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21回目の「風薫る爽やかな五月」 2006年3月 渡辺 一 日本一輪車マラソ

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21回目の「風薫る爽やかな五月」 2006年3月 渡辺 一 日本一輪車マラソ
21回目の「風薫る爽やかな五月」
2006年3月 渡辺 一
日本一輪車マラソン協会
21回大会の参加選手は 42.195km・91名、20km・73名、計164名。
20回大会・救護の治療は膝の擦過傷4件、手と肘が4件、いずれも膝あてと手袋を
していれば防げる。21回大会から選手全員はヘルメット・膝あて・手袋の着用を義務
とする。年少者は肘あても着用のこと。
コース清掃
コース清掃は
清掃は全員で
全員で
マラソン大会は長大な競技会場を確保し、参加選手より役員数が多いというスポ
―ツの中では開催困難な種目である。世界初のスポ―ツ種目を作り出した先輩達
は「走らせていただく」感謝の心を持ち、自主的に準備作業の手伝いを行ってきた
が、この伝統を継承すべく、13回大会から5月3日・13時~15時までコ―ス閉鎖の規
制をして大会関係者全員で10kmのコ―ス整備・清掃と会場設営をします。
19回大会
19回大会からの
回大会からの変更事項
からの変更事項
競技時間を3時間に短縮 (18回までは3時間40分)
42.195kmは下記の時間を過ぎた選手は競技を中止すること。
20km・1週目終了・本部前南向き ・・・・・・ 1時間25分(大会時間09:25)
33.874km・2週目・本部前北向き ・・・・・・・ 2時間24分(大会時間10:24)
競技時間の適正値は最高タイム・1時間40分の150%であり、これを適用すると2時間
30分になるが現在は180%にあたる3時間に設定。大半の選手がより速く走るには、
「サドルの位置を高くして」、「爪先でペダルを踏め」と先輩からの指導あり。
競技時間の
競技時間の設定について
設定について
走行中の選手の体に関するトラブルは内科的な要因と落車による打撲や擦過傷
など外科的なものの二つがある。命に危険がある内科的トラブルは2時間前後から
発生し、3時間を過ぎてからは症状が重い。その原因として甘い練習からくる極度の
疲労と、身体的不調を隠して出場した場合に起きることが過去の事例から判る。
競技後半の重大事故の発生を防ぐために20kmと33km地点で完走の見込みが無
い走者は競技を中止させる。
フリー車種
フリー車種の
車種の扱いについて(
いについて(21回
21回から)
から)
これまでフリー車種は総合表彰の対象には入っていなかったが、21回大会から
フリー車種も総合記録へ組み込み表彰する。
20km
20kmの
kmの通過タイム
通過タイムを
タイムを「20km
20kmランキング
kmランキング」
ランキング」へ採用(
採用(21回
21回から)
から)
大会におけるハーフの位置づけは42.195km(フル)参加への通過点でありでフル
で活躍する選手は成長途中で一回走るだけの参考記録なのでプログラムへは掲載
しなかった。今回、掲載する理由は20回終了の総括と第9回(1994年)から実施した
フリークランクによりハーフはスプリント感覚の距離になり、単独種目として20kmの最
速を狙う選手が育つ可能性があることによる。21回大会から20km通過タイムを公式
記録として20kmランキングへ採用する。
尚、精細で手間がかかる「20kmランキング」は永田博士さん(やまとくらぶ)に作成
していただいた。ありがとうございました。
一輪車
一輪車・
一輪車・草創のころ
草創のころ
全日本一輪車マラソン20年のまとめとして21回大会のプログラムは一輪車草創の
ころを特集した。2008年はスポーツ一輪車の開始から30年になるが、今、まとめて
おかなければスポーツ一輪車初期の歴史(文化)は消滅してしまうという危機感から
発した企画である。1回大会からのプログラム全巻は国会図書館へ収蔵。
資料作成は小池行雄氏との遠隔作業だが、5月の20回大会終了後から開始して
12月末に形が見えた。消えかけた一輪車の歴史について時間を気にすることなく
細部まで語り合う作業には通話無料のIP電話がありがたかった。草創のころ、電話
は電信電話公社の独占事業であり、通話料金は距離による高額な設定なので気軽
に使えなかった。郵便は物を移動するのに大変な手間がかかるにもかかわらず全
国一律料金だが、ようやく仕上げた手書きの文書を送るには数日かかった。初期の
ワープロは一台50万円であり、パソコンもデジカメも存在しない。文書のコピーは、
不鮮明な青焼きが、なんと「1枚・30円」。パソコンで画像入りの資料を作り、Eメール
やFAXで資料が劣化することなく瞬時に送受信できるなどは20年前には夢物語の
世界であった。携帯電話などは夢のまた夢。発足から30年の宅急便が物流の地域
格差を解消し、インターネットとIP電話により通信の地域格差が解消した。
かねてから知りたかった日本の一輪車の起源は2冊の本から知った。
「曲乗り渡世始末帖」と「サーカスの歴史」である。この本には一輪車の元祖であ
る鈴木義豊氏が1908年から70年以上に亘り日本の全てのサーカスの一輪車100台
を作り、指導したところの曲乗り人生を詳細に記してある。著者の阿久根厳氏は他
にもサーカスを記録した著書があり、一輪車の起源を知る唯一の資料である。
1978年、ハルペン・ジャックの一輪車・東京横断の企画に晩年の鈴木義豊氏も参
画して、ここから太陽の下で日本のスポーツ一輪車が始まり、この頃の様子は「日本
一輪車クラブ」発行のJUC Newsから知る事ができる。
JUC Newsはハルペン・ジャックが一輪車先進国アメリカ訪問での取材を主な記
事として数頁の季刊で8号まで編集した。1981年Spring号が最期となり、9号からは
JUA Newsと改称された。貴重な資料だが残存紙は数部か。
この時代に各地で行われた一輪車大会は、家庭的な雰囲気であり、演技部門で
は大会の度に新しい技が発表され満場の喝采を浴びた。新しい技の呼称はその場
に集まった仲間からの提案で決まった事もある。距離部門では新記録を期待してク
ラブの枠を超えて盛んな声援が飛び交った。変わった形の一輪車も次々に開発さ
れて、大会毎に変わった一輪車に出会うのが楽しみだった。
競技種目には、距離競技の他に、ハンドル、カンガルー、後進、遅乗り、障害物
(シーソーあり)、スラローム等があり、たまに原型一輪車の競争もあった。次々に進
行する競技に参加するためにハンドルやクランクの付け替えに忙殺された。出番に
間に合わない時は「待った」をかければ競技の進行を止め、誰かが工具を持って手
助けに駆けつける和やかな雰囲気が懐かしい。
1980年、進化の過程は走り込みから始まり、本州では、やっと10kmを走っている
時に 北海道では千葉知男のグループが企画して100kmや100マイル(約161km)を
走り、その後は競技として適正な距離と時間の42.195kmに定着した。
1986年、東京横断から8年後に小池行雄(大和市)、加藤幸夫(茅ヶ崎市)、半田
精司(平塚市)、渡辺 一(長野市)の起案により「全日本一輪車マラソン」を開始。
一回大会の参加者は42.195km・64名、10km・127名であり、優勝タイムは2時間
26分49秒のスローペースだが、当時としては驚異的な速度であった。9回からフリー
クランクとし、2005年・20回大会の優勝タイムは1時間38分23秒である。
走力の強化は短距離のインターバルを繰り返すことにより瞬発力を鍛え、長距離
走により持久力を養う。瞬発力と持久力、そして左右均等なバランス感覚が、それか
ら先に530ある技の習得に際して効果を発揮する。技を習得するに際して鍛えたバ
ランスがさらに走力を高める相乗効果があり、一輪車がますます楽しくなる。
2005年
2005年 男子小・
男子小・中学生の
中学生の一輪車離れ
一輪車離れ
スポーツ一輪車発足から10年ほどは走りと技の両面に均衡が取れた時代であり、
老いも若きも、この道の先駆者として短距離走・長距離走に挑み、技に挑み、高さ
に挑みながら幅広い活動を繰り広げた。
年齢、性別、技術レベルにかかわらず誰もが一輪車の多様性を楽しんだ時代か
ら十余年が過ぎた2005年は競技種目が偏り、女子児童による遊戯が流行している。
一輪車に乗った集団遊戯は1989年頃から始まったが、ピアノやバレーの発表会
に似て女児とその母親たちが好んで飛びつきやすい種目である。カラフルな衣裳を
着けて一見すると可愛いが技術的な深みは無い。我が子の可愛さを愛でる母親た
ちの自己満足であり、女児の適齢期は短い。
この遊戯に必要な技は五指で足りるから、それ以外の技は必要が無いので教え
ないし、他の技を知らない指導者もいると聞く。チームの差はフォーメーションに僅
かな違いがあるだけで、スポーツの本質である「より高きを目指す」姿勢は欠如して
いる。 どの部門の指導者であろうと指導者たるものは一輪車の走と技の深みを極
め、一輪車の歴史を知り、語り継がねばならない。
一輪車人口の拡大を急ぎ、長年にわたり、こぞって、この安直な室内遊戯に邁進
した結果は目論見どうりに推移して、この部門だけは肥大したが、反面、基礎部門
の育成を放置してきたので、30年前、太陽の下で遊び始めた一輪車の本格派が駆
逐されてしまった。偏った施策の当然の帰結であり、「悪貨は良貨を駆逐する」事例
である。今、一輪車に携わる男子若年クラスが消滅寸前という危機的な事態になっ
た。事の重大性を理解して、今後の進路を正すにしても15年以上の空白期間があ
り、一輪車に限らず怠惰な快楽嗜好がのさばる日本の中で軌道修正は至難だ。さ
らに致命的なことは一輪車全般と競技スポーツを知る指導者がいない。
以下の数字から、その危機的な状況を検証しよう。
全日本一輪車マラソンの10回大会と20回大会の小・中学生の参加比率を見ると
10回大会総計 240名 20回大会総計 204名 男子 10回 合計
62名 (小学生 41名 ・ 中学生 21名)
男子 20回 合計
19名 (小学生 7名 ・ 中学生 12名) 女子 10回 合計 107名 (小学生 72名 ・ 中学生 35名) 女子 20回 合計 113名
(小学生 86名 ・ 中学生 27名) 10回大会のフルの競技時間は3時間40分だが、20回大会は3時間である。
参加人数は10回が240名、20回が204名であり、36名の減である。
全体の数が減っている中で女子小学生だけが増えた。男子の小・中学生の減少
は極端であり、10回の62名から20回は僅かに19名となった。その内訳は男子小
学生は41名から7名、男子中学生は21名から12名となり消滅寸前。
誰もが「男子は少子化に加えて野球とサッカーに取られる」と嘆くが、少子化は女
子も同様なのに低年齢女子だけが増え続けている。男児不在で女児だけが50人の
クラブもあり、遊戯大会の参加はクラブ代表の1チーム・十人ほどなので他は欠員待
ちとなり、練習はするが大会に出場できない。又、男子が一輪車に興味を示しても、
遊戯が目的の女子だけのクラブに彼等の居場所がないのは当然であろう。
クランクについて
クランクについて
我が国において、クランクの長さを規定しない「 フリークランク」で実施される大会
は「全日本一輪車マラソン」と「やまと一輪車競技大会」であり、他は全てクランクの
長さが規定された大会である。
「 全日本一輪車マラソン」(2005年、5月4日、20回終了)
1回~8回までは42.195kmを車輪24インチ・125mmのクランクで走り、記録は2時
間10分が限界だった。9回大会からフリークランクとした記録は20回大会では1時間
38分となり、毎年、千曲河畔で感動のドラマが展開される。
「やまと一輪車競技大会」(2005年10月9日、9回終了)
片足50m、タイヤ乗り30m、リレー、100m 、400m、1500mが行われるが、フリークラ
ンクによるスプリントは迫力があり、見る者を飽きさせない。
100mはスタートからの立ち上がり速度を早めるために長目のクランクを装着して
走り、1500mは55mmのクランクに交換して走る。1500m最後の一周は逃げる者と追う
者の高速度の競り合い(3分36秒)に大声援が湧き起こる。迫力ある「やまと一輪車
競技大会」の種目別ランキング・3頁を、このプログラムに掲載した。
「規定クランク」の競技会では当事者である一輪車関係者でさえ「見栄えがしな
い」と感じているのだから、大方の支持を得られないのは当然であろう。走っている
選手自身が「何でこれほどスピードが上がらないのか」と自己嫌悪に襲われながら、
「のそのそと走り」、軽快さとスピード感の無いマラソンやトラック競技である。
競技は、競技者が同じ条件で競う事が原則だが、一輪車で速さを追求するにあ
たりクランクの長さを規定するのは、この原則の誤った解釈であり、「進化する自由を
奪い」、「一輪車を自らの手でつまらなくして」発展を阻害してきた要因である。
人がスポーツに求めるのは、日常生活には無い「自由」と「進化」である。
一輪車入門者の身長や足の長さには大きな差がある。衣服を誂える時には、使
用する人の体型と使用目的に合わせるが、一輪車は身長180cmも150cmも同じ規
格である。サドルの高さ調節には、延長ポストや、それでも足りない場合にはポスト
の長いサドルまで用意されているが、クランクの長さには無頓着であり、これは、乱
暴であり、でたらめな仕様である。ようするに市販一輪車のクランクは万能サイズで
あり、ちょっと乗って見たい程度なら、これで間に合うが、上達を望むなら、それぞれ
の体に合ったサイズを使用しなければならない。
余談として・・・一輪車に興味を持ち、ようやく一輪車を手に入れて、乗ってはみ
たが一輪車が前後に逃げてしまう。手すりを掴む腕と肩が疲れるばかりだが、諦め
ずに練習を繰り返すと、ある日、待ち望んだ喜びの瞬間が訪れる。僅かな距離を
走っただけだが、飛び上がるほどの嬉しを味わって練習にも一段と熱が入る。次第
に長い距離を走れるようになると、次の段階は「走」と「技」の競技への挑戦が始ま
る。競技入門にはそれぞれの体型と技術段階に適応したクランクのサイズがあるの
は当然であり、それを使い分けるから競技が楽しくなる。
一輪車入門に際して子供達はすぐに乗れるが、大人は年齢と同じ時間が必要。
日数がかかり過ぎてあきらめる者も多い。大人の上達を妨げるのは「右利き」・「左利
き」であり挫折するのはこれが原因。当人は両足で乗っている感覚だが、初めて乗
るにもかかわらず「利き足」に頼り、初心者には難しい片足走行を練習しているの
だ。新しい技へ挑戦しても「利かない足」が邪魔して、そこから先へは進めない。こ
の辺で、ようやく入門の時に素直に乗れなかった訳を体感する。
より速
より速く走るには、「
るには、「サドル
、「サドルの
サドルの位置を
位置を高くして」、「
くして」、「爪先
」、「爪先で
爪先でペダルを
ペダルを踏む」。
ペダルはスプリントと技術系は拇指球で踏み、長距離は拇指球より少し後ろの足
幅が最も広いところで踏む。初心者がいきなり、これを実践する必要は無いが土踏
まずでペダルをベタ踏みする「がに股・ママチャリ乗り」は早く卒業しよう。
拇指球で踏むと内股が締まりサドル位置が高まる。
・・・余談、終わり。
全日本一輪車マラソンのクランクは試行しながら少しずつ短くなり最短は45mmで
あり、主流は55~60mmである。未熟者が先輩を真似て「クランクを短くすれば速く走
れる」と考え、自己の技量を超える短いクランクを使用して失敗する例もあるが、失
敗により選手は成長する。今では、それぞれの技量と当日の風力に合わせてクラン
クの長さを選ぶほどに進化している。
1978年にミヤタフラミンゴは車輪24インチ・127mmのクランクで量産を開始したが、
これはアメリカの規格であり、現在は「24インチ・125mm」、「20インチ・114mm」、「16
インチ・102mm」であるが、これらのクランクは取り合えず乗れる万能サイズである。
然るに、現在、クランクを規定して行われている競技会は個人の体型や技術の差
を無視して一律に市販クランクのサイズを指定しているが、これは「同じ条件」では
ない。市販クランクの規格は、取り合えず間に合うだけの代物なのにそれを唯一の
ものとして信奉している。ママチャリで自転車競技へ挑む図式だ。
さらにスポーツの中で重要な「進化」と「自由」を否定する「規定クランク」の不合
理を追求しよう。一輪車競技は「一輪車で行う」のであり、それ以上の規制は自らを
不自由にする。スキー競技は「スキーで行う」のであり他は自由である。その自由の
中で用具やトレーニング方法の創意工夫が進歩を促し、選手も観客も楽しさを増
す。棒高跳びのポールは竹からグラスファイバーとなり、スキー回転競技の開発競
争から生まれたカービングスキーは、今、全ての一般スキーヤーが使用している。
進化により選手に危険が及ぶ場合には適度の規制をする。スキージャンプ競技
のように用具とトレーニング理論の進化により、距離を跳びすぎて危険になったので
スキー板の長さと巾、ウエアの材質や形状を規定している。
クランクの
クランクの長さに関
さに関する実験
する実験(
実験(やまとくらぶ)
やまとくらぶ)
体に合ったクランクがどれほどの効果があるかを証明する資料がある。
(財)大和市スポーツ振興公社が主催して、大和市スポーツセンター(スポセン)で
一輪車教室を開催している。この一輪車教室は1986年10月から開始されて2005年
も継続中であり20年間も続いている。年四回開催され、一回の募集人数は60人、今
