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平成も二十年になりますと、明治がますます遠くなった感じが致しますが
現代史講座 ⑥ 目鹿戦争とその時代 与謝野晶子、捕虜のことなど 平成2 0年1月1 2日 高根台公民館 百年ほど前の日露戦争の時代とは、いったいどんな時代だったのでしょうか。 平成も二十年になりますと、明治がますます遠くなった感じが致しますが、三日 で言えば、武士道精神の色濃く残った時代だったと思うのです。 旅順を攻略した第三軍司令官乃木希典大将は、ステッセル将軍と水師常で会見 したとき,降伏の印であるサーベルを取り上げずに、その着用を許しました。従 軍記者たちのたっての願いで承知したのが、会見が終わった後で友人として並ん だ記念写真、それも一枚だけという条件でした。このことは、唱歌「水師常の会 見」で「昨日の敵は今日の友」と愛唱され、日本人の誇りとなりましたが、実はこ れは明治天皇のご指示でもあったのです。要塞旅順は、日露戦争で日本が一番苦 戦をした戦場です。延べ十三万の将兵が攻略するのに四か月半もかかり、一万九 千三百四人の戦死者を出しました。ですから、日本中が待ちに待った旅順陥落の 第1報は、元日の深夜にもかかわらず、明治天皇に真っ先に報告されたのですo 天皇の伝記「明治天皇準は「藤色、天皇の顔色のことですが、甚だ快然なり」 と,その喜びを伝えていますCそして「祖国のために尽くしたスチッセルに、武 士の名巻を与えよ」との天皇の言葉は、直ちに参謀総長山県有朋から乃木大将に 打電されたのです。 連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将は、日本海海戦で重傷を負って捕虜になっ たパルチック艦隊司令長官ロジエストウエンスキー中将を、佐世保の海軍病院に 見舞っています。東郷は「日本では勝敗は兵家の常、戦う者の常だと申します。祖 国のために立派に戦って義務を尽くせば、軍人の名誉は傷つきません。私は、閣 下とその将兵が実に勇敢に戦われたのをこの目で見て、感激しました」。こう言 って「閣下のために病院船を一隻準備させておきます。健康を回復されて帰国を 希望される時は、いつでもご用命下さい」と申し出たのです。海軍大臣の山本権 兵衛も,東京から見舞いの花束を贈っています。花束には「閣下が祖国の為め勇 戦奮闘以て武将たる本分を尽くされたるは、予の深く敬意を表する所にして」と 山本の言葉が添えてありました。明治の軍人は、戦争の中にあっても相手に対す る敬意を忘れない、高潔な心を持っていたように思います。 戦争が始まってロシアのローゼン公使が帰国する時、朝日新聞は送別の社説を 掲載していますoローゼンは明治三十年から三年間日本公使を務め、三十六年に 再び公使として来日しましたが、公使館員時代も含めると通算十四年も日本勤務 をしたロシア切っての日本通です。その社説は「国として相戦うの事態になうゼ も、人として相愛するの心に変わりはない。国としての交際は断絶しても、人と しての友情はある」というもので、帰国の旅の安全を祈る言葉で結ばれていまし た。明治とは、名誉、信義、礼節、さらには情けを大切にする時代でした。 お読みになった方も多いと思いますが、「国家の品格」という本を書いてベスト セラーになった数学者の藤原正彦さん、藤原さんがこの本を書いた動機が「武士 道精神の崩壊にあった」というのです。読売新聞の「時代の証言者」という連載シ リーズで'藤原さんはこう話しています。「バブル崩壊の後'自由とか公平ばか りを追求する市場原理を取り入れた結果、日本は弱い者への思いやりとか、卑怯 を憎む心意気などをなくした。今こそ武士道精神を、と声高に述べた。言論界か ら総スカンを食ってもいい'そうなったら筆を折って、また数学に戻ればいいだ けだと患い定めて書いた」。藤原さんは「日露戦争くらいまでの日本は本当に立派 な国でした。ロシア兵捕虜を各地の収容所で手厚く治療したり、近辺の温泉や小 学校の運動会に招くなど、武士道精神で過したのです。明治時代の将軍はみな寺 子屋や藩校で読み書き算盤、論語の素読といった教育を受けた世代です。即興で 漢詩を作る素養があり、高い道徳性を身につけた人たちでした」とも言っていま す. 私がもう一つ付け加えるとするなら、明治のリーダーはまた'自ら武士として 明治維新の風雲を潜り抜けて来ました。人間どう振る舞い、どう行動することが 美しいか、武士としての実意瓢を心に強く残した人たちだったと思うのですo乃 木は日本海海戦の戦勝祝賀会で、「わが連合艦隊、勇敢な軍人、そして東郷提督 のために祝杯をあげる」と乾杯の音頭をとり、こう挨拶しています。「それもこれ も天皇陛下の御稜威によって海軍は大勝を得た。が、忘れてならぬのは敵が大不 幸をみたことである。わが戦勝を祝すると同時にへまた'我々は敵軍の苦境にあ るのを忘れないようにしたいo彼らは強いて不義の戦いをさせられて死についた 立派な敵であることを認めてやろうではないか」o「こちらの喜びの陰に、先方の 不幸がある。それを忘れようにしたい」と言うのですが、それが乃木だけの思い でなかったことは、日本政府が旅順で日本将兵の表忠碑より二年半も早く明治四 十年六月、ロシア将兵一万四千六百三十7名の忠魂碑を建てていることでもわか りますC正面にはロシア文字で「旅順防勢戦ノ露国殉難烈士ノ遺骸苗こ安眠ス一 九〇七年日本政府此碑ヲ建ツ」、背面には時の関東都督大島義昌大将の追悼の辞 「英霊ヲ百世こ弔ヒ、義烈ヲ千載こ掲グルガ為メ琴︼此ノ碑ヲ建ツ」と刻まれてい ましたC もう一つ、日露戦争の時代の大きな特徴は、言論統制がなかったことです。自 分の主張を大きな声ではっきり言える、この前にもこの後にもない、大変大らか な時代だったのです。太平洋戦争の頃を少しでも知っていらっしゃる方なら、新 ) 間や議会が「軍の作戦がおかしいから、こんなことになったんだ」と、軍のミ太を 非難、批判したりしたなんてことは、とても考えられないことでしょう。 太平洋戦争は海軍機動部隊の真珠湾攻撃で幕を開けましたが、このハワイ作戦 は、海軍の「昭和十六年度作戦計画」にはなく'全く連合艦隊司令長官山本五十六 の発想によるものです。実はその原点となったのが、山本が日露戦争で少尉候補 生として巡洋艦日進に乗り組んでいる時、その時に受けた強烈な衝撃だったので す.山本がハワイ作戦の構想を初めて明らかにしたのは、昭和十六年1月七日、 海軍大臣及川古志郎に提出した「戦備こ関スル意見」です。欄外に 「大臣1人限御 含迄、誰こモ示サズ焼却ノコト」、こう朱筆の入った意見書は、開戦努頭採るべ き作戦計画に「勝敗ヲ第一日こ於テ決スルノ覚悟アルヲ要ス」としてハワイ攻撃を 挙げ、「月明ノ夜叉ハ繁明ヲ期シ全航空兵カヲ以テ全滅ヲ期シ敵ヲ強襲ス」となっ ていました。山本は海軍次官時代、日独伊三国同盟に最後まで反対した人です。 ドイツやイタリアと同盟を結べば、必ずアメリカ、イギリスを敵に回すことにな るo 二度もアメリカ駐在をした山本は、「デトロイトの自動車工業とテキサスの 油田を見ただけでも、アメリカを相手に無制限の建艦競争を始めて、日本の国力 で到底やり抜けるものではない」。こう言って、国力の違うアメリカを敵にして は絶対駄目だと思っていました。まさに事志と異なり、対米戦の海軍最高指揮官 になったわけですが、そのアメリカと戦うとなった時、まず敵の主力をやっつけ てハンディキャップをつけるo それ以外に対米戦はやれないと思ったのですo 意見書にはこうあります。T作戦方針に関する従来の研究は、正々堂々の遊撃 作戦を対象とするものだったC ところがいくら図上演習をやっても、7回の大勝 利を得たことがなく、演習中止になるのが恒例だった」。従来通りのやり方では 日本艦隊に勝ち目のないことを指摘し、ハワイ作戦の損害が大きそうだからとい って守りに入り、敵がやって来るのを待つようなことをすれば、敵は1挙に日本 本土を空襲し、帝都をはじめ大都市を焼き尽くすだろう。そんなことになれば、 海軍は世論の非難を浴び、国民の士気が低下するのは火を見るより明らかだ。山 本は 「日露戦争浦塩艦隊ノ太平洋半周こ於ケル国民ノ狼狽ハ如何ナリシカo笑事 二ハナシ」 と書いているのです0 日露戦争が始まると、連合艦隊は旅順のロシア艦隊にかかりっ切りになりまし た。