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哲学的身体論序説 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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哲学的身体論序説 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
1章 身体の哲学的考察 : 哲学的身体論序説(I部 現代身体論の基本問
題)
Author(s)
井上, 義彦
Citation
身体論の現在 (長崎大学公開講座叢書 8) p.3-12
Issue Date
1996-06-28
URL
http://hdl.handle.net/10069/6334
Right
This document is downloaded at: 2017-03-30T13:33:00Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
1章 身体の哲学的考察
一哲学的身体論序説井上 義彦
1節 身体 という言葉の意味
身体 とは何か,身体はわれわれ人間にとって,いかなる意味や価値を持っの
か, これを問題にするのが 「
身体論」(
bodyt
he
or
y)である。
身体論 は,現代思想の一つの中心的なプロプ レマティーク (
問題機制)に
なっている
。
では,なぜに現代になってはじめて,身体論が哲学の中央に登場するに至っ
たのであろうか。
身体 といえば,あ らためて論ず るまで もな く身近で熟知の 自明の ものであ
る。 しか し,アウグスティメスが問 うた 「
時間」の ことを考えて も分 るよう
に,よ く知 っているつ もりの もので も,あ らためて問われると説明に窮するも
のがある。「
身体」に対 して も,それが言える。われわれは身体の ことをよ く
知 っているつ もりである。 しか しわれわれは身体の何を知 っているのであろう
か。
日常生活では, 日本語では 「
身体」 と 「肉体」 とは,それほど区別されず殆
んど同 じ意味で用い られている。 しか し,では身体 と肉体 とは同義であり,両
語に区別はないのかといえば,やはり両語の問には微妙なニュアンスの差があ
ると言わざるをえない。
このことは, ヨーロッパ諸国語の間にも見受けられることであ る.
bodyとf
l
e
s
h, ドイツ語では,K6r
pe
r(
または Le
i
b)と Fl
e
i
s
c
h,
英語では,
or
psと c
hai
r
,ラテ ン語では,c
or
pusと c
ar
o,などの区
フランス語では,c
別が,おおまかに日本語の身体 と肉体の区別に対応 している。
- 3-
注 目すべ きことは,「
身体」を意味す る body, KO
r
pe
r
,c
or
ps
,c
or
pus
は,いずれ も 「肉体」を含意 しているのと同時に,共通に 「
物体」を意味 して
いることである
。
つまり,「
身体」概念 は, 日本語であれ, ヨーロッパ諸国語であれ,共通 に
「肉体」 と 「
物体」 という二義性を含意 していることが指摘で きるのである。
か らだ (
身体)」 については,岩波古語
ところで, 日本語の 「
み (
身)」 と 「
身体
辞典 によれば,「
身 (
み)」 は生命 の こもった肉体 をい うのに対 して,「
(
か らだ)」 は生命の こもらない形骸 としての身体 を指す との ことである。
従 って,「
か らだ」は,「
生命や精神を捨象 して考えた肉体」を第一義 とする由
である。
確かに,「
み (
身) もこころ (
心) も」や 「
われ とわがみ (
身)
」
,あるいは
「
