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見る/開く - 茨城大学

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見る/開く - 茨城大学
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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スペイン内戦とモロッコ(下)
深澤, 安博
茨城大学人文学部紀要. 人文学科論集(35): 29-50
2001-03
http://hdl.handle.net/10109/2191
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
スペイン内戦とモロッコ
(下)
深澤 安博
はじめに 本稿の射程
1.モロッコでの反乱派支配の確立
1⊥内戦前までのスペイン保護領モロッコ
L2.反乱の開始
1.3.タンジャの「中立」と海峡を渡るモロッコ軍
1.4.モロツコ民族主義者への誘い
1.5,フランス領モロッコ
II.反乱派・フランコ政権のモロッコ統治
2.1,スペインで闘うモロツコ人
2.2.新ハリーファ国家?あるいはモロッコ人のための国家
2.3.監視と抵抗
2.4.フランス植民地主義「批判」
2.5.「モロッコのローレンス」とイスラームの友フランコ
2.6.タンジャでの対決
2.7.モロッコをめぐる仏・独・伊・英の牽制
111.モロッコ民族主義者の対応と論理
3.1,反乱派支持の論理
3.2.民族改革党(PRN)とモロッコ統一党(PUM)
3.3.利用と警戒
(以上前々号および前号)
(以下本号)
3.4.フランス領民族主義者との連帯と分裂
3.5.汎アラブ主義
IV.植民地体制の呪縛と共和国の「巻き返し」
4.1.共和国によるモロッコ人への訴え
4.2.植民地体制の呪縛
4.3.モロッコでの反撃の企図と共和国派の活動
4.4.アブド・アルカリームの威信と脅怖
内戦の終了一結語と展望
3.4.フランス領民族主義者との連帯と分裂
既に見たように,スペイン領の民族主義者とフランス領のCANは別個に行動することに
なった。しかしやはり我々は既に,フランス人民戦線政府のCAN代表団への対応がスペイン
領のCANを反乱派支持に向かわせた理由の一つだったこと,また,ベイグベデールのねらい
の1つが,モロッコ人民族主義者の不満をフランスに向かわせることだったことを知ってい
る(第1章第4節,第II章第2節)。実際に,スペイン内戦中のフランス政府やノゲスのモ
『人文学科論集』35,pp.29−50. @2001茨城大学人文学部(人文学部紀要)
30 深澤 安博
ロッコ人統治政策は,PUMやPRNをはじめスペイン領のモロッコ人をも刺激するものだっ
た。
アルファッシによれば,CANは,モロッコで民主主義的自由の獲得が可能となると見てフ
ランス人民戦線政府の成立を歓迎した。36年10月に,ノゲスもCANの要求に応えると言っ
ていた。ところがノゲスは,CANの集会を禁止したり,アルファッシなどCANの指導部を
逮捕する挙に出た(36年11月)。そればかりでなく既述のように(第II章第4節),37年3月,
フランス政府はCANに解散命令を出した。在住フランス人の意向を強く受けるモロッコのフ
ランス当局の姿勢は,フランス政府やメトロポリの人民戦線組織よりずっと頑なだった。「ノ
ゲスの統監任命はモロッコ人には期待はずれだった」(アルファッシ)。その分だけ,スペイ
ン領でのモロッコ人の「利益」「便宜」擁護政策は,フランス領の民族主義者たちに垂誕の的
のように刺激を与えるものだった。1)
スペイン領の民族主義者たちとくにPUMは,スペイン領のことはさておきフランス領での
事態を宣伝し,強く批難した。モロッコ人の飢餓状況の批難 「モロッコ南部での貧困の結
果としての大きな荒廃」,「モロッコ人から人間としてもっとも基本的なこと,つまり生きる
権利を奪っている[フランスの]この破滅的な政策」(37年4月)/フランス人とユダヤ人には
教育がなされているが,モロッコ人には何もなされていない。モロッコ人の子どもの2%し
か学校に行っていない/「ベルベル勅令」(1930年5月)7周年,8周年に際して,フランス政
府への抗議行動/総じて,フランスの政策は「保護ではなく侵略と征服」,同化主義,植民地
主義であると批難された 「我々すべてはスルタンの側にいる。もう一つの側にはフランス
帝国主義がいる」,「フランス政府はどの人民も皆叫んでいることを聞くのがよい。人民は,
自分たちに盤勲にも約束されたことを実際におこなうよう要求しているだけなのだ。また,
若く健全なこの民族主義の声を聞くのがよい。その唯一の意思と唯一の罪は祖国を熱烈に愛
していることなのだ」(37年11月,12月)/150万のモロッコ人が渇水のために死に瀕してい
る。水利事業の対策を早くおこなえ(37年7月)。2)
フランス領民族主義者のこの最後の要求を『モロッコの統一』が紹介した2か月後,渇水
を契機とした「原住民」の要求行動をフランス当局が弾圧したメクネシュ事件が起きた。「暴
動」の報に接したスペイン当局者は,ほぼ本能的に植民地主義者としての対応(恐怖)を示
した。つまり『アフリカ新報』は,まず,これは民族主義者が挑発したものだというフラン
ス当局と同じ説明をした。PUMが,民族主義者の「マヌーバー」だとするのは何事だとこれ
に噛みつくと,『アフリカ新報』は今度は,「赤」によるプロパガンダだとして,これまた民
族主義者の要求を認めない植民地主義者としての対応を示した。フランス領民族主義者との
連帯運動が起きると,『アフリカ新報』はさらに対応を変えた。つまり,「民族主義を迫害す
ることは...憎悪の種を播くことになる」,敵は共産主義である,今回の「暴動」を共産主義者
の仕業というわけにはいかないが,植民地人民の独立を掲げて保護国家に対する「原住民の
偏見」をあおってきたコミンテルンの指示に従った宣伝があることを否定できない,と説明
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 31
した。PUMはこれに対しても,フランス領での事態は共産主義の宣伝によるものではない,
モロッコの民族主義者は共産主義に反対である,我々の改革プランのどこに共産主義がある
のか,と反論した。3)以上の「論争」は,スペイン反乱派当局によるフランス植民地主義「批
判」(第II章第4節)の目的・内容が奈辺にあったかということをよく示している。メクネ
シュ事件と同時期のテトゥワンでの泉水事件(本章第2節)も同様である。
メクネシュ「暴動」弾圧に対して,PUMを中心とした抗議と連帯の表明がなされた。37年
10月のテトゥワンでの示威行動では,トレスとナーシリーが演説した。フランス領に近いラ
ラーチェでの同月のPUMの抗議集会では,ナーシリーが,「この地域[フランス領]での民
族主義が失敗するとモロッコに未来はありません。成功するとモロッコは真の改革の道へと
進み,完全な自由と完全な独立の準備に向かうことになります...」と述べた。この集会では,
民族主義者への弾圧の中止を要請するスルタンへの電報とフランス当局への抗議 フラン
ス当局の「非妥協的」政策の批判やアルファッシら逮捕者の釈放の他に,集会・結社・新聞
の自由や改革プランの実現も要求された が採択された。フランス領から追放された民族
主義者もスペイン領に迎えられた。4)
とはいえ以上のことは,イベリア半島の内戦によって,具体的には反乱派と共和国双方の,
さらにはフランス政府のモロッコ人への対処の結果によって,モロッコの民族主義者の運動
が両地域にそれぞれ分裂していったことを示すものだった。
3.5,汎アラブ主義
多くのモロッコ人がイベリア半島で反乱派軍のために闘っていることと,モロッコで民族
主義者たちが反乱派当局に協力したことは,早くからアラブ世界で注目された。CANに協力
していたフランスの社会主義者R−J.ロンゲは,早くも36年11月に,モロッコ民族主義者への
行動の自由の付与や「約束」が反乱派により「電撃的に」なされたことは,「モロッコだけで
なくムスリム世界全体に深い印象を与えている」と観察している。実際に,既にアルスラン
に見たように,一般にアラブ世論は,スペイン領モロッコの状況とモロッコ民族主義者の行
動をアラブ・イスラーム世界が求めているものと同じだとして,これを好意的に見ていた。
汎アラブ主義の中心地エジプトの新聞では,「...モロッコはアラブ主義とイスラームの強力な
牙城である...」との論評が現れた。さらに,「[エジプトの]政界は,たしかに次のように見
ている。モロッコのアラブ人たちは,自分たちが受け入れた犠牲に見合うだけ自分たちに利
益になることをスペインの国民派に確約させずして国民派スペインの陣営で闘うことはない
だろう,と。しかし,彼らが合意した条件はまだ知られていない」。ここでは,汎アラブ・汎
イスラームの一員としてのモロッコの民族運動が,血の「犠牲」を払うまでしてどんな「利
益」を得ようとしたのかが観察されている。しかし,内戦も末期になってくると,エジプト
でも,「犠牲」の代価についてもっと冷静な観察が現れる 「何万人もの[スペイン領の]
原住民が,彼らに何の利益にもならない戦争の生けにえになるためにスペインに連れられて
32 深澤 安博
行っている。...ムスリムたちはこの事実をよく知っている。しかし,彼らは何の具体的な反
応も示していない。_」。チュニジアの新旧ドゥストゥール党は共和国支持の立場だったが,
反乱派の対仏姿勢とフランコのモロッコ人への「約束」は,チュニジアの民族主義者たちに,
本章第3節で見たと同じような「利用」と「警戒」の関心を呼び起こした。5)