旅順には戦艦が六隻もいるのですから当然なのですが、そのスキを、いわば 脇役であるウラジオストックを基地にした巡洋艦艦隊に衝かれたのです。狙いは 日本近海の商船、通商破壊というゲリラ作戦です。ウラジオの担当は上村彦之丞 中将の第二艦隊でしたが、こっちが九千㌧クラスの巡洋艦なのに、向こうはロシ ア、グロンポイが1万二千㌧、リユーリックでさえ1万㌧o 戦艦並みの強力な艦 隊で、しかもスピードが速いのです。敵艦が現われたというので、上村艦隊が駆 け付けると、ウラジオ艦隊は快速巡洋艦の足を生かしてさっさと逃げていまいま すo飛行機もレーダーもない時代です。広い海で捉まえるのは難しいのです朋、 三十七年六月十五日には朝鮮海峡で運送船の常陸丸、佐渡丸が沈められ、死者千 七百三十六名'捕虜三十二名の大きな損害を出したのですo旅順攻略に向かう一 個連隊が乗っていて、常陸丸船上で近衛後備歩兵第7連隊長の須知源次郎中佐が 連隊旗を焼いて割腹自決、将兵が次々と砲弾に倒れたことが内地伝わると'海軍 に轟々たる非難が集中しました。「運送船に護衛をつけないのは怠慢ではないか」 「日本の内庭に敵が来ているというのに、海軍は居眠りをしているのか」。新聞が 一斉に海軍批判を展開すれば、議会も黙っていません。「国民は戦場に肉親を送 っている。それなのに一つも安心できないのはなぜか」とo そこへ追い打ちをかけるように七月二十日'ウラジオ艦隊の巡洋艦三隻が津軽 海峡を抜けて太平洋へ出てきたのです三原総半島から御前崎沖を十日間もうろつ き、商船を七隻も沈めましたから大変でした。太平洋航路は完全にストップし、 漁船も出漁できません。お米など生活物資は暴騰し、生糸などの輸出品は暴落し ました。津軽海峡に画した函館や下北半島では、半鐘を乱打して住民が山に逃げ 込む姿も見られましたし、銀行の取り付け騒ぎまで起きていますo上村艦隊がい つも濃霧、濃い霧に邪魔されてウラジオ艦隊を逃しているので、新聞は「濃霧、 濃霧と逆さに読めば、無能なり」と書き立てたのですo上村中将の留守宅には「辞 職しろ」とか「腹を切れ」といった手紙が殺到し、「国賊」、「露探j、ロシアのスパ イだといって石が投げ込まれました。ウラジオ艦隊が再び津軽海峡を通って退散 したのは三十日の夜、新聞は深夜の号外を発行して全国に伝えています。軍令部 、 次長の伊集院五郎中将は「悪夢こ似タル十日間終ル」と記録していますが、若き山 本五十六に強烈な衝撃を与えたのは'こうした敵襲に脆い国民性であり、山本の 真珠湾攻撃の発想も、このショックが出発点になったのですC 上村夫人は毎日お寺参りをして敵艦隊発見を祈り続けたといいますが、ウラジ オ艦隊を撃破できたのは八月十四日、朝鮮の蔚山沖の海戦でした。リユーリック が航行不能になり、ロシア、グロンポイも大破させましたが、追撃中に味方の弾 薬庫が空っぽになってしまいました。参謀長が報告しても、上村は聞こえないふ りをして返事をしません。仕方なく黒板に「残弾ナシ、反転然ルベシト考卓。命 令乞り」と書いて示すと、上村は大声で「宜しい。然るべくやれ」と命じた途端、 その黒板をはぎとって床に叩きつけたというのです。それほど気性の激しい提督 でしたが、感情に激して理性を忘れるような軍人ではありませんでした。リユー リックの戦列落伍を見て'「溺れる者を悉く救助せよ」と命令したのです。それで も恨み重なるウラジオ艦隊です。上村が「あんなに頬にさわっていたのだから、 皆が捕虜をひどい目にあわせないか'心配だ」oこう咳くのを聞いて、参謀の佐 藤鉄太郎中佐は旗艦出雲のマストに信号旗を掲げさせましたo 「捕虜充分ナル好 意ヲ以テ級へ」。リユーリック乗組みの六百二十七名が救助されましたが、ロシ アの戦史も「日本武士の美徳」と特筆しています。 日露戦争の時も、新聞の事前検閲はありました。政府は外交や軍事の機密事項 については掲載禁止の措置をとりましたが、何しろ二十世紀に入って初めての本 格的な戦争です。至る所にロイター、タイムズなど外国特派員の目が光っていま す。政府が隠しておきたいニュースも、外国の新聞にどんどん出てしまいますか ら、隠しておけなかったのです。それと太平洋戦争の時と決定的に違うのは、言 論統制がなかったことですC明治三十年に新聞紙法が改正され'それまで内務大 臣の一存で新聞の発行禁止にできたのが、出来なくなったのです。新聞が政府の 困ることを書いても、販売停止はその日の新聞だけ、これが大きかったのです。 新聞は、軍のミスには遠慮していませんでした。 与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」と歌ったのは、まさにこうした時代だっ たのです。この歌には「天皇自らは戦争に出ないのに」といった、かなり度ぎつい 表現がありますから、太平洋戦争の時だったら間違いなく発禁処分、憲兵や特高 警察に捕まっていたでしょう。こうした歌を発表できる自由があったことに驚き を感ると共に、これが日露戦争の時代の大きな特徴だっった、といってもいいで しょう。「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ」-晶子のこの歌 は、明治三十七年の「明星」九月号に発表されましたCちょうど旅順の第一回総攻 撃が始まった頃で、副題に「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」とあるように、 旅順の戦いでの弟の無事を祈って歌われたものでしたo ところがこの歴史に残る有名な歌は、どうも晶子の思い違いから生まれたよう し に思うのです。と言いますのは、二歳下の弟等三郎はどう考えても旅順の戦いに は参加していないのです。戦争が始まると、陸軍は戦闘序列といって幾つかの師 団を集めて軍を編成しますが、旅順攻略に当たった乃木大将の第三軍は、東京の 第1師団、金沢の第九師団、四国善通寺の第十1師団で編成され、十1月の最後 の総攻撃で旭川の第七師団が加わりました。日本の兵隊は本籍地召集ですから、 大阪・堺が本籍地の簿三郎が入ったのは大阪の第四師団第八連隊ですが、第四師 団は第三軍には所属していません。軍隊経験のある方ならおわかりだと思います が'堺出身の簿三郎が1人だけ第三軍に紛れ込むなんてことは絶対にあり得ない ことなのですo では、旅順に行ってないとすれば、どこへ行っていたのか0第八 連隊は奥保撃大将の第二軍に所属し、晶子がこの歌を書いた頃はもっと北の方、 軍神桶周太中佐が戦死した遼陽の戦場で戦っていたのです。 与謝野晶子については、佐藤春夫が昭和二十九年、毎日新聞に「晶子鼻陀羅」を 連載したのをはじめ、最近では渡辺浮1さんが「君も雛芥子われも雛芥子」と題し て鉄幹・晶子夫妻の生涯を書いています。評論まで入れると実にたくさんの本が 出ていますが、どの本も晶子の思い違いそのままに、琴二郎は「旅順の戦いに参 加した」と書いているのです。軍隊の行動は当時ももちろん秘密でした。佐藤春 l ・ , . ・ 夫は「風聞で」、つまり噂話で「弟が旅順攻略軍にいると思った」 と書いています が、私も正直いって、晶子の思い連いがどこから生まれたのか、なかなかわかり ませんでした。石光真情の手記、石光は前にも話しましたように、陸軍中尉の時 シベリアに潜入し、ハルビンで写真館を開いて情報収集に当たった人ですが、そ の手記「望郷の歌」を読んだ時、「ああ、これだ」と思ったのです。 簿三郎の第八連隊は 「またも負けたか八連隊」 とからかわれたほど、弱いこと では定評のある連隊でした。明治十年の西南戦争で薩摩軍に負けてばかりいるの で、西郷びいきの熊本市民が 「またまた負けたか八連隊、それでは勲章くれんた い」と、大津の第九連隊にひっかけて嚇し立てたのです。石光は日露戦争で第二 軍の軍司令部副官として従軍しましたが、熊本の出身ですから、子供の頃やはり 八連隊をからかった1人でしたo ところが、その弱い弱いといわれた八連隊が、 最初の戦いで1番乗りの大手柄を立てたのです。 地図をご覧になって頂くと、遼東半島に塩大襖という所があります。五月五日 にここから上陸した第二軍は、半島で1番狭い金州'南山を占領して、半島の先 端にある旅順を孤立させてしまう。その後、旅順の攻略は乃木大将の第三軍に任 せ'第二軍は遼陽の戦場に向かう予定でした。