までに4620人が受講した。指導は「やまとくらぶ」が当たる。これほどの長期間、これ
ほど受講者数の多い一輪車教室は他には存在しない。
20年間、スポセンで一輪車の初心者を指導してきた「やまとくらぶ」代表の小池行
雄氏は、かねてから初心者には市販されている一輪車のクランクは長すぎるのでは
ないかと疑問を抱いていたので、 1991年に初心者10人を対象にして短いクランクに
よる指導を試みた。使用したクランクは24インチは127mmを114mmに、20インチは
114mmを89mmに交換した。
結果は、これまでは乗れるまでに6時間かかったが、クランクを短くした被験者10
人の平均は3時間であった。体型に適したクランクは驚くべき効果のある事が実証さ
れたのである。初心者が早く乗れるということは用具が適合している証拠であり、以
後の上達も早まる。小池氏はこの結果を公表したが、これまでに何処からも反応は
聞こえない。
より高
より高きを目指
きを目指して
目指して
「全日本一輪車マラソン」は20年間を意欲的に走り続けた。
1986年、第1回大会は、未知の距離である42.195kmを62名(リタイア2名)が完走
したことにより距離への不安は消えた。そこから記録への挑戦が始まり、2005年は
12回目の記録更新を果たし1時間38分23秒となったが、車椅子マラソンの記録は
、これよりも18分早い1時間20分14秒である。
ここにとどまることなく、「より高きを目指して」100kmに挑戦しよう。
100kmは一輪車にとって未知の距離ではない。昔、1980~1986年の間に、北
海道では四回の100km記録会を開催している。25年前の先人の輝かしい記録に迫
り、どこまで超えられるかを試そう。その先には100マイルがある。
「2006
「2006・
2006・100km
100km記録会
km記録会」
記録会」は、2006年
2006年11月
11月4日、午前7
午前7時にスタートする
スタートする。
する。
長野リコー
長野リコーの
リコーのデモバス車内
デモバス車内にて
車内にて作業中
にて作業中
記録処理中の永田博士さん (やまとくらぶ)
20回・20年間・記録表印刷のプロ・小林和彦さん(長野リコー)
20km
2005/7/31
20kmマラソン
kmマラソンの
マラソンのランキング表
ランキング表の作成について
作成について について
やまとくらぶ
やまとくらぶ やまとくらぶ 永田博士
15回大会から記録表を担当した経緯については以前に書きました。今回は、「20kmマラソ
ン」のランキング表を作成したので、その経緯について説明したいと思います。
フルマラソンへの重要なステップアップである20kmマラソンのランキング表が何故か作成さ
れていませんでした。20kmマラソンへ参加した選手の皆さんも疑問に感じたことがあるので
はないでしょうか。昔は今ほどパソコンもソフトも普及しておらず、フルマラソンのランキング表
を作成するだけで精一杯だったと思います。本大会もすでに20回を数え、20kmのランキング
表作成は今しかないとの思いからやっと着手することになりました。
1回から20回までの電子データが残っていれば、データの並べ替えを行えば簡単にランキン
グ表が出来上がります。15回大会以降は記録を担当しており電子データが手元にあるので問
題ないのですが、残念ながら1回から14回までのデータは、電子データとしては残っておら
ず、渡辺さんが保管していた記録表を頼りにするしかありませんでした。
第1回大会が開催されたのは20年前ですが、驚くことにその時からすでにパソコンで記録処
理が行われておりました(*1~14回までは石川雅一さん)。その当時としては、ハード(*一式
150万円)およびソフト(*苦心の自作)とも高価で扱いが難しかったはずです。大会運営に対す
る意気込みと苦労が感じられます。(*は渡辺が記入)
さて、ランキング表の作成過程について少し触れておきます。1回から14回までのデータは
膨大で、一つ一つパソコンに手入力するのは多大な労力と時間を要するのであきらめました。
幸運なことに、第1回から記録が手書きでなく活字にされていましたので、スキャナーで画像デ
ータとして取り込み、それをOCR(光学式文字認識・読取)ソフトにかけてテキストデータに変
換することにしました。(*1500件、20頁で完成)
OCRソフトは有効で大いに助かりましたが、認識能力が万能ではなく、変換された文字の修
正にかなり時間がかかり、着手して1ヶ月程度かかりました。OCRソフトは非常に高価なので、
「読んdeココ」の無料体験版を使わせてもらいました。ここにお礼を申し上げます。
最後になりますが、20kmランキング表があることにより、20kmマラソンへ参加し、そしてフ
ルマラソンへステップアップする選手が増えてくることを祈念しております。
最後に、第1回からずーっと記録表印刷を担当して戴いている小林和彦さん(長野リコー)
に、この場をお借りして感謝の言葉を贈りたいと思います。
やまと一輪車競技大会
やまと一輪車競技大会ランキング
一輪車競技大会ランキング・
ランキング・フリークランク 1
1回~9回 1997年
1997年~2005年
2005年
主催
主催 主催 財団法人
財団法人・
財団法人・大和市スポーツ
大和市スポーツ振興公社
スポーツ振興公社 振興公社 主管
主管・
主管・やまとくらぶ
100m
スプリント、
400m
1500m
50m
片足走行、 30m
タイヤ乗
100
mスプリント
、 400
m走、 1500
m走、 50
m片足走行
、 30
mタイヤ
乗り
男子100mスプリント 小学1~3年 16インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
土屋 貴雅
今井 勇太郎
樋田 稔
中村 翼
佐藤 國芳
タイム
18秒67
19秒26
19秒70
19秒83
20秒09
所 属
静 岡・三 島
神奈川・相武台
神奈川・湘 南
神奈川・相模野
静 岡・焼 津
2001
2003
2001
2003
2000
男子100mスプリント 小学4~6年 20インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
石腰 敏之
行川 竜一
庄司 海渡
安藤 将宏
菅原 裕太
タイム
15秒23
15秒38
15秒71
16秒00
16秒13
所 属
神奈川・湘 南
東 京・行 川
神奈川・湘 南
静 岡・三島走ろう
静 岡・三島走ろう
2001
2000
2004
2000
2001
男子100mスプリント 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
瀬戸 将貴
石腰 敏之
小林 成輔
永田 大輔
辻村 翔
タイム
13秒85
14秒05
14秒08
14秒21
14秒28
所 属
静 岡・三 島
神奈川・湘 南
東 京・多 摩
神奈川・大 和
神奈川・大 和
2005
2003
1998
1999
2001
男子100mスプリント 高校生~29歳 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
小野 裕一
安藤 勇太
小林 成輔
辻村 翔
和泉田 大樹
タイム
12秒83
12秒87
13秒10
13秒12
13秒89
所 属
神奈川・TOP
埼 玉・所 沢
東 京・多 摩
神奈川・大 和
東 京・なぎさ
2000
2005
2000
2005
1999
男子100mスプリント 30歳以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
加藤 雄一郎
後藤 尚只
寺田 覚
布川 亨
土屋 冬樹
タイム
14秒53
15秒22
15秒62
15秒73
16秒03
所 属
神奈川・湘 南
埼 玉・飯 能
静 岡・三 島
神奈川・大 和
神奈川・横須賀
2005
2005
2000
2001
2001
女子100mスプリント 小学1~3年 16インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
金子 まゆ子
森 さやか
播磨 葉月
佐藤 実紗
大洋 和香子
タイム
17秒47
17秒60
19秒37
19秒39
19秒51
所 属
神奈川・藤 沢
神奈川・相模野
東 京・篠 崎
静 岡・三島走ろう
静 岡・安東児童館
2003
2003
2001
2001
1998
女子100mスプリント 小学4~6年 20インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
大谷 妙
大洋 和香子
石井 友佳子
鈴木 利恵
松村 芽久
タイム
15秒06
15秒34
15秒46
15秒47
15秒59
所 属
神奈川・湘 南
静 岡・安東児童館
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
2001
1999
2001
2002
2003
女子100mスプリント 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
鈴木 利恵
石腰 早紀
石井 友佳子
津田 稚奈
小澤 舞
タイム
13秒76
13秒79
13秒80
13秒86
13秒98
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
神奈川・相模野
神奈川・相模野
2003
2002
2003
2003
2005
女子100mスプリント 高校生~29歳 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
石腰 早紀
鈴木 由佳
岩本 翠
菅原 優美
中村 麻美
タイム
13秒72
14秒18
14秒41
14秒58
14秒76
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・城 内
静 岡・三島走ろう
神奈川・相模野
2004
2005
2005
2002
2002
女子100mスプリント 30歳以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
山下 玲子
廣江 信子
藤本 あゆみ
行川 京子
川口 裕子
タイム
17秒96
19秒54
20秒16
21秒46
23秒14
所 属
東 京・篠 崎
東 京・行 川
東 京・多 摩
東 京・行 川
東 京・なぎさ
2001
2000
2004
1998
2000
男子400m 小学1~3年 16インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
土屋 貴雅
菅原 裕太
樋田 稔
熊谷 陽太
佐藤 國芳
タイム
1分23秒10
1分23秒68
1分27秒79
1分31秒49
1分31秒88
女子400m 小学1~3年 16インチ
所 属
2003
2001
2003
2000
2000
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
鈴木 利恵
佐藤 梨帆
佐藤 実紗
松村 芽久
大橋 奈津実
2002
2001
2002
2004
2002
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
石井 友佳子
鈴木 利恵
石腰 早紀
村山 美鈴
岩本 翠
2005
2005
2002
2000
2001
順位
1位
2位
3位
4位
5位
開催回
2005
2000
2001
2005
2005
順位
1位
2位
3位
4位
5位
2004
2002
2004
2001
2001
順位
1位
2位
3位
4位
5位
2005
2005
2001
2005
1999
順位
1位
2位
3位
4位
5位
2001
2000
2001
2001
2004
順位
1位
2位
3位
4位
5位
静 岡・三 島
静 岡・三島走ろう
神奈川・湘 南
神奈川・相模野
静 岡・焼 津
男子400m 小学4~6年 20インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
菅原 裕太
石腰 敏之
土屋 貴雅
行川 竜一
鈴木 勝己
タイム
1分05秒79
1分07秒51
1分09秒04
1分09秒42
1分10秒22
静 岡・三島走ろう
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
東 京・行 川
静 岡・安東児童館
氏 名
辻村 翔
村山 寿宏
石腰 敏之
瀬戸 将貴
正木 駿佑
タイム
58秒22
58秒63
59秒80
1分00秒51
1分01秒12
氏 名
安藤 勇太
辻村 翔
和泉田 大樹
小野 裕一
永田 大輔
タイム
52秒10
54秒18
55秒83
56秒48
57秒38
神奈川・大 和
静 岡・三 島
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
千 葉・八 街
氏 名
加藤 雄一郎
寺田 覚
布川 亨
土屋 冬樹
後藤 尚只
タイム
1分04秒42
1分05秒94
1分07秒58
1分08秒47
1分09秒37
埼 玉・所 沢
神奈川・大 和
東 京・なぎさ
神奈川・TOP
神奈川・大 和
所 属
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
神奈川・大 和
埼 玉・飯 能
埼 玉・飯 能
氏 名
菅原 裕太
石腰 敏之
瀬戸 将貴
村山 寿宏
辻村 翔
タイム
3分42秒03
3分55秒50
3分56秒37
3分57秒98
3分58秒47
氏 名
安藤 勇太
和泉田 大樹
永田 大輔
辻村 翔
鈴掛 宏樹
タイム
3分34秒35
3分34秒80
3分41秒16
3分44秒48
3分59秒53
静 岡・三島走ろう
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
静 岡・三 島
神奈川・大 和
神奈川・大 和
神奈川・大 和
東 京・なぎさ
男子1500m 30歳以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
布川 亨
寺田 覚
植田 恵文
土屋 冬樹
瀬戸 秀治
タイム
4分19秒39
4分35秒61
4分40秒88
4分42秒83
4分49秒49
静 岡・御殿場
神奈川・横須賀
静 岡・三 島
タイム
1分02秒93
1分05秒71
1分05秒61
1分06秒77
1分06秒83
所 属
神奈川・湘 南
静 岡・三島走ろう
静 岡・三島走ろう
静 岡・三 島
静 岡・城 内
2002
2001
2003
2003
2000
タイム
55秒97
56秒36
56秒63
56秒87
57秒90
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
静 岡・城 内
2003
2003
2001
2003
2004
氏 名
石腰 早紀
中村 麻美
岩本 翠
伊藤 みゆ貴
津田 稚奈
タイム
55秒38
58秒06
59秒01
1分00秒42
1分00秒68
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・相模野
静 岡・城 内
神奈川・相模野
神奈川・相模野
2003
2003
2005
2003
2004
氏 名
廣江 信子
藤本 あゆみ
岡野 多江子
行川 京子
山下 玲子
タイム
1分20秒38
1分24秒56
1分30秒86
1分34秒33
1分40秒80
所 属
東 京・行 川
東 京・多 摩
静 岡・清水ドリーム
東 京・行 川
東 京・篠 崎
2000
2004
2005
2000
2001
氏 名
岩本 翠
岡部 梨恵
石腰 早紀
鈴木 由佳
鈴木 千晶
タイム
3分43秒46
3分46秒61
3分50秒87
3分53秒22
3分54秒78
所 属
静 岡・城 内
静 岡・城 内
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・三 島
2004
2004
2001
2003
2003
氏 名
石腰 早紀
鈴木 由佳
岩本 翠
伊藤 みゆ貴
西ヶ谷 春菜
タイム
3分53秒59
3分55秒02
3分55秒52
4分02秒47
4分10秒57
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・城 内
神奈川・相模野
神奈川・麻 生
2003
2005
2005
2003
2005
女子1500m 30歳以上 24インチ
所 属
神奈川・大 和
静 岡・三 島
静 岡・三 島
女子1500m 高校生~29歳 24インチ
所 属
埼 玉・所 沢
東 京・なぎさ
静 岡・三 島
女子1500m 中学生 24インチ
所 属
男子1500m 高校生~29歳 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
静 岡・安東児童館
2001
2001
1998
2001
1999
女子400m 30歳以上 24インチ
男子1500m 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
静 岡・三 島
女子400m 高校生~29歳 24インチ
所 属
男子400m 30歳以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