他方で,モロッコの民族主義者たちも,モロッコの自治や独立を要求するにあたって,イ
ラクのイギリスとの条約(1927年。32年独立),締結されたばかりのエジプトのイギリスとの
条約(36年8月)やシリアのフランスとの条約(36年9月)をモデルにしようとしていた。36
年9月にバルセローナに行ったCANの代表(第1章第4節)は,共和国派スペイン人との交
渉のために,すでに,これらの条約文を取り寄せて検討していた。さらに,モロッコの民族
主義者とくにPUMは,汎イスラーム主義およびアラブ民族運動との連帯を強調した。なか
でも,イベリア半島の内戦とほぼ同時に進行していたパレスチナ反乱の様子は『モロッコの
統一』などで詳しく報道された。テトゥワンで,イギリスのパレスチナ分割案への抗議と反
乱支援集会が開催され(37年10月),ナーシリーはカイロでのパレスチナ支援集会に参加し
た(38年10月)。『モロッコの統一』は,エジプトの独立の過程も紹介した。マグレブ地域で
はチュニジアの民族運動が紹介された。フランスが新ドゥストゥール党の活動を禁止したと
きには,テトゥワンでPUM主催の連帯・抗議集会が開かれた(38年5月)。スペイン当局は
これらの活動を容認した。また,『アフリカ新報』までが「イスラームの再生」「この偉大な
ムスリム国家[エジプト]」と書き立てた。しかし,隣接したアルジェリアとの連帯の動きは
あまり見られず,『モロッコの統一』での紹介も少なかった。これは,アルジェリアの中心的
民族運動組織である「北アフリカの星」の指導者たちがスペイン共和国支持の立場をとって
いたからである(第IV章第1節,第3節)。6)
アラブ地域でのモロッコ民族運動支援もいくつかの具体的行動に表れた。ベルベル勅令8周
年の38年5月には,カイロでモロッコ問題についてのアラブ連帯集会が開催された。そこでは
次の決議が採択され,イスラーム諸国政府,スペイン反乱派政府,フランス政府に送られた。
①フランスと「国民派スペイン」はモロッコ人の権利と自由を承認し,モロッコの統一・と独
立への道を開くこと。この場合,「東方の自由なムスリム諸国[エジプト,イラク,シリアな
ど]と結ばれたと同様の新たな条約」を基礎とすること,②ベルベル政策の撤回,③フラン
ス領での抑圧政策に抗議④フランスが反イスラーム政策を続けるなら,フランス商品をボ
イコットする。以上の決議では,フランスの政策への批判と,モロッコの植民地支配からの
離脱のためにエジプト・イラク・シリアなどの前例が引合いに出されていることが注目され
る。前出(第II章第5節)の38年8月のカイロでのムスリム大会では,スペイン領「独立」
の計画を実行するようにとの要求が「国民派スペイン」に対してなされた。同年9月のやは
りカイロでのアラブ国際議員会議には,トレスもナーシリーもスペイン当局から出席を許さ
れた。その際トレスはエジプト紙に次のように語った 「スペイン領はフランス領には
ないいくっかの自由を享受しています。しかしながら,我々に何らかの自由が与えられ我々
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 33
の要求のいくつかが認められたとしても,それはスペインの事業に我々がそのまま満足して
いることにはなりません。我々は,我々の要求を全部実施させ,この地域[スペイン領]の
自治を達成するまで全力で闘うつもりです。我々は,約束につられたままにまかせているの
ではありません..」。エジプト政府は,前出(第II章第2節)のモロッコ会館設立も許可し
た。会館設立によってモロッコ民族主義者の支持とともにアラブ諸地域住民の支持をも得よ
うと意図した反乱派当局は,当初,自らを承認していないエジプト政府が設立を承認するか
どうか疑念をもっていた。38年9∼10月,モロッコ会館開館に際し,PUM派遣40人, PRN
派遣8人,計48人のモロッコ人留学生がカイロに着いた(ここにも,PRNとPUMを反目さ
せる政策が貫かれている)。他方,6人のエジプト人教員がテトゥワンのムーレイ・ハッサ
ン・モロッコ研究所に派遣された(39年1月)。7)
以上から,1930年代後半にアラブ諸地域が直面していた英・仏植民地主義との対決という
状況が,モロッコの民族主義者に,さらにはアラブ民族主義者に,イベリア半島とモロッコ
でイギリス,とくにフランスと対抗しているように見えた反乱派政権への共感と支持を生み
出させた一大要素だったことがわかる。また,既に見たように,反乱派政権もそのような対
抗の構図を実際以上に拡大して,ないしは実際とは違うようにつくり上げて見せたのである。
IV.植民地体制の呪縛と共和国の「巻き返し」
4.1.共和国によるモロッコ人への訴え
共和国でもモロッコ人の戦闘への動員があった。内戦初期に,マドリードやその近郊で働
いていたモロッコ人も戦闘に巻き込まれた。『フランス領アフリカ』によると,マドリード西
北のグァダラーマ戦に動員されたモロッコ人の多くが戦闘で死亡,生存者は「反乱」を起こ
し,その多くが軍法会議で銃殺となった。8)以上の「事実」には不祥部分が多いが,スペイン
人同士の戦争に動員されたモロッコ人の当惑と反感は十分に推測されうる。
この後,共和国内外のモロッコ人を共和国支持に向かわせるための意識的行動がなされ始
める。36年10月初旬,マドリードの新聞に「反ファシズム・モロッコ人」による次のアピー
ルが載った(呼びかけ人は,ムスタファ・イブン・バラ) マドリードにいるモロッコ人た
ちが集まって協議した結果,次のように結論した,①「ファシストの軍人たち」はモロッコ
人民の敵である,「モロッコで起きている革命運動を熱烈に支持する」,②現在の人民戦線政
府の共和国は,スペイン領のモロッコ人民の「民主主義的自由」を保証すると言っている,
③敵陣営で闘っているモロッコ人の多数は,だまされたり強制的に連れてこられた者である,
彼らは「ファシストの戦列」から共和国の戦列に鞍替えしている,④我々は「モロッコ人義
勇部隊」を結成する,これは第5連隊[スペイン共産党主導部隊]に加わる。こうして結成
されたモロッコ人部隊は,留学生や反乱派軍からの離脱者から成っていたようである。人数
34 深澤 安博
も不祥だが,多勢であるとは考えられない。さらに,上記①の後半や②は,実際とは合わな
い内容で誘導的なものである。9)
このモロッコ人部隊や第5連隊は,反乱派軍にいるモロッコ人に向けてアラビア語のビラ
を放った。ビラには,ムスリム兵士(「モーロ人」という用語はない)の多くが共和国側に脱
走して来ている,ファランへ党員の言うことを信ずるな,武器を持って我々の側に来い,武
器を君たちの上官に向けよ,共和国はモロッコ人を歓迎する,と書かれた。他方,これ以前
に,共和国側の飛行機はモロッコで,「マドリードのスペイン政府」名のビラ(「アラブ最高
委員会」の作成になるという)を投下した。このビラは次のように訴えた 神以外に力を
もつものはいない,アラーは神の正義に仕えることを規定している,あなた方ムスリムはス
ペインの友人である,スペインとマドリードの政府はあなた方に「反乱将軍フランコの陰謀」
と闘えと言っているのではない,スペインは平和を望んでいる,軍人たちの目的は「革命と
無秩序」である,連中の言うことを聞くな,連中に加わるな,「近いうちにマドリードの本当
の政府は,_自分たちの国とスペイン領モロッコの地域を取り戻すだろう」,「フランコ将軍
の空文句に従っている」ムスリムは,「自分で損をすることになるだろう」。おそらく共和国
側スペイン人の作成になる以上の内容は,前掲「反ファシズム・モロッコ人」のアピールの
トーンとはかなり異なっている。「革命」は反対の意味で使われているし,モロッコ人の「民
主主義的自由」も語られていない(いわんや,モロッコの自治も独立も)。lo)
CNTとイベリア・アナーキスト連盟(FAI)の機関紙(36年9月)にも,モロッコ人への訴
えが載った。アラゴン戦線で闘っているというモロッコ人のアピール フランコはあなた
方をあざむいてスペインの労働者を殺させている,「アフリカの同志たち」あなた方はこの機
会を利用してすべての抑圧者から自らを解放するようにすべきである,「我々すべてのアフリ
力人は,CNT, FAL.とともにスペイン領モロッコで革命を起こさなけれぼならない」,「平等
な体制を創ろうとしているすべてのスペイン人を援助しなければならない」。他の論稿一
「抑圧された民族のイスラームは,自らの自由のために,闘うスペイン人の側に加わるべき
だ」,「モーロ人」たちは,自分たちがだまされたことに気づいており,自分たちのところで
抑圧者を追払う準備をしている,「我がモロッコの兄弟たち」は,ファシズムが帝国主義の目
的をもっており,「現在のスペイン人民のように全世界の人間の自由のために闘っている人民
の大いなる敵である」ことをわかっている。11)以上のような呼びかけがモロッコ人の問に広
まったとは考えられない。内容的には,「アフリカの同志たち」や「我がモロッコの兄弟た
ち」に抑圧者の追放を呼びかけたり,CNTの立場からモロッコでの革命を呼びかけることは
わかる。しかし,彼らに,スペイン人を援助せよとか「自らの自由のために」共和国側で闘
えというのは,スペイン植民地支配の下のモロッコ人が置かれた状況からすれぼ管越な性格
のものだった。
同様な僧越さは,老齢で著名なアフリカ植民地問題研究者G・レパラスが,マドリードの
ラジオで次のように呼びかけたときにも現れた(36年9月) 「ムスリム人民」に,共和国
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 35
の旗の下で「スペインの兄弟人民」と連帯するよう呼びかける,「反乱将軍たちの勝利は,あ
なた方にとってスペイン軍国主義の銃剣の下での永遠の隷従となるでしょう」「そうなれぼ,