ところが二十六日払暁、雷雨の中 に始まった三個師団の南山攻撃は、次々と機関銃に薙ぎ倒される大苦戦になった のです。第二軍が機関銃という新兵器を体験したのは、これが初めてでした。午 後四時になっても戦線叔全く進展せず、最後の予備隊も投入されました.三万四 千発という日清戦争で使った砲弾と同じ量を、このたった一日の戦いで使ってし まい'死傷者四千三百の報告を受けた大本営が'「数字がT桁連うのじゃないか」 と聞き返してきたほどですo 乃木大将の長男勝典少尉が戦死し、乃木が 「山川草 木転た荒涼」 の有名な漢詩を残した激戦地ですが、夕方になって第八連隊が砲台 の7角に突入し、やっと占領できたのです。 何しろ弱い弱いといわれた第八連隊が、血路を開いた名替回復の大手柄です。 こうした自慢話、手柄話はーどんなに軍隊の行動が秘密だったといっても、地元 大阪で人の口からロへと伝わっていったのではないでしょうか。佐藤春夫の言う 「風聞」です.やがてそれを耳にした晶子が、南山は旅順のすぐ傍ですから'弟が そのまま旅順攻略に参加すると思ったのも無理はありません。そこへ旅順総攻撃 r . が迫り、晶子は堺から上京してきた知人から「何人もが決死隊を志願したらしい」 という勇ましい噂話を聞きます。まさか、弟が決死隊に志願したりしたのではな いか-そう思うと、矢も盾もたまらず「雷死にたまふこと勿れ」と筆をとった。 これが真相だったのではないでしょうか。 与謝野晶子は明治十1年、堺の「駿河屋」という老舗の菓子屋、鳳宗七の三女と して生まれました。父親は菓子屋の主人というよりは、排禍もたしなみ本の収集 家もするといった趣味人。学問好きで、長男を東京帝国大学の工学部、晶子を堺 の女学校、その下の妹は京都の高等女学校と、明治二十年代の商人の家としでは 破格の教育をしています。晶子は父親の本棚から源氏物語などの古典を引っ張り 出しては'片っ端から読んだといいます。八歳の時から通っていた漢学塾では、 白楽天の「長恨歌」の説明をせがむ、大変ませた少女だったようです。唐の玄宗皇 帝の寵愛を1身に集め、白い凝脂のような肌を持つといわれた揚貴妃o 晶子は、 安禄山の乱に巻き込まれ悲壮な死を迎える揚貴妃に惹かれたのでしょう。その頃 を思い出して「あなかしこ揚貴妃のごと斬られんと思ひ立ちしは十五の少女」と 歌っていますが、「十五の少女の願望としてはゆゆしい限り」とは佐藤春夫の言葉 です。晶子は後年、お弟子さんたちに「よい歌を詠もうと思ったら恋をしなさい」 と言っていたそうですが、家も親兄弟も捨てて、内線とはいえ妻子のある与謝野 鉄幹の許へと走る激しさは、この頃から息づいていたのかも知れません。 鉄幹には、私たちの青春時代と重なる「人を恋ふる歌」があります。「妻をめと らは才たけてみめうるはしく情ある」、若い頃、誰もが口ずさんだ懐かしい歌で すが、鉄幹が短歌改革を訴える新進歌人として、歌壇にさっそうと登場して来た のは日清戦争の頃ですo 「虎の鉄幹」と異名をとるほど、国を憂え、熱情にあふれ た男っぽい歌だったのが、明治三十三年四月に雑誌「明星」を創刊してから浪漫主 義運動の中心となり、多くの俊才がここに集まりました。晶子との運命的な出会 いは、その年の八月、鉄幹が大阪の講演会に招かれた時ですo 晶子は翌年の六月 には鉄幹の許へ走り、二か月後の三十四年八月、処女歌集「みだれ髪」を発表しま す。二十二歳の若い娘が、青春を明るく大過に歌い上げた衝撃的なデビューでし た。先日、新聞を見ていたら若者言葉が載っていて、髪が乱れていることを「与 謝野る」 って言うんだそうですね。まあ、若い人が与謝野晶子を知っているだけ でもいいことだと思いますが、「短歌が日本の新しい詩になった」、こんな高い評 価がある反面、「害毒を撒き散らす淫らな歌」といった批判もありましたが、若い 人たちの心の奥底を動かしたのでしょう。三十年代の浪漫主義は'彼女を中心に 花開いていきますo 私は歌のことはよくわかりませんが、晶子という人は、大変豊かな語感と、色 彩感覚に恵まれた人だったと思います。例えば、渡辺淳一さんが小説のタイトル に使っている「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛芥子われも雛芥子」C コ クリコというのは雛芥子のフランス語で、英語名ポピーです。野原を埋め尽くし て燃えるような深紅の雛芥子C それを「火の色す」と表現したのもすごいし、コク リコという軽快な響きを重ねることで、「ああ皐月」と思わず言いたくなるような 五月の躍動が伝わってきます。この歌は明治四十五年五月、ヨーロッパへ渡った 鉄幹を追って、晶子がパリで再会した時の歌です。この頃には歌壇での二人の立 場は逆転していました。自分を追い越してどんどん有名になっていく晶子に、鉄 幹の生活は荒れ/ていったようです。そんな鉄幹を心配した晶子が、夫の転機にな ヽ . 4 ればと'当時誰もが憧れていたヨーロッパへ鉄幹を送り出したのです。「君も雛 芥子われも雛芥子」に、再会の喜び、夫を慕う晶子の気持ちがよく表われていま す。家庭では良き妻であり、また五男六女と、今では考えられないような大勢の 子供を育てた良き母でした。 ところで「雷死にたまふこと勿れ」は、果たして反戦の歌だったのでしょうか。 Thysel-」、「よく考えてみよ」と題してロンドン・タ 実は、反戦的ともとれる言葉は、ロシアの文豪トルストイが戦争中の三十七年六 月、「Be-h-nk イムズに発表した反戦論文が、下敷きになっているといわれます。日本では幸徳 秋水が「爾曹悔い改めよ」と訳して、八月七日付の「平民新聞」に紹介していますか ら、晶子も目にしていたでしょう。まず第二節五行目の「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ」'これはトルストイの「旅順の権利が靖国だろうと、日本 だろうと、あるいはロシアだろうと、自分の生活には関係ない」 -これを受け たものだといわれます。もし旅順が落ちなかったら、それこそ日露戦争の行方を 左右したほど大変なことになったのですが、晶子がこの歌を書いたのは八月十九 日の第一回総攻撃の前後、まだ旅順の苦戦を誰も知らない頃です。それどころか 陸軍は、二、三日で落とす積もりでした。東京や横浜では旅順陥落大祝賀会を聞 く予定で、入場券が飛ぶように売れましたし、新聞社もいつでも配れるように、 日付なしの「旅順陥落」の号外を印刷して待っていたほどです0号からこそ、晶子 も「何事ぞ」と言い切れたのであって、晶子の心配は、弟が決死隊に志願したりし て死にはしないかということでした。旅順の苦戦が内地に伝わり、乃木大将の家 に「人殺し」といって石が投げられたりするのは十月に入ってからなのです。そん な苦戦の時だったら、晶子も「何事ぞ」とは歌えなかったのではないでしょうか。 1番問題になったのは、第三節二行目の「すめらみことは戦ひにおはみずから は出でまさね」。この箇所です。天皇自らは戦場に出ないのに、人の子を駆り立 てるのはおかしい、というわけです。トルストイはこう書いています。「戦争の 主な責任者であるロシア皇帝は、勅旨で兵隊を召集するだけだ。心なきロシア皇 帝よ、汝自ら砲弾、銃弾の下に立て」。歌壇の大先輩である大町桂月は、「乱臣な り賊子なり。国家の刑罰を加うべき罪人なり」、つまり反逆者だといって攻撃し ました。戦後になって「反戦歌」として評価する人たちは、危険を承知で発表した 晶子の勇気を讃え、詩人の深尾須磨子も「タブーであった天皇に触れることは、 あの当時命懸けの行為であり、空前絶後のことであった」 と書いています。 しかし、これはどうもオーバーなように思うのです。と言いますのは、文壇や ジャーナリズムを巻き込んでの騒ぎにはなりましたが、それはあくまでも論争で あって、発禁処分にもなっていませんし、晶子がこの歌で社会から糾弾されるよ うなことはなかったのです。この歌が反戦歌であるかどうかはともかくとして、 1貫して流れているのは、「弟よ、死なないで帰ってこい」という、晶子の心の叫 _ . I びですoだからこそ、#三郎の戦場が旅順であれ遼陽であれ、この歌が人々-b胸 を打つのだと思います。この歌を構成する言葉を見て下さい。