所 属
静 岡・三島走ろう
女子400m 中学生 24インチ
所 属
男子400m 高校生~29歳 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
タイム
1分22秒46
1分24秒18
1分25秒85
1分26秒53
1分26秒85
女子400m 小学4~6年 20インチ
所 属
男子400m 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
佐藤 実紗
井村 優里
大洋 和香子
松村 芽久
寺田 愛里紗
2001
2000
2001
2003
2000
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
山下 玲子
廣江 信子
藤本 あゆみ
岡野 多江子
行川 京子
タイム
5分14秒37
5分20秒02
5分29秒56
5分53秒10
6分21秒95
所 属
東 京・篠 崎
東 京・行 川
東 京・多 摩
静 岡・清水ドリーム
東 京・行 川
2001
2000
2004
2005
2000
男子50m片足走行 小学1~3年 16インチ
順位
氏 名
1位 山下 岳史
2位 杉山 駿
3位 藤井 壮也
タイム
14秒78
15秒10
15秒74
所 属
静 岡・城 内
静 岡・三 島
東 京・なぎさ
2005
2005
2005
男子50m片足走行 小学4~6年 20インチ
順位
氏 名
1位 庄司 海渡
2位 後藤 彰良
3位 中村 翼
タイム
9秒73
10秒51
10秒73
所 属
神奈川・湘 南
埼 玉・飯 能
神奈川・相模野
女子50m片足走行 小学1~3年 16インチ
順位
氏 名
1位 佐藤 彩香
2位 佐野 愛梨
3位 山本 美月
タイム
8秒96
9秒24
9秒39
2004
2005
2005
2005
2005
2005
順位
氏 名
1位 岩本 翠
2位 阿部 貴帆
2位 鈴木 利恵
静 岡・三 島
男子50m片足走行 高校生~29歳 24インチ
順位
氏 名
1位 小林 成輔
2位 辻村 翔
3位 清水 洋輔
タイム
7秒86
8秒38
9秒31
所 属
東 京・多 摩
神奈川・大 和
東 京・行 川
タイム
9秒49
9秒57
10秒42
2004
2005
2004
所 属
神奈川・湘 南
埼 玉・飯 能
埼 玉・飯 能
2005
2004
2004
男子30mタイヤ乗り 小学1~3年 16インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
山下 大貴
菅原 裕太
行川 竜一
鈴木 圭介
阿部 裕光
タイム
11秒87
12秒91
13秒43
13秒87
14秒67
所 属
東 京・篠 崎
静 岡・三島走ろう
東 京・行 川
東 京・篠 崎
東 京・行 川
2001
2000
1997
2001
2000
男子30mタイヤ乗り 小学4~6年 20インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
行川 竜一
鈴木 敦士
菅原 裕太
庄司 海渡
安藤 将宏
タイム
7秒91
10秒46
10秒65
10秒78
11秒05
所 属
東 京・行 川
東 京・多 摩
静 岡・三島走ろう
神奈川・湘 南
静 岡・三島走ろう
氏 名
村山 寿宏
庄司 海渡
小林 成輔
永田 大輔
石腰 敏之
タイム
8秒60
8秒76
8秒79
9秒97
10秒87
2000
2002
2002
2003
2000
所 属
静 岡・三 島
神奈川・湘 南
東 京・多 摩
神奈川・大 和
神奈川・湘 南
2001
2005
1998
1999
2002
男子30mタイヤ乗り 高校生以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
小野 裕一
加藤 雄一郎
小林 成輔
加藤 洋司
大田 善晶
タイム
7秒09
7秒53
7秒75
8秒07
8秒85
所 属
神奈川・TOP
神奈川・湘 南
東 京・多 摩
神奈川・湘 南
静 岡・三島走ろう
所 属
神奈川・湘 南
静 岡・御殿場
神奈川・湘 南
2004
2004
2005
2000
1998
2005
1999
1998
タイム
8秒89
9秒14
9秒63
所 属
静 岡・御殿場
東 京・行 川
神奈川・湘 南
2004
2004
2004
タイム
8秒59
8秒97
9秒38
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
神奈川・相模野
2004
2005
2004
女子50m片足走行 30歳以上 24インチ
順位
氏 名
1位 藤本 あゆみ
2位
3位
タイム
16秒77
所 属
東 京・多 摩
2004
女子30mタイヤ乗り 小学1~3年 16インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
行川 ゆかり
播磨 葉月
寺田 愛里紗
佐野 愛梨
井村 優里
タイム
11秒88
12秒28
12秒45
12秒52
12秒84
所 属
東 京・行 川
東 京・篠 崎
静 岡・三 島
静 岡・御殿場
静 岡・三 島
1998
2001
1999
2005
2001
女子30mタイヤ乗り 小学4~6年 20インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
5位
男子30mタイヤ乗り 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
タイム
10秒07
10秒18
10秒31
女子50m片足走行 高校生~29歳 24インチ
順位
氏 名
1位 石腰 早紀
2位 鈴木 由佳
3位 中村 麻美
男子50m片足走行 30歳以上 24インチ
順位
氏 名
1位 加藤 雄一郎
2位 後藤 尚只
3位 土屋 冬樹
静 岡・城 内
2004
2005
2004
女子50m片足走行 中学生 24インチ
所 属
神奈川・湘 南
神奈川・梅 田
所 属
神奈川・藤 沢
静 岡・御殿場
女子50m片足走行 小学4~6年 20インチ
順位
氏 名
1位 山田 茜
2位 高田 菜月
3位 出口 まゆ子
男子50m片足走行 中学生 24インチ
順位
氏 名
1位 庄司 海渡
2位 由良 彰弘
3位 瀬戸 将貴
タイム
11秒87
12秒03
12秒11
氏 名
行川 ゆかり
松本 吉世
石井 友佳子
鈴木 利恵
小西 杏沙
村山 美鈴
タイム
8秒03
8秒95
9秒30
9秒61
9秒63
9秒63
所 属
東 京・行 川
東 京・篠 崎
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
静 岡・浜 松
静 岡・三 島
2000
1998
2001
2002
1997
2000
女子30mタイヤ乗り 中学生 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
草薙 佐紀
鈴木 由佳
石腰 早紀
鐵 真早
石井 友佳子
タイム
7秒79
8秒52
8秒56
8秒58
8秒72
所 属
東 京・篠 崎
神奈川・湘 南
神奈川・湘 南
東 京・篠 崎
神奈川・湘 南
1998
2003
2001
1998
2003
女子30mタイヤ乗り 高校生以上 24インチ
順位
1位
2位
3位
4位
5位
氏 名
廣江 愛
鈴木 由佳
鐵 真早
石腰 早紀
秋元 美鈴
タイム
7秒97
8秒09
8秒25
8秒28
8秒66
所 属
東 京・行 川
神奈川・湘 南
東 京・篠 崎
神奈川・湘 南
東 京・レッドビッキーズ
2000
2005
2001
2003
1998
2006年4月4日
≪ 第21回全日本一輪車
21回全日本一輪車マラソン
回全日本一輪車マラソン・
マラソン・創世記特集 ≫
長野市 渡辺 一
tel・fax 026-235-1345
このような資料の必要性は久しく指摘されていたが、誰も手を付ける事なく年月
が過ぎ去り、その間に、一輪車から離れたパイオニアが多い。
2005年5月4日の夜、当家で小池行雄氏(神奈川県大和市・やまとくらぶ)と初期
の普及段階から20回大会までの歩みを振り返る中で「20回終了の節目として、一輪
車草創のパイオニアの記録(文化)を残そう」と決めて、翌日から出稿日まで電話に
よる編集作業が日課となった。
まず、山積されたままの手持ち資料の整理と選択、次に不足している資料の収集
と執筆依頼。難問は日本の一輪車の起源であり、これは先の見えない作業だった
が、二冊の絶版本により詳しく知ることができた。
双方が編集のために共有した資料は1000枚を超え、2006年3月末に出稿。
印刷は、カシヨ株式会社と横山栄二氏の格別なご理解、ご協力を頂いた。
------------------------------≪ 頒布について
頒布について ≫ この本は、世界にも類の無い記録の集積であり、進化
を続ける「全日本一輪車マラソン」の広報には最適の資料となる。
-- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
5月3日・会場 一冊・2300円 -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- 送付は随時受付 一冊・2500円・送料込み tel・fax 026-235-1345 代金は同封の郵便振替用紙にて到着後に振り込み。
---------------------------------------------------------------- 「第21回全日本一輪車マラソン」選手への連絡事項 クランクのサイズを変更した選手は5月3日に文書で永田さんへ提出の事。
Guinness World Records Records への挑戦
への挑戦
ギネス・
ギネス・ワールド・
ワールド・レコーズ (旧・ギネスブック)
ギネスブック)
1
2
3
3
4
5
6
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
16
17
18
19
20
21
遙かなり一輪車
かなり一輪車の
一輪車の記憶(
記憶(渡辺 渡辺 一)
一輪車・
一輪車・創成期年表・
創成期年表・長距離への
長距離への挑戦
への挑戦
100マイル
100マイル(
マイル(160.
160.9344 km)
km) & 100km
100km ランキング
青鉛筆・
青鉛筆・(朝日新聞)、
朝日新聞)、全盲
)、全盲の
全盲の児童も
児童も
やった!ギネス入
ギネス入りだ
ギネス記録
ギネス記録を
記録を更新・
更新・(小池隆行・
小池隆行・広報えびな
広報えびな)
えびな)
やったねギネス
やったねギネス記録更新
ギネス記録更新・
記録更新・(讀賣新聞)
讀賣新聞)
100マイルレース
100マイルレースで
マイルレースで新記録
またまたギネス
またまたギネス100
ギネス100マイルレース
100マイルレース新記録
マイルレース新記録
ビッグウィールの
ビッグウィールの時代到来
明治41
明治41年
鈴木義豊さん・
41年・鈴木義豊さん
さん・一輪車自作
自転車曲乗り
自転車曲乗り図(曲乗り
曲乗り渡世始末帖より
渡世始末帖より)
より)
鈴木義豊さんと
鈴木義豊さんとハルペン
さんとハルペン・
ハルペン・ジャック
想像を
想像を絶する高
する高さへの挑戦
さへの挑戦
日本の
日本の一輪車・
一輪車・一世紀(
一世紀(春遍雀來)
春遍雀來)
超長距離またたび
超長距離またたび奮戦記
またたび奮戦記(
奮戦記(熊谷 淑・
淑・長橋徹宣・
長橋徹宣・沢田 務)
務)
やった!九州一週(
九州一週(沢田 務)
務)
東京から
東京から青森
から青森へ
青森へ800km
800km(
km(狩野隆弘)
狩野隆弘)
富士山頂で
富士山頂で一輪車教室(
一輪車教室(井上定武)
井上定武)
一輪車家族です
一輪車家族です
だれでも乗
だれでも乗れる一輪車
れる一輪車の
一輪車の本(春遍雀來)
春遍雀來)
脱帽ご
夫人パワー
脱帽
ご夫人
パワー
森 保 さん・
さん・1万5000人
5000人の子に一輪車を
一輪車を教えた(
えた(朝日新聞・
朝日新聞・ひと)
ひと)
家族全員です
家族全員です・
です・スポットライト(
スポットライト(渡辺 渡辺 一・中日新聞)
中日新聞)
見たい、
たい、乗りたい一輪車
りたい一輪車
一輪車・
一輪車・北海道の
北海道の創世記(
創世記(千葉知男)
千葉知男)
ウルトラマラソンの
ウルトラマラソンの世界(
世界(有田せいぎ
有田せいぎ)
せいぎ)
資 料 曲乗り渡世始末帖(阿久根厳)、サーカスの歴史(阿久根厳) 、 誰でも乗れる一輪車の本(ハルペン・ジャック)
資 料 日本一輪車クラブニュース、 JUA NEWS ランキングブック(千葉知男)
編集・発行 渡辺 一 協力 小池 行雄
2008年
2008年は “曲乗り
曲乗り100年
100年、競技開始から
競技開始から30
から30年
30年” 渡辺 一 2005年6月
2005年5月4日、第20回全日本一輪車マラソンは初の1時間30分台となる1時間
38分23秒を記録。40分台へ入ってから、この10分短縮に8年が過ぎた。
大会後、「20kmマラソン(ハーフ)のランキングもプログラムに掲載しよう」と提案が
あった。この大会におけるハーフの位置づけはフルへの通過点であり、
42.195km(フル)で活躍する選手は成長途中で一回しか走っておらず、参考程度の
記録なのでプログラムには掲載しなかった。今回、掲載する理由は20回終了の総
括と第九回(1994年)から実施したフリークランクによりハーフはスプリント感覚の距
離になり、今後は単独種目として20kmの最速を狙う選手が育つ可能性があることに
よる。
初参加選手はまずハーフを走ってから、次に42.195km(フル)へ出場できるがフル参加のハード
ルは高い。競技時間は3時間(19回大会から)であり、途中、20kmと33kmで通過タイム規制がある。
20kmランキング作成にあたり1回から14回までの電子データは消滅したので印刷
された記録表を電子データへ変換した。この作業は精細で根気が必要だが15回か
ら記録表を作成している永田博士さんにお願いした。フルは1200件・16頁、ハーフ
は1500件・20頁である。次に、世界的な記録であり、全日本一輪車マラソンの原点となった
「100マイルと100kmの記録」、日本の「一輪車のルーツ」、「一輪車創成期年表」を作成。
100マイル
100マイルと
マイルと100km
100kmの
kmの記録
小池隆行(やまとくらぶ・17歳)が1987年8月9日に宮城県名取市サイクルスポーツ
センターで樹立した100マイル(160.9344 km)の記録、6時間44分21秒(42インチ)は
ギネス・ワールド・レコーズ(旧・ギネスブック)に掲載されている。小池は前年の1986
年、北海道・野幌一輪車クラブ設立5周年を記念して行われたギネス記録会(第四
回100マイル&100km記録会・北海道支笏湖畔サイクルロード・千葉知男主催)の7
時間32分11秒ですでにギネス入りしていたが、その記録を大幅に書き換えたもので
ある。宮城県の記録会はアメリカからタイトル奪還を謳って飛来した元ギネス記録保
持者のフロイド・ビーティ(34歳)が満を持して小池と対決したが終盤で大きく引き離
され、その後の挑戦をあきらめたことにより、現在まで新たな100マイル挑戦者はい
ない。北海道で100マイルと併走して4回行われた100km記録会(規定クランク)は、
先に記した1986年が最後となった。 2006年に21回を迎える全日本一輪車マラソン
42.195kmはこの100kmマラソンを原点として生まれた大会であり、最後の第四回
100km記録会が行われた年に第一回大会を開催した。(67名、2時間26分29秒)
それから20年目となる2006年11月4日、千曲川サイクリング道路でフリークランクに
よる100km記録会を開催する。
時移り、人が変わり、今、走っている少年少女は生まれていない時の壮大な歴史
であり、21回大会のプログラム「長距離の記録」により初めて100kmを知っただろう。
又、往時は全て規定クランク(長いクランク)であり、効率の悪いクランクで良くぞ走っ
たものと感動する。女子は100kmへ中丸美香(やまとくらぶ・13歳)が挑戦している。 小池隆行の世界での実績は1984年・第一回国際一輪車大会(ニューヨーク)・
ジュニアチャンピオン。1986年第二回国際一輪車大会(プエルトリコ)・個人標準演
技部門とペア演技部門のチャンピオン。グループ演技部門2位がある。
一輪車の
一輪車のルーツ(
ルーツ(一輪走行から
一輪走行から一輪車
から一輪車へ
一輪車へ)
一輪走行は自転車初期のダルマ型の時代から遊び心で自然発生的に行われて
いた。近代サーカス以前の見世物興行では「分解型自転車曲乗り」が人気であり、
ハンドルも前輪も取り外して後輪だけで走った。
1908年、明治41年、自転車曲乗りのエルジット(米国、26歳)が現在の形の一輪車
を持って来日した。鈴木義豊さん(16歳)はエルジットの後見をしながら手のひらで寸
法を計り一輪車を自作。十日目に前進、五ヶ月で楽に乗れるようになった。
鈴木さんは明治43年から昭和52年の間に日本の全てのサーカスで一輪車を指導
して、その一輪車92台以上とスター型一輪車4台を作った。八十八歳で木下サーカ
スの曲乗りを指導。「曲乗り渡世始末帖・阿久根厳著」より。
