返しが出来たが、今は
脱力感が勝って素が出てしまっていた。弱り切った無表情だったろ
う。
﹁どうしたの⋮⋮?﹂
﹁えっ、ああ、いえ。⋮⋮前から思っていたのですが、ずっと同じ
本を読んでいますよね。しかも、もう一冊を代わる代わる用意して。
⋮⋮一体何をしているのですか?﹂
いつも気まずそうな、怯えた様子の彼女にこれだけ饒舌にしゃべ
らせる程、総一郎は疲れていたらしい。ぼんやりとした口調で、答
えた。
﹁研究してるんだよ。この本には秘密が隠されてるって聞いたから。
でも、全然わかった物じゃないんだ。⋮⋮ふぅ、ちょっと癇癪起こ
しそう﹂
﹁起こさないでください。怖いので﹂
﹁だって何にも分からないんだよぉ∼⋮⋮!﹂
力のない声である。突っ伏したままでいると、﹁ちょっと見せて
1246
ください﹂と頼まれた。素直に渡す。
﹁⋮⋮日本語ですか。まぁ、読めないです﹂
﹁あげるよ。それで日本語勉強しなよ﹂
﹁いえ、結構です。⋮⋮しかし、何と言うか、一ページに七回も同
じ単語が出て来るんですね。著者は文章が下手なのでしょうか﹂
返します、と言われ、突っ伏したまま受け取った。ため息交じり
に、﹃美術教本﹄の一ページ目を眺める。疲れからくる眠気に半眼
のまま、総一郎は何故か七文字飛ばしで文章を読み始めた。指を辿
りながら、間延びした日本語を漏らす。
﹃おー、めー、でー、とー、うー、貴ー。⋮⋮は?﹄
いきなりムクリと上体を起こした総一郎に、シルヴェスターは驚
いたように身じろぎをした。構う間もなく、もう一度、七文字飛ば
しで読み上げる。
﹃お、め、で、と、う、⋮⋮貴殿は今、数秘術の門をたたいている﹄
息を呑んだ。間を空けず、次のページをめくった。七文字飛ばし
で文字を辿る。だが、そこに意味のある文章は現れなかった。
1247
4話 胡蝶の夢︵7︶
ナイが、総一郎の隣で絵を描いていた。
朝の予鈴が鳴る十数分前、総一郎がいる為妙な緊張感のある教室
の中である。ナイは独自の技術を使って身を隠しているらしく、誰
かがその姿に気付くという事もなかった。もちろん、総一郎には見
えている。
小説も丁度読み終えてしまって、暇だから眺めていた。総一郎以
外誰もいない最後尾の長机の上に座り、足をぶらぶらさせ、短い髪
を揺らして、笑顔で何やら書いている。鉛筆か、と総一郎は思った。
何を書いているのかは見当も付かない。
﹁うん、完成!﹂
納得した様子で、満足げに鼻息を吹かす。そしてこちらを向いて
﹁総一郎君﹂と呼んでくる。
﹁見たい?﹂
﹁見たくない﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁本当に。⋮⋮分かったよ、もう。見たい見たい。だからそんなに
しょぼんとしないでよ。君は本当に邪神なのか?﹂
1248
﹁一応邪神だよ? 一応。まぁ無貌の神は等価値だけどピンきりだ
から。ボクはその中でも異端だし﹂
﹁どっちなんだかよく分からないけど、とりあえず自分の価値を下
げるようなこと言わない方がいいよ﹂
ため息を吐きながら忠告すると、間延びした返事と共に描きあげ
た絵を渡される。棚田の様に下がりゆく長机を、上から眺める様な
絵だ。最奥には、巨大な黒板がある。
﹁⋮⋮これ、この教室?﹂
﹁うん﹂
﹁その割には、人が居ないね﹂
不思議に、寂しげな雰囲気のある絵だった。何となく、卒業と言
う二文字を思い出す。
﹁それね、来年のこの教室﹂
﹁来年?﹂
﹁うん。見えたんだ。だから描いたんだよ﹂
﹁ふぅん﹂
ナイの事だから悪趣味な絵でもかくのかと思ったが、予想に反し
ていて総一郎は少し気に入った。最近は美術に趣のある彼だからこ
その感性と言ってもいいだろう。
1249
﹁あげるよ。大事にしてね﹂
﹁いいの? じゃあ、遠慮なく﹂
くるくると巻いて、バッグに入れた。学内での木刀は、常に右手
で巻き付けたままだ。最近では左手一本の作業にも慣れてきた総一
郎である。
そのままナイは総一郎の横に座り、やる事もなくなって結局突っ
伏して寝始めてしまった。随分呆けた寝顔だ。少年も顎を手で支え
て、さて、どうしたものか。と考え始める。
﹃美術教本﹄の解読は、あれっきり進む事はなかった。一ページ
目以降には何度も同じ単語が繰り返されているという事もなく、今
の自分では無理だ、と諦めてしまった。﹃数秘術﹄と言う言葉につ
いても調べたが、何も引っかからないままだ。
それ故、何もすることが無く、暇であった。
正直な話、テストさえまともにこなしておけば進学には差し障り
が無いのである。あの山にはもはや敵などいないし、従って聖神法
に関わる単位の取得も順調だ。もっとも、聖神法自体をろくに使っ
ていないのは秘密である。
その為、いくらでも授業などサボタージュが可能だった。知識自
体は図書館で常に新しいものを仕入れているから、馬鹿になる心配
もない。今教室に居るのは、ひとえに暇の為せる業だ。部屋に籠る
よりはマシと言う打算である。
1250
とすれば、今年度最後を彩る学年末試験について思考が行くのは、
当然の事だった。確か放課後に山に集合するとかいう話だったか。
経験年齢から考えれば保護者の様な役回りになるはずが、仲間の一
人の立ち位置に落ち着いてしまう辺り、総一郎は﹃総一郎﹄なのだ
ろう。
記憶は、記憶でしかないのだと、最近思うようになった。昔に出
来た事の多くが、今は出来ない。無論前世出来なかった事の多くが
出来るようになったが、その全てが技術面における物事である。
趣味の領域。もっと言えば、無意義なアタッチメントだ。
杖から炎を出せても、自分の正体は分からないのだから。
﹁サバイバル戦だったっけ。地理は頭に叩きこんであるから、その
辺りをまず伝えておこうかな﹂
独り言を小さく呟いていると、教師が教壇に上がった。名前は分
からない。覚える価値もないだろう。半眼で見つめていると、彼は
一度咳払いをしてから大声を張った。
﹁おはよう、スコットランドクラス、第一年騎士候補生諸君! 突
然だが、今すぐ校門前の広場に集まってほしい。では全員、起立!
私に続け!﹂
言うが早いか、すぐにその教師は足早に教室を出て行ってしまっ
た。ぽかんとするのは総一郎だけでない。クラスメイト達も同じ風
に呆気にとられていたが、平然と立ち上がるものも一人いた。
色素の薄い金髪。ギルだ。
1251
﹁ほら、みんな何をぼんやりしている? 早く行こう。ヒューゴ、
ホリスも早く立ち給え﹂
彼がすたすたと教室を出て行ってしまったから、二人もそれに従
った。そうすると、他の少年少女らも理解して、慌ただしく立ち上
がる。
総一郎は、人差し指でナイを突いて立ち上がった。彼女が寝ぼけ
た風な声を漏らすのに、﹁移動だってさ﹂と伝える。﹁負ぶって⋮
⋮﹂と両手をのばされたから、デコピンをした。
最後尾からさらに五メートルほど離れて着いていく。木刀を持っ
ていると目立ちそうだったので、包帯を取って腰の布袋に入れた。
内容量が異次元のこの袋は本当に重宝する。最近購買で買ったのだ。
指定された広場に着くと、驚くべきことに他クラスの生徒もそこ
に集まっていた。憮然とした表情で、三クラスの教頭が片隅に立っ
ている。あの三人の仲が悪いのは、村八分で情報に疎い総一郎でさ
え知る事だ。
どういう事だろう、と抱き付こうとするナイの額を押さえながら
考える。自分が知らないだけで、これは行事の一つであったとか。
しかし、その割にはみんな慌てていた。連れてきた教師の態度も妙
だったし、それは違うだろう。
生徒全員の前で、一人の老女がマイクを取った。穏やかな表情を
している。物腰も柔らかいのだろうと思わせる人物だ。
﹁皆さん、急に呼び出してしまってすいません。ともあれ、お早う
1252
御座います﹂
学園長だろう、と見当を付けた。しかし、見当を付けると言うの
も変な話だ。総一郎は一度も彼女を見ていない。入学式の祝辞でさ
え、スコットランドの教頭先生が務めていた。立場があまり強くな
いのか。何か事情があったのか。
﹁私の事を知らない方も多いでしょう。改めて自己紹介をさせてい
ただきます。私の名はヘレン・セルマ・パーソン。騎士学園の学園
長を務めています。あまり表に出る機会が無いので、一度で覚えて
ください﹂
少しの笑いが漏れる。どちらかと言うと、外回りの仕事が多いタ
イプの役職なのだろうか。ナイが攻防の末腕に抱きついてしまった
ため、振り払うのも面倒で背伸びで学園長の姿を捉えつつ静観を続
けた。
﹁私が出てきたのは、現在我がユナイテッド・キングダムで問題視
されている、七匹のドラゴンの討伐について説明するためです﹂
七匹? とナイに目を向けた。腕に抱きついたまま幸せそうに寝
ている。寝るな。
こめかみをごりっとすると、苦しげに声を上げて目を覚ました。
呻くような表情で﹁放っておいても詳しく説明してくれるよ⋮⋮﹂
と渋い顔をする。
﹁暴虐の限りを尽くす七匹のドラゴンは、現在、五匹にまで数を減
らしました。平民の被害は軽微です。襲撃を受けた町は有れど、騎
士団の迅速な対応で、一般の死傷者は過去例に見ない程少人数に収
1253
まっています。まずは、その事を称えましょう﹂
歓声が上がる。総一郎は何も言わない。学園長は、そこを皮切り
に声の抑揚を下げた。
﹁ですが、二匹のドラゴンの討伐に成功した騎士団は、その戦力は
既に七割と大幅に落ちています。二割は長期間の療養で復帰するこ
とが出来ますが、一割は永遠に失われてしまいました﹂
ざわざわと、嫌な喧騒が起こり始めた。学園長は揺るがず﹁静粛
に﹂と声を上げる。
﹁よって、すでに一般の騎士の段階に達している優秀な騎士候補生
を、今この場で騎士の叙勲を行い、ドラゴン討伐への遠征を執り行
う事が決定しました。これは名誉な事です。名を呼ばれたものは、
心して受けるよう!﹂
生徒全員が、どよめき始めた。しかし、嫌がっている者は不思議
に少ない。年長である者ほど、期待と不安に揺れているようだった。
やはり、元平民と根っからの貴族、更には日本とイギリスと、価
値観が違うのだろう。総一郎は、すでに目を細めている。この程度
の感情表現なら、自然に出て来るようになった。友人も複数出来、
嫌な相手に絡まれなくなったのが良かったのだろう。
﹁ナイ﹂と呼んだ。
﹁僕、呼ばれるよね? これ﹂
﹁はぐらかしたい所だけど、数か月前に言っちゃったしね。うん、
1254
呼ばれるよ﹂
﹁嫌だなぁ⋮⋮。試験とかどうするのさ﹂
﹁話聞いてた? 騎士の叙勲があるんだから、そんなの顔パスでし
ょ﹂
﹁顔パス?﹂
﹁顔パス﹂
こんな風に言われると、なんだか少し得した気分になるから不思
議である。
イングランド生が六年生五十名、五年生十二名と呼ばれ、次にス
コットランドクラスの教頭が前に立った。恰幅のいい顰め面で、六
年生から順々に名を呼ばれていく。そして、詰まった。ああ、次は
僕の名なのだなと半眼になる総一郎。
﹁い、一年、ソウイチロウ・ブシガイト!﹂
ここまで展開が分かっていると、この状況は極めて滑稽だった。
ざわめきも嫉妬の視線も、少年にとって嘲笑にのみ値する。足を踏
み出すと、人垣が割れた。ナイはいつしか消えている。
歩きながら思う。ここで選ばれた理由だ。恐らく、体よく総一郎
を取り除くつもりだろう。しかし、他の可能性が考えられない訳で
はなかった。いつだってこの学園には謎と違和感が着いて回る。
先輩方の横に並ぶと、まるで汚らわしい物を見るような目つきで、
1255
真横の少女は顔を顰めた。大体高校生程の年頃か。ニコリと微笑み
返してやると、焦った風に顔を逸らした。総一郎はその陰で欠伸を
する。
アイルランドクラスの教頭は三人の仲でも一等若く、だが誰より
も毅然としていた。総一郎の事など気にもせず、朗々と声高に名を
呼び上げていく。
その最後に、この名が呼ばれた。
﹁寮長! カーシー・エァルドレッド!﹂
﹁はい!﹂
総一郎の表情はこわばった。因縁があるらしい相手である。何で
も総一郎が殺したブレナン先生に恩義があると、最近よく会うネル
に聞いていた。
そんな彼が悠々とこちらに歩いてくるものだから、自然と視線が
向かう。目があった。強く睨まれ、逸らされる。それに難しい顔以
外の何を示せばよいというのか。
その後騎士の称号とやらを叙勲され、解放された。今日の授業は
無くなったという事だから、総一郎はファーガスに会いに行くか図
書室で本を読むかで悩みはじめる。
別れは、あまり派手なものにはならなかった。ファーガスが﹁派
手にやろうぜ!﹂と誘ってくれたが、やんわりと断った。
1256
夢の中で胡蝶となって、そのことに疑問を抱かずにいる。それは、
ナイが居て初めて成り立つことだ。今の総一郎には、そんな事は出
来ない。心の底でわだかまっている送別会など、いい思い出にはな
らないはずだった。
それでも、見送りだけはしてもらった。ファーガスが途中でぼろ
ぼろと泣き出すものだから、やはり彼だけは親友で居てくれている
のだとはっきり自覚した。少しだけ、もらい泣きした。それに気づ
いた人間は、恐らく幾ばくもいまい。ついで﹁大袈裟だなぁ、ファ
ーガスは﹂と笑った総一郎の心には、一筋の光が差し込み始めてい
た。
そこから移動して、総一郎は列車に乗せられた。一応、座席を取
って貰えたことに驚いた。個室。一人。ワイルドウッド先生の気遣
いだろう。﹁有難いね﹂と呟き、座った。いつの間にか、隣にはナ
イが居る。特に話しかけてこなかったから、こちらからもそうした。
弁当を胃袋に詰め込むと、列車の揺れも相成って、少しずつ睡魔
が膨れ上がった。総一郎は読んでいた本を脇に置き、大きく欠伸を
する。
その時ナイは、マザーグースを歌っていた。ネズミと猫の歌であ
る。何故そのチョイスなのかと思っていたが、美声なので放ってお
いた。それが、総一郎にとって子守歌代わりになっている。
﹁六匹のハツカネズミが糸紡ぎ、そこにネコさんが通りがかりまし
た。﹃なにをなさってるの紳士方﹄、﹃紳士の背広を仕立ててるの
さ﹄、﹃わたしもお手伝いをして、糸切りをしましょうか﹄、﹃ご
遠慮しますネコさん、頭をかじり切られてはいやですから﹄、﹃そ
1257
んなことはありません。是非手伝わせてちょうだいな﹄、﹃かもし
れませんけれどネコさん、近寄らないでくださいな﹄﹂
列車の中。微睡む総一郎の横に、ナイのふんわりとした歌が浮か
んでいる。歌詞はいつの間にか判別できなくなっていた。だんだん
と、意識に空白が出来てくる。
﹁マザーグースはいいね、総一郎君。イギリスって感じがする。⋮
⋮ありゃ、眠っちゃったのか﹂
音が、しばしの間途切れた。総一郎は、まだ眠りにつく寸前で止
まっている。ナイがまた、歌い出した。今度は、歌詞も歌の調子も
変わっている。
﹁︱︱六匹のネズミ。パタパタ糸を、紡ぎましょ。運命の糸。藍色
三本、黒二本。赤はたったの一つだけ。猫を繋ぐ鎖の音がするよ。
さぁ、早く隠れなさいな﹂
頭を、撫でつけられた。しかし邪魔ではない。心地よくて、瞼が
より一層重くなる。
﹁︱︱君は可哀想な子だ。ボクが言うのも間違っているけど⋮⋮。
頑張ってね、総一郎君。少なくとも、君がボクを殺すまでは、ボク
は君を守ってあげるから﹂
寂しい声だと、そのように思った。思いながら、総一郎は深い眠
りの谷に落下していく。
1258
5話 風の龍 火の鳥︵1︶
辿りついた野営地は、有り体に言うとテントの群れだった。
簡易的なテントを渡された総一郎は、自分で建てろと命令された。
小型のものだが、他の元騎士候補生たち違い、個室である。それを
配慮と受け取るか差別と取るかは、人によりけりだろう。総一郎は
無関心だったため、特に不平不満を抱かずに組み立て始めた。
組み立ては、文明の進歩とも言うべきか非常に簡単で、その中に
持ってきた私物を置いておく。万が一の為に、聖神法も掛けておい
た。守るのではなく、反撃する物だ。一度でも痛い目を見れば二度
はしないだろうという考えである。
準備を終わらせて五分もしない内に、集合が掛けられた。ここに
集められた元騎士候補生は、即時戦力としてドラゴン討伐のため尽
力してもらうという上官の確認を経て、一旦は長旅の疲れを癒すべ
く一日の休みをもらった。
周囲は、活気づいている。今まで戦い、失われていった兵力は、
それぞれの負傷に応じて療養のため第一線を離れたと聞いた。死ん
だ者も居たに違いない。だが、彼等は歴史の陰に葬られる。
総一郎は、周囲を見回した。気持ちのいい平原である。しかしそ
の背景は凄惨でもあった。周期の差は有るが、高確率でドラゴンは
この地に現れる。その為、人が住めなくなったらしい。それならい
っそ平地にして戦いやすく、という考えらしかった。この草は、恐
らく遷移によるものだ。
1259
そんな考えに基づいているので、聖神法だけでなく旧武器などが
多く保管されている、ちょっとした倉庫などもあるようだった。旧
武器とはつまり、異能の全く用いられていない時代、すなわち亜人
登場以前の品々である。
聖神法は、使える者が限られている。しかし、それではドラゴン
を討つには足りないらしく、平民からの軍隊も数多く動員されてい
た。彼らが、旧武器を使うのだ。しかしアメリカの特殊銃火器はあ
れやこれやと理由を付けられて、ほとんど輸入できていない。
一つ、欠伸をかました。誰かに見つかって難癖を付けられても嫌
なので、どこか人気のない場所を探そうと、総一郎は木刀を腰に差
して歩き出した。包帯が切れてしまってからは、手に巻き付けずと
も大丈夫なことが分かっていた。
しばらく歩くと、少々小高い丘があって、登るとテントの群れを
俯瞰することが出来る。眠かったため、ここで昼寝をすることに決
めた。横になり、目を瞑る。
柔らかく顔をなぶる風。草原の揺れる音。涼やかな気候だった。
総一郎は、それも手伝ってかすぐに眠りに落ちた。
そして目が覚めた頃には、彼の腕を枕にして眠るナイが隣に現れ
ていた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふぁあ。⋮⋮あ、おはよう総一郎君﹂
1260
のそりと起き上るナイに、微妙な顔つきで総一郎も起き上がった。
こめかみをカリカリと掻きながら、空の色を見る。夕焼けの様な、
夜の様な、不思議な色合いだ。
﹁僕はこの場合、どういう反応を返したらいいのかな﹂
﹁んー、総一郎君なら、嫌な顔しつつ別に文句も言わない感じかな
?﹂
﹁つまり怒れって事?﹂
﹁総一郎君も食えないよねぇ⋮⋮。ちょっと興味あるから、試しに
怒ってみてよ﹂
﹁コラ!﹂
﹁ホント総一郎君可愛い﹂
愛おしそうな手つきで抱きついてくるナイ。総一郎は﹁冗談はと
もかく﹂とやんわり拒否するがあんまり効果を為していない。
﹁今何時?﹂
﹁総一郎君が眠り始めてから一時間って事は覚えてる﹂
﹁六時か。そろそろ夕食だね。戻ろう﹂
立ち上がり、背伸びをした。風が、草原を吹き渡っている。ドラ
ゴンさえいなければ、と思ってしまうほどだ。まだ実物は見ていな
いものの。
1261
いつも通り腕に抱きついてくるナイの事は、もはや気にならなく
なっている。どうせ他人から見えないのだ。狼狽する方が彼女の思
惑に嵌る事になる。
テントの群れに戻ると、先ほど総一郎含むスコットランドの元騎
士候補生たちに説明をした先輩騎士と遭遇した。髭面で丸い顔つき
の男である。無口そうな人だと認識していた。名は覚えていない。
目が合い、何を言われるのだろうと彼に気付かれないように身構え
た。
﹁⋮⋮ブシガイトか﹂
﹁はい﹂
何でもないような顔をして答えた。いつでも、木刀は抜ける。ナ
イも空気を察して少し距離を取っていた。しかし、その気遣いは無
駄に終わった。
﹁何をしている。もう夕食の配給は始まっているぞ。それと、夕食
後に明日の方針とそれぞれの役割を教える。心の準備をしておくよ
う﹂
総一郎、唖然とした。それが気付かれる寸での所で我に返り、無
難に返す。
﹁貴方は、夕食、いいのですか?﹂
﹁ああ、もう食べ終わった。それと、その様子では私の名を覚えて
いないらしいな﹂
1262
バーナード上官と呼べ。短く言って、そのまま通り過ぎていった。
ぽかんとしながら彼の後姿を目で追う。自分の名を知っていたとい
う事は、事情もだいたい知っているはずだった。あんな人もいるの
か、と総一郎はただ驚いていた。
﹁⋮⋮なるほど、彼もか﹂
ナイの呟きに、﹁何が?﹂と尋ねた。﹁しばらくすれば、君にも
分かると思うよ﹂と返され、総一郎は口を奇妙な具合に歪めてしま
う。数か月前に比べて表情豊かになったものだ。
一度テントに戻ると、すでに聖神法が発動した痕跡が在った。仕
掛け直しておくが、十中八九もう来ないだろう。
夕食の配膳は総一郎の事を特に知りもしない軍隊の方がよそって
くれたから、特に少ないという事もなかった。それどころか、﹁君
のような少年もドラゴン退治に向かうのか!?﹂と驚かれてしまっ
た程だ。
愛想笑いで適当に受け流し、フォークだけでさっさと腹に詰め込
んでいく。はっきり言ってマズイ。口にも態度にも出さないが。
周囲は例の如く、総一郎から離れる為間が開いている。近くに座
っているのはナイだけだ。
﹁⋮⋮アレ、総一郎君。大量の調味料どうしたの?﹂
﹁え?﹂
1263
真横に居るナイに視線で示されて、一瞬きょとんとする総一郎。
目を落とすと、配膳された料理がある。調味料はかけていない。か
ける気もない。総一郎は、こう答える。
﹁もう、いいかなって。少しずつ直ってきたんだよ、最近。まぁ味
がちゃんと感じ始めたからって、不味い物は不味いからどうでもい
いやって気持ちもあるんだけど﹂
﹁見てる側は面白かったんだけどね﹂
﹁あれどう考えても体に悪いでしょ。ここじゃあ少しし辛いし﹂
﹁ふぅん﹂
暇つぶしなのか、マザーグース限定で歌を歌ってあげようと言わ
れた。何故マザーグース限定なのかは甚だ疑問だったが︱︱後に聞
けば当時彼女の中でブームだったらしい︱︱ふいに思いついて、総
一郎は﹃キラキラ星﹄をリクエストした。
﹁本当に可愛い子だね、総一郎君は。理由を聞いてもいい?﹂
﹁ティンクル、ティンクルって言う所が好きだからかな。あと、白
ねえが昔それを聞きながら踊っていたような気がして﹂
﹁随分と懐かしい名前が出たね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
どうしているのだろう、とは考えなかった。想像がつかないのだ。
彼女も、総一郎が今こんな事になっているとは夢にも思うまい。
1264
Up
star.
are.
little
you
Like
How
I
w
Twinkle,
high.
sky.
are.﹂
star.
the
so
what
twinkle,
人生なんて、分かるものではないのだ。
﹁Twinkle,
wonder
I
How
in
world
the
diamond
above
a
you
little
what
twinkle,
onder
ナイが、歌い出した。一番の歌だ。﹃キラキラ光る貴方は一体何
者なの?﹄と問うている。
夕食を食べ終えて出ていくとき、カーシー先輩が向こうから歩い
てきた。総一郎に気付いたのだろう。顔つきが固い。総一郎もまた、
同様である。
すれ違う。何も言わないし、言われなかった。酷い緊張に、躰が
強張る。距離が近いと、ここまで違うか。
テントで本を読んで、集合の合図を待った。バーナード上官が、
﹁来い﹂とテントを覗きに来たので、しおりを挟んで立ち上がる。
外に出ると、もう真っ暗だった。ライトを持った上官に着いてい
き、大きなテントの中に入る。高さは無いが、広い。注目が来た。
無視して、適当に離れた場所の椅子に座る。同い年の少年少女など、
一人もいやしない。ただ、冷たい孤独が在った。
ナイは居ない。こういう時、自然と考えてしまう。自分と言う亜
人との混血を、無理を通してまで排除しようとする貴族たちの偏執
1265
を。
最近余裕が出来て物事が見えるようになると、総一郎も段々この
国の政府や貴族の違和や異常性が分かるようになってきていた。何
かが、決定的におかしいのだ。裁判で総一郎が勝って、騎士たちが
被害を受けていないのが、その最たる例だろう。そんな回りくどい
事をするならば、最初から総一郎を勝たせなければよかったのだ。
様々な物が、こじれている。そう、思わざるを得なかった。
﹁では、スコットランドクラス卒業生たちに告ぐ。先ほども簡単に
自己紹介したが、改めて、私の名はバーナード・リッケンバッカー
だ。ファーミリーネームで呼ぶのでなく、気さくに名前で﹃バーナ
ード上官﹄と呼べ﹂
無表情な物だから、本気なのかどうか分からない。本当に気さく
に接したら殴られそうな雰囲気すらあった。そう感じているのは総
一郎だけではないらしく、周りも少々どよめいている。お前らさっ
き聞いたんじゃないのか。
﹁私が諸君らの指揮官を務める予定となっている。先に言っておく
が、ドラゴンと言う物は非常に巨大かつ強い亜人だ。油断をして死
んだものは数知れない。⋮⋮まぁ、これは言う必要もない言葉だな。
忘れる様に﹂
実にすっとぼけた言い回しに、総一郎は微妙な表情になった。彼
は、多くのそうした反応を無視して言葉を続けた。
﹁我々スコットランドの騎士たちは、防衛や遠距離への攻撃に他ク
ラスよりも優位に立っている。そして、ここで相対しているドラゴ
1266
ンは空を飛び、風を操る特性を持つ。つまり、我らがこの戦場では
要になるという事だ。諸君らのほぼ全員を直接ドラゴン戦へ投入す
る。残りは近隣の避難民の誘導を行ってもらおう﹂
総一郎は、次の言葉を待ちながら、どの様に立ち回ろうかと考え
ていた。総一郎の聖神法ははっきり言って酷い。ドラゴンを前にし
ても、まず当たらないだろう。
役に立たなければ、周囲に鬱憤がたまる。国を揺るがすほどの龍
との戦いでは、下手をすれば死にかねない。
難しい所だった。そのように考えていたから、次のバーナード上
官の言葉には戸惑いを隠せなかった。
﹁スコットランドクラスで後者に選ばれたのは、ソウイチロウ・ブ
シガイトだけだな。イングランドの騎士に、誘導係が居る。明日は
その者に従うよう﹂
ざわめきが起こった。だが、バーナード上官は淡々と反論を許さ
なかった。
役割を伝えられた者はすぐに各自のテントに戻れとのお達しを受
け、総一郎は釈然としないまま戻った。非常に不可解な状況だった。
自分を戦死と言う形で除外するため以外の、何の為にこの場へ連れ
てきたのだと首を傾げていた。
翌日、イングランドの女性の騎士が迎えに来た。非常に親切な方
で、初めての割に手際よく誘導を行う総一郎を褒めるまでしてくれ
た。それを嬉しいと思う反面、薄気味悪くもあった。
1267
その日は、それで終わった。ドラゴンの姿を、未だ見ずにいる事
が不思議だった。
夕方、野営所に戻ると、しばらく見なかったナイが入り口で待っ
ていた。
﹁お帰り、総一郎君!﹂
走ってきて、抱き付こうと跳躍してくるナイ。総一郎は避けよう
としたが、避けきれなかった。首に抱き着きくるりと回ったナイは、
総一郎を背後から抱きしめるような風になっている。支えの無いお
んぶのような感じだ。
﹁ただいま。⋮⋮微妙に苦しいんだけど﹂
﹁総一郎君がボクを支えてくれたら気にならなくなると思うな﹂
﹁素直に下りなよ﹂
﹁ヤダ﹂
まるで駄々っ子のような言い分である。
仕方なく、そのまま放置することにした。ナイは勝手に下半身で
も総一郎にしがみ付いて、バランスを取り始めている。
自分のテントへ戻った。聖神法の発動した様子は無い。解いてか
ら、中に入った。毎度の所作だが面倒でもある。総一郎は、夕食の
時間まで本を読んで時間を潰した。
1268
そして、食堂に赴くと、雰囲気が重い事に気が付いた。
元騎士候補生の数が、目に見えて減っている。生き残っている者
も、腕を吊ったりギプスを嵌めたりと満身創痍な者も多い。
総一郎に、目を向ける人は居た。しかし、突っかかったり睨み付
けたりする余力もないようだった。軍隊の人は、あまり怪我をした
様子はない。これは一体どういう事なのか。
夕食を、いつも以上に居心地悪く食べた。不気味なほど、静まり
返っている。そこに、足音が響いた。カツカツと、忙しない音を立
てて進んでいる。
総一郎は、自然とそこに視線を向けていた。不味い食事に集中す
るのも嫌だったのだ。足音の持ち主は、髪の毛が黒かった。アイル
ランドだろうと推測する。
﹁リッケンバッカー!﹂
怒鳴り声。その憤怒の形相に、総一郎の表情が強張った。食堂中
に、びりびりと響き渡るような怒声である。その声が向けられた相
手︱︱バーナード上官は、しかし平然と﹁どうした﹂と返す。
﹁どうした? どうしただと!? 貴様は自分の仕出かしたことが
分かっていないらしいな!﹂
﹁ああ、分かっていない。簡潔に述べろ﹂
﹁お前の指揮する小隊の所為で、我がアイルランドの新騎士が一人
死んだ!﹂
1269
﹁その事か。別に、一人くらい構わないだろう。こちらは十人だか
二十人だかが死んだぞ。ドラゴンを甘く見た奴らばかりだった﹂
あまりに命を軽視した考え方だった。それも、死んだのは貴族な
のだ。平民が死んでその反応ならば、許せないまでも納得は出来た。
だが、対する罵声はさらに酷い。
﹁スコットランドの騎士の命など、何百有ってもアイルランドの一
人にも足りる訳がない! どう責任を取るつもりだ!﹂
総一郎は絶句する。バーナード上官は、淡々とこう返した。
﹁なら、こいつの首をやる。切って捨てるなりなんなり、好きにす
ると良い﹂
﹁⋮⋮言ったな﹂
﹁え⋮⋮? は?﹂
バーナード上官は、たまたま横に座っていたスコットランドの騎
士の襟首を掴んで、無理やりアイルランドの騎士の前に立たせた。
彼は食べかけのパンを手に持ちながら、困惑に上官とアイルランド
の騎士との間で視線を右往左往させる。総一郎は、動くことが出来
なかった。アイルランドの騎士は、腰の大剣に手をやる。
銀閃。
血の噴水。
1270
当事者の二人以外の、誰が動くことが出来ただろう。その光景は
現実味が無く、冗談にしても趣味が悪かった。肩から上の無いその
騎士は、しばらくの間直立したまま倒れなかった。齧り跡のついた
パンだけが、地面に落ちた。
すすり泣きの様な、悲鳴が上がった。徐々に、盛り上がっていく。
しかし、絶頂を迎える前に封ぜられた。
﹁この程度で狼狽える様な騎士は、もう使い物にはならないだろう
な﹂
上官の言葉に、誰もが口を噤んだ。痛いほどの静寂が、満ちてい
る。そそくさと軍隊兵たちが、我関さずを決め込んで食堂から逃げ
ていった。そこには、必死ささえある。︱︱しかし、例外が一人だ
けいた。
﹁⋮⋮総一郎君、ここは不快だね。早くテントに戻ろう﹂
軽く、ナイが総一郎の服を引っ張っていた。総一郎は声を出さず
に首肯して、残る食事を食べる気にもなれず、食器もそのままに息
を殺して食堂内から逃げ出した。
無言で、音が立たないぎりぎりの早足で、自分のテントへ戻った。
急いで掛けておいた聖神法を解き、中に潜り込む。そこでやっと、
呼吸を再開できた気がした。
﹁⋮⋮狂ってる﹂
総一郎は、震えていた。ドラゴンに殺されるでもなく、同じ騎士
であるはずの相手に首を刎ねられて殺される。︱︱しかも、本人に
1271
何の過失もなくだ。
おかしいどころの話ではなかった。異常だ。整合性を求めること
が愚かしいほどの狂気だった。それを、指摘できる者が居ない。
﹁だって、おかしいじゃないか。何で、あの場面で人が死んだ? 死ぬ理由が、何処にあった? 分からない僕がおかしいのか?﹂
﹁大丈夫だよ、総一郎君。君はおかしくない。おかしいのは、君が
この一年ほど身を置いてきたこの世界さ。だから、大丈夫だよ。君
は悪くない。おかしいと思うのは、当たり前の事なんだから﹂
怯えてぶるぶると震える総一郎を、ナイは優しく宥めた。正面か
ら彼を受け入れ、隙を見てキスをする。﹁久しぶりだね﹂と彼女は
笑った。
﹁ほら、落ち着いて。静かに、よく、考えてみるんだ。何がおかし
くて、何が異常なのか。この世は、因果に支配されている。その事
は、どんな時だって変らないんだよ?﹂
深く、息を吸った。吐きだすと、震えも落ち着いた。そのまま、
考え始めた。しかし繋がらない。情報が、足りな過ぎた。まだ謎は
残っている。深淵の様な、見透かせぬヴェールだ。
﹁⋮⋮ナイ。これらの全てが君の仕業なら、僕は今日、枕を高くし
て寝られるんだけど﹂
﹁残念ながら、そう上手くはいかない物だよ。だって、人間は狂気
の歴史を持っているじゃないか﹂
1272
弱った風に笑うと、ナイは諭しながらデコピンをしてきた。痛い
と思うほどのものではない。彼女は、暗い声でこう結んだ。
﹁ましてや、この国は魔女狩りを行った国だよ?﹂
歴史は、繰り返すんだ。人の矮小さを指先で転がしながら、邪な
神は鼻で笑う。
1273
5話 風の龍 火の鳥︵2︶
真夜中。シンと静まり返ったキャンプ。総一郎が着いたばかりの
ころは、もっと騒がしかったように思う。それがここまで静かにな
ったのは、上層の騎士たちの狂気のなせる業だ。
総一郎は目を押さえながら、上体を寝袋の上に投げ出し、思考へ
と没入していった。何がここで起きているのか。どんな思惑が、交
錯しているのか。
目の前に浮かぶのは、人が人を、脈絡もなく殺す情景。人類が末
期に突入するとしたら、きっとあのような事が頻繁に起こるのだろ
う。その中で生き抜くには、考えがなければ難しい。総一郎に死ぬ
気はなかった。従って、身の振り方を考えなければならない。
さしあたって、バーナード上官が一番の脅威となりそうだった。
貴族にとって法は十分に働かない。どのように事が運ぶか分からな
い以上、関わらずにいる事に越したことは無いだろう。あの狂気性
は危険だ。それに、総一郎を嫌悪しない事も、何か臭う。
アイルランドの騎士についても、同様だった。だが彼に関しては
接点が無いので、取り立てて気にする必要はないだろう。
目を、瞑った。そして、開ける。次いで、ナイの言葉を想起する。
ドラゴンと戦うという、彼女の予言。
﹁⋮⋮ねぇ、ナイ﹂
1274
暗いテントの中、隣で寝転がっているらしいナイに言葉をかける。
彼女はまだ眼が冴えていたのだろう。はっきりした口調で応じてき
た。
﹁何? 総一郎君﹂
少年は、呟くように問いを投げかける。
﹁あのドラゴンが居なければ、もうあんな風に死ぬ人は居ないのか
な﹂
ふむ、とナイは声を漏らす。
﹁そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね﹂
﹁そっか。⋮⋮そういえば、ドラゴンは全部で五匹もいるんだっけ﹂
﹁うん﹂
総一郎は、口を閉じた。そのまま、その日は眠ってしまった。
目の前で、何人もの人が死ぬ夢を見た。うなされて起きると、ナ
イが寝息を立てて眠っていた。穏やかな寝息だ。キャンプに来た幼
子を連想させる。
邪神でも寝るのだ、と改めて思った。
翌日も、総一郎は平民の誘導だった。野営地に戻ると、更に騎士
の数は減っていた。夕食中、すすり泣く声が食堂を満たしていた。
昨日の様に空気を読まず乗り込んできたアイルランドの騎士に、二
1275
人が殺された。バーナード上官は、表情一つ変えなかった。
それが、三日続いた。総一郎は、もはやわざわざ自分のテントに
聖神法を掛けなかった。気を抜いていた所為なのだろう。今まで音
沙汰もなかったのに、聖神法を掛けなかったその日に、総一郎のテ
ントは破壊されていた。
怒りも辛さも、感じなかった。ただ、酷く寂しい。
修理するのも面倒で、特に目的もなくほっつき歩いていた。軍隊
の人が、総一郎を見つけて呼び止める。
﹁はい? 何ですか﹂
﹁あ、いや、⋮⋮君、大丈夫かい? どんどんと、その、君の知り
合いが死んで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮大丈夫です。ほとんど、面識はありませんでしたから﹂
軍隊の人間は、あの食堂ではもう食べなくなっていた。だが、騎
士たちは強制だ。騎士と軍隊は、全く異なる体系で出来ている。軍
隊が、正常なのだ。厳しい規律の中で、死者が出たという話も聞か
ない。騎士だけに死者が出て、特にスコットランドの騎士は夜ごと
アイルランドの騎士に殺されていく。
﹁⋮⋮そうか、すまないね。君の様な幼い少年がこんな所に居る事
が不思議で、つい出過ぎた事を聞いてしまった﹂
軍隊は、騎士よりも地位が低い。意見が出来ないのだ。だから、
誰もあの凶行を止められない。貴族でさえ、恐怖に身動きが取れな
1276
かった。
総一郎の諦観の滲んだ笑みに、彼は泣く寸前にまで顔を歪めた。
これが正しいのだ、と思うと、なんだか少しだけ報われた気がした。
﹁⋮⋮あの、すいません。聞いてもよろしいですか?﹂
総一郎は、だから彼に問いかけたのだろう。彼は眦に滲んだ雫を
急いでふき取り、﹁何だい?﹂と笑顔を作った。
﹁ドラゴンとの戦闘の様子が聞きたいのです。教えて戴けませんか
?﹂
﹁ああ、そんな事なら勿論だ! ⋮⋮ただ、少し残酷な話になる。
それでも構わないというなら、自分の知る事は全て教えてもいいよ﹂
﹁構いません。教えてください﹂
彼の話は、少し分かり辛い所があった。しかし何度か聞きなおし
て噛み砕いたところ、だいたいこんな所だと分かった。
︱︱軍隊の人間は、ほとんどドラゴン退治に携わることが出来て
いない。騎士達の使う異能は確かに既存の兵器より強力だが、これ
なら戦闘機を飛ばした方が、被害も少ないだろうし効率もいいはず
だ。だが、それは騎士団の意向で許されていないのだという。彼は
一度だけ地上からドラゴンにアサルトライフルを撃ったそうだが、
ドラゴンの姿を見た事すらない者も軍隊にはいるらしい。
そして、ドラゴンは機関銃を物ともしなかった。基本的に低空飛
行なドラゴンだが、奴は強い風を操るため、そもそも届かないのだ
1277
そうだ。けれどそれだけではなく、聖神法もまた同様で、惨たらし
く殺された騎士たちを何人も見たと。
だから、騎士の数だけがどんどんと減っていくのだ。
﹁何で自分たちに協力させないのかが分からないよ。それに、毎夜
の﹃アレ﹄。士気も落ちて当然だ。何で止める人間が居ないのかっ
て思うと不気味だよ。貴族サマは、もしかして勝つ気が無いのかと
さえこっちでは噂になってるくらいだ﹂
﹁⋮⋮勝つ気がなければ、その目的は何だと思います?﹂
﹁さぁね。自殺でもしたいんじゃないか?﹂
呆れたような、諦めたような声音の言葉に、総一郎は﹁ありがと
うございました﹂と礼を言って、テントへ戻った。
テントは、いつの間にか直っていた。中を覗くと、ナイが総一郎
の本を読んでいる。﹁直してくれたの?﹂と尋ねると、短く肯定が
返ってきた。礼を言って、中に入る。
﹁ねえ、ナイ。すこし、話したいことがあるんだ。聞いてもらえる
かな﹂
﹁うん、いいよ。どうしたの?﹂
ナイは、本を置いて総一郎と向き直った。少年は深く呼吸をして、
口を開く。
﹁ここ数日間、考えてみた。おかしい事の全てを。そうしたら、だ
1278
んだん見えてきたんだ。それで、聞きたい。⋮⋮騎士の中に、騎士
とは別の考え方の人間が居るよね? もっと言うなら、見えない別
勢力みたいなものが﹂
﹁⋮⋮続けて﹂
﹁多分だけど、僕がドラゴンといまだに相対してないのも、その勢
力の所為だと思う﹂
﹁ふむふむ﹂
﹁騎士の人が、毎晩殺されるのも⋮⋮﹂
﹁うん。アレは何度見たって不快だ﹂
で、とナイは言った。身を乗り出して、総一郎に問いを突き付け
る。
﹁総一郎君は、これからどうするの? 明らかに怪しい人たちを問
い詰めてみる? 例えば︱︱あの、何だっけ﹂
﹁バーナード上官? ⋮⋮ううん、問い詰めるのはしないよ。間違
いなく藪蛇だ﹂
﹁じゃあ、静観する? 心配しなくても、君の命の保証はするよ。
とりあえず、ボクに関しては間違いない﹂
﹁⋮⋮それも、したくない﹂
﹁じゃあ一体、どうするつもり? 君は、どうしたいの?﹂
1279
ナイの問いは質問攻めの様で、総一郎の感情をより透明にしてい
くものだった。僅かに考えていた靄がかった選択肢が、彼女の言葉
で明瞭化され、総一郎自身が選んでそぎ落としていく。
その証拠に、ナイの表情は穏やかだった。総一郎が言葉に詰まっ
ても、待っていてくれる。まだ足りないと、総一郎は思った。逆に、
総一郎が問いかける。
﹁ねぇ、ナイ。嫌いな人が、物凄く困っていたとしよう。その時、
どうすべきだと思う?﹂
﹁そんなの決まっているさ。見捨てるべきだよ﹂
﹁⋮⋮そうだね。じゃあ、バーナード上官を殺すのでも、あのアイ
ルランドの騎士を殺すのでもない、騎士たちの救い方って何だと思
う?﹂
﹁この場所に居なくていい理由を作ってあげればいいんじゃないか
な。具体的には、彼ら自身を殺してしまうとか﹂
﹁⋮⋮そうか、ドラゴンが居なくなれば、彼等は戦場に居ずに済む。
いたずらに死ぬ事もない﹂
﹁前に総一郎君、そんな事言ってたね﹂
﹁でも、その為の手段がない﹂
﹁アレ?﹂
1280
﹁え?﹂
ナイが急に素に戻ったようなきょとんとした声を出し、総一郎は
戸惑ってしまった。まるで自分が見当違いなことを言ったような反
応である。
ナイは恐る恐ると言う風に、総一郎に聞いてくる。
﹁手段がない? ⋮⋮本当に? 魔法はどうしたの?﹂
﹁魔法? 聖神法でしょ? 確かに雰囲気は似てるけど﹂
﹁いやいやいや。だから魔法だって、魔法。日本に居た時さんざん
やったでしょ?﹂
﹁う、うん⋮⋮。⋮⋮ああ、そうだね! 魔法があった!﹂
手をポンとたたき、総一郎は納得に声を上げた。対するナイは手
で顔を覆っている。ジトッとした目で、尋ねられた。
﹁⋮⋮忘れてたでしょ﹂
﹁⋮⋮いや、ほら。三・四年も使ってないとさ、パッと思いつかな
い物なんだよ。山籠もりした時も咄嗟に呪文が出てこなかったから
結局使わなかったんだし。まぁ、使わないままで大丈夫だったから
そのままだったんだけど﹂
﹁リハビリすれば使えたんじゃない?﹂
﹁そんなことするくらいなら、食料集めるか、聖神法の教科書を読
1281
んでた方が楽しくてさ⋮⋮。でも、そのお蔭で今文明生活している
訳だから﹂
災い転じて何とやら、と苦笑いする総一郎、あんまり復習が好き
なタイプではない。余談だが予習は好きだった。
﹁⋮⋮総一郎君の意外な一面がここに﹂
﹁うるさいなぁ⋮⋮。︱︱だけど、成程。そうか魔法か。全然使っ
てなかったけど、大丈夫かな。ドラゴンを殺す⋮⋮後戻りは出来な
いなぁ。その前に、腕輪も外さないと。ぶっつけ本番で電波阻害と
かできる気がしないし﹂
思考の深みへと、総一郎は沈んでいく。必要な戦略やその前の布
石などを考えていたら、いつの間にか八時を回っていた。夕食を抜
いてしまったが、奇妙な充実感が満ちている。
ナイは、いつの間にか総一郎の膝元に収まっていた。少年の腕を
抱きしめ、彼に抱きしめられるような状態で居る。総一郎が我に返
ったのに気付き、﹁総一郎君って集中力凄いねぇ﹂とにこやかに笑
んだ。そして、何も言わずその場を退く。
﹁ボク、ちょっと倉庫から食料くすねて来るよ。その代り、派手な
の見せてね?﹂
テントから出ていく彼女の後姿を見つめていた。総一郎は、息を
吐いて立ち上がった。旅立つ準備をして、彼もまた、テントを出て
いく。
1282
カーシー・エァルドレッドは、陰鬱な気持ちでテントの中で寝転
んでいた。
ここ数日、そういった感情がぬぐえない。自分の直属の上官が、
毎晩スコットランドの騎士たちが集まっている席の方へ歩いて行っ
て、スコットランドの騎士を殺して笑顔で帰ってくるのだ。
そして、大声でこう言う。
﹃奴らスコットランドの騎士は、貴族の風上にも置けない奴らだ。
亜人との混血なんかを、騎士の一員として受け入れるほどなのだか
らな! 唯一惜しまれるのは、その亜人との混血の正体が分からな
い事だ﹄
分からなければ他の騎士を殺してもいいのか。そう罵声を浴びせ
てやりたかったが、理性がそれを止めた。平気で人を殺す人間に、
意見はし難かった。
ブシガイトの事を言えば、どうなるのだろうとは思っていた。し
かし、機会が無い。新騎士たちとの交流をしない人だった。いつも、
同じように年配の騎士と共に居る。
考えていたその時、テントの入り口から、ぼす、ぼす、と音がし
た。起き上がって、ノックのつもりなのだろうと気付く。時間は八
時十五分。眠るには早く、一人で何かを始めるには遅い時間だった。
友人が訪ねてきてくれたなら、丁度いい。
立って、入り口を開けた。そして、カーシーは思わず黙りこくっ
た。自分が殺してやりたいと思うほど憎んだ相手。あどけない少年
1283
にして、騎士を叙勲されるほどの恐るべき剣の使い手。ブシガイト
が、そこに立って険しい面持ちでカーシーを睨みつけている。
﹁決闘をしよう﹂
小さな声だが、はっきりとしていた。決闘は、騎士同士で禁じら
れている。だからなのだろう。それ以上は言わず、踵を返して去っ
て行ってしまった。
カーシーは手早く着替えて、愛剣を携え、索敵の聖神法によって
ブシガイトの居場所を突き止めた。駆け出し、そこが小高い丘の上
であると知った。
暗い中、聖神法でブシガイトの姿を捉えた。奴もまた、同じ芸当
をしているのだろう。ちゃんと、こちらの方向に視線を送っている。
大剣を構えながら、カーシーは尋ねた。
﹁何故、決闘などという事を考えた、ブシガイト﹂
﹁君に気を遣った。いまだに僕の事を引きずっていたら可哀想だと
思ったのでね﹂
﹁⋮⋮﹂
奴らしくない挑発の言葉だと、カーシーは思った。思いながら、
駆け、肉薄にした。剣戟。拮抗した勝負。わざわざ機会を与えられ
たのだから、ここで殺すしかない。
ブシガイトの剣の強さは、相変わらずだった。しかし、攻めが無
かった。かつては狼さえ思わせる食らいつきだったというのに、今
1284
はどこか人間臭い。強さは、変わらないのだ。だが、勝てると直感
した。
聖神法も、何もかも、カーシーはぶつけた。いなされる。だが、
まだまだだ。その時、不意にブシガイトの動きの調子が変わった。
気配が、攻めへと転じる。隙が出来たと感じた。おおよそ無意識で、
剣を振るった。
︱︱その実、この会心の一撃も奴には届かないのだろうという、
妙な安心感と言う物が彼には有った。勝負の終結には、もっとふさ
わしい達成感があると勝手に思い込んでいた。
それ故、必死に自分の剣を避けようとしたブシガイトが避けきれ
ずに片手首を失った時、自らの所業とはいえ、カーシーは言葉を失
った。
押し殺すような絶叫。ブシガイトは、痛みにうずくまって呻きだ
した。ギリギリのところで動脈だったのだろう。凄まじい勢いで血
が噴き出している。
それを見て、カーシーは隙が出来たとは感じられなかった。止め
を刺すことが出来なかったのだ。あまりにも呆気ない勝敗。ブシガ
イトが相手でなければ、我を失う事もなかったろう。だが、奴が相
手では。
﹁⋮⋮っぐ、はぁ⋮⋮! ⋮⋮僕の、負けみたいだね﹂
気付けば、止血を終えて冷や汗を顔中に滴らせたブシガイトが、
苦しそうにこちらに笑顔を向けていた。何故、と思う。何故奴は笑
っている。
1285
﹁君に頼んでよかった。全てが上手くいった。⋮⋮じゃあ、お休み
なさい。カーシー先輩﹂
はっとなって、呼び止めた。しかし、すぐに闇に紛れて消えてし
まった。慌てて索敵と暗視の聖神法を掛けるが、不思議な事に奴の
姿を忽然と捉えられなくなった。
﹁何処へ行った、ブシガイト!﹂
叫ぶが、返答は無い。三時間探し続けて、見つからずに疲れ果て、
テントに向かって倒れ込んだ。疲れているのに、睡魔はなかなか来
なかった。
しかし、それでもいつの間にか微睡んでいたのだろう。喧騒起き
上がった時、寝ぼけていて訳が分からなかった。騎士の友人に﹁し
っかりしろ! 早くテントから出るんだ!﹂と言われ、自失状態で
連れ出される。
そして、その光景をみて息を呑んだ。深き夜空が、煌々と照らさ
れている。
闇夜を舞う、カーシーたちが連日戦っていたドラゴン。また、ド
ラゴンと食い合う、夜を昼が如く照らす火の鳥。どこかで、﹁何だ
奴は!﹂と叫ぶ声が聞こえた。あんな大きさの火の鳥など、今まで
いなかったし、歴史上ですら観測されていないはずだった。
巨大な亜人二匹の対決は、それこそ火を見るより明らかだった。
火の鳥がドラゴンの肉を啄む度に、ドラゴンは断末魔が如き絶叫を
上げる。ドラゴンが火の鳥の肉を齧り取る度、ドラゴンは自らの口
1286
内を焼く火にもだえ苦しむ。
離れていれば、風での攻撃が出来た。密着しているから、出来ず
にいる。
拷問の様な食い合い。炎に対する本能的な恐怖を、見る者に抱か
せる光景だった。その中で、カーシーは奇妙な確信を持って、索敵
を行う。
反応するのは、当然ながら多くの人間、そしてドラゴンだ。しか
し、火の鳥の反応は無い。アレは、生物でないという証拠だった。
青年の手は、恐怖に震えていた。大声で毒づいて、友人の奇異の
視線を振り払って走り出す。
場所は、言うまでもない。
スコットランドの騎士たちが集まるテントの群れ。有名だから、
場所は分かっていた。行きたいと思わなかったから、今まで行かな
かっただけだ。
息を荒くして、目的のテントを見つけた。他と比べて一回り小さ
いが、作りがしっかりしている。その入り口を、乱雑な所作で開け
た。予想通りの結果に、再び毒づく。しかしその声に、もはや張り
は無かった。
恐らく、奴は自分の事など蚊ほどにも思っていないのだろう。そ
の事が悔しくて堪らない。
カーシーは一人、空になったテントの中に唯一残された、酷く歪
1287
まされた銀色の鉄くずを見る。そして、空を見上げた。
焼き殺されたドラゴンの地面へと墜ちていく姿が、彼の網膜に焼
き付いて離れなかった。
1288
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽︵1︶
バーナード上官に精神魔法をかけて知れたことは、彼が無辜の人
物であるというたった一つの事実だった。
アイルランドクラスの殺人騎士も、また同様である。その後も、
総一郎が消え騒然とする中、少しでも行動が怪しい人物には徹底的
に掛けたが、結局、何の成果も上げることは叶わなかった。
ドラゴンが死んだという事で、撤退、もしくは他のドラゴン討伐
隊への援軍に向かうために方々に散りゆく騎士たちを眺めながら、
生物魔術で腕をくっつけた総一郎は自失呆然としていた。何かが居
る。しかし、その筆頭と考えていたバーナード上官がただの狂人で
あったとするならば、結論からして総一郎の勘違いという事になっ
てしまう。
そんな事は有り得ないのだ。ドラゴン討伐へ向かわせられて、騎
士たちが絶望に身を包みながら着々と数を減らしていくことをも見
せられ、そこになんの意味が無かったでは通らない。
総一郎は、精神魔法に対する魔法親和力が低い。遺伝的にはゼロ
で、その上加護も少ない。その場にいる騎士達全員に掛けるのは、
不可能である。特にこの、残り数日と言う期限では。
バーナード上官が何者かに操られているのでは、などとも考えた。
真っ先に候補に挙がるのは﹃聖獣﹄だ。しかし引っかからない。着
々と過ぎゆく時間の中、総一郎は酷く焦燥に駆られていた。
1289
そして今、総一郎の前には、何もかもなくなった平原のみが残さ
れている。
﹁⋮⋮﹂
生きる者は、全て他の場所へと移っていった。総一郎は、ここで
失われた命を想う。ドラゴンによるもの。人の手によるもの。
どちらも、無念だったろう。その仇を討つために、総一郎はドラ
ゴンを殺し、騎士の中に潜む何者かの正体を暴こうとしたのだ。死
んだ者の中には、自分を迫害した者もいたかもしれない。構わなか
った。死んだ後にも禍根を残す気など、総一郎にはさらさらなかっ
たのだ。
少年は、立ち尽くしてその光景を見つめ続けた。爽やかで、ずっ
と見続けて居たくなる。その実、目を背けたくなる強迫観念もまた、
存在した。声がかかる。振り返る。
﹁総一郎君。⋮⋮もう行こう?﹂
﹁⋮⋮うん、そうだね﹂
食料は、ある程度確保に成功していた。昔の勘を取り戻せば、総
一郎の場合は自力で食糧を生み出すことだって可能だ。今なら、情
報を集めるのは当然として、アメリカに一人で向かうことも出来る
のかもしれない。しかし、総一郎には友人が居る。彼らを思うと、
投げ出すことは叶わなかった。
総一郎はナイを抱え、重力魔法で彼女含む自重を軽くし、風魔法
で空中へ飛びあがった。ナイが興奮の様な恐怖の様な、甲高い悲鳴
1290
を上げる。﹁しっかり掴まってて!﹂と忠告し、ジェット機が如く
飛んだ。
行く先は、二匹目のドラゴンが居るらしい山である。
地図は拝借済みで、遠くはない距離だった。一日中飛び続ければ、
着くだろうと思われる。その為総一郎はひたすらに飛び続け、午後
六時ほどに一度市街で休憩を取り、再び飛んで、深夜二時ほどに件
の山に辿り着いた。
山の麓には、騎士団の物らしきテントの群れが在った。総一郎は
風魔法での索敵で、恐らく総一郎が先日まで所属していた騎士団の
団員は居ないだろうと推測する。念のために聖神法でも重ねると、
はっきりと理解できた。索敵に関しては聖神法の方が優秀らしい。
適当なテントを選び、その主を呼んだ。起き抜けで寝ぼけた風の
青年に精神魔法をかけ、一晩だけ場所を借りさせてもらう。
翌日、相部屋だと勘違いをした青年に朝早くに揺り起こされ、総
一郎は非常に重い眼を擦りながら起床した。横に寝るナイも道連れ
に揺り起こし、かつてないほど不機嫌な視線を向けられる。
三人で仲良く朝食を取りながら、総一郎は自然に、青年にこんな
事を尋ねた。
﹁それで、もう一度確認したいんですけど、ここのドラゴンの特徴
って何でしたっけ﹂
﹁ん? ああ、君って他の所からの援軍組だったか。ここのドラゴ
ンはさ、どちらかと言うと蛇に足が生えたみたいなひょろひょろし
1291
た奴らしいんだけど、厄介な事にそれを守っている亜人が居るんだ。
それがもう、かなり強い。幸い死んだ奴は今の所居ないらしいから、
今日あたり頑張って見に行って来いよ。ちょっと面白い姿をしてい
るから﹂
随分と自分たちの所属場所とは異なった雰囲気に、総一郎とナイ
は顔を見合わせた。総一郎はアイルランド出身らしいその青年に剣
を貸してもらい︵先日折れたと嘘を吐いた︶、大剣の重みに辟易し
ながら山を登っていく。
山の頂上は露出していて、青年曰く﹁森の無いあそこに居座って
くれていたら楽だったんだけどな﹂との事。その龍と亜人が山の中
腹にいる事は確かな事らしかったが、場所が日によって変わるのだ
とも伝えられた。
更にいうと、霧が出たら近く、しかし霧が出たら十人中八人は迷
った末に麓に戻されてしまうという。
それを聞いた総一郎、まるで日本の妖怪のようだと苦笑する。し
かし龍の特徴を聞くと、あながち間違っていないような気もするか
ら怖い話だ。
山を登り始めると、運が良いのか悪いのか、すぐに霧が出始めた。
﹁はぐれたら大変!﹂とこじ付けながら、ナイが総一郎の腕に抱き
つき、身動きがとり辛くなったのが皮きりだった。
近くに居た青年や、彼含む騎士の小隊が一瞬にして霧の向こうへ
消えてしまった。
﹁⋮⋮あれ﹂
1292
﹁総一郎君、あっちあっち﹂
ナイの指差す方向を見ると、何やら黒い影のような者が見えた。
そっちに行ったのかと追いかけていく総一郎。このまま麓に戻るの
は御免だった。
しかし、不意に様子がおかしい事を知る。霧が、そのシルエット
の周囲をうねっているのである。勘付いて、総一郎は剣を捨て木刀
を抜き放った。
相対峙。段々と、影はこちらに近寄ってきていた。周囲の靄が、
暴力的な歪みを見せ、総一郎を圧しだしてくる。腹に、力を込めた。
総一郎もまた、風魔法で牽制を始めた。
すぐに、決着は訪れた。
襲い来る風の太刀を、総一郎は木刀で断ち割った。次いで風と時
魔法で瞬時に間を詰め、切り結ぶ。相手の手から、得物が飛んだ。
息を継がずに胴体へ一太刀。掠るが決定打ではない。返しに二の太
刀を振るおうとした瞬間、相手から絞り出すような声が上がった。
﹃済まなかった! だから、どうか命だけは助けてくれ。それにし
ても、凄まじい手だれだのぅ、主。名は、何と言う﹄
総一郎は、その声を聞いて思わずぽかんとしてしまった。日本語
なのだ。風魔法で霧を飛ばすと、相手の正体がやっと総一郎の視界
に映った。
赤ら顔の長鼻。山伏の装束。総一郎は、懐かしい様な、気まずい
1293
様な表情で、彼に告げた。
勿論、日本語だ。
﹃⋮⋮僕の名は、武士垣外総一郎。天狗様、何で貴方がこの国に居
るんですか?﹄
天狗と言うのは、烏天狗などの下位の者たちはともかく、非常に
位が高い為、日本においてすら数が少ない。
それでも僅かな可能性だったのだが、奇跡的にこの天狗は、総一
郎に加護を与えたあつかわ村の天狗だった。
それ故、天狗は懐かしさに飛び上がり、茶を振る舞おうと自らが
住まう社に連れて行き、総一郎はナイと共に広間でそれを待ってい
る所だった。
いつもの通り総一郎の膝元に収まったナイは、目を瞑りながら﹃
キラキラ星﹄の三番を歌っていた。総一郎はそれをBGMにしつつ、
社の奥にとぐろを巻く、寝ているらしい龍を見る。
あつかわ村でも、見た事のない相手だった。天狗と共に居たとい
う事は、日本の龍なのだろう。何故と思ったが、今は黙っていた。
急ピッチで作られたこの社も、中々にしっかりしている。内装は
和風で、懐かしさが胸に迫った。
天狗が、二人分の湯飲みを総一郎に差し出した。ナイは身を隠し
1294
ていないらしい。啜ると、紅茶の味がして驚いた。﹁人間に化けて
買ってきたのよ﹂と天狗はにやりとする。
﹁いやしかし、懐かしい顔だの、総一郎。風の噂で家族がバラバラ
になったと聞いていたから、心配して居った。︱︱昔よりも、少々
顔つきが大人びたな。世の無常を噛み締めたと見える﹂
﹁あはは。天狗様は相変わらずの様で。まだ加護を受け取りに来た
子供を空に攫ってブン投げたりしてるんですか?﹂
﹁そんな事、ここ百年近くお前にしか行っていないぞ、総一郎。そ
れに、お前の時でさえシルフィードに頼んでおった。まぁ、無駄に
なったと聞いたがな﹂
﹁成程﹂
﹁して、その小娘は紹介してくれるのか?﹂
﹁はい、勿論。この子はナイと言って⋮⋮何?﹂
﹁総一郎君に片思い中の乙女です﹂
﹁ダウト﹂
﹁嘘じゃないよ!?﹂
びっくりした風に下から見上げてくるナイを、総一郎は自然な形
で黙殺する。それを見た天狗は呵々大笑し、少年の名を呼んだ。
﹁総一郎。お前しばらく見ぬ間に中々やりおるようになったな。物
1295
の怪を手玉に取るとは﹂
﹁手玉になんてとってませんよ。手玉に取られている振りをしてる
んです、ナイは﹂
﹁総一郎君が虐めるよぅ⋮⋮!﹂
﹁そうじゃろうとも。その小娘は、腹の中では何もかも分かって居
る。しかし、その演技を演技と見抜けるのだから、小僧は真の意味
で手玉に取っていると言えるのだ﹂
﹁⋮⋮総一郎君だけなら見抜かれてても見抜かれてなくても良かっ
たんだけど、勘の鋭い妖怪が一人でもいるとやり辛いなぁ⋮⋮﹂
急に雰囲気を変えて、ナイはため息を吐いた。総一郎、ちょっと
の空白を挟んで、彼女に言った。
﹁珍しいね、ナイがふざけずに話し出すなんて﹂
﹁そうかな? ボクだって普通の無貌の神とは別枠だから、結構素
が出る事って多いと思うけど⋮⋮、まぁ、それはいいね。それで、
どうやって天狗ちゃんはボクが人じゃないって気付いたの?﹂
﹁確かに主は体も魂も人の形をしているが、その奥には人でない何
かが核として眠っている。随分と硬い檻を着こんでいるものだと、
そう思うただけよ﹂
﹁⋮⋮やっぱりボク、日本嫌いだよ。総一郎君のお父さんの所為で
入れないし。多くの神々が居て、しかもちょくちょく祟りを起こす
っていう土壌が、その時点で外宇宙の神々の物と同一だから面白く
1296
ないんだよね。そのお蔭で無貌の神は、何百年か前に日本でこき下
ろされたことあるんだよ?﹂
﹁どんな風に?﹂
﹁サブカルチャーとだけ言っておくよ﹂
ナイがさらに深いため息を吐くと、天狗は﹁儂も神のような物だ
からな﹂と大口を開けて笑った。相変わらず大笑の似合う人柄であ
る。
﹁それでさ。総一郎君が気になっているだろうから、話してあげて
よ、天狗ちゃん﹂
つまらなそうに自分の膝で頬杖をついて、ナイは天狗に手を差し
向けた。長い鼻を偉そうに鳴らし、天狗は答える。
﹁シルフィードもそういえば儂をそのように呼んでおったな。して、
何が聞きたいのだ、総一郎﹂
﹁天狗様がこの国に来た理由と、その龍の正体ですね﹂
﹁ああ、その事か。⋮⋮そういえば、お前に頼みたいこともあった
な。その事も交えて話そう﹂
天狗は、一度居住まいを正した。総一郎もそれに習い、ナイは彼
に寄りかかってうつらうつらし始めている。
﹁まず、儂がこの国に来たのはそこに御居りになる竜神様たっての
ご所望ゆえだ。何でも、﹃ここに来なければならない気がする﹄と
1297
のお言葉を儂は賜って居る﹂
﹁具体的な理由は分からないのですか?﹂
﹁うむ。竜神様は儂以上に位が高くてな。易々と一柱で外国に行か
せてはならぬ存在なのだ。事実、日本を離れてからは儂も竜神様も
力が弱まるばかりよ。その為、儂はその理由を探しに飛び回ってい
るのだが、どうも難しい﹂
﹁⋮⋮ふわぁあ﹂
ナイの欠伸に、総一郎は角度的な問題で、親指でのデコピンを食
らわした。﹁っあ﹂と声を漏らし、彼女は額を押さえる。
﹁それに加え、儂らを取り除こうとする小童どもが麓に居る。奴ら
を追い払おうにも、酷くしつこい。命は奪いたくないと思っている
から、儂一人では手いっぱいなのだ。見ての通り竜神様は、この国
の人間にも殺されかねない程に弱っている。その事で、頼みがあっ
てな。ひとまず、数か月の間でいいからここを守ってほしいのだ﹂
総一郎は、その言葉を吟味しながら、天狗の言う竜神様の様態を
見た。確かに、弱っている。イギリスと言う土壌が、そもそも亜人
には合わないのか。しかし妖精などのこの国原産の亜人はぴんぴん
としていた物だ。ドラゴンを殺そうと考えていた総一郎も、この分
ではその理由が喪失している。
﹁ふむ⋮⋮。多分大丈夫でしょう。分かりました、承ります﹂
﹁受けてくれるのか! 有難い。褒美に、竜神様からの加護もお耳
に入れておこう﹂
1298
﹁ありがとうございます。⋮⋮隙を見て街に出るくらいの事はして
もいいんですよね?﹂
﹁勿論だ。その為の金が必要なら、儂に言え。ただ、少々魔法を使
ってもらう事になるが﹂
﹁どうするんですか?﹂
﹁この国にも亜人との混血であることを隠して生活している者が居
る。エルフなど、人間に近ければそうは気付かれないのだ。そうい
う者に融通を利かせてもらい、魔法による副産物と貨幣を交換して
もらう﹂
ツテがあるのか、と僅かに瞠目したが、天狗などの純潔の亜人は
寿命が長い。顔の広さから、そういう事もあるのだろうと納得した。
総一郎は三大欲求の中でも重要な睡眠欲が人より多少表に出ない
代わりに、知識欲と言う第四欲求が存在する。常に新しい事を知り
続けなければ禁断症状を起こし、仕舞いには狂犬のようになってし
まうのだ。麻薬と同じである。本屋に行けるというなら、非常にあ
りがたい事だった。
そのように取り決めて、天狗が、竜神様のここから離れられない
理由を捜し当てるまで、総一郎は竜神様を守る運びとなった。
そういえばと思い、総一郎は日本の様子を天狗に聞いた。しかし、
知らないと言われ、困惑してしまった。天狗も少々困った顔で、こ
のように続けていた。
1299
﹁人食い鬼どもは、人間どもだけでなく亜人をも喰らいだしたのだ。
あつかわ村に残ることを決めた者、運悪く取り残された者は、全て
今、マヨヒガに引き籠っている。それ故、不甲斐ない事だが、現状
どのようになっているかも分からぬ始末よ﹂
﹁⋮⋮そのマヨヒガの中に、るーちゃんは居ませんか?﹂
﹁琉歌の事か? ⋮⋮いや、儂のあずかり知るところではないな。
何だ。あの子は家族と共にいる訳ではないのか?﹂
﹁⋮⋮般若家には白ねえが身を寄せている代わりに、るーちゃんの
場所が明らかになっていないんです。イギリス行の船に乗っていた
ら流石に気づいたはずですし。⋮⋮﹂
下唇を噛んで、黙り込む。﹁そうか﹂とだけ、天狗は言った。
総一郎は、マヨヒガに似た不可思議な構造で出来ているらしいこ
の社から一旦出て、周囲に騎士達が居ない事を確認した。ただ居る
かどうかを探るなら、魔法の方が簡単だ。使い分けが必要なのだと
総一郎は考えながら、簡単な罠を木魔法で周囲にしかけ、戻った。
翌日。口が半開きのアホ面を晒して眠りこけるナイを見て、これ
も演技なのだろうかと一人真剣に眉根を寄せた総一郎。早朝外に出
ると霧が薄くなっていたので、数時間素振りをしてから霧を足した。
社の転位は、この霧が保たれている間は有効になるらしい。魔法よ
りも天狗の妖術の方が遥かに高等な技術だと、ちょっと悔しくなっ
たりする。
しかし妖術と言うのは簡単に言ってしまえば種族魔法という事で、
望むべくもないのだった。そういえば河童から総一郎は一生溺れな
1300
いようにしてもらったが、そもそも水に浸かる機会そのものが少な
いのは一体全体どういう事か。
そう、とりとめのない事を考えていた時、不意に何かの気配を感
じた。
思わず聖神法での索敵を行い、まだ癖が抜け切れていないなと苦
笑した。索敵に引っかかったのは、数人の騎士である。音魔法で彼
らの声を聞き取る限り、罠で既に何人か減っていたらしい。その上
で辿り着くのか、と総一郎、苦虫を噛み潰した顔になる。
仕方なく出向いて、光魔法で自身を天狗に偽装し、総一郎は死な
ない程度に風魔法で蹴散らしてやった。この霧の中に居る者が気絶
すると、いつの間にか山の麓に戻されてしまうのだ。
霧に溶け行く彼らを見ながら、せめてしばらく来ないようにと毒
魔法で追加攻撃しておく。症状としては風邪をこじらせたような感
じになるはずだ。
街に繰り出せるようになるのは、少々先の事かも知れない。更に
罠を強化して、総一郎は社に戻った。
﹁ただいま﹂
﹁あ、総一郎君お帰りなさい﹂
﹁あれ、天狗様は?﹂
﹁出かけてったよ。ほら、朝ごはんだって﹂
1301
ナイが差し視線で指し示す先には、二人分の朝ご飯が用意されて
いた。和食じゃない事が少々残念だったが、外国の米に美味い物も
少ないので、諦めて納得した。
それでも普通のイギリスの料理屋よりも美味いのだから、恐れ入
る。
満腹で上機嫌になった総一郎は、外に出て罠を増やした。土魔法
での落とし穴や、簡単な落石などだ。それでも数人の騎士たちは社
近くまで辿りついたため、総一郎直々に迎え撃つ。
改めて感じるのは、魔法の利便性と、聖神法の脆弱性である。よ
く今までこのような状態でいられたなと、感心してしまうほどだ。
経済成長が遅い国ほど、亜人に対して差別的である。それに変わる
技術があるなら別としても、聖神法では不十分なはずだ。
天狗は、その日の深夜に戻ってきた。当面の敷金だと、数十ポン
ド受け取った。食糧費などは別だから、こんな物だろう。買うのが
本だけなら事足りるはずだ。
総一郎は金属魔法で貴金属を生み出し、代わりに天狗に渡した。
﹁足りなくなったら言うと良い﹂と少年に告げ、彼はすぐに寝てし
まった。翌日総一郎が起きると、すでにその姿はない。
横で、ナイが寝返りを打った。こうしていれば、あどけない少女
そのものである。思わず手を伸ばし、その頭に触れていた。ハッと
して、戻す。
﹁⋮⋮駄目だな。警戒心が薄れすぎてる﹂
1302
我に帰らなければ、恐らく総一郎はナイの頭を撫でていた。親愛
の情を示す行動。それを、父が天敵だと示した存在に行おうとした
のだ。
頭を振ってから、素早く着替えて社を出る。玄関で、再びナイに
視線を向けた。
彼女はいまだ、穏やかな寝息を立てて眠っている。
1303
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽︵1︶︵後書き
︶
ナイ﹁これから本格的にボクのターンだよ!﹂
1304
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵2︶
数日は、安穏としていた。一週間もすれば罠の仕掛け方も慣れて、
街に出られるようになった。そうするとナイは総一郎に引っ付いて、
アレ買えコレ買えだのとねだるのだ。
とはいえ、実際に買うか買わないかは総一郎が判断する。買わな
くても、文句ひとつ言わないことも多かった。
大体一か月程度が経っても、天狗の調査は遅々として進まなかっ
た。自分が手伝おうかと申し出ても、やんわり断られてしまう。
社での生活にも、慣れきった。早朝に起き、素振りをし、罠を仕
掛け直して、時折街に出たり、騎士を迎え撃ったりする。
今日は、街に出る日だった。服も最低限買い揃えて、着ないもの
は非常に内容量の多い不思議な巾着袋に入れてある。
﹁ナイ、行くよ﹂
﹁うん、ちょっと待って!﹂
急いだ様子で、彼女は靴を履く。そして終わり次第、総一郎の腕
に抱きついて、鼻歌交じりに歩き出すのだ。
﹁デート、デート、総一郎君とデート﹂
﹁頻度の高いデートだなぁ⋮⋮。今日は何も買わないつもりだし、
1305
どちらかと言うと散歩じゃない?﹂
﹁やんわりとデートを否定しないでよ。嫌なの? ボクとのデート﹂
﹁邪神とデートって字面からしてぞっとしないよね﹂
﹁本気で嫌がられててかなりショックだよ⋮⋮﹂
﹁はいはい。じゃあ、飛ぶよ﹂
﹁うん﹂
自重の軽減。そして、周囲を廻る強風。二人の体が、ふわりと宙
を浮く。風魔法の細かな操作で態勢を整え、彼女の名を呼ぶと掴ま
れる感触が強くなった。
物理魔術の運動エネルギーに魔力を思い切り詰め込む。そして、
皮切りの呪文。
景色が飛び去った。風魔法で風防を作ってあるから、存外に快適
だ。最近余裕が出てきて分かったのだが、ナイは高所恐怖症の気が
あるらしい。その為表情を青くしているのだが、総一郎にはその理
由が分からないのだ。
そもそも総一郎、無貌の神についての知識が、﹃人間の破滅を好
み、無限に等しい化身を持つ、恐ろしい強大な邪神﹄という事以外
にないのである。外宇宙だの何だのといったよく分からない単語も
聞いているが、規模が大きいだけだろうと適当に解釈している。
ナイはその中でも別枠に存在しているというのを、彼女自身の言
1306
葉で聞いたことが在った。それがさらに、総一郎を混乱させる。だ
からこそ、どんなに互いの表面上の態度が軟化しようと、信用も信
頼もないままなのだ。
ある種、真綿で首を絞められるような状況だった。
﹁⋮⋮着いたー⋮⋮﹂
街外れの、目立たない場所。魂が口端から半分くらい抜けかけて
いるのではないかと思えるほど、気の抜けた声である。毎度毎度ナ
イは街に着いた直後こうなるのだが、総一郎は呆れ半分ながら、も
う半分はそれが演技なのではないかというぎわくがある。
それにも、いつしか慣れていたものだ。
﹁大丈夫? 休む?﹂
﹁大丈夫。⋮⋮ただ、ちょっとだけ支えてくれないかな、総一郎君。
ボク、恐怖で腰が抜けかけてるみたい﹂
﹁二回に一回はそうだよね。慣れなよ﹂
﹁自力で飛べるからって無茶言うなぁ⋮⋮﹂
﹁飛べないの?﹂
﹁飛べないよ?﹂
﹁あれま。新事実﹂
1307
﹁むしろ飛べるのに高所恐怖症っておかしくない?﹂
﹁あはは、それもそうだね﹂
その癖こんな会話ができるのだから、ナイを支えながら総一郎は、
自身で裏表を感じざるを得ない。
ごく稀に、深く考えてしまう事があった。いつもは、そんな風で
も特に考えないのだ。その時に読み途中の本の内容が、普通なら頭
の半分以上を占めている。今日は現在読み途中の書物に、あまり興
味を引かれなかったからだと自らを納得させた。
どの道、散歩を始めてから数分もすると、結局そんな考えは霧散
してしまうのだった。結論も何もないのだから、仕方がない。今更
ナイに対する嫌悪を表に出しても、疲れてしまうだけな事は分かっ
ていた。
賢い生き方、と言う奴である。
﹁総一郎君、見て見て! あの服可愛くない?﹂
﹁確かに趣味がいいね。買わないけど﹂
﹁⋮⋮先回りするのはどうかと思う﹂
﹁でもいつも買わないでしょ?﹂
﹁買って、ってねだるのが好きなの、ボクは!﹂
街では、大抵ウィンドウショッピングをしてから、本屋で立ち読
1308
みをするという流れになる。
昼食は天狗か総一郎が作ったお弁当だ。偶に隙を突かれナイにお
弁当を作られる事もある。その場合は、食べる時は毒魔法で密かに
口内分析をするが、今の所引っかかった事は無い。
今日もそうで、毒魔法をしなければならないのが面倒だが、その
点を抜けば一番うまいのはナイが作った物だったりする。
綺麗な薔薇には棘がある、と考えれば、別に気にもならない。
﹁どう? 総一郎君﹂
﹁ん、いつも通り美味しいよ﹂
﹁えへへ∼、作った甲斐があるね。そう言ってもらえると﹂
﹁僕が作った物より格段に美味いから偶にムカつくんだけどね﹂
﹁君のその思考回路にはボクもびっくりだよ⋮⋮!?﹂
今日のサンドイッチにも、毒が入っているという事は無かった。
﹁もう一個いい?﹂と頼んで、彼女が作ってきた三つの内、二つを
平らげた。不意に、考えてしまう。彼女は総一郎が毒魔法での解析
をしていることを、知っているのか。
こんな事は、総一郎自身したくない。自分でしていて、気持ちが
悪くなる。美味い美味いと言い、自ら望んで彼女の作った料理を食
しながら、神経質に毒が盛られているのではないかという事を疑っ
ている。明らかに、異常だ。
1309
しかしそうしなければ、途中で吐き気が彼を襲い、胃の中身を全
てぶちまけてしまう羽目になる。
﹁ふぅ。満腹満腹﹂
﹁⋮⋮そうだね、ナイ﹂
今日は、調子が悪い。公園のベンチに二人で座りながら、そんな
事を思った。いつもより、妙な事を気にしてしまう。
精神魔法での防御は、一応施してあった。しかし加護の少なさの
為、効果は限定的だ。ナイが本気で総一郎の心を操ろうとした時、
気付き、一瞬だけ防ぎきれるように、と祈りを込めて魔法を使った
のが、ドラゴンを倒した直後の事である。
しかし、今の所何かを感じたという事もなかったし、警戒心を保
てている現状からすれば、掛けられてもいないのだろうと考えてい
る。それはつまり、今の所ナイに総一郎をどうこうする気はないと
いう事だろう。
だから、彼女がこちらを見ていない時を見計らって、﹁忘れよう﹂
と唇だけで呟いた。そうすると、案外すぐに気が楽になった。
それからまた、二人で遊んだ。買う気は無かったのに、本屋で結
構な量を買ってしまった。楽しかったように思う。今日は、珍しく
彼女にねだられたものを買った。髪飾りだ。
着けた姿を見せられ、﹁可愛い?﹂と聞かれた。総一郎は嘘をつ
かない性質だから、その時は素直に褒めた。ナイは頬を僅かに紅潮
1310
させ、相好を崩す。総一郎も、笑っていた。
黄昏時、昼食を取った公園のベンチに座っていた。少し休んでか
ら、山に戻ろうと二人で決めた。人気は無い。何もかも、夕日に赤
く染まっている。総一郎も、ナイも、何もかもだ。
柔らかな沈黙が、満ちていた。それは、優しい赤色をしている。
総一郎は、珍しく眠気に襲われた。腕を組んで座っていると、かく
ん、と首が落ち、はっとなって目が覚める。
﹁⋮⋮総一郎君って、本当に可愛いなぁ﹂
再び舟をこぎ出しそうになった総一郎に、ナイがそんなことを言
った。反応して彼女に目をやれば、見上げる様な、見下ろす様な、
慈しんだ微笑を浮かべている。
寝ぼけたまま、総一郎は彼女を見つめていた。すると、ナイの表
情に変化が訪れた。彼女は、笑みの八割を消して下唇を噛む。躊躇
いを思わせるが、その本心は分からない。
﹁あの、さ。総一郎君。⋮⋮聞いてくれる?﹂
﹁ふぁぁ、⋮⋮何? どうしたんだよ、改まって﹂
﹁本当はさ、もっとふさわしい時に話そうと思ってたんだけど、そ
う思うと中々機会が無くってね。今、話してしまおうと思ったんだ
よ﹂
﹁だから、何さ⋮⋮﹂
1311
﹁ボクが君に接触した真の目的﹂
総一郎は欠伸を止めて口を噤んだ。呼吸が止まったと言ってもい
い。目は一気に醒め、瞼は落ちる事を許されなくなった。
﹁⋮⋮僕を、破滅させるためじゃないの?﹂
﹁ううん。真逆だよ﹂
真逆とは何か。総一郎の思考が回り出す前に、ナイは続けた。
﹁ボクはね、総一郎君。君に殺される事こそが、本当の目的なんだ﹂
少年は、考えるよりも前に立ち上がった。目を剥いて、強い口調
で言い放つ。
﹁嘘を吐け。そんな訳がない﹂
﹁⋮⋮うん。だから、これはボク個人の願望だよ。本当の目的は、
﹃自身の破滅﹄そのもの。でも、多分意味が分からないだろうから、
順序立てて説明していくね?﹂
あくまで落ち着いた様子のナイに、総一郎は我に返りベンチに座
り直した。何故、今のような根拠のない言葉を吐き出したのかが、
自分でもわからなかった。︱︱まず落ち着こう。その上で、彼女の
言葉を噛み砕いていけばいい。
ナイは、﹁とりあえず、総一郎君に不足な無貌の神の説明から入
ろっか﹂と言った。彼女は姿勢を正し、何処か無機質な声色で語り
出す。
1312
﹁無貌の神。這い寄る混沌。千の顔を持つ者。暗黒神。百万の愛で
られしものの父。門の場所に平和は無い⋮⋮。他にもたくさんある
けれど、二つ名はこんな物だね。強大でおぞましくて冒涜的で、簡
単に殺せるはずの人間を直接殺すことを極力避けて、いろんな手管
で破滅を誘い、その浅ましさを嘲笑している⋮⋮。それが、人間か
ら見た無貌の神﹂
﹁人間から見た?﹂
﹁そう。だから、他の視点も存在するって事。つまりは⋮⋮無貌の
神そのものの視点からすると、それは結構ごく一部の面に過ぎなか
ったりする。そもそもね、千の顔だなんて、少なすぎるんだよ。本
当はもっともっと多い。でも、ある意味では確かに千の顔に語弊は
無いの。それは、その、人間に知られた邪悪な化身の数が、だいた
い千だよっていうことだね﹂
﹁⋮⋮邪悪じゃない化身もいる﹂
﹁ううん。邪悪じゃない化身なんて居ないよ。これは無貌の神の性
質だから変えられない。でも、自分が邪悪な化身だと気付かずに、
普通の人だと勘違いしたまま、生まれて育って老いて死ぬ。⋮⋮そ
ういう化身も、少なからずいる。そしろ、こっちの方が大多数だ﹂
総一郎は、考え込む。必死に、噛み砕いていく。無自覚の化身。
邪悪な自身の本質に気付かない。⋮⋮言い換えれば、無害という事
だ。しかし、覚醒する危険性は微小ながら孕んでいる。
﹁⋮⋮それが、かつての君って事? ナイ﹂
1313
﹁そうだよ。君の理解が早いと、こっちも楽でいいね、総一郎君﹂
ナイは、有難がったような、しかしどこか上の空のような様子が
在った。
﹁少し外宇宙の神話になるんだけどね。昔々、無貌の神以外の邪悪
な外なる神々や旧支配者たちは、こぞって善なる神に封印されてし
まった。明らかに邪悪な神々の方が力は強かったんだけど、奇跡的
にそれが叶ってしまった﹂
﹁一人だけ助かったんだ﹂
﹁まぁ、自己と自我を持つのは彼一柱だからね。で、封印されなか
った無貌の神は、仲間である神々の失態を嘲笑しつつ、封印を解こ
うと画策した。⋮⋮けど、はっきり言って神の時間感覚ってかなり
スパンが長いから、順調にいっても数十億年かかるんだよね。いや、
もっとかな? ︱︱そこで総一郎君に質問。君は暇なとき、何をす
る?﹂
﹁⋮⋮本を読むかな?﹂
﹁そう。彼も、君と同じように暇つぶしに何かをしようと考えた。
そして幸運な事に、彼はいくらでも化身を自由に作ることが出来た
から、いろんな星のいろんな国に様々な化身を飛ばして暇をつぶし
始めた﹂
それが無貌の神がこんな辺境の星に居る理由ね。とナイは言う。
﹁でも、問題が在った。彼は少々全能すぎたんだよ﹂
1314
﹁⋮⋮どういう事?﹂
﹁簡単に言ってしまえば、答えの分かり切った謎々なんて今更やり
たくないって事さ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁とはいえ、下等生物の自滅破滅は、結末が分かり切っていてもひ
とまずの時間つぶしにはなった。彼の嘲笑的な本質からすれば、退
屈しのぎにならない事は無かった。でも、本当に興味があった事に
関しては、中々手が伸ばせない。全能であるが故の不能っていう奇
妙な事態が訪れた﹂
﹁本当に興味があった事って?﹂
﹁破滅の味だよ﹂
ナイは感情の伺えない視線を、総一郎に差し向ける。
﹁あの甘美で蕩けるような破滅を、たった一度でいい、自分自身で
味わってみたい。ずっとずっと、彼はそんな風に考えていた。でも、
出来なかった。化身の性能を必要以上に落として破滅させても、は
っきり言ってつまらない。破滅とは、苦悩の末に落ちていく、敗者
の力及ばずのものなんだ。自ら縛ったって余裕が出る。でも、破滅
の苦しみが味わえるだろう必要最低限の性能を持たせると、それを
上回る存在が居ない﹂
そう考えていた所に、君たちが生まれた。
ナイは言う。
1315
﹁全能のはずの無貌の神でさえ、未来が読めない。はっきり言って
異常事態だよ。でも、彼はそれを歓迎した。君たちを育て上げれば、
いつの日か自分を破滅させてくれるかもしれない。全ての原子の動
きを計算したところで、その計算がどんなに精確であっても、狂う
時は狂う。予知は違う。文字通りの全知だ。でも、君たちにだけは
それが通じない。だから、君たちに目を付けた﹂
まるで他人事のような遠い口調で、淡々とナイは語り終えた。無
貌の神の事を、﹃彼﹄と彼女は呼んでいた事と、何か関係があるの
かと総一郎は訝しむ。
深いため息。ナイは、一度伸びをした。こちらに、久しぶりの笑
顔を向けてくる。先ほどまでの硬い顔つきを想うと、まるで今は仮
面を外したかのような印象を受けた。
﹁ここからは、ボク個人の話になる。規模が小さくなるし、話も単
純だけれど、聞いてもらえる?﹂
﹁⋮⋮そこで僕がいいえって言ったら、どうするつもり﹂
﹁その時は、ちょっと泣きそうになりながら軽く流すかな﹂
総一郎、毒気を抜かれて苦笑した。
﹁分かったよ⋮⋮。聞かせて、君の話﹂
﹁ありがとね、総一郎君﹂
ナイは、﹁何処から話そうかな﹂と顎に人差し指を当てた。﹁と
1316
りあえず、ボクの簡単な生い立ちから﹂とニコニコしながら総一郎
に話し始める。
﹁ボクはね、研究者で純粋な人間の父と、多くの亜人や人間のハー
フの母の間に生まれたの。でも日本じゃなくて、しかもお母さんか
ら継いだ個々の加護が薄かったから、あんまり魔法は使えないんだ。
もともと九歳までは無貌の神なんて自覚は無かったし、ちょっと悪
戯が好きな節があったけど、普通の女の子として育てられた。当時
のボクの悩みは、お父さんが研究室に籠っていた事かな。その所為
で全然遊んでもらえなかった事を覚えてるよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それでね、そのお父さんっていうのが話の目玉っていうか。すっ
ごく頭が良かったんだよ。それはもう普通の人は解こうって気にも
なれないような難しい方程式も解いちゃうくらいね。⋮⋮それで案
の定、解いちゃならないタイプの問題を解いちゃった﹂
﹁解いたら、何かが出て来るとか?﹂
﹁そう。﹃クルーシュチャ方程式﹄っていってね。無貌の神の化身
の一つでもある。解いた瞬間に、身体を乗っ取られちゃうんだ。そ
れを、お父さんは解いた。解いて、無貌の神になって、娘であるボ
クまでもが自覚のない無貌の神である事を知って、人間の浅ましさ
を嘲笑した。それが、ボクが大体四歳くらいの時かな。ちょっとお
父さんの様子が変わって、数日もしない内にお母さんが死んだ。子
供心ながらにショックだったね﹂
﹁⋮⋮﹂
1317
総一郎は、口を閉ざして考える。ナイは構わず口を動かす。
﹁それからは、お父さんに育てられたんだよ。ほとんど放任で、寂
しかった。でも最低限の教育とかは施された。勿論、人間としての
それだよ。ボクは、その時は無自覚のまま一生を終える予定でいた
から。︱︱でも、九歳のある日に何もかも変わった。お父さんがね、
仕事中だっていうのに、血相変えて帰ってきたんだ。それで、自宅
に監禁された。全裸にガムテープの拘束なんて言う粗末なものだっ
たけれど、身動きは取れなかった。それでね、数日間そのままだっ
たの。放置だよ。酷い話だと思わない? 空腹と脱水症状で死にそ
うになった時、いきなりガムテープを引っぺがされて自由になって、
⋮⋮その時、お父さんは何を言ったと思う?﹂
総一郎は、視線を上げてナイの目を見つめた。疲れたような笑み
が、そこに在った。
﹁﹃おめでとう、我が娘にして我が分身よ! 祝福すべき子供たち
が、今この瞬間、この世に生を受けた! 今よりお前は無垢なる千
の顔の一つとなり、甘美なる破滅をその身に満たしなさい!﹄︱︱
その後、ボクは無貌の神たる必要最低限の知識だけ与えられた。⋮
⋮目をね、合わせるんだ。そうすると、一見意味不意な呪文の羅列
と、それを唱えた時の効果が伝わってくるの。で、後は一人で追い
出されて、君たちを探し始めたんだ﹂
躰が成長しなくなったのも、この時期かな。と語り終えたナイに、
総一郎は呆けたような無表情でいた。夜の帳も下りはじめ、互いの
表情は見えないで居る。彼女はきっと、今の総一郎の心情が分から
ないだろう。総一郎も、同じだ。どこか歪んだ顔つきのまま、少年
は尋ねる。
1318
﹁︱︱つまりナイ。君は僕やその他の、未来の見えない子供に殺さ
れる為に存在してるって事?﹂
﹁うん。その通りだよ﹂
﹁いや、まだ足りないよ。⋮⋮無垢って、今言ったよね。それはど
ういう事なのかな﹂
﹁⋮⋮それも、そのままというか。⋮⋮無貌の神ってさ、その精神
構造からしてどんな事でさえ嘲笑の対象なんだよ。つまり、そのま
まの精神では破滅は味わえない。︱︱間違いなくそれを味わえる精
神構造の生物に、化身の精神を似せなければならないんだ﹂
﹁でも君は、僕の父さんに殺されても、平然と現れたよね? それ
は、人間じゃないって事じゃないの?﹂
﹁あの時は、対策を打っておいたんだよ。君のお父さんとはいえ、
﹃祝福すべき子供たち﹄という訳じゃない。未来が見えるんだ。だ
から、あの時姿を現したのはボクの傀儡。もっとも、あの人の呪詛
がボクまで辿ってきて驚いたけどね。どうせしばらく日本に用は無
いし、いざとなればあの地下室で会えたから、甘んじて受けたんだ
よ﹂
﹁︱︱じゃあ、つまるところ君は、人間と同一って事なんだね。人
間と同じように喜怒哀楽を示す。君は、人間とまるっきり同じ心を
持っているっていう⋮⋮﹂
総一郎の声は、小さい。ナイはぎこちなく笑う。
﹁⋮⋮うん、そうだね。だからその、何て言えばいいのかな。ボク
1319
も傷つきやすい乙女なわけだから、もうちょっと優しくしてくれて
もいいんじゃないかなーって⋮⋮﹂
ダメかな⋮⋮? と上目遣いに見るナイ。電灯が点き始めて、彼
女の表情が総一郎の前に現れた。何となく、困ったような、そんな
顔だった。
少年は、それにこう返す。
華奢な声だった。
﹁⋮⋮その言葉に、客観的な証拠はあるの?﹂
総一郎は、酷く狼狽していた。だからこそ、こんなにも愚かしい
言葉を口にしてしまったのかもしれない。昼間の疑心暗鬼もその原
因の一つだ。だが、ナイは今まで総一郎に害を加えようとはしなか
った。そうでなければ、総一郎は彼女の言葉を微塵も信用しないま
ま、微笑んで聞き流すことが出来た。
その葛藤を、しかしナイは知らなかった。いや、知らないふりを
したのかもしれない。分からなかった。ただ一つ事実があるとすれ
ば、彼女が傷ついた顔で、一瞬目を剥き、すぐに細めて、乾いた笑
みを浮かべながらこう言ったことだけだ。
﹁⋮⋮そうだね。ボクの言葉なんか、証明できる材料なんて一つも
ないね﹂
冗談だよ、全部。ナイはそう言って、総一郎に手を伸ばした。﹁
帰ろう﹂と彼女は言う。朗らかな声。しかしそこに込められた感情
は、分からなかった。総一郎には、ナイの何も理解できない。過去
1320
の記憶が、父の言葉が彼を強く縛っている。
ナイが無貌の神でなければ、何もかもが上手くいった。泰然とし
て、構えていられた。
故に人の破滅を嗤う神は、総一郎の葛藤をも、世界の何処かで冷
笑しているのかもしれなかった。
1321
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵3︶
ナイはあのデート以来、食事を作らなくなった。
それが無意識なのか、それとも意識的なのか、はたまた、それに
気付き惑いを見せる総一郎を陰で嘲笑しているのか、少年には判別
が付かなかった。
それ以外は、何ら変化なく日常は続いていた。ナイは相変わらず
総一郎に引っ付くし、総一郎は相変わらずそれをうざったがったり
ほとんど無視して読書を続けたりする。
総一郎は、演技が上手い。虐められっ子だった時に培った技術だ。
しかしナイがどうなのかは分からない。彼女が自身の脳を保護して
いない限り、魔法によってその中身は読めるのだろう。しかしと、
総一郎は疑う。それは、本当にしてもいい事なのか。
﹁どうしたの? 総一郎君﹂
﹁え? ⋮⋮ちょっと考え事﹂
﹁ふぅん。何を?﹂
﹁﹃亜人社会論﹄。アメリカ社会における今の亜人の立ち位置とか、
色々。面白いんだけど、それ以上に大変そうなんだよ﹂
総一郎は、言いながら手元の本を差し出した。著者はサラ・ワグ
ナー。ここでは、四国干渉で押し付けられずにそのまま残った亜人
1322
たちの歴史にまず触れ、その次に日本からの大量移民について論述
している。彼らは全国に分散するのでなく、決められた地方都市で
それぞれ暮らしているらしい。けれど、場所によっては犯罪数が急
激に上昇した場所もあるらしく、問題視されていると。温厚な日本
人の性質を引っ張り出した意見もあって、中々に興味深かった。
中でも総一郎の興味を引いたのが、﹃亜人はその国の性質に人間
以上に染まりやすい﹄と言う仮説である。アメリカは先進国の中で
も犯罪率が高い。日本に移った途端温厚になった亜人たちがアメリ
カに戻ってきて再び暴力的になったのは、そういう性質だからでは
ないか、との仮説である。
その必要以上に詳しい答えに納得したのかそうでないのか、ナイ
は曖昧な相槌を打って、また視線を宙に投げ出した。広いとも言い
切れない程度の社の中心。二人は恋人のように寄り添いながら、そ
の内面は奇妙の一言に尽きる。
何も変わっていないのだと、総一郎は思った。元々、ナイが食事
を作るのはあくまで気まぐれで、連日作る時もあれば音沙汰なしの
時もあった。今が後者であるという解釈をすれば、本当に何も変わ
らない。いつだって総一郎にくっつき、散歩にも同行し、︱︱何も、
変わらないのだ。
しかし、それとは別に、変わり続けている物がある。
﹁⋮⋮天狗様、遅いね﹂
﹁そうだね。竜神ちゃんに関しても何か手がかりつかめた様子はな
いし﹂
1323
視線が、奥座にとぐろを巻く龍に向かった。総一郎は、未だに彼
が動くところを見たことがない。そこに留まり続ける理由があるの
か。それとも動けない程に衰弱しているのか。
今は居ない天狗の弱りっぷりもまた、目を背けたくなるものが在
った。毎夜疲れ果てて帰って来るのに、成果があるようには思えな
いのだ。そもそも彼が何を調べに行っているのかさえ、総一郎は知
らない。
その日天狗が帰ってきたのは、日付が変わって一時間した時だっ
た。総一郎は早く寝た反動で中途半端な時間に起きてしまい、手持
無沙汰でトイレのため寝床を発った所に、衰え行く老爺と遭遇した。
﹁天狗様⋮⋮、遅いお帰りで﹂
﹁総一郎も、子供はもう寝る時間だろう﹂
﹁僕は一度寝たのが、妙な時間に起きてしまっただけです。トイレ
を済ませてから、少し本を読んでからまた寝ようと考えていました﹂
そうかと疲れた風に言われ、はいと少年は、笑いを誘う様なハニ
カみ方をした。それに、天狗も少し息を抜いてくれる。
社には電気が無い。それを総一郎が微弱な光魔法で照らしている
から、薄暗い恐ろしさが社の縁に滲んでいた。
こうしていると、まるで日本に居た頃を思い出す。得体がしれな
い恐ろしさの元凶がことごとく社会に進出したというのに、それで
も夜は不思議な怖さが忍び寄っているように感じたものだ。駆け足
で、その場を逃げる様に通り抜けるのである。
1324
今はそんな事はしない。だが、こんな事さえ懐かしく感じるのだ
から、自分でも変に思えてしまう。
天狗が本殿に戻るのを横目に見ながら、総一郎は厠へ走った。戻
ると、天狗が竜神の元に跪いている。どうやら、容態を見ているら
しい。
﹁どうですか﹂
﹁芳しくないな。⋮⋮いいや、こんなのは随分と控えめに言った表
現だ。しかし酷い状態だとは、儂の口からは言いたくないのよ。分
かるか、総一郎?﹂
﹁天狗様も随分と御弱りなのは、何となく﹂
総一郎の返しに、天狗は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
しばし呆然として、結局肯定される。
﹁そうよな、その通りよ。だというのに、休む暇もないのだ。調べ
ても、調べても、何も出て来はせん。焦りばかりが募るばかりだ﹂
笑みに疲労が滲んでいて、総一郎は悲しくなった。だが、休むよ
う進言しても、やはり受け流されてしまうのだろう。何か手は無い
ものかと考えていると、天狗の方から声がかかった。
﹁のぅ、総一郎。儂はこのままではどうかしてしまう。それ故、こ
の骨休めの間に何か話をしてはくれないか﹂
言われ、快諾した。あつかわ村の時の天狗の声音に、僅かだが戻
1325
ったと感じたのだ。あの、大笑いの似合う天狗に。
けれど、受けたはいいが語るべきことに悩んでしまった。本の事
を振っても天狗は困惑するだけだろうし、かといって最近の総一郎
の生活と言えばほとんどルーチンワークである。そんな少年を見か
ねて、天狗は﹁そうよな﹂と語りかけてくる。
﹁そこで寝ている小娘の話などはどうだ。随分仲が良いと見たが、
馴れ初めは何だ?﹂
﹁⋮⋮えっ、と﹂
硬直。視線を一度ナイに向けて、結局逸らした。ナイは依然とし
て布団にくるまり眠りこけている。そんな少年の反応に、天狗は片
眉を寄せた。
﹁何だ、上手くいっていないのか?﹂
﹁え、いや、その、上手くいってないとかじゃなく﹂
﹁上手くいっていないのでないなら、何故そんな反応をする。少な
くともその物の怪は、総一郎を好いているだろう。お前はそうでな
いのか﹂
﹁⋮⋮分からないです。この気持ちがそういうものなのか、そもそ
も、この気持ちが本物なのかどうかさえ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
天狗は訝しんだ顔を作り、尋ねてくる。総一郎は語るべきかどう
1326
かを迷った。天狗がナイに敵対しても、余計に拗れるだけだ。他者
に、この葛藤が分かる訳はないのだから。
だから、総一郎はこのようにぼかす。
﹁若造は、つまらない事で悩むのです。本を読んでいると自分が賢
いと勘違いしてしまうものですが、いざ壁にぶつかると簡単に狼狽
えてしまう﹂
前世の記憶は、まさにそれだ。本。映画。享受する物。本物の中
身が無かった幼少時代は、それに強く引きずられた。
少年の言葉に、天狗は笑った。そして、こう助言してくれる。
﹁狼狽えるも、惑うも、若造にしか出来ぬ。今は悩み続けろ、総一
郎。いつか、それも出来なくなる日が来るのだ﹂
﹁その割には、天狗様は悩んでいるようですが﹂
﹁ふん、言うようになったな。だが総一郎、お前は還暦と言う物を
忘れている。還暦を過ぎれば、何事も子供に戻るのだ﹂
﹁天狗様って一体何歳なんですか?﹂
﹁大還暦を少なくとも七回は過ぎたな。周りがその度に騒ぐから、
それだけは覚えているのだ﹂
大還暦とは何か。恐らく還暦の二倍辺りだとは思うが、それが七
回とは。
1327
戦慄する総一郎に、天狗は笑った。大口を開けての高笑いである。
眠っているナイの事を考慮して咎める目を向けると、天狗は察して
済まなそうに項垂れる。
そんな様子に総一郎はくすくすと笑い、天狗もまた、ナイを起こ
さない程度に再び小さく笑った。彼は、ひとしきり体を揺すってか
ら、重い息を吐き出した。
﹁⋮⋮のぅ、総一郎。儂は、随分と疲れていたんじゃな﹂
﹁そうですよ。亜人だって、疲れます。疲れたら休むのは当然の事。
少しだけでも、僕に苦労をさせてください﹂
﹁あの小童どもを追い払ってくれるだけでもありがたいというに⋮
⋮。本当に、済まないな。感謝をしてもしきれん﹂
﹁あ、ちなみにですが、罠はまだかなり残っているのでしばらくは
騎士の事を心配しなくても大丈夫かと﹂
﹁いつからお前はそんなに抜け目のない子供になったんだ⋮⋮?﹂
会話の翌朝、総一郎は初めて、眠り続ける天狗の姿を見ることに
なった。朝日が差す社の中で、布団を跳ね除け大の字だ。起きてき
たナイが、﹁珍しいね﹂と言った。
少年が朝ごはんを作って、皆で食べた。総一郎も生憎と日本食が
作れなかったため、オーソドックスなイングリッシュ・ブレックフ
ァストだ。
天狗はその後、二人に細かい事情を話した。調べて欲しい場所は
1328
風魔法に反応するような仕掛けをしてあるから、それを頼りに探し
てほしいとの事だった。非常に力強い風魔法でも、遠いほどの距離
でもあるらしく、昼食代を多く持たされた。
しかし、ナイは﹁今日はいいや⋮⋮﹂と答えた。
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁えーと⋮⋮、何となく、じゃダメかな? あっ、そうだ。今度の
デートの為に、ちょっと新しい服を買いたかったんだよ﹂
﹁別に、ちゃんと言ってくれれば買ってあげるよ?﹂
﹁総一郎君に知られた服じゃダメなの! 可愛い服を選んで、総一
郎君の度肝を抜く予定なんだから﹂
﹁⋮⋮そう﹂
不敵な風にニコニコするナイに、総一郎は何も言えなかった。言
うが早いか、彼女はきょとんとした天狗から金銭を受け取って、社
を出て行ってしまう。彼女の事だから下山しても騎士には見付から
ないと思うが、それでも歩きなら結構な距離のはずだろうに。
もやもやとした気分のまま、総一郎は飛び立った。場所は方向を
示されたため、真っすぐ飛んで行くだけでいい。
時間は、それこそ飛ぶように過ぎた。途中の休憩で一人昼食を摂
ったのは昼の二時頃だった。
四時間か。と総一郎は厳しい顔をする。余分に金を渡されたから、
1329
帰りは何処か、ホテルで一夜明かしてもいいかもしれない。光魔法
を使えば、店員の目も何とかなるだろう。
そして、目的地に着いた。
曖昧な情報しか聞いていなかったのに、迷うまでもなかった。
そこは、草原だった。総一郎の、かつての野営地である。どうい
う事だと、少年は考える。不安に駆られながら、天狗の助言通り風
魔法を放った。反応が返ってくるから、それを目印に進んでいく。
目的の場所へ近づけば近づくほど、見覚えがあった。傍から見れ
ば、変哲もないただの草原の一部なのだ。だが彼にとっては、十分
なほどに因縁がある地でもあった。
風魔法が反応した場所には、総一郎が殺したドラゴンの肉が在っ
た。
骨や核などは、騎士団が武器を生成するのに使うのだという。だ
が、肉は使えない。広い草原だから疫病が起こる心配もなく、放置
の判断が下されたと、風の噂で聞いた。民衆が飢えてもいないのに、
こんな肉の処理に人員を割くことは出来ないと。
総一郎は、風魔法で自分を守った。病原菌が体内に入るのを嫌っ
たのだ。しかしその肉を調べるでもなく、少年は草の上に座り込ん
でしまった。そして、思考を巡らせる。
﹁⋮⋮じゃあ、竜神様はこのドラゴンと同じだっていうのか?﹂
腑臓の捩れるような不快感を、総一郎は覚えた。しかし、そうで
1330
なければ天狗がここに来ていた理由が分からない。ならば、何だ。
このドラゴンも、これまでは竜神様の様に無害だったとでもいうの
か。
皮肉なことに、そう仮定すると辻褄が合った。今は死体となった
このドラゴンは、異様なまでの巨躯だったと言っていい。そして、
魔獣にだって成長するまでの時間は必要なのだ。無害で、人間の前
に姿を現さない限り、殺される事などない。
では、ドラゴンが正気を失ってしまった理由とはなんなのだ?
数十分考えていると、ふと、昨日読んだ本の内容を思い出した。
﹃亜人は、その国の性質に染まりやすい﹄。しかし、普通のイギリ
ス人は人格破綻などしていなかった。⋮⋮けれど、何かが引っ掛か
る。総一郎は、死肉の悪臭から逃れるべく立ち上がり、その場を離
れた。視線を上げる。警戒を露わにした、角を持つ魔獣がそこに立
っている。
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、臨戦態勢に入った。この草原は、山などに比べると非
常に少なかったが、それでも魔獣がいる為、警戒を怠るなと上官に
呼びかけられたことが在った。だが、その魔獣を見続けて、答えが
分かったような気がした。跳びかかられ、総一郎は土魔法と風魔法
を応用して取り押さえる。
そして、その特徴を細かく観察した。長い角を持つ馬。パッと見
はユニコーンだ。しかし相違点が無いとも限らない。詳細に調べつ
くし、そして総一郎は横たわり抵抗すら出来なくなった魔獣を見て、
落ちたトーンで言葉を紡いだ。
1331
﹁⋮⋮君たちは、日本では陽気にしゃべっていたじゃないか、ユニ
コーン﹂
一角獣は、理性無き鳴き声を上げた。総一郎は、もう獣を見なか
った。魔法で音もなく潰す。自分でも、無慈悲だと思う。
空を睨んだ。方向は分かっている。風を、吹き荒らした。体重を
軽くして、物理魔術へ魔力をつぎ込む。休憩を挟んだから、魔力は
有り余っていた。そして、総一郎は弾丸のように飛んで行く。
街へ着いたのは、夕方だった。
一度休憩しておこうと思ったのだ。天狗や竜神を力づくでイギリ
スから追い出すには、飛び続けて力尽きた状態では難しい。夕食も
適当に摂り、少しぶらぶら歩いて目がナイを探している事に気付い
たりする。一時間休んで、山へ飛んで行った。
街から山の間には、建物すらない区域が大体十キロ程度ある。と
はいえ、道の整備だけはされていた。ここも、あの草原のようにド
ラゴンの出現頻度が高く放棄された地域らしい。
赤色の空へ飛び続けて、山がやっと見えだした頃、何かがおかし
いという事に付いた。
山の上で、何か細長い物が飛んでいる。まさか、と総一郎は思い、
速度をさらに上げた。余力を残せるギリギリの速度だ。これ以上あ
げると、勝てる自信が無くなる。
近づけば近づくほど、悲惨な光景が少年を圧迫した。細長い物︱
1332
︱恐らく竜神が、強風を渦巻かせ、膨大な量の炎を口から吐き出し
ている。
その所為で米粒の様に小さな騎士たちが、地獄さながらに燃え上
っていた。総一郎は、これ以上速度をあげられない事をもどかしく
想いながら、ひたすらに飛び続ける。
そして、弾かれた。
魔力の安定を失って、総一郎は宙に投げ出された。無意識の一瞬
を突かれ、虚脱状態となった。地面から十数メートルの所で我を取
り戻し、風魔法でゆっくりと着陸する。そして、寸前の自らを思い、
身震いした。
目を剥きながら、おずおずと総一郎は進み、止まった。手を伸ば
す。伸ばせない。触れる事さえできない。︱︱これは、一体何だ。
眼前に、障壁があるらしい事を総一郎は知った。しかし、聖神法
ではない。魔法でもない。他の何かと言うには規模が大きすぎる。
﹁⋮⋮何だよ、コレ。どういう事だよ!﹂
障壁を殴りつけたが、手応えひとつなかった。何もないのだ。た
だ、進めない。頭を捻り、空間魔法を思いついた。虹色の球を召喚
し、ぶつける。障壁が、音もなく崩れ落ちる。
総一郎は、再び飛びあがった。考えるのは、この障壁の意図であ
る。後ろに飛び去っていく景色を意識の外へ排し、順序立てていく。
これは、一体誰によるものなのか。真っ先に脳裏に浮かぶのはナ
1333
イだが、彼女は空間魔法の加護を総一郎に与えた存在だ。すぐに破
壊できることは想定内だろう。ならば、誰だというのか。それ以上
は切羽詰っていて、今は理解できそうにない。
﹁︱︱もう、いい。竜神様をのした頃には、何もかもわかる﹂
魔力の残量の事も考えて、山の麓で地面に下りた。焼死体が、い
くつも転がっている。人の焼けた匂いは強烈だ。少年は鼻を摘まん
で駆け抜ける。
笑い声が聞こえた。天狗の高笑いだ。風を感じて、彼も騎士たち
を嬲殺しにしていることが分かった。総一郎は思考を放棄し、白痴
のように走り続けた。物理魔術での加速は燃費がいい。疲労を考え
なければ、魔力は尽きる事が無いだろう。
山を駆けあがり、霧に突っ込んだ。現存する罠は全て自分の手に
よるもので、避けるのも容易だった。社に着く。中に入る。
ナイが、そこで死んでいた。
﹁⋮⋮え? 何で﹂
躰から、力が抜けた。弱い足取りで、近づいていく。ぶちまけら
れた内臓。血濡れの床板。総一郎は、血だまりに膝下を赤く濡らし
た。
自失していた。視線が、ナイを射貫き続けている。死因を、彼女
に触れないまま観察した。乱暴な傷痕だと少年は思う。鈍器などで
無理に肉が千切れれば、こんな傷が出来るのかもしれない。例えば、
そう。天狗などが使う酷く強力な風魔法などだ。
1334
手が、震えた。言い様もない虚脱感が下りた。何をする気にもな
れなかった。口に手を当て、息をしていない事を知った。次に、彼
女の光無き瞳を覗く。
︱︱だが、瞳孔は開き切っていない。
﹁生きてる﹂
喜びと、焦燥が下りた。しかしぬか喜びが怖く、脈も確認した。
弱い。すぐにでも途切れそうなほどに弱い。だが、生きていた。決
して死んでなどいない。
震えだす手で、木魔法をベースにした生物魔術を展開させた。破
れた内臓を縫い、腹に戻し始める。ナイ、とその名を呼んだ。執拗
に、繰り返した。涙が零れる。それを拭う。
治療は、上手くいかなかった。医療知識不足と言うのもあったし、
自分がナイを死なせてしまうのではと言う恐怖が在った。彼女の内
臓が手から滑り落ちた時、全て終わりだと思った。必死で、ナイの
生死を再確認する余裕もない。分からないまま、手を動かしていた。
その拍子に、ナイが、何かを言った。
総一郎は、手を止める。
﹁ナイ? ナイ! 意識があるの? ナイ!﹂
ナイの焦点は合わなかった。意識を取り戻したのではないと総一
郎は知った。口は、有るか無きかの言葉を紡ぐ。少年は音魔法で、
1335
その音量を引き上げる。
酷く擦れた声だった。主旨も、判然としない。
﹁総一郎君。時間稼ぎ、間に合った? 計算では、間に合う予定な
んだ。君が泣いてくれると、ボクは嬉しいな﹂
﹁⋮⋮ナイ、何を言ってるんだ? 僕はもう、とっくに泣いてるよ﹂
﹁君はその頃何を見ているのかな。真っ白な世界かな。ボクの死体
は、恥ずかしいから見ないでよ。多分、跡形もなく消えているのだ
ろうけれど﹂
﹁死体なんて言うな。助けるから。だから、そんな事言わないでよ。
頼むから⋮⋮っ﹂
半分以上失われた小腸の遺伝子を少々貰い、木魔法と雷魔法の応
用で、遺伝子操作により新しいナイの小腸を作り上げた。崩れた部
分を摘出し、縫い付けていく。
﹁天狗ちゃんも、竜神ちゃんも、可哀想だったね。ボクは、見てい
ることしか出来なかった。やっぱりさ、世の中で一番残酷なのは、
人間なんじゃないかな。それとも、そう思うのはボクだけなのかな﹂
﹁僕だってそう思う。君は、偽りかも知れなかったけれど、優しか
った。僕は、君が好きだったんだよ、ナイ。君を信じられなくても、
好きな事には変わりは無かった﹂
血が足りない。内臓は、どうにかなる。だが、血に関してはどう
しようもない。何か手はないのか。そもそも、ナイの血液型は一体
1336
何なのだ。
﹁ねぇ、総一郎君。君は今、壁の前で悩んでいるのかな。ごめんね
? でも、この選択肢が君にとって一番だと思うから。ボクは将来、
君の敵にしかなれない。だから、君を不幸にするものの一つを道連
れに、居なくなろうと思うんだ﹂
﹁⋮⋮ナイ?﹂
恐ろしい考えが、総一郎の頭によぎった。﹃壁﹄。総一郎が一度
弾かれた障壁の事なのではないか。だがそれでは、彼女が総一郎の
空間魔術を知らないという疑惑すら湧いてくる。﹃白い世界﹄。﹃
道連れ﹄。障壁の中を、無に帰すつもりか? それでは、ナイ自身
も死んでしまうではないか。
ねぇ、と彼女は、再び総一郎を呼ぶ。
﹁君は結局信じてくれなかったけれど、それでもね、ボクは君が大
好きなんだ。仮にも、邪神であるボクがだよ? それが、人間なん
て言う矮小な種族の男の子を本気で好きになって、その末に死を選
んじゃうなんて﹂
その次の言葉を、総一郎はきっと知っていた。
﹁︱︱結構、破滅的じゃない?﹂
息を呑んだ。声の限りを尽くして、ちっぽけな少年は言い放つ。
﹁黙れ! 君は僕の命を懸けてでも救ってやる!﹂
1337
総一郎は木魔法の応用で各血液型の血を作り出した。血が異なる
血液型を拒むのは、凝固してしまうからだ。だから、まずはナイの
血液型を知らなければならない。
無我夢中だった。何をしたのかも、ろくに覚えていなかった。た
だ、一つだけ覚えていることがある。それは、彼女を救うために、
恐ろしい決断をしたことだった。
その内容は、覚えていない。
気が付いたころ、総一郎はナイの血だまりの中で眠っていたよう
だった。覚醒して、焦りと共にナイを見ると、衰弱こそすれ息は整
っていた。思わず、抱きしめたい衝動にさえ駆られた。だが、総一
郎にはまだ仕事が残っている。その頭を一度撫でて、社を出た。
闇色の空を見上げると、二匹の悪魔が飛んでいた。一匹は細長く、
一匹は人間と同じような体躯だ。十中八九、このどちらかがナイを
傷つけた。あの乱暴な傷痕は、風魔法によるものに違いないのだ。
総一郎の目は、鋭い。魔力の残量も、少しは寝ることが出来たか
ら心配はなかった。
︱︱殺すつもりはない。だが、相応の目には会ってもらう。
風と共に、飛び上がる。
火魔法で、巨大な炎弾を飛ばした。二体ともぶつかり、彼等は攻
撃対象を総一郎に定める。天狗が、襲い来た。その眼に正気の色は
無い。風魔法での攻防は、恐らく押し負ける。だから、総一郎はま
ず光魔法で目暗ましをした。
1338
天狗は、膨大な光を目に浴びて動きを止めた。総一郎は風魔法で
彼の背後にまわり、重力魔法で自重を極端に重くして、生物魔術に
より天狗の足を掴み続けるだけの握力を手に入れた。風魔法を解き、
長鼻の足を握る。隙あらば握り潰そうとさえ考える。
天狗は飛び上がろうとしたが、総一郎が重石になって結局落ち始
めた。風魔法での攻撃や彼の種族魔法が飛び交うが、その方向は出
鱈目だ。総一郎は、更に重力魔法に魔力をつぎ込む。地面が近づき、
思い切り天狗を引っ張った。重力魔法を解いて、物理魔術で横に逃
げる。天狗は地面に激突して、動きを止めた。
ダメ押しに炎魔術をしこたまぶつけて、本命の龍の眼前で宙に制
止した。天狗は、多分死んでいないだろう。仮にも大妖怪だ。問題
は、この竜神である。睨み合う。彼の眼は、爛々と輝いている。正
気なのかどうかは、分からない。しかし寝たきりの時よりは活力に
満ちていた。
﹁⋮⋮何故、貴方はこの国に来たのですか? 何故、貴方はこんな
にも多くの人を殺したのですか? ︱︱何故、貴方はナイに手を掛
けた﹂
天狗は明らかに正気を失っていた。それに対して、ナイの傷は非
常に的確だった。致命傷に至る場所を、過大な力で抉っていた。先
ほどの天狗に出来るとは思えなかった。
竜神は、真っ直ぐに総一郎を見つめたまま、口を開く。
﹃⋮⋮お前、総一郎とか言ったか﹄
1339
女の声だ、と総一郎は感じた。それが、脳に直接響いている。首
肯すると、彼︱︱彼女は、目を伏せた。
﹃この世はな、もはや神の物ではない。何もかも人間の物だ。妾も、
その一つよ。抗おうにも、抗えぬ﹄
﹁誰かが、貴方を操ったと?﹂
﹃妾は、もう疲れた。力に抗うのも、生きるのも。天狗には、詫び
ておいておくれ。妾は、先に逝くとな。⋮⋮千年、いや、もっとか。
十分生きた。満足なのだ﹄
﹁⋮⋮﹂
ここでもだ、と少年は思う。ここ最近、いつも総一郎の周りで見
えない力が動いている。だが、その根源が分からないのだ。魔法で
調べても、何の証拠も出てこない。︱︱竜神と言う強大な神をも操
る異能。そんなものが、本当にあるのか?
﹁⋮⋮貴方も、正気ではないようだ。天狗様と同じに叩きのめして、
そこから正気を取り戻させます﹂
﹃ふはは。天狗はともかく、妾を叩きのめすのは無理と言う物だ。
殺す気で来い。でなければ、敵う物も敵わぬ﹄
﹁大丈夫ですよ。殺す気でやりましたが、天狗様は多分生きていま
す﹂
﹃成程。確かに天狗が言うとおり、言葉はなっていても口が減らぬ﹄
1340
空中を泳ぐ巨大なウミヘビ。しなやかに竜神は空を滑り、総一郎
に食らいついた。総一郎は慌てずに、時魔法でその動きを遅らせる。
その間に化学魔術製の爆弾を作り上げ、彼女の口に放り投げてその
攻撃範囲から脱出した。
歯が噛み合わさる音。竜神は瞬間止まり、違和感に首を傾げた瞬
間、その喉は爆発した。血を吐く。そこに、氷魔法で練成した巨大
な氷塊をぶち当てる。
竜神は、火を吐いて抵抗した。一息の間に氷塊は、熱で水蒸気と
なって霧散する。その水蒸気を操って、総一郎は数秒身を守った。
数秒あれば新しい魔法を練れる。
数種の攻撃を順繰りに使って翻弄し、隙を見て肉薄にした。竜神
の鉤爪が来て、紙一重に交わす。だが、返しが来ることは予想の外
だった。肩を割かれる。無我夢中で、常備している木刀を抜いた。
その手を切り飛ばす。
﹁早く力尽きてください! 治療はちゃんとしますから!﹂
﹃ふはははは! 小僧! 妾に勝てると思っているのか!?﹄
もはや彼女は、体面上の正気すら保っていないようだった。総一
郎は木刀で鱗を貫き、その腹を裂く。一人と一柱は、もみ合って墜
落して行った。血が、風に煽られ飛び散っていく。
人間と亜人は、体のつくりがそもそも違う。総一郎が一方的に攻
撃しているようで、竜神の軽い一撃は総一郎にとって致死性すらあ
る。生物魔術を展開させる余裕は無かった。木刀を手放すという考
えは必死の総一郎には思い浮かばず、即死を免れる事のみに思考を
1341
巡らせていた。
竜神ごと地面に激突する瞬間、総一郎は彼女の上で高く跳躍した。
即死レベルのショックは、ぎりぎりその域から逃れたらしかった。
総一郎は結局大破させられた足を抱えて呻きながら、ゆっくりと意
識して呼吸する。冷静になるまで、長い。
﹁⋮⋮ああ、そうだ。生物魔術⋮⋮﹂
脳内での無詠唱で済ませる余裕すらなく、少年はぶつぶつと久し
ぶりに呪文を口にした。やはり、まだ本調子ではないらしい。本当
に必死になると、魔法が頭からすっぽ抜けるのだ。それでも、木刀
だけは手放さない。
荒い息ながら立ち上がれるようになった時、すでに竜神は息絶え
ていた。一度手を合わせてから、天狗の元へ行く。少し離れた場所
で、彼は呻いていた。見れば背骨の一部が砕けているらしく、動け
ないのだと知った。
土魔法で強固に拘束してから、素早くその大怪我を治療した。だ
が、このままで放置は出来ない。声をいくつかかけても、効果が出
る兆候は無かった。
総一郎はため息を吐く。息が上がっているから、嘆息とは違う雰
囲気になった。事実、怒りもあるのだろう。目を強く瞑り、吹っ切
れたようにずんずんと歩み寄って、天狗のマウントポジションを取
る。
﹁⋮⋮天狗様。今から、百発殴ります。その間に、正気を取り戻し
1342
てください﹂
天狗だとしても、本気の拳を百発も食らえば死ぬだろう。その間
に我に返らなければ、もう、手遅れなのだ。
一発、二発と殴り始めた。正気の色は、十発を超えても戻らなか
った。十六発目に天狗の鼻が折れ、三十発を殴る頃には総一郎の拳
の皮が剥がれ始めた。五十発で、殴るのさえままならなくなった。
それでも苦痛をかみ殺しながら、拳を振るう。天狗は血だらけだが、
息があった。
七十発で、彼の声色が変わった。呻き声が、柔らかくなった。総
一郎は構わず殴り続ける。それから三発後に天狗の目に光が戻り、
次の一発を経てはっきりと聞き取れる言葉を発した。
﹁や、止めろ! 何をする、総一郎!﹂
﹁⋮⋮やっと、正気に戻られましたか﹂
拘束を取り、総一郎は天狗の上から退いた。生物魔術で、丁寧に
治療して差し上げる。自分の事は後回しだ。それでも彼は痛みに頭
を押さえ、﹁一体何があったのだ⋮⋮﹂と尋ねてくる。
﹁貴方と竜神様が正気を失って、まずナイを死の寸前に追いやり、
その次に多くの騎士の命を奪いました﹂
﹁そんな! まさか⋮⋮﹂
そうは言ったものの、天狗には心当たりがあるようだった。立ち
上がり、彼は一度翼をもって高く飛んだ。そして、下りてくる。そ
1343
の顔は、赤いのにも拘らず蒼白だ。
﹁⋮⋮竜神様は﹂
﹁すみません。加減が効かず、殺してしまいました﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
天狗は、やるせなさに二筋の涙を流した。共に社に戻ると、ナイ
は呆然と自らの血だまりを見下ろしていた。
気配に気づいたらしく、こちらを見た。彼女は、荒れた髪の毛を
直そうともせず、こちらに気の抜けた声を投げかける。
﹁⋮⋮総一郎君。ボクを、治療したの?﹂
﹁うん。そうだよ﹂
少年の声に、ナイの表情は歪んだ。悲しみとも、安堵ともつかな
い、虚無的な変化。総一郎は無言でそれに近づき、彼女の手を引い
た。力なく倒れてきた小さな体躯を、総一郎は抱きしめる。ナイは
訳が分からないというような顔で、こちらを見上げた。
総一郎はナイを守りながら、天狗に顔を向ける。
﹁天狗様。もう、この国に用は無いでしょう。今すぐ日本へとお帰
り下さい。この地は、亜人にとって呪われた地だ﹂
﹁⋮⋮それは違う。この国は、﹃人間にとって明らかに亜人と分か
る者﹄にとって、呪われた地なのだ。調べれば、段々と分かって来
1344
る。儂が得た結論は、それだ﹂
天狗の声は、震えていた。嗚咽を必死に堪えているのだ、と思っ
た。﹁この社も、壊してしまわねばな﹂と彼は言う。﹁そうですね﹂
と、相槌を打った。
三人で外へ出て、風魔法で原形を留めなくした。天狗は、総一郎
に﹁これからどうする﹂と尋ねてくる。少年は、疲れた笑みを浮か
べて、彼にこう返した。
﹁もともとは、僕は龍を殺しにこの地へ赴いたんです。だから、他
の龍も殺しに行きます﹂
﹁そうか。⋮⋮分かった﹂
﹁もっとも、天狗様が僕を殺せば別です﹂
﹁いいや。⋮⋮竜神様が狂うのは、半ば目に見えていたことだ。そ
れに、総一郎。お前は今日の内に、いつの間にか風と火の加護が凄
まじく上昇している。それが、答えなのだ﹂
﹁⋮⋮。そうですか﹂
ナイは、何も言わずに立っていた。総一郎がその手を掴んで離さ
ないから、彼女も抵抗しきれずに隣にいる。その反対の手を、総一
郎は強く握った。竜神様の遺産を、無駄にはしない。
天狗は、何処までも暗い闇の中、黒い翼を広げた。こちらに目を
向け、巾着袋を投げてくる。中を見れば、札束がいくつも入ってい
た。
1345
﹁餞別だ。受け取ってくれ。⋮⋮済まなかったな。何もかも、迷惑
をかけっぱなしだった。謝っても謝り切れないと思う。言葉もない﹂
﹁いいえ。僕たちの中に本当に悪かった人は居ないと思います。そ
れに、僕だって竜神様を殺してしまった﹂
﹁︱︱そうか。では、息災でな、総一郎﹂
﹁はい。天狗様も、お元気で﹂
翼をはためかせる音が、総一郎の聴覚を占めた。それ程、嵐の過
ぎた夜は静かだった。
1346
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵4︶
ナイと、手を繋いで歩いていた。てくてくと進んでいく。会話は
ないが、別に気にすることもなかった。総一郎は無言も好きなので
ある。
ただ、ナイの方はと言うと、奇妙な面持ちだった。顔面を息が詰
まったように赤く染め、ちらちらとこちらに視線をよこしては明後
日の方向へやってしまう。随分とナイらしくない行動だ。彼女を見
つめると、何故か怯えられてしまった。
﹁どうしたの? 何かナイ、おかしくないか?﹂
﹁⋮⋮君がそれを言うの?﹂
一体どういう意味だ、それは。
視線を向けられ、真っ直ぐに見つめ返すと、彼女はしかし顔を赤
らめて下を向いてしまう。それでも、ちらちらとナイが見ている物
が在った。目線を辿ってみる。
その先には、総一郎が指を搦めて繋いだ、二人の両手があった。
そういえばこれが初めてだっけ。と思わなくもなかった。腕を抱
かれるというのは抵抗が難しいが、手を繋がれるのは比較的簡単な
のである。今までは、抵抗した。今回は真逆だ。
ナイが初心なのは素か演技か。どちらでも良かった。総一郎は、
1347
ミステリアスなのは魅力なのだと解釈している。
天狗と別れてから、さて、次は何処へ行こうという話になった。
ナイはしばし俯いていたが、再三声を掛けると我に返っていつもの
通りになった。
騎士達から事情を聞こうにも、生きている騎士は少なかった。息
が在っても総一郎の精神魔法では探り出せない程に、精神が荒れた
者がほぼ全員を占めていた。精神魔法とは加護がよほどあるならと
もかく、対象が欲しい情報を思い浮かべていない限り読み取るのが
難しい、不便な魔法なのである。その代りほぼ唯一無二の効果を持
つのだから、性質が悪い。
そのため頭を悩ませていた折、ナイが言ったのだ。
﹁⋮⋮あの、一応ドラゴンの場所は全部知ってるけど﹂
我ながら、何故彼女に尋ねなかったのだろう。と呆れたが、よく
よく考えれば習慣なのだとも思った。ナイを警戒していた頃のそれ
である。
今は、総一郎は彼女の事を信頼している。そもそも、自分を正攻
法で命まで脅かすことの出来る存在は、この国では中々少ない。多
少騙されたとしても、それは愛嬌と言う物だと割り切った。
それに、彼女の知らない手段は、総一郎だって持っている。
空間魔法だ。
1348
これは、ナイが寝ている間に調べたのだが、調査の結果﹃魔法で
はない﹄という事が分かった。魔法は前提として、まず手の先から
発生する物である。それに自ら定めた運動エネルギーをつぎ込み、
飛ばす超技術を総じて魔法と呼称するのだ。
けれど、空間魔法と呼んでいた﹃これ﹄は、それに当て嵌まらな
い。当て嵌まるものだと思い込んでやっていたが、﹃これ﹄は手の
先からでなくとも出現させることが出来た。その上、呪文は一つし
かないのに、イメージ通り自由に動くことが判明した。
今までは、ナイの加護だと思い込んでいた。しかし、父は一言も
そうは言わなかったのだ。それにその分だと、父もまた、ナイのよ
うな無貌の神やそれに類する邪神の加護を受けていることになる。
あの嫌悪ぶりからして、その可能性は少ないと思うのだ。あの地下
室には極力行かせたがらなかったし、自身で入る時にも嫌な顔をし
ていたのを覚えている。
可能性として考えたのは、父の遺伝によるものだという仮説だっ
た。
思い至った理由は、純粋に消去法である。加護ではない。母から
の遺伝もあり得ない。だが遺伝だとしても、人間の親から移らない
訳ではないというのを、総一郎は知っている。
闇魔法を総一郎が発動した時、それは半ば暴走を起こした。しか
し、空間魔法に置いては安定していた。それは、闇魔法が天使の血
が半分流れる総一郎にとって異物だからで、空間魔法はそうでない
からではないのか。
1349
しかし、その事のみでは闇魔法の次に発動させた理由が分からな
い。結局、諦めた。それより先は、妄想以上の物にはならないだろ
うと思ったのだ。新しい知識が総一郎の身に付けば、その限りでは
ないのだが。
﹁この先?﹂
﹁うん。一応キャムサイドとかいう町があったはずだから、ちょっ
と休んでいこうよ﹂
総一郎は言い様の無い違和感を抱いたが、疲れもあり、見過ごし
てしまった。
ナイの話では、そのドラゴンは発見が難しいため討伐に難航して
いる類の個体であると聞いた。この近くにはセヴァン谷という峡谷
が在り、そこの奥深くに住んでいるという事だった。
﹁騎士団ってどうなってるの?﹂
﹁んーとね、この近くに居るドラゴンには子供が居るんだけど、そ
れが親とそっくりでね? 騎士団は子供を討伐対象だと勘違いして、
今は見当違いの場所を探してるよ﹂
予知で見た。とナイはつまらなそうに言った。
昼。街に着く寸前で、総一郎は光魔法で自らの身長を高く見える
よう細工した。ついでに日本人特有の、目と目の間が広いのも直し
ておく。その所為で、一昨年までは童顔と呼ばれることも多かった
のだ。身分証明書などを求められれば困るのは自分なので、やれる
だけはやっておく。
1350
宿では、無事に部屋を取ることが出来た。これからは金の調達が
難しいので、節約の為安い宿だ。天狗の言うツテを、聞きだしてお
けばよかったと嘆息する。やろうと思えば家くらいなら作れる総一
郎だが、それなら金属を生み出した方が、魔力燃費がいいのである。
安っぽいスプリングのベッドに寝転んで、息を吐き出した。ここ
までは飛んだり歩いたりの繰り返しで、しかも野宿続きだったため
疲れがたまっていたのだ。
﹁ちょっと寝る⋮⋮﹂
言い残して、早くも総一郎は泥の様に眠りこけた。夢は、見なか
った。起きた時、ナイが総一郎の頭をゆっくりと撫でていた。橙色
の輝き。夕方だ、と思った。
﹁⋮⋮おはよう。ナイ﹂
﹁この場合おはようなのかな? まぁ、いいや。おはよ、総一郎君﹂
微笑まれ、微笑み返した。すると彼女はきょとんとしてから、再
び頬を赤らめてしまう。総一郎は、それに眉根を寄せて奇妙な顔を
した。ナイが、おずおずと言う。
﹁⋮⋮何か、総一郎君。天狗ちゃんの一件から、よく笑うようにな
ったね﹂
﹁え? その前も結構笑ってたと思うけど﹂
﹁でも、それは演技じゃない? 顔から力を抜いたら、すぐに無表
1351
情に戻る類の﹂
﹁今は違うって?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
何だ、と総一郎は思った。随分と前から、見抜かれていたらしい。
所詮は、子供の演技か。いや、ナイの目を騙せるほどの演技と言う
物が存在するのかは甚だ疑問だが。
﹁まぁ、ちょっと前までは君の事警戒して、気を緩める事なんてで
きなかったからね﹂
﹁えっ?﹂
総一郎は、言いながらナイの虚を突いて、自分の上に倒れ込ませ
た。優しくその華奢な肩を抱き寄せる。困惑したような声が断続的
に上がるのを聞きながら、少年はくすくすと笑う。
﹁僕を騙せるものなら、騙してみなよ。全部、正面から破ってやる。
そう決めれば、随分と楽なものなんだ。警戒していた自分が、馬鹿
なんじゃないかって思う位にはね﹂
﹁⋮⋮あの、総一郎君? 本当に、悪かったから。ボクが何をした
のか分からないけど、謝るから。だから、放して?﹂
震えた声のナイに﹁嫌だ﹂と総一郎は笑う。
熱い。そう思った。いつも彼女が引っ付いてくる時よりも、その
体温は酷く高い。放せと抗う声にも、張りが無かった。総一郎は、
1352
満足するまでナイの事を抱きしめ続ける。途中途中暴れたが、すで
に拘束は剥がれされない域に達していた。いくら彼女が少年より上
手でも、どうしようもないのだ。
ナイ、と名を呼ぶ。
﹁いつか、君の核を担う無貌の神を追放する。そうすれば、君はた
だの可愛い女の子だ﹂
髪を撫でる。彼女が、いつもしてくれるのと同じに。少年は満た
されて上体を起こした。若干衣服が乱れた彼女は、顔を真っ赤にし、
頑として総一郎の方に視線を向けなかった。
その日、ナイはついぞ総一郎に向かって話しかけてくれなかった。
時折こちらに視線を送っては、恥ずかしげに伏せてしまう。それが
素だったら、非常に可愛らしい。それがわざとだったら、随分な食
わせ者だと笑わずにはいられない。どちらにせよ、総一郎にとって
好ましいのだ。
夕食をつつましく済ませた二人は、再び寝室に戻った。総一郎は
本を読みだし、ナイは何だか訳も分からず悶えている。﹁どうした
の?﹂と偶に言葉を掛けるとぴたりと止まり、再開した時は激しく
なるのである。総一郎は彼女にばれないよう必死に笑いを堪えてい
た。
翌日になると、ナイは昨日に比べ随分としゃっきりしていた。い
つもの様に引っ付いて来たので、隙を見て抱きしめた。すると、上
手い事意識の間を抜けて、彼女は総一郎にキスをしてくる。
口を、離した。僅かに、心臓が動悸している。唇を舐めると、甘
1353
い、と思った。
﹁総一郎君。ボクをからかおうったって、無駄だよ?﹂
﹁からかうつもりなんてなかったんだけどね。でも、昨日の君は面
白かった﹂
﹁やっぱり、からかっているじゃないか﹂
顔を寄せられ、総一郎は応えた。もう一度唇を交わす。今度も、
心臓の動悸は微妙に激しい。慣れる事は、無いのかもしれなかった。
ひとまず、物資を確保しに街へ出た。ドラゴンと対峙したとして、
その時にも街が無事である保証はない。
一通り買い揃えて、ホテルで荷物を簡単にまとめ、件のドラゴン
が居るというセヴァン谷へ向かった。最初は、ただ川だと思ったの
だ。太い運河である。しかし、ナイの言う通り飛んでその源をたど
ると、段々と川の場所が深くなっていき、最後には暗く、底が見え
なくなった。
﹁ここを、下りるんだ。その奥深くに、ドラゴンは居る﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
ナイを抱き寄せ、風、重力魔法で加減しながら、ゆっくりと下り
て行った。途中から、光魔法による光源が必要になった。闇に、ぽ
ぅと丸い光が滲んでいる。
忍び寄ってくるようだ。と総一郎は表情を硬くした。緩やかに、
1354
下りていく。だが、途中で思った。
︱︱いつまで、下りるんだ︱︱?
