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■第十九章 時間(Time)の考察 たとえばカントは、時間というものを経験に先立つ(ア・プリオリな)人間の側(主 観)の認ݥ原理であるとし1、物の存在は、この時間という認ݥ原理に従うと述べてい る。またその上で−−若干わかり難い表現ではあるが−−我々の感官の対象となる物(現 象)によってしか時間というものは現れることができないということも認めている。2つ まり時間というものは、人間が認ݥしようがしまいが存在しているような実体ではないの である。 1.カントにとっては時間も空間も、ともに人間の経験に先立つア・プリオリな認ݥの形 式である。「感性の二つの純粋形式であるところの空間と時間とが、ア・プリオリな認ݥ の原理であることが判る」純粋理性批判篠田英雄訳岩波文庫(上巻)pp.88-89 2.純粋理性批判 岩波文庫(上巻)には下記のような表現がある: 時間は、現象に関してのみ客観的妥当性をもつ、すでに現象というからには、それは我 々が我々の感官の対象と見なすような物だからである。(中略)それだから時間は、我々 (人間)の直観(この直観は常に感性的である、それは−−我々が対象から触発される限 りにおいて、ということである)の主観的条件にほかならない。pp.101-102 我々の経験には時間という条件に従わないような対象は決して与えられない。しかし我 々は、時間が絶対的実在性を要求することをいっさい拒否する、かかる実在性は、我々の 感性的直観の形式を無視して、物の条件或は性ݵとしてそのまま物に付属することになる からである。物自体に帰せられるような性ݵは、感性によっては決して我々に与えられ得 ない。これが時間の先験的観念性(主観性)の主旨である。要するに、もし我々が感性的 直観の主観的条件をすべて度外視するならば、時間は自存するものとしても、また(対象 自体の性ݵ或は関係として、対象自体に)付属するものとしても無であり、対象自体(物 自体)に(対象自体は我々の直観には関係しないから)に帰せられるものではない、とい うのが時間の先験的観念性なのである。p.102 しかしこの直観形式は、対象そのものにおいて求められるのではなくて、対象が現れる ところの主観において求められねばならない、それにも拘らずこの直観形式は、対象自体 の現れであるところの現象に、現実的かつ必然的に属している、ということである。 p.105 190 空間および時間の絶対的実在性を主張する人達は、空間および時間を自存するものと考 えるにせよ、或は物自体に付属するものと考えるにせよ、経験そのものの原理と矛盾せざ るを得ないだろう。空間および時間は自存するものである、という説を採用すれば(一般 に数学的自然科学者はこの説にくみする)、彼等は二つの永遠にして無限な、しかもそれ だけで存立するという不可Ϻなもの(空間および時間)を想定せざるを得なくなる、する とかかる物は、ただ一切の現実的なものを包括するためにだけ存在する(しかし現実的な ものとしてではなく)ということになる。p.106 直接時間について述べているのではなく、空間についてだが、以下のような表現もあ る: 我々が外的直観をもち得るための唯一の条件、即ち対象から触発せられるという条件を 捨ててしまえば、空間表象というものはまったく無意味である。空間という述بは、物が 我々に現れる限りにおいて、つまり物が感性の対象である限りにおいてのみ、物に適用せ られるのである。p.94 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− またウィトゲンシュタインは時間についてよりはっきりと、時間というものが、出来事 の経過によってしか表せないということを明記している。2こうした考え方とナーガール ジュナの時間論とが大きく異なるわけではない。ナーガールジュナ自身も、時間というも のが独立して単体で存在できるような実体ではないことをこの章で主張しているのであ る。時間とは事象の関係によってこそ示されるものである。 2.「いかなるできごとの経過も、「時の経過」なる何ものか−−そんなものは存在しない −−と比йすることはできない。できごとの経過はただ他のできごとの経過(たとえばク ロノメーターの動き)と比йしうるのみである。それゆえ時間的な過程の記述は、他ので きごとの経過に依拠してはじめて、可能となる。」 論理哲学論考 6・3611 野矢 茂樹訳 岩波文庫p.140 191 1. もし現在と未来とが 過去に依存しているのなら 現在と未来は 過去にも存在していたことになるだろう 1.意訳 (あなたがたは時間というものを実体だと考えているようだが、その上でなお、)もし現 在と未来とが、(なんらかの意味で)ともに過去に依存しているというように表現するこ とをԘすなら、現在と未来とは、過去にも存在していたことになるだろう。(現在と未来 とが、過去と実体として別物ならば、時間という実体が複数存在し、相互に依存したりせ ずに並行して存在していることになるはずだし、もし現在や未来が過去に依存して生じて くるならば、過去も現在も未来も皆一つの実体であり、現在の中には過去も含まれ、結局 のところ現在と未来は過去にも存在していたということになるはずだからである。) 時間を実体存在だと考えると、奇妙ない回しを考え出さざるを得なくなった挙げ句に 矛盾に突き当たるということである。ナーガールジュナはそうした矛盾を示してみせる手 に出ようというのである: まず、過去と現在、未来とが別々の実体として存在しており、それぞれが原因と結果の 関係であるというい方は矛盾している。もしそううとするなら、原因としての過去が 存在しているときは結果としての現在や未来は存在しないし、結果である現在や未来が存 在しているときには原因としての過去は存在しないとしかいようがない。