2008年は、日本人・鈴木義豊さんによる一輪車が誕生してから100年、ハルペン・
ジャックの東京横断と一輪車競技会の開催から30年にあたる。
一輪車創成期年表
創成期年表は、「曲乗り渡世始末帖」、「サーカスの歴史」、「誰でも乗れる一輪車
の本、ハルペン・ジャック著」、一輪車クラブニュース、初期のJUA NEWS、個人的資
料、電話取材等により作成した。1980年前後から一輪車に携わった人は、それとな
く感じていたことだが、年表の作成中に北海道の一輪車普及が関東より早かった事
実が見えてきた。北海道の一輪車関係者へ電話で問い合わせると最後は千葉知
男さんへ行き着く。千葉さんは一輪車がきわめて珍しかった頃、すでに北海道で多
数が参加する長距離記録会を開催した一輪車マニアである。1977年・昭和52年に
札幌市の公園で一輪車講習会が行われた。ハルペン・ジャックの東京横断はその
翌年だから、この講習会がいかに早い時期であったかがわかる。
≪
≪ 一輪車・
一輪車・創成期年表 ≫
≫長距離への挑戦 作成・渡辺 一 監修・小池行雄 2005年6月
明治41
1908
鈴木義豊さん(16歳)は来日したエルジット(26歳、米国)の後見をしながら手のひらでクランク
の寸法(4寸・121ミリ)を計り一輪車を自作。十日目に前進、五ヶ月で楽に乗れるようになった。明
治43年から昭和52年の間に日本のサーカス全部の一輪車を指導、その一輪車92台以上とス
ター型一輪車4台を作る。八十八歳で木下サーカスの曲乗りを指導。(曲乗り渡世始末帖より)
昭和16
1941
浅草国際劇場・松竹歌劇団(SKD)・16人が舞台で一輪車に乗り手をつないで十文字に廻った。
1973
米国一輪車協会設立、ビル・ジャネック & ジョン・ジャネック
昭和52
1977
昭和53
1978
北海道札幌市の公園で一輪車講習会
ハルペン・ジャック、一輪車で東京横断。途中、鈴木義豊さん(86歳)と半蔵門前で
曲乗りを披露。スポーツとしての一輪車が大きく報道された。
昭和53
1978 10月
日本一輪車クラブ設立・会長・春遍雀来(ハルペン・ジャック) 。日本一輪車クラブは
米国一輪車協会の日本支部として情報交換や会員の窓口になっている。
昭和53
1978 10月
「誰でも乗れる一輪車の本」発刊、宮田工業(株)・一輪車ミヤタフラミンゴ本格生産開始
昭和53
1978
第一回全日本一輪車競技大会・代々木公園・43名、鈴木義豊さん参加
昭和54
1979
昭和54
1979
2月11日
一輪車で横浜から東京まで40kmを走る(午前6時30分横浜区役所から日本武道館へ) 8名
ハルペン・ジャック、三木隆(東海大)、中戸川正幸、弓場徹(東京芸大)、デビット・ホール(アメ
リカンスクール)、ジャンス・クワイア(同)、後藤尚只(中1)、町隆信(小6)
昭和54
1979
5月25日
鈴木義豊さん、神奈川県大和市青少年会館で一輪車教室
昭和54
1979 6月
日本一輪車クラブ機関紙「JUC NEWS」創刊
昭和54
1979 6月
職域クラブ創立、(大蔵省・印刷局)、(東京・日本航空)、(北海道・自衛隊)、(茅ヶ崎・ミヤタ)
昭和54
1979
7月22日
札幌一輪車クラブ創立・ホテルグランド藤・鈴木兼太郎会長・札幌市南区石山
昭和54
1979
8月28日
第一回全道一輪車大会・27名 昭和54
1979 8月
第八回全米一輪車大会・オハイオ州フインドレイ大学・日本から5名参加
昭和54
1979
10月10日
昭和55
1980
3月24日
湘南海岸でミニマラソン大会開催。 4kmと10km、 60名参加
セム・アブラハム(17歳・南米)は両親と来日して高さ21.6mの一輪車で7m32cmを
走った。一輪車の重量は636kg・日本大学試験場路(習志野市)
昭和55
1980 5月4日 100マイル記録会・埼玉県森林公園自転車道路、ハルペン・ジャック
昭和55
1980 5月
大和市民まつりパレード参加(やまとくらぶ・湘南・平塚) 60名
昭和55
1980 8月
第九回全米一輪車大会に日本から13名参加・団体総合優勝
昭和55
1980 8月
警察大学校で一輪車採用
昭和55
1980
9月15日
昭和55
1980
10月12日
第一回100km記録会・北海道豊平川サイクルロード・野幌町、15名参加・千葉知男
第二回全日本一輪車連盟競技大会・修善寺町・日本サイクルスポーツセンター
鈴木義豊さん会長として出席
昭和55
1980
11月21日
スティーブ・マックピーク(アメリカ)は高さ30mの一輪車で130mの円周を乗った。
昭和56
1981
2月22日
第一回栃木県烏山町一輪車大会・160名参加・滝一美(向田小学校長)
昭和56
1981
4月19日
第一回名古屋一輪車大会・千種区平和公園南広場。150名参加・林弓男
昭和56
1981
夏
富士山頂で一輪車に乗る・井上定武(27歳・愛媛県)
昭和56
1981
夏
パレード参加・八王子・大阪・名古屋・清水・千葉・高松・春日井市
6月18日
11月12日
全日本一輪車連盟設立(スポーツサイクル・八団体参加)・会長・鈴木義豊
昭和56
1981 7月
日本一輪車協会へ改称・理事長・前田充明、会員2000名、62支部、全国100校で一輪車採用
昭和57
1982
第一回千葉県一輪車大会・松戸敏雄
昭和57
1982 6月6日 第一回大阪一輪車大会・220名参加
昭和57
1982
昭和57
1982 8月7日 国際一輪車連盟創立・ハルペン・ジャックが数年間に渡り各国を回って設立を呼びかけた。初代理事長はハルペン・ジャック。
昭和57
1982 8月7日 第十回全米一輪車大会・日本から10名参加
昭和57
1982
9月15日
第二回100マイル&100km記録会・北海道豊平川サイクルロード・野幌町、千葉知男
昭和57
1982
10月10日
運動会で全盲児童十数名が一輪車に乗る・筑波大学付属盲学校小学部
昭和57
1982
10月24日
第一回伊東一輪車大会・田中友仁
昭和58
1983 8月
国際夏季スペシャルオリンピック・神奈川県伊勢原養護学校生徒19名参加
昭和58
1983 11月
第一回指導員講習会、技術認定会開催
昭和59
1984
5月20日
昭和59
1984
7月28日
第一回室内一輪車競技大会・船橋市・読売文化センター体育館
第一回世界一輪車大会・ニューヨーク・シュラキューズ。車輪が世界一大きい64イ
ンチのビッグウィールをスェーデンのヨハン氏が乗る。日本から19名参加
昭和59
1984
9月15日
昭和60
1985 9月9日 第一回平塚一輪車競技大会・半田精司
昭和61
世界初・第一回全日本一輪車フルマラソン大会・長野県・渡辺 一 1986 5月4日
昭和61
1986 8月3日 全日本一輪車競技大会・江戸川陸上競技場へ
昭和61
1986 8月3日 北海道・第一回中標津フルマラソン大会・完走47名
昭和61
1986
昭和61
1986 10月
大和市スポーツセンター一輪車教室開始・年四回・一回60人・延4620人・2005年継続中
昭和62
1987
第三回国際一輪車競技東京大会 7月31日,8月1日、8月2日
昭和62
1987 8月9日
1月31日
7月~9月
超長距離またたび奮戦記、 熊谷淑・300km、 長橋徹宣・780km、 澤田務・九州一週
第三回100マイル&100km記録会・北海道豊平川サイクルロード・野幌町、39名参加・千葉知男
2時間26分29秒
参加選手 42.195km 64名、 10km 126名
9月16日
7月31日
第四回100マイル&100km記録会・北海道支笏湖畔サイクルロード・千葉知男 13名
100マイル記録会・宮城県名取市サイクルスポーツセンター
小池隆行(やまとくらぶ)・世界記録樹立・6時間44分21秒・ギネスブック掲載
フロイド・ビーティ(米国)、日本選手5名、内1名リタイヤ
昭和62
1987
11月5日
第一回船橋一輪車競技大会・斉藤市太郎
平成1 1989 7月
社団法人日本一輪車協会の設立許可
平成1 1989 7月
小学校指導書・体育編三・四年生の基本の運動領域の用具を操作する運動に一輪車が例示される
平成2 1990 5月4日
第五回全日本一輪車マラソン・長野県・記録的暴風雨の中で決行。2時間22分58秒
42.195km完走94名、リタイヤ5名。 20km完走91名、リタイヤ3名。
平成3 1991 8月9日
東京から青森へ・800km・12日間、 狩野隆弘(19歳・大学1年)
平成6 1994 5月4日
第 九 回全日本一輪車マラソン・フリークランクへ移行・長野県
平成9 1997
第一回やまと一輪車競技大会・全種目フリークランク・大和市スポーツ振興公社
11月23日
平成17
2005 5月4日 第二十回全日本一輪車マラソン・長野県・渡辺 一
平成17
2005
2時間08分33秒
1時間38分23秒
全日本一輪車マラソンのプログラム・1回からの全巻は国会図書館へ収蔵。
分類記号 ZF21、請求記号 z7b607、ID:101760
ギネス・
ギネス・ワールド・
ワールド・レコーズ(
レコーズ(ギネスブック)
ギネスブック)への挑戦
への挑戦・
挑戦・Guinness World Records
100マイル
100マイル(
マイル(160.
160.9344km
9344km)
km)
車輪サイズ
M-X -42
参考記録
**
記 録
12:50:00
1980年5月4日 埼玉県森林公園自転車道路
M-X -42
11:26:07
埼玉県森林公園
M-X -42
11:27:10
埼玉県森林公園
M-X -42
11:42:14
埼玉県森林公園
一輪車長距離の
一輪車長距離の記録
氏
名
年 齢 所
従来の記録 R・ウィリアムス
アメリカ
1980/5/4
1980/5/4
1980/5/4
ハルペン・ジャック
深沢 鋭多
井上 定武
1982年9月15日 札幌豊平川サイクリングロード
M-X -42
12:25:20
1982/9/15 漆山 栄 札幌豊平川
33
12
27
属
東京都
東京都
大阪府
第二回一輪車記録挑戦会
53 北海道・札幌市
1984年9月15日 札幌豊平川サイクリングロード 第三回一輪車記録挑戦会
M-X -42
11:34:35
1985/9/15 和田 謙一
17 北海道・江別市
札幌豊平川
1986年9月15日 北海道支笏湖畔サイクルロード 朝5時30分スタート 第四回一輪車記録挑戦会
M-X -42
7:49:12
1986/9/16 小池 隆行
16 やまとくらぶ
北海道支笏湖畔
M-X -42
9:36:12
1986/9/16 半田 義明
13 神奈川・平 塚
北海道支笏湖畔
M-X -42
9:51:58
1986/9/16 井上 定武
32 大阪府
北海道支笏湖畔
M-X -42
10:55:30
1986/9/16 佐藤 真吾
19 北海道
参考記録
M-X -42
**
7:53:53
フロイド・ビューティ 33 アメリカ
参考記録
M-X -42
**
9:20:53
ジョニー・セバリン
アメリカ
北海道支笏湖畔
1987年8月9日 宮城県名取市サイクルスポーツセンター
M-X -42 ギネス
6:44:21
1987/8/9
宮城県名取市
M-X -42
6:59:10
1987/8/9
宮城県名取市
M-X -42
7:33:05
1987/8/9
宮城県名取市
M-X -42
7:42:42
1987/8/9
宮城県名取市
M-X -42
9:58:52
1987/8/9
宮城県名取市
小池 小池 隆行
17
やまとくらぶ
フロイド・ビューティ
半田 義明
小池 茂
石井 秀雄
34
15
14
12
アメリカ
神奈川・平 塚
やまとくらぶ
神奈川・湘 南
100km
100km クランクは、「 24インチ・125ミリ」、「20インチ・112ミリ」 を使用している
1982/9/15 札幌豊平川サイクリングロード M-X -20
9:36:24
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -20
10:32:40
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -20
11:49:18
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -20
13:08:19
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -27
9:50:40
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -27
8:24:51
1982/9/15
札幌豊平川
M-X -24
10:05:40
1982/9/15
札幌豊平川
第二回一輪車記録挑戦会
浅野目 憲良
10 北海道・札幌市
帯刀 貴
11 北海道・江別市
小野寺 敦
11 北海道・江別市
佐藤 真司
10 北海道・江別市
漆山 栄
51 北海道・札幌市
和田 謙一
15 北海道・江別市
福田 三郎
11 北海道・江別市
1984/9/15 札幌豊平川サイクリングロード
第三回一輪車記録挑戦会
M-X -24
8:49:38
1985/9/15 浅野目 憲良
14 北海道・札幌市
札幌豊平川
1986年9月16日 北海道支笏湖畔サイクルロード M-X -24
7:32:09
1986/9/16
北海道支笏湖畔
M-X -20
7:32:11
1986/9/16
北海道支笏湖畔
M-X -20
8:14:36
1986/9/16
北海道支笏湖畔
M-X -24
8:38:00
1986/9/16
北海道支笏湖畔
W-X -24
女子
80km
1986/9/16
北海道支笏湖畔
M-X -27
7:54:31
1986/9/16
北海道支笏湖畔
第四回一輪車記録挑戦会
半田 秀明
11 神奈川・平 塚
小池 茂
12 やまとくらぶ
加藤 雄一郎
10 神奈川・湘 南
芝崎 一夫
53 東京都
中丸 美香
13 やまとくらぶ
福田 剛
16 北海道・江別市
M-X -20
**
14:00:00
1979/8/30 石川 晴夫
20 北海道・美 幌
美幌 ←→ 原生花園 往復 50km × 2=100km
一輪車を始めて一ヶ月半の練習で8月30日、100kmにチャレンジ。朝6時半に美幌をスタート
10時10分に網走へ到着。20分休憩。 1時10分原生花園着、10分休憩。網走着4時20分。20分休憩。
ここから来た道を引き返して美幌へ向け出発、20時美幌着・14時間のチャレンジが終わった。
参考記録
100マイル
100マイル(
マイル(160.
60.9344 km) km) ランキング
記録会開催地
宮城県名取市
宮城県名取市
宮城県名取市
宮城県名取市
参考記録
北海道支笏湖畔
宮城県名取市
北海道支笏湖畔
埼玉県森林公園
埼玉県森林公園
札幌豊平川
札幌豊平川
従来の記録
記
車輪サイズ
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
-42
ギネス
録
6:44:21
6:59:10
7:33:05
7:42:42
9:20:53
9:51:58
9:58:52
10:55:30
11:26:07
11:27:10
11:34:35
12:25:20
12:50:00
氏
1987/8/09
1987/8/09
1987/8/09
1987/8/09
名
小池 隆行
フロイド ビューティ
半田 義明
小池 茂
ジョニー セバリン
1986/9/16 井上 定武
1987/8/09 石井 秀雄
1986/9/16 佐藤 真吾
1980/5/04 ハルペン・ジャック
1980/5/04 深沢 鋭多
1985/9/15 和田 謙一
1982/9/15 漆山 栄 従来の記録 R ウィリアムス
2005 2005 作成
年 齢
所
17
34
15
14
32
12
19
33
12
17
53
100km
100km 20
20インチ
20インチ ランキング クランクは112ミリ
記録会開催地
北海道支笏湖畔
北海道支笏湖畔
札幌豊平川
札幌豊平川
札幌豊平川
札幌豊平川
記
録
7:32:11
8:14:36
9:36:24
10:32:40
11:49:18
13:08:19
車輪サイズ
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
M-X
-20
-20
-20
-20
-20
-20
記録会開催地
氏
名
小池 茂
加藤 雄一郎
浅野目 憲良
帯刀 貴
小野寺 敦
佐藤 真司
年 齢
12
10
10
11
11
10
所
属
やまとくらぶ
神奈川・湘 南
北海道・札幌市
北海道・江別市
北海道・江別市
北海道・江別市
1986/9/16
1986/9/16
1985/9/15
1982/9/15
1986/9/15
氏
名
半田 秀明
芝崎 一夫
浅野目 憲良
福田 三郎
中丸 美香
年 齢
11
53
14
11
13
所
属
神奈川・平 塚
東京都
北海道・札幌市
北海道・江別市
やまとくらぶ
北海道支笏湖畔
札幌豊平川
札幌豊平川
北海道支笏湖畔
1986/9/16
1982/9/15
1982/9/15
氏
名
福田 剛
和田 謙一
漆山 栄
年 齢
所
属
16
北海道・江別市
15
北海道・江別市
51
北海道・札幌市
記
車輪サイズ
M-X
M-X
M-X
M-X
W-X
-24
-24
-24
-24
-24
女子
録
7:32:09
8:38:00
8:49:38
10:05:40
80km
やまとくらぶ
アメリカ
神奈川・平 塚