時間の感覚が、薄れている。自身で、そう感じざるを得なかった。
一言、﹁大丈夫? ナイ﹂と尋ねると﹁酔った⋮⋮﹂と返された。
音魔法で反響させると、意外にも地面は、もうすぐそこである事
が分かった。少々加速し、寸前で減速する。久しぶりの地面の感触
に、何となく嬉しくなる総一郎である。ナイはと言えば、腰が抜け
たらしく地に手をついてぶるぶると震えていた。自分で誘っておい
てこの様では、アホである。
仕方が無く助け起こした所、隙をついてキスをされた。一時きょ
とんとするけれど、結果的には緊張が解れる。ただ物足りなかった
ので拘束したら、するっと逃げられてしまった。﹁後で﹂と言われ、
ムズムズする感覚を覚える。どちらかと苛々かもしれない。後で目
に物を見せてやらねば。
光魔法をふんだんに使って、闇に包まれたここ一帯を照らした。
すると、ここが小部屋のような場所であるという事が知れる。目の
前には、建物の入り口の様に開いた穴。大きさは、総一郎が初めて
戦ったドラゴンの半分程度なら、苦労せずにくぐれるだろうと思わ
せる大きさである。
試しに進んでみると、おや、と思わせられた。壁の、一枚一枚は
厚い。進み過ぎるのも危険なので、音を反響させると意外な真実が
発覚した。
﹁ここ、迷路みたいになってるみたいだ﹂
1355
﹁うん、流石総一郎君。頭がいいね﹂
﹁君に言われても嬉しくないよね。むしろ馬鹿にされてる気分にな
る﹂
﹁何でさ!﹂
﹁冗談だよ。嬉しい、嬉しい﹂
﹁嬉しくなさそうだなぁ⋮⋮﹂
適当な会話を交わしながら、総一郎は思考する。何故こんな場所
に迷宮があるのか。ここに住むドラゴンは、迷宮を作るだけの知能
と、その目的があるというのか。
壁を壊そうかとも考えたが、軽く叩いてみる限り難しそうだった。
探っていくしかあるまい。﹁行こう﹂と手を引いた。ナイは嬉しそ
うに頷く。
しかし、それにしても不思議な空間だった。音魔法を信じる限り、
迷宮は延々と続いている。ドラゴンにこんな習性を持つモノが居る
のだろうか。ナイにちらと目線を向けると、楽しくて仕方がないと
いう風に、満面の笑みを浮かべている。
﹁随分と、ご機嫌だね﹂
﹁そりゃあもちろん。総一郎君と一緒に居られるんだもの。嬉しく
ないはずがないよ﹂
1356
﹁それは嬉しいことを言ってくれる。そういえば、前々から思って
いたのだけれど、君が僕を好いている理由って一体何さ?﹂
﹁⋮⋮それは、言わぬが華って奴じゃないかな﹂
﹁でも気になるんだよね。普通なら、邪神であるところの君が僕を
好きになる理由なんてない訳だから﹂
﹁んー、そう? まぁ、君が未来の分からない子供の一人でなかっ
たら、そもそもボクは君と出会う事すらなかったとは思うけどね﹂
﹁それは、大前提じゃない?﹂
﹁でも、重要だよ。行動が完全に分かり切っている相手なんか、は
っきり言って何の価値もないに等しいからね﹂
﹁⋮⋮それはつまり、僕が未来の見えない子供だから好きになった
って事?﹂
﹁ううん。それだけなら他にも居る。事実、何人かは接触してるし
ね。その中でも、君は一番愛らしかった。頭がいいのにすっとぼけ
ていて突拍子が無くて、それでも芯が一本通ってる。﹃あ、この子
面白い﹄とすぐに思ったよ。その所為かなぁ?﹂
﹁その所為って?﹂
﹁⋮⋮ううん。何でもない﹂
ナイは、はぐらかすように笑った。それを見た総一郎の脳裏によ
ぎるのは、数週間前の彼女の自殺未遂についてだ。偶に、思う。あ
1357
の時、自分はどうやってナイを救ったのだろうと。︱︱今でも、思
い出せるのだ。流れ出て止まらない出血。食い破られた内臓は、何
とかなった。だが、ナイの血に関しては、もはやどうにもならなか
ったはずだったのだ。しかし、いま彼女は生きている。
何か、恐ろしい決断をしたことだけは覚えている。不思議な事に、
それはナイと一切関わりのない事だという印象もまた、残っていた。
いつかナイが語っていた外宇宙の神話は末恐ろしい物があったが、
それとはまた、別方向の恐ろしさなのだ。
﹁あれ。行き止まりに来ちゃったね﹂
ナイの声に我に返り、適当に歩いていたことを知った。道を間違
えた、と踵を返すと、だいたい五十メートル先で、何か白く巨大な
ものが横切った。
総一郎は、一時呼吸を忘れた。亜人とも違う、まったく異なる異
形だった。それは総一郎達に気付くことは無かったらしい。光源を
手元ではなく迷宮全体に飛ばしたのが良かったのだろう。それはす
ぐに過ぎ去り、見えなくなった。
﹁⋮⋮今の、何? ドラゴンじゃ、なかったよね﹂
固い声で、総一郎は呟いた。全身が、硬直しているような感じが
した。遠目でも分かった。アレは、地球にとっての異物だ。見てい
るだけで、気分が悪くなるほどの。
﹁⋮⋮アレに見つかると、危険そうだ。目的はドラゴンなんだし、
極力避けていこう﹂
1358
手を引くと、しかし、ナイは動きださなかった。奇妙に思って振
り向くと、彼女はへたり込んで、声もなく大粒の涙を零している。
﹁ど、どうしたの? 大丈夫、ナイ﹂
小声ながら、総一郎は動揺した。ナイは先ほどの、言い様もない
化け物が居た方向に視線を釘づけにしていたが、少年の言葉に弱弱
しく動き出す。
﹁総一郎君。⋮⋮ごめん。ごめんなさい﹂
﹁え? 何が? 何がごめんなさいなんだ?﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮。ごめんなさい⋮⋮!﹂
言いながら、ナイは総一郎に縋り付いてくる。それを抱きしめて、
彼女が震えていることを理解した。一体どういう事だと、総一郎は
頭を悩ませる。ここで立ち留まっていても危険なだけだから、魔法
で先ほどの化け物の場所を探りながら、少年は少女を抱えて立ち上
がった。
半ば走る様にして、化け物から遠ざかった。迷宮は何処までも続
いていて、不運な事に、目ぼしい物と言えば化け物しかないのだっ
た。その化け物は、しばらくはうろうろしていただけだったが、い
つの間にか心なし自分たちに近づき始めている事を知る。
﹁魔法を、逆探知しているのか?﹂
独り言をした。走っていたが、息が切れるほどではない。そもそ
も、化け物の進む速度は遅かった。迷路の地図は割り出してあるか
1359
ら迷わないし、上手くいけば遭遇することもないだろう。
上を見上げると、天井があった。無いのは、先ほど通った入り口
だけらしい。帰る時は、いざとなればあの化け物も殺して通るしか
ないという訳だ。何故かそれを考えるだけで、薄ら寒さが背中に下
りた。ナイは声もなく、相変わらず泣き続けている。
迷宮に、果ては無かった。
ふと、総一郎はこの道で正しいのかと疑った。先ほどの化け物は、
魔法を逆探知した。ならば、魔法によってもたらされる情報を、欺
く事さえできるのではないか。
一度、立ち止まった。迷宮の壁は何処まで行っても材質は変わら
ず、ずっと同じ光景が続いている。人間は、延々と続く同じ光景に
酷く弱い。総一郎もまたそうで、もしかしたらすでに正気ではない
のかもしれないと、自身で惑った。
踏みつぶすような音が、聞こえ始めた。
少年は、今自分が魔法を使っているのかそうでないのかさえ分か
らなくなった。頭痛がしている。もしや、魔力が切れたのか。だが、
これほどまでに自分の魔力は少なかったのか。混乱は、恐慌へ変わ
った。がむしゃらに走り出す。精神状態に反映して、簡単に息が切
れる。
そして、先ほどの化け物と出会った。青白く楕円形に膨らんだ胴
体。肉のない無数の足。いくつもあるゼリー状の目は、まるで品定
めをするように無機質な視線を、総一郎に向けている。
1360
殺されると、反射的に思った。魔法を使おうとする。だが、呪文
が思い出せなくなっていた。
そこからの記憶は、ふっと途切れている。
1361
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵4︶︵後書
き︶
ナイ﹁ボクだって狂気にとらわれることだってあるよ! 大目に見
てよ!﹂
1362
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵5︶
﹁おはよう、総一郎! 良い朝だね﹂
ナイが、元気よく総一郎を揺り動かした。少し唸りながら、総一
郎は目を覚ます。
﹁⋮⋮ふぁああ。おはよう、ナイ。随分と早くに起きたね﹂
﹁違うよ、総一郎君が遅いの。もう、九時だよ?﹂
﹁え?﹂
常に四時には起きる総一郎である。五時間も遅くに起きるなんて
こと、普通ならあり得なかった。しかし差し出された時計は、しっ
かと九時より先に短針を向けている。念のため太陽の位置を仰ぐが、
少なくとも日が昇って数時間は経っているようだった。
﹁そこまで僕の事信じられない⋮⋮?﹂
﹁いや、そういう訳じゃないけど﹂
もぅ、と言いながら、ナイは総一郎に背後から抱きついてきた。
総一郎はその隙を見て、逆に彼女を抱きしめる。すると、キスをさ
れた。
口を、離した。僅かに、心臓が動悸している。唇を舐めると、甘
い、と思った。
1363
﹁総一郎君。ボクをからかおうったって、無駄だよ?﹂
﹁からかうつもりなんてなかったんだけどね。でも、昨日の君は面
白かった﹂
﹁やっぱり、からかっているじゃないか﹂
そこまで言って、総一郎はふと既視感に動きを止めた。﹁どうし
たの?﹂と聞かれる。
﹁あ、いや。⋮⋮昨日、だっけ? この街に着いたのは﹂
﹁うん。そうだけど⋮⋮っていうか、君自身が今言っていたじゃな
いか﹂
ナイの訝しげな言葉に、総一郎は﹁そうだね。ごめん、何でもな
い﹂と笑って取り繕った。
二人は物資を買いに街に出た。一度部屋へ戻り、﹁じゃあ﹂とナ
イは切り出す。
﹁今日は、ここから十数キロ離れた場所に在る森に行こう。そこに
は、確か騎士たちも居たはずだよ﹂
﹁どんなドラゴンなの?﹂
﹁小柄で、サイみたいなドラゴンだよ。凄くすばしっこくて、その
所為で討伐が難航しているんだ﹂
1364
発見が困難なタイプらしい。総一郎は成程と相槌を打つ。
ホテルのフロントでチェックアウトを済ませ、総一郎はナイを抱
えて人目のつかない場所で飛びあがった。いつもの通りに飛んで行
く。そして、森が見えてきた。
騎士団の野営地は、例の如くテントが乱立していた。森の中から
は、のろしが上がっている。
﹁あそこに、ドラゴンが居るのか﹂
総一郎は呟き、空中を滑った。軽い具合に地面に降り立つ。木々
は多く、特有な爽やかな匂いが香った。
﹁やっぱりこういう自然って好きだなぁ⋮⋮﹂
﹁総一郎君って田舎育ちだもんね﹂
﹁別に都会に劣等感は抱いてないけどね。あつかわ村って多少歩く
けど、最寄りの都市は県の中でも都心部だったし﹂
ナイは、微笑ましそうに少年を見つめた。総一郎はと言えば、構
わず音魔法でドラゴンの位置を割り出し始めている。案の定近くに
居たドラゴンは、どうやら発見した騎士たちを即刻倒し終わったよ
うだった。どうやら中々に強いらしい。
﹁⋮⋮というか、よく騎士団はすでに二匹もドラゴンを殺せたよね﹂
﹁最初はそれで終わりだと思って、一匹に相当な戦力をつぎ込んで
たからね。士気も君が居たとこよりは全然高かったし。一匹目を倒
1365
したところに、丁度もう一匹が来たんだよ。隊列も整ってなくて、
みんな必死だったけど、幸運なことに努力は報われた。弱かったん
だね。でも、一息ついて帰ろうって所に、さらなる五匹。やる気も
何もないさ﹂
﹁それでは、戦力も分散されていただろうしね﹂
可哀想な話だった。尚更、騎士団が今でも聖神法にしがみ付いて
いる理由が分からない。亜人に対する偏見を消さなければドラゴン
をまともに倒せないのに、その為に何人も死者が出るから、偏見は
強まるばかりだ。
総一郎は姿と音を消して、件のドラゴンに近づいた。だが、その
時ドラゴンは妙な動きをした。跳び跳ねる様に周囲を確認し、逃げ
るように駆けだしたのだ。
総一郎は油断もあって、見失ってしまった。きょとんと眼を見開
いている。
﹁⋮⋮何でばれたんだろ﹂
﹁んー、気配じゃない? かなり無造作に近づいてたし。あのドラ
ゴンは、多分総一郎君の初戦のそれより頭がいいね。竜神ちゃんと
比べたらわからないけど﹂
再度音魔法で探ってみるが、分かる範囲には居なかった。念のた
め聖神法で重ねてみるものの、何かが引っ掛かるという事もない。
騎士団の服を引っ張り出して、何食わぬ顔で野営地に紛れ込んだ。
数人に精神魔法をかければ、心配事は無くなる。
1366
のろしが上がったら、その場所へ飛んで行こう。これからは、そ
のように決めた。自分で血眼になって探すなど、効率の悪い話であ
る。それなら本を読んでいた方が有意義だ。
そのように考えていたのだが、生憎と来た時に運が良かっただけ
で、のろしは数日に一回、上がるか上がらないかだった。しかも、
総一郎がどれだけ急いでも、あのサイの様なドラゴンは逃げ去った
後だ。
どのようにして捕まえてやろう、と総一郎は渋面で居る。今の所
策は無く、難しい話だった。
森に目を向ける。樹海と言うほどではない。しかし黙りこくるそ
の佇まいは、自分の知らない真実の深淵を感じさせる。
総一郎の記憶に僅かに残る、あの異形。それは果たして夢なのか、
それとも今が夢なのか。少年は知らない。あの後何があったのか。
今何が起こっているのか。
それからしばらくして雪が、降り始めた。
総一郎は、空を仰いでいた。曇天は薄く、複雑にうねっている。
ナイが、横に立っていた。﹁どうしたの?﹂と尋ねられ、ぽつりと
呟くように返す。
﹁イギリスの雪ってさ、何か綺麗な気がするね﹂
﹁そう?﹂
1367
﹁うん。日本の雪は、ちょっと積もりすぎる気がする。イギリスは、
あんまりだね。そういう、慎ましやかなのがいいのかな﹂
うん、そうだね。とナイは穏やかに相槌を打った。言いながら、
彼女は肩を寄せてくる。抱き寄せ、髪を梳いた。
﹁ちなみにだけどね、総一郎君。昔は、イギリスには全然雪が降ら
なかったんだよ?﹂
自分たちのテントへ歩き出すと、ナイは豆知識を披露し始めた。
﹁へぇ、そうなんだ﹂
﹁うん。でも、今はイギリスの場所が多少ずれたからね。日本より
寒めの四季が出来たし、ほぼ毎年雪も降るようになった。君の言っ
た通り、量は少ないけどね﹂
﹁⋮⋮そんな簡単に島って動くものなの?﹂
﹁地形を変えるレベルの亜人が偶に現れるご時世だからね⋮⋮﹂
遠い目をするナイ。何か嫌な経験でもあったのだろうか。
そっか、と彼女の頭を撫でて、総一郎は歩を進めた。途中、ドラ
ゴンが出没する森に目を向ける。
この森は、呪われている。そうとしか思えない程に、連日死者が
出ていた。
そこで悠然とたたずむドラゴンもまた、正気を失って暴れ出した
1368
一匹なのだろう。だが、総一郎には関係ない。思い入れがある相手
という訳でもないのだ。死者が出ている以上、殺すしかない。
しかし、稀に考えることがある。総一郎は、全ての龍を殺し終え
たら、その後どうするのだろう。
騎士学園に戻るのか、それともアメリカへ密入国を試みるか。ど
ちらも、選び難い選択肢である。とはいえ、それ以外の当ても、目
的もない。
﹁総一郎君? 体冷やしちゃうよ?﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだね。早く戻ろう﹂
夕方。夜の入り口で、急激に冷え込む時間帯。総一郎は、ナイの
手を繋いだ。この体温だけは本物であってほしい。そう願ってしま
うのは、甘えだろうか。
ドラゴンを追い込む作戦会議中、総一郎は光魔法で隠しながら本
を読んでいた。
けれど、完全に聞く気がない訳ではない。音魔法を使って、録音
しているのである。というのも、会議は遅々として進まないからだ。
後になってからテントで早送りしつつ聞くつもりでいる。
少し前まで第一候補として君臨していたのは、森が邪魔で討伐で
きないのだから、伐採してしまおうという案だった。それに反対し
ている騎士もおらず、軍隊は騎士団が行えばそれに追従するのみで
1369
ある。ドラゴン退治に関しては、騎士は特権と言っていいほどの権
力を握っているから、たとえ政府が反対しようと強行することも可
能だった。
今は、誰もその事を口にしない。作戦が決行された日、いつもの
何十倍もの死者が出た。ドラゴンではない。その時騎士団は、初め
て森の木は魔獣の一種で、伐採されそうになると毒ガスを噴出する
事を知った。
ガスマスクを取り寄せ再度挑戦した時は、枝が手の様に動いて応
戦してきた。ガスマスクは激しい運動には向かない。そちらは死者
こそ少なかったが、近寄ることも難しかった。
軍隊が、遠距離からの火炎放射を行ったこともあった。だが、奴
らは火によって燃えなかった。新種の亜人らしく、現在分かってい
るのは攻撃しなければ反応しない事、攻撃した場合毒ガスを噴出す
る事、それが効かない場合には直接応戦し始める事、炎が効かない
事の四つだけだった。
その上、スコットランド出身の騎士は、この野営地には少なかっ
たのだ。彼らが多ければ、まだじわじわと攻めることも出来た。呼
び寄せることも出来ない。ここは攻略の重要性が一番低く、人員配
備がどの討伐隊よりもおざなりだった。
それ故、木に手を出すのは止めようという話になった。総一郎は、
騎士団さえいなければやりようはあるのに、ともどかしく思う。騎
士団の目と、件のドラゴンの実力が未知数なため、強引なやり方は
しばらく出来ないのだ。
﹁では、貴方達は一体どうなさる御つもりですか! 具体的な案を
1370
お示しください!﹂
﹁そんなものは決まっている! ドラゴンめを追い詰め、これを討
伐するのだ! 貴様の様に、弱腰になるつもりはない!﹂
﹁しかし、あの森にはこちらから攻撃しない限り応戦しない亜人が
ほとんどです! あのドラゴンでさえそうだ! 竦んで手を出せな
かった騎士が助かっている事例がある! それに対して、貴方の考
えは単純すぎるのです! あといくらの無駄な犠牲を払えば気が済
むのですか!﹂
﹁無駄な犠牲!? 貴様そこに直れ! 騎士に無駄な犠牲などない。
それを侮辱するならば、その首を切り落としてくれる!﹂
大人げない争いだと無関心に呆れつつ、総一郎はページをめくっ
た。若い騎士と、老騎士との口論である。どちらも一定以上の人望
があるらしく、意見は真っ二つに割れていると言っていい。
総一郎は、若い騎士の撤退論に賛成だった。その方がやり易い。
いずれ件のドラゴンはさらに狂暴化して、今度こそ罪なき人を殺し
だすのだから、早いところ﹃ゴ判断﹄を下して撤退してもらいたい
ものだ。
こんな事が、だいたい一週間近く続いている。市街地へ行けば平
和な物だというのに、騎士の野営地へ来ればここまで浮世離れする。
まるで別世界か、もしくはタイムスリップしてしまったような気分
だ。
ナイはと言えば、彼女も彼女なりの無関心さで、総一郎の膝の上
に座っていた。手元で動かしているのは昔懐かしのルービックキュ
1371
ーブだろうか。しかも5×5×5面である。ちょうど少年が覗き込
んだ時に完成させて、ナイは一人満足げなため息を吐いた。密かに
感嘆するも、彼女は再び崩しだしてしまう。
﹁ぁああぁぁぁ⋮⋮﹂
﹁えっ、何? どうしたの?﹂
思わずその勿体無さに、声を漏らしてしまう総一郎である。もち
ろん音魔法での防音は欠かさない。その辺りは抜け目なかった。
﹁⋮⋮やる?﹂
﹁いや、僕が出来るの三面までだから﹂
﹁あるよ?﹂
﹁あ、じゃあ貸してもらえる?﹂
本はひとまず巾着袋に入れて、受け取った四角い手触りを懐かし
く思う総一郎である。三百年以上経てども、変わらない物はあるの
だと嬉しくなってしまう。他には笑点とかゲームセンターとか。
崩し、揃えはじめる。総一郎は前世、一時期手慰みに嵌ったくら
いだから、最高記録はだいたい三分を切るかどうかという感じだ。
今はさらに久しぶりだったから、ゆっくりと進めた。すっかり彼は
熱中してしまい、一度揃えきる時には会議はもう解散の号令を掛け
られていた。
﹁君、何をそこで放心している。早く出て、自分のテントへ戻りな
1372
さい﹂
ある年配の騎士に素直な返事をし、しばらくしてから子ども扱い
をされたことに気が付いた。ナイの、微笑ましい赤ん坊を見るよう
な目が総一郎を包んでいる。何だかいたたまれず、隙を見てナイに
キスをした。
虚を突かれた彼女は目を白黒させ、総一郎はにやにやと逃げ出す。
捕まえられるついでに抱きしめられ、彼女の人肌を感じた。
精神魔法を使って細工し、テントは総一郎とナイの二人きりだっ
た。
ナイは、他にもスペースがあるというのに、総一郎の付近を好ん
だ。背後から抱き付いたり、その膝元に座ったり。それが総一郎に
は可愛らしくて、つい甘やかしてしまう。
寒いと、人肌が恋しいというのもあるのかもしれない。ナイの首
に手をやって、くすぐったがらせながらそんな事を考えた。
﹁総一郎君。ドラゴン、どうしよっか。﹂
﹁そうだね、ナイ。やっぱり騎士団が邪魔だな。どうやってどかそ
うか﹂
﹁うーん。殺してもいいんならやり様はあるんだけどねー﹂
﹁それじゃあ本末転倒だよ﹂
﹁でも、君はいつか虐められていたでしょ? 復讐したいとか思わ
1373
ないの?﹂
﹁僕が恨んでいるのは、厳密には騎士候補生じゃなくて、亜人嫌悪
を教え込むこの国の教育だよ。そもそも、僕の事を虐めた相手の顔
なんて、ほとんど覚えちゃいないしね﹂
﹁そう?﹂
﹁うん﹂
嘘だった。筆頭として思い出されるのは、ギルの事だ。それに続
いて、ヒューゴ、ホリス。だが、彼等はもはや、脅威とは到底呼べ
ない。唯一きな臭いのは、総一郎を蔑視しないと推測される、騎士
の中の不確定勢力だけだ。しかし、その存在も確信が持てずにいる。
何を恐れているのだろう、と過去の自分を嗤った。だからこそ、
なおさらに疑問が大きくなる。総一郎は、騎士から離れてしばらく
生活していた。そのお蔭で、彼を毒していた雰囲気が拭われ、不可
解な点が数多く浮き彫りになったのだ。
恐らくだが、ドラゴンを皆殺しにした後、総一郎は手持無沙汰の
為に騎士学園に戻るだろう。ホームステイ先だったフォーブス家に
帰るという選択肢は、今もない。顔を合わせるのが怖いとは、流石
にもう思わなくなったが、不思議な恐怖があり、躊躇ってしまう。
それはきっと、彼等にも危険が及ぶのではと言う危惧なのだろう。
何による危険かは、総一郎の中でも判然としない。連想するのはフ
ァーガスである。彼と通信する手段は、とっくに失ってしまった。
元気でやっていればいいのだが。
1374
﹁総一郎君? どうしたの、急に黙り込んで﹂
﹁ん。⋮⋮ちょっと考え事。駄目だね。温いと、思考があっちへ行
ったりこっちへ行ったりして落ち着かないや﹂
︱︱少し、夜食をくすねるついでに頭を冷やしてくるよ。そのよ
うに告げて、総一郎は一人でテントから抜け出した。すでに時間は
深夜である。見付かっても面倒だから、光魔法で姿を消した。
夜の見回りとして、警戒している騎士は多い。軍隊の人間も行っ
ているが、騎士のモチベーションの高さには及ばないだろう。騎士
たちの夜回りは、志願制である。それでもなお順番は順繰りになる
のだから、日本の感覚を持つ総一郎からしてみれば、ちょっと引い
てしまう。
そんな人間が、少人数とはいえウロウロしている訳だから、ほぼ
間違いなくばれないとはいえ気分のいいものではなかった。万一油
断して彼らとぶつかったりした日には、いきなり斬りつけられても
文句は言えない。
用心しながら、こそこそと進んだ。冷たい、と思った。雪が顔に
当たる。明日は積もるのだろうと思わせられる降り方だ。
足跡が着いてしまうほど降るより先に、テントへ戻らねばならな
い。総一郎は、ちょっと駆け足になった。途中騎士のライトに照ら
されぎょっとしたが、見える訳はないのだと思い直して再び走り出
した。
食料は、全て倉庫に保管されている。鍵があり、無駄にハイテク
なそれだった。カードキーである。不釣り合いだなぁ、と総一郎、
1375
渋い顔をする。想像していたのは南京錠だったのだ。三百年経って
それである訳が無いのだが。我ながら阿保である。
﹁カードキーって何を合わせればいいんだっけ?﹂
電磁波的なそれだろうかと雷魔法を微妙に調節していると、しば
らくしてから唐突に電子音がし、鍵が開いた。ろくな専門知識を持
たずにやって開いてしまうとは、それでいいのか騎士団。
忍び込むと、倉庫の中はさらに寒かった。食料を保存しているの
だから、当然と言えば当然だ。何か無いかと探していると、祝杯用
と記された箱を見つけた。迷わず覗き込む総一郎だったが、中身が
酒だけでがっかりした。前世は下戸だったのもあって、ちょっと敬
遠気味である。
しかし、ある程度探せば大量のスコーンだったりプティングだっ
たりが出土する。少年はその内の二つをくすね、他にもあるかな、
と再度探し出した。
その時、背後からドアの軋む音が聞こえた。
﹁誰かいるのか?﹂
見回りの騎士だろう、と総一郎は苦い顔をした。見付からないと
はいえ、少々バツの悪い気分にさせられてしまう。
ライトに照らされ、眩しい思いをした。とはいえ、不快なだけだ。
目暗ましにはならない。ところで強い光に不快な感情を抱くとすれ
ば、亡き母は後光差す神様に謁見する際、どのように感じていたの
だろうか。
1376
光魔法のお蔭で、そんなとりとめのない事を考えるだけの余裕が
総一郎には有った。光魔法は小さいころから慣れ親しんだ属性魔法
の為、一切その効力に疑問を抱いていなかった。
だから、こちらにライトを差し向けた騎士と目が合った時、総一
郎は酷く狼狽した。
﹁⋮⋮え?﹂
声はもちろん隠している。姿も、同じはずなのだ。だが、彼には
見えている。見えていなければ、目など合わない。
何故、と総一郎は冷や汗をかいた。彼は無機質な視線を総一郎に
向き合わせている。逸らすことは出来なかった。惑い、彼の殺害を
半ば覚悟した。だがその瞬間、ふい、とその騎士はそっぽを向いて、
このように言った。
﹁⋮⋮気のせいか﹂
総一郎は、ぽかんとした。その隙を突くように、彼は倉庫を出て
いく。
﹁⋮⋮気のせい⋮⋮?﹂
今の言葉には、魔力があった。偶然。ただ偶然、彼と総一郎の目
が﹃合ったような﹄錯覚を抱いた。そのような解釈は、少年に深い
安堵をもたらす効果があった。
まるで、微弱な精神魔法にも似た効果。
1377
しばらく硬直していたが、堰を切ったように肌が粟立った。息を
呑み、我に返る。消音の効果は切れかかっていたが、持続させるた
めの呪文すら唱えずに倉庫の中から飛び出した。
探る。聖神法による索敵。風、音魔法のそれすら重ね、無理をし
て精神魔法を方々に飛ばしさえしたが、何かが引っ掛かる事は無か
った。先ほどの騎士は、忽然と消えてしまっていた。それが、総一
郎には信じられない。
︱︱ただの違和感や、偶然ではありえないはずだった。
諦めきれず、他の騎士を用心しながらも夜通し探した。ナイは途
中で心配したのか出てきて、目が覚めるガムを街に行って買ってき
てくれた。そこまでさせる程の気迫だったのかと自覚させられ、冷
静になった。
その夜、ナイを抱きしめて寝た。温もりに、総一郎を震えずに眠
ることが出来た。
確実にいるのだ、と思った。何者かが。得体の知れない、何を望
んでいるのかも分からない、何者かが。
1378
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵5︶︵後書
き︶
ナイ﹁︵総一郎君がボクを抱き枕にしてる。ボクを抱き枕にしてる
! キャー!︶﹂
1379
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵6︶
総一郎は、怪人物と遭遇した日から真面目に騎士活動に勤しむよ
うになった。今までは面倒を避けて、ほとんどの時間を読書したり、
ナイと遊んでいたりで潰していた。それではいけない、と感じたの
だ。騎士たちの交友を広げ、あの、顔すらうろ覚えの彼を見つけね
ばと考えた。
そうしていると、少しずつ見える事も多くなっていった。騎士た
ちに好奇心旺盛に尋ねるものだから、気をよくしてみんながドラゴ
ンや森の事を教えてくれるようになった。
たとえば、ドラゴンの好物が森の奥に数少なく生えている花なん
てことは、初耳だった。
﹁それ、本当なんですか?﹂
﹁ああ。君は若いのにしっかりしているから、教えても大丈夫だと
思った。この話は極力漏らさないで御くれよ? 花を取りつくして
しまえば手の打ちようがないから﹂
﹁え? その花を他の場所から取り寄せることは出来ないんですか
?﹂
﹁その花は、亜人なんだよね。厳密に言うと、マンドラゴラと数種
の花の交配種なのさ。だから、人工的に作り出すという事が出来な
い。その上気安く引き抜けば死の鳴き声が響くから、未熟な騎士に
は教えたくないんだよね﹂
1380
﹁その花を、今から取りに行くんですね?﹂
﹁ああ。一つでも相当匂いが強いから、一つだけ取ってそれを大量
の花束に隠す。ドラゴンはそれに勘違いを起こして食らいつく。今
までかなり非効率な方法でドラゴンを発見しようとしていたが、今
回は勝算も高い﹂
二人の騎士が交互に喋るのを聞いて、総一郎は騎士にも良い人は
居るじゃないかと思った。だが、そんな二人でも総一郎の出自を明
かせば豹変するのかもしれない。げに憎むべきはこの国の教育なり。
という訳だ。
薄い関係性だが、死なせたくはないと思った。それが叶えばいい。
叶わなければ、少し悲しい。
ドラゴンは、日々少しずつ狂暴化し、強くなる。
竜神様との戦いは、まさに死闘と言ってよかった。油断して居な
くとも、総一郎は死にかけた。父なら違っただろう。己の出来る事
を十全に理解し、使い分ける。総一郎には、まだ難しい。最近なの
だ。魔法を意識しないまま、手足の様に使えるようになったのは。
ナイが、総一郎におぶさりながら欠伸をした。彼女は今姿を消し
ている。彼女の容姿はどう考えてもドラゴンの前に立って良い年齢
ではないし、彼女から独自の異能を取り除けば、頭がよく小器用な
少女に過ぎないからだ。父から刀を奪う時点で十分だとは思うが。
﹃総一郎君。暇だからキスしよっか﹄
1381
﹃しょっちゅうしてると軽くなるよ?﹄
遠まわしなお預けを食らって、ナイは﹃むぅぅぅうう!﹄とむく
れた。互いに声には出さない。精神魔法で、総一郎がリンクさせて
いるのだ。
そんな彼女を宥めながら、森の木々について思考する。今日は晴
れ日で、広葉樹の多い森の中では木漏れ日が気持ち良かった。だが、
本来この国では針葉樹以外は生育できない。それはひとえに、寒い
からだ。
この広葉樹林の一本一本は、全て亜人である。今誰かが気まぐれ
に切り倒そうものなら、毒ガスが一斉に噴出され森の肥やしになる
のだろう。その恐怖にとらわれ、森に入れなくなった者も多かった。
総一郎も、毒ガスは危うい。毒魔法と言うのは使い所が少なく、
解毒しようにも知識が足りないのだ。更にこの亜人たちは新種で、
何を出しているのか分かった物ではない。
ナイの、総一郎にしがみ付く手が強くなった。それだけで心強く
なるのだから、少年は単純だ。
この先をまっすぐに進めば、件の花があると彼らは言った。総一
郎は元気よく頷く。すると何故だかその班の全員から頭を撫でられ
た。訝しんでナイにどういう事かを聞くと、彼女にまで撫でられる
ものだから、総一郎はむっつりと閉口する。
一番乗りを促され、従った。見れば、木が光を隠さないために出
来た花畑がそこに在った。幻想的なまでに美しい花である。だが、
下にはマンドラゴラの亜種が眠っているという話だ。総一郎は音魔
1382
法で花の周囲を消音し、騎士たちが来る前にさっと抜いてしまった。
音もなく、マンドラゴラは絶叫を上げた。聞けば死に至ったのだ
ろう。しかし、音が失せれば無力なものだ。総一郎はその無為に肩
を竦める。
﹁どうだい? 綺麗な花だろう。でも、用心してくれよ? 迂闊に
摘めば、死んでしまうかもしれないからね﹂
まさか総一郎が花を既に積んでいるなんて思っていない騎士たち
は、まるで我が子に接するような親しさで、そのように言ってきた。
総一郎は困ったような声で返す。
﹁⋮⋮あの。何かこれ、もう抜けてるのがあったんですが⋮⋮﹂
言いながら振り返り、花を見せた。可憐な花弁と、ごく小さな人
間を模した根。騎士たちは、あっと声を漏らした。
﹁だ、大丈夫だったかい?﹂
﹁は、はい。最初から抜けたのが落ちてあったので、叫び声を聞い
たという事は無いです﹂
﹁それは良かった。しかし、こんな事があるのだろうか。ドラゴン
が、食事を途中で止めたとか⋮⋮﹂
﹁何があったんだろうねぇ。まぁ、それはいいじゃないか。ともあ
れ、ブシガイト君。お手柄だよ﹂
皆撫でるのが好きだな、と思いつつ、甘んじて撫でられた。最後
1383
には案の定、﹁よしよし﹂とナイに撫でられる。何でこんなにも撫
でるのが好きなのだろうと考えて、騎士たちを見た。全員四十代前
半という位で、総一郎と同い年の息子が居てもおかしくはない。な
るほど、と納得した。会えない分、しばらく彼らの息子で居よう。
その花は責任を持って総一郎が保持し、森を出て指揮官に渡した。
指揮官は年老いていて、これまた総一郎を猫かわいがりする。こっ
ちは孫扱いなんだろうなと予想を付けつつ、素直に振る舞った。元
々そういう性分だから、演技をしているという感覚もない。
花束が届くのは、明後日という事だった。それまで、休んでいる
ようにとのお達しだ。多分これでここのドラゴンを討伐できると、
老若男女、騎士たちは息巻いていた。
﹁総一郎君、皆に可愛がられてたね﹂
﹁君含めてね﹂
テントの中、ナイはそう言ってからかって来る。しかし、大して
恥ずかしい事でもない。男の自分が騎士たちのアイドルと言うのは
何だかむず痒い話だが、先知れぬ身の人々の癒しになるのを恥じだ
と思うのは、侮辱以外の何物でもないだろう。
とはいえ、含みがある訳でもなく、ナイは総一郎にきゅっと抱き
付いてむくれた顔で言った。
﹁でも、総一郎君を一番可愛がるのはボクなんだからね! そこの
所は忘れないように!﹂
﹁はいはい﹂
1384
こんな小さな体で何を言っとるのかとも思わなくはなかったが、
よくよく考えればナイは総一郎より九歳年上である。だがちょっと
待てよ? そもそも総一郎には前世があるから、単純計算なら十六
歳ほど総一郎の方が年上という事になる。
﹁⋮⋮よしよし﹂
試しに撫でてみると、ふにゃっと少年に身を預けてきた。幸せな
時間だった。
少しして、総一郎は食事の為にテントを出た。あんまり美味しく
ないなと複雑な表情をしていると、同じ班の騎士たちが総一郎を見
つけて寄って来た。何だか不思議な気分にさせられた。今まで、こ
んな事はそうは無かった。
雑談をしていると、いつの間にか彼らの身の上話を聞くことにな
った。全員が貴族という事ではなく、しかしその間には差別的な所
はない。それぞれがそれぞれの人生を辿っているのだと教えられた。
幸せな家庭を既に築いていて、帰らない訳にはいかないと語った者、
過ちを犯して、帰るところなどないのだと笑った者。様々だったが、
みな仲が良かった。
総一郎の見解で言えば、生き汚い人間は強い。総一郎は自分の知
る中でも一等生き汚く、だからこそ今の今まで生き長らえていると
言っていい。
是非とも、生き延びて欲しい物だ。しかし、この中で生き延びる
人は少数だろう。騎士は、最終的には他者の為に死を選ぶ生き物で、
彼等も例には漏れない。前線に立つ限り、彼らが生きたまま帰れる
1385
という事はあるまい。
愉快に夕食を済ませ、明日は最後の休みだと、大人は全員大酒を
かっ食らっていた。総一郎は、それを横目に食堂を出た。
﹁誰も、死ななきゃいいのにな﹂
﹁そうだね、総一郎君。そうすれば、君の悲しむ顔を見ずに済むも
ん﹂
﹁それだけ?﹂
﹁仕方がないよ。ボクは彼等のなにもかもが見えてる。何をしたっ
て予定調和で、つまらないからね。こればっかりは、どうしようも
ない﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
総一郎は、咎めようとは思わない。彼自身も好奇心の犬だからだ。
内容の意図も、文体も、一字一句覚えてしまった本があったとした
ら、少年は決してその本を読まないだろう。
そういう意味では、同情しか感じない。総一郎がナイだとしたら、
興味を満たす存在が数人しかいないなんて耐えられないことだ。少
年は、彼女の手を繋ぐ。ナイはその行動に一瞬安堵を見せ、その意
識の隙間を突いて総一郎は唇を合わせた。
ナイの驚いた顔は可愛い。出会ったばかりの頃に見せられた表情
が不敵な物ばかりだったから、そのギャップが堪らない。
1386
いつの日か、ナイと対決する。ナイを殺さず、その中に居る無貌
の神だけを追放する。その為には、強くならねばならない。死んで
はならない。
強くなる。それは、経験を積むという事だ。今の所の当てとして
は、騎士の中に潜む者の正体を暴きたてる事がそれになる。
﹁総一郎君って、なんだか不思議だよね。話し言葉の割に、行動が
肉食系っていうか⋮⋮﹂
﹁好きな小説のジャンルが剣豪小説だからね﹂
﹁それが肉食系になるの?﹂
﹁剣豪小説って、大抵主人公が平気で女性を犯すんだけど﹂
﹁⋮⋮えっ﹂
﹁いや別に、僕はしないよ?﹂
変な誤解が生まれても嫌なので、冷静な顔で否定して置いた。な
んだか複雑な面持ちで、ナイはどもり気味に頷く。ちょっとよく分
からない反応だった。
総一郎は、体重を掛けずにナイにもたれ掛かった。首を抱きしめ、
頬ずりをする。成長期に入った総一郎だから、今までに比べると良
い感じの身長差だ。ナイは頬を赤らめ、嬉しい様な、困った様なと
いう表情をした。その時、遠くでこちらを見ている人間に気付いて、
ちょっと恥ずかしくなった。
1387
だが、微かな違和感が総一郎の中心で、蒸気の様に浮き出した。
ナイを開放し、そちらに目を向ける。光魔法で細工し、その顔を捉
えようとする。
目が、合った。その目を、総一郎は覚えていた。
駆けた。同時に、奴は逃げ出した。速い。風魔法すら使って追い
すがる。奴は森の中に入った。総一郎も後を追う。
﹁待ってよ、総一郎君! どうしたの、一体?﹂
ナイが、総一郎の後を付いて来た。恐らく、何かしらの術を行使
しているのだろう。驚くにも値しない。
﹁騎士の中に居る異分子の一人が、この先に居るんだ。今逃げてる。
捕まえないと﹂
用心を重ね索敵を行い、総一郎はさらに物理魔術による推進力を
足した。自重を軽くする。このままでは木にぶつかっただけで大怪
我しかねないが、精神、時間魔法を併用すれば、間違っても激突は
しない。
だが、それでも奴は捕まらなかった。どれだけの速さだというの
だ。索敵では、引っかかっているのに。
その時、横から襲い来るものがあった。
ドラゴンは、総一郎を横に突き飛ばした。寸前で防御をしたが、
足りなかった。吹き飛び、地面を転がる。何度も跳ねて、腑臓が掻
き混ぜられたような不快感が少年をガツンと殴りつけた。
1388
魔法による防御を、次々に足していってもこれだ。総一郎は、立
ち上がれない。赤子のように丸まって、滝のように流れ出す冷や汗
も拭えず、荒く息をするしかなかった。
ドラゴンは、追いかけようとしなかった。総一郎が息絶えたと見
て、そのまま通り過ぎて行った。総一郎は、痛みに声も出せない。
弱って、ナイの名を呼んだ。
﹁大丈夫だよ、総一郎君。ボクは、ここにいるから﹂
視線を向けるのも億劫だったのを見透かしたのか、彼女はわざわ
ざ総一郎の視界に入り、優しく微笑んだ。総一郎は安堵し、そのま
ま目蓋を落としてしまう。そのギリギリに、生物魔術で代謝を上げ
た。起きるころには、全快しているだろうという算段だった。
夢を見た。
酷く、生々しい夢だった。
夢か現かも分からない記憶。セヴァン谷を下りていき、迷宮を探
索する。
その途中で遭遇した、あの神々しいまでに絶対的な恐怖を纏う、
青白く足が何本も生えた怪物。亜人とも違う。見ただけでそのもの
の正気を奪うほどの畏怖。
それは動けなくなった総一郎に近づき、突き飛ばし、押しつぶし
た。
1389
死んだと、そう思った。
総一郎は絶叫を上げた。闇がそこに在った。悶え、土を掻き毟り
ながら泣き叫んだ。躰が震えた。我に返るまでに、数十分を要した。
我に返ってからナイが居ない事に気付いた。
﹁ナイ⋮⋮? ナイ⋮⋮!﹂
自信なく、総一郎は宙を掻いた。闇は深い。寝ている間に、夜に
なったらしい。総一郎は光魔法で明かりを灯した。浅い洞窟に、少
年は居た。ナイが運んでくれたのか。だが、それでは何故彼女が居
ない。
激しい不安を感じていると、夜の森の中からこちらへ歩いてくる
者があった。小柄で、華奢な少女︱︱ナイだ。総一郎は一瞬安堵に
表情を緩ませるが、様子がおかしい事に気が付いた。いつものそれ
ではない。まるで、出会った頃や、再会したばかりの時の様な︱︱
彼女は、総一郎から十歩ほど離れた場所に立って、彼にとあるも
のを投げ出した。黒く丸いそれは、少年の足元に転がり、その正体
を明らかにした。
それは、総一郎が捕まえようと必死になった騎士の、頭だった。
総一郎は意味が分からず、彼女に疑問の視線を投げかけた。彼女
は俯いたままで、前髪がその瞳を隠してしまっている。ただ、その
口は暗い微笑が湛えられていた。針のむしろが如き沈黙だった。
1390
それが、しばらく続いた。
﹁⋮⋮ねぇ、総一郎君。ボクの事、好き?﹂
背筋の、寒くなるような声色だった。少年は口にすべき言葉を見
つけられずに、ただ黙り込んでいる。再度、﹁ねぇ﹂とナイが言っ
た。彼女は総一郎に忍び寄り、しな垂れかかった。
﹁ねぇ﹂
目が合った。総一郎の視界が、消えた。
脱力して、彼はすとんと地面に座り込んでしまった。何も見えず、
明かりを無理やり消されたのかと疑った。しかし、違った。光魔法
を行っても、何も変わらない。発動したという手応えだけが返って
きた。
くすくすと、ナイは笑い出した。総一郎は震える。何でと、問お
うとした。出来なかった。声が、出ない。封じられているのだ。盲
目にされたのと同時に。
﹁ねぇ、総一郎君。ボクはさ、君に破滅させられるためにここに居
る。でも、今の君じゃあ実力不足だ。だから、今はそれを育てる期
間だと言っていい。それは、覚えているね?﹂
ナイの声は、嘲笑を含んでいた。途中で、わざとらしく嘆息し、
失望したような声で続ける。
﹁でもさ、正直期待外れだったよ。君のお父さんは言ったよね? ボクには良いように弄ばれないように、人間としての自分を保ちな
1391
がらも、惑わされない孤独な自分を持てって。それで、今の君はど
う? ボクの仮面に騙されて、良いように扱われて﹂
彼女は、鼻で笑った。総一郎を軽んじる様に。価値を置く必要が
ないとでもいうように。
総一郎は、恐らく、すがるような目つきをしていたろう。言葉を
発しようとしたが、出来なかった。封じられている。泣き言すら、
ナイは許さないらしかった。
未練がましい考えが、頭を廻った。ナイは心を読んでいるのかい
ないのか、このように続ける。
﹁君が孤立して、その隣にボクが居て。話しかけながら、﹃簡単だ
な﹄って思ったよ。どんなに憎悪を向けた敵でさえ、誰よりも頻繁
に顔を合わせて、優しく語りかけてあげるだけで、その相手に心を
預けてしまう。もっとも、君はその点では少しだけしぶとかった。
だから、竜神様の時のあのイベントを起こしたのさ。どうやってあ
の障壁を崩したのかだけは結局わからなかったけど、助けに来た時
の君の滑稽さと言ったら、本当、なかったよ。まさか、あんなに簡
単にボクに心を開いてしまうんだから﹂
少年は動けないまま、止めてくれと願った。騙された自分が悪い
のか。しかし、自分は騙されていてもいいと思わなかったか。︱︱
吹っ切れや、しなかったか。それが、どうしてこんなにも胸が苦し
い。
ナイの言葉は、正面から受けるには辛すぎた。だから、その意味
を考えずにいる。それでも、その嘲笑う独特の声色は痛かった。
1392
頭痛がした。直感で、精神干渉が来たのだと分かった。ナイが、
自分などどうでもいいと思っている何よりの証拠だ。掛けた時は用
心に用心を重ねたから、防いだことは彼女にばれないようになって
いる。
だが、総一郎は突如不可解に感じた。何故、精神干渉をしたのが
﹃今﹄だったのか。もっと前でも良かったではないか。思考が動き
出すと、ナイの言葉尻すら気になってくる。総一郎は、動けないま
まに息を呑んだ。そして、脳内で呪文を唱える。
﹃空間魔法﹄
総一郎は、あの虹色の球を耳の中に発動させた。それを、音魔法
と混ぜる。単純な音魔法なら、間違いなく気付かれただろう。だが、
空間魔法は音ではない。彼女が把握できない、可能性がある。
そうして、特殊な音波のようなものを放った。空間魔法で鼓膜と
は別の膜を作り、イルカのような方法で視界の代わりとした。どん
な表情で、ナイが言の葉を紡いでいるのかという事だけでも知りた
かった。
返ってきたのは、号泣する一人の少女の影だった。
彼女は大粒の涙を零しながら、嘲笑うような声を発していた。総
一郎が盲目であるのをいいことに、少年から少し遠ざかって、蹲ら
んばかりに腰を折って泣いている。
総一郎には、訳が分からなかった。嘲笑の言葉が、再び耳に入っ
てくる。
1393
﹁本当に、君は馬鹿だね。でも、仕方ない事だよ。呉越同舟と言う
だろう? 人間は、そういう風に出来ているのさ。弱いから、群れ
なければならない。群れ易いように、本能に刻みつけられているん
だ。だから、君は悪くないんだよ? 悪いのは、人間と言う愚かで
矮小な種族さ。︱︱ああ、全く﹂
彼女の影は、自らの服を強く握った。多くの皺が寄り、ぐしゃぐ
しゃになる。
﹁人間は、浅ましいね﹂
その言葉は一体誰に向けられているのかが、少年には分からなか
った。自分への物であるのか。それとも、彼女が彼女自身に向ける
嘲りの言葉なのか。
でも、と彼女は言った。おかしくて堪らないという声音で、多分、
苦しくて仕方がないという表情で。
﹁君はそれでも一番の有望株だ。ここで殺してしまうのは、少し惜
しい。だから、テストをしてあげよう。合格すれば、君は生き残れ
る。⋮⋮ほら、聞こえるでしょう? 耳を澄まして御覧よ。そう、
総一郎君。君の目の前には、先ほど君を突き飛ばして瀕死にしたド
ラゴンが息巻いている。こいつを、殺してごらん? そうすれば、
君は命を落とさずに済むよ﹂
じゃあね、と明るい声で、ナイは去っていった。足音は軽かった
が、彼女は歩いてではなく、騎士学園の転位陣に乗った時のような
消え方をしていた。過剰な演出。その意図は一体何処ある?
視界は、晴れなかった。だが総一郎は、目の前に居るだろう敵に
1394
はほとんどの関心を払わなかった。ただナイの事を考えている。最
初から、分からなかった。今も同じだ。その本心が何処にあるのか
を、彼女はいつだって隠している。
総一郎が空間魔法によって捉えた影でさえ、ナイの偽りの可能性
だってあった。嘲笑の性質を持つなら、そんな二段仕掛けがあって
もおかしくない。
猛烈な足音が、総一郎に向かい来た。抵抗するのも面倒で、素直
に食らった。突撃され、口で強くくわえられ、放り出される。洞窟
があったから、突撃によるダメージは無い。そもそも、痛みすら感
じなかった。
木に縦に叩き付けられ、人形の様に足をのばして座っている。足
音が近づいてきた。防御しなければ、間違いなく総一郎を圧し潰す
足音が。
俯いて、﹁ナイ⋮⋮﹂と呼んだ。声は、もう、出せるのか。頭の
中で、彼女との思い出が渦を巻いている。数秒の猶予もない。それ
でも、総一郎はドラゴンを意識の外に置いている。
ナイの言葉が去来した。︱︱人間は、浅ましいね。その通りだ。
人間ほど浅ましいものはない。だから、彼女は総一郎の元から去っ
たのだろう。総一郎がナイに心を預けすぎたからか。もしくはナイ
が総一郎に預けすぎたからか。判別は付かない。どちらも正しくな
ければよかった。そうでなければ、救えない。
﹁︱︱ねぇ、ナイ﹂
総一郎は、彼女の名を呼ぶ。圧迫する気配は、きっとドラゴンが
1395
眼前に迫っている為だろう。呪文を唱える時間もない。総一郎は、
言った。
﹁僕が人間をやめれば、君は戻ってきてくれるのかな?﹂
木刀を、執った。
ドラゴンにも、桃の木の木刀は有効だった。切り付け、怯ませ、
その目を貫く。ドラゴンは、呆気なく横倒しになった。生物魔術で
目を治療した総一郎は荒い息を吐きながら、奴はもう死んだとここ
から出ていこうとする。
だが、猪の様に突進しか能の無い愚図は、醜くも未だ息があるよ
うだった。総一郎は、何故かはらわたが煮えくり返るような思いを
した。顔を悪鬼のように歪ませ、毒づき、怒鳴りつける。
﹁⋮⋮何、生きてんだよ。さっさと死ねよ!﹂
腹を捌き、内臓を燃やした。ドラゴンは悶え、痙攣を繰り返し、
息絶えた。クソ、と何度も繰り返しながら、総一郎は歩いていく。
1396
6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 ︵6︶︵後書
き︶
ナイ﹁さて、そこにてご覧の皆々様。その先は、奈落につながる一
本道だよ﹂
1397
7話 修羅の腕︵1︶
森を出る頃には、大分冷静になっていた。ただ、動揺は隠しきれ
ない。怪我などの後処理は全て済ませていた。あのドラゴンの死骸
はそのまま放置し、森からのそのそと出てくると、何やら嫌な風に
騒がしくなっていることを知る。
ひとまず、様子を見るべくテントの方へ向かっていった。すると
ライトの一つが総一郎を照らした。次いで、声がかかる。
﹁ブシガイト! 一体森の中で何をしていたんだ! みんな心配し
ていたんだぞ!﹂
咎める声にも穏やかに﹁すいません、勝手な事をしてしまって⋮
⋮﹂と返した。我ながら、弱い声だと思った。ナイの言葉、空間魔
法で知ったその姿。それらが、脳に焼き付いて離れない。
すると一変して、彼は酷く心配そうに総一郎の顔を覗き込みなが
ら、この様に問うてくる。
﹁な、なぁ、一体、何があったんだ? お前が脈絡もなく森に行く
ような奴だと考える奴は居ない。何か、考えがあったんだろう?﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい。今は、少し疲れてしまって。休ませていただ
けないでしょうか﹂
﹁⋮⋮そう、だな。その通りだ。ちょうど、明日は休暇だしな。お
前も、英気を養ってくれ。︱︱だが、出来れば明後日の突撃までに
1398
は、今回の行動の理由を教えてくれないか。気になることが、あっ
たんだろう?﹂
﹁⋮⋮はい。それまでには、きっと⋮⋮﹂
親身になってくれる四十半ばほどの騎士に何度か頷き返して、総
一郎は自分のテントに戻っていった。そこにあるのは、ナイの居な
い空間だ。あまりに寂しい、孤独である。
﹁⋮⋮う、⋮⋮﹂
思い出して、涙が浮かんだ。表情が歪む。強引に拭って、ことな
きを得た。だが虚無感が付きまとっている。
﹁確かに、ナイの言う通りだ。ナイが居ないだけで、こんなにも苦
しくなるなんて思わなかった⋮⋮!﹂
クソ、と毒づく。今までは、こんな言葉を口にはしなかった。ど
こか、ネルを思い出す。大貴族の生まれながらアウトローにあこが
れる、少年の事だ。
﹁⋮⋮ハハ。今更になって、うつったのかな﹂
乾いた笑いを浮かべてから、沈鬱な表情になる。駄目だ。と思っ
た。あの、ナイの態度が嘘であれ本当であれ、このままでは駄目だ。
﹁⋮⋮とにかく、もうここに居る意味は無い。残るドラゴンは、あ
と二匹だ。⋮⋮手早く、ぶち殺さないと﹂
手が、震えた。殺意が、そこを中心に満ちて行った。そこでハッ
1399
とする。今の感情は、一体何だ?
﹁⋮⋮右手﹂
違和感。自分の意思を離れて、勝手に動いているような感覚があ
った。目の前に持ってくる。そして、気づいた。
﹁何だ、これ⋮⋮﹂
総一郎の右手は、歪んでいた。手首から先。肌︱︱なのだろうか。
人間の物でもない、かといって他の動物とも思えない、異常な変容。
ミイラの様だとも、獣の様だとも評せる手首。探してみるが、爪ら
しきものが見つからない。
左手で触れる。感覚は、あった。強く、つねる。痛みはない。総
一郎は眉を寄せた。触覚が通っていて痛覚がないなど、有り得るの
か。
﹁⋮⋮ナイ、なのか?﹂
そう、考えたくなかった。しかし、それ以外に考えられない。
﹁おーい。大丈夫か、ブシガイト﹂
﹁ッ! は、はいっ!﹂
急いで剣を持つ時用に支給される手袋を嵌めて、総一郎はテント
の入り口に声を返した。その慌てように﹁どうした?﹂と声をかけ
てくるが、﹁い、いえ。何でもないです﹂と誤魔化す。
1400
﹁そうか。それならいいんだが⋮⋮、っと。そうそう。元気がない
ようだったから、ほれ、差し入れだ﹂
言いながら、小さな袋を突き出してくる。受け取って中を覗き見
ると、お菓子類が詰め込まれていた。﹁これ⋮⋮﹂と顔を上げると、
﹁いやぁ﹂と照れた風に頭を掻く。
﹁みんなで何かしてやりたい、って話になったんたが、家族と離れ
て生活する者も多くてな。どうしてものかと考えあぐねた結果が、
それだ。もっと気の利いたものを渡してやれれば良かったんだけど
な。子供心に疎いおじさんたちを許してくれ﹂
﹁⋮⋮ううん。ありがとう、ございます。⋮⋮あはは、一人じゃ食
べきれないな、これ﹂
丁重に礼を言ってから目の前でチョコバーを取り出してかじり出
すと、ようやく安心した様子で﹁おやすみ﹂と彼は去って行った。
総一郎はそれを、黙々とかじりながらいつしか無表情で見つめてい
た。
﹁⋮⋮味が、しないんだけど、これ﹂
齧りかけのまま、パッケージの表記を見た。何処をどう見ても、
普通のチョコバーだ。けれど、これがチョコだとは思えない。別の
何かのようにすら感じられ、食欲も失せてそのままゴミ箱に捨てて
しまった。テント内用の、簡易的なそれだ。
きっと、おかしいのは彼らではない。総一郎は、寝袋に横になり
ながら悟っていた。瞼を半開きにしながら、眠るでもなくじっとし
ている。
1401
︱︱有難い、と言う気持ちは、本当にあったのだ。騎士とは思え
ないほど、総一郎によくしてくれている。だが、遠い。薄っぺらな
存在が、ルーチンワークにのっとって動いた結果のようだと考えて
しまう。
現実感が、ない。言葉にするなら、それに尽きた。
﹁⋮⋮もう、いいや、別にさ⋮⋮﹂
目を、瞑る。このまま、流れに任せようという気分だった。無理
して、ドラゴンを探し回る必要もない。この森のドラゴンの死骸が
見つかれば、真偽の追及などはあるだろうが、結局は残る二匹のた
めに援軍として差し向けられる。
今は、寝よう。そう思っていれば、睡魔はすぐにやってきた。
ナイの夢を見た。化け物に踏みつぶされる夢でもあった。しかし
化け物の事などどうでもよかった。醒めなくていいと願った。朝な
んて来なくていい。
だが、朝は来た。総一郎は憂鬱な心持で、木刀を手にしながら立
ち上がる。
テントに出て、雪の上を歩く。踏み固められ、汚れた雪だった。
近くの大テントを少し捲って覗いてみる。大人たちが、苦しそうに
唸りながら数人単位で折り重なっていた。周囲には、酒瓶がいくつ
も転がっている。
1402
その内の一つを、眺めてみた。ドンペリニョンと、記されている。
﹁⋮⋮随分高価なものを⋮⋮﹂
微笑して、総一郎は人気のない場所に来た。空を見上げる。よく、
晴れた日だった。笑う。どんなに抗おうと、朝は来る。来てしまう
のだ。
﹁寝て起きれば、多少は吹っ切れる物なんだね﹂
素振りを、始める。淡々と、続けた。風を断ち、木刀は音を響か
せる。何度も繰り返し、寒くなくなるまで終わらせなかった。少し
物足りなさを感じて、仮想敵を作り出す。オーガ。朝の軽い運動と
しては、今となってはちょうどいい相手だ。
呼吸を深くして、構える。敵は、容易には襲いかかってこなかっ
た。慎重なオーガ。そんなものに出会ったことはない。一度襲いか
かるのを躊躇った個体が居たが、それは総一郎が怯えさせすぎただ
けの事だ。
慎重さ、大胆さ。その二つを兼ね備えたオーガが居たら、と少し
考える。最初は蛮勇をひけらかし、押されると途端に及び腰になる
オーガしか、総一郎は戦ったことがない。そう考えると、あの魔獣
は精神魔法ですぐに人間の支配下におけるのかもしれない。聖神法
で言うなら、﹃聖獣﹄にしやすい種族である、ともいえるのか。
想像上のオーガは、総一郎の考えに応じて、少しずつ微動するよ
うになった。その動きは、何処か父を彷彿とさせる。総一郎は構え
ながら、汗の噴く感覚を覚え始めた。そして、膠着。どちらも、全
1403
く動かなくなる。
息が、上がってきた。父が、オーガに乗り移ったかのような敵だ
った。巨大な棍棒を、上段に構えている。総一郎はその時、息を深
く吸い過ぎた。
膠着が崩れ、オーガはすさまじい勢いで総一郎に肉薄する。
恐怖。正面から断ち割り、踏み込んだ。身をかがめ、懐に入る。
オーガが跳んだ。棍棒が、上空から襲いかかってくる。
﹁︱︱舐めるな﹂
総一郎もまた、追従するように跳び上がった。棍棒が総一郎に届
くよりも先に、その腕を斬り飛ばす。そして、足、胴体。着地して
すぐに反転し、崩れ落ちたその体から首を刎ねた。オーガの首はく
るくると宙を舞って、雪の上に落ちる。その先に一人、騎士が立っ
ていた。
知り合いだ。総一郎を抱える班の、分隊長だったか。一番親身に
なってくれる人の一人だ。思えば、昨日菓子類を届けてくれた人物
である。
﹁⋮⋮凄いな。鬼気迫るシャドーだった﹂
彼は少々引きつった笑いを浮かべながら、しかし大きく拍手を送
ってくれた。総一郎は突然の事に戸惑って、﹁恐縮です﹂と頭を下
げる。
﹁いやいや、そんな。⋮⋮少し、ブシガイトに対する認識が変わっ
1404
たよ。今までは、何かの間違いで駆り出されてしまった、私たちが
守らなければならない可哀想な少年だと思っていた﹂
﹁今は、どうなんです?﹂
﹁下手すると即戦力もあり得る遣い手だ。何せさっきのシャドーで
は、哀れ無残に四つ切にされる亜人の姿が見えたくらいだからな﹂
肩を竦めて言う分隊長に、総一郎は乾いた笑いで答えた。
﹁じゃあ、汗、少し流してきます﹂
騎士団の野営地には、バスのような車がある。その中で、シャワ
ーを浴びることが出来た。しかも、お好みで湯船もどうぞ、ときた
ものだ。それにしては外から見ると手狭な設備だったが、そこはイ
ギリス貴族お得意の圧縮空間技術を応用して作られている。中には
広々とした空間が広がっている、という訳だった。
しかし、﹁少し待て﹂と呼び止められる。振り向けば、何処か神
妙そうな表情があった。何ゆえ、と立ちどまり、返事をする。
﹁どうかしました? 昨日のお菓子なら返しませんよ?﹂
捨てはしたが、思い返せば重要な栄養源である。これから有用に
なる場面も多いだろう。
﹁え? いや、そうじゃない。⋮⋮その、なんだ﹂
言いにくそうに、彼は続ける。
1405
﹁⋮⋮辛いことがあっても、自棄になるなよ? 相談だったら、俺
たちがのるから﹂
﹁⋮⋮何ですか、それ﹂
意味の分からない言葉に、総一郎の語調が険に帯びる。
﹁いや、その⋮⋮な﹂
﹁⋮⋮何故、自分が自棄を起こすと思ったのです? そんなに、む
しゃくしゃして言う風に見えましたか? それとも、簡単に自棄を
起こすような愚か者に? 僕は大丈夫です。意味の分からないこと
を言わないで下さい﹂
﹁済まない、違うんだ。そういう事じゃない﹂
﹁⋮⋮では、何だと﹂
苛立ちが募る。その一方で、驚いてもいた。自分はこんなに神経
質な性質だっただろうかと疑う。
分隊長は、頭を掻いて、この様に総一郎へ告げた。
﹁さっきのシャドー。見事ではあったんだが︱︱何処か、獣や、亜
人を見ているような気分にさせられた。それこそ、あの森のドラゴ
ンが思い出されるくらいにな。言葉にはしにくいんだが、危ういと
思った。それだけなんだ。気を悪くしないでほしい﹂
﹁⋮⋮。すいません。僕も少し、カリカリしていたみたいで﹂
1406
︱︱シャワーを浴びたら、また寝ることにします。その後で、昨
日の事を話させていただいてもよろしいですか? 総一郎は言うと、
分隊長は安堵を滲ませて頷いた。少年は宣言した通り、シャワー車
に向かって、汚れを落とした後すぐにテントへ戻り、寝袋にくるま
る。
1407
7話 修羅の腕︵2︶
目を瞑れば、すぐに眠りにつけた。時間を気にせず眠る。ともす
れば、山の中に居た時の事を思い出してしまう。あの時は、逆だっ
た。如何にして素早く寝つき、出来るだけ睡眠を確保するかと言う
のは、命にかかわる課題だった。
数時間、寝た。起きてテントから這い出すと、すでに日が傾き始
めていた。
総一郎は伝えなければならないことを思い出し、簡単に身支度を
整える。寝過ぎた、と言う気分だった。一周回って、微睡が近い。
肌寒さだけが、現実味に帯びている。
ほっつき歩いていると、分隊長に遭遇した。今日は、よく出会う。
朗らかにあいさつされたから、欠伸混じりに手を上げた。
﹁おいおい。大丈夫か? 結局寝てないのか、ブシガイト﹂
﹁いや、⋮⋮ふぁぁあ。むしろ寝過ぎたせいで脳が醒めていないと
いう感じです﹂
﹁はっはっは。まぁ、今日くらいは自堕落でもいいさ。その代り、
明日は地獄だからな﹂
﹁その、明日の事で伝えておきたいことがあります。昨日の事でも
あるのですが﹂
1408
﹁⋮⋮そういえば、そうだったな﹂
﹁ここでするのには、少し向かない話だと思います。出来れば、司
令官のお耳にも入れておきたいと思いまして﹂
﹁そんなに重要な話なのか﹂
﹁少なくとも、ここに居る全員の行動を左右する物になるかと思わ
れます﹂
︱︱分かった。少々話を付けてくる。分隊長はそう言って、司令
部のテントへと駆けていく。総一郎も、ゆっくりとそちらへ歩いて
行った。
十分も経たないうちに、テントの入口の脇で待機していた総一郎
は、分隊長から中へ入るように促された。中に入ると、暖気に息を
吐かされる。小休憩をとっている様子の老齢の男性が一人。他にも
三人ほど、総一郎の数倍は年を食っていそうな紳士らが待機してい
た。
﹁おお! 昨日は酷く疲れた様子で森から出てきたと聞いていたか
らね。心配したよ。大丈夫だったかね?﹂
鷹揚に、老齢の司令官は手を広げて、総一郎を歓迎してくれた。
他の方々も、総一郎を嫌悪する意思は見受けられない。騎士学校の
ことを思うと、不思議で、滑稽だった。自分の正体を知ったら、な
どと考えてしまう自分は、きっと意地が悪いのだろう。
椅子に座りつつ、司令官の言葉に返事をする。
1409
﹁はい、おかげさまで。お菓子、ありがとうございました。大切に
とっておきます﹂
﹁いや、食べてもらわないと意味がないだろう⋮⋮﹂
少しだけすっ呆けて、空気を和ませる。今回の場合は、これ以上
の雑談は要るまい。
﹁では、早速本題に入らせていただきます。というのも︱︱昨晩、
私がこの地にとどまるドラゴンを討伐したことについてです﹂
言い放つと、その場の全員が色めきだった。椅子に座っていた司
令官は思わずと言った具合に立ち上がり、言葉を詰まらせながら総
一郎に尋ねてくる。
﹁そ! そ、それは、本当なのかね⋮⋮?﹂
﹁はい。まごうかたなき、事実であるはずです﹂
司令官はよろよろと椅子に座り込んで、﹁く、詳しい話を、聞か
せてくれ﹂と言った。声が、震えている。それだけの衝撃だったの
だろう。︱︱無理もない。聖神法によってドラゴンを単騎で討伐す
るなど、事実不可能に等しいだろう。
だが総一郎は、破綻の無いストーリーをすでに構築済みだった。
﹁そもそも、自分が昨晩森に入ったのは、そこへ駆けこんでいく怪
しい人物を見たからです。騎士服を着ていましたが、何やら周囲を
窺っていて、見覚えのない明らかな不審人物だったので、追跡する
ことにしました﹂
1410
﹁何故、追ったのかね。不審とはいっても、亜人に与する人間など
おるまい。それ以前に、周囲に応援を頼まなかったのか﹂
﹁近くに人を見つけられませんでしたので。⋮⋮今は、軽率だった
と思います。申し訳ありません。それで話を戻しますと、不審人物
を追ったのは、どうもブリテン人のようには思えなかったためです。
これは直観ですが、それが当たっていた場合、魔獣に与する可能性
が出てきます。利益を得る人間もいますし、亜人と意思の疎通が可
能な国の人間なら不思議はありません﹂
﹁それは、本当の事なのか!﹂
﹁有り得ない話ではないかと。その人物はドラゴンに殺されてしま
ったので、定かではないですが﹂
ストーリーの出来の甘い部分は、重要度の高い情報を直後に出す
ことで有耶無耶にする。そのまま、告げてしまいたい話へと持って
いく。
﹁ともかくその人物を追っていると、ドラゴンに遭遇しました。彼
はドラゴンに踏みつぶされ絶命し、思わず剣を構えてしまった自分
を、次の標的にドラゴンは定めました。直接やり合っても勝ち目が
ないと判断した自分は、森の木々の毒を使う事にしました。息を止
めながら周囲の木を切りつけて、その場から逃げ出すという単純な
手でしたが、ドラゴンが毒にもだえ苦しむ様を確認しています。そ
の後その場を離れる途中に大きな衝撃音が聞こえたので、それがド
ラゴンの絶命した証拠なのでは、と考えています﹂
﹁あの木の毒は、ドラゴンにも有効だったのか⋮⋮﹂
1411
﹁確かに、試したものはいなかったな? そうか⋮⋮。しかし、そ
れでも確認しなければならないだろう。おい、誰か行かせて来い。
︱︱それにしても⋮⋮ふふ。もしそれが真実だったなら、ブシガイ
トには勲章を五個か六個ほど授けねばならないな!﹂
司令官は言って、低い声音で大きく笑った。その場にいた総一郎
の次に若い騎士が﹁どちらにせよよく生き返った! えらいぞ!﹂
と背中を叩いてくる。今まで経てきた騎士団の中でも、一等和やか
な空気を持つ組織だった。﹁ありがとうございます﹂と、総一郎も
苦笑する。
﹁しかし、疑わないんですね、皆さん﹂
﹁何時間か前に、分隊長からお前の剣の腕を教えられたからなぁ。
直接目の当たりにしたわけじゃないが、それを聞いた上のこの話だ。
お前が嘘を吐くような少年でない事は知っているからな。何となく、
信じられてしまったんだよ﹂
﹁なるほど﹂
意識して、朗らかに笑う。恐らく、明日の昼過ぎにはこの野営地
を離れることが決まりそうだった。これでやるべきこともすんだ、
と総一郎は目の前の机に手を置いて、立ち上がる。すると、ふと、
思うのだ。ナイは居なくなったが、この、家族同士のような温かな
関係が得られたではないか、と。
その時、総一郎の右手中指が伸びた。手袋を突き破って、司令官
の左胸に突き刺さり、そのまま貫通する。
1412
﹁⋮⋮えっ⋮⋮﹂
誰の、声だっただろう。それは、あまりに陳腐な光景だった。驚
きがあまりに大きくて、それ以降、言葉を放つ者は居なかった。し
ゅるり、と中指は司令官の胸から戻り、元のサイズに落ち着く。老
齢の紳士は血を吐いて、横に倒れた。
静寂。目を、何度も開閉させる。不純物の一切ない、驚き。それ
は、人間に行動を許さない。
﹁えっ⋮⋮、えっ?﹂
騎士の一人が、ゆっくりと後ずさった。そして、総一郎を見る。
そこには、恐怖や憎しみ、悲しみと言った表情が覗えない。彼もま
た、混乱のために効果的な行動が取れない。
今度は、人差し指が伸びた。またも手袋を突き破って、彼の首を
貫く。ぐねり、と蠢いた。その男性の首から、骨の折れたような気
味の悪い音がした。
またも、元に大きさに戻る。そこに至ってやっと、意識を取り戻
す人物が出てくる。分隊長が、総一郎に向かって、震えながら問い
かけた。
﹁⋮⋮それ、何だ? 今、何が起こってるんだ?﹂
﹁⋮⋮わ、分かりません﹂
﹁しかし、二人が死んだぞ。⋮⋮いや、死んだのか? これは﹂
1413
﹁恐らく、死んでいる。⋮⋮死んでいる、よな?﹂
騎士二人、屈みこんで検死する。瞳孔、呼吸、心臓。司令官の物
はすでに途絶え、次にやられた騎士は、総一郎の開けた首の穴から、
呼吸にならない音が聞こえる。
ゆっくりと、生き残った二人の視線がこちらへ向いた。そこには、
微かに恐れの色が浮き出始めていた。総一郎は、その色に恐怖を抱
く。
﹁⋮⋮手袋、外してくれないか﹂
﹁えっ、あっ⋮⋮﹂
とっさに、右手を庇う。分隊長が、眉根を寄せた。怒り。﹁抵抗
するな﹂と低い声が総一郎に突き付けられる。だが、冷静になれば、
これはきっと寛大な処置だったはずなのだ。
だが総一郎は、この地に赴いて初めて向けられた、敵意染みた感
情に怯えた。﹁違う、違うんです。分からないんです。こんなの、
僕の意志ではありません!﹂と首を振って後退する。
﹁ごたごた言うな! おい、押さえつけてくれ!﹂
一人が総一郎の背後にまわり、羽交い絞めにした。総一郎はほと
んど恐慌状態に陥っていて、﹁違う! 違うんです!﹂と叫びなが
ら暴れる。しかし、尋常の状態で総一郎が大人の腕力に勝てる道理
はない。拘束は解けない。
再び、右手が伸びた。手袋を完全に食い破って、背後の人物の首
1414
を刎ね飛ばし、分隊長の肘から先を切り落とす。
﹁うぁ、が、﹂
次いで、絶叫が上がる。テントの外の空気に、動揺が走った。総
一郎は慌てて分隊長の口をふさぐ。彼は涙目になって、総一郎に恐
怖の感情を向けて殴りかかってくる。
避ける。その所為で距離が開く。再び叫び声。﹁止めてくれッ!﹂
と叫んだ。呼応するように、右手が姿を変える。
テントの入り口が開いたのか、背後から夕暮れの赤い光が差し込
んだ。同時に、総一郎の右手が分隊長の心臓を貫いた。真後ろから、
息を呑む音がする。ゆっくりと、少年は振り向く。
顔見知りばかりだった。彼らは一様に瞠目し、悲嘆と恐怖に震え
ているようだった。﹁違うんです。右手が、勝手に⋮⋮﹂と弁解し
ながら彼らに近づく。一歩、遠ざかられた。それが、少年を酷く傷
つける。
手の変容。ドリルのようにねじられながら伸びていき、その内の
一人の脇腹を貫いた。それを見た彼らは、一人を残して脱兎のごと
く逃げ出していく。
﹁駄目だ、行かないでください! 違うんです!﹂
残った一人は、冷や汗を垂らしながらも倒れ伏すことさえできず
にいる。総一郎の異形の手が、彼を縫い付けて放さなかった。﹁ブ
シガイト⋮⋮、お前は、俺たちを騙して⋮⋮﹂と彼は涙を流す。腕
が、更に変わる。縫い付けられた彼が、苦しみだす。
1415
そして、弾けた。
返り血が、総一郎を塗りつぶす。
﹁あ⋮⋮、あ⋮⋮ッ﹂
右手を見る。異形の部位が、少しだけ広がっていた。まるで、殺
した人間の数だけ増えていくのだとでも言うように。
﹁何で⋮⋮? 何なんだ、これはっ!?﹂
テントの群れから、何人もの騎士たちが甲冑を着込んで駆けつけ
てきた。対ドラゴン用の装備。止めてくれ、と思う。自分は、ドラ
ゴンではないのだ。
﹁手を挙げて投降しろ、ブシガイト!﹂
敵意を含む声が、こちらに飛んでくる。その一方で、一定距離は
近づいてこなかった。銃を持ち出している人間もいない。この野営
地には、軍は配備されていなかった。
﹁違うんです! 誤解なんです! 自分の右手が、勝手に殺すんで
す!﹂
ナイの事を思い出す。だが、そのことを長々と説明する余裕があ
るようには思えなかった。右手に目をやると、微かに、力を貯める
ような変化を起こしていることに気が付く。そこで初めて、総一郎
は激昂した。
1416
﹁止めろッ!﹂
怒号と共に異形の手に左手を当てて、風魔法を直接ぶつけた。呆
気なく、それは爆散し、その部位が転がっていく。右手の喪失。二
度目だ。しかし、今回はもう、戻ることはない。
力が抜けて、崩れ落ちた。涙と共に、安堵の空笑いが零れ落ちる。
﹁⋮⋮ブシガイト⋮⋮﹂
顔を上げる。年配の騎士の一人が、心配そうに歩み寄ってくる。
総一郎は、嗚咽に顔を歪めた。腕を吹き飛ばしただけで、自分の心
情を理解してくれる人が、ここには居るのだ。自分は、そんな得難
い人物を、得ることが叶ったのだ。
︱︱ナイと、引き換えに。
﹁⋮⋮え﹂
違和感を覚え、視線を下におとす。腕が、異形が、再生を果たし
ている。
﹁え﹂
数メートル先で、血袋の破裂することが聞こえた。見る。吹き飛
ばした腕が形を変え、近寄ってきてくれていた騎士を幾重にも別れ
て貫いている。
﹁え⋮⋮﹂
1417
そして、引き裂かれる。その騎士も、作り上げられていたはずの
信頼関係も。
﹁ブシガイトォォォォォォオオオオオオオオオオッ!﹂
慟哭が上がり、大槍を構えて突進してくる騎士。総一郎は恐怖を
覚えた。立ち合がり、逃げようとする。だが、足がもつれて倒れこ
んだ。槍が、目前にある。抵抗せねば、殺される。
この時初めて、総一郎は自らの意思をもって、人間に魔法を使う。
どんな魔法を使ったのか、自分でも定かではない。だが、火魔法
を多く使ったことだけは明白だった。でなければ、野営地が火の海
になっているはずがない。
﹁⋮⋮﹂
生者は、恐らくいない。総一郎も含めて、ただの一人も。残って
いるのは、生きているとも死んでいるとも言い切れない、修羅の子
供だけだった。
﹁⋮⋮ああ、そっか﹂
右手を見る。いつの間にか、自在に動かせるようになっていた。
今は、便宜的に普通の手の形をとっている。けれど、力を籠めれば
自由に変えることが出来た。
気配を感じ取って、歩き出す。テントの、陰。何かが待ち伏せし
1418
ていると感じた。総一郎は右拳を握り、力を込めた。形が、だんだ
んと球に変わっていく。そして、投擲と同じ要領で腕を振るった。
拳、球の部位のみ千切れて飛んでいく。テントの裏側に至った途端、
何者かへ向けてトゲを伸ばした。
﹁ガッ﹂
短いうめき声。足を延ばすと、貫かれて死んだ若い騎士の姿があ
った。ぎりぎり、子供とは言えない程度の外見。ならばいいか、と
総一郎は安堵する。
﹁⋮⋮すいません。多分、僕は嘘をついてたんだと思います﹂
最後の生者だったはずの若者に詫びる。聞いていないことを承知
で、総一郎は続けた。
﹁右手が勝手にって言ったの、多分嘘です。僕の意思だったと思い
ます。無意識レベルの願望だったから、気づかずに混乱して、あな
たたちにも困惑させてしまったことと思います。すいません﹂
頭を、下げる。顔を上げる。若者の顔が、恨みがましい物に変わ
っていた。少し驚く。まだ、僅かに息があったのか。しかし、目を
瞑っていて、動く様子もない。絶命したのかもしれなかった。興味
はない。
﹁動機は⋮⋮何でしょう。八つ当たりですかね。僕は、ナイってい
う少女が好きだったんです。彼女を、あなた方の信頼と引き換えに
失ったみたいに思えて。でも、多分当たっていると思うんです。僕
が人間染みてきたから、ナイは僕から遠ざかって行ったんだと思う
から﹂
1419
そこで、はっきりと若者の体から力が抜けた。頭が垂れ、ぐった
りとしている。死体は見慣れていたはずだが、生きていたのが見破
れなかった。見る目がないな、と自己評価を下す。
﹁化け物が、人間の真似事なんてするものではないですね。だから、
両方失ってしまうんだ。︱︱ああ、馬鹿馬鹿しい﹂
唾を吐き捨てる。別に、若者の死体にそうしたわけではない。た
だ胸糞が悪かったのだ。右手を見てから、左手を見る。その上に、
空間魔法を発動させた。見比べる。そして、鼻で笑った。
﹁⋮⋮似てるなぁ﹂
とするならば、これはそういう事だ。ナイに植え付けられたもの
ではない。恐らく、父の遺伝。しかし一方で、ナイはこのような結
末を知っていたからあんな行動を起こしたのかもしれないとも邪推
できる。その場合、以前総一郎が彼女にほだされた一件は、完全な
自作自演ということになるのだ。
﹁⋮⋮あー、訳が分からないな。いいや、ナイなんて嫌いだ。あん
な面倒な女の事なんて忘れよう﹂
不可思議な気分だ。脱皮して、新しい自分に変わって様な気がす
る。精神面に、異常がきたされていた。立ち上がる。生き残りが居
ないか捜し歩いて、全員殺したことを確認してから自分のテントに
戻る。
﹁餞別だから、有難く受取ろう﹂
1420
菓子の束。一つとり出して、口にする。無味。不味いと思いなが
ら、食べ終えた。その他木刀を筆頭とした道具を入れた袋を腰にひ
っさげて、テントを出る。伸びをした。ごうごうと炎が燃え盛って
いる。
太陽はすでに死んでいた。夜。しかし明るいのは、地獄を思わせ
る劫火のためだ。総一郎は異形の右手の上に、小さな火の鳥を生み
出した。火、精神魔法によって形作られたその仮想生物は、火の海
へと飛んでいき、姿が見えなくなった。
﹁まるで、不死鳥だな﹂
死んで、生き返る。転生。すると、総一郎にとってもなじみ深い
生物だと言える。火の鳥は、周囲の火を吸収し尽くし、かつてドラ
ゴンを討った時ほどの巨躯で戻ってきた。しかし、決してあの時の
個体ではない。同じ姿をしていても、火の中から蘇っても、別のも
のだ。
その時、血が右手の上に落ちた。頬から、垂れている。最後に受
けた返り血は、とっくに乾いたと思ったのだが。拭う。するとすぐ
に、新しい血が垂れてきた。
﹁⋮⋮アレ﹂
辿る。血は、己の瞳から流れ出ている。
﹁⋮⋮何が、悲しいんだよ。自業自得だろうが﹂
表情が、怒りに染まる。それを、異形の部位に向かってぶつけた。
木刀で、いとも簡単にこの手は落ちる。それを、地面に着く前に細
1421
切れにして、踏みつぶすのだ。
﹁⋮⋮﹂
言葉は発しない。ただ、体全体が震えていた。止まらない。止め
ようと思っても、止められないのだ。
その時、上空で飛行機のような音がした。空を仰ぐ。そこには、
あまりに巨大な黒いドラゴンが飛んでいる。
﹁⋮⋮そうだ。こんなことしてる場合じゃない﹂
右手をはやす。拳を固めて球にし、もぎ取ってから火の鳥に与え
た。ドラゴン近くまで舞い上がり、投げ出す。異形は炸裂したらし
く、ドラゴンは荒ぶり、口から出る炎を周囲にまき散らしている。
驚いたことに、火の鳥はさらに肥大化するのでなく、ドラゴンの炎
に紛れて消え失せてしまった。
総一郎は眉を顰めて風魔法で飛び上がり、そのままドラゴンの上
に至ってから自由落下した。再生した右手を五つの触手のようにし
て、硬化させる。それを、鱗の上から打ち下ろした。攻撃が通らな
い。つまりは、無駄に居場所を知らせてしまったという事だ。
炎が、総一郎を覆い尽くす。魔法で守りを入れたが、無傷には収
まらない。風魔法で逃げ出す。耳の一部が、炭化している。それに
触れながら、笑みを湛えて言った。
﹁⋮⋮君、強いね。この国に来てから、初めてだ。僕と互角以上の
実力を持つ相手と戦うのは﹂
1422
木刀を掲げる。魔法を、いくつか備える。真正面から、対峙した。
お仲間と同じように殺してやると、宣言する。
﹁殺してやる。殺してやるからな。何で︱︱﹂
そこで、ほつれ始めた。全身が、姿のない何者かに揺さぶられて
いる。激情が、総一郎の顔を歪めた。それはいっそ、泣き顔染みて
いた。瞳から落ちる血が、止まらないのだ。
﹁何で、こんな事に。殺してやる。何で。お前の所為で、お前らの
所為で。ナイは、違う、彼らは、何で。僕は、違う、違うッ! 悪
いのは、僕で、ナイで、お前で、死ね。殺してやる。何人死んだと
思ってる。何でッ。クソッ、絶対に殺してやる! 僕も、お前も、
死ねよぉッ!﹂
何一つ、言葉はまとまらない。木刀を構える腕は、大きく震え、
止まることはない。総一郎は、出兵させられてからの記憶の奔流に
流されていた。血の海、屍の山。築いたのは、ドラゴンで、ナイで、
自分だ。
右手が、制御下から外れる。身勝手に荒れ狂い、針のように硬化
する。
人間は殺されかけ、修羅がその上で胡坐をかいている。人間味を
追い求めることのできない彼らは、ただ自分の優位に笑っていた。
死に瀕し、優しき人は、涙を流して罪を謝す。
1423
7話 修羅の腕︵3︶
昼と夜が、五回ほど入れ替わっていた。
黒い龍は、死ななかった。総一郎は獣の食い合いのさなか、三日
で我を失い、四日目に魔力を使い果たし、五日目で打ち落とされた。
ドラゴンにしがみついて戦っていたようだ、と推測できたのは、
木刀で奴の腹を滅多刺しにした記憶が昼と夜の二種類あった事、ま
た目覚めた時に自分が死んでいなかったからだ。
ベッドの上。誰もいない。だが、見覚えがないわけではなかった。
﹁⋮⋮ふりだし地点に戻ったわけだ﹂
騎士学園。その、保健室に総一郎は寝かせられていた。
はっきり言って、いい思い出はない。訓練中怪我をして、無理に
ここに連れて来られた時、保険医は良いように総一郎の傷口を弄る
だけ弄って、﹁済まないね、私にはどうしようもない﹂と丸投げし
た。その表情は明確に飽きた事を示していた。結局総一郎は、その
怪我を自力で直したのだ。
憎たらしい記憶である。同時に、偶然でここに至るとは悪縁の深
い事、と奇妙な親しみさえ覚える始末。
﹁⋮⋮今からでも遅くないな﹂
1424
立ち上がる。今の自分に、恥も外聞もない。
自分にもいくつか治療痕があったが、どうせ別の誰かがやってく
れたことに違いない。ここには、ファーガスが居るのだ。彼に近し
い誰かが、そうしてくれたに違いないのだ。
そして、記憶の保険医とファーガスの間に懇意にしていたという
ような記憶もない。ほのめかしてきても、精神魔術で洗い出せば真
実ははっきりする。
だから、これは正当な行為だ。
まず周囲を見回して、自分が着替えさせられていること、荷物と
新品の服がすぐそこに置いてあることを知った。少し、笑みを零す。
ファーガスは、本当にいい親友だ。彼と知り合い、仲良くなれたこ
とが誇らしいほどに。
魔力は全快していた。早速着替えて、光魔法で姿を消し、校内を
練り歩いた。騎士候補生たちが多く、身を寄せ合って震えている光
景が散見する。それでも気丈に振る舞う者。頭を抱えて恐怖に抗う
者。堪えきれずすすり泣く者。呆然自失し、涙も流さずに動かない
者。十人十色ともいえたが、共通点はある。全員、教室内に居て、
それも廊下側の反対に固まっていることだ。
総一郎は廊下に出て、窓の外に目をやった。納得するとともに、
嘲笑う。黒い竜の姿が、ここからは見えるのだ。
﹁⋮⋮自分よりも弱い者に強く出る。強い者には恐怖する﹂
笑いが漏れた。すると、教室の方からどよめきが伝わってきた。
1425
総一郎は口をつぐむ。自分の存在が知れ渡っても、あまり益がある
ようには思えない。
﹁憂さ晴らしくらいにはなるだろうけど﹂
罵倒を受けるのは嫌いだ。本音のそれを受けるのが好きな人間も、
少ないだろう。
廊下を素通りして、しばらく歩いていた。恐らく、職員室に居る
はずだと思っていた。敵対感情の向かう先とはいえ、傷口を弄り倒
して愉悦を覚える人間に、怪我人を率先して癒そうとする意志があ
るとは思えなかった。
しかし、居ない。職員室に人が居ないわけではなかった。総一郎
を率先して虐めていた太っちょのヘ⋮⋮何たら先生も︵名前を忘れ
た︶頭を抱えながら﹁これは夢だ﹂を繰り返すという痴態を晒して
椅子の上に蹲っていたが、ちらほらとここに居ない教員もいるらし
い。ちなみにこの場の教員は全員へ何とか先生と同じ感じだった。
総一郎は椅子の後ろからけりを食らわして、ダルマが椅子から転げ
落ちたような彼が戸惑うのを見てひとしきり抱腹してから職員室を
出た。
﹁⋮⋮これだけ探しても見つからないとは、奇妙な﹂
歩き続け、出た感想だった。ふと、右手の異形の事を気にしてみ
る。触れると、進行しているようだった。これはもう、手ではなく
腕だなと笑ってみる。そして再び、表情をなくして歩き出す。
すると、泣き声が聞こえてきた。しかし、総一郎は首を傾げる。
ここは教室ではない。廊下の端。各階層を貫通する螺旋階段の入り
1426
口である。
近寄ってみると、倒れ伏す女生徒と、探していた保険医を見つけ
た。彼は﹁何でこの子が⋮⋮﹂と呟きながら泣いている。意外にも
思った。本当なら、見つけた時点で、と考えて、総一郎はさらに疑
問を抱く。はて、探し出して、自分はどうするつもりだったのかと。
﹁まぁ、いいか。少なくとも、今意地悪な気分な事に違いはない﹂
﹁ッ! ブ、ブシガイト⋮⋮!?﹂
魔法を消して声を出すと、彼は振り向いて滑稽なほどに震えだし
た。﹁どうも﹂と微笑を湛えて手を上げる。それを殴られると勘違
いしたのか、竦み声をあげて両腕で顔を守っていた。
総一郎は、それを見て嘆息する。
﹁別に、出会い頭に人を殺すような真似はしませんよ。そんな、野
蛮な事。ところで⋮⋮その子は?﹂
﹁えっ? あ、⋮⋮!﹂
﹁なるほど、恋仲だったと。悪い先生ですね、あなたも﹂
﹁五月蝿いッ! お前に私たちの何が分かる!﹂
精神魔法で概要だけ知って揶揄すると、驚くほどの威勢をもって
抗弁される。総一郎は、それに純粋な驚きを覚えた。記憶の中の彼
は、あまりに怠惰で根性のひねた人物だと思っていたのだが。
1427
総一郎は、少女に目を向けた。年は総一郎よりも数個上と言った
ところ。高校二、三年生ほどだと推定した。そして、その命が今に
も失われようとしている。服に滲んだ血。傷は小さいが、深いよう
だ。
﹁⋮⋮よくそれで、一晩も持ちましたね。素晴らしい生命力かと。
ただ、そろそろ峠ですね。いえ、壁と言った方がよろしいか﹂
﹁こ、この⋮⋮ッ!﹂
しかし、それ以上は言わず、彼は意気消沈して燻り出す。その震
えは、自らに向ける怒りによるものだろう。そうでなければ、歯を
食いしばったりはしない。そうして、地面に向かって無様に吠え始
めるのだ。
﹁⋮⋮そうだ。私には、この子を助ける術がない。見殺しにするこ
としか、出来ない! そもそも私は貴族ではない。必死に勉強して、
高給取りの公務員にしては暇のとりやすいという素晴らしい環境の
この騎士学園に就職しただけの、ただの凡夫だ! 騎士たちでさえ
さじを投げたこの状況を、どうしろと言うんだ!﹂
﹁治して差し上げましょうか?﹂
総一郎がこともなげに言うと、彼はあっけに取られて顔を上げた。
涙も拭わず、気の抜けた姿をさらすものだ。
﹁いいですよ、別に。失われようとする命を助けるのは、当然の事
ですから。多分黒いドラゴンであなた方二人は纏めて死ぬでしょう
が、それでも一時は助けたいというのなら﹂
1428
﹁あ、ああ。いずれ全部灰になると分かっていても、それでも⋮⋮
で、出来る、のか?﹂
﹁ええ、出来ます﹂
微笑。彼は数瞬戸惑った後、総一郎にしがみついてきた。みっと
もない。と心中で嗤う。彼は涙を零しながら、﹁頼む。この子を助
けてやってくれ!﹂と絶叫する。
それを突き飛ばして、﹁分かりました。ではその代り、死んでく
ださい﹂と金属魔法で作り上げてナイフを、彼に手渡す。
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁ですから、それで自分の頸動脈を掻き切ってくだされば、彼女を
助けると提案しています。どうですかね? やります?﹂
﹁⋮⋮﹂
思えば名も知らぬ保険医は、総一郎の手渡したナイフを一身に見
つめ、動かなくなる。と思えば総一郎に視線をやり、﹁何故⋮⋮?﹂
と力なく問うてくる。
﹁だって、ほら。先生、僕の傷口荒らすだけ荒らして放置したじゃ
ないですか。痛かったんですよ? あれ﹂
﹁アレはッ! そうしなければ自分の首が危うかったからだ! 好
き好んでそんな悪趣味な事をする輩がいるものか!﹂
﹁ありゃ。新事実﹂
1429
﹁というか! それを言えばお前がこの子を助けられるという確証
はない! お前が腹いせにここにやってきて、世迷言を並べていな
いと説明する根拠はあるのか!﹂
人差し指を向けてきたので、総一郎はそれを掴んでへし折った。
うめき声を上げる。そのまま十秒ほど放置した後、彼の指を生物魔
術で治療した。
﹁割と、分かりやすい説明だったと思います﹂
﹁⋮⋮﹂
少年の行動に、とうとう彼は絶句した。まず自分の指を見て、次
に彼女を数秒見つめて、最後に総一郎に視線を向けてくる。
﹁ぶ、ブシガイト。私が自殺しても、お前がこの子を助けないとい
う可能性だって⋮⋮﹂
﹁そこは、信用してもらわないと。別にこの場を立ち去っても、僕
としては何も不利益がありませんし﹂
﹁⋮⋮﹂
再び、黙り込んだ。総一郎は、その場に居座り続ける。少女の傷
を覆うガーゼは、血の池に浸したように赤々と染まっている。少量
とはいえ、昨晩から血が止まっていないわけだ。
﹁で、どうするんですか﹂
1430
﹁⋮⋮﹂
保険医は、不安そうな表情で震えるばかりだ。しかし、総一郎は
その様は飽きるでも馬鹿にするでもなく見つめている。
だが、焦れた。だから、こう言った。
﹁あと、十秒以内に決めてください。そうしないと自分の治療も間
に合うようには思えないので。その間に決められなかったり、ある
いは自分が大事と言う結論に落ち着いたら、その人は僕が殺します﹂
﹁⋮⋮はっ?﹂
﹁はい、十ー、九ー﹂
保険医は、そのカウントに分かりやすく狼狽した。だが、それが
ラスト五秒に差し掛かったところで一変した。震えは止まり、じっ
と彼は少女を見つめ続ける。それに、総一郎は眉を顰めた。彼は残
り二秒で寂しそうに笑う。少年は嫌な予感を感じ取る。カウントが
ゼロになった。同時に保険医はナイフを首に突き刺す。
血しぶき。総一郎は硬直する。ただし、一瞬だった。保険医の腕
を蹴り飛ばし、無理やりナイフを抜き取り、生物魔術で強引に傷を
ふさいだ。
﹁えっ? 何をっ﹂
﹁うるさいバカか君は! 死ねと言われて死ぬようなあんぽんたん
がどこに居る!﹂
1431
﹁あ、あんぽん⋮⋮?﹂
総一郎はそのまま少女の治療にあたった。ナイの時の反省を生か
して、血の生成方法も確保してあった。要は、骨髄があればいいの
だ。まず内臓含めた傷を塞ぎ、少々DNAを貰い受けて、骨髄を作
り出す。時魔法と更なる生物魔術の応用で血を吐き出させ、そのま
ま彼女の体に注入した。
﹁お、おい。そんな乱暴な治療方法で⋮⋮﹂
﹁黙れ。善意かつ合意の上の治療だ。傷は残るよ。特に君のは。こ
の子のそれは多分消える。女の子だし、その辺は気を遣った﹂
頭痛が、していた。やることをすべて終えて、立ち上がり、壁に
寄りかかりながら頭を抑えた。保険医は、不思議そうな顔をしてい
る。だが急に少女の方に近寄って、その唇に耳を近づけた。安堵の
息を漏らす。息が整ってきたのを、確認したようだ。
﹁⋮⋮良かった。本当に、良かった⋮⋮﹂
﹁⋮⋮おめでとう﹂
低い声で、不満げに総一郎は言う。頭痛が、一段と酷くなった。
保険医は涙を流して少女の手を抱きしめている。しばらくするとこ
ちらに視線をやって、言いにくそうに口を開いた。
﹁その⋮⋮、ありがとう。そして、済まなかった。亜人だの何だの、
とお前につらく当たってしまったことが、申し訳なくて仕方がない﹂
﹁だから、黙ってくれよ。頭痛がひどいんだ。⋮⋮何だよ、これ。
1432
くそ⋮⋮﹂
片手で押さえていたのが、痛みのあまり両手に変わった。保険医
の表情が、心配そうなものに変わる。それが、癪に障った。怒鳴り
つける。
﹁もう、用事は済んだろうが。早くこの場からいなくなれ!﹂
﹁⋮⋮。いや、一つだけ、質問させてくれ﹂
﹁何だよ﹂
乱暴な口調で、総一郎は返す。痛みが、少年にそうさせている。
保険医は、問うた。
﹁お前は、私に死ねと言ったり、本当にそうしようとしたら全力で
止めたり、︱︱結局、何がしたかったんだ?﹂
時間が、静止した。動かなくなった。何も、考えられなくなった。
頭痛も、その間だけは消えていた。
けれど、時間がまた動き出した時、その痛みは一層ひどくなった。
﹁⋮⋮分からない﹂
﹁何?﹂
﹁分からない。分からないんだ。君を探し始めたのだって、気まぐ
れで、何をしようと思って行動していた訳じゃなかった﹂
1433
﹁⋮⋮それで、何であんな質問を?﹂
﹁知らないよ。あえて言うなら、僕が君に抱いていた非人道的なイ
メージを覆されたのに腹が立って、意地悪でもしようとしたとか。
そんな⋮⋮。ああ、なるほど。性格悪いな、僕﹂
ハハ、と笑う。頭痛が、少しマシになる。
﹁それで、何で私の事を助けたんだ﹂
﹁⋮⋮うるさい。何でそんなに聞きたがりなんだ。少しは考えろ。
僕は頭痛がひどくいから行くよ﹂
﹁待て。少しは考えろだと? そっくりそのままお前に返してやる。
何故、お前は私を助けた?﹂
総一郎は、苛立ち始める。僅かに目をやると、真っ直ぐに視線が
向かってきた。急いで逸らす。何だ、この状況は。と訝り出す。
すると、何故か自分が、酷く理不尽な目に遭っているような気が
してくるのだ。激情が、総一郎を駆り立てる。しかしそれは他人へ
の攻撃につながるのではなく、地面に向かっての怒号と言う形で解
消される。
﹁そ、そんな、そんなの分かるものか! 僕が、一体何人殺したと
思っている? この学園ではたったの一人だけだ。だけどこのドラ
ゴンの事で、何百人。いや、何千人も殺した! 初めから僕がドラ
ゴンをさっさと一掃していれば死ななかった人間が、あまりにも多
くいた! それはつまり、僕が殺したようなものじゃないか。少な
1434
くとも見殺しにはしている。それに、先日直接人を殺す羽目になっ
た。いい人たちだった。なのに、全員、一人残らず。⋮⋮何で、あ
の人たちが死ななければならなかった⋮⋮? 分からない。分から
ないんだ。何で、あれだけ殺して、僕は、こんな所で⋮⋮﹂
少しずつ声から張りが失われていく。自分の行動に、理論性が見
いだせなかった。自暴自棄に出た、と言う仮説を立てても、成り立
たない。何故なら、総一郎は最初から、この少女を救わないつもり
はなかったのだ。
だとすれば、この保険医は? 殺したかもしれない。殺したとす
れば、それはどんな状況なのか。想像もつかなかった。ただ、殺さ
なかった今があるだけで、それ以外の未来は否定されたという事な
のだ。
﹁⋮⋮おお、哀れなる救世主よ。今はただ、あなたを傀儡が如く扱
う我らをお許しください﹂
﹁⋮⋮は?﹂
更に激しくなる頭痛に表情を歪めながら、妙なことを言った保険
医に視線を向ける。しかし、彼はすでに姿を消していた。少女も、
同様だ。
﹁畜生。訳が分からない。僕は何だ? 何がしたくて、こんな所に
⋮⋮﹂
ぶつくさ呟きながら、総一郎は歩き出す。途中で空腹に気づき、
持参していた菓子を食らった。微かに、甘みを感じた。それが酷く
美味しく感じ︱︱同時に、泣き出したいほどの孤独を感じさせられ
1435
た。
﹁誰か。誰でもいい。誰か⋮⋮﹂
涙もなく嗚咽しながら、総一郎は夢遊病のように生気なく歩く。
そして、その果てに学園の玄関口に戻っていることに気が付いた。
﹁︱︱そういえば、ドラゴン、殺さないと﹂
木刀を握る。そのまま、進む。
その時、轟音が地面を揺るがした。
総一郎は覚醒し、臨戦態勢に入って機敏に玄関から飛び出した。
そこで、衝撃が少年を襲った。ドラゴンと、戦うものが居る。盾を
構えて、彼はそこに立っていた。それを、黒きドラゴンが咆哮と共
に腕を振るう。
何が起こったのか、総一郎には理解できなかった。龍の腕が彼の
盾に触れた瞬間、限界まで弾かれていた。腕は内側から裂けて、使
えなくなっている。圧倒。口から出た奴の炎をそっくりそのまま跳
ね返し、その後、剣で触れないまま八つ裂きにしていた。
総一郎が何日も戦って勝てなかった相手を、赤子の手をひねるよ
うに殺してのけた人物。
それがファーガスであったことが、総一郎を強く揺さぶった。
薄く、震える。総一郎が純粋な恐怖に身を震わせたのは、父と真
剣で向き合った時以来かもしれない。こんな凄まじい強さを持つ人
1436
間が居ていいのか。それで、この世界は成り立てるのか。
しばらく硬直していると、何故かしゃくりあげる声が聞こえてく
る。見れば、ファーガスは何故か蹲って、肩を震わせているではな
いか。総一郎には、理解できない。恐らく信頼できる仲間が居て、
その上この様な比類なき強さを持つファーガスが泣いている理由が、
皆目見当もつかなかった。
﹁⋮⋮何を、泣いているんだ。ファーガス﹂
﹁え⋮⋮﹂
ファーガスが振り向く。そして、驚いたらしかった。何を驚くこ
とがある。驚いたのはこっちだ。と言いたくなる。
﹁これは、君が?﹂
﹁⋮⋮あ、ああ⋮⋮﹂
﹁そっか﹂
強いね、とだけ言った。白々しい、言葉だった。けれど、直接見
ても信じられなかった。言葉にしてもらった今でも、まだ確信でき
ない。
自分が持っていない全ての物を、彼は持っている。
そんな気持ちだった。自分は自分さえも分からないのに、と言う
思いが、総一郎を不愛想にしている。自覚は、あるのだ。
1437
そのまま、通り過ぎようとした。このままだと、ファーガスに暴
言を吐いてしまうと思った。それだけは、避けたかったのだ。親友
だから。掛け替えのない、友達だから。
﹁そ、ソウイチロウ。お前、何処へ行くつもりだよ。お前の居場所
は、ここだろ? 帰ってきたんだろ?﹂
ファーガスの言葉。無視出来れば、どんなに良かっただろう。素
早くここを離れられるよう、端的に答える。
﹁違うよ。僕は、ドラゴンを殺しに来ただけだ。その場所が、たま
たまここだった﹂
﹁でも、居なくなる理由だって無いだろうが! なぁ、頼むからい
てくれよ!﹂
﹁⋮⋮ごめん。これから、最後の龍を殺しに行かなくちゃならない
んだ﹂
﹁最後の龍? 何だよ、それ。じゃあお前は、ドラゴンを殺してき
たっていうのかよ。そんな、ぼろぼろで、たった一人で⋮⋮﹂
ファーガスは、気付けば再び涙を流していた。総一郎は、尚更混
乱させられる。分からないのだ。彼ほどの人が、何を嘆くというの
か。
思考の海に、総一郎は身を沈めて行く。ファーガスから些末なこ
とを聞かれたが、ほとんど考えを経ずに答えた。その間、少年は思
案する。何故と。ファーガスは、何を思って涙を流すのかと。
1438
その時、ふと、総一郎はファーガスが誰かに似ていると感じた。
総一郎として生を受けるよりも、前。記憶が瞬く。真理へ、たど
り着こうとする。
直前で、彼自身が遮った。
﹁皆、何で自分が生まれてきたのかも分からないままに生きてんだ
! 俺だってそうだ! でも、必死に頑張ってる﹂
苛立ちが、総一郎を現実に引き戻した。どういう会話の果てにこ
うなったのかは、覚えていない。ただ、憎たらしい台詞だと感じた。
だから素直に、それを指弾した。
﹁ファーガスは、一体何が言いたいんだ? そもそも、何で僕を呼
び止める。友達だって言ったって、付き合いがそこまで深い訳じゃ
ないだろう? 何でそこまで、必死に⋮⋮﹂
﹁お前は、昔の俺に似てるんだよ!﹂
遮るような言葉。だが、先ほどまでの総一郎の思索と縒り合わさ
った。霧のようだった﹃その人物﹄の影が、濃くなっていく。
霧は雲になり。
﹁君に、僕みたいな時期があったとは思えないけれど﹂
雲は嵐になった。
﹁あったんだよ! ずっとずっと昔に、あったんだ! 俺以外は知
1439
らないけど、あったんだよ⋮⋮﹂
そして、雷は落ちる。
﹁⋮⋮話にならない。僕はもう行くよ﹂
﹃彼﹄だと、直感した。前世、総一郎の前身であった若者を、無
残に殺した少年。総一郎の中に、恐怖が満ちる。精一杯取り繕う一
方で、父に対する物以上の混じり気ない畏怖がどよめき、渦巻く。
足早に立ち去ろうとした総一郎の手を、ファーガスは掴んだ。少
年は、反射的にその手を払う。すると、ファーガスは分かりやすく
傷ついた。罪悪感が湧き、咄嗟に済まないと告げる。そのまま、取
り繕ったようなことを言って、やはり立ち去ろうとしたのだ。
だが、それでもファーガスは食らいついてくる。
﹁お前の右手、見たぞ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
腑臓の、よじれるような感覚。怒りが、恐怖を一時流し出した。
踵を返し、文句をつけてやる。そうしながらも、冷静な自我が止め
ろと叫んでいるのだ。だが、総一郎は言い切った。そして、彼の表
情を見て、友情は終わったのだと知った。
︱︱ああ。僕は、最低だ。
魔法を使い、この場から離れようとした。だが、感情が荒れ狂っ
て、上手くいかなかった。それでも、ファーガスはこちらに声をか
1440
けてくれる。総一郎のために必死になってくれる。誰よりも価値あ
る親友だった。もう、二度と手に入らないほどの絆だった。
﹁ソウイチロウ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱!﹂
飛び上がりながら、絶叫を聞いていた。気づけば流せていた無色
透明の涙は、次第に赤く染め直されていった。
1441
7話 修羅の腕︵4︶
ファーガスから逃げ出した数日後の朝。総一郎が目覚めたのは、
イングランドとスコットランドの境にあるビジネスホテルの一室だ
った。
最近は、弓を毎晩見る。踏みつぶされる夢。ナイと別れた頃から、
ずっとだ。だが、あまり辛いとも感じなかった。右腕を見る。この
異形の事を考えると、どうにも、と感じてしまう。踏みつぶされた
くらいで何だ、と言う風に。
薄暗く、カーテンの隙間からか細い光が漏れている。丸まってい
た総一郎はもぞもぞと起きだして、光を入れた。
空を覆うのは、淀んだ雲である。その中央には、悠然と進み来る
黄色い龍の姿があった。
今回の標的にして、最後の敵。
総一郎はそれを意識から外して、着替え始めた。余計な事は、何
も考えない。考えれば、敵を討つにあたって動きが鈍化する。
着替えが終わり、総一郎は深呼吸をする。いつだって、世の中で
は人当たりのいい演技が出来なければやっていけない。自らの醜い
右手に手袋をして、それを切っ掛けにスイッチを切り替えた。
光魔法で外見を引き伸ばし、にこやかな笑顔で疑われる事なくホ
テルを出た。近くの料理屋で飯を済ませ、郊外に出る。人目に付か
1442
ない場所を探して、飛びあがった。
そのまま、ドラゴンに痛烈な一撃を加えた。
宙をうかぶ巨体は、いともたやすく傾いた。総一郎は追撃とばか
り、奴の体躯ほどもある炎弾を飛ばす。紫電が走り、炎は霧散する。
成程、奴は雷を使うのか。
電撃は、強力だ。そもそも、電子が無ければ物質は成り立たない。
そういう意味では物事の根幹に位置していると言えた。最も根源的
で、暴力的な攻撃手段だ。
最近使っていなかったと、総一郎もそれに応える事にした。ドラ
ゴンが飛ばす様々な色の電撃を、こちらのそれをもって相殺させる。
雷龍は、それに焦れたようだった。口の中で、視認できるほどの電
気の球を作り上げる。今のドラゴンの頭は、まるで砲台だ。
総一郎は風魔法による飛行を止め、自然落下で砲撃を避けた。少
年の前には、無防備な腹部が晒されている。これで、終わりだと思
った。そこに、電撃をぶつけた。
しかし、奴にはそれが効かなかった。総一郎は、ああ、成程と納
得する。人間とドラゴンの体の作りは違うのだ。ならば、と逆に電
子を引きはがした。原子のつながりはいきなり虚弱になり、ドラゴ
ンの体は空の中で砂粒の様にほどけていく。
落下していく最後のドラゴン。上空に浮かんだまま、総一郎はそ
れを見下ろしていた。今の龍が、先の黒龍と実力を半々にすれば、
あるいは丁度良かったのかもしれない。
1443
肉を地面に打ち付ける、凄惨な音がした。ドラゴンは、力なく地
面に横たわっている。その周囲に、人が集まり始めていた。総一郎
は少し飛び、全く関係のない場所で下り立った。
﹁⋮⋮これから、どうしよ﹂
やるべき事は、喪失した。戻る場所もない。
けれど、やっていけない訳じゃない。総一郎は魔法による自給自
足が出来る。法を破る事も視野に入れてしまえば、この国でなら大
抵の事は可能だ。
騎士学園に帰る気は、さらさらなくなった。もう十分だ。他に行
くべき場所が、自分には有るか。
﹁⋮⋮アメリカ⋮⋮﹂
総一郎は、空を見上げた。一人で海を渡る。考えてみた事はあっ
たが、調べれば調べるほどに無理なことが分かった。
海には、怪物が居る。それは陸から大体百メートルもいけば出現
し始め、沖合に行くほど強くなる。勿論、人類の文明があれば撃退
可能だ。だが、例外が居ない訳ではない。総一郎は、その例外以外
にすら、連戦して勝つだけの自信がない。
その上部、つまりは空にも、怪物は居る。ドラゴンもいれば、他
の種類もある。そちらは海のそれより強く、イギリスは数百年前か
ら空路を取ることが出来ずにいる。それ故、日本の避難民を救いに
来た時も船だった
1444
船か、と思わなくもない。一度、見に行ってみてもいいだろう。
総一郎は、再び飛び始める。風がうねり、空を裂いていく。
適当な船場に到着した時、夕方になっていた。思ったよりも距離
があったと、総一郎は後悔する。腹が減った。何か、食べねばなる
まい。
だが、金を使うのももったいなかった。せっかく近くに海がある
のだ。そこでこっそり取っていけば、問題はあるまい。
人目を盗み、身体の周囲に空気の膜を作りつつ、総一郎は潜った。
魚を適当に木刀で突き、捕獲する。そして火魔法で焼き、食らうの
だ。
味は、薄い。海水を汲んで、水分を蒸発させた。その塩をぱらぱ
らとかけて、食った。こんな物でも、案外イケる。
咀嚼しながら、夕日を見た。殴打の様に、綺麗だった。こんな場
所でこんな物が見られるとは、少年は思っていなかった。小型の船、
大型の船。真ん中程のサイズは無い。沖合に出ても、その程度では
壊されてしまうからなのだろう。
ゆらゆらと、揺れている。波も、船も、人も。そして、真っ赤に
染め上げられているのだ。夕日が、目に染みる。総一郎はそのよう
に思いながら、眺めていた。
右腕には、痛みがある。常にではない。とっくに歪んでしまった
指先には痛みなどないし、二の腕の中ほどまではそうだ。しかし、
人間の肌との境目は、ひりひりとした不快感がある。今の総一郎に
は、半袖など考えられない。隠せないからだ。
1445
﹁どうした、坊主。お前、顔に怪我してるぞ。⋮⋮いや、それ、涙
なのか?﹂
漁夫らしき人に尋ねられ、総一郎は極端に狼狽した。慌てて逃げ
出し、﹁おい!﹂との声がかかる。きっと彼は、追いかけてくるの
だろう。しかし捕まえられはしない。この国に、総一郎を捕まえら
れるような人間は居ない。
路地裏で、荒い息を吐いていた。体力の疲労ではなく、激しい緊
張の所為だった。顔を拭う。血。もう、ここには居られない。総一
郎は何故かそう思い込んで、この場でないどこか別の場所を探し求
めた。
総一郎は、その日野宿をした。寒さなど魔法で幾らでも凌げたの
に、そうすることを拒んで寝た。寒いと思いながら一晩を明かした。
いつも通りの、踏み潰される夢を見た。夢でなければいいと思った。
目が覚めて、落胆した。
することもなく、自然の多い道を散策した。イギリスには自然が
多い。それは、ドラゴンなど自然災害級の魔獣に対する策なのだろ
う。被害を少しでも軽微にという事だ。余った政治の金は、その分
安全地帯である都市に回せばいい。
つまるところ、列車沿いでもない限り、治安は悪いという事だ。
人間ではなく、魔獣である。奴らは日中にもかかわらずうろちょろ
と獲物を探しているらしく、総一郎は不運な事に見つかってしまっ
た。
老人の顔をした赤ライオン。マンティコアだ。その針はサソリの
1446
物であるらしい。総一郎には、マンティコアとキメラの区別がつか
ない。何だったか。背中に山羊の頭が付いている方がキメラだっけ。
泰然としている総一郎が気に食わなかったのか、奴らは一斉に襲
い掛かってきた。少年は舌を打って、くるりと身をひるがえす。一
太刀。二太刀。何匹かの尻尾は落ち、それ以外の個体の首も落ちた。
マンティコアたちは、怯えを見せ始めた。生きている数匹は、総
一郎に視線を釘付けにして後ろ向きに下がっていく。総一郎は、こ
の時明確に苛立った。獣のような怒声を上げ、魔法でその動きを止
める。
﹁そんなッ、怖がったような視線を向けるんじゃない!﹂
作法も何もない。木刀で、めった切りにした。この得物は、総一
郎が戦うたびに強くなる。例え、その精神がどんなに鈍ろうともだ。
傷だらけになったマンティコアたちは、総一郎が息も絶え絶えに
座り込む頃には、一匹しか生き残っていなかった。だが、彼が本当
に殺すだけの為に木刀を振るったのなら、一匹だって生き残りはし
なかっただろう。
それが分かっているのか、奴は生きる気力も失くしているようだ
った。すでに、昼だ。少年は昨夜の残りを腹に詰め込む。念のため、
毒魔法で浄化もしておいた。残りは昨日の二分の一程だったのに、
途中で食欲を失くして息絶え絶えのマンティコアにくれてやった。
見向きもしない。魔法での拘束を取ると、総一郎から一目散に逃げ
出していく。
﹁⋮⋮何やってるんだろうな、僕は﹂
1447
その背を視線で追いながら、考えた。ふと気になって、異形の範
囲がどれだけ広がったのかを見た。袖をまくるのでは足りずに、服
を脱ぐ。右手。肘先。二の腕。右胸部。もしやと思い、触れた。︱
︱首も、すでに。
あと少しで心臓は異形に呑まれ、その次に脳が侵食される。総一
郎は、もういいやと諦めた。終わりは、近い。暇をつぶしていれば、
それでいい。
次は、何処へ行こう。総一郎は、思案する。ドラゴンと対峙した
場所に戻るのはどうか。それがいい。少年は、再び飛ぶ。
ナイと別れた森に着いた。そこは既に、焼け野原となっていた。
﹁そうか、僕がやったんだ﹂
見る気にも、なれなかった。ここからあの町へは、確か近かった
はずだ。飛ばずとも良い。歩いて行こう。
キャムサイドに着いた。深夜だった。ここに居る時が、一番幸せ
だった気がする。
公園に座り、放心していた。イギリスの治安なら誰かが寄ってき
てもよさそうなものだったが、不思議に何も起こらなかった。本が
読みたいと、不意に思った。けれど、止めておいた。
次は何処だったかと考える。天狗だ、と思いついた。天狗様が居
た、山に行こう。
1448
朝を待ってから、風魔法で飛んだ。そこには、騎士が居た。目に
つかない場所を探して騎士服に着替え、何をしているのかと問うた。
﹁死体を、片づけているんだ。ここは割と町が近い。処理しておか
なければ、伝染病など大変な事になるかも知れない﹂
だから、早く手伝え。そのように言われ、相槌を打ってから素知
らぬ顔で逃げた。大変そうだとは思ったが、手伝う気にもなれなか
った。
最初の野営地に足を運んだ。夕方の終わりだった。見るべき場所
もなかった。何故こんなつまらない場所に来てしまったのだろうと
自分に呆れた。しかし、実際のところ呆れてなどいなかった。呆れ
ている振りをしているだけだ。人間の演技をしているだけだ。
演技とは、人に見せる物である。だが、此処には誰もいない。誰
もいない場所で行う演技程価値のない物はない。誰かに見せなけれ
ば。そんな衝動が起こって、耐えられなくなった。総一郎は、ある
いは、すでに狂っているのかもしれない。気付いていた。だから何
だと思った。
人に見せる。とすれば、アテは一つだった。三年間、自分を養っ
てくれた家族。彼らに見せよう。そして、受け入れてもらおう。だ
が、しばらくもしない内に、この異形は全身に至るだろう。そうな
ればどうなる?
﹁良いじゃないか。別に、どうだって﹂
ねぇ、と言った。誰かに、相槌を求めた。返って来たような気が、
しないでもなかった。﹁そうだよね﹂と頷いてから、総一郎は歩き
1449
出す。
﹁えっと、どっちだったっけ。スコットランドなのは分かってるん
だよ。だから、えーっと⋮⋮﹂
総一郎は魔法で簡単な方位磁針を作った。構造自体は、簡単なの
だ。磁石の製造が、少し魔力を食うだけで。
﹁あっちか﹂
分かった途端、総一郎は方位磁針を投げ捨てた。そして、飛ぶ。
鳥の様に。ところで鳥は三歩進むと何もかも忘れるというけれど、
それは本当なのだろうか?
何処までも、飛び続けた。途中途中に、壊滅している村があった。
様子を見に下りてみると、どうやら炎では無く雷による発火らしい
と分かった。家々が、裂けているのである。炎なら、微妙に違う。
﹁あんなに弱かったのに、結構アグレッシブなドラゴンだったんだ﹂
弱い犬ほどよく吠えるというのを、聞いたことがあった。よく、
お似合いだ。鼻歌交じりにその村を散策した。途中遺族の方が居て、
不謹慎だと詰め寄られた。精神魔法で記憶を消し飛ばす。忘我して
いる間に手を振り払って、散歩を続けた。
﹁ああ、つまらないなぁ﹂
総一郎は、呟いた。その時、焼け残った家のガラスに映っている
自分の顔に気付いて、驚いた。人形かとすら、疑った。⋮⋮そうか、
自分は何も意識していないと、ここまで表情が失せるのか。
1450
その目の前で、演技をした。理想の物と、遜色は無かった。なら
ば、いい。演技さえできれば、困る事は無い。
しかし、困る事とは一体何だろう?
久しぶりに、その日はホテルに泊まる事にした。演技をしながら、
にこやかに部屋を取る。部屋に閉じこもり、ずっと寝ていた。踏み
つぶされる夢は、何度も繰り返された。
睡眠に不足が出るという事は、無かった。
伸びをする。気持ちの良い朝だった。総一郎は鼻歌交じりに歩く。
備え付けの鏡には鼻歌を奏でる人形が映っている。チェックアウト
をしてから、少し尋ねた。
﹁すいません。モントローズへは、どのように行けばよいのでしょ
う﹂
﹁え? ここが、モントローズですよ?﹂
﹁え?﹂
モントローズ地方は、都市部に位置している。ドラゴンの出現率
も低く、村など一つしかない。
ならば。
総一郎は、ホテルを出てから駆け出した。物陰から飛び、昨日の
壊滅した村に着陸した。見回して、指をさした。
1451
﹁⋮⋮ああ、あそこ、サッカーをした広場じゃないか⋮⋮﹂
よろよろと、歩き始めた。人は、居ない。それはもう、驚くほど
居なかった。
少年の頭の中で、思い出が回った。サッカーの記憶は、色濃かっ
た。そうだ、上手いぞブレア。君はボールを奪う事に掛けてはプロ
級だ。僕が運ぶ。いいぞ、ガヴァン。絶好の場所だ。パスするぞ。
シュートだ。ああ、土まみれのダグラスに防がれた。畜生。
﹁⋮⋮家まで土まみれでどうするんだよ、ダグラス﹂
瓦礫と化した家は、半分ほど埋まっていた。足跡があるという事
は、あの雷龍はここで地を踏んだらしい。総一郎は、ぽつりと言葉
を漏らしてから素通りした。
フォーブス家に着いた。案の定、そこも焼け焦げていた。裏手を
覗く。小さな森も、失せている。
結末は、分かっていたつもりだった。だが、踏み込まずにはいら
れなかった。妖精たちを、呼んだ。呼びながら、歩き続けた。
妖精まで、ドラゴンに殺されたという事なのか。あの、逃げるべ
きタイミングだけは何よりも優れている彼らが。
﹁⋮⋮そうか、ブレアも死んだんだ﹂
ブレアだけじゃない。フォーブス家の、全員が死んだ。優しかっ
たおじさん夫婦、生意気だったジャスミン、可愛らしいティア、そ
1452
して兄弟のようだったブレア。
道に出た。よろよろと歩いて、倒れた。力が、出なかった。息を
吐く。吸い込むのは、面倒くさかった。
目を瞑ると、すぐに睡魔が総一郎を殺した。少年は、夢を見た。
踏みつぶされる夢だった。踏み潰してくれと願った。だが何故か、
今日は中々踏み潰してくれない。
早く、踏み潰してくれよ。さぁ、早く!
1453
8話 森の月桂樹︵1︶
ローレル・シルヴェスターは、駅に着いてからずっと走り通しだ
った。はやく、祖父母に会いたい。その一心だった。
見慣れた街並みは、少し壊れている所さえあった。ローレルは、
それを見てさっと血の気が失せた。それから、走り出したのだ。
彼女の家は、街角の骨董屋だった。古物商としてはあまり儲かっ
ていないが、生計は兼業の杖屋で何とかやっている。
冬の石畳を叩く音は、酷く目を引くらしかった。自分以外の、誰
一人走っていない。それで少し躊躇ったが、結局は止めなかった。
気付けば額には汗の粒が伝っている。そんな事は、気にもならなか
った。
家に着き、何処も壊れていない事に安堵した。玄関を開け、大声
で﹁ただ今戻りました!﹂と叫ぶ。家の中からどたどたと音がして、
まず祖母が下りてきた。﹁おや、まぁ!﹂と声が上がる。
﹁よく帰って来たねぇ。まぁまぁ、そんなに汗びっしょりで。シャ
ワーを浴びて来なさい。大丈夫。私もおじいさんも元気だから﹂
﹁おばあちゃん⋮⋮!﹂
抱き着き、力を込めた。祖母は困ったような嬉しい様な、そんな
声で﹁おやおや﹂と笑っている。
1454
言われる通り、シャワーを浴びた。タイルのひび割れに、掃除し
てもすぐにぬるぬるになってしまう謎のシャンプー置場。そこに手
をやって、やっぱりぬるぬるだ。と苦い顔をした。次いで、笑う。
﹁やっぱり、家は安心します﹂
ああ、帰ってきたのだ。そんな感慨は、彼女の心に強く染み込ん
だ。
シャワーを出て居間に行くと、祖父が座ってテレビを見ていた。
ちらとローレルを見て、﹁うむ、よく帰ったな﹂とだけ素っ気なく
言う彼だが、その格好は外出用にしても遜色のない、気合の入った
それである。いつもはシャツ一枚でだらしない癖に、とローレルは
嬉しくなる。﹁ただ今戻りました﹂と微笑みながら言うと、﹁うむ﹂
と言ってより一層祖父は、顔を背けてしまった。
﹁まったく、おじいさんも素直じゃないねぇ﹂
﹁儂ほど実直な人間は、そうは居ないぞ! 全く、失礼なことだ﹂
憤然とする祖父に、ローレルと祖母はくすくすと笑っている。そ
れで、と祖母が言った。
﹁ドラゴンを口実に戻ってきただけとはいえ、一応数週間は居られ
るんだろう?﹂
﹁あ、はい。そのまま冬休みに入るので、学校は年明けです﹂
1455
﹁なら、ニューイヤーも祝えるねぇ﹂
﹁クリスマスには一足及びませんでしたけどね﹂
﹁そんな事いいのよ。だって帰ってきてくれるだけでも嬉しいんだ
もの。ねぇ、おじいさん﹂
﹁ふん! 数年は居ないと覚悟を決めさせた癖にすぐに戻ってきお
って。儂の覚悟を返せと言うんだ﹂
﹁去年はちょっと泣きそうだった人が何を言ってるの。ごめんねぇ
? ローレル。ちょっと離れ離れだったから、おじいさん照れてる
みたい﹂
﹁いいですよ。いつもの事でしょう? 明日には優しいおじいさん
に戻っているのは、分かっていますから﹂
﹁⋮⋮おい、ローレル。お前、話し方は戻さないのか? ずっとそ
んなのじゃあ、疲れてしまうだろう﹂
﹁いいのですよ。しばらくここで話し方を崩していたら、騎士学校
に戻った時苦労しそうで怖いのです﹂
﹁あら、おじいさんフラれちゃった﹂
﹁ふ、フラれてなどおらんわ! おい、ばあさん。儂はもう腹が減
った。早く夕飯を作ってくれ﹂
﹁はいはい。ローレルも一緒に作る?﹂
1456
﹁はい。やらせていただきます﹂
ローレルは、祖母に付いていった。彼女は、料理が趣味なのだ。
とはいえ騎士学校では作る機会がいっこうに無く、久々だから腕が
落ちていないかと心配でもあった。
だが、杞憂の様だった。自分でも上手くいったという自負があっ
たし、祖父も﹁やはり、これを食っていたら料理屋には行けんな﹂
と頷いている。ほっと一息を吐くローレルだ。祖父の態度も、段々
軟化しているし。
そんな風にして、ローレルは我が家へと戻ってきた。そこで、数
日を過ごした。家にいると、やはり、騎士学園の自室よりも安らい
だ。事が動き始めたのは、そんなある日の夜の事である。
夕食を食べ終えて、三人はまったりとしていた。テレビをつける
と、ニュースがやっている。しばらくは平穏な物だったが、次に取
り上げられたのは追跡中のドラゴンが墜落したという内容になった。
死骸が、テレビに映し出されている。腹が破れているのか、モザイ
クが入っていた。
﹁⋮⋮これは、隣村を襲ったドラゴンだね﹂
﹁討伐された訳ではなさそうだな。しかし、死因が分からん。腹の
破け方も妙だと言うし。他のドラゴンは無事討伐されたとされてい
るが。そもそも、今年に限って何で七匹も⋮⋮﹂
祖父母は、ニュースを物騒な面差しで見つめている。ローレルは、
言うか言うまいか迷っていた事を、二人に問いかけた。
1457
﹁⋮⋮おじいさん、おばあさん。私、明日にその村に行きたいので
すが、連れて行ってはくれませんか?﹂
﹁は?﹂
声を上げたのは、祖父の方だった。不快でもあり不可解でもある
のだろう顔つきで、問い返してくる。
﹁何で、そんな事を望むんだ? ローレル﹂
﹁私の友達が、数人あの村に居るのは知っていますでしょう?﹂
﹁だが、行ったところでその安否すら分からないかもしれないぞ。
いや、それならまだいい。もしその友達の両親か何かが居て、お前
に死んだと告げたら⋮⋮!﹂
﹁いいよ、連れて行ってあげようじゃないか﹂
﹁ばあさん!﹂
﹁いいんだよ。この子は言っても聞かない子だ。それに、何となく
そうした方がいいようにも感じる。おじいさんは違うのかい?﹂
祖父は祖母に尋ねられ、しばし沈黙した。彼は気に食わなそうに
鼻を鳴らし、﹁分かった、勝手につれて行け﹂と居間を出て行って
しまう。﹁これは、機嫌が直るのしばらくかかりそうだねぇ﹂と祖
母は笑った。
翌日、ローレルは酷く緊張した面持ちで車に乗っていた。運転手
は祖母で、鼻歌交じりである。暢気なものだ。生まれてこの方、祖
1458
母の慌てたところを見たことが無い。
だがそれは祖母にとってのみであって、ローレルは内心震えるほ
どの不安と戦っていた。祖父が止めるほどの光景が、そこに在ると
いうのか。一応後処理などは済んだという話だったが、復興自体は
ままならないという。
後処理とは何かを想像して、気分が悪くなった。﹁着いたよ﹂と
祖母が言った。ローレルはドアを開け、光景を目にした。今まで目
を瞑っていたから、それが初めての機会だった。
言葉を、失った。建物は、面影が残っていれば十分なほどのもの
だった。荒野だ、と真っ先に思った。開拓不可能な亜人の出る地域
でもないのに、この荒れ様。口を押えて、しばらく動けなかった。
﹁⋮⋮ローレル? 大丈夫かい? 無理そうなら、このままでも帰
れるんだよ?﹂
﹁⋮⋮いいえ。これは、騎士団のミスが招いた結果なのでしょう?
私は、ゆくゆくはその一人になるのですから、今の内にこういう、
⋮⋮酷い光景を、ちゃんと目に焼き付けないといけないと思うので
す﹂
多分友達はここに居ないのでしょうとは、思いましたが。そのよ
うに祖母に告げ、少女は足を動かし始めた。
歩いていて気付いたことは、緑の一切が消えているという事だっ
た。ここを襲撃したドラゴンは、雷を操ったという。黒々しい残骸
がいくつか残っていたから、それがその名残なのだろう。
1459
独特の臭いがする。ローレルは、袖で口元を押さえた。恐らく、
死臭だ。死んだ人間のそれが、死体が無くなった今もなお、残って
いるのだ。
﹁⋮⋮可哀想に﹂
言った。だが、泣かなかった。自分が泣いていいのは、友達が死
んだと聞いた時だけだ。それ以外は、筋違いと言っていい。
ビレッジグリーンの跡地を横切って、ドラゴンの足跡がある家を
通り過ぎた時、ローレルは道の真ん中で人が倒れている事を知った。
彼女は目を剥いて、まずそこに駆け寄った。﹁大丈夫ですか?﹂と
声を掛けようとしたその瞬間に、ある事に気が付いた。
﹁⋮⋮ブシガイト、君?﹂
答える声は無い。彼が、本当に気を失っている事の証左だった。
ローレルは、しばし固まっていた。彼は、ローレルが最も忌避し、
怖がっていた相手だった。苛められていた少年。そんな彼への侮蔑。
助けられない自分への失望。反転。一歩ずつ獣になっていくような
戦いぶり、その噂。そして畏怖。
﹁⋮⋮で、も、⋮⋮そんな事、関係ないです﹂
その手を、取った。だが、瞬間その手ごたえに驚いて、反射的に
放してしまった。固い様な、柔らかい様な、奇妙な手応えだ。触れ
た事は無いが、虫嫌いの彼女にとっての、昆虫を思わせる触れ心地。
震える手で、その右手の袖をまくった。そして、とうとうローレル
は恐怖した。
1460
異形。亜人は大抵、純粋な動物などをベースにしていることが多
く、敵意こそあれ生理的な嫌悪感と言う物は少ない。だが、これは
そうではなかった。見るだけでも背筋に寒気が下りるのに、これに
触れなければならないのか?
