...

1 ヒルダ・ミッシェル講座Ⅲ-7 (2016 年 1 月 16 日) 病気・死‥‥信仰

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

1 ヒルダ・ミッシェル講座Ⅲ-7 (2016 年 1 月 16 日) 病気・死‥‥信仰
ヒルダ・ミッシェル講座Ⅲ-7
(2016 年 1 月 16 日)
病気・死‥‥信仰者の観点から
P.山田 益男
今回のテーマは「病気・死」です。人は生きていく過程で大なり小なりの病
気を経験します。病気とは健康ではない状態を意味していますが、前回学びま
した「苦難」の代表例ともなるものです。また、死はこの世に生を受けた者が
例外なく経験する出来事であることを皆頭では理解していますが、誰も経験し
たことの無いことであるため、不安や恐怖の原因となります。人間にとって、
不安材料となり、躓きともなりがちな「病気」と「死」について、私達はどの
ように向き合って生きてゆけばよいのか、主イエスの示された生き方から学ん
でみたいと存じます。
Ⅰ.病気
§1 健康と病気
一言で「病気」といいましても、多種多様であるように思えます。まず、休
養と滋養をつけることで健康が回復できる「風邪」や「胃腸障害」といった軽
い病気から、治療を受ければ命に別条はないが、放置すれば危険な状態に陥っ
てしまう「破傷風」「腸閉塞」「結核」などの病気、そして「末期癌」のような
回復の見込みがなく死に向かう重い病まである。また、体の病もあれば、心の
病もあります。医学は古い時代から内科・外科・耳鼻科・眼科といった専門分
野に分けられてきましたが、近世になって脳神経外科・精神科・心療内科とい
った分野が開拓されてきました。古典領域といえる内科・外科・耳鼻科・眼科
は体の病気を扱います。脳神経外科では、主に脳・脊髄・神経の病気を診断・
治療していますから、これも体の領域となるでしょう。精神科とは、簡単にい
えば心の症状や心の病気を扱い治療するところで、具体的な心の症状というと、
強い不安、抑うつ、不眠、イライラ、幻覚、幻聴、妄想など、体に現れない精
神疾患を指します。このような症状のある人には、適切なカウンセリングを行
い、時には精神分析を行ったり、抗うつ剤などの薬を投与するケースもありま
す。人間は体と魂とから成る存在でありますから、人間の病気はこころと体の
状態が関連していると言えますが、この領域の病気はそれが特に密接に関係し
ていると言えるように思えます。基本的に薬で対応ができるものは体に原因が
ある病気であり、カウンセリング等の対応が必要な部分は心に原因がある病気
といえると思います。さらに、心療内科は、こころの病気がきっかけとなって
体にも症状(心身症)が現れた場合に、その症状や病気を治療するところで、この
1
心療内科は、身体的な症状を改善するために内科医が担当することもあれば、
こころの治療のために精神科医が担当することもあるそうです。
人は病状が認められた場合、病気治療については医学的対応が基本となると
思いますが、人は病気をどのように受け止め、対処したらよいのでしょうか。
ご一緒に考えてみたいと存じます。
§2 病気は日常生活の警報器
日常生活の中で誰しもがかかる病気、
「風邪」とか「胃腸障害」等は、生活の
赤信号といえると思います。養生すれば回復できる病気ではありますが、健康
を害され正常な生活ができなくなります。気分が悪くなり、熱が出れば人は気
力や思考力、集中力が落ちますし、お腹を壊せば消化の良いものしか胃腸は受
け付けてくれません。そうした場合、人はまず体力を落とさないようにして休
養します。インフルエンザのような伝染力の強いビールスによるものもありま
すが、過労や不摂生によって体力を落とし風邪をひいてしまうとか、暴飲暴食
によって胃腸障害を起こしてしまうということがよくあります。人間にとって
体は魂を宿す器であり、この世の生活では体と魂は一体のもの、人間の存在そ
のものであると言えます。ですから、体と魂は自分自身であり、これを大事に
しなければなりません。神様はこの体と魂を粗末に扱うと故障をするように人