やまとくらぶ
アメリカ
大阪府
神奈川・湘 南
北海道
東京都
東京都
北海道・江別市
北海道・札幌市
アメリカ
1986/9/16
1986/9/16
1982/9/15
1982/9/15
1982/9/15
1982/9/15
100km
100km 24
24インチ
24インチ ランキング クランクは125ミリ
北海道支笏湖畔
属
100km
100km 27
27インチ
27インチ ランキング
記録会開催地
北海道支笏湖畔
札幌豊平川
札幌豊平川
車輪サイズ
M-X -27
M-X -27
M-X -27
記
録
7:54:31
8:24:51
9:50:40
明治41
明治41年
41年(1908) 1908) 鈴木義豊
) 鈴木義豊さん
鈴木義豊さん・
さん・一輪車自作 一輪車自作 文と画・「曲乗り
曲乗り渡世始末帖」
渡世始末帖」より
・・・・・中国・上海でエルジットの自転車曲乗を見て、弟子入りを志願したが「来年
は日本へ行くよその時に会おう」といわれた。・・・・・
そうこうするうち、さア、エルジットが来たんですよ。新聞広告で見てね。歌舞伎座の
楽屋に早速行ったらエルジットも喜んでね、通訳から、後見をやらしてくれるって、い
われてね。分解車は、ほら上海で見てたんだけどね、エルジット式一輪車てェのは、
日本ではじめてなんですよ。それで、階段を下りる「一輪車階段下り」てェのは、評判
になったねェ。それで、後見たって、あたし、トランク開けて自転車舞台に運んで、終
わるとトランクに入れて鍵かける役で、ただ出したり入れたり、自転車に乗せてもらえる
どころじゃない。通訳に頼んで自転車に乗っけてもらえないかなァーと、エルジットに
話してもらったらね、エルジットがね、「いろんな乗り方ただ見てればいいんだよ、見て
自分で覚える、あーこういうふうに・・・・・」なんていって、やっぱり自転車に乗せてくれ
ないですよ。てんで、乗り方のコツなんて教えてくれない。 実は、あたしはね、真似してこさえてやろうてんで、手のひらで寸法
計ってね、クランクの長さがこうと・・・・・、うちへ帰って物差しで計っ
て・・・・・あアー四寸だなんてね。ホークの長さは・・・・・、サドルのこさ
え方とか・・・・・、分解車でも一輪車でも、寸法取っちゃってね。後見
で、地方にもついてって、何ヶ所だったかなア、二ヶ月ばかりして別れ
て、一輪車こさえたんですよ。その時分、こしらえるの骨だったねェ。
これがね、あたしが一輪車に乗るきっかけなんですよ。
まア、こしらえたものの、どうやって乗るか、コツがわからない。通りの
立木につかまり、足を前後してると中心がとれる。ひと足ペダルを踏ん
じゃァ、中心とり・・・・・一つ一つ区切りをつけながら、ひっくり返って向
こうずね傷だらけ・・・・・。十日目、やっとヒョロヒョロ前進出来たね。
まア、楽に乗れるようになったのは、五ヶ月ぐらいかかったよ。
鈴木義豊さん(16歳)は来日
したエルジット(26歳・米国)の
後見をしながら手のひらでク
ランクの寸法(4寸・121ミリ)を
計り一輪車を自作。
十日目に前進、五ヶ月で楽に
乗れるようになった。明治43
年から昭和52年の間に日本
のサーカス全部の一輪車を指
導、その一輪車92台以上とス
ター型一輪車4台を作る。
八十八歳で木下サーカスの
曲乗りを指導。
一輪車青年の名は春遍雀
来氏、三十一歳、とても滞日
四年半、独学で習得した日本
語とは思えない話ぶりで東京
の地理にも詳しい。
半蔵門前でテレビ1社、雑誌
数社、新聞1社が取材の輪をつ
くる。ここで本邦一輪車の草分
け鈴木義豊さん(86)と、その弟
子で若手随一のプロ、山本猛さ
ん(26)が合流して曲乗、三人
の競演などを公開した
自転車も明治末になって、舶来もの全盛から、よう
やく国産車の生産が軌道にのりはじめたのである。自
転車の普及期をむかえて、自転車曲乗りは、時代の
先端をいく曲芸の一つであったといえよう。
・・・・・自転車曲乗りがしめる当時の花形ぶりをうか
がうことが出来る。「安藤さんが乗った大スターてェの
は、この時はずいぶん長いよ。車輪は24インチ、そ
の上からサドルまで9尺もあるんだもの。
それで上乗りのっけて、立ってさ、それでこんだ
ァ、肩車にさしといて、ドォーンとうしろに降りるんだ
よ、だから、何時も、踵の骨がどうかしちゃってんだよ」
(曲乗り渡世始末帖より)
日本の一輪車・一世紀 2005年8月19日記 春遍雀來(ハルペン・ジャック)
日本一輪車協会常務理事
国際一輪車連盟元会長
日本に於ける一輪車に関する最も古い記録は明治41年(1908年)である。
今や日本は世界有数の一輪車大国であるが、決して、或る日突然この隆盛がも
たらされたわけではないことを肝に銘じたい。日本に於ける一輪車の歴史、特にそ
の創世紀について稿を起こしてみる。
元祖・
元祖・日本の
日本の一輪車
自転車を見かける事すらまだ珍しかった明治末期の1908年(明治41年)、来日し
たエルジットの一輪車を目にした鈴木義豊氏は、非常に興味を惹かれ、こっそり指
で寸法を測って、見よう見真似で日本初の一輪車をこしらえた。日本に於ける一輪
車の元祖である。鎌倉の御自宅を訪問した折に交換した古い名刺には、「日本曲乗
クラブ」、そして「自転車オートバイ曲技・サイクルサッカー教室」と肩書きが並んでい
る。この時、日本最古の手作り一輪車を見せてもらって、我が目で歴史を確かめた
感激を私はよく覚えている。
鈴木義豊氏に続く日本の一輪車スポーツの開拓者の中に、大木菊華氏が挙げ
られる。名刺には「宮田工業嘱託、水戸少年サイクル競技会」の肩書がある。私は
水戸のデパートへ行き、大木氏の一輪車のデモンストレーションを見て、大きな興味
を抱いた。鈴木氏は、日本各地を回って一輪車の乗り方を指導していたが、当時の
一輪車は、サーカスの曲芸、或いはキャバレー等でショーのような形の見世物として
70年余りに亘って続いてきた。これが一輪車の歴史の第一期である。
スポーツ一輪車
スポーツ一輪車・
一輪車・元年
その後、70年を経た1978年(昭和53年)は、日本に於ける一輪車スポーツの元年
である。1973年に来日した私は、その頃外国人のための日本語学習書「新漢英字
典」の編纂に着手したものの、資金的に行きづまっていた。東京練馬区の石神井公
園に近い団地に住んで、講演や執筆に当たっていたが、或る朝目覚めて、ふと理
由もなく、一輪車の姿が頭に浮かんだ。そして無性に一輪車に乗ってみたくなった
たまたま私のスケートボードが壊れてしまったのも、一輪車を始める直接的なきっ
かけと言える。私、春遍雀来(ハルペン・ジャック)と一輪車との「長いお付き合い」の
始まりであった。とは言え、遥か以前に見たことはあるものの、どのようにして乗れば
よいのかまったく分からない。図書館へ行き、当時世界で唯一の一輪車の本であっ
た「The Unicycle Book」(ジャック・ワイリー著)を探し出し、苦心して手に入れた。
私は、たちまち夢中になり自己流ながらどうにか乗れるようになった。気が付くと、
石神井公園団地の子供達2、3人に教え始めていた。そして、この一輪車を使って
何か「凄い事」をやってみたいと考えて、思いついたのが「一輪車で東京横断」だっ
た。多数のマスコミが押しかけて、一輪車が大々的に宣伝され、多くの人々が太陽
の下で一輪車を見る初めての機会となった。
この「東京横断」がきっかけとなって、私が会長となり「日本一輪車クラブ(JUC)」
を創設するに至った。副会長は弓場徹氏と決まった。その後1981年までの間、私は
JUCのフルタイムスタッフのように、一輪車普及に専念した。数えられないほどのイン
タビューに応じ、テレビ出演や雑誌・新聞への投稿等の普及活動に明け暮れた。
この名称決定について、先ず「東京一輪車クラブ」の案が出た。
「日本一輪車クラブ」ではあまりにも話が大きいと、始めは一笑に付していたの
が、夢は大きく持とうと「日本」の名を冠したのである。今では、この「日本一輪車クラ
ブ」の名は間違っていなかったと悦に入っている。
初期の
初期の一輪車大会
この年に「日本一輪車競技会」もスタートした。第1回日本一輪車競技会は1978年
11月、会場は代々木公園。と言ってもこれは無届けで100台の一輪車で集まって楽
しんでいた、大会と呼ぶより言わば一輪車お楽しみ会のようなこじんまりした集いで
あった。一輪車元祖の鈴木義豊さんや息子さんも参加して、今となっては楽しい思
い出になっている。
1979年夏に「日本一輪車クラブ会報(JUC News)」が創刊された。当時私は編集
長を務めて自分で記事を書いていた。これもスポーツとしての一輪車普及活動の一
環である。今ではすっかり変色したその創刊号が残っている。以下に1979年の第2
回全国一輪車大会の記事の一部を引用する。
「5月20日(日)東京の空は抜けるように青かった。晴海、東京国際貿易センター
では日本一輪車クラブ(JUC)主催の一輪車大イベントが行われました。午前11時、
友情出演の城西大学吹奏楽部員による軽快なマーチに乗って、ジャック会長と東
海大生の三木隆君が見上げるようなスターに乗って、JUCの旗を掲げて入場する
と、そのあとを参加者全員(約100名)が大小様々の一輪車に乗って入場行進。最
年少者は練馬区立石神井小1年の清島幸子ちゃんと加藤武司君。ともに6歳で乗り
始めてまだ4、5ヶ月ですがその見事な技とかわいさに観衆は拍手かっさい。一方最
年長は87才の鈴木義豊さんで、明治41年、日本で初めて一輪車に乗った人。 ・・・・・ 中略 ・・・・・ 初めての試みだけに最初は緊張ぎみだった主催側も参加者も
次第にうちとけ、その盛況を喜び、次回の競い合いを約束し合っていた」。
因みに友情出演した城西大学は、この当時早くも一輪車をスポーツとして 正式
に取り上げていた。この大会はレース部門のみで、競技種目も少ないし、現在行わ
ない種目も見られる。競技種目は、50m、100m、200m、250m、1000m、リレー、
補助付き100m、後進50m、 スラローム50m、片足走行50m、スター一輪車50m、
ハンドル一輪車50m、遅乗り10m、次の大会にはカンガルー乗りが加わった。
宮田工業は私達のデザインによる一輪車の製造に乗り出し、やがて宮田のユニ
サイクルは「ミヤタフラミンゴ」の愛称で世界的に最高級品の評判を得るようになる。
一方、宮田工業は品質の良い一輪車の大量生産によって、一輪車スポーツの発展
に大いに貢献する結果となった。
一輪車スポーツ
一輪車スポーツの
スポーツの拡大 拡大
思い出に満ちた1978年には、私、春遍雀来著による「誰でも乗れる一輪車の本」
が発刊され、「ミヤタフラミンゴ」の一輪車にパックとして頒布されるようになった。ビ
ル・ジャネック考案による様々な技を写真や図解入りで紹介したもので、現在に至る
まで一輪車の乗り方教則本として広く参照されている。つまり、30年近くも日本で一
輪車の乗り方の基本となっているもののすべては、ビル・ジャネックを初めとするアメ
リカの先輩達から伝えられたものなのである。
かくして1978年(昭和53年)は一輪車スポーツ史上忘れ得ぬ年となったのである
JUCから
JUCからJUA
からJUAへ
JUAへ
翌1979年には、初めて全米一輪車大会に5人の日本チームが参加した。
1978年にスタートした「全日本一輪車競技会」は、その後10年に亘って毎年東京
で開催され、1980年には国内20ヶ所で地方大会も開かれ、一輪車の日本国内に於
ける普及が進んだ。やがて、財団法人日本宝くじ協会の助成により、文部省の指定
校に一輪車が寄贈されるようになり、スポーツとしての一輪車が広く定着する1981
年、日本一輪車クラブは「日本一輪車協会(JUA)」として生まれ変わる。理事長は
一輪車とは縁の深かった城西大学の元学長で、今は亡き前田充明氏である。氏は
25年の長きに亘りこの職を務めた。
思い出に残る出来事
こうして一輪車の創世記から思い起こしてみると、幾つものエピソードが思い出さ
れる。特に世間の注目を浴びて強く印象に残っているのは「一輪車100マイルマラソ
ン」であり、1980年5月のギネス記録への挑戦である。埼玉県の森林公園において
100マイル(160.9344km)走行し、1977年に樹立されたそれまでの世界記録12時間
50分に挑んだもので、向こう見ずな挑戦者は春遍雀来以下6人。出発時は好天で
あったが、昼過ぎからは強風に邪魔され、3名は残念ながら途中でリタイヤし、完走
したのは3人きりという厳しいレースになった。一位の私は、11時間26分07秒で世界
新記録を1時間半近く更新した。
しかしこの記録は、5年後の1985年9月16日に北海道の大自然の中で、7時間49
分12秒の快記録で、やまとくらぶ(神奈川県・大和市)の小池隆行君が塗りかえた。
小池君は更に87年8月には来日した挑戦者フロイド・ビーティ(米国)を相手に宮城
サイクルスポーツセンターで、自らの記録を大幅に更新して、6時間44分21秒の大
記録を樹立した。その後20年になるが、この記録は未だに破られていない。
ギネス挑戦と言えば、1980年3月来日したセム・アブラハムズは当時最も高い21
mの一輪車を乗りこなし、フロイド・クランダルは日大グランドで100mのスピード記録
を樹立したのも強く記憶に残る出来事である。2つのギネス記録が日本で同時に生
まれたのである。その後、高さ30m以上の一輪車を乗りこなす強者も出現している。
アメリカの
アメリカの一輪車
一方、アメリカに於ける一輪車スポーツの普及活動は日本よりやや早く、1973年
にビル・ジャネック氏が「米国一輪車協会(USA)」を創設した。ビル及び息子のジョ
ン・ジャネック親子を初めとするアメリカの一輪車スポーツ推進者達は日本の一輪車
スポーツ発展に大きく貢献し、日本に刺激を与え続けた。ビル・ジャネックは、USA
創立の10~15年前からアメリカ国内で熱心に一輪車の普及活動を続けていた。私
は渡米する度に一輪車大会の写真を山のように撮って来ては、これらの写真を手
本として新しい技を日本国内に紹介した。日本の一輪車スポーツ界は技のみでなく
演技種目や採点法ルールから大会運営に至るまでアメリカから学んだものである。
国際一輪車連盟と
国際一輪車連盟と国際大会
1980年代初期には、国際的な一輪車機関の設置を望む声が非常に高くなり、私
はこの目的のために「国際一輪車連盟(IUF)」設立の下準備のため世界各国を歴
訪した。そして、遂に1982年6月にIUFは米国の社団法人として誕生したのである。
私は創設以来10年間IUF会長を勤めた後、副会長、国際開発理事を歴任してい
る。私の辞任後に会長となり、世界チャンピオンでもあったジョン・フォスは日本でも
お馴染みだが、このジョン・フォス氏や長年IUFの事務局長として舞台裏を支えたケ
ン・フックス氏の二人とは、IUF創設以前からの盟友である。
「一輪車をオリンピック競技へ!」が創設以来IUFの至上の目標である。このスロ
ーガンは、日本に於いてもJUCからJUAを経て変わる事なく今日まで受け継がれて
いる。2008年の五輪北京大会では、競技種目としてではないが、一輪車が初めて
オリンピックの舞台に登場する見込みである。
日本の一輪車スポーツは、多くを主にアメリカの一輪車仲間達から学んだ。日本
国内のみの一輪車活動を展開するだけでは、進歩も発展も期待できなかった。幸
いにも、日本は早くからIUFに仲間入りして、1年おきに開催される国際一輪車大会
にも多くの選手が参加している。米国で開かれた第1回・2回に続き、第3回国際一
輪車大会は東京で開催された。続く1988年の第4回プエルトリコ大会への日本人チ
ームは40名に達した。役員や関係者のみならず、一般の一輪車愛好者が、夏休み
に家族ぐるみのレジャーを兼ねて海外遠征した初めての大会である。第3回東京大
会に参加した人たちが、外国人選手との交流を楽しみ、大会の意義を認めた何より
の現われと言えよう。特筆すべきは、第6回カナダケベック大会(1992年)である。こ
の大会には日本から100名を越す大選手団を送り込み、日本チームは上位入賞の
殆どを独占した。一輪車大国日本の面目躍如の大会であった。その後も欧米名地
で開催された各大会へ日本チームは多数参加している。
外国で開催される国際大会参加には、日本選手団は毎回、団体ツアーを組んで
参加している。この企画、募集、現地との連絡等の諸事務を私が中心となって、国
際一輪車連盟の日本事務局、つまり私の事務所で代行して来た。加えて、私は毎
回日本チームを引率して赴いた。
中国の
中国の一輪車スポーツ
一輪車スポーツ
中国では元々雑技団の曲芸として独輪車(一輪車)は盛んであった。私は中国語
研修で短期留学して北京の事情にも明るくなっていたので、北京で1992年から
1993年に掛けて「中国独輪車協会(CUA)」設立のために奔走した。CUAは、お国柄
もあろうが、一輪車の国内組織が政府機関の一部として設けられた世界唯一の例
である。そして協会が発足すると、直ちに1993年夏に「万里の長城マラソン大会」を
企画し、私はCUAと共に実行に移した。世界遺産(文化遺産)に登録され、人類史
上最大の建造物と称される万里の長城を一輪車で走る、という壮大な夢が実現され
たのである。
世界の
世界の街角から
街角から
海外出張の折には必ず一輪車を携えて見知らぬ街の一角でデモンストレーショ
ンをする。先ず子供達が寄って来て、やがて人だかりができる。
そして組織作りを企て、協会設立の下準備をする。中国、スウェーデン、シンガポ
ール、ブラジル。街角の子供達との出会いから世界の一輪車が組織化された。
さらなる発展
さらなる発展を
発展を期して
冒頭で述べたように、一輪車スポーツの隆盛は決してある日突然出来上がったも
