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日立市における商業構造の変容

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日立市における商業構造の変容
地域研究年報 34 2012 161–180
日立市における商業構造の変容
小野澤泰子・大道寺 聡・橋本 操・厳 婷婷
陳 麗娜・盧 柳松・大石貴之・山下清海
キーワード:商業構造・中心商店街・企業城下町・日立市
には以下の研究が挙げられる.岩間ほか(2004)は,
Ⅰ はじめに
茨城県古河市を事例として,製糸工場とともに繁
Ⅰ-1 研究の背景と研究目的
栄した商業地が,製糸業の衰退に伴い停滞するが,
近年,日本の地方都市では,都市構造の変化に
広大な製糸工業跡地に建設された大型店の進出と
伴う中心市街地の衰退が深刻化している.特に人
ともに商業構造が再編される過程を示した.難波
口規模が10万人台の都市における中心市街地の商
田(2006)は,企業城下町の兵庫県相生市を事例に,
業は空洞化し,商店街の「シャッター通り」化が
1980年代の企業合理化後に市が産業構造の転換を
大きな問題となっている(山川,2004).これら
図ることができなかったこと,また中心市街地に
の要因となっているのが,街道沿いの旧中心商店
おける店舗の閉鎖や,店舗としての活用に積極的
街から駅周辺地区への商業中心地の移動と,都市
でない所有者の存在が,新規参入を阻止し,中心
の郊外化である(高野,2005).駅前や中心市街
商業地の規模およびエリアの縮小に繋がることを
地周辺の幹線道路沿いに,ロードサイド型の大型
示している.
小売店舗が立地するのに伴い,モータリゼーショ
また中心商店街の社会的な側面に焦点をあてた
ンへの対応に遅れた中心商店街への来客が減少し
ている.
ものとして,以下のものが挙げられる.兼子ほか
(2002)は,地域活性化策事業が実施できた背景
このような状況において,中心商店街の活性化
には,地域全体の人のつながりと積極的な活動が
への取り組みとその問題点に多くの関心が寄せら
重要であったことを示しており,安倉(2007)は
れている.2006年に改正中心市街地活性化法が施
商店街組織から独立した「仲間型組織」の活動も
行され,大規模な集客施設の制限が行なわれるな
重要な役割を担っていることを示している.また
ど,都市機能がコンパクトに集積した都市構造へ
大石ほか(2011)は,集団としての商店街活動は
の転換が進められている.衰退している中心商店
あまり活発ではない長野県須坂市の中心商店街に
街を再び活性化させるためには,このような行政
おいて,個々の店舗が存続のためにどのように経
による再開発事業は必要であるが,同時に,中心
営様式を変化させてきたかについて検討してい
商店街の地域的な構造変化と,経営者の意識など
る.
人的な側面を総括的に把握することも重要である
これらの先行研究における中心商店街に関す
とされている(五十嵐,1996).
る,都市構造および個人レベルの経営者の活動に
中心商店街の変容を都市構造から分析したもの
焦点を当てた分析方法と結果を踏まえながら,本
-161-
研究では特殊な商業構造を発展させてきた茨城県
る国道6号線と国道245号線が,市内を南北に縦
日立市の中心商店街を研究対象として取り扱う.
走している.人口は2011年において193,129人を
本研究の目的は,日立市の商業構造の変容過程を
有し,茨城県北地域の中核都市である.
明らかにし,商業構造が変容するなかで中心商店
しかし日立市の市街地は,常磐線沿いの各駅周
街の店舗や商店会がどのように存続しているのか
辺に分散し,それぞれに発展したため,日立市の
について検討することである.
中心市街地は一般的な20万人規模の都市の中心市
日立市は日立鉱山・日立製作所とともに形成さ
街地と比べると小規模なものとなっている.日立
れてきた典型的な企業城下町であり,その商業機
市の中心市街地は,銀座通りと平和通り沿いを含
能の発展過程も一般的な都市とは異なっている.
むJR 日立駅前の周辺に形成されている(第1図).
日立鉱山・日立製作所は20世紀の初頭から,従業
日立市は,日立鉱山・日立製作所の鉱工業の発
員や家族に市場価格よりも安い値段で日用品を提
展を基盤に街がつくられ,市街地の形成や変遷も
供する「供給所」を設置し長期にわたって運営し
企業の動向に大きな影響を受けた典型的な企業城
ていた.そのため一般の商店は供給所との競争が
下町である.1905年(明治38)に久原房之助が赤
厳しく,次第に供給所の提供していない専門性の
沢銅山を買収,日立鉱山を創業した.その後,日
高い業種を多く取り扱う,特殊な店舗が多い中心
立鉱山の電気機械の修理工場であった工作課が自
商店街が発達する.その後,日立市は他の都市と
社製品の開発に乗り出し,1910年(明治43)には
同様の理由で中心市街地が衰退化し,行政と経営
日立製作所が創業され,1920年(大正9)には株
者により商業機能の活性化への取り組みが行われ
式会社として独立した.これにより,鉱工業都市
るようになっている.本研究では日立市の商業構
の基盤が日立市に形成された.
造の特殊性を歴史的および構造的に捉えた上で,
これまで日立市を取り上げた研究として,日立
中心商店街における店舗や商店会にみられる地域
鉱山・日立製作所の変遷と県外からの労働者・従
的な特徴の解明を試みる.
業員の流入により,どのように鉱工業地域社会
研究の手順として,まず企業城下町としての商
が形成され発展してきたかを明らかにした岩間
業機能の発展過程,大型小売店舗の立地,買物客
(1983,1987,1990,2009)があり,これらの研
の吸収・流出率,中心商店街の形成過程から日立
究では日立市の商業機能が,企業独自の供給シス
市全体の商業構造を明らかにする.次に,事例商
テムの存在により,その発展が遅れたことにも言
店街を設定し,各商店街における業種構成の変
及している.また高橋・山本(1990)は,住民の
化,それぞれの店舗や商店会の実態や取り組みに
特性や生活行動から日立市中心部の人々の生活空
ついて分析し,商店街における商業機能の変容に
間の構造を分析しており,産業地域社会の諸要素
ついて考察する.なお,現地調査は2010年10月下
が生活空間・生活行動に浸透しているために,地
旬から11月上旬および2011年5月下旬から6月上
縁・血縁的なものより社縁的な生活空間・生活行
旬に,関係各所への聞き取り,土地利用調査など
動が卓越することを示している.しかし日立市内
を中心に実施した.