イスラームは決して再起できないほど再び没落してしまうでしょう!」「我々は,条約が許す
範囲内であなた方にあらゆる自治を与えようと思っています」「我々新スペインの人間は,ア
フリカにおいてもまた新しい政策をおこなうでしょう_」。上記の「我々」が何を指すのかか
ならずしも明らかではないが,既述ないし後述のように,共和国政府はモロッコの自治を口
にしたこともなかった。12)
スペイン外では,やはりフランスでモロッコ人や北アフリカ諸国出身者を共和国支持に向
かわせるための行動・工作がおこなわれた。36年8月下旬,パリで,チュニジアの新ドゥス
トゥール党やアルジェリアの「北アフリカの星」代表,それにアルジェリア共産党(フラン
ス共産党の支部)代表が参加した共和国支持集会が開かれた(モロッコ人組織としては「青年
モロッコ人」の名があるが,CANは不明。スペインの政治組織が参加したかどうかも不明)。
他方,反乱派がモロッコ民族主義者の支持獲得に成功した頃,「失敗」に気づいてから後の行
動があった。パリのスペイン大使館に「アラブ協会」関係者などアラブ人たちが集められ,
共和国支持の訴えがなされた。フランス共産党とスペイン共産党がこれを組織したようだ。
しかしアラブ人たちは乗り気でなく,このような工作が効果を挙げることはなかった。13)
共和国側の諸勢力は,反乱派がモロッコから大量の兵力をイベリア半島に送って戦況を決
定的に変えたことと,モロッコ民族主義者が反乱派を支持したことに驚き,あわててモロッ
コ人に訴えかけ始めた。しかし,モロッコに浸透することは物理的にもうほとんど不可能に
なっていた。また,過去5∼6年間の共和国のモロッコ統治と,何よりも民族主義者の支援
申し出を拒否したことで,共和国側の訴えや「約束」,ましてや共和国側で闘えという呼びか
けは,あせり,轡越,弥縫を表すものに他ならなくなった。
既に見たように(第1章第4節),カタルーニャではCNTが主導してCAN代表との協定が
なされ,スペイン領の独立の擁護と,さらにはCANのモロッコでの武装蜂起を支援すること
が約された。しかしその後,CNTはこの件について沈黙した。 CNTメンバーの証言によって
も他ならぬCNTのメンバーの多くがモロッコで武装蜂起できる可能性があるとはもう見な
かったこと,第2次ラルゴ・カバリェーロ政府に入閣しようとし実際に入閣したCNTは,政
府が合意していない協定を取り上げることはできなかったこと,以上が主な理由として挙げ
られる。14)それでは,妥協的性格をもちながらも内戦下の社会的・政治的変化に基づいて革命
的性格をもって36年11月に成立した上記第2次ラルゴ・カバリェーロ政権は,せめてモロッ
コの自治に好意的な姿勢をとり始めることはできなかったのだろうか。この政権に加わった
政治勢力では,共和主義派とスペイン内民族主義派の一部は不熱心・無関心だったとはいえ,
CNTの他にPSOEもスペイン共産党もモロッコへの自治権付与を提起しうる政治的立場を
もっていたからである。しかし,この政権がモロッコの自治に向けて何らかの具体的動きに
進むことは困難だった。まず,この時期にはスペインの軍事情勢が切迫していてモロッコど
36 深澤 安博
ころではなかった。また,この時に共和国政府がモロッコ民族主義者に自治を言っても,モ
ロッコの状況を見ると既に遅かった。次により根本的で決定的なこととして,フランス政府
に,(フランス領も,とは言わなくても)スペイン領の自治を承認させることはきわめて難し
かった。フランス(またイギリス)は,スペイン=メトロポリが内戦になったとしても,自ら
のイニシアティブのもとでの(共同)植民地体制が揺らぐのを決して許そうとしなかった。ス
ペインの上記政権も,この(共同)植民地体制の維持を前提としており(本章第2節参照),ま
た,まさに内戦の条件においてはこの体制に楯突くことはできなかったし,実際にしなかっ
たのである。
共和国地域では,イベリア半島に現れたモロッコ人は恐怖と蔑視の対象であり,反乱派が
このような「モーロ人」を動員したことで抗議の対象だった。「アラブの侵略」「ファシスト
とモーロ人の侵略」などの見出し,モロッコ人をやっつけているポスターやアレルヤ(連続
挿し絵)が目立った。また,スペイン共産党やCNTの指導者も,「凶暴で漁色に夢中なモー
ロ人たち...」(イバルリ),「_私たちが植民地としたが,今まさに私たちを植民地にしている
人々アラブ...」(モンセニー)などの言い方をした。内戦中につくられた戦闘歌にも,「モー
ロ人」と闘うという表現や「モーロ人」を蔑視する表現がしばしぼ登場する。15)モロッコ人兵
士たちが反乱派軍の有力勢力としての役割を果たしたからには,共和国側から見れば,軍事
的にはこれには当然の側面がある。ただ,少くとも共和国指導者には,これが自らのモロッ
コ民族主義者への対応のしっぺ返しの一部であるとの認識は弱かった。共和国で事態を観察
していた『プラウダ』記者コリツォーフは,36年9月20日の日記に正当にも次のように書い
た 「共和国の人々の責任も非常に大きい。彼らは,動員されたリブの人々がどんな気持で
いるのかを民兵たちに語らない。民兵たちは,彼らを相入れない敵と見ている。マドリード
の人々の間でも,よく知られた人々の間でさえ,植民地主義的態度が見られる。どうして人
民戦線の政府は,せめてスペインの他の民族地域と同程度の自治をアフリカの諸県[モロッ
コなど]に宣言しなかったのだろうか?」。16)
それでも,これ以降共和国地域でも「モーロ人」への対応には多少なりとも変化が見ら
れる。第5連隊の機関紙『人民の民兵』ハ4’1’dαPop漁r(36年7月26日∼37年1月24日発行)に
それを見てみよう。36年10月初旬くらいまでは,戦利品のために(スペイン)人を殺す傭兵
の「モーロ人」(10月7日号)などの表現が見られる。しかし,10月13日の論説は以下のよう
に言う 新聞はよくモロッコ人兵士のことを「共和国の狂信的な敵」と書いている,これ
は「完全に間違い」だ,「素朴なモロッコ人兵士たち」は「たまたま敵になった」のだ,彼ら
が自発的に熱意をもってファシストの側で戦っていると考えるのは間違いだ。同月21日にも,
「モーロ人」たちはだまされて戦場に連れられて来た,と述べられている。11月9日には,先
述の「反ファシズム・モロッコ人」の呼びかけ人だったイブン・バラが次のように書いた
共和国の中の宣伝でしばしば「奇妙なこと」を見る,「アラブの第2の侵略」という言い
方だ,特定の目的のためにこんな言い方で誘導しているのかそれとも事態をよく知らないか
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 37
どちらかだ,8世紀のアラブ人のスペイン占領と「犯罪的なファシストの反乱」で使われて
いるモロッコ人たちとは何の関係もない,こういう言い方は共和国の利益にならない,逆に
「スペインの真の敵」を覆い隠してしまう,「モーロ人」を血祭りにあげようとするのは現実
に合致していない,「スペイン人民の敵はモロッコ人ではない_」,モロッコ人たちはファシ
ストに使われているに過ぎないのだ。スペイン在住モロッコ人の手になる最後の論説はとく
に注目に値する。17)
4.2.植民地体制の呪縛
内戦中の共和国の事実上の最初の政府であるヒラール政府は,その成立直後(36年7月19
日),最初の政府声明を発表した。その中に次のような節がある 「反乱のもっとも憎むべ
きこと」は,国際的協約によってスペインが保護権をもっているところで反乱が始められた
ことである,これらの国際的協約が我々に課している義務からして愛国主義を誇る人々
[我々]に必要なことは,「たいへん難しい分野[モロッコでの植民地統治]で危険を起こさ
せないようにする」ことと,「この保護の使命でスペインを代表している人々[在モロッコ
軍]のこのような行動でスペインの面目をおとしめさせないようにする」ことである。18)っま
り,反乱者たちの行動は,とくに,国際的取り決めのもとでスペイン政府がおこなっており,
様々に難しい面をもつ植民地統治を危うくさせるものだとして批難されている。ここには,
植民地モロッコでまず反乱が始められ,そこが反乱派によって制圧されたことに,共和国の
統治者たちがとくに当惑している様子が窺われる。若干の動揺はあれ,このような姿勢は内
戦中の共和国政府にほぼ一貫したものだった。
同年9月下旬,ラルゴ・カバリェーロ政権の共和国外相アルバレス・デル・バーヨは,国
際連盟総会で次のように演説した一軍事反乱はスペインが「保護」を委ねられたところで
始まり,また,そこから「大なる脅威」がタンジャ国際管理地区に対して向けられている,
我々が「平和の事業と[国際的]協約の原則の支持への我々の忠誠」をあらためて表明し,
「[スペインの]全領土,これには私が言及した領土[モロッコ]も含まれますが,全領土に
おいて合法的統治を復活させるために」軍事反乱と戦っていることは,スペイン人民とその
民主主義的政府がスペイン国内の安全のためだけでなく,「他の国民の安全と世界の平和のた
めにも」戦っていることだと言えるのは以上の故である。19)つまり,アルバレス・デル・バー
ヨは,共和国はスペイン国内だけでなくスペインが国際的に統治を委ねられた地域の「合法
的統治」復活のためにも戦っているのだから,他の諸国が共和国を支持・援助するのは「世
界の平和」のために当然であると訴えた。これは植民地体制の維持を前提とし,その現状
「変更」の状態に警鐘を鳴らして,とくにモロッコ植民地に関係する仏・英政府の支持を得よ
うとするものだった。
約2か月後の12月初旬,共和国首相ラルゴ・カバリェーロは,国会での所信表明演説で次
のように言った 「我々はモロッコ人民に,共和国政府がモロッコ人民の人格,自由,福
38 深澤 安博