のではない。高層ビルにも土台の礎石が不可欠であるように、JUA以前に短い期間
ではあったがその土台とも言える日本一輪車クラブ(JUC)の時代(第二期)があり、
更に遡って「一輪車の曲芸」時代(第一期)があり、多才な人々の努力の積み重ね
があってこそ、この輝かしい第三期を迎えられたと言える。一輪車スポーツの今後の
一層の発展のためにも、こうした先駆者達の尽力を声を大にして褒め称えよう。
一輪車スポーツのさらなる発展を期してこの稿を終わる。
一輪車の
狩野隆弘 2005年8月
一輪車の旅 東京から
東京から青森
から青森へ
青森へ 800km
1991年8月1日、天気:晴れ、甲子園の高校野球が開幕した日、午前11:00 東京から青森を目指してスタートした。その日は暑かった。
あまりの暑さに1日延期しようかと昼近くまで真剣に悩んだが観念して出発。スタ
ートした時の感想は、思っていた以上に荷物が重かった事。もう一つは、なぜ自分
がこんな事をしなければならないのだろうと後悔した事。これで青森まで行けるなん
て思ってもいなかった。
この旅は、全日本一輪車大会の100m走決勝の罰ゲームとして悪友たちとの賭け
で始まったのだが、今にして思うと恐ろしい10代の若気の至りだった。
一輪車で日本を旅したら面白いだろうという興味本位から始まり、旅の証拠を残
すためにビデオカメラで進捗状況をテープで郵送・・・と普通なら話だけ盛り上がっ
て終わる筈だが、運命の駄女神は私に降り注ぎ、青森への一輪車旅が決定した。
その当時、私の一輪車マラソン(42.195km)の記録は2時間20分だったので、
1日につき80kmは走れるだろうと思った。朝9時にスタートして午後6時まで走れば
たっぷり9時間もある。しかし安易な目論見は見事に外れて、初日は半分の40km
に終わった。もともと楽観主義だが、さすがに考えが甘いと痛烈に思った。
そもそも10kgの荷物を背負って長い距離を一輪車で走った事がある人は、いるだ
ろうか?。一輪車の場合、10kgの荷物の重みはダイレクトに腰に負担がかかる。
自転車みたいに、どこかに引っ掛けて置くわけにはいかない。結局、腰の疲労を考
えて、1日50kmほどの、のんびりペースで進む事に決めた。
「この旅で1番大変だった事は?」と聞かれると、迷わず『腰が痛かったこと!』と
答える。とにかく腰と尻が痛くてしょうがないので、一日の中で一輪車に乗っている
時間は5~6時間しかない。走るのと同じ時間を費やして腰を労わる必要がある。
峠道なんてもう地獄。これが原因で現在も軽い腰痛を抱えている。
さて、その10kgは、着替えが3日分・洗面用具・地図と筆記用具・シュラフ・ラジオ
といった一般的なものと、 ビデオカメラ・バッテリー×2・充電器。
当時のビデオカメラはでかくて重い。今の手のひらサイズのハンディカメラとは訳が
違う。充電器なんてカメラより重い。わざわざこんな重いもの背負っていく必要もない
のだが、今回の旅のメインはビデオ撮影なので仕方が無い。毎日、愚痴をこぼして
いたものの、コインランドリーで洗濯中に撮影、寝るまで空いた時間に撮影、疲れて
途方に暮れて撮影、となんだかんだ楽しんでいました。バッテリーの充電は、銭湯も
しくはコインランドリーでこっそりと行った。
一日約50km。その日の目標地点は距離で決まるわけではなく、銭湯もしくは温
泉のある場所で宿泊となる。一日の楽しみはなんといっても風呂だ。なにせ一日で
も風呂に入れなかったらリタイヤしてやると思ったほどだ。
温泉で、一番印象に残っているのが、湯温50℃を超える灼熱銭湯(温泉)だっ
た。特徴は天然温泉掛け流しで、水栓が付いていない。体を洗うのも湯に浸かるの
も50℃の熱湯。でも周りの爺さん達は平気で入っている。自分もやせ我慢を通り越
して浸かってみたものの、正気の沙汰じゃなかった。
風呂にも浸かって、近くの食堂で晩飯を食べて、さあ、後は寝るだけ。だいたい午
後の8時くらいを廻ったところで、ようやくその日の寝床探しが始まる。旅館やホテル
に泊まるお金も品性も持ちあわせていないので、いつも野宿です。
初日は春日部の神社のベンチで寝た。夏の真っ盛りで、寝袋なしでも寝むれるの
だが、明け方にわずかな霜が降りてきてあまり心地よくない。次からは橋の真下で寝
る事が多くなった。駅で寝るよりも静かでスペースもあり、綺麗な川が流れる場所な
ら顔も洗える等いいことづくし。
しかし北上を続ける事ラスト4~5日。野宿するにはあまりにも寒すぎる状況に悩
まされる。8月といえど、東北地方、北部山間の早朝は気温10度を切る。屋根と壁
がある所で寝たかったので無人駅の待合小屋によく泊まった。6時くらいに、部活に
通う学生に起こされるのが非常に恥ずかしかった。
一輪車で旅をする人なんてよっぽど珍しかったのだろう(当たり前だが)。道中で
いろいろな人に声を掛けられ、手を振られ、また笑われたりもしたが、たくさんの人
たちに励まされた。
ある日、川原でバーベキューをしているグループから大声援をもらった。その時、
適当に手を振ってやり過ごしたのだが、全員がこっちに駆け寄ってきて、一緒にバ
ーベキューを勧められた。久しぶりにいろんな人達と話をしたり、盛り上がったり。
そのうち誰が自分を泊めてやるかでじゃんけん大会が始まった。
こういう嬉しいハプニングも旅の楽しみなのかなと改めて思ったものだ。
さて、目的地は青森にある豊田児童館というところ。本来であれば出発する時に
相手方に連絡するものだが、なにせスタート時は完走するなんて夢にも思っていな
かった。なんだかんだ苦しんだり楽しんだりで走っているうちに、もう岩手から秋田に
入る頃。さすがに連絡をしなくちゃまずいと思い、到着予定日時だけでも伝える。ゴ
ールした時の事はよく覚えていない。急に立寄った豊田児童館の先生も、いったい
この人は何しに来たのか分からない様子だった。
自分自身、いったい何しに来たのか全く不明だった。すぐに別れを告げ、最終日
だけは民宿にて宿泊。もう二度と走らん、そう誓って終わった一輪車の旅だった。
3年後。なぜか一輪車片手に下関に向かって出発する事になる。今度は罰ゲー
ムでもなんでもない。どうしてまたやる気になったのかは、たぶん楽しいから。
目的地に着くことが楽しいのではなく、目的地までの道中が楽しい。「こればかり
は、やった人間しか分からないだろうなぁ」と下関から横須賀へ700kmを走った。
その後、オーストラリアへ3年間の「ぶらり遊学」を経て、ここしばらくは落ち着いて
いるが・・・・・。
日本で初めて・一輪車の本・著者・春遍雀来
「日本一輪車クラブ」 1978年発行
1982年 第二回 名古屋大会
脱帽、
脱帽、ご夫人パワー
夫人パワー 1983年
1983年10月
10月23日
23日 第二回伊東大会
朝日新聞 2006年1月9日 月曜日 14版 総合 2 (関東)
中日新聞
一輪車
一輪車・
千葉 知男 一輪車・北海道の
北海道の草創記 草創記 2005年11月
江別市・野幌一輪車クラブ
100マイル
100マイル&
マイル&100km
100km記録会
km記録会 記録会
私が一輪車を始めた経緯は、それまで歌を学生時代からやっていて、業界的に
てっぺんまで行ったので(NHKのど自慢出身)、他に興味の湧くものがないかと思っ
てました。そんな時、北海道新聞(1977、昭和52年6月)の通販広告に、ミヤタ一輪
車・20インチ・14800円が掲載されてましたので、好奇心旺盛の自分なので、すぐに
購入しました。
(1976年春、小池行雄、報知新聞の通販広告で購入)
(1978年10月、ミヤタ一輪車・本格生産開始)
毎日、夜の公園で悪戦苦闘 ・・・・ 絶対にこんなもの乗れないと思いつつ二週間
はかかったでしょうか。なんとか、前進できる程度になりました。時同じく、近くに自転
車店があり、中学生の息子さんが少し乗れるとの事でしたので、その息子さんの知
人と3人でフラワーリングなどして楽しんでいました。当時24歳でした。
1978年(昭和53年)10月・日本一輪車クラブ(JUC)が発足して、そのパンフレットに
ハルペン・ジャックが東京都心を一輪車で走っている姿が掲載されていたのを興味
津々で見てました。
1979年(昭和54年)7月・札幌一輪車クラブ結成・鈴木兼太郎会長・グランド藤
1979年(昭和54年)8月・自転車店の親とも仲良くなり、「クラブを作ってみては」と
の事になり、市役所前でデモンストレーションをし、その様子が新聞で取り上げられ
クラブ結成が本格的になりました。これが江別一輪車クラブの誕生です。
1979年(昭和54年)8月30日の新聞記事で、美幌の石川晴夫さんが一輪車を始め
て一ヶ月半の練習で「美幌 ⇔ 原生花園を往復14時間 、50km×2=100km、」を拝
見した次第です。この記事が刺激となって翌年の9月に100km記録会を開催しまし
た。石川さんとは実際に会ってませんが、自衛隊の体育館で一輪車バスケットをし
ている写真を頂いております。
1980年(昭和55年)8月の第二回全道一輪車大会は江別市の商店街ロードを借り
てのものでしたが、道内からの参加者が集まり予想以上の注目を浴びたものです。
1980年(昭和55年)9月15日の大会から、内部分裂して江別一輪車クラブから野幌
一輪車クラブに切り替わってます。江別市内に二つのクラブが存在しました。
以来、札幌での一輪車大会全種目制覇・札幌大通り公園でのデモンストレーシヨ
ン・・・豊平川サイクリングロード散策・・・これらの過程の中で道内でも岩見沢・歌志
内・稚内などで愛好者がいる事がわかり、手当たり次第に電話をかけ仲間の輪を拡
げました。
1980(昭和55年)9月に第一回100km日本記録挑戦会を開催してます。日の出・
日の入り時刻を確認、予想される完走時間を考え、スタートしたのはまだ暗い午前5
時に懐中電灯を持参してのスタートでした。当時は、今のような改良サドルは考案さ
れていませんでしたので、お尻の痛さに皆さん苦労してました。
好奇心旺盛な性格・・・これが当時の自分の性格であるので、他人がやった事は
自分でもやってみたい・・・ただ、単純な発想からそこに『記録』があるならば挑戦し
てみようと言う事でした。日中の暑さも加わり、経験の無い長距離だったものの、大
方が無事ゴールです。
以後、第二回・第三回・第四回と・・・豊平川サイクリングロードで日本記録挑戦会
と世界記録挑戦会を実施したわけですが、この記録会は、開催費用がかなりかかる
ため、2年毎の開催としていました。参加する選手はほとんど常連選手で和田謙一・
福田三郎・福田剛・漆山栄さんでした。当時のメンバーは自分も含め、怖いもの知ら
ずのチャレンジャーが多かった。そこに記録があるから・・・でしたね。
1982年(昭和57年)の第二回。他の選手はゴールしているのに一人の少年がスロ
ーペースなものの、走り続けているのです。タイムリミットを設けていなかったの
で・・・佐藤真司君(小5年)。もの静かな少年なのですがゴールタイムは13時間を超
えてました。このガッツにはびっくりで、終了後は胴上げをしたものです。
豊平川での100マイル世界記録挑戦会は二回やりましたが、当時の世界記録は
フロイド・ビューティ(32歳・米国オハイオ州)の9時間20分53秒でした。
1986年(昭和61年)9月16日の100マイル世界記録挑戦会は野幌一輪車クラブ
発足5周年記念行事として、仙台の大田さん、愛媛の井上定武さん、神奈川の小池
隆行さん、半田義明さん・・・錚々たるメンバーでした。前評判は小池隆行君がギネ
ス記録を塗り変え可能との事でしたが、まさにその通りの走りで記録更新。
テレビ取材をしてくれたプロデューサーに証人になって戴き、大阪にあるギネス
ジャパン(長島茂雄代表)に世界新記録として申請した次第です。世界記録樹立の
念願成就です。翌年、宮城県名取市で同様の大会が開催され、タイトル奪還のた
めに飛来した挑戦者のフロイド・ビューティを小池隆行君が大きく引き離して、6時間
44分21秒と再度、自己の記録を塗り替えたのでびっくりでした。
小池君は100マイル(160.9344km)を一度も一輪車から降りずに走破したのです
が、取材ビデオで見ると他の参加者とは比べ物にならない程の快走ぶりでした。
あと、もう一つの世界記録がありました。一輪車の高さです。ギネスには30mの高
さとありました。神奈川県の小池行雄さんに何度か電話を入れ、札幌豊平川サイクリ
ングロードで野幌一輪車クラブ主催で実施するので、息子さんの小池隆行君に挑
戦してもらおう・・・と何度か電話でお話をしました。実際、自分の住む江別市の重
機を持つ会社社長に話を持っていった事もあります。
結局、30mもの一輪車を作成したとしても、その後の利用がまったく考えられなく
費用も莫大な事もあり断念しています。兎に角、当時の自分は無謀な挑戦をしたが
り人間だったと思います。
1992年(平成4年)に一輪車が文部省学習指導要綱改正で、小学3~4年の体育
授業で用具を操作する部門に採用されたのを覚えています。この年に野幌一輪車
クラブの会員数は104名までに膨れ上がりました。
今は一輪車から身を引いている自分ですが野幌一輪車クラブ当時から『一輪車
全国ランキング表』を発行するようになりました。
これは国内各地で開催されている一輪車の記録が、集計されずに埋もれている
ので、全国各地の大会主催者に電話・手紙などで主旨を理解して頂き、毎年大会
終了後に私の所へ記録表を送ってもらいました。
『一輪車全国ランキング表』は1987年(昭和62年)から1999年(平成11年)まで、1
3回発行した。3号まではB5版、以後はA4版となり最後の13号は80頁である。
13年間、集計しましたが途中からフリークランク部門と駅伝が加わりました。これ
は自費出版だったので、途中から日本一輪車協会にも資金拠出を依頼したものの
認められず13号が最後となりました。
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以下の資料は ★は 質問 ☆は 千葉知男 ★ 歌に熱中したようですが。
☆ 歌については高校(定時制)の4年間、レインボーというグループ(男二人、女性
ボーカル一人)を組み、勉強は一切せず歌ってばかりでした。高校卒業時に地元で
NHKのど自慢があり、参加したらチャンピオンになり、翌年、大阪池田市の全国大
会に北海道代表で参加しました。
翌年、NHK音楽プロデューサーの薦めでNHK軽音楽オーディションに一次・二次
通過で合格しました。当時の審査委員長は、故、藤山一郎先生でノービブラートで
綺麗にはもる・・・という事で褒められました。以来半年、NHKからギャラをもらい道
内各地で歌ってました。途中、相方が蒸発という事態になり、やむなくオーディショ
ン合格を辞退・・・この相方蒸発がなければ今頃は芸能人だったかです。
当時のNHKオーディションは自分たちが受けた前の年に、あの田中義剛が受け
てます。彼が酪農大学時代に千葉は一緒にライブした仲です。また千葉が受けた
翌年には無名時代の松山千春が合格しています。相方蒸発で歌をやめた訳で、そ
の後、何かをする状態になり新聞通販の一輪車が目に止まった訳です。
★ 1979年(昭和54年) 7月、札幌一輪車クラブ結成・鈴木兼太郎会長(札幌市南区
石山)。鈴木会長は何時、一輪車に出会ったのでしょうか。
☆ 鈴木兼太郎会長は札幌スキー連盟の役員をされていたと聞いています。ステン
マルク(スェーデン)が夏の体力トレーニングに一輪車を利用しているとのJUA季刊誌
にありましたが、鈴木さんは一輪車の知識が豊富な方で、当時のラジオ番組の中で
ステンマルクについても詳しく話していました。
鈴木さんが一輪車に乗ってる姿を自分は確認していません。鈴木さんの知人で
渡辺さんという60歳ぐらいの方が主に乗っていて、他の方々に指導していたのを覚
えています。札幌クラブとの連絡もこの渡辺さんとしてました。鈴木さんには札幌で
開催した大会の時や、NUC(野幌一輪車クラブ)で遊びに行った時に会った程度で
す。札幌市南区に『グランド藤』という宿泊施設(温泉)があり、この経営者が鈴木兼
太郎さんです。
この施設内で第一回全道一輪車大会が開催されたのですが、距離競技、片足
走行、障害物(シーソーあり)、バック走行、スラローム、リレーが主でした。一輪車相
撲もありましたね。札幌大会での一輪車相撲は通常の土俵がありましたが、冬でし
たので『雪土俵』上で行いました。一輪車相撲については、その後、全国系のテレ
ビ番組でスタジオ内で本州のマニアが集って開催されているのを記憶しています。
ホッピング、組み合ってからのバック・・・意外と楽しいものでした。
演技系は各支部のデモンストレーションがありました。北海道でタイヤ乗りを最初
に出来たのは帯広支部の山田さん(30歳代)が江別市の大会で初披露していま
す。
岩見沢での全道大会では静岡から当時の有名人・相羽哲治さんがきて、トップク
ラスの走り、演技を披露してくれてましたね。
★ 札幌一輪車クラブが結成されるには、準備期間があったと思いますが。
☆ 札幌一輪車クラブが発足した事は新聞で拝見しましたので、経緯についてはわ
かりません。ただ、その当時のメンバーは鈴木さんの知人系が多く、病院の院長とか
も居りましたね、実際、自分もその院長とは電話で話しをした事があります。
★ クラブ設立の頃、一輪車に乗れる人は何名。千葉さんの役割は。
☆ 野幌では千葉を含め3人、札幌クラブでは渡辺さんしか居なかったです。
役割というより、北海道内にどれだけ一輪車愛好者がいるのかを協会に聞いた
り、各地の自転車店に電話したりでその数の把握に必死でした。
話は少しずれますが、北海道でビックウィールを最初に購入したのは札幌の漆
山栄さんです。二番目に千葉が大阪・田川自転車店より12万円で購入。その後は