間を作られているように思われます。ですから、人は病気になった場合、なぜ
病気になってしまったのだろうか、自らの生活の見直しをする必要があると思
います。病気の原因が貧困であったり生活環境が劣悪な場合は別ですが、私た
ちの日常生活の中で働きすぎたり、無茶をしたり、誘惑に負けて暴飲暴食をし
てしまったりということが原因である場合は、そのような生活への警報が出た
と受け取るべきでしょう。人は熱中すると暴走してしまう傾向がありますから、
病気はそのような生活の赤信号として捉え、バランスの良い生活を整えるよう
に心がけたいものです。
§3 病気を正しく理解し、偏見を持たない
人間社会の歴史において、病気にまつわる不幸な出来事がありました。その
典型的な事例をハンセン病に見ることができます。この病気は昔からライ病と
呼ばれ、人々からひどく恐れられていました。なぜそれほどに恐れられていた
かといえば、病気が進むと顔かたちまで変形してしまうという症状にありまし
た。発症した人を見つけると人々はうつることを恐れ、その病者を自分たちの
集落から追い出してしまいました。追い出された病者は放浪生活者となったり、
村はずれにバラックを建てて密かに暮らしたり、病者達が集まって部落を作っ
て隠遁生活を強いられたのでした。この現象は日本だけでなく、世界中いたる
2
ところで見られた現象です。
我国では1907年(明治40年)にらい予防法が制定され、隔離施設を作
って病者を収容するという政策が1993年までとられてきました。 実に一世
紀間にわたって患者を強制隔離し、子供を作らせないように避妊手術を行い、
脱走すると警察によって逮捕し施設内の監獄に収監するというような人権を無
視した差別的な扱いを行ってきたのでした。病気は遺伝するという迷信もあり
家族ごと世間から白い目で見られました。家族が発病すると人目につかないよ
うに病者を蔵に隠し、病状が進んで家族の手に負えなくなってから施設に送る
ということがままあったのです。
1873 年にアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見した後、研究が進み 1943
年アメリカで特効薬プロミンが開発されてからは治る病気となりましたが、体
の変形という後遺症は残るため、今なお差別され社会復帰を難しくしています。
人は弱者である病者になぜこれほどまでに非人道的な対応を取ったのでしょ
うか。それは恐ろしい病気が自分にもうつるかもしれないという恐怖心がそう
させたのだと思われます。ハンセン病の場合、伝染病ではありますが、らい菌
の感染力は弱く、うつる可能性は低い病気でした。特効薬もあり、現在ではな
にも恐れるような病気ではなくなっています。後遺症は決して伝染しませんか
ら、正しい知識を持てば、差別意識も解消されるはずです。
しかし、エボラ出血熱など感染力強い伝染病については伝染病予防法があり、
現在も隔離政策がとられています。病気が社会に蔓延することを防ぐため、隔
離政策がとられること自体やむを得ない措置であると思いますが、医療関係者
をはじめ、患者と接する人は患者を人としての尊厳を認識して対応することが
重要であると思います。
HIV 感染者(エイズ)や肝炎の患者さんは発症していない状態では一般社会
で生活しています。そのような私たちと共に社会の中で生きている患者さんに
私たちはどのように接したらよいのでしょうか。HIV に感染すると、HIV は血
液、精液、膣分泌液、母乳などに多く分泌されますが、唾液、涙、尿などの体
液では他の人に感染させるだけのウイルス量は分泌されることはないそうです。
また、感染は、粘膜(腸管、膣、口腔内など)および血管に達するような皮膚
の傷(針刺し事故等)からであり、傷のない皮膚からは感染しません。そのた
め、主な感染経路は「性的感染」、「血液感染」、「母子感染」とされています。
これらの基礎知識を持っていれば、私たちは HIV 感染者を不必要に警戒し避け
る行動をとる必要がなくなります。病気に対して正しい理解を持てば、私たち
も病者と良好な人間関係を持つことができるはずです。病気についてはできる