祉,進歩を発展させるための最大限の便宜を与えるための努力を惜しまないことを約束する
ものであります。この道程のためには,共和国政府は,適当ならば,この地域について定め
ている[国際的]協約を改訂することになることもためらわないものであります。他方で,
我々が国際的約定を忘れていないことも宣言するものです。このことは他の諸国に,これら
の国家とわが国が結んだ国際的約定を想起させるものであります。権利と義務を相互に承認
することが国際政治が拠って立つ基礎だからであります」。20)ラルゴ・カバリェーロは,一方
でモロッコ人向けに,モロッコ人の地位を改善させるためには[国際的]協約の改訂一モ
ロッコへの一定の自治付与などを考慮していると訴えかけ,他方で仏・英など植民地国家向
けに,国際的約定も忘れていないことを想起させている。ここには,モロッコの状況からし
て,何らかの打開策を打ち出さねばならないという要請と,植民地体制の呪縛とのディレン
マがみごとに現れている。
上掲のアルバレス・デル・バーヨの「警鐘」やラルゴ・カバリェーロの想起に仏・英政府
が何の反応も見せず,他方で,内戦の戦況が共和国にとってさらに不利となると,他ならぬ
共和国政府から,モロッコ植民地そのものを外交カードとして使って事態の打開を図ろうと
する提起がなされる。37年2月9日付の外相アルバレス・デル・バーヨ名の共和国政府の
仏・英政府への覚書である。やや長く引用するが,その主内容は以下である。
スペインと仏・英との協力と,また「同時にヨーロッパの全般的秩序の問題の解決に
新しい要素をもたらしうる」ことを考慮した「異なった視点からのスペインの問題の検
討」として,共和国政府は次の点の具体化を望んでいる。
①共和国政府は,仏・英両国の利益を考慮する用意がある。
②共和国政府は,仏・英以外の国家の利益にはならない条件で,スペイン領モロッコ
の「現状の変更如何」について検討する用意がある。
③共和国政府は,スペイン領モロッコを「持ち出すmobilisation」ことで,「より広い
領土の調整の方法で,現在の困難な事態のまさに中心にある政治的諸問題の解決と,
スペインの国際政策の将来そのものと密接に関わる諸問題の解決」[後出④のこと]
を可能にすることになると考える。
④共和国政府が以上の提案をするのは,独・伊の援助によって長期化しそうで,「広汎
な国際紛争を_引き起こす危険をずっともっている」スペインの内戦を早く終わら
せようと思うからである。共和国政府がスペイン領モロッコという「若干の犠牲」
を払うことによって,貴国政府の中立政策の放棄を求めようとするのは,これに
よって,これ以上のスペイン人民の流血を免れさせる可能性が生まれるからなれば
こそである。もし以上の提起が仏・英政府によって意義あるものとされるなら,「ス
ペインの問題への独・伊の干渉をこれ以後決定的にやめさせるためにできる限りの
あらゆる方策を採ること」が仏・英政府の役目となる。21)
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 39
この覚書は,外交文書としては驚くほど直戯にその提起するところの意味を自ら語ってい
るので,ほとんどコメントを要しないほどである。この提案は仏・英両政府にとって寝耳に
水のものではなかった。37年1月下旬の国際連盟総会の折りに,アルバレス・デル・バーヨ
が,仏・英外相(とくに前者には詳しく)にこれを持ちかけていた。共和国政府の提案者たち
は,このような方策でフランスがモロッコで優位となり,ドイツのモロッコでのプレゼンス
が排除されれば,フランスはドイツが要求しているいくつかのアフリカ植民地を譲渡できる
ようになるだろう,かくしてドイツのスペイン内戦への介入を弱めさせる可能性が開けると
いう見通しをもっていた。22)
我々には容易に予期されるように,仏・英両政府ともほぼ同内容の回答をして,共和国政
府の提案には乗らなかった。3月25日のフランス政府の回答 「提案の直接の目的」は,ス
ペインでの外国の干渉の完全な中止であることを確認する,これはフランス政府が「動乱の
開始以来,絶えず考えてきた」政策と同一である,スペイン領モロッコについての「検討は,
スペインで秩序が回復したときでなければ有効には議論され得ないものであります」。3月20
日のイギリス外相の回答 「提案の直接の目的」は,スペインでの外国の干渉の中止である
ことを確認する,「これは,不干渉委員会がたいへん真剣に検討するであろう問題でありま
す」,「アルバレス・デル・バーヨ氏が言及しているその他の諸問題[スペイン領モロッコの
こと]は,スペインに平和が回復するのを待ってから検討されるべきものであります」。23)
アルバレス・デル・バーヨの覚書は公表されたものではなかった。ところが3月16日,反
乱派政権側が,共和国政府が軍事援助と引き替えにスペイン領モロッコの譲渡を仏・英に提
案した,と発表してしまった。仏・英政府が覚書に回答したのはこの後である。4月11日,
フランス政府は覚書の内容とそれへの回答を公表し,同日,イギリス外務省も上掲の回答を
公表した。以上の経過を見ても,共和国政府の提案は,むしろ反乱派政権に好都合な宣伝材
料となった。24)
共和国は,独・伊の反乱派支援に対抗するため仏・英政府を何とかして動かそうと考え,
植民地領土の「現状変更」という伝統的でまさに植民地主義的方法に訴えた。ドイッのモ
ロッコでの影響力拡大という状況を背景にして,仏・英揺さぶりのカードとしてモロッコを
持ち出したのである。しかし,まず,不干渉体制の設立に窺えるように,仏・英とも(とく
に後者)独・伊の動きを本格的に抑えようという意図をもっていなかった。次に,仮にスペ
インがモロッコ北部から撤退したとすると,1912年の条約でフランスがモロッコ北部を「保
護領」とすることになるが,これは,20世紀初頭以来ジブラルタル対岸に有力対抗国の存在
を望まなかったイギリスの許すところではなかった。フランスとしても,イギリスの意図を
越えてモロッコ北部を自国領に編入する意図はなかった。さらに何よりも,反乱派がモロッ
コをほとんど支配してしまっていた。以上から,アルバレス・デル・バーヨの提案(共和国
政府内で知っていたのは,この提案を主導した駐仏大使アラキスタインと駐英大使アスカー
ラテの他に,大統領アサーニャとラルゴ・カバリェーロのみ)はほとんど実現の可能性がな
40 深澤 安博
いものだった。より根本的には,共和国が(も)植民地体制にいかに呪縛されていたかという
ことを具現するものだった。アラキスタインは,提案失敗後の38年4月に,「スペインはあら
ゆる帝国の夢から覚めている」のだから,共和国にとって「費用がかかるし意義もない植民
地のカスを犠牲にするのに何の不都合もあるはずがない」と述べた。しかし,もし反植民地
主義を語るのならモロッコ民族主義者の独立要求は否定されえないはずだし,またスペイン
領をフランスに譲渡すること(外交交渉のコマとしての植民地)にもならないはずである。
我々はやはりここにも植民地体制に呪縛された姿勢を見い出せるのである。25)
4.3.モロッコでの反撃の企図と共和国派の活動
アルバレス・デル・バーヨ提案とそれに対する仏・英政府の回答が公表された時期に,共
和国首相ラルゴ・カバリェーロとアラキスタインは,今度はモロッコでの反撃を試みた。モ
ロッコでモロッコ人の反乱を促すことである。タンジャの諜報員から,リブ地方で反乱が起
きそうだとの情報がもたらされていた。陸相も兼ねるラルゴ・カバリェーロは,腹心の陸軍
次官バライバールをパリとタンジャに派遣してモロッコ民族主義者と接触させ,リブか東部
地方あるいは両地方に波及することを期待して,両地方と接するフランス領からの反乱工作
を命じた。資金と武器が集められ,上掲の地域の何人かのカーイドに配られた。5月20日に
反乱開始が予定された。しかし,少なくとも目に見えた反乱は起きなかった(しかも,共和
国の政変によって,この時期にラルゴ・カバリェーロ自身とカバリェーロ派はもはや政権に
いなかった)。スペイン領のカーイドはもはやほぼすべて反乱派当局についていたし,彼ら
カーイドはまたその部族の住民をほぼ手中にしていた。この計画を知らされていたフランス
政府もモロッコのフランス当局も自らの統治にはね返るかも知れぬモロッコ人反乱を支持し
なかったし,既述のように(第II章第4節),むしろ親反乱派の現地フランス軍人も多かっ
雪
ス。26)
それでもその後も,共和国派はモロッコ人に対する宣伝活動を展開した。その中心は,共
和国にとってモロッコの最前線であるタンジャだった。タンジャの共和国支持派はイベリア
半島と同様に諸政治勢力間の対立を抱えていた。彼らは,多くのモロッコ人たちが反乱派に
だまされて自分たちの利益のためではなく反乱派の利益のためにスペインの戦場に連れて行
かれ,死亡・負傷している実情を繰り返し訴えた。「かってムスリムの土地を侵略した者たち
は3今日,新たな支配の野望のためにムスリムを大砲の餌食に処しており,明日はムスリム
たちを荒々しい軍靴の支配のもとでまた圧迫するようになるだろう」(『民主主義』,37年6
月)。テトゥワンから来たというモロッコ人が代表となり,スペインで捕虜になった61人のモ
ロッコ人も署名したとされる「ムスリムたちへの公開書簡」も発表された(38年8月)。この
書簡は,「裏切り者たち[反乱派]があなた方にしているインチキに目を開いてほしい」と訴
えている。38年も末になると,共和国派はさらにモロッコ人に接近する姿勢を見せるように
なる 「彼ら[ムスリムたち]と我々[スペイン人]は,同じ帝国主義的支配の犠牲であ
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 41
る」,「ともに苦しんでいることから,共和国支持のスペイン人は,今日,非常に大きな気持
