...

大陸英雄戦記 - タテ書き小説ネット

by user

on
Category: Documents
34

views

Report

Comments

Transcript

大陸英雄戦記 - タテ書き小説ネット
大陸英雄戦記
悪一
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
大陸英雄戦記
︻Nコード︼
N7105CO
︻作者名︼
悪一
︻あらすじ︼
現代日本に住む﹁俺﹂は気づいたら中近世欧州風世界に転生し⋮
⋮いや、これまんま欧州ですよねお父さん。
ともかく俺はファンタジーな欧州に転生した。これは、そんな俺、
ユゼフ・ワレサの活躍︵?︶の物語です。たぶん。
第二の故郷、シレジア王国は風前の灯だった。近隣諸国の軍事圧力
によって滅亡まで時間がない。そう感じた俺は士官学校に入学して
1
前世知識フル動員のチート英雄を目指し⋮⋮たかったよね。うん。
前世の記憶じゃ剣は振れない、前世じゃ馬に乗ったことない。魔術
? なぁにそれ?
今ここに﹁頭以外不要﹂と呼ばれた俺の物語が⋮⋮始まればいいな
ぁ。
−−−−−
息抜き投稿。不定期投稿。ゆったり投稿。1話あたり2000字前
後という手抜き仕様となっております。
ノリと勢いで書く予定なので細かいことは気にしないでくださいね。
アース・スターノベル様より書籍版第1巻∼3巻が発売中です。
サブタイトルに﹁︵改︶﹂がついているのは書籍版と同じ内容とな
っています。
また、アース・スターコミック様よりコミック特別読切版が無料公
開中です。
2
第二の誕生日︵改︶
話をしよう。
あれは今から⋮⋮何年前だっけ? まぁいいや。
あの日は俺の10歳の誕生日だった。農家を営む俺の父はこう言
った。
﹁息子よ。この世界で成り上がるには教養が必要だ。その手始めと
して、お前にこれをやる﹂
父の農夫らしいごつい手から受け取ったのは地図だった。ごく普
通の地図。
もっと具体的に言えば﹁自分の国と近隣諸国の位置関係や地形が
わかる地図﹂だ。
誕生日プレゼントが勉強道具なんて、ハッキリ言って嬉しくもな
んともない。父のセンスを疑う。
ちなみに母からは何ももらえなかった。チッ。まぁ仕方ないか。
裕福な家ではないしな。
・・
でも当時の俺はまだ純情で純粋な子供だった。だから﹁こんなの
欲しかったんだー!﹂と心から喜んでいたのも確かだ。
その時だった。強烈な既視感に襲われたのは。
知ってる。俺はこの地図⋮⋮いや違う、この世界を知っている。
3
途端、体に異常が起きた。
最初は単なる眩暈。次に嘔吐、悪寒、そして四肢の痙攣。
まるでインフルエンザの症状が一気に来たかのようだ。
⋮⋮インフルエンザ? なんだそれ?
・・・・・・
聞いたことない病気だ。この世界では。
気付けば俺はその場でぶっ倒れた。両親が慌てて俺に駆け寄り、
そして抱きかかえてきた。
薄れゆく意識の中で、俺は思った。
よかった。生まれて初めて貰った誕生日プレゼントが、ゲロまみ
れになってなくって。
その後俺は三日三晩、生死の境を彷徨った。
その﹁地図﹂は前世世界で﹁ヨーロッパ﹂と呼ばれていた地域の
地図だった。
4
やりたいこと、成すべきこと︵改︶
﹁ヨーロッパ﹂
それは、前世世界でのユーラシア大陸西端地域の名称。
それは、前世世界での歴史の中心地となった地域。
様々な国が生まれ、栄えて、滅び、また新たな国が生まれた地域。
父から渡された﹁地図﹂はまさに、そのヨーロッパの地図だった。
俺の記憶︱︱と言っても最低でも10年以上見てないから結構細
部があやふやだ︱︱と比べてみても、それは間違いなくヨーロッパ
だった。
偶然の一致、とは考えにくい。
ここはヨーロッパなのか? 俺は生まれ変わってヨーロッパ人に
なったのか?
でも、俺はその考えを否定する。
まずこの世界は現代ではない。電気・ガス・水道と言った類のイ
ンフラはないし、衣服や住居と言ったものから察するに中近世、と
言ったところだろうか。
そしてこの世界には、前世世界にはなかったある要素がある。
5
﹁ユゼフ! ちょっと手伝ってくれる!?﹂
﹁あ、はーい﹂
母に呼ばれた。どうせいつもの洗濯の手伝いだろうな。
あ、そう言えば自己紹介がまだだったな。
俺の名前はユゼフ。ユゼフ・ワレサ。
見ての通り、男だ。自分で言うのもなんだけど、まだ十歳だから
顔つきは可愛い。
でもあと数年もするとどうなるか⋮⋮いや、この話はやめよう。
なんか悲しくなってきた。
家族は両親のみ。農家なのに核家族だ。
﹁ちょっと待ってね。水出すから﹂
そう言いつつ母は、何もない空中から﹁水を出した﹂。比喩でも
なんでもなく、本当に水を出現させたのである。
うん、いつ見てもサッパリ原理がわからない。
まぁ﹁この世界では前世世界の常識に囚われてはいけないのです
ね!﹂ってことだ。
つまるところ、こいつは魔術とか魔法とか呼ばれるものだ。
そしてここは創作物お馴染みの中世ヨーロッパ風ファンタジー世
界と言うことになる。いやまんんまヨーロッパなんだけどね?
母は魔術の中でも最も簡単な部類である初級魔術を使って洗濯用
6
の水を出した。初級魔術はこの世界の住民であれば誰でも無詠唱で
できる。
俺にだってできたんだ。たぶんお前らもきっとできると思う。
聞くところによると治癒魔術もあるようだ。どの程度までの怪我
や病気を治癒できるかわからないが、もしかすると前世における中
世ヨーロッパ以上の人口はあるかもしれない。
﹁じゃ、ごしごし洗ってね。私は絞って干すから﹂
でもいくら魔法が使えると言っても洗濯は昔ながらの石鹸と洗濯
板。こ、腰が痛い。乾燥機付き全自動洗濯機の発明はまだか!
俺は、村の初級学校に通いつつ、我が家の農作業を手伝いつつ、
母の家事炊事を手伝っているごく普通の子供だ。
前世の記憶があることを除いたらね。
﹁ユゼフ、学校はどう?﹂
﹁ふつー﹂
特に何もない。この世界﹁でも﹂俺は友達がいない。故に話すこ
ともない。
前世なら架空の友達をでっち上げただろうけど、この小さな農村
じゃそれも出来ない。
あ、石鹸が目に入って涙が⋮⋮。
﹁ふーん?﹂
﹁な、なにさ⋮⋮﹂
﹁もしかして、好きな子でもできた?﹂
7
どうしてそうなるんですかね。
﹁ざんねんながらすきなこはおりませぬ﹂
その前に友達ください。この際男でも年上でもいい。一方母は、
俺のその悲しい状況を知ってか知らずか、そのまま話題を続けた。
﹁勿体ないわねー。せっかくお父さんからいい顔貰ったんだから、
有効に使わなきゃダメよ?﹂
そう言う母の顔はなんか活き活きしている。何歳になっても恋バ
ナというのは女性を喜ばせるものらしい。と言っても母はまだ28
歳だけど。ちなみに父は35だ。
﹁まだそういうのはいいかも。面倒そうだから﹂
﹁⋮⋮ねぇ、ユゼフ。あなた誕生日の前と後で人格が変わってるわ
よ?﹂
﹁そんなことないです﹂
なんでばれた。しかも﹁性格﹂じゃなくて﹁人格﹂って言ってる
ところが怖い。
﹁昔はもっと活発な子だったのに⋮⋮お父さんが変な贈り物したせ
いね﹂
母の言うことは半分合ってる。あれがなければたぶん前世のこと
思い出さなかった。たぶん。
﹁ユゼフは、これからどうするつもりなの?﹂
﹁どう⋮⋮とは?﹂
8
﹁今年で初級学校は卒業でしょ? そのあとどうする気なの?﹂
初級学校、というのはこの国の子供が最初に通う学校だ。
通わなくてもいいが、授業料は基本無料なので余程の事情がない
限り初級学校には通う。
習うのは国語・算数・理科・社会・初級魔術その他生活に必要な
もの。
入学は5歳、卒業は10歳だ。幼稚園や保育園なんてシステムは
ないから前世より入学が早い。
そして俺は、先月10歳になった。そして初級学校ももうすぐ卒
業だ。
前世の記憶を取り戻す前なら、そのまま家の手伝いを続けて父の
跡を継いだのだろうが⋮⋮。
﹁うーん、ちょっと悩んでるの﹂
﹁あら、そうなの?﹂
﹁うん﹂
これで前世の俺が農家だったら﹁前世の農業知識でウハウハ牧場
物語﹂とかいうネット小説みたいなことも出来たんだろうけど、残
念ながら前世の俺はただの学生だった。
だから父には悪いが家は継がない。前世の記憶があるのに田舎で
農作業×五〇年とか前世の記憶の無駄遣いだ。
﹁家を継がなきゃいけない、ってことはないわ。あなたのやりたい
ことをしなさい、ユゼフ。どんな結論を出そうと、私はあなたを応
援するつもり。勿論、悪いことはダメだけど﹂
9
⋮⋮やりたいことか。まぁ、あるにはある。
父からもらった地図と、初級学校で習ったこの国の歴史、そして
前世の俺の記憶。
この3つを持ってる俺しか成せないことをしたい。
俺が今住んでいるこの国の名前は﹁シレジア王国﹂。
地図で言うとちょうど真ん中、前世で﹁中欧﹂と呼ばれた地域。
具体的に言えば、ポーランドという国があった場所に、俺の第2
の故郷がある。
シレジア王国は、滅亡の危機にある。
◇ ◇
﹁シレジア王国﹂
大陸暦452年、世界最大の国家である﹁東大陸帝国﹂から独立。
以後、周辺国との紛争を繰り返しつつ領土を拡大。
最盛期には東大陸帝国に次ぐ覇権国家となっていた。
でもその栄光の時代は短かった。
10
シレジア王国に危機感を覚えた周辺列強が反シレジア同盟を結び、
宣戦布告。
王国は奮闘するも、衆寡敵せず敗戦。領土の3分の2を失う大敗
北。
それを機に徐々に衰退。
失った領土と、シレジア人の自由を求めて復讐戦争に挑むものの、
やはり叩き潰される。
さらに領土の半分を喪失。
衰退に歯止めがかからないシレジア王国は、その後近隣諸国から
の度重なる軍事恫喝と侵攻を受けて、領土と経済力をガリガリと削
られていった。
今やシレジア王国は全盛期の7分の1の領土しかなく、独立時と
比べても3分の2しかなかった。
これが、シレジア王国の大雑把な歴史だ。
大陸全体の歴史は、後の機会に譲ろう。
前述のとおり、このシレジア王国は前世でポーランドと言う国が
あったところに位置している。
そしてそのポーランドと、シレジア王国の境遇が似ているのだ。
と言っても俺は歴史マニアじゃない。
たまたま歴史シュミレーションゲームをちょっとプレイしたから
知っていただけだ。
その中じゃ俺、結構この国サックリ滅亡させてたな。餌としか見
11
てなかったし。
⋮⋮前世ポーランドも、かつては巨大な国家だった。
そしてロシア・プロイセン・オーストリアという中世最強国家た
ちに囲まれたポーランドは三回の分割の末、地図から消滅した。
滅亡後、ポーランド人は何度も自由と独立を求めて立ち上がり、
そして何度も失敗した。
その度に激しい弾圧を受けた。
もしもこのシレジア王国が前世ポーランドと同じだったら、シレ
ジアも滅亡するのではないか。
いや、既に滅亡しかけている。初級学校でも習うことだ。
ふむ。
滅亡するとわかっているのに、ただ指をくわえて見てるのは癪だ
な。
それに俺は前世のゲームとマンガその他諸々の知識を持っている。
それを使えばなんとかなるんじゃないかな!
﹁母さん、父さん﹂
﹁どうしたのユゼフ?﹂
﹁また、具合でも悪いのか?﹂
目指せ! 前世の記憶でチート英雄!
﹁俺、将軍になりたいんだ﹂
12
時に、大陸暦631年9月1日。
俺は、シレジア王国唯一の﹁王立士官学校﹂へ入学した。
13
現実︵改︶
﹁オレがお前を呼び出した理由がなんだかわかるか?﹂
﹁⋮⋮わかります﹂
王立士官学校、第1学年第3組の教室。
俺が今いるところだ。
﹁そうだよなぁ、これ見て何も思わない奴いないもんなァ?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
入学試験は簡単だった。
なんてったって初級学校の内容+体力テストしかなかった。
農家出身ということもあって軍人に必要な最低限度の体力はあっ
たし、初級学校じゃそれなりに成績は良かったし。
でも問題は入学してからの成績だ。
﹁なんなんだこの成績は!﹂
ボコッ。
担任の先生渾身の右ストレート。良い音がしたと共に俺が数メー
トル吹っ飛んだ。 口の中が切れたせいかちょっと血が出た。痛い
ですよ先生。
﹁こんな酷い成績の生徒はオレも初めてだぞ﹂
14
﹁すみません﹂
どうやら俺は想像以上にバカだったらしい。どうやら士官学校は
初級学校の成績は当てにならないようだ。当たり前と言えば当たり
前だけど。
俺の手元にはたった今先生から渡された上半期中間試験の成績表
がある。
だいたいこんな感じだ。
剣術 28点
弓術 5点
魔術 53点
馬術 14点
算術 85点
戦術 96点
戦略 93点
戦史 89点
HAHAHAHAHAHAHAHA。
うん、我ながら素晴らしい点数だ。特に弓術の点数なんて見ただ
けで涙が出てくる。
当然だけど全部100点満点だ。赤点は60点未満。
座学じゃ良い点取ってるんだよな俺。魔術53点のうち40点く
らいは魔術理論だし。残りの13点が魔術実技だ。
前世世界に魔術なんてものはなかったのに結構頑張ってる方なの
よ?
15
問題は実技しかない剣・弓・馬だ。
まぁ、前世じゃ剣も弓も馬も扱える人間なんていないから仕方な
い。そういうことにしてくれ。
﹁お前、このままだと第1学年上半期で退学だぞ?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
そうなんだよなぁ。
ここ、王立士官学校は授業料無料の高級学校だ。
国から授業料全額扶助がされる高級学校は、このご時世じゃここ
だけ。
ただし、原則卒業後10年間は軍務につかなければならない。で
なければ授業料を請求される。
そしてそれは退学になってもそれは同じだ。
⋮⋮はぁ。鬱だ。
﹁期末までになんとかしろ。以上﹂
﹁はい﹂
﹁声が小さい!﹂
﹁はい!﹂
﹁うむ。着席してよろしい﹂
退学になったら親に申し訳ない。裕福とは言えない農家じゃ、授
業料は結構な負担になるはずだ。
我が儘言った分、ここで頑張らないとな。前世の記憶があると言
っても、親は親だ。
16
⋮⋮問題は弓術の点数どうやって55点も上げるかだ。袖の下渡
した方が早い気がする。
﹁ユゼフって結構貧弱よね。知ってたけど﹂
﹁うるせー﹂
隣の席の女子が話しかけてきた。もう死んでもいい。
﹁サラもバカじゃないか。戦術何点だっけ?﹂
﹁⋮⋮18点﹂
﹁戦略は?﹂
﹁25点﹂
戦史は⋮⋮、と言いかけたところで拳が飛んできた。
﹁うっさい! 殴るわよ!﹂
﹁殴ってから言うなよ!?﹂
まぁ、そんなコントのようなことをやっていたら、当然教官から
はこんな言葉が放たれる。
﹁五月蠅いのはお前ら2人だ! 邪魔だから廊下に立ってろ!!﹂
◇ ◇
さて、俺の隣でバケツを持って突っ立てるのはサラ・マリノフス
17
カ。
赤髪ロング、釣り目、口より先に拳、場合によっては剣を抜く暴
力女子。得意科目は剣術・弓術・馬術で苦手科目が座学。
早い話が脳筋だ。
﹁これじゃあ二人仲良く上半期で退学ね﹂
﹁そうだなー﹂
誰か剣術馬術弓術指南してくれないかなー? チラッ。
あっ。
﹁⋮⋮ふんっ﹂
﹁⋮⋮﹂
やばい。目が合った。
﹁ねぇ﹂
﹁なぁ﹂
かぶった。
やばい、恥ずかしいなこれ。
とりあえずお先にどうぞジェスチャーしてみる。
﹁勉強教えて。実技は私が教えるから﹂
気が合うね。俺も君に同じことを言おうかと思ってた。
18
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
サラ・マリノフスカ。
それが私の名前。
士官学校の学生は、7割が貴族だ。公爵家の子息、閣僚の息子⋮
⋮なんて珍しい話じゃない。
私もそうだ。
カヴァレル
と言ってもそんなに偉い身分じゃない。貴族の中では底辺に位置
する騎士階級の娘。
カヴァレル
仮にも騎士というだけあって、幼い頃から戦闘訓練はしてきた。
騎士は、この国の未来を守るためにある。
そう思って、日々訓練に励んでいた。
父から習ったのは、剣術と弓術、そして馬術。
残念ながら魔術は父の専門外だっため、初級学校で習う程度の魔
法しか使えない。
そしてある日のこと、父は私に﹁士官学校に行け﹂と命じた。
その日の食べ物にも困るような貧乏貴族だったから、娘を出世さ
せて楽な暮らしをしよう、そんな打算的な理由もあっただろう。
でも私はそれを知りつつ、父の言うことに従った。
19
カヴァレル
それが騎士階級に生まれた者の役目だと思って。
入学試験は問題なかった。父から教わった武術の得点が高かった
からだろう。中級魔術は扱えなかったが、それは士官学校に入って
から学べばいいと言われた。
今思えば、先生から﹁期待の新入生﹂だと評価されていたのかも
しれない。自分で言うのもなんだけど、確かに周りの人間よりは武
術と言うものが出来た。
そして士官学校に入学した。
座学が足を引っ張って入学時の席次は中の上に落ち着いたけど、
それでもまずは満足すべき結果だったと思う。
でも、入学したばかりの頃は漠然とした不安があったことも確か
だ。
それは当然かもしれない。まだ12歳の身で、﹁国を守る﹂だと
か﹁騎士の役目﹂を語るなんて。
その不安をある程度打ち消してくれたのが、教室で私の隣の席に
座る、ユゼフ・ワレサという名の男子だった。
彼はこの士官学校では割と珍しい、農民出身の士官候補生。私と
は真逆のタイプで、武術が圧倒的にダメで、反面座学が得意。
第3組の中では早くも﹁頭から下は不要な男﹂と呼ばれている。
上半期中間試験の結果が発表された後、私とユゼフは互いに協力
して試験の点数を上げ、退学回避のために勤しむことになった。
彼は私に座学を教えて、私は彼に武術を教える。
この日は士官学校の敷地内にある馬術教練場で、馬術の居残り授
20
業だ。
﹁サラって馬術何点だっけ?﹂
﹁99点よ﹂
﹁⋮⋮残りの1点ってなんなんだ?﹂
﹁さぁ? 実技の加点方法って結構適当だし、100点にするのが
嫌だったんでしょ﹂
﹁んー⋮⋮まぁ確かにサラ相手に100点つけるのは癪だろうなー﹂
﹁どういう意味よ⋮⋮﹂
馬術14点のくせに、偉そうなことを言う奴だ。
その後もユゼフは、ぎこちない動きをしながらぶちぶちと不満を
垂れ流した。
﹁なんで馬になんて乗らなきゃいけないんだ⋮⋮﹂
﹁馬に乗れない士官なんて聞いたことないわよ﹂
ユゼフは農家出身なんだから、馬くらいそれなりに操れると思う
んだけど。
﹁そんなんでひぃひぃ言ってたら下半期になったらもっと大変よ。
剣とか槍とか持って戦闘実技するんだから﹂
﹁⋮⋮ホント?﹂
﹁私は嘘吐くの嫌いなの﹂
ユゼフは馬の上でわたわたしながら手綱を握っている。これでは
まるで、初めて馬に乗った5歳児と変わらない。
⋮⋮なんでこいつ士官学校に入れたんだろう。いくら試験が簡単
だとは言ってもここまで酷いと入学できない気がする。
21
人生と言うものは、何が起きるかわからない。
その言葉を実感させてくれるのが、このユゼフ・ワレサという人
間だ。
私とユゼフが初めて出会ったのはおよそ3ヶ月前、士官学校入学
式の日。
ユゼフ
こんな出来損ないの士官候補生に、私は助けられたのだ。
22
ハゲは燃えているか︵改︶
俺がまだ悲しい現実を知らずに﹁前世でやったゲームとマンガ知
識でチート英雄になってやるぜ!﹂と思っていた時の話をしよう。
シレジア王国王立士官学校。
王国中部の地方都市プウォツク近郊にある軍学校だ。
敷地面積は校舎や練兵場などの施設を全て足し合わせると﹁広大﹂
の一言に尽きる。射程の長い魔術を全力でぶっ放しても余裕がある
ほどには広いからね。たぶん東京ドーム〇個分という表現より、東
京ドームがある文京区○個分って言った方が分かり易いと思う。
士官学校は10歳から入学可能だが、上限はない。極端な話60
超えても入学できる。まぁ俺みたいに10歳で入学する奴は少数派
だ。
士官学校は入学試験は簡単でも日々の訓練や試験のハードルが高
いため、入学できても授業についていけず退学、というのは頻繁に
ある。そのため数年間は自主練や自主勉強して入学するか、あるい
は他の高級学校に行ってから士官学校に入学すると言う奴の方が多
数派だろう。
故にこの学校では同学年でも年齢はバラバラだ。軍隊に行けば同
年齢=同階級とは限らないし、学校時代から慣れろってことなのだ
ろう。
まぁ、俺は前世知識があるから余裕のよっちゃんですよ! ワー
ハッハッハッハ!
23
それはさておき
閑話休題。
基本的には5年間、寮で暮らしつつ戦闘について学び、卒業後は
軍隊に入る。
成績が普通なら准尉、優秀なら少尉スタートらしい。士官学校に
通わなかった軍人や徴兵された人達は少尉になるのも夢のまた夢と
言われる中で少尉スタートっていうのは、結構すごいことなのだ。
王国各地から士官学校に入学した約180名が、今日ここに集ま
った。
校長が﹁君らは祖国を守るべく﹂云々かんぬん言ってたがどうで
タイダルウェイブ
もよろしい。はよ、俺に魔術指南はよ!
メテオストライク
隕石降下とか大津波が俺を待っている!
そんな魔法あるかはともかく。
長ったらしい式典終了後、俺は士官学校内を散策していた。これ
から最低でも5年間はここに住み続けることになる。校舎の配置と
かよく覚えなきゃね。
適当に歩いていたら、上級生と思わしき人たちが訓練に励んでい
るのが見えた。当たり前だけど馬も相当数がいる。
俺は馬には乗ったことがない。前世でも今世でも。生まれ故郷の
村にも馬はいたけど乗せてもらえなかった。なんか幼い時に馬で事
故ったことがあるから、らしい。俺は覚えていないのだが。
﹁ちょっと! それ返しなさいよ!﹂
﹁なんだと!? 小娘が調子に乗りやがって!﹂
﹁触らないで!﹂
24
エロいことするつもりでしょ! ネット小説みたいに! ネット
小説みたいに!
と、冗談を言ってる場合じゃないか。
声のする方向を見てみると、赤い髪の女の子が複数の男に囲まれ
てる。ジリジリと壁際に追い詰められているな。
このままじゃ薄い本みたいな展開にゲフンゲフン、包囲殲滅され
るな。
んー、助けるべきかなー?
でも俺、剣術も護身術もなにもできない。魔術も初級⋮⋮。よし、
見なかったことにしよう。
士官学校入学初日に喧嘩して学校を追われて入学金だけ請求され
るのも嫌だ。
⋮⋮でもあの子可愛いな。少し強暴そうな顔つきだけど、デレた
らきっとすごいに違いない。
それに今助けたら俺の評価うなぎ上りだろうな。ここから始まる
エロゲストーリー。
﹃ドキッ☆美少女ばかりの士官学校 ∼ポロリもあるよ∼﹄
⋮⋮うん。ポロリが首になりそうだな。軍隊だし。
よこしま
と俺がやや邪な事を考えていたところ、女の子の状況は更に悪く
なっていた。
見たところ彼女自身、それなりに武芸の心得がある様だが多勢に
25
無勢。壁に追い詰められ胸倉を掴まれている。
どう見ても女性に対する扱いのそれではない。
さらに、如何にも三下の雰囲気を醸し出している男が
﹁へっ、ちょっとこれは﹃お仕置き﹄をする必要があるみたいだな
ぁ?﹂
三下君は遠くから見てもわかるほど下衆な目をしていた。
目の前の女の子のことを性的な目で見てるし、なんか興奮して舌
なめずりベロベロである。
分かり易く言うと、凄い気持ち悪い。
あんなのが将来、准尉とか少尉とかになって兵を率いる人間にな
るのかと思うと、この国の未来は絶望的だなぁ⋮⋮。
一方の女の子の方はと言うと
﹁くっ⋮⋮﹂
殺せ⋮⋮!
いや﹁殺せ﹂とは言ってないけどそんな目をしていた。
おそらくこのまま放っておけば彼女は、取り囲んでいる彼らの性
的欲求の捌け口として利用される羽目になるのだろう。それを見て
見ぬフリをできるほど、俺は肝が据わっちゃいない。
それに、母の言葉もある。﹁悪いことはダメ﹂ってね。
今あの女の子を見捨てるのは、悪いことに決まっている。あと俺
26
は﹁NTR﹂とか﹁強姦もの﹂の薄い本は苦手なんでね。いや本当
に純愛物風味の表紙なのに中身が﹁強姦もの﹂なのはやめてほしい。
それはさておき、やるだけやってみるか。
ダメだったら改めていい手を考えればいい。一瞬でも彼女に逃げ
る隙ができればいいわけだし。
⋮⋮よし。
さて、寡兵でもって大軍を打ち破る方法というのは、古今東西ふ
たつの方法が有力だ。たぶんこの世界でもそうだ。
そのひとつが奇襲、即ち不意打ちである。
ウォーターボール
俺は意識を集中させ、手の上に水の球を作り出そうとする﹁水球﹂
という、この世界の人間なら誰でも扱える水系初級魔術である。戦
闘から洗濯までなんでもござれな便利魔術だ。
ウォーターボール
この﹁水球﹂はバスケットボール程度の大きさの水の塊を生成し、
そして掌から勢いよく射出することができる。
威力は弱いものの、至近距離から当てると死ぬほど痛い。当たり
所が悪いと気絶することもあるが死ぬことはない。
あの郎党集団に向け視界外からの攻撃で敵集団を混乱させる。そ
の間にあの女の子が逃げれば俺の勝ちだ。
ファイアボール
火系初級魔術の﹁火球﹂でもよかったけど、誤射して女の子に当
たったらまずい。
水なら少し死ぬ程痛いだけで濡れるだけだし、それにもし男がや
んごとなき身分のお方だったら俺が社会的に死ぬ。
27
俺はリーダーっぽいハゲに照準を合わせて掌を突きだし、そして
思い切り叫んだ。いや別に叫んだところで威力が上がるわけでもな
いのだが。
ま、陽動だから派手にやる必要はあるか。
ウォーターボール
﹁水球!!﹂
掌から生成されたバスケットボール大の水塊が勢いよく射出され、
高速で直進する。
﹁いだっ!?﹂
そしてそれはどうやら運よく狙った通りのハゲ男に当たった。水
ウォーターボール
も滴るいいハゲ男っていう奴だな。
もしかしたら水球が命中した衝撃で数少ない毛根も絶命したかも
しれないが。
当然俺の存在に気付いたハゲ男とその仲間たちが一斉に振り返っ
て睨みつけてきた。
﹁⋮⋮てめえ、何しやがる﹂
怖い。ハゲと言うこともあってマフィアみたいな雰囲気が漂って
る。何も知らないフリした方が良かったかもしれない。
でもやってしまったもんは仕方ない。﹁鳴らした教会の鐘の音は
戻っては来ない﹂とも言うしね。
﹁いえ、一人の女性に対して複数の男が壁際に追い詰めるという未
開の野蛮人みたいなことをしている輩を見かけたので、つい﹂
28
とりあえず挑発して注意をひきつけてみたのだが﹁ブチッ﹂とい
うハゲ男の脳の血管が切れた音がした。もうだめかもしれんね。て
か気が短すぎやしませんか。
﹁おい、お前。俺様に喧嘩売ったこと後悔させてや⋮⋮﹂
だがそのハゲ男の脅し文句は最後まで発せられることはなかった。
なぜなら突如自分の頭が燃え上がったからだ。
﹁⋮⋮えっ?﹂
ハゲ男は、一瞬何が起こったのかを理解していなかった。呆ける
だけで、燃え上がる自分の頭をどうにかしようと動くこともなかっ
た。
そしてハゲ男が混乱しているとき、さらに事態があらぬ方向へと
転がった。
﹁えっ?﹂
﹁あ?﹂
仲間の男たちの頭もなぜか燃えていたのである。俺は何もしてな
いよ。
﹁死ねぇ!!﹂
ファイアボール
と、そう叫んだのは囲まれていた女の子だった。どうやら彼女が
至近距離から火球をぶっ放したようだ。
ひでぇことしやがる。ありゃ今後数年は新しい髪の毛生えてこな
いよ。
29
ウォーターボール
男たちは狂乱状態になりながらその場で火を消そうと暴れ回って
いる。水球を頭からかぶればいいと思うが、こんな状態じゃ魔術ど
ころじゃないか。
そして気づけば、その赤髪の女の子は離脱に成功したようだ。⋮
⋮とりあえず追いかけてみよう。
事情知りたいし、あとついでに住所とかL○NEのIDとかも教
えてほしい。
30
真っ赤に燃える髪︵改︶
⋮⋮撒いたかな?
うん、どうやら撒いたらしい。よかった。一時はどうなるかと思
った。
誰だか知らないけど、あの男子のおかげでここまで逃げ切れた。
さて、さっさと女子寮に行ってこのことイアダに報告しなきゃ。
あの男のお礼は明日以降でも構わないはず。そもそも誰か知らない
し。
よし、じゃあ早く⋮⋮。
﹁おーい、待ってくれー。おーい﹂
⋮⋮どうやら追手が来たらしい。意外と立ち直りが早い。もう一
度頭を燃やしてやる。
まずは気づかないふりをする。
初級魔術は連射が効く分、精度があまり良くない。だから必中距
離まで近づくまで撃つのは待つ。
追手はどんどん私に近づいてくる。
あと10歩、9、8⋮⋮。
あぁ、もう我慢できない! 当たれ!
31
私は思い切り叫んだ。叫ぶ必要はないが、心なしか威力が増す気
がするのだ。丸焦げにしてやる。
ファイアボール
﹁火球!!﹂
﹁え、ちょ、待っ。う、うわああああああああああああああ!?﹂
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁ごめんなさい!﹂
﹁あ、いや、良いんだよ。当たらなかったし﹂
赤い髪の毛の女の子を追いかけたら赤い火の玉が飛んできた。
ギリギリのところで回避したからよかったものの、もし当たって
いれば30歳になるまで髪の毛が生えてくることはなかったかもし
れない。
うん、ホントによかった。
赤髪の女子は腰を直角に曲げて謝ってきている。見かけによらな
いな。こういう女子って謝らないと思ってた。
﹁で、それで、さっきのはなんだったの?﹂
どっちが悪いだのの話で堂々巡りする前に話題を変えよう。
いつまでも美少女に謝らせるのは良心の呵責が⋮⋮ないかな。興
奮する。おっと、今はそんなことはどうでもよろしい。時々忘れそ
32
うになるが俺はまだ10歳だ。
発情するには3、4年早い。
﹁さっきの⋮⋮?﹂
﹁ほら、なんか男に囲まれてて﹃ぐへへお嬢ちゃんちょっと良い事
しようじゃねーかぁ?﹄﹃くっ、殺せ⋮⋮﹄﹃ほう、そんな強気に
言ってもこっちは正直だぜぇ?﹄とかやってたじゃない?﹂
﹁やってませんけど⋮⋮?﹂
いかんいかん。つい妄想が口に出てしまった。彼女ドン引きして
るじゃないか。そういうのは二次元だけでいい。
﹁失敬。で、さっきのは?﹂
﹁あぁ、えっと、これのことで揉めて⋮⋮﹂
彼女が見せてきたのは木箱だ。特に何も装飾はされていない普通
の木箱。
﹁えーっと、これ中身見ちゃ⋮⋮﹂
﹁駄目です﹂
だよね。
﹁でもこの箱がどうしたの?﹂
﹁えーっとそれは⋮⋮﹂
彼女は説明下手だったので俺が要約しよう。
彼女は木箱を紛失した。木箱の中身は言えないが、今日に合わせ
て用意した大切な物らしい。なんでそんなものを紛失するんだか。
33
それはともかく、なくした箱はどこかで見つけたのか拾ったのか、
あのハゲ男が持ってた。
彼女はそれを自分の持ち物だと主張して男に返還を求めたが、あ
のハゲの傍に居た三下が性的な見返りを求めてきたという。そして
野郎どもに囲まれていたところに俺が来た、ということだ。
ふむふむ。
⋮⋮あれ? 非常にまずい展開かもしれないねこれ。
﹁あのー?﹂
彼女が心配そうにのぞきこんできた。
うん、かわいいんだけどね。それどころじゃない気がするんだ。
あ、そう言えば。
﹁そう言えば自己紹介まだだったね。俺はユゼフ・ワレサ。第1学
年第3組、10歳です﹂
﹁⋮⋮あ、年下﹂
﹁えっ?﹂
﹁⋮⋮コホン。私の名前はサラ・マリノフスカ。第1学年第3組、
12歳よ!﹂
⋮⋮え? 年上?
﹁なによ。どうしたの?﹂
﹁い、いえ。なんでもございません﹂
俺が年下だと分かった瞬間高慢になった。そういうの嫌いじゃな
い。
34
﹁ま、それはともかくさっきはありがと。助かったわ﹂
﹁そりゃどういたしまして﹂
本当に感謝してるのかどうか怪しいもんだ。まぁいいや。
﹁じゃ、私は女子寮に戻るわ。同じ組みたいだし、また明日ね﹂
﹁⋮⋮戻らない方が良いと思うよ?﹂
﹁は?﹂
いや本当に。今戻ったら薄い本がどうのこうのどころの騒ぎじゃ
なくなると思う。
35
近くて遠い道のり︵改︶
王立士官学校の学生は全員寮生だ。
当たり前だけど男子は男子寮、女子は女子寮。貴族・王族とそれ
以外の平民で寮を分けることはしない。
戦場じゃみんな公平に死ぬから、という理由らしいが予算がない
という理由もありそう。
そして学生の男女比は4:1で圧倒的に男子が多い。そりゃそう
だ。軍人になろうっていう女子がそんなに多いとは思えない。
そのため、男子寮と女子寮の数も違う。女子寮はひとつだけだが、
男子寮は4つある。
もう一度言おう。女子寮はひとつだけ。サラ・マリノフスカはそ
こに行かなければならない。
あいつら
彼女が持っている物をハゲ野郎共がまだ取り戻そうとしてるなら、
あるいは彼女自身を捕らえたいのなら、女子寮の入り口前で待ち伏
せすればいい。
入り口の前じゃなくてもいいな。俺だったら女子寮へ向かう道に
張り込むよ。
彼女はそこを通らざるを得ない。相手ハゲもそれはわかってるだ
ろう。
﹁というわけです。理解しましたか?﹂
﹁わからないわ﹂
36
ピンチ
﹁端的に言うと危機ってこと﹂
彼女はあいつらの頭燃やしたからね。たぶん怒ってる。激おこぷ
んぷん丸だ。
彼女はすっきりしただろうが状況は悪い。何が何でも復讐しよう
とするだろう。
そして彼女の⋮⋮いやもしかすると俺の頭髪も燃やそうとするか
も。30までハゲになるのは俺は嫌だ。
今すぐ戻ればまだ間に合う? いや、もう遅いな。彼女が適当に
逃げたおかげで、現在位置は女子寮とは反対側だ。
つまるところ、彼女はあいつらに﹁頭の火を消して女子寮への道
を塞ぐまでの時間的余裕を与えてしまった﹂のである。
さて、どうしたものか。
見捨てる、という選択肢はない。ここまで事情を聞いといて﹁そ
うですかじゃあ頑張ってください﹂と言えるほど勇敢じゃないし。
そんなことしたら罪悪感で死ねる。
つまりやることは﹁女子寮への道を強行突破し、サラ・マリノフ
スカを女子寮まで送り届け、そして自分も撤退する﹂ということだ。
単純で良いね。
戦力は俺とサラ・マリノフスカの2人。
﹁相手は何人で誰なんです?﹂
﹁5人よ。ハゲ以外の男は知らないわ﹂
﹁ハゲは誰なんですか?﹂
37
﹁⋮⋮あなた知らないの?﹂
はて、有名人なのだろうか。
﹁第5学年のセンプ・タルノフスキ。法務尚書プラヴォ・タルノフ
スキ伯爵の四男よ﹂
﹁⋮⋮マジで?﹂
﹁私は嘘吐くの嫌いなの﹂
マリノフスカさんは、そうハッキリと言った。
尚書というのは、前世世界で言うところの大臣に相当する。あい
つの親父は法務大臣、ってことだ。
⋮⋮おいおい、俺らそんな奴に水やら火やらを投げつけたのかよ。
﹁ま、あんまり気にしなくてもいいわよ。所詮奴は四男。余程のこ
とがない限り爵位を継がないだろうし、尚書なんて器じゃない。そ
れに士官学校じゃ殴る蹴る魔術の投げ合いは日常茶飯事、伯爵もそ
のことは知ってるはず。毛根が燃え尽きたところでせいぜい﹃訓練
中の不幸な事故﹄ってことになるだけよ﹂
その﹁訓練中の不幸な事故﹂とやらを起こした責任を問われそう
な気もするんだけど。
カヴァレル
﹁詳しいね。もしかしてマリノフスカさんってお嬢様?﹂
﹁⋮⋮お嬢様って程じゃないわ。ただの騎士の娘だもの﹂
﹁ふーん?﹂
まぁ、深く聞くのはよそう。貴族の問題に平民の俺が首突っ込む
のは色々アカンしな。
38
﹁で、私達は結局どうすればいいのよ﹂
﹁そうだなー。とりあえず、女子寮通りがどうなってるか、偵察で
もしてみますか﹂
敵と戦う前は敵の情勢を知ることが基本だしね。
39
サラ・マリノフスカ撤退作戦 ︲前哨戦︲︵改︶
﹁敵部隊発見。1時方向、距離100⋮⋮ってとこかな﹂
﹁5人揃ってるわね﹂
﹁1人か2人を周囲に配置して索敵させたりしてなかったのは幸運
かな﹂
女子寮に続く並木道を偵察してみた結果、敵は今俺たちの居る場
所と女子寮のちょうど中間地点に陣取っている。
カーブが所々あるために外からは見えにくく女子寮からも判別つ
かない絶妙な位置取りだ。でも敵からは見えやすいってわけじゃな
いだろうし、それに油断してるようだ。
ま、当たり前か。入学したばっかの女子相手に本気になる奴の方
が変だよな。これぐらいやっときゃ大丈夫だろう、という慢心もあ
るだろう。
毛が
にしてもここから見た感じ目立った怪我ないな。すぐに火を消せ
たのか、もしくは治癒魔術が使える人がいるのか。
﹁で、どうする? 燃やす?﹂
﹁⋮⋮やめたほうがいいと思う﹂
さっきも言ったが、この通りは並木道だ。流れ弾が木に当たって
下手すりゃ大火事になる。さすがにそれは退学は免れないだろう。
ウォーターボール
水球ならせいぜい枝が折れるくらいで済むけど、100メートル
40
も離れてたら当たらないだろう。
威嚇ならともかくこの場合は当てなきゃ意味がない。あ、そうそ
う。言い忘れてたけどこの世界の度量衡も﹁メートル法﹂だったよ。
わかりやすくていいね。
﹁とりあえず下がって作戦を練りますか。日暮れまでまだ余裕があ
るし﹂
﹁わかったわ﹂
ハゲ
そう言って俺らはあの伯爵のご子息殿の集団から見えない位置、
並木道の終端にある広場まで後退した。
﹁で、どうするのよ﹂
彼女は例の木箱を脇に抱えつつ、やや高圧的な態度で聞いてくる。
イライラを隠せない様子だな。
﹁マリノフスカさんって何ができます?﹂
﹁え? 剣と弓と馬はそれなりにできるわよ。魔術は初級学校で習
ったやつだけ﹂
うーむ。これじゃ走って正面突破は無理かな。彼女がチートじみ
た能力を持ってるなら話は別だったけど、白兵戦能力がそれなりっ
てだけだとさすがに5対2はきつい。
しかも相手は上級生だからそれなりに剣の心得はあるだろう。
質でも量でも相手が上か⋮⋮こりゃ結構きついぞ?
⋮⋮んー、あの手で行けばうまくいくかもしれないけど⋮⋮些か
ハイリスクだな。
41
でも他に選択肢が思いつかない。やるしかないか。
﹁マリノフスカさん﹂
﹁なに?﹂
﹁作戦を思いつきました。私の言う通りに行動してください﹂
彼女は訝しげな視線を俺に突き刺した。まぁ会ったばかりの人間
を信用する方が可笑しいか。
﹁わかったわ。はやく説明して﹂
﹁えっ?﹂
信用しちゃうの? こんなにあっさり。
俺が困惑していると、彼女はちょっとイラついた表情をしていた。
﹁なんでさっさと説明しないのか﹂と言いたげな顔だ。
﹁なによその反応﹂
﹁あー、いやー⋮⋮。信用してくれるの? 会ったばかりだよね?﹂
﹁そうだけど、それが何か問題でもあるの?﹂
﹁大ありだと思いますけど⋮⋮﹂
だって会ったばかりだよ? 名前以外何も知らないと言っても良
い、他人だ。それをアッサリ信じる、と彼女は言っているのだ。
マリノフスカさん自体は﹁信用して当然だろう﹂という顔をして
いる。
むしろ﹁なんでそんなことも分からないの?﹂と言いたげな目も
向けてきた。
そして彼女は少し溜め息を吐くと、俺を信じる理由を話してくれ
42
た。
﹁私はあなたを信用するわ。確かにパッと見は貧弱そうだし、時々
言動が変だけど、本当に信用できない人ならここまでついてこない
でしょ﹂
﹁そう⋮⋮なのかな?﹂
突然裏切って身柄引き渡しとかしちゃうかもよ?
﹁それに、今はあなたを信じることが最善手。私にとっても、あな
たにとっても。違う?﹂
﹁⋮⋮違わない、かな﹂
﹁ハッキリしなさいよ﹂
信用してくれるのか。うん、なんか嬉しいな。
こういうのは両親以外じゃ初めてかもしれない。前世含めて。
よし、じゃあ行くか。
﹁作戦を説明するよ﹂
﹁えぇ、聞いてあげるわ!﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁にしても全然来ねーな。もしかしてもう女子寮にいんじゃね?﹂
43
オレの仲間でパシリの1人が、欠伸を噛み締めながらそう言った。
相変わらずこいつは緊張感がない。そんなんだからいつまでたっ
ても剣術の成績が上がらないんだろう。
﹁さっきも親分が説明したろ。あいつは女子寮とは反対方向に逃げ
た。まだ奴は女子寮にはいないはずだ。どうせそこらへんで油売っ
てんだろ﹂
雑用係がそれに反論する。こいつは優秀ではないが無能でもない。
ただオレに対してやけに媚びてくる。だいたい﹁親分﹂なんて呼ぶ
んじゃねぇよ。
まるでオレが不良みてーじゃねーか。
まわ
﹁ま、ひとりでノコノコ帰ってきたところを甚振りましょう。なん
なら輪姦しますか?﹂
﹁んなことしねーよ。万一バレたら面倒なことになる﹂
こいつは見た目こそ眉目秀麗だが、それに反してあくどいことを
平気で言う奴だ。オレらの中で一番の悪役はこいつだろうな。
そんなことをしても、法務尚書を父に持つオレの身が刑事罰を受
けることはないだろう。親父ならなんとか揉み消すことはできる。
だが妙な噂を立てられては貴族社会じゃ何かと不便になる可能性
があるし、第一オレが親父にいろいろ言われて面倒だ。
﹁ま、多少のお仕置きとやらをしなきゃならねーけどな。それが上
級生の義務ってやつだ﹂
﹁タルノの言う通りだな。あの小娘に礼儀というものを教えてやろ
う﹂
タルノ、というのはオレのあだ名だ。この国には﹁○○スキ﹂だ
44
の﹁○○スカ﹂って姓の奴が多くて面倒だからな。
そうだな。2、3発蹴り入れないと気が済まん。小娘だけじゃな
く後ろから水かけやがったあの小僧にも礼儀を教えんと⋮⋮。
﹁タルノ! 右正面!﹂
﹁ん?﹂
言われた方向を見てみる。あれは⋮⋮。
ウォーターボール
﹁水球だ! 2つ来るぞ!﹂
速度はあるが、どうやら遠くから撃ってきたようだ。避ける時間
ウォーターボール
は十分にあった。
水球は2つ。初級魔術は割と連射ができるが、1回につき1発し
か撃てない。
つまり、敵は2人だ。おそらくあの赤髪の小娘と、騎士気取りの
小僧だろうな。
﹁どうやらビビッて撃ってきたようだな。そんなんじゃ当たらねぇ
ぜ!﹂
﹁ウサギ狩りだ。一気に距離を詰めて袋叩きにするぞ!﹂
﹁おう!﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
45
﹁意外とはえーなあのハゲ!﹂
見た目に騙された! 恰幅がいいから太ってると思ったけど、あ
れプロレスラーの恰幅の良さだよ! こえーよ!
ウォーターボール
レスラーが全力疾走しながら仲間と交代で水球を連射する姿は下
手なホラー映画より怖い。
へ、へるぷみー!
だが残念ながら助けはない。今は当たらないよう神に祈りながら
逃げるだけだ。
﹁母なる大洋の神よ! 彼の者に其の力の片鱗を見せ給え!﹂
後ろから詠唱が聞こえてきた。⋮⋮詠唱? あ、それってまさか!
アクアキャノン
﹁死ねェ! 水砲弾!﹂
ウォーターボール
中級魔術だこれ!? まずい! てかガチギレじゃねーか!
アクアキャノン
中級魔術﹁水砲弾﹂。
ウォーターボール
アクアキャノン
初級魔術﹁水球﹂の正統進化魔術。水球がバスケットボール程度
大きさの水弾を射出するのに対して、水砲弾は1メートル程の大き
さの水の塊を高速で撃つ魔術⋮⋮らしい。
実物を見るのはこの時が初めてなのだ。
まぁわかりやすく言うと水でできた軽トラが敵目がけて突っ込む
46
イメージ。相手は死ぬ。
俺は咄嗟にその場で伏せる。この手の魔術は掌から射出する関係
上、地面すれすれの場所に隙間ができるのだ。
その判断が功を奏したのか、水塊は俺の上を通り越し、通りの木
を2、3本薙ぎ倒した。
すげー威力だ。士官候補生ともなれば中級魔術程度は誰でも使え
るってことか。
だが、伏せたおかげで敵に距離を縮められてしまった。もう30
もない。相手の表情どころか黒目がハッキリ視認できる距離だ。
ウォーターボール
とりあえず俺は後ろに向かってたまに水球を撃って敵を牽制しつ
つ、全力で逃げる。足には自信がないが、あとちょっとで目的地に
着く。
いくつかのカーブを曲がった後、視界が急に開けた。通りを抜け、
さっきまで作戦会議していた広場に到達した。
俺のすぐ後ろから追いかけてきたハゲ男たちも続々と広場に到着
した。敵は合わせて5人。
よし。うまくいった。
俺たちの勝ちだ。
47
サラ・マリノフスカ撤退作戦 ︲本戦︲︵改︶
﹁うーん⋮⋮随分派手にやってるわね⋮⋮﹂
目の前で繰り広げられている幼稚とも言える追いかけっこと薙ぎ
倒される木々に唖然としつつも、私は茂みに隠れながら息を潜める。
⋮⋮息を潜める必要はないんじゃないか、ってくらいあちらは大
変なことになっているが。
でももし万が一ばれたらユゼフ・ナントカの毛根が燃え尽きるか
もしれない。
別にあいつの毛根の生死なんて興味はないが、自分のせいでケガ
をされたら困る。
だから今の所は静かにしてよう。
私は足音を立てないよう慎重に、事前に言われた通りに行動する。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁あぁ? お前1人か?﹂
﹁俺が2人以上に見えますか?﹂
﹁チッ。てめぇは囮か。女は今頃女子寮ってことか﹂
48
うーん、意外とこのハゲ男頭回るね。いささか短慮すぎる気もす
るけど、そこはさすが5年生ってことかな。
﹁お前のその勇気に免じてやる﹂
﹁逃がしてくれるんですか?﹂
お、優しい。紳士だね。
﹁いや、20発くらい殴らせろ﹂
﹁あ、ですよね﹂
殺す、と言わないあたり社会的な風聞を気にしてるのかな。四男
とは言え、伯爵の息子って大変ですね。
はてさて、マリノフスカさんは上手くいったかな。
一方あのハゲ︱︱名前なんだっけ? タルタルソースさんだっけ
?︱︱はゴキゴキと指を鳴らしながら子分と共にこちらに近づいて
きている。
うーむ、任侠映画のワンシーンみたいだ。
⋮⋮ふむ。彼らとの距離はおよそ20メートルってとこかな。
﹁お前の負けだ。せいぜいあの世で後悔するんだな﹂
殺す気満々じゃねーか。
﹁お言葉ですが先輩、私は負けを認めていませんし、無論死ぬつも
りなんてありませんよ﹂
15メートル。
49
﹁あぁ? 何言ってるんだ﹂
10メートル。
﹁先輩の方こそ、寮に戻って反省会でもすべきです﹂
5メートル。
﹁何言ってるんだお前? オレのどこに反省する要素があるんだ?﹂
タル以下略先輩がゲラゲラと笑いながらそう質問してくる。
﹁それは勿論﹂
1メートル。
﹁信用できる仲間がいなかったこと、ですよ﹂
﹁あ?﹂
タルなんとか先輩は俺に何かを言う前に、悲鳴を上げた。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
︱︱15分前。
50
﹁作戦を説明するよ﹂
﹁えぇ、聞いてあげるわ!﹂
何かいい手を思いついたらしいナントカの目が輝いていた。心な
しか彼の顔も活き活きしているし、おそらく考えるのが好きなのだ
ろう。
ウォーターボール
﹁まずは、敵から150メートルくらい離れた場所から水球を俺と
マリノフスカさんで同時に撃つよ﹂
⋮⋮はい?
﹁でもそこから撃っても当たらないと思うわよ?﹂
﹁当てなくてもいいよ。あいつらが俺らに気付いて追いかけてもら
わなきゃいけないから﹂
何を言ってるんだこいつ? もしかして私って信用されてないの?
﹁あー⋮⋮、まぁ、そういう反応するのも無理はないね。順を追っ
て説明するよ﹂
﹁えぇ、ちゃんと、わかりやすく頼むわね﹂
そうでないと頭に入らない。
ウォーターボール
﹁えーっと、まず水球を撃ったらマリノフスカさんは適当な場所⋮
⋮通りの脇の茂みにでも隠れてほしい﹂
﹁あんたは?﹂
﹁俺は囮になってあいつらを女子寮から引き剥がす﹂
⋮⋮ブチッ。
51
私の頭の中で何かが切れた音がした。
﹁つまりあんたが囮になって走ってる間、私が女子寮に逃げ込め、
ってことね?﹂
はぁ、何を言い出すかと思えばこれか。これだから男は困る。自
己を犠牲にして女を守るのが最上級の正義だと思ってるのだ。
確かにそれで男に惚れる甘っちょろい女はいるだろうが、私は守
ってもらうのは嫌だ。なんのために、この学校にいると思ってる。
イライラする。よし、ここは数発殴って⋮⋮。
﹁いや、それだと困る﹂
握りかけた拳が空中で止まった。
え? どういうこと?
﹁君が逃げたら、せっかくの勝機も逃げてしまうよ﹂
うまいこと言ったつもりか。
﹁じゃあどうすればいいのよ?﹂
﹁簡単さ。あいつらの背後からこっそり近づいて欲しい﹂
えっーと、それってつまり⋮⋮?
﹁つまり、さっきとは立ち位置を変えるってこと﹂
52
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
タル先輩の背後には、どこで拾ったのかは知らないが木刀程の大
きさの木の棒を持った赤髪の少女が立っていた。
彼女は先輩の背後から首の後ろを思い切り殴ったのだ。うん、凄
い痛そう。
タル先輩は多少よろめきながらも振り返り、彼女の姿を確認する。
﹁てっ、めぇ⋮⋮!﹂
後ろからだからどんな顔してるかわからないが、口調から察する
に怒り6割、困惑4割と言ったところだろう。
他の面々も唐突な来客人の登場に驚き、振り返ってしまった。つ
まり俺に対して背を向けたのだ。
彼女の方は特に何も言うこともなく、ハゲに向かってさらなる攻
撃を加える。
先輩がまだよろめいている隙に、彼女はまず鳩尾を一突き。前傾
姿勢になったところで、棒を振りかざし後頭部にさらなる一撃。意
識朦朧となってふらつく先輩に、トドメと言わんばかりに股間を思
いっ切り蹴り上げた。
⋮⋮なぜだろう。俺が蹴られたわけじゃないのに股間が縮こまっ
ている。
53
うずくま
このわずか数秒でリーダー格のタル先輩は完全にノックアウト。
その場で蹲り、動かなくなってしまった。
死んではいないと思うが、死ぬほど痛い思いをしてるだろう。
周りの取り巻きも状況を完全に呑み込めずにいるようだ。俺の事
なんてたぶん頭にないな。
仕方ない先輩たちだ。思い出させてやろう。
ウォーターボール
俺はハゲの右隣にいる、いかにも下っ端雰囲気を醸し出してる男
の後頭部に至近距離で水球を放った。
命中の瞬間﹁ドゴン﹂と綺麗な音がした。これだけ近いと威力が
凄まじいので脳震盪起こして失神するだろう。最悪頭蓋骨が割れて
るかもしれないが、その程度なら医務室に行きゃ治るでしょ。この
世界の治癒魔術がどの程度のものか知らないけど。
﹁後ろにも気を配った方が良いですよ!﹂
俺がそう言うと、残りの敵の注意が一斉にこちらに向いた。混乱
してるってのもあるだろうけど、単純だなお前ら。
﹁こっちも気をつけなさい!﹂
さらにマリノフスカさんが声を荒げる。その声に反応した割とイ
ケメンの一人がマリノフスカさんに向き直⋮⋮れなかった。
振り向いてる最中に彼女が棒を野球のバットみたいにフルスイン
グしたのである。おかげでその男は顔面に攻撃を受けてしまった。
ほら、アレだよ。顔面セーフだ問題ない。
54
戦闘開始十数秒にして決着はついた。リーダー格のハゲとその仲
間たち2人が戦闘不能になり、残りの2人はビビッてどっかに逃げ
てしまった。
マリノフスカさんは追撃しようとしたが、止めておいた。これ以
上は過剰防衛だし、逆撃を食らってしまう可能性もある。
俺が制止すると、彼女は一瞬不満気な表情をしたものの、納得し
たのか足元で顔面を両手で覆って呻き声を上げている男の腹を蹴っ
た。容赦ないな。
ともあれ、俺らは勝ったのだ。上手くいってよかった。
55
そんなエサには︵改︶
のぶせ
﹁釣り野伏﹂という戦法がある。日本の戦国武将島津義弘が使用
した戦法だ。
まずある部隊が敵の前面に躍り出て攻撃、その後負けたふりして
逃げる。
勝った気になった敵は追撃戦を開始し、前進する。そして敵を自
軍にとって優位な地点にまで誘い込み、そこで隠れていた兵と共に
敵を包囲殲滅する⋮⋮という戦法だ。
今回はこの戦法を使ってみた。
ウォーターボール
最初に水球で挑発する。この時マリノフスカさんと一緒に攻撃し、
彼女だけ一時的に隠れ、俺が全力で逃げる。
こうすることによって敵は﹁あいつらは2人で逃げてる﹂と錯覚
しやすくなる。
それにガチギレして周りが見えなくなってる集団だったから、錯
覚しやすくなった⋮⋮と思う。
あとは広場でマリノフスカさんと俺で不意打ちのし合い、3人を
戦闘不能にした。こちらの被害はなし。完全勝利と言ってもいいだ
ろう。
そんなようなことを、女子寮へ向かう道中で彼女に説明した。
﹁ふーん⋮⋮。こうして聞いてみると結構単純な作戦なのね﹂
56
まったくもってその通り。考えるとバカバカしくなってしまうく
らい幼稚な戦法なのだ。
この戦法、説明するのは簡単だけど実行するとなるととても大変
である。
仮に、敵が周囲を偵察する人間を配置していたら? 敵に状況を
冷静に判断できる人間がいたら? 俺が逃げるよりも速い人間がい
たら?
もしそうだったらこの作戦は失敗してた。20回殴られた後毛根
を燃やし尽くされただろう。
今回はたまたま相手が﹁そんなエサに釣られるクマー!﹂な人間
たちだったから、そして信頼できる味方がいたから理想的な釣り野
伏ができたのだ。
﹁それで、もう一つ聞きたいことがあるんだけど﹂
﹁なんでございましょう?﹂
﹁私たち、なんでコレ運んでるわけ?﹂
ハゲ
コレ、というのは今俺たちが引き摺りながら運んでいる気絶した
人のことである。
﹁まぁ、これからの事もあるしね﹂
﹁これから?﹂
こんな怒りっぽい人、あの場で放っておいたらどうなるか。絶対
に復讐しようとするに決まってる。さらに厄介な仲間を集めるかも
しれない。
57
法務尚書の息子として厄介な圧力をかけてくるかもしれない。
というわけで、そんな事をさせる前に手を打つ。
なんだかんだと会話しているうちに女子寮の入り口前についた。
男が来れるのはここまでだ。これ以上先に進めるのは女性だけ、と
いう校則があったはず。
あー、でも俺今日入学したばっかの10歳児だからそんなこと知
らないやー。
﹁ち、ちょっと! 何勝手に入ってるのよ! あんた変態なの!?﹂
マリノフスカさんが必死に止めてくる。止める前にこの人ハゲ運
ぶの手伝ってくれませんかね。一人じゃさすがに無理だ。
へんたい
﹁変態ではありません。仮にそうだとしても変態と言う名の紳士で
す﹂
﹁意味が分からないわよ!﹂
やま
駄目か。いや俺は疾しい気持ちがあって女子寮に侵入したんじゃ
ない。女子寮に夜這いを仕掛けるのはもっと後にしたい。
﹁マリノフスカさん、縄か何かありますか? この人を暫く拘束で
きるのを﹂
﹁⋮⋮えっ? 変態だと思ったらもしかしてそっちの趣味だったの
?﹂
﹁いい加減変態から離れてください﹂
俺はホモでもサディストでもない。
58
マリノフスカさんは訝しげな視線を俺に投げつつも、縄をどこか
らか持ってきてくれた。
﹁で、どういうことなの?﹂
﹁いえ、この人を暫く女子寮に放置しておこうかと思って﹂
﹁はい?﹂
うん、わかってくれないか。
﹁分かりやすく言うとこの人には変態になってもらいます﹂
﹁変態ってならせられるものなの?﹂
出来るんじゃない? 薄い本じゃよくある展開だ。
それはさておき。
﹁もうちょっとわかりやすく言ってくれない?﹂
﹁あぁ、それはですね。この人はなんと! か弱い女子を襲う目的
で女子寮に侵入したんですよ! とんでもない変態ですね!﹂
﹁⋮⋮ハァ!?﹂
つまりはこういうことである。
この人ハゲは放っておくと面倒な存在だ。復讐するために変なこ
とされたら無力な俺らはたちまち潰される。じゃあ潰される前に潰
すしかないじゃないか。
と言う訳でこの人は女子寮侵入という規則違反をした変態として
学校中で噂になってもらいたい。上手くいけばそのまま退学してく
れる。
お父さんが法務尚書だと刑事罰はいくらでも揉み消すことができ
59
そうだけど、風聞とかそういうのは消すのは難しいからね。
⋮⋮うん、良心の呵責がないわけじゃないんだ。けどそれ以外方
暴力女子
法が思いつかない。それにこいつ自身に非がないわけじゃない。
か弱い女子を複数の男で壁際に追い詰めていじめてたのだし。広
場にいた残りの面子はどうしようか、とも思ったけど2人で運べる
のはこのハゲ1人が限界だ。
見せしめに1人が変態、もとい人柱になれば大人しくなるだろ、
ってことで。
﹁⋮⋮﹂
もう一方の当事者であるマリノフスカさんは面白い顔をしていた。
こういうのなんていうんだったけな。あ、そうそう。
﹁鳩が豆食ってポーみたいな顔してますね﹂
﹁⋮⋮あ?﹂
あれ? 違ったっけ? まぁいいや。
さて、こいつはもう縄で縛ったし、俺も変態と勘違いされる前に
自分の寮に戻るかな。
﹁あとのことはマリノフスカさんにお任せします。また明日、教室
でお会いしましょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あのー?﹂
なぜか彼女からの返事がなかった。もしかして怒ってるのかな?
なんか顔が真っ赤だし。
60
﹁⋮⋮え﹂
﹁はい?﹂
﹁名前!﹂
﹁名前? 間違ってました?﹂
﹁そうじゃなくて、いい加減その﹃マリノフスカさん﹄って言うの
禁止!﹂
﹁⋮⋮なぜです?﹂
﹁気に入らないからよ!﹂
はぁ⋮⋮。よくわからん奴だ。
﹁じゃあなんとお呼びすれば?﹂
﹁普通にサラって呼んで。あとその気持ち悪い敬語も禁止で﹂
﹁禁止が多すぎませんか﹂
﹁禁止﹂
﹁あのー、マリノ﹂
﹁禁止﹂
痛い痛い痛い肩そんなに掴まないで折れるから!
﹁わかったわかったマ⋮サラさん離して! 骨が折れる!﹂
﹁さん付けも禁止!﹂
﹁また禁止!?﹂
﹁いいから!﹂
﹁サラ!﹂
﹁よろしい﹂
彼女はそう言うと、やっと俺の肩を解放してくれた。骨にヒビ入
ったかもしれない⋮⋮。
61
﹁じゃ、私はあんたのことユゼフって呼ぶから﹂
﹁どうぞごじゆうに⋮⋮﹂
ここで文句言ったら本当に骨を折られそうだ。
﹁じゃ、明日からよろしくね。ユゼフ﹂
﹁はい⋮⋮よろしく、サラ﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁おーい、サラー? サラさーん? 生きてるー?﹂
⋮⋮ハッ。いけないいけない。何やってたっけ私?
﹁サラさーん?﹂
とりあえず隣の馬に乗るのが下手な奴は殴っとこう。
﹁だから、さん付けは禁止って言ってるでしょ!﹂
ボコッ、と癖になりそうなくらい良い音が鳴った。
2つの意味で、私はユゼフに救われた。
62
上級生からの集団暴行の危機にあった状況から救い出されたのが
1つ。
そして、漠然とした不安に苛まれていた状況から救い出されたの
が、もう1つだ。
たぶんこの時に初めて、私は大切な人の為に戦うという事を知っ
たのだと思う。
63
大陸史 その1︵改︶
かつてこの大陸は、ひとつの帝国によって統治されていた。
その国家の名は﹁大陸帝国﹂。
単純すぎない? もうちょっといい名前なかったの?
でも、この直球な名前の帝国の実力はとてつもないものだった。
大陸帝国登場以前のこの大陸は、100以上の国と地域に分かれ
ており、そして戦乱に明け暮れていた。
大陸帝国の初代皇帝ボリス・ロマノフは、自身の類稀なる軍事的
センスによって大陸に存在した100以上ある国をすべて滅ぼした
のである。やばい。
さらにこのチートじみた力を持つ国家は、国を滅ぼすだけでは満
足しなかった。
大陸にあった100以上の言語や方言を、すべて絶滅させたので
ある。どんだけだよ。
無論反発もあった。
だが、反乱が起きるたびに強大な軍事力と経済力で押しつぶした。
結果、大陸統一後100年で殆どの言語絶滅を達成し、大陸の言
語は大陸帝国の公用語である﹁帝国語﹂に統一された。無論、今の
俺もこの﹁帝国語﹂を使っている。
⋮⋮ただ完全なる言語絶滅は成し遂げられず、一部の言語は細々
と伝承され続け、今でも少しだけ使われている。例えば個人の名前
64
とかちょっとした言い回しとかね。
さて、大陸帝国は国を統一し、言語を統一した。それだけでは飽
き足らず、宗教の統一、統一度量衡﹁メートル法﹂の作成、統一の
暦である﹁大陸暦﹂を採用するなど、様々な同化政策が行われてい
った。
ちなみに大陸暦元年は帝国による大陸統一時⋮⋮ではなく、第2
0代皇帝の即位年だそうだ。なんでも第19代皇帝が子供に暦をプ
レゼントしたいと考えたからだとか。
こうした統一政策の成果が上がったのか、大陸帝国内の内情は安
定する。黄金時代の到来だ。戦争もなく、大した災害もなく、飢饉
もなく、人々は平和に暮らしたとされる。
しかしそんな黄金時代に一つの小さな影が落ちた。第32代皇帝
⋮⋮の子供の問題である。
第32代皇帝アレクサンドル・ロマノフは、3人の子供を設けた。
しかも3つ子で。3人の子供の名前は生まれた順に、長女オリガ、
長男マリュータ、次男ゲオルギ。
そして、帝位継承権問題で揉めに揉めた。一応生まれた順番で帝
位継承権が付与されたものの、宮廷内闘争の火種となった。
理由としては、大陸帝国には女帝というものが今までいなかった
からである。
皇帝は男子でなければならない、という規定はなかった。だが女
帝という前例はなかった。
65
無論これまでにも女子が長子だったことはある。だがこの世界で
も男尊女卑的な考えはあったため、長子である女子が﹁帝位継ぐの
って男系男子だよね?﹂っていう周囲の認識に負けてしまったので
ある。弟に帝位継承権を譲ったり、または他の貴族と結婚してロマ
ノフの姓を捨てたりするのが普通だったのだ。
でも長女オリガは違った。帝位継承権第一位の座を弟のマリュー
タに頑として譲らず、皇帝に相応しくなろうと必死に勉強したので
ある。そう言った努力の甲斐あってか、﹁オリガが帝国初の女帝で
もいいかも﹂と思い始めた貴族も多くなった。
でもそれを快く思わない者もいる。その筆頭がマリュータだった。
そのため長女オリガと長男マリュータは非常に仲が悪かったとされ
る。
ろうかい
この事態を憂慮した皇帝アレクサンドルは老獪な方法でこれを解
消しようと考えた。
まず我が子の帝位継承権をいったん剥奪し、そしてこう述べた。
﹁今からお前らに役職を与える。そして優秀だと判断した者から順
番に帝位継承権を与える。期間は大陸暦290年1月1日から29
9年12月31日までだ。文句を言うことは許さん﹂
だいたいこんな感じ。本当はもっと古めかしくて長ったらしい言
葉だったらしいけど。
長女オリガは、大陸西端の辺境地域の総督を任せられた。
長男マリュータは、帝国の国務大臣に任命された。
そして帝位継承する気がさらさらなかった次男ゲオルギは、大陸
66
南部の地域の総督を任せられたのである。
ひとりだけ総督じゃなくて大臣になった理由はわからん。文句言
うことは許さんってお父さん言ってたし。
で、だ。
この3人は帝位継承権を巡って競うかのように内政改革を行った。
長女オリガは、単なる辺境だった大陸西端地域を開拓し、そこを
帝国でも随一の経済力を持つ領地にさせた。
長男マリュータは、平和な時代の中で腐敗しきっていた軍の綱紀
を粛正し、軍政改革を行い、大陸帝国軍を、初代皇帝ボリス・ロマ
ノフ時代のような精強な軍へと若返らせた。
次男ゲオルギは、魔術の研究に力を入れ、今日使われている魔術
理論の礎を作った。
三人の子供のおかげで、帝国は新たな黄金時代を迎えようとして
いた⋮⋮かに見えた。
大陸暦299年12月9日。
大陸帝国の帝都ツァーリグラードでちょっとした事故が起きた。
とある老人が落馬して死亡したのだ。落馬事故そのものはこの大陸
では日常茶飯事だ。珍しい話じゃない。
死亡した老人の名前がアレクサンドル・ロマノフという点以外は。
皇帝アレクサンドルは後継者を決めぬまま崩御した。
その結果、後継者問題が再び噴出したのである。
しかも帝位継承権を持つ者は、皇帝崩御時点では誰もいなかった。
67
宮廷内は、荒れに荒れた。有力貴族が突如原因不明の病に侵され
たり、謎の事故によって死亡するなどの事態が相次いだ。また皇帝
が長期間不在となったことにより、国政が混乱した。
三人の皇女と皇子の仲の悪さが、これらの悲劇に拍車をかけた。
大陸暦300年8月、国務大臣マリュータ・ロマノフは、オリガ・
ロマノワとゲオルギ・ロマノフの総督職を剥奪し、即時帝都帰還命
令を布告した。
当然、オリガとゲオルギの暗殺を目論んだマリュータの策略なの
だが、こんなバレバレな策に乗っかるバカな奴はいなかった。
オリガは、マリュータを宮廷内で多発する暗殺事件の首謀者とし
て告発した。
ゲオルギは、オリガの不正を暴露し﹁彼女は皇帝たる人格的資格
がない﹂と発言した。
それを機に三人が三人を非難し合った。大陸帝国全土を巻き込ん
だ口喧嘩の開始である。すげえ迷惑な話だ。
無論、どれが本当なのかは今となってはわからない。全部本当だ
ったかもしれないし、あるいは全部嘘だったかもしれない。
こうして三人の皇子皇女の分裂は決定的となり、それが大陸帝国
初の内戦へと発展したのである。
−−−
68
﹁と言うのが東にあるでっかいお隣さんの黒歴史なんだけど、わか
った?﹂
﹁長くてよくわかんないかったわ﹂
﹁⋮⋮サラならそう言うと思ったよ﹂
69
帝都ツァーリグラードの日常︵改︶
シレジア王国の東隣に位置するのは﹁東大陸帝国﹂と言う名の超
大国。
大陸帝国を正当に継承した国家︵自称︶であり、現在は第59代
皇帝イヴァンⅦ世が統治している。
大陸の中で随一の人口を誇り、故に軍隊の数も相当ある。いざ戦
争となれば、兵士が津波のように押し寄せてくる。
東大陸帝国は、周辺国にとってかなりの脅威なのである。
◇ ◇
﹁失礼します。皇帝官房長閣下がお見えになっています﹂
﹁ベンケンドルフ伯が? 私に何の用かね?﹂
﹁いえ。ただ﹃例の件でお話がある﹄と﹂
﹁ふーむ⋮⋮。わかった、通せ﹂
﹁ハッ!﹂
ここは帝国軍事大臣執務室。その執務机に座っているのは、軍事
大臣アレクセイ・レディゲル侯爵である。
レディゲル侯は軍務大臣であると同時に、帝国軍大将の地位にあ
る。
70
﹁軍事大臣閣下、ご機嫌麗しゅう﹂
・・・・・・・・・
来客者の名は、モデスト・ベンケンドルフ伯爵。皇帝直属の行政
機関である皇帝官房の長官であり、そして⋮⋮
・
﹁面倒な挨拶はどうでもいい。話とは何かな、皇帝官房治安維持局
長殿﹂
皇帝官房治安維持局、それは東大陸帝国に存在する唯一の政治秘
密警察である。
﹁はい。実は閣下のお耳に入れたいお話があります﹂
﹁なんだね?﹂
レディゲルがそう問うと、ベンケンドルフは懐からある書簡を提
出した。
﹁⋮⋮﹂
﹁いかがですかな?﹂
その書簡には、ある隣国のある情報が記載されていた。
﹁興味深い情報だが⋮⋮これは確かかね?﹂
﹁まず、間違いはございません﹂
レディゲルは熟考した。この情報が本当であれば、東大陸帝国に
小さくない影響が出る。その影響が、将来帝国にとって悪い状況を
生み出す可能性もあった。
﹁何らかの対策をしなければならんな﹂
71
﹁はい。しかし、軍事介入が出来ないのは閣下もご存じの通りです﹂
現在の東大陸帝国内は少し混乱している。昨年に起きた飢饉と、
それによって生じた各地の反乱でかなりのダメージがある。とても
じゃないが外征をする余裕がない。
﹁だが、このまま放置もできんだろう﹂
﹁えぇ。ですから閣下にご提案がございます﹂
ベンケンドルフの出した提案は、レディゲルが熟慮の上に承認さ
れた。無論、他の部署には内密にである。この事実を知るのは、皇
帝陛下と軍事大臣、そして治安維持局の人間だけである。
﹁それでは、失礼します﹂
﹁あぁ、ご苦労だった皇帝官房長官殿。また会おう﹂
ベンケンドルフが退出した後、レディゲルは立ち上がり窓の外を
眺めた。
軍事省庁舎は、帝都ツァーリグラードの中心地にある。帝国の中
でも裕福な人間が住む土地だ。
しかし、それでも浮浪者の姿が目立つ。
豪奢な貴族の馬車が通り過ぎる脇に、物乞いの子供の姿が見えた。
﹁⋮⋮ふんっ﹂
軍事大臣はカーテンを閉め、執務を再開した。
72
大陸史 その2︵改︶
年頃の女の子と二人きりでお勉強会。心躍るものがある。
ただしエロい意味はない。
﹁で、結局その壮大な兄弟喧嘩はどうなったのよ﹂
俺とサラは放課後に自主練・勉強会をするのが日課になっている。
1日ずつ交替で、昨日はサラが馬術を教えてくれた。
今日は俺の担当、戦史の授業。しかし、サラは基本的な大陸史す
ら理解してなかったようなのでそっから教えている。初級学校でお
前は何を習ったんだ。
今回は俺らが住むシレジア王国ができる前、大陸帝国時代の歴史
のおさらい。大陸帝国末期時代は戦史的にも文化的にも重要な時代
だ。
﹁んー、まずは大陸帝国を名乗る国が3つできたね。自分こそが正
統な第33代皇帝だ! とかなんとか言って﹂
﹁3つとも同じ国なんて紛らわしいわね﹂
﹁そうだね。だからそれぞれ﹃西大陸帝国﹄﹃東大陸帝国﹄﹃南大
陸帝国﹄って当時から呼び分けてたみたい﹂
西大陸帝国は前世で言う所のイベリア半島+フランス、南大陸帝
国はアナトリア半島+中東に位置していた。東大陸帝国はそれ以外
全部。でかい。
73
﹁その3つの国は戦争したの?﹂
﹁したと言えばしたかな﹂
﹁は?﹂
ここら辺の事情は割と複雑だからなぁ。サラにもわかりやすく説
明するのは大変だ。
﹁まず、3人の皇帝はそれぞれの皇帝に対して非難声明を出したよ
ね?﹂
﹁えぇ。確か⋮⋮マナントカが姉と弟を召還しようとして、それに
対して姉が﹃お前が暗殺犯だー!﹄とかなんとか言って⋮⋮んで、
末っ子が不正を告発したんだっけ?﹂
﹁そう。でもその後、末っ子は姉に対する不正告発を撤回してるん
だ﹂
﹁⋮⋮仲直りでもしたの?﹂
﹁いいや。相変わらず仲悪かった﹂
﹁???﹂
わからないか。
まぁわからないよな。俺も最初意味わかんなかったし。
ゲオルギ・ロマノフが統治する南大陸帝国は、非常に短い期間だ
け存在した短命国家である。
3人の皇帝が互いを非難しあったのは大陸暦300年8月。その
時に南大陸帝国が誕生したと仮定すると、滅亡したのはその僅か半
年後の301年2月だ。
﹁ゲオルギは大陸帝国皇帝の座を捨てて、独立宣言をしたんだよ﹂
﹁⋮⋮それに何の意味があるのよ﹂
﹁西大陸帝国と共同戦線⋮⋮要は同盟が組める﹂
74
﹁?﹂
つまり、3人が3人とも大陸帝国皇帝を名乗ったんじゃ政治的妥
協なんてものはできない。しかし分裂時点では東大陸帝国が圧倒的
に経済力も軍事力も上だったから、西南大陸帝国が手を握って共同
で対処しないといけない⋮⋮とゲオルギは考えたそうだ。
そもそもゲオルギは皇帝にはなりたくなかったみたいだしね。魔
術研究に力を入れていたみたいだし、研究家になりたかったのかも。
あくまで想像だけど。
だけどそういうこともあってか、西大陸帝国皇帝オリガはこの独
立宣言を承認し来たる脅威に対して共同で対処すると約束した。
ただし条件付きで。
﹁条件って?﹂
﹁改名すること﹂
﹁何を?﹂
﹁国の名前と、ゲオルギの姓名﹂
いつまでも大陸帝国って名乗られても困るし、お前はもう私の弟
じゃねぇ! って意味だ。
ゲオルギはその条件を受け入れ、改名する。
新国家﹁キリス第二帝国﹂の誕生である。初代皇帝の名はゲオル
ギオス・アナトリコン。
﹁聞いたことあるわ!﹂
﹁聞いたことないと困るんだけど﹂
75
今でもこの国あるしな。
﹁ていうか﹃第二﹄って何? 第一があるの?﹂
﹁勿論。大陸帝国が大陸を統一する前に存在してた国のひとつさ﹂
と言っても領土は都市国家レベルの小ささだったらしいが。
ちなみにゲオルギオスというのはゲオルギの古代キリス語読みで、
アナトリコンは地域名だ。
﹁で、ついに戦争?﹂
﹁うん。最初に戦端を開いたのはキリス第二帝国だね﹂
時に大陸暦302年、キリスは東大陸帝国に対して先制攻撃を仕
掛けた。
ゲオルギオスの基礎魔術研究の成果か、キリスの魔術兵集団は東
大陸帝国のそれより精強だったらしい。
この戦争に対し、西大陸帝国は人員や物資を提供し、キリスの進
撃を支えた。それと同時に、ある工作もした。
﹁西大陸帝国は、東大陸帝国内各地にいる反動分子や不平派を糾合
して反乱を起こさせたんだ﹂
西大陸帝国はオリガの内政改革と経済政策のおかげで、かなりの
経済力があった。それを東大陸帝国の反政府組織にばら撒いたのだ。
これ、戦略的にはかなりえげつない方法だ。
﹁どういう意味があるの?﹂
﹁まず、各地の反乱を鎮圧するために軍を動員せざるを得なくなる。
76
国内全土にね﹂
キリスの進撃を必死で支えてる間に背後からゲリラ組織が近づい
て突き殺す、なんて東大陸帝国軍にとっちゃ悪夢だ。
そのゲリラ鎮圧のために軍を使えば前線を支える部隊に補充がで
きなくなる。困ったことに鎮圧部隊が丸ごと反乱を起こす時もあっ
た。
ゲリラを鎮圧するために鎮圧部隊を送ったらその鎮圧部隊が反乱
を起こし、その鎮圧部隊を鎮圧するために前線から兵を抽出し鎮圧
させようとしたら、キリス軍の攻勢作戦が始まり戦線が崩壊した。
なんて笑うに笑えないコントみたいな事件も起きている。
そしてさらに軍を混乱させることが起きる。
﹁いくつかの貴族領が、独立を宣言したんだよ﹂
﹁もしかして、シレジア王国もそのひとつ?﹂
﹁正解。東大陸帝国から独立した最後の国だけどね﹂
思い出してほしい。キリス第二帝国の宣戦布告は大陸暦302年、
そしてシレジア王国が独立したのは大陸暦452年だ。
つまり150年の間、東大陸帝国は反乱、ゲリラ、パルチザン、
独立戦争祭りだったのである。
悪夢だ。
おかげで数百年間の黄金時代の貯金を、この150年の暗黒時代
にすべて使い切ってしまった。それどころか借金もした。軍事力も
経済力もゴッソリと削られて、国は困窮した。
77
そしてそんな貧乏国を見限って独立運動やら亡命やらが相次ぎ、
さらに衰退した。
﹁なんだか可哀そうになってくるわね⋮⋮﹂
東大陸帝国民には同情の念を禁じ得ない。皇帝はどうでもいい。
﹁安心して、この東大陸帝国破滅の時代はもう終息し始めてるから﹂
﹁え? そうなの?﹂
誰にとっての不幸かは知らないが、東大陸帝国の内情は安定しつ
つあるらしい。無論反乱はまだあるが、以前と比べたら全然マシに
なった。
東大陸帝国第55代皇帝パーヴェルⅢ世の内政改革と外交政策が
成功したからだ。
﹁何をしたの?﹂
﹁農政改革と産業振興、それと独立の承認かな﹂
﹁独立承認って単なる敗北宣言だと思うんだけど⋮⋮﹂
﹁まぁ、そう思われても無理はない。でもちゃんと意味のあること
だよ﹂
独立を承認して、長い内戦を終わらせた。
独立国家との関係回復によって経済交流を活発化させ、それによ
って経済復興を成し遂げたのである。
この﹁独立承認にして貿易した方が良いんじゃね?﹂という案は
パーヴェルⅢ世以前の皇帝も考えなかったわけじゃない。
ただ、事実上の敗北宣言であるところの独立承認という決断をす
る勇気がなかったのだ。
78
結果的に、貿易によって経済振興を成し遂げて国民が飢えること
はなくなった。今でも裕福な暮らしをしているとは言えないが、帝
国にとって最悪の時期に比べてたら全然マシなのである。
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁頭が混乱してきた﹂
ふむ、少し長く喋りすぎたか。サラの脳内容量も限界のようだし、
今日はこれまでにするか。
﹁じゃ、今日は解散だね﹂
﹁そうね。明日は剣術の授業よ。ビシバシと鍛えてやるわ﹂
﹁お手柔らかに﹂
﹁するわけないでしょ。今日の仕返ししてやるんだからね!﹂
⋮⋮明後日からはもうちょっとハードル下げた方がいいみたいだ。
79
剣の意義︵改︶
﹁女みたいに立たないで気持ち悪い! 右足角度つけ過ぎ! それ
じゃ蟹股じゃないの!﹂
﹁あ、あのー、サラさん? もうちょっと手加減し﹂
﹁さん付けするな!﹂
サラは俺が間違いをするたびに︵そしてさん付けするたびに︶手
に持ってる練習用の木剣で殴りつけてくる。
それだけで済めばまだ良い方で、たまに火球も飛んでくる。怖い。
今服脱いだら俺の体は痣だらけになってることだろうな。金属剣
じゃないところがまだ優しい、と思うべきなのだろうか。
﹁ったく、そんなんじゃそこらへんの雑兵にも勝てないわよ。ホン
ト、あんたって貧弱ね﹂
ぐぬぬ。戦史や戦術の居残り授業じゃひぃひぃ言ってたくせに⋮
⋮。よし決めた。
明日の戦術の勉強会は手加減しない。ついでに鞭でも持って行く
か。
﹁まぁいいわ。15分休憩。終わったらまた基本の型の練習ね﹂
やっと休憩が貰えた。1時間程の訓練だったが、体感的には10
分くらいしか経過していないような気がする。
そして早くもあちこちで筋肉痛が起きてる。15分と言わず15
時間くらい休憩くれないかしら。
80
﹁⋮⋮で、今これなにやってんの﹂
俺とサラは練兵場の端で体育座りをして休んでいた。隣り合わせ
で。なんだろう⋮⋮この胸の高鳴りは⋮⋮? もしかして、心不全
!?
んなわけねーです。緊張してます。サラさん近いです。
﹁なにって、決まってるでしょ。稽古﹂
﹁いや、そういう意味じゃなくて、なんのための型なわけこれ?﹂
さっきからミッチリ基本型を教わっているのだが、一体全体これ
がなんの役に立つのだろうか。
いや、基本が大事なのはわかるけど⋮⋮やけに古風な構えが多い
気がする。剣術を知ってるわけじゃないから何とも言えんけど。
﹁あぁ、そういう意味。⋮⋮言ってなかったっけ?﹂
﹁とりあえず俺は聞いてない﹂
俺が聞いてないから言ってないのと同じだ。
﹁今は、剣による一対一の決闘で使える型を練習してるわ﹂
⋮⋮なんと古風な。俺は文字通り、開いた口が塞がらないといっ
た顔をしていた。
﹁まぁ、言いたいことはわかってるつもりよ。実際の戦場で決闘な
んて起きないから無意味って言いたいんでしょ﹂
81
よくお分かりで。戦場で指揮官が決闘挑まれた時点でいろいろ終
わってる。
﹁でも問題ないわ。私を信じて頂戴﹂
﹁信じる前に説明してくれるとありがたいんだけど⋮⋮﹂
まぁ信じてるけどさ。間違ったことしてないって。
﹁説明⋮⋮うん、説明ね⋮⋮。説明は苦手だわ⋮⋮﹂
﹁知ってる。大丈夫だ翻訳するから﹂
﹁翻訳って⋮⋮まぁいいわ。頑張って説明する﹂
俺も頑張って翻訳します。ちなみにこの大陸は帝国語以外の他の
言語が死滅したため﹁翻訳﹂なんて言葉は殆ど死語になっている。
﹁えーっと、今やってるのは決闘の練習なのよ﹂
﹁その心は?﹂
﹁剣術の期末試験が決闘方式なの﹂
ふむ。なるほど。
中間試験は型を見せて先生と軽く手合わせする程度だったからな。
﹁決闘で一本取れれば合格?﹂
﹁まぁね。一本取れなくても基礎ができてれば60点以上は取れる
わ﹂
なるほど、そのための練習か。
﹁それでね。第5学年剣兵科の下半期末の試験、つまり卒業試験は
決闘相手が3人いるのよ﹂
82
剣兵科、というのはこの士官学校に設置されてる学科である。2
年になったら学生が好きに選んでいい。
詳しい話は後日の事としといて、今は卒業試験の話だ。
﹁3人? 1人は先生として、あと2人は?﹂
﹁1人は、酔っぱらった先生﹂
⋮⋮えっ?
﹁冗談だろ?﹂
﹁私は嘘吐くの嫌いなの﹂
ってことは本当ってことなの? え、マジで? 先生ったら試験
中にも酒が飲みたいほど好きなの? 依存症か何かかしら。
はよ、説明はよ! とりあえず目で訴えてみる。
﹁そんなにぐいぐい来なくても教えるわよ⋮⋮。えーとね、確か酔
っぱらうのは、戦場に立って興奮状態になって色々見境がつかなく
なってる敵兵を再現するためなの﹂
﹁ふむ? つまり?﹂
﹁人間、戦場で正気を保ってられる人は少ないわ。特に徴兵された
農民はね﹂
﹁その正気を失って錯乱状態になってる兵士を倒す試験ってこと?﹂
﹁そういうこと。錯乱した兵士は攻撃一辺倒で、死を恐れずに突撃
してくる。そういう相手をうまくいなしてこそ一流の剣士になれる
⋮⋮ってお父さんが言ってたわ﹂
﹁ちなみにお父さんは一流の剣士だったの?﹂
﹁父親としては二流だったわ﹂
83
さいですか。
サラは、喉が疲れたのか咳き込んだ。思い出してみれば彼女がこ
んなにも長く喋ってるのを初めて見る気がする。
しかも内容が割と真面目だ。こいつは本当にサラなのか。中身だ
け別人になっていても驚かないぞ。
﹁で、最期の3人目の試験官は?﹂
﹁死刑囚よ﹂
⋮⋮はい?
﹁死刑囚を、殺すのよ﹂
えっ?
﹁え、ちょ、あの、えっ? 本当に?﹂
﹁言ったでしょ。私は冗談が嫌いなの﹂
⋮⋮それは、何というか、突拍子もないというか。
﹁私も最初聞いた時はびっくりしたわ。でもね、すぐに納得したの﹂
﹁どうして?﹂
﹁だって、ここは士官学校よ? 人殺し養成機関なのよ?﹂
人殺し養成機関は語弊があると思うが⋮⋮、でも言わんとしたこ
とはわかる。
﹁私たちは卒業したら、軍人になる。指揮官として戦場に立つ。そ
の時、敵兵を殺すのを躊躇うことは許されない。なぜなら、部下を
84
死なせてしまうかもしれないから﹂
部下を1人でも多く生きて故郷に帰すのが、指揮官の仕事だ。だ
からこそ、躊躇ってはいけないのだと。
そして軍隊の中で自分の手で直接人を、目の前で殺すことが多い
のは剣兵だ。
﹁勿論、この試験で実際に死刑囚を殺す生徒は少ないわ。大抵の生
徒は良心の呵責から殺すことはできない。たとえ相手が極悪人の死
刑囚であっても。だって、今まで人を殺したことがない人ばかりだ
もの﹂
彼女の口調はとても穏やかだったが、同時に切なさを感じさせた。
なにが哀しいのかは、今はわからない。
﹁もし殺さなかったら、どうなるの?﹂
﹁どうもならないわ。3人目の試験官は、試験官であると同時に、
教科書でもある。これはね、精神鍛錬なのよ﹂
死刑囚を実際に殺すことが、精神鍛錬になるとは思えなかった。
でも、ここで人殺しに耐えられず精神を病んでしまうような奴は、
戦場では役に立たない。
つまりは、そういうことなのだろう。
﹁私は剣兵科に進むわ﹂
﹁⋮⋮﹂
知ってる。それは今まで何度も聞いたことだ。
でも今はそれを応援することができなかった。
85
﹁ユゼフは、どうするの?﹂
俺は、戦術研究科に行く。
でも、言えなかった。
代わりに言ったのは、こんなことだ。
﹁サラを死なせないよう、頑張ってみるよ﹂
誤魔化した。今の卒業試験の話を聞いてたら、思ってたことを言
えない。
でもこれは、本心だ。チート英雄だなんだって現実を見ずに士官
学校に入った。それは無理だと思ったけど、今はこうして友人が出
来た。
なら、俺はその数少ない友人の為に頑張ろう。⋮⋮友人だよね?
俺だけ勘違いしてるってオチじゃないよね? 大丈夫だよね?
﹁⋮⋮そう﹂
彼女は俺から視線を外し、正面を見た。
地平線に沈もうとしている太陽の方向を見た。
すると彼女は立ち上がって歩き出した。そして再び俺の方を向い
て、
﹁ありがとね﹂
笑いながら、そんなことを言った。
﹁⋮って、もう15分経ってるじゃん! さっさと稽古の続きする
86
わよ! いつまでボサッとしてんのよ!﹂
途端に彼女はいつも通りのサラになった。
もうちょっと余韻と言うものをだな⋮⋮。
﹁ほら、立って! 構えて﹂
﹁はいはい﹂
﹁はいは1回でよろしい! あと声小さい!﹂
﹁はい!﹂
とりあえず今は、彼女を守る努力をしよう。
87
シテイ
︵改︶
しんみりした話の後に容赦なく俺をボコボコにできる切り替えの
良さは見習いたいところである。
誰の事かは言うまい。
寮に戻り服を脱いでみると、案の定体中が痣だらけだった。俺は
まだ10歳だし完全に児童虐待、もしくはいじめである。
女子が相手じゃなかったら訴えてた。
﹁なんだその痣?﹂
体中の痣の数を数えていたら、同室の奴が話しかけてきた。
名前はラスドワフ・ノヴァク。通称ラデック。16歳、イケメン。
以上。
﹁居残り授業だよ﹂
﹁なんの居残り授業をしたらこうなるんだ?﹂
まじまじと見るな。男に見られても嬉しくないぞ。⋮⋮触るな!
痣に触るな痛いだろ!?
﹁剣術の稽古つけてもらったんだよ。そしたらこうなった﹂
﹁ほほーん。マリノフスカ嬢も容赦ねぇなぁ⋮⋮﹂
﹁待て、誰もサ⋮⋮マリノフスカさんの事だとは言ってない﹂
誰にも放課後のアレのことは教えてないのに。てか嬢ってなんだ
嬢って。あいつはそんなお上品な奴じゃないぞ?
88
﹁あ? 有名だぞ?﹂
﹁え、そうなの?﹂
﹁そりゃばれるだろ。毎日毎日、いちゃいちゃしやがって﹂
﹁マジか⋮⋮って、いちゃいちゃはしてないぞ?﹂
俺の知っているいちゃいちゃで痣はできません。
﹁そうかぁ? だってお前ら結構親密そうじゃねーか﹂
﹁そうでもないよ﹂
﹁嘘つけ。名前で呼び合ってるくせに。なにが﹃マリノフスカさん﹄
だ。教室じゃ割と大声で﹃サラ﹄って呼んでただろ羨ましい!﹂
それもそうでした。てへ。
うーん、しかし疾しいことは何もしてないとは言え、少し恥ずか
しいな。
﹁ま、お前の恋路を邪魔するつもりはないから安心しろ。なんだっ
たら俺が手ほどきを﹂
﹁いらないし第一そんなんじゃないって﹂
むげ
くそっ、今から学生課行って部屋変えてもらうことできないかな。
こいつと関わるのはもう御免だ。
⋮⋮と言っても数少ない男友達だ、無碍にもできまい。
6歳も年上ってだけあって、ラデックは結構親身に相談に乗って
くれるし。前世分加算すると俺の方がダブルスコアになって勝って
るけど。
﹁そういやラデックって2年になったら科はどうするんだ?﹂
89
﹁んー? 俺は⋮⋮ぶっちゃけどこでもいい。戦術研究科以外はな﹂
﹁なんでそれ省いたし﹂
﹁戦術云々はお前に任せた方が良いって知ってるからさ﹂
﹁そらどーも﹂
士官学校の科は全部で10個ある。学生自身が得意分野や興味の
ある分野を選択するのが普通だが、教官が推薦する場合もある。
剣術は剣兵科。
弓術は弓兵科。
馬術は騎兵科。
しちょう
魔術は魔術兵科、もしくは魔術研究科。そして治癒魔術専門の医
務科が独立して存在する。
へいたん
戦略・戦術は戦術研究科。
算術・兵站・通信・工兵等の後方支援は輜重兵科。
法律は警務科。いわゆる憲兵さん。
そして最後に情報戦のプロを養成する諜報科がある。
その科を無事卒業できれば、科に対応した部隊の士官として配属
されるのが基本だ。
サラは剣兵科。
俺は戦術研究科。
しちょう
ラデックはどうでもいい。一番人気がない輜重兵科にでも行けば
いいんじゃないかな。
﹁マリノフスカ嬢はどこだって? 馬が似合いそうだから騎兵かな
?﹂
﹁彼女は剣兵だってさ﹂
90
﹁ほーん、剣兵ね。そりゃ大変そうだ﹂
どの科も大変なのは変わらないが、剣兵科は特に大変と言われて
いる。だが名誉ある兵科でもあるため人気も高い。
﹁んで、どうしたんだ急に。兵科の話なんて﹂
この察しの良さ見習いたいね。きっとコミュニケーションが円滑
になる。
﹁ん? あぁ、実はさ⋮⋮﹂
さっき卒業試験の話をラデックに聞かせる。所々恥ずかしいとこ
ろがあるので、そこは適当にぼかしながら説明した。
彼はうんうんと真剣に聞いてくれて⋮⋮るよね? 適当に頷いて
ないよね?
﹁だいたいわかった﹂
﹁ほほう? 何が?﹂
﹁お前って意外とモテるよなって﹂
うわこいつ絶対話聞いてない。
﹁まぁ全部言うのも無粋だから、俺が言うのはひとつだけだ﹂
はいはいなんでしょうか聞いてあげますよー。
﹁お前とマリノフスカ嬢は、シテイカンケーみたいなもんなのさ﹂
﹁は?﹂
91
意味がわからなかったから追求しようとしたが、彼は何も答えて
くれなかった。
師弟関係? そりゃまぁ俺は彼女にいろいろ教えてくれるけど、
俺も教えてるんだぜ?
⋮⋮ぶえっくしゅ。
うー。そう言えば服脱ぎっぱなしだったな。部屋の中とは言え冬
に上半身裸はきつい。
92
南の国の失楽園︵改︶
カールスバート共和国。
シレジア王国の南隣に位置している人口そこそこ経済そこそこの
中堅国家。前世においてチェコと呼ばれたところにある。
名前の通り民主共和政の国家で、現大統領はヴォイチェフ・クリ
ーゲル。
クリーゲル大統領は穏健派として知られ、平和国家カールスバー
ト共和国の建設を目指していた。
﹁弱者を踏み躙る政権を倒せ!﹂
﹁クリーゲル大統領の不正を許すなァ!﹂
﹁強きカールスバート共和国を取り戻せ!﹂
首都ソコロフ。その大統領府周辺では現在、大規模なデモが続い
ている。
昨年の東大陸帝国で起きた飢饉の波が、ここカールスバートにも
直撃したのが原因だった。
そこにどこからの情報か知らないが、クリーゲル大統領の不正が
明らかになった。
曰く、税金の一部を着服し愛人に貢いでいた、その愛人も大統領
の権力で無理矢理拵えた⋮⋮とかなんとか。
真偽の程は不明だが、長引く不況と不正の暴露によって国民の怒
りが爆発したのは確かだ。
93
大統領自身はこの不正を否定している。だが必死に否定しても﹁
逃げる気か!﹂と国民に言われてしまってはどうにもならない。
大統領の進退問題について、この国の人間全員が注目していた。
だが渦中のクリーゲル大統領は今、自分は関係ないと言った風で
大統領執務室にて政務に没頭している。彼は何かをする時それなり
の騒音があった方が集中できる人間だったので、むしろこの大規模
デモはありがたい事だった。
しかし彼が仕事をしている最中、大統領執務室に突然の来客があ
った。
﹁⋮⋮なんだね? 軍人とは礼儀も知らん野蛮人なのか?﹂
﹁あなたに礼儀を教わるつもりはない。ただ用があっただけです﹂
来客者の名はカールスバート共和国軍作戦本部長エドヴァルト・
ハーハ大将。そして数人の護衛か付き人が剣を持ったままハーハの
後ろに立っている。
﹁どういうことかね?﹂
と、大統領が問うと
﹁こういうことです﹂
と、ハーハは短く答えた。
その瞬間、クリーゲル大統領の首から鮮血が噴き出した。
頸動脈を切られ、心臓が鼓動を繰り返すたびに血が執務室を赤く
染めた。そして暫くするとその噴血は収まり、クリーゲル大統領は
94
ただの死体となった。
﹁⋮⋮諸君、クリーゲル大統領は苦心の末自殺された。事態が落ち
着くまで、私が一時的に大統領となる﹂
﹁閣下、お願いします﹂
大陸暦632年1月8日、カールスバート共和政がここに倒れた。
﹁クリーゲル大統領を倒せー!﹂
大陸の歴史は、人々の否応も無く歩み続けている。
95
王女の憂鬱︵改︶
それは、カールスバート政変が起きる10日前のお話。
﹁殿下! 準備をなさってください!﹂
﹁嫌です。行きたくありません﹂
﹁そう仰られては困ります! どうか言う事を聞いてください﹂
﹁私は王宮から出たくありません﹂
フィロゾフパレツ
シレジア王国の王都シロンスク、その中心には代々の王家が住む
ほとり
﹁賢人宮﹂と呼ばれる宮殿がある。
湖の畔に建てられたその宮殿は、シレジア王国がまだ大陸で一、
二を争う強国だった頃に建てられた。
しかし現在ではその広大な土地をすべて管理するだけの財政的余
裕がなく、宮殿の三分の一が閉鎖されている。
さて、そんな宮殿のとある一室に、この我が儘な彼女は住んでい
る。
彼女の名はエミリア・シレジア。現シレジア国王であるフランツ・
シレジアの直系の娘にして、王位継承権第一位の持ち主だ。年齢は
10歳。だが幼い頃から王族として育てられてきたためか、年齢以
上の風格が溢れている。
いや、溢れていた。
﹁私が今ソコロフに行ってもどうにもならないでしょうに﹂
﹁いえ、これは重要なことなのです。どうか御仕度をなさってくだ
96
さい﹂
エミリア我が儘王女様は近侍と彼此かれこれ1時間は押し問答を
している。
こうしている間にも近侍達の給料が発生しているため、はやく王
女に決断してもらわねば国家財政が破綻する、と部屋の外で待機し
ている財務尚書が心配していた。
﹁今からソコロフに行って何をすると言うの。どうせつまらない老
人の戯言を聞くためだけに披露宴に出席せねばならないのでしょう
? 私は嫌です﹂
﹁いえ、この式典に参加してこそ両国の絆がより深ま﹂
﹁るわけないでしょう。そんなことしたって﹂
さて、この二人が揉めている問題とはカールスバート共和国への
親善訪問である。
カールスバート共和国は、かつて反シレジア同盟に参加し、シレ
ジア王国と戦争していた国である。そんな旧敵国に行きたくない王
女の気持ちはわからないでもないだろう。だが、大事な式典がある
のも確かなのだ。
その式典こそが、シレジア=カールスバート相互不可侵条約締結
記念式典である。名前が長いのは仕方ない。
この不可侵条約はこの1年間秘密裏に交渉が続けられており、1
ヶ月後の記念式典で初めて大陸中に明かされる条約である。
この不可侵条約を踏み台にしてさらに深い関係⋮⋮つまるところ
の同盟関係を目指す動きもあり、両国にとって重大なイベントなの
である。
97
と言う訳でそんなイベントに出席してほしい、と国王が王女に言
った。
王女は式典中ストレスで死んでしまうんじゃないかと近侍たちは
心配していたのだが、その前にそもそも式典に行くのが嫌と言う想
定はしてなかったらしい。
式場で王女を励ます言葉を100個近く用意していたのに、これ
では無駄になってしまう。だから近侍たちも必死に彼女を説得して
いるのだ。
﹁エミリア、あまり我が儘を言わないでくれ。お前そんな子じゃな
かっただろう﹂
﹁⋮⋮叔父様﹂
近侍達の間を掻き分けて彼女に話しかけてきたこの人は、彼女の
叔父、つまり現国王の弟であるカロル・シレジア大公。王位継承権
は第二位。35歳。年齢に似合わない髭が特徴的である。
﹁この式典はとても大事なものだ。場合によっては、国民の命に関
わる問題なのだ﹂
﹁わかっております、ですが⋮⋮﹂
わかっているけど心情的には行きたくない。無理もない。彼女は
まだ10歳なのだから。
﹁これも王族の務めなのだ。我慢してくれ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
この王女、カロル大公には弱い。なぜかは言わないでおこう。
﹁私もこの式典には同行する。エミリアは落ち着いていれば平気さ﹂
98
﹁⋮⋮わかりました﹂
こうして、エミリア王女︵とカロル大公︶のカールスバート行き
は決定した。
表向きはシレジア辺境領土の視察である。
99
急転︵改︶
大陸暦632年1月11日、王立士官学校教務課近くに貼り出さ
れている壁新聞に俺を含めて多くの士官候補生たちがたむろしてい
た。
そして候補生のほぼ全員が、その壁新聞を凝視している。曰く、
﹃カールスバートで政変 軍事政権発足﹄
である。隣国カールスバート共和国で起きた軍事クーデターにつ
いて、現在手に入っている情報が事細かに記載されていた。
﹁これ、大変な事なの?﹂
いつの間にかサラが隣にいた。うん、サラに新聞って似合わない
な。
﹁やばいと思うよ﹂
﹁具体的には?﹂
﹁軍事政権ってところがやばい﹂
もうやばいのなんの。軍事政権なんて弾圧と侵略が好きな人がや
るイメージしかない。
カールスバートは現在、共和国軍大将エドヴァルト・ハーハが議
会からの指名によって暫定大統領の地位についている。
ハーハ大統領は即日全土に戒厳令を発した。同時に憲法を停止し、
100
司法・立法・行政の全権を軍部に委譲させ、議会を無期限解散させ
たようだ。
鮮やかすぎるほどに素早い行動だと思うね。こりゃ事前準備相当
大変だっただろうな。
表向きは前大統領の自殺による国政の混乱を一時的に収めるため
の措置だそうだが⋮⋮前大統領は絶対殺されたんだろうなー。
議会からの指名も、どうせ議員の首筋に剣を突き付けて脅迫した
んだろう。
﹁これ、シレジアも大変なことになるのかしら﹂
﹁今はまだ何とも言えないけど、とりあえず状況は悪いよ﹂
カールスバートは反シレジア同盟参加国だったし、来ないと考え
る方が不自然だ。
﹁カールスバート共和国軍の戦力ってどんくらいだっけ?﹂
気付けばもう1人隣人が来た。俺と同級同室のラデックだ。
﹁どうしたラデック。藪から棒に﹂
﹁いや、ただうちと戦争になったらどうなるんかなって﹂
戦争になるの確実だと思うけどね。ここら辺で手頃に抹殺できる
国ってシレジアくらいだし。
﹁詳しい数は忘れたけど、人口も経済力も中堅だったね﹂
﹁んじゃうちと同じくらいか?﹂
﹁たぶん﹂
﹁となると平時で10∼15個師団ってとこかな﹂
101
ちなみに1個師団は約1万人と考えていい。そして人口や経済、
周辺国の状況によって軍隊の数はだいたい想像できる。
ただしこれは常備戦力ということであって、戦争始まって予備役
を動員したり徴兵したりするとぶくぶくと膨れ上がったりするのだ
が。
﹁軍事政権だから相当動員できると思うよ。たぶん倍くらいにはな
る﹂
﹁でもさ、攻撃3倍の法則っていうじゃん﹂
﹁なによそれ﹂
ふむ。今日は放課後授業は戦術の予定だったからな。ここでやっ
ちまおう。
﹁攻撃3ば﹂
﹁攻撃3倍の法則ってーのは、敵の拠点を攻め落とすには攻撃側は
防衛側の3倍の戦力を用意しないとダメ、っていう法則さ﹂
台詞取られた。ぐすん。まぁラデックの説明はだいたいあってる。
でも合格点じゃない。
﹁ラデック。それだけだと戦術の試験赤点になるぞ﹂
﹁え、マジで?﹂
マジです。
﹁俗に言う攻撃3倍の法則っていうのは、戦術的な意味であって戦
略的な意味ではないからね﹂
﹁もうちょっとわかりやすく言って﹂
102
﹁お前はもう少し物事をわかりやすく説明する癖つけた方が良い﹂
あ、はい、ごめんなさい。
えーっとだな。
まずは戦術的な意味での攻撃3倍の法則について。
まぁ、これはなんとなくわかってくれると思う。防御側っていう
のは防御陣地作ったり地形を利用したりして防御力を上げることが
できる。その周到に用意されている拠点を攻め落とすには戦力が3
倍くらいないと無理ポ、ていう法則。
でもこの法則は数学的、もしくは統計的に裏付けされたものじゃ
ない。ただの経験則だ。
ちゃんとしたのは﹁ランチェスターの法則﹂ってのが別にある。
この世界にはまだないみたいだけどね。
で、戦略的な意味について。
防衛側が堅固に作った要塞や拠点を、攻撃側がわざわざ攻撃しな
きゃいけない、なんて決まりはない。落とすのに苦労しそうな拠点
があれば迂回すればいいじゃない! ってなるだけだ。
実際にそうなってしまった例が前世世界でもちらほらある。急が
ば回れと言う奴だな。
攻撃側はどこを攻撃するか自由に決められる。一方の防御側は攻
撃側がどこに攻めてくるかわからない。
そのため防御側は長い国境線に戦力を分散させるか、国境から少
103
し引いた地点に敵をおびき寄せて迎撃するしかない。
攻撃3倍の法則とは、戦術的には正しいかもしれないのだけど戦
略的には微妙な法則なのだ。
﹁わかった?﹂
﹁わかるわけないじゃない﹂
拳が飛んできた。痛い。でも、嫌いじゃない。
﹁で、結局私たちどうすればいいわけ?﹂
﹁どうにもできないよ。祈るくらいしか﹂
俺たちはまだ士官学校入学したてのガキンチョだしね。
と、その時、頭の中で声が響いた。
﹃⋮⋮全校生徒に達する。こちら校長だ﹄
通信魔術だ。
通信魔術は一定の範囲内にいる人全員にテレパシーを送れる魔法。
受信は誰にでもできるが送信は凄い難しい上に、特定の人にだけ狙
い撃ちでテレパシーが送れないのが難点だ。通信と言うより拡声器
みたいなもんだな。
﹃隣国の政変について知ってる諸君も多いと思う。状況次第では、
君たちにも召集がかかる可能性がある。各員、いかなる事態にも対
処できるよう準備せよ。以上、通信終了﹄
やれやれ、出動待機命令とはね。いよいよやばいかな?
104
﹁おい、なんだか面倒なことになったな﹂
﹁これって、私たちも戦場に行くかもしれないってこと?﹂
﹁マジかよ。童貞のまま死にたくねーなー﹂
﹁どう⋮⋮? え?﹂
とりあえずラデックは殴って黙らせておくとして。
﹁サラ、今日の戦術の居残り授業はやめよう﹂
﹁え? サボり?﹂
﹁違う﹂
なんでそうなるのさ。こんなにも日々真面目に生きているのに!
﹁どういう事態になっても対処できるように、って言ってたでしょ。
だから、最前線にいきなり立たされても生き残れるように稽古つけ
て欲しいのよ﹂
﹁ふーん? ならいいわ。あんたが無様に死ぬのは見たくないし。
とりあえず今日は剣術ね﹂
持つべきものは白兵戦が得意な友達だね。
﹁そ、その居残り授業、俺も参加していいかな⋮⋮﹂
ゾンビのように立ち上がったラデックが死にそうになりながらも
そんなことを言った。
うーむ、二人きりの授業という心躍るイベントを野郎に邪魔され
るのは癪だな⋮⋮。ま、事態が事態だ。仕方ない。
﹁サラは大丈夫?﹂
﹁⋮⋮﹂
105
﹁おーい? サラさーん?﹂
﹁聞いてるわよ! あと何度も言ってるけどさん付けは禁止!﹂
また殴られた。
うん、よかった生きてた。
﹁まぁいいわ。手加減しないからね﹂
戦場に立つ前に剣術の稽古で死ぬ予感がするのは気のせいかしら?
106
開戦の狼煙︵改︶
大陸暦632年1月11日。
シレジアとカールスバートの国境付近は重々しい空気が流れてい
た。
﹁大佐⋮⋮これは﹂
﹁あぁ、あいつら国境を越えたくてうずうずしてるって感じだな。
少尉、住民の避難状況は?﹂
﹁いえ、少し手こずっております。まだ7割ほどです﹂
﹁急がせるんだ。奴らが国境を越えて来たら、どうなるかわからん
ぞ﹂
﹁了解です﹂
この辺鄙な田舎町に、総勢十数万人の招かれざる客が来ようとし
ていた。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
4年生と5年生に召集がかけられた。校長から出動待機命令が発
せられた10日後の、大陸暦632年1月21日のことである。
同時に﹁状況によっては3年生以下の生徒にも召集があるかもし
れない﹂とも告げられた。
107
そのこともあってか、俺の所属する1年3組の雰囲気は重かった。
召集を嫌がって退学を検討する貴族の息子がいた。遺書を書く者
もいた。もうなにをしてもだめだと、諦めた奴もいた。
俺? 結構落ち着いてたよ。
いつも通り授業を受けて、いつも通りサラに殴られて、いつも通
りサラに鞭打たれて、いつも通り寮に帰る毎日。
戦場よりサラが怖い毎日を送ってたせいでその辺の危機感が薄れ
たんだと思う。
﹁ねぇ、今日も私の居残り授業でいいの?﹂
﹁いいよ﹂
あの日以降、毎日サラに稽古をつけてもらっている。剣術馬術が
中心。弓術はいいや。魔術は教えてくれる人いない。
サラのおかげで剣に振り回されることはなくなり、馬に振り落と
されることはなくなった。ついでに痛みにも慣れたし動体視力も良
くなった気がする。サラーズブートキャンプさすがやで。
さて今日の授業は剣術と馬術どっちなのかなー、と考えていたら
我ら1年3組の担当教官が教室にやってきた。
﹁今から名前を呼ばれた者はすぐに教務課に来るように﹂
⋮⋮召集かな? そうだろうな。それ以外考えられない。
﹁えー⋮⋮、アントニ・コロバ。フィリプ・ジューレック。レフ・
108
ビゴス。ハンナ・ヴィニエフスカ⋮⋮﹂
先生は大した感情を持たず、淡々と名簿を読み上げる。名前を呼
ばれた者を見てみると、みんな絶望的な表情をしていた。死刑宣告
をされた囚人のような顔だ。
﹁⋮⋮シモン・カミンスキ。ラスドワフ・ノヴァク。サラ・マリノ
フスカ。ユゼフ・ワレサ。以上16名だ﹂
⋮⋮サラと俺は顔を見合わせた。今呼ばれたよね俺? 来たの?
赤紙来たの?
﹁⋮⋮今日の授業は中止しなきゃだめかもしれないね﹂
﹁もしかしたら、もうしなくてもいいのかも﹂
冗談じゃない。ここで死んだら転生した意味がないじゃないか。
﹁とりあえず、教務課に行くか﹂
﹁そうね﹂
サラにそう言って教室を出た。その時ふと気になって振り返って
みると、そこには歓喜の渦があった。とりあえず今を生き延びるこ
とができた。そんな顔をしていた。
俺は今どんな顔をしてるだろうか。
◇ ◇
109
﹁手短に言おう。諸君らは明日の午前11時を以って南部国境方面
軍第3師団第33特設連隊に配属されることになった。詳細は追っ
て知らせる。諸君らの無事を祈る﹂
今日の日付は1月22日。昨日4、5年生を召集したばかりなの
だがまだ足りなかったらしい。3年生以下の成績優秀者にも召集が
かかった。
あーあ。俺も遺書でも書くかな。死んでも次の転生ライフが待っ
てるなら潔く死ねるのだが、次も転生できるとは限らない。
第一、俺はまだ童貞だ。誰かの言葉じゃないが、童貞で死ぬつも
りはない。
⋮⋮ってか俺、成績優秀者でいいの? 実技壊滅だったよ?
それに座学壊滅のサラも召集されたし。どういう基準だ。もし
かしてみんな予想以上にバカだったの?
﹁諸君らには明日以降の授業には出なくても構わない。単位の心配
もしなくていい。無事ここに帰ってくるのが試験だ。いいな﹂
先生の口調はひどく落ち着いていたが、同時にすごく申し訳ない
顔をしていた。俺なんか10歳だし、こんな子供を戦場に⋮⋮とい
う良心の呵責からなのか。
先生たちを責めるつもりはない。召集メンバーを決める権限は先
生にはないし、それに先生にも何人か召集がかけられていた。いつ
死ぬかわからないのはお互い様だ。
110
﹁⋮⋮微力を尽くします﹂
俺はそう言って、先生に敬礼をする。サラやラデック、他のみん
なも同じく敬礼した。
習ったばかりで、どれもこれも不恰好な敬礼だったが、先生は何
も言わず返礼してくれた。
◇ ◇
大陸暦632年1月28日。この日、カールスバート共和国軍は
ついに国境を越えた。
後世、シレジア=カールスバート戦争と呼ばれた戦争が幕を上げ
た瞬間である。
111
開戦の狼煙︵改︶︵後書き︶
追記:シレジア王国周辺地図。
<i149604|14420>
①シレジア王国
②東大陸帝国
③カールスバート共和国
112
国境の町︵改︶
2月2日、俺ら士官候補生が国境地帯に到着した。
﹁⋮⋮ふん、女子供ばかりではないか。役に立つはずもなかろうに﹂
そして配属早々に第3師団の師団長にそう言われたのである。
そう思うのは無理もないかもしれないけどさ、わざわざそれを口
に出さなくてもいいだろうに。
﹁まぁいい。せいぜい頑張って忠義の程を示してもらおうか平民共﹂
師団長とやらは選民思想の塊だった。こりゃたぶん早死にするタ
イプだね。とりあえず物語の中で﹁女のくせに﹂とか﹁ガキのくせ
に﹂とか舐めくさったこと行った奴が最後まで生き残ったためしが
ない。
名誉の戦死
でも階級が少将だったので致し方なく黙って聞いてる。
師団長さん、頑張って二階級特進を遂げてください。応援してま
す。そうすれば大将だから。
﹁タルノフスキ中尉! ガキのお守りは貴様に委任する! 煮るな
り焼くなり盾にするなりは自由だ!﹂
いやだよ。んなことされたら敵前逃亡するぞ。
⋮⋮って、タルノフスキ? どっかで聞いたような?
﹁君らが士官学校からの派遣部隊か?﹂
113
﹁はい!﹂
﹁私は、ザモヴィーニ・タルノフスキ中尉。諸君らが配属されるこ
とになる第7歩兵小隊の隊長だ﹂
ふむ。精悍な顔つきだな。第一印象からして有能オーラが漂って
いるし、年齢もそこまで行っていない。たぶん20歳前後だろう。
こんなイケメンが無能なはずがない。
﹁ねぇ⋮⋮タルノフスキって、もしかしてあのハゲじゃ⋮⋮﹂
﹁あっ﹂
あ、やべ。今思い出したわ。
タルノフスキって法務尚書タルノフスキ伯爵の息子のハゲのこと
じゃん。
どうしよう! 弟さん、弟? いやあのハゲがこいつの兄なわけ
ないな。⋮⋮っていやいやそうじゃなくて、弟を自主退学に追い込
んだの私たちなんですけど!? 絶対これ肉盾にされるよ!?
﹁そこ、私語は慎みたまえ﹂
﹁は、はい!﹂
ばれませんようにばれませんようにばれませんように。
﹁ふむ。君たちはどうやらタルノフスキと言う姓を知ってるようだ
し、詳しい自己紹介はしなくても良いみたいだな。諸君らの兵舎は
街の北東にある。とりあえず今日はゆっくりしてくれ。任務は明日
与える。以上﹂
⋮⋮隊変えてもらいたいです中尉。
114
﹁タルノフスキって誰?﹂
俺たち3人の中で唯一事情を知らないラデックが首を傾げていた。
鬱すぎて説明したくねぇよ。
−−−
第3師団が駐屯しているのは、シレジア=カールスバート国境の
近くにあるコバリという小さな町だ。
今は冬だから何もないが、小麦畑が多いため収穫期になると一面
黄金色になる、らしい。そう教えてくれたのはラデックだった。
﹁なんでお前そんなこと知ってんの?﹂
﹁あれ? 言ってないっけ? 俺は商家の次男坊だからな、国内の
地理には詳しいんだよ﹂
﹁初耳だよ﹂
こいつ商売人の息子だったのか。意外と言えば意外だな。ホスト
かと思ったよ。童貞らしいけど。
その後もこの童貞ラデックから細かい地理を教えてもらった。意
外と頭いいなお前。
このコバリから少し南に行けば国境だ。山岳地帯に国境線が引か
れ、そこにカールスバートの要塞線が存在している。その山の麓で
115
ドンパチやってるようで、実際爆音やら魔術による光が断続的に続
いている。
休めって言われたけどこの状況じゃゆっくり休めそうにもない。
一応ここは最前線で、いつ戦線が突破されるかわからないからな。
﹁にしてもなんでお前が召集されたんだろうな。白兵戦が得意なマ
リノフスカ嬢ならともかく、お前って役立たずだろ?﹂
﹁⋮⋮役立たずについては否定しないけど、ラデックの方はどうな
んだ﹂
﹁俺はいいの。一応中間試験は赤点なかったから。80点以上もな
かったけど﹂
良い⋮⋮のか? まぁ弓術5点の俺よりマシか。
﹁頭より下は不要なユゼフくん、なんでこんなとこに来たのかなー
?﹂
﹁おうラデックくんちょっと面貸せや﹂
2、3発殴らせろ。
まぁ、それはともかく。
﹁どういう基準で選んだかはだいたい想像がつくよ﹂
﹁お、マジで?﹂
﹁うん。さっき師団長が口滑らせてたしね﹂
﹁そうだっけ?﹂
﹁そうだよ。﹃平民共﹄ってね﹂
もしあそこに男爵家以上の子息がいて﹁平民共﹂なんて言ったら
最悪師団長の首が飛ぶ。
116
カヴァレル
カヴァレル
サラは騎士の娘だけど、騎士は名ばかり貴族って感じの人が大半
だしね。
﹁つまり階級で選ばれたってこと?﹂
﹁そういうこと。やんごとなき身分の方を召集する勇気を持つ人が、
軍務省人事局にはいなかったということだろう﹂
もしかしたら圧力もあったかもね。
ったく、国が滅亡するかもしれないって時にも面倒なことしやが
って。これだから貴族は嫌いなんだよ。貴族の義務はどこに行った!
﹁んなことで悩んだって仕方ないだろ? とりあえず今日はゆっく
り休もうぜ?﹂
俺が頭抱えていたらラデックに慰められた。
﹁お前は良いのか、こういうの。結構腹立つんだけど﹂
﹁良いんだよ俺は。親父も商売の最中に貴族連中に良いところだけ
横取りされたことがあったからな。この程度の事じゃビックリしね
ーよ﹂
﹁お、おう﹂
どうやら、この国の内情は思った以上にひどいらしい。
翌日。俺たちに任務が与えられた。
﹁我々、第7歩兵小隊はとある要人を王都まで護衛することとなっ
た﹂
﹁要人ですか﹂
﹁あぁ、要人については機密事項につき子細は語れない、がやんご
117
となき身分のお方であることは確かだ。失礼のないようにな﹂
要人の護衛か。しかも前線から離れての後方任務とは、これは死
ななくて済む。なに、期末試験までには帰れるさ。
﹁出発は昼の12時。各自それまでに準備をしておくように。以上
だ﹂
タルノフスキ中尉が去ったところで、隣にいたサラが話しかけて
きた。
﹁こんな緊張した情勢で国境に近づいた貴族のバカって誰かしら﹂
﹁観戦しようとしたけど途中でビビッて帰るのかもね﹂
こちらとしてはそのまま死んでしまっても構わんのだが。
﹁とりあえず準備しようか﹂
118
敵襲︵改︶
﹁で、そのやんごとなきご身分のお方とやらはどんな奴なんだ?﹂
王都に向かう道中、ラデックは暇そうにそんなことを言う。
実際暇だから仕方ないのだが、護衛の最中に気を抜くのは死亡フ
ラグだぞ。一応国内だけど。
﹁知らないよ。ただ徹底して機密にしてるから結構なご身分だと思
うよ。公爵くらいじゃないの?﹂
﹁女よ﹂
サラが突然言った。なんで知ってるの。
﹁中尉が私たち女子にだけ言ったのよ。護衛対象は女性だからその
辺の気遣いもするように、ってね﹂
﹁ほほーん﹂
性欲盛んな士官候補生が間違い犯したら大変だもんね。気遣いと
か配慮とかそういうのだろう。
ふむ。
﹁護衛対象が女ってのは、やる気が出てくるなワレサ兵長殿﹂
﹁同感だよラデック兵長殿﹂
ちなみに俺たちは兵長待遇らしい。下っ端だね。
119
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あの、サラさん? なんでそんなに睨んでくるんですか?
そう思ったのも束の間、
﹁ふんっ!﹂
ゴリッ。
﹁いっ!?﹂
足の甲を全力で踏まれた。半端なく痛い。
﹁ここにも女がいたなユゼフ﹂
﹁あいつは女でいいのか?﹂
そこら辺の男より男らしいと思う。
2月3日22時。コバリを発ってから8時間が経過した。
戦場は既に遠く、時々見える光が地平線の向こうに見えるだけだ。
現在護衛対象は休憩中。馬車の中でも体力は消耗するし、狭い馬
車だと精神的な疲労が地味に溜まるしね。
護衛部隊は総勢30名、1個小隊の歩兵。半分が士官候補生の剣
兵で、残りが徴用された農民による槍兵だ。
普通は1つの兵科に纏めるけど、急な戦争に急な任務だったから
編成もゴチャゴチャになってしまったのだろう。
護衛対象は貴族用馬車に乗っているやんごとなきお方、ついでに
120
何かを運んでいる幌馬車。何運んでるかは知らん。もしかしたら金
銀財宝でも積んでるのかな。
俺たち護衛部隊は順番に周囲の哨戒をしている。
いかに国内とはいえまだ戦場近くだし、それに盗賊の類がいない
わけではない。護衛対象にケガひとつ、いや毛が1本でも抜き取ら
れたら責任問題になる。
﹁ふぁぁぁ﹂
⋮⋮失敗したらこの緊張感のないラデックに全責任を押し付ける
としよう。
﹁⋮⋮﹂
一方、剣術の師であるサラ先生は不気味な程静かにしている。
こういう時の彼女は頼りになるが、もうちょっとこう殴る蹴るが
ないと不安と言うかなんと言うか。だが殴る蹴るがない代わり、彼
女はボソッと静かに言った。
﹁ねぇ、聞こえない?﹂
﹁何が?﹂
どこから何が聞こえるのか、という言い方をしないのが実に彼女
らしいところである。
﹁馬よ。馬の足音﹂
﹁馬?﹂
騎兵隊と言う事か? 国境へ向かう増援部隊だろうか。
121
﹁⋮⋮どこから聞こえるの?﹂
﹁ここから、東⋮⋮ちょっと南よりの方向からね﹂
と言うことは東南東ってことか。でも、おかしいな。王都は北だ
ファイアボール
し、東はただの平原と畑で街道も何もない。馬で踏み荒らすだけに
なって⋮⋮。
﹁サラ、それは確か?﹂
﹁私は嘘は吐かないわ﹂
﹁そうか。じゃこれは敵だ﹂
﹁は、敵?﹂
﹁そうだよ。敵。敵襲! サラ、上空に火球を撃って!﹂
﹁なんだかよくわかんないけどわかったわ!﹂
ファイアボール
哨戒部隊が火球を撃つことは緊急事態を知らせる信号弾の役目を
果たす。
盗賊か? それとも共和国軍? いずれにしても護衛の任務を果
たさなければならない。
ファイアボール
サラが上空に火球を打ち上げた。夜だし結構目立つだろう。タル
ノフスキ中尉の目にも映ったはずだ。無論、敵の目にもね。
﹁とりあえず3人じゃどうにもならない。本隊と合流しよう﹂
﹁わかったわ﹂
﹁了解!﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
122
﹁隊長、敵の哨戒網にかかったようです!﹂
﹁国内だから油断しているだろうと思ったが、想定外だったな。そ
れに随分耳が良いようだ﹂
﹁どうします? 追撃しますか?﹂
﹁構うな。俺たちの仕事は兎狩りじゃなくて白鷲を捕えることだ。
あんな雑魚に構わず、このまま隊列を整えつつ敵本隊に突っ込め!﹂
﹁了解!﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
敵が騎兵で俺たちは歩兵。本来なら向こうの方が先に本隊につく
のだが、サラのおかげでかなりの距離差があったらしく、間一髪俺
たちの方が先に本隊についた。
運がいいね。
﹁状況報告!﹂
到着早々、少隊長殿が報告を求めてきた。周りを見回してみると
他の哨戒部隊も全力で本隊に戻ってきたようで、1個小隊の戦力は
あった。
﹁報告します。東南東より所属不明の騎兵集団。総数は遺憾ながら
不明!﹂
123
﹁敵か?﹂
﹁十中八九敵だと思います。国内で味方が街道を外れて行軍する理
由がありません。盗賊か、共和国軍かはわかりませんでしたが﹂
﹁それだけわかれば十分だ。総員戦闘配置! 君らは護衛対象の傍
につき護衛を。残りの者は東側に展開! 敵を迎撃するぞ!﹂
﹁はい!﹂
小隊長殿の命令によって、休んでいた小隊員が一斉に動き出した。
そして小隊長殿は全員が集まっていたことを確認すると、敵騎兵が
やってくると思われる東南東の方向に行軍していく。
そして俺とサラとラデックはここで待機。場合によっては、3人
の初陣となる。
124
奇妙な謁見︵改︶
﹁来たぞ! 正面から剣騎兵! 魔術斉射用意!﹂
タルノフスキ中尉は冷静だった。冷静故に、劣勢を悟っていた。
相手は10騎程の騎兵部隊。おそらく共和国軍の精鋭。
対するこちらは1個小隊約30人の歩兵。しかもその半数は徴兵
されたばかりの農民、残り半数は士官学校に入学したばかりの士官
候補生。
言わばそれは寄せ集めの部隊であった。
ハッキリ言えば、タルノフスキは逃げ出したかった。
しかし逃げることはできない。後方には守るべき人がいるし、周
りには守るべき部下がいる。
それに相手は騎兵。隊列を乱せばそれこそ敵の思う壺だ。ここは
横陣に展開し、魔術の斉射で敵を牽制しその突撃力を弱める。戦術
の教科書通りの定石通りの戦い方、というより唯一の選択肢。
﹁総員、斉射ァー!﹂
周囲になにもない平原で、戦端が開かれた。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
125
﹁ユゼフ、戦況をわかりやすく説明して﹂
﹁やばい﹂
﹁具体的に﹂
﹁突撃してくる騎兵に少数の歩兵で迎い撃つなんて自殺行為さ。俺
ならすっ飛んで逃げる﹂
﹁じゃ、この荷物はどうするの﹂
この荷物、つまりは護衛対象のことだ。個人的には置いていきた
いのだが⋮⋮。
﹁そう言う訳にはいかない、だろ?﹂
ラデックの言う通り、士官候補生ともあろう俺たちが逃げたら退
学になっちまう。
﹁いずれにせよ何騎かは突破して来ると思う。迎撃の準備をしない
と﹂
﹁私たちだけで?﹂
﹁他にいる?﹂
﹁いないわ。みんな全力で東に行ってる﹂
ひとたび魔術戦が始まれば護衛対象を巻き込むかもしれない。だ
から離れた場所で迎撃する。その判断は正しいけど、相手が悪すぎ
る。
敵は騎兵。
文字通り馬に乗った兵。長所は何と言っても馬の突撃力だ。
126
馬の体重はおよそ500キロ、そして﹁馬力﹂という言葉に代表
されるように、馬の力は絶大である。馬が走ってくる音だけで普通
の人間はビビるし、その突撃力は半端な兵力じゃ太刀打ちできない。
そして何より速い。車やバイクが高速で突っ込んでくる。そんな
感じだ。
騎兵に対する防御は、槍歩兵を大量に使うことが定石だ。人間も
そうだが、あらゆる動物は尖った物が苦手だからだ。そのため槍の
壁を以ってして馬を怯ませ、速度を落とさせる。怯んだところを馬
刺しにする。
あるいは魔術や弓矢をぶっ放して徹底したアウトレンジ攻撃を行
うことだけど、全部倒せなかったら地獄だ。
だが残念なことにここには槍がない。そもそも騎兵突撃を想定し
てなかったからね。それにあったとしても、3人じゃどうしようも
ないだろう。
﹁参謀、どうするよ?﹂
いつの間にか俺は参謀になったらしい。別にいいけど。それしか
取り柄ないし。
﹁とりあえず、サラ、護衛対象に報告。馬車から降ろそう。これじ
ゃ目立ちすぎる﹂
﹁別にいいけど、なんで私?﹂
﹁馬車の中でナニしてたら俺じゃ対応できない﹂
﹁ナニ⋮⋮って何よ﹂
ナニはナニだよ。
127
﹁とりあえずよろしく﹂
﹁わかったわ﹂
そう言うとサラは馬車に戻り、報告しに行った。そう言えばあい
つ礼儀とかそういうのわかるのかな。一応貴族の端くれだけど。
﹁んで、男の俺たちはどうする?﹂
﹁んー⋮⋮近くに隠れられそうな場所ってある?﹂
﹁ないよ。物の見事に大草原だ。それに冬だから草は全然生えてな
い。ついでに寒い﹂
ふむ。それじゃ物陰でやり過ごす、ってのは無理そうだな。
と、早くもサラが馬車から戻ってきた。意外と仕事が早いな。
﹁連れてきたわよ﹂
﹁あぁ、サラ、ありが⋮⋮﹂
サラの後ろにいたのは、酷寒のシレジアでも大丈夫なように厚手
の外套を着た金髪ロリだった。
﹁⋮⋮火急の折の非礼、失礼いたします。ご尊名をお伺いしても宜
しいでしょうか﹂
最大限の敬意を以って対応してみた。この敬語が正しいか些か不
安だが、農民出身だから許せ。膝もちゃんと地につけてるし。
﹁大丈夫です。今は緊急の折、そのような礼儀は不要です。面を上
げてください﹂
128
そう言われたので改めてその少女の顔を見てみる。
どう見てもロリ。金髪ショートカットの美少女ロリ。10歳くら
いだろうか。あ、てことは今の俺とは同い年か。
﹁私の名はエミリア・シレジア。現国王フランツは我が父です﹂
⋮⋮どうやら、俺たちは公爵よりもど偉い方を護衛していたよう
だ。
129
コバリ北の遭遇戦︵改︶
﹁エミリア殿下。お話したいことは多々ありますが緊急事態です。
この場は私の指示に従ってくれないでしょうか﹂
俺たちが助かるだけなら殿下への指示は必要ないんだけどね。で
も殿下に何かあると俺の首が飛ぶ。物理的に。
﹁⋮⋮﹂
﹁殿下?﹂
生きてます? 目を開けて立ったまま寝てるとか言いませんよね?