だけ正しい知識を持ち、感染を助長しないように心を配ると共に、感染者に対
しては誤解に基づく差別をすることなく、共に生かされている兄弟として接す
3
るように心がけたいものであります。
病者は病気によって体の健康を害されているのですから、その上に人間とし
ての尊厳まで奪ってしまう、かつてのハンセン病者にしたような家畜の如き扱
いをして、心に深く傷を負わせるようなことはあってはならないことです。
§4 病気を恥としない
病気そのものは決してその人の罪の結果ではありません。病気の原因が本人
の不養生にあったということはありえますが、少なくとも、そのことによって
神様が罰として病気を与えたとは考えるべきではないでしょう。
しかし、私達は病気であることを人に知られたくない、隠しておきたいとい
う気持ちを持つことがあります。精神病について、とくにその傾向が強いよう
に思えます。それは病者であることが知れると周りから偏見を持って見られ疎
外されたり、社会的に不利な扱いをうけたりする危惧があるからでしょう。と
すれば、病者に病気を恥と思わないようにと説得する前に、周りの人が偏見を
持ったり、不当な扱いをしないようにすることがまず必要なことと思われます。
前述したように病気について正しい理解を持つことはこの点からも重要である
と思います。
日本社会でも最近は身体障がい者や知的障がい者に対する理解はそれなりに
進んできたように見えますが、精神障がい者についてはまだまだという感が致
します。それには精神障がい者といっても障がいの内容や程度は様々であるに
もかかわらず、精神障がい者は皆同じ目で見られてしまうという問題があるよ
うに思えます。精神障がい者の中には幻覚・幻聴・妄想などが原因で犯罪を起
こしてしまうという者もおり、その人が精神障がいを起こしていたと認定され
た場合、裁判において判断能力に欠けていたため罪を問えないという結果が出
されて無罪放免となりますが、この障がい者が再び犯罪を犯してしまうという
ケースがままあります。精神障がいのため善悪の判断ができないとすれば、そ
のために犯罪を起こしても確かにその人に罪を着せることは不適切であります
が、犯罪を犯してしまったという事実があり、今後も犯罪を犯す危険性が高い
ということを看過してはならないでしょう。この場合、精神障がい者の責任を
問う以前にこのような精神障がい者を保護せずに社会の中に放置していること
こそが社会(行政)の責任の放棄であると言えましょう。この場合の保護とは
その人の自由を制限することになりますが、それは社会のためだけでなく本人
を守ることでもあると思います。人を拘束するということは本来あってはなら
ないことであり、難しい判断ではありますが、社会的規範を理解して適切な判
断ができない状態にある人にはやむを得ない措置ではないかと考えます。今の
日本社会ではそのような対応が十分にできておりません。このことが人々に精
4
神障がい者全体への不安や危惧を抱かせる要因になっていることは否定できま
せん。
精神障がいといっても、障害の内容も程度も異なるものが多く含まれます。
例えば、うつの症状を呈する人は私たちの周りに沢山おられます。というより、
健常者と思っている私たち自身がうつの症状を引き起こしていることがままあ
るのです。人間は楽しいことがあれば心がウキウキし、つらいことがあれば心
が沈むように作られていますが、原因がないのに心が沈んだ状態となってしま
うことがあり、これが「うつ病」といえます。本来なら原因があって分泌され
る「うつの因子」が理屈抜きに分泌されているものと考えられます。最近の医
学では「うつ病」は心の風邪といわれているように、誰しもがかかり得る病気
なのです。よい薬も開発されており、
「うつの因子」の分泌を抑制できるように
なりました。ですから、うつ病などは重傷となって自殺などの心配がない限り
特別な保護対応は必要ないと思います。ただ、本人は理由のない苦しさを感じ
ているのですから、周りの人はそれを理解し、下手に励ましたりせず優しく見
守るように心がけたいものです。本人はうつであるのは理由があっての状態で