ちでもってムスリムの人々への連帯感をもっている」,ムスリムとスペイン人は「スペインの
戦争の結果を直i接に被っている2つの民衆」である(『民主主義』,38年11,12月)。以上はも
はや悲痛な訴えといってよい。共和国政府のモロッコ人への対応でも変化が現れたことはた
しかである。38年11月には,モロッコ人捕虜にラマダンなどの宗教儀式の便宜を与える措置
が採られた。翌12月に「ムスリム代表団」がバルセローナに来たとき,共和国政府側からは
国会議長,何人かの軍の将軍,モロッコ・植民地総局長が会見した。我々はここに2年前の
対応(第1章第4節)との差異を見ることができるが,同時に,このような対応がモロッコで
の事態をもはやいかようにも変えるものでないことも容易に理解できる。27)
それでも結局,タンジャの共和国派からモロッコ人の独立の権利の主張が出されることは
なかった。彼らは,共和国の「倫理的資質」からして,自分たちは,スペイン人同士の戦争
にモロッコ人も加わって我々の側で闘ってくれという要請はしないとの立場をとっていた。
しかし,モロッコ人はスペイン人の「被保護民」であるとの認識には変化がなかった一「共
和国に表れている母なるスペイン,モーロ人とスペイン人の古くからの母はモロッコ人民の
ために文化の扉を開いた」(『民主主義』,38年12月),「共和国がモロッコで文明的で利益ある
活動をしていた数年前には,多くの教育・衛生施設がつくられ,ムスリムの血が一滴でも流
されることはなかった」(同,39年2月)。つまり,モロッコ人はスペイン人と同等の主体的
存在として認められていなかったのである。28)
モロッコでの共和国派のもう一つの活動拠点は,フランス領のカーサブランカだった。フ
ランス領居住の2万3千のスペイン人の約半分はカーサブランカに住んでいた。ここでも,
スペイン人コロニーは共和国派と反乱派支持派に分かれた(両派の優劣勢不祥)。共和国支持
派は,共和国会館と『共和国』R6画擁cα紙に集っていた。彼らは,正規の徴兵者以外の義勇
兵の送り出し,「スペインの反ファシスト」への食糧・衣料品・救急車などの援助,子どもの
疎開の受け入れなどの活動をおこなった。フランス領の他の都市(ラバト,マラケシュ,メ
クネシュ,フェス)のスペイン人コロニーにも共和国支援組織があった。タンジャの共和国
派は,イギリス領ジブラルタルの共和国支援組織とも協力していた。またアルジェリアのオ
ラン地域では,反乱派支持者たちの動き(第II章第4節)に対抗して,スペイン人コロニー
の中で共和国支持派の活動が見られた。オラン市では,フランスの人民戦線派と協力したム
スリム組織が38年6月に「大イスラーム集会」を開き,そこでは「リブのアラブ人の我々の
兄弟をムスリムとイスラームの目的とは反対の目的のために死なせているフランコ将軍の残
虐さに強く抗議する」決議がなされた。29)
既述のように,アルジェリアでは民族主義組織「北アフリカの星」(ENA)が共和国支持の
立場を鮮明にした。ENAの中では,フランス共産党の方針をうけてENAからもスペインに
義勇兵を送ることを主張するグループと,アルジェリア人・北アフリカ人がスペイン人同士
の戦争に加わる必要はないと主張するグループ(メッサリ・ハジなど)が一時対立した。結
42 深澤 安博
局,メッサリ・ハジがENAの立場をまとめ, ENAはスペイン領のモロッコ人に,反乱派軍
に加わらないことと反乱派に対して武器をとり彼らを追放することを呼びかけることにした。
それでも,フランスからまたアルジェリアからアルジェリア人義勇兵が共和国スペインに来
た。オランからは約600人の義勇兵が船でアリカンテに来たが,このうちの4分の3がアラブ
人とされている(アルジェリア人義勇兵の総数は500人くらいか)。パレスチナからも,主に
パレスチナ共産党が訴えたことにより義勇兵が来た(総数不祥。しかし,ごくわずかだろ
う)。この中にはパレスチナのアラブ人だけでなくユダヤ人も含まれた。30)
4.4.アブド・アルカリームの威信と脅怖
1936年はアブド・アルカリームの敗北10周年だった。この年,イベリア半島の内戦発生以
前から,CANやアルスラン,その他の民族主義者たちは,アブド・アルカリーム釈放キャン
ペーンを張った。『フランス領アフリカ』編集長=フランス植民地主義者は,アブド・アルカ
リームの「心酔者たち」に対し,それは決して「英雄」ではない人物への「幻想」だと反論
した これは,「反フランスで,さらには反ハリーファ」の立場となる。アブド・アルカ
リームはフランスのおかげで命を失わずに済んだのだ。「フランスの旗の下にモロッコで平和
と安全のために命を捧げた人々」の犠牲を償うには,彼はレユニオン島にいるのがよく,そ
れはたいへん軽い償いなのだ。31)
内戦初期の36年8∼9月頃,カタルーニャのCNT活動家のあいだで,アブド・アルカリー
ムをレユニオン島から解放し,モロッコでの反乱派との闘争の先頭に立たせようとする計画
が企てられた。「アブド・アルカリーム,当時は彼のみが[反乱派による]モロッコ人の動員
を止めることができた_」「疑いもなくアブド・アルカリームは,動員を止めさせるためと,
おそらくモロッコの支配者[=反乱派]に対するモロッコの蜂起のために鍵となる人物だっ
た」(両引用とも,CNT指導者アバー・デ・サンティリャン)。この計画のために水上飛行機
も準備された。しかし,この計画を察知した共和国政府が,国際関係上の問題は政府の権限
だとして実行を許さなかったこともあり,この計画の実現はなかった。他方,ほぼ同じ頃の
同年8月下旬,アブド・アルカリームがレユニオン島から逃亡したという情報がフランスを
はじめヨーロッパ各国で流された。これは虚偽の情報だった。発信源はわからない。これは,
①上述のCNT活動家たちの計画などが漏れた,②フランス人民戦線政府の植民地相が,就任
の際に,全囚人を解放したいと発言したこと(36年6月),③フランスの保守派新聞が「危険
極まる提案」と性格づけた,「フランコとモラが我々をうんざりさせるなら,我々は彼らにア
ブド・アルカリームを立てて邪魔をしよう」という呼びかけが(おそらく)フランス政府内外
の左派からなされたことが,(これまたおそらく)それを事前に妨げるためにフランス保守派
によって脚色された,以上のいずれかないし以上が複合した結果であると推論する。32)
8月25日,フランス植民地相は,アブド・アルカリームの逃亡は「たいへん重大な出来事」
だろうが「それは信じられない」と発言,また同日,植民地省は,この情報には「全く根拠
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 43
がない」とのコミュニケを発表した。翌26日の保守派新聞は,植民地省のコミュニケに関し
て,「非常によいことだ」,アブド・アルカリームをよく監視することを望む,その逃亡とモ
ロッコへの帰国という「陰謀」は失敗した,と書いた。また,翌々27日の他の保守派新聞は,
「スペイン領モロッコでの革命」を望む「極端主義者」が他ならぬフランスにいる,彼らはこ
れが「かならずフランス領モロッコでの反乱となる」ことを理解しようとしない,と書いた。
『フランス領アフリカ』編集長はもっと攻撃的に次のように主張した アブド・アルカリー
ムを釈放しようとするのは,「今なお謀反人[アブド・アルカリーム]の周囲にあるかも知れ
ぬ威信を利用して」モロッコのためにならないことをすることだ,これは,スペイン領モ
ロッコの「惨事」のフランス領への延長となる,アブド・アルカリームは,自分を帰国させ
ようという試みに耳を貸さないだけでなく,「モロッコでのフランスの事業の破壊とともに北
アフリカの崩壊と世界戦争に行き着くしかない」試みを自分の名を使っておこなうことを禁
ずる,と言うべきである。33)フランス植民地主義者たちにとって,ありうべきアブド・アルカ
リームの釈放とモロッコへの帰国がいかに脅威だったか,スペイン領の現状=反乱派統治よ
りいかに脅威だったかということはもはやほとんど疑いを容れない。
36年10月,フランス領のCANは,「保護国設立後の政治的理由による追放者,亡命者,逮
捕者」の恩赦をスルタンと統監ノゲスに要求した。これは,アブド・アルカリームの釈放を
も含んでいた。さらに,37年に入っても,CANやその解散命令後につくられたフランス領の
民族主義組織は,アブド・アルカリーム釈放要求運動をした。他方,36年12月,フランス下
院植民地委員会は,アブド・アルカリームの処遇改善さらには幽閉地をフランス本土内に移
すという決議を採択した。しかしこれは,外相が取り上げるところとはならず実現しなかっ
た。これらのことは,フランス政府が状況によってはアブド・アルカリーム持ち出し作戦に
動くのではないかという不安を,フランス植民地主義者だけでなくモロッコの反乱派当局に
も与えた。実際に,モロッコの反乱派当局はほぼ内戦中を通してアブド・アルカリームの家
系の者を監視していたし,既述のように(第II章第3節),38年にはアブド・アルカリーム帰
還のうわさが広まったことを認め,何人かのアブド・アルカリームの家系の者を逮捕した。34)
アブド・アルカリーム当人が,スペインの内戦やモロッコの状況についてどのくらい知っ
て(知らされて)いたか,どのように見ていたかということはほとんどわからない。35)いずれ
にせよ,少なくともモロッコでは植民地主義的対応を変えなかったフランス人民戦線政府が,
スペインの内戦中にアブド・アルカリーム釈放の行動に出る可能性は,上述の状況ではきわ
めて少なかった。さらに,スルタンに対する「反逆者」アブド・アルカリームの帰国をスル
タンとハリーファ(後者は「アブド・アルカリームの反乱」中の1925年11月に就任)が望む