少女は、その時明確にブシガイトを助けることに葛藤した。助け
たくない。助けなければならない。彼女の表情は蒼白で、ますます
その肌は陶器染みて、人形のようになった。
ローレルは、一度目を瞑り、深呼吸をした。深く吸い、強く吐き
だす。そして件の少年を見つめた。
抵抗感は強い。だがローレルは、いつだって葛藤と戦っている。
勝ち方は、心得ているのだ。
少女は、その﹃嫌悪感のある右腕﹄を自身の首に回し、ブシガイ
トを担ぎ上げた。重い。男にしては細いとも言える体躯だったが、
身長差と、後はその密度だろう。山籠もりに耐えられる肉体を持っ
ているのだ。重いに決まっている。
ローレルは負けず嫌いで、後に残る害などが無ければ、自分が嫌
だと思った選択肢を選ぶ癖がある。祖父には﹁随分と生きづらいだ
ろう﹂と言われた事もあったが、直す気はない。
そのまま直接、祖母の元へ戻った。彼女は少女の抱えている者を
見て瞠目し、ともかく、一旦家へ連れて帰ろうという話になった。
後ろに寝ているブシガイトについて、祖母からいろいろ尋ねられ
1461
たが、腕の事は省いておいた。何となく、言わない方が彼も困らな
いだろうと思った。
﹁⋮⋮あの時何もできなかったことのお詫びです。元気になったら、
出て行って貰いますから﹂
眠っているだけだろう。と半ばローレルは見抜いていた。だが、
衰弱もしている。それが治ったら、穏便に出て行って貰うつもりだ
った。彼は聞き分けが悪そうではないから、そこにも確信があった。
運転席で、祖母が笑った。何故かそれに嫌な予感がして、少女は
目を窓の外へ向ける。
1462
8話 森の月桂樹︵2︶
そこは薄暗かった。
総一郎は薄目をあけて、まだ早い時間帯なのだろうと推察した。
いつも、自分が起きる時間帯だ。のそりとベッドから起き上がり、
次いで見覚えのない部屋のインテリアに目を向けて、そうか、ホテ
ルに泊まったのだと思った。
だが、数秒経てば目も覚める。状況を訝しみ、冷静になってから、
昨日、いつ、どこで寝たのかを思い出そうとした。
﹁⋮⋮ここは、何処だ?﹂
確か、自分はあの荒れ果てた村の残骸で倒れたきりだったはずだ
と少年は記憶している。ホテルになど泊まっていない。そもそも、
此処はホテルなのか? 総一郎は周囲を見回す。質素だが、ホテル
ではない。
総一郎は、そのように仮定しながら、自分が拘束されていないこ
とを確認した。もっとも、イギリス製の拘束などあっても屁ですら
なかったが。
カーテンを警戒しながら微かに開けると、見覚えのある景色で驚
いた。街である。かつて、ブレアとここに来たことがあった。総一
郎は、窓に映る全く動かない自らの表情に苛立ちを感じつつ、風魔
法での索敵を行う。
1463
三人。自分以外に、三人の人物が居る。風魔法の索敵は詳細を知
るのは難しいから、人物像は分からなかった。聖神法で掛け直した
かったが、生憎と杖は袋の中だ。
この部屋に袋が無いのは、確認済みだった。その詳しい場所につ
いては、風魔法では如何ともしがたい。
﹁⋮⋮ここにいる人なら多分、接触しても難なく切り抜けられるは
ずだ﹂
その上、起きだす気配がない。総一郎はそう思いながら、扉をゆ
っくり開ける。
それに反応したように、一人が上体を起こした。
思わず硬直する総一郎だ。その人物は起き上がってから何かを気
にするように手を振り、飛びあがる様にベッドから離れる。
総一郎はマズイと思い、光魔法で姿を消した。更には音魔法をか
ける。いつもの完全な隠密状態である。総一郎は隠伏を完成させて
から、壁に張り付いて動くのを止めた。床の軋みや接触を嫌ったの
だ。
その人物︱︱少女は総一郎の向かいのドアを開け、姿を現した。
⋮⋮シルヴェスターだ。だが、何故彼女がここに。
短い髪をふり乱した少女は、総一郎が居た部屋の扉を開けた。し
ばし目を剥き、扉を閉める。その音はちょっとした物で、怒りが込
められているのが何となく分かった。
1464
シルヴェスターは真顔に少し険を足したような表情になって、周
囲を見回した。微小な表情の変化である。階下へと向かいながら﹁
おばあちゃん!﹂と大声で何者かを呼ぶ。
﹁ブシガイト君が見当たりません!﹂
あんな大声を出すのか、と少々驚く総一郎だ。彼女はあの四人の
中でも印象が薄い。気が強いのは知っていたが、寡黙な人物だとば
かり思っていた。
総一郎は、ちょうど鏡が目に入ったから︵光の操作に過ぎない為、
自分から自分の姿は見えるのだ︶、奇妙な具合になったとその前で
眉を顰めてみる。イメージと少し違っていたから、修正した。これ
で完璧だ。
彼女は、その祖母だろう人物に何かを話しているようだった。何
かを言っているのは分かるが、よく聞こえない。音魔法で拡大しよ
うと思った時に、会話は止んだ。そして二階に上がってくる。総一
郎は鏡を見ながら、嫌な顔をしてみる。
︱︱困ったな、逃げるのが少しずつ難しくなってきた。どうすべ
きかと、総一郎は口元に手を当てる。上ってくる足音は近い。
仕方なく、隠密の魔法を解く。敵意はなさそうだし、一度話して
みようと思ったのだ。丁度そこに二人が現れたので、鏡を横目に総
一郎はきょとんとした顔を作って二人を出迎える。
﹁⋮⋮えっと⋮⋮、此処は何処なんでしょうか? っていうか、ア
レ? シルヴェスターさん?﹂
1465
怯える振りは要らないと思った。シルヴェスターは、総一郎の強
さを知っている。その上で、﹃何でここに﹄という言外の声を投げ
かけると、彼女は先ほど僅かに伺えた険を抜いて、困ったように言
葉を紡ごうとした。
それを、彼女の祖母が止め、総一郎に語りかける。
﹁随分と下手な演技だねぇ。そんなので私が騙せると思ったのかい
?﹂
総一郎は、はじめ何と言われたのかが分からなかった。その言葉
が、慈愛の微笑に満ちた表情で発せられたからだ。そしてその意味
を理解した時、何故だかわからないが酷く恐ろしく思った。逃げな
ければ、という強迫観念に襲われた。
シルヴェスターは、総一郎に目を向けながら息を呑んだ。鏡を見
ると、表情が全くなくなっている。マズイと思ったが、老婆に目を
向けると出来なくなるのだ。
走りだし、老婆の横を無理にすり抜けた。階段を、足早に駆け下
りていく。その途中で、﹁ちょいとお待ちよ﹂と声がした。壁を叩
く音。総一郎は急に力を失って、階段の途中で座り込んだ。
﹁せっかちな坊やだねぇ。まずは話を聞いていきなさい。ほら、三
日何も食べてないんだから、そんな状態で走れるわけがないじゃな
いか﹂
へたり込んで半ば忘我していた少年は、呆気なく老婆に捕まった。
﹁ほら、お立ち﹂と肩を貸され、すると何故か簡単に立ち上がれた。
恐怖の様な焦燥も、今は消えていた。ただ、不思議なばかりだ。
1466
総一郎は、半ば放心した状態で居間らしき場所へ連れて行かれ、
いつの間にかそこに座らされていた。目の前にはスープがある。ま
るで時間が飛んだような感覚に、アレ、と困惑した。
﹁ほら、いきなり肉なんて食べたら胃がびっくりしてしまうからね。
まずは、このスープをお飲みなさいな﹂
シルヴェスターと老婆に見つめられながら、総一郎は言われるが
ままにスープを啜った。味は、よく分からない。妙な居心地の悪さ
と、しかし飛び出せないだけの空腹感が、少年の中でせめぎ合って
いる。
﹁どうだい? 美味しいかい?﹂
﹁⋮⋮ええ、とっても﹂
総一郎はどんな表情を使っていいのか分からないまま、嘘を吐い
た。シルヴェスターは少年から離れたところで顔を顰める。老婆は、
からからと笑った。
﹁良い子だねぇ。無意識に相手を気遣う子なんて、最近少ないもん
だがね。良いんだよ。坊やがまともに料理の味が分かるほど体調が
良くないってことくらい、おばあちゃんにはお見通しさ﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、何かを言い返すことが出来ない。老婆の言う事は、総
一郎でさえ自覚の無い事実が含まれていたからだ。言われてしまえ
ば、はっきりと理解してしまう。スープではなく、食感の違う白湯
1467
を飲んでいるような感覚だった。
老婆に目を向けると、茶目っ気に満ちたまなざしで見つめられて
いる。﹁ほら、早いところ飲んでしまいなさいな﹂と催促され、少
々急ぎ気味に呑み干した。
それで、と総一郎は切り出す。
﹁何で、僕はここに居るのでしょう?﹂
﹁倒れていたんだよ。それで、あの子が坊やを見つけて負ぶってき
た﹂
視線の指し示す方向には、シルヴェスターが居た。総一郎は考え
る。感謝の言葉を投げかけるべきなのか。しかし感謝をいうには総
一郎の意とは食い違っている。逆に余計なお世話を働いてくれたと
罵るか? いや、それは流石にあり得ない。
どのように言えばよいのか思い悩んでいると、少女は総一郎から
視線を逸らして、ぽつりと言った。
﹁元気になったら、出て行ってください。私が対価として望むのは、
それだけです﹂
言うが早いか、少女は駆け足気味に居間から出ていった。足音を
聞く限り外に出て行ってしまったようだ。すでに着替えていたし、
不自然ではない。だがこんな早くに一体何処へ行こうというのか。
老婆はそんな少女の様子を見てくすくすと笑っている。
1468
﹁というわけさ。あの子と喧嘩中なのかどうかは知らないけど、元
気になるまではゆっくりして御行き。回復したら親も探してあげる﹂
何かを勘違いされているのは何となく分かった。だが、否定する
べきでもないという感じもする。黙っていると、老婆はさらにこう
続けた。
﹁それにしても、あの子を見ていると癒されるねぇ。何て言うか、
私の若いころそっくり﹂
﹁そうなんですか?﹂
総一郎、とりあえず相槌を打つ。
﹁ええ。意地っ張りで負けん気で、でもそんな所が今の私からして
みると愛おしくてねぇ。あの子、可愛いでしょう? 私も、今はこ
んなおばあちゃんだけど、昔はモテたのよ﹂
﹁それは、何となく分かります。お年を召してもご綺麗でいらっし
ゃる﹂
﹁あら嫌ねぇ。こんなおばあさんにおべっか使っても何も出てこな
いっていうのに﹂
総一郎は、褒めたつもりはあまりなかった。若い頃は相当美しか
ったのだろうと思わせる、穏やかで、気品ある老化なのだ。
﹁ふぁああ。ん、何だばあさん、どうしてこんな早くに⋮⋮ん。起
きたのか、坊主﹂
1469
﹁あ﹂
総一郎、思わず指をさしてしまう。いつかブレアが勝手に杖を触
って怒られた、あの爺様だ。そんな少年の行動に対し、彼は煙った
そうに﹁人の事を指差すなと親に習わんかったか、バカモン﹂と眠
たげな声で言う。
﹁それより⋮⋮ローレルは何処に行った﹂
﹁あの子は⋮⋮、そうねぇ⋮⋮どこに行ったのかね。行くべきとこ
ろもないし、そろそろ戻って来るんじゃないかしら﹂
﹁ただ今帰りました⋮⋮﹂
﹁ほら、ね?﹂
老爺以上に覇気のない声が玄関の方から響いてきた。彼女は数秒
すると居間の方に戻ってきて、総一郎を見つけ次第微妙に顔を顰め
る。
一体どれだけ嫌われているのだろうか。
総一郎は、とりあえずこの家の全員が揃ったのを確認してから、
咳ばらいをした。視線が集まり、それに合わせて頭を下げる。
﹁改めて、倒れていたのを助けて戴いて、ありがとうございました。
僕は、ソウイチロウ・ブシガイトと申します﹂
親切には礼節で返さなければならない。そんな当たり前の事をし
たまでだったが、返ってきたのは納得ではなく感心だった。
1470
﹁よくできた子だねぇ。よっぽど親の教育が良かったのかしら。あ、
でも人の事指差してたから微妙かね﹂
﹁前々から思って居ったが、どうにも子供らしくない子供だな。し
かし、礼節をわきまえているのはいい事だ。指差しの事はひとまず
な。申し遅れた、儂はフィリップだ。フィリップ・シルヴェスター﹂
﹁私はヘレンだよ。ヘレン・シルヴェスター。よろしくねぇ、ソチ
ロウ﹂
﹁よろしくお願いします。あと、僕の事は呼びにくいと思うので、
適当に訳して頂けるとありがたいかと﹂
頭を下げる。指差しの事大分引きずられてるなぁと思いつつも、
顔に不自然でない程度の弱い笑みを浮かべた。ただし、ヘレンばあ
さんには看破されている感が否めない。彼女はこっそりと総一郎に
だけわかる様に、目を細めて肩を竦めていた。
﹁⋮⋮短い間になるでしょうが、よろしくお願いします﹂
﹁うん、ありがとうね。シルヴェスターさん﹂
﹁⋮⋮ローラでいいですよ。あなた以外全員シルヴェスターなんだ
から、紛らわしいです﹂
﹁あっ、そっか。それもそうだね﹂
ははは、と笑ってみる。ローラはついぞ、その場で笑う事は無か
った。
1471
しかし、元気になるまで、と言われ、その﹃元気﹄というものが、
よく分からない総一郎だ。今の自分は肉体的には問題ない。精神は
⋮⋮自分で判断できるような物ではない気がする。総一郎自身では、
問題ないと思っているのだが。つまり今すぐ出て行けと遠まわしに
言われたのか。
何をすべきかと考えていると、不意にヘレンばあさんに言われた
言葉を思い出した。三日間何も食べていない? そんな馬鹿な。
﹁えっと、ローラ﹂
﹁⋮⋮何ですか﹂
その日の昼前、ヘレンばあさんは買い物に、フィリップじいさん
は店番に出ていて、居間には総一郎とローラの二人しかいなかった。
極力総一郎から離れようとしているのか、遠い位置のソファの端っ
こで本を読みながら、ローラは嫌そうな視線を向けてくる。
総一郎は特に何を感じる訳でもなく、軽い調子で尋ねた。
﹁僕って、一体何日寝てたの?﹂
﹁三日です。先ほど腕を回したりして体の調子を確かめていました
けれど、まだあなたは本調子ではないですよ。勘違いしない方がい
いです。治るまでなら、ここに居ても文句は言いませんし﹂
だから、早く治って下さい。と言われ、総一郎はきょとんとした
まま頷いた。どうにも掴みがたい少女である。いや、一家か。と考
え直した。
1472
この国は、病院の敷居が高い。というのも、保険が日本よりもロ
ーミドルクラス以下に優しくないのだ。かつて揺り籠から墓場まで
と呼ばれたイギリスだが、文明の遅れが目立つ今は、福祉など充実
させている余裕などないのだろう。
だから、衰弱していたとはいえ病院に入れないのは、何となく分
かる。彼らが総一郎に金を払う義理は無いし、そんな金があるとも
思わないだろう。実際、総一郎の所持金は少ない。せいぜい安いホ
テルに泊まれる程度だ。
だが、だからといって家で面倒を見るというのも、少々手厚すぎ
る気がしないでもない。イギリスは人情の国という訳でもなかろう
に。
そんな風に考えていると、ローラが思い出したように総一郎に告
げてくる。
﹁あ、言い忘れていましたが、ブシガイト君の身元は嘘を吐いてお
きました。貴方はあの村に居た私の友人という事になっています。
それと、腕の事ですが﹂
総一郎は、その時息を呑んで自らの右腕を見やった。手袋と、長
袖。ほっと一息を吐く。
﹁二人には隠しておきました。詳しい事情は、言わなくていいです。
興味もないので﹂
﹁⋮⋮何で君は﹂
1473
﹁私は人間として当然の事をしているだけです。それ以上の事はし
ませんから、求めないでください﹂
態度は、あくまで冷たい。だが、本を見つめてはいるものの、ペ
ージは会話の途中勧められたり戻ったりしている。意識自体はこっ
ちに置いてくれているらしい。
﹁⋮⋮ありがとう。色々と﹂
その言葉に、返事は無い。そのつもりもないのだと察して、総一
郎は本格的に暇をつぶす方法を探し始めた。
その日は結局、ローラに本を貸してもらって何とか暇をつぶすこ
とに成功した。ちなみに彼女は途中で外出してしまって、碌に親交
と言う物を深めるには至らなかった。
昼食時、ヘレンばあさんが帰宅して、食事を済ませた。味は相変
わらずわからなかったが、何となく食感がいいと思った。
食事が終わって、全員がまったりしはじめた頃、総一郎はヘレン
ばあさんに尋ねる。
﹁あの、僕の荷物って何処にありますか?﹂
﹁荷物? あの、小さな袋の事?﹂
﹁はい。あの中に全部入っているので﹂
﹁まぁ、渡すのはいいけど、あれで全部なのかい? あんな小さな
物の中に、いったいどれだけの物が入ってるの﹂
1474
﹁アレは騎士学園で売られている、ミドルクラスからしたらオーバ
ーテクノロジーの一品ですから﹂
﹁へぇ! そうなの。それは悪い事をしてしまったね、今持ってく
るから、待っておいでな﹂
ローラの付け足しに、総一郎は感謝の意を示すべく手を振った。
ローラは反応してくれない。袋を渡され、整理の為に貸してもらっ
ている部屋に赴いた。
そういえば随分と袋の中について気にかけていなかったと、総一
郎は袋の口を開けながらしみじみする。出て来るのは、本、本、本。
合計二十三冊出てきて、我ながら呆れてしまった。旅に持って行っ
ていい冊数じゃない。さらに探ると、木刀や杖が出て来た。
だが、﹃美術教本﹄だけは、見つからなかった。
﹁⋮⋮何で﹂
総一郎は、固まった。ナイと共に学園を出る時、目ぼしい本は大
抵処分してしまったが、﹃美術教本﹄だけはちゃんと入れておいた
はずだった。しかし、それきり出していないし、もしかしたら、そ
の途中でなくしたのか。
﹁⋮⋮﹂
呆然とした。内容はほとんど暗記状態ではあるが、今は会う事さ
え難しい父から賜ったものなのだ。直接渡されたものではないにし
ろ、後悔は深い。
1475
少年は何かをする気が全く失せてしまって、ふて寝を始めた。ベ
ッドに倒れ込み、目を瞑る。案外すぐに寝入った。
︱︱そして見るのは、いつも通り踏み潰される夢だ。
総一郎はすっかり見慣れた異形を目の前に、考えることがある。
ここにしばらく居つく事になったが、本当にそれでいいのかと。
総一郎は、自分と言う物の本質が分からなくなっている。
だからこそ子供じみた八つ当たりで人を殺したのかもしれない。
アイデンティティが確立できていれば、ナイを失っただけであんな
行動を取らなかっただろう。そもそも、前世と言う物が本当に自分
の物だったのかさえ、少年の中では危うくなっている。
日本に居た頃は、まだその記憶の延長線上にあった。だから、あ
る種﹃大人﹄で居られた。
今は、子供だ。虐めに会って自分の底の浅さを痛感させられた。
必死に自分の﹃大人﹄を守ろうと法律的には子供の騎士候補生たち
を殺さないように心掛けていたが、結局はファーガスが居なければ
あの場所で死んでいた。
ドラゴンを殺すためイギリス中を回って、最初の野営地以外では
子供として扱われた。それを、違和感なく受け入れた。大人の振り
をすれば、時には一目置かせることが出来ても、それだけだ。それ
は本当の自分じゃない。
﹁⋮⋮はは。馬鹿馬鹿しい。大人ぶって、悲しい事があったら他人
1476
に当たって、︱︱何処にでもいるクソガキだ﹂
自分の声で、起きた。上体を起こすと、頬に伝うものがあった。
総一郎は、苛立って乱暴に拭う。
窓を見れば、いつの間にか夕方になっていたらしかった。総一郎
は、ナイの事を思い出してしまう。膝枕をしてくれたナイ。共にベ
ンチに座り、寄り添ってくれたナイ。自分を起こしてくれたナイ。
︱︱彼女は、夕方が一番きれいだった。
ノックが、四回。
総一郎は、どうぞ、と振り向いた。そこには、夕日に照らされた
ナイが立っている。
﹁ナイ!﹂
総一郎はベッドの上で身を乗り出し、大声を上げていた。彼女は
それにびくりと竦みを見せ、﹁な、何ですか?﹂と英語で返してく
る。
総一郎は、その声を聞いて頭が冷えた。逆光で、見間違えてしま
ったらしい。少々怖がった様子のローラに、少しの罪悪感と、落胆
を抱く。
﹁⋮⋮ごめん、寝ぼけてたみたいだ﹂
﹁そ、そうですか。夕ご飯が出来ましたので、居間に下りてきてい
ただけますか?﹂
1477
﹁うん。ありがとう﹂
ローラは、答えを聞く少し前には、踵を返して部屋から出て行っ
てしまっていた。とことん、避けられている。
総一郎は部屋を出て、鏡の前でわざとらしく困った演技をした。
1478
8話 森の月桂樹︵3︶
そんな風にして、数日が経った。案外、慣れるのも早かったよう
に思う。フィリップじいさんはチェスが好きで、それに付き合って
いたら自然に仲良くなった。ヘレンばあさんは、特に何もないが、
総一郎をよく気に掛けてくれる。
未だあまり話さないのは、ローラぐらいだ。
総一郎はある程度体調が回復してきた日に、ヘレンさんに手招き
された。彼女は最近隈が出来ていることが多く、それが総一郎と反
比例しているようで何処か嫌な気分だった。
その為呼ばれた時少し抵抗感があったのだが、﹁ほら、何をやっ
てるんだい。さっさとおいで﹂と、さも付いてくるのが当然の様に
言われてしまうと、従わざるを得なかった。
﹁ふぅ︱︱、年を取ってから夜中まで無理をするもんじゃないねぇ。
お蔭でちょっと風邪気味さ。でも、その収穫はあった﹂
﹁何の、話をしてるの?﹂
打ち解けたのもあって、総一郎の堅苦しい話し方は崩れている。
少年の問いに、ヘレンばあさんは﹁これさ﹂と、ある一冊の本を
取り出した。総一郎は一瞬訳が分からなかったが、理解して﹁何で
おばあさんが?﹂と訊かざるを得なかった。
1479
彼女が総一郎の前に掲げたのは、﹃美術教本﹄だった。
﹁いやね、随分ときな臭い坊やが来た物だから、少し私物を漁らせ
てもらったのさ。そしたら、これが出て来た。まさかこんな所に力
を持った本に出会う何と思わなかったよ﹂
力とは何ぞやと思った総一郎だが、思い当たる節が無い訳ではな
かった。
﹁⋮⋮数秘術の事?﹂
﹁ん? 随分と一部を挙げたねぇ。私が言っているのはカバラの事
だよ﹂
﹁はい?﹂
虚を突かれて足が止まった総一郎をヘレンさんは急かし、居間の
テーブルで改めて対面する。
他に、人は居なかった。ローラは何処かへ出かけてしまい、爺さ
んも店番をしていた。何やら今日は張り切っていたから、杖屋とし
ての依頼が来たのかもしれない。
部屋の中で二人きり。総一郎は、﹃美術教本﹄に目を向けつつ唾
を呑み込んだ。老婆は少年へ向けて本を置き、その上に人差し指を
置く。
﹁ソウ、あなたはこの本が一体何であるのかを、詳しく知らない。
だが、ちょっと、欠片だけは把握している。そうだね?﹂
1480
﹁うん﹂
﹁数秘術は知ってて、カバラは知らない﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮﹂
老婆は、何かを考えるかのように目を瞑った。総一郎は、それを
無言で待った。どんな葛藤があったのかは分からない。ばあさんは、
﹁仕方ないね﹂とだけ言った。
﹁坊やは随分な星の元に生まれているようだ。教えない訳にはいか
ないみたいだね﹂
ヘレンばあさんは、言いながら一ページ捲った。軽い調子で、七
文字飛ばしに文字を突いていく。
﹁この文字を繋げると、意味が通るのは知っていたかい?﹂
﹁うん﹂
﹁そうやって文字の中に本当の意図を隠す技術は、数秘術、あるい
は数秘法と呼ばれている。実際はちょっと違うんだけどね。ちなみ
に一ページ目の方法はテムラーと呼ばれる物だ。だが、こんなのは
初歩の初歩。数秘術の神髄は、もっと深くにある。それに手を伸ば
す生き方が、カバラ。その探求者達を、総じてカバリストと呼ぶ﹂
﹃薔薇十字団﹄、﹃フリーメーソン﹄という秘密結社を知ってい
るかい? ヘレンばあさんは、総一郎にそんな事を訪ねた。ファー
1481
ンタジー小説が好きな総一郎からしてみれば、聞き覚えのある名前
だ。
﹁うん。名前だけなら、有名だから﹂
﹁この組織はね、どちらもカバリストの集団だった。クリスチャン・
ローゼンクロイツという一人のカバリストから薔薇十字団が始まっ
て、詐欺師が多くなってから違う隠れ蓑を被った。それが、フリー
メーソン。ただまぁ、今はそちらにもカバリストなんか残っちゃい
ないがね。で、肝心なのはおばあちゃんがその秘密結社の一員って
事さ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁こら、もっと驚きなさいな﹂
腕が伸びてきて、総一郎の額にデコピンを食らわせた。﹁痛い﹂
と目を瞑る総一郎。多分表情はそこに無い。
﹁だって、知らなければそんなこと分かる訳がないじゃないか。そ
れ以前に、僕が逃げようとして逃げられなかった時点で、ちょっと
ただ者ではないなと思ってたし﹂
﹁ああ、そういえばあの時私はカバラを使っていたねぇ﹂
中々の洞察力じゃないか、ソウ。とばあさんはからからと笑う。
﹁で、本題なんだけどね。この本は、一ページ目だけ文字列を組み
替える方法で解ける作りになっていて、それ以外は非常に高度な文
字列、しかも、素人じゃあ絶対に読み解くことの出来ない作りにな
1482
っている。隠して伝えるという意図じゃなく、力を持たせるための
文字の組み方をしているんだね。カバラをここまで深く知るなんて、
知人に天使か何か居たのかと疑ってしまうほどだけれど﹂
﹁いやぁ、⋮⋮それどころか夫婦になってるんじゃないかなぁ?﹂
﹁何か言ったかい?﹂
﹁ううん何も﹂
もしかしたら、﹃美術教本﹄は父が書いたものなのかもしれない。
﹁というか、カバラと天使に何か関係が?﹂
﹁ん、ああ。この世界は四つに分かれていて、一番程度の低いのが
この世界らしくてね、でも努力によって上に行けるかもしれない。
その為に神がモーゼに与えた律法の魂の魂が、カバラなのさ﹂
﹁え?﹂
﹁要するに、カバラを深く学べば天使や大天使、ひいては神になれ
るかもしれないって事だよ﹂
﹁カバラ凄いね﹂
﹁プライマリースクール生並みの感想だね﹂
小並感と言われて視線をすっと遠くに持っていく総一郎。しかし
それ以外に何を言えというのか。
1483
﹁それで結局のところ、この本にはどんな力が込められていたのさ﹂
﹁ああ、それについては単純さ。この本の持ち主は、カバリストに
出会う運命にさせられるって事。そして大事なのが、カバラの中で
も高度な数秘術は、必ず口伝えされるって事さ﹂
﹁⋮⋮持っている人物は、いずれ数秘術を学べるようになるって事
?﹂
﹁持ち主の人格によるがね。しかも、持ち主と言ったって、この本
は坊やの持ち物にしかなり得ないらしい。ソウがもしこの本を売っ
たら、嫌でも手元に戻って来るよ﹂
﹁そりゃあ、また、何とも⋮⋮﹂
ちょっとしたホラーだ。
それでヘレンばあさんの話は、詰まる所総一郎に数秘術を教えて
くれるという事らしい。総一郎は好奇心の犬だが、最近は多少なり
を潜めている所がある。
素直に楽しむことに、抵抗感があるのだ。理由は、もやもやとし
て分からない。ヘレンばあさんは、口を開いた。
﹁だが、今は教える時期じゃない。カバラは難しいからね。やる気
の無いものに教える義理は無いの﹂
教えて欲しくなったら、改めて言いなさい。と微笑まれ、総一郎
は少々驚きながら頷いた。
1484
光魔法で自分の表情を確認したが、そこに表情など浮かんではい
なかった。
ブシガイトが、寝込んだ。
体調を崩したと聞いていたが、特に病気ではないらしい。ローレ
ルにとって祖母の言う事に間違いはないので、素直に信じた。彼は
熱にうなされていて、見るのも痛々しいのだとか。
看病は祖母に任せるつもりだった。そもそも、自分は非常時以外
で彼に対してコミュニケーションを取るつもりがない。嫌っている
というのではなかった。ブシガイトが悪い人間でないのは知ってい
るからだ。しかし、彼の存在は危うくもある。
関係を深めれば、何か恐ろしい事が起きる。これは直感だが、違
うとも思えなかった。
だからこそ、早く出ていってほしい。ローレルはいつ爆発するか
分からない不発弾を見るような目で、ブシガイトを見ていた。思い
のほか祖父母が彼に甘かったので、思惑通りに運ぶかハラハラして
はいたが。
彼は数日にわたって寝込み続け、いい加減病院に連れて行った方
がいいかという話も持ち上がった。流石の祖母も思案した様子があ
って、ほっとした物だ。出費は高いが、ある意味では体のいい厄介
払いだからである。そう考えられるのは、社会に出ていない少女の
考え方なのか。
1485
だがその時、予想外の事が起きた。先述した﹃非常時﹄が訪れた
のである。
﹁ごめんねぇ∼、ローレル。どうしても外せない用事があって、今
日は家を空けなきゃならないの﹂
﹁済まないが、ローレル。杖屋の方で、少し貴族様の屋敷に行かな
ければならんようになっちまった。ばあさんもいないが、何とかや
ってくれ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
家の中。一人⋮⋮ではない。二人。それも、片方は一人では起き
上がれない程の重病人である。
幸い朝食は祖父母が彼に食べさせたらしいのだが、逆に言えば彼
は一人でご飯も食べられない程であるという事の証拠でもあった。
ブシガイトが寝込んで以来彼と会っていないローレルだが、そこま
でひどい状態であるのか。
﹁⋮⋮不覚です。こんな事が起こるなんて夢にも⋮⋮﹂
看病が必要な人間を見捨てるような真似は、ローレルには出来な
い。これは生来の物で、曲げることの出来ない性分だ。
殺してやりたいほど憎んでいる相手でも、その人物が瀕死で、自
分がそれを救えるとしたら、彼女はやはり救わざるを得ないのだ。
損な性格だと、自分でも思っている。
1486
﹁⋮⋮食事は別にいいとして﹂
どの程度の世話を見てやれば十分なのか、彼女には掴めなかった。
必要最低限が望ましいのだ。ブシガイトが不便や苦痛を覚えない程
度の水準である。
どうしたものかと考えて、とりあえず様子を見に行くことにした。
足音を潜めながら二階に上がり、扉を開ける。まず聞こえたのは、
荒い息である。次に、暗く湿度の高く感じられる室内。病人が居る
部屋特有の雰囲気。
寝ているのだろうと推測し、さらに慎重にベッドに忍び寄った。
顔が赤い。指先で額に触れると、熱く感じた。額を冷やす物は必要
だろう。
別に、面倒とかではないのだ。そもそも看病が無ければ小説を読
み返すくらいしかやる事が無かった彼女である。看病だけなら、構
わない。問題はそれをブシガイトが知って、この家にいる事に慣れ
てしまう事だ。
今はまだ、彼はこの家に慣れ切っていないとローレルは見ている。
自分が彼と碌に話さず防波堤の様になっているのだろう。それが狙
いでもあって、その為に彼女は頭を悩ませていた。自分の信念と目
的のせめぎ合いである。ボーダーラインは何処に。
﹁これでいいでしょうか﹂
冷蔵庫から熱救急シートを一枚取出し、鋏で半分に切った。再び
そろりそろりと階段を上る。ドアを微かに開け、寝ているかを探っ
た。息は、先ほどよりも落ち着いている。今だ! と踏み出した瞬
1487
間だった。
﹁あれ⋮⋮おばあさん⋮⋮?﹂
弱々しい声にピタッ、とローレルの動きが止まった。ただ寝言の
ようでもあって、それが余計に少女の動きを抑止する効果をもたら
した。
奇妙な体勢のまま硬直するローレル。ブシガイトは侵入者が少女
であると気付いていないのだろうままで、弱々しく言葉を続ける。
﹁また、世話をしに来てくれたの⋮⋮? いいって。僕はそこまで
弱ってないし、恥知らずでもない。カバラ関連で用事があるんでし
ょ? そっちを優先しなよ⋮⋮﹂
少女は口を開かないまま、カバラ⋮⋮? と眉を寄せた。カバラ
とは一体何だろう。しかし、ひとまず、ブシガイトがいまだ家族に
対して引け目を感じていることが分かった。
﹁⋮⋮﹃神よ、偽りの光を与えたまえ﹄﹂
変装の聖神法である。ブシガイトが来てからと言うもの、彼女は
杖を手放したことが無い。祖母の外観をまねて作った幻影を身に纏
い、ローレルはゆっくりとブシガイトに近づいてその額に熱救急シ
ートを貼った。少しだけ彼の表情が解れる。とはいっても、無表情
だ。彼は自分の前では表情を作る。気を遣われている事は知ってい
る。
目は瞑っていて、やはり寝言だったのだと思った。
1488
ローレルは、再び音を殺しながら部屋を出た。事が上手く運んだ
と、小さく握り拳を作る。扉を閉めた後、居間で時間を見た。十一
時。一、二時間後に、また彼の部屋を訪れなければならない。しか
も、今度は起こさねばならないのだ。難しい課題である。そんな風
に考えながら、少女はひとまず読み返す本を選び出す。
小説の再読は、当然初読の時に比べて進みが早い。その上選んだ
本は薄かったのも手伝って、読み終わる頃でも十二時丁度を回った
ところだった。ローレルはソファーから立ち上がり、エプロンを着
る。これが彼女のスイッチなのだ。
﹁ブシガイト君は日本人だから、味には五月蝿いでしょうし⋮⋮。
手堅い料理にしたいですね﹂
とはいえ病人。無難なのと言えば、チキンスープだろうか。野菜
は新鮮なものをみじん切りにして加えれば、治りも早かろう。
小食なローレルだから、自分のも同じものでいいかと手抜きをす
る。手早く作って、二階に持っていった。あらかじめ祖母に化ける
のも忘れない。
一つ問題があるとすれば、声までは祖母の物にすることが出来な
いという事だ。姿は鏡を見てもバッチシだったが、如何にして声を
出さずに食事を摂らせるか︱︱
そのように考えながら、扉を開けた。寝たままのブシガイトが、
こちらに上気した顔を向ける。
﹁あ、おばあさん。さっきはおでこのこれありがとう。⋮⋮アレ?
おばあさんじゃなくてローラ? 何で変装してるのさ﹂
1489
声を出すとか出さないとか、そういう段階ではなかったらしい。
﹁⋮⋮何でわかったんですか?﹂
聖神法を解きながら問い返すと、﹁バレバレだよ﹂と笑われた。
少しむっとしたローレルは、ちょっとだけ雑な態度で﹁昼食です。
どうぞ﹂とだけ言ってベッド傍のチェストにスープを置いた。その
まま足早に去ろうとすると﹁ごめん。ちょっと上半身を起こすのだ
けでも辛いんだ。手伝ってくれると嬉しいのだけれど﹂と困った声
で言ってきた。
先ほどの寝言の遠慮はどうしたのだ。と少女は怒りを覚えた。ロ
ーレルは聖人ではない。目論見がことごとく外れた上に馬鹿にされ
れば、腹だって立つ。だが断る事は信念に反していた。だから、せ
めてもの抵抗に仏頂面で食べさせてやろうと考えていた。
その目論見さえ外す言葉を、ブシガイトは発した。
﹁大丈夫だよ、心配しなくて。僕はこの家に馴染んだりしない。治
る⋮⋮というのがよく分からないけど、時期を見てすぐに出ていく
から﹂
頭が、冷えるような思いをした。怒りはするりと手の内から零れ
落ちて、呆然とした声だけが、彼の言葉に応答した。
ローレルは、しばし混乱の最中に在った。注意深くブシガイトに
スープを飲ませながら、彼の心の内をずっと考えていた。その時、
初めて気になった。彼がここに辿り着くまでの軌跡が。
1490
スープを飲ませ終えて、その事にローレルはしばらく気が付かな
かった。ブシガイトに名を呼ばれ、はっと我に返る。慌て気味にそ
そくさと皿を回収して部屋から出ていったが、それまでの視線がま
るで幼子を見るような温かい物であることも気になった。
気にし始めると、彼の一切が謎に包まれている事が発覚した。
不発弾に悩むのは、御免だというのに。
﹁⋮⋮三時⋮⋮﹂
恨めしそうな目つきで、ローレルは時計を見る。三時。一日の一
区切りの内の一つとも考えられる。昼食から二時間強経った。そろ
そろ、水分が足りないとブシガイトが苦しんでいるかもしれない。
﹁会いたくない。会いたくない⋮⋮けど、人を苦しむのは見過ごせ
ません﹂
冷蔵庫の中から大型のペットボトルを取出し、水をコップに注い
でから階上へ向かう。今日は何度も階段を上り下りしていて忙しな
い。全く、それもこれも、全てブシガイトの所為だ。彼が寝込まな
ければ、自分はずっと本を読んでいられたのに。
﹁⋮⋮まぁ、それはそれで飽きそうですが﹂
軽く四回、扉をノックする。ノックが四回というのは、仕事など
距離感の遠い間柄の作法である。近しい相手だと三回、トイレが二
回だ。
返事は無く、寝ているのかと推察した。こっそりと開けて部屋を
1491
覗き見ると︱︱先ほど電源を切っていった自分が言うのもなんだが
︱︱暗い。息は整っている。もしかしたら明日には治るのかもしれ
ない。
ベッド間際まで忍び寄り、チェストにコップを置く。そのまま寝
顔を見た。息は整っていたが、表情は大丈夫だと言い難い。辛そう
な顔だと思った。何かに、耐えているような。
よく見れば、唇が微かに動いているようでもあった。ローレルは
耳を寄せてみる。二文字の何かが聞こえる。そして、その他にも音
があった。べたついた水音のようなそれだ。
少女は聞き取ろうと尽力したが、結局はよく分からずに終わった。
聖神法の教科書を見ればそれ用の呪文が載っているのだろうが、今
から行って戻って来るまでずっと彼が寝言を止めないとも限らない。
というか止めていなかったら軽く恐怖だ。
﹁⋮⋮はぁ。本当、貴方は一体何者なのですか、ブシガイト君。鋭
い洞察力があったり、その割に遠慮深かったり。何を隠しているの
か、私にはさっぱり分かりません﹂
聞こえていない、と思えば、このくらいの言葉は軽く出て来るの
だ。そもそも、ローレルは無口でもなんでもない。喋りたい時は喋
るが、家の外ではその機会が少ないだけである。
今日一日で、妙に彼に親近感を持ってしまったと、少し自分に呆
れた。起こさないような小声で﹁では、私はもう行きます﹂と告げ、
ベッドから立とうとする。
1492
するとローレルは、ふと、彼の頬を伝う何かに気付いた。
血だ。ローレルは、息を呑んで瞬きする。すると、勘違いであっ
た事が知れた。透明の滴である。酷く寂しげな表情で、ブシガイト
は涙を流していた。
﹁⋮⋮﹂
声は出さない。ただ、無意識のうちに手が伸びた。涙を拭こうと
したのかもしれない。水滴に触れたのだけは事実で、その先は分か
らなかった。
というのも、その瞬間に彼が目を覚ましたのだ。悪夢から目覚め
るような起き方だった。ローレルは怯み、手を遠ざけて反射的に謝
りかけた。だがブシガイトは、手を掴んだまま、泣き出した。
﹁っ⋮⋮!﹂
少女は、その姿を見て何も言えなかった。寝ぼけているのだろう。
それは、考えるまでもない事だった。しかし、何が彼にそうさせた
のか。それを考えると、底知れぬ恐怖を感じた。
彼の泣き方は、母親に捨てられた子供にそっくりだった。弱々し
く縋って、すすり泣くのだ。少女はそれを見て、自分の表情までも
が歪む感覚を覚えた。筋違いだと、自分を叱咤する。彼は、受け入
れてはならない相手だ。それが、不思議な泣き方をしたくらいで同
情してしまうなど、許されない事なのだ。
しかし、手を振り払う事が、ローレルにはついぞ出来なかった。
どうして母親を求む子供を見捨てることが出来よう。気付けば彼女
1493
は少年の手を強く掴んで、彼と包み込むようにして泣いていた。自
分の姿を自覚しても、我に返ることが出来なかった。そして、その
まま泣き続ける。
それは、ローレル・シルヴェスターという少女の人生が、大きく
捩じれた瞬間だった。
1494
8話 森の月桂樹︵4︶
一応の所体調が治って気付いたことと言えば、ローラの態度の変
化である。
取り立てて優しいというのではないが、何処か砕けた感じがあっ
た。自然体というと、更に近い。ヘレンばあさんなどが言っていた
ローラの人間像そのものが、今のローラであるように思える。
﹁ソー、朝ごはんですから、起きてください﹂
呼び方が変わったのも、最近の事だ。家族に習い総一郎の﹃総﹄
を取った形だが、微妙に彼女の祖父母とは違う。もっと適当な呼び
方だ。けれど、何だか総一郎からしてみると不思議に新鮮でくすぐ
ったい。
三度のノックに呼ばれて下りていくと、ヘレンばあさんとローラ
がすでに食卓に並んでいた。相変わらず、他人の家の食卓に参列す
るというのが総一郎には慣れなかった。その為少し気後れしつつ食
事を終えて、素早く自室に戻ろうとすると、おばあさんに止められ
た。
﹁ソウ。ちょっとお待ちなさいな。ローレルも、食べ終わってもし
ばらくここに居ておくれ﹂
何だろう? と少年は眉を顰める。その用事の正体に思考が回り
始めるが、ローラの言葉がそれを寸断した。
1495
﹁⋮⋮何でしょうね。私たちを呼び止めるなんて﹂
﹁え、うん。そうだね﹂
ローラの態度の軟化には、未だついていけない総一郎である。理
由が分からない変化というものは、容認しがたい。
そんな戸惑いが感じられたのか、僅かに怒ったような視線が少年
に向けられた。総一郎は気まずさに視線を逸らす。そこに、おばあ
さんが戻ってきた。
﹁ふぅー。あー、重い重い。ローレル、少し手伝っておくれ。平気
だと思っていたけど、やっぱり年を取るのは怖いねぇ﹂
くつくつと笑いながら、重そうな機械を肩に担ぎ上げているヘレ
ンさん。総一郎も立ち上がったが、﹁座っていなさい﹂と諌められ
てしまった。その機械はテーブルの上に載せられる。古い。総一郎
の前世を基準にしても古い一品だ。銀色の外身に、真っ黒なスクリ
ーンが貼り付いている。
﹁あ、懐かしいですね。何で今出してきたんですか?﹂
ローラには覚えがあるらしい。更に訳が分からなくなる。耐えか
ねて、尋ねた。
﹁あの、これは一体何?﹂
﹁えーと⋮⋮計算能力を養うと言いますか⋮⋮﹂
﹁幼児向けの計算力鍛錬機だよ。正式名称は知らないがね。ただ、
1496
これは私が少し改造してある。そんな訳でね、二人には勝負しても
らおうと思ったのさ﹂
﹁えっ?﹂
﹁⋮⋮何でそんなこと考えついたのさ﹂
﹁まぁまぁ、いいじゃないか。親睦を深めるってね。ローレル、こ
れでソウに負けたら、今日の晩飯はお前だけ抜きだから﹂
﹁え!﹂
﹁いや、それはちょっと残酷じゃない?﹂
しかもローラ限定である。総一郎は負けてもペナルティが無いと
いう事らしい。その事に気が付くと、一周回って腹が立ったような
気がした。抑えようとすれば抑えられるが、そうする必要もない。
怒ったような素振りをしつつ、切り出す。
﹁というか、僕がそう簡単に負けると思われるのも癪な話だよ。日
本の英才教育を舐めないでほしいな﹂
何せ二桁の掛け算を暗算させられるスパルタである。他にも、こ
れと似たようなこともやらされた。五ケタの数字の七連続足し算ま
では総一郎の実力に入る。正直何でクラス全員が乗り越えられるの
か、少年にはよく分からない。
だが、対するヘレンばあさんは余裕綽々で答えた。
1497
﹁私は日本の英才教育とやらを甘く見ているんじゃない。自分の英
才教育に自信を持っているのさ﹂
﹁じゃあぜひ見せてもらいたいね。その英才教育とやらが、どの程
度の物か﹂
﹁二人とも英才英才五月蝿いです﹂
だが総一郎と老婆はそんな少女の言葉なんぞどこ吹く風。ヘレン
ばあさんは機械にスイッチを入れる。緑色の8が八つ並んでいる。
一ケタ増えた程度では、狼狽えない総一郎だ。
﹁じゃあ、今からここに出て来る数字を全て掛け算するんだよ﹂
一瞬おやと思ったが、気にしなかった。せいぜい二桁、ないしは
三桁だろう。三桁同士となると自信は薄いが、絶対に無理ではない。
もっとも、現れたのは五ケタの数字だったか。
﹁えっ﹂
ぱっ、ぱっ、ぱっ、と五ケタ、六ケタの数字が合計で四回明滅し
た。総一郎はあまりの衝撃に最初の一つ目さえ覚えていられなかっ
た。顔を上げると、声を殺してヘレンばあさんが爆笑している。騙
しやがったなと思って仏頂面をすると、横からこんな言葉が聞こえ
た。
﹁⋮⋮31427837958283742ですか?﹂
﹁正解!﹂
1498
﹁うんちょっと待って﹂
抗議の声を上げると、きょとんとした純粋な瞳が総一郎を見つめ
た。その所為で、更に困惑する。まさかと思ってヘレンさんの方に
も目をやったが、彼女はやはり笑っている。訳が分からず固まって
しまう総一郎。
﹁あー、面白かった。という訳でね、ローレルのかくし芸の一つ、
暗算が得意であるのをお披露目したという訳さ﹂
﹁⋮⋮本当に計算して、本当に答えを出したの? ローラ﹂
﹁え、ええ。そうですけど⋮⋮﹂
心底凄いと一周回って懐疑的になってしまうのは総一郎の悪い所
かも知れない。いけないと彼は首を振り、こっそり精神魔法で嘘か
そうでないかだけ確かめて、﹁うん﹂と彼は頷く。
﹁ローラ、君は凄い。ちょっと気味が悪いくらい凄い。というか本
気で君の頭の中を見て見たい。どうなってるの? 桁が大きめの電
卓でも入ってるの?﹂
﹁い、いえ、そんな事はある訳ないじゃないですか﹂
﹁うん⋮⋮。いやもう、本気で訳が分からない﹂
スナーク、スライム並みの衝撃にため息を吐く。もしかしたら、
数年に一回はこういう事があるのかもしれない。そう考えると人生
が何か嫌になってくる。
1499
余談だが、スライムは山籠もりのころに戦った時、木刀を突き刺
したら破邪の力に反応したのか掃除機に吸われるようにして消滅し
た、という事があった。
推理するにアレは液体生物であるからして、木刀に触れたそばか
ら消滅していくのに対し、楕円形を保つ生物的な働きによって﹃消
滅↓体積減↓形を保つべく消滅した部位にスライムの体が集まる↓
消滅﹄のサイクルが起こったのでは、という事なのだが、つまりは
それを予備知識なしの直視したという経験が総一郎にはあって︱︱
ああ、頭が痛い。
﹁⋮⋮おばあちゃん。何かソーが弱っているのですが﹂
﹁思った以上に驚きに弱いね、この坊やは。ほら、しっかりおし!﹂
抱えていた頭を強めに叩かれ、恨めしい顔になる総一郎。﹁弱る
と素が出るね﹂と言われきょとんとすると﹁あ∼﹂と落胆の声を出
される。
﹁⋮⋮何さ﹂
﹁いやいや、別に何でもないよ。ねぇ、ローレル﹂
﹁は、はい!﹂
﹁⋮⋮別にいいけどさ﹂
自分が玩具にされているようで、面白くない総一郎である。だが、
次の老婆の言葉が、強く総一郎を惹き付けた。
1500
﹁ちなみに坊や。数秘術に置いて、八桁の暗算が出来る様になれば
あとは知識次第で個人ならどうとでも出来るよ﹂
顔を上げる。息を呑む。老婆は総一郎を見て、にやりとした。﹁
概要を一切教えないのもどうかと思ってね﹂と彼女は言う。
﹁数秘術は技術としてのカバラの神髄。数字で解析した因果なのさ。
つまり、数秘術に不可能はないという事。未来を知り、未来を創る﹂
﹁ちょっ、ちょっと待ってください。何の話をしているのですか?
それに、カバラって⋮⋮﹂
﹁ローレル。お前も良くお聞き。ソウは自由意思に任せるけれど、
お前は強制的に習得させるからね﹂
﹁え、ええ?﹂
いつしか場はヘレンばあさんの独壇場である。彼女以外に困惑し
ていない者は居らず、総一郎でさえ置いてけぼりをくらっている。
﹁あの、おばあさん。一人でガンガン進まないで、ちょっとでいい
から待ってよ﹂
﹁ん? 坊やはカバラをやるつもりがなかったんじゃなかったかい。
そもそも、カバラとは知らない人間には決して分からない原理だか
らね、置いてけぼりは当然さ。さ、やらない者はさっさと上に行っ
ちまいな。ローレル、カバラは楽しいよ? 具体的には思い通りに
ならない事なんて無いからね﹂
1501
﹁何ですかその悪魔の技術﹂
﹁悪魔じゃなくて神の技術さ。知ってるかい? サタンは聖書上で
は数人しか殺していないがね、神は万だか億だかにのぼる人間を殺
しているんだよ﹂
﹁いや、そんなトリビア要らないよ﹂
﹁おや、まだ居たのかい? 部外者の分際で﹂
﹁⋮⋮ぁぁああ、もう! 何だよ! やればいいんだろやれば! 元々そこまで嫌がってたわけじゃないよ! それがこんな扱いなん
てあんまりだ!﹂
﹁とまぁ、ここまでがカバラの実演って事だね。今回は単純だった
から、だいたい四ケタの数字を三回掛けたり割ったりするだけだっ
た﹂
﹃⋮⋮は?﹄
現状、誰もヘレンばあさんの話についていけていなかった。少年
少女はともにぽかんと口を開けている。﹁ま、ここらで親切なヘレ
ンばあさんに戻ろうかね﹂と穏やかに老婆はくすくすと笑っている。
﹁正直な所、全ては坊やが持っていた﹃美術教本﹄に支配下にあっ
た。私が坊やに教えなくても、あの本が燃えない限りいずれ誰かが
教えていた。なら今に知っておいた方が坊やも困らないだろうとね、
思ったのさ。で、坊やにいう事を聞かせるためにアナグラムを合わ
せていた﹂
1502
総一郎、しばし意味が分からなかったが、冷静になってやっと仮
説が立てられた。おずおずと聞く。
﹁⋮⋮それが、今の茶番って事?﹂
﹁ああ、そうさ﹂
﹁もう訳が分かりません⋮⋮﹂
﹁ローレルはソウに比べても知識が足りないからね、後で詳しく教
えてあげるから、今は分かった振りしてふんふん頷いておきなさい﹂
﹁なるほど﹂
﹁納得しちゃうんだ﹂
﹁ま、理解しがたい概念であることは確かだからね。まず大枠から
入ろう。今回教えようとしている数秘術とは、神の技術であるカバ
ラの神髄であるのはいいね?﹂
﹁う、うん﹂
﹁はい﹂
﹁相槌から迷いが完全に消えたねローラ⋮⋮﹂
﹁で、具体的な内容は、数学を媒介とした予知と未来創造さ﹂
﹁⋮⋮何となく、理解できたようなそうでないような⋮⋮﹂
1503
﹁ふむふむ﹂
﹁で、さっきは坊やにカバラを学ばせるためにアナグラムを完全に
合わせ終えた言葉を使った。アレ以外に七通りあったがね、他はあ
まりよくなかったから止めておいたのさ﹂
﹁良くないって一体何が⋮⋮。というか、あの会話にそんな高度な
技術が盛り込まれてたの? 本当に?﹂
﹁ああ、だって坊やはカバラを学ぶことに了解しただろう? しか
も、ちょっと坊やにしては過激なくらい怒って﹂
﹁いや、でも⋮⋮﹂
﹁ソー。おばあちゃんの言うことに間違いはないのですよ﹂
﹁確かにローラは、カバラ使ったって言われても違和感ないくらい
おばあちゃん子だけど﹂
﹁おし、分かった。じゃあ、改めて分かりやすく実演と行こうか。
段々説明だけでは難しい事に気が付いたよ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
頭がピリピリしている。五歳辺りに図書に世界情勢を教えてもら
った時以来の混乱だ。正直今、ヘレンばあさんに嘘だよと言われれ
ば信じてしまいそうなほどである。
老婆はまず、ローラに耳打ちをした。少女はよく分からないと言
いたげに眉根を寄せていたが、不承不承気味に首肯する。
1504
総一郎は一体何を吹き込んでいるのだか、と半ば面倒に思いなが
ら欠伸をした。やはりやめたいと言ったらまたムカつくことを言わ
れるのだろうか。
そのように考えていた時、ローラが﹁えっ﹂と呆気にとられたよ
うな声を出した。﹁何さ﹂と言うと、更に﹁えっ、えっ﹂と気味の
悪そうな声が漏れる。
﹁おばあさん。一体何を吹き込んだんだ?﹂
﹁えっ!?﹂
﹁いやもう、ローラ五月蝿い﹂
﹁⋮⋮全部、当たりました﹂
﹁は?﹂
﹁欠伸をし、驚いたローレルに﹃何さ﹄﹃おばあさん。一体何を吹
き込んだんだ?﹄と聞いて、更に驚くローレルをうるさいとあしら
う⋮⋮と、ローレルに教えたのさ。さっきね﹂
﹁⋮⋮予言したって事?﹂
﹁まぁ、そういうことさね﹂
﹁嘘くさいなぁ⋮⋮﹂
﹁じゃあ、次は坊やの番だ。だけど坊やはただ耳打ちするだけじゃ
1505
あ信じそうにないから、ほら、これを御覧な﹂
言って渡されたのは、紙だった。とびとびの数字に、それぞれよ
く分からない台詞が振られている。全部で五十ちょっとのボリュー
ムだ。
その上部には、﹃瞬きの回数﹄と書かれてあった。一回目、二回
目、三回目、と計算方法が綴られている。
﹁⋮⋮﹂
視線で老婆に問うと、ローラの方に彼女の目線が言った。少女に
注目しろという事なのか。
﹁⋮⋮。え、今度は私ですか?﹂
﹁ああ、そうとも。じゃあソウ、今から一回目だからね﹂
無言で首肯し、ローラを見つめた。彼女はむずがゆそうにしなが
ら、視線をウロウロさせつつ五回瞬きをした。一回目の計算方法は
三度目と七度目の瞬きのみ三点とし、他はすべて二点とする数え方
だ。
合計十一点。総一郎は、11と記された場所の台詞を見る。
﹃あの、私の何を見ているのですか?﹄
﹁あの、私の何を見ているのですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
1506
総一郎、少しだけ驚いたが、まだまだである。家族ぐるみの詐欺
をすれば、この程度簡単だ。精神魔法を使えばすぐに白黒付くが、
それは無粋と言う物だろう。
二回目。掛け算である。一回目のみ三で、他は全て二だ。ローラ
を見つめていると、計六回の瞬きをして、話し出す。六回だから、
二の五乗掛ける三。96だ。
﹁すいません、一人で何かを話すというのは苦手なのです。出来れ
ばその、話しかけて戴くと⋮⋮﹂
﹃すいません、一人で何かを話すというのは苦手なのです。出来れ
ばその、話しかけて戴くと⋮⋮﹄
またもやどんぴしゃだ。まだまだ、と粘り強く待つ。その時を見
計らったように、ヘレンばあさんは言う。
﹁ちなみにだけど、今までに坊やは八回瞬きをしたね﹂
きょとんとして、視線を紙に下した。自分は一回目だと言われて
から言葉を発していないから、恐らく一回目の計算方式だ。八回。
十八点である。18。
﹃誰か、僕を助けて﹄
総一郎は、動けなくなった。息を呑んで、それっきりだ。紙が、
手の内から落ちた。それを拾ったのは、ローラだった。彼女は一度、
﹁八回ですか﹂と呟いてから、紙を見る。
1507
総一郎は、それを阻止しようとした。だが、ヘレンばあさんが一
度机を叩き、その音に異常に注目させられてしまった。老婆は不敵
に笑い、少年は我に返る。紙に目を向けた少女の顔色の変化を見つ
めて恐怖した。言い様の無い、不確かな恐れだ。
ローラは顔を上げ、総一郎を見つめ返した。少年は、その時から
逃げなければという強迫観念に駆られた。椅子ごと後ずさった時、
少女の言葉が総一郎を捕まえた。
﹁あの、ソー。少し思ったのですが、やっぱり私の呼び方を変えて
もらえませんか?﹂
﹁え?﹂
脈絡もない台詞が、総一郎の意識に空白を作った。続く声が、少
年の重力を強める。
﹁ローレルって、呼んでください。呼びにくいですけど、私、こっ
ちの方に愛着があるのです﹂
言って、ローレルは微笑した。総一郎は浮かしていた腰をペタン
と椅子に落とし、呆然としたまま首を縦に振る。
微笑みは少年の中で、柔らかな響きを残していた。
1508
8話 森の月桂樹︵5︶
ローレルと、向かい合っていた。じっと彼女の挙動に視線を這わ
せる。彼女も自分に対して同一の行動をとっており、はたから見れ
ば非常に奇怪な光景だろう。
総一郎、ローレル。両者の表情は真剣だ。しばらくして、どちら
ともなく言う。
﹃おばあちゃんがお菓子を持ってきてくれる﹄
﹁二人とも、そろそろ休憩にしないかい? ⋮⋮何で笑ってるんだ
い。おばあちゃんにも教えておくれな﹂
﹁ううん。何だか全部予想通りになるのがおかしくってさ﹂
﹁ええ。本当、面白いですね。カバラって﹂
少年少女は、うつむいて互いにくすくすと笑っていた。だが、そ
れを微笑ましいの一言で済ませてはいけない。彼らは今、最高五ケ
タの四則計算を経て、この予言を打ち立てたのである。
元々は、二人で相手の挙動を予言するというゲームだった。ヘレ
ンばあさんに提案されてからしばらくはローレルの一人勝ちだった
が、それで諦めてしまう総一郎ではない。以前唖然とさせられた計
算力を、彼なりに試行錯誤して身につけて行っているのだ。
現在では、六ケタ同士までなら磐石。七桁から二十ケタまでは、
1509
増えるだけ手間取る程度である。二十一桁目からは頭が追い付かず
ペンを走らせる。もっとも、十五桁からはそうしたほうが早かった。
縦と横に並べた線をイメージすると比較的簡単になるため、あと
はもう慣れの問題だ。そういう、わかりやすい方法がネットに載っ
ていたのである。
今はまだローレルのほうがはるかに上だが、いずれ追い付いて見
せると意気込んでいる。彼女も反骨心旺盛と聞くが、総一郎もなか
なかのものだった。
カバラの計算は、何を基準にしてものを数えるか、そして、どの
ように計算するか。具体的にはこれだけで成り立っている。もちろ
ん知りたい物体や、もしくは人間の未来を知るためには、それに関
連する情報が必要だ。多ければ多いほど予測が正確になるのは、言
うまでもないだろう。
アナグラムの読み方は、一つ一つヘレンばあさんから教わった。
そもそも、アナグラムというのは物事に付随する数字である。たと
えば、ある人間の次の言葉が知りたいのなら、その人物の口、そし
て目に注目すれば、おのずとアナグラムが読み取れるのだと。
目は口ほどにものを言うという言葉は、偉大であったという事ら
しい。
カバラを教わり始めてから、一週間が過ぎていた。ニューイヤー
も近い。
総一郎たちはお菓子を食べ終え、まったりとしていた。あのゲー
ムは非常に神経を使う。休みを入れないと間に合わないのだ。
1510
﹁それで、どうだい。練習の塩梅は﹂
﹁調子は上々です。ソーも計算が速くなってきていますし﹂
﹁上から目線が癪だなぁ⋮⋮。いつか見返してあげるから待ってな
よ﹂
﹁あらあら、仲のいいこと﹂
ヘレンさんがくすくすと笑うと、釣られるように二人も笑った。
この家にもだいぶ慣れてきた節がある。
シルヴェスター家では、静かでこっそりとした笑いがよく起きる。
総一郎のかつての居場所であったフォーブス家では、よく馬鹿笑い
が起こっていた。あれはあれでよかったが、こちらは落ち着いてい
て、居心地がいいのである。
﹁じゃあそろそろ、発展編に入りましょうかね﹂
﹁発展編?﹂
総一郎がおうむ返しにすると、ヘレンばあさんは﹁えぇ﹂と頷い
た。
﹁未来が見えるようになったら、何をどうすれば未来を変えられる
かもわかってくる。それが発展編さ﹂
﹁未来を、創るという事でしょうか﹂
1511
﹁ああ、そうだよローレル。お前は相変わらず聡い子だねぇ﹂
よしよしと老婆は孫の頭と顎を同時に撫でる。それに気持ち良さ
そうにする様は、まるで猫だ。ローレルが祖父母に猫かわいがりさ
れていることに気付いたのも、最近である。
⋮⋮あとで自分もやってみようかと考える総一郎。
﹁つまり、⋮⋮こういう事?﹂
総一郎はおもむろにローレルの前に手を出して、柏手を打った。
驚いた少女は後ろに飛びのき、背後の棚に背中をぶつける。すると
その棚の上に乗っていた小さな小瓶が倒れ、コロコロと転がって棚
から落ちた。そこに丁度現れたおじいさんの足に着弾する。
﹁痛っ! あっ、ぐぁっ!﹂
﹁おじいちゃん大丈夫ですか!﹂
﹁ソウ。あなた理解が早いのねぇ⋮⋮。というかこのアナグラム、
私が用意してあったものだったのだけど﹂
﹁ごめん。気づくとどうしても使いたくなっちゃって⋮⋮﹂
﹁分からなくもないけどねぇ﹂
﹁コラ! つまりお前らは、儂を玩具にしたってことか!﹂
まったく⋮⋮と言いながら、眉根を寄せた老爺は小瓶を拾い上げ
る。割れていないのだから、ヘレンばあさんの用意したアナグラム
1512
のすごさがわかるというものだ。
余談だが、爺さんはカバラを知っている。だが、カバリストでは
ないらしい。興味がないうえ、数学が昔から嫌いなのだという。
勿体ないと思ってしまうのは、好奇心の犬だからなのか。
﹁とはいっても、ここまで綿密に計算するのは中々に骨だからねぇ。
今日教えるのは、簡単なものだよ﹂
総一郎とローレルが椅子に並んで座りなおしたのを見計らって、
ヘレンばあさんは言った。爺さんは拗ねて部屋の隅っこで作成途中
らしい杖の様子を見ている。飴色で、いつみても見事な出来だった。
これで食っているだけはある。
﹁カバリストになると、普通分からないことが分かるようになる。
つまりは、それだけ危険な情報を知ってしまうという事﹂
﹁⋮⋮危険な情報とは、何なのですか?﹂
﹁危険な情報は、危険な情報さ。だから、今回は手早く使える護身
術を教えようと思ってね﹂
ローレルは意味が分からないと言いたげに首をかしげているが、
総一郎は心当たりがあって目を下へ向けていた。うつむかない程度
のそれである。もっとも、ヘレンさんからはバレバレなのだろうが。
﹁という訳で、今回はお手軽に相手を気絶、腹痛、頭痛に追い込む
アナグラムを教えるよ﹂
1513
﹁傍から聞いているとものすごく怖いのですが﹂
﹁下手すると聖神法なんかより全然強いよね、それ﹂
﹁そりゃそうさ。カバラはすべての基本。この世にある物事はすべ
てカバラで説明が付くんだよ? この世で一番強い技術に違いはな
いさ。もっとも、難解さもトップだから使い勝手はよくないけれど
ね﹂
﹁つまり、カバラを完全に理解し切れている人が最強ってこと?﹂
﹁平たく言えばそう感じるだろうけど⋮⋮それもまた違うんだよ。
物事には例外というものがあってね。カバラですら、解析すらしき
れない技術もある。相当レアだけどね﹂
﹁そんな物があるのですか﹂
﹁ま、これは知らなくていい事さね。知っていても、益のあること
じゃない。一つ言えることがあるとしたら、そういう人物がいたら
その国からは出ていきなさいってことだね﹂
﹁国レベルなんだ!?﹂
﹁スケールが大きいですね⋮⋮﹂
﹁それは置いといて、だ﹂
ヘレンさんは仕切りなおす。
﹁まず、相手を無力化するために必要なのは、相手に与えられるア
1514
ナグラム量を極端に多くするか、あるいは相手に都合の悪いアナグ
ラムを揃えるかのどっちかだ﹂
﹁後者はわかるんだけど、アナグラム量を極端に多くってどういう
こと?﹂
﹁簡単に言うと、特定の人物の脳に過度な情報を与えてショートさ
せるのさ﹂
﹁だんだん私の中のおばあちゃん像が崩れていきます⋮⋮﹂
﹁実演するとしたらこんな感じだね﹂
言いながら、ヘレンばあさんはおもむろに指を鳴らした。その時、
横に座るローレルが﹁あれ⋮⋮?﹂と頭を押さえながらふらふらと
よろめき、総一郎のほうに倒れこんできてしまう。
驚きながら少女の様子を注視すると、目を瞑り、おそらく気絶し
ているようだった。﹁何を起こしたの﹂と微妙な顔つきで尋ねると、
﹁何でもかんでも聞くもんじゃないよ﹂と微笑とともに肩をすくめ
られてしまう。
総一郎はそれを受けて、ふむと口に手を当てた。先ほどの会話の
流れから考えれば、ローレルは情報過多のために気絶したのだと思
われる。だが、今の指鳴らしがそこまで刺激的だったとは思えない。
だとすると、指鳴らしが彼女にとってのみ、とてつもない情報量を
持っているとしたら。
人間は、想像する生き物である。その中でも、物や出来事に付随
するものを連想という。指鳴らしにとてつもない量の連想が加わっ
1515
ていたとすれば、今のだって不可能じゃない。だが、気絶直前のロ
ールのアナグラムを読み忘れた総一郎としては、確証は持てなかっ
た。
ままよ、と思いながら、今立てた仮定を口にすべく老婆に向き直
る。そして、気付いた。
ヘレンばあさんの口と目が、先ほどの会話はすべて嘘であったと
語っている。
﹁⋮⋮カバラを教えてくれる時だけは、本当に意地が悪くなるよね。
おばあさん﹂
﹁いやいや、そんな事はないさ。坊やの推理は間違っていなかった
よ? 連想による大幅なアナグラム合わせというものは存在する。
⋮⋮今回は違うけどね﹂
ローレル、お起きな! というヘレンさんの声に、少女は目を開
けた。彼女は総一郎に膝枕していた事に気が付いて﹁お、お世話を
おかけしました⋮⋮﹂と赤くなりながら素早く起き上がる。
﹁で、ローレル。今君は気絶していたわけだけれど、気絶するとき
どんな感覚だった?﹂
﹁え、いや、そんな身を乗り出しながら聞かれると困ってしまうの
ですが﹂
﹁いいから早く!﹂
﹁怖いです、ソー!﹂
1516
上半身を極度にそらしながら、少女はおびえた表情で叫ぶ。ヘレ
ンばあさんはそれを見て笑い、隅っこの爺様もこっそり噴出してい
た。こちらは真剣だというのに、と憮然とする総一郎だ。
﹁えっと⋮⋮、何と言いましょうか、いきなり目がチカチカして、
力が抜けてそのまま⋮⋮です﹂
ローレルが語るのを聞いて、総一郎は考え込む。
しかし、いくら考えても分からなかった。連想でない。しかし、
文脈からして都合の悪いアナグラムを合わせたというのでもない。
つまりは、総一郎の知識の限界である。肩をすくめて見せると、ヘ
レンさんは頷いてからこのように言った。
﹁正解はね、﹃魔法を使った﹄だよ﹂
﹁⋮⋮え? 呪文を心の中で唱えたってこと?﹂
﹁いいや、さっきの指を鳴らしたのが、正真正銘、魔法の合図にな
ったってことさ﹂
﹁⋮⋮そんな事あり得るのか? いやでも、あの論を使えば納得で
きないわけじゃ⋮⋮、でも﹂
総一郎は、言いながら深く思考の淀みに身を投げ出した。今まで
読み蓄えてきた知識を、その中から探し出していく。
魔法は、当然だが、普通才能がない限り加護をもらうしか使える
ようになる手段がない。イギリス人のヘレンさんに使えるわけがな
1517
いのである。だが、魔法とはそもそも何なのかという領域に踏み込
むと、事情は少しばかり変わってくる。
亜人が現れたとされるマヤ歴の終わり以前には、超能力者と騒が
れる人がいた。他にも、人体発火など当時の科学では説明のつかな
い現象が起こった。
今日ではそれが魔法の先駆けのようなものであったという仮説が、
ひっそりと存在している。また、それを呪文によって意識的に発動
できるようにした亜人伝来の超技術を、われわれは﹃魔法﹄と呼称
しているのではないか、と。
余談だが、これはすべて本の受け売りだった。最近総一郎がお気
に入りの新書である、﹃亜人社会論﹄の著者、サラ・ワグナー氏の
著書の一つに書かれていたのだ。とはいっても、その本は売れなか
ったらしいが。
﹁つまるところ、呪文以外の方法で魔法のアナグラムを合わせたっ
てこと?﹂
﹁そうだね。カバラとはすごいだろう? 最終的に数字さえあって
しまえば何とかなっちゃうあたりが﹂
﹁反則ですよね﹂
﹁いいや、むしろ私たちほどルールに忠実な人間はいないよ﹂
軽口をたたきながら二人はくすくすと笑っているが、総一郎は改
めてカバラの有用性に恐れおののいていた。これは、ただの技術な
どではない。ヘレンさんの言うとおり、すべての根幹に位置する真
1518
理なのだと。
﹁⋮⋮ってことは、カバラを鍛えていけば、敵の魔法阻害とか、自
分だけの魔法の創作とかが出来るってことなのかな。︱︱ヤバい、
ワクワクしてきた﹂
震えるほどの笑みを、少年は抑えることができない。それを見た
老婆とその孫が、一瞬表情を引きつらせたのは、幸運なことに彼の
目には映らなかったようだった。
後日、総一郎は今の机に向かったひたすら計算をしていた。ロー
レルが背後から近づいてくるのは知っていたが、今は無視しておく。
そこに、後頭部の下に小さな衝撃が走った。おそらく、デコピン
をしたのだろう。気にするまでもない。
だが、次の瞬間総一郎の遠近感覚が崩壊した。あ、と思う頃には
もう遅い。少年は机に突っ伏し、気絶してしまう。
﹁ソー、起きてください﹂
﹁ん、うぅん⋮⋮﹂
頭がぐらぐらする感覚とともに、背後から揺らされ覚醒した。﹁
ローレル﹂とその名を呼ぶ。
﹁⋮⋮ちぇ、アナグラムが全部ふさがれてる﹂
1519
﹁ふふん。ソーがやられたらやり返す性分なのは知っています。対
策をしないわけがないでしょう﹂
﹁仕方ないから頭痛にしちゃえ﹂
言うが早いか、少年は少女の額を指で三度叩いて、少女の抵抗に
合わせて頬をつついてから鼻を引っ張った。解放すると彼女はうめ
き声とともに頭を押さえてうずくまる。
﹁ごめ⋮⋮んなさい。お願いですから、助けっ、⋮⋮ぅぅぅ﹂
﹁鳩尾のあたりを強く押せば治るよ。僕は押さないけど﹂
報復は済んだので、放置して計算を再開させる。数秒すると足元
からのうめき声もなくなり、代わりに荒い呼吸音が現れた。
﹁酷、⋮⋮くはないですか⋮⋮。私は少し気絶させただけなのに⋮
⋮﹂
﹁少し気絶っていうのが価値観おかしいからね。じゃれ合いにして
も程度というものがあるから﹂
﹁はい⋮⋮﹂
叱られて意気消沈してしまうローレル。彼女は気が強い反面、自
責も激しい。こちらが許さないと表には出さないが悩み続けるので
ある。なぜ表に出ないのに分かったのかと言えば、数秘術の成果だ。
つくづく生きづらい性格をしているな、と他人事ながら思ってしま
う。
1520
﹁まぁ、それはこれから気を付ければいいとして、ローレル、手伝
ってくれる?﹂
﹁はい? いいですけど、何をでしょう﹂
﹁アナグラム計算。今魔法の解析をしてるんだけどさ、途中から五
十桁に跳ね上がっちゃって大変なんだよ﹂
﹁五十ですか⋮⋮、相当ですね﹂
まさか魔法がこんなに難しいとは思わなかった、と言って笑いか
けると、彼女も相好を崩してくれた。そこに偽りの数はない。嘘か
そうでないかを知るだけなら、小学生でもできる。
﹁分かりました、手伝います﹂
﹁じゃあ、ちょっと待ってて﹂
言いながら、空いているメモ紙にローマ字表記の呪文を綴ってい
く。そして、発動魔法指定の節、物理魔術の節、皮きりの節の区切
りにそれぞれ線で区切り、軽い説明をした。
﹁分かりました。⋮⋮で、何でこんなことを?﹂
﹁え? 単なる興味本位だけど⋮⋮。ほら、仕組みが分かると、よ
り効果的な使い方みたいなのが理解できるじゃない? 発展性、っ
ていうか。具体的には呪文に新しく一文字付け足すだけで二倍の威
力が出る、みたいなのが発見されたら、それこそノーベル賞並みの
大発見だからね﹂
1521
﹁そうですか。⋮⋮何でしょうか。ちょっとした教授になった気分
です﹂
﹁どっちかというと助教授だね。頼りにしてるよ﹂
﹁はい!﹂
一中学生の挑める命題では、普通ないのだろう。だが総一郎の学
力は、今や余裕で難関大に首席合格がかなうレベルには達していた
し、カバラという力強い味方がいる。というかヘレンさんがやって
いたこと自体がすでにノーベル賞に届くものなのだ。そう考えると、
ノーベル賞が安いのか、カバラが万能すぎるのか。
時間は昼過ぎ、そのまま数時間、二人は計算をし続けた。夕食を
終え、二人黙々と続ける。ちょくちょく計算結果を突き合わせて話
し合ったりもしたから、退屈だと思うことはなかった。
夜の九時。二人はシャワーも浴びずに、力尽きて椅子にもたれか
かっていた。それだけ頭を酷使したのである。擦り合せで計算ミス
があった時なんかは、少年少女ともに大パニックだった。何度でも
言おう。時間魔法のアナグラム総合が百桁に届くのは、明らかにお
かしい。
何をやっているのだ、という話だが。
﹁先、シャワー浴びてきていいよ⋮⋮﹂
﹁では、ありがたく⋮⋮﹂
1522
気力のない言葉を交わし、立ち上がるローレルに手を振った。総
一郎は椅子にもたれていた上体を正し、今のところ分かった事実を
文字で軽く羅列していく。
﹁結構新事実あったよね﹂
やって良かったと呟きつつ、手を動かした。魔法の基本構造。呪
文の一語一語に込められた意味。
魔法は、習い初めにはイメージが大切だという風に教えられた。
今では発動できることを確信しているからイメージするまでもない
のだが、実は魔法は、﹃存在を確信していないと使えない﹄という
特性がある。
その理由はまだ数字の擦り合せが足りず分かっていない。だが、
必ず呪文に組み込まれる制約の文字列四種の中の一つだという事は
判明していた。残り三つは、まず加護数とこめられた意識的な魔力
︵と呼称するよりほかの無い物︶を参照して威力が定まるという事。
二つ目に手のひらに発生するという事。残る一つは、いまだ判明し
ていない。
総一郎は、手のひらに発生するのには理由があったのだと面白が
った。この部分の呪文を実験しつつ調節すれば、これから非常に役
に立つはずだ。具体的には、空中浮遊式の見直しである。物理魔術
も風魔法もすべて手のひらから発動していたが、これが足になれば
もっと自由度が高まるかもしれない。
そういえば、空間魔法と呼称しているあの謎の魔法を解析するの
を忘れていた。もしかすれば、あれを参考にすれば簡単に実験がう
まくいくかも、と少年は自らの発見に頬が緩んでしまう。
1523
﹁上がりましたよ。次どうぞ﹂
﹁うん、ありがとう﹂
パジャマに着替え、肩口までの金髪をタオルでワシャワシャとや
るローレル。白い肌が湯気に紅潮していて、湿った髪が妙に色っぽ
い。
少女の美貌には気づいていた少年だが、改めてはっとさせられた。
総一郎は立ち上がり、こっそり首を振りながらシャワールームに赴
く。
翌日、揺り動かされる感覚に、うめきながら目を開けた。﹁起き
てください、朝ですよ﹂とローレルの声。寝ぼけながら了解し、上
体を起こす。
だが、そうして目を擦っている内に違和感を覚えた。家では誰よ
りも早くに起きる総一郎である。それがこんな、寝坊助のような扱
いを受けるわけがない。
と、ナイが居た頃のことをすっかり遠くヘブン投げて、総一郎は
欠伸をしながら﹁今何時?﹂と聞く。
﹁三時です﹂
﹁分かった、お休み﹂
﹁駄目です、起きてください﹂
1524
﹁違うよ、三時ってあれだから。夜だから。朝っていうのは空が白
み始めてからのことを言うの。というか寝ぼけてて気づかなかった
けど今全然暗いよね? 僕こんな色合いの町、旅行前の早起きした
朝くらいでしか見ないよ?﹂
﹁朝じゃないですか﹂
﹁そうだね、君にとっては朝だ。けど僕にとっては違う。だから寝
る﹂
﹁ダーメーでーすー!﹂
まるで子供のような口調のローレル。もしかしたら、学校から離
れてかつ、総一郎と意外に仲良くなってしまって気が緩んでいるの
かもしれない。という事は、これが彼女の素か。
そう考えるとちょっと貴重なように思えてくるから不思議だ。試
しに、なぜと問うてみる。
﹁だって、魔法の解析がまだ終わっていないじゃないですか!﹂
身振り付きで意気込む少女。それは総一郎を、まるで鏡を見てい
るような気分にさせる。
﹁⋮⋮ローレルってさ、こういう、新たな知識の開拓的な作業って
好きなの?﹂
﹁はい。昨日私も初めて知りました﹂
﹁なるほど﹂
1525
好奇心の犬がここにもう一匹。
総一郎は少し顔を洗ってくるといって、少女を押しのけて洗面台
に立った。鏡を見ると、表情らしきものが見える。不意に気になっ
て、手袋を外した。﹃歪み﹄は、少しずつだが退きつつある。
﹁⋮⋮﹂
少年は、再び手袋をはめた。内心の喜びは、まだ表に出さない。
ただ、あらゆる意味で健康に過ごしていれば、治るものなのだと思
った。それは、少年にとって非常な救いだった。
総一郎は顔を洗い、一通り済ませてから、居間へ下りて行った。
当然ながらカーテンが窓の外を覆い隠していて、その端からは滲み
出るような闇が覗える。
ローレルは、そこに居なかった。台所に、気配がある。そちらへ
歩いて行って﹁何してるの?﹂と問えば、﹁朝ごはんを少々﹂と手
短に返される。
総一郎は待ち時間に放心しているのも何だから、と考えて空間魔
法、そして聖神法の祝詞を紙に綴り始めた。昨日思いついた空間魔
法は当然、聖神法も手の先以外から出る異能であるとして、参考に
なると思ったのだ。
空間魔法の解析が終わったところで、ローレルが朝食を持ってき
た。目玉焼きを中心とした、伝統的な献立である。この年でここま
でできていれば大したものだと思いながら、頂きますの礼をして食
らいついた。
1526
朝食後、あらかじめ書いておいたメモ紙を渡した。それを見て、
少女は瞳に疑問符を浮かべる。魔法ではないのか問われ、理由を説
明した。
﹁魔法って手のひらからしか出ないんですか?﹂
﹁うん﹂
﹁そうですか⋮⋮不便ですね﹂
﹁まぁね。だから、聖神法を参考に違う場所からも出せないか、検
証してみようってこと﹂
なるほど! と目を大きく見開いて、ローレルはぽんと手をたた
いた。ところで、と聞く。
﹁その仕草って日本特有だと思ってたんだけど、イギリスでもそう
いうジャスチャーってあるの?﹂
﹁え? ⋮⋮そういえば私とおばあちゃん以外に、誰かがやったの
を見た事がないです。どうなんでしょうね﹂
ローレルは、軽い感じに首をかしげる。あまり興味が湧かないの
か、﹁では、取り掛かりましょうか﹂と笑みと共にメモに向かい合
った。総一郎も、それに続く。
聖神法の解析は、あまり面白いものではなかった。魔法はきっち
りと区切りがあって分かりやすいのに対し、聖神法は、カバラを通
してですら数字が混ざり合っている。最初の﹃神よ﹄の一節でさえ、
1527
何を意味するのか分からないほどだ。
やはり魔法の解析に戻ろうかと考えていると、ローレルが﹁あれ
?﹂と言った。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
集中力が切れ、視界が広がる感覚を抱く。いつの間にか日が昇っ
たのか、カーテンから光が漏れ出ていた。総一郎は答えを待ちなが
ら、立ち上がって日を遮るものを取り払う。
﹁⋮⋮いえ、私の計算違いだと思います。多分﹂
﹁そう? でも、一応見せてよ﹂
﹁はい。⋮⋮これです﹂
渡されたメモ紙の数字を見つめ、総一郎は少女の困惑の意味に気
付いた。少年に縁の深いとある光魔法と、合計数がほとんど同じな
のである。確かに、これは奇妙だ。眉を顰めながら、彼女の名を呼
ぶ。
﹁これ、何の聖神法?﹂
﹁﹃セイント・ライトボール﹄です﹂
﹁そう⋮⋮。ふむ﹂
考え始める。この聖神法は、簡単に言えば総一郎が幼い時によく
使った光球のようなものである。そして、同じアナグラムの魔法も、
1528
光の球を打ち出す。
﹁⋮⋮。ローレル、この魔法のアナグラムと、この魔法のアナグラ
ムの合計数を、足してみてくれる? あと、この聖神法も﹂
﹁は、はい。︱︱この祝詞、癒しの雫の物ですよね。あまり使わな
いので確証は持てないのですが、水滴の垂れた場所が治癒する聖神
法。⋮⋮魔法はどんなものなのですか?﹂
﹁水魔法と、木魔法﹂
﹁木魔法? ⋮⋮分かりました﹂
総一郎は、ローレルが計算に取り掛かるのを見てから、自分でも
複数の聖神法の解析に着手し始めた。そして、昨晩解いた魔法のア
ナグラムと擦り合わせていく。数字が完全に一致するものはなかっ
た。だが、誤差が百を超えるものもなかった。
総一郎は確信に近い予感に突き動かされ、祝詞の一文字一文字を
分解し始めた。初めは、うまくいかなかった。だが、総一郎が聖神
法を使えるようになったきっかけを想起すると、面白いように当て
嵌まる様になった。
﹁解き終わりました﹂
ローレルは、こわばった表情で計算式を渡してきた。総一郎は受
け取り、しばし見つめ、そして確信した。
﹁⋮⋮そういえばさ、さっき属性だけ教えたけど、この魔法の具体
的な効果を教えてなかったね﹂
1529
﹁⋮⋮はい﹂
不安げ声。だが、その目つきは気丈だ。総一郎はどのような顔を
すればよいのかわからないまま、伝える。
﹁水魔法は、飲み水に使えるきれいな水を作り出す魔法だ。唱えて、
水筒に手を突き出すんだよ。それで飲み水を確保できる。対して、
木魔法は少し特殊だ。木っていうのは唯一魔法で直接発生させられ
る生物だから、そこから派生して生き物を作ったり怪我を治療する
ことができる。僕が教えたのは、木の生命力を粉にして、怪我の再
生力を高める魔法﹂
﹁⋮⋮そんなの、そんなのおかしいです。だって、それでは﹂
﹁そうだよ、おかしいんだ。でも、カバラを信じるなら、僕たちは
この結果だって信じなければならない﹂
少年は、今まで自分たちが積み上げてきた計算式を一瞥してから、
少女の目を見つめる。
﹁聖神法は、魔法だ。それも、覚えやすさを配慮せず、威力だって
大幅に制限された、血統主義の粗悪な魔法だ﹂
総一郎の計算式では、魔法になくて聖神法にある特殊な点は、ま
ず貴族階級であるかどうかだった。名前に含まれる貴族階級の称号
が、聖神法の発動の可否を決定するのだ。
次に、加護も才能も、一切参照しない画一的な威力。手からでは
なく、スコットランドなら杖や鈍器の先端から発動されること。イ
1530
ングランド、アイルランドクラスのそれはまだ計算していないが、
きっと似たようなものだろう。そして、それらのアナグラムをめち
ゃくちゃに並べて、もっともらしい祝詞を作り上げたのだ。
何故、と総一郎は考え込む。画一性のある部分や、武器の先から
発動されることは長所になりえないわけではない。だが、貴族に限
る必要はどこにもないし、アナグラムだけ合えばいいと、こんな無
理やりなセリフを作り上げる意味が分からない。
もっとも重要な点は、それをカバリストの何者かが作り上げたと
いう事だ。聖神法の歴史は、亜人登場から数年後。魔法が全世界に
広まり始めてからすぐに、聖神法が神から授けられた︱︱とされて
いる。
﹁何でだ? 何で、こんな事をした? 魔法でいいじゃないか。何
で、こんな面倒な真似を⋮⋮﹂
いや。問題は、そこではないのだ。︱︱カバリストが貴族にかか
わっている。それも、聖神法を作るなどという根幹に。貴族の中に
混ざっている可能性だって、決して否めない。
総一郎は、背筋の寒くなる感覚を抱く。今まで自分を襲った数多
くの理不尽。証拠のない謎。あんなもの、誰にもできることではな
かった。だが、唯一例外がいる。この世の理を、数学によって確定
的に割り出し、操作する者どもが。
少年は項垂れ、頭を抱えた。カバラは、とても秘匿性の高い技術
だ。ずぶの素人が勘を頼りに謎を解くことなど、叶う話ではなかっ
たのだ。
1531
しかし、今は違う。
﹁⋮⋮ローレル。学校が始まるのは、いつ?﹂
﹁春からです。⋮⋮どうするつもりですか﹂
﹁この世の理不尽を、一手に握る奴らの正体が分かった。一応、僕
って学校の席が残っているよね?﹂
﹁わ、分かりませんが、ドラゴン討伐を終えた卒業生たちは春から
学園に戻ってくると聞いています。ソーはまだ義務教育課程なので、
戻れるかと﹂
﹁じゃあ、戻ろう。確証はないけれど、多分、何かが掴めるはずだ﹂
低い声で、総一郎は呟いた。そこに込められた感情はどす黒く、
総一郎自身でさえ理解は仕切れない。
ローレルが、おびえたような表情で見ていることに気付いて、総
一郎は﹁ごめん﹂と椅子を立った。部屋に戻る途中でヘレンさんに
遭遇し、﹁おや、どうしたんだい﹂と聞かれる。
﹁あ、いや、朝早くに起きすぎちゃって、眠くなっちゃったんだ。
これから少しだけ寝なおそうと思って﹂
﹁そうかい。朝ごはんは?﹂
﹁食べたよ。ローレルが作ってくれたんだ﹂
﹁そうかい。それじゃあ、美味しかったろう﹂
1532
﹁⋮⋮うん。とっても﹂
﹁そうかい、そうかい﹂
嘘のアナグラムを消すのは、難しいことじゃない。発言する一瞬
だけ、本気で自分に信じ込ませればいいのだ。そのための所作も、
決まっている。味覚と触覚がいまだ回復し切れていなかったのも、
そうすれば隠し通せる。
そのため、ヘレンばあさんは総一郎に何か疑問を抱いた様子はな
かった。そのまま、通り過ぎていく。
﹁これであの子も、将来安泰だ﹂
そんなおどけた、和やかな老婆の声が、総一郎の胸を痛ませた。
1533
8話 森の月桂樹︵6︶
雨の日だった。
バケツをひっくり返したような雨である。二人掛けのソファーで
ローレルと二人で座り、テレビを見ていた。対面では、安楽椅子に
座ってヘレンさんが編み物をしている。
ふと思い立って、総一郎はテレビに目を向けたままうつらうつら
し始めていたローレルに尋ねる。
cats
and
dogs
土砂降
﹁そういえばさ、何でこういう大雨の事を、﹃猫と犬の雨降りだ﹄
rains
っていうのかな﹂
It
﹁え?﹂
りの事を、英語ではそのように表現する。
それを不思議に思って、尋ねると、困ったようにローレルは唸り、
この様に言った。
﹁い、犬と猫が喧嘩しているように、⋮⋮聞こえません?﹂
﹁ううん、聞こえない﹂
そうですか⋮⋮。と少し傷ついたように顔を背けるローレル。す
ると、くすくすとヘレンさんが笑いだす。
1534
﹁どうしたんです?﹂
﹁いえね、ローレルのつたない説明が可愛らしくってしょうがなく
て⋮⋮﹂
しばらくクツクツと笑っていると、ローレルは仏頂面で祖母のこ
とを睨みつける。それに気が付くと、彼女は﹁悪かったよ。じゃあ
代わりに、由来を教えてあげるから許してくれな﹂と言った。
﹁知っているのですか?﹂
﹁そりゃあ、長い事この国の人間やってるからねぇ﹂
好奇心の犬二匹は目を輝かせながら、それぞれヘレンさんに向け
て身を乗り出す。
﹁そうだねぇ。この言葉を説明するには、大分昔のロンドンの事か
ら説明しなければならないんだけど﹂
﹁ロンドン?﹂
﹁そう、ロンドン。というのもね、昔のロンドンには水道とかのイ
ンフラが整っていなくてね、大雨が降ったらそりゃあ酷いもんだっ
たそうだよ? ノアの方舟ってあるじゃないか。もう町中があんな
感じになってしまったそうで﹂
﹁それは悲惨ですね⋮⋮﹂
﹁それで、だ。大雨がやみ、溜まっていた水が何処かへはけていく
1535
と、やっと人間が扉を開けて外に出られるようになる。そうして歩
いていると、所々に見かけるのさ。野良犬、野良猫の死体をね﹂
﹁ほお﹂
﹁それを見た昔の人々はこう思った。﹃これは雨に紛れて犬と猫が
ふって来たに違いない!﹄ってね﹂
﹁でも実際のところは猫と犬の溺死体って訳だ﹂
﹁ご名答﹂
﹁町の増水に巻き込まれて⋮⋮。普通、街で水害とかありえないで
すよね。可哀想な犬猫でした⋮⋮﹂
少年少女はそろって感心。長年の謎が解けた気分である。
﹁⋮⋮というか昔の人は馬鹿なのでしょうか﹂
﹁どの国も教育が浸透してないときはそんなもんだろうさ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
何故だかローレルは悲しげな顔。窓を見ると、相も変わらず空は
バケツをひっくり返している。
﹁長雨だねぇ。もう少ししたら外に出て行かなければならないのだ
けど﹂
﹁そうなのですか?﹂
1536
﹁おや、言ってなかったかい? 二日か三日、返ってこれないって。
おじいさんも出張中だしねぇ﹂
﹃え?﹄
子供二人、声が重なる。
﹁⋮⋮初耳だけど﹂
﹁私もです⋮⋮﹂
﹁あらら、済まないねぇ。言い忘れてたみたい。じゃあ、どうにか
するかい? ベビーシッターでも今から頼む?﹂
﹁いやいやいや、この年でそんなの要らないよ。自分たちの面倒は
自分たちで見れる。ねぇ、ローレル﹂
﹁その通りです、ソー。おばあちゃんは心配性なのです。私たちは
大丈夫ですから、気兼ねなく行ってきてください﹂
﹁そうかい。悪いねぇ﹂
そんな会話があってから、少し物事の説明をして、ヘレンさんは
家を離れて行った。その頃には、二人とも察しがつき始めている。
開かれた扉がゆっくりと閉まりきるのを見届けてから、どちらとも
なく、ぽつりと呟いた。
﹁⋮⋮ベビーシッター云々って、あれアナグラム合わせてたよね﹂
1537
﹁言い忘れてたのを、カバラでどうにかしようっていう魂胆がちょ
っと見え隠れしてました﹂
しかしそれを本人が居なくなってから確信するようでは、まだま
だ未熟だという事だ。ため息をつき、精進せねばとやる気なく思う。
﹁⋮⋮という事は、つまり﹂
﹁うん? どうしたの、ローレル﹂
彼女はテトテトと居間の方へ戻っていく。追従すると、カレンダ
ーを見上げていた。
﹁⋮⋮一日か、二日と言ってましたよね﹂
﹁うん、そうだね﹂
﹁その二日目、つまり明日が、丁度ニューイヤーズ・イブと言いま
すか⋮⋮﹂
﹁あらら﹂
困り顔で総一郎が言うと、ローレルは頭を抱えて落ち込み顔。本
気でショックを受けていたようなので、﹁だ、大丈夫。一日とも言
ってたじゃないか!﹂とフォローを入れてみる。
﹁⋮⋮計算した所、多分、帰ってきません⋮⋮﹂
﹁いや、でも、ほら。フィリップさんの方が﹂
1538
﹁おじいちゃんは時間間隔無い上に、急ぎの用事がない限り、出張
の時は時間をひたすらかけて仕事しますから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮じゃあ﹂
﹁アウトです⋮⋮﹂
二人そろって沈み込む。という事は、二人きりという事だ。あま
りに寂しいニューイヤーである。いや、ドラゴンと争っていたクリ
スマスに比べたらマシだが。
﹁⋮⋮そう考えると二人きりって別に寂しくないか?﹂
﹁えっ? 二人きり?﹂
ローレルが、きょとんとする。
﹁⋮⋮誰と、誰がでしょう﹂
﹁いやだから、君と、僕が﹂
﹁⋮⋮ああ、確かに﹂
ローレルはソファーに座って考え込む。
﹁何を考えてるのさ﹂
﹁いえ、二人きりでできるだけ料理を豪勢にするとするなら、どん
な献立がいいのかな、と思いまして﹂
1539
思った以上に前向きだった。心なしか嬉しそうにも見える。
﹁さっきあれだけ落ち込んでいたのに、ご機嫌だね﹂
苦笑交じりに告げてみる。ローレルは不思議そうな顔で﹁はい?
そうでしょうか﹂と首を傾げる。しかしすぐに肩を竦めて、譲歩
的に納得を示した。
﹁でも、確かに、言われてみれば先ほどよりは悲しくないです﹂
﹁どうしてさ﹂
﹁そりゃあ、ソーが居るからに決まっているでしょう﹂
肝が止まる。
﹁⋮⋮うん?﹂
﹁クリスマスに、一人帰省の電車に揺られるのは、本当にさびしい
ものなのですよ⋮⋮﹂
しみじみと言われたので直前の動揺が吹き飛んでしまった。
さて、ではどうしようかと考える。明後日が大晦日︵この国風に
言うならニューイヤーズ・イブ︶であり、その日に普通は大騒ぎす
るわけで、そのための用意は大抵食事に終始する。
つまるところ、今日は暇なのだった。
1540
だからこそ、朝っぱらからテレビを見てだらだらするということ
が出来たのであるが。
﹁⋮⋮暇ですね﹂
﹁そうだね⋮⋮﹂
すっかり互いに慣れた風で、ぼんやりと会話を交わす。テレビも
飽きてきて、他に何かしようと言う話になるのは自然と言えた。
﹁で、問題は何が出来るのか、ってことなんだけど﹂
﹁ソーは何かしたい事がありますか?﹂
﹁読書﹂
﹁奇遇ですね、私もです。︱︱ここに居るのが私一人なら、ですが﹂
冗談に乗ってこられかけて一瞬焦った。
﹁二人で、です。テレビが飽きたから読書をしよう、と言うのは違
うでしょう﹂
﹁じゃあ、カバラで当てっこする?﹂
﹁⋮⋮微妙ですね﹂
﹁だよねぇ﹂
1541
見合って思案。すると、﹁そういえば﹂とローレルが思い出した
ように人差し指を立てる。
﹁私たちがぎくしゃくして居た頃に、おばあちゃんに教わったおま
じないの様なゲームがありました﹂
﹁へぇ、それまたどんなの?﹂
﹁いえ、詳細は分かりません。ただ、これを使えば仲良くなれるか
ら、仲良くなりたいって思うようになったら試しにやってみなさい、
みたいなことを言っていましたね﹂
﹁ほぅ⋮⋮﹂
何だろう。
そこはかとなく危険な予感がするのは、気の所為なのか。
﹁確か⋮⋮ちょっと、手を出してもらっていいですか?﹂
﹁え、実験台?﹂
﹁しませんよ! 人聞きが悪いですね、もう﹂
ぷりぷりと怒り出すローレル。それに愛嬌を見出してしまうあた
り、本当に慣れたものだと我ながら呆れてしまう。
馴染むつもりはない、などと豪語しておきながら、この様だ。自
嘲しながら、手を差し出す。
1542
握手された。
﹁⋮⋮どういう儀式?﹂
﹁最近分かってきました。ソーは毒舌です。罵倒とか悪口とかでは
なく、言葉の選び方が﹂
﹁ぐぅ﹂
言い返せない。
﹁それで⋮⋮何でしたっけ。確かこんな感じに⋮⋮﹂
くるくるとされたり握り方に強弱を付けられたりする。総一郎は
釈然としないまま従っていた。そのまま、十分。すでに飽きた少年
は、付き合いながらも片手間に本を読みだしている。
﹁⋮⋮ソー﹂
﹁ん。何、終わった? ところで何でそんなむくれてるの?﹂
﹁終わりました。そしてむくれてなどいません。さらにはソーは一
度人間関係で酷い目に遭って後悔すればいいと思います﹂
﹁ははは、時すでに遅し﹂
﹁あっ、⋮⋮その、ご、ごめんなさ﹂
﹁真面目って損だよねぇ⋮⋮﹂
1543
﹁それを謝ろうとしている私に言いますか﹂
膨れっ面を晒すローレル。本当、いつの間にか妹のような存在に
なっている彼女だ。この二人なら、何処ででもいられそうな気さえ
してくる。雨音しかないこの孤独な雰囲気でも、ローレルと共にい
ると空気が和らいだ。
﹁それで結局、何が変わったのさ﹂
﹁さぁ⋮⋮﹂
言いながら、手を離した。だが、ローレルに掴まれている。引っ
張る。腕力の関係上、ローレルがこちら側に引っ張られる。圧し掛
かられた。退ける。
﹁手、離しなよ﹂
﹁こちらの台詞です。強引に引っ張って、何ですか﹂
少し不機嫌そうな声。嘘の数字は見えない。彼女からもそうだっ
たようで、おや、と互いに眉を顰める。視線を自らの手に向けなが
ら、不安そうな声で、ローレルは言った。
﹁⋮⋮どういう事ですか?﹂
﹁分からない。ともかく、一旦落ち着こう。まず両方とも手を開い
て﹂
﹁はい﹂
1544
両方とも、開く。握り続けるということが出来ない状況にする。
そして、腕を互いに引いた。先ほどよりも強く圧し掛かられ、重心
を崩す。
﹁きゃああ!?﹂
押し倒された。
ソファーの上。酷く手狭な空間に、二人は収まっていた。顔が至
近距離にある。あと数センチ近ければ、唇がふれていた。総一郎は
思わず息を止め、ローレルは気付いて目を丸める。格好としては、
ローレルが総一郎を覆いかぶさるような体勢だった。
少女の肌の柔らかさ、匂い、その重み。自由に動けない現状が、
総一郎に目の前の彼女が女であることを思い出させた。顔が、熱く
なる。それは、ローレルは同じらしかった。顔が、見る見るうちに
紅潮していく。
驚愕に見つめ合う視線は、同時に横を向いた。素早く、ローレル
は起き上がる。
﹁⋮⋮危険でした、色々と⋮⋮﹂
﹁確かに、危なかった⋮⋮﹂
総一郎は、言いながら深呼吸。総一郎が息を荒げるなど久方の事
だ。これほど息を荒げたのは、確か黒いドラゴンと殺し合った時以
来である。
そして案の定、まだ手の繋がりは続いていた。ローレルが、ジト
1545
目で見つめている。総一郎も目頭をもみつつ、推論を立ててみる。
﹁つまりこれは⋮⋮、そういう事、なのかな﹂
﹁多分⋮⋮。押しても引いてもどうにもならなそうですしね﹂
振ったり軽く押し引きしたりしているローレル。力なく、総一郎
の腕がそれに従って揺れる。ぽつりと、現状確認の一言。
﹁くっついた﹂
﹁くっつきました﹂
後悔先に立たずの見本だった。
ふむ、と総一郎は考え始める。ひとまず出来ることをしようとい
う事になって、ヘレンさんへの連絡から始めた。しかし、繋がらな
い。無機質な声が、ヘレンさんの携帯の電波が入っていないことだ
けを示している。
﹁おばあちゃん⋮⋮!﹂
テーブルに手をついて嘆きの声。こんなに抒情的な叫びを、ロー
レルから初めて聞いた気がする。
そこで二人で思案し始めた。パッと思いつくことの一つは、不発
であった。しかし、次がないわけではない。
﹁という訳で、この﹃おまじない﹄の仕組みを完全に分解して、見
事解いて自由になろうじゃないか!﹂
1546
﹁オーッ!﹂
途端にやる気を出す二人。やはり好奇心の犬である。
﹁という訳なんだけど、ひとまず﹃おまじない﹄の所作から洗い出
してみよう。カバラだったら割とすぐに解決できるかもしれない﹂
﹁あの⋮⋮、それについてなのですが﹂
﹁何かねローレル君﹂
きりりと真面目な視線を向けてみる。素早く魔法で伊達眼鏡も用
意した。
﹁何処から出したんですかそれ﹂
﹁まぁまぁ﹂
﹁いや、いいですけど⋮⋮。︱︱すいません。申し訳ないのですが、
所作のことははっきり言って覚えていません﹂
﹁はい?﹂
目が点になる。
﹁えっと⋮⋮どういう事なの?﹂
﹁つまりはですね、おばあちゃんから教えられた所作を、うろ覚え
ながら一通り試して。しかしそれでは自信がなかったからさらにう
1547
ろ覚えで付け足して⋮⋮、と言うような感じなわけで⋮⋮﹂
﹁冗長なアナグラムがあると﹂
﹁です﹂
﹁⋮⋮万策尽きた﹂
﹁早いですね尽きるの!﹂
と言われても、世間を知らない総一郎の術などこのくらいだ。や
けっぱちになってメガネを壊す。﹁結構似合ってましたのに⋮⋮﹂
と残念そうに言われる。
しかしローレルは足掻いてみるつもりであったようだった。﹁他
にもこう、例えば、こんな風にですね⋮⋮﹂と言いながら、繋がれ
た両人の手の間に自分のもう片方の手を差し入れ、それをもって引
き裂くという方法を試み始める。
手が、入った。そして今まで繋がれていた手が離れる。総一郎は
目を見張った。ローレルもぽかんとしてから、高揚したように身振
りを激しくさせる。
﹁ほ、ほら! こんな風に試してみれば、意外と何とかなったりす
るものなんですよ! あとはこれを引きはがすだけです!﹂
言いながら、強く手を引く。気を抜いていた総一郎はまたも体勢
を崩し、自分よりもはるかに軽いはずのローレルに引っ張られる。
﹁おわ﹂
1548
﹁はれ?﹂
だが、総一郎は先ほどのようになってなるものかと抗った。空い
ている右手でソファーのヘリを掴み、耐えた。するとどういう事で
あろうか。何故かローレルが思いきり派手にこちらへ倒れこみ、顎
に頭突きをされ、総一郎の視界に星が舞った。
1549
8話 森の月桂樹︵7︶
研究の成果としては、とりあえず接触していればいいらしい。と
いう事だった。
故に、この様に昼食を取るべく外に出る時などは先ほどの握手型
ではなく、手をつなぐという形に収まった。互いの右手左手を伸ば
し合って、並んで歩く。
﹁⋮⋮は、恥ずかしいです⋮⋮。誰も見てませんよね? 何やらく
すくすと笑い声が聞こえるのは気のせいですよね?﹂
﹁幻聴と被害妄想にすぎないから安心すると良いよ、ローレル。に
しても、君は何と言うか、とてつもなく初心なんだねぇ⋮⋮﹂
﹁むしろ私としてはあなたが平然としているのが納得できません、
ソー! あなたも異性の事には疎いはずでしょう!?﹂
﹁別にそんなことなかったり﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
呆気に取られてぽかんとするローレル。その表情があまりに間抜
けで総一郎は吹き出してしまう。
街中。雨。しとしとと、降りそそぐ。石畳の上を、水たまりを避
けながら歩いていた。先ほどに比べれば勢いは治まっていたが、イ
ギリスの気候にしては少々長引いている方だ。
1550
﹁そういえば、この町で雨に打たれてると、少し思い出しちゃうん
だよなぁ﹂
﹁何をです?﹂
総一郎は、くるりと傘を回す。相合傘。ローレルは例のごとく恥
ずかしいと嫌がっていたが、手を繋ぎながら二つの傘を差している
方がよっぽど目を引くだろうという考えのもと、説得するに至った。
ちょっとローレルとしてみたい、と言う考えが、全くなかったわけ
ではないのだが。
﹁去年の⋮⋮ちょうど今頃だったかな。当時のホームステイ先の家
族で、こっちの街まで出張ってきた時に、こんな風な雨が降り出し
てきてね。その時確かローレルの家にも行ったんだよ? もちろん
お客としてね﹂
﹁そう⋮⋮なのですか。世間は狭いのですね﹂
﹁それで、そこらへんに放置されてた杖に障ったら、フィリップさ
んに滅茶苦茶怒られた。
﹁プッ﹂
ローレルは、横を向いてクスクスと笑いだした。総一郎も、同じ
ように思う。狭いものだ、この世の中。本当に縁のある人間とは、
思わないところでつながりが出来る。
﹁それで⋮⋮、その夜に、ワイルドウッド先生が来たんだ。騎士学
園に入学しないかって﹂
1551
﹁⋮⋮それを、受けたんですね﹂
﹁まぁね。当時は、穏やかながら閉塞気味の現状を打ち砕けるって、
内心小躍りしていたくらいだけど。︱︱まさか、こんな事になるな
んてね。まったく、お笑い草だ﹂
﹁何でそれを受けたのか、聞いても?﹂
﹁うーん⋮⋮ローレルならいっか。と言っても、笑わないでよ?﹂
﹁笑いませんよ、私は﹂
﹁そんなこと言って笑ったら、カバラで小一時間笑いが止まらなく
してやる﹂
﹁ひっ、殺される﹂
びくっと遠ざかるローレルに、﹁濡れるから派手なリアクション
は控えるように﹂と傘を差しだす。総一郎の肩口が濡れたのを見て、
﹁すいません⋮⋮﹂とおずおず戻ってきた。
至近距離。
いつの間にか、この間隔に慣れてしまった。
﹁僕はさ、元々四人家族で、お母さんが死んでいるんだよ﹂
﹁えっ。あ、その⋮⋮﹂
1552
﹁いいよ、君の気に病むことじゃない。と言うかまだ序の口だから
覚悟を固めた方がいい﹂
﹁ソーの人生ハードすぎませんか? ⋮⋮覚悟、決めました﹂
﹁それで︱︱その後、お父さんも何を思ったか日本に残るって言っ
て消えちゃって、人食い鬼の襲撃の所為でお姉ちゃんとも離れ離れ﹂
﹁あうっ﹂
そこまでで理由の件は終わりだったが、ローレルの反応が楽しく
てさらにその後も付け加える。
﹁その挙句孤独にわたってきたイギリス。温かな新しい家族の元に
立ち直りかけてきた少年は、騎士学園と言う隔離施設に追いやられ
拷問染みた虐めを受ける。それに耐えかね、教師の一人を殺害。敷
地内の山にほぼ着の身のまま逃げ込んで、他の生徒の食事を強奪し
たり、自分自身で亜人を捌いて食らったりとまるで獣のような生活
を送り﹂
﹁あううっ!﹂
﹁それからひとたび人間らしい生活を取り戻すも、ドラゴンを倒す
べく各地を放浪。自分が素早く行動を起こしていればと自己嫌⋮⋮、
ごめん。これ以上最近の事は整理しきれてなくて茶化せない﹂
完全に茶化しきって、ローレルを怯えさせつつ高笑いするつもり
だったのに。自分の弱い心が憎い。
﹁⋮⋮ソー!﹂
1553
﹁おわっ!?﹂
急にローレルが少年の手を取った。彼女は両サイドに揺れる小さ
な金色の三つ編みを激しく揺らしながら、強い視線で見つめてくる。
﹁大丈夫ですからね。ソーに何があっても、私が居ますから。困っ
たことがあればぜひ私を頼ってください。きっと力になれるはずで
す﹂
﹁そ、そう⋮⋮。︱︱それでちょっと相談なんだけど、今お金に困
ってて⋮⋮。何も言わず五万ポンドほど工面してくれないかな?﹂
﹁むっ、⋮⋮わ、分かりました。ソーの為なら!﹂
﹁ローレル。君はとりあえず、詐欺と言うものがこの世に存在する
ことから知ろう﹂
総一郎の話は生憎とすべて真実だが、こんな荒唐無稽な話を信じ
るのははっきり言ってどうかしている。とはいえそれだけならまだ
マシだ。後半の明らかなボケに突っ込みを入れない辺りヤバい。
しかし少女は、純真な瞳で少年を見つめつづける。
﹁だって私、ソーが本当に苦労していることは、知っていますから﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎、無言で頭にチョップを入れる。
1554
﹁痛っ? え、行き成り何ですか?﹂
﹁じゃあ、これから少しゲームをしよう。これからの会話で、僕は
それなりの頻度で冗談を言う。それを冗談と見抜けなかったりした
とき、今のようにチョップします。それだけじゃありません。三回
目からはチョップでなく手刀に変わります。手の刀、と書いて手刀
と読む日本の言葉です。文字通り、手で切ります﹂
﹁シュ、シュトウ? 何ですか、それ。今、何が起こっているので
すか?﹂
﹁ところでさ、僕ドラゴンの件で忙しかったから、学校の宿題が全
然終わってないんだよ。帰ったら少し手伝ってくれない?﹂
﹁あ、そうですね。分かりました、手伝います﹂
﹁ドラゴン討伐に赴く戦士にそんなものが出てる訳ないだろチョッ
プ!﹂
﹁痛い!﹂
とはいえ右手を変形させて軟度を高めている為、あんまり痛くな
いと思われる。
﹁シュトウは駄目です、シュトウは⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮。まさかあそこまで貫通力があるとは思ってなかったよ。
⋮⋮本当、試し切りしておいてよかったね﹂
1555
﹁他人事すぎませんか? 下手すると私割られてたんですよ? あ
なたに﹂
﹁⋮⋮うん、いや、本当ごめん。掛け値なしに僕が悪うござんした﹂
﹁どんな言葉遣いですか⋮⋮﹂
適当な店で軽く昼食を済ませて︵不味かった︶、総一郎たちは帰
路についていた。明日の大晦日の用意にスーパーでの買い物も済ま
せ、家に帰れば明日を待つだけと言う状況だ。
歩きながら、適当な会話をしていた。具体的には、総一郎のシュ
トウはこれ以降禁止と言う話題だ。やってみて分かったが、アレは
手刀ではなかった。シュトウだった。普通に戦いの手段になった。
というのも、この異形の右手はあまりに打った時に響くのだ。少し
の殺気に反応して、硬化、鋭化を果たす。打ったら響くというか、
いっそのこと割れているのではなかろうか。そしてその破片が如く、
硬く、尖っているのである。多分うまいこと言った。
﹁ところで、ソー。ちょっと家に帰ったらお手伝いを頼んでもよろ
しいですか?﹂
﹁ん、いいけれど、何を?﹂
﹁お料理です。今夜の分と、明日の分の練習﹂
﹁あー、そっか。これ、くっついてたんだ﹂
繋いでいる手を傘の下で掲げる。いつの間にか違和感がなくなっ
1556
ていたのだ。先ほどの料理屋でもカウンター席に座ったらまったく
不便がなかったものである。それで殊更知れたのが、ローレルが実
は左利きであったという事だ。
﹁具体的には、私が具材を押さえて、ソーがシュトウでザグザクと﹂
﹁やりません﹂
﹁冗談です﹂
﹁やらないよ?﹂
﹁⋮⋮何で念押ししたんですか?﹂
﹁冗談でも不謹慎だから﹂
﹁不謹慎なのですか⋮⋮﹂
ローレル、戦慄である。いや、不謹慎なのかどうかは全く定かで
はないのだが。ニュアンス的には不謹慎な部類に入るかもしれない。
そしてあと二、三回不謹慎と言う言葉を使うと多分ゲシュタルト崩
壊が起こる。ああ、不謹慎、不謹慎。
﹁⋮⋮ところで、謹慎って何だろう⋮⋮。謹んで慎ましやかって何
? 何でそんなことすんの?﹂
﹁不謹慎だからじゃないですか?﹂
﹁ん?﹂
1557
﹁え?﹂
本当に崩壊した。
そんな風な適当な会話を交わしていると、家に到着した。雨雲は
だいぶ薄くなりつつある。ワンタッチ開閉自在型の地味に画期的な
傘を親指一本で閉じて、傘立てに突っ込んで玄関を開けた。
という訳で、手洗いうがいなどを手早く済ませ、総一郎たちは二
人、エプロンをつけて台所に立っている。
﹁⋮⋮今更だけどさ、僕は適当に、君の首辺りに触れて待機するの
でいいんじゃないかな。本を読んでいれば暇はしないだろうし﹂
﹁駄目です﹂
﹁何でさ﹂
言いつつ首に触れる。
﹁ひぁっ!﹂
﹁あ、なるほど。納得した。ごめん、僕が無神経だったね。大人し
く付き合うよ。何からすればいい?﹂
﹁察しが良すぎるソーは嫌いです!﹂
﹁大丈夫、それほど珍しい事じゃないよ。首が性感帯なのは﹂
﹁直接的な言葉を使うのは駄目です! 特に駄目です!﹂
1558
怒られたので総一郎は素直モードに移行する。練習という事で、
簡単なお菓子を作ることになった。
プティングと、スコーン。
スコーンと聞くと何故かネルの事を思い出す。
﹁ネルとかって今何してるんだろうなぁ⋮⋮﹂
﹁ファーガスではなく、ですか?﹂
﹁うん。まぁスコーンで気になっただけだから﹂
粉を振り振り会話する。ファーガスと仲違いしたことは、伏せて
おく。
﹁そうですね。確か今、そこにベルを含めた三人で帰省していると
か聞きましたけど﹂
﹁帰省?﹂
﹁はい。ベルの実家に﹂
﹁⋮⋮男子を二人も連れて?﹂
﹁大丈夫ですよ。もうファーガスとベルは出来上がりつつあります
から。一押しあればすぐです。それに、はっきり言って、ハワード
君は男の子の勘定に含まれないと思いますので﹂
1559
﹁それは⋮⋮、流石に失礼では﹂
﹁でも、彼は女に興味ないと思いますよ﹂
﹁えっ﹂
ドン引く。
﹁かといって、男に興味があるというのも違う気がしますが﹂
﹁どういう事さ﹂
首をひねった。ローレルとタイミングを合わせて生地を練る。最
初は苦戦したが、今はそれなりに上手くいっていた。カバラは万能
だ。
﹁彼は、人間に興味がないと思うのです。多分、一部を除いて﹂
﹁一部?﹂
﹁ファーガスです。ファーガスだけは、興味があるような気がしま
す。あと、ソーも結構、彼の中では優先順位高い方かと﹂
﹁それは良い事なのか⋮⋮?﹂
﹁悪いと思います。個人的には、ソーにはハワード君を避けてほし
いです﹂
﹁⋮⋮﹂
1560
﹁あの、手を止められると困るのですが⋮⋮﹂
﹁ああ、ごめん﹂
停止していた行動を再開させた。しばらく、無言で作業する。し
かし結局、耐えきれずに尋ねた。
﹁それは、どうして?﹂
﹁何がです?﹂
﹁避けた方がいいっていうの﹂
﹁だって、彼、怖いじゃないですか﹂
﹁怖い⋮⋮﹂
眉根を寄せる。確かに、あの荒々しい気性は、女子からしてみれ
ば怖いかもしれない。
オーブンに入れる。一通り作業が終わった。ローレルは両手で伸
びをする。総一郎はそれに付き合って手を上げた。協力し合ってエ
プロンを脱ぐ。二人連れだって、居間のソファーに腰掛けた。
﹁それで言うなら、僕の事も君は怖がっていたじゃないか。意外と
素を知れば、考えが変わるかも﹂
﹁ふふっ。無いですよ、それは。ソーの事は、私が頑なだったんで
す。多分先入観がない状態で知り合っていても、今のような関係に
なってたはずですよ﹂
1561
微笑み。総一郎は恥ずかしくなって、視線を逸らして空笑いした。
ローレルは、ちょっとむくれる。﹁でも﹂と言いなおして、声の調
子を変えた。
﹁ハワード君は、違う気がします。私、昔ソーに言われた通り、気
が強いところあるじゃないですか。実際その通りで、怖いものがあ
ると克服したくなる性質なんです。だから一時期、ハワード君を機
会さえあれば観察していたんですよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁はい。とはいっても、自分から会いに行くなんてことはしていま
せんが。でも、それで色々理解が増えました。貴重な経験だったと
思います﹂
﹁ぼかさないで言ってくれるとありがたいな﹂
﹁拭えない恐怖があること。私が、そういうものに敏感なこと。お
ばあちゃんが言っていたみたいに、逃げるくらいしか対応策が無い
物が存在すること。︱︱それこそ、国から出ていくくらいの必死さ
が必要な。そういう様々な事を、実感として知りました﹂
総一郎は、黙りこくる。少女の言葉の迫力に、押された。その時、
ちょうどオーブンから音が鳴った。今までの会話を他所に立ち上が
り、﹁出来上がりましたよ﹂と嬉しさを隠さずに知らせてくるロー
レル。総一郎はそれにひとまずの恭順を示しつつ苦笑した。
せっせと中身を取り出して、お盆に乗せてソファー前の低いガラ
ステーブルまで運んだ。いつの間にか用意していたスプーン、フォ
1562
ークを総一郎の前に置いて﹁是非これを﹂と言ってくれた。焼きた
ての菓子の匂いが総一郎の鼻腔をくすぐる。思わず、生唾が溜まる。
︱︱ここ何日かで、総一郎の回復は目に見えるものとなっていた。
味覚もしっかりし始めて、シルヴェスター家の味が分かるようにな
ってきたのだ。
その上で幸運だったのが、シルヴェスター家の料理の水準の高さ
である。
ヘレンさんは言わずもがな、彼女が仕込んだローレルの手際と言
ったら、すでにこの国なら料理店が開けそうなほどだ。もっとも、
この国の料理店はレベルが低すぎるというのもあるが、あと数年修
業を積めば、他の国でも開ける手腕に達するかもしれない。
中でも菓子に関しては素晴らしかった。実際イギリスも菓子類に
関してはさほど諸国に劣っておらず、その上でも店を出せるほどの
腕前であるのだから感服する。
迫力半分、焼き菓子半分に説得されて、総一郎はしぶしぶ了承す
る。頷くついでに焼き菓子を口に放る。甘みがほぐれて消えていく。
﹁⋮⋮分かったよ。そこまで言うなら、控えておく。本当は反発心
からネルと付き合いを深くしてやろうと考えてたんだけど、今回は
考え直すよ﹂
﹁ソーは根っこが天邪鬼ですね﹂
﹁今気づいたの?﹂
1563
﹁あと、意地悪です﹂
﹁意地悪したくなるくらい可愛いのが悪い﹂
﹁えっ?﹂
﹁⋮⋮あれ、僕今なんて言った?﹂
空気が、停止する。ローレルが目を数回瞬きさせる。一拍おいて、
顔色がみるみる赤くなっていく。そして立ち上がり、駆け出す。
だが皮肉にも、その手は繋がっていた。
﹁きゃぅっ﹂
可愛らしい声を上げて、駆け出した足は滑り、総一郎の膝元に倒
れこんでくる。それを咄嗟に支えると、くっついている部位が変わ
った。支えた頭に、総一郎の手が引っ付いている。
﹁あわ、あわわわわわわ﹂
﹁⋮⋮てい﹂
鼻をつまむ。ローレルは目を白黒させ、じたばたした。放す。呼
吸を荒くする。また摘まむ。じたばた。
﹁私をおもひゃにするのは止めへくらはい!﹂
﹁割と楽しいから名残惜しい﹂
1564
﹁怒りますよ!﹂
﹁残念だ﹂
随分と、仲が良くなったものだ。そのように、思ってしまう。
1565
8話 森の月桂樹︵7︶︵後書き︶
ナイ﹁⋮⋮楽しそうだなぁ。ちょっとちょっかい掛けに行こ☆﹂
1566
8話 森の月桂樹︵8︶
巨大な、たくさんの目の付いた、多くの足を持つ、化け物。それ
に、総一郎は踏みつぶされ続ける。
何も、ない。ただ、苦痛がある。しかし、総一郎にとってそれは
遠い物だった。うっすらと、足で踏みつけて加工する料理があった
ようなことを思い出す。はて、アレは何だっただろう︱︱
︱︱眼が、覚めた。薄暗い部屋。シルヴェスター家に貸し与えら
れた、自室である。
﹁うぅ⋮⋮、やはり朝は冷えるな⋮⋮﹂
寝ぼけまなこで総一郎は起きあがった。布団が引力に引かれて剥
がれ落ち、その寒さにブルリと体を震わせる。その上、何故か眠い。
自発的に起きたのに、と考えた。寝不足なのだろうか? 欠伸をし
つつ右の窓を見ると、しんしんと雪が降り始めていた。
﹁おお⋮⋮﹂
白い粒が、ゆっくりと風になびかれて地面に沈んでいく。そして
積もり、地面を厚く覆っていくのだ。少し上機嫌になって、ベッド
から降りようとする。︱︱その、過程で起きた。
﹁ん⋮⋮﹂
﹁え﹂
1567
布団の端から除く、あどけない少女の顔。総一郎は硬直する。そ
して、改めて自分は、このために寝不足に陥ったのだという事を思
い出した。
左手を上げる。そこには、小さくて華奢な白い手が握られている。
だが、離せない物でもあった。文字通り、繋がっているのだ。
﹁⋮⋮昨日のラブコメっぷりは酷かったなぁ⋮⋮﹂
嬉恥ずかし目を背けてのシャワー、嬉恥ずかし耳栓をしてのトイ
レ付き添い、嬉恥ずかし一緒のベッド。もちろん皮肉だ。アイロニ
ーである。そして恥ずかしさのあまり記憶から精神魔法で概要以外
吹き飛ばしたから描写もされることはない。様をみろ。
しかも、それで一丁前にドギマギしてしまった。対するローレル
は、途中から慣れたのか何なのか、割と平然そうにしていたという
のに︱︱あれ、意外と記憶飛んでない。
﹁もちろん僕だって平然を繕ったしそこまで揺さぶられたつもりは
ないけどさ。暴走してたらこんな健康的な朝迎えてないし。それに
したって記憶童貞はすでに喪失してる僕がまさかこんな小さな子に
欲情とかありえないというか、それ以上に犯罪めいているというか、
いや別に好意的な感情を抱いていないわけではないにしろそれは異
性としてのそれなのかどうかっていうとちょっと﹁あれ⋮⋮、ソー
?﹂うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ
!﹂
跳び上がった。絶叫した。それにローレルもまた驚として目を丸
くして体を竦ませる。
1568
﹁え、何ですか!? 背後に何か出ましたか!? ひっ、あんな所
に忌まわしき虫が! ソー! ソー! アレ、何とかしてください
!﹂
﹁えっ、ああ、うん。⋮⋮とうやっ﹂
水、風魔法を飛ばし、捕獲の後ぐるぐるとかき回す。さらには雷
魔法での原子分解要素を加えてまぜこぜにして、捕獲前と完全に同
じ無色透明な水を作り出した。タンパク質以下に分けてしまえばこ
んなものである。要約するとG入り汁は甘い水に変わった。
﹁⋮⋮あれ、私、見間違えたんでしょうか。確かにソーの魔法がア
レを捕えたように見えたのですが⋮⋮﹂
﹁最初からそんなのいなかったんだよ。ほら、朝食を作ろう。今日
はニューイヤーズ・イブだ﹂
﹁あ、はい﹂
総一郎は窓を開けて水を放り出し、ローレルの後ろについて行っ
た。﹁しかし﹂と何気なく彼女が言う。
﹁今から下ごしらえすると、多分朝食よりも前にやることがなくな
ってしまうのですが⋮⋮。どうしましょうか。イブでそれは、少し
味気ないような気もするのです﹂
ふむ、と総一郎は考えて、提案した。
﹁じゃあ、ちょっと出かけてみる?﹂
1569
独自の文化を持つ国には、必ず何かしらの雰囲気がある。そんな
事を、イギリスの街並みの中を歩いているとしみじみ考えさせられ
る。
日本しかり、イギリスしかりだ。逆に言えばアメリカなどはそう
いう雰囲気が希薄と言える。精々インディアン程度だろう。
イギリスは、黄土色の石造りの家が多い。そこに寒い気候特有の
針葉樹が街中にぽつぽつと生えていて、いい雰囲気だと総一郎は思
った。はちみつ色の町である。
そんな道を、ローレルと二人で歩いていた。
﹁さぁ、どこへ行きましょうか、ソー。ちなみに何も案がなければ、
自動的に本屋に入り浸りになります﹂
ちょっと興奮気味のローレルは、手を妙に激しく動かしながら総
一郎に問うてくる。対する少年は、﹁入り浸るのだけはやめようよ。
積本の量がおかしいことになっちゃうから﹂と困った顔をする。
﹁異議の申し立てがおかしいです。どれだけのお金があるのですか。
というか、おばあちゃんからは五十ポンドくらいしかもらってない
ですよね﹂
﹁いやー、⋮⋮自腹をきればもうちょっとあるんだな、これが﹂
﹁そうなのですか。︱︱ちなみにお幾ら?﹂
1570
﹁いやらしいよ。ローレル﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
呆れ顔で諌めると、自覚してしゅんとなる少女である。反抗期な
んか来ないんだろうと思わせられた。もっとも、育て親がカバリス
トでそんなことが起こるのかどうかは、甚だ疑問だったが。
﹁それで、何処へ行きましょう?﹂
﹁んー、無難に映画とか見る?﹂
﹁いいですね、それ。映画は五年ぶりくらいです﹂
﹁いくら何でも見なさすぎだと思うよ﹂
打ち解けたな、と我に返る瞬間がある。最近、頻繁に思うのだ。
ローレルの最初の拒絶っぷりと言ったら、現状はおおよそ信じられ
るものではない。今では竹馬の友のような関係性で、彼女自身もそ
れを認めている節さえあった。
もともと趣味は合う相手だったのだ。出会い方が悪かったとしか
言いようがなかった。
﹁伸ばせるうちに、精一杯羽を伸ばしておきましょう。騎士学園に
戻ったら、忙しくなるのでしょう?﹂
﹁⋮⋮うん、そうだね。その時は、手伝い頼むよ?﹂
1571
﹁もちろんです、ソーの為なら!﹂
﹁どこまで本気で言ってるのかさっぱりだけどね﹂
﹁結構私信頼されてませんね﹂
少ししょぼんとした表情を浮かべるローレル。慰めに頭を撫でる
と、くすぐったそうに身をよじって笑みを浮かべた。純粋な少女で
ある。体つきが思わしくない為異性としては見づらいが、ずっと付
き合っていけそうだと思ってしまうほどには、総一郎はローレルを
好いている。
二人でのんびりと歩き、そもそも映画館はどこだという話になっ
た。驚くべきことに、ローレルは地元の映画館の場所を知らなかっ
たのである。仕方なしに彼女の携帯を奪い︵彼女は通話以外に使っ
ていなかった︶、場所を調べる。
﹁二駅先なんだね。まぁ、近い方じゃない?﹂
﹁え、列車を使うのですか。そんな遠いところに行って迷いません
?﹂
﹁今思ったけど、ローレル。君は本を買う以外に自発的に外出した
ことってある?﹂
﹁⋮⋮さぁ﹂
﹃⋮⋮駄目だこりゃ﹄
思わず日本語で呟いてしまう程度には駄目だった。下手したら貴
1572
族よりも純粋培養かもしれない。総一郎は﹁今なんて言ったのです
か。ねぇ、今の日本語ですよね? なんて言ったんです?﹂とジト
目のローレルに﹁何でもないよ﹂と慈母が如き微笑みを返す。
﹁じゃあ分かった。本以外にも、この世にはたくさん面白いことが
あるってことを教えてあげよう。うわ、そう思うと僕も久々にやる
気出てきたな。何年ぶりだろ。合計で二十年ぶりくらいじゃないか﹂
﹁生まれてないですよ﹂
﹁夢で見たんだよ。さぁ、じゃあひとまず、列車に乗ろう﹂
訝しげな少女の手を取って、総一郎は歩きだした。行きたいとこ
ろなら色々ある。総一郎は理系だが体育会系でもあるのだ。今世は
文系も吸収しつつあるから節操がない
鼻歌交じりに歩いていると、ローレルが﹁楽しそうですね﹂と素
朴な声色で言った。﹁まぁね!﹂とテンション高めに返すと、﹁何
だか子供っぽいです﹂と彼女はくすくすと笑う。
﹁前々から思ってたんだけど、僕って初対面辺りは大人っぽく見え
たりする?﹂
﹁はい。でも、私よりよっぽど子供だと思います。大人びてはいま
すが、付き合いが長くなれば誰でも分かりますよ﹂
﹁そっか﹂
なるほど、と思った。他人のことを子供だといいながら、しかし
彼女は構わないとでも言うような笑みを浮かべている。そんな風に
1573
言われてしまえば、総一郎は納得するしかない。
不快感はなかった。自分の方が難しい運命を歩んでいる自信があ
るが、彼女には確固たる自尊心がある。自分には無い物だ。羨まし
くもあり、眩しい気もする。眩しいなんて思ったのは、それこそ何
十年ぶりだろうか。
列車の切符を買い、ホームに入った。電光掲示板を見て、﹁あと
五分だね。⋮⋮予定通りに着けば﹂﹁なるほど、あと十分くらいで
すね﹂と気の抜けた会話をする。
そんな会話から八分して、電車はやってきた。空いている個室を
探し、二人で向かい合って腰かける。
﹁映画ですか⋮⋮。本当に久しぶりで、何だかそわそわします﹂
﹁ローレルってその辺り可愛いよね﹂
﹁私のお小遣いは上げませんからね﹂
﹁そんな意図はないのだけれど⋮⋮﹂
昨日のあの慌てようが、今日になると大分小慣れている。こんな
短期間でよくもここまであしらうのが上手くなった物である。とは
いえ羞恥心が残っていない訳ではなく、照れ隠しか頬を膨らませて
いた。その様は、種をほお袋に詰め込むハムスターに似ている。
列車を降り、改札を出た。町並みは少し変わり、都市的になる。
地下で、少し進むとショッピングセンターの中であることが知れた。
この中に映画館があるのである。
1574
﹁何か昔と変わらないなぁ⋮⋮。目新しい物とかないのかな。それ
とも後進国寸前の国に期待するのは無謀なのか﹂
﹁馬鹿にしてます?﹂
﹁亜人差別が激しいのは駄目だよ。うん﹂
﹁普通の人はそうでもないのですけど﹂
﹁そうなの?﹂
﹁私は亜人のことを騎士学園に入るまで一切興味ありませんでした
よ?﹂
﹁君だけでしょ﹂
﹁怒りますよ。他の、私の友達もほとんどそうでした。というか、
ネットをやっても見られませんからね、亜人のこと。最近それが情
報規制の一環なのだとわかってきました﹂
﹁一昔前の中国みたいだね﹂
﹁え? 第三次日中戦争中の日本じゃなく、ですか? 母国なのに
⋮⋮﹂
﹁ああ、いや⋮⋮﹂
ついボロが出てしまったが、気にすることでもあるまい。事実ロ
ーレルはそれ以上の追及を求めようともせず、﹁そういえば﹂と話
1575
題を変えてくる。
﹁ソーって、いったい何の亜人とのハーフなのですか? いえ、私
はあなたの人柄を知っていますので、素朴な疑問にすぎないのです
が﹂
﹁んー﹂
思い出すのは、ギルに自室でボコボコにされた時のことだ。あの
時彼は、﹃天使は真っ先に人間を裏切った﹄というようなことを言
っていたはず。ローレルは読書家だから、その事実を深いところま
で知っていてもおかしくはない。今更その程度で崩れるような関係
でもないと思ってはいるが、どうにも躊躇ってしまう。
そんな総一郎の葛藤を見透かしてか、ローレルは﹁大丈夫ですよ﹂
という。
﹁オーガとのハーフとか言わない限り、私は引きませんから﹂
﹁むしろオーガとのハーフなら引くんだね⋮⋮﹂
自信がなくなってきた総一郎である。もっとも、日本でオーガは
亜人でなく魔獣扱いなのだが。
﹁というか、ソーの外見からして、限りなく人型に近い種だと思う
のですが﹂
﹁あー、うん﹂
しばし考える。だが、結局秘密にした。
1576
﹁大したものじゃないよ。ほら、日本って人間の形をした亜人︱︱
妖怪が多くってね。もともと昔話では妖怪と人間の間に生まれた子
っていうのは結構ざらで⋮⋮、多分知らないと思うし、ともかく普
通に歩いていて気づかないような、そういう亜人の子供なんだ﹂
﹁そう⋮⋮ですか。分かりました﹂
ローレルは、全てを察して微笑した。総一郎も笑って、﹁もうす
ぐ映画館だよ﹂と告げた。
映画館では、二ケタに届かんばかりの映画がやっていた。総一郎
はどれでもよかったが、ローレルが﹁この映画の原作読んだことが
あります!﹂と言ったので、それを見ることに決めた。どうでもい
いが、総一郎は映画で、原作を超えるものに出会ったことがない。
見ることになった映画は古典的名作とされているもので、これは
五度目のリメイクだという。主人公は、生まれた時から今の今まで
箱庭で生活していて、そこから出たことがなく、また箱庭であると
気づいてもいない。その箱庭というのは、つまりはテレビのセット
なのだった。主人公は生まれ落ちた瞬間からずっと、テレビに出演
し続けてきて、それを知らない。ある男の、真実のドラマである。
見たことがあった。最初はただ明るいだけの話だが、途中から主
人公は自らの身の回りの違和感に気付き始め、セットの中である町
から出ようとする。だが、セットから出られたらテレビ番組が成り
立たない。テレビスタッフ側の奮闘は見ていて滑稽でもあるが、主
人公に感情移入すれば、それは強い恐怖と成り得る。
総一郎は、夢中になって映画を楽しむローレルとは別の意味で、
1577
この内容を深く受け止めていた。カバラによって無理やり操作され
ていた、これまでの二年弱。そこには、何の意図があるのだろうか。
学校にいるとき、総一郎は迫害された。それも、ほぼ全クラス、
全学年からだ。総一郎の血の半分が亜人であったとしても、誰も詳
しいことを調べず、外見的に完全な人間である総一郎をいじめるか
見て見ぬ振りするかであったことは、明らかにおかしい。
だが、自分が学園の外に出た瞬間、状況は一変した。総一郎はい
つの間にか迫害の外にあり、前述の延長上の嫌がらせこそあったも
のの、彼の命は何者かに守られているような動きがあった。
︱︱自分も、この映画の主人公と何か違いがあるだろうかと、総
一郎は思う。終盤、主人公は自分のようにテレビのセットの存在に
気が付いて、しかしその正体も分からず必死にその外へ出る方法を
模索する。
自分を取り巻くこの状況に、何か意図があるのか。真犯人の存在
も、その内の一人も知れた。だが、そこからどうする。自分も、映
画の彼のようにイギリスから出ようと試みるか?