なぜなら実体 はその定義上、他のものを必要としないで単独で存在できるものだからである。そこで、 関係性という実体がもう一つ存在していて、実体である過去と現在、未来とを関係させて いる、などとおうものなら、その場合は過去と現在、未来とが同時に存在していなけれ ばならないことになるのである。一方、過去と現在、未来とが一つの実体なら、それを分 割して相互に依存しているというようない方には意味がないことになる。 192 2. もし現在と未来とが そこthere(過去)に存在していなかったのなら どうしたら現在と未来とが それit(過去)に依存するなどということがӑこり得るだろうか 2.意訳 (時間というものが実体であり、その上で)もし現在や未来が過去には存在していなかっ たなら、どうして同時に存在していなかったもの同士が相互に関係し合い、「過去に依存 して現在と未来とが生じる」などとうことができるだろうか。 3. もしそれらthey(現在と未来)が過去に依存していないのなら その二つのどちらも成立beestablishedできなくなるであろう したがって現在も 未来も存在しないことになるはずである 3.意訳 もし現在と未来とが過去に依存していないなら、現在も未来も(成立根拠を失うことに よって)成立不可能だということになる。(なぜなら、現在というものは過去と未来との 位置関係から「現在」と呼ばれるのであり、もし仮に過去も未来も存在しないときの時間 というものが存在するなら、それを「現在」とは呼ばないはずだからである。)したがっ て現在も未来も存在しないことになる。 4. 同じ方法で 残りの二つの区分−−過去と未来や、 上に、下に、真ん中に、なども 単一性、などということも理Ϻされるべきである 4.意訳 同じ論法を過去や未来にあてはめることもできる。(過去というものは現在との関係で 「過去」と呼ばれるのであり、未来も現在より先という関係性から「未来」と呼ばれるの 193 である。現在という時間の位置関係に依存せずに過去というものを考えたり、現在や過去 という時間を念頭に置かずに未来という概念を成立させたりすることはできないのであ る。同様に、)上、下、真ん中、などという概念についてもえる。(上というのは下と の関係から上と呼ばれるのであり、上だけが絶対的位置として単独で存在するなどという ことは矛盾である。)単一性、という概念も同じである。(複数から成るもの、という考 え方があってはじめて、一つのものから成る、と考えられるのである。) この論議はフェルディナン・ド・ソシュールがう、個々の概念の相対的位置関係によ ってのみبが成立するとする考えとまったく同じである。これはب記号同士の差異に よってのみ、事物が何であるかが決するという考え方でもある。بによって表されたも のは、固有の本ݵを持ってそのもの単独で存在する実体などではあり得ない。 5. ࣱ止することのない時間は把握し得ない ࣱ止した時間が存在しているものだという具合には いかなるものも理Ϻできない もし時間が把握begraspedできないものなら、どうやってそれは知り得るbe knownのであろうか 5.意訳 (実体として存在するようなものなら、)時間というものはࣱ止した一点としてしか理Ϻ することはできない。(なぜなら、実体というものは変化せずに、そのものの性ݵを永遠 に持ち続けるものであり、時間に時間幅があるということは何かの変化を前提にすること だからである。何も変化のないとき、時間をֵる術はない。時ֵを見ながら「何もӑこら ない」とうにしても、少なくとも時ֵの針は動いて変化している。)かといって、ࣱ止 した一点としての時間が実体として存在しているのだ、という具合に考えるのも矛盾であ る。(ࣱ止しているなら、過去も現在も未来も時間幅のないところに存在しているのであ り、同時に存在しているとえるだろう。また前述のように、「過去」という一点の時間 が、現在や未来と関係なくそれ単体で存在している、などとも考えられないわけである。 したがって実体としての時間、という考え方は筋が通らない。) 194 6. もし時間が何らかのある存在entityに依存しているならば その存在なしにどうやって時間が存立し得るだろうか 実在する存在existententity(実体)というものはないのである それならば時間はどうやって存在できるのだろうか 6.意訳 (時間というものを思い浮かべるとき、我々は必ず何かの出来事を想ӑするのである。あ ることがӑこった、あの「過去」というように。時間というものは常に、そのときにӑき た何らかのある出来事の存在に依存している。)もし時間が(そのように)何らかのある 存在に依存してしか表現できないならば、その存在なしに、(つまりそのときӑきた出来 事抜きの単体で、)どうして時間というものが成立するだろうか。時間の内౮に存在する いかなる存在も、実体ではあり得ないということは今までに検証してきた。(ということ は、時間を表すための出来事が、時間が依存する出来事のすべてが、実体ではないのであ る。)それならば、(実体としての)時間はどうやって存在できるというのだろうか。 ここでは注2で引用したウィトゲンシュタインの考えと同様、時間の経過というもの は、それを刻む出来事抜きには存在できないという考えが下敷きにされている。クロノメ ーターの針の動きを読むことで、相対的に時間という概念が知られるというわけである。 この݃で存在と訳した葉は、今までの例でうと実在と訳すことが多かった。その場 合はそれが実体存在の意味であったためにわざわざそういう色をつけてبを選んでいたの であるが、ここでは存在と訳した方が意味がわかりやすかったので、そうしておいた。実 体論者の立場に立つ形で最初の二行を実在と訳しても意味は通るが、実体を想定しない場 合でも、ある対象物の変化によってこそ時間の経過というものを知ることができるという 一般的な論点を土台にしているのであるから、存在というبの方が良いであろう。 195