皆人のか らだばか りの寺参 り,心は宿 にかせ ぎをぞす る」などの用例か ら,
身 と心,我 と我が身,身体 と心の間には,微妙だが意識的な使い分けがなされ
ているのが推察 され うる。
また,「こころ (
心)」 は,同 じく岩波古語辞典によれば,生命 ・活動の根源
的な臓器 と思われていた心臓。その鼓動の働 きの意が原義 とあ り,そこか ら,
広 く人間が意志的,気分 ・感情的,また知的に,外界に向 って働 きかけて行 く
動 きを,すべて包括 して指す語を言い,類義語 「
恩ひ (
オモ ヒ)」 が, じっと
胸に秘め, とどめている気持をい うのに対 し,「
心 (ココロ)」 は基本的には物
事 に向 う活動的な気持を意味す る。また状況を知的に判断 し意味づ ける意か
ら,訳 ・事情などの意 とされている。
「
心」は心臓の鼓動の働 きを語源 とし,「
身」は生 きた身体を語源 としてい
身 (
み)」 も,「
生命」や 「
生 きた身体」
た。 このように,「
心 (こころ)」 と 「
と密接に関係 しているのである。
命,生命)」 は,や
さて,「
生 き」は 「
息 (
イキ)」 と同根であ り,「いのち (
はり岩波古語辞典によれば,「イは息 (
いき),チは勢力。従 ってイノチは 「
息
の勢い」が原義」とある。古代人 は,生 きる根源の力を眼に見えない勢いの働
きと見た らしい。「い のち」の 「ち」は, 自然物の持つ激 しい力 ・威力をあ ら
わす語 「ち (
霊)」 を語源 とす る
。
従 って,「いのち (
命 ・生命)」 は,「
息」 と 「
霊力」を語源 としているので
- 4-
1章 身体の哲学的考察
ある。
日本語の 「
いのち」 という言葉が,「息」 と 「霊力」 という二義性を持つ こ
とは,やはりイン ド・ヨーロッパ語系にもほぼ等 しく当てはまるのである
。
サ ンスクリッ ト語の at
man (
アー トマ ン)は,呼吸するという意味 と同時
に生命 とい う意味を持 ってお り,そ して 「ブラフマ ン (
宇宙霊)」 に対す る
「
個人霊」の意味を持 っている
。
これに対応する ドイツ語の a
t
me
nは,呼吸
yc
heは,気息 (
呼吸) という意味 と
す るという意味である。 ギ リシア語の ps
ma も呼吸 (
忠
霊魂,精神,生命 とい う意味を持 っている。 ラテ ン語 の ani
吹)という意味と生命や霊魂 という意味を両方 とも所持 しているのである。英
mal(
動物)や仏語 の ame (
霊魂) は,すべてラテ ン語の
語 や仏語 の ani
ani
maに由来するのである。
2節
デカル トの心身二元論
このように, 日常的用法では, 日本語で も欧米諸国語で も生命,身体,霊魂
は歴史的にも観念的にはほぼ共通ぢ意味あいで用いられてお り,それほど厳密
に分節 されて使用されていなか ったことが分 る。 ところがそれが,デカル トの
哲学的考察の下で 日常的な意味を剥奪 されて物質化されていく
。
デカル トによると,人間の精神は思惟を本質 とする実体であり,物体は延長
を本質 とす る実体である。従 って両者 は実体的に区別 され,「
実体的区別」あ
るいは 「
実在的区別」が成立す ることになる。 ここに,「
物心二元論」が成立
す る。合理主義的思考 とは,論理の飛躍な しに 「
等 しさものは等 しきものに
よって」説明され ることであると理解 され る。それ故デカル ト哲学 において
は,精神現象は精神的なものによって必ず説明されるべ きである。精神現象は
それと異質な物質現象によって説明されてはならず,逆 もまた しか りである。
か くして物心二元論は,各実体が他実体に依存せず 自存するものである限 り,
「
物心分離」のテーゼとな り,物心分離は物心間の 「
交互作用」の否定を招来
す ることになる。 ここに,主観 と客観,思考 と存在,意識 と実在,精神 と物質