﹁⋮⋮そもそも﹂
映画も、ラストに差し掛かった。主人公は、映画のセットの出口
にたどり着き、最後に彼の口癖である挨拶の言葉を残してセットか
ら出ていく。だが、彼には国籍もないし、箱庭で働いているように
見える程度の事務能力しかない。外に出て、本当にやっていけるの
か。当時見た時、総一郎はまずそれを心配した。
カバリストたちの目論見を暴いて損をするのは、自分なのではな
1578
いか。彼らはある意味では総一郎との共生関係にあって、彼らを拒
絶するのは総一郎自身の首を絞めることになるのではないか。
映画が、終わった。エンドロールが流れ始めてもローレルは動き
ださなかったので、総一郎も付き合って椅子に座っていた。表情は、
まさにご満悦だ。エンドロールもしっかり終わり、場内が明るくな
ってから、彼女は言った。
﹁原作の本にも劣らない、素晴らしい出来でした﹂
﹁うん、そうだね。かなりいい出来だった。⋮⋮ただこれ、原作は
本じゃなくて映画だよ?﹂
﹁えっ!﹂
その時の少女の顔は驚愕と間抜けさがいい具合に交じり合い、思
わず総一郎は比較的小声ながら笑いを数分、止めることができなか
った。
1579
8話 森の月桂樹︵9︶
ローレルが、へそを曲げていた。総一郎は半笑いで片手謝りをす
る。
﹁ごめんって、ローレル。笑ったのは悪気があったわけじゃないん
だ﹂
﹁でも私は傷つきました。周りの人の﹃誰かが馬鹿をしでかしたの
か﹄という目線が私に半分くらい集まっていて、とてつもなく恥ず
かしかったのですよ﹂
昼時、総一郎はローレルと昼食をとっていた。だがレストランで
はなく、ローレル持参である。芝生で広い公園にシートをひいて、
二人は座っている。遠足を思い出して懐かしい。
﹁はい、ソー。サンドイッチとバナナです﹂
﹁うん。ありがとう﹂
サンドイッチを受け取り、しみじみと食らう。日に日に、味覚は
正常に近づいていく。ローレルの美味しい料理を食べている限り、
毎日が感動だった。これを思えば、辛かった日々にも意味があるの
ではと思うのだ。
食べ終えて、一息をついていた。ローレルは満腹に息をついてか
ら、尋ねてくる。
1580
﹁では、どうしましょうか。ここでしばらく風に当たりながらゆっ
くりするもよし、何か他のことをするもよし﹂
﹁少しゆっくりしようか。本は持ってきてあるでしょ?﹂
﹁はい。でも、お話をするつもりで私は言っていたのですが﹂
﹁ああ、ごめんごめん﹂
そうして、ローレルと先ほどの映画の話をした。俳優の表情が素
晴らしかったとか、上手く表現できていたとか、最後の言葉の爽快
感とか、彼女は熱く語っていた。もしかしたら映画にはまったのか
もしれない。今度また、連れて行ってあげようと心に決める総一郎
だ。
風が気持ちよく吹いて、芝がざわざわと鳴っている。思い出すの
は、ナイのことだ。彼女に自分が心を開き始めた頃、彼女はここに
似た草原で昼寝していた自分に、膝枕をしてくれた。
懐かしい記憶である。しかし最近のことでもあった。総一郎は、
手袋を見る。これは彼女によるものだ。しかし、彼女のどのような
行いによる物なのかまでは分からない。まず種のように少しの異常
があって、人殺しを経て、そこから一気に進行した。
﹁ソー、何を考えているのですか?﹂
﹁ううん、何にも。ボーっとするのが、気持ちいいんだ﹂
﹁⋮⋮カバリストの私に、嘘が通じると思いますか?﹂
1581
﹁不覚だった﹂
素で忘れていた総一郎の眦が、驚きとともに開かれた。カバラに
はカバラで返すが信条の総一郎。顔筋のアナグラムを合わせて、ロ
ーレルだけは絶対に笑う表情を作り上げる。
それを見た少女は吹き出して、体を折って笑い始めた。﹁それは
⋮⋮ズルい⋮⋮です﹂と息も絶え絶えに震えている。
総一郎はこの表情を覚えて、勘の鋭い彼女に核心を突かれかけた
らこれで乗り切ろうと決めた。今の総一郎には死角がない。全面的
にカバラの所為だろう。
有耶無耶になったのを、さらに総一郎はローレルにカバラの存在
を忘れさせるように動いた。そのお蔭で、彼女にナイのことを聞か
れずに済んだ。時計を見ると、大体二時前ほどだ。もう一つ何かし
てから、家に帰るのが丁度よかろう。
﹁じゃあローレル、次は何がしたい?﹂
﹁うーん⋮⋮本屋でしょうか﹂
﹁君は隙があれば本屋って言うね﹂
﹁駄目ですか﹂
﹁いいけど帰る直前にするよ。最寄りの本屋って結構大きいし﹂
﹁わかりました。では⋮⋮お任せします﹂
1582
﹁特に行きたいところもないんだね⋮⋮﹂
ある意味徹底している。そういえば、映画を提案したのも総一郎
だった。
再びローレルの携帯を使い︵彼女が取り返そうともしなかったの
で、それっきりずっと総一郎が所持している︶、近くの施設を調べ
る。駅を内包したショッピングセンターからは出てしまったので、
少しくらい歩く場所がいいだろう。
丁度良い場所に美術館があって、ほうと思った。そういえば、ギ
ルにあげたあの絵以来、何か美術作品を仕上げた記憶がない。とも
なると、少し行きたくなってくるのが心情である。
幸いローレルに提案したところ、彼女は快諾してくれた。﹁小さ
いころに行って、楽しかった記憶があります﹂とのことだ。彼女も
なかなか良い感性をしている。二人でわーきゃー話しながら歩いた。
意見が一致すると、妙に気分が高揚するのだ。傍から見れば子供丸
出しである
美術館に着き、入場した。展示されているのは、もっぱらシュル
レアリズムだった。シュールの語源である。具体的に言うと、布状
の時計や上半身が鳥かごの男など、超現実的な代物が描かれた絵の
ことだ。亜人のその先を行く世界観が、そこには広がっている。実
現しても面白味はあまりなさそうだが。どちらかというと悪夢を連
想する。
ローレルと並んで、絵を観て行った。ピカソ、ダリなど有名な作
家のレプリカもあったが、総一郎が心惹かれたのは新人のそれだ。
1583
右半分と、左半分で絵の内容が分かれている。中心には、人らし
き何者かが鑑賞者を慈愛のほほえみで見つめるとともに、親の仇が
如く睨み付けている。というのも、左右で表情が違うのだ。右が昼、
左が夜。右が微笑み、左が睨み。右半身は黄金比を守ったかのよう
な均整のとれた体つきの、立派な服を着た男性。左半身は見るもお
ぞましい怪物で、辛うじて人型であるのがむしろ気味が悪かった。
注目すべき点は、その絵が少々立体的のところがあって、見る角度
からその人間と怪物の境界線が動くのである。
ローレルが﹁すごいですね!﹂と小声で歓声を上げるのを聞きな
がら、総一郎は下唇を噛んで立ち尽くしていた。﹁見る角度で絵が
変わりますよ﹂と少女に引っ張られ、その表情が変わる。睨んでい
た怪物の目が、ひどく悲しそうに歪んだ。受けいれてほしいと、懇
願するような目だ。総一郎は、いたたまれずに角度を変える。人間
側が多くなる角度だ。そこでも、人間の表情が変わった。
怪物にも劣る、断末魔を思わせるその悲痛。慈愛に少し開けられ
た口元は、絶叫を必死にかみ殺すものに変わった。総一郎は、圧倒
されて後退する。
絶望的な気持ちが、総一郎を包んだ。感情移入のし過ぎだと自嘲
しなからも、少年は強く打ちのめされた。
︱︱まるで、僕に見せるために作った絵のようだ。総一郎は、そ
んな妄想に取りつかれた。自分の足元を見る。去年、この服は獣か
ら剥いだものだった。今は仕立て上げられた、上等ではないにしろ
人間的な一品だ。人間。そこにも救いがないとすれば。
その時、ローレルが総一郎の手首をつかんだ。ひどくつまらなそ
うな面持ちで、﹁次に行きましょう。私、この絵が嫌いです﹂と言
1584
う。
﹁⋮⋮何で、嫌いなの?﹂
﹁だって、報われるところも何もないじゃないですか。余韻もない
ですし。シュルレアリズムじゃなくて、こんなのただの趣味の悪い
だまし絵です﹂
ほら、早くいきましょう。あちらには、果物でできた中世の貴族
っぽい絵があるみたいですよ。︱︱ローレルは、か細い腕ながら、
力強く総一郎を引っ張っていく。そんな彼女の優しさに、少年は救
われた。自分にも聞こえないほどの声で、﹁ありがとう﹂と呟く。
﹁どう致しまして。ソーは私がカバリストであることを忘れすぎで
す﹂
言われて、きょとんとしてしまった。総一郎は次の瞬間、何故か
とても可笑しくなってしまって、訳も分からず必死にかみ殺しなが
ら笑った。﹁僕って結構バカだなぁ﹂と言いながら、目じりに溜ま
った滴を拭い取る。
美術館を出ると。ちょうど夕方の終わり目だった。﹁なかなか有
意義に過ごせたね﹂と笑いかけると、﹁改めて、本屋以外もなかな
かいいものですね﹂とローレルは少々偉そうな表情で言う。
﹁じゃ、最後に本屋によって帰ろうか﹂
﹁はい﹂
繋いだ手を、離さなかった。係員の人に少しほほえましげな表情
1585
をされたが、恥ずかしがるつもりはなかった。何故か離したくない
と、そのように思ったのだ。
ショッピングセンターを通り抜け、駅のホームに立って、列車の
個室に並んで座った。﹁どんな本を買おうか﹂と尋ねると、﹁ハッ
ピーエンドが読みたいです﹂と彼女は言う。
下車したその景色に、総一郎は息をのんだ。はちみつ色の町が、
夕焼けで橙色に膨らんでいる。ケーキみたいだと、総一郎は思った。
﹁家に帰ったら、ケーキを焼きましょう。イブに相応しい、とびき
り豪華なケーキを﹂としたり顔でローレルが言ったので、つい笑っ
てしまった。
幸せの形は、様々だ。この状況でしか幸せなどないなんて、そん
なことは有り得ない。だから、これも幸せの一つの形なのだ。総一
郎は、ローレルと手をつなぎ、笑いあいながらケーキの町の中を歩
く。
そして、立ちふさがる影が現れた。
総一郎も、おそらくローレルも、気づかなかった。今まで警戒す
ることなど一切なかったからだ。その影は見覚えのある人物の物だ
った。去年総一郎を虐めぬいた教師の一人。名前は、知らない。た
だ、その顔が醜くゆがむ様だけは、うっすらと覚えている。
ソウイチロウ・ブシガイトを初めて知ったのは、教室でガイダン
スを受ける直前の事だった。
1586
ローレルは、一番乗りで教室に来ていた。次に来たのが、彼だっ
た。本を読みだして、真面目なのかと思っていたが、気づけば陽気
そうな友人を作っていたことに驚かされた。自分は出来ないのにと
思うと、名前も知らないのに、少しの敵愾心を覚えた。一日もすれ
ば忘れてしまうような類の。
次に意識したのは、彼が教師に名指しで亜人と弾劾された時だっ
た。顔を真っ青にしていた。だが、気が強いのか抗弁していた。そ
の時は、ちょっとした忌避感だけ。誰も聞かない虚しい彼の言葉を、
本を広げることで無視した。
それからしばらくすると、彼はいつの間にか名前を聞かない日が
ないような人物になっていた。誰もかれもが、寄ってたかって彼の
意志や矜持をへし折りにかかっていた。それでも、しばらくは耐え
ていた。肉体的な攻撃が一番やりやすいという顔付きをしていたの
を、今でも覚えている。反抗的で、挑発的な目。そんな瞳が出来る
なら、こんな虐め、何とかできるだろうと、無知な軽蔑と共に黙殺
した。
さらに月日が経つと、彼はだんだん萎れて行った。その時、僅か
な罪悪感を抱くようになった。しかし、日常に支障をもたらすもの
では決してなかった。ファーガスや、その当時は居たベンと共に狩
りに興じる楽しさが、日々のほとんどを占めていた。虚ろな目をし
て謝罪を繰り返す彼を見ていると気分が悪くなって、いつも足早に
スコットランドクラスを離れていた。
問題の日。彼が教師を殺して逃げだした日。ローレルは彼のその
凄絶な立ち振る舞いに強い畏怖を覚えた。だが、同時に胸を打たれ
たような気持にさせられた。
1587
克己。その信念を明言化してひっそりと自らに掲げたのは、今思
えばこれが原因だったのかもしれない。
それから、彼が山で追手をその木刀で打ちのめして退散させてい
るという報告が入る度、ローレルは恐怖し、その上で自分が彼と遭
遇した時の事を考えた。自分だけはブシガイトと対峙しても、彼の
捕縛は置いておいて、無傷で下山してやる。そういう、謎の決心が
ついた。
けれど結局、彼とは一度だって会いまみえることはなかった。フ
ァーガスが意識を失った彼を担いで下山する場所に立ち会っただけ
だ。幸運なのか不運なのかは判別がつかなかった。
数か月後。春になって、退院してきた彼と図書館にて直接相対し
た。やはり読書好きなのか、と親近感を覚えたのは秘密だ。大分葛
藤した末、隣に座った。その理由はひとえに、自らの恐怖心に打ち
勝つためだ。理由を聞かれた時は嘘を吐いて誤魔化した。今から思
えばその行動は、すでに彼に興味を持ち始めていた事の証左であっ
たのかもしれない。
彼の話はファーガスから頻繁に聞かされていたが、実際に会話し
て何となく彼の人物像が見えた。人懐こくて、優しくて、しかし強
い人間不信を抱えている。最初はほぼ無視されていたのに、数回会
っただけで気の抜けた姿をさらされた時には焦った。ファーガスか
ら始まる特待生パーティの全員と、すでに仲良くなっていることに
驚愕した。
彼が確かな人間、一個人だという事に気付いたのは、この頃だ。
だが、仲良くなるための時間らしいものは全く用意されなかった。
1588
すぐに彼は、ドラゴンの討伐という明らかなこじつけのために学園
から姿を消した。彼を原因としたクラスごとの対立はそれ以降落ち
着いて行ったが、少々物足りない気持ちでもあった。
ドラゴンが原因で帰省して、彼を発見した時は肝が冷えた。
人間ではないと、直感的に思った。以前までの彼とは違う。確定
的に、何処かが欠損してしまっている。倒れ伏していたが、分かっ
た。その衝撃が、かつての記憶を恐怖の色に染め上げた。どこか感
じていた親しみなどの、全てを忘れた。
それでもブシガイトを救ったのは、彼が名前で浮き彫りにし、ロ
ーレル自身が育て上げた克己心があったからだ。
恐ろしい。だが、その恐ろしさにまず打ち勝たねばならない。そ
んな逆転してしまった強迫観念が、ローレルを突き動かした。わざ
わざ、忌むべき手に触れて、彼を運んだ。
家に彼を招いてからしばらくは、苦痛だったと言っていい。馴染
んでいるように見えて、全く心を開いていない。だがそれは人間不
信と言うよりも、負い目、後ろめたさ、自分への失望ともいうべき
感情からだと、何となく分かった。彼が演技で作り出す笑顔は、い
つだってどこか済まなそうだった。
しかし、自分がそれに気付いていることに、ローレルは気付いて
いなかった。
自覚できたのは、彼を看病した時だった。彼の言葉、様子、そし
て寝ぼけて泣きじゃくる姿を見て、ローレルの抱かされた恐怖は粉
々に砕け散った。人間ではなくなったと判断したのは、それほど彼
1589
が傷ついているからだとわかった。だからきっと、泣けてきてしま
ったのだ。とはいえ当時はそんなことも分からず、ただ自分が、も
うこれ以降彼に冷たく接することが出来ないのだろうという予感だ
けがあった。
その日の夜。ベッドで目を瞑りながら、明日彼の事を愛称で呼ぼ
うと決めた。
けれど皆と一緒というのが少し嫌で、イントネーションを変えた。
ちょっと適当に、﹁ソー﹂と呼ぶと、きょとんとした風に反応して
くれたのが嬉しかった。
多分、彼を好きになり始めたのは、この時からだ。
親しく接していくうちに、少し、ソーは自分を含めた家族に打ち
解けるようになっていった。だが、一線を画していたのをローレル
は知っている。どうしても、越えられない薄壁。亀裂。それは遠慮
と言う形で明確に示された。その度に、ローレルはこっそり歯噛み
した。
それを切り崩したのは、祖母のカバラと言う知識だった。ソーは
まるで宝の山を目の前にした少年のような表情で、カバラと言う技
能に夢中になっていった。それに、ローレルも参加した。彼の智の
開拓に対する情熱は凄まじい物だった。事実、ローレルも夢中にな
った。将来研究職にでも就こうかと考えてしまう程に、楽しかった。
一方で、彼に対する恋心は少しずつ大きくなっていった。
ソーは大人びている。だが、その本性は子供だ。そんな彼にから
かわれるのも、一緒になって何かに熱中するのも楽しかった。その
1590
頃にはもう、彼の表情に陰りが見えなくなっていた。それが、堪ら
なくローレルには嬉しかった。
その上、奥手な自分にもツキが回って来たのか、恋を意識させる
出来事がここ最近立て続けに起こっていた。体を離すことが出来な
くなり、非常に至近距離での生活をしなくてはならない︱︱なんて
いう、フィクションなら使い古されたネタ。トイレやお風呂などは
顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、自分がバスタオルを巻
いてシャワーから出てきた時の目隠しをしたソーの赤面っぷりには、
ローレルも吹き出してしまった。彼のことを真剣に可愛いと思った
初めての事だった。隣で寝ることは怖くもなんともなかった。寝ぼ
けた振りをして抱きしめてやろうかとも考えた。
幸せの、絶頂だった。好きな人と過ごす日々が、こんなに楽しい
なんて思わなかった。
だから、願う。運命に、懇願する。唐突に現れた、ソーに悪意を
振りまく彼らを見ながら。
︱︱何も、ニューイヤーズ・イブに、不幸の種をまき散らす必要
はないではないか、と。
1591
8話 森の月桂樹︵10︶
ソーの表情に、恐怖が貼り付いていた。同時に、敵意、あるいは
もっと、どす黒い感情も。
目の前には、何処かであったかもしれないような、記憶に薄い教
師たちが居た。三人。彼らから伝わってくる嫌な予感が、雪の降り
かねないこんな天候でも、ローレルに汗をかかせた。じり、と一歩
後退する。ソーに引き寄せられて、留められる。
﹁駄目だ。後ろにもいる﹂
ローレルは杖を必要とするアナグラムを抜いた索敵の聖神法もど
きを使って、周囲の情報をざっと確認した。逃げ道を塞ぐように、
十人前後がこの周辺で妙な立ち位置でとどまっている。他に人気は
なく、人払いの効果を持つ何かを用いたのだろうと推測した。
﹁⋮⋮何か、御用で?﹂
ソーは、あえてと言った風に妙な言葉遣いをした。彼らに、畏ま
った口調を使いたくなかったのかもしれない。目の前に立つ教師の
一人が、一歩踏み出してきた。スコットランドクラスの人間では、
無かったはず。それ以上の事は、分からない。
﹁大人しく来てもらおうか﹂
﹁僕にはそんな事を頼まれるいわれはないが﹂
1592
﹁黙れッ! この亜人風情めが!﹂
背後から、怒鳴り声。ローレルは思いのほか近くから聞こえてき
たその怒声に肩を震わせた。すると、握り合う手が強くなる。少女
も深呼吸して、心を落ち着かせる。
﹁用件を聞きましょう。ですが、この場でお願いします。ここはす
でに人払いを済ませているのでしょう? ここでも問題はないはず
です﹂
﹁⋮⋮ローレル?﹂
ソーが、自分の名を呼ぶ。心配されているのが、何となく伝わっ
てくる。
﹁⋮⋮ローレル・シルヴェスター。第二学年の特待生の一人だな。
何と嘆かわしい。特待生が亜人と親しくしているなど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ローレルは、無言だ。ただ、苛立ちがある。何故放っておいてく
れないのか。ソーは傷ついているのだ。癒す、時間が要る。
﹁まぁ、この場に居たのなら、もう致し方ない事だ⋮⋮﹂
﹁︱︱ローレル﹂
ソーが、少女の名を呼ぶ。表情が状況の芳しくないことを示して
いる。カバラで、彼の言いたいことを大雑把に読み取った。その意
に従って、周囲の情報を数式化、計算していく。
1593
数字によって割り出すまでもなかった悪意。具体性に帯びさせる
と、拉致という文字が浮かび上がった。どうやら、奴らは自分たち
をかどわかすつもりであるようだ。ローレルは、その考えの滑稽さ
に苦笑いを浮かべかける。カバリストの存在を知らない者が、カバ
リストをどうこうするのははっきり言って不可能であるからだ。
それを、握る手が諌めてきた。
﹁もっと、深くまで計算するんだ﹂
﹁⋮⋮? はい﹂
しぶしぶ頷く。悪意を向けてくる彼らは、迂遠な言葉遣いで何や
ら言っている。それさえも数字でバラして、計算した。
すると、彼らの手札が不明瞭であることが知れた。
﹁⋮⋮聖神法じゃない﹂
﹁⋮⋮何か、言ったかね? シルヴェスター﹂
﹁先生方、あまり脅かすのは止めてくださいよ。慣れている僕なら
まだしも、彼女は今まで﹃そういうの﹄と無縁に生きてきたんです
から﹂
﹁⋮⋮へぇ。亜人が、人間を庇う事があるのか﹂
ソーの割り込む言葉で、瞬間、少女へ向けられた関心が有耶無耶
になった。その中で、静かに戦慄する。彼らの自信。その根源。そ
1594
こには、未知があった。数秘術で数字にばらしても、正体の判然と
しないただの数列になってしまう。
﹁⋮⋮﹂
少年が、こちらに視線を向けてきた。数字を盛り込んだ視線。読
み解く。その様にして、声を介さず会話する。
﹃ローレル。彼らが脅威であるのは、分かったね? 聖神法でもな
い。かといってカバラでもない。何か、別の手札を隠してる﹄
﹃これは、一体どういう事なのでしょうか﹄
﹃パッと考えると私怨っぽいんだけど、多分それだけじゃない。複
雑な思惑があるね。貴族も一枚岩じゃないって話をしたっけ? 亜
人を徹底的に拒む層と、亜人をひっそり受け入れようとする層。こ
いつらは前者だけど、ちょっと特殊だと思う﹄
﹃利権、でしょうか﹄
﹃僕もそう思ってた。こいつらは、議員とかとつながっている種類
のそれだ。もっというなら、無知な学生に先入観を植え付けて、扇
動する立場の輩。僕が無罪になった裁判で立場を悪くした連中だね。
ギリギリで身を守ったけど、それ以上の好き勝手が出来なくなって
苛々してる﹄
﹃癇癪持ちの子供みたいです﹄
﹃大人なんて大半は老けた子供だよ﹄
1595
﹁おい、だんまりを決め込まれると困るんだがな! それで、結局
付いて来てくれるのか? 自発的に来てくれれば、私たちも助かる
し、そこのシルヴェスターだって面倒がかからない。ちょっと来て
くれるだけでいいんだ。そうすれば、丸く収まる﹂
﹁⋮⋮だってさ。じゃあ、ローレル。先に帰っててくれる?﹂
﹁え? いえ、そんな⋮⋮﹂
何を言い出すのか、とローレルは困惑する。そもそも、先日の悪
戯の所為で手が離れなくなっているではないか。それを彼の前に示
すようにつないだ手を掲げると、ソーは右手を近づけてきた。手袋
をすでに取り外していて、半ばまで袖で隠している。
彼の右手が異形であるのは、ローレルもしっかりと把握していた
事だ。そして、それが日に日に治っているのも。だからこそ、戸惑
った。その手で、何をするつもりなのかと。
彼は異形の手で、ローレルの手を取った。くっついていた部位が、
そちらに変わる。そのまま、振り払われるようにして強く手を離さ
れた。よろめき、後ずさる。そこには、距離が生まれている。
﹁⋮⋮え?﹂
あれほど難儀していたつながりが、いとも容易く崩された。しか
し、ハッとする。寸前までソーと繋がっていた少女の右手。その中
に、異形の欠片ともいうべきものが身を固くして納まっている。
﹁ほら、帰りなよ。帰してくれるってさ﹂
1596
少女は反論せねばと考えて、周囲を見回した。数秘術の計算。け
れど、ローレルの意図と違って、彼らは本当に少女を見逃すつもり
であるらしかった。その後、少女に不都合をもたらすアナグラムも
見つからない。唇を引き締めて、少年を見つめる。﹁そんな顔しな
いでよ﹂と笑われる。
彼がこの場を引き受けるつもりであることは、すぐに分かった。
一人ならば、未知の攻撃にも対処できると考えたのだろう。問題は、
その先だ。︱︱ローレルが見つけた八ケタの数字が、ソーの失踪を
告げている。ここで彼を逃せば、もう二度と会う事はないのだと。
何故、とは思わなかった。彼が、ずっと抱えている負の感情。罪
悪感。人を、殺したと聞いた。はっきりとは言わなかったが、その
ようなことを仄めかした。事実だろう、と思う。それに、忌避感を
持たないと言ったら嘘になる。
だが、仕方のない事だろう、という気もしていた。彼がどんな経
験をしてきたか。ローレルには想像も及ばないほどの過酷があった
と、そう思っている。そう、思わされてしまった。だから、少女に
彼を受け入れないという選択肢はない。けれど、彼自身が受け入れ
られるのを拒んでいる。
自罰。ソーのそれを退ける方法を、ローレルは知らない。﹁早く、
帰るんだ﹂と穏やかな声が少女に迫る。頭を撫でようと伸びてくる
手。そこに、見えない、しかし少女にとって最も避けねばならない
脅威が詰まっている。
︱︱この手に撫でられたが最後。ローレルは記憶さえ残すことな
く、少年から離れていくことになるのだろう。
1597
恐怖があった。あまりにも強い感情は、体を凍りつかせるのだと
思った。躱せなかった。彼自身がカバラで調整したのかもしれなか
った。悲しかった。彼を忘れてしまう事が。そのまま、のうのうと
生きながらえることが。
ソーの手が、すぐに近くあった。絶望さえ、この手は忘れさせて
くれるのだろうか?
﹁駄目だよ、総一郎君。自分を好きになってくれた女の子の事は、
もっと優しく扱ってあげないと﹂
僅かな間、鈴の音かと錯覚した。それはローレルよりも幼い、少
女の声だった。
我に返って、ソーの手から離れる。緊張が解けて視界の広がりを
感じると、すでに夜の帳が落ち始めていることを知れた。電燈が、
道を薄暗く照らしている。照らされていない場所は、一寸先も見通
せないほどの闇に包まれている。
うめき声が、四方から聞こえた。次いで、それが断末魔の叫びで
あることが分かった。身が、竦む。動けない。辛うじて、ソーに目
をやった。彼は恐れと言うよりも、驚きの為に動けなくなっている
らしかった。
そして、うめき声が消える。自分たちを脅かしていた教師たちは、
状況を理解できずに狼狽していた。少女たちにとって前門の虎、後
門の狼は、そのどちらも怖れのために見苦しく視線を右往左往させ
ている。
そして、闇の中から三つの影が現れた。
1598
一つは、蝙蝠の翼のようなものを生やした巨大な黒い蛇のような
生物だった。地面をうねるようにして移動し、こちらを睥睨する。
その口には、人間と思しき肉塊がはみ出していた。その姿は常に変
化を続け、狂おしく身もだえしているように見える。
もう一つは、象よりも大きな鳥︱︱であろうか。ところどころ血
に濡れていて、口端からガラスを爪でひっかいたような声を漏らし
ている。この国のドラゴンの姿にも似ていたが、そこから感じられ
るのは荘厳な脅威ではなく邪悪さであった。
そして、最後の一つ。ローレルたちの正面の闇から出て来たのは、
まだ年が二桁にも届いていないだろう少女だった。彼女はしかし、
その外見から考えられないほど嫌らしい笑みを浮かべて、こちらに
向かって歩いてくる。服の端々に付着した、血、臓物の欠片。その
手には、人間の頭が両手に二つずつ、計四つ、髪の毛を掴んで束ね
るように握られていた。
﹁やぁ、久しぶりだね、総一郎君。一カ月ぶりくらいかな。元気し
てた?﹂
﹁⋮⋮ナイ⋮⋮﹂
彼女はこちらに足を進めながら、握っていた頭蓋を無造作に上へ
放り投げた。それを、二つの化け物は素早く掠め取る。無残に咀嚼
して、嚥下したと共に少女は両手で指を鳴らした。途端、それらは
まるで手品のように陳腐な煙に包まれて消えてしまう。
ナイ、とソーが呼んだ少女は、平然と教師たちを素通りして近づ
いてくる。教師たちはそれを恐ろしい物として身を避けさせる。歩
1599
いている最中に彼女が自らの服を叩くと、まるで埃のように血の汚
れは落ちて消えた。身ぎれいにして、彼女は少年に抱き付く。まる
で、愛おしい物を包むように。
﹁え、え? 誰、ですか。その子。え⋮⋮?﹂
ローレルは、訳も分からず逡巡する他なかった。問い詰めたくて
も、その勇気が出ない。自分よりも幼い彼女は、まるで高級娼婦の
ような艶を感じさせる所作でソーの頬を撫でまわす。彼も、積極的
にそれを拒もうとしない。
﹁全く、もう。あまり、自棄にならないでほしいな。死んでも別に
かまわないなんて、君の年で考えることじゃないよ。本当は、死が
何よりも怖いくせに﹂
何を言っているのかは、ローレルにはさっぱり分からない。だが、
ソーは図星を突かれたように呻く。少女は、ソー以外の全てを無視
して言葉を続ける。
﹁どうせ、君は全てを殺して逃げだしたよ。君には殺さないという
ことが出来ない。そして、殺すくらいなら死を選ぶという事も。総
一郎君は、臆病者なんだからね。でも、君は躊躇っているし、実際
に戦うとしても傷を負ったり街に被害が出たりと放置するのも面倒
だ﹂
﹁⋮⋮何が、言いたいんだ。ナイ﹂
﹁魔法、聖神法、カバラ。そして、続く四つ目の技術を、ボクから
君にプレゼントしてあげる⋮⋮﹂
1600
甘ったるい声を出して、少年に抱き着く彼女はソーの唇を奪った。
ローレルは息を呑み、絶句する。彼らはまるで恋人同士の様な甘っ
たるいキスをしていた。口の端から、舌がのぞき見えた。少女は脱
力して石畳にへたり込んでしまう。舌は、一方通行ではなかった。
その事実が頭の中で反響している。ただ、呆然と彼らの情事を見つ
め続けた。
息継ぎをするように、彼らは一度唇を離す。そして、再開した。
あまりに小さな声が、自らの口から洩れる。自分の耳で聞くまで、
ローレル自身ですらわからなかった。
﹁⋮⋮やだ⋮⋮﹂
衝撃が、少女を貫く。悲愴が、その華奢な体を震わせた。その時、
こちらから見つめ続けるしかなかったはずの彼女が、こちらを見や
る。火照って、赤く染まった頬。幼くも淫靡な魅力。彼女は、何も
できないローレルを見て、薄く嗤った。そしてまた、激しく少年と
求め合う。
﹁⋮⋮やだ⋮⋮っ!﹂
言いようのない感情が、ローレルの中に灯る。それからたっぷり
と貪り合って、二人は逢瀬を終わらせた。涎が糸を引き、架け橋の
ようになって消える。ソーはよろけ、倒れそうになるギリギリで持
ち直した。荒い息を吐きながら、目を覆っている。何処か、正気で
はないように見えた。
﹁さぁ、手加減はしたから︱︱多分、耐えられたよね? じゃあ、
知識はあげたんだ。折角だし、この場で試していきなよ﹂
1601
少女は笑う。両手を広げて、愉悦に歪んだその双眸を、呆然とし
ていた教師たちに向ける。
ソーは、震える手をまっすぐに掲げた。右手。異形の手。進行が、
今朝よりもずっと深まってしまっている。彼は左手で、その手を掴
んだ。震えが大きくなる。抗っているのだと、ローレルは直観した。
だが、弱い。
﹁さぁ、総一郎君のために、極限まで手順を簡略化してあげたんだ。
君はただ、イメージして、叫ぶだけでいい。ほら、何を躊躇ってい
るのさ。人殺しなんて、日常茶飯事だろう?﹂
﹁ぅっ、ぐ、ぁ⋮⋮!﹂
右手に、幻影が見えた。ソーが、何かを握っている。それは少し
ずつ現実味に帯びていき、最後には、鼓動の音さえ聞こえて来るま
でに実体化していく。
鼓動。そう、︱︱鼓動を打つ。
アレは、心臓だ。
﹁ほら、早く。今更、何を拒むんだい? 君はボクの目の前で何千
人もの人々を見殺しにした。ボクの目が外れてからも、その手で、
直接、何百人もの人々を殺した。そこに、⋮⋮数人加わるだけだろ
う? ほら、︱︱早くッ!﹂
﹁ぐが、ぁっ、ぎ、ぃ、い⋮⋮!﹂
少女は急かす。ソーの口が、彼の意思を無視して変化しようとす
1602
る。そしてとうとう、ソーは反抗の意思を捨てた。諦念にいっそ笑
みさえ浮かべて、右手が、心臓の幻影を強く握りつぶす。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱委縮しろ﹂
その声は、酷く低く、冷たかった。
何か、恐ろしいことが起きる。そんな前兆に、ローレルは体を抱
きしめる。だが、ソーの言葉が終わった一瞬は、静寂がその場を支
配していた。何も、起こらない未来を想像した。少女は、少年に何
事か尋ねようと口を開いた。
途端、弾けるような音が響いた。煙が教師たち一人一人の周囲に
充満する。焼け焦げるような音。薄い煙は、過程を経ずに黒く炭化
していく彼らの姿を隠してはくれなかった。自重に耐えきれず、四
肢が砕けて呆気なく崩れ落ちる彼ら。少女は哄笑を上げる。高々と
上がる笑い声が、薄闇を埋め尽くしていく。
﹁どうだい!? 初めて使う魔術に、相応しいとは思わないかい!
? ああ、愉快だなぁ。虫けらがここまで分かりやすく破滅してく
れるのは、結末が分かっていてもやっぱり笑えるね!﹂
暫く抱腹してから、﹁じゃあね、総一郎君。また、一か月後くら
いに﹂と少女は嗤って闇の中へと歩いていく。その最中、彼女はロ
ーレルを見つけて、にやりと笑みを大きくした。軽やかに駆け寄っ
て、耳元で囁いてくる。
﹁何もしないで嘆くだけなんて、滑稽だね。ローレルちゃん?﹂
ハッとして、見上げる。だが、すでに彼女の姿は見えなくなって
1603
いた。ローレルは立ち上がる。恐怖からもがくように周囲を見回す。
すると、ソーの姿を見つけた。
怒りも、嫉妬も、抜け落ちた。彼はただ、項垂れてそこに佇んで
いる。名を呼びながら近づくと、疲れたように彼は口端を持ち上げ
た。それが、ローレルには堪らない。
﹁ソー。嫌です。行かないでください。私を置いて、一人でいなく
ならないでください⋮⋮﹂
縋るように、抱きしめる。カバラの呪縛が再発して、再び離れら
れなくなる。彼は、ローレルの頭を撫でた。安心させるように、語
りかけてくる。
﹁大丈夫だよ。僕は何処にもいかないから﹂
嘘だと、分かった。それでも、言った。
﹁信じてますから。ソーが何処にも行かないって、私、信じてます
から⋮⋮!﹂
ローレルの思い人は、きっと何も言わずに目の前から去っていく。
数秘術は無情だ。真実をぼかさない。だから、少女もまた、対抗す
るように心を決めるのだ。
︱︱たとえ置いて行かれようとも、追いかけて、絶対に捕まえる。
それは、高潔な決意ではなかった。そうしなかった時の、﹃ナイ﹄
に対する恐怖による己の自壊を予見したに過ぎない。求める者すら
ない孤独は、きっとローレルを殺す。それを、明確な言葉なしに少
1604
女は理解していた。
﹁信じてますから、ソー⋮⋮!﹂
言葉を、繰り返す。感極まって、涙が流れた。しがみつき、思い
人が近くに居ることに強い安堵を抱く。
それは淡い恋心であるのと同時に、狂おしい執着でもあった。
1605
8話 森の月桂樹︵10︶︵後書き︶
ナイ﹁やぁ読者のみんな! 邪神だから時空を超えてどんどん読者
に話しかけていこうと考えているナイだよ! 一時期ヒロインの座
に甘んじてたから、今回は思いっきり邪神したけどどうだったかな
!? まぁその所為でローレルちゃんがちょっと不定の狂気入っち
ゃったけど、いいよね! ボクが出演している時点でお察しだよね
!﹂
1606
8話 森の月桂樹︵11︶
ナイが居なくなってすぐに、周囲を囲む色濃い闇が払われていっ
た。結界、のような役割を果たしていたのかもしれない。とすれば、
人が来る。総一郎はそこまで思い至って、面倒を省くべく空間魔法
で死体を帳消しにした。
﹁ソー⋮。早く、帰りましょう⋮⋮﹂
﹁うん、そうだね⋮⋮﹂
総一郎も、きっとローレルも、疲れ果てていた。午前中の遊びだ
けでもヘロヘロだったろうに、最後の一幕はあまりに重い。左腕に
しがみつく少女はほとんど体重をこちらに預けていて、難儀しなが
ら家に帰った。
案の定、夫妻は帰ってきていなかった。時計を見る。まだ、六時
にもなっていない。ナイや騎士学園の奴らとの出来事の所為で、体
内時計が狂っていた。
﹁少し、休みましょう⋮⋮。疲れてしまいました⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ、お休み﹂
ソファーに腰掛けると、ローレルは頭を総一郎の肩に預けてすぐ
に寝息を立て始めた。本当ならベッドにでも寝かせて腕の歪みを利
用して一人になりたかったのだが、この状況ではそうもいかない。
1607
﹁何処にも行かないって、何で言っちゃったんだろ﹂
総一郎は、罪人だ。あまりに、人を殺し過ぎた。イギリスでは言
うまでもなく、日本でだって、何度かある。
﹁︱︱けど﹂
心が、重い。その様に感じるようになったのは、恐らくドラゴン
にかかわるようになってからだ。
命の重さに差と言うものはない。それぞれが地球よりも重い。そ
れは前世での価値観で、現世では日本ですら適用されていない。し
かし、日本でのものはまだマシだったともいえる。迫害されるべき
人食い鬼でさえ、一定の区画では人権が認められていた。
イギリスでは、人間ですらなかった。憎悪すべき家畜。もしくは、
反抗的な奴隷。害獣と言った方が分かりやすいかもしれない。
そのように扱ってくる輩を殺すのは、あまり胸が痛まない。この
国で初めて殺した教師など、罪悪感も抱かない。その反面、ナイが
消えたあの野営地での殺戮は、思い出すだけで気分が悪くなる。そ
れは、どんな現存の言葉を用いても表現できない。生理的嫌悪感、
と言うと、少し近い。あるいは、︱︱恐怖。
﹁⋮⋮ねぇ、君、何であんなことしたんだよ﹂
右手に向かって、ぽつりとつぶやいた。手袋は付け直している。
答えなど返って来よう筈もなかった。そもそも、自分で言ったでは
ないか。腹いせだと。八つ当たりだと。ナイを失った責任の押しつ
けだと。
1608
﹁それは、本当に?﹂
それだけで、自分は人を殺せるか?
疑問。だが、それ以上深みには達しない。考えるつもりで目を瞑
ると、不意に意識が遠くなった。そんなつもりではなかったのに、
いつのまにか眠っていたらしい。
﹁ソー、起きてください。夕食にしましょう﹂
揺すられて、薄目を開ける。ローレルが、顔を覗き込んでいる。
﹁ん⋮⋮。今、は?﹂
﹁七時半くらいです。頑張れば八時には出来ますよ。下準備は昨日
一緒に済ませましたし﹂
﹁そう⋮⋮だっけ﹂
﹁寝ぼけてますね。ほら、起きてください。じゃないとこっそり撮
った寝顔を騎士学園のサイトにアップしますよ?﹂
﹁止めよう! 様々な意味で危険だから止めよう!﹂
一瞬で目が覚めた。ついでに肝も冷えた総一郎。ローレルはその
必死さにちょっと驚いて、くすくすと口元を隠しながら笑う。
﹁私、ソーの扱い方が大分分かってきた気がします﹂
1609
﹁僕はローレルの新しい面ばかり見つかって戸惑ってるよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮嫌、でしょうか?﹂
﹁ううん? 魅力的﹂
眉を垂れさせて聞いてきたので、にやりと笑って言ってやった。
すると目を丸くしてから﹁早く支度にかかりましょう﹂と急かす声。
照れているなと理解しつつ、喜色に富んだ声で付いていく。
食事はなかなか豪勢にまとまった。下手をすると四人前はあって、
﹁食べ切れるでしょうか⋮⋮﹂とローレルは不安がっている。だが、
総一郎としてはそこまでの量ではなかった。一人で食らえと言われ
ると閉口する程度だ。
手を伸ばす。触れる寸前で、思い出し、怯えた。無味。総一郎は
恐らく精神的に疾患を抱えやすい状態にあって、自覚症状としては
まず味覚不全に来る。
唾を、飲み下す。味覚の有無など、分かるわけもない。先ほどま
での出来事の所為で、ぶり返してはいまいか。そう考えると、こち
らも不安が募る。
﹁⋮⋮とはいえ、残った分は明日の朝食にでもすれば⋮⋮、ソー?
どうしたのですか?﹂
少女の明るい声。総一郎は、思い返す。あれほどの出来事で、一
時は足取りも危うくなるほど疲弊したのに、今は何故か平気そうに
している。仄暗い感情が、口から漏れ出た。後悔すると、分かって
いた言葉だった。無意識に出た言葉だった。
1610
﹁⋮⋮ローレルは、元気なんだね﹂
﹁え⋮⋮﹂
言って、我に返った。改めて少女の顔を見て、言葉を失う。呆然。
次いで、失望の色。総一郎は咄嗟にテーブルに両手をついて謝る。
﹁ごめん。口が滑った。言ってはならないことを言った﹂
﹁⋮⋮そう、ですか。私︱︱ソーには、元気に見えるんですか﹂
﹁済まなかった。この通りだ。許してほしい。心無い言葉を吐いた
僕を責めてくれていい﹂
﹁︱︱それなら、そう、ですね。まず、顔を上げてください﹂
少年は、大人しく従う。すると、額を中指で弾かれた。痛みと言
うほどのものではない。だが、何となく﹁痛いっ﹂と叫んでしまう。
﹁これは、罰であると同時におまじないです。私たちがくっついち
ゃったのと同じものです。効果はご飯がおいしくなります。折角の
ニューイヤーズ・イブなんだから、楽しんでいただきましょう﹂
わざわざ口元に運ばれてきたチキンを、総一郎は拒むことが出来
なかった。口にすると、﹁えへへ﹂とローレルは恥ずかしそうに笑
う。けれど、それだけではなかった。数秘術で確認すれば、十分彼
女が傷ついていることが分かった。それを、必死に隠している。カ
バラを用いないとわからないほど、緻密に。
1611
咀嚼する。旨いと、思った。肉の味。確かに、旨い。
それだけのことが、嬉しかった。先ほどのまじないか、それとも
先ほどの事件がそれと衝撃ではなかっただけなのか。どちらにせよ、
日常が保たれたことが嬉しかった。
食事を終えた時、総一郎は腹部に手を置いて天井を仰いでいた。
食べ過ぎたのだ。結局、用意した料理は全て胃袋に詰め込んだ。﹁
あの量を完食するなんて⋮⋮﹂とローレルは傍らで戦慄している。
人の事を化け物のように言うな。
﹁もう、今日やることは全部やったって感じがする﹂
﹁そうですね。あとはもう、お風呂に入って寝るだけです﹂
﹁⋮⋮最後の試練が残ってた⋮⋮﹂
あれだけの事があって締めがラブコメなのは何とかならないもの
だろうか。
﹁先、良いですよ。あ、その前にアイマスク持ってきましょう﹂
﹁こういう時は素直に感心するよ⋮⋮。何でドギマギしてんのが僕
だけなのさ﹂
﹁ソーは安全ですから﹂
﹁コメントに困る評価をどうもありがとう﹂
絶対に舐められている。こういう風に言われると少し危機感を持
1612
たせたくなるのが総一郎だ。
そもそも、この状況下でローレルが総一郎の右手の異形の事を持
ち出して分離を提案しないことが、少年には不思議でならない。そ
れを言えば、何故いまだくっついたままでいるのかも疑問だ。とは
いえ、それならそれで総一郎が提案すればいいだけなのだが。
何か意図があるのかもしれない。という思いがあって、何となく
言えずにいた。アイマスクを素早くつけて、﹁では、手早く済ませ
て寝てしまいましょう!﹂とローレル。目の覆いに描かれた間抜け
な絵の所為で、全くの考えなしに見えてしまうのは難点だと思う。
盲目状態になった彼女を引きつれ、総一郎はくっつく場所を足だ
の手だのに移動させて全裸になる。この光景はかなり変態的で嫌だ。
そして何より総一郎自身が恥ずかしい。
カラスの行水もかくやという素早さでシャワーを浴び終え、これ
また敏速に寝巻を着る。﹁ローレル次良いよ﹂と言いながらアイマ
スクを取ると、微妙に顔を赤くしていた。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁いえ、その⋮⋮何でもないです﹂
﹁⋮⋮? まぁ、いいけど﹂
言いながら、アイマスクを付ける。自らに、ここからが試練だぞ、
と言い聞かせる。
では、失礼して。と声が聞こえ、左手を足首に誘導された。そこ
1613
を掴むと、頭上から衣擦れの音が聞こえ始める。総一郎は極めて冷
静でいるために、穏やかな深呼吸をした。その実アイマスクと言う
障害があるのにも拘らず強く目を瞑っているあたり、少年も初心な
ものだ。
するする⋮⋮、と数秒音がして、傍らに服が落ちる。気配や、微
風が強い存在感となって総一郎の全身を痺れさせる。﹁次、手を握
って貰っていいですか⋮⋮?﹂と弱気な声がかかった。少々どもり
ながら答えると、手を掴んで、立ち上がらせられた。隣には、上半
身を晒したローレルが居るはずだった。目が、回る。
再び、衣擦れ。心臓が、僅かに早鐘を打ち始めている。ローレル
の服が落ちた。目を瞑っていても分かった。﹁で、では、お、お願
いします⋮⋮﹂と手を引かれ、少し歩いてから止められた。心頭滅
却、と脳裏によぎる真っ白な肢体を掻き消そうとする。
そうして、少女はバスタブに入り、カーテンを閉めた。カラカラ、
と音がして、初めて総一郎はほっと一息を吐く。
﹁これ拷問だよ⋮⋮﹂
﹁ソーはちょっと緊張しすぎな気もしますよ。私も脱いでいる最中
はそれなりに恥ずかしいですけど、今になってみるとソーの体の強
張りっぷりは面白いです﹂
﹁⋮⋮絶対何処かしらでドッキリしかけて笑ってやるからな﹂
﹁復讐方法が可愛いんだか恐ろしいんだかわからないですね﹂
くすくすと笑い声が聞こえてくる。微かに、カーテンが揺れるの
1614
が分かった。栓を捻る甲高い音。繋ぐ左手に、湿気と水滴がかかる。
少女の華奢な手も、少しずつ湿っていった。不意に想像が膨らみか
けて、総一郎は頭を振る。どうも生まれ変わってから初心でいけな
い。
﹁少しくらい見られても、私は構わなかったのですけれど﹂
からかうような声音。うっ、と詰まる総一郎は緊張を逸らすよう
にカバラをもって計算を始める。少女の言葉から虚勢を見つけてか
らかい返してやろうと画策したのだ。目には目を、歯には歯を。ハ
ンムラビ主義である。
そして、その言葉の中に嘘のアナグラムが混じっていないことが、
少年を動揺させた。
﹁⋮⋮﹂
心臓が、高鳴った。いや。むしろその鼓動は、地鳴りのような強
い響きをもって総一郎を揺さぶった。駄目だ。と自分に強く言う。
だが、それはもはや衝動と化していた。理性などでは到底止められ
るものではなかった。
震える手で、アイマスクを取り払う。揺れるカーテン越しに、う
っすらとローレルのシルエットが浮かんでいた。呼吸が、少し乱れ
始める。総一郎を行動させようとする衝迫の荒々しさ。その一方で、
少女を酷く愛おしいと思う感情が湧き始める。
﹁⋮⋮どうしました? ソー。︱︱あ、そうですか。拗ねてるので
すね? ふふっ。冗談ですから、機嫌直してください。シャワーか
ら出たら、何か摘まむものでも作りましょう﹂
1615
労りの言葉。あまりに純粋な少女の、妖精のように綺麗な声。汚
したい、愛したい。腑臓の中で、二つの欲求が交じり合い、次第に
混沌に変わっていく。そのサインは、微妙に強まった総一郎の握力
として現れた。
﹁んっ、くすぐったいですよ。︱︱そろそろ体も洗い終わりますか
ら、もう少し待ってくださいね﹂
﹁⋮⋮うん、分かった﹂
右手を、頭に当てる。少々の違和感があったが、見過ごした。脳
内で、詠唱。精神魔術だ。
二人が、くっついている理由。総一郎は二日をかけて、その輪郭
を理解していた。特定の部位を離すことが出来ないのではなく、た
だ必ず一部が接触していなければならない。カバラによるヘレンさ
んの爆弾染みたおまじないは、その制約から﹃物理的なものではな
く、精神的な作用によって離れられない﹄ことが読み取れていた。
精神魔法には、他からの干渉の一切を取り払う、﹃自己洗脳﹄と
言う呪文がある。そのものズバリ、自ら己の脳を﹁洗う﹂のだ。汚
れは落ち、余分なものがなくなる。正常な自分を取り戻すことが出
来る。
疼痛のような副作用が、総一郎に纏わりつく。反面、ローレルへ
の情動は消えていない。これは本物なのだと、改めて思った。﹁そ
ろそろ出ますよー﹂と、のんきな声。総一郎はわずかに口端を釣り
上げて、左手を開いた状態で引いた。
1616
﹁ふぇっ、ふぁ、ひゃぁっ!﹂
ローレルが、まるで磁石に引かれるようにして、引き抜いた手に
若干遅れる形で総一郎に向かってきた。想像以上に、白い肌。細身
で柔らかな感触。背中と腰に腕を回して、優しく、抱きしめたつも
りだった。けれど、力が入りすぎている感が否めない。
﹁えっ、えっ、えっ? あ、その、ソー?﹂
彼女は、混乱のあまり何も出来ないでいた。ただ総一郎に全身を
預けて、表情豊かに慌てて周囲をきょろきょろしている。
﹁⋮⋮ローレル。やっぱりさ、君、油断しすぎ﹂
﹁えっ?﹂
抱きしめる力が、更に強くなった。﹁んっ﹂と腕の中で身を強張
らせる。
﹁え、あの、ソー⋮⋮? これは、一体どういう事なのでしょうか﹂
震えた声。総一郎は、耳元で呟く。
﹁ローレルが欲しい。君の、何もかもが﹂
顔を離して、正面からローレルの瞳を見つめた。﹁あっ⋮⋮﹂と
声を漏らして、少女は赤く俯いてしまう。総一郎は、ただ黙って見
つめ続けた。何度か彼女はこちらを見やっては目を逸らし、最後に
数秒総一郎を見つめ返してから、ぽつりと言った。
1617
﹁その、や、優しくしてください⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ローレルは言ったっきり、斜め下に向かって視線を放る。総一郎
も、それ以上言葉を紡げなかった。軽いキスを、彼らは交わす。そ
して総一郎は、ローレルのうなじに口を付けた。
耳元で、切ない声が上がる。
睦言を交わし終えた二人は、総一郎の寝室で柔らかく互いに触れ
ながら息を整えていた。ただ、充実感がある。今まで薄くあった障
壁のようなものが、取り払われたかのようだと総一郎は薄目で思う。
しかし激しく動いた倦怠感もあって、汚れの後始末に動こうとい
う気にもなれないのだった。少し冗談めかして、提案してみる。
﹁何か、疲れたなぁ。このまま寝ちゃおうか?﹂
﹁だ⋮⋮駄目、ですよ⋮⋮。んっ、⋮⋮こんな姿をおじいさんおば
あさんが見たら、卒倒してしまいます⋮⋮!﹂
まだだいぶ息の荒いローレルは、頬を赤く染めたまま喘いでいた。
そんな様も可愛らしく、﹁仕方ないなぁ﹂と意地悪く行って、その
額に接吻する。
﹁⋮⋮じゃ、先にシャワー浴びてるね。回復したらおいでよ。洗っ
てあげるから﹂
1618
﹁怒りますよ⋮⋮﹂
﹁ああ、何だろうこの感じ。前よりも少し気安くなった気がして嬉
しいな、これ﹂
﹁もう⋮⋮!﹂
少女は布団をかぶったまま頬を膨らませた。そして、二人同時に
くすくす笑い。﹁それではお先に失礼﹂と手を振って部屋を出る時、
﹁すぐに追いついて洗ってもらいますから﹂と言われ、またも二人
で笑った。
だがそれが本当に冗談だという事はカバラで知っていたから、総
一郎はささっと汗を流してリビングでぼんやりしていた。ローレル
にも総一郎同様の解呪を施したため、別行動が出来るようになって
いた。
十数分も待たない内に、ローレルも居間にやってきた。温かそう
なパジャマに、身を包んでいる。思わずその中身を想像しかけて﹁
思春期の中学生か僕は﹂と呟く。﹁実際その通りでしょうに﹂と突
っ込まれ、﹁そうだった﹂と変な納得をした。
﹁何と言うか⋮⋮。想像を裏切られました。ソーはてっきり朴念仁
かとばかり思っていましたのに﹂
﹁いやぁ⋮⋮。血だから﹂
﹁血?﹂
1619
﹁こっちの話﹂
父に比べたら可愛い方である。
ローレルはソファーに座っていた総一郎の、真隣に腰を下ろした。
そして、腕に抱き着いてくる。﹁もうカバラは取れたよね?﹂と聞
くと、﹁もっと深い所で魔法にかかってしまいましたから﹂とした
り顔で返される。
﹁このやろ﹂
﹁キャッ、やっ、そん、あふっ、やめ、ひぁっ、あははははははは
ははははははは!﹂
脇に両手を入れてくすぐり地獄。身をよじってくすぐったがるロ
ーレルの姿は、かなり嗜虐心を誘う。
そこで、気づいた。
﹁おっと、ごめん﹂
﹁あははははは、は⋮⋮?﹂
急いで右腕だけ引き抜く。その意味が一瞬わからなかったのか、
ローレルは強制された笑顔のまま首を傾げた。ついで、﹁えっ、ち
ょ、ちょっと見せてください﹂と真顔で少年の右手を取る。それに
従い、総一郎もまた瞠目した。
﹁⋮⋮治ってる⋮⋮?﹂
1620
異形が、そこに存在していない。左手の鏡写しの様な右手が、そ
こにあった。何を言うべきなのかが分からず、総一郎は震える。そ
の時、少女の顔がクシャッと歪んだ。
少年の右腕を抱きしめて、ローレルは涙を零し始める。戸惑って
﹁何で君が泣くのさ﹂と聞くと、﹁そんなの分かりませんよぉ⋮⋮﹂
と涙声で言われてしまう。
﹁それでも、何故か、嬉しいんです⋮⋮。分からないけど、ソーの
右手が治ったことが、こんなに嬉しいんです⋮⋮!﹂
えぐえぐとむせび泣く少女の姿に、総一郎は救われたような気分
になった。左手を彼女の背中に回し、抱きしめる。﹁そっか﹂と微
笑みを湛えて口を開くと、言葉は勝手に真実を語った。
﹁僕、人間に戻れたんだ﹂
ローレルはハッとして顔を上げる。総一郎は、その涙をぬぐった。
﹁ソー﹂と彼女は手を伸ばす。受け入れるように抱きしめ、長いキ
スをした。その一回で十分だった。それだけで、相手の何もかもが
伝わった。
しばし、互いに何も言わなかった。無言ながら、充実していた。
不意に、ローレルは口を開いた。拍子抜けをするような、独白だ。
﹁⋮⋮私、多分ダメ男に弱いのだと思います﹂
﹁えー﹂
ローレルの微笑と共に飛び出た言葉に、総一郎は苦笑する。悪戯
1621
っぽく見つめるその瞳から、目が離せない。
﹁困っている人がいると、気になるんです。何か手伝えれば、と思
ってしまいます。そういう性分ですから、私、ソーを好きにならな
ければ、他のダメ男に引っかかっていたに違いありません﹂
﹁それ、自分で言う?﹂
﹁はい。だから、私はきっと、たくさんの可能性の中から一番幸せ
な未来を得られたって、そう思うんです。ソーは、駄目なんかじゃ
ありませんから。ただ、身の丈に合わないほど、過酷な運命にある
だけで。⋮⋮あなたは、可哀想な人です。傍らで見ているだけで、
理不尽な気持ちにさせられます。だから、私はソーの運命を打ち破
りたい。︱︱ソー﹂
ローレルはその華奢な腕を回して、総一郎を抱きしめてくる。優
しく、抱き留めるように、それでいて失わないという意思が見える
ほどに強く、力が籠められる。
﹁あなたはきっと、私の目の前から消える。でも、死なない限り、
いいえ、死んでしまっても、私はあなたと共にいます。大好きです
よ、ソー﹂
彼女は、再び上目づかいに総一郎を見上げる。総一郎も愛しさが
募って、ローレルに熱いキスを捧げる。
夜、きっと最後だろうからと、やはり二人並んで寝ることになっ
た。手を繋ぎながら、半ば抱き合うようにして目を瞑る。次第に、
微睡に落ちていく。
1622
︱︱そして現れる、白く巨大な、無数の瞳を持つ迷宮の化け物。
奴は何本もある足で総一郎を執拗に踏みつぶす。
夢の中で起こる、苦痛。それが、いつもより近い。総一郎は、ふ
と、毎晩見続けるこの夢の凌辱を、今までどのように躱してきたの
かが分からなくなった。
一撃一撃で、死が望ましい物であるように錯覚するほどの不快感
を抱く。胃が潰され、肺が爆ぜ、小腸が車に潰された青大将のよう
に変わっていく。
手遅れ。人生の終わり。一撃ごとに近づく破滅が、総一郎の恐怖
を急き立てる。
そして、少年は絶叫を上げて飛び起きた。
﹁そっ、ソー!? どうしたんですか! 大丈夫ですか!?﹂
家中に響くような声に、ローレルは心配そうに叫ぶ。そうしなけ
れば、総一郎の声に呑まれて耳に届かないからだ。
対して、総一郎は錯乱していた。現実と夢の境界が不確かな状態
で、何事かもわからないことを喚き続ける。
﹁嫌だッ、嫌だッ、こんな所で死にたくない! 誰か、助けて! ナイ! 君ならその方法を知っているんだろう!?﹂
﹁ナイなんかここに居ません! 私はローレルです! ローレル・
シルヴェスター! ソー! ちゃんと目を開いてみてください! ここは何処ですか!? あなたの隣に居るのは誰ですか!?﹂
1623
﹁⋮⋮ろ、ローレル⋮⋮﹂
震える手を伸ばして、しかし途中で逡巡する。ここで彼女に触れ
て、本当にいいのかと。得体のしれない化け物の恐怖。それは、彼
女に感染する物ではないのか?
総一郎は、ローレルを不幸にすることだけは願い下げだった。だ
から、躊躇う。愛おしい相手であるからこそ、巻き込みたくはない。
そんな心情を読み取ったのか、彼女は穏やかに微笑んで告げてき
た。
﹁先ほども、言いましたでしょう? ソー。だから、ずっと一緒で
す。いやだって言っても、一緒に居ますから﹂
﹁⋮⋮ロー、レル⋮⋮﹂
弱く、その手を握る。強く、胸に抱きとめられる。
﹁⋮⋮駄目だった。駄目、だったんだ。僕は、あの化け物に呪われ
ている。その呪縛を避け続けられていたのは、僕が人間じゃなかっ
たからだ。もう、戻れない。人間になるのも、そうでなくなるのも、
自分の意志では叶わない﹂
震えながら、呟いた。ローレルが、悲しげに少年の名を呼ぶ。
﹁人間に、戻るべきではなかった。僕は、ずっと、あのままでいる
べきだった﹂
1624
修羅。人の中に生きられない者。それは個として人間を凌ぎ、群
れることが出来ず種として人間に劣るもの。
総一郎は、狭間で生きねばならなかった。父は、そのように語っ
た。今、総一郎は人間だ。ローレルが居る限り、修羅になるほど心
を荒ませることはできない。
1625
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵1︶
夜行バスから降りて、しばらく歩いていた。
総一郎とローレル。目立たないようにカバラで調整した変装をし
て、街を横切っていく。新学期初日の前日。暗がりの中、二人はぼ
そぼそと会話する。
﹁いちいちこんなこと気にしなきゃならないなんて面倒くさいです
ね﹂
﹁別に一人でもよかったのに﹂
﹁そんな意地悪言っちゃ駄目です﹂
﹁ヘレンさんには最後までよくしてもらったから、大事な孫を傷つ
けたくないのさ﹂
﹁随分好かれたものですよね。おばあちゃんって、意外に人を好き
になることってあんまりないんですよ? 多分、カバラの所為でそ
の人の奥底まで分かってしまうからなのでしょうけれど﹂
﹁そう言われると光栄だよ。三食分のお弁当まで作ってもらったし
ね。お蔭で不味い駅弁にあり付かずに済んだ﹂
﹁そうですか、良かったです。それで話を戻すんですけど、ここま
でする必要があるのですか?﹂
1626
﹁人目についた方が面倒になるからね。経験談。ほら、あのデート
中の襲撃とか﹂
﹁ああ﹂
納得、と頷くローレル。街灯の明るさだけを頼りに、彼女の足は
進む。一人では、決してこんな事をしなかっただろう。対して総一
郎は、目に特異な性質を持っている。闇であろうと、光であろうと、
極端な例で言えば煙であろうと、総一郎の視線を遮ることはかなわ
ない。
光、闇は虹彩によるものだろうと分かるが、煙に関してはいまい
ちピンとこなかった。
そうして深夜、学園の門前にたどり着いた。見上げる。かつては
荘厳に見えたこの建物が、今ではうすら寒い威圧感さえ放っている
ように思える。
﹁⋮⋮じゃあ、入ろうか﹂
﹁はい﹂
総一郎はローレルを抱きしめて、魔法で飛びあがって塀をこえる。
そのままスコットランドクラス寮にまで戻ってから、手を振って別
れた。
自室に向かう。柔らかな絨毯。優雅な壁の模様。高級ホテルを思
わせる素晴らしき意匠と、その欺瞞。
﹁⋮⋮カバリストめ﹂
1627
黒幕は、きっとこの学園に居る。総一郎は、鋭い目つきのまま廊
下を渡る。
翌日の朝は、久しぶりの素振りに精を出した。睡眠は、取ってい
ない。恐怖もあったが、単純に眠れないというのもあった。敵の、
本拠地に居る。そんな自覚が、総一郎を眠らせなかった。
素振りは、しばらく違和感が付きまとった。間隔があいて、腕が
落ちたという見方も出来る。だが、二、三時間も振っていれば、何
となく勘を取り戻しかけてくる。腕が重くなっていたから数分の休
憩をはさみ、再び振り出して一時間もしない頃だった。まだ、黎明
と言うほどの時間だ。
﹁⋮⋮ソウイチロウ?﹂
振り返る。予想は、していた。上手く振る舞えるか。それだけが
心配事だ。そして、それは杞憂に終わる。
﹁やぁ、久しぶり。ファーガス。今日も早いね﹂
声は、震えなかった。存外、平気そうな声が出せた。総一郎の言
葉に、ファーガスは戸惑いを覚えている。しかし、これならば大丈
夫だ。
ファーガスは呆れの言葉を発し、総一郎はまたも軽く返す。する
とあえて怒ったような声を、笑顔と共に飛ばしてくる総一郎の親友。
それは、取り戻せないと勘違いした尊い記憶だ。
少年たちは、絆を取り戻す。
1628
首尾よく仲直りを果たしてファーガスと分かれてから、総一郎と
ローレルは二人、人気の少ないテラスの一つで相談していた。差別
云々で騒がれるのにも、もうウンザリだったのである。今までのよ
うにムキになって立ち向かおうとしない分、彼にも余裕ができたの
だ。
授業が始まる寸前に、魔法で姿を消しつつ教室の端っこに混ざれ
ばよいのではないか。とローレルは言った。カバラがある今では、
その付近に人が寄り付かないようにアナグラムを調整すればいいだ
けだから、実現不可能ではない。
ただし、懸念材料がないわけではなかった。
﹁ローレル。分かってるとは思うけど、この学園にはカバリストが
居るはずだ。怪しい人物は全く目星がついていないわけじゃないけ
ど、慎重に頼むよ﹂
﹁直接問い詰めて、一人になったところを倒してしまえば良いので
はないですか?﹂
﹁倒すって⋮⋮そんな野蛮なことはしないよ。倒したところで殺す
わけにはいかないし。そう考えると学校は窮屈だね。調べ物をする
にもいろいろと面倒だ。残り一年くらい静かに暮らしたいなぁ⋮⋮﹂
ふーむと考え込む。外聞などどうでもよいから、総一郎はのんび
りと日々を暮したかった。人間関係とは真に奇怪で御しがたいもの
である。とにもかくにも、少年は平和が欲しい。
1629
そう考えていたところ、ローレルが画期的なことを言い出した。
﹁というか今思ったのですが、カバラがあるなら上手いこと同級生
と仲良くなる道はないのでしょうか?﹂
﹁それだ!﹂
﹁うわっ﹂
彼女の言葉のあまりの衝撃に、総一郎は身を乗り出して指をさし
た。ローレルは総一郎のその行動にむしろ衝撃を受けたようで、声
を漏らしつつ体を仰け反らせる。
﹁それだよ、ローレル! ああ、もう凄い! 尊敬する! むしろ
愛してる! 今すぐ結婚しよう!﹂
﹁ソーの感情表現は激しすぎます! 冗談も程々にしないと怪我さ
せますよ!﹂
﹁す、すいませんでした⋮⋮﹂
﹃しますよ﹄ではなく﹃させますよ﹄と言われれば、流石の総一
郎も戦々恐々としてしまう。
まったくもう、と憤然と息をつく少女。とはいえ照れがあるのか
頬が少々赤い。
そろそろいい時間になってきたと、二人は共に時間を確認して立
ち上がった。ローレルの案があまりに総一郎の想像の向こうを行っ
1630
ていたため、初めて教室に行くのが楽しみに感じた。不安もある。
だが、総一郎はこの不安さえ愛しかった。今までなら、不安さえ抱
かない。諦念があるばかりだ。
カバラで視線が集まらない一瞬一瞬を作りながら、潜むように教
室へと足を運んだ。教官はすでに教壇に立っていて、授業が始まる
数瞬前に滑り込む。
ローレルと、並んで座った。これでも彼らが総一郎に気付かない
というのは計算済みだった。そして改めて、二人で彼らの様子を観
察していく。始業式に集まれと言った教官の口調、声のトーン。そ
れに対する生徒たちの反応。
計算していくにつれて、二人の計算スピードは落ちた。桁数が多
く大変だったからではない。こんな行為は無為であると、打ちのめ
されたからだ。
﹁⋮⋮二世紀もかかるって、馬鹿じゃないのか﹂
喧騒に、総一郎の呟きは紛れて消えたかに思えた。だが、それに
反応する者がいた。総一郎は息を呑んで素早くローレルに光魔法を
かける。自分以外に、その姿が見えなくなった。
﹁おや、君はブシガイトじゃないか。いつから学園に戻ってきたん
だい?﹂
﹁⋮⋮ギル﹂
いつも通り不敵な笑みと共に言葉を投げかける彼に、教室中がど
よめいた。総一郎は、ただでさえ落胆していたところにこれだから、
1631
どうにも腹立たしい。
﹁どうしたんだい? 機嫌が悪そうだね。そういえばドラゴン討伐
はどうだった?﹂
﹁⋮⋮ニュースでもやっていただろ。ドラゴンは全部死んだよ﹂
﹁そうだね、死んだ。それも、そのうちの一匹はイングランドクラ
スとはいえ我が高の生徒というじゃないか! ファーガス・グリン
ダー! 彼は面白いし凄い奴だよ!﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
何か、危険な予感がした。アナグラムが、今の総一郎では解き切
れないような、複雑で妙な変動を見せている。ローレルと、目配せ
をした。彼女は確かに首肯する。
﹁⋮⋮それに対して君はどうだ、ソウイチロウ・ブシガイト。君は
騎士団から逃げ出して、今までほっつき歩いていたそうじゃないか。
よくものこのこ学園に顔を出せたな、チキンボーイ﹂
﹁⋮⋮﹂
教官は、取り立ててギルの演説を止めようとはしなかった。むし
ろギル以外の生徒と同じように、呑まれ、総一郎に敵意を向けてい
る節がある。総一郎は、どのように返せばよいかわからなかった。
アナグラムが難解すぎるのもあるし、どのように答えてもさらに複
雑化してしまう。
﹁⋮⋮どうした? 何も言わないのかい? ってことはつまり、君
1632
は正真正銘のチキンってことでいいんだね?﹂
﹁おい、黙ってないで、何とか言ったらどうだよ!﹂
ギルの隣に立つ、性格の悪そうな細い少年が叫んだ。かつて総一
郎をいじめた三人の内の一人だ。ホリスだかヒューゴだか。名前な
どとうに忘れてしまった。
総一郎は、何だか面倒になってしまった。期待するだけ無駄だっ
たという訳だ。不幸なことに、精神魔法の加護はこの教室のほぼ全
員にかけられるほど多くない。精々、数人の記憶の中から総一郎を
消せるくらいのものだ。
静かで平和な日常は、望めないらしい。少年はおもむろに杖を取
り出し、ぽいと投げ捨てる。
ローレル以外の全員が、その行動に集中した。宙をくるくると回
る杖を呆然と見つめ、姿見えぬローレルの手を引いて退出する総一
郎を、意識の外にはずしてしまっている。
廊下を早歩きしていると、背後から驚くような十数人の声がこだ
ました。総一郎は、ローレルに話しかける。
﹁ごめんね。君の案、どうしても叶えたかったのだけど﹂
﹁いいですよ、そんなこと。それより、私のこれからの出席日数、
どうにかしてくれませんか? それが出来れば、二人きりで勉強が
できます﹂
彼女の言い草に、きょとんとしてしまう。総一郎は、戸惑い気味
1633
に首をかしげた。
﹁⋮⋮いいの? そんな事をして﹂
﹁いいですよ。私は教わるよりも独学の方が楽しいんです。分から
ないところがあっても、多分ソーが教えてくれますし﹂
﹁僕そんな万能じゃないよ?﹂
﹁私、貴方が聖神法以外の科目で学年一位以外を取ったことがない
事を知っていますからね﹂
﹁⋮⋮でも、あのクラスには君の友達が﹂
﹁いません。もともと、彼らは変に意識が高くって私には合いませ
んでしたから。それに、この件でやっとはっきりしました。私はあ
のクラスが嫌いです﹂
眉根を寄せながら、強く前方を睨むローレル。総一郎は﹁そこま
で言うなら﹂と受け入れたが、後々になってからそれが彼女なりの
気遣いであったと知り、深く心に染み入る感覚を覚えた。
翌日から、二人は教室へ行かずに図書館に入り浸るようになった。
アナグラムの計算によって最も人の寄り付かない、かつ人目に付き
にくい席を選び出し、その周囲に弱い認識阻害用の光魔法をかけた。
これで騒がれない、平和な空間の完成だ。手柄顔でローレルを見
ると、何故なのか微笑ましげな表情で頭を撫でられた。彼女は総一
郎を自らの弟のような目で見ているのかもしれない。その割に撫で
る際、身長が足りず背伸びしていたのが何とも可愛らしかった。
1634
﹁ローレルって、もしかしてお姉さんぶりたいお年頃?﹂
﹁違います。ソーが何だか弟っぽいのがいけないのです﹂
まぁ実際そうだからね、と言うと、彼女はああ、と思い出したよ
うな仕草。
﹁そういえば、離れ離れになってしまったのでしたっけ﹂
﹁うん、一つ上のね。今はアメリカで⋮⋮何してるんだろうね。さ
っぱりだ﹂
﹁どんなお姉さんでした?﹂
﹁んー、僕より子供っぽい。むしろ僕がお兄さんやってた気がする
な。けど、僕の言いなりって訳では決してなかった。芯が強いんだ
よね﹂
﹁素敵な人なのですね﹂
﹁うん。愛してた。多分僕が努力して会える、唯一の肉親でもある
から﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁あ、いや、ごめん。前にも行ったけど、別に全員が死んだって訳
じゃないんだ。ただ、会おうと思って会える相手じゃないってだけ
で﹂
1635
﹁お父さんの方はまだご存命でしたよね﹂
﹁うん。今日本にいるんだ﹂
﹁それは、大丈夫なのですか? 今日本の国土は性質の悪い亜人に
占領されていると聞きましたが﹂
﹁大丈夫だよ、絶対。父さんに限っては、殺せる人はいないんじゃ
ないかって思う﹂
﹁それほど、ですか﹂
﹁僕の数少ない自慢だよ﹂
総一郎ははにかんで笑った。そういえば、父のことはイギリスに
来てからあまり思い出さなかったように思う。彼は総一郎に依存さ
せるような所がなかったし、彼に限っては心配事すらないからだろ
う。ただ、興味はある。尋常でない剣技と発動さえ感じさせない魔
法、魔術をカバラで制御する父は、今日本で単身何をしようとして
いるのか。
ローレルは総一郎をして、﹁個性的な家族ですね﹂とほほ笑んだ。
そういえばと思い至る。ローレルは祖父母と共に過ごしているが、
彼女の両親とはどうなっているのかと。
だが、少し考えてその質問は止めておいた。本来そうあるべき姿
でない。つまりは何かしらの事情があるのだろう。聞くだけ彼女の
心を抉るに決まっている。そんな愚行を犯すつもりはなかった。
余談もここらへんにしておこっか。と総一郎は教科書を取り出す。
1636
教科は国語だ。ルイス・キャロルの﹃不思議の国のアリス﹄が載っ
ている。音魔法で盗み聞いたのだが、今はここをやっているらしい。
精神魔法でローレルの成績をすべてパーフェクトにする事も出来た
が、それでは彼女のためにならないと思ったのだ。
新学期という事もあり、初めてそのことを知ったらしいローレル
は、﹁あっ﹂と嬉しげに声を上げる。
﹁私、ルイス・キャロルが大好きなのです。特に好きなのは﹃スナ
ーク狩り﹄という詩なのですが、知っていますか?﹂
﹁またしてもお前は僕の前に立ちふさがるのか!﹂
1637
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵2︶
ドラゴン討伐のために途切れていた人間関係は、おおむね回復で
きたと言えた。
例えばベル。彼女はめでたくカップル成立したというファーガス
の手引きで、ローレルと共に軽く茶会を開くことに成功した。例え
ばネル。彼は数日素振りに精を出していたら、何となく遭遇した。
ある意味では五人メンバーの再結成と言う形なのだろうかと首を
傾げていると、実は後輩が半ばそこに割り込んできているという話
をローレルから聞けた。しかし、あまり好かれていないのだとも語
っていた。
﹁アンジェ、という子なのですが、彼女が居るとどうにも会話の流
れを掴めないんです。結局口を挿めなくて、むっつりしてしまう、
という事が多く⋮⋮﹂
﹁それなら、良かったじゃない﹂
﹁どうしてです?﹂
﹁カバラ﹂
﹁ああー﹂
最近通じ合ってきたのか、言葉数少なく会話することが多くなっ
てきている二人。先日そのことに気が付いて﹃夫婦みたいだね﹄と
1638
冗談を言ったら、顔から火が出るんじゃないかというくらいローレ
ルは恥ずかしがっていた。正直そこまで激しい反応が返ってくると
は思っていなくて、新鮮やら微笑ましいやらで一層愛おしい限りで
ある。
﹁⋮⋮これは若干種類が違う気がするんだけど気のせいだろうか⋮
⋮﹂
﹁何がです?﹂
﹁恋人じゃなく娘なんじゃないかと危惧﹂
﹁恋人です﹂
断言されたからにはそうなんだろう。
早朝。修練場。素張りは、少し前に一区切りつけた。怖いです、
と言われたのだ。確かに、気が立っていた、という自覚はある。
周囲の環境。差別。虐め。それらは遠巻きにしていてもそれなり
に不快で、その上朝は毎回最悪な気分にさせられていた。夢。悪夢。
あの化け物のために、朝はいつも憔悴気味だった。
唯一の救いと言えば、課題の多さのためにそれに掛りきりになら
ず、睡眠を怖がって寝不足にならないことくらいだ。普通なら多く
の問題をまとめて抱えるのは得策ではないが、その一つ一つが手に
余るのなら、いっそ複数あった方が安全と言う時もある。
普通の人間には、到底当てはまらない条件ではあるが。
1639
﹁対策考えておかないとなぁ⋮⋮﹂
﹁夢、ですか? 私が付いていてあげられればいいんですが⋮⋮﹂
﹁昔に比べて大分感覚が狂ってるよね、ローレル。ちょっと過保護
すぎじゃない?﹂
﹁妥当です﹂
妥当らしかった。
しかしそうも言っていられず、ふむと顎に手をやった。魔法を使
う対策となるならば、恐らく精神魔法だろう。しかし、その先が思
いつかない。
他に対策がないわけではなかった。ナイに植え付けられた記憶を
紐解けば、何もかも理解出来るのかもしれない。けれど、恐らくそ
れに頼るのは﹃無貌の神﹄の望む破滅なのだろう。総一郎はそれを、
精神魔法によって強固に封じ込めている。
とりあえず少年はその事をローレルに伝えた。肯定するにしろ、
否定するにしろ、何かしらの足掛かりにはならないかと言う淡い期
待だ。そして少女は、それにきっかり答えてきた。
﹁夢を見た直後、夢を見たという記憶を消してしまうのはどうです
? 他には、寝入ってから六時間は夢を見ない状態を保てるように
細工してみる、とか﹂
﹁ローレル。愛してるよ﹂
1640
﹁現金ですよねソーも﹂
慈愛の瞳に白い目が返ってきて総一郎は落ち込み気味だ。仕方な
くいじけていると、唐突に顔を上げるように言われ、従うとキスを
される。
﹁これで、機嫌は治りましたか?﹂
﹁⋮⋮ローレルのくせに生意気だ! 畜生、目にものを見せてやる
!﹂
﹁えっ、ちょっ、まっ、あははははは! 駄目! 駄目です! ぅ
ぁあはははははははは!﹂
くすぐり地獄再び。何処がポイントなのかもばっちり理解しつつ
あるので、もはや少女は総一郎の掌で踊る存在にすぎない。よって
先ほどいじけていたのはフリと言うやつである。分かるだろう? 分かれ。
そんな風にじゃれ合っていると、﹁お前ら今日も仲良いな﹂とフ
ァーガスが歩いてきた。一時停止した二人は同時に手を挙げて挨拶。
﹁統率取れすぎててキモイ﹂とお褒めの言葉を賜る。
﹁ほら、差し入れ﹂
﹁お、ありがとう﹂
﹁そんな、私は見てるだけなのですから、気を遣っていただかなく
ても良かったのに⋮⋮﹂
1641
﹁そういう訳にもいかないだろ。まぁ、自分の分のついでだ、有難
く受取ってくれ﹂
﹁末代まで語り継ぐよ﹂
﹁マジかよ、お前それ孫辺りになったら俺とてつもなく恥ずかしい
事になるじゃん。﹃ファーガスと言う人が居てな、その人は私にジ
ュースを奢ってくれたんだよ﹄﹃⋮⋮それ今言う必要ある?﹄みた
いな﹂
﹁五代あと辺りになったら尾ひれがついて凄いことになってそうで
すね﹂
﹁ジュースがポーションとかになってそうな気がする﹂
﹁そのお蔭で難敵に勝てたとかですね﹂
﹁僕の何気ないボケがまさかここまで膨らむなんて⋮⋮﹂
愉快な仲間たちである。どうでもいいが、ファーガスの演技が異
様に上手かった。
三人で缶を傾ける。一服してから、ファーガスは深刻そうに言う。
﹁ソウイチロウ。お前の噂、もう俺の耳にまで届いたぞ﹂
﹁アイルランドクラスまでですか? 随分早いですね﹂
﹁そりゃあ、スコットランドクラスとアイルランドクラスはソウイ
チロウつながりで情報共有してるからな。積極的でないイングラン
1642
ドクラスなんかは、知っててもベルくらいのもんなんじゃないか?
︱︱ともかく、注意しておいてくれよ。俺はもう、さして強くも
ないんだから﹂
ファーガスからは、この冬休みであの凄まじい力を封じたと聞い
ていた。なるほど、確かにそれを封じてしまえば、ファーガスの力
は騎士候補生の中から頭一つ飛び抜ける程度のものだ。力にはなっ
てくれないだろう。
しかし、そんな気遣いだけでもうれしく、総一郎は虚勢を張る。
﹁つまり、いつも通りってことでしょ?﹂
﹁あのなぁ⋮⋮﹂
安穏と笑むと、ファーガスは呆れたように頭を掻く。そこから伺
えるのは、安堵、そして不安。相反する感情。人間とは複雑だ。
﹁襲撃でも受けたりして﹂
﹁笑い事じゃないんですよ、ソー﹂
﹁⋮⋮あー、そうか。ソウイチロウの感覚って常人とは著しくズレ
てるんだったな﹂
﹁それは盲点でした⋮⋮﹂
﹁君たち人の事をさしてそこまでこき下ろすものじゃないよ﹂
溜息二つ。取り繕うように、﹁大丈夫だって﹂と言い聞かせる総
1643
一郎。実際に襲撃を受けたのは、その数日後のことだ。
暇つぶしにアナグラムを計算していたところ、総一郎は危機を感
じて立ち上がった。夜。ファーガスと日中話せない分、ローレルを
交えてお喋りした後である。
﹁んー、⋮⋮不可避。いや、机の下ならギリギリ⋮⋮?﹂
呟きながら、計算を終えて机の下に潜り込んだ。ローレルと共に
計算練習していた時に比べれば、格段にスピードが上がっている。
というのも、計算の訓練をするより精神魔法で頭脳に電卓を組み込
んでしまった方が、効率がいいと気づいたのだ。組み込むにはカバ
ラを使えばよく、今の総一郎の未来視は相当なものであるといえる。
机の下に潜り込み、木刀を外側に向けてじっとしていた。心の中
で指を折る。三、二、一⋮⋮。
爆音。強風。飛び散る破片。だが聖神法による前者は木刀に阻ま
れ、副産物の破片も机が弾いてくれた。次いで、勝ち誇ったような
傲慢な声が響く。
﹁やった! ついにブシガイトを﹂
﹁いや、死体が転がっているかどうか位確認しなよ﹂
言いながら総一郎は十人近くいる上級生たちの前に躍り出て、一
振りで三人の頭蓋を打った。返す刃は届くか微妙だったので、カバ
ラで調整して五人の胴体を叩く。頭蓋の三人と胴体の二人が崩れ落
1644
ち、怯んだ三人を追撃で打ちのめして、最後の一人の喉元に木刀を
突きつける。
﹁で、これは一体どういう訳なのかな﹂
﹁ぇ、あ⋮⋮あ⋮⋮!﹂
﹁何とかいいなよ。あんまり苛立たせるようだと、殺してしまうよ
?﹂
訊くまでもないことを言わせるのは、ささやかな復讐だ。彼らが
子供である限り、総一郎は殺さない。だが、意地悪くらいはしても
良いだろう。
﹁⋮⋮ありゃ、気絶しちゃった﹂
彼は白目を剥いて失禁していた。ズボンの股の部分が、少しずつ
黒ずんでいく。
﹁⋮⋮少し懐かしい気分だな。父さんとの稽古を思い出す﹂
その時、メールが来た。ファーガスからのものだ。察知して、心
配してくれたらしい。安心させられるよう返信した。すでに返り討
ちにしたと。
﹁さぁて、これ、どうしようかな﹂
少し考えて、面倒だから寮の前に放り出しておこうと決めた。魔
法を使えばその作業も楽に済んで、総一郎は同じく魔法で修繕した
部屋のベッドに寝転んで、一つ大あくびの後に微睡に落ちていく。
1645
翌日、総一郎は絶叫と共に跳ね起きた。そして、思い出すのであ
る。自分は寝る度のこの夢を視て、うなされ、正気を失うほどの恐
怖を持って起床するのだと。だが、寝ないでは体が持たない。全身
の震えが納まった後、総一郎は葛藤の末に自らに精神魔法をかけた。
ローレルの提案通り、忘却のそれである。頭のしびれるような感覚
と共に、魔法が発動しきって、数分ほど忘我した。
我に返ったのは五時過ぎだった。今の総一郎の頭の中には、夢に
関する者の一切が消え、ただ習慣の素振りの身を思い出している。
少年は支度にかかった。
身を引き締めるべく、朝一番にコップ一杯の水を飲み、風呂一杯
の水に浸かる。イギリスの春は寒いため、水風呂から上がるときは
微妙に震えるほどだ。素早く体を拭いて、服を着た。木刀を手に取
って部屋から飛び出す。
少々暗い、レンガが敷き詰められた道を、急ぎ足で走った。早朝
は、どの国も空気が静かだ。寮を出ても、彼らは居ない。あの後少
し時間が経ったら目覚め、その日あった出来事の全てを忘れてから
自室に帰るように仕込んであったのだ。
日本とは違いながらも風情ある、イギリスの歴史深い雰囲気を感
じながら、総一郎は深呼吸した。空を仰げば日本よりも遥かに高い
空。魔法を解禁してしまった今、偶に飛び上がりたくなるのだが、
そこは我慢ひとつである。
木刀を、振り始めた。近い内に、またあの魔獣の集う山にも登ろ
うと思った。ローレルの家に居た頃はろくに外に出なかった為、運
1646
動不足気味なのだ。発散せねばなるまい。
﹁⋮⋮相変わらず、音が怖ぇなぁ﹂
﹁おはよう。ファーガス﹂
﹁おう、おはよう﹂
いっそ礼儀正しいほどの所作で、総一郎は親友を迎える。こうい
う礼節は、人間ならば欠かせないものだ。腕のゆがみが消えてから、
自然とそれを意識し始めた。
今日もまた、ファーガスと手合わせした。極力聖神法や体術、剣
術以外の技術を使わないようにしているのだが、昨日今日と彼は非
常に強く、特に昨日など総一郎は無意識のうちにカバラを使ってし
まっていたほどだ。
腕が鈍ったというのも勿論ある。剣だけならば、山籠もりした時
が一番冴えていた。だが、当時の実力では今のファーガスに勝てな
いのではという危惧すらあった。それだけ彼の技は鋭い。目つきも、
総一郎を圧してくるようなものがある。
真剣での模擬戦だからだろう、と総一郎は当りを付けていた。ネ
ルの影響で、木剣などではなくそうするようになったのだという。
確かに致死性を奪う聖神法があるにはあるが、朝一での訓練にはあ
まりに張り詰めた雰囲気が出来上がる。
それを、今年に入ってからネルと共にやっていたのだと。あまり
彼の姿を見ていない総一郎だが、単独でオーガを倒せるほどになっ
たと聞けば、どれほどの実力を得たのかは想像がついた。
1647
総一郎はファーガスの横なぎを木刀で受け流し、首筋に切っ先を
突きつける。
﹁勝負ありだね﹂
﹁あー、クッソ。本当ソウイチロウ強すぎだろ﹂
倒れ伏して荒い息をつくファーガス。総一郎も、今日は息が少し
切れていた。カバラは辛うじて使わずに済んだが、消耗度的には昨
日より遥かに上だ。上手くいなせたと見るか、ファーガスの実力が
さらに上がっていると見るかは難しいところである。
﹁いや、ここ二日間、ファーガスには相当追いつめられているよ。
怠けてたからかな。相当差が詰められてる﹂
﹁お、マジで? っていうかお前怠けてたのかよ。ドラゴンどうし
た﹂
﹁あんなの聖神法で倒せる訳ないじゃないか。それは普通に⋮⋮﹂
﹁普通に?﹂
総一郎、微妙に違和感を覚えて質問を返す。
﹁ファーガス、僕に探りいれてない?﹂
﹁えっ、い、いや! 決してそんな事は!﹂
﹁うん。バレバレ﹂
1648
嘘下手だねぇと呆れると、両手を合わせて彼は謝ってくる。しか
し、気持ちは分からないでもない。むしろ昨日の騒動に直接切り込
んでこないだけ奥ゆかしさがあるともいえた。思えば両手謝りなど
も妙に日本的な所作だ。
前世の死に間際の事を想起した。あの、狂った少年。口にはしな
いが、ファーガスも総一郎の正体に気付いているような気がしてい
た。カバラではなく、勘だ。
解決せねばならない問題ではあった。しかし、今ではない。いず
れ時期が来るだろうと考えていた。自然と、話してくれる日が来る
と。その様に総一郎は信じていた。
総一郎は口を綻ばせて、軽く語る。
﹁奴らは、魔法で成敗したんだ。日本ってそれが一番有名でしょ?
でもこの国じゃ犯罪扱いになってるからシーね、シー﹂と、人差
し指を口元に当てる。
﹁え、⋮⋮いいのかよ。それ﹂
﹁だって別に乱用しているわけじゃないし。それどころかドラゴン
倒したんだから名誉賞貰ってもおかしくないでしょ。僕ノーベル平
和賞欲しい﹂
﹁あ、それは俺も欲しい﹂
﹁でしょ?﹂
1649
﹁でもドラゴンと言う生物をぶっ殺してる時点でアウトだとは思う﹂
﹁その発想はなかった⋮⋮﹂
歯を食いしばって悔しがる総一郎に、﹁次があるさ﹂と慰めるフ
ァーガス。﹁二人とも一体何の会話をしているのですか﹂といつも
以上に呆れた半眼を向けてくる少女が一人、修練場の端から歩いて
くる。
﹁おはよう、ローレル﹂
﹁おいっす﹂
﹁おいっすです。ソー、ファーガス﹂
﹁ローレル、最近口調とかどうでもよくなってない?﹂
﹁そんな事はありません。ただ、崩していい相手と場合があること
が段々掴めてきただけです﹂
結構気軽な所が前面に押し出されてきた節のある彼女である。や
はり馬鹿丁寧なのも疲れるのだろう。気を許してくれていることの
証左だと思えば、可愛らしいものがある。
しばらく雑談してから、少々ローレルの聖神法を見てみようとい
う話になった。ファーガスの提案だが、総一郎もなかなか興味をそ
そられる話題である。しぶしぶ了承した彼女は、修練場の中心付近
で引っ張り出してきた石柱︵硬度は上から三番目。第五学年騎士候
補生∼第一年騎士補佐相当︶を目の前にして、杖を取り出した。見
ない内に、華奢で素朴な長杖になっているのを知って、思わず彼女
1650
自身と似ていると思ってしまう少年である。
彼女はカバラを知っているのもあって、要点を押さえている為魔
法に近い威力で聖神法が発動した。聖神法は、魔法に比べて威力決
定にかかわる箇所が非常に多いのだ。だからこそ、実力に大きな差
が出るという側面がある。
余談だが、彼女が向かう石柱はかつて図書が作った石像と大体同
じ硬度である。とはいっても銅の塊程度の物体であるから、一概に
レベルが低いというのも間違いだ。文化文明の違いと割り切るほか
あるまい。
案の定というか、ローレルはいとも容易く石柱を破壊した。感嘆
の後﹁この分なら更に上の石柱もいけるんじゃないか?﹂とファー
ガスが言うが、それに対して彼女は首を振る。
﹁いいえ。あまり硬度の高い石柱を壊すと、破片が見つかって噂に
なりますから嫌なのです﹂
﹁そうか? 俺なんかは一番硬いのをちょくちょく壊してたけど﹂
﹁スコットランドクラスにも名前が聞こえてくるくらい有名でした
よ、ファーガス﹂
﹁マジで!?﹂
この二人も仲良いな、と微笑ましい反面ちょっとジェラシーな総
一郎。どちらに対して﹁○○を取らないでよ!﹂と言おう迷ってい
た途中、素朴な疑問が湧いて尋ねてみる。
1651
﹁というか、ローレルって何で特待生なんだっけ?﹂
﹁あー、何だっけ。平民のころから聖神法が使えたんだっけ﹂
﹁そうですね。そんな風な経緯です﹂
﹁へぇえ﹂
目配せとカバラで会話する。
﹃ヘレンさんの仕込みかな?﹄
﹃可能性は高いでしょう﹄
目配せ会話終了。ファーガスに話を振る。
﹁ファーガスは確か全クラスの聖神法が使えるんだよね?﹂
﹁おう。お、とするとアレだな。来年はこの三人でスコットランド
生だ﹂
﹁え、何それ楽しみ﹂
テンションを無駄にあげて三人でハイタッチ。未来は希望で満ち
ている。少なくとも、そう思い込んでいた方が楽だった。
そんな未来は来ないのだと、自覚していても。
1652
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵3︶
ローレルが、図書館で唸っていた。授業の予習である。ローレル
は全体的に優秀なのだが、思いの外歴史が苦手らしく、まず歴史の
魅力を教え込むことから取り掛かった。
その途中の、休憩のときの話だ。
﹁そういえば、学園内のカバリストの件はどうなっているのですか
?﹂
イギリス史は世界史を学ぶ上で最も参考になるという話からロー
レルの興味を引き出そうとしていたところ、失敗したのか話を逸ら
されるような形でそんな話題が飛び出た。思わず力が抜けて明後日
の方向を向いてしまう総一郎だ。というか、歴史全般に興味がない
彼女にそんな話をしたのが無謀だったかもしれない。
﹁進展ナシ﹂
﹁⋮⋮確かに、手がかりも何もないですからね⋮⋮﹂
その上、面倒を嫌って人目につかない生活をしているのが理由で
もあった。総一郎自身は不快感を我慢すれば良いだけだから、校舎
中を練り歩いていれば何か掴めるだろうと楽観していたのだが、﹁
自分の悪口を聞くための行動なんて不毛です﹂とローレルが嫌がる
のだ。気遣ってくれているのは分かるが、と総一郎は煩悶する。
﹁⋮⋮ローレル﹂
1653
﹁駄目です。私は、そんなの嫌です﹂
総一郎は取りつく島もない彼女に目を瞑る。虎穴に入らずんば虎
子を得ず、と説明したのは昨日の事。その際には、﹃切羽詰まって
もいないのに何故虎児を得る必要が?﹄と返され、何も言えなかっ
た。
しかし、総一郎を襲撃するほど自分の帰りが知られた今、待つ必
要はない。カバリストたちも、動き始めたはずなのだ。しばらく待
って、現場が動き始めてから探りを入れる。前々から考えていた策
だった。
それにしても、とローレルがあからさまに話を逸らしてくる。
﹁カバリストたちは、一体全体何が目的なのでしょう。何故、そん
な行動を⋮⋮﹂
ローレルには、それとなくあらましを伝えてある。総一郎一人な
ら、彼らは非常に容易く叩きのめすことが出来たはずだ。だから、
それが目的ではないのだという事は分かっている。あくまで利用し
ているのだ。
しかし、総一郎を踊らせた結果何が起こるのかとも思った。自分
には、能動的な影響力がない。総一郎が行動を起こしても、たとえ
カバラを使っても出来ることはない。スコットランドクラスの旧友
全員と仲良くするために最低限必要な時間が二世紀と出たのだ。そ
れは言うまでもなかった。
考え込むが、立ちふさがるアナグラムはあくまで断片的で表面的
1654
だ。解析したとして、物事の真相に辿り着けそうな雰囲気はない。
頭を悩ませる総一郎に﹁休憩で勉強中より疲れてどうするのです
か﹂とクスリと笑うローレル。﹁ほんの小さな話題のつもりだった
のに﹂と彼女は言う。
﹁焦っても仕方がないことですよ。命がかかっているのですから、
できるだけ慎重に事を進めましょう﹂
﹁え⋮⋮、でも﹂
﹁それより、先ほど本を漁っているときに亜人図鑑の最新刊が出て
いましたよ﹂
にやりとして彼女は何処からともなく分厚い本を取り出した。先
ほどまでの沈鬱な考えが、パッと総一郎の頭の中から取り払われる。
﹁おお! やったぁ! いぇーい!﹂
﹁ここ図書館ですからね﹂
﹁あっ、はい。すいません⋮⋮﹂
ローレルはいつなんどきも冷静である。
だが、彼女もやはり非常に楽しみなようで、総一郎が静かになり
次第すぐに表情をだらしなく綻ばせた。それだけ、ここの亜人図鑑
は優秀で事細かなのだ。総一郎がこの学園で最も評価しているのが
これである。むしろこれがなかったら学園に価値がない。
1655
載っている亜人の数は、この最新刊を含めずに千種類以上。総一
郎はすでに読破し、ローレルもまた同様だった。著者がこの学園の
卒業生で、今は世界中で亜人の生態について調べているのだとか。
世界に出た故なのだろう。偏見を持たない人物で、協力者名に随
分と亜人の名前が並んでいて初見の総一郎は度肝を抜かされたとい
うエピソードがあるほどだ。
﹁早く、早く開けよう!﹂
﹁いえ、少し待ってください。ちょっと深呼吸をしますので。ソー
も焦っては駄目です﹂
﹁そうだね。では﹂
二人そろって深呼吸。その後互いに無言で目を合わせて、同時に
首肯してゆっくりと図鑑を開いていく。簡素だが重厚な表紙、豪奢
な扉絵、そして大量に並んだ亜人目録。
まるで辞典のように並んだそれを見て、二人は狂喜乱舞した。無
言で手を取り合って、強く振り合う。そこにあるのは満面の笑みで
ある。
﹁じゃっ、じゃあどれから見てく!? いやいやいや、待て。とも
かくここは図書館なんだから静かに静かに。焦ると負けだぞ総一郎
⋮⋮!﹂
﹁無難に一番最初から網羅していきますか? それとも、あえて後
ろから⋮⋮﹂
1656
﹁いや、逆転の発想で、﹃これだ!﹄と思った亜人をランダムに見
ていくというアグレッシブな方法もあるよ?﹂
﹁それです!﹂
二人はまずじゃんけんをし、カバラで互いに読みあって十四回に
続くあいこを出したのち、辛うじて総一郎の勝利となった。ローレ
ルは深く悔しがっていたが、そんな事よりも早く選べという雰囲気
を出している。
﹁じゃあ⋮⋮、これは見たことがないから、この﹃エント﹄ってい
うのを見てみようか﹂
二人はページを開く。すると、古めかしい顔の付いた木が静かな
タッチで描かれていた。どうも木の精霊的な存在なのだろう。取材
地はロシア。あの北方の地に群生している林があり、奇妙だぞと近
づけば彼らの群れであったという。
﹁あ、私この亜人知っています﹂
﹁え? 本当に?﹂
﹁はい。おじいさんとこのエントらしき方とのツーショットが、家
のどこかに飾られていたと思います。⋮⋮聞けばよかったです⋮⋮﹂
﹁いずれ機会があるよ。じゃあ次、ローレルはどれが見たい?﹂
彼女は人うなりしてから、ぱらぱらと目次をめくりだした。最後
のページまで行って、気づいたように声を出す。
1657
﹁このページが見たいです。このシュラっていう亜人の﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
総一郎は、一瞬硬直した。しかし、それを隠した。ローレルは気
付かずに図鑑をめくる。
事実、総一郎自身にも興味はあった。どのようなことが書かれて
いるのか。そして、ページが開かれる。
現れたのは、干からびたような人型の絵だった。六つある両手に
は、大量の武器が握られている。そして、異様に目立つ、ギラギラ
と輝く目。あまりの迫力に、ローレルは息を呑む。
﹁凄いですね⋮⋮、こんなのには出会いたくないものです﹂
﹁多分、イギリスでは会わないから大丈夫じゃない?﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁うん。日本とか、中国とかの亜人だと思うし﹂
なるほど、とローレルは図鑑に見入っていた。注意深く、読んで
いる。この本は伝承などに非常に忠実で、まず原文をそのまま載せ
てから著者なりの意訳が載せられていた。意訳が間違っていた時の
緊急回避だろう。総一郎は、その原文だろう日本語をなぞる。日本
の研究家から、発見された書物を見せてもらったものの転写である
らしい。
﹁どうも要領を得ませんね。意訳がよくわかりません﹂
1658
﹁仕方ないよ。⋮⋮これはきっと、イギリス人からしたら常識の埒
外だと思うから。多分この作者さんは、常識に囚われて訳し切れな
かったんだ﹂
﹁読めるのですか?﹂
﹁うん。日本語だからね﹂
﹁では、お願いします﹂
ローレルは、目を輝かせて総一郎を見つめていた。だが、少年は
それをまっすぐに見つめ返すことができなかった。少し目をそらす
ようにして、読み上げていく。
﹁他者を食らい他者と交わらずに生きる。それすなわち修羅である。
その条件は孤独にして獰猛。孤独は修羅を生み落し、争闘は修羅を
育て上げる﹂
﹁そこまでは、訳と同じですね。そこからが、よく分からないので
す﹂
ローレルは、意訳された英文に目をやった。そこには、﹃シュラ
である亜人はいない。人間は亜人である場所にいるだけである﹄と
記されている。確かに、これでは意味が分からないだろう。
総一郎は、静かな語調でこのように言った。
﹁⋮⋮修羅という亜人は存在せず。ただ人がそこにいるのみ﹂
1659
ローレルは目蓋を何度か開閉してから、﹁どういう事ですか?﹂
と尋ねてきた。イギリス人は、多分皆そうなのだろう。日本人でも、
ほとんどがそうなるはずだ。だが、少なくとも総一郎は違う。父も、
きっと違うのだろう。
﹁ねぇ、ローレル。フランツ・カフカの﹃変身﹄って呼んだことあ
る?﹂
﹁え、⋮⋮はい。あの、主人公が脈絡もなく毒虫に変身してしまう
話ですよね﹂
﹁うん、その通りだ。それみたいに、世の中には多くの変身譚が存
在する。他にも﹃狐になった奥様﹄とか﹃ジェニィ﹄とかいろいろ
あるけど、僕はここで﹃山月記﹄を紹介したい。知ってる?﹂
﹁いいえ。⋮⋮お願いします﹂
﹁﹃山月記﹄っていうのは、簡単に言えば才能あふれる青年が、過
酷な境遇に狂って虎になってしまう︱︱そういう話﹂
﹁何だか、可哀想な話ですね﹂
﹁ううん。一概にもそうとは言えないんだ。というのも、その過酷
な境遇っていうのがすべて、その青年の傲慢さが招いたものなんだ
よ。いや、傲慢さっていうと語弊があるかな。尊大な羞恥心とか、
臆病な自尊心っていうべきなのか﹂
﹁⋮⋮つまり、自業自得ってことですか?﹂
﹁うん。それは、そうだね。自業自得だ。でも、その話の本質はそ
1660
こじゃない。そもそも、人間が虎になるなんてありえないことでし
ょ?﹂
﹁それは、そうですね﹂
﹁でも、その小説にはリアリティがある。現実に起こるかもしれな
いって、そう思わせられることがあるんだ。主人公がね、言うんだ
よ。﹃人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の
性情だという﹄って。事実、人間が猛獣になる。そういうことは起
こっているんだよ。姿かたちが変わらないだけで、世界のどこか、
多分、今この瞬間にも﹂
﹁え、いえ、そんな事は﹂
﹁起こらないって言える? 僕を排斥しようとするあの貴族たちな
んか、まさにそうだとは思わない?﹂
﹁でも、人が亜人になるなんて信じられません⋮⋮﹂
無理解によるものではなく、あまりに深い理解のために、ローレ
ルの声は恐れ落ち込んでいた。総一郎は、これ以上は言う必要がな
いと気づいて引き下がる。
﹁⋮⋮それもそうだね。人間が亜人になるなんてありえない。︱︱
ちょっと、場所を変えようか。もうすぐお昼じゃない? 食べに行
こうよ﹂
﹁あっ⋮⋮。わ、分かりました﹂
二人は、立ち上がって外へ出た。きっと二人の考えは完全に一致
1661
していたろう。だからこそローレルは微かに震える手で強く総一郎
の手を握ったし、総一郎もまた、隠しきれない恐怖に手をつなぎ返
すことで応えたのだ。
やはり、カバリストたちに探りを入れましょう。ローレルがその
ように宣言したのは、翌日の事だった。総一郎の部屋。ぶち壊され
た部屋は、魔法を使って修繕済みだ。小奇麗な物である。
その、ベッドに二人は腰かけていた。人目もないから、距離も近
い。総一郎の右手に、ローレルの左手が重ねられていた。
﹁⋮⋮何ゆえ?﹂
﹁何よりもまず、ソーの精神状態を慮るべきだという結論に達しま
した。そのため私はソーのやりたいことを全力でサポートします。
死ねと言われたら死にます﹂
﹁じゃあ三回まわってワン﹂﹁しません﹂
かなり食い気味の返答だった。
﹁冗談は置いておくとして、ひとまず礼を言っておくよ。正直今の
ままだとローレルが一番邪魔だったからね﹂
﹁随分ぐっさりと言ってくれますね⋮⋮﹂
ローレル、胸元を抑えて苦しげな演技をする。それで、と自力で
持ち直していた。
1662
﹁具体的には、何をするのですか? 私も付き合います﹂
﹁駄目です﹂
﹁却下します﹂
却下されてしまった。
﹁⋮⋮いやでも、折角ただの不登校児扱いで済んでいる現状を何で
捨てようとするのさ。男子のいじめもかなりの物だったけど、女子
のそれ何かもっと酷いって聞くよ? 止めておいた方がいい﹂
﹁カバラがありますから﹂
﹁⋮⋮どうしよう。反論できなくなった﹂
長く一緒にいる内に扱い方を覚えられてきている、という気がし
てくる。それは総一郎も同じだったが、ローレルのは非常時に総一
郎にものを言わせないというベクトルに進化しているらしい。
対して総一郎のそれは日常面に特化しているから、からかったり
嘘を吐いたりという時に役立つ。しまった。それなら正直に言うべ
きではなかった。
﹁何を考えていても駄目です。無駄とは言いませんが、駄目です。
私はソーと一緒に居ます。寮の部屋に押しかけないだけ有難いと思
ってください﹂
﹁押しかけてるじゃないか。今まさに﹂
1663
﹁これは遊びに来ている、というのです。押しかけとは違います。
ともかく、私は一緒です。絶対に離れません﹂
ローレルは、両手を総一郎の手に殊更重ねて、ずいと瞳を寄せて
くる。驚いて、総一郎は実を仰け反らせる。我に返って、体勢を戻
した。しみじみと言葉を漏らす。
﹁いつの間にこんなに手強い相手になったのか⋮⋮﹂
﹁それなりに色々ありましたし﹂
聞けば総一郎の部屋への襲撃時も、多少の細工を加えていたとい
う。何でも知らん顔して﹃打倒ブシガイト!﹄と集団に混ざり、道
具のいくつかを不発にするなどしていたのだと。﹃死なないまでも、
怪我するのが計算で分かりましたから。お蔭でかすり傷一つ追わな
かったでしょう?﹄としたり顔をしていた。
﹁⋮⋮でもなぁ⋮⋮、カバリストたちに発見されて利用されないと
も限らないし⋮⋮﹂
﹁⋮⋮今日のソーもなかなか手強いですね⋮⋮﹂
渋る総一郎にローレルも思案顔。しばらく睨み合っていたら、仕
方なし、とばかり彼女は息を吐いた。載せていた手を移動。腕に抱
き付いてくる。
﹁じゃあ、分かりました。危ないことがあったら怖いので、ソー、
私の事、守っていただけますか?﹂
1664
﹁⋮⋮ああ、もう! 良いよ、負けた。僕の負けだ。悔しいなぁ、
ローレルに言い負かされるなんて思わなかったのに﹂
﹁うふふ、いい女は男の扱いくらい知っているものです﹂
﹁ヘレンさんめ、ローレルに妙なこと仕込んでからに⋮⋮﹂
言いながら総一郎はローレルの頭を撫でる。その手をそのまま首
に回し、くすぐったがる仕草を見て愛しさが募った。顎を持ち上げ、
キスをする。そのまま、ベッドの上に倒れこむ。
善は急げという事で、その日の内に校舎を歩きはじめた。放課後。
初めは見向きもされなかったが、少しずつ存在に気付かれ、ざわざ
わと遠巻きから視線が集まってくる。
﹁⋮⋮やっぱり一緒に居るなんて言うんじゃなかったです﹂
﹁こらこらこら﹂
迫害を受ける云々は覚悟が決まっていても、奇異の視線に晒され
るのには全く免疫がなかったローレル。恥ずかしそうに身をよじっ
て歩きながら、総一郎に身を寄せるべきか、それとも離れるべきか
と懊悩している。
結局、少しするとそちらも決心がついたようで、威勢のいい強い
目つきになってからしっかりと総一郎の手を握った。歪みが消えて
から、彼女は右手に触れることをよく求めた。あらゆる場面で、左
手よりも右手を選ぶ。歪みの無い、人間である証拠を。
総一郎はそんな少女の姿を面映ゆく思いながら、どうだ、と周囲
1665
に視線を巡らせていた。風、音魔法での探知も行っている。妙な行
動を起こす輩が居たら、その人物を捕えて精神魔法をかけてやろう
という考えだ。
しかし、ほとんど全てが気味悪そうに遠巻きから眺めるばかりで、
何ら目ぼしい人物は見当たらなかった。ため息をついて、このまま
寮に戻るのは好ましく思えず、何ならこのまま山にでも行ってみよ
うかと考え始める。
その時だった。
﹁どうしたんだい、イチ。引きこもってがたがた震えていたんじゃ
なかったのか、チキンボーイ﹂
﹁⋮⋮ギル﹂
嫌な奴に会った、と総一郎は顔をしかめる。するとそれに少しき
ょとんとしてから、﹁人の顔を見て随分と嫌な顔をするものだね。
躾けてあげていたのに、やはり少し見ないと亜人らしくなってしま
うものか﹂と呆れた風に嘆息する。
﹁グレアム、ですよね﹂
﹁ああ、そうともシルヴェスター。ところで、君の手がイチと繋が
れているのはどういう事なのか、聞いてもいいかい?﹂
﹁見れば分かるでしょう。そういう事です。それと、貴方は私のソ
ーを随分かわいがってくれたそうじゃないですか。覚悟はできてま
すね?﹂
1666
﹁ローレル、ローレルさん。怖いです。そして多分この状況でやり
合ったら人数比的にこっちに勝ち目無いから﹂
﹁⋮⋮大丈夫です。今の言葉は、グレアムを怯ませようとしただけ
です。それに、私もそんなに血の気は多くありません。むしろ低血
圧ですから﹂
﹁そこについてはどうでもいいよ﹂
小声で告げてくるローレルに納得と突っ込みを入れて、改めてギ
ルに目をやる。確かに取り巻きの二人は今の言葉に少し戸惑いを見
せていたが、反してギルはさして怯んだ様子もない。泰然と、嘲笑
を含んだ視線をこちらに向けている。
﹁随分と強がって見せるね。その癖足は震えているじゃないか。ほ
ら、君たちも見てごらん。アレが、亜人に与した人間の末路だ。何
か言ってやりなよ﹂
﹁イチみたいなやられるだけやられて泣き寝入りする様なクズを好
きになる理由なんざこれっぼっちも分からないな﹂
﹁本当だ。足が震えている。怖いなら謝ってこっちに来たらどうだ
? 今なら許してやるぞ﹂
﹁震えてなんていませんよ。目、本当についてますか?﹂
ギル達の嫌味に懸命に毒を返すローレル。本当に彼女は頭にきて
いるようで、酷く鋭い視線をギルに投げかけている。
それに、奴はこう投げ返す。
1667
﹁君こそ、脳みそが足りていないんじゃないか? 自分の足に触れ
てみるといい。きっとその瞬間、恐れが全身に回ることだろうさ。
だって、ほら、君の立場今どうなっているのかな? イチの側につ
くという事は、学園すべてを敵に回しているのと同じことだぞ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ローレルが一瞬の隙を見せた瞬間、周囲の罵声が湧きあがった。
それは、異様な光景だった。今までは遠巻きに何がしかを呟くだけ
だったというのに、ギルが表立っただけでここまで変化する。
言い合いに参加せず、客観視できる総一郎だからこそ、感嘆して
しまった。言葉で、相手の言葉を呑み込む。ローレルがやっている
のはドッジボールで、ギルがやっているのは捕食だ。最初は震えて
いなかったのに、じっとりと語りかける様な言葉が、そして野次馬
を利用した言葉の重圧が、少女の自信を揺るがし始めている。
その一方で、総一郎もまた、違和感を覚えていた。今のローレル
の姿が、昔の総一郎なのだろう。言葉で舐め溶かし、足腰を立たな
くしようとしている。嫌らしい手口だ。しかし、この年齢の人間に
できるものなのか?
﹁⋮⋮えっ、嘘です、私、震え⋮⋮﹂
顔から血の気を失せさせるローレル。それでも気丈に睨み付ける
が、ギルは何もせず、ただ笑みを貼り付け続けている。
﹁そ、そんなことを言って、怖いのはあなたなのではないですか!
? 私たちに手を出さないのがいい証拠です! あなた方は、ソー
1668
が怖いんでしょう!﹂
﹁そうだね。イチは、怖い。だが、君はイチじゃないだろう? 他
人だ。見たところ信頼関係が出来つつあるようだけれど、そんなも
のは偽りだと言わせてもらうよ。イチは卑怯者だ。自分のために、
君を捨てるよ﹂
﹁卑怯者ではありません! ソーは!﹂
﹁人が話している途中で遮ってはいけないとお母さんに習わなかっ
たのかい?﹂
﹁ぅ、ぁ、お、お母さん、は⋮⋮﹂
目に見えて、ローレルは意気消沈した。今までの威勢は何処へや
ら、泣く寸前にまで追い詰められた事に、総一郎は気付く。疑惑は
確信に近い物に変わった。静かに、少年は行動を始める。
﹁ん? どうしたんだい? シルヴェスター。随分と大人しくなっ
たじゃないか。もしかして、心当たりがあったのかな? イチが卑
怯者だっていう。まぁ、事実なのだから仕方がないね。何せドラゴ
ンに怯えて逃げ出すなんて言う奴だ。そんな奴に人間を信じられる
なんて、ぼくには到底思えないね。なぁ、そうだろ。イチ。君も何
とか言ったらどうだ﹂
総一郎は、何も言わない。集中していて、何も視界に入れたくな
かった。故に、俯いている。今は、こうしているしかない。
それに、ローレルは酷く心配そうにこちらを見やった。皮肉なこ
とに、少年に笑いかけてやる余裕はない。その事が、いっそうロー
1669
レルを不安にさせたようだった。﹁ソー⋮⋮!﹂と呼ぶ声。それで
も、今は答えられない。
﹁ほら、図星を突かれて何も言えないじゃないか! シルヴェスタ
ー。君は騙されていたんだよ。良いように扱われて、最後にはポイ、
さ。イチはそう言う奴だ。だから、ぼくらはそれを躾けていた。随
分な言い草だったけれどね、それは君の早合点と言うものだよ﹂
﹁ソー⋮⋮? ソー⋮⋮! お願いですから、何か言ってください
よ⋮⋮!﹂
ローレルは、ギルの言葉に呑まれていた。すでに声は震え始め、
力なく総一郎に縋り付く。
そこに、声。
﹁だが、許してあげないこともない。君は、可愛そうな被害者なん
だ。そこの亜人とは違ってね﹂
﹁え?﹂
彼女は、ギルを見る。ギルは、やはり底知れない笑顔を浮かべて
いる。
﹁こちらに来て、過ちを神の前に告白するんだ。一人でいい。懺悔
室の中で、神に許してもらってくればいい。それだけで、ぼくらは
君を許そう。君は、自由になるんだ﹂
﹁そ、そんな、ソーを裏切れという事でしょう!? そんな誘いに
乗るわけが!﹂
1670
﹁なら、特別だ。君が来れば、﹃愛しのソー﹄の事も許そうじゃな
いか。それなら、裏切りにならないだろう?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
瞠目して、少女は動けなくなっていた。心が、揺らいでいる。ロ
ーレルは、きっと冷静ではなかった。でなければ、きっと最初から
迷う事も無かったろう。
総一郎は、自分を掴む彼女の手から、少しずつ力が失われていく
のを感じた。奴は、最後とばかり言葉を吐く。
﹁さぁ、こちらにおいで。君がこちらに来るだけで、君も、イチも
︱︱﹂
﹁それ以上そのやかましい口を開くなら、僕は君を殺すぞ、ギル﹂
雑音が、消えた。
野次も、ギルの甘言も、ローレルの行動も、総一郎の言葉が静止
させた。しん、とこの場が静まり返る。総一郎は一歩踏み出しなが
ら、ローレルの手を握りしめた。彼女はそれだけで安堵を顔中に満
たして、抱き着いてくる。
﹁⋮⋮何だい? 今までだんまり決め込んで、都合のいい女が離れ
ようとした瞬間に苦し紛れに殺す、だって? ああ、怖いね! 確
かに人殺しにそんなことを言われてしまえば、ぼくだって震え上が
1671
らずにはいられな︱︱﹂
﹁それ以上口を開くなと言っただろう。言葉を変えようか。それ以
上、﹃アナグラムを揃えるな﹄。⋮⋮しかし、僕も中々捨てたもん
じゃないな。少し計算に手間取ったにしろ、まさか、一発で大当た
りを引くなんて考えもしなかったよ﹂
言葉は途切れ、続かない。顔の筋肉へ命令は届かなくなり、ギル
は思考にぽっかり穴が開いたと言わんばかりの表情のない顔を晒し
た。やおら、彼はあまりに存在感のない動きをした。そのまま、手
を構える。アレは︱︱指を鳴らそうとしているのか?
﹁ソー! 耳を塞いで!﹂
叫びながら、間に合わないと考えたのだろう。そのまま総一郎の
耳を塞いで、ローレルは抱きしめてくる。くぐもった指の鳴る音。
その後から、何か異様な振動が総一郎たちを襲った。ローレルの体
から力が抜ける。いや、ローレルだけではなく、ギル以外の全員が
脱力してその場に倒れこんだ。
少女を抱きしめながら、総一郎はギルを睨み付ける。すでに、奴
の表情から余裕と言うものは失われていた。急激に理解と恐怖が奴
の顔中に広がる。逃げたがっていたが、総一郎の目があるから迂闊
にそうする事が出来ないでいる。
﹁ギル。ギルバート。君は、︱︱お前は、やはりカバリストだな⋮
⋮!﹂
﹁く、くそ⋮⋮! な、何で、何で貴方様がこの知識を得て⋮⋮。
数カ月先に持ち越されたはずだったのに、何故⋮⋮﹂
1672
﹁貴方、様?﹂
妙な呼び方に総一郎は片眉を歪める。それを隙と取ったか、ギル
は逃げだした。総一郎は魔法を使って一気に加速し、一息に彼を捕
え、組み伏せた。
﹁逃げるなよ。君には色々と聞きたいことがあったんだ。すべて話
してもらう﹂
﹁何で、何で⋮⋮。お願いします。あと、もう少しなのです。今ま
でのご無礼は後ほど誠心誠意償わせていただきます。ですから⋮⋮
!﹂
﹁お前は、一体何を言っている? 何故僕にそんな丁寧な言葉を使
う。まるで訳が分からない!﹂
﹁分からなくていいんですよ、今は。とりあえず、気絶してくださ
いなっ⋮⋮と﹂
﹁は?﹂
振り返る。そこには、ランプを逆さに持って振りかぶる少女が居
た。よれた黒髪の、あまりに激しい美貌を持つ少女だった。それに
総一郎は一瞬見とれてしまう。それが、隙となった。頭に、強い衝
撃。ランプの土台が総一郎の頭蓋を殴打し、少年の意識は遠くなっ
ていく。
1673
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵4︶
目覚めると、夕方だった。自室。隣には、ローレルが寝ていた。
気持ちよさそうに、口元をむにゃむにゃと動かしている。
その姿が可愛くて、しばらく見つめていた。サラサラな金髪を梳
く。それを手慰みにしながら、ぼんやりと考える。
﹁カバリストを見つけに外に出たような気がするんだけど⋮⋮、ど
うしたっけな。戻ってきた記憶がない﹂
﹁⋮⋮成果、無かったじゃないですか⋮⋮﹂
手元から、声が聞こえてくる。目を向けると、薄目を開けて少女
は蕩けるような微笑を浮かべている。
﹁それで、そのまま山の方に行って、折角だから私の単位を稼ごう
って⋮⋮。ほら、タブレットの戦果凄い事になってましたよ⋮⋮?﹂
ぼんやりとした口調で、ベッドの上を転がり台に置いていたタブ
レットを取る。ローレルは寝ころんだまま、こちらにその画面を見
せてきた。﹃本日の戦果﹄と書かれた場所に、三千七百ポイント入
っている。
﹁⋮⋮コレ、凄いの?﹂
﹁入学式の時支給されたの、十ポイントだったの覚えてます?﹂
1674
﹁このポイント凄いな﹂
思わず口調が崩れる総一郎。一時は全く使えなかったり、かと思
えば考えなしに使ったりとポイント感覚が狂っていたのだ。ところ
でポイント感覚って何だ。
﹁あー、⋮⋮そっか。言われてみればそんな気がする。ヘル・ハウ
ンド狩りでもしたのかな?﹂
﹁私の記憶では、ヘル・ハウンドを利用してアナグラムを揃えて、
オーガを狩るという偉業をやってのけた気がします﹂
﹁そんな面白そうな事してたら、覚えてるはずなんだけどな⋮⋮っ
と、ファーガスからメール届いてる﹂
画面を開いてみてみると、紹介したい後輩が居るから、三人で狩
りにでも行かないか? との誘いだった。いつもなら、そのまま乗
っかる総一郎だ。しかし、どうも忌避感がある。
﹁何て書いてあります?﹂
﹁こんな感じ﹂
言いながら見せると、案の定ローレルも微妙に表情を変えた。不
安が読み取れる、そんな顔。
﹁⋮⋮あまり、行ってほしくはないです。人選とかそういうのでは
なく、その、⋮⋮不安、です﹂
﹁だよねぇ、これ⋮⋮﹂
1675
言い表しがたい感情だった。総一郎は、ローレルを見る。そして、
不安だ、と尚更思うのだ。誘拐されたりはしないか、という、ほと
んどありえないような不安。だが、カバリストを考えるとそうしか
ねないと思ってしまう。
︱︱カバリストなど、ヘレンさん以外に遭遇したことなど一度も
ないのに。
﹁でも、断るのも悪いです。色々と、都合の良い環境を整えるため
に相談を持ちかけてみましょう﹂
﹁そうだね。そうしようか﹂
無難に要相談の意思を込めたメールを返すと、快諾のメールが返
ってくる。それをローレルに見せ、互いに頷き、その場は良しとし
た。
翌日の昼過ぎ。ローレルと二人で人気のないテラスを指定して待
っていると、ファーガスがやってきた。話し合いにてこちらの漠然
とした不安をどうにか伝えると、彼は少々の思案の後ベルを召還し
た。それなりに難航したが最後には総一郎はファーガスと共に予定
通りの行動を、逆にローレルはベルと共にお出かけと言う次第にな
った。
その後彼らはまだ急ぐ時間でもないと言って、残る昼休みを談笑
して過ごすことに決めた。その最中、ファーガスとローレルがマー
マイト︵というまっずいジャムのようなもの。イギリス原産の食品
で日本にとっての納豆であり、健康にいいらしいがしょっぱくて不
味い。何故かローレルは好んでいる︶は国民食か否かで喧々諤々の
1676
論争を勃発させ、宥める邪魔な二人が居ては、と告げて二人勝手に
何処かへ行ってしまった。
﹁⋮⋮ファーガスの勝つ未来が見えない﹂
﹁奇遇だね、私も⋮⋮﹂
置いて行かれ、総一郎とベル、呆然と言い合いながら遠ざかって
いく二人を見つめる。
﹁にしても、本当に仲良くなったんだね。私びっくりしちゃったよ。
前にも少しお茶会したけど、その時よりもずっと仲がいい﹂
﹁んー、まぁ、吊り橋効果も手伝ってる感が否めないからなぁ。そ
れでなくともそれなりに仲は良かったけど﹂
﹁去年の暮なんかは酷かったのにね﹂
﹁あの時は仕方がないんじゃない? むしろ物怖じしない君たちの
方が、僕にとっては珍しかったよ﹂
ベルとは、会話するのも久しぶり、という感じがする。事実彼女
もそのように思ったらしく、﹁ドラゴン退治に行く前以来? こう
やって腰を据えて話すのは﹂と穏やかに笑う。
﹁そうだね。そういえば、君も随分とファーガスと仲良くなったじ
ゃないか﹂
﹁⋮⋮また蒸し返す気?﹂
1677
﹁ごめんごめん。本当に面白かったから、つい﹂
﹁悪意しかなくてびっくりだよ⋮⋮﹂
ジトッとした目で見られつつも、総一郎は悪びれずくつくつと笑
う。
﹁それでも、本当に仲良くなったよ。ベルを見てると、この二人は
幸せになったんだなぁ、と思うからね。ローレルは君ほど好き好き
オーラ出してくれないから、その点は少し羨ましいなって思ったり﹂
﹁や、止めてよそんな、恥ずかしいよ⋮⋮﹂
顔を赤くして縮こまるベル。本当に可愛らしい彼女を持てて、フ
ァーガスが羨ましい限りだ。とはいえベルかローレルかで言えば断
然ローレルだとは思うのだが。身内びいきは当然である。
﹁何だっけ、馴れ初めは小学生辺りのころだっけ?﹂
﹁う、うん。⋮⋮確か︱︱私の敷地の森の端っこに、秘密基地を勝
手に作ってたのが出会いだったと思う﹂
﹁ファーガス小さい頃から大胆だな﹂
﹁それで私が貴族ってバラさないまま友達として仲良くなって⋮⋮。
そういえば、私その頃男の子だって思われてたの知ってる?﹂
﹁えっ!? 嘘、ベルが!?﹂
﹁いや、その、指さされてまで驚かれると恐縮なんだけど⋮⋮﹂
1678
﹁あ、ご、ごめん﹂
思わずあげていた腕をおろし、まじまじとベルを見つめる。恥ず
かしげに﹁そ、その⋮⋮﹂と身をよじらせる彼女に、総一郎は一言
告げた。
﹁全然理解できない﹂
﹁それなりに頑張ったからね。男の子っぽくしてても、ファーガス
には好きなって貰えないかもしれないから﹂
﹁ほぇー﹂
﹁ものすごく間抜けな声出してるけど大丈夫?﹂
﹁あ、いや、でもすごいね。思う一念岩をも通すって言うけれど、
男の子と間違われるような子がこんなお嬢様然としちゃってまぁ⋮
⋮。でもまだ信じられないな。その頃のエピソードとかって無いの
?﹂
﹁そうだね、私がファーガスを好きになったきっかけが、確か当時
の私が妖精を見たいって言って森に冒険して、オーガに襲われたっ
ていうエピソードがあるんだけど﹂
﹁予想以上にハードだった。それをファーガスが?﹂
﹁うん、助けてくれた。記憶自体は曖昧なんだけどね。差し出され
た手が、グイッて引っ張ってくれる感覚と、あの時のファーガスの
顔は今も思い出せるんだ﹂
1679
﹁うわぁ⋮⋮。何だろうこの気持ち。そんな素敵な話僕が聞いてよ
かったのかな、本当に﹂
﹁卑下の仕方が斬新だね﹂
﹁というか、よくそんな場所に軽々しく入ろうと思ったよね。普通
そういうのは、親とかが厳重注意する物なんじゃないの? 言われ
てたけど無視したっていうのはベルらしくないし﹂
﹁だから、その頃は男勝りだったの! と言っても、そもそも何回
かは入ったことがあったしね。女子とはいえ、騎士たる者少しくら
いは武芸が出来ねばとかお父さんが、執事と一緒に連れて行ってく
れたの﹂
﹁へぇ∼?﹂
相槌を打ちながら、総一郎は妙な顔。オーガが出るような森に、
小学生を連れて行くのか。随分とスパルタな家庭だ。
﹁戦果は?﹂
﹁そんなの、碌にあるわけないじゃない。精々⋮⋮、どうだったっ
け。覚えていないや﹂
ごめんね? とベルは謝る。それに、総一郎は﹁そんなこと気に
しないでよ﹂と手を振った。
﹁でも、結構凄いのを取ってたと思うんだ! フェリックス︱︱あ
あ、我が家の執事の事なんだけど、彼も素晴らしいではないですか
1680
って凄い褒めてくれたの覚えてるもん。とはいっても、弓だから実
力以上、って感じもするんだけどね﹂
﹁あー、そういえばベルの弓はヤバかったっけ。なるほど、そんな
背景が﹂
そこまで話していると、項垂れて歩いてくるファーガスと、胸を
張り肩で風を切るローレルの二人がこちらへ向かってきた。あまり
にもわかりやすい勝敗だ。
﹁国民食?﹂
﹁マーマイトは国民食です。普通の人は一年に一瓶使う。そういう
ものなのです。私は一カ月で一瓶ですが﹂
﹁マーマイトなのか⋮⋮。外国から唯一褒められる朝食ですらなく、
マーマイトなのか⋮⋮﹂
﹁朝食全般が国民食なんて大雑把な話はないでしょう? あ、ベル
も、私が居ない間ソーを見てくれててありがとうございました﹂
﹁僕は何? 息子か何かなのかな?﹂
﹁ううん、こっちも久しぶりに話せて楽しかったから気にしないで
よ﹂
﹁あげませんよ?﹂
﹁私にはファーガスがいるもの﹂
1681
﹁それなら安心です。では、明日のお出かけ、楽しみにしてます﹂
﹁うん、じゃあね。ほら、ファーガスも行こう?﹂
﹁んー。じゃあな、ソウイチロウ、ローラ⋮⋮﹂
﹁また明日︱。⋮⋮どうすんのさローレル、ファーガス抜け殻みた
いになっちゃってるよ?﹂
﹁大丈夫です。頑丈ですから﹂
﹁この子は偶に冷酷だな﹂
言いつつ、手を繋いで歩き出す。行先は、ファーガスたちは別だ。
教室ではなく、図書館。ローレルの予習も、結構佳境に差し掛かり
つつあった。それなりに真面目にやっていたのである。
総一郎は所在ない思いをしながら、山の入り口でファーガスを待
っていた。後輩も連れてくると言っていたが、どんな子なのだろう
と考える。そうやって、自分に向かう嫌な視線は無視していた。胆
の太くなったことだ、と我ながら思ってしまう。
この山は、何度来ても底知れ無さがあった。慣れることはない。
という気分にさせられる。事実この山にはいまだ勝てていない相手
がいる。グレゴリー。あのボス狼を奥に潜ませている、と言うだけ
で、妙なうすら寒さがあるのだ。
﹁よう、早かったんだな。ソウイチロウ﹂
1682
﹁ん、待ってたよ、ファーガス﹂
手を上げると、その後ろからついてくる影があった。よれた黒髪
の少女で、ハッとさせられるような美貌をもっている。だが、妙な
既視感があるのはどうしてだろう、と思っていると、ファーガスが
すでに紹介を始めてしまっていた。聞き逃して、内心冷や汗をかく
総一郎。
﹁えっと⋮⋮。どうも、初めまして。アンジェラ・ブリズット・⋮
⋮えー、うん。よろしくっ﹂
ファーガスはそれに驚愕しつつ、小さく﹁ブリジット・ボーフォ
ードだ!﹂と忠告してくれる。有難いが、それなら相手の顔を見る
時間くらいくれたってよかろうに。
﹁ソーチル・ブズィガード先輩ですね! 初めまして!﹂
少女は、こちらに向かって威勢よく言い放った。大分発音をミス
っているが、これには悪意もないだろう。純粋そうな目をキラキラ
と向けてくる。少し眩しいような気がするのだから不思議だ。
どちらもまともに相手の名前を呼べないでいることにため息をつ
いて、改めて略称まで紹介しなおしてくれるファーガス。相変わら
ずよく気が利く。そういう所からは、図書にも似た兄貴肌と言うも
のを感じさせられた。
﹁⋮⋮という訳で、ソウイチロウ。こいつはアンジェだ。アンジェ
って呼んでやれ。で、アンジェ。こいつはソーチルじゃなくソウイ
チロウだ。呼びにくいならソウとかロウとかそんな風に呼んでやれ﹂
1683
﹁分かりました、じゃあ合わせてソウロウ先輩で!﹂
前言撤回。こいつ狙ってやがった。
﹁⋮⋮かつてなくファーガスからの悪意を感じてるんだけど、僕﹂
﹁ごめん。これは全く意図してなかった事故だ。だから木刀を握り
しめないでくれ。いやほんと、頼むから﹂
カバラで真偽を確かめたところ、その言葉が真実であると知れた。
それならば仕方がない、と総一郎は思う。痛くない程度にノシてや
ることに決めた。木刀を振りかぶり、ボコボコにする。
そんな風にじゃれ合いながら、山に登った。アンジェと紹介され
た少女の希望で、ヘル・ハウンド狩りだ。グレゴリーの群れは彼に
似て慎重で、行動するときは彼を伴う。居なければ、違う群れとい
う事だ。狩ってもいい。彼と対峙する羽目にはならない。
ワクワクした様子で先行する後輩の事を微笑ましく眺めながら、
ファーガスと先日の事を話していた。
﹁それにしてもさぁ、ローラのあの理論の破綻の無さは何なんだ?