15万円。自分はビックウィールを車に乗せ道内の支部廻りをし、ビックウィールの存
在をPRしてました。美幌・帯広市でビックウィールを購入しています。
★ 100km記録会でフリークランクを採用しなかったのは、なぜ・・・・
☆ これについては、千葉の性格上のものがあります。車に例えれば新車を買った
場合、普通のユーザーであれば車内とか外見を自分なりに装飾しますが、千葉は
それをしない人間なのです。買ったらそのままの状態で次の新車購入まで何も手を
つけずに乗りこなす・・・ですから、規定クランクで大会開催した場合、それに準じて
それを続けるという考え方でした。
確かに小池行雄さんとはフリークランクの件を電話で何度も話した事があり、実際
どの程度の速さ・こぎ心地があるのか?。岩本と二人で豊平川でクランクを交換しな
がら体験走行をした事があり、驚きを覚えた事もありますが・・・。この時の感触として
は向かい風が強い時は走りづらいと感じてました。以上の自分の性格の経緯がある
事から、フリークランクでの大会を実施していません。
今思えば、渡辺一さんや黒崎晴夫さんとも、電話でフリークランクについて沢山話
した事はありましたよね。
★ 演技種目はありましたか。
☆ 一輪車はスポーツ(陸上種目)との考えでした。演技種目で青森とか北海道初山
別とか音更とか・・かなり盛んになっていた時期がありましたが、サーカスのような見
せ物であってはならない・・・と考えていました。当時、小池行雄さんとこの件につい
ても何度も電話で話し合った事はありましたが。
デモンストレーションの一角というのであればいいのですが、本部が躍起になっ
て、これに取り組んでいる事に自分は背を向けていました。
余談・・・小池行雄さんや加藤幸夫さんと知り合ったのが自分の一輪車を続けら
れる架け橋となっています。国内・海外のビデオを何本も送って頂いており、セム・
アブラハムのテクニック、一輪車を逆立ちで乗りまわしているとんでもないテクニシャ
ンの技を見て驚いていました。
小池さんの電話の独特な口癖、『モシモシー!』が今でも懐かしいです。
ウルトラマラソン
ウルトラマラソンの
ウルトラマラソンの世界
http://www.interq.or.jp/world/tabi-run/arita/ultraworld_02.htm 1 マラソン
マラソンの
マラソンの歴史 有田せいぎ
マラソン競走の起源は、紀元前490年、第二ペルシア戦争(マラトン戦争)である。
アテネ攻略をめざして来襲したペルシアの侵略軍を、アテネの将軍ミルティアデ
スがマラトンの野において、一万の将兵を指揮して奇襲作戦で撃退した。
この勝利をアテネに報告するために、伝令として選ばれたのが健脚の誉れ高かっ
たフェイディピデス Pheidippides であった。彼は戦場のマラトンからアテネまで、約4
0キロの道をひた走りに走り続けた。やがて、アテネ城門に到着したフェイディピデス
は待ちかまえていた大勢の市民に、「喜べ、我軍勝てり」と戦勝を告げて、そのまま
卒倒して絶命したという。ギリシア史の有名なエピソード、史実より伝説に近い。
これがマラソン起源の通説だが、伝令フェイディピデスの名については、歴史学
者の間に異説がある。1989年、そのすべてを否定する論証が発表された。IOC
(国際オリンピック委員会)の機関紙「オリンピック・レビュー」1989年7月号に、ギリ
シアにある国際オリンピック・アカデミーの名誉会長、考古学者のクレアンティス・パ
レオロゴス博士が寄稿した「マラソンマン・その歴史的考証」と題する短い論文であ
る。
結論から言えば、あの物語は確かに事実だが伝令兵の名前は全くわからないと
いうのである。博士によると“フェイディピデス”という、すぐれた走力を持った人物は
実在した。彼は兵士ではなくアテネにいた職業的メッセンジャー、飛脚だったとい
う。
ペルシアの大軍が海を渡って攻めてくることを知ったアテネは、スパルタの援軍
を求めるため、かねてから職業的メッセンジャーとして知られていたフェイディピデス
を急使に選んだ。このことは、“歴史の父”と呼ばれたヘロドトス(前5世紀)の大著
『歴史』の第六巻に出てくる。
大命を帯びたフェイディピデスは、アテネからスパルタまで、約250キロの道程
を、野を越え、山を越え、走り続けた。昼夜を問わず走りたかっただろうが、夜は危
険が多すぎるので、当時のすべてのメッセンジャー同様、昼間だけ走った。彼は二
日後、約44時間でスパルタに到着。彼のもたらした援軍の要請に対して、スパルタ
は風習に従い、次の満月の夜まで、軍事行動を起こさなかった。そして次の満月の
日、フェイディピデスは生気を新たに、武装した二千のスパルタ軍を駆け足でアテ
ネへと導いた。三日後にアテネに到着したが、すでにマラトン戦争はアテネ軍大勝
のうちに終わっていたのである。
では、アテネに戦勝をもたらした伝令兵は誰だったのか。ヘロドトスもこの伝令兵
については、全く触れていない。その名前を確定することはできない。パレオロゴス
博士は言う。
「それが誰であろうと、あの伝令兵の勇壮な行動と悲壮な死は、永久に我々の心か
ら消えることはないだろう」
マラソン
マラソン競走
マラソン競走の
競走の誕生
1894年、アテネで第1回近代オリンピック開催の準備を進めていたピエール・ド・
クーベルタン男爵 Pirre DE COUBERTIN に、ソルボンヌ大学の言語学者、ミシェ
ル・ブレアル教授 Michel BREAL がギリシア史に関係の深いフェイディピデスの悲
壮な物語を記念して、オリンピック種目にマラトンの古戦場からアテネの競技場まで
の長距離走を加えることを提案した。クーベルタンはこの提案を採用して、「マラソ
ン競走 MARATHON 」と名付けた。
1896年4月10日、第1回近代オリンピック・アテネ大会のマラソン競走は、5ヵ国
25名の選手で開催された。コースはマラトンからアテネまでの36.909キロ。1920
年の国際陸連の再計測では36.75キロだった。優勝はギリシアの25歳の青年、ス
ピリドン・ルイス Spiridon LOUIS だった。優勝当時は羊飼い兼郵便配達人と伝えら
れたが、実際はアテネから20キロ離れた村に住む水売りの行商。
オリンピックの発祥の地で復興した第1回近代オリンピックだというのに、開会以
来、ギリシア選手は陸上競技で連戦連敗の惨状であった。ところが、ギリシア人が誇
るマラトン戦争の故事そのままに、ギリシア選手がマラソン競走で優勝しそうだという
ので、競技場は歓喜と興奮のパニック状態。大歓声の中を競技場入りしたルイス
に、ロイヤルボックス前からギリシア皇太子コンスタンチヌス殿下と、国王の弟で審判
長を務めるゲオルギオス親王はゴールまで伴走した。マラソン史上最初の記録は2
時間58分50秒であった。 以後、第2回パリ大会から第7回アントワープ大会まで、
オリンピックのマラソンコースは距離が一定せず、およそ40キロ程度で大会によりま
ちまちであった。
1920年、IAAF(国際陸上競技連盟)は距離の統一を検討。イギリス陸連の提案
を採択して、マラソンの正式距離を42.195キロと決定。1924年、第8回オリンピッ
ク・パリ大会から実施した。
イギリス陸連は、1908年の第4回オリンピック・ロンドン大会のマラソンで、競技中
に起こった劇的な出来事を記念して、末永く語り伝えるようにマラソンの正式距離と
して提案したのだった。その劇的な出来事とは……。
ドランド
ドランド・
ドランド・ピエトリ Dorando PIETRI の悲劇
第4回ロンドン大会のマラソンコースは、ウインザー城を起点に、ロンドン市内ホワ
イトシティ競技場のロイヤルポックス前をゴールとする片道コース、26マイル385ヤ
ード(42.195キロ)であった。
レースは7月24日、午後2時半スタート。16ヵ国56名の参加選手。地元イギリス
のロードとプライスが16キロ過ぎまでリード。やがて南アフリカのヘファーソンが先頭
に立ち、32キロ地点では二位イタリアのピエトリに4分の差をつける。しかし、ピエトリ
はこのあたりからジリジリと追い上げて、ついに41キロでトップに出る。ところがペー
スアップの無理がたたり、彼の走りには疲労の色がにじむ。後方からアメリカのヘイ
ズが、堅実なペースでピエトリを射程距離にとらえようと力走する。
競技場に入ったピエトリは疲労困憊でよろめいてゴールの方向を間違える。あわ
てた役員が正しい方向に変えさせるが、ピエトリはますますよろめいて、ついに倒れ
る。満場騒然とする中、救急箱を持った医師が数人の役員とともに駆けつけ、ピエト
リを介抱する。助け起こされたピエトリは、十歩進んでは倒れ、また立ち上がってふ
らふらと足を運ぶ。まわりには役員と警官が付き添い、まるで夢遊病者のようなピエ
トリに手を貸して、やっとのことでゴールテープを切らせた。時間は2時間54分46
秒。ゴールすると気を失ったピエトリは担架で運び出された。医師が介抱し、役員が
手が貸したのだから、当然ピエトリは失格である。その優勝は記録とともに抹消され
ることになった。繰り上げ優勝者ジョン・ヘイズ John HAYES は、2時間55分19秒
であった。
命を賭けたピエトリの力走に感激して、アレキサンドラ皇后は特別に金杯を送り、
また競技役員だった小説家コナン・ドイルは役員から寄付金を募り、“シーロック・ホ
ームズより”と彫り込んだ金のシガレットケースとともにピエトリに贈った。
マラソン世界最高記録
男子 2時間05分42秒 Khalid KHANNOUCHI
MAR
女子 2時間18分47秒 Catherine NDEREBA KEN
1999年10月24日
2001年10月 7日
マラソン日本最高記録
男子 2時間06分51秒 藤田淳史 2000年12月3日
女子 2時間19分46秒 高橋尚子 2001年9月30日
2 ウルトラマラソン
ウルトラマラソンとは
ウルトラマラソンとは何
とは何か 有田せいぎ
ウルトラマラソンは超長距離走と訳すが、競技距離はどこからウルトラマラソンに
なるのか。
言葉の上では、マラソンより長い距離はウルトラマラソンということになる。しかし、
42.195キロを超えた50キロや60キロでは、ウルトラマラソンというよりもマラソンに
近い。ウルトラマラソンと言えば、ふつうマラソンの二倍の距離(84.39キロ)以上を
意味する。あるいは50マイル(80.46キロ)以上としてもよい。また時間走では、6
時間走以上をウルトラマラソンとする。国際陸連はウルトラマラソンのスタンダードと
して、100キロを公認している。
ウルトラマラソンの歴史は、17世紀まで遡ることができる。
古代ローマ以後、歴史の表面から姿を消していたランニングは、17世紀後半のイ
ギリスで、以前とは姿を異にして復活する。
チャールズ二世(在位1660~1685)の時代に、イギリス貴族の間で、互いにお
抱えの馬丁を道路で競走させ、これに金を賭けて楽しむことが流行した。当時は道
路事情が悪く、馬車に乗って旅行する貴族たちは、競って健脚の馬丁を雇い、馬
車の行く道を整理させたり、休憩や宿泊の設営をするために、次の到着地に先回り
させたりした。脚の速い馬丁を抱えていることは自慢の種だった。また荘園の領主
は、はるかに速く伝言を伝える能力のある馬丁を雇っていることを誇っていた。“走
る馬丁 footman”と呼ばれたこれらの馬丁たちが最初のプロ運動家となった。
貴族や紳士たちは何事につけても賭けを好んだので、馬丁によるギャンブルレ
ースが発生したのも当然だった。道路を走る長距離レースだったが、貴族はもちろ
ん、沿道で見物する庶民の間でも爆発的に人気が高まり、やがて馬丁だけではな
く、一般の庶民や軍人まで参加するようになり、賞金つきの長距離走がイングランド
全土で異常なブームとなった。
18世紀になると、参加する走者は徒歩競技家 pedestrian と呼ばれる。賞金目当
で競技をするプロの運動選手である。当時のレースは、競走というより競歩のスタイ
ルで、ランニングとウォーキングは血を分けた兄弟であった。19世紀の中期、学生
によるアマチュアの陸上競技が始まるまで、200年近くイギリスの名物になる。そし
て、その人気がピークに達した19世紀の初め、アメリカにも伝わり、イギリス選手を招
いた徒歩競技家ペデストリアンの英米対抗レースが多くのアメリカ人を熱狂させた。
1809年、イギリスで21歳のキャプテン・バークレーが、90マイル(144.8キロ)を
21時間30分で走りかつ歩いて優勝し、5000ポンドという破格の賞金を獲得した。
徒歩競技家ペデストリアンが社会的に絶頂期にあったのは1810年頃まで。その
後、1860年代、産業革命の時代には“賭け競歩”として大都市の労働者階級に大
きな関心がもたれて、それぞれの都市に専用のトラックがあった。そして、ギャンブ
ルレースの究極として、6日間走というウルトラマラソンが開催された。6日間というこ
とになった理由は、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、日曜日は絶対安息日であっ
たためである。
最初の開催は1875年頃。ペデストリアンやウルトラ・ウォーカーたちが挑戦してい
た。まもなく、すぐれたスポーツ・プロモーターで国会議員でもあるジョン・アストリア
卿という、華やかでダイナミックな人物がレースを牛耳るようになる。彼は6日間走を
奨励するためにチャンピオンベルトや賞金を寄付して、ロンドンとニューヨークでレ
ースを組織した。こうして、イギリスとアメリカで盛況になり、多種多様の人々がトラッ
クを走るチャンスを得て、程度の差こそあれ、脚光を浴びることになった。
1880年代後半になると、賭け競歩の人気は急速に低下した。一因に競輪の開
催があったらしい。また、アストリア卿はギャンブル好きという弱点があったため、や
がて「すっからかん」になってしまい、以前のようにレースをプロモートすることができ
なくなった。それでも、1910年代までは物好きなスポーツ・プロモーターのもとに、
散発的に開催されていた。
最近、ウルトラマラソンに挑戦するランナーが増えてきて6日間走はアメリカ、オー
ストラリア、ウクライナ、フランスで再び開催されるようになった。しかし、6日間走の定
期開催は、主催者にとって大きな負担となり、続けることは厳しいのが現状である。
1882年、イギリスのチャールズ・ローエル Charles ROWELL は6日間走におい
て、24時間の途中計事で241.763キロを記録した。やがて20世紀に入り、24時
間の走行距離を競うレースが開催された。24時間走の誕生である。ウルトラマラソン
時間走のスタンダード。
24時間という生活時間を、睡眠や食事も含めて、すべて走ることに費やすことは
単純明快な人間の限界への挑戦である。完全に地球の生活サイクルを超越するこ
とであり、夢である。24時間走の秘められた魅力はそこにある。このレースでは、選
手はトイレや食事、あるいは仮眠のために短時間、小休止する以外、24時間走り続
けるか、歩くしかない。
普通のロードランナーからみれば、ウルトラマラソンの世界は常識をはるかに超え
たランニング世界である。このほかに“ジャーニー・ラン journey run”という世界に挑
戦するランナーがいる。
大陸を横断や縦断したりして、少なくとも1000キロ以上の膨大な距離を走破す
る。一日平均60キロ以上の距離を、砂漠、高地、山岳地帯を含めて、1ヵ月2ヵ月と
走り続ける世界。全力を出して走れば翌日は休養できるという、普通のランナーとは
全く異質のランニングに挑戦している。24時間走以上のウルトラマラソンは生活とと
もに走ることを意味する。競技というよりも人生そのものといえる。
アメリカ大陸横断のジャーニー・ランは、1890年にジョン・エニスが80日と5時間
でニューヨーク・サンフランシスコ間を走破している。やがて、チャールズ・C・パイル
Charles C. PYLEというエネルギッシュで自信満々のプロモーターが「アメリカ合衆国
横断レース」を企画。1928年3月4日、優勝賞金2万5000ドルの大金の魅力にひ
かれて、ロサンゼルス、アスコット・スピードウェイのスタートラインに集まったのは、11
9名のランナー。ニューヨークまで全長5507キロ、ウルトラマラソンの歴史の中で最
大級の本格的なフットレースであった。
ランナーのほかに女優、ボードビリアン、ミュージシャンなどを引き連れて毎日ラ
ンニングの「区間」ごとに余興のショーを行なうものであった。一区間は経由する町と
町との距離によってさまざまだが、ふつう64キロから97キロであった。ランナーは走
り終えると先行隊が設営したテントで休む。すると、夕方から別の大テントでショーが
始まり、地元の人々が見物にやってくる、という旅興行。完走者は55名、優勝は20
歳のアンディ・ペインAndy PAYNE であった。翌1929年、今度はニューヨークのコロ
ンブス広場をスタート、カリフォルニア州ロングビーチまで5898キロの復路レースが
開催された。優勝はジョニー・サロ Johnny SALO通算525時間57分20秒だった。
1992年、アメリカ大陸横断レース
「トランス・アメリカ・フットレース TRANS AMERICA FOOTRACE」が復活した。ロサ
ンゼルス郊外ハンチントンビーチをスタート。一日平均74キロのペースでニューヨー
ク・セントラルパークまで、4725キロを64日間で走破するジャーニー・ランのステー
ジ・レースである。
ウルトラマラソン世界最古の定期的なレースは、南アフリカのコムラッズ・マラソン COMRADES MARATHON である。大会名称はレースのアイデアを思いついたヴィ
ク・クラパスが所属していた“大戦戦友会 Comrades of Great War”に由来する。距