わけはなく,ただその阻止が望まれるものだった。しかし,民族主義者たちがそれを要求し
(PUMやPRNはアブド・アルカリーム釈放要求についての対応を明らかにしていない。反乱
派当局がそれを許すはずがなかった。しかし内戦後の行動も視野に入れると,少なくとも
PRNはこれを望んでいたと思われる),モロッコ住民のあいだではアブド・アルカリーム帰
44 深澤 安博
還のうわさが広まった。38年8月に,『フランス領アフリカ』の立場に近いフランスの植民地
評論家も,アブド・アルカリームの支持者ではなく「ただアブド・アルカリーム当人のみが,
エルバ島から帰還したナポレオンのように,国全体を反乱に立ち上がらせることができた」,
と評している。それ故,やはり問題となるのは,共和国政府の対応である。37年1月に,外
相アルバレス・デル・バーヨは,スペイン領モロッコでのモロッコ人の反乱を促すためにア
ブド・アルカリームの釈放をフランス政府に打診した。しかし,もちろんフランス首相ブル
ムは応じなかった。その後,共和国政府からアブド・アルカリーム釈放・モロッコ帰還要求
が出たことは確認できない。36)フランス政府の対応からしてその実現は困難であったとはい
え,我々は,ここにも植民地体制の呪縛を見ないわけにはいかないだろう。
内戦の終了 結語と展望
内戦終了直前の39年2月末,仏・英政府は反乱派・フランコ政権を同時に承認した。承認
発表直前のフランコ政権外相とフランス政府代表との合意では,仏・西両政府は「友好と善
隣iの関係を維持し,またモロッコにおいて誠実で率直な協力政策をおこなう」とされた(ス
ペイン側の提起で,対独・伊関係を考慮して,この部分は秘密とされた)。ただちにフランス
政府は,かのペタン元帥を駐西大使に任命した。ブルゴス国民ラジオはこの任命を次のよう
に歓迎した ペタン元帥は,「フランスが_リブ共和国の自称大統領アブド・アルカリーム
の無政府状態を終わらせるために我々と一緒に努力した時期に,我らの軍と聡明に協力し
た」。ベイグベデールも,モロッコ戦争時の協力を想起させたうえで,「モロッコでのフラン
スとスペインの間には,道理ある結びつきがある」と述べた。当のペタンは,3月下旬のブ
ルゴスでの就任あいさつで,「ヨーロッパでも隣人,共同の利益が両国を結びつけているアブ
リカの地でも同時に隣人。_」と語った。これに対してフランコは,「ヨーロッパで我々が隣
り合わせでいることは,我らの歴史の侵すべからざる権利に由来する文明化という共通の使
命によって,アフリカにも延びている...」と応え,やはりさらに,「モロッコで我々が互いに
誠意をもって行動した頃の思い出」を想起させた。37)それまでのフランス植民地主義「批判」
は,打って変わったように,植民地モロッコでの西・仏両国の協力となったのである。
まさにこの頃,時を待っていたかのようにPUMは,「戦争は終わった。モロッコはスペイ
ンのカウディーリョの約束を信じている」とのタイトルのもとで主張した 「モロッコは戦
争中にスペインと一緒にやってきた。スペインは平和時にもモロッコと一緒にやるべきであ
る」「_平和が訪れて,モロッコは一息つくことになり,「フランコのバラ」[第II章第2節参
照]がモロッコの各家庭に届くことになる」「モロッコ人は,西欧の他の国家に抱く不信とは
逆に,スペイン国家の長の口からなされた確かな約束が直ちに少しずつ実現されようとして
いるときに新スペインを信頼している」「すべてのムスリム世界は,スペインのカウディー
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 45
リョの約束がその通りにまともに果たされるのを今か今かと待ちこがれている。モロッコの
すべての人々も同様にもっとじりじりとして待ちこがれている」。以上の迫力ある主張は,戦
争中の協力に対して,さあ早く約束を履行してくれと求めている。38)
第II章第5節末尾で所引した,内戦終了直後のフランコのモロッコ人への最大級の賛辞の電
報は,以上のような「言質確認」をも意識していたのだろう。39年5月にベイグベデールが
フランコの名でハリーファを訪問したときの発言に,それは間違いなく表れている一「約束
を果たすために,今日ここに,[フランコが]あなた方に捧げる最初の「バラ」を持って参り
ました。公共事業の資金,恩赦教育援助,グラナダにイスラーム文化センター創設,イス
ラーム法の独立であります。これらはプログラムの最初の章であります...。フランコのスペ
インは,あなた方がスペインに絶えずしてくれた真心こもった援助を忘れることはできませ
んし,公正に基づいたあらゆる要求を実現するつもりであります」。以上の「バラ」(いくつ
かはすでに戦争中にもたらされていた)は,たしかに内戦後に実現される。内戦中にはな
かったイスラーム法の独立は,39年6月に導入された。39)しかし,それ以上のことはなかっ
た。いまやフランスとモロッコ植民地支配の協力で意気投合したからには,勝利したフラン
コ政権がモロッコの「自治」を語ることさえなかった。
内戦に加わったモロッコ人兵士やその家族には,補償金,年金が給付されることになった。
この給付は,フランコ体制崩壊後まで続く。イベリア半島にいた大量のモロッコ人兵士の帰
還は,39年4月から徐々におこなわれた。一挙に帰還させることは,モロッコでの「治安」
を不穏にさせるとみなされたからである。内戦中と同じ理由で,負傷者の帰還はなかなか許
可されなかった。4°)
内戦後のフランコ政権は,モロッコ植民地統治を緩和するどころか,北西アフリカでのス
ペイン帝国建設の意図を顕わにする。39年5月,スペインは国際連盟から脱退した。この決
定的理由は,アルヘシーラス議定書などモロッコについての国際的協約の改訂の意図であり,
皮相的な観察者が見たような同年3月の防共協定加盟ではなかった。既述のように(第II章第
6節),タンジャの反乱派支持者たちは内戦中から,「タンヘルはスペインのものだ」と叫ん
でいた。早くも39年5∼6月,この要求が公然と表れる アルヘシーラス議定書は廃棄さ
れるべきである,「スペインは,自らが国際的人格をもち,地中海において文句なき意義を擁
する強国として世界にみなされるよう要求する権利をもっている」,「スペインは,その帝国
的使命と歴史的再興のより広い地平を擁することができるのだ」,「この国際的都市[タン
ジャ]の中立はいつも神話だった」,「我がスペインは,タンヘルでの義務を果たすことを決
してやめなかった」(以上,高等弁務官庁報道局長アルケス)。後の40年6月のスペイン軍
(形式上はハリーファ軍。イベリア半島から帰還したモロッコ人兵士の動員!)によるタンジャ
占領は,機会主義的なものではなく,このような意図の帰結だった。オランなどアルジェリ
ア西部地方のスペイン領への併合の声も既に内戦中から出ていた。41)
内戦後もフランコの周辺を固めた「モーロ親衛隊」は,アフリカ「原住民」を支配するス
46 深澤 安博
ペイン帝国を誇示するものであるとともに,内戦での援助の返礼としてモロッコ人を重用し
ていることの証しでもあった。42)
内戦によって生まれたフランコ政権のモロッコ統治の結末を見るには,少なくともさらに
数年後までの検討が必要である。それは別稿に譲る。いずれにしても,「はじめに」で設定し
た射程から見えて来たこと=本稿の結論は,本文中にすでに明らかである。一言で言えぼ,
モロッコ植民地は反乱派・フランコ政権の勝利=成立にとって,また,スペイン領モロッコ
の反乱派・フランコ政権との関係はスペイン領のその後の動向にとって,いずれも決定的に
近い意義をもった。
最後に,後のいくつかの総括を取り上げておこう。もちろん勝者の側は,既成の成功と,
本文中にもあるように,ただモロッコ人と自らのモロッコ統治を讃えるだけである。後にモ
ロッコ独立運動の代表者となったアルファッシは,スペイン領の民族主義者たちの対応につ
いて,「我らの同志たちは,保護領制度のもとでの統治への参加は時間の無駄だということを
悟った。それだけでなく,それは他の人民の心も腐敗させるようなものだった...」と述べる。
現代モロッコの歴史研究者ベンジェルーンはさらに厳しい評価を与えており,モロッコ人の
犠牲が高くついた割には達成されたモロッコの自由はわずかだったので,スペイン人たちの
「危険な罠」を理解できなかったモロッコ民族主義者の「歴史的責任は非常に大きい」と結論
する。スペイン人の共和国支持派は,どうして,共和国(派)(こそ)がモロッコ人の独立・自
治要求を取り上げることによって,モロッコ民族主義者とともに反乱派に対して闘えなかっ
たのかを問うている。現代スペインの評論家J・ゴイティソーロは,内戦中の共和国派の人々
が,以前からスペイン社会にある「モーロ人」に対する偏見に依拠し,またそれを増幅させ
たことを強く批判し,このようなスペイン社会の偏見が現在もなお存在することを問題とし
ている。43)
注
1)AL−FAsI, pp.150−161;A双1936−XII−649;σルf,12−IV−1937;Ch.−Andr6 JuLIEN, L’Aか∫卯8伽1>oπ1θη
〃zorch8(Paris,1952), p.160.
2)0ハ4,19,26−IY l O,17,31−∼㍉14,28−VI,5−VII,22−XI,6−XII−1937,14−III,23−V−1938.αWOLF, pp.209一
210.『モロッコの統一』は,34年のCANの改革プランを全文掲載した(σM,29−III∼28−VI−1937)。
3)σルf,6,13−IX,29−XI−1937;GA,5,9−IX,3,25−XI−1937.
4)しηt4,13−IX,1,8−XI−1937,24−1,25−VII,24−X−1938;AL−FASI, p.193;AE 1937−X−453−456;JuLIEN, p.173.