はなく、病気の症状であることを受け止め、自らを追い込まないようにすると
共に、周りの理解がない中では難しいことですが、病気を恥ずかしいとは思わ
ないことが必要ではないでしょうか。人は心に過負荷がかかり続けると体に変
調をきたしてしまうことは医学的にも立証されています。このことは人間がこ
の世にある限り体と魂は一体不可分の存在でありますから当然のことといえる
でしょう。病気の成らないためには体にもこころにも過負荷がかからないよう
に本人も周りの者も気を付けることが重要であると思います。
§5 死に至る病:絶望
人間の病気の中で、最も恐ろしい病気は、体の病気ではなく魂(心)の病気であ
ると言えると思います。健康な人であれ、病者であれ、健常者であれ、障がい
者であれ、人は誰でもこの世を去るときには体という衣を脱がなければなりま
せん。そのとき、その人の実体は霊なる存在となった魂にあると言えます。も
し、人が肉体の死と共に魂をも死に渡してしまったならば、その人は消滅して
しまうことになります。
デンマークの哲学者キェルケゴール(1813 年~ 1855 年)は、その著書『死
に至る病』の中で、死に至る病とは絶望であると述べています。ラザロを死か
ら復活させる『ヨハネによる福音書第 11 章』の記述が引き合いに出され、4 節
の「この病気は死で終わるものではない」との主イエスの御言葉を受け、この
本は第 1 部「死に至る病とは絶望である」と第 2 部「絶望とは罪である」の二
部で構成されております。本書の中でキェルケゴールが、死に至らない病が希
5
望に繋がるのに対して、死に至る病は絶望であると述べ、絶望とは自己の喪失
であると述べていることは意味深い教示であると思います。
人が健全に生きるということは、心も体も健康な状態を保って生きてゆくこ
とに他なりません。私達キリスト者は、魂を健康に保つ源が自分の中にはない
こと、神様の導きの下に歩む中ではじめて魂の健康が保たれ、成長できること
を学びました。私たちは悔い改め、すなわち私の思い、この世の価値観に基づ
く願望にしがみつくことを放棄する決意をして、主イエスの示された道を歩む
ことを始めました。私たちは主イエスの体である教会の交わりの中に連なるこ
とによって、困難に遭遇しても希望をもって生き続けることができるのです。
希望が持てず絶望すること、それは神様への信頼、キリストの贖いの恵みを放
棄すること、すなわち、罪の状態にとどまることに他なりません。キェルケゴ
ールは人間の存在を消滅させてしまう最も恐ろしい病気としてこのことを述べ
ているのだと思います。
Ⅱ.死
§1 肉体の死/人間の死
この世に生を受けた人間は、誰しも例外なく肉体の死を迎えます。多くの日
本人はその時人は自らの存在を亡くし無に帰するものと考えているようです。
しかし、私達キリスト者はこの世の人としての存在を失うが、魂は天の父の御
元に行くと信じています。それは、主イエスが十字架上で肉体の死を経たのち、
復活の御姿を弟子たちに現された出来事にその根拠を置いています。主イエス
は生前から弟子たちに復活のことを語っておられますが、その時点では弟子た
ちはそれを理解できなかったようです。今の私たちもこれに近い状態にあると
いえるかもしれませんが、そのことは、主イエスが捕えられ、受難の時には弟
子たちはみな逃げてしまい、人目を忍んで隠れていたことから分かります。そ
の弟子たちが、復活の主イエスに出会うという出来事を通して完全に人が変え
られたのでした。肉体の死は人間の歩みの通過点であり人間の死、消滅ではな
いことを、ご復活の主イエスはサクラメント、すなわち、目に見えない事の本
質を、人に理解させるため目に見える形で示したものであると思います。その
結果、弟子たちにとって、苦難や肉体の死は恐怖の対象ではなくなり、迫害も
殉教も恐れず復活の主イエスの証人となって雄々しく宣教に励むことができた
のでした。
§2 肉体の死は人間の歩みの通過点
必ず死んでこの世を去る時が来るということを人間は頭で知っています。し
かし、私たち多くの人間は自分がこの世を去るということを強く意識して普段
6