﹁あなた、爵位は?﹂
⋮⋮うわ、面倒なことになりそう。
﹁いえ、私は平民の出なので⋮⋮﹂
﹁では貴方の言うことを聞く必要は私にはありません。なぜ王族が
たかだか一兵卒の命令を聞かねばならぬのです﹂
このアマ⋮⋮!
と、いかんいかん。﹁このアマ﹂はだいたい死亡フラグだ。
﹁殿下がどう思うかは自由です。しかしこのままでは明日の朝日を
拝むことはできなくなるでしょう。どうか御寛恕あって、私の指示
に従ってくれますでしょうか﹂
130
今はメンツより命だ。
﹁嫌です﹂
殴ってもいい?
﹁殿下﹂
と、ここでサラが膝を地面につけた。
﹁殿下は我が国、我が国民にとって大切な存在です。どうかここは、
この無礼者の平民の助言を聞いてくれますでしょうか﹂
無礼者の平民って私の事ですか?
カヴァレル
﹁あなたは、確か騎士の子⋮⋮でしたね﹂
﹁はい。サラ・マリノフスカと申します。殿下﹂
﹁あなたは、私に忠誠を誓いますか?﹂
﹁未熟な身なれど、命に代えてでも殿下をお守りいたす所存です﹂
すごい! サラが本物の騎士みたいだ! かっこいい!
あ、ごめんなさいサラさんそんなに睨まないで頭下げますから。
﹁いいでしょう。私もあなたの忠誠心を信用します。あなたの助言
を聞きましょう﹂
﹁殿下の御配慮、感謝に堪えません﹂
うん。まぁ、あれだね。
王族ってめんどくさいね。
131
﹁で、私はどのようにすればいいですか。平民さん﹂
﹁私の名はユゼフ・ワレサと申します、殿下﹂
﹁覚えておきましょう﹂
こういう政治体制では王族に名前を覚えられることは大変な名誉
らしい。が、今は無駄になる可能性の方が高いので喜べない。
﹁その前に、殿下は武術、魔術の心得は?﹂
﹁ありません。魔術も初級が扱える程度です﹂
ふむ。じゃあ実質戦力外か。
まぁ剣術ができる! と言われてもホイホイと戦わせるわけにも
いかない状況だが。
﹁あの幌馬車には、何か役に立ちそうなものはありますか?﹂
﹁いえ、カールスバートに献上する予定だった我が国の郷土品など
の一部の物資があるだけのようです﹂
うーん、それでなんとかならないかなぁ⋮⋮。
ファイアボール
﹁おいユゼフ。のんびりしてる暇はないみたいだぜ﹂
﹁どうしたラデック﹂
﹁東側で何か光った。たぶん火球だろう﹂
いよいよ戦端が開かれたか。
﹁⋮⋮時間がありませんね﹂
生き残る自信は、あんまりない。
132
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁隊長、正面に目標!﹂
﹁よし! 2班と3班は歩兵の足止めを、1班は私に続け!﹂
私の気分は最高だった。
情報通り敵は寡兵で、しかも訓練が行き届いてない素人集団。負
けるわけがなかった。あの程度の敵なら8騎で充分足止めできる。
残るは白鷲の護衛⋮⋮おそらく数人だけだろう。それさえ片づけ
てしまえば白鷲の生殺与奪は思うが儘。
だが本国からの指令は﹁生きて捕えよ﹂なので、それに従うとし
よう。
﹁隊長、妙です!﹂
﹁どうした?﹂
目標がいると思われる馬車に辿りついたが、そこには誰もいなか
った。放置された馬車が2両あるだけだ。
もしかして全員が東の防衛線にいるのか? 好都合だが警戒は怠
ってはならない。伏兵という可能性もある。
﹁プロハスカとシュルホフは馬車を調べろ。私とスークは周囲の索
敵をする﹂
﹁了解﹂
133
﹁了解です﹂
この部下たちは共和国軍の中でも精鋭の兵だ。たとえ数人の兵が
馬車に隠れていても返り討ちにできるほどの実力がある。
﹁しかし隊長、何か臭いませんか?﹂
﹁何がかね?﹂
罠ということか? 確かに不自然ではあるが⋮⋮。
﹁いえ、比喩ではなく、こう酒の臭いがするような気がして⋮⋮﹂
﹁酒?﹂
言われてみれば酒の臭いがする。さっきまであいつらが飲んでい
たということか?
⋮⋮まさか。
﹁おい! 馬車から離れろ!﹂
ファイアボール
私は咄嗟にそう指示したが、時すでに遅かった。
どこから飛んできた火球が、あたり一面を燃やし尽くした。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
前世世界のポーランド。その国の名産品に﹁スピリタス﹂という
お酒がある。
134
別名﹁世界最強の酒﹂。いろんな意味で。
アルコール度数は驚異の96度。市販されている希釈用アルコー
ルと大差なく、アルコールランプに使われるエタノールより濃度が
高いという酒のような別の何か。
当然引火しやすく、扱いには注意が必要な代物なのである。良い
子のみんなはタバコ吸いながらスピリタス飲んじゃ駄目だゾ。
⋮⋮で、馬車に積まれていた﹁この国の郷土品﹂とやらのひとつ
にこのスピリタスがあった。名前は違ったけど、商家の息子が﹁こ
れ滅茶苦茶強い酒だぜ!﹂って言ってたから間違いない。
カールスバートの迎賓館を放火しに行くつもりだったんだろうか
この王女殿下。
と言う訳で俺はこのスピリタスの生まれ変わりを馬車の東側にば
ら撒いて、俺たちは敵騎兵の死角に潜んで発火のタイミングを待っ
ていた。
博打が過ぎると自分でも思うけど、他に案が思いつかなかったん
だ。ごめんなさい。
作戦は上手くいったようで、突然地面が炎上したことで馬がびっ
くりして兵を振り落とし、落ちた兵は火達磨になった。冬と言うこ
ともあってあたりが乾燥しており、次々と枯葉が燃え上っていた。
気づけば3人ほど燃えている。
⋮⋮やりすぎたかなこれ。
うん、まぁとりあえず決まり文句を。
﹁派手にやるじゃねェか!﹂
135
はいだらー、はいだらー。
﹁やったのあんたでしょ﹂
あ、はい。ごめんなさい。
﹁ユゼフさんよ。火を着けるのはいいんだけどよ、火の消し方はち
ゃんと考えてあるよな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
この後無茶苦茶消火した。
136
コバリ北の遭遇戦︵改︶︵後書き︶
※スピリタスは本当に危険な物なので扱いには注意してください。
ましてや火魔法を使わないでください。
137
夜明け︵改︶
無事朝日を拝むことができた。南無南無。
﹁何があったか報告せよ﹂
そしてタルノフスキ小隊長殿が戻ってきた瞬間これである。
まぁ、あたり一面真っ黒だしね。ちなみに燃えてた敵兵とか隊長
っぽい人とかは撤退したようで、死体は残ってなかった。あの状況
で生き残れたのは凄いな。
でも感心してばかりはいられない。敵兵を逃したのは痛い。
とりあえず報告。かくかくしかじか。
王女様の正体知ってしまったこととか王女様との会話は省く。
﹁⋮⋮護衛対象を守り抜いたことに免じて、高級酒をばら撒いたこ
とは不問に付す﹂
﹁アレはそんなに高級だったのですか﹂
﹁あぁ、アレの酒瓶1本は私の給与1年分に相当する﹂
なにそれ怖い。どうしよう、樽ごとひっくり返しちゃったじゃん。
﹁それで小隊長殿、歩兵隊の損害は如何ほどだったのでしょうか﹂
﹁⋮⋮戦死4名、負傷7名。その内、士官候補生は1名が戦死、3
名が負傷だ﹂
﹁そう、ですか﹂
138
大して仲の良い人が居たわけじゃないが⋮⋮、ちょっと心に来る。
知り合いが死んだっていうのはね。
﹁気持ちはわかるが、我々に悲しんでる暇はない。敵騎兵はおそら
く再度攻撃してくるだろう﹂
﹁⋮⋮わかっています﹂
そうだ。まだ戦いは終わっていないのだ。
タルノフスキ中尉はどうやら敵騎兵を数騎倒し、馬を1頭鹵獲し
ていた。その馬を使い第3師団司令部に護衛の増援及び道中の警戒
強化を具申した。
敵が国内にいてゲリラ的に我が軍の補給線を断とうとしているの
では、という考えだ。
国境付近の攻防戦は拮抗状態が続いている。お互い決め手を欠き、
じわじわと消耗している。
この状態が長く続くことは好ましくない。勝つにせよ負けるにせ
よ、人的損害がバカにならなくなるからだ。だから敵は補給線を断
とうとしたのか⋮⋮。
でも腑に落ちない点がいくつかある。
敵は、明らかに我が軍の補給線の破壊が主任務じゃない。もしそ
うなら、俺たちはここにいない。
騎兵十数騎を使って輸送部隊を急襲し、壊滅せしめた後そのまま
の勢いで撤退する。それがセオリーだろう。一応ここはシレジア国
内、長居をすれば増援が来てしまう。
139
でも敵の騎兵隊の隊長は﹁馬車を調べろ﹂と言っていた。少しで
も遅れれば敵が来るかもしれないかと言う状況で、悠長に馬車を調
べるだろうか?
鹵獲しようとしたのか? とも考えたが馬車に近づいたのは4騎
だけだ。それでは鹵獲できる量は限られている。
もしかしたら、敵はこの輸送隊に王女様がいることを最初から知
っていたのでは⋮⋮?
⋮⋮どうも、嫌な予感がする。というより、嫌な推測をしてしま
った。
﹁小隊長殿、少しお聞きしたいことがあります﹂
﹁なんだね?﹂
﹁今回の任務について、です﹂
ハッキリさせないといけないことがある。
﹁⋮⋮聞こうか。だがあまり時間はない、手短に頼む﹂
﹁わかりました﹂
手短に終わればいいけどね。
﹁聞きたいのは、護衛対象が何の用でカールスバートに行こうとし
たかです﹂
﹁なに?﹂
﹁昨夜、護衛対象が口を滑らせていました。﹃馬車の中の荷物はカ
ールスバートへの献上品だ﹄と﹂
﹁⋮⋮ワレサ兵長。君はあの方をどこまで知っている﹂
﹁⋮⋮大変格式の高いお方だと﹂
140
明言は避けておく。軍機漏洩だなんだとか貴族抗争がどうのこう
のされると面倒だし。
﹁そうか。君はあれがエミリア王女殿下だと知っていたか﹂
え、言っちゃっていいの?
﹁このことについては私の裁量で公開してもいいことになっている。
君が心配する必要はないさ﹂
マジすか。私の配慮不要でしたか。ちょっと恥ずかしい。
ま、まぁ、それはともかく。
﹁え、えーと。殿下はカールスバートに行く予定でした。でも政変
が起き、それができなかった。そうですよね?﹂
﹁あぁ﹂
﹁何の用でカールスバートに行こうとしたかは知りません。でも、
王女のカールスバート入りと政変の時期が余りにも良すぎます﹂
カールスバート政変の時期、そして王女が出発した時期、国境付
近に到着した時期、総合的に考えると、どうも出来過ぎている気が
する。
カールスバートの軍部は、王女を捕えようとしたのではないか。
でもそれにはシレジア側にも協力者が必要だ。そうだとすれば、
何か悍ましいことが裏で動いている可能性がある。そう思ったのだ。
それを、タルノフスキ中尉に言おうか迷っていた。
彼は法務尚書タルノフスキ伯爵の息子。伯爵が宮廷内でどういう
地位にいるかわからない以上、こういうことを無闇に言うのはまず
141
いかもしれない。
と言っても、これは全部推測の域を出ない。もしかしたら俺の痛
々しい妄想という可能性もあるのだ。物証があるわけじゃないし。
﹁どうやら君はただの10歳ではないらしいな。30歳だと言われ
ても、私は信じてしまうかもしれない﹂
﹁私はれっきとした10歳児ですよ﹂
より正確に言ったら10歳と249ヶ月くらい。
﹁ワレサ兵長、君に提案がある﹂
﹁提案ですか?﹂
﹁あぁ。私は君の質問に、知ってる限り答えよう。その代わり、君
の考えを私に余すことなく教えてほしい﹂
﹁⋮⋮よろしいのですか?﹂
﹁よろしいとは?﹂
﹁いえ、そんなに簡単に教えてしまってよろしいのかと⋮⋮﹂
間違ったら小隊長殿の責任問題になるんじゃないか? 軍機も含
まれてるだろうし。
﹁いいんだよ。君は英雄的な活躍をした。哨戒部隊としていち早く
敵を見つけ、そして王女殿下の命の危機を救ったんだ。これだけで
信用に足ると思うが?﹂
うーん⋮⋮いいのかな⋮⋮。それに敵を見つけたのサラだしなぁ。
﹁それに﹂
142
小隊長殿は思い出したかのように付け加えた。
﹁私はあの師団長は嫌いでね。あいつに秘密にしろと言われてしま
うと喋りたくなってしまうのさ﹂
なるほど。納得したわ。
﹁私もあの師団長のことは、好きになれそうもありませんね﹂
﹁ふっ。気が合うな﹂
﹁えぇ、本当に﹂
タルノフスキ中尉のことは好きになれそうだな。
⋮⋮弟さんのこといつ教えてあげればいいだろうか。
143
王女と大公︵改︶
現在、シレジアの王位継承権を持つ者は2人いる。
1人は、今回の任務の護衛対象であるエミリア王女殿下。
1人は、現国王の弟であるカロル大公殿下。
王位継承権第一位は現国王フランツの直系の子であるエミリア殿
下が持っているが、彼女はまだ10歳だ。しかも我が儘らしく、近
侍達を困らせることに定評があるらしい。これといった能力もない、
良く言えば普通の女子、悪く言えば王族らしからぬ女子。
一方、カロル大公殿下は35歳。大公にして王国宰相、文武両道
で人望も篤く100年に1人の名君になると目されている。とりあ
えず表向きは。
⋮⋮さて、こんな対照的な2人が同時に存在していて、貴族たち
はいったいどっちが次期シレジア国王に相応しいと考えるだろうか。
言うまでもない。カロル大公だ。
シレジア王宮内では次期国王を巡る闘争が水面下で行われている。
てかフランツ国王ってまだ42歳だろ。あと20年は死なないん
だから今から闘争する意味ないと思うんだけど。
そんなある日、カールスバートである式典が執り行われることに
なった。その式典とは、シレジアとカールスバートの間に結ばれる
不可侵条約締結の記念式典。その式典に、王族を代表してエミリア
144
王女とカロル大公、そして外務尚書などの一部閣僚が出席する予定
だった。
しかしカールスバートで政変が発生、式典は当然中止、条約もパ
ァになった。しかも誠に不運なことにエミリア王女がカールスバー
ト領に入った直後に政変が起きたということで、それはもう大変だ
ったらしい。
そんな経緯を、タルノフスキ中尉は10歳の俺にもわかりやすく
教えてくれた。
﹁ちなみに、小隊長殿のお父上はどちら派なのですか?﹂
﹁父は派閥争いを好まないが⋮⋮強いて言うならエミリア王女派だ。
父は法務尚書で公明正大な人だからな、継承権一位を持つ者から王
になるべきだと思っているだろう﹂
ふむふむ。んじゃ中尉はとりあえず俺の味方かな。我が儘とは言
え金髪ロリの王女様を手に掛ける奴は死ねばいいのにって思ってる
から。
さて、なぜこんな話をしているのかと言えば、俺の考えを中尉に
喋ったからだ。無論、シレジア国内にいる敵の協力者に関すること
は遠回しに言ってね。
そしたら中尉が盛大な独り言を呟き出した。法務尚書の父からの
情報と、師団長から伝えられた情報、それと自身の推測を交えて。
まったく不用心な人だなー、誰かに聞かれたら大変じゃないかー、
ハハハ。
﹁今回の任務、というより襲撃ですかね。関係あると思いますか?﹂
﹁俺はそう思っている。君もそうじゃないか?﹂
145
うん、そう思う。シレジアがちょっと嫌いになった。
今回の任務でおかしな点をいくつかあげよう。
・王女がカールスバート国内に入った瞬間政変が起きたこと。
プロ
・仮にも王女の人間を護衛するのが素人集団の歩兵1個小隊のみ。
普通は近衛の仕事だ。
・敵騎兵がシレジア国内深くに侵入。
・極秘にされるべき王女護衛隊が初日にあっさり敵に見つかる。
そしてもうひとつ、中尉が面白い事を教えてくれた。
﹁これは噂なのだが、カロル大公もカールスバートに行こうとして
たらしい。だが道中、馬車の故障か何かで数日到着が遅れた。でも
その数日のおかげで、政変時にはまだシレジア王国内にいたそうだ﹂
この噂が本当だったらカロル大公結構な極悪人ってことになるな。
姪がカールスバートで必死に逃げてる間、自分はシレジアでのん
びりしてたってことだし。そして十分な護衛の下、王都に帰還です
かそうですか。
これ完全に謀殺しようとしてるよね?
﹁さて、独り言はこれまでにしておこう。さもないと年寄りだと思
われてしまうよ﹂
﹁そうですね。10歳でお爺さんと呼ばれたくはありませんし﹂
うん。いろいろ聞けて面白かった。3割くらい後悔してるけど。
﹁私たちがやるべきことは真犯人探しではない。王女殿下を護衛す
146
ることだ﹂
﹁わかっております﹂
これが一番の問題な気もする。
今俺たちがいるのはコバリの町から馬車で8時間の場所だ。
8時間と言っても2時間ごとに十数分の休憩は挟んであったし、
街道に沿って進んだため直線距離で表すとまだそんなに進んでいな
いのだ。
馬車だけなら早いだろうけど、歩兵の護衛をつけてるし王女殿下
の体力の問題もあるからゆっくりせざるを得ないんだよね。ここか
ら馬車だけ急行するのも手だけど、道中また襲われる危険もあるし
なぁ⋮⋮。
最寄の、軍隊や警備隊等を持つ大きな町は東に約半日の距離にあ
る。そこに行けば何とかなるかもしれないが、残念なことに敵騎兵
が来たのは東の方向だ。うーん⋮⋮。
﹁いっそ、護衛は諦めるべきかもしれませんね﹂
﹁なに?﹂
無論、任務を放棄するつもりはない。
ほら、昔からよく言うでしょ?
﹁攻撃は最大の防御、ですよ﹂
147
逆襲︵改︶
防御に徹することが難しいのなら、こちらから攻撃に出て、敵騎
兵が拠点としている地点を叩けばいい。というのが俺の提案だ。
ゲリラ的な戦いができる騎兵とは言え、兵士の休息ができる拠点
は必要だ。
この辺でそういう拠点を設営できる場所はそう多いとは思えない
し、それに敵国に深く侵入してる以上、発見される可能性が高い昼
間は迂闊に行動できないだろう。
﹁小隊長殿、この辺りの地図はありますか﹂
﹁あぁ、あるよ﹂
タルノフスキ中尉は少し大きめの地図を持ってきた。国境の町コ
バリや、東にある地方都市ヴロツワフが一面に収まるくらいの大き
さだ。
現在地はコバリとヴロツワフの間にあるレグニーツァ平原のどこ
か⋮⋮。
街道の位置やコバリから歩いた時間からすると⋮⋮おおよその現
在地を地図に書き込んでみる。
﹁敵は東南東からだったな﹂
﹁そうですね。しかし東に行きすぎるとヴロツワフがあります。街
道から外れてるとはいえ見つかる可能性が高い都市周辺は避けるで
しょう﹂
148
既に拠点を引き払っている可能性も考えたが、その可能性はそん
なに高くないだろう。
西に拠点を移す訳ないし、東にはヴロツワフが、南にはシュフィ
ドニッツァという町がある。
ヴロツワフはこの辺りで一番大きな都市で人口も多い。交易も活
発で人通りも多いはずだ。
シュフィドニッツァは町レベルで小さいが、それなりに人はいる。
発見されたら厄介だ。
つまり敵騎兵部隊の拠点は、ここから東の位置にあって、ヴロツ
ワフやシュフィドニッツァ、そしてそれらの町から伸びる街道から
離れていて、なおかつ兵と馬の休息ができそうで、出来れば死角が
多い場所ということ⋮⋮。
このあたりだと、そうなりそうな場所はひとつしか見当たらなか
った。
タルノフスキ中尉も同じ結論に至ったようで、大きく頷いた。
﹁敵の拠点は、ミエトコフスキ湖周辺だろう。あそこには林がある﹂
これで敵の居場所はわかった。
だが、敵拠点に逆撃を加えるにあたって障害になるものが1つあ
る。王女様だ。
ここに放置するわけにもいかないし、かと言って護衛と攻撃で戦
力を分散するのは心細い。一緒に連れて行くか? とも思ったが王
女様の行軍速度なんてたかがしれてるし、それにケガでもされたら
困る。
うーん⋮⋮仕方ないか、一度最寄りの農村に行ってそこで匿って
149
もらうか。ついでに重傷の兵も幌馬車載せて移動。王女様が物凄く
嫌そうな顔してたけど、緊急事態だから、ね? それに貴族用馬車
には載せてないからいいでしょ?
村は湖とは反対方向に5キロ先にあった。その分敵から離れるの
はいいんだけど、その代わり俺たちの歩行距離が往復10キロばか
し伸びる。うげえ。
⋮⋮あの王女様がこの田舎の貧しい村で一時的にせよ滞在するこ
とができるのか、村民と問題を起こさないかが心配だなぁ。
﹁1人では心細いので、何人か残してくれると助かります﹂
王女様は意外にも空気を読んだ。この一連の流れで我が儘を言う
べきではないと学んだのかもしれない。意外と聡いね。
なので世話役兼護衛として士官候補生の女子2人を王女様の傍に
置くことにした。個人的にはサラにも王女護衛役として残ってほし
かったのだが⋮⋮。
﹁私はユゼフと一緒に行くわ﹂
﹁え、いやでもサラって剣術得意だし王女様に何かあっても対処し
やすいでしょ﹂
﹁剣術が得意だからこそ、この攻撃に参加しなくちゃダメでしょ﹂
﹁あー、うー⋮⋮でもなぁサラに何かあったら﹂
﹁弟子に何かあったら私も嫌だからあんたがここに残れば﹂
どうにも言うことを聞いてくれないので結局俺とサラは攻撃参加
組になった。ラデック? あいつは強制参加だよ。ケガもないし男
だし本人は行く気満々だし。
150
村人には﹁もし彼女が無事でいられたら国からそれなりの﹃お気
持ち﹄が出ますよ﹂とでも言っておけば村総出で守ってくれそうだ。
後は王女殿下の身分を伯爵令嬢くらいにしておけば大丈夫。かも。
ついでに村には負傷兵を残しておいた。迷惑かもしれない、とも
思ったが村人たちは献身的に負傷兵たちの介護をしてくれた。曰く、
﹁私たちを一生懸命守ってくれた方を無碍にはできないですから﹂
と、いうことらしい。列強に囲まれた落ち目の国家故か、こうい
う小さな村にも愛国心というか愛郷心というものがあるのだろうか。
つい先ほど、シレジアの暗部を聞かされた自分とはずいぶん対照
的である。
それはともかく、負傷兵の問題は何とかなりそうだ。
問題は遺体の方だ。知り合いの士官候補生を含め、敵味方の遺体
はあの場所に放置してある。運ぶ余裕がなかったからとはいえ、申
し訳ない。
でも、いつまでも物思いに耽る暇も、遺体に謝る暇もなかった。
﹁敵の拠点があると思われる湖はここから東南東にあるが時間がな
い。日暮れまでに敵の拠点を発見、攻撃しこれを撃滅する﹂
現在時刻はだいたい午前11時。日の入りはだいたい午後5時頃
なので、タイムリミットは6時間か。農村から敵拠点までの距離を
計算すると⋮⋮だいたい片道4時間くらいだ。
結構きついっす。
151
﹁では、行くぞ!﹂
﹁はい!﹂
こちらの戦力は、僅か素人歩兵19人。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁隊長、どうしましょうか﹂
一度目の襲撃で成功させる予定だった。それ故に正確な情報が渡
され、工作で護衛は弱体化させておいた。
なのに失敗した。とんだ大失態だ。このままでは本国に帰還でき
ない。
﹁隊長﹂
﹁聞こえている﹂
我々はどうするべきか。ここで後退してしまえば、おそらく白鷲、
もといあの幼い王女は我々の手の届かない場所まで離れてしまう。
では再攻撃すべきか? 危険は大きいが、それしかない。
おそらく敵は今回の襲撃のせいで損耗、疲弊しているはず。王女
の気を落ち着かせるために近くの村に寄っている可能性が高い。
それを確かめるために偵察を出したい⋮⋮が、敵の護衛隊の抵抗
が思ったよりも激しかった。
152
歩兵隊を足止めしていた2班と3班は合わせて4騎を失い、私と
一緒に馬車を調べた1班は3人が、つまり私以外が重傷を負った。
応急治癒魔術は施したが、もはや戦える状態ではない。つまり我々
には偵察する余裕がないのだ。
私と、2班と3班の残存戦力、そして拠点に残していた居残り部
隊合わせて9騎。
これでは昼に襲撃は無理だ。再び夜襲するしかない。
﹁今夜、村を襲撃する。準備を怠るな﹂
﹁ハッ!﹂
これが、最後の機会だ。
もし、それが失敗したら⋮⋮。
﹁た、隊長⋮⋮て、敵!﹂
﹁なんだと!?﹂
敵の護衛隊が、襲ってきたのである。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
湖周辺は、タルノフスキ中尉の言う通り林があり、外部からは非
常に見えにくかった。そのため敵拠点を見つけるのに時間がかかっ
てしまった。
だが林で見にくいのは敵も一緒。それにどうやら警戒を怠ってる
153
ようだ。俺たちが湖近くに来てることに気付いていない。
昨夜の襲撃で疲弊しているのか⋮⋮。うん、そうだろうな。夜に
襲撃したら昼には眠くなる。
留守番組がいるとしても数はそう多くないだろうし、警備もザル
なんだろう。
﹁サラ、何人いる?﹂
﹁見えにくいけど⋮⋮立ってるのは2人だけね﹂
2人か⋮⋮つまり残りは座ってるか寝ているかしてるわけだ。こ
の隙を狙えれば⋮⋮。
﹁サラ、戻って小隊長殿に報告しよう。静かにね﹂
﹁わかってるわ﹂
偵察を終えた俺らは、タルノフスキ中尉が待機している場所に戻
る。敵に気付かれないよう、何も装備せず、一応足音が鳴らないよ
うに裸足で歩いて。
小隊長殿は俺らの偵察報告を聞き終えると、早速部下全員に命令
した。
﹁よし、部隊を3つに分け拠点を包囲する。1班は東から、2班は
北から、3班は西から。敵を包囲撃滅するか、湖に追い落とす。一
人も生かして帰すな﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
俺とサラとラデック、そして農民兵3人、合わせて6人が1班だ。
中尉は2班、北から。
154
⋮⋮ついに人を殺すのか。卒業試験を早めに受けることになって
しまったな。
﹁よし、では各々配置につけ。くれぐれも見つかるなよ﹂
10分後、この長閑な湖の畔で戦闘が開始された。
155
逆襲︵改︶︵後書き︶
距離と時間に関する矛盾点を修正しました。ご指摘ありがとうござ
います。
156
静かな湖畔の森の影から︵改︶
俺たちが拠点に殴り込みをかけた時、敵騎兵の大半は座っている
か、寝ているかだった。
敵は剣を抜く暇もなく、次々と血を吹き出し倒れて行った。
ある者は敵に襲われていることに気が付かないまま、永遠の眠り
についた。
戦闘と呼べるものではなく、一方的な虐殺に近かった。
自分が何人殺したかなんて、覚えていない。
ただ、自分が人を殺したと言う事実だけ覚えている。
手にはまだ、人に剣を突き刺したリアルな感覚が残っていた。
戦闘は物の数分で終了した。
◇ ◇
ファイアボール
敵兵の遺体を火球で焼却していると、サラがどこからか近づいて
きた。
157
﹁ユゼフ、大丈夫?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
大丈夫⋮⋮ではないな。でも意外に冷静になれてる自分にひどく
驚いていた。人を殺したのに。
﹁⋮⋮本当に?﹂
今日のサラは心配性だな。普段の彼女らしくもない。
普段の彼女なら、今の俺を殴る蹴るして強制的に立ち直らせるだ
ろうに。
﹁大丈夫だよ﹂
今は少し、疲れているだけだ。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁人を殺すと言うことは、意外と慣れてしまう事なのだ。人として
やってはいけない禁忌なのに、慣れるのは早い﹂
﹁小隊長殿も早々に慣れてしまったんです?﹂
﹁あぁ。10人から先は覚えていない。それより、ノヴァク兵長⋮
⋮だったかな? 君は大丈夫なのか?﹂
﹁大丈夫とは?﹂
﹁君も人を殺めただろう。平気なのか?﹂
158
﹁俺は、人殺しは初めてじゃないんで﹂
﹁ほほう。面白い冗談を言うな君は﹂
﹁冗談じゃないですけどね﹂
﹁⋮⋮そうか。まぁ、世の中にはそういう子供もいるのだろう﹂
﹁えぇ、ビックリですよね﹂
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
俺が殺した、敵騎兵隊の隊長と思わしき人物が持っていた剣が手
元にある。
持ち帰ろうと思う。
俺が初めて殺した、名も知らぬ敵兵の事を忘れないために、この
気持ちを忘れないために。
俺たちは敵拠点だった湖で休息を取り、翌日には村に帰還した。
拠点襲撃での味方の被害は、戦死1名、負傷3名。戦果は敵騎兵
隊の壊滅。
これで、王女と補給線の安全は守れただろう。
王女の居る農村に戻る最中、俺は手にしている敵騎兵隊長の剣を
眺めていた。だが10分ほど眺めていたら、違和感に気付いた。
違和感の正体は、すぐに判明した。
⋮⋮小隊長に報告した方がいいかもしれない。
159
﹁小隊長、よろしいですか﹂
﹁ん? あぁ、平気だ。君の方は、体調は大丈夫かね?﹂
﹁万全ではありませんが、まぁ、大丈夫です﹂
嘘ではない。ちょっと心に来てるだけだ。
﹁それで、何の用だ﹂
﹁これを見てほしいのです﹂
俺はタルノフスキ中尉に剣を渡す。
﹁これは先ほどの騎兵隊の隊長と思われる人物が持っていた剣です﹂
﹁これがどうした? 確かに装飾から見るに隊長格の剣だが⋮⋮﹂
﹁見てほしいのは、鍔の部分です﹂
﹁鍔⋮⋮?﹂
この世界の剣には︱︱いや、もしかしたら前世でもそうだったの
かもしれないが︱︱鍔の部分には製造国の紋様が刻まれているのだ。
例えばシレジア王国の場合、国章である白鷲を模した紋様がある。
カールスバートの場合は確か銀色のライオンだ。
しかし、この剣にはなぜか紋様がなかった。
無論、製造効率を重視して紋様や剣の装飾を省く場合もある。で
もこの剣の装飾は、中尉の言う通り隊長各級の、それなりに豪華な
装飾がされていた。
この剣には、装飾だけあって紋様がないという妙な部分があった
のだ。
160
﹁鍔の紋様がない⋮⋮か。確かにこれは変だな。装飾も紋様も省略
してあるのは珍しくないし、作るのに手間のかかる装飾がなくて紋
様だけあるのもそれなりにある。だが装飾があって紋様がないのは
変だ﹂
紋様がない理由。答えはひとつしか思いつかなかった。
﹁この剣がカールスバート製ではなく、第三国で作られたものなの
でしょう﹂
﹁⋮⋮だとすると、とんでもないことだな﹂
とんでもないことだ。第三国の剣が、王女襲撃を任務としていた
騎兵隊長が持っていた。
﹁あの騎兵隊、少なくとも騎兵隊長はカールスバートの軍人ではな
く、その第三国の人間だったのではないでしょうか﹂
第三国の軍人が、カールスバート軍と協力して任務を遂行した。
もしかしたら、政変の段階でこの第三国とやらが関わっていた可
能性も出てきた。
161
静かな湖畔の森の影から︵改︶︵後書き︶
追記:位置関係について
王都
→
村
|5km
夜襲地点︱︵15km︶︱敵拠点の湖︱︵25km︶︱ヴロツワフ
|
|20km ︵シュフィドニッツァ︶
|
コバリ
現実にある同名の都市・地名とは物語の関係上位置関係がずれます。
162
蠢動︵改︶
2月6日。
俺ら王女護衛隊は敵拠点があった湖から、王女や負傷兵らを匿わ
せていた農村に戻ってきた。
そして王女護衛任務再開⋮⋮はしなかった。王都から護衛の増援
があったのだ。
増援として駆けつけたのは近衛師団第3騎兵連隊だった。タルノ
フスキ中尉曰く﹁エミリア王女専門の護衛部隊﹂で、とりあえず第
3師団の連中よりは信用できるらしい。
﹁ザモヴィーニ・タルノフスキ中尉、護衛感謝致します﹂
﹁いえ、王国軍人として当然のことをしたまでです。それに、部下
にも恵まれました﹂
やっと王女殿下の護衛も終わりか。ひとつの任務を無事に終えら
れて喜ぶべきか、それとも金髪ロリと別れを告げることになって悲
しむべきか。
﹁ワレサさん、でしたね﹂
﹁は、はい。そうであります殿下!﹂
急に話しかけないでびっくりするから!
﹁聞くところによると、貴方は私と同い年だそうですね﹂
﹁はい。今年で11歳になります、殿下﹂
163
11歳だよね? 時々自分の年齢忘れそうになるけどあってるよ
ね?
﹁⋮⋮私と同い年なのに、ご立派です﹂
﹁い、いえ。私1人の成果ではありません﹂
サラがいなかったら騎兵に気付けなかったし、ラデックがいなか
ったらスピリタスの存在に気付かなかった。
もしこの2人が居なければ、俺らは仲良くあの世行きだったかも
しれない。今回は運が良かっただけだ。
﹁それに、エミリア殿下もご立派であらせられます﹂
﹁⋮⋮私が、ですか?﹂
﹁えぇ﹂
確かに多少我が儘なところがあったけど、道中泣き言は言わなか
ったし、毅然とした態度だったよ。あと20年もすれば立派な女王
様になる素養はあるんじゃないかな。
あと絶対美女になる。
﹁殿下、そろそろお時間です﹂
﹁あ、はいそうですね。ではタルノフスキ中尉、マリノフスカさん、
ワレサさん。この度は護衛、心より感謝いたします。あなた達の名
は忘れません。それでは、またお会いしましょう﹂
そう言って彼女は近衛隊の馬車に乗り込み、発って行った。
うむ。金髪ロリ、もとい王女殿下に名前を覚えられた。大変な名
誉なことだ。
164
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁まあまあって所ですな﹂
﹁あぁ。たが、正直ここまでとは思わなかったよ﹂
ここは、東大陸帝国の帝都ツァーリグラード、その中心部にある
軍事省庁舎内の大臣執務室。
部屋には、軍事大臣レディゲル侯爵と皇帝官房治安維持局長ベン
ケンドルフ伯爵の姿があった。
﹁卿の提案を呑んだ甲斐があったということだ。我々は士官1人の
命と引き換えに、カールスバートをこちら側に引き込み、シレジア
に楔を打ち込むことができた﹂
ベンケンドルフ伯爵の提案、それはシレジアとカールスバートの
間に締結されようとしていた不可侵条約の締結阻止について。
東大陸帝国と比べ国力が大きく劣る国が、同盟関係を結んでも帝
国には対抗できない。だがシレジアの戦力が増強されてしまえば、
近い将来起きるであろう﹁戦争﹂の障害となりうる可能性がある。
カールスバートが東大陸帝国の影響下から離れ、そして同盟に便
乗した周辺国が第三勢力を築こうとする動きがあったのも見過ごす
わけにはいかなかった。
その解決策として、伯爵が提案したのがカールスバートに政変を
起こすことである。
165
クリーゲル政権の軍縮政策に不満を持っていた共和国軍大将ハー
ハを担ぎ上げ、不況に喘ぐ国民を扇動し、条約締結記念式典の直前
に政変を起こさせた。
その結果、今やカールスバートは東大陸帝国の属国に成り下がっ
たのである。
そして、シレジア王宮内の一部の人間にこの情報を流した。
特殊任務を実行すべく、帝国軍士官を1人送り込んだ。
﹁まぁ、それについては失敗したと言う事かな伯爵﹂
﹁いえいえ。我々の警告がシレジア王宮に届いた。それだけで十分
です。今の所はですが﹂
﹁ふん、そうだな﹂
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁ところでユゼフさんや﹂
﹁なんだいラデックさん﹂
﹁エミリア殿下は俺の名前覚えてくれたのかね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁なんか言え﹂
166
目的なき戦い︵改︶
シレジア王国とカールスバートの国境線は東西に長く、約350
キロ程ある。
にも拘らず、両軍が衝突している地点は西部のコバリと、東部の
カルビナという町付近だけである。
理由は、国境にズデーテン山脈と呼ばれる長大な山脈があり、大
軍が通行することは困難であること。
そして両国を繋ぐ街道がコバリとカルビナの2ヶ所にしかないと
いうことが挙げられる。
さらに言えば、カルビナは国境の東端にあるため戦略上軽視され
ている町でもある。一方コバリは両国の首都に直通する街道の中間
地点に位置していた。
そのためコバリが激戦の地になるのは明らかだった。
﹁現在我が軍はここコバリに3個師団、2万9千余名の将兵を展開
しております。一方、敵軍は国境のズデーテン山脈の麓におよそ5
個師団を展開している模様です﹂
﹁数の上では完全に不利だな﹂
﹁はい。しかもズデーテン山脈には敵の要塞があるため、不用意に
近づけば要塞からの強大な魔術攻撃を受け、甚大なる被害が予想さ
れます﹂
﹁ふーむ⋮⋮﹂
コバリ方面戦線は完全に膠着状態にあった。
167
かつて国境にあった長閑な町は戦闘によって完全にその痕跡をな
くし、単なる地理的概念へと成り果てている。
シレジア王国軍はカールスバート共和国軍の攻勢を支えるため、
王都や他の国境から戦力を抽出し、それを適宜戦線に投入し維持し
ていた。唐突に始まった故ある程度は仕方ない事だったが、王国軍
は兵力の逐次投入と言う戦術上の愚行をしていた。
そればかりか、王国軍は兵力に劣り、地勢でも負けているために、
兵力の損耗は軍上層部の予想を遥かに超えていた。
レグニーツァ平原まで後退するべきではないか、と南部国境方面
軍の総司令官であるジグムント・ラクス大将はそう考えていた。だ
が、無闇に後退すれば共和国軍の全面攻勢を呼び、それが戦線崩壊
へと至るのではないかとの懸念があった。
無事レグニーツァ平原まで後退できたとしても、近くにはここら
では一番大きい都市であるヴロツワフに近すぎて非戦闘員に無用な
被害が出る可能性もあった。
ラクス大将は熟慮の上、後退しないことを決断し、現在の防衛線
を維持することに専念することにした。
大陸暦332年2月11日、シレジア王国軍の戦死者は1万人に
達しようとしていた。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
﹁皇帝官房長官殿はこの戦い、どのように決着をつけるつもりです
168
かな?﹂
﹁決着ですか?﹂
・
﹁そうだ。もはやこの戦争、我々の目的は既に果たされた。あとは
どう落とし前を着けるか、だ﹂
東大陸帝国はこの戦争に大規模介入してるわけではない。
・
彼らがやったことは、火の気のない森の木を1本だけ燃やしただ
けで、あとは両国が勝手に焚き付けて大火災にさせたのだ。
﹁私としてはどちらでもよろしいですがね。シレジア人がいくら天
国へと片道旅行しようと、私の関知するところではありません﹂
﹁だろうな﹂
ベンケンドルフのこの言い様に、レディゲルは不快感を覚えつつ
も特に感想を述べなかった。ベンケンドルフという人物が、火を着
けるのが得意でも火を消すのが苦手で、それは彼をよく知る者の中
では有名だった。
﹁私としては、そろそろ停戦の仲介をしてもいいと思うのだがね﹂
﹁おや、花火見物は飽きたのですかな﹂
﹁別にそういう訳ではない﹂
レディゲル自身は高見の見物と決め込んでも構わなかった。
だがあまりにも戦争の災禍が燃え上って他の反シレジア同盟参加
国が便乗参戦してもらっては、東大陸帝国が享受できたはずの利権
を横取りされる可能性がある。
最大の受益国家が我が国でないと、今まで努力した甲斐がない。
レディゲルはそう考え、今回の戦争を早めに切り上げようとしたの
である。
169
﹁それに、カールスバート共和国軍とやらも随分苦戦しているよう
だ。過日、コバリの攻勢作戦に失敗し2000余名の将兵を無為に
死なせたそうではないか﹂
﹁ですがカールスバートに派遣した我が国の観戦武官からの情報に
よれば、王国軍も1万の将兵を失っているようです﹂
両軍決め手を欠いたまま、第三国の仲介によって停戦する。タイ
ミングとしては絶好だろう。
﹁皇帝官房長官殿はどう思う?﹂
﹁そうですな。確かに閣下の仰る通り、陛下に助言を申し上げるべ
きですかな﹂
﹁ふむ。ではそちらについては官房長官殿に任せよう。国務大臣に
は、私から提案しておく﹂
こうして大陸暦632年2月27日、東大陸帝国皇帝イヴァンⅦ
世の仲介によって、シレジア=カールスバート戦争は互いに決め手
を欠いたまま両者引き分けの形で停戦した。
王国軍の死者は1万521名、共和国軍の死者は7944名。
両国がこの戦争で得たものは、国境付近で積み上げられた大量の
死体のみであった。
170
王冠の意義︵改︶
護衛任務終了後、俺たちの小隊はコバリに戻った。
だけど別段戦闘に参加したわけではなかった。護衛任務でかなり
の損耗を出していたし、そうでなくても素人集団だったから戦力外
だったのだ。
結局俺らは後方支援任務だの現地の事務処理の手伝い⋮⋮要は雑
用にこき使われた。
ただ王国軍が頑張って戦線を支えていたおかげで戦禍に巻き込ま
れることなく、2月末に俺たちは停戦の日を迎えた。
﹁結局、何のための戦争だったのかしら﹂
まったくだ。
この戦争で一番得した奴は誰だろうか。政変に加担した第三国だ
ろうか。
﹁とりあえず、俺はサラとラデックと一緒に士官学校に戻れること
が嬉しいよ﹂
生き残った。
それだけでも良しとしよう。
﹁⋮⋮そうね﹂
サラはそう、短く答えた。
171
﹁君たちとも、ここでお別れだな﹂
いつの間にかタルノフスキ小隊長殿が後ろに立っていた。
﹁少し寂しいですね﹂
﹁あぁ。非常に短い間だったが、一年くらい一緒にいた気分だ﹂
そうそう、タルノフスキ小隊長殿は大尉に昇進したらしい。
王女護衛の任務を少ない戦力で成功させ、さらには国内にあった
敵騎兵隊の拠点を壊滅させた。昇進しない方が変だ。勲章も授与さ
れる、って噂もある。
﹁君たちにも、いずれこの武勲が評価される時が来るだろう。今は
まだ終戦直後でもたついているから、先の話になるとは思うが﹂
﹁それは、楽しみです﹂
でも士官学校に戻ったらどう評価されるんだろうか。単位まけて
くれるのかね?
﹁では、また会おう﹂
こうして、俺たちの戦争は終結した。
◇◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
172
自分が特別な人間であると、彼女は生まれた時から、いや生まれ
る前から知っていた。
いずれ父から譲り受けられるだろうその地位を、彼女は漫然とし
た生活をしながら待ち続けていた。
父から、そして叔父から、帝王学の何とやらを教わった。
しかし彼女が駄々をこねれば、7割方思い通りになった。
そんな生活を10年続けていた。 だが、彼女の人生を一変させる出来事が10歳の誕生日を数ヶ月
程すぎた時に起きた。
隣国の式典に参加するために、彼女は慣れ親しんだ王宮を一時的
に離れた。
しかし、式典は中止され、彼女は国賓という立場から懸賞金が懸
けられた指名手配犯という身分にまで落ちた。
敵国の中での逃避行は決して楽なものではなかった。近侍達が目
の前で、自分の盾になって死ぬ姿を何度も見た。
その度に、彼女の心の中何かが砕けていった。
ようやく一行が国境を越えた時には、人員が出発時の半数にまで
減っていた。
自分が特別な立場の人間であったがために、多くの人間が道半ば
にして倒れていく。何の能力を持たぬ子供が特別な立場の人間だっ
たがために、周りの人たちが死んでいく。
その様を目の前で見せられた彼女は、王族という立場を忌み嫌っ
た。
173
そんな時、彼女はある一行に出会った。
寄せ集めという雰囲気をいかにも醸し出していた護衛隊だった。
国内でも彼女は襲撃に合い、兵を死なせてしまった。
あげくには無礼な平民に﹁指示を聞け﹂などと言われ、幼い矜持
を傷つけられた。
カヴァレル ひざまず
しかしそんな時、その平民の傍に立っていた騎士が跪きつつこう
言った。
﹁殿下は我が国、我が国民にとって大切な存在です﹂
重要な存在、と幼き頃から言われていた。
だが、大切な存在だと言われたのはこの時が初めてだったと思う。
ひざまず
今まで倒れていった近侍達、そして目の前で跪くこの少女達。
命令ではなく、彼女が大切な存在だから、こうして忠誠を尽くし
てくれるのだと。
﹁あなたは、私に忠誠を誓いますか?﹂
﹁未熟な身なれど、命に代えてでも殿下をお守りいたす所存です﹂
彼女にとって﹁忠誠﹂とは、臣下が自分を出世の踏み台にするた
めの道具として使っている、という意味でしかなかった。
しかし、一連の出来事によって、彼女の頭の中にある辞書の﹁忠
誠﹂の意味が書き換えられることとなったのだ。
そして、彼女は見た。
自分と同じ年の人間が死地に立ち、その年齢に相応しくない能力
174
を如何なく発揮し、今日を精一杯生きる姿を見た時、彼女の中で形
容しがたい感情が生まれた。
彼女にとってそれは初めての経験であり、同時にどこか納得いく
感情であった。
﹁王宮に戻ったら、お父様に相談せねばなりませんね﹂
それが王冠を受け継ぐ者としての義務だと彼女が確信したのは、
この時が初めてである。
彼女の名はエミリア・シレジア。
シレジア王国現国王フランツ・シレジアの娘にして、王位継承権
第一位の持ち主である。
175
間話:近侍の日常︵改︶
私の名前はイダ・トカルスカ。
メイド
シレジア王国現国王フランツ・シレジアの娘にして第一王女であ
るエミリア・シレジア殿下にお仕えする近侍です。
我が主君であるエミリア殿下はそれはそれは大変かわいらしい。
黄金に輝く髪と、どこか大人びた顔つき。そして何より少し我が儘
でその時の表情がもう可愛いのなんのってもう王族じゃなかったら
誘拐して自分の娘に、いやお嫁さんにしたいくらいです。せめて型
を取って等身大の人形にしたいですぅ!
⋮⋮ハッ。いけない。つい妄想が過ぎてしまいました。お見苦し
い物を見せてしまい申し訳ありません。
コホン。
私と殿下が出会ったのは5年4ヶ月と18日と7時間19分前の
事です。
当時私はまだ18歳⋮⋮あ、いえ今でも18歳ですが、とにかく
私は仕事を探していました。
それまで勤めていた伯爵家が断絶し、仕事がなくなっていたので
す。そこに、宮中で働く方に﹁王女の世話役として来ないか﹂と誘
われたのです。無論、即行で受けました。伯爵家の近侍から王族の
近侍に出世できる良い機会でしたから。
筆記試験に身体検査、マナーの考査を経て、家族関係、さらには
176
私の初めての相手や付き合っていた男性を含めた交友関係を徹底的
に調べられました。まぁ私にはそういった付き合いは全くなかった
ので問題はありませんでしたが。
⋮⋮別に泣いてはいませんよ。目にゴミが入っただけですから。
こうした苦難を乗り越え、私は宮中で働くことが許されました。
王女の近侍として。
そして私は、まだ幼い殿下と出会いました。その時からもうそれ
はもうかわいらしく、たなびく髪は黄金色に輝き、目の色はまるで
海のように青く綺麗でした。
私はその時に、エミリア殿下に惚れてしまったのでしょう。まだ
5歳の女児に、です。でも、歳の差や身分の差なぞ大したことでは
ありません!
がんばれ私!
私は近侍として殿下の身の回りのお世話をし、殿下が安心して暮
らしていけるように最大限の配慮をしました。
大変ではありましたが、殿下の笑顔を見ると疲れなんて吹き飛び
ます。殿下が幸せになる事こそ、私の喜びなのですから。
さて、殿下は近々出立の御予定があります。隣国カールスバート
共和国で開催される条約締結記念式典に参加するそうです。
殿下は嫌がっておりました。当然です。殿下にとって初めての外
遊なのですから、いろいろ不安もありますでしょう。
もしかしたら式典の最中、ストレスを感じて倒れてしまうかもし
177
れません。そうなったら大変です。私は殿下のお世話をしつつ、殿
下が式典の最中ストレスを感じないようどうお声をかけるべきかを
考え続けていました。
ウィットに富んだ愉快な冗談から、共和国の偉大なるハゲことク
リーゲル大統領閣下の陰口まで、500個くらい考えました。これ
で完璧です。
﹁嫌です。行きたくありません﹂
エミリア殿下は相変わらず我が儘です。
でもそれが可愛いんです。この気持ち誰かわかりませんか? わ
かりませんか。でもいいです。私だけわかってればいいんですから。
﹁そう仰られては困ります! どうか言う事を聞いてください﹂
﹁私は王宮から出たくありません﹂
同僚の近侍が必死に説得していますが、殿下は頑なに拒否してお
ります。ジト目で近侍の提案をことごとく蹴るお姿⋮⋮あぁ、この
表情を永遠に保存できる道具があればいいのに。
エミリア殿下の可愛らしいお姿を見ることができ、ついでにお給
料も発生する。これほど恵まれたお仕事は王国中どこを探しても見
つかりません。私は幸せ者です。
﹁エミリア、あまり我が儘を言わないでくれ。お前そんな子じゃな
かっただろう﹂
﹁⋮⋮叔父様﹂
チッ。私の至福の時間を悉く邪魔するヒゲ、もといカロル大公殿
下が来てしまった。帰れ帰れ! エミリア殿下は私の物です!
178
結局エミリア殿下はカロル大公殿下の説得によって渋々カールス
バート行きを決断しました。そんなエミリア殿下はどこか悲しげな
表情をしています。あぁ、でもまたそれが美しい。
ちなみに私もカールスバート行きに同行します。当然です。式典
で綺麗な衣装を着ながらガチガチに緊張するエミリア殿下を支えた
いと思うのは近侍として普通の事ですから。
カールスバートに向かう馬車の中、私の隣に座るエミリア殿下が
唐突に話しかけてくださいました。死んでもいいです。
﹁ねぇ、イダ。あなたが来てからもう何年になるのかしら﹂
﹁5年程になります、殿下﹂
さすがに1ヶ月以下の単位まで言ったらドン引きされるので自重
します。
﹁そう⋮⋮。ねぇ、イダ﹂
﹁なんでございましょう、殿下﹂
﹁⋮⋮いえ、なんでもないわ﹂
そう言って殿下は再び視線を窓の外に移しました。あぁ、とても
絵になりますねぇ。私の部屋に飾りたいです。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
えっ?
今何と言いました? ありがとう? え、えっ? 殿下が、私に、
179
感謝の言葉を!? な、ななな#$%&@¥*£!?
﹁いえ、近侍として、当然のことをしているだけです﹂
どうにか心を落ち着かせて、なんとか言えました。
あぁ、この心から溢れ出る愛情と忠誠の心を最上級の言葉で伝え
る語彙が欲しい! 自分の言語能力のなさに絶望しました!
⋮⋮エミリア殿下が、私に⋮⋮うふ、うふふふふふふふ、ぐへへ
へへへへへへへへ。
おっと、あまり変な笑いをしてしまうと私の美しくて華麗な近侍
というイメージが崩れてしまいますね。
自重せねば。
エミリア殿下と私を乗せた馬車は、ついにズデーテン山脈を越え、
カールスバート共和国内に入りました。
今は大人しいですが、この国はかつて敵国でした。警戒するに越
したことはありません。
エミリア殿下には、指一本触れさせません。
私はイダ・トカルスカ、エミリア殿下の近侍です。
この命が尽き果てるまで、殿下の盾となるのが、私の役目。
なぜなら、私はこの御方を愛しているからです!
◇ ◇
180
﹁イダ⋮⋮、今まで、本当にありがとうございました⋮⋮﹂
そう呟いたエミリア王女の乗る馬車には、彼女以外の姿はなかっ
た。
181
そして物語は動き出す︵改︶
大陸暦632年3月1日、俺とサラとラデックその他大勢の士官
候補生たちは懐かしの学び舎に帰還した。
そしたら上半期期末試験の真っ最中だったでござる。
うわー、うわー⋮⋮。全教科60点以上とか完全に無理ゲーだわ
! 特に弓術とか完全に忘れてるよ! 60点どころか6点も取れ
る自信ねーよ!
ちらりと横を見てみるとサラが真っ青な顔していた。そう言えば
戦術とか戦略の授業全然してあげられなかったね。
はぁ、退学かぁ。授業料払えるかな⋮⋮。
と思っていたけど単位の心配はしなくて良いらしい。
そういや忘れていたけど、士官学校から出発する際に先生がそん
なこと言ってたな。
まぁ学校であるが故、何かしら評価はつけなければならない。
そいうことを考慮して、士官学校にはある制度︱︱というより慣
習かな?︱︱がある。
それは軍に配属されてる間の直属の上司が成績評価をする、とい
うもの。軍紀に反していないかとか武勲をどれだけあげたとかを、
上司の主観で決定するのだそうだ。なお嫌がらせを防止するため評
価点は60点以上と決められているらしいので、余程悪い事してな
ければこの範囲内の点数となる。
182
⋮⋮俺悪いことしてないよね? スピリタスをばら撒いたことは
不問にしてあげるよ、って小隊長殿が言ってたし。
この評価制度は元々、貴族の坊ちゃんに媚びを売りたい軍の現場
指揮官が始めたものとされている。こんなちんけな媚びが売り物に
なるのかと思うが⋮⋮。
ま、今回の場合は貴族の坊ちゃんが上司で俺はただの農民だけど
ね。
士官学校に帰還した数日後、タルノフスキ大尉から成績書が届い
た。
早速教務課に呼び出されて、成績表が渡される。えー、と、どれ
どれ⋮⋮?
剣術 78点
弓術 60点
魔術 80点
馬術 60点
算術 89点
戦術 99点
戦略 99点
戦史 98点
⋮⋮随分と過大評価されてる気がする。弓術と馬術が最低点なの
は見せる機会がなかったからなのは良いとして、戦術・戦略99点
ってなんやねん。残り1点ってなんなんやねん。気になるわ。
剣術78点は⋮⋮サラのおかげと思うことにしよう。
魔術80点はよくわからないな。そんなに魔術使った覚えないん
だけど。
183
そして算術89点と戦史98点はなんぞ。意味不明だ。
サラの成績もよくわからない高評価だったようだ。特に戦術の点
数が跳ね上がって75点になってたらしい。うん、本当に基準が分
からない。
ラデック? あいつは元々赤点なかったから興味なかった。
そうそう、タルノフスキ大尉で思い出した。
例の敵騎兵隊長の剣は大尉に没収された。本当は自分の寮室まで
持って行きたかったのだが
﹁何の後ろ盾もない君たちが、謀略の証拠品足り得るその剣を持ち
続けるのは危険だろう。これは私が預かっておく﹂
だそうだ。
うが
⋮⋮タルノフスキ大尉が証拠隠滅を図ろうとしている、と思って
しまうのは穿ちすぎだろうか。
そんなこんなで上半期後の休暇、前世で言う所の春休みを貰った。
期間は2週間ほど。短くもなく長くもない。だが不幸なことに
﹁お前ら出征組は教育課程が他の生徒に比べて遅れている。これは
仕方ないことだが、遅れたままだと下半期や来年以降の授業に支障
が出る。だから、春休暇中に特別補講を開くから参加するように﹂
つまり非出征組が青春を謳歌する中、俺たちは勉強漬けだったと
いうことだ。なんもかんも戦争が悪い。
184
◇ ◇
3月15日、王立士官学校下半期が開講する。
と言っても別段何も語るべきことはない。
いつも通り授業を受けて、戦前のようにサラに教えたり殴られた
りしながらラデックと愚痴を言い合う毎日が始まるのだ。あぁ、早
く卒業したい。
﹁えー、では今日は授業を始める前に新入りを紹介する﹂
⋮⋮? 転校生ってことか? え? 士官学校にもそう言う制度
あるの?
﹁⋮⋮では、どうぞお入りください﹂
⋮⋮お入りください?
﹁敬語は不要です、先生。ここではあなたの方が立場が上なのです
から﹂
教室に入ってきたのは、エミリア・シレジア王女殿下にとてもそ
っくりな女子だった。
﹁この度、王立士官学校に入学しました。エミリア・ヴィストゥラ
と申します。以後、よろしくお願いします﹂
185
こ、こいつはいったい何者なんだ!?
186
高貴なる義務
暦は1ヶ月程遡る。
シレジア王国の王都シロンスクに向かうある一団。その中にある
豪華な馬車の中、エミリア・シレジアは悩んでいた。
一連の事件で彼女は、自分が無知無能であることを知った。知も
才もない者が王冠を手にすることは、いかに自分が王位継承権第一
位でも許されないだろう、そう思った。
だが彼女はまだ10歳で、戴冠はまだ先の話であることも事実。
王女は自分の能力向上を図ることにした。
と言ってもどうすればいいかわからない。こういうことを考える
のはいつも父や叔父の仕事だったからだ。
でも彼女は他人に意見を求めようとはしなかった。
この程度のことを自分で考え決断することが出来なければ、この
先なにをしても無駄なのだろう、とそう感じたのだ。
真っ先に思いついたのは、王位継承権を捨てることである。
でもそれは、すぐにダメだと感じた。
王位継承権を捨てることは簡単で、楽な道だ。だが捨ててしまえ
ば二度と自分の元には戻ってこないし、それに自分が負うべき義務
187
から逃げてるだけだ。
それに父が許さないだろう。父は私にどうしても王位を継がせた
がっている。今は亡き母の遺言らしい。
彼女にとって母とは絵画の中の登場人物と言うだけの存在にすぎ
ないが、父にとってはそうではないようで、母の遺言とは神から授
けられた言葉と同じ価値を持つようだ。
ではどうすればいいのだろう。
思考はいつもここで終わってしまう。
視点を変えてみよう。
なぜ私は王位につきたいのだろうか。
叔父に負けたくはない、という極めて利己的で自分勝手な理由も
ある。
が、それ以上に思うことは、自分を守るために盾になって死んで
いった者の姿である。
彼ら彼女らは、自分が王族という特別な地位にあるがために死ん
でいった。
もし自分が王位につかず継承権を放棄したら、死んでいった者に
申し訳が立たないだろう。こんなことで逃げる王族を守るために自
分たちは死んだのか、と罵倒され、失望されてしまうかもしれない。
自分は安全な王宮で、王位にもつかず、なんの知も才もないまま
王族と言うだけで豪華な暮らしをすることは許されない。
戦争中、自分だけが安全な王宮でのほほんと暮らし、戦場で死に
188
行く者を見ないふりをするのは許されない。
彼らがいなければ、私はここにいなかったのだから。
この考えに至った時、彼女は自分の義務を知った。
﹁王宮に戻ったら、お父様に相談せねばなりませんね﹂
−−−
王都シロンスク、その中心に立つ王宮。
その一室で、彼は悩んでいた。
彼の名はフランツ・シレジア。シレジア王国第7代国王にして、
我が儘娘のエミリア・シレジアの父である。
彼の悩みの種は、隣国との戦争によって増大する被害者の数と戦
費⋮⋮ではない。娘のことだ。
娘は隣国カールスバートで催される式典に参加するために旅立っ
た、があろうことかその隣国で政変が発生しあまつさえ戦争を仕掛
けてきた。
娘をカールスバートに行かせるよう指示したのは国王自身である。
箱入り娘で我が儘娘だが、将来は王冠を継ぐ者、そろそろ公務に
189
参加させるべきかと考えていた。
王族や貴族のデビューというものは、だいたいが何らかの公式な
式典である。エミリアの場合は、そのデビュー戦がカールスバート
の式典だった。
が結果がご覧の有様である。
娘は敵軍に追い回され命からがら王都に戻ってきた。
お父さん嫌われちゃう!
﹁だから嫌だって言ったのに! もうお父さんなんて嫌い! 口も
利かない! パンツ一緒に洗わないで!﹂
娘にそんなこと言われたら国王は自殺する自信がある。彼は国王
である前に、可愛い娘を持つ1人の父親だから仕方ない。
﹁陛下、エミリア王女が会談を求めてきています﹂
ゲッ。
どうしよう。やっぱり怒られるかな。どんな我が儘言われるだろ
うか。今まで娘の我が儘は半分くらい聞かなかったけど、今回はど
んな要求でも呑まざるを得ないだろう。さもないと最悪自分が死ぬ。
﹁ん、了解した。﹃私の執務室に来い﹄と伝えよ﹂
﹁御意﹂
190
数分後、娘が国王の執務室に来た。
今度はどんな我が儘を言うのだろうか。ドキドキ。
﹁お父様、折り入ってご相談があります﹂
﹁⋮⋮何かね?﹂
まさか洗濯の話だろうか。
﹁私の士官学校入学の許可が欲しいのです﹂
えっ?
おっといかん。あまりにも突飛なことで思考が停止してしまった。
⋮⋮士官学校? 貴族学校じゃなくて?
﹁理由を聞こう﹂
私、士官学校に入って人殺ししたいの! とか言い出したらさす
がに止めなければならない。
191
﹁それが王族の義務だと、そう感じたからです﹂
おい、これ本当にあの我が儘娘か。カールスバートで悪い物でも
食べたのか。
あの娘が﹁王族の義務﹂という言葉を使うとは予想外だ。
﹁エミリアにとって、王族の義務とはなんだ﹂
王族の義務、もしくは貴族の義務という言葉は昔からある。
その立場や権力と同等の義務を負わなければ、国民が納得しない
からだ。無論、納税の義務などと違って法によって明文化されてい
ないから適当にお茶を濁す貴族もいる。というかそっちの方が多い。
﹁私にとっての王族の義務とは、国民に背を預け、国民の盾となり、
国民を守ることであります﹂
﹁そのために士官学校に行きたいと言うのか?﹂
﹁はい﹂
どうしてこうなった。
いや、だいたい察しはつく。娘の傍にいた近侍達や護衛は敵兵に
追われ、約半数が帰らぬ身となったらしい。それを間近で見て、そ
して考えたのだろう。
しかし士官学校とは予想外だ。
これが貴族学校だったら大手を振って送り出したのだが。
貴族学校とは、文字通り貴族だけが通うことが許されるエリート
学校だ。職員以外の平民の出入りは禁止されている。
将来爵位を継ぐ大貴族はそこに通い、高等教育を受けマナーを学
びコネを作る。そして晴れて貴族デビューし領地で政務に励んだり
192
王国に奉仕したりするのだ。
﹁結構な考えだが、別に戦場に立つだけが国民を守ることではない。
王宮で、いや王宮でなくともよい。かつての大陸帝国のように辺境
領で政務をし、豊かな土地にすれば良いではないか。それも立派な
王族の義務足り得る。それを学ぶのに、貴族学校へ通えば良い﹂
﹁それでは駄目なのです﹂
﹁駄目かね﹂
﹁はい。決して内政を疎かに考えている、と言うわけではございま
せんが、それでは私の気が済みません﹂
﹁なぜ?﹂
﹁私は、安全な王宮で、もしくは安全な総督府で漫然と過ごす気に
はなれないのです。私は、王女エミリアは平民の兵に助けられまし
た。兵達は私を命がけで守りました。ならば私も、命がけで彼らを
守らねばならないのです。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
エミリアは、大きく息を吸い、大きな声で言った。
﹁それに、王が戦地から離れた安全な王宮内から戦争を指示し、兵
を指揮するのでは、兵達は納得しません! 兵も人間であり、駒で
はないのです!﹂
耳の痛い話だ。
私はこの王宮から戦争を指揮していた。指揮と言っても実務の事
は軍に任せていたが、私は安全な王宮から戦争を指揮していた。
兵は死地に立つ。そして王は安全な場所で戦争を指揮し、賛美し、
そして時に切り捨てる。
﹁人殺しをしたいとは思いません。戦争を指揮したいとは思いませ
193
ん。しかし、国民を導くという立場につく以上、戦場から逃げては
申し訳が立ちません!﹂
⋮⋮いつの間にか立派になったもんだ。
こんな重要な決断をした娘の提案を一蹴するほど、私は冷たい人
間ではない。
この機会を逃せば、娘は一生箱入り娘のままになるかもしれない。
﹁幸いなことに、士官学校でも内政について学べると聞きます。士
義務
がある
官学校卒業の後に王宮に戻り、内政に専念することも可能です﹂
﹁わかった﹂
﹁⋮⋮お父様!﹂
﹁ただし条件がある﹂
﹁⋮⋮なんでしょう﹂
と言っても難しい条件を出すつもりはない。私にも
﹁第一に、王族の身分を隠すこと﹂
士官学校とは言え安全とは限らない。幸いなことに、娘の貴族デ
ビューはまだだから顔を知っている人間は少ない。
それに王族の義務を果たしたいのであれば、学校で王族としてち
やほやされるのはあまり宜しくない。教員にだけ知らせればそれで
よい。
﹁第二に、護衛を一人、一緒に入学させる﹂
護衛兼世話役と言ったところだ。この箱入り娘がいきなり士官学
194
校に行って順応できるとは思えないし。あと監視役も兼ねさせるか。
定期的に私に報告書を提出させよう。
﹁第三に、退学は許さない。成績に関して、私は何も干渉はしない﹂
王族が退学なんてもってのほかだ。それに成績にちょっかい出し
て何の努力なしに卒業できても娘は喜ばないだろう。
﹁第四に、士官学校5年、軍務10年をきっちりとやりきる事﹂
これは他の士官候補生も一緒のはずだ。
﹁最後に、士官学校には今すぐ入学すること﹂
正式に入学となると半年ほど先になるが、そんなに時間が経つと
娘の気が変わってしまうかもしれない。善は急げだ。調整はなんと
かする。
﹁⋮⋮﹂
﹁これが条件だ。全てを受け入れられないとあれば、私は士官学校
入学を認めない﹂
娘はしばし悩んだ後、決断した。
﹁分かりました。全ての条件を呑みます﹂
⋮⋮えー。呑んじゃうのかー。
ちょっとだけ期待してた。﹁そんな条件呑むくらいならお父様と
一緒にいるー!﹂って期待してた。
195
﹁⋮⋮なら、私はエミリアの入学を阻止しない﹂
﹁ありがとうございます。お父様﹂
そう言ってエミリアは深々と頭を下げ、執務室から退室した。
⋮⋮本当に、変わった。まだ10歳なのに、こんなにも考えてく
れるなんて感慨深い。
閉まる扉を見つめながら、フランツは呟いた。
﹁エミリアが、ますます君に似てきたよ﹂
執務室には、亡き王妃の絵が飾ってある。 196
それは紛れもなくヤツさ
コ○ラではない。でも紛れもなく王女殿下だった。
﹁⋮⋮というのがだいたいの事情だ。わかってくれたかな?﹂
﹁わかったような、わからなかったような﹂
放課後、俺とサラはこの女性に呼び出された。ラデック? あい
つはエミリア殿下に名前覚えてもらってなかったから呼び出し食ら
わなかったようだよ。羨ましい限りだね。
彼女の名前はマヤ・ヴァルタ。エミリア・シレジア王女殿下の護
衛兼世話役兼監視役兼その他諸々。17歳。本名かどうかは不明、
だけど王女殿下がヴィストゥラって姓になってたから、少なくとも
ヴァルタの部分は偽名︵偽姓?︶だろうな。
﹁ヴァルタさん。いくつか質問してよろしいでしょうか﹂
﹁構わない。あぁ、それと私には敬語は不要だ。歳は離れているが
同じ学年だからな﹂
私には、という言葉の裏には﹁王女殿下にはタメ口許さん﹂って
意味があると思われる。そんな釘刺さなくても敬語使いますよ。敬
語知らないけど。
あとヴァルタさんには敬語使います。とりあえず丁寧な言葉遣い
を心がけます。怖いから。
﹁なぜその話を、私たちにしたんです?﹂
197
その話とは、王女が士官学校に来たあらましだ。
要約すると﹁引き篭りニートじゃやばいから士官学校行くわ﹂で
ある。たぶん。
ちなみにさっきからサラはポカーンとしている。これは戦史の自
主勉強時に見たことある表情だ。全然話が読めてないんだろうな。
﹁簡単さ。あの方の正体を知っている生徒が君たちしかおらず、そ
してそれなりに信用できると殿下が仰られていたからさ﹂
あのー、もう1人知ってる奴がいるんですが⋮⋮。
と、言う勇気は今はない。だってヴァルタさん顔つき怖いんだも
の。ヤンキーなんだもの。
てか、俺たち本当にそんなに信用されるようなことしたっけ? 護衛任務でちょっと顔合わせて任務果たしただけだよ? ただの農
民だよ?
でも、これを指摘する勇気もない。だって以下同文。
﹁そうですか⋮⋮。じゃあ﹃ヴィストゥラ﹄ってなんです? 私は
寡聞にして聞いたことないのですが﹂
﹁ヴィストゥラは断絶した公爵家の家名だ。かつての戦争で武勲を
立て公爵にまで上り詰めた知る人ぞ知る英雄の家さ﹂
﹁なぜ断絶したのです?﹂
﹁第二次シレジア分割戦争の時に、爵位を継ぐはずだった子息が全
員戦死したのさ。当主は高齢で、戦後すぐに死んだ。そして爵位を
継ぐ者がいなくなり断絶、と言うわけだ﹂
戦争で名を立てた家が戦争で断絶したのか。なんとまぁ皮肉なこ
とで。
198
第二次シレジア分割戦争ってのは大陸暦572年に起きた、反シ
レジア同盟に対する復讐戦争だ。でも﹁分割戦争﹂なんて名前の通
りシレジア王国がフルボッコ︵10年ぶり2度目︶にされた。あぁ、
哀れ。
﹁ヴァルタの方は?﹂
﹁秘密だ﹂
王女殿下の方は話すのに自分の事は話さない。普通逆だろ。
﹁さて、他に質問はあるか?﹂
﹁⋮⋮ないです﹂
あまりズケズケと踏み込んだら地雷も踏み抜きそうで怖い。
﹁そうか。では本題に移ろう﹂
﹁え、今までのは前座だったんですか?﹂
﹁当たり前だ。昔話をするためだけに卿らを呼んだわけではない﹂
まじか。
﹁エミリア様の手伝いをしてほしいのだ﹂
ヴァルタさんは俺とサラに頭を下げた。つむじが時計回りだった。
いやそんなことはどうでもいいか。
﹁手伝いって、なにすればいいのよ?﹂
やっとサラが口を開いた。よかった、生きてたのか。
199
カヴァレル
﹁エミリア様が、今後起こるであろう宮廷内闘争に勝つための手伝
い、だ﹂
はい?
﹁頼む﹂
﹁頼むも何も俺は農民、サラは騎士ですよ? 宮廷内闘争なんてそ
んな盛大なことの手伝いなんてできるわけが⋮⋮。その前に王女殿
下は自らの能力向上のために来たのでは?﹂
﹁⋮⋮宮廷内闘争云々は私の独断だ﹂
でしょうね。10歳の王女様が宮廷内闘争を視野に入れて士官学
校入学とか意味わからんし。貴族学校行け。
﹁私は、エミリア様こそが王位につくべきだと思っている﹂
﹁理由は?﹂
﹁カロル大公が嫌いだからだ﹂
ここで感情的な理由かよ。
﹁確かにカロル大公は文武両道で実力もあるお方だ。だが、まだ1
0歳のエミリア様の暗殺を謀るお人を好きになれ、と言う方が無理
がある﹂
なるほど。それは確かに言えてる。
カロル大公がもし本当に宮廷内闘争を本気でやるとしてもそこら
へんがネックだよな。10歳の子供を手に掛けるなんて、心証が悪
いどころの話じゃない。
ん? だから敵国に殺させようとしたのか? そうすればカロル
200
大公がああだこうだ言われることはないし⋮⋮。
﹁士官学校は、貴族学校ほどではないがコネを作れることもできる。
卿らにはその手伝いをしてほしいのだ﹂
﹁手伝いと言われても、具体的には何をすれば﹂
﹁そう難しい話ではない。エミリア様の友人になってほしい﹂
﹁え?﹂
素っ頓狂な声を出したのはサラだった。
﹁どうしたのサラ?﹂
﹁あ、ひゃ、や、なんでもないわ!﹂
﹁そんなに慌てといてなんでもないわけあるか!﹂
﹁なんでもないわよ!﹂
殴られた。綺麗な右ストレートだった。
﹁⋮⋮話の続きをしてもいいか?﹂
﹁ど、どうぞ﹂
最近サラの拳の鋭さが増してる気がする。
﹁つまり、エミリア様の友人となり、話を聞いてやってほしい。彼
女も私も士官学校に来たばかりで右も左もわからないし、王宮での
暮らしが長く友人付き合いというものがわからない。だから、エミ
リア様の友人になって、交友関係を広げる手伝いをしてほしいのだ﹂
なるほど。そういうことなら何とかなりそうだな。
﹁それくらいなら、お手伝いできます。サラも大丈夫だよね?﹂
201
﹁え、えぇ、大丈夫、よ!﹂
サラがまだ挙動不審だった。本当お前は何があった。
﹁ありがとう。では、私はエミリア様の元へ戻るよ。あまり待たせ
ては護衛にならないからな﹂
そう言ってヴァルタさんは駆け足で走り去っていった。お勤めご
苦労様です。
⋮⋮にしても士官学校でコネ作りか。うまくいくのか不安だな。
確かに士官学校にも貴族の子弟は多い。だがその半数は爵位を継
ぐ長子ではなく、次子以降だ。
長子は貴族学校に行く。特に名の知れた大貴族はね。
でも武門の名家みたいな貴族の子供はみんな士官学校に行くから、
VS
そこらへんとコネを作れるのは良いのかな。軍務尚書の息子とかも
探せばいるんじゃないか?
となるとエミリア王女とカロル大公の派閥争いは﹁軍部
大貴族﹂みたいな構図になるのだろうか。うーん⋮⋮不安だな。
・・・・・・・・
ま、とりあえずはエミリア・ヴィストゥラ公爵様と親睦を深める
とするかね。話はそこからだ。
202
王女と騎士
サラ・マリノフスカは混乱していた。
混乱の原因は言うまでもない。王女殿下が士官学校に入学してき
たからだ。
王族が士官学校に入学すること自体は珍しい話でもない。ただ第
一王女が入学してくるなんて異常だ。
彼女の頭の中ではあらゆる思考が渦巻き、結局エミリア殿下に声
をかけることができなかった。
休み時間になって、ようやくサラは動き出した。
エミリア殿下は見た目美少女、そしてヴィストゥラ公爵家の令嬢
という御大層な御身分と言うことになってるせいか周りからちやほ
やされている。ここで﹁本当はシレジア王家なのよ﹂と教えてあげ
たら彼らはどんな顔をするか気になる。言わないけど。
一方エミリア殿下は困り果ててる。相手の好意を無碍にするわけ
にはいかないし、かといって怒鳴るわけにもいかない。そんな顔を
している。
ユゼフにどうすべきか相談しようとしたが、ユゼフは教室にはい
なかった。彼は肝心の時にいないことに定評がある。
﹁どきなさい!﹂
203
サラの行動は早かった。何も考えずに突撃することが彼女の本領
である。
サラは群衆を掻き分け、時には殴りつけ、王女殿下を輪の中から
半ば無理矢理引っ張り出した。誰かが止めようとしたが顔も見ずに
鳩尾を殴る。殿下を守らなければならないという騎士道精神が彼女
をそうさせた。
教室を出て、廊下でやっとサラは手を離し、その場で跪いた。
﹁殿下、ご無礼致しました﹂
﹁い、いえ、大丈夫です⋮⋮それより﹂
殿下はそう言うと教室の方を見やった。さっきサラが殴ったと思
われる屈強な女子が床に蹲っている。
﹁彼女は大丈夫です。手加減しましたので﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
彼女が本気で殴ったら内臓破裂は免れない。蹲る程度で済んだこ
とはむしろ幸運である。
﹁しかし殿下がなぜここに⋮⋮﹂
﹁話せば長くなりますが⋮⋮その前に﹂
﹁?﹂
﹁敬語はやめてください。それと学内でそのように頭を下げないで
ください﹂
﹁いや、しかし⋮⋮﹂
﹁これは命令です。聞いてくれますよね?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
204
考えてみれば王女という身分を隠し公爵令嬢として入学してきて
いる。過度に扱ってしまうとそこからバレてしまう可能性がある。
しかし公爵令嬢であればやはりそれなりの対応はしなければならな
いわけで⋮⋮。
﹁コホン。サラ・マリノフスカさん、でしたね?﹂
﹁そうです、殿下﹂
﹁敬語﹂
﹁あ、いえ、ですが⋮⋮﹂
﹁敬語﹂
﹁あ、はい。申し⋮⋮ごめんなさい﹂
王女にタメ口。もしここが王宮なら不敬罪で捕まる行為だ。
﹁サラ・マリノフスカさん。どうか私と、お友達になってくれませ
んか?﹂
⋮⋮はい?
﹁な、なれという命令であれば従います﹂
﹁⋮⋮友達とは命令して作るものではありませんでしょう?﹂
ごもっともである。
﹁私、同年代の対等なお友達が欲しかったんです!﹂
古今東西、王族と言うものは友達作りができない。王族に無礼が
あってはいけないし、喧嘩をしようものなら反逆罪で即刻死刑であ
る。
サラとしては悩みどころである。
205
感情的には大変嬉しい申し出である。だが理性的にはそうではな
い。たとえ王女殿下が身分を偽り入学しようと、王女殿下は王女殿
下なのである。
⋮⋮対応に困る。
﹁あの、ダメですか?﹂
王女殿下が上目使いでそんなことを言って拒否できる人間はこの
王国には一人もいないだろう。
﹁だ、大丈夫です! 私、殿下のお友達になります!﹂
サラはあっさり陥落した。
﹁嬉しいです! 初めてのお友達です! あ、私の事は﹃エミリア﹄
と呼んでくださいね! 殿下は不要です!﹂
﹁エミリア!﹂
﹁はい!﹂
﹁私の事は﹃サラ﹄でいいわ!﹂
﹁はい、サラさん!﹂
元気のいい二人である。
王女と騎士と言っても、この辺はまだ10代の少女なのだ。
﹁私たち友達ね!﹂
﹁そうです、友達です!﹂
206
こうして、王女殿下は友達作りに成功した。
ヴァルタがサラとユゼフを呼び出す、3時間前の出来事である。
207
大陸史 その3
前回どこまでやったっけ?
あ、そうだ思い出した。シレジア王国成立までだね。今回はシレ
ジアの昔話をしよう。
大陸暦452年、シレジア王国は独立する。初代国王の名はイェ
ジ・シレジア。こいつは元々大陸帝国の伯爵で、シレジア領を統治
していた。
シレジアは肥沃な土地を持ち、農業生産額は大陸でも五指に入る
裕福な領地だった。当然帝国からの締め付けは強かったが、代々の
領主シレジア伯爵の統治が良かったおかげで領民が飢えることはな
かったらしい。
が、ある時大陸帝国で帝位継承を巡って内戦が起きた。そう、国
を巻き込んだ盛大な兄弟喧嘩だ。
東大陸帝国は、辺境の反乱軍を鎮圧するために各地からあらゆる
ものを徴発した。例えば食糧とか鉄とか人員とか金とかね。
当然各領から不満が上がった。そこに付け込んで西大陸帝国が資
金援助だの武器供与だのをして反乱を煽ったわけだ。
ただシレジア領は元々裕福で余裕があった。確かに徴発の量は半
端なかったし帝国本土の奴らはなんか偉そうだったけど、西南大陸
帝国はシレジアと地理的に離れていたから戦火に巻き込まれること
はなかった。
208
内戦勃発から150年経過した。
相変わらず徴発の量が酷かったけどなんとか我慢できた。
苦しいけどイェジ・シレジア伯爵は我慢した。この時は反乱起こ
しても勝算なかったし。
我慢したが、帝国本土の奴は何をトチ狂ったのかさらに重税をか
けてきた。たぶん﹁シレジア領まだ音を上げてないからもっと徴収
しても問題ないはず﹂とか思ったのだろう。まさに外道。
イェジ・シレジアはキレた。
﹁そんなに払えるかー! ちっくしょー!﹂
と執務室で叫んだらしい。あ、これ無修正だから。このまんま言
ったらしいから。
大陸暦450年、シレジア伯爵の乱。
だがシレジア伯爵は内政に関しては天才と言ってもいいぐらいの
名君なのだけど、外交だの戦争だのについては専門外だった。
そこで伯爵は親友であり帝国軍少将だったエルンスト・コシチュ
ーシコに土下座した。
﹁仮にも皇帝陛下に弓を引くことはお前にとっては不本意だろうが、
シレジアの領民を助けるためにどうか力を貸してくれ﹂
とかなんとか。
恥も外聞もなく、伯爵はコシチューシコに土下座した。
209
コシチューシコは、本気で土下座する伯爵に感銘を受けて、もし
くはドン引きして、シレジア独立を手助けすることに同意した。
そして2年間の独立戦争を経て、シレジア領は独立と相成ったわ
けである。
コシチューシコ少将はシレジア王国軍初代総司令官の座につき、
国王となったイェジ・シレジアから公爵と元帥の地位を与えられた。
うんうん。感動的な話だね。ここで終われば。
独立から2年後の大陸暦454年、コシチューシコはクーデター
未遂を起こした。
原因は確か、政治意見の相違だったかな。
国王は﹁独立間もないし戦禍によって経済が疲弊している。国内
の産業を立て直すべきだ﹂と主張し、元帥は﹁東大陸帝国が未だに
強力な隣国として存在し続けてる以上、現状の戦力では国防に不安
がある。だから軍拡すべきだ﹂と主張したそうな。
どちらの意見が正解なのかは俺にはわからんが、とにかくこの政
治的対立が感情的対立に変化してコシチューシコがクーデターを起
こしたのである。
そして失敗した。当然コシチューシコは粛清された。未婚だった
のでコシチューシコ家は断絶している。
大陸暦470年、イェジ・シレジアが病没し、彼の息子であるマ
レク・シレジアが18歳で王位に就いた。
マレクは父と違って軍事の天才だった。
210
イェジが築いた経済基盤を背景に軍拡を推し進め、大陸で一、二
を争う軍隊を保有するに至った。
マレクはその軍隊を使って東大陸帝国に喧嘩を売った。当時のシ
レジア王国軍は精強で、そして東大陸帝国軍は長く続いた内戦のせ
いでかなり貧弱だった。結果はお察しください。
東大陸帝国に完勝したマレクは、勢い余って国境接してる国全部
に喧嘩を売った。さすがに同時にじゃないが。
でもどれも勝っちゃうんだよねこれ。この時国をいくつか滅ぼし
たらしいし、どんだけ強いんだマレク国王。
結局マレク・シレジアは常勝無敗の天才であり続けたまま大陸暦
518年に馬から落ちて死んだ。最後の最後でカッコ悪い死に方を
するなと言いたい。
イェジ・シレジアが残した経済基盤と、マレク・シレジアが残し
た軍隊と領土。この2つを持ったシレジア王国は黄金期を迎えるこ
ととなる。
第3代国王グロム・シレジアもちょっと変わった性癖を持ってい
たが、堅実的な治世を続けたため国は豊かであり続けた。
⋮⋮え? どんな性癖を持ってたのか気になるって? それは、
その、なんだ、えーっと、うん。
さすがに初潮が来てない子はダメだと思うの。
コホン。
211
えーっと、ここからが今回の戦史居残り授業の本題だ。
黄金期でウハウハしてるシレジアを快く思ってない国がいた。そ
れはシレジアに領土を奪われた周辺各国だ。
でもまだシレジアは強い。そんな国と戦ったらただじゃすまない。
じゃあみんなで同盟組んで東西南北あらゆる方向から攻め込めば
いいじゃん!
大陸暦559年、反シレジア同盟成立。この同盟に参加した主な
国は東大陸帝国、カールスバート共和国︵当時はカールスバート王
国︶、オストマルク帝国、リヴォニア貴族連合である。
翌560年、同盟諸国はシレジアに宣戦布告、後世﹁第一次シレ
ジア分割戦争﹂と呼ばれる戦争の始まりだった。当時最強と言われ
たシレジア王国軍は東西南北、四正面作戦を強いられ、562年に
敗戦、領土の三分の二を奪わた。
第4代国王アルトゥル・シレジアは敗戦によるストレスが原因な
のか、在位5年で死亡した。
第5代国王マリウシュ・シレジアは、父の仇を討つべく軍拡に勤
しんだ。
そして前戦争から10年後の大陸暦572年、カールスバートに
宣戦布告する。そして反シレジア同盟諸国はカールスバートを守る
名目でシレジアに宣戦布告する。
これが第二次シレジア分割戦争だね。ヴィストゥラ公爵家はこの
戦争で断絶した。
結果はご存じの通り大敗北、領土がさらに半分になり、国王マリ
ウシュは自殺した。在位11年。
わずか10年で復讐戦争始めた理由については明らかになってい
212
ない。
ただ各国に割譲された地域に住むシレジア人がかなりの弾圧を受
けていたそうなので、それが原因なのではないか、と言われている。
こうしてシレジア王国は今坂道を全力で転がり落ちている。
現在の国王はフランツ・シレジア。第7代国王。どいう人間なの
かは⋮⋮今俺の目の前に座ってるエミリア殿下がよく知っている。
213
ヴィストゥラ公爵の日常
王族の嗜み
私が士官学校に入学してから1ヶ月経ちました。
王宮で剣術や魔術、馬術と言った物は
として習っ
てきたので、他の生徒に後れを取ることはありませんでした。
ただ体力がないので、すぐにバテてしまいます。
そう言うこともあってか、私は放課後に友人たちと一緒に自主練・
勉強をしています。
苦手なところを補い合うこの居残り授業はやってみると意外に楽
しいものですし、これを通してさらに親睦を深めることもできます。
人によって教え方が違うのも面白いです。
カヴァレル
参加者のひとりはサラ・マリノフスカさん。
騎士の娘で剣術・馬術の天才です。その見た目もあいまって騎兵
が似合うでしょう。勉強は少し苦手のようです。
彼女の教師ぶりはまさに鬼教官、と言った感じです。私に対して
も容赦ありません。でもワレサさん相手には殴る蹴るは当たり前な
のでまだ優しい方なのでしょう。
そうそう、そのユゼフ・ワレサさんとも仲良くなりました。
彼は農民の子供で私と同い年。⋮⋮のはずなのに物事を深く考え
て、かと思ったら突飛なことをする奇特な方です。
サラさんと違って武術がダメで、勉強が得意。第一学年では﹁首
より下は飾り﹂と呼ばれているそうです。
そしてラスドワフ・ノヴァクさん、通称ラデックさん。私より6
214
歳年上で端正な顔立ちをしています。名のある貴族の御子息と言わ
れても信じてしまうかもしれませんが、彼は商家の子だそうです。
武術も勉学も人並みにできるそうで、事実、上半期中間試験の結
果は全ての科目で70点台だったそうです。
得意科目も苦手科目もないため、ノヴァクさんは第二学年でどの
兵科に行くべきか悩んでるみたいですね。商家の子息と言うのなら
輜重兵科に行けば何かと役立つんじゃないでしょうか。
﹁エミリア様、大丈夫ですか?﹂
﹁はい、大丈夫ですよ。少し考え事をしていただけですので﹂
彼女はマヤ。マヤ・ヴァルタ。私の護衛です。でもそれは世を忍
ぶ仮の姿、本当は⋮⋮内緒です。後日の楽しみとしておきましょう。
彼女は護衛と言うだけあって武術が得意です。剣術ならサラさん
と互角の勝負ができます。頭も良いです。この1ヶ月、彼女はワレ
サさんと何やら難しい話をしていました。まさに文武両道の人です。
最後に、私が勉強会に参加します。5人で勉強です。
﹁あ、エミリア、あなたも何か私たちに教えてよ﹂
この学校でこんなにも友好的に話しかけてくれるのはサラさんだ
けです。他の人にも敬語や様付けするのはやめてほしいと言ったの
ですが、なかなか従ってくれません。くすん。
﹁でも私、教えられることなんて⋮⋮﹂
サラさんやユゼフさんのように飛び抜けて得意なものがあるわけ
ではありませんし。
215
﹁それではエミリア様、私たちに魔術理論のご教示をしてください
ませんか?﹂
と言ったのはヴァルタさん。魔術理論ですか⋮⋮確かにそれなり
に得意ですが⋮⋮。
﹁魔術を教えてくれる人はココにはいないですから、ちょうどいい
と思いますよ﹂
ワレサさんがマヤさんの意見を支持しました。で、でも私人に勉
強教えたことなんて⋮⋮。
﹁大丈夫ですよ。最初からうまく行くことなんてないのですから﹂
うーん⋮⋮。でも、私だけずっと教わる側なのも嫌ですね⋮⋮。
﹁な、なら、私でよければ皆さんに魔術の授業を⋮⋮﹂
こうして私は魔術の先生になったのです。
来年から、魔術研究科にでも行きましょうか⋮⋮。
216
噂
オストマルク帝国。
前世で言う所のオーストリア=ハンガリー二重帝国があった場所
に位置している。
前世でもこの世界でもこの国は多民族国家として有名で、ひとつ
の国の中に10近い民族が住んでおり、すべての民族は皇帝の名の
もとにみな平等である、とされている。
現在の皇帝はフェルディナント・ヴェンツェル・アルノルト・フ
ォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー。なげぇよ。
そしてオストマルク帝国は、かつて反シレジア同盟に参加してい
た。
−−−
ここはオストマルク帝国の帝都エスターブルク。華やかな街並み
を持つその城塞都市の中心にはロマノフ=ヘルメスベルガー皇帝家
が住む広大な宮殿がある。
今日ここでは、皇帝フェルディナント以下略の30歳の誕生日を
祝う盛宴が開かれていた。
﹁シレジア王国と言えば妙な噂を聞きましてね﹂
217
そう口を開いたのは帝国の内務大臣補佐官のコンシリア男爵だ。
右手にはワイングラスを持ち、彼も少し酔っていた。
貴族の噂は大抵、他の貴族が流したものである。貴族特有のネッ
トワークによってその噂は貴族社会を駆け巡る。駆け巡る過程で情
報は劣化し改変されていくものだが。
噂
に興味を持ったのは、資源省次官の
﹁ほほう? どんな噂かな?﹂
コンシリア男爵の語る
ウェルダー子爵。
﹁いやぁ、あくまで噂なのですが⋮⋮。シレジア王国の王女⋮⋮名
は確かエミリア、でしたかな。その王女が士官学校に入学したそう
です﹂
﹁それはそれは、突飛な噂だ﹂
シレジアの王女はまだ10歳、そのような幼子が士官学校に入っ
た、などという噂はにわかには信じ難かった。
﹁あくまで噂です。おそらく、似たような名の人間が入学しただけ
なのでしょう﹂
﹁だろうな。もしそうだとしても、長くは持つまい。シレジアの士
官学校が並の士官学校であればな﹂
どこの国でも士官学校と言うものは厳しい訓練が待っている。箱
入り娘たる王女にその生活に耐えられるはずがない。
﹁だがシレジアも先の戦争で人材が不足してきているという話だ。
そういう一面があるやもしれんな﹂
﹁そうですな。なんせ1万の将兵を失ったそうですから﹂
218
﹁だが我が国にとっては喜ぶべき結果かもしれん。彼の国はもはや
外征することはできないだろう﹂
﹁ゆっくりと滅亡を待つだけ。問題はどこの国が滅ぼすか、ですか
な?﹂
シレジアをどこの国が奪うか、これがこの時代のトレンドだ。
﹁おお、そう言えば私もシレジアに関して妙な噂を聞いたな﹂
﹁おや、子爵もですか﹂
﹁あぁ。シレジアのフランツ国王の弟であるカロル大公が、東大陸
帝国と繋がっている⋮⋮という噂だ﹂
﹁⋮⋮これまた、そちらも随分大層な噂ですな﹂
シレジア国王フランツの弟、カロル大公は公明正大・文武両道で
名君たる素質を持つ人物であると聞くが、意外とそういう一面もあ
るのだろうか。
﹁しかしあくまで噂でしょう?﹂
﹁あぁ、あくまで噂だ﹂
そう言って男爵と子爵はこの話題を打ち切り、次の話題に移った。
−−−
パーティーからの帰途、馬車の中で彼は熟考していた。先ほど聞
いた噂。酒の席で、なおかつ出所不明の噂であったが、全くの嘘と
219
は思えない。
このような噂は、多分に真実を含んでいるものである。
シレジア王国の次期国王候補が東大陸帝国と接近している。もし
本当であれば、憂慮すべき事態である。
すべて事実ではないとしても、調査すべき情報だ。
﹁⋮⋮御者、外務省庁舎に行ってほしい﹂
﹁わかりました﹂
直属の上司に、相談せねばならない。
﹁あの国が今滅亡して貰っては困るからな﹂
220
この先生きのこるには
今俺は学食で昼飯を食っている。むしゃむしゃ。
今日のメニューは山菜クリームシチューとライ麦パン。あぁ、お
米が欲しい⋮⋮。やっぱりこの世界でも地中海方面に行けばパエリ
アとかリゾットとか食えるんだろうか。贅沢を言えば醤油と味噌も
⋮⋮あと生魚と生卵も頼む。
シレジアの料理はなぜかキノコ料理が多い。マッシュルームとか
ザワークラフト
シイタケとか。時に漬物にもキノコが入ってる。あとこの、なんだ、
キャベツの酢漬けみたいなの。旨味のある酢の味じゃない単に酸っ
ぱいだけのキャベツになってる。これ美味しいと思ったことないん
ですが。生でくれ。でもなぜか定番メニューで何を頼んでもこれが
ついてくる。トンカツの脇にあるキャベツみたいに。
と、俺は脳内で散々シレジア料理にケチをつけているがこの国の
料理は嫌いではない。好きでもないが。
﹁隣良いかな?﹂
と言いつつ許可を出してない内に座るのはやめてくれませんかね
ヴァルタさん。別にいいけど。
﹁どーも﹂
﹁浮かない顔してるね﹂
俺この人苦手なんだよなー。怖いし。あと怖い。ついでに怖い。
主に顔が。笑えば美人だと思うが笑ったところを見たことがない。
221
﹁今陰鬱な気分なんで﹂
﹁どうして?﹂
﹁今日はサラの剣術の授業だからです﹂
ウォーターボール
いやホント俺にだけ厳しいからなサラさん。殴る蹴る水球をぶっ
放すは当たり前。おかげで痛みに慣れてしまった。
﹁じゃあ私が剣術の指南をしてあげようか﹂
﹁結構です﹂
あんたの稽古も厳しそうじゃないですか。ソースは顔。
﹁つれないね﹂
﹁私は高級魚なんでそれなりのエサと釣竿じゃないと釣れませんよ﹂
すごいつりざおじゃないと釣れない仕様です。
﹁それで、ヴァルタさんは護衛役サボってるんですか。エミリア殿
下のお姿が見えませんが﹂
﹁サボってはいないよ。休憩中なだけだ﹂
サボりとどう違うんだ。
﹁殿下は今マリノフスカさんと一緒にいる。彼女なら大丈夫だろう﹂
﹁サラなら熊を2、3頭素手で殴り殺せますからね﹂
いやホント怖いあの子。そのうちグッと睨みつけただけで人殺せ
るようになるんじゃないだろうか。
﹁あとノヴァクくんもいたよ﹂
222
﹁⋮⋮誰でしたっけそれ﹂
﹁ラスドワフ・ノヴァク、ラデックと君は呼んでたね﹂
あぁ、ラデックか。もうあいつの事ずっとラデックって呼んでた
から本名忘れてたわ。うん。覚えた。ラスト○ーダーだよね。
﹁って、ラデックが一緒ってまずいような﹂
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
ヴァルタさんの眉がピクリと動いた。うん、これは警戒し始めた
証だな。
まぁラデックは間違いを起こさないと思うよ。たぶん。生きるか
死ぬかの瀬戸際の時に童貞気にする男だけど。ラデックならすぐに
卒業できると思うんだけどなぁ。イケメンの無駄遣いだ。俺にくれ
その美貌。
﹁まぁ、大丈夫でしょう。上半身は信頼できますから﹂
﹁少し引っかかる言い方をするね君は﹂
ラデックさん、がんばってヴァルタさんから逃げ延びてください。
菊の花買って待ってます。
﹁しかし、君は年齢不相応なことを言うね﹂
﹁そうですかね?﹂
御宅の主君も年齢不相応だと思うよ?
﹁あぁ、君は良く物事を考えている。さすが頭だけは良いと言われ
てるだけあるな﹂
﹁喧嘩売ってるんですか﹂
223
喧嘩売るんなら買うよ? そしてサラあたりに転売するよ?
﹁半分褒めてるのさ﹂
﹁⋮⋮残りの半分は?﹂
﹁呆れてる﹂
﹁なるほど﹂
いっそ十割呆れられてた方がいろいろ楽だったんじゃないかと思
う。
﹁そんな頭のいい君と少し話したいことがあってね﹂
﹁なんです?﹂
今までのは前座か。
﹁この国についてさ﹂
なんとまぁ壮大な。
でもエミリア殿下の境遇考えるとそうでもないのかな。
﹁範囲が大きすぎますよ﹂
﹁でもはもっと絞ろうか。この国、今後どうなると思う?﹂
絞れてない気がするんですがそれは⋮⋮。
﹁どうと言われてもですね﹂
なんて答えるのが無難だろうか。正直に﹁この国は間もなく滅亡
する!﹂と言ってしまうのもどうかと思うし。
224
﹁私は、この国は遅かれ早かれ滅亡すると思ってる﹂
⋮⋮え、言っちゃっていいの?
﹁おや、意外そうな顔をするね? てっきり君はこの結論に辿りつ
いてると思ったのだが﹂
﹁私はまだ10歳⋮⋮あぁいや、もうすぐ11歳でした。でも、ま
だ11歳弱ですよ﹂
あと一週間もすれば11歳の誕生日だ。今の今まで忘れてたけど。
﹁11歳か。でも私は君のことを20歳超えてると感じてるよ﹂
﹁意味が分かりませんよ﹂
﹁そうだな。私も分からん﹂
でも正解ですよヴァルタさん。20どころか30超えちゃってる
けど。
﹁で、なんでしたっけ。滅亡するんですか?﹂
﹁すると思う。いつになるかは知らないが﹂
﹁根拠を聞いても?﹂
﹁言ってもいいが、君はとうに気付いてるんじゃないか?﹂
11歳の少年に何を期待してるのだろうかこの人。
﹁よし、では戦略99点のワレサくんに質問だ。この国の、国防上
の問題点はなんだ?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
225
それは、この国はあまりにも軍隊が少ないことだ。
シレジア王国軍の戦力は平時20個師団。1個師団1万人だとす
ると約20万人だ。それを東西南北の国境に均等に配置している。
つまりそれぞれ国境に配置されているのは5個師団のみ、というこ
と。
カールスバート共和国軍は平時20個師団、軍事政権に移行後は
30個師団と推定されている。
東大陸帝国はもっと凶悪で、平時400個師団とも500個師団
とも言われている。広い国なので結構散らばっているが、それでも
シレジアとの国境には少なく見積もっても20個師団は張り付いて
る状況だ。
さらにリヴォニア貴族連合やオストマルク帝国などの国とも国境
を接している。これらの国も多くの軍隊を保有しているため、シレ
ジアが負けるのは必至だ。
シレジア王国は、国境線が長い割には保有している軍の規模があ
まりにも小さい。
でも軍拡はこれ以上できないだろう。軍拡しても、それを支える
だけの経済基盤がないのだ。この国に必要なのは内政改革だが⋮⋮
それが成功する頃にはもう滅亡してるかもしれない。
﹁私も同意見だよ。この国は、既に崖っぷちだ。少し背中を押した
だけで、奈落の底へ転落するだろう﹂
でもなぜかまだシレジアは生き残ってる。虫の息だけど。
﹁なぜ、この国はまだ滅亡しないと思う?﹂
﹁それは⋮⋮やはり緩衝国家として存続してるのでは?﹂
226
緩衝国家。
大国と大国に間に位置し、大国同士が真正面から衝突することを
防ぐ、言わば壁の役割を持つ国。
シレジアは、東大陸帝国、オストマルク帝国、リヴォニア貴族連
合という大国に囲まれている。これらの国は皆反シレジア同盟参加
国だが、元々仲が良いと言うわけではない。あくまでシレジアと言
う共通の敵がいたからこそ肩を並べてシレジアをフルボッコにした
のだ。
そこで、シレジアが滅亡したらどうなるか。滅亡してこれらの国
に分割されたらどうなるか。
答えは簡単だ。
﹁シレジアを戦場に、この3つの国は血みどろの戦争を始めるだろ
う。シレジアの市民を盛大に巻き込んでね﹂
ヴァルタさんは、冷たくそう言い放った。
気がつけば手元にあるシチューは完全に冷めていた。勿体ないか
ら全部食べたけど不味かった。
この国、どうなるんだろうね。
227
殿下と護衛
誕生日だわーい。
でも素直に誕生日が喜べない。誕生日と言っても祝ってくれる人
いないし、というか知ってる人いないし。
それにまだ11歳だけど前世分加算すると30超えてるからさ。
大人の階段どころかオッサンの階段を昇ってるわけでして。
あーもー、酒飲んで寝たい。が、士官学校を卒業するまではダメ
らしい。そもそも飲酒可能年齢に達してるかどうかもわからん。王
女護衛の時にスピリタスひったくればよかったかしら。
誕生日の翌日。
なぜかエミリア殿下が教室で唸っていた。
﹁あのー⋮⋮エミリア殿下? 何をなさってるんです?﹂
﹁殿下って呼ばないで下さいぃぃ⋮⋮﹂
あ、なんかこれもうなんかダメだな。
王女様はむくれてた。うんうん、可愛いと思うよ。で、何これ。
﹁むー⋮⋮﹂
エミリア殿下はそのまま机に突っ伏した。これは本当に王女です
228
か?
最近のエミリア殿下は日を追うごとにカリスマ性が漸減している
気がする。緊張の糸が緩んできたのか、それとも誰かの雰囲気に毒
されているのか。
うん、この状態の殿下からは情報を取れそうにもないな。
あたりを見回してみるとヴァルタさんがばつの悪そうな顔をして
いた。なるほど、こいつが原因か。
﹁エミリアで⋮⋮様、護衛役がポカをしたようですけど気に病むこ
とはありません。クビにすればいいだけなのですから﹂
﹁おい!?﹂
ヴァルタさんがごちゃごちゃ言ってるけどこの様子だとあいつが
悪い。反省してもらわねば。
﹁ヴァルタ、退職金の心配はありません。自由に身を処してくださ
い⋮⋮﹂
﹁エミリア様まで!? 何を仰られるのですか!?﹂
エミリア殿下が悪乗りしてきた。声が半分本気なのは気のせいだ
ろう。
﹁おいワレサくん、あまり変なこと言わないでくれ! 第一私は何
も⋮⋮﹂
﹁何もしてないって顔はしてませんでしたよ?﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
なんか﹁っべー、失敗しちゃったわー、面倒だわー﹂って顔して
たよ? 俺の目はごまかせないよ?
229
言い訳
まぁこのままにしておくのは︵殿下が︶可哀そうなのでヴァルタ
さんから事情を聴くとしよう。
﹁で、何があったんです?﹂
それは昨日の出来事。
サラ大先生から弓術の指南を受けた後のお話。
ヴァルタさんが、エミリア王女に﹁会わせたい人物がいる﹂と言
ったそうだ。エミリア王女は不思議に思いつつも彼女の言うことを
聞き、その人物に会うことにした。
知っての通り、ヴァルタさんはエミリア王女に内緒で、殿下の今
後の為のコネ作りをしていた。そしてこの学校では割と有名な人に
会わせようとしたそうである。なんでもその人は、昨年の九月に退
学した伯爵の子息の友人だそうで、そいつも王国で重要ポストにつ
いている貴族の長男だそうだ。
⋮⋮うん、ここでだいたい察しが付くね。それと悪い予感しかし
ないね。なんでだろうね。
待ち合わせ場所は魔術演習場の裏、あまり表沙汰にはできないこ
となので人目のつきにくい場所を選んだらしい。
で、そこにいたのは王女殿下に会わせたい人物と⋮⋮なぜか呼ん
230
だ覚えのない知らん奴数人。
彼らは王女殿下のコネ作りと称してナニをさせようとしたらしい。
相手が年頃の女子二人、そしてヴァルタさんが殿下の身分を必要以
上に隠していたために、彼らは軽挙に出たのである。哀れな。
彼らはヴァルタさん一人に返り討ちにされたのだが、王女殿下か
らの信頼は地に落ちたという。
そんな経緯をヴァルタさんから、所々言葉を変え遠回しに表現し
ながら俺に教えてくれた。なるほどなるほど。
﹁エミリア様、この役立たずを即クビにしましょう﹂
﹁待て待て待て待て待て﹂
相手も悪いがこういう状況を想定できなかったヴァルタさんが悪
い。というか退学になった人とつるんでた奴とコネ作りとか何考え
てるんですかね。
﹁今すぐ王宮に手紙を書いて新しい護衛役を入学させませんと⋮⋮
でも手続きとかが大変そうですね⋮⋮﹂
王女殿下はかなり真面目に護衛の更迭を検討していた。そういう
容赦のなさは将来必要だよね、うん。
﹁こ、この不手際はいつか必ず償います! ですから、あのどうか、
お見捨てなきよう!﹂
ヴァルタさんも必死だな。そりゃそうか。給料貰えなくなるかも
231
しれないもんな。
﹁で、その密会であった人とはどなたなのです?﹂
だいたい見当はつくけど、具体的な名前とか身分は知らんからな。
﹁あ、あぁ⋮⋮。財務尚書グルシュカ男爵の長男、ピョートル・グ
ルシュカ殿だ。なかなかの切れ者らしく、エミリア様のお役に立つ
とは思ったのだ﹂
﹁あー、えーっと、どんな容姿ですか?﹂
﹁あぁ? 容姿?﹂
﹁えぇ、知ってる人かもしれませんので﹂
﹁そうなのか? 容姿は⋮⋮そうだな、眉目秀麗と言った感じのお
方だった。見た目だけだとなかなか人の良さそうな感じだったのだ
が﹂
あー⋮⋮思い出した。サラに木の棒で顔面強打された挙句腹を蹴
られた残念なイケメンだわ。顔面の怪我治してイケメンに戻ったの
かね。てか反省もせずタルタルソース先輩の地盤を受け継いで自分
が悪の親分になったのか。救いようのない男だ。
﹁知ってるのなら、君の方から何か言ってくれないか﹂
﹁俺が言ったら逆効果だと思いますよ⋮⋮﹂
なんてったって仇みたいな間柄だしな。もう一回会ったら喧嘩す
ると思う。
とりあえずヴァルタさんにはグルなんとかさんとコネ作りは諦め
た方が良いと助言しておく。あいつとつるんでたタルタルソース先
輩は女子寮に侵入しようとした変態だ、って教えておけば考えも変
わるだろうな。
232
エミリア殿下との仲は⋮⋮ご自分で何とかしてください。まぁた
ぶん何とかなるでしょう。保障はしないけど。
と言うような事情をとりあえず当事者だったサラに言ってみた。
﹁で、何回殴っていいの?﹂
殴ることは決定事項らしい。
﹁落ち着いて。殴ったら問題になる﹂
﹁なんでよ!﹂
相手が男爵だからだよ。
﹁でもユゼフも伯爵の息子退学に追い込んだじゃない﹂
﹁いや、そうだけどさ⋮⋮﹂
もう一回やれと言われても俺はやりたくないよ。
﹁じゃあさ、エミリア立会いの元なら問題ないんじゃないの?﹂
﹁え? エミリア様の?﹂
﹁だってエミリアは大層なご身分じゃない。エミリアが許可してく
れれば男爵の息子くらいコテンパンに﹂
﹁いやエミリア様は一応公爵家の令嬢として来てるわけで⋮⋮﹂
﹁公爵も男爵よりは偉いわ﹂
﹁あぁ、そうか。なら問題⋮⋮いや、やっぱあるよ﹂
233
﹁なんでよ﹂
﹁心証の問題だよ﹂
公爵令嬢が男爵子息をいじめてる、なんて噂されたら困る。コネ
作りの上でも、エミリア殿下の今後の学校生活の為にも。
今の所はまだ男爵子息が悪いけど、過剰に反応してしまえば相手
を利するのみ⋮⋮。難しいねぇ。
﹁とりあえず、男爵とのコネ作りはやめるしかないさ。どうせ半年
もすればあいつらは卒業するし﹂
﹁なんか納得いかないわね﹂
﹁俺も納得してないけどさ、どうにもならんし。それに、今はむし
ろエミリア様と護衛の関係の方が問題だと思うけどね﹂
﹁そう?﹂
﹁うん。なんか気まずい感じになってる﹂
なんとかして関係修復︱︱と言うより仲直りに近いかな︱︱させ
ないと、めんどくさいことになりそうだ。
234
殿下と護衛︵後書き︶
次回﹃さらば護衛! ヴァルタさん、暁に死す﹄
235
エミリア先生の魔術教室
今日は居残り授業で初めて私が教える番だそうで緊張します。先
週は、その、男爵子息の問題があってできませんでしたから、今日
が初めてになります。
それからと言うもののマヤはションボリしています。サラさんは
私とマヤの仲を修復しようと何かと首を突っ込んできています。嬉
しい、のではありますけど⋮⋮。
私はマヤに対して怒ってはいません。失敗は誰にでもあります。
私の人生も失敗だらけでしたし。
それにマヤは私を助けてくれました。私の身は無事なのですから、
失敗をこれ以上責めようなどとは思いません。
気に入らないのは、マヤが﹁私の今後の為のコネ作りをしようと
企んでる﹂事を今の今まで隠していたことです。なんで言ってくれ
ないのですか。せめて相談くらいしてくれればよかった。
だから年甲斐もなくマヤにきつく当たってしまいました。気まず
いですから早くなんとかしたい⋮⋮でもタイミングが掴めません。
どうしましょう。
−−−
﹁え、えーっと、みなさんは今日使われている基礎魔術理論はどな
236
たが構築されたかご存知ですか?﹂
﹁誰だっけ?﹂
前に俺が教えたはずなんだけどなー。忘れられてるのかしら。
﹁ゲオルギオス・アナトリコン。キリス第二帝国初代皇帝だな﹂
﹁ラデックさん正解です。元は大陸帝国皇帝の第三子で、大陸帝国
から初めて独立宣言した人でもあります﹂
政治の天才、戦争の天才、あるいは政戦両略の天才と言われる指
導者と言うものはそれなりにいるものだ。だが科学や魔術に秀でた
研究者にして国の指導者、ってのはなかなか聞かないな。俺が無知
なだけかもしれないけど。
例えるならエジソンがアメリカ大統領やってるイメージ。違うか。
﹁彼のエピソードには色々と面白い物がたくさんあるのですが今回
は関係ないので省きます。彼の研究成果である﹃基礎魔術理論﹄は、
言い換えると﹃人はどうして魔術を扱えるのか﹄ということです﹂
﹁なるほど、そういうことだったのね﹂
サラが理解してるって結構珍しい。⋮⋮俺ももうちょっとわかり
やすい説明を心がけないとダメかな。
﹁でもなんでそんなこと必要あるのよ。私は原理とか理論とか全く
わからないけど、魔術はちゃんと撃てるわよ?﹂
﹁まぁ、そうですね。でもこの基礎魔術理論が完成されなければ、
サラさんはおそらく一生魔術を扱うことはできなかったでしょう﹂
﹁どういう事よ﹂
﹁はい。元々魔術と言うものは、限られた人しか使えない、神から
授けられた奇跡の力だと信じられてきました﹂
237
この辺の事情は前世と一緒だな。神の代行者だか預言者だかがこ
の世の力とは思えない不思議な力で海を割ったり全盲の老婆に光を
与えたりした。
﹁魔術理論構築前の大陸は、そう言った奇跡の力を持つ者を集めて
魔法兵士として採用しました。積極的に魔法の力を使ったのが大陸
帝国で、それが大陸統一の原動力となったという説もあります﹂
無論魔法使いを戦争に投入したのは大陸帝国が最初じゃない。だ
けど、大陸帝国初代皇帝ボリス・ロマノフは、その魔法使いを集中
運用し、魔法兵集団が最大限の力を発揮できるような戦術を編み出
したのだ。これがボリス・ロマノフが天才と言われる所以でもある。
﹁でも、そんな強い力だとわかってるなら、もっと早く魔術の研究
進んだんじゃないの?﹂
﹁いえ、そうはなりませんでいた﹂
﹁なんで?﹂
﹁大陸から戦争がなくなったからです﹂
﹁?﹂
前世においても科学の進歩と戦争は切り離せない関係にあった。
例えばコンピューター。アレはもともと砲弾の弾道を計算するため
の機械だった気がする。
この世界でもそれは言えるようで、戦争がなくなって平和になっ
た大陸では魔法の研究が行われなくなった、あるいは鈍化したのだ
そうだ。
﹁そんな中生まれたのが⋮⋮﹂
﹁ゲオルなんとか?﹂
238
﹁そうです。ゲオルギ・ロマノフ。第32代皇帝アレクサンドル・
ロマノフの三男にして、後のゲオルギオス・アナトリコンと呼ばれ
る人です﹂
そんでなんだかんだあってゲオルギは魔術理論を完成させ、また
なんだかんだあってキリス第二帝国を作ったわけだ。
軍事的な観点から言えば、ゲオルギオスは自ら作った魔術理論に
よって魔法の才能のないものでもある程度魔術を扱えるようにでき
る教育方法も発明した。才能ある人を集めただけの東大陸帝国魔術
兵部隊と、威力はまだ弱いもののほとんどの兵士が魔術を使えるキ
リス第二帝国魔術兵部隊。どっちが強いかは言うまでもない。
﹁こうして今日、シレジア初級学校で教えているこの初級魔術教育
はこのゲオルギオスの基礎魔術理論と教育方法を元にしています﹂
﹁ほぇ∼﹂
改めて考えると結構偉大な人だよなゲオルギオス。皇帝としては
微妙だったらしいが。
﹁というわけで、今からその偉大な基礎魔術理論を皆さんに教えま
す!﹂
﹁え? 今までのはなんだったの?﹂
今までのはただの魔術史ですよ。何一つ理論を教わってないよ。
﹁でもなんで俺らがそれ学ばなきゃならねぇんだ? 別に撃てるか
らよくね?﹂
﹁いえ、魔術の仕組みを理解できれば、新しい魔術の開発も可能に
なります﹂
﹁新しい女を開発するならまず相手のこと知らなきゃいかん、って
239
わけだな!﹂
童貞が言うとなんか悲しいものがあるよなこの台詞。そう言えば
ラデックもエミリア殿下に物怖じせずにフランクに話しかけるんだ
な。
エミリア先生はラデックの冗談︵?︶を無視して授業を続けた。
﹁え、えーっと、魔術発動の仕組みは、一般的には水に例えられ⋮
⋮﹂
こうして基礎魔術理論の授業は日暮れまで続いた。そしてサラは
撃沈した。初日からハードだったもんね、仕方ないね。
−−−
はぁ、疲れました。人前で長々と喋るのは初めてなので緊張して
しまいましたね。私はどうやら緊張すると早口になってしまうよう
です。おかげでサラさんが時々ぽかんとしてました。この癖早く直
さないと駄目ですね。
﹁エミリア様、少しお時間よろしいですか?﹂
﹁はい?﹂
放課後の授業終了後、ワレサさんが話しかけてきました。はて、
240
何のご用でしょうか?
﹁大丈夫ですよ﹂
﹁ありがとうございます。えーっと、人払いをお願いできませんか
?﹂
﹁? いえ、ここにいるのは私とマヤだけですよ?﹂
﹁ヴァルタさん抜きで、お話したいことがあるのです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
何の話をするのでしょうか。まぁ変なことはしないと思いますが。
﹁マヤ、すこし教室の外で待っててくれませんか?﹂
﹁⋮⋮御意﹂
相変わらず彼女はよそよそしいです。むー。
彼女が扉を閉めるのを見計らってから、私はワレサさんに向き直
ります。
﹁で、話とはなんでしょうか﹂
﹁えぇ、ヴァルタさんについてです﹂
⋮⋮その話が来るとは少し予想外でした。
﹁まだ、仲直りしてらっしゃらないのですか?﹂
﹁仲直りも何も、私と彼女は仲違いなぞしていません﹂
嘘です。早く仲直りしたいです。
﹁エミリア様はそう思ってるかもしれませんが、ヴァルタさんはそ
うは思ってないのですよ﹂
241
﹁?﹂
﹁彼女、ここ最近悩みっぱなしのようで、この世の終わりのような
顔をしています﹂
⋮⋮それは、気づきませんでした。そういえば、あれ以降私は彼
女の顔をよく見ていませんでしたね。
﹁エミリア様、どうか彼女にご宥恕賜りたく存じます﹂
﹁宥恕も何も、私は彼女の失敗を責めるつもりはありません﹂
﹁であれば﹂
﹁しかし、どうすれば良いのかわかりません﹂
私は謝るというのもおかしな話ですし、謝っても彼女が申し訳な
く思うだけでしょう。
﹁簡単でございますよ﹂
﹁そう、ですか?﹂
﹁はい﹂
そんなに簡単な方法があるのなら私もすぐ思いつきそうですが⋮
⋮。
﹁では、その方法を私に教えてくれませんか?﹂
−−−
242
﹁で、その簡単な方法って何よ﹂
翌日、サラに問い詰められた。壁ドンで。後ろの壁がミシミシ言
ってるのは気のせいだ。
どうやらサラは俺が殿下によからぬことを吹き込んだと思ってる
ようで、あの、目が怖いです。あと顔近いです。
﹁いや、あの、言うから。ちょっとどいてくれます?﹂
﹁教えてくれたらね﹂
教えづらいわ!
﹁あー、うん、まぁそんなに難しい事じゃないんだよ。エミリア様
そもそも怒ってないってことがヴァルタさんにわかればいいんだか
ら﹂
﹁つまり?﹂
なんかぐいぐい来るね今日のサラさん。
﹁だから、うん。﹃助けてくれてありがとうって言えばいい﹄って
ことで﹂
﹁ふぅん?﹂
そこで疑問持たないでくれます?
﹁上司から嫌味なく皮肉なく素直に褒められて喜ばない部下はいな
いから﹂
だから退いてくれると私はサラさんに全力で感謝申し上げるよ。
243
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あのー? なんか言って?
﹁あの、お二人とも何をしてらっしゃるんです?﹂
王女殿下
救いの女神、降臨。
﹁あぁ、エミリア様、ご機嫌麗しゅう﹂
﹁⋮⋮エミリア、おはよう﹂
エミリア殿下の後ろには満面の笑みのヴァルタさんがいた。分か
り易いなオイ。
﹁ヴァルタさん、何かいい事でも?﹂
﹁いや、なにもないよ﹂
何もないような顔してないだろ!
﹁サラさん、何があったかわかりませんけど、ワレサさんが困って
るようなので、そろそろ許してあげてくれませんか?﹂
﹁⋮⋮元々怒ってなんかないわよっ﹂
そう言うとやっと俺を開放してくれた。助かった⋮⋮。おっと、
忘れる前に。
﹁ん、ありがと。サラ﹂
﹁⋮⋮な、なによ! 気持ち悪いわね!﹂
殴られ⋮⋮なかった。その代わり胸を軽く叩かれただけで終わっ
244
た。おい、そんな中途半端なことするならいっそ殴って。
﹁なにこれ?﹂
ラデック
そして最後に事情を知らない落ち担当が来た。俺もよくわからん
ぜよ。
245
兵科選択
シレジア王国は緯度が高いためか夏になっても暑くならない。日
本みたいにじめじめしてないし日陰に入れば風が涼しくて大変過ご
しやすく、住みやすい気候である。冬? あぁ、うん、死ぬほど寒
い。
でまぁ、なぜそんな話をしているのかと言えば、もう8月なので
ある。つまり入学してから約1年経つ。
いろいろあったね。初めての実戦も経験したし、王女様と仲良く
なれたし、サラには殴られてラデックからは嫌味を言われてヴァル
タさんから変な話され⋮⋮あれ? 碌な人生送ってないね?
﹁ユゼフ、試験の結果どうだったのよ﹂
﹁まぁまぁ。サラとラデックは?﹂
﹁まぁまぁよ﹂
﹁まーまーだな﹂
下半期期末試験はもう終わった。全教科赤点回避。弓術が60点
だったけど。
でも第2学年からはそんな悩みとはオサラバである。俺が進む戦
使い方
術研究科は剣術弓術馬術が統合され単なる武術の授業になる。魔術
も戦術重視になる。一方戦術戦略戦史の授業がパワーアップし、図
上演習なんかもやるそうで。
﹁サラは剣兵科に行くんだっけ?﹂
﹁あぁ、あれはやめたわ﹂
﹁えっ﹂
246
なにそれ聞いてない。
﹁じゃあどこ行くのさ﹂
﹁騎兵科﹂
騎兵科⋮⋮もしかして王女護衛戦の時のあれが影響してるのか?
と思ったら違った。
﹁エミリアに﹃騎兵が合ってる﹄って言われたから﹂
﹁え、そんだけ?﹂
﹁何か文句あんの?﹂
﹁ナイデス﹂
そんな安易に決めていいのかね。いや俺も結構安易に決めたけど。
でも騎兵科ってエリートコースだよ? 大丈夫? あと剣兵科の卒
業試験云々だの騎士が云々の話はどこに行ったの?