といった対立の問題 と両者の媒介 ・統合の問題 とが,近世以降の哲学の課題 と
して浮上 して くるのである。 この二元論の問題は,近世か ら現代に至 る哲学の
-
5 -
歴史において常に克服,
され るべ き根本問題になっているのであるo
物心二 元論 のテ ーゼが,人 間 に当て はめ られ ると,有名 な 「
心 身 問題」
(
Mi
ndBodyPr
obl
em) を生起 させ る。つ ま り物心二元論が人間に適用 さ
esc
ogi
t
ans」 として,
れ ると,人間における精神 (
心)が 「
思惟す るもの r
同 じく人間の身体 (
肉体)が 「
延長す るもの r
e
se
xt
e
ns
a」 として規定され,
精神 と身体 との 「
実体的区別」あるいは,「
実在的区別」が帰結 し,そこに人
間における物心分離即ち 「
心身分離」が等 しく成立することになる。
デカル トは一方で こう言 う-
「
私を して私であ らしめる精神は身体 と全 く
『
方法序説』
)。あるいは 「
私が この身体な しに存在 しう
別個の ものである」(1)(
ることは確かである」(
『
省察』
)。
2
)
しか るに他方で,デカル トは,人間が 「
精神 と身体の合成体であ ること」(
(
『
省察』
)
,すなわち 「
精神が身体 と密接に結合 されている」 (
『
省察』
) こと,
従 って 「
精神 と身体 とが結合 して一つになるのは もっと緊密な ものであ る」
(
『
方法序説』
) ことを主張 して,いわば心身の
「
実体的結合」
,従 って 「
心身結
合」を肯定 しているのである。
これは,明 らかにデカル ト学説上の矛盾である。デカル ト自身 もこれを次の
ように是認 している。-
「
精神 と身体の区別 とその結合を,人間の知性がき
わめて判明かっ一時に把握で きるとは考え られない。そのためには,両者を一
3
)。
つのもの として捉えねばな らず,それは矛盾です」(
その上に,物心問の相互作用が否定 されていることは,同様に人間の心身問
の相互作用 (
交互作用) も否定 されていることで もある。 しか しなが ら経験の
周知の事実 として,人間存在が心身間の相互作用を行 っていることは実証 され
ているのである
。
では, これは如何 に説明すべ きであろうか。 ここに,「
心身問題」が発生 し
て,今 日まで解決困難なアポ リアとして,哲学の根本課題になっているのであ
る。
「
心身問題」の難問をデカル ト学説の矛盾 として哲学史上初めて指摘 したの
は,デカル トの愛弟子の王女エ リザベー トであった。
gl
anspi
neal
i
s
)
デカル トは,心身の交流が 「
精神の座」 としての松果腺 (
において,動物精気 を媒介 に して行 なわれ ると考 えた。 しか しエ リザベー ト
- 6-
1章 身体の哲学的要素
は, こう鋭 く質問 した-
「
全 く物体性を持たぬ精神が,かように物体 (
身
体)の運動を決定する, ということは矛盾ではないのか。一物体の運動の決定
は他の物体によって為される,従 って後者は前者 と 「
接触」 し且つ 「
延長」を
有するものでなければな らない。 しかるに,精神が動物精気の運動を決定する
とい う時には,それは物体 に直接 に働 きかけるのであ るか ら,「
接触」 は起
こっているはずであるのに,今一つの条件たる 「
延長」は精神に帰せ られてい
ない。 これは不可解である。む しろ精神 自体 もある延長を有するものとすべき
4
)
。
ではないか」(
エ リザベー トの批判は,まさに 「
等 しさものは等 しきものによって」説明さ
れるべ き限 り,心身の相関関係において,心が身体に影響を及ぼす以上,身体
という物体に物理的影響を与え うるものはそれ自身精神 (
心) も何 らかの物質