マーマイトが国民食なんて⋮⋮いや、何だかんだで愛されてる食
材だけど。でもやっぱり不味いだろ?﹂
﹁マズイ。クソマズイ。ローレルでさえあれを使った調理で僕を唸
らせることは出来なかったくらいだ﹂
﹁ローラって料理上手いのか?﹂
1684
﹁日本で店開けるよ﹂
﹁え、マジで? 今度ご相伴にあずかっていい?﹂
﹁いいとも。いやー、それにしてもベルの君に対する愛は凄いね。
好き好きオーラっていうか。ローレルにも出してほしい。あの子最
近は全く恥ずかしがる姿が見えないから、からかうのが好きな僕と
しては少しさみしいんだよ﹂
﹁照れるな畜生。じゃあ明日が待ち遠しいって訳だ﹂
﹁何でさ﹂
﹁ベルがさ、お前からローラへの要望を聞きだして、全部伝えてほ
しいって頼まれたって言ってたんだよな。良かったじゃん。若干あ
ざとい感じあるけど﹂
﹁赤面しようとして出来るほど器用な子でもないから⋮⋮、楽しみ
です!﹂
﹁台詞溜めて言いやがったこいつ⋮⋮﹂
赤面したローレルなど最近は見ないので、非常に楽しみな総一郎
である。多分彼女が赤面しないのは、照れてないというよりは隠し
ているという事だろう。つまりは、︱︱赤面しなければ、いやしか
し恥ずかしい︱︱という狭間に揺れるローレルの姿をつぶさに観察
できるわけだ。初々しさこそ良きかな良きかな。
そんな事を語ると﹁⋮⋮ソウイチロウってさ、もしかしてドSな
1685
のか?﹂と彼は聞いてくる。失礼な話である。
﹁ノーマルだよ、人聞きの悪い﹂
﹁断言できる辺りがとても怪しい⋮⋮﹂
﹁まぁ、日も高いし下の話は置いておくとして﹂
視線で前を行くアンジェを示す。ファーガスも納得して声のトー
ンを落とす。
﹁でさ、ベルから昔は男勝りだったとか聞いたんだけど、本当? とても今の姿を見ると信じられなくて﹂
﹁あー、うん。口調も閣下に似てたから大分硬かったしな。ソウイ
チロウの言葉遣いを高級にした感じと言うか﹂
﹁閣下?﹂
﹁ベルのオトン。公爵だから閣下﹂
﹁滅茶苦茶爵位高いじゃないか﹂
総一郎、地味に驚愕。それにファーガスは、﹁まぁ同級生でお付
きが居るくらいだからな﹂とこともなげに言う。総一郎はほえー、
と感嘆の声。
﹁⋮⋮付き合い長くなればなるほどキャラ崩れが目立つな、ソウイ
チロウは﹂
1686
﹁外面は気を付けるからね。正直僕の本性って白ねえ寄りだし﹂
﹁シラハかぁ⋮⋮。アイツもコミカルだったよな﹂
﹁リリカルコミカルが座右の銘だそうで﹂
﹁マジか﹂
﹁それで、男勝りっていうどうだったのさ﹂
﹁ああ、なんというか、物怖じしない奴だったよ。今は結構臆病だ
よな。でも、危機管理能力はかなり高かったと思う。オーガに襲わ
れて、安全な場所に逃げ込めるのは当時の年齢にしたら相当有能だ
よな﹂
﹁確かに、素は弄られキャラなのに、根っこのところで強い感じは
する﹂
それでなくとも、総一郎を圧倒するほどの実力者だ。
﹁それで、何だっけ。それを馴れ初めにお付き合いが⋮⋮﹂
﹁いやいや、まだそんな甘酸っぱい感じはなかったな。師匠が居て
さ、その人に随分絞られたよ。ベルの家の執事をしてるんだけどさ、
その人﹂
﹁ほう。その人の話はベルからもちょっと聞いたな﹂
﹁凄い強くて怖くて厳しい老鬼軍曹︵執事︶、だけで師匠のおおま
かな人格やら何やらが伝わるはず﹂
1687
﹁あ、理解しました﹂
一つずつ指を立てて説明するファーガス。少々指先が震えている
あたりから、その迫力が伝わってくる。勝てるだろうか、と少し張
り合う気分になってみたりする。
﹁いやー、もう何をやっても文句を付けられて。でもそれを意識す
ると対亜人戦が異様に簡単になったりするから、こっちからの文句
の付けどころが無かったりするんだよ。結局面をむかって褒められ
たこと一度もないんじゃねぇのってくらい厳しくってさ。閣下に聞
くところによると閣下も褒められたことないかもしれないみたいな
こと言ってたからもう駄目だよあれ。身内に厳しすぎるんだよな。
執事モードだとそれなりに温和なんだけど﹂
﹁大分愚痴だね﹂
﹁でも敬愛してる。あの人がいなければ今俺はここに居なかった﹂
﹁おおぅ⋮⋮﹂
ベルの話からのイメージと違い、おや、と内心首を傾げる。だが、
すぐに話題が他に移って殊更問い質すことにはならなかった。
1688
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵5︶
ヘル・ハウンド狩りに際して、総一郎はファーガスとアンジェに
ヘル・ハウンドの外套と言う装備を貸した。効果は、ヘル・ハウン
ドの爆発の無効化。また、物体の接触による外側のみの爆発。よう
は、ヘル・ハウンド人間版になれるという代物だ。
二人はそれに度肝を抜いていたようだったが、ソウイチロウとし
てはポイントが余りに余っていたせいで衝動買いしてしまったに過
ぎなかった。その果てに今のポイント文無し状態がある。とはいえ
最近の食事はすべてローレルに賄ってもらっている為困らない。
文字に起こすとヒモ臭がするが、そんなものは気にしない。偶に
デートした時などにプレゼントなどを送るからよいのである。大抵
は本なのだが。色気がなかった。
﹁ソウ先輩! これ凄いですね! あのヘル・ハウンドがサクサク
狩れます。いやむしろサックサク! テンションあがりすぎて馬鹿
みたいですねあたし!﹂
﹁安心しろ、アンジェ。お前は割と前からバカだ﹂
﹁ファーガス先輩、休み明けてから妙に辛辣!﹂
元気な二人である。総一郎はその会話に二人の仲の良さを感じな
がら、群れの間隙をぬって太刀を振るう。桃の木の木刀の破魔の力
は、大体ドラゴンとの攻防の時辺りで固定化されていた。ヘル・ハ
ウンド程度なら、バターのように斬れてしまう。
1689
﹁こっちも、昔に比べて随分と楽になったなぁ﹂
グレゴリーとの再戦を考えてもいいかもしれない。そう思いつつ
も、彼を殺すのは惜しいと渋る自分がいた。決着はつけたいが、殺
し合いは違うような気がする。
斬り合いの最中、攻撃がファーガスに集中し始める時期があった。
総一郎を勝てない敵と定め、逆にアンジェは見つからなかったのだ
ろう。彼女は暗殺者のような戦い方をする。個人的には、遣り合い
たくない相手だ。
﹁ソウ先輩、ソウ先輩﹂
﹁ん、どうしたの。アンジェ﹂
ここはファーガスに任せてしまおうと、一人休んで木に寄り掛か
っていた。そろそろ、日が傾き始める頃合いだろうか。夕方と言う
には少し早く、空はまだ青色をしている。
アンジェは、そんな空の下。木々の中に紛れて、総一郎を手招き
していた。きょとんとして、そちらに歩んでいく。
近づいていくと、彼女の美貌がひときわ目立った。心に決めた人
がいる総一郎からすればどうこう、という話ではないのだが、妙に
惹かれる外見だ。不自然ささえ感じてしまうほどの。
﹁今は少し暇ですし、少しお話などはいかがです?﹂
﹁君の言葉の使い方にはユーモアがあるね。何と言うか、愛嬌があ
1690
る﹂
﹁あ、お世辞ありがとうございます﹂
本当に面白い少女である。
﹁いやーしかし、こうして話してみると怖いだけの普通の人ですよ
ね、ソウ先輩って﹂
﹁怖い? 僕が?﹂
﹁はい。学園のほぼ全員に憎まれているのに、飄々としているあた
り怖いです﹂
﹁そうかな。でも、一時期は相当参っていたんだよ? その果てに
軽く頭がイッちゃって山籠もり始めたし﹂
﹁ああ! あの伝説の! というか自分の事なのに随分軽く言いま
すね! 頭がイッちゃってとか!﹂
一人で大盛り上がりのアンジェである。総一郎はその表情の豊か
さに、微笑を禁じ得ない。なかなか自分とは相性がいいのかもしれ
なかった。
﹁いやー、やっぱり怖いですわ。流石この学園で一位二位を争うと
言われているだけありますね﹂
﹁ニヤニヤしながらよく言うよ。一位二位、か。⋮⋮僕とファーガ
スかな。いや、それだと力の差がありすぎるか。ファーガスのアレ
反則だし﹂
1691
﹁いえ、ファーガス先輩は能力使えなくなっちゃった宣言から、順
位的にかなり下の方に行きました。人気はまだまだありますが﹂
﹁じゃあ誰さ﹂
﹁ネル先輩です﹂
﹁それでいいのか高学年﹂
思わず突っ込んでしまう。総一郎たちはまだまだ中学二年生相当
の年齢である。そして最大は高校生三年生ほどだ。大学生相当の騎
士補佐になると場所が変わったりするから何とも言えないが、とも
かく、最高学年それでいいのか。
﹁ちなみに三位が今のアイルランドクラスの寮長です。名前は忘れ
ましたけど、ネル先輩が一方的にボコってたのは何となく記憶にあ
ります﹂
﹁ネル凄いね! 何あの子!? こわっ!﹂
戦慄の総一郎。記憶の彼の皮肉な微笑が、何だか獣のそれに感じ
てしまう。
﹁で、そのネル先輩なんですけど、最近ヤバいんで近寄らない方が
いいですよ?﹂
突然アンジェは、声のトーンを落とした。瞬間的に、総一郎は忘
我してしまう。
1692
﹁⋮⋮うん? どうしたのさ、藪から棒に﹂
首を傾げながら尋ねると、彼女は少々言い辛そうにしながら、身
振り手振りを交えつつ語り出す。
﹁こう⋮⋮、何て言うんでしょうね。血縁関係あるからあんまり悪
いこと言いたくないんですけど、家の方の事情とかで、参ってるみ
たいなんです。性格も前みたいに面白い理不尽じゃなく、ただの八
つ当たり、みたいな⋮⋮。何かトチ狂って変な事をたくらんでるっ
ていう噂もあるくらいですから﹂
﹁⋮⋮それは、何ともきな臭い話だけれど﹂
新学期中。一度だけ会った。ローレルの言葉があってあまり長話
はしなかったけれど。︱︱確かに、雰囲気の変化は感じられた。
具体的な言葉には、出来ないような違和感だった。そうとしか、
言いようがない。ただ、何処かいやらしい感じがあった。それ以上
の表現には、おおよそ出来ないのだ。
﹁⋮⋮それ、ファーガスには?﹂
﹁伝えてません。最近仲がいいらしいので、伝えづらいんです。フ
ァーガス先輩の事だから危険な事にはならないんでしょうけど﹂
﹁ああ、なるほど。あんまり危なそうなら、僕の方から言ってやっ
てほしいってこと?﹂
﹁ソウ先輩気が利きますねぇ! 何で四面楚歌になったんですか?
あっ、いっけない。亜人だからだった!﹂
1693
﹁君は人からの好き嫌い激しそうだね。決して君の、ではなく人か
らの﹂
総一郎、半眼で遠回しに毒を吐く。迂遠だが直球な言い方はもは
や総一郎の性分だ。
﹁愛されキャラであると同時に憎まれキャラでもありますあたし。
ともかく、伝えましたからね! 頼みますよ、ほんとにもう!﹂
﹁何で今ちょっと怒られたの⋮⋮?﹂
小さな疑問を携えつつ、会話を終えてファーガスの加勢に回った。
それから数時間もするとすぐに夕方になって、何となく動き足らな
い総一郎はその場に残ると言って二人と別れた。
山の中に、闇が満ち始める。静かに、総一郎は微笑した。
歩を、気の向いた方角に向けた。崖があっても、谷があっても、
迂回しなかった。ヘル・ハウンドたちの群れとも遭遇したが、中に
はグレゴリーもいて、互いに合図して素通りした。そんな気分では
なかった。
総一郎としては、オーガを狩るつもりで居た。珍しい魔獣だから、
出会えない覚悟で探していた。ごくたまに、歩いていると騎士補佐
らしき人影に出会う。しかし、見向きもされない。知名度がないの
か違う理由なのかはわからなかったが、有難くもあった。
大分暗くなってきた頃、ふと、光を感じた。目を向けると、誰か
がいた。気配を殺し、﹃サーチ﹄から外れる聖神法を使って様子を
1694
覗いてみる。ネルが、そこに佇んでいた。
﹁⋮⋮﹂
何ゆえ、彼が。総一郎は思わず出かかった言葉を我慢して、訝し
げに見つめた。彼は、待っているらしい。しばらく見続けて、それ
を察した。その待ち人は、そう時間をかけずに現れた。
︱︱カーシー先輩。
一層、総一郎は表情を歪めた。少なからず、因縁のある相手。思
わず隠れたままでいたことを、改めて英断だと評した。
彼らは、話し始める。総一郎は、瞬間その内容に耳をそばだてる
か迷った。しかし、結局そうしなかった。趣味が悪いと思ったのも
ある。だが、ローレルからも、アンジェからも、関わるのは止めて
おけと言われた。その事が、総一郎の心を二人から遠ざけた。
﹁⋮⋮もう、夜だ。帰ろう﹂
総一郎は、踵を返し下山し始めた。その頃にはもう八時近くなっ
ていて、久々に体を動かし過ぎたと筋肉痛を心配した。
寮の近くに戻るころ、総一郎は自らが空腹であることに気が付い
た。ローレルを見つけるのも億劫で、仕方なしに食堂へ向かう。
視界を塞がれた。華奢な手が、総一郎を背後から目隠ししている。
﹁私は誰でしょうか?﹂
1695
﹁ローレル。君は付き合いが長くなればなるほどお茶目になってい
くね﹂
﹁最初は警戒心が強いですから。私も誰かにこんなことやったの初
めてです﹂
嬉しくてたまらない、という風に微笑した少女が、振り向いた総
一郎の目の前に立っていた。ローレルは、総一郎の右手に抱き付い
てくる。
﹁人目が無いのっていいですね。私たちでも堂々と歩けます﹂
﹁ローレルもだんだんと迫害される側の目線になって来たね﹂
﹁恋人がそうなのですから仕方がありません﹂
随分と愛らしいことを言ってくれる。その隙をついて、総一郎は
ローレルの唇を奪った。彼女は、目を白黒させる。が、すぐに落ち
着きを取り戻す。
﹁ソーも可愛い人ですね。人目が無いからって、もう﹂
﹁あれ? 僕の好みベルから聞いてたんじゃないの?﹂
﹁え?﹂
ローレルはきょとんとしてから、ハッとして慌てだした。
﹁え、あの、その、照れを隠しちゃ駄目って、あ、あああああ。何
か今更のように恥ずかしく、いえ、そんなこと関係な、ああ、駄目
1696
! う、うぅぅぅぅうううううう!﹂
初めにパニックを起こし、次いで恥ずかしさが再燃し、それを癖
で隠そうとして、最後に総一郎の好みを思い出して素直に真っ赤に
なって震える。その顔はリンゴのようになり、結局耐え切れずに両
手で顔を隠した。
﹁ローレル可愛いね。やっぱり恥ずかしがってるローレルが一番か
わいいよ。ベッドの上とか﹂
﹁そういうこと言うの駄目です! 禁止です! もう! ソーの趣
味が特殊なせいで私は八方ふさがりじゃないですか! 照れてるの
に隠しちゃ駄目ってどういうことなのですか、バカっ!﹂
﹁ヤバい、これ本当にドストライクだ。惚れ直しそう。そして恥ず
かしがってる女の子が好きなのは万国共通だと思う﹂
﹁うー⋮⋮!﹂
真っ赤になって唸るローレル。今すぐ抱き締めたいような気もす
るが、他の手段で攻めたいような気もする。やきもきが高じて切な
かった。これが行きつく所まで行ったら悶死するのだろう。ローレ
ルは顔を覆う両手の隙間からこちらを見て、涙声で呻く。
﹁ソーのばかぁ⋮⋮﹂
﹁うっ﹂
悶死した。
1697
そんな風に談笑していると、総一郎のお腹が鳴った。うなうなし
ていたローレルはクスリと笑って矛先を収め、総一郎は苦笑して頭
を掻く。
﹁そろそろ、お夕飯を食べましょう? 食堂のキッチンをお借りし
て、すでに出来たものを部屋に運んでありますから﹂
﹁じゃあ、僕自分の部屋で待ってるね﹂
﹁駄目です。今日は私の部屋に来てください﹂
﹁⋮⋮流石に僕が女子寮行くのはかなり危ないんじゃない?﹂
ローレルの我儘はそれなりに可愛いと思ってしまう総一郎だが、
今回のそれには難色を示してしまう。だが、当事者の彼女は素知ら
ぬ顔。握り拳を作りながら、この様に言い放つ。
﹁光魔法で透明化すればバレません!﹂
﹁そっか。ちょっと調子に乗りすぎてるから正座しなさい﹂
﹁えっ﹂
ローレルは総一郎の愛しい人ではあるものの、ある面で言えば教
え子でもある。はたまた恩師の愛孫でもあるわけで、要は最低限の
躾けが必要という事だった。
﹁え、あの。⋮⋮。︱︱えっ?﹂
﹁ん、分かった。確かにここでそうさせるのは厳しいね。じゃあ、
1698
僕の部屋に行ってからにしようか。そこでお説教するから。とりあ
えずモラルについて﹂
﹁いえ、確かにそっちも戸惑いの対象ではあるのですが、それより、
その﹂
﹁え?﹂
ローレルの関心が総一郎の背後にあった事に気付かなかった総一
郎は、振り返って彼女の指差す方向を見やった。そこから、何やら
声が聞こえる。これは、罵声だろうか。
﹁喧嘩かな。しかし、それにしては随分と激しいね。まるで仇を問
い詰めるみたいな口調だ﹂
薄暗がりの中で蠢く複数人の陰に目をやりながら、そんな風に分
析する。ローレルは妙に複雑な顔をして、少し考えてから、総一郎
の袖を引いた。
﹁⋮⋮少し、様子を見に行きましょう﹂
﹁野次馬は感心しないよ﹂
﹁止めないってことは行ってもいいんですよね﹂
﹁まぁね。騎士候補生の喧嘩なんて物笑いの種だし﹂
﹁ソー、黒いです⋮⋮﹂
今までさんざ甚振られてきたのだ。態度くらい雑になる。
1699
しかし、そこはかとなく嫌な感じは総一郎にも分かった。これは、
昔の自分が責められていたころの声にも似ている。そう、言うなれ
ば。
﹁⋮⋮使えない仲間を糾弾するみたいな声色だ﹂
総一郎たちは物陰に隠れ、念のため共に光魔法で迷彩を掛ける。
そこは、食堂近くの廊下だった。廊下の光は消されているが、食
堂の薄光がそれぞれを照らしている。大体、十人ほどか。責められ
ているのは三人で、詳しく見ればその三人はスコットランドクラス
の少年達だった。
﹁というか、アレ、ギルの取り巻きじゃないか? 僕の爪を剥いだ
奴だ。もう一人は⋮⋮居ないみたいだけれど﹂
﹁⋮⋮様を見ろ、です﹂
﹁ローレル、君は清いままで居て﹂
﹁いいじゃないですか。ソーを虐めたのなら私の敵です﹂
注視しながらこそこそと会話を交わす。
彼らは、三人に詰め寄って指さし責め立てているらしい。話題を
音魔法で聞き取れば、総一郎の事だった。弾劾しているのはアイル
ランドクラスの先輩方で、その声には八つ当たりの色が濃い。
﹁ブシガイトは貴様らのクラスだろうが! 何故ブシガイトはまだ
1700
死んでいない! 予定ではもっと早くに殺すつもりだと聞いたぞ?
それがどうだ!? いまだ奴は健在で、のんきに狩りに出かけた
のが所々で散見されている! 寝込みを襲うなりなんなり、出来る
ことはまだまだあるだろうが!﹂
﹁そ、そんなこと言われても、俺達だって、あいつを早く殺したい
んです! でも、その、強すぎて⋮⋮﹂
﹁強すぎるだと!? 一体全体何を言っているんだか! 我が校の
英雄、グリンダーでもあるまいし、強すぎるなどという事はない!
貴様は将来騎士団に入団して、我が国を脅かすドラゴンを打倒す
ものの一人になるのだろう? ならば力を合わせて、まずはあの憎
たらしい亜人を殺せ!﹂
ローレルが、ぼそりと一言。
﹁ソーはドラゴンよりも強いですけどね﹂
﹁ちょっと黙ってようか﹂
と言いつつも、総一郎は溜飲の下がる思いで居た。自分をしいた
げていた輩が、自分を理由に責められている。立場が逆転したなと
目の前で嘲笑ってやりたい気分だ。
だが、次の彼らの行動が、二人に息を呑ませた。
﹁ああ、もう埒が明かない! いいだろう。ようは、貴様らに死ぬ
ほどの覚悟がないことが原因らしい。ならば、その気になって貰お
うか。︱︱諸君、手筈通りにいくぞ。手回しも済ませておいたな?﹂
1701
﹁はい、寮長﹂
﹁はっ? ちょっと、先輩方は何を﹂
アイルランドクラスの七人は、同時に自らの剣を抜いた。次いで、
三人を同時に串刺しにしていく。スコットランドクラスの生徒は、
一人残らず腹の奥底から響くような呻き声をあげて倒れた。そこに、
さらに数人が駆け寄ってきて、アイルランドクラスの寮長と思しき
人物と一言二言会話を交わし、たった一人、虚弱そうなアイルラン
ドの騎士候補生を残して散開していく。
そしてその一人が、酷く怯えたような、芸達者な演技をするのだ。
﹁ひぃい! 助けて! ブシガイトが! ブシガイトが人を殺した
!﹂
﹁⋮⋮嘘、でしょう?﹂
ローレルが目を剥いて、その陰謀めいた光景を見つめていた。総
一郎は、我に返りしまったと思う。忘我する暇などなかった。少年
は少女の手を引いて、素早くその場を離れていく。
﹁そんな、そんな、だって、同じ騎士学園の仲間じゃないですか。
何で、あんな簡単に殺せるんですか? ソーを虐めたのは許せませ
んが、でも、何も殺すことは﹂
﹁ローレル、アレが騎士学園の本性だよ。そして、それは騎士団に
も受け継がれている。目的のために命をも厭わない残忍さ。そして
特筆すべきは、同じクラスで無い者にその矛先はむけられるんだ﹂
1702
二人は音もなく駆けていく。寮についたところで、立ち止まった。
ローレルの息だけが、切れている。走ったこともあるだろう。けれ
ど、それよりも大きな理由があった。
﹁ソー、ここは、何処ですか? 私は、騎士学園に居たはずです。
でも、ここじゃありません。私は、どこに居るのですか?﹂
﹁ローレル。君は、騎士学園になんかに居なくていい。ずっと、僕
の隣に居てくれ﹂
﹁ソー⋮⋮﹂
弱々しく、抱きしめてくる。その力が、少しずつ強くなる。少女
の体は震えていた。力に伴って、止められなくなっていく。
﹁私、怖いです。ソー⋮⋮! この世界には、何でこんなに怖い物
ばかりがあるのですか? 騎士学園も怖い。ソーにキスをした、あ
のナイって子も怖い。私は、どうすればいいんですか? 教えてく
ださい。ソー﹂
﹁⋮⋮そうだね。この世は、怖い物ばかりだ﹂
何をすればいいのか。そんなもの、総一郎にだって分かるはずも
ない。おびえる少女のために、総一郎はあれだけ渋っていた女子寮
の中に入り、ローレルを自室まで送った。ベッドに座らせて、しば
らく宥め、様子を見て自室に戻ろうとする。
だが、ローレルはそれを止めた。一人でいるなど耐えられない、
という顔をされては、総一郎も拒否することは出来なかった。彼女
の求めるままにキスをし、耳元で愛をささやいた。少女は、恐怖を
1703
忘れるために快楽を求めた。少年は、愛と日々の感謝、そして情動
をもってそれに応えた。
人間は、たった一人では修羅になる。二人でも、獣になりかねな
い。三人以上いて、やっと礼節を知れるのだと総一郎は思う。深夜、
白い肌を覗かせて寝息を立てる少女を見ながら、ぽつりと呟く。
﹁⋮⋮僕がいなくなれば、この子はどうなってしまうのかな﹂
髪を梳いた。その頬に口づけをして、総一郎は瞼を落とす。もは
や自分たちは、片翼の天使になることは叶わないのだと思いながら。
1704
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵6︶
騎士候補生たちの陰謀を目の当たりにした日から、ローレルと離
ればなれになることが酷く不安になった。
だから、無理をしてでも共に過ごそうと提案すると、彼女は一も
二もなく快諾してくれた。曰く、﹁ソーが言わなければ、私から言
ったと思います﹂とのこと。自分からでなく、総一郎からの申し出
であることが、相当彼女の気分を高揚させたらしい。その日はずっ
と、上機嫌だった。
寝起きはローレルの部屋ですることになった。総一郎の部屋は、
危険だ。すでに襲撃を受けたという実績がある。総一郎一人ならば
いくらでも対策は打てたが、ローレルを守ることを含むと、どうし
てもあの部屋は避けるべきだった。
最初はそれなりに振る舞いに困ったが、山に慣れることのできた
総一郎である。三日もしないうちに、勝手知ったる我が家と言わん
ばかりに過ごすことが出来るようになった。
ひとえに、ローレルのお蔭だ。
朝。寝起き。総一郎の夢は、悪化の一途をたどっていた。あの化
け物は総一郎をさんざん踏みつぶした後、その幼生を産み付けるよ
うになった。それらが、総一郎の中に入り込み、内側から食い破っ
てくるのである。
今まで、絶叫と共に起きるだけで済んでいた。荒い息ながら、夢
1705
と現実に明確な境界線を引けていた。今は違う。起床して、総一郎
はまず体の異変を調べる。体中に夢の後を引いた違和感が付きまと
っていて、あの化け物をそのまま小さくした大量の幼生が、絶対に
どこかに潜んでいるという妄想に取り憑かれる。一人で寝起きする
限り、そのために一時間は正気を失ったままでいるのだ。
そんな総一郎を元に戻してくれるのが、ローレルだった。
﹁止めろッ! 僕を食うな! 何処だ、どこに居る! 出てこい!
根絶やしにしてやる。他人に食われたことが無いからそんなこと
が出来るんだ。見つけ次第噛み千切ってやるからな。少しずつ、苦
痛を感じるように!﹂
﹁ソー、そんな化け物は居ませんよ。それに、ソーを齧ったのは私
です﹂
﹁えっ?﹂
﹁首筋。ソーの寝顔が可愛くって、こう、パクッて﹂
可笑しそうに小さく笑うローレルを見つめながら、総一郎は首筋
に手をやる。そこには、軽い跡があった。確かに、噛み付いたよう
な︱︱
﹁︱︱ローレル、ありがとう﹂
﹁落ち着いてくれてよかったです。いつもの夢ですか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
1706
先ほどまでの余裕そうな表情を崩して、心配そうに眉を垂れさせ
彼女は問うてくる。ローレルは、総一郎の抱える闇のほとんどを知
っていた。雑談の折に、昔の話を良くしたのだ。
逆に、彼女の話もまた、聞かされていた。今まで知らされていな
かったローレルの陰を知って、総一郎はさらに彼女の事が愛しくな
った。
彼女と共に、楽しくあろうとして、生活習慣が変わった。夜と、
早朝。人のいない時間が、彼らの世界を形作り始めた。
修練場は、夜、消灯前の一時間にも訪れるようになった。その頃
になると街の光も遠く、周囲は真っ暗で、星がよく見えた。
他には、騎士学園の塀の外。時折強いとも弱いとも言い難い魔獣
で出現するため危険地域に指定された、騎士候補生すらほとんど来
ない小高い丘。そこは街に近いためか、星ではなく街の夜景が綺麗
なのだった。人の営みを思わせる。
ローレルは二人で星を見るのが好きで、総一郎は街の夜景を見る
のが好きだった。
﹁⋮⋮不思議ですよね。こんな満天の星空、実家より都会な騎士学
園の方が見えるなんて。ちょっと不公平です﹂
星を見る日。街を見る日。交互にしようと、二人で決めた。むく
れるローレルに、総一郎は苦笑する。
﹁仕方ないよ。騎士学園は、眠るときに街灯すら消えるんだもの。
ローレルの町は、違うでしょ? ⋮⋮もしかしたら、そのために少
1707
し街から遠く造られてるのかもしれないね﹂
﹁お金って偉大です﹂
﹁そこなんだ﹂
二人して、笑う。広大な星空が、総一郎は怖い。吸い込まれそう
に思うのだ。まるで、天地がひっくり返って、落ちていきそうな気
がする。
少し前にそんなことを言ったら、少女はクスクスと笑って言うの
だ。
﹁ソーって、結構臆病です。私は、どちらかというと、寂しくなく
なる気がするんです﹂
﹁へぇ? それは、どういう事?﹂
﹁星は、それこそ星の数ほどある訳でしょう? そうすると、自分
の悩みなんか小さくて、もっと何億、何兆、何京倍の世界が自分を
包んでくれているって、そういう風に思うんです﹂
﹁ローレルは、アレだ。宇宙人とは仲良くしようって思うタイプだ﹂
﹁何で分かったんですか?﹂
互いの事を知る度、距離が近づいていく気がした。いずれ、溶け
合って一つになってしまうのでは、と冗談を言って﹁それもいいか
もしれないですね﹂と返されてドン引きした。その時のローレルの
慌て様は抱腹物である。あまりに面白可愛かったのでこっそり撮影
1708
して、会話のふとした瞬間に流して怒られた。怒る姿も愛おしい。
ファーガスとは、早朝に会う。カバラで、総一郎とローレルの異
常な仲の良さを苦々しく思っていることが知れたのは、つい最近だ。
共依存、と思われていることが分かった時、総一郎は言葉を失っ
た。
心の内での反論すら総一郎には出来なかった。
ほんの少しだけ、離れ離れになる時間を作ってみよう。ふとした
瞬間にそう思って、図書館で勉強を見ている時、少しトイレと席を
外した。今までは、そもそも図書館での勉学すら控えていた。教科
書はあったから、自室でのものに終始していたのだ。
それが、よくなかった。
﹁⋮⋮ローレル?﹂
帰ってきた時、ローレルは消えていた。几帳面な彼女の事だ。何
か用事が出来たのなら、普通は書置きの一つでもあるはずだった。
しかし、痕跡すら見つからない。それは、アナグラムすら分からな
いという事だった。異常な事だ。全くのアナグラムを残さず何かを
するなど、尋常ではありえない。
﹁カバリスト⋮⋮﹂
二人の行動範囲。図書館、ベランダ、修練場の全てを探したが、
アナグラムの欠片さえ見つからない。その時になって、総一郎は歩
調を駆け足に変えた。自分の姿を光魔法で消すのは忘れないが、そ
1709
れでも時折生徒とぶつかりかけることが何度かあった。
まだ、﹃自分たちは彼らに接触していない﹄。だが、カバリスト
をどうこうする為には、カバリストでないと無理だというのも事実
だった。
︱︱もともと、意図の見えない相手だ。それに自分がカバリスト
でなかった時から、ちょっかいは掛けられていた。総一郎はそのよ
うに考え、ギルを探し始めた。
奴がカバリストの一員であるかもしれないと分かったのは、先日
の事だ。最近、一度渋った自分の出生を語る機会があった。その時、
天使が蔑視の対象であるという奴の言葉が嘘であると割れた。今ま
でのこともあって、すぐに要注意人物としてマークした。
はたして、ギルはすぐに見つかった。二階の廊下の窓際で、取り
巻きと談笑している。音魔法で探知したが、取り立てて聞く価値の
ない物だった。彼らは平然と集まりながら詠唱室へ入っていく。次
の授業は詠唱の時間だっただろうかと考えながら、総一郎は追った。
密室で人数が少なければ、如何にギルだろうと追いつめる自信があ
った。
しかしそこには、年齢、性別ばらばらの十数人の騎士候補生たち
が集っていた。その真ん中に、椅子に縛り付けられたローレルが居
た。猿轡をされ、俯いてすすり泣いている。
﹁乱暴はしないように言っておきましたよね?﹂
ギルがそのように言うと、上級生の一人が肩をすくめてこのよう
に返した。
1710
﹁いや、先ほど失禁したんだ。暴行は加えていないぞ。まだ﹂
﹁それならいいです。傷をつけると、見た時点でブシガイトが逆上
する可能性がありましたから。見たところ掃除は済ませたんですね
?﹂
﹁ああ、下級生の何人かにやらせた。⋮⋮しかし、妙な気分だな。
本当なら第四学年から上でブシガイトの奇襲をいつも組み立ててい
たのに、まさか第二学年の坊やに指揮をとられるとは。それも、た
いして抵抗感がない﹂
﹁実はぼくはロボットなんですよ。操縦桿はそろそろ五十路に差し
掛かる父が握っていて⋮⋮﹂
﹁ははは! それなら指揮を取られるのは当然だな! ⋮⋮で、誰
がブシガイトを呼びに行くんだ?﹂
﹁それも、ぼくに任せてください。では﹂
素早く、ギルは部屋から出て行った。呆気に取られていた総一郎
は我に返り彼を引き留めようとしたが、時はすでに扉は閉まった後
だ。仕方ないと諦める。ローレルを救い出せれば良いのだ。
波風を立てるつもりはなかった。腹立たしいし、ローレルが屈辱
的な仕打ちを受けたのだから、それ相応の報復はしてやりたかった
が、それが事を荒立てるだけなのは知っていた。
だからこそ、総一郎はそのまま彼女に近づいて、椅子を軽くたた
いた振動によるアナグラムでローレルとの会話を試みる。
1711
﹃ローレル、大丈夫?﹄
彼女も指は動かせるようで、返答が来た。
﹃ソー! ⋮⋮はい。どこかが痛むという事は、ないです﹄
﹃そっか。安心した。じゃあ、脱出しよう。適当にかき乱してやれ
ば逃げていくはずだ﹄
﹃はい。⋮⋮ところで、先ほどの会話聞きました?﹄
﹃⋮⋮聞いてないよ?﹄
﹁ムー! ムー!﹂
﹁うわっ、何だ!? いきなり暴れ出してどうしたんだこいつは⋮
⋮﹂
羞恥のあまり顔を真っ赤にして椅子をがたがた揺らして暴れるロ
ーレル。ひとしきりそうしてから行き成り脱力して俯き、再び彼女
の頬に涙が伝う。
﹃⋮⋮忘れてください。忘れなきゃ、忘れさせます﹄
﹃怖いよ﹄
同情するにしきれない辺りがローレルである。多分この涙は恥ず
かしいというよりは悔しさの物なのだろう。アナグラムで解析する
限りそのようだ。
1712
総一郎は金属魔法でナイフを生み出し、そろりそろりと縄を切っ
た。拘束具が縄で通じるのは、先進国の中では今の時代イギリスく
らいの物だ。アメリカの亜人は簡単にこんなもの引きちぎるし、日
本はもはや言わずもがなである。
縄を切り落とし、光魔法とアナグラムを併用して気づかれないよ
う細工する。次いで足、腰と解いていき、ローレルを自由にした。
﹃ありがとうございます﹄
﹃どう致しまして。さて、じゃあどうやって逃げよっか﹄
手段はいくらでもある。一番望ましいのは、何かで気を惹いてそ
の隙に脱出することだ。だが、あからさまな物は自分の存在に感づ
かれかねず、出来る限り自然なものがよい。
そのように思考としていたところ、一人の候補生の携帯が鳴った。
彼は電話に出て、相槌を打っている。
その時、総一郎は言いようのない不気味さを感じた。嫌な予感が、
僅かな警戒を彼にもたらした。
故に、次の瞬間に彼らを襲った衝撃を避け、そのうえでローレル
に回避させるという事が間一髪のところで叶ったのだろう。
総一郎は地面を転がり、壁を背に立ち上がった。見れば光魔法は
解かれ、この部屋の誰もが自分を凝視している。携帯を耳に当てて
いた上級生が、その手を下しながら舌を打つ。忌々しそうに、総一
郎に毒を吐いた。
1713
﹁チッ、ドブネズミが鬱陶しい⋮⋮。今ので仕留められれば、何も
かも上手くいったというのに﹂
﹁⋮⋮何故、僕に気付いた﹂
﹁ギルバートが伝えてきた。本当ならこれで仕留めるはずだったの
だが⋮⋮。まぁ、いい。手札はまだ手の内だ﹂
奴は乱暴に、ローレルの猿轡を掴んで引き寄せた。苦しそうに彼
女はうめき、細められた目をこちらへ向ける。ローレルは、ひどく
怯えていた。いつもの克己心は、そんな自分自身を嫌ってのもので
あると総一郎は知っている。
﹁⋮⋮彼女は関係ない。早く解放してやってくれ﹂
﹁それも裏は取れている。人質になることくらい、確認済みだ﹂
アナグラムが読み切れない。総一郎は、歯噛みしていた。彼らは
自分の意志によって行動しているのではなく、ギルの定めた行動手
順を踏まえてそれをなぞらえているに過ぎない。そういう状況は、
アナグラムが酷く得難いのだ。彼らから、表情による状況の把握が
できないという理由で。
挑発してみようかとも考えたが、ローレルを掴む上級生は性格の
荒い人間だと解析できた。下手をすれば、彼女が傷つけられる。迂
闊な事はできない。
﹁さぁて、ブシガイト。それじゃあ本題に入ろうか。まず、⋮⋮何
があっても、動くな﹂
1714
ぴり、と危機管理能力が総一郎に反応した。総一郎は、子供を殺
さない。ずっと守ってきた、最後の防波堤とも呼べる条件。守れる
だろうかと、瞬間考えた自分に愕然とした。それだけは、守らなけ
ればならない。それを破れば、きっと自分は修羅になる。
気合を入れて、こちらに歩いてくる下級生を見つめた。その手に
は、煙の出る大きなハンコのようなものがあった。一瞬惑ったが、
心当たりがあった。ローレルを束縛する上級生が、笑い声をあげる。
﹁さすが本場の国。知ってるなら話が早いな。︱︱それは奴隷紋だ。
それも、特一級。すべての人間の命令に従わなければならないそれ
だ﹂
総一郎は思わずその手を叩いていた。ハンコが地面に落ちるとと
もに、ローレルの甲高い声が漏れる。はっとして顔を上げると、首
から一筋の血が流れていた。総一郎は頭が真っ白になる。奴は、﹁
だから言っただろう﹂とふてぶてしく言った。
﹁動くなよ。次にやることも正直変わりはないが⋮⋮、頸動脈に届
いたら死ぬからな?﹂
まるで自分には責任が無いかのような言い草が、総一郎に血が逆
流するような激情を覚えさせた。だが、奴には怯んだ様子が一切な
い。くつくつと笑いながら、﹁おい、いいのか?﹂とこちらに問う
てくる。
﹁お前、子供は殺さないんだろ? 殺したら取り返しが付かないも
んな。︱︱腕だけなら回復する余地があっても、脳に届いたら意味
ないぜ?﹂
1715
まるで、冷水をぶっかけられたかのような気持ちにさせられた。
何故、そのことを知っている? 総一郎はあっけに取られる。その
時、ローレルが必死に瞳でこちらを見ていることに気が付いた。
﹃逃げてください。駄目です。彼らの言う事は本当です。このまま
ここにいると、どう転んでも取り返しがつきません﹄
﹁だから、動くなよ。別に奴隷紋押したからといって、どうこうす
るなどと言って無いだろう?﹂
﹁ははは、そうそう。そこの子を目の前で殺したり、ついでに少し
味見しとくなんてこと、絶対にしないから安心しろよ﹂
﹃大丈夫です。私は、一人でも何とかなります。これでもカバリス
トとしてはソーより少し上なんですからね﹄
﹁嫌がらせってだけなら、私にもいい方法がありますよ? 訊きま
す?﹂
﹁ほう、例えば﹂
﹁今思い浮かんだので一番辛いのは、豚ですね。でも農家のは大体
去勢されていますし、研究所の亜人の牢屋か何かに縛って放ってお
けば⋮⋮﹂
﹁ほほう、俺の予想を遥かに上回ったな。だが︱︱面白い、やろう
か﹂
﹁そうでしょう? そういうのには自信があります﹂
1716
﹃こんな奴らから逃げるなんて、訳ありません。ソーが来るのがも
う数分遅ければ、私が一人で脱出していたくらいです。だから、ほ
ら、早く逃げてください﹄
ローレルは、泣いていた。人差し指を懸命に動かしながら、自ら
の恐怖に負けないよう懸命に闘っている。だが、総一郎はアナグラ
ムを読んで知っているのだ。自分が逃げた時、総一郎の姿が見えな
くなる寸前に思わず漏らす、﹃助けて﹄の声とその表情が。
︱︱右手が、ひりひりした。
﹁⋮⋮もう、いい﹂
﹁は? 今、何と言った?﹂
﹁もういいよ、ローレル。僕が間違ってた。我慢すべきなのは、君
じゃないよ。︱︱僕が、自分の矜持を譲ればいいだけだ﹂
﹁おい、何を︱︱﹂
総一郎は、右手を差し出す。一見、人のそれだ。だが、妙にぶれ
て見えた。不安定になっているのだと、すぐに分かった。
﹁ソー! 駄目です! それだけは駄目!﹂
﹁おいっ、こっちに人質がいるのが分からな﹂
﹁黙れよ。黙って、死ね﹂
1717
ローレルの悲愴な叫び。奴らの下卑た怒号。総一郎の宣言。そし
て右腕は炸裂する。
その形は、例えるならハリセンボンだろう。身を守るために、彼
らは急激に膨らみ、己をトゲで覆うのだ。総一郎も、同じだった。
守るために、棘を伸ばした。
﹁あ⋮⋮﹂
ローレルの、力のない声。取り次ぐように、地獄の亡者のような
呻き声が周囲を満たし始める。
﹁クソ⋮⋮。クソが⋮⋮。殺してやる。亜人め⋮⋮!﹂
﹁痛いよぅ⋮⋮。助けて、ごめんなさい。嘘ですから。今までの、
全部ウソですから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮黙って死ねって、言っただろうが﹂
棘を抜く。水っぽい音を立てて、何人もが崩れ落ちた。大抵は、
そこで動けなくなる。だが、一人だけここまで這ってこようとする
輩がいた。
総一郎は、その少年を足蹴にする。頭を踏み、上から冷たく睨み
付けた。しかし、奴は笑っていた。掠れた声で、言うのだ。
﹁はは⋮⋮。お前、とうとう、子供を殺したな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮狂ってる。お前ら全員、狂ってるよ﹂
1718
重力魔法で、無理やり踏みつぶした。ローレルが、怯えたように
息を呑む。総一郎は彼女を無視して硬く握り拳を作った。それを、
軽く放る。それは弧を描いて部屋の中心に上がり、唐突に伸ばした
棘で静止した。
ローレルと、総一郎。それ以外が、息絶える。
﹁⋮⋮﹂
全員、苦悶にゆがんだ顔で絶命していた。床も、血濡れだ。何か
感慨があるだろうと思っていたが、予想以上に何もなかった。放心
していた。
我に返って、まずローレルの拘束を解きにかかった。彼女は、震
えていた。その様子を見て、ああ、と思った。嫌われたと。ある意
味では、仕方がないと思った。
だが、拘束を解き切った瞬間、ローレルは強く総一郎に抱き着い
た。
﹁ソー、ソー、ソー⋮⋮!﹂
右腕を握られる。そして、無理やり眼前に持って行かれた。少女
は、すすり泣いていた。総一郎は、それを見て不意に涙が流れ始め
る感覚を得た。彼女がいたから泣けたのだと、はっきりと分かった。
血が、死体が、二人を恨めしそうに睨み付けている。その中心で、
総一郎たちは抱き合い、泣きあった。心も、体も、一つになってい
くような錯覚があった。少なくともその瞬間は、心は一つになって
いたはずだった。
1719
﹁⋮⋮ソー。私は、ずっとあなたの傍にいますから。何があっても。
私だけは⋮⋮﹂
総一郎は、それに頷こうとした。寸前で、止まる。思考が動き始
め、何を為すべきなのかを考え始める。
頭の中で、全てを数式に変換した。自分も、ローレルも、この現
状も、そして、総一郎がローレルへ向けるこの温かな気持ちも、全
て無機質な数字へと変えた。それら掛け合わせ、未来を割り出して
いく。精神魔法を使えば、すぐにわかってしまった。
総一郎は、首を振る。涙を目に貯めたまま、少女は呆気にとられ
た顔をする。
﹁ソ、ソー⋮⋮?﹂
﹁ローレル。僕は、君と二人で居たかった。それだけ、君を愛して
いた﹂
﹁えっ、何ですか? 一体、何を⋮⋮﹂
﹁ローレル﹂
彼女は、嫌な予感に表情を歪めせていく。それを止めるために、
総一郎は強く、その名を呼んだ。
﹁僕は、二人で居たかった。一つになりたかったわけじゃないんだ。
一つになってしまえば、それは孤独だよ。独りよがりな孤独だ。君
を巻き込んで、修羅になってしまう﹂
1720
総一郎は、抱きしめる手を取り払う。抵抗されたが、ローレルの
力は及ばない。
﹁別れよう。僕たちはもう、限界だ﹂
はっきりと告げる。少女の瞳が、絶望に見開かれる。
1721
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵7︶
その日の夢は、少し様子が違った。
化け物は、行き成り総一郎を踏みつぶすのでなく、五メートルも
離れていない場所で総一郎を見つめていた。何処か、戸惑っている
ような雰囲気が読み取れた。なるほど、と納得する。
﹁少し、夢の中での覚醒が早かったらしいね。いつもなら、踏みつ
ぶし始めたところで僕は目が覚めるんだろう?﹂
周囲を見渡す。やはり、あの時見た迷宮だ。とすると、精神だけ
この場所に毎度毎度呼び寄せられていた、という訳なのか。鼻で笑
う。大した事のないトリックだった。
﹁⋮⋮で? 君としては、何かしら僕を甚振らないと、満足できな
いだろう。いいから、来いよ。僕だって、無抵抗な相手を殺すのは
︱︱まぁ、それなりに経験がないわけじゃないけれど﹂
右手を、強く握る。うねり、波打ち、望むように動いた。負ける
気がしなかった。今の自分にとって、奴は敵ではない。そんな自信
があった。
争闘が、始まった。戦っている内、奴は黒龍よりも強いことが分
かった。それでも、総一郎の中の勝利を揺るがなかった。
奴は奇妙な部位にある口を大きく開き、総一郎に噛み付いてきた。
それをいなして、右手の棘で傷つける。しかし、しぶとい。それを
1722
何度か繰り返すも殺せず、焦れたところで噛み付きが当たった。左
肩。激しい痛みと、直後に来た痺れ。
なるほど、そういう魂胆か。総一郎は狙いを知り、嘲笑った。動
けない相手を、貪り食らう。道理で、今まで抵抗できなかったわけ
だ。総一郎は毒魔法をアナグラムで改良した呪文を心の中で唱える。
そうすれば、解毒剤は直接総一郎の体中にいきわたる。
追撃の踏みつぶし。紙一重で躱す。そして、攻撃。だが、やはり
効果があるようには見えない。
泥臭い戦い方だった。しまいに、総一郎は焦れた。もういいと、
手を翳す。
その先で、黒い何かが浮かびあがった。
﹁あはは、流石夢。何でもありだ﹂
飛ばす。まっすぐ化け物に当たり、そのまま小さな穴をあけなが
ら奴の体の中心辺りで静止する。
﹁終わりだね。ひとまず、体をバラバラにされる苦痛だけ返してお
くよ﹂
指を鳴らした。直後、黒い何かは棒状に伸びて化け物を貫通した。
ぐるりと回り、縦横無尽に回転を続ける。その果てに怪物は塵芥に
変わった。
﹁⋮⋮なんともまぁ、呆気の無い事だ﹂
1723
目を、覚ます。
総一郎は、自室で起床した。ローレルは居ない。当たり前だ。自
分から、拒絶したのだ。
﹁⋮⋮寝起きのひと騒動が無いのと同じに、ローレルの笑顔もない、
か﹂
キツイなぁ、頭を掻きながら、呟いた。この辛さは、きっと死ぬ
まで続く。それでいい。この傷を、無かったことにしたくない。
﹁⋮⋮さっさと、終わらせよう﹂
総一郎はぼやいて、机に向かった。ノートを広げる。そこに、数
字を書き入れていく。
﹁多分二時間くらいかな。あとは、予定通りに﹂
アナグラムの、細かい計算を詰めていく。宣言通り二時間で見な
おしまで終わらせ、総一郎は席を立った。
今から取り掛かる作業は、ごく簡単だ。ローレルの安全の確保。
総一郎の卒業。極限まで簡略化して言えば、そういう事になる。
とはいえ、全くの手つかずという訳ではないのだ。仮止めとして、
ローレルの警護を務められる魔法生物を飛ばしている。火の鳥。光
魔法により不可視で、人間なら一撃で仕留められる程度には強く造
った。自律できるように、精神魔法も込みだ。証拠とばかり、時折
火の粉が垣間見える。
1724
まず、すぐに済ませられる方から手を付けよう。総一郎はそのよ
うに考え、自信を透明化させて部屋を出た。しばらく歩いて、食堂
に向かう。入り口ですれ違った少年の容姿をアナグラム解析し、光
魔法の呪文に組み込んでそっくりそのままの姿に変身する。
無料で配給される食事を適当に選んで、ありついた。朝食だけは
旨いと評判のイギリスだが、どうも不味い。ローレルの食事に慣れ
てしまったから、尚更そう思う。食べている途中で、そのローレル
が横を通り過ぎて行った。思わず、目で追う。彼女はそれなりに平
気そうな顔で︱︱しかし目元を赤くはれさせながら、もそもそと朝
食をとっていた。
﹁⋮⋮本当、きっつい﹂
総一郎は途中でフォークを置いて立ち上がった。食欲が、失せた
のだ。
スコットランド式索敵を杖なしで発動させ、近くにワイルドウッ
ド先生がいないかを確かめた。少なくとも、食堂には居ない。その
まま歩き出すと少し酔うような感覚があったが、我慢した。職員室
へ向かう。そして、返信を持続させたまま名も知らぬ教官に尋ねた。
﹁すいません、ワイルドウッド先生に用事があるのですが、今彼は
どこに居ますでしょうか?﹂
﹁ああ、⋮⋮Mr.ワイルドウッドね。何でも、学園長と共に外回
りの用があるとかでしばらくいないよ。しかし、君、彼と懇意なの
かい?﹂
﹁あーっと、どうでしょう?﹂
1725
﹁もしそうなりかけているのだとしたら、止めておいた方がいい。
彼は亜人びいきの変人だ。知ってるだろ? ブシガイト。奴の所為
でクラス間によく問題が起きるようになった﹂
﹁何と⋮⋮﹂
総一郎はいかにも深刻そうな声を出す。内心ではその教師に向か
って舌を出しておく。
﹁このままでは、大事になりかねない。全く、奴もどこか遠くで野
垂れ死んでくれていればよいのだがな﹂
﹁そうですねぇ。生徒に死んでくれなんて願う教師も、勝手に野垂
れ死んでくれればいいんですが﹂
﹁えっ?﹂
﹁では、失礼しました﹂
頭を下げて、足早に去っていく。帰り際に毒を吐かれた教師はぽ
かんとして、反応を示せないでいた。歩きながら、ため息を一つ。
﹁ムカついたから、で人を殺せるようになれれば、僕もきっと気が
楽だろうに﹂
実際は、逆だ。昨日人を︱︱それも、子供殺したせいで、今でも
胃のムカムカするような不快感があった。自分は、やはり、人殺し
に向いていないのだ。父の言葉は、いまだ総一郎の中で響いている。
1726
︱︱道を進むように、人を殺せるようになれ。人殺しに憑かれる
な。人殺しに覚悟を決めるな︱︱
﹁修羅にも、人にも、なるな。本当に、無茶な要求をしてくれる﹂
もう、自分は、人を殺したくない。この異形の右腕があるからこ
そ、今では強く思うのだ。
己の無理やりな卒業は、後々に回すことにした。本当ならワイル
ドウッド先生に話を付けて、魔法でもなんでも使って卒業証書を発
行させてアメリカへバイバイと決め込むつもりだったのだが。
まぁいい。総一郎は足を速める。次にやることは、ちょっとした
長丁場になる予定だった。
﹁何年だっけ? 五年?﹂
階段を上がっていく。目的の教室について、その人物の名を尋ね
た。呼び出すように頼み、近寄ってくるのを待つ。
﹁えっと⋮⋮何処かで会ったっけ?﹂
﹁さぁ? それより、君、ローレル・シルヴェスターの名に心当た
りは?﹂
﹁︱︱ああ、ブシガイトのつがいだろ? 何だっけ? 奴に知られ
ちゃならないから、緘口令が敷かれてるっていう︱︱﹂
﹁ありがとう。君のお蔭で大体の顔が割れたよ。感謝を示して、君
に傷はつけないから﹂
1727
﹁は?﹂
総一郎の言葉は、対面する少年の意識に間隙を作るアナグラムで
構成されていた。そこを突き、彼の顔を鷲掴みにする。反応される
よりも早く、精神魔法を使った。
強い静電気のような音。手を離す。彼は一瞬呆けて、すぐに頭を
振った。
﹁ごめん。ボーっとしてたみたいだ。それで、何の話だったっけ?﹂
﹁構わないよ。それで、ローレル、という少女に聞き覚えは?﹂
﹁ないなぁ⋮⋮。それは何? 誰かの名前?﹂
﹁いやいや、知らないならいいんだ。ありがとう。では、さような
ら﹂
総一郎は、踵を返す。彼は、二時間の成果だ。昨日の奴らから読
み取れたアナグラムの内、覚えていた数字を必死に計算して、やっ
と導き出した一人だった。
そして、他には十数人。それらの記憶からローレルの情報を消せ
ば、何もかも丸く収まる。立つ鳥跡濁さず、だ。この国から消える
際、彼女が何の心配も無いようにしてやりたかった。
それが、総一郎にできる、せめてもの愛の証拠だ。
歩きながら、考えてしまう。二人、ずっと共にいた時に訪れたは
1728
ずの未来。数字の上で、彼女は腕を総一郎が如く変貌させた。その
頃には総一郎の体のほとんどがこの忌まわしき右手の異形と化して
いて、ローレルの変容と一緒に融合し、文字通り一つになる。
悪夢のような未来図だ。突拍子が無さ過ぎて、理解が及ばないと
言い換えてもいい。
早足で進みながら、右手を見る。浸食がすすみ切った先。それで
も、ローレルは離れないというのか。それだけの執着が、一体どこ
から現れたのか。総一郎には分からない。
次の人物を見つける。先ほどと、同じようにしてローレルの事を
想起させる。その瞬間を狙って、頭に触れた。精神魔法。彼女の記
憶が消えていく。思考はまた、愛すべき少女へと戻る。
彼女には、辛い思いを何度かさせてしまった。それらは、ローレ
ルが自分を好いてくれていないと成り立たない物がほとんどだった。
ナイ、騎士学園の闇、迫害、カバリスト。恐怖は、少女の純粋な恋
心を、支えという名の執念に変えてしまったのかもしれない。
︱︱怖い。だが、ソーが居れば大丈夫。ソーが居なければ、私は
駄目だ。何があっても、離れられない︱︱
彼女の芯に変わりつつあった想いだ。ただの自意識過剰なら、ど
んなに良かったことだろう。だが、カバラで弾き出した答えだった。
ギリギリでもあった。昨日の時点で別れを切り出せなければ、ロー
レルは間違いなく総一郎に依存し、離れることが出来なくなった。
ローレルは、強い少女だ。克己心が、彼女の中心にあった。だか
らこそ総一郎たちは出会い、恋に落ちた。しかし数々の衝撃が、少
1729
女の核を破壊しかけていた。
触れずに放っておけば、ローレルはすぐに自己回復を図るだろう。
克己とは、そういうものだからだ。その為に突き放したのだが、一
方で彼女の身に危険が迫ってはいまいかと心配になったりもする。
事実総一郎は、二人に一回の頻度でローレルの安全を確認しに行
っていた。火の鳥でも敵わない相手がいるかもしれない。そう思う
と、気が気でないのだ。
とはいえその全ては杞憂なのだが、その上でしばし彼女をじっと
見つめて、周囲に怪しい動きをしている輩がいないかを確認し、さ
らには火の鳥の視覚情報を転送させてようやく、総一郎は使命に戻
る。一周回って過保護な父親のような行動である。
総一郎とて、ローレルから離れたい訳ではないのだ。必要だから、
そうしているに過ぎない。カバラでは、彼女は一カ月もすれば自己
を取り戻す可能性が高い。少なくとも、その間は近づけないのだ。
︱︱そして、運が悪ければ一生再会できないだろう。
総一郎は、少女に捧げる最後の置き土産について葛藤していた。
彼女の為を考えるならば、どちらの方がよいのかと。
すなわち、総一郎との記憶を消すか否かである。
個人的な感情を言うならば、当然覚えていて欲しい。だが、その
所為で彼女が自立への決心がつけられない可能性もあった。逆に、
総一郎の事を覚えているからこそ努力する、という事もローレルな
らあり得そうだ。
1730
その問いに、カバラを使う勇気はない。
弾きだされた答えは、﹁絶対﹂になるからだ。
最後の情報所持者の頭に触れて記憶を消し飛ばした。その後、素
早く去っていく。その頃にはもう夕方近い時間で、授業で言えば六
限目辺りに差し掛かるころだろうかと思案する。
チャイムが鳴り、騎士候補生たちが教室に入り始めた。総一郎は
ふと気になって、自分が元居たクラス、そして今ローレルが授業を
受けているだろうクラスへと足を向ける。
判断は、彼女自身を見て判断しようと考えた。カバラなら、是非
がはっきりと分かる。少し覗いて、そこで決めればいいのだ。軽い
気持ちで、立ち寄った。そして、教室中がざわめいていることに気
が付いた。
﹁⋮⋮何があったんだ?﹂
今、総一郎は総一郎ではない。誰か別の騎士候補生に見えている
はずだった。その上、一クラスが大所帯のために、クラスの全員を
把握している、という生徒は少ない。こっそり紛れて、近くの少年
に尋ねてみる。
﹁済まない、少し遅刻してきたんだけど⋮⋮。一体、何があったん
だ?﹂
﹁え!? 見てなかったのか! 今凄い場面だったんだよ。新しい
教官が最後列に座ってた女子見た瞬間に血相変えてさ! そのまま
﹃自習だ!﹄って怒鳴ってその子連れて何処か行っちゃったんだ﹂
1731
嫌な、予感がした。
﹁そ、その子どんな子だった? ほら、髪が金髪とか、小柄だった
とか、髪の長さは肩口あたり、とか﹂
﹁おお! まさにその通りの外見をしてたんだよ! その子も何か
事情があるらしくってさ。止めてくださいっ! って抵抗してるけ
ど出来てないんだ。まるでドラマを見ているみたいだったよ!﹂
﹁先生は!? 新しいって言ったよね?﹂
﹁えーっと、確か⋮⋮。ああ、そうそう!﹂
そして彼は、最悪の名を口にする。
﹁カーシー・エァルドレッド、とか言ったかな。ちょっと前までア
イルランドクラスの寮長してたんだけど、ドラゴン狩りで戦果を挙
げて一気に教官職を手に入れた人さ!﹂
総一郎は、踵を返して駆けだした。
﹁クソ、あれだけ注意しておいて! 二度も同じ過ちを繰り返すな
んて、僕は馬鹿なのか!?﹂
顔がこわばる。歯を食いしばり、全力で走った。だが、奴の場所
が分からない。何故、という煩悶が、総一郎の中でこだましている。
一体、どうして。緘口令の敷かれたこの情報は、知っているものな
らば全て把握されているはずではなかったのか。総一郎が精神魔法
で割り出したのは最初の一人が知っていた人物だけではない。文字
1732
通り根こそぎ割り出して、記憶を消して回ったのだ。生徒だけでな
い。教官も、騎士補佐だって少数ながら含まれていた。
そもそも、何故、誰もカーシー先輩がこの情報を握っていると知
らなかった? 普通、一番に知らされてしかるべき人物なのではな
いのか?
﹁⋮⋮違う、カバリストだ﹂
これは、奴らの狙いだったのだ。考えながら一旦、学校を出る。
風魔法で校舎の屋上に上がり、そのまま索敵を広げた。見つける。
次いでカバラで最も効果的な敵の無力化方法を割出そうとした。
その瞬間、幻視が総一郎を襲った。今朝がた殺し尽くしたはずの
化け物が、狂的な憎しみをもって襲い来る幻が。
﹁ぐ、ぐぁっ、⋮⋮っ﹂
体が、揺らぐ。魔法の制御をしくじって、総一郎は墜落し始めた。
ギリギリのところで衝撃を消して着地する。だが、容易に立ち上が
れなかった。光魔法も、すでに効力を失っている。
視界には、二種類の映像。目に映るそれ。そして、化け物に食い
千切られるそれ。総一郎は、歯を食いしばりながら足を出す。
1733
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵8︶
声が聞こえた。内容は分からない。化け物の吠える声が、何もか
もを掻き消してしまう。
﹁そうか、君、声を発せたのか﹂
益体もない事を口走りながら、耐えかねて壁に寄り掛かった。頭
に手を当てる。頭痛が、激しい。荒い息を、無理に整えた。少し落
ち着きが戻って、強く目を瞑る。
すると、幻覚がわずかに遠くなった。現実が、その分近づく。た
だ声であると思っていたものの片方が、ローレルであると理解でき
た。
そして、確かにあるもう一つの声。カーシー・エァルドレッド。
総一郎を、きっとこの世で最も憎む人物。
何をしているのか、想像に難くなかった。だが、彼はその一方で
理性手の人でもあった。人間を殺すという事は、恐らくだがないは
ずだ。殴る、蹴るの暴行は、想定内だった。
しかし、ローレルの声は断続的なものではない。内容はうまく聞
き取れなかったが、今はまだ会話の余地があると踏んでいた。化け
物が、咆哮を上げる。五月蝿いと頭の中で怒鳴った。反抗するよう
に、声が高くなる。
﹁⋮⋮。︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹂
1734
精神魔法の呪文を唱え、頭に手を当てる。化け物はそれでも居な
くならない。ただ、少し考え事がしやすくなった。
ひとまず、様子を見ておかなければならない。それだけ思って、
覗き見た。ローレルの周りを衛星のようにぐるぐると回るエァルド
レッド。そして、腕を大剣で貫かれ、地面にくぎ付けになって突っ
伏すローレル。
﹁⋮⋮ぇ﹂
あまりに鮮烈な血の色が、総一郎の目を焼いた。声を失う。逆に、
空っぽになった総一郎の頭の中で、エァルドレッドの声が反響し始
める。
﹁君は、中々我慢強いな。おれなら、とっくに話してしまっている
ところだ。いっそのこと、その腕を切り落としてしまった方がいい
のか。失血多量で死ぬとなれば、君もなりふり構っていられないだ
ろう。シルヴェスターさん?﹂
﹁うぅ、うううううぅぅぅぅぅぅぅううう⋮⋮⋮⋮!﹂
会話を交わしていると思っていたのは、全くの間違いだと総一郎
は知った。奴が話しかけ、ローレルが痛みに呻いているに過ぎない。
彼女の姿は、酷く痛ましかった。顔の一部が青く染まり、ボロボ
ロになった服の端々から痣やぽつぽつと出血の痕がのぞいている。
特に、大剣で貫かれている腕が酷かった。傷口からは致死量に達し
ないまでも多量の血が流れだし、震える全身から取り残されたよう
にその腕だけが動かない。白い肌の内そこだけが本当に真っ白で、
1735
真っ赤だった。
総一郎は、咄嗟に動くことが出来なかった。火の鳥はどうしたの
だと考え、エァルドレッドを見て愚考だったと気付く。ローレルの
限界にまで開かれた瞳が、少年の目を縫い付けた。滂沱のごとく流
れる珠の涙。その視線は、地面のどこかを指して決して動こうとし
ない。
呻きと、荒い息をとぎれとぎれに繰り返している。呻きをすれば
息が苦しくなり、呼吸にのみ集中するには、痛みが強すぎたのだろ
う。痛みを紛らわすだけの代替行為。怖れでも何でもなく、それだ
けの為にローレルは泣いていた。
その中で、掠れるような声が、呼吸に紛れて聞こえた。
﹁うぅぅぅうう、ハァーッ、ハァーッ、⋮⋮ー。ソー。ソー⋮⋮!
う、うぅぅうう⋮⋮!﹂
﹁ロー、レル。違うんだ。僕は、そんな、そんなつもりじゃ﹂
化け物の幻影に惑わされ、碌に働かない頭は意味のない弁明を総
一郎にさせた。ただ、彼女と自分の最も幸せな道を進んだつもりだ
った。朦朧とし始める総一郎。それを吹き飛ばしたのは、皮肉にも
エァルドレッドの怒声だった。
﹁そんなッ、甘える様な声で奴の名を呼ぶなッ! 貴様はそれでも
騎士候補生の端くれかッ!﹂
エァルドレッドの蹴りが、ローレルに炸裂する。少女は転げ、腕
の剣に引っかかった。その所為で、肉が裂ける。悲痛な、悲鳴が上
1736
がった。
﹁エァルドレッドぉぉぉぉおおおおおおおッ!﹂
走り出す。そのまま、木刀を袋から取り出した。総一郎は、奴に
打ちかかる。その寸前で、奴はローレルから大剣を抜き取った。振
り向く。総一郎を正面に構える。その顔には、狂った笑みがあった。
寸でのところで立ち止まる。怯みが、更に総一郎を後退させた。
敵の得物の肥大化。幻が、総一郎を貫く。だが、実際には紙一重だ。
好機と取って、反転し突きを放つ。そこで、押さえつけていた化け
物の怨念がよみがえった。
﹁ぐぁ、が、っ⋮⋮!﹂
足腰が砕け、地面に両手をついた。あまりに頭痛、幻痛が激しく
て、総一郎はただ頭に手を当てて震えるばかりだった。幻だと、分
かっているのだ。しかし、頭痛が意識をもうろうとさせ、ふとした
瞬間に幻であることを忘れさせる。その度に、呑み込まれかけた。
﹁ふ、ふふ、はははははははは! 流石、情報は確かだったな! こうすれば、我を忘れて飛び掛かってくる。全く、本当に﹃天才﹄
だよ、あいつは!﹂
誰のことを言っているのか、咄嗟に分からなかった。それだけ、
総一郎は幻視に惑わされていた。見上げると、かつてからは想像で
きなかったほど下卑た笑みが、少年を見下ろしている。睨み付ける
と、嘲笑と共に蹴りが来た。普通ならこんな体勢でも十分避けるこ
とのできた攻撃。総一郎は腹筋を締めることさえできずにもらい、
絶息する。
1737
﹁みじめだな、ブシガイト。あれだけ強かったお前が、何が原因か
は知らないがそこまで弱るとは。ほら、避けて見ろ。ほら、ほら﹂
嘲笑われ、蹴りつけられる。それは、去年と同じだ。トラウマが、
脳裏に去来する。
思い返せば、総一郎は虐げられてばかりだ。騎士学園に入ってか
ら亜人として迫害され、それを克服すればカバリストたちの影がち
らつき始め、少し核心に迫れそうになった途端、ナイが総一郎に化
け物の悪夢を植え付け、そして、今も総一郎は足蹴にされている。
悪夢と、悪しき記憶の二重苦。屈辱が、総一郎の心を濁らせる。
蹴りつけてくるエァルドレッドが、ギルと被った。憎しみが、恐怖
に変わる。恐怖に変わり、また、憎悪へと流転した。
﹁ほら、ほらッ! 苦しいか!? 先生はな! もっと苦しかった
だろうよ! 口を木剣で貫かれて! そのまま脳まで貫通したんだ
! ほら、ほらッ! 苦しめ! 喚けよ! お前が! お前がぁッ
!﹂
愉悦は、いつしか憎悪に変わっていた。彼もまた、総一郎を憎ん
でいるのだ。同一。彼と自分との間に、一体どれほどの違いがある
だろう。彼もまた、修羅になろうとしているのだ。腕に異形がなく
とも、己の中の獣に、自らを食い荒らさせている。
﹁ソー⋮⋮。止めて、ください。私は、どうなってもいいから。ソ
ーは、ソー、だけは⋮⋮!﹂
ある時、総一郎を蹴り続ける足が止まった。もはや化け物の荒ぶ
1738
る姿のみを映す視界が、瞬間、現実の情報を総一郎に伝える。ロー
レル。涙で顔をボロボロにした少女は、その華奢な手をもってエァ
ルドレッドの足を掴んでいる。
﹁邪魔をするな! お前はもう用済みなんだよ!﹂
﹁止めて⋮⋮! お願いだから、止めてください⋮⋮! あの時先
に手を出したのは、ブレナン先生だったでしょう⋮⋮!? ソーは
⋮⋮、ソーは、自分の身を守っただけです!﹂
ローレルの語気が、少しずつ上がっていく。やはり、逆境にこそ
強い子なのだと、総一郎は微笑した。﹁クソがッ!﹂と悪鬼が如く
表情をゆがませて毒づいた。剣の切っ先を、彼女に向ける。
﹁そんなに殺してほしいならそうしてやる! ⋮⋮そうだ。そうじ
ゃないか。お前は、ブシガイトの目の前で殺して、俺と同じ苦しみ
を味わわせてやるんだったな⋮⋮!﹂
小さく、ローレルは、息を呑んだ。次いで、少し総一郎に視線を
やる。目が、あった。
︱︱時が、止まったような錯覚を覚えた。
総一郎は、ローレルに謝罪の言葉すら満足に言えなかった。
巻き込まないようにと、手回しをしていたことを伝えたかった。で
も、それは言い訳になると思ったから、言えなかった。
1739
ローレルはその永遠にも似た一瞬を、総一郎を見つめることだけ
に費やした。
まるで、目に焼き付けようとしているみたいだった。永遠が解ける。
それが、分かった。
そして少女は微笑みを浮かべる。それが、彼女の意志の全てだっ
た。
剣が、振り下ろされる。ローレルは、口を音もなく動かし始めた。
カバラは、魔法よりももっと世界の理に近い技術だ。根幹と言って
もいい。故に、煩雑な処理を経れば、魔法さえ自作出来た。
ローレルが紡ぐ呪文は、毒魔法だ。彼女の返り血を浴びたものだ
けを殺す、致死性の毒だ。あと、数瞬もしないで呪文は終わる。魔
法が完成すれば、エァルドレッドの大剣の有無にかかわらず少女は
死ぬだろう。
また、失うのか。総一郎は、自問した。失ってばかりだと、自分
が歩んできた道を振り返る。家族。友人。人間らしさ。それと引き
換えるように、力ばかり得てきた。
力とは、何だ? 大切なものを守るために、あるものではないの
か。これだけ積み上げても、ローレルひとり守れないのか。
ふざけるな。
殺してやる。
1740
﹁おい、そんなクソ女殺したところで僕が傷つくとでも思うのか?﹂
﹁⋮⋮何?﹂
ぴた、と剣が止まる。安堵は、顔に出さない。ただ、憎たらしい
顔をして、悪ぶるだけでいい。まず、矛先をこちらに向けなければ。
総一郎は、演技をする。ローレルがアナグラムを読み切れなくて、
不安になるほどの演技を。ナイさえ騙してしまうほどの演技を。
﹁だから、そんな無駄な事をして楽しいか? と聞いている。それ
をして僕が吠え面を掻かなければ、お笑い草だな。勘違いで僕とま
ったく同じことをするわけだ。君、そうすると、もしかして亜人な
のか? 少なくとも、中身は亜人以下だろう﹂
﹁何、だと⋮⋮!﹂
エァルドレッドは、顔を真っ赤にして総一郎に向き直った。カバ
ラで、読み取る。その頭の中に、もはやローレルのことなど微塵も
ない。本物のお笑い草だ。鳥頭である。
﹁いいかい? 君がすべきだったのは、速やかに僕を殺すことだっ
た。確かに先ほどまで、本当に衰弱していたのだからね。だが、今
はこれだけ饒舌に囀れるほど元気いっぱいだ。機を逃したよ。残念
だね、カーシー先輩?﹂
﹁⋮⋮と言う割には、立ち上がれていないじゃないか。ブシガイト。
余裕ぶっていても、それでは意味がないなぁ?﹂
﹁⋮⋮﹂
1741
ほんの僅かに、顔を歪めるだけでよかった。それに奴は喜んで飛
び付き、罠だと気づきもしない。
﹁なら、お前の言うとおり、さっさと殺してしまおうか!﹂
大剣。振り下ろされる。頭痛も幻覚もやまない。体に力も入らな
い。先ほどと、何も状況は変わらない。︱︱けれど総一郎は、それ
でも動いた。
体を、回転させる。左手で、大剣の軌道を無理にずらした。刃先
を握ったために指関節から血が出る。気にすることではない。その
ままの勢いで起き上がり、その鼻っ面に肘で一発叩きいれた。鼻血
を出して、エァルドレッドは悶絶する。そこに、追撃で木刀。
しかし、敵もプロだ。一息に畳み込まれても、復帰するだけの実
力を持っていた。大きく後ろに跳躍し、改めて大剣を握りなおす。
そして、大声で声を放つ。
﹁﹃神よ! この剣に聖なる雷を﹂
﹁今更聖神法なんかで倒される訳がないだろうが﹂
木刀を軌道修正し、奴の大剣の横を叩く。聖神法が掻き消され、
エァルドレッドは真っ白になった。踏込み、喉を突く。呼吸が出来
なくなったところを風魔法で無理やり浮かせた。
﹁や、止めろ⋮⋮っ! 放せ、何だ、これは。くそ、亜人め。殺す、
殺して⋮⋮!﹂
1742
﹁五月蝿いったらありゃしないな。今際の際くらい大人しくできな
いものか。しかし、⋮⋮ふむ﹂
憎き敵を、煮るなり焼くなりできる現状を顧みて、総一郎は今ま
で封じ込めてきた意地の悪い憎悪を脳内で渦巻かせていた。にたり
と笑いながら、奴を見る。恐怖に彩られたその顔。三秒考えて、﹁
ねぇ﹂と宙に浮く彼に問う。
﹁人間、一番きついのは焼死っていうけど。それで言うと血が沸騰
するのはどのあたりに相当するんだろうね? 科学の実験みたいな
ものだ。実演して見せてくれよ﹂
﹁ひっ、や、止めッ!﹂
怯える奴に、誰も聞こえないような暗く低い呟きを漏らす。
﹁⋮⋮ローレルに遭わせた痛みを百倍にして返す。それだけの事だ
ろうが﹂
そして総一郎は、呪文を紡ぐ。
カバラにて、即興で作り上げた羅列。いくつかの魔法を併用する
ことになったが、詳しい事は全く頭に残らなかった。ただ呪文を唱
え、奴に手をかざすだけ。それだけで、奴の血は沸騰した。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ッ
!﹂
この世の物とは思えない絶叫。エァルドレッドの断末魔の叫びは、
凄惨さの半面総一郎を急激に冷めさせていった。最後に破裂し、血
1743
と臓物をまき散らせる。風魔法で、返り血を防いだ。
﹁⋮⋮汚いだけの、見世物だったな﹂
感慨は、ない。前世、幼い頃。蟻の足をもいで、遊んだことがあ
った。特に楽しいとも思わない行動。少しやって、すぐに飽きて、
友達を誘って他の遊びをした。
あの頃は、何も思わなかった。今は、違う。意味もなく無残な事
をしてしまったと、後悔しか残らない。右手を見る。せめてこの手
を使っていたら、マシだったろうに。
虚しい。自らの手による惨殺死体を見た総一郎の感想は、それだ
けだ。
﹁⋮⋮ソー⋮⋮﹂
ローレルの声、振り返る。彼女は、畏怖とも愛情とも悲愴ともつ
かない顔で、総一郎に歩み寄ってくる。ちょうどいい、と思って、
演技を続けた。
﹁さっき、言わなかったかな? 正直、君の事はあまり好きじゃな
かったんだよね。まぁ、多少は役得があったけどさ。そのために媚
を売り続けるほど僕は暇じゃ﹂
﹁ソー、だから、忘れてますって。⋮⋮私は、カバリストですよ⋮
⋮?﹂
泣く寸前のような顔で、彼女は笑った。総一郎は数秒だまって、
﹁そうだったね﹂と足を延ばす。
1744
腕の刺し傷。体中の痣。それだけで済んだ。そう考えれば、それ
なりに間に合った方だろう。生物魔術の治療で、傷をさりげなく撫
でていく。肉体の欠損が無いから治癒はすぐだ。痛みが消えたのが
分かったのか、ローレルは不思議そうな顔をした。優しく抱き留め
る。強く抱きしめられた。
﹁ごめん、ローレル。僕は、僕は⋮⋮﹂
﹁いいですよ。何も言わなくても、分かってます。だから、⋮⋮代
わりに、強く、抱きしめてください⋮⋮っ﹂
不安げな彼女を、言うとおりに抱きしめる。力を込めるほどに実
感した。彼女に小ささ、その未熟さ。ローレルは顔を総一郎に押し
付けて、肩を震わせ始めた。胸元が、湿る。水滴が、総一郎の制服
を汚していく。
﹁ローレル⋮⋮﹂
総一郎は、微笑む。手を、無防備な彼女の頭に持っていく。
﹁愛してるよ、ローレル﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁僕は、誰よりもローレルを愛してる﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
左手で、彼女の頭を強く寄せる。今だけは誰にも取られないよう
1745
に、逃げられないように。
けれどもう、お別れの時間だ。
﹁ずっと、僕は君を忘れない。そして、︱︱辛い思いをするのは僕
だけでいい。僕は黙っていても過酷の運命を歩まなければならない
から。⋮⋮君は違うんだ。ただ、男運がなかっただけ。そういう意
味では、僕は世界最悪のダメ男みたいだね﹂
﹁えっ、⋮⋮ソー? 止めてくださ﹂
﹁忘れないよ。傷は、ずっと僕一人で抱えていくから﹂
総一郎の手から離れ、小さな紫電がローレルの頭蓋を通り抜けて
いく。
ぐったりと、彼女から力が抜けていった。だが、未練が容易な行
動を許さなかった。惜しむようにその額にキスをして、やっと踏ん
切りをつける。
総一郎が悔いるべきは、たった一つだ。ローレルと別れた後、す
ぐにでも行動を起こすべきだった。あの、風邪にも似た酷い倦怠感
を押しのけてでも、昨晩の内に全てを終わらせておくべきだった。
そうすれば、陰から見守っていてやることだってかなっただろう。
周囲を真っ赤に染めたもの。それらからローレルを遠ざけて横た
わらせた。もはや、この愛しい少女の中に総一郎は存在しない。目
を覚ましたら、きっと彼女は怯えの色を総一郎に見せつける。
そんな未来予想が、少年の未練を断ち切った。優しく彼女の髪を
1746
撫でながら、水魔法、風魔法、雷魔法の三つを駆使して周囲を洗浄
する。ローレルの記憶が、ずっときれいで在れるように。
﹁じゃあね、ローレル。もう、二度と会う事はないと思うけれど﹂
別れが、総一郎に涙を流させた。左目からは、ローレルの愛が解
きほぐしてくれた純粋な滴を。右目からは、涙腺の枯れた代償とし
て血の珠を。
異なる世界が、混同している。右目は依然として化け物の幻影を
映し続けていた。反面、左目は美しい彼女を鮮明に総一郎に伝えて
くれる。
立ち上がった。踵を返した。涙は止まり、血は乾燥して跡を残し
た。拭う。そして、歩き出す。
様々な違和感のために、総一郎はまっすぐに歩けなかった。何処
か、体が歪んでいる。心もだ、と思った。殺したくないと祈りなが
ら、これ以上ない凄惨な殺人をした。人殺し。背反する心理と行動
が、総一郎の根幹を揺るがし始めている。
﹁⋮⋮ああ、もう、疲れてしまったな。このまま、誰か殺してくれ
はしないかな﹂
このままで居ても、総一郎はカバリストに理由も分からず利用さ
れ続けるままだ。そうして、過酷な運命の真っただ中で生きていく。
それならばいっそ、死にたかった。死すべきだとも思った。
総一郎は、臆病者だ。だから、自殺はきっと出来ない。怖気づい
て、逃げるだけだ。しかし、信じられないほどの人間を殺してしま
1747
った。死すべき殺人鬼。これほどあからさまな、殺したらヒーロー
になれそうな敵役もいないだろう。誰か、闇雲な正義感に駆られる
誰か。僕を、殺してはくれないか。
﹁︱︱馬鹿馬鹿しい。僕を殺せる人間が、この国に一体何人いる?﹂
頭痛が、酷い。化け物もうるさくて、右目をつぶした。少しだけ、
楽になる。しかし、すぐに治癒した。化け物が、眼前に居る。
﹁ものは、考えようだな。この分じゃあ、右脳潰されても僕は生き
てるんじゃないか?﹂
﹁そんなに殺してほしい? 総一郎君?﹂
振り返る。そこには、ナイが立っていた。いつか、総一郎が買っ
てやった髪飾りをしている。服装も、いつもより気合が入っている
ように感じた。
﹁随分と、可愛らしい服装だね、ナイ。もしかして、僕を殺すため
に気張ってきてくれたの?﹂
﹁お洒落してきたのは今日が晴れ舞台だからで、残念なことに、君
を殺すためじゃないんだよね。⋮⋮でも、そんなに死にたいなら場
所のセッティングくらいはしてあげる。総一郎君もきっと気に入る
はずだよ。本当に墓場とするのかどうかは、君に任せておくけれど﹂
あまり、機嫌は良さそうではなかった。深い瞳が、総一郎を探る
ように見つめている。一つ﹁ふぅん﹂と言ってから、無言で踵を返
してしまう。だが、背を総一郎に向けたまま、思い出すようにして
上半身だけこちらを向いた。
1748
﹁︱︱ああ、それと。君が今見ている幻覚。だんだん激しくなって
いってるでしょ?﹂
﹁うん。そろそろ、発狂しかねない程度には﹂
﹁そっか。ちなみにそれ、呑まれたら君脳が壊れて死ぬからね。等
比的に激しくなっていくものだから、いくら君とはいえタイムリミ
ットがあることは先に言っておくよ。じゃあ、バイバイ。総一郎君。
勝負に勝ったら、またすぐに会おうね?﹂
﹁じゃあね、ナイ。永遠に﹂
手を振って別れた。その時、気づく。時間が弄られていた。気づ
かないうちに、空は茜色に染まり、今はもう夜色だ。十番星くらい
までよく見える、良い夜である。
右目が移す色彩の狂った光景に辟易しながら、総一郎は歩く。あ
てどもなくうろついていると、騎士学園の表門近くに立っていた自
分を見出した。導かれているような感覚。そこで、気配を感じて視
線を向ける。
﹁⋮⋮ベル? ベルじゃないか﹂
何も考えずに、近寄っていった。彼女から数メートルほどの距離
で、気づかれる。すると、ベルは息を呑んだ。口元に手を運び、怯
えたような反応をする。
それに傷つくよりも先、総一郎は一抹の嘘くささを感じてしまう。
1749
﹁そ、ソウ⋮⋮? 何で、こんな所に。えっ、嘘。私は、何でこん
な﹂
何処か、混乱しているようだと思った。その時、総一郎はわずか
に濁った頭を働かせた。彼女が怯えている理由。それがアイルラン
ドクラスの騎士候補生たちの、総一郎の殺人の喧伝によるものであ
ると推理した。
彼女が後ずさった時、あまりに強い殺気が襲い来た。
﹁ソォオオイチロォォォォォォオオオオオ!﹂
剣。吠える声と共に、飛び掛かってくる。それをギリギリでいな
して、総一郎はファーガスと対峙した。木刀の剣先を向けて牽制す
る。思うように接近できない彼は、慟哭と言った風情で総一郎に向
けて怒鳴り散らす。
﹁何でだよ! ベルを殺す必要なんてねぇだろうが! お前が憎い
のは、他の騎士候補生だろ!? それとも、それすら分からなくな
っちまったのかよ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、ファーガスのその言葉よりすべてを理解した。ナイの
用意した﹃セッティング﹄。ここを死に場所とするか否か。総一郎
は、ナイらしいことだと思い、笑ったつもりだった。あまりに相応
しい選択。そして、あまりにむごい展開。
ファーガスにだけは、嫌われたくなかった。その一方で、相反す
る気持ちもあった。素直にそれを、独白する。
1750
﹁ファーガス。どうせ死ぬのなら、僕は君に殺されたい﹂
化け物の恐怖に脳を破壊などされたくない。得体のしれないカバ
リストどもの策略のさなかに謀殺されるなど真っ平だ。そういう意
味では、ナイに感謝してもいのかもしれない。
﹁決闘をしよう﹂
酷く小さなかすれ声で、総一郎は言った。木刀の切っ先が、ファ
ーガスに向く。夜は静かで、その小さな声さえ良く聞こえた。
ファーガスは、その様子に一筋の涙を流した。拭う。そして、武
器を構える。
﹁言われるまでもねぇ。俺が、お前を止めてやる。︱︱ソウイチロ
ウ﹂
﹃止めてやる﹄。その言葉が、総一郎の胸を強く打った。きっと、
この言葉をこそ求めていたのだ。ずっと、誰かに止めてほしかった。
そうなれば、きっと人間として死ねた。
今は、ギリギリだ。人間と修羅の、狭間に居る。だが、総一郎は
信じていた。ファーガスに殺される瞬間だけでも、自分が人間に戻
れることを。
だから、総一郎は微笑むのだ。
風が吹いた。死の闇に、歩み出した。
1751
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵9︶
着々と、視界の自由が失われていった。
化け物が、ほとんどを占めている。その反面で、耳が捉えるのは
ファーガスとの剣戟だった。激しい、斬り合い。苦戦させられてい
た。予想以上に、ファーガスは強かった。
彼は、剣も盾も量産品を使う。壊れても別にかまわない、という
スタイルは、敵にするとひどく厄介だった。ただ、物量としての威
力を強く意識した攻撃。一撃一撃の脅威は、平静よりも視界の狭い
総一郎には一際効果があった。
それが、総一郎には嬉しかった。
ファーガスとの手合わせ。何度かするたびに、彼は僅かずつ強く
なっていった。いずれ追い付かれると一時期焦ったものだ。今は、
ただ、我が子の成長のように嬉しい。
剣が、迫りくる音。それに反応して、総一郎は避けた。そして、
次の一手との間に突きを出して怯ませてみる。分かりやすく、風鳴
りが止まった。もう少し敵の様子を把握する訓練をしておけと、忠
告してやりたくなる。今は特に攻め時だろうに。
距離が、取られた。ぼんやりと、少し離れて立っている事が窺い
知れた。手加減の具合をどうしようかと考える。本気で戦っては、
ファーガスも持たないだろう。
1752
悠長に考えていると、再びファーガスが駆け寄ってきた。そして、
彼の陰がぶれる。それが投げつけてきた盾であると分かるよりも先、
とっさに避ける。
ついで、退路を断たれたことを知った。
一閃。避けきれない。当たった。だが、それは恐怖により肥大化
した幻影だ。
頬に、傷が出来た。つぅ、と伝う感触がある。一瞬、信じられな
かった。ここまでの実力を備えているとは、思わなかった。
﹁⋮⋮随分と、強くなったね﹂
笑いかける。ファーガスは、警戒を解くそぶりはない。それでい
いのだ。︱︱ああ、本当に強くなったね、ファーガス。
﹁ちょうど良かった。手加減はしたくなかったんだ。今の君なら、
魔法を使っても簡単には死なない﹂
風魔法。うねり出す。ファーガスは素早く重心を落として、硬く
剣を構えた。投げつけてきた盾も、すでに装備しなおしている。面
白い戦い方だ。とことん、武器を使い潰していくつもりらしい。
総一郎は、幻影に悩まされながらも楽しみ始めていた。ファーガ
スの、著しい進歩。肥大化した剣先。それは、総一郎が正真正銘怯
んだ証拠だ。天才と謳われたネルでさえ、そうはならなかった。か
つては手酷くやられたが、それでも総一郎に、命に届く一撃だと思
わせるものではなかった。
1753
魔法。カーシー・エァルドレッドは、これを使ったら敵ではなく
なった。ファーガスは、耐えてくれるだろうか?
﹁今度は、こちらから行くよ。ファーガス﹂
総一郎は言い放つ。自らを殺しうるかもしれない親友に向かって
笑みを浮かべながら、光魔法で姿を消した。
どのように仕掛けに行こうか、半ばワクワクしながら考えていた。
これはどうだ、と様々な手管で攻め入る。だが、彼はそれに怯むこ
となく総一郎に肉薄し、至近距離を保って居た。その効果は絶大だ。
総一郎自身を巻き込むため、ほとんどの魔法が使えなくなる。上手
い返しと、それを成し遂げる根性に、思わずやられたと心中で唸っ
てしまう。
そんな読み合いにふと、昔の事を思い出した。囲碁。よく、ファ
ーガスとやった。
陽だまりの縁側。ヒノキ製の足つき碁盤に向かい合う幼き日の二
人。タマが彼の頭の上に乗っていて、偶にシルフィードだったり天
狗だったりが覗きに来た。彼は、亜人に好かれた。総一郎に対して
加護を渋った河童でさえ、日本人でない事を惜しんでいたほどだ。
頭の中が、過去に戻る。緑鮮やかな夏。四季の中でも、日本の印
象は夏が一番強い。二度目にファーガスが訪れたのが、夏だった。
その時の中でも、将棋を打った時の記憶がよみがえった。彼に、
人食い鬼の事を詳しく尋ねられた時の事だ。
対戦相手の居ない状況下で、好敵手になることを期待していた。
1754
しかし結局、一局打ったきり飽きて、別の遊びをしようという事に
なった。案らしい案は浮かばず、確かテレビをつけたのだ。すると、
人食い鬼がまた幼稚園にて事件を起こしたというニュースがやって
いた。
困惑するファーガス解説をし終わってすぐに、救出成功の放送が
流れ、ファーガスは唖然と口を開けた。それでどういう事だと問い
詰められ、一通り、自分の経験談、被誘拐経験豊富な図書な話を持
ち出して、説明した。
するとどうだろう。ファーガスは酷く憤慨して、﹃人食い鬼など
皆殺しにしてしまえばいい﹄というようなことを言いだした。昔は、
総一郎も疑問に思ったことだ。種族的に天敵な彼らを、どうして日
本人は保護するのだろう、と。
それに、自分は何と答えたのだろう。自分でも、意外な言葉がそ
の時飛び出たのだ。ファーガスはぽかんと呆気にとられ、総一郎も
また同様に、自分の本音が知れて驚いた。
そう。確か、あの時︱︱このように言ったのだ。
﹃殺しちゃだめだよ。彼らだって、人間なんだから﹄
︱︱人間なものか、と今は思う。人間の皮を被った化け物が跳梁
跋扈するこの世の中だ。見るもおぞましい化け物の皮をかぶってい
るが、中身は善良な人間である者など、居てたまるものか。
反面、だがとも思うのだ。
1755
あの時、そのように言ったから。
ファーガスは今、憎しみ以外の感情をもって総一郎を止めに来て
くれたのではないのかと。
﹁ファァァァァァアアアガスゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウ
ウウウウウウゥゥゥ!﹂
﹁ソォォォォオオオオオイチロォォォォォォオオオオオオオオオオ
オオオオオオォォォ!﹂
互いに声高く名を呼びあった。押されてもいた。足首を半分以上
切り込まれ、体勢も尻もちなどという最悪のものだ。
総一郎は、駆けてくるファーガスを聞きつつ思う。本当に、強く
なったと。視界は化け物一色で、頭痛も激しく、走馬灯染みた物さ
え流れるような状況だったが、嬉しさは薄れなかった。そうして、
微笑むのだ。
ファーガスは、きっとカバラさえ破ってくれる。
﹁⋮⋮はっ?﹂
盾を投げられ、注意を逸らされ、トドメの一撃が迫りくるところ
だった。総一郎はただ、指を折り曲げただけだ。それだけで、アナ
グラムはそろった。ファーガスの剣は根元から折れて、地面を滑っ
ていく。安物でなければこんな事は起こらなかった。
﹁すまなかった、ファーガス。模擬戦と実戦を同じにしては駄目だ
1756
ね。君は、遥かに予想よりも強かった。魔法は十中八九使わないだ
ろうと思っていたのに、使ってまで僕は追い込まれた。近距離戦に
は向かないんだね、アレ。勉強になったよ。まさか自分を巻き込み
かねないから、ほとんど使えないとは⋮⋮﹂
言いながら、傷を治して立ち上がった。竦みを見せるファーガス
に、﹁生物魔術だよ﹂と告げると、彼は唖然と目を見開いていた。
しかし、諦めるなファーガス。もう少しだ。君の剣は、もう少しで
僕に届くから。
総一郎はもはや現世から遠ざかってしまった眼を精一杯光らせて、
ファーガスを威圧した。今自分にできる、全てを出し切って死にた
かった。そういえば、と思う。ナイの言う破滅は、今自分の求めて
いるものと同じなのではないか。
﹁⋮⋮ああ、なるほど﹂
口の中で、呟く。︱︱狂って、止まれなくなってしまった自分を、
信頼できる誰かに全力で止めてもらう。それは、あまりに贅沢な望
みだ。だというのに、実現しようとしている。ナイがそれを求めて
いた理由も、分かる気がした。
これが破滅だというのなら、悪くない。
﹁随分と余裕かましやがって。何だ? まだ奥の手は残ってるって
か? というか、もしかして今剣が壊れたの、ひょっとしてお前が
やったのか?﹂
﹁うん。そしてそれが奥の手だ。ただし、安心してくれ。これで打
ち止めだから。⋮⋮えっと﹂
1757
指を振って、空気を練った。アナグラムは、こんな所作でも読み
取れる。だが、あまりに迂遠なやり方だ。普通は使わない。それで
も使うのは、それ以外の手段がないからだ。
総一郎は、今、間違いなく全力を出している。そして、全力を出
し切った先で、ただどうしようもない敗北を迎えたかった。
時間をかけて読み切ったアナグラムに従って、ファーガスに向け
上段に構えた。頭上に、天を指すように木刀を掲げる。
﹁来いッ! ファーガス!﹂
最初は気を張って、数秒後に一瞬ほつれさせる。それでファーガ
スが良いように釣られる事は知っていた。顧みの無い一太刀を食ら
わせてくる彼に反転。紙一重で避け、三回の打撃を入れる。木刀で
は、人は容易に殺せない。
形成は、その一瞬の攻防で逆転した。
﹁⋮⋮やっぱり、﹃これ﹄は少し卑怯だったかな﹂
余裕ぶって言うが、総一郎にはもはや一刻の猶予もない。頭痛は
限界寸前にまで達し、一秒ごとに意識が切れかかる。その先に待つ
は、荒れ狂う悍ましき神の呪い。そうだ、あの化け物は神なのだ。
零落し、迷宮にて力を蓄え続ける神なのだ。
︱︱あと、一分。総一郎は、自らの限界を知った。あと一分だか
ら、耐えきってくれとファーガスにエールを送る。そして自分にも、
あと一分で苦しみは終わるのだと慰めを囁いた。
1758
睨み合う。膠着。しかし、すぐに機は来る。そこで、望むべき未
来が訪れるのだ。もだえ苦しむほどの痛み、心が壊れそうなほどの
恐怖。その中で、成長したファーガスの強さが、その安っぽい銀色
の剣が、かつての和やかで例えようもない幸せな記憶が、友情が、
輝いていた。
総一郎は、薄く相好を崩す。
そこで、アナグラムが狂った。
﹁⋮⋮え﹂
空気の手触り。それが、一瞬でねとつく気味の悪い物に変貌する。
何が起こったのか、なかなか理解できないでいた。そして、総一郎
はファーガスの声を聴く。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹂
全てを、理解した。
駆け出す。だが、距離が距離だ。風魔法の展開すら間に合わない。
﹃その魔術﹄は、二秒もかけずに発動する。止めてくれ、ファーガ
ス。それは、それだけは駄目なんだ。ああ、ああああああああああ
あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⋮⋮︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
全身に走る痛痒。全身に水ぶくれができ、歩くたびに足のそれが
潰れて、立ち続けることが出来なかった。倒れると、濡れ雑巾の落
ちるような音。体を覆う血豆が一斉に破裂し、総一郎を不能にした。
1759
﹃破壊﹄。この魔術は、そんな名前だった。
ナイや、邪神を信じる愚かしき者どもにしか、知るはずのない魔
術だった。
﹁︵ファーガス、ファーガス⋮⋮!︶﹂
言葉にしようにも、声が出ない。ただ、体中に走る激痛に身を悶
えさせる。ファーガスは総一郎の無残な姿に恐れを抱いたのか、衝
撃に揺れた、か弱い声で呟いた。
﹁⋮⋮ごめん。ごめんな、ソウイチロウ⋮⋮。ちゃんと、殺してや
れなくて。俺が、お前を止められるほど強くなかったから⋮⋮!﹂
それは、総一郎にとって死刑宣告のようなものだった。
ファーガスの屈服。それは、総一郎に対してのみではない。彼は、
きっと﹃ナイ﹄にも屈服したのだ。ナイが勝負だのと言っていた理
由が、ようやく分かった。これは、勝負だった。決闘だった。﹃ナ
イ﹄が選んだ﹃祝福されし子供たち﹄を戦わせ合う、悪趣味な見世
物だった。
勝敗は、決してしまったのだ。もはや総一郎に死の選択肢はない。
破滅に身を任せることなど、出来ない。
ファーガスは、ベルと抱き合って泣いているようだった。総一郎
は、痛みが消えたのを確認して立ち上がる。息を殺して、近づいた。
泣きじゃくる声は高く、きっと多少音を立てても気づかないのだろ
う。
1760
だから、気づかせてやることにした。ファーガスが選んだ道が、
どれだけ愚かしい物だったのかを知らせてやるために。
﹁⋮⋮五月蝿いんだよ、お前。しばらく黙ってろよ﹂
まず頭に、手を当てる。激しく、放電した。総一郎の脳を傷つけ
る物を精神魔法で退けて、化け物だけを焼き殺す。神は生き返るも
のだが、これでしばらくはもつはずだ。
それで、幻覚は消えた。最初から、こうすればよかったと思った。
視界が、自由になっている。少し離れた場所に、二人が抱き合って
泣いている。
﹁⋮⋮ファーガス、僕は﹂
呪文。所作。心の中で唱え、行った。そして、深淵の息吹を彼に
届ける。ファーガスは、肺のみを奪われて、海水に引きずり込まれ
た。両手を地につき、海水を吐き出している。これが、君の選んだ
道なのだ、ファーガス。
ベルが、彼の身を案じて叫んでいた。痛ましい光景だ。総一郎は
もはや何を恐れることもなく、大きな声で彼に迫る。
﹁﹃破壊﹄と言う魔術は、見た目は派手だけれど相手にダメージを
与えるものでは決してないんだ﹂
ファーガスの動きが、ぴたと止まる。ベルがこちらを向いて、﹁
ひっ﹂と声を呑む。
﹁ただ、相手の機能を一時的に破壊する。痛みを起こす手錠をかけ
1761
るようなもので、しかも数十分もすれば解けてしまう。僕を殺すん
だったら、この上でとどめを刺さねばならなかった﹂
そう、そうすれば、こんな事にはならなかった。ファーガスが﹃
ナイ﹄を利用しただけならば、こんな意趣返しをする必要もなかっ
た。
﹁だけど、これはそれ以前の問題だ。何故、君がこの呪文を知って
いる? ⋮⋮答えは一つだ。ファーガス。君が、禁じ手を使ってし
まったことに他ならない﹂
邪な神々の御業。それ自体を否定するのではない。その歪な魔術
に﹃使われること﹄がいけないのだ。
ファーガスは、こちらを向く。そこに見える感情は、怯え、怖れ、
後悔。
﹁ファーガス。僕は、君に殺されたかったんだ。あんな奴らに騙さ
れて死んでいく運命の君に︱︱君の死体に、殺されたかったわけじ
ゃない﹂
木刀を振りおろし、総一郎は親友の命を奪う。確かな手ごたえ。
陥没したその頭蓋。
英雄と呼ぶにはあまりにみすぼらしく、ファーガスは死んだ。
﹁⋮⋮あ、ああ、あああああああぁぁぁあああああああ!﹂
ベルが、顔を覆って叫び声を上げた。亡骸を抱きしめて、その名
を呼ぶ。もはや、彼はこの世に居ない。総一郎は、その光景を黙っ
1762
て見つめ続ける。
満月が、真上にあった。月。ルナ。月は人を狂わせるという。と
もすれば、この惨状は全て月の所為なのかもしれなかった。
﹁何で、何でファーガスは、死ななくちゃならなかったの⋮⋮? 何で、何で⋮⋮﹂
ベルの、悲しき声。総一郎は、無感動な声で答える。
﹁僕が憎いなら、君が僕を殺すと良い。ファーガスの時のように抵
抗する気が、もう起きないんだ﹂
﹁君を殺して、ファーガスが戻ってくるの⋮⋮?﹂
﹁︱︱そう、だね。ごもっともだ﹂
ベルは、ファーガスを抱きしめて泣いているばかりだ。その姿を、
悲しく見続ける。だが、ふとした瞬間に疑問に思うのだ。
今の返答は、どういう意味だ。
憎いと、思わないはずがないのだ。ベルにとって、総一郎は仇だ。
愛しき恋人の仇。立ち番が逆転し、ローレルが総一郎の亡骸を抱き
しめて泣いているのだとしたら、きっと彼女は是が非でもファーガ
スを殺そうとしただろう。ローレルを甚振られた総一郎だから分か
る。愛しき人を殺すものは、自分を殺すものよりも憎いのだ。
しかし、今の返答は何だ? 憎しみは何も生まないなどという言
葉を、人間が吐けるわけがない。
1763
総一郎は、足場の揺るぐような錯覚に襲われた。ベルを、見つめ
る。すると、彼女はこちらを何気ない視線で見返してくる。
﹁⋮⋮何? どうしたの?﹂
友人に対する態度。普通で、それ故異常だった。戦慄と共に、総
一郎は尋ねる。
﹁⋮⋮ねぇ、ベル。君はさっき、僕を殺してもファーガスは帰って
こないから、殺さないと言ったんだよね?﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁じゃあ、ファーガスと戦っている僕を殺せば、それで良かったん
じゃないのか? 普通、何の援護もしないなんておかしい。騎士候
補生はみんな、常に武器を携帯してるんだから。君は、そうすべき
じゃなかったのか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あっ﹂
その小さな驚きが、総一郎を激昂させた。
﹁クリスタベル・アデラ・ダスティンッ!﹂
右腕を伸ばし、彼女の襟首を掴む。身を躱され、距離を取られか
けた。だが、許さない。右腕は修羅の腕だ。伸ばせば、十分に捕ま
えられる。
1764
﹁う、嘘、何で腕が伸び﹂
﹁黙れ。余計な事をしゃべるんじゃない﹂
引き寄せる。強く掴み、逃げられないようにする。
﹁何故、僕をあの時殺さなかった。君なら、殺せただろう。ファー
ガスが、知恵を絞って僕の好きにさせないようにして、あれだけ頑
張って見せたんだ。君ほど強ければ、僕を殺せたはずだ﹂
﹁そっ、そんな事、出来る訳がないじゃないか! 君はこの学園で
一番強くて、私たちの友人で⋮⋮!﹂
﹁友人と恋人が殺しあってるんだぞ! 友人なんかのために、君は
誰よりも好きな人の事を見殺しにするのか! 何で、僕を殺さない
んだよ! だって、だって、なぁ⋮⋮?﹂
アナグラムが、激しく入り交じり合う。精神魔法でそれらを制御
し、統制し、組み替えていく。そして、最も救い様のない結論が、
総一郎を打ちのめすのだ。
﹁ベル、君は、万全の状態の僕よりも強いじゃないか⋮⋮?﹂
その言葉に、少女は激しく動揺した。それは、彼女が生涯隠して
いくべき秘密であるようだった。彼女は、総一郎のようにドラゴン
には勝てない。だがドラゴンに殺されることもなく、そして総一郎
を殺すことが出来た。途轍もない、強さ。ファーガスとの馴れ初め
を機に、隠すことを決めたその秘密。
彼女を掴む力を弱めると、ベルはそのまま脱力し、地面に座り込
1765
んだ。自室呆然として、俯いている。自らの秘密のためにファーガ
スを見殺した少女。総一郎は、侮蔑をもって事実を告げる。
﹁ファーガスは、君の所為で死んだんだ。邪神の誘いに気付いてい
ても手を出さず、僕との一騎打ちにも手を出さなかったから、ファ
ーガスは無力に死んでいくしかなかった。チャンスは、あっただろ
うが。僕とファーガスが戦っていた十分近く、君は一瞬でも覚悟を
決めれば、いつだって僕を殺せただろうが!?﹂
弓を引き、放す。聖神法も何もかかっていない矢で、きっと総一
郎を殺された。そのアナグラムも、読めなかっただろう。ほとんど
盲目で、疲労して立ち止まることも多かった総一郎など、いい的だ。
あとは、外さないだけでいい。ベルが、外す訳が無い。
怒鳴りつける。だが、それ以上の事は出来なかった。カバラでそ
の全貌を暴いて、初めて分かったのだ。ベルの、その並外れた強靭
さを。今この瞬間でさえ、彼女は、総一郎を殺せる。自分の身が危
険になれば、流石に彼女も動き出すだろう。
総一郎の怯えは、敵の武器を肥大化させて目に映す。ベルは打ち
ひしがれて泣いていても、その体から漏れ出る凄味が、彼女の周囲
を禍々しく歪ませていた。
忘我の時間の中、ねぇ、と彼女は言う。
﹁私はね、ファーガスのために、隠すことにしたんだ。ファーガス
が私の為に強くなるって言ってくれたことが、堪らなく嬉しかった
から。オーガに襲われて、数日間声も出せなくなったなんて嘘。助
け出されて、ご飯食べて一眠りして、起きたら悔しくって弓矢を持
って外に飛び出したの。その山のオーガ、全滅させるまで気が済ま
1766
なかった。でも、終わってから気が付いた。そんな野蛮な女の子、
誰も好きになってくれないって。ファーガスが私を好きになってく
れたのだって、私が淑女の身振りを覚え始めたから。それまでは、
強くなる意味としての扱いしか受けなかった。男友達くらいの、雑
な対応しかしてくれなかった。決して好きな女の子に対する物じゃ
なかった﹂
彼女は、震える。もう一度、﹁ねぇ﹂と言う。
﹁私は、どうするべきだったのかな。ファーガスに嫌われてでも、
ファーガスを助けるべきだったのかな﹂
﹁僕は、そうした。ローレルが幸せになるために、ローレルの記憶
も、彼女が僕と一緒にいたことを知る人間の記憶も、すべて消した。
僕の幸せなんていらなかったから。ローレルが普通に生きてくれさ
えすれば、それで良かったから﹂
﹁⋮⋮そっか。そうだよね。そうすれば、良かったんだ﹂
ベルは、顔を上げる。その表情を見て、総一郎は凍りつく。
﹁じゃあ、これからはそうするよ。助言、ありがとう。ソウ﹂
彼女はファーガスの亡骸を担いで、再び学園に歩き去って行った。
総一郎はその姿を、目を剥いて見届けた。彼女の姿が消えてから、
息を吐ける。
﹁⋮⋮修羅﹂
カーシー・エァルドレッドなど、その名に冠する事も相応しくな
1767
かったのだ。クリスタベル・アデラ・ダスティン。彼女こそ、本物
だ。
ふらりと、総一郎は歩き出した。門の外。ファーガスを殺したか
らには、もはやこの場にとどまることは何の意味も生まない。ロー
レルの安全も確保した。公式の手続きを踏めていないが、そんなこ
とを言っている場合ではなかったのだ。
立派な、門。夜深い今では、魔境の門であった事がことさら強調
されて見えた。その先に、何者かが立っていた。身を凝らす。総一
郎は、震えた。
﹁⋮⋮お待ちしておりました、救世主様﹂
恭しく、腰を折る少年。ギルバート・ダリル・グレアム二世。総
一郎は、思い出す。消されていたはずの記憶を。堪らず叫び、駆け
出した。
1768
9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ︵10︶
﹁ギルバートォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ
!﹂
風魔法。カバラ。何もかもを用いて、奴が逃れるのを阻止した。
そして、それが功を奏す。拳が、届いた。顎。脳を揺らし、その腹
部に膝蹴りを食らわせた。嘔吐。汚れを嫌って、総一郎は距離を取
る。だが、攻め手を休めはしない。木刀で、喉を突く。その額を叩
きのめす。彼は暴力による極限の苦しみの中、胎児のように丸まっ
て動けないでいた。見苦しく震えている。その頭に、踏みつぶすよ
うに足を乗せる。
﹁聞かせてもらおうか、何もかも。無理やりにでも、話させるぞ。
その後は、気分次第だ﹂
﹁その話ならば、私がさせて頂きましょう﹂
﹁⋮⋮ワイルドウッド先生?﹂
怪訝な目で睨み付ける。すぐに、理解した。彼も、カバリストな
のだ。悪逆卑劣な、陰で蠢く者ども。
﹁へぇ、貴方も、そうだったんですか。とすると、僕がこの学園に
来るところから仕組まれていたって訳みたいだな?﹂
一瞬礼儀を払いかけたが、思い直した。こいつらはクズだ。そん
な価値はない。
1769
その上、奴らは何ゆえか知らないが、総一郎に最上級の敬意を払
っているらしかった。訳が分からないが、今は放置しておくに限る。
そう思っていたところに来た、唐突な否定だった。
﹁いいえ、救世主様。貴方様が生まれ落ちるよりも百何十年前より、
この事は決まっておりました。そして、仕組んでいたというならば、
貴方様がこの国に来ること自体が、我々の謀にございます﹂
﹁⋮⋮何だと?﹂
眉が、跳ねる。予想よりもはるかに大きな規模に、総一郎は表情
を強張らせた。
しかし、ワイルドウッドは恭しさを保ちながら、いっそ能面染み
た感情の無さで話を続ける。
﹁我々の目的は、すでに達成されました。もはや、壊れることはな
い。それ故、貴方様には全てを包み隠さずお話ししたく存じます。
聞きたいことを、なんなりとお聞きください﹂
腰を折り、礼節を保ち、奴は言う。しばし睨み付けていたが、結
局根負けしたのは総一郎だった。
﹁なら、何でこんな事をしようとしたのかを答えて貰う。お前らの
行動は、はっきり言って筋が通っていないんだ﹂
﹁お答えします。しかし、それについては私の口からでは相応しく
ないでしょう。︱︱二人とも、来なさい﹂
1770
﹁はーい﹂
﹁はい、ワイルドウッド先生﹂
近くに止めてあった車に呼びかけると、そこから一組の男女が現
れた。一人は、小柄な少女。ファーガスから紹介された、アンジェ
だ。もう一人は、見覚えがあった。少し戸惑ったが、最後には思い
当った。
﹁⋮⋮アイルランドクラスの、現寮長⋮⋮﹂
﹁はい。お初にお目にかかります、救世主様。わたくしがスコット
ランドクラスの少年らを謀殺した時、お目にかかれたかと存じます
が﹂
﹁ああ、よく覚えているよ。ローレルが怯えていて、暇があったら
痛い目に遭わせてやろうと思っていたんだ﹂
﹁あたしの事は、分かますよね﹂
﹁⋮⋮ああ。︱︱君も、そうだったのか﹂
えへへー、と恥ずかしげに後ろ頭に手を回すアンジェ。どうも、
彼女には怒りを維持することが出来ない。総一郎はため息をついて
説明を促す。
﹁それで、どういう目的であんなことをした﹂
﹁それについては、これからの学園の事を話すのが一番手っ取り早
1771
いと愚考しておりますので、そうさせていただきます。⋮⋮アンジ
ェ﹂
﹁まずですね。明日の朝、ファーガス先輩の死が学園中に発表され
ます。すると、学園中が大騒ぎ。ついでにネル先輩も行方不明らし
いですからもうほとんどパニックです。でも、明後日までには収束
して、その翌日に葬式って段取りになってます﹂
﹁⋮⋮それで﹂
そのくらいは、カバラを使わずとも総一郎は予想できる。ネルの
件も、何となく予想はついていた。ドラゴンから学園を守った幼き
英雄、そしてその友人。ネルはともかく、ファーガスはこの学園の
誰からも好かれていた。
寮長が、言葉を引き継ぐ。
﹁そして、その葬式の場でわたくしは崩れ落ち、そのまま半狂乱で
﹃スコットランドの奴らがブシガイトを殺せなかったから、こんな
事になったんだ!﹄と、大声で喧伝します﹂
﹁⋮⋮ぁ﹂
総一郎は、絶句した。奴らの狙いが、すぐに分かった。
﹁もう、お分かりになられたようですね﹂
﹁ああ。つまり︱︱︱お前らは、騎士学園の崩壊が目的か﹂
﹁ご明察っ、ソウ先輩!﹂
1772
アンジェは親指を立ててサムズアップ。﹁では、続きをお話しさ
せていただきます﹂と彼は言う。
﹁それにより、アイルランドクラスとスコットランドクラスは敵対
します。具体的にはアイルランド生によるスコットランド生への襲
撃が相次ぎ、憎しみの連鎖がそこに生まれます。イングランドクラ
スは初め我関せずを貫きますが、事態が泥沼化した時を見計らって、
イングランドクラスの教員を務めます我が同胞の一人が﹃他クラス
排斥論﹄を学園長に提出。そのまま野蛮な振る舞いをするスコット
ランドクラス、アイルランドクラスの殲滅に動きます。これに参加
する生徒の中に、カバリストはほとんどいません﹂
﹁そんで、数を減らした二つのクラスが一時休戦。イングランドク
ラスと殺り合いますけど、裏切りも色々出るっぽいですね。最後に
は、カバリストや純貴族以外は相打ちで死に絶えます。新興貴族は
全滅。まぁ、亜人が現れて以来の歴史も何もない奴らですからね。
UKよりも自分の事を考えているような奴らを一掃して、今回の目
的は完遂。ってな感じです。いい加減亜人の技術取り入れないとこ
の国ヤバいですから。邪魔だったんでいい気味です﹂
じゃあ、夜も更けてきたのであたし等は寮に戻りますね。アンジ
ェはそのように言って、寮長を引っ張って学園に戻っていく。総一
郎は、その後ろ姿になんの声もかけることは出来なかった。
代わりに、ワイルドウッドに向けて吐き捨てる。
﹁お前らは、悪魔だな﹂
﹁ええ、仰るとおりにございます。しかし、今の説明は学園内に限
1773
られておりますので、少々捕捉をさせて頂きます﹂
﹁捕捉?﹂
﹁救世主様は、ドラゴン討伐の地にて、我々の存在に感づかれた。
違いますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
無言の、肯定。総一郎は、少しずつ言葉を発するのが恐ろしくな
ってくる。
﹁あの地では、それぞれ、一人のカバリストと﹃下僕﹄を赴かせ、
事に当たらせました。どの地でも騎士の死者が異様に出ましたでし
ょう? その上、貴方を差別しない者までいた﹂
﹁⋮⋮ああ、よく覚えているよ。名前は忘れてしまったけれど、恐
ろしい人がいたのは覚えている。部下が亡くなったから、でスコッ
トランドクラスの騎士を殺していくアイルランドの老騎士。そして、
それを止めないスコットランドの頭目⋮⋮﹂
﹁結論から、言わせていただきます。彼ら騎士団は、カバリストを
除いて全滅いたしました。ドラゴンによるもの、仲間割れによるも
の、理由は様々ですが、一様に。それらの亡骸は、全てこちらで処
理も済ませています﹂
﹁⋮⋮﹂
どんな反応をすればよいのか、分からなかった。驚きがあったの
は、確かなのだ。だが、どのように表に出せばいいのかが、分から
1774
ない。
だが、試しに一つ、質問してみる。
﹁僕がドラゴンを殺して回った理由、知ってるか?﹂
﹁存じております﹂
﹁言ってみろよ﹂
﹁ドラゴンによる理不尽な死を被る人々を、助けたい。そんな、高
潔な思いです﹂
﹁お前らがやった事と、それ。比べてみて、どうするんだよ﹂
﹁心中をお察しします﹂
総一郎は、大声で噛み付いた。
﹁そんなので済まされて良い訳があるか!? 何人死んだと思って
んだよ! その果てに、僕も知らない間におかしくなって、何人も
殺して! それを、お前らは台無しにしたんだ! どうして、﹂
﹁お言葉ですが、救世主様。貴方は、ただの一人も殺してはいませ
んよ? 見殺しを含めても、です﹂
﹁は、ぁ⋮⋮?﹂
人差し指を一本。彼はその手を総一郎の眼前に突き付ける。
1775
﹁何、言って⋮⋮﹂
﹁ご説明します。そうですね、では、我々が所有する﹃下僕﹄につ
いてから﹂
指を鳴らす。すると、車の下から這い出すものがある。人だった。
だが、何処か様子がおかしい。
面を、被っていた。感情の無い、平たい面だ。彼は、総一郎の近
くまで歩いて来て、止まる。こうしてみると、背も高い、随分と筋
肉質な男性であることが分かった。
﹁これが、下僕だって?﹂
﹁ええ、では、その面を外しなさい﹂
そして、その下僕は面を外す。その下にあった顔は︱︱
﹁⋮⋮ブレナン、先生⋮⋮﹂
総一郎が、この地で初めて行った殺人。その、被害者。カーシー・
エァルドレッドの師でもあった。思えば、彼は火蓋そのものだった。
それを切り落としたのは、総一郎だ。
それと同時に、死者であるはずの人間だった。
﹁そんな、おかしい。だって、間違いなく殺したはずなんだ。︱︱
そうか、そういう事か。お前らは、死者さえ冒涜するのか!﹂
﹁いいえ、それは、人ではありません。ほら、お前の能力を見せて
1776
差し上げなさい﹂
ブレナン先生は、幼児のような素直さをもって首肯した。両手を、
顔に当てる。すると、異様な事が起こった。体格の変容。手を外す。
その下から現れたのは、全く別の顔。
アイルランドの殺人騎士を止めなかった、スコットランドの頭目。
名前は、とうに忘れた。だが、恐怖は残っていた。
﹁そ、んな。馬鹿な⋮⋮!﹂
総一郎は、あとずさる。だが、それだけで納得できるわけがない。
﹁ファーガスは! ファーガスはどうなる!﹂
﹁彼の脳に、あらかじめ爆薬を仕込んでおりました。貴方様が彼を
撲殺する寸前で、破裂させております。その為、彼はあなたの木刀
が迫る姿を見ながら逝ったのです。ほら、何故止まっている。他の
パターンもお見せしなさい﹂
すると化け物は、顔を隠さずに変貌し始めた。現れたのは、様々
な顔だ。顔と名前が一致する者、顔だけならば覚えている者、全く
記憶にない者。ブレアの家族さえ現れた時、総一郎は本当に何から
何まで仕組まれていたのだと知った。
ナイと別れたあの森の野営地の騎士たちの顔が現れ出した時は、
力が抜けてその場にへたり込んだ。
﹁そんな、そん、な⋮⋮﹂
1777
﹁貴方様の右手は、暴走したのではありません。化け物が発する非
常に異様な殺気に反応して、撃滅したにすぎませんよ。救世主様が
気付かなくとも、右手が気付く。理想的な状態と言えます﹂
﹁そんなことは聞いてないッ!﹂
震えが、止まらない。様々な記憶が、総一郎に去来する。和やか
な談笑。総一郎の右手の暴走。殺戮。アレが、人でなかったなどと
は、信じられなかった。そうだ、と思う。奴は、無表情だ。もしか
したら、嘘をついているだけなのかもしれない。
そんな一縷の望みに掛けて、総一郎は顔を上げる。そこには、表
情豊かな笑み。困ったような、それでも気になるようなといった表
情。そして、記憶に違わない声。
﹁﹃⋮⋮辛いことがあっても、自棄になるなよ? 相談だったら、
俺たちがのるから﹄﹂
﹁それ、じゃあ、僕は⋮⋮﹂
混乱に次ぐ混乱。両手で頭を抱えて、顔を歪めて震えた。総一郎
は、自らの基盤の揺らぐような思いに駆られていた。ゆっくりと破
壊され、その度に状況に合わせて作り変えてきた自己。それを、一
度に戻せる訳がなかった。
今の総一郎は、自分が人間を殺したという確証がなければ生きて
いけない。いわば、大気圏まで登っていく風船だ。外側からの圧を
失えば、内側から破裂する。
それっきり、ワイルドウッドは喋り出そうとしない。ただ、黙っ
ていた。総一郎は、それが不快だ。何か言ってくれなければ、本当
1778
に自分は自壊してしまうかもしれないのだ。そう、恨めしい目を向
ける。
そこで、そこから奴の意志が読み取れた。隠していたアナグラム。
総一郎は、気づく。
︱︱カーシー・エァルドレッドの顔を、この化け物は作らなかっ
た。
やっと、呼吸が出来た。そのように、感じた。総一郎は安堵に呼
吸を震わせながら、回り始めた頭脳で看破した奴の思惑をついてや
る。
﹁お前、自分の命のために、ここまで裏工作したのか﹂
﹁何の事を仰っているのか、私には分かりかねます。ただ、殺人犯
を公務員が率先して国外に出すことなどできないから、この様な処
置を取らせていただいたまでです﹂
﹁この周囲には、身内以外の誰もいないだろう。本音を言えよ﹂
﹁⋮⋮救世主様の聡明な頭脳には、感服するしかございません。こ
うでもしなければ、貴方様はカバリスト全員を皆殺しにしたでしょ
うから﹂
﹁なるほど。確かに弱みを握っておけば、僕はお前らを殺さないだ
ろう﹂
エァルドレッドまで﹃下僕﹄の変化によるものであると言われた
ら、総一郎は何もできなくなる。そこまで分かり切って、アナグラ
1779
ムを作り上げたのだ。
﹁では、こちらへ。出航の準備はすでに済ませております﹂
﹁出航? 何処へ行くつもりだ﹂
﹁もちろん、USA。北アメリカの、貴方のお姉上の住まう町まで﹂
﹁⋮⋮嘘は、ついていないようだな﹂
﹁ええ、私どもは、貴方様に敬意を払っております。二度、我ら薔
薇十字団の危機を救ってくださるお方として﹂
﹁二度、だと? 僕が、快く協力するとでも?﹂
﹁はい。今回が一度目。二度目は、だいぶ先の事です。未来のこと
など、分かったものではないでしょう? きっと助けてくれる。そ
の様に信じているから、私どもは貴方様を慕っているのです﹂
﹁未来なんてわからない。⋮⋮カバリストのいう事じゃないな﹂
﹁カバリストであるからこそ、未来の不確定さを知っているのです
よ﹂
彼は黒塗りの車に近寄って、総一郎に向けて扉を開けた。鼻を鳴
らしてそちらへ向かおうとする直前、振り返って言う。
﹁それは、良いのか?﹂
その視線の先には、ボロボロのギルが居る。痛みと苦しみのあま
1780
り、気絶したらしい。呻き声さえ上がらない。
﹁︱︱ああ、グレアム次期団長の事は、良いのです。彼は、作戦だ
ったとはいえ自らに罰を与えたいと言って、この場に姿を現したの
ですから﹂
殊勝な事だ、と思うと共に、それだけで許せるはずがないとも思
っていた。だが、声に出す必要はない。素朴な疑問だけを口にする。
﹁こいつが、次期団長だと﹂
﹁ええ、何せ﹃薔薇十字団﹄ですから﹂
﹁⋮⋮ああ、﹃モントローズ候﹄ってことか。下らないダジャレだ
な﹂
モントローズは、総一郎が住んでいたあの地の事だ。そして、ギ
ルの家の領でもある。
ブレアたちとの楽しい数年間。だが、あの村に住む者達は全てこ
の﹃下僕﹄の分身だった。
﹁その辺りは、適当なものですよ。﹃フリーメーソン﹄だったり、
﹃黄金の夜明け団﹄だったりと、団長が変わる度に分かりやすいよ
う変えているのです。どうせ、それらの実態は全て瓦解しておりま
す。勝手に借りても構わないでしょう﹂
﹁こちらが本物なのだから、って﹂
﹁仰るとおりにございます﹂
1781
総一郎たちは会話を終え、車に乗り込んだ。運転席と、後部席に
分かれる。それっきり、会話は失せた。エンジンがかかり、車が動
き始める。
鈴の音の様な、声が上がった。同時に、睡蓮の花の匂いが香って
くる。
﹁やっぱり、総一郎君は生き残ったね。分かってたよ? ボクの大
好きな総一郎君は、きっと死ねないって﹂
﹁⋮⋮ナイ﹂
横を見る。そこには、いつの間にかナイが座っていた。先ほどあ
った時となんら変わらない立派な服装。目につく物と言えば、一抱
えもある包みを抱きかかえていた。
﹁お疲れ様。疲れたでしょ? この国の騒乱は。でも、日本に居る
時に比べて君は、格段に強くなった。必要な時間だったと、思って
ほしいな﹂
﹁君の、差し金でもあったわけだ﹂
﹁そうかな? もしかしたら、思わぬ人物が全てを握っているのか
もしれないよ? そもそもね、総一郎君はボクの事を過大評価しす
ぎなんだよ。案外、大人しいんだよ? ボク﹂
﹁よく言うよ﹂
﹁もう、またそうやって意地悪言う﹂
1782
ぷんぷん、とあざとく口にしてみせるナイ。先ほどとは打って変
わって、テンションが高かった。﹁あ、そうだ忘れてた﹂と言って
こちらを見る。
﹁何、むぐっ﹂
キスをされ、舌で唇を割られた。深い接吻。だがしている最中で
妙な気分になってくる。
脳の奥で、何かが蠢く。それが、ゆっくりと下に落ちて行き、胃
の中に至った。次いで、嘔吐感。その塊が、のどを通って昇ってく
る。
口の中に、それは現れた。それを、ナイの舌が掻っ攫っていく。
唇を離すと、ナイは歯で奇妙な物体を拘束していた。それは、夢の
中でたびたびであった化け物によく似ている。無数の足に、無数の
目。しろく、ブヨブヨとした体。
がぶりと、ナイはそれを食い千切った。気味の悪い、小さな断末
魔。ゆっくりと咀嚼し、ナイは飲み下す。
﹁うん、美味し﹂
﹁⋮⋮もっとマシな後始末の付け方はなかったの?﹂
﹁食べるっていうのは、尊い行為だよ。食べた分だけ、力になる。
その意味は分かるよね?﹂
ナイは、怪しく微笑みながら包みを撫でる。それは何かと問おう
としたが、とんでもない物が出てきそうで躊躇いが起こった。する
1783
と、勝手に彼女は言う。
﹁これは、戦利品だよ。あとで、食べるんだ。敗者は強者に食われ
る定めにあるんだよ。例え賭け事だったとしても、この賭けは君た
ちの命を賭していたんだからね﹂
﹁⋮⋮そう﹂
予想は、付いた。カバラで確かめる気には、ならなかった。
話を、無理やり戻しにかかる。この話題は、危険だ。
﹁それで結局、あの夢は間違いなく君の差し金なんだろう?﹂
﹁いやいやまさか。そんな意地の悪い事、ボクがすると思う?﹂
﹁君以外のだれがするのさ﹂
言いつつも、ちらと運転席の方を見やった。ミラー越しのワイル
ドウッドの顔が見える。酷く、緊張していた。ナイの方を見ると、
﹁身分をわきまえる子たちは好きだよ、ボク﹂と総一郎に微笑んで
くる。なるほど、カバリストは﹃これ﹄が触れてはならないものだ
と理解しているのだ。
﹁さぁて、次はアメリカだね。新天地、って感じで楽しみでしょ﹂
﹁一度目の新天地で随分ひどい目に遭ったから、もうたくさんかな﹂
﹁アメリカはね、行ったらびっくりするよ、きっと。何せ、今のイ
ギリスなんかに比べてすごーい発展してるんだから! しかも、日
1784
本人の知識が合わさってもう大変! 楽しみだねぇ、総一郎君!﹂
﹁本音は?﹂
﹁総一郎君。君は、恐らくだけど、もう二人の祝福されし子供たち
と出会う事になるよ。そして、その片方はファーガス君と同じ手合
い﹂
体が、強張る。目を瞑り、息を深く吸って、ゆっくりと吐き出す。
硬直が、ほぐれていく。
﹁それは、楽しみだ﹂
﹁本当に逞しくなったね。ボクは嬉しいよ、総一郎君﹂
にこにこと、彼女は笑みを浮かべている。﹁ところでさ﹂と彼女
は言った。
雰囲気が、変わる。
﹁ファーガス君、強かったよね。本当﹂
﹁⋮⋮ああ、あの力?﹂
﹁うん。ボク、実はこっそり間近で見たんだけど︱︱いやぁ、本当
にびっくりしちゃった﹂
﹁⋮⋮ナイ?﹂
その声が震えていることに、総一郎は気付く。それに驚くよりも
1785
先、まず何が目的なのかを疑った。ナイに対する反応も、我ながら
随分こなれたものだ。
しかし、彼女の怯えは本物であると後々知れた。それは、ここか
ら続く会話を根拠にしたものだ。
﹁あの力、本当凄いよね。ド迫力で、圧倒的で。だから、ちょっと
興味が湧いちゃってね? 無謀の神の本体と掛け合って、シミュレ
ーションしてみたんだよ﹂
﹁⋮⋮何を試したの?﹂
﹁いや、ね? あの力、実は﹃特殊効果付加﹄の異能だったらしい
んだけど﹂
﹁特殊効果⋮⋮?﹂
﹁例えば、あのドラゴンの攻撃を弾いたのは、あの盾が﹃攻撃して
きた物体に、その倍のダメージを返す﹄っていう効果があったから、
とか、ドラゴンを簡単にばらばらにしたのは、あの剣は﹃切っ先の
延長上のものすべてを切り裂く﹄効果を持っていたから⋮⋮とか﹂
﹁⋮⋮それは﹂
それが真実なら、とんでもない事だ。
﹁多分、本当の事だよ。ネル君から、ファーガス君の言葉を又聞き
したんだ。それで、試してみたの﹂
﹁どんな、試し?﹂
1786
﹁ミニサイズだけど完全に模倣しきった宇宙を作り上げて、ミニミ
ニファーガス君に色々な事をしてもらったよ。振ったら女の子にモ
テモテになるステッキだとか、全ての人々を狂わせる歌とか。けど、
モテモテになる盾とか、人を狂わせる髭メガネは作れなかった。そ
ういう意味では、強化と言った方が正しいのかもしれないね﹂
﹁随分楽しそうなことやってるね。僕が病んでる間、君は楽しく実
験か。いい身分だよ、本当﹂
﹁そんな嫌味言わないでよ、⋮⋮それでさ、ボクはその力の限界っ
てどこなんだろうって思ったんだよ。ジャンルが違う効果はつけら
れない。じゃあ、ジャンルに合ったならどうかなって﹂
﹁確かに、興味あるね﹂
総一郎は、こんな時でも好奇心の犬を発揮する。だが、ナイはそ
こで空笑いをした。一抹の不安が、少年の言葉を詰まらせる。
ナイは、この様に言った。
﹁ミニミニファーガス君に、﹃全宇宙を滅ぼす剣﹄を振ってもらっ
たんだ。ミニサイズ宇宙の中なら、どんな事象だって再現できるか
らって﹂
総一郎は、つばを飲み込む。
﹁⋮⋮どう、なったの?﹂
ナイは、首を振る。
1787
﹁分からない。ただ、エラーが起きた事しか﹂
総一郎は、それきり黙って考え込む。まず行ったのは、ナイが嘘
をついていないかだ。彼女なら、少年を驚かすという名目だけでそ
ういうことを言いだしてもおかしくはない。
だが、結果は白だった。むしろ、見せつけるようにして彼女はア
ナグラムを晒していた。それだけ、真実であると主張したかったの
だろう。とすると、考えられる可能性は二つ。
文字通りのエラー。あるいは、計測器さえ超えるほどの力が発現
されてしまったか。
ファーガス、と呟く。快活な少年だった。人間からも、動物から
も、亜人からだって好かれた。特別な少年だった。そして、その根
っこには信じられないほどの秘密があった。
︱︱きっと、彼は前世の総一郎を殺したあの少年だ。ナイの言葉
を聞いて、改めてそう思う。思いながら、尋ねた。
﹁それは、つまり、君たちがボウフラ程度にしか考えていないはず
の人間が、君たちを宇宙ごと葬り去る可能性があったってことなの
か?﹂
﹁⋮⋮ねぇ、総一郎君。君、H.P.ラブクラフトって作家、知っ
てる?﹂
しかし問いには答えず、ナイが出し抜けにそう言った。全く異な
る話題に、総一郎はたじろぐ。問い直そうかとも考えたが、止めた。
1788
彼女にも考えがあるだろう。
﹁ううん。どんな作家さんなの? どうせ悪趣味なんだろうけど﹂
﹁君も偏見が強いね。いくらボクが言い出したからって⋮⋮。まぁ、
強く否定することは出来ないんだけれどね。何たって彼はホラー作
家だ。そして︱︱驚くべきことに、彼の作品には﹃ボク﹄が多々出
演している﹂
﹁⋮⋮何だって?﹂
総一郎は、身を起こす。がたん、と車が揺れた。イギリス特有の、
道路上の穴ぼこだ。寒い土地柄、氷が道路を破壊するのである。
﹁彼は、アメリカの作家でね。しかも驚くべきことに、彼の世界観
にのっとって多くの作家が﹃ボクら﹄を題材にして小説を書いてい
る。酷く面白い事だとは思わないかい? 昔から、狂気はこの世界
に蔓延っていたんだ。⋮⋮だが、一つだけ納得できない点がある﹂
暗い闇の中、車は進む。街灯が当たり、偶にナイの顔が照らされ
て見えた。謎に戸惑う、少女の顔。そこに、嘘のアナグラムはない。
﹁彼らは、何故そこまで深く知識を蓄えられたのか。﹃ボクら﹄の
名前なんて、一人で複数知る者がいる訳がない。しかし、彼らは面
白いくらいに知っていた。そして、もう一つ、彼らは﹃正気﹄だっ
た﹂
﹁⋮⋮済まない、ナイ。僕には、君の言っていることが理解できな
い﹂
1789
﹁ボクが呼び出した、あの二匹の魔獣、覚えてる? 翼を生やした
大きな蛇の姿の﹃忌まわしき狩人﹄、宇宙空間を飛び回る﹃シャン
タク鳥﹄。君は平気みたいだったけど、他の人たちはどうだった?