﹁ラデックは兵科、結局どうするんだ?﹂
﹁ん? んー、どうしよっかなー﹂
﹁いやどうしようじゃねーよ。兵科選択の書類、今日提出だろ﹂
﹁決め兼ねてる﹂
﹁早く決めたら?﹂
ラデックは成績がみんな平均値だから決めにくいってのはあるよ
な。でも兵科選択は転科試験受かれば後から何回でも変えられるか
ら適当でもいいんじゃないかな。
﹁ラデックさんは輜重兵科が合ってますよ﹂
﹁んぁ? お、公爵閣下﹂
247
﹁私はまだ爵位は継いでませんよ﹂
しちょう
﹁そうだったな。それで、なんで俺が輜重兵科?﹂
﹁えぇ、それはですね⋮⋮﹂
王女殿下がラデックに輜重兵科を勧めている。なるほど、こうや
ってサラを説得したのか。
﹁よし、んじゃ俺は輜重兵科にすっかな﹂
﹁お前も単純だな⋮⋮﹂
そんなさっくり決めていいのか。輜重兵科って一番人気ないんだ
ぞ。卒業しても後方デスクワーク関係の仕事ばっかだけどいいのか。
﹁ワレサさんは何科なんですか?﹂
﹁ご存知の通り戦術研究科ですよ。書類はまだ出してませんが﹂
﹁ワレサさんにぴったりだと思います﹂
ここで別のを勧められるかと思ったけど違ったわ。いやここで弓
兵科がお勧めされても困るけど。
﹁エミリア様とヴァルタさんは何科なんですか?﹂
﹁私とマヤは剣兵科です﹂
﹁⋮⋮剣兵科ですか﹂
﹁はい。もう書類は出しましたので、変更はできません﹂
﹁でも剣兵科の卒業試験⋮⋮﹂
﹁存じております。でも決めたことですので﹂
そうか⋮⋮王女様が直々に引導渡すかもしれないのか。相手にと
ってはむしろ名誉なのかもしれないが。
248
﹁まぁ、私が言うのもなんですが、頑張ってください﹂
﹁はい、頑張ります﹂
王女様は笑顔で、そう答えた。
そして第1学年の最終日が来た。
第2学年になると基本的に兵科ごとにクラスが分かれることにな
り、寮室も変わる。
つまり俺とサラとラデック、そしてエミリア殿下とヴァルタさん
はそれぞれ違うクラスになることは確定している。
同じ学校だし会う機会は何度もあるだろうけど、やっぱりクラス
変わると会わなくなるだろうな。授業が違うから居残り授業・自主
練する意味もなし。
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、サラさん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
おかしい。さん付けしても何も言わないし殴ってもこない。
﹁何やってんだ?﹂
﹁あぁラデック、サラが死んでる﹂
﹁死んでる?﹂
﹁さん付けしても何も反応がないんだ﹂
﹁なるほど重傷だな﹂
249
﹁だろ?﹂
サラの近場でそんなことを言い合う。普段なら蹴りが2、3発飛
んでくるのだがそれもない。借りてきた猫状態だ。
こつん。
と、サラが俺のこめかみを小突いてきた。
突き
合いも最後だと思うと⋮⋮。
﹁今日は最後だから、これで許してあげるわ﹂
うーん⋮⋮。こういう
﹁最後だから思い切り殴られないとなんか気が済まないね﹂
マゾと言う訳じゃない。でもなんか消化不良だ。
﹁⋮⋮ばーか﹂
彼女はそう呟くと、拳を握ってやっぱり軽く小突くだけだった。
特に何もなく最終日が終了した。先生から﹁まぁ頑張れ﹂という
大変有難い言葉を貰っただけだ。もっとなんかあるだろ。
﹁これでお前ともお別れだな﹂
﹁その言葉はまだ早いと思うよ。本当に別れるのは卒業の時だ﹂
﹁それもそうだな﹂
250
ラデックとそんな会話をする。
こんな会話もしばらくできるなくなるのか。なんかこう⋮⋮。
﹁お、ユゼフ、泣くのか?﹂
﹁こんなんで泣かないよ﹂
最後にもう一回殴りたくなるね。
﹁あら、お二人とも揃って何をなさってるんです?﹂
﹁特に何もないですよ。ただ話してただけです﹂
これから殴り合いになるかは不明。
﹁クラスが分かれると寂しくなりますね。短い間でしたが、ありが
とうございます﹂
﹁お礼を言われるほど何かをした覚えはないですよ﹂
﹁うんうん。だって俺ら友達じゃん﹂
﹁そうでした﹂
殿下の将来のためのコネ作りとやらはそれなりに進んでるらしい。
まだ数は少ないが、卒業する頃にはそれなりの数にはなるだろう。
﹁ラデックさん、ワレサさん。どうかお元気で﹂
﹁わかりました。あ、それとエミリア様﹂
﹁はい?﹂
﹁今更なのですが、私だけ姓で呼ばれるのは少し⋮⋮﹂
﹁あぁ⋮⋮では、ユゼフさん、でよろしいですか?﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
﹁と言っても、もう呼ぶ機会はあまりないかもしれませんが⋮⋮﹂
251
そうだなー。もうちょっと早く提案すればよかったわ。
﹁もう少し早く言えばよかったなワレサくん。いや、ユゼフくんと
言えばいいのかな?﹂
﹁どっちでもいいですよヴァルタさん﹂
﹁私の事はマヤと呼んでくれないのか﹂
﹁嫌です﹂
﹁なぜだ﹂
怖いからですよ。
﹁それでは、私たちはこれで失礼します﹂
﹁ま、元気でな。ユゼフ・ワレサくん﹂
マヤ・ヴァルタさんはそう言うと、手を振りながら王女殿下と去
って行った。
﹁あれって姓名どっちで呼ぶか迷って結局全名で呼んだってことか
ね﹂
﹁そうじゃないの?﹂
ヴァルタさんって割と変人だよね。
﹁⋮⋮じゃ、俺らも寮に戻って片づけでもするか﹂
﹁そうだね﹂
こうして俺らは第2学年に進級した。
252
このメンバーが再び揃って肩を並べるのは、今から約4年後の、
大陸暦636年の事である。
253
新たなる火種
︱︱オストマルク帝国外務省 外務大臣執務室
﹁閣下、例の件についての報告です﹂
﹁⋮⋮ずいぶん時間がかかったな﹂
﹁申し訳ありません。滅亡秒読みの国家とは言え、さすがに王宮の
警備は厳しかったもので﹂
﹁まぁ、仕方あるまい。で、どうだったのだ?﹂
﹁こちらが、その報告書になります﹂
私は彼からその報告書を受け取った。内容は、隣国シレジア王国
内の王位継承問題について。
﹁ふーむ⋮⋮﹂
シレジア王国の王位継承問題は、依然水面下の出来事である。国
王フランツはまだ壮健で、特に何も失政をしているわけではない。
﹁現在、シレジアの大貴族のほとんどはカロル大公を支持している
状況です﹂
﹁その大貴族に反発している新興貴族、中小貴族が王女派と言う訳
か﹂
﹁左様です。また、現国王フランツを支持している貴族も多く、カ
ロル大公はフランツの﹃自然死﹄を待っている模様です﹂
﹁﹃自然死﹄か﹂
こういう情勢で自然に死ねる王族と言うものは少ない。だいたい
254
事故か病気で死ぬことになる。
﹁下手に暗殺しようものなら現国王派の反発を招くやもしれません。
このような国際情勢ではカロル大公も内戦を避けたいでしょう﹂
﹁となると、やはり問題になるのは士官学校に入学したというあの
お嬢様か﹂
﹁はい。未だ支持する貴族は少ないものの、フランツ自身が王女に
王位を継がせることを望んでいる以上、国王派は殆ど王女派になる
・
でしょう。また、王女も士官学校で確実に有力貴族との繋がりを持
ちつつあります。大公としては、早めに排除したいでしょうな﹂
・
﹁ほほう。で、我が国としては誰に与するのが得策だと思うかね大
佐﹂
﹁⋮⋮やはり、王女でしょう﹂
﹁理由は?﹂
﹁報告書にもある通り、やはり大公は東大陸帝国と何らかの形で手
を結びたいと考えているようです﹂
﹁なんともまぁ、心強い味方だな﹂
カールスバート共和国は政変によって実質東大陸帝国の属国とな
った。この上、シレジアにまで東大陸帝国の軍門をくぐられてしま
っては、国防上看過できない事態となる。
﹁カールスバート、シレジア、そして東大陸帝国相手に三正面作戦
をして勝てるほど我が国は豊かではない。しかしシレジアとの協調
も難しいのは確かだ﹂
下手にシレジアに介入してしまえばカールスバートのように政変
を起こされてしまう可能性がある。そこまででなくとも、反政府運
動を起こされてしまうのは困る。
255
﹁リヴォニア貴族連合との協調は無理かね?﹂
﹁無理ではありませんが、彼の国は東大陸帝国と陸で国境を接して
いるわけではありません。手を結んだところで我々を助けてくれる
保証はありません﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
我々と共にあの大国と渡り合ってくれる国などそうそうない。仮
にリヴォニアと協調できても対シレジア・カールスバートのみだろ
う。対東大陸帝国戦となるとどうも期待できない。それに、連合と
言えばよからぬ噂もある。
﹁国境を接しているとなると後はキリス第二帝国だが⋮⋮﹂
﹁ですが、あの国と同盟と言うのは⋮⋮﹂
﹁あぁ、それこそ無理な話だ﹂
我が国とキリスは仲が悪い⋮⋮と言うより、現在進行形で紛争し
ている状態だ。あの国が東大陸帝国と手を結ぶことはないだろうが、
我々と手を結ぶと言うこともないだろう。
やはり、シレジアをどうにかするしかない。せめてシレジアを東
大陸帝国に渡さず、できれば手を結ぶ。そして東大陸帝国に介入す
る暇を与えずに。果たしてそんな方法があるのか⋮⋮。
ん? そう言えば東大陸帝国について妙な報告があったな。
私は執務机の引き出しからある報告書を出した。
﹁大佐、これを見たまえ﹂
﹁東大陸帝国内の調査報告書ですか? 閣下、これは﹂
﹁あぁ。この一件、使えるとは思わないかね?﹂
﹁⋮⋮えぇ。ですが時間がかかります﹂
﹁どれくらいかかる?﹂
256
﹁おそらく、数年は﹂
﹁まぁ、仕方あるまい。だがあの国も暫くは動けまい。国内経済の
問題もあるし、キリス第二帝国との紛争が再燃したそうだからな。
急ぎ過ぎて失敗しないように﹂
﹁わかりました。すぐに準備にかかります﹂
﹁うむ。成功を祈るよ、大佐﹂
オストマルク帝国外務大臣の策略が実を結んだのは4年後の、大
陸暦636年のことである。
257
新たなる火種︵後書き︶
次話で一気に時間が飛ぶ予定です。ご了承ください
258
大陸暦636年の夏
早いもので士官学校ももうすぐ卒業、俺も15歳になった。
卒業試験は教師3人との図上演習で、1勝以上で合格点だった。
そして俺の成績は1勝1分1負。なんとも微妙な⋮⋮。
他の奴らの話も簡単に話しておこう。
サラ・マリノフスカ。
騎兵科次席卒業見込み。座学で足を引っ張り首席卒業とはならな
かった。猪突猛進ぶりは相変わらずだが騎兵科ならそれはむしろ長
所だろう。現在は17歳。前世で言う所のJK。テンション上がる。
あとなぜか学校で顔を合わせるたびに右ストレートが飛んでくる。
俺が何をしたと言うんだ。
ラスドワフ・ノヴァク。
輜重兵科卒業見込み。可もなく不可もなく、中の上の成績。本人
は﹁中の中じゃなくてよかった﹂と言っている。意味は不明。現在
21歳、良い感じの好青年。なおまだ童貞。出会いがないわけじゃ
ないのだろうが、本人の方から断り続けている模様。意外と真面目
だね君。
エミリア・ヴィストゥラ。
剣兵科第3席卒業見込み。例の卒業試験で人生で初めて人殺しを
コネ
した、という噂。本当にやったのか、事の真相は気になるがデリケ
ートな問題なので聞けずにいる。友人作りはそこそこうまくいき、
内務尚書の長女や本物の公爵家の嫡男と繋がりを持ったらしい。
259
マヤ・ヴァルタ。
剣兵科首席卒業見込み。剣兵科卒業試験と同時に警務科卒業試験
も受けて、それもなんなくクリアしたという高性能お姉ちゃん。2
2歳。殿下との仲は良いようで、殿下に悪い虫がつかないよう気を
配っている。相変わらず怖い。
こんなもんか。
王立士官学校第123期卒業生、総勢125名。入学時は180
名以上いたはずだが、いなくなった者の内約40人は退学、そして
20人弱が戦死、または訓練中の事故で死亡した。
退学者の数も、死亡者の数も例年より遥かに多い、と先生は言っ
ていた。無論これは先のシレジア=カールスバート戦争の影響だ。
あの戦争で戦死した、あるいは戦争によるケガやストレスで退学に
追い込まれた生徒が多かったらしい。そういう意味ではよく125
人も卒業できたと思う。
さて、問題はこれから軍に正式に配属されてから。准尉スタート
で戦略レベルに口出しできるまで偉くなるのに⋮⋮うん、30年く
らいかかるかな。最短で。サラとか殿下とかは確実に少尉からだろ
うし。スタートダッシュで確実に負けたわ。
というかどこに配属されるかで運命も決まるね。どこぞの辺境の
警備隊の隊長とかだったら死んじゃう。あ、でも戦術研究科で実戦
部隊の隊長と言うのはないか。どこかの基地の参謀とか幕僚とかそ
こらへんかな?
考え事をしながら廊下を歩いていたら誰かとぶつかりそうになっ
た。危ない危な⋮⋮
260
﹁あっ﹂
サラだった。この距離まで近づかないとか俺も目が悪くなったか
な。
当然と言うかなんというか、サラはご立腹だった。﹁ぶつかりそ
うになるくらいじゃないと私に気づかないのか!﹂って顔してる。
相変わらず表情に出やすいなこいつ。
﹁や、やぁ。次席卒業おめでとう、サラ﹂
とりあえず気づかなかったことについてはスルーしておだててみ
る。
﹁⋮⋮嫌味?﹂
﹁今の言葉にはどこにも嫌味成分はなかったはず﹂
ここで俺が戦術研究科首席卒業だったら嫌味ったらしいけど、残
念ながら俺の成績は戦術研究科の中じゃ下から数えた方が早いのだ。
なぜかって? うん、武術の成績がね⋮⋮。
﹁ふんっ。教師たちに見る目がないみたいね﹂
﹁その教師たちに勝てなかったからこんな成績なの﹂
﹁本気でやったの?﹂
﹁本気でやったよ﹂
やっぱり経験の差なのか、それとも農民出身の俺に対する嫌がら
せなのかは知らない。
﹁あら、お二人とも何をされてるんですか?﹂
﹁エミリア、久しぶりね﹂
261
も
ってなんだ﹂
﹁お久しぶりでございます、殿下。それとヴァルタさんも﹂
﹁
剣兵科エリート二人組登場です。主席と第3席、この二人に白兵
戦で勝てる奴はいないだろうな。
﹁とりあえずヴァルタさん、首席卒業おめでとうございます﹂
﹁あぁ。ありがとう。君も赤点回避おめでとう﹂
﹁ありがとうございます﹂
第5学年下半期で退学とか笑えないから必死だったよ。
﹁にしても皆さんが揃うのは本当に久しぶりですね。何年振りでし
ょうか﹂
﹁分かりませんね。2、3人なら何度かありましたけど、4人は本
当に久しぶりです﹂
なんせ電話もメールもないからクラスが分かれると会う機会本当
にないんだよねぇ。
﹁これでラデックがいれば5人全員が揃うわね﹂
﹁呼んだか?﹂
﹁﹁!?﹂﹂
いつの間にか俺とサラの後ろにラデックがいた。忍者かお前。
﹁だから言ったでしょう? ﹃皆さんが揃うのは久しぶり﹄だと﹂
王女殿下はそう言いつつクスクスと笑っている。
262
﹁で、皆揃ってなにやってんだ?﹂
﹁特に何もしてないよ。本当にたまたま会っただけさ﹂
偶然にしては出来過ぎている、これは何者かの陰謀じゃ⋮⋮と思
う訳ない。むしろ4年間で1度もこういう機会がなかった方が不思
議かもしれない。
﹁みなさん積もる話もあるでしょうけど、廊下で立ち話もなんです。
食堂に移動しましょう﹂
﹁ラデックってどこに配属されるんだ?﹂
﹁たぶん輸送部隊か補給部隊かな。あとは後方でデスクワークか。
前線の兵士が飢えないようにするのが俺の役目になる﹂
﹁じゃあ、飯を食う度にラデックに頭下げなきゃ駄目か﹂
﹁やめろ気持ち悪い﹂
食堂に移動した俺たちは特に何かするわけでもなく積もる話をし
ている。授業がどうの、試験がどうの、今後のことがどうの、と。
﹁俺の事より、エミリア殿下がどこに配属されるか気になるね﹂
﹁私ですか?﹂
﹁あぁ、これから軍務10年勤め上げることが国王陛下から出され
た条件なんだろ? でもきっちりこなしたらそん時はには25歳だ。
婚期とかどうすんだろうなと思って﹂
﹁そう言うことですか⋮⋮考えていませんでしたね﹂
﹁陛下はエミリア殿下の事を大事に思っている。きっと人事に介入
263
して王都勤務になるだろうな﹂
﹁お父様は成績には一切手を出さないと言っていましたが?﹂
﹁﹃成績には﹄手を出さないけど﹃人事には﹄手を出す、ってこと
ですかね?﹂
﹁そういう事だろうな﹂
﹁なにそれ。感じ悪いわね﹂
﹁サラ、仮にも国王陛下に対してその言い草は⋮⋮﹂
﹁平気ですよ。でもサラさん、不敬罪に問われるかもしれませんの
で、場に気を付けてくださいね﹂
﹁⋮⋮わかったわ﹂
サラは言いたいことは言っちゃうタイプだからな。ラデックも割
と言っちゃう方だけど。ある意味では貴重だが、ある程度自重して
くれないと周りがストレスで死ぬ。
﹁不敬罪、で思い出しました。ラデックさん、ユゼフさん。ご質問
よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮? 大丈夫ですが﹂
﹁なんなりとどーぞ﹂
エミリア殿下からの質問か、珍しいね。
殿下は深呼吸し、そして言った。
﹁あなた達平民にとって、貴族・王族とはどのような存在ですか?﹂
﹁⋮⋮それは、随分突飛な質問ですね﹂
﹁前から聞こうと思っていたのですが、なかなか聞けなかったもの
で。どんな悪口でも構いません。自由に答えてください。不敬罪だ
とか、失礼だとか、そう言うのを一切気にせずに﹂
気にせずに、と言われても王女の前で堂々と貴族批判できるほど
264
俺は偉くないんだがなぁ⋮⋮。
俺が正直に答えようか悩んでいると、ラデックの方から先に語り
出した。
﹁王族はよくわからんけど、貴族はお客さん兼商売敵だね﹂
﹁お客さん、はなんとなくわかるけど商売敵って何よ?﹂
﹁ん、それはな⋮⋮﹂
それはかつてラデックから聞いたことある、取引寸前に貴族から
いいところだけ奪い去られた時の話。
﹁とある貴族、たしか侯爵だったかな。そいつがオストマルク製の
宝飾品がいくらか欲しい、って注文したんだ。結構いい報酬だった
んで親父は即刻オストマルクに行って宝飾品の買い付けに行ったん
だ﹂
でも、宝飾品は結局侯爵に売ることはできなかった。オストマル
クとの国境にある伯爵領が、水際でその宝飾品を奪ったからだ。﹁
事前申告に不備があったので没収する﹂という名目で。
﹁勿論親父は抗議したけど、相手は伯爵だ。そんな抗議が通るわけ
無い。そんで宝飾品を奪った伯爵は親父の代わりに宝飾品を侯爵に
渡した。無論報酬は伯爵の手に、そして伯爵に対する侯爵の信頼は
上がり、親父の信頼は落ちた﹂
前金がよかったため大赤字は免れた。だが落ちた信用はなかなか
戻らなかったという。
そこまでの事情を、ラデックは淡々とエミリア殿下に正直に伝え
た。
265
﹁⋮⋮そうですか﹂
殿下は目に見えてションボリしていた。まぁ、身内の恥みたいな
もんだからな。
﹁というわけで俺の意見は終了。ユゼフ、後は任せた﹂
﹁この状況で投げるなよ言い辛いだろ⋮⋮﹂
こいつ軍に入ったら、補給も前線に丸投げしないだろうか。心配
だなぁ。
こんなエミリア殿下の顔みたら正直に言えないじゃないか。どう
すればいいんだ。
﹁ユゼフさん、ハッキリ言って良いですよ﹂
エミリア殿下は毅然とした態度でそう言った。
ハッキリ言っていいものか。しかしここで下手に貴族擁護しても
仕方ないか。
俺も正直に言っちまおう。こういう機会がこの先あるとは思えな
ノブレス・オブリージェ
いし、王女殿下が直々に改革してくれるかもしれんし。
﹁貴族は、社会の害悪ですね﹂
﹁害悪、ですか?﹂
﹁えぇ。少なくとも、殿下のように貴族の義務を果たそうともせず、
税金も払わず、何か不満があると私兵による反乱をちらつかせるよ
うな連中は、みんないなくなればいいと思います﹂
死ねばいい、という言い方は避けた。結局は同じことだが。
266
前世
﹁﹃貴族は制度化された強盗集団である﹄という言葉をどこかで聞
いたことがあります。知も才もないものが、血の繋がりという曖昧
なもので権力を奮い民衆から税を徴収する。徴収した税金で自らの
物欲を満たす。俺ら平民にとっては理不尽極まりない事ですよ﹂
知も才もあるものが、仕方なくそれを行うのであれば、まだ割り
切る事ができるんだけどね。
例えば王女殿下が﹁宮廷予算をゴッソリ削って、でもまだ全然足
りないから増税します!﹂と言うのだったらわかる。そう言う状況
に追い込んだのは誰だ、という責任問題は別として。
﹁⋮⋮﹂
殿下が黙ってしまった。いかんいかん、フォローしないと。
﹁でも、殿下のように貴族の義務を果たそうとしたり、自らが領民
や国民の盾になって守るような貴族は、私は好きですよ﹂
シレジア伯爵家は、代々そういう家系だったらしい。大陸帝国に
よる圧政から領民を守るために反乱を起こしたのだし。今の王家は
その伝統を忘れてしまったのか、それとも周りの貴族がクズすぎる
だけなのか。
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
殿下はそう短く答えると、少し笑って見せた。
思えば殿下も大人になったよな。当然か。15歳だもんな。
﹁もう、暗い話はここまでにしましょう! エミリアもユゼフもラ
デックも、久しぶりなのになんでそんな話するのよ!﹂
267
﹁あ、これは失礼サラさん﹂
﹁さん付けするな!﹂
久しぶりにその理由で殴られた。本懐である。
﹁じゃ、違う話題で楽しく盛り上がろうか﹂
ヴァルタさんがそう言った。うんうん。やっぱり政治と野球の話
をしちゃダメだな。
﹁という訳で殿下が剣兵科でどんな活躍したか、その武勇伝を聞か
せ﹂
﹁いやそういうのいいから﹂
﹁恥ずかしいからやめてください﹂
ヴァルタさんが委縮した。大人になれ22歳。
﹁第5学年全生徒に告ぐ、こちら校長だ﹂
? 校長から通信魔術? 結構久しぶりだな。カールスバート戦
争前のあの日以来⋮⋮。
まさか、ね。
﹁至急の要件がある。全員今すぐ第一講堂に参集せよ﹂
⋮⋮俺ら5人は互いの顔を見合わせた。緊張した顔つきだ。あの
日の事を思い出しているのだろう。
268
本当の卒業試験が、始まろうとしていた。
269
第82話﹁主人公、還らず﹂
大陸暦636年の夏︵後書き︶
次回、大陸英雄戦記
大陸の歴史も、あと1ページ。
︵乗り遅れたエイプリルフール︶
270
卒業試験
東大陸帝国の西部、バルト海沿岸に﹁ラスキノ﹂と呼ばれる小さ
な都市がある。
人口は1万人程で、これと言った産業もない。ごくごく普通の都
市。
かつてラスキノは国だった。非常に小さな国ではあったが、独自
の言語を操り、独自の文化を育み、気風溢れる人々を生んだ。国民
は飢えもせず、幸せに包まれながら小さな歴史の時を刻んでいた。
そして大陸帝国という強大な力を持つ国家によって、それらは一
瞬にして踏み潰された。
帝国による文化破壊、言語絶滅という同化政策によって、ラスキ
ノは地理的概念へと転落しかけた。
だが彼らの文化、言語は帝国の治世を以ってしても完全に消すこ
とはできず、ラスキノの魂は地下で細々と生き残っていた。
そして大陸暦636年、ラスキノの魂が再び雄叫びを上げた。
−−−
271
・・
﹁5年生諸君、卒業間近で申し訳ないが緊急招集だ。これより君ら
は全員、シレジア東部国境へ行って貰うこととなった﹂
東部国境? まさか東大陸帝国が侵攻してきたのか?
他の者もそう思ったのか、不安の声を口にする。それが伝播し、
講堂は騒然となった。
﹁まず言っておくが、東大陸帝国が我が国に侵略したわけではない﹂
?
じゃあなんで東に行くんだ?
﹁諸君の任務は、東大陸帝国内にあるラスキノという場所へ行って
貰う﹂
知らない都市だ。おそらく地図に乗るか乗らないかくらいの小さ
い都市なのだろう。
・・・
﹁義勇兵として﹂
義勇兵? え、義勇兵って言ったの?
義勇兵とは、自由意思に基づいて編成した志願兵というか民兵と
言うか愛国心溢れすぎてる軍人と言うか、まぁそんなもんだ。
そして時に、正規軍に所属して正規の装備背負って正規軍のお偉
いさんが指揮して正規軍から給料貰って戦いつつ﹁うちの国の軍隊
とは関係ねーから! あいつらが勝手にやってるだけだから!﹂っ
て言い訳するための言葉でもある。
今回校長が言ってるのは明らかに後者だろうな。うん。
272
おいはやく卒業させろや。
﹁今回君たちは自らの意志でラスキノに行って貰う。勿論、参加は
自由だ﹂
さっきと言ってること違ってますよ先生。でも参加しなくてもい
いなら堂々と宣言して
﹁参加しなかった者は4年間の再指導と、10年間の追加軍務を受
けてもらう。もしそれを怠った場合、授業料の支払い義務が生じる
ので注意するように。では、諸君に参加の意思を問う。もし参加し
たくないと言う臆病者はその場で大きな声で自分の名前を言い、私
の所に来るように。その時最終確認を行うので、もし本当に参加し
ないと言うのなら所定の手続きに従ってほしい﹂
これ完全に強制ですね。合計9年学校にいて20年間軍務とか殺
す気か。そしてここで大声で叫ぶ臆病者がいるはずないだろ! そ
して校長の所に行ったら家族がどうの国の恥だどうの言うんだろ!
? もしそれを乗り越えても書類上の不備だ事務のミスだなんだで
結局は参加意思アリになる。
うん、この国だめだわ。
﹁全員参加意思アリということだな。感謝する﹂
うわーみんな愛国心にあふれてるなー。
﹁早速だが、諸君らは明後日に東部国境のタルタク砦へ向け出発す
る。詳しい任務の内容や軍の規模についてはそちらで説明する。準
備を怠らないように。以上﹂
273
⋮⋮はぁ、田舎に帰りたいです先生。
−−−
集会終了後、エミリア殿下とヴァルタさんが先生に呼ばれた。何
の話かだいたい想像つく。王女を義勇兵にさせるわけにはいかない
もんね。
数分後、話し合いが終わったのか少し駆け足で戻ってきた。なん
かムスッとした顔で。これもだいたい何言われたかわかるよ。でも
一応確認
﹁で、何をお話しになってたんですかエミリア様﹂
﹁行くなと言われました﹂
﹁でしょうね。それで、エミリア様はどうなさるんですか?﹂
﹁私は志願しましたよ、と言いましたが、上層部からの命令である
から行くなとしつこく言われました﹂
ごもっともである。もし殿下に傷がつこうものなら先生の首が物
理的に飛ぶことは免れない。
王族
﹁だからあの方たちに言ったのです。あなた達は軍務省の命令と、
公爵令嬢たる私の命令、どちらを優先するのかと﹂
やめてさしあげましょう? なんか普通に可哀そうだから。
274
﹁ワレサくんが心配することはない﹂
﹁ヴァルタさん﹂
なんだかんだと頼りになる姉御! エミリア殿下をなんとかして
止めてくれる!
﹁エミリア様は私の責任でもってお守りする﹂
あ、そっちなの。連れて行かないという選択肢はないのね。
﹁無理を言っていると自覚はありますが、ここで引いては士官学校
に来た意味がありません﹂
殿下はいつも毅然としてらっしゃるが⋮⋮。
﹁でも今回は外征です。どのような内容かはわかりませんが、事に
よっては政治的な問題になりかねませんよ﹂
﹁問題ありません。私はまだ爵位を継いでいない一般的な公爵令嬢
です﹂
一般的ってなんだっけ⋮⋮?
﹁しかし万が一と言うことも﹂
﹁万が一のことは起こさせないと言っているだろう!﹂
姉御がキレた。怖いからやめて?
﹁それにサラさんやユゼフさん、ラデックさんもいます。問題あり
ませんよ﹂
275
あるようなないような。いややっぱりあるよ。
﹁マヤさん、寮に戻り急ぎ準備をしませんと遅れてしまいます。行
きましょう﹂
﹁承知しました、エミリア様﹂
二人はそう言うと俺を無視して女子寮へ駆け足で向かった。
⋮⋮はぁ。気が重いなぁ。
大陸暦636年8月19日。この日、士官学校第5学年の卒業試
験が始まった。
276
卒業試験︵後書き︶
追記:シレジア王国周辺地図
<i149607|14420>
①シレジア王国
②東大陸帝国
③カールスバート共和国
④オストマルク帝国
⑤ラスキノ
277
タルタク砦
タルタク砦に着いて暫くした後、北東防衛軍団の作戦参謀から作
戦説明と言うか現状説明があった。
﹁現在、ラスキノでは反政府暴動が頻発しており、それに伴って独
立の機運が高まっている﹂
ラスキノはシレジアと東大陸帝国の国境近くにある都市で、前世
ではカーリニングラードと呼ばれた場所だ。ただこの世界のラスキ
ノは特に何もない小さな都市だ。
﹁独立運動は周辺の都市や農村にも広がっており、数万人の市民が
蜂起している。また一部の警備部隊や軍もこの蜂起に加担している
との情報もある﹂
万単位の市民による暴動か。帝国軍もおそらく手間取ってるだろ
うな。大陸帝国末期のキリス戦争の時と同じ状況だ。
﹁また複数の国から既に義勇兵がこの独立運動に参加している。我
等もこれに乗じる形で参戦する﹂
ここで参戦してラスキノに恩を売って東大陸帝国の国力を少しで
も弱める、他国と共同戦線を張ることによって情報収集したり仲を
深めたりしたいというわけね。
でもなんで俺たちなんだ? 士官学校生を召集するほど逼迫した
状況でもないような気がするんだが。
278
﹁我が方の戦力は君ら士官候補生125名と、北東防衛軍団義勇兵
部隊約3000名だ﹂
1個連隊から旅団規模ってことか。まぁこの国に師団規模で外征
する余裕はないだろうし、あまり過剰に派遣しても軋轢を生むだけ
か。でもそんなに用意できるなら俺ら呼ぶ意味ないだろ!
﹁以上だ。何か質問は﹂
聞きたいことは山ほどあるよ! 畜生言ってやる!
という訳で挙手。先生!
﹁いくつか質問よろしいでしょうか﹂
﹁構わん。なんでも聞きたまえ﹂
今なんでもするって言ってないか。いや男に興味はないけど。
﹁蜂起している都市や町はラスキノ以外に何ヶ所あるのでしょうか﹂
﹁農村を含めればかなりの数だが、人口数千人規模の都市はラスキ
ノを含めて6ヶ所だ﹂
﹁その都市の戦力は、市民の数を除くと如何ほどありますか?﹂
訓練された市民は戦力にはならないからね。女子供老人含めた暴
動だと尚更﹁数万人﹂なんていうものは信用できない。
﹁あぁ、少し待ってくれ⋮⋮。えー、各都市には1個中隊程度の警
備隊が駐留していた。また都市に住んでいた退役軍人や予備役、そ
れに帝国から裏切った部隊、各国から派遣された義勇兵等を加味す
ると、一都市あたり1000ないし1500と言ったところだ﹂
279
つまり6都市合わせて6000∼9000。市民から使える奴を
徴兵すれば1個師団程度の戦力がラスキノ周辺にあるわけか。でも
それは6ヶ所に散らばって存在している、と。
﹁もうひとつよろしいですか?﹂
﹁構わん﹂
﹁今回の戦い、指揮官はどこの誰ですか?﹂
ここが重要だ。誰の命令を受けて行動すればいいんだ。
﹁ラスキノ警備部隊の隊長であるゲディミナス大佐がラスキノ周辺
の反乱部隊の指揮を執っている。また義勇兵部隊については所属し
ている国の指揮官がそれぞれ執っている﹂
﹁それはつまり、指揮権が統一されているわけではないと﹂
﹁⋮⋮そういうことだ﹂
やる気あんのかこいつら。
﹁我々の指揮官は?﹂
﹁マリアン・シュミット准将だ﹂
誰だそいつ。
﹁そうそう、言い忘れていたが君らの所属は第38独立混成旅団と
なる﹂
タスクフォース
この独立混成旅団って諸兵科連合部隊のことなのか、それとも寄
せ集めの素人集団の事なのか⋮⋮後者だろうなぁ。
﹁他に質問は?﹂
280
﹁⋮⋮ありません﹂
あとは現地行ってみないとわからんからな。
﹁わかった。他に質問があるものは?﹂
他の質問は特になく、参謀殿は編制とか今後の予定とかを話し始
めた。全ての事が終わったのはそれから2時間後のことである。
−−−
﹁あぁ、君、ちょっと来てくれ﹂
ブリーフィング
説明が終わった後、作戦参謀から呼び出された。何かまずいこと
したかしら。
﹁なんでしょうか﹂
﹁君、名前は?﹂
﹁戦術研究科5年、ユゼフ・ワレサです﹂
﹁戦術研究科か、なるほど。なら納得だな。ワレサ君は学校の成績
もよかったのではないか?﹂
﹁いえ、お恥ずかしながら下から数えた方が早かったです﹂
﹁なんと﹂
どうやら作戦参謀殿に気に入られたようだ。そういやこいつ名前
なんだっけ。
281
﹁ルット中尉、何をしている?﹂
﹁! 閣下!﹂
閣下?
﹁ワレサ君、こちらは第38独立混成旅団の司令官であるシュミッ
ト准将だ﹂
﹁こ、これは失礼しました!﹂
慌てて敬礼する。イメージより若い。准将が何歳でなれるかは知
らないけど、それでも若いと感じる。
﹁君は、士官候補生かね?﹂
﹁はい! 戦術研究科5年のユゼフ・ワレサと申します、閣下!﹂
﹁シュミットだ。今回は宜しく頼む﹂
﹁は、はい!﹂
やばい緊張する。カールスバートの時の第3師団の師団長より緊
張してるわ。アイツの方が階級高いのに。
シュミット准将は見た目は有能そうな男だ。一方第3師団長は見
た目で死亡フラグ立ててた。今生きてるかは知らん。名前覚えてな
いし。
﹁で、何をしているのだ?﹂
﹁いえ、それはですね⋮⋮﹂
かくかくしかじか。
俺が作戦会議の時に色々質問した事、そしてそれをなぜかルット
中尉が大絶賛した。
282
おいやめろ、なんか恥ずかしいから。いやホントやめてお願いし
ます。
﹁なるほど、君のことは覚えておこう﹂
そう言って、准将は去っていった。
﹁やったな﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
准将に名前を覚えられた。
うん。これが大将ぐらい、せめて中将だったら嬉しいけど准将じ
ゃなー⋮⋮。
−−−
﹁何話してたの?﹂
兵舎に向かう途中、サラが俺の所に来た。わざわざ待っていたら
しい。嬉しいねぇ。
﹁何も話してないよ。﹃向こうがなんか勝手に口を開いてた﹄とい
う表現が正しい﹂
﹁なによそれ﹂
実際そうだから困る。中尉が呼びとめたと思ったら年下階級下の
283
士官候補生を褒めちぎったあげく准将がなんか来た。そんだけだ。
﹁ルット中尉にあんたを見る目があるってことね﹂
﹁些か誇張されてる気がするんだけど﹂
些かレべルを越えてる気もする。
﹁まぁ上の心配をしても仕方ないよ。俺たちは下っ端はやれと言わ
れたことだけやってさっさと帰るだけさ﹂
﹁そうね。エミリアもそろそろ王宮が恋しくなるころでしょうし、
さっさと帝国を潰しましょう﹂
サラがやや尊大なこと言うと、その場は流れで解散となった。
なに、クリスマスまでには終わるだろう。
284
第33歩兵小隊第4班
詳しい編制と任務が伝えられたのは翌日の事である。
﹁それで、なんでまたこのメンバーなわけ?﹂
俺の所属しているのは第38独立混成旅団第3中隊第3歩兵小隊
第4班、略して第33歩兵小隊第4班。もっと略すと第33−4部
隊。うん、どうやらこの世界でも例の呪いはあるらしい。なんでや。
第33−4部隊の構成は、俺、ラデック、サラ、エミリア様、ヴ
ァルタさんの5人。
恣意的なものを感じる。
﹁そんなことはどうでもいいわ﹂
﹁どうでもいいのか⋮⋮?﹂
﹁いいじゃねぇか。知らん奴と肩並べるよりお前らと一緒の方が何
かと安心だ﹂
それもそうか。
﹁私は納得できません﹂
﹁エミリア様? どうしてです?﹂
﹁だって、与えられた任務はラスキノの後方警備ですよ! 結局後
方待機ではないですか!﹂
﹁いや、私たちは士官候補生で素人ですから⋮⋮﹂
﹁徴兵された農民兵は前線に行ってます!﹂
285
俺たちの任務は、現在戦火から遠く独立派の拠点でもあるラスキ
ノの町の警備である。これは人事参謀殿が空気読んだ結果かな。
﹁しかしエミリア様、後方警備とは言っても前線でもありますよ﹂
﹁どういうことです?﹂
﹁独立派は各国から義勇兵を集めていますが、それでも帝国軍の方
が数で圧倒しています。いつ戦線が崩壊してもおかしくはないでし
ょう﹂
現在、戦線はラスキノから東にある便乗で独立宣言した都市の近
くにある。川を挟んでの睨み合いとなってるらしく、それでかろう
じて戦線を維持してるようだ。このまま続いて帝国が独立派と停戦
すれば万々歳だがそうは行くまい。
﹁じゃあワレサくんは、ラスキノが戦場になると?﹂
﹁帝国軍が本気ならそうなるでしょう﹂
﹁本気じゃなければ?﹂
﹁そしたら私たちはクリスマスまでにシレジアに帰れます﹂
﹁くりすます?﹂
おっといけね、この世界にはキリストはいないんだった。
﹁間違えました。年末年始は家族と一緒に過ごせますよ﹂
帝国軍が本気を出すかは五分五分かな。ラスキノは特に産業も資
源もあるわけではない。純軍事的な観点で言えばこんな反乱頻発地
帯を必死で守る必要もない。ただこれに貴族の威信だとか武人の名
誉とか皇帝の意地とかが入ると泥沼になる。
﹁なるほど? さすが戦術研究科というわけかな?﹂
286
﹁茶化さないでくださいよ。こんなの、ヴァルタさんだってわかる
でしょう﹂
﹁私には思いもつかなかった﹂
絶対ウソだ。
﹁ま、私としては帝国軍の動向よりも王国軍の方が気になりますよ﹂
﹁どういうことよ?﹂
﹁サラ、俺たちの階級はなんだ?﹂
﹁えっ。えーっと、たしか准尉待遇って言ってたわね﹂
﹁そこが気になるんだよねぇ﹂
﹁なんでよ。私たち卒業したら准尉か少尉に任官されるんだから真
っ当だと思うんだけど﹂
﹁俺たちが准尉なのはいいさ。けど、准尉だけで構成された班って
なんなんだ? 特殊部隊じゃあるまいし﹂
班は伍長や兵長が指揮官となり、上等兵以下の隊員数人を率いる
のが普通だ。今回の場合は義勇兵だし、寄せ集めと言った感じが強
いから通常とは異なるのは仕方ない⋮⋮けど准尉だけで班を作るの
は変だ。
﹁そこに恣意的なものを感じると?﹂
﹁はい。この人選についても﹂
偶然なわけないだろうな。
﹁でもよ。こんなことして何になるんだ?﹂
﹁⋮⋮わからん!﹂
ラデックがずっこけた。
287
﹁なんか全部知ってそうな口聞いてたのにわかんねーのかよ!﹂
﹁わかるわけないだろ! こんな曖昧な情報だけで!﹂
俺は神でも釈迦でもない。
﹁でもユゼフさんの言うように、これが恣意的な編制であるのなら、
やはり私たちの任務にも何か裏があるのでしょうか﹂
﹁そう考えるのが普通でしょう﹂
これが﹁最前線に行け﹂とか﹁司令部の補佐をしろ﹂とかならま
だわかるけど﹁後方で警備してろ﹂ってのがわからん。俺たちに後
方警備させて何になるんだか。
﹁とやかく言ってもどうしようもないわ。どういう事態になっても
生き残れるように準備するだけよ﹂
﹁マリノフスカさんの言う通りだな。私たちに選択肢はない﹂
そうだな。結局それしかないか。人事にどうこう言えるほどまだ
偉くないし。
−−−
ユゼフが人事に違和感を覚えたのとほぼ同じ頃、ある場所で、あ
る人物は興奮を隠せずにいた。
288
﹁そうか、うまくいったか﹂
﹁はい。王女らはラスキノに配置されます﹂
計画がやっと始動したのだ。興奮を抑えきれないのは無理もない。
﹁計画通りに頼むよ大佐﹂
﹁わかっております。それと失礼ですが﹂
﹁なんだ?﹂
﹁私は、既に大佐ではございません﹂
﹁おぉ、そうか。そうだったな。昇進おめでとう、准将﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁私はそろそろ戻らねばならん。後は頼むよ。念を押しておくが、
王女の身に何かあれば⋮⋮﹂
﹁承知しております﹂
﹁なら、良い。では、准将また会おう﹂
﹁閣下もお元気で﹂
﹁うむ﹂
−−−
大陸暦636年9月2日、俺たちはラスキノに到着した。
289
城郭都市
ラスキノはかつて都市国家だった。そのためか、ラスキノにはそ
れなりに立派な城壁と城がある。
河口にある三角州に旧市街があり、河岸に城壁、数本の跳ね橋が
三角州の中の旧市街と外の新市街を繋いでいる。前世の地中海マル
タ島にあるバレッタ城郭都市って感じだな。
新市街は帝国による大陸統一後にできた町らしい。が、見た感じ
旧市街にしても新市街にしても建物はかなり経年劣化が進んでるな。
無理もないか。ラスキノは今やただの田舎町、人口流入数より流出
数の方が多いだろう。
﹁でも、想像してたよりいい街だね。住みたいかどうかはともかく、
年に1回くらいは観光に来たくなる場所だ﹂
﹁同感です。これほど壮麗な都市はシレジアにも少ないでしょう﹂
エミリア殿下も同じことを思ったらしい。うん、俺の感性は間違
ってないな。
﹁そんなことどうでもいいわ。早く独立派指揮官の大佐とやらに会
いましょう﹂
﹁あ、はい﹂
サラさん、もうちょっと楽しもう? 今度いつ観光なんてできる
かわかんないだからさ。
290
−−−
ラスキノ独立軍の司令部は旧市街中心部の城にあった。
﹁シレジア義勇軍、第38独立混成旅団第33歩兵小隊です﹂
﹁ふん、お前らがあのシレジア軍か。頼りなさそうな奴らだな﹂
我ら第33歩兵小隊の任務はラスキノの警備。第33歩兵小隊は
総勢30人。少ないねぇ。
で、目の前にいるのがこのラスキノ警備隊の隊長の⋮⋮何だっけ。
ゲディミナス大佐か。覚えにくいからデブ大佐でいいか。このご時
世、無能貴族みたいな体してやがる。ありゃ筋肉じゃなくて絶対脂
の塊だね。
﹁この町にいる限り、お前らは私の指揮下に入る。私の言うことを
必ず聞くように。いいな?﹂
絶対嫌だ。
いや文句言っても仕方ないか。相手がだれであろうと指揮命令系
統が分散されるのは良くないし。
﹁ん?﹂
?
なんかデブ大佐が俺らの方をまじまじと見⋮⋮
291
﹁おい、そこの女2人。後で私の所に出頭するように﹂
女2人というのはエミリア殿下とサラのことだった。おいヴァル
タさんを省くなよ可哀そうだろ。
っていやそうじゃなくて。
﹁大佐殿。よろしいでしょうか﹂
﹁なんだ。お前らに用はない。さっさと出ていけ﹂
﹁嫌です﹂
﹁なに!?﹂
いやもうさすがにエミリア殿下とサラを生贄に捧げてまで指揮命
令系統を統一させる気はないので。なんかもうヴァルタさんがキレ
かけてるので。
・・・・
﹁私たちはシレジア軍所属の旅団です。我が部隊の指揮官はシュミ
ット准将であり、大佐ではありません﹂
﹁しかし、ここは私の町だ! この町の指揮官は私だ!﹂
﹁では、緊急の際は大佐の指示に従いましょう。ですがそれ以外は、
あくまで我々はシレジア軍所属です。特に人事の面では邪魔しない
で頂きたい。ご不満があるのであれば、我が旅団長たるシュミット
准将に事の子細を書面に記載し対応してください﹂
﹁⋮⋮あ、う、おま!﹂
﹁サラ、エミリア様、大佐は私たちにもう用はないようです。ここ
にいても邪魔でしょうからさっさと出て行きましょう﹂
﹁はい。わかりました﹂
﹁⋮⋮ふんっ﹂
なんでこの二人こういう絡み多いんだろうね。
292
−−−
小隊長にしこたま怒られた後、なんか褒められた。前者は小隊長
として、後者は私人として。
﹁ま、大佐に掴みかかって卒業証書授与直前に退学になるのは御免
だからね﹂
あなたのことですよヴァルタさん。
﹁すまない﹂
﹁大丈夫ですよ。何事もなく平和的に終わりましたので﹂
﹁⋮⋮すまない﹂
謝られるとなんか困る。
﹁ユゼフさんには助けてもらいました。ありがとうございます﹂
﹁お礼を言われるほどではありませんよ。なんかイラッと来たので
上司に喧嘩売っただけです﹂
嘘ではない。本当にイラッと来た。
﹁喧嘩は私が売りたかったのに﹂
﹁サラが喧嘩したら大佐が死ぬよ﹂
﹁あんな奴死んでもいいわ﹂
﹁こらこらこら﹂
293
退学どころか軍刑務所入りだよ。
﹁で、結局俺らどうするんだ?﹂
﹁どうするって⋮⋮後方警備でしょ?﹂
﹁後方警備って何すんの?﹂
ラデックが疑問を口にした瞬間なぜかみんな俺の方を向く。いや
俺はそんな便利な奴じゃないぞ。
﹁小隊長殿の命令に従えばいいんじゃないかな﹂
﹁なんか言ってたっけ﹂
⋮⋮。
そう言えば何も命令されてないな。
うーん、まぁここは定石通りに情報収集かな。
﹁とりあえずラスキノの地図と、ラスキノの地理に詳しい人探すか﹂
﹁どうしてだい?﹂
﹁⋮⋮あんまりこういうの言いたくないんですが、このままだとた
ぶん市街戦になりますから﹂
−−−
大佐に喧嘩を売った直後に大佐と面と向かって﹁兵を1人借りて
294
いいですか﹂なんて言えるほど俺は厚顔無恥ではない。なので小隊
長と相談して、この街出身の民兵、もしくは退役軍人を探すことに
した。5人でぞろぞろする事でもないのでラデックと二人で。
そしてその過程で面白い物を見つけた。
﹁オストマルク帝国義勇軍だって?﹂
﹁はい。小官はオストマルク帝国第199特設連隊のヘルゲ・ゼー
マン軍曹であります!﹂
ゼーマン軍曹はオッサンだった。年齢相応と言えばそうだが15
歳の俺が准尉待遇で、そして倍くらい年上の人が階級が下の軍曹っ
てのは慣れない。
にしてもラスキノが多国籍都市になってるのか。そういや各国か
ら義勇兵部隊が出てるって話だったな。
﹁えー、と。オストマルクはどれくらい義勇兵派遣してるんです?﹂
﹁確か3200余名だったと思います﹂
だいたいシレジアと同じか。
﹁あ、そうそう。ラスキノの地理に詳しい人って知ってる?﹂
﹁小官です﹂
﹁はい?﹂
﹁小官はラスキノ出身の亡命者です﹂
まじすか。
デート
こうして、妙な男三人組のラスキノ観光が始まった。
295
決壊
なにが哀しくて異国の地で男三人とデートなんてせなあかんのか。
﹁ゼーマン軍曹はいつオストマルクに亡命したんです?﹂
﹁20年前です。当時私は12歳で、シレジア王国を経由してオス
トマルクにいる親類縁者を頼って亡命しました﹂
てことはゼーマン軍曹は32歳か。本当にダブルスコアだな。
﹁20年前ってことはだいぶ街並み変わってんじゃね?﹂
﹁いえ、そんなことはないです。この街は少なくとも80年は変化
していません。変化したのは橋1本だけです﹂
﹁橋?﹂
﹁えぇ、ラスキノには北側に3本、南側に2本橋があるのですが、
北側3本のうち西側にある橋は老朽化がひどく50年前に掛け直し
たのです﹂
﹁じゃあこの町で一番で一番新しい建築物は北西の橋ってことか﹂
﹁そうなりますね。北西の橋はこの町で唯一跳ね橋構造でない普通
の石橋です。とても頑丈でちょっとやそっとでは壊れません﹂
ゼーマン軍曹の案内でラスキノ観光を進める。地図には載ってい
ない路地や情報を小隊長からもらった地図に書き込んでいく。
﹁なぜそんなに必死に書き込んでいるんですか?﹂
﹁ん? んー、市街戦になったら便利かと思って﹂
﹁市街戦?﹂
﹁そう﹂
296
﹁ラスキノで市街戦が起きると思うのですか?﹂
﹁まぁ、半分くらいは﹂
シレジアとオストマルクの義勇兵、それにラスキノ独立軍兵合わ
せて1個師団。それが6ヶ所に分散配置って結構まずい。戦力分散
は死亡フラグだ。
﹁では、戦力の再編成を指揮官に具申しては?﹂
﹁いや、おそらく無駄だろうね﹂
﹁なぜ?﹂
﹁意地と政治のせい﹂
防御に有利な城郭都市ラスキノ旧市街に全軍で立て籠もれば数ヶ
月は持つだろうが、その分新市街や独立派各都市を見捨てることに
なる。実際はそうでなくても、帝国軍にそう喧伝されたら味方の士
気は下がる。たとえそれで勝てたとしても各都市がラスキノを支持
せず、独立後の政治体制が揺らぐかも⋮⋮という判断だろうな。
勝った後の心配するより今の戦いに勝つ算段をしてほしいものだ
が。
﹁というわけで、まぁ1個連隊規模でこの都市を防衛する計画を立
ててから意見具申しようかと思ってね﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
本来は大佐の仕事ですよこれ。でも小隊長が言うには大佐はこの
手のことは嫌いだそうで部下に投げっ放し。そしてその部下は今は
前線に引き抜かれて奮闘中ということらしい。完全に大佐いらない
子扱い。
﹁にしても不思議なのはあのデブ大佐がなんで反乱の指導者なんて
297
始めたんだ? どう見ても腰巾着っぽい見た目なのに﹂
﹁見た目はともかく、大佐は帝国に不満を持つ人ではあります﹂
﹁その心は?﹂
﹁左遷されたからですよ。もともとは帝都防衛隊にいたそうですか
ら﹂
﹁そんなに偉かったの?﹂
﹁はい。ですが公金横領の罪で降格の上、ここに左遷となったらし
いです﹂
﹁なんで除隊にならなかったんだ﹂
﹁まぁ、そこは東大陸帝国軍の内部問題です、としか言いようがな
いですね﹂
この国もいろいろあるんだね。軍の綱紀粛正に成功した第33代
皇帝が聞いたら泣くだろうな。
﹁そして降格と左遷に不満を持って独立運動煽って自分の国を作ろ
うとした、ということか﹂
﹁はい﹂
﹁クズだなぁ⋮⋮﹂
もう帰りたいわ。なんでそんな大佐のために俺らが命投げ出さな
あかんのよ。
﹁ユゼフ、俺留年してもいいから士官学校に帰りたい﹂
﹁奇遇だなラデック。俺もだ﹂
新市街と旧市街を両方見て気付いたことがあった。
298
﹁新市街には側溝がないんだな﹂
﹁側溝って、雨水集めるアレ?﹂
﹁そう、アレ﹂
旧市街には道の脇に側溝があって、川に雨水を流していた。が、
新市街にはそれがないのだ。
﹁新市街の地下に下水道があったりするの?﹂
﹁はい、あります。と言っても側溝を少し大きくした程度の物を地
中に埋めてるだけです﹂
うーん、それじゃあ下水道を秘密通路にって言うのは無理かな。
よくある作戦だけど実現できないのは残念だ。
﹁川を渡る手段は橋だけなのか?﹂
﹁はい。船による往来はもう数百年は行われていませんし、地下道
と言った物もありません﹂
﹁じゃあ橋が壊されたら旧市街は飢えるのか?﹂
﹁一応豪雨時に備えて食糧の備蓄がされています。3か月は持つか
と﹂
﹁そりゃすごい﹂
さすがは城郭都市と言うことかな。籠城するならやっぱり旧市街
が一番だね。
こうして俺たちはラスキノの情報収集を進めた。
無論1日で終わるはずもないので数日かけて。あぁ、ゼーマン軍
299
曹はオストマルクの指揮官に頼んで暫く借りる許可は下りた。やっ
たぜ。できれば女子がよかったが。
﹁女性兵士は少ないですからね。いたとしても貸したくはないでし
ょう﹂
﹁だろうな。俺が指揮官でも同じ判断するわ﹂
﹁そういやマリノフスカ嬢とエミリア様は大佐みたいな類の連中に
よく出くわすよな﹂
﹁だな。呪われてるんじゃないのか?﹂
士官学校でも何度かあったしな。その度にサラとヴァルタさんに
返り討ちにあってるが。
性的嫌がらせ
﹁まぁ古今東西、女性兵はそういう目に遭うものですよ﹂
﹁そういうもんなの?﹂
﹁えぇ、古代の大陸にはそういうことをする前提で女性兵を採用し
た軍があるらしいですから﹂
﹁そういう⋮⋮ってつまりナニをするために?﹂
﹁そうですね。ナニですね﹂
聞かなきゃよかったと半分後悔する。サラとかエミリア殿下はそ
ういうのダメです。むしろあの二人がくっつけばいいと思います。
﹁にしてもお前、マメだな﹂
﹁何が?﹂
﹁地図が真っ黒になるまで書き込んでるからさ﹂
たしかに。書きすぎて傍目から見ると何が何やらと言った感じだ。
﹁いいんだよ。俺がわかればいい。それにこういうのはやりすぎっ
300
てことはないさ﹂
﹁そうかもしれねぇけどよ⋮⋮建物の高さとかボロさとか何の役に
立つんだ?﹂
﹁それは戦いが始まってからのお楽しみだね﹂
﹁戦いが始まること自体、あまり楽しみじゃないですね﹂
﹁それもそうだな﹂
だがそんな願いとは関係なく、確実に独立軍は苦境に立たされて
いくのだった。
−−−
﹁ちょっとまずいことになりました﹂
独立軍指揮官、デブ大佐の執務室。第33小隊長と俺は大佐にあ
る報告をするためにやってきた。帰りたい。
﹁なんだね?﹂
大佐は明らかにイライラを隠しきれていない様子で、さっさと出
てけオーラを出している。
﹁シレジア・オストマルク義勇軍、及びラスキノ独立軍の連合部隊
が帝国軍との野戦に敗れ、ラスキノのひとつ手前の都市まで撤退す
301
るそうです﹂
﹁ほほう﹂
負けたという報告なのに、なぜか大佐は嬉しそうだった。こりゃ
あれだな。自分が指揮権取れるチャンスだと思ってるんだな。ゲス
野郎め。
﹁これは憂慮すべきだな小隊長﹂
﹁そうですね﹂
﹁では、今からこの町の全軍の指揮権は私が﹂
﹁その必要はありません﹂
﹁なんだと!﹂
﹁義勇軍連合部隊は今回の戦いにおいて指揮権をシュミット准将に
正式に委託されました。よって私たちは都市防衛戦においても大佐
の指揮には入りません﹂
﹁貴様ァ!﹂
﹁では、失礼します大佐﹂
大佐、哀れ。
﹁でもまだ指揮命令系統が統一されていないのは問題ですね﹂
部屋の外で、小隊長と俺は大佐に聞こえないように小声で会話す
る。
﹁あぁ。ラスキノの民兵部隊は未だ大佐の手の内だ。練度が低いと
言っても今は少しでも人手が欲しい﹂
﹁シュミット准将の部隊がここまで撤退できればいいのですが⋮⋮﹂
﹁難しいだろうな。今は帝国軍が義勇軍部隊を猛追している。なか
なか振り切れないようだ﹂
302
潰走状態になってないだけマシか。
﹁とりあえず、我々で防衛作戦を練るしかないな。戦術研究科卒業
生の本領を見せてほしい﹂
﹁全力を尽くします!﹂
第33小隊で戦術研究科卒の士官候補生は、1人だけだ。
303
会見
オストマルク帝国准将ニコラス・フォン・カークと名乗る人物が
エミリア様のところを訪れたのは、9月20日のことである。
その日俺はラスキノの防衛計画がやっと一息ついたところで、第
334部隊のメンバーと歓談していた。
その最中に、ゼーマン軍曹がやって来た。
﹁何かあったんですか﹂
﹁いえ、貴方たちにお会いになりたい方がいらっしゃるのですが、
よろしいでしょうか﹂
﹁⋮⋮? 誰ですか?﹂
・・・・
﹁ニコラス・フォン・カーク准将、我がオストマルク義勇軍部隊の
参謀長です﹂
﹁そんな方が俺らに?﹂
・・・・
﹁はい。正確に言えば、そちらにいらっしゃるエミリア・シレジア
王女殿下に、ですが﹂
﹁!?﹂
なんで知ってるんだ? エミリア殿下については細心の注意を払
ったつもりだが⋮⋮。
﹁ご安心ください。エミリア殿下の正体を知っているのは小官と准
将だけです。口外するつもりは毛頭ありません﹂
どうにも信用できない、が暗殺するにしてはおかしな行動だ。実
304
行前に自白するなんて。
﹁ゼーマン軍曹でしたね?﹂
当のエミリア殿下は平静を装っていた。
﹁はい﹂
﹁准将に会ったら、私の正体をなぜ知っているのか教えてください
ますか?﹂
﹁構いません。元々准将はそれもお話するつもりですから﹂
﹁ありがとうございます。ではカーク准将と会いましょう﹂
﹁感謝します﹂
﹁ですが条件があります﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁まず、准将がココに来ること。そして、私の友人達を同席させる
こと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁これが呑めなければ、私は会いません﹂
ゼーマン軍曹は一呼吸した後、
﹁承知しました。その条件を呑みます﹂
そう、冷静に言った。
﹁殿下、お待たせして申し訳ございません﹂
﹁いえ、大丈夫です﹂
305
カーク准将は見た目には40代と言った感じか。
フォン
とい
うからには貴族なのだろうが、実際彼からは貴族の風格というもの
が溢れてきている。
﹁ゼーマンから聞いたでしょうが、私はオストマルク帝国軍准将ニ
コラス・フォン・カークと申します、殿下﹂
現在この部屋にいるのはエミリア殿下、カーク准将の他に俺とサ
ラとヴァルタさん。ラデックとゼーマン軍曹は万が一のため部屋の
外で警戒待機。まぁ、大丈夫だとは思うが。
﹁ではお話をする前に、なぜ私のことを知っているかをお教えいた
だけますか?﹂
﹁はい。と言っても難しいことをしたわけではありません。シレジ
ア王国内に潜入していた諜報員からの情報ですから﹂
だろうと思ったわ。
﹁それだけですか?﹂
﹁それだけ、とは?﹂
﹁私をこの地に呼び寄せたのはあなた達ではないのですか?﹂
オストマルクがエミリア殿下と人目を盗んで会見するために、わ
ざわざこんなところに行かせるよう工作したのではないか。
﹁そうです。と、言いたいところですが、残念ながら違います。我
々の影響力はそこまでではありません﹂
﹁本当に?﹂
﹁私は嘘は申しておりません﹂
306
本題
に、俺たちは驚愕した。
﹁⋮⋮わかりました。今は信用しましょう﹂
今はね。
﹁では、本題に入りましょう﹂
カーク准将の口から発せられた
﹁我がオストマルク帝国は、シレジア王国と肩を並べ、共通の敵に
対処しようと考えているのです﹂
﹁⋮⋮つまりオストマルクがシレジアと同盟を結びたい、と仰るの
ですか﹂
﹁そのように解釈なさって結構です﹂
﹁しかし、なぜこの場なのです? そのようなことであれば公式な
ルートで打診しても良いかと思いますが﹂
﹁⋮⋮大公派の妨害を、避けるために﹂
−−−
﹁意外と苦戦してるな﹂
﹁はい。反乱軍の動きに粘りがあります﹂
ラスキノの手前、オゼルキという町では現在帝国軍による大規模
な攻勢作戦が実施されている。
だが、ラスキノ独立を掲げる反乱軍の抵抗が意外と激しく、足止
めを食らっていた。
307
﹁オゼルキは河川と湖が入り組んでおり、地形が複雑になっていま
す。それを反乱軍は効果的に運用しているためか、我が軍は数通り
の働きを見せることができません﹂
﹁1個師団相手にここまで手間取るとは思いもしなかったな﹂
﹁このままでは我が方の被害が増大するだけです。ここはいったん
攻勢を中止すべきでしょう﹂
﹁止むを得んか。作戦中止、ヴェセリの線まで全軍を後退させろ﹂
﹁ハッ﹂
帝国軍鎮圧部隊、およそ5個師団を指揮するのはデニス・シュレ
メーテフ中将。帝国軍にしては珍しく貴族でもなくコネもなく実力
で中将まで這い上がった将軍である。部下からの信頼も篤く、特に
平民出身の下級兵からの人気は高い。それに反比例して貴族受けは
悪いのだが。
﹁閣下、ここはやはり包囲に留めて敵の疲労を蓄積させる方が良い
でしょう﹂
﹁私もそう思わなくもないが、あまり時間がかかると中央政府が私
に文句を言うのでね。5個師団も与えたのにこんなに時間掛けやが
って、と言われてしまってはどうにも反論しづらいのだよ﹂
確かに自分でも﹁時間をかけすぎているのでは﹂と考えているだ
けに、上層部に反発できないのだ。
﹁ではどうしますか。このままオゼルキに対する攻勢作戦を続けて
犠牲を多く出してもやはり中央は文句を言うでしょう﹂
﹁だろうな﹂
現場を知らない軍事省官僚にネチネチと言われるのは癪だ。
308
﹁仕方ない。オゼルキは包囲するだけに留める。3個師団もあれば
十分だろう﹂
﹁では、残りの兵力は?﹂
﹁後方を遮断する。おそらく、ラスキノは手薄だろうからな﹂
309
指揮権
急報が入ったのは、王女殿下とカーク准将の会見中のことである。
﹁失礼します。哨戒部隊より急報です﹂
それは、帝国軍の1個ないし2個師団がラスキノを包囲せんと動
き始めた、というものである。
﹁まずいなこれは﹂
准将はここに来て初めて焦りの色を見せた。王女の会見時には汗
ひとつかいてなかったのに。
﹁ゼーマンさん。義勇軍本隊はどうなっているかわかりますか?﹂
﹁本隊は依然として敵3個師団に足止めされているようです。後退
は難しいかと思います﹂
これは、本格的にまずいな。
本隊はラスキノの東、オゼルキで足止めを食らっている。もし不
用意に後退すれば敵の攻勢を受け潰走するだろう。
だが本隊なしだとラスキノにいる義勇軍じゃ数が足りない。とて
もじゃないが守りきれないだろう。
﹁閣下、ラスキノの民兵を動員しましょう﹂
﹁そうだな。この状況下では大佐に要請するしかあるまい﹂
310
ゼーマン軍曹とカーク准将は冷静に事を受け止めている。うん、
この二人優秀かも。
問題は肝心の大佐の方だ。あの大佐が指揮権をこちらに渡すとは
考えられない。
大佐のバカ! アホ! 無能!
でも罵ってる暇も意地張ってる暇もない。さっさと大佐の司令部
に行くかないね。
﹁殿下、話の続きはまたの機会に﹂
﹁わかりました﹂
この戦いが終わったら、カーク准将と会見するんだ⋮⋮。
あ、これダメだ死ぬ。
大佐の司令部に我が第33小隊の隊長、ナントカ中尉さんとカー
ク准将、そして俺。小隊長になんか来いって言われた。口喧嘩要員
であることは間違いない
﹁大佐、よろしいですか﹂
﹁誰だ﹂
﹁オストマルク義勇軍准将のカークです﹂
﹁ふん。准将閣下が私に何の用かな﹂
他国の軍人とは言え格上相手にやたら偉そうな大佐である。
﹁帝国軍がラスキノに対し攻勢をかけてきました。我が義勇軍は数
311
が少なく、組織的防衛は不可能です﹂
﹁それで?﹂
﹁ですので、大佐の指揮下にあるラスキノ独立軍の指揮権を一時お
貸し願いたい﹂
﹁断る﹂
即答だった。予想通りだけど。
﹁むしろ君たち義勇軍部隊の指揮権を私に渡せ﹂
﹁なぜです?﹂
﹁その方が効率がいい。我が精鋭なる独立軍はこの町に3000名
の人員を保有しているが、貴様ら義勇軍は500名にも満たないそ
うではないか。であれば、500名を私の指揮下に置くのが合理的
だとは思わないかね?﹂
思わないよ。だってあんた合理的な判断できなさそうじゃん。て
いうか民兵3000人を精鋭と言える大言壮語ぶりやばいです。
﹁では、仮に大佐に指揮を預けたとして、何か有効な防衛策はある
のですか?﹂
﹁⋮⋮ある﹂
嘘だな。
﹁では、その策とやらを私達に教えてもらいませんか?﹂
﹁機密につき、話すことはできない﹂
作戦を機密にしてどうやって動けと言うのだ。
もう我慢ならん。大佐ァ!
312
﹁⋮⋮大佐、指揮権をお貸しください﹂
﹁断る!﹂
﹁では、我々シレジア義勇軍はこの国から撤退します﹂
﹁なに!?﹂
まぁそんな権限俺にないし、それに今撤退すれば戦線崩壊して死
傷者たくさん出るからやろうと思ってもできない。これは単なる趣
味の悪い嘘だ。
小隊長を見てみるとポカーンとしていた。一方准将はニヤニヤし
ていた。俺の考えに気付いたかな。
﹁そうですな。指揮権もこちらに渡さず作戦も教えてくださらない
となれば我々にはどうしようもありません。我がオストマルク義勇
軍も撤退しましょう﹂
ここでラスキノを絶対死守しなければならないというわけではな
い。というかさっさと帰りたい。
﹁大佐、ではお元気で。と言っても、皇帝陛下に弓を引いたのです。
大逆罪に問われるでしょうな﹂
﹁た、たた、大逆罪、だと!?﹂
大逆罪。東大陸帝国では最も重い罪だ。
量刑は一族郎党皆殺し。歴史の教科書に﹁帝国に刃向った極悪人﹂
として記載されることになる。
﹁ま、待ってくれ!﹂
﹁なぜ、待たなければならないのですか?﹂
﹁ま、まだ私は死にたくない!﹂
﹁奇遇ですね。私もです﹂
313
俺だって友人は大事だからこんなところで死なせたくはないのだ。
だから逃げ⋮⋮じゃないな、転進する。
﹁お願いだ、ここで君らが引けばラスキノは防衛できない!﹂
﹁大丈夫でしょう? なんてったってラスキノには精鋭部隊300
0と大佐の防衛作戦があるのですから﹂
﹁そ、それは⋮⋮その﹂
﹁なんです?﹂
大佐はその場でのた打ち回ってる。哀れすぎて笑うこともできな
い。
﹁⋮⋮カーク准将と言ったな﹂
﹁なんでしょう、大佐﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴官に、全軍の指揮権を委ねる﹂
大佐は床にへこたれると、掠れた声でそう言った。
﹁指揮権、戴きました﹂
やれやれ。
小隊長にしこたま怒られた後、なんか褒められた。あれ、なんか
デジャヴが⋮⋮。
314
﹁とりあえず早急に防衛作戦を練らねばならないな。防衛司令部は
この城を使うとして⋮⋮﹂
﹁カーク准将、防衛作戦はある程度できています﹂
﹁なんだと?﹂
﹁ワレサ准尉が作ってくれました﹂
小隊長に促されて、俺は例の地図を出す。書き込みがすごいこと
になってるから准将に理解できるかな⋮⋮。
﹁⋮⋮これは、君1人で?﹂
﹁いえ、ゼーマン軍曹と、私の友人に手伝ってもらいました﹂
2人がいなかったらここまでできなかったよ。
﹁⋮⋮わかった。この作戦案を採用する﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁とりあえず、新市街の非戦闘員を旧市街に避難させるとしよう。
現場指揮は、小隊長殿にお任せしてよろしいかな?﹂
﹁了解です。ワレサ准尉、手伝ってくれ﹂
﹁はい!﹂
315
ラ号作戦
この世界の魔術は思ったよりも不便な術だ。
長い平和な時代があったせいか、魔術の種類も少なく戦術も進化
していない。研究の連続性も途絶えてしまったとか。
魔術は基本的に魔力充填の詠唱↓発動の詠唱↓発動、というステ
ップを踏む。発動の詠唱はどんな魔術でも一瞬で終わるから良いの
だが、魔力充填の詠唱は物によって長さが全然違う。無論、長けれ
ば長いほど威力は増すと考えて良い。
魔術は、その威力や運用方法から、初級、中級、上級、戦術級、
戦略級の5つに大別される。それぞれ簡単に説明しよう。
まずは初級。文字通り最も初歩的な魔術で、この世界に住んでい
る殆どの人が無詠唱でぶっ放せる。速射性能が高い反面、威力が低
く命中率も悪い。至近距離でないとまず当たらないし、当たったと
ウォーターボフ
ーァ
ルイアーボール
しても﹁死ぬほど痛い﹂程度で済む。牽制や信号、生活用途で使う
場面が多い。代表的な初級魔術は水球、火球。
次に中級。初級の正統進化。ちょっと訓練すれば使えるため、職
業軍人なら全員扱える。中級以上は詠唱が必要なため、速射性は初
級に比べ悪い。一方威力と命中精度は高くなっているため使い勝手
アクアキャノン
がよく、戦場では多用される魔術。と言っても1人2人殺せるのが
やっと。水砲弾とかがこの中級に入る。
316
そして上級。個人で扱える魔術としては最高レベル。訓練が大変
なため基本的に士官学校卒業生か、一部の職業軍人しか扱えない。
中級より詠唱が長く、数分に1発撃つのがやっとで、詠唱中及び詠
唱終了後に隙ができる。それに見合った威力があり、小隊をまとめ
て吹っ飛ばせる。槍兵や剣兵の後ろに配置し遠距離からの攻撃に徹
するのが普通。肉薄されたら頑張って走って逃げろ。
戦術級魔術。10人弱の魔術兵が気が遠くなるくらい長い詠唱を
ぶつぶつ唱えてやっとぶっ放せる魔術。かなり集中して詠唱しなけ
ればならないため、歩きながらとか戦いながらとかは無理。基本的
に要塞や城など、集中できる場所でぶつぶつ詠唱する。そのため要
塞級魔術と呼ぶこともあるそうで、実際カールスバート共和国のズ
デーテン山岳要塞線にはこの要塞級魔術が配備され、シレジア軍に
ぶっ放された。威力がバカみたいに高く、1個大隊から1個連隊規
模の兵を消滅させることができる。
最後に戦略級魔術。30から50人とかの魔術師が永遠に続くよ
うな詠唱を続けてやっと撃てる。術者の魔力・体力消耗が激しく、
また魔術発射地点にも少なからぬ付随被害が出るため1日に1回撃
てたら良い方である。使い勝手が悪く、また魔術師50人を酷使す
らしい
というのはあまりにも威力が
る割には効果が微妙。一応威力は凄まじく、ひとつの都市を消滅さ
せることができるらしい。
高くて研究が進まないせいだとか。核実験みたいなもんかな。その
ためか、戦略級魔術を使用する国はこの大陸には存在しない。
長々と説明したがこんなもんだ。で、重要なのは実はここから。
初級、中級魔術と、上級以降の魔術では特性に違いがある。
それは、初級・中級は平射しかできず、上級以降は曲射が可能だ
317
と言う点だ。
平射とは、弾道が真っ直ぐということ。ライフルとかをイメージ
してほしい。文字にすると﹁︱﹂だ。
初級・中級魔術は真っ直ぐ進む。進行方向に友軍がいようが嫌い
な上司がいようが関係なく真っ直ぐ進む。驚くべきことに重力の影
響も受けない。ただし距離に応じて威力は減衰する。
そして曲射。本来の意味で言えば弾道が山なりの弾道を描くこと
なのだが、魔術世界で曲射と言うのは術師の頭上で魔術が発動し、
そこから振り下ろされるような感じの弾道を描く。文字にすると﹁
\﹂だね。
上級以上は﹁\﹂の弾道を描く関係上、眼前に友軍兵と言う名の
肉盾を配置できるのだ。
という訳で、野戦における戦闘のシークエンスはだいたい下記の
ようになる。
① 魔術兵による上級魔術の撃ち合い。その間に前列の槍兵が全
速突撃して敵に肉薄する。
② 前列による中級・初級魔術の撃ち合い。その最中にも槍兵や
剣兵は猛ダッシュ。射程内に入り次第、弓攻撃も始める
③ 前列同士が衝突。槍によって押し合いへし合い。
④ 隙を見て剣兵が切り込みを掛けたり中級魔術を撃って陣形を
崩しにかかる。
⑤ 陣形が崩れたところで騎兵突撃。勝ったな。
こんな感じ。もっともこれは基本的な、理想的な野戦であって、
こんなうまくいくことはまずない。
318
上級魔術は③以降は出番が少ない。迂闊に前に出れば敵魔術兵の
上級魔術や敵剣兵の切り込みに遭う可能性があるし、上級魔術は威
力が高い関係上前列が乱戦になると友軍が巻き添えを食らってしま
う。難しいところだね。
で、なんでこんな話してるかというと、これが今回のラスキノ防
衛作戦で重要なことだから。
市街戦の難しいところは、上記の戦闘シークエンスは全て意味が
なくなるのだ。
騎兵は入り組んだ街路が多い都市では使えない。
上級魔術を撃とうとしても死角が多く敵を視認できない。
結果どうなるか。市街戦では歩兵isチャンピオン。槍兵や剣兵、
初級・中級魔術が大活躍するのだ。
−−−
︱︱大陸暦636年9月22日 ラスキノ防衛司令部
﹁つまりこの地図に書かれてるこの線は、魔術の弾道ってことなの
ですね?﹂
﹁はい。どの建物からどういう魔術を撃てば効果的か、最大限に威
319
力を発揮できるかを書き込んだものです。この線の通りに魔術を放
って、敵を少しでも削ります。建物の中なら敵の初級・中級魔術は
効きませんし﹂
俺とラデックとゼーマン軍曹がここ数日集めた情報を元に、防衛
作戦を練った。今はそれをみんなに説明しているところだ。俺はこ
の防衛作戦を前世日本風に﹁ラ号作戦﹂と名付けてみたけど浸透し
てない。というか無視されてる。泣くぞ。
ちなみに小隊長は新市街住民の避難指揮を、准将は指揮命令系統
の再編をしている。
基本は魔術をぶっ放して嫌がらせ。敵が怯んだところで死角から
槍兵・剣兵で切り込み、折りを見て退却し、魔術の第二波攻撃を浴
びせ、魔術兵も撤退する。
﹁問題は、敵がどの街道を通るかですね﹂
﹁敵もバカではありません。路地も慎重に調べるでしょう。万遍な
く兵力を配置するのではなく、防衛しやすい場所に重点的に兵力を
配置し、牽制と偵察のための兵力を各所に散らばらせます﹂
と言っても新市街の戦闘は早々に切り上げたい。新市街というだ
けあって道幅が広く、視界も良い。建物に配置した魔術兵や民兵が
撤退しづらいのも難点。うーん、家財道具とかを徴発してバリケー
ドを各所に作って敵をそこに誘い込んで袋叩きって言うのもいいか
もしれない。後で小隊長に相談してみよう。
﹁本番は旧市街、もしくは橋からですね﹂
﹁跳ね橋はどうするの? 北西の橋以外はみんな跳ね橋だけど?﹂
﹁跳ね橋と言っても可動部分は広いわけじゃない。敵は架橋しよう
とするだろう。基本的に上げておくけど過信しちゃいけない。全部
320
の橋に兵力は配置する﹂
﹁問題は、唯一跳ね橋ではない北西の橋か﹂
﹁帝国軍はおそらく北西に戦力を集中するでしょう。北西の橋は道
幅も広いですから大兵力を展開しやすいです﹂
﹁じゃあどうするのよ﹂
﹁あんまりやりたくないけど⋮⋮。エミリア様、上級魔術を使える
人、我が小隊にいますか?﹂
﹁確か2人ほど魔術兵科の方がいました﹂
﹁わかりました。ここに連れてきてもらいますか?﹂
﹁お任せください。マヤ、行きましょう!﹂
﹁はい、エミリア様!﹂
﹁おいユゼフ、俺もなんかやることねーか?﹂
﹁んー、そうだね。とりあえず新市街の住民避難の手伝いと⋮⋮そ
うだ、手空いてる人と一緒に新市街の食料とか使えそうな物をでき
るだけ引き上げて来てほしい。みすみす敵に取られるのは嫌だから
ね﹂
﹁わかった。行ってくる﹂
ふむ。頑張れ戦場の料理番。
﹁ねぇ、ユゼフ。私は?﹂
﹁サラは⋮⋮﹂
サラは⋮⋮肉体派だからラデックの手伝いをした方が良いだろう
けど⋮⋮。
﹁サラは、今は休んでおいて﹂
﹁なんでよ!﹂
﹁サラが防衛作戦の前線指揮をするかもしれないから﹂
321
このラスキノの防衛作戦は戦線が5から6つある。小隊長とヴァ
ルタさんとサラ、そしてオストマルクの人に指揮を執らせる、と准
将には伝えてある。オストマルク側の人選がどうなるかは知らない
が。
ちなみに大佐は執務室から出てこない。時々泣き声が聞こえるの
で生きてはいるようだが。
﹁ワレサ准尉!﹂
﹁どうしました、ゼーマンさん?﹂
﹁索敵班から帝国軍発見の報告です! 南北からそれぞれ1個師団
が接近中とのことです!﹂
﹁どのくらいでラスキノに来ますか?﹂
﹁一両日中にはラスキノ外縁部に着くと予想されます﹂
﹁時間がないですね。部隊配置と避難の方を急がせてください﹂
﹁ハッ!﹂
帝国軍と言う名の津波は、すぐそこまで来ているようだ。
322
包囲
第33小隊がラスキノで防衛作戦実行準備をしている頃、シレジ
ア・オストマルク義勇軍の連合部隊はオゼルキで苦戦していた。
﹁閣下、右翼から敵の騎兵隊です。数およそ1000!﹂
﹁第7、第8歩兵中隊に迎撃させろ。初級魔術で牽制するのを忘れ
ずにな!﹂
﹁ハッ!﹂
この部隊を指揮しているのはシレジア軍のシュミット准将。オス
トマルク義勇軍の司令官だった少将が先の戦いで戦死したため、次
に階級の高かったシュミットが全軍の指揮を引き継いだ。
﹁やれやれ。このままだと全滅だな﹂
シュミットは冷静に状況を判断できている。
義勇軍部隊の総数は既に7,000を切っている。一方帝国軍は
ラスキノ攻略のため数を減らしたものの、まだ3個師団、およそ3
0,000の兵力を残している。敵の指揮官も有能らしく、逃げ出
す隙も付け入る隙も与えてくれないまま、ジリジリと義勇軍部隊は
その数を減らしている。
﹁まさにジリ貧という訳か﹂
シュミットが無能故にこのような結果になっているわけではない。
もしこれがラスキノ警備隊隊長であるゲディミナス大佐が指揮を執
っていれば、義勇軍は確実に全滅していたであろう。
323
﹁閣下!﹂
﹁どうしたルット中尉。また敵の新手か?﹂
﹁いえ、本国からの連絡です﹂
ルット中尉はそう言うと、シュミットに本国からの連絡文書を渡
した。
﹁⋮⋮この状況下でよく届いたな﹂
﹁敵がラスキノ包囲のために部隊を動かしたため、一時的に隙がで
きたようです﹂
﹁不幸中の幸いというわけか﹂
シュミットはその文を一読すると、特に何も言うことなくルット
に見せた。
﹁⋮⋮本国から増援ですか?﹂
﹁あぁ。シレジアから3個師団、オストマルクから8個師団の義勇
軍が増援としてラスキノに派遣されるらしい﹂
﹁そんな大規模な⋮⋮。それだけ動員できるのであれば、なぜ最初
からそうしなかったのでしょうか﹂
﹁オストマルクの場合、ラスキノから遠く離れている関係上大兵力
を送り込み辛い。戦死したオストマルクの将官が言うには、商人や
旅人と偽って東大陸帝国に入国したそうだ﹂
﹁なるほど。それを考えると1個連隊送り込めたのはむしろすごい
事ですね﹂
﹁あぁ。今回はシレジア領内の一時通行権が認められたようだ﹂
﹁そして、それと一緒に我が国も増援を出すと?﹂
﹁そういうことだ。伝文によれば増援は1ヶ月後に到着と言うこと
だ﹂
324
﹁⋮⋮それまでに持つでしょうか﹂
﹁さぁな。敵さんに聞け﹂
問題はラスキノの方である。城郭都市とは言え、1個連隊しか持
たぬ守備隊。1ヶ月も持つか問われれば、疑問符がつくだろう。
﹁とりあえずこの情報をラスキノに伝えませんと﹂
﹁あぁ、そうだな。難しいだろうが早急に頼む﹂
﹁ハッ!﹂
ラスキノも心配だが、今はまず眼前の敵をなんとかするしかない。
シュミットはそう考え、増援到着までの時間稼ぎに専念した。
−−−
﹁ラデック、食料の備蓄はどれくらいある?﹂
﹁旧市街と新市街、かき集めるだけかき集めて約1ヶ月分ってとこ
だな﹂
﹁それだけか? 確か洪水に備えて3ヶ月分の備蓄があると聞いた
けど﹂
﹁それは旧市街の住民だけの計算だ。今は旧市街に新市街の住民も
入れてあるから1ヶ月分しかない﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁それに生鮮食料品は3、4日でなくなると思った方が良い。さす
がにそれ以降は傷んで食えなくなる﹂
﹁そこは仕方ないだろうな﹂
325
準備はほぼ計画通り済んだが、問題がいくつかある。
一つ目。いつまで籠城すればいいかわからないこと。
籠城戦は、敵包囲軍の外側から多くの友軍で包囲するか、敵包囲
軍の交戦意思を挫くかが鍵だ。前者についてはわからない。一応ラ
スキノには王女殿下がいるってことは本国も分かってはいるだろう。
王宮内で何があるかは知らんが、建前として増援を出さなければな
らない状況下にはあるはず。ただ、それがいつになるのか、どれく
らいの規模なのかが分からない。だから俺らは後者に賭けるしかな
い。敵の交戦意思を壊す。例えば兵糧不足とか兵士の士気を挫いた
りとか。それを前提に計画は立ててあるが、1ヶ月で交戦意思の破
壊なんてできるだろうか⋮⋮。
問題の二つ目は、旧市街に市民を集めたことによって衛生上の問
題が出る可能性があること。人口が一気に3倍になったのだ。旧市
街の下水処理能力を上回っているだろう。医者と治癒魔術師はフル
動員だな。
で、三つ目の問題は、上記二つより深刻かもしれない。ラスキノ
民兵の指揮と士気の問題だな。こればっかりは始まってみないとわ
からん。
ラスキノ民兵は勿論ラスキノのために戦っている。彼らにとって
やる気
俺らは外国人だ。外国人が作った作戦計画に従ってくれるのかが心
配だ。従ってくれたとしても士気が低ければやっぱり意味がない。
うーん。演説かまして兵を鼓舞するって言う手もあるけど、俺の
キャラじゃないな。エミリア殿下か准将あたりの仕事だろう。もし
くはこっちが積極的に動いて﹁俺らラスキノのみんなのために働い
てるんだぜアピール﹂するか。何もせず後ろからホイホイ指示され
326
ても腹立つだけだしね。
﹁ユゼフ!﹂
乱暴に司令部の戸を開けたのは我らがサラ先生である。ドアが壊
れるからもうちょっと静かに開けて?
﹁どうした?﹂
﹁敵が来たわ。新市街外縁、南北にそれぞれ1個師団ずつ﹂
いよいよ来たか。
﹁サラ、一緒に行こうか﹂
﹁ユゼフも来るの?﹂
﹁さすがに安全な旧市街に引き篭るのは申し訳ないから﹂
﹁⋮⋮私は別に構わないわよ?﹂
﹁俺の気持ちの問題だよ。それに、どうせ死ぬなら一緒の方が寂し
くないだろ?﹂
ひとりぼっちは寂しいもんな、てか?
﹁ばーか﹂
サラは笑うでもなく怒るでもなく、そう言って歩き始めた。
﹁ユゼフを死なせるわけないでしょ﹂
﹁そっか﹂
んじゃ俺もサラを死なせるわけにはいかないな。
327
包囲︵後書き︶
︻参加兵力︼
10,280名
東大陸帝国 ラスキノ市鎮圧部隊 総司令官:ユーリ・サディリ
ン少将
・第52師団︵ユーリ・サディリン少将︶
・第55師団︵ウラジーミル・シロコフ少将︶ 9,400名
総兵力 19,680名
ラスキノ独立派 防衛司令官:ニコラス・フォン・カーク准将
・オストマルク帝国第199特設連隊第5大隊︵ニコラス・フォ
ン・カーク准将︶ 440名
ニコラス・フォン・カーク准将︶
・シレジア王国第38独立混成旅団第33歩兵小隊︵ヤヌス・マ
エフスキ中尉︶ 30名
・ラスキノ独立軍︵指揮代行
3,180名
総兵力 3,650名
328
ラスキノ攻防戦 ︲新市街前哨戦︲
大陸暦636年、9月24日午前7時27分。帝国軍は夜明けを
待って攻勢を開始した。
﹁ユゼフ! 通りに敵歩兵! 総数不明!﹂
﹁よし、所定の計画に従って攻撃を開始! 魔術攻撃のタイミング
を合わせて!﹂
俺の号令に合わせて、通りの左右にある建物から初級魔術が放た
れる。予想通り敵はその攻撃に怯んだ。
﹁よし、突撃!﹂
俺らは通りに設置された簡易バリケードや路地裏から攻撃を開始
する。民兵は槍持ちだが、俺ら士官候補生はみんな剣。サラさんお
得意の剣兵切り込み。
帝国軍は死角からの攻撃にビビったのか隊列も警戒もなかった。
状況を把握できる前に多くの兵が息絶えて行った。
﹁退くな! 隊列を立て直せ!﹂
敵の前線指揮官だろうか。兵を纏めようとしているのが分かった。
が、肝心の兵達の動きは鈍い。恐怖を感じて、すぐにでも逃げた
いって顔をしてるのが分かった。これは行けるかな。
﹁サラ! 前進!﹂
329
﹁わかったわ!﹂
俺らはさらに突撃する。敵の前列はもはや壊乱と言ってもよく、
武器を捨てて逃げようとする輩もいる。
将
ではないが⋮⋮まぁいいか。士気を鼓
﹁みんな! 雑魚に構わないで! 狙うは敵将の首よ!﹂
いや前線指揮官は敵
舞するのは大事だ。
サラの威勢のいい声に激発されたのか、民兵たちも突進する。
﹁ひ、退くんじゃない! 退くな!﹂
指揮官の顔が見えた。
﹁た、助けっ⋮⋮!﹂
敵の前線指揮官はそれ以上言葉を発せることができず、民兵によ
って喉に槍を刺された。
2時間前。ラスキノの北西戦線の防衛線近くに俺とサラがいる。
だんだんと近づいてくる帝国軍の軍靴の音をBGMに、最後の打
ち合わせをする。
﹁サラ、戦術の授業だ﹂
﹁懐かしい響きね。今日のお題は?﹂
﹁﹃帝国軍の弱点について﹄かな﹂
330
﹁弱点? あるの?﹂
﹁そりゃあるよ。最強無敵の軍隊なんて存在しないからね﹂
帝国軍の弱点、というより欠点と言うべきもの。それは徴兵され
た農民兵の士気が著しく低いことだ。
農奴
っていう階級がある。この農奴と呼ばれる人た
これは東大陸帝国の社会構造上の欠陥から来るもの。
﹁帝国には
人頭税
ちは貴族の所有物と解され、末代まで貴族にこき使われる運命にあ
る。生きてるだけで税金を取られたり、移動や婚姻、あらゆる社会
行動に制限をかける。酷いところだと反乱防止のために魔術の存在
を知らない農奴もいるらしい。少しでも反発すると虐待虐殺は当た
り前。そしていざ戦争が始まると農奴階級の若い男衆を強制的に徴
兵し戦場に集める﹂
﹁つまり?﹂
﹁サラは、普段から自分や自分の家族、友人をいじめてる貴族の言
うこと聞きたいと思う?﹂
﹁思わないわね﹂
﹁無理矢理働かされて無理矢理戦場に連れてこられて、戦いたいっ
て思う?﹂
﹁逃げ出したいわね﹂
﹁つまり、それが帝国軍の弱点なのさ﹂
帝国は農民に優しくない。ことに貴族の持ち物である農奴階級は
人間とすら見られない。帝国貴族にとって農奴はその辺に落ちてる
石ころ同然なのである。当然農奴は不満を持つため各地で反乱を起
こすが、農奴から徴収した人頭税によって巨大化した軍隊によって
鎮圧される。
帝国に生まれなくてよかったと思うよ。そして、そんな帝国にシ
レジアを征服されたくないとも思う。
331
﹁彼らは少し脅せばビビッて逃げるだろう。指揮官はああだこうだ
言うだろうけど、数が違い過ぎる﹂
﹁その混乱に乗じて追撃をかければいいのね?﹂
﹁正解。サラも賢くなったね﹂
﹁誰かさんのおかげでね﹂
敵の前線指揮官を討ち捕ると、農民兵と思われる帝国兵は雲散霧
消、どこかに逃げてしまった。
帝国の場合、﹁督戦隊﹂と呼ばれる脱走防止用の監視係がいる。
逃げようとする農民兵に対して剣を振りかざすのが主なお仕事。可
哀そうなことに帝国農民兵は戦って死ぬか逃げて死ぬかの二択しか
ないのだ。でも、他人の人生を悲観している余裕は俺らにはない。
俺らだって死にたくないのだ。
﹁サラ、ここまでやれば今は十分だ。さっきの防衛線まで退こう﹂
﹁うん。わかってる﹂
あとはこれを繰り返すだけだ。何回も、何回もね。
−−−
﹁マヤ! 大丈夫ですか!﹂
﹁エミリア様、私は大丈夫。ケガ一つありませんよ﹂
﹁マヤ、1人で突っ走りすぎです。突出しては包囲される危険が⋮
332
⋮﹂
﹁わかってますよ。ワレサくんも言ってたしね﹂
ここは南西戦線。
敵の第一波は退けたものの、思った以上に敵の数が多い。やはり
敵は北を重視しているのか、それとも数でごり押ししようとしてい
るのか。
﹁にしても上級魔術が飛んでこないな。初級魔術はそれなりに飛ん
でくるんだが﹂
﹁帝国兵で魔術を使えるのは職業軍人のみという噂もありますが、
油断せずに行きましょう﹂
﹁御意。学年首席の力を抵抗の奴らに思い知らしてやりますよ﹂
﹁マヤは本当にわかってるのですか⋮⋮?﹂
−−−
﹁南西戦線が思ったよりも被害を受けているようだ﹂
﹁北西戦線を重視するかと思いましたが、どうやら敵はラスキノの
町の情報をそれほど知らないのかもしれませんね﹂
﹁あぁ。だが油断すると足を掬われることもある。敵を過小評価す
るのはよそう﹂
﹁はい﹂
ラスキノ防衛司令部は慌ただしかった。全戦線でほぼ同時に攻勢
作戦が始まり、各所で被害報告と戦果報告が届いている。オストマ
ルク義勇軍カーク准将とシレジア義勇軍第33歩兵小隊長マエフス
キ中尉は、それらの報告から必要な情報の取捨選択をしつつ、次に
333
取るべき対応を考えていた。
﹁ラデック准尉!﹂
﹁ハッ!﹂
﹁南西戦線に増援だ。旧市街から10人ほど連れて行ってくれ。そ
れと﹂
﹁負傷者の後送と治癒魔術師の待機、ですね﹂
﹁その通りだ。頼むよ﹂
﹁はい!﹂
−−−
﹁サディリン少将、第一次攻撃隊は全ての戦線で撃退されたそうで
す﹂
﹁何たる様だ。旧市街どころか新市街にも入れぬとは、前線の指揮
官共は何をやっている!﹂
ラスキノ鎮圧軍団総司令官のシュレメーテフ中将からラスキノ攻
略を任されたサディリン少将は焦っていた。
彼は伯爵の三男坊で、爵位は到底継げない身分である。だからこ
そ軍内部で武勲を立て、皇帝陛下から叙勲されることを望んでいる。
しかし、こんな地方反乱ごときで躓いていては、爵位どころか親か
ら見捨てられるかもしれない。
﹁なんとしてでも落とせ! 第二陣を突撃させろ!﹂
﹁しかし閣下! 都市内部は思ったよりも複雑で、予想もしない場
所から攻撃されては各個撃破されています。ここは一端軍をお引き
になり、持久戦に持ち込むのがよろしいかと存じます!﹂
334
﹁五月蠅い黙れ! 持久戦をするほど我が軍に時間はない。それに、
時間は敵を利するのみ! 持久戦なんぞもっての外だ。短期決戦で
仕留めるんだ!﹂
この命令は、完全に自らの利益のためのものであった。だがこの
命令は、全くの的外れと言うものではない。
攻撃をし続けなければ敵に休息の時間を与えてしまい、かえって
不利になる可能性がある。大軍で連続して攻撃し続け、敵を疲弊さ
る。疲労の極致に達したところで一気に攻め込めばすぐにラスキノ
を落とせる、と考えたのである。
それにこの時点で少将は与り知らぬところだったが、シレジアと
オストマルクの義勇軍は増援派遣を決定していた。時間を掛ければ
増援が到着し、帝国軍が逆包囲される危険性があったのだ。
﹁了解しました﹂
少将の参謀は無理矢理納得し、少将の命令を忠実に実行した。だ
が結局この第二波攻撃も、ラスキノ独立軍が周到に準備した防御陣
の前に歯が立たず、被害甚大で退却することとなった。
こうして、帝国とラスキノの戦いは泥沼の様相を呈し始めた。だ
が、このラスキノ攻防戦はまだ始まったばかりである。
335
ラスキノ攻防戦 ︲新市街前哨戦︲︵後書き︶
追記。
ラスキノ概観︵適当︶
<i146797|14420>
赤☆:ラスキノ防衛司令部
青☆:各防衛線
黒太線:主要街道・橋
黒細線:連絡道︵道幅狭い︶
水色太線:河川
緑エリア:旧市街
橙エリア:新市街
縮尺適当です
336
夜警
敵の第十波攻撃を退けた頃、ラスキノに夕暮れが訪れた。
﹁敵は夜襲かけてくると思う?﹂
サラが心配そうに声をかけてきた。彼女は汗をかき息切れしてい
た。サラがこんなに疲れてるの初めて見た。
﹁五分五分かな﹂
﹁理由は?﹂
﹁敵も連戦で疲れてるはず。夜くらい休まないといけない﹂
籠城戦はだいたい長期戦になる。無理して攻め続けても兵が疲弊
してしまえば無意味だ。
それに夜は当たり前だが暗い。死角からの攻撃に辟易してる帝国
軍が、さらに視界の悪くなる夜に仕掛けてくるだろうか。
﹁でも、敵が短期決戦に拘るとなると、体力的にはきついかな﹂
こちらは数が少ないゆえに、常に全力で戦わなければならない。
休める時間がないと戦線崩壊は免れないだろう。
﹁でもみんなを休ませないわけにはいかないわ﹂
﹁そうだね。俺も疲れたし、交代で休もう﹂
疲労蓄積している兵を後方に下がらせ、司令部から元気な人間を
持ってきて警戒に当たらせる。3時間交代くらいで休ませよう。
337
﹁ここの指揮官である俺とサラはどっちか起きてなきゃいけないね﹂
﹁それも交代で休みましょう﹂
﹁うん。じゃあサラさん、お先にどうぞ﹂
﹁お言葉に甘えさせてもらうわ。それと、さん付けは禁止﹂
サラはそう言って俺を小突くと、仮兵舎に引きこもった。
単に起きて警戒するだけなのは暇だし、緊張しすぎて兵の疲労が
やばいことになるので適当な人に話しかけてみよう。無論、警戒は
怠らない程度に。
﹁やあ﹂
﹁⋮⋮﹂
無視された。くすん。でもめげずに話しかけてみる。暇だし。
﹁私はユゼフ・ワレサって言います。よかったらお話しません?﹂
﹁⋮⋮﹂
目を開けて寝てるってことないよね?
﹁⋮⋮ボルコフ﹂
﹁はい?﹂
﹁オレの名前﹂
﹁ボルコフさん。今回は宜しくお願いしますね﹂
338
握手をしようとしたが普通に無視された。ボルコフさんは前世の
俺にそっくりだ。顔以外。
﹁おいくつなんです?﹂
﹁⋮⋮18﹂
意外と若かった。年齢以上に老けて見える。
﹁ラスキノの人ですか?﹂
﹁⋮⋮いや﹂
﹁ではどこから?﹂
﹁オゼルキ﹂
オゼルキか。今義勇軍本隊と帝国軍鎮圧部隊の本隊が全力で殴り
合ってるところだ。
シレジア
﹁心配ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私もね。祖国が心配ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ですから私たちは﹂
﹁ハッ﹂
ボルコフは俺をバカにするかのように鼻で笑った。
﹁お前とオレは違う。お前は外国人で、この戦いに負けても何も失
わない。でもオレらは何もかも失う﹂
やっぱりそう思われてるか。仕方ないけどさ。
339
今は命令に従ってくれてるけど、いつまでもそうだとは限らない
し。後ろからブスッと刺されのも嫌だ。
﹁何も失わないわけじゃないさ﹂
﹁嘘だ﹂
嘘じゃないよー本当だよー
﹁ここで負ければ、俺は友人を失う﹂
﹁友人?﹂
﹁あぁ。そこの兵舎で今頃ぐーすか寝てる奴さ﹂
﹁お前の恋人か﹂
﹁ちょっと違うね﹂
サラはなんていうか、そう言うんじゃないんだよね。
﹁あいつは、俺にとって生まれて初めての親友だから。あっちはど
う思ってるか知らないけど﹂
前世含めて、サラのように付き合いの長い友人はいなかった。
でもサラは俺のことどう思ってるんだろうね。俺のこと友達だと
も思ってない、とかだったら泣くよ。
﹁友人なんていつでも作れる﹂
﹁作れないさ﹂
﹁んなわけないだろ﹂
﹁そんなわけあるよ。だって俺友達と言える人少ないから﹂
サラ以外だと、やっぱり付き合いの長いラデック。あとは⋮⋮王
女様は友人で良いんだろうか。身分が違い過ぎるからどうも友人と
340
呼んだら失礼な気もするし、ヴァルタさんは頼れる姉御って感じだ
し。
﹁俺は友人を死なせたくはない。だから肩を並べて戦うのさ。本音
を言えば、後ろに下がっていてほしいけど﹂
だが残念ながら誰かを庇いながら戦えるほど俺は強くはない。と
いうかその友人の方が圧倒的に強い。
﹁ボルコフさんは、何の為に戦ってるんです?﹂
﹁⋮⋮国の為だ﹂
﹁ではこの国には何がありますか?﹂
﹁何もない。ここは大した産業も、特徴もない﹂
﹁では、なぜ守るんですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なぜ?﹂
ボルコフさんは長い沈黙の後、小さな、でも毅然とした声で言う。
﹁守りたい奴がここに住んでるからさ﹂
うんうん。俺そう答えられる人好きだよ。やたらめったら愛国心
振り撒かれてもドン引きするだけだからね。
﹁じゃ、俺らは同類、同じ穴の貉﹂
﹁それは⋮⋮違くないか?﹂
﹁そうだっけ?﹂
帝国語って難しいね。
341
﹁今から俺とボルコフさんは友人だ。だから精一杯守ろう﹂
﹁⋮⋮断る﹂
﹁なんで!?﹂
﹁男を守るのも、男に守られるのも嬉しくないからな﹂
ひどい。
−−−
9月25日午前7時頃。帝国軍が来てから2度目の朝。
しんどいのは今日からだ。
帝国軍は昨日の攻勢を悉く跳ね返されてる。当然、手を変えてく
るだろう。
とりあえず敵はどう来るか、見定めなくてはならない。
﹁行くわよ。みんな﹂
﹁おー!﹂
北西戦線の前線指揮官であるサラが士気を鼓舞する。
第二幕の始まりだ。
342
オゼルキ会戦
大陸暦636年9月26日。ラスキノから東に位置する都市オゼ
ルキでは帝国軍と独立派・義勇軍の連合部隊が死闘を繰り広げてい
た。
シュミット准将率いる部隊は総兵力約6,800名。一方帝国軍
は約28,500名。
帝国軍は数の上では圧倒的に有利であったが、いまだにオゼルキ
を攻略できずにいる。理由としては、義勇軍が布陣しているオゼル
キの町自体が河川と湖と沼地に囲まれた難所であるためである。そ
のため帝国軍は本来の力を発揮できないでいた。また、町には未だ
に非戦闘員が多くおり、非戦闘員を巻き込む恐れがある上級魔術の
使用を、平民出身の将校であるシュレメーテフ中将が躊躇っている
のも苦戦要因のひとつでもある。
﹁敵は我が方の約4倍、普通なら勝てっこないが、負けないことに
徹すればまだなんとかなる﹂
シュミットは彼らしくもなくひとりごちる。
﹁閣下、敵の一部の部隊が突出してきています﹂
﹁またか。数は?﹂
﹁およそ5,000です﹂
﹁随分中途半端な数だな﹂
343
10,000以上大軍だったらまだ理解できるが。
﹁どうなさいますか?﹂
﹁⋮⋮その部隊の構成は?﹂
﹁槍歩兵と剣歩兵が中心で、騎兵はいません。おそらく先日の攻勢
で被害が大きかったのでしょう﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
騎兵が攻勢に出なかった、というのならこの攻勢を逆手に取れる
かもしれない。リスクはあるが⋮⋮。
﹁中央を後退、右翼左翼は前進。突出してきた部隊を包囲し袋叩き
にしろ﹂
﹁ハッ!﹂
帝国軍の鎮圧部隊はどうやら連携不足のようだ。一部の将校が功
を独り占めしようと迂闊な行動に出てるのかもしれない。
今はそれに付け入るしかない。
−−−
﹁シュレメーテフ中将! 味方の一部が突進していきます!﹂
﹁バカな! どこの部隊だ!﹂
﹁ココリン大佐の歩兵連隊です!﹂
﹁チッ。あの無能め。すぐに後退命令を出せ! さもないと全滅す
344
るぞ!﹂
﹁了解!﹂
シュレメーテフ中将は平民出身。故に貴族の部下からの反発が強
く、思うように動いてくれない。ココリン大佐も公爵の甥であり、
コネと血筋だけで大佐に昇進した人物だ。
つい先日の攻勢でも別の貴族の指揮官が足を引っ張る形となり、
失敗してしまっている。貴族の中級指揮官はシュレメーテフにとっ
て悩みの種だ。
﹁しかし敵も巧妙だな。あれだけ少数の兵でこんなにも重厚な陣を
とれるとはな﹂
戦力差は4:1。なのに敵は一歩も引くことなく戦っている。
﹁後退命令を出しても敵の方が早く動くか⋮⋮。こうなったら全力
で敵の包囲を妨げるしかない。伝令兵!﹂
﹁ハッ!﹂
﹁ダヴィドフ少将に連絡。敵はおそらくココリンの部隊を包囲しよ
うと動くはずだ。旗下の戦力を使ってこれを阻止し、ココリンの野
郎を俺の前に引きずり出せと伝えろ﹂
﹁了解!﹂
伝令兵は敬礼すると、すぐに騎乗しダヴィドフの元へ向かった。
﹁もっとも、あいつが大人しく後退するとは思えんが⋮⋮﹂
ココリンの命は別に惜しくない。帝国のために殉死した忠義の人
として歴史に名を刻むことになるだろうし、奴もそれは本意だろう。
だが彼の部下にしてみればそれは不本意だ。彼らのために努力をし
345
なければならない。
﹁第8騎兵連隊に連絡。部隊を大きく迂回させて敵本隊の後背から
攻撃しろ﹂
−−−
﹁閣下、後背に敵騎兵隊。数およそ3,000﹂
﹁予想通りだな。本隊を回頭させ後背の敵を撃滅する。正面の突出
してきた敵は既に壊乱状態だ、右翼部隊に任せよう﹂
﹁ハッ﹂
敵の騎兵隊の目的はおそらく俺らをこの場所から叩き出し、敵本
隊の前に押し出すことにあるだろう。シュミットはその事態を予想
し、槍兵およそ1,000を予想進撃ルートに配置していた。
と言っても1,000と3,000ではいずれ突破されてしまう。
そこで本隊を動員し全力でこの騎兵隊を叩く。
先の突出してきた敵歩兵隊5,000は半包囲を受け全滅に等し
い損害を与えることに成功した。途中、敵の増援があったため包囲
は解かれたが、結果としては完勝と言ってもいい戦果を挙げている。
この上、敵騎兵隊3,000を撃退できれば、状況は今よりも楽に
なるだろう。
﹁これで敵の攻勢が止んでくれれば良いのだがな﹂
だが、ことはうまく運ばないことをシュミットは知っている。敵
346
8000を全て倒しても、こちらの被害が大きければ相対的に不利
になる。
﹁ルット中尉、味方の損害はどれくらいだ?﹂
﹁はい。一連の敵の攻勢で753名が戦死、また1000名近い将
兵が負傷しています﹂
﹁負傷はすぐ治せるか?﹂
﹁治癒魔術師によって治療を行っていますが、何分数が多いです。
時間はかかるでしょう﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
治癒魔術は完璧ではない。あまりにも重傷であれば死を待つのみ
だし、軽傷でも絶対数が多いと術師は魔力切れを起こしてしまう。
魔力回復を待つ間に死亡する者も多いだろう。
この日、シュミットは敵兵6,000以上を屠ることに成功した
が、自らの部隊も少なからぬ被害を出していた。
347
ラスキノ攻防戦 ︲新市街本戦︲
9月30日。
帝国軍は手を変え品を変え、ラスキノに攻勢をかけ続けている。
昨夜には少数の帝国軍兵によって夜襲がしかけられた。ラスキノ防
衛部隊の疲労は極致にある。特に民兵隊の疲弊と士気の低下は著し
く、このままでは新市街を守り抜くことは不可能だ。新市街が落ち
れば味方の士気に与える影響も少なくない。それに何より問題なの
が⋮⋮
﹁ラスキノの市民に告ぐ! 今すぐ降伏すれば、身の安全は保障す
る! シュレメーテフ中将は諸君らに対し寛大なる処遇を以ってす
るだろう! 重ねて言う、降伏せよ!﹂
プロパガンダ
頭にガンガン響く、敵の通信魔術だ。
﹁くそったれ! 帝国貴族の奴らが、約束を守ったことがあるか!﹂
度重なる降伏勧告も、民兵たちは頑として拒否している。寛大な
る処遇なんて物は擬態だとみんな知っていた。降伏すれば待ってい
るのは農奴人生だ。だが、士気が低下し続ければウッカリ宣伝を信
じて降伏する輩も出てくるかもしれない。今は一人でも欠けたら辛
い状況だ。でも﹁降伏するくらいなら死ね﹂と言う訳にもいかない
しなぁ⋮⋮。
そろそろ限界が近いか。うーむ。
348
ウォーターボール
﹁サラ、水球を上空に打ち上げて﹂
ファイアボール
上空に打ち上げる初級魔術は信号弾の代わり。今回は火球が敵襲、
水球は後退具申の意味。
﹁後退するの?﹂
﹁うん。一時的にだけど﹂
ひとつの防衛線だけが後退すれば、他の戦線の友軍に被害を出し
てしまう場合がある。下がるときは同時の方が良いだろう。
突撃大好きなサラは少し不満気な顔をすると上空に水球を打ち上
げた。暫くすると防衛司令部から信号弾が打ち上げられた。火球1
発の後に水球3発。﹁新市街北部の各戦線は後退せよ﹂という命令
だ。
﹁よし、サラ。敵の動きに合わせて一時後退する。作戦は覚えてい
るよね?﹂
﹁大丈夫よ﹂
だが敵の正面からの後退は至難の業。人間誰しも、後ずさりしな
がら戦うよりも前に突進して戦う方が得意だからだ。うまく逃げる
にはそれなりの戦術がいる。
まずは後退する前に帝国軍に対して逆攻勢に出る。具体的には敵
の先頭集団に対し初級・中級魔術を斉射し、行き足を止める。その
後は魔術で敵を牽制しつつ急速後退し、次の防衛線まで退く。分隊
ごとに交代で中級魔術を撃っては後退し、次の部隊が中級魔術を撃
って後退、これを繰り返す。敵がなおも突進してきたら、またこち
らが攻勢をかける。防衛線付近であれば左右の建物から待ち伏せ攻
349
撃ができるだろう。
次の防衛線まで後退できた頃、帝国軍はなお攻勢をかけた。左右
からの攻撃に目もくれず、恐怖を無視して突撃してくる。よく言え
ば勇猛果敢、悪く言えば視野狭窄な突撃だ。突撃してくる敵槍兵に
は陣形も連携も何もない。ただただ単純で幼稚な突撃だ。指揮官の
顔が見たくなるね。
﹁サラ、俺らで迎撃しよう。魔術は控えめに。魔力温存のためにね﹂
﹁えぇ!﹂
義勇軍剣兵部隊で迎撃。10人にも満たない少数部隊だが、俺以
外の人は士気も練度も高い。狂乱して突っ込んでくる素人槍兵隊な
ぞ鎧袖一触だった。
狂乱状態から壊乱状態になった敵槍兵をさらに追撃。俺らに完全
に背を見せて全力で後退し始めた。これ以上追撃すると逆撃を被る
かもしれないから、俺らも一旦下がるか。
−−−
第二防衛線に北部各戦線は後退に成功した、と防衛司令部のカー
ク准将に伝令があったのは午後1時のことである。
﹁被害は?﹂
﹁被害は軽微、とのことです﹂
﹁ほほう。後退戦で被害軽微とは奇跡的だな﹂
350
ラスキノ市防衛部隊の損害は今日までにわずか1割、350名余
りの戦死者を出しただけである。各防衛線が各々の判断で敵に逆撃
を加え失血を強いていることもあって、ここ数日の帝国軍の攻勢は
及び腰になっている。
﹁だがやはり問題となるのは食糧と士気だな﹂
食糧は残り3週間分、それまでに帝国軍が攻略を諦めてくれなけ
れば我が軍は飢餓で全滅することになる。また食糧が不足すれば味
方の士気は崩壊する。飢えた軍隊が戦って勝った試しはない。
﹁そのうち、人肉を食らうことも覚悟せねばならないだろうな﹂
﹁なんとも楽しみな献立ですね﹂
悠長にそんなことを言うのは、シレジア軍士官候補生で人事参謀
代理兼補給参謀代理のノヴァク准尉だ。
﹁随分余裕だね?﹂
﹁指揮官が陰鬱な顔していたら士気に及ぼす影響が大きいですから
ね。無理にでも笑いますよ﹂
﹁もっともだ﹂
確かに。部下の前で暗い顔をするのは指揮官の仕事ではない。多
少は余裕を見せないとな。
﹁で、ノヴァク准尉。市民の様子はどうだ?﹂
﹁ちょっと困った事態が起きてます﹂
﹁困った事態?﹂
﹁はい。﹃俺も戦線に参加させろ﹄という志願が多いんです﹂
351
﹁⋮⋮ほほう﹂
どうやらラスキノの市民は帝国軍の攻勢に臆するどころか、むし
ろ士気を高めているようだな。
﹁やる気があるのは良いんですが、その中には女子供老人も多くて
ですね。どうしたもんかと思いまして﹂
﹁ふーむ。さすがにその人たちを前線に立たせるわけにはいかない
か﹂
と言っても俺は今現在、15歳の少年少女を前線に立たせ、指揮
を押し付けているのだが。
﹁どうしますか?﹂
﹁そうだな。余り気が進まんが概ね18歳男性を基準に動員しよう。
今は猫の手も借りたい状況だからな。無論、初級魔術や槍を十分に
扱えるのが条件だ﹂
﹁その他の人らはどうします?﹂
﹁やる気と知識のある者は傷病兵の看護や補給の手伝いをして貰っ
てくれ﹂
﹁了解です﹂
ノヴァク准尉は良く働いている。補給や輸送などの仕事は軍隊内
では地味で人気のない。だがノヴァク准尉はそれを嫌がろうともせ
ず、適確に物事を処理している。オストマルクに来て欲しい人材だ。
﹁閣下、報告です﹂
ノヴァク准尉と入れ違いにやってきたのは、私の副官だ。
352
﹁どうした?﹂
﹁先ほど、南西防衛線より後退の意見具申です﹂
﹁やはりな。南部の各防衛線も第二防衛線まで後退させろ﹂
﹁ハッ!﹂
第二防衛線は橋を渡ってすぐの場所。つまりここからが本番だ。
−−−
第二防衛線まで下がったため、帝国軍の陣形も街道に沿って縦に
長くならざるを得ない。縦に長い陣形を見ると側面から攻撃したく
なるのは指揮官としては当然の感覚である。
﹁周囲に配置した民兵を使ってゲリラ的に側面攻撃を行わせよう。
無理に攻撃しなくていい。敵を混乱するだけでも効果はある﹂
﹁そしたら追撃すればいいと。いつもみたいに﹂
﹁そう。いつも通りに﹂
路地や建物から側面攻撃した兵はすぐに退かせる。敵が路地や建
物に入ってきても中は狭い。そこに待ち伏せして各個撃破する。無
理そうなら防衛線の所まで戻る。敵が路地や建物を使って奇襲がで
きないよう各所にバリケードを作って妨害させてるし、いろんな建
物に偵察兵を置いているからある程度防げる。
﹁そういえば上級魔術が全然飛んでこないわね﹂
﹁うん。市街戦だと上級魔術は使いにくいからね﹂
353
﹁どうして?﹂
﹁上級魔術は威力が高い。下手をすれば建物が崩壊して進軍ルート
を塞いでしまうかもしれない。死角も多くなるし、これはかえって
防御側を利するのみだからね﹂
ラスキノは新市街と言えども老朽化の激しい建物が多い。頑丈な
煉瓦の建物でもすぐに壊れてしまうかもしれない。
﹁でもいつまでもこのままかしら?﹂
﹁というと?﹂
﹁痺れを切らして自棄になって上級魔術を使ってくるんじゃないの
?﹂
それは⋮⋮十分あり得るな。上級魔術の集中砲火で地区ごと壊滅、
なんてやってしまうかもしれないか。
﹁それを防ぐためには、敵味方入り乱れての乱戦状態を作り出すし
かない。そうすれば下手に上級魔術は撃てないだろう﹂
﹁もし敵味方の分別なく撃ってきたら?﹂
﹁そうしてきたら、こっちも宣伝すればいい。﹃帝国貴族らは非道
なことを平然とする奴らだ。そんな奴らを守るために君ら農民たち
はココにいるのか﹄とかそんな感じで。そうすれば敵の農民兵は葛
藤して攻撃を躊躇する。うまくいけばこっちに寝返る﹂
﹁なら、早く上級魔術撃ってこないかしら﹂
﹁そうだね。敵も味方もいない無人の建物に攻撃してほしいね﹂
そんなことを言いつつ。敵の攻勢を凌ぐ。
354
−−−
10月3日。帝国軍ラスキノ市鎮圧部隊司令部。
サディリン少将の堪忍袋の緒が切れた。
﹁もう我慢ならん。上級魔術を使って敵の防衛線を打ち破る﹂
﹁しかし閣下。上級魔術を使用すれば都市に甚大な被害が出ます。
非戦闘員に無用な被害が出るばかりか、建物が崩壊してしまえばそ
れは敵を利するのみです!﹂
﹁しかし、従来の攻勢では敵の防御を撃ち破ることはできん。これ
を突破するには絶大な火力を以ってするしかない﹂
﹁ですが閣下! 市街に対する上級魔術の使用はシュレメーテフ中
将から控えるよう命令されています! それでは指令無視になりま
す!﹂
﹁確かに﹃控えろ﹄とは命令された。だが、﹃禁止だ﹄と明確に命
令されているわけではない。そうだろう?﹂
﹁そんな⋮⋮!﹂
﹁それとも貴様は何か良い代案があるというのか?﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
緻密とも言える反乱軍の防御陣の前に帝国軍の攻勢は何度も失敗
している。先日やっと新市街の中心部にまで進出することができた
が、こちらも3割近い損害を出していた。
参謀は代案を持ち合わせていなかった。ただ目を逸らしただけだ
った。
﹁参謀、最も抵抗が激しい地点はどこか﹂
355
﹁⋮⋮北西戦線です﹂
﹁では、その地点に対し上級魔術による攻撃を行う。それに際し、
敵に気付かれぬよう同地点に対して攻勢を行い、敵主力の動きを封
じる﹂
﹁しかし、そうすれば友軍を巻き込む形となります﹂
﹁構わん。どうせ死ぬのは平民の奴らだ﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁参謀、すぐに準備にかかれ﹂
﹁⋮⋮﹂
参謀は何も言わず、ただ敬礼するのみであった。
356
戦場の女神
10月4日。
﹁ユゼフ、帝国が攻勢に出たわ!﹂
﹁よし、いつも通りにやろう﹂
もう何度目か忘れた帝国軍の攻勢。数が多いって言うのは良いね。
戦いは数だよ兄貴。
﹁⋮⋮? ねぇ、ユゼフ。なんか変じゃない?﹂
﹁なにが?﹂
﹁わからないけど。なんか変よ﹂
いまいち要領を得ない。
﹁もうちょっとなんかあるでしょ?﹂
﹁と言われても、変としか言いようがないわ。なんか今までの攻勢
とは違うわ﹂
どういうことだろうか。観察してみる必要があるかもしれない。
﹁敵が攻勢の方法を変えてきた、ということかな?﹂
﹁そうかも。でも敵の構成は今まで通り剣兵と槍兵が中心。強いて
違う点を挙げるとしたら⋮⋮﹂
﹁したら?﹂
﹁うーん、どうも敵が逃げ腰ね。逃げるの前程で攻勢をかけてきて
るわ﹂
357
どういうこっちゃ。
こっちの防御パターンは攻勢を受け流し、魔術で牽制、怯んだ隙
に逆撃。これを基本としている。それを恐れて最初から受動的な態
度になっているのか? それとも、こちらの逆撃を誘って有利なポ
ジションにまで誘導しようとしているのか。
ふむ。前者はともかく後者だったらまずいかもしれない。
﹁サラ、民兵を何人か連れて敵の後ろを偵察してきてほしい。敵が
俺らを引き摺り込もうとしてるのか、それとも単にビビってるだけ
なのか。その辺の敵の意図が知りたいんだ﹂
﹁わかったわ﹂
﹁あ、あとくれぐれも無茶はしないでね。早くと戻ってきてくれな
いと戦線を維持できないかも﹂
﹁わかってるわよ。ユゼフは私がいないと自分の身も守ることがで
きないんだから﹂
﹁よくご存知で﹂
1年の時にしごかれたおかげでそれなりに剣を扱えるようにはな
ったけど、本職には負けるからな。
﹁じゃあ、行ってくるわ。援護して﹂
﹁りょーかい、みんな前進!﹂
−−−
358
ユゼフ率いる義勇軍の逆撃によって生まれた隙をついて、敵の後
方を偵察する。町は死角だらけだし、ここらへんの路地はまだこち
ら側が制圧してる。
﹁とりあえずは安全に敵の後方を見れる建物を見つけないとね﹂
地図は持ってないので、一緒に来てくれた民兵の人に聞いてみる。
彼らはこの町の生まれということもあって地理には詳しい。彼らが
言うには通りから外れた場所にそれなりに高い建物がある。その屋
上から敵後方を見れるポイントがあるらしい。頼りになるわね。
その建物に着くと、つい先日まで人がいた形跡があった。おそら
くユゼフの立案した作戦案でもこの場所に偵察兵を配置していたの
だろう。それがこの前の後退時に放棄された、ということかしら。
一応、敵がいないか中を慎重に見回る。物音もせず、敵が今いる
形跡もなかったため、安全だと判断した。けど、念には念を入れよ
う。ユゼフならきっとそうする。そう思って民兵数人を建物の中に
残し、警戒を続けさせた。
屋上に着くと、確かに敵の後方どころか敵の師団司令部と思われ
る塊まで見えた。でも望遠鏡を使っても分からないほど遠くにいる
みたいだから詳しい構成はわからない。
ま、敵司令部の状況なんてどうでもいいわ。今は前線の後ろに何
がいるかを確かめる。ユゼフが言うには待ち伏せの可能性があると
言っていたけど⋮⋮。
﹁⋮⋮特に何もないわね﹂
見える範囲で路地を確認したが、やはり誰もいない。見えるのは
前線にいる剣兵と槍兵、そしてその後ろに待機しているのは弓兵⋮
359
⋮ではないわね。弓を持ってないからたぶん魔術兵だわ。
⋮⋮魔術兵?
戦場における魔術兵の仕事は上級魔術の使用が主だ。応急治癒を
目的とした治癒魔術兵もいるにはいるけど、それにしてはどうも不
自然な配置だ。応急治癒をするには離れている。本格的な治癒魔術
を行うにしては近すぎる。
ここで思い出したのは、つい先日ユゼフと何気なく交わした会話。
その中で私が言った言葉。
﹃痺れを切らして自棄になって上級魔術を使ってくるんじゃないの
?﹄
まさか! そんなこと本当にするわけ⋮⋮!
そう思ったのも束の間、魔術兵が詠唱しているのが見えた。あと
数分もすれば、魔術兵はユゼフのいる防衛地点を区画ごと、味方ご
と、その業火によって潰すだろう。
気づけば私は走っていた。建物で警戒していた民兵のことなんて
すっかり忘れて、ただ走った。
早く行かないと、手遅れになる!
−−−
360
サラが偵察に出て数分後。俺は偵察のための陽動行動を中断し後
退する。
サラは上手く潜伏できたようだ。たとえ路地裏に敵が潜んでいて
も難なく打ち倒せるだろう。帰還時には合図を送るように言ってあ
る。そこでまた再攻勢をかけてサラを回収すればおっけー。
うんうん。我ながら完璧。
でも﹁ここで慢心してはダメ﹂って頭の中で誰かが言ってた。警
戒は怠らない。
﹁ん?﹂
・・
それに気付いたのは防衛線に戻って初級魔術を撃ってる時だった。
それは、上級魔術の発動直前に術師の上空に光が出る現象だった。
光はパッと見ただけでも10個以上ある。
﹁おいおい。まじですかいな﹂
敵の真意を悟り、そして呆気にとられ、周囲に撤退する指令が数
秒遅れた。
﹁⋮⋮総員退避! 今すぐこの場から離れて!﹂
その瞬間、魔術が発動したのが見えた。
361
362
崩壊
ラスキノ防衛司令部は、魔術攻撃の報を受けるまでもなく状況を
把握していた。眩い魔術の発動光と、発動した業火が司令部からで
もハッキリと見えたからだ。
﹁それで、具体的な被害はどれくらいだ?﹂
﹁不明です! しかし、少なくとも十以上の魔術攻撃です。甚大な
被害が予想されます﹂
﹁なんということだ⋮⋮。しかし悲嘆してる暇はない。司令部直属
の歩兵隊をすぐに増援に回せ。それと負傷者の救出と治療だ。上級
魔術の第二波攻撃に十分注意せよ!﹂
﹁ハッ!﹂
もしかすると、北西戦線は全滅しているかもしれない。カーク准
将はそんな最悪の事態に備えた。
−−−
私は、ユゼフがいた場所には戻らなかった。確かに心配だったし、
今すぐにでも彼の安否を確認したかった。
でも私にはその前に、やるべきことがある。
敵の魔術兵部隊の正確な位置を知っているのは、現状では私達だ
363
けだろう。
あの魔術攻撃を見た司令部は戦線を支えるために増援を派遣する
だろう。でも、そこを狙われて増援が全滅したらまずい。ユゼフが
生きてるにせよ、死んでいるにせよ、私はそれを止める義務がある
し、その能力も機会もある。
それに心のどこかで、ユゼフなら大丈夫だと思っていた。確証が
あるわけでもないし、無事なはずだと自分に言い聞かせることで、
心を落ち着かせているのだと思う。
﹁みんな、敵の魔術兵隊に反撃するわ。第二波攻撃を防ぐのよ﹂
こんな私についてきてくれた民兵、いや、信頼できる部下に作戦
を聞かせる。と言っても単純明快。路地を通って死角から魔術兵に
肉薄する。問題はどの路地を通れば通れるかだけど⋮⋮。
﹁任せてください隊長。私はこの町で30年も暮らしてたんですか
ら、路地の配置から友人の隠し金庫の位置までしっかり覚えていま
す﹂
﹁頼もしいわね。案内お願いね!﹂
﹁はい! こっちです!﹂
誰もいない狭い路地。人一人がようやく通れる幅しかない道を、
その部下はするりするりと走り抜ける。
もしかすると、ユゼフの防衛計画は結構穴だらけなのかもしれな
い。そう思った。
部下の先導に従い路地を進む。途中で敵の歩哨と遭遇するもそれ
を難なく倒し、前進する。そして、街道に辿りついた。目の前には、
先ほど屋上から見た魔術兵の群れ、パッと見た感じ20人弱。周囲
364
にはそれなりの護衛がいるが、数は少ない。
﹁敵は油断してます。今すぐ切り込みを掛けましょう﹂
﹁駄目よ。切り込みは魔術詠唱が始まったら﹂
第二次攻撃をしようと詠唱を開始すれば魔術師は集中し、隙がで
きる。詠唱前に切り込みを仕掛けてしまえば、もしかすると攻撃前
に発見され魔術による手痛い反撃が待っているかもしれない。
詠唱中に襲えば、そのリスクを軽減できる。そのまま乱戦に持ち
込めば詠唱中止しても味方を巻き込む可能性がある魔術は使えない。
のーど
だろうから雑魚、でも剣兵は厄介だ。剣は扱い
問題は護衛の槍兵と剣兵か。槍兵が8人、剣兵が4人。槍兵は徴
兵された
が難しいため徴兵した兵に持たせることは少ない。故にあの4人は
職業軍人だろう。そしてこっちの戦力は剣兵5人だ。
﹁私は剣兵をやる。槍兵と魔術兵は2人ずつ。私の合図で突撃して、
いいわね?﹂
そう命令すると、みんなが一斉に頷いた。
ここで必ず仕留める。
通りの魔術師が、詠唱を開始した。
﹁今よ!﹂
−−−
365
﹁ちくしょう痛かった!!﹂
魔術攻撃で倒壊した建物からなんとか脱出できた。体のあちこち
が痛いってもんじゃない。
﹁おい、ユゼフ! 無事か!?﹂
橋の方から人がたくさん近づいてきたのが分かった。司令部から
の増援だ。
なんだ
ってなんだよ。人が心配して駆けつけてみればそんな
﹁あー、なんだラデックか⋮⋮﹂
﹁
こと言いやがって﹂
﹁白衣の天使だったら安心して死ねたんだがな⋮⋮﹂
﹁そういうこと言える気力があるなら、あんた50年は死なねぇよ﹂
ラデックは笑いながら俺に覆いかぶさっていた瓦礫を退かしてく
れた。助かった⋮⋮。
﹁立てるか?﹂
﹁んー、ちょっと無理だな。右足の骨が折れてる﹂
﹁右足がなくなってた、っていうのよりはマシだな﹂
﹁あぁ、全くだ。にしても服がボロボロになっちまったな。司令部
に替えの服ってあったか?﹂
﹁知らん。お前が自分で確かめろ。それに軍服なんてボロボロにし
てなんぼだろ﹂
﹁ごもっともです﹂
﹁ちょっと待ってろ。治癒魔術師呼んでくるから﹂
﹁あんがとさん﹂
366
一通り冗談を言った後、周囲の状況を確認する。
攻撃から免れた防衛隊と、増援の友軍が結構いる。戦線も問題な
く維持できてるようだ。被害は意外と軽微なのかも。
一方敵の方は⋮⋮そこらに建物に潰された帝国軍の死体があった。
奴らは味方ごと俺らを壊滅させようとしたのか。でも、あまり効果
があるとは思えない。確かに被害は小さくはないが、味方を巻き込
んだ甲斐はないな。
暫くすると、ラデックが治癒魔術師らしき白衣のオッサンを連れ
て戻ってきた。そこは白衣の天使にしろよ。あれ、でも天使だから
といって女子だとは限らないんだっけ?
﹁にしても、帝国の奴ら随分派手にやったな。味方も巻き添えとは
な﹂
﹁あぁ。どうも敵が痺れを切らしたようだね。効果のほどは微妙だ
ったみたいだけど﹂
﹁そうだな。お前生きてるもんな﹂
﹁我ながら運がいいよ。勝利の女神様に愛されてるみたいで﹂
ちなみにこの世界の勝利の女神様は美人である。絵画でしか見た
ことないけど。
﹁そういや、マリノフスカ嬢はどうした? まさか巻き込まれたの
か?﹂
﹁いや、サラは敵後方の索敵をしてる最中だった。まだそこら辺の
路地にいるかもしれないし、もしかしたら反撃してるかもね﹂
﹁反撃?﹂
﹁敵後方を索敵して魔術兵見つけてそのまま切り込みかけてる可能
性さ﹂
﹁なるほど。あいつならやりかねないな﹂
367
﹁でもちゃんと戻ってくるなら正しい判断だと思う。第二次攻撃を
妨害できるし、魔術兵に甚大な被害がでる魔術攻撃を敵が諦める契
機になるかもしれない﹂
﹁そういや第二次攻撃が来ないな。10分もすれば詠唱は終わって
るだろうに﹂
﹁じゃ、サラ大先生が大活躍してるのかもね﹂
なら、俺も俺の仕事をしよう。
−−−
﹁うるぁああああああああ!!﹂
私は叫びながら敵護衛剣兵と切り結ぶ。敵剣兵の練度は高くない。
ユゼフよりちょっと強いくらいだ。でも4人となるとさすがにきつ
い。
私は初級魔術を使って包囲を避けつつ、1人の敵に固執せずに、
立ち回りを考える。剣を使い、時に足を使い、時に拳、どれを選択
し、誰を攻撃し、牽制するか。私の役目は護衛を倒すことじゃない。
味方が魔術兵を倒す時間を与えるのが役目だ。無理はしなくていい。
多少の無茶はするけど。
剣兵を相手にしつつ、部下の様子を見てみる。魔術兵は突然の来
客者に対応できず次々と仲間に倒されて潰走している。槍兵を相手
にしている部下も問題ない。接近してしまえばこちらのものだ。
368
﹁隊長! 敵魔術兵の半数を殲滅! 残りは逃げました!﹂
いつの間にか隊長になっていた。でも、拠点があの様子じゃ隊長
になるかもしれない。そう思うと、余計死ねないわね。
﹁一旦退くわよ!﹂
﹁はい!﹂
やることはやった。後は逃げるだけ。でも、そう上手くいくはず
はなかった。敵の増援がやってきたのだ。
前から、後ろから、路地も完全に固められて、私たちは完全に囲
まれた。
﹁⋮⋮まずいわね﹂
﹁これではお手上げです﹂
部下の一人が困り果てた顔をする。
﹁降伏は趣味じゃないわ﹂
﹁ではどうするんです?﹂
﹁決まってるじゃない。中央突破よ!﹂
そう叫んだ私は、味方がいるであろう防衛拠点の方角に向かって
駆け出した。
まさかこの状況で突撃してくるわけない。そんな顔をしていた敵
剣兵の喉を掻っ切る。後ろを見ず、周りを見ず、ただ前を見て突撃
した。
部下も多少慌てていたけど、半秒後には私と共に突撃してくれた。
乱戦に持ち込めば敵は魔術を使えない。でも、こっちは使いたい放
369
題だ。撃てば当たる状況、私たちは初級魔術を乱射して強引に敵陣
形をこじ開けた。
橋方面の敵の殆どは槍兵のようだ。広いとはいえ空間に余裕がな
い街道で、小回りの利かない槍。剣兵にとってはただの的。
私はさらに前進する。通行の邪魔になる槍兵を切り捨て、道を切
り開く。
私の目の前に槍兵2人が躍り出た。槍による刺突をかわして横一
閃で倒そうとして⋮⋮できなかった。敵が勝手に倒れたのだ。倒れ
た敵の後ろに立っていたのは、見たことのある風貌の男。
﹁大丈夫か!?﹂
そこに立っていたのは、馴染みの友人だった。
370
前線会議
﹁⋮⋮って、なんだラデックか﹂
﹁なんで二人して同じ反応するんだよ﹂
颯爽と私の目の前に現れたのはイケメンではあったがラデックだ
った。むー。
ラデックは手際よく増援部隊を指揮して攻勢をかけてきている。
私たちが後ろにいたので大半の敵がラデック達に背を向けていた格
好になっていた。後ろから槍を突き刺すだけの簡単な仕事みたいね。
これなら戦闘専門じゃないラデックでも十分指揮を執れるか。
⋮⋮そう言えば、さっき﹃二人して﹄って言ったわよね?
﹁ユゼフは大丈夫だったの?﹂
﹁ん? あぁ、残念ながらご存命だよ﹂
﹁そ、そう⋮⋮よかったわ﹂
死んでたら殴ってるところだったわ。
﹁積もる話もあるだろうけど時間がない。一旦退いて防衛線まで戻
るぞ﹂
﹁わかってる﹂
アイツに会ったらとりあえず殴っておこう。
371
−−−
サラ撤退援護作戦はうまくいったようだ。後は彼女が無事かどう
かだけど⋮⋮。
﹁おーい!﹂
﹁おっ、来たか﹂
ラデックが手を振りながら戻ってきたのがわかった。そしてその
脇を猛ダッシュする赤髪の少女。嫌な予感がする。
﹁ユーーーーゼーーーーーフーーーーーーー!!﹂
声を分析するに怒気75%、殺気23%、その他2%と言ったと
ころだろうか。ふむ。遺言を残す時間くらいは貰えるだろうか。殺
意の衝動を擬態化したような彼女の突進は止まることを知らず、進
路上にいた数人の民兵を弾き飛ばして近づいてきた。ケガ人増える
からそう言うのやめてくれませんかね?