未に生まれし君な れば、親のなさけはまさりしも、旧家をほこるあるじにて'親の名を継ぐ君なれ ば'すぎにし秋に父ぎみに、わが子を召され家を守り、母のしら髪はまさりぬる -わずか四十行の歌に、強烈なまでの「親」と「家」の連続ですo親を捨て家も捨 てた晶子が何とも矛盾した感じがしますが、そこにかえって女性本能にも近い、 晶子の切ないほどに家を思い、弟の無事を願う気持ちが伝わってきます。 兄の秀太郎は東京帝国大学で電気工学の教授をした人ですが、晶子の結婚を許 さず生涯義絶状態でした。それに引き替え、文学好きの簿三郎とは晶子はよく気 が合いました。しかも父親の死で、早稲田大学の希望を断念して駿河屋を継ぎ' 新婚十か月で召集された弟に 「どうか無事に帰ってきてほしい。親不孝の自分に 代わって家を守って扱しい」oこの気持ちが強かったのだと思います. 晶子は、二人の姉が嫁いだ後は十年余りも帳場に座り、駿河屋を実質的に切り 盛りしてきました。いわば、先祖代々の商人意識の中で育ったのです。当時を回 想して、こう書いています。「十二三歳から十年間店の帳簿から経済の遣繰、雇 人と両親との間の融和まで自分1人で始末をつけたo わたしは夜なべの終るのを 待って夜なかの十二時に消える電灯の下で両親に隠れながら纏かに一時間か三十 分の明りを頼りに清少納言や紫式部の筆の跡を倫み読みして育ったのである」C 商人は江戸時代の平和克生活の中で、信用を失わず、家名をあげ、財産を残すこ とを第1に、子弟や奉公人の教育に力を入れてきました。戦争は侍社会の出来事 であり'迷惑を蒙ることはあっても、商人には直接関わりのないことでした。弟 が死んだら、年をとった母親はどうなるのか、由緒ある駿河屋はどうなるのか。 旅順の城よりは、弟に無事に帰ってきて家を守ってほしい。そんな晶子の商人意 識が、堰を切ったように溢れ出したのが、この歌だったのではないでしょうか。 筆三郎は無事凱旋し、昭和二十年まで晶子より長生きしますが、帰国して旅順 に行ったことになっているので、びっくりしたんではないでしょうか。日露戦争 といえば旅順'旅順といえば二百三高地、髪を高く結い上げた「二百三高地暫」が 流行ったのですo 当然、二百三高地のことを聞かれて、簿三郎が何と答えたのか 知りたいところですが'佐藤春夫はわざわざ「戦史を播くに」と断った上で、「旅 順は旅順でも二百三高地ではなく、盤竜山の攻撃に向かっていた」と書いていま す。盤竜山は第一回総攻撃で第九師団が占領した所ですが、実際は遼陽に向かっ ていたわけです。 大町桂月の非難は、雑誌「太陽」の十月号に載りましたC 「義勇公に奉ずべしと のたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。国家観念を鏡視(ないがしろ)に したる危険なる思想の発現なり」とし、「家が大事也、妻が大事也、国は亡びても よし'商人は戦ふべき義務なしと云ふは、余りに大腰すぐる言葉也」と決めつけ たのですo佐藤春夫によると、社会主義者、共産主義者を「危険思想家」と言-,I(よ うになったのは、この桂月の言葉が始まりなんだそうです。晶子はこれに対して 夫鉄幹への手紙の形をとって反論し、一それを「ひらきぶみ」と題して「明星」に公開 したのです。まず「一も二もなく服しかね候」と、桂月の非難をきっぱり拒否しま したo 亡くなった父親は大変な天子様思いであり、自分も母親も、この国を人1 倍愛していると断った上で、桂月にこう反論したのです。「当節のやうに死ねよ 死ねよと申し候こと、又なにごとにも忠君愛国などの文字や、畏おはき教育御勅 語などを引きて論ずることの流行は'その方却て危険と申すものに候はずや」。 お上の権威を笠にきて、自由な言論を圧迫するような風潮こそ危険だ'と言うの ですが、晶子の見識がうかがえる言葉ですC 「歌は歌に候」-こう言い切ったところに、轟人与謝野晶子の廉とした姿勢を 感じます.晶子は言うのです.誤解しないでほしい。「雷死にたまふこと勿れ」は 歌なのだ。歌はいつの世にあっても真の心を歌うべきものだ。新橋や渋谷の駅頭 に立ってご覧なさい。見送りの親兄弟や友人、親類たちが口々に 「無事で帰れ、 気を付けよ」 と言い、大声で「万歳」を唱えているではありませんか。こう申して 何が憩いのでしょう。誰もが目にする出征兵士を送る光景を挙げた上で、「詩の 精神」はこういうものじゃないかと、桂月に迫っているのです。「私思ひ候にF無 事で帰れ、気を付けよ、万歳]と申し候は、やがて私のつたなき歌の﹃君死にたま ふこと勿れ﹄と申すこiJにて候はずやo被れもまことの声、これもまことの声。 私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」。 堂々たる反駁の弁ですが、論争はさらに続きます。読売新聞の文芸時評が情を 歌った晶子に軍配をあげたため、引っ込みのつかなくなった桂月が'「乱臣賊子」 と感情的な言葉を使ったものですかIil、今度は夫の鉄幹が黙っていません.二人 は旅順が陥落した後、三十八年1月八日にそれぞれ立会人を交えて1時間の対決 をしているのです。これを見てもおわかりのように、日露戦争の頃は自分の主張 を大きな声で言い合える時代でした。トルストイでさえ反戦論はロシア国内では 発表が許されず、イギリスのタイムズにやっと発表出来たのです。それも 「世界 的文豪」という名声があったからでした。よく歴史の本などに「この歌が軍国主義 者に大きな衝撃を与えた」などと書いてありますがーどうも何が何でも反戦歌に し'与謝野晶子を反戦のヒロインにしたがる、独善的な物の見方があるように思 います。佐藤春夫が言っています。「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現 代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があったのと同様に読む者の勝 手であろう。しかしそのどちらも同じようにように作者晶子にとっては恐らく迷 惑な事であろう。思うに晶子は、あの詩で、本来軍人でもない愛弟を戦場で央い たくないという実情を、それが真情であり民の声であるがために何ら顧慮するこ となく歌い上げたのだ」。私もその通りだと思います。 晶子には第1次世界大戦に当たって、「どんな犠牲を払うても、いまは戦ぶべ きである」 と、「戦争」と題する詩があります。そうかと思えば、大正七年のシベ リア出兵に、「何故の出兵か」と、自衛の範囲を超えた大義名分のない出兵だと反 対しています。これを読むと、晶子という人が実にしっかりした国際的な大局観 を持った女性だったことがわかります。「無意義な出兵のために、ロシア人はじ め米国から、後には英仏からも日本の領土的野心を疑われ、嫉視され、その上数 年にわたって撤兵することが出来ず、戦費のために再び莫大な外債を負い'国民 を自滅の危機に陥らせる結果になるだろう」。こう言うのですが、事実はその通 りになりましたo撤兵まで四年もかかり、日本の大きな負担になったのですo 晶子はまた婦人解放連動、ことに婦人参政権運動にも積極的に活動した女性で した.明治四十四年に平塚らいてうが、日本で初めて女性だけによる文芸誌「育 鞘」を創刊した時、晶子は「山の動く日来る」という力強い詩を寄せていますC余 談ですが、育鞘というのはブルー・ストッキングのこと。十八世紀半ば、ロンド ンのサロンに集まる婦人たちが青い毛糸のの靴下をはいて'盛んに文学、芸術を 論じたことから、森鴎外が平塚たちの活動に対して命名したんだそうです。「す べて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」 に、らいてうは 「お前たちしっか りやれという励ましだと、私たちを嬉しがらせたo これこそ巻頭に載せるのにふ さわしい詩だと思った」.こう語っていますが、晶子が1貫して大切にしたもの × は、人間性であり自由でした。だからこそ、この 「君死にたまふこと勿れ」 の歌 が、私たちの心に響くのだと思います。 × 戦後、「日本武士道はどこへ行ったのか」-こう聞いた外国人がいます。東京 裁判で来日したオランダのローリング判事で、東郷茂徳元外相など五人の無罪を 主張する少数意見書を書いた人です。これは、映画にもなった「ビルマの竪琴」の 作者、ドイツ文学者の竹山道雄東大教授が書いているのですが、ローリング判事 はこう言うのです。