例えばそう︱︱ローレルちゃんは、その後どうだった?﹂
総一郎は、答えに窮する。しかし、辛うじて言えた。
﹁多分、あの頃からローレルは、僕から離れることを極端に嫌がる
ようになったと思う﹂
﹁その時、君たちずっとくっついていたからね。それが、僕が来た
時を見計らったように離れた。脳が、条件付けをしたんだ。総一郎
君から離れると、ボクが来るよって﹂
そうするだけの恐怖は、確かに感じた。ドラゴンなどで慣れてい
た総一郎だったから、まだマシだったのだ。だが、見た事もない人
や、ドラゴンにさんざんやられてきた騎士たちがあれを見たらどう
思うのだろう。
﹁それが、狂気だよ。その上、彼らは何百年も前の人間だ。そう、
︱︱亜人が生まれ出るよりも、ずっと前。異形に、全く耐性が無い
時代の人々﹂
辻褄が合わない、とナイは言っているのだと分かった。化け物は
確かに恐ろしい。だが、神は格が違う。しかもそれを耳にしたのは、
アメリカという、一神教が深く根付いた土地の人々だ。日本のよう
に多神教の人間とは、全く違う恐怖を受けるだろう。
﹁あまりに不可解だったから、調べてみたんだ。けど、分からなか
った。ボクは一応全知全能の神のはずなのだけれどね。君たちに関
1790
することを調べると、面白いように荒が出てくる﹂
﹁僕たちの事?﹂
﹁君が向かう先の街、アーカム。そこは、ラブクラフトが作り出し
た、﹃創作上の都市﹄だ。現実には存在しないはずの街。だけどそ
の町は事実として、アメリカ建国から数十年もしない内に建設され
た都市としてそこに存在している。そう。ラブクラフトが設定した
通りに﹂
ナイの言葉に、総一郎は引くついた笑いを漏らす。
﹁⋮⋮それは、流石に嘘だよね?﹂
﹁嘘だったらどんなにいいかと思うよ。虚構の街、それが現実にな
っているんだ。ボクはね、今混乱してる。この世にある、数少ない
﹃知らない知識﹄。それらは全て、﹃祝福されし子供たち﹄を調べ
た時からボクの目に留まるようになった。︱︱総一郎君。君はその
内の一人なんだよ。片手間の遊びのはずだったのに、今無貌の神は
君たちに夢中だ。彼は自分さえ嘲笑の対象になる日がとうとう来た
のかってワクワクしているよ。でも、ボクは不安。君と対決するま
で、君を守り切れるのかどうか。ボクが何者なのか﹂
ねぇ、とナイは言う。薄暗闇の中、髪飾りの横を短い髪がさらさ
らと滑り落ちた。包みをぎゅっと抱きしめる。俯きながら荷物の結
び目の一点を見つめている。いつもの飄々然とした態度は、掻き消
えていた。
﹁怖いね、分からないって﹂
1791
それが、イギリスで見たナイの最後の姿だった。
車が、止まる。波止場。偶然にも、そこには一度来たことがあっ
た。ドラゴンを殺し尽くして、何もすることがなく放浪していた時
期。波の打ちつける音。あの頃も今も、何ら変わらない。無情で無
慈悲な荒波だ。今はさらに、その深くに眠っているものの恐ろしさ
を感じてしまう。
﹁こちらの船に、お乗りください﹂
ワイルドウッドに案内された船は、小型船だった。現代の海には、
大型魔獣がよく出現する。小型の船など、迂闊な事をすればすぐに
クラーケンなどに沈められてしまうのだ。
その事を言葉にせずに伝えると、奴は﹁ご安心ください﹂と言っ
た。
﹁安全面は、我々カバリストが総力を挙げて確保しました。ただ、
出航後一度だけ、ここから十キロ離れた場所にて小型のクラーケン
が現れます。上位種で、知能がありますゆえ対話により穏便に帰宅
願う予定で居ますので、どうか寛大なご容赦のほどをお願いします﹂
﹁そう。船員は?﹂
﹁カバラの存在は知っておりますが、カバリストではありません。
善良な一般市民の方々です。気のいい人々ですから、仲良くする振
りでもなさって頂ければ幸いかと﹂
1792
﹁なら、良いよ。普通の人たちなら、愛想を振りまいても抵抗感は
ないしね﹂
﹁では、これを﹂
奴は、何処から取り出したのか布の袋を取り出し、総一郎に献上
した。受け取ってすぐ、それが特殊な騎士御用達の容量が大きいそ
れであると知れる。中身を覗くと、アタッシュケースが入っている。
﹁中身は何だ?﹂
﹁ドルでございます。何かと、入用になるかと思いまして﹂
﹁施しのつもり? 海でばら撒いたらさぞすっきりするんだろうね﹂
﹁いいえ、それはグレアム次期団長のお父上が買い取った、貴方様
の﹃天使﹄の絵の代金にございます。もっというなら、貴方が受け
取るべき正当な対価です。もちろん、我々があなたに行った愚かし
い行動の埋め合わせて言うのではありません。それに関しては、後
々誠意をもって報いさせていただきます﹂
﹁⋮⋮カバラってズルイよな。本当に、さかしい技術だよ﹂
吐き捨てて、甲板に登る。その途中で、堪らず振り返った。奴は
予期していたように﹁何用でございましょうか﹂と言った。わかっ
ているくせに、白々しい。
﹁ここまでされたからには、信用する。そのうえで聞かせてもらう
よ。⋮⋮ローレルのことを、保護してやってくれないか?﹂
1793
﹁すでに、丁重に保護しております。救世主様。ですから、ご安心
なさってください﹂
﹁⋮⋮ああ、分かった。人質がとられたんだ。僕も逆らうことはし
ない﹂
そのまま進む。すぐに、出航の合図が出た。ワイルドウッドが、
波止場にてじっとこちらに頭を下げている。鬱陶しいと思い、船尾
から離れた。これでイギリスともおさらばと思うと、感慨深いもの
が襲ってきた。
顔を上げる。僅かに、日が昇り始めている。今までの記憶が、交
じり合い、溶け合った。右目から、朱き滴が落ちる。左目からは、
何も流れない。色々なものを得て、色々なものを失った。結果とし
て得られた物に対して、失ったものは少ない。人間としてのアイデ
ンティティ。言ってみれば、これだけだ。
魔術の親和性も、上昇幅が大きい。驚いたのが、精神魔法の成長
ぶりだ。何か加護を得る機会があったかと考えて、カバリストの﹃
下僕﹄を思い出す。奴らが変容した時、酷い狼狽を味わわされた。
今思えば、アレは加護の付与だったのか。笑わせる。と吐き捨てる。
船員との挨拶もしないまま、昇る日と広がる海を見つめていた。
イギリスも、もはや遠い。その時、船が揺れた。すぐに、ワイルド
ウッドの言っていたクラーケンだとわかった。
そして数奇な事に、クラーケンは総一郎の前に現れた。
﹃矮小なる人間よ⋮⋮。この海が我の物であると知っての狼藉であ
るか⋮⋮﹄
1794
偉ぶった古めかしい話法。脳に、直接話しかけているらしい。総
一郎は聞き流して、﹁ねぇ﹂と言う。
﹁今すぐこの船を開放してくれないかな。一刻を争うというのでは
ないけれど、急いでいるんだ﹂
﹃何を勝手なことを言っている⋮⋮。己の身分を弁え﹄
﹁身分弁えるのはお前だろうが。忠告はした。邪魔をするなら殺す
よ、説得に時間かかりそうだから﹂
﹃きさ﹄
総一郎は、指を鳴らす。途端、クラーケンは水中で燃え上る。
カバラで改造した、総一郎の魔法だった。奴の周囲の水を油に変
化させ、奴の背後に火魔法を発動させた。駄目押しに、風魔法で奴
を空中に浮かせる。そうすることで、何をしても逃げることのでき
ない火の牢獄を作ることが出来る。
﹃きさ、貴様、ぐぁああ、熱い、熱い⋮⋮!﹄
﹁こうやって見ると、滑稽だね。巨大なイカ焼きの完成だ。折角だ
から、船員に振る舞ってあげようと思うんだけれど、どう思う?﹂
問いかけるが、答えはない。息絶えたらしかった。特に、感慨は
湧かない。ただ、知能はあったのだから、奴は魔獣と言うよりは亜
人なのかもしれないと言えた。
1795
つまりは、﹃人﹄だ。
﹁⋮⋮父さ。いや﹂
途中で、止める。ここはもう、イギリスではない。父に向けて喋
るのだから、日本語にするべきだ。
﹃父さん、父さんの言うとおり、僕は⋮⋮﹄
その時自分が口にした言葉を顧みて、総一郎ははたと気づく。
﹃⋮⋮僕? 僕だって?﹄
ぷっと、噴出した。
﹃は、はは、あはははははははははははははは! 何だよ、今更!
僕! 僕だってさ!お前いまだに礼儀正しいお坊ちゃまやってい
るつもりだったのか! こりゃあ面白い! とんだお笑い草だ!﹄
腹を抱えて、一人で笑い転げた。燃え上るイカ焼きが、何ともシ
ュールさを盛り上げている。ひとしきり笑って、落ち着いた後、﹃
馬鹿じゃねぇの﹄と呟いた。
少し、思案する。日本に居た頃、ファーガスは自らを﹁俺﹂と呼
んだ。同時に、自分の前世もそうだったかと考える。﹃ファーガス、
貰うよ﹄と亡き彼に伝えた。
もう、朝日を見続けるのも飽きた。甲板に居るはずの船員にお土
産を渡すべく、総一郎はその場を背にする。
1796
そのまま、言い捨てた。
﹃父さん。俺は貴方の言う通り、﹁人﹂を、道を歩くように殺せる
ようになりました﹄
しかしこれは、正しい道なのでしょうか?
1797
1話 白羽の居ない日々Ⅰ
海の夢を、よく見るようになった。
青い景色の中、漂っている。周囲には、小魚の群れ、揺れる海藻、
水の揺蕩いに光が乱反射して、帯を作っている。
遠くで、大型水生魔獣がうねっていた。しかし、近づいてこない。
総一郎の脅威を、本能的に感じ取っているのだ。海は陸以上に危険
で、だからこそ穏やかだった。
目を、覚ます。見慣れた、赤錆びた天井。何となく揺れる感じ。
総一郎は、起き上がった。ここ数か月、陸に上がった記憶がない。
﹁今日着くんだよねぇ⋮⋮。何だか現実感がないな﹂
起き上がり、部屋を出た。賓客扱いの証拠なのか、個室である。
外はまだ夜と言った風情で、欠けた白っぽい月が海の端に見えてい
た。そのまま甲板に出て、息を吸う。木刀を構え、そのまま、目を
瞑る。
船の上では、総一郎は木刀を振らない。ゆったりと、揺れに身を
任せていた。途中で、何やら獰猛なものが向かってくる。それは、
きっと修羅だ。奴は不定形で、総一郎を侵食しようと迫りくる。
それをいなすのは、あまりに容易い。何もしなければよいのだ。
そうすれば、修羅は総一郎に纏わりついて、そのままどこかへ消え
てしまう。
1798
今日は、そうと分かっていても忌避感を覚える様なうすら寒さが
あった。何かを予感して、愉快そうに蠢いている。瞼を、強く落と
す。じっと、耐えた。
夜が明け、人の声が聞こえ始めた。修羅は、もう消えている。総
一郎は目を開けた。船員の中でも最も総一郎に年の近い少年が、苦
笑いを浮かべてこちらを見つめている。
﹁何度見ても、住む世界違うよな、ソウ﹂
﹁何バカなこと言ってるのさ。君も俺も、住んでいるのはこの世界
だよ﹂
黒人の少年だった。背が高く、羨ましい。総一郎も船に乗り始め
たここ一年半程度で大分伸びたが、やはり黄色人種は背が低いのだ
ろうかと考えさせられることもある。
漁を軽く手伝っていると、船長に肩を叩かれた。総一郎が乗せら
れたこの船は、体面上は漁船だ。様々な都合があったとだけ、聞か
された。当然だとも思った。総一郎は、きっと一人は人間を殺して
いる。
﹁ソウ。もう少しで、お前とはお別れになる。何だか、寂しいよ。
お前には危ない所をずいぶん助けてもらった。昨日のパーティも楽
しかったな。オレは、お前の事を家族のように思っていた﹂
﹁俺もです、船長。でも、きっとまた会えます。旅と言うものは不
思議なもので、予想もしていなかった場所で思わぬ相手と再会する
物です﹂
1799
﹁そうだな、⋮⋮その通りだ。︱︱野郎ども! 全速前進だ! 燃
料なんか使い切っちまえ! ソウをUSAに届けるぞ!﹂
﹃応!﹄
涙を誘う別れ、なのだろう。良くしてくれた人たちだった。だが
仲良くなり過ぎないに越したことはないし、それ以上に総一郎は、
そういう親愛の感情の持ち方が分からなくなっている節があった。
人を愛せば人になる。人と修羅が確かな均衡を保っている今、人間
に近づくことは均衡を不安定にする事と同義だ。
一時間もしない内、港が見えてきた。思えば随分遠回りをしてき
たものだ。しかし、無駄ではなかった。深海生物と総一郎が本気で
争えば、遅かれ早かれこの船は沈んでいたに違いないのだ。時折寄
った島も楽しかったのでよしとする。ハワイは人を幸せにする。
港に、着いた。階段を下って、地面に足を下ろす。妙な感動があ
った。と共に強烈な陸酔いをした。ふらふらとよろける。船員が慌
てて支えてくれる。嘔吐感。
﹁うっ、ううう、⋮⋮ふぅう⋮⋮﹂
﹃おぉぉぉおおおお⋮⋮﹄
耐えた事に対する謎の歓声が恥ずかしかった。
そうこうしていると、近づいてくる者があった。その人物を見て、
船員らは気味悪そうにすぐさま船へ戻って行ってしまう。﹁元気で
やれよ!﹂﹁ちゃんと歯ぁ磨けよ!﹂﹁風呂入れよ!﹂と言い捨て
1800
て肩を強く叩いていくものだから、地味な痛みに辟易した。どうで
もいいが、彼らは⋮⋮いや、皆まで言うまい。
﹁ソウイチロウ・ブシガイト様ですね﹂
濁ったような声色。そこに立っていたのは、カエルのような男だ
った。えらのようなものが、肩口から覗いている。船員がそそくさ
と去っていくのも無理からぬ話だ。そんな総一郎の心持を知ってか
知らずか、﹁ククッ﹂と彼は笑う。
﹁見苦しい姿をさらしてしまい、誠に申し訳ありません。わたくし、
このインスマウスにて救世主様を待つよう通達されたカバリストの
一人にございます。この奇妙な姿は特殊な血筋によるもの。お気に
なさらないことを、お勧めします﹂
総一郎は、しばしその姿を眺めて言った。
﹁深き者にもカバリストが居るとは思わなかったよ﹂
﹁いえいえ、むしろ深き者だからこそ、なのです。我々カバリスト
は祖国であるUKおよび、世界の繁栄の為に身を粉にする所存であ
ります。そう、それこそこのような姿に身を落としてでも︱︱﹂
﹁そう。ここ一年の謎が解けたよ。何故ショグゴスを下僕に使って
いるのかと思ってたけど、そういう事か﹂
ナイの所為で、総一郎には﹃あちら側﹄についていっぱしの知識
がある。専門と呼べるほどのものではないが、多少は通じている。
しかし、これは普通知らなくていい知識だ。知るべきではない、
1801
とも言いかえられる。故に、ことさらその意味を考えようとも思わ
なかった。触れようと思わなければ、遠ざかれる世界である。興味
もない。
促され、車に乗った。運転席付近のメカメカしい造りを見て、ア
メリカの車は公共用と私用の二種類に分けられるという制度が出来
たと聞いた事を思い出した。非常に簡単な言い方をすれば、無人タ
クシーの非常な増加だ。全自動運転の確立された今では、私用の物
を使うより全然早かったりするらしい。
﹁やっぱり、アメリカは進んでるなぁ﹂
﹁そうでございますね。今日などは、殊にそう思わせられます。救
世主様は、どの程度この国についての知識を?﹂
車に、エンジンがかかる。前世の物と比べて、あまりに静かな律
動。滑らかな動きで走り出した。その割に、速度は結構なものだ。
﹁全然だよ。日本の亜人受け入れでいろいろ手間取ってるっていう
のは本で読んだけど、あとは日本に居た頃のちょっとした知識しか
ない﹂
﹁それでは、ここ一年前に起こったあの事件の事もですか﹂
﹁勿体付けずに話してほしいな。一年以上船の上だったのは知って
ることでしょ? ⋮⋮ああ、陸酔いが治らない﹂
﹁そうですか。ではお話しさせていただきますが︱︱それにしても、
随分と穏やかですね。通達されたアナグラムと異なっている為、気
になってしまって。少々窺わせて頂いても?﹂
1802
﹁君たちが思っている以上に、俺は穏健な人間だというだけだよ﹂
もちろん、嘘だ。これは自我を保つための演技である。カバリス
トは当然総一郎の敵で、しかし殺すには色々と社会的、精神的に問
題が生じる。だから避ける。その為に普段の口調から気を付ける。
それだけだ。
そんな総一郎のもくろみを知ってか知らずか、濁った声のカバリ
ストは﹁そうでございますか﹂とだけ言った。その声質は聞きなれ
ず、アナグラムを解こうにも難しい。
﹁なるほど、だから君が来たわけだ﹂
﹁何の事を仰っているのかは存じ上げませんが、では、僭越ながら
語らせていただきましょう﹂
耳障りな声質である。だが、内容を聞き取るのに苦労はしなかっ
た。亜人による、秘密結社。その反乱。それによって、亜人の蔑視
がさらに深まったと。
﹁その構成員のほとんどはこの地に元々いた亜人でありましたが、
数名、日本国籍を持つものが混じっていたのが不運でした。反日発
言も少々。その一方で経済に貢献もしていますから、親日家も多い
です。会社を興して雇用が増えているのだとか。魔法技術の流入か
ら起きる、コンドラチェフの波と言いましょうか﹂
﹁確かに技術革新だね、それは。という事は、それなりに好況なわ
けだ﹂
1803
﹁経済だけで言うなら、その通りでございます。しかし、今まで差
別対象であった亜人が渡ってくるわけですから、政治的観点から言
えばそれなりに問題が。しかし分かりやすいデモなどはありません
し、要は、危ういが安定していると言った所でしょうか﹂
﹁言い得て妙だね、その表現は。アメリカ、日本人多いもんねぇ⋮
⋮﹂
﹁JVAという機関も発足されましたね。数名のアメリカ人が、日
本人が興した会社に銃を乱射し、爆弾を投げつけた事件がきっかけ
だったかと。契約を横取りされたとかで﹂
Associatio
﹁JVA⋮⋮。JはJapaneseのJだって分かるけど、それ
Vigilante
以外がよく分からないね。V⋮⋮うーん﹂
﹁Japanese
n︵日本人自警協会︶ですね。日本人の日本人による日本人の保護
を目的とした組織を謳っていて、ネットではリンカーンのパクリだ
と叩かれています﹂
﹁かなり凶悪な組織じゃない? それ﹂
﹁恐れている人も居れば、頼もしいという人も居ます。日本人でな
くとも、五十ドルするバッチを付けていれば保護対象と認識される
そうなので。逆に犯罪歴があると日本人でも保護してもらえないと
か。親日家御用達のバッチだそうです。住民登録を済ませれば、救
世主様にも届けられますよ﹂
ふぅん、と生返事をする。随分と、イギリスとは異なったものだ。
当然と言えば当然で、この環境にも慣れていかなくてはならないの
1804
かと考えると、ちょっと億劫にもなる。
﹁着きました。ここが、貴方様が住む街。先進と魔女と混沌の渦巻
く場所、アーカムにございます﹂
車が、都市部に差し掛かった。芝居がかっていながら何処か真実
味のあるその言葉に、﹁嫌なことを言わないでよ⋮⋮﹂と文句をつ
ける。ナイの言葉が、蘇った。邪神さえ匙を投げる、深き謎の渦巻
く特異点。
小高いビルが乱立する中、一等目立つ位置に大きく、広い建物を
見つける。
﹁アレは?﹂
﹁ミスカトニック大学にございます。予定では、救世主様にはその
付属校に通っていただくという風になっておりますが、如何でしょ
う﹂
﹁構わないよ、俺は。そこまで拘りもないしね﹂
﹁では、御心のままに﹂
駅前で、停車した。降りる前に、カバリストがドアを開ける。ま
るでタクシーだ。もっとも、この時代のそれとは違うらしいのだが。
降りると、鍵を渡された。﹁これは?﹂と尋ねると、彼は答える。
﹁救世主様のために用意した、とある一室のカギでございます。好
きに使っていただいて構いません。ですが、不要と判断しても処分
1805
なさらないことをお勧めします。いずれ、有用になることもありま
しょう﹂
﹁未来が分かったような言い方だね﹂
﹁比較的的中率の高い予測を、愚考し打ち立てるのみにございます
れば。では、これにて私は戻らせていただきます。御機嫌よう、救
世主様﹂
深く頭を下げて、彼は車に戻っていった。そして、走り出す。す
ぐに、角を曲がって見えなくなる。
﹁さってと⋮⋮。どうしようかな⋮⋮﹂
鍵には紙が結び付けられていて、それを開いて読んでみれば、そ
の住所が事細かに書かれていた。総一郎はあらかじめ渡されていた
タブレットを開き、地図を頼りに歩き始めた。
アメリカ。イギリスに比べて、現代を強く意識させる風景である。
日本の都市部にも似通っていた。アメリカらしいと言えば、らしい
のかもしれない。人種のサラダボウルと言うべき国家的特色のため、
先住民族を除いて特有の文化が存在しないこの国は、ただ合理化を
突き進むしかないのだ。
故に、目に入るのはビルの山。それなりに整備された道。車が車
道を行きかっているのを見て、これらほぼすべてがコンピュータに
制御されているという事実に実感が湧かなかった。自動車という乗
り物は、総一郎にとってかなり縁遠い物なのだ。
早足で混ざりあう雑踏の端を進む。都会だなぁ、などとしみじみ
1806
思ってしまう。前世の日本が、丁度こんな感じだった。無機質な環
境である。だがその中で妙なものを見つけて、おや、となった。
総一郎が発見したのは、とある少女である。ナイよりも背が低く、
恐らく小学二・三年生ほどだろうか。買い物袋らしきものを持ち、
仏頂面の癖に鼻歌を歌いながら歩いている。襟首に﹁JVA﹂と書
かれたバッチがつけられていて、ああ、アレが。と納得させられた。
黒い髪を見る限り、日本人なのだろう。
というか、黒い髪よりも先に目に飛び込んで来るものを側頭部に
装着していた。
仮面である。おかめの、仮面だ。
﹁⋮⋮すっごい似たものを見た事ある﹂
横を通り過ぎていく少女。総一郎はそわそわとして、地図そっち
のけで﹁あの﹂と声をかけた。振り向いた彼女に、しゃがんで目線
を合わせる。
﹁すいません。ちょっとお尋ねしてもよろしいですか?﹂
﹁⋮⋮うん? それは、私に対してか?﹂
一応英語のまま尋ねると、あまりに可愛らしい声で、同時に酷く
硬い口調のそれが返ってきた。何となく、連想。彼もこんな感じの
英語使いそうだ。
﹁はい。えっと、その⋮⋮﹂
1807
何と言っていいものか、声をかけてから言いあぐねてしまう。す
ると少女は怪訝そうな表情をして、襟元のバッジをつまんで強調。
﹁先に言っておくが、私は日本人だぞ。拉致などという愚かしい行
為は止めておく方がいい。これは老婆心からの忠告だ。お前も若い。
犯罪に手を染め、無残に殺されるなど嫌だろう﹂
﹁うわぁ⋮⋮。すごい、電話越しに話した時よりパワーアップして
る﹂
﹁うん? どういう事だ?﹂
﹁えっと、だね⋮⋮﹂
もはやその素性は、疑うまでもないだろう。総一郎は、直球に行
くことを決めた。軽く頭を下げて会釈する。
﹁どうも、直接会うのは初めてだね。般若清ちゃん。俺の名前は、
武士垣外総一郎。数年前にちょこっと話したことがあるんだけど、
覚えてるかな?﹂
日本語で言うと、少女の目は理解の色に見開かれていった。﹁あ
あ!﹂と手を叩き、素直な納得を示す。
﹁そうか、お前、白、白⋮⋮白何とかの弟だな!?﹂
﹁ちょっと待ちなさい。一緒に暮らしてるはずの白ねえの名前を忘
れるとは何事か﹂
裏付けも取れた事だしと、少々の怒りを交えて弱くその頬をつま
1808
んだ。清は嫌がって逃げようとしながら﹁ひょうはんは、ひょうは
ん﹂と言う。多分冗談と言いたいのだろう。解放する。
﹁まったく、反応が激しい奴だな総一郎。しかし、納得もした。中
々迅速かつ的確なツッコミだったぞ。これなら白羽の弟に相応しい﹂
﹁うん? え、何それどういう事?﹂
純粋に理解できなくて、総一郎は目をぱちくりさせる。清はその
かわいい声と硬い口調をもって、しみじみと言うのだ。
﹁あのぶっ飛んでる白羽があれだけ大切に思う相手だ。余程あのぶ
っ飛んでるボケに突っ込みを入れてきたことだろうと、前々から思
っていたのだ﹂
二回も繰り返されるほどぶっ飛んでいるらしかった。
﹁⋮⋮白ねえ、君に一体何が﹂
﹁さぁ、お前が総一郎と分かれば、行動は一つだ。最近お兄ちゃん
が﹃総一郎元気にしてるかなぁ﹄とうざくってな。何事かと思って
いたが、アレは予兆だったという訳だ。ほら、行くぞ総一郎﹂
小さな手で総一郎の左手を掴み、必死に引っ張ってくる清。口調
に反してその動作は子供らしく、微笑ましさのために﹁はいはい﹂
と肩を竦めて総一郎は追従した。
清は早足で、ちょこちょこ歩く。総一郎はゆったりとした足取り
で、のんびり進んでいた。やはりこの歳の差だと背の差も大きい。
今彼女は七歳ほどだったかとしみじみする。
1809
⋮⋮七歳で老婆心なんて言葉を使うのか。もしかしたら総一郎よ
りも頭がいいのではなかろうか。と微妙に危惧しつつ、記憶違いか
なと思いながら一つ尋ねる。
﹁そういえば、電話越しに君が付けている仮面が般若だって白ねえ
から聞いた記憶があるんだけど﹂
﹁アレは白羽の間違いだ。奴は般若とオカメの区別がつかんのだ﹂
﹁白ねえ⋮⋮﹂
何とも残念な姉である。だが、それ以上に再会が待ち遠しくもあ
る。
その時になって初めて、総一郎に実感がわき上がった。何年ぶり
であろうか。白ねえと、直接会うのは。前は、数回電話で声を交わ
しただけだった。総一郎側の事情で、姿を見ることさえ叶わなかっ
た。
だが、今は違うのだ。そう思うと、酷い高揚感があった。と、同
時に右手の疼きを感じた。血の気が引く。︱︱ああ、そうだ。そう
いえば、そうではないか。
﹁お前の話は色々と聞かされている。私からも、直接聞きたいこと
がいっぱいあるのだ。しっかと話してもらおうではないか。⋮⋮ど
うした?﹂
﹁ううん、ちょっと陸酔いが続いているだけ﹂
1810
嘘ではない。カバリストにもこの真意は見抜けない。清は言うま
でもなく﹁そうか。それは済まなかったな、急かしてしまって⋮⋮﹂
としょんぼり項垂れる。仏頂面の瞳の端が、僅かに潤む。
﹁ううん、気にしなくて大丈夫だよ、清ちゃんの所為じゃない﹂
これも、事実だ。総一郎は、改めて右腕の忌まわしさを意識した。
修羅は、人を拒む。人に近づくのを拒み、反抗する。それが、総一
郎を不安定にする。これは、人を愛せないという呪いのようなもの
だ。
それっきり無言で、歩いていた。何となく計算して、もうすぐだ
ろうかと予測する。ここいらで、沈んでしまった少女のテンション
を上げることに決めた。言葉遣いに反して中々ナイーブな子らしい。
﹁そういえば、清ちゃん。俺って未来の事が当てられるっていう特
技があるのは、白ねえから聞かされた?﹂
﹁え、ううん。そんなことが出来るのか、総一郎﹂
﹁うん。例えば、あと一分もしない内に般若家に着くでしょ?﹂
﹁おお、当たりだ。だが、少しインパクトに欠けるな﹂
﹁うん。だから、ここからが本当の予知。⋮⋮耳を貸して、清ちゃ
ん﹂
素直に耳を寄せてくる少女に、総一郎は懐かしさを覚える。昔は
内緒話がいやに楽しかったものだ。もっとも、三百年以上前の話だ
が。
1811
﹁家に着いた時の、図書にぃの行動の予言。君のお兄ちゃんは、ま
ず俺を見つけて驚き、飛びあがります﹂
﹁ふむふむ﹂
﹁その後食べ途中のバナナを落とし、踏みつけて転びます﹂
﹁なんと!﹂
﹁そして、頭を打って気絶してしまいます。しばらくすると置きま
すが、何と言う事でしょう。彼は記憶をなくしてしまったのです﹂
﹁えぇえええええ!?﹂
行き成りリアクションが年相応に変わったものだから、総一郎は
驚いて飛びのいてしまう。
﹁う、嘘だよな? お兄ちゃんが記憶なくしちゃうなんか、嘘だよ
な!? 嫌だぞ、そんな事! そんな事になったら、私嫌だぞ!﹂
﹁う、うん。そうだね⋮⋮﹂
ごほん、と咳払い。中々兄想いのいい子らしい。それはそうか、
と思わなくもないのだ。図書は、あんなにしっかりしたいい兄貴だ
ったのだから。
﹁それなら、避ける方法は一つだ。家に入ってお兄ちゃんを見つけ
たら、﹃大好き!﹄ってちゃんと伝えてごらん。そうすれば、きっ
と君の事を忘れないから﹂
1812
﹁ほんとだな? ほんとにほんとだな?﹂
﹁うん、もちろんだよ﹂
ただいまと、少女は叫んで扉を開けた。その後に、﹁お邪魔しま
す﹂とそろりそろりと付いていく。
リビングらしき扉をくぐると、丁度清が﹁お兄ちゃん大好き!﹂
と図書に抱き着いているところだった。﹁え? おいおい、行き成
りどうしたんだよ﹂と慌てつつも嬉しさが顔に滲んでいる青年を見
つける。︱︱ああ、懐かしい顔だ。
﹁折角だから、サプライズをと思ってね﹂
肩を竦めて、声をかける。彼は、顔を上げた。そして、目を剥く。
﹁久しぶり、図書にぃ﹂
﹁お、お前、総一郎、なのか⋮⋮?﹂
清を抱き上げつつ、彼は総一郎によろよろと近づいてきた。手を
上げると、しばし呆然として、不意に気づいたような笑み。パン、
と叩かれる。小気味よい、ハイタッチだ。
﹁よく帰ってきた! 総一郎! お前が来てくれて、良かった。本
当に、良かった﹂
感極まったのか、図書はそのまま男泣き。清が心配そうに﹁どう
したんだ、お兄ちゃん。何で泣いてるんだ?﹂と聞く。ただ彼は、
1813
﹁嬉しいんだよ、本当に﹂とだけ言った。
朗らかな感情。右腕が粟立つのを感じて、自制をしなければなら
ないのが辛かった。それでも抑えきれず、総一郎は図書に白羽の居
場所を尋ねる。
だが、彼はただ、知らないとだけ言った。
1814
1話 白羽の居ない日々Ⅱ
住むところを決めていないなら、ここに住むと良い。図書のそん
な勧めに従って、総一郎は図書の家にお邪魔することになった。二・
三あった空き部屋の一つに家具を揃え、ひとまず住める程度の物に
変えた。
﹁こんなものかな﹂
数日かけて、調度類を整え終わった昼下がり。薄くかいた汗をぬ
ぐい、一息を吐いた。確かに、ワイルドウッドから受け取った金は
それなりに入用だったと言える。だが、それでもまだ大量に余って
いた。
﹁俺、そんなに金使わないからなぁ⋮⋮﹂
くくっ、と伸びをしていると、ノックする音が聞こえた。﹁はー
い?﹂と声をやると、ちら、と清が覗き込んでくる。
﹁総一郎、昼飯時だ。一段落したらリビングに来てくれ。なじみの
飯屋に連れて行ってやろう﹂
﹁ん、了解﹂
すぐにドアを閉めて、すててっと足音を響かせて階下へ下りてい
くらしい清。総一郎はいまだ慣れておらず、簡単に相槌しか打てな
かった。
1815
﹁⋮⋮あの話し方、やっぱり固いよなぁ⋮⋮﹂
七歳児。琉歌にも似た、酷く可愛らしい声。そして図書以上に固
い口調。ちぐはぐさがいい味を出していると言えば聞こえはいいが、
妙な違和感があって緊張してしまう。
﹁⋮⋮大人になったら、清ちゃんには頭が上がらない気がする﹂
ぼそっと呟いて、総一郎は立ち上がった。部屋を出て、階下へ向
かう。その途中。立ち止まり、横を見た。雲の形をした、女の子ら
しい部屋の名を刻んだプレートが掛けられている。
﹃しらはの部屋﹄
陽気そうな表記に顔が緩む。マナー違反だとわかりながら、扉を
開けた。そこには、薄く埃の積もった生活感のない少女の部屋があ
った。埃がそれほどのものでないのは、図書が一カ月に一回程度掃
除をしていたからだ。
総一郎が、電話越しに彼女と話した日。あの日を境に、白羽は消
えたという。一時は友達の家に泊まっているという連絡が来ていた
のが、図書の慢心を誘った。そして︱︱それがまるで布石であった
かのように、白羽は何処にもいなくなった。
ただ、頭を下げられた。地面に揃えられたその手は震えていた。
本物の後悔がそこにあった。だから総一郎は、責めることさえでき
なかった。
﹁⋮⋮白ねえ﹂
1816
あの日国境を越えて話したことを、今でも覚えている。それは、
迷いの相談だった。そして総一郎は、その背中を押した。結果は、
失踪。死体が見つかっていないだけマシと言えばいいのか、そうで
あるからこそ残酷であると言えばいいのか。
﹁⋮⋮本当、ままならないな﹂
扉を閉め、階段を下りて行った。清はこちらを見て、﹁早かった
な﹂といいつつ手元で弄っていたらしいパズルを置いた。奇妙な形
を見ている。興味がわいたので、帰ってきたらやらせてほしいと頼
み込んでみようか。
﹁では総一郎。抱っこだ﹂
﹁あ、うん。はい﹂
ここら辺は血を感じる。抱き上げると、少女の軽さを実感する。
﹁力持ちだな、総一郎は。お兄ちゃんはわりと抱き上げてすぐに手
が震え始めるのに﹂
﹁彼も社会人なんだから、そう甘えないでやってよ⋮⋮﹂
﹁ひとまず、外に出よう。そこからは案内する﹂
人の話を聞かない少女である。しかし懐かれた証拠であると思え
ば、何となく愛着は湧くものだ。﹁はいはい﹂と財布をもって外に
出た。﹁あっちだ﹂と言うので、その方向へと歩いていく。
﹁あとこれ、総一郎の分も届いたぞ。是非付けておくといい。身の
1817
安全もばっちりだ﹂
親指を立てて総一郎の眼前に突き付ける。その掌をぱっと広げる
と、﹃JVA﹄と記されたバッチが現れた。簡単な身分証明書にも
なれば、万一の時の発信機にもなる一品。
発信機、というよりは、GPSと言った方がニュアンスとしては
正しいかもしれない。危険に際してボタンを押せば、すぐに近くの
日本人が対処に協力してくれるのだ。特に子供は外出時に着用を義
務化されている。総一郎も未成年なので、その範疇だった。
﹁何だか、不思議だな。守られる側っていうのが﹂
万感の思いで呟くと、きょとんとした声が十数センチほど離れた
所から聞こえてくる。
﹁うん? おかしなことを言うな、総一郎は。子供はみな、守られ
るものだろう? そしてその恩を、私たちが次の世代に返していく
のだ﹂
﹁君は、まだまだ若いのに含蓄のあることを言うねぇ﹂
﹁お兄ちゃんからの受け売りだ、あまり褒めるな﹂
ちょっと顔を赤くする少女。意外と照れ屋さんなのかもしれない。
﹁ここを、右だ﹂
しばらく歩いていると、清はそのように言った。総一郎は躊躇い
もなく指示に従い、その途中からきな臭さを感じ始める。
1818
今まで歩いていた街。それは、人が快く住まうために整えられた
街だった。こちらは、違う。うっすらと蔓延する、人の饐えた臭い。
捨てられたごみが散乱する道。総一郎が今まで触れてきた世界とは、
まるで異質な場所。俗の中の俗。
﹁⋮⋮清ちゃん。ここって、何と言うか⋮⋮﹂
﹁ああ、臭いは気にするな。だが明らかに嘔吐物である物があった
ら、それは流石に避けるのだぞ。偶に浮浪者が吐いていくのだ。全
く、女主人の苦労も推して知るべし、という所か﹂だから君は何処
でそんな難しい言葉を仕入れるんだ。
﹁やっぱり、これが貧民街か⋮⋮﹂
慣れていないため、落ち着かなさがあった。薄汚れた街。汚らし
い街。裏、と呼ぶのがふさわしい場所。その中をじりじり歩いてい
ると、偶に道の端に集まっている薄汚れた服の人物や、強面のスー
ツ姿の人間がこちらに視線をやるのである。絡まれても対処出来る
自信はあるが、それとこれとは別問題だ。
﹁⋮⋮今までの国と違う⋮⋮﹂
近代化。総一郎には、合わない言葉だ。表現しにくい恐ろしさと
いうものがある。都会の冷たさ、というか。そういうと、やはり自
分には都会コンプレックスがあるのか。
﹁⋮⋮いや、普通の住まいに住んでいれば貧民街は怖いって、誰で
も﹂
1819
あからさまな暴力の匂いがする。というのは偏見か。
﹁何をぶつぶつ言っている、総一郎﹂
﹁そうだ、元凶は君じゃないか! 清ちゃん、何ゆえ君がこんな所
に馴染んでるのさ。普通こういう所には絶対来ないタイプでしょ、
君﹂
小声で語気荒く問い詰めると、彼女はこともなげにこう答える。
﹁軽く拉致られたところを女主人に助けられてな。それ以来懇意な
のだ﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
よく拉致られる家系である。
﹁下ろしてくれ﹂と頼まれて、総一郎は立ち止まった。少女はてて
て、と小さな足でとある家屋へと駆け寄っていく。そこは貧民街の
一角から雰囲気が外れていた。すりガラスの大窓が、出入り口とな
っている。アメリカと言うより、これでは昭和の日本だ。
﹁ミヤー! 昼食を食べに来たぞ! 新しい客も連れて来た! だ
から美味い物を食べさせてくれ!﹂
入り口で大声を張り上げる清。迷惑だと取り押さえようとしたら、
それよりも速く甲高い声が彼女を奪い去った。黒い髪をポニーテー
ルにまとめた少女である。年の頃はよく分からないが、きっと総一
郎よりも若いだろうと思われた。かなり小柄で、清よりも数十セン
チほどしか高くない身長。大きな釣り眼が気の強そうな、酷く美し
1820
い人だった。
﹁キャー! 可愛い可愛い清ちゃん! よく来てくれたわねミヤさ
ん嬉しい! ほら、お腹もすいたでしょう? 適当な席に座ってて
いいから、店の中で温まんなさい。あ、そこの貴方もお客さんでい
いのよね? ささ、入った入った﹂
ただ、言葉遣いとかが全体的におかんっぽい。
﹁し、失礼します﹂
気後れしつつ、総一郎は店に入る。その中は、かなり活気づいて
いた。街中では仏頂面で総一郎を見つめていたような風貌の人々が、
ワイワイと賑やかに飯を掻き込みながら談笑している。清が勝手に
座ってしまったから、その隣に腰掛けた。
﹁オーダーは適当にこの中から決めてくれる? あ、横の値段は無
視していいから。脅しくらいにしか使わないし﹂
﹁へ?﹂
﹁じゃあ、またあとでねー﹂
すたたたと店の奥の方に引っこんで行ってしまう彼女。多分、ミ
ヤ、と呼ばれているのだろう。﹁えっと、あの子は⋮⋮﹂と清に尋
ねると、﹁総一郎、お前は度胸があるな﹂と言われた。
﹁ミヤは、ここの女主人だぞ。血は繋がっていないが総一郎と同い
年の息子がいる。三十年前からこの地に店を構えている、いわば人
生の大先輩だ。それをしてあの子などと⋮⋮﹂
1821
﹁えっ﹂
思わずここから伺える厨房の方に目を向ける。すると割烹着を付
けた彼女が出てきて﹁おっしゃやるぞ!﹂と気合を入れていた。そ
の顔には、老齢を思わせるものは何もない。ただ、その何処までも
人生を割り切ったような雰囲気を除けば。
﹁⋮⋮信じられないような、微妙に信憑性があるような。︱︱ごめ
ん、ギブアップ。答えは結局どっちなの?﹂
﹁私はいつそんな意地悪な問題を出したのか⋮⋮﹂
首を傾げられてしまう。総一郎としても、是非首を傾げたい。
ひとまず、メニューを開いた。先ほど彼女は日本語を話していた
が、店の中に入ってからは基本的に英語らしい。献立表も、表記は
英語だ。
どれにしようかな、と迷う。内装や手元のこれも何処となく野暮
ったいのだが、妙に安心させられた。と、うどんとの表記があった
からそれを選ぶことにして、一応値を確認する。百ドル。アホか。
﹁実際のところその二十分の一もミヤは取らないから安心しろ。う
どんは確か2ドルちょっとだったな﹂
﹁え、何それ安い。何でそんな表記にしてあんの?﹂
驚いた表情を見て取ったらしい清の言葉に、総一郎は戸惑い気味
だ。そこに、この様な声がかかる。
1822
﹁どうせ金なんか碌に払わない奴らばっかり来るんだから、どうせ
だから高い価格かいてビビらせちゃえっ、と思ったのが始まりだっ
たかしら﹂
﹁うわぁああああああ!? 出た!﹂
﹁出たって言われた。初対面の子に﹂
しょぼんとするミヤさん。それを、清が頭を撫でて慰めている。
﹁清ちゃーん﹂と泣きつく姿は何処をどう取っても姉妹だ。だが、
自然な所作でミヤさんが清を膝元に座らせると、一気に雰囲気が母
と子になる。
﹁⋮⋮不思議な方ですね、貴方は﹂
﹁私も面と向かって言ってくる貴方にかなり珍しい思いをさせられ
てるわよ。日本人でしょ? 物事ずばずば言うわねー﹂
文句のように言いつつも、からからと笑うミヤさん。容姿はどう
見ても年下の少女の癖に、その言葉遣いはやはり円熟していて、子
供までいるという。これを驚かずに、何に驚けというのか。
﹁というか、良いんですか? 料理は﹂
﹁ん? ああ、さっきのは運ぶだけだったし。ったく、あのバカ息
子。店を手伝わずに何処をほっつき歩いてんのかしら﹂
ぐちぐちと漏らす彼女に、総一郎はただ、﹁はぁ﹂と相槌を打つ
ばかり。﹁そういえば自己紹介してなかったわね﹂と少女︱︱では
1823
ないのか。ミヤさんは、居住まいを正す。
﹁どうも初めまして、貧民街でそこそこ健全に飯屋を営んでます。
ミヤ、と名乗る者です。国籍はないですが、割と丈夫に生きてます﹂
﹁かなり問題発言ですが流しましょう。俺は、武士垣外総一郎です﹂
﹁え。あの総一郎! 白羽ちゃんの弟の!?﹂
﹁え、姉をご存じなんですか?﹂
驚いて、総一郎は目をぱちくりとさせた。対するミヤさんは片手
で驚愕に開いた口元を抑え、もう片方の手で﹃ちょっと聞いてよ!﹄
という具合の所作をする。この人は行動の一つ一つがおかんっぽい。
﹁そりゃあ知ってるわよ! っていうかこの界隈では知らない奴の
方が少ないわよ! あんなぶっ飛んでる女の子、長く生きてきた私
でさえ初めて見たくらい!﹂
何故だろう。白羽の名前を聞くとき、最近なぜか毎回﹃ぶっ飛ん
でる﹄という形容詞も同時に聞く。疑問を抱いて聞いてみた。それ
にミヤさんはこう答える。
﹁そりゃあ﹃こっち﹄住まいの人は、大抵あの子に助けられてるし
ね。それだけなら天使扱いで済むんだけど、方向性が垂直方向に上
だから﹂
﹁⋮⋮斜めじゃないんですか﹂
﹁垂直によ、あれは。お金に困ってるおじいさんと借金に苦しんで
1824
る若者のために、若者の借金とは何の関係もない悪徳暴力団潰して
一挙解決するような子よ?﹂
﹁ぶっ飛んでるわ﹂
そして悪徳何とかのとばっちりが凄い。
いくら彼女でもそんな事をするのか、と訝しむ。天使だから、そ
の程度の実力があってもおかしくはないだろう。問題は人格的な部
分だ。日本に居たうちは、それなりにおかしかったが今の話ほどで
はなかった。アメリカに来て、一気に開花したのか。恐ろしい気が
してきてならない。
﹁⋮⋮でも、もう﹂
﹁いやぁ、生きてるでしょ。あの子が野垂れ死んだら絶対この辺り
で話に上がらないわけないもの﹂
軽く言ってのける彼女に、総一郎は渋い顔をする。この街に着い
て、数日。何処に行っても、白羽の名前を聞く。そして、その度に
自分の知らない彼女の話をされる。
電話で話した白羽。少し変わっていたが、それでも本人だった。
それから、二年。総一郎は、目を瞑る。
﹁⋮⋮人は、変わるか。たった二年でも、大きく﹂
少なくとも、自分は。そう思いつつ、ミヤさんに﹁うどんを一つ
お願いします﹂と頼む。続いて清が、﹁お子様ランチを一丁﹂と言
った。英語圏で育ってる癖になぜこれほど日本語に長けているのか。
1825
﹁はいはい、じゃあちょっと待っててねー﹂
立ち上がり、すてててと厨房に走っていくポニーテール。テーブ
ルに清と二人きりになって、総一郎は顎に手を当てる。
﹁あ、それ、白羽も良くやっていたな。やはり姉弟か﹂
﹁残念、多分僕の方が先だよ﹂
﹁⋮⋮僕?﹂
﹁ごめん、少し懐かしい気分になった﹂
俺、と言いなおす。肩を竦めて笑うと、清は不思議そうな表情を
した。
﹁僕、の方が何だか似合うな、総一郎は。何で俺、に変えたんだ?
そのままでよかっただろう﹂
総一郎は、誤魔化す。
﹁やむにやまれぬ事情があったんだよ。そう、これから一人称を﹃
俺﹄に変えないと、親知らずを一本生えなくするぞ、って脅されて
しまったんだ。これでは奥歯で物を噛めなくなってしまう⋮⋮!﹂
﹁何と! 私にはまだ影も形も見えない親知らずをか! それは大
変だ。私は何も聞かなかったから、総一郎も何も話してなかったこ
とにするんだぞ﹂
1826
言って、清は目を強く瞑って両手で耳を塞いだ。嘘をついて驚か
せると、彼女は子供になるのだと思った。
1827
1話 白羽の居ない日々Ⅲ
その日は、雨の日だった。
﹁⋮⋮何か、これはこれで好きになってきた気がする﹂
雨がアスファルトを叩いている。外観の為だけに取り残された街
路樹が、葉を打つ雨粒に音を立てていた。総一郎は、﹃壊れない傘﹄
を差しつつのんびりと歩いている。小奇麗な私服にリュック。向か
う先はミスカトニック大学付属校だ。受けた記憶はないが、入学試
験はパスしたことになっている。
アメリカには、日本やイギリスにあった文化感が薄い。だが、そ
の一方で人の営みが豊かに感じられるのも事実だった。都市化。発
展。そういう、円熟よりも活気を求めた人々の生きる場所。そう思
うと、これはこれで風情があるのかと思うようになる。
般若家があるミスカトニック大学付近は、かなり好条件の場所だ。
高収入でなければ住めない場所。図書は様々な人の好意と運のため
に、ここに住めているのだと語った。その点に関して、深く感謝し
ているとも。
﹁ご近所づきあいが、まだ俺全然できてないんだよな。早い所、あ
いさつ回りでもしないと﹂
出来たのは、精々ミヤさんくらいだろうか。聞けば図書も良く行
く店なのだという。横に書かれたバカ高い定価の話をすると、﹃あ
あ、何か犯罪起こすとミヤさんがそれを察知して、そいつにだけ定
1828
価を払わせるんだとか言ってたな﹄と笑っていた。外見もそうだが、
何だかんだ本名が明らかになっていない辺りも含めて、謎の多い人
である。
高校に着くと、大量に人がいた。アメリカ人と、日本人らしき人
々、大体半々くらいだ。アーカムは日本人の割合が非常に高い。何
処もそうという訳ではなく、数少ない日本難民受入れ都市であるか
らだ。
﹁入学式は無くて、行き成り授業だったっけ﹂
﹁ま、そういう感じだな﹂
突然話しかけられて、総一郎は飛びあがった。素早く振り返ると、
そこに居たのは図書である。﹁何でいるのさ﹂とつっけんどんに聞
いた。
﹁何でってのは随分と御挨拶だなこの野郎。まぁちょいと心配だっ
たってのもあるんだが、本当のところは俺の職場だからだな﹂
くいと彼は広い大学を顎で指し示す。総一郎は、それに従って視
線をやった。この街で最も大きな敷地を有する建物、ミスカトニッ
ク大学。広さは東京ドーム数個分だとか聞いた事があるような、な
いような。どうでもいいが、今の世も東京ドームを尺度にしている
とは思わなかった。
﹁図書にぃ。見栄張っちゃ駄目だよ。すぐばれるんだから﹂
﹁バレねぇよ! いや違う、真実だっての! 俺! ここの! 職
員! 何か久々に総一郎に弄られてかなり懐かしさが胸に迫ってる
1829
!﹂
﹁うわっ、キモ﹂
﹁⋮⋮うん、頭冷えた﹂
﹁分かった分かった。ごめんって。そこまでキモイとは思ってない
から。それなりそれなり﹂
﹁それなりに思ってんじゃねぇかよ⋮⋮﹂
悲しそうに項垂れる図書の背中をポンポンとやりつつ歩く。しば
らくして﹁高校はあっちの方な﹂と指で示された。
﹁いろいろ勝手が違うと思うけど、安心しろ。日本人が多いから、
割とすぐに慣れるさ。いざとなったら白羽の名前出してみ? とり
あえず、人間関係で悩むことはないと思うぜ﹂
﹁本人が居ないのに何でこんな度々名前を聞くんだろう⋮⋮﹂
﹁そりゃ、あいつがお人よしのアホだからな﹂
肩を竦める図書。何ともアメリカ染みた所作である。だが、それ
よりも総一郎は気になることがあった。気づけば、言葉が口から出
ていた。
﹁図書にぃは、白ねぇを﹃ぶっ飛んでる﹄って言わないんだね﹂
かなりの頻度で彼女を指していた形容詞。それに、彼は答える。
1830
﹁別に。そこまでヤバい奴って訳でもねぇだろ。ま、昔からアホな
のは変わりないのが残念だったが﹂
彼はそう言って、ひねた笑みを浮かべた。それが、何故か嬉しか
った。
人ごみの中、あらかじめ配られていた資料を頼りに、自分の受け
る授業を確認してそちらへと歩いていく。高校の癖にすでに大学っ
ぽいな、と思う。何せクラスというものが無いのだ。気が楽といえ
ば楽だったが、新たな土地でのこれは結構不安かもしれない。
﹁⋮⋮ふむ﹂
総一郎のために用意された、ナンバー77のロッカー。微妙にカ
バリストの影がちらついてウザったかった。何だろう。遠回しの嫌
味だろうか。
﹁まぁ、いいけどね﹂
荷物を入れる。鍵を閉める。そして教科書だけもって所定の授業
に向かおうとする。すると目の前にはメガネをかけた少女が総一郎
のことを睨んでいた。
﹁⋮⋮えっと?﹂
﹁あ、すいません∼。⋮⋮日本人の方、ですよね∼?﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
1831
睨んでいたというよりは凝視されていたらしく、彼女は酷く穏や
かに話しかけてきた。間延びしたような話し方だと、総一郎は思う。
今まで、関わり合いの無かったタイプだ。ちょっと戸惑う。だが、
続く彼女の言葉が総一郎の緊張を取っ払った。
﹁もしかしてですけど、武士垣外白羽さんの、ご親戚の方でしょう
か∼?﹂
﹁えっ、は、はい。弟、⋮⋮です﹂
﹃何だと!?﹄
びくっ、と突然飛んできた声に竦みあがる。老若男女の混ざり合
った声である。狼狽しつつ、総一郎は周囲を見回した。その場にい
る、ほとんどの人間が総一郎に注目している。
﹁え、な、何ですか?﹂
﹁え、その、私も何となく聞いてみただけなんですけど。偶然って、
あるものですねぇ∼﹂
感心した風にメガネの少女は言う。穏やかな雰囲気だが、彼女以
外はそうでもない。﹁ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくれよ!﹂
と言いつつ近づいてくる黒人の少年。かなり背が高く、総一郎が見
上げるほどもある。
﹁あのシラハさんの弟だって!? ってことはお前、ソウチ、ソウ、
ああもう! 言いにくい!﹂
1832
﹁ソウでいいよ⋮⋮﹂
﹁いや! シラハさんにちゃんと言われてるんだ。ソウイチロウっ
ていう名前を噛まずに言えない奴は私刑ね☆ って! おし、今回
は言えたぞ!﹂
﹁俺の知らない白ねぇが再び⋮⋮﹂
一体全体何があったのか。総一郎には皆目見当がつかない。
﹁それで、お前はソウチ、ぐぁああ!﹂
﹁いや、もううざい。ソウって呼んでくれ。無理に総一郎って呼ぼ
うとするなら考えがある﹂
﹁考えとは?﹂
﹁君の名前は何﹂
﹁オレか? ジェイコブ・ベイリーだ。みんなからはJって呼ばれ
てる﹂
﹁なら君がソウイチロウと呼ぶ限り、俺は君の事を意地でもジェイ
コブと呼び続ける。そして偶に意図的に噛む﹂
﹁⋮⋮それは、嫌だな﹂
﹁だろ? 分かったら、俺の事はソウって呼んでくれ﹂
﹁ああ。⋮⋮済まない、シラハさん。本人の意思は尊重するしかな
1833
いようだ⋮⋮。だが君に似て妙に逞しい感じは微妙にうれしいよ、
シラハさん⋮⋮﹂
﹁何だろう。無性に殴りたい﹂
筋肉質で身長もあるのに、どうにも畏怖と言うものを感じない。
ドラゴンと比べると全然小さいから、当然と言えば当然だ。
そこに、白人の少年が割り込んでくる。
﹁もういいだろ、J。みんなソウイチロウとは話したがってるんだ。
お前だけで独占するなよ﹂
﹁分かったよ。マナさんはどうする? オレはそろそろ授業がある
から行くが﹂
﹁あ、そうですねぇ∼。じゃあ私は、もうちょっとここに居ます∼﹂
黒人の少年Jはそう言って、にこやかに総一郎に手を振って去っ
て行った。何とも微妙な気分にさせられる。色々と突っ込みどころ
の多そうな人柄だ。
﹁というか、俺も授業あるから行きたいんだけど⋮⋮﹂
﹁あ、そうですか∼。ならすいませんが皆さん。どうか総一郎君に
気を遣って授業に行かせてあげてもらえます∼?﹂
﹁マナさんが言うんじゃ仕方ないな。じゃあ、ソウイチロウ! い
ろいろシラハさんの話聞かせてくれよ!﹂
1834
そんな風なことを言い残して遠ざかる十人弱の人々。というかあ
の中にさらりと教師が混ざっていることが非常に不可解だった。ど
ういう交友関係なのだろう、白羽は。しかもJ以外適度に静かで統
制が取れていた。本気で謎だ。
﹁すいませんね、総一郎君∼。みんな白ちゃんが居なくなっちゃっ
て寂しがってるんです∼。どうか、許してあげてくださいね∼?﹂
﹁あ、はい。まぁ、別にそこまで嫌って程ではないですよ。⋮⋮え
っと、マナさん?﹂
﹁あ、わたし、東雲 愛見って言います∼。貴方のお姉ちゃんとは
仲が良かったんですよ∼。だから、困ったことがあったら是非わた
しに相談してくださいね∼﹂
﹁あ、それはどうも。よろしくお願いします﹂
﹁こちらこそ∼﹂
互いにお辞儀し合ってその場は分かれた。総一郎は一人授業に向
かいつつ、首を傾げる。
﹁⋮⋮この釈然としない感じは一体﹂
湧き上がる謎の不快感。総一郎は胸のむかむかする感覚を抱きな
がら授業へと向かう。
広い校舎を、正しい道をカバラで計算しつつ歩いた。迷う事はな
かったが、迷路のような建物だとも思った。大学付属の金がかかっ
ている学び舎故、その景観は騎士学園にも迫る見栄えの良さと、そ
1835
れ以上の居心地の良さがあった。歩くのが楽しいと感じたのは、日
本の実家以来だ。
目当ての教室を発見。着席し、すぐにチャイムが鳴った。多少新
入生という事で先生自身の挨拶はあったが、本当にそのまま授業に
入った。内容は少し難しかったが、総一郎にとってその作業は思い
出すという方が近い。イギリスの時からある程度はやっていたもの
だから、そこまで苦労することはなかった。そして久々の数列が楽
しい。超楽しい。
﹁カバラ自体に罪はないよねー﹂
いくつか授業をこなしていると、遭遇した数学。授業で出される
問題を、本来の解き方と、カバラを用いた十通りの解き方で何もか
も判明させる。へぇ、この問題を作った人、セロリが苦手なんだ。
﹁⋮⋮セロリ⋮⋮?﹂
隣の生徒の声に、総一郎はピシッと固まった。横を見ると、少女
が困惑気味に﹁やァ﹂と手を上げる。酷く愛らしい顔つきである。
丸っこくて、ひょっとすれば年下にも見えた。黄色人ではあったが、
微妙に日本人ではない。ひとまず、﹁やぁ﹂と返しておく。
そして、彼女は指で総一郎のノートを指し示す。
﹁それで、これが何なのか教えてくれるカナ? 何でこの問題から
この膨大な数字と、そこからアルファベットで﹃セロリ﹄が出てく
るのか﹂
微妙に、イントネーションに特徴があった。中国人かな? と当
1836
りを付けつつ答える。
﹁はは、恥ずかしいな。ただの悪戯書きだよ。ほら、あの先生太っ
てるでしょ? 何かセロリが嫌いそうだなって思って﹂
﹁ヘェ、ボクも嫌いだヨ、セロリ。アレ苦いよネ﹂
﹁ちなみに俺はセロリよりマーマイトの方が嫌いかな﹂
﹁ンー、ベジマイトなら食べたことあるよ。あれもマッズくってね
ェ﹂
嫌いな食べ物トークで通じ合って、互いにクツクツと笑いあった。
先生の厳しい視線がこちらを向いて、取り繕うようにぴたっと姿勢
を正す。
その後あまり時間が過ぎない内に、チャイムが鳴った。﹁折角だ
から一緒にランチにしようヨ﹂と彼女は誘ってくる。﹁いいよ﹂と
答えつつ、名を聞いた。﹁人に名を聞くときは、自分から名乗るも
のだろう!﹂と滅茶苦茶流暢な日本語で返された。
﹁⋮⋮えっと?﹂
﹁あ、アレ⋮⋮? 伝わらなかったカナ? 君、日本人だよネ?﹂
﹁う、うん。いや、そのネタ自体にも聞き覚えが全くないわけじゃ
シィェンウェン
ないんだけど、ちょっとびっくりして。君、日本人だったの?﹂
タン
﹁ウウン? ボク、留学生なんダ。名前は湯 仙文。で、好きなも
のは日本! ジャパニーズ! ほら、見て見て! 小遣いハタイテ
1837
JVAバッチも買ったんだヨ! やっぱりこれがあると夜道も安心
して歩けて良いヨネ! しかもこれ、夜だと微妙に光るんだヨ!﹂
﹁あれ、そうなの? あ、俺の名前は武士垣外 総一郎。よろしく
ね﹂
あまり女の子らしくない名前である。ふと気になって、カバラで
彼女の事を割り出し始めた。これは、総一郎の野性的な勘に起因す
る。何処か、怪しいと思ったのだ。
そして、少年は内心硬直した。
彼女︱︱いや、﹃彼﹄、男ではないか。
﹁武士! ニンジャの次に格好いい名前だネ! ヨロシク! イッ
ちゃん!﹂
﹁い、イッちゃん?﹂
﹁あだ名だヨ! いやーボクって幸せ者だナァ。いきなり日本人の
友達が出来るんだかラ。今度魔法見せてネ!﹂
随分とハイテンションな彼は、そのまま総一郎の手を取った。そ
のまま、スキンシップとばかり腕を抱きしめる。何かいろいろ危な
い気配を感じて、総一郎は苦笑しつつ距離を取った。
何だろうか。彼女︱︱じゃない、彼に対して、何か己の内側から
立ち昇るような感情があったのである。そんな素気ない行動に、彼
は頬をむくれさせる。そんな表情もかなり可愛いのが困りものだ。
頭を振って思考を正常化。素直に彼の人柄を評する。
1838
剽軽で、愉快な人だ。そういう人間が総一郎の好みだから、とい
うのも大きいかもしれない。しかし、と総一郎は振り返る。思考が、
仙文から他者へ飛ぶ。
思えばJや愛見だって、愉快の範疇に入りそうなものである。だ
が、何故かそれを否定したい自分が居た。いつもなら、少しでも友
好的な人間ならすぐに好評価を下すのに。
カフェテリアで数ドル払って食事を貰う。席に着くと、すぐに﹁
おーい!﹂と呼ぶ声。何となく物理的に上から落ちてくるような声
には、聞き覚えがあった。
﹁来たな、J﹂
﹁何故か微妙に敵視されてるみたいで辛いぜ⋮⋮﹂
妙に警戒した声色が出て、総一郎自身驚いていた。彼の言うとお
り敵視、とまではいかないのだが、何故か素直に心を開こうと思え
ない。実際的なことを言えば誰にも開けないのだけれど。
Jはその逞しく黒光りする腕で、持っていた大量の食事を総一郎
の隣に置いた。不自然な配置である。せめて向かいに座れ。
﹁あ、ここに居たんですね∼、お邪魔します∼﹂
すると今度は愛見が現れ、総一郎の向かいに座った。何だかぎっ
ちり感が凄い。
﹁イッちゃん。友達が多いんだネェ﹂
1839
感心した風に、仙文は言った。それに、片眉を上げて﹁ん?﹂と
食いつくJ。
﹁イッちゃん? 誰だ、それは﹂
﹁彼の事サ。えっと、君は? ボクは湯仙文﹂
﹁オレはジェイコブ・ベイリー。イッちゃんの友達ってんならオレ
の友達みたいなもんだ。Jでいいぜ。イッちゃんとはその姉のシラ
ハさんを通じて知り合ったんだ﹂
﹁わたしも、イッちゃんとは白ちゃんつながりですねぇ∼。よろし
くお願いします、東雲愛見です∼﹂
﹁ちょっと待とうか。いつの間にイッちゃんで定着した﹂
あんまり大人数で呼ばれたくない愛称である。少人数なら許容範
囲だが、この勢いだと知らない人に﹁イッちゃん﹂と呼び掛けられ
そうで嫌だった。
学校が終わり、家に帰るとすでに図書がリビングで寛いでいた。
﹁帰ってくんの早いね﹂と言うと、﹁今日は教授の機嫌悪かったか
ら逃げてきた﹂とカラカラ笑う。
﹁どうよ、学校。上手くやってけそうか?﹂
﹁⋮⋮うん。人間関係で苦労することはなさそう。かなり無碍に扱
わない限り良くしてくれそうな、気のいい人たちばかりと友達にな
ったよ﹂
1840
﹁白羽の友達か?﹂
﹁うん。三人の内、二人は。一人は、たまたま話して仲良くなった
んだ﹂
﹁良かったじゃねぇか﹂
にかっと図書は総一郎に微笑みかける。だが、少年は素直にそれ
に応える気にはなれなかった。
それを察知して、図書は﹁何か問題があるのか?﹂と聞いてくる。
総一郎は、少し躊躇ってから、結局答えた。
﹁⋮⋮みんなが白ねえのこと知っててさ。それは、嬉しいんだよ。
掛け値なく。でもさ、変じゃない? 白ねえは失踪しているんだよ
? それをして寂しいだの何だのと、心配する奴はただの一人もい
やしない⋮⋮! みんな、白羽白羽って言ってるくせに、まるで転
校でもしていったみたいな気軽さで! 確かに俺だって白ねえがそ
れなりに強い事は知ってるさ。でも、強いだけじゃあ駄目なんだ。
頭が良くたって、どうにもならない事もある﹂
その語気は、次第に荒くなった。どうしても、自分のトラウマが
よぎる。白羽が自分のような辛い目に遭っては居ないか。それだけ
が心配だった。それほどに心配だった。
﹁⋮⋮なるほどなぁ。やっぱり、総一郎はそうだよなぁ﹂
そんな少年の思いに、しみじみと図書は言った。少年は、﹁どう
いう事?﹂と顔を上げる。
1841
﹁白羽を昔から知ってる奴は、失踪している今が嫌なんだ。心配で、
不安だからな。でも、この町で知り合った奴。清なんかもこの部類
に入るのかな。そう言う奴は、どいつもこいつも心配してない。何
故なら、白羽は﹃ぶっ飛んでる﹄からだ﹂
あいつの逸話聞いたか? と彼は聞いてくる。
﹁一石二鳥のところを三鳥落とした話は聞いたよ﹂
﹁ああ、アレもハラハラさせられたなぁ。でも大抵の奴らはスゲェ
っつって目をキラキラさせてやがる。他には、こっちきたばっかの
時に亜人差別でクラスの奴に生卵ぶつけられて、報復に籠いっぱい
の生卵を持っていったら最終的に全員と仲良くなった話とか、スラ
ムのクソ餓鬼に襲われた後成敗して、紆余曲折の末に青空教室やっ
た話とかあるぜ﹂
﹁⋮⋮うわぁ⋮⋮﹂
中間の情報が省力され過ぎてて経緯が全く掴めなかった。だが、
ただ一つ言えることがあるとすれば︱︱
﹁な、﹃ぶっ飛んでる﹄だろ?﹂
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、黙り込む。事実、自分でそう思ってしまったのが悔し
かった。けれど、それほどまでに破天荒で奇抜な白羽を、少年は知
らない。ちょっとすっ呆けて、元気で、愛くるしい彼女しか、彼は
知らない。
1842
﹁総一郎、お前の感情は正しいよ。けど、待ってる以外に方法もな
いんだ。落ち込みすぎるな。いつかきっと、帰ってくる。そう信じ
るしか、出来ることなんてないだろうが﹂
﹁⋮⋮そう、だね。うん、その通りだ﹂
総一郎は頷いて、階上の自室へ向かった。一段一段、昇っていく。
白羽も幾度となく昇降しただろうこの階段。一瞬止まって、彼は呟
くのだ。
﹁⋮⋮白ねえ。君は本当に、﹃白ねえ﹄なのかな﹂
再び、昇り始める。総一郎は扉を開け、そして音が立たないよう
に強く閉めた。
1843
1話 白羽の居ない日々Ⅳ
騒音が、新しい我が家のリビングで渦巻いていた。テーブルに散
らかされたスナック菓子の山。テレビは勝手につけられ、三人の内
二人はまるで自分の家かのように寛いでいる。一人で帰宅しそんな
状況に出くわした総一郎は、半眼に引きつり笑みで問いただした。
﹁⋮⋮で、何で君たちここに集ってるのかな?﹂
﹁いいじゃんいいじゃん。気にするなよイッちゃん。そんな風に頭
硬いとシラハさんみたいになれないぞ?﹂
﹁そうですよ∼。もっと寛容に生きましょう?﹂
﹁あ、アハハ⋮⋮。一応止めたんだけどネ、ボクも﹂
見るからに図々しい黒い肌の高身長、J。意外に図々しかったメ
ガネとおさげの日本人、愛見。そしてそれなりに常識のあるらしい
可愛らしい少じ、⋮⋮年の中国人、仙文。勝手に上り込んできやが
った、ミスカトニック大学付属校での新しい友人たちである。
﹁まぁ、いいけどさ。白ねえと仲良かったってことは、多分この家
にも何回か来たことあるんでしょ? 勝手知ったる場所なら、多少
は納得がいくよ﹂
﹁何回かどころか毎日入り浸ってたぜ﹂
﹁そうですねぇ∼。白ちゃんは基本的に家に人を呼ぶのが好きです
1844
から﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
正直、微妙に合わない感があるけど気にしない。友人とは、普通
時間をかけて関係を深くするものだ。彼らの場合白羽を介した又聞
きで親愛の情にずれが生じているに過ぎない。例えば、ローレルに
今のようなことを言われたら自分は苛立つか︱︱否である。
そんな風に自分を納得させ、総一郎は寛容になる。元カノの事を
思い出して少しブルーになったが、それもひとまず捨て置いた。彼
らは電磁型テレビを見て指さし笑いをしている。何やらコメディで
もやっているようだ。総一郎も見ていると、クスリと笑えた。
そこに、玄関のしまる音。視線をやる。どうやら図書が帰って来
たらしい。
﹁たっだいま∼、っと。おお! なんか懐かしい顔がちらほらと!
うっわ愛見ちゃんも! よく顔出せたな﹂
﹁あ、はい。色々ありまして∼。あとでお話ししますね∼﹂
小さくお辞儀をする愛見。確か彼女は白羽と同い年で、言うなれ
ば先輩という事だった。ちなみにだが、Jは同い年である。その割
になじみ過ぎではないかとも思ったが、入学する以前からそれなり
に入り浸っていたらしい。何でも、スポーツ推薦であるとか。頭の
ほどからしても納得である。
﹁何か酷い事思われた気がするぞ﹂
1845
﹁ははは、ワイルドな君ならスポーツ推薦も納得だって思ったんだ
よ﹂
﹁お、そうか? いやー、褒められちゃったよ﹂
﹁よかったですねぇ∼﹂
物は言いようである。
﹁そういえばさ、君たちってどんなふうにして白ねえと知り合った
の?﹂
もともと、昔の白羽の話が聞きたい、という名目だったはずだっ
た。それで家に来る来させないという話になったのだったが、図書
と面識があるならそこまで目新しい事もないだろう。
むしろ、彼らの知る白羽に対して、興味があった。﹁ごめんね内
輪の話で﹂と仙文に謝る。﹁いいんだヨ、有名人だから、ボクも名
前だけなら知ってるし、興味もあるんだ﹂と気を利かせてくれた。
仙文、もしかしたらものすごく良い奴なのかもしれない。
﹁そういう事なら、おれじゃなくてジャパニーズ二人組の方が向い
てるだろうな﹂
﹁まぁ、﹃電脳魔法﹄があるからな﹂
﹁そうですね∼。じゃあ、ちょっと私出します∼﹂
言いながら、愛見は空中で指を下にスライドした。総一郎、きょ
とんとする。彼女はしばらく見えない何かをいじってから、最後に
1846
﹁えっと、図書にいさん?﹂と催促した。彼はすでに動き終わって
いて、﹁ほらよ﹂とビー玉ほどの大きさの球を渡す。
ぱち、という小さな音。精神魔法であると、感づいた。そして、
そこから立体的に映し出されるモニター。そこには、記憶よりも成
長した白羽が満面の笑みを浮かべて、幸せそうにみんなで笑ってい
る。
﹁何年か前に、バーベキューをやった時の写真だな﹂
﹁はい。あの時、楽しかったですよね∼﹂
くすくすと、二人は笑っている。総一郎は、その写真に目を奪わ
れていた。真っ白で長い髪。あまりに美しい、その朗らかな笑み。
そう思う一方で、総一郎は眉を顰める。
何かが、変容を起こしている。白羽の中に、総一郎からは不純物
が見出される。
﹁⋮⋮変な顔して、どうしたよ総一郎﹂
﹁え? ああ、いや﹂
目ざとい図書にバレて、どう取り繕うかと思案する。一秒弱。戸
惑いがちに、﹁あの﹂と言う。
﹁コレ、どういう操作で出したの?﹂
﹁え? 電脳魔術で、ちょちょいと﹂
1847
﹁電脳魔術って何さ⋮⋮?﹂
﹁え?﹂
﹁あっ、あー!﹂
愛見のきょとんとした声と図書のいかにも﹁忘れていた﹂と言う
絶叫。彼は両手を合わせて深く頭を下げる。少し、般若の面の突起
が手にぶつかっている。
﹁すまん。マジすまん。すっかり忘れてた。そうだよな、総一郎イ
ギリスで日本の義務教育課程が若干抜けてたんだもんな。ごめん総
一郎﹂
﹁いや、そこまで謝らなくてもいいけどさ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮総一郎君、電脳魔術使わずに生活してきたんですか?﹂
愛見の間延びが消えるほどの重大事件だったらしい。﹁う、うん﹂
と頷く。
﹁それは、辛かったでしょう。ごめんなさい。気づいてあげられな
くて﹂
﹁あの、重病人に対するような態度止めてもらえます?﹂
一応年上なので敬意は払うが、結構この人も突っ込みどころが多
い。
﹁で、結局何なのさ? 電脳魔術って﹂
1848
﹁うーん。⋮⋮めっちゃ便利なネットと言うか。いい表現が思いつ
かないから、愛ちゃんパス﹂
﹁簡単に言うとですね∼。精神魔法とコンピューターを併用して、
頭の中にパソコンを作っちゃおう、というものですよ∼﹂
﹁あー、何となくわかった。俺、脳内の精神魔法で作った計算機で、
二・三百ケタ程度の計算が出来るけど、大体そんな感じでしょ?﹂
﹁うん? ああ、うん⋮⋮。多分あってるだろうけど、何でそんな
ものを﹂
﹁呪文は?﹂
尋ねる。教えられたとおりに唱えると、目の前に視界を覆い尽く
すような電磁ディスプレイ染みた物。その中心では、﹁ようこそ﹂
の字が輝いている。なるほど、と思った。本当に、頭の中でのパソ
コンという訳らしい。
﹁お前初めてだよな? 使うの。中学生になるまでは使えないんだ
けど、今なら簡単に登録できるだろ。そこから先は、何だ。適当に
使って慣れてってくれ﹂
﹁雑な説明ありがとう。んー、じゃあぼちぼちやっていくかな﹂
軽く弄ってみる。登録は、名前を入れるだけで完了してしまった。
確認してみるが、コンテンツ自体は前世のそれと比べてもあまり遜
色ない。この程度なら慣れるも何もないだろうと判断して、手を払
う。精神魔法を基にしているだけあって、単純な操作なら説明なし
1849
でも行えた。
﹁その様子だと案外抵抗ないらしいな﹂
﹁うん。結構使い勝手良さそうだし。しかし、凄いね。アメリカで
開発されたの?﹂
﹁いいえ∼? 三十年前からあったそうですよ∼?﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
なんだか悲しくなった。
仕方がないので、話題を戻して白羽の話を聞いた。明るい、彼女
の話。数個聞いたが、彼女は必ず何かしら問題を起こし、それを垂
直方向に上の回答をもって自分で解決するという事が知れた。稀有
な少女である。
もし失踪していなくて、お互い、この家で再会したとしたら。︱
︱どう思うのだろう。総一郎は、彼らの話を聞きつつ考えてしまう。
総一郎の知らない内、ヒーローのように変わった白羽。その外見
は、いっそう美しくなっていることだろう。天使。開花して何年も
経った今、彼女はどれほどの力を有しているのか想像もつかない。
街中ですれ違ったとしても、自分は気付けないのではなかろうか。
そんな思いが、少年を惑わすのだ。
1850
可憐な、少女だった。
均整のとれたすらりと伸びるその体型。整った顔立ちは言うまで
もなく、見事なのはその長く赤い髪だった。緩くウェーブした、そ
のブロンド。亜人でもなければ自然に有り得ない髪色は、しかし実
に豊かに少女を彩っていた。
﹁何よ、じっと見て﹂
少女は、授業前に一人、席で本を読んでいた総一郎に話しかけて
きた。そして、横に座る。その時は仙文も愛見もJも居なかった。
視線も集っていなくて、二人きりであるともいえた。
﹁きれいな髪だね。地毛?﹂
真紅と言っても過言ではないその髪色。肩を竦めて尋ねると、彼
女は釣り眉を顰めて総一郎を睨みつける。
﹁バカなこと言わないでくれる? 亜人がこんな堂々と人前に出ら
れる訳ないじゃない﹂
﹁これは失敬したね。あまりに見事で見とれてしまった。でも、ナ
ンパしている訳じゃないんだ。すでに心に決めた人がいるから﹂
ぷっ、と彼女は吹き出す。
﹁あなた変わってるわね。褒めておいて、自分には彼女が居るって
普通言う? まぁいいわ。これも何かの﹃縁﹄って奴かも。私はエ
ルヴィーラ・ムーン。ヴィーでいいわ。あなたは?﹂
1851
﹁総一郎・武士垣外。ソウでいいよ。にしても、日本語に興味があ
るの? ﹃縁﹄ってさ﹂
﹁この街を大きく変えちゃったもの。それなりに、よ﹂
そんなヴィーのこまっしゃくれた物言いが、何ともおかしくて総
一郎は笑った。それに﹁何よ﹂と不満げな彼女。
この地に移ってから、今まで接してこなかったタイプの人間とよ
く知りあう。彼女も、その一人だった。
彼女とはその授業で一緒しただけで、次の授業は別々だとすぐに
別れた。だが、彼女の言う縁なのか、昼食時に一人で食べているヴ
ィーを発見。隣に腰を下ろして、﹁やあ﹂と声をかけてみる。
﹁あら、びっくりした。ソウじゃない。良く会うわね﹂
﹁これも縁って奴だよ、きっとね﹂
﹁ふふ、あなた結構ユーモアがあるタイプ?﹂
﹁んー⋮⋮。いや、周囲の方が騒がしいからいっつもツッコミやっ
てるよ﹂
﹁嘘。意外﹂
﹁本当だよ。そうだね、多分あと十秒もしない内に︱︱﹂
指を立てて、軽く予言してみる。だが、その途中で危機感を抱い
てカバラを使った。精神魔法での演算。素早く動き、その場から飛
1852
び退る。
﹁イッちゃん! ようやく見つけ︱︱ガゴッ!?﹂
Jが総一郎の座っていた椅子に激突。﹁うぇっ!?﹂とヴィーが
凄い声を出して仰け反る。揺れる赤い髪と、その下で伸びる黒く大
柄な少年。総一郎は疲れて仕方がないというため息を漏らしつつ、
Jの伸び切った背中に足を乗せる。
﹁こういう事﹂
﹁え、ええ⋮⋮。納得したわ、って、アレ? あなた、J?﹂
﹁んぁ、⋮⋮あれ、おまえアバークロンビーのガールフレンドじゃ
なかったか⋮⋮?﹂
﹁ああ、振ったわ。だからあいつと私は無関係﹂
﹁そりゃまた。何でって聞いてもいいか?﹂
﹁そうね⋮⋮。音楽性の違いよ﹂
バンドか。
﹁んー、いまいち関係が見えないんだけど⋮⋮﹂
総一郎の苦言にJとヴィーは﹃ああ﹄と異口同音に遠い目をした。
何があったのか、とジト目を向ける。
﹁いや⋮⋮な、こいつの︱︱元彼か。その元彼がおれと犬猿の中で
1853
な。うん。その何がムカつくってスペックが高いくせに亜人差別者
なのがもう腹が立つったらないんだよ!﹂
思い出したムカついてきた、という様子で、Jは思い切り自分の
膝を叩いていた。ヴィーも、﹁アレは、何というか、ねぇ⋮⋮﹂と
あきれ顔。対して総一郎は微妙な顔をする。
﹁亜人差別者⋮⋮って、やっぱりこの街にもいるんだ﹂
﹁いっぱい居るわよ。今日初めて会った時も言ったでしょ? でも、
この街を回してるのが日本人になりつつあるから黙ってるだけ。J
VAも怖いしね﹂
﹁道理で見ないなと思ったら。そんな怖れられてるの? JVA﹂
﹁銀行強盗十数人がたった五人のJVAに現行犯逮捕されてるのを
見た事あるぞ。でもすごいよな。JVAって一般人なんだろ? 一
応つまりジャパニーズならあの状況を誰でも打破出来たって訳なの
か﹂
﹁魔法って反則よね。あんなの、マシンガンとか手榴弾の携帯を義
務付けてるようなものじゃない? そんな社会で良く成立で来たと
思うわよ﹂
﹁確か、小学校からそういう訓練受けるって聞いた事あるんだが、
イッちゃんは受けたのか?﹂
﹁あー、と﹂
赤髪少女と黒人少年から質問が飛んでくる。答えづらいと思って、
1854
少し戸惑う総一郎。言葉を練って、回答する。
﹁義務教育の一環ではあるよ﹂
結果として、嘘は言わないでおいた。無難な言葉である。
話題は巡り巡って、再びそのヴィーの元彼の話になった。基本的
には悪口大会だ。途中で愛見や仙文もきて、特に愛見は積極的にそ
の話題に参加していく。分からない総一郎と仙文は偶に相槌を求め
られる為、一応話に耳を傾けなければならなかった。
﹁⋮⋮何だかナァ﹂
﹁その気持ち、よーく分かるよ、仙文﹂
﹁ありがとう、イッちゃん⋮⋮﹂
周囲がズレているせいで、どんどんと仙文と仲良くなっていく気
がする。頭の位置がローレルと似通ったところがあって、かなり話
しやすい相手だった。顔も好み︱︱と考えた時点で総一郎はこっそ
り精神魔法。自身を正常化してから、もういいや、と自棄になって
二人で勝手に会話を始めた。
すると特別相槌を求められることもなく、それぞれが和気藹々と
歓談している、という状態になれた。︱︱そう暢気に構えていられ
たのは、総一郎側でない方のグループから怒号が聞こえた時までで
ある。
﹁ふざけるな! 大体お前はいつもいつも!﹂
1855
﹁えっ、はっ?﹂
総一郎は戸惑い気味に振り返る。すると、四人の内に一人白人少
年が混ざっていることに気が付いた。かなりの美丈夫である。ちょ
うどいい精悍さを湛える肉体を、シンプルな服で包んだイケメン。
これはJが嫌いそうな相手だ。と勝手に思う。かなりの偏見である。
今の言葉を発したのは、状況から判断してJのようだった。彼ら
しくもなく、表情をゆがませて白人少年に指を突きつけている。対
する彼は、首を微妙に傾げた余裕ある態度で、半眼をもってJを睨
み付けていた。
﹁おい、だから落ち着けって言ってんだろ? オレの考えどこか間
違ってるか? 分かりやすく言ってくれれば直すからよ﹂
﹁直すも何もないだろうが! 亜人に対して人種隔離政策なんて⋮
⋮! お前、アメリカ史の先生がそんなに嫌いだったのか! 泣い
ているぞ、草葉の陰で!﹂死んだのかアメリカ史の先生。
﹁っていうか、は? どういうこと?﹂
﹁ん、何だお前。こいつらの仲間か﹂
﹁まぁ、そんな所だけど。それで、何? 君が人種隔離政策の事を
持ち出して、こんな事になってるのか?﹂
人種隔離政策とは、恐らく語る必要もないだろうが、南アフリカ
などで行われた黒人差別の悪法である。いや、黒人だけではない。
つまるところは多数派の白人による白人以外の差別である。白人と
そのほかの人種の結婚は認められず、他にも白人以外投票権が無か
1856
ったり賃金の差が酷かったり、と言った具合だ。
差別、人種隔離。そういうものを聞くと、総一郎はイギリスの事
を思い出す。カバリストたちが、陰謀をもって排除したもの。イギ
リスにおける亜人戦争にて富を蓄えた、差別心に塗れた新興貴族た
ちの一掃。
少年に目を向ける。﹁どういう事? 詳しく説明してくれないか
な?﹂と極力怒りを押し殺して尋ねる。
﹁だからよ、そもそも亜人をっていう言い方自体がちょっと誤りな
んだけど。オレが言ってるのは、ジャパニーズ全員の隔離だ。いや、
言い方が悪いな。住み分けと言っておく。何せ、ジャパニーズがこ
の街に来てからかなりアーカムは荒れたんだ。もともと一時的な避
難でこっちに来たんだろ? 準備を整えたら日本に戻る計画もある
って聞いてる。だが、お前らはどうもここに根を張っているように
見えてならない。それも、JVAなんていう暴力的な組織を立ち上
げて、だ。こっちはいつアーカムがジャパニーズに呑み込まれるの
かって冷や冷やしてんだよ。早く出て行ってくんねぇかな﹂
嫌悪丸出しなその言葉。総一郎は、確かにその言葉にいら立ちを
覚えた。その一方で、冷静な視点からの言葉であることも感じ取る。
この白人少年は教養のある人物だ。あくまでアメリカ人の視点を持
ったまま、現状社会の問題の一解決法を挙げているに過ぎない。
だが、Jはその言葉にただ単に腹立たしげにしているばかりだっ
た。ヴィーは呆れ顔で顔を抑えている。意見がどうのこうのという
よりも、何故喧嘩を売るのかという感じだ。愛見や仙文は純粋に引
いていた。
1857
﹁それはつまり、ジャパニーズは差別を受けろってことか、アバー
クロンビー! 笑わせるな! お前の言っていることは極端なんだ
!﹂
﹁お前の方が言っていること極端だろうが、J。誰が差別なんて言
った? ジャパニーズには経済軍事、共にアーカムだけでは到底太
刀打ちできないほどの強さがある。とてもじゃないが雑には扱えな
い、そういう状況下の今であるからこそこの解決案を指摘している
訳でだな﹂
﹁だから!﹂
再び平行線の言い合いを始める二人。正直アバークロン何とか
︵惜しくもその先を記憶できなかった︶の意見も極端なのだが、そ
れでもJに比べれば建設的だ。ともあれ、自分は初めから関わるこ
とではなかったか、と考えて再び仙文と話し始める。
すると、愛見が総一郎の事をつついてきた。﹁何ですか?﹂と聞
くと、言い合う二人を指して言う。
﹁黒白罵詈合戦﹂
﹁紅白歌合戦みたいに言わないでください﹂
亜人のお蔭で守られた日本文化って多いんだなぁとかちょっと思
った。笑点然り。
1858
1話 白羽の居ない日々Ⅴ
ミヤさんの店に、清と訪れていた。
﹁じゃあ、魔法を使った面白い遊びを教えてあげよう﹂
﹁うん! さぁ、どんと来い!﹂
放課後。人のいない時間帯だった。先ほどまでミヤさんは厨房で
皿洗いなどをしていたが、今はそれも終わったと見えて何やら端っ
この席に座って縫物をしている。妙に絵になる姿だと思った。やは
り、彼女は容姿がいかに幼くともオカンである。
ともあれ、そんな彼女に場所を借りて、清と戯れる。ワクワクと
した様子の彼女は、目を輝かせながらオカメの面を揺らしていた。
﹁今回教える遊びは、精神魔法での悪戯ね。学校のお友達に使った
ら盛り上がるかもしれない。けど、気心の知れない相手には使わな
いように。もしかしたら本気で怒るかもしれないし。特に小学生の
男子辺りは﹂
﹁何をするつもりだ?﹂
﹁ひとまず試しに︱︱、猫語から行こうかな﹂
﹁?﹂
総一郎は精神魔法をカバラで弄り、発動させた状態で清の額にや
1859
さしく触れた。﹁完了﹂と微笑むと、清は一層首を傾げる。
﹁これがどうしたというにゃ? にゃ!?﹂
突然ついた語尾に少女は狼狽。あわあわと手をパタパタさせてい
る。猫耳を付けたらパーフェクトだったのに、と今更ながらに少し
後悔した。持ってこないにしても作れる状態にしておくべきだった。
﹁にゃんにゃ!? にゃにが起こってるにゃ!? にゃにゆえ普通
にしゃべれにゃいにゃ!﹂
﹁これが精神魔法の怖い所なんだよ。自分に掛けられた魔法が分か
らないと、解くのが難しい。大抵は﹃自己洗脳﹄で元に戻るけど、
特殊なやつは出来ない事もあるからね。ちなみに今回は解ける奴だ
から、落ち着いて自己洗脳の詠唱で解いてみよっか﹂
﹁にゃ、にゃん⋮⋮!﹂
短い肯定の言葉はすべて﹁にゃん﹂に変換されてしまう清。ぶつ
ぶつと詠唱を口にし、魔法が発動する。
﹁戻った⋮⋮か? うん! 戻った!﹂
﹁そうそう。という訳で次はワンちゃん﹂
﹁わん!?﹂
前言撤回。清と遊んでいたのではなく、清で遊んでいた。
﹁総一郎って結構サディストよね⋮⋮。流石、白羽ちゃんの弟﹂
1860
﹁流石って何ですか流石って﹂
いつの間に用意したのか、ミヤさんは大量のフライドポテトを載
せた皿を手にこちらの席に歩いてきた。﹁差し入れよ。御代は結構﹂
とテーブルに置く。そして彼女も席に座り、一本取ってカリカリと
やり出した。随分と馴染むのが早いお人である。
総一郎もそれにならってポテトを食らう。ほくほくしつつも塩が
きいていて、シンプルにうまかった。
﹁白羽ちゃんの弟ってだけで、ちょこっと変人でもそれほどじゃな
さそうかなって思ってたのよ、私。いやー、見る目がなかったわね。
総一郎。あなた、自信持っていいわよ﹂
﹁そんな自信持ちたくないです。というか何を根拠にそんなことを
言うんですか失礼な﹂
言い返すと、彼女はくつくつ笑いだす。その所為で真っ黒なポニ
ーテールが揺れた。もう少し背が高かったら似合う気もするのだが、
彼女の外見年齢は、その髪型に対して幼すぎるきらいがある。恐ら
く、世辞でも﹃若い﹄というべきなのだろうが。
﹁一目見ただけでは分からない部分っていうの? 御贔屓になって
るからだんだん分かって来たわよ。総一郎が白羽ちゃんに負けず劣
らずな所。多分同じ道を辿る気するのよねー。そこがちょこっと心
配っていうか﹂
﹁何が言いたいのかさっぱりですよ﹂
1861
﹁いい? 総一郎。今までどうだったか知らないけど、この街には
あなたの仲間がいっぱいいるわ。絶対に裏切らない人が、ちゃんと
いる。その事、忘れないようにね?﹂
﹁⋮⋮﹂
黙らされた。その様に、総一郎は思った。身を乗り出して行って
きた彼女の目は、油断のない、顎を引いた上目遣いだ。清はきょと
んとして﹁わん?﹂と首を傾げている。こちらの悪戯は自己洗脳で
取れないタイプにした弊害だ。
疑って、よもやと思われるワードを投げかける。
﹁⋮⋮カバリスト﹂
﹁⋮⋮んー。何を勘ぐってるのか分からないけど、とりあえず違う
わね。年食ってるからって、大人が何でも知ってると思うんじゃな
いわよ? ︱︱ま、私の事なんてどうでもいいのよ。第二どころか
第十二、三の人生やってるロートルなんだから﹂
少女の姿をしたその女性は、あまりに無邪気で快活に笑った。総
一郎は、眉根を寄せる。ただ非常な老獪さと取るべきか、否か。カ
バラを使ってもいいが、これから長い付き合いになるだろう人に、
それは失礼かと考えて断念した。
どっと疲れた気分で、息を吐き出した。﹁どうしたわん?﹂と清
は言う。可哀想なのでいい加減語尾を取った。﹁元に戻った!﹂と
嬉しそうにする清の頭を撫でる。すると、少女はミヤさんに向かっ
て問うのである。
1862
﹁ミヤ。総一郎はどうしたのだ? というか、今の会話は何だ?﹂
﹁んー? 清ちゃんがかわいいなーって二人で話し合ってたのよ﹂
﹁嘘だ。明らかに人生の教訓的な事を話していた﹂
﹁本当にそう言える? 実はね、さっきまでの会話はカモフラージ
ュなの。言葉の端々に暗号を仕込んで、精神魔法で一瞬解析して特
殊な意思の疎通を図っていたの。貴方も高校生になったらやるのよ
?﹂
﹁そうなのか! 凄いな! というか、そんなカモフラージュしな
ければならないほど私をほめるって、その、あう⋮⋮﹂
赤くなって顔を抑える清。﹁かーわーいーいー!﹂と叫んでミヤ
さんが強く少女を抱きしめた。
その時、店の扉が開いたのか、来客を知らせる鈴の音が鳴った。
振り返ると、おずおずと言った風に入ってくる小柄な影。総一郎は、
それに見覚えがある。
﹁あれ、仙文。こんな所でどうしたの?﹂
﹁アレ!? イッちゃんじゃないカ! それにセイチャンも。奇遇
だネ、こんな所で会うなんて欠片も思っていなかったヨ﹂
小柄な彼女、もとい、彼はてとてとと駆け寄ってきた。﹁お知り
合い?﹂とミヤさんが訪ねてくる。﹁学校の友達なんだ﹂というと、
にやついて笑みで﹁へぇ∼?﹂と言った。
1863
店主は、間違いなく勘違いをしている。
﹁一応お聞きしますが、ここは⋮⋮料理屋でいいんですよネ?﹂
﹁ええ。顔なじみしかいないからダレちゃってね。あなた、お昼は
まだなら食べていく? 御代は安くしておくわよ﹂
﹁あ、本当ですカ! アリガトウございます!﹂
輝かしく愛らしい笑顔を振りまいて、仙文はお辞儀をする。それ
にミヤさんは、驚いた風に口元と胸を抑えた。うん、分かる。何せ
男だと知っている自分でさえ偶にほだされかけるのだ。誰も間違っ
ていない。もちろん己自身も、と少年は自己正当化を図る。
﹁イヤー、嬉しいなァ。まさか休日までイッちゃんと一緒に居られ
るなんて﹂
﹁大袈裟だよ、仙文﹂
﹁ううん、そんなことないヨ! 何せ、イッちゃんはアメリカで一
番の友達なんだカラ!﹂
言いながら、そっと手を重ねてくる。その微笑みの可愛らしさ。
欠点が多い友人たちに囲まれている中で、仙文だけが常識人で愛ら
しいのだ。仲良くなったって何もおかしくない。﹁うん、俺もそう
思ってるよ﹂と答えてしまっても何も問題はない。
そしてとうとう、ミヤさんが言ってはならないことを言った。
﹁何よー、すでにラブラブじゃない。いつから付き合い始めたの?
1864
二人は﹂
﹁ら、ラブ⋮⋮? エ、あの、ぼくは男ですけド⋮⋮﹂
長い、沈黙が下りる。総一郎一人だけいたたまれず、明後日の方
向を向いて視線を伏せた。
﹃えェぇええええええ︱︱︱︱︱︱!?﹄
店主ミヤさんと清の声が重なった。仙文が明らかに傷ついた表情
になる。
﹁ちょっ、ちょっと待ってくれ! え? いままで何度か家に来て
いたよな? 仙文だよな?﹂と清。
﹁う、ウン⋮⋮。というか、何度もあってて知られてなかったとい
う事の方が、ボクとしてはちょっとショックだったよ⋮⋮﹂
﹁だっ、だって誰も教えてくれなかったんだもん!﹂
清は慌てすぎて幼児っぽい言葉遣いになっていた。﹁いやー﹂と
ミヤさんも口を挟む。
﹁私の近くにも、昔女の子かと思うくらいかわいい男の子が居たけ
どさぁ⋮⋮。言葉遣いとか行動とかが男らしすぎて勘違いとかされ
なかったのよねぇ。対してあなたは行動すらかわいいっていう⋮⋮﹂
﹁う、ウウゥゥゥゥゥゥウウウ⋮⋮﹂
ショックすぎて頭を抱え始める仙文。多分だが、総一郎以外誰も
1865
気づいていなかった可能性が高い。総一郎だってカバラが無ければ
気が付かなかっただろう。
﹁ま、まぁ嘘だって否定されるよりは良かったじゃないか。驚きは
あったけど、一応真実として受け入れられたんだから﹂
﹁え、私総一郎があさっての方向向きながら苦笑してなかったら、
絶対信じなかったわよ?﹂
﹁同じくだ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そ、それだけ君が魅力的だってことだよ! 男で女の子と間
違われるなんて、つまり美しい外見をしているってことじゃないか
! いいかい、仙文。美しさも醜さも、他人から性別を隠すんだ。
途轍もなく醜い女性をして男と間違える不届きな輩だっている。対
して、君のように魅力あふれる少年を、女性だと勘違いしてしまう
事もある。これは欠点じゃなく武器だよ! そこのところを、はき
違えないでほしい﹂
仙文の肩を掴んで力説する。フォローを入れざるを得ない空気だ
ったし、彼じ、もとい、彼の涙など見たいとは思わないからだ。
それに、仙文は少しだけ励まされたのか、﹁えへへ⋮⋮﹂と涙目
ながら微笑んでくれる。
﹁ありがとう、イッちゃん。ぼく、まだ少しショックだけど、それ
以上に励まされたよ。それに、君はぼくが男だってわかってて、そ
の上でこんなに優しくしてくれるんだもんね。本当に、ありがとう
ね、イッちゃん⋮⋮﹂
1866
仙文は総一郎の手を柔らかく両手で握り、少し涙を拭ってから穏
やかに微笑む。それを見て﹁こんな可愛い子、女の子でも見た事な
いわよ⋮⋮!?﹂と戦慄するミヤさんや、﹁やっぱり嘘だ。仙文は
女の子だ。そうに決まってる!﹂と言い張る清の声は、音魔法で強
制的に遮断した。親友を守るのは当然の義務なのである。
それからしばらく彼らと雑談をしていた。すると﹁そろそろうち
の放蕩バカ息子をとっちめに行く時間だわ。悪いけど、店仕舞いに
していいかしら﹂とミヤさんが両手謝りをしてきたので、﹁いえい
え、ありがとうございました﹂と日本人っぽい会話を経て解散と相
成った。そこで清が﹁もうちょっとミヤと一緒に居る﹂とわがまま
を言い、ミヤさんがそれを容認した為、総一郎は一人で帰宅という
事になった。
﹁ごめんネ、イッちゃん。ぼくも途中まで一緒したいんだけど、ち
ょっと用事があっテ⋮⋮。今度は一緒に帰ろうネ! 約束ダヨ!﹂
﹁はいはい。そこまで必死にならなくても分かってるよ。ばいばい
仙文。ミヤさんも、清ちゃんの事よろしくお願いします﹂
﹁任せておいて。さ、清ちゃん。うちの稼業もろくに手伝わないバ
カ野郎をとっちめてボコボコのけちょんけちょんにするわよ﹂
﹁アイアイキャプテン!﹂
別れの挨拶をし、それぞれ、散り散りになっていく。総一郎は振
り返り、すでに夜の闇が満ちつつあるスラムに一人残されたという
事を知った。
﹁⋮⋮不安って訳じゃないけどさぁ⋮⋮﹂
1867
この街に、単身ドラゴンを殺せる人間は少ないだろう。だから、
身の危険はない。その一方で妙な居心地の悪さがあるのは、今まで
触れてきた人間の闇とは、また一風違っているからなのか。
貧困。総一郎は、それによって追い込まれている人間に、現世は
勿論、前世でも接したことが無い。明日の食事にも事欠く。ミヤさ
んが居るからそういう人間はこの周囲には居ないと聞くが、言い換
えれば離れたところに居るという事だ。
一応習慣として付け始めた、襟首のJVAバッチを見つめる。日
本人の、この地の亜人差別に抗うという決意の証。ただ簡素に、J
VAと書かれただけの鉄製のバッチ。中央に、効力を有しているこ
とを示す赤い光が灯っている。
これがあれば絡まれることはそうそうないとだけ言われていた。
すでに何回かスラムに来ているから、顔も割れている。問題を起こ
す人間ではないと、認識されているはずだった。その証拠に、道で
立ち話をするいかつい顔のスーツの集団や、路上で蹲る浮浪者の視
線は、初めてここを訪れた時に比べて格段に少ない。
総一郎は、一人で街灯にも照らされない路地を歩く。スラムにだ
って、電燈のある場所はある。そこは無い場所よりは安全だ。だか
ら、そこへ向かおうとする。
歩く。足を踏み出す。進んでいく。一人だと、やはり慣れない。
清が居るだけであんなにも安心感があるのだと、今更に気付いた。
相も変わらない、妙なにおい。今日はそれに加えて、気味の悪い声
さえ聞こえ始めた。
1868
甲高い、声である。女性の物だとだけ、分かった。その声が何処
となく悲痛に感じて、総一郎はカバラを使う。それをきっかけに、
自分は事件現場の近くに居ることを知った。
﹁⋮⋮この、アナグラムは﹂
駆け出す。道筋はすでに割り出してある。道の不気味さに気を回
す余裕も、消えていた。蔓延るは焦燥。間に合えと祈る一方で、叶
わないことも知っていた。
路地。薄暗く、汚泥の溜まるような場所でもあった。その、最奥。
総一郎は目を凝らす。
荒ぶる、一匹の獣。人間の形をした、理性無き畜生。そして、抵
抗できないでいる女性。エルフであると、総一郎は思った。だが、
妙な事にバッチが見つからない。その所為だ、と思った。その所為
で、罪もなく汚されることとなった。
腰を振るけだもの。脱力し、すすり泣くことしかできないでいる
女性。総一郎は、その蹂躙に強い怒りを覚えながら路地の奥へと足
を踏み出した。脳裏によぎる虐待の記憶。踏み出した足は、思った
以上に音を発した。
﹁誰だ!﹂
男は、振り返る。外見自体は、普通の人間だった。カバラで分析
しても、突出するところのない人間。だが、往々にしているものだ。
人間の皮を被った、豚というものは。
最初睨み付けるような態度だったその男は、総一郎の胸元のバッ
1869
チを見つけるや否や、竦みあがって必死に両手を振り始めた。下半
身丸出しで、無様だと総一郎は見下す。
﹁あ、ぅあ、ち、違うぜ!? アンタ日本人で、日本人にエルフが
多いのは俺だって知ってる! でも、こいつは違う! JVAバッ
チもない、ただの亜人だ! 亜人は人権が無い。なら、何をしても
勝手だろ!? あ、そ、そうだ。こいつ、随分具合がよかったけど、
も、もしよかったらお前もやるか?﹂
吐き気が、した。肥溜めのような輩だと、総一郎は思った。そこ
に、男の向こうで、女性が生気の無い目でこちらを見つめているこ
とが分かった。少年は、見つけて歯を食いしばる。汚れた白と、あ
まりに儚い赤。彼女は、言う。
﹁殺して、下さい。こいつも、私も﹂
﹁分かりました。お望み通り﹂
﹁は?﹂
﹁お前の様なクズは、死ぬべきだという事だ﹂
光、音魔法によって、総一郎、男、女性の三人全員の姿を外側か
ら覆い隠す。そして総一郎は、汚らしい男の頭に触れた。電気魔法
による原子分解。原子同士の接着剤たる電子が全て飛びちり、男は
空気に混ざっていった。青白い電気が、コンクリート上を走って消
えていく。女性は、悲痛な声で続けるのだ。
﹁次は、私を⋮⋮﹂
1870
﹁ええ、分かっています﹂
頭に触れる。そして、魔法を使った。電気ではない。精神魔法だ。
忘却の魔法。女性は意識を失って倒れ込む。それを、ローレルの事
を思い出しながら丁重に寝かせた。次にするべきことを把握するた
め、やむなしと彼女のあられもない姿を子細に確認する。
﹁⋮⋮やっぱりか。可哀想に﹂
破られた服を、作り直して着せる。そして、彼女の失われた、あ
るいは傷つけられた部分を、生物魔術で復元した。さらに、彼女に
悪意を持たない人間にのみ見破れる、精神魔法、光魔法を合成した
結界。仕上げに水魔法で汚れを徹底的に取り除く。彼女の体内も、
余すところなく。
総一郎は、そこまで終えてやっと立ち去る決心がついた。その際、
気を失ったままの女性に告げる
﹁お望み通り、殺しました。男も、﹃汚された﹄あなたも﹂
足早に、進んだ。胃の、ムカムカするような感覚がぬぐえない。
失踪したまま消息のしれない白羽を想い、胸が締め付けられた。彼
女は強い。だが、例外が無いなんてことは有り得ない。総一郎は、
怖くて、悲しくなる。そこに、通り過ぎる者がいた。
﹁ありがとな、イッちゃん。スラムは、お前を歓迎する﹂
総一郎は立ち止まり、振り返った。ちらと見えた、その黒い肌。
総一郎は、動揺する。誰にも見えないように作った、光、音の情報
遮断。その上、見覚えのある姿と聞き覚えのある声、口調。総一郎
1871
は、急いで彼を追う。その男性は、奥の角で曲がって見えなくなっ
た。少年は追いすがる。
だが、結果は出なかった。
言葉を、失う。そこには、誰も居なかった。長く狭い一本道だ。
逸れる脇道すらない。総一郎でさえ、ここまで痕跡を残さず姿を消
せない。光魔法で隠れていても、母譲りの目はそれを見透かすはず
だった。
﹁⋮⋮J、なのか? しかし、何故﹂
呟く。総一郎は、顎に手を当てた。癖。白羽にも、移ってしまっ
たというこの所作。
翌日、Jを探してスラムでの出来事を問い詰める。だが彼は知ら
ないと言い、カバラもまた、その言葉が真実であることを示してい
た。
1872
1話 白羽の居ない日々Ⅵ
図書が、リビングで特番を見ていた。
空腹で、二階の部屋から降りてきたところだった。何やら興味深
く感じ、総一郎は吸い寄せられる。画面外のリポーターは、やせぎ
すで目つきの鋭い男性をインタビューしているらしかった。右上に
は、﹃亜人による凶悪犯罪を追う!﹄とテロップが出ている。
﹁これは?﹂
﹁ん? ああ、北米一番のホットスポットアーカムで、取材をやろ
うってんだとよ﹂
﹁⋮⋮ホットスポットっていうのは、何? 皮肉として?﹂
﹁もちろん。総一郎が来るちょっと前までひどかったんだぜ? 今
は鳴りを潜めてるけど、昔の惨状を知ってる奴は、どいつもこいつ
もいつまで続くかって思ってるくらいだ﹂
テレビに映るその人物は、刑事であるらしかった。隣に、見るか
らにロボットな存在が付き従っている。しかし、総一郎は街中でこ
んなものを見た事が無いのだ。図書に問うと、こんな返答がくる。
﹁アレはあの刑事さん特注のそれだよ。あの刑事さん自体結構有名
な人でな。リッジウェイ警部、で検索したら、滅茶苦茶出てくるぞ。
主に亜人犯罪の取り締まりで﹂
1873
﹁⋮⋮差別者ってこと?﹂
﹁んー、グレーだな。亜人犯罪対策課のリーダーなんだってよ。そ
の為にシルバーバレット社と専属契約してるくらいだ﹂
﹁シルバーバレット社?﹂
﹁魔法の防御を貫通する銃弾を作ってる会社。日本人が来て、すぐ
にその協力を取り付けて、初めて銃弾による亜人殺しを成し遂げた
世界唯一の会社だ。かなりきな臭いんだけどな﹂
ああ、と納得する。昔、本で読んだ。特殊銃、と言う奴だ。
﹁⋮⋮殺伐としてるね﹂
﹁そりゃ、ここはアーカムだからな﹂
図書はそう言ってからからと笑った。この手のジョークは、あま
り好きではない。顔をしかめると、﹁あー、すまん﹂と気まずげに
図書は謝る。手を振って、﹁いいよ﹂と告げた。
テレビは何やら青シートの敷かれた場所を映していた。そこには、
ぶちまけられたような血痕と、証拠品らしい鉄製のカードを調べる
調査官が居た。﹁またか﹂と図書は言うが、そこにはあまり嫌悪の
色が無い。﹁何が?﹂と尋ねる。すると少し面白がった風に、彼は
言った。
﹁ARFだよ﹂
﹁え?﹂
1874
図書はテレビに指を差した。画面には、そのカードに対する細か
Man﹄の文字。裏には、ただ大きく﹃ARF﹄とだけ書かれ
な注釈がされ始めていた。表面には、小洒落た狼の紋様と﹃Wol
f
ている。
﹁⋮⋮何? アレ﹂
﹁秘密結社ARF。昔JVAが潰した﹃怪物たちの宴﹄っていう亜
人だけの犯罪組織の残党の集まりっていう噂だ。亜人差別者に絞っ
て闇討ちするって所だけが違うんだが﹂
﹁あれ、略称ってことね。元の名前は?﹂
﹁Rが革命︵Revolution︶の頭文字だってのだけは分か
ってるんだが、それ以外はまだ喧々諤々だな。ちなみにARF、マ
ニアの間ではかなり人気があるんだぜ。アメコミのヴィランっぼく
てさ﹂
﹁へ、へぇ⋮⋮﹂
図書がちょっと目を輝かせ始めたので軽く引く総一郎。しかしそ
れに気付かない彼は、﹁ちょっと待ってろ﹂と言い残して早足に階
上へ登って行ってしまう。
﹁⋮⋮出かけよ﹂
興味のない事を話されても互いに嫌な思いをするだけだ。その様
に考え、総一郎は素早く身支度を整え外出する。
1875
玄関を開け放つ。今は、少し夏染みた気温だ。晴れの日だと、そ
れが際立って感じられる。
当てもなく、歩き出した。空を見上げる。青と白、半々に分かた
れている。歩を進ませていると、いつの間にかスラムの入り口近く
に居ることに気付く。ミヤさんの店に行く機会が多いから、癖にな
ったのか。
それならば、とそのまま進む。本屋の場所を把握しに歩き回って
も良かったが、今日は学校が終わってしばらく経っている。すぐに
でも日は落ちるだろう。
そこで、ふと、見覚えのある人物に出会った。
﹁ん﹂
﹁おっと、すまん﹂
きっかけは、同じ道を通ろうとしてぶつかった事だった。スラム
に入る、狭い道である。
﹁⋮⋮あれ、何処かであった顔だな﹂
少年は、少々不愛想にそう言った。総一郎は、その言葉に眉を顰
めて言う。
﹁あれ、俺もしかして今ナンパされ﹂﹁てない﹂
中々いいツッコミの持ち主らしい。ちょっと感心する。
1876
しかし、確かに見た事のある顔である。美丈夫、という言葉が似
合う少年。身長は、ソウイチロウより十センチほど大きい程度か。
日本では理想とされる背丈と言えるだろう。ふむ、と顎に手を当て
る。
﹁⋮⋮奇遇なことに、俺にも何となく引っかかるところがあるよ、
君。何処であったと思う?﹂
﹁んー。あっ、思い出した。お前、確かイッちゃんとか呼ばれてた
やつだろ。Jと一緒に居た奴だ﹂
﹁ん? J⋮⋮。あー!﹂
総一郎も、ピンと来た。彼は、Jと口論していた人物だ。確か、
日本人をアパルトヘイトしろとかほざいていた輩である。
﹁あの、Mr.極論か﹂
﹁ちょっと待て今なんか変なあだ名付けられた﹂
﹁気のせい気のせい﹂
﹁⋮⋮気のせいならいいが﹂
こいつチョロイな。
しかし、少し興味のある相手でもあった。﹁今、忙しい?﹂と聞
く。首を振られたから、﹁近くに行きつけの店があるんだ。そこで
少し話さないか﹂と尋ねる。すると彼は訝しむように口元に指を持
っていった。
1877
﹁⋮⋮もしかして、オレナンパされて﹂﹁ない﹂
前言撤回。彼、かなりやり手だ。
にやりと笑われて、こちらもくつくつと笑った。共に歩き出す。
﹁そういえば﹂と尋ねる。
﹁君、ヴィーの元彼なんだっけ﹂
エルヴィーラ・ムーン。通称ヴィー。赤くウェーブした髪を持つ
少女。どこか魔性を感じさせる少女でもあった。天性の女らしさと
いう物を纏っていると気づいたのは最近だ。
﹁ああ、振られたがな﹂
﹁あっ、そっか。ごめん、聞いちゃって﹂
﹁いや、別にいい。オレはモテるから、すぐに後釜は見つかった﹂
﹁思いのほかクソ野郎だった﹂
﹁お前も思いのほか口が悪いな﹂
互いにびっくり。目を丸くして見つめ合う。何見つめ合ってんだ
気持ち悪い、と目を逸らす。再び進む。
﹁⋮⋮というか、気のせいか? 何故か、真っ直ぐオレの家へ向か
っているような気がするんだが﹂
1878
﹁気のせいだと思うけど⋮⋮。だってただの食堂だし﹂
﹁食堂?﹂
﹁あ、着いた。ミヤさーん。夕食前に暇つぶしに来ましたー﹂
﹁はーい。あ、総一郎じゃないのいらっしゃ、何処ほっつき歩いて
やがったこのバカ息子!﹂
﹁えっ!?﹂
あまりの気迫に、総一郎は飛び退く。だが、その以上に機敏に反
応する人物がいた。言わずもがな、同行していた彼である。少年は
ダッシュで逃げ出そうとし、しかし謎の跳躍を見せつけたミヤさん
に捕獲される。
﹁クソッ、クソッ! 嵌めやがったな、イッちゃん! どうせオレ
を引っかけるようミヤに言われてたんだろう!﹂
﹁い、いや、全然そんな事はないけど⋮⋮。というか、君が噂のバ
カ息子だったのか。えっと⋮⋮。ごめん、ファミリーネーム忘れた﹂
﹁アバークロンビーだ!﹂
﹁長いよそれ。下の名前で呼ぶから教えてくれない?﹂
﹁誰が教えるか馴れ馴れしい! ミヤの手先なんかにそんなもの教
えるか!﹂
﹁君だってイッちゃんとか馴れ馴れしく呼んでるでしょ⋮⋮﹂
1879
それだけ腹に据えかねたらしい。しかし彼は抵抗も出来ずに﹁覚
えてろよぉぉぉオオ⋮⋮﹂呻きながら襟首を持たれずるずると厨房
の奥に引きずられていく。ひとまず総一郎は、カウンターに腰掛け
た。
﹁よっ、イッちゃん。奇遇だな﹂
﹁あれ、Jじゃないか。それに愛さんも。ここ、よく来るの?﹂
﹁ああ、安いし美味いし、おれの家も近いしな。よく来るのさ﹂
﹁私も、付き合いで来て、美味しかったものですから∼﹂
言いながら謎の泡立つ液体を掲げる二人。総一郎は見て見ぬふり。
Jは何となく納得できるが、愛見はメガネをかけた優等生らしい雰
囲気が、もはや完全に外見だけだという事が分かってきた。ギャッ
プの所為でJより残念かもしれない。当の本人は﹁美味し∼﹂など
と言って焼き鳥をほおばっているが。
すると、再び店の扉があいた。厨房の奥から、小さな悲鳴を押し
つぶして﹁いらっしゃーい!﹂とのミヤさんの声が響いてくる。
﹁ミヤさーん! 店の前でうろうろしてた子連れて来たわよー!﹂
﹁あれ、ヴィーじゃないか﹂
﹁あ、イッちゃん。それに⋮⋮あらかたいつものメンバー揃ってる
わね。で、この子で完成っと﹂
1880
﹁あわ、あわわっ﹂
ヴィーに投げ出された少女は、少女ではなかった。愛らしい所作、
外見。とっさに女性であると認識した自分を殴りたい。
﹁あ、イッちゃん! それにみんなモ。どうしたノ? コレ、何か
の集まり?﹂
案の定仙文である。丸く大きな目で、きょろきょろと周囲を窺っ
ている。﹁偶然だよ﹂と肩を竦めた。﹁こんな事ってあるものなん
だネェ⋮⋮﹂と目を細める。相変わらず語尾のイントネーションが
ちょっとおかし可愛い。
そのまま、仙文は総一郎の隣に腰掛けた。そして、﹁えへへ﹂と
笑いかけてくる。ぐらっ、とよろけた。この子もある意味魔性かも
しれない。
﹁あら? あらら? いつの間にか二人が物凄く仲よくなってない
かしら?﹂
にやにやと笑いながら、ヴィーはからかいつつ仙文を挟んで総一
郎の反対に座った。そういえば全員の誤解を解いてなかったな、と
目を抑える。そこで、仙文が机を強くたたいた。自然と、そこに注
目がいく。
﹁う、あ、あの、ネ。ミ、みんなに言っておきたいことがあるんダ﹂
﹁え、な、何だよ。改まって﹂とJは少々戸惑い気味に答える。
彼女、じゃない。彼は、大きく息を吸って、早口に言った。
1881
﹁なぁなぁで馴染んできちゃったかラ、今、自己紹介するネ。ぼく
の名前ハ、湯 仙文。年は十六歳、乙女座。趣味は散歩、仙術。性
別は︱︱男でス!﹂
空気が、凍った。
救えないのが、空気の凍り方が衝撃の事実の宣告にするものでな
く、寒い冗談のそれだったことだ。何を言っているんだ? と各々
反応する。本人はその反応は涙目でプルプル仕出し、その様が悲し
くて、総一郎だけが口を引き結んでいる。
自然と、妙な反応をする総一郎に視線が向かった。﹁え⋮⋮?﹂
と愛見が声を漏らす。総一郎はあまりに痛まれなくて目を伏せた。
﹁えっ、えっ﹂とヴィーが困惑する。
﹁ちょっ、ちょっと待ってくれ。イッちゃん。⋮⋮マジ、なのか?﹂
静かに、頷く。Jは、ゆっくりと総一郎越しに仙文を見つめる。
涙目で見つめ返し、激しく頷く彼じ、彼。
﹁か﹂と言って、Jは崩れ落ちた。カウンターに手を突き、ブルブ
ルと震え、声を絞り出す。
﹁可愛いと、思ってたのに⋮⋮ッ!﹂
﹁イッちゃぁぁぁぁぁああああああああああああああああん︱︱︱
︱!﹂
﹁おいJお前もう表出ろ。いい加減痛い目見させてやる﹂
1882
﹁しかもイッちゃんごとキレた!﹂
﹁こんな荒っぽい言葉遣いをする総一郎君初めて見ました!﹂
項垂れるJ、とうとう泣きだし抱き着いてくる仙文、軽くキレる
総一郎、ひな壇芸人のように驚くヴィー、驚愕のあまり﹃イッちゃ
ん﹄というあだ名すら忘れてしまう愛見。ただひたすらに、状況が
渾沌と化していく。
そんな所に、救世主が現れた。
﹁はいはい。店の中で暴れるんじゃないわよガキんちょども。これ
奢ってあげるから静かになさい﹂
出されるのは大量のポテトフライである。そういえば前回もこう
だった。やはり安価なのだろう。しかし、嬉しい事には嬉しい。
﹃⋮⋮すいませんでした⋮⋮﹄
﹁分かればよろしい﹂
全員で謝ると、満足そうに笑うミヤさん。﹁ほら、ドラ息子! ちゃっちゃか給仕なさい! アンタが働けば働くだけ店が回る、お
金が入る、アンタの夕食が豪華になる。この方程式を忘れるな!﹂
とアバ何とかに活を入れる。この名前本当に覚えにくい。
﹁で!﹂と仕切りなおしてヴィーは仙文に詳細を聞き出し始める。
詳細も何も先ほどの言葉で終わりなのだが、気持ちが分からないわ
けでもない。彼女ならぬ彼は助け舟を求めるようにこちらに視線を
1883
送ってくるが、親指を立てて逃げ出すことにした。何をどう受け応
えようと納得できるものと出来ないものがある。効果のない不毛な
事は、仙文の為でも面倒だ。
﹁イッちゃーん!﹂
﹁仙文、ガンバ﹂
﹁イッちゃーん!?﹂
カウンター席から離れ、ミヤさんが寛ぐ机に移動した。﹁いいん
ですか?﹂と聞くと、﹁偶の機会くらい休ませてよ。あー、でも久
々! ありがとうね、総一郎﹂と微笑みかけられる。
﹁ほらー! ところどころ手を抜くんじゃないわよ! アンタはこ
こで働いている時点でここの店員であり、給料も貰う立場なんだか
らね! 金貰うんだからきびきび働く!﹂
﹁チッ、分かったよ⋮⋮。そんで、時給は?﹂
﹁⋮⋮六、いや五ドル﹂
﹁ふざけろ死ね、下げんな﹂
﹁アンタが愛想振りまいてきりきりやってりゃ十ドルにまで上がる
のになー! 勤勉じゃないから上げられないなー!﹂
﹁クッソ! やればいいんだろ、やれば!﹂
言われてキビキビ掃除をする少年。総一郎は、﹁案外甘いですね﹂
1884
と言った。
﹁こういうのって、普通お金出さない物なんじゃないですか?﹂
﹁いやぁ、息子と言えどただ働きは酷でしょ。家事手伝いの領域内
でもないんだし。こいつ甘ったれちゃんだから、飴が無いと動かな
いし﹂
﹁十分働いてんだろうがよ、夜には!﹂
﹁あんなんアンタの趣味じゃない! 舐めたこと言ってんじゃない
わよタコ助!﹂
口論が面白い親子である。外見的には兄妹の癖に。
﹁そういえば、彼、下の名前って何ですか? 上の名前がどうして
も覚えられなくって﹂
﹁え? あー、長いわよね、アバークロンビー。かといって下の名
前もそう憶えやすいわけじゃないんだけど﹂
﹁言わんでいい! 言うな!﹂
﹁口止め料に十ドル札をお支払いください﹂
﹁畜生!﹂
地味に高い。
﹁で、あいつの名前はね︱︱﹂
1885
ミヤさんは、仕切りなおす。肩を竦めて、大したことでもない風
に言う。実際に、彼女にとっても、そして少年自身にとっても、そ
こまで大した意味合いはなかったはずだった。
︱︱だが、総一郎にとってのみ、その名はあまりに因縁深い名前
だった。
﹁グレゴリー、っていうのよ。グレゴリー・アバークロンビー﹂
吹いた。
﹁ぷっ、あ、あははははははははは! ぐれ、ぐれごっ、くは。あ
ははははははは!﹂
﹁え⋮⋮? 何⋮⋮?﹂
呆気にとられるミヤさん。その背後で、かの美丈夫は不機嫌そう
にこちらに近づいてきた。﹁オレの名前の何が可笑しいんだ? な
ぁ?﹂と睨み付けてくる。いつの間にか、カウンター席の面々もこ
ちらに視線を送っていた。Jが、心配そうに総一郎を見た後、グレ
ゴリーを睨み付ける。﹃加勢しようか?﹄と問うているらしい。
少年は、首を振った。﹁い、いや、ぷふっ、違う。君には何の過
失もないよ﹂と肩を振るわせつつ、グレゴリーを諌める。そして、
頷きつつ言った。少々の脚色を交えて。
﹁ただ、君の名前と昔の近所の犬の名前が、一緒だっただけだから﹂
1886
グレゴリー以外の全員が吹いた。
﹁犬っ、犬っ⋮⋮!﹂
﹁あっははははははは! こりゃあいい! 天下のアバークロンビ
ー様が! 犬と同じ名前だってよ! あっはははははははははは!﹂
﹁ひーっ、ひーっ、お腹痛い⋮⋮! でも、良かったー⋮⋮! 私、
気づかない間に犬と付き合ってたのね! ちゃんと振って良かった
ー!﹂
Jとヴィーのフルボッコだ。恥辱のために、グレゴリーの顔が真
っ赤に染まる。キッ、とこちらを睨み付けてきた。
﹁イッちゃん。オレは、お前が大嫌いになったぜ⋮⋮!﹂
﹁その割に呼び方親しすぎない?﹂
﹁畜生名前教えやがれ!﹂
捕まえようと伸ばされる手を避け、総一郎はひらりと席を立つ。
そのまま、店の中を逃げ回った。一般客はすでにおらず、顔見知り
全員がその様を指さし笑っている。
そうやって、しばらく鬼ごっこをしていた。その時、急に我に返
った。それはある意味、血の気が引いたとさえ表現できた。
﹁ご、ごめん。家に何も言わずに出てきちゃってさ。夕食は家で食
べることになってるんだ。じゃあ、今日は帰るよ。みんな、また明
1887
日﹂
﹁あっ、コラテメェ! せめて名前だけでも言ってけ!﹂
﹁ソウイチロウ、適当に短く略しちゃってよ。長いでしょ、これ。
︱︱じゃ﹂
軽く手を振って、総一郎は店を出た。最初駆け足になって、しか
し走る意味もないのだと気づいて歩を緩め、しかし結局、走り出し
た。
途中で、止まる。少し前、強姦魔を﹃消した﹄場所。肌が、粟立
つ。再び、走り出した。全速力。堪らなく、急かすものが総一郎の
頭の中に居た。そのまま、スラムを数時間走り回った。
その後、汗だくになって帰宅した。﹁ただいま⋮⋮﹂と途端に活
力を失って、のたくさと家に上がった。日本人の家でも、急ピッチ
で作られたこの日本人住宅街は靴を脱ぐ造りになっていない。
﹁おう、お帰り。お前話の途中でどっか行きやがって。飯は準備で
きてるけど、食うか?﹂
﹁そうだ、総一郎が早く帰ってこないから、私はお腹がすいたぞ。
どうしてくれる﹂
﹁あ、うん⋮⋮。頂くよ﹂
﹁⋮⋮何だか、元気ねぇなぁ﹂
不安げな表情で、図書が総一郎の顔を覗き込んでくる。一瞬、隠
1888
そうとした。だが、首を振る。彼の目を、しっかり見た。そして、
問う。
﹁夕食終わったら、ちょっと相談事があるんだ。乗ってくれる?﹂
総一郎が話したのは、白羽のことだった。誰もその身を案じない、
なのに多くの人間から慕われている、そんな彼女の事。
総一郎だけが、取り残されたように焦燥に駆られている。一時は、
忘れられた。しかし、ふと我に返って、焦り出す。そして何もでき
ない自分に打ちひしがれるのだ。
図書は、そんな総一郎の様子を見て、﹁こりゃ、何とかしてやら
ねぇとな﹂とため息を吐いた。捜索の手伝いをしてくれるのかと聞
けば、違う。届け出を出していて見つからない以上、自分が動いて
も何にもならないから、と言っていた。
﹁見たところ、お前は何かしらしたいんだろ? じゃあ、そこから
解消させなきゃならないと思ったんだ。白羽を見つけられればそれ
が一番だろうが、それが出来りゃこんなに悩まなくて済むってもん
だよな、総一郎﹂
だからよ、と彼は言う。
﹁白羽の部屋、漁って良いぜ。つーか、白羽自身許可は出してたん
だよなぁ。ほれ、あんにゃろうの置手紙だ﹂
渡された封筒入りの紙。総一郎は、それをその場で開けなかった。
1889
目を閉じ、そして開く。ここは、白羽の部屋だった。
﹁⋮⋮﹂
彼女の匂いなど、全くしない。ただ、年月を置いた埃の臭い。し
かしそれでもマシな方だ。図書が、定期的に床掃除程度はしている
らしい。
総一郎は、ベッドに腰掛ける。舞う、埃。手紙を、開いた。そこ
に書かれているのは、ごく簡単な事だ。
﹃総ちゃんへ。この手紙を読んでいるという事は、私はすでにその
場から居ないでしょう。ってこれじゃあ私死んでるみたいじゃんア
ホか。
生きてます。絶対、生きてますから心配無用です。でも、心配性
な総ちゃんの事だから、必要以上に考え過ぎちゃうかもしません。
だから、ヒントを置いておきます。そこから私にまでたどり着けた
ら大金星﹄
下に記されたのは、たった一つの物事だ。総一郎は、その場所へ
赴く。
﹃クローゼットの最下﹄
掴み、開いた。
そして、眉根を寄せる。
﹁⋮⋮これは、木、か?﹂
1890
手に取って、持ち上げる。木の塊。だが、触れて気付くものがあ
った。乾いた声で、笑う。
﹁これ、桃の木だ⋮⋮﹂
はは、と笑う。ハハハ、と笑った。声は何処までも高くなってい
く。そして、総一郎は決めた。
﹁白ねえ、俺、何があっても君を見つけるから﹂
寂しい。総一郎は左目からのみ透明な涙を流す。懐かしくて、本
当に寂しいのだ。
﹁白ねえ。君に会えれば、きっと俺は﹂
それ以上は、口をつぐむ。総一郎は、孤独だ。表面上の友人たち
は居る。だが、それでも総一郎は孤独の中にあった。
修羅。右目を瞑る。
1891
2話 ウッドⅠ
アーカムと言う街には、表と裏がある。表に住んでいるものは、
例えスラムに踏み込んだって裏に触れることはそうない。逆に裏に
住んでいるものは、繁華街を歩いていたって裏に掴まれ引きずり込
まれる。
若者は、裏に住むものだった。この地に生まれたアメリカ人。生
まれた頃からスラムに住んでいた。
裏に居を据える人間は、少なくない。特に、アーカムと言う街に
置いては顕著だ。ただし、最近、と前置きしなければならない。そ
れは、ひとえに魔法などという滅茶苦茶な技術を体得した、ジャパ
ニーズ、という連中が大量にこの街に流れ込んできたからだ。
奴らはこの街の経済をかき回し、今までのトップを地に沈めたく
せに、結果的には失職者を減らした。裏に置いても、この街の闇に
紛れていた化け物どもの姿を暴き、衆目に晒し、その上で赤子の手
を捻るがごとく始末した。
それら化け物どもは、裏に置いて頭目のような存在だった。恐ろ
しいが目障りと言うほどでもなく、あるいは、ギャングのボスとし
て尊敬していたのかもしれない。
だから、安価な指輪型携帯機︱︱指紋認証部分を指でこすると立
体ビジョンの出てくる携帯機︱︱通称EVフォンに映る﹃フィース
ト・オブ・モンスターズ﹄幹部全員の現行犯逮捕のニュースを見た
時、体中から力が抜けるような思いだった。魔法という技術がそこ
まで強力なのか、と思わされた。東の小さな国としか思っていなか
1892
った。チャイニーズとの区別もついていなかったのだ。
だから、何だという話ではない。要は、ジャパニーズは渾沌の街
アーカムを大きく変えた。アメリカ政府が難民を指定都市に絞って
受け入れたのは本当に正解だったと思う。今の大統領は有能だ。被
害を狭めて、甘い蜜だけはきっちり吸い取ろうというのだから。
﹁ま、待て。待ってくれ。俺はここに居合わせただけなんだって。
こいつらを売ってどうこうなんて考えてない。ほら! 俺、JVA
バッチ付けてるだろ? これは金を払うだけじゃ貰えない。ちゃん
と審査があるんだ。それ、お前なら知ってるだろ? ⋮⋮ウルフマ
ン﹂
真夜中の裏路地。周囲に散らばる人間の死体と、そいつらに売ら
れようとしていた人権を持たない亜人たち。
若者の命綱を果たす、このJVAバッチも甘い蜜の一つだった。
アーカムにおいて最も恐れられる組織。だが、案外そこに所属する
ことが簡単だと来た。これを利用しない手はない。少なくとも、若
者のように﹃コスい商売﹄をするような人間にとって、これほどあ
りがたいものはない。
目の前の闇に立つ、二メートルは優にある巨大な狼。
二足歩行で、鋭い目をした、ただただ圧倒的な存在感を持つ化け
Man﹄。奴に、奴一人に、若
物だった。﹃化け物たちの宴﹄の新しい世代とも言われている。A
RFの、幹部の一人。﹃Wolf
者以外の人間全員が殺された。
﹁居合わせただけ、だと?﹂
1893
何処か、若々しい声で唸って、ウルフマンは若者の顔を覗き込む。
事実、そうなのだ。若者はその場に居合わせただけ。ウルフマンに
殺された奴らとは顔見知りですらなく、かといってそいつらに売ら
れようとしていた亜人の身内という訳でもない。
若者の仕事は、斡旋だ。奴らが仕事をすることを知っていて、そ
れが成功するか否かを調べていた。成功すれば、ここはARFに目
を付けられていない安全な場所という事になる。繰り返すが、若者
は居合わせただけだ。ただ、それが意識的であっただけというだけ。
﹁⋮⋮ふん、裏があるが、一応は真実と言ったことろか﹂
﹁は、はは⋮⋮。何でこう、見透かされちまうかね﹂
﹁⋮⋮まぁ、いい。お前の様なのをつぶしても、キリがない。今回
は見逃してやる。さっさと行け!﹂
その吠え声に、身の毛がよだつ思いをする。若者は、本能的にそ
の場から退散した。必死でその場から駆け出す。月が照らし出すそ
の影だけが、追従していく。
﹁は、はは、ははは。助かった。助かったぜ、畜生!﹂
しかし、若者は笑っていた。こういう、ギリギリの状況で生き残
る時、言いようのない快感が若者を襲うのだ。自分は無力だ。だが、
生き残っている。それが、若者にとって自らが特別であると勘違い
させる。
しばらく走って、立ち止まった。ひざに手を付き、荒く息を吐く。
1894
光の無い、スラムのありふれた路地。何処からか漂ってくる、人の
饐えた臭い。
﹁あー、疲れた。でも、とりあえず仕事は終わったな。さて、情報
をクライアントに報告して、美酒を一杯やろうかね﹂
一人くつくつ笑う。指輪型の携帯で連絡を入れてから、ポケット
に手を突っ込んで歩き始めた。ここからは、ARFやギャングも居
ない。ミヤの食堂の付近は、スラムの中でも一等安全な場所だ。
何せ、店主のミヤは化け物たちにも貸しをいくつか作っていると
いう。若者が生まれた時からあの姿で、ずっと変わらずこの街に居
た。見た目は幼い少女だが、スラムで彼女を舐めてかかる人間は居
ない。彼女も、ある意味ではこの街の化け物の一人だ。
﹁⋮⋮折角だ。あそこで飯を食うか。⋮⋮アレ、でも今の時間って
やってたか?﹂
疑問に感じつつ歩く。すると、背後から声がかかった。
﹁あの、少しいいですか?﹂
﹁⋮⋮あん?﹂
振り返る。そこに居たのは、少年だ。青い目。だが、顔立ちはほ
とんど東洋人だった。興がそがれた気分で、﹁アンだよ、お前﹂と
口調が荒くなる。JVAバッチを付けていたが、それはこちらも一
緒だ。ムカついたからで魔法を使わないのがジャパニーズである。
﹁すいません。質問なのですが、シラハ・ブシガイト、という人物
を知りませんか?﹂
1895
知っていた。スラムの有名人の一人だ。だが、答えるのが面倒だ
った。﹁知らねーよ﹂と答える。
﹁⋮⋮やはり、有名人なんですね。彼女は﹂
﹁⋮⋮は? お前、話を聞いてたか?﹂
﹁では、彼女が今居る場所を知っていますか?﹂
知らない。少年は、若者が答えるよりも先に言葉を続ける。考え
込むように、顎に手を当てながら、
﹁知らない⋮⋮か。流石にそこまで期待するのは酷だったか。では、
質問の方向性を変えてみよう。貴方は、彼女をどういう風にして知
りましたか?﹂
﹁おい、お前何言って﹂
﹁ん、ちょっとごちゃごちゃしすぎてるな。失礼ですが、直接漁ら
せてもらいますね﹂
手が、伸びてきた。それを、若者は避けることが出来ない。意識
の間隙を突かれ、少年の手は若者の額に触れる。そして、走る静電
気の痛み。﹁いってぇ!﹂と跳び退る。
﹁だ、大丈夫ですか?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮。ありがとうな。しかし、お前何処から現れたんだ
? いきなり出てきたな﹂
1896
﹁ぼんやりしてたんじゃないですか? スラムの夜は危険でしょう﹂
﹁ははは、それを言われちゃかなわないな。じゃあな、お前も早く
帰れよ﹂
﹁はい、ではお元気で﹂
﹁ああ﹂
そうして、若者は歩き去る。ミヤの店で、美味い酒を一杯やるた
めに。
総一郎に足りないのは、情報だった。
この街について、知ることが少なすぎる。せめて、常人程度にま
でもっていかなければ、白羽の捜索などできようはずもない。
故に、総一郎はスラムを歩き回り、自分とは真反対に位置するよ
うな人間を見つけ、彼から情報を提供してもらった。それによって、
少し見えたような気がする。図書が言った﹃アーカム﹄という危険
な街の事。総一郎の、知らない一面。
﹁⋮⋮しかし﹂
白羽について質問し、そこに浮き出た情報の中。出会った若者の
中で最も鮮明な記憶。﹃ウルフマン﹄。亜人なのだろう。だが、と
考えてしまう。
1897
﹁本当に、アメコミチックな存在だったとは⋮⋮。しかも人身売買
されそうな亜人を助ける、ダークヒーローって所かな。その上、こ
れはARFという組織の一幹部にすぎない。似たような手合いがい
っぱいいて、しかも組織外にも﹃怪物﹄と称される輩が複数⋮⋮。
入り乱れているね。日本ともイギリスとも、色合いが違う﹂
一人スラムの闇を歩きながら考え込んでいた。若者から奪った情
報によれば、日本人の様な極端な﹁表﹂の人間は、スラムを歩いて
さえ﹁裏﹂から弾かれてしまうという。襟につけた、JVAバッチ
を見つめる。これが、その証となるのか。
外したら、どうなるのだろう。総一郎は思案する。
﹁ひとまず、図書にぃからいくつか情報を得るか⋮⋮﹂
呟いて、つま先を自宅へと向ける。
帰宅すると、図書がリビングでメガネをかけて何やらキーボード
を叩いていた。その周辺でよく分からない人形を大量に持った清が
﹁くっ、敵の前進が止められない。撤退! 撤退だー!﹂とぶつぶ
つ言いながら人形を後退させる。
その人形の一つが﹁俺がしんがりを務めよう。みんなは先に行っ
ていてくれ﹂﹁大佐!﹂という寸劇を繰り広げてからパソコンのキ
ーボードの上に隠れた。図書の文字を打つ手を見て、大佐人形が﹁
何っ! こんな所に未確認生物が! いや、しかしこれは、利用出
来はしないか⋮⋮?﹂と何か思いついたらしかった。邪魔なくせに
無駄に面白い。
1898
﹁おー、お帰り、総一郎﹂
﹁ただいま。コーラ買って来たよ、飲む?﹂
﹁今日の俺はペッパー先生以外は飲まない主義なんだ﹂
﹁Dr.ペッパーの事をペッパー先生って言う人始めて見た﹂
﹁あ、それなら大佐が飲むぞ。ごほん。私が飲むぞ﹂
﹁はい、大佐﹂
﹁⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
一丁前に頬を紅潮させて照れているのが可愛い。
図書の隣に座って、テレビをつけた。しばらくチャンネルを回し
ていると、ニュース番組になる。ARFの名前を見つけて、手を止
めた。
﹃⋮⋮今回犯行現場に落ちていたのは、﹁ファイアー・ピッグ﹂の
カードでした。被害にあったのはホワイト社。見てください。現場
は多数の人間に破壊されたと思しき痕跡が多数残っています。これ
は﹁ファイアー・ピッグ﹂によくみられる傾向であり、今回も少数
部隊によって特定の企業などを襲撃し、その資金を強奪され⋮⋮﹄
﹁総一郎、とうとう興味が出てきたか?﹂
﹁え?﹂
1899
見つめていると、図書がニヤつきながら問うてきた。﹁ちょっと
ね﹂と総一郎は頭を掻きながら照れ笑い。﹁なら、電脳魔術でこの
事件について調べてみ? SNSで面白い事になってるぜ、きっと﹂
と教えられる。
言われるとおりにすると、いくつもの嘲笑的なコメントが見つか
った。その一部の会話を覗き見る。﹃この会社ウチの商売敵だわ。
何か親会社と裏取引しててさ﹄﹃ウチの部長だな、標的は。亜人買
いとってやりまくる変体野郎って噂あったんだけどマジだったかw
w ⋮⋮ちょっと待てよ? そしたら俺も巻き添えでARFにやら
れんじゃね?﹄﹃乙wwww﹄などと記されている。前世とほとん
どノリが同じで、人間って変わらないなぁ、とか思う。
﹁ちょっと調べればぼろっぼろ出て来るな。ま、案の定って奴だ﹂
﹁⋮⋮案の定﹂
﹁ARFは、JVA内でかなり評価が高い。その理由が、仕留める
相手に間違いがないって事。それに加えてヒーローっぽいのとカー
ドが洒落ているからっていうのが大分ミーハーだけどな。かくいう
俺も大ファン﹂
﹁ミーハーだね﹂
﹁でも、心がくすぐられる感じ、分からないか?﹂
﹁ちょっとは、分かるかもしれない﹂
﹁はっきり言えっての﹂
1900
腹部を小突かれて、﹁いて﹂と漏らす。
﹁こういう手合いって、ARFに限らずどんなのが居るの?﹂
﹁んー、まぁ色々。ARFだけなら有名どころだけで四人か五人。
他には二・三人くらいだな。ちなみに前にテレビに映ってた刑事さ
んもその一人だぜ﹂
﹁誰が一番強いとかってある?﹂
﹁ラビット一択だな。ラビット・フード。この街最強。何せ誰一人
殺さないでファイアー・ピッグを撃退したくらいだ﹂
﹃ファイアー・ピッグ﹄。先ほど出ていた、企業襲撃の怪人集団。
それを、殺さずに打ち倒す。総一郎は﹁ふむ﹂と顎に手を当てる。
どの程度強いのかがさっぱりだ。
﹁⋮⋮この街の勢力図から教えてもらっていい?﹂
﹁おしきた。前回は逃げられたからな。だが俺は、見抜いていたぜ。
総一郎が興味津々で尋ねてくるこの日の事を!﹂
﹁やっぱ眠いから寝るね﹂
﹁ごめん聞いて。お願い﹂
服の端っこを掴んで懇願される。お願いされては仕方がない。
ちょっと待っててくれ、との言葉に従って清ちゃんの寸劇に付き
合っていると︵大佐が死んだ︶、図書は上階からポケットに手を入
1901
れつつ戻ってくる。﹁こけるよ?﹂と注意すれば、﹁まぁまぁ﹂と
ポケットからカードを取り出す。
﹁あ、これ﹂
﹁ふっふっふ。ご明察﹂
机の上に広げられたのは、ARFの事件現場に置かれているとい
うカードだった。﹁どうしたの?﹂と聞くと、﹁オークション。現
場からくすねたのを複製して売ってる業者が居るんだ﹂と。世も末
だ。
﹁さぁて。どれから行く? 月夜の狩人﹃ウルフマン﹄、組織襲撃
の﹃ファイアー・ピッグ﹄、闇夜に紛れる﹃ヴァンパイア・シスタ
ーズ﹄、犯罪者狩りの﹃ハウンド﹄。さぁお前はどれから聞きたい
!?﹂
﹁図書にぃのテンションの高さの理由から﹂
﹁お前もしばらく見ない内に皮肉屋になったな⋮⋮﹂
﹁ごめんよ。でもイギリスだと皮肉に皮肉を重ねるのが日常会話だ
ったから⋮⋮﹂
﹁まぁいい。というか、アレか。最初はこういう怪人たちじゃなく、
勢力からか﹂
﹁そうだね。お願いできる?﹂
﹁ああ、任せてくれ﹂
1902
図書は、そう言って総一郎の頭に手を置いた。そうされると、懐
かしい気分になる。彼に、今日の国際情勢を教えられたこと。あの
時は知恵熱が出て大変だった。
﹁簡単に言っちまうけど、この街で最も力を持ってるのはJVAだ。
何でかってーと、日本人だけじゃなく、アメリカの親日家はまず間
違いなく金払って加盟するから。犯罪歴が真っ白だとそれだけで入
れちゃうお手軽組織だからな。その一方で身分証明書としても有用。
絶対に防衛しなきゃならないって時にはあんまり役に立たないが、
報復的な現行犯逮捕はほとんど漏らしが無いから、このバッチを付
けてる人間をどうこうしようって奴はそう居ない。例外は、ARF、
そしてラビットだ。
言うまでもない事だが、日本人にだって犯罪者は居る。そして、
そう言う奴らの中には狡猾にそれを隠す奴もいる。日本人ってのは
アメリカ人に比べて陰湿な所があるからな。そういう時、勝手に潰
してくれるありがたい奴らがラビットとARFだ﹂
﹁ARFは大分分かってきたつもりだけど、ラビットって?﹂
﹁ラビット・フード。通称ラビット。ウサ耳の付いた白のフードを
目深に被った自警団員。手にも足にもふっさふっさした手袋と足袋
を付けた奴で、身長は大体百八十センチくらい。多分男﹂
﹁趣味悪いね﹂
﹁ただ、めっちゃ強い。日本人が十人がかりで気絶させられて現行
犯逮捕なんて話を昔聞いたな﹂
﹁何でそんな事に?﹂
1903
﹁やの付く自由なお仕事﹂
﹁理解した。それ以上言わなくていいよ﹂
﹁ともかく、そんな感じだ。この街最大にして最強の勢力JVAと、
そこにメスを入れるラビットとARF。警察だって黙ってるわけじ
ゃないぜ? 普通のお巡りさんは当然、ARFみたいに暴れまわる
亜人連中を取り締まる部署もある﹂
﹁何だっけ⋮⋮リッジウェイ警部だっけ?﹂
﹁そう、よく覚えてたな﹂
﹁褒められるほどの事じゃないよ﹂
響きが何か覚えやすかっただけだ。
﹁ともかく、こう言う奴らで街は回ってるわけだ。他にもシルバー
バレット社とか教会とかきな臭いのはいくらでも居るんだけどな﹂
﹁誰に出会ったら気を付けろっていうのある?﹂
﹁総一郎がどれだけ戦える奴なのか俺には分からんからなぁ⋮⋮。
ARFの幹部は大体武闘派だけど、﹃ウルフマン﹄、﹃ファイアー・
ピッグ﹄、﹃ハウンド﹄⋮⋮。この辺りに喧嘩ふっかける様なこと
をしなきゃ大丈夫だろ。特に、﹃ハウンド﹄は手加減を知らないか
らな。ラビットが不殺主義なら、こいつは全滅主義だ。標的として
認識した相手は、絶対に蜂の巣にする﹂
1904
﹁銃なんだ﹂
﹁出会う機会は少ないけど、街中で爆音が聞こえたらハウンドだな。
こいつは白人で、アメリカ人にしては少し小さい。特殊な技術は持
ち合わせてないって言うのが考察サイトの見解なんだが、獰猛な分、
目を付けられたくない奴の筆頭だ﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
頷きながら、時間を確かめる。結構、いい時間だ。
また今度お願い、と言って、その場を去った。総一郎は部屋に戻
り、電脳魔術を展開。軽く検索をかけてみる。図書の挙げたのが有
名な幹部で、他にもカードを落としていく構成員が居ないわけでは
ないらしい。一番画像が多かったのは、ウルフマンだ。総一郎が得
た記憶のそれと完全に一致した、夜の中に佇む二足歩行の巨大な狼。
他にはバイクに乗りながらマズルフラッシュを焚いて銃撃戦とカ
ーチェイスを同時に行うハウンドの動画や、オフィスビルの一室が
爆破される写真などが見つかった。予想以上に、この街は渾沌とし
ているのだと思わされる。日常があまりにのどかだったから、分か
らなかった。
立ち上がり、白羽の部屋から拝借した桃の木の固まりに触れる。
当然だが、彼らのような組織は顔を隠す。総一郎は、目を瞑って思
い浮かべた。自分のすべき行動。表で得られない情報が、何処で得
られるのか。
JVAバッチを外す。そして、魔法で作り出した彫刻刀を握り締
める。
1905
2話 ウッドⅡ
無心で、仮面を掘っていた。
芸術と呼べそうなものを作るのは、久しぶりだ。イギリスでは、
自慰としての絵画しか書くことはなかった。そしてそれも、すぐに
終わった。僅かに右手の修羅が騒がしい。その手で桃の木に触れる
と、ジュッと焼けるような音がする。痛み。だが、大人しくなった。
﹁何をやっているのだ、総一郎?﹂
﹁⋮⋮ちょっとね。折角材料があるから、作ってみようと思って﹂
﹁彫刻か?﹂
﹁うん。親愛の証として清ちゃんの事を掘ってるんだ﹂
﹁私!? 私なのか! う、あ、⋮⋮どんな感じ?﹂
﹁フィギュアっぽくデフォルメしたのと、リアル、どっちがいい?﹂
﹁そ、総一郎に任せる⋮⋮﹂
﹁はいはい。じゃあ、すぐには無理だから下で遊んでてね﹂
﹁う、うん。⋮⋮たっ、楽しみにしてるからな!﹂
﹁うん、期待しておいて﹂
1906
誤魔化すための嘘だったが、ちょっと思い返して、それもいいか
と木片の一部を割った。もともと仮面だけにとどめるにはかなり大
きなサイズで、もう数人ほどなら作れるかもしれない程度に余裕が
ある。
だが、それでもひとまず仮面だった。隠すもの。偽るもの。力を
込めると、歪な鰹節のように薄く削れていく。総一郎は、その手触
りに熱中していた。こういう地道な作業が、好きなのかもしれない。
出来上がったそれは、あまりに表情がなかった。表情を付けよう
とも思わなかったが、それにしても人間味が感じられない。黒ゴム
紐を通し、嵌めてみる。そして、思わず笑ってしまった。
﹁僕があのまま修羅になったら、こんな顔になったのかな﹂
昔を思い出すと、つい己をして﹃僕﹄などと言ってしまう。﹁俺﹂
と言いなおした。仮面を外す。そして、学校へ向かう。
学校の方でも、情報収集を始めていた。聞けば聞くほどボロボロ
と話が漏れ出る様は、ARFが秘密組織であることが疑わしくなる
ほどだ。いや、そもそもあれは、組織と言っていいのかどうか。
﹁っていうのも、ARFは行動を起こした後にカードを置き土産に
するという共通点があるだけで、互いに助け合うという事が無いら
しいんです∼﹂
そのように、愛見は語っていた。﹁ARFについての考察は結構
頻繁に行われていますから、お教えしましょうか∼?﹂と様々な人
に尋ねている時に提案されたのだ。
1907
﹁助け合う事が無い⋮⋮。確かに、聞きませんね﹂
放課後。学食である。珍しく、総一郎は愛見と対面で話していた。
他のメンバーは何やら、新しくできた食事処の品定めに行こうと大
勢でぞろぞろと行ってしまった。こんな日もあるか、と残った二人
で肩を竦めあったものだ。
﹁あの組織に救われた、という亜人さんは、結構多いんですよ∼。
でも、それにも向き不向きがあって、憎いアイツに復讐、となると
ハウンドの出番。単純に救出ならウルフマン。お金に困った亜人さ
んが、秘密裏にファイアー・ピッグに連絡を取って当面の日銭を稼
ぐ、なんてこともあるそうです∼。他にはヴァンパイア・シスター
ズなんか有名ですけど、彼女らは一時期大量に吸血事件が起こった
のと、時を同じくして撒かれたカードしか手がかりがありませんか
らね∼。今はたまーに差別者さんの被害が出るだけで、有名ですが
人気はありません∼﹂
﹁そんな、犯罪者なんかに人気を求めても⋮⋮﹂
﹁総一郎君って結構シビアですよね∼。あっ、イッちゃんでした﹂
﹁それ、本当は気に入ってないんだ。仙文に呼ばれるなら、発案者
だし許せるけど、Jとかに言われるとちょっと違うなって。しっく
り来ないなら違う方法で呼んでくださいよ﹂
﹁そうですか∼? そう言われたら、仕方ないですね∼﹂
総一郎君、と微笑みながら呼ばれる。眼鏡越しに細められた瞳が、
優しく総一郎を見つめていた。少年は肩を竦める。何とも、むず痒
1908
い。
﹁でもですね。当然といいますか、政府側もそれを黙認はしてませ
ん。だから、色々と手は打ってるんですよ∼。その一つとして、私
は是非総一郎君に紹介したいものがあるんです。特別ですよ∼?﹂
﹁ほう﹂
愛見はそう言って、カバンから小さな箱を取り出した。真っ黒で、
平べったい。何だこれは、と観察する。にゅっ、と変化して総一郎
の顔になった。
﹁おぉぉぉおおおおおおぅ!?﹂
﹁ぷっ、あはははは! 総一郎君、そんな声も出せたんですね。私、
びっくりしちゃいました﹂
﹁いやいやいや! そんなこと言ってる場合じゃないって! これ
見てよこ、あれ、箱に戻ってる⋮⋮﹂
﹁これ、ロボットなんです﹂
﹁へ?﹂
愛見は、柔らかくその黒い箱に手を置いた。途端、それは実体を
失う。まるで液体のようにするりと彼女の手の上に登って、再び形
を成した。鼠の形。彼女の肩にまでのぼり、反対の掌の上へ。その
Computer
Robot。通称NCRです∼。
頃には微妙な変化を果たしていて、酷く小さな猫の形をとっている。
﹁Nano
1909
分子の五百倍の非常に小さなロボットの集合体で、警備ロボットと
しての活用が期待されています。何でも数か月後には本格投入され
るとか∼﹂
﹁すぐじゃないですか﹂
﹁そうです、すぐなんですよ∼。今、色々荒れてるじゃないですか
∼。それはもうのっぴきならないほど。だから、製作陣も必死なん
です∼。ほら、少し前に、日本人が建てた会社にRPG撃ち込んだ
アメリカ人の話もありましたし∼﹂
﹁対戦車ミサイル撃ち込まれたんですか! 思った以上にアメリカ
って恐ろしいですね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮で、その製作陣の一人が図書さんなんですが∼﹂
﹁マジで!?﹂
マジでとか言っちゃった。
聞けば、このロボットの旧世代機である小指の先ほどのロボット
があり、それをここまで細かくするのに必要だったのが、魔法技術
であったのだと。図書はそこに、運命の巡り合せのようにして参加
し、開発メンバーの席をモノにしたと彼女は話した。
﹁それで、今も多分開発の上でのテストをしているはずなのですが、
案内しましょうか∼?﹂
﹁是非! 是非に!﹂
1910
総一郎、理系と好奇心の犬の血が疼いた。
ロボット工学というと前世の専門からは外れているが、それでも
興味深い分野だった。本当は、テレビに映っていた刑事さんのロボ
ットでさえ興味津々だったのだ。図書の手前、恥ずかしいから我慢
したけれど。
総一郎の快諾を聞いて、愛見は満足そうに立ち上がった。﹁こち
らです∼﹂と案内してくれる。付属の校舎から、本校舎へ。そこか
ら研究室が密集する棟に着き、その、さらに奥へと歩いていく。
道を歩きながら、ふと偶に抱く違和感。その方向に目を向けると、
いっそう深い闇が口を開けている。ゾッとして、その度に目を逸ら
すのだ。アレは、ナイを彷彿とさせる。ミスカトニック大学は大き
く設備の整った学び舎だが、同時に闇も深いらしい。
﹁ここですよ∼﹂
窓から漏れ出る光は、ぼんやりとしていて不気味だった。生唾を
呑み込む。ただならぬ雰囲気が、そこにあった。
総一郎は、スライドドアを開く。そして︱︱︱
﹁あー! もうだから言ったんですって! こんな大型の形を取っ
て! しかも野生動物の習性までコピったらそりゃあ暴走しますよ
! っていうか暴走じゃないですよ! 順当な操作ミスですよ!﹂
﹁分かった! 私が悪かったからこれ止めて! ズー君ジャパニー
ズでしょ! 何か魔法とかでドカーンとどうにか出来ない!?﹂
1911
﹁ジャパニーズすら拘束するロボットを目標に作ったんでしょうが
NCRは! こんなんどうしろってんで、あーあーあー!﹂
︱︱︱研究室中を跳梁する黒い巨大動物にパニックを起こす、二
人の研究者を見つけた。
﹁⋮⋮何、これ﹂
﹁⋮⋮さぁ⋮⋮?﹂
二人して放心。何となく、部屋の全容を観察する。真っ白な部屋。
研究室。だがそこにあっただろう秩序はすでに崩壊している。粉々
に破壊された大きな機械の残骸。ずたぼろのカーテン。そして﹁ナ
ーウ!﹂と咆哮を上げる大型ロボット。総一郎はぽんと納得の手を
打って、理解した。
﹁俺、帰るね?﹂
﹁えっ﹂
﹁あっ、お前総一郎! 何でこんな所に居んだ! いや、この際そ
の事は良い! ちょっとこっち来て手伝ってくれ!﹂
﹁⋮⋮もっと早く行動していれば⋮⋮!﹂
後悔の念に打ちひしがれる。ため息をつきながら、明らかな面倒
の種に近づいていく。
﹁どうしたの、これ。興味と面倒が戦って面倒が勝っちゃったんだ
けど。帰っちゃ駄目?﹂
1912
﹁昔のお前はもっと興味に対して純粋だったろ!? ガンガン行こ
うぜ!﹂
そんなRPGの作戦みたいなこと言われても。
﹁いや、人並みに興味は湧いてるんだけど、家に帰れば図書にぃ教
えてくれるだろうし。日本人打倒用っていう時点でそこはかとない
不安があるし。先に言っておくけど、俺あんまり強くないよ?﹂
その様に、総一郎は嘯く。魔法による個人的な戦力の多寡が知ら
れるのは、外聞的に良くない。戦闘能力が評価されるわけでもない
法治国家においては特に。
﹁何とかなるって! 優さんの息子だろ? こうさ、ミサイル的な
感じで魔法放てば何とか出来るって!﹂
そんなRPG大作戦みたいなこと言われても。
﹁⋮⋮まぁ、出来ることならやるけどね⋮⋮﹂
興味は、ある。勿論ある。というか実際うずうずしているのを必
死に隠している。だが、この状況はそれを差し引いても好ましくな
い。そんな風に考えていると、奥の方から図書と会話していたもう
一つの方の声の主がこちらに歩いてくる。
白衣の女性。白人らしい鼻の高さと、知的ながら活発に見開かれ
た瞳が印象的だった。彼女は勢いよく総一郎の手を掴み、にこやか
に笑いかけてくる。だが、何処か社会人としてのずれを感じなくも
ない。もっと言えば、ネジの外れた研究者っぽい雰囲気は存分に感
1913
じられた。例えば、そう。背後のロボットを無視して自己紹介を始
める辺りに。
﹁おっ!? もしかしてズー君のお友達かな? どうも初めまして、
サラ・ワグナーです! 一応ここの研究室の室長やってるよ! 社
会学にも詳しいから私の著書とか呼んだことない? 亜人関連の奴﹂
その言葉に、総一郎は戦慄する。体が、ブルブルと震えだす。ナ
イが隣にいた、数年前に読んだ本。その、作者の名前。
﹁⋮⋮も、もしかして、サラ・ワグナー先生ですか? あの、﹃亜
人社会論﹄の⋮⋮?﹂
﹁おー! そりゃあ、私の処女作だよ! 君、若いのにそんなの読
んでるなんて、中々いいねー﹂
﹁いえいえ、そんな⋮⋮。それに、先生もお若いですよ﹂
外見年齢的には二十代の女性である。外見通りの年齢なら、役職
的には異例の大出世だろう。
﹁いやいや、私は研究に処女も夫の座も明け渡した人間だからね。
若いという事は、女としてのそれではなく残りの寿命がそれなりに
残っているという点に対してだけの価値しかないさ。そんな事より、
⋮⋮これ、何とかできないかなぁ?﹂
初めはしたり顔、最後には引きつり顔という表情豊かな具合に、
サラ先生は総一郎に頼み込んでくる。それに総一郎は、理性の限界
を感じ、放棄することにした。
1914
﹁分かりました。全力で何とかしましょう。⋮⋮その代り、今度対
談していただけませんか。色々と話したいことが﹂
﹁そのくらいならいつでも来なさい。私は引き籠って研究室に入り
浸りになっていない時以外は暇だからね﹂
そう言われては総一郎も、心の中の葛藤に決着を付けざるを得な
かった。揺れていた天秤が外聞を弾き飛ばす。だが、それでも不必
要に力を振りかざすのが愚であるという自覚はある。最低限の配慮
はするつもりだ。
﹁⋮⋮で、これをどうこうする訳だ⋮⋮﹂
真っ黒なロボット。その一方で、動物さながらのしなやかさを感
じさせる動き。虎の様であったが、動きの幅を考えると猫のように
も感じられる。これはむしろ、巨大化した猫と表現すべきだろうか。
とすれば、中々に厄介だ。
﹁⋮⋮﹂
無言で、近寄る。NCRの大猫は、こちらに気付き警戒心を露わ
にした。﹁最悪壊しちゃっていいからねー﹂とワグナー先生の声が
届く。その所為で一層大猫が威嚇体勢に入る。余計な事を。
手始めに、軽く魔法を飛ばしてみた。風魔法。実際にすぐさま復
元されていくのを直視したかった、という興味心が本音だ。体を両
断する程度の鎌鼬。ロボットの斜め上半分が切断され、ずれ始めた
途端にスライムのように軟化し再び元の形状を取り戻す。予想以上
に気持ち悪い。
1915
嫌な顔をして総一郎は問う。
﹁⋮⋮先生。これの弱点って何です?﹂
﹁さぁ? ぶっ壊されてもすぐに復元して障害を排除する、スーパ
ー警備ロボットを想定して作ったからねー。私が教えてほしいくら
いだよ全く﹂
﹁⋮⋮図書にぃ﹂
﹁諦めろ、総一郎。この人頭いいし話してると凄い面白い発想を度
々教えてくれるんだけど、どうしても無神経な所が抜けないんだ。
そこはもはや性分だからスルーしてくれ﹂
﹁頑張ってくださいね∼、総一郎君∼﹂
愛見に至っては完全に他人事だ。少しも手伝おうと考えない辺り、
彼女の本質が透けて見える。
﹁いいよもう、やってやるよ!﹂
叫んで、総一郎は臨戦態勢に入った。と言っても、構えをどうこ
うという事もない。こんな事になるなど露とも考えていなかったの
だ。木刀が無ければ素人の不恰好な構えにしかなりはしない。
そんな総一郎の珍しい不器用さに、ロボット猫は興味を示したよ
うだった。人間の体躯を遥かに超える巨大なそれ。何度か攻撃で四
散させても、互いの磁力に引き寄せられ再構成されるというのだか
らキリがない。とすれば、方法はおのずと限られてくる。
1916
﹁ロボットの粒子一つ一つを酸化させて動かなくする。あるいは、
原子段階にまで戻してしまう。⋮⋮これは、どちらかというと最終
手段だ。もっと、仕組みの所から⋮⋮﹂
思考する。理屈と当然を組み合わせて、この黒いNCRの定義を
狭くしていく。例えば、このロボットは、全身が駆動領域だ。動物
で言う脳の形を頭の中に模しているかもしれないが、そこは動物の
データを真似たに過ぎない。
データ。
そう、データを送られている。送られているという事は、送った
側があるという事だ。送った人間は先生だろう。なら、送ったデバ
イスを考えればいい。
﹁先生! NCRを動かしてるコンピュータは何ですか!? それ
を調べればあるいは!﹂
﹁あー、ごめんねー? そのコンピュータを壊したのがそこの馬鹿
大猫でさぁ⋮⋮。まぁバックアップで動きを維持してるコンピュー
タが無いわけじゃないんだけど、それ、私の頭の中なんだよねぇ⋮
⋮。かといって私の頭の中の奴はNCRに命令下そうもんなら熱で
多分脳ごと溶けるし、動きを止めるだけでも私の脳ごとぶっ壊さな
computerって奴
きゃどうにもならないし。だからそのままで何とかお願いできるか
な?﹂
﹁⋮⋮図書にぃ。何、それ﹂
﹁俗にいうBrain−mounted
だ。脳内に小型デバイスを埋め込むアメリカ人の富裕層がよくやる
1917
奴。電脳魔術と大体同じくらいの性能を誇るとか﹂
﹁ってことはここでこれをそのままぶっ壊すしかないわけだ。うわ
ー、⋮⋮うわー﹂
﹁そんなマジで気落ちした声出すなよ⋮⋮。ほら、俺だって手伝う
からさ﹂
﹁いや、図書にぃが傍に居ても最悪巻き込みかねないから応援に徹
してて﹂
という経緯によって最終手段を行使する。早い。こちらの思考に
使ったエネルギーを返せと言いたい。
﹁あー、⋮⋮もうどこからどうやっていいのか︱︱うわ﹂
かなりの量の会話を交わしておきながら中々動かなかった黒きロ
ボット猫に、総一郎が気を緩めた瞬間だった。奴はその猫を模した
しなやかな肉体をバネにして、跳躍。からの肉薄。丸太ほどもあり
そうな腕が、鉤爪をもって総一郎を引き裂きにかかる。
だが、一周回ってその事が総一郎に覚悟を決めさせた。幾年ぶり
かの戦闘。死の迫る感覚。ぴり、と修羅の肌が粟立つ。引きつるよ
うに笑う、右側の自分が居る。
間一髪。躱し、ボディーブローを入れるように接触した。まず、
酸化から。火魔法。さぁ、錆びろ。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹂
1918
数年ぶりかの、口頭での詠唱。急激な粒子一つ一つの酸素との融
合に、ロボットは動きを鈍化させる。
﹁おおー。ジャパニーズはそんな事も出来るのかい。凄いねぇ。対
爆と耐火は施しておいたけど、まさかこんな一瞬で錆びさせてくる
とは﹂
先生が拍手交じりにそう褒めてくる。少しばかり誇らしい総一郎。
だが、彼女は不敵に笑ってこうも続けるのだ。
﹁だけど、その程度なら動きを止めるに至らないね?﹂
漆黒の大猫は、鈍い跳梁で総一郎から遠ざかる。そして赤き錆を
内側に呑み込んで、見えなくした。様子を見守る。すると、すぐに
精彩を取り戻した動きでこちらに迫ってくる。
﹁NCRには、自浄作用がある。錆び程度なら、その反応で他のN
CRとの摩擦で見る間もなくこそぎ落とされてしまうさ。だから、
その方法は駄目だね。不可能ではないけれど、難度が高い﹂
﹁なら、残る手段はあと一つです。一応聞きますけど、別にガラス
が割れたって気にしませんよね?﹂
﹁ああ、構わないけれど。しかし、ふむ。案外手が尽きるのはすぐ
だったね。君の動き良いから、ちょっと期待してたのに﹂
﹁一般人に期待なんぞしないでください。それに﹂
ロボットの体当たりを避ける。紙一重の距離。ワグナー先生が、
﹁それに?﹂と聞き返してくる。
1919
総一郎は、再び大猫に手を当てた。
﹁こちらの魔法は、全てに対応する奥の手です﹂
そして紫電が放たれる。
総一郎は三人を背にして、電子を弾き飛ばし原子間の引力を無に
帰した。ロボットの一つ一つを構成していたはずの電子は、全て電
撃となって、絶縁体であるはずの空気を通り抜ける。その過程で逸
れて地面を駆け巡り、部屋中のガラスが割れた。NCRは、その残
滓さえ残さない。最後に風魔法と空間魔法で、空中を舞っているは
ずの元NCRであった何かの鉱物を異空間に消していく。これで処
理も完了だ。
残るは忽然とした静寂だった。僅かに残る電気の音が、そこに花
を添えている。久々に、楽しい運動をした。対峙した直後の総一郎
の感想は、そんなものに過ぎなかった。
しかし、それでは済まさない人間が居る。
﹁Woo⋮⋮﹂
﹁えっ、マジか。今のってお前、中学レベルの魔法がこんな威力に
⋮⋮?﹂
﹁総一郎君、⋮⋮強かったんですね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
1920
マズイ。切り札を使うのが早すぎた。もっと試行錯誤すべきだっ
た。
﹁えっと、あの、これは⋮⋮﹂
わたわたと弁解に走る。だが時はすでに遅し。感心の目がこんな
に痛いものだという事を知らなかった。正直今の時代のこの街で強
いなどと知られても、寄ってくるのは精々不良くらいの物だろう。
何せ日常に強さなどいらないのだから。
その様な考えが根底にあった総一郎は、それ故喜色満面でつかつ
かと歩み寄ってくる人物に驚かされた。ご存じのとおり、ワグナー
先生である。
﹁素晴らしい! ワンダフォー! 侮って悪かったよソウチロウ君
! ところで、今の魔法、どういう事なのか、詳しく説明してくれ
ないかな? 後学のためにも!﹂
﹁え? あ、アレは魔法で電子を強制的に散らしただけですよ。図
書にぃも言ってたけど、中学生レベルの魔法です﹂
﹁つまり、全ジャパニーズが使えると!?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁ズー君! 困るじゃないかあんな奥の手を隠されては! 全くも
う! さぁ、今すぐ今の魔法の対策にかかるよ! 納期はまだ残っ
てるのに暇だったんだ! 調整なんてつまらないこと言ってないで、
新しく機能を付け加えるよ! しかし、どうしたら今のを防げるか
な? 電子を奪われるのが問題なわけだから、すぐに代わりの電気
1921
を供給すれば繋ぎ止めることはできないだろうか?﹂
ぶつぶつと呟きながら、研究室を出て行ってしまうワグナー先生。
総一郎はその姿に呆気にとられ、唐突に肩を叩かれ身を震わせてし
まう。肩を顧みれば、図書の手であると知れた。
﹁すまんな。それと、ありがとよ、総一郎。しかし、見ない内に、
お前随分と強くなってたんだなぁ。何か誇らしいぜ﹂
笑みと共に、くしゃくしゃと頭を撫でられる。﹁もう子供じゃな
いよ﹂と恥ずかしくなって手を退けると、くすくすと愛見の笑い声
が聞こえてきた。﹁私たちと一緒にいる総一郎君と、図書さんと一
緒にいる総一郎君って、やっぱり違うんですね∼﹂などと面白そう
に言っている。
﹁それなら、白ちゃんと一緒の総一郎君は、どんな顔をするんでし
ょう∼?﹂
体が、硬直する。
﹁んー、もっと剽軽になるな。ツッコミにも愛があったし﹂
﹁そうなんですか∼。早く、再会できると良いですね∼﹂
二人の、何気ない会話。明るい声色。総一郎だけが口を開くこと
が出来なくなった。﹁じゃ、そろそろ行くな?﹂と図書が手を振っ
ていなくなる。﹁では、私たちも帰りましようか∼?﹂といつもの
通り間延びした声で言う愛見。
﹁⋮⋮うん、そうだね﹂
1922
総一郎は、言う。アナグラムで必死に形作った笑顔で。目の前の
少女を殺そうとする修羅を必死に押さえつけながら。
早く。行動を起こさなければ。表で集められる情報は、あらかた
集めただろう?