ついに彼女は俺の眼前にやって来た。避けるか止めるかしないと
死ぬかも。いやほらなんか右手が握り拳になってるし。
﹁心配したじゃないの!﹂
彼女はそう叫ぶと、俺に思いっ切りタックルしてきた。そのまま
押し倒され、俺は後頭部を強打する。この世のものとは思えない痛
みが俺を襲った。そしてまだ生きてる脳細胞が、俺はもうすぐ脳震
盪で気絶するんだと告げていた。
372
﹁ちょっと! 寝てないでなんとか言いなさいよ! こらー!﹂
パトラッシュ⋮⋮、もう疲れたよ⋮⋮。
こうして俺は本日2度目の気絶を経験することになった。
﹁で、戦果は如何ほど?﹂
﹁敵の魔術兵隊の7割方を倒すか戦闘不能にしたわ。残りは逃走﹂
﹁ふむ。被害は?﹂
﹁ゼロよ﹂
﹁うん。じゃあまずは満足すべき結果かな﹂
数分で気絶から目が覚め、医務科の士官候補生に応急治癒魔術を
使って転倒時に負ったケガを治してくれた。その時﹁くだらないこ
とでケガしないでください﹂と言われてしまった。ごめんなさい先
生。
﹁とりあえず今の所帝国の奴らの攻勢は止んでるけどよ。この後ど
うなるんだ?﹂
﹁それは⋮⋮難しい質問だな﹂
いや本当に難しい。帝国の司令官が何を考えているかなんて。
﹁選択肢としては⋮⋮そうだな。4つある﹂
﹁4つしかないのか?﹂
﹁そうだよ。難しい話じゃない。ラデックにだってすぐわかる﹂
373
1つ目は、従来通りの攻勢をかけ続けること。もしそうしてくれ
ればこっちとしてはやりやすい。また同じことを繰り返すだけだ。
士気さえ保ち続ければなんとかなる。
2つ目は、今さっきやったみたいな魔術攻撃による攻勢をかける
ことだ。
﹁でも今これを選択する可能性は低いかな﹂
﹁なんでよ?﹂
﹁この11日間、帝国軍の奴らは通常の攻勢をかけ続けて、その悉
くを俺たちに跳ね返されてきた。こちらの防御を突き崩すにはさら
なる攻撃力が必要だと考えて魔術攻撃を仕掛けてきた。ここまでは
いい?﹂
﹁うん。大丈夫﹂
﹁ラデックから聞いた限りでは、魔術攻撃が行われたのはココだけ
だ。たぶんこれは試験的にここに攻撃して、効果があったら他の戦
線でも同様の策を用いて一斉に攻勢に出る。と言うことをしたかっ
たんだと思う﹂
﹁でも今回の魔術攻勢は失敗したから⋮⋮﹂
﹁あぁ。おそらく敵は魔術攻勢には拘らないだろう。前線の兵を生
贄にして魔術攻撃を行ったのに防衛拠点は揺るがなかった。建物が
倒壊して進軍するのに不便になった。そして何より、サラの切り込
みで魔術兵を多数失った。これはでかい﹂
﹁そうなの?﹂
﹁あぁ。農奴から徴兵した槍兵が死ぬ分には全く問題にならないだ
ろう。補充しやすいし、槍兵は訓練に時間はかからないからね。で
も上級魔術という高等技術を扱う魔術兵は訓練に時間がかかるし、
その分金もかかる。そんな高価なものを住民反乱程度でポンポン消
費してしまっては、おそらく出世の邪魔になるだろうね。財務省に
何言われるか知れたもんじゃない﹂
374
﹁なるほどね﹂
﹁うん。だからサラは大活躍。勲章物の武勲だね。先生って呼びた
いくらいだ﹂
﹁そんな風に呼んだら殴るわよ﹂
﹁冗談だよ﹂
でも本当に助かったんだよ。今回の魔術攻撃は確かに失敗だった
けど﹁犠牲の割にうまくいったからじゃんじゃんやろう!﹂なんて
敵の司令官が言ったら俺は今頃三途の川を渡ってたとこだ。サラが
あの時、防衛拠点に戻らずに魔術兵隊に切り込みをかけてくれたお
かげで第二次攻撃も食らわず、続く大参事も防げた。
サラ大先生は戦場でも戦場外でも猪突猛進だからバカっぽい印象
あるけど、こういう時はちゃんと考えて行動してくれる。
﹁ありがとな。サラ﹂
﹁⋮⋮な、ちょ、ば、バカじゃないの!? わ、私はやるべきこと
をやっただけから、お礼を言われる筋合いはないわよ!﹂
サラはそう慌てふためきながら俺のことを殴ってきた。ケガ人に
はもっと優しくしてほしいのだが。
﹁はいはい、いちゃいちゃするのは後にしてくれ﹂
﹁してないわよ!﹂
サラは怒っているのか興奮しているのか顔を真っ赤にして否定し
ている。その様はまるで赤鬼のごとし。髪の色も赤いから首から上
が全部が赤くなってる。見てて少し面白いと思ってしまった私は悪
い子です。
﹁で、話を戻すけどよ。残りの2つはなんだ?﹂
375
﹁ん? あぁ、そうだな。3つ目は持久策を取ることだ﹂
﹁つまり?﹂
﹁都市を包囲するだけに留めて、俺らが飢えるのを待つってことさ。
ラデック補給参謀殿、食糧はあと何日持つ?﹂
﹁その呼び方やめろ。⋮⋮食糧はこのままのペースだと20日もも
たねぇな。2週間以内にケリつけた方が良いと思うぜ﹂
﹁つまり、帝国軍はなにもせず14日間ただ俺らを包囲するだけで
勝てると言うわけだ。さすがにどんなに素晴らしい城と兵がいても、
食糧がなければ餓死するだけだ。そして俺らに休息の時間を与えな
いように嫌がらせの攻勢を不定期にかけてくるだろうね﹂
﹁それは結構きついわね﹂
﹁あぁ。結構きつい。持久策を取ってる間にオゼルキの義勇軍本隊
が壊滅して、帝国軍本隊がラスキノに来るかもしれない。そして、
俺らはそれを防ぐ手立てはない。せめてあと1個連隊あればなぁ⋮
⋮﹂
﹁そう言えばユゼフ、敵味方問わない魔術攻撃してきたら宣伝材料
になるって言ってたわよね。それで敵の一部の部隊を寝返させられ
ないかしら?﹂
﹁うーん、できなくはないけど、小隊規模の人数が限界かな。中隊
以上の規模になると貴族の指揮官も多いし、信じてくれるかどうか
もわからん﹂
宣伝はあくまで敵の行動を鈍らせるだけだからね。敵の寝返りは
主目的じゃない。
﹁じゃあもし敵が持久策を取ってきたら、お手上げ?﹂
﹁そうだね。持久戦に備えて旧市街で農業始めるか、海と川で魚で
も釣るか。あぁ、あとは﹃ラスキノの市民とか大佐の命と引き換え
に俺たち外国人を助けてください!﹄って言えばなんとかなるかも
しれないけど﹂
376
﹁それはダメ﹂
﹁だよね。あまりにも恰好が悪い。これは本当に最終手段だ﹂
そんなことしたら何の為にここまで頑張ってきたんだかわからな
い。でも、エミリア王女殿下御一行とかもいるし、サラとかラデッ
クも助けたいから検討はするけど。
﹁で、4つ目は?﹂
﹁ラスキノ攻略諦めて撤退する﹂
﹁真面目に﹂
﹁俺はいつだって大真面目だよ﹂
大真面目に嘘つくし大真面目にサボるってだけだ。
﹁帝国の奴らがそんなことするのか? 面子とかもあるだろうに﹂
﹁まぁそうなんだけども。でもオゼルキ攻略を優先するならありだ
ね。そこで義勇軍本隊を撃滅して、帝国軍が増強されて帰ってくる、
と﹂
ラスキノが手薄だろうと判断してラスキノ攻略を仕掛けてきたん
だろう。ここまで粘られたのはたぶん予想外の事態のはずだ。
でもオゼルキ今どうなってんのかな。そこら辺の情報もできれば
欲しい。あと本国はこの戦況を把握してるんだろうか。各部隊は完
全に孤立しちゃってるから伝令の馬が全然来ないんだよね。
﹁まぁ、帝国軍がどれを選択しようが俺たちは圧倒的不利であるこ
とは変わらない﹂
﹁最初からそう言えばいいのに﹂
﹁それもそうだね﹂
377
ホント、分かり易く説明するのは大変だよ。
378
ラスキノ攻防戦 ︲新市街撤退戦︲
ラスキノ防衛司令部はようやく一時の混乱から脱し、細かな状況
を把握できるようになった。
﹁カーク准将。ノヴァク准尉から詳細な情報が届きました﹂
﹁ご苦労。それで、どうなんだ?﹂
﹁ハッ。北西戦線は戦死52、戦傷108。また防衛拠点周辺の建
物3棟が全壊した模様です﹂
﹁まずいな﹂
﹁はい。ですが、上級魔術攻撃を仕掛けてきた敵魔術兵小隊を壊滅
させることに成功し、第二次攻撃を受けることはありませんでした。
数時間経っても二度目の攻撃がないと言うのを考えると、おそらく
敵は魔術攻勢を断念したと思われます﹂
﹁ふむ。痛み分けか﹂
﹁しかし北西戦線は戦力の半数近くを失いました。今は予備兵力の
投入で何とか持ちこたえていますが、このままでは他の戦線に影響
が出ます﹂
﹁そうだな、そろそろ作戦を次の段階に移行すべきかもしれん﹂
カーク准将の言う次の段階とは、ワレサが立案した防衛作戦の最
終段階のことである。
−−−
379
10月7日。
あの魔術攻勢の後、帝国軍の攻勢は散発的かつ小規模になってい
た。事に北西戦線に顕著で、味方を巻き込んでの攻勢を指示した司
令部に対する不信感、そしてまた巻き添えになるんではないかと言
う兵士の不安感が、この消極的な攻勢に繋がったである。
一方南部方面では帝国軍の攻勢が強まっていた。
帝国軍の南部方面を指揮するのは第55師団のウラジーミル・シ
ロコフ少将。男爵家の長男として生まれ、将来はシロコフ男爵家の
家名を継ぐ者である。北部方面の指揮官であり、ラスキノ市鎮圧部
隊の総司令官を務めるサディリン少将とは違い、コネに頼らず実力
で少将にまで昇進した。本来であれば、シュレメーテフ中将はシロ
コフ少将をラスキノ市鎮圧部隊の総司令官にしたかった。しかしサ
ディリンは伯爵家の息子で年齢もシロコフより上だったため、シュ
レメーテフは仕方なくサディリンを総司令官に任命した、という経
緯がある。
﹁南東戦線は戦線を維持できるだけの最低限の兵力を配置し、残り
は南西戦線で攻勢をかけ続けよ。間断なく兵力を投入し続け、敵を
疲弊させるのだ﹂
シロコフ少将の命令は単純だった。圧倒的な数の有利を生かし、
攻勢をかけては被害が多くなる前に退却、その時に第二陣を投入し
て攻勢をかけ、第二陣が退却すると同時に第三陣を投入した。
ラスキノ独立軍はその攻勢を支え続けることができず、一時は前
線崩壊の一歩手前にまで陥った。
だがその時、前線崩壊の危機を救ったのは若い2人の士官候補生
であった。エミリア・ヴィストゥラと、マヤ・ヴァルタである。
380
ヴィストゥラは退却する部隊と、攻勢を開始する部隊が交錯した
時に生じる一瞬の隙を見逃さずに、魔術斉射の指示を出した。それ
により退却部隊と攻撃部隊は一時的に混乱し、そこをヴァルタ率い
る剣兵部隊が急進し逆攻勢に出たのである。ヴァルタは前線の兵の
士気を鼓舞し、また自らが先頭に立って帝国軍の攻勢を捌き切って
帝国軍に少なからぬ損害を与え続けた。女性らしからぬその剛毅さ
は南西戦線の兵の士気を最大限に引き出した。この2人の息と連携
は完璧なもので、互いが何も言わなくても理解しあえていた、と当
時彼女らの指揮下にいた兵が証言している。
この若い女性指揮官が戦線を支えていると知った帝国軍南西戦線
指揮官のタラソフ中佐は﹁その女性指揮官らを傷ひとつつけず私の
元に連れてくるように﹂と部下に命令したそうである。この命令は
無論冗談ではあったが︱︱少なくとも部下はそう受け取った︱︱中
佐は更に別の命令を出した。それは信頼できる部下と共に夜襲を仕
掛けたのである。戦果は僅少だったものの、不定期に夜襲をかけた
ことによって独立軍の疲弊を増大させることに成功した。
南西戦線は数の上では圧倒的に不利であり、疲労の蓄積も大きく、
敗退は時間の問題だった。
﹁マヤ、大丈夫ですか?﹂
﹁大丈夫です⋮⋮と言いたいところですが、そろそろ限界ですね。
部下の体力と士気は底をついてます﹂
﹁司令部には増援を要請したのですが、どうやら予備兵力は北西戦
線に行ってるようです﹂
﹁北西? 北西は確かマリノフスカくんとワレサくんが指揮してい
るところですよね?﹂
﹁はい。ですが先日、大規模な魔術攻勢を受け、部隊が半壊したよ
381
うなのです﹂
﹁で、では2人は!?﹂
﹁2人は無事な様です。しかし部隊が半壊した分、予備兵力全てが
北西戦線に投入されてしまいました。こちらに増援は来ません﹂
﹁それは⋮⋮仕方ないとは言え辛い状況ですね﹂
﹁はい。そろそろ、後退を考えるべきかもしれません。司令部に具
申してみます﹂
その司令部から後退の具申を受け入れる旨が伝えられたのは翌、
10月8日のことである。
﹁司令部から火球4発の合図があり次第、各戦線は同時に旧市街ま
で後退します。その際、できるだけ敵をひきつけた方が良いでしょ
う﹂
﹁こちらがそう演技しなくても帝国軍は勝手についてくるでしょう。
私が敵将なら、跳ね橋を上げられないように乱戦状態を維持したま
ま追撃しますよ﹂
﹁同感です。ですが敵に不審に思われてしまう可能性があります。
それに各戦線の状況を逐一把握し、連携し、同時に作戦を決行せね
ばならないので難易度は高いです﹂
﹁せめて隣の南東戦線と呼吸を合わせねばなりませんね﹂
﹁この作戦に際し、南東戦線の指揮は一時的にマエフスキ小隊長が
執ることになっています﹂
﹁うちの小隊長殿は優秀みたいですから、なんとかなるでしょう﹂
﹁そうですね。ではマヤ、準備をお願いします﹂
﹁仰せのままに!﹂
382
−−−
10月8日、午後1時21分。ラスキノ防衛司令部から4発の火
球が撃ち出された。その信号と同時に、南東・南西・北東・北中の
4つ戦線は新市街から撤退し橋を渡り始めた。帝国軍の各前線指揮
官はほとんど例外なく先ほどの合図が旧市街への撤退命令だと考え、
師団司令部に攻勢の許可を求めた。だが各師団長の指揮官の意見は
南北で多少の差異があった。
﹁閣下、北西方面以外の戦線の反乱軍が後退を始めました!﹂
﹁北西以外だと? どういうことだ?﹂
副官からの報告を聞いた北部方面司令官サディリン少将は暫く考
えた後、傍にいた参謀長に意見を求めた。
﹁⋮⋮参謀長。貴官はどう思う?﹂
﹁ラスキノの北西の橋はこの町で唯一跳ね橋構造ではなく、通常の
橋です。おそらく反乱軍は北中・北東の跳ね橋を上げて我が軍の進
撃を防ぎ、余った戦力で北西戦線の防御を厚くしようと考えている
のだと思われます﹂
﹁参謀長の言う通りだ。ならば我々はそれを阻止し、跳ね橋を上げ
ることを妨害せねばならん。架橋は手間がかかるからな。北中・北
東戦線の各指揮官に伝えよ。全軍直ちに急進して反乱軍を追撃、乱
戦状態に持ち込み敵の行動を妨害せよ。可能であれば、跳ね橋の可
動機構を破壊するんだ﹂
﹁ハッ!﹂
383
一方、南部方面司令官シロコフ少将は反乱軍の行動を訝しんだ。
﹁確かに単に後退しているようにも見えるが、何か引っかかるな。
罠と言う可能性もある﹂
﹁罠、ですか?﹂
﹁そうだ。確証はないが、慎重に行動すべきかもしれん﹂
﹁ですが閣下。ここで追撃せねば跳ね橋は上がり、旧市街攻略に支
障が出ます。架橋しようにも敵は全力で妨害するでしょう。それに
橋上は死角もない一本道、罠を張ることなど不可能でしょう﹂
﹁もっともだ。罠の存在に気を付けつつ、敵軍を追撃せよ﹂
﹁了解!﹂
−−−
﹁エミリア様! 敵が攻勢に出ました!﹂
﹁わかりました。南東戦線と歩調を合わせつつ後退します。今はこ
の場に踏みとどまり敵を迎撃しましょう。前線指揮は任せます!﹂
﹁御意!﹂
南西戦線の帝国軍攻勢部隊はタラソフ中佐が直接指揮する剣兵小
隊である。タラソフ中佐は先日の戦いにおいて報告を受けた2人の
女性指揮官に敬意を抱き、直接剣を交えたいと考えたのである。
タラソフ剣兵小隊には農奴階級の兵は一人も存在せず、どれも士
気も練度も高い職業軍人で構成されておりかなり精強だった。タラ
ソフ隊の猛攻を受けたラスキノ独立軍の槍兵では歯が立たなかった。
384
・・
そこに、ヴァルタ准尉率いる義勇軍剣兵隊が現れたのである。
彼女が現れた瞬間、タラソフ隊は前進を止めた。
﹁貴官が、噂の女性指揮官か﹂
﹁ほほう。私の名声が帝国でも轟いているとは、恐縮ですね﹂
﹁あぁ。よく耳にしている。だが、その名声は今日で終わりだ﹂
﹁そうかな?﹂
2人は、妨げる物がない橋上で睨み合った。
﹁私は、帝国軍中佐ニキタ・タラソフ﹂
﹁⋮⋮ラスキノ独立軍、マヤ・ヴァルタ﹂
そう名乗り終えた瞬間彼女は突進し、タラソフはそれを正面から
受け止めた。
2人の剣が折れ砕かれるほどの激闘が始まった。
385
橋上決戦
ラスキノ独立軍は反撃と後退を交互に行いつつ、徐々に旧市街方
面に撤退していた。北部方面の戦局は順調に推移していたが、南部
方面では些か苦戦していた。それは帝国軍南部方面司令官シロコフ
少将の指示を受けた南西・南東戦線指揮官が慎重に動いたため、ラ
スキノ独立軍の動きが制限されたことにある。特に南西戦線は練度
も士気も高いタラソフ隊で攻勢をかけたために、独立軍が下手に後
退すればさらなる攻勢を呼び、戦線崩壊に至る危険があった。
それでも少しづつ後退できたのは、エミリア・ヴィストゥラの適
確な指揮と、マヤ・ヴァルタの類稀なる剣の才能があってこそであ
る。
午後1時28分。ラスキノ独立軍南西戦線部隊は跳ね橋部分を越
えることに成功した。だが敵剣兵の攻撃は苛烈を極めていた。
﹁あと少し、あと少しで敵陣を突破できるぞ! 突撃だ!﹂
タラソフ中佐はそう叫び味方の士気を高めた。同時に後方の部隊
に伝達し、跳ね橋の可動機構の破壊を命じた。だがその命令を発す
るに際し、ヴァルタが奇妙なことを言った。
﹁お手を煩わせることはしませんよ、中佐﹂
﹁何⋮⋮?﹂
その瞬間、ヴァルタの背後で火球と水球が1発ずつ上がった。
﹁なんだ、何の信号だ!?﹂
﹁じきにわかりますよ、中佐!﹂
386
ヴァルタはそう叫ぶとタラソフ中佐を蹴飛ばし、初級魔術で牽制
し帝国軍の行き足を止めた。
﹁よし、後退しろ!﹂
﹁逃がすな! 前進!﹂
独立軍は全力で逃げ、帝国軍は全力で追った。それによって帝国
軍は長い縦列となったため連携が取れず、また追うのに夢中になっ
たため独立軍の意図を考察する機会を失ってしまった。
ヴァルタの後退命令から数分後。独立軍後方部隊上空で魔術の発
動光が発生した。その光を見た瞬間、タラソフ中佐は独立軍の意図
を正確に察した。
﹁まさか⋮⋮クソッ、後退しろ! 跳ね橋の向こうまで後退するん
だ!﹂
タラソフは叫んだ。だが独立軍は後退を阻止すべく攻勢に転じ、
帝国軍の後退を阻んだ。
そして魔術が発動し、巨大な火の球が、帝国軍後方にある跳ね橋
へと向かった。
午後1時29分。4本の橋がほぼ同時に破壊された。
−−−
387
それは、帝国軍がラスキノを攻撃する前日の9月23日のことで
ある。
﹁新市街の戦いはあくまで敵の勢いと数を削ぐためだけの戦いにな
ると思う。だから、俺らが旧市街に立て籠ってからが本番になるか
な﹂
半ば成り行きでラスキノ独立軍の作戦参謀になってしまったユゼ
フ・ワレサは、第334部隊の仲間に作戦の再説明をしていた。
﹁旧市街は城壁もあるし、跳ね橋もある。たぶん1ヶ月は持ちこた
えられるんじゃないかな﹂
﹁じゃあ新市街は放棄して、最初から旧市街に立て籠もった方が良
いんじゃないか? どのみち食糧は1ヶ月分しかないのだから﹂
と進言したのは、やはり半ばその場の流れで補給参謀代理になっ
たラデックだった。
﹁いや、それはダメだ。防戦一方って言うのは味方の士気が落ちや
すい。定期的な攻勢に出れば士気も上がるし、何より敵の戦力を削
ぐことができる。それに⋮⋮﹂
ユゼフは言いにくそうな顔をして、頭を掻いていた。
﹁なによ。続きを言いなさい﹂
﹁いや、うん。実はゼーマン軍曹と一緒に、橋をもう1回調べてみ
てわかったんだけど、どうやらあの跳ね橋は老朽化でもう動かない
みたいなんだ﹂
﹁⋮⋮はぁ!?﹂
388
ラスキノに架かる5本の橋、そのうちの4本は1000年以上前
に架けられた非常に古い橋である。
十数年に一度大規模な洪水が起きるこのラスキノでは、その洪水
に耐えられるように頑丈な橋が架けられ、補修を受けながら100
0年間現役であり続けた。しかし跳ね橋部分は材料や構造の関係、
また帝国による大陸統一以降跳ね橋を利用する機会が減ったことか
ら整備がなされていなかった。
﹁まぁ1000年も経ってるから動かないとしても無理はない。だ
いぶボロくて、架け替えも検討されてたみたいだし﹂
﹁じゃ、じゃあ跳ね橋が使えないってことは旧市街での防衛は難し
いってこと?﹂
﹁そうだね。あのままだと難しいね﹂
﹁ほう。含みのある言い方だねワレサくん﹂
﹁えぇ。実はエミリア様が紹介してくれた上級魔術師にある事を聞
いてみたんですよ﹂
﹁ある事、とは?﹂
﹁跳ね橋を破壊できるかどうか﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
その場にいた全員が固まった。数秒後、ようやく石化の呪いが解
けたラデックが問うた。
﹁本気か?﹂
﹁俺はいつもでも本気でございますよ?﹂
﹁⋮⋮なんか稚拙な手、という感じがするんだが﹂
ラデックの言うことはもっともである。
橋を破壊すれば、長期に渡って帝国軍の攻勢を凌ぎ切ることは可
389
能だろう。架橋は時間と手間がかかり、さらには全力で妨害できる
ため、帝国軍にとっては悩みの種となる。
だが橋が渡れなくなるのは独立軍だって同じである。
﹁橋を壊せば、我々が逆攻勢をかけることができなくなります。そ
れに橋を破壊したことによって味方の士気が低下してしまう可能性
もあるのでは?﹂
﹁それに、よしんばそれで勝てたとしても戦後の復旧が面倒なこと
になる。なんせ南北の通行が全く不可能になるのだから﹂
エミリアとヴァルタも、ユゼフの提案に疑問を呈した。
﹁俺としては、それはさほど問題ないと思いますよ﹂
﹁理由は?﹂
﹁まず、橋を破壊し敵の架橋を妨害できれば、実質的に南部方面の
帝国軍は遊兵になる。2個師団を相手にするより1個師団を相手に
する方が楽だからね﹂
﹁確かにそうだが、もしそうなれば帝国軍は南側を放棄して、北に
行くのでは? 確かラスキノの東にも橋はあったはずだ。少し遠い
が⋮⋮﹂
﹁そうですね。でも部隊や指揮系統の再編をして大きく迂回して北
側に移動する。おそらく1日ほどかかります。その分の時間を稼げ
ることはできる﹂
﹁たった1日か﹂
﹁えぇ。でも1日は貴重ですよ。それに、それだけじゃない﹂
﹁というと?﹂
﹁北西戦線に戦力を集中できる。戦力分散しながらラスキノ防衛は
不可能だし。ひとつの戦線に纏められるのならそれに越したことは
ない﹂
﹁でも帝国軍も北西戦線に戦力を集中できるぞ?﹂
390
﹁えぇ、集中できますよ。でも、戦うのは狭い街道、もしくは橋で
す。道が狭ければ大軍はその数の有利を生かしきれない。さらに言
えば、橋の旧市街側入り口で帝国軍を迎撃できれば、さらに数の有
利は減殺されるはずです﹂
帝国軍が北西の橋を出たところで独立軍が三方から迎撃すれば、
帝国軍は局地的に三正面作戦を強いられることになる。帝国軍がそ
れを打ち砕くには上級魔術攻撃の集中使用による火力の応酬が一番
だろう。だが旧市街からだと橋の様子は良く見える。魔術兵が橋の
どこに配置されているかが一目瞭然であるため、帝国魔術兵が魔術
攻撃をする前に、独立軍が弓なり魔術なりで先制できる。高低差が
あるため、帝国軍は反撃しにくい。
﹁それに、橋を破壊したことによって敵が分断される可能性もある、
か﹂
﹁御名答です。分断された敵は川に叩き落とすなりすればいいでし
ょうね﹂
﹁だが士気の問題と戦後の問題がある。それはどうする?﹂
﹁知りません﹂
﹁は?﹂
﹁そこまで責任は持てません﹂
﹁いやもっと真面目に⋮⋮﹂
﹁俺はいつだって真面目ですよ﹂
再びメンバーが固まった。ユゼフの無責任ぶりに唖然としたので
ある。
﹁これは勝つための策です。士気は下がるかもしれませんけど、ま
ぁそこは士気を鼓舞する人の責任ということで﹂
﹁無茶苦茶な⋮⋮﹂
391
﹁戦後のことは別にいいです。確かに面倒ですけど、アレはもとも
と架け直すことが決まってたみたいですから、それがちょっと早く
なっただけ。それに平和になったら仮設の橋を作ることもできるで
しょう。それには時間も手間もかかりませんよ﹂
メンバーは感情的には完全に納得できなかった。だがこの男に戦
術でどうこう言えるほど自分たちが優秀ではないということも知っ
ていた。そのためメンバーはみな無理矢理納得するしかなかったの
である。
ラ号作戦
は発動したのである。
﹁というわけでみなさん、よろしくお願いしますね﹂
こうして
−−−
﹁帝国軍の将兵が慌てふためいている場面を見れただけでも、この
作戦をやった甲斐があったと思うことにしよう﹂
﹁そうですね。些か可哀そうな気もしますが﹂
南西戦線の前線指揮官の2人は、10日以上前の作戦会議を思い
出していた。あの時は半信半疑であったが、タラソフ中佐らが狼狽
している様子を見て、この作戦がどれだけ有効かを思い知った。
跳ね橋は完全に破壊されており、原型を留めていない。そしてタ
ラソフ中佐の剣兵小隊含め、100名前後の帝国兵が取り残されて
いた。
392
﹁マヤ、お願いします﹂
﹁御意﹂
ヴァルタは、一挙に攻勢に転じた。橋が落ちたことによって狼狽
えた敵兵は歯ごたえなく次々と倒されていった。
﹁態勢を立て直せ! 後ろに引けないのであれば、前に進むのみ!
そして北西の橋を渡って北の連中と合流するだけだ! 突撃せよ
!﹂
タラソフ中佐はそう檄を飛ばし、突撃を開始した。だが部下の連
携は乏しかった。100名では敵中突破は無理で、帰還の可能性は
低いと悟っていたからである。結局タラソフの突撃命令は10秒も
もたず、敗走することになる。背水の陣となった帝国軍は次々と撃
破され、ある者は川に落とされ、ある者は狂乱し槍を振り回した。
ヴァルタは微弱な抵抗を軽くあしらい、さらに突撃した。
気がつけば、南西戦線の帝国軍は僅か18名であり、その殆どが
タラソフ中佐直属の剣兵隊員だった。
﹁帝国軍将兵に告ぎます。武器を捨て投降してください。私たちは、
あなた達を寛大なる処遇を以って迎えるつもりです﹂
エミリア・ヴィストゥラは、タラソフ中佐らに降伏勧告を出した。
通信魔術ではなく、面と向かって。
﹁⋮⋮部下の身の安全を保障してほしい﹂
﹁安心してください。大人しく投降すれば、あなた達に危害を加え
るつもりは毛頭ありません﹂
393
﹁なら、何も言うことはない。⋮⋮全員、武器を川に捨て、投降せ
よ﹂
10月8日午後1時43分。かくして、南西戦線の激闘は終結し
た。
394
撤退と増援
橋が破壊されたという報が帝国軍師団司令部に届いた時、司令部
は混乱に包まれた。
﹁どういうことだ!?﹂
﹁北中・北東の跳ね橋が反乱軍の魔術攻撃により崩壊しました。南
部方面でも魔術の発動光が確認されており、おそらくそちらも⋮⋮﹂
﹁野蛮な奴らめ! おい、工兵隊を呼び出せ。それと被害状況の把
握だ、急げ!﹂
﹁ハッ!﹂
北西戦線は他の戦線に比べ道幅が広く兵力は展開しやすい。だが
あくまでも街道としては広いと言うだけで、帝国軍が有利になれる
ほど大きなものではない。
サディリン少将はその数の有利を生かすために、架橋を検討した。
﹁第3工兵中隊長、メンコフ少佐であります!﹂
﹁来たか。早速だが相談がある﹂
﹁何でしょうか、閣下﹂
﹁北中及び、北東戦線で橋が破壊された。これを修復、もしくは仮
設の橋を架橋することはできるか?﹂
﹁⋮⋮難しいと思われます﹂
﹁理由は?﹂
﹁我が工兵隊が架橋・修復する中、反乱軍が黙ってそれを見ている
はずがありません。上級魔術数発で全滅する可能性がある、見晴ら
しのいい橋の上では難しいかと﹂
﹁では我が軍も上級魔術によって架橋を援護すれば、できるか?﹂
395
﹁それも難しいと思われます。魔術兵は死角の多い市街ではかなり
前進しなければなりません。旧市街からの弓矢や魔術攻撃を受け、
先の魔術攻勢時のように魔術兵隊を大量に失う羽目になるかもしれ
ません﹂
﹁ふむ⋮⋮仕方あるまい﹂
そう言ってサディリン少将は架橋作戦を諦め、工兵隊長を下がら
せた。
﹁それで、詳細な被害状況は?﹂
﹁はい。第55師団の状況は依然不明なままですが、北中・北東戦
線の状況は入っております﹂
﹁構わん。読み上げろ﹂
﹁ハッ。北中戦線での戦死及び行方不明者は128名。北東戦線の
それは119名。戦傷者は両戦線合わせて913名です﹂
﹁南部戦線でも同様の被害があるとすれば、被害は合わせておよそ
戦死500、戦傷2000というわけか﹂
﹁このままでは戦線維持に支障が出ます。ここは一端攻勢を中止し、
持久戦に転換した方がよろしいでしょう﹂
﹁⋮⋮第55師団のシロコフ少将に連絡。戦力の再集結を行う﹂
﹁閣下!﹂
﹁持久戦を行うにせよ短期決戦を行うにせよ、南部からの侵攻は不
可能になった。最低限の兵力のみを残し、北部戦線を増強した方が
良いだろう﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
これまでの帝国軍の戦いは醜態と言ってもいいものだった。10
月8日時点での帝国軍兵の戦死傷者の合計は6,000名以上であ
り、これは全体の3割を超える数字である。これはサディリン少将
が力任せに攻略を推し進めようとしたために被害が増大したのが原
396
因だが、要塞でもない通常の都市である新市街がこれほどまでに重
厚な防御を有しているとは想定外の事態だったのである。
そしてこの状況に追い打ちをかけるかのように、憂慮すべき情報
がシロコフ少将にもたらされた。
﹁シレジアに大規模な部隊、だと?﹂
﹁はい。少なくとも10個師団の兵力が国境線に展開しております。
おそらく、ラスキノ独立軍を支援する目的でしょう﹂
﹁10個師団だと⋮⋮? シレジアがそんなにも兵力を集められる
とは考えづらいが⋮⋮。それは確かかね?﹂
﹁まず、間違いありません﹂
10個師団がラスキノに増援として加われば、オゼルキの部隊と
合わせて5個師団しか有していない帝国軍の不利は免れない。中央
よりさらなる増援を求めるしかないが、増援が到着する前に我が軍
が全滅する可能性がある。帝国軍はラスキノ独立軍と違い、有利な
地形に立て籠もっているわけではないのだから。
﹁どうしますか。閣下﹂
﹁私だけでは判断ができん。サディリン少将と協議が必要だろう﹂
﹁そのサディリン少将から連絡がありました。全軍北部戦線に集結
せよ、とのことです﹂
﹁ほほう。それは都合がいい。すぐに準備せよ﹂
﹁ハッ!﹂
10月10日。
397
指揮命令系統と部隊の再編制を終わらせた第55師団は、北部の
第52師団と合流を完了した。合流後、早速シロコフ少将はシレジ
アの増援部隊の情報をサディリン少将に話した。
﹁事は重大です。もしこの部隊がラスキノに到着すれば、我が軍は
逆包囲される危険があります。ここはオゼルキまで撤退し、様子を
窺った方がよろしいと存じます﹂
﹁卿の言にも一理ある。だがこの10個師団が本当に越境すると思
うか?﹂
﹁⋮⋮と仰られますと?﹂
﹁奴らが越境すると言うことは、すなわち我が帝国に侵攻してきた
と言うことだ。それは彼の国とって危険が大きすぎる決断ではない
のか?﹂
﹁いや、それはラスキノが独立国である、とするのならば問題ない
ではないか?﹂
﹁いつから我が帝国はラスキノの独立を認めたのだ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁第一、シレジアごときが10個師団も用意できるとは考えにくい。
シレジアの平時の戦力は15個師団程度だ。そんな状況下で10個
師団も派遣しては、国防上看過できない事態に陥るだろう﹂
この時サディリン少将とシロコフ少将は反乱軍にはオストマルク
とシレジアの義勇軍が既に存在し、そして問題の増援にもオストマ
ルク軍が多分にいることを知らなかった。ラスキノ防衛部隊の兵の
構成は殆どがラスキノの市民と警備隊であり、義勇軍は全体の1割
しかいなかったことからその存在に気付かなかったのである。
﹁ですがこの部隊を無視するのも些か問題でしょう。注意あってし
かるべきかと﹂
﹁最もだ。シロコフ少将。二度手間になってしまうが、南に哨戒部
398
隊を送り込み監視をさせておいてくれ。規模や編制は任せる﹂
﹁わかりました﹂
﹁さて、問題のラスキノ旧市街に対する攻勢だが⋮⋮﹂
−−−
時を同じくして、シレジアが増援部隊を用意しているとの報告が
ラスキノ防衛司令官カーク准将の耳に届いた。帝国軍が新市街南部
を放棄したため一時的に包囲が解かれ、その隙をついて伝令の馬が
ラスキノに入ることができたからである。
﹁シレジア軍3個師団、オストマルク軍8個師団の増援か﹂
﹁はい。到着予定は今から約2週間後とのことです﹂
﹁2週間か。食糧のことを考慮するとギリギリだな﹂
しかしギリギリとは言え、これはラスキノ軍にとっての希望が見
えたことを意味していた。果てのない防衛戦と減り続ける物資によ
って士気が下がり続けてたこの時に、2週間後に増援が到着すると
言う情報は兵の士気を回復させることができる。何より、勝利と独
立が手の届くところまで来たのだから。
﹁この増援部隊のことを早速全部隊に知らせよ。敵にばれないよう
にな﹂
﹁ハッ!﹂
399
一時の休息
ヴェスナードヴァリエーツ
東大陸帝国の帝都ツァーリグラードから少し南に離れた郊外に、
﹁春宮殿﹂と呼ばれる華美な宮殿がある。春宮殿はロマノフ皇帝家
の親族や外戚が住む離宮であり、広大な庭園は春になると多くの花
が賑わいを見せることからこの名がついたとされる。
現在この宮殿には帝位継承権第一位の、つまり何もなければ第6
0代皇帝となるであろう皇太子セルゲイ・ロマノフが居住している。
﹁⋮⋮という訳でございます、殿下﹂
﹁それで? 卿は余に対し何をしてほしいのだ?﹂
皇太子セルゲイ・ロマノフは謁見の間にて、帝国軍事大臣アレク
セイ・レディゲル侯爵と会見している。内容は、ラスキノで起きて
いる大規模な反乱について。
﹁これ以上ラスキノで戦っても意味はありません。元々は特に何も
持たぬ都市、拘っても仕方ないでしょう﹂
セルゲイは皇太子の身分でありながら帝国軍少将でもある。無論
それは皇族故の人事であるのだが、彼はその階級に相応しい知識も
持ち合わせていた。
﹁だが安易に独立を認めるわけにもいかぬ。それでは帝国の威信が
軽んじられるだけだろう﹂
﹁重々承知しております。ですが、キリス第二帝国の動きが不穏な
400
ものになっているのも確か。そしてシレジア王国も独立戦争へ介入
する動きも見られます﹂
﹁シレジア、か。しかしレディゲル候、100年前ならいざ知らず、
今のシレジアを過度な警戒心を持たなくても良いのではないか?﹂
﹁無論でございます。シレジアは今や亡国、恐れる心配はありませ
ん。ですが、まだ例の計画を始めるのは時期尚早かと﹂
﹁理由は?﹂
﹁現在、我が帝国は南のキリス第二帝国を警戒せねばならぬ状況。
ここで西に軍を振り向ける余裕はございません。それに、我が軍は
残念ながら二正面作戦を行えるほど軍事的、財政的な余裕があるわ
けではありません﹂
﹁そうだろうな。陛下は国政に興味を持たぬ故、卿も苦労している
だろう﹂
﹁いえ、そんなことはございません﹂
東大陸帝国第59代皇帝イヴァンⅦ世は音楽と女性にしか興味を
示さない人である。最高権力者としての権威を過度に振り回す人物
ではないが、政治に関しては閣僚に丸投げしている。それ故に帝国
内は改革が進まず、経済は低迷を続けている状況だ。
﹁にしても、結果的にあの小国の手助けをする形となるのは、些か
癪だな﹂
﹁問題ありません。いずれ相応の対価を支払ってもらいますので﹂
﹁あぁ。だがあの国が我々に対価を支払おうという気を起こすかね﹂
﹁彼らの意思など重要ではありません﹂
﹁そうだな。⋮⋮ラスキノ独立の件、陛下に提案してみよう﹂
セルゲイはそう言うと、静かに謁見の間から退出した。
401
−−−
10月12日。
ラスキノ北西戦線は静かだった。停戦が成立した、というわけで
はない。双方ともに手を出すのを躊躇っているからだ。
帝国軍は依然数において絶対的有利の立場にあったが、これまで
の戦いで多くの兵を死なせたことから余力がなくなり、不用意な攻
勢に出れなかった。故に持久策をとるしかなくなり、嫌がらせの攻
撃や架橋作戦を不定期に行うしかなかった。一方ラスキノ防衛軍は
増援到着の見込みが立ったことから無理強いをして攻勢に出る必要
がなくなり、防御に徹するようになった。
10月8日のあの作戦以降、このような状況が続いていた。この
戦況を利用できないか、とラスキノ軍司令部が思ってはいたが、北
西戦線以外の橋を全て破壊してしまった以上、戦術的な選択肢が減
ってしまったがために有効な策を打ち出せずにいた。
﹁﹃覆水盆に返らず﹄と昔から言うから、今更ああだこうだ言うの
は間違ってるとは思う。けど、言いたくなるんだ。渡河の手段をい
くつか残しておけば、って﹂
ラスキノ防衛作戦を立案し、ここまでラスキノ独立軍の被害を最
小限抑え、そして現在帝国軍の攻勢意欲を削いだ張本人ユゼフ・ワ
レサは、防衛司令部の士官食堂で頭を抱えていた。ラスキノ攻防戦
が始まってから既に2週間以上が経過していたが、ユゼフがここま
で過去を悔やむのは初めてであった。それは戦線が実質ひとつに集
束し戦力に余裕が生まれ、後悔する余裕が生まれた、ということで
402
もある。
そんな情けない作戦参謀に対して、檄を飛ばすのは騎兵科次席卒
業なのに剣兵として第一線に立ち続けたサラ・マリノフスカである。
﹁今そんなこと言ったってしょうがないでしょ。今やれることをや
る、それだけ!﹂
﹁わかってる。わかってるけど⋮⋮﹂
﹁男のくせにウダウダ言わないの!﹂
﹁男らしさはサラに任せるよ。俺は帰って寝る﹂
﹁私は男じゃないわよ!﹂
他人から見れば痴話喧嘩か夫婦漫才にしか見えないこの二人の会
話は、既にラスキノ独立軍内でも有名である。だがその会話に下手
に乱入しようものなら夫役の女性から漏れなく拳が飛んでくる。触
らぬ神に祟りなし、ということでこの二人の傍には人が寄り付かな
くなる。ただし数人の例外はある。その例外の一人が、サラの隣に
座った。
﹁相変わらずですね。あなた達は﹂
﹁あ、エミリア! ちょっと聞いてよ!﹂
やってきたのはエミリア・ヴィストゥラ。ヴィストゥラ公爵家の
令嬢、ということになっている。
﹁どうしたんですか?﹂
﹁ユゼフがなんかウダウダ言ってるのよ﹂
﹁どのように?﹂
﹁えーと⋮⋮なんだっけ?﹂
﹁忘れたんですか⋮⋮﹂
403
彼女はこの作戦においてそれなりの武勲を立てた。南西戦線で部
隊を率いて絶妙なタイミングで攻勢をかけ、帝国軍に少なからぬ失
血を強いた。
一方、彼女の本当の地位を知っている数人の知人と上司は、彼女
にあまり前線に立ってほしくないと思っている。実際、彼女はこの
戦いで一度負傷している。負傷と言ってもかすり傷と言っても良い
ものだったが、それ以来最前線に立つのは自制してほしい、と副官
役のマヤ・ヴァルタから言われたようである。
﹁別に大した話をしておりませんよエミリア様。ただ今後どうしよ
うかと悩んでいただけですから﹂
﹁そうなのですか? でもあまり無理はしないでくださいね。考え
ることはあなたの仕事ではありますが、時には何も考えず肩の力を
抜くことも大事です﹂
﹁肝に銘じておきます﹂
﹁そうそう。難しい話は今はよしましょう。ゆっくり話す機会なん
てこの先あるかわからないんだから﹂
そう言う彼女が難しい話をしたところをあまり見た事がない、と
いうのは公然の秘密である。 ﹁そう言えばエミリア様、ヴァルタさんはどうしたんですか? い
つも引き連れてるでしょうに﹂
﹁いつもいつも引き連れてるわけではありませんが⋮⋮彼女は今南
部戦線の索敵をしています。不定期に渡河を仕掛けてくるようなの
で、監視は怠れないのです﹂
﹁なるほど。そう言えばエミリア様は敵の将校を捕虜にしたそうで
すね﹂
﹁私ではありませんよ。マヤによるものです﹂
﹁え、でもヴァルタさんはエミリア様の武勲だって言ってましたよ
404
?﹂
﹁それは彼女の誤解でしょう。私はただ降伏を勧告しただけです﹂
今回のラスキノ攻防戦で捕虜になった帝国軍兵は現時点で全戦線
合わせて185名。そのうち最も高位の者は、帝国軍第55師団所
属のタラソフ中佐である。タラソフ中佐は先の橋破壊作戦において
帰路を断たれ、エミリア・ヴィストゥラの降伏勧告を受諾し捕虜と
なったのである。この時中佐は武器を川に捨てるよう部下に命令し
ている。
﹁そういやそのタラソフ中佐ってなんで剣を川に捨てたの? 別に
川じゃなくてもいいじゃない﹂
﹁⋮⋮おそらく、我々に使わせないためでしょう。中佐による最後
の抵抗なのでしょう﹂
﹁帝国にもそんな奴がいるのね。帝国の指揮官は臆病な貴族か蛮勇
な貴族しかいないかと思ったわ﹂
﹁そんなことはありませんよ。確かに貴族の指揮官は多いでしょう
が、帝国にも平民出身の将官もいると言う話です﹂
貴族の指揮官が多いのは東大陸帝国に限った話ではない。貴族や
王族などといった制度がある国では高級指揮官に一定の割合で貴族
がいる。そして残念なことに、コネや家の力のみで昇進した者も多
いのである。
﹁いくらでも優秀な人間なんているものですよ。まだ時間はありま
すし、ゆっくり見つけて行けばいいのです﹂
﹁そうですね﹂
405
−−−
だが、このラスキノ防衛司令部にはゆっくりしていられない人物
がいた。独立軍補給参謀代理であるラスドワフ・ノヴァクである。
﹁捕虜に警備の人員と食糧が奪われる⋮⋮でも殺すわけにはいかな
い、クソッ﹂
彼は取り立てて武勲を立てているわけではない。彼は増援部隊の
指揮を執った以外は後方に下がって補給と人員の整理、部隊の再編
等の後方業務を行っていたのである。地味だがとても重要な仕事で
あり、前線で好き勝手暴れるサラやヴァルタを縁の下で支え続けた。
﹁えーっと、南部戦線で矢が足りないって? だったら使うなよ!﹂
彼は前線部隊が好き勝手に物資を消費する状況に毒を吐いたが、
それでも仕事はきちんとこなした。矢の不足は、帝国軍が放った矢
を回収し再利用すること、それでも足りない場合は魔術兵によって
補うことなどの対策を部隊に提案した。
﹁次は⋮⋮あぁ、うん、そうか。食糧が足りないと言うか。俺もだ
よ!﹂
彼は今日、まだ食事を取っていない。
406
来援
合計11個師団の義勇軍増援部隊を指揮するのはオストマルク帝
国軍ヘルマン・ギースル・フォン・アンゲリス上級大将とシレジア
王国軍ジグムント・ラクス大将である。
﹁問題はどちらから先に叩くかだ。各方面の戦況はどうなっている
?﹂
﹁オゼルキ、ラスキノ、両戦線ともに苦戦してる模様です。しかし
如何せん敵の妨害が激しく思い通りの索敵行動が取れないため、詳
細は不明です﹂
﹁敵味方の数はどれほどだ?﹂
﹁オゼルキに友軍1個師団、敵軍3個師団。ラスキノに友軍1個連
隊、敵軍2個師団。ただしこれは、2週間前の数字です﹂
﹁ふむ。残ってるとしたらその半分だな。どちらに対しても至急増
援を向かわせねば全滅するだろう﹂
﹁どういたしますか? 部隊を分けますか?﹂
﹁そうだな。11個師団も展開する地形的な余裕はラスキノにもオ
ゼルキにもないか。敵中での戦力分散は些か不安だが、仕方あるま
い﹂
﹁指揮系統を統一するためにも、閣下の部隊はオストマルク軍のみ
で編制された方がよろしいでしょう﹂
﹁そうだな。ラクス大将には第10・第11師団を預ける。指揮系
統の整理が大変だとは思うが﹂
﹁構いません。3個師団では不安が残るのも確かですから﹂
義勇軍増援部隊は部隊を2つに分けた。1つはアンゲリス上級大
将が指揮する6個師団。もう1つはラクス大将指揮する5個師団。
407
アンゲリス上級大将はオゼルキを包囲している帝国軍3個師団を、
ラクス大将はラスキノ攻略作戦を実行している帝国軍2個師団を撃
滅すべく別行動を取ることになった。
諸々の準備を終えた義勇軍増援部隊が国境を越えたのは、10月
18日のことである。
−−−
︱︱同日、ラスキノ防衛司令部。
司令部内に一時的に作られた作戦会議室、そこには各戦線指揮官
だった者5名、参謀4名、そして司令官カーク准将の計10名が一
同に会していた。
最初に口を開いたのは、作戦参謀代理だった。
﹁増援が来るのは喜ばしい事ですが、いくつか問題があります﹂
﹁問題とは、何か?﹂
一人の士官が聞き返した。作戦参謀の代わりに答えたのは、補給
参謀代理だ。
﹁食糧が欠乏しかけています。捕虜を取ったこと、そして戦闘の影
響で廃棄せざるを得なかったこと、そして事故や時間経過によって
食べることが不可能になった、などの要因によって食糧の消耗が予
想以上に激しいです﹂
408
﹁⋮⋮あとどれくらいある?﹂
﹁もって4日ですね。それ以上は無理です﹂
﹁つまり4日以内に増援が到着しなければ、我々は飢えて降伏しな
ければならなくなる、ということです﹂
﹁増援の到着はいつになるか?﹂
﹁10月20日と思われますが⋮⋮﹂
﹁とすると、ギリギリ間に合うか﹂
﹁ですがこれは﹃早ければ﹄という文言が追加されます。おそらく
10月20日に来ることはないでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
会議室に陰鬱な雰囲気が流れた。
増援到着が遅れる要因はいくらでもある。合計11個師団の大軍
ともなれば行軍は遅くならざるを得ない。それに帝国軍がこの動き
を察知し、迎撃に出るかもしれない。ラスキノとオゼルキの帝国軍
は合わせて5個師団で、どう考えても帝国軍に勝ち目はないが、数
日程度なら増援部隊を食い止めることはできる。その数日で、ラス
キノが飢餓状態になる可能性があるのだ。
﹁せめて、南の橋が生き残っていたら⋮⋮﹂
誰かがそう呟いた。
言わんとしてることは皆承知している。南の橋が残っていたら、
我々は敵軍を強行突破し南からくる増援と合流することもできた、
という意味である。
﹁今更そんなこと言ってもしょうがないでしょ﹂
その呟きに反論したのは、北西戦線前線指揮官だった女性士官で
ある。階級も年齢も上かもしれない誰かの呟きに対し、敬語を使わ
409
ない粗雑な態度で言い放った。
﹁橋を破壊しなかったら、今私たちはこんなところで悠長に話し合
ってる暇なんてなかったわよ。今よりもっと辛い状況にあったかも
しれない。それに南に逃げれたところで、民間人をどうするつもり
なの?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ふんっ﹂
言いたいことをさんざん言えて満足したのか、彼女はそれ以上追
及しなかった。
﹁過ぎてしまったことを今更論じてしまっても仕方ない。今話し合
うべきなのは、これからどうするかだ﹂
カーク准将は議事を本来の方向に修正する。
﹁せめて増援がいつ来るかが分かればいいのですが⋮⋮﹂
﹁だが偵察できるほどの余裕はない。新市街南側は、数が少なくな
ったとは言え敵の哨戒網がある。迂闊に偵察隊を派遣できる状況で
はない﹂
ラスキノ新市街南側の帝国軍は撤退し、北部の師団と合流した。
しかし依然として偵察及び嫌がらせ部隊が駐留していたため、ラス
キノ軍は南側へ渡ることができなかった。
﹁とりあえず、4日後の食糧がなくなる日ギリギリに来援すると仮
定して作戦を練りましょう﹂
410
この日、ラスキノ軍の作戦会議は夕暮れまで続いた。
−−−
南から接近する大軍を発見した、という報告がカーク准将にもた
らされたのは10月21日午前10時45分のことである。
﹁援軍か?﹂
﹁わかりませんが、帝国軍ではないことは確かです﹂
﹁理由は?﹂
﹁帝国の偵察隊と思われる部隊と交戦してる模様で、魔術の発動光
が確認されています﹂
﹁なるほど。ならあれは援軍と考えてよさそうだ﹂
ラスキノ独立軍の食糧庫は既に空だった。明日になれば降伏を検
討しなければならなかっただろうが、間一髪でそれは免れた。
﹁だがまだ問題が解決された訳ではない。帝国軍が、あの増援を食
い止めるために動くことも考えられる﹂
﹁わかっております。そのためにどうするべきか、先日の作戦会議
で決めたのですから﹂
﹁そうだったな。所定の計画に従い、準備を進めさせろ﹂
﹁ハッ!﹂
411
412
ラスキノ攻防戦 ︲最終作戦︲
10月21日午前11時。ラスキノ独立軍の稼働可能兵力250
0余名は旧市街北側に集結した。ずっと300名前後で防衛してた
から、桁が1つ上がると壮観だね。道幅がなくて陣を展開しにくい
んだけどね。
﹁作戦って言っても簡単だよ。ガッと進んでバサッと切るだけだか
ら﹂
﹁バカにしてるの?﹂
﹁ごめんなさい﹂
そう言えばサラさんも作戦会議に出席してましたね。作戦知って
ましたね。
﹁でもこれ何の意味があるの?﹂
﹁知らないのかよ⋮⋮﹂
作戦内容は知ってたけど作戦目的はわからなかったらしい。それ
も議題だったはずなんだけどなぁ。
﹁まぁそれも単純明快だよ﹂
﹁わかりやすく説明して﹂
﹁負けたら死ぬ﹂
﹁いつも通りね﹂
﹁いつも通りだね﹂
ちなみにここにいる2500余名以外の兵は南部戦線の監視を行
413
っている索敵隊と予備兵力、そして戦力外、合わせて355人。つ
まりここにいる約2500人が全滅すれば組織的抵抗は不可能にな
る。でも成功しなきゃ食糧不足で飢え死にするだけなので安心して
ください。
﹁にしても動きづらいわね﹂
﹁本来の野戦はこれを10倍でかい規模でやるんだよ﹂
10万人が一同に会して隊列を組んで戦闘するなんて稀によくあ
る。でも確かに動きづらいね。まだ城壁内で狭いってのもある。
﹁まぁ戦闘になれば事前に決めた隊ごとに動くから、空間に余裕が
できると思うよ。味方も死んでそれなりに間隔も取れるかも﹂
﹁私が死んだらユゼフも道連れにするわ﹂
﹁ごめんなさい頑張って生き残りましょう﹂
ホント怖いこの子。
11時10分。作戦の最終確認。
第334部隊のメンバーが額を合わせて作戦会議。今回はラデッ
クも前線参加だ。頑張れ補給参謀。
﹁この作戦は、帝国軍の奴らが南の友軍増援部隊に対して邀撃行動
をさせないために、こちらに耳目を集めさせることが目的としてい
る。だから、派手に暴れ回らなければならない。いいですね?﹂
﹁今まで溜めた魔力は全部ここで開放してもいいのか?﹂
414
バーサーカー
南西戦線の狂戦士ヴァルタさんらしいお言葉ですね。感激です。
﹁構いません。この機会を逃したら、次はいつ全力を出せるかわか
らなくなりますよ﹂
﹁じゃあ。本気を出そう﹂
﹁それに派手に暴れて、大爆発を起こそうものなら南の増援部隊も
焦るかもしれません﹃もしかしたら帝国軍の大攻勢を受けて陥落目
前なのでは﹄とでも思って行軍速度を速めてくれるかもしれません
し﹂
﹁そうすれば我々の置かれた状況はより良くなる、とうことですね﹂
﹁えぇ。よくなって貰わねば、ラスキノ軍は飢餓で死ぬ羽目になり
ます﹂
﹁でも、あまり派手にやると敵の魔術攻勢をかけてくるんじゃない
の?﹂
﹁魔術攻勢を封じるために乱戦に持ち込むしかない。この状況下で
敵味方もろとも魔術で皆殺し、ていう判断を帝国軍がするとは思え
ない。帝国軍も余力がなくなってるみたいだしね﹂
﹁でも用心して然るべきでしょう﹂
﹁そうですね。ですので新市街に到着したら散開して的を絞らせな
いようにしましょう。散開したらゲリラ戦です﹂
敵味方の耳目を我々に集めるため、派手に戦わなければならない。
故にこっちは容赦なく上級魔術を行う。
﹁では具体的な作戦行動を説明します。作戦開始時刻は午前11時
30分で⋮⋮﹂
−−−
415
11時30分。作戦開始。
第一陣が橋を北上する。数はおよそ200。その進撃を旧市街の
城壁から弓兵や初級・中級魔術兵が援護している。帝国軍はすぐに
迎撃の部隊を出した。あちらは倍の400と言ったところかな。
﹁第二段階! 上級魔術詠唱開始、目標は敵防衛拠点!﹂
カーク准将が声を張って指示を出す。数分後、旧市街上空に上級
魔術特有の発動光が現れる。
帝国軍はその光を見て後退を始めたが、時すでに遅く、無慈悲な
上級魔術の業火が対岸の敵拠点を粉砕した。
﹁第二陣突入!﹂
第一陣が敵軍をおびき寄せ、上級魔術の有効射程内に引き摺り込
む。その隙に第一陣が対岸に突入し拠点を確保、第二陣が周辺地域
を確保する。そして⋮⋮。
﹁工兵隊、渡河作戦開始!﹂
北西戦線に敵の注意をひきつけた後、北中・北東戦線で渡河を試
みる。その際に上級魔術によって対岸攻撃も仕掛ける。
﹁どう? 上手くいってる?﹂
サラが城壁に上ってきた。危ないから降りなさい。って城壁の上
416
で胡坐かいてる人が言える台詞じゃないか。
﹁上手くいってるよ。恐ろしいほどにね﹂
北中・北東戦線で渡河作戦を開始したことによって、帝国軍の前
線兵力が3か所に分散される様子がここからでも見てとれる。この
渡河作戦は陽動で、帝国軍が散らばった時点で独立軍の勝ちだ。す
でに第三陣が北西の橋の突破に成功し、橋頭堡は完全に確保できた。
﹁サラ、そろそろ城壁から降りて橋を渡るよ。俺らは第五陣だから
ね﹂
﹁わかったわ﹂
−−−
一方帝国軍司令部は混乱の極みにあった。
約5個師団のシレジア軍が国境を突破し、ラスキノのすぐ南に展
開しているという情報が入ってきたからである。その事態に追い打
ちをかけるかのように、ラスキノ独立軍が攻勢作戦を開始。指揮系
統が混乱しているところに攻勢を受けたため支え続けることができ
ず、独立軍に渡河を成功させてしまったのである。
独立軍はなおも攻勢の手を緩めなかった。各戦線の街道に対して
魔術攻勢を開始。魔術による直接被害は少なかったものの、倒壊も
しくは炎上した建造物に退路を阻まれ右往左往しているところを背
後から襲われると言う事態が多発していた。
新市街北側は攻勢開始1時間と待たずして独立軍が市街の七割を
417
掌握するに至った。この事態に、帝国軍のサディリン少将は憤慨し
た。
﹁バカな! 我々が2週間かけて奪った新市街を、たった1時間で
奪還されるだと!?﹂
﹁閣下⋮⋮﹂
﹁反乱軍に目に物見せてやる! 全軍、新市街に突入せよ!﹂
﹁閣下、無茶です!﹂
﹁無茶なものか! 奴らにできて、なぜ我々にできないと思うのか
! 町の被害や友軍の被害を気にするな! 上級魔術を使われたの
なら、我々も使うまで! 魔術攻勢をかけ反乱軍を一気に殲滅する
のだ!﹂
﹁しかし閣下! よしんばそれに成功したとしても、南から新たな
敵軍が来ているのです! ここは一端御退きになってください。さ
もないと、我々が逆包囲される危険があります!﹂
﹁逆包囲されるのであれば、我々は反乱軍がやったようにラスキノ
に立て籠もるまでだ! 突撃しろ!﹂
しかしサディリンが命令しても部下は動かなかった。ほとんど皆
がうんざりしており、従う気力がなくなったからである。だが、帝
国軍督戦隊や憲兵隊が司令部に集まると、部下は嫌々サディリンの
命令を実行する羽目になった。
そのためか、帝国軍の反撃は連携不足で、士気が著しく低いもの
だった。上級魔術の攻勢も無秩序の極みで、何もない建造物を多数
破壊したところで魔力切れを起こした。これは魔術兵部隊が﹁魔力
切れを起こすまで戦いました後は知りません﹂と言い訳するための
攻撃だったことが後に判明している。
また第55師団のシロコフ少将は冷然とこの命令を無視した。本
来であれば抗命罪に問われる行為であったが、彼にも言い分はあっ
た。それは午後2時15分にシレジア・オストマルク義勇連合軍の
418
増援部隊50,540名がラスキノ市外縁部東に到着したためであ
る。
ラスキノの東にある橋は、道幅がそれほど広くないため5個師団
の軍隊が一気に渡河することはできない。そこでシロコフ少将はこ
の橋を封鎖し、渡河作戦を妨害したのである。だが、既に8,00
0名弱にまで部隊が減っていた第55師団が、50,000を超え
る大部隊の渡河を阻止するだけの力はなかった。1時間ほどの戦闘
によって第55師団は敗退し、義勇軍増援部隊の渡河を許してしま
った。
事ここに至り、帝国軍ラスキノ市反乱鎮圧部隊総司令官サディリ
ン少将は自らの敗北をようやく認め、全軍を退却させた。
10月21日午後3時27分の出来事である。
419
戦後処理
10月22日。
オゼルキ、及びラスキノを包囲していた帝国軍は圧倒的多数で迫
る義勇軍連合部隊を前になすすべなく撤退した。
増援の義勇軍を指揮するジグムント・ラクス大将は追撃しなかっ
た。敵が撤退した以上、戦略的な意味で戦う必要を見出せなかった
ためである。また追撃して帝国軍を壊滅させれば、激昂した帝国政
府がさらに増援を繰り出す可能性もあった。
しかしやりすぎるとまずい、と言うには些か遅きに失した感はあ
る。帝国軍は既に甚大な被害を受けていたからである。特にラスキ
ノを包囲していた帝国軍は、将兵19,680名の約4割である7,
813名の戦死傷者を出していた。一方、ラスキノ防衛軍は729
名を失ったのみであり、数字だけを見ればラスキノ独立軍の完勝と
言っても良いものであった。だがラスキノ軍は食糧が枯渇しており、
あと数日戦いが続いていれば戦勝者の名は変わっていただろう。
国
は糧食が不足しているた
﹁閣下。ラスキノの防衛司令部から連絡です﹂
﹁なんだ?﹂
﹁はい。﹃来援に感謝す。現在我が
め、物資の提供を求む﹄とのことです﹂
﹁腹が減ってどうにもならないということかな。了解した。物資の
一部を分けてやれ。それと、本国に連絡して補給物資の追加要求も
してくれ﹂
﹁ハッ!﹂
﹁⋮⋮やれやれ。5個師団の補給をどうにかするだけでも大変なの
420
に。ここに来て1個師団増えるなんてなぁ﹂
数日後、十数万人分の補給物資の要請を受け取ったシレジア王国
財務尚書が貧血を起こして倒れたのは言うまでもない。
−−−
10月24日。
ラスキノに1ヶ月ぶりの平穏が訪れた。
﹁あぁ、久しぶりに生の野菜が食べられる⋮⋮﹂
ピクルス
ここ1ヶ月、瓶詰の漬物野菜しか食べてなかったからね。野菜の
生の味がする。おいしい。
﹁良く味わって食えよ。増援の奴らが気前よく渡してくれたんだか
らな﹂
﹁わかってるよ﹂
補給の問題と言うのは古今東西どこの国でも頭を悩ませる話だ。
悩んでるのは主にラデックだけど。
前線部隊が、今回の場合は先遣隊と増援部隊合わせて12個師団。
その12個師団を養えるだけの食糧、そして矢や剣などの武器、い
ったいどれくらいの量になるんだか想像もできないね。ちなみに1
個師団を支えるのには1個師団の後方支援部隊が必要だと言われて
いる。今回の場合は12個師団の後方支援部隊が王国内で動いてい
421
ると言う訳だな。シレジア軍1個分がこの戦争に加担してるという
のか。怖い。
﹁ラデックには頭上がらないな﹂
﹁そうだな。だから今度からその辺よく考えて戦ってくれ﹂
﹁保障はしかねる﹂
﹁おい﹂
前線指揮官の要望に応えるのが補給参謀の仕事だよラデックくん。
10月25日。
ラスキノ市警備隊長ゲディミナス大佐が、ラスキノ市及びその周
辺都市の独立を高らかに宣言した。どうたらこうたら演説をしてい
たけどあんた今回何もしてなかっただろ、というかまだ生きてたの
か。大佐はここ1ヶ月の物資不足から自らの食欲を満足させる生活
を送れなかったせいか、結構痩せていた⋮⋮というよりゲッソリし
ていた。見てて可哀そうだったので追及するのはやめとく。
独立宣言と同時に、カーク准将はラスキノ市警備隊の指揮権をゲ
ディミナス大佐に返還した。大佐はとりあえず表面上は謝意を表明
していたが、内心どう思っているのやら。
ラスキノ市の詳細な被害がわかったのもこの日である。民間人の
死者は合計で28名。原因は逃げ遅れたり、逃げるのを拒否したり、
戦闘に巻き込まれたり。少ないか多いかはわからん。また建築物の
被害は甚大だった。橋が4本通行不能、北側新市街も最終日に無秩
序な上級魔術攻勢を受けたために85棟が全壊、その他の建物もな
んらかの被害を負っているというものだった。こりゃ復興が大変だ
な。⋮⋮でも半分俺のせいか。嫌になるね。
422
だがそれ以上の問題がまだ残されていた。市街に大量に残された
死体の問題である。
この時代の、もしくはこの世界の死体処理は単純だ。武器も服も、
下着でさえも、使えそうなものはあらかた剥ぎ取る。敵味方関係な
く、死者に尊厳なぞなく、裸のまま放置される。戦死体が女性だっ
た場合は別の使い道もあるだろうけど、基本放置だ。でも今回は籠
城戦だったことや帝国軍が熱心に味方の死体を回収しなかったこと
から、町には死後数週間経った死体が多くあった。このままだと疫
病の心配が出る。
元新市街市民には﹁敗残兵が新市街に残ってる可能性がある﹂と
して旧市街に留まってもらっている。
﹁きついだろうが、死体を集めてくれ。武器や胸甲などの金属装備
は剥ぎ取ってな。ある程度集まったら上級魔術で焼くから﹂
本来ならば医務科や輜重兵科の仕事だが、俺らも参加するよう言
われた。だから俺たちも死体集め。あちこちで死臭が漂っており、
どう考えても衛生的ではない。あまりにも腐敗が酷いものはその場
で中級魔術を使って火葬する。武器などは戦利品として本国に持ち
帰ったり、住民に迷惑料・賠償金の代わりとして渡したりするらし
い。それもそうか。農地や家なんか壊されてるだろうから、それが
ないと生きてけないか。
翌10月26日午後5時30分。ようやく新市街北側の死体処理
が終了した。しばらく肉は食べたくないな⋮⋮。
それと同時に、南側の仮設橋の架橋が終了したらしい。次は南側
の死体処理⋮⋮と思ったがそっちは増援部隊がやってくれるらしい。
423
10月27日。第33歩兵小隊総勢28人が防衛司令部の作戦会
議室に召集された。
﹁10月29日を以って、諸君らをラスキノ防衛の任から解く。代
わって命令する。本国へ帰投し、王都にあるシレジア王国軍務省に
出頭せよ。⋮⋮おそらく軍務省で諸君らの卒業後の配属先が言い渡
されるのであろう。本来ならば士官学校で行うものだが、今回は特
別だ﹂
そう言えば俺らまだ卒業してないんだった。卒業試験は終わった
けど、卒業証書的なものは受け取ってないな。
﹁やっと本国に帰れるのね﹂
﹁短いようで長いようで⋮⋮いややっぱり短いかな﹂
召集されてからまだ2ヶ月くらいしか経ってないもんな。短くも
濃厚な日々だったよ。あまり嬉しくないけど。
﹁王都への報告も滞ってしまったからな。エミリア様のお父上も心
配してらっしゃるでしょう﹂
﹁そうですね。早く帰らないと心配をかけてしまいます﹂
そんな会話をしながら会議室から出ると、そこにはカーク准将が
いた。
﹁ヴィストゥラ様、本国にお帰りになるそうですね﹂
﹁はい。此度はお世話になりました。カーク准将﹂
﹁いえ、私もヴィストゥラ様を始め、多くのシレジア人に助けられ
ました。こちらこそ、感謝申し上げます。⋮⋮ところでヴィストゥ
424
ラ様。少しよろしいでしょうか?﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁先日の会談の続きを、許可できませんでしょうか﹂
そう言えばまだ途中だったね。オストマルクとシレジアが手を結
ぶという話。
﹁分かりました。明日、この会議室でお会いしましょう。いくつか
聞きたいこともありますので﹂
﹁承知致しました﹂
425
同盟
10月28日。
防衛司令部作戦会議室にはエミリア・シレジア王女殿下、カーク
准将、そして第334部隊のメンバー。そして扉の外にはゼーマン
軍曹が警備している。
1ヶ月ぶりの会談だ。
﹁会談を始める前に、閣下にお聞きしたいことがあります﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁あなたは、何者ですか?﹂
場が一瞬、静まり返った。
﹁あなたがただの軍人であるはずがありません。一介の准将が、こ
のような外交の場につくことなど、ありえませんから﹂
﹁⋮⋮貴族だから、ではダメですかな?﹂
﹁ダメでしょう。それともオストマルク帝国には武官と文官の区別
がないとでも仰るのですか?﹂
武官が政治の領分に入るのは厳禁。武官ができる政治は軍事に関
することだけ。軍事独裁国家でなければ、どこの国でもこれは守ら
なければならない原則だ。一応はね。
﹁これは手厳しい﹂
﹁貴方が何者かを教えてくれないのであれば、今日はこれまでとし
ましょう﹂
426
エミリア殿下はそう言うと立ち上がって、会議室から去ろうとし
た。演技だろうとは思うけど。
﹁⋮⋮私は、オストマルク帝国外務省調査局のローマン・フォン・
リンツと申します、殿下﹂
﹁リンツ⋮⋮リンツ子爵、ですか﹂
﹁左様です﹂
どうやら我が王女様は准将の正体に心当たりがあるらしい⋮⋮け
ど口を挟みにくい雰囲気。後で聞いておこう。
﹁して、リンツ子爵閣下は我が国に対し何を要求するのでしょうか﹂
﹁要求、というより提案と言ったところですが。先日私が言ったの
と同じこと、つまりはシレジアとオストマルクが手を結び、共通の
敵に対して肩を並べ対処する枠組みの形成です﹂
﹁⋮⋮その枠組みについて、いくつか質問があります﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁貴国が、そのような提案をなさる理由について聞きたいのです﹂
周辺国にとって、シレジアはただの餌だ。肥沃な土地に、そこそ
この人口と経済力がある。だが国土の大きさに比して軍事力は貧弱
と言ってもいい。その気になれば、それこそ鎧袖一触で滅亡できる
くらいに。そんな国と同盟を結ぶより、いっそ他国と結託して一緒
にシレジアを滅ぼした方が何倍がお得な気がするが。
﹁各国にとって、我がシレジアは併呑してしまった方が良いでしょ
う。その中で、貴国が我が国と同盟すればいらぬ軋轢を生むのでは
?﹂
﹁確かに、殿下の仰る通りではあります。しかし我が国、そして貴
427
国にも利点がある話だと思います﹂
﹁利点、とは?﹂
﹁まずご質問にあった我が国の利点について述べましょう。我が国
はシレジアと同盟関係を結ぶことによって、共通の敵に対する牽制
ができます﹂
﹁共通の敵?﹂
﹁東大陸帝国、と言えばよろしいでしょうか﹂
東大陸帝国は現在、経済が低迷している。でもそれが立て直され
るのも時間の問題かもしれない。最悪の時期は脱したし、国内の改
革をどうにかして推し進めれば一気に巨大な帝国が再誕することに
なるだろう。
﹁シレジアが滅亡し、各国に分割された後はどうなるでしょうか。
答えは簡単明瞭、3つの国が覇を競いあうこととなるでしょう。シ
レジアを戦場として﹂
﹁⋮⋮そうですね。しかしそれだけでは、貴国がシレジアに加担す
る理由にはなり得ません。もっと別の国、たとえばリヴォニア貴族
連合と組んだ方がよろしいのではないですか?﹂
﹁無論それも考慮に入れましたが⋮⋮些か気になる情報があったも
ので﹂
﹁それは?﹂
﹁⋮⋮いえ、いまだ未確認情報の部分が多く、お答えするのは差し
控えておきましょう。とにかく、リヴォニアと我が国は手を結ぶこ
とはできないと思います。だからこそ、私たちは残された選択肢と
して、シレジアとの同盟を望むのです﹂
﹁しかし我がシレジアと貴国との間にわだかまりがないわけではあ
りません。そうですね?﹂
ここで言うわだかまりとは、先の第二次シレジア分割戦争の時に
428
オストマルク帝国に割譲させられた元シレジア王国領のことである。
そなりの経済規模を持った貴族領を2つ割譲させられたため、シレ
ジア王国の経済が低迷した。そして当地に住むシレジア人の処遇に
ついても、あまりいい噂は聞かない。
﹁はい。仰る通り、難しい問題があるのも確かです。その点につい
ては今後、2国間で話し合って解決できればと思います﹂
カーク准将、いやリンツ子爵は明言を避けた。あくまでここは非
公式の場だし、子爵は大臣ではない。政治的係争地の処遇について
権限を持っていないだろう。
﹁⋮⋮わかりました﹂
エミリア殿下もわかっていたのか。それ以上は追及しなかった。
休憩という名目で、リンツ子爵は別室に移動してもらった。こう
いう外交の場で休憩っていうのは﹁ちょっと周りから意見聞きたい
なー﹂という意味だ。本当に休憩する奴はいない。
﹁みなさん、どう思いますか⋮⋮と言っても、ここには政治家はい
ませんが﹂
﹁殿下、私たちは一介の軍人であり、武官です。政治の領分に首を
突っ込むのはどうなのでしょうか﹂
﹁問題ありません。ここは非公式の場で、ここはラスキノ軍防衛司
令部の作戦会議室。そして議題はシレジアの国防問題について。だ
から、あなた達が意見するのは許されます﹂
429
だいぶ屁理屈のような気がするが⋮⋮まぁいいか。
﹁私は難しくてよくわかんなかったわ。だからユゼフに任せる﹂
﹁俺もマリノフスカ嬢に同意見。こういうのはユゼフの領分だろ﹂
﹁私もユゼフくんの意見が気になるな。私の意見はユゼフくんの意
見を聞いてからにしよう﹂
﹁ヴァルタさんまでそんなこと言うんですか⋮⋮﹂
俺は参謀であって外交官ではないのだが。
﹁はぁ⋮⋮。私の個人的な意見としては、今の段階では判断すべき
ではないとは思います﹂
﹁先送り、ということですか?﹂
﹁はい。現状この同盟は利点よりも難点の方が多いです﹂
ひとつは、さっきもエミリア殿下が指摘したように、両国との間
には埋めがたい確執があることだ。
分割戦争で勝ち取った元シレジア領をオストマルクがホイホイ手
放すとは思えない。仮にシレジアが譲歩して返還をお求めなくても、
そこに住むシレジア人は王国に対してどう思うだろうか。﹁王国は
俺らを見捨てた﹂と思うだろうな。こっちにその気はなくても、民
衆はそう思う。そしてシレジア人が下手したらオストマルクで反乱
を起こして、さらに締め付けが強くなって、シレジア事態の不信に
繋がり同盟事態がぽしゃる。あるいはシレジア王国内からも不安や
不満が高まって反乱を起こす⋮⋮という可能性もないわけじゃない。
これを解決するには、せめてオストマルクが少数民族に対して寛
大な政策を行うように要請し、そしてあくまでもそこはシレジア王
国領なのだと主張し続けなければならない、形の上だけでもね。
ふたつ目は、東大陸帝国の動向だ。
430
仮にシレジア・オストマルク同盟が成立したとして、あの帝国は
どう思うだろうか。確かに正面からシレジアを攻め落とすのは難し
くなった。オストマルクはキリス第二帝国以上の実力を持つとされ
る大国だ。
そんな国と同盟を結べばどうなるか。東大陸帝国は自分も仲間を
見つけようとするのではないか? 例えばキリス第二帝国。例えば
リヴォニア貴族連合。オストマルクとの間になんらかの対立を抱え
てる国は他にも。その国と手を結んで、同盟に二正面作戦を強いれ
ばどうだろうか。もしそうなったら、オストマルク分割戦争の始ま
りだな。
その対策は⋮⋮対東大陸帝国同盟としてリヴォニアやキリスを巻
き込んだ大同盟を組むことだろうけど、やっぱり各国にあるわだか
まりというか係争地が多いから容易ではないだろうな。
そして三つ目。たぶんこれが一番面倒な問題かもしれない。
﹁それはいったい、なんですか?﹂
﹁1ヶ月前にもカーク准将が仰っていたことです。カロル大公派で
すよ﹂
﹁叔父様⋮⋮﹂
﹁カロル大公、もしくは大公派は東大陸帝国と密接な関係にあると
思います﹂
根拠がないわけではない。5年前のカールスバート政変だ。
あの政変、そして戦争、王女一団襲撃、あれは全て東大陸帝国が
裏で糸を引いていたのだろう。東大陸帝国はカロル大公と共和国内
の不平分子と繋がりを持った。不平分子のクーデターに加担し、そ
してそのクーデターの情報を大公派にリークした。
そして王女がカールスバートに入国した途端、政変が発生。辛く
もシレジア王国内に逃れることができた。だがそこで共和国軍の騎
431
兵隊に襲われた。しかも護衛は子供と素人ばかり、本来なら全滅だ
っただろう。
大公派は人事権を濫用して素人集団に護衛させ、さらには共和国
軍を王国内に招き入れ、自然な形で王女を殺そうとしたのだ。王女
一団がすぐに発見されたのも、きっと帰還ルートの情報が敵に渡っ
ていたから。
そして敵騎兵隊に紛れていた所属不明の騎兵隊長さん。あの紋章
がない豪華な剣を持つあの人。おそらくは東大陸帝国の人間だった
のだろうな。
これで大公派は東大陸帝国と繋がっている、と思わない方が不自
然だろう。
﹁と言ってもこれは推測です。物証があるわけではありませんが﹂
物証もなしに大公を弾劾できない。そもそもあの時は大公は馬車
の故障でエミリア王女様から遠く離れた場所にいたのだから。貴族
の誰かがやっただけだ、と言われてトカゲのしっぽ切りが行われる
のが関の山だ。そしてその証拠を掴んだ俺らはたぶん死ぬかもね。
訓練中の事故とか友軍誤射とかそんな理由で。
﹁ユゼフくんの推測が当たっていたとすると︱︱いやおそらく当た
っているだろう︱︱オストマルクとの同盟は危険が大きいですね﹂
﹁えぇ、下手をすれば⋮⋮﹂
エミリア殿下は、それ以上言わなかった。みんなわかっていたか
ら、言う必要がなかったのだ。
東大陸帝国と繋がりを持つカロル大公。
432
オストマルク帝国と繋がりを持つかもしれないエミリア王女。
このふたりはどちらもシレジア王位継承権を持つ身である。
下手をすれば、内戦になる。
433
帰路
﹁リンツ子爵閣下。今回のご提案、大変興味深い物でしたが保留と
させてください﹂
エミリア殿下がそう返答すると、リンツ子爵は意外にも笑顔だっ
た。
ははーん? これは最初から期待してなかったな? どうやら、
提案をするのが目的だったようだ。そして王女殿下が本当に信用で
きるかどうか、そのテストも兼ねていたのだろう。殿下は目先の利
益に飛びつかず、かと言って拒否もしなかった。物事の道理が分か
る王女殿下、カロル大公よりは話せる人だ、そんな感じだろうか。
やれやれ、結局王女殿下はオストマルクとのパイプを持つに至っ
たのか。非公式かつ元戦場での急場の会談で、互いが身分を隠して
いたから外部に漏れる心配はないだろうけど、エミリア王女は親オ
ストマルク派と思われても仕方ないだろうな。
﹁その返答が聞けただけでも十分な収穫です﹂
リンツ子爵はそう言って笑ってみせた。こんな笑顔の子爵、もと
いカーク准将は今まで見た事ないな。オッサンだけど。
﹁それでリンツ子爵。私の方からも提案があるのですが、よろしい
ですか?﹂
﹁ほほう? なんですかな?﹂
﹁今回の件について、今後より話し合いをするためにも、信頼でき
る人をそれぞれの大使館に派遣するのはどうでしょうか﹂
434
エミリア王女様の意向を汲んだ部下をエスターブルクのシレジア
大使館に、そしてリンツ子爵の意向を汲んだ部下をシロンスクのオ
ストマルク大使館に派遣する。そうすれば機密を守ったままその後
の交渉ができる。間接的で少し手間がかかるのは仕方ないが。ちな
みにこれはヴァルタさんの提案だ。
﹁承知しました。本国に帰って上司に相談しましょう。了解が取れ
次第、大使を派遣します。シレジアからの使者は、こちらの大使が
シロンスクについた時点で送っていただければ結構です﹂
その後は特に何も提案も話もなく、会談は終了した。
この10月28日の会談は、果たしてシレジアの未来をどう変え
るのか。
−−−
10月29日。
我ら第33歩兵小隊がシレジアに帰れる日。およそ2ヶ月だから
そんなに離れてないんだけど、気分的には2、3年いた感じがする。
ともかく帰れる。たぶん死ぬ心配もない。
そしてシロンスクの軍務省で卒業後の辞令が下る。
﹁⋮⋮﹂
435
ラスキノから出発して暫く経った頃、気づいたらサラがこっちを
じっと見てた。なんかついてる?
﹁どうしたの?﹂
﹁いや、これでユゼフたちともお別れになるのかなって思っただけ
よ﹂
あー、そうか。そうだな。普通に考えたら同期生が同じ勤務地に
なるはずないし。場合によっては反対方向に配属されるかもしれな
い。そうなれば、数年は会えないだろうね。
﹁なんだかんだ言って5年の付き合いだったから、いざお別れとな
ると感慨深いものがあるな﹂
﹁何言ってんだよ。もしかすると同じ勤務地になるかもしれないだ
ろ﹂
﹁そうなってくれれば、寂しくはないんだけどねぇ⋮⋮﹂
あまり期待しないでおこう。僻地勤務じゃなかったら私はどこで
もいいです。
﹁そう言えばこの第4班の偏った編成は誰の仕業なのかしらね?﹂
﹁そういえばそんなこともあったね﹂
ラスキノじゃ別行動が多かったから同じ班として戦った感じがな
いけど。
このことについては意外なことにヴァルタさんがクツクツと笑い
ながらその答えを教えてくれた。
﹁推測だが、答えが分かる気がするよ﹂
﹁え? そうなんですか?﹂
436
﹁あぁ。出撃前、つまり士官学校で教師たちから﹃上層部からの命
令であるから行くな﹄という話があったのは覚えているかい?﹂
﹁あぁ、そんなのありましたね﹂
確かにエミリア様とヴァルタさんが呼ばれたことあったね。あれ
か。
とは言ってない。
上層部
と言ったの
﹁エミリア様は軍務省からの命令だと思ったみたいだけど、私は違
うと思うんだ﹂
軍務省
﹁え? 違うんですか?﹂
﹁あぁ。彼らは
さ﹂
﹁別に軍務省を上層部と言い換えても問題ないのでは?﹂
上層部
というのは、この国じゃ3つある﹂
﹁問題はないが、上層部だともっと広い意味があるからね。軍に命
令できる
﹁⋮⋮まさか﹂
軍の上層部と言ったら普通は軍務省だが、王制・貴族制国家の場
合、王族や貴族の圧力がかかる場合がある。一応人事権は軍務省に
しかないが、私利私欲のために王族貴族が横槍を入れることはまま
あることだ。
そんで俺たちのことはヴァルタさんが王宮に定期的に送っていた
報告書で知ってたんだろう。
﹁お父様ぁ⋮⋮﹂
エミリア様が項垂れていた。どうやら俺と同じ結論に至ったらし
い。
﹁ま、まだ国王陛下と決まったわけでは⋮⋮﹂
437
﹁いえ、十中八九お父様の仕業だと思います﹂
﹁その心は?﹂
﹁私が士官学校に入ったことを知っているのは宮廷内では王族と軍
務尚書だけです﹂
﹁なるほど﹂
王族と言うと国王と大公しかいないし、大公が意図してこの編成
にする理由がわからない。軍務尚書がやったとしても、国王の無言
の圧力だろうか。
﹁人事権の濫用をするなんて王族の恥です! こうなったらお父様
に目に物見せてあげます!﹂
しいぎゃく
国王陛下を弑逆でもするんだろうかこの王女様。こわい。
﹁そ、そう言えばヴァルタさんって結局何者なんですか?﹂
無理矢理話題を変えてみる。
国王陛下の信任を受け王女を護衛、監視して定期的に報告書を送
るなんて普通の人じゃできない。前から気になってたけど聞きそび
れてしまった。
﹁言ってなかったか?﹂
﹁聞いた覚えはないですよ﹂
﹁ふむ⋮⋮確かに卒業したらいつ会うかわからんしな。教える機会
もないか。⋮⋮よし、条件付きで教えてやろう﹂
﹁条件?﹂
﹁私のことをヴァルタと呼ぶのはやめて欲しい﹂
﹁? あぁ、偽名だからヴァルタじゃダメってことですね﹂
﹁違うそうじゃない﹂
438
違うの? じゃあなんで?
﹁分からないか。よし、君はラスドワフ・ノヴァクのことを何て呼
んでいる?﹂
﹁どうしたんですかいきなり。それとノヴァクって誰ですか﹂
﹁俺だよ!﹂
﹁あぁ、ラデックか。ラデックはラデックって呼んでますよ?﹂
﹁じゃあエミリア・ヴィストゥラ様のことは?﹂
﹁エミリア様﹂
﹁サラ・マリノフスカは?﹂
﹁サラさん﹂
﹁殴るわよ?﹂
﹁嘘ですごめんなさいサラって呼んでますはい﹂
﹁では私、マヤ・ヴァルタのことは?﹂
﹁ヴァルタさん﹂
﹁なんでだ。なぜ私に対してだけ余所余所しいのだ﹂
いやなんでって、ヤンキーを名前で呼ぶことなんて私には無理で
す。言わないけど。
﹁私のことをマヤ、と呼ぶなら教えてやる﹂
﹁じゃあいいです。正体教えてもらわなくて﹂
﹁なぜだ!?﹂
そこまでして知りたいと言う訳でもないし。なんか誰かに適当に
聞けば分かりそうだし。
⋮⋮いやヴァルタさんなんで涙目なんですかそんなに自分の正体
教えたかったんですか。あ、泣いてないか。怒ってるねこれ。怒り
ながら涙を流してるんだね。怖いよ、ホラーだよ!
439
﹁ユゼフくん﹂
﹁な、なんでせう﹂
﹁私の正体知りたいよな?﹂
﹁い、いや別に﹂
﹁知りたいよな?﹂
﹁シリタイデス﹂
お願いですから肩をそんなに強く掴まないでください折れるから。
﹁そうか、やはり知りたいか! そうだと思ったんだ!﹂
元気だなー、この人。
﹁では、私のことは気軽にマヤと呼んでくれたまえ。そしたら教え
てやろう﹂
﹁いえ、あの遠慮しま﹂
﹁呼べ﹂
﹁ハイ﹂
故郷の両親へ。どうやら私は士官学校に通ってむしろ弱くなった
ようです。一人の不良の言うことを何でも聞いてしまう人になって
しまいました。
﹁で、では、ヴァ⋮⋮マヤさん。どうかあなたの正体をこの不肖の
身に教えてくれないでしょうか﹂
﹁なぜそんなにへりくだるんだ⋮⋮まぁいい。教えてやろう﹂
マヤさんは一呼吸置いた後、威勢のいい声で教えてくれた。
440
﹁私は、マヤ・クラクフスカ。クラクフスキ公爵家の長女だ!﹂
﹁へー﹂
﹁反応薄い!?﹂
いやそんなもんだろうだとは思ったよ。王族の護衛をして報告書
書いてその内容が信用される身分って相当身分高い人じゃないと無
理だし。
﹁しかしクラクフスキ公爵家ですか。たしかクラクフスキ公爵領は
裕福な都市でしたよね﹂
﹁あ、あぁ。南部シレジアでは一番の経済力を誇るぞ!﹂
とりあえずおだてておこう。
﹁しかし公爵家の長女が士官学校って大丈夫なんですか? 家は継
がないんですか?﹂
﹁ん? あぁ、大丈夫だ。私には兄が2人いるし、私自身内政とい
うのもには疎くてね。剣を振っている方が楽しいのだ﹂
﹁なるほど﹂
一人っ子なのに家を出た身としては耳の痛い話だ。出世したら両
親を都市部に呼ぼうかしら⋮⋮。
441
王都シロンスク
シレジア王国内で最も人口が多く、経済力もある都市、それが王
都シロンスクだ。経済だけでなく、政治・文化・学問の中心地でも
あり、様々な施設と多種多様な人物が往来している。
歴史も古く、1500年以上前にはここにシレジア人が都市を作
り、国を作っていたようだ。
そんな王都シロンスクの中心地、政治関係の施設が密集する行政
区画に軍務省庁舎がある。
シロンスク郊外にある駐屯地内の仮兵舎を経由して軍務省庁舎に
ついたのは11月3日のことである。俺らはそこで人事局ではなく
経理局に通された。経理局ってことはあれか。給料かな。
経理局のお偉いさんだろうか。ハゲメガネデブという三倍役満の
役人が俺らの挨拶にきた。すごいなお前。
﹁あー、長旅ご苦労だったね。今から君たちに士官学校5年間と、
今作戦の従軍による俸給を与える。同時に休暇もね﹂
﹁⋮⋮休暇ですか?﹂
﹁あぁ、そうだよ。人事局から連絡が⋮⋮えーっと、どこに置いた
っけな⋮⋮。っと、あったあった、読むよ。﹃第38独立混成旅団
第33歩兵小隊所属の士官候補生らには一時金と7日間の休暇を与
える。また卒業後の配属先については休暇終了後に発表する﹄との
ことです﹂
やったぜ。しかも一週間も休暇が貰えるのか。
442
﹁えー、では今から順番に呼ぶので給料を受け取るように。最初は
⋮⋮﹂
−−−
給料と言っても全て現金が手渡されたわけじゃない。一部のお金
を除いて給与明細と預金通帳を足して2で割ったようなもんを渡さ
れた。この預金通帳を王立銀行の窓口に提示すれば、預金が引き出
される仕組みだそうで。まぁここら辺は前世と一緒か。
ついでに説明しておくと、この国の通貨は金・銀・銅の3種類の
金属硬貨からなる。金貨は銀貨の10倍の価値があり、銀貨は銅貨
の100倍の価値がある。なお紙幣はまだ誕生してない模様。銀行
はあるし預金通帳もあるんだから紙幣もあったって良いと思うけど。
通帳に書いてあった数字は⋮⋮うん、まぁ一生懸命働いて貯めた
お金くらいの分は入ってたし、出兵手当があったせいかそれなりの
お金が我が口座に振り込まれている。⋮⋮死ぬ思いをした割には安
いような気もするが⋮⋮まぁ、いっか。
ろうごく
軍務省を出た後は休暇なのでもう自由行動だ。特に何もすること
はないから仮兵舎に戻っても良いんだけど、5年間も士官学校にい
たし、それに初めての王都だ。散策というか観光がしたいな。
﹁みんなはこの後どうするの?﹂
443
とりあえず参考までに元第334部隊メンバーに予定を聞いてみ
る。
﹁俺の家はシロンスクにあるから、ちょっと覗いてくる﹂
﹁え、ラデックってシロンスクに住んでるの?﹂
﹁言ってなかったっけ?﹂
﹁初耳だよ!﹂
王都在住とかボンボンだな。あ、そういや商家の息子か。貴族か
ら注文があるくらいだからそれなりの家だろう。うん、気になる。
﹁俺も覗いちゃダメか﹂
﹁ダメだ﹂
﹁なんで﹂
﹁いや、なんとなく﹂
なんとなくで拒否られた。念願の友達宅訪問が! ま、いっか。
そこまで行きたいわけじゃないし。
ラデックは他の3人と適当に挨拶するとそのまま駆け足で走り去
っていった。なんかさらに都市の中心に向かって。⋮⋮まさか都市
中心部に住んでるわけじゃあるまい。あそこは貴族の領域だし。ま
さかね?
﹁エミリア様は⋮⋮やっぱりお父様にご挨拶なさるんです?﹂
﹁当然です。聞きたいことが山ほどありますので﹂
でっすよねー。
あぁ、フランツ陛下。どうかお元気で。
﹁⋮⋮手加減してあげてくださいね﹂
444
﹁それはお父様次第です﹂
これ絶対手加減しない奴ですわ。
お願いだから程度を考えてね。娘に嫌われたお父さんってなんか
もう可哀そうだから。見てらんないから。
﹁私もエミリア様に同行することにするよ。陛下に報告をしなけれ
ばならないしね﹂
﹁報告のついでに陛下の護衛もしてあげたらどうですか?﹂
﹁断る。私はエミリア様の護衛だ﹂
2人が結託して国王陛下を暗殺しようとしてるんじゃないだろう
か。
エミリア様御一行が王宮に向かったのを見送ると、軍務省前は俺
とサラしか残ってなかった。他の士官候補生たちも各々の行きたい
場所に散ったようだ。
サラは特に何も言わず、借りてきた猫のようにじっとしている。
そしてなぜかこっちと目を合わせようとしない。
﹁えーっと、サラはどうするの?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あのー? 生きてる?﹂
﹁⋮⋮﹂
へんじがない。ただのしかばねのようだ。
いや本当にどうしたんだ。とりあえず、手を振ってみるか。
445
サラの眼前で手をぶんぶん振ってみる。やはり反応は⋮⋮ん、あ
った? なんか、手を掴まれた。物凄い力で掴まれた。痛いですサ
ラさん。とりあえず抵抗を試みてみたが⋮⋮離してくれないどころ
かギリギリと締め付けが強くなる。ほ、骨がミシミシ言ってる気が
するんですけど!?
サラは俺の手を掴んだまま歩き出した。自然、俺も引きずられる
形になって歩き出す。
﹁あの、サラ? サラさん? どこへ行くのかな?﹂
﹁⋮⋮﹂
へんじがない。ただのぞんびのようだ。
顔をこっちに向けてくれないので表情を読み取ることもできない。
分かるのは相変わらずサラの髪の色が真っ赤に燃えてるってことだ
けだな。肩まで伸びてるけど、剣振るときに邪魔にならないのかな。
俺の疑問とささやかな抵抗を余所に、サラは俺をシロンスクの新
市街まで連行した。
なんすかこれ。
446
二人と三人
シロンスクの新市街地区。新しいと言ってもシレジア独立直後に
開発が進んだ地域だから150年くらい経っている、らしい。と言
うのもこれを教えてくれたのは、しどろもどろになりながら俺の手
を引っ張って何処かに連行しようとしているサラという人物だから
である。本当に何があったんだか。
﹁こ、ここよ!﹂
と言うと彼女はやっと手を離してくれた。あまりにも強く握られ
たせいか感覚が麻痺してるようだ。
で、なんだここ。見た感じは、パリのオサレなカフェみたいな外
レンツェチャルニーコット
観だ。新市街にあって特に歴史を感じさせる建物だ。えーっと、店
の名前は﹁黒猫の手﹂かな?
﹁⋮⋮ここがどうしたの?﹂
﹁い、いや、だ、だから、あの、今回、世話になったから、奢って
あげようかと思って⋮⋮その⋮⋮⋮⋮﹂
最後の方はゴニョゴニョ言ってたからうまく聞き取れなかった。
が、まぁ前半だけでも十分か。
﹁別にいいのに。お礼言いたいのはこっちの方だし﹂
﹁いいの! 私の気分の問題だから!﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
でも女子から奢ってもらうのも気が引けるし⋮⋮せめて折半くら
447
いにしておかないとなぁ。
どこからか店員がやってきて俺らをテラス席に案内する。こうい
うのって確かチップの関係上、案内されるまで勝手に座っちゃダメ
なんだっけ? 前世じゃ海外旅行行ったことないから、チップとか
どれくらい用意せなあかんのかわからないな。
にしてもさっきからサラがこっちを向いてくれないし、妙に黙っ
てる。なんだか気張った雰囲気を醸し出してるし、もしかするとサ
ラも初めてなのかもしれない。よし、ここは俺がウィットに富んだ
冗談を言って場を和ませようか。
デート
﹁でも、なんかこれ逢引みたいだね﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
ひぃっ。なんか睨まれた! すごい形相で睨まれた! 怖いよサ
ラさん!
殴られるかもしれない、そう思って身構えたがサラは殴ることも
蹴ることも頭突きをすることもなく、案内された席に座った。
これが最後の晩餐にならなければいいが。
−−−
﹁にしても二人には似合わない店だなぁ﹂
﹁そうだな。あの二人には大衆食堂の方が合ってるだろう﹂
﹁まぁ、今更言っても仕方ありませんし、それに場に馴染めずにそ
わそわしている二人を眺めるのは結構楽しいですよ﹂
448
﹁エミリア様はお人が悪いですね﹂
喫茶店﹁黒猫の手﹂から数十メートル離れた地点にある建物の陰
に、怪しげな三人組がいる。三人組は建物の陰から喫茶店﹁黒猫の
手﹂に座る一組の男女を観察している。道行く人々はその存在を無
視するかのように通り過ぎていく。触らぬ神に祟りなし、いや触ら
ぬ変質者に被害なし、と言った方が適確かもしれない。
﹁ラデックくん、質問いいかい?﹂
﹁なんです?﹂
デートスポット
﹁私は王都は何度か足を運んだことがあるだけで、あの店のことを
よく知らないんだが﹂
﹁あぁ、あそこはシロンスクではそこそこ有名な逢引場所ですよ。
創業170年の老舗です﹂
﹁170年というと、新市街の開発が始まったばかりの頃ですね﹂
﹁にしても、もっと別の場所はなかったのかい? なんか周りから
浮きまくってるじゃないか﹂
﹁いやー、でも初めての場所が工夫ひしめく大衆食堂だったら嫌じ
ゃないですか。あれでいいんですよ。それにさっきエミリア様が言
ってたように、見てて楽しいですし﹂
さて、このような事態になったのはだいたいこの三人のせいであ
る。二人の仲が進展するようでしないようで、五年間ずっと微妙な
距離感にある二人にやきもきした三人組が画策した結果である。
帰還道中にマヤが発案。そしてラデックが王都で適当な場所を選
び、その情報をエミリア王女を経由してサラに渡した。サラは顔面
を熱した鉄板のようにしながら、その情報を有効に活用した、とい
うわけである。
﹁マリノフスカ嬢はともかく、ユゼフの野郎はいつこういう機会が
449
あるかわかんねぇからな﹂
﹁そうだな。参謀としては満点だが、異性としては赤点だ。我々が
支援せねば進級もままならぬだろう﹂
﹁サラさんも些か自信と気が強いですし、相手を見つけるのは苦労
しそうですしね﹂
﹁二人は相性がいいからな、これほど理想的な組み合わせは今後お
そらくはないだろう﹂
﹁でもまぁどっちも顔はそれなりに良いから、物好きが現れるかも
しれんがね﹂
﹁ラデックくんが言うと嫌味にしか聞こえないぞ?﹂
﹁こりゃ失敬﹂
−−−
こんなオサレで高そうな店で気兼ねなくむしゃむしゃできるだけ
の厚顔無恥さを、俺とサラは残念ながら持ち合わせていなかった。
結局頼んだのはドリンク1杯ずつ、それでも一般的な大衆食堂で頼
むドリンクより5倍高い料金設定。解せぬ。そしてドリンクは美味
しいんだけど場は気まずい。微妙な空気が俺らの間を流れている。
これはあれだな、別れ話をする前の恋人特有の雰囲気に似てる。
﹁⋮⋮私はユゼフに感謝してるわ﹂
座ってからずっと大人しくしてたサラがようやく口を開いた。
﹁どうしたの急に﹂
450
﹁い、いや、あの。私、思い返せばあんたに助けられたこと多かっ
た。士官学校でも勉強教えてくれたし、ラスキノじゃ作戦に助けら
れたし。でも正面からお礼言ったこと、なかったかなって思って⋮
⋮﹂
﹁別にいいよ。お礼言われたくてやってたわけじゃないし。それに
俺もサラに助けられたし﹂
﹁私何もしてないわよ﹂
﹁したよ。士官学校じゃ俺に武術を教えてくれたし、ラスキノでも
前線に立って戦ってくれたじゃないか﹂
﹁別に、それは私じゃなくても﹂
﹁いやいやいや、重要なことだよ。完璧な作戦を作ったところで、
それを実行してくれる仲間がいなきゃ意味がない。それにサラも、
他のみんなも、想像以上に戦果を挙げてたし。おかげで生き延びる
ことができた﹂
あの作戦を俺が前線に立って実行しろと言われたら無理だな。サ
ラが隣にいてくれたからなんとか戦えたってだけだし、離れた途端
俺は魔術攻撃受けて生き埋めにされたしね。サラ大明神様は武運を
引き寄せる効果があるようだ。
﹁そんなこと言ったら私だって、ユゼフがいなかったら今頃、良く
て帝国の捕虜収容所にいたわ﹂
﹁じゃ、お互い様と言うことで、この話は終わり﹂
﹁へ?﹂
﹁お互いがお互いを助けあった。それだけさ。これから先にもこう
いう事はあるだろうし、その度にこんなことやってたら日が暮れる
よ﹂
だいたいサラからお礼を言われるとなんか背中がむずむずする。
サラはお礼を言うより俺の背中を蹴飛ばす方が良いと思います、は
451
い。
﹁これから⋮⋮あるかしら﹂
﹁次がいつになるかは知らないけど、二人が無事に生きてたら、ま
ぁ一緒になる機会もあるんじゃないかな﹂
﹁一緒に⋮⋮うん、そうね。でも、これだけは言わせて頂戴﹂
彼女は半秒間を空けて、この5年間で一番の笑顔で言いたいこと
を言った。
﹁ありがとう、ユゼフ﹂
あまりにもその笑顔が綺麗だったもんだから一瞬言語障害を起こ
してしまったようで、サラに殴られるまで俺はポカーンとしていた。
452
休暇
11月5日、つまり休暇3日目。
王都観光に早くも飽きた俺は兵舎で惰眠を貪ろうとしていたのだ
が、
﹁おいユゼフ。ちょっと付き合えよ﹂
﹁えっ?﹂
なんかラデックの野郎からデートお誘いがあった。
俺とラデックが入ったのは、シロンスクの中間層住民が多く居住
する区画に存在する大衆食堂、と言うより居酒屋の雰囲気に近いな。
ワイン
ビール
ウォッカ
ちなみにシレジア王国内の飲酒可能年齢は酒の種類によって違う。
例えば葡萄酒は12歳から、麦酒は15歳から、そして火炎瓶は1
8歳から飲酒可能だ。基準は不明。それに自己申告制である場合が
多いし、店も売り上げが減るのを気にして深く追及したりはしない。
それはさておき
なんというザル法。
閑話休題、今日は男二人で男子会である。まぁたまにはいいよね。
﹁で、一昨日はなにやったんだ?﹂
﹁⋮⋮なにって?﹂
何
の発音が一瞬卑猥なものに聞こえたのは気のせいだろうか。
﹁いや、二人で何したんだよ﹂
453
っていや待てその前に、
﹁なんで俺が二人で行動してたのを知ってるんだ?﹂
﹁⋮⋮それは、その、あれだ。風の噂でな﹂
﹁ほほう﹂
どんな風の吹き回しでそんな噂が流れたのやら。
とりあえずラデックに詰問の視線を送り続けてみる。じー⋮⋮。
﹁あー、その、なんだ。すまん﹂
あっさりゲロった。大衆食堂でゲロった。いや汚い意味はないよ。
ある意味では汚いけど。ラデックは捕虜になったら機密情報を即行
でバラして身の安全を図るタイプかもしれないな。高級士官たる者、
甘んじて捕虜になるくらいなら死んでください。
﹁ふーん。ま、別にいいけどね。ラデックが中心市街に行った時点
で怪しかったし﹂
中心市街地は高級貴族の居住地で関係者以外立ち入り禁止。そん
なところにラデックが住んでるはずもない。お前が実は貴族でした、
っていうオチがなければ。⋮⋮ないよね?
﹁そうだな。俺の家は確かにシロンスクにあるけど、さすがに中心
市街にはない。畜生、反対方向に行けばよかった﹂
﹁そういう問題でもないぞ?﹂
﹁そんなことより!﹂
あ、逃げた。
454
﹁マリノフスカ嬢とはどこまで行ったんだ? 顔面接触くらいまで
は行ったか?﹂
﹁そうだね。頭突きは散々されたね﹂
サラは石頭だから結構痛いんです。いや本当に。
﹁いやそうじゃなくてだな﹂
﹁だいたいなんでそんなこと聞くんだ? 他人の心配する前に自分
の心配しろよ﹂
今度は俺が逃げる番だ。ラデックに話題を投げ返してみる。
﹁良いんだよ。俺はもういるから﹂
﹁いるって何が?﹂
﹁許嫁﹂
﹁は?﹂
許嫁? なにそれエロゲ?
﹁いや、俺もびっくりしたんだけどな。昨日親父に会ったらいきな
り許嫁を紹介されてな﹂
﹁⋮⋮あー、美人か?﹂
﹁まぁな﹂
﹁死ねばいいのに﹂
﹁おい﹂
美人の許嫁とかマンガかエロゲか何か? この国の主人公はラデ
ックなの?
主人公だとしたらこいつは死ぬことはないか。軍人が許嫁持つと
死ぬ予感しかないけど、ラデックは後方勤務だろうし、主人公補正
455
でフラグ回避するだろうな。ケッ。
﹁商家の次男坊の許嫁ってことは、やっぱいい所の御嬢さんな訳?﹂
﹁そうだな。あんまり詳しく言えないけど、確かオストマルク帝国
の商家の次女だか三女、だったかな?﹂
﹁おやおやそれは﹂
貴族の娘とかじゃなくてよかった。いつもの5人のメンバーの中
で俺だけ平民どん底にならなくてよかった。貴族ってだけで昇進が
早くなるから嫌だよね。逆に平民は実力も武勲もあってもポスト数
の問題で貴族が優先されて昇進が遅れたりするし。
っと、ここで料理が運ばれてきた。南国の郷土料理らしいものが
続々と⋮⋮ってこれ完全に地中海料理ですわ。オリーブオイルっぽ
いものもあるし。
﹁だから俺のことはどうでもいいんだよ! 問題はユゼフだよ。お
前の方こそ身を固めたりはしないのか?﹂
﹁ラデックさんや。俺はまだ15歳だよ? 実を固めるの早くない
?﹂
﹁いや、そうでもねぇよ? 貴族や中間層ならまだしも農民ならそ
ろそろ結婚を考えるべきだろ﹂
ここら辺の文化の違いはまだ慣れないな。結婚ねぇ⋮⋮。
﹁結婚はまだいいや。両親には悪いけど孫を作る予定はない﹂
﹁なんで﹂
﹁いや、なんか死にそうじゃん﹂
俺、実は故郷に恋人がいるんすよ。帰ったら求婚しようかと。花
束も買ってあったりして。
456
とか言ったら確実に死ぬ。俺が死なないにしても求婚相手が死ぬ。
ジンクス
﹁確かにそういう縁起の悪さはあるけどよ。そうじゃない例もある
だろ? それに守るものができたら男は強くなるって言うじゃん?﹂
﹁俺はラデック達を守るのに精一杯でね。ここでもう一人守る対象
増やしたら手が足りないよ﹂
﹁なんか恰好つけてるけど、守られてるのどっちかと言うとお前の
方だよな?﹂
ごもっともです。
−−−
11月6日。休暇4日目。
なんだかんだ言って全然休めなかった昨日の分まで休もうと兵舎
に引き籠っていたところを、なんか呼び出しを食らった。扉を開け
ると、そこにはなぜか基地司令官の姿が。あまりにも唐突過ぎてた。
敬礼も服装も乱れっぱなしなのに。
﹁すぐに身なりを整えろ。やんごとなき身分の方が貴様に用がある
と言っている﹂
来客者の名は、容易に想像がついた。
457
﹁今回は、公爵令嬢ですか? それとも、もうひとつの方ですか?﹂
﹁もうひとつの方です、ユゼフさん﹂
どうやらヴィストゥラ公爵家はまた取り潰しになったらしいな。
来客者の名はエミリア・シレジア第一王女、と護衛兼付き人のマ
ヤ・クラクフスカ公爵令嬢。エミリア殿下は見慣れた軍服ではなく、
貴族用のドレスを身に纏っている。マヤさんは一応軍服だけど、正
規兵の軍服じゃなくて近衛兵の軍服だった。配属先発表はまだのは
ずだよね?
そんな国内でも有数の地位にある御方が俺のような平民に会いに
来た、というのは周りからどういう風に見えているのやら。そして
二人の背後にはどっかで見た事がある貴族用馬車と、おそらくは護
衛の近衛兵およそ2個分隊。さすがの護衛の量だな。
﹁今回は、どういったご要件でしょうか?﹂
﹁そうですね。今後の事、と言っておきましょうか。ここではなん
ですので、どうぞ馬車にお乗りください﹂
﹁大変ありがたいのですが⋮⋮王女殿下の乗る馬車に便乗するとい
うのは些か問題では?﹂
﹁あら、ユゼフさんは私を害しようとしてるのですか?﹂
﹁い、いえ。そんなことは﹂
﹁では問題ありません。問題だと言う人がいるかもしれませんが、
そんなことを言う人は出世が遅れるだけですよ﹂
しれっと怖い事を仰る。
﹁では、参りましょうか﹂
こうして俺は人生初、そして人生最後になるかもしれない貴族用
458
馬車に乗る。しかも王女殿下付きで。怖いなぁ⋮⋮。
近衛兵からの妙な視線と俺自身が緊張したこともあってか道中は
特に何も会話はなかった。エミリア殿下やマヤさんも気を遣ったの
か、話しかけることはなかった。あぁ、胃が痛い。
フィロゾフパレツ
そして到着したのは、想定外のような予想通りと言うか、王宮だ
った。王宮の名は確か﹁賢人宮﹂だったかな。
⋮⋮農民の子が王宮に上がるってなんだそれ。農民の分際で王宮
に上がったら⋮⋮というかシロンスクの貴族領域に入った瞬間コロ
コロされるのに。
﹁えーっと、上がっていいのでしょうか? 自慢じゃありませんが、
私は王宮内の礼節のなんたるかを知りませんよ?﹂
﹁大丈夫ですよ。一応人目を盗んで入ります。ここは王族専用の裏
口ですから﹂
え、裏口なのここ。裏口にしては立派だし、ていうか王族専用口
を農民が使っていいの!?
﹁私はこれでもユゼフさんを信用しているのです。どうぞ、遠慮な
さらないでください。それなりの節度を持って﹂
最後の一言がなければ遠慮なく上がれたんだけどなぁ⋮⋮。
459
賢人宮
王宮の中は意外と寂れていた。手入れが行き届いていないし、人
も多くない。王宮ってもっと華やかなイメージあったけど、こんな
もんなんだろうか。っと、あまりキョロキョロすると田舎者感丸出
しだな。
そして俺はそれなりに着飾った部屋に通された。見た感じ応接室
と言った感じかな。エミリア殿下の私室を覗いて見たかった気もす
るけどさすがにそれはなかったか。
﹁そんなに固くならないでください。確かに私とユゼフさんでは身
分に違いがありますが、士官学校の同期生で、戦友でもあるのです。
もっと肩の筋肉を解してください﹂
﹁そうだぞユゼフくん、もっと楽にしたまえ。ここで多少の無礼を
働いてもそれを咎める奴はいないのだから﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
と言われても、この状況下で砕けろと言われて砕けられるほど厚
顔無恥でもない。
﹁⋮⋮さて、ユゼフさんとは前からこうやってゆっくりお話しした
かったんです﹂
﹁恐縮です﹂
三人で話す機会ならいくらでもあった気がするけどね。
460
﹁ユゼフさんには戦場でも士官学校でも、何度も助けられました。
この場でお礼を申し上げます﹂
﹁え、いえ、そんな恐れ多いです﹂
金髪美少女
王族を守るのは義務みたいなもんだし、それにヴァルタさん、も
といマヤ・クラクフスカさんに脅されたし。あの、マヤさんそんな
に睨まないで怖いから。まだ私何もしてないって。
﹁⋮⋮そ、そう言えば殿下は国王陛下とはゆっくりお話しなさった
んですか?﹂
﹁えぇ、昨日ゆっくりお話ししました。こちらが言いたいこと全部、
ぶちまけてきましたよ﹂
﹁殿下もお人が悪いですね。少し手加減して差し上げませんと、陛
下も気に病んでしまいますよ﹂
﹁肝に銘じておきます。そうそう、お父様もユゼフさんには感謝し
ている、と申しておりました﹂
国王陛下に感謝のお言葉を戴いた。やったぜ。国王陛下の知遇を
得るなんて、今までの中で一番の戦果かもしれない。
にしても、ちょっと引っかかる言葉があった。少し攻めてみよう
かしら。多少の無礼は咎められないってマヤさん言ってたし。
﹁しかし国王陛下とそのようなお時間を取れたのは昨日なのですか。
殿下が王宮にお戻りになったのは、確か3日前でしたよね。4年半
もお会いになっていなかった殿下との時間が取れないとは、陛下も
随分ご多忙とお見受けしました﹂
﹁⋮⋮そ、そうですね。お父様は厳格な方です故、国政を放置して
まで私に会うことはしなかったのでしょう﹂
なぜか目を逸らされた。ついでにマヤさんもばつの悪そうな顔を
461
している。
⋮⋮ここで昨日のラデックの会話を思い出したのはきっと気の迷
いだろう。うん。これ以上深く突っ込むのはやめよう。
﹁そんなことよりも﹂
ラデックと同じ論法で逃げないでください。
﹁私は、今回ユゼフさんと今後の事でお話をしたいと思ったのです。
正式に軍に配属されれば、こういう話をする機会はあるかはどうか
ありませんからね﹂
﹁今後の事?﹂
﹁えぇ、この国の事、と言えば分かり易いでしょうか﹂
つまりこの王女様は俺に政治の相談をしようというのか。確実に
俺の仕事じゃない気がする。
﹁なぜ、私なのですか﹂
﹁国政に詳しく、そして信頼出来て、気兼ねなく話せる人物という
のは、私はマヤと貴方しか知りません﹂
﹁買い被りすぎですよ﹂
﹁あら、そうですか? オストマルクとの同盟に反対したのは、貴
方ですよね?﹂
言い逃れできない。確かに反対したけどさ⋮⋮。
﹁と言うのは半分冗談です。私はユゼフさんとお話がしたいんです
よ。そのための口実と思ってください﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
462
どこまでが冗談なんだかよくわからんね。
﹁では、本題に入りましょうか﹂
﹁本題とは?﹂
﹁えぇ。今後、我がシレジア王国が行くべき方法、です﹂
−−−
同時刻。
王宮
何よりも大切な一人娘がやっと帰ってきたと思ったら男を家に連
れてきたという情報を聞きつけたこの国の最高権力者は錯乱した。
﹁どこの男だ!﹂
﹁ハッ。近衛兵からの連絡によれば、ユゼフ・ワレサと言う名の士
官候補生らしく⋮⋮﹂
﹁ワレサか、聞いたことあるぞ!﹂
ユゼフ・ワレサはクラクフスキ公爵令嬢からの報告書に頻繁に出
てくる名前である。曰く、戦術研究科所属で農民階級の長男で、成
績は下から数えた方が早いとかなんとか。
と言ってしまうほど国王フランツは大貴族のような選民
﹁賤民の分際で、余のエミリアをたぶらかそうと言うのか! 許せ
賤民
ん!﹂
思想を持っているわけではない。政治に関しては良い評判を聞かな
463
い国王だが、節度のわきまえ方は国王らしいものである。このよう
な事態になったのは、ひとえに娘が心配だからである。早い話が、
彼は親バカなのだ。
彼は執事の一人に怒鳴りつけるように言った。
﹁おい、そのワレサという男がいるのはどこだ。直接会ってやる!﹂
﹁⋮⋮お答えできかねます﹂
﹁なぜだ!?﹂
﹁彼、つまりエミリア殿下とユゼフ・ワレサ殿とが会談中、たとえ
国王陛下であってもこれを阻害してはならない、とのエミリア殿下
からのお達しがありまして⋮⋮その﹂
﹁貴様は、エミリアと余の命令、どちらを優先するのだ!?﹂
﹁勿論、私は国王陛下の執事にございますゆえ、陛下の指示に従い
ます。ですが、今陛下が殿下とお会いになれば、殿下はどうお思い
になるでしょうか﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁陛下が、殿下との仲を壊したくないのであれば、ここは大人しく
ぐうの音も出ない正論
という帝国語はこの時の為にあるのだ
政務に専念するが良いと存じます﹂
と、フランツは感じ取った。
−−−
﹁東大陸帝国の皇帝の名は、ユゼフさんならご存知ですよね?﹂
﹁えぇ。第59代皇帝イヴァンⅦ世です﹂
464
﹁そうです。では、イヴァンⅦ世は何歳ですか?﹂
﹁⋮⋮詳しい年齢はわかりません。ですが、かなりの高齢であると
聞き及んでいます﹂
シレジアの話をしようと言われたのに、話し始めたのは東隣の国
の皇帝のことだった。確かにシレジアの運命はあの皇帝が握ってい
ると言ってもいい状況にはあるけど。そのイヴァンⅦ世は、良い評
判を聞かない人だ。最高権力者としての枠を踏み越えてはいないが、
最高権力者としての枠に踏み入れてもいない。要は凡君だ。
﹁イヴァンⅦ世は72歳だ﹂
﹁マヤさん、詳しいですね﹂
﹁君が来る前に予習をしといた﹂
﹁なるほど、それが首席卒業の秘訣ですか﹂
復習はともかく予習は嫌いなんだよね。だから中途半端な成績取
るんだろうけど。
﹁それで、そのイヴァンⅦ世がどうなされたのですか?﹂
﹁いえ、イヴァンⅦ世が話の本題ではないのですが⋮⋮、ユゼフさ
ん。また質問で申し訳ないのですが、東大陸帝国の帝位継承権第一
位は誰だかご存知ですか?﹂
﹁えっ⋮⋮あの、いや、申し訳ないのですが、存じません﹂
﹁大丈夫ですよ。帝位継承権第一位は皇太子セルゲイ・ロマノフと
言います﹂
﹁イヴァンⅦ世が72歳ですから、やはり彼も高齢なのでしょうか﹂
﹁いえ、セルゲイ・ロマノフはイヴァンⅦ世の子供ではないのです﹂
﹁えっ、皇太子なのでしょう?﹂
皇太子って普通、皇帝の子供のことだよね?
465
﹁えーっと、確か皇帝イヴァンⅦ世には子供が4人いるのですが、
全て女性なのですよ。隠し子も、今の所確認されていないようです﹂
﹁なるほど﹂
東大陸帝国において皇帝になれるのは男だけだ。これは第33代
皇帝マリュータ・ロマノフが決めたものだ。まぁ女の子を帝位に着
かせること認めちゃったら、正統なロマノフ皇帝家は西大陸帝国に
いる人になっちゃうからね。
一方、東大陸帝国以外の国の皇族・王族・貴族は男系男児にこだ
わっていない。そもそもほとんどの国にとって大恩ある西大陸帝国
の皇帝家は女系だし。
そして大陸帝国内戦の原因になったこの男女の区別だか差別の問
題は、大陸の価値観に大きな影響を与えている。つまり﹁男だ女だ
で揉めると碌なことが起きないよ。かつての大陸帝国みたいにね!﹂
という考え方が庶民の間にも広まっているのだ。だから女性士官と
かも数は少ないものの存在するし、女性で家督を継いだり、帝冠・
王冠を戴いたりすることはよくある。無論、前世のように﹁女は家
庭にすっこんでろ﹂的な男性優位の考え方もあるにはある。女性が
前線に立つことによる問題もあるから、女性の積極的な徴兵は行わ
れていない。今後どうなるかは知らないけど。
以上余談。
こうたいだいせい
﹁セルゲイ皇太子は確か、イヴァンⅦ世の異母弟の孫です。ですか
らセルゲイは正確に言えば皇太子ではなく、皇太大甥⋮⋮と呼べば
いいのでしょうか﹂
﹁大甥とは⋮⋮随分遠いですね。⋮⋮その大甥が帝位継承権第一位
だとすると、そのイヴァンⅦ世の弟やその息子は既に?﹂
﹁はい。イヴァンⅦ世の異母弟ヴァシーリーⅤ世は27歳の時事故
で早逝し、その子供、つまりイヴァンⅦ世の甥にあたるドミトリー
466
Ⅱ世は32歳の時に病没しています﹂
⋮⋮皇帝一家が事故や病気で早死にする。嫌な予感しかしないな
ぁ。
﹁なんだか、頭がこんがらがってきましたね﹂
﹁大丈夫ですよ。もっと話がややこしくなりますから﹂
なにそれ怖い。
﹁東大陸帝国の帝冠を戴けるのは男子のみ、というのは第33代皇
帝マリュータが決めた帝位継承規則ですが、これは男系男子に拘っ
ていないのですよ﹂
﹁と言うと、イヴァンⅦ世の娘に息子がいたら⋮⋮﹂
﹁大火事になりますね﹂
西大陸帝国がもう一つできそうな予感がするのだけど気のせいだ
ろうか。隣国の内戦か、嬉しいやら悲しいやら。
﹁でも、殿下の仰りようだと、孫はいないようですね?﹂
﹁いませんね。何の因果かは知りませんが、4人の娘のうち長女マ
リヤは既に死亡、三女アンナは未婚、残りの次女ルイーゼと四女ア
レクサンドラは結婚していますが、ルイーゼの子供は2人とも女性
で、アレクサンドラはまだ子供が生んでいません。年齢はそれぞれ
42歳と30歳ですから、今後子供ができるかと言えば⋮⋮﹂
﹁微妙ですね。強いて言えば四女アレクサンドラに可能性はありま
すけど⋮⋮﹂
女性の出産年齢は10代後半から30前半が最盛と言われている。
だから42歳のルイーゼの妊娠は不可能と言っても良いし、アレク
467
サンドラもそろそろ危ない。それに30になって未だ子供がいない
となると、夫婦どちらかが不妊症である可能性もあるし。まぁ、子
供運がなくてまだ生めないだけかもしれないけど。
﹁そうですね。でも今回の場合はルイーゼの娘の方が問題なのです
よ﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
﹁そう、ルイーゼの娘、つまりイヴァンⅦ世の直系の孫娘であるエ
レナが、妊娠しているという噂があるんです﹂
468
賢人宮︵後書き︶
追記:家系図
<i148188|14420>
文字が薄くなっているのは故人。
青枠は存命の男子
なお、今後増える可能性あり。
今の所、青枠とエレナさんのことだけ覚えておいておけば大丈夫で
す。
469
迷いの宮殿
﹁そう言えば皇太子、いえ皇太大甥セルゲイは何歳なんですか?﹂
﹁確か⋮⋮今年で17歳だったかと思います﹂
﹁17歳ですか。若いですね﹂
﹁そうですね。もっとも、私達が言えるような台詞ではありません
が﹂
﹁それもそうでした。私達まだ15歳でしたね﹂
この歳で自分の年齢を忘れるのはまずいんじゃないだろうか。若
年性健忘症を心配した方が良いかな。
﹁⋮⋮﹂
マヤさん、ちょっと睨まないでくれます? 怖いから。年齢の話
題出したのわざとじゃないの。別にマヤさんが俺より7歳も年上な
こと気にしてないから!
﹁マヤ﹂
﹁なんでしょうか、エミリア殿下﹂
﹁あまりいじめないでくださいね﹂
﹁いじめてませんよ。単に睨みつけてただけです﹂
やめてください心臓が止まります。
﹁まぁ冗談はさておき﹂
いやマヤさんの目は8割5分は本気でしたよ?
470
﹁この継承問題は、将来我が国にとって無視できぬ影響をもたらす
ことになると思います。問題を静観するにせよ、介入するにせよ、
何らかの準備をしなければなりません﹂
﹁そうですね⋮⋮でもその前に情報を集めない事には何もできませ
ん﹂
﹁そうだな、機先を制するにはとにもかくにも情報と言うしな﹂
さすが剣兵科首席と三位だね。わかってらっしゃる。
﹁⋮⋮問題は、今までエミリア殿下が仰られた情報は、全てカロル
大公殿下が懇意にしている大貴族の方からの情報なのだ﹂
﹁ほほう﹂
いわゆる大公派貴族か。大公派は東大陸帝国とのパイプがあるみ
たいだし、その辺の情報も入ってくるんかな。でも独自の情報ルー
トを持たないのはきついな。そこら辺の事は大貴族様が独自のパイ
プを使って得るものだ。大貴族からの支持が少ないエミリア王女殿
下にとってはつらいところだろう。
﹁まぁ、嘆いたところで情報が降ってくるわけではありません。こ
のことは後日の事としておいて、今は私の知る情報をユゼフさんに
教えます。その上で、ユゼフさんやマヤの意見を聞きたいのです﹂
﹁わかりました。私もエミリア殿下のお役にたちいですし﹂
﹁私も、エミリア殿下のために微力を尽くします﹂
そのために今まで頑張ってきたと言っても過言ではないのでね。
﹁ありがとうございます。では、話の続きをしましょう﹂
471
エミリア殿下は手元のお茶を豪快に飲み干すと、隣国の情報につ
いて話した。
おとうと
﹁さて。もし孫娘エレナの子が男子だった場合、おそらく血を見ず
にはいられないでしょう﹂
﹁イヴァンⅦ世の意向はどうなのです?﹂
﹁今の所、何もありませんね。ただ、イヴァンⅦ世は異母弟のヴァ
シーリーⅤ世と仲が悪かったと聞いております。ですので、ヴァシ
ーリーⅤ世の孫であるセルゲイに帝位を継がせたくない、と思って
いても不思議ではありません﹂
﹁なるほど。では他の貴族たちはどちらに着くでしょうか﹂
帝位継承問題で重要になるのは貴族の後ろ盾だ。貴族の指示を得
られなければ、私兵をつかって反乱を起こされる可能性がある。そ
こまでいかなくても、貴族の経済力や軍事力は帝国にとっても重大
なものだ。前世で言う所の、なんか選挙の度に地元の有力企業や資
本家がグイグイ来るようなもんだ。
﹁わかりませんが、おそらくセルゲイが支持されるでしょう。今ま
で男系男子しか皇帝になれなかったのにここで女系男子を選んでし
まうというのは、男尊女卑の考えが強い帝国では受け入れられ難い
でしょう﹂
﹁ですが仮にも皇帝陛下のお言葉、となると⋮⋮﹂
﹁泥沼ですね。まるで我が国のようです﹂
﹁⋮⋮いえ、殿下は王になるべきです。継承権一位なのですから﹂
継承順でごねると大陸帝国みたいになる。
﹁そうですね。でも継承順などどうでもいいかもしれません。優秀
472
な者が王位につけばいいのです﹂
﹁殿下!﹂
﹁あぁ、慌てないでください。別になりたくないとは言ってません
よ。私は私の義務を果たします﹂
殿下の言いたいことも分かる。帝位継承一位の暗君よりも、継承
二位の名君の方が良いに決まっている。
でも、俺はエミリア殿下が暗君だとは思えない。名君になる余地
あると思うよ。本当に。
﹁あぁ、話が逸れてしまいましたね。貴族の後ろ盾の話なのですが、
気になる噂もあるのです﹂
﹁噂?﹂
﹁はい。実はセルゲイ・ロマノフの母親は今もご存命なのですが、
その母親はリヴォニア貴族連合の貴族の流れを汲む者、という噂な
のです﹂
﹁⋮⋮なんですって?﹂
リヴォニア貴族連合、それはシレジアの西にある国家。前世世界
ではドイツ帝国と呼ばれた軍事大国である。
﹁あくまで噂です。それにどの貴族なのかもわかりません。皇族に
嫁ぐくらいですからそれなりの地位だとは思いますが⋮⋮﹂
でもこれが本当だとしたら結構根は深いかもしれない。継承戦争
に発展する可能性もある。だとすると、イヴァンⅦ世は外戚となっ
たリヴォニア貴族による内政干渉を恐れて、無理矢理女系男子を帝
位に着けようとしているのかもしれない。⋮⋮だが、まだ噂の段階
だ。容易に信じることはできない。それにこの噂、大公派による悪
意が含まれている可能性もある。慎重に検討しないとな。
473
﹁⋮⋮エミリア殿下、大公派はどちらを支持しているか、もしくは
繋がりがあるかわかりますか?﹂
﹁いえ、そこまではわかりません。そもそも叔父様がなぜ東大陸帝
国との繋がりを重視しているのかさえもわからないのです﹂
殿下はため息を吐くと、しゅんとしてしまった。無理もないか。
﹁まぁ、まだ時間はあるでしょう。子供が生まれるまで⋮⋮そうで
すね、半年ほどの猶予はあるのです。それに、事態の成り行きを見
守るのも一手ですよ﹂
﹁⋮⋮そう、ですね。悩んでも仕方ありませんか﹂
悩んだって仕方ない。ないものはないのだし、嘆いたところで腕
が急に伸びたり増えたりはしない。ちょっとずつ進めて行こう。あ
とマヤさん睨まないで、しゅんとしたのは確かに俺のせいかもしれ
ないけどさ。
﹁さ、さて、噂の真意をさておくとして、問題は第60代皇帝を補
佐するのはいったい誰かということですね﹂
﹁どういうことかね、ユゼフくん﹂
ちの
ご
﹁簡単な話ですよ。イヴァンⅦ世はもうじき崩御する。であれば帝
位を継ぐのは産まれたばかりの乳飲み子か、それよりはマシだけど
17歳の若者かになる。どちらに定まろうとも、皇帝の政務を補佐
する者の権限は強くなるはずです﹂
政務の補佐をするのは、皇帝政務秘書官だとか帝国宰相だとか、
あとは国務大臣あたりだろうか。とにかく、その地位に誰が就くか
によってシレジアの運命が決まると言ってもいい。
474
﹁17歳の青年ともなれば、きっとそれなりの政治手腕を発揮でき
るでしょう。であれば、自らの権力を振るいやすい赤子に支持を寄
せるかもしれん﹂
﹁そうですね。⋮⋮そう言えば、そのエレナ皇女の配偶者も誰なの
かわかりませんか?﹂
﹁それなのですが⋮⋮実はエレナ皇女はまだ未婚なのです﹂
﹁⋮⋮父親が誰かわからないのですか?﹂
﹁えぇ。仮にも皇族ですから、行きずりの男性の子ではないのは確
かでしょうが⋮⋮﹂
ロマノフ皇帝家は、どうやら炎上寸前の迷宮みたいな感じになっ
てるようだ。こりゃ相当奥が深そうだね。
475
自問自答
11月7日、休暇5日目。
スキャンダル
結局昨日はエミリア殿下とマヤさんと賢人宮でのロマノフ皇帝家
の醜聞で一日が終わってしまった。主婦みたいだなぁ。
殿下に宮殿に泊まらないか、と誘われたけど﹁あんなところで寝
れるわけないだろ!﹂ってことで丁重にお断りしました。
ここ数日なんか誰かに誘われて外出が多かったし、難しい話も軽
い話もしたし、今日は兵舎でゆっくりしよう。王族だろうが貴族だ
ろうが基地司令官が来ようが知るか!