的存在性を有 さねばな らないという正当な根拠に基づ くものである。
デカル トは,エ リザベー トにこう返書 した。
「
私は,嘘いっわ りな く申 し上げますが,王女様の御質問は,私が今まで
出版 した書物を読んで後,私に対 して発 しうる最 も理にかなった御質問である
と思います。なんとなれば,人間精神には二つのこと,一つは精神が思惟する
agi
re
tpaこと,他は精神が身体に合一 していて,それに働 きかけ働かれる (
t
i
r
) こと,が属す るが,後者については私 は殆んど何事 も論 じてお らず,専
心ただ前者について世人の理解の徹底に努めてきたが、それ というのも私の主
`たる目論見が,魂 と肉体の区別を実証することにあったか らです」(5)。
さてデカル トは,「
思惟」 と 「
延長」及び 「
心身合一」を三種の 「
原始的観
念」 とする。そ して,「
心身合一」の観念は, 「
思惟」や 「
延長」 とちがい,
それ らに還元できない原始的な ものであり,それの派生観念 として 「
力」の観
念がある。つまりデカル トは,形而上学的なレベルでは,心身分離のテーゼを
堅持 し,日常的な生の レベルでは,心身合一のテーゼを是認するのである
。
デカル トは,心身問題を 「
心において受動 (
情念)なるものは,身体におい
ては一般 に能動である」 とい う立場か ら, 『
情念論』で主題的に論及 してい
る。
l
esPas
s
i
onsdel
'
Ame)が,心身の実在的区別 と心身の相互
『
情念論』 (
作用 とが どうして矛盾ではないのか という難問の解決 になっていないに して
- 7-
も,デカル トが心身問題を人間存在の情念 (
Pas
s
i
on)に,即ち感情に解決の
方向を見出 したことは,それ以後の展開を考えると示唆的である。
3節
スピノザとライプニッツ
スピノザは,『
エチカ』の中で,デカル トを批判 した-
「これがかの有名
な人の見解である。 もしこの見解が これほど尖鋭でなか ったな らば,私はそれ
がか くも偉大な人か ら出たとは殆んど信 じなかったであろう」(
6
)
。ス ピノザの
非難する理由はこうである-
「
一体彼 〔
デカル ト〕は,精神 と身体 との結合
を如何に解 しているのか。・
-・
・
彼は精神を身体か ら裁然 と区別 して考えていた
ので,この結合について も,また精神 自身について も,何 らの特別な原因を示
す ことが出来ないで,全宇宙の原因へ,即ち神へ,避難所を求めざるを得な
か ったのである」(7)。
心身問題に対するスピノザの解決策 は,「
観念の秩序 と連結 は物の秩序 と連
Or
doe
tc
onne
xi
oi
de
ar
um i
de
me
s
t
,
acor
doe
tc
onne
xi
o
結 と同一である(
r
e
r
um.
)
」(
8
)とい う物心、
平行論,従 って心身平行論である.つ まり現実の円
と, この円の観念 とは 「同一物であ り,それが異なる属性によって説明され
る」のである。 「
人間精神を構成す る観念の対象 は身体である」(
9
)
。 従 って,
「
我々の精神の対象は存在せ る身体であって,他の何物で もない」(
1
0
)
。そ して存
在せる身体の観念は人間精神である。同一の人間存在を,思惟 という属性の下
に解すれば 「
精神」であり,延長 という属性の下に解すれば 「
身体」である。
従 って 「
我々の身体の能動 と受動の秩序は,本性上,精神の能動 と受動の秩序
と同時である」㈹
。
これに対 して,ライプニ ッツは心身問題を有名な 「
予定調和説」によって説
明 した。「
精神 と身体 とが一致す るのは,あ らゆる実体の間に存する予定調和
によ る為 で あ り, それ はまた実体が元来悉 く同一宇宙 の表現だか らで あ
る」
u診 .