の日立製作所の規模が縮小しつつある現在,商店
街や店舗の対応も変化してきたと考えられる.本
Ⅰ-2 研究対象地域の概要
稿では,これらの社会的な変化にも着目しながら,
研究対象地域である日立市は,東京から北東へ
日立市の商業構造の変容について検討する.
約150㎞の,茨城県北部の東側に位置する.南北
に長い東側の平野部は太平洋に面し,西側は山地
が広がり,市域のおよそ3分の2が山地である.
JR 常磐線,常磐自動車道,および幹線道路であ
-162-
第1図 研究対象地域
代以降は緩やかに減少し20万を割り込んでいる.
Ⅱ 日立市における商業機能の変遷
しかし世帯数をみると2010年現在まで増え続けて
Ⅱ-1 日立鉱山・日立製作所の影響を受けた
商業構造
おり,現在も日立市に流入している世帯がいるこ
とを示している.
日立鉱山が開発される以前,日立市は農業を中
日立鉱山・日立製作所は,日立市の人口増加に
心とする人口約3,000の農村であったが,1905年
対応するため,住宅や供給所といった福利厚生施
(明治38)に日立鉱山が創業すると,鉱山労働者
設を提供した.日立鉱山は操業から数年の間に宮
が居住する鉱山町へと発展した(第1表).その後,
田川の流域沿いに数々の製錬所や電錬工場を建設
1920年(大正9)に日立製作所が独立し,新たな
し,それらの施設間に鉱山電車を敷設した.これ
工場や社宅が建設され始めると,人口は徐々に増
により山腹から助川駅(現・日立駅)に至る生産
加した.特に1930年(昭和5)に海岸工場が建設
ラインが構築され,それに沿うかたちで,数千人
されて以降,人口は急増し,1939年(昭和14)に
が暮らす社宅街が建設された(中野,2009).社
助川町は日立町と合併して日立市となった(岩
宅街には労働者の生活を支える供給所をはじめ,
間,1990).日立市の人口と世帯数の推移を表し
水道や医療施設,娯楽施設といった福利厚生施設
た第2図をみると,1940年(昭和15)から1950年
が設置された.また,日立鉱山の寄付によって教
まで人口の減少と停滞がみられるが,これは第二
育施設の充実も図られた.このように日立鉱山の
次世界大戦中,軍需産業都市となっていた日立市
社宅街では,一般的な地方都市よりも高い水準の
が戦災に見舞われ,市街地の80%が焼失したため
都市施設を備えていたといえる.
である.以降,高度経済成長期から再び人口は増
日立鉱山・日立製作所により運営されていた供
加し,1980年代には日立市の人口は20万を超えた.
給所は,不便な山間部で暮らす従業員家族が日常
その後,オイルショックやバブル経済の崩壊に伴
生活に必要な物資を購入できるように,日用品や
い,日立製作所は市内の従業者数を大幅に削減し
食料品を供給・販売するための購買部として機能
始めた(岩間,2009).そのため,人口も1990年
していた(写真1).供給所で取り扱う商品は500
-163-
第1表 日立市の変遷
第2図 日立市の人口・世帯推移(1920-2010年)
注)2000年までの各年次の人口及び世帯数は,現在の
日立市域の市町村のデータを合算した.
(国勢調査により作成)
写真1 日立製作所の供給所(1989年)
(株式会社日立ライフ(2007)より転載)
(岩間(2009)
,日立市史編さん委員会(1996)および
株式会社日立ライフ(2007)より作成)
所以上にも及んでいる.しかし1980年代から徐々
に閉店数が新規開店数を上回るようになった.こ
種類以上であり,特に食料品については日立鉱山
れはロードサイド型の大型店の進出や,市内の日
から100万円余りの補助金が与えられ,補助のな
立製作所の従業員削減の影響を受けたためであ
い商品についても市価の1~4割引と市価よりも
り,2006年には全店舗が閉店し,日立「供給所」
安く購入することができた.供給所の正確な数の
事業は幕を閉じることとなった(株式会社日立ラ
推移は不明だが,1939年(昭和14)までは市内に
イフ,2007).
10店舗ほどであった店舗数は,同年日立グループ
Ⅱ-2 商店街の発展過程
の福利厚生を主とする事業として独立したことを
きっかけに,工場構内売店やスーパーマーケット
日立市では,1910年代に大雄院精錬所から山手
を出店し続け,1970年代後半には茨城県内で80ヵ
工場にかけて住宅街が形成されたことに伴い,住
-164-
宅に隣接する大雄院や新町には,鉱山労働者を
体裁が整えられた.このように日立市では,既成
ターゲットにした露店が出店されるようになっ
市街地と駅とを連絡する主要道路に沿って中心市
た.この露店は会計市と呼ばれ,日立鉱山の給
街地が展延していくという典型的な都市化のプロ
料日にあたる毎月14日に開かれていた(中野,
セスが展開された(中野,2009).その後,第二
2009).特に新町では,1910年(明治43)4月に
次世界大戦により市街地の大半を焼失したが,戦
日立新町共同商業組合が結成され,早くから商業
後復興し,日立駅前の中心商店街のある通りは「銀
が営まれていたこともあり,露店が常設化し定着
座通り」と「平和通り」に改名された.
したことで商店街が形成された.その後,1918年
このように日立市は,輸送の拠点である各駅を
(大正7)時点で新町には食料品店19,料理店・
中核として,駅付近に工場が立地し,さらにその
酒場11,衣料品店6,宿屋5など,50軒の商店が
周辺に産業機能・居住機能・商業機能が集積する
立地していた(中野,2009).こうして,1910年
という構造が形成されている(岩間,1990).第
代に新町は日立市で最も賑わう商店街となった
3図に示したように,日立市内における商店会は,
が,一般的な商店街とは異なる性格を有するもの
常磐線沿いの各駅周辺の市街地が形成されている
であった.それは,前節でも記述した通り,供給
地域に集中していることがわかる.また各地域に
所が市場価格より安価で日常品を販売していたこ
おける商店会数を比較すると,日立駅周辺が8商
とから,供給所と競合しない商品を扱う店舗が並
店会,多賀駅周辺が5商店会と他の地域に比べて
ぶ,特殊な商店街が形成されたことである.その
圧倒的に多く,日立市内に大きな2つの商業核が
結果,日立市には買物客の増加にもかかわらず,
存在していることがわかる.とりわけ,日立駅周
大規模な商業施設が立地することはなく,日立鉱
辺地域は,主力工場が立地しているため,日立駅
山の方針が直接反映された商店街が成立した(中
から国道6号沿いにかけて市街地化が進み,商店
野,2009).