と、ゆっくりしようとベッドに寝転んだところで目が冴えてしま
うのが悲しいところである。まぁいいや。何も考えず寝てるだけで
もリラックス効果はある。第一今寝ると夜に眠れなくなるし。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
いや、何も考えないって結構難しいな。つい色々考えてしまう。
例えば﹁なんで俺は転生したんだろうか﹂とかね。
転生したことに何か特別な意味を求めることは間違ってるだろう
か。転生というものはただの現象で、特別な意味なんてないのかも。
もしかしたら前世世界の人間だったら誰もが転生する運命にあった
のかもしれないし。ファンタジーみたいに、何らかの魔術によって
俺の魂や記憶がココに召喚されたという可能性もある。なんてった
って手から火の球を撃ち出せる世界だ、手から異世界の魂を撃ち出
476
せても今更驚きはしないよ。
そもそも生まれてきたこと自体に、意味を求めるのは間違いかも
な。自分が生まれてきた理由なんて、ただ両親が夜のレスリングを
ハッスルした結果によるものだ。そこに深い意味があるとは思えな
い。そんなことを考える暇があったら、これからの事を考えた方が
良さそうだ。
これからの事か。真っ先にこの国の未来の事を考えてしまうあた
り、王国の愛国心教育は素晴らしいものだと言える。でも愛国心と
言うより愛郷心かな。もっと言うなら、大切な友人が住む国をなん
とかしたい、っていう気持ちの方が強いかもしれない。んー、でも
そうなるとあの4人を守れるならシレジアの運命はどうでもいいっ
てことになるのかな。4人を犠牲にして国を守りたいかと問われれ
ば⋮⋮うん、やだな。そこまではしたくない。俺たち5人で国を守
るのが理想、でも国か友人かと問われたら、国なんて捨ててしまう
かも。
思考を戻すか。
シレジアが生き残る方法。とりあえず他国の軍事的脅威に晒され
ることなく、内政干渉もされないくらい。かつて持ってた固有領土
の回復は⋮⋮しなくてもいいな。領土問題は時に100年単位で揉
めるし。俺の手には負えないや。
シレジアに足りない物。たくさんある。軍事力、経済力、友好国、
人材、技術。枚挙に暇がない。特に経済力は大事だ。
この世界、まだ産業革命は起きていない。考えてみれば当たり前
の話で、蒸気機関とかいう面倒なもの作るよりも、魔術を唱えた方
が早いから。ファンタジーで言う所の魔術動力炉とか魔力機関とか
も存在しない。前にも言ったけど、この世界の魔術は微妙に不便な
のだ。不便なものは便利にするように技術開発は進む。無詠唱魔術
の開発がその最たる例だな。でも、魔法陣とか魔石とか、ファンタ
477
ジーにありがちなアイテムも存在しない、もしくは発見されていな
い。石炭などの化石燃料の有用性が発見されず、ファンタジー版化
石燃料とも言える魔石もない。魔法陣を組み合わせてロボを作る、
なんてこともできない。
⋮⋮でも、もしシレジアがこれらの技術を一挙に開発出来たら、
すごいだろうな。産業革命ならぬ魔術革命ってところだ。なんだか
前世で見た﹁太平洋戦争データ引継ぎ2周目アニメ﹂みたいな感じ
だ。
だけど、技術開発だけでシレジアは救えない。技術があっても、
それを運用するのは人であり、国だ。その技術を生かせるだけの社
会構造なんかがなければ宝の持ち腐れ。俺が頑張ってチート英雄に
なって、新生シレジア王国のハイテクパワーごり押しで戦術的勝利
を積み重ねたところで意味はない。﹁戦術的勝利の積み重ねによっ
て戦略的敗北を覆すことはできない﹂というのは、軍事学上の常識
だ。例えばシレジア分割戦争の時みたいに四正面作戦を強いられた
ら、たとえ技術で勝っていても数で負ける。それを避けるために戦
略だとか外交だとかというものがあるのだ。
あとは同盟国か⋮⋮。オストマルクが名乗りを上げてきたけど、
現状じゃリスクが大きいと思ってあの場は断った。でも、今のうち
に旗色を決めておかないとまずいのも確かだ。攻められてから同盟
組んでも遅いからね。オストマルクと同盟を結べれば、南部国境地
帯の守りを気にする必要はなくなる。特にカールスバートは身動き
取れなくなるだろう。問題は両隣の東大陸帝国とリヴォニア貴族連
合か。⋮⋮そう言えば皇太大甥セルゲイ・ロマノフの母親がリヴォ
ニアの貴族という噂があったな。リヴォニアがセルゲイの皇帝即位
を支援するとしたら、その目的はなんだろうか。東大陸帝国とリヴ
ォニアの同盟か? だとすれば、シレジアだけではなくオストマル
クも危険にさらされることになる。
このことをオストマルクが知ったらどうなるのだろうか。いや、
478
既に知っているだろうな。かつてカーク准将、もといリンツ子爵と
やらが言っていた﹁些か気になる情報﹂というのが、このセルゲイ
の母親の問題なのだろう。そしてリンツ子爵は東大陸=リヴォニア
同盟が反オストマルク同盟の可能性があると感じ取ったのか。だか
らシレジアと同盟して、この反オストマルク同盟を牽制しようとし
た。でもシレジアとオストマルクだけでは、反オストマルク同盟に
は対抗できない。もっと別の国、例えば西大陸帝国やキリス第二帝
国なんかも親オストマルク同盟に取り込むべきなのかもしれない。
⋮⋮あぁ、もうわからん! いろんな国の思惑だとか利害が絡み
合ってて脳内で整理がつかない!
はぁ⋮⋮。ただ、こういう話はエミリア殿下の領分だ。俺は頑張
って出世できたところで大佐あたりが限界だろうし、一軍人に出る
幕はない。戦略的勝利のために戦術的勝利が必要になることがある。
そういう時に頑張るのが俺の役目。
あー、もうなんで俺王族に転生しなかったんだ。王族ならエミリ
ア殿下みたいに政治と戦争両方に口出せたのに。
まぁ、ここら辺は後日エミリア殿下、もしくはマヤさんに言って
おくか。どこまで採用されるかわかんないけどさ。
479
暮夜
いろいろ考えてたらいつの間にか日が暮れてた。と言ってもまだ
午後4時、夕飯までにはまだ時間がある。
⋮⋮散歩でも行こうかな。
基地内を適当にぶらぶらする。
練兵場では訓練してる兵が何人もいた。上半身裸で剣の素振りを
しているようだ。元気だなぁ⋮⋮、今の俺には無理だあんなこと。
俺と違って勤勉な兵たちは余程激しい運動をしているせいか、体か
ら湯気が立っている。オーラみたいだ。見た感じ強化系かな。率直
で単純な人多いし。
さらに歩を進めると、知っている人物を発見。サラだ。サラも剣
を振っているようだ。残念ながら上半身裸じゃなく、夏服だった。
チッ。訓練に夢中になってるのか、それとも俺の存在感がないから
か知らないが、サラは俺のことに気付いていない。いい機会だし観
察しよう。⋮⋮いや、別に不純な気持ちはないよ。単純に剣の構え
とかそういうのを見習おうかと思って。ふむ。篝火の光に反射して
いる肌が大変エロいな。
⋮⋮さすがにジロジロ見過ぎたか、サラが俺の存在にやっと気づ
いた。
﹁⋮⋮なによ﹂
﹁別に﹂
480
サラは若干キレ気味だった。
い、いや別に見惚れてたわけじゃないよ、感心してただけだ。休
暇中でも訓練を怠らないとはね。俺なんて休暇貰った途端剣を持つ
のをやめたし。たぶんもうスプーンより重い物持てないわ。
﹁熱心に訓練なんて、軍人みたいだね﹂
﹁⋮⋮あんた、まさか休暇中だからと言って何にも訓練してないな
んて言わないわよね?﹂
﹁言わないよ。戦術というか戦略を考えてた﹂
﹁ふーん? 何の戦略よ?﹂
﹁えー、あー⋮⋮結婚?﹂
間違ってない。ラデックとは結婚の話したし、エミリア王女殿下
とは東大陸帝国のエレナ王女の結婚相手のことについて話してた。
﹁⋮⋮はぁ﹂
サラは溜め息を吐いただけで特に何もアクションを起こさなかっ
た。
ここで殴ったり蹴ったり顔を赤くしたりしない辺りサラも成長⋮
⋮したのかな?
﹁ユゼフのせいで嫌なこと思い出しちゃったじゃないの﹂
﹁嫌なこと?﹂
﹁今日ね、久しぶりに父親に会ったのよ﹂
一流の剣士の心得をサラに教えた二流の父親、だったっけ?
﹁サラって王都に住んでたの?﹂
﹁違うわ。北シレジアのド田舎生まれよ。どうやらアイツ、最近王
481
都の郊外に引っ越してきたのよ﹂
父親をアイツ呼ばわり、という時点でマリノフスキ家の家庭事情
が垣間見える。
﹁で、その都上りしてきたお父さんに会って不機嫌なの?﹂
﹁別に、そんなに不機嫌ってわけじゃ﹂
﹁そんな風には見えないけどね﹂
口が尖がってるし。
﹁⋮⋮アイツ、私に会うなりとにかく家に来いって言ったのよ﹂
﹁それで、行ったの?﹂
﹁まぁね。そこで家に寄らないほど私は親不孝者じゃないし、それ
にアイツのみすぼらしい新居に傷を2、3つけてやろうって思った
の﹂
その発想が十分親不孝者だと思うよ?
﹁それで、今日家に行ったの。そしたら、割と綺麗な家でビックリ
したわ。新築なんて、アイツにそんな金あったなんて﹂
﹁確かに、それは凄い﹂
前世風に言えば﹁吉祥寺に新居建てたぜ!﹂ってとこだろうか。
王都に住むだけだったら別に苦労はいらない。治安は悪いけど、貧
民街のボロ家を借りれば懐には優しいし。そうでなくても中古アパ
ート借りれば﹁まぁちょっと高いかな?﹂くらいで済む。でも新築
となると敷居が高い。
﹁でも、家に入ったらもっとビックリすることがあったわ﹂
482
﹁何? お父さんが新しい奥さんでも手に入れた?﹂
﹁ちょっと違うわね。私の婚約者がいたのよ﹂
⋮⋮⋮⋮?
﹁ファッ!?﹂
﹁何その素っ頓狂な声﹂
﹁え、あ、いや、サラって婚約者いたの!?﹂
﹁らしいわ。私も今日初めて聞いたところなんだけど﹂
なにそれ少女マンガか何か? それで相手は水をかけると女にな
ったりパンダになったりするの?
﹁相手誰なんだ!?﹂
﹁⋮⋮なんでユゼフに教えなきゃいけないのよ﹂
﹁い、いや。サラと結婚生活を送るような人が可哀そうだなって﹂
﹁どういう意味よ﹂
ドメスティックバイオレンス多発しそうって意味です。通常の場
合と違って奥さんが加害者だけど。
﹁で、結局誰?﹂
﹁⋮⋮もしかしてユゼフ、妬いてるとか言わないでしょうね?﹂
﹁そんなことないよ?﹂
﹁ふーん?﹂
サラは彼女らしくもなくニヤニヤと笑っている。なんすかその笑
い⋮⋮。
﹁まぁいいわ。信用してあげる﹂
483
﹁どーも﹂
﹁条件付きでね﹂
条件付きって信用と言えるのか?
﹁条件って何さ﹂
﹁⋮⋮﹂
あれ? もしかしてその条件、今考えているとか言わないよね?
﹁条件は⋮⋮あ、そうだ﹂
彼女は条件を思いついたのか、小走りで駆けだした。なんだなん
だ。俺を置いていくな寂しいから。
と思ったのも束の間、ほんの数分でサラは帰ってきた。手には二
本目の剣が握られている。実戦用なので、もちろん金属製でちゃん
と刃もある。さすが王都防衛隊の装備だ。金欠軍隊でもちゃんと整
備はされているのがわかる。で、これがどうしたの?
﹁決闘よ!﹂
﹁いや、サラと俺じゃ実力差がありすぎる気がするんだけど﹂
騎兵科次席卒業生に決闘して勝てるのは首席か、剣兵科四席以上
じゃないと難しいんじゃないか?
﹁別に勝て、って言ってるわけじゃないわ。半分練習も兼ねてるし、
484
もちろん手加減する。ユゼフにケガさせたくないしね﹂
﹁御配慮どーも﹂
こんなことになるんだったら、休暇中もサボらずに訓練した方が
よかったかもしれない。久々に握る金属剣は両手にズッシリ来る。
あぁ、練習用の剣に振り回されてた入学したばかりの頃の俺を思い
出す。
一週間やってないだけで忘れるもんだな。でも、基本の基本は覚
えてる。体で覚えさせられたよ。間違ったら罵詈雑言+暴力してく
れる鬼教官がいたおかげで。
サラと俺はほぼ同時に構える。試験用だなんだで覚えさせられた、
決闘時における基本の型。
﹁開始の合図はユゼフがしていいわよ。あとユゼフが有利になるよ
うに、私はここから一歩も動かない。私が歩いたら、ユゼフの勝ち
で良いわ﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
と言ってもこのままでは勝てる気はないな。練習とは言え、手は
抜きたくないし、せっかくならサラに勝ってみたい。でも実力差は
歴然としてる。なら、腕は頭でカバーするしかない。
サラは一歩も動かないと言った。つまりこちらが攻撃しても大き
く避けられないと言うことだ。正面から剣を受け止めるか、手○ゾ
ーンみたいに片足を軸にして回転するしかない。つまり小さな動き
では回避できないような攻撃をするか、意表を突いてサラがビック
リして慌ててその場から離れちゃうような状況を作ってしまえばい
い。
⋮⋮俺は大きく息を吸って、吐いた。それを数回繰り返す。
よし。いける。
485
﹁⋮⋮じゃあ、行くよ!﹂
486
血闘
ウォーターボール
﹁じゃあ⋮⋮行くよ! 水球!﹂
俺は合図と同時に、サラに向かって水球を撃つ。別に﹁剣だけを
使わなければいけない﹂なんて言われなかったからね。水球を当て
てよろめかせられれば問題ない。避けられても大丈夫なように、魔
術撃った直後に俺も急速前進する。テニスでサーブした瞬間にネッ
トまで張り付く選手みたいなイメージ。彼女が避けたところで斬撃。
﹁どんな手を使おうが、最終的に勝てばよかろうなのだァ!﹂であ
る。
とこのように半ば勝ちを確信していたせいか、俺は結構油断して
たと思う。だからサラの行動が直前になるまで読めなかった。
ファイアーボール
﹁やっぱりね! 火球!﹂
サラが、俺の水球に火球をぶつけてきたのだ。俺とサラのちょう
ど中間地点でバスケットボール程の大きさがある初級魔術がぶつか
り合う。同じ速度、同じ大きさ、同じエネルギー量を持つ水球と火
球がぶつかったため、一瞬湯気によって視界が塞がれてしまった。
﹁チッ!﹂
俺はつい舌打ちをしてしまった。奇襲したつもりが、奇襲を受け
てしまった格好になる。完全にこれは読まれてたな。でなければ、
魔術を魔術で迎撃するなんて無理だ。銃弾を銃弾で弾くようなもん
だからな。
でも俺は前進をやめない。一瞬生じた霧は俺の視界を塞いだけど、
487
サラにとってもそれは同じ。それにここで退いても意味はない。も
う一度魔術を撃っても読まれるだけだろうし、退いて正面から戦っ
て勝てるとは思えない。この機に一気に距離を詰めて一撃を加える
のが最善だ。
二歩進んだところで、サラの影が見えた。既に剣の射程内、よし
いける! 俺は左上段から剣を振り下ろす。勿論、サラがケガしな
いように刃で切らないように剣の腹で叩く感じで振り下ろす。速度
も加減して、可能なら寸止めできるように。
これに対してサラは下から掬い上げるようにして迎撃してきた。
俺が手加減して振り下ろしたせいで、威力も速度も落ちている。受
け止めるのは容易いだろうな。まさかそれも想定済みなの?
サラはそのまま俺の剣を反時計回りに回転させ下に降ろす。その
結果俺の腕は骨格的にきつい感じになる。
﹁く、この、こなくそ!﹂
やばい。このままじゃ腕が変になって剣を地面に落としてしまう。
ええい、頭脳プレイはやめだ。頭脳プレイ︵物理︶してやる。
そう思って俺は半分ヤケクソでサラに頭突きを食らわせる。ケガ
とかそんなん知るか! 俺の石頭を食らえ!
﹁ふんっ﹂
サラは俺の頭突きを、左足を軸にして時計方向に回転した。行き
つく先を失った俺の頭は宙を突き、前につんのめった格好になる。
バランスが崩れたものの、サラが回避したおかげで剣の自由も開放
された。よし、一旦距離を取って体制を立て直⋮⋮せなかった。
サラは回避した時の回転力をそのまま剣に込めて、前傾体勢にな
った俺の背中に剣の腹を叩きつけた。俺は自分の体重を支えること
ができなくなり、転倒してしまう。そんな隙だらけの俺を見逃して
488
くれるほど、サラは慈悲深くない。俺は首筋に剣を突き付けられた。
﹁⋮⋮完敗だな﹂
ここで負けを認められないほど哀れな男になったつもりもない。
﹁ま、ユゼフのことだから初手で魔術を撃つだろうとは思ったわ。
あんたって意外と単純だし﹂
決闘終了後の反省会。じんわり痛む背中をさすりながら、サラか
ら俺の敗因を聞いてみた。
﹁でも他の手使っても勝てそうな気がしなかった。俺の頭じゃ、こ
の程度が限界でね﹂
﹁本当に他になにも思いつかなかった?﹂
﹁本当だよ﹂
﹁嘘ね﹂
﹁嘘じゃないさ﹂
﹁嘘よ。だって、ユゼフ手加減したじゃない。たぶん、私をケガさ
せないようにしなきゃって思って﹂
正解です。
間違ってケガさせたら嫌だし、最悪死んじゃうかもと思ったのだ。
﹁そういう変な配慮するから負けるのよ。私がユゼフの剣でケガす
ると思う?﹂
﹁あー⋮⋮思わないな﹂
489
﹁でしょ?﹂
すごいバカにされてる気がするけど実際その通りなので黙ってお
くことにする。
剣で勝てないから魔術を織り交ぜて攻撃した。でも考えてみれば
魔術の才能も俺とサラじゃ似たようなもんだったか。頭の差は俺の
方がある⋮⋮と思うけど、剣術の差を埋められるほど俺の頭はよく
ない。サラは突撃バカってだけで頭が悪いわけじゃない。相手がど
ういう手を使ってくるから、自分はこうしよう、そしてここで攻め
よう。そういう考えができる人間だ。さすが騎兵科次席卒業生は違
うね。騎兵も攻撃偏重の兵科だから、そこらへんの判断力も必要な
のだ。
﹁次回から、サラが戦術の授業を教えればいいよ﹂
﹁やめておくわ。私は理論じゃなくて、カンで動いてるから﹂
カンでこんな動きができるなんて、羨ましい限りだ。
﹁⋮⋮で、俺負けたけど、信用できる人物だと言うことで良いよね
?﹂
そもそもの話、俺が信用に足る人間かどうかの決闘だった⋮⋮よ
ね? つい夢中で剣と頭を振ってたから忘れてたけど。
﹁⋮⋮ま、そう言うことにしといてあげるわ﹂
﹁なんだそれ﹂
なんだかいつもと逆だな。﹁なんだそれ﹂って言うのはだいたい
サラの仕事だし。
あ、そうだ。﹁なんだそれ﹂で思い出した。
490
﹁結局サラの婚約者って誰?﹂
﹁⋮⋮せっかくいい気分だったのに、ぶち壊しだわ﹂
﹁すんません﹂
俺もぶち壊しだと思うけどさ、今言わないと忘れちゃいそうだか
ら。
サラは俺を見て、数秒逡巡した後、深い、深ーいため息を吐いて
教えてくれた。
﹁⋮⋮カリシュ子爵の次男だったわ。年齢は確か⋮⋮25歳﹂
﹁玉の輿だね﹂
﹁ふんっ。子爵か何か知らないけど、随分偉そうな奴だったわ。﹃
身分も高く頭も良くてそして何より美しい私と婚約できることを誇
りに思え﹄とかなんとか言ってたし﹂
﹁すっげぇ頭悪そう﹂
ナルシストって言うより残念な人だな。サラには似合わないタイ
プ⋮⋮って子爵次男に合うタイプの人間ってなんだ? 恥も外聞も
誇りも全部投げ捨てて子爵を囃し立てるのが生きがいだと思える人
間か? そんな奴いねーわな。
﹁身分と頭はともかく⋮⋮そいつ美しかったの?﹂
﹁いや、別にそんな感じではなかったわね。平均以上かもどうか怪
しかった﹂
残念と言うより﹁哀れな人間﹂という領域に達している。子爵次
男には頑張って一生独身で生きてほしい。爵位は長男がたぶん継ぐ
らしいから安心しろ。
491
﹁だから、私はユゼフの方が良いわ﹂
﹁そりゃどーも﹂
さすがにソレと比べられても嬉しくはない。大抵の人間なら勝て
るよ。身分以外なら。
﹁⋮⋮﹂
﹁な、なにかなサラさん﹂
﹁さん付けしない﹂
ポカリ、と頭を小突かれた。この流れも久々な気がする。
サラはむすーっとした表情でこっちを見つめている。そんなにさ
ん付けが嫌だったんですかね⋮⋮。でもこの反応欲しさに、ついさ
ん付けしてしまう俺がいる。
気づくと時刻は19時を回っていた。結局、俺らは夕飯を食い損
ねたようだ。
492
再会
11月8日、休暇6日目。
昨夜サラに剣で殴られた背中がまだジンワリと痛い。でも軍隊で
はこの程度のケガはケガの内に入らないので軍医や治癒魔術師に見
てもらう訳にはいかないのだ。
今日は何をしようかな。2日連続で寝ると言うのもそれはそれで
いいけど、さすがに身体がなまってしまう。散歩程度の運動はすべ
きだろう。というわけで今日も王都をブラブラと散歩する。特に何
もやることないけどね。
と、思っていたのだが、その王都で意外な人物と再会した。
﹁ユゼフ? ユゼフじゃないの!﹂
んぁ? 誰? どっかで聞いたことある声だ。久しく聞いてない
から、記憶の奥底に埋まっている。誰だっけな。そう考えながら声
の主を探してキョロキョロする。すると、声の主はすぐに見つかっ
た。いや、声の主を見つけたと言うよりは知ってる人がいた。
﹁まったくもう! 士官学校に入学してから全く連絡寄越さないな
んて、心配したでしょう!﹂
﹁まぁいいじゃないか。こうやって元気だったんだからな﹂
両親だった。
493
﹁ユゼフ、ちゃんと食べてるの? なんかガリガリじゃない?﹂
﹁家に居た頃の方が筋肉あったんじゃないか? 士官学校で何をや
ってたんだ﹂
﹁そうそう、そろそろ良い女の子見つけた? あんたもいい歳なん
だから恋人の一人や二人持たないとダメよ。お父さんみたいに﹂
﹁おい、待て何の話だ﹂
﹁あら、私は知っているんですよ。あなた確か結婚式の前夜に⋮⋮﹂
﹁待て待て待て待てなんでなんでなんでなんで﹂
近くにあった大衆食堂、数日前にラデックと一緒に入った店に寄
った⋮⋮のだけど、とても五月蠅い。大衆食堂というものの関係上、
少し騒がしいのは仕方ないのだけど、両親の声量はそれを凌駕する。
﹁お二人とも少し静かにしていただけますでしょうか﹂
このままじゃ五月蠅すぎて失聴するかもしれない。
﹁あら、ユゼフったらそんな変な話し方するようになったの?﹂
﹁⋮⋮まぁ5年も経ってるから﹂
10歳の誕生日の時に一気に20歳くらい老けたからね。仕方な
いね。
﹁ていうかなんで王都にお父さんとお母さんがいるの?﹂
﹁そりゃあ、11月だからな﹂
﹁いや、農閑期なのはわかるけど王都には来ないでしょ?﹂
農閑期になると収入がなくなる、だから都市部に出稼ぎに行くの
494
は別に間違ってない。我が家もお父さんは冬の間、近くの地方都市
に出稼ぎに出ていた。でも我が故郷はシレジア東部にある農村だ。
シロンスクから物凄く遠い、というわけではないが、わざわざここ
まで来ずとも良い。
ココ
﹁そんなの決まってるじゃない! ユゼフが心配で来たのよ!﹂
﹁あー、えっとその、ありがとう。うん、で、なんで俺が王都にい
るってわかったの?﹂
﹁なんか早馬の手紙で11月上旬に息子が王都に来るとかなんとか、
詳細は軍機につきどうのこうの﹂
﹁そんなあやふやな情報で来ちゃったんだ﹂
﹁来ちゃいました。まぁ実際会えたからいいのよ﹂
ていうかこういう情報ってホイホイと教えていいのだろうか。一
応俺は正規軍じゃなくて義勇軍としてラスキノに行ったわけだから。
にしてもうちの両親ってこんなキャラだっけ⋮⋮。もっとこう、
シッカリした記憶あるんだけど。
﹁で、ユゼフは恋人できたの?﹂
﹁いや、あの、士官学校は出会いの場ではないんですが⋮⋮﹂
﹁つまり?﹂
﹁⋮⋮まだです﹂
﹁あらあら、せっかくお父さんからいい顔貰ったのに﹂
﹁そうだぞ。俺みたいにいい嫁さんを貰ってな﹂
﹁そうそう。お父さんみたいに三股かけないと﹂
お父さんにも若い頃があったんですね⋮⋮。いや父親の撃墜記録
とか子供が聞きたくない話題ランキング第4位︵当社調べ︶なんで
これ以上の情報はいらないです。ちなみに1位は﹁俺が若い頃は云
々﹂だ。
495
﹁⋮⋮⋮⋮あー、そう言えば、モニカちゃんがお前の事心配してい
たぞ﹂
﹁誰?﹂
﹁ほら、いただろ。初級学校でお前と一緒だった﹂
﹁いたような、いなかったような⋮⋮﹂
いやホント10歳の誕生日以前の記憶がふにゃふにゃでね。それ
以降の日々がとてつもなく濃厚だったから、俺の記憶の殆どが士官
学校時代で埋まってる。あとはゴミ箱行きでね。
﹁おいおい酷えこと言う奴だな﹂
﹁と言っても覚えてないもんは覚えてないし﹂
再会
﹁ふーん? そうか。まぁモニカちゃんらたちは引っ越しちまった
し、もう会うこともないだろうがな﹂
前世なら再会フラグだろうけど、今まで忘れてた人間でも
って言葉はあっているのだろうか。作者の気まぐれで追加された
新キャラって言いかえた方が良さそうだけど。
﹁村は何か変わったことあったの?﹂
﹁いや、別段何もないな﹂
﹁そうねぇ⋮⋮。半年くらい前にお隣の息子さんが結婚したくらい
かしら﹂
﹁そういやそんなこともあったな。嫁は結構美人だったぞ。ユゼフ
もさっさとそういう相手見つけて﹂
﹁わかったわかったから、もうそういう方向の話やめよう? ちょ
っと悲しくなってくるから﹂
﹁本当にいないのか? 士官学校にも女子はいるだろ?﹂
﹁いるにはいるけど、軍隊ってそもそも男社会だし⋮⋮﹂
496
﹁それもそうか。それで数少ない女子は貴族連中が持ってくか﹂
まぁサラみたいに誰も寄り付かない性格の人もいるし、エミリア
様やマヤさんみたいな高貴な身分すぎて近寄りがたい人もいるけど。
そう言った点では俺はそれなりに人脈作れてる。もうちょっと普通
アフターザフェスティバル
の友人と言うものが欲しかった。俺みたいに没個性でこれと言って
特徴のない友達が。いまさら言ったところで後の祭りなのだが。
﹁でも、どんな形であれ、どんな身分であれ、どんな人間であれ、
お前が培ってきた交友関係は、きっとお前の将来を輝かせる物とな
るはずだ。だから、大切にしておけよ﹂
﹁わかってるよ、父さん。結構良い奴らだから、出来れば紹介して
おきたいんだけど⋮⋮﹂
﹁いいっていいって。子供の交友関係に親が首突っ込むと碌なこと
がない。そういうのは、お前が結婚するときだけでいいさ﹂
﹁いやいやいや。だからあいつらはそう言うんじゃ⋮⋮﹂
﹁えっ? つまり仲良いお友達の中に女の子がいるってことね!﹂
しまった。ばらしてしまった。
﹁ねぇねぇ、どんな子? 教えて頂戴!﹂
﹁だからそんなんじゃないって!﹂
﹁わからないわよ? もしかしたら、将来ワレサの名を継ぐかもし
れないじゃないの!﹂
母親が恋する乙女の顔をしていた。俺の記憶が確かならもう33
くらいになるはずだが⋮⋮。
﹁ま、将来の結婚相手の事は追々話してくれ。今日はお前の話が聞
きたい。士官学校で何があったか、軍機に触れない範囲で教えてく
497
れ﹂
﹁それもそうね。ユゼフが学校でどんな武勇伝を築き上げたか気に
なるわ!﹂
﹁いや、そんなたいそうな事してないんだけど⋮⋮﹂
結局、俺らワレサ家は数時間にわたってひとつのテーブルを占拠
し続け、店長に嫌な顔された。うん、ごめんなさいね。久しぶりに
両親と会話したのが本当に楽しかったから、つい。
498
再会︵後書き︶
※モニカちゃんの登場予定はありません。あしからず
499
最終日
11月9日、休暇最終日。そして、士官候補生最後の日。明日、
俺は正式に軍に配属されることになる。
どこに着任することになるだろうか。
どこかの部隊の参謀か、はたまた王都の参謀本部か。軍務省勤務
と言う可能性もある。たぶん実戦部隊の長になる、ということはな
いかな。そう言うのは剣兵科とか騎兵科とかの戦闘部隊の仕事だ。
ま、既に人事課は俺の配属先を決めてるだろうし今更ごたごた言
ってもどうにもならん。せっかくもらった休暇、その最終日、今後
あるかどうかわからない﹁一日中ごろごろして過ごす﹂を実行に移
さねば勿体ない。2日前にも似たようなことをやった気がするけど
サラと決闘したからノーカンである。さて寝るか。
と、そうはさせてくれないのが現実の厳しさである。
エミリア王女殿下の使者から﹁王女殿下が会って話がしたいそう
だ﹂という連絡があった。今回は向こうから馬車でお迎えがあった
わけではなく、こっちから王宮に行けとのこと。いや平民の俺がど
うやって王宮に行けと、その前に貴族居住区画にも通れないってば。
とりあえず﹁殿下がなんとかしてくれるだろう﹂と思って何も考
えずに王都中心部へ行ってみる。貴族居住区画に近づくと、だんだ
んと衛兵の数が増えてくる。まだ一般区画で、一応軍服をしている
500
俺に対する警戒感はそんなにない。でも﹁あんな子供がいっちょま
えに軍の正装着やがって﹂みたいな視線がある。俺だって着たくな
いよこんなの。でも王女殿下に会うかもしれないんだからさ。
貴族居住区画と一般区画の境には検問所がある。貴族や通行証を
持つ人以外は立ち入り禁止。近づいただけで職質に遭い、逃げよう
ものなら切り殺されても文句は言えない。
さて、どうしたものか。
軍服が通じるのは一般区画まで。あの検問所から先は緊急時では
ない限り入れないのだ。
﹁こんなところで油を売ってないで突撃したらどうかね?﹂
﹁いや、俺は誰かさんじゃないんでそんな無謀な突撃はしな⋮⋮え
?﹂
気づけばマヤさんが後ろにいた。忍者か。マヤさんは前回に引き
続き近衛兵の正装。うん、似合ってる似合ってる。
﹁背後を取られるなぞ、お主もまだよのぉ﹂
﹁いつの時代の人間ですか。第一背後の警戒は哨戒部隊の仕事です﹂
﹁ごもっとも。参謀が背後警戒なんて聞いたことないな﹂
﹁でしょ? ついでに言うと突撃も参謀の仕事ではありません﹂
﹁そうだったな。では、私と一緒に来い。副官は指揮官の後ろをつ
いていくのが仕事だ﹂
クラクフスキ公爵令嬢の紹介と言うことで検問所は問題なく突破
できた。相変わらず衛兵からの疑いの視線は痛い。それが彼らの仕
事だと分かっていても納得できない自分がいる。
501
﹁このまま賢人宮に行く、と言いたいところだが諸事情で入れない
んだ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁あぁ、ちょっと面倒な人が一昨日帰ってきてね﹂
マヤさんは明言を避けたが、俺の脳裏に浮かんだ人物は一人しか
いない。たぶんそれであってるはずだ。
﹁その一昨日帰ってきた人物はどこに行っていたんですか?﹂
﹁ん? あぁ、確かシレジア東部の直轄領の視察だよ。表向きはね﹂
﹁おやおや。裏に何かあると言いたげですね﹂
﹁物証があるわけではない。ただ、ラスキノへ義勇軍派遣が決まっ
た直後に急遽視察の日程を決めたらしいからね。怪しさ万全だろ?﹂
﹁確かに﹂
言うまでもなく、シレジアの東には東大陸帝国が存在している。
無関係ではないだろう。
﹁さて、おしゃべりはここまでだ。着いたぞ。君が最後の客人だ﹂
﹁⋮⋮わーお﹂
つい変な声を出してしまったが、それほどその屋敷は大きかった
のだ。
﹁ようこそ、我がクラクフスキ家へ﹂
−−−
502
賢人宮の一画、カロル大公は自らの執務室にて黙々と日々のスケ
ジュールを消化していた。カロル大公は﹁文武両道、公明正大な人
物﹂であるというのは、彼の事をよく知らない者による評価である。
実際は、文武両道はともかく、公明正大かどうかは疑問が残る。公
明正大さで言えば、法務尚書タルノフスキ伯爵の方が勝っているだ
ろう。
そんな彼の執務室に重々しい表情をした副官がやってきた。
﹁大公殿下、クラクフスキ家の屋敷を監視していた者から報告が入
っております﹂
大公が賢人宮に戻った時﹁エミリア王女が誰かを王宮に招待した﹂
という情報が入ってきた。相手は若い男で、軍服姿。それ以外の情
報は全くの不明だった。
大公は考えた。もしかすると、士官学校時代に重要な人物と出会
ってそいつを王宮に招いたのか。その重要な人物とは誰だろうか。
王宮に招くとなると、相当身分が高い者となる。少なくとも伯爵か、
平民であっても次官レベルの高階級だろう。
そして今日、エミリアがクラクフスキ公爵家へ向かったらしい。
大公は早速信頼できる部下を大公派貴族の屋敷に向かわせ、そこで
監視活動を行わせたのだ。王女はおそらくそこで誰かと再び会うに
ちがいない。
﹁ん、なんだ﹂
﹁はい。本日午前10時から11時にかけて、5人が例の屋敷に招
かれたようです﹂
﹁5人か⋮⋮誰だ?﹂
503
5人、という数字自体は大公にとって予想通りだった。士官学校
には貴族が多いとはいえ、そこから宮廷内闘争で味方に付き、かつ
信頼できる者と言ったらたかが知れている。そう考えたからだ。
﹁はい。まず1人目は内務尚書ランドフスキ男爵の長女イリア・ラ
ンドフスカ。2人目はローゼンシュトック公爵の長男ヘンリク・ミ
ハウ・ローゼンシュトック﹂
﹁ふむ、なかなか厄介な二人だ﹂
内務尚書ランドフスキ男爵は、法務尚書タルノフスキ伯爵と旧知
の仲であり国王派の中核を担う人物の一人だ。爵位の面だけで言え
ばカロル大公の敵ではないが、実務面におけるランドフスキ男爵の
手腕は本物だ。だが、たかだか男爵の身分で内務尚書の地位の座に
座り続けることに対して反感を持つ大貴族は多い。内務省の次官が
子爵であることも影響している。
もう一方のローゼンシュトック公爵は、シレジア独立時から存在
する武門の名家だ。最初はただの騎士階級だったが、戦争が起きる
たびにローゼンシュトック家は武勲を立て続け公爵まで上り詰めた
となった実力派である。故に下級貴族からは羨望と尊敬の眼差しを
受け、既存の大貴族からは忌み嫌われている。
大公にとっては国王派、ひいては王女派貴族に公爵家が名を連ね
るのは非常にまずい。
シレジア王国には公爵は11家ほど存在する。そのうちローゼン
シュトック家、クラクフスキ家の2つが王女派だ。カロル大公を支
持している、いわゆる大公派は現時点で6家、残りは旗色を決めか
ねているようだ。
﹁⋮⋮問題は残りの3人だな﹂
﹁はい。ですがこの3人については正体不明です﹂
504
﹁なんだと?﹂
﹁名のある貴族であればわかるのですが、見覚えのない人物だった
ようです﹂
﹁ふむ⋮⋮であれば下級貴族か武家だな。検問所の記録はどうだっ
た?﹂
﹁はい。調べましたところ、1人は騎士階級の娘、2人は平民の男
性だそうです。ただ、性別以外の情報は虚偽である可能性もありま
すが⋮⋮﹂
﹁いや、検問所で虚偽報告して、もしバレでもすれば大事だ。おそ
らく本当だろう﹂
﹁で、ではこの2人は﹂
﹁名のある武家か商家か、あるいはただの友人か⋮⋮﹂
だが、カロル大公がいかに聡明であったとしても、これだけの情
報でユゼフらが自称一般人であることを見抜けるはずがなかった。
﹁引き続き、屋敷の監視を怠るな。報告も定期的に行え﹂
﹁ハッ!﹂
505
クラクフスキ公爵家
招かれたクラクフスキ公爵家の屋敷は、屋敷と言うより小さい宮
殿だった。当然と言えば当然。なぜならクラクフスキ公爵領は経済
的に豊かだからだ。領都の人口は王都シロンスクに次いで2番目、
経済力では3番目。オストマルク帝国とカールスバート共和国と国
境を接しているため、交易が盛んで、そして軍事的な意味での重要
度も高い。
﹁だからこそ兄弟の中で一人くらいは士官学校に行かなきゃ駄目な
のさ﹂
というのはマヤさんの言である。マヤさんは第三子なので家督を
継ぐことはないだろうが、エミリア王女殿下の傍に立ち続ければ、
まぁ伯爵くらいには叙されるだろうな。無論、王女が無事だったら
の話だが。
﹁今戻ったぞ!﹂
屋敷の戸を開けた途端、豪胆な彼女は公爵令嬢らしからぬ声量と
態度で帰宅した。いいのかそれで。
でも執事や近侍達はそんなマヤさんの態度に対し眉ひとつ動かさ
ずただ深々と頭を下げるだけだった。慣れてる、もしくは注意する
気力がないのか。
初老の執事が前に出て、マヤさんの帰宅を迎えた。
﹁お帰りなさいませ、お嬢様。他のお客様は既に応接室に通してお
ります﹂
506
﹁ご苦労! すぐに行く。あぁ、そうだ。紹介が遅れたな。彼が例
のユゼフ・ワレサ士官候補生だ﹂
例の、って何? え、俺知らない内に有名になってるの? なん
か嫌だなぁ。勇名より悪名が馳せてそうだし。
﹁彼は一介の軍人、平民に過ぎない。でも私の大切な友人であり客
人だ。粗相はあると思うが公爵家嫡男が来たと思ってもてなしてく
れ﹂
﹁かしこまりました。どうぞこちらへ﹂
執事は俺にそう促すと、応接室に通してくれた。道中、俺は平民
らしく豪奢な屋敷を見学する。賢人宮より手入れが行き届いている
感じはあるし、近侍達も良く教育されている。名門の公爵家とは言
え、一貴族の住居が王族の住まう賢人宮よりも清潔感と絢爛さがあ
るのはどうなんだろ⋮⋮。
応接室に入ると、そこには見知った顔が5つあった。
エミリア王女殿下、サラ、ラデック、そして士官学校時代の先輩
だったローゼンシュトック公爵の嫡男と内務尚書ランドフスキ男爵
カヴァレル
の娘さん、だったはず。数える回数しか会ってないから細かい部分
の記憶があやふやだ。
つまり、今この部屋には王族、公爵、男爵、騎士、商家、農民が
いることになる。統一感ないなココ。そして圧倒的に俺の身分が低
い。ラデックは名のある商家の御嬢様を許嫁に持つくらいの奴だし、
サラも一応貴族の部類に入るし。でも席次は適当なようだ。エミリ
ア殿下が最上位の席にいるのは良いとして、上座にサラがいて下座
507
に男爵令嬢がいるという。
﹁おいユゼフ。何ボサッと突っ立ってるんだよ。早く座れよ﹂
﹁いや、どこに座ればいいものかと思ってね⋮⋮平民は平民らしく
ドア横に立った方がいいかなって思って﹂
﹁何らしくない事言ってんのよ。あんた﹁貴族はクズの集まりだ!﹂
とかいつも言ってるんだから、今更誤魔化しても仕方ないでしょ﹂
﹁いやそんな過激な発言した覚えないよ!?﹂
確かに努力せずに世襲によって地位も名誉も富も権力も何もかも
手に入れるのはダメだとは思ってるけどね? クズの集まりだと言
った覚えはないよ? 覚えてないだけかもしれないけど。
﹁席次は気にしなくてもよろしいです。どうぞお好きな席に座って
ください。なんなら、私の席を譲りましょうか?﹂
﹁い、いえ、とんでもない! 平民は平民らしく、床に座ってます
!﹂
﹁バカ言ってんじゃないわよ。私の隣が空いてるから、ほら、ここ
座りなさい﹂
サラはソファをポンポン叩きながら言った。うん、もうそこでい
いや。男爵よりも上座と言うのは気が引けるが。座ってみると、ソ
ファは柔らかく座り心地が良い。さすが名門の公爵家、こういう所
にまでお金かけられるんだね。
﹁⋮⋮てかサラ近くない?﹂
﹁そ、そう?﹂
広々とした3人掛けソファでこれだけ圧迫感と窮屈感を感じるの
はきっとサラがソファを贅沢に使っているせいだと思うのは気のせ
508
いかな? どんだけくつろいでるんだコイツ。
さすがに自重を覚えたのか、少しスペースを開けてくれた。ふぅ。
これで俺もソファにくつろげるし、なによりサラのパンチに怯えな
くて済む。
﹁相変わらずだな⋮⋮﹂
急にラデックがボソッと呟いた。呟いた割には部屋にいる奴全員
に聞こえるような声量で。
﹁何が?﹂
﹁ん? 深い意味はないぞ﹂
﹁余計気になる﹂
でもラデックを追及してもそれ以上の回答は得られなかった。な
んなんだろうね。
その時マヤさんが応接室に入ってきた。全員が揃っていることを
確認すると、一度咳込んでから話の口火を切った。
﹁コホン。えー、全員が揃ったようなので、会を始めようと思う﹂
﹁あのー、そもそも今日が何の集まりなのか知らされていないんで
すがそれは﹂
﹁私も聞いてないわね﹂
﹁俺もだ﹂
俺の疑問に、サラとラデックが同意した。
集まったメンバーの表情を見るに、どうやら内容を知らないのは
爵位を持たない俺ら三人だけのようだ。これが階級社会か。
﹁そうだったな。言うのを忘れていた。でもその前に、改めて自己
509
紹介をしよう。君らは、先輩方のことは詳しくは知らないだろう?﹂
﹁そうですね。お恥ずかしながら私も名前と爵位以外はうろ覚えで
⋮⋮お願いします﹂
というわけで今更自己紹介タイム。身分の低い者から順にという
ことで俺、ラデック、サラ、男爵、公爵の順で自己紹介をする。俺
とラデックとサラの自己紹介は割愛しよう。
﹁あたしはイリア・ランドフスカ。ランドフスキ男爵家の長女です。
姓で呼ばれるの、あまり好きじゃないからイリアって呼んでね。今
は軍務省魔術研究局に勤めてる。階級は中尉﹂
イリアさんは茶髪ポニーテールと言った面持。快活そうだが、ど
うも貴族には見えない。失礼な話、サラの方が貴族っぽい。あとは
⋮⋮そうだな、例の部分は見た感じ伯爵レベルかな。具体的にナニ
とは言わないけど。確か俺より1学年上の先輩だったな。だから少
なくとも16歳以上であることは確かだ。
﹁オレはヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック。ローゼンシュト
ック公爵家の長男だ。イリア殿と同じように、ローゼンシュトック
じゃ長すぎるだろうと思う。だから気軽にヘンリクと呼んでくれ。
自慢ではないが、警務科首席卒業。今は王国宰相府国家警務局王都
警務師団所属、階級は大尉だ﹂
ヘンリクさんは見るからに武人の強面で、もし﹁刑務所の看守や
ってるんだぜ﹂と言っても違和感がない。学年は2つ上だった。
ローゼンシュトック公爵家は武の名門で、先代は退役元帥、当代
は中将らしい。そして王国宰相府国家警務局とは、要は憲兵隊のこ
とだね。軍内部の規律違反取締の他に、通常の警察業務であるとこ
ろの市井の治安維持や犯罪捜査を行う。というかまだこの大陸には
510
警察専門組織はない。軍隊の中に憲兵隊を作って、そこがいわゆる
警察の役目を負っている。だからこの大陸では﹁警察﹂と言えばそ
れは即ち﹁秘密警察﹂のことである思って構わない。
﹁ちなみにオレの年齢は25歳。マヤ殿の3つ上だ﹂
﹁そして私はイリアの4つ上だよ﹂
﹁ちょっと!?﹂
イリアさんじゅうはっさい。おぼえましたし。
﹁コホン。では自己紹介も終わったところだし、本題に入ろう﹂
﹁え、結局これ何の集まり?﹂
﹁慌てるな。すぐにわかることだ﹂
もったいぶるようなことなのだろうか。まさか国王陛下の容態が
悪いとかそういう話だろうか⋮⋮。
﹁エミリア王女殿下、サラ・マリノフスカ、ラスドワフ・ノヴァク、
そしてユゼフ・ワレサ! 卒業おめでとう!﹂
﹁﹁おめでとう!﹂﹂
⋮⋮はい?
511
魔法陣と魔石
﹁いくつか質問よろしいでしょうか?﹂
マヤさん
﹁おう、なんだユゼフくん﹂
﹁なんで主催者が卒業生なんですか⋮⋮﹂
OB、OG主催ならわかるけどさ、一緒に卒業するはずのマヤさ
ん主催って変じゃない? 様子見るにエミリア殿下も知ってたみた
いだし。
﹁まぁ、卒業祝賀饗宴会はお題目みたいなもんだ﹂
﹁はぁ。ではどんな目的で⋮⋮?﹂
﹁わからないか?﹂
﹁わからないから聞いてるんですよ﹂
ユゼフさんはエスパーじゃありませんので。
﹁簡単さ。明日、我々居残り組は別れることになる。その最後の日
を騒いでやろうと思ってね﹂
﹁なるほど﹂
そういうことなら祝宴されるのも吝かではない。
﹁でも騒ぐと言っても貴族の屋敷でワイワイできるほど大胆になれ
ませんよ﹂
﹁構わん構わん。今日の為に両親も兄貴達も屋敷から追い出してる
し、近侍も執事も入れないようにしてあるから大丈夫だ﹂
512
じゃあ安心だね! とは残念ながらならない。追い出していると
言っても離れにもいるだろうし。もっと騒げと言われても自重しよ
う。
﹁というわけだ、酒も用意してある﹂
﹁おー、マヤってば太っ腹ー!﹂
﹁イリア、私は太ってないぞ?﹂
﹁そう? 最近太ったんじゃない?﹂
﹁失敬な!﹂
イリアさんとマヤさんはどうやら旧知の仲らしい。でもマヤさん
の方が年上で爵位が上なのにイリアさんの方が先輩ってなかなか複
ウォッカ
雑な関係じゃないか? って、農民の俺が言えることじゃないか。
シャンパン
﹁私の体重はともかく、酒は大量に用意してある。蒸留酒はさすが
に無理だが、発泡葡萄酒なら皆飲めるだろう。じゃんじゃん飲んで
くれて構わない﹂
いやシャンパンってそんなじゃんじゃん飲むもんじゃないでしょ
ビールじゃあるまいし。
しかしマヤさんはそんなことお構いなしにみんなのグラスに酒を
並々と注ぐ。確かまだ昼の12時だよね? まぁ日没までには兵舎
に戻らなければならないから時間的には仕方ない⋮⋮のか?
ナ・ズドローヴィエ
﹁ではエミリア殿下、乾杯の音頭をお願いします﹂
ナ・ズドローヴィエ
﹁はい。⋮⋮我らの今後の活躍と武運を祈り、乾杯!﹂
﹁﹁﹁﹁﹁乾杯!﹂﹂﹂﹂﹂
513
乾杯から2時間、各々自由に飲んで食べて喋ったりしている。俺
? まだ2杯しか飲んでないよ。問題起こしたら嫌だし。人間、酒
に酔うと誰しも性格が変わるものだ。ここに集まったメンバーも結
構面白い人格変化が起きている。順番に見て行こう。
イリアさんの場合。
﹁なーにちまちま飲んでんのよー。男でしょー!?﹂
﹁いや、俺はそんなに酒に強いわけじゃないんで﹂
﹁気にすんなー! 飲んだらー、強くなる!﹂
﹁それ言ってるイリアさん2杯でベロベロでしたよね!?﹂
五月蠅い。
酒がそんなに強くないのに他人に強要するタイプ。おそらく朝に
なると記憶が消えてしまうので反省しようにもできないんだろうな。
うん。面倒な人だ。あと凄い抱きついてくる。当たってる当たって
る! 何がとは言わないけど当たってるよ!?
﹁ていうかイリアさん、そんなに飲んで大丈夫なんですか?﹂
﹁んー? だいりょーぶだいりょーぶ。あひたひごほはひはいひひ
ゃあひゃひゃひゃひゃ﹂
あ、これ全然ダメだわ。全然ろれつが回ってない。たぶん﹁明日
仕事ない﹂って言ってるんだろうと思う。そうであってほしい。こ
れ明日二日酔いが酷そうだし。キャ○ジンが必要だろうね。
﹁イリアさんって魔術研究が専門でしたよね?﹂
﹁そうらよー?﹂
﹁魔術研究って具体的に何をしてるんです?﹂
﹁んー、まー、そうらねー。あたひはぐんむしょーの人間だから、
514
軍人に使いやすいよーにするために詠唱の省略化とか、あとはー、
んー、なんだっけなー? いひひひ﹂
つまるところ、中級魔術の無詠唱化と上級魔術の詠唱簡略化によ
って速射性を上げようと試みている、と言ったところだろうか。魔
法陣とか魔石とかの存在がない、もしくは発明・発見されてないか
らそういう方向に進化させるしかないか。あとは魔術の種類を増や
したりとかだな。
﹁魔術ねー、みかいめーの部分もおーいからさー、けっこー大変ら
のよー?﹂
﹁そこは頑張って派手な発明してくださいよ﹂
﹁んー? たとえばー?﹂
﹁例えば⋮⋮そうですね、記号や紋様を組み合わせて描いた陣に魔
力を込めるだけで発動する魔法とか﹂
﹁神話みたいに?﹂
﹁そうそう、神話みたいに﹂
この世界にもちゃんと神話はある。口伝だから時代を経るごとに
内容がちょっとずつ変わっていってるのだけど。
﹁んー、でも物に魔力をこめるのってどうやんだろうねー⋮⋮﹂
﹁というと?﹂
﹁わたしたちはまじゅちゅを使うとき、えーしょーにけっこー頼っ
てるんだおねー⋮⋮﹂
まじゅちゅ。なんか可愛くなった。
﹁確かにそうですけど⋮⋮あれ? じゃあ無詠唱化ってどうやるん
です?﹂
515
﹁ゲオちゃんの基礎魔術理論によるとー⋮⋮弱い魔術は魔力じゅー
てんえーしょーを省略しても十分らしいのー﹂
﹁ゲオちゃんって⋮⋮﹂
アクアキャノン
詠唱は、魔力充填詠唱と魔術発動詠唱の2つがある。例えば中級
魔術﹁水砲弾﹂の場合、充填詠唱は﹁母なる大洋の神よ∼﹂で、発
動詠唱は﹁水砲弾﹂だ。一般的に無詠唱化と言えば、充填と発動の
2つを省略できる。これができるのはまだ初級魔術だけだ。省略化
というのは、やたら長くなる充填の詠唱を短くすることだ。でも短
くすれば良いってもんじゃない。長ければ長いほど威力が増す充填
詠唱を、そのまま短くしてしまっては威力が下がるだけで意味がな
いのだ。
魔力充填詠唱は短くしたい。でも短くしたら意味がない。そのジ
レンマをどう解消すればいいのか。今日の魔術研究はそこに落着し
ている。
﹁神話みたいなまほーじん作るとなるとー⋮⋮たぶんはつどーのえ
ーしょーを意図的にせずに、充填した魔力を紋様にするってことな
んだろーけど⋮⋮﹂
﹁できないんですか﹂
﹁わかんなーい﹂
わかんないか。可能性はあるってことなのかな。
イリアさんは、長い説明で喉が渇いたのか何杯目かの葡萄酒を飲
んだ。これ以上ベロベロになってどうするんだろう。
﹁じゃあ、例えばですよ? 魔力が込められた宝石があるとしまし
ょう﹂
﹁うんうん﹂
﹁その宝石を砕いて、魔法陣を作成したり、あるいは宝石の魔力を
516
使って魔術を発動させたりすることってできるんですか?﹂
﹁んー⋮⋮面白いねー﹂
﹁面白い?﹂
﹁うん。そんなこと言う人初めて見たよー﹂
まぁ、魔石とか化石燃料の概念がこの世界にはないからね。いわ
ゆる前世知識だ。
﹁問題があるとすればー⋮⋮ふたつあるね﹂
﹁ふたつ?﹂
﹁うん。ひとつは、ほーせきに魔力が含まれてるのをどうやって調
べればいいのかってことかな﹂
魔力は目に見えない。目に見えるようになるのは、発動寸前の魔
術発動光か発動後の魔術だ。
だから魔力を視覚化する、もしくは認識できるようにしなければ、
宝石が魔石なのか、それとも単なる綺麗な石かは確認できない。砂
鉄をまぶした紙の上に磁石を置くと磁力線が視覚化できるように、
何らかの方法で魔力を視覚化できなければならないのだ。
﹁ふたつめは、ほーせきにある魔力をどうやって引き出すかだねー﹂
﹁というと?﹂
﹁あたひたちはー、じぶんの体の中にある魔力をつかってるから問
題なくまじゅちゅができるのー。でも他人の魔力をつかってまじゅ
ちゅをはつどーできないでしょ? だからたぶん、ほーせきから魔
力を抽出して使うこともできないと思うよー﹂
﹁え、でも上級魔術とかは複数人でやりますよね? アレはなんな
んですか?﹂
﹁あれはねー、ちょっとちがーの。えーっと、えーしょーの時に空
中に魔力をじゅーてんさせて、それでみんな一斉にはつどーのえー
517
しょーをしてるの。ひゃから、上級のはつどー前におそらがひらひ
ら光るのだわー﹂
イリアさんはもうぐでんぐでんだったのでイマイチ要領を得なか
ったので自分なりに翻訳してみる。
上級魔術師達は一斉に詠唱を始める。その魔力充填時に、自分の
体の中で魔力を練るのではなく、一旦外に出して、空中に魔力を集
める。その時に発生するのが、あの魔術発動光だ。あれは魔力が凝
縮されすぎて自然発光した現象だったわけか。
﹁つまり魔力が十分に凝縮された宝石が存在するのなら、その宝石
は自ら発光するということですか?﹂
﹁そうらねー。そんなものがもしほんとうにあるんだったらねー﹂
イリアさんはそう言い残すと、ついに酔い潰れ、そのままソファ
に寝転がってしまった。
518
魔法陣と魔石︵後書き︶
初登場が泥酔状態。それで良いのかイリアよ。
追記:﹁シャンパンって地名由来だから変えた方が良いんじゃね?﹂
というコメントがありましたが、わかりやすさと語感重視でそのま
まにしておきます。ご指摘ありがとうございました
519
酒宴
サラの場合。
﹁うわあああああああんみんなと離れるの嫌だああああああああ!
!﹂
泣く。
﹁落ち着けサラ、そんなに泣くんじゃない。子供じゃないんだから﹂
﹁まだ、ひっぐ、ななさいなのー!﹂
﹁そうだっけ!?﹂
年齢もマイナス10されるようだ。
イリアさんと話すのに夢中になってたせいか、サラがこんな感じ
になってたのに気付いたのは、イリアさんが撃沈した直後だった。
彼女の場合、泥酔スイッチのON/OFFがはっきりしているよ
うで、ある一定の量のアルコールが肝臓に蓄積されたら、スイッチ
がONになって号泣する。
﹁あんだなんで、ぜーったい早死にするんだがらー! 私がいなぎ
ゃ石に躓いて豚肉に当たって死んじゃうんだがらー!﹂
﹁どういう状況!?﹂
﹁うわあああああああんユゼフがいじめるううううううう!﹂
涙をボロボロ流して俺の腕にしがみ付きながら﹁行かないでええ
えええええ!﹂と泣き叫ぶサラというのは見てて面白い。腕の骨が
520
ミシミシ言ってるのは御愛嬌だ。
でも酒を飲んで泣く人というのは普段ストレスが溜まっていたり、
なにかしら大きな不安や悩みを抱えていたりするのが原因だと聞い
たことがある。酒の力によってその感情を爆発させて、ストレスを
発散させているらしい。だから酔いが醒めたるとなぜだかとっても
スッキリすることがあるとかないとか。
サラも何かしら大きな不安を抱えているのかもしれない。それも
そうか、明日から軍に配属されるんだから、不安にもなるよな。俺
も不安だし。こういう時は嫌がらずに悩みを聞いてあげるのがベス
ト。反論したりは逆効果。﹁そうなんだー、大変だねー﹂だけでも
効果があるらしい。
﹁おーじょさまー、なんとかしてー!﹂
﹁私も何とかしたいのは山々なのですが⋮⋮﹂
エミリア殿下は困ったそうな顔をしている。酔っ払いに絡まれた
事に対してなのか、それとも王族の権力使ってくれと懇願されてる
事に対して困っているのか、あるいはその両方か。
そのエミリア殿下のグラスは数時間前から全く変化していない。
ちょっと減ってるくらいで、彼女がおかわりをした記憶もない。
﹁エミリア殿下は全然飲んでないんですね﹂
﹁えぇ。泥酔状態の王女なんて見たくないでしょう? それに、飲
み過ぎて問題を起こしたらまずいですから。一応立場がありますの
で﹂
いや見てみたいけどね。泥酔状態の王女殿下。
﹁もしかして殿下、お酒に弱いってことあります?﹂
﹁⋮⋮否定はしません﹂
521
やっぱりか。でも人の上に立つ者が下戸なのはある意味では致命
的なのかもしれない。酒ってのは時には歴史を動かす燃料にもなる
からな。世の中には﹁俺の酒が飲めない奴は死刑!﹂って言った独
裁者もいるみたいだし。
﹁強くなりたいとは思うんですけどね﹂
﹁でも無理して飲んだところで強くなれるわけではありませんよ。
こればっかりは先天性のものなので﹂
それに王女が泥酔して変な勅令を出されても困る。立場上俺らは
拒否できない。
﹁わかっています。だから、飲むふりは上手いのですよ﹂
﹁それは大事な技術ですね﹂
王女でもなければ必要ない技術だったかもしれないが。
そんな王女殿下のよくわからない特技について会話に花を咲かせ
ていると、いつの間にか泣き止んだサラがもぞもぞと動き出した。
﹁ゆぇふー、おかわり﹂
﹁⋮⋮あー、すみません。炭酸水ください﹂
さすがにこれ以上飲ませたらまずい気がする。俺の腕が。
ヘンリクさんの場合。
522
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
黙る。
﹁あのー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
なんか喋って。
酒の席なのに雰囲気が悪くなる。ヘンリクさんは元々口数が多い
方ではないらしいが、酔うとさらに口数が減るのだ。こういう感じ
の人って頭の中もなにも考えてないのかな。
﹁ヘンリクさんって、警務科卒業ですよね﹂
﹁⋮⋮そうだ﹂
ようやく言葉を発した。けどドスの効いた声と武人然とした顔と
出で立ちのせいで、ヤクザか看守かの雰囲気を醸し出している。も
しこんな憲兵に捕まったら、あることないことゲロってしまいそう
だ。
﹁警務科ってなんかカッコイイですよね﹂
﹁⋮⋮そうでもない。内情は酷いもんだ﹂
﹁はい?﹂
憲兵隊の内情が酷い。嫌な予感しかしないな。
﹁贈収賄の類が後を絶たない。本来はそれを取り締まるのが我らの
役目なのだが⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮﹂
523
やっぱりそういうのってどこにでもあるんだなー⋮⋮。
﹁貴族とか、政府高官の類もあるんです?﹂
﹁⋮⋮あまり大声で言えることではないが、ある、とだけ言ってお
こう﹂
汚職や横領、横流し、犯罪の隠匿、貴族連中がやりそうなことな
んて枚挙に暇がないな。
﹁公爵嫡男の力でなんとかならないんですか?﹂
﹁ならないよ。オレはまだ正式に爵位を継いだわけではないし、隊
の中では下っ端だ。それに権力を濫用しすぎると家に迷惑がかかる﹂
憲兵ってのも意外と苦労するのかね⋮⋮。
マヤさんの場合。
﹁マヤさんあんまり変わらないですね﹂
﹁何がだ?﹂
性格もテンションも口数も変わらない。いつも通りのマヤ・クラ
クフスカさんである。
﹁マヤさんって酒は強いんですか?﹂
﹁クラクフスキ公爵家は代々酒が強いことで有名だからな﹂
﹁それで他人に同じ酒量を強要したりするんです?﹂
﹁⋮⋮兄の一人はそう言う奴だった﹂
524
アルハラ、ダメ絶対。
﹁そういう君も変わってないな﹂
﹁私の場合、そもそもあまり飲んでないので﹂
﹁ガンガン飲まないと大人になれないぞ?﹂
﹁自分の適切な酒量を知ることが大人になるってことですよマヤさ
ん﹂
シャンパン
まぁ発泡葡萄酒自体があまり好きではないと言うのもあるんだけ
どね。俺が好きなのはカクテル、居酒屋にいる女子大生みたいにカ
シス・オレンジを仰ぐのが至高。女々しいとか言うな。
﹁では、私は自分の酒量の限界を知るために、もっと飲むとするか
な﹂
ブランデー
マヤさんはそう言うと、応接室内にあった棚の中から葡萄蒸留酒
を1本取り出した。
﹁君も一緒にどうだい?﹂
﹁⋮⋮遠慮しておきます﹂
アルコール度数50度のお酒はちょっと無理ですね。
﹁まやー、わたひにちょーだーい﹂
﹁ダメだ。サラ殿はまだ17だろう。蒸留酒は18歳になってから
だ﹂
﹁けちー﹂
15歳の俺にその蒸留酒を勧めたのはいったい誰でしたかね⋮⋮。
525
その後、マヤさんはラデックと一緒に蒸留酒一本を飲み干した。
つよい。
526
薄月
クラクフスキ酒宴会戦後の我が軍の状況は下記の通り。
エミリア・シレジア王女殿下、健在。
マヤ・クラクフスカ公爵令嬢、小破。
ヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック公爵嫡男、小破。
イリア・ランドフスカ男爵令嬢、撃沈。
サラ・マリノフスカ、撃沈。
ラスドワフ・ノヴァク、嘔吐によりトイレ内で航行不能。
⋮⋮こりゃひでぇ。
現在時刻は午後5時を少し過ぎた頃。既に外は暗く、本来であれ
ば兵舎に戻らなければならない時間だが⋮⋮。
﹁どう考えても3人くらいここから動けそうにもないですね。どう
するんですかこれ﹂
この家の人間にして目の前の惨劇の主犯であるマヤさんに聞いて
みる。
﹁そうだな。とりあえず我が家に泊めさせてあげよう。客室ならた
くさんある﹂
﹁ご迷惑おかけしますね﹂
﹁気にすることはない。むしろいつでも来てほしいくらいだ﹂
いつでも来いと言われても、いつでも来れる場所にないのが残念
だ。
527
﹁クラクフスカ公爵令嬢、この度は大変面白い饗宴に御呼びいただ
き感謝申し上げる﹂
﹁あぁ、またこういう機会があったら呼ぶよ。いつでも来たまえロ
ーゼンシュトック卿﹂
﹁もちろんです。ではまた﹂
ヘンリクさんはこの惨劇をまるでなかったかのように華麗にスル
ーすると、短い別れを挨拶を残してさっさと帰って行った。面倒事
を押し付けたとも言う。
﹁とりあえず私はこの死体の処理に専念するが、君はどうする?﹂
﹁俺は大人しく兵舎に戻りますよ﹂
﹁ふむ。だがここからだと大変だろう。馬車を用意するが?﹂
﹁それには及びませんよ。酔いを醒ますためにも、少し歩きたいで
すし﹂
﹁わかった。でも検問所を通る必要があるからな。そこまでは付き
合うよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁いいってことさ。じゃ、少し準備と処理をしてくるから待ってく
れ﹂
そう言うと、マヤさんは応接室から退出した。部屋に残されたの
は俺と酒によって撃沈し、放心状態でソファの肘掛けを枕にしてい
るイリアさん、俺の膝を枕にしてぐーすか寝てるサラ、そして一人
シャンパン
優雅に紅茶を飲んでいるエミリア王女殿下。結局殿下は5時間の宴
会で発泡葡萄酒1杯しか飲まなかったようだ。本当に弱いんですね
⋮⋮。
エミリア殿下はカップをゆっくりとテーブルに置くと、俺の方に
向き直った。
528
﹁さて、ユゼフさん。少しお話があります﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁明日、軍務省から正式に辞令がありますが、私はあなたの配属先
を知っています﹂
﹁⋮⋮ほほう﹂
まぁ王族だからな。それくらいのことはできるだろう。問題は⋮
⋮。
﹁まさか殿下、国王陛下のように軍務省の人事に口を出した、とは
言いませんよね?﹂
﹁⋮⋮言います。私は人事に口を出しました。ユゼフさんの本来の
配属先は、タルタク砦警備隊の作戦参謀補でした﹂
タルタク砦ってあれか、シュミット准将とかがいた場所か。そこ
の作戦参謀補ということは、ラスキノ戦争前に作戦説明をしていた
ルット作戦参謀の推薦もあったのかもしれない。でも、そこには行
かないと言うことか。
﹁殿下、いかに王族と言えど人事に対して口を挿むことはあまり褒
められた行為では⋮⋮﹂
サラに﹁王女様なんとかして﹂と言われて殿下が困った顔をして
いたのは、既に手を回していたからなのか。
﹁わかっております。ですが、ユゼフさんにしか頼めないことがあ
るのです﹂
﹁⋮⋮なんでしょうか?﹂
529
そう問うと、エミリア殿下はその場で起立し毅然とした表情で俺
の目を見た。本来であれば俺も起立をすべきなのだろうが、サラの
頭が邪魔で立とうにも立てなかった。
﹁ユゼフ・ワレサ。シレジア王国第一王女エミリア・シレジアの名
において命じます﹂
殿下は大きな深呼吸を2回行った後、俺に命令した。
オストマルク帝国在勤シレジア王国大使館附武官次席
に任命します﹂
﹁貴官を、
補佐官
﹁⋮⋮は?﹂
俺は予想外の役職に任命されたことに驚き、半秒ほど意識が飛ん
だ。
﹁要するに駐在武官、ですか﹂
﹁そうです﹂
﹁リンツ子爵と交わした、あの取り決めですね?﹂
﹁はい﹂
それは、ラスキノ攻防戦終結後のリンツ子爵との会談で決定した
﹁信頼できる者を双方の大使館に派遣する﹂というものだ。最終的
な目的は、シレジア=オストマルク同盟の成立だ。
﹁しかし﹃オストマルクからの使者が来たら、シレジアも使者を送
る﹄という話でしたよね? もう使者が来たのですか?﹂
そう疑問を呈すると、エミリア殿下はゆっくりと首を横に振った。
530
﹁いえ、まだです。しかし、在シレジア王国オストマルク帝国大使
館から今朝連絡がありました。﹃新たに1人、大使が派遣される﹄
と﹂
なるほど、すでに向こうの外務大臣さんは了承済みなのか。
﹁⋮⋮事情はわかりました。ですが、私で良いのですか?﹂
﹁良いのですよ。私にとってこの人選は、唯一の選択であり、そし
て最良の選択であると思っています。信頼出来る参謀役は、ユゼフ
さんしかいないんです﹂
﹁どうも、買い被りすぎだとは思いますが⋮⋮﹂
﹁不満ですか?﹂
﹁いえ、光栄の至りに存じます。謹んで、拝命致します﹂
エミリア殿下に信頼されて、笑顔でお願いされたら俺は拒否する
ことはできないね。
−−−
ほろ酔い状態のまま、俺は貴族居住区画の外に出た。11月の王
都シロンスクの夜空は薄く雲がかかっていて、そして酷く寒い。緯
度の高いシレジアは冬が早く来る。体感だけど、気温は既に氷点下
に達しているだろうな。
⋮⋮にしても、在オストマルク帝国大使館か。僻地勤務でないだ
けマシだけど、想像以上に遠いな。大使館ってことは帝都エスター
ブルク、芸術の都と称されるほどの立派な都市に勤務すると言うこ
531
と。それにどこの世界でも外交官はエリートコースだ。前世世界の
ように、大陸の言語が大陸帝国の公用語である﹁帝国語﹂に統一さ
れているせいで、外交官のハードルが下がってるけどね。
などとうだうだ考えていたら道に迷ってしまった。えーっと、こ
こはどこだ。
情けない月明かりを頼りに俺は周囲を見渡す。建物はどれも古く、
そして道は整備されているとは言い難い。あちこちにゴミが散乱し
スラム
ているし、もし今日が夏だったらかなりの臭いがする事だろう。
つまるところ、ここは貧民街だ。
﹁やれやれ、夜の貧民街に迷い込むなんて、どう考えたって死亡フ
ラグじゃないか﹂
自分が悪いのに、ついそうぼやいてしまう。
今は冬だから浮浪者の数は少ない。じゃないと、最悪凍死するか
らね。それに俺は今、外套を羽織っているとはいえ軍服だ。こんな
ひょろくて情けない顔しているけど、軍人に手を出そうと考える奴
はそうそういないだろう。
と、自分の方から死亡フラグを立て身の安全を図ってみる。来た
道を戻ればすぐに貧民街から出れるはずだ。
その道中、俺は街の様子を見学してみる。どう見ても活気はない。
人が住んでるかどうかも怪しいし、全部の建物が廃墟に見える。そ
して路地裏を覗いてみると、一人の子供が蹲っていた。たぶん女の
子で、歳は身長から察するに5、6歳程度だが、この見るからに栄
養状態の悪そうな町ではプラス2した方が正確かもしれない。
その女の子は、俺の存在に気付くと、じっと見つめてきた。助け
を求めるでもなく、何かを欲するわけでもなく、怖がるだけでもな
く、特に何も感情を抱かずにただ見つめているだけだ。
俺はその女の子と数秒間目を合わせていたが、すぐに目を逸らし
532
た。
女の子を救いたい、と思わなかったと言えば嘘になる。どうにか
して兵舎に連れて帰って、面倒を見てあげたいと思ってもいた。
でもそれができるほど、俺は偉くもないし、持ち合わせもない。
それに貧民街で物を分け与えるという行動は危険が大きい。もしそ
うしたら、どこからか現れた別の浮浪者達が俺を身ぐるみ剥がして
殺す、なんてことがあり得る。
だから俺は、あの女の子を見捨てるしかない。
5分後、俺は貧民街を無事抜けて見慣れたシロンスクの街に戻っ
た。
533
卒業式
11月10日。
長いような短いような休暇は二日酔いによる微弱な頭痛を残して
終わりを告げた。
おかしい。そんなに飲んでないのに。まぁいいか。完全に撃沈し
たあの三人よりはマシなはずだ。
元第33歩兵小隊員の集合時間は午前10時。人事局長、もしく
は副局長から直接人事発表があり、ついでに卒業証書も貰える。今
更って感じもするが。
9時55分。軍務省庁舎前に着くと、既に人だかりが出来ていた。
偉いねみんな。5分前行動どころか多分15分行動したんだろう。
とりあえず知ってる奴はいないかとキョロキョロすると、すぐに
見つかった。なんてたって庁舎前で体育座りしてるんだもの。そり
ゃわかるよ。
﹁だいたい想像がつくけど一応聞いておくよ。何やってんの?﹂
﹁頭痛い⋮⋮﹂
﹁右に同じだ⋮⋮﹂
我が友、サラとラデックは本当に今日から軍人になる気があるの
かと言いたくなるような情けない座り方をしていた。こりゃ相当二
日酔いがきついんだろうな。
﹁サラさん? 昨日何があったか覚えてる?﹂
﹁⋮⋮途中までは覚えてるわ。あと、さん付けと大きな声出すの禁
止、よ⋮⋮﹂
534
途中まで、多分泣くまでだろうな。畜生。この世界にビデオカメ
ラがあればここで再生してみせたのに。
﹁ラデックは?﹂
﹁蒸留酒の蓋を開けたところまでは覚えてる⋮⋮﹂
ブランデー
あぁ、マヤさんの葡萄蒸留酒か。アレ1本を一晩で空にするなん
て、ラデックって強いんだなーって思ったけど、違ったわ。マヤさ
んが凄いだけだったわ。
そして噂をすれば影、酒に強いマヤさんとてんでダメなエミリア
殿下のお出ましだ。今日は二人とも普通の軍服、王女殿下じゃなく
て公爵令嬢として扱った方が良いかな。
﹁おはようございます、エミリア様、マヤさん﹂
﹁おはようございます、ユゼフさん。⋮⋮どうやらお二人は完全に
魂が抜けてるようですね﹂
﹁えぇ。酒に呑まれた哀れな人達です。ところで、マヤさんは平気
なんですか?﹂
﹁ん? あぁ、平気だよ。あの程度、飲んだうちには入らんからな﹂
うわばみ
マヤさんは酒が強いと言うより蟒蛇なんだな。あんなにアルコー
ル摂って二日酔いもないとかどんな肝臓をしてるんだ。
﹁ほれ、無駄口叩いてないでさっさと人事局に行ったらどうだい。
門が開いてるよ﹂
﹁あ、本当だ。⋮⋮って、マヤさんの口ぶりからすると、お二人は
もう既に伝えられてるんですか?﹂
﹁えぇ。私達だけ30分早く来るように言われたのです﹂
535
やんごとなき身分への配慮ということなのだろうか。
﹁ちなみにどこに配属になったか聞いても?﹂
﹁構いません。あなた達が辞令を受け取ったら教えてあげますよ﹂
軍務省人事局長執務室前には、元第33歩兵小隊のメンバーだっ
た士官候補生が、俺を含めて8名が集まっていた。みんな緊張した
面持ちで、またどこに配属されることになるかという不安を口に漏
らす者もいた。サラに至っては顔の前で手を合わせて必死に神に祈
っている。そんなに不安なのか。その点俺は緊張なんてものはない。
駐在武官になるってことは前日にエミリア殿下から言われてるし。
不安はあるけどね。
﹁これより、王立士官学校第123期卒業生の人事発表を行う。呼
ばれた者は順番に執務室、もしくは応接室に来るように。そこで、
局長、もしくは副局長より口頭及び文書で辞令を出す。その際、士
官学校修了証書も渡す。以上。では最初に⋮⋮﹂
俺ら三人組で一番最初に呼ばれたのはラデックだった。彼は応接
室に通されると、5分ほどで戻ってきた。何とも言えない微妙な表
情で退出した彼は、ただ俺らに軽く手を振って軍務省庁舎から出て
行った。どこに配属されてるか気になるが、ここで騒いだら些か問
題なので今は我慢する。
さらに5分後、俺とサラがほぼ同時に呼ばれた。俺は局長執務室、
サラは応接室だ。
俺はドアをノックしてから入出する。あー、受験の時の面接を思
536
い出す⋮⋮。
とりあえず敬礼はエチケット。
﹁第123期卒業生、ユゼフ・ワレサです﹂
﹁ん。楽にしたまえ﹂
人事局長は特に何も言うことなく、ただ面倒そうに仕事をこなし
てる様子。一人一人に手渡しで辞令を渡すなんて面倒だもんね、わ
かるよその気持ち。
・・
﹁えー、ユゼフ・ワレサ。士官学校戦術研究科の課程を修め本校を
卒業したことを証し、貴官に大尉の階級を授与するものである。大
陸暦636年11月10日。おめでとう﹂
﹁⋮⋮あ、ありがとうございます﹂
おい、今こいつなんて言った。俺の聞き間違いじゃないよな?
﹁人事局長、質問よろしいでしょうか﹂
﹁⋮⋮貴官が言いたいことは分かっているつもりだ。なぜ﹃大尉任
官なのか﹄ということであろう?﹂
﹁その通りです﹂
士官学校卒業後は准尉任官が普通、そして成績優秀者は少尉に任
官される。俺の成績は普通より少し下だった。だから准尉任官だと
思っていたのに、大尉ってお前どういうことだよ。三階級特進とか
聞いたことねぇよ。
﹁順番に説明しよう。まず、ワレサ大尉。君は確か、シレジア=カ
ールスバート戦争に従軍していたな?﹂
﹁はい﹂
537
﹁その時に召集された士官候補生は生き残った場合、どんなに成績
が悪くても赤点を取らなければ少尉任官にすると決まったのだよ﹂
なにそれ聞いてない。
まぁでも﹁優秀な軍人というのは生き残る才能がある奴﹂とも言
うか。そう言うことにしておこう
﹁しかしそれでもまだ⋮⋮﹂
﹁そうだな。まだ少尉だ。だがワレサ大尉、その時の戦いの指揮官
を覚えているかね?﹂
﹁当然です。タルノフスキさん、当時は中尉でした﹂
﹁あぁ。今は彼は中佐だが、そのタルノフスキの報告書にはこうあ
る。﹃士官候補生ユゼフ・ワレサ、勲功第一﹄とね﹂
なにそれ怖い。あの時俺がやったことと言うと放火くらいなもん
だが⋮⋮。
そういや、停戦が決まった時にタルノフスキ小隊長が言ってたな。
﹁君たちにも、いずれこの武勲が評価される時が来るだろう﹂って。
あれってもしかしてコレのことだったの?
﹁さて、君はこれで中尉となった。後はもう、説明しなくても分か
ると思うが、一応しておくか?﹂
﹁だいたい分かりますが、本当にそれであっているのか不安なので、
どうかご教授くださいませ﹂
﹁よろしい。では教えよう。君はラスキノ独立戦争時に、ラスキノ
の防衛作戦を立案し、そして前線に立って戦線を支えた。そしてわ
ずか1個連隊でラスキノを防衛し切ってみせた。これは評価に値す
ると思わないかね?﹂
﹁誇張しすぎではないでしょうか⋮⋮﹂
538
あの時はみんなに助けられたし。サラとかエミリア殿下とかマヤ
さんとかラデックとかがいなければあの作戦はただの机上の空論だ
よ。
﹁謙遜なのはいいことだがね、誇ってもいいと思うぞ。というわけ
で、ラスキノ戦でも君は勲功第一と評価されている。これで大尉と
なった﹂
﹁なるほど⋮⋮ありがとうございます﹂
納得できないが、とりあえず喜んでおこう。15歳農民が大尉っ
てなんか末期だと思うけども。
﹁では、本題に戻ろう。君に辞令を言い渡す。よく聞くように﹂
﹁ハッ﹂
﹁ユゼフ・ワレサ、貴官をオストマルク帝国在勤シレジア王国大使
館附武官次席補佐官に任ずる﹂
知ってる。昨日聞いた。
﹁⋮⋮謹んで、拝命致します﹂
﹁ふむ。やはり知っていたか﹂
﹁はい﹂
人事局長だから、そこら辺の事情も知ってるのかな。やんごとな
き身分の方からの圧力があったって。
はぁ、なんかすごい恨まれそうだな。15歳で農民出身のくせに
大尉でしかも王族と公爵家のコネ持ち。うん、背筋を鍛えようかな。
﹁では、ユゼフくん。最後に渡すものがある﹂
﹁まだあるんですか?﹂
539
﹁あぁ、2つな﹂
そういうと局長は、執務机の引き出しから小箱を2つ取り出した。
﹁えー。ユゼフ・ワレサ。シレジア=カールスバート戦争において
エミリア王女護衛任務を完遂させた事を賞し、ここに第8級白鷲勲
章を授与する。また、ラスキノ独立戦争において防衛作戦を立案し
それを自ら実行、一般市民の犠牲を最小限に抑え都市を守り抜いた
ことを賞し、ここに第7級白鷲勲章を授与する﹂
一気に勲章2つってどういうことなのよ⋮⋮。
﹁ありがとうございます⋮⋮﹂
なんだろう、なんか素直に喜べない。むしろ怖い。これも王女殿
下の差し金なのか、それとも盛大な死亡フラグなのだろうか。
ちなみに勲章は、退役後の年金が増える効果がある。貰えればの
話だが。
540
第123期卒業生
軍務省庁舎から出ると、元第334部隊メンバー全員が入口で輪
を作って待っていてくれた。
サラは陰鬱な表情、ラデックも微妙な表情、そして王女殿下とマ
ヤさんはなぜかニヤニヤしている。その顔の意味はなんだ。
﹁では、待望の配属先発表会と行きましょうか﹂
﹁う、運命の瞬間ね⋮⋮﹂
﹁誰から発表するんだ?﹂
﹁じゃあ私から発表しよう﹂
マヤさんは懐から辞令書を取り出すと、いつも通り豪胆な声でそ
れを読み上げた。
﹁﹃マヤ・クラクフスカ。上記の者、第一王女附首席侍従武官に任
命する﹄だそうだよ。階級は中尉だ﹂
﹁⋮⋮それってつまり今まで通りってことですか?﹂
﹁そうだな﹂
侍従武官と言うのは、王族の軍務を補佐する役職である。王族専
用副官と言い換えても大差ない。つまり士官学校時代と全く変わっ
てない。
そして中尉スタートってことはラスキノ戦での武勲が認められた
ということか、それとも公爵令嬢だからか⋮⋮。
﹁ちなみにそれは国王陛下からの要請があったんですか?﹂
﹁いや? 陛下も殿下も、そして私もなにも要請してはいないよ。
541
人事局が勝手に配慮したんだろう﹂
無言の政治圧力、ここに極まれり。
﹁で、当の第一王女殿下の役職は?﹂
﹁私は、王国軍総合作戦本部高等参事官です。階級は少佐だそうで
すよ﹂
﹁⋮⋮少佐?﹂
﹁王族は出世が早いんですよ﹂
王女殿下は少し残念そうな顔をしていた。こういう所で特権的な
利益を享受するのが嫌なのだろう。にしては人事に横槍を入れてき
たけど。
﹁高等参事官職も今年度から新設される役職で、具体的な職務は何
も決まっていません。どうやら私はお飾りになりそうですよ﹂
﹁お飾りになるかどうかを論じるのはまだ早いでしょう。それに何
も決まっていないと言うのなら、勝手になにをしてもある程度は許
されると言うことです﹂
シレジア王国軍版特命係になって活躍してください。王族だし多
少はお目こぼしはあるだろう。
﹁そう言うことなら、多少は勤労意欲が湧くと言うものですね﹂
エミリア殿下は少し元気になった御様子。よきかなよきかな。
﹁じゃ、次ラデックね﹂
﹁あ、俺?﹂
﹁そうそう﹂
542
﹁ちょっと待ってな⋮⋮っと、えーっと。ヴロツワフ警備隊補給参
謀補、階級は中尉だ﹂
ヴロツワフか。ということは南シレジア、カールスバート国境の
近くだな。そこの警備隊の補給参謀補、王女護衛戦かラスキノ戦の
武勲によって中尉スタートってわけね。ふむ。
﹁⋮⋮なんか普通だな﹂
﹁思ったより普通ね﹂
﹁あぁ、そして地味だな﹂
﹁ラデックさんらしい職だと思います﹂
﹁ひでぇ⋮⋮﹂
いや、なんか意外性もクソもないからさ。いや本来なら凄いこと
だとは思うけど、なんか普通だからさ。
ラデックはみんなの反応にいじけたのか、むすっとした表情にな
ってしまった。いやお前がそれやってもキュンと来ないからな?
﹁じゃあ次はサラか俺だけど⋮⋮﹂
﹁ゆ、ユゼフが先に言って!﹂
﹁あ、そう? じゃあ俺は⋮⋮﹂
﹁ま、待って! やっぱり私が先!﹂
どっちだよ。
﹁ん、んん。コホン。え、えーっと、私、サラ・マリノフスカは⋮
⋮何だっけ。あ、そうそう。近衛師団第3騎兵連隊第15小隊隊長、
階級は⋮⋮なんか大尉だったわ﹂
﹁そりゃすごい﹂
543
どうやらサラは俺と同じく王女護衛戦とラスキノ戦、その両方が
評価されて一気に大尉スタートと相成ったらしい。近衛師団配属は
エリートコースだな。しかも大尉スタートで小隊長。やばいな。さ
すが次席卒業。そして近衛師団第3騎兵連隊は確か⋮⋮。
﹁近衛師団第3騎兵連隊って、エミリア殿下の近衛師団ですよね?﹂
﹁そうなの!?﹂
﹁そうですよ。と言っても私個人の所有物ではありません。あくま
で王国軍の一部隊です﹂
ちなみに王族直属の部隊は親衛隊と呼び、王族の身辺警護隊であ
る他、王宮内で唯一警察権を持っている部隊らしい。
﹁ということは、王都勤務ってこと?﹂
﹁そうですね。基本的に私がいるところが勤務地になるでしょう。
そして私は暫く総合作戦本部高等参事官として王都に留まることに
なると思います﹂
﹁そ、そか。じゃあ、安心かしら⋮⋮﹂
サラは案外寂しがり屋なのだろうか。
﹁で、ユゼフは!?﹂
﹁落ち着いて。あといきなり胸倉掴まないで﹂
もちろん徐々に胸倉を掴んで良いと言うわけではない。
﹁コホン。俺は⋮⋮えーっと、オストマルク帝国在勤シレジア王国
大使館附武官次席補佐官、階級は大尉﹂
あってるよね? 長いからちょっと不安なのだけど。
544
﹁オストマルク⋮⋮?﹂
﹁そう。オストマルク勤務﹂
﹁遠いじゃないの!﹂
いや、結構近い方だと思うよ? シロンスクから400kmくら
いしか離れてないから。
﹁うー⋮⋮﹂
サラはなぜか涙目だった。俺と離れるのがそんなに嫌なの? な
にそれかわいいじゃないの。ちょっとオストマルクに行くのやめた
くなるね。
﹁明日から私は誰を殴ればいいのよ⋮⋮﹂
前言撤回。ちょっと今からオストマルクに行ってくる。
﹁にしても、5人中3人が王都勤務とは驚きましたね﹂
﹁そうだな。俺も、もうちょっとばらけると思ったんだけど﹂
エミリア殿下とマヤさんが一緒に王都勤務は別にビックリしない
けど。
﹁私はそれよりも、ユゼフくんが上司になったことが驚きだね﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
そうだった。マヤさんとついでにラデックが中尉だった。この二
人が部下⋮⋮嫌だなぁ。
545
﹁ユゼフくん。いや、ワレサ大尉と呼んだ方が良いかな?﹂
﹁やめてください気持ち悪いんで。今まで通りで良いですよマヤさ
ん﹂
﹁ではお言葉に甘えてユゼフくんと呼ぶよ﹂
やれやれ。やっぱり順当に准尉スタートの方が気苦労が少なくて
よかったんじゃないだろうか。
﹁⋮⋮まぁ3人はともかく、俺とラデックは年単位で皆に会うこと
はなくなるんですね﹂
﹁俺はまだ国内だから良いけど、ユゼフは国外だからな。きっと次
会うのが10年後でも驚かないね﹂
﹁10年!?﹂
﹁落ち着けサラ。軍の士官は1∼2年毎に人事異動があるんだから、
数年でまた会えるよ﹂
﹁ほ、ほんと?﹂
﹁たぶん﹂
﹁なによそれ!?﹂
と言っても俺も数年もこいつらに会えないんだと思うと、すこし
寂しい気もする。色々ありすぎたからね。
その時、エミリア殿下が輪の中心に右手を差し出した。
﹁⋮⋮私たちは暫く離れ離れになります。でも、士官学校で机を並
べ学んだこと、そしてラスキノで肩を並べ戦ったことで出来た絆は、
永遠に千切れることはありません﹂
それに対して、マヤさんが手を乗せる。
546
﹁ここにいる全員が、この大陸の歴史を動かすことになると思って
いる﹂
続いてサラが手を乗せた。
﹁私達は運命共同体。どんな力があっても、止められはしないわ﹂
次にラデックの右手が、三人の手を下から支えるようにして持ち
上げた。
﹁俺は、お前らを縁の下で支えてみせるさ﹂
そして最後、俺が手を乗せる。
﹁⋮⋮⋮⋮特になし﹂
4人がずっこけた。
﹁ちょっと!? ちゃんとやりなさいよ!?﹂
﹁せっかく感動的なお別れって感じになってたんだぞ!﹂
﹁もうちょっと雰囲気を読んでくれないかユゼフくん﹂
﹁相変わらずですね﹂
非難轟轟だった。うん。反省してます。
﹁いや、その、なんていうかこういうの苦手でさ。いざ自分の番だ
と思ったら頭が真っ白になってさ﹂
俺は誤魔化すように左手で頭を掻きながらそう弁解した。さっき
まで神妙な雰囲気だった輪の中が、ちょっと笑いに包まれた。
547
うん。俺にはこんな別れの方が性に合ってる。
﹁深い事考えずに、単純で良いのよ﹂
サラから有難い助言を貰ったので、俺は気を取り直して言った。
﹁ん。コホン。じゃあ⋮⋮また会おう。その時まで、元気で﹂
シレジア王立士官学校第123期卒業生
−−−
その言葉が大陸の歴史に名を刻むのは、この日が最初のことだっ
た。
548
設定:大陸地図+α︵前書き︶
※※※本編ではありません。読まなくても大丈夫です。また内容が
後日変わる可能性が大いにあります※※※
549
設定:大陸地図+α
この世界の地図が欲しいと言う声があったので掲載します。
<i149040|14420>
この世界は、現実世界の地球とほとんど同じ形をしています。し
かし山脈、都市、森林、湖沼その他の細かな地形の位置や有無等は
変わっています。海岸線だけ一緒、と思ってくれて構いません。
ユゼフたちが住むシレジア王国、及びその周辺国の情報まとめ。
国境線は割と適当なので参考程度に。番号が書いてある場所が首都
のだいたいの位置です。﹁???﹂は﹁まだ考えてない﹂という意
味。
①シレジア王国
首都:シロンスク
元首:国王フランツ・シレジア
軍隊:平時15個師団
②東大陸帝国
首都:ツァーリグラード
元首:皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世
軍隊:平時400∼500個師団
③カールスバート共和国︵軍事独裁政権︶
首都:ソコロフ
元首:暫定大統領エドヴァルト・ハーハ
550
軍隊:平時30個師団
④オストマルク帝国
首都:エスターブルク
元首:皇帝フェルディナント・ヴェンツェル・アルノルト・フォ
ン・ロマノフ=ヘルメスベルガー
軍隊:平時70個師団
⑤ラスキノ自由国
首都:ラスキノ
元首:暫定政府首班ゼリグ・ゲディミナス
軍隊:平時1個師団
⑥リヴォニア貴族連合
首都:???
元首:???
軍隊:平時70個師団
⑦キリス第二帝国
首都:キリス
元首:???
軍隊:平時80個師団
設定変更、追加をする可能性があるのであくまで参考程度に留め
ておいてください。
追記:感想返信やその他設定は不定期に活動報告等で行います
551
駐在武官
シレジア王国の王都シロンスクは都会である。そう思ってた時期
が私にもありました。
11月17日。俺は新たな勤務地であるオストマルク帝国の帝都
エスターブルクに到着した。そこで目にしたのは﹁華やかな街﹂だ
とか﹁芸術の都﹂などという表現だけでは物足りないくらいの大都
市だった。
例えるなら、進学のために岡山に引っ越してきた農村出身者が﹁
岡山って大都会だなー﹂って思っていた後、野暮用で大阪に行った
ら大阪があまりにも栄えていて腰を抜かしたという感じに近い。大
阪行ったことないけど。
軍の馬車に揺られること20分弱、俺はやっとシレジア大使館に
到着した。
−−−
﹁申告します。この度、閣下の次席補佐官を拝命しましたユゼフ・
ワレサ大尉です。宜しくお願いします﹂
馬車の中で何度も練習した言葉を、俺の目の前にいる男にぶつけ
る。
552
﹁報告ご苦労。知ってると思うが、私はオストマルク帝国在勤シレ
ジア王国大使館附武官のルーカス・スターンバック准将だ﹂
実物を見るのは無論初めてだが、スターンバック准将のことは事
前に渡された書類で知っていた。彼は中老の男性で髪は既に白いが、
髭はない。体は武官らしく筋肉質っぽい、服の上から見てもがっち
りとした体をしているな。
﹁しかし書類に書いてあったからわかってはいたが⋮⋮君は本当に
若いな。それに大尉か。さぞ運がよかったのだろうね﹂
運がいいのは否定しないが、完全に運による功績だと思われるの
癪だな。言わないけど。
﹁恐縮です﹂
﹁ふん。まぁいい。戦闘でそれなりの武勲を立てたと聞いているが、
ここでそんなものは無用の長物だ。しっかりとここの仕事を覚える
ことだ。暫くは首席補佐官の指示に従え。それと、大使との挨拶も
忘れずに。何か質問はあるか?﹂
﹁ありません﹂
﹁では、下がってよろしい﹂
はぁ、緊張した⋮⋮。
なんでこう着任の挨拶ってしなきゃいけないんだろうね。先に書
類送ってんだからそれで良いじゃん。そう心の中で愚痴りながら部
屋を出ると、別の男がいた。見た目年齢は20代後半の黒髪オール
バック、そして軍服を着ている。階級章を見ると少佐だった。
とりあえずの敬礼はエチケット。
553
﹁君が新人のワレサ大尉だね?﹂
﹁はい。そうです少佐﹂
﹁うむ。私はスターンバック准将の首席補佐官レオ・ダムロッシュ
少佐だ﹂
﹁次席補佐官を拝命しました、ユゼフ・ワレサ大尉です。至らぬ点
が多いとは存じますが、ご指導ご鞭撻、よろしくお願いします!﹂
ダムロッシュ少佐の案内で俺は特命全権大使らへの挨拶を済ませ、
そしてそして大使館内を案内される。隣国で、そして元大国の大使
館と言うこともあってかシレジア大使館はそれなりに大きい。大使
館は、本館と別館からなる。本館がいわゆる大使館、別館が大使公
邸だ。
﹁我ら駐在武官を含め、全てのシレジア人の館員は大使公邸に宿泊
することになっている。君の部屋番号は404だ﹂
大使館と一口に言ってもいろんな人がいる。特命全権大使、特命
全権公使、参事官、書記官、事務官、駐在武官、調査官、警務官、
医務官、そして現地募集の職員などなど。全部合わせて20人程度。
大国になると当然この数字は増える。例えば在オストマルク帝国西
大陸帝国大使館には100人程の職員がいるそうだ。よかった、シ
レジアが中小国で。さもないと100人もの大使館員を覚えるなん
て俺の情けない記憶力じゃ無理だ。
﹁今日はもう遅いので、具体的な職務については明日説明する。何
か質問は?﹂
﹁ありません﹂
﹁そうか。ではゆっくりすると良い。そうそう、言い忘れていたが
大使館外へ出る場合は当然だが勤務時間以外で、そして書記官以上
554
の者に報告してから行くように。いいな?﹂
﹁はい﹂
﹁よろしい。では、ゆっくり休みたまえ﹂
自分の為に用意された部屋に入った途端、俺は着替えもせず正装
のままベッドに倒れ込んだ。
疲れた。猛烈に疲れた。いろんな人に会っては﹁クソガキ﹂だの
﹁農民﹂だの後ろ指を指され、年齢・経歴・勲功詐称を何度も疑わ
れた。興味本位で、もしくは冗談で言ってる人が大半だが、中には
本気で疑ってる人もいた。その筆頭が大使館附武官のスターンバッ
ク准将なんだけどね。
俺はシレジアから持ってきた鞄の中を漁り、目的の物を取り出し
た。それはエミリア王女殿下から渡された資料だ。
その資料を渡されたのは休暇最終日、あの酒の席のことだ。俺は、
その時の会話を鮮明に覚えている。そんなに飲んでなくて良かった。
−−−
時は遡り、11月9日。クラクフスキ公爵家応接室にて。
﹁ユゼフさん。オストマルク帝国へ駐在武官として着任するに際し
て、注意していただく点がいくつかあります﹂
﹁なんでしょうか?﹂
555
俺は酔い潰れて爆睡しているサラの頭を膝に乗せながら、エミリ
ア殿下の言葉に耳を傾けている。
﹁在オストマルク帝国シレジア王国大使館は、大公派の巣窟と言わ
れているのです﹂
エミリア殿下はそう切り出すと、ソファの脇に置いてあった鞄の
中から資料を取り出し、俺に渡した。1ページ目を覗いてみると、
人の名前と役職、そして身分などが事細かに書いてあった。つまり、
これは在オストマルク帝国大使館の名簿ということかな。
﹁全権大使、公使、大使館附武官は勿論、末端の書記官や事務官に
至るまで、大公派が仕切っているのです﹂
﹁それはまた⋮⋮敵地ですね﹂
﹁はい。ですので、言動には注意してください。特に、現地でリン
ツ子爵と接触する際には﹂
﹁わかりました﹂
敵地に一人か。こりゃ結構きついな。孤立無援、地理不案内の異
国の地。コネなし身分なしの15歳が乗り込むなんて嫌だな。
﹁辛いことは承知しております。ですが、私には信頼できる人がユ
ゼフさん以外には⋮⋮﹂
﹁わかっております、殿下。必ず殿下の期待に応えられるような仕
事をしてきますよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます。本当に﹂
いいってことよ。それに、タルタク砦警備隊作戦参謀補の仕事よ
りは楽しそうだし。
556
﹁では、続きを話します。⋮⋮ユゼフ・ワレサという名の士官候補
生は、十中八九大公派に知られていると思います。それにこの屋敷
は、現在大公派の人間が監視しているでしょう﹂
﹁⋮⋮それは、わかります﹂
大公の政敵である王女殿下がクラクフスキ公爵家に人を集めてい
る、なんて情報が大公の耳が入ったら監視の一人や二人をつけるだ
ろう。
﹁この屋敷の中は安全です。ですが、屋敷外ではわかりません。そ
して国外ともなると⋮⋮﹂
俺を暗殺しようとする奴が来るかもしれない、ということか。や
れやれ、そこまで偉くなった覚えはないんだがなぁ。
﹁でもその場合、私よりも王女殿下自身や、ラデック、そしてサラ
なんかも危険にさらされるのでは?﹂
﹁⋮⋮そうですね。その点はわきまえております。その点は、ロー
ゼンシュトック家やクラクフスキ家の者にも伝えてあります。です
ので、国内にいる分には、派手な動きはできないでしょう。警務局
や内務省の監視もあります。それに内務尚書は、今の所私に味方し
てくれているようですので﹂
内務省が味方。恐ろしい。内務省治安警察局なんてものがあるか
らね⋮⋮。
﹁ですが、国外は手が届きません。ですので、その手の者に十分注
意してください﹂
﹁わかりました。ですが⋮⋮知っての通り、私は喧嘩に弱くてです
ね。あんまり期待しないでください﹂
557
サラに決闘で負けたばっかりだからね、本当に自信がないのです
よ。そんな不安を醸し出す俺に対して、エミリア王女殿下は微笑み
ながら言った。
﹁ダメです。生きて帰ってくれなければ、私が困りますから﹂
558
大陸史 その4
オストマルク帝国が独立したのはシレジア王国独立の約80年前、
大陸暦373年の事である。初代皇帝の名はユーリ・フォン・ロマ
ノフ=ヘルメスベルガー、通称﹁ユーリ大帝﹂。ロマノフ=ヘルメ
スベルガーの名の通り、大陸帝国皇帝家であるロマノフ一族に縁の
ある人間がこの地に新たな国を作った。
時は大陸暦350年。各地で巻き起こる反乱と戦争によって疲弊
していた東大陸帝国で、ロマノフ家の次男としてこの世に生を受け
たのがユーリ・ロマノフである。波乱万丈の世に生まれた皇子とし
て、彼は父から経済を学び、10歳違いの兄から軍事を学び、母か
ら社交を学んだ。ユーリは厳しいスケジュールに対し文句も言わず、
与えられたことをそつなくこなした。また第32代皇帝の時と違い
家族仲は良好で、ユーリ自身も﹁兄は皇帝に相応しい人物である﹂
と評していた。周囲からは﹁兄が皇帝となり、弟は宰相となって大
陸帝国に再び繁栄をもたらすことになるだろう﹂と期待されていた。
兄弟はその期待に応えるかのように、日々研鑽に励んだ。
だが、この兄弟の人生の歯車は少しづつ狂い始めていた。
大陸暦367年。ユーリ・ロマノフは、現在のオストマルク帝国
領となる地域であるハプスブルク皇帝直轄領にて皇帝代理総督に就
任した。ハプスブルク皇帝直轄領は元々裕福とは言い難い土地であ
ったが、ユーリは総督の任に就くと、今までに家族から学んだ知識
を総動員してこの地を開拓した。
559
ユーリの治世が安定しハプスブルク領が成長し始めた、大陸暦3
69年に最初の転機が訪れた。﹁皇帝不予﹂である。
ユーリは皇帝不予の報に際し、帝都に戻ることはしなかった。無
論父の事は心配だったが、ハプスブルク領から帝都までは些か遠か
った。またハプスブルク領は成長し始めたとは言え、未だ不安定な
土地でもある。領民の生活のためには今離れるわけにはいかない。
それに、帝都には兄がいる。何も心配はいらないではないか、と。
その判断が、兄弟の命運を分けた。
第二の転機は皇帝不予の報から1年後、大陸暦370年の夏。皇
帝一族が住む宮殿で火災が発生し、皇帝と皇妃、つまりユーリの両
親がこの時死亡したのである。
原因は﹁使用人の一人が料理中、魔術を失敗したために火災とな
った。財政圧縮のために宮殿内の近衛が少なくなっていたため消火
と避難が遅れ、皇帝皇妃両陛下が死亡した﹂、つまりは﹁失火であ
る﹂と公式には発表されている。
当然、宮殿の警備担当が弾劾されることとなるのだが、その宮殿
の最高警備責任者がユーリの兄だったのである。無論、第一皇子を
糾弾できる者などいなかったが、誰よりも責任感が強かった兄は、
両親を一度に失った悲しみとその罪悪感で自殺してしまったと言わ
れている。
またいとこ
この時点で、帝位継承権を持つ者はユーリ・ロマノフと、そして
先々帝の弟の孫、つまりユーリから見て再従弟にあたるジョハル・
ロマノフだけになった。
この時、ユーリは帝都で起きていることを正確に把握していた。
宮殿の火災は失火ではなく放火であり、兄の死は自殺ではなく他殺
560
だったことも。物証があったわけではない。だが彼は全てを察して
いた。魔術を暴発させるような人間を宮殿に雇うはずがない。それ
に何より兄は自殺するような人間ではない。そのことを彼は知って
いた。もしかすると、父の病気も何者かの仕業ではないのかとも考
えた。
だがユーリには何もできなかった。
もしこの一連の出来事が謀殺であったならば、次に狙われるのは
自分で、そして帝都は死地であると悟ったからである。
その後、家族の国葬が帝都で行われたが、ユーリは出席しなかっ
た。ハプスブルク領に残り、総督としての仕事をこなし続けた。
そして20日の空位の後、ジョハル・ロマノフが帝位に着いた。
それと同時にユーリ・ロマノフは帝位継承権を剥奪されたが、総督
職は解かれなかった。ハプスブルク領が第二の西大陸帝国とならな
いようにとの配慮だったとされる。
第三の転機は、大陸暦372年末の事。ユーリ・ロマノフが、リ
ヴォニアの大貴族のひとつ、ヘルメスベルガー公爵夫人と結婚した
ことである。
ユーリは確かに帝位継承権を剥奪されたが﹁皇帝直轄領代理総督
にしてロマノフの血筋の者が辺境の反乱軍の有力者と結婚した﹂と
いう情報は人々に驚きを持って迎えられた。なぜならこの結婚は、
間接的な﹁リヴォニア独立の承認﹂という意味を持つからだ。
ジョハル・ロマノフは当然憤慨し、ユーリを総督職を解き帝都へ
の召還命令を出した。が、ユーリはこれを拒否、オストマルク帝国
の建国を宣言した。
独立戦争は3か月も経たず終了した。ヘルメスベルガー家の強力
な支援を得られたこと、東大陸帝国が弱体化していたことも原因だ
ったが、なによりオストマルク帝国が﹁第二の西大陸帝国﹂と例え
561
られるほどの国力と軍事力を持ち、そしてユーリ自身がその力を如
何なく発揮できる能力を持っていたからである。
ジョハルは3ヶ月という短期間で敗れたという事実を貴族らに非
難され、皇帝の座を追われることになった。結局ジョハルは、帝位
を生後7ヶ月の息子に譲る羽目になった。つまりユーリは家族から
受け継いだ能力でもって、家族を亡き者にした皇帝ジョハルを打倒
したのである。
こうして、ユーリ・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガーはオス
トマルク帝国を作り、初代皇帝となったのである。
562
心無き歓迎会
時刻は18時。夕食の時間である。
本来であれば次席補佐官である俺は大使館附武官や特命全権大使
などのお偉いさんと一緒に食事なんてしないのだが、俺の着任祝い
を兼ねたパーティーを開くらしい。だから絶対遅刻するなよ! っ
て書記官の人に言われた。子供じゃないからそんなしつこく言わな
くても大丈夫だよ⋮⋮と思ったけどまだ15歳か俺。相手からして
みれば十分子供だな。ちなみに通常は食事の時間に食堂でメシ。偉
い人は自室でむしゃる。今回だけが特別。
食堂、もといパーティー会場には特命全権大使以下、文官のお偉
いさん上から5名大使館附武官以下、武官のお偉いさん上から2名、
その他数名の職員がいる。なんでこんなに集まってるんだ⋮⋮胃が
痛いです⋮⋮。
乾杯の音頭は大使がやり、その後駄弁りつつ食事をする。ただし
主賓という立場である以上、俺は話しかけられる頻度が多く、色々
な質問が飛んでくる。主に身分と年齢に似合わない階級章について。
おかげで食う暇がない。
﹁15歳で大尉と聞いて、最初は公爵かあるいは閣僚の息子かと思
ったものだが、なんと農家出身とは驚いたよ﹂
首席補佐官のダムロッシュ少佐は嫌味ったらしい笑顔でそう言っ
た。殴りたい、この笑顔。
まぁ、そんなことも言いたくなる気持ちもわかる。こいつが15
歳の時に、大尉もしくはそれに準ずる階級だったかと問われれば、
563
普通の人間だったら﹁いいえ﹂としか言えないだろう。まぁ俺と同
い年でさらに階級が高い人が1人いるけどね。
﹁⋮⋮恐縮です﹂
さっきからこれしか言ってない気がする。いやそれ以外返答しよ
うがない。王女殿下に﹁言動には気をつけろ﹂と釘を刺されたし、
大公派である彼らが俺の事をどこまで知っているかも知りたい。
﹁農民の士官というのは決して珍しくはない。だが大抵の場合出世
は遅い方だ。こんなに早いとなると、士官学校在学中に武勲を立て
たということだろう?﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
﹁どうかな? 差し支えなければ、何があったか教えてはくれない
か?﹂
差し支えあるので嫌です。と言えるほど偉くなったつもりはない。
相手は同じ武官だから軍機云々は通用しないし、階級も歳も役職も
上だし、ここで嫌われて明日以降の業務に支障があっては困る。な
んとかして誤魔化さないとな。
﹁えー⋮⋮つい先日のラスキノ独立戦争に従軍しました。ラスキノ
は兵員不足だったので、士官候補生である私も隊を率いて戦ったの
です。それが評価されたのだと思います﹂
嘘は言ってない。全体の八分の一程度しか言ってないだけだ。
﹁ほほう。しかしそれだけでは、頑張っても中尉にしかならないな﹂
﹁はい。不思議ですね。私も人事の人に理由を聞いたのですが、結
局なぜ大尉なのかは納得しきれなくて⋮⋮﹂
564
嘘は言ってないよ? 俺もこの人事、理由全部聞いたけど納得し
てないから。
﹁では前線から離れ、駐在武官として赴いたのは不本意ではないか
? 貴官はどうやら前線の勇であるようだし﹂
﹁とんでもございません。確かに祖国を離れたことは少し寂しいで
すが、誉れ高い方たちと一緒に働けるとは大変栄誉なことだと思っ
ています﹂
とりあえずおだてておく。
﹁ほう。貴官はどうやら私たちのことをよく御存知のようだ﹂
あ、ヤバい。ちょっと言い過ぎたかも。ダムロッシュ少佐が﹁俺
らのこと調べたんか? あぁん?﹂みたいな雰囲気になってる。調
べたのは俺じゃないよ。エミリア王女殿下だよ。
﹁えぇ。出発前、友人から聞いたのです﹂
﹁友人? どんな方なのかな?﹂
なんかあからさまにグイグイ来るね。嘘は吐かないようにしない
と。下手な嘘ついて、後で追及されたら面倒だし。
エミリア
﹁私と同じく、平民出身の士官候補生です。その友人はオストマル
クに旧知の方がいるようなので﹂
ラデック
ただしこの友人がさっき言った友人とは同一人物なのだとは言っ
てない。
⋮⋮うん、ほとんど嘘だよねこれ。
565
﹁なるほど。ということは又聞きになるのか。だとすると貴官が聞
いた情報は間違っている可能性があるな﹂
﹁そうですね﹂
その資料と言う名の友人から、ダウロッシュ少佐のことはよく聞
いている。曰く﹁シレジア=カールスバート戦争の時、第3師団の
情報参謀補として従軍。当時の階級は中尉で、戦後大尉に昇進。昨
年の10月に少佐に昇進し、同時に大使館勤務となった﹂というこ
とだ。第3師団か、懐かしい響きだ。﹁俺もあの師団にいたんです
よ﹂って教えたら少佐はどんな顔するだろうか。
その後も俺は、興味本位の質問なのか探りを入れた質問なのか、
根掘り葉掘り色々聞かれて、それをなんとか誤魔化しているうちに
夕食の時間は終わった。結局、夕食は三分の一しか食えなかった。
畜生め。
⋮⋮こんなことがあと数年続くなんて、先が思いやられる。
−−−
ユゼフ・ワレサがエスターブルクで将来に一抹の不安を覚えてい
た時、エミリア王女も大変うんざりしていた。
﹁エミリア王女殿下は大変見目麗しく、そして軍の少佐とは、いや
566
はやシレジアの未来は安泰ですなぁ!﹂
﹁恐れ入ります﹂
この日、エミリア王女、もとい総合作戦本部高等参事官エミリア
少佐の着任祝いパーティーが王都で行われていた。参事官と言えど、
王女
という特殊な立場によってこの
通常ならこんなことはしない。エミリア王女も開催を望んだわけで
はなかった。だがエミリア
パーティーが開かれたのである。無論、このパーティーにかかる費
用は全て軍務省の予算内で行われ、そしてその予算は国民の納税に
よって成り立っている。この国の貴族や高級官僚と呼ばれる人種の
人々は、国民からの税金、ひいては国家財政を自分に対する給料か
お小遣いだと勘違いしている節がある。
︵ある意味、ユゼフさんは国外へ行ったことは幸せだったのかもし
れませんね⋮⋮︶
このような状況を一農民であるユゼフに見せるのは酷ではないか、
という意識がエミリア王女の心の中で駆け巡った。そして既に手遅
れであることを思い出した。ラスキノ戦前、彼が強烈な貴族批判を
していたからだ。
﹁殿下、大丈夫ですか?﹂
エミリア王女の侍従武官であるマヤ・クラクフスカ公爵令嬢が心
配してやってきた。
﹁え、えぇ。大丈夫ですよ﹂
﹁本当ですか? 思い詰めているようにも見えたのですが﹂
567
﹁大丈夫です。それより、ココで
たかだか少佐です﹂
殿下
はやめてください。私は
﹁15歳少佐でたかだかと言うのもおかしい話ですよ?﹂
﹁まったくです﹂
現国王の子であるという武勲だけで少佐に任じられ、王女と言う
だけで高等参事官という職を与えらた。そして、そんな少佐に対し
て給与が支払われる。勿論、それも税金である。
﹁どうします?﹂
﹁どうするとは?﹂
﹁適当にお茶を濁して帰りますか?﹂
どうやらこの公爵令嬢も帰りたいようである。そう目が訴えてい
る。
それもそのはず。この歓迎会の主催者は大公派貴族だ。故に出席
者も大公派の貴族や将校ばかりで、人脈作りという点ではまったく
役に立たない集まりなのだ。外面では良い事ばかりを言うが、本当
のところは﹁軍内部は大公派で占められてるんだぜ?﹂をアピール
したい場なのである。
﹁⋮⋮濁せるんですか?﹂
﹁えぇ。王女という立場を利用されてこんな会に出席されてるんで
す。だったら私たちも王女と公爵という立場を利用して逃げましょ
う。勝ち目のない戦は逃げるが勝ちです﹂
﹁⋮⋮そうですね。私も無能者と交流を図りたいとは思いません。
さっさと濁しましょうか﹂
568
10分後、エミリア少佐は急な体調不良を申し出て会場から退出
したそうである。
569
宴会議
次席補佐官の仕事は文字通り大使館附武官の補佐である。主にス
ターンバック准将のスケジュール管理や、懇意にしている貴族やオ
ストマルク帝国軍将校主催のパーティーへ付き添ったり。
﹁饗宴会に呼ばれたら参加者の顔、名前、役職、身分を覚えろ﹂
とダムロッシュ少佐に言われた。
これは、もし准将が饗宴会場で話し相手のことを忘れていても脇
からコッソリ教えてあげれば、相手に失礼はないし何より准将の面
子、ひいては国の面子が守られる、らしい。面倒だなぁ。俺、顔と
名前覚えるの苦手なんだよ⋮⋮。
でもこういうスキルは重要だ。特に貴族社会では。貴族は面子に
こだわる生き物だし、何よりパーティーという場で重要な政策が決
定される場合が多い。
というものがない。だから個人主催の饗宴会で有力貴族同
シレジア王国を始め、貴族制を採用している国家というのは大抵
議会
士が集まり歓談しつつ政治も行う、なんてことが日常茶飯事だ。互
いの利害調整も勿論忘れない。時には国の存亡がかかる重要事項を
高級ワインを片手に貴族がほろ酔い状態のまま議論するなんてのも
よくある。⋮⋮まぁ当然、スターンバックのオヤジが酔った勢いで
銀貨30枚を受け取らないよう、俺は素面で付き添い続けるのだけ
ど。
で、この辺の事情はオストマルク帝国でも同じだ。
570
11月25日。
スターンバック准将の付き添いとして、首席補佐官殿と一緒にと
ある帝国貴族のパーティーに参加することになった。
その貴族は先のラスキノ独立戦争において、帝国に勇名を轟かせ
た新進気鋭の人物。なんでも、2個師団で包囲されている街を、少
数の部隊で守りきったそうだ。その武勲によりその人は少将に昇進。
さらには爵位が1つ上がって伯爵になったそうだ。
⋮⋮へー、すごいなー、どんな人なんだろうなぁ、気になるなぁ。
パーティー会場はエスターブルク郊外に立つ伯爵の別邸。別邸の
くせにやけに豪華だ⋮⋮いや、別邸だからかな。土地が限られてる
帝都じゃそんなに広い邸宅を建てられないし。
会場内は既にそれなりに有名な人がいる。オストマルク帝国閣僚、
大貴族、各国の大使や駐在武官などなど。死ぬ気で覚えた﹁オスト
マルク帝国重要人物リスト﹂が早速役に立っている。あぁ、ダメだ。
耳から記憶が零れ落ちそう。
しばらく経った頃、主催者である伯爵家一同が入場。その一団に
は見た事のある顔があった。今回のパーティーの主賓、リンツ伯爵
だ。
﹁伯爵、今回はお招きいただき感謝に堪えません﹂
﹁いえ。私も予てより噂に聞いていたシレジアの若年士官に会って
みたくてね。噂の士官というのは君の事かな?﹂
知ってるくせに、まるで今日初めて会ったような対応をする伯爵。
まぁ仕方ないか。オストマルク義勇軍の指揮官はカーク准将ってこ
とになってるし。カーク准将、もといリンツ少将の扱いって軍内部
571
ではどうなってるんだろうか。
﹁ユゼフ・ワレサ大尉です。どうぞお見知りおきを﹂
﹁ほう⋮⋮大尉か﹂
これを聞いたリンツ伯爵は本当にびっくりしていた。それもそう
だな。予め聞いていても、書類のミスか何かだと思うだろう。
﹁さぞ、武勲を立てたのだろうね﹂
﹁いえ、伯爵ほどではございません。それに、運が良かっただけの
事です﹂
﹁フッ。若いのに殊勝だな。スターンバック准将、そしてワレサ大
尉。こんな拙い会だが、どうかゆっくりしていってくれ﹂
知ってる人を知らないふりをするのって案外疲れるもんだな⋮⋮。
リンツ伯爵は他の参加者と挨拶しまわっている頃、俺の上司も挨
拶回り。時々スターンバックのオヤジが名前を忘れていたので、そ
の都度、俺かダムロッシュ少佐が後ろからコッソリ教える。形式と
は言え疲れるし、また多くの場合、滅亡待ったなしの国の駐在武官
に対する扱いは結構ぞんざいだった。スターンバック准将とコネを
作るより、他の国の武官や貴族とのコネの方が重要だもんね。
挨拶がだいたい終わった後は、パーティー会場は政治の場となる。
いくつかの貴族や武官が別室に姿を隠しているのが見えた。たぶん、
そこで重要な話し合いが行われるのだろう。聞き耳を立てられない
ように、扉の前には護衛の者が2人ついている。
スターンバック准将も、オストマルク帝国の男爵との会談をする
ため別室に下がった。准将にはダムロッシュ少佐がついていく。俺
572
は部屋の外で警戒待機。男爵の補佐官と思わしき女性が俺と一緒に
部屋の外で待機してくれる。見た目は若いけど、何歳だろうか。あ
とどっかで見た事あるような⋮⋮。
そう思っていたら、彼女の方から話しかけてきた。
﹁ワレサ大尉、ですね? ラスキノ戦役で義勇軍として参加したと
いう﹂
彼女は顔も視線もこちらに向けず、毅然と屹立したまま口だけを
動かした。
﹁そうですが⋮⋮貴女は?﹂
﹁私は、フィーネ・フォン・リンツと申します。フィーネと御呼び
ください﹂
﹁リンツ⋮⋮?﹂
﹁はい。此度の饗宴会の主賓であるローマン・フォン・リンツ伯爵
の三女です﹂
彼女はそう言うと、俺にだけ見えるように懐から身分証を見せて
きた。知り合いの親戚と言うものは、どうやらそこら中にいるもの
らしい。
﹁しかし、予め聞いていましたが本当に若いですね。年齢を聞いて
も?﹂
﹁構いませんよ。まだ15歳です﹂
﹁⋮⋮本当に若いですね﹂
大事なことだから二回言ったようだ。自分でもそう思うけどさ。
﹁でもフィーネさんもお若く見えますが?﹂
573
﹁女性に年齢を聞くつもりですか?﹂
﹁こりゃ失敬﹂
でも俺に対する応対の仕方を見るに、年上なのは間違いない。⋮
⋮いやこの世界で15歳は軍としては最年少だから年上以上なのは
仕方ないけどさ。
﹁14歳です﹂
﹁はい?﹂
﹁14歳だと言ったのです﹂
⋮⋮?