ライプニ ッツは,心身関係を二つの時計の比槍で説明する。時計の製
作者が優秀であればあるほど,相互に何の因果関係 もない二つの時計が,時刻
がぴったり完全に一致するように製作可能である。ましてそれが神であれば,
それは完全無欠である。「
今 この二つの時計の代 りに,精神 と身体 とを置いて
- 8-
1章 身体の哲学的考察
見 る」牡
劫。精神 と身体 との間には,デカル トが明 らかに したように,何の相互
作用 も実際には存 しないにも拘 らず,神の予定調和によって,心身間の相互関
係 は,あたか も直接に対応 し合 っているかのように,成立する。ライプニ ッツ
によると,予定調和説 とは 「
神が初めに精神又は他のあ らゆる事象的統一体を
創造 した際に,その精神に生ずる全てのことが,精神その ものか ら見ると完全
な自発性によっていなが ら, しか も外界の事象 と完全な適合を保 って精神その
ものの奥底 か ら出て くるよ うな具合 に してお いたのであ るとす る説 であ
る」
u也 。
しか し,ライプニ ッツの予定調和による心身問題の説明は神学的な想定によ
る説明であり,それ以上の解明が不可能であり,少 しも生産的な考察を もたら
さない。
4節 ベルクソンとメルロエポンティ
デカル ト以来の心身二元論に基づ く心身問題に,現代哲学の新 しい観点か ら
それを克服する方途を提示 したのは,奇 しくも同 じフランスの哲学者ベルクソ
ンとメルロエポンティである
。
ベルクソンは, 自ら物心二元論の立場に身を置 きなが ら,物質 と精神に独自
の解釈を加えることによって心身二元論の難点を解消 しようとするのである。
ma
t
i
e
r
e
)杏,精神の内にのみ存在する表象 と解する観念論の
彼はまず物質 (
物質観 と,我 々の表象 とは全 く独立 に存す る物 と解す る実在論の物質観 との
「中間の もの」(
mi
c
he
mi
n)と捉え るn
9のである。ベルクソンはこれを 「イ
マージュ」(
i
mage
)と呼ぶ。だか らイマージュとは,心像 としては精神的で
あ り,それ自体で存在す る形像 (
物像) としては物質的であ り,まさに中間的
な存在物である。我 々のまわ りに存在する石,樹木,港,山はすべてイマー
ジュとしての物質である。そ して 「
私の身体」 もやはりイマージュとしての物
体である。ベルクソンによれば,知覚 とは受動的のみな らず,身体が能動的に
世界に働 きかける可能的運動 とされている。だか ら物質がイマージュとすれ
ば,物質の知覚 とは身体に関与 したイマージュの運動形態 (
一種のひろが りの
あるもの)であることになる。「
生ける知覚 は単 に受動的でな く,同時に能動
- 9-
的で もあるという二重構造をもっている」
u6
)。
つまり生ける知覚 は,「
記憶」の
時間的持続を保持 したものである。我々の生ける知覚においては,知覚 と記憶
の相互浸透が生起 しており, この相互浸透が人間存在 と世界の問に能動的一受
動的な二重の関係構造を形成 しているのである。ベルクソンによれば,私の身
体 とは,「
受けては返 される運動の通過地点であり,私に作用する事物 と私が
働 きか け る事物 との連結 線,一言 で いえば,感覚 -運動 的現象 の座 で あ
る」(
川。
ベルクソンの哲学的心身論の独創性は,技能を修得する 「
身体」に特徴的に
顕示されている身体現象の実相を,知覚に関 して身体の生理的心理的メカニズ
l
es
c
h8memot
e
ur)を想定
ムを一定の方向に習慣化 させ る 「
運動的図式」 (
して見事に説明 したことである。「
運動的図式 とは,解剖学的に知 られる身心
の生理心理的メカニズムの根底にあって,世界に対する行動的関わりを潜在的
に形成 し志向す る見えざる作用だ といって もいいだろう。身体のメカニズム
は,そういう運動的図式によって賦活 されることによって,はじめて生ける身
体になるのである」鳩。
ベルクソンは,デカル ト的な心身二元論やスピノザ的な心身平行論を克服せ
ん と試みて,心身がゆるやかに相互浸透 し,結合 し合 う身体論を構築 したが,
彼の生ける身体論は,それ自身 「ゆるやかな心身二元論」の域を超えるもので
はなかったといえる。
これに対 して,メルロエポ ンティはフッサールの現象学的方法を活用 しつ
つ,ハイデガーの実存的人間存在論を取 り込みなが ら,ベルクソンを超えるよ
うな方向で新たな身体論を試みたのである。彼 は,「
ベルクソンは, 〔
物心 と
い う〕二者択一を実際に乗 り超える代わ りに,その両項の間を揺れ動いてい
1
9
)と批判 して,身体の主体的 -客体的な 「
両義性」 (
ambi
gu'
i
t
e) に基づ
る」(
く哲学的心身論を構想するのである。
メルロエポンティは,ベルクソンが純粋記憶 と純粋知覚,即ち空間的ひろが
りのない 「
心」の在 り方 と時間的持続のない 「
物」.