5)JuL肥N, p.157(ロンゲの観察),所引のエジプトの新聞は,最初のものからそれぞれ,37年2月の
『エル・リブ』に再掲されたもの(元の新聞名と日付不明),36年10月のアルジェの新聞『エル・オ
ウマ』(すぐ後出の「北アフリカの星」の機関紙)に再掲された『ジハード』(日付不明),39年1月
19日の『アルファテー』。AE l 937−IV−215;BENJELLouN④, p.67.チュニジアについては,
Abdelhakim EL GAFsl,‘De Cartagena a Bizerta. Prolongaciones tunecinas de la guerra civil espa丘ola’,
Aηα18346H’舘orごαCoアτ’8〃4)or6η8α2(1983)。
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 47
6)乙ηt4,9−VIII,18−X,1−XI−1937,18,25−IV,9,23−V,27−VI,11,18−VII,10−X−1938;GA,23−1,5−XI−1937;
AE 1938−VI−274;BENJELLouN②, p.12, p.16, CANはイラク外相に,共和国政府がスペイン領の独
立を承認すると言ってきたらどうすれぼよいかを相談していた。イラク外相の応答は不祥。しかし,
イラク外相が1936年9月下旬にイギリス外相にこの件を伝えたとき,イギリス外務省はスペイン領
の独立などとても認められないとの応答をした。ALPERT, p.39.
7)σルf,2−V6−VI−1938;AE 1938−VII−298, XI−379,1939−II−44;、Lα1>α∫∫oηA雌わ8, n.18−19, p.1001;Touma一
der KHATIB, Cπ伽肥6ψ01’吻配84侃316配o麗vεη18η’η副oη01’5∫8配αmco加側、M「α5伽ε9(T6touan,1996),
pp.23−30;BENJELLOUN④, p.43;WOLF, p.213.トレスの発言は『エタッジ・ミスリ』(38年11月11
日)。BEN凪LLouN④, p.67.ただ,末尾の件は,本章第2節で述べた「反フランコ宣伝」をした6人
の教員の代用・補充であるという推測も可能である。
8)AF,1936−XI−598.
9)イブン・バラは,後に,「北アフリカの星」の機関紙『エル・オウマ』の編集人になっている。A況
1936−XI−598;GARATE C6RDoBA, PP.63−64;GoNzALEz, P。18;Abdellatif BENsALEM,‘Los voluntarios
arabes en las Brigadas Internacionales(Espafia,1936−1939)’,R6v’5m I配6rηαc∫oηα14650dolo8血46−4,
p.567.
10)AE 1936−VIII・IX−458;GoNzALEz, P.16;FoNTAINE, PP.162−163.
11)AE 1936−XI−600.
12)A瓦1936−XI−600;Ignacio ALcARAz CANovAs, Eη’泥E卿o戸o yル1αrr配6co3/7セ∫’肋oη’04θ瑚α4ρoco’1923一
1975(Mardrid,1999),p.136. POUM(マルクス主義統一労働者党)の機関紙は,36年8月に,共和国
政府がスペイン領モロッコに独立を与えるよう要求した。BENJELLOUN②, p.11.
13)A、丑1936−VIIHX−460, XII−647;BEssIs, p.484,
14)BENJELLOuN③, P.533.
15)深澤①,19ページ;MARTiN, PP.180−181;V6rnon RIcHARDs,翫38’9ηθ耀η’46 Zαr4vo1説oη68ρα8ηoJ6
(Pahs,1975),PP.376−377;BENJELLOUN③, P.540;Co18cc’6η46 Cαηc’oηθ546乙励α(Valencia,1939/repr.
Madrid,1980), p.48, p.62;Juan GoYTIsoLo, Cガηlcα53αrrαclηα5(Madrid,1998[11981]), pp.13−14;
Enric UCELAY DA CAL,‘Les simpaties del nacionalisme catala pels<<moros>〉:1900−1936’,ゐ’Av6η9
VI−1980, P.40.
16)M輌ail KoLTsov, D’αr’0481αG肥アrα岬α万01α(Madrid,1978), pp.106−107;MARTiN, pp.195−197.
17)M∫11c∫αPgρ膨Z砿D∫碗046」5°R88肋’θη’04θM〃∫磁∫1勿麗Zαr63(repL Barcelona,1977).本紙を取り上
げたのは,リプリント版が出ていて,全号をたやすく利用可能だったという理由による。qズ
ALCARAz CANovAs, P.130.
18)他に信頼しうる参照文献が見当たらないので,この声明については,EJ∫odα1競α1936年7月21日
号を参照した。ALcARAz CANOvAS, pp.127−128にも所引(ほぼ同文)。 q弄ALcARAz CANOvAS, p.
89.
19)AE 1936−X−530.
20)MARTiN, P.180;SALAs LARRAzABAL②, P.208.
21)AE l 937−IV−210;AzCARATE, pp.73−75, pp266−268;MADARIAGA, pp.90−91.
22)AE l 937−IV−210;AzcARATE, PP.72−74, PP.264−265;Luis ARAQuISTAIN,50わr8 Zα9肥rrαdvμy6η
1α6〃2∫grαd6η(Madrid,1983), pp.3435, p.224;MADARIAGA, pp.90−91;SERRANo, p.37.ドイツのフ
ランスに対するアフリカ植民地要求については,SERRANO, p.36.
23)A1ろ1937−IV−210−211;AzcARATE, p.75;MADARIAGA, p,91;SERRANo, p.39.
24)反乱派政権に覚書の内容を漏らしたのはイギリス外務省のようだ。イギリス政府は,フランスがス
ペイン領を組み込むことにもドイッのアフリカでの植民地要求を認めることにも反対だった。さら
にイギリス政府は,共和国政府への回答の前にこの件をドイッ政府に知らせていたようだ。イギリ
スの1新聞は,「スペイン政府は戦術的失敗をした」と評し,イタリアの1新聞は,モロッコがフ
ランスの共和国への援助の「都合のよい代償」となろうとしたと批難した。AE l937−IIL162−163,
48 深澤 安博
V−284;ARAQuIsTAIN, P.163;SERRANO, PP.38−39;ALPERT, PP.39−40, P.43.
25)AzcARATE, P.75;ARAQUISTAIN, P.164;SERRANO, P.37.
26)ラルゴ・カバリェーロの計画には,モロッコ人女性を共和国地域に連れて来て,反乱派軍にいるモ
ロッコ人兵に投降を呼びかけさせるというプランもあった。バライバールの報告によると,バライ
バールはアルスランの影響下の民族主義者とは「対立する」民族主義者と接触したとあるが,詳細
不明。またバライバールは,フランス領にいるスペイン領事たちがこの計画に反対ないし計画を妨
害している,と報告している。アサーニャは,とくにフランス当局の対応を気にかけ,またプラン
の周到性と遂行の確実性を欠くとしてこの計画に終始懐疑的だった。これ以前の37年1月頃,反乱
派側から次の情報が流された 共和国の「反ファシズム・スペイン・モロッコ委員会」が,スペ
イン領でモロッコ住民に対し反乱派軍への入隊をやめるよう説得活動をした,この委員会の支持者
と見られる2名のスペイン人が逮捕された。しかし真偽・詳細は不明である。A君1937−II−108, V一
284;ARAQuIsTAIN, PP.30−32(Estudio preliminar);Julian ZUGAzAGOITIA, G配アrαyvどd誼π48546 Zo5
63pα海o!63(Barcelona,1978),2Vbls.,p.241;Manuel AzA寅A,1けαηo磁5468配r雌1936−1939(Barcelona,
1996),p.45, p.48, pp.68−69, p,102, p.267;MADARIAGA, p.86, p.92;SERRANo, pp.40−41;GARATE
C6RDoBA, PP.65−66;ALPERT, P.40.
27)D8配oczαdα,22,25−VI−1937,21−VIII,18−IX,6−XI,2,16,23−XII−1938;EI Poハノ8η∫君18−XI−1938;
VIDARTE, p.874.「ムスリム代表団」がバルセローナを訪れた頃,タンジャでは公使ビダルテが,共
和国政府とフランスがモロッコに独立を付与する,フランスがこれに同意しなければスペインはス
ペイン領を「放棄」するという提起をノゲスにしたが,ノゲスに拒否された。いずれにせよ,もは
やその実現可能性は少なかった。この頃にもまたタンジャで,スペイン領での反乱工作が計画され
た。今回はPRNのトレスとの接触にも成功したが,トレスは計画には賛同したが反乱参画を拒否し
たという。VIDARTE, P.902;BENJELLOuN③, P.534;ALPERT, PP.41−42,
28)D6溺ocmdα,22−VI−1937,6,30−XI,9−XII−1938,17−II−1939.
29)A1ζ1936−X−528,1937−VII−386;GA,11−II−1938;D6η20crαc∫α,24,25−VI,17,23−VII,21−VIII−1938.今回
参照し得たR6画捌cαは, n.33(3−IX−1938), n.43(26−XI−1938,最終号)の2号のみ。
30)「アラブ人義勇兵」については,BENsALEM論稿参照。また, Andreu CAsTELLs, Lα5βr∫8α4α3
傭6r照doηα16∫4θ1αg膨θr昭4εE5po肋(Barcelona,1974), pp.66−67(本書によると,アルジェリア人
義勇兵は493人,モロッコ人義勇兵は201人,タンジャからの義勇兵は10人となっている。pp.381一
382)。ENAの立場を説明したENAメンバーの次の証言も参照 「_もし我々がスペインの共和国
派を援助するのなら,彼らもまた我々がリブを解放するのを援助することになろう。しかし,リブ
を解放することは植民地を蜂起させることだが,フランス人やイギリス人はそれに反対だったのだ。
...」(Mohieddine HADHRI,乙’σR∬θ〃θルfαg厩わ. D81αR4vo妬loη4’oc’oわrθaJ’加4φ8η4αηc84θ」且184rlθ
1917−1962(Paris,1985), pp.67−68)。前掲『アラブ民族』誌も,アルジェリア人をスペイン共和国軍
に参加させようとするENAの中のフランス共産党派を次のように批判した一モロッコ人はスペイ
ンの保護下にある[それ故,反乱派軍に加わっている]が,アルジェリア人はスペインと政治的関
係をもっていない,反乱派は「完全な自治」をリブに約束しているが,共和国派はリブに自由を与
えるのを拒否した。加く厩’oηAr励6, n.12−13, pp.662−663.