﹁フィーネさんじゅうよんさい?﹂
﹁34ではありません。14です﹂
マジすか。軍隊の低年齢化が著しいのはシレジアだけじゃないの
かね。てか俺、年下に﹁若いね﹂って言われたのか。どういうこっ
ちゃ。
﹁⋮⋮若いですね。オストマルクでは普通なのですか?﹂
﹁いえ。任官されるのは最短でも15から。通常は18歳程度です﹂
﹁ではなぜ?﹂
﹁オストマルク帝国の一部士官学校は、最終学年時に軍曹待遇で軍
役に就くか、もしくは武家貴族の部下として働くことができるので
す。私の場合、今この部屋の中で政治をしている男爵閣下の護衛を
務めているのです﹂
ほーん。面白い制度だな。インターンていうか教員研修みたいな
もんかね。じゃあフィーネさんは軍人ではなく軍属か。
574
それはさておき
﹁閑話休題。私は今回、男爵の護衛としてではなく、リンツ伯爵の
娘として大尉に会いにきました。今なら、貴方の上司に邪魔されず
に会談ができます﹂
﹁⋮⋮まさか、男爵がスターンバック准将と会談しているのは﹂
﹁伯爵の作戦です。スターンバック閣下にはオストマルク特産の強
いお酒を渡しておきます﹂
リンツ伯爵怖いなぁ⋮⋮。
575
フォン・リンツ
﹁一応、部屋の中にいる人に聞こえないよう最低限の声量で喋りま
しょう。スターンバックは酔っているでしょうが、首席補佐官とや
らは飲むはずありませんので﹂
﹁了解です﹂
14歳とは思えない落ち着いた声と人となりである。文章だけで
やりとりしていたら34歳と勘違いしてしまいそうだ。でも身長は
小さい方で、エミリア王女とどっこいって感じだな。
﹁あと、ジロジロこっちを見ないでください。気が散ります﹂
﹁あ、はい。ごめんなさい﹂
フィーネさんは相変わらずこっちを見てくれない。怪しまれない
ようにという配慮なのはわかるけど、どうも慣れない。それに相手
の表情が見れないのはやりづらい。
﹁では時間がありませんので、本題に入りましょうか﹂
彼女はそう言うと、声を少しづつ絞っていく。俺が聞こえるか聞
こえないかの声量を推し量るかのように。
﹁本題に入る前にすこし聞きたいことがあります﹂
﹁⋮⋮なんでしょうか﹂
彼女の声に少し怒気が混じっていた。声がなんか低くなったし。
576
﹁私はリンツ伯爵の事をあまり知らないのです。オストマルク帝国
軍少将にして、外務省調査局勤務という情報しかありません﹂
﹁そうですね。まずそこから、手短に説明しましょう﹂
ローマン・フォン・リンツ。
大陸暦598年に、オストマルク帝国のリンツ子爵家の長子とし
て誕生。以後、軍人である伯父から軍事教練を受ける。士官学校卒
業後、少尉に任官。その後、軍内部でメキメキと頭角を現していく。
そんな中、大陸暦630年の時に当時中佐だったリンツ子爵は外務
省調査局へ出向することになった。
﹁外務省調査局と言うのは⋮⋮だいたい想像がつきますが、どんな
局なのですか?﹂
﹁おそらく大尉の想像通りの組織です。平たく言えば対外諜報機関
ですよ﹂
調査局内でも自らの能力を如何なく発揮した彼は、外務省に出向
したままの身分で大佐に昇進。そして、彼の運命を大きく変える人
物と出会った。
﹁誰です?﹂
﹁祖父です﹂
﹁お祖父ちゃん?﹂
﹁えぇ。外務大臣レオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデンホーフ
侯爵。そして侯爵の娘であるカザリン・フォン・クーデンホーフは
我が母です﹂
直属の上司、そして侯爵の娘を嫁に迎えたリンツ子爵の立場は確
固たるものになった。侯爵の後ろ盾を得たリンツ子爵は外務省内で
出世し、外務省調査局局長となる。その時に起きたのが、シレジア
577
=カールスバート戦争だった。
﹁大尉は、シレジア=カールスバート戦争の開戦理由をご存知です
か?﹂
﹁第三勢力を作ろうと画策するシレジア王国を牽制するために行わ
れた戦争、と聞いていますが﹂
﹁そうです。シレジア=カールスバート同盟など、国力や軍事力の
差から言えば取るに足りません。しかし、その同盟に我等オストマ
ルクやリヴォニア貴族連合が参入するのを恐れたのでしょう﹂
﹁⋮⋮一応聞きますが、もしシレジア=カールスバート同盟が成立
していた場合、貴国はこの同盟に参加する意思はあったのですか?﹂
﹁ありましたよ。時間はかかったでしょうが、外務大臣閣下は同盟
参加に意欲を示していました。反シレジア同盟などと言うものは、
もはや時代遅れです﹂
シレジアが反シレジア同盟の参加国だったカールスバートが同盟
する。それは旧敵国と妥協する余地があるという意思表示でもあっ
た。それはオストマルクにとって朗報だった。オストマルクがその
同盟に対して協同歩調を取れば、オストマルクは北の国境線を意識
する必要がなくなる。リヴォニアとは歴史的な繋がりがあるため妥
協はしやすい。そうなれば、オストマルクは東大陸帝国とキリス第
二帝国に意識を集中することができる。
﹁ですが、カールスバートの政変でこの構想は瓦解しました﹂
東大陸帝国による干渉によって、シレジア王国主導による第三勢
力設立は不可能となる。そればかりか、王国内の大貴族がこぞって
親東大陸帝国派であるカロル大公に与する事となる。王女暗殺未遂
事件も起きた。﹁あの国に逆らってはまずい﹂と、貴族たちにそう
いう意識を植え付けさせることに成功した。おかげで国王派の勢力
578
は減衰、大公派が益々強くなった。
﹁予想外だったのは、エミリア王女の勤労意欲が突然目覚めた事で
す。いったい何があったのでしょうね﹂
フィーネさんはそう言ったが。口調や表情を見るに、たぶん答え
を知っているのだろう。
何があったか。10歳の女の子が目にしたのは残酷な戦場と、残
酷な大公だったはず。普通なら勤労意欲が目覚めるどころか引き篭
りそうなんだが。
﹁でも、そのおかげで我々も動くことができた。エミリア王女を国
王に擁立し、シレジア=オストマルク同盟成立を目指せばいいと﹂
﹁ですが、エミリア殿下はまだ国王に足る人脈を持っていません。
大貴族の支持が得られねば、我が国とオストマルク帝国との間にあ
る確執を埋めることができません﹂
前にも言ったけど、オストマルクに割譲させられた元シレジア領
の帰属問題は重大だ。
﹁旧シレジア領土の問題を棚上げできればそれに越したことはあり
ませんが、返還に向けた交渉をすればオストマルク国内の貴族の反
感を買うかもしれませんね。正当に手に入れた土地をわざわざ返す
なんて、とね﹂
﹁えぇ。そしてそれはシレジアでも同じです。問題を棚上げにすれ
ば国内の不平派、要は大公派が騒ぎ立てるでしょう﹂
﹁ですから、エミリア殿下が国内の基盤を確固たるものにせねばな
らぬのです。それまで、この同盟の可否については即答できません﹂
逆に言えば、エミリア王女殿下がシレジアにおいて主流派となれ
579
ば、オストマルクとの同盟はむしろ歓迎なのだ。
﹁ですが、我々には第一王女の成長を黙って見守るだけの時間的な
余裕はありません﹂
﹁⋮⋮と言うと?﹂
﹁大尉は、現在東大陸帝国で行われている帝位継承問題については
ご存知ですか?﹂
知ってる。
セルゲイ・ロマノフと、半年後生まれるかもしれないイヴァンⅦ
世の皇太曾孫との争いだ。
﹁現在、東大陸帝国の名だたる貴族はセルゲイ・ロマノフを支持し
ています。それに反発する貴族や一部不平派が、エレナ・ロマノワ
の子を皇帝に擁立しようとしている。イヴァンⅦ世もエレナの子に
期待してるようです﹂
﹁その問題は聞き及んでいますが⋮⋮それがエミリア王女の問題と、
何か関係が?﹂
﹁大ありですよ。現皇帝イヴァンⅦ世は凡君です。それゆえ貴族に
対する影響力が小さく、後継者問題で揉めることは必至です。そこ
でイヴァンⅦ世は、何かしら実績を残して発言権を強めようと画策
するでしょう﹂
﹁⋮⋮老い先短い皇帝が早急に残せる実績と言えば、一つしかあり
ませんね﹂
﹁お察しの通り、外征です﹂
なら、おそらく攻められるのはシレジア王国だろう。オストマル
クやキリス相手では被害が大きい。早急に準備してさっさと勝てる
相手と言ったらシレジア王国だけだ。
580
﹁シレジアから奪った土地はセルゲイ派の貴族に分け与えるつもり
でしょう。それを餌に、イヴァンⅦ世は自分の勢力を広げるつもり
です﹂
﹁勝てればの話ですがね﹂
﹁⋮⋮大尉はあの大国に勝てる自信がおありで?﹂
フィーネさんは少し驚愕の表情を浮かべながら、初めて俺を見て
くれた。ふむ。凛とした顔つきをしてらっしゃる。性格はきつそう
⋮⋮いやきついな。現在進行形できついから。
﹁勝つことは無理でも、負けないことに徹するならばまだやりよう
がありますよ﹂
と言っても俺はまだ大尉。せめて大佐くらいにならないと戦局全
体に口は出せないかな。
﹁大言壮語を言う人ですね﹂
﹁それは失礼﹂
﹁でも、オストマルクが本当に味方についてくれるのならば、勝機
は見えます﹂
﹁⋮⋮どういうことです?﹂
フィーネさんの語尾が少しきつくなった。﹁オストマルクがシレ
ジア助けないと思ってんのか? お前俺らのこと信頼してないんか、
あぁん?﹂って感じで。
﹁フィーネさんに聞きますが。もし今、第三次シレジア分割戦争が
起きた場合、貴国はどうしますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
581
オストマルクが自らの安全を優先するのならば、東大陸帝国とリ
ヴォニアに妥協して三度目の分割戦争をした方が良い。長期的には
どうなるかわからないが。シレジアと同盟して、このふたつの国と
相対するかと問われれば、それは﹁いいえ﹂と答えるしかない。東
西から挟み撃ち、オストマルク帝国がいかに強大な国だとしても、
これじゃ勝算は低い。
﹁⋮⋮そうならないようにするための同盟を、貴国に望んでいる﹂
フィーネさんは低い声でそう言うと、俯いてしまった。事実上の
﹁いいえ﹂回答だろう。同盟結ばないと言うのならオストマルクは
シレジアを滅ぼす、とね。
﹁だが貴国にとってはもはや選択肢はないのだと思う。我々のよう
に、自分から同盟を申し込んでくれる大国など、この大陸にはない﹂
それは正論だ。シレジアがオストマルクに泣きつくならまだしも、
オストマルクの方から言い出してくるなんて。
﹁⋮⋮同盟の件、検討致します﹂
今はそれしか言えない。でも、皇太曾孫誕生までまだ5か月ほど
はあるはずだ。
数分後、フィーネさんの護衛対象である男爵が部屋から退出した。
それを見計らって俺も部屋に入ってスターンバック准将の出迎えを
⋮⋮できなかった。准将は撃沈していたからだ。お前何があったん
や。ダムロッシュ少佐に目を向けてみると、彼も困惑していた。
582
﹁⋮⋮大尉。とりあえず閣下をお運びするのを手伝ってくれ﹂
オストマルクの酒、恐るべし。そして男爵の前で撃沈するほど飲
んじゃう准将の精神もどうかしてる。
583
次席補佐官の日常
翌、11月26日。エスターブルクに来てから何度目かの休日で
ある。ちなみにスターンバック准将は二日酔いで沈没。挨拶しよう
としたら﹁大きな声を出すな﹂と言われてしまった。
俺は比較的仲が良くなった書記官の人に外出の意思を伝え、大使
館の外に出る。持ち物は現金と身分証のみ。身分証は俺が外交官で
あることを示す重要なものなので、なくしたら一大事だ。
これがあればスパイ映画でお馴染みの﹁外交特権﹂が使える。一
部税金が免除されたり法律違反をしてもオストマルクの治安当局は
俺を逮捕・拘禁することはできない。極端な話、殺人をしても外交
特権で逃げ切ることも可能だ。まぁその場合シレジア軍の軍紀やシ
レジア刑法に引っかかるし、オストマルクも嫌いな外交官に対して
国外退去命令を出すことができるから普通に人生終了する。
というわけで自重。食い逃げなんてこともしない。
で、何をするのかと言えば、昨日の話の続きをするための前段階
と言ったところだろうか。
フィーネさんとの会話は大変タメになったが、やはり話の内容が
内容なだけに何度か直接会って話を詰めないといけない。手紙だと
検閲される恐れもある。だから昨日の内に﹁エスターブルクのどこ
そこで会う﹂ということを決めていた。うん、本当にスパイ映画み
たいだね。
⋮⋮で、俺は十中八九尾行されている。第六感を発揮してピキピ
キンと来たわけじゃない。状況的に考えて尾行されてると思っただ
けだ。大公派の巣窟にやってきた、王女殿下と交流があった農民出
身の士官。怪しさ満点である。俺がスターンバック准将なら尾行の
1人や2人つけるね。だからその尾行者がどういう感じの人たちな
584
のかあぶり出そう、と考えて今日の休暇である。休めない休暇なん
て嫌だ⋮⋮。
もし相手がプロの追跡者だったら、たぶん俺の手には負えない。
フィーネさんか伯爵に頼るしかないね。一方素人相手だったら、ま
だやりようがある。農民相手にプロを雇うとは思えないけど。
とりあえず俺はエスターブルクを適当に散歩する。繁華街や官庁
街、貧民街も覗きつつ、適当に飯食って買い物して観光する。エス
ターブルクはシレジアより南にあるものの、依然緯度が高いため1
6時には日没となってしまう。寒さはシレジアよりはちょっとマシ
って程度だ。シレジアにしてもオストマルクにしても、気温は水が
凍るほどに低いにもかかわらず空は真っ青っていうのは、前世日本
じゃありえないような話だ。日本って特殊な気候だったんだなって
思うよ。⋮⋮そう言えばこの世界にも日本ってあんのかな。ちょん
まげして刀振り回して、よくわかんないアメリカ人から﹁カーイコ
クシテクーダサーイ﹂とか言われてるんだろうか。ちょっと気にな
る。
それはさておき
閑話休題。
追跡者は結構あっさり見つかった。街中で﹁だるまさんが転んだ﹂
をしたら、2人の男が焦って路地に隠れた。俺にもわかる。こいつ
素人だ。もしかすると何人もいるかもしれないと思い、適当に歩い
て追跡者をあぶり出そうとしたが、見つけたのはその2人だけだっ
た。まぁ、こんな俺に対して4人とか6人とかを割くわけないか。
そんなに暇じゃないだろうし。
11月30日。俺に手紙が来た。なぜかこれを届けに来た参事官
585
殿が不機嫌な面をしていた。なにがあったんだこいつ。
差出人の名はフィーナ・ベドナレク准尉。焦げ茶色の封筒の中に
入っていた手紙には簡単な挨拶と、シレジア軍内での近況報告と愚
痴、苦労話、成功話、そして最後に﹁あなたがシレジアに戻ったら
結婚しましょう﹂という愛の告白。なんだこれ。
言うまでもなく、フィーナ・ベドナレクという女性の名前なんて
俺は知らない。たぶんフィーネ・フォン・リンツのことだろうねこ
れ。シレジア人女性名風になってるけど。
手紙は単純な読み物としても面白い内容だった。俺の事を詳しく
知らない人がこの手紙を呼んだら﹁あぁ、シレジアの士官学校で出
会った恋人なんだろうな爆発しろ﹂としか思わない内容だろう。俺
もそう思ったし。フィーネさんがこれ書いたとしたら才能あると思
う。軍人やめて小説家になればいいと思う。で、こんな作り話を読
ませるためにこんな手紙を寄越したわけではあるまい。おそらく検
閲を逃れるためだろう。
うーん、漫画だとどういう風に検閲を逃れてたっけ⋮⋮。
手紙に穴は開いていない。文字の所に針で穴をあけて文章にする、
というわけではなかった。じゃあ縦読みかな? と思ったけどそれ
も違った。縦に読んでも斜めに読んでも、文末だけ読んでもわから
ない。難易度高いなオイ。10分ぐらい悩んでみたけどわからなか
った。
仕方ない、気分転換するか。そう思って手紙を封筒に仕舞おうと
して⋮⋮で、気づいた。
ナイフを取り出して封筒を解体する。すると、封筒の裏に文字が
書かれていたのだ。しかも検閲官が見逃しやすいように、表に宛名、
差出人が書いてある所の裏に、小さく、そして薄く書かれていた。
これなら見つけにくいだろうな。危うく俺も見つけられないところ
だった。ここまで来ると職人芸だ。
586
検閲官が誰だか知らないが、封筒を別の物に変えられたら検閲し
てるってばれる。でも封筒を傷つけずに解体するのは難しい。そー
っと封筒を開けて、何事もなかったかのように閉じるのが限界だ。
で、そこまで苦労して開けたら内容はほぼ惚気話。もしこれを開
封した人がぼっちの童貞だったら精神崩壊するだろうな。
⋮⋮参事官さん、あんたまだ若い。人生これからだよ。
さて、封筒に書かれていた内容はひどくシンプルだった。時刻と
場所だけ。日付はない。日付がないのは、俺の日程がわからないか
らだろう。俺がそれなりに自由に動ける日、つまり休日を伝えなけ
ればならない。
返信の手紙が届く時間を考慮すると、次の休日だと間に合わない
な。その次の、10日後の休日を手紙に書く。
大使館からの手紙は、機密漏洩を防ぐため全て検閲されるらしい。
だから検閲されてもばれないように、フィーナ・ベドナレク准尉と
いう非実在彼女に向けて書く。
彼女に合わせて時節の挨拶、近況報告を交えての惚気話。文章中
に1か所だけ日付を書く。その日がフィーナと初めて会った日だよ
ね、とかなんとか書いて。そして最後に﹁オストマルクより愛をこ
めて﹂と書いて終了。⋮⋮自分で書いといてなんだけど、凄い吐き
気がする。そして架空の彼女相手に告白するという精神的拷問、な
ぜか涙が止まらなかった。
そして送り先は、俺宛ての手紙に書いてあった住所にすればいい。
彼女の父、つまりリンツ伯爵は外務省調査局という諜報機関の人間
だ。手紙の1つや2つ検閲できるだろう。だから俺は偽名を使わず、
身分も隠さずに出す。そして検閲してくれれば、自然と伯爵の手元
に手紙が届くと言うことだ。
587
⋮⋮うん、スパイって大変なんだね。
588
接触
12月10日午後5時30分。
フィーナ、もといフィーネさんに手紙で指定された店は、エスタ
ーブルクの低所得者層が住む区画にある大衆食堂だった。﹁空いて
る席に適当に座れ﹂と言われたので、ぼっちな俺はカウンター席の
端を選んだ。テーブル席は寂しくなるだけだし、相席になったら嫌
だし。
店の中は、汗臭さと煙臭さで充満していた。鉱山労働者だか工場
労働者のナリをしているオッサン達がひしめき合い、そこら中でタ
バコと酒を楽しんでる様子。そしてやかましい。ガハハハハと野太
い声で、大声で会話するオッサンがそこら中にいる。
カウンター席について暫くすると、隣にの席に女性客が来た。服
装はマッチ売りの少女だか魔女に会う前のシンデレラが着ていそう
なボロい服。何も知らなければ﹁家が貧しいから頑張って工場で働
いてる可哀そうな女の子﹂にしか見えない。でも実際は彼女は伯爵
の娘にして士官候補生、金に困っているはずがない。
﹁こんばんは﹂
彼女は、掻き消えそうな小さな声でそう挨拶した。隣の席に座っ
ていなければ、周囲の喧騒によって聞こえないだろう。俺も小声で
﹁どーも﹂とだけ返す。
﹁随分変わった友人と来ているようですね?﹂
彼女の言う﹁変わった友人﹂とは、俺らの2つ後ろにあるテーブ
589
ル席に座る男性客2人だろう。この大衆食堂に似つかわしくないピ
ッチリとした恰好をしていて、なぜか俺をチラチラ見ていた。うん、
間違いなく追跡者ですね。見覚えがある。そんな恰好されたら怪し
さ満点だぞ。
私
﹁ま、農民相手に本職を連れてくるのが間違いですよ。おかげで分
かり易くて良いですが﹂
﹁それもそうですね﹂
彼女は相変わらずこちらを見ない。素人とはいえ追跡者がいる状
況では不自然に横を見るわけにはいかないだろう。
・
﹁そう言うフィーナさんこそ、変わった随員がいるようですね﹂
﹁⋮⋮なんのことでしょう﹂
彼女は視線だけこちらに向けた。ツリ目のせいか一層ぎらつきが
ある気がする。
﹁1つ後ろの席でギャーギャー騒いでいるあの2人の男性客。あれ、
フィーナさんの随員では?﹂
﹁あら、私には普通の工場労働者にしか見えませんが?﹂
彼女は一度も後ろを見ずにそう言った。どうやらフィーネさんは
背中にも目があるらしい。
﹁服装をみればわかります﹂
﹁⋮⋮単なる労働者の服に思えますが?﹂
﹁そうですね。でもその服が問題です﹂
﹁と言うと?﹂
﹁確かに服は工場労働者のソレです。汚れているし、皺も寄ってい
590
る。でも汚れの多さの割には解れがひとつもないんですよ﹂
どんな工場で働いているか知らないが、あんなに服が汚れるほど
の仕事ならば、解れや穴があったっていいはずだ。だけど、その点
に関しては新品同様なのだ。
﹁極めつけは手ですね﹂
﹁手?﹂
﹁えぇ。服はあんなに汚れているのに手は綺麗なまま。肉体労働者
特有の手のごつさというのもありません。それに爪がよく手入れさ
れているように見えます﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
と言ってもこんなの余程注意深く見ていないとわからない。追跡
者の存在を注意深く観察していたからこそ、こんなちょっと違和感
ある人間を見つけたのだ。
俺に対する追跡者の可能性もあったけど、俺が店に入る前から居
座ってたようだし。第一こんな手の込んだ追跡者を用意するのは、
あんな職人芸の塊の手紙を書いたであろうフィーネさんだろうなと
思ったわけで、ちょっと突っついてみたのだ。
﹁確かにアレは私の随員です。護衛とか雑用とか妨害役と言っても
良いでしょう﹂
﹁妨害役、ね﹂
彼らは先ほどから迷惑なほど大声で会話をしている。おそらく俺
らの会話に聞き耳を立てられないようにするための行動なのだろう。
﹁まぁ、貴方が指摘した点は後で私から伝えておきます。彼らはま
だ新人ですから﹂
591
﹁ほう。すると、あの人たちは伯爵の部下ですか﹂
﹁えぇ。父の部下にして、個人的な知り合いらしいです。追跡の腕
はともかく、信用はできます﹂
追跡の腕ね。追跡と言うのは俺の追跡のことなのか、それとも追
跡者の追跡なのか。よくわからん。
﹁貴方も王族や貴族との繋がりは大切にすべきです。彼ら自身の能
力はともかく、コネは便利ですから﹂
﹁⋮⋮肝に銘じておきます﹂
こういう便利な人を知っている貴族と言えば誰だろうか。エミリ
ア王女はまだ人材作りの途中、俺に駐在武官を命じるくらいだ。だ
とすると公爵令嬢のマヤさんか、内務尚書の娘のイリアさんかな⋮
⋮。
﹁ところで、あの手紙を書いたのは大尉自身ですか?﹂
﹁勿論ですけど⋮⋮何かまずかったでしょうか﹂
秘匿の仕方が下手だとかそういうのだろうか。
﹁いえ、日付の仕込み方は秀逸でしたよ。自然な形で12月10日
が出て来ましたし、私の書いた手紙との関連性がありました﹂
あ、やっぱりあの手紙フィーネさんが書いたのか。どこぞのオッ
サンの代筆という可能性もあったから怖かったんだけど、そうか彼
女の直筆か⋮⋮。よし、大切にしよう。
﹁でも、問題の文が赤点です﹂
﹁その心は?﹂
592
﹁あんな恋文を貰っても女性は惹かれません。あれじゃ女性どころ
か魚も釣れませんよ﹂
﹁⋮⋮こりゃ手厳しい﹂
ていうか口説くためにあの手紙書いたわけじゃないし。そもそも
あれ既にデレデレなカップルな設定だったじゃん。でもフィーネさ
んは指摘をやめない。あそこでああいう風に書かれるのは萎えるだ
とか、逆にここでこう書いたのは良かったとか。俺、何しにここに
来たんだっけ⋮⋮。
・
﹁フィーナさん、そろそろ本題に入りましょうか﹂
﹁む⋮⋮。わかりました﹂
彼女は若干不満そうな表情を見せたが、すぐに顔の形を元に戻し
た。
﹁御呼びした理由は主に2つあります。1つはエミリア王女、もう
1つは東大陸帝国のことです。どちらから聞きたいですか?﹂
﹁⋮⋮とりあえず、エミリア王女のことからでお願いします﹂
どうやら、今日は長い夜になりそうだ。
593
未来を見据え
時は11月17日まで遡る。
11月17日と言えば、ユゼフ・ワレサはオストマルク帝国に駐
在武官として着任した日であるが、同じような出来事がシレジア王
国にもあった。この日、在シレジア王国オストマルク大使館の人事
が刷新されたのだ。特命全権大使1名、公使2名、参事官以下の文
官7名、そして駐在武官3名、合計13名が入れ替わったのだ。こ
れはオストマルク大使館員の約3分の1にあたる。
この人事は当然シレジア王国上層部でも話題となり、不安を煽っ
ていた。オストマルク帝国は何を考えているのか、と。オストマル
ク帝国外務省の公式発表によれば﹁内部調査の結果、在シレジア大
使以下数名の館員に不適切行為があったため本国に召還した﹂とさ
れているあ、どこまで本当なのか知れたものではなかった。そして
この不安は、エミリア王女とその周辺の者たちがここ数日間活発に
動き回っているという情報と組み合わさり、大公派の大貴族にとっ
て不気味な物となっていた。
だがその不安は翌11月18日、オストマルク帝国全権大使ベル
ンハルト・レクサ・フォン・フォックス子爵の行動によって掻き消
えることになる。フォックス子爵は11月18日、大使館着任の挨
拶として国王フランツに謁見した後、カロル大公の下に訪れたので
ある。シレジアの最高権力者であるフランツへ謁見するのは当然と
して、その次にカロル大公を選んだと言うことは普通、﹁フォック
ス子爵は、カロル大公が次期国王になるものだと考えている。もし
くは支援しようとしている﹂という事と同義である。そしてフォッ
クス子爵はカロル大公との会談から4日経った11月22日に、シ
594
レジア王国軍総合作戦本部高等参事官でもあるエミリア王女と会っ
たのである。
カロル大公を優先し、そしてエミリア王女を4日間も待たせた。
この事実によってカロル大公派貴族は安堵し、そして狂喜した。オ
ストマルク帝国が味方に、少なくとも敵ではないと確信したからだ。
だがそれこそが、オストマルク帝国外務省とエミリア王女派貴族
の仕組んだ策だと気づいた者は、王宮内では皆無だった。
11月27日。
シレジア王国軍総合作戦本部高等参事官執務室。エミリア少佐は、
その長ったらしい役職名の割に仕事が与えられていない状態が続い
ていた。過日の着任歓迎会でも有効な人脈作りを果たすことができ
ず、また能動的な人脈作りも、彼女の置かれた微妙な立場が妨害を
していてなかなかうまくいかなかった。その微妙な立場を作ってい
るのが、他でもない﹁高等参事官﹂という役職名である。
王国軍総合作戦本部は上から、本部長、次長、各部局長、参事官、
理事官⋮⋮となり、高等参事官という職は本来はない。普通に考え
れば参事官よりは上となるのだが、参事官は通常中佐以上の者が任
官される。エミリア王女は、未だ少佐の身。高等参事官を名乗るの
であれば准将、せめて大佐の身分が必要である。王族だから逆らえ
ない。しかも高等参事官という大層な身分。しかし階級はたかだか
少佐。従えばいいのか従わなくていいのか、部下たちの悩みは延々
と続き、結局曖昧な返事しか出せないのである。
﹁エミリア高等参事官殿、いかがなさいましたか?﹂
﹁マヤ⋮⋮、あの、その呼び方は⋮⋮ちょっと⋮⋮﹂
﹁はいはい。エミリア殿下﹂
595
エミリアにとっては
言うものがある。
殿下
もダメなのであるが、そこは立場と
﹁それで、どうされたんですか。まるで異国の地にいる殿方を思い
馳せてる様な顔をしていましたが﹂
﹁あら、そうでしたか?﹂
無論その様な殿方というのはいないのだが。
﹁⋮⋮いえ、別に将来について考えていたのですよ﹂
﹁将来?﹂
﹁えぇ。もし私がシレジア国王となった場合の話です﹂
﹁⋮⋮それはまた結構遠い話ですね﹂
﹁そうですか? 場合によっては、明日そうなる可能性もあるので
す。例えば⋮⋮そうですね、お父様と叔父様がキャベツにあたる、
とか﹂
﹁もしそうなれば宮中の人間の首が4、5本必要になりますね﹂
王族に仕える者は、どこの国でもいつの時代でも毎日の仕事に命
を懸けている。
﹁冗談はさておき。私が国王になった時の展望が見えなければ今何
をすべきか、誰と組めばいいのかがわかりません﹂
﹁捕らぬ狸のなんとやら、に聞こえますが?﹂
﹁作戦計画です﹂
﹁物は言いようですね﹂
﹁仕方ありません。闇雲にやったところで成果が上がるわけではあ
りませんから。順序立てて、ゆっくりとやります。30年経とうが
やってやりますとも!﹂
596
無論、今の調子で30年が経てばシレジア王国は間違いなく滅び
るのだが。
﹁ふむ、では、エミリア王女の描くシレジア王国とはどういうもの
ですか?﹂
﹁⋮⋮そうですね。抽象的で申し訳ありませんが他国の脅威に怯え
ず、国民が平和に、自由に生きていける国、でしょうか﹂
無論、この至上命題はどこの国の長も求めているものである、一
応。そしてそれが最も難しいことだと言うことも。
他国の脅威を決定づける要因は様々だ。経済力や軍事力、技術力、
地政学的な位置、時には名誉や矜持、思想などと言う曖昧なものが
巨大な脅威となって国に振りかかってくる。これらの要素をすべて
排除できる国というものは歴史上極めて数が少ない。それを達成す
るための助けとなるのが学問である。
﹁立派な考えですが、それができれば苦労はありませんね﹂
﹁そうですね。私ごときにそれができるのであれば、この大陸から
戦争というものは消えていたはずです﹂
﹁では、別の方面から見る必要があります。カロル大公には成し得
ず、エミリア殿下にしか出来ない事をするしかありませんね﹂
﹁叔父様にはできない事⋮⋮ですか﹂
カロル大公はこの年40歳。もし彼に王位につく気があるのであ
れば、そろそろ動き出さないと老衰という終着点が見えてくる年齢
である。それ故に彼は急がなければならないのだが、カロル大公派
の動きは鈍い。
﹁叔父様は何をしたいのかが問題ですね﹂
597
﹁大公殿下が?﹂
﹁もし叔父様が王位、もしくはそれに準ずる地位に就きたいのであ
れば、父と私を暗殺するのが早いです﹂
リスク
﹁えぇ、ですがそれは﹂
﹁はい。危険性が大きいです。だから動かない、そう思っていたの
ですが⋮⋮﹂
だがそうではない理由があるのではないか、とエミリア王女は思
っていた。物証があるわけではない、言うなれば女のカンである。
そのカンが一層強くなったのは、東大陸帝国皇帝家の後継者争い
の情報を耳にした時である。
﹁カロル大公はセルゲイ派ではないかと思います﹂
﹁理由をお聞きしても?﹂
﹁⋮⋮実は、先日オストマルク帝国大使から情報を得ました。それ
によりますと、セルゲイ派貴族の中にはアレクセイ・レディゲル侯
爵の名があったのです﹂
﹁レディゲル侯爵⋮⋮確か、帝国軍事大臣の?﹂
﹁えぇ。そして同時に上級大将でもあります﹂
アレクセイ・レディゲル侯爵の名は東大陸帝国に留まらず、大陸
各国の首脳部の脳裏に焼き付いているほどの著名な人物だ。東大陸
帝国で何かが事件が起きれば、その事件の縄を手繰り寄せれば軍事
大臣に辿りつく、と言われている程に。
﹁未確認情報ですが、5年前のシレジア=カールスバート戦争も彼
が一枚噛んでいたそうですし﹂
﹁とすると、カロル大公が目指すシレジアの未来は、レディゲル侯
爵が描く未来とほぼ同一であるということですかね﹂
﹁わかりません。同じ未来でも、大公には三角形に見え、侯爵には
598
円形と認識しているかもしれません﹂
﹁いずれにしても侯爵が何を求めているのかが気になりますね﹂
﹁えぇ。侯爵が、実権を握りやすい赤子ではなくセルゲイを擁立さ
せようとしている理由も、その未来のためなのでしょう﹂
﹁何をしようとしているのか⋮⋮。シレジア=カールスバート戦争
を引き起こした理由は、いくつか思いつきますが﹂
マヤの言う﹁いくつか思いつく点﹂は、遠く離れた異国の地にお
いてフィーネ・フォン・リンツが指摘した点とほぼ同じである。つ
まりシレジア=カールスバート同盟の阻止、そしてシレジア貴族に
対する牽制。
﹁でも、悪名高きレディゲル侯爵のことです。もっと何かがあって
も驚きません﹂
﹁例えば?﹂
﹁そうですね。気づいたらシレジアの王権が転覆して東大陸帝国の
属領になっていた、そしてその属領の総督にはカロル大公が任命さ
れた⋮⋮とかですか﹂
﹁⋮⋮想像したくありませんね﹂
﹁えぇ。と言うより、想像できません。確かに東大陸帝国にとって
血を流す量が少なくて効率的です。しかしカロル大公が属領総督の
地位になってしまうと、シレジア人民の非難を一身に背負うことに
なります。下手をすれば⋮⋮﹂
そこで、エミリア王女の言葉が止まった。想像できない事態の先
に、本当に想像もしたくないような悍ましい未来を予想してしまっ
たからである。
無論、その予想は物証も何もなく、エミリア王女の思考の暴走が
生み出した考えである。エミリア王女はそう自覚し、それ以上の予
想を強制的に止めたのである。
599
﹁殿下?﹂
﹁い、いえ。なんでもありません。とにかく、何をするにしても情
報がありません。暫くはオストマルク帝国の力を借りることになり
ますが、いずれは自分たちの力で情報を得なければなりませんから﹂
﹁わかっています。そのためにもまずは対外情報機関の拡充ですね。
内務省治安警察局を基盤としますが、いずれは王家直轄の別組織と
して独立させたいところです﹂
﹁あるいは、この総合作戦本部に設置されている情報局との統合も
視野に入れましょう。問題となるのは、大公派ではない、信頼でき
る人材がいるかどうかですが⋮⋮﹂
こうしてエミリア王女は高等参事官という曖昧な役職で、自らの
理想の為に戦い始めている。
−−−
エミリア王女が総合作戦本部にて孤軍奮闘する中、王都シロンス
ク郊外にある駐屯地では怒号が飛び交っていた。
この駐屯地には、王国の精鋭にして第一王女専門の護衛部隊であ
る近衛師団第3騎兵連隊が配置されている。その近衛師団第3騎兵
連隊第15小隊に、若手の女性士官が着任したのは11月13日の
ことである。
第123期士官学校騎兵科次席卒業。しかも女性で、噂によれば
600
大変美人。それだけで、部下となる予定の者たちの士気は天井知ら
ずだ。そして実際に彼女を目にしたときは、それは最高潮に達する。
燃えるような真っ赤な髪色に、容貌の整った顔立ち、そして毅然
とした態度。俗的な言い方をすれば﹁美少女﹂であった。そんな指
揮官の下で働けるなんて、と部下は誰しも思ったことだろう。いや、
部下だけではなく、彼女の直属の上司にあたる連隊長までもが似た
ような事を思っていた。
これからの仕事はきっと良いものになる。そう思っていた。
だがその未来予想は、30分も持たず崩壊することになる。
﹁そこ! もたもたしない! あんたは馬も満足に乗れないの!?﹂
彼女はある意味では軍人らしく、ある意味では美少女らしからぬ
口調で部下に罵詈雑言の嵐をぶちまける。失敗すれば殴り、刃向う
ものなら金属剣を構えるほどの鬼教官だった。部下たちは決して無
能と言うわけではない。彼らは一応エリートである近衛師団の隊員
であるのだから。だが、近衛師団の仕事は典礼や儀礼的なものが多
く、実戦で戦うことを目的としているわけではない。その新任の指
揮官はその状況を憂い、部下たちに騎兵隊の何たるかを再認識させ
るために、実戦形式の訓練を採用したのである。
無論、この状況に対して連隊長は困惑し、そして諌めた。だが、
新任の士官は真っ向からその忠告に反論した。
﹁儀礼とか典礼とかそういう物が、実戦で役立ったことあるの!?
それでエミリア、殿下が守れるわけ!?﹂
上司に対して敬語も使わず物怖じもせず、連隊長の顔面に唾を吐
きかける勢いで叫んだ。彼女の言には一理ある。しかし、王族と言
601
うものは基本的にはシロンスクから出ない生き物だ。海外へ行くに
しても、直接の護衛は親衛隊の管轄である。親衛隊であれば賊程度
なら簡単に蹴散らせる実力を持っている。故に近衛師団の主な仕事
は、王都にやってきた賓客に対する典礼や出迎えになるのだ。
﹁じゃあ、もし王女が戦場に赴くことがあれば、連隊長殿はどうす
るの?﹂
そんな事態はありえない。と、彼は言えなかった。
現在王女は王国軍少佐でもある。もし王女が実戦指揮を強く望め
ば、軍務省や総合作戦本部は止めることはできない。それに王族が
軍を率いることはそう珍しい話ではない。古くは大陸帝国初代皇帝
ボリス・ロマノフ、シレジアの例で言えば第2代国王マレク・シレ
ジアだ。もしその列に王女が参加すれば、彼女が率いることになる
のは、間違いなく近衛師団第3騎兵連隊だ。親衛隊はあくまでも護
衛が任務であり、実戦部隊ではない。
﹁実際に戦場に出て、そして王女殿下が指揮をする。なのに指揮す
る部隊が実戦では役に立たなかったらどうするの?﹂
もしそうなれば近衛師団は壊滅し、王女は戦死するだろう。
﹁答えは出たわね。もういい? 訓練の続きをしたいから﹂
彼女はそう言い放つと、連隊長の返答を待たずしてその場から退
出した。
602
近衛師団第3騎兵連隊が王国最強の騎兵隊としてその名を轟かせ
るに至ったのは、彼女が着任してからわずか数か月後のことである。
603
未来を見据え︵後書き︶
いつの間にかBM8,000件越え、総合ptも20,000まで
あと少しという所になっていました。みなさん本当にありがとうご
ざいます。拙作ではありますが、今後ともどうか御贔屓に。
PS.ローマ出ません
604
曾孫と大甥
シレジア王国の西、前世世界でドイツ帝国と呼ばれた位置にリヴ
ォニア貴族連合という国家がある。首都はリヒテンベルク。そして
この国は他の国家とは趣を異にする体制の国家だ。
リヴォニア貴族連合という国家には、国王も皇帝も存在しない。
いるのは貴族だけだ。
元老院と呼ばれる合議集団がリヴォニアの立法、行政を司ってお
り、元老院議長が国家元首となる。そしてその元老院は15の貴族
によって運営され、構成は常任貴族と非常任貴族に分けられている
常任貴族はウェーバー公爵、ディートリッヒ公爵、ビアシュタッ
ト公爵、ヘルメスベルガー公爵、そしてザイフェルト公爵の計5家
であり、残りの10家は非常任貴族である。常任貴族はその名の通
り、元老院から除名されることはない。また元老院議長の座もこの
常任貴族の4年毎の持ち回りによるものである。現在、元老院議長
の座にはザイフェルト公爵がついている。
非常任貴族は全て伯爵以上の貴族で、そして2年毎に半数の5家
がリヴォニア貴族による選挙によって選ばれる。不文律によって2
期連続で非常任貴族に選ばれることはない。
−−−
605
12月10日午後6時。
デート
俺はフィーネさんとエスターブルクの大衆食堂で逢引、もとい情
報交換をしている。と言っても現状俺が情報を貰っているだけなの
だが。
﹁セルゲイ・ロマノフの母親の身元が分かりました﹂
﹁⋮⋮シレジアで耳にした噂では、確かリヴォニアの貴族らしいで
すが﹂
確か、エミリア王女がこのことについて言及してたな。
﹁えぇ。どうやらその噂は事実だったようです。セルゲイの母親の
名前はアニーケ・ロマノワ。旧姓はフォン・レーヴィです﹂
﹁レーヴィ⋮⋮? 聞いたことありませんね﹂
﹁そうですね。レーヴィ家は男爵家です。知らないのも無理はあり
ません。しかしそのレーヴィ男爵家が、ザイフェルト公爵家の遠戚
である、と言ったらどうします?﹂
﹁ザイフェルト公爵!? 元老院議長の!?﹂
つい大きな声を出してしまった。フィーネさんは右手人差し指を
唇近くで立て小声で﹁静かに﹂と忠告した。追跡者の様子を窺って
見るが、どうやら気づいてないようだ。フィーネさんの随員が騒い
でくれてるおかげだ。
でも予想外に大物だな。東大陸帝国の次期皇帝候補が他国の大貴
族と血縁関係があるとすると⋮⋮うん、オストマルク帝国の二の舞
になる可能性がある。
﹁イヴァンⅦ世が、女系男児を無理矢理皇帝に据えようとしている
理由が垣間見えますね﹂
﹁えぇ。歴史を繰り返したくないのでしょう。セルゲイ帝国建国だ
606
なんて、まるで我が国の歴史を見ているようです﹂
オストマルク帝国初代皇帝ユーリ大帝はロマノフ皇帝家の人間だ
ったもんな。
﹁しかし無理矢理帝位を曾孫につかせれば、それこそセルゲイ派が
騒ぎ立てるでしょう。下手を打てば内戦になりかねません﹂
﹁そうですね。イヴァンⅦ世にとってはどちらにしても最悪の結果
を生み出す、哀れなことです。我々にとっては高見の見物と行きた
いところですが﹂
﹁でもそれは⋮⋮﹂
﹁えぇ。見物料は高くつきます。シレジア1個分の領土が必要でし
ょう﹂
曾孫が男児ではなく女児だった場合はどうなるか。その場合セル
ゲイ・ロマノフが帝位につくのは確実だろう。すると東大陸帝国と
リヴォニア貴族連合は血の繋がりと言う強いパイプを持つ。下手を
すれば同盟を組むかもしれない。そして同盟を組んで真っ先に潰す
としたら、やはりシレジアだ。両国が同盟を組めば、それはすなわ
ち緩衝国家シレジアの存在意義の消失である。これは結構きつい。
では、もし仮にイヴァンⅦ世の曾孫が男児で帝位についたら。そ
の場合イヴァンⅦ世は貴族の支持を得るため外征に勤しむだろう。
真っ先に狙われるのはシレジアで間違いない。おまけでラスキノも
掻っ攫うかもしれない。よしんばその西征を凌ぎ切ったとしても、
その場合イヴァンⅦ世が失脚してセルゲイ・ロマノフが帝位につく
だけだ。
どっちを取ってもシレジアの滅亡は避けきれないのか⋮⋮。
﹁シレジアの余命は持って1年と言ったところでしょうか﹂
﹁⋮⋮そう、ですね﹂
607
これは、些か読みが甘かっただろうか。
﹁ワレサ大尉。この状況でシレジアを救う手段は限られています。
その中で最も賢く現実的な選択肢は、我が国と同盟を組むことなの
です。さすれば、いかに東大陸帝国やリヴォニア貴族連合が巨大な
国家だったとしても、下手に手を出せないでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大尉﹂
フィーネさんの意見は、おそらく正しい。
シレジア単独ではいずれ滅びる。であれば、どこかの国と同盟を
組むしかない。シレジア周辺でそれなりの国力を持つ国と言えば、
東大陸帝国、リヴォニア貴族連合、オストマルク帝国のどれかだ。
そして、東大陸帝国とリヴォニア貴族連合はシレジアを併呑する
気満々だ。シレジアに好意的なのはオストマルク帝国だけ、という
ことになる。
オストマルク帝国がシレジアを罠に嵌めて、自国の属領としよう
としているという可能性も考えたが、すぐにその考えは捨てた。オ
ストマルクがシレジア相手に、そんな遠回しな手段に出る必要性が
わからなかった。
﹁フィーネさん﹂
﹁なんでしょうか﹂
フィーネさんは相変わらず、こちらを見ない。
﹁⋮⋮エミリア王女殿下と、リンツ伯爵に伝えて欲しいのです。﹃
ユゼフ・ワレサはオストマルク帝国と協力することに賛成だ﹄と﹂
608
﹁⋮⋮﹃協力﹄ですか﹂
﹁えぇ。同盟はダメです。国内の問題があります。非公式の協力体
制を敷き、共通の敵に対し共同で対処することを目的としたものを。
非公式であれば、何かと動きやすいでしょうし﹂
﹁なるほど確かに⋮⋮。わかりました。では、そう伝えておきます﹂
−−−
12月10日午後6時15分。オストマルク帝国帝都エスターブ
ルクにある小さな大衆食堂で、国境を越えた大きな密約が交わされ
た。
この密約が大陸の歴史をどのように動かすのか。その答えを知る
ものは、生者の中に存在しなかった。
609
とある補給参謀の日常
参謀。
それは指揮官を頭脳面、事務面において補佐する人の事である。
幕僚と呼ぶ場合もある。基本的には旅団以上の部隊の司令官の補佐
をするのだが、連隊以下の小規模部隊の指揮官にも参謀がつく場合
がある。
一口に参謀と言っても種類は様々。参謀長、副参謀長、情報参謀、
作戦参謀、補給参謀、人事参謀などなど。部隊の規模によって役職
が増えたり、逆に統合されたりする。
12月17日。
シレジア王国軍ヴロツワフ警備隊の司令部内で、1人の参謀が唸
っていた。彼の役職はヴロツワフ警備隊補給参謀補。その名の通り
補給参謀の補佐役。なのだが、ヴロツワフ警備隊の参謀はなぜかと
ても少ないため事実上﹁補﹂の文字が消えている。
これは先のシレジア=カールスバート戦争によって人員が不足し
たため、各地域警備隊の高級軍人が昇進の上別の役職に回されたこ
とに起因する。例えば、ヴロツワフ警備隊作戦参謀だった者は准将
に昇進した後、東部国境にあるタルタク砦の司令官として転任した
そうである。
﹁中尉、ここの計算間違ってるぞ!﹂
﹁申し訳ありません! すぐに直します!﹂
610
補給参謀補だから上司に物事を教わりながら気楽に仕事ができる、
と辞令を渡された時彼は思っていた。だが彼の予想は大きく裏切ら
れ、ヴロツワフ着任3日目にして警備隊補給参謀代理となっていた。
そして今彼が格闘している書類、それは警備隊内で発生した事故
の処理である。
12月15日、ヴロツワフで些細な出来事が起きた。
酒に酔った隊員数名が、武器庫に保管してあった槍4本、金属剣
2本、弓2張、矢80本を持ち出し逃走。ヴロツワフ郊外の平原で
ひとしきり狩りを楽しんだ後に警務隊に捕獲された。しかし盗まれ
た武器の類は全て全損もしくは行方不明となった。当然、武器庫の
保管・警備体制が追及されることとなるが、それ以上に大変だった
のはこの事件の顛末を中央に報告しなければならないと言うことで
ある。
ただでさえ人員不足のヴロツワフ警備司令部は、このバカげた事
件のために忙殺され不眠不休で事件の処理に当たっていたのである。
補給参謀代理は、この時に喪失した武器の補充及び武器庫にある
装備の確認等を行わざるを得なくなった。まだ着任して1ヶ月の彼
には無茶なことだが、それでも計算ミス程度の失敗で済んでいるの
が彼の凄いところでもある。
﹁はぁ⋮⋮休みたい⋮⋮。でも、ユゼフ達は外国で頑張ってるみた
いだし、こんなんでめげちゃだめだよな⋮⋮﹂
デート
この哀れな参謀が﹁士官学校同期の友人は、実は異国の地で年下
の女子と逢引していた﹂と知るのは、だいぶ先のことになる。
611
12月22日。
ヴロツワフ司令部に王国軍総合作戦本部から見たくもない文書が
来た。内容は、事件を起こした犯人の処遇とその後の処理、再発防
止策を求める内容、全3ページ。
﹁いくらなんでも少なくないですかね?﹂
この事件は規模は小さいとはいえ恥ずべき大失態とも言えるもの
だ。それに対する通達が僅か3ページというのは、素人目に見ても
少ないとわかる。
これに対する疑問は、彼の上司である補給参謀兼人事参謀が答え
てくれた。
﹁人材不足はヴロツワフだけじゃないってことだよ﹂
﹁どういうことです?﹂
﹁今軍務省⋮⋮いやシレジアは財政難だからな。事務処理を行う文
官の人件費を削ってる最中なのさ。それで国家全体の行政処理能力
が落ちてきてる。だから、こんなしょうもない事件にいつまでも構
ってられないんだろうさ﹂
彼は説明しながら懐から葉巻を取り出し、必要最小限の初級火魔
術でその葉巻に火をつけた。
﹁シレジア=カールスバート戦争ってのがあっただろ? あれで1
万近い戦死傷者が出たんだが、その戦死者遺族に対する補償金、年
金、戦傷者に対する治療費諸々は全部軍務省の予算なんだよ﹂
軍隊は金がかかる。平時においては装備調達費及びその維持費、
そして人件費が主になる。
しかしひとたび戦争が始まると、戦死傷者に対する補償金という
612
ものが発生する。これはバカにできない損失だ。なにせ既に死んで
いる役立たずのために国が延々と金を出さねばならぬからである。
無論戦死兵遺族のために支払わなければならぬのは倫理面からは理
解できる。理解できるからこそ軍上層部の頭を悩ますのである。た
だでさえ経済的に落ち目に入っているシレジアにとって、これは大
きい。
・・
﹁これでカールスバートから領土を奪回したとかカールスバートが
滅びたとか無力化された、ならまだ軍事費の圧縮もできたんだろう
が⋮⋮残念ながらカールスバートの脅威は依然としてある。だから
シレジアは軍縮はできない。むしろ国防上の問題から言えばもっと
軍隊が欲しいというのが本音さ﹂
﹁そうなるといくら金があっても足りませんね﹂
﹁まったくだ。ホント、戦争ってのは不経済極まりない﹂
上司は言いたいことを言うと﹁本部に送る報告書は適当にやれ、
どうせ奴らは読まん﹂とだけ言い残して立ち去った。
変なところで生真面目な補給参謀代理は上司からの命令を冷然と
拒否し、シッカリと形式を整えた報告書を書き上げ、それを総合作
戦本部に送ったそうである。
12月24日。
国を問わず、大陸中で信仰されている宗教において重要な日であ
る。かつて巨大な国家だった大陸帝国が、国を挙げてこの宗教を潰
そうとしたことがあった。しかし時の大陸帝国皇帝は逆にこの宗教
に感化され、ついには国教としてしまったのである。以来この宗教
は大陸全域に広まり、定着した。そして12月24日は多くの国で
613
は祝日とされ、多くの者は家族と共に1日を過ごすのが常識となっ
た。
ただしこの常識は、残念ながら軍隊という聖なる地では通じない
ようである。
下級兵士ならまだしも、士官であり補給参謀代理でもある彼は簡
単に休みは取れない。取れたとしても、兵士たちの休暇申請が集中
するこの12月24日に休めるほど彼はまだ偉くない。彼がこの日
貰ったのは休暇ではなく、ひとつの手紙だった。
﹁⋮⋮俺に公的文書じゃなくて私的な手紙が来るなんてことがある
んだな﹂
この一言が、彼の日常を的確に表現しているだろう。
その手紙は隣国オストマルク帝国、彼の婚約者である商家の娘か
らの手紙だった。12月24日に意中の男性の手元に到着するよう
に投函日を調整したのか、ただの偶然なのか。それとも12月24
日と言う特別な日に起きた、神の奇跡なのかはわからない。
手紙の内容はひどく簡素だった。軍人に対する手紙は検閲される
のが普通、それも相手はわかっていたので内容は手短に、そして簡
潔的だった。
彼は暫くその手紙を読み、そして2度3度繰り返して読み返した。
﹁そう言えば、ユゼフの野郎もオストマルクにいるんだったな。手
紙送って自慢でもしてやろうか﹂
彼はそう小声で呟くと執務机から便箋を取り出し、士官学校同期
生に向けた手紙、そして先ほどの手紙の返事を書き始めた。
614
30分後、彼は事務処理を滞らせた責任として残業を命じられた。
無論、超過勤務手当は出ない。
615
とある補給参謀の日常︵後書き︶
ラデックさんは理想的な勝ち組人生を送っています︵軍の士官で高
給取り、死ぬ危険が少ない後方勤務、家柄のしっかりしている美人
の婚約者あり。爆発しろ︶
616
第59代皇帝
東大陸帝国第59代皇帝、イヴァン・ロマノフⅦ世。
後世の歴史家は彼を﹁凡君よりの暗君﹂と評価することが多い。
それは彼が政治より絵画を好み、改革よりも美女を愛したからであ
る。イヴァンⅦ世は72歳にして50歳以上年下の女性8人を寵姫
として迎え、さらには高名な画家に描かせた寵姫らの肖像画を何よ
りも愛したと言う。
だがそれも、名だたるロマノフ皇帝一族では珍しい話でもない。
この帝国には三桁にも及ぶ寵姫と愛妾を抱えた皇帝や、絵画や音楽
に傾注するあまり国庫も傾かせた例もある。8人の寵姫と8枚の絵
画などはまだ自重してる方なのだ。加えて、イヴァンⅦ世は失政を
しているわけではない。改革がほんの数十年遅れているだけである。
ここまでは、彼が﹁凡君﹂だと評される理由である。彼が﹁暗君﹂
の評価を得ることができたのは、大陸暦637年の事になる。
−−−
大陸暦636年12月15日。
東大陸帝国帝都ツァーリグラード、その中心に建つ宮殿内では典
礼大臣を筆頭に近侍や執事たちが忙しなく動いている。1月1日に
行われる新年会の準備のためだ。
617
そんな中、皇帝イヴァンⅦ世は準備に忙しい典礼大臣と病気療養
中の文部大臣を除く全閣僚を召集した。緊迫した空気が流れる閣僚
会議室で、イヴァンⅦ世が最初に口を開いた。その言葉は、その場
にいた者を驚愕させるに十分だった。
﹁⋮⋮早速議事に入るが、今度の新年会で私は孫娘のエレナが懐妊
していることを正式に発表しようと思う。その上で、その子供が帝
位継承権を持つことも併せて発表するつもりだ﹂
つまり皇帝イヴァンⅦ世は、エレナの子が男児だろうが女児だろ
うが皇帝とさせるという意志の表明である。
これに対して真っ先に反論、いや疑問を呈したのは司法大臣だっ
た。
﹁陛下。恐れながら生まれてくる子が男児とは限りません。現在の
帝位継承規則では女児に帝位継承権は⋮⋮﹂
﹁その点は心配はない司法大臣。今日の会議でその帝位継承規則は
変更する。既に宮内大臣と内務大臣の了解は取っている﹂
﹁⋮⋮!﹂
宮内大臣と内務大臣は反セルゲイ派の急先鋒として有名だった。
それは理性的な面によって嫌っているのではなくただ単純にセルゲ
イの人となりを嫌った、感情的な反感である。
﹁今日は、この帝位継承規則変更について皆の了解を得るために集
まってもらった。諸君らの忌憚なき討論を期待するものである﹂
ここで本当に忌憚のない意見を言える人間などいない。気にしな
いふりをして、後日何らかの因縁をつけて更迭する可能性もあるの
だ。
618
重々しい空気の流れる中、最初に意見を出したのは軍事大臣のレ
ディゲル侯爵だった。
﹁⋮⋮陛下が強く望まれるのであれば、我々も異存はありません。
ですがその場合、セルゲイ皇太子殿下が納得しえないでしょう。ま
た、恐れながらセルゲイ皇太子殿下が帝位につくものだと誰もが思
っていた中で、帝位継承順を逆転させることになれば、反発する者
も多いと思われます。どうか、そのあたりの配慮もいただければ幸
いです﹂
レディゲル侯爵は落ち着いていたが、今一番反発していたいのは
侯爵自身である。だが、その気持ちを最大限抑え、彼は冷然と言葉
を並べた。
皇帝は、それに対して意外な反応をした。まるで﹁そんな意見を
待っていたんだ﹂と言わんばかりの表情で大きく首を上下に動かし
ていた。
﹁卿の言はおそらく間違ってはいない。故に私は、セルゲイ皇太子
を帝位継承権第一位の座から外すようなことはせぬ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
予期せぬ回答を貰った軍事大臣は、思わず聞き返してしまった。
﹁不満かね?﹂
﹁い、いえ。陛下に御配慮いただき有難いと存じます﹂
確かにこの条件であればレディゲルは表だって反論はできない。
少し予想外の事ではあったが、セルゲイが死なない限り帝位継承権
ヴェスナードヴァリエーツ
は動かない。暗殺の危険性が高まったものの、そもそも暗殺の危険
はあった。だからこそ、セルゲイには帝都から離れた春宮殿で暮ら
619
してもらっている。
セルゲイ派で有名だった軍事大臣が帝位継承規則に賛成の意を見
せたため、別の者が反対に回ることもなく、無言のうちに皇帝の提
案は採択された。
だが皇帝は閣議を解散させず、議事を続行した。
﹁では、本題に入ろう﹂
﹁本題⋮⋮ですか?﹂
室内の誰かが問うた。今の帝位継承規則が本題ではないとしたら、
本題とはいったい何なのか。
レディゲルは、宮内大臣と内務大臣の顔を見た。だが彼らも困惑
した顔をしており、互いを見合わせている。どうやら彼らは事前に
本題
は、閣僚らを再び驚愕させるに十分
帝位継承規則の話しか聞いていなかったのだろう。
そして皇帝が告げた
な威力を持っていた。
﹁私はシレジア王国を僭称する叛徒共に対し、軍事力による天罰を
下す﹂
620
第59代皇帝︵後書き︶
設定集作りました
↓http://ncode.syosetu.com/n734
7cq/
621
大陸暦637年
大陸暦637年は絶望と共に幕を開けた。
1月3日、未だ新年会の酒に酔っていたシレジア上層部の耳に東
大陸帝国の帝位継承規則改訂の問題が入った。それによると、現皇
帝イヴァンⅦ世は女児にも帝位を継承する気があり、イヴァンⅦ世
の曾孫から適用される、とのことだった。
多くの貴族は単に驚き﹁西大陸帝国との関係性がどうなるか﹂と
いう一点に話題が絞られた。だが、その話題は上層部に行くほど薄
らいでいき、別の問題が浮上していた。即ち、皇帝イヴァンⅦ世に
よるシレジア征服意志である。
カロル大公はこの情報を宰相府の執務室で聞いた。
﹁⋮⋮﹂
大公はその情報を副官から聞いても、別段感想らしいものを零さ
なかった。
﹁殿下、その⋮⋮﹂
﹁聞いている。下がっていい﹂
﹁ハッ、失礼します﹂
だがその時の大公の表情はとても険しく、副官の背筋を凍らせて
いた。
622
−−−
一方、王女殿下は意外と冷静だった。理由は、先月オストマルク
帝国大使館から連絡があったためである。
・・
﹁ユゼフさんがオストマルクとの協力に賛成したのは、こういうこ
となのでしょうね﹂
﹁えぇ。ですが彼もここまで早く事態が動くとは予想しなかったの
ではないですかな﹂
オストマルク大使館から寄せられた文書には、在オストマルク帝
国シレジア王国大使館の駐在武官ユゼフ・ワレサからの伝言だった。
曰く﹁このまま行けばシレジアは1年以内に滅亡する﹂とのことだ
った。
﹁マヤ。帝国が軍事行動を取るとしたら、いつになると思いますか
?﹂
﹁イヴァンⅦ世の本気度によりますが⋮⋮普通に考えれば4月でし
ょう﹂
﹁理由は?﹂
﹁まず東大陸帝国も我が国も、2月までは涙も凍るほどの厳寒期で
す。その時期に部隊を動かすのは、兵の士気にかかわります。行軍
してる間に凍傷になる者もいるかもしれません﹂
﹁なるほど。では4月に限定した理由は? マヤの理屈で言えば凍
土が完全に融け、泥も完全に乾く5月以降の方が良いと思いますが﹂
シレジアは国土が全体的に平坦であるため雪はあまり降らない。
唯一豪雪地帯と呼べるのはカールスバート国境付近、ズデーテン山
623
脈の麓である。そのため殆どの地域では少量の雪が降り、土が凍る
だけだ。その土が融け始めるのは、気温が上昇し氷点下になること
が少なくなってくる3月以降。
だがこのままでは地面は泥の状態である。泥に足を取られ、行軍
に必要な体力は倍になる。そして泥となった土が完全に乾くのは、
春を迎えた5月以降となる。
﹁5月まで待ってしまっては子が生まれてしまいますよ﹂
﹁つまり?﹂
﹁イヴァンⅦ世は子が生まれる前に決着をつけたいのでしょう。女
児が生まれてしまえば反発を招くのは必至。しかし支持を得た状態
で女児が生まれれば、多少はマシとなるでしょう。皇太曾孫の身の
安全のためには、これが最適というものです﹂
﹁なるほど。どうやらマヤの意見はおそらく正しいでしょう。問題
は⋮⋮﹂
﹁問題は?﹂
﹁我々がどう動くか、ですよ﹂
エミリア王女は行儀悪く机に肘を付き、思考し始めた。
−−−
この問題は、当の東大陸帝国内部でも混乱を招いていた。特に、
セルゲイ派貴族の慌てようは喜劇に類するものと言っても過言では
なかった。
624
﹁陛下は何を考えているのか! この時期に外征をするなど、正気
の沙汰ではない!﹂
﹁それに女児に帝位継承だと!? 女が国を治めることができると
お思いか! これだから老人の考えは度し難いのだ!﹂
彼らは公然と皇帝批判をしていた。彼らが伯爵以下の中小貴族で
あれば不敬罪で捕まるところだ。
そんな中、セルゲイ派貴族筆頭の軍事大臣レディゲル侯爵は冷静
だった。
﹁想定内だ﹂
彼は大臣執務室で皇帝官房長官ベンケンドルフ伯爵と会談してい
た。
﹁本当に?﹂
﹁あぁ。まぁ、予想より少し早かったのは認めよう。だが、それで
もシレジアに対する軍事行動の日程は変わらない﹂
﹁軍事的な観点で言えば、4月以降が理想、ということですな?﹂
ベンケンドルフの言葉に、レディゲルは首肯する。
﹁うむ。問題は誰が実戦部隊の指揮をするか、だ﹂
皇帝イヴァンⅦ世が自らの支持を得るために外征をするのであれ
ば、人選も自然と決まってくる。つまり自分に対して支持を表明し
ている貴族の将校に指揮させるのが良い。開戦までおそらく3ヶ月、
その間に立場を決めかねている有象無象の帝国貴族がどう出るかに
よって、この戦争の趨勢が決まる。
625
﹁宮廷内で流れる噂によると、皇帝陛下自らが指揮をするとのこと
ですが﹂
﹁どこのバカだそんな噂を流したのは。あり得ん話だ﹂
﹁さてね。で、当事者である軍事大臣としては、誰が適任かと思わ
れますかな?﹂
﹁そうは言っても、師団長以上の人事権は皇帝陛下が決めるだろう。
勅命だしな﹂
﹁つまり、旅団長以下の中級指揮官の人事権はあるわけですね?﹂
﹁⋮⋮まぁな﹂
つまり、軍事大臣は懇意にしている中級指揮官に武勲が立てやす
い師団に配置したり、逆に気に食わない者を無能の師団長の下に置
くことができると言うことである。
﹁そういえば、先のラスキノ戦争で大失態をしたサディリン少将が
赦しを請うていますね﹂
﹁そうだな。伯爵家の人間と言うことで4ヶ月の減俸処分としたが、
どうやら本家では肩身が狭い思いをしていることだろう﹂
軍人にとって、減俸処分というのは単に給料が減るだけの話では
ない。減俸処分を受けた者は、ある一定期間昇進が見送られる。サ
ディリン少将の場合、伯爵家の人間であることから昇進も早く何も
なければ今夏には中将に昇進されることになっていた。しかし今回
の処分によって昇進が少なくとも3年は遅れ、さらには家名が傷つ
き伯爵家自体にも迷惑が掛かっているようだ。
﹁サディリン伯爵は立場を決め兼ねていたようですが、どうですか
な? この際、戦争に負けても武勲を捏造しやすい部隊に配置して
みては。息子はともかく、伯爵は使える人間です﹂
﹁そうだな。検討しよう。ただ、皇帝陛下がどういう人事をするか
626
次第だ。場合によっては、サディリンの息子には名誉の戦死を遂げ
てもらうしかない﹂
﹁ですな。戦死となれば彼も大将。伯爵も無駄飯ぐらいの息子を切
り離せて、なおかつ帝国に殉じた英雄を手に入れて満足するでしょ
う﹂
人の生き死にをまるで玩具のように弄ぶのは、権力を握ったもの
だけが許される特権のようなものである。
その後もレディゲルとベンケンドルフは暫く中級指揮官の選定に
入っていた。誰を英雄にし、誰に恩を売るかを決めていた。
暫くした後、大臣執務室の戸がノックされた。
﹁誰だ﹂
﹁エル・シャクラ少尉であります﹂
﹁入れ﹂
シャクラは、レディゲルの次席副官である。まだ若いが気遣いが
利く有能な副官で、レディゲルが最も信頼する人間の一人である。
﹁大臣閣下、私はこれで失礼します﹂
﹁あぁ、伯爵。ご苦労だった。また次の機会に﹂
ベンケンドルフは、入室してきたシャクラと入れ替わりに退出し
た。シャクラはベンケンドルフ、次いでレディゲルに敬礼する。
﹁で、何があった?﹂
﹁はい。皇帝陛下が御呼びです。至急宮殿に来てほしい、と。おそ
らく、今度の作戦の事かと思われます﹂
﹁⋮⋮わかった。支度する。手伝ってくれ﹂
627
﹁ハッ﹂
628
大陸暦637年︵後書き︶
津田先生にTwitterで紹介されて家の中で滅茶苦茶雨乞いし
ました
629
外交官として
東大陸帝国の帝位継承規則改訂の情報は、時を経ずして在オスト
マルク帝国シレジア大使館にももたらされた。
これに対して大きな反応をしたのは、以外にもスターンバック准
将だった。
﹁バカな! あ、ありえんことだ!﹂
王女派かもしれない俺が目の前にいるというのに、准将は驚きを
隠そうともしていない。
とりあえず、俺は平静を装ってみる。
﹁閣下、いかがなさいましたか?﹂
﹁いかがもタコもあるか! こんなこと、帝国の奴らは何も⋮⋮﹂
ははーん?
どうやら准将閣下も独自に東大陸帝国の動向を掴んでいたわけね。
でも何も聞いてない、となると大公派はイヴァンⅦ世ではなくてセ
ルゲイ派貴族と繋がってるってことになる。やれやれ。焦って自白
するなんて准将もまだまだですな。
にしても大公はセルゲイ派か。本当に何企んでるんだろうか。イ
ヴァンⅦ世派ならまだわかる。なんてったって次期皇帝は赤子にな
るんだし。まぁ今はそんなことはどうでもいい。問題は、今何をす
べきかだろう。
﹁閣下、どうされますか?﹂
﹁どうされるも何も、何をしろと言うのだ﹂
630
准将は椅子に脱力しながら座ると、背もたれにめいいっぱいもた
れかかり天井を見た。情けないったらありゃしないね。
﹁これで東大陸帝国が我が国に対して軍事行動を取る可能性が高ま
りました。その上で、我々が何をすべきなのか。御指示を﹂
いっそのこと今すぐシレジアに戻ってエミリア殿下の下に行きた
い。だが俺が行ったところで何もできない。たかだか大尉じゃでき
ることなんて少ないし、ここはエミリア殿下、いや高等参事官殿を
信じるしかないのだ。
﹁⋮⋮とりあえず、今回の事態についての情報収集に専念せよ﹂
情報収集ね。今更やったところで手遅れだと思うが。情報収集っ
てのは事が起きる前にやってこそ意味がある。すでに時が動いてし
まってから情報収集をしても遅い。それはただの歴史の勉強だ。
俺が集めるべき情報は、帝国軍の人事と規模。あとは、オストマ
ルク帝国の出方だな。
﹁わかりました。では、早速市街に出て、情報収集に専念したいと
思いますので、外出の許可を﹂
﹁⋮⋮あぁ、許可する﹂
スターンバック准将はそれを言うと、ついに何も言わなくなった。
死んでるわけではない。口は動いていたから、何か恨み節でも言っ
ているのだろう。小さすぎて何言ってるかわからんけどさ。
さて、今はなりふりは構ってられない。素人追跡者なんて振り落
す勢いでこの都市を駆けずるしかない。とりあえず、リンツ伯爵の
631
屋敷に突撃するか。
−−−
結論から言うと、リンツ伯爵には会えなかった。
いつもの追跡者は居なかった。シレジア大使館内はてんやわんや
だったし、そんな余裕もなかったのだろう。だから俺は真っ直ぐ伯
爵の屋敷に向かったのだ。
だが伯爵は屋敷におらず、外務省にいるとのことだった。それを
アポ
聞いた俺は外務省に行こうとしたが、屋敷の人に止められた。﹁い
くら外交官で知己のある人物と言えども、約束なしで高級官僚に会
えるほどオストマルク帝国は甘くない﹂と、屋敷の奥からヌッと現
れたフィーネさんに言われた。フィーネさんがニンジャめいてる。
実際怖い。
﹁想像はつきますが、何の用でしょうか?﹂
﹁フィーネさんの想像通りです﹂
﹁わかりました。ここではなんですので、上がってください﹂
伯爵の屋敷は、それなりの大きさだった。少将昇進祝賀会の時の
別邸よりは小さかったけど、あっちはパーティー会場も兼ねてるか
らな。こっちは住む用、と言ったところだろう。
応接室らしき部屋に通された俺は、運ばれてきた紅茶に目もくれ
ず本題に入った。俺は緑茶派だしね。
632
﹁⋮⋮フィーネ伯爵令嬢。私は今回の事態に対し、貴女の協力を得
たい﹂
﹁それは、シレジアの外交官としての正式な要請ですか?﹂
﹁無論です﹂
﹁わかりました。貴方に協力してくれと言われれば、私は協力する
に吝かではないありません。ただし、内容によります﹂
彼女は微笑みながら紅茶を飲む。伯爵令嬢らしく、優雅に。
﹁外務大臣クーデンホーフ侯爵閣下にお会いしたい。そのための協
力を得たい﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
大臣にして侯爵という高貴な人物に会うためには、近しい者の紹
介を得るのが普通だ。エミリア王女みたいに向こうからやって来る
なんてことの方が変なのだ。まぁ、今回も異常と言えば異常か。農
民出身の俺が伯爵令嬢と2人きりなんだから。
﹁⋮⋮祖父、いえ大臣閣下にお会いになってどうするおつもりです
か? 援軍の要請でもするつもりですか?﹂
﹁いえ、そこまではできません﹂
﹁では、何をするつもりです?﹂
フィーネさんは、そのキツめの眼差しを俺に送ってくる。もしこ
の視線が金属だったら俺はとっくに死んでるだろう。それぐらい、
この視線は鋭い。だからこそ、ここで失敗するわけにはいかない。
﹁オストマルク帝国に、ある﹃提案﹄を﹂
﹁﹃提案﹄?﹂
633
フィーネさんの眉が少しだけ動いた。興味を持ってくれたようだ。
﹁えぇ。有益な﹃提案﹄です。これを蹴るのは勿体ない﹂
﹁どんな内容か、気になりますね﹂
﹁この場で言っても良いですが⋮⋮できればクーデンホーフ侯爵閣
下に直接説明させて頂きたい﹂
これはあくまでも餌。その餌を、フィーネさんに横取りさせるわ
けにはいかない。フィーネさんが俺の﹁提案﹂を外務大臣に伝えて
しまっては意味がないのだ。
﹁もし私が﹃教えなければ協力を拒否する﹄と言ったら?﹂
﹁そうなれば、私は潔くこの場から去り、正式な外交経路から大臣
謁見を申しでるつもりです。その場合、私の﹃提案﹄は外部に露呈
する場合がございます﹂
今ここで協力すれば、大公派の妨害もなく外交ができる。﹁提案﹂
がどんなものかわからないが、オストマルクにとって有益なもの。
でも外部に漏れたら、間違いなく妨害される。それは大公派貴族に
よるものか、それとも某国のものなのかはわからないが。
﹁⋮⋮なるほど﹂
フィーネさんは小さな声でそう呟き、目を閉じた。微動だにせず、
思考を巡らせている。そんな感じの雰囲気を醸し出してる。
数十秒後、フィーネさんはゆっくりと目を開いた。
﹁わかりました。ワレサ大尉に協力します﹂
634
その言葉を聞いた瞬間、俺は心の中で盛大にガッツポーズをした
と思う。平静を装うのが大変だった。
﹁⋮⋮協力、感謝に堪えません﹂
まずは第一関門、クリアだ。
635
外交官として︵後書き︶
http://ncode.syosetu.com/n7
﹁大陸英雄戦記設定集﹂作りました。
↓
347cq/
まだ書いてる途中。随時更新します。基本的には最新話基準です。
636
外務大臣として
1月5日。
オストマルク帝国外務大臣レオポルド・ヨアヒム・フォン・クー
デンホーフ侯爵。貴族特有の鎖付き鼻眼鏡を装着した白髪の老人。
顎には結構な量の白髭を蓄えており、見た目だけで言えば有能な老
人然としている。そんな男が、今俺の目の前にいる。見かけ倒しと
言う可能性もあるが相手は大臣、油断してはいけない。
ここは帝国外務省大臣執務室、の隣にある応接室。知り合いの伯
爵令嬢に頼んで、この場を用意してもらった。ここが今の俺の戦場、
使える武器は言葉だけ。剣や弓を使わないんだったら俺にも勝機は
ある。
﹁⋮⋮在オストマルク帝国シレジア王国大使館附武官補佐官のユゼ
フ・ワレサ大尉です。此度はこのような場を設けていただき、感謝
に堪えません﹂
﹁噂はかねがね聞いているよ大尉﹂
﹁恐縮です﹂
どんな噂か気になるね。碌な噂じゃないことは確かだろうけど。
﹁立ち話もなんだ。掛けたまえ﹂
大臣閣下に促されふっかふかのソファに座る。このソファで寝た
いなぁなどと言ってる余裕はない。あぁ、これいくらするんだろう
⋮⋮。
637
﹁で、噂の大尉が私に何の用かな?﹂
大臣は前座も何もなく、いきなり本題に入った。口調と表情を見
るに﹁忙しいからサッサとしろ﹂と言ったところかな。ま、俺もお
偉いさんとの世間話は苦手だから別にいいけどさ。
﹁私はシレジアの外交官として、閣下にある﹃提案﹄を持参してき
ました﹂
﹁﹃提案﹄か。それはどんなものかな?﹂
その言葉とは裏腹に、大臣はさして興味を抱いていない表情をし
ていた。どうせその提案はアレのことなんだろ、と高を括っている、
と思う。
﹁はい。現在、東方の隣国の国内問題により、シレジア王国は危機
に直面しています。そして私が持参した﹃提案﹄は、有事に際して
とても有効なものであるでしょう﹂
﹁ふむ。それはつまり、我が国との同盟ということかな?﹂
外務大臣はシレジア=オストマルク同盟の成立を目指していたと
聞く。だから俺が、シレジアの王女派の外交官が大臣に直接会いた
いなどと言い出したら、この同盟について話し合いをしたいと取ら
れても仕方ない。
﹁違います﹂
でも、残念ながらオストマルクとの同盟は時期尚早というのが俺
の持論でね。この時期にシレジアがオストマルクに泣きつけば、確
実に足下を見られる。旧シレジア領の永久放棄を要求して来るかも
638
しれないし、もしかしたら衛星国化によって同盟成立を成し遂げよ
うとするかもしれない。
﹁今ここで、私が同盟の提案をしたところで貴国には何の益をもも
たらしません。彼の国に戦争を吹っかけられる危険性が高まるだけ
・・
です。私の言う﹃提案﹄は、我がシレジアのみならず、オストマル
ク帝国にとっても有益となるものなのです﹂
﹁⋮⋮では、貴官は私に何を﹃提案﹄するというのかね?﹂
大臣は少し前のめりになった。﹁有益﹂という言葉に、どうやら
興味を持ってくれたらしい。ここからが本番だ。
・・・・
﹁⋮⋮東大陸帝国に対する﹃非難声明﹄です﹂
非難声明。
文字通り、国家が国家に対して公然の場で非難する声明のことで
ある。軍事的な衝突は行わないものの、いわゆる﹁喧嘩を売る行為﹂
である。ただ宣戦布告ではないため、実際の喧嘩になるかは当事国
次第だ。
﹁非難声明、か。それをして、我が国に何の益があると言うのだね
?﹂
非難声明を発表すれば、両国間の仲は基本的に悪くなる。まぁ元
々オストマルクと東大陸帝国は仲悪いけど、反シレジア同盟という
枠組みによって一定の関係にあった。それを非難声明でぶっ壊そう
と言うのだ。普通なら、デメリットしかない提案だろう。
﹁この非難声明は、別に今すぐに出してほしいだとか、開戦直後に
発表してほしい、などと言うつもりはありません﹂
639
﹁つまり、開戦後しばらくしてから発表することに意味があると。
貴官はそう言うのだね?﹂
﹁少し違います。正確に言うのであれば﹃開戦後暫くして、戦いの
趨勢がシレジア王国側に傾いた時﹄に声明を発表してほしいのです﹂
﹁⋮⋮何?﹂
いつだったか、フィーネさんに﹁大言壮語﹂だと言われたことを
思い出した。
勝てるとは思わない。単独では無理だ。でも、負けない戦いなら
いくらでもやりようがある。そして東大陸帝国の攻勢が限界に達し
た時、この非難声明を出してほしいのだ。
﹁この非難声明を出すことによって、ある事態が生じます。反シレ
ジア同盟の事実上の解体です﹂
反シレジア同盟は、シレジアという共通の敵に対して周辺国が一
時的に握手を交わした同盟だ。問題は、シレジアが事実上無力化さ
れた現在、そしてシレジアが滅亡する近い将来に、この同盟がどう
なるかという不安が、参加国のみならずその周辺国にまで広がって
いる。
﹁反シレジア同盟が恒久的な同盟となって、大陸東部にある4つの
国家がその下に統合されるのではないか。そう危惧する国家は多い
です。例えば、キリス第二帝国や西大陸帝国などです﹂
東大陸帝国とオストマルク帝国とリヴォニア貴族連合、おまけに
カールスバート共和国。これらの国がシレジア王国の経済力を吸収
した上で連合を組めばどうなるか。経済力、軍事力、人口、すべて
の面において他の国を圧倒することになる。例えその他の国が同盟
を組んでこれに対抗したとしても、この大連合には太刀打ちできな
640
い。
無論、この大連合には弊害が多い。だから今そんな悪夢みたいな
同盟は結ばれていないのだが。
﹁オストマルク帝国にとって最良の未来とはなんでしょうか。シレ
ジアを見捨て、東大陸帝国やリヴォニアと大連合を組み、大陸制覇
を達成することでしょうか?﹂
ナイン
答えは﹁否﹂である。
この大連合はあくまで、詳しい事情を知らない他国が危惧してい
る非実在同盟でしかない。実際結ぼうとするなら、各国それぞれに
ある国内問題やわだかまりを何らかの形で解決しなければならない。
元々仲のいい国ではない反シレジア同盟が、そこまで我慢できるか
と言えば疑問が残る。そもそもわだかまりがあるから﹁国境﹂なん
てものが存在するのだから。
﹁私が考えるに、オストマルクにとって最良の未来とは、シレジア
やキリス第二帝国、西大陸帝国と協力し東大陸帝国に対抗すること
だと思います﹂
わだかまりのある国同士が無理矢理同盟を組んでくっつけば、い
ずれ同盟内で不和が生じる。仮に大陸を制覇しても、同盟内で覇権
争いが勃発するだけだ。なら、東大陸帝国というわかりやすい共通
の敵に対して、複数の国による一時的な同盟を組んだ方が何かとや
りやすいだろう。
オストマルク帝国が東大陸帝国に対して非難声明を出せば、キリ
ス第二帝国や西大陸帝国は﹁反シレジア同盟は解体される﹂と思う
はずだ。そうすれば、彼らの方からオストマルクに接近してくる可
能性が高まる。反東大陸同盟を結んでしまおう、ってね。
シレジア王国にとっても当然メリットはある。負けが込んできた
641
東大陸帝国が、この非難声明を見たらどう思うか。オストマルク帝
国がこの戦争に介入して、さらなる敗北を積み重ねるのではないか
と思うはずだ。大貴族に恩を売りたいイヴァンⅦ世にとっては、こ
れは致命的だ。傷口が広がる前に戦線を縮小するか、それか戦争を
適当なところで手打ちにしたいと考えるだろう。
﹁貴官の﹃提案﹄には聞くべき点がある。だが非難声明を出すのは
あくまでシレジア王国が優勢になることが大前提だ。その点は大丈
夫かね?﹂
﹁大丈夫です。私の友人は、とても優秀なので﹂
たぶん俺がいなくても勝てる。何の為に士官学校で戦術の勉強教
えたと思ってる。あれ毎回授業の内容考えるの面倒だったんだぞ!
教師がいかに大変な職業かわかったよ。前世現世の先生、お疲れ
様でした。私は教師には絶対になりません。
﹁ふっ⋮⋮そうか。なら、我々はその時まで高みの見物と行こうか﹂
﹁見物料は、払ってくれますか?﹂
俺は、半分冗談でそう聞いてみた。大臣は半秒沈黙した後、口を
開く。
﹁その演劇が素晴らしいものであれば、払うのは吝かではない﹂
642
帝国軍三長官会議
時計の針は1月3日の午後2時まで戻る。
この日、東大陸帝国皇帝イヴァンⅦ世は帝国軍三長官を緊急召集
した。
軍政を司る軍事省の長である軍事大臣、軍令・戦略を司る軍令部
の長である軍令部総長、前線指揮・戦術を司る帝国軍実戦部隊の長
である帝国軍総司令官。この三者を纏めて﹁帝国軍三長官﹂と呼び、
その三者が帝国軍最高指揮官である皇帝の下に集まり軍の基本戦略
について話し合う会議を﹁帝国軍三長官会議﹂と呼ぶ。
イヴァンⅦ世が会議室に到着するまでの僅かな時間、三長官は雑
談と言う名の情報収集に励む。
﹁それで、皇帝陛下の御用件とはいったい何なのだろうか。軍事大
臣閣下は何か聞いているか?﹂
そう発言したのは帝国軍総司令官のロコソフスキ伯爵である。階
級は元帥。
﹁詳しい話は私も聞いていない。だが状況から察するに、今度のシ
レジア征伐の会議だろう﹂
﹁そんなことはわかっている。具体的な内容を聞いているのだ﹂
軍事大臣レディゲル侯爵がやや投げやり気味で答えると、ロコソ
フスキは憤慨した。ロコソフスキは皇帝派の人間であり、それは即
ちセルゲイ派であるレディゲルの政敵に当たる。軍の階級はロコソ
643
フスキの方が上だが、階位は下で、三長官の中での席次も軍事大臣
が一番上で総司令官が一番下である。そのため、この二人は顔を合
わせる度に衝突し合う。
その二人の間に入って口喧嘩を仲裁するのは軍令部総長であるク
リーク侯爵である。階級は上級大将。帝位継承の件については中立
を貫いている。勝ち馬に乗りたがっている、と言い換えても良い。
﹁軍事大臣の言い種ではないが、私も心当たりはある﹂
﹁ほう。総長閣下のお考えの程は?﹂
﹁十中八九、派遣軍の人事だろう﹂
﹁なるほど﹂
ロコソフスキはそう納得したが、実の所彼もそう考えていなかっ
たわけではない。知らないふりをしたのは、彼がその人事の内容を
既に知っているからである。自分だけが知っている情報を知らない
ふりをするのは存外難しく、彼は自分からその話題を出したことに
よって凌いだのである。
もっとも、他の長官もロコソフスキが人事内容を知っていること
くらい想定済みなのだが。
ひとしきり会話を交わした後、皇帝イヴァンⅦ世が会議室に入室
してきた。三長官は起立・敬礼する。皇帝が着席し、三長官の着席
を促すと、それが三長官会議開催の合図となる。
﹁今日、三長官に集まってもらったのは他でもない。近日実行に移
すシレジア王国を僭称する叛徒共の討伐、そのための具体的な人事
及び作戦計画について話し合うために召集した。皆の自由な討論を
期待するものである﹂
皇帝が出した議題は三長官の予想通りであり、彼らは脳内に用意
644
した台本をそのまま読み上げようとした。この時常になく最初に発
言を求めたのは、軍の事実上のトップである軍事大臣レディゲル侯
爵だった。
﹁小官としましては、作戦の開始日時は4月1日の夜明けとすべき
かと存じます。それ以前であればまだ気温も低く兵の士気に関わり
ましょう。その上で、兵を指揮する者の選定について陛下の御意を
お聞かせ戴きたい﹂
このシレジア征伐がイヴァンⅦ世の勅命であり、なおかつ彼自身
の政略上の決定であるからには、作戦計画や人事権はイヴァンⅦ世
が握るというのは自明の理である。よって軍事大臣は殊更に自らの
権限を振りかざして皇帝の意見に異を唱えるのではなく、大まかな
計画に対し皇帝の裁量を認め、皇帝が満足したところで自らの権利
を行使しようとしたのである。
イヴァンⅦ世も軍事大臣の意図することは承知していた。だが、
イヴァンⅦ世は単なる皇帝であり軍事の専門家ではない。細かな作
戦計画や人員配置をできるほどの独創性を、残念ながら彼は持ち合
わせていなかった。
﹁具体的な作戦計画については、軍令部総長とよく話し合ったうえ
で決めてほしい。だが、師団長以上の人選に対しては、差し出がま
しいが私が決めさせて貰う﹂
﹁では、我等にその人事をご教授できないでしょうか。それをもと
に、作戦を策定いたします﹂
こうして、シレジア討伐軍の陣容と規模が決定された。
645
−−−
翌、1月4日。
軍事大臣レディゲル侯爵は、大臣執務室で皇帝官房長官ベンケン
ドルフ伯爵と会談をしていた。
﹁討伐軍総司令官、オルズベック・ロコソフスキ元帥、副司令官ミ
リイ・バクーニン元帥、総参謀長ワレリー・ポポフ上級大将⋮⋮各
方面軍団長から師団長までの高級士官はその殆どが非セルゲイ派貴
族・武官で占められていますな﹂
ベンケンドルフは、レディゲルから手渡された討伐軍の概要を読
み、そして驚愕し、その次に呆れ返った。ベンケンドルフが軍人で
はないが、彼でも十分理解できるほど人選が偏っていた。
﹁ロコソフスキが直接指揮するということは恐らく奴もこの人事策
定に参加したのだろう。だが、問題は動員規模だ﹂
﹁討伐軍の陣容は最低でも40個師団、ですか﹂
﹁シレジア王国軍の戦力は平時15個師団。攻勢三倍の法則に則れ
ば、まぁある意味では正しい。だがこれほどの人員を動かせば、財
政が傾くことは必至だ﹂
﹁40個師団は我が帝国の1割にも満たない戦力ですが、それでも
ですか?﹂
﹁40個師団と言ってもこれは正面戦力に限った話だ。補給や補充
用の部隊、後方に下がらせる予備兵力、非戦闘員を含めて総動員数
は、おそらく60万は下らないだろうな﹂
﹁60万人の民族移動⋮⋮さぞ壮観でしょうな﹂
646
ベンケンドルフは肩をすくめて、この事態を笑った。東大陸帝国
の財政を考えると、笑える話題ではないのだが。
﹁で、軍事大臣閣下はどうなさいますか? これだけの兵力です。
シレジアが如何に奇策を張り巡らそうとも、この数の差ではどうし
ようもないでしょう﹂
﹁シレジア軍が頑張ってくれることを祈るしかあるまい。今更討伐
を中止するわけにもいかんしな。こうなるのであれば、多少リスク
はあるが奴をさっさと暗殺すればよかった﹂
﹁今となっては手遅れですし、あの方が思いの外頑健で長生きなの
が運の尽きです。今は祈りつつ、勝ってしまった時の対策を考えま
しょうか﹂
﹁そうだな。そこで相談なんだがな伯爵﹂
﹁なんでしょうか?﹂
レディゲルはニヤリと不気味に笑うと、皇帝官房治安維持局長で
もあるベンケンドルフにある﹁相談﹂をした。
647
帝国軍三長官会議︵後書き︶
ついに100話到達です
648
王女として
ある日、マヤ・クラクフスカがいつもと同じように総合作戦本部
高等参事官執務室に顔を出すとそこには貴族用衣装を身に纏ったエ
ミリア王女がいた。
﹁あ、マヤ。良いところに来ました。早速ですが馬車を用意してく
ださい﹂
エミリア王女は忙しなく書類を鞄に纏めて、出掛ける準備をして
いた。
﹁畏まりました⋮⋮が、どちらへ?﹂
﹁王国宰相府。その館の主に会いに行きますよ﹂
−−−
王国宰相カロル・シレジア大公。
大陸暦596年生まれ。国王フランツ・シレジアの弟。貴族学校
を首席卒業、剣の腕前は達人級であり、まさしく文武両道な人物。
現在は宰相として滅亡寸前のシレジア王国を支え続けている。
そして親東大陸帝国派の筆頭であり、エミリア王女の政敵である。
宰相府へ向かう貴族用馬車の中、マヤはエミリア王女の心意を尋
649
ねた。
﹁殿下。大公は親東大陸帝国派です。このような時期に大公の下に
行かれるのは危険が大きすぎます﹂
﹁危険は承知しています。ですが今は危急の時、シレジア王国宰相
もそれはお分かりのはずです。宰相にとっても私にとっても、今や
るべきことは政争ではないのです﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
マヤはさらに食い下がってエミリア王女を止めようとしたが、そ
れよりも早くエミリア王女は動いた。持参した鞄の中からひとつの
封筒を出し、それをマヤに見せた。
﹁それは先日オストマルク大使館を経由して送られてきた、ユゼフ
さんからの手紙です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど﹂
手紙の内容は、大公派である駐在武官が﹁大公派はセルゲイ派で
あり、今回の事態で大変混乱している﹂こと等を書いたものだった。
﹁これではっきりしました。今回の騒動は皇帝派によって急に決ま
ったものであること、そして大公派がセルゲイ派であることです﹂
﹁セルゲイ派にとってはシレジア王国領が皇帝派に獲られることは
避けたい、そして大公もそれは同じと?﹂
﹁はい。叔父様がどんな壮大な計画を持っておいでかは不明ですが、
どのような計画だったとしてもこの時期にシレジアが滅亡すること
を良しとするはずがありません。であれば私と叔父様の利害は一致
し、共闘できるはずです﹂
﹁そう、ですね﹂
650
マヤは口ではそう言ったが、完全に納得できたわけではなかった。
カロル大公は6年前、まだ幼いエミリア王女の暗殺を謀った人間
である。そんな大公を、利害が一致したからと言っておいそれと信
用できるはずがなかったのである。
﹁でも、マヤが抱く不安も私にもわかります。私だって不安ですか
ら﹂
﹁殿下⋮⋮﹂
エミリア王女は馬車の窓から、王都シロンスクの街並みを眺めた。
これが見納めであるかのように。
﹁マヤ。叔父様を信用しろ、などと言うつもりはありません。です
が、どうか私を信頼してくださいませんか?﹂
エミリア王女はそう言うと、マヤの手を握りしめた。マヤは王女
の手を握り返し、そして強く言った。
﹁エミリア王女を信頼しなかったことなどありませんし、これから
も信頼し続けます﹂
数分後、馬車は宰相府へ到着した。
エミリア王女が下りると同時に、マヤもそれに続こうとしたがエ
ミリア王女はそれを手で制した。
﹁マヤはここで待っていてください。私は叔父様に会いに行きます﹂
﹁はい。御武運を﹂
﹁ふふ。マヤ、今の私は軍人ではありませんよ﹂
﹁そうでした﹂
651
この日エミリア王女は今貴族用の衣装で宰相府にやってきた。つ
まりシレジア王位継承権第一位エミリア王女としての訪問である。
−−−
エミリア王女宰相府訪問に誰よりも驚いていたのは、当の王国宰
相カロル・シレジアである。
カロル大公とエミリア王女は長く顔を合わせていない。前回会っ
たのはカールスバート政変前、カールスバートで行われる記念式典
の参加を渋ったエミリア王女を、カロル大公が説得したあの日であ
る。それ以来両者はお互いの事を政敵と意識しつつも、また再び会
うことはなかった。
エミリア王女は士官学校に入り寮生活をしたためカロル大公と会
えなかった、とういうのもある。だがエミリア王女が卒業し王都に
帰還しても、彼女らは会わなかった。王女は軍務を理由に、大公は
政務を理由に、それぞれ言い訳を並べ立てて頑として会わなかった
のである。
そのような状況が続いていた中、ある日エミリア王女が自分に会
談を求めてきた。王国軍総合作戦本部高等参事官としてではなく、
王族に名を連ねる者として。
カロル大公は悩んだ。王女は何を企んでいるのか、もしかしたら
自分を嵌める罠である可能性があるかもしれない。そう考え、考え
抜いて、カロル大公は決断した。王女に会うと。
652
理由は2つ。
1つ目は、この逼迫した情勢で王女が何かをするのは得策ではな
いということ。士官学校で多少頭は良くなったはず、この程度の事
はわかるだろう。そう大公は考えた。
そして2つ目。カロル大公としてはこちらを重視した。5年ぶり
に、姪と会いたかった。それだけだ。
これ
この結論に至った時、カロル大公は自分が意外と感傷的で感情的
な人間であると言うことを知り、静かに自嘲した。
そして思った。
自分がエミリア王女の謀殺に失敗したのは、きっと感情のせいな
のだろう、と。
かんり
その時、宰相執務室の戸がノックされ補佐官である官吏が入室し
てきた。
﹁失礼します。エミリア王女がご到着しました﹂
﹁⋮⋮わかった。応接室に通してくれ﹂
大陸暦637年1月15日午前11時の事である。
653
宰相として
宰相府応接室に通されたエミリア王女を待っていたのは、5年ぶ
りに会う叔父の姿だった。
前に見た時より、だいぶ老けて見えた。精悍な顔であることには
変わりないが、年齢相応の皺が増えたことが何よりも目を引いた。
﹁⋮⋮掛けたまえ﹂
カロル大公はエミリア王女にそう促した。
着席するエミリア王女の動きはぎこちなく、目の焦点も定まって
いなかった。脚も震え、掌には汗が溜まっていた。彼女がこれほど
までに緊張しているのは、もしかしたらこれが初めてであるかもし
れない。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
エミリアがソファに座り、従卒から紅茶を出されても、双方は沈
黙を保ち続けた。彼女らは身ひとつ動かさず、用意された紅茶の湯
気だけがただ虚しく室内を漂っている。
﹁⋮⋮士官学校は、どうだった﹂
沈黙に耐え切れなくなったのか、大公はそう切り出した。なんと
もない、親戚同士の会話としては真っ当な話題であるはずだが、彼
女らの置かれた立場においては違う意味を持つ。
エミリア王女もそう思い、ありきたりな、曖昧な返事をする。
654
﹁⋮⋮大変でした。すごく﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
大公は王女の短い返事を聞くと、深く追及せずにさらに短く返し
た。
両者の間に、また長い沈黙の時が流れる。そして今度は王女が沈
黙に耐え切れず、言葉を放った。
﹁叔父様は、どうでしたか?﹂
﹁⋮⋮まぁまぁ、だ﹂
結局二人はまた黙ってしまう。この後、似たような事を3、4回
繰り返し、時計は無為に時を刻む。
30分程経った頃だろうか、心を決めたエミリア王女がようやく
本題に入ることができた。
﹁⋮⋮今日は叔父様に、いえ、宰相閣下にお願いしたいことがあっ
て来ました﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
カロル大公、いやカロル宰相は目の前にいる女性の目つきが変わ
った瞬間を見た。そして、貴族用衣装を身に纏ったエミリア王女の
意図を正確に察した。
彼女は総合作戦本部高等参事官として要請をするのではなく、一
貴族として、宰相である自分に直訴しているのだと。武官の身では
意見が通り難いと言うことならば、自ずとどういう願いなのかは判
断ができる。
655
﹁願い、とは何かね?﹂
﹁はい。2つありますが、どちらも来月にでも始まるであろう戦争
についてです﹂
エミリア王女はそう言ったが、王女も宰相も、開戦は4月上旬で
あると知っていた。ただ、事態が急変しているという意味では大差
はないため、エミリア王女は﹁来月﹂と表現した。
﹁言ってみたまえ﹂
﹁1つは、動員令の発令です﹂
動員令とは、国家が危急に際したとき兵士として使用可能な人員
を集めるための命令である。概ね15歳以上45歳以下の健康な男
子、且つ徴兵経験のある者即ち予備役のことである。通常、予備役
総
動員令となった場合、兵として使えそうな人間全てを徴用
兵は若年層、そして次男以下の男子から優先的に徴兵される。これ
が
することになる。
シレジア王国の場合、予備役動員によって5個師団程度を短期間
で召集可能だ。
短期間で兵を集めることが可能な一方欠点も多い。まずは動員さ
れた兵はほぼすべてが槍兵にしか使えないという点だ。専門知識・
特殊訓練が必要な騎兵、魔術兵等と言った部隊には充てることがで
きない。
さらに、長い間動員令をかけ続ければ社会を支える労働者や農業
従事者が減るため経済的な影響が計り知れない。戦争をするために
は剣や槍、弓などの武器が大量に必要なのに、それを作る労働者を
徴用してしまっては元も子もない。
そしてもう1つ、動員令は時間がかかる。これは動員令の利点で
ある﹁短期間で召集できる﹂ということと矛盾しているような言葉
656
だ。しかし短期間と言ってもそれはあくまで﹁通常の、平時の召集
方法と比べたら短期間﹂という意味である。誰を召集するかに必要
な事務処理、部隊の編制、召集後の再訓練や戦線配置等の処置に最
低でも2、3ヶ月はかかる。
エミリア王女はこの召集時間を考慮し、時間がかかる動員令を開
戦前に発令してほしいという意見を宰相に具申したのである。
﹁我が国において、動員令の布告権限は宰相以上の者にしか与えら
れていません。開戦まで時間がない以上、可及的速やかに動員令を
かけてほしいのです﹂
﹁⋮⋮確かにそうだが、今動員令をかければ経済に与える影響が大
きいのも事実だ﹂
﹁そうです。ですが、敵は恐らく我が方の3倍の戦力を用意するで
しょう。我がシレジアの平時戦力は15個師団。とすれば敵の規模
は最低でも45個師団となります。この戦力差を少しでも縮めるた
めにも、動員令が必要なのです。負ければ経済どころか我が国の、
そして国民の未来も危ういのですから﹂
今回の戦争が東大陸帝国内の政争の延長線上にあるが以上、征服
を目的としてやってくるのは自明の理である。傀儡国家の樹立では
なく、自分の派閥にある貴族に領地を分け与える。そこにシレジア
人が入り込む余地はない。
そしてかつて彼の国に奪われた旧シレジア領内の統治は苛烈極ま
りないものだと言う。
となると、シレジア王国に残された選択肢は2つ。
汚辱にまみれ泥を啜り、自らを弾圧する者に対して忠誠を誓うか。
それとも、徹底的な抗戦であるか。
そしてエミリア王女は、後者を選んだのである。
657
﹁勿論、シレジア経済に影響が出ないように短期間で終わらせます。
犠牲者が少なくなるように、最善を尽くします﹂
ここまで言われてしまうと、カロル大公としては反論ができない。
確かにエミリア王女は政敵である。しかしだからと言って今国を見
捨てるがごとき回答をすることは、宰相である彼にはできなかった。
﹁⋮⋮わかった。陛下と軍務尚書と相談の上、動員令を布告する﹂
﹁ありがとうございます﹂
満足いく回答が得られた王女は安堵し、ここに来て初めて大公に
笑顔を見せ、そして頭を下げた。
大公はその王女の態度に少し驚いていると、彼女は間髪入れず2
つ目の要請に入った。
﹁そしてもう1つ、お願いがあります﹂
﹁あ、あぁ。なんだね?﹂
﹁はい。リヴォニア貴族連合とオストマルク帝国、そしてカールス
バート共和国に対し今回の戦争に介入しないよう要請してほしいの
です﹂
﹁つまり後顧の憂いを断つ、と?﹂
﹁そうです﹂
東大陸帝国が60万の大軍でシレジアを征服せんと試みる以上、
シレジアは持てるすべての戦力を東に向けなければならない。しか
し全ての戦力を東に移動させれば、空き巣のように他国がシレジア
に宣戦し、第三次シレジア分割戦争となる可能性があるのだ。
﹁しかし、小国である我が国に対してそのような約束が通るだろう
658
か﹂
﹁別段難しい話ではありません。期限付きで構いませんので﹂
﹁期限付きか﹂
﹁えぇ。2ヶ月でも3ヶ月でも。その間に決着をつけます﹂
﹁⋮⋮それは、高等参事官として何か確信があってそう言ってるの
か? それともただの大言壮語か?﹂
﹁大言壮語を吐く趣味はありませんので﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
確かにエミリア王女の意見は正しい。期限付き不介入というのは、
言い換えてみれば﹁3ヶ月経っても戦争が終わっていなければどう
ぞご自由に﹂ということである。無論、シレジアとしてはご自由に
されても困るのだが、しかし3ヶ月以内に東大陸帝国との戦争にケ
リがつけられなければ経済や人員と言った面から押し潰される可能
性が高い。つまり、有限不介入でも無期限不介入でもそれ以上戦う
ことは、シレジアにとっては不可能なのである。
加えて言えば、オストマルク帝国の戦争不介入はほぼ決まったも
同然である。それはオストマルク大使が親大公派の皮をかぶった親
王女派であること、そしてオストマルク帝国駐在武官ユゼフ・ワレ
サが、彼の国の外務大臣から約束を取り付けたためである。
そしてリヴォニア貴族連合やカールスバート共和国も、おそらく
不介入を貫くだろうとエミリア王女は予想した。今回の東大陸帝国
によるシレジア征伐は皇帝イヴァンⅦ世の私戦の色が強い。セルゲ
イ派と血の繋がりを持つリヴォニア、セルゲイ派貴族の協力によっ
て政変を成功させたカールスバート。その両国が皇帝派に与すると
は思えない、そう王女は考えたのだ。
そして、王女の目の前にいる宰相も同じ結論に至ったのか、静か
に首を縦に振った。
659
﹁外務尚書に連絡し、すぐに実行するよう命令しよう。できれば無
期限不介入の約束を取り付けられるようにな﹂
﹁⋮⋮度々、私の意見を聞いてくださり感謝に堪えません、宰相閣
下﹂
王女は再び頭を深く下げ、そして立ち上がる。
・・・
﹁叔父様とはまだ話したいことは多くありますが、今日は残念なが
ら時間がありません。またの機会にゆっくりお話しましょう﹂
﹁⋮⋮あぁ﹂
﹁それでは、失礼いたします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あぁ﹂
大公は、王女に対して特に何も言うことはなく、立ち去る王女の
背中を見つめた。
予想外に長く続いた会談はこうして終了した。
660
高等参事官として
1月15日午後0時30分。エミリア王女とカロル宰相の会談は
終了した。
宰相府前で馬車と共に待機していた副官のマヤは、エミリア王女
が五体満足で宰相府から出てきたのを確認すると仄かに安堵した。
﹁マヤ。お待たせしました﹂
﹁いえ、大丈夫ですよ。それより会談はどうでしたか?﹂
﹁上々です。こちらの意見は通りました。たぶん大丈夫でしょう﹂
﹁あの⋮⋮本当に大丈夫でしょうか。まだ私には不安で⋮⋮﹂
﹁行きの時にも言いましたが、大丈夫です。叔父様はこのような時
に政略に勤しむ方ではありません﹂
エミリア王女はそう言いながら優雅に馬車に乗り込む。マヤもそ
れに続き、寒空の下から馬車の中に退避する。
﹁ではマヤ。申し訳ないのですが次の目的地に参りましょうか﹂
ダブルヘッダー
﹁次、ですか?﹂
﹁えぇ。交渉の二連続は少し疲れますが、すこし疲れるでシレジア
が守れるのなら安いものです﹂
マヤから見れば、エミリア王女は少しどころかだいぶ疲れている
ように見えた。思えばここ最近王女は休まれていない。だが、おち
おちと休めない状況であるのも確かだった。今日の所はエミリア王
女に任せ、明日にでも無理矢理休ませよう。マヤはそう思い、口に
は出さなかった。
661
フィロゾフパレツ
﹁⋮⋮それで、どちらに?﹂
﹁一度、賢人宮に戻り軍服に着替えます。その後、総合作戦本部庁
舎に行きます﹂
﹁わかりました﹂
マヤはエミリア王女、いやエミリア高等参事官の意図を把握した。
今しがたエミリアは﹁交渉﹂をすると言ったばかり。それは総合作
戦本部にいる人物と交渉をすると言うこと。そしてその本部庁舎に
いる中で一番の人間との交渉ということになるだろう。
つまり王国軍で軍務尚書に次ぐ高位の人物であり軍部の最高責任
者である総合作戦本部長が次の交渉相手ということだ。
−−−
賢人宮に到着したエミリア王女はそのまま自室に向かうことはせ
ず、一度彼女の父親、つまり国王フランツと面会した。
無論この面会にはマヤは同席できない。いかにマヤとエミリア王
女に揺るぎない友情があろうと、最高権力者である国王の前に事前
許可なく謁見することは叶わない。マヤは会見中、国王執務室の外
で待機していた。中からは時折声が聞こえるものの、どのような内
容かは把握できない。
王女と国王の面会は20分程で終了した。
王女は面会終了後自室に下がり、そこで軍服に着替えた。戦闘服
ではなく、制服だ。マヤはいつも通り、王女の着替えや身支度を手
伝う。通常なら近侍達に任せることだが、王女は信頼できる友人と
662
気兼ねなく会話しながら着替えをしたいという要望もあって、マヤ
が近侍のように働いていた。普通の貴族令嬢なら、いかに相手が王
族と言えど近侍の真似ごとをするというのは屈辱的な事だろうが、
マヤは別段気にしていない。
王女の体躯はよく言えば細身であり、悪く言えば平坦である。身
長もそれほど高いとも言えず、何も言わなければ彼女はおおよそ軍
人には見えない。
ただ一度軍服に袖を通せば、不思議なことに歴戦の女性指揮官と
いう雰囲気を漂わせる。亡き母親から受け継いだ輝くような金髪が
それに拍車をかける。
身支度を済ませたエミリア王女は、その服装と身分に相応しい毅
然とした表情で歩き出した。
﹁それで、陛下とは何をお話になっていたのですか?﹂
馬車に向かうまでの道すがら、マヤはそれとなく聞いてみた。無
を﹂
論宮廷内にいるかもしれない大公派の人間に、会話が聞こえないよ
相談
う声を抑えて。
﹁ちょっと
エミリア王女は笑顔でそう答えた。それは王女に相応しい綺麗な
笑顔であったが、長年彼女の傍に付き従っていたマヤにはその笑顔
の真の意味を知っている。今王女が見せた笑顔は、何か悪い事をす
る時の顔なのだ。俗な言い方をすれば﹁小悪魔的な笑顔﹂である。
﹁ほう。どのような?﹂
﹁大したことではありません。これから総合作戦本部長に会いに行
くのですが何か気を付けておくべきことはありますか、と言っただ
663
けですから﹂
つまり彼女は王族という身分を使ったのである。褒められるよう
なことではないが、王女が自らの意見を通すためには必要な措置な
のだ、と副官は思った。だがこの﹁必要な措置﹂だと判定されるに
は一つ条件がある。
﹁あまりそういうことをしないでくださいね。ただでさえエミリア
王女が高等参事官職に就いていることをよく思っていない者も多い
のですから﹂
﹁わかっています。だからこうして、高等参事官の名に恥じないこ
とをしようとしているのです﹂
﹁どのようなことですか?﹂
マヤがそう質問した時、一行は馬車に到着する。マヤが王宮専属
の御者に行き先を伝え、エミリア王女は一足先に馬車に乗り込む。
御者は二人を乗せたことを確認すると、馬車を揺らすことなくゆ
っくりと発進させた。
﹁マヤ。ユゼフさんの戦術の授業は覚えていますか?﹂
﹁⋮⋮だいたいは﹂
マヤはそう答えたものの、彼女は座学に関する成績は良い方であ
る。無論それは戦術と言う教科に対しても言えるのだが、その戦術
の点数を支えたのがユゼフ・ワレサという農民の士官候補生だった。
﹁ユゼフさんの戦術の授業は、士官学校の教師たちが話す内容より
も興味深いものが多かったです。おかげで、今回の作戦を考えられ
ました﹂
﹁作戦、ですか?﹂
664
・・・
﹁えぇ。今からその作戦を本部長閣下に上申するところです﹂
﹁そのために、陛下を使ったのですか?﹂
﹁使った、と言うのは人聞きが悪いです、が概ねあっています。で
も、あくまで本部長閣下に会うために必要な手順を踏んでくださっ
ただけです。通常であれば、たかだか少佐が本部長に会えるはずは
・・
ありません。会ってどうするか、本部長閣下が私の作戦案を採用す
るかは私次第ですよ﹂
﹁⋮⋮では、失礼をご承知で聞きます。エミリア少佐の作戦案と言
うものは、どういったものになるのでしょうか?﹂
﹁わかりました。説明しましょう﹂
エミリア少佐は総合作戦本部へ向かう馬車の中、その壮大な作戦
案をマヤに披露した。その作戦案は既に作戦の規模を越えた﹁戦略﹂
と言っても良い規模であり、マヤは暫く開けた口を閉じることを忘
れていた。正気を取り戻したマヤはエミリア少佐の作戦案を称賛し
つつも、所々彼女なりの修正と意見を述べ、それは採用された。
そして馬車は、総合作戦本部に到着する。
−−−
午後2時10分。
総合作戦本部に到着した高等参事官エミリア少佐は、受付にてあ
る書面を見せた。それは国王フランツ・シレジアの名の下に総合作
戦本部長との面会を即刻許可するよう命令する書面だった。これが
665
一般人が持ってきた書面であれば鼻で笑われ無視されるだけだった
こくじ
だろうが、これを持ってきたのが少佐で高等参事官でそして王女で
あるとすれば話は別である。
受付は書面と国王のサインと国璽とそしてエミリア少佐の顔を1
0回以上確認し、その全てが正式なものであり本物の王女であると
確信すると、本部長との面会を許可した。と言うより許可せざるを
得なかった。
エミリア少佐は本部長室の扉をノックし、返事を待って入室する。
中に居たのはシレジア王国軍総合作戦本部長モリス・ルービンシュ
タイン元帥、そして本部長の副官であるハリー・ロジンスキ中佐だ。
ルービンシュタイン元帥はこの年64歳。老い先短いこの老人は
宮廷内闘争について興味がない。どう定まろうとも決着がつくころ
には自分は死んでいると思っているからだ。故に国王派、大公派双
方から害はないと判断され、現在の職に就いている。
﹁高等参事官エミリア・シレジア少佐です﹂
﹁⋮⋮うむ。とりあえず掛け給え﹂
この短いやり取りの中で、ルービンシュタインは彼女が王女では
なく少佐として面会してきたことを理解し、彼女を王族としてでは
なく一部下として扱うことにした。ロジンスキ中佐も元帥の心中を
察したのか、彼も彼女をエミリア少佐として応対することにした。
エミリア少佐が着席すると、ルービンシュタインは特に何も雑談
をすることなく、いきなり本題に入った。
﹁残念ながら私は忙しい。だから少佐、用とやらを速やかに済ませ
てほしい﹂
﹁わかりました﹂
666
エミリア少佐は、馬車の中でマヤに話した内容を、マヤに指摘さ
れた部分を修正しつつ元帥に話した。元帥はそれに興味を持ち、ま
た驚愕し、そして訝しんだと言う。
結局﹁速やかに﹂というルービンシュタイン元帥の願いは届かず、
この話し合いは2時間にも亘る長丁場となってしまった。
−−−
午後4時30分。総合作戦本部の外は既に真っ暗で、月が仄かに
輝いていた。
﹁それで、どうだったんですか?﹂
﹁五分五分ですね。一応検討してくれるらしいですが﹂
﹁ふむ。勝算が五分ということは良いんじゃないですか?﹂
﹁えぇ。できれば八分くらいには引き上げたいところです﹂
少佐はそう言って微笑むと、寒さに耐えきれず馬車に飛び乗った。
2人にとっての長い一日は、こうしてようやく終わりを迎えたの
である。
667
茶番
スターンバック准将に滅茶苦茶怒られた。
それもそのはず。情報収集と称してオストマルク帝国外務大臣と
会って、さらには大臣に協力を要請してしまったのだ。本来ならば、
ああいうのは大使の仕事なのに。しかも俺が会談の内容を喋るのを
渋ったから、もう余計に大変なことに。反省してます。
まぁ今回のことについてはシレジアは一切損はしてない。借りを
作ることにはなったけど。
1月22日。
今日も情報収集と称して外出⋮⋮しようとしたが、首席補佐官の
ダムロッシュ少佐に呼び止められた。少佐は明らかに俺を疑ってる
表情をしている。嫌だなぁ、俺はシレジアのために精力的に働いて
るんだよ?だからその手を離して、美人ならともかく少佐に引き止
められてもキュンと来ないんで。心臓が縮み上がる的な意味ではキ
ュンと来るけどね。
﹁どこへ行くのだ?﹂
﹁⋮⋮外に?﹂
我ながらこの答えはどうかと思う。
﹁そんなことは分かっている。具体的に何をするつもりなのかを聞
いているのだ﹂
668
﹁あー、えー、そのー﹂
デート
まさかバカ正直に﹁リンツ伯爵の娘と逢引しに行きます!﹂とは
言えない。なんかこう、この情勢で違和感がない言い訳と言えば⋮
⋮。
﹁コホン。えー、在オストマルク帝国東大陸帝国大使館に探りを入
れようかと思いまして﹂
﹁ほう? どのように?﹂
﹁まぁ、そんな大それたことをするわけではありませんよ。大使館
の前に張り込んで、大使館に出入りする人を見張るだけです﹂
俺もここに来てからポンポン嘘が言えるようになってしまった。
なんもかんも政治が悪い。
でもあながちまるっきり嘘、と言う訳でもない。大使館に出入り
する人間を調べて他国の動向を調べるのはよくあることだ。たぶん。
﹁ふーん? では誰か随員を連れて行くと良いのではないかな大尉。
一人だと大変だろう﹂
﹁いえ、大丈夫です。二人以上だと怪しまれる可能性があります。
それに一人の方が怪しまれないように動いたり逃げたりするのは楽
ですから﹂
﹁そういうものかね?﹂
﹁そういうもんですよ﹂
ま、どうせ何言ってもストーカーが湧いてくるんだろうけど。動
きすぎたツケが⋮⋮。
﹁⋮⋮そうか。では祖国のために頑張ってくれたまえ﹂
﹁当然です﹂
669
この際東大陸帝国より味方の方が厄介だ。
−−−
東大陸帝国にとってシレジアやオストマルクなんかは国ではなく
辺境の反乱勢力でしかない。が、東大陸帝国第55代皇帝パーヴェ
ルⅢ世の独立承認以降、とりあえず形式上は同格の国家として扱わ
れるようになった。その時に、各国に正式に東大陸帝国大使館が置
かれるようになったのだ。﹁正式に﹂と言ったのは、非公式の大使
館のような在外公館がパーヴェルⅢ世以前に既にあった。その名は
弁務官府。辺境領の監視・調査及び中央政府との折衝を行う弁務官
が駐在する館だった。
今でも各国の独立承認を認めない東大陸帝国貴族は多い。そして
弁務官になるのは多くの場合貴族だった。そのため、現在でも東大
陸帝国は﹁大使館﹂という言葉を使わず﹁弁務官府﹂という言葉を
使用し続けている。ついでに外務省もなく、代わりに国務省がある。
それはさておき
閑話休題。
東大陸帝国弁務官府、もとい大使館。名称はどっちでもいい。正
式名称は弁務官府だけど中身は立派な大使館だし。外観もやはり立
派なものだ。シレジア王国大使館が屋敷なら、東大陸帝国弁務官府
は宮殿になる。大使館のデカさは国力に比例すると言うしな。
ちなみにストーカーと言う名の随員は2人から3人に増えた。増
えたところで腕が上がったわけじゃない。むしろ増えたせいで余計
670
目立つ。そろそろプロを雇った方が良いんじゃないですかね。
でも他人の目がある状況だとやりづらい。ダムロッシュ少佐にあ
あ言った手前、ここでトンズラしてリンツ伯爵に会う訳にもいかな
いし。どうしたものかね。
とりあえず弁務官府の入り口付近にボケッと突っ立て見る。特に
何もするわけでもなく空中に焦点を合わせて。⋮⋮うん、かえって
怪しさ満点だね。
で、そこで見慣れた人影が右方向からやってくるのが見えた。ふ
む。接触してみるのも良いけど弁務官府と追跡者の目もあるし、こ
こは怪しまれないように振る舞うしかない。
彼女は恐らくこちらの存在に気付いてるはず、というかたぶん俺
の居場所知ってて来たんだろうな。今日はエスターブルクによくい
る中間層の家の娘と言った風貌だ。相変わらず細部に拘ってる。よ
し、じゃあ俺もそろそろ本気出すかな。
彼女が、俺から5歩くらいの距離に迫った時、俺は作戦行動に出
た。
コホン。
というのはまさに今の
﹁ヘイそこのお姉さん! 俺と一緒にお茶しない!?﹂
養豚場の豚を見るような目をしている
﹁⋮⋮﹂
彼女の状態である。いや、あの、ごめんなさい。でも俺はめげない。
﹁どう? そこの喫茶店で俺と将来について語り合わないかい!?﹂
671
手を交えて、俺は頭の悪そうなギャル男のように彼女にナンパを
しかける。自分でやっといてなんだけど、死にたい。
﹁⋮⋮﹂
なんか言え。恥ずかしいから。
と思ったのも束の間、彼女が一瞬小さく溜め息ついた後目を開き、
そして上目遣いをしてきた。
﹁素敵です! 是非お供をさせてください!﹂
とても可愛らしく大声でしかもノリノリで返事をする彼女。ただ
し目は死んでいた。
−−−
リリウム
レンツェチャルニーコット
喫茶店﹁百合座﹂は、東大陸帝国弁務官府の近くにある。シロン
スクにあった﹁黒猫の手﹂と違い昔ながらの喫茶店という雰囲気で、
客の年齢層も高めだった。
﹁で、さっきのはなんなんですか?﹂
﹁他にいい手が思いつかなかったもんで﹂
俺が恥を忍んでナンパしたのは、フィーネ・フォン・リンツとい
う貴族の娘である。思えば伯爵令嬢にナンパって超失礼だよな⋮⋮
と今更後悔。なお、彼女は今なお俺にゴミを見るような目をしてい
672
る。
﹁あなたはもう少し賢いと思ったんですが﹂
﹁ご期待に添えず申し訳ないですがね、案外私は頭が悪いもので﹂
﹁まぁ、過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方ありません。
今日は貴方の奢りということで﹂
﹁アッハイ﹂
やっぱりフィーネさんはお怒りのようです。
﹁まぁ私たちは手紙で愛の告白をし合った仲ですから、ね?﹂
﹁⋮⋮あ、店員さん。この店で一番高い物を出してくれますか?﹂
﹁ごめんなさい調子に乗りました許してください﹂
エスターブルクの物価は高いのに、給料はシレジアの物価基準で
払われるもんだから相対的に薄給なのだ。こんなことで無駄な浪費
ケー
はしたくない。それにあの外務大臣閣下をお祖父ちゃんと呼ぶのは、
俺は嫌だ。
キ
しかし俺の必死の謝罪と祈り虚しく、なんだか割と豪華な焼き菓
子が運ばれてきた。解せぬ。
﹁冗談はさておき、弁務官府の前で何をしていたのですか?﹂
冗談だと言うならフィーネさんが口にしてる物、俺にも食べさせ
てくれませんかね。他人が食べている者は美味しそうに見える効果
も相まって物凄く食べたい。
﹁⋮⋮そんな物をねだる子供みたいな顔をしないでください。ハッ
キリ言って気持ち悪いです﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
673
気持ち悪いって言われた⋮⋮。でも、なんだろうこの気持ち。嫌
じゃない。
﹁はい﹂
﹁はい?﹂
ケーキ
フィーネさんはなぜかフォークを俺の目の前に突き出した。フォ
ークの先端には、哀れにも焼き菓子と永遠の別れをしたイチゴの刺
殺体があった。
﹁はやくしてください。腕が疲れます﹂
﹁え、あの、なんですこれ﹂
俺が状況を確認してる間にも、そのイチゴから血が滴り落ちてい
る。
﹁私達は華の都で出会った若い男女。であればこのようなことをす
るのが普通です。追跡者の目を騙すためにご協力願います﹂
つまり頭の悪そうなカップルみたいに、いわゆる﹁あーん﹂をし
ろ! と彼女は言ってるのだ。うわぁ⋮⋮。
でも仕方ない。自分が蒔いた種だ、自分が収穫しないと畑が荒れ
る。
﹁⋮⋮じゃあ、すんません。いただきます﹂
そうは言ったところですぐに実行できるほど俺は勇者じゃない。
口を開けるのに10秒くらいかかり、さらに顔を前進させるのに1
0秒かかった。
674
いつまでも食わない俺にフィーネさんは業を煮やしたのか、フォ
ークを口に突っ込んできた。というかイチゴが喉の奥に当たって一
瞬吐き気を催してしまった。イチゴ特有の酸味でなんとか吐き気を
打ち消すことに成功するが、危うく美少女の前でゲロ吐くところだ
った。
﹁お味はいかがでしたか?﹂
﹁恋の味がします﹂
それと若干胃液の味もする。
﹁それは結構﹂
ケーキ
彼女は﹁あーん﹂や俺の冗談に対して特に何も感想を言わずに焼
き菓子を食べることを続行した。件のフォークをそのまま使ってる
けど、この世界では間接キスとか気にしないのかね。それともフィ
ーネさんが特殊なのか。うん、後者だな。
﹁で、話を戻しますが、何をしていたのですか?﹂
﹁何もしてませんよ。何をしようかと悩んでいた時に貴女が来たん
です﹂
ダムロッシュ少佐に対する適当な言い訳だ、なんてのは余りにも
情けない事なので言えない。
﹁弁務官府に出入りする人間を見張るつもりだったのなら、それは
無駄な努力でしたよ﹂
﹁え、そうなんですか?﹂
﹁えぇ。弁務官府は調査局の人間が随時見張ってますし、それに何
か特別なことがあったら貴方に伝える気がありました﹂
675
マジですか。
もうリンツ伯爵には頭上がらないな。もう破産しそうなほど貸し
作っちゃってるし。
﹁でもなんでそんなに協力してくれるんですか?﹂
﹁それが国益に繋がるからです。貸し借りの心配はしなくてもいい
ですよ﹂
﹁フィーネさんが気にしなくても、私は気になるんですよ﹂
将来、シレジアで石油とか石炭の鉱山が見つかったらリンツ伯爵
家の資本で開発させるとかしないとダメかしら。いつになるか知ら
んしそもそも鉱山があるかわからんけどさ。
﹁ついでにもう一つ質問があるんですが、なんで私の居場所が分か
ったんですか?﹂
﹁簡単なことです。あなたは年が明けた頃から精力的に動いていま
す。外務大臣にも会ったシレジアの外交官が一人で帝都をほっつき
歩いている。とすれば見張りの一人や二人をつけるのは当然のこと
です﹂
﹁じゃあ、今も⋮⋮﹂
﹁えぇ。貴方の目ならどれが私が用意した追跡者かわかるかもしれ
ませんね﹂
どこにいる? 俺は俺の追跡者に不審に思われないように目線だ
けを動かしてみた。が見つからない。視界外にいるのかな⋮⋮。っ
て、あれ? そう言えば俺の追跡者の姿が見えないな。どこに行っ
たんだ? 急に追跡者としての能力に目覚めたのか?
﹁あぁそうそう。言い忘れていましたが、貴方を執拗に追いかけて
676
いた不審な三人組は貴方に会う前に治安当局に連絡しておきました
よ。外交特権を使って逃亡した可能性が高いですが、もうこの場に
はいません﹂
なにそれ怖い。調査局怖い。
﹁⋮⋮じゃあそれだと、さっきの茶番はいったいなんだったんです
か?﹂
追跡者がいないんだったらあのバカップル演技不要だったと思う
んだけど。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんか言え。
677
動員令
1月24日。シレジア王国宰相カロル・シレジアは、王国全土に
動員令を布告した。これにより王国は戦時体制に移行し、予備役兵
に召集が掛けられ再訓練の後現役に復帰することになる。
またそれに加えて総動員待機命令も布告した。これは﹁国家総動
員に備え、国民の選別や産業の軍需移行準備及びそれに伴う事務処
理を行え﹂という命令である。
これらの一連の命令によってシレジア王国軍は数ヶ月の内に5個
師団、あるいはそれ以上の新規編制師団を手に入れることになる。
−−−
﹁動員令が布告されたと言っても、依然彼我の戦力差は巨大です。
帝国軍はおそらく40から50個師団を投入して来るでしょう。こ
の戦力差をどう埋めるかが鍵になります﹂
エミリア少佐はこの日自身の執務室で発令された動員令及び総動
員待機命令に関する事務処理を行っていた。その処理を何事もなく
片手間でこなしつつ、副官のマヤに語りかける。マヤも、上司の事
務を手伝いつつ会話の相手をする。
﹁それに動員令をかけたことによって早くも国内経済に悪影響が出
ています。軍事予算が拡大した分、公共投資、福祉、教育、そして
678
宮廷予算の削減が成されました。それでも足りず借款を積み重ねて
います。今やシレジア財政は火の車、財務尚書がお嘆きになってま
したよ﹂
﹁しかしそうでもしないとこの国は間違いなく滅亡します。もし仮
に敵が無能でも、この兵力差では⋮⋮﹂
﹁勝っても負けても、絶望の未来しか見えませんね﹂
勝てば必ず未来が切り拓ける、というのは創作物上にしか存在し
ない。むしろ中小国にとっては一度の戦闘で国家財政が破綻するこ
ともある。戦争によって黒字を獲得できるのは、大国でないと難し
い。
﹁我々にできることは、その絶望を限りなく小さくすることくらい
です。少なくとも今ここでシレジアが滅亡するよりは、瀕死でも生
きながらえた方がマシと言うものです﹂
﹁それで、生きながらえるための具体的な手段については、上層部
はどう考えてるんですか?﹂
﹁意見は別れていますね。主に3つの案があるみたいですが﹂
﹁ほう、3つですか﹂
この軍事小国に3つの作戦案がある、ということにマヤは少し驚
いた。軍隊の規模が多ければ多いほど、戦術上の選択肢は増える。
平時400個師団を抱える東大陸帝国相手に3つも案を用意できる
とは、シレジア王国軍もまだ衰えていないのだ。と、マヤはこの時
思っていた。だが、現実は常に非常である。
﹁1つ目は即刻降伏すべしという案ですね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁つまり﹃東大陸帝国相手に勝てるわけないから戦わずして領土を
割譲して国家の安寧を図ろう﹄というわけです。あまりにも情けな
679
い話ですが、真面目に議論が交わされているみたいですよ﹂
﹁なんとまぁ⋮⋮﹂
﹁しかし、この案が採用されることはありませんね。戦争終結の権
限を持つのは国王である父だけです。戦わずして自国の領土を売る
ほど父は落ちぶれていません。⋮⋮たぶん﹂
最後の﹁たぶん﹂という言葉だけなぜか小声だった。エミリア少
佐が、国王の軍事及び政治上の才覚をあまり信用していないという
証左でもある。
﹁まぁ、その即時降伏案は脇に置いておくとして、2つ目はなんで
すか?﹂
﹁2つ目は焦土作戦です。東部方面の町や村から人員や物資を引き
払って帝国の補給線に負担をかける。そして補給線が限界に達した
ところで反撃という案です﹂
﹁なるほど。とりあえず即時降伏案よりはマシですね﹂
﹁えぇ。ですがこれもいくつか問題があります。1つ目は、シレジ
アの領土自体が小さいため、シロンスク以東のすべてを焼き払わな
ければおそらく効果がないと言うこと。2つ目は、よしんば勝てた
としても終戦後に残った戦火の爪痕が大きすぎること。そして3つ
目は、当地を治めている貴族らの反発を招くことは必至であること
です﹂
﹁⋮⋮一番まずいのは最後の貴族ですね﹂
﹁えぇ。反発を招いたために貴族領がまるごとシレジアを裏切って
東大陸帝国に協力する可能性があります。これでは勝てません﹂
﹁じゃあ残る作戦案は、もしかしてエミリア殿下の?﹂
﹁そう言うことになりますね。もっとも発案者が発案者なので、採
用されるかは未知数ですが﹂
エミリア王女はそう言って自嘲した。自分が王族という立場を利
680
用して半ば不当に意見を通していることを自覚していただけに、上
層部にそう言われてしまっては反論できないのだ。
﹁でも他の作戦案を聞く限り、エミリア王女の作戦案が最良に思え
ますが?﹂
﹁ありがとうございます。でも、自分自身この作戦に自信があるわ
けではありません。それにだいぶ博打を打っている作戦でもありま
す。帝国相手にどこまで通じるか⋮⋮﹂
エミリア王女はその発言以降作戦について語る事はなく、淡々と
事務処理を続けた。
−−−
シレジア王国の戦時体制移行に伴い、エミリア王女と苦楽を共に
してきた者たちも一時的な異動が命じられた。ヴロツワフ警備隊補
給参謀補ラスドワフ・ノヴァクもその一人である。
﹁⋮⋮転任ですか? あの、小官はまだここに来たばかりなのです
が﹂
﹁君の意見はもっともだ。警備司令官も着任してきたばかりの君を
転任させることを渋っていたが、命令だからな。それに、この情勢
じゃ仕方ない﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁ともかく、1週間後を目途に君は王都に行ってくれ。それまでに
やるべきことをやるように﹂
681
﹁了解です﹂
ラデックはこれによって、たった2ヶ月で王都に転任となった。
しかし肝心の次の役職が未定で、単に王都に召還しただけという意
味合いが強い。そのためヴロツワフ警備司令部も彼の転任をギリギ
リまで引き伸ばし、その間に仕事を片付けてもらうつもりだった。
﹁やるべきことね⋮⋮そういやユゼフに送る手紙、忙しくて出すの
忘れてたな。それやるかな﹂
警備司令部の期待は大きく裏切られ、彼は書類ではなく個人的な
手紙を上司に提出したと言う。
−−−
一方、戦時体制に移行したにも関わらず平時と変わらぬ日々を過
ごしている軍人もいる。近衛師団第3騎兵連隊第15小隊隊長、サ
ラ・マリノフスカである。彼女は相変わらず部下をしごいていた。
﹁よし。10分休憩!﹂
﹁ッス!﹂
この2ヶ月の間彼女が直々に、そして徹底的にしごいたおかげで、
第3騎兵連隊の練度は天井知らずだった。だが、まだ一般的な騎兵
隊より少し強い程度であり、彼女は満足してなかったと言う。
682
﹁ま、ユゼフよりはマシだから教えるのは楽だったわ﹂
と彼女は後日、士官学校時代の友人に語ったそうだ。ユゼフをよ
く知るその友人は﹁彼を基準に考えるのは間違っているのではない
か?﹂と思ったそうだが。
﹁マリノフスカ隊長! 連隊長が御呼びです!﹂
﹁え、こんな忙しい時に⋮⋮まぁいいわ。貴方たちは休憩が終わっ
たら自主練でもしてて。サボったら殺すわよ﹂
﹁は、はい!﹂
彼女は有言実行がモットーである。故に殺すと言ったら本当に殺
す。そこまで行かなくても半殺し、いや八割殺しくらいにはされる
だろう。
サラは若干キレ気味で連隊長の下に来た。敬意が一切感じられな
い敬礼の後、彼女は連隊長に﹁訓練の最中なので早くしろ﹂という
意味の敬語を浴びせかけた。
﹁単刀直入に言おう。マリノフスカ大尉、君は恋人はいるかね?﹂
﹁⋮⋮はぁ?﹂
もしかしてこの連隊長は自分を口説こうとしているのではないか、
そう思った彼女は腰にある剣を引き抜きかけた。連隊長はそれを見
ると、慌てて否定した。
タク
ニエ
﹁あぁ、いや。君を口説こうと言うわけではない。私には妻子がい
るしな。これは軍務に関わることなのだ。﹃可﹄か﹃否﹄で答えて
くれればいい﹂
683
ニエ
﹁﹃否﹄ですが、それが何か﹂
サラは未だ剣の柄に手を置いたまま答えた。連隊長が発する次の
言葉によっては即刻切り捨てるつもりでいた。だがそうはならず、
連隊長は淡々と部下に伝えた。
﹁そうか、なら遠慮なく言おう。この度の動員令によって近衛師団
第3騎兵連隊は前線に出ることになった﹂
﹁動員令⋮⋮?﹂
彼女は本当に士官なのか、とこの時連隊長は思った。動員令を知
らないなんて、まさかそんなことがあるのかと。
﹁⋮⋮動員令の説明は後ほどするとして、ともかく大尉には実戦参
加に向けた準備をすることだ﹂
﹁えー、と。それはエミリア、王女殿下が前線に出ることでしょう
か?﹂
﹁いや、殿下は今のところ出る予定はない。だが現在兵が足りぬ状
況にある。少しでも集めるために、近衛師団も王都を離れ実戦参加
することとなった﹂
﹁えー、じゃあエミリア殿下の護衛は⋮⋮?﹂
﹁それは親衛隊がやることになっている。問題はない﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
彼女は納得しなかった。だが命令とあれば動くしかない。エミリ
ア王女と離れることは少し心配で寂しかったが、前線で奮闘すれば
王都に敵が押し寄せてくることはないという考えに至り、彼女は準
備をすることにした。
彼女は挨拶もそこそこに踵を返すと、部下のいた場所に戻って行
った。
684
母親
リリウム
﹁フィーネさんの母親ってどんな感じの人なんですか?﹂
﹁⋮⋮藪から棒になんですか﹂
1月31日。
デート
いつぞや利用した東大陸帝国弁務官府前の喫茶店﹁百合座﹂で俺
とフィーネさんは逢引と言う名の情報交換をしていた。シレジアが
動員令を布告したこと、同時に非公式な外交筋から戦争不介入の要
請があったこと、王女と大公がぎこちない形で肩を並べていること
など。
その時ふと気になって、フィーネさんに聞いてみた。
﹁私の出身はシレジア東部、東大陸帝国との国境付近の農村なもの
なので、家の事を思い出してたんです﹂
﹁⋮⋮私の家の事を聞く前にご自身の家の事を心配なさっては?﹂
﹁してますよ。ずっとね﹂
ぶっちゃけ士官学校時代から心配してた。2人だけでちゃんと農
業出来てるのかとか、今年は例年より気温が低かったから麦はちゃ
んと実ったのかとか、体壊してないのかとかベッドの下に隠し⋮⋮
あぁ、いやこれは今は関係ないか。ともかく心配すればキリがなか
った。
でも、王都で休暇取った時に両親から色々話を聞いて安心した。
意外と上手くやってるって。だから、今回の戦争でもなんだかんだ
で生き残るんじゃないかって。確信があるわけでもないけど。少し
でも助けになるように、俺は今ここで頑張ってるのだし。
まぁそんなこと恥ずかしくて話せないけど。
685
﹁聞いてみただけですから、答えなくてもいいですけどね﹂
﹁わかりました。では答えません﹂
即答だった。あまりの早業に俺はポカンとしてしまう。
ポーカーフェイス
﹁⋮⋮貴方はもう少し無表情という言葉を覚えた方が良いですよ?﹂
﹁その言葉は知っていますが、知ってるのと実行できるのとでは金
粉と木屑ほどの差がありますよ﹂
大事な交渉の時とかは頑張って無表情を貫ける⋮⋮と言うより緊
張のあまり表情筋がストライキを起こしてしまって無表情になれる。
でもフィーネさんと会話するときは緊張してないから無表情は貫け
ない。
﹁貴方がもし用兵家なり指揮官なりを目指すのなら、表情を作る技
量も必要ですよ﹂
﹁善処します﹂
たぶん無理。
ポーカーフェイス
﹁はぁ⋮⋮まぁいいです。教えましょう﹂
﹁無表情の極意ですか?﹂
﹁何を言ってるのですか。私の母親の事ですよ﹂
﹁えっ。だってさっき⋮⋮﹂
﹁答えないといいましたね? アレは嘘です﹂
危うく椅子からずっこけるところだった。フィーネさんは相変わ
らず眉ひとつ動かさず優雅に紅茶を飲んでいる⋮⋮けど、ここ最近
よく合うからわかる。絶対心の中でゲラゲラ笑ってる。彼女が笑う
686
所見た事ないし笑うツボも分からんけど。
ちなみに今日も俺の奢りです。なぜか。情報料と思えば安いもの
だが⋮⋮。
フィーネさんは静かにティーカップを置き、そして本当に俺に彼
女の母親について教えてくれた。
﹁母の正体は知ってますよね?﹂
﹁外務大臣クーデンホーフ侯爵の娘、カザリン・フォン・クーデン
ホーフでしたよね﹂
﹁正解です。よく覚えてますね﹂
人の名前を覚えることが次席補佐官としての主の仕事だったから
ね。
﹁母は確かに侯爵令嬢でしたが長子ではありませんでした。ですの
でクーデンホーフ侯爵の家督を継ぐことは叶いません。ですので名
のある貴族、または皇帝家に嫁ぐことが運命みたいなものでした﹂
﹁でも結婚したのは当時子爵だったローマン・フォン・リンツ、で
すよね?﹂
﹁えぇ。名のある侯爵の娘が当時まだ無名だったリンツ子爵と結婚、
普通に考えたら暴挙に類するものです﹂
爵位を継がない娘、もしくは息子は名のある貴族と結婚させて血
の繋がりという最強のコネを作らせるのが主な仕事だ。そのコネを
使って自らの権利と権限を広げることに貴族は命を懸けている。血
が混ざりあってわけわかんないことになることもあるけど。
﹁まぁ爵位が下でも結婚することはありますよね?﹂
﹁勿論です。例えば事業に成功したとか商業系貴族、あるいは王族
に独自のコネがある、というのが代表的な例です。でも当時の父は
687
ただの子爵、官僚としてはそこそこ能力が高いってだけの普通の貴
族でした﹂
﹁では侯爵閣下、もしくは令嬢殿がそのような暴挙に出た理由は?﹂
﹁簡単な話ですよ。恋愛結婚です﹂
﹁⋮⋮なんとまぁ﹂
貴族で恋愛結婚とは珍しい。政略結婚が普通だからな。貴族の恋
愛は結婚してから愛人とか愛妾相手にやるものだと相場が決まって
いる。たまたま恋した相手が家にとっても有用な人物である時もあ
る。
﹁反対の声は?﹂
﹁上がりましたよ。主に祖母が﹂
﹁侯爵閣下の方はなんと?﹂
﹁父から聞いた話では、以前から祖父と父は交流があったらしく結
婚の話も事前承認済みだったとか﹂
なるほど流石やり手の高級官僚。ちゃんと外濠を埋めてから結婚
したのか。祖母がなんと言っても反論の余地を与えないように。
﹁祖母は祖母で別の男性を見繕っていたようです。それを聞いた時、
少し笑ってしまいましたが﹂
﹁誰です?﹂
フィーネさんほどの鉄仮面が笑うほどの人物っていったい誰だ?