の在 り方 とを二者択一的に
対比 して,その両項の問を動揺 しなが ら,両者の交差点 として身体を捉える考
え方を批判 しているのである。彼によれば,身体は,主体 (
心)としての意識
存在性 と客体 (
物) としての物質存在性 という両義的存在性格を分割 しがたい
- 1
0-
1章 身体の哲学的考察
形で受肉化 したものである。
メルロ-ボンティはベルクソンを批判するが, しか し湯浅泰雄が適切に指摘
す るように,彼の考え方にはベルクソンの影響が大 きいと言わざるをえない。
ベル クソンは,「
知覚 と行動の統一性」の故 に,身体を 「
感覚 一運動過程」
(
pr
ocessuss
ensori
mot
eurs) として捉えて,身体のメカニズムを習慣化
l
es
ch台memot
eur) を想定 した。メルロ-ボ ンティ
させ る 「
運動的図式」 (
は, これに対 して表層的な身体即ち 「
現勢的身体 」 (
1
ec
or
psac
t
uel
)を 「
感
unc
i
rcui
ts
ens
ori
mot
eur) として捉えて,その基底 に深
覚一運動回路」 (
l
ecorpshabi
t
uel
)を想定 し,その 「
習慣的
層的な身体即ち 「
習慣的身体」 (
s
chemac
orpor
el
)
身体」は身体のメカニズムを習慣化させる「
身体的図式 」 (
によって可能になるもの とす る。「
私 は,私の身体を,分割のさかぬ一つの所
有のなかで保持 し,私が私の手足の一つ一つの位置を知 るの も,それ らを全部
包み込んでいる一つの身体的図式によってである」
eO)。
メルロ-ボンティの身体論は,ハイデガーの実存的人間論を大 きな契機 とし
ていることはよ く知 られている。-イデガ-は,『
存在 と時間』において,人
menschl
i
chesDasei
n) を 「
被投的投企 」(
ge
wor
f
enerEnt
wur
f
)
間存在 (
としての 「
世界内存在」 として捉えた世
D
が,ハイデガーの人間存在の存在構造
分析は,和辻哲郎が正当に批判する紛ように,時間意識存在に偏位するもので
あ り,人間の身体性に見 られる空間的な存在の側面が希薄であった。 この意咲
では,メルロエポンティの身体論は,-イデガ-的な人間存在論の時間的 (
意
識的)存在性の底に,空間的 (
身体的)存在性の基層を見ており,哲学的心身
論あるいは,人間存在論 としてはより充実 したものになっているといえる。
注
(
1
) De
s
c
ar
t
e
s
,
Le Di
s
c
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a M6
t
hode, OEUVRES ET LETTRES
(
P1
6
i
ade)
.p1
4
8
,4
6頁 (
岩波文庫)
(
2) De
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a
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7頁 (
岩波
文庫)
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4
『
デカル ト著作集 』 3,白水社,■
2
9
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4頁 (
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(
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4頁 (
岩波文庫,下)
(
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岩波文庫,上)
(
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岩波文庫,上)
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81
頁 (
岩波文庫)
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4頁 (
岩波文庫)
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4,7
6頁
(
1
9 滞潟久敬 , 『
アンリ ・ベルクソン』
,3
0
頁,中公文庫
(
1
6
) 湯浅泰雄 , 『
身体』
,21
3
頁,創文社
(
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,OEUVRES,pp2
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2-'3
,1
7
2頁 (白水社)
(
1
8
) 湯浅泰雄,前掲書,21
8
頁,同書は優れた身体論であり,多大の教示を得た。
(
1
9
) メルロエポンティ, 『
心身の合一』(
滝浦他訳)1
5
0
頁,朝 日出版社
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2頁 (
みすず
書房, Ⅰ)
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8,2
7
0頁 (
中央公論社)
C
2
) 和辻哲郎 , 『
風土』
, 1頁,岩波書店
- 1
2-
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