の生活をしているとは思えません。まるで、人生は半永久的に続くと認識して
生活をしているようにさえ見えます。ひょっとすると、神様は人をそのように
作られたのかもしれません。しかし、時に触れ、知人の死、家族の死を身近に
見る機会を与え、自分の死を現実のものとして考えることを促しておられるよ
うにも見えます。この世の世界、すなわち目に見え、五感に感じ取れる物理的
存在しか存在を認めることができない人達は、肉体の死はすべての終わりと理
解しています。しかし、私達キリスト者は肉体が死ねば、この世の世界から見
えない存在となるけれど、復活の主イエスが御姿を現されたという出来事を拠
り所に、人の人格、霊なる魂は存在し続けることを信じています。天国で人は
どのような形で存在し、生き続けるのか、だれも経験したことがないのでわか
りません。先の特別講座で小西神父様は、死はキリストとの出会いの時であり、
死後、人は使徒職としてキリストのもとで働く者となると述べておられます。
この世において世の価値基準を捨て、ブドウの木であるキリストの体に連ねら
れ、キリストに従って共に歩む道を選択した私たちは、肉体が滅んでも主イエ
スのもとにあって、用いられ働き続けるということだと思います。
各自がイメージする天国での人の態様は千差万別であろうと思いますが、私
たちはご復活の主イエスの有り様からそれを推察するしかありません。聖書の
記述によれば、弟子たちの目に主イエスであると分かる形で現れ、また魚を一
緒に食べられもしたということですから、体を備えていたと思われますが、鍵
のかけられた部屋に現れ、また姿を消されたということを勘案しますと、物理
的な肉体ではなかったと思われます。私は、聖書に記されたこの出来事は神様
が私達物わかりの悪い人間に、人は肉体が滅んでも霊なる体となって生き続け
ることを理解させようと、サクラメントとして象徴的な表現で真理を示された
ものと理解します。
しかし、肉体の死はこの世における生活を終える時であり、通過点とはいえ、
重要なチェックポイントであることは確かです。この世の人生をしっかりと生
きることなしにこのチェックポイントを通過することはできないと思います。
私たちはその時までどのようにして生きればよいのか、そしてどのようにして
その時を迎えればよいのかは、人それぞれが神様から問われている問題である
と存じます。
§3 死とどのように向き合うか
人は自分の死を現実問題として突きつけられたとき、どのようにそれに向き
合うのでしょうか。末期がんを宣告された人たちの事例から学んでみたいと存
じます。
キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross、1926 年スイスに生まれ、アメ
7
リカで精神科医として活躍し 2004 年没)は「死ぬ瞬間―死にゆく人々との対話
―」とういう著書の中で、末期がんの死を宣告された患者たちが死を受容して
ゆく過程について次のような5つの段階が認められると解析を行っています。
第1段階は否認・隔離の過程で、自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑
う段階である。
第2段階は怒りの過程で、なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを
周囲に向ける段階である。
第3段階は取引の過程で、なんとか死なずにすむように神様と取引をしようと
試みる段階である。自分がどうしたら延命できるか、例えば「もう財産はいり
ませんから命だけを与えてください」云々。
第4段階は抑うつの過程で、死に抗うことができなくなり、希望が見えなくな
って深く沈み込む段階である。
第5段階は受容の過程で、最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階であ
る。いくらもがいても、この世を去る時が迫っていることを悟り、来たるべき
自分の終えんを静かに見詰めることのできる受容の段階といえる。
皆が皆このような段階を経て死を迎えるとは限らないでしょう。しかし、多
くの人間は第1段階から第4段階まで、同じような心理プロセスを踏むのでは
ないでしょうか。第4段階で、この世で生きる算段は万策尽きたと思い知らさ
れた時点から第5段階の死を受け入れる心境になれるかが重要なプロセスであ
るように思えます。
第4段階でもはや死は避けられないものと思い知らされて、ただ絶望の内に
死を迎える人もいるでしょうし、生を受けた者の定めと観念して第5段階で静
かに死を迎える人もいるでしょう。不思議に思えますが、動物たちの自然死(老
衰死)を観察していますと、死を当然のことと受け入れ死んでいくように観察
できます。動物たちは神の形に造られておらず、霊なる存在としての魂を備え
ていませんから、死を理性的に捉えて抑うつ状態となることはありません。命
を燃え尽くして死をそのまま受け入れるように作られているのでしょう。信仰
を持たない人の死は、ある意味これに近いと言えるのではないでしょうか。来
世の命を希望することもなく、ただ諦めの境地で、若しくは生を受けたものの
定めと納得し、死んでゆくように思われます。
私たち信仰を持つ者にはこの第4段階のプロセスがとても重要であると思い
ます。今まで生きる過程でしがみついてきた、この世を生きる術、知恵、能力
を、また親しい者たちと楽しい時を共有するなどのこの世の楽しみを一つ一つ
剥奪されてゆく中で、一人この世を去っていく現実を不安の内に受け止めなけ
ればなりません。この第4の段階では、お祈りを求める人が多いとロス女史は
指摘しています。チャプレンなどの牧会者に祈ってもらったり、親しい友と共
8
に祈ったり、そして、一人で祈るという時を過ごすのだそうです。これはこの
世を生きてきた人間の大切な整理のプロセスといえると思います。信仰をもっ
て生きてきた人であっても、自らの存在の重心を完全に天国においている人は
多くはないはずです。私などはこの世にたくさんの執着を残しています。自ら
の人生においてずっと大事に抱え込んできたものの内、体と共に朽ちるものを
捨て、自らの存在においてなくてならないものだけを残してゆく作業が必要で
あると思います。それを行うことによって、キリスト者として本当の悔い改め
ができるのであって、それができたとき人は希望をもって旅立つことができる
第5段階の死の受容が可能となるのではないでしょうか。
今まで、末期がんの患者を例として死への対応を考えてきましたが、実際の
人の死に様は多様です。老衰による自然死もありますし、事故等による突然死
もあり、戦争に駆り出されての戦死もあります。また、突然死の場合は事前に
死を準備する暇はありませんから、その死とどの様に向き合うかということは
考えようがありませんが、最も本来的な死の迎え方である老衰による自然死の
場合は、死の時が近づいてきたことを人はそれとなく感知するとよく聞きます。
はっきりとその時がわからなくても、準備の時間を持つことが可能です。いず
れにせよ高齢となればその日は遠からず来るわけですから、それなりの準備が
必要でしょうし、準備が可能なはずです。ただしこの場合は、死を告知された
場合と異なって、否認・隔離の段階、怒りの段階、取引の段階はあまり考えな
くてよいように思います。しかし、死が迫ってきたこと、それが避けられない
現実であることは突き付けられるわけですから、死に抗うことができなくなり、
希望が見えなくなって深く沈み込む段階である抑うつの状態の過程、更には死
を受容する過程を踏むことは想定されます。従って、先に述べた同様の対応は
この場合にも当てはまるものと思います。
ロス女史が『死ぬ瞬間』でインタビューした 200 人あまりの人は「平和と尊
厳」のうちに死んでいったということです。そのことは死に臨む人たちにロス
女史やチャプレンそして医療関係者が寄り添い、彼らを支援したことも大きな
要因となったでしょうが、彼らの中で、真の悔い改めがなされたことによって、
人生の整理をつけることができ、主イエスが整えてくださっている御父の家に
迎えて頂くのだという希望を持って旅立つことができたことが、彼らをしてそ
のようにさせたものと思います。
9
Fly UP