﹁ベルタ・メイアー・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー。現オ
ストマルク皇帝フェルディナントの五子三男です﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
688
開いた口が塞がらない。つまりあの侯爵閣下は皇帝家ではなく無
名の子爵を選んだのだ。そりゃお祖母ちゃん怒るよ。暴挙だって言
われるだろうよ!
今でこそ、リンツの名は知れ渡って英雄みたいな扱いを受けてる
からいいけど、それでも皇帝の息子を蹴るか普通。
﹁侯爵閣下は何を考えて⋮⋮﹂
﹁さぁ。噂では、祖父とベルタ殿下の仲が悪かったと言われていま
すが。真相は不明です﹂
これは一生不明だった方が双方にとって幸せなんじゃなかろうか。
それとも侯爵閣下はローマン・フォン・リンツが成り上がること
を見越していたとか? 謎だ。
﹁それでなんだかんだあって私が生まれました。私は四子三女の末
っ子です﹂
﹁⋮⋮末っ子とは意外ですね﹂
﹁そうですか?﹂
﹁えぇ。末っ子は得てして我が儘だと聞きます﹂
﹁私は結構我が儘な人間ですよ?﹂
確かに俺に奢らせるのは我が儘だな。なんだ立派な末っ子じゃな
いか。
﹁それで、母としてのカザリン・フォン・クーデンホーフ⋮⋮いや、
カザリン・フォン・リンツはどうでしたか?﹂
﹁さぁ?﹂
﹁さぁ、って?﹂
﹁一般的な母親像と言うものを知りませんから評価しようがありま
せん﹂
689
﹁なるほど﹂
それもそうか。我が家で常識だったことが余所の家じゃあり得な
い、なんてことよくあるもんな。
﹁まぁ、児童虐待を受けたわけでもありません。母親としての一定
の能力があったのは確かでしょうね﹂
自分の母親をここまで客観的に評価するのってなんか怖くないか
? すげぇ他人事って感じだけど。それが彼女の特徴だけどさ。
﹁さて、ここまで話したのですから対価を貰いませんと﹂
﹁えっ? 対価?﹂
﹁そうです。情報1つに対しては情報1つで返すのが礼儀です﹂
﹁なにそれ聞いてない﹂
﹁言ってませんから﹂
鬼! 悪魔! ツリ目! フィーネ・フォン・リンツ!
﹁さて大尉は私の母について8回質問したので、私も8回質問をし
ます。文句はありませんね?﹂
﹁アッハイ﹂
こういう時文句を言える男になりたい。
−−−
690
1月31日。
シレジア東部の国境付近に位置するとある農村に避難勧告が出さ
れた。王国軍がどのような迎撃作戦を取るにしても、東部領土は戦
果に巻き込まれることは必然であるため、その前に非戦闘員を避難
させようとしたのである。
そしてこの農村の一画にある家に、この農村の避難の責任者であ
る役人が避難計画について個別に説明していた。
﹁えー⋮⋮ワレサさんはお1人だけですか? 旦那さんやお子さん
は?﹂
ユゼフ・ワレサの生家であるこの家は、村の中では平均より少し
小さめの家である。元々三人暮らしだったため、拡張することはな
いと思っていたからだ。
﹁夫は出稼ぎに、息子は軍人です。なので今は私一人です﹂
それを聞いた役人は、何とも言えない表情をした。息子が軍人で
あるのならば、ほぼ間違いなくこれから起こるであろう戦争に参加
することになる、場合によっては夫も徴兵される。そう思ったから
だ。
無論この役人は、ワレサ家唯一の子供が士官で駐在武官をしてい
るなど知る由もない。
﹁⋮⋮わかりました。では、3日後に避難を開始します。馬車の数
の関係であまり多く積むことはできませんので、手に持てる量だけ
でお願いします﹂
691
ワレサ家は裕福であるとは言えない。そのため殆どの家財道具を
家に残すのは不安が多かった。避難した先で上手くやっていけるの
か、しばらくして帰ってきても家が残っているのか。考え出すと止
まらなかった。
そして何より心配だったのは、息子の事だった。
﹁⋮⋮今は外国にいるって手紙に書いてあったけど、今度のことで
戻ってきて、戦うのかしら﹂
彼女は、息子が既に2度も実戦に参加しそしていずれにおいても
生還していることを知らない。軍機に触れる内容が多かったのも確
かだが、ユゼフ自身が両親を心配させまいと秘密にしていたせいで
もある。
だが例えそれら知っていたとしても、彼女は同じことを思ったと
いうことは想像に難くない。
彼女は暫く家を見回した後、荷造りを始めた。農夫の妻と言えど
も女性であり、多くは運べない。だから運ぶ物は限られる。
﹁⋮⋮これは置いていけないわね﹂
ユゼフの母が最初に手に取ったのは、ユゼフが士官学校を卒業し
た時に贈ろうと思って、結局時間がなくて渡せなかった贈り物だっ
た。
692
母親︵後書き︶
もうメインヒロインはフィーネさんで良いよね?︵投げやり︶
693
商談
2月2日。
我が親友ラスドワフ・ノヴァクから手紙が来た。戦時体制下に手
紙を送るなんて遺書みたいじゃないか。あいつはそんなに死にたい
のか。戦争が終わったら結婚でもするのか。今度パインサラダでも
奢ってやろう。
封筒には綺麗な文字で差出人宛名その他諸々が書かれている。ど
うやらこの世界では文字の綺麗さに比例して顔面偏差値も決まるら
しい。畜生め。ちなみに俺の字は士官学校の恩師曰く﹁可もなく不
可もなく﹂らしく、つまりは俺の顔もそんなもんなのだろう。鏡を
見た感じでは悪くないと思う。前世比で。外国人補正はかかってる
と思うけどね。外国人ってみんなイケメンもしくは美少女に見える
し。
・
封筒をよく見ると﹁検閲済﹂の判が押してあった。ご丁寧にご苦
労様。なんで我が愛しのフィーナさんの時には検閲印が押されてな
かったのかなんて突っ込まないからな。
参事官殿のポカはともかく、問題は手紙の内容だ。こんな有事の
時に送られてきた手紙。きっと重要なことが書かれているに違いな
い。もしかしたら本当に遺書かもしれない。やばい、心臓がバクバ
ク言ってる。
・
俺は封筒を丁寧に開け、中の便箋を取り出す。便箋は計2枚。一
応封筒の中を覗いてみたがフィーナさんみたいに職人芸が仕掛けら
れているわけではなかった。便箋をザッと見た感じ検閲された跡は
694
ない。軍機に触れるようなことはないってことなのかな。にしても
便箋も封筒も文字だけではなく形式とか行間とか文字間がしっかり
してる。まるで公文書だ。
よし。気合、入れて、読みます!
1行目、2行目、3行目を読む。どんどん読む。数分で2枚目に
移り、読む、読む、読む。
一通り読み終わって、最初から読み直す。
俺は読み終わった便箋を綺麗に畳み、丁寧に封筒に仕舞う。
そして叫んだ。
﹁ただの嫁自慢じゃねぇかぁああああああああ!!﹂
この後滅茶苦茶ダムロッシュ少佐に怒られた。
手紙の内容を要約すると﹁女っ気のない大使館勤務で大変だろう
けど頑張れ。俺は婚約者いるけど。そうそうその婚約者から手紙あ
ったんだけどその手紙が︵以下略︶﹂である。死ねばいいのに⋮⋮
は少し不謹慎か。じゃあさっさと別れて心に穴を開ければいいのに。
俺はその穴に丁寧に塩を塗り込むから。
畜生め。俺も返信して﹁実はナンパに成功して美少女といちゃい
ちゃしてるんだぜ﹂って送ってやろうか。いや送らないけど。いち
ゃいちゃしてないし、ナンパは演技だし。仕事の延長線上みたいな
ものだ。
695
でも手紙には興味深い情報も載っていた。それはラデックがヴロ
ツワフ警備隊から一時的に王都に転任になるという話だ。それと同
時にヴロツワフ警備隊から百人単位で東部国境地帯に転属になった
らしい。南部国境からほど近いヴロツワフ警備隊の人員を減らす、
というのはフィーネさんが言ってた﹁非公式の外交﹂の結果だろう。
つまり、シレジアが﹁東大陸帝国との戦争中は不介入を貫いてね﹂
っていう要望が各国に通ったと言うことだ。外交上の安全が確保さ
れたから、少なくとも南部国境地帯の人員が引き抜かれた。シレジ
アは東部国境に戦力を集中できるわけだ。たぶんこの調子ならリヴ
ォニア方面も大丈夫だろう。
でもまだ油断はできない。彼我の戦力差は巨大、あまり長引くと
約束を反故にして攻め込む可能性もある。あくまでこれは非公式な
口約束だし。辛い状況であることには変わりはない。
だからこそ、俺は外交官という立場でシレジアの勝率を少しでも
上げなければならないのだ。でも限界は近い。今の所情報はオスト
マルク帝国外務省からの情報が殆どだ。それに調査局全面協力とは
言っても、別の視点から見なければ全貌が見えないこともある。
他の情報ルート⋮⋮あるかな。オストマルクに着任したばかりの
俺には有効な人脈はリンツ伯爵くらいしかな⋮⋮あ、いや、あった
わ。俺が今手にしてる、この手紙の中に、間接的な人脈がある。や
ることはやってみるか。ダメで元々じゃないか。
−−−
ラスドワフ・ノヴァクの婚約者の名はリゼル・エリザーベト・フ
696
ォン・グリルパルツァー。貿易業を営む勅許会社﹁グリルパルツァ
ー商会﹂の現社長の次女である。そしてグリルパルツァー家はこの
買った
ことでも知られる。とりあえずオストマルク
会社の成功によって多くの資産を手に入れるに至り、最近は帝国か
ら男爵位を
国内では超有名であり、グリルパルツァーの名を知らない者はそれ
即ち異国人であると言われてるほど。
⋮⋮ラデックさん、もしかしてあんたって予想外にいい所のボン
ボンなの? 少女漫画によく出てくる超有名財閥の息子というポジ
ションなのだろうか。なんで士官学校に入ったんだアイツ。そして
グリルパルツァーは男爵。ってことはラデックが婿に入ったらラデ
ックは貴族に⋮⋮。アカン、俺の周りが貴族だらけだ。神様お願い
だ、平民の友達を俺にください。
ま、まぁいい。
俺は今そのグリルパルツァー男爵家の本邸にいる。外観は東大陸
帝国弁務官府並の豪華さ、内装はクラクフスキ邸以上の華麗さがあ
る。⋮⋮お、落着け、ま、まだあわ、わわわわわてるような時間じ
ゃない。
現在の日時は2月10日午後2時。休暇を利用してアポを取って
いたグリルパルツァー家に突撃、そして今は虜囚の身。哀れなりユ
ゼフ。外交官という身分を明かしてアポを取ったためだろうか、す
んなり許可は取れた。そしてこのザマである。単身突撃は無謀だっ
たか⋮⋮あぁ、せめてフィーネさんがいてくれれば⋮⋮。
と、そこまで悩んだときやたら広い応接室の戸が開いた。現れた
のはプラチナブロンドの髪を持つ美女。美少女じゃなくて美女。こ
こ大事。年齢は見た感じ20歳前後。間違いない、彼女がラデック
の婚約者であるリゼルだろう。まさかいきなり本人登場とは驚いた。
とりあえず貴族式の挨拶。昭和アニメの宇宙戦艦の乗組員みたい
697
に胸に手を当てお辞儀をする。
﹁今回はこのような場を設けていただき、ありがとうございます。
わたくし
私はシレジア王国大使館駐在武官のユゼフ・ワレサです﹂
﹁いえ、私も噂の大尉に会ってみたかったのです﹂
また噂か。いつの間にかオストマルク内での俺の知名度は上がっ
ていたらしい。俺が何をしたと言うんや。
﹁私の名はリゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。ワ
レサ大尉の友人であるラスドワフ・ノヴァク中尉の婚約者です。ど
うぞリゼルと御呼びください﹂
噂の原因はラデックであることは間違いない。あの野郎今度会っ
たとき一発殴ってやる。
﹁手紙で知ってはいましたが、若いですね﹂
﹁よく言われます﹂
ウォッカ
肩を竦める。この台詞何回言われたことか。いい加減聞き飽きた。
15歳は十分成人って言ってるだろ。蒸留酒はまだ飲めないけどさ。
﹁ラデックにこんな美しい婚約者がいたとは驚きです。あいつには
勿体ない﹂
﹁あらあら。でもノヴァク商会はこの国でも有名ですよ?﹂
あいつは一体何者だ。
この後俺らはラデックを肴にお喋りをした。基本的に俺が遠回し
にラデックの陰口を言って、リゼルさんがそれに対してラデックを
擁護する、と言うのを数回繰り返した。これからわかることは、ど
698
うやらリゼルさんはラデックにぞっこんだと言うことだ。末永く爆
発しろ。
﹁それで、今回はどのようなご用件ですか?﹂
ラデックの話題が尽きかけた頃、リゼルさんは本題に入った。こ
っからが、俺の腕の見せ所だ。
﹁欲しい商品があって来ました﹂
﹁ほう、どのような?﹂
﹁形のない物なので、どう言えばいいか⋮⋮。﹂
するとリゼルさんは笑った。
﹁略奪愛をご所望でしたら、残念ながら私は扱ってはおりません。
売約済みです﹂
﹁次回入荷予定は?﹂
﹁未定です﹂
﹁では、今回は諦めて別の商品にしましょう﹂
諦めるも何も最初からそんなものは望んでない。望んでるのは離
婚とか別れ話とか婚約破棄とかだ。
﹁では、何をお求めに?﹂
﹁情報です﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
グリルパルツァー商会は貿易業だ。当然、東大陸帝国でも商売し
ている。東大陸帝国が大規模な動員をかけるというのなら、グリル
パルツァー商会も何らかの形で関わっている可能性が高い。商会か
699
ら買った物資の種類や量から、おおよその軍の規模は推定できるだ
ろう。それに、もしかしたら詳細な軍の編成が知れるかもしれない。
グリルパルツァー商会による諜報活動によってね。
シレジア王国が今抱えている問題は、グリルパルツァー商会なら
恐らく知ってるはず。外交官である俺が﹁情報﹂と言えば、彼女も
おそらく理解したはずだ。
﹁⋮⋮どの程度の情報でしょうか﹂
﹁詳細な情報。具体的には軍の規模や編制、指揮官の名前を﹂
無論これは軍事機密にあたる内容だ。おいそれとわかる事じゃな
い。だからこそ各国の諜報機関が必死になって探すのだが、当然帝
国も警戒する。
そこでグリルパルツァー商会が持つ絶大な資本力で、それを明か
してしまおうと言うわけだ。
﹁それは当商会にとって扱いに大変気を遣う商品です。下手をすれ
対価
を支払ってくれるので
ば東大陸帝国で今後一切の商取引が出来なくなる可能性を秘めてい
ます。それに対して貴国はどういう
しょうか﹂
﹁⋮⋮もしかしたらラデックからの手紙で知っているかもしれませ
んが、私はシレジア王家と個人的なつながりを持っています﹂
﹁⋮⋮ほう?﹂
情報を売ればシレジア王国での商取引で優遇する。少なくとも王
家にそう言って規制緩和を進言できるんだぜ。と言ったようなもの
だ。俺にそんな権限ないけど。でも、シレジア王国にとってもメリ
ットはある。今度の戦争、もし勝てたとしてもシレジア王国は経済
的にかなりのダメージを負う。戦後の経済不調を乗り切るには、ど
うしても外国資本の力が必要になるのだ。そんな時、よくわからな
700
い外国資本から経済的に乗っ取られる危険性がある。それを避ける
ためには、今のうちにコネを作って知ってる資本による投資があれ
ば少しは安全だろう。
﹁興味深い提案ですが、東大陸帝国とシレジア王国を天秤にかけた
らどうなると思いますか?﹂
マーケット
当然、東大陸帝国側に傾く。シレジア王国のために東大陸帝国と
いう巨大な市場を見捨てるわけない。
﹁リゼルさんの言うことは正しいです。我々の為に東大陸帝国を見
捨てろ、などと言えませんからね﹂
﹁では、今回の商談は破談ですか?﹂
﹁いえ。それはまだですよ﹂
破談なんてさせるものか。
﹁東大陸帝国は現在、二派に分かれていることはご存知ですか?﹂
﹁皇帝派と皇太大甥派ですね﹂
﹁えぇ。そして今度の戦争は、皇帝派の独断です﹂
﹁でしょうね﹂
﹁加えて言うのであれば皇太大甥派にとっては、この戦争は身の危
機なのです﹂
﹁⋮⋮迂遠な言い方をしますね。つまり、どういうことですか?﹂
リゼルさんの顔つきはどんどん険しくなっていく。商人の顔だな。
ラデックもたまにこんな顔をするし。
﹁グリルパルツァー商会は、皇太大甥派にこう言えばいいんです。
﹃貴方たちは皇帝派に負けてほしいのでしょう? じゃあ情報をシ
701
レジアに流しましょう。なんなら我が商会がシレジアに情報を売る
のを手伝ってあげてもいいんですよ﹄とね。具体的な交渉方法はお
任せしますが、おそらく皇太大甥派は断らないと思います﹂
皇太大甥派は皇帝が失脚するためにシレジアに勝ってほしい。
グリルパルツァー家は東大陸帝国と関係を維持したまま、シレジ
アに恩を売りたい。
そしてシレジアは皇帝派が動かした軍の全貌が知りたい。
三者皆が納得するWin−Win−Winな取引の成立だ。
﹁⋮⋮なるほど。でも、それには条件がありますね?﹂
﹁条件?﹂
﹁お分かりのはずです。シレジア王国が、今度の戦争に勝つという
ことです﹂
﹁勝ちますよ。必ず﹂
﹁口ではどうとでも言えます﹂
そこを突かれるときつい。具体的な作戦案はまだ決まってないと
言うし⋮⋮。
﹁ではリゼルさんは、私の提案は取るに足らない、唾棄すべきもの
だとお思いで?﹂
少し意地が悪い問いだが、リゼルさんは笑って見せた。
﹁そんなことは思っていません。15歳の少年には見えない、そう
思ったのです。商品偽装はしてませんよね?﹂
﹁残念ながら、私は正真正銘の15歳です﹂
702
敢えて言うなら15歳と240ヶ月くらい。
﹁それで、お答えの程は?﹂
﹁⋮⋮そうですね。即答は致しかねます﹂
ま、それもそうか。あまりにも規模が大きい話だ。却下するにし
ても呑むにしても時間が必要だ。
﹁でも、私の愛する婚約者の命が関わっています。前向きに検討し、
社長である父に進言いたしましょう﹂
﹁⋮⋮! あ、ありがとうございます!﹂
ラデックを殴るのはやめよう。お前がモテ男のおかげでシレジア
は救えそうだぞ。
703
決定
グリルパルツァー商会から帝国軍の情報が送られてきたのは2月
14日のことだった。
シレジア討伐軍の規模は40個師団、後方部隊や非戦闘員を含め
た動員数は60万。具体的な侵攻作戦や編成は不明、か。まずまず
だな。
この情報を経緯込みで王国軍総合作戦本部高等参事官たるエミリ
ア少佐に伝えるために、またオストマルク外務省の力を借りなけれ
ばならない。
というわけで翌2月15日、例の大衆食堂でいつぞや以来の灰か
ぶりの少女フィーネさんに会う。話す内容が内容なので、弁務官府
前の喫茶店は遠慮した。
大衆食堂にはフィーネさんの随員である例の2人組がいた。前に
俺が指摘した通り、服に虫食いの穴が開いてたりするし、手や爪も
工場労働者のようにボロボロになっている。職人芸ですね。
﹁大尉がグリルパルツァー家に出向いたことは承知していましたが、
まさか個人的な繋がりがあるとは存じませんでしたよ﹂
﹁えぇ。私もつい最近まで知りませんでしたよ﹂
ラデックからの手紙で初めて知ったからね。そしてグリルパルツ
ァー商会があんなにでかい組織だと知ったのは本当に最近の事だ。
なんてったって俺は外国人だし。
ていうかフィーネさん、今サラッと俺のことストーキングしてた
ってバラした? いや、俺はいいけどさ。バラしてもいいの?
704
﹁にしても随分情報が早いですね﹂
フィーネさんは俺の不安の余所に話を続ける。指摘しないほうが
いいか。
﹁おそらく、東大陸帝国が動員を始めた時点である程度知っていた
のでしょう。そして外交官たる私が接触を図った時点で情報を纏め
た、と﹂
﹁なるほど。11日から14日までの間は商会経営陣の意思確認と
情報の地盤固めをしただけ、ということなのですね﹂
﹁そういうことです﹂
でも動員規模はこっちの予想通りだった。今のままでは予想に証
拠がついただけ。もっと具体的に、どの方面に何個師団なのか、指
揮するのは誰なのかが分かれば良いんだけど⋮⋮。そこは皇太大甥
派がどの程度協力してくれるかに依るか。
﹁しかし開戦まで残り一月半、なのに王国軍総合作戦本部とやらは
未だ具体的な迎撃作戦案を考え付いていないようですね?﹂
﹁軍機につき話せません﹂
﹁話さなくてもわかりますよ。私は用兵と言う物には疎いですが、
これを見れば王国軍の動きが随分鈍いと分かります。何も考えてい
ない証拠でしょう﹂
そう言ったフィーネさんはボロボロの服の懐から小奇麗な書面を
出した。
視線だけ移して紙面を見てみる。内容はシレジア王国軍の動員状
況と子細な配置。我が王国の情報統制ゆるすぎじゃないですかね⋮
⋮。
それはともかく、この紙を見た感じ王国軍の動きが少し遅い気が
705
する。東部国境地帯はやっと住民の避難が開始され、軍隊は10個
師団が集結。ただ、どう配置していいかわからないから国境地帯に
適当に分散配置されている。うーん、まずいな⋮⋮。
﹁大尉がグリルパルツァー家での商談の内容を話してくれたので、
我が方も情報をひとつ教えましょう﹂
そのルールまだ有効だったのか。
﹁⋮⋮なんですか?﹂
サービス
﹁シレジア討伐軍総司令官、及びその幕僚の名前です。ついでにそ
の人物たちの政治的な立ち位置も、おまけとして教えてあげますよ﹂
﹁⋮⋮その情報、後で料金請求したりしませんよね?﹂
﹁別に払いたいのなら払ってもいいんですよ?﹂
﹁あ、いえ。教えてくださいお願いします﹂
人目を気にせず額をカウンターにゴリゴリする。プチ土下座をし
つつ横目でチラッとフィーネさんを見るといつぞや以来の呆れ顔を
していた。
﹁⋮⋮お話してもよろしいですか大尉?﹂
﹁あ、お願いします﹂
−−−
2月20日。
706
この日総合作戦本部高等参事官エミリア・シレジア少佐は、本部
長ルービンシュタイン元帥から呼び出しを受けた。
﹁何の用ですかね?﹂
﹁まぁ、十中八九例の作戦案の可否についてでしょう﹂
軍部のトップである本部長に呼び出されたにも関わらず、この若
き女性士官たちは落ち着いていた。それは彼女らが王族と公爵令嬢
という身分と言うのもある。しかし大部分はこの1ヶ月の総合作戦
本部上層部の慌てようを見ていたからである。帝国軍に対する迎撃
案が現れては消えを繰り返し、最終的に残った3つの作戦案が終わ
りなく議論されていた。それは戦術や戦略に関わる議論ではなく、
高等参事官という職と大公の政敵であるエミリア王女という存在に
ついて政治的な、時に感情的な討論が交わされていたのだ。特に、
大公派である総合作戦本部次長は強硬にエミリア案に反対した。
その総合作戦本部上層部の醜態とも言える討論に終わりが見えた
のが、この2月20日だった。
王国は既に動員令を布告し、間もなく全ての予備役動員が終了す
る。残りの1ヶ月で部隊の編制と配置を行わなければならないのだ
が、それに際して対帝国軍の迎撃作戦が何も決まってないと言うの
であれば部隊の編制も配置もしようがなかった。
そこで総合作戦本部長ルービンシュタイン元帥の鶴の一声で、最
終的な迎撃作戦案が決定されたのだ。
午後1時55分、エミリア少佐は本部長室を訪問した。本部長と
その副官、そして本部次長だった。エミリア少佐は本部次長の名を
思い出そうとしたが、本部長が口を開いたため記憶の発掘作業を中
止した。
707
本部長は挨拶もそこそこに、起立状態のまま本題に入った。
タク
﹁先日貴官から上申された作戦案は﹃可﹄と判断された﹂
本部長は短く答えた。エミリア少佐は、内心で大きく喜びつつそ
れを表情に出ないように抑え、そして感謝の意を述べようとした。
だが本部長の唇は止まらず、エミリア少佐が予想だにしなかった
言葉を発した。
﹁ただし、成功する可能性については疑問が残る。貴官自身を以っ
て作戦実行の責任者になる意志があるのならば、総合作戦本部はこ
の作戦案を承認し、且つ協力を惜しまないだろう﹂
要約すると﹁エミリア少佐は最前線に行って作戦の指揮を執れ﹂
と言うことである。
これは大公派である本部次長と妥協した結果生み出された提案だ
った。本部次長は、エミリア王女は宮廷内に残り安全な壁の中で作
戦を指揮するのだろうと考えていた。女性で、しかも15歳、極め
ニエ
つけは王族。普通に考えれば15歳の少女がそんな危険地帯に自ら
の意志で行くことはない。
本部次長はエミリア王女が﹁否﹂と答えることを期待、いや確信
していたのである。
だが残念なことに、現在のエミリアは﹁王女﹂ではなく﹁少佐﹂
だった。
﹁承知しました﹂
708
彼女は短く答え、本部長は満足したかのように首を静かに上下に
動かした。本部長は、この作戦案が戦利に適っていること、そして
エミリア王女が一般に言われる王族とは別個の存在であると知って
いたからだ。
そして一方の本部次長は、何とも言えない滑稽な顔をしていた。
本部次長は知らなかった。彼女が既にラスキノ独立戦争時に前線
に立ち、そして少佐の体は人間の血を浴びたことがあるということ
を。
エミリア少佐はそんな本部次長の表情を見て満足すると、本部長
に向き直った。
﹁本部長閣下。質問してもよろしいでしょうか?﹂
﹁うむ。構わん﹂
﹁ありがとうございます。質問は、作戦中の私の身分についてです﹂
エミリアは、まだ少佐だ。20個師団が動くこの迎撃作戦案の責
任者としては階級が低すぎる。せめて大将の地位になければならな
いだろう。誰がどう見ても、彼女に20個師団を動かす権限はない。
﹁問題ない。君は高等参事官として、この迎撃作戦の総司令官を補
佐してほしいのだ﹂
﹁幕僚として、ですか﹂
﹁いや、幕僚ではない。総合作戦本部から直々に派遣された高等参
事官。これが貴官の職だ﹂
この言葉によってエミリア少佐は理解した。今この瞬間、初めて
高等参事官という役職に具体的な役割が決められたのだ。高等参事
官は前線に出て、総合作戦本部長の代理として指揮官を補佐するの
709
が役目になったのだ。であれば、例え彼女自身は少佐であっても彼
女の意見は本部長の意見としての効力を持っている、ということに
なる。
ちなみにこの決定は、本部次長の与り知らぬことである。
エミリア少佐はやっと自身に明確な仕事を与えられたことを喜び、
次に自由に動くことが少なくなったことに対して残念がった。
だが喜びの方が大きいだろう。これで、シレジアが勝つための基
礎が整ったのだから。
710
決定︵後書き︶
フィーネさんの人気に嫉妬。マヤさん涙拭いてください
711
少佐と大尉
2月22日。
王都郊外の駐屯地で出立の準備をしていたサラ・マリノフスカ大
尉は数ヶ月ぶりに士官学校時代の友人と再会した。
﹁⋮⋮エミリア? エミリアじゃないの!﹂
サラは親友を見つけると、その親友に向かって突進しそのままの
勢いで抱き締めた。ユゼフと違って、エミリア少佐はその行動を拒
絶せず、静かに抱き返した。一部の奇特な趣味を持つ諸兄から見れ
ば大変眼福な光景であり、エミリア少佐の身分を知っている者から
・・
見れば心肝を寒からしめる光景だっただろう。
﹁サラさん。お久しぶりです﹂
﹁えぇ、本当に! あと、マヤもね!﹂
﹁ついでみたいに言わないでくれ、サラ大尉﹂
マヤは親友に挨拶をしつつ、殊更﹁大尉﹂の部分を強調した。そ
れはマヤが階級ではサラの部下であることを示していたのだが、サ
ラ自身は別の意味で捉えた。今抱き締めた相手が少佐で王女だとい
う事実をようやく思い出したのである。
﹁⋮⋮ハッ! あの、エミリア殿下⋮⋮少佐? 失礼しました!﹂
サラは急いでエミリアから離れ、やや動きがぎこちないものの近
衛師団の隊員として相応しい綺麗な敬礼をした。それを見たエミリ
712
アは唖然とし、次に笑った。
﹁今は他人の目がありませんから、そういうのは大丈夫ですよ。い
つも通りで構いません﹂
エミリアはそう言ったが、正確には他人の目というのはある。そ
れはエミリア王女を護衛する親衛隊で、今も周囲に向けて目を光ら
せている。そして王族に対して無遠慮に抱きついたサラのことをジ
ロジロ見ていた親衛隊員もいた。
サラはエミリアの言葉を納得しつつも周囲の目を気にした。実際
親衛隊員の目はまるで獲物を見つけた鷲であり、万事に好戦的なサ
ラであっても怯まざるを得ない眼光だった。
エミリアは珍しくオロオロしてるサラを見て微笑んだが、親衛隊
員の逞しすぎる勤労意欲に弱冠辟易した。
﹁とりあえず、場所を変えましょう﹂
﹁そ、そうね﹂
彼女らは兵舎へと移動し、そこで世間話を興じることとした。な
お、女性兵しか入れない兵舎なので男性ばかりの親衛隊員は兵舎に
入ることができず、護衛はいつも通りマヤ・クラクフスカのみとな
った。
女性兵舎にて、この場にいない者の思い出話や上司に対する愚痴
を交えつつ、彼女らは会話に花を咲かせること15分。サラはよう
やく気になっていたことを問うことができた。
﹁それで、急にどうしたの?﹂
713
﹁あぁ、そうでした。言うのを忘れていましたね﹂
どうやらエミリアは久々に会う友人と会話をするのが思いの外楽
しかったからしい。サラが質問しなければ、危うくそのまま帰って
しまう所だった。
﹁実は今度の戦争で私、高等参事官エミリア・シレジアが前線に行
くことになったのです﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁えぇ。正式発表はまだですが﹂
第一王女エミリア・シレジアが前線に出る。これは即ち、彼女を
戦場で守ることを主な任務としている近衛師団第3騎兵連隊も付き
従うと言うことと同義である。元々第3騎兵連隊が東部国境へと異
動することは決まっていたが、それは通常戦力としてであって近衛
師団本来の任務ではなかった。
﹁また、私は高等参事官として迎撃軍総司令官を補佐します。それ
故に第3騎兵連隊の皆様方には司令部直属の騎兵隊として配置され
ることになります。無論、第3騎兵連隊の指揮は現在の連隊長⋮⋮
えーと名は⋮⋮﹂
﹁ドレシェル大佐よ。ポール・ドレシェル﹂
﹁ありがとうございます。そのドレシェル大佐が第3騎兵連隊の指
揮を執るので、サラさんは私ではなく彼の指示に従ってくださいね﹂
﹁⋮⋮わかってるわよ﹂
サラは憮然としつつそう答えた。内心はドレシェル大佐とやらに
連れまわされるよりもエミリアを上司として仰ぐ方が良いと思って
いた。連隊長が嫌いなわけではないが、着任当初、儀礼を重視する
連隊長と衝突した時から気に食わないと思っていたのだ。
714
サラの様子を見たエミリアは、今日何度目かの笑みを浮かべる。
その笑みは、昔を思い出した時の表情だ。
﹁相変わらずですね﹂
﹁何が?﹂
﹁その反骨精神が、ですよ。士官学校でもラスキノでも、サラさん
は目上に対しても容赦なかったですもんね﹂
﹁別に誰彼構わず噛みついてるわけじゃないわ。ちゃんと人は選ん
でる﹂
﹁そうですね。でも、今度からは時と状況も選んでくれると助かり
ます﹂
﹁⋮⋮善処するわ﹂
ニエ
サラの言う﹁善処する﹂という遠回しな﹁否﹂の表現は、この場
にはいない士官候補生時代の出来損ないの農民士官譲りである。
そしてその農民士官の事、そしてサラの事をよく知っているエミ
リアは再び微笑んだ。
﹁本当に、相変わらずですね﹂
2月25日。近衛師団は王都を出立し、東を目指した。
−−−
715
2月26日。
オストマルク駐在武官スターンバック准将を始め、俺やダムロッ
シュ少佐の下に総合作戦本部の具体的な迎撃作戦案が届けられた。
無論、最重要軍事機密として一切の口外が認められていない。検
閲の恐れがある通常の郵便ではなく、外交特権を利用した専用の郵
送方法を利用して。そんな方法があるのなら普段から使えばいいの
に。いやいつも使ってるのかしら。
そうこうして届けられた迎撃作戦案は、上司は勿論、俺にとって
驚愕のものだった。
﹁作戦提案者及び責任者は総合作戦本部高等参事官⋮⋮﹂
エミリア殿下、いやエミリア少佐が考案した作戦案は、俺の想像
以上の出来だった。
エミリアを信頼してはいたが、これほどまで細かい部分にまで配
慮した作戦を考えられたというのは意外だった。そしてエミリア少
佐の作戦が、おそらくシレジアを救うために最良な手段であると確
信した。
だが、まだ完璧ではない。これではまだ勝算は五分五分と言った
ところだろう。せめて八割は欲しい。そのために必要なのは、帝国
軍の配置状況だ。
俺は急いで出掛ける支度を始めた。この作戦案を有効なものとす
べく自分が動かなければならない。グリルパルツァー商会か、もし
くはリンツ伯爵家と協力して情報収集に勤しむべきだ。
でもその動きは、首席補佐官ダムロッシュ少佐によって止められ
716
た。
﹁どこへ行こうと言うのかね?﹂
﹁市街へ、情報収集をしに﹂
俺はいつもと同じようにダムロッシュ少佐を躱そうとしたが、少
佐は通せんぼをする形で無理矢理止めた。カバディでもするのかな?
﹁その必要はない。貴官はここに残って准将閣下の補佐をしてくれ﹂
﹁なぜです!?﹂
﹁それが次席補佐官の本来の仕事だからだ﹂
補佐官は補佐をするのが仕事。ある意味では当然の論法だ。それ
に次席補佐官の仕事に、本来は情報収集は含まれていない。でも俺
にも言い分はある。
﹁しかし、私は准将閣下から直々に﹃情報収集に専念せよ﹄と命令
されています。少佐に止められる筋合いはありません﹂
准将と少佐から相反する命令を出されたら、准将の命令を順守す
る。当たり前だよなぁ?
だが、ダムロッシュ少佐は表情一つ変えずに返答した。
﹁その命令は先ほど取り消された。君は本来の仕事に戻りたまえ﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
スターンバックのクソ親父め。ここ最近執務机の上で天井を見上
げるのが主な仕事だったくせに急に悪い方向に勤労意欲が目覚めた
な。
どう言い返そうか、それとも今は補佐官としてスターンバック准
717
将に会って、その場で再び命令してもらうか。言質を取ればこちら
のものだ。
そう思っていた矢先、ダムロッシュ少佐は意外な言葉を発した。
﹁ワレサ大尉。貴官の外出は首席補佐官として認められない。これ
以上あの﹃灰かぶりの少女﹄と会うのはやめたまえ﹂
718
証拠より論
ポーカーフェイス
フィーネさんのことをダムロッシュ少佐から言及された時、俺に
しては割と無表情貫けたと思う。頑張って練習した甲斐があると言
うものだ。褒めてほしいくらいだ。
で、問題は俺の表情の問題じゃない。少佐がフィーネさんのこと
をどこまで知ってるかが問題だ。
﹁⋮⋮なんのことかわかりません﹂
とりあえずすっとぼけてみる。少佐がどこまで知ってるか知りた
い。
﹁フィーナ・ベドナレクと言う女性士官を知っているな? 知らな
いとは言わせないぞ﹂
知ってる。人生初の恋文は30回くらい読んだ。
フォン・リンツの姓ではなく、ベドナレクと言う無名の架空女性
士官の名を少佐は口にした。つまり少佐は灰かぶりの少女がフィー
ナ・ベドナレクだと知っていても、それがオストマルク帝国外務省
調査局長の娘だとは知らないということだ。つい最近まで無名だっ
たリンツ伯爵、その末っ子、さらには士官学校に入ってて貴族の饗
宴会に出席しなかったフィーネ・フォン・リンツなる者を、少佐が
ベドナレク
知る機会はなかったはずだ。名前を知っていても顔は知らないだろ
うし、似顔絵や写真があるわけでもなし。そして灰かぶりの少女の
本名も、やはり知るはずがない。
﹁知っていますよ。我が愛しの婚約者ですが﹂
719
フィーネさんこれ聞いたら絶対嫌うと思うね。自分でもどうかと
思う。
﹁あぁそうだったな。そういう設定だったな。だが、軍務省の士官
名簿の中に﹃フィーナ・ベドナレク﹄と言う女性士官はいなかった
ぞ﹂
調べたのかよ。首席補佐官って暇なの? いや、でも女性士官と
なれば数は少ないから調べようと思えば調べられるか。ふむ。今度
フィーネさんに会ったら当たり障りのない男性名にして、且つ実在
する士官の名前にした方が良いって教えてあげよう。もっとも、ま
た会えるかどうか。
﹁君が、2月15日にこの灰かぶりの少女と会っていたことはわか
っている。何を話していたんだ?﹂
少佐は外濠を埋めてから尋問して、彼女が何者かを聞き出そうと
している。会話の内容を悟られないようだ。もしかしたらあのフィ
ーネさんの随員のことは知らないかもしれない。というか少佐の口
ぶりからすると12月10日の事は知らないようだ。追跡者の記憶
力が悪いのか、それとも隠しているのか。いや、ここで隠す理由は
ないか。
俺はどうすべきかな。まさか大公派である首席補佐官相手にバカ
正直に﹁いやぁ彼女はフィーネ・フォン・リンツって言うんですよ
! オストマルクとの同盟考えてました!﹂なんて言えない。大公
派が何をしたいのか分からない以上、こちらが何をして何処を目指
しているのかをベラベラ喋るわけにはいかない。
外務大臣の件は俺の﹁提案﹂について具体的に言ってない。ただ
720
﹁協力を要請した﹂としか話してないし、それに相手が快諾したと
は伝えていない。外務大臣に会って外交官として話せただけってこ
とになってる。
てかそもそも少佐は俺の事どう思ってるんだろうか? シレジア
王国の内情を敵国に流した売国奴だと思っているのか、それとも単
に大公の政敵である王女の親友としか認識していないのか。
﹁何か言いたまえ、大尉﹂
﹁少佐にこの件に対してその﹃何か﹄言う必要性を見出せません﹂
﹁何?﹂
﹁私は、シレジアの為に情報を集めていただけです。そしてその情
報収集についても、シレジアやオストマルクの法律、及び王国軍の
軍紀に何ら反した行為をしたわけではありません﹂
嘘じゃないよー本当だよー。
フィーナ・ベドナレクという身分を詐称をしたのは俺じゃない。
それに俺は情報を貰うことが多くて、軍機に触れるような機密性の
高い情報は渡してない。と言うより王国軍が今やっと動き出せた状
態で軍機も何もない。俺が渡した情報は、いずれも詳しく調べれば
例え農民の身分であってもわかるような公開されたもの、もしくは
個人的なものだ。貸し借りで言えば借金の方がはるかに多い。
﹁では、言い方を変えよう。何ら軍紀に違反した行為をしていない
のであれば、彼女が何者かを言い貴官の冤罪を晴らしたまえ﹂
冤罪、と言ったか。要は﹁言わなきゃ軍事機密漏洩の罪で軍法会
議にかけるぞ﹂って言ってるのかな。
﹁彼女は⋮⋮フィーナ・ベドナレクです﹂
721
﹁嘘を言うな!﹂
﹁いえ、間違いなくフィーナ・ベドナレクです。彼女はかつて我が
国がオストマルク帝国に割譲した旧シレジア領出身のシレジア人で
す﹂
後半部分は完全に嘘だ。ベドナレクを名乗っていたのは確かだけ
ど、旧シレジア領出身じゃない。伯爵家の人間だ。
﹁ではなぜ、そのベドナレクという者は我が軍の士官を名乗ったの
だ。彼女と何をしていた﹂
﹁オストマルク帝国の治安当局の目を掻い潜るためです。彼女は私
と協力して、この国の動きを監視していました﹂
﹁なぜ?﹂
﹁簡単です。今度の戦争に際し、オストマルクが反シレジア同盟を
大義名分にして我が国に侵攻する意思があるかないかを見極めるた
めに。彼女は、オストマルク中枢部と繋がりがあることは確認して
います﹂
にしても酷い嘘だ。全部が全部嘘ってわけじゃないけどさ。
でも、これを少佐が確認できる術はない。旧シレジア領出身の女
子なんてこのエスターブルクに何人住んでいることやら。帝国内務
省に﹁フィーナ・ベドナレクなる者を探してる﹂と言えば、もしか
したら見つかるかもしれない。でももしフィーナ・ベドナレクが実
在して、それをシレジア王国の駐在武官が探しているとわかれば、
帝国はこのベドナレクをなんとかして捕まえようとするだろう。も
し捕まったらそこからシレジア王国が情報収集をしていることがバ
レて帝国政府の怒りを買い、反シレジア同盟として参加する意思が
なかったのに参戦する危険性をはらむ、ということになりかねない
のだ。
だから少佐は、もしくはシレジア王国大使館は実在しているかも
722
わからない旧シレジア領出身でエスターブルクに住む灰かぶりの少
女を探さなくてはならない。まさに悪魔の証明。
﹁大尉は、どうやって彼女が帝国中枢部と繋がっていると分かった
のだ?﹂
﹁はい。グリルパルツァー商会に、私が出向いたことは知っていま
すね?﹂
あの時は追跡者を振り切る余裕はなかったし、フィーネさんはい
なかった。よかった、一人で行って。おかげで嘘がつきやすい。
﹁そうだな。確か、貴官の士官学校時代の友人がグリルパルツァー
商会の社長令嬢と婚約していたと聞いている﹂
﹁えぇ。その伝手を使って会いに行きました﹂
あの封筒の検閲印を押していたのは少佐だったのか。となれば、
あのときにはフィーナ・ベドナレクが架空の人物で、俺が何かをし
ていると気づいたわけだ。だから俺に来る手紙を、少佐自身の手で
検閲したと。うん、都合が良いな。
﹁単なる雑談のつもりで行ったのですが、私はこの伝手を有効に使
えないかと考えたのです﹂
﹁というと?﹂
﹁グリルパルツァー商会は貿易業を営んでいる。貿易業は自国に平
和な時代が続くからこそ儲かる商売です。であれば、オストマルク
が戦禍に巻き込まれる可能性がある今度の戦争、止めるために協力
してほしいと願い出たのです﹂
これも嘘だ。けど、3割くらいは本当だ。
戦争によって第三国の企業には特需が生まれる。だが自国が巻き
723
込まれれば話は別で、自社の労働者が徴兵されて生産力が落ちたり、
自社が持っている資源を国家総動員令の名の下に徴発される可能性
もある。無論補償金が出るだろうけど、でも機会損失がどの程度に
なるかは不明だ。
企業が健全に発展するためには平和な方が良い。事業計画も立て
やすい。戦争特需なんて、下手すりゃ終戦時に在庫が溢れて財務を
逼迫させるかもしれんしな。
﹁そして紹介されたのが、フィーナ・ベドナレクという女性です﹂
脚本はこうだ。
グリルパルツァー商会がオストマルク帝国内部の情報を収集する。
それをフィーナ・ベドナレクという仲介役を経由して俺に情報が渡
される。またベドナレクは独自に帝国中枢部のパイプを持っていて、
それを俺に対して渡してくれる。
﹁対価として、何を渡すつもりだね?﹂
﹁協力してくれた対価として、私はシレジア王国政府に外国からの
投資の門戸を開放するよう訴えます。少佐の知っての通り、私には
そういうことを決められる知り合いがいるもので﹂
これは本当です。勝てば、という条件があるけど。
﹁⋮⋮そうか﹂
さてさて、少佐はどこまで信じてくれるだろうか。一応筋は通っ
てるはず。でも何ら物証があるわけではない。半分が嘘だから証拠
の出しようがないってのもある。でも少佐もこれを嘘か本当か確か
める術はないのだ。
少佐はどう判断すべきか悩んでいる。少佐に与えられた選択肢は
724
3つ。1つは俺を信じて行動の自由を与える。2つ目は全く信じな
いで大使館内に拘禁する。3つ目は協力者を犠牲にする覚悟でオス
トマルク帝国に問い合わせる。俺としては1つ目の選択肢を選んで
ほしいね。2はダメ、3つ目はもっとダメだ。最悪フィーネさんに
害が及ぶ。
さぁ言え、言うんだ! 俺に行動の自由をくれ! じゃないと物
証もなしに禁足を命じた罪で軍法会議に告発するぞ! そんな罪あ
るか知らないけどね。
と、願いが通じたかどうかは知らないが、少佐は大きくため息を
吐いた。
﹁⋮⋮先ほどの命令は撤回する。存分に職務に励みたまえ﹂
﹁了解です!﹂
やったぜ。
⋮⋮今度からもうちょっと気を付けて行動するか。
725
現世の沙汰も金次第
大使館内でダムロッシュ少佐に制止させられ危うく禁足を命じら
れるところだった。しかし俺は巧みな話術によりそれを躱し愛しの
ベドナレク准尉、もといフィーネ・フォン・リンツ伯爵令嬢と出会
ったのだ! ということを半分脚色、半分誇張してフィーネさんに
自慢してみたのだが、
﹁⋮⋮あ、申し訳ありません。全然聞く気がありませんでした﹂
知ってた。
2月28日午後0時。昼時の飲食店というのはどの世界でも、ど
の国でも混雑するものである。
レストラン
で、ここは弁務官府近くの喫茶店でも貧民街付近の大衆食堂でも
ない。中心市街にある中間層向け飲食店だ。ああいうことがあった
ストーカー
ので場所を変えてみたのだが、たぶん殆ど意味はないだろうね。今
日は追跡者はいないし、フィーネさんの随員︵と俺の財布事情︶が
苦労するだけだ。もうちょっと安い店探そう⋮⋮。
﹁でもアドバイスありがとうございます。今度からは男性名に⋮⋮
そうですね、アルベルト・ジューレックとかにしておきます﹂
﹁⋮⋮まぁ、使う機会があればの話ですけどね﹂
・
ダムロッシュ少佐にはフィーナさんと俺が会って情報交換してる
ことは知られてるし、今更誤魔化して名前を変えたところでどうし
726
ようもないだろう。
ちなみにジューレックとはシレジアの郷土料理である。ちょっと
酸っぱいスープで、前世日本における味噌汁的なポジションに居座
っているメジャーな料理だ。てかシレジアの料理ってみんな酸っぱ
い気がするな。実際はそんなことないんだけど、感覚的に多い気が
する。
﹁それで、今日は一体どのようなご用件で?﹂
﹁あぁ、はい。ちょっと待ってください。もう1人来るので﹂
﹁もう1人?﹂
﹁えぇ⋮⋮あぁ、来ましたよ。彼女です﹂
フィーネさんは入口の方を見やった。そこには、今オストマルク
帝国で最も調子が良い会社の社長令嬢がいる。
﹁始めまして。リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー
と申します。以後お見知りおきを﹂
相変わらず気品溢れる、ザ・富裕層のオーラを出しているリゼル
さん。中間所得層が利用するレストランにすごく似つかわしくない。
でも高級レストラン行けるだけの財力がないんや⋮⋮みんな貧乏が
悪いんや⋮⋮。
ちなみにリゼルさんは1人じゃなかった。リゼルさん後ろには黒
服の恰幅のいいオッサンが2人ピッタリとくっついてる。2人とも
プロレスラーみたいな体つきをしていたが、1人は女性物の革の鞄
を持っていた。なにそれ、そういう趣味なの?
﹁⋮⋮リンツ伯爵の娘、フィーネ・フォン・リンツです﹂
なぜかフィーネさんの警戒レベルが1上がった気がする。いや上
727
げないでくださいよ。味方だよ今の所は。
﹁貴族の御令嬢方にとっては粗末な店で申し訳ありません。ですが
わたくし
私の器量ではこれが精一杯でして⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ。私も噂のリンツ伯爵令嬢に会ってみたかったので﹂
あの、フィーネさんこっち見ないでください。あと若干目のツリ
具合がきつくなった気がするよ。私はフィーネさんの陰口とかして
ないからさ。
﹁それで、グリルパルツァー男爵家の娘さんを御呼びになって、今
日は一体何の用なんですか大尉﹂
﹁え、あの、いや、情報交換をですね、その⋮⋮﹂
怖い。なんか彼女の発する言葉ひとつひとつに陰惨な怒気が混じ
ってる気がする。フィーネさんはサラみたいな即効性の毒の吐き方
じゃなくて、毒キノコみたいにジワジワと体の内部を破壊する毒を
吐くのだ。
コホン。落着け俺。いくらフィーネさんがダムロッシュ少佐より
おとこ
恐ろしいと今更分かったところでどうしようもない。ここは年上ア
ンド階級上として漢らしくビシッと⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
あの、そんな蛇みたいに睨まないで。蛙になっちゃうから、身動
き取れなくなっちゃうから。
フィーネさんの石化魔法を一身に浴びた俺はとうとう口以外を動
かせなくなってしまった。仕方ないので口を一生懸命動かして解呪
を試みる。頑張れ俺。
728
﹁えー、本日リゼルさんを呼んだのは3人で情報交換するためです。
まずはこれを御二方に御見せいたします。あ、それは後で返してく
ださいね﹂
俺はそう言って懐から、エミリア王女が考え抜いて、そしてシレ
ジア王国総合作戦本部が採択した帝国軍の迎撃作戦案だ。
彼女らの反応は薄い。当たり前だがリゼルさんは軍人ではないし、
フィーネさんも用兵は疎い人だ。
わたくし
﹁⋮⋮私は用兵というものはわからないのですが﹂
﹁私もです﹂
﹁分からなくてもいいですよ。ただ﹃シレジア王国は迎撃作戦案を
ちゃんと用意している﹄と言いたかったのです。それは、その証拠
です﹂
口だけではどうとでも言える。だからこうして作戦案を見せたの
だ。当然軍事機密の漏洩に当たるから、もしばれたらクビだね。今
はこの2人を信頼して見せてる。と言っても長々と見せるわけには
いかないからすぐに返却を要求する。
﹁それで、この作戦が実行に移されたとしてシレジア王国の勝率は
如何なものになりますか?﹂
リゼルさんは俺に作戦説明書を返却しながら言った。つまり彼女
は﹁我が商会が投資した分はちゃんと回収できますよね?﹂と言っ
ているのだ。安心してください。損はさせませんよ。
﹁勝率は今のところ半々と言ったところですね﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
729
さすがに商会の命運を懸けた商談だから半々じゃ納得しないよな。
でも嘘は吐けない。今後ともグリルパルツァー商会とは長い付き合
いにしたいしね。
さて、どうやって説得するか。そう思ってたところ、フィーネさ
んが得心がいったかのように静かに頷いた。
﹁なるほど。そう言うことですか﹂
彼女は小さな声で、でもハッキリ俺らに聞こえる澄んだ声でそう
言った。何が分かったんだ?
﹁グリルパルツァー男爵令嬢。この投資、受けねば損ですよ﹂
﹁というと?﹂
﹁我がオストマルク帝国外務省は、彼の国に対して協力することを
既に決定しています﹂
﹁ほう﹂
なんかフィーネさんが商談を引き継いだ。口ぶりだけだと﹁オス
トマルクは直接の軍事協力をするよ﹂って言ってるように聞こえる
が実際はそうじゃない。今は情報を共有しているだけだ。でも、軍
事の専門家ではないリゼルさんにはこういうのはわからないだろう。
﹁つまり、シレジアが勝つ公算が高くなると?﹂
﹁いいえ。このままでは勝率は五分のままでしょう﹂
兵員を送ってくれるわけでも共闘してくれるわけでもないからね。
﹁でも、グリルパルツァー商会が受ける損害が小さくなるのです﹂
730
え? そうなの?
﹁⋮⋮どういうことでしょうか、リンツ様﹂
﹁オストマルクとシレジアが手を結ぶと分かった途端、おそらく東
大陸帝国皇帝派は瓦解します。シレジア王国を滅ぼして自らの権勢
を確固たるものにせんとする皇帝派にとって、オストマルク帝国と
いうシレジアより巨大な国家を敵に回したとあっては国内の反発を
招くことは必至です。小国のために大国の怒りを買ったのですから﹂
﹁さすれば皇太大甥派の発言力が強まる、と?﹂
﹁はい。もしそうなればグリルパルツァー商会の情報のやり取りが
問題視されることはないでしょう。他国の商会を気にしてる暇など
ないのですから﹂
なるほど。やっとわかったわ。
シレジア王国が勝つことが、グリルパルツァー商会にとっては最
善手だ。
ではグリルパルツァー商会にとっての最悪手は何か。それはシレ
ジアが滅び、東大陸帝国がグリルパルツァー商会を市場から追い出
すことだ。
でも、オストマルクとシレジアは協力関係にある。こういう状況
でシレジアを滅ぼしたとしても東大陸帝国はオストマルク帝国とい
う大国を敵に回す。下手を打てばリヴォニアやキリス第二帝国も一
緒になって楯突くかもしれない。そうなれば、ただでさえ足場が弱
い皇帝は責任問題を免れることはできない。第一次東大陸帝国分割
戦争なんて御免だろう。すると情報を売り買いしていた親オストマ
ルクとも言える皇太大甥派の権勢が復活する。結果的にグリルパル
ツァー商会が被る損害は最初の、情報収集にかけたお金だけになり、
東大陸帝国から追い出される心配はない。
そしてシレジアが勝てば何も問題ない。東大陸帝国の市場から追
731
い出される大義名分はないし、シレジア王国の王室にコネが作れる。
さらにはオストマルク帝国政府に協力したとして何かしら有利な動
きがあるかもしれない。
まさにグリルパルツァー商会にとってローリスク・ハイリターン
な商談だ。一番の損害を受けるのはシレジアと東大陸帝国になりそ
うだな。漁夫の利できる国って羨ましいね。
﹁⋮⋮﹂
リゼルさんはフィーネさんの言葉を噛み締め、脳内で吟味してい
る。果たしてこの話が本当なのか、本当だとして乗るべきなのか、
そう考えているのだろう。
じゃ、俺はあと一押しをしよう。
﹁もしここでこの商談に乗り、グリルパルツァー商会が情報収集に
全力を挙げ、そして東大陸帝国軍の具体的な配置状況、編成を知る
ことが出来ればシレジア王国の勝算は非常に高くなります﹂
たぶん八割勝てる。少なくとも八割は負けない。つまり、八割方
投資回収できる商談と言うわけだ。俺に金があったらじゃんじゃん
投資するね。
リゼルさんはプラチナブロンドの髪をやや大袈裟に振ると、毅然
とした顔つきで俺を見、そして言い放った。
﹁わかりました。その商談、乗りましょう﹂
取引が成立した瞬間、リゼルさんは護衛の1人に何かを指示した。
指示を受けた護衛は持参していた鞄の中からひとつの書類を出した。
なんだろうか。契約書か? そう思って渡された書類を見てみると
732
違った。中身は細かな名簿、それに地図。地図はシレジア東部国境
周辺図だ。それに駒のように配置されている記号、そして矢印。も
しかしてこれって⋮⋮?
﹁ワレサ大尉。それが東大陸帝国シレジア討伐軍の詳細な配置状況、
及び作戦概要です﹂
金の力、恐るべし。
733
陣容
リゼルさんが提供してくれた帝国軍の情報は興味深いものだった。
帝国軍の前線戦力は40個師団。それを10個師団ずつ4つに分
け、4つの街道を使いシレジアに侵攻してくる。当面の戦場として
予想されるのはシレジア東部国境付近、北東部のアテニ湖水地方、
中北部のオスモラ、中南部のザレシエ平原、そして南東部にある小
都市ヤロスワフ。
総司令官ロコソフスキ元帥が指揮するのは中南部のザレシエ方面。
おそらくそのままシレジア国内有数の経済都市クラクフスキ公爵領
都クラクフを落として自分の物にしたいんだろうな。ダメだよ、ア
レはマヤさん一家の物だ。ロコソフスキとか言うハゲのオッサンに
は渡さん。ハゲかどうか知らんけど絶対ハゲだ。
ハゲ元帥のことはともかく、もし帝国軍がこの作戦通りに侵攻し
てきた場合、エミリア殿下が立案した迎撃作戦案は非常に有効なも
のになるだろう。これを早くエミリア殿下の下に届けなければなら
ない。
だが、少し遅かった。エミリア殿下は高等参事官として既に王都
を離れ、東部国境に向かったと言う。これではいつもみたいにオス
トマルク大使館を経由した情報のやり取りはできない。ダムロッシ
ュ少佐に正直に話して普通に送ってもらうのも手だけど﹁この情報
はどこから手に入れたんだ。信頼に値するのか﹂と言われると些か
面倒だ。交渉内容またでっちあげるのも大変だし。
﹁多少面倒ですが、オストマルク大使館の者に運ばせましょう。東
部国境へ観戦武官として派遣する名目で向かわせれば怪しさは薄れ
734
るはずです﹂
とのフィーネさんからのご提案。もう頭上がらないです。
﹁すみません。お願いします﹂
﹁構いませんよ。謝意はいずれ形のあるものでお願いします﹂
あゝ、金がまた天へと昇って行く⋮⋮。
−−−
ユゼフがなけなしの給料を犠牲にして送った帝国軍の情報がシレ
ジア東部国境にいる高等参事官の手元に届いたのは3月15日の事
である。
帝国軍がどのような布陣をするか不明だったため、シレジア王国
軍はとりあえず東部中央の地方都市シドルツェ郊外に集結し迎撃の
備えをしていた。
﹁ギリギリ間に合いましたね﹂
﹁えぇ。ユゼフさんには後日お礼の品を送った方が良いでしょう。
情報協力者にも﹂
部隊が各方面に展開するにはそれなりの時間がかかる。また当面
の戦場となる地点で有利に防御できるよう地形改良する時間も欲し
かったため、2週間は欲しかったとこだった。ユゼフからの情報提
供はまさに間一髪だったのだ。
735
﹁この情報を下に部隊を展開しましょう。早速、総司令官に上申し
ます﹂
シレジア王国軍は既に動員をほぼ完了させ20個師団を保有して
いる。そして外交交渉によって他方面の守りを気にする必要がなく
なったため、王国軍のほぼ全軍が東部地域に集結していた。
王国軍20個師団を指揮するのは総司令官ジミー・キシール元帥、
副司令官にジグムント・ラクス大将、参謀長レオン・ウィロボルス
キ大将。司令部をシドルツェに配置し万全の態勢で帝国軍を迎撃せ
んとしていた。迎撃軍司令部の殆どは大公派の高級軍人だったが、
国家が危急の際に立っていること、また王女と大公が一時的にせよ
協力していることから、王女の存在を邪魔に思いつつも公正に扱っ
ていたとされる。
その王女、いや高等参事官エミリア少佐が帝国軍の具体的な配置
情報を持参してきたとき、司令部は大いに動揺した。親東大陸帝国
派である自分たちでさえも得られなかった情報を、大公の政敵であ
るエミリア少佐が持っているのだから。
キシール元帥はこの事態に動揺しつつも、総司令官としての職務
をこなした。そしてこの情報が恐らく真実であることを理解すると、
情報を持ってきたエミリア少佐と相談し最終的な決定が下された。
﹁これより作戦行動に移る。各員の奮闘に期待する﹂
キシール元帥は部下たちに静かにそう伝えると、各部隊の配置を
急いだ。
736
−−−
20個師団、約20万人の兵員を動かすには莫大な食糧が必要に
なる。飲料水に関しては初級魔術によって水を召喚できるため多少
は楽だが、残念ながら食糧を召喚する魔術はまだ発明されていない。
また武器に関しても同様で基本的に使い捨てである弓矢、斬れば斬
るほどただの鉄の塊になる剣や槍を筆頭に大量の予備の武器、及び
整備点検の道具が必要となる。それを一手に引き受けるのが、補給
参謀の主な仕事なる。
迎撃軍は補給参謀ポール・バビンスキ少将以下4名と、補給参謀
補10名によって20万人の胃袋を支えている。その補給参謀補の
一人に、ラスドワフ・ノヴァク中尉がいた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
まさか自分がこんな大きな仕事をするとは思わなかった中尉は呆
然としつつも目の前に山積している書類の処理にかかった。将兵2
0万人、一度戦闘が始まれば膨大な量の物資が消費され前線から要
望書が矢のように降り注ぐ。要求される物資の量は刻一刻と変わる
上、要望書は減ることはなく増える一方。さらに適切な量を送ろう
にも、輸送途中に物資が損壊し何にも使われることなく廃棄される
ことも多い。
ラデックは、この途方もない戦いに身を投じ前線を支えることに
なった。前線は勝つにせよ負けるにせよ、エミリアやサラと言った
人間がいる限り派手で華麗な戦いとなるだろうが、それを支える補
給参謀補の仕事はいつも地味でお堅い、そして文章にしづらい事の
連続である。
737
﹁はぁ⋮⋮﹂
この哀れな補給参謀補の戦いはまだ始まったばかりである。
−−−
全ての準備が整ったのは、大陸暦637年3月25日のことだっ
た。
738
回想︵前書き︶
簡単な図説つきです
739
回想
それは、大陸暦632年5月28日のことでした。
私はその時はまだ11歳で、士官学校の1年生。本当の身分を隠
し、エミリア・ヴィストゥラと名乗りながら士官学校生活を営んで
いました。
そして私の所属する学級の何人かは毎日のように自主的に居残り
授業をして自らの能力を高めていました。私もそれに参加し、皆と
経理
共に研鑽に励みました。マヤから剣術を、サラさんから馬術・弓術
を、ラデックさんから算術を、そしてユゼフさんから戦術・戦略を
学び、そして私は魔術を皆さんに教える日々を送っていました。
そしてこの日の放課後は、ユゼフさんの戦術・戦略の授業でした。
きず
彼が戦術と言うものを語るときは目が少し輝いてます。ただ長く喋
りたい、って思いが強いせいか些か説明の仕方が下手なのが玉に疵
です。
−−−
﹁時代がどんなに移り変わろうと、魔術や技術がどう進化しようと、
戦争の必勝法ってのは変わらないんだ﹂
740
彼はそう切り出し、授業を始めます。
﹁必勝法なんてものがあるのかい?﹂
マヤから当然のように質問。必勝法なんてものがあるのなら、誰
もがそれを実行するはずです。みんながみんな同じ方法を使ってし
まえば意味はないでしょうに。
﹁ありますよ、ヴァルタさん﹂
﹁それは一体なんだい?﹂
﹁簡単なことですよ。﹃敵より多くの兵を集める﹄ということ。た
だそれだけです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
マヤは少し拍子抜けな表情をしています。どんな壮大な戦術理論
が飛び出してくるのか期待していたのに、結局はただの単純な足し
算・引き算だったのですから。
この回答に他の受講者、特にサラさんはあからさまに不満顔を見
せています
﹁⋮⋮なんかつまんないわねそれ﹂
﹁戦争が面白いと感じたら、それはそれでダメだよ﹂
ワレサさんはそう言いましたが、サラさんの言う通りこれではつ
まらないのも確かです。
﹁つまりあれか? 戦争に備えて多数の兵と武器を集めて、それを
養える国が勝つ! ってことか?﹂
﹁そういうことだね。大国がなぜ強いのかと言われる所以は、ラデ
ックの言う通りたくさんの兵を養えるからさ﹂
741
﹁なんだかなぁ⋮⋮﹂
﹁まぁみんなの不満も分かるよ。数だけ集めて敵にぶつける、って
だけじゃ芸がない﹂
ワレサさんは困ったかのように頭を掻きます。理屈は分かるので
すが、彼自身不満も多いってことなのでしょう。
でもここで止まってしまっては、居残りをする意味はありません。
この居残り授業は受動的ではなく、こちらから積極的に意見を言っ
て研鑽を積むのが目的です。
私は右手を静かに上げ、ワレサさんに意見、いや質問をぶつけま
す。
﹁ワレサさん。質問よろしいですか?﹂
﹁どうぞ、エミリア様﹂
﹁ありがとうございます。ワレサさんの言っていることはわかりま
すが、本当に数の差が戦力の差なのですか? 戦史と言うものには、
少数の兵によって多数の兵を打ち破った例が多くありますが﹂
私がそう言うと、ワレサさんは﹁その質問を待っていた!﹂と言
わんばかりの目をした。
﹁エミリア様の仰る通りです。戦史には、1万の兵で2万の兵を追
い払った戦いと言うものがあります﹂
﹁では、数の差は戦力の決定的な差ではないということですか?﹂
﹁いいえ。数の差は決定的な戦力の差です。それは原則にして真理
です。たとえ一騎当千の英雄なる者がいたとしても、1人では1千
人の兵を倒すのが限界。1千人と1人をけしかければ一騎当千の英
雄は倒れるでしょう。ましてやよく訓練された兵でも一騎当三が限
界なのです﹂
﹁⋮⋮納得いきませんね﹂
742
本当に。これでは軍事小国たるシレジア王国は滅亡してしまうで
はないか。その時思ったことは、ただそれだけでした。
﹁ですが先ほど言ったように、寡兵で以って大敵を追い払った例は
いくらでもあります。今日はその術を教えましょう﹂
﹁お願いします﹂
ワレサさんは一度咳払いをすると、黒板に何やら図を描き始めま
した。左側に﹁凸﹂が2つ、右側には3つ、それが相対しています。
左側に2個師団、右手に3個師団が存在する戦場という想定でしょ
うか。
﹁この黒板会戦に参加した兵力は西軍2個師団、東軍3個師団。こ
こは平原地帯で遮るものは何もない。両軍の魔術技量や兵の練度、
各師団長の能力は同じだとして⋮⋮じゃあサラ、この場合どっちが
有利だい?﹂
﹁左が私たちの軍勢だったら左の勝ちね﹂
サラさんのこの発言は、自らの能力に自信を持っていると言うよ
り、仲間の能力を信頼していると言った感じです。
﹁いや、残念ながら俺らはまだ士官候補生だからこの黒板会戦には
参加していないかな﹂
﹁じゃ、右が有利ね。さっきのユゼフの話を聞く限り﹂
サラさんはあっさりと前言を翻します。
﹁うん。正解。右、もとい東軍は何も考えずただ前進すれば左軍を
圧殺できる。東軍1人が西軍1人と心中するような戦術を取ったと
743
しても、東軍は1個師団残る。じゃあ次﹂
ワレサさんは黒板消しで以って、東軍を一撃で粉砕します。哀れ
にも人っ子一人残っていませんでした。
そしてまた新しく師団を召喚させます。今度もまた3個師団、し
かしさっきのとは違い上下に⋮⋮いえ、戦場に上下はありませんか
ら、この場合は南北に離れて布陣しているということでしょう。上
から順に1、2、3と番号がふられています。
<i152033|14420>
﹁さて今回の第2次黒板会戦の場合、東軍は戦略的な理由でやむを
得ず3個師団を3つに分け、3方向から進撃してくる。西軍はこれ
を迎撃しようと2個師団を派遣した。条件は、配置以外は同じ。じ
ゃあ⋮⋮ヴァルタさん。この場合、どっちが勝ちます?﹂
﹁えっ⋮⋮数だけの勝負なら東軍だが⋮⋮。でもそれが答えなら、
わざわざ書き直したりしないよな? 西軍が勝つ要素があるってこ
とだろ?﹂
﹁ま、確かにそうですね。ヴァルタさんの言う通り、西軍もある意
味では有利です﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁西軍が数の上で有利に立っているからです﹂
マヤは首を傾げました。と言うより、教室中にいる皆が首を傾げ
ています。私も意味が分かりません。
﹁あー⋮⋮ユゼフ。もうちょっとわかりやすく﹂
﹁まぁ待てラデック。順番に説明するから﹂
744
ワレサさんは黒板にまた何かを書き込みます。西軍の正面から伸
びるように矢印が、これは部隊の行動線でしょうか? つまり西軍
が前進して、真ん中の東軍第2師団に突撃しているということです
か。
<i152034|14420>
﹁さて、今度は視野を狭めてみましょう。マヤさん、この西軍と東
軍第2師団。勝つのはどっちですか?﹂
﹁西軍だ。数が倍も違う﹂
﹁正解です。西軍は全体の兵力では2対3で負けています。しかし
この真ん中の戦い、ただこの一点のみに限れば、一転して数の有利
は西軍に傾きます。2対1、何もない平原での決戦であればまず負
けません﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
皆が納得したかのように頷きます。これなら、殆ど完全勝利に近
い形で東軍1個師団を撃滅できるでしょう。
﹁そして残った東軍2個師団も上下に分かれているから、真ん中倒
したら①か③のどっちかを叩けばいいってこと?﹂
﹁サラさん正解﹂
﹁殴られたいの?﹂
﹁ごめんなさい﹂
2個師団で東軍中央の1個師団を討ち、その後南北好きな方の敵
1個師団を2個師団で討つ。そして最後に残った方を討つ。という
ことになりますね。これなら全体の数で負けていても西軍が勝てま
745
す。
﹁局地的な数の有利を作り出して敵を各個撃破する。昔の偉い人は
言いました。﹃我が全力で以って敵の分力を叩く﹄とね﹂
﹁誰がそんなこと言ったんだ?﹂
﹁⋮⋮あー、ソンシ?﹂
﹁変わった名前だな⋮⋮﹂
私も寡聞にして聞いたこともないですが、理屈は通っています。
でも疑問はいくつか残ります。
﹁ワレサさん。よろしいですか?﹂
﹁なんでしょうか、エミリア様﹂
﹁もし西軍が中央を全力で叩いたことを東軍が知ったら、東軍は南
北に分かれている師団を集結させればいのでは?﹂
﹁鋭いですね。でも、どうやって集合させますか?﹂
﹁えっ?﹂
﹁どこそこの地点に集合する、というのは信号弾だけじゃ伝えきれ
ません。伝令の馬を出すしかありませんが、中央が突破されている
ため容易ではないでしょう。伝令の馬でやり取りするのは時間もか
かるし効率が悪い。そんなやり取りをしてる間に、西軍は南北どち
らかに転進して各個撃破する、という事態に陥るかもしれませんね﹂
﹁そう、ですね﹂
ワレサさんに戦術で勝てる、と思って言ってみましたが。どうや
らダメみたいです。
﹁いや、でも悪くない案ですよ。もし東軍の第1、第3師団の指揮
官が優秀であれば、一度部隊を集結させるでしょう。そうすれば東
軍は2個師団です。そして西軍は東軍第2師団と交戦した影響で数
746
も減り、将兵の体力も減っているはず。その場合同じ2個師団でも、
東軍有利に事態を運ぶことが可能でしょう﹂
﹁なるほど⋮⋮。そうすれば、全体兵力で有利という差を東軍は生
かせますね﹂
﹁そういうことです﹂
難しいものです。戦術というのは。
﹁エミリア様が先ほど言った少数の兵で多数の敵を打ち破った戦い
というものの半分くらいは、この各個撃破によるものと言っていい
でしょう﹂
﹁んじゃ、残りの半分は?﹂
﹁残りは地形とか奇襲とか、あとは指揮官の無能さとか﹂
﹁最後は救いようがないわね﹂
﹁まったくもってそうだね。でも、そんな無能の下で戦う羽目にな
る兵にとってはもっと惨い話だよ。そうならないために、今頑張っ
て勉強してるわけだけどさ﹂
そう言うとユゼフさんは、第2次黒板会戦を強引に終了させ、実
際に大陸で起きた各個撃破の戦例を紹介に入りました。
−−−
﹁⋮⋮殿下。エミリア殿下﹂
﹁⋮⋮ん、あぁ⋮⋮。マヤ⋮⋮﹂
﹁お疲れですか?﹂
747
﹁あぁ、私寝てしまったのですか⋮⋮﹂
私は気づけば、シレジア迎撃軍司令部に設置された私の執務机で
眠っていたようです。
﹁ここ最近、働きすぎですよ。開戦まで間もないのですから、ゆっ
くり休んでください。後は私に任せてください﹂
﹁いえ、そんなことは⋮⋮﹂
そんなことはない。まだ行ける。そう言おうとしたが、まだ眠気
が残っていた。手足も、思うように動かない。疲労している証拠だ。
﹁マヤは大丈夫なのですか?﹂
﹁えぇ。エミリア殿下と違って、鍛えていますので﹂
﹁まるで私がもやしみたいじゃないですか。私だって⋮⋮﹂
私だって、鍛えたはずだ。でもここ最近は高等参事官としての事
務仕事が多くて、剣の稽古などしてなかった。
﹁すみません。お言葉に甘えて、休ませていただきます﹂
﹁えぇ。ごゆっくり﹂
私は執務室から出て、女性用兵舎に向かおうと戸を開ける。でも
その前に、忘れる前にマヤに伝えないと。
﹁マヤ。この戦争に勝ったら久しぶりに剣の稽古をつけてくれます
か?﹂
マヤは、少し意外そうな顔をした後、疲れを見せない元気な笑顔
で返事をした。
748
﹁ビシバシと鍛えて差し上げますよ﹂
﹁ふふ。楽しみです﹂
私は満足の行く答えを聞くと、戸を閉めました。
大陸暦637年3月26日午後8時のことです。
749
3月31日
3月31日。
おそらく明日戦端が開かれる。そう思うと仕事に手がつかない。
フィーネさんからの話によると、東部国境にはエミリア殿下始め、
サラもラデックもマヤさんもいるらしい。みんなこんな俺よりよっ
ぽど優秀な人間だ。エミリア殿下の作戦案を見た限り負けはしない
だろうが、理論と実戦が異なるのも確か。せめて皆無事に生き残っ
てほしいが⋮⋮。
﹁手が止まっているぞ。ワレサ大尉﹂
﹁あ、すみません少佐⋮⋮﹂
今日何度目かの注意を受け、目の前の書類を処理することに専念
しようとする。が、その意気込みも5分と持たずまた手が止まって
しまう。そしてダムロッシュ少佐に注意され⋮⋮以下無限ループ。
そんな俺を不憫に思ったのか、それとも邪魔に思ったのか、ダム
ロッシュ少佐は提案した。
﹁⋮⋮今日はもう休め﹂
﹁はい?﹂
現在時刻はまだ昼の1時。まだ仕事は半分、どころか三分の一も
終わってない。ここで休んだら仕事が溜まるってレベルの話じゃな
い気がするのだが。
﹁後は私がやる。だから休んで良い﹂
750
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁貴様が情報収集と称して外出していた際、事務の一切を仕切って
いたのは私だぞ。今更ワレサ大尉がいなくなったところでなんとも
ない。それに今日は役立たずみたいだしな﹂
何も言えねぇ。俺は知らない内に少佐に迷惑をかけていたようだ。
大公派の士官であるダムロッシュ少佐に仕事を押し付ける農民出身
で王女と面識がある新任の次席補佐官︵15歳︶。
うん、教えてくれ。なんで俺はまだ生きてるんだ。
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁構わん。さっさと行け﹂
ダムロッシュ少佐は俺と目を合わせることなくそう言って﹁出て
行け﹂のジェスチャーをする。本当に
ごめんなさい。
気分転換に外出し、散歩をする。と言ってもエスターブルクで俺
リリウム
が行くところと言うのは限られている。東大陸帝国弁務官府前の喫
茶店﹁百合座﹂くらいなものだ。
いつの間にか常連になったためか、店の人にも顔を覚えられてし
まったようだ。いつもの席空いてますよと言った感じの接客をされ、
何も頼んでないのにコーヒーと菓子が出てくる。そして20分程、
窓の外の弁務官府を観察していると、最近よく聞く声の持ち主に話
しかけられるのだ。
﹁祖国が危急の際に立っていると言うのに、随分のんびりしている
のですね?﹂
751
俺は窓に反射して映る彼女の目を見て応答する。
﹁やることはやりました。後は神に祈るだけです﹂
﹁私には祈ってるようには見えませんが?﹂
そう言いつつ彼女はいつも通り俺の許可を求めずに真向かいに座
り、そしてさも当然のように注文する。今日も俺の支払いになるの
だろうか。
﹁自分の信仰する神は願いを叶える類のものではないので﹂
﹁おや。ではどんな神なのです?﹂
﹁戦場の女神、と言ったところでしょうか。この神に対しては祈り
ではなく具体的な提案をする方が効率が良いんですよ﹂
﹁なるほど。確かにその神相手では祈っても徒労に終わるだけでし
ょうね﹂
彼女も彼女で俺の顔を見ようとしない。これもいつも通りだ。
﹁⋮⋮今日は一段と様子がおかしいですね。気持ちはわかりますが﹂
ポーカーフェイス
﹁あら、わかってしまいますか﹂
﹁えぇ。あなたは無表情が得意ではないので、すぐにわかるのです
よ﹂
おかしいな。少佐に通せんぼされて以来結構頑張って練習してる
んだが。
﹁今はただ待つしかないでしょう。我々の腕はシレジアに届くほど
長くはないのですから﹂
﹁待つのは苦手なんですよ﹂
752
デートで彼女に﹁ごっめーん! 待ったぁ?﹂なんてチャラい感
じで言われたらその瞬間別れるくらい待つのは苦手だ。待つのが嫌
だから約束には遅刻するのが常套手段だ。
﹁大尉は先月まで献身的な働きを見せ、そして祖国を救う一助とす
る情報や関係を手に入れた。十分働いたではありませんか﹂
﹁⋮⋮珍しいですね。貴女が人を褒めるなんて。明日は雪ですか?﹂
﹁私だって褒めるときは褒めます。褒める機会がなかっただけです。
あと4月に雪が降ることもありますよ﹂
﹁それは驚きですね﹂
今更褒められても実感湧かないし、雪が降っても喜べるような歳
でもない。雪が降ったら通勤が大変だとか、雪かきが面倒だとかし
か思わないしな。あ、でも冬服の女性は魅力的だと思う。
﹁いつまで弁務官府を覗いているんですか?﹂
﹁飽きるまで、ですかね﹂
﹁そろそろ飽きたらどうですか?﹂
﹁その帝国語は少しおかしいのでは⋮⋮﹂
ま、でもそろそろ飽きてきたのも確かだ。弁務官府は誰も出入り
しなかったし、道行く人もオッサンばっかだった。
そして今日初めてフィーネさんを窓ガラス越しではなく直接見た。
いつもと同じように中間所得層の服だが、少し違う点がある。
﹁⋮⋮服の色が少し明るくなりましたね﹂
冬から春に季節が移り変わったせいなのだろうか。意外とオシャ
レに気を遣うのかな。
753
﹁その言葉、十分前に聞ければ嬉しかったのですが少し遅かったで
すね﹂
﹁それは残念です﹂
最初から彼女の事を見てれば好感度うなぎ上りだったのに、惜し
いことしたかな。
﹁⋮⋮国際情勢とやらも、上着みたいにすぐに変えられる物だとい
いんですが﹂
﹁残念なことに小さな服を着ただけでは﹃減量に成功したんだ﹄と
は言えませんよ﹂
﹁でも、必死に努力して食事を減らして運動を増やしても失敗して
元の体重に戻ることもある。そうなると、何の為に俺は頑張ってい
たのかと考えてしまうのですよ﹂
﹁堂々巡りですね。何度も言いますが﹃人事を尽くして天命を待つ﹄
ですよ﹂
﹁⋮⋮本当に尽くせたか、不安ですがね﹂
俺がやったことと言えば、単にオストマルク帝国外務省と交渉し
ただけだろう。情報収集はフィーネさんやリゼルさんに任せっきり
だったし、その情報を送ることだってフィーネさんらがやっていた
のだ。人事を尽くしたのは、むしろフィーネさんの方だ。
﹁貴方は外交官、しかも大使館附武官でもなく特命全権大使でもな
い。ただの駐在武官です。その貴方がここまでやったのは、むしろ
偉業とも言えることですが?﹂
﹁持ち上げても何もでませんよ?﹂
﹁それは残念です。褒めた甲斐がありませんね﹂
754
彼女はそう言うと優雅に紅茶を飲む。こういう事はザラなので、
例え本心で褒められても何か裏の意味があるに違いない、そう思っ
てしまうのが悲しいところだ。今のは確実に本心じゃないだろうけ
ど。
﹁まぁ、私にしては上出来だったとは思います。でも外交官として
見たら落第点でしょう﹂
﹁そうですか?﹂
﹁えぇ。結局、戦争を止めることはできなかったのですから﹂
昔の偉い人は言った。﹁戦争は外交の延長線上にあるものだ﹂と。
それは外交によって戦争回避を模索して、それでも無理なら仕方な
く戦争という意味だ。でも今回、東大陸帝国相手に外交なんてもの
はしなかった。オストマルク相手にしたって、戦争回避のための交
おこ
渉はしなかった。努力もないまま戦争に突入して、それで天命を待
つなんて烏滸がましいことだと思う。
﹁それは無理でしょう。今回の戦争は皇帝イヴァンⅦ世の独断、そ
れに貴方に権限は⋮⋮﹂
﹁確かにそうですが、もっとやりようがあったと思うんですよ﹂
東大陸帝国相手は、確かにどうにもならなかったかもしれない。
でもオストマルク相手ならどうだろう。例えばシレジア=オストマ
ルク同盟を結ぶことは、強大な抑止力になったはずだ。実際に結ば
なくても、皇帝派にそれとなく情報を流せば皇帝が思い留まってく
れた可能性もある。
外務大臣クーデンホーフ侯爵相手にも、もうちょっと有利な条件
が引き摺り出せたのではないかとも思う。公式の同盟ではなく、ラ
スキノみたいに義勇軍の派遣を要請できたのではないだろうか。そ
755
れができないにしても、物資や武器の供与の条件も付けられなかっ
ただろうか。そうすればもっと勝算があったかもしれない。
それにこの戦争に勝てた場合、第60代皇帝になるのは間違いな
く皇太大甥セルゲイ・ロマノフだ。彼が帝位に着いた場合、シレジ
アにどういう影響を与えるのだろうか。むしろ皇帝派に味方して東
大陸帝国内に内戦構造を生み出した方が良かったのではないか。
そんな風に、結論もなくただ延々と悩み続ける俺に対して、フィ
ーネさんはただ短く小さな声で言った。
﹁⋮⋮少なくとも貴方は、大陸の歴史を動かしましたよ。それを誇
りに思ってください﹂
誇りに思うか、恥に思うか、まだ判断するときではないだろう。
俺は暫く何も言えず、冷めきったコーヒーを口に入れることしか
できなかった。
⋮⋮苦い。
756
春の到来
政府や一部の高級官僚の思惑はともかく、前線に立つ将兵の心境
と言うものは主に2つに分類される。
ひとつは戦って得る物を重視する心。﹁勝てば領地が貰える﹂﹁
勝てば出世ができる﹂﹁武勲を立てれば貴族になれる﹂などなど。
そういう考えを持って自己の戦闘意欲を向上させる、もしくは率い
る兵の士気を高める。
体裁はどうあれ侵略軍である東大陸帝国軍将兵においては、この
心が重視された。討伐軍総司令官ロコソフスキ元帥は全軍に、最前
線に立つ農奴1人1人に対して信賞必罰の考えを表明した。
﹁シレジア王国などと僭称する叛乱軍を我が帝国の正当なる力で以
って粉砕し、一切の降伏を認めず死滅させ、以って皇帝陛下の栄誉
を知らしめるのだ! シレジア国王を自称する賊を捕えた者には、
例え平民であっても恩賞は思いのままぞ!﹂
この演説によって兵の士気は高まったが、一部の高級士官の不安
は増大していた。その一人に、討伐軍中北部軍団第50師団長シュ
レメーテフ中将がいた。
シュレメーテフ中将は平民出身の将軍であり、そして先のラスキ
ノ独立戦争において帝国軍討伐部隊を指揮し、そして敗北した将軍
でもある。彼はその敗戦の責任を問われ1年間の減俸処分が言い渡
された。今回のシレジア討伐はその敗戦に対して名誉挽回の機会が
与えられた形となる。
彼は出征前のロコソフスキ元帥の演説を聞いた後、不安を隠しき
757
れなかった。
信賞必罰は軍隊と言う組織にあっては重要な考えである。失敗し
負ければ相応の罰を、成功し武勲を立てれば相応の褒美を与える。
これを公正に行えば、兵も成功しようと努力する。
だがそれを過度に喧伝すれば逆効果となる可能性がある。即ち、
将兵が自己の武勲を気にするあまり他の将兵や部隊との連携を忘れ、
それどころか友軍である味方を蹴落としてまで武勲を立てようとす
る。連携の取れない軍隊とはそれ即ち烏合の衆と言うことであり、
いかに帝国軍が数の上で勝っていたとしても不利は免れない。
だがその不安を、シュレメーテフ中将は彼の部下や同僚に口にす
ることはなかった。彼が平民で、そして敗軍の将であるという汚名
を着せられた存在であるため強く物を言えないという事情があった
からである。
ふたつ目は、負けて失う物を重視する心である。﹁負ければ家族
が殺される﹂﹁負ければ故郷が焼かれる﹂﹁負ければ更迭される﹂
などなど。そう言った心で以って﹁絶対に負けてはいけない﹂とい
う意志を持ち、士気を上げるのだ。
この心は、防衛側のシレジア王国軍において主流な考えだった。
そして指揮官たちは、殊更そう言った点を強調することはない。
﹁負ければ﹂という言葉があまりにも陰鬱でかえって士気を削ぐ可
能性がある。だが指揮官たちが何も言わなくても、徴兵された農民
たちはわかっていた。﹁負ければ大切な家族や家がなくなる﹂こと
など、歴史の教科書を紐解けばわかることだった。
﹁⋮⋮私たちは、彼らを1人でも多く故郷に帰すのが義務です。そ
758
のために全力を尽くしましょう﹂
シレジア王国軍少佐にして第一王女であるエミリア・シレジアは、
士官学校時代の友人や侍従副官にそう言ったとされる。友人たちは
強く頷き、そして自らが指揮する部下の下に駆け寄った。
どんなに泥にまみれても、どんなに恰好がつかなくても、必ず生
きて帰る。
それが、シレジア王国軍の基本理念だった。
−−−
大陸暦637年4月1日。
シレジア東部国境地帯を覆っていた雪と凍土は完全に融解し、そ
して地面も乾き始めた日。そしてそれは、軍隊の行軍に適した土で
もある。
その土を、東大陸帝国シレジア討伐軍40個師団、約40万人の
軍勢が踏み固めた。
対するシレジア王国迎撃軍は20個師団、約20万人。彼らも、
自らの故郷の土の具合を足で感じていた。
759
9時40分。
それが、シレジア王国の帰趨を決する戦いが幕を開けた時刻であ
る。
760
ザレシエ会戦 ︲会敵︲
4月1日午前10時。
東大陸帝国シレジア討伐軍総司令官ロコソフスキ元帥が直接指揮
する軍団は、シレジア王国東部国境中南部にあるザレシエ平原にお
いてシレジア王国軍と会敵した。
﹁前方に敵影! 推定4個師団が展開しています!﹂
﹁うむ。やはりここか﹂
叛乱
ロコソフスキ元帥は偵察部隊からの報告に対して満足そうに言っ
た。彼はシレジア王国軍がこの方面で展開するのであればおそらく
ここに布陣するはずだと予想していた。その予測が命中し、彼は満
足していた。
ロコソフスキ軍団は10個師団、将兵約10万3000人の大部
隊である。対して敵は4
個師団。多少の起伏がある以外は特に何もないこの平原、10対4
であれば負けるはずがない。適当な場所に本陣を置いた彼はそう判
断すると、迷いなく部下に命令する。
﹁攻撃開始。第一陣の歩兵隊を突入。両翼の魔術、弓兵各隊は第一
陣を援護せよ﹂
﹁ハッ!﹂
彼の命令はひどく簡素だった。
魔術兵の上級魔術と弓兵による遠距離攻撃を行いつつ第一陣の歩
兵隊の前進をさせる。創造性のかけらもないごく普通の、教科書通
りの戦端の開き方をした。兵力差が2倍もあるため、奇策などと言
761
うものはない。ただ兵力差に任せて押していけば敵は短期間に瓦解
するだろう。そういう意図からの命令だった。
ロコソフスキの指令は信号弾や伝令の馬によって前線に送られる。
1分もしない内に第一陣の歩兵隊は整然と前進を始め、魔術兵は詠
唱を開始した。
さらにその数分後、敵味方の部隊上空にいくつも魔術発動光が出
現した。上級魔術発動時に起きる特有の発光現象が、開戦の合図で
ある。
﹁閣下。魔術兵隊攻撃準備完了です﹂
﹁⋮⋮私の合図で信号弾を撃ち一斉攻撃、その後は任意攻撃せよ﹂
﹁ハッ。信号弾準備!﹂
ロコソフスキは丘から時機を図っていた。
味方の歩兵を巻き込まないギリギリ距離で魔術を発動させ、そし
て敵が体勢を立て直す前に歩兵を突入させる。そうすれば味方の被
害を少なくしたまま敵の先鋒を撃破できる。数分に1発しか撃てず、
射程も長いとは言えない上級魔術は、最初の1発が肝心である。
だが、彼は魔術斉射の命令を発する事はできなかった。
﹁閣下、敵の前衛が突進してきます!﹂
﹁何?﹂
ロコソフスキが戦場を見やると、確かにそこには帝国軍正面の第
一陣に猛烈に接近する王国軍の前衛部隊の姿があった。彼らは槍を
構え、雄叫びをあげながら突進してくる。
同時に、王国軍の上級魔術が発動した。魔術によって発生した火
の塊は帝国軍第一陣の後方で炸裂し、第一陣は一時的に混乱に陥っ
た。
762
ロコソフスキは事態を冷静に把握した。﹁愚策である﹂と。
﹁どうやら叛乱軍は数の不利を覆そうと一気に乱戦に持ち込もうと
しているのだろう。その手に乗るものか。第一陣は防御に徹し、両
翼を前進。そのまま敵の前衛を半包囲するのだ!﹂
−−−
ザレシエ平原において帝国軍と相対する王国軍4個師団を指揮す
るのは、王国軍総司令官ジミー・キシール元帥が直接指揮する軍団
である。そしてキシール元帥の傍らには、彼の幕僚の他に王国軍総
合作戦本部から派遣されてきた高等参事官エミリア・シレジア少佐
の姿もあった。
彼女の本来の身分を知る者、つまり王国軍の高級士官と彼女の副
官からは最前線に立つことを止められた。だが彼女はその意見を一
蹴し、あまつさえ最前線の歩兵隊に入って戦うとまで言ってのけた。
さすがにその提案はより多くの者から制止され、彼女自身も自重を
したため実現しなかった。しかしそれでも齢15にして第一王女で
ある彼女が、その身分に似合わぬ危険地帯にいるのは確かである。
﹁元帥閣下、敵の両翼、推定各1個師団が前進しています。おそら
く我が軍の前衛を半包囲するつもりなのでしょう。後退させた方が
よろしいかと﹂
総参謀長ウィロボルスキ大将はキシール元帥に進言する。
王国軍キシール軍団の編成は前衛1個師団、両翼に1個師団ずつ、
763
そして本陣には司令部直属1個師団という、王国軍にしては大規模
な編成である。しかしそれでも帝国軍の三分の一しかない。帝国軍
はその数の有利を生かし、積極的に包囲殲滅戦を仕掛けてきていた。
﹁⋮⋮高等参事官の意見は?﹂
ひそ
元帥が傍らにいたエミリアに意見を求めた時、参謀長は眉を顰め
た。正式には幕僚ではない、階級もかなり下で、そして王族という
立場を鬱陶しく思っていたとしても仕方ない。
エミリアはゆっくりと、そして毅然と元帥に向き合い、端的に自
分の意見を言った。
﹁参謀長閣下と同意見です﹂
彼女が軍隊と言う組織にいる以上、少佐らしく敬語を使った。だ
がその態度も一部の高級士官の反感を買っていた。と言うより、彼
女がこの場にいる時点で腹が立っていた。キシールの手前そのこと
を大っぴらにしないが、彼らの表情はあからさまだった。
2人の意見を聞いたキシールは、前衛部隊の後退を命じた。同時
に左右両翼に半包囲を試みる敵両翼を阻止せよと命令した。
その王国軍の前衛部隊に、第21剣兵小隊を率いている女性士官
マヤ・クラクフスカがいた。
彼女は本来、第一王女の侍従武官である。だからこそマヤはエミ
リアと共に司令部にあり彼女を補佐しようとしたのだが、
﹁ただでさえ兵が少ないのに、マヤのような有能な人間を司令部に
764
閉じ込めておくわけにはいきません。大変でしょうが、前線に出て
もらえないでしょうか?﹂
主君に﹁有能だ﹂と評価され、かつ今回の会戦で重要な役割を果
たす前衛部隊に配置されたマヤは歓喜したという。彼女は興奮した
まま前線に躍り出て、帝国軍の猛撃を軽くあしらっていた。
一方、彼女が指揮する剣兵隊員の心境は複雑だった。
﹁⋮⋮急に転属してきた隊長、なんか変じゃないか?﹂
﹁聞けば由緒ある貴族の令嬢で、しかも国王陛下からの覚えもめで
たい人だと言うじゃないか﹂
﹁顔も胸も申し分ない。そんな奴が前線で暴れ回ってやがる⋮⋮﹂
﹁俺ら、あんな人について行かなきゃいけないのか?﹂
マヤ・クラクフスカ、御年23歳。男受けは戦場でも悪いようで
ある。
彼女の男問題はともかく、彼女が率いる剣兵隊は武勲を上げ続け
ている。
剣兵の最大の見せ場は乱戦にある。槍兵による槍の防御、さらに
は初級・中級魔術の応酬の最中、敵防御陣の一瞬の隙をついて剣兵
が乱入し、敵槍兵隊の後方を荒れ狂う。後方を荒らされた敵槍兵は
浮足立ち、隙を見せる。そこで味方槍兵が攻勢をかけ敵に出血を率
いる。
マヤはその敵の防御の隙間を確実に見極める戦術眼を持ち、そし
バーサーカー
て敵中で暴れまくってそして無傷で帰るだけの剣技を持ち合わせて
いた。彼女の狂戦士ぶりに敵は畏怖し、味方の士気は高揚した。
そしてマヤの活躍もさることながら、王国軍の前衛部隊を率いる
将軍の指示も的確だった。
765
王国軍前衛部隊1個師団を率いるのは、先のラスキノ独立戦争に
おいて少数の兵力で以って1ヶ月間帝国軍の攻勢を凌ぎ切り、終戦
後その武勲により昇進したマリアン・シュミット少将である。その
防御指揮の高さが総合作戦本部の目に留まり、今回の作戦において
最も忍耐力を必要とするこの前衛部隊の指揮官に任命されたのであ
る。
シュミットは敵前衛部隊3個師団が両翼を伸ばして半包囲下に置
こうとする瞬間を見逃さず、先手を打ってその動きを牽制した。具
体的には弓兵を走らせ、敵が展開しようとする地点に向かって矢に
よる集中攻撃を加えた。さらには直属の騎兵隊を使って突出した敵
両翼の外側に出る、と見せかけた嫌がらせも行った。これによって
帝国軍前衛部隊は思うように攻勢に出れなかった。
しかし、帝国軍の両翼及び前衛部隊の総数は5個師団。対それ王
国軍のそれは3個師団、本営含めて4個師団であり数の上では劣っ
ている。このまま戦い続ければ数で劣る王国軍の崩壊は時間の問題
だった。実際王国軍はジリジリと西に後退しており、それを逃がさ
んと帝国軍前衛及び両翼は猛追している。
帝国軍の前線指揮官は、開戦前のロコソフスキの演説を真に受け
武勲を独占しようと攻勢をかけ続けた。敵に突進し損害を与え続け、
そのおかげでついには王国軍の本営に手が届きそうなほど近づくに
至ったのだ。
一方その頃、帝国軍総司令官ロコソフスキ元帥は暇そうに欠伸を
した。
会戦の決着は着いたも同然。後はどうやって部下の手柄を横取り
し自分のものとするか、彼の頭の中はそれでいっぱいだったのだ。
766
だがその余裕は、彼の幕僚の報告によって掻き消えることになる。
﹁閣下、大変です!﹂
767
ザレシエ会戦 ︲会敵︲︵後書き︶
簡単な図解
<i152318|14420>
単位:万人︵約︶
︻シレジア王国軍︼
・本陣︵司令部、本営︶
総司令官:ジミー・キシール元帥
総参謀長:レオン・ウィロボルスキ大将
高等参事官:エミリア・シレジア少佐
・前衛
司令官:マリアン・シュミット少将
第21剣兵小隊長:マヤ・クラクフスカ中尉
︻東大陸帝国軍︼
・本陣︵司令部、本営︶
総司令官:オルズベック・ロコソフスキ元帥
総参謀長:ワレリー・ポポフ上級大将
768
ザレシエ会戦 ︲伏撃︲
﹁派手にやっているわね﹂
王国軍と帝国軍が激突している地点の南、つまり帝国軍から見て
左にある丘に、近衛師団第3騎兵連隊に所属しているサラ・マリノ
フスカがいる。彼女は丘上に立ち、遠くで行われている会戦の戦況
を静かに観察していた。
﹁隊長、前に出過ぎです。敵の斥候に見つかる可能性がありますか
らせめて伏せてください﹂
﹁⋮⋮わかってるわよ﹂
彼女が指揮する小隊の若手の隊員にそう諭されたサラは、渋々体
を伏せて草葉の陰に隠れる。
だが先ほどから帝国軍の斥候や歩哨と言った物の姿は見えない。
偵察の網が雑なのかシレジアを舐めきっているのか戦力を集中させ
ようとしているのかは定かではないが、この状況下ではありがたい
話である。
だが一応、彼女は音量を絞って部下に問いかける。
﹁コヴァナントカ曹長、馬は暴れてないでしょうね?﹂
コヴァナントカと呼ばれた彼の本名はルネ・コヴァルスキ。彼は
士官学校出身ではないものの、第15小隊の中ではサラに次ぐ有能
な人物で、馬の扱いもうまい
﹁安心してください。馬も隊員も、マリノフスカ隊長に躾けられた
769
おかげで大人しくしていますよ。あとナントカって言うくらいだっ
たらもうコヴァだけで良いです﹂
﹁当然よ。なんのためにあんた達に鞭打ったと思ってるのよ﹂
彼女が言う﹁鞭打つ﹂は比喩ではない。貴族が趣味の乗馬、ある
いは女性使用人の虐待時に使用する鞭を彼女は特訓時に使用してい
たのだ。無論、矢鱈と部下に物理的に教鞭を執ることはなかったが、
一部の奇特な性癖を持つ部下以外は彼女の鞭を恐れて特訓に励んだ。
その甲斐があったかどうかは知らないが、彼女が率いる騎兵小隊
はだいぶ練度が上がったようである。
部下はつい数週間前までその鞭に打たれていたことを思い出すと、
身を震えさせずにはいられなかった。そしてここで失敗すればまた
あの悲劇が待っているんじゃないかと考えると、勤労意欲は嫌でも
上がると言うものである。
﹁そ、それで、戦況はどうですか?﹂
﹁⋮⋮4個師団で10個師団を正面から相手したらああなるとは思
うわよ﹂
﹁それじゃあ⋮⋮﹂
﹁まぁ、これも作戦の内よ﹂
−−−
帝国軍左翼1個師団を率いるのは、先のラスキノ戦争で醜態を晒
したユーリ・サディリン少将である。彼は伯爵家の子息であること
770
を考慮され、失敗の程度から言えば軽めの罰を受けた。それでもそ
の処罰は彼の伯爵子息、そして軍人としての矜持を大きく損なわせ
ること疑いようはなかった。
﹁敵の右翼を一気に殲滅して右に回頭、敵前衛の側背を討つ!﹂
サディリンはその汚名返上に死力を尽くした。彼が率いる左翼部
隊は突進を続け、王国軍右翼部隊を壊滅させようと爆走したのであ
る。彼は出世欲の赴くまま攻撃と前進を命じたが、配下の兵達の動
きは消極的だった。と言うより、消極的にならざるを得なかった。
サディリンから発せられる命令に対して、部下たちはほとんど例外
なくウンザリしていた。上司が目先の武勲に釣られて前進と攻撃命
令を繰り返したため兵たちは疲労の極致にあった。一部の部隊では
陣形も連携も取る余裕がなくなり、行軍するのがやっと、という状
態にまで陥っていた。
ウォーターボール
そしてそれを見逃すほど、王国軍右翼部隊の指揮官は盲目ではな
い。
ファイアボール
王国軍右翼部隊は信号弾として1発の火球と3発の水球を打ち上
げた。火球1発は司令部に宛てた事を意味し、3発の水球は作戦の
実行を具申するという意味だった。
その信号を、司令部からハッキリ見たエミリアは他の幕僚には目
もくれず叫んだ。
﹁閣下!﹂
771
王国軍総司令官キシール元帥はその叫びに強く頷いた。エミリア
は多くは語らなかったが、何を言わずともキシールにはわかってい
た。
イグニスキャノン
彼は大きく手を上げると、掌をシレジアの空に向けた。そして彼
は短い詠唱の後、彼自身の手によって中級魔術﹁火砲弾﹂を撃ち上
・・・・・・・・
げる。高速で、そして眩いほどに輝くその火の塊は、このザレシエ
平原にいる全ての王国軍将兵の網膜に焼き付いたことだろう。
その10秒後、王国軍及び帝国軍前衛部隊が戦っている地点の両
翼から土煙が立った。
午前11時10分、帝国軍ロコソフスキ軍団の本営は帝国軍両翼
部隊のさらに外側から土煙が上がっていることを確認した。
﹁閣下、大変です! 両翼より新たな敵です!﹂
﹁何だと!? 数は!?﹂
﹁推定2個師団、左右両翼合わせて4個師団と思われます!﹂
﹁バカな⋮⋮そんな非常識なことがあるか! 叛乱軍の平時戦力は
15個師団なのだぞ!? その半分以上がここに集結していると言
うのか!?﹂
ロコソフスキは狼狽した。自身が予測した倍以上の戦力がこの平
原に集結していたと知った彼は、まずその事実を否定する思考をし
た。﹁そんなことはありえない。敵の偽装工作ではないのか﹂と。
だが現実という生き物は、狼狽する帝国軍に対し容赦なく真実を
伝え続ける。敵の新手は合計4個師団で、そして功を焦って突出し
た帝国軍の前衛及び両翼、計5個師団が包囲されつつあると言うこ
とを。
772
帝国軍左側面に現れたのは王国軍2個師団。
その中で、サディリン少将を指揮する部隊を側背より攻撃せんと
突撃するのは今や王国軍でも指折りの精鋭部隊となった近衛師団第
3騎兵連隊である。その中でもサラ・マリノフスカ大尉が率いる第
15小隊の覇気は燦然として輝くものだったという。
﹁全騎突撃! 友軍右翼と連携して敵左翼を撃滅するわよ!﹂
彼女は連隊長であるドレシェル大佐の声を掻き消してまで部下に
そう命じる。もっともドレシェルの指示も似たようなものだったの
で問題にはならないが。
第3騎兵連隊はほとんど全員が抜剣している。一部の者は弓を構
えて、既に敵に対して嫌がらせの遠距離攻撃をしており、また一部
の者はシレジアの旗を装着した槍を天高く構えて突撃している。連
隊は綺麗な横隊を組み、整然と、そして猛然と敵部隊の左側面に襲
い掛かった。その騎兵隊は、上空から見れば海岸に断続的に押し寄
せる大波のように見えたことだろう。
﹁コヴァ! あんたちゃんとついてきてるでしょうね!?﹂
﹁勿論ですよ隊長ォ!﹂
サラとコヴァルスキは脳内を駆け巡るアドレナリンを声に変換し
ながら馬の腹を蹴る。第15小隊は波の最前列を疾走しており、帝
国軍左翼部隊が狼狽している様をありありと見ていた。
その帝国軍左翼部隊を指揮するサディリン少将は混乱の極みにあ
773
った。今まで﹁自分が戦局を有利に運んでいる﹂と信じ、ただひた
すらに前進していた最中に突然側面を騎兵隊に襲われたのだから。
﹁クソッ! 前進止め! 左に回頭して敵騎兵を迎撃せよ!﹂
彼はそう言うと、槍兵隊を左に展開し槍の壁でもって猛撃してく
る騎兵を追い払おうとした。だがその命令は実行に移される前に、
王国軍右翼部隊の攻勢によって阻まれた。回頭することを封じられ
たサディリンは、王国軍近衛師団第3騎兵連隊の騎兵突撃を甘んじ
て受け入れるしか道は残されていなかった。
﹁退くな! 逃げることは許さん! 最後の一兵まで、帝国軍とし
て戦え!﹂
サディリンはそう部下に命令したが、最早それを聞く者はいなか
った。帝国軍左翼部隊は態勢を整える前に王国軍騎兵隊に突入され
混乱状態となる。
ユーリ・サディリン少将は1人で果敢に王国軍相手に奮戦するも
のの、王国軍が放った1本の矢によって首を射抜かれ、何を思うこ
となく絶命した。
指揮官を失い、さらには騎兵の突入を許した帝国軍左翼は陣形も
何もなく散り散りとなり、そして王国軍の容赦ない残敵掃討によっ
て9割の損害を出して壊滅した。
第3騎兵連隊と王国軍右翼部隊は、帝国軍左翼部隊を倒した勢い
を保ったまま、突出した帝国軍前衛3個師団の左側面を討つべく突
進した。
774
ザレシエ会戦 ︲伏撃︲︵後書き︶
簡単な図説
<i152469|14420>
単位:万人︵約︶
︻シレジア王国軍︼
・右翼増援︵近衛師団︶
第3騎兵連隊長:ポール・ドレシェル大佐
第15小隊長:サラ・マリノフスカ大尉
第15小隊員:ルネ・コヴァルスキ曹長
︻東大陸帝国軍︼
・左翼
司令官:ユーリ・サディリン少将
775
ザレシエ会戦 ︲各個撃破−
王国軍近衛師団と共に帝国軍左翼に躍り出た残りの近衛兵を率い
るのは、伯爵家の当主にして王国軍中将のデヴィッド・サピアであ
る。サピアは帝国軍左翼部隊を第3騎兵連隊に任せ、自らは敵の前
衛3個師団の退路を遮断すべく部隊を動かした。
王国軍司令部は、この機に一気に帝国軍前衛を壊滅させようと動
き出した。司令部直属の師団を可能な限り王国軍前衛部隊の増援と
して派遣し、シュミット師団を増強させた。
増援を得たシュミットは守勢から一転攻勢に出て、サピア率いる
近衛師団及び帝国軍左翼部隊を突破した近衛師団第3騎兵連隊と共
同で帝国軍前衛に襲い掛かった。
帝国軍前衛3個師団を率いるジョレス・アーヴェン中将は、この
時にやっと周囲の状況を正確に把握した。既に自身の師団は半包囲
の下にあり、左翼のサディリン師団は崩壊し、そして後方は遮断さ
れつつある。右翼も敵の攻撃を受けてジリ貧になり、このままでは
多数の敵に完全に包囲される危険があると。帝国軍が企図した包囲
戦を、王国軍に実行されたのだと。
アーヴェン中将はすぐさま部下に命令し本営との連絡を図った。
信号弾を上空に打ち上げ、増援を要請する。退くにしても進むにし
ても、多くの部隊が必要なのは目に見えていた。
アーヴェン中将が信号弾を上げるまでもなく、総司令官ロコソフ
スキ元帥は増援を送る事を画策していたようである。増援を送らな
ければ、前衛及び右翼が壊滅するのは目に見えている。だが彼はこ
の期に及んで決断し損ねた。
776
無論理由はある。
それは、叛乱軍がさらなる伏兵を配置しているのではないかとい
う不安からであった。
叛乱軍は、帝国軍の前衛を自らが有利となる地点まで誘い込み、
そして一気に包囲撃滅を図った。それは今の所完成しつつあり、こ
の包囲を解かなければならないのはわかる。だが、こちらが本営、
もしくは後衛の師団を投入し前衛の救出をし出した途端、叛乱軍は
さらなる伏兵を左右両翼から繰り出すのではないか。そうなればそ
の救出部隊も包囲下に置かれ全滅するのは確実だ。
それに、帝国軍前衛の後方を遮断しアーヴェン隊の後方を攻撃し
ようとしている叛乱軍右翼増援部隊の動きが奇妙だった。帝国軍の
本営、つまりロコソフスキに対し完全に背を向けアーヴェン隊の攻
撃に集中しているようにも見える。これは、後ろを気にしていない
ことの証左ではないのか? 帝国軍が増援を繰り出した途端、左右
両翼から伏兵が襲い掛かってくる手筈になっているからアーヴェン
隊の攻撃に集中できているのではないか?
今から偵察部隊を派遣し、伏兵の存在を確かめるという手段がな
いわけではない。だが今更それをしたところで時間の無駄だろう。
偵察を行っている間に叛乱軍は前衛を完全に戦闘不能に陥らせるこ
とが可能なのだから。
ロコソフスキは考え、悩みぬき、そして決断した。それは、やや
中途半端な判断だったかもしれない。
﹁後衛の師団に連絡。本営の守備に当たらせよ、と﹂
その命令を聞いた総参謀長ワレリー・ポポフ上級大将は、自らの
耳を疑った。ロコソフスキ元帥が、前衛を見捨てようとしているの
777
ではないか、と。
﹁しかし、それでは前衛が⋮⋮﹂
﹁⋮⋮いや、叛乱軍の動きが不自然だ。おそらく左右両翼に新たな
伏兵がいるのだろう。即応できるよう、後衛を本営と前衛の中間地
点に配置し、敵の伏兵と左翼増援隊の動きを牽制する。偵察隊も派
遣し、伏兵の配置状況を知らせよ﹂
それが、ロコソフスキの決断だった。
だが、ザレシエ平原に集まった王国軍は8個師団、つまり現時点
で帝国軍前衛を攻撃している部隊しかこの戦場にはいなかった。
−−−
それは遡る事2ヶ月半前の1月15日。高等参事官エミリア・シ
レジア少佐は王国総合作戦本部長モリス・ルービンシュタイン元帥
と会見し、彼女自身が立案した迎撃作戦案を彼に見せた。
・・・
エミリアの作戦の初期案はこうである。
東大陸帝国軍の動員予想数は40から50個師団。占領速度を上
げるため、また皇帝派貴族に明け渡す土地を早めに用意するため、
帝国軍は3から5に師団を分割し、それぞれが自身の功績のために
778
進撃を開始するだろう。
シレジア王国軍は予備役動員を布告し、できるだけ兵を集める。
恐らく3月までには20個師団を用意できるだろう。それを帝国軍
の進撃部隊に合わせて分割し各地の防衛に専念する。
分割される各軍団の師団数は以下の通り。
北東防衛軍団:1個師団。
中北防衛軍団:2個師団。
南東防衛軍団:2個師団。
そして帝国軍迎撃部隊として、15個師団の機動軍団を編制しす
る。
手始めに中南方面及びその周辺に展開した帝国軍、予想10個師
団を討つ。その後15個師団を一塊として運用して各防衛線の救出
をし、そして各防衛軍団の師団を吸収しながら残敵を掃討する。
かつてユゼフ・ワレサが居残り授業で教えた﹁第2次黒板会戦﹂
を、規模を大きくして再現しようと言うのだ。
この作戦案を見せられたルービンシュタインは感嘆とした。
﹁戦力集中の原則﹂という点から見れば、この作戦の意図すると
ころは明白だ。10個師団を15個師団で叩けばまず負けない。そ
してその15個師団を動かしたまま敵をシレジアから追い出す。そ
してその軍団の行軍経路や、日程、必要な人員、将官、補給物資そ
の他が緻密に記載されている。
779
ルービンシュタインはエミリアを、単なる調子に乗った王女とし
か見ていなかったが、この緻密な作戦計画にただ感嘆とし、エミリ
アの評価を変えざるを得なかった。
それ故に、ルービンシュタインはこの提案を真っ向から却下した。
﹁理由をお聞きしてもよろしいですか、本部長閣下﹂
エミリアは、若干不満そうに質問をする。三日三晩考え抜き、資
料を集め、そしてマヤの助言を入れて作ったこの作戦案を即刻拒否
された。不満が出るのはある意味当然である。
だがルービンシュタインはその事情を鑑みたとしても、却下せざ
るを得ない。
﹁この作戦案にはいくつか問題がある﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁まず1つ目、15個師団をひとつの戦場に集め、そしてそれを合
理的に動かすことが可能な指揮官がシレジアにはいないことだ﹂
シレジア王国軍の平時戦力は15個師団。大国ならまだしも、シ
レジアのような軍事小国でそれだけの軍団を運用できる人間がいな
いのは当たり前の話である。
﹁2つ目は、そもそも15個師団を集めれば脱走や疫病などの諸問
題が湧き上がる事疑いようがない﹂
人は、集まれば集まるほど多くの問題を起こす。代表的なのは﹁
みんなで悪いことをすれば成功率は上がるししかも罪悪感が薄れる﹂
という問題だ。
軍隊から脱走しようとする人間は今も昔も一定数いる。それが戦
780
争となれば尚更で、この兵の脱走問題は軍隊という組織にあっては
死活問題だった。15個師団も集まれば、1個大隊単位で兵が逃げ
出す可能性がある。
疫病の問題も厄介だ。15個師団もいれば衛生上の問題が出てく
るのは必至であり、それを防ぐための対策が必要不可欠となる。
﹁3つ目は、他の防衛線の戦力があまりにも僅少であることだ。予
想10個師団に、1∼2個師団で対応しろと言うのは非現実的だ﹂
攻撃三倍の法則が正しいとするのならば、敵10個師団に対応す
るためには4個師団、最低でも3個師団が必要と言うことになる。
それなのに、1∼2個師団で防衛しろと命令するのは余りにも酷な
話だった。
﹁⋮⋮他にもないわけではないが、これが主な理由だ﹂
﹁⋮⋮﹂
エミリアは表情には出さなかったが、内心はとても残念に思って
いた。だが﹁お前が気に食わないから却下﹂と言われるよりはマシ、
それに軍人として扱われ、軍事学的観点から否定されたことは、む
しろ彼女にとっては良い事だったかもしれない。
ルービンシュタインは、黙るエミリアを見て﹁ちょっと言い過ぎ
たかも﹂と思い始め、彼なりに擁護に入った。
﹁だが、各個撃破という方針自体は正しいと思われる。ここからさ
らに良い作戦案に昇華させたいものだ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
エミリアは感謝の意を述べたが、頭の中ではルービンシュタイン
781
の言う﹁さらに良い作戦案﹂でいっぱいだった。各個撃破は正しい
と本部長は言った。それは戦略的な観点だけではなく、戦術的な観
点でもそうだろう。
エミリアはしばし考え込んだ後、ルービンシュタインの度肝を抜
く事を言い放った。
﹁では本部長閣下の助言を聞き入れた、作戦の第2案を述べさせて
貰ってもよろしいでしょうか?﹂
彼女が語り出した第2案は、各防衛線の師団数を増やし一塊にし
て機動運用する本隊を8個師団まで減らしたものである。そしてそ
の8個師団で、予想10個師団の帝国軍を討つ。そのために戦場に
おいても各個撃破を行うという作戦案だった。
この第2案は本部長のさらなる助言によって修正され、第3案と
なった。
そしてその第3案が正式な迎撃作戦案として採択されたのが、2
月20日の事である。
782
ザレシエ会戦 ︲各個撃破−︵後書き︶
簡単な図説
<i152470|14420>
単位:万人︵約︶
︻シレジア王国軍︼
・右翼増援︵近衛師団︶
司令官:デヴィッド・サピア中将
︻東大陸帝国軍︼
・前衛
司令官:ジョレス・アーヴェン中将
783
ザレシエ会戦 ︲連携−
総司令官ロコソフスキ元帥が架空の伏兵を警戒したため、帝国軍
前衛及び右翼は完全に孤立した。特にアーヴェン中将率いる帝国軍
前衛3個師団は、正面に王国軍2個師団、左側面に1個師団、そし
て背後に2個師団によって包囲されている。右側面には友軍である
帝国軍右翼1個師団がいるものの、その師団も半包囲されており、
損害を積み重ねている。
この時点での前衛及び右翼の被害は既に4割を超えており、全面
崩壊に至るのは時間の問題だった。
﹁何? 本営が動かないだと!?﹂
﹁はい。後衛2個師団を中間地点に押し出したのみで、あとは動き
は⋮⋮﹂
アーヴェン中将はイラつきを隠せないでいる。このままでは全滅
は不可避、死ぬか捕虜になるかが待っているのだ。そう考えるとア
ーヴェンの不安もさらに増大することになる。
彼の幕僚であるヤシン准将は、諭すような口調で上官に進言をし
た。
﹁閣下、ここは一端後退して戦線を縮小しましょう。さもないと我
々は全滅です﹂
﹁だが、この状況下で後退など容易ならざることだ。第一どこに逃
げればいいのだ﹂
﹁後退しつつ右翼と合流しましょう。そのまま前進してきた我が軍
の本陣及び後衛と合流できれば、数の上では互角となります。その
間に他の戦線から増援が来れば、我が方の勝ちは揺るぎません﹂
784
前衛及び右翼の残存戦力はおよそ2万2500人。しかし、後方
には無傷の後衛2個師団約2万人、本営3個師団約3万3000人。
全てを合計すれば7万6000人程度となる。王国軍は8個師団約
8万人なので互角となり、防御に徹すれば増援到着まで持ちこたえ
ることができるだろう。
アーヴェンは思考した。
ここで終わっては﹁敵中に引き摺り込まれた愚将﹂として永遠に
戦史の教科書に掲載されることになるだろう。だがここで退いて旗
下の部隊の再編をし、そして帝国軍の全面崩壊を防ぐことができれ
ば総司令官を守った忠義の指揮官としての栄誉を得ることができる
だろう。そうなれば、大将への昇進は確実。うまくいけば貴族の階
位も上がるかもしれない。
そう結論付けると、彼は決断した。
﹁右翼部隊と合流しながら右後方に後退、我が軍の後衛との合流を
図る。急げ!﹂
﹁ハッ!﹂
午前11時50分、アーヴェン中将は後退を命令した。帝国軍右
翼もその動きに同調し、前衛との合流を図った。
帝国軍の後退を察知した王国軍の動きは早かった。真っ先に動い
たのは左翼増援2個師団を率いるヘルマン・ヨギヘス中将だった。
ヨギヘスは現在29歳と中将としては大変若い方である。それは侯
爵家の嫡男であることが影響しているが、それ以上に軍事的才幹に
恵まれている人物だった。
785
﹁閣下、敵が退きます﹂
﹁予想通りだね。たぶん合流して右後方に引きながら本営と合流し
たいんだろう。そうじゃなきゃ全滅するだけだし﹂
﹁それでは、事前の作戦通りになさいますか?﹂
﹁うん。細かいことはよろしく﹂
彼の命令は適確、緻密で信頼の置けるものだと評判だが、実際の
所少なくとも﹁緻密﹂の部分は彼の幕僚にして友人であるザモヴィ
ーニ・タルノフスキ大佐の尽力によるものである。
﹁お前ってやつは⋮⋮﹂
タルノフスキ大佐は、友人だが上官であるヨギヘス中将に聞こえ
ないように溜め息を吐いた。だが人事には従わなければならないた
め、彼は渋々職務をこなす。
﹁ま、頑張れよ。これがうまくいったら﹃タルノフスキ大佐、勲功
第一﹄って報告書に書いておくから﹂
﹁それはありがとうございます﹂
その感謝の言葉はお手本にしたいくらい綺麗な棒読みだった、と
後にヨギヘスは述懐している。
左翼増援ヨギヘス師団は最初、帝国軍右翼を必要以上に攻撃する
事はなかった。本気を出せば帝国軍左翼サディリン師団と同じ末路
に陥れることが可能だった。だが彼はあえてそれをしなかった。
その理由は2つ。1つは帝国軍右翼を壊滅させてそのまま前衛を
包囲すれば、包囲された帝国軍が助かろうとして必死になって反撃
してしまい、王国軍が無駄な出血をしてしまう可能性があったこと。
786
もう1つは、あえて退路を作って帝国軍に後退の可能性を示し、
前衛と右翼が合流することを期待していたからである。
﹁どうせ同じ﹃全滅させる﹄なら、2回に分けるより1度の攻撃で
一気に、って言う方が楽じゃん?﹂
というのはヨギヘスの言である。
戦闘中に部隊を合流させる、というのは難易度の高い技術である。
合流すれば確かに戦力が上がるが、部隊の命令系統や陣形の再編を
せねば烏合の衆にしかならない。だが命令系統と陣形の再編を戦闘
中に出来る者はこの世に存在しない。シレジア王国の歴史において
最も有能な将軍と言われたマレク・シレジアであっても、それは不
可能であっただろう。
また師団規模となると合流した途端に混乱が発生するのも常であ
る。理由は簡単、数万人が個々に陣形を組んで動いていれば衝突す
る。戦闘で体力も精神の疲弊があるのならそれは尚更である。
そしてヨギヘスの予想通り帝国軍前衛及び右翼は合流を図り、合
流した瞬間に一時的な混乱が生じた。彼が待ち望んでいた展開であ
る。
﹁よっしゃあ!﹂
﹁はしゃぐなみっともない⋮⋮﹂
ヨギヘスは友人の制止を無視し狂喜した。そして同時に合流によ
る混乱の渦中にあった帝国軍前衛・右翼部隊に対する攻勢を命じた。
さらに彼は旗下2個師団を有意義に活用した。彼は後退する帝国
軍の後背を突くように部隊を動かすと共に、魔術と弓矢による遠距
787
離攻撃で敵の動きを王国軍にとって有利となる経路になるように強
制したのである。その結果ヨギヘス師団は、帝国軍アーヴェン師団
を混乱させ、かつ退路を完全に遮断することに成功したのである。
また他の王国軍将官もヨギヘス師団とよく連携した。ヨギヘスは
伝令の馬も信号弾も送ったわけではないが、各師団司令官は彼の意
図を十分に察したからである。
とりわけこの動きに敏感だったのは、高等参事官エミリア・シレ
ジア少佐だった。
彼女はヨギヘス中将の意図を正確に察すると、総司令官キシール
元帥にこの会戦何度目かの意見具申を行った。
﹁閣下、この包囲に対して帝国軍増援2個師団が阻止攻撃を行うか
もしれません。帝国軍前衛の包囲は近衛師団とヨギヘス師団に任せ
て、左右両翼の師団で以って帝国軍増援の動きを牽制してはどうで
しょうか﹂
この具申をキシール元帥は即刻採用し、伝令の馬を左右両翼の司
令官に出した。左右両翼2個師団は、すぐにその命令を実行に移す。
と言っても王国軍両翼と帝国軍後衛との距離はだいぶあったため、
まずは騎兵を1個連隊を先に動かすことにした。両翼の騎兵連隊は
その足の速さを生かして包囲隊の外側を迂回して、帝国軍後衛の側
面に躍り出ることに成功した。
帝国軍後衛が接近する騎兵の存在に気づき槍兵を並べて壁を作っ
たため、王国軍はそのまま突撃することはなかった。代わりに馬を
下り、槍を構えて歩兵連隊として戦った。
騎兵は防御が弱い。馬は鎧を着ているわけではないし、図体もで
かい。それに槍などの先端が尖った物を見ると馬は怯んでしまい、
足を止めてしまう。だからこそ騎兵に対しては槍の壁が有効なのだ。
それをわかっていた王国軍騎兵は最大の長所であり欠点でもある
788
馬から降り、歩兵として戦ったのである。
ここに至ってようやく、帝国軍総司令官ロコソフスキ元帥は居も
しない王国軍の伏兵の存在を否定することができた。王国軍がわざ
わざ遠い場所から騎兵を送り込んできたのがその証拠だった。ロコ
ソフスキはすぐさま本営3個師団を前線に投入し、前衛を救うこと
を決定した。
だがその決断は余りにも遅かった。
帝国軍本営及び後衛5個師団は、王国軍左右両翼2個連隊、そし
て追いついた残りの部隊の徹底した防御陣を突き崩すのに多くの時
間を犠牲にした。
結果ロコソフスキは、前衛2万数千人の命を救うことができなか
った。
午後0時50分、帝国軍前衛は文字通り全滅。帝国軍は左右両翼
及び前衛合わせて5個師団、ロコソフスキ軍団の半分にあたる戦力
を失った。
789
ザレシエ会戦 ︲連携−︵後書き︶
簡単な図説
<i152601|14420>
単位:万人︵約︶
︻シレジア王国軍︼
・左翼増援
司令官:ヘルマン・ヨギヘス中将
幕僚:ザモヴィーニ・タルノフスキ大佐
︻東大陸帝国軍︼
・前衛
幕僚:ヤシン准将
790
ザレシエ会戦 ︲撃滅−
東大陸帝国軍オルズベック・ロコソフスキ元帥。伯爵家の当主で
もあり、帝国軍総司令官でもある。
彼は皇帝イヴァンⅦ世の忠実な臣下であり、イヴァンⅦ世も彼を
重用していた。だからこそシレジア討伐軍の総司令官に任じられた
としてもおかしな話ではない。
今回のシレジア討伐が成功すれば階位は侯爵に上がり、個人的な
恨みがある軍事大臣レディゲル侯爵を蹴落とすことも可能となる。
そのはずだった。
だが今やロコソフスキが直接指揮する軍団は5個師団にまで討ち
減らされ、その残りの5個師団も王国軍8個師団に完全に包囲され
ていた。
﹁⋮⋮ここまで徹底してると末恐ろしいものがあるわね﹂
近衛師団第3騎兵連隊第15小隊隊長のサラ・マリノフスカ大尉
は、彼女らしくもなく馬上からただ戦況を眺めていた。
帝国軍本営を左翼方向から攻撃を続けているのは王国軍近衛師団
2個師団。だが最早勝ちが決まったこの会戦、精鋭部隊である近衛
師団の損耗を抑えようと考えたサピア中将は帝国軍が逃げられない
よう布陣しただけで、上級魔術による遠距離攻撃に徹した。
サラの呟きに反応したのは彼女の部下であるコヴァルスキ曹長だ
791
った。
﹁それは⋮⋮魔術攻撃の事ですか?﹂
﹁違うわ。この包囲自体が、よ﹂
サラはこの作戦が彼女の親友であるエミリアが立案したものであ
ると知っている。彼女から直接作戦を聞いた時、サラはきっと上手
くいくと確信していた。それはエミリアの手腕を信用していたから
でもあるのだが、それ以上にこの作戦に既視感を覚えたからだ。
その既視感の正体は今から5年半前、サラが士官学校に入学した
時の話。あの時、サラとユゼフがハゲ男集団に対して行った撤退作
戦と、今回の迎撃作戦案がほぼ同じ内容だったからだ。敵を引き摺
り出し、伏兵によって包囲撃滅する。今回の作戦もそれを規模を大
きくして応用した作戦にも見える。
ユゼフはその時のことをエミリアに教えたのだろうか。それとも、
エミリアはユゼフと同じ発想が出来得る人物であるのか。
サラは暫く考え込んだが、結論を見出すことはできなかった。
﹁⋮⋮敵は、まだ降伏しないの?﹂
﹁するとは思えません。先ほどから司令部が何度も通信魔術で降伏
を勧告しているようですが、応答がありません﹂
﹁⋮⋮そう﹂
サラは興味をなくすと、目の前に広がる陰惨な戦場を静かに眺め
た。
帝国軍ロコソフスキ元帥が戦死したのはそれから20分後のこと
である。
元帥の死後、指揮を引き継いだ総参謀長ワレリー・ポポフ上級大
792
将は王国軍の降伏勧告を受諾した。
会戦前10万3000人を数えたロコソフスキ軍団は、僅か5時
間強の戦闘によって全滅と言って良いほどの損害を被りさらに多く
の将軍を失った。帝国軍の戦死傷者は約9万2800余名で、これ
は地方都市の人口1個分に匹敵する。また生き残った者の半数は何
処かへ逃亡し、半数はシレジア王国軍に降伏した。
一方、シレジア王国軍の損害は約9200名。この会戦の数字だ
けを見ればどちらが勝者なのかは言うまでもないが、国家全体とし
ての比率から言えばシレジア王国の被った損害は大きい。
東大陸帝国の軍事力は平時400個師団、対してシレジア王国の
それは動員令をかけてやっと20個師団である。今回の会戦で帝国
は全体の40分の1の戦力を失っただけだが、王国は20分の1を
失ったのである。そう考えたエミリア少佐は、他の高級将校のよう
に勝利に現を抜かしてばかりはいられなかった。
﹁⋮⋮勝てば勝つほど我が国は苦境に立たされる、と言う訳なので
すね﹂
エミリアが放った言葉は、勝利に沸き立つ将兵の歓声によって遮
られ、誰の耳にも届くことはなかった。
−−−
運良くザレシエ平原から命からがら逃げ延びることができたある
793
帝国軍士官は、4日間の必死の逃亡劇を経てさらに運良くオスモラ
に展開している帝国軍10個師団の群れを見つけることができた。
発見されたその士官はひどく衰弱していたため治癒魔術師による治
療が行われたものの、そこで彼の運は尽きた。彼は遺言のようにあ
る事実を伝え、その5分後に絶命した。
その事実を聞いた軍医はすぐにオスモラ方面軍の司令官でありシ
レジア討伐軍副司令官でもあるミリイ・バクーニン元帥に報告した。
﹁⋮⋮ロコソフスキ軍団が壊滅した、だと? それはにわかには信
じられんが⋮⋮本当なのか?﹂
﹁不明です。その士官もすぐに亡くなったもので⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
バクーニン元帥は熟考した。これが事実であれば、ロコソフスキ
軍団を討った叛乱軍が北に転進し我が軍の後背を直撃する可能性が
ある。現在バクーニン元帥が指揮する軍団は、叛乱軍6個師団と対
峙している。反乱軍の巧みな防御・遅滞戦術によって全面攻勢に移
れないこの状況で背後を突かれれば、バクーニン軍団は間違いなく
ロコソフスキ軍団と同じ運命をたどることになるだろう。
彼はそう結論付け、決断した。
﹁叛乱軍に対する攻勢を中止。北のアテニ方面軍と合流し戦力の集
中を図る﹂
大陸暦637年4月6日、バクーニン軍団は北に転進した。目的
地はアテニ湖水地方である。
794
戦場の噂 その1
ザレシエ平原には多くの死体が残されている。その数およそ10
万、その死体の処理は大変難しい。
華麗で、そして容赦ない包囲撃滅戦を演じた王国軍は、この戦場
の掃除をすることになった。と言っても数が数であるためすべてを
処理することは叶わない。使えそうな武器・装備の類を剥ぎ取った
後は自然の摂理に任せるしかない。ザレシエ平原の周辺は人口が少
なく、また戦争前に疎開をさせているため疫病の心配が少ないこと
が唯一の救いだろう。
回収出来るの遺体は味方、そして敵の高級将校だけだ。それでも
1万近くあるため骨が折れる作業だ。
その死体処理を引き受けるのは、迎撃司令部から派遣された補給
参謀補ラスドワフ・ノヴァク中尉である。
彼は後方基地から食糧及び消耗品をキシール軍団に引き渡し、そ
して空荷となった馬車に遺体を積み込んだ。
﹁⋮⋮はぁ。事務仕事の後は死体の積み込みか。嫌になる﹂
普通の人間であれば、精神の負担に耐えられる仕事ではない。彼
が何とか正気を保っていられるのは、彼が幼い頃から死体を取り扱
っていたからだろう。
ラデックはシレジアではそれなりに有名な商家の次男である。幼
少の頃から父に連れまわされシレジア全土を旅した。そして何度も
盗賊に襲われ、何度もその盗賊の死を見届けてきた。彼自身も身を
守るために人に刃を突き刺したこともある。
795
そんな生活を送っていれば自然と慣れる。彼にとって死体とは、
ごくありふれた物になったのだ。
それでも、10万単位の死体を見るのはこれが初めてなのだが。
ラデックは淡々と職務をこなす。キシール軍団から1個中隊程度
人員を借りて、戦場の後片付けを指揮する。まだ息のある味方がい
れば治癒魔術師を呼んで治療する。それが敵で、そして抵抗の可能
性があると判断した場合は容赦なくトドメを刺した。
﹁んぁ、矢は引っこ抜いて回収しろよ。まだ使えるんだからさ﹂
矢と言うものは消耗が激しい装備品のひとつである。基本的に使
い捨てなのに、製造費用が高い。そのため戦場の後片付けでは優先
的に回収するのだ。
そして矢を回収した後、余裕があれば死体や剣、槍の回収に移る
わけだが、残念ながらラデックの補給部隊はそこまでの余裕はなか
った。
ラデックが一通りの作業を終えシドルツェの迎撃司令部に戻ろう
とした時、彼はそこで士官学校時代の友人と再会した。
﹁ラデック、久しぶりね!﹂
﹁ん? あぁ、マリノフスカ嬢か。久しぶり。⋮⋮あと、エミリア
様もお元気そうで何よりです﹂
﹁ラデックさんも、ご壮健そうで何よりです﹂
−−−
796
ラデックらが友人たちと歓談している間、それを遠くから見てい
る2人の男がいた。彼らはどちらも職業軍人で40代、そしてヨギ
ヘス中将の指揮する師団に所属している。
﹁⋮⋮なぁ、あの良い男と女誰だ?﹂
﹁ん? あぁ、赤い髪の女は知ってるよ。確か近衛師団の士官だそ
うだ﹂
﹁にしては随分若くないか? たぶん俺の息子と同い年くらいだぞ
?﹂
﹁お前の息子って何歳だ?﹂
﹁18歳。あと4日でな﹂
﹁おぉ、それはおめでとう﹂
﹁ありがとさん。ま、誕生日は祝えそうにないな。帝国のせいだ﹂
﹁誕生日祝いは敵将の首にしておけ﹂
﹁趣味の悪い贈り物だな﹂
彼らは冗談を言いつつ戦場の遺体を調べ回っている。真新しい槍
があればそれを拾って自分と物としようと考えていたからだ。
﹁で、もう1人の金髪の御嬢さんと、金髪のあの良い男は誰だ?﹂
﹁兄妹⋮⋮って感じでもないな。遠いからわからんが、顔はそんな
に似てないし﹂
﹁じゃあ⋮⋮恋仲か?﹂
﹁恋仲ならもうちょっとくっついていても良い気がするが⋮⋮。あ
ぁ、そういや妙な噂を聞いたぞ?﹂
﹁噂?﹂
﹁あぁ。なんでも、フランツ国王陛下の娘、エミリア王女殿下が戦
797
場にいるって噂だ﹂
﹁そりゃいくらなんでもあり得ないだろう。王女殿下は引き籠りの
箱入り娘、15年間全く宮殿から出ていないって聞いたぞ?﹂
﹁それは表向きで、実は10歳の時に士官学校に入学したって話だ。
王族って言っても女の子で、しかも陛下の唯一の子供だから秘密裏
に入学したらしい﹂
﹁んなわけないだろう。女の子だぞ? 貴族学校ならわかるが士官
学校ってのは⋮⋮。あぁ、そういや俺も変な噂聞いたな﹂
﹁お前もか﹂
﹁あぁ。シュミット師団の奴から聞いた話で、そいつはシュミット
師団の幕僚から、そしてその幕僚はシュミット少将から聞いたらし
いんだがな﹂
﹁怪しすぎだろそれ﹂
﹁噂ってのはそんなもんだろ?﹂
﹁まぁな。で、どんな噂なんだ?﹂
﹁えー、となんだっけな。確か、今回の作戦を考えたのは若い女子
で、しかも公爵令嬢って話だ﹂
﹁本当かそれ?﹂
﹁まぁ、あくまで噂だ﹂
そこまで語ると、彼らは再び例の三人組を見た。
金髪の色男や赤髪の美少女と楽しそうに歓談する金髪の少女。
﹁﹁⋮⋮そんなわけないよな﹂﹂
その二人はほぼ同時に、そう呟いた。
798
国債情勢
4月7日。つまり開戦7日目。
戦場から遠く離れたオストマルクでは、戦況の把握はできない。
今俺の手元にある情報は全て戦前のものだ。
サラやエミリア殿下、マヤさんは無事だろうか。ラデックは後方
にいるから戦禍に巻き込まれることはないとは思うが⋮⋮。彼女ら
がいるザレシエ平原は、ここエスターブルクから馬車で10日離れ
た場所にある。どんなに頑張っても、それくらいの情報の遅延が出
てくるわけだ。
南東戦線のヤロスワフだったらもっと近くなり、馬車で7日の距
離になる。つまりヤロスワフの情報だったらそろそろオストマルク
にも届く可能性があるわけだ。
⋮⋮やっぱり待つのは苦手だ。
4月8日。今日は正真正銘の休暇。情報収集と称してサボりはし
ないし、最近はちゃんと事務も捗ってるから問題ない。そのはずだ。
リリウム
いつものように書記官に外出を伝え、いつものように散歩をする。
東大陸帝国弁務官府前の喫茶店﹁百合座﹂に行こうかと思ったが、
開戦以来見張りがきつくなって近寄り難くなってしまった。万が一、
ということもあるので、3月31日以来行っていない。
そうなると行き場がなくなるな。新しい喫茶店でも開拓しようか
な、と思って適当にぶらぶらしている。財布事情が厳しいから低所
799
得者層向けの喫茶店でもあればいいんだけど。
その時、1台の豪奢な馬車が俺の真横で止まった。なんだ? 糞
でもするのか? じゃあ巻き込まれないように走るか、と思った時
馬車の中から声が聞こえた。
﹁こんなところで会うとは奇遇ですね、ユゼフさん﹂
リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。ラデックの
嫁候補。結構美人で姉に欲しいタイプ。あとでかい。
﹁⋮⋮これはこれは、グリルパルツァー様。御無沙汰しております﹂
﹁そんなに畏まらないでください。私たちの仲ではありませんか﹂
確かに今更だけどさ、お世話になったし。
﹁どこかへご用事ですか?﹂
﹁いえ、特に用はありませんよ。息抜きの散歩をしているだけです﹂
﹁そうですか。では、一緒に乗りませんか?﹂
えっ?