31)AL−FAsI, p.301;A君1936−V−277.
32)CNT活動家たちの計画には,やはりフランスのアナーキストが関わっていた。また,この頃,フラ
ンス共産党も上述の計画とほぼ同様の計画を別個に企てていたようだ。Diego ABAD DE SANTILLAN,
DεA朋gη50XπノαFrαηco. Aρ朋’6546痂3’or彪ρ01‘”cα481αE5pαガα配046r照(Buenos Aires,1974), p.
381;BENJELLouN③, PP.531−532;A瓦1936−VIII・IX−478.(アBEN」ELLOUN②, P. l l. ・
33)この後の9月にも,保守派新聞は,スペイン領の「原住民」に対しアブド・アルカリームの名で宣
伝がなされている,と書いた。AF,1936−VIII・IX−459,478−479.
34)反乱派政権の反応についての直接の史料・文献はない。しかし,イタリア政府機関は情報把握に動
いていたし,本文中のような反乱派当局の行動からも,反乱派政権はまず間違いなく状況を注視し
「スペイン内戦とモロッコ(下)」 49
ていたと推測できる。JULIEN, pp.152−153;R且zETTE, p.107;AL−FASI, pp.301−302;FONTAINE, pp.
156−157;ん已1937−X−458,1938−X−363;FRIEDLANDER, p.355;MADARIAGA, p.83;ALPERT, p.38.
35)36年9月末,次の情報が共和国地域で流された。アブド・アルカリームが,自分はもう政治には関
与したくないとして自分のモロッコ帰国希望の噂を否定した,しかしアブド・アルカリームは,モ
ロッコで反乱派支配に対する抵抗運動を始めるよう示唆した(〃’〃c∫αPop配1碗27−IX−1936)。しかし, .
この真偽は不祥である。
36)MADARIAGA, P・87;MoNTAGNE, P,440;ARAQuIsTAIN, P.30(Estudio preliminar);ALPERT, P。40.39
年1月になって,やはりタンジャからの工作の一環として,スペイン領のベニサイドのカーイドと
フランス領にいたアブド・アルカリームの義兄弟を取り込む計画が企てられたが,うまくいかな
かった。ALPERT, p.42.
37)Amparo CANDELAs DE LA FuENTE,‘El mariscal Petain, primer emb司ador de Francia ante el gobierno
de Franco’, C麗α48アη0546 H∫3ωr∫αルfo48rηαyCo班8〃ψo君4η8α, n.(1987), P.241;A・E 1939−III−64−66,
IV−122, VI−166.
38)AE l 939−IV−113;IHRAI−AOUCHAR, p.101.『モロッコの統一』は,第II章第5節で所引の38年のカイ
ロのムスリム大会へのフランコのメッセージ紹介の際にも(39年2月23日号),「我々は,[フランコ
の]善意と,その約束がやがて実現することを一瞬たりとも疑わない」とコメントした。以上のこ
とはフランコ政権への圧力であるとともに,少なからぬ不信の表れでもある。
39)AE l939−VI−162, XI−272;σ1匠,13−IV−1939.
40)GoNzALEz, P.18;BEN」ELLOUN①, P.37;A丑1939−IV−101.αMELLoR, PP.245−246.
41)AE 1939−II−46, IV−97,100−101,121, V−133,149−150, VI−165,177;CLARENCE−SMITH, PP.310−311;
HALSTEAD②, P.34;MoNTAGNE, P.444.
42)フランコは,モロッコ人の内戦での貢献を想起させるため,映画制作をも命じた。39年に上映され
たこの映画の監督はベイグベデール自身だった。HALSTEAD①, pp.64−65;ALcARAz CANovAs, pp.
128−129.
43)AL−FASI, p.155;BEN」ELLoUN③, pp.530−531,pp.535−536;共和国支持派の総括の代表作は, MARTiN
の著作;GoYTIsoLo, chaps.,1,2.(γMADARIAGA,‘lmagen del moro en la memoria colectiva del pueblo
espaiol y retorno del moro en la Guerra Civil de 1936’,R6v∫∬α1π’6rηαc如ηα14630c∫0108ぬ, Vol.46−4.
Azzuz HAKIM, E150c∫α1∫5ηω85P痂01 yε1ηαdoηα〃∫〃20ητα陥o卿ガ6D81990α1939ノ(Malaga,1978)は,
1930年代のスペイン人左翼・社会主義派のモロッコ政策の「盲目性」「大きな過ち」を批判した文
献。ただ,研究書と呼べるだけのオリジナリティーも客観性も有していない。
*本稿全体への補遺
①校正上の修正
(上)−44ページ4行目「Indfnas」→「lndfgenas」
(上)−46ページ19行目/63ページ注6)「Gαc8’α464餌cα」→「加Gαc8’α464か∫6α」
(上)−55ページ下から7行目「infgena」→「indfgena」
(上)−63ページ12行目「(以後,S),232−」→「(以後, S)232−」
(上)−64ページ下から14行目「AL−FA」→「AL−FA−」
(上)−66ページ1行目「σM,1−XIII−1938」→「ひM,1−VIII−1938」
②用語と読み方の訂正
(上)では「カイード」としたが,(中)(下)では「カーイド」と訂正。
(上)−45ページ15行目「ムハッマド・ユーセブ」→「ムハンマド・ユースフ」
(上)では「ナシーリ」としたが,「中」「下」では「ナーシリー」と訂正。
(上)では「ハブー」としたが,「中」「下」では「ハブス」と訂正。
③一部脱稿後からの利用文献
1.ALpERT論稿およびBENJELLOuN③は,(中)から利用した。(上)にも関連部分はあるが,論
50 深澤 安博
旨に影響はない。
2.ALcARAz CANOvASおよびAzzUz HAKIM, E150dα1∫5〃Io 8甲痂oZ。..は,(下)から利用した。(上)
(中)にも関連部分はあるが,やはり論旨に影響はない。
3σMAR10
La Guerra Civil Espa五〇la y Marruecos
Yasuhiro FuKAsAwA
Facultad de Humanidades, Universidad de Ibaraki, Mito, Jap6n
La Gueπa Civil Espa五〇la no tiene su ohgen directo en los problemas de M㎜ecos. Pero, los
aspectos militar, polftico, intemacional y mental de esta guerra civil ponen de relieve las significaciones
del protectorado espaiol en Mamlecos. Primera:su importancia decisiva como la base de la rebeli6n
yde la movilizaci6n de los soldados en los primeros momentos. Segunda:durante la Guerra Civil,
esa colonia segufa utilizada militar y polfticamente por ambos bandos de la contienda, y uno o otro
bando segufa amarrado por el r6gimen colonial. Tercera:las reacciones de los nacionalistas marroqufes
cuando estall6 y duraba la guerra civil en la metr6poli.ヱfinalmente:las reacciones de los paises
europeos a la situaci6n de Marruecos como el punto estrat6gico.
Los rebeldes militares podian utilizar fuerzas a㎜adas muy numerosas y densas en Marruecos.
Yl por su presi6n a la autoridad internacional de Tanger consiguieron hacer retirarse las flotas repu一
blicanas de las aguas tangerinas.
Los rebeldes conseguian las colaboraciones de la autoridad jali且ana y de los caides(casi todos
‘moros amigos’). Tambi6n, por facilitar a los marroqufes unas libertades democraticas y medidas
pro−marroquies, y aun por hacer‘promesas’de autonomia o independencia de Marruecos, consegufan
la colaboraci6n de los nacionalistas marroqufes. Por el reclutamiento forzoso o insistente a los‘indfge一
nas’ Cunos ochenta mil marroqufes luchaban en la‘Espa丘a nacional’.Las dificultades de vida y odio
orencor a los espa五〇les eran motivos de esos soldados mercenarios. Hubo no pocas protestas y‘re一
beliones’marroqufes, pero ellas no llegaron a estremecer la autoridad espa丘ola‘nacional’.Por motivos
de destacar los tratos generosos a los marroqufes en su protectorado y tambi6n de desviar los descontentos
de marroqufes, los rebeldes espaioles criticaban severamente‘el colonialismo’en el protectorado franc6s.
El Alto Comisario espaiol se fingfa como si‘El Lawrence en Marruecos’,ytambi6n Franco mismo
se portaba como un‘amigo de musulmanes’.
Reconocidos dos partidos nacionalistas marroquies(El Partido Refomlista Nacional y El Partido
de la Unidad Marroquf), ellos defendfan las casi mismas reclamaciones. Ellos rivalizaron muchas
veces por el man句o astuto de la autoridad espa負ola. Pero ellos sabfan no solamente aprovechar las
ofertas de la autoridad espahola sino tambi6n tomar precauci6n hacia ella. Los cambios drasticos
del protectorado espa行ol en Marruecos interesaban a los nacionalistas arabes en las otras areas.
Por otra parte, los republicanos rechazaron la oferta de la colaboraci6n a su favor por los na一
cionalistas marroqufes a c㎜bio del reconocimiento de la independencia de Manuecos. Despu6s empeza一
ban a apelar a los marroqufes. Pero en la zona republicana los soldados marroqufes movilizados por
los rebeldes eran mirados con horror y desprecio. Con todo, los gobiernos republicanos no querian
salirse del r6gimen colonial(internacional). Unos esfuerzos de llevar al confinado h6roe Abd al一
Karim a Ma㎜ecos resultaron vanos.
Francia se ala㎜aba ante el agrandamiento de la presencia de Alemania en Ma㎜ecos. Francia
necesitaba la‘no−intervenci6n’precisamente en Manuecos.
Examinadas esas problematicas, la Guerra Civil Espa五〇la resulta ser no solamente la guerra
civil entre ambos bandos espa五〇les(retr6grados y progresivos)en‘la Era de Fascismo’,sino tambi6n
la guerra civil en la metr6poli en la 6poca del r6gimen colonial.
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