会や大型店が集中した結果,現在日立市の中心市
第一次世界大戦後,日立鉱山の緊縮整理と日立
街地となっている.また,常陸多賀駅周辺や大甕
製作所の急成長により,日立市における繁華街の
駅周辺においても,日立駅周辺商店街と同様に,
中心は栄町へと移動した.とりわけ,日立製作所
日立製作所多賀工場,日立製作所情報制御システ
の発展に伴い,日立製作所の従業者とその家族が
ム事業部(旧大みか工場)などが立地しているた
移り住んだことから,住宅などの市街地が鉱山町
めに,下請け工場や従業者が居住する団地など住
から鉄道駅のある東南へとしだいに広がり,商業
宅地が発展し,商店街が形成されたと考えられる.
の中心も移っていった.さらに1924年(大正13)
日立駅周辺の商店街は,平和通り沿いの商店街
頃には,繁華街は栄町から国道6号線に沿って下
と銀座通り沿いの商店街の2つに大別される.平
宿地区まで広がり,昭和期に入ると,繁華街は下
和通り沿いの商店街では,大型小売店舗はなく,
宿地区から新道(駅前通り)に沿って日立駅に向
小売店,飲食店,金融機関・事務所などがみられ
かって延びていった.特に,日立電線工場や日立
る.平和通りの通行量が減少した現在,商店はま
海岸工場といった主力工場が山側から,より日立
ばらとなり,商店街としての賑わいはなくなって
駅に近い海側へと移転したことにより,新道商店
いる.また,銀座通り沿いの商店街は,「ひたち
街(現・銀座通り沿いの商店街)や日立駅前(現・
ぎんざもーる」,
「まいもーる」,
「パティオモール」
日立駅海岸口)が発展した.新道商店街は日立市
の3つの商店街で構成されており,主力工場進出
の交通要地に位置していたため,日立市における
の影響を大きく受けてきた.しかし,消費者の消
中核地としての性格を持ち,賑わいを増すことと
費行動の多様化やモータリゼーションの進展,厳
なった.また,市街化の著しい新道では1930年(昭
しい経済状況などにより,現在では空き店舗が目
和5)に拡幅工事が行なわれ,目抜き通りとして
立っている.
-165-
第4図 茨城県北部における買物客の吸収・流出
率(2009年)
(
『2010年 茨城県生活行動圏調査報告書』により作成)
買物客を集めている.ひたちなか市も水戸市ほど
ではないが周辺自治体からの買物客の吸収率が高
い.前節でも述べたように,日立市は各駅周辺に
独特な発展を遂げた商業機能を有しており,買物
行動が地元商店街で完結していると考えられるた
め,地元吸収率が高くなっている.また,近隣自
第3図 日立市における商店会等の分布(2010年)
治体から多少の買物客流動がみられるものの,他
(
『日立市の経済動向 No.34』により作成)
自治体からの吸収率は高くなく,周辺への影響力
が大きい商圏を築けていないことからも,企業城
Ⅱ-3 大型店の進出と区画整備
下町の影響をみて取ることができる.
第4図は,2009年現在の茨城県北部における買
第5図は,2010年現在の日立市における大規模
物客の吸収・流出率を示している.水戸市は市内
小売店舗の立地の分布を示したものである.これ
および周辺自治体からの買物客の吸収率が最も高
をみると,日立駅前の開発時に建設された大型小
く,茨城県北部におけるほぼすべての自治体から
売店舗を除けば,ほとんどの店舗が国道6号線と
-166-
建設された店舗は1980年代以前から立地している
店舗に比べ,徐々に店舗面積も拡大していること
J
も特徴として挙げられる.こうした大型小売店舗
R
が郊外に進出する背景には,1964年頃から始まっ
常
磐
線
た企業の持ち家制度によって住宅需要が市の中心
じゅうおう
部から周辺部へと拡大し,消費者が買物のために
自家用車を利用するという現状がある.また,大
日立北IC
型小売店舗の進出に加えて,流通構造の変容,消
6
費者の需要の変化なども,中心市街地の空洞化を
おぎつ
招き,商店街の衰退化が進む要因となっている.
そこでかつての賑わいを復活させるために,既
存商店街の活性化対策と中心市街地の再活性化事
業が行われてきた.このひとつとして実施された
のが,1983年から着手された日立駅前開発事業で
日立中央IC
ある.日立市は,1908年(明治41)から1960年に
ひたち
常
かけて鉱山電車のターミナルとして日本鉱業が使
磐
用していた土地を買収し,基盤整備を進め,民間
自
施設の立地誘致や日立新都市広場の建設を進め
高速道路
動
車
道
ひたちたが
国道
た.また,大型小売店舗,専門店,ホテル,業務
鉄道
施設については,事業化コンペティションによっ
開店年
て計画段階から実施段階へと進められ,質の高い
∼1979年
快適な街並みを作るために,都市デザインという
1980∼1989年
245
1990∼1999年
観点からの検討も加えられた(第6図).中でも
2000年∼
1990年に開館した日立シビックセンターは,日
店舗面積
10,000
5,000
1,000
おおみか
6
日立南
太田IC
(m2)
25,000
293
N
0
立駅前開発のシンボル的施設で個性的な建造物
であり(写真2),建物内には科学館,音楽ホー
ル,多目的ホール,図書館,交流サロン,情報プ
ラザがある.また第6図の大型小売店舗を含む商
業ゾーンであるパティオモールは1991年に開業し
た.
3 km
次にⅢ~Ⅴ章では,日立市中心商店街の代表で
第5図 日立市における大規模小売店舗の立地
(2010年)
(
『日立市の経済動向 No.34』により作成)
ある「ひたちぎんざもーる」,「まいもーる」,お
よび「パティオモール」をとりあげ,各章の1節
で各商店街の業種構成の変遷について述べ,2節
で事例店舗の経営状況について記述する.また,
国道245号線沿いに立地し,第3図に示された商
Ⅵ章では各商店会や3モールが共同で行っている
店会の分布とも重ならないことがわかる.また設
取り組みについて述べ,現在の店舗が存続するた
立年代をみると,1980年代以前から立地している
めにいかなる活動を行っているかを検討する.