「日清戦争や日露戦争のころの日本軍の振る舞いは、ヨーロ ッパでは敬意をもって取り沙汰されたものだった。ことに団匪のときには、ヨー ロッパ諸国の軍隊が甚だしい狼籍をはたらいたが、初めて世界に知られた日本軍 は模範的だった。それがどうして・」と。 団匪というのは、日本では義和団事件といってい、患したが、明治三十三年'列 強の中国侵略に怒った義和団が、これは浄土信仰の1派、白蓮教系の秘密結社で 「扶清滅洋」、靖国を助けて西洋を撲滅しようをスローガンに、民衆を巻き込んで 北京に迫って来たのです。日本など八か国は陸戦隊三百九十四人を公使館に集め て列国義勇軍を編成'イギリス公使のマクドナルドが総司令官になりましたが、 六月二十日には完全に包囲されてしまいました。靖国は翌日、列国に宣戦布告し て正規兵も攻撃に加わるようになり、この北京龍城戦の指揮をとったのが公使館 Sh 付武官の柴五郎中佐ですoその見事な活躍は'ロンドン・タイムズ特派員モ-Sソ ン記者によって大きく報道され、ヨーロッパの新聞には連日「COlne上 lba」 の大見出しが躍ったのです。当時北京にいたイギリス人看護婦のジェシ ー・ランサムは「北京龍城病院記」という本に、「激戦になるとすぐ逃げ出してし \ まうイタリア兵と違って、日本兵はあくまで戦い続けた。絶対といっていいくら い信用できたのは、日本兵だけだった」。また、北京観光中に騒ぎに巻き込まれ たアメリカ人女性ボーリー・スミスも「北京の舞台裏」という本の中で、「柴中佐は 小柄だが、素敵な男でした。彼が信頼されたのは、1に彼の知力と実行力による ものです」と、フランス語と英語を駆使して各国兵士をさっそうと指揮する柴五 郎を、驚きの目で書いています。そしてタイムズは、社説で「日本兵の輝かしい 武勇と戦術が、北京龍城を持ちこたえさせた」と称賛したのですo 北京は八月十四日、八か国の連合軍三万三千八百人により解放されましたが、 ロシア兵など各国軍隊の掠奪暴行が横行した中で、一万三千の日本軍は規律正し く勇敢でした。大勢の中国人が「日本軍の管轄地域なら安全だろう」と、保護を求 めて流れ込んで来ましたし、どの民家も「日本軍がいるとわかれば、掠奪に入っ て来ないだろう」とー軒下に競って日の丸の旗を掲げたほどでした。しかも、日 本の出処進退も極めて鮮やかなものだったのです。事態が緊迫した時、早急に大 兵力を派遣できる国は距離的にも近い日本しかありません。しかし、各国の出兵 要請にも、山県有朋首相や元老の伊藤博文は、日本が突出した形で出て行けば誤 解、反感を招く恐れがあると慎重でした。イギリスの「出兵費用の一部を負担す るから」との強い要請で出兵に踏み切ったのですが、その際山県は「出兵ノ目的ハ 我公使館領事館及帝国臣民ノ生命財産ヲ保護スルニアルヲ以テ専ラ此範囲内こ於 テ動作スベキ事」。陸海軍大臣にこういう通達を出して、派遣の目的を自衛行動 に限定しています。そして治安が回復した十か月後には'兵力を六千人に半減さ せたのですoイギリスやフランスが既得権を得ようと逆に兵力を増強し、ドイツ に至っては1万七千人余りと四十倍近くにしたのとは大違いですo戦死者七百五 十七人のうち、日本軍は三百四十九人と1番大きな犠牲を出しながら、賠償要求 も控えめなものでした。賠償金の配分は、ロシアが最も多く二九%、ドイツ二〇 %'フランス1六%、イギリス二%に対し日本は七・七%に過ぎませんo こう した国家としての日本に対する信頼、好感が、三十五年一月の日英同盟につなが り、日露戦争を勝利に導く大きな要因となります。この後、初代駐日大使になっ たマクドナルドは大変な目本晶屑になり'日英同盟締結を促進したのです。柴五 郎をはじめ乃木希典、東郷平八郎と、世界に知られた軍人は多かったしへ 日露戦 争の頃の日本の軍隊は外国では評判の良い軍隊だったのです。 柴五郎は'会津戦争で敗れた会津藩の出身です。会津藩は幕末に京都守護職を 務め、勤王の志士と渡り合いましたから、朝敵としてその処分は苛酷を極めまし たo会津三十万石、実高六十七万石の豊かな藩が、本州最北端の下北半島に東南 藩三万石として藩ごと島流しになったようなものです。現在のむつ市ですが、三 万石といっても幾ら耕しても実らない火山灰地で実質七千石。これで四千戸の藩 士を養うのですから大変でしたo北海道開拓やアメリカのカリフォルニアへ新天 地を求めて移住していった藩士も数多くいましたが、日本のアメリカ移民はこの 会津藩士が第一号なのです。 柴五郎は当時九歳、飢えと寒さの地獄だったといいます。掘っ立て小屋の板敷 きには畳がないためムシロを敷き、障子はあっても貼る紙がないので米俵をくく りつけ'夜寝る時も米俵にくるまって寒さをしのぎました。大豆やジャガ芋を入 れたお粥をすすり、それさえなくなって、蕨の根っこを乾燥させ団子にしてかじ る.地元の人たちは、突然よそからやって来たこの流浪の武士集団を「毛虫侍」と いって軽蔑したそうですo食卓にはよく犬の肉が出ました。いくら噛んでもノド を通らず吐き出そうとすると、日頃温厚な父親が 「それでも武士の子か。会津の 武士が飢え死にしたと笑われるのは、・末代までの恥辱だぞ。薩長の下郎どもに一 矢報いるまでは、生き抜け、生きて残れ。会津の恥を雪ぐまでは、ここは戦場な るぞ」 -こう言って厳しく叱り付けたといいます。会津では五郎の母と祖母、 兄嫁に姉と妹と、五人の女性が自決していました. ですから明治十年の西南戦争の時、五郎は日記に「芋征伐、薩摩芋の薩摩のこ とですが、芋征伐仰せ出されたと聞く。めでたLt めでたし」 と書いています。 そして大勢の会津武士が遺恨十年を晴らすべく、西南戦争に志願していったので す。会津の人にとって朝敵の恥が雪がれたのは、昭和三年に会津松平家の勢津子 姫が秩父宮妃殿下として嫁がれた時だったといいますo山本五十六も昭和十四年 に連合艦隊司令長官になった時、親しい郷里の友人に 「日本の連合艦隊司令長官 が長岡藩から出たということを、君は胸においてくれるだろうね」と書いていま す。長岡藩もまた賊軍でした。明治維新から六十年、七十年経ってもなお'朝敵 の汚名にこだわったということは、これも武士の心が生きていたからでしょう。 あの明治の草創期、実に偉い人がいたものだと、感心することがあります。肥 後熊本港出身の野田裕通'先ほど話した石光実情の叔父さんで、後に陸軍省経理 局長、男爵になった人ですが、野田は東北各県の役人をしながら賊軍子弟の救済 に奔走したのです。少しでも見所があると思えば、播極的に援助の手を差し伸べ ました。柴五郎少年も、海軍大将、首相になって二二1六事件で暗殺される斎藤 実も、満鉄総裁、外務大臣になる後藤新平も'みんな県庁の給仕をしている時、 この野田に見出だされ、その書生として働きながら世の中へ出て行ったのです。 柴五郎が給仕をして貯めた十三円余りを懐に上京したのは明治五年八月、十三 歳の時でした。知り合いを訪ねても、誰もが自分が食べるのに精1杯oやっとの 思いで転がり込んだのが、会津藩家老で今は斗南藩大参事として旧藩士の面倒を _ I _ 見ている山川浩の家でした。もう冬だというのに'五郎の身なりといえば'出て きた時のままの白地の浴衣一枚o 見兼ねた山川の母が出してくれたのが、アメリ カに留学中の末娘捨松の着物でした.薄紫の木綿地に裾模様、桃色の裏地o l目 で女物とわかる、そんな異様な格好で、五郎は「暖かければ何でもよい」と街中 を歩いたそうですo山川家の貧乏暮らし通相当なものでしたoたまに出る豆腐と 煮豆がご馳走で、五郎は月に何度も質屋通いを頼まれたといいます。そんなある 日、山川が「少年の貴公にまことに頼みがたいことではあるが-」と頭を下げたの は、山川に預けておいた虎の子の十三円五十銭をしばらく貸して黄えないかとい うことでしたo五郎が快く承知すると、山川と母親の喜びようは大変なもので、 元家老の家もそれほど苦しかったのです。ですから五郎が「わが生涯最良の日」と 喜んだのは、陸軍幼年生徒隊'後の幼年学校の合格通知を受け取った時でした。 これで食べる心配がなくなり、しかも陸軍将校になる道が開けたのです。 同じころ、総理大臣になって「平民宰相」といわれ、暗殺される原敬も、食うや 食わずで単衣を三枚重ね着して東京の寒空に震えていました。