離は約90キロ。ダーバンからスタートする“上り”コースは偶数年、ピーターマリッツ
バーグからスタートする“下り”コースは奇数年と、毎年交互に繰り返している。第二
次世界大戦中を除いて、1921年から毎年開催しており、現在は一万三千人以上
が参加する南アフリカの国民的行事である。
2000年6月16日(南アフリカの国民の祝日)、コムラッズ・マラソンは第75回記
念大会を迎え、制限時間を1時間延長して12時間としたため、二万二千人が参加
した。“近代ウルトラマラソンの父”と称えられたアーサー・ニュートン Arthur
NEWTON は、第1回コムラッズ・マラソンで優勝して、ウルトラマラソンの世界にデ
ビューした。彼は1927年の大会で五度目の優勝を果たした(1922年不参加、19
26年第二位)。ニュートンは1931年、24時間走において245・113キロの世界記
録を樹立、以後22年間破られなかった。
ウルトラマラソンの世界統一組織、国際ウルトラランナーズ協会IAU
(International Association of Ultrarunners)は、イギリスのロンドンに本部を置き、ウ
ルトラマラソンの世界的な普及を目的に、100キロのワールド・チャレンジ、24時間
走のヨーロッパ選手権などを総括している。また、3ヵ月ごとに「ニュース・レター」を
発行して、世界のウルトラマラソンの情報と記録を掲載している。
1994年6月26日、第9回サロマ湖100キロレースは、「第8回IAU100キロ ワ
ールド・チャレンジ(国際陸連後援)」の世界選手権を兼ねて、北海道で開催され
た。サロマ湖の北西、湧別(ゆうべつ)町スタート、国道238号線、佐呂間町を通り、
常呂(ところ)町ゴール。海外からの104名を含む参加者1761名は日本では最大
規模のウルトラマラソン。
また1998年IAU100キロ ワールド・チャレンジは10月18日、第5回四万十川
(しまんとがわ)100キロレースで開催された。台風10号の接近で開催が危ぶまれ
たが、台風が外れたため、30分遅れのスタートで1298名が参加した。高知県中村
市スタート・ゴール、四万十川を溯る高低差600メートルのコース。サロマ湖100キロ
と並ぶ日本最大級のウルトラマラソンである。
1998年6月21日、第13回サロマ湖100キロレースにおいて、
砂田貴裕は6時間13分33秒の世界最高記録を樹立した。彼のマラソン・ベスト記
録は2時間10分08秒。
また2000年6月25日、第15回サロマ湖100キロレースでは、安部友恵が6時間
33分11秒の女子世界最高記録を記録した。
彼女のマラソン・ベスト記録は2時間26分09秒である。
3 ウルトラマラソン
ウルトラマラソンの
ウルトラマラソンの魅力 有田せいぎ
あらゆるスポーツは、競技者を虜(とりこ)にして離さない魅力と、観衆の心を動か
し楽しませる魅力とを兼ね備えている。その魅力のために、より深くひきつけられ
て、一層熱心にかかわる競技者や愛好者がいる。その魅力とは何か、一言では到
底表現できない。しかし、あらゆるスポーツにはそれぞれの魅力が確かに存在して
いる。
一般人には驚異のように感じるウルトラマラソンにしても同じである。普通のロード
ランナーが唖然としたり呆然としたりするウルトラランナーにも、それぞれに挑戦しよ
うとする魅力が存在している。興味深い大会やコース、勇気ある挑戦者や完走者の
情報に、好奇心をくすぐられ刺激されて、日々挑戦意欲を募らせて、そのまま単純
に実行したランナー、あるいは用意周到に準備して挑戦したランナーの中に深く秘
められている。
人間は自分というささやかな存在の本当の限界を覗いてみたいという衝動を、身
体のどこかに隠し持っている。限界や可能性への挑戦意欲は人間の本能の一部分
である。未知の領域に挑戦することはとても魅力的であると同時に、ひどく不安でも
ある。実際に行動に移すには固執している常識を捨て、襲いかかる不安や恐怖心よ
りも挑戦意欲が勝っていることである。
未知なる距離への好奇心を積極的に育んでいくと、ある日ふと、自分にも完走で
きるかも知れないと思える瞬間がある。この瞬間を掴むことができれば、ウルトラマラ
ソンの第一関門、挑戦意欲の問題は解決する。あとは日常生活の中に完走のため
の具体的な練習を組み入れることである。そして、徐々に大きくなってくる不安や恐
怖心を駆逐する精神力を培うことである。
いつの時代にも自分の可能性や挑戦意欲を試そうとする積極的な人間、ランナ
ーの世界にも才能のあるなしにかかわらず、何か新しいことに挑戦したがっている意
欲旺盛な変わり者が数多く存在する。そのとりとめのない夢や挑戦を具体的に実行
に移すランナーに、好意を持って援助する好奇心の強い世話役やサポートが必ず
いるのである。
ウルトラマラソンの長い競技時間、レースを支える大会役員や関係者の根気強
さ、辛抱強さ、常にランナーを励まし付き添うサポートの献身ぶり、走り続けるランナ
ーに暖かい声援を送る観衆の善意などを考え合わせると、ランナー自身の魅力の
他にも、計り知れない魅力が存在することがわかる。それぞれのランナーを通して、
人間の可能性を覗いてみたいという欲望と、何が起こるかわからないドラマ性に魅
了されている。またランナーはサポートとの信頼関係の中で、レースを共有する。連
携と協調、そして尊重である。チームワークを分かち合うことは、陸上競技の世界を
離れたウルトラマラソン特有の魅力である。
ウルトラマラソンの競技時間はとても長い。ランニングの世界記録に例えると、10
0メートルは9秒79の爆発、マラソン42.195キロは2時間05分42秒の燃焼であ
る。100キロは短編小説であり、24時間走は中編小説、トランス・アメリカ・フットレー
スは64日間の長編小説である。競技時間が長くなればなるほど、ドラマ性は大きく
なる。予想できない出来事に遭遇する要因が限りなく増えていく。天候や体調の変
化、脚部への疲労蓄積。そして、レース展開に伴い、精神もまた様々に変化してい
く。
ウルトラランナーにはドラマを大きく包み込む精神と、ドラマ性を魅力として楽しむ
精神とが必要である。何が起きてもビクともしない不敵な冷静さとやわらかい順応性
である。
距離が長くなればなるほど、未知の部分が多くなり、それに応じて何が起こるだろ
うと興味は尽きない。やわらかい順応性さえ持ち続けていれば、いくらでもウルトラ
マラソンを楽しむことができる。自分自身で納得のいく長い距離や時間に挑戦して、
様々な出来事に対応して、その出来事を自分自身を適応させることが楽しむ要因
である。不確かな出来事を好ましくない負の要素として捉え、ウルトラマラソンは艱
難辛苦だと感じるならば、より深い魅惑の世界には辿り着けないだろう。
マラソン42.195キロ。オリンピック、陸上競技の最も長い長距離走である。しか
し、ウルトラマラソンはマラソンの延長ではない。陸上競技とは異なるランニング世
界である。
マラソンには“より速く”という記録への挑戦テーマが燦然と輝いている。記録への
挑戦は科学的な専門化したトレーニングの集大成により、さらに高度に追求され
て、記録は人類の限界へと徐々に近づいている。しかし、破られる可能性もまた、記
録の持つ宿命として、永遠に存在する。
勝負の世界からマラソンをみると、オリンピック大会、世界選手権、ワールドカップ
をはじめ、有名なレースへの参加がランナーの競争心や好奇心を刺激して、ランナ
ー自身を発奮させている。現在はこれに賞金が加わり、また大会によっては大衆性
が魅力となっている。しかし、人間の持っている貪欲で驚異的な挑戦意欲が、42.1
95キロの距離に留まるはずがない。マラソンが一般社会で市民権を得たのは、オリ
ンピック種目としての存在が大きかったに過ぎない。
ウルトラマラソンの挑戦テーマ“より遠くまで”という挑戦は果てしなく、オリンピック
志向で支配された一般常識を遙かに超えているため、異端視されやすい。驚嘆の
言葉は一過性の反応にとどまり、真に理解されることは少ない。それでも未知なる
長い距離に、意欲旺盛なランナーは大いなる魅力を感じているのである。
ウルトラマラソンの世界では“より速く”というテーマは通用しない。無理や頑張は
むしろ致命的なマイナス要因となる場合が多い。いかに速く走るかという固定観念
では捉え切れない宇宙的な領域である。この発想の転換こそ、重要な鍵である。
ウルトラマラソンは完走することより、挑戦しようとする積極的な精神行為の中に大
きな意義がある競技だといえる。挑戦を決意して、準備する日々の中で、次第に大
きくなる不安や恐怖心と、成し遂げようとする意欲との葛藤が個々のランナーの人格
形成に大きな影響を与える。それは肉体表現であり、人間表現である。
比較的足の遅いランナーでも、ウルトラマラソンの世界でなら、挑戦してできれば
完走という結果で、もう少し注目される機会を得ることができる。距離に対する征服
感は記録や順位に関係なく、すべてのランナーに等しく陶酔と充実感をもたらす
(但し、時間外完走という利己的なランニング世界は含まない)。一見、無謀とも思
えるウルトラマラソンも、人間の持っている可能性への挑戦ということからみれば、極
めて普通の行動である。挑戦する距離や時間の長さは、個々のランナーの気力・体
力・走力の反映であり、それぞれの魅力である。その魅力自体を比較することはでき
ない。
ウルトラランナー自身がわかっていることは、どうしても走りたいという気持、自分
を表現するにはウルトラマラソンしかないということである。
4 ウルトラマラソン
ウルトラマラソンの
ウルトラマラソンの走法
有田せいぎ
長距離走・マラソンには大別して、ストライド走法とピッチ走法のふたつの走法が
ある。
ストライド走法は広い歩幅を積極的に保つことでペースを維持する走り方で、一
歩一歩にパワーを必要とする。一歩ごとにパワーを集中させるので、絶対スピードの
追求には最適な走法、大柄な欧米のランナーには効果的である。安定した条件の
中で、記録を狙う意味では有利な走法である。
ピッチ走法は速い足の運びでペースを維持する走り方、一歩ごとの出力を抑えて
いる分、環境の変化に大きな影響を受ける割合が少ない。地形の変化に富んだコ
ースや悪天候下での耐久レースでは有利な走法である。小柄な日本人ランナーに
は伝統的な走法である。
ウルトラマラソンをマラソンの延長として捉えているスピードランナーには、ストライ
ド走法・ピッチ走法の別なく、走法など気にせず自由に、あるいは無意識にウルトラ
マラソンに挑戦すればいい。ウルトラマラソン向きの特別な走法は必要ないかも知
れない。
しかし、世界のトップクラスのウルトラランナーのランニングフォームをみると、ウルト
ラマラソンにはウルトラマラソン向きの走法が最適であり、必要であることがわかる。
ウルトラマラソンの先駆者たちが試行錯誤を繰り返しながら、修練し体得した走法で
ある。ウルトラマラソンの真髄は、ウルトラマラソン向きのランニングフォームの修得に
あると言っても、決して過言ではない。なぜならウルトラマラソンはマラソンの延長で
はなく、全く異なるランニング世界として認識する必然性があるからである。
ウルトラマラソンにおいて、ランナーが常に対峙しなければならない問題は、一歩
一歩着地の時に加わる腰、膝、足首への体重負荷である。レースによっては半日か
ら二ヵ月以上も続く場合がある。体重負荷について、過信も油断も一切許さない。ま
して無視など言語道断である。
スピードマラソンでは着地時、自分の体重の三倍、脚部に負担がかかると言われ
ている。42.195キロなら何とか頑張れば、強引に走り切ることができるかも知れな
い。3時間4時間の辛抱である。しかし、100キロ以上、確実に200キロを超える距
離では身体に無理させて強引に走ろうとしてはいけない。身体は正直なもので本
当に潰れてしまうし、第一、ランニングそのものを楽しむ余裕を失ってしまう。長時間
走り続けるためには、わずかな体重負荷の軽減でも最優先して考慮する必要があ
る。
少しでも長く、そして楽に走り続けようと思うならば、ランニングに対する考え方を
変えると同時に、ランニングフォームについてもウルトラマラソン向きの長い距離長
い時間走り通せるフォームに変えなければならない。
日常の練習はスピード強化やスタミナ養成のトレーニングより、むしろランニングフ
ォームの修練に重点がある。勿論、ウルトラランナーとしてのスピード強化の練習を
否定するものではない。またスタミナ養成はフォーム修練の練習過程において、当
然附随しているものである。心肺機能をはじめ脚筋の持久力を高めるように、体調
に応じてLSD(Long Slow Distance)で、リラックスした走りを心がけることが大切であ
る。これはLSDによって、身体の『器』を大きくして、ウルトラマラソンの長い距離長
い時間に対応しようとする考えからである。常に余裕を持って走ることはウルトラマラ
ソンの必須条件である。
いかなる状況・状態においても、好調時・不調時、または故障時においてもランニ
ングフォームを維持することは絶対的な鉄則である。フォームを維持できなければ、
低迷状態での走りの回復は全く期待できない。反面、とにかく維持さえできれば、不
思議と地獄のような最悪の状態からでも徐々に、そして確実に脱出することができ
る。ペースの回復を期待できる。それがウルトラマラソン向きのランニングフォームの
魔力であり、魅力である。
マラソンではストライド走法・ピッチ走法ともに前傾姿勢で走ることが正しい。しか
し、ウルトラマラソンではこの前傾姿勢は禁物である。重心を前にかける走り方は、
それだけで脚部の筋肉や関節に負担をかける。ウルトラマラソンではこの小さな負
担こそ絶対に見逃してはいけない。身体への疲労蓄積、特に脚部への疲労蓄積
は、可能な限り最小限に留めるようにしなければ、余裕のあるランニングはできな
い。また長い距離長い時間を走り切ることは難しい。
ウルトラマラソン
ウルトラマラソンには
ウルトラマラソンには省
には省エネルギー走法
エネルギー走法が
走法が有効である
有効である。
である。
直立姿勢が基本であり、前傾姿勢にならないようにすることが大切である。足の裏
全体に体重を乗せること、重心を常に身体の中心に置くように努める。リラックスして
立っている時が一番楽な状態で、一番エネルギーを使わない。
直立姿勢から走りの状態へと移行する。足の裏全体に体重を乗せ、膝と腰で身
体を支えて、足をすり足気味に前に運び出す。この時も重心は常に身体の中心に
置く。重心が身体の中心にあればあるほど、それだけ身体を支える力は最小限で済
む。キックを強めるために、足を後ろに高く蹴り上げたり、ストライドを伸ばすために、
前に高く引き上げたりしない。そうする事によって、多くのエネルギーを消費し、着
地時には脚部への体重負荷を増加させることを防ぐ意味がある。
重心がバランスよく上体に乗るように、腰を入れた走りを心掛けること。上体と脚部
の要として“腰を入れた”走りを身につけることは、ランニングフォームの安定性とエ
ネルギー節約のポイントである。腰を入れた走りとは骨盤が基本的に斜め前方を向
いた状態で走ることである。そのためには大殿筋を、身体の内部へ向けて引き締め
ること。腰を入れた走りは、マラソンにもウルトラマラソンにも共通する秘められた重
大な鍵である。
腕振りは肩を振るのではなく、肘を振る。腕を胸の前に抱え込み、肘を鋭角的に
構えてリラックスさせ、リズミカルに肘を振ること。手首や肩の力をぬく。肘を後ろに
引くことによって、腰を回転させ、足の裏を前にすり出す。踵より着地して重心移動
が爪先へぬけるように足を回転させる。注意することはすり過ぎて、ブレーキになら
ないように滑らかに運び出すこと。肘振りのリズムが推進力、肘の引き加減がスピー
ドをコントロールする。肩を振ることは上体を不安定にさせ、身体の中心への重心維
持を難しくさせる。
スピードマラソンの足の裏全体で着地して、同時に跳ねるように地面を蹴る状態と
は、明らかに異なる走り方である。わかりやすく言えば、競歩スタイルの歩き方を積
極的にランニング志向で発展させた走法である。これがウルトラマラソンの理想的な
ランニングフォームと考えてよい。ウルトラマラソンの黎明期、ウォーキングが主流で
あった歴史的事実を考えると、競歩スタイルから発展した省エネルギー走法が効果
的であることが理解できる。
一見するとピッチ走法や普通のジッギングフォームによく似ている。しかし、重心
の位置や移動、足の運び方、腕の振り方など、走りに対する考え方・捉え方が基本
的に異なる。“より速く”ではなく、“より遠くまで”のためにスピード志向を捨てる勇気
が大切である。身体全体の移動は重心の上下動や、左右の横揺れをできるだけ抑
制した安定感のある滑らかな移動が望ましい。惰性でなるべく長続きしそうな楽な
省エネルギー走法を身につけること。例え1000キロでも走り切れるランニングフォ
ームを作ることがウルトラマラソンの理想である。そのフォームは充分すぎるほど余
裕のあるものでなければならない。
参考 URL
田中義巳のジャーニーランクラブ
http://www.interq.or.jp/world/tabi-run/index.htm
フランス発・有田せいぎの部屋
http://www.interq.or.jp/world/tabi-run/arita/arita.htm
ウルトラマラソンの世界・有田せいぎ
http://www.interq.or.jp/world/tabi-run/arita/ultraworld_02.htm 
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