大型小売店舗もみられるが,1990年代以降,特に
2000年以降に建設されたものが多い.さらに近年
-167-
路面のタイル化,街路樹やベンチの設置などが整
N
備された(第2表,写真3).しかし,1990年代
には歩行者が減少してきたため,1995年に再び車
両の通行も可能にするセミモール化が実施され,
大型
小売店舗
現在に至っている.
ひ
第7図は1968~2011年におけるぎんざもーるの
業種構成の変遷を表したものである.ぎんざもー
日立シビック
センター
た
るは,1968年から1978年にかけて,商店街の中央
に立地していた百貨店と,平和通りに面した別の
ち
第2表 ひたちぎんざもーるの取り組み
0
200m
公共ゾーン
業務・ホテルゾーン
商業ゾーン
業務ゾーン
第6図 日立駅前開発整備事業の範囲
(日立市都市建設部資料により作成)
(日立銀座三丁目商店会元会長提供資料により作成)
写真2 日立シビックセンター
(2011年6月小野澤撮影)
Ⅲ ひたちぎんざもーるにおける商業機能の変化
Ⅲ-1 ひたちぎんざもーるの概要
ひたちぎんざもーる(以下「ぎんざもーる」)
は銀座通りにある3つの商店街の中で最も西に位
置している.ぎんざもーるは,1970年に歩行者天
国が始められ,七夕祭りが開催されるなど1980
年代までは銀座通りで最も繁栄していた.また,
1983年にショッピングモール化事業が実施され,
-168-
写真3 ひたちぎんざもーる
(2010年11月小野澤撮影)
N
1968 年
O
O
×
P
O
×
スーパーマーケット・
ショッピングセンター・
百貨店
食料品店
衣料・
服飾品店
薬局・
化粧品店
書籍・文具
・レコード店
1978 年
O
×
P
P ×
家具・雑貨店
スポーツ用品店
その他の
小売業
1988 年
P
飲食店
居酒屋・パブ
・スナック
×
●
O
×
P
P
P ××
●
×O
理容・美容
娯楽施設
その他の
サービス業
×
空き店舗
P
駐車場
H
戸建住宅
A
アパート・
マンション
O
事務所
●
空き地
1997 年
P
P
×
×
×
P
×
2011 年
P
A
不明
その他
P
×
×P ×
××
P
P
P
A
P
×
×
0
×
×
P
×O
O
O
P ×
P
P
100
200 m
第7図 ひたちぎんざもーるにおける業種構成の変遷(1968・1978・1988・1997・2011年)
(1968年版 東交出版住宅明細図,1978年版 日興住宅地図,1988・1997・2009年版ゼンリン住宅地図,1962・
1971・1980年版 日立市商工名鑑および現地調査により作成)
-169-
百貨店などの大型小売店舗とともに,日立市の中
市内に6店舗,水戸市に1店舗,ひたちなか市に
心商業地区として栄えてきた.また,この時代の
1店舗,合計8つの支店を有している.それらの
商店街における小規模店舗は,衣料・服飾品店が
支店はスーパーマーケットのテナントとして出店
中心であった.その後,1983年にショッピングモー
しており,本店を含めて約50名の従業員を雇用し
ル化事業が完了し,賑わいをみせるようになった.
ている.以前はパティオモールの大型小売店舗に
しかし,1985年に平和通り沿いの百貨店が移転し
も出店していた.
たことを契機として,ぎんざもーるにおける商業
A店における顧客の中心は,30~40歳代の女性
の中心性が低下し始めた.1988年時点の土地利用
であり,日立市外から車で買いに来る人が多数を
をみると,映画館が撤退した跡地が駐車場になる
占める.販売されている花は,生け花用,結婚式
など,駐車場や空き店舗が目立つようになった.
の式場装飾用などがあり,プレゼント用として購
これは,百貨店の移転による集客力の低下が原因
入される場合も多い.
の1つであると考えられる.さらに,1992年に商
2)事例2 書店
店街の中に立地していた百貨店が閉店すると,そ
の跡地は駐車場に転換した.さらに,1997年から
B店は40歳代の経営者とその妻が経営する書店
2011年にかけては,衣料・服飾品店が大幅に減少
で,2名の従業員を雇用している.創業者から4
し,空き店舗と駐車場が目立っている.また,パ
代目にあたる現在の経営者は,2009年に叔父から
ブ・スナック等,夜間営業を行う店舗の進出や事
経営を引き継いだ.経営者の息子は学生であるた
務所への転換,駅や国道に近いという立地の良さ
め,今後,後継者となるかどうかは未定である.
を活かしたマンションやアパートの新築など,商
B店は1963年に日立市宮田町において創業し,
店街の土地利用が多様化している.
その後1966年に現在地に土地を購入して移転し,
商店街の店舗によって構成される,
「ぎんざもー
経営を続けている.移転した理由としては,当時
る商店会」の取り組みとして,ぎんざもーる内に
のぎんざもーるが繁栄していたことが挙げられ
ある日立二十三夜尊にちなんだ縁日が毎月旧暦の
る.移転当時は1階が店舗で,2階に経営者家族
23日に催され,周辺住民で賑わっている.ぎんざ
が住んでいたが,1968年に店舗を3階建てに増改
もーる商店会には,かつて60店舗が商店会に加盟
築し,住居を別の場所に移して,全てのフロアを
していたが,閉店する店舗が増えたことによって
書籍の販売場所として使用するようにした.しか
2010年現在は37店舗にとどまっている.これは
し,2003年頃,売上げが減少したことや従業員数
ロードサイド型の大型小売店舗の進出の影響を受
の確保が難しくなったことから,2階と3階の売
け,商店街に来る客が少なくなったためである.
場は閉鎖し,1階のみ営業するようにした.また,
また,ぎんざもーるは3つのモールのうち日立駅
パティオモールの大型小売店舗が開業した際に,
から最も遠くに位置しているため,交通の利便性
B店はその3階に支店を開業したが,2004年に親
が低いことも来客数の減少に影響している.
族が経営する別の書店に引き継いだ.
B店の営業時間は午前10時から午後6時まで
Ⅲ-2 事例店舗の経営状況
で,定休日は日曜日である.B店の利用者には,
1)事例1 生花店
学生と高齢者が多く,午前中の顧客は高齢者が中
A店は1930年(昭和5)に創業した生花店であ
心,夕方は学生が中心である.また,店頭での書
り,3代目である50歳代の経営者夫婦のほか,後
籍販売以外に日立市内における学校の教科書の取
継者となる息子を補助的な労働力として雇用して
次ぎも行なっている.店頭販売による売り上げに
いる.店舗は3階建てで,住宅との兼用である.
加え,教科書の取次ぎによる手数料の収入があり,
A店は,現在ぎんざもーるの本店以外に,日立
それが大きな収入源となっている.以前は日立製
-170-
作所の関連会社などから,専門書等の注文も受け
な店を意識したが,工業都市である日立市の性格
ることもあったが,現在はほとんどなくなってい
から,工場関連の男性客でも入りやすい雰囲気を
る.
作るよう工夫をしている.
D店の営業時間は午前11時半から午後3時ま
3)事例3 スポーツ用品店
で,および午後6時から午後11時までで,定休日
C店は現在50歳代の経営者のほかに,従業員5
は日曜日である.来店者は昼食時には高齢者や女
人を雇用しているスポーツ用品店である.現在の
性が多く,夜は居酒屋となることから日立電線,
経営者は3代目であり,祖父が1925年(大正14)
JX 日鉱日石金属などの周辺企業に勤める客が多
に創業した.かつては日立市多賀地区,常陸太田
い.開業当初は徒歩圏内からの来店者が多かった
市に支店があり,パティオモールの大型小売店舗
が,徐々に車での来店者が増加している.現在は
にも出店していたが,2011年現在,支店はない.
来店者数の約半数が車を利用しており,高萩市,
祖父はかつて,日立製作所の専修学校で剣道を教
北茨城市などの遠方から来店する人もいる.
える師範であり,剣道を指導する一方で,剣道の
なお,2011年3月の東日本大震災では,食器,
防具や武道関係の道着,その他のスポーツ用品も
酒類,建物の柱などにかなりの被害を受けたが,
販売するようになった.その後,様々なスポーツ
地震発生後4日目から,店頭での弁当販売によっ
用品を取り扱うようになり,現在のC店では,子
て営業を再開した.弁当販売は震災時の食糧事情
どもから高齢者まで幅広い年齢層の顧客が利用し
に対応する目的で始めたが,新たな顧客の確保に
ている.主力商品は時代とともに変化しており,
もつながったため現在も販売を継続している.
以前は野球やスキーに関する商品が主力であっ
た.最近はゴルフ用品や,トレーニング用品など
Ⅳ まいもーるにおける商業機能の変化
Ⅳ-1 まいもーるの概要
健康志向の商品がよく売れている.顧客の多くは
日立市内に在住しているが,北茨城市やひたちな
まいもーるは銀座通りの中央に位置する商店街
か市からの来店者もみられる.また祖父の代から
である(写真4).商店会組織として,1972年に
剣道関連の商品を購入しているというつながりで
日立中央銀座商店街振興組合が組織された.1973
C店を利用している常連客もおり,日立製作所を
年にはアーケードを建設し,その後1994年から
介して築かれた地縁が店舗経営を存続させる要因
1995年にかけて,補助金を活用したセミモール化
のひとつとなっている.
事業により,アーケードの交換や道路整備を実施
4)事例4 飲食店
D店は現在,20歳代の男性が経営する飲食店で
ある.経営者とその母,弟に加え,アルバイト店
員4名を雇用している.経営者は日立市出身で,
19歳から東京へ料理修行に行き,2009年末に日立
市へ戻った.D店は2010年8月,現在の場所に2
号店として出店されたもので,父親が経営する本
店が日立市弁天町にある.D店の経営者は開業以
前,賑わいのない現在地に出店することに不安を
感じていたが,周辺に飲食店が少ないこと,本店
から近いこと,市民会館通りに面していることか
写真4 まいもーる商店街のチャリティーイベント
ら,現在の場所に出店した.開業当初はおしゃれ
-171-
(2011年6月小野澤撮影)
した.1995年にはセミモールの愛称が「まいもー
第3表 まいもーるの取り組み
る」となり,商店会組織の名称も「まいもーる商
店会」に改められた(第3表).
第8図は1968~2011年におけるまいもーるの業
種構成の変遷を示している.1968~1997年におい
ては店舗の入れ替えは多数発生しているものの,
ぎんざもーると異なり空き店舗や駐車場などへの
転換は少ない.しかし2011年には,ぎんざもーる
と同様に,駐車場等への転換が急増している.ま
た業種構成をみると,衣料・服飾品店が集中して
いたぎんざもーると比べて,業種の偏りが少なく
なっている.
(まいもーる商店会提供資料により作成)
Ⅳ-2 事例店舗の経営状況
把握しており,商店会に加入している他店の2代
1)事例1 家庭用電化製品販売店
目や3代目経営者の相談役的な立場にある.
E店は80歳代の経営者が1人で,家庭用電化製
E店の経営者は,現在では商店会の活動にはあ
品の販売と修理を行なっており,後継者はいな
まり積極的でないが,後述する商店会が主催する
い.E店は1951年に現在の場所で開業し,かつて
「ゆるゆる市」では,趣味で取り組んでいる盆栽
は日立市内の大型小売店舗に加えて,水戸市,ひ
仲間を呼んで盆栽を店頭で販売するなど,商店会
たちなか市,常陸太田市にも支店を設け,合計24
活性化のための活動に協力的な面もある.
人の従業員を雇用していた.開業当初の取扱商品
2)事例2 手芸・洋服専門店
はミシンのみであり,その販売と修理を請け負っ
ていた.その理由として,第二次世界大戦後まも
F店は,1948年に創業した手芸・洋服専門店で
なく,服は家庭内で作ることが多く,ミシンは一
現在の経営者は2代目であり,後継者である30歳
家に1台の必需品であったためである.また1970
代の息子を含め家族3人とパートの従業員10人が
年代までは,日立市内に新しい住民が多く流入し
働いている.F店の初代経営者は,日立製作所で
て来たため,ミシンの販売は好調で,バブル経済
経理の仕事に従事していたが,第二次世界大戦後,
最盛期には,1ヵ月で60台を販売したこともあっ
祖母が経営していた店舗で手芸・衣料品の販売を
た.現在はミシンの需要が大幅に減少したため,
開始した.経営者の祖母は,戦前から現在の本店
ミシン以外の一般的な家電製品も取り扱うように
がある場所で食料品店を経営していた.現在,F
なった.顧客は周辺の住民がほとんどで,電球な
店は主に手作りの洋服・装飾品や衣料品の素材を
どの日用品や家電を買いに来る.2010年はエコポ
販売している.
イント制度の影響で家電製品の販売が好調であっ
F店は,かつてまいもーる以外に,日立市大み
た.また,1960年ごろから店頭販売以外に,日立
か町や水戸市などに合計9店舗を出店していた.
製作所系列の企業へも直接商品を卸している.
現在は,本店の向かい側に2店舗,本店の隣にあ
E店の経営者は開業当時から経営を続けている
る貸店舗を借りて出店した1店舗,日立市多賀地
初代経営者であり,まいもーる商店会では珍しい
区に立地する1店舗の合計4店舗の支店を経営し
存在である.また,経営者はまいもーる商店会の
ている.本店の向かいにある2店舗は,F店が所
会長経験者で,現在も商店会内の役職を担当して
有する貸店舗を利用していた経営者が撤退した後
いる.このため,まいもーる商店会の状況をよく
に開店した.F店は2009年から毎月第4日曜日を
-172-
第8図 まいもーるにおける業種の変遷(1968・1978・1988・1999・2011年)
(1968年版 東交出版住宅明細図,1978年版 日興住宅地図,1988・1997・2009年版ゼンリン住宅地図,1962・
1971・1980年版 日立市商工名鑑および現地調査により作成)
-173-
休業日とし,その他の日は午前10時から午後7時
している.
まで営業している.買物客は,日常の買物を目的
H店の経営者は福島県いわき市出身で,出店前,
として来る客に加えて,F店で開かれている手芸
埼玉県にあるスキューバダイビングショップで勤
教室に通う女性の常連客も多く,日立市内だけで
務していた.経営者はH店出店にあたって,出身
なく近隣市町村から通う人もいる.
地である福島県いわき市とツアーの主要な行き先
である静岡県の間で,ビジネスとして成立する場
3)事例3 カメラ専門店
所を検討した結果,日立市を出店場所として選定
G店は日立市で唯一の写真館として1934年(昭
した.まいもーるに出店した理由は,日立駅に近
和9)に創業した.現在,G店では60歳代の2代
く,あるいは商店街であれば多くの人が集まると
目の経営者夫婦と娘2人,従業員2人の合計6人
考えたためであった.経営者は,現在の店舗はや
が働いている.まいもーるの本店以外に,日立市
や手狭であるため,将来的には日立市内の他地区
多賀地区と高萩市に支店がある.
への移転や多店舗展開の可能性も検討している.
日立市には1930年代当時,写真館が存在しな
現在,H店の販売方法は対面接触を重視するた
かったが,その一方で,日立製作所の歴史や資料
め,基本的に店頭販売であるが,顧客宅までの配
をバックアップするために写真館が必要であっ
送も行なっている.また,H店の利用者は小中学
た.そのため,写真館のビジネスに興味を持って
生から60歳代まで幅広く,特に25~40歳の男性が
いた初代経営者が,土浦市にある写真館の成功例
多い.近年では,シニア層の女性客が増加してい
を参考にして写真館を開業した.創業当初,G店
る.利用者の居住地は主に日立市内であるが,栃
は日立市唯一の写真館であったため,日立製作所
木県,福島県に居住する顧客もいる.売上げの内
の従業員がよく利用していたほか,日立製作所の
訳は,スキューバダイビング用品の店頭販売が約
供給所から集められたフィルムを回収して現像す
3割,ツアーの企画が約5割,ダイビングスクー
る業務も請け負っていた.このため,G店は日立
ルの運営が約2割である.店の営業時間は午前11
製作所と共に成長した店舗といえる.
時から午後9時までで,会社員が仕事後に立ち寄
現在,利用者は日立市内や高萩市に居住する人
れるような時間設定としている.
が多く,若者から定年後の年配者まで幅広い年齢
層が利用している.特に退職して時間と資金に余
Ⅴ パティオモールにおける商業機能の変化
Ⅴ-1 パティオモールの概要 裕のある男性が多い.また,G店はデジタルカメ
ラの普及に伴い,フィルムの現像サービス,カメ
パティオモールは日立駅前整備事業によって新
ラ本体やカメラ用品の販売以外にも,有名な女性
設された日立市で最も新しい商店街で,1991年12
カメラマンを講師に招いた写真教室などを行うよ
月に開設された(写真5).3商店街の中では最
うになり,若い女性の参加者もみられる.
も日立駅に近く,整備事業によって同時期に建設
された日立シビックセンターに隣接している.ま
4)事例4 スキューバダイビング用品専門店
た,パティオモールは,開設当初から車が進入で
H店は2002年に開業し,スキューバダイビング
きない歩行者専用道路に面した商店街であること
用品の販売,ツアーの企画,ダイビングスクール
が特徴として挙げられる.パティオモールへ出店
の運営を行なっている.現在,店を経営するのは
する際の条件として,日立市内に店舗を持ち支店
1代目に当たる30歳代の男性で,従業員は妻を含
を増やす目的であること,土地を購入して3階建
めた合計3名である.なお,後継者は2010年時点
て以上の建物を建設すること,10年以上店舗を続
で未定である.また,店舗は不動産会社経由で借
けることといったものが設けられ,それらの審査
用した貸店舗であり,経営者は日立市東町に居住
基準を通過した経営者に出店が許可された.
-174-
Ⅴ-2 事例店舗の経営状況
1)事例1 洋服販売店
I店は1934年(昭和9)に日立市街地で創業
し,1946年頃にぎんざもーるに出店した.1991年
からはパティオモールに出店し,その後,ぎんざ
もーるの本店は閉店して住居専用としている.現
在I店を経営するのは1969年頃から引き継いだ創
業者の2代目に当たる70歳代の男性と妻の2人で
ある.I店は学生服を取り扱っているため,1月
から6月までは繁忙期としてパートを採用してい
る.また,経営者の娘が手伝うこともあるが,後
継者となるかどうかは未定である.
I店がぎんざもーるに出店していた当時,店舗
の面積は約130㎡であった.また,当時販売して
いた服はカジュアルな服,子供服,紳士服,婦人
服とかなり幅広く取り扱っていたが,パティオ
モールに出店する際,店舗の面積が半分に減少し
たため,婦人服と学生服のみの取り扱いとした.
かつては出勤前の男性客が多かったことから,戦
写真5 パティオモール商店街
(2011年6月小野澤撮影)
前は午前5時から,ぎんざもーるに移転した後の
1955年頃は午前7時から開店していた.現在の営
第9図はパティオモールの業種構成の変遷であ
業時間は午前10時から午後7時までとなってお
る.パティオモールの核となっているのは,日立
り,客層は徒歩圏内を中心とした50歳代以上の女
市内で店舗面積が最大である大型小売店舗と,そ
性や,学生服を購入する日立市内の中学生,高校
の専門店館である.また,パティオモール内には
生が中心となっている.ただし,一部高萩市とひ
個人経営の店舗だけでなくチェーン店も多数出店
たちなか市など近隣市町村からの来店者もある.
しており,駅前の商店街であることから,居酒屋
また,現在行なっているサービスとして,店頭で
も含めた飲食店が多く立地している.1994年と
の販売に加えて,顧客の自宅に出向いて注文を
2011年における土地利用を比較すると,北側の街
取ったり,制服の採寸をしたりするサービスを提
区では変化が見られない一方で,南側では空き店
供している.I店は,パティオモール商店会を通
舗の出現や,店舗の転換がみられる.また,図に
してイトーヨーカドーの駐車券を購入しており,
は現れないが,2011年では大型小売店舗や専門店
車で来店する客向けに駐車券のサービスを行って
館内のテナントには空き区画が目立ち,2階以上
いる.
に空きが生じているテナントビルも多く立地して
2)事例2 菓子専門店
いる.そのため,1階部分については変化がそれ
ほど大きくないが,全体としては開業時から比べ
J店は60歳代の経営者と妻,息子,娘の4人で
ると大きく衰退したといえる.
菓子の製造,販売を行なっている.現在の経営者
は創業者である.また,経営者の息子は後継者と
なる予定である.J店は1991年10月にパティオ
モールに出店し,他にも日立市多賀地区に弟が経
-175-
第9図 パティオモールにおける業種の変遷(1994・2011年)
(パティオモール商店会資料および現地調査により作成)
営している支店がある.
店は祖父の時代から借地であり,J店の経営者は
J店の経営者の祖父は,戦後間もない頃に平和
自己所有の土地と店舗を求めていたことから,現
通りで雑貨屋を経営していたが,当時から団子や
在の場所へ出店した.
饅頭などの和菓子も取り扱っていた.現在の経営
J店の経営者は,日立市の特性として手頃な価
者は1970年代に大学を卒業してから,ドーナツを
格の庶民的な菓子の需要が高いと考えているた
自ら製造し,雑貨店での販売を開始した.その後,
め,価格帯に配慮した販売を行っている.顧客は
このドーナツが評判になったことから,ドーナツ
パティオモール内の大型小売店舗など近隣店舗で
のみを売るようになった.なお,平和通りの雑貨
買物をする際に立ち寄ることが多く,客層は子ど
-176-
もから常連である年配者まで幅広い.また,日立
子ども向けのイベントなどを実施するもので,商
さくらまつりやひたち国際大道芸などのイベント
店街の店舗が閉店した後に開催された.ナイトバ
が開催される際には,売り上げが増加する.
ザールは,茨城県や日立市の補助金を受けて開催
され,集客効果も大きかった.その後,パティオ
3)事例3 雑貨店
モールが銀座通りに立地する他のモールと連携し
K店は猫や犬がデザインされた雑貨を販売する
た活性化を行なうことを提案し,2008年に「日立
店で2005年に開業した.K店の経営者は敷地内に
地区3モール商店街活性化実行委員会(以下,実
居住する大家から店舗を借り,1人で営業を行っ
行委員会)」が組織された.実行委員会は,その
ている.
事業として,ナイトバザールを発展させた「ゆる
K店の経営者は,日立製作所の関連企業で会社
ゆる市」をパティオモールも加えた3モール共同
員として勤務していたが,猫や犬が好きであった
で日中に開催している.
ことから,このような店舗を経営してみたいとい
3モールが一体となった活性化事業は,ゆるゆ
う願望を以前から持っており,会社を退職した後
る市開始以降も続けられ,実行委員会は2009年に
に開業した.このため,利益を獲得するための店
はオリジナルカレーを作成し,そのレトルトを商
舗というよりも,趣味的な性格を持った店舗であ
店街内の店舗で販売するほか,「ひたちカレーま
るといえる.
つり」(写真6)を開催するなど,カレーによる
店の利用者は常連客が多く,年齢層は小学生か
商店街の活性化を図っている.また,オリジナル
ら中高年まで幅広い.また,客の属性に偏りはな
キャラクターであり,モルモットを模した「モル
く,総じて犬や猫が好きな客が来店している.K
ちゃん」を製作して各モールに石像を設置すると
店では,平日は多くの客が来店するのに対して,
ともに,イベント開催時にはモルちゃんの着ぐる
週末の利用客は少なくなっている.
みを活用している.これらの活性化事業は,地域
のNPO 法人や大学の協力も得ており,実行委員
Ⅵ 3モールによる商店街活動
会は地域ぐるみで商店街を盛り上げようと努力し
ぎんざもーるには現在,「よって家fm」とい
ている.
う,交流施設が開設されている.よって家fm は,
中心市街地の4商店会の有志により設立された
「ファイトマイタウンひたち協同組合」によって
運営され,施設内には組合が立ち上げたコミュ
ニティFM 局のサテライトスタジオが置かれてい
る.よって家fmには,バリアフリーのトイレや
軽食サービスがあり,休憩や食事をする場所とし
て商店街を訪れた人に利用されている.また,市
民が出品することができるボックスショップや,
野菜,菓子,パンなどの販売も行われているほか,
貸スペースを設けており,習い事や地域のイベン
トなど様々な形で地域住民に利用されている.
1996年からぎんざもーるとまいもーるでは,2
モール共同事業としてナイトバザールが開始され
た.これは月に1回,モール内を歩行者天国とし,
写真6 「よって家fm」におけるカレーまつり
(2011年7月)
ワゴンでの商品販売やフリーマーケット,模擬店,
-177-
(パティオモール商店会ブログより転載)
ぎんざもーるとまいもーるでは1970~1990年代に
Ⅶ おわりに
かけて,道路整備やアーケードの設置といった商
本研究では日立鉱山・日立製作所の影響を受け
店街のショッピングモール化事業が実施され,各
発展してきた茨城県日立市を対象として,歴史的
種イベントなどが積極的に行われた.また日立市
変遷とともに変容してきた商業構造を明らかに
は日立駅前開発事業のひとつとして1991年に商業
し,その過程のなかで中心商店街の店舗や商店会
地区であるパティオモールを建設し,中心市街地
がどのように存続しているのかについて検討し
の商業機能の活性化が試みられた.
た.
しかし1990年代から始まった日立製作所の規模
19世紀の終わりまで日立市は人口も小規模な農
縮小のため,通勤路として銀座通りを利用する人
業地帯であったが,1905年(明治38)に日立鉱山
が減り,また幹線道路沿いの大型小売店舗のさら
が開業したことから人口が増加し始め,1920年(大
なる増加により,中心市街地への買物客はさらに
正9)に日立製作所が創業してからは鉱工業都市
減少し,中心商店街は衰退していった.
へと発展した.日立鉱山は開業当初から,従業員
ぎんざもーるとまいもーるでは,他の地域から
やその家族のために社宅や福利施設を完備し,市
移り住んできた経営者による借地での店舗経営が
場より安価な値で日用品を提供する供給所を設け
中心であったため,中心商業地域が衰退していく
ていた.1910年(明治43)頃から,これらの工場
なか,土地を所有できなかった多くの店舗は転出
と社宅街を中心に市街地が形成されるようにな
してしまい,空き店舗と駐車場が多くなってい
り,そこへ他の地域から移り住んできた商人たち
る.ぎんざもーるは1980年代から空き店舗が増え
により供給所とは異なる商店街が形成されるよう
始め,続いて1990年代後半からまいもーるで空き
になった.しかし,これらの商店は常に供給所と
店舗が目立ち始めた.現在最も活気のあるパティ
の厳しい競争にさらされていた.そのため商店街
オモールでも,設立当時に比べ空き店舗が増えつ
には,供給所で提供していない専門性や特殊性の
つある.
高い業種の店舗が多く立ち並ぶようになった.こ
2011年現在,ぎんざもーるとまいもーるで商店
のような特殊な機能を持つ商業の中心地は,1910
街形成初期から存続している店舗の特徴として,
年(明治43)頃には山側の精錬所周辺にあったが,
供給所では取り扱っていなかった商品やサービス
1920年代から日立製作所の工場が鉄道の各駅周辺
を活かした専門性が高い業種であることが挙げら
に建てられるようになるにつれ,徐々に各駅周辺
れる.また,複数の支店を経営していることや,
へと移動しながら拡大していった.
日立製作所や関連企業・組織に卸しているという
日立駅と国道6号線を結ぶ銀座通りは,日立製
ことも,現在において経営が存続している店舗の
作所の主力工場への通勤路でもあったことから,
特徴である.一方,パティオモールは1991年に設
1960年代初めまで様々な業種が充実する活気のあ
置された新しい商店街であるが,設置当初行政は
る商店街へと成長した.しかし1960年代中頃か
この区画への出店の条件として,日立市内に店舗
ら,企業の持家制度の展開や核家族化に伴う住宅
を持ち,パティオモールの土地を購入した上でそ
の需要のため,住民が中心部から郊外へ転出する
こに支店を増やすことを目的とすることを設定し
ようになり,中心市街地の空洞化が始まった.ま
た.この結果,パティオモールには,銀座通りを
た1970年以降,モータリゼーションの進展とロー
はじめとする周辺の商店街で長く経営していた店
ドサイド型の大型小売店舗の出現で,中心商店街
舗の支店が多くみられる.しかしその後,半数以
での買物客が減少しはじめていたことから,日立
上の店舗が撤退してしまったため,現在では空き
市や商店会による商店街活性化への取り組みが行
店舗となってしまったところに,チェーン展開す
なわれるようになった.銀座通りの2つの商店街,
るサービス業の支店などが多く出店している.こ
-178-
のように,空き店舗が目立っている銀座通りにお
街」として銀座通りの3商店会が共同で,銀座通
いて,わずかではあるが近年新しく参入した個人
り全体を活性化させる取り組みやイベントを盛ん
経営の店舗もみられる.これらの店舗は,初期か
に行っている.その一方で,一部では店舗経営者
らある店舗と同様に,専門性の高いサービスや商
間で,出店時期や世代間の違いのために意見のす
品を取り扱う業種が多い.
れ違いが生じている場合や,商店会単位でも共同
銀座通りの商店街では,長年に渡り店舗を経営
イベントを行う際にそれぞれ取り組みの方法に違
しているため,同じ商店会内で世代を超えた付き
いが出てきてしまうなど,日頃のコミュニケー
合いや親しい人間関係も築かれている場合もあ
ション不足のために起こる問題も出てきている.
り,このような経営者同士の交流が多い商店会で
日立市の中心商店街が衰退傾向にある現在,これ
は結束はより強いものとなっている.商店会単位
まで築き上げた経営者たちの人的ネットワークを
での経営者たちの組織力の強さは,商店街へ新規
有効に活用し,店舗間・商店会間の共通の理解を
参入する店舗経営者への支援や,商店街活性化の
どれだけ増やしていけるかが,今後の中心商店街
取り組み,他の商店会と行なう共同イベントなど
活性化を成功させるための課題であるといえよ
の場で重要な役割を果たしている.2008年以降,
う.
それぞれの商店会単位ではなく,「3モール商店
本研究を進めるにあたり,茨城キリスト教学園の岩間英夫先生をはじめ,日立市都市政策課,日立市商
工振興課,日立市商工会議所,株式会社日立ライフの方々からは,貴重な資料をご提供いただくなど多大
なご協力を賜りました.また,ひたちぎんざもーる商店会,まいもーる商店会,パティオモール商店会の
皆様からは,ご多忙中にもかかわらず,貴重なお話を聞かせていただきました.ここに記して感謝申し上
げます.
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治商店街おかみさん会」の活動を中心に-.経済地理学年報,53,173-197.
山川充夫(2004):『大型店立地と商店街再生構築-地方都市中心商店街の再生に向けて-』八朔社.
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編集委員
Editor
田林 明(委員長)
松井圭介(編集幹事)
兼子 純
呉羽正昭
宮坂和人
森本健弘
村山祐司
手塚 章
山下亜紀郎
山下清海
TABAYASHI Akira
MATSUI Keisuke
KANEKO Jun
KUREHA Masaaki
MIYASAKA Kazuto
MORIMOTO Takehiro
MURAYAMA Yuji
TEZUKA Akira
YAMASHITA Akio
YAMASHITA Kiyomi
2012年 2 月29日 印刷・発行
発行 筑波大学人文地理学・地誌学研究会
(代表 田林 明)
〒305-8572 茨城県つくば市天王台 1-1-1 総合研究棟 A
筑波大学大学院生命環境科学研究科
http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~chicho/hrg/
電話 029-853-5696
印刷 谷田部印刷株式会社
〒305- 0681 茨城県つくば市谷田部 1979 -1
電話 029-836-0350
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