1923
2話 ウッドⅢ
心地の良いジャズが、店中に流れていた。
飴色のバー。シックな色合いの壁紙、絨毯。静かな調子で、客た
ちが会話を交わしている。その内容には、耳を傾けないのがここの
ルールだった。彼もまた、そのようにしていた。会員制で、裏切れ
ば制裁が待っているのだ。
禁酒法時代から続いている、この街のギャングたちに愛された店
だった。店主は血筋ではなく、出来のいい店員が継ぐという形式で、
きっとそれがよかったのだろう。いつ来たってこの店のカクテルの
味は曇らなかったし、どんな時でもこの店のカウンターは寛げた。
シケ
席一つ空けた隣に、一人の男が座る。顔見知りの男だ。﹁よう﹂
と視線さえ交わさずに言った。ここで挨拶を返せば、今回は
だ。だが、奴は返答せずにウィスキーのロックを頼んだ。上手く、
事は運んでいるらしい。
﹁酒は、どうだ? 売れてるか?﹂
﹁⋮⋮ああ、上々だ。一応手元に一杯分ほど持って来ている。飲む
か?﹂
﹁まさか。という事は、海の底のお方は御機嫌がいいようだな?﹂
﹁それこそまさかだ。ジャパニーズの暴虐っぷりを覚えてないのか
? 何だったか。ジャパニーズマフィアの⋮⋮トウゴウ会、だった
1924
か? 奴らの所為でインスマウスの奴らはビビり切ってる。無関係
の俺たちにさえ五重のフェイクを挟まれた。お蔭で集合場所がコロ
コロ変わってな、愛人の事を知った時のワイフ並みに疲れたよ。ま
ったく⋮⋮﹂
男はそう言ってため息を吐いた。彼は、肩を竦めることでそれに
応える。
﹁⋮⋮それで、ウサギはどうだ?﹂
﹁気づいていない。部下にも、被害はない。もう一つの懸念材料だ
った豚に至っては、今回は協力してくれるという話になっている。
今回は行けるぞ﹂
﹁流石。やはり化け物どもは、奴らの同朋に協力すると言えば食い
付きがいいな﹂
くつくつと、二人で静かに笑いあった。今回のターゲットは、人
間だ。中流層の、この街の汚い部分から目を背ける間抜けども。そ
の中でも特に、本当に何もわかっちゃいない奴らをカモにする。あ
とは亜人差別者に絞ると嘯けば化け物どもは転ぶ。
だが、一応、話しておかねばならないことがあった。
﹁⋮⋮なぁ、ウッドって知ってるか?﹂
﹁何だ、それは? また、勘違い野郎の笑い話か?﹂
男はこちらの気も知らず、勝手に笑っている。だが、彼は真剣だ
った。確かに、そういう手合いは居る。自分が特別であると信じ込
1925
んで、好き勝手暴れた挙句、結局何もできずに消される。そういう、
笑いの種だ。だが、今回は違う。
﹁ギルマンの子飼いのストリートギャングたちが行方不明になった。
死体は出ていないためそういう言い方になるが、ほぼ間違いなく死
んでいると見ていい。生き残った奴曰く、奴らの墓さえ建てられな
い、と﹂
﹁⋮⋮どういう事だ?﹂
﹁木の剣を手にして、木の面を被った妙な奴が、スラムを歩いてい
たらしい。確認したがJVAバッチを付けていなかったから、から
かいついでに搾り取ってやろうと考えたそうだ﹂
JVAバッチも買えないような奴は、後ろ盾のない後ろ暗い人物
か、それすら買えない貧乏人である。そう言う奴らは、往々にして
人間扱いされない。ギャングの頭だって、今は昼間にバッチを付け
て歩くのが普通だ。犯罪歴を揉み消すのは、金があれば存外簡単な
のである。
﹁そこを、返り討ちか﹂
﹁電気を使う怪人だって話だ。体格は人間だが、本当にそうかは疑
わしい。そいつが、最近毎晩出没して、全員にある質問を投げかけ
ると聞いた﹂
﹁質問?﹂
﹁人探しだそうだ。その名前は、どういう訳かすぐに忘れてしまう。
だが、有名人の名前だそうだ。もっとも、ハリウッドのそれじゃな
1926
い。ここ最近、スラムでやんちゃした奴だった気がする、と言って
いたな﹂
﹁ふむ⋮⋮。そいつが、今回の件の邪魔をすると?﹂
﹁いや、分からない。情報が少なすぎるんだ。それが、怖い。だか
らどうという事もないが、注意してほしくってな﹂
﹁なるほど、そういう訳か﹂
男はそう言って、酒を呷った。彼もまた、一口。今日も、ここの
酒は美味い。
﹁その話、詳しく聞かせてくれないか﹂
そんな彼らの中心の空いた席に、図々しくも腰を掛ける人物が現
れた。二人は眉を顰め、声を荒げようとする。だが、寸前で喉が詰
まった。
無表情な、木の面。
彼はまず、何よりも先に本能的な反応として、竦みを見せた。人
間でないという直感が、体を硬直させた。だが、それを面に出して
はこの社会を上手く渡って来れようもない。やせ我慢で何事もなか
ったかのように装ったところで、やっともしやと勘付くのだ。
﹁お前、ウッ⋮⋮﹂
だが、そこまで言って声が出なくなる。精神的な問題でもなく、
かといって呼吸が出来ないという事でもなかった。ただ、言葉を発
1927
することが出来ない。
とうとうパニックに陥った彼は、助けを求める為怪人物の向こう
の男に視線をやった。しかし、銃を握った手をだらんと垂らして、
カウンターの上で失神している。次いで店主を見れば、彼は全くこ
ちらに気付いていない様子だった。ただ、頻りに首を傾げているば
かり。
﹁騒がれると、面倒だ。俺はただ、情報が欲しいだけで、お前らに
特別害を為そうという意思はない。⋮⋮静かに、することだ。分か
ったら一つ首肯を﹂
言われたように、頷く。奴は︱︱おそらくウッドは、中指で一度
カウンターを叩いた。自らの口から聞こえる、僅かに早くなった呼
吸音。銃などというチャチな武器では勝てない相手だと悟る。多く
のギャングが尽力しているが、特殊弾はどうやっても市場に出回ら
ないのだ。
﹁⋮⋮お前は、人を探しているそうだな﹂
﹁ああ、その通りだ。ここに入ってきた時に話されていたのを聞い
それなりの
地位にあるからだ。普通はもう数
て驚いた。そこまで噂という物は早いものか﹂
﹁それは私たちが
日遅れる。だが、お前の事は間違いなく話題に上るだろう。何せ、
この店に平然と乗り込んできたのはお前くらいのものだ﹂
﹁ここは、それほどの場所なのか﹂
﹁ギャング、マフィアの幹部。変わり種では、有名企業の社長。そ
1928
ういう人間しか、存在を知らないのがここだ。そしてそういう人間
は、口が堅い。喋ったのは誰だ? そいつは制裁を受けねばならな
い﹂
﹁居ない﹂
﹁は?﹂
﹁ただ、俺が知ったというだけだ。過失があるとすれば、それは彼
の運のなさだったという事だろう。故に、俺は口を開かない。その
義理もない。その上彼はもうこの世には居ない。︱︱さて、あまり
手間をかけるつもりもない。手早くさせてもらおうか﹂
﹁な、何をするつもりだ。止めろ!﹂
﹁大声を出すなと言っただろう。だが、どうせ聞こえていない。さ
ぁ、答えろ﹂
ウッドの手が、彼の前頭に触れた。思考が、境界を保てなくなる。
そして消えゆく意識の中で、ぼんやりと声が聞こえるのだ。
﹁シラハ・ブシガイトの場所は何処だ﹂
口が、勝手に動き出す︱︱
1929
ARFの活動拠点が何処にあるかを聞いて、変な顔をされた。
﹁総一郎⋮⋮、亜人保護活動は立派だと思うが、だからってあんな
過激派組織の仲間入りだなんて﹂
﹁いやいやいや。そんな事を考えての相談じゃないってば、図書に
ぃ。単純な興味本位だよ﹂
嘘だった。だが、言う必要もない。図書は﹁そうさなぁ⋮⋮﹂と
顎に手を当てて考える。
﹁頭のいい総一郎だから、ARFの活動拠点が知ってる人は知って
る的な気やすい場所じゃないってことくらいは分かってるんだよな
?﹂
﹁うん、その上で聞いてる。図書にぃ詳しいから、ネットの考察で
ある程度絞り込んでたりしないかなって。ほら、集団襲撃をする怪
人、ファイアー・ピッグが貧民を雇って手伝いをさせて、その分の
お金を出すなんて言う話も聞いた事あるし﹂
﹁お前も中々通な情報を仕入れてるじゃないか総一郎! いやー、
興味持ってくれて、お兄ちゃん嬉しいぞ﹂
満面の笑みで﹃抱き着いて来い﹄と言わんばかりに腕を広げる図
書。その動作から一歩下がってやんわりと拒絶の意思を示しつつ、
﹁うんうん、それで、どう?﹂と先を促す。
﹁ああ、まぁ⋮⋮貧民街の方で門戸を開いてるっていう噂はあるな。
ただ、本部の方は割と繁華街の方っていう噂もある。どちらにせよ
1930
噂なんだがな。ARFはそれなりに金を持ってるから、合法的にビ
ルを手に入れてそこでいろいろ画策してる。っていうのがその説の
支持者の話だ。ちなみに金を持っているってのは推測されるに確実
な話で、奴らは敵勢力の襲撃に際してよく金品を奪っていく。その
割に金の動きが全く見えないから、十中八九貯め込んでんだろうっ
て話だ。来たる日に備えてんだろって考察サイトにも書かれてる﹂
﹁来たる日って?﹂
﹁ARFが何かやらかす日の事だよ。定期的にいろいろやってるけ
ど、あいつらの行動は自衛的な物じゃない。知ってるか? ARF
がJVA内で人気があるって話したろ? アレも最近酷くってな。
偶にさ、話に上がるんだよ。ARFの構成員に、熟練した魔法の使
い手が居るって﹂
﹁それって﹂
総一郎は、言葉を失う。魔法の使い手。これは、イコールで日本
人に結び付けていい。
﹁⋮⋮アメリカの中で、反日活動とか起こってないよね? 俺が来
た日はまだだって聞いたけど﹂
﹁一応、な。この噂がJVA内で留まってるうちは多分大丈夫だと
思うが⋮⋮、人の口に戸は建てられないっていうしなぁ﹂
そう言って、図書は苦笑い。総一郎も、身震いがするような気分
で居た。しかし、有益な情報はあったと思う。一旦、脳内で整理だ。
スラムにARFへの入り口がある可能性があって、本部は繁華街
1931
という説が今のところ有力。ARFには金があって、それを使って
いつか何かをしでかすかもしれない。また、日本人がARFに加入
している可能性も指摘されている。箇条書きに表わすならこんな所
か。
日本人の、加入。
総一郎は、嫌でも白羽の事を思い出す。
翌日、総一郎は寝ぼけ眼を擦りながら起床した。パジャマのまま
階下に降りてくると、﹁最近、総一郎は眠そうだな。最初のころは
とんでもない早起きだとびっくりしていたのに﹂と清が無垢な視線
を向けてくる。
総一郎はトーストにジャムやら野菜やらを挟んで咥えつつ、﹁そ
う?﹂と首を傾げる。しかし、自覚はあった。剣の稽古も最近して
いない。早起きが出来ないのでなく、生活習慣がこれまでとは異な
り始めたのだ。
手早く準備して、家を出た。
涼しい、時期だった。残暑の僅かに残っていた入学からしばらく。
総一郎は季節の移ろいに目を細める。過ごしやすい時期だ。街路樹
が日本を思わせる色づき方をしていて、その人工美に何処か和んで
しまう。
アーカムは次世代都市の名を欲しいがままにする街だった。景観
は良く、文明も文化も最先端。かといって古き良き文化も忘れず、
オフィスビルの並ぶ道から禁酒法時代を思わせる酒場、スラムだっ
て忘れず完備しているほどだ。もちろん皮肉である。
1932
ARFを筆頭とする、恐ろしい者達が人知れず蠢く街、アーカム。
日本人という超技術の保有者たちに掻き乱された町、アーカム。こ
の街の真実は拗れに拗れたまま闇に隠されている。その実情を握る
人物は、やはり闇の中に住むのだろう。
そこまで考えていたところで、学校に着いた。思考を奥の方に詰
め込んで、鍵をかける。暴力の事を考えていると、暴力的な事を言
ってしまいかねないから。
いつも通り授業を受けつつも、穏やかな情報収集に専念した。白
羽の輪の中でも中心人物だったらしいJや愛見とそれなりに打ち解
けると、なし崩し的に友人が増えた。彼らから、雑談を誘導して、
情報をさらう。身になりそうなネタは、一つもない。だが、網を張
っておくことが出来れば、あとは忍耐だと思っていた。
昼食時。総一郎は珍しく、食堂で友人を見つけることが出来なか
った。ふむ、と思案してしまう。こんな事、イギリスでもあったよ
うな気がして少しげんなりした。
﹁⋮⋮と、あれは﹂
て言われた。何気にショック﹂
見覚えのある白人の少年を見つけて、総一郎は駆けよった。そし
て、親しげのその名を呼ぶ。
げっ
﹁おーい、グレゴリー!﹂
﹁⋮⋮げっ、イチ﹂
﹁俺この生涯で初めて
1933
というか、彼は自分をイチと呼ぶのか。いじめっ子大将ことギル
を思い出すから、あまり好ましいあだ名とは言えないのだが。
ひとまず冗談っぽく返すと、彼もまたふざけた返事をしてくる。
﹁そうか、それはしょっちゅう言われるオレに対する自慢か?﹂
﹁そっか。⋮⋮仲良くしよう、グレゴリー﹂
﹁何で親しげになったんだ⋮⋮!?﹂
根っこの所で激しい総一郎、ただ何となくの友達という物が異様
に少ない。短期的には居るのだが、長期となるとすぐに消える。基
準が出来たのがイギリスに居た頃だから偏っている可能性は否めな
いが。ともかく、総一郎は親近感を覚えてグレゴリーに優しくなる。
﹁折角だからご飯一緒しようじゃないか。あっ、君飲み物が無いね。
仕方がない、今日は奢ってあげよう﹂
﹁いや、いい。というか気持ち悪い。何だ? 今日のお前のその態
度は何だ?﹂
﹁そんな釣れないこと言うなよ兄弟﹂
﹁兄弟!?﹂
はしゃぎ過ぎて大分引かれてしまう。仕方がないので普通の態度
で接することにした。
1934
﹁そこ座っててね、ちょっとご飯買って戻ってくるから。待ってて
ね。ほんと頼むよ!? 絶対待っててよ!?﹂と独特のノリで頼み、
一旦その場を離れる。そしてランチを受け取ってからそこに戻って
いき、﹁何でいるんだよ!? 居なくなれよ!﹂と怒鳴ったら殴ら
れた。
﹁お前は一体何だ﹂
﹁いや、君が愛想無いから仕方なく俺一人ででもボケ倒して行こう
かなって﹂
ふう、と一息ついて横に座る。﹁お前馴れ馴れしいな﹂と言われ、
﹁ごめん、馴れ馴れしくない相手に馴れ馴れしくする癖があって⋮
⋮﹂と答えた。彼は思い当ることがあったのか﹁面倒な性格してる
よ﹂とげんなりした表情を見せる。確かに客観的にかなり面倒だ。
﹁ま、これを機会に仲良くやろうじゃないか。ほら、さっきの通り
これは奢りだ。御代はミヤさんから頂いてる。随分とポテトフライ
を食べさせてもらったからね﹂
﹁⋮⋮ふん。そういう訳なら、貰っておく。仲良くするかどうかは
別としてな﹂
﹁仲良くしてくれないなら返してよ﹂
﹁お前図々しいな﹂
ぷふっ、と総一郎、少し吹き出す。グレゴリーも、吹き出さない
までもニヤリとした。﹁君、中々キレのある返しをするね﹂と褒め
ると、﹁黙って食え﹂と素っ気ない。彼も、今までにないタイプだ。
1935
ファーガス側についていた﹃ナイ﹄であったのだろうネルに比べて
も、つっけんどん。その辺り、ちょっぴり父に似ているかもしれな
い。
そのまま、雑談に入った。やれJがウザいだの、やれ愛見が謎い
だの、そういう話だ。陰口というには明るく、評価というには下劣
すぎる会話だった。意外な事に、グレゴリーの反応は良かった。彼
は総一郎の言葉に自分なりの感想を付け加えながら話題を加速させ、
大いに盛り上がった。
﹁それでだ、ミヤは分かってない。アイツは分かってないんだ。あ
いつはオレの事をいまだにガキ扱いしてくるんだが、オレは納得が
いかない。そもそもだな⋮⋮﹂
そしてミヤさんの名前が挙がった瞬間グレゴリーの独壇場になっ
た。
最初は真面目に聞いていた総一郎、これはしばらくかかるな、と
考えて、一旦食事に集中することにした。﹁うんうん﹂言いながら
野菜多めのクラブサンドイッチをガブリとやる。前世の少年時代、
そういえば生野菜がダメだった時期があったな、と思い出した。ク
ラブサンドイッチが、前世の総一郎を野菜に目覚めさせたのだ。
﹁それでな、ミヤの奴が⋮⋮﹂
食という物は偉大である。人間は生きるために食うのではなく、
食うために生きているのだといつかの誰かが語っていた。美食を愛
する日本人としては大いに賛成したい意見である。ところでそんな
日本の食のこだわりが世界に波及したのか、アメリカで弁当屋を見
かける機会が多い今日この頃。
1936
﹁だからな、つまりオレはミヤに対して⋮⋮﹂
今日の登校中も、弁当屋を見かけた。それなりに安い値段だった
ように思う。日本産でしか食べられなかったような美味い米も、今
ではアメリカで育てていることも多いと聞いた。そして、総一郎は
決心するのだ。明日の昼食は登校中にあるあの店の弁当にしようと。
﹁ま、そんな所だな。あー、胸の中に溜まっていた蟠りを全部吐き
出した気分だ。⋮⋮ありがとうな、イチ﹂
﹁え? うん。どういたしまして﹂
もぐもぐ咀嚼しながらニコリと微笑む。どうやら話が終わったら
しい。意識を会話に戻す。
雑談は別の方向に飛び火し、紆余曲折を挟みながら延々と高まっ
ていった。そろそろだ、と総一郎は誘導を始める。そして、切り出
した。
﹁そう言えば、ARFの事なんだけどさ﹂
﹁⋮⋮おう﹂
おや、と思う。いきなり、彼が盛り下がった。カバラを使おうに
も、情報が少なすぎて計算時間が膨大すぎる。何にせよ、ともう少
し続ける。
﹁俺、ここに越してきたばかりなんだけど、まるでアメコミだね、
アレは。いかにもな人たちがいっぱい居て面白い。グレゴリーは、
1937
直接見た事ってある?﹂
﹁⋮⋮ねぇよ。何だ? お前も犯罪者連中を面白がるような、不謹
慎な奴らの仲間か?﹂
随分と、はっきりした嫌悪感。日本人隔離を主張するだけあって、
亜人が好きではないらしい。﹁ごめんごめん﹂と軽く謝ってもまだ
機嫌は治らず、舌を打ってから悪態をついてくる。
﹁大体、どいつもこいつも軽く考えすぎなんだ。あんな犯罪者集団
を野放しに、何もできないでいる現状が信じられない。その上、あ
んな行為を称賛しているような奴らが居る。頭がおかしいんだろう
よ、狂っていると言ってもいい﹂
﹁⋮⋮グレゴリー、流石にそれは言い過ぎじゃあ⋮⋮。それに、彼
らだって善行を積んでいるじゃないか。亜人差別者が亜人をひっ捕
らえて奴隷にして売るの防いだりさ﹂
﹁ハッ、流石日本人は発想が違うな。知ってるか? ARFの巻き
添えを食らって死んだ人間の数。お前はきっと驚くだろうよ。だが
な、それでもオレは知っているんだ。お前がそれでも奴らを庇う事
を。︱︱何たって、お前の姉貴は亜人だ。ARFの同類なんだから
な﹂
その言葉は、総一郎の神経を逆なでするのに十分だった。
﹁⋮⋮人の肉親を捕まえてそんな言い方は、随分とご挨拶じゃない
か﹂
﹁事実だろ? オレはいままで、亜人だって自称している奴らの中
1938
で真面だった輩を見た事が無い。イチ、お前の姉貴なんかその筆頭
だ。大抵の奴らは言ってんだろ? ﹃ぶっ飛んでる﹄って。頭イっ
てんだよ、お前の姉貴。一丁前にいいことしてる風で、実際やって
るのは障碍者も顔負けの凶行だ﹂
そこまで馬鹿にされて、総一郎は黙っていられる性質ではない。
立ち上がり、睨み付ける。頭には血が上りきっていて、今すぐにで
も目の前のクソ野郎を捻り潰したくて仕方がなくなっていた。
﹁表に出ろ、グレゴリー。その減らず口、叩きのめしてやる﹂
﹁何だ、言い返せなくなったら暴力か。野蛮だな。だが、そういう
のでもいいぜ。オレだってムカついてんだ。サンドバックになって
くれるんなら一向に構わな﹂
﹁イッちゃーん! 良かった探したよこんな所で寂しく食べてない
で一緒しようよ、ねっ? ほら早くこっち来て!﹂
﹁あー! 見つけたわよグレゴリー! アンタが店番サボってるか
らミヤさんとうとうブチギレて、今ココに乗り込んできてるんだか
らね!? 今すぐ謝りなさい! 出ないとアンタマジで殺されるわ
よ!?﹂
一触即発。そんな雰囲気を有耶無耶にしたのは、可愛い仙文と赤
髪のヴィーだった。それぞれがそれぞれの対応する相手の手を掴み、
素早くその場から引き離していく。抵抗という発想に至るよりも先、
総一郎たちは驚きから回復する事も出来ないままよたよたと引っ張
られていく。
総一郎が連れて行かれた先では、Jと愛見が待っていた。﹁お疲
1939
れ様だ、イッちゃん﹂とJが労いの言葉をかけてくれる。﹁これ、
あげますよ∼?﹂と愛見もまた、総一郎からグレゴリーに渡した飲
み物をそっくり新品でプレゼントしてくれた。
﹁いやー、やっぱアイツ頭おかしいだろ? おれもさ、最初はそう
いう考え方もあるのかなって思ってたんだが、ちゃんと聞けば聞く
ほどアイツの頭のおかしさが露呈してくるんだよ﹂
﹁J⋮⋮﹂
﹁今日は、私達の奢りですよ、総一郎君∼。一杯食べて、一杯飲ん
で、悪口言って、忘れましょ∼﹂
﹁そうだよイッちゃん! 嫌なことがあったら騒いで忘れる! さ
ぁ、騒ごう! 今日の午後の授業は、全部サボっちゃえー!﹂
乾杯に巻き込まれ、総一郎はきょとんとしたまま乗せられた。し
かしその環境は総一郎が恐らくいま最も求めているもので、何ら違
和感なく、少年は憎たらしいあの美丈夫に対する愚痴を吐き出して
いく。
何時間も、グレゴリーの悪口で盛り上がった。一日経って総一郎
はグレゴリーと関わる気だけを失ったまま、友人のお蔭でストレス
を忘れ、今日もまた元気に登校するのだ。
1940
2話 ウッドⅣ
ウッドは、そこに居た。周囲には、ギャングたちの亡骸、あるい
は怯えて縮こまるその姿。誰も彼もが、闇に身を包んでいる。
散らばるは血。腕。足。首。涙を瞳に湛えて、歯が鳴るほど震え
る数人の生き残り。ウッドはその数人の頭に触れる。それだけで情
報は特定され奪われる。
﹁⋮⋮今日も、収穫なしか。まぁいい。見つかるまで続けるだけだ﹂
スラムに唐突に姿を現し、その場にいた大半の命を奪っていく。
それはARFよりも理不尽だった。怪人よりも容赦がなかった。
旋風が起こる。ギャングたちは目を開けて居られなくなる。そし
て射出音にも似た音がして、ウッドは姿を消した。
木の面を付けた死神。ギャングたちにとって最も理不尽な災厄。
生き残ったギャングの一人は、消え去ったウッドにまず安堵し、次
に周囲に死体に目を向けて涙を流す。
﹁畜生、畜生⋮⋮! 俺の仲間をこんなに殺していきやがって⋮⋮
! 殺してやる、ウッド! 畜生、見てろよ。俺は、顔が広いんだ。
ARFに依頼できるような奴だって、その中には居るんだからな⋮
⋮!﹂
仲間たちの亡骸を泣きながら集めるギャング。だが、その大半は
ウッドの電撃にやられて、頭すらロクに残っていなかった。それが
1941
また、そのチンピラの惨めさを増している。スラムに局所的に設置
された薄暗い電燈が、それを慰めるように血だまりを照らしていた。
放課後。J、仙文の二人より授業が少し早くに終わって、総一郎
は彼らを待っている間の暇つぶしに、少し学外に出てぶらぶらして
いた。
涼しい季節は僅かに傾き始め、少々寒いぐらいになっている。し
かしこの時期でも半袖で歩いている人は白人黒人区別なく居て、﹁
凄いな﹂なんて独り言を漏らしてしまう。イギリスでもおんなじ風
だったが、やはり総一郎は長袖で外出だ。
繁華街に足を踏み入れる。だが中心部へ向かうのではなく、境目
を歩いていた。中心は賑やかだが、今は騒がしさを避けたい気分だ
ったのだ。その点、繁華街のはずれは良い。住宅街とも言えないよ
うな立地だから、静かな雰囲気の喫茶店がちらほらと見かけられる。
と、その一つの中に、総一郎は妙なものを見つけて立ちどまった。
真っ赤な何か。しかし、見覚えがあった。
﹁⋮⋮もしかして﹂
1942
産むが易しとばかり、少年はその扉を開けた。カランコロンと、
らしい鐘の音が出迎えてくれる。
﹁いらっしゃいませ。一名様でございましょうか?﹂
静かな、しかしよく通る低い声がかかった。目を向けると、白髭
を行儀よく口元に蓄えた優雅な黒人男性が、真っ白なカップを磨き
ながら、穏やかな視線をこちらに向けている。
ほう、と思わされつつも、総一郎は視線を周囲に巡らせた。案の
定の人物を見つけて、﹁いえ、待ち合わせです。そちらの女性と﹂
と顎で示す。壮年は一瞬目を剥いてから、﹁そうでございますか。
では、ごゆるりと﹂と言って目を瞑った。
飴色のテーブルが三つ。シックな調度品が並ぶその店の中を、総
一郎は小気味よく歩いた。そして、彼女の目の前に座る。﹁やぁ﹂
と声をかけた。
﹁随分いい雰囲気の店じゃないか。教えてくれても良かったのに﹂
﹁あら、イッちゃん? 奇遇ね、こんな所で会うなんて﹂
そう言って、少し悪い顔で微笑んだのはヴィーである。赤のブロ
ンド髪を長く伸ばした妖艶の少女。大勢で騒ぐとそうはならないの
だが、二人きりになると何処か雰囲気が変わるのだ。
﹁君を見かけて、おっ、と思ってね。今日は一人?﹂
﹁それは、どういう意味でかしら﹂
1943
﹁⋮⋮グレゴリーが居ないかって思ってね。ヴィーの元彼なんでし
ょ?﹂
﹁そうね。でも、あなたなら何となく、私たちの関係性も分かって
そうだと思ったんだけど﹂
勘ぐられるように言われ、ふむ、と思う。前々から、薄々と感じ
ていたことを伝えた。
﹁元恋人同士っていうより、君たち、幼馴染って奴なのかなとは思
ったことあるよ。君、良く彼の世話を焼いてるし﹂
そうすると、彼女は破顔して手を合わせる。
﹁大正解。良く見てるじゃない﹂
食べる? とヴィーはケーキを少しフォークに刺して、総一郎に
差し出した。微かによぎる記憶。勝気な、金髪の少女の所作。それ
を思うと、受け取れなかった。
﹁いいよ、お腹が減ってるわけじゃないんだ。あ、すいません。コ
ーヒーひとつ﹂
﹁⋮⋮空腹かどうかの問題には思えなかったけど、まぁいいわ。そ
の気が無いなら慎ましやかに﹂
ぽつりと不思議な一言を置いて、彼女は紅茶を口に運んだ。する
と、何処かヴィーの雰囲気が弛緩する。その事で、総一郎は何故か、
警戒心をほぐされるような気持になった。耳に、しっとりとしたB
1944
GMが流れ込んでくる。
﹁⋮⋮いい曲だね﹂
﹁そう? 私は趣味が悪いと思うけど﹂
﹁⋮⋮? それは、何で?﹂
﹁マスター。この曲の名前、この人に教えてあげてくれる?﹂
少々声を張って、ヴィーはそう注文した。マスターは、コーヒー
の準備をしながら答える。
﹁﹃暗い日曜日﹄という曲のリメイクです。ここで流しているもの
は落ち着いた深い愛を強調していますが、原曲は聞いたのち自殺し
た人が多く、﹃自殺の聖歌﹄と呼ばれています﹂
間違いなく喫茶店で流す曲じゃなかった。
﹁⋮⋮何故その選曲を⋮⋮﹂
﹁原曲は置いておいて、このリメイクが好きなのですよ。原曲はロ
シアの死と黴の臭いのする、ある意味素晴らしい曲なのですが、ア
メリカで作られたリメイクは昨今の曲に比べて騒がしすぎず、静か
すぎない。いつもは声の無い曲を垂れ流すだけなのですが、今日は
少し、音楽に声が欲しくなったのです﹂
﹁だからってこれを選ぶことないじゃない。だからこの店は、いつ
もガランとしているのではないかしら?﹂
1945
﹁客足が欲しい時は明るい曲を流します。そうすれば、自然と席は
埋まりますから﹂
逆に言えば今日は、客足は要らないという訳らしい。店の内装は
ちゃんと管理が行き届いていて、営業に支障が出ている様子もない。
恐らく本当の事なのだろう。
﹁愛という物は、静かな場所で育まれるものですよ。例えば、落ち
着いた雰囲気の喫茶店なんかで、ね﹂
にやりと白髭を持ち上げて、総一郎とヴィーの二人を流し眼で見
るマスター。しかしこちらも何のその。そこまで初心ではないのだ。
﹁何を言っているか分からないわね。私たちはただのお友達よ。ね
ぇ、イッちゃん?﹂
﹁そうですよ。俺たちはそろって中古ですから。色恋は大したもの
じゃないって割り切ってます﹂
﹁私中古じゃないわよ!?﹂
びっくりしたように机を叩いて、彼女は強く主張する。
﹁新品? グレゴリーは?﹂
﹁なんか真顔で告白してきたから試しにって付き合ったけど、何か
そういう雰囲気にならなかったし、デートすら一度もせずに三か月
後には自然消滅してたわ﹂
﹁⋮⋮ちなみにグレゴリーって今彼女いるらしいんだけど、それに
1946
ついては﹂
﹁どうでもいい。っていうか後釜すぐに見つけやがって、と思うと
なんか悔しいわ。アイツ実は結構モテるのよね⋮⋮。私もそれなり
だけど、いいかなって思った人は特にいないから、その辺りがムカ
つく﹂
苛立たしそうにそう呟くヴィーの様は、二人きりのそれではなく
皆といる時のそれだ。マスターが会話に入ってきたからなのか。他
に誰もいないの時の妖艶な彼女は、ちょっと苦手かもしれない。短
時間の間で比較すると、それがはっきりした。
そんな風な事を考える総一郎に、ヴィーは目を向けて不思議そう
に﹁ふぅん?﹂と声を上げる。それが気になって﹁どうしたのさ﹂
と聞くと、﹁別に? 誰の事を考えてるのかしら、と思っただけよ﹂
と可笑しそうに肩を竦めた。
﹁いい勘してるよ﹂
﹁でしょ?﹂
人は、時と場所に応じて顔を変える。総一郎も、そうだ。愛しい
人に見せる顔と、敵対者に見せる顔に似通った点などない。そして、
目の前の彼女。エルヴィーラは、もっと細かいのだろう。ちょっと
した友人、よりも少し踏み込んだ関心が総一郎の中に生まれる。
それは、好意というより、興味に近い。
﹁これから、予定ある?﹂
1947
﹁あら、デートのお誘い?﹂
﹁そんな所かな﹂
﹁でも、あの二人、イッちゃんの事待ってるんじゃない?﹂
﹁あの二人は、俺が居なくたって仲良くやるさ。俺が遅れた時も、
良く笑いながら何かを話していることも多いしね﹂
何だか自分が彼女を口説いているような気分になってくる。別に
そんなつもりはさらさらないのだが、否定材料を上げられると何故
だかそれを退けなければ、という気分にさせられる。やはり、彼女
は何処か魔性だ。
﹁そう。じゃあ⋮⋮そのお誘い、お受けしようかしら﹂
微笑を浮かべての返答。そこに悪戯っぽい色を、総一郎は見出し
た。もしかしたらこの小洒落た雰囲気の話し言葉は、彼女なりの茶
目っ気という奴なのかもしれない。とするなら、この一連の会話は
彼女にとってすべて茶番という訳だ。
その時、﹁んっ﹂と彼女は何かに気付いて口元に両手をあてた。
上目づかいに総一郎を見て、そこに少し愛嬌を感じさせられる。そ
の後わずかに目を逸らしてから、ぽつりと問われる。
﹁イッちゃん⋮⋮、もしかして、気づいた?﹂
総一郎は、肩を竦めて剽軽に返す。
﹁さぁ、何を言ってるか分からないな﹂
1948
ぷふっ、とヴィーは嬉しそうに吹き出した。小さく小さく、﹁合
格﹂と呟いて、彼女は妖艶を装った所作で微笑む。
﹁なら、まずはこの店でコーヒーブレイクを楽しみましょう? こ
このコーヒー、美味しいんだから﹂
コーヒーに砂糖を大量に入れて飲んだら、目を丸くしたヴィーが
面白かった。
彼女は無糖派で、対する総一郎は甘党だった。昔、一時期味覚が
変だったせいか、美味しい物は美味しいと感じるのだが、自分で味
付けという段階になるとやはりどこか変な風になってしまう。
だが驚いた事に、彼女は真似をして、飲み終わったコーヒーの底
にたまった砂糖をスプーンですくって食べると、﹁あ、結構おいし
いかも﹂と可笑しそうに笑った。﹁体に悪いよ?﹂というと、﹁そ
れ、あなたが言うの?﹂と言われ、二人で口元を抑え、肩を揺らし
た。
外に出ると、ヴィーは強めに手を掴んできて、﹁それで、何処に
連れてってくれるのかしら﹂と小首を傾げた。愛らしい挙措。しか
しその所作は計算づくで、その上計算づくだという事をそこそこわ
かりやすく示していた。だから、総一郎はこっそりにやっとした。
そしてそれを盗み見て、彼女もまたこっそり笑うのだ。
﹁そうだね、さっきは落ち着いた店だったから、次は少し賑やかな
所に行こうか﹂
1949
﹁繁華街は嫌よ? あそこは、品性が無いから﹂
﹁おっと、それは困ったな﹂
会話を一つ交わすたび、二人は少し立ち止まって笑いあった。不
可思議で、可笑しい。まるで古い映画の中の会話みたいだ。そんな
風に、総一郎は思う。実際、ヴィーもそのように誘導しているのだ
ろう。
﹁そうね﹂と彼女は流し目をしながら、人差し指を悪戯っぽく口に
当てる。
﹁なら私、ちょっと心当たりあるかも。付き合ってくれる?﹂
﹁もちろん、マドモアゼル﹂
眉をきゅっと寄せながら言うと、ヴィーはとうとう堪えきれなく
なって大きく噴き出した。体を折って、腹を抱えながら﹁そ、それ
反則⋮⋮! ぷふっ、あはははは⋮⋮!﹂と悶えている。
歩きながらそんな妙な会話を続けていると、だんだんと街が見覚
えのない風景に変わっていった。現代的でない。しかし、アメリカ
らしい、そんな感じ。総一郎は、遠い昔、こんな風景を見た事があ
る気がした。これは︱︱某、夢の国というべきか?
﹁禁酒法時代のアメリカ。アーカムには、古い街並みを壊さないま
ま保っている旧市街と、どんどん時代の先を進む新市街に分かれて
るのよ。今のミスカトニック大学は新市街にあるけど、昔はミスカ
トニック川近くの、旧市街の中でも中心に位置していた。今でも図
1950
書館なんかはそこに残されてるわ﹂
彼女の土地への知識に感心させられ、﹁詳しいんだね﹂と褒めた。
心当たり
﹂と手で指し示す。
すると彼女はきょとんとしてから少し赤面して、照れ臭そうに﹁で、
ここが今回の
﹁⋮⋮映画館か﹂
そこは、随分と古い建物だった。何とも恐ろしげな雰囲気がある。
何と表現していい物かと戸惑っていると﹁まるでホラーハウスみた
いって思ったでしょ?﹂とヴィーににやりとされる。後ろ頭を掻い
て、﹁どうして分かったのさ﹂と言った。
﹁これでも私、人の事はちゃんと見てる方よ? 特に、気に入った
人の事とかね﹂
目を細めて、微笑と共に言う。それに、少しドキリとさせられた。
﹁まいったな﹂というと、﹁本当に参ったみたいな顔で言わないで
よ。傷つくじゃない﹂と唇を尖らせて文句を言われる。しかし、困
るものは困るのだ。自分には、操を立てた相手が居るのだから。
﹁ま、いいわよ。そこまで深い意図はないしね。ひとまずはお友達。
それならいいでしょ?﹂
﹁それなら、構わないけど﹂
﹁私だって、いやがる相手を無理に、なんてこと考えないもの。ど
ちらかというと、がつがつした男子を断る側だったし。⋮⋮けど、
ちょっと残念ね。少しいいなって思ってたのに﹂
1951
﹁気が変わったら教えるよ﹂
﹁うわ、キープするつもりだ。サイテー﹂
﹁あはは。面目ない﹂
﹁仕方ないわね、許してあげるわ。あなただけ、特別よ?﹂
言いながら、二人でくつくつと笑う。そうだ、この距離感だ。古
いラブロマンス映画の真似をして、共に笑っているくらいがちょう
どいい。何処から何処までが本音で、何処から何処までが嘘か分か
らない。そんな腹の探り合いの様で、結局はただのじゃれ合いに過
ぎない。そのくらいの関係性の方が、気楽でよかった。
映画館のドアに手を当て、力を込めた。ギィ、と錆びた音。新市
街の映画館はすべて自動ドアだというのに、と少し思うが、反面、
何となく面白味を感じている自分もいた。
壁際で今やっている映画を眺める。だが、ヴィーはすぐに総一郎
の手を掴んで、﹁これ、一緒に見ましょ?﹂と指を差した。白黒映
画で、ラブロマンスで、しかもこの館限定のそれ。心を、奪われる
ような気分になった。この館で、この相手と見るなら、まさにこれ
だ。
﹁そうだね、それが一番ふさわしい﹂
総一郎の賛同に、﹁あなたならそう言ってくれると思った﹂とに
っこり笑ってカウンターでチケットを二枚買うヴィー。受付の暗が
りに座る館員のしわがれた声に、おや、と思わせられながらも、そ
れを口にするより前に、彼女に引きずられて行かれた。
1952
﹁ねぇヴィー。今の人って⋮⋮﹂
﹁イッちゃん﹂
人差し指を口に当て、無声音で﹃静かに﹄のジェスチャー。総一
郎は変な顔をして、結局黙り込んだ。
扉を通ってシアターに座ると、誰一人として観客は居なかった。
﹁やっぱり﹂と思わず言うと、﹁これがいいのよ、これが﹂と楽し
そうに返される。
﹁⋮⋮ヴィー﹂
﹁あなたの考えはきっと正しい。でもね、真実でさえ、沈黙は金と
同価値を持つのよ﹂
﹁⋮⋮了解﹂
総一郎は、微笑んで頷いた。アメリカにおける、原住亜人の在り
方。人目を忍んで、それでも人の敷いたレールに乗らねば生きてい
けない苦しみ。ふと、思うのだ。ヴィーがここを好む理由は、もし
かして。
﹁ほら、始まる﹂
喜色に跳んだ声で、彼女は言った。古めかしい演出で、③、②、
①、と映像が切り替わり、映画が始まった。白黒映画。無声映画。
まるで、旧市街の雰囲気に合わせて時代をさかのぼらせたような印
象を受ける。
1953
それは、みすぼらしい男が、花売りをする盲目の女性に恋をする
話だった。無償の愛。彼女の目、そして幸せの為に、男は金を稼ぐ
べく奔走する。てっきりラブロマンスのつもりで見ていたから、ボ
クシングだの何だので笑わされて、びっくりした。コテコテだか、
懐かしい気もしてしまう。それでも泣ける要素はあって、ほろりと
させられた。笑いと切なさ、その二つに涙した。
見終わって、深い満足感に包まれていた。最後の目の見えるよう
になった女性の、風采の上がらない主人公の姿に幻滅しているとも、
その行動に感動しているとも取れる表情。傑作だ、と思うと同時に、
本当にこの映画館だけなのか、と訝った。あの主人公の俳優。どこ
かで見たような気がするのだ。あのちょび髭の、剽軽な人物。
それを問うべくヴィーに目を向けると、ハンカチで目元をぬぐっ
ていた。総一郎の視線に気づいて、少し恥ずかしそうに、手早く畳
んでポケットに戻す。
﹁面白かった?﹂
﹁それは、もう。俺、昔は結構映画とか見てたんだけど、こんな映
画があるなんて知らなかったよ。本当、最高だった。特に﹂
﹁最後の表情でしょ。イッちゃん、そこで少し震えてた﹂
﹁見られてたのか、恥ずかしいな﹂
﹁ううん、素直に感動できる人って、素敵だと思う﹂
そこで褒めるのは少し卑怯だ、と総一郎は僅かに顔を赤くする。
1954
それを見てヴィーがクスリとしたのが癪で、総一郎も反撃する。
﹁そうだね。映画で泣くほど感動できる人って、素敵だよ﹂
むぐっ、とヴィーは黙り込む。それにニヤリと総一郎は笑い、そ
の意図をくみ取って、﹁なかなかやるわね﹂と彼女も悪い顔をした。
立ち上がって身支度をしながら、ヴィーは﹁結局どっちだったと
思う?﹂と聞いてくる。
﹁えっと、それは﹃幻滅﹄か﹃感動﹄かってこと?﹂
﹁うん。盲目という遮りを失って再会できた後、二人はどうなった
のかって。何度も見てる映画だけど、私、今でもどちらかに決めら
れないの﹂
﹁何度も見てるんだ﹂
﹁一応言っておくけど、アレ、ベスト版が何度も出てる名作よ? 知らないの?﹂
喜劇王の名が出てきて、総一郎は驚愕と納得にどよめいた。何故
ここでと聞けば、そういう昔の名作が専門な一風変わった映画館で
あるのだという。
話題を戻されて、総一郎はふむと、顎に手を当てて考え込んだ。
﹁好きな方でいいと思うけどね。感動して、二人で幸せになったっ
て﹂
1955
﹁そんな言い方をするってことは、イッちゃんは違うのかしら﹂
﹁俺は︱︱何故だろうね。幻滅しているようにしか見えなかった。
主人公の剽軽な顔すら、それを読み取ってなお笑顔を貫こうとして
いる風に見えて、切なかったなぁ﹂
そう告げると﹁そっか﹂とだけ言ってヴィーは肩を竦めた。少し
気分を害してしまったかな。と映画の真似をして被ってもない帽子
を上げるジェスチャー。ぷふっ、と彼女は口を押える。
帰り、映画館を出る頃には大分日も傾いていた。﹁きれいな夕焼
け﹂と言った彼女に総一郎が噴き出すと﹁今のは狙ったんじゃない
んだけど⋮⋮﹂と文句を言われる。
﹁ごめんごめん。君と二人で居ると、まるで古典アメリカ映画の中
に、迷い込んだような気がしてきてしまうんだ。でもそれを客観視
している自分も居て、だからそれらしい台詞が出てくるとどうして
も、ね﹂
狙い過ぎ
な言葉を
﹁⋮⋮。まぁ、仕方がないわね。私も﹃マドモアゼル﹄で随分と笑
わせてもらったし﹂
総一郎、ぎくりとなる。時間が経ってから
掘り返されると、中々キツイ。
﹁えっと、それはちょっと調子に乗りすぎただけだから、ぜひとも
忘れていただけると﹂
下手に出て総一郎は頼み込む。ヴィーは夕日が真っ直ぐに差し込
む一本道でくるりと回って、﹁どうしようかしら?﹂と可笑しそう
1956
に微笑んでいた。
1957
3話 ARFⅠ
総一郎が、テレビを凝視していた。
珍しい、と図書は目を見張る。総一郎はメディアにあまり触れな
い性質で、最低限の時事以外にはかなり疎い。最近ARFにハマっ
ていたようだったが、それもここ二日間で鳴りを潜めたように思っ
ていた。
何を見てるんだろうか、と三人分の朝食を作りながら、目を細め
て映っている番組を見た。ニュースではあったが少しゴシップっぽ
い番組で、今まで総一郎が好んでいなかった種類ではなかったか、
と首を傾げた。﹁お兄ちゃんどうした?﹂と可愛い可愛い爆発頭の
清が聞いてくる。
﹁ああ、総一郎が何を見てるのかってな﹂
﹁ん? あー、あれはな、最近アーカムにまた出現し始めた怪人の
特集だ。木の面を付けていて、木刀を持っているから﹃ウッド﹄と
呼ばれているらしい﹂
﹁ウッド、ねぇ⋮⋮。木刀って聞くと、俺なんかは総一郎のお父さ
んとか、総一郎自身の事を思い浮かべちゃうんだが﹂
﹁へ∼﹂
興味なさそうに相槌を打って、清はパタパタと総一郎の方に駆け
寄っていった。そういう行動が、何となく琉歌を思い出させて図書
1958
の気分を落ち込ませる。いつもの事だ。そうこうしている間にも朝
食が出来て、ミルクを注いだコップと共に持って行った。
﹁おら総一郎、ブレックファストだぞ﹂
﹁⋮⋮うん、そこに置いておいて﹂
﹁おう﹂
どこかぼんやりした返事に、図書は眉を顰める。テレビを見れば、
まだウッドの話が続いていた。皿とコップをテーブルに置いて、そ
のついでに奴の顔を覗く。
﹁⋮⋮何だその顔?﹂
﹁ん?﹂
総一郎はきょとんとした顔でこちらに振り向く。だが図書の脳裏
には、寸前の彼の顔がこびりついていた。
︱︱奇妙なものを見る目、釈然としない表情、そして、新鮮な驚
き︱︱
そんな感情の読み取れる複雑な表情をするなんて、知らなかった。
図書もまた、ウッドという怪人の特集に集中する。﹁何者かを探し
ているようだが、それが誰であるかは全くの不明である﹂という部
分だけが特徴の、凡庸な怪人に過ぎないようにしか、青年には感じ
られなかった。
1959
襲撃されたから、殺した。
肌寒い夜の闇の中、目の前のギャングは右腕足をなくして呻いて
いた。大量の血が、枯葉の代わりに地面を汚し、その中に倒れ込ん
で動かなくなる。
﹁クソッ! クソッ! ウッドっていう新参の怪人をぶち殺しゃ、
一万ドルなんて言ったバカはどいつだよ! こんなのに勝てる訳﹂
遠くで叫ぶチンピラ。奴はとうに撃ち尽くした銃の引き金を引い
て、カチカチと音を鳴らしていた。苛立ったから、右手を固めて投
げる。飛んでいき、串刺しにした。残るは二匹。鋭く見つめる。
木の面。木刀。だが、木刀を使ったことを見た人間は居ない。彼
にそれを使わせたものが居なかったからだ。大抵は、電撃やそのほ
かの適当な魔法で事足りる。
頃合いだろう。その様に判断して、彼はギャングの残りに尋ねる
のだ。中程度の距離が空いているが、十分に間合いである。周囲に
骸は五つ。脳裏に情報が浮かびやすくなるだけの恐怖は与えていた。
﹁お前らは、だれの指示でここに来た﹂
﹁そっ、そんなの言える訳﹂
﹁依頼⋮⋮人間か? いや、⋮⋮ふむ。ARFか、これは? ⋮⋮
1960
なるほど、とうとうARFが自分から来たか。名が広まるだけ殺し
た甲斐があった﹂
﹁えっ? 何でお前がそれを知って。いや、そんな事よりこれじゃ
あハウンドに殺されちま﹂
言葉の途中で、その首を風魔法で斬り飛ばす。宙を舞う仲間の頭
に、残る一匹は泡を吹いて失神した。その情けなさが滑稽だったの
で、彼はそれを見逃す。殺しに固執しない。それは誓いだった。
しかし、と彼は思う。ハウンド。ARFの中でもかなりの過激派
である。全滅主義、という言葉を聞いた事があった。
彼は、ウッドは、そこに居た。裏路地。スラム街ではなく、ビル
街の片隅。ここでとあるギャング同士の取引が行われるという話だ
った。だが、蓋を開けてみた結果は違った。明らかに彼を意識した
武装をしたギャングたちが、ここで待ち構えていた。
つまるところ、彼が情報源とした複数のチンピラたちは、最初か
ら偽の情報を掴まされていた、という事らしい。それが、心を読む
ウッドにそのまま伝わった。
﹁⋮⋮敵も、少し手強くなったな﹂
彼は呟き、鼻を鳴らす。自分に対して策を張っている人物が現れ
た。それも、聞けばARFで有名なハウンドと言うではないか。
好都合だと、ウッドは考える。直接襲いかかってきたところを、
返り討ちにすれば彼の目的は半ば達成される。
1961
けれど、ウッドは笑わない。仮面はただ、無表情を貫いている。
そのまましばらく様子を見たが、これ以上の動きはないらしい。彼
は踵を返し、その場を去ることにした。
そこにロケットランチャーが撃ち込まれたから、目を見張った。
風魔法で、無理やり方向をずらす。ギリギリで脅威は逸れ、背後
の壁から爆音が響き渡った。見れば、小柄な男の影。深い外套で身
を包み、目以外をネックウォーマーで隠し、円形の帽子をかぶった
︱︱少年。
奴は外套に撃ち終えたランチャーをしまい、アサルトライフルを
取り出した。魔法具による異質空間を収納場所にしているのだろう。
そして、数々の銃弾を放ってくる。
けれど、ウッドには魔法があった。銃弾の全てを無力化すること
など、造作もなかった。
駆け寄る。すぐに奴は劣勢を確信し、こちらに何かを投げつけて
きた。赤く点滅する。爆裂、爆風。魔法での防御が僅かな隙となっ
た。
しかしウッドに、奴を見逃すつもりはない。障害物を飛び越え、
風魔法を味方につけて飛ぶように進む。この先は路地の出口だ。ハ
ウンドはその先を進んでいた。人目に着くが、構うものか、とウッ
ドは思う。路地を出た。
周囲を探る。好機の目線がウッドに突き刺さる。魔法による探知
は人込みでは難しい。目視による捜索。まず車があり、そしてビル
があった。一つ、際立ってエンジンをふかす音がする。右。建設中
1962
らしい建物があって、その先にバイクに乗って逃げ去って行くハウ
ンドの姿を認める。
その方向に、飛んで行こうとした瞬間だった。
工事に引き上げていたらしい巨大な鉄骨が、ウッドめがけて飛ん
できていた。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ッ!﹂
鉄鋼は猛スピードでこちらに向かってきていて、逃れられるよう
な状況ではなかった。よって反転し、彼はハウンドを意識から外し
て手を翳した。直撃。そして発動。
雷を疑うような電撃が、地から天に昇って放たれる。
轟音。閃光。周囲の人間はパニックに陥ってその場から逃げだし、
それが出来ない者達は総じて腰を抜かして震えていた。ウッドはも
はやハウンドの姿が見えないことを知り、頃合いだと決める。
﹁⋮⋮なるほど、こういう手段をも、持ち合わせているらしい﹂
ハウンドという怪人の脅威がイマイチ掴めていなかったから、こ
れはこれで収穫だと定め、ウッドは重力魔法、風魔法で飛びあがっ
た。
総一郎がその場に訪れたのは、夜のいい時間だった。
1963
﹁うわぁ⋮⋮大惨事だなぁ﹂
周囲には、ゴロゴロと鉄塊が転がっている。大きなものなどは深
く地面に突き刺さり、見るも無残にひしゃげていた。
ここで、怪人同士の争いがあったらしい。
﹁ウッドと、何だっけ、ハウンドがぶつかり合ったんだっけ?﹂
﹃そうそう! いやー助かったよ。こっちは夜勤だから抜け出せな
くってさ。じゃ、写真撮って送ってなー﹄
電脳魔術による電話を切って、総一郎は自らの瞳をもって写真を
撮る。これも電脳魔術の使い方の一つだ。携帯が無ければできなか
ったことの全てが、今はただこれだけで可能になる。
﹁便利な時代だよ、全く﹂
前世の記憶があるからか、総一郎の口調はまるで時代遅れの爺の
それだ。自覚はある。何せアメリカの先進具合に追いつくまで、結
構時間がかかったくらいだ。
警察はまだ周囲にはおらず、そう考えると図書の耳の早さのほど
が窺えるというもの。追い払われて嫌な気分になるのも嫌だったの
で、少し早いが撤収しようと考えた。
そこに、話しかけてくる人物がいた。
﹁よお、兄ちゃん。アンタもここに野次馬しに来たの?﹂
1964
若々しい声に振り向くと、そこにはちょっと不良っぽい恰好をし
た少女が立っていた。金髪のツインテールなんていう幼い女の子の
髪型でありながら、髑髏のベースボールキャップを被り黒い革ジャ
ンを羽織って、内側には真っ赤なシャツとジーンズを身につけた、
ちょっとスカした少年の様な雰囲気を纏っている。
背が高く、総一郎より大きいくらいだった。その所為か健康美と
いう言葉がよく似合うという印象を受けてしまう。自己主張の激し
い胸部も、色気というよりやはり健康的な感じがした。とはいえ総
一郎も、一瞬目が行ってから、とりあえずそこから視線を意識して
外すのだが。
﹁そう⋮⋮だね。そっちも?﹂
﹁そうそう、アタシもそんな感じ。いやー、全く。アイツあほだな
ぁ⋮⋮。ウッドとやり合ったって噂、本当?﹂
﹁⋮⋮うん、そうだけど⋮⋮?﹂
話しぶりが妙で、総一郎は首を傾げる。それに反応して、﹁どう
した?﹂と聞いてくるが、気のせいだろうと考えて流すことにした。
﹁ううん、野次馬仲間が出来てちょっと嬉しいだけ。我ながら趣味
悪いなーって思ってたからさ。ちょっと親近感﹂
﹁うっは。仲間にされちゃったよ。でも野次馬仲間って言葉、何か
いいね。私はアーリーン。アーリーン・クラーク。アーリでいいよ﹂
﹁ほう、奇抜なあだ名だね。俺は総一郎。総一郎、武士垣外。基本
的には︱︱ソウって呼ばれてる﹂
1965
﹁何か今変な顔しなかった?﹂
﹁してない﹂
昔は呼ばれていたから良いのである。
その場のノリで手軽な連絡先を交換する。人間関係は、始まりは
大抵軽い。そこから重くなっていくのか、あるいは糸が切れてしま
うのか。そこは相性であり、運命という物だ。
それが終わって、彼女は﹁ふーん⋮⋮﹂と現場の状況を確認し始
めた。﹁そろそろ警察が来るんじゃない?﹂と提言すると、﹁来る
までに幾つかね。ハウンドのカード、生の奴は結構高めで売れるん
だよ﹂とアーリは返してくる。小遣い稼ぎという訳らしい。だがと
も思って、総一郎は尋ねた。
﹁お金目的の割には、頑張るね。本当は、他の目的があったりして﹂
その言葉に、アーリはこちらを向いた。不思議そうな顔色ながら、
何処か鋭い視線。
﹁鋭いね、ソウ。もしかして、そういう人?﹂
﹁まさか。君の言うそういう人っていうのに心当たりがないくらい
の一般人だよ﹂
﹁怪しい言い方だ﹂
﹁何せわざとそういう風に言ってるからね﹂
1966
そこまで言うと、彼女は笑いだした。﹁降参だよ、降参﹂と両手
を挙げて降伏のポーズ。﹁誰にも内緒だぜ?﹂と人差し指を口元に
当てて、言う。
﹁ハウンドってさ、アタシの弟なんだよね。ロバート・クラークっ
ていうんだ。盛大にドロップアウトしちゃった弟だから、心配なも
んで﹂
﹁⋮⋮えっ﹂
総一郎、絶句である。そんな反応に、﹁たはは﹂と恥ずかしげに
アーリは頭を掻いて笑っていた。
﹁そ、それは⋮⋮すごい、のかな?﹂
﹁姉貴心としては、今すぐに止めさせたいところなんだけどね。い
う事利かない奴だからさ、困ってんだ﹂
﹁そ、そっか⋮⋮。まさかARFの幹部の身内が、こんな所に居る
なんて﹂
アーリはそんな総一郎の世辞に、﹁そんな大したことじゃないっ
てば、うは、うはは﹂と妙な笑いを挙げる。総一郎は、僅かな逡巡
を挟んで尋ねた。
﹁ちなみに、君自体はARFとは関わりあるの?﹂
﹁んー、うんにゃ。そもそもアイツ家出中だし。ていうか何? も
しアタシがARFに関わりがあったらどうするつもりだったんだよ
1967
?﹂
にやりと笑いながら、肘でつんつんと総一郎をつつくアーリ。﹁
別に何でもないよ﹂と総一郎も降参のポーズだ。
﹁俺の身内も、もしかしたらARFに居るかもしれないんだ。お姉
ちゃんでさ。しばらく前から行方不明だって聞いてて、行動力のあ
る人だったから、もしかしてって﹂
﹁⋮⋮会いたい訳だ﹂
﹁そうだね、会いたい。だからこんな野次馬なんていう悪趣味にも、
手を出しているんだよ﹂
﹁うはは。なるほどなるほど、分かりやすい。しかもアタシと大体
同じじゃん。親近感﹂
﹁抱かれちゃった﹂
﹁うはは﹂
﹁あはは﹂
笑いあう。気さくな関係が築けそうな相手だと、総一郎はアーリ
を評価した。同じ悩みを持つ相手。それも大きい。
協力者という言葉は、総一郎には縁遠い物だった。今までずっと、
一人でやってきたのだ。だからその分、少しむず痒い。
そうして、その場は別れることになった。﹁気が向いたら情報送
1968
るからなー﹂と手を振り振りしていたアーリの純粋さに、多少の可
愛げという物を見出しながら。
家路につく。もはや深夜で人通りも少ない。その油断が、総一郎
に珍しい本音を吐かせた。思い出すのはアーリの胸元。突っ張った、
柔らかそうな膨らみ。むん、と目を細めて、ぼそりと呟いてしまっ
た。
﹁⋮⋮あれは、凄かったなぁ⋮⋮﹂
一瞬ローレルの事を思い出して比較してしまう。圧倒的な差。愛
しい人が想像上の秤にかけられ、シーソーというか砲台よろしく面
白い勢いで飛んでいく。総一郎はそんな果てしなく失礼な想像に、
イギリスの方向に向けて両手謝りをするのだった。
1969
3話 ARFⅡ
Jと仙文の三人で食事をとっていると、﹁やっほ﹂と言いながら
混じって来た人がいた。
﹁あ、ヴィー。やぁ﹂
赤い髪。妖艶な少女。総一郎の映画友達。エルヴィーラ・ムーン。
最近、良く一緒に映画を見に行く中になった。その事をJ、仙文
に告げると邪推されたが、やはりそこに映画友達以上の関係性はな
い。ただ、仲が良いのは事実で、話しかけやすい相手だった。彼女
は総一郎、仙文と並んで腰かけているところに来て、少しの吟味の
後仙文の隣に座る。
何か三対一みたいな構図が出来てしまっていた。
﹁⋮⋮バランス悪くないか?﹂
そう、悲しそうに言ったのはJだった。それに、ヴィーは笑いな
がら一言。
﹁仙文の方が可愛いもの。まぁJも、グレゴリーに比べれば愛嬌あ
ると思うわよ?﹂
﹁グレゴリーと比べられた⋮⋮!﹂
﹁J、ドンマイ。本気でドンマイ。今回ばかりは同情するよ﹂
1970
﹁イッちゃんよぉ⋮⋮﹂
男二人、思う所があって、固く握手を交わしあった。うんうん深
く頷いていると、女二人は男どもを置いてけぼりにして、何やら密
着してもぞもぞやっている。
﹁あっ、チょっと⋮⋮! 今は食事中だカら、変なトコロ触るのダ
メだッて⋮⋮!﹂
﹁うふふ∼。可愛いわね仙文∼。ほら、もっと悶えなさい?﹂
﹃⋮⋮﹄
Jと共に無言で、発情期の動物を見るような目でヴィーを見つめ
た。紅潮した頬。荒い息で、彼女は自分よりも小さな仙文の鎖骨を
撫でている。
もしかしたらヴィーも雑に扱うべき人なのかもしれない。最初は
愛見だって真面目に見えたが、今は酒を飲むわ適当だわと敬うべき
点が年上という事しかなかったのだ。
それに比べて仙文の純粋さ、いじらしさは何だろうか。彼女だけ
は常識もあって愛らしい。アメリカで出来た友人たちはどいつもこ
いつも変人ぞろいで、そんな中で一人無垢な彼女は、一種の清涼剤
だ。
彼女はちらりとこちらに視線をやる。総一郎は、力強く頷いた。
助けを求められている。ならば、助けねば。
1971
ヴィーから仙文をひったくる。抱き寄せながら、言い放った。
﹁ヴィー、そこまでだ。仙文は俺のなんだから、そうやらしい手つ
きで触るのは無しだよ﹂
﹁えっ﹂と仙文。﹁お、おいイッちゃん、大丈夫か?﹂とJ。
﹁何よ! 一番仲良いからって、それは横暴という物だわ。別に付
き合っている訳でもないのに﹂
﹁ふむ、確かにそれは一理ある。︱︱じゃあ仙文、俺達今日から付
き合おう。それで問題はないよね、ヴィー﹂
﹁くっ、そんな荒業があったなんて⋮⋮! やはり思った通り、イ
ッちゃんは強敵ってことなのかしら﹂
﹁あ、あの、ちょっと二人とも⋮⋮?﹂
﹁ん? 何さ仙文。︱︱もしかして、お断りなのか? そんな、あ
んなに仲良くやって来たじゃないか!﹂
﹁いや、ボクだってイッちゃんの事は好きだヨ! でもさ、その、
そういう事じゃないと思うし⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何が?﹂と首を捻る総一郎。彼女の受け答えに、どこか噛み
あわない感じを受けたのだ。これだけ仲よくやってきたのだから、
この冗談程度なら笑って済ませてもらえると思ったのだが。
﹁だって、ボク、男だシ⋮⋮﹂
1972
﹁⋮⋮あっ﹂
素で忘れてた。
﹁あっ﹂
ヴィーも忘れてたっぽかった。
﹁やべぇ。この二人やべぇ。完全に仙文の事を取り合ってた。ヴィ
ーは女だから良いにしても、イッちゃん。⋮⋮おれのケツは掘るな
よ?﹂
﹁俺はノーマルだよ! 違う、そうじゃないんだ。冗談である上に、
純粋に忘れてただけなんだ。だってほら、思い出してもくれよ。俺
が居ない状況で仙文が男宣言したら、J、君はどう判断した?﹂
Jが、その一言にハッとした。目を剥いたまま仙文に目を向け、
虚ろに俯いてしまう。そして総一郎に、心から申し訳なさそうに言
ったのだ。
﹁⋮⋮すまなかった﹂
﹁分かってくれて何よりだよ﹂
﹁あの、二人とも。片隅で仙文が涙目になってることに気付いて。
今まさに、あるかなきかの男のプライドが蹂躙されていることに気
付いてあげて﹂
﹁ちゃんとあるモン! あるかなきかじゃないモン!﹂
1973
仙文が叫ぶ。その様も可愛らしかったので頭をよしよしする。ヴ
ィーも便乗してよしよしだ。﹁分け合うのが一番だね﹂﹁そうね、
争いなんて野蛮だわ﹂と微笑みあう。真ん中で仙文がすすり泣いて
いる。
﹁そろそろ可哀想だから解放してやれよ﹂
﹁失敬な、合意の上だよ﹂
﹁イッちゃん一人ならやぶさかじゃないケド、この撫でられ方は何
か嫌だヨ⋮⋮﹂
﹁ほら、可愛い﹂
﹁全然そういう問題じゃないけどね﹂
ヴィーが仙文の頭から手を引いたので、ひとまず総一郎も止める
ことにした。このままでは、食べ終える前に始業のチャイムが鳴っ
てしまう。
弁当を口に運びながら、雑談を始めた。一昨日の小さな地震が怖
かったという話で三人が盛り上がっている中で、たった一人普通に
テレビ見ていた総一郎がひたすら驚かれたり、仙文が仙術について
熱く語ったりと、妙に有意義な話し合いだった。
そんな中で、ヴィーが﹁そう言えば﹂と新たな話題を挙げたのだ。
﹁ARFの活動も最近激しくなってきたわよね。知ってる? ファ
イアー・ピッグがここ数日にわたって行動を起こしてるって﹂
1974
﹁ああ、ラビットが忙しそうにしているのを偶に見るな。何かこう、
極稀に地面に白い影が現れるアレ﹂
﹁⋮⋮それがラビットなの?﹂
﹁いや、速過ぎて目視し切れないんだよあれ。イッちゃんも学校終
ったら直帰せずにさ、試しに一度ぶらぶらしてみ? 一時間に五回
は見るから﹂
﹁めっちゃ見るんだね﹂
﹁阻止し切れてないけど、多分強奪品の倉庫を抑えた方が早いって
いう方向に動いてるんじゃないかって言われてるヨネ。ファイアー・
ピッグも倉庫の場所だけは知られないようにって動いてるみたイ﹂
﹁所でファイアー・ピッグって今更ながら長くない?﹂
﹁ミートゥ﹂とJ。
﹁同じく﹂と総一郎。
﹁ボクもそれは思うヨ﹂と仙文。
﹁略称があった方がいいわよね。何がいいかしら﹂
﹁無難にFPとかか?﹂
﹁最後にS付けたいよね﹂
﹁ファイアー・ピッグ・シューティングかナ﹂
1975
﹁いや、ファイアー・ピッグ・スターだな﹂
﹁スター何処から出てきたのよ! ⋮⋮あ、そう言えばそんな必殺
技アイツ持ってたかも﹂
﹁だろ?﹂
犯罪者の話をしているのに、その怖がり方は地震に比べても生温
い。これがアーカムなのだと、総一郎は思ってしまう。犯罪者に慣
れきった未来都市。それは異常で、しかし地震を怖がらない日本人
と大した差が無いというのもまた事実だ。
中身のない話をしながら、総一郎は日常を謳歌する。
闇にまぎれて、動く影があった。
ギャングたちが、冷たい夜のスラムを明らかに武装して歩いてい
る。ある者はアサルトライフル。ある者はショットガン。ある者は
火炎瓶。冬の気配の中、火器を蓄え対抗する。そういう風に、警戒
していた。
﹁⋮⋮殺し過ぎたという事か﹂
ウッドは、レンガ造りの建物の上からそれを眺めていた。今此処
で降りれば、集中砲火を受けることになるだろう。魔法があるから
防げるとはいえ、怪我をしかねない。
1976
致命傷以外は治すことが出来るが、痛みが不快でないわけではな
かった。だが、先日のハウンドを逃したからには情報を集めないわ
けにもいかない。
彼に、選択肢はないのだ。
足を踏み出し、飛び降りる。音もなく着地すると、一テンポ置い
て周囲が一気に色めきだった。全員が構える。だが、撃たない。
その事が違和感で、ウッドは攻撃するのを少しの時間躊躇った。
すると、奥の方から歩いてくるものが居る。
﹁どうやら、完全に妄執に取り付かれているわけではないらしい﹂
闇の中より歩み出てきたのは、目を包帯で覆った少女だった。奇
妙な出で立ちである。来ている服は闇に溶けるような色合いの、何
処か無骨なスーツ。目を塞ぎ、その包帯の余りで二の腕まで届く髪
の毛を、一所にサイドテールにしている。腰にはナイフがつけられ
ていた。酷く、物騒な雰囲気。周囲のギャングたちは、ウッドに視
線を注ぎながらもちらちらと彼女に視線を送っている。そこに込め
られるは、畏怖。
余程、恐ろしい人物であるようだ。それにこの年齢でギャングを
従えている。となると、怪人であるのは間違いがない。
﹁お前は、何者だ﹂
﹁私は、こういう物です﹂
そう言って、彼女は左手を胸の前に掲げた。掌を、まるで顔のよ
1977
うに真正面にウッドに見せつける。
その中央で、目が開いた。ぎょろりと不気味に蠢くその瞳。その
周囲には、赤く上部に﹁ARF﹂と、そして下部には﹁EYE﹂と
殴り書かれている。
﹁手の目⋮⋮。そうか、魔法を使うARF構成員の噂は知っていた
が、お前がその一人か﹂
﹁私は、この国に来て人間が憎くなった。だから所属し、秘密裏に
動いています。そしてウッド、今回は、あなたに依頼があって来た﹂
﹁⋮⋮依頼、だと?﹂
﹁ええ。報酬は、あなたが欲しがっている情報です。人を探してい
るのでしょう? それが誰なのかはわかりませんが、とある仕事に
手伝ってくれれば、我が組織の力をもって調べ上げます﹂
﹁だが俺は、ハウンドに殺されかけているぞ﹂
﹁あんなもの、小手調べにもすぎない。そもそも、ハウンドの恐ろ
しさは直接対決のそれではありません。御託は良いのです。Yes
or No。返答は簡潔に﹂
にべもない。だが、分かりやすかった。ARFが情報を掴んでい
るのは、もはや確信に近い。ならば、乗ってやってもいいだろう。
襲い来るなら、殺し返せばいい。
﹁分かった、乗ろう。俺が欲しいのは、白羽という少女の情報だ。
白羽、武士垣外。お前らARFの、構成員の一人だと認識して動い
1978
ていたが、どうだ﹂
﹁⋮⋮報酬は、事を為してからです。では、これを﹂
何かを投げよこされる。掴むと、指輪だった。﹁安価なEVフォ
ンです。これで連絡が取れるでしょう﹂と少女︱︱EYE︱︱アイ
は語る。
﹁数日後、連絡を入れます。指定された時間、場所に赴いてくださ
い。そこから先は、担当者が口頭で指示を出します﹂
﹁分かった﹂
﹁では﹂
そして彼女は、闇に消えるように居なくなった。それに着き従う
ギャングたちも。ウッドはそれを見送りながら、﹁ふむ﹂と頷くの
だ。
﹁⋮⋮あの人数差では、負けるのか﹂
世の中は、広い。神を殺そうと、人間に勝てないこともあるのだ。
数日が経って、ウッドは郊外の廃工場に訪れていた。
都市部から見て、スラムよりもっと向こう。他の街に移るための、
高速道路の脇から逸れた場所。そこに、それはあった。
夜の闇の中で、電燈の光さえ薄い。ひっそりとした佇まいは、巨
大ながら気配を感じさせない。
1979
その大きなシャッターの傍らに、タバコをふかす男性が居た。会
社員という風情でもないが、ギャングという印象もない。ただ、通
行人という雰囲気があった。何となくそこに寄り掛かっていた風で
ありながら、ウッドを見つけて平然と名を呼んだ。
﹁⋮⋮ウッドか﹂
﹁依頼の通り、来てやったぞ。仕事は何だ﹂
﹁ひとまず、中に入れ。目に付いたらマズイ﹂
目に付く? と首を傾げたかったが、彼はそれ以上何も告げずに
鍵を投げつけてきた。少し歩き、小さな電気音がする。すると何も
ない所から、鍵穴が現れた。
﹁お前は、魔法使いなのか﹂
﹁少しかじっただけだ。そのくらいの人間は、USAでもそれなり
に居る。遺伝的な親和力に過ぎないよ。ジャパニーズとは違う﹂
それだけ言って、彼はそのまま歩き去って行った。近くにあった
バイクにまたがって、そのまま行ってしまう。
ウッドはそれを尻目に、ドアを開けた。中は、全くの暗闇である。
だが、ウッドの目は闇をも見通す。見えない、という状況にならな
い。
チンピラ
はいない。誰も彼もが武装していて、軍服を着せれ
そこには、何十人ものギャングが居た。だが、いかにもガラの悪
い
1980
ばそのまま傭兵にでもなれそうな雰囲気がある。そしてその大半は、
暗視ゴーグルを装備していた。
﹁来たか、ウッド﹂
酷く、低い声だった。奥に潜む、ひときわ大きな影。それが、歩
み寄ってくる。
﹁お前は、目がいいと聞いた。だから、メガネは用意していないが、
いいな?﹂
﹁⋮⋮お前は、ファイアー・ピッグか﹂
姿を現した闇の王は、噂に違わぬ獣の姿をしていた。記憶から盗
み見たウルフマンよりも、更にでかい。三メートル弱。正真正銘の
化け物だ。しかし豚というよりは猪に近い。つまりは毛深く、重装
備で、暗い中でただ一つ真っ赤に輝く眼光を有している。
﹁火は、何処にある? 暗闇でそんな風では、お前はただの豚じゃ
ないか﹂
﹁常に燃えていたなら、オレはとっくに殺されている。ファイアー・
ピッグの名はオレ個人でなく、オレを頭に据えた一個小隊につけら
れた名だ。﹃頭﹄が頭を使わなくてどうする﹂
﹁なるほど、予想以上に切れる奴らしい﹂
粗野な外見をしていながら、挑発に乗ろうとする素振りが無い。
﹁では、仕事の話だ。ウッド。お前は、ここに居ろ。今日中にここ
1981
の荷を運び出さねばならない。下手をすればオレを含めた全員が死
にかねない危険な仕事だ。もっとも、奴は殺さないのだろうが﹂
思い当たる節が、無いでもなかった。
﹁⋮⋮ラビットか﹂
﹁耳が早いのは良い事だ。余計な説明を省くことが出来る。︱︱対
峙したことは?﹂
﹁ない﹂
﹁なら、戦わなくていい。自分の身だけ守れれば十分だ。噂通りの
察知能力なら十キロ程度まで警戒網を張れそうだが、ひとまず急速
で迫る物体が見つかったらすぐに知らせろ﹂
﹁随分と甘いな。外部の人間なのだから、ぼろ雑巾になるまで酷使
されると思ったが﹂
﹁報酬はたかが情報だ、お前をこき使うつもりはない﹂
そこまで告げて、ファイアー・ピッグ︱︱ピッグは奥へと引っ込
んでいった。かと思えば、怒号を発して部下に命令を下している。
ウッドは言われたとおりにすればいいだろうと考え、姿を消して倉
庫を出た。そして、魔法で飛びあがりその屋上に立つ。
下の方で、何やら音がし始めた。少しするとトラックがいくつか
出て行って、例の積み荷の場所を移すことになったのだと知った。
とすると、ここはもうすでにラビットに当りを付けられている、と
いう事なのか。
1982
しかし、それでも周囲の様子に大きな変化はなかった。風魔法に
よって、異常な速度の物があったら、ギリギリで感知できる程度の
広さを索敵範囲とした。細かい動きは分からないが、それでも大ま
かな風の流れくらいなら把握できる。
それから、数十分が経った。EVフォンに着信が来て、ピッグか
ら﹃ご苦労だったな。あと少ししたら全員撤収できる﹄と伝えられ
た。頷くと、立体映像が消える。
その時だった。
ウッドは、弾かれたように顔を上げた。途轍もない速度で、真っ
直ぐにこちらに接近する飛来物を探知した。放物線を描きながら、
しかし隕石の様に墜落してくる。
電子を弾き飛ばして穴をあけ、直接倉庫内に戻った。月の光が倉
庫内に射し込んで微かに明るくなる。それにギャングたちが動揺す
る中、彼は叫ぶのだ。
﹁ファイアー・ピッグ! ラビットが来たぞ!﹂
倉庫のシャッターが打ち破られたのは、まさにその瞬間だった。
金属の引きちぎれる音という物は、強烈だ。展性の限界を超える。
それはひょっとすれば、火薬の破裂する音よりも強い力を持つ。
ギャングの大半が、それで竦みを見せた。この闇の中で活動して
いた者達には、電燈の光さえ少し眩しいだろう。ひしゃげたシャッ
ターは弾け飛び、数人を打ちのめした。そして、影が現れる。
1983
奴は、噂通りの外見だった。百八十センチくらいの背丈。頑丈そ
うなジーンズに、白のフード。目深にかぶったその頭頂からは、冗
談のようにウサギを模した長い耳が生えている。そして、手足の先。
これもまた、ウサギを思わせる白の長い毛で覆われていた。もこも
こで、人を殴れそうな形をしていない。リアルな形状だが、偽物ら
しさもある。
ウッドは、その外見に怒りとも呆れともつかない、微妙な気分に
させられた。女がやるにしても寒い恰好の男である。滑稽というよ
りも、嫌悪感が湧く。
﹁⋮⋮チッ。荷はすでに運び出された後か。だが、これだけ情報が
あるなら、問題はない﹂
それが、こんな格好つけた言葉を発するのだ。ウッドは思わず、
木刀を握る手を強くしてしまう。
︱︱しかし、ファイアー・ピッグの対応は迅速だった。
﹁戦闘要員は記憶消去! そのほかは撤退! 動けェッ!﹂
硬直していた部下たちが、その一言で我を取り戻した。前に出る
者達は首下のスイッチに触れ、その他は奥の車へと走っていく。
﹁ウッド。お前は恐らくこの中で最も戦力になる。だが、ラビット
の戦いは突拍子が無い。まずは見て学べ。迂闊に動くなよ﹂
ピッグはそう言って、ウッドを奥の暗がりに押し込んだ。そして
﹁五分もたせろ! そうすればオレたちの勝ちだ!﹂と檄を飛ばす。
1984
﹁五分ももつのか、豚﹂
﹁悲願が近いのだ。易々と阻まれるわけにはいかねぇんだよ、長耳
野郎﹂
短い応酬。ピッグは構え、ラビットはジャンプを始めた。
ウッドは、それを怪訝に見つめる。その場で小さな跳躍を繰り返
すその姿は、控えめに言っても頭がおかしい。だが、誰も銃を撃た
ないのだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
そう考えた自分を、ウッドはすぐに殴りたくなった。
ラビットは、ふとした瞬間に掻き消えた。その一瞬があまりに唐
突で、ウッドは奴の姿を見逃した。すると、天井で音が聞こえる。
上か、と顔を上げたのだ。凄まじい跳躍力だが、この程度、とまだ
侮る気持ちがあった。
だから顔を上げた瞬間に地面で音がして、ウッドは僅かに当惑し
た。
地面を見る。しかし、すでに姿はない。ただ、人の輪が出来てい
て、その中央で踏みつぶされたように蹲るギャングの姿が見えるば
かりだった。再びの天井の音。同時に顔を上げたつもりが、上げ終
った時に地面で人のつぶれた音が耳に届く。
﹁︱︱︱︱︱!﹂
速い、と思った。速すぎる、とも。
1985
だからもう一度、音にかかわらないで天井に視線を向けた。地面
で音がしても、目を向けない。そうしてやっと、微かな影を捉えら
れた。
まるで弾力性の高すぎるゴム鞠だ。天井と地面の間を跳ね続けて、
その過程で敵を踏みつぶす。ウッドは対応策として、時間魔法によ
る加速を行った。彼の魔力量は膨大であるため、親和力の低い時間
魔法でも多少を使える。
そうすることで、やっと奴を目視できるようになるのだ。ウッド
は、前に進む。ラビットの攻撃範囲内に。
そして、襲いかかってくる白色の影。
ウッドは当初魔法による防御を考えていたが、咄嗟に木刀の防御
に変更した。亜人、魔法の類に滅法強い性質を持っている。故に、
ラビットでさえこの木刀にはそれ相応のダメージを与えられると打
算していたのだ。
迫りくる奴に、ウッドは素早く剣を翳す。激突。毛むくじゃらの
足が、木刀の真ん中に圧力をかけている。思った以上に強い衝撃に、
生物魔術による自己強化を加えて、ギリギリのところで耐えきって
見せた。ラビットは天井に戻らず、空中を何回転かして着地する。
だがその動きから、精彩が失われてはいなかった。
攻撃に、なっていない。亜人にはそれこそ毒のように反応する、
この桃の木刀が。
ウッドは、低い声で尋ねる。
1986
﹁お前は何者だ、ラビット﹂
﹁その言葉、そのまま返すぞ。お前は、ウッドか? 何故ARFに
与している﹂
﹁情報を手に入れられると、持ちかけられた﹂
﹁ふん、分かりやすい動機だ。どういう動きをするか分かりにくか
ったが、このままならなし崩しでARFに入る道しか見えないな﹂
﹁今回限りだ。失ったものを取り戻せば、もう俺は世に出ない﹂
﹁それなら楽だが、そうはならないだろうさ。しかし︱︱このメン
ツは厄介だ﹂
言うが早いか、ラビットは飛び退いた。そこに、炎を体にまとっ
たファイアー・ピッグが拳を飛ばす。﹁相変わらず逃げ足が速いな、
長耳野郎!﹂と吠える。その姿は、獣だ。
﹁あと、三分。⋮⋮これ以上速度を上げると人が死ぬな。だが、怪
人二人を倒せば他は気にしないでも﹂
﹁オレの部下どもを舐めるなよ。礼儀知らずのJVAを黙らせられ
るだけの力はある﹂
﹁礼儀知らず? JVAは学がある奴の方が強いと知らないのか﹂
ラビットとピッグが睨み合う。あまりに静かで、ピッグの周囲で
弾ける火の音以外、何も聞こえない。そんな中、音もなく構成員た
1987
ちがラビットを囲い始めた。ウサギはそれを、特に過敏な反応無く
平然と眺める。そして再び、膠着した。張り詰めた膠着である。
ウッドは、それを俯瞰して思う。豚から感じられる何かしらの意
図。介入は待った方がよさそうだと判断し、今は待つ。︱︱しかし、
その配下はどこか忙しない。ピッグが誇れるほどの人材とも思えな
いのだ。
常人からすれば、きりきりと胃の痛むような空気の緊張。微かに
震える、数名の部下。ピッグはそれに、小声で﹁堪えろ﹂と釘を刺
す。しかし、状況はもう破裂寸前の風船に近い。
そして、ラビットは意図して風船に画鋲を突き刺す。
﹁︱︱もう、悠長に待つ時間はない﹂
その言葉に、パニックに陥った部下が一人いた。﹁うわぁあああ
!﹂と短くみっともない叫び声をあげ、手から炎を放つ。中々の火
魔法である。だが、これでは宝の持ち腐れだ。
ラビットはこれを機と見た。一瞬で飛びあがる奴に、火の塊は当
たらない。天井をバウンドし、魔法を放った奴に向けて落下の攻撃。
為す術なく、その部下は気絶させられる。
ウッドが息を呑んだのは、まさにその瞬間だった。
ピッグの部下たちの間に広がっていたはずの恐怖は、その一瞬を
境に消え失せた。同時に、全員が﹃ラビットが攻撃する相手を知っ
ていたかのように﹄、ラビットの着地以前から動揺した部下へと火
魔法を放っている。それを見て、ウッドは何が起こったのかを知る
1988
のだ。
﹁︱︱あの怯えは、ブラフか﹂
着地した直後、ラビットは大量の火に燃え上った。﹁フン﹂とピ
ッグは鼻を鳴らす。それを、素直に勝ち誇っているとウッドは見た。
だから、援護に走った。
ラビットを真似、風魔法を使わず重力魔法、生物魔術だけで天井
まで跳躍する。この程度の高度なら、この方が隠密性が高い。そし
て、天井に魔法で貼り付く。
﹁どうだ、ラビット。オレの部下も、なかなかだろう﹂
言葉を投げかけるピッグ。勝ち誇りすぎだ。とウッドは思う。そ
して、案の定だ。
火が、まるで大砲に揉み消されるように、形を強く変えた。見れ
ば、振るわれたようなラビットの拳。何処までもウサギに似た、場
違いなそれ。
﹁この程度で、俺が死ぬかと思ったか? そもそも︱︱部下を犠牲
にと言うやり方が気に入らない﹂
﹁くっ﹂
ウッドは、それを見計らって落下する。
単純な自由落下である。ただ、音魔法で勘付かれないようにはし
た。空中で体勢を変え、木刀で斬りかかる。
1989
﹁まぁいい、こんなやり方に甘んじる外道なら、俺も手加減をせず
に︱︱ッ﹂
ラビットは上を向く。奇襲が察知されたのだ。しかし、構うまい。
そのまま、木刀を振り下ろした。この一撃を、ラビットは反応し
きれなかった。手ごたえ。頭に、一撃を入れた。
亜人なら体が裂ける。人間でも頭蓋が陥没する。そういう一撃だ
った。だが、ラビットは仰け反って退いただけで、死んでいない。
有り得ない事だった。フードの下に、よほど固いヘルメットでもか
ぶっているのか、奴は。
痛みを堪えるように、ラビットは歯を食いしばっている。獰猛な
口調で、嫌味を言ってきた。何処がウサギだ、と思わなくもないそ
の言動。
﹁気配を消すのが上手い奴だな、ウッド。影が薄いとよく言われる
だろう﹂
﹁不思議だ。何故お前は死なない。フードの下に何かあるのか、あ
るいは﹂
﹁⋮⋮ああ、クソ。イレギュラーが計算違いを起こした。その上、
豚のブラフも本当に﹃ブラフ﹄だとはな。頭に血がのぼったのも悪
かった﹂
ラビットの視線の先。ウッドは目を向けて、意味を知る。偽物だ
ったのだ。ラビットと共に火に包まれた人間などいない。あえて言
1990
うなら、人形だけだ。
ラビットは、悔しそうに言う。
﹁︱︱気づけば五分費やした。木面の焚き木で作った豚の丸焼き自
体に興味はない。今回はお前らの勝ちだ。だが、ARF。お前らが
アーカムを壊すなら、俺は容赦をしない﹂
﹁戦乱が無ければ、誰も価値に気が付かない。亜人は人だ。それを
認めさせる争いさえ、お前は許さないのか﹂
﹁俺は俺のままでいる。弱者が震えない世の中を守る。それだけだ﹂
そう言い捨てて、ラビットは姿を消した。ウッドが空けた穴から、
跳び去って行ったのだろう。
その穴からは、丁度月が覗いていた。煌々と照る月。あまりに強
い相手だったと、そう思う。ダメージの与え方すらロクに分からな
い。そんな敵にあうのは久しぶりだ。まるで、月に手を伸ばすよう
な戦いだった。
﹁ウッド、助かった。この事は上に伝えておく。日を追って連絡を
取る。期待していろ﹂
ファイアー・ピッグは。体から放つ炎を消して、礼を言ってきた。
いい仕事が出来たと認めてくれているらしい。これなら情報も安泰
だと思うと。力が抜けるような気分にさせられた。
すぐに、彼女と再会できる。そう思うと、気さくに冗談も言えた。
1991
﹁奴は月に帰ったのか﹂
それにピッグは小さく笑う。
﹁ジャパニーズらしい発想だ﹂
1992
3話 ARFⅢ
登校中、銃撃戦が起こっていた。
火薬の爆ぜる音。総一郎は日常から大きく乖離したその空気の振
動に思わず身を竦ませていた。
大きな路地だった。総一郎の前世、あの少年︱︱ファーガスに殺
された場所によく似ていた。普通なら車よりも、人通りの方が多い
その場所。そこで魔法と銃弾が飛び交っていた。
﹁おいお前! どうやってここに入った!﹂
﹁え、いや、俺は普通に⋮⋮﹂
言いながら、見入っていた。不可思議な光景だった。魔法が警察
官めがけて襲い掛かり、そのほぼすべてが途中で崩れ散る。その原
因は、きっと彼らが使う銃弾の所為なのだろう。
警察しか手に入れることのできない弾丸。魔法に打ち勝つ銃弾。
魔法を纏う鉛玉。特殊銃の名で知っていた。しかし、正式な名前は
違う。
マジックウェポン。あまりに直球なその名前で総括される銃火器
は、あまりに圧倒的に反抗勢力を無力化した。魔法の弾幕を対魔法
弾で破りさり、車という障壁を覆魔法弾で敵ごと貫く。
総一郎が追い払われる途中で、争いは終わってしまった。その中
1993
の一人が、戦闘終了の合図を放つ。
﹁もう終わりだ、全員ぶっ殺してやったぞ﹂
しわがれた声だった。しわがれた外見だった。長くよれた白髪交
じりの髪と、痩せこけた頬の持ち主だった。やせぎすの体を、黄ば
んだスーツで包んだ人物だった。
の全滅、確認終えました﹂
総一郎は、その人物をテレビ越しに見た事があった。特集されて
化け物ども
いた刑事だ。確か、名前は︱︱
﹁リッジウェイ警部。
﹁おう、ご苦労だった﹂
彼らは互いの健闘をたたえながら笑っていた。総一郎は、凄惨に
撃ち殺された亜人の姿を、少しだけ視界にとらえることが出来た。
そして、背中を押してくる警官の肩越しに見える、嬉しそうな彼ら
の姿を見る。
﹁⋮⋮化け物、か﹂
総一郎は、素直にその場を離れて行った。ムカムカしていた。ア
メリカにおける差別の実態を、はっきりと目にした。そんな気分に
させられた。
それを学校でJに話す機会があった。彼は、憤然と語る総一郎に
妙に落ち着いた面持ちで言うのだ。
﹁まぁ、何と言うか、嫌なもん見ちまったな、イッちゃんも﹂
1994
﹁⋮⋮君なら、もっと反応すると思ってたんだけどね﹂
﹁イッちゃんはこの街の新参者だ。けど、おれはここで生まれ育っ
た。この街の常識の一つなんだよ、それはさ。もっとも、納得した
つもりはさらさらないが︱︱﹂
﹃︱︱それでも﹄と続く言葉が、聞こえる様な語りだった。それに
総一郎は、やるせない気分になる。
しかし、それが事実なようだった。他の誰かに同じ話をしても、
同じ新参者の仙文以外、何処か諦念の滲んだ回答が返ってくる。特
に愛見は、こんな事を話してくれた。
﹁私も日本人ですから、結構そういうの見たんですよ∼。アメリカ
って亜人に人権を設けてないじゃないですか∼。しかも大抵危険視
されてて∼。だから、一緒に歩いていた友達が、突然警察官の人に
﹃危ないッ﹄って叫ばれて銃殺されたりとか、そういう事も二回く
らいありましたよ∼。⋮⋮本当、どっちが危ないんだかって、思い
ません∼?﹂
少し間延びして、冗談めかして言うのは、その傷を乗り越えたか
らなのか否なのか。堪らず総一郎が詳しい事を聞こうとすると、彼
女は目を細めて首を振った。そこに言葉はなかった。目元を隠そう
としていたのだけは分かった。
総一郎は数人と話すことで、今朝の出来事が肉付けされていくよ
うな気持で居た。それなりに隠された差別を見て来てはいたが、あ
あも大っぴらな事件は、それでも現実感に乏しかったのかもしない。
1995
﹁︱︱ああ、気分が悪いな。数日中にいいことがあるって分かって
いても、胸糞悪い﹂
飲み込めきれない出来事の所為で、酷く憂鬱な一日になった。終
日気分の悪そうな総一郎に、気を遣う仙文が可愛らしかったが、ど
うにも雑な対応しかできなかったから自分から距離を取った。寂し
そうにしていたが、連絡を入れるとデコレーションたっぷりのメッ
セージが帰ってきて、少し気分が和らいだ。
帰ってきて、夕食時図書達にもこの事を話す。彼らは肩を竦めて、
すぐに話題を変えた。触れない方がいい事なのだと、やっと分かっ
た。そして変わった話題の事を話していると、だんだん気分が落ち
着いてきた。
﹁図書にぃってさ、結構精神科医とか向いてるんじゃない?﹂
﹁何だ? 稼ぎが足りないから副業でもしろってか? 舐めんなよ、
NCRがそろそろリリースするから、そしたら博士も俺もガッポガ
ッポだ﹂
﹁そんな工業力があるようには見えなかったけど﹂
﹁特許でガッポ﹂
﹁ゆるキャラの語尾みたいになってるけど大丈夫?﹂
﹁⋮⋮ゆるキャラって何だ?﹂
まさかのジェネレーションギャップである。落語は途絶えなくと
もゆるキャラはなくなってしまうらしい。総一郎は愕然とする。
1996
必死に絵で描いて示すと、清だけが目を輝かせて﹁可愛い! 可
愛い! 木彫りの象はやっぱりこれにしてくれ!﹂と食いついてき
た。完全に約束の事を忘れていた総一郎は、内心冷や汗をかきなが
ら﹁う、うん。じゃあ明日か明後日には渡すから﹂と焦りつつ答え
る。
チャイムが鳴ったのは、その時だった。
何処か、嫌な予感がした。けれど清を止める間もなく、彼女は玄
関に駆けて行ってしまった。﹁あ、ちょっと待って﹂と言うが、遅
い。慌てて追いかけると、前方から﹁いらっしゃ、あ﹂と少女の間
の抜けた声が聞こえてくる。
﹁何、誰が﹂
そこまで言って、総一郎は言葉を失くした。
﹁︱︱どうも、夜分遅くすいません﹂
玄関に立つ、数人の男たち。それを、総一郎は知っていた。もっ
と言うなら、今朝に見たばかりだ。
﹁私どもは警察です。私は警部のリッジウェイ、と申します。私の
名はもしかしたら聞いた事あるんじゃないでしょうかね。少し、話
をさせて頂きたいのですが、ズショ・ハンニャさんは御在宅でしょ
うか﹂
一時間ほど、警察官たちと図書は話し込んでいた。気配を察して
1997
一階に降りると、冷蔵庫で何やら漁っている青年の姿があった。何
を話したのかを聞くと、﹁白羽の事﹂と短く答えられた。﹁何で﹂
と尋ねると、﹁知らねぇよ。けど、多分ARFの事で疑ってるんだ
ろうな﹂と。
ソファに少し間をおいて横に座りつつ、背もたれに寄り掛かって
天井を仰ぐ図書に聞く。
﹁⋮⋮亜人、だから?﹂
﹁三角。正解は、﹃亜人だから﹄﹃行方不明だから﹄﹃死体が上が
ってないから﹄の三つだ﹂
﹁︱︱ああ、なるほど﹂
確かに、この三つが当てはまる人物はARF加入が疑われても仕
方がない。
﹁ま、本当にそうなら安心だけどな﹂
﹁安心?﹂
﹁⋮⋮仲間がいるってのは、孤独じゃないってことだ。それだけで、
人間生きていけるもんだぜ﹂
図書はそう言いながら、上体とビールのプルタブを起こした。形
状が三百年前と少し違うが、大部分に置いては同じだ。しかし、と
総一郎は思う。
﹁図書にぃ、酒なんか呑むんだ。呑めない物とばかり思っていたけ
1998
ど﹂
﹁弱いが呑めないって程じゃない。もともと好きでもないだけだ。
けど、今日はちょっと呑みたくなった。お前は? 総一郎﹂
﹁俺は未成年だよ﹂
﹁そうか、そうだな。なら、無理に呑ませるわけにはいかないか﹂
﹁多分俺、図書にぃより強いけどね。遺伝的に﹂
﹁あー、優さんもライラさんも強かったからなぁ﹂
ザルだった、と彼は言う。懐かしいと、総一郎も言う。
﹁あの二人ってさ、酒に強い所とか、表面に出ないところで似てた
よな。気が強くって、優しいとか、さ﹂
﹁気が強いのは表面に出る要素なんじゃない?﹂
﹁分かりやすい気の強さがライラさんで、静かに気が強いのが優さ
んってイメージ﹂
﹁あー、確かに、そうかもしれない﹂
明るい母と、静かな父。しかし、二人とも何処か超然としていて、
そしてどちらも我が子である白羽、総一郎を愛していた。
第一印象では分からないが、根っこの根っこではそっくりだった。
そんな夫婦だった。また会いたいと、少し思ってしまう。軽いホー
1999
ムシックだ。二度と叶わないという所が、何とも、何とも。
﹁⋮⋮確かになぁ。そっくりだよ親子でさ。特に、お前と白羽なん
て生き写しみたいにそっくりだ﹂
﹁⋮⋮俺と、白ねえが?﹂
きょとんとしてしまう。そんな事、思ったこともなかった。自分
能力
はない。もっとも、それは総一
には前世があって、白羽は外見こそ似ていれど、実際には違う。彼
女には、ファーガスの様な
郎も同じなのだが。
しかし、それでも図書は言うのだ。
﹁ああ、外柔内剛なところ。心に決めたことに対しては、シャレに
ならないくらい激しい所。奥深い所で高潔なところ。特定の種類の
人間を、惹き付けて離さない魅力とかもな﹂
﹁⋮⋮どうしたのさ。俺を褒め殺しても、何も出てこないよ﹂
﹁あと、︱︱不安定なところ。危ういところ﹂
総一郎は、息を呑んだ。少年の兄貴分は、酔った胡乱な目を向け
てくる。
﹁そっくりだよ、お前らは。双子じゃなかったのが不思議なくらい、
そっくりなん⋮⋮だ⋮⋮﹂
そこまで言って、消え入るように彼は目を瞑ってしまった。机に
置いたビールの残りは、缶の約半分である。確かに弱い、と総一郎
2000
は肩を竦めて後片付けを始めた。まず一人遊びをしていた清をベッ
ドに寝かしつけ、ついでに眠りこける図書にタオルケットを掛ける。
それから自室に戻ると、机の上で指輪が光っていた。︱︱いや、
アレはただの指輪ではない。安価で売買される今の世の携帯機、E
Vフォンだ。
総一郎は、目を瞑る。
﹁ARFへの加入。それさえしていただければ、あなたの望む人物
の情報を渡す準備は整っています﹂
アイは、そのように言った。前回会った通り、目を包帯で塞ぎ、
そして左手の中央の目でウッドを見つめている。
瞼を落としていたウッドは、しばしの思考の末に︱︱目を開いた。
そして、問う。
﹁お前ら︱︱ARFの理念は、亜人の救済だったな﹂
﹁⋮⋮ええ。それこそが、私たちの悲願です﹂
﹁ならば、断る。俺には出来ない﹂
アイは、その一瞬呆けたような顔をした。それから、眉根を寄せ
る。
﹁あなたは、親亜人的な考えの持ち主だと思っていましたが﹂
2001
﹁そんな事はない。殺してもいい亜人に、出会ったことが無いだけ
だ。ギャングのような輩が居れば、俺は分け隔てない﹂
﹁分け隔てない、その精神性を買っているのです﹂
﹁だが、無理なものは無理だ。主義的な物でなく、能力的に出来な
い。俺に、義はないのだ。高く掲げられた目標の為には動けない。
俺は、この仮面を二度と被らないために、ここに来たつもりだった﹂
﹁あなたの能力は、我々の中でも上位にあたります。ファイアー・
ピッグ、並びにその部下たちは、加入と共に幹部に据えてもいいと
さえ言っています。それだけの強さを、あなたは備えていると﹂
﹁⋮⋮くどい。何度も言わせるな﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
ウッドの言葉に、アイは理解を示さなかった。毒づきたいのを堪
えるように首を振って、﹁それならば、申し訳ありませんが情報を
教えることは出来かねます﹂と言った。
﹁報酬は、そのEVフォンという事にしてください。では﹂
それだけ言い残して、彼女は闇に溶けていった。ウッドはその声
色に確かな失望の色を感じ取った。
﹁⋮⋮しかし、無理なものは無理なのだ。誤魔化した分だけ、破綻
は大きくなる。滅びという物は、えてして背伸びの善意から生まれ
るものだ﹂
2002
ARFは、異形ではあれど善意の組織だ。ああも力強い怪人たち
が、文句も言わず小間使いをやっている。指導力のあるリーダーが
居るのだろう。そんな円満な関係の中に、ウッドが入り込むとすれ
ば、それは崩壊の兆しに他ならない。
無駄足を踏んだ。そういう事だった。次会うときは、ARFと友
好的な関係ではいられないだろう。情報を集め、確信をもって彼女
を取り戻しに動くとしたら、間違いなくARFと敵対することにな
る。しかしウッドは、ARF自体が嫌いなわけではないのだ。
ただ、それに加えても今日は徒労感が酷かった。何もせずに帰る
べきだと、そう判断した。
その瞬間、数が大きな乱れを示した。ウッドは反射的に横に跳ぶ。
そして、火薬の破裂音。
振り向く。スラムの路地の暗がり。そこに浮かび上がったのは、
見覚えのある人物だった。しわがれた人物。警察。リッジウェイ警
部。そしてもう一つ、それにくねくねと追従する銀色の人型ロボッ
トがあった。極限まで簡素なボットである。辛うじて人の陰影が取
れるばかりの、不気味の谷の住民というべき存在だ。テレビで、一
度映っていたのを見た。
﹁よく、避けられたものだな。それも魔法で防ぐなどと言う蛮行を
やる
奴ら
せずに、だ。お前らのような化け物どもは、どいつもこいつも魔法
頼みだと思っていたが、なるほどなァ。ウッドは中々
しい﹂
﹃ダから言ッタジャナいデすカァ∼! 爆弾デモ投ゲ込ンで、木端
2003
微塵ニした方がヨカッタノニ﹁まずは小手調べだ﹂トカ格好付けタ
コト言うから避けらレチャウンデスヨ∼!﹄
﹁阿呆。こいつなら適当な爆弾投げつけても避けただろうよ。そう
すれば此処の路地の修理代は、私の給料から差っ引かれるだけだ。
その補填にお前を売るしかなくなっちまうぞ、Pb﹂
﹃イヤー! ワタクシ働きマスかラ、売らナイデ∼! ヒャハハハ
ハハハハハ!﹄
ケロケロとした耳障りな声色や、録音を交えた不愉快な会話法。
ウッドは純粋にそのロボットに嫌悪感を抱き、身構える。それに平
然と会話できるリッジウェイ自身の精神も疑いたくなるほどだ。
﹁⋮⋮出会うとは思っていなかった。リッジウェイ警部﹂
﹁ほぅ? 私を敬称付きで呼ぶ怪人が現れるとは、思っていなかっ
たよウッド。もしかしたら、お前は教養のある人物なのかな? と
すれば、ジャパニーズか。ああ、嫌な事だな。奴らはこの銃の開発
に協力してくれたが、殺すべき化け物どもを増やしてしまった。け
れどなウッド。私はこれでも親日家なのだよ﹂ 言いながら、奴は手に持つ長めの自動小銃を見せつけるように振
った。ライフル、なのだろうか。ウッドは銃器に疎い。ただ、ハウ
ンドやギャングたちのそれと違って、奴のだけは脅威であると分か
るくらいだ。
﹁俺には、交戦意思はない。治安も、恐らく乱しているという事も
ないだろう。逮捕状はなかったはずだ。ならば、俺は噂に挙がるだ
けのただの変人にすぎないはずだ。違うか?﹂
2004
﹁⋮⋮ふむ? 中々新しい切り口だ。私に命乞いをする者は少なく
ないが︱︱お前のそれは面倒を避けるという以上の意味を持たない
なァ。いざとなれば、私を殺せると思っているのか? しかし、そ
の上で避けたいと⋮⋮。やはり、新しいな。私にそこまで隣人愛を
向けた化け物はこれまでいなかった。お前はもしかして敬虔なキリ
スト教の信者なのかな?﹂
奇妙な事を語りかけてくるリッジウェイ。どこか、既視感があっ
た。先回りするような察しの良さ。だが、肝心の﹃それ﹄は喉元か
ら先に出てこない。
﹁いやしかし、不思議だな。ああ、面白いと言ってもいい。お前は
面白い化け物だなァ、ウッド。たったこれだけの会話で、私はお前
に少なくない好感を抱いている。いつもは化け物を殺すという快感
に、頭が真っ白になるというのにな? まるで惨劇を経て、それを
理由に警察に入った有望な新人と話しているようだよ﹂
﹁そうか。では帰ってもいいか?﹂
﹁ハッハッハ、目前にして見逃すわけにもいくまいよ。しかし、本
当に不思議だ。私はもう数分も怪人たるお前と話している。その間
に放たれた銃弾は一発だ。一発だぞ!? これは驚くべきことだ。
いつもの私なら、この五百倍は撃っている。もしかしたらグレネー
ドくらい投げつけているかもしれない。粘着爆弾を設置しているか
もしれない。Pbをけし掛けて、この悪趣味なロボットに生きたま
ま八つ裂かれるターゲットを足元に高笑いしているかもしれない。
だが今はどうだ? 私はこんなにも穏やかに話している。これは不
思議だ。不思議でならない︱︱﹂
2005
ウッドは、じり、と後じさった。語り口は、完全に狂人のそれだ。
機を見て逃げなければ、厄介なことになりかねない。そういう意味
では、ARFの方がよっぽど理知的だった。姿は異形でも、立場は
犯罪者でも、彼らは善意の徒だった。リッジウェイは真逆だ。姿は
人間、立場は警察、そして悪逆の徒である。
逃亡方法に相応しいものはどれか。ウッドは思案を始めた。そも
そも、何故今までギャングばかり殺してきたかといえば、指名手配
されるのを避けたかったからだ。このままで居たいなら、リッジウ
ェイの事は殺さない方がいい。
それが理由で、奴一人なのだろう。奴はこの街でも特権の持ち主
だ。亜人限定で犯罪対策を行う一課の長であるから、人権の無い亜
人を撃ち殺す権利を誰よりもはっきりと有している。逆に言えば、
噂のウッドは、リッジウェイ以外公式に手を出しづらい状況下にあ
るという事だ。
ウッドは、亜人ではない。だが、ハーフではない訳でもないから、
リッジウェイに殺されないという保証もない。この場で死ぬ。そう
いう可能性も加味したほうがいい。何せ、奴の弾丸は魔法を撃ち抜
く。
場合によっては、殺すしかないのかもしれない。
﹁⋮⋮﹂
姿を消し、音もなく消える。それが一番確実だと、ウッドは定め
た。数が、それを決めた。ウッドは、それに従うだけだ。
そんな中、リッジウェイは奇妙な声を出した。
2006
﹁︱︱何だ、その動きは?﹂
それは、純粋な疑問の言葉だった。ぎくりとして、ウッドは止ま
る。何をしたのか、自分でもわからなかった。傍目から見て問題の
ある行動は、行っていなかったはずだ。
しかし、リッジウェイの声色は偽るところが無い。本気で戸惑っ
ているような反応だ。目を剥き、少し前のめりになって、口元を不
安そうに歪めている。それを、ウッドは機であると見た。光魔法で、
姿を消す︱︱
そこに、一発の銃弾が迫った。数を見て、ギリギリのところで避
ける。しかし、間に合わなかった。僅かに掠ったその一撃が、ウッ
ドの魔法をきっかりと掻き消した。
仮面の奥で、歯を食いしばる。リッジウェイを睨み付け、その挙
動を見張った。一筋縄ではいかないと、やっと理解したのだ。出来
ることは全てやらねば。そう思った。
だが、リッジウェイは一度肩を竦めて笑った。そして、両手を上
げる。銃も落とす。
﹁⋮⋮何のつもりだ?﹂
﹁降参のジェスチャーに決まっているだろう? 今のやり取りで、
お前が私の標的でないのが分かった。そして、納得も出来たのだ。
戦う理由はない。ならば、私から銃を捨てねばお前は安心して話せ
まい﹂
2007
﹁⋮⋮﹂
全くと言っていいほど、何を考えているのかが分からなかった。
精神魔法で干渉しようとするも、弾かれる。そこで、ウッドも奴の
言動の意味を知った。目を剥く。
﹁リッジウェイ警部。お前は︱︱﹂
﹁︱︱ああ、その通りだ、ウッド。私は、お前と同じカバリストだ
よ﹂
その事実に、愕然とする。ウッドは、思わず﹁なら﹂と言い返し
かけた。だが、奴は先んじてそれを封じる。
﹁いいや。私は薔薇十字団ではないよ。ただのはぐれカバリストと
言う奴だ。UKよりUSAが好きな、一アメリカ人にすぎない﹂
その言葉に、安堵する自分が居たことが、ウッドの腹を立てた。
ぶっきらぼうに相槌を打つと、﹁何だ、気難しい奴だな﹂と彼は笑
う。﹃何デスか? 警部。ソンな親しげに話しチャッテ﹄とPbと
呼ばれるロボットが尋ねると、﹁お前はしばらく黙っていろ﹂と奴
は命令を下す。
﹃チョッ、とぉ、そん、ヌァ、せっ、ショウ、ナ⋮⋮、ァ⋮⋮︱︱﹄
警部の一言だけで、Pbは沈黙した。最後には脱力して、直立し
たまま動かなくなる。
﹁悪かったな。ウチの空気の読めないロボットが会話の邪魔をした。
ウッド、お前は帰る途中だったな? なら、見逃そう。それで、今
2008
回の侘びという事でいいかな﹂
片眉を寄せて剽軽に話すリッジウェイ。そこには敵意という物が
全くなく、おもむろに銃を拾い上げたかと思えば懐に片づけてしま
う。
﹁どういう事だ。同じカバリストだからと言って、お前は俺を見逃
すのか﹂
﹁私は、あくまで化け物を狩る存在だ。人間は狩らない。それは、
私の人間以下としての矜持だ。そしてウッド。お前に︱︱君に良い
事を教えよう。化け物はな、カバラを使えないのさ﹂
﹁⋮⋮そう、なのか﹂
﹁ああ。だから、君は私のターゲットではない。もっとも、人間以
下と言う所では同類のように感じたがね。心の表面では逃げること
を考えていたのは、アナグラムで分かった。だが、それより奥深い
所で︱︱君はこの戦闘に笑っていたな?﹂
ウッドは、口を閉ざす。
﹁⋮⋮まぁ、いい。その仮面の下がどうなっているのか、はなはだ
興味があるが、化け物でないなら無理やりの追及は出来まい﹂
くるりと踵を返して、リッジウェイは片腕を上げた。ロボットの
腕を掴んでから、背中越しに別れを告げてくる。その声は、殺し合
いの後とは思えないほどに快活だ。
﹁今夜は良い邂逅をした。ウッド。君の人探しが上手くいくことを
2009
願っているよ﹂
言って消えていく奴の後ろ姿に、ウッドは何もできなかった。虚
ろの心の中に、澱が溜まり始めるのをはっきりと感じていた。振り
払うように、風を起こす。そして、消えていくのだ。
2010
3話 ARFⅣ
仮面を、見つめていた。
夜の事だった。ベッドに座り、総一郎は、ただ一人静かにたたず
んでいた。自室である。それ以外の、何処でもない。
暗がりの中、少し離れた机にひっそりと置かれた仮面。電気は付
けなかった。光が欲しい気分ではなかった。
問う。
﹁何故、入らなかった。義が無いとは、どういう事だ﹂
答えはない。右手を固める。投げ上げる。そして、桃の木の仮面
に当り、溶けた。
修羅は、亜人だ。人間にして、人間から外れたものだ。だから、
桃の木の清い性質に侵される。だが不思議な事に、すぐに溶けるの
ではなく、少し間がある。
そうすると、癒着するのだ。修羅の肉が溶け、焦げて消えるまで、
肉は仮面にくっついて剥がれなくなる。
その一方で、と総一郎は右手を見た。そこにあるのは、人間の手
だ。人間そっくりに擬態した、﹃綺麗な﹄手だ。
アメリカに渡る船の中で、必要に駆られて訓練をした。そして、
2011
出来るようになった。
総一郎は、これが嫌いだった。何よりも醜い。整っているがゆえ
に、そう思うのだ。しかし、何もないのに隠すのは不自然で、やは
り手袋は捨てた。そうするのが一番だった。
もう一度、問う。
﹁俺は、ARFに入るべきだったと思ってる。この国にも亜人差別
があった。イギリスに比べれば差別の程度はマシだけど、行われて
いる蛮行はあそこよりも残酷だ。︱︱それなのに、なぜ入らなかっ
た。白ねえのことも分かった。差別とも戦える立場に立てたはずだ
った。なのに、何故断った。お前は、何故﹂
答えはない。答えを聞くには、仮面をつけるしかない。仮面は、
総一郎にとってのスイッチだ。嵌めると、切り替わる。だが一方で、
恐ろしくもあるのだ。ウッドと総一郎は、同一の存在のはずだった。
だがあの夜、ウッドは総一郎から離れて言葉を操った。
仮面を嵌めれば、総一郎はウッドになる。意識が切り替わるとい
うよりも、純粋な変化と言うのが正しかった。嵌めた瞬間、修羅は
総一郎を覆い尽くす。今は右の首下で止まっているのが、頭を乗り
越え、脳を乗っ取り、左半身をほぼ完全に支配して、最後にかけら
ほどの人間を残す。
いつからそうなったのかは、覚えていない。ウッドの面を嵌めて、
人を殺し過ぎたと我に返った時には、そうなっていた。いつしかウ
ッドの記憶には靄がかったところが目立つようになり、気づけば、
この様だ。
2012
﹁⋮⋮﹂
総一郎は、首を振ってベッドに潜りこんだ。最近、ずっとこうだ
った。窓の外を一瞥して、結局目を瞑る。あの夜以来、もう何日も
ウッドになっていない。
そんなある日の事だった。その日は総一郎の機嫌がよかった。
先生が風邪で休み、他のみんなよりも少し早くに放課後になった
のである。だから、何をしてもいい。何をしなくてもいい。そんな
軽い気持ちで街を歩いていた。
アーカムの中でも、総一郎が好きなのは旧市街である。日本人が
住むのは基本的にビルが立ち並ぶ、オフィス街近くの住宅地だった。
例にもれず図書の家もその中にあって、だから少し遠出をして、ヴ
ィーと共に初めて旧市街に足を踏み入れた時、驚かされたものだ。
アーカムの旧市街は、何処か古めかしく、怪しい、独特の雰囲気
がある。その一方で明るさもあって、何とも心惹かれる景観だった。
禁酒法時代のアメリカ、と言うとイメージしやすいのかもしれない。
例えば総一郎の横の、今時にそぐわないレンガ造りの建物。何だこ
れは、と驚くような、ギャング映画風の丸っこい車。山高帽子をか
ぶっている人ととおりすがった時、ちょっと笑ってしまったほどだ。
もしかしたら、この旧市街とは名ばかりで、古い雰囲気をモチーフ
にしたデザインタウンなのかもしれないと総一郎は疑っている。
日本で言うならあつかわ村の神社や、イギリスなら妖精の住まう
小さな森と言った風情がある。そう思ってから、活気ある街の雰囲
気を自然豊かな場所に例えるというのも、何とも奇妙な話だ、と自
2013
然な笑みがこぼれた。
元植民地であるアメリカに原風景などないと高をくくっていたが、
あるいはこんな禁酒法時代的雰囲気の漂うこの街並みこそが、アメ
リカの原風景なのかもしれない。そんな事を無責任にも考えてしま
う総一郎がいるくらい、そこは魅力的だった。
歩くだけで楽しい、と言う場所である。
散歩というと、総一郎にとってこの道は定番だった。昼の人通り
が少ないのもいい。夕方になると少し増え始め、夜になると繁華街
の次に活気があふれる。反面、この地域の裏路地は、ミヤさんが居
るスラム街に比べても危険度は高いのだが。
﹁麻薬の売人がしつこかった時は思わず殴っちゃって大変だったな
ぁ⋮⋮﹂
最終的にはJVAのブザー音を鳴らすことで事なきを得た。装着
者以外の音を聞いた人間に、怯みを抱かせる精神魔法込の音である。
魔法とは不思議なもので、音魔法と他の魔法を組み合わせたものを
録音すると、再生した時に無制限でその効果が得られるのだ。もっ
とも、その要領で誰かに音情報を売ったり譲渡したり、と言うのは
違法なのだが。
俗にいう魔法々である。字面だけ見るとピンと来ない。
そんな風にしてのんびり愉快に歩いていると、背後から﹁よお!﹂
と元気そうな声がかかる。
﹁⋮⋮ん? あ、アーリ! 久しぶり﹂
2014
﹁久しぶり、ソウ! こんな所で会うとは思ってなかったぜ﹂
スカジャンを着た金髪ツインテールこと、アーリーンである。今
日も今日とてベースボールキャップを被り、総一郎よりも高い背丈
の頭から二束のツインテールを垂らしている。もう冬真っ盛りで、
前にあった時よりも温かそうだった。その豊かな胸元も健在だ。自
己主張が激しいので視線のそれこれに困る。
﹁弟探しはどう? 順調?﹂
﹁順調すぎて涙が出てくるくらいだ。そっちは? ソウ﹂
﹁いいとこまで行ったんだけど逃しちゃったよ。ARFは足が速く
て困るね﹂
﹁うはは﹂
﹁ははは﹂
互いに進展ナシという事だった。仕方がない事でもある。何せ、
相手は本物のテロ集団だ。
その場で、少し話していた。連絡先を交換したものの、実際に連
絡を取った事はなかった。そうか、彼女は自分と縁のある相手なの
か、と総一郎は思う。こんな薄い繋がりの相手との再会など、予想
もしていなかったのだ。
それぞれ話題は共通で、思った以上に盛り上がった。言うまでも
なく、互いの家族の話である。アーリーンは弟の事、総一郎は白羽
2015
の事を話していた。
﹁ロバートはさぁ、昔は泣き虫で、アタシが守ってたんだぜ? な
のに今じゃああの様だよ。知ってる? 州知事が最近ハウンドによ
く追われてるって話。ロバートお前何やってんだ! って連絡入れ
ようと試みてるけど当然のようにケータイ繋がらないしさぁ、もう、
どうしろってんだよ! って﹂
﹁本当それだよね。連絡が付かないのが一番不安なんだ。何となく
居る場所も分かっているのに、全く手を出せない﹂
﹁そうそう。その癖あっちからは連絡し放題っていうのも、またム
カつくんだ。昨日何か連絡があってさ﹂
﹁えっ、連絡あるの!?﹂
﹁う、うん。⋮⋮何? ソウは貰えてないの? 連絡﹂
﹁⋮⋮全く。ああ、︱︱うらやましいなぁ﹂
羨ましいというか恨みがましい目でアーリを見つめる。すると彼
女は﹁分かったよ、自慢みたいになって悪かった。良かったら見る
? 意味自体は不明なんだけど﹂と彼女は空中で指を動かす。
﹁それは?﹂
﹁ん? 頭の中のパソコン動かしてるだけ。ジャパニーズも持って
なかったっけ? 電脳魔法ー、とかいう奴﹂
送信、とアーリは小さくつぶやいた。すると、総一郎の画面の端
2016
に浮かび上がる軽快な絵文字。電脳魔術の容量で作動させると、こ
んな文章が表示された。
﹃明日、午後二時、駅前に居ろ。そこで初めて、俺たちは表立って
動き出す﹄
﹁⋮⋮不気味、だね﹂
﹁だろ? だから﹃いつからそんな趣味悪くなったんだ?﹄って返
したんだよ﹂
﹁それで?﹂
﹁返信来なかった﹂
確かに、総一郎も格好付けた時の返信がそれだったら送り返さな
いだろう。
電脳魔術の機能の一つとして視界の端にある目立たない時間表示
を見ると、午後一時二十分過ぎだった。ここから指定の場所へは、
大体二十分も歩けば着くだろう。
﹁もしかして、行く途中だった?﹂
﹁当り。良かったら一緒に行かない?﹂
ツインテールを揺らして、少年っぽくアーリは笑った。総一郎は
﹁是非ともご一緒させていただけると﹂と肩を竦める。
アーカムの街は、ミスカトニック川を中心とした旧市街と、それ
2017
を中心に広がる新市街と言う造りになっている。ミスカトニック大
学は付属校共々新市街側にあるが、昔は旧市街の中心にあったとい
う話だ。実際、その時代の文書はいまだ旧市街側に残された巨大図