揺られる馬車の中、なぜか俺は友人の婚約者と隣り合わせで座っ
ている。おかしいでしょこの状況。てかなんで他に誰もいないの。
普通こういう身分の人って近侍とか護衛とかも同乗してるんじゃな
いの?
﹁⋮⋮乗ってもよかったんですか、私?﹂
800
﹁構いませんよ。これからある貴族の屋敷に行くので、ついでにそ
の護衛をしてもらいたいのです﹂
﹁いや、なんで私が⋮⋮﹂
﹁屋敷に護衛を置いて行ってしまったので﹂
なにそれひどい。色々とひどい。
﹁まぁ、それは半分冗談なのですが﹂
半分マジだったのかよ。
﹁お話がしたかったんですよ。色々とね﹂
色々ね。うん、この時期俺とリゼルさんが話し合う内容なんてひ
とつしかないのだが。
﹁結婚式場ってどこが良いと思いますか?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
しまった。思わず素で聞き返してしまった。で、なんだっけ? 式場? え? 何の話?
﹁やはり権威ある教会でしょうか。しかしラデックさんは信心深い
方ではないので似合いませんかね? それに結婚式は社交会という
面もあるので、そう言った設備の整ったホテルのほうがいいのでし
ょうか。あまつさえそこで初めての夜を迎えて⋮⋮きゃっ﹂
なにこれ。え、本当になにこれどういうこと。あと﹁きゃっ﹂っ
て何。何を想像したの。想像妊娠でもしたのか。
俺の疑問を余所にリゼルさんの口は止まらない。いくつかの式場
801
をリストアップして、さらにはそれぞれのメリット・デメリットを
挙げる。リゼルさんの顔はまさしく恋する乙女の顔だ。政略結婚で
もあり恋愛結婚でもあるってことだろうか。
結婚か。実感が湧かないな。結婚なんてものは画面の中にいる内
気な女の子とするものだと思ってたよ。あまりにも内気なもんだか
ら画面から出てくれないのが難点。
まぁ俺は貴族じゃないから気楽でいいか。一生独身でも俺は困ら
ん。さ、寂しくなんてないんだからね! 勘違いしないでよね!
﹁ユゼフさんはどっちが良いですか?﹂
﹁え、えーっと⋮⋮﹂
急に話振らないで頭混乱してるから。
えーっと、なんだ? ラデックが求婚でもしたのか? 本当に﹁
この戦争が終わったら結婚する﹂という王道の死亡フラグ立てたの
? 何考えてるの? 死亡フラグって他人を巻き添えにすることが
あるんだよ?
⋮⋮とりあえず返答しなきゃいけないな。えーっと、うーんと。
﹁⋮⋮リゼルさんのお屋敷でやったらどうでしょうか﹂
﹁ハッ。それもいいですね!﹂
よし、これでも良かったらしい。⋮⋮え、このためだけに俺馬車
に乗せられたの?
﹁さて、話がまとまったところで本題に入りましょう﹂
リゼルさんの顔つきが急に真剣になった。なにこの温度差。
﹁なんでしょうか﹂
802
マーケット
﹁⋮⋮ユゼフさんは、市場の様子は見ていますか?﹂
﹁⋮⋮それなりには﹂
見てると言えば見てる⋮⋮けど俺は経済には詳しくない。新聞開
いて﹁へー、ふーん。何言ってるかわかんねぇわ﹂としか思わない
タイプだ。
﹁では、シレジアの国債の話は?﹂
﹁⋮⋮わかります﹂
国債。はやい話が国の借金のことだ。個人の借金とはだいぶ性格
が異なるけど、まぁ細かい話は良い。
で、そのシレジア国債は今、価格が下落⋮⋮いや、暴落と言って
も良いくらい下がりまくってる。
国債の価格は即ち国の信用度と言い換えてもいい。シレジアの信
用度が今落ちまくってるから、価格も下がる。まぁ、普通に見たら
シレジア勝ち目ないもんな⋮⋮そりゃ売りたくもなる。
﹁オストマルクにある有力商会もシレジア国債を売り飛ばしていま
すね。我が帝国の財務大臣も随分悩んでいるみたいです﹂
﹁でしょうね⋮⋮﹂
たぶん一番悩んでるのウチの国の財務尚書だと思うけど。
﹁それで、グリルパルツァー商会も売っているんですか?﹂
﹁そうですね。半分当たりです﹂
﹁半分?﹂
﹁確かに数日前、我が商会は保有しているシレジア国債をすべて売
り払いました。ですが今、私の方から買い戻しを進言しています。
803
おそらく明日には大量に買い戻されることになるでしょうね﹂
﹁⋮⋮理由は?﹂
﹁理由は⋮⋮そうですね。この屋敷の人に聞けばわかります。着い
たみたいですよ﹂
﹁え?﹂
馬車の外を覗く。どっかで見た事がある屋敷⋮⋮というか、2回
ほど中に入ったことがある。1回目はスターンバック准将の付き添
い、2回目は外交交渉の前段階で。
そこは、リンツ伯爵家の屋敷だった。
﹁⋮⋮なぜ大尉がグリルパルツァー男爵令嬢と一緒の馬車に乗って
いるのでしょうか﹂
フィーネさんは会うなり不機嫌そうな顔︱︱いやいつも不機嫌面
してたか︱︱でそんなことを言った。俺が知りたいくらいだよ。
﹁道に落ちていたので、拾いました﹂
﹁男爵令嬢ともあろう御方が、感心しませんね﹂
﹁申し訳ありません﹂
リゼルさんは明らかに反省してないような良い笑顔で謝った。な
にこれ。ていうか本当にこの状況、誰か説明してくれませんかね⋮
⋮。
﹁コホン。とりあえずここではなんなので、中にどうぞ﹂
フィーネさんはそう言って俺たちを屋敷に入れてくれた。この光
804
景も3か月ぶりだな。もっともその時はリゼルさんいなかったが⋮
⋮。
応接室にて俺とリゼルさんはフィーネさんと向かい合って座って
いる。俺は一応護衛と言う立場だからリゼルさんの後ろで立ち続け
るつもりでいたが
﹁ユゼフさんも話の本題に入ってほしいから一緒に座ってください﹂
とリゼルさんに言われたので渋々座った。無論適度に距離を空け
て。俺が友人の婚約者に手を出すわけないじゃないか。
で、この人たち何話すんだろうか。さっきの国債の話と関係ある
のか?
フィーネさんは紙の束を机に広げ、何枚かを俺らに見せるように
置いた。内容は⋮⋮今回の戦争について、だろうか。
﹁⋮⋮ではまず、大尉とリゼル様、両方にお伝えします。我が帝国
外務省が独自に入手した情報によれば、4月1日、シレジア王国軍
はザレシエ平原において東大陸帝国軍と会敵した模様です﹂
⋮⋮早いな。なんで俺より先にフィーネさんが知って⋮⋮あぁ、
いや違うか。当たり前か。俺らの場合、情報は一度王都を経由する
わけだから、その分時間がかかるのか。ザレシエから直接エスター
ブルクの帝国外務省に来る方が早いのはむしろ当然の事だ。
﹁⋮⋮それで、結果は?﹂
805
リゼルさんはせかすように、フィーネさんに問いかける。俺も気
になってつい前のめりになってしまう。
﹁シレジア王国軍の圧勝です。帝国軍は将兵10万人弱を失い、さ
らには帝国軍元帥ロコソフスキ伯爵は戦死した模様です。王国軍の
損害は1万に満たない、とのこと﹂
﹁⋮⋮おぉ﹂
つい感嘆の声が出てしまった。勝つとは思ってたけど、まさか圧
勝とは思わなかった⋮⋮。圧勝だと言うなら、サラとかも無事だろ
う。本当によかった。
﹁なるほど。どうやら投資した甲斐がありますね﹂
リゼルさんも満足そうな表情をする。俺との取引の話をしている
のだろう。
・・・・
﹁それで、公式発表はいつになりますか?﹂
公式発表? つまりオストマルク政府がこの戦闘の結果を内外に
発表する日程が気になるってことか? なんで?
﹁この情報はまだ第1報で、子細な情報が入るのは恐らく2日後で
す。公式発表はその時になるでしょう﹂
﹁なるほど。軍務省が先走る、と言う可能性は?﹂
﹁祖父、いえクーデンホーフ侯爵閣下が圧力をかけているので大丈
夫だと思われます。ですが、動くなら早めの方が良いでしょう﹂
あの、何の話してるの?
俺が頭の上に疑問符を並べていたためか、フィーネさんはやっと
806
﹁こいつ何も知らないんだな﹂って気づいてくれた。あいにーどい
んてりじぇんす! なお文法があってるかは不明。
﹁リゼルさん、彼に事の次第を話しても?﹂
﹁あぁ、すっかり忘れていました。すみませんお願いします﹂
どうやら商談に夢中になって俺の事は忘れられていたようだ。ひ
どい。
﹁⋮⋮今回、私がリゼル様を呼び出した理由は1つ。国債の話です﹂
﹁国債?﹂
ここで繋がるのか。さっきの話に。
﹁シレジア国債は暴落を続けています。市場の反応はだいたいが﹃
シレジアは大敗して東大陸帝国に領土を割譲させられるだろう﹄と
言うことです。ここまでは大丈夫ですね?﹂
﹁えぇ。それは新聞には書いてありましたが⋮⋮﹂
﹁そして私たちオストマルク外務省、シレジア外交官、そしてグリ
ルパルツァー商会は秘密裏に結託し、東大陸帝国軍の情報を収集し
ました。おかげで、ザレシエにおいて王国軍大勝利となったわけで
す﹂
﹁そう、ですね﹂
だんだんきな臭い話になってきたぞ⋮⋮?
﹁現在オストマルク国内で伝わっている情報は﹃ヤロスワフ方面、
王国軍苦戦﹄のみと言って良いでしょう。それがシレジア国債暴落
の要因のひとつなのですが、さてここで﹃王国軍大勝利、状況好転﹄
の情報が入るとどうなると思いますか?﹂
807
﹁⋮⋮買い戻しの気運が高まりますね。まだ何とも言えない状況が
続きますが﹂
﹁お察しの通りです。王国軍の勝利によって国債市場はひとまず落
ち着き、価格も上昇に転じるでしょう﹂
﹁つまり、先ほどから話していたのは⋮⋮﹂
﹁グリルパルツァー商会がシレジア国債を最安値で大量に買う時機
の話し合い、ですよ﹂
ダイナミックなインサイダー取引だなおい! 正気か!
﹁ついでに言えば、東大陸帝国の国債が最大限高くなったところで
売る準備も始めていますよ﹂
なにそれも怖い。
﹁バレたらまずいんじゃ⋮⋮﹂
﹁まずいですよ。だからこそこうやって秘密裏に会っているんじゃ
ないですか﹂
フィーネさんはしれっと言い放った。その理屈が正しいのか間違
っているのか分からない。一方の当事者であるリゼルさんは可笑し
そうに笑いを堪えている。
⋮⋮うん、なんていうか、うん。
社会って難しいね⋮⋮。
808
北か、南か
4月8日。
キシール元帥率いる王国軍8個師団は部隊の整理を行うため、軍
団をザレシエの西にある放棄された農村に後退させた。後方から予
備兵を呼び補充させたり、人員を融通、配置転換をさせた。だがザ
レシエ会戦で王国軍は1個師団規模の人員を戦死もしくは戦傷させ
てしまったために、結局キシール軍団は7個師団に再編された。
再編が終了し、戦場の始末や物資の補給や兵の休息などが一段落
したのは4月8日のことであったが、さらに別の問題が、それも立
て続けにキシール元帥の下に届けられた。
1つは、中北部オスモラで6個師団を率いている副司令官ジグム
ント・ラクス大将からの報告書である。
﹁⋮⋮帝国軍が北に転進?﹂
﹁はい。ラクス大将の報告によりますと、帝国軍はオスモラでの攻
勢を中止し、アテニ方面へ向かったとのことです﹂
﹁つまり、アテニには帝国軍20個師団が集結することになるのか﹂
アテニ湖水地方を防衛するのは、アルトゥール・クハルスキ中将
率いる王国軍3個師団である。湖と湿原に囲まれたアテニは人口も
少なく防衛がしやすい場所と判断し、3個師団のみが配置された。
当初のエミリアの作戦では、ユゼフから寄せられた情報を下にま
ず中南部の総司令官ロコソフスキ元帥が直接指揮する軍団を撃滅さ
809
せ、その後オスモラの副司令官バクーニン元帥が指揮する軍団を壊
滅させる予定だった。これが成功すれば、帝国軍は上位2人を失い、
また命令・情報が分断されるため王国軍が優位に立てただろう。あ
わよくば、帝国軍が撤退をするかもしれない。
だが、バクーニン軍団は北に転進し戦力の集中化を図った。アテ
ニ湖水地方はいかに兵力差が出づらい地形にあるとはいえ、3対2
0ではどうしようもない。こちらも戦力を集中化して対抗するしか
ない。キシール軍団とラクス軍団、そしクハルスキ軍団を合わせれ
ば王国軍の合計は16個師団となり、これであれば帝国軍にどうに
か対抗できそうである。
キシール元帥はそう判断し、部下に北に進路転換を命じようとし
た。だがその時に、もう1つの報告がキシールの手元に届いた。そ
れは周囲を偵察していた部隊からの伝令であり、キシールにとって
無視できない報告だった。
−−−
ヤロスワフを包囲する帝国軍10個師団、その司令官ルイス・グ
ロモイコ上級大将の下に﹁ザレシエ方面苦戦﹂の報が届いたのは4
月4日のことである。
この報は帝国軍ロコソフスキ軍団前衛部隊が包囲される直前、居
もしない伏兵を探し求めていた偵察部隊がロコソフスキ元帥を見限
り、独断でヤロスワフ方面軍に救援を要請したのである。
﹁⋮⋮どう思う、参謀長﹂
810
﹁にわかには信じ難いことですが、ですがこれが本当だとしたら我
が軍団は危機に陥ります。一刻も早く救援を出すべきでしょう﹂
﹁だがヤロスワフに立て籠もる叛乱軍を放置するわけにはいかない
だろう。下手をすれば背後を突かれる可能性がある﹂
﹁部隊を分ける他ありません。ヤロスワフは5個師団で以って包囲
するにとどめ、残りの師団でザレシエの救援に向かわせましょう﹂
この時点でロコソフスキ軍団が壊滅していることをグロモイコ軍
団の司令部は把握しておらず、またその可能性を考慮してはいなか
った。ロコソフスキ軍団偵察隊が提供した情報があまりにも抽象的
すぎて、状況を細かに把握することができず、まさか帝国軍10個
師団が王国軍8個師団に1日で壊滅させられるとは思いもしなかっ
た。
グロモイコは参謀長の意見を採用し旗下の軍団を2つに分けた。
1つはヤロスワフを包囲し王国軍を束縛させ、もう1つの部隊はグ
ロモイコが直接指揮して北上し、ロコソフスキ軍団の救援に向かう
ことになった。
−−−
ヤロスワフ方面の帝国軍が部隊を分け、5個師団で北上してくる。
これは王国軍にとっては各個撃破の好機であるに他ならない。
だがキシール軍団が南に転進すれば、アテニ方面が手薄になる期
間が長くなる。シレジア南東部の端に位置するヤロスワフと北東部
811
の端に位置するアテニ。直線距離で400km離れており、どんな
に速く行軍したとしても2週間以上は経ってしまう。そしてヤロス
ワフの敵を発見・撃滅する時間を考慮すると、最悪の場合1ヶ月は
北を放置せざるを得ない。ラクス大将の6個師団を増援としてアテ
ニに派遣しても彼我の戦力差は9対20と大きい。それを1ヶ月の
間帝国軍の攻勢を支え続けなければならないとなると、それは非常
に難易度が高いと言わざるを得なかった。
ではヤロスワフの敵を放置してアテニに向かうのか、と問われれ
ばまた別の問題が噴出する。
1つは、キシール軍団が北上したとして、ヤロスワフから来た敵
5個師団がキシール軍団の背後を突く可能性があり、そうなれば少
なからぬ損害を被る可能性がある。もう1つは、ヤロスワフ自体も
苦戦しており、ヤロスワフ失陥も時間の問題ということだった。
キシール元帥は暫く沈黙を守った。彼の脳内は北に行くか、南に
行くかで意見が分かれており、そしてその収拾がつかないでいた。
彼は判断をしかね、彼の幕僚や高等参事官に意見を求めた。
︵もしユゼフさんがココにいたら、どういう風に言ったでしょうか︶
エミリアは心の中でそう考えていた。彼女はまだ状況が大きく変
わった場合に臨機応変に対処する能力が低い。彼女自身それを自覚
しており、だからこそユゼフ・ワレサという作戦参謀の存在が如何
に優れたものだったのかと改めて感心した。5年前の王女護衛戦の
時でも、ラスキノ戦の時でも、彼は状況を俯瞰的に眺めて作戦を練
った。
彼女は思考した。今この場にはいない友人が自分の傍にいれば、
どんな判断をしただろうか。この状況をどう見ただろうか。
812
﹁⋮⋮高等参事官の意見は?﹂
キシール元帥がエミリア少佐に意見を求めても、彼女は熟考し続
けた。黙り続けるエミリアに対して総参謀長ウィロボルスキ大将を
始めとしたキシールの幕僚は不安感を覚えたが、彼女はそれを無視
して考え続けた。
そして数分後、彼女は決断する。
﹁南に行きましょう。閣下﹂
813
帝国と世論
オストマルク帝国外務省、4月10日午前9時発表。
大陸暦637年4月1日、東大陸帝国はシレジア王国に対し侵略
行動を開始せり。
同日午前10時頃、シレジア東部国境中南部のザレシエ平原にお
いて、帝国軍10万と王国軍8万が激突。王国軍の果敢な戦闘によ
って、帝国軍は敗退、死傷10万の大損害を被る。王国軍の被害は
僅少とのこと。
帝国、及び王国政府の公式発表は未だなし。
帝国外務大臣政務官 ローマン・フォン・リンツ伯爵
−−−
﹁世論﹂と言うものは、如何に専制国家と言えども無視できない
重要な政治要素だ。無論、前世日本みたいな民主国家と比べると影
響力は小さくならざるを得ないけど、それでも無視して良いわけじ
ゃない。特にオストマルクみたいな多民族チャンプルー国家では、
世論や民意を無視した政策は独立戦争や革命を引き起こす引き金と
なる。
814
だから帝国首脳部や官僚の皆さんは日々頭を抱え続けている。ご
苦労様です
さて、オストマルク帝国が上の発表を行う前まで、このシレジア
の戦況はオストマルク国境に近い南東戦線の情報のみが伝わってい
た。その情報は帝国外務省の公式発表に寄らない、言わばそれなり
に信用が置ける噂と言うものだった。
その流れてきた噂が﹁ヤロスワフ方面、王国軍苦戦﹂であったこ
とから、オストマルク国内の世論は2つに割れた。
1つは簡単。﹁同じ反シレジア同盟だから便乗参戦して美味しい
ところ持って行こうぜ﹂論である。オストマルク帝国に近いクラク
フスキ公爵領を手に入れたら、きっと懐も温まる事だろう。この世
論を形成しているのは帝国の富裕層や貴族、官僚等の禿鷹共である。
でも帝国政府は今の所手を出す気はない。シレジアと同盟結びた
いなと考えている外務大臣クーデンホーフ侯爵がその筆頭だ。
もう1つの世論は﹁東大陸帝国が膨張しすぎてるからどうにかし
ろ﹂論である。どちらかと言えば少数派の意見だが東大陸帝国との
国境付近に住んでいる、もしくはその地域の出身者たちに多い意見
だ。シレジアを倒した勢いで、そのままオストマルクも滅ぼすので
はないかと戦々恐々としている。だが政治的影響力の小さい一般市
民の意見なので中央に通りづらいんじゃないかとも言われている。
クーデンホーフ侯爵がこの論を密かに支持している、なんてこと
知ったら帝国官僚共はどんな顔するだろうか。見物である
それはともかく、これが4月9日までのオストマルク帝国の世論
だった。でもさっきの外務省の公式発表後にこの世論が一変する。
815
まず東大陸帝国脅威論者は消え失せた。﹁あれ? もしかして東
大陸帝国ってまだ雑魚なんじゃね?﹂と思ったからだろうか。呑気
でいいね、大国の傘にいる人ってさ。
便乗参戦論者はむしろ増えた気がする。﹁疲弊した王国軍の脇腹
を刺して美味しいところ持って行けばいいんだ! 東大陸帝国も雑
魚もだから怒りを買っても問題にならないね! むしろ恩を売れる
かもね!﹂とかなんとか思ってるんだろうな。まさに外道。
そして第3の世論が形成された。まだ少数派だけど、シレジア王
国軍が勝利を積み重ねれば重ねるほどこの動きは大きくなるだろう。
レーゲンシルム
それが﹁シレジアと同盟して、ついでに他国も巻き込んで反東大
陸帝国同盟作ろう﹂論、略して﹁同盟論﹂である。
−−−
デート
4月11日。新しく開拓した低所得者層向け喫茶店﹁雨宿り﹂で
フィーネさんとの情報交換会した時にその世論について聞いてみた。
﹁参戦派の意見が大きくなったことは確かですし、それを抑えるこ
とが大変だと言うのは外務大臣閣下も仰っていました。ですが、第
4の世論を形成されるよりはマシでしょう﹂
﹁第4の世論、ですか?﹂
フィーネさんは相変わらず紅茶と適当な焼き菓子を注文。味につ
816
リリウム
レーゲンシルム
いてはフィーネさん曰く﹁百合座が100としたら雨宿りは70﹂
らしい。いいんだよ。ここは値段も30%OFFだし、第一味オン
チな俺には違いが分からないしね!
﹁はい。簡単に言えば﹃シレジアなんていう弱小国にだって出来た
のだから、自分たちも民族の力を結集して帝国政府に喧嘩を売ろう﹄
という論です﹂
﹁つまり、独立の気運ということですか﹂
﹁そうですね。そこまで行かなくとも自治権の拡大くらいは要求し
て来るでしょう﹂
オストマルク帝国が10の民族を束ねることができる理由は1つ。
東大陸帝国という強大な敵と言う存在のおかげだ。あの国が力を持
っている限り、各民族は﹁帝国の傘に入らなければ東大陸帝国に食
われてしまう﹂と考え独立なんて騒がなくなる。それにオストマル
クの法律上では﹁国民は皇帝の名の下に平等である﹂と定められて
いる。⋮⋮もっとも、富裕層や権力中枢、そして貴族は一部の民族
に偏ってはいるようだが。
それでもオストマルク政府も各民族が武力蜂起しないように気を
遣っているから、何もなければ今後100年は大丈夫だっただろう。
で、今回の戦争がシレジアが何かの間違いで勝てばどうなるのか。
﹁シレジアが勝った場合、おそらく一番騒ぎ立てるのは⋮⋮いえ、
既に騒いでいるのは旧シレジア領の住民です﹂
﹁でしょうね﹂
第二次シレジア分割戦争の時に奪われた旧シレジア領には、当た
り前だがシレジア系住民が多い。今回の戦争でシレジア勝利に沸き
立つのは良いが、勢い余って王国軍を呼び込むように宣伝したら⋮
817
⋮。
﹁このままでは我が国にとっても、シレジアにとっても、そして旧
シレジア領民にとっても悲劇にしかならないでしょう﹂
﹁えぇ。シレジアがオストマルクに勝てるはずがないし、オストマ
ルクも独立運動の火を煽られてしまっては他の民族にも影響します
からね﹂
そして旧シレジア領民の何人かは人柱に捧げられることになるだ
ろう。だから煽るなよ? 独立運動起こすなよ?
民族問題は国益とか段取りとか無視して過激な感情で動くことが
ある。感情は大事だけど、こっちにも予定というものが⋮⋮。
﹁それで、偉大なるクーデンホーフ侯爵閣下はどのようにお考えで
?﹂
﹁偉大かはどうかは知りませんが、クーデンホーフ侯爵は何を考え
ても何もすることはできませんよ﹂
あ、そうか。外務大臣だもんな。侯爵ができるのは外交と、侯爵
が持っている領地の経営だけだ。調査局も対外情報機関であって対
内秘密警察じゃないしな。
このあたりの問題は内務大臣とか、あとは実力行使ができる軍の
範疇になるか。
﹁でも、他の省に圧力をかけることはできますでしょう?﹂
﹁できますよ。圧力とは言わず餌でもいいですけど﹂
餌って言い方も酷いな。
んー、内務省とか軍務省に与える餌ってなんだ? 権限とか予算
とか人員とかだろうか。あ、いや大臣個人に対する餌とか脅迫でも
818
いいわけか。専制国家だし、皇帝からの圧力も効果がありそうだ。
﹁まぁ、今議論すべきことではありませんね。準備はしておきます
が、現状では戦況がどう転ぶか未知数ですので﹂
﹁ですね﹂
いっそシレジアが負けた方がフィーネさんにとっては楽なのかも
しれない。
負ける気はないけどね。
ちなみに、帝国外務省の公式発表があったおかげでシレジア国債
は一時期暴騰した。リゼルさんが金貨の風呂に入っている姿が脳裏
に思い浮かんだのは多分気の迷いか何かだろう。決して思春期云々
の話ではないはずだ。そのはずだ。
819
カレンネの森の戦い ︲発見−
ザレシエとヤロスワフの中間から少しザレシエ寄りの場所に﹁カ
レンネの森﹂と呼ばれる広大な原生林が存在する。カレンネは森で
あると同時に沼地でもあり、多くの馬車と人がその沼にはまったと
されている。
その結果周囲には農村や整備された街道と言った類のものがない。
人の手が及ばないこの森は多種多様の動植物が静かに暮らし、人々
の営みや血生臭い戦争とは無縁だった。
4月12日にシレジア王国軍がやってくるまでの話ではあるが。
−−−
ヤロスワフから5個師団を引き抜いた帝国軍グロモイコ上級大将
の指揮する軍団は、当初このカレンネの森の遥か東にある街道沿い
を北上していた。
だが4月13日の早朝に王国軍の偵察部隊を発見する。グロモイ
コはその偵察部隊を倒すことはせず、その偵察部隊の後をばれない
ようにつけて行った。朝霧のおかげでシレジアの偵察部隊に気付か
れずに済んだ帝国軍は、カレンネの森の北の地点に王国軍5個師団
がいることを確認した。
﹁なぜここに叛乱軍がいるのだ?﹂
820
グロモイコ上級大将は、王国軍発見の報に際して喜ぶ前に疑問を
感じていた。参謀長は意味を掴み兼ね、グロモイコに尋ねた。
﹁なぜ、とは?﹂
﹁考えても見ろ参謀長。もし奴らがヤロスワフを助けるつもりで出
撃してきたのなら、こんな場所にはいないだろう。南に進めばすぐ
に森にぶつかり、東西どちらかに進まなければならない。我々が今
使っている街道を、奴らも最初から使っていればこんなところに布
陣する理由はない。そうだろう?﹂
﹁確かに、仰る通りです﹂
もしこの王国軍が、ヤロスワフ救援にために他の戦線から引き抜
かれた軍団であるとするのならば、グロモイコが指摘した通り、彼
が使っている街道を使用することが最善の方策である。街道から外
れた場合、いかに自分たちの国だと言っても迷子になる可能性が捨
てきれず、また多くの場合未開拓地域で兵の休息や部隊の展開に支
障をきたす恐れがある。
にも関わらず王国軍がこの地点を選んだ理由を、グロモイコは考
えていたのだ。
だがグロモイコが考えを纏める前に、参謀長が届けられた偵察報
告書を見て何かに気が付いたようである。
﹁⋮⋮もしかすると、ヤロスワフの救援ではなく、我々の軍団を撃
滅するために動いたのではないでしょうか?﹂
﹁なんだと?﹂
﹁これをご覧ください。偵察部隊からの情報によれば、王国軍は東
を向いています﹂
<i152933|14420>
821
﹁それがどういうことなのだ?﹂
﹁おそらく、叛乱軍は我が軍が部隊を分け、そしてこの街道を北上
していることを知ったのでしょう。叛乱軍はどうやら寡兵のようで
すから、各個撃破の機会があればそれを逃すはずがありません﹂
﹁なるほど。つまり無防備に東の街道を北上する我々の左側面を奇
襲し、一気に瓦解させようとした。そうすれば被害も少なくて済む
⋮⋮ということだな?﹂
﹁おそらくは﹂
﹁だが、我々は敵に気づかれることなく叛乱軍の位置を知った。つ
まり叛乱軍に最早勝ち目なし、だな﹂
﹁しかしどう対処致しましょう。相手は5個師団、数の上では同じ
です。まともにやり合った場合、下手を打てば消耗戦になり無駄な
被害が増えるばかりです﹂
﹁ふむ⋮⋮そうだな。こちらも奇襲を仕掛けるか﹂
﹁奇襲、ですか?﹂
奇襲と言うのは、本来寡兵の部隊が用いる策である。大軍はそも
そも数で勝っているのならば正面切って戦えば勝てるため、わざわ
ざ奇襲を仕掛ける意味はない。もしここでグロモイコ軍団が消耗し
きっても、帝国には多くの兵力が残されている。
だが、グロモイコはあえて奇襲を考案した。無駄に被害を大きく
すれば後々の昇進に響くだろう。その一方で奇策を用いて戦果巨大、
被害僅少にすることができれば武勲は巨大なものとなり、元帥への
道が開ける。彼は極めて打算的な理由で奇襲の道を選んだのだ。
﹁まず、部隊を2つに分ける。俺が直接指揮する4個師団と、陽動
の1個師団にだ﹂
﹁陽動、ですか﹂
﹁あぁ。陽動師団は街道をこのまま北上させる。そうすれば叛乱軍
822
は待ってましたと言わんばかりに急進してくるだろう。その一方で
本隊4個師団はカレンネの森の外縁部ギリギリを行軍する。それで
叛乱軍が急進しきてたところを右側背より叩くのだ﹂
﹁なるほど⋮⋮!﹂
参謀長の感嘆の声を聞くと、グロモイコは満足した。自分の完全
無欠な作戦を聞いて下々の者たちが感嘆と感心の声を向けてくれる
と言うのは、大貴族の息子である彼としては至上の喜びである。
﹁陽動部隊の指揮は⋮⋮そうだな、ロパトニコフ中将に任せよう。
奴も武勲を立てたがっていたからな、丁度いいだろう﹂
﹁わかりました。すぐに準備しましょう﹂
こうして帝国軍グロモイコ上級大将の作戦が実行に移された。4
月14日、午後1時のことである。
823
カレンネの森の戦い ︲発見−︵後書き︶
簡単な図説
<i152934|14420>
︻東大陸帝国軍︼
・ヤロスワフ方面軍
本隊司令官:ルイス・グロモイコ上級大将
陽動指揮官:エルキ・ロパトニコフ中将
824
カレンネの森の戦い ︲陽動−
時間は少し戻り、4月12日のこと。
王国軍キシール軍団は南へ向かうことは決定されたが、北上する
帝国軍を具体的にどう迎撃するかについては決まっていなかった。
キシール軍団は7個師団、北上する帝国軍は5個師団。数の上では
有利だが、味方の被害を最小限に抑えなければ他の戦線に影響が出
るため、正面からぶつかって戦うことは避けなければならない。
司令部は行軍しつつ迎撃作戦の立案を急いだが、有効な手を思い
つかないまま時間だけが過ぎて行った。
同日午後2時30分。ヘルマン・ヨギヘス中将が司令部に迎撃作
戦について上申した。
﹁我々は現在この街道を南下していますが、途中でカレンネの森が
ありますね?﹂
﹁あぁ。と言っても街道から少し西に外れた場所にあるが⋮⋮それ
がどうしたのだ?﹂
﹁その森の近くで、帝国軍を迎撃しましょう﹂
ヨギヘスがその言葉を発した時、司令部のほぼ全員が意味を掴み
兼ねていた。
いや、意味は分かる。カレンネの森を戦場に設定するのは良い。
だが、なぜわざわざ街道から外れた地点を選ぶかがわからなかった
のだ。
だがその司令部の中で唯一、ヨギヘスの発言に反応を示したのが、
825
高等参事官エミリア・シレジア少佐だった。
﹁ヨギヘス中将閣下。それは街道を北上する帝国軍の左側背を討と
う、と考えているのですか?﹂
﹁そうです⋮⋮と言いたいところですが違います。えーと、貴官は
⋮⋮﹂
﹁総合作戦本部高等参事官エミリア・シレジア少佐であります、閣
下﹂
﹁⋮⋮しれ、じあ?﹂
ヨギヘスは固まった。と言うより、固まらざるをえなかった。
シレジアの姓を持つ者はこの国では3人しかいない。国王フラン
ツ、宰相カロル、そして王女エミリア。ヨギヘス中将の目は両目共
に健全で、しっかりと人や物を判別できる。シレジアを名乗る人物
が女性であることも認識した。王国軍総司令官の目の前で、そして
この状況下でシレジアの名を騙る者がいるはずがない。となれば、
エミリア・シレジア少佐の名は本名であるということ。
つまり、この高等参事官とやらは王女である。
その結論に至ったヨギヘスは、時間にして13秒、言葉を失った。
﹁閣下?﹂
﹁あ、その、ご無礼を、殿下!﹂
ヨギヘスはある意味では彼らしく慌て、ある意味では彼らしくも
なく慌てた。戦場では慌てず冷静に状況を見やるヨギヘスが慌てる、
というのは大変珍しいのである。無論、この状況で冷静になれる方
が変ではあるが。
﹁﹃殿下﹄ではありません。私は王女としてではなく、少佐として
826
この場にいます。閣下は数万人の兵を束ねる中将、そして私は一兵
も率いない少佐。どちらが敬語を使うべきかは言うまでもありませ
ん﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
それで納得できるのであれば、彼はもう少し人生を謳歌できただ
ろう。だが彼は結局どっちつかずの態度でエミリア少佐に接するこ
とになる。
﹁それで中将閣下。話の続きをしてもらえますでしょうか?﹂
﹁は、はい﹂
彼は一度の深呼吸と二度の咳を挟んで、作戦の続きを話した。
﹁まず最初に部隊を2つに分けます。1つは陽動として5個師団、
もう1つは本体として2個師団を動かします﹂
﹁5個師団を陽動に?﹂
﹁えぇ。そして陽動5個師団をカレンネの森の北に配置、先頭を東
に向けます。そして本隊2個師団は街道の東に展開するのです﹂
﹁なぜそのようなことを?﹂
﹁北上する帝国軍を分断し、各個撃破、東西より挟撃するためです﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
各個撃破という単語が飛び出た時はじめて、エミリアはヨギヘス
の作戦案に興味を持ったと言える。ヨギヘスが自らの武勲を立てる
ために作戦を立案したのではなく、味方の被害を少なくするために
考えた作戦なのだと、この時確信した。
﹁具体的な作戦行動についてお話します。まず、帝国軍に我が陽動
5個師団を発見してもらわねばなりません。そこで偵察部隊を放ち、
827
・・・
その偵察部隊をわざと帝国軍に捕捉させます。そしてその偵察部隊
を帝国軍に追わせ、我々がカレンネの森の北に展開していることを
教えるのです﹂
﹁なるほど。帝国軍が陽動隊を発見すれば﹃叛乱軍は我々の側面を
襲おうとしている﹄と思わせることができる、と言う訳ですね?﹂
﹁はい。エミリアで⋮⋮ん、エミリア少佐の言う通りです。帝国軍
はそれを知れば、やはり自らの被害を少なくするために作戦を立て
るでしょう。恐らく部隊を陽動と奇襲部隊に分け、陽動が街道を北
上し、我が軍が釣られたところを奇襲部隊で討って、そして陽動隊
と連携して挟み撃ちにする。たぶんこの作戦が一番確実性が高いと
思います﹂
事ここに至り、キシール元帥以下の幕僚たちも作戦の概要がわか
った。敵が行うであろう作戦を逆手にとって各個撃破しよう、とい
うのがこの作戦の内容なのだ。
﹁つまり、敵の陽動隊を我が軍の本隊2個師団で撃滅し、そしてそ
のまま敵奇襲隊を挟撃する。というわけか﹂
﹁左様です、元帥閣下﹂
﹁では中将、もし敵が部隊を分散させずに我が軍を討とうと考えた
らどうする?﹂
﹁その時は、本隊に敵の背後を突かせるだけの事です﹂
﹁なるほど。⋮⋮ヨギヘス中将の作戦案は良いものと考えるが、卿
らはどう思う?﹂
キシール元帥は幕僚に意見を求めた。殆どの者は特に反対をする
ことなく、ヨギヘス中将の案に賛同した。それは彼らが、ヨギヘス
が考えた作戦案以上の出来の代案を持っていなかったからである。
反対するのであれば代案を寄越せ、と言われるくらいなら大人しく
賛同した方が良いと言うことだ。
828
だがそんな空気にも拘らず、勇敢にもヨギヘスの案に意見を唱え
たのはエミリアだった。
﹁ヨギヘス中将閣下。よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮少佐、なんでしょうか﹂
﹁はい。閣下の作戦案に少し修正を加えたものなのですが⋮⋮﹂
ヨギヘスが立案し、エミリアの修正した作戦案は、この20分後
に採用されることとなった。
−−−
4月15日午前11時20分。
エルキ・ロパトニコフ中将率いる帝国軍1個師団は、王国軍5個
師団を誘き寄せるため街道を北上していた。
敵軍団発見の報告を受けたのは、王国軍との予想接触地点に到着
した時だった。
﹁グロモイコ閣下の言っていた通りだな。部隊を西に向けさせ、叛
乱軍を迎撃するぞ! 粘っていれば、すぐに本隊が奴らの背後から
襲いかかるはずだ!﹂
彼はすぐさま部隊を左に回頭させ、王国軍5個師団を待ち伏せた。
本来であれば1個師団で5個師団に立ち向かうのは暴挙としか言い
ようしかないが、今回に限っては援軍が敵の後背を突くことになっ
829
ているため問題はない。
ロパトニコフの命令を受けた師団は、綺麗に、そして素早く部隊
を展開させた。1個師団という数の少なさが身軽な動きを助けたの
だが、それよりもロパトニコフ中将の指揮が適確だったことも大き
い。
だが残念なことに、彼は戦況全体を把握する能力に欠けていた。
ロパトニコフ師団が部隊の展開を終え、西から来る王国軍に意識
を集中したところに、彼の命運を決定づける報告が届いた。
﹁後背より、敵出現! 数、推定2個師団!﹂
﹁何!?﹂
王国軍は、ロパトニコフ師団が完全に西に向き、戦闘態勢に入っ
たのを確認してから突撃を敢行した。この報告を受けたロパトニコ
フ師団は完全に浮き足立ち、東西どちらの敵を相手にすればいいの
かわからなくなってしまった。しかもロパトニコフの後方に現れた
のは王国軍最強の近衛師団だったことが、彼の人生最大の不幸だっ
たと言える。
ロパトニコフはすぐさま反転180度回頭を命じた。西の叛乱軍
5個師団は、帝国軍本隊4個師団が足止めしてくれる。そう考えて
の命令だった。
だが旗下の将兵がその命令に迅速に答えることができるかと言わ
れれば話は別である。
西を向けと言われ、それを実行した途端に東を向けと言われて、
はいそうですかと実行できる将兵は少ない。どちらを向けばいいか
わからなくなった各部隊は、陣形を崩したまま不完全な形で回頭し
てしまった。
830
その最中に王国軍2個師団の攻撃を受けてしまっては、もはやロ
パトニコフにはどうしようもなかった。
わずか30分の戦闘で帝国軍ロパトニコフ師団は6割の損害を出
し潰走した。
831
カレンネの森の戦い ︲陽動−︵後書き︶
簡単な図説
<i152994|14420>
単位:万人︵約︶
832
カレンネの森の戦い ︲泥沼−
グロモイコ上級大将率いる5個師団が、東に移動する王国軍5個
師団を捕捉したのは、午前11時20分のことだった。グロモイコ
軍団は森を背に、王国軍の右側面に展開している。
彼は王国軍の陣形を見るなり、喜々として部下に号令した。目の
前で疾走する王国軍は、北上する帝国軍ロパトニコフ師団を撃滅し
ようと無理をして、縦に細長くなっているように見えた。
﹁叛乱軍どもめ、かかったな! 総員戦闘用意、上級魔術詠唱開始
!﹂
グロモイコが号令するとともに、旗下の部隊は一斉に戦闘態勢に
入る。槍兵隊は綺麗な横陣を組み、魔術兵が上級魔術の詠唱を開始
し、弓兵もすぐに出るであろう斉射の号令を待っていた。
数分後、上級魔術の発動準備が整う。上空には圧縮された魔力の
塊が光を放ち周囲を照らしている。この時点で王国軍は敵襲に気付
いただろうとグロモイコは考えたが、既に魔術は完成された。後は
発動の号令をかけるだけで王国軍は混乱状態に陥るはず。
彼は右手を大きく上げ、発すべき声を喉元に用意する。
だがその声が彼の口から飛び出る前に、事態は急変した。
東の方向、つまりグロモイコから見て右、ロパトニコフ師団が展
開していた場所から轟音が響いたのだ。
音の正体はすぐに理解できた。彼にとっても聞き慣れた音、大規
模な騎兵部隊が爆走し、そして歩兵と衝突した音である。
833
彼はその時、自分が罠に嵌められたことを理解した。そして状況
を一瞬で把握できた。だが、彼が他の帝国軍の凡将たちと異なるの
は﹁決断が早い﹂ということだった。
﹁魔術攻撃開始、目標敵陣中央。その後に弓兵も前面の敵を攻撃。
密集しつつ急進し、反乱軍の中央を突破する!﹂
グロモイコは一瞬にしてロパトニコフを見捨てた。彼は、未だ長
い縦陣となっている王国軍の中央を突破し、カレンネの森を大きく
反時計回りに迂回しようとした。ロパトニコフ師団を失ってもここ
で戦果を上げれば痛み分け、処罰は免れることができるだろう、と。
上司の命令を受けた部下たちは不安を漏らすことなく忠実に命令
を守った。ロパトニコフに構っていては自分たちが助からない、そ
れを悟ったかのように俊敏に動いた。
だがグロモイコ軍団が陣形を再編した途端、王国軍5個師団に動
きがあった。
﹁閣下、敵が⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮!?﹂
王国軍が、右に回頭した。それだけならまだ良いが、問題は王国
軍兵が一人一人が一斉に﹁右向け右﹂をしただけで、綺麗な横陣が
完成した点にある。
部隊を回頭する場合、通常は師団という大きな枠で行う。それが
如何に大変で時間がかかる作業かは、想像に難くない。単に﹁右を
向け﹂と言われただけでは、魔術兵や弓兵など通常後方や両翼に下
げるべき兵が前に出てしまう。
それなのに、王国軍兵は右を向いただけで完璧な陣形を完成させ
834
た。前衛の槍兵、2列目の剣兵弓兵、最後尾の魔術兵や騎兵、全て
の兵が綺麗な横陣を敷いている。
これが意味することはただひとつ。
﹁敵は突進して陣形が縦に伸びていたのではない。我が軍団を撃滅
するために、最初から横陣を組んでいた。我々は敵に嵌められたの
だ!﹂
﹁そんな⋮⋮。いえ、しかしまだ状況が決定的に悪くなったわけで
はありません。このまま中央を突破しましょう!﹂
﹁⋮⋮その通りだ。総員突撃せよ!﹂
グロモイコは上級魔術と弓兵の援護の下、敵中央を強行突破しよ
うと試みた。
だが王国軍も、それを待ち望んでいたかのように部隊を動かした。
中央部は後退、右翼と左翼は前進して、突進する帝国軍の威力を
弱めつつ半包囲態勢下に置く。
王国軍中央部を堅守するのは、ザレシエ会戦でも鉄壁の守りを見
せたシュミット少将率いる師団である。シュミットが用意した堅牢
な防御陣を、帝国軍は遂に打ち破ることはできなかった。
11時40分。
ロパトニコフ師団が多数の損害を出しながら潰走状態で戦場を離
脱した。王国軍近衛師団は最早戦闘不能になったロパトニコフ師団
を無視し、王国軍5個師団の中央を突破せんと突進を繰り返すグロ
モイコ軍団の後方に襲い掛かろうとした。
グロモイコは、右側背より接近する近衛師団を見て中央突破を断
念。近衛師団の攻撃を躱しつつ、半包囲されないよう部隊を7時方
835
向、つまりカレンネの森がある方向に後退させた。
東大陸帝国出身のグロモイコは知らなかった。カレンネの森が沼
地でもあるということを。
0時15分。
グロモイコ軍団は、完全にカレンネの泥沼に嵌まってしまった。
王国軍は、さらに攻勢を強めて帝国軍を泥沼の中に追い落とし、午
後0時30分の段階に至ると遂に全帝国軍兵が沼に嵌まって動けな
いでいた。
動けない帝国軍に対し、王国軍は容赦ない魔術攻勢を加えた。
帝国軍ヤロスワフ方面指揮官グロモイコ上級大将が降伏を申し出
たのは、午後1時30分のことである。
−−−
帝国軍の死者、1万3500余名。捕虜となった者はさらに多く、
2万8000名を超えた。
グロモイコ軍団で逃げ延びることに成功したのは、奇跡的に泥沼
から解放され、そして森の中に逃げ込むことができた者だけである
と言って良い。その数が多かろうはずもなく、また森の中にも多く
の沼地が存在することから、果たして何人の帝国軍兵が生き残るこ
とができたのかは不明である。
836
一方の王国軍の死者は2600名。だがグロモイコ軍団が数度に
わたって突撃を繰り返した影響で、戦傷者の数は8000を超えて
いた。軍医や治癒魔術師の必死の治療によってその半数が完治した
が、半数は治りきらず戦闘不能となった。完治しなかった者と死者
を合わせると合計で4300名。さらに王国軍の戦力が減った形と
なる。
だが、まだヤロスワフには帝国軍5個師団が存在する。そしてシ
レジア北東部、アテニ湖水地方には20個師団もの帝国軍がおり、
また帝国本土にも予備兵力が配置されている。
シレジア王国は戦術的な勝利を積み重ねてはいたが、それがいつ
まで続くかということは誰にもわからなかった。
837
カレンネの森の戦い ︲泥沼−︵後書き︶
簡単な図説
<i153056|14420>
単位:万人︵約︶
838
ヤロスワフ解囲
結論から言えば、キシール軍団はヤロスワフでは殆ど戦闘をしな
かった。
ヤロスワフを包囲していた帝国軍は5個師団。籠城した王国軍3
個師団は先のラスキノ独立戦争におけるラスキノ攻防戦の戦訓を生
かし、徹底的な防御戦を実施して帝国軍に出血を強いていた。だが
帝国軍の方でも戦訓を生かして、数度の強襲に失敗してからは攻勢
に出るのは止めて嫌がらせの攻撃をする以外は積極的に行動するこ
とはなかった。
もしこのまま帝国軍がヤロスワフを包囲し続ければ、籠城軍は数
日のうちに疲労と飢餓によって降伏したに違いない。
だがそこにキシール元帥率いる王国軍7個師団が甘んじて捕虜と
なった帝国軍上級大将ルイス・グロモイコを引っ提げてやってきた。
グロモイコ上級大将は、帝国軍の誇りも何もなく自らの生命と安
全の為に最善を尽くした。つまり王国軍に完全に利用されていた。
グロモイコは戦場に着くなり全軍に降伏・武装解除を呼びかけた。
そのあまりにも情けない上官の姿を見た帝国軍将兵の殆どが戦意
を喪失。一部の師団が微弱な抵抗を試みたものの、7個師団の攻撃
を受けてはその抵抗が長期に渡って続くはずもなく、戦闘は十数分
で終了した。
4月18日午後4時50分。シレジア南東部の小都市ヤロスワフ
は解放された。
839
万単位の捕虜の列が西に向かっている。それを警護するのは王国
軍1個師団のみだったが、帝国軍捕虜たちは抵抗する様子はない。
戦意を喪失しているのか、それとも単に疲れているのかはエミリア
にはわからなかった。
エミリアは今後の事についても考えていた。
ここヤロスワフからアテニ湖水地方まではシレジア東部地域を南
北に縦断する形になるため、通常の行軍速度で20日程はかかる。
その間、兵の士気が維持できるかが問題だ。
現状、士気に関しては問題がない。むしろ高揚状態にある。ザレ
シエ、カレンネ、そしてヤロスワフと、3回連続で完勝したため﹁
この戦争勝てるんじゃないか?﹂という気運が高まっている。だが
その士気も、1ヶ月も行軍をし続ければ地に落ちるのは自明の理だ。
もう1つ気になるのは、東大陸帝国本土にいる予備部隊10個師
団の存在だ。
ユゼフから提供された情報では、帝国軍は後方に予備部隊5個師
団、それを2か所に配置している。1ヶ所はザレシエ平原から東南
東に7日の距離にある地点。もう1つはアテニ湖水地方から北東に
10日距離に配置されていると言う。
予備兵力投入に関して権限を持っているのは最高司令官たるロコ
ソフスキ元帥と、アテニ方面に転進したバクーニン元帥のみ。後は
1000km以上離れた帝都ツァーリグラードの人間だけだ。そし
てロコソフスキ元帥は開戦初日に戦死した。
もしバクーニン元帥をアテニ湖水地方に束縛すれば命令は届くこ
となく、もしくは届くのに時間がかかりすぎるため、ザレシエ東に
ある帝国軍予備部隊5個師団は事実上遊兵となる。
となれば、シレジア王国軍がやるべきことは1つ。人員を集めな
840
がら北に移動し、バクーニン軍団を撃滅するしかない。
﹁エミリア?﹂
ふと気づくと、エミリアの数少ない親友であるサラ・マリノフス
カ大尉が目の前に居た。彼女は心配そうな目でエミリアの顔を覗き
込んでいる。
﹁どうしましたか、サラさん﹂
エミリアは平静を装ったが、その努力は無駄となった。
﹁エミリア、何度呼んでも返事しないんだもの﹂
﹁あら、そうでしたか⋮⋮﹂
エミリアは周囲を見渡すと、確かに時間が経過していることが分
かった。日はかなり陰ってきており、既に周囲の者は仮説兵舎へ向
かっていた。何もせず、ただ物思いに耽っていたエミリアは、周囲
から見ればかなり異様に見えた事だろう。
﹁すみません。少し考え事をしていましたので﹂
﹁ふーん⋮⋮。あんまり自分一人で抱え込んじゃダメよ? 私、考
えるの苦手だけど話ぐらいは聞くわよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
こうやって親身に、エミリアの身体のことを心配してくれる人物
と言うのは少ない。だからこそサラという人間を大切にしなければ
ならないと一層強く思うのだ。
﹁はぁ、ユゼフが居てくれたら難しいこと全部丸投げできるのに⋮
841
⋮﹂
って言われるのも嫌だしね﹂
﹁そんなことをするのは酷と言うものですよ。せめて3割くらいは、
脳筋
私達で考えてあげませんと﹂
﹁それもそうね。あいつに
サラは自覚していないが、サラがユゼフという男性のことを話す
とき少し笑顔になる。エミリアはそのことをいつ彼女に教えてあげ
ようか、と悩んでいた。だがエミリアは決断し損ねた。もしそれを
指摘すれば、大事な友人の笑顔を見る機会が少なくなるのではない
かと言う不安があったからだ。
もっとも、残念なことにその笑顔が当の本人に向けられることは
ない。向けられるのは笑顔ではなく、大抵が拳だ。
エミリアは暫く親友と、彼女らの年齢に相応しい会話を続けた。
︵次はいつこういう機会があるかわかりませんから⋮⋮︶
−−−
カレンネの森、そしてヤロスワフの戦いにおいてシレジア王国軍
は7万人にも及ぶ帝国軍の捕虜を手に入れた。
時を経てその事実を知った補給参謀補ラスドワフ・ノヴァク中尉
は唖然として執務室の天井を見上げた。
7万人の捕虜。一時的に何処かの場所に収容するとして、問題は
その7万人の食糧をどう確保するかである。
842
捕虜を無碍に扱うことはできない。いざとなれば捕虜は停戦交渉
における重要な交渉材料となり得るし、そもそも﹁捕虜を捕るくら
いなら殺せ﹂と言えるはずもない。
﹁⋮⋮はぁ﹂
彼は司令部に来てから何百回目かの溜め息を吐いた。
現状、王国軍は20個師団を維持するだけでも補給線に過大な負
荷がかかっている。この上7個師団の捕虜を捕ってしまったら、そ
の負担はさらに大きくなってしまう。これ以上補給の負担が増えれ
ばシレジア王国の国力では全てを賄うことはできない。
これ以上の状況好転を望むのであればシレジアは戦術的な勝利で
はなく、戦略的な、もしくは政治的な勝利を得なければならない。
一介の補給参謀補で、戦略や戦術というものを知らないラデック
であってもそれがわかった。それほどまでに、シレジアは追い詰め
られているのだ。
﹁⋮⋮ユゼフがいたら、なんて言うんだろうな﹂
彼は士官学校時代の友人の事を思い出しながら、与えられた職務
を淡々とこなした。
843
旧シレジア領
4月19日。
帝都エスターブルクから馬車に揺られること5日、体力的にきつ
くなってきたところでようやく目的地についた。
﹁大尉。クロスノ⋮⋮いえ、グロツカの総督府に寄りますか?﹂
﹁いえ、フィーネさんも体力的に辛いでしょう。まずは体を休めま
す。総督に会うのは明日でも問題ないでしょう﹂
﹁わかりました。宿泊は懇意にしている貴族の別邸を利用しましょ
う。宿は何かと不便ですので﹂
﹁⋮⋮いつもいつもありがとうございます﹂
﹁大丈夫ですよ。今回のことは、我が国にとっても重要な事なので﹂
そう、重要だ。そんな重要なことを俺1人でやらなくちゃいけな
いんだから気が滅入る。誰かに代わってやりたいが、残念ながら俺
しか動ける人間がいない。
ここはオストマルク帝国皇帝直轄領クロスノ。主要産業は農業と
林業。そして第二次シレジア分割戦争の時にシレジアがオストマル
クに割譲した領地の1つ。総督の名はアルバン・フォン・ロット子
爵。
主要民族は当然のごとくシレジア人。だがここ数年、他の民族の
流入も顕著で多民族都市となっている。
そしてここ数日、反帝国運動が盛り上がっている地域でもある。
844
シレジア王国時代、この街は﹁グロツカ﹂と呼ばれていた。
−−−
事の発端は4月13日のことだ。
この日、オストマルク帝国外務大臣政務官ローマン・フォン・リ
ンツ伯爵がシレジア王国大使館を訪問した。外務省の高級官僚の突
然の訪問に大使館は騒然となったが、王国特命全権大使のナントカ
さんが冷静に事を運んでくれたおかげで、混乱は一時的なものに留
まった。
リンツ伯爵はとりあえず応接室に通し、話し合いは当初大使と公
使の2人で行われていた⋮⋮のだけど、途中で俺を含む駐在武官3
人が呼び出された。
﹁リンツ伯爵閣下の希望で駐在武官の全員を呼んでほしいとのこと
だ。失礼のないようにな﹂
と応接室の前で待機していた参事官に釘を刺された。んなこと言
われなくてもわかってるよ。
ノックをした後、スターンバック准将、ダムロッシュ少佐、そし
て俺の順番で応接室に入る。とりあえずの敬礼はエチケット⋮⋮な
のはいいとして、リンツ伯爵は何の用なのだろうか。ちなみに応接
室の席が足りないので、俺とダムロッシュ少佐は立ったままだ。
845
﹁⋮⋮役者が揃ったところで本題に入りたいと思う﹂
リンツ伯爵はそう切り出すと、1枚の紙を懐から取り出した。
﹁これは3月20日、クロスノで逮捕されたある男に関する情報で
ある﹂
部屋にいた全員が﹁クロスノ﹂という単語を聞いた途端に緊張し
た。
俺もリンツ伯爵のこの一言で八割方事情を察した。たぶん、ダム
ロッシュ少佐も分かってると思う。顔が強張ってるし。
﹁男の名はジン・ベルクソン。シレジア人の父親を持つ﹂
﹁⋮⋮そのベルクソンとやらは、なぜ逮捕されたのですか?﹂
大使閣下からの当然のような質問。まさか食い逃げではないだろ
う。
﹁﹃民衆煽動罪﹄だ。この男はクロスノ総督府を襲った﹂
なにやってんだそいつ⋮⋮。
数日前、フィーネさんと話し合った時に出た﹁第4の世論﹂の形
成、つまりオストマルク帝国から分離独立しようというアレがつい
に起きてしまったということか。
そういえばあの時も彼女言ってたな。確か﹁旧シレジア領でシレ
ジア人が騒ぎ立ててる﹂とかなんとかって。
オストマルクの法律には詳しくないからなんとも言えないけど、
たぶん騒ぐだけなら見逃されたんだろう。
846
で、それで何を勘違いしたのか﹁何をしても許される﹂と解釈し
て総督府を襲ったと。
⋮⋮よし、逮捕。
ん? でも待てよ? なんで民衆煽動罪なんだ? 総督府襲った
だけだと不法侵入とか業務妨害とか器物破損とかその辺じゃないの?
﹁閣下、質問よろしいですか﹂
﹁あぁ。君は確か次席補佐官のワレサ大尉だったね。なんだい?﹂
うーむ。返答の仕方が娘さんにそっくりだな⋮⋮。いや娘が親に
似てるのか。
って、今はそんなことどうでもよろしい。
﹁なぜ民衆煽動罪が適用されたのでしょうか﹂
﹁さすが大尉だ。実際、それが事件の核と言ってもいい﹂
﹁恐れ入ります﹂
良く知ってる人が知らないふりして自分を褒めるとかなんか背中
がむずむずする。あのフィーネさんの父親が褒めてると思うともっ
とむずむずする。早くこの場から退室したいです。
﹁今、貴国は東大陸帝国と戦争をしている。そして情報によれば、
かなりの勝利を積み重ねているそうだね﹂
﹁⋮⋮それが原因ですか?﹂
﹁そうだな。内務省は、このベルクソンという男がシレジアの戦争
を利用して旧シレジア領の分離独立、もしくはシレジア編入を求め
る運動を起こし、仲間を集めたと考え逮捕した。現在この男は内務
省管轄の高等警察局によって拘留されている﹂
847
高等警察局ね。うん。初めて聞いたけどだいたい想像がつく。政
治警察ですねこれは。拷問とか普通にやってそう。ま、この世界じ
ゃ犯罪者に対して殴る蹴るは当たり前だけど。科学捜査なんて夢の
また夢だし。
﹁それで、我々にどうしろと?﹂
スターンバック准将が聞いた。我々と言うのは大使館のことを言
っているのか。それとも駐在武官に限定した話なのか。
﹁今回おそらく、内務省はこの事件を契機に国内のいわゆる﹃便乗
参戦論﹄を支持している貴族や官僚を集めて、皇帝陛下に言上する
のだと、私は考えている。そうなれば、貴国も困るだろう?﹂
滅茶苦茶困る。
つまりオストマルク内務省がシレジアの脅威を声高に叫ぶことに
よって国内世論を﹁便乗参戦﹂に集束させて、皇帝フェルディナン
ト以下略陛下に宣戦布告を促す、と。
俺らが頑張って同盟組んだりなんなりって言うのは外務省の独断
専行だったってことなのかな。それとも単純に内務省と外務省の仲
が悪いのか⋮⋮。
いずれにしても困る。ここでオストマルクに参戦されたら今まで
の努力が無駄になる。
参戦しないまでも、俺と外務大臣との間で結ばれた﹁非難声明﹂
発表が遅れるかもしれない。国内が便乗参戦派に傾いている中で、
親シレジア的な態度に出ることは反発を招くだけだ。
シレジアを救うためにオストマルクが内戦になれ、と言えるわけ
でもなし。
848
﹁我々もシレジアに対して宣戦布告をするなど思いもしない。だが
国内世論がこれ以上反シレジアに傾けば、どうなるかは保証できな
い。そこで貴国に対し、この問題を解決する努力をするよう要請す
る﹂
つまりシレジア王国の公式に﹁旧シレジア領を編入するなんてと
んでもない!﹂という声明を出せということだろうか。
いや、努力しろって言ってるだけだから、内務省とか皇帝家に対
して内密に声明を出すだけでもいいのかな。
⋮⋮あれ、なんで武官呼んだの? それだけなら大使だけでもい
いよね?
﹁リンツ閣下。話は戻るが、なぜ我々を呼んだのだ?﹂
あ、さっきのスターンバックの質問って武官の話だったのね。
﹁⋮⋮今回の件に関し、我が帝国外務省は事の次第を明らかにする
ために独自調査をすることになった。調査隊の長は、外務審議官エ
ドムント・フォン・ジェンドリン男爵が行うが⋮⋮その調査隊に、
貴国の武官を1人貸してほしいのだ﹂
﹁なぜ?﹂
﹁ひとつは、調査の内容次第でオストマルク帝国の内政に深く関わ
る可能性がある事。その際、もし他国の文官がいると知った内務省
が、内政干渉だなんだと騒ぐ可能性がある。もうひとつは、今回の
調査で隣国の戦争が関連すると思われること。軍事的な観点からの
助言が欲しいと男爵からの要請があった。それで、我が帝国も武官
を出すが、当事国の武官も出した方が有用な意見が出るだろう、と
いうことだ﹂
﹁なるほど﹂
849
このリンツ伯爵の言いようが、俺が自由に動けるために考えた言
い分だと考えるのはナルシストが過ぎるかな。第一こんな重要な調
査、俺みたいな人間が任用されるわけでもなし。スターンバック准
将が適任だろう。
﹁と言うのであれば、私が行こう。少佐、日程の調整を⋮⋮﹂
﹁わかりました。リンツ閣下、調査隊の出立はいつになりますか?﹂
スターンバック准将とダムロッシュ少佐は行く気満々だな。その
間俺は大使館で留守か。これで人目を気にせずエスターブルクで自
由行動ができる。
﹁4月21日から月末まで。最悪の場合、5月までずれ込むだろう﹂
﹁4月末⋮⋮か﹂
ダムロッシュ少佐が日程の確認をしているが⋮⋮4月末か、なん
か用事があったような、ないような。
﹁閣下、4月27日に第二皇子グレゴール・ライムント・フォン・
ロマノフ=ヘルメスベルガー殿下の誕生日祝宴会がありますが⋮⋮﹂
﹁何? それはまずいな﹂
相変わらずこの国の皇帝家の人間の名前は長いな⋮⋮。
まぁ、この祝宴会をまさか休むわけにはいかないだろう。帝国で
も重要な会、かなりの要人が集まるはずだし。その会をまさか俺に
任せる、なんてこともできるはずもなし。
⋮⋮え、伯爵ってもしかしてそれがわかってて予定をぶつけてき
たの?
850
﹁その会を休むわけにはいかないか。⋮⋮仕方ない。ワレサ大尉﹂
﹁ハッ﹂
﹁大使館附武官として命じる。ジェンドリン男爵の調査隊に同行し、
男爵の調査に協力せよ﹂
でっすよねー!
﹁謹んで、拝命致します﹂
まぁスターンバック准将のお供をして見た事もない名前が長い皇
子の誕生日会に出席するのは嫌だしね。
4月14日。
こうして俺は旧シレジア領グロツカ、いやクロスノに行くことに
なった。
ちなみに伯爵が言ってた﹁帝国から出す武官﹂とやらは、予想通
ハネムーン
りと言うかやっぱりと言うかフィーネさんだった。
新婚旅行と言う奴だな!
﹁バカなこと言ってないで準備してください大尉﹂
﹁はい、ごめんなさい﹂
851
帝国内務省高等警察局
4月20日。
クロスノ総督に挨拶した後、今回の調査隊の人にも挨拶。
調査隊長のエドムント・フォン・ジェンドリン男爵なんて名前聞
いたことなかったけど、見覚えはあった。フィーネさんの護衛対象
だ。今まで忘れてたけどフィーネさん14歳で士官候補生で正式な
身分は男爵の護衛官でしたね。普通にエージェントかと思ってたわ。
﹁調査は主に我々がやることになるが、軍事的な見解やシレジアの
事を知りたい時は君のことを呼ぶことになるからよろしく頼むよ。
クロスノの案内はリンツ士官候補生に頼ると良い﹂
との男爵からのお言葉。意訳すると﹁今の所お前の席ねーから!﹂
だろうか。
まぁいいや。とりあえず総督府襲って逮捕された男に面会したい
⋮⋮と言うことを男爵に伝えると、彼は副官に持たせていたらしい
文書を1枚俺にくれた。
﹁それは外務大臣政務官リンツ伯爵が一筆書いたものだ。存分使っ
てほしい﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
⋮⋮あの、これ、本当に貰っていいんですかね。﹁調査許可令状﹂
って書いてあるんだけど。あとリンツ伯爵だけじゃなくて外務大臣
と司法大臣の連名なんだけどなにこれ怖い。
852
男爵の説明によれば、この令状があれば一定期間、一定の地域で
外国人である俺にも捜査権を行使できるそうで、治安当局との協力
を促すことができるらしい。ただしこの令状を行使する際はオスト
マルク帝国の臣民にして一定以上の階級にある武官もしくは文官の
同伴が必要、とのことで。
助けてー、フィネえもーん。
﹁問題起こさないでくださいね、大尉﹂
﹁わかってますよ﹂
ともあれ、これで少しは楽に調査ができる。HAHAHAHA、
楽勝だぜ。
そう思ってた時期が私にもありました。若さ故の過ちと言う奴で
ある。
内務省高等警察局クロスノ支部は、クロスノ警備隊駐屯地の一画
にある。駐屯地は軍の所轄なのに、高等警察局の一画だけ異様な雰
囲気を醸し出している。警備隊員曰く、治外法権のようなものがあ
るらしい。
その高等警察局の入り口で立っている厳つい顔の鬼いさんに、例
の令状を見せてジン・ベルクソンなる後先考えない民族主義者、も
とい犯罪者との面会を求めたのだが、
﹁ダメだ﹂
853
﹁いえ、ここに令状が⋮⋮﹂
﹁それは外務省が発行したものだろう。我々は内務省の命によって
動いている。だから会わせるわけにはいかない﹂
どうやらどこの世界でも役所という組織は縦割りと縄張り意識の
塊で構成されているらしい。
﹁しかし司法大臣の許可はあります。帝国訴訟法第26条によれば
司法大臣の許可があれば拘留されている者がどんな人物であっても
面会が許されるはずです﹂
﹁その法律は知っている。だが事、国事犯である場合には内務省の
調査が優先される。これは帝国刑事法第11条第2項に規定されて
いる﹂
先ほどからフィーネさんと内務省高等警察局員と思われる男の問
答が続いている。帝国法だの裁判所だの大臣がどうの権限がどうの
言っているが、ぶっちゃけ何言ってるんだコイツ程度にしか思えな
い。
でも俺が口出ししたらたぶんもっと大変なことになる。俺はベル
クソンと同じシレジア人。しかも内務省が便乗参戦論者を煽ってシ
レジア参戦を狙っているのだから尚更だ。
﹁フィーネさん。これ以上押し問答しても時間の無駄でしょう。一
度ここは退きましょう﹂
名将は引き際を心得る。至言だと思うわ。
・・
﹁⋮⋮わかりました。今は潔く転進するとしましょう﹂
いや、そんな﹁今は﹂の部分強調しなくてもわかってますって。
854
別にフィーネさんが負けたわけでもないし、縦割り意識高い官僚の
言動にイラッと来てることはもう十分に分かってますから。
そんなこんなで駐屯地からの一時撤退を完了したが⋮⋮果てさて、
どうすべきかな。残念ながら帝国内務省に知り合いはいないし、今
からコネを作る時間的余裕もない。
﹁大尉、どうしますか?﹂
﹁んー、ベルクソン氏のことは一度諦めて、別の視点から調査する
ことにしましょう﹂
﹁はぁ⋮⋮。しかし具体的にどうやって?﹂
﹁捜査の基本は足って言いますでしょ? ベルクソン以外のシレジ
ア人が、今回の戦争どう思ってるか聞いて回りましょう﹂
と言う訳で、一行︱︱と言っても2人しかいないけど︱︱はクロ
スノの中心市街地に行くことにした。
−−−
﹁誰か来たのか?﹂
高等警察局の入り口で若い男女が一通りの押し問答をした後、1
人の男が奥から現れた。表情は趣味の悪い画家が描いたような無表
情な顔をしており、且つその顔の筋肉はピクリとも動かない。まさ
に鉄仮面と形容すべく男だった。
鉄仮面の男は、入り口の男に対して、唇だけ動かして事情を聴い
855
た。
﹁はい。外務省の調査隊の隊員と思われる男女が、﹃ベルクソンに
会わせろ﹄と言ってまいりました﹂
﹁ほう。それでどうしたのだ?﹂
﹁外務大臣と司法大臣の判が押された令状をちらつかせていました
が、帝国警察法第11条2項のことを伝えると大人しく引き下がり
ました﹂
﹁上出来だ。引き続き頼むよ﹂
口調は満足気だったが、表情は変わらない。瞬きひとつせず、男
はそのまま奥へ引き下がった。
856
クロスノのシレジア人
とあるシレジア人男性︵42歳︶の証言。
﹁独立? いや、思ってもみないことだね。俺の場合、職業柄帝国
政府の庇護の下でないて食ってけないよ。シレジアのことを知って
るわけじゃねーけど、ここじゃシレジア人だキリス人だで商売が不
利になることはないからな。まぁ、たまに来るリヴォニア系貴族様
には反吐が出るが、それだけだな﹂
別のシレジア人女性︵37歳︶の証言。
ばあ
﹁シレジア編入? 今さらやってどうしろってんだい? 私の祖母
さんがまだ生きてたら、そりゃ大手を振って喜んだだろうけど、私
にとっちゃシレジア王国なんて国に未練はないよ。第一、私は一度
もシレジアに行ったことないからね﹂
そして最後に、シレジア人女性︵7歳︶の言葉。
﹁おにーちゃん!﹂
﹁こうして纏めてみると、シレジア独立の動きは言うほどじゃない
ってことでしょうね。みんな経済的にはゆとりがあるみたいですし、
オストマルク政府あってのクロスノだと理解してる﹂
﹁それは同意見なのですが、最後のはなんだったのですか?﹂
857
オストマルク帝国の民族構成はカオスの坩堝だ。10の民族がひ
しめき合って、しかも混住してるから面倒臭い。
1番比率が大きいのは貴族や官僚、富裕層の大半を占めるリヴォ
ニア系なのだが、それでも全体の4分の1しかいない。ちなみにシ
レジア系は全体の10分の1。
他にもキリス第二帝国の主要民族であるキリス系、東大陸帝国の
ルース系、カールスバート共和国のラキア系、大陸帝国統一前にこ
の地で国を作っていたヴォルガ系民族がいる。これら諸民族を全て
足してやっと全体の八割を占めるようになる。恐ろしい。
そしてどうやらオストマルク帝国政府の統治は上手くいってるよ
うで、民族間の経済的差別と言うのはないようだ。法律上の差別も
ないし、かつての大陸帝国のおかげで宗教や言語も統一されてるか
ら国家としての一体感もある程度ある。同じ帝国臣民として領内を
自由に行き来し、有事の際は一丸となって戦う。
え、何この理想郷。俺の知ってる多民族国家ってもっとドロドロ
ヌマヌマしてるイメージが⋮⋮。
まぁそこは帝国政府の治世の賜物と思っておこう。
スラム
﹁フィーネさん。クロスノに貧民街はありますか?﹂
﹁勿論ありますよ。街の南東部が特にそうです﹂
勿論ある、ね。なんだか悲しいことだ。いや仕方ないけどさ。
﹁しかしなぜ貧民街に?﹂
﹁簡単な話ですよ。民族運動が起こる理由はどこの世界でも一緒で
す﹂
﹁あら、まるで別の世界の事情を知ってるみたいですね﹂
858
彼女は俺が下手な冗談を言ったと解釈しただろうが事実なんだよ
なぁ。世の中には﹁民族の牢獄﹂なんて言葉もあるし。1つの民族
が騒ぎ立てまくることにより世界史の授業がとても嫌になったりす
る。
まぁそれはともかく。
民族問題が再燃する理由はだいたいいつも一緒だ。経済的貧困に
ある民族が﹁俺たちが貧乏なのは他民族から抑圧されてるせいに違
いない﹂とかそんなん。民族自決だのの概念はもっと時代が下がっ
たら生み出されるかもしれない。
だからこそ帝国政府は各民族が飢えないようにしている、と。富
裕層がリヴォニア系民族に集中してる状況を何とかしろと言いたい
が、そこは既得権益とかの問題もある。第一、リヴォニア系貴族の
フィーネさんの前でそれを言うのは憚れる。
﹁ま、ともかく行きましょうか﹂
−−−
貧民街はまさしく﹁民族の牢獄﹂と言っても差し支えなかった。
そして見事にリヴォニア系民族がいない。いるのは主にシレジア系
とルース系、あとはラキア系か主。
彼らはボロ雑巾のような服しか着てないし、どうやら路上生活者
も多い。あちらこちらに簡易テントみたいな家が建ってる。見た感
じ、衛生環境も悪いようだ。
﹁⋮⋮﹂
859
フィーネさんは先ほどから黙ったままだ。というか、針の筵だ。
富裕層に多いリヴォニア系、そして彼女は今軍服だ。彼らにして
見れば﹁俺らをこんな境遇に追いやったリヴォニア系が来てる。し
かも俺らを弾圧する軍所属だとよ。ケッ!﹂だろうか。
﹁フィーネさん。私が1人で聞き込みをするので、外で待機しとい
てください﹂
流石にちょっと可哀そうだなと思っての配慮だけど、彼女は心外
そうな顔をした。
﹁大丈夫です。行きましょう﹂
﹁本当に大丈夫ですか?﹂
﹁えぇ﹂
﹁なら、いいんですけどね﹂
強いのは良いんだけど、あまり無理されても困る。
−−−
貧民街に住むシレジア人男性︵51歳︶の証言。
﹁別に、今更シレジアに戻ったところでどうしようもねーよ。老い
先短い俺に何ができるってんだ。それより、そこにいるいけ好かね
ぇ貴族の嬢さんのほうが腹立つ﹂
860
シレジア人女性︵27歳︶の証言。
﹁シレジアって今戦争してるんでしょ? そんな国に編入されたい
なんて思う方が変よ。私はこの帝国で仕事が欲しいの。でも、どこ
かの人たちが仕事を独占してるせいでこっちまで回ってこないけど
ね﹂
とりあえず聞き込みでわかったことは、貧困層に至るまでオスト
マルク帝国に対する帰属意識が高いということだ。
彼らが問題にしているのは政治的権利や経済的貧困ではなく、リ
ヴォニア系民族による資本の独占だ。シレジア編入を求める声は少
なかったし、その声を挙げた人も﹁それで本当にいいのか?﹂と疑
問に思ってるようだ。
﹁これは外交問題と言うより国内問題ですね。こうなると、俺の出
番はないようです。あまりやりすぎると内政干渉になりかねません
し﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁フィーネさん?﹂
﹁⋮⋮あ、はい。なんですか?﹂
うーむ。どうやら結構効いてるようだ。﹁リヴォニア人のせいで﹂
という言葉を30回くらい聞いた後だもんな。
﹁どうします? そろそろ戻りますか?﹂
﹁い、いえ、私はまだ大丈夫です﹂
﹁大丈夫に見えないんですが﹂
861
﹁大丈夫ですって﹂
強いと言うより頑固だなこの人。
﹁まぁ、これ以上聞き込みをしてもたぶん同じことでしょう。一度
邸宅に戻って情報を整理しましょうか﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
⋮⋮こういう時、どういう言葉をかければいいのかわからん。
でも放っておくわけにはいかない。真面目に物事を考える人ほど
鬱になりやすいとも言うし、何かしらブレーキを掛けないとな⋮⋮。
862
戦場の噂 その2
第123期士官学校卒業生は、何もエミリア王女やサラ大尉だけ
ではない。
だが、卒業証書を受け取り軍に入隊出来た者は例年より少ない。
入学時は180名いたが、ラスキノ独立戦争前には125名にまで
減り、最終的に卒業証書を受け取ったのは83名だった。卒業証書
を受け取れなかった者の内40名が退学、57名が死亡という有様
だった。
だが副産物として、卒業後少尉任官数も過去最多だった。さらに
はユゼフ・ワレサやサラ・マリノフスカを筆頭に、中尉以上に任官
する者も多くいた。
そして何より、厳しい戦場を2度も耐え抜いた卒業生たちの絆は
他者のそれよりも堅固となった。
−−−
キシール元帥率いる王国軍はヤロスワフ防衛軍団の一部と合流し、
合計9個師団の大軍となった。軍団は北東部アテニ湖水地方を目指
して行軍している途中で、現在は一時の休憩中である。
その軍団、シュミット少将指揮する師団に2人の若い士官がいる。
彼らは2人とも第123期士官学校弓兵科卒業生で、ラスキノ戦争
863
時にはラスキノ攻防戦に参加した。
そんな2人は、直属の上司に聞こえないように雑談に興じていた。
﹁聞いたか。例の美人の第21剣兵小隊隊長の話﹂
バーサーカー
﹁あぁ、聞いたよ。敵中で暴れ回って全身に敵の血を浴びて自分は
無傷で生き残ったっていう狂戦士だろ?﹂
﹁それそれ。実はな、その美人に会ってみたんだけどな﹂
﹁本当か!?﹂
﹁おう。それがビックリしたんだけどよ、その美人の小隊長、剣兵
科首席卒業のマヤ・ヴァルタだったぜ﹂
﹁あー、あいつか。確かに、あいつなら千人切りは余裕だろうな﹂
﹁士官学校時代から喧嘩が好きだったもんな﹂
﹁喧嘩が好きだった⋮⋮と言うより、あのヴィストゥラ公爵令嬢に
近寄る悪い虫を片っ端から排除していたって感じだったけどな﹂
﹁の割には戦術研究科のワレサとかいうもやし野郎とは仲良かった
らしいけどな﹂
﹁あぁ言う奴が意外とモテたりするのかね⋮⋮﹂
彼らは心底羨ましがっているようだが、彼らにも将来を決めた恋
人はいる。自分のことを差し置いて他人の恋愛事情に嫉妬するとい
うのが、恋愛と言うものの不思議な側面である。
﹁あぁ、そういやヴィストゥラ公爵令嬢もこの軍団にいるらしいぞ﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁キシール元帥の司令部にいるらしい。あと少佐って呼ばれてたぞ﹂
﹁そりゃ随分出世が早いな﹂
﹁そうなんだが⋮⋮ちょっと不思議な事もあったな﹂
﹁不思議な事?﹂
﹁あぁ。なぜか周囲からは﹃エミリア少佐﹄って呼ばれてた﹂
﹁⋮⋮﹃ヴィストゥラ少佐﹄じゃなくて?﹂
864
﹁じゃなくて﹂
﹁⋮⋮普通、名前で呼ぶか?﹂
﹁呼ばないよなぁ。姓じゃなくて名前で呼ぶのは、大抵仲が良い、
もしくは大変高貴な身分の御方ってことだな﹂
﹁上司と仲が良くて、そして若くして既に少佐か⋮⋮ヴィストゥラ
少佐のイメージが⋮⋮﹂
﹁おいやめろ。想像しちまったじゃないか﹂
﹁そうだな。この話はやめよう。あの人は例え農民階級であっても
綺麗なままでいてほしい。いろんな意味で﹂
彼らがどんな想像をしたのかは書くに憚れるのでここでは紹介し
ない。が、彼らが男で年相応の性欲を持っていることは確かである。
﹁だな。⋮⋮思えば同期生って結構この軍団にいるよな﹂
﹁そりゃそうだろう。なんせほぼ全軍召集だからな。召集されてな
いのは治安維持用の警備隊と非戦闘員くらいだ﹂
﹁でもさっき言った戦術研究科のワレサは見てないぞ? あいつラ
スキノで死んでないよな?﹂
﹁召集されてないんだろ﹂
﹁それもそうだな。あいつは剣を振り回すんじゃなくて女に振り回
される方が得意だったからな﹂
﹁ある意味じゃ幸せな奴だ﹂
コース
﹁あいつとよくつるんでた騎兵科のマリノフスカも確か近衛師団に
居たよな﹂
﹁近衛師団で、しかも大尉だろ? 出世走路まっしぐらだな﹂
﹁羨ましいねぇ﹂
﹁俺らも頑張るしか⋮⋮っと、あれ元帥じゃないか?﹂
﹁ん? どこだ?﹂
﹁ほら、そこ。左前﹂
865
彼が指差した先には、王国軍9個師団を束ねるキシール元帥の姿
があった。彼は旗下の兵員一人一人の顔を見つつ、時々兵と握手や
会話をしている。こうして元帥直々に挨拶して周り、兵の士気を高
めようとしているのだ。
﹁⋮⋮あ、本当だ。幕僚たちもいるな﹂
﹁どうして参謀ってのはどいつもこいつも陰気な面してるんだろう
な﹂
﹁それが仕事なんだろ?﹂
﹁それもそうだな。図面を眺めながらああだこうだ言う奴だ。陰気
にもなるわな﹂
そう彼らは階級がはるかに上の者に対して小声で陰口を叩いてい
たが、ある人物が彼らに声をかけた時その態度は一変した。
﹁お久しぶりですね、﹂
﹁⋮⋮ヴィストゥラ様!? お、お久しぶりです﹂
彼らは、まさかここに先ほどまで噂の対象だった人物が来るとは
思わなかった。そして何よりも話しかけられるとは思いもよらぬこ
とだった。
そしてさらに衝撃的な言葉が、彼女の口から発せられた。
﹁確か弓兵科のバルトシュ・リソフスキさんと、パベウ・チェシュ
ラークさん、でしたよね?﹂
﹁﹁えっ?﹂﹂
﹁あ、すみません。間違っていましたか?﹂
間違っていなかった。だからこそ彼らは今硬直している。
866
﹁い、いえ、あっています﹂
﹁えぇ。でも、なんで⋮⋮?﹂
﹁なんでって、同じ士官学校で学んだ仲ではありませんか﹂
彼らは再び絶句せざるを得なかった。
リソフスキとチェシュラークと呼ばれた彼らは、今目の前にいる
彼女のように校内で有名な人間という訳でもなかった。貴族の子弟
ではあったが、どちらも無名の男爵家と騎士階級、成績もパッとし
なかったし、ラスキノ戦争でも特別武勲を立てたわけでもない。
そんな2人を覚えている。それは少なくとも、第123期士官候
補生全員の顔と名前を憶えているということになる。
﹁ヴィストゥラ様は記憶力が良いのですね⋮⋮﹂
﹁そんなことはありません。それに記憶力が良くても、応用力がな
ければ何もできませんから﹂
彼女は謙虚にそう答えたが、彼女が十分に応用力に富む人間であ
ることは一部の者には有名だった。
﹁あぁ、それと言い忘れていました。私はもう﹃ヴィストゥラ﹄で
はありません﹂
﹁はい? そうなのですか?﹂
女性の姓が変わる、というのは別に珍しくもない。嫁入りすれば
大抵の場合、姓が変わる。だから彼らは公爵令嬢であるヴィストゥ
ラが、名のある貴族と結婚したのだと解釈した。
だが、その解釈は残念ながら外れだった。
﹁私の本名はエミリア・シレジア。今度からは﹃エミリア﹄と呼ん
でください﹂
867
﹁﹁⋮⋮⋮⋮えっ?﹂﹂
本日何度目かの硬化現象だった。
シレジアと言う姓が意味する事実はただひとつ。この国に住む人
間なら誰でも知っていること。
﹁で、殿下!? こ、これは失礼を!﹂
彼らは急いでその場で跪いた。彼女が高貴なる身分の御方だと分
かれば、この行動は正しい。
﹁そんな大仰なことをしないで結構ですよ。ここは軍の中、私は一
介の少佐にすぎません。貴方たちは佐官に対していつもそんな風に
挨拶しているのですか?﹂
﹁い、いえ⋮⋮﹂
﹁では、立ってください。挨拶は軍人らしく、敬礼で構いません﹂
﹁あ、はい⋮⋮わかりました﹂
彼らは立ち上がると、一上司に向けた敬礼をした。士官学校で散
々習った、綺麗な敬礼である。
2人の敬礼に満足したエミリアも答礼をする。
﹁では、私はそろそろ行きます。お2人共、どうか御無事で﹂
﹁はい。エミリア殿下も、ご壮健であられますよう﹂
﹁えぇ。それでは、また会いましょう﹂
エミリアが去った後、彼らは暫く立ち尽くしていた。
868
そして互いの表情を確認すると、2人は数分間に亘って笑い転げ
た。その光景を見た直属の上司が彼らを注意するまで。
869
内務大臣
4月21日。
4月18日にシレジア王国軍がヤロスワフを解放した、という情
報が俺の耳に入ったのはその日の朝のことだった。
クロスノとヤロスワフは割と近く、馬車を全力で走らせれば1日
で着く。にも拘らず俺の耳に届いたのが遅れたのはこれがちゃんと
した情報として届いたのではなく、風聞という形でこの街に届いた
からだろう。
そのおかげで、このクロスノの街の雰囲気も少し変わった。苦戦
の報せがずっと流れていたヤロスワフを解放したという情報を聞い
た、この街に住むシレジア人は心なしか喜んでいる気がする。
で、それでクロスノの分離独立の機運が高まったと言えば、そう
でもない。
街の様子を見る限り、リヴォニア系やキリス系の人たちがシレジ
ア系を祝福し、そしてそれを見ているルース系やラキア系が苦虫を
潰したような顔をしている。まるでこの戦争の縮図だな。
表立って分離独立を声高く叫ぶ奴はいない。
それと同じく、シレジア系を排除しようとする動きも見られない。
つまりベルクソンなる男が異常なだけ、とも言える。
⋮⋮どういうことだろう。単にベルクソンら一部のシレジア系民
族が過激的な民族主義者ってだけで、あとはそうでもないのだろう
870
か。内務省とやらは反シレジア世論を形成したいのに、クロスノで
はそれが見られない。
反シレジア世論は帝都エスターブルクでしか支持されていないの
だろうか。
⋮⋮うーむ、どうもこの辺は気になる話だ。
﹁フィーネさん、少しよろしいですか?﹂
﹁⋮⋮あ、はい。なんでしょうか﹂
気になると言えばフィーネさんも気になる。昨日から彼女の魂が
2∼3割抜けてる気がするのだ。
まぁ、しばらくは様子を見るしか他に手が思いつかない。こうい
うのはサラが得意だったんだがなぁ。
﹁えーっと、もし戦争によって勝ち得た領地というのは、誰の所有
物になるのですか?﹂
﹁え⋮⋮つまり?﹂
﹁あぁ、すみません。説明不足でしたね。つまり、もしオストマル
ク帝国が今回の戦争に便乗参戦し、いくつかの領土⋮⋮そうですね、
クラクフスキ公爵領全域を手に入れたとします。その場合、だれが
その領地の経営権を手に入れるのでしょうか?﹂
﹁なるほど⋮⋮。そうですね、30年程前のオストマルク帝国とキ
リス第二帝国との戦争で、我が国はスールズリッツァとヤンボルと
いう領地を獲得しました。スールズリッツァには銅鉱山があり、そ
こは10年間に亘って皇帝直轄領となりました﹂
﹁つまり、今は違うと?﹂
﹁はい。今は、ある伯爵家の領地となっています﹂
﹁つまり10年間は皇帝直轄領で、その後領地は帝国貴族に下賜さ
れたというわけですか。もう1つのヤンボルという領地は?﹂
871
﹁ヤンボルは別段何も産業がありません。ですので﹃貴族にあげて
も褒美としての効果が薄い﹄ということで、そこは今でも皇帝直轄
領のままです﹂
皇帝直轄領だなんて名前の響きの良さから、てっきり皇帝家が私
腹を肥やすために利益を独占させてるのかと思ったけど、どうやら
違うみたいだ。貴族に分け与えて、帝国に反発する貴族を減らす意
味合いがあるのだろう。
そのために土地を開拓開墾して、経済的に自立できるようになっ
たら貴族に売って、ついでに恩も売ると。
それはさておき、このクロスノと言う地はヤンボルとやらに近い。
なんてったって第二次シレジア分割戦争から60年以上も経ってる
のに、未だに皇帝直轄領のままだ。
クロスノが欲しいから工作をしている⋮⋮とも考えたけど、60
年間皇帝直轄領だったクロスノを今更欲しがる奴なんて⋮⋮。
﹁⋮⋮ですが、クラクフスキ公爵領の場合だと違うかもしれません﹂
﹁と言うと?﹂
﹁最初から経済的な旨味がある地域ならば、皇帝直轄領とはせず、
すぐに貴族に売り飛ばすやもしれません。戦争によって武勲を立て
た貴族などに与えるのが一番効率的でしょう﹂
なるほど確かに。今の話を聞いた後だと納得できる。
戦争による武勲か。今起きようとしてる便乗参戦論を唱える貴族
は多分これを狙っているのだろう。
クラクフスキ公爵領はオストマルクからも近い。疲弊したシレジ
ア軍の脇腹を刺せば簡単に手に入るだろう。
でもそこまでは、こんなところにまで来なくても分かっていた話
872
だ。問題は、なんでクロスノなのかだ。
﹁フィーネさん。もう1つ質問です。帝国内務大臣は誰なのですか
?﹂
﹁シモン・フリッツ・フォン・ホフシュテッター伯爵です﹂
伯爵か。通常、領地経営を任せられるのは伯爵以上で、子爵以下
は地方都市の統治権しか貰えない。
ホフシュテッターが伯爵なら、領地欲しさに職権乱用、というの
は考えられないな。クラクフスキ公爵領がどうしても欲しい、って
言うなら話は別だが。
でも戦争世論を煽っただけじゃ成果とは言えないよなぁ⋮⋮。
﹁ホフシュテッター伯爵に子供は?﹂
﹁いると思いますが⋮⋮少し待ってください﹂
彼女は鞄の中を漁って、いくつかの書類の束を出した。思えばフ
ィーネさんの鞄の中って紙ばっかだな。他に何も入ってないの?
しばらくすると、彼女はようやくお目当ての書類を見つけたよう
で、いくつかページをめくった後ようやく口を開いた。
﹁えー、と。ホフシュテッター伯爵家は妻が1人、愛人が2人、子
供が3人、非嫡出子が4人います。また男爵以上の爵位を持ってい
る親戚が5家あるようです﹂
﹁伯爵元気すぎませんかね⋮⋮﹂
10年したら腹上死とか余裕でしそう。
﹁その親戚5家なのですが⋮⋮、えーっと。コンシリア男爵、アー
ノンクール男爵、ベーム伯爵、ウェルダー子爵、そしてボダンツキ
873
ー子爵です﹂
﹁どれも聞き覚えはありませんね⋮⋮﹂
﹁そうですね。どれもこれもよくいる有象無象の貴族で、有名と言
う訳ではありません﹂
有象無象の貴族って言い方もどうなんだろうか⋮⋮。
﹁その貴族たちの職は?﹂
﹁地方都市の領主、高級官僚が主ですね。最も高い地位にいるのが
ウェルダー子爵で資源大臣政務官で⋮⋮あっ﹂
﹁どうしました?﹂
﹁い、いえ。コンシリア男爵がかつて内務大臣補佐官をやっていた
そうです﹂
﹁⋮⋮内務大臣補佐官?﹂
﹁えぇ。大臣、副大臣、政務官に次ぐ地位ですね。補佐官の下が事
務次官です。2年前まで、その地位にいたようですよ﹂
﹁ちなみに、ホフシュテッター伯爵はいつから内務大臣を?﹂
﹁8年前です﹂
ホフシュテッター伯爵が、その地位を利用して人事権を濫用して
親戚のコンシリア男爵を自分の補佐官にした、ってことかな。貴族
社会じゃ珍しい話でもなさそうだけど。
﹁コンシリア男爵は、今は何を?﹂
﹁現在は、宮内大臣政務官ですね﹂
つまり皇帝に近い人ってことね。ホフシュテッター伯爵の皇帝に
対する影響力は、多分コイツも一枚噛んでるんだろう。
でもこれだけじゃ﹁ホフシュテッター伯爵が昔人事濫用してコン
シリア男爵を無理矢理出世コースに乗せた﹂ってだけだ。しかも状
874
況証拠。
﹁おそらくこれは関係ないでしょう。確かに怪しい取り合わせでは
ありますが、単にそれだけです。今回のクロスノとは繋がりが見え
ません﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大尉?﹂
繋がり、本当にないのかね。
内務大臣、そして高級官僚の親戚、そしてジン・ベルクソンなる
民族主義者。気になる。凄い胡散臭い。
﹁フィーネさん。お願いがあるのですが⋮⋮﹂
875
ウィグリ湖畔の戦い
シレジア北東部アテニ湖水地方に、かつてユゼフらがラスキノへ
向かう中継基地として利用したタルタク砦がある。
開戦以来この砦は断続的にやってくる帝国軍10個師団を迎撃す
べく、王国軍中将クハルスキ子爵率いる3個師団が駐屯していた。
そして数多くの屍を築き上げつつも、帝国軍の侵攻を何とか食い止
めていた。
このまま防衛を続ければ、いずれ援軍が来る。それまで持ちこた
えていれば祖国は救われる。王国軍はそう自らの胸に聞かせながら、
援軍の到着を待っていた。
だがその希望は4月10日、オスモラ方面の帝国軍10個師団が
大挙して北に転進したという情報によって打ち砕かれることになっ
た。
﹁帝国軍20個師団によってタルタク砦が包囲される危険性があり
ます。ここは後退すべきでしょう﹂
﹁だが後退と言っても、今現在10個師団と相対している状況だ。
迂闊に下がれば、それが帝国軍の全面攻勢を呼び、我が軍を全滅さ
せてしまう可能性だってある﹂
﹁だがこのまま座して状況を眺めていても、20個師団に挟まれて
しまっては全滅は免れないぞ。タルタク砦は難攻不落の要塞ってわ
けじゃないんだ﹂
タルタク砦の司令部は紛糾していた。敵の全面攻勢を誘う危険を
承知で後退するか、それともこのまま籠城し続けるか。
876
どちらの選択を取っても全滅する可能性がある。だからこそ幕僚
たちは慎重な議論を積み重ねてはいたが、しかしその議論をいつま
でもするわけにもいかない。1週間もしないうちにオスモラの帝国
軍がアテニに来ることは確実。後退するにせよ籠城するにせよ、事
前準備のための時間が必要だ。その時間を考慮すれば、一両日中に
結論を出さなければならない。
﹁貴官の意見を採用して籠城するとして、一体どうやって将兵を救
うと言うのだ!﹂
﹁オスモラの帝国軍が北に転進したと総司令部が知ったら、必ず北
に援軍を向けるはずだ。そうすれば敵は、援軍に背を向けるか、我
々に背を向けるかをして二正面作戦に出るだろう。そこを討てば、
敵10個師団は確実に葬れるぞ!﹂
﹁だが、もし総司令部がここに来なかったら、あるいはこのことを
知らなかったらどうするんだ!? 我々が敵中に孤立するだけだろ
!﹂
彼らは、キシール軍団が南に転進したことをまだ知らない。彼ら
がキシール軍団の情報を知るには、あともう1週間の時間が必要で
あるが、情報よりもまず帝国軍が来ることは火を見るより明らかで
ある。
もし彼らがその情報を知り得ていたのなら、悠長に籠城案などを
出してはいなかっただろう。戦争における情報伝達の重要性とその
難しさの良き例と言える。
﹁ふぅ。とりあえず、君たちは落ち着きたまえ﹂
﹁⋮⋮失礼しました﹂
幕僚たちによる白熱した議論は、クハルスキの一言によって一旦
沈静化した。
877
﹁後退するか、籠城するか。この判断は、閣下にお任せいたします﹂
後退案を進言した幕僚は、落ち着いた声でそう言った。最終的な
決定権は無論クハルスキにあるのだが、参謀らが結論を出せなかっ
た以上、どちらを選択するかをクハルスキ自身が決めなくてはなら
ない。
これは別の視点から見れば、参謀たちの責任回避とも取れる行動
ではあった。しかし彼らには1つの案に絞ってそれをクハルスキに
提言する勇気と器量がなかったのも確かである。
クハルスキは沈黙して考え込んだ。
彼が脳内で考えていたことはただひとつ。それは後退と籠城、ど
ちらが旗下の将兵たちが生き残る可能性が高いかということだけだ
った。戦術や戦略の前に、いかにして多くの兵を家族の下に帰すか、
それだけを考えていた。
ある意味においては、この考えは将として上に立つ者としては相
応しくないだろう。
それでもクハルスキは、そのことだけを考え、そして決心した。
﹁タルタク砦を放棄し、後退する﹂
−−−
同日、午後7時30分。
王国軍は日没を待って作戦を開始した。
878
タルタク砦は現在、帝国軍の包囲下にはない。それはタルタク砦
の南北にかなり大きな湖が存在し、物理的に包囲することが不可能
であるためだ。
クハルスキ軍団はその地形を生かした防御戦闘を行い帝国軍の侵
攻を防いでいたのだが、それが今回後退作戦をある程度容易にして
いた。
クハルスキはまず、タルタク砦にある持ち運び出せる物資をあり
ったけ馬車に乗せた。無論これは物資の有効活用と、帝国軍に接収
して利用されないための策だった。
だがこの物資撤収作業が帝国軍に察知されれば﹁王国軍は砦を放
棄しようとしている﹂と感づかれてしまう。
そこで王国軍は夜を待ってから物資撤収作戦を実施した。
またそれと同時に、帝国軍に対する小規模な夜襲も仕掛けた。こ
れは帝国軍がタルタク砦に対して夜間に積極攻勢を出させないよう
にするための事前の策である。
クハルスキは帝国軍を牽制し、その行動を受動的にして撤収の余
裕を作った。
ふつぎょう
この策は成功し、帝国軍は王国軍による夜襲及び払暁奇襲を警戒
して防御の姿勢を取った。
またクハルスキの予想に反し、帝国軍は翌4月11日の午前9時
45分、東に少し後退を始めた。これは帝国軍がタルタク砦に籠城
する王国軍を、砦から誘い出し、そして釣り出したところを全面攻
勢に移ろうとしたために行った作戦だった。
だが王国軍にとってはむしろ好都合だった。これによってクハル
スキ軍団そのものの撤退の難易度がある程度下がるからだ。
879
クハルスキは帝国軍の後退に合わせて、少しずつ部隊を後退させ
た。午後1時30分の時点で軍団の全戦力のうちの3分の2を撤退
させることに成功した。
この時点で、帝国軍が王国軍を釣り出せない事を悟り、再び部隊
を前進させたためこの日の撤退はやや中途半端な状態で終了した。
午後2時40分。
クハルスキは、第58歩兵中隊隊長ヤヌス・マエフスキ大尉から
の提出された上申書を下に作戦を立案し、実行に移す。
この時タルタク砦に残っていた部隊は、クハルスキが直接指揮す
る1個師団9600余名である。この9600余名の兵が一斉に砦
から撤退したのを帝国軍が確認した。
帝国軍はこれを機に一気に部隊を突入させ、タルタク砦を制圧し
にかかった。その後、なお後退を続けるクハルスキ師団を追って、
帝国軍2個師団が急進して砦から飛び出した。その時、1発の火系
上級魔術がタルタク砦に着弾したのである。
上級魔術の火は、砦にある木造建築の兵舎に瞬く間に引火し、そ
してなぜか可燃物の無い地面にも火がついた。数分も経たぬうちに
砦は業火に包まれ、占領作業をしていた帝国軍1個連隊を襲った。
スピリタス
これは撤退直前、マエフスキ大尉が進言したもので、砦に保管さ
れていた殺人的蒸留酒を重要地点にばら撒いていたことに起因する。
その光景を見た、急進した帝国軍2個師団は完全に浮足立ってい
た。
クハルスキがそれを見逃すはずもなく、後退から一転して攻勢に
出た。混乱した帝国軍にそれを有効に防御できる策はなく、2個師
団が1個師団によって湖に追い詰められ、まだ寒さが残るシレジア
880
で湖水浴を楽しむ羽目になる帝国軍兵が続出した。
帝国軍が秩序を取り戻したのは午後3時20分のことで、この時
にはクハルスキの師団は完全に撤退を完了していた。
この一連の戦いで帝国軍は3800余名の戦死者と、1300名
弱の溺死者を出したとされる。
881
帝国軍少将
東大陸帝国皇帝及び軍の首脳部の下に、ザレシエ方面ロコソフス
キ軍団壊滅の報が届いたのは開戦から20日以上が経過した4月2
2日のことである。
10個師団約10万人の兵が1日にして消滅し、さらに帝国軍総
司令官にして討伐軍総司令官であったロコソフスキ元帥戦死の報せ
は、帝国政府首脳部の心胆寒からしめること十分だった。だがその
一方では奇妙な得心もあった。
帝国軍事大臣レディゲル侯爵は、ロコソフスキ戦死の報を皇帝官
房治安維持局長ベンケンドルフ伯爵と共に自身の執務室で聞いた。
﹁ロコソフスキ元帥は戦場外は勇猛だがいざ戦場に立つと途端に臆
病になる男だ。よくもあれで総司令官が務まったものだ﹂
﹁それが、名誉の玉砕の原因ですかな﹂
﹁あぁ。奴も後方に下がって軍令を司る立場に身に置けば、もう少
し楽に死ねただろうに﹂
ロコソフスキ元帥をいずれ何らかの形で粛清することは決定事項
だった。彼は総司令官という立場を利用していくつもの不正を働い
ており、その証拠は全てレディゲルの目の前に立つ男が握っている。
﹁軍令と言えば、軍令部総長クリーク侯爵が皇帝派に鞍替えしたよ
うですな﹂
﹁負けが込んでいるときに皇帝派につくとはな。いったい何を考え
ているのやら見当もつかない﹂
882
レディゲル侯爵はそう言ったが、本当に見当がつかなかったわけ
ではない。クリーク侯爵は日和見主義者だ。もし彼、もしくは皇帝
イヴァンⅦ世が必勝の策を持っているとしたら、クリークが皇帝派
に鞍替えする理由がわかる。
そしてその必勝の策とやらも、レディゲルにはいくつか心当たり
があった。
﹁まぁ、その件はそれでよい。問題はこの戦争をどうするかだ﹂
﹁それは皇帝陛下の御意向次第だと思いますが?﹂
﹁だとすれば、陛下はまた戦力を投入しろとでも言うだろう。いく
ら下級兵が死のうとも、陛下にとっては関係のない事だからな﹂
東大陸帝国皇帝にとって、いやイヴァンⅦ世にとって兵士とは政
治の道具でしかない。しかもいくらでも代えの効く道具だ。それに
よって自身の権威を高めることしか、あの老人はできないのだ。
﹁だが、今から新たに兵力を集めるとしても時間がかかる。それこ
そ、また3ヶ月くらいは準備をせねばならない﹂
﹁とすれば、予備兵力を投入するしかありませんな﹂
﹁そうだな。クリークが何を考えているにせよ、勝つためには兵力
の投入が必要だ﹂
﹁ですが、勝たれても困りますね﹂
﹁あぁ。まったく、誰がこんな国にしたのか⋮⋮﹂
レディゲルが大きく溜め息を吐こうとしたとき、執務室の扉がノ
ックされた。レディゲルが﹁入れ﹂と命じると、入室してきたのは
彼の予想通り副官のシャクラ少尉だった。
﹁御歓談中失礼いたします。閣下、皇帝陛下から至急の御相談があ
るとのことです﹂
883
−−−
午後3時。
かつてシレジア討伐のための作戦案を策定した帝国軍三長官会議
室。だが今この部屋には、帝国軍総司令官ロコソフスキ元帥の姿は
ない。その代わり総司令官が座るべき席には、誰が用意したのかは
知らないがただ一輪の花が供えてあった。
レディゲルが入室してから10分を過ぎた頃、ようやく皇帝イヴ
ァンⅦ世が入室した。
﹁⋮⋮ロコソフスキ元帥のことは、卿らも聞いておるな?﹂
レディゲルとクリークは、ほぼ同時に頷く。
﹁新たな総司令官を用意せねばなるまい⋮⋮。軍事大臣、誰が良い
と卿は思うか?﹂
﹁現状、我々はまだ戦争中です。人事で揉めればそれは敵を利する
のみでしょう。今回は臨時ということで副司令官のバクーニン元帥
にその地位を一時的に与え、終戦後に正式な人事を検討するのが最
良かと存じます﹂
﹁そうか⋮⋮軍事大臣はこう申して居るが、軍令部総長の意見はど
うだね?﹂
﹁小官も軍事大臣の意見には賛成でございます、陛下﹂
﹁⋮⋮わかった。では、ミリイ・バクーニン元帥を次の帝国軍総司
令官に任命する﹂
884
老人は淡々と、掠れた声で次代の総司令官を決めた。だが、この
人事は最良と言うより唯一の選択であったに違いない。それは皇帝
自身も承知していた。
﹁さて予想の外、苦戦が続いておる。そこで新たに兵を送り込む必
要があるとは思うが⋮⋮﹂
この新規兵力投入にレディゲルは反対ではあったが、努めて最初
に反対意見を出したのはレディゲルではなく、皇帝派に鞍替えした
はずのクリークだった。
﹁恐れながら陛下、今から兵を集めることは時間がかかりすぎます。
それに財政のことがあります故に、新たな兵力投入は最小限度に留
めておくべきかと存じます﹂
﹁うーむ⋮⋮。軍事大臣はどう思うか?﹂
﹁⋮⋮私も軍令部総長の意見と同じです﹂
これはレディゲルにとっては少し予想外の事態だっただろう。レ
ディゲルが新規兵力投入に反対し、そこにクリークが積極的な新規
兵力投入を唱えてレディゲルを敗北主義者だと弾劾するのではない
か、と考えていたのだ。
だが、現実にはクリークが新規兵力投入に反対した。レディゲル
にとっては好都合だが、彼の政治的立場を考えると違和感がある。
﹁では、現状の戦力のみで叛乱軍を討つべしと、卿らは言うのであ
るな?﹂
﹁えぇ。ですが戦力が足りないのは確かです。この機に予備兵力を
投入し、シレジア王国を僭称する叛乱軍を疲弊させましょう﹂
885
レディゲルはまたしてもクリークに台詞を取られた。
クリークは、軍令部総長に相応しい戦略的観点からの提案を皇帝
陛下にしている。クリークが皇帝派になったのは、この戦力比をシ
レジア王国軍が覆すのは既に不可能だからと思っているからだろう
か。だからこそ、クリークは正論で以って皇帝陛下に忠誠の意を示
しているのか、そうレディゲルは考えた。
﹁そうか⋮⋮そうであるな。軍令部総長の言う通りだと余もそう思
う。では、予備兵力の投入規模と、その部隊指揮する者についてだ
が⋮⋮﹂
﹁一気に兵力を投入しても、ロコソフスキ元帥の二の舞になるやも
しれません。ここは2回に分けて投入するべきかと﹂
事、軍令に関してはレディゲルに口を挿む余地はない。彼は軍事
大臣であり、自己の職権は軍政に関することのみである。別段、軍
令に口を挿んでも構わないのだが、そこを糾弾されてしまえばどう
なるのかわからない。そのため彼はクリークの正面に立って反対す
ることはなかった。
﹁肝心の指揮官ですが⋮⋮﹂
﹁そのことについてだが、少し相談があるのだ﹂
﹁何でしょうか、陛下﹂
指揮官の相談は今までも何度かレディゲルにもあった。今回の戦
争において高級士官の殆どは皇帝派、もしくは立場を決め兼ねてい
る者たちだった。今回の予備部隊の指揮官も、同じだろう。
だがそのレディゲルの予想は、大きく裏切られることになる。
﹁大甥を、そろそろ前線に立たせるべきではないかと思うのだ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
886
その予想外の言葉に、レディゲルは暫く体を動かせないでいた。
イヴァンⅦ世の大甥。つまり、皇太大甥セルゲイ・ロマノフを前
線に立たせると、この老人は言ったのだ。
ついにボケたのか、とレディゲルは一瞬思ったが、その後レディ
ゲルの冷静な部分が、皇帝の心意を突き止めた。
﹁⋮⋮理由をお聞きしてもよろしいですか?﹂
﹁うむ。大甥は今年で18歳。そして帝国軍少将に身を置くものだ。
だが、彼はまだ戦場を経験していない。将来の帝国を率いるのであ
れば、いつまでも宮殿に籠らせておくわけにもいかんだろう﹂
つまり実地演習をしろ、とこの老人は言っているのだ。セルゲイ
が暗殺されないよう、レディゲルは皇太大甥を安全な春宮殿に匿っ
ていたのは事実だ。
だが皇帝はそれを無理矢理外に出して、王国軍なり暗殺者なりを
利用してセルゲイを殺そうとしているのだ。
なんとしてでも反対して止めなければならない。だが皇帝陛下が
強く言う以上逆らうことも出来ない。それに何より
﹁なるほど。であれば、セルゲイ殿下⋮⋮いえ、セルゲイ少将にも
参加してもらった方が今後の国のためとなりましょう﹂
クリークが皇帝の意見に賛同した。これで、レディゲルが表立っ
て強く反対することはできなくなったと言ってもいい。
﹁軍事大臣は、どう思う?﹂
皇帝からの質問に対し、レディゲルは賛同の意を示す以外の選択
肢は残されていなかった。
887
4月22日、午後3時30分。
帝国軍三長官会議は、予備兵力の前線投入を決定した。
888
継承者の戦い
4月24日。
ヴェスナードヴァリエーツ
皇太大甥セルゲイ・ロマノフが住まう﹁春宮殿﹂、その謁見の間
にて、軍事大臣レディゲル侯爵がセルゲイに対して跪き、頭を垂れ
ていた。
﹁殿下、このような事態に至り、誠に申し訳なく⋮⋮﹂
﹁いや、構わない。余自身も、そろそろ戦場に出たいと思っていた
頃だ。確かに想定外ではあったが、考えようによってはいい機会だ﹂
﹁はぁ⋮⋮。しかし、万が一ということもあります。警戒なさって
ください﹂
今回、セルゲイは後方で待機している予備部隊の傘下に入り、1
個師団を率いることになった。
投入される予備部隊の総兵力は5個師団、これを統括・指揮する
のは皇帝派の将帥であるエイナル・マルムベルグ大将である。
軍の規律の関係上、セルゲイはマルムベルグの指示に従わなけれ
ばならない。それが例え愚かな命令であったとしても、セルゲイは
それを忠実に守る義務が生じる。たとえセルゲイが帝位継承権第一
位の存在だとしても、戦場に立てばセルゲイは一少将であり、逆ら
うことは許されない。レディゲルはそれを心配していた。
だがレディゲルの心配は、セルゲイも承知である。だからこそだ
ろうか。セルゲイは意外とこの状況を楽しんでいるようである。
﹁心配は無用だ。余は元より生きてこの場所に戻るつもりだからな。
生きて、そして帝冠を戴くまで死ぬ予定などない。誰にも邪魔はさ
889
せんよ﹂
セルゲイは毅然とした表情と口調でそう言った。
その言葉は確かに自信に満ち溢れた者であり、そして生き残る算
段を用意してある者の物言いである。
﹁余にとってこの戦争は、全くの無意味だ。だがその戦争で60万
の将兵を無為に死なせることなど、余にはできない。だから最善を
尽くそうと思う﹂
﹁殿下、しかし﹂
﹁あぁ、卿の言いたいことはわかっている。この戦争、勝ってしま
っては余の立場が不利になると言いたいのであろう?﹂
﹁左様です﹂
この戦争に、東大陸帝国が勝ってしまった場合、皇帝派とセルゲ
イ派との争いはますます醜く、そして陰惨なものとなる。それはま
もなく産まれてくる皇太曾孫の性別に関わらず、皇帝イヴァンⅦ世
の寿命に関わらず、帝国は長く不穏な時期が続くことになる。
それはセルゲイにとって、そして今彼の目の前で跪いているレデ
ィゲルにとって避けねばならない未来だった。
﹁その点は問題ない。余は戦争の勝ち負けに拘るつもりなどないか
らな。だが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
セルゲイは、将来の皇帝として相応しい堂々とした立ち居振る舞
いで椅子から豪快に立ち上がった。彼は身長も高く顔も整っている。
そしてそれはロマノフ皇帝家の証とも言える輝く銀髪と相成って、
まさしく全大陸を統べるべく生まれた覇者なのだと、誰にでも認識
できるほどの存在となっている。
890
﹁別に、活躍しても構わんのだろう?﹂
大陸暦637年4月25日。
それが皇太大甥セルゲイ・ロマノフが十数人の護衛を引き連れて
戦場に向かった日である。
891
感情を持つ鉄
このオストマルク帝国において民族主義者はかなりの少数派と言
って良い。
前世世界基準で考えると異様なことだと思うが、民族主義という
考え方自体が現代的、この世界では未来的な思想だからかもしれな
い。大陸帝国の言語・宗教の統一政策によって民族間の壁が低くな
ったおかげもある。
もしかするとこの世界の民族間差異とは、前世日本における都道
府県民間の差異でしかないのかもしれない。
だからこそ、ジン・ベルクソンなる者がなぜクロスノ総督府を襲
ったのかがわからないのだ。
わからないのは、俺が前世においてほぼ単一民族国家であった日
本の平凡な国民として生きていたからなのだろうか。
−−−
4月28日。
ジン・ベルクソンを知る者は少なかった。彼はそもそもクロスノ
出身者ではないどころか、旧シレジア領出身でもなかった。数年前、
このクロスノに引っ越してきたことだけが辛うじてわかった事実だ
った。
892
彼が住んでいたのはクロスノの貧民街。このことからわかるよう
に、彼は経済的に裕福ではない。経済的貧困層にある者が民族主義
に感化されて過激な行動に移る、というのならまだ理解できる。だ
が貧困層に至るまでオストマルク帝国に対する帰属意識が高いこの
クロスノという土地で、彼は異常者であるとしか言いようがない。
﹁ベルクソン? あぁ、そういや最近見ないな。⋮⋮あいつのこと
? さぁね。よく知らん。深い付き合いがあったってわけじゃねぇ
し﹂
﹁この町では、それが普通なんですか?﹂
﹁どうだろうな。人によって違うかもしれんが﹂
﹁貴方の話で良いですよ﹂
﹁んぁー、そうだな。オレはよく皆とつるむよ。どこそこで日雇い
があるとか、教会の炊き出しがあるとか、そういう情報は仲間で共
有するのが常識だ﹂
﹁⋮⋮それは、民族関係なく?﹂
﹁民族?﹂
﹁えぇ。貴方はシレジア人ですが⋮⋮たとえばリヴォニア人とそう
いう関係を築くのですか?﹂
﹁当たり前だろ。金ってーのはな、使う奴とか関係なく同じ効果を
生み出すんだ。硬貨だけにな﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁もっとも、リヴォニアの貧民がいるとは思えねぇがな⋮⋮﹂
何人かに聞いて回ったが、これが一番有用な情報だった。情報料
として銅貨1枚を渡すと、彼は貧民街の路地裏に消えて行った。財
布が少し軽くなったな。
ちなみに今日はフィーネさんは一緒にいない。この程度の情報収
集なら俺だけでもできるし、第一リヴォニアの貴族と一緒に行動し
893
て貧民街のシレジア人に事情聴取など、考えてみれば愚策と言うも
のだ。
うーん、でも手詰まりだな。
ベルクソンなる人物の核心に触れることはできなかったし、彼が
過激な行動に出た理由もわからない。
ちょっと視点を変えよう。
シレジア人じゃなくて、貧民街の住民としてこの町に住む者とし
て、ジン・ベルクソンになりきろう。
そう思って俺はその場で横たわる。路上生活者のように、地面の
感触を頬の神経で確かめる。そういや前世で、なんかのドラマで被
害者の気持ちを知るために唐突に地面に寝転ぶ刑事が居たな⋮⋮。
まだ昼なのに、少し寒い。地面はまだ冷たいままだし、それにご
つごつしてて寝にくい。せめて枕が⋮⋮いや、この際新聞紙でもい
い。とりあえず体と地面の間に入るものが欲しい。
ベッド
俺は暫く地面に文句を垂れつつ、そして考える。
ベルクソンはこの固くて冷たい地面を、誰からの支援もない状態
で感じていたのだろうか。そうだとすれば、それはかなり寂しい事
だと思う。
でも、この状態では過激な民族運動は起こさないだろう。
この状態だったら、まず行ったこともない祖国に対する念より、
自分の出身地に対する望郷の念が先に来る。俺だったら⋮⋮そうだ
な、士官学校時代だろうか。サラに殴られ続けた日々を思い出すだ
ろう。
まだ一段階間を挟まなければ、彼の気持ちはわからないだろう。
894
﹁そんなところで寝ていると風邪をひきますよ、大尉﹂
突然声を掛けられ、ハッとして目を開けると、目の前にはフィー
ネさんが立っていた。正確に言うのであれば、フィーネさんの履い
てる靴があった。
どうも考えるのに夢中になりすぎて、直前まで気付かなかったよ
うだ。目を閉じていたとはいえ、足音で気づくだろうに。
﹁案外気持ちのいいものですよフィーネさん﹂
とりあえず俺は横になった状態で応答する。
フィーネさんの靴の上には当然だが靴下があり、さらに上を見れ
ば生足があり、そしてさらに視線を上に辿って行けば⋮⋮後はわか
るな?
フィーネさんにばれないよう眼球だけを動かす。もう少し、もう
少し⋮⋮。
﹁大尉。御報告があります。とりあえず起きてください﹂
﹁どうしても起きなきゃダメですかね?﹂
﹁はい。大尉の視線の行方が少し気になるので﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺はのっそりと起き上がって、とりあえず胡坐をかいた。立った
ら色々負けな気がする。こうなったら足だけでも観賞しよう、と思
っていたのだがフィーネさんは俺の心意もしくは視線の在り処に気
付いたらしい。フィーネさんは俺の右隣に移動し、そしてその場で
いわゆる女の子座りをした。
まぁこれはこれでアリか。
貧民街の街路の端で軍服を着た若い男女が座っている。なにこれ。
895
﹁それで、大尉は何をしていたんですか?﹂
﹁ん? うん。まぁ、その、ベルクソンがどんな人間かを調べよう
かと思って﹂
﹁⋮⋮それで寝ていたのですか?﹂
﹁まぁね。路上生活者らしいベルクソン氏が、なんであんなことを
したのか知りたくて。で、それを知るためにベルクソンになりきっ
てみただけです。まぁあまり効果はなかったと思いますけど﹂
フィーネさん
敢えて言うなら、ちょっとセンチメンタルな気分になっていた時
に知り合いに会えて少し嬉しかった、という程度だろうか。
無論そんなこと恥ずかしくて言えないが。
﹁あ、そうそう。それで報告とはなんですか?﹂
﹁はい。過日、大尉が気になっていたことに関する情報です。こち
らになります﹂
彼女はそう言って脇に抱えていた文書を俺に手渡した。枚数にし
て3枚だが、得られた情報は大きい。
ふと視線が気になって右を向いてみると、フィーネさんがなぜか
こっちをジロジロと見ていた。なんだろうか。顔に何かついてます?
﹁大尉は凄いですね﹂
フィーネさんが褒めた。いつぞやぶりだな。
﹁どうしたんですか、急に。褒めても何も出ませんよ?﹂
﹁見返りを求めているわけではありません。思っていることを口に
出しただけですから﹂
896
思ってることを口に出す、か。フィーネさんという人物には相応
しくない言葉だ。
見かけによらず、相当弱っているのだろうか。
﹁別に私は凄くないですよ。私はフィーネさんが調べてくれた情報
を利用しているだけですから﹂
フィーネさんが居なければ、俺は今頃滅亡寸前の大使館員として
事務処理に追われていたかもしれないしね。
でもフィーネさんの見解は些か違うようだ。
﹁いえ、私は何もしていません﹂
﹁でも、この情報だって⋮⋮﹂
﹁その情報は、リンツ伯爵家の者が調べた結果です。私はそれを纏
めて、書面に起こして大尉に渡しただけです。その情報だけではな
く、私が大尉とお会いした時から提供した情報は、全て父の働きに
よって得た物ですから﹂
その言葉の中に、彼女がここ数日落ち込んでいた理由を垣間見た
気がする。それでもなお、その落ち込んだ気持ちを自らの心に閉じ
込めて、自分の職務をこなしていたのか。
それは称賛に値すべき行動だろう。俺だったら全部投げ出して現
実から逃げたくなるね。
﹁⋮⋮下らないことを言いました。情報の詳細を話します﹂
でも、この状態が長く続くはずがない。手遅れになる前に、ある
程度ガス抜きをした方が良いだろう。
感情を表に出さず、真面目に自らの義務を果たす人間ほど鬱にな
りやすいってエロい人が言ってた。
897
﹁フィーネさん﹂
﹁なんでしょうか、大尉﹂
とは言ったものの⋮⋮どう言えばいいだろうか。男らしく﹁俺の
胸で泣け!﹂とか? いや、むしろドン引きするだろうな。そして
セクハラで訴えられる。
⋮⋮単純で良いか。考えてみれば、深く考え過ぎて鬱になる人間
に対して深く考えて相談させるのも変な話だ。
﹁相談にならいつでも乗りますよ﹂
﹁⋮⋮?﹂
わからないのか。それともわからないふりだろうか。
﹁フィーネさん、最近様子がおかしいですよ﹂
﹁⋮⋮そんなことはありません﹂
そんなことあるだろ! と強くは言えない。相手が意固地になる
だけだ。彼女はプライドが高い人間だからな。
⋮⋮プライドが高い人間か。プライドが高い人間の半分は、心の
弱さを隠すための壁として高いプライドを築き上げてると言う。ち
なみに残りの半分はただのナルシストだ。
﹁強いのは結構ですけどね。でも、いくら鉄の心を持っていたとし
ても限界はありますよ。鉄を何十回も、何百回も叩けばいずれ折れ
るように、心も折れるのです﹂
﹁⋮⋮ですが刀剣は、鉄を何度も叩いてその強度を上げます﹂
彼女らしい、識見に富んだ反論である。それが、彼女の精神が未
898
だ平衡を保っている証左でもある。でも、あくまでもそれは﹁今の
所﹂という注釈がつくのではあるが。
﹁﹃鉄は熱いうちに打て﹄とは昔から言いますけどね。でもフィー
ネさん、それは熱いうちに打つからこそ効果がある、という意味で
もあるのです﹂
フィーネさんが今熱い状態にあるかと言えばそうじゃない。こん
な状態で叩いたら金属疲労でボッキリ折れるだけだ。
だとすれば、彼女に必要なのは﹁もっと熱くなれよおおおおおお
おおお!﹂なのだが、まぁ、それは無理だね。第一燃え滾るパッシ
ョンