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真宗の美 - 愛荘町ホームページ
愛荘町立歴史文化博物館 平成 25 年度夏季特別展 真宗の美 ―愛荘町の信仰と文化― 展示解説・列品一覧 会期:平成25年 7 月 20 日(日)~9 月 1 日(日) <宗祖親鸞> 親鸞は藤原北家の支族(分家)である日野有範 の子として生まれたとされる。9 歳のときに伯父 の範綱の導きにより青蓮院の慈円の坊舎で得度 し範宴と称した。20 年間に及ぶ比叡山での修行の あと山を下り、聖徳太子ゆかりの六角堂に百ヶ日 の参籠を行なう。95 日目に聖徳太子が現れ、法然 上人を訪ねるようにとのお告げによって、法然上 人の門下になる。建永 2 年(1207) 、専修念仏が 禁止され、法然らとともに流罪となり、還俗させ られて親鸞は越後へ配流される。その後、建暦元 年(1211)に赦免されるが、すぐに京には戻らず、 第一幅 1、伯父の範綱にともなわれ、青蓮院の慈鎮和尚 のもとを訪れる。 2、青蓮院において得度の式を執り行なう。その 後、範宴と称した。 3、20 年にわたる比叡山での修行の後、吉水の法 然上人を訪ねた。法名を綽空と改める。 4、夢に白い衣の救世菩薩が白蓮華に座った姿で あらわれる。 5、下間蓮位房が聖徳太子に礼拝する親鸞の夢を みて、親鸞こそ阿弥陀如来の化現であると敬 った。 関東で伝道を行なった。帰京の後 90 歳で親鸞が 示寂すると、東山の麓の大谷に墓所が営まれ、後 に末娘覚信尼が住む吉水に大谷廟堂として堂が 建てられた。 親鸞聖人の生涯については、後世になって親鸞 上人絵伝や御伝鈔に記されることとなる。 <親鸞聖人絵伝> (写真2)親鸞聖人絵伝(第二幅) 第二幅 1、法然が著した『選択本願念仏集』の書写と、 法然の真影を描くことを許可される。 2、吉水の禅房で信行両座の分判が行なわれる。 3、信行両座分判の翌年、吉水の禅房にて親鸞が (写真1)親鸞聖人絵伝(寶満寺蔵・第一幅) 「法然上人の御信心と親鸞の信心とは同一 である」と発言した。法然も、他力信心を説 き、親鸞の立場を支持した。 4、親鸞の真影を写したいという入西房の志を受 け入れて、絵師の定禅法橋に真影を描かせた。 (写真4)親鸞聖人絵伝(第四幅) 2、常陸国の平太郎が親鸞のもとを訪問する。念 仏の教えを信心しているものが、主の供で熊 (写真3)親鸞聖人絵伝(第三幅) 野権現へ参詣しても良いかの是非を尋ねた。 第三幅 その後、平太郎は熊野権現に参詣することに 1、他宗派の訴えで専修念仏が停止となる。内裏 なった。 の門前では検非違使が通行人を検問してい る。 2、公卿らが御所に集まり、法然上人らの罪科を 詮議する。 3、法然が流罪となる。 4、親鸞が越後国に流罪となる。 5、親鸞は法然とともに赦免されたが、京へは戻 3、弘長 2 年(1262)、親鸞は病床に臥し、90 年の 生涯を閉じた。 4、親鸞の亡骸は、京の東山、鳥辺野の南のほと りで火葬され、遺骸は大谷の墳墓に収められ た。 5、親鸞が示寂して 11 年後に、大谷本廟が建立 された。 らずにしばらく越後国に滞在した。その後、 越後から常陸国(笠間郡稲田)へと赴き、関 東で 20 年間教化する。 <堂内を彩る美術> 寺の創建にあたっては、まず本山から道場に名 6、 板敶山で親鸞を待ち伏せし殺害しようとし 号が、次に方便法身尊像などが下付される。この た山伏弁円は、ことごとく失敗しついに草庵 辺りでは本山から直接下されるのではなく、有力 を襲った。しかし、親鸞と対面するやいなや、 寺院を通すことが通例であった。湖東においては、 弓刀を捨て親鸞の前にひれふした。真宗の教 寶満寺(愛知川)、善照寺(彦根市薩摩)、弘誓寺 えに帰依し明法房証信と名のる。 (東近江市)などが有力寺院としてあげられる。 江戸時代には、寺壇制度が確立され、すべての 第四幅 人が集落の寺院の檀家になることとなった。こう 1、文暦元年(1234)62 歳になった親鸞は、住み した中で力を持った道場は、本山から許可を受け なれた稲田の草庵をあとに、京へ戻った。箱 寺院化していく。これまで、名号や方便法身尊像 根にさしかかると箱根権現の神主が一行を を本尊としていた道場は、本山から阿弥陀如来立 迎えた。 像を本尊として下付され、同時に寺号免許を受け た。それによって、真宗寺院としての様式も整備 され、三朝高僧図像や聖徳太子絵像なども下付さ 中山道愛知川宿を通過する。 れていった。 (写真7)蓮如上人御影道中の一行 <篤信者 妙好人> 「妙好人」は広く念仏者を賞讃した言葉である (写真5)阿弥陀如来立像(光澤寺蔵) が、特に真宗の篤信者をさす場合が多い。内面 大門村(現長野東)小字市場にあった道場の阿弥陀如来 的・外面的(社会的)な面で、真宗の教えに従い 立像 日常生活を送っている様ざまな階層の人をいう。 特に蓮如へ帰依する姿勢が顕著にみえるようで あった。 当町にも「妙好人」として知られる人がいたよ うである。その中の一人として、沓掛の渡邊四郎 兵衛がいる。明和 8 年(1771)生まれの渡邊は晩 (写真6)大門村切死丹宗門御改家並下帳(長野東自治会蔵) 年、中風に悩まされていたようであるが、自身の 小字市場にあった道場を管理していた新五平の名前が記載 信仰や親鸞・蓮如に関係した話を歌に詠んで書き される。 留めたほか、真宗関係の書物・典籍類を書写して いた。書写した書物をさらに近隣の門徒に貸し出 <蓮如と吉崎御坊> 本願寺第八世の蓮如は永享 3 年(1431)に青蓮 していたようで、周囲にも熱心な門徒がいた様子 が伺える。 院で得度した。長禄元年(1457)に第七世存如が 示寂し、蓮如が継職する。蓮如の伝道姿勢は人び とに共感を与え、近江をはじめ近畿・北陸などの 各地に信仰の輪が広まった。これを敵視する比叡 山延暦寺からは弾圧されて、摂津・河内・近江を 転々とすることになった。文明 3 年(1471) 、蓮 如は親鸞聖人の御影を園城寺境内の近松に建て た坊舎に移した後、吉崎(現福井県あわら市)へ (写真8)妙好人が記した書物類(渡邊四良一家蔵) 移り、そこを拠点として北陸地方の伝道を行なっ た。蓮如が吉崎に移った後、親鸞の御影は湖東五 郡の門徒らによって護られた。これに由来して 真宗の美―愛荘町の信仰と文化― 展示解説・列品作品目録 「番方講」という組織が残っている。 また毎年吉崎で、蓮如上人の御忌法要が執り行 なわれるが、この時、上人の絵像が本山から吉崎 編集・発行:愛荘町立歴史文化博物館 電話:0729-37-4500 発 行 日:平成 25 年(2013)7 月 19 日 Ⓒ2013 愛荘町立歴史文化博物 へと運ばれる。この「蓮如上人御影道中」は帰路、 館 <列品一覧> 展示資料名 借用先 時代 員数 法量(縦×横) 展示期間 親鸞聖人絵像 教照寺(蚊野) 貞享 3 年(1686) 一幅 66.7×46.6 A 親鸞上人絵伝 寶満寺(愛知川) 慶安 4 年(1651) 四幅 134.6×78.2 A 六字名号 浄光寺(安孫子) 一幅 (本紙)89.7×17.6 A 九字名号 寶満寺(愛知川) 一幅 92.3×39.8 A 六字名号 安養寺(市) 室町時代 一幅 80.8×28.5 B 六字名号 信光寺(東円堂) 室町時代 一幅 74.5×33 C 十字名号 等覚寺(愛知川) 江戸時代 一幅 61.1×25.5 A 方便法身尊像 聞光寺(軽野) 永正 5 年(1508) 一幅 89×39.5 A 方便法身尊像 正光寺(東出) 天文 11 年(1542) 一幅 60.5×29 A 木仏安置許状 等覚寺(愛知川) 天和 3 年(1683) 一幅 20.1×22.8 A 木仏寺号許状 等覚寺(愛知川) 天和 3 年(1683) 一幅 38.3×27.5 A 阿弥陀如来立像 等覚寺(愛知川) 天和 3 年(1683) 一躯 像高 47.2 A 阿弥陀如来立像 寶満寺(愛知川) 江戸時代 一躯 像高 54.5 A 阿弥陀如来立像 光澤寺(長野東) 江戸時代 一躯 像高 53.2 A 上宮太子尊形 寳幢寺(西出) 元禄 10 年(1697) 一幅 106×49 A 三朝高僧図像 寳幢寺(西出) 元禄 10 年(1697) 一幅 106×49 A 蓮如上人像 教照寺(蚊野) 寳永 4 年(1707) 一幅 95.2×40.8 A 吉崎御坊絵図 照西寺(多賀町) 江戸時代 一幅 167×117.3 A 吉崎之図 大谷大学博物館 江戸時代 一幅 73×53.5 B 吉嵜浦畧図 大谷大学博物館 弘化 3 年(1846) 一幅 123.5×170.1 C 吉嵜浦畧図 パネル 切死丹宗門御改家並下帳 長野東自治会 江戸時代 一点 40×14.1 A 番方講由緒記 勝光寺(沓掛) 明治 4 年(1871) 一点 26×19 A 番方講記録 渡邊四良一家 天保 11 年(1840) 一点 31×21.2 A 妙好人が記した書物類 渡邊四良一家 五点 25.2×17.4 他 A 吉崎御坊跡全景 パネル 一点 A 吉崎御坊跡 パネル 一点 B 本堂跡 パネル 一点 B 腰掛石 パネル 一点 B 真宗大谷派 吉崎別院 パネル 一点 B 蓮如上人御影道中 パネル 十点 A 一点 B 【展示期間】 A:7月19日(土)~9月1日(日) B:7月19日(土)~8月11日(日) C:8月14日(水)~9月1日(日)