書館に寄贈されているという。
向かう際中会話を続けていると、何となくアーリの人物像が掴め
るようになってきていた。明朗快活。笑い方がちょっと変わってて、
少年っぽくて、おおざっぱ。人間としての魅力にあふれた人物であ
ると同時に、女性としての魅力に乏しい人物でもあった。しかし、
顔立ちが整っていないという訳でもないのだ。むしろ、美人な方。
何と形容すべきなのか。その精神が何処までも少年らしくて、魅
力に乏しいと言うよりも、女性らしさを感じないというのが適切な
気がする。
けれど愛すべき人柄であるのに変わりは無くて、友人として、総
一郎はアーリを好きになった。会話は途切れずに続き、何度か大笑
いを経て、気づけば目的地に着いていた。
駅前。ビルが、立ち並ぶ場所。総一郎は、そこに既視感を覚えて
しまう。中央に人の行きかう道路があって、一等高い、目立つビル
には、大きな立体映像でCMが垂れ流しにされていた。
﹁⋮⋮前世、俺が﹂
総一郎は、ぽつりとつぶやいた。それ以上は、言わない。アーカ
ムから出ない総一郎にとって、駅前に来るのは初めての事だった。
だから、驚いたのだ。あまりに、似ていたから。
﹁そろそろ指定の時刻だな⋮⋮。ったく、ロバートの奴何をやらか
2018
そうってんだ?﹂
アーリがぶつぶつと文句を言っている。それに苦笑しつつも、総
一郎は微かに強張った顔で時計を見る。自分の視界の端のそれでは
ない。CMの左上に張り付けられた方の表示だ。
﹁あと一分もないな。⋮⋮20⋮⋮10⋮⋮﹂
静かなアーリのカウントダウンに、総一郎は集中した。ここに満
ちる雰囲気は、ただの都市らしい喧噪である。だが、何やら予感が
あった。カバラを使う。
﹁5⋮⋮⋮⋮3⋮⋮2⋮⋮﹂
大まかなアナグラムを、読み取っていく。細かなアナグラムは本
当に微細な事で簡単に変動する一方で、場の状況などの大きなそれ
は、普通はあまり変動が無いのだ。十桁の数字がそこにあって、普
通なら常に1か2ほどの上下がある。今は、一桁、二桁程度。
﹁1⋮⋮﹂
緊張が、総一郎の体を油の切れた機械のようにした。自分にとっ
て、何か衝撃的な事が起こる。そんな予感が、体を貫いていた。忙
しなく動く視線。アーリの最後通告が、硬くその場にもたらされる。
﹁0﹂
そして、定刻になった。
アナグラムが、激しく揺れ動いた。だが、その発生源を、総一郎
2019
はすぐに発見することが出来なかった。﹁何が起こったッ?﹂とア
ーリに目をやる。彼女は総一郎に言われた直後、視線を固定させて
指を向けた。
﹁ビルだ! この立体ビジョンに映ってるの、CMじゃなくなって
る!﹂
すぐさま、顔を上げた。確かに、CMではなくなっていた。だが、
総一郎にはそれが何であるのかがすぐに理解できなかった。暗い情
景。動かない影。それらの一つ一つが平凡な家具であると気づいた
時、画面の中心に現れる人物がいた。
﹃何だ!? 何だお前は! 私は州知事だぞ! こんな事をしてい
いと思って﹄
彼の言葉は、そこで打ち切られた。画面外から伸びてきた黒い毛
むくじゃらの腕に口をふさがれ、地面に叩き付けられたからだ。そ
こでようやく、これが監視カメラの映像であると理解した。
﹃がたがたとうるさい事を抜かすな、差別主義者め。お前が数年前
に亜人に懸賞金をかけたのを、俺たちは忘れてないぞ﹄
若い声を発したのは、州知事を押さえつけた毛むくじゃらの大男
だ。記憶にある、ウルフマンの姿と合致する。
そんな異形を前にしても、州知事にひるむ様子はなかった。暴れ
に暴れ、微かに漏れ義越える言葉は﹃化け物﹄だの、﹃汚らわしい﹄
だのと聞き苦しい。そこに、新しく表れる二つの影。甲高い少女の
笑い声が重なり合って、絶妙な音の調和が生まれている。
2020
﹃コレ? これが私たちを﹁化け物﹂にした奴?﹄﹃そうだよシェ
リル。こいつが元凶の一つ﹄﹃そっかぁ、お姉さまは何でも知って
るね﹄﹃そうでしょ? ああ、早く殺したいけど我慢我慢。我慢っ
て辛いねシェリル﹄﹃そうだね我慢だよお姉さま。こいつはボスが
殺さないと﹄
いかにも
くすくすと闇の中で二つの影が交差している。彼女らは、きっと
ヴァンパイア・シスターズだ。黒いゴスロリという、
な格好でささやき合っている。
﹃おう、そうだ我慢だ。よく我慢できたな、お前ら。中々成長して
るじゃねぇか﹄
﹃⋮⋮﹄
野太い声で姉妹を褒めながら入ってくる、ウルフマン以上の巨体。
こちらもまた、毛むくじゃらだ。ファイアー・ピッグ。そしてその
後ろで、無言で紛れ込んだのは、ネックウォーマーで顔を隠す小柄
の少年の姿。﹁ロバート﹂とアーリの声が聞こえてくる。
そこまで行くと、ざわざわと喧騒の種類が変わってきた。誰も彼
もが、ビジョンに指さしどよめいている。そんな中、満を持して現
れる二人。
片方は、見覚えがあった。包帯で、目をぐるぐるに覆った少女。
包帯の余りでサイドテールを作っているのも変わらない。彼女は、
世間に名の知られていない怪人の一人だ。アイと名乗っているのを
知っている。
そして、最後に出てきた人物。この人物の登場で、喧騒は静まり
2021
返った。
真っ白な人だった。白く長い髪。純白のドレス。白磁の肌。夜の
中でも後光が差しているような白さ。ただ一つ、両目を覆う、真っ
黒な覆面だけがその神々しさに対し、異様な点となって浮き出てい
る。
彼女は州知事の前に立ち、視線の見えない瞳で見下ろした。州知
事は押さえつけられてなお暴れていたのが、彼女の登場と共に力が
抜けたかのようにぐったりとするようになった。だが、その視線だ
けはその少女を注視している。そこから読み取れる感情は、畏怖だ。
彼女は知事の前で手を組んだ。まるで祈るかのような仕草。いや、
実際に祈るのだろう。そう、総一郎は思ったのだ。
だが、違った。それは、怨嗟の言葉だった。
﹁︱︱︱主よ、何故我らを見捨てたもうたのか﹂
あまりに大きな、羽ばたきの音が響いた。そこから広がったのは、
白ではない。真っ黒な、夜を呑み込むような翼だった。
そこから、何枚かの黒羽が舞った。暗い夜の映像でなお、それが
分かるくらいに羽は黒く染められていた。その内のいくつかが、州
知事に触れる。
その結末を、総一郎は知っていた。
羽が触れたところから、広がる様に知事の体は黒羽に変わってい
った。広がって膨らんで、最後には地面を覆い尽くすほどに散らば
2022
った。その姿さえ、美しかった。そんな感想を抱かせる彼女に、総
一郎は震えた。
﹁お、おい、ソウ。見たか? あれ。何だよ、あの人。あの⋮⋮あ
の人は﹂
アーリは動揺して、総一郎の袖を掴んで引っ張っていた。だが、
少年はそんな身近な彼女に対して行動を起こすことが出来ないでい
た。ビルの映像で頭がいっぱいだった。
画面の白くて黒い彼女は、こちらを向いた。正確に言うなら、こ
の映像を録画した防犯カメラを。そして、言うのだ。あまりに美し
い、鈴の音のような声で。
﹃私は、ARFのリーダーを務める者。そして、これからの改革の
主導者となる者。私は、我がARFと共にアーカムを変える。マサ
チューセッツを変える。アメリカそのものを変革してみせる。覚え
ておきなさい。私の名は︱︱﹄
もう一度、黒翼が羽ばたいた。大量の羽が画面を覆い尽くす。
﹃︱︱私の名は、﹁ブラック・ウィング﹂﹄
そして、画面は砂嵐と消えた。
喧騒は、静寂に変えられた。誰も彼もが、言葉を発せなくなった。
ただ一人、涙を流して砂嵐の走るビジョンを見つめる者が一人。
﹁⋮⋮やっと見つけた。やっと、やっとだ⋮⋮! ずっとずっと、
会いたかった﹂
2023
流れる涙は右目だけ。左目には血が貯められ、けれど滴にならず
に消えていく。総一郎は顔の右側だけを拭って、アーリに軽く挨拶
してから駆け出した。
もうすでに、何をするかは決まっていた。
2024
3話 ARFⅤ
玄関の扉を開け放つ。まっすぐ自室に駆けていく。そして、眠っ
た。夜を、待っていた。
その間、短い夢を見た。総一郎は目を開ける。すでに外は暗くな
り始めていた。上体を起こし、首を振る。
﹁僕⋮⋮いや、俺は⋮⋮。⋮⋮気にするなよ、たかが夢だ﹂
ベッドから下りる。そして、外服に着替えた。
目的は、はっきりしている。そこに至るまでの道筋も、分かって
いる。
﹁⋮⋮気が変わったら、という時の為の﹃報酬﹄だったんだな、こ
れは﹂
総一郎は指輪の形をしたEVフォンを指につけながら、クスリと
笑って鏡の前に立った。身元のばれないような、黒を基調とした平
凡な服。あとは、仮面を付ければいい。
木の面は、タンスの奥にしまってあった。部屋の扉を厳重に確認
してから、カバラで人が近づかないように細工して、タンスを開け
放った。そして、奥に手を伸ばす。
だが、無い。
2025
そこから、桃の木の面は失せていた。
﹁⋮⋮え?﹂
総一郎は、静かに動揺した。手でまさぐって仮面を探す。しかし
見つからない。衣類を力任せに横にのけて、直接見て仮面を探した。
けれど、見つからない。最後にカバラを使って、桃の木の特殊なア
ナグラムを探した。
そうして、総一郎は現実を直視した。衝撃に仰け反って、震えな
がら後退した。
﹁⋮⋮そんな、そんなバカなことがあってたまるか﹂
桃の木の面が、盗まれた。つまりは、そういう事だ。
総一郎は一瞬恐慌状態に陥って、次に深呼吸をして自らを落ち着
けた。まずは、カバラだ。アナグラムを探す。風魔法で何か異変を
察知する。すると、僅かな異変が見つかった。
﹁傷、か? これは﹂
近寄って、触れる。カバラを意識的に使わねばわからなかったよ
うな、小さな痕跡。それが、窓辺にあった。少年はその先に視線を
向ける。空気中に、僅かに乱れたアナグラムが見え隠れしている。
﹁︱︱俺の正体を明かすつもりなのか? しかし、誰が、何故。俺
を知っているのはギャングやARFだけだ。警察は逮捕状も出てい
ない俺に構う余裕もないはず。けれど、現時点でARFとは敵対し
ていないし、ギャングたちはウッドの後をつけられるような気概の
2026
ある奴も少ないだろうし⋮⋮﹂
考えるが、答えは出ない。総一郎はため息を吐いて、薄暗がりの
中で窓から外に出た。屋根伝いで数軒分移動する。いつもならここ
から一気にスラムまで飛ぶのだが、今はその必要が無いのだと思っ
て、陰から地面に降りた。もうすっかり、靴を脱がない文化に慣れ
てしまっている。
アナグラムは、そこら中に散っているように思えた。それが、辛
うじて道筋を残していると。妙な具合だと総一郎は勘ぐる。普通な
ら足跡のようにくっきりと残るものなのだ。しかし、分かり辛くさ
れている。
﹁⋮⋮けど、ギリギリで追える程度だ。素直に、辿って行こう﹂
総一郎は、ジョギングを装って走り出した。夜にジョギングに出
る人というのは多い。総一郎のような若者でも、走っていてあまり
目立たない。
そこから、しばらく駆けていた。大体、一時間ほどだろうか。ア
ナグラムの痕跡は少しずつ薄れて行ったが、それでも常に追えるギ
リギリを保っていた。経由した道は様々だ。ミヤさん近くのスラム
街を素通りして、大学周りを横切って、今は繁華街の端に沿って進
んでいる。今夜中に見つかるかどうかは、甚だ疑問だ。
﹁⋮⋮困るな。これならもう、余っている木でもう一回仮面を彫っ
ても︱︱いいや、それはさすがに難しいか﹂
一旦歩調を緩めて、ふむと唸った。かれこれずっと走り続けてい
たが、あまり息の乱れはない。父の修業が今も影響しているという
2027
事だ。思い出すたび、あの日々は無駄ではなかったと感じる事があ
る。
そこで、意外な人物と出会った。
﹁あれ∼? 総一郎君じゃないですか∼﹂
﹁あ⋮⋮、どうも、マナさん﹂
﹁こんばんは∼、総一郎君∼﹂
柔和な笑顔で目を細めてお辞儀をする愛見。総一郎は肩を竦めて、
尋ねてみる。
﹁今日も、酒盛りですか?﹂
﹁あはは∼、やだな∼もう∼。私が呑めるのは、ミヤさんの店だけ
ですよ∼? しかもあれ、アルコール0%なんですからね∼?﹂
﹁⋮⋮0.何%ですか?﹂
﹁⋮⋮9とかですかね∼﹂
限りなく1だった。
﹁それで、総一郎君はどんな御用事ですか∼? 結構汗かいてます
けど∼﹂
﹁これは、アレですよ。運動不足解消に、ジョギングをば﹂
2028
﹁あら∼、勤勉な人ですね∼。尊敬しちゃいます∼﹂
心にもない事を、と口が滑りそうになる。が、我慢である。恐ら
く怒らないだろうが、儒学的にも年上は無条件に敬ってしかるべき
なのだ。そう、年上という一点のみを。
人間関係円満のコツである。
﹁そうそう。そういえば、総一郎君は聞きました∼?﹂
﹁? 何をです?﹂
急いでいると言えば急いでいるが、どうにも終わりの見えない作
業に疲れていて、総一郎は一旦箸休めをすることに決めた。数分雑
談に花を咲かせてもいいという気分だったから、愛嬌よく話を促し
てみる。
すると、結構面白い話が飛び出てきた。
﹁実はですねぇ∼、なんと! NCRがとうとう、警備ロボットと
して、法人相手にレンタルが始まったのです!﹂
﹁おおっ! ついにですか!﹂
乗り気になって思わず拳を握ってしまう総一郎。自分が苦労させ
られた分だけ、あの手ごわいロボットが立派な作品としてリリース
されるのは嬉しい事だった。
﹁そうなのです。とうとうですよ∼。もう嬉しいったらないですよ
ね∼。それに、総一郎君が手伝ってくれたおかげで∼、なんとあの
2029
原子分解からの電撃さえ何とかしちゃうリニューアル版に変わった
そうです!﹂
﹁ほう! その仕組みは!﹂
﹁ひとまず、建物限定でなのですが、警備区域の壁にあらかじめ給
電機を備えつけておくんだそうです。ほら、原子分解って、要は原
子間の電子を無理やり吹き飛ばす荒業じゃないですか。だから、再
び電気を与えて︱︱、という具合ですか∼﹂
﹁しかし、アレは極度に小さいとはいえ、無造作に電気を与えて復
活する物なんですか? 俺は、かなり小さな歯車チックな磁石ロボ
ットが、引き合う力でくっつきあって動いていると考えていました
が﹂
﹁そこは問題ないそうですよ∼。何せ、あのロボットはスライムの
構造をまねて作っているそうですから。そういう話、授業で習いま
せんでした∼? ほら、蚊の針を模して、無痛の注射針を作った、
みたいな﹂
﹁⋮⋮スライムですか、そうですか﹂
﹁あれ?﹂
スナーク、スライムとよく分からない系の魔物が嫌いな総一郎。
嫌な顔が思わず表に出てしまう。だが愛見は少し首を傾げただけで、
すぐに話題に戻った。この人は理系だなぁとちょっと思う。
﹁それでですね∼﹂
2030
眼鏡の奥の瞳をキラキラさせながら、彼女はさらに話を続けよう
とした。その途中で、﹁あれ?﹂ときょとんとした声を漏らす。﹁
どうしました?﹂と聞くと、﹁あれ⋮⋮﹂と指を差した。
﹁⋮⋮人影、ですよね。しかも、何か気味が悪い色をした⋮⋮。︱
︱もしかして、ウッド?﹂
総一郎は、その言葉に目を剥いた。目を凝らすと、小さなビルの
上に僅かに覗く人影。化学、生物魔術で簡易的な望遠鏡を作って覗
くと、少年は驚きに息を詰まらせた。
﹁ウッド、だ。奴は、間違いなくウッドだ﹂
視界に映るその面は、紛う方なき自分のものだ。
総一郎は、慄いて半歩後ずさった。言葉が、出てこない。その時、
唐突に愛見が声を上げた。
﹁あ! すいません総一郎君∼。怪人を見つけるなんて言う幸運に
折角巡り合ったのに、私、これから用事があるんでした。ごめんな
さい、今日はこれで失礼しますね∼﹂
僅かに焦った風に、彼女は走り去っていった。愛見が走るところ
なんて初めて見た、と少し驚きながら、しかしすぐに、総一郎は注
意をウッドに戻す。
奴は、動いていない。ビルの屋上で、直立したまま何処かを見つ
めている。その気が変わるまでに、追い付かねば。総一郎は、駆け
出す。
2031
まず近くの路地裏に入って、次に飛びあがり屋根伝いに移動した。
次いで、風魔法で自身を加速させる。
タタタタッ、と軽快な、まるで焦ったタップダンスのような音を
足に纏わせながら、体重を感じさせない走りで進んでいた。もうす
ぐ、奴のいる場所にたどり着く。最後に気が急いて、迂回路を取ら
ずに大きく跳躍。道路を跨いで奴のいる屋上に直接着地した。
摩擦でくつが焼け焦げる。だが、気にすることではないと思った。
﹁おい﹂と呼びかける。そして睨み付けながら、問うのだ。
﹁お前は、何者だ。なぜ俺から、仮面を奪った﹂
背を向けた奴の姿は、異様だった。それが、少年の眉根を寄せる。
自分と同じくらいの背格好。服装も奇妙の一言だ。気色の悪い人肌
のような皮を、剥いでそのまま着用していると言った風情である。
それに見覚えがあった。無意識に、右腕を一瞥してしまう。修羅
の腕。整形できなかった時、あんな姿をしていた。
少年の呼び声に、ゆったりと奴は振り向く。いやな予感が、総一
郎を射抜く。奴の、顔が見えた。総一郎が作った面。振り向く際に、
総一郎は気付いた。案の定、癒着している
﹁⋮⋮﹂
奴は、無言で居る。総一郎を、値踏みしているかのような視線だ
った。総一郎は、それに嫌な心地をしながら、傍らで考えるのだ。
耐えきれず、言う。
2032
﹁⋮⋮お前は、修羅か? 俺の、修羅なのか﹂
すると奴は、無言で仮面に指を掛けた。それが、総一郎を硬直さ
せた。
力が籠められる。僅かに、仮面が軋む。少しずつの剥離。総一郎
が面を外す時の所作に、あまりにも似ていた。皮をはぐような生理
的に嫌な音を立てて、仮面は奴の顔から取り去られていく。
そして最後に、急激に力が籠められ、引きはがされたのだ。
だがその仮面の下の顔を、総一郎は見ることが出来なかった。
思い切り取られた仮面は、そのまま真っ直ぐに総一郎に飛んでき
た。ある種、投げつけられた様なものだった。仮面は総一郎の視界
を塞いで奴の姿を瞬間隠す。それに咄嗟に反応できなかった少年は、
我に返って眼前で飛んできた仮面を掴み、視界から素早く取り除い
た。
しかしもう、そこに奴の姿はない。
﹁⋮⋮﹂
仮面を見る。総一郎ならば残されている、修羅の残りカス。だが、
ここにはない。総一郎は、もしかしたら白昼夢でも見たのかもしれ
ないと思いだした。空は、もうとっくに夜の帳を落としていたけれ
ど。
﹁⋮⋮まぁ、いい。今出来ることをしよう﹂
2033
仮面を、被る。修羅が延びてきて、総一郎の大半を呑み込んでい
く。腕を斬られても平気な体。体を真っ二つにされても死なない体。
それが、ウッドだ。生憎と、そこまでの攻撃を食らわせた者は、い
まだ一人もいなかったが。
そして総一郎はこの世から掻き消え、代わりにウッドが現れる。
顔の下は桃の木に溶かされ、癒着する。後ろの留め具であるゴムな
ど、本当は要らない。ただ、嵌めるだけでよいのだから。
ポケットを探る。EVフォンを見つける。指に着け、ARFと連
絡を付けようとした。そこに、邪魔が現れた。
殺気を感じて、ウッドは瞬時に飛びのいた。そこに、爆撃染みた
着地をする白い影。木刀をイギリスから持ち帰った袋が取出し、翳
す。奴は、その価値がある敵だ。
﹁何の用だ、ラビット﹂
﹁こちらの台詞だ。数時間前から、お前がここに立っているという
情報が入った。お前は何を意図している︱︱ARFは、お前に何を
命じた﹂
ああ、とウッドは思う。奴は、まだ勘違いを起こしたままでいる
らしい。だから、教えてやる。
﹁俺は、ARFではない。誘われて、断った身だ﹂
﹁何だと?﹂
2034
ラビットは、その言葉に動揺した。フードの奥で、鋭い眼光を放
つ。それなのに、奴の顔は判別できないでいる。不思議な服だ。魔
法でも同じことはできるだろうが、アナグラムは魔法でないと告げ
ている。もっと、強力な何かであると。
﹁何故だ。お前の探し人を見つけると、そういう契約を交わしてい
たのではなかったのか﹂
ラビットの言葉に、ウッドは﹁そうだったな。だが、今は状況が
違う﹂と告げる。
﹁情報をほしいなら、とARFは俺の加入を求めてきた。だが、断
らざるを得ない理由があり、断った。俺は再び調査を続け︱︱その
後、ARFのボスその人が俺の探し人であると知った。戦力増強と
いう観点もあっただろうが、俺を誘った本来の目的は機密保持とい
う事だろう﹂
ウッドの説明に、ラビットはしばし呆然とした。しかし我に返る
とすぐに、ニヤリと笑う。
﹁なるほどな、面白い。そうか、お前はそういう種類の輩だったか。
では、何だ? これから、ARFの本拠地に赴いて頭をさらいに行
くつもりか﹂
﹁そのつもりだ﹂
﹁⋮⋮なら、お前にくれてやりたい情報が一つあるぞ、ウッド﹂
唐突に、奴は地名を吐き出した。都市部の、ビルの最上階付近。
察しの悪いウッドではない。すぐに、勘付いた。
2035
﹁そこに、いるのか﹂
﹁居る。今日の真夜中、動き出すという事も知っている。だが、お
前がブラック・ウィングを名乗るボスを攫えば、その計画は間違い
なく狂う。後手に回っていた俺が、とうとう一歩前に出る﹂
獰猛に、ラビットは笑う。この表情を見て、以前も思った。︱︱
奴の、何処がウサギだ。
﹁⋮⋮俺は、お前に与するつもりはないぞ、ラビット。ただ、した
い事をするだけだ﹂
﹁分かっている。前に、信じなくて悪かったな。お前は、誰とも違
う。孤独な、一本木だ﹂
言って、ラビットは跳び去った。ウッドは、地図を思い浮かべな
がら街に目を向ける。
そして、魔法で大きく飛翔した。
アーカムの地理は、電脳魔術で把握できた。あとは、向かうだけ
だ。ARFと直接連絡を取って、というやり方は、頭がよくない。
新参者としてウッドが現れた時点で、まず間違いなく数ヶ月は警戒
が続く。だから、この事は幸運だった。
跳び進む際中、ウッドは雪に気付いた。冷たい、雪に。
2036
そこに、彼女は居た。
壁の一面をガラス張りにした、夜景を楽しめるような造り。中は
瀟洒で、ゆったりとした雰囲気の部屋だった。だが、金はかかって
いない。部屋の大きさに反して、置かれた物はシンプルなだけの安
物ばかりだ。
しかし、アナグラムが無ければ分からなかった。見栄えだけを狙
ったカモフラージュ。対象とされるのは誰だろうか。警察やギャン
グ。それぞれの形で、この部屋に招き入れることがあるのだろう。
彼女は、厳つい巨躯の男と和やかに談笑していた。雰囲気で、ウ
ッドは理解する。ファイアー・ピッグ。その男は、奴がとった人間
の姿なのだろう。とするなら、奴の正体は悪魔か神か。
しばらくビルの外に掴まって息を潜めていた。そして、ファイア
ー・ピッグらしき男が出ていくのを確認する。それを、見計らった。
音魔法での消音。熱魔法による、方向性の無い破壊。
数秒の時間も、要しなかった。すぐにガラスは歪み始め、音なく
ひび割れ、砕け散る。だが、気配だけは感じ取ったのだろう。彼女
はこちらに振り返った。そして目を剥いて、臨戦態勢で後ろに飛び
のく。
音を、戻した。彼女は、鈴の音のような声を精一杯低くして、唸
るように言う。
2037
﹁⋮⋮ウッド。話は、聞いてる。私を捜索していたって話だけど、
この分なら本当らしいね。︱︱でも生憎と、私、一人の例外を除い
て探される覚えはないのだけれど﹂
その言葉に、ウッドは妙な感想を抱いた。この文脈ならば、むし
らしく
言葉
ろ、その例外だと看破されているはずだと感じていたのだが。
だから、分かりやすい態度をとった。日本語で、
を発する。
﹁その例外だとは、思わないの? 全く、昔でも今より察しは悪く
なかったよ﹂
肩を竦め、呆れた風な声色で言った。すると、きょとんとした風
に﹁え⋮⋮?﹂と彼女は言う。だから、ウッドは仮面を外した。抵
抗なく、仮面が外れる。その事にウッドは、違和感を覚えなかった。
﹁久しぶり、白ねえ。俺の事、覚えてる? 総一郎だよ。武士垣外、
総一郎﹂
微笑んで言った。すると、彼女は驚愕に黙り込む。その様が可笑
しくって、笑いながら言った。
﹁そんなに驚く!? むしろ、俺がウッドだって事は、ある意味で
は予想通りじゃないか。ARFの情報網なら俺がアーカムに来たこ
とはすぐに知れただろうし、俺が来てからすぐにウッドが現れた。
白ねえなら、すぐに看破していておかしくないと思ってたのになぁ。
昔からちょっと抜けてるとは思ってたけど、このくらい見抜いてく
れなきゃ困るよ全く。⋮⋮何か愚痴っぽくなっちゃったな。そんな
2038
こと言うつもりじゃなくてさ、ほら、何て言うか、その﹂
言葉に詰まって、後ろ頭を掻いた。しばしの沈黙。息を深く吸っ
て、覚悟を決めて、言う。
﹁また会えて、嬉しいよ、白ね﹂
﹁黙れ。私の大事な弟の振りをするな、偽物﹂
﹁⋮⋮えっ﹂
シン、と張り詰める様な静寂が下りた。よく見れば、彼女は目を
剥いて驚いているのでなく、目を見開いて鋭く自分を睨み付けてい
た。狼狽。委縮。二つが襲い来て、体が震えだす。
﹁な、何を言ってるのさ。俺は、武士垣外総一郎だよ。覚えてない
の? 俺だよ。それとも、この数年で忘れちゃったの?﹂
﹁片時だって忘れた事なんてない。私が世界で一番愛してる弟だも
の。でも、あなたじゃない。あなたなんか知らない﹂
﹁俺は俺だよ! 武士垣外総一郎だ! 白ねえの、弟だ⋮⋮!﹂
﹁しつこい。もういい、黙って。何が目的かは知らないけど、そん
な戯言を言いに来たんならとっとと帰ってよ。私はあなたの姉じゃ
ない。あなたは私の弟じゃない。違う? ウッド﹂
にべもないその言いぐさに、失意し、脱力してしまう。感動の再
2039
開を期待していた。拒絶されるだなんて考えても居なかった。
でも悔しくて、諦めきれず、尋ねた。俯いて、﹁なら﹂と切り出
す。
﹁なら。なら、俺は何だよ。白ねえの弟でないなら、俺は何だよ⋮
⋮﹂
彼女はその問いに、見定める様な冷ややかな視線を浴びせてきた。
上目づかいに様子をうかがう。視界に飛び込んで来る、その、赤の
他人を見つめる瞳。怯みが、全身に走る。
﹁⋮⋮私の父が、人にして人ならざる者の中の、最も恐ろしいもの
の一つに、こんなものがあるって話してくれたことがあった﹂
区切り、続ける。
﹁あなたは、修羅。修羅以外の、何者でもない﹂
その断言に、後退する。衝撃に、打ちのめされる。全身が震え、
らしい
所作と共に。
止まらなくなる。重心が背後に傾き、右足が下がり、地面に着く。
同時に、消えた。震えも、動揺も、総一郎
﹁でも﹂
本音が漏れる。彼女を直接一目見てから、いや、もっとずっと前
から思ってきたことが︱︱
﹁︱︱君だって、白ねえじゃないじゃないか﹂
2040
着地した足に力を込める。重力魔法、風魔法、時魔法。
ウッド
はそうして反転した。肉薄。アナグラムさえ欺いて、ウッドはブ
ラック・ウィングに手を伸ばす。彼女は寸前で手を組もうとした。
許さない。組まれた時点で脅威になるなら、組ませなければいいの
だ。
氷魔法。それで、彼女の手を蝕んだ。母が、同じ方法で酷い目に
遭ったのを今でも覚えている。天使は、手が組めなければ無力な少
女だ。
そして、手が届いた。首を掴み、地面に押さえつける。馬乗りに
なって、容易に身動きをとれなくする。
﹁うっ、がぁッ⋮⋮! ウッド、ウッド⋮⋮ッ! あなたは、何を
っ﹂
﹁お前以外に﹃武士垣外白羽﹄が居ない。なら、ひとまず連れて帰
ろうと思っただけだ。何せ、代わりが居ない﹂
彼女はそれに何か言い返そうとしたようだったが、面倒だったの
で黙らせた。空いた手を頭に当て、精神魔法を放つ。それだけで、
簡単に気絶する。生物とは、かくも脆い。
そうして気絶した彼女を、仮面をつけてから担ぎ上げた。白を基
調とした服。翼は隠れていて見えない。だが、剥けば小さなそれが
背中についているのだろう。あの、恐ろしく染まった黒き翼が。﹁
ハッ﹂と吐き捨てる。何が、﹃私が世界で一番愛してる弟﹄か。笑
わせる。
2041
ゆったりとした歩調で、窓に近づく。そこから飛び降りようとし
たところで、部屋の扉から勢いよく現れたものが居た。先ほどの厳
つい男だ。それがウッドの姿を見つけて、﹁姐さんッ!﹂と叫びな
がら黒く燃え上がる。予想通り、そこに現れるのはファイアー・ピ
ッグの巨躯だ。
﹁ウッド、お前は一体何をしている!﹂
﹁見ての通りだ。ファイアー・ピッグ。情報と、その通りの人物を
貰いに来た。今日の映像を流した時点でそれなりに対策は打ってい
たろうが、残念だったな。ラビットが、お前らの予想を裏切らせて
くれた﹂
﹁ラビット⋮⋮! そんな、まさか﹂
﹁もう、何も話すことはない。さよならだ。炎の猪﹂
倒れ込む。中空。共に、投げ出される。その途中、光魔法で姿を
消し、上空へ飛びあがった。しんしんと降り積もる雪。息が、白く
染まる。
ウッドは、自分でビルに新設した出入り口に視線をやる。砕けた
ガラスで囲われたそこから、炎を纏いながら奴が飛び出てきた。ロ
ケットのように逆噴射で浮いているのだろう。叫びながら、周囲を
窺っている。
﹁ウッド、ウッドォッ! 出てこい! いいか、絶対に見つけてや
る。俺たちのボスだ。俺たちの︱︱﹂
2042
﹁⋮⋮聞き苦しいと言ったらないな。早く帰ろう。今日は、まだ夕
食も食べていない﹂
独り言をつぶやいて、ウッドは風を操った。左肩に載るブラック・
ウィングは、思った以上に軽い。ウッドがそうして遠ざかる中、ピ
ッグは暗く寒い夜の中心で、その後もずっと、低い声で叫び続けて
いた。
2043
4話 ﹃おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?﹄Ⅰ
両手を合わせることへの忌避感。そして自作の、ベッドから繋が
る鎖の長い一つの手錠。拘束は、それだけにした。鍵は二つ。一つ
は図書に、一つは自分が。
﹁⋮⋮﹂
ブラック・ウィングは、何度も手を合わせようとして、しかし出
来ずに歯を食いしばっている。ベッドの上。鎖の長さはこの部屋を
十分歩き回れるほどもあったが、ウッドが居る時、彼女は常にベッ
ドの隅で丸くなって、こちらを睨み付けていた。
﹁だから、合わせられないと言っているだろう﹂
ウッドの言葉に、彼女は低い声で答える。
﹁こうやって、図書さんも洗脳したの? あの人が、こんな状況を
看過するはずないのに﹂
ウッドは、自分がウッドの正体という事を図書に明かしている。
仮面を外したまま彼女を背負ってきた自分を見て、彼はただ溜息を
吐き、﹃どうせややこしい事になってるんだろうとは思ってたんだ﹄
とだけ言った。
﹃俺は、今は静観する。俺も人食い鬼のせいでだいぶ死生観狂って
っから、お前らの人殺しについては触れないことにしとくわ。あと、
姉弟同士の蟠りは、お前らで何とかしろ。長い時間話し合って、や
2044
っと解決できるってこともあるだろうしな。今は拙速を貴ぶべきじ
ゃないと思ってるから、ひとまず任せるぜ、総一郎。︱︱信頼、し
てるからな﹄
その言葉は、図書があくまで二人のどちらの味方でもあり、もっ
と言えば中立を保つという事の表れだった。だが、釘を刺すことも
忘れない。ウッドが暴挙に出れば、彼もまた、﹃大人﹄の立場から
動き始めるつもりで居るのだろう。
ならば、義理立てすべきだった。乱暴な手で彼女をどうこうしよ
うという気には、ならなかった。
ウッドは言う。
﹁それは、お前の認識違いだ、ブラック・ウィング。俺が、彼に洗
脳など掛けるはずがない﹂
﹁それは、何で﹂
﹁お前は、自由にした瞬間俺を殺すだろう。それ以外はあまり問題
ではない。だから、天使の種族魔法以外のほとんどを自由にさせて
いるのだ﹂
そう告げると、﹁どうだか﹂とだけ言って何も答えなくなった。
ウッドがその様を動かずに見つめていると﹁いい加減出てって!﹂
と強く言う。
ウッドは目を瞑り、立ち上がった。
﹁何かあれば呼べ。壁を強くたたけば起きる﹂
2045
﹁あなたの事は呼ばない。お花摘みの時は図書さんに頼むもの﹂
﹁それならそれで、結構だ﹂
﹁︱︱お願いだから、出てってよ⋮⋮!﹂
部屋を出るウッドに、彼女は声を張り上げる。泣きそうな声だ、
といつも思う。それを無視して、自室に戻った。
姿見の前に立つ。仮面は付けていない。だが、仮面のように顔が
硬直している。
手で揉んで、変えた。表情を作る。笑顔。怒り顔。泣き顔。変顔。
真剣な顔。十全に、扱える。
﹁⋮⋮うん。何も心配はないな。何も変わってない。いいや、いい
事があった。心配していた相手が帰ってきて、心配が取り除かれた。
うん。うん﹂
笑顔で言う。力を抜く。仮面のような無表情。いやいや、と首を
振る。笑顔。うん。ずっとこのままで居よう。
﹁俺は、今幸せだ﹂
姿見に、言った。笑顔を、もう少し弛緩した風に変えた。試行錯
誤の末、安心を示す表情を完成させる。これだ、これ。
﹁もう寝るか。あしたも授業があるんだから﹂
2046
そのまま、床に就いた。笑顔のまま、寝た。
翌日、昨日に早く寝た分だけ、早朝に目覚めた。五時。庭に出て、
久しぶりに木刀を振るってみる。空を断つ音。しかし、何処か鈍い。
﹁⋮⋮使っていなかったからだろうな、腕が落ちた﹂
最近、魔法ばかり使っていた。カバラと合わせた、それ。イギリ
スで山に籠っていた時の自分と剣で立ち会えば、今の自分は容易く
脳天を打たれるだろう。だが、魔法を含めるなら、カバラが使える
今が圧倒的に有利だ。
カバラ。これがあれば、運動は最適化される。あとはそれを為せ
るだけの筋力があれば、問題はないのではなかろうか。
そう思うと、素振りをする気が失せた。木刀などいらない。しか
し処分するには愛着があって、庭に逆さに突き立てた。そのまま、
家の中に戻る。それからしばらく、シャワーを浴びた。部屋に帰る
廊下で、鈍い音が断続しているのを聞く。自分と、彼女の部屋の境
目。何だと思って、彼女の部屋の扉を開ける。
﹁どうかしたか﹂
﹁ずっさんが意地悪して﹃総一郎に頼め﹄って⋮⋮﹂
股間を抑え、涙目で彼女は言った。声が、屈辱に濡れている。ウ
ッドは指を鳴らし、彼女の手錠を外した。﹁えっ、今のどうやって﹂
と瞬間彼女は動揺するが、すぐに我に返り、駆け出した。
手間のかかるものだ、と鼻を鳴らして、ウッドは着替えた。素振
2047
りをしないのなら、筋トレなりジョギングなりとやる事はあった。
冬が来た、と日々思わせられる。
今日も、そんな日だった。僅かばかりの雪が、忘れた頃に空中を
滑っていくのを見つける。それを十数回ほど繰り返したところで、
仙文と出会った。﹁おはよう﹂と互いに挨拶を交わす。
﹁いヤー、もう寒い時期にナッチャッタネ﹂
﹁後半めっちゃイントネーションおかしかったけど﹂
﹁かじかんでウマク、はニャ、はにゃせニャい⋮⋮﹂
﹁早いところ学校行こうか。中なら温かいだろうし﹂
二人は足早に進んだ。校門をくぐって、玄関に入ると一心地つく。
﹁やっぱり室内は温かいネー﹂
﹁そうだね、あー寒かった。授業まで少し時間があるし、ちょっと
溜まり場で休もっか﹂
﹁ウン。Jならもう来てるかナ﹂
﹁あいつ、早起きだからね。多分来てるんじゃない?﹂
お互い親友の事を話しながら、食堂の端の一角に訪れる。適当に
2048
温かい飲み物を買って、腰を落ち着けた。Jは居ない。彼が来るま
で、あるいは授業が始まるまでは、しばらく仙文と話していようと
思った。
﹁そういえバ、イッちゃん。昨日のニュース見た? ARFの有名
怪人が勢ぞろいシて、しかもそのリーダーがアーカムに宣戦布告し
たアレ!﹂
思い出したように、声高く仙文は言った。ああ、と答える。
﹁昨日俺駅前に居たから、実は生⋮⋮とは言い難いけど、ARFの
予告をそのまま見てたり﹂
﹁えっ、凄イ! どうだっタどうだっタ!? ニュースだと行き成
りリーダーが中央で犯行声明してタから、詳しい事はまだアンマリ
わかってないンダ﹂
﹁ってことは、そのリーダーが州知事を殺したのも?﹂
﹁えっ、⋮⋮それ、本当?﹂
こくりと頷く。仙文は神妙な顔で﹁とうとうARFも本気だネェ
⋮⋮﹂と呟く。微妙に他人事感がにじみ出ていた。
世は無常なりというようなことをのんびりと話していると、誰か
が近寄ってくる。Jかと一瞬思ったが、全然別人だった。
﹁二人ともお早よ。いやー、今朝のニュース凄かったわね⋮⋮!﹂
ヴィーである。彼女にしては、珍しく素で興奮しているような様
2049
子だ。やはりあれだけの事は、長年アーカム住まいでも新鮮なのか。
﹁お早よ、ヴィー。J見なかった?﹂
﹁ん? あー、⋮⋮Jは多分休みじゃないかしら﹂
﹁そうなノ?﹂
﹁うん。ちらっとトラックの方見たけど、見えなかったし﹂
﹁いや、一応今日は雪だから﹂
﹁ううん、そうじゃなくて、足跡が無かったってことよ。去年とか
忍び込んでた時は、元気に校庭のトラックを何十周としてたからね﹂
﹁元気底無しだネ﹂
﹁ああ、そういえば陸上の大会あるから、応援してとか言われたこ
とあったったけなぁ⋮⋮。行かなかったけど﹂
﹁いや行きなさいよそこは﹂
﹁ボク行ったヨ? ⋮⋮って、アア、その時イッちゃん確か試験受
けてたんだっケ。ソレで大会が終わってカラ汗だくで来たよネ﹂
﹁行ってるんじゃない﹂とヴィーは片眉を歪める。
﹁Jに叩かれながら﹃おせーよ!﹄って言われたときムカついたな
ぁ﹂
2050
﹁えっ、Jってそんなに性格悪かったっけ﹂
﹁イヤイヤ、イッちゃん。満面の笑みで言ってたって事を言葉にし
ないトかなり語弊が生まれちゃうヨ﹂
﹁作戦失敗﹂
﹁Jに何か恨みでもあるの!?﹂
ヴィーに驚かれ、くつくつと笑った。悪戯心以上の物ではないと
示すためだ。そして、何となく漏れる溜息。
﹁そっか。J、今日は休みか﹂
﹁なんだかんだ言って仲良いわよね﹂
穏やかな笑みで、ヴィーは言う。だから顔を紅潮させて、手を振
りながら言い逃れようとする。
﹁出会ったころはズボラな感じが気に食わなかったけど、慣れれば
それ以外の面が見えてくるからね。根は良い奴なんだって分かって
くると、気づいたらっていうか、まぁ、その、⋮⋮うん﹂
﹁そうだネー。ボクら二人だけだと、少し静かすぎちゃうモン﹂
そんな風に、穏やかに話していた。静かで、平和な会話だった。
そんな中、ふっと話題から、自分だけが逸れる。一瞬の間だけ取
り残されて、ここに居る自分、という物を客観視してしまう。平穏。
興味とも呼べないような興味が、じわ、と滲みだした。
2051
この平穏を壊したら、中から何が出てくるのだろうか、と。
例えば、仙文を殴り飛ばしたら、どうなるだろう。例えば、ヴィ
ーをこの場で犯したら、どうなるだろう。例えば、この食堂に居る
十数人を、一人残らず殺したらどうなるだろう。
心臓が、鳴った。決して高鳴りではない。底冷えする様な、低い
音。恐ろしい、と思う。何を考えているのだ馬鹿らしい、と思う。
思う半面で、少し考える。何が起こるのか。自分が気の狂ったよう
な行動を冒せば、一体何が起こるのか。
誰かが怒鳴り散らして、自分を殴るかもしれない。あるいは、泣
きながら止めるのかもしれない。しかし、どちらにせよ平穏は壊れ
ている。そこに、違いなどないのだ。
﹁⋮⋮イッちゃん? どうしたノ?﹂
きょとんとした純粋な声色で、仙文が首を傾げる。それにウッド
は、﹁ううん、何でもないよ﹂と言った。そう、何でもないのだ。
本当に、何でもない。
誰かが、Jに連絡を取る。今日は風邪をひいたと返ってくる。他
にも、何人か見ない人がいた。人が少ない日だった。きっと、雪が
降っているからだろう。
家に帰る。居間のソファで、清が寝っ転がりながら足をパタパタ
している。見れば、本を読んでいるようだ。声をかける。
﹁ただいま、何呼んでるの?﹂
2052
﹁ん、総一郎か。お帰りだ。これはな、⋮⋮ジャックと、豆の木だ﹂
﹁何でためたの?﹂
﹁ヒーファイフォーファム。匂う匂うぞうんたらかんたら﹂
﹁覚えてからやんなさい﹂
頭に手を置く。﹁うぅ﹂と恥ずかしそうに清が俯く。可愛らしい
と思う。その一方で、握りつぶしたらどうなるだろうと考える。整
形した修羅の手は、恐らく簡単にそれを為すだろう。
﹁むー。総一郎、あまり撫ですぎるな。髪の毛が乱れるだろう﹂
﹁ああ、ごめんごめん。あんまり撫で心地がよかったものだから﹂
﹁むむっ、⋮⋮それなら、許さないことも、その、無きにしも非ず、
というか﹂
﹁可愛いねぇ、清ちゃんは﹂
再び、撫でる。その頃には、不穏な考えは消えている。一過性な
のだ、これは。のど元過ぎれば、熱さを忘れてしまう。
一通り清と遊んでから、自室に戻るべく階段を上る。その最中で、
止まる。目の前に立ちふさがる、彼女の部屋の扉。少し見入って、
再び進んだ。
扉を開ける。暗がり。カーテンも開けずに、ベッドの上で蹲って
2053
いる影があった。
声が、硬くなる。
﹁調子は、どうだ﹂
﹁⋮⋮いいと、思うの?﹂
言葉が返ってくる。逃げ出している可能性も考慮していたが、杞
憂だったようだ。
﹁良くは、ないだろう。⋮⋮食事は、とったか﹂
﹁ズっちゃんに食べさせられた。⋮⋮もう、いいから出て行ってよ﹂
元気のない声色である。少し、考え込む。自分が、本当は何を望
んでいるのか。少なくとも、この現状は違う。血のつながった肉親
を軟禁するなど、理想的とは言えない。
﹁⋮⋮何か、望みがあれば言え﹂
﹁⋮⋮あなたが、それを言うの?﹂
闇の中で、鈍く照り返すものがあった。彼女の、瞳。かつて、イ
ギリスで打ちのめされ続けた自分の様な︱︱獣のように獰猛な目が、
こちらを睨み付けてくる。
﹁どういう意味だ﹂
問うと、彼女は俯いた。沈み込むような声色で、ポツリポツリと
2054
言葉を零す。最初は、それを聞き取ることが出来なかった。だが、
ある一言がその独白を一息に明瞭にさせた。
﹁私には、やる事がある﹂
それを皮切りに、言葉に力がこもり始めた。
﹁私は、亜人。日本ではいざ知れず、この国では差別される存在。
アメリカの、特にアーカムの差別は酷いなんてものじゃない。リッ
ジウェイ率いる亜人対策課は、私たちのことをモンスター呼ばわり
して、見つけ次第撃ち殺した。友達が目の前で撃ち殺されたことだ
ってある。だから、私は立ち上がったの。何かしなきゃならないっ
て﹂
こちらに向く瞳が、色を変えた。獰猛な獣から、情熱を湛えた人
間に。
﹁最初は、漠然としてた。ただ、他人を無償で助け続けた。でも、
それだけじゃ何も変わらなかったよ。私たちのことを知る人は増え
た。協力してくれる人だって出てきた。けど、親友が誘拐されて、
殺される寸前までいって分かった。こんなことしても何にもならな
いって。そう考えたとき、私の中に方向性が生まれたの。壊さない
とダメだって。こんな社会、ひっくり返さないとダメだって﹂
眉が下がる。目が据わる。穏やかな顔つきになる。天使の目だと、
そう思った。人を超越した、かけ離れた存在に。
﹁神は、善良な人間と多種多様な動物のつがいを残してそれ以外を
洪水で洗い流しなさった。でも、ニーチェや他の多くの哲学者が神
を殺してしまった。神は信じるものすべてをも助けられないほど力
2055
を失ってしまったの。私たち亜人は、見捨てられた側だよ。だから、
私は、私たちはもう神に祈らない。ノアの時の大洪水は、私たちが
用意する。そう、そう決めたの。もちろん、一人じゃ無理だよ。私
ひとりじゃ何もできない。でも、みんながいた。みんながいたから、
うまくいったって信じてる。決めてからは、全部うまくいったよ。
それこそ不思議なくらい。︱︱だから、これで、ようやく、亜人を
救えるって思ったんだよ。州知事の殺害と宣戦布告までは、まさに
順風満帆だった!﹂
泣き出しそうな声で、彼女は高らかに謳う。その瞳は、いつしか
天使の物でなくなっていた。邪な、人間らしさがそこに滲んだ。だ
が、すべてが人間ではない。言うなれば︱︱神に切り捨てられた、
堕天使のような目。
﹁でも、あなたが私を連れ去った。私はまた、一人に戻った。私は
もう、外に出ることさえできない。みんなにも、もう、会えない⋮
⋮﹂
次第に、声に涙がにじんでいく。暗がりの奥に、再び瞳が引っ込
んだ。だが、と不思議にも思うのだ。この数時間でこのように心が
折れるような輩に、ARFを引っ張ってこられるとは思えない。
しかし、その理由に興味も湧かないのだった。ただ、妙案を思い
ついて、声をかける。
﹁﹃みんな﹄に、会いたいか﹂
﹁え⋮⋮?﹂
きょとんとした涙目が、毛布の下から覗いた。覆いを引きはがし
2056
て、もう一度尋ねる。
﹁お前の言う﹃みんな﹄に、会いたいか、と問うている﹂
﹁え、そ、それは、会いたいけど﹂
何を言っているのか理解できない、という風に、彼女は目を困惑
に細める。それに、ウッドは答えるのだ。
﹁ならば、連れて来てやる﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁連れて来てやる、と言った。それとも、意味が分からないか?﹂
﹁え、で、でも。みんなをそのままこの場に招けば、私は﹂
ARFのメンツが勢ぞろいすれば、どれだけの魔法を凝らしても、
隙を見て奪還されるに決まっている。ウッドは、うぬぼれ屋ではな
い。自分の実力のほどは、把握していた。
﹁そんなこと、言われずとも分かっている。だから、そう出来なく
してから、連れて来ようと提案しているのだ﹂
ウッドのその言葉に、ブラック・ウィングは目を見開いた。﹁ま
さか﹂とだけ言って、言葉を詰まらせる。カバラで、彼女が何を考
えているのかを知った。鼻で笑う。
﹁死体にしてから連れてくるなど、そんな事をする馬鹿がどこに居
るというのだ。お前と同じ、﹃戦えないだけ﹄の状態で、健全なま
2057
ま連れてくる。それで、文句はないだろう﹂
﹁え、あ、でもあなたは﹂
﹁修羅などという訳のわからない存在はどこに居ない。俺は俺だ。
お前の、弟だ﹂
﹁だから、あなたは総ちゃんじゃなッ﹂
﹁だから﹂
彼女の怒鳴り声を、手を掴んで遮る。
﹁だから、俺がお前を﹃助けて﹄やる﹂
その言葉に、彼女は今度こそ絶句した。ウッドは、それだけ言っ
て踵を返す。行動は、今日から起こすつもりで居た。
﹁ちょっ、ちょっと! ﹃助ける﹄って何!? 私を拘束して、動
けなくしてるのは︱︱ねぇッ! 答えてよッ!﹂
背後から追いすがる、彼女の声。それを振り払って、ウッドは扉
を閉めた。ドア越しに、地面を踏むのが聞こえる。ベッドから離れ
るほど、今の発言は聞き捨てならなかったのだろう。しかし、ウッ
ドが自室に戻れば、彼女はどうしようもなくなる。彼女の鎖は、部
屋から出ることを許さないのだから。
部屋に戻る。まだ、暗いというほどではない。だから、眠ること
にした。ベッドに寝転び、瞼を閉じる。その寸前で、ふと気になっ
て仮面に目をやった。今では、家で碌に隠しもしなくなった仮面。
2058
呟きが、漏れる。
﹁⋮⋮なぜ俺は、﹃助ける﹄などという言葉を使ったのだ?﹂
だが、自問しても答えは無い。その為、黙って眠りについた。真
っ暗な夢だった。もしくは、夢など見なかった。
2059
4話 ﹃おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?﹄Ⅱ
総一郎に、会いたかった。あの愛おしい弟が居ないなんて、考え
たくなかった。
﹁ヤダ! 嫌だ! 総ちゃんは何処行ったの!? ねぇ、ズっちゃ
ん! それに、るーちゃんは? お父さんお母さんは!?﹂
﹁知らねぇよ! 俺だって清を連れてくるのが精いっぱいだったん
だ! 畜生、琉歌。俺が、助けられなかったから⋮⋮!﹂
軍用飛行船の中で、もう何度目かもわからない口論をしていた。
いや、口論と呼ぶのもおこがましい。白羽が一方的に喚いて、それ
に苛立った図書が後悔に呻く。その、繰り返しだ。
その光景は、白羽にとって悪夢の象徴だった。何もできずに、大
切なものを奪われる自分。思えば、アメリカで起こした行動の全て
の根源が、ここに集約されているように思う。こんな思いを二度と
しないために、彼女は動いたのだ。常識も、法律さえも突き破って
︱︱
﹁⋮⋮また、この夢﹂
目を覚ます。薄暗い部屋。少し、ここが何処であるのかと迷う。
そして、その度に思い出した。
﹁⋮⋮ウッド、か﹂
2060
つまり、自室だ。ARF本部の寝室でなく、図書の家に設けても
らった、自分の部屋。
翼が黒く染まってから、闇の中にあることを好むようになった。
昔は、熱く日の照る昼間が好きだった。今は、冬の夜が心地よく思
われる。
起きてから、すぐに考えはARFのへと向かった。毎日の習慣で、
今すべきことを脳内に想起し︱︱無駄であったのだと歯噛みする。
自分がいなくても、計画は進められる。だが、ARFという組織は
あまりまとまりがない。全員が、白羽に協力を申し出る形で集まっ
たのだ。逆に言えば、自分以外の柱というべき存在が、あそこには
ない。
頭を振って思考を振り払う。時計を見た。まだ、早朝だ。こんな
時間に起きるなんて、我ながら珍しい。そう思った時に、一度音が
鳴った。風鳴りの音。風を断ちきる音。この音に起こされたのだろ
う。
鋭くはなかった。しかし、獰猛さという物を感じさせられた。カ
ーテンを僅かに開けて、様子を見る。下。庭で木刀を振るウッドの
姿があった。
﹁⋮⋮鈍い。総ちゃんのよりも、ずっと鈍い﹂
思わず呟いて、下唇を噛んだ。記憶の中の太刀筋より、遥かに劣
る剣捌き。しかし、目を離すことが出来なかった。彼はすぐに素振
りを止めて、くるりと刀を翻して地面に突き刺す。その時、見た。
息を呑んだ。
2061
﹁手が、溶けてる﹂
両手。どろどろと融解し、だがすぐに復元された。溶け落ちた肉
は瞬く間に空気に消え、無くなってしまう。そして、ただ、木刀だ
けがそこに残された。凛として深く屹立する、その刀だけが。
﹁⋮⋮ッ!﹂
思い切り、カーテンを閉める。涙を堪える為に、下唇を強く噛ん
だ。そして毛布にくるまり、震えながら祈る。
﹁嫌だよ、総ちゃん⋮⋮っ! 死んじゃっ、死んじゃ嫌だよ⋮⋮!﹂
ウッドを見るたび、その姿に心を削られるような思いをする。し
なければならないことの全てを放りだして、泣きじゃくりたいよう
な気分になる。だが、それをウッドに悟られるわけにはいかなかっ
た。彼の前では繕い続けなければならない。でなければ、すべてを
巻き込んで破滅する。それが、あの忌々しい邪神の目論見なのだか
ら。
ウッドが探すのではない。ARFが探しているのだと気づくのに、
さしたる時間はかからなかった。
﹁テメェら! ウッドを見つけたら五万ドルだとよ! 気張って探
2062
せ!﹂
喜色を多分に含んだ、ギャングたちの雄叫び。それを、真上から
聞いていた。
ウッドが求めるのは、ARFの幹部全員の身柄だ。出来る限り健
全な状態で、しかもそこからすぐに万全な状態に戻せる、という状
況が最善だった。その為には、恐らく各個撃破する必要がある。
全員と同時に対峙して勝てるとは、思っていない。初めから殺す
気でかかるならいざ知れず、それ以外の時ウッドの力は限定的だ。
ファーガスと相対した時、自らに制限が課せられていたとはいえ、
相当に苦戦したことは忘れられる思い出ではない。
﹁だがその前に、危険を冒す必要がある﹂
ウッドがすぐに接触を図れる幹部は、ファイアー・ピッグただ一
人である。彼のアナグラムは鮮烈で、例え十数キロの距離があろう
と辿れないというほどではない。だが、他人の記憶を通して透かし
見たウルフマン、映像のみのヴァンパイア・シスターズ、隠密性の
高いアイや、攪乱能力に長けたハウンド。彼らをアナグラムだけで
手繰り寄せるのには、少々計算が遠のき過ぎる。
もちろん以前にブラック・ウィングを拉致したビルは確認してい
た。だが、その翌日にはもぬけの殻だったのだ。危機管理能力が非
常に高いのは、テロ組織故、ということなのか。
﹁⋮⋮一度、意識して接触せねば。出来れば、同時に﹂
うわさを聞く限り、幹部同士につながりはない。だが、数日前の
2063
映像を見ると、何かしら互いに繋がりがあるように思えた。同時に
居合わせれば、それがどのような関係であるのかも、アナグラムで
割り出せる。
映像でも一部、かつ大雑把なつながりは見いだせなくもなかった
が、全て明るみに出すには、その解像度が低すぎたのだ。
ふむ、と少し思案して、ウッドは立ち上がった。ギャングを見る
限り、ARFが血眼でウッドを探していることに疑いはないだろう。
ならば、目立つ場所に行けばいい。怪人は魔法で飛びあがる。
そして数分で降り立った。駅前。風と共に、しかし音というには
あまりに静かに、着地する。その異常に気付いたのは、非常に至近
距離にいた人物だけだった。しかし、その少数の驚き様が目を引い
た。驚愕と興味はウッドを中心に、滴を垂らした静かな水面のよう
に伝播する。
﹁えっ、嘘。あれってもしかしてウッド?﹂
﹁いやいやそんな。アイツは裏社会だけで暴れまわってるんだろ?
こんな目立つところには⋮⋮﹂
﹁でも、あの仮面絶対ウッドだって! 写真でしか見た事ないけど、
ほら! 前の稲妻事件の映像そっくりじゃん!﹂
人々は大体二十メートルほどの間を保ちながら、ウッドを取り囲
むように輪を作った。一人が写真用にフラッシュを焚けば、一人、
また一人と無神経に写真を撮り始める。
最後には、まるで何かの記者会見のような有様になった。それに
2064
ウッドはうむうむと頷きながら、周囲を見つめる。ARFの影は、
まだない。流石にそこまでの迅速性を求めるのは、この街一番の組
織とはいえ酷な話か。
ウッドは周囲のことなど全く無視する形で立っていると、その一
部で何やら騒ぎが起こり始めた。そちらへ目を向けると、やんちゃ
そうな影がざわざわとこちらを指さしながら怒鳴りあっている。
﹁だからよ! 裏社会だか何だかわからないが、あいつは人を殺し
たんだろ!? だったら悪モンじゃねぇか! JVAだったらどう
にかいないといけねぇだろ!﹂
それは、中学生くらいの少年らだった。血気盛んだな、と遠い思
いでウッドはそれを眺める。すると、止める仲間を押しのけて、一
番背の高い少年が前に飛び出してきた。ウッドよりわずかに背が高
い。しかし、JVAとなると、彼は日本人という訳か。
﹁うぉぉぉぉおおおお! 死ねぇ、ウッドぉおおお!﹂
その瞳には熱き闘志が灯っていた。悪人であるとウッドは定めて、
成敗してやろうという意気込みがまっすぐに飛び込んでくる。その
時初めて、ウッドは襲い掛かられていることに気が付いた。
彼の手の前で炎が渦巻く。そういえば日本人と敵対するのは人生
初の経験だ。今までは聖神法こそ多数相手にはしたものの、魔法を
使う相手とやりあうなど一度もなかった。かつての異能よりもずっ
と速く強い攻撃手段。それはウッドと同一のものだ。
聖神法は、魔法をカバラによって変化させたものだった。そして、
そのどちらもやはりカバラの支配下にある。とするなら、それで魔
2065
法そのものを壊してしまおう。
方針を決め、前に出た。
アナグラムに干渉して、少年の魔法を散らした。﹁はっ?﹂と彼
は動揺し、つんのめる。日本人は幼少期から戦闘技術を護身のため
に叩き込まれるが、それでもウッドと比べれば、その経験値は格段
に足りないということだろう。
これが大人となるとどうなるのか。確かめねばなるまいと思いな
がら、ウッドは少年を正面から抱き留め、その首を奪った。
魔法ではない。修羅の特性。変化するその腕をもって、少年の首
を切り取ったのだ。
それを見て、誰もが黙りこくった。首を失い、血をふき出しなが
ら地面に崩れる死体。ウッドには見覚えがあった。イギリスの、殺
人騎士。ふと、思う。昔は、子供というだけでその罪を見逃してき
た。今は、やり終えてから気づくといった始末だ。
﹁しかし、彼は俺を殺そうとしたからな。仕方あるまい﹂
死体が血だまりに沈む水音。それは、どこか悲鳴に似ていた。だ
から、本物を呼んだのだろう。逃げるものがいた。反対に、こちら
に向かって来る者たちもいた。ちらと見る限り誰も彼もがJVAバ
ッチをつけている。実力のある大人たち。ならば、手加減は出来な
い。
彼らはカバラで調べる限り連携してウッドをつぶそうと考えてい
るらしかった。ふむ、と考える。多少惨たらしいが、手早く殲滅で
2066
きる手段を選んだ。本命は彼らではない。あくまでARFなのだ。
木魔法で作った﹃種﹄を、銃弾よろしく周囲にばらまいた。光魔
法を混合させたうえ、手から発射していないため、不可視の魔弾に
彼らは気づく様子もない。だから、全員が貫かれた。しかし、死な
育
ない者もちらほらいる。そういう手合いは、大抵、亜人との混血だ。
ウッドは、言葉を漏らす。
﹁今ので死んでいれば、まだマシだったろうに﹂
のだ。
種にしたのは、敵を確実に殺すため。木魔法は、養分もなく
つ
生き残った数人は体内で血管を伝って全身にめぐる植物に絶叫を
上げた。一人、また一人と、痛みによるショック死、血管の破裂、
枝葉による直接の脳の破壊によって絶命していく。
その全てを、ひとつずつ丁寧に確認した。例外なく死んでいるこ
とを確認してから、周囲を見た。ただの、一人もいない。
ウッドは、その様に少し可笑しくなる。駅から人影が消える様は、
酷く奇妙だった。明るい電燈、賑やかなネオンが輝く眠らない街か
ら、全く人が消えてしまう。
﹁矛盾した光景だ。我ながら、おあつらえ向きではないか﹂
クックと笑う。木の面も歪み、笑みを作った。建物のガラス越し
に、不気味な笑みの仮面を貼り付けた怪人の姿が見える。どうやら
仮面がゆがんでいるらしい。超常現象だ。
2067
ふと思い立って、最初の少年の頭を拾い上げた。次いで﹃修羅﹄
をしみ込ませる。死体だからなのか、抵抗は弱かった。命令を下し
てから宙に放り、落ちる頃には形を変えている。
赤黒い、刀。それは、木刀を模していた。もはや自分には使えな
くなった、桃の木の刀を。
回転しながら落ちてきたそれを掴み、軽く振るった。馴染む。だ
が、本物に比べるとまだまだ、という気がする。しかし、こちらに
は刃がついている。その分だけ、上等だろう。
その時だった。
﹁︱︱ウッド﹂
﹁うん? 随分と足が速い。お前は⋮⋮ウルフマンだな﹂
駅の屋上にしゃがんでこちらを見下ろしていたのは、しなやかな
る獣だった。カバラで、その戦闘能力を量る。見た目通りの、速度
特化型。攻撃を当てられれば倒せるが、ウッドの速さでは殺さずに
それを為すのは難しい。
﹁何故、ボスを攫った。お前は︱︱お前は、何を望んでいる﹂
低く、活力のある声で尋ねてくる。ウッドは仮面に笑みを湛えな
がら。﹁望み? 望み、か⋮⋮﹂と考え込む。
﹁俺は、二つほど欲しいものがあるのだ。一つは、死んでいないお
前ら。もう一つは︱︱言う必要もないな。まったく、我ながら代わ
2068
り映えの無い﹂
﹁お前は、何を言っている? 死んでない俺達? ⋮⋮ARFに、
人質は通じないぞ﹂
﹁そう言う事ではない。まったく、足に比べて頭の回転は随分と遅
いな。ん?﹂
頭を人差し指でトントンと叩き、挑発する。すると、訝しげな視
線で奴は言うのだ。
﹁聞いていた話と、人柄が違うな。お前は、到底ふざけようもない
人物だと聞いていたが﹂
﹁あの時と今は違う。あの時は感情を抑えていた。今は、⋮⋮何だ
ろうな?﹂
ウルフマンに指摘され、軽く答えた。﹁まぁ、そんな事はどうで
もいい﹂と自ら軽く流す。
﹁まだしばらくは応援も来ないようだし、まずはウルフマンから始
末してしまおう﹂
﹁なっ﹂
時、風、重力魔法。複合させたそれで、瞬時に肉薄にした。そし
て、火魔法で奴の体を覆い尽くす。しかし、寸前で奴は脱出してい
た。やはり、カバラで割り出した通り速い。
﹁クッ、会話をしようとしたのが間違いだった。あれだけの人間を
2069
殺している奴が、真面なわけがない﹂
﹁それを、お前が言うのか? ウルフマン。差別者を、一体何人殺
した﹂
﹁奴らは、人間じゃない。皮を被っただけの、豚だ﹂
﹁それを仲間の豚が聞いたら、奴は何を思うんだろうな﹂
﹁一応言っておくが、オレは豚じゃなく猪だ、ウッド﹂
振り向く。炎を纏った豪腕が唸る。避け、距離を取った。背後か
ら、数人の部下が現れる。前に言っていた、ピッグは一小隊そのも
のの名であるというのに偽りはないらしい。
﹁ふむ、ウルフマンほどではないが、かなりフットワークが軽い﹂
﹁遊撃と実動部隊で比べるんじゃねぇよ、クソ野郎が。姐さんをど
こにやりやがった。すぐに答えねぇなら、ぶち殺してから聞き出し
てやる﹂
﹁血の気が多いな。それに、前にあった時よりも口が悪い。そちら
が素か?﹂
﹁手前も、随分と意地の悪い話方しやがるじゃねぇか。あの堅苦し
い話し言葉は、演技って訳か﹂
﹁いいや。アレはアレで正しい俺の姿だよ。こちらが間違っている
とは、この口からはとても言えないが﹂
2070
﹁意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇぞ、クソが! ︱︱ウルフ
マン! 手伝ってくれ!﹂
﹁おう!﹂
ファイアー・ピッグは部下と共に包囲網を張り、ウルフマンは単
独でウッドに挑んでくる。その動きは目で追えないほどだ。カバラ、
刀ですべての攻撃を捌けるが、防戦一方になってしまう。
そこに、幾重の炎が迫った。﹁ハハッ﹂とウッドは笑う。ここま
で追い込まれたのは、一体いつぶりか。
楽しくなって、カバラで、滅茶苦茶に魔法の属性を組み合わせた。
何が起こるかも度外視して、手の平に浮かべる。
それは、鈍色の球だった。放つよりも、まず攻撃をこれで受けて
みようと考えた。ウルフマンの爪による斬撃に、翳す。何が起こる
かと期待し︱︱しかし、寸前で手を止めて、毛を逆立たせて猛スピ
ードで距離を取られてしまう。
﹁⋮⋮おい、興ざめな行動をとるなよ。折角適当に作ってみたのだ。
試しに受けてくれてもいいだろう﹂
﹁そ、それは何だ。お前のそれは、本当に魔法か?﹂
﹁魔法以外でこんな真似が出来るか﹂
放つ。物理魔術に空中を走るその球は、避けられ、誰にも当たる
ことなく地面に激突した。普通魔法は直撃時に効果を最も強く発す
るものだが、その魔法はそうではなかった。
2071
ただ、地面に穴が開いたばかりである。狭いが深く、黒い闇をは
らんだ穴が。
﹁⋮⋮おい、どういう事だ。地面を削る音が、途切れないぞ﹂
穴の近くに居たファイアー・ピッグの部下から、そんな声が漏れ
る。なるほど、とウッドは満足した。適当に作った割には、中々の
出来だ。
しかし、と考える。貫通し続ける魔法。使い勝手は良いが、捕え
なければならない幹部連中には控えねばならないのが面倒な部分だ。
何せ、これは十中八九殺してしまう。
﹁⋮⋮昔、似たような、もっと使い勝手の良い魔法があったはずな
のだが。一体何だったか﹂
﹁チッ。何余裕ぶってやがる、仮面野郎!﹂
猪突猛進とばかり、ファイアー・ピッグが突進してきた。炎を纏
ったそれは中々に驚異的ではあったが、真っ直ぐな分だけ対処しや
すい。奴は思慮深い奴ではなかったか、と訝りながら、ウッドは脳
裏に呪文を浮かべる。
その最中に、頭の中の羅列が途切れるような言葉が背後にかかっ
た。
﹁おじさん、気を惹いてくれてありがとねー!﹂﹁いただきまーす
!﹂
2072
﹁助かります、ピッグ﹂
振り向く。そこに、三人の影。首元に口を開けて食らいつく二人
の小さな少女と、側面から肉薄にし、大ぶりのナイフを翻す顔に巻
かれた包帯。とっさの事に、僅かに反応が遅れた。三方からの凶器。
だが、間に合う。
ヴァンパイア・シスターズと思われる二人の肩を同時に掴み、外
側に押しのけた。その過程でアイに魔法を放つ。火魔法。分かりや
すく脅威としての存在感を放つそれに、素早く彼女は飛び退いた。
最後に姉妹から距離を取れば、命の危険はなくなる。
﹁ああ、危なかった。しかし、声を出してくれなかったら危なかっ
たな。気付けないまま死んでいたかもしれない。あと少しで殺され
るところだった﹂
そう漏らすと、何故か笑えてきた。腹を抱えて、スリルに酔いし
れた。気分が高揚し、哄笑を上げる。
そこに、横殴りの衝撃が来た。殺気も何もない。ただ、体の軸を
捉えていた。
﹁が、ごふっ⋮⋮?﹂
体がくの字に折れ曲がる。低い声で、豚が笑った。
﹁なぁ、ウッド。一人、足りないと思わないか?﹂
言われて、ハウンドの不在に気付く。奴だけは現れていない。と
すればこれは、奴の狙撃か。
2073
﹁警察御用達の特殊銃じゃねぇが、一応対物ライフルの最先端だ。
ミニレールガンといってな。知っているか? 体の一部を切り離し
て戦う事もあるお前のために、特別に引っ張り出してきた。確実に
一発当てるために、二重のフェイク挟んでな﹂
知らないと答えたかったが、声は出せなかった。内臓が掻き回さ
れて、原型をとどめていない。人間が食らえば文字通り即死だ。か
なり丈夫な亜人でも、昏倒せざるを得ないだろう。
﹁⋮⋮五秒。これを食らって五秒間も立っていられるなら死なない
だろう。おい、こいつを回収するぞ。そろそろリッジウェイだのウ
サギだのがやってくる。奴らとの激突だけは避けた︱︱﹂
﹁案外、平気なものだな。人間とは、この程度で壊れてしまうほど
脆いのか。まったく信じられない思いだ﹂
撃ち込まれた弾丸を体内から素手で取出し、ウッドは言った。し
ん、と静寂が駅前に満ちる。虚しく響く繁華街の音楽が、静けさを
強調している。
﹁何だ何だ。俺が平気なのがそんなに不満か? 体を切り離して戦
うのだ。このくらいなら出来たって文句はないだろう?﹂
﹁⋮⋮誰ですか、あなたは。その嘲るような口調。以前会ったウッ
ドとは、とても、思えない﹂
アイから、困惑の声が上がる。それに、静かにウッドは頷いて、
ゆっくりと手を合わせた。ウッド以外の全員が唾を飲む。そして、
ウッドは言った。
2074
﹁それなら、俺は誰だと思う?﹂
仮面が歪み、人間の顔のようにケタケタと笑いだした。その気味
の悪さに誰も彼もが慄く中、ウッドは鷹揚に首を振る。
﹁いやはや、改めてお前らの実力を量りに来て正解だと思わされた。
ARF、お前たちは本当に一筋縄ではいかないな。このまま戦い続
けても、全員を殺さずに拉致するなど俺には到底無理な事だ﹂
﹁殺さずに拉致⋮⋮? ウッド、お前は何を言って﹂
﹁だからピッグ。今宵は帰らせてもらうよ﹂
風魔法、光、音魔法。風圧で奴らの瞼を塞ぎ、光と音魔法で姿を
消した。風が止み、奴らは﹁ウッドは何処だ!﹂と騒ぎ立てる。そ
の横を、悠々歩いて帰路についた。
﹁まったく、滑稽だな。これが大した力もなければ、からかいなが
ら全員連れ帰るという事も出来たのに。騙しやすいくせに命に係わ
るところで鋭い。うっかり殺してしまう事だけはなさそうなのが、
唯一の救いか﹂
人のいる場所に来て、魔法を保ちながら仮面を外した。光の屈折
を元に戻し、そのままニコニコと歩く。住宅街に入ると、再び人目
が無くなった。そして不意に、誰かが目の前に現れた。
周囲の街灯から、光が失われる。ウッドの目の前のそれだけが、
煌々と照っていた。周囲の闇とのコントラストに、何処かショーの
檀上めいたものが感じられる。
2075
そこから、進み来る幼い少女。嘲笑に歪む唇。毒気すらある美貌。
ウッドは、その正体を知っていた。
﹁久しぶり、ナイ。元気してた?﹂
﹁初めまして、ウッド。さぁ、お母さんの胸に飛び込んでおいで?﹂
うん? とウッドは首を傾げる。そこで立ち止まると、﹁全くも
う、照れ屋さんだなぁ﹂と彼女は片手をクンッ、と折り曲げた。見
えない力に引っ張られ、ナイに向かって倒れ込む。そこを、熱烈な
抱擁で受け止められた。
﹁ああ、こうして君を抱きしめる日をどんなに待ち望んでいたか、
君には分からないだろうね、ウッド。ボクの愛しい子。無貌の神を
殺す化け物⋮⋮﹂
頭をよじらせて、ナイの顔を見た。温かい笑み。だが、いつか彼
女が総一郎に愛を囁いた時とは、少し具合が違う。
﹁君は、一体何を言っているんだ⋮⋮?﹂
ウッドの言葉に、愛おしそうにナイはその頭を抱きしめて、頬ず
りしながら撫で続ける。
﹁ねえ、ウッド。総一郎君なら、ボクと再会した時、どんな反応を
したかな?﹂
﹁⋮⋮? どんなも何も、今再会したんじゃないか﹂
2076
﹁そうじゃないよ。どういう反応をするのが自然だったかなって、
聞いているんだよ﹂
優しく、教え諭すような声色だった。眉を顰める。そして、だん
だんと気づき始める。
﹁ナイ。君は、﹃総一郎﹄と﹃ウッド﹄を区別して話しているのか
?﹂
﹁だって、君はウッドでしょう? 総一郎君じゃないよ﹂
﹁なら、総一郎は何処に行ったというんだ﹂
﹁君が、一番よく知っているんじゃない? ウッド﹂
額にキスをされる。その瞬間、パッと瞬く様に記憶が去来した。
声が漏れる。唾を飲み下した。﹁そんな﹂と言った。
﹁そんな、何?﹂
﹁⋮⋮ナイ﹂
左手に、力を込める。始まりの右手ではなく、終わりの左手。そ
して、人の形でなくした。うねり、揺蕩い、歪によじれる﹃修羅﹄
の腕。それを、突きつけて問い詰める。
﹁君が、俺をこうしたのか﹂
﹁半分正解。でも、半分は違うよ。それに原因たる種を植え付けた
のも別の人。そしてウッド、君はもう既に、それらの犯人を知って
2077
いる。だから今、殺さないんだろう? 君の本質はもはや人にない。
殺したくなったら、君はもう殺すことを躊躇わないよ。むしろ進ん
で人を殺す。今はまだ大人しくっても、いずれそうなるはずさ。何
故って、それが﹃修羅﹄だから﹂
﹁俺は、違う。修羅じゃない﹂
﹁そうだね。自我は相変わらず総一郎君のままだ。けれど、自己は
違う。自分自身に見つめられる君は違うよ。君はもはやウッドで、
ボクの可愛い息子だ。親の背中を見て子供は育つんだよ。さっきの
ARF⋮⋮だっけ? あの戦いの中の君は、ボクそっくりだったね。
あの、ケタケタとよく笑う仮面。すごく良かったよ?﹂
頭を強く抱きしめられる。昔は、その事に何らかの感情を抱いた
のだ。信用していないときは拒絶感。ほだされて、愚かにも愛を感
じた。今は、ただ。
﹁違う、違う。俺は﹂
﹁別に、総一郎君の振りをする必要はないんだよ? 君は、君らし
くあれば良い。ボクは総一郎君が好きだったけれど、君に向ける愛
情とは別だから、真似をする必要なんてないんだ﹂
﹁⋮⋮俺らしく、あれば良い﹂
﹁そうだよ。だから、君はまず君自身の事を知らなきゃね﹂
愛情を注ぐように、キスや愛撫を続けるナイ。それと反比例する
ように、無感動になっていく。ウッドは、温かく包まれているとい
うのに、どんどんと感覚の冴えわたるような感覚を覚え始めていた。
2078
僅かに、口端が持ち上がる。
﹁ウッド、君は本質的に孤独だ。孤高ともいえる。孤高故に己以外
の全てが敵で、味方無き故に強さを求める。だから、君はもっとも
度し難いと感じた人々を模倣する。大体、ボクが六割ほどかな? 残りは、総一郎君のお父さんとか、他にも、色々だね﹂
﹁それで?﹂
﹁でもやっぱり、自我として、総一郎君のものを引き継いでもいる。
だから、君は特殊な願望があるだろう? 本来なら、﹃修羅﹄にあ
りえない願望が﹂
﹁⋮⋮なるほどな。大体わかった。ありがとうナイ。随分と理解が
深まった﹂
突き飛ばして立ち上がる。ナイは転ばされた事にきょとんと瞼を
瞬かせつつ、ウッドの表情を見て笑う。
︱︱馴染みある、嘲笑的な笑み。ウッドもまた、嗤いを返す。
﹁たったこれだけの助言で、随分と﹃らしい﹄顔つきになったじゃ
ないか﹂
﹁おかしいとは思っていた。それを明言され、自認した。もはや執
着する意味もないのだ。ならば、俺は俺のしたいようにする﹂
﹁あはは。それでこそウッド。ボクの愛息子だ﹂
﹁ああ、ナイ。感謝⋮⋮ではないな。報復として、お前の望みを叶
2079
えてやることにしたよ。もっとも、俺が一通りやる事をやってから
な﹂
﹁ありがとう、ウッド。ボクも総一郎君用にいろいろ準備してきた
けど、無駄にはならないという事だね。じゃあ、気長に待つとする
よ。でも、気が向いたらちょっかい出していいんだよね?﹂
﹁もちろんだ。お前はお前の好きにしろ﹂
ナイは立ち上がり、周囲の暗がりも消えていた電燈に照らされて
消えて行った。ウッドが家に向かって歩き出すと、彼女もそれに追
従する。
歩きながら、﹁ナイ﹂と名を呼んだ。
﹁総一郎は、死んだのだな。殺され、骸さえ晒せずに消えた﹂
﹁そうだね。殺したのがボクでないというのが、甚だ残念な事では
あるけれど﹂
二人は、語りながら嗤い合う。怖れを振りまくその足取りは、す
ぐに闇に溶けていった。
2080
4話 ﹃おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?﹄Ⅲ
ニュースで、ウッドが起こした事件が喧伝されていた。何人もの
JVAを、魔法により虐殺した、と。
足音が聞こえたから、ニュースを消した。それから、カーテンを
開け始める。射し込んでくる、朝日。欠伸混じりの図書が下りてき
て、﹁ん﹂と手を上げる。
﹁おはよう、図書にぃ。良い朝だね﹂
﹁はいはいグッドモーニング。いつもお前は朝が早いな。みんなを
起こしてきてくれるか?﹂
﹁白ねぇも?﹂
﹁それが出来りゃあ俺の悩みの種が失せる﹂
からからと、青年は笑う。それが、何処かウッドには眩しい。
しばらくして、朝食を、ブラック・ウィングを除く家族で食べて
いた。最近では珍しく、図書の機嫌がよかった。何故かと問えば、
﹁総一郎が平気そうだから﹂と返された。
﹁白羽が帰ってきてから、お前ら大分沈み気味だったろ? それが、
今日になったら総一郎が平然としてたもんだからな。お前らもしか
してアレか。姉弟喧嘩の決着ついたか﹂
2081
﹁ううん、生憎と。今は、アレだよ。冷戦っていうか﹂
﹁核戦争起こすよりゃマシだろ。しかし、そっか。並んで食卓囲う
日はまだ遠いか⋮⋮﹂
﹁残念ながら。期待しないで気長に待っててよ﹂
﹁いや期待はするだろ。気長には頷いてやっけど決裂して終わりと
かマジ止めろよ?﹂
﹁期待しないで﹂
﹁おい﹂
その言葉を冗談と受け取ったのか、図書はウッドの頭をガシガシ
と撫でた。ぽつりと考える。この手を素早くとって、指先を触手に
変え、撫でる兄貴分の掌から体内に入り込み、体を掻き混ぜたらど
うなるのだろうと。
﹁⋮⋮ミンチかな⋮⋮﹂
﹁ん? 何だよ総一郎。今日の夕飯はハンバーグがいいって?﹂
﹁よく分かったね図書にぃ。よろしく頼むよ?﹂
﹁いや、給料日前の現在般若家で、そんな豪華なものは出せん﹂
﹁何だとッ﹂
その瞬間、清が驚愕に叫んだ。流れるように、ウッドはそれを種
2082
にして反論に入る。
﹁ほら、見てよこの無垢な表情を。話の流れ的に絶対好物にありつ
けると考えていた清ちゃんが、思わぬ裏切りにあって驚いたこの顔
を。どうしてくれんの? ねぇ、どうしてくれんの?﹂
﹁今日の総一郎なんかテンション高くて厄介だな!﹂
叫ばれて、アハハと笑った。テンションが高いのではない。ウッ
ドの内面構築が終わって、感情のブレが起こらなくなっただけだ。
﹁全く、あんまり図書くんを困らせたらだめだよ、ウッド﹂
﹁そうだそうだ。ナイちゃんからも言ってくれ﹂
﹁なんの! こっちだって伝家の宝刀、清ちゃんの泣く寸前顔で対
抗だ!﹂
﹁⋮⋮今日、ハンバーグじゃないのか?﹂
﹁ぐっはぁ!﹂
﹁やった! 図書にぃを倒した!﹂
﹁ぐぅう⋮⋮、流石ウッド。新参者のボクより、ずっと家族の人間
関係を把握している⋮⋮﹂
悔しそうな顔で呻くナイ。数日前、般若兄妹の認識を狂わせ、何
食わぬ顔でこの家に居つくようになった。この事を、ブラック・ウ
ィングはまだ知らない。彼女が真実を知った時に見せる表情が楽し
2083
みで、ナイはこんな事をしているのだろう。
﹁ん。そんなこんなでもう行く時間だ。さてと、着替えをしてから
登校しますか﹂
﹁は? うわ、結構時間経ってら畜生。清、早くトースト詰め込ん
で着替えろ﹂
﹁う、うん。わぐ、わぐもがむぐぐ﹂
小さな口には少し荷が重かったパンを詰め込む少女を横目で見つ
つ、階上に向かい外着に着替えた。おし、登校だ。と階段を下りる
前に、﹃しらはの部屋﹄を開ける。
﹁起きてるか﹂
﹁⋮⋮﹂
寝ている訳ではないのは、すぐに分かった。だから、これは無視
だ。気にせず、声をかける。
﹁先日接触したARF幹部全員の情報が出揃いつつある。お前に会
わせ︱︱﹃助けてやれる﹄日は、あまり遠くないぞ﹂
その言葉を使うと、彼女は必ず反応した。
﹁その、意味の分からない言葉を使うのを、止めて。助けるってい
うなら、私を開放してよ﹂
﹁そんな事はしない。だが、﹃助ける﹄さ﹂
2084
反論が返ってくるのは分かっている。だから聞く前に扉を閉めて、
そのまま駆け下りた。幸いにして、彼女の声は届かない。
家を出て、少し歩くと、仙文に出会った。最近、良く登校中に会
う。そして、いつもこの言葉から始まるのだ。
﹁今日はJ、来てると良いネ﹂
﹁うん、そうだね﹂
彼は、ここしばらく欠席続きだと聞いていた。理由は、はっきり
しない。具合が悪いのだろうかと考え、見舞いにでもと案を上げた
が、そもそもJの家を知らなかった。
彼をよく知る人物と考えて、ヴィーや愛見を思い浮かべたが、ど
ちらも上手く捕まらない。そうなると手の打ちようもなく、ただ日
々が過ぎるばかりだった。
それでもいつもの場所に行き、ひとまず授業が始まるまでは駄弁
っている。その所為で仙文との仲が親友を飛び越し掛けつつあるが、
ウッドはウッドなので多分自然にブレーキはかかるだろう。問題は
ない。
﹁それでネ、イッちゃん!﹂
﹁うんうん。へぇ、そうなんだ﹂
﹁おい、あの二人見て見ろよ。今にもキスしそうな距離だぜ。こん
な朝っぱらからいちゃつきやがって﹂
2085
﹁知らないのか? あの女っぽい方男だぞ?﹂
﹁つまんねぇ冗談だな。男の方が女だってんなら笑ってやるよ﹂
﹁⋮⋮だよなぁ。やっぱあの娘、女だよな。マブイぜ⋮⋮﹂
前言撤回。問題があるのに間違いはないのだが、何が問題だかわ
からない。
そんな風に時間をつぶすものの、いつもJが来る前に授業のチャ
イムが鳴る。そうなるとまず会話が中断されたことに互いに肩を竦
め、そして今日も来なかった事に溜め息を吐く羽目になる。
そうして、仙文と別れた。今日は、このままランチタイムまで会
う事はないだろう。いつもなら半日はJと一緒で居られるのだが、
今日は仙文と同じく、ほぼ一日孤独という訳だ。
﹁︱︱寂しい。寂しい? ⋮⋮ああ、ナイが言ったのはこういう事
か﹂
ニコニコと笑いながら、呟いた。喪失感、にも似た何か。否、失
ったのは自分ではない。何もかもを失くし、奪われたのは彼だ。
そう思っていた時、不意に見覚えのある黒肌の長身を見かけた。
﹁おっ、Jじゃないか!﹂
﹁んっ、アレ。イッちゃん﹂
2086
きょとんとした様子の数日顔を見せなかった親友に近づき、軽く
一撃入れた。﹁痛ってーな﹂と言うが、顔は笑っている。
﹁しばらく姿見せなかったけど、どうしたのさ。こっちは仙文と一
緒に心配してたんだぞ﹂
﹁へぇ? イッちゃんがおれの心配? ちょっと信じられないな﹂
﹁⋮⋮そう思われるくらい冷たく接してたのか、俺。何かゴメン﹂
﹁ああいや! 冗談だって。ありがとな、イッちゃん﹂
高い背丈の彼は、言いながらもたれるようにウッドと肩を組んだ。
そのまま、言う。
﹁ちょっと婆ちゃんの調子が悪くってな。それと色々ごたついてて、
顔出せなかったんだよ。悪いな﹂
﹁いいよ。心配してただけだから、そんなに謝らなくてもさ﹂
そんな事より、授業に向かわないと、と急かす。﹁そうだな、早
く行こう﹂と賛同を示す、逞しい親友。だが、そこに警戒はなく、
無防備だ。そう思うと、いつもの思考実験が始まる。人間の皮を破
ったなら、という妄想。
ウッドは、少し考える。この首に致命打を与えることは簡単な事
だと。そして、その果てに何か待つのかを︱︱。
その時、少し予想外な事が起こった。
2087
Jが、あまりに俊敏な動きでウッドから飛び退った。人間にでき
る動きではなかった。彼は鋭い目でウッドを睨み付ける。しかしそ
の行動は、彼自身にとっても意外な事であったらしい。
﹁え、あ、⋮⋮え?﹂
きょとんとして、Jは言った。互いに走った緊張は一瞬薄れ、そ
して相互に理解の色が強まるにつれて、再び張りつめ始める。
ウッドは、静かに彼を観察した。Jは警戒時に牙をむき出しにし
た。牙である。人間には無い、猛獣のそれだ。そして俊敏な動き。
最後に、ウッドに視認を許さない実力の持ち主と言えば、自ずと絞
られた。
﹁⋮⋮アナグラムで、ある程度は分かっていた。だが、正体だけは
全員が巧妙に隠していて、カバラで解き切るのは骨だった。︱︱渡
りに船とは、この事だな。ウルフマン﹂
﹁そ、そんな、イッちゃん。お前︱︱ウッド、だったのか?﹂
﹁ブラック・ウィングにしてもそうだったが、何故それに気が付か
ないのかが分からない。出現時期にしても、ボスの弟であるという
注目度にしても、気付かない要因の方が少なかった﹂
﹁それは、マナさんが﹂
﹁マナさん? あの人もARFに係わりが︱︱﹂
言葉を続けようとした最中、突如周囲に人が居ない事に気が付い
た。授業前だから当然と言えたが、そこに不可解さを覚えたのはウ
2088
ッドの野性的な勘と言う他ない。
彼女は、常に背後の闇から襲い来た。
﹁東雲愛見は私です、ウッド﹂
振り返る。刃と手の平の中央で見開かれた瞳が印象的だった。振
るわれる。それを、今は甘んじて受けた。
腹部に突き刺さる。痛がる真似をする。そのまま無難な抵抗をし、
力を利用されて地面に押さえつけられた。柔道に似た体術だと、ウ
ッドは評する。体を人間の形に保っている限りは、この地面を舐め
させられる拘束を抜けるのは難しいだろう。
﹁アイ⋮⋮、か﹂
﹁流石に、毒が塗られていれば効くのですね。︱︱あなたと共に、
遠目にウッドを目撃した。だから報告し疑いが晴れたのです。しか
し、事実は違った。どういう絡繰りです?﹂
﹁アレは、俺だけが見た幻影ではなかったのか﹂
﹁⋮⋮?﹂
戻った
のかと
﹁生憎と、アレは俺の意思から離れた存在だ。駆けつけて問い詰め
たが、仮面を返すとともに影も形もなくなった。
考えているが、実際は分からな⋮⋮い⋮⋮﹂
僅かに話しにくい。呂律が回らないというような感覚。そうか、
アイの言う毒が回ったのだと思った。毒魔法の中和で体の内部をか
2089
き回す。だが、一応まだ油断させておこう。
﹁そうですか。ちなみにですが、この毒は魔法対策に強い酩酊状態
を引き起こす効果があります。即効性は十分。普通なら酩酊と言わ
ず昏倒させられるのですが⋮⋮本当、人間離れしていますね﹂
﹁⋮⋮﹂
ウッドは答えない。答えられない振りをしているとも言えた。ア
イはナイフを抜き取り立ち上がる。その瞳には包帯は巻かれていな
いが、代わりに眼鏡もなく、瞼も瞑られていた。
﹁ではJくん、ひとまず、早いところ逃げましょう。今のウッドを
どうこうする攻撃力を、私たちは持っていませんから﹂
﹁逃げ⋮⋮? え、でも﹂
﹁早くッ! 今は情報を無事に持ち帰ればそれだけで勝利です!﹂
アイは素早くそこから駆け出し、ウルフマンはそれを追って、ア
イを抱きかかえた。見る見るうちに遠ざかっていく二人。ウッドは
瞠目し彼らに目を向けると、アイの手の目が鋭くウッドを見つめて
いた。疑問に思う。︱︱何故、バレた?
﹁⋮⋮くっ、ふふ、ふはははは! そのくらいでなくては、面白く
ない!﹂
立ち上がる。そして、全力で追いかけ始めた。重力魔法、風魔法、
それらを物理魔術で支える。いつもの飛行術式と同じだ。
2090
﹁今は人がいません! キャンパス内で逃げ回ったほうが攪乱でき
ます! ウッドの飛行は開けていないと十全には発揮されません!﹂
﹁分かった! このまま走り続けるぞ!﹂
怒号。微かに捉えかけた影が、声と同時にかき消えていく。ウッ
ドは、笑いながらその思慮の深さに舌を巻いていた。自分でも気が
付かなかったような欠点。追われる側であり続けていたから、追う
側としての欠点を知らなかった。
二人は曲がり角を多く巡って、文字通りウッドを攪乱した。風魔
法の索敵も、同じ風魔法で打ち消しているのか見つからない。ただ、
僅かに声らしきものと駆け足の音が聞こえるばかりだ。
﹁⋮⋮奴らは、﹃強い﹄な﹂
この行動の無為を感じて、ウッドは立ち止まる。そのままスタス
タと、普通の歩調で学校を出た。そして、上空に飛び上がる。
そして展開するはカバラだ。魔法はアイの手によって打ち消され
てしまう。ならば、奴らの知らない技術で捕捉する。猛スピードで
駆け抜けるものがあれば、注意深く計算する必要などないのだ。
それから、数分待った。焦れたが、それだけだ。すでに抜け出し
ているのではという不安はない。ちょっとした計算が必要だったが、
直接対面したARFなどという超烈なアナグラムの持ち主たちの存
在の有無が分からない訳がなかった。
﹁⋮⋮見つけた﹂
2091
アナグラムの大きな変動。そこに向けて、氷、金属魔法で矢を放
った。固形物系の魔法はあまり親和性を持っていないが、カバラに
従うならこれ以外の手がない。
遠くの悲鳴と共に、敵の隠密が破れた。闇、音、そして風魔法。
光を使うウッドとは真反対だ。こんな昼間なら光のほうが使いやす
いだろうに、と思いながら、物理魔術で肉薄する。
﹁鬼ごっこはもう終わりか?﹂
腕を大きく変容させ、巨大な鉤爪にして振るった。ウルフマンの
爪がそれを防ぐ。ウッドのそれは容易くへし折れ、バラバラになっ
た。ウルフマンは既に戦闘にハイになっているのか、先ほどまでの
気落ちを見せず、勝ち誇ったように言い返す。
﹁追いつかれたのには度肝を抜いたが、攻撃自体は脆いな!﹂
﹁ウルフマン! ウッドは遊んでいるのです! 余計な口を叩かず
に逃げなさい!﹂
﹁ふむ。やはりアイは鋭すぎて面倒だな。興が削がれてしまうよ、
そんなことでは﹂
砕け散った肉片の一部が、アイめがけて針を伸ばした。ウッドの
肉片攻撃は、巨大な物体を模して叩きつけるよりも、断然針を伸ば
したほうが効率的だ。だが、前者を使わないという訳でない。つま
りは、フェイクなのだ。
それに引っかかって、ウルフマンは咄嗟にアイを抱きしめてその
身を守る。針が毛むくじゃらの巨躯に突き刺さったが、すぐに腕力
2092
でへし折って逃げ出した。﹁はは﹂と笑う。
﹁いいのかな? 開けた場所で俺から逃げることの無謀を説いたの
は、他ならぬアイだぞ?﹂
﹁知るかそんなこと! それでも止まれる訳があるか!﹂
﹁悲しいな、ウルフマン。もう俺のことをイッちゃんとは呼んでく
れないのか﹂
その言葉に答える者はいない。すでに奴らはもう百メートル前後
も離れていて、聞こえなかったのだろう。ウッドはため息とともに
首を振って、やはり、仮面で笑う。
﹁では、鬼ごっこの続きと行こうか﹂
飛んだ。意識して、改めて感じる。確かに、広いと飛びやすく、
追いやすい。
﹁だが、それでもウルフマンの方が速いな。何だ、奴は。時速二百
くらいあるんじゃないか?﹂
愚痴る。地面を、つまりは建物の屋上という進みにくい場所を走
っているのに、なお空中を飛ぶウッドより速い。亜人相手の本気の
戦いをあまり経験せずに来たが、やる奴はここまでの身体能力を見
せるのか。
﹁これは、まだ見ぬ吸血鬼が楽しみだな。狼男でこれなら、どれほ
どの種族魔法を見せてくれることか﹂
2093
笑いながら、腕を差し向ける。変形させ、魔法で固形火薬を作り
出し、体内に詰め込んだ。そして、衝撃、物理魔術での後押し。
二の腕の中ほどで破裂して、強烈な勢いで拳が飛んでいく。俗に
いうロケットパンチといった趣だが、これ自体が当たらずともよか
った。
腕は、さすが火薬ともいうべきか、ウルフマンを超す速度で空中
を走り、奴の眼前に投げ出された。もちろん、当たらない。ウルフ
マンはアイを抱えたまま、容易にそれを避け︱︱
﹁︱︱そして、爆ぜるのだ﹂
炸裂。ハリセンボンのように全方位隙間なく針を伸ばし、ウルフ
マンを貫いて絡めとった。動きが止まる。さぁ、最後の仕上げだ。
数秒遅れて降り立つ。もはや十メートルの距離もない。左手をか
ざし、脳内で詠唱し始める。これで、まず二人。
だが、抵抗があった。
ふっと、動けなくなったウルフマンから離れる一つの影をウッド
は捉えた。次いで、風鳴りの音。二つの剣閃によって、針の牢獄が
壊される。多くの傷穴から血を流して倒れこむウルフマン。しかし、
個々の出血は微量だ。今は無理でも、すぐに回復する。
だから、もう一度拳を放とうとしたのだ。しかし、抜け出したア
イのナイフが迫った。昨日首で作った剣で応じる。あまりに固い手
ごたえ。
2094
﹁お前は、本当に度し難い奴だ﹂
﹁それは、私のセリフです﹂
目をつむって、左手の中央の瞳をこちらに向けながら、右手の大
ぶりのナイフを逆手に持って縦横無尽に振るってくる。その一撃一
撃が到底女のものとは思えないほど重い。ウッドが押し負けるとい
うことがなくとも、剣が先に砕けるのではないかと疑う。
この近距離はいけない。剣戟の中、直感した。昔の、魔法に全く
頼らずにいた頃なら、むしろこの状況こそが本領だっただろう。だ
が、今は違う。似せはしたものの、木刀とこの剣とでは雲泥の差が
あった。
﹁どうしました? 随分と弱腰ではないですか﹂
﹁慣れていないんで、ねっ⋮⋮! 魔法で中距離以上離れていない
と弱いんだ﹂
﹁それはおかしいですね。ボスからは弟さんは剣の名手だと聞きま
したが﹂
﹁それ、はっ! 父の事っ、だろう⋮⋮!﹂
防戦一方だ。こんなにも自分は弱かったかと訝る。アイが風魔法
で自らの一撃を鋭く、重くしているのは既に見抜いていた。木刀で
ないのだから同じ芸当ができるはず。けれど、間に合わない。
その最中で、大きく弾き飛ばされた。すると奴は瞳のついた左手
を突き出す。
2095
﹁これで、終わりです﹂
魔法による超火力攻撃。それを危惧して、とっさに魔法で保護障
壁を張った。ここでのウッドのミスは、カバラによってアイの意図
を探らなかったこと。だから闇魔法によって視界を奪われたとき、
呆然となって何も出来なかった。
世界が塗りつぶされる。天使の目を持っていた総一郎には、あり
えなかったことだった。だからこそウッドは困惑した。意図せず何
も見えないという人生初の経験に惑わされ、光魔法での打消しに思
考が向くまで十数秒を要した。
﹁︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱!﹂
魔法を口にして詠唱するなど、本来ならば愚の骨頂だ。それほど、
ウッドの内心は追い詰められていた。そして開かれる視界の中、ウ
ッドは悟る。
﹁⋮⋮アイは、どこまでも逃げるという事に拘ったのだな﹂
アイは勿論、ウルフマンもそこには居ない。ただただ曇り空が天
を覆っていて、今日は雪が降るかもしれないと思った。嘆息。しか
し、少ししてウッドは肩をすくめて笑うのだ。
﹁まぁ、いい。それならそれで対処するだけだ。それに、収穫がな
かったわけではない。余興の準備はすでに整っているのだから﹂
くつくつと、ウッドはくぐもった笑いを漏らす。そして、家に足
を向けた。まずは、夜逃げならぬ昼逃げと行こうか。
2096
4話 ﹃おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?﹄Ⅳ
その団体の先頭を歩くのは、とてつもない大男だった。
彼は部下を連れ立って、とある民家の前に立った。誰も彼も大柄
だが、先頭の男とは比べるべくもない。大男はその民家のドアノブ
を握って、思い切り、引く。
その怪力は、合金製のドアを歪ませた。それを何度か試すと、大
きな音を立てないまま玄関の扉はへし折れ、不審者たちに内部への
口を開いた。
﹁突入。ウッドらしき人物がいたら撃て。どうせ死なん。他は、丁
重に扱え。姐さんか、その家族だ﹂
﹁了解しました、頭。おらお前ら! 根性見せるぞ!﹂
﹃応!﹄
大男の部下たちが大型のショットガン片手にぞろぞろと家に入っ
ていく。その様に大男︱︱ファイアー・ピッグの化身は、﹁大声出
すんじゃねぇってのに⋮⋮﹂としかめっ面をして中に入った。
家の中に入ると、たった一人だけが、リビングで本を読んでいた。
青年である。断りもなく入ってきた大柄な男たちに対して、あまり
驚いたところを見せずに視線をやっている。
﹁⋮⋮ファイアー・ピッグか? アンタ﹂
2097
青年は、大男を見てそう言った。ピッグは、人間の鼻をふんと鳴
らす。
﹁動じる様子がないな。知っていたのか?﹂
﹁知っていたも何も⋮⋮、白羽から雑談でいろいろ聞いてるからな。
部下を積極的に使うのはファイアー・ピッグであるヒルディスさん
だけだって。総一郎が眠った白羽担いで出て行ったあたりで誰かし
ら来るのは察してたよ。総一郎の部屋は二階の一番奥だ。それ以外
はあまり荒らしてくれるな?﹂
﹁匿っているのか?﹂
﹁馬鹿言うな。昨日、大勢を殺したって聞いて、頭冷やして来いっ
て家から追い出したところだ。ったく、あのバカ野郎は。殴ってや
りたがったが、今殴ったところでどうも思わねぇって分かると、気
力も失せるよなぁ⋮⋮﹂
近くに置いてあった瓶を、コップに傾ける。こんな時間から酒か、
とピッグは眉をひそめた。
﹁ちっちぇ頃から知ってる可愛い弟分、妹分がそろって非行に走っ
ちまったんだ。やけ酒くらい寛容に許してくれよ﹂
ピッグは、その言葉に驚いた。表情を、そこまで激しく出したつ
もりはなかったのだ。だがそれを読み切った上で、ここまで飄々と
していられる。気づけば、声をかけていた。
﹁青年。お前が、ズショか?﹂
2098
﹁⋮⋮白羽から聞いたのか﹂
﹁日本でもなかなか優秀な人材だと聞いた。だが倫理観、死生観が
独特なうえ揺るぎようがないから、仲間には引き込めないとも。し
かし、今は違う。姐さん︱︱シラハさんはウッドに誘拐された。青
年なら、何か知っているのではないのか? 今回の騒動に、協力し
てはくれまいか﹂
ピッグの、外向きの丁寧な言葉遣い。だが、届かなかった。
﹁嫌だよ。白羽は総一郎の姉だ。弟が姉を連れてっただけのことに、
ただの保護者気取りが手を出すつもりはねぇよ。だが、総一郎の部
屋から何か見つかるのを期待するなら自由だ。何か俺の部屋から嫌
な破壊音が聞こえる気がすっからさ、それを止めてあいつの部屋だ
けに絞ってくれよ。俺一応研究職だから、やられるとやばいデータ
とか結構あるんだ。つっても、NCRが完成した時点でガッポガポ
だからしばらくは遊んで暮らせるんだが﹂
﹁⋮⋮﹂
ピッグは、白羽の言う﹃独特の倫理感﹄というものを目の前にし
て黙り込んだ。確かに、これは引き込めそうにない。目を直接見つ
めたが、彼がこのことに関して嘘を言うとは到底思えなかった。
﹁⋮⋮おい、お前ら! ウッドの部屋は二階の奥だ! そこ以外に
手を出すな!﹂
階段をのぼりながら、部下に向かったそのように怒鳴った。する
と、背後で欠伸とぼやきが聞こえてくる。
2099
﹁今日の清の授業が六限まであってよかったぜ。こんな大声前にし
たらさすがにあいつも泣いちまう﹂
そう言って、一人で笑うズショという人物に、ピッグは形容しが
たい底知れなさを感じた。
懐かしい、夢を見ていた。ARFが、ARFでなかったころの時
代。白羽が勝手気ままに何でも屋を営み、それを愛見が支えてくれ
ていた頃の事。
何でも屋といっても、部活のようなものだった。空き家があると
聞いて、止める愛見の言葉を振り切ってスラム街に足を踏み出した。
そして見つけた空き家を改造して、ついでに寄ってきた浮浪者だの
ギャングだのを死なない程度に成敗して、﹃何でも屋! 相談タダ
で受け付けます!﹄と看板を掛けて完成した、白羽にとっての秘密
基地のような場所。
亜人差別はその頃から酷くって、友人が一人、目の前で警察に射
殺されたのがきっかけで、そういうことをやりだそうと考えたのだ。
何の脈絡もなかった。彼女の死に理由を見つけるのは不可能だった。
他人に憎しみを覚えたのも、この時が人生初だ。しかし、親しい人
が殺されたのは初めてではない。
日本にいたとき、母を殺された。あの時は、憎しみを抱く余裕す
らもなかった。それを考えれば、まだ自分も成長したのだと思える。
2100
白羽はそのときすでに髪が白かったが、羽は興奮しない限り勝手
に広がることもなく、つまりは服を着ている限り人間にしか見えな
かった。愛見も同じだ。手を開いて力を籠めねば、手の目の瞳は現
れない。だから、命をつないだ。殺された一人はそうでなかった。
隠すには大きすぎる尻尾を持っていた。
そんな小さな違いが生死を分けた。そのことに、白羽は、行動し
なければと思ったのだ。何をすればいいのかもわからない。何がし
たいのかもわからない。ただ、黙っていられなかった。
何でも屋では、多くの人を助けた。その所為で、だいぶ人に名を
知られたが、別に困ることではなかった。よくよく思えば、あの何
でも屋時代のやんちゃで、白羽に付いてくるという人が出てきてく
れたのだと思う。無料を謳ったのに、結局代金はしっかり受け取っ
てしまったという事だ。
何でも屋時代に出会った人。夢は、まさにその初対面の時の記憶
だった。半分夢にのめりこみながら、もう半分では懐かしがってい
る自分がいた。
ドアを開けて現れた人物。それはピッグであり、その奥から恭し
くピッグに迎え入れられたのは、今ではARFの幹部の一人である
ウルフマンこと︱︱幼き日のジェイコブ・ベイリーだった。
ふいに、瞼が開いた。いつの間にか眠っていたのだと、その時に
なってはじめて気づく。﹁ん⋮⋮﹂とけだるげに起き上がり、伸び
をした。その時に、違和感を覚えて視線を周囲に巡らせる。
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そこは、整然と家具の並べられた部屋だった。造り自体は白羽の
それと同じだ。だが、模倣だった。家具それぞれに込められた思い
出の痕跡というものがまるで感じられない。例えば、部屋端のクロ
ーゼットなど、図書をいたずらで転ばせた時に作ってしまった疵が
存在していなかった。
﹁⋮⋮何処、ここ? 気味が悪い⋮⋮﹂
立ち上がる。その最中で、目を剥いた。足を見る。鎖がない。
﹁どういう、事?﹂
半ば恐怖に駆られて、白羽は部屋を出た。すると、廊下でなく、
図書のリビングにも似た雰囲気のある部屋に出る。本物に比べると
だいぶ小さい。いや、白羽の部屋とはちがって、この部屋自体は模
倣されていないのか。
﹁⋮⋮ウッド、ウッド! どこにいるの! 説明してよ!﹂
十中八九自分をここに連れてきた犯人の名を呼ぶ。だが、この場
には居ないようだった。しばらく奴を探して部屋を探し回るが、一
向に見つからない。その途中で玄関の扉を押したが、開かなかった。
流石にそこまでの不用心はしないという事か。
﹁まったく、あの人は本当勝手! 何でこう、ああ、もう、ムカつ
く!﹂
その場で地団太を踏む。どしんどしんと音が立つ。階下から何か
反応がないかとも少し期待したが、特に何もなかった。もしかした
ら住んでいないのかもしれない。あるいは、ウッドがそういう部屋
2102
を選んだのか。
﹁流石に居を移したんだから説明してくれるでしょ。⋮⋮そこら辺
の一般人を殺したあの事件とは違って﹂
付け加えるように言った言葉に、自分で落ち込んだ。ため息を吐
いて適当な椅子に腰かける。そのままぐったり、背もたれに寄りか
かった。
﹁⋮⋮総ちゃん⋮⋮﹂
つぶやいて、下唇をかむ。そしてウッドを思い出し、怒りによっ
て湧きかけた弱い心をかき消した。﹁あんにゃろー!﹂と無為に叫
ぶ。そしてまた、ぐたっとする。
﹁⋮⋮私、最近運動全くできてないなぁ⋮⋮。骨粗しょう症とか大
丈夫かな。そういう問題じゃないかな﹂
調べたくとも生憎とパソコンの許可が下りていなかった。許可、
というのはつまり、洗脳である。いまだに指を組めないのと同じ仕
組みだ。忌避感、である。
仕方ないと、むんと起き上がる。その時、首を傾げた。先ほどま
でに気づかなかった扉を、正面に見つける。
﹁⋮⋮怪しい。とても怪しい。という事は﹂
躊躇わず、その扉に近寄り、開けた。どうせ奴の仕業である。す
ぐさま身の危険はないが、何やら面倒なことを言われるに違いない。
そうと分かっていても開けてしまうのは、それが真実だからだ。真
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実を知らねば、戦えない。
開けた先にあったのは、真っ白な部屋だった。床のフローリング
を除いて、壁も、天井も、ただただ白い。その部屋の中央を曲線に
林立する、五枚の絵。描き掛けであるだけが特徴の、ただのキャン
バスだ。
問題は、その絵の内容だった。
﹁⋮⋮みんな⋮⋮?﹂
気づいて、飛びついた。ウルフマン、アイ、ファイアー・ピッグ、
ハウンド、ヴァンパイア・シスターズ。それぞれの姿が、巧妙な絵
で再現されている。そこまでは、いい。だが、そこに付け足される
奇妙な線があった。
﹁⋮⋮首、に⋮⋮﹂
ウルフマンの首。そこに、横一本に線が描かれていた。連想する
は、斬首。何故、こんなものが、と後ずさる。
﹁それはね、ウッドが描く予定の絵なんだよ﹂
背後からの声に、振り向いた。小さな体躯。娼婦のように妖艶な
笑み。息をのむほどの美貌。幼き毒婦。そんな存在を体現した少女
が、部屋の入り口に立っている。
﹁⋮⋮また来たの? ナイアルラトテップ﹂
﹁いちいち面倒な呼び方をしてくれるなぁ。ナイ、でいいじゃない。
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最初にそう名乗ったでしょ?﹂
﹁余計なことはいいの。どういう事か、答えて﹂
﹁つれないなぁ。総一郎君はボクに心を許して、キスまでしてくれ
た事だってあったのに﹂
怒鳴りそうになった。だが、堪えた。そんな事をしても、奴を喜
ばすだけだ。ナイアルラトテップ。無貌の神。トリックスター。こ
の宇宙で最も、性格の悪い存在。
睨み付けていると、﹁ま、いいさ。白羽ちゃんがボクに当たりが
強いのは昔からだもんね。許してあげるよ。昔からのよしみで﹂と、
にこやかに笑うのだ。腹立たしさに震える。それを見て、奴は今に
も笑い出しそうにしている。
﹁ウッドはね、今日の昼前、ARFの正体を知ると共に知られたん
だよ。ジェイコブ君に、愛見ちゃん。だから、ここに逃げ込んだ。
この部屋はカバリストが用意したものでね。特に君の部屋なんかは、
図書君の家のものと全く一緒なんじゃないかな?﹂
﹁全く、ってほどではないよ。別物と気づく程度に新品だった。⋮
⋮けど、そう。カバリスト、ね。存在は知ってたけど、初めて関わ
ったよ﹂
カバラは、神の技術だ。現在では数秘術として実用的に使われる
ことが多いと聞くが、もともとは魂の位を上げて、上位存在に自ら
を消化させていく修行法である。天使である白羽は、つまるところ
上位カバリストと言ったところか。
2105
﹁それで、この趣味の悪い絵は?﹂
﹁総一郎君が、一時期芸術にハマったのは話したよね?﹂
﹁あなたが白と黒の絵の具をこっそり取り換えて、悪魔の絵をかか
せたとかいうあれ? あの、くだらないお遊び﹂
﹁でも、結局真実になったじゃないか。堕天使ってのは、つまりは
悪魔だしね。総一郎君は白羽ちゃんを美しい天使として描こうとし、
おぞましい悪魔を描いてしまった。アメリカに来てからの君そのも
のじゃないか! 天使であろうとして、悪魔に堕した白羽ちゃん﹂
﹁くどい! ⋮⋮結局、何﹂
﹁予定表、だよ。どういう風にケリをつけていくかっていう、予定
表﹂
そして、ウルフマンに関してはこういう風に決着がつくっていう
予定がすでに立っている訳だね。とナイアルラトテップはケタケタ
笑う。いい加減腹が立って、﹁でも!﹂と言った。
﹁ウッドは、殺さないってそう言った! 事故ならともかく、予定
として殺すことを計画するはずない!﹂
﹁おや、おかしなことを言うね? 白羽ちゃん。あれだけ君を無下
に扱っているウッドを、今更信じているなんて言うのかい? それ
は酷い矛盾だね! あまりに滑稽だ。まぁでも、これはボクの勘ぐ
りすぎだろう。白羽ちゃんがウッドを信じているわけがない﹂
違う? なんてことを聞いてくるのだから、本当に不快だった。
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だが、白羽は他人の言葉に左右されて意見を変えるようなことをし
ない。﹁信じてるよ。信じない訳、ないでしょ﹂と硬い口調で言う。
脳裏によぎる、あの冷たい言葉。
﹃お前以外に﹁武士垣外白羽﹂が居ない。なら、ひとまず連れて帰
ろうと思っただけだ﹄
そんなの、こっちだって同じだ。
﹁私にだって。私にだって、﹃総ちゃん﹄はもうウッドしか居ない
のッ⋮⋮! そんなことは一目見た時から知ってた! でも、信じ
たくなかった。総ちゃんが死んだなんて事、私には信じられなかっ
た⋮⋮﹂
ウッドを見るのは、辛い。あれはつまり、総一郎の死骸が、全く
別の荒んだ意思を持って動いているに過ぎないのだ。リビングデッ
ド。白羽の持つ﹃天使の目﹄には、ウッドはそのように映る。
あらゆる光を見通す蒼き光彩は、総一郎に。真実を見抜く視神経
は、白羽に。母の天使の目は、そのように遺伝していた。
しかし、だからこそ、白羽はウッドをどうする事も出来ないでい
た。ウッドは、そのまま総一郎が死に至るまでに負った傷だ。奴は
他者の命を物の数にも考えず、死者を冒涜し、それら全てを嘲って
いる。︱︱他者に自らの命を物の数とも考えてもらえず、死に体と
なっても冒涜され、あまねく全てに嘲笑われた。
白羽には、ウッドがそう見える。それをまざまざと見せつけられ
るのがただ辛くて、彼と姿を合わせたくない一心で、キツイ態度を
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取らざるを得ないのだ。
しかし。
﹁それでも、ウッドはみんなを殺さないって言った。総ちゃんは、
大切な人のために嘘を吐く子。だから、だから私は信じるの。総ち
ゃんを信じるから、ウッドも信じなきゃならないの⋮⋮!﹂
ナイアルラトテップに睨みつけながら、白羽は言った。するとし
ばらく奴は目を瞠ってから﹁へぇ﹂と笑う。
﹁ふぅん。⋮⋮へぇー⋮⋮。何だ、意外に面白い構造になっている
じゃないか。総一郎君がウッドになって、白羽ちゃんがブラック・
ウィングになって、その対比が一番美しいと思ってたから白羽ちゃ
んにはガッカリしてたんだけど⋮⋮、いやはや、読めないものだね。
もしかしたら、こちらの方が面白いかな?﹂
﹁何を言っているのか分からないけれど、あなたを喜ばせるつもり
はないよ﹂
﹁いやいや、ボクが勝手に楽しむのさ。ともかく、ボクは君を動揺
させるために下手な嘘は吐かないし、もとより君は嘘を見抜けるか
らね。さぁて、と。じゃあ、今日はお開きとしようか﹂
バイバイ、と奴は言った。同時に視界がゆがみ、まるでブラック
ホールに光が飲み込まれていくようにして暗転する。それに、抗う
事はしない。何度も手を伸ばして、届いたことなどなかった。
そして、目を開く。自分がリビングの机に上半身を投げ出して、
寝ていたのだと知った。すると、同時に玄関から鍵を開ける音が聞
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こえる。そちらに目をやれば、何やら食材だのよく分からない︱︱
いや、あれは画材だろうか。とにかく大量の物を抱えたウッドが、
少々疲れた様子で扉を閉めていた。
﹁⋮⋮お帰り、ウッド﹂
﹁ん?﹂
振り向きながら、彼は奇妙な顔つきになる。そして、﹁どうした﹂
と聞いてきた。
﹁お前が俺に﹃お帰り﹄などというとは、思っていなかったぞ、ブ
ラック・ウィング﹂
﹁別に。新居になって鎖もなくなったし、あんまり反抗的な態度を
取り続けるのも面倒になったってだけ。気にしないでいいよ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
釈然としないようではあったが、特に意図はないのだと理解した
のか、特に何を言うでもなく買って来たものの整理を始める。その
所作は、普通に見れば総一郎そのままだ。悲しいくらいに、面影が
あった。
白羽に何を要求するでもなく、黙々と一人で行動するウッド。そ
れを黙って見ているのがどうにも座り悪く思えて、﹁ねぇ、ウッド﹂
と問いかけていた。
﹁私とあなたが﹃初めて﹄あった時、あなたを拒絶する私に、あな
たは傷ついたようなふりをしたよね?﹂
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﹁⋮⋮そう、だな。あの時は、自分のことを総一郎だと勘違いして
いた﹂
﹁あの時、もし、私があなたを総ちゃんと認めていたら、あなたは
どうしたの? 嘘を貫き通して、ARFで働
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