原は盛岡南部藩家 老の家に生まれましたが、南部藩も賊軍です。家屋敷を売り払って上京したもの の半年で使い果たし、麹町のカトリックの神学校に転がり込みました。ここなら 食べる心配がなかったからですが、海軍兵学校を受けて落ちてしまいます。松江 藩出身でやはり総理大臣になる若槻礼次郎は'小学校の代用教員をしていて陸軍 士官学校を受けたのですが、こちらは体格検査ではねられました。回顧録に「こ の時の私の失望は、見るもあわれであったろう」と書いていますが、若槻も原敬 も結局は学費だけはかからない司法省の法学校、現在の東京大学法学部に入り' 首相になります。日露戦争でこの習志野の騎兵旅団を率いて、世界最強といわれ たコサック騎兵を破った秋山好古も、ただで食べさせて勉強させてくれる、将校 になれば弟真之の学費を送れるというので、陸軍士官学校に入っています。みん な賊軍の子弟でした。彼らが世の中へ出て行くには、とにかく学問をして、新し い知識、新しい技術を身につける。それもお金がないから、学費のかからない官 費の学校に入る。この骨身にこたえるほどの貧乏の辛さが、明治のエネルギーを 生み、シンの強い人たちを育てたのだと思います。 ( [ ' また明治という時代は、日本の近代化を図るため海外に留学生を送って、その 知識の吸収に懸命になった時代でした。それも薩長にこだわらず、広く賊軍子弟 からも人材を集めて推進したのが、後に第二代首相となる薩摩出身の黒田清隆で すo黒田という人は酒癖が悪く、酒ではいろいろ問題を起こした人ですが、先見 の明があり'思い込んだら命懸けというのか、1本気のある人でしたo函館の五 稜郭を攻めた時、最後まで戦い続ける榎本武揚に惚れ込み、何とか助けて日本の 将来に生かしたいとへ和議の使者を送って帰順させますCところが新政府の中で 「極刑にしろ」という声が出てきて、黒田は頭を丸めてひたすら助命を嘆願した というのです。黒田はそういう男でしたが、北海道開拓使次官になって考えたの は、若い者をアメリカに留学させ、その知識と体験を開拓に生かすことでした。 しかし当時の政府留学生は薩長の子弟に限られ、情実で選ばれる者も多く、遊ん でばかりいます。これではダメだと、「北海道は寒い。寒さに慣れた、賊軍の会 津や庄内からも選ぶべきだ」。こう主張して、黒田の要請で斗南藩が推薦してき たのが山川浩の弟健次郎だったのです。\明治四年正月、黒田と共に渡米した健次 郎はエール大学で三年間物理を学びますが、物理を選んだのは「会津が敗れたの は科学知識に遅れをとったためだ」と思ったからなんだそうです。健次郎は東大 の初代物理学教授になり、東大をはじめ九州大、京都大の総長を務め、田中館愛 橘、長岡半たろうなど、多くの物理学の人材を育てました。 黒田という人が面白いのは、アメリカで明るく生き生きと、しかも男性たちと 対等に意見を交わす女性を見て、すっかり感心してしまったことです。日本の近 代化には賢い女性、賢い母親を育てることだ.それには女子教育こそ近道だと、 黒田の提案で女子留学生の派遣となったのです。旅費、学費、生活費は一切官費、 しかも年に八百ドルの小遣いです。当時は一ドル一円、銀座の土地が百六十坪も 買える大金だったそうです.まさに鳴り物入りで募集したのですが、集まったの は十五歳を筆頭に五人だけ、みんな賊軍の子女でした.薩長から一人もいないの は、十五になれば嫁に出した時代です。留学期間十年となれば婚期を逃してしま う。まして肉を食べる異文化のアメリカ。薩長全盛の時代にー娘たちに何もそん な苦労をさせることはないという思いだったのでしょう。 1行は明治四年十1月、岩倉使節団と一緒にアメリカへ渡りましたが、最年少 は津田梅子の七歳。父親は、日本に西洋農法を採り入れた佐倉藩出身の津田仙で す。山川浩や健次郎の妹捨松は十一歳てした。こんな年端のいかない子供をよく ぞ外国へ出したものだと思いますが、捨松の母は言ったそうです。「お前を捨て たつもりで遠いアメリカへやるが、立派に学問を修めて帰って来る日を毎日毎日 心待ちにしている」.捨てて待つ、咲子という名前を捨松に改めさせた、この二 つの文字には、そんな切ないほどの母親の気持ちがこめられていたのです。五人 の娘の父兄は、山川浩が幕府外国奉行の1員としてヨーロッパへ行ったように、 全員が外国経験を持っていましたC 自分たちは敗れて日陰の身だが、娘や妹たち に西洋の学問と知識を身につけさせておけば、やがて日本がそれを必要とする日 が必ずやって来ると思ったのですo 津田梅子は現在の津田塾大学の前身、女子英 学塾を創設して日本の女子教育の先駆者となりましたo 山川捨松は、かっては会 津の城攻めに参加し、日露戦争では満州軍総司令官となる薩摩出身の大山巌夫人 になります。 柴五郎は陸軍大将まで進み、昭和二十年の暮れ、日本の敗戦を見届けたように 八十六歳で亡くなりました。その生涯は、石光真情の長男で毎日新聞の記者をし ていた真人が、直接話を聞いて「ある明治人の記録 会津人柴五郎の速書」と掃う 本に纏めています。「近ごろの軍人はすぐ鉄砲を打ちたがる。国の運命を賭ける 戦というものは、そのようなものではない」と、ある時は厳しく、ある時は淋し そうな面持ちで話していたそうです。また「中国という国は、鉄砲だけで片付く 国ではない。中国人は信用と面子を尊ぶ。日本は彼らの信用を裏切ったし面子も 汚した。こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼らはついてこ ないでしょう」Cそして「この戦は残念ながら負け戦です」と、断言したというの ですo柴五郎は自慢話をしない人でしたo義和団事件のことを聞かれても「軍の 一員として働いたまで」と多くを語りませんでしたが'見事な明治人だったよう に思います。 ところで、オランダのローリング判事は竹山道雄にこうも言っています。「昔 の日本が捕虜を遇するに礼をもってしたことは、世界に認められたことだ」。日 露戦争の時には全国二十九か所に停虜収容所が作られましたが、中でも四国の松 山は、ロシア兵が「マツヤマ」と言いながら両手を挙げて来るくらい、待遇の良い 収容所で知られていましたo ロシア兵捕虜が1般市民と全く同じに、市内を自転 車で乗り回したり、道後温泉に遊びに行く光景が見られたのです。これを「自由 散歩」と言ったんだそうですが、当時の新聞にこんな記事が出ています。静岡で 自由散歩が許されれば、捕虜が遊廓へもやって来るだろうo娼賂たちが「敵国の 男に玩ばれるのは、戦で負けるより幸い話」と、客にするな、遊ばすなと、体を 売らない「不売同盟」を決議したというのです。朝日新聞は「近頃殊勝の心がけな り」と書いていますが、こんな記事が出るくらい捕虜の扱いはゆるやかなもので した。太平洋戦争の時は「鬼畜米英」などと、盛んに国民の敵慢心を煽ったもので したが'ロシアと国交断絶直後、読売新聞は「在留露人を優遇せよ」という社説を 掲載しています。偏狭な愛国心で、日本に残っているロシア人にいやな思いをさ せないようへ細やか過ぎるほどの神経を遣っていたのですC 明治という時代は、前にも話しましたように、幕末のどさくさに結ばされた不 平等条約を'どうやって改正するかに苦闘した時代でした。安政五年、一八五八 年にアメリカなどと結んだ「安政の五条約」では、外国人が日本で犯罪をしても日 本に裁判権がありません。関税も一律五%に押さえられました。治外法権を撤廃 させたのが明治三十二年、関税を自由にかけられ五関税自主権を回復するのは実 に日露戦争が終わった後、明治四十四年なのです。日露開戦が決まった時、山本 海軍大臣は出先の艦隊長官'司令官に大臣訓示を打電させています。「我ガ軍隊 ノ行動ハ'常こ人道ヲ逸スルガ如キコトナク、終始光輝アル文明ノ代表者トシテ 恥ズルトコロナキヲ期セラレムコト、本大臣ノ切こ望ムトコロナリ」。いいです ね。海軍大臣が「勇戦奮闘を望む」ではなく、人道を外すな、文明の代表者として 恥ずかしくない行動をとれ。私の好きな言葉なのでよくこの話をするのですが、 ていた真人が、直接話を聞いて「ある明治人の記録 会津人柴五郎の速書」と掃う 本に纏めています。「近ごろの軍人はすぐ鉄砲を打ちたがる。国の運命を賭ける 戦というものは、そのようなものではない」と、ある時は厳しく、ある時は淋し そうな面持ちで話していたそうです。また「中国という国は、鉄砲だけで片付く 国ではない。中国人は信用と面子を尊ぶ。日本は彼らの信用を裏切ったし面子も 汚した.こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼らはついてこ ないでしょう」。そして「この戦は残念ながら負け戦です」と、断言したというの です。柴五郎は自慢話をしない人でした。義和団事件のことを聞かれても「軍の 一員として働いたまで」と多くを語りませんでしたが'見事な明治人だったよう に思います。 ところで、オランダのローリング判事は竹山道雄にこうも言っています。「昔 の日本が捕虜を遇するに礼をもってしたことは、世界に認められたことだ」。日 露戦争の時には全国二十九か所に停虜収容所が作られましたが、中でも四国の松 山は、ロシア兵が「マツヤマ」と言いながら両手を挙げて来るくらい、待遇の良い 収容所で知られていました。ロシア兵捕虜が一般市民と全く同じに、市内を自転 車で乗り回したり、道後温泉に遊びに行く光景が見られたのです。これを「自由 散歩」と言ったんだそうですが、当時の新聞にこんな記事が出ています。静岡で 自由散歩が許されれば、捕虜が遊廓へもやって来るだろうo娼妓たちが「敵国の 男に玩ばれるのは、戦で負けるより幸い話」と、客にするな、遊ばすなと、体を 売らない「不売同盟」を決議したというのです。朝日新聞は「近頃殊勝の心がけな り」と書いていますが、こんな記事が出るくらい捕虜の扱いはゆるやかなもので した。太平洋戦争の時は「鬼畜米英」などと、盛んに国民の敵慢心を煽ったもので したが'ロシアと国交断絶直後、読売新聞は「在留露人を優遇せよ」という社説を 掲載しています。偏狭な愛国心で、日本に残っているロシア人にいやな思いをさ せないようへ細やか過ぎるほどの神経を遣っていたのです。 明治という時代は、前にも話しましたように、幕末のどさくさに結ばされた不 平等条約を'どうやって改正するかに苦闘した時代でした。安政五年、1八五八 年にアメリカなどと結んだ「安政の五条約」では、外国人が日本で犯罪をしても日 本に裁判権がありません.関税も1律五%に押さえられました。治外法権を撤廃 させたのが明治三十二年、関税を自由にかけられ冬関税自主権を回復するのは実 に日露戦争が終わった後、明治四十四年なのです。日露開戦が決まった時、山本 海軍大臣は出先の艦隊長官、司令官に大臣訓示を打電させています。「我ガ軍隊 ノ行動ハ'常こ人道ヲ逸スルガ如キコトナク、終始光輝アル文明ノ代表者トシテ 恥ズルトコロナキヲ期セラレムコト、本大臣ノ切こ望ムトコロナリ」。いいです ね。海軍大臣が「勇戦奮闘を望む」ではなく、人道を外すな、文明の代表者として 恥ずかしくない行動をとれ。私の好きな言葉なのでよくこの話をするのですが、 この文明というテーマこそ、条約改正に苦労した日本が常に心がけてきたこ.'i)だ ったのです。山本をはじめ乃木、東郷と、上に立つ者にこの姿勢があったからこ うそ、軍隊もまた国際法をよく守ったのですo 日露戦争の頃までは、陸軍士官学校 でも海軍兵学校でも、国際法の時間をたっぷりとって教えていたそうですo 捕虜と聞くと、すぐ思い出すのが戦争中の「戦陣訓」です。「生きて虜囚の辱を 受けず'死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」 - この「戦陣訓」の考え方が国際法 の勉強不足、ひいては玉砕や捕虜虐待にもつながることにもなりましたが、実は その流れを作ったのが昭和七年の上海事変でしたo 重傷を負って中国軍の捕虜に なった金沢の第九師団大隊長空閑昇少佐が、停戦協定が成立して送還された後、 ピストル自決したのです。強制があったのかどうかははっきりしませんが'日頃 「チャンコロ、チャンコロ」と軽蔑していた中国軍に捕虜になるなんてことは、許 されないことだと思ったのでしょうC その際陸軍大臣の荒木貞夫は 「最高の軍人 精神を発揮して死の道を選んだのだろう。立派な名挙の戦死だ」。こういう大臣 談話を発表し、新聞もまた大々的に取り上げましたし、空閑少佐は軍国美談の主 人公として映画にもなりました。そしてこれ以後、日本の軍人には「勝利か死か」 しかなく、捕虜は許されない風潮が出来上がっていったのです。 日露戦争の頃も、誰もが「捕虜になるのは恥だ」と思っていました。しかし、そ れはl人1人の心の問題であって、「捕虜になったら死ね」などヒ国家が死を強制 するような思想はなかったのですo 日露戦争が始まると、政府はすぐ「伴虜情報 局」 という、太平洋戦争の時には考えられないような機関を作っています。明治 三十二年のハーグ条約によって設置が義務づけられたもので、十日ごとにロシア の利益代表である日本駐在フランス公使を通じて、ロシア軍捕虜に関する情報を ロシア政府に伝える態勢をとりました。ロシアの方も、日本の利益代表のロシア 駐在アメリカ大使を通じて適宜通報してきましたから、お互いに自国の捕虜につ いては正確な情報を持っていたわけです。 ロシア軍捕虜は八万六千。日本軍では、奉天の戦いで重傷を負って捕虜になっ たた第七師団第二十八連隊長の村上正路大佐以下二千八十八人が捕虜になってい ます。日本の捕虜の多くは、モスクワとペテルブルクの中間にあるメドヴエージ 村に収容されましたが、捕虜の扱いとか処分を見ると、「明治の日本」がよくわか ります。処分で明暗を分けたのは、捕虜になったとぎ戦闘部隊と7緒に行動して いたかどうかでした.捕虜第1号は、韓国義州領事錆付武官の東郷辰二郎少佐で すが、開戦直後、国境付近のロシア軍の動静を調べるよう命令を受け、憲兵五人 と領事館に留まっていたところをロシア軍に捕まったのですo しかし恵兵は戦闘 部隊ではありませんから、帰国後の審問会議でも 「捕まったのは任務遂行中の不 注意」 ということで、三十日の謹慎処分で済んでいます。しかも東郷少佐の情報 が軍の作戦に役立ったとして、軍人にとって最高の栄挙である金鴻勲章を授けら れ、少将にまで進級しているのです。 ' P J 対照的だったのは、輸送船金州丸に乗っていて捕虜になった八人の将校です。 三十七年四月二十五日の夜、金州丸が一個中隊百二十五人を輸送中、朝鮮北部の 元山沖でウラジオ艦隊に攻撃され、多数の死者と捕虜を出したのです。海の上で どうにもならない状況だったのですが、一個中隊は戦闘部隊ですから将校は全員 が免官処分になっています。戦争が終わって一年後、その処分は官報にさりげな く掲載されました。捕虜になったための処分だとは、誰も気付かないような扱い でしたし、行政処分だけで彼らの中で軍法会議にかけられた者はいません。それ に捕虜になっても、留守宅には毎月給料がきちんと届けられましたし、メドヴエ ージ村で死亡した捕虜四十四人、その遺族には遺族扶助料が支給されているので す。政府にも軍にも、「捕虜は公務中」の認識があったことになります。 もっと驚くのは、旅順口閉塞作戦で捕虜になった将兵に、司令長官の東郷は木 杯と時計を贈って、その武勲と勇気を潰えているのです。旅順の狭い港の出入口 にポロ船を沈めてロシア艦隊を閉じ込めようとしたのですが、軍神広瀬武夫中佐 が戦死したように、砲台に囲まれた中へ突入するのですから命懸けの作戦です。 東郷はこの作戦が提案された時、「危険が多過ぎる」と言って簡単には首を振りま せんでした。夜間の作戦とすること、沈めに行く船に水雷艇を1.隻ずつつけ隊員 の収容に当たらせること。隊員救出に1応の手を打った上で、やっと許可したの ですが、それでも五月三日の第三次閉塞作戦では戦死六人'生死不明七十四人の 大きな犠牲を出しました。そのうち十七人が捕虜になったのですが、彼らが旅順 陥落とと共に解放された時、東郷には決死の作戦を志願した彼らの気持ちが、痛 いほどわかっていたのでしょうo 贈られた時計には「贈第三回閉塞隊員○○君東 郷大将」と、隊員7人一人の氏名が刻まれ、木杯には「勇ましく仇の港を閉ざし つる君がいさをは千代も薫らむ」と、東郷自作の歌が詠み込まれていたのです。 東郷はロジエストウエンスキー中将に、「祖国のために立派に戦って義務を尽く せば、軍人の名挙は傷つきません」と言っていますが、決して気休めに言ったの ではなく'東郷自身そう思っていたのですo 日本兵捕虜について、1般社会はどうだったのでしょうか。読売新聞は三十七 年十1月、「大いに我在露捕虜を慰むべし」C こういう社説を掲載Lt翌日社告を 出して慰問晶を送る呼び掛けをしたところ、フランス政府を通じて送ったので社 員が総出でフランス語の宛名書きをしたほど、たくさんの慰問品が集まったそう です。これを見ても、社会全般には暖かな気持ちのあったことがわかりますが' 冷たかったのは狭い地域社会の目でしたo姫路の第十師団は奉天の戦いで壊滅的 な打撃を受け、負傷者を前線に残したまま退却したので大勢の捕虜を出しました が、恵兵の帰国捕虜に関する調査では「本人も大いに謹慎し何ら戦況を口外しな い」、また「あいつは捕虜になったんだ」という近所の陰口で引っ越していった例 も報告されています。 ヽ b 日本兵捕虜には、姫路師団のように重傷を負って意識不明になり'捕虜になっ たケースが多かったのですが、捕虜を恥じる気持ちは強かったのでしょう。ハル ビンのロシア軍墓地には捕虜になって病死した日本兵も埋葬されていましたが、 墓標に書いてある連隊名は、当時の日本軍隊にはない 「第何百連隊」 といった、 架空の連隊名ばかりなのですo名前ももちろん変名でした。戦後になって陸軍省 がいろいろ骨を折って調べたのですが'墓標の主はわからず、彼らは本当の名前 は沈黙したまま、異境の地に眠っているのです。 石光真情の手記「境野の花」には、こんな話も出てきます。まだ日露戦争が始ま る前'三十五年のことです。石光が情報収集の旅行中、突然ロシア兵に呼び止め られ隊長の所へ連行されましたo その隊長が言うには、ロシア軍がこの町を占領 した時、清国の監獄に日清戦争の日本兵捕虜が収容されていた。衰弱がひどいの で野戦病院に収容して手当てしているが、二百も口をきかない。周りの囚人も六 年間も黙ったままなので、聾唖者だと思っている。「君なら同じ日本人同士、心 を開くだろう」と言うのです。捕虜は骨と皮だけに痩せこけ、石光が「僕は日本人 だ」 と呼びかけても'静かに両目を開いただけでまた閉じてしまいました。石光 が足をさすり、頭を撫でながら 「君の精神は立派だ。ただ二百、三日でよい。話 してくれ給え」 と言うと、閉じた両眼から大粒の涙が止め所なく流れ出したとい うのです。石光は1睡もしないで「君のお陰で日本は大勝利だった」と語り続けま したが、その捕虜は翌朝、何も言わないまま息を引き取りました。野戦病院の院 長は 「彼は六年ぶりに日本語を聞き、日本人の顔を見て、そして日本人に看護さ れて嬉し涙に暮れた。恐らく故郷に帰って、肉親に介抱されていると思いながら rT本刀土俵入」 とか 死んだのだろう」 と言ったそうです。こうした日本兵捕虜の沈黙は、国家が強制 したものではありませんでした。それだけに、余計に当時の軍人の健気さといっ たものを感じるのです。 四十年ほど前ですが、私が大変感動した本がありますo 「険の母」の作者として知られる、長谷川伸の書いた「日本捕虜志」という本です. この本は、日露戦争のこんな情景から始まっています。ある中隊に 「ロシア兵を 二人捕虜にしたから、希望者は見学に来い」 という連絡が来ました。中隊長が兵 隊を集めて、見に行くかどうか尋ねると、半数の者が手を挙げませんo 訳を聞く と'ある1等卒が「気の毒です.武士は相身互いであります」と答えたと言うので す。「自分は職人でしたが、軍服を着たからには日本の武士であります。敵なが ら武士であるものが運悪く捕虜になって、あっちこっちと引き回され、見せ物に されるのは'さぞ残念至極でありましょうC 見学に行って辱めたくありません」 1中隊長は 「我が意を得た」 思いで見学を止めたというのですが、長谷川伸は 「その頃の日本人の間には、この一等卒と同じ心の線を心に抱いているのが正常 だった」 と書いています。 ' t _ ロシア軍にもいい帯があります。奉天の戦いの時です。ある中隊がミシチエン コ騎兵団の波状攻撃で中隊長以下ほとんどが戦死、全滅に瀕しました。代わって 指揮をとっていた鈴得巌少尉も重傷を負い、「もうこれまで」と軍刀でノドを刺し ましたが、気が付くとロシア軍のベッドでした。「捕虜になった」と、唇を噛んで 自決を図ったものの果たせません。二、三日して枕元に現われたのが司令官のミ シチエンコ中将でした.中将は 「ロシア軍は撤退するが'少尉をこのままここに 置いていくから、自由に部隊に帰っていい」と言いますoそして鈴得の豪胆さを 褒め、その武勇を顕彰する意味で、血痕のついた軍刀を返してくれたというので す。鈴得少尉は帰国後、郷里群馬県三郷村の村長になりましたが、ロシア軍にも 騎士道精神は健在でした。 この「日本捕虜志」は、日露戦争を中心に日露両軍の捕虜の話を回顧録や手記な どから丹念に拾い集めたものです。実は、長谷川伸がこの原稿を書き始めたのは 支那事変の頃だったというのです。お弟子さんの中には戦地へ行った人も多く、 その話を聞くうちに、「どうも日露戦争の時と違う」 -これが動機だったとい います。 「日本捕虜志」には、東京裁判で死刑になった南京攻略軍司令官松井石根大将の 話が出てきます。松井は死刑判決を受けた時、死刑囚の教海師を務めた花山信勝 東大教授に、こう言ったそうですC 「南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人も1 しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関する ことでしょういって、師団長はじめあんなことをしたのだ」.松井大将が指して いるのは'自ら責任を問われた南京虐殺事件のことです。三十万人殺したとか、 いや、そんな大虐殺はなかったのだとか、未だにいろいろいわれていますが、松 井はこう続けています。「自分は日露戦争の時、大尉として従軍したが'その当 時の師団長と今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。 日露戦争の時はシナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、停虜の取 扱いその他、よくいっていた。今度はそうはいかなかった.武士道とか人道とい う点では、当時と全く変っておった」。そして「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍 総司令官として泣いて怒ったo折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって 一挙にしてそれを落としてしまった、と。ところが、このことの後で、皆が笑っ たo甚だしいのは、ある師団長の如きは﹃当り前ですよ)とさえ言った」o松井は 「従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に1人で も多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい」 -大変重い言葉ですo この話は十二年前に九十七歳の高齢で亡くなられた花山さん自身、「巣鴨の生と 死」という本に書いています。 本土の空襲が激しくなった頃、「日本捕虜志」の原稿は四百枚ほどになっていま _ . + した。長谷川伸は空襲警報のサイレンを聞いては、原稿をスーツケースに詰めて 自宅の前に掘った穴に埋めました。そして解除を聞いては、また掘り出して原稿 を書き足したのだそうです。たとえ自分は空襲で死んでも、土の中に埋めて残し たかったものは何だったのでしょうか。後書きには、こうあります。「日本に関 する捕虜に就て、世界無比の史実を聞明し、どの程度かは知らず残存する日本人 の間にー語り継ぐべき資料を遺さんとした。その故にこの草稿を地中に埋め、降 りそそぐ戦火を避けたのである。地中の物はいつの暗にか何かのことあって掘返 されることがある。然らばだれかがこの未完成の稿本を; いつかは発見して完成 してくれるだろう」。 きょうは、日商戦争勝利の日から太平洋戦争までの四十年、この二つの戦争の 間に、日本人は何を失い、どう変質していったのか。また藤原正彦さんの言う、 バブル崩壊後に日本は何を失ったのか-そのことをもう1度考え直してみるた めに、「日露戦争とその時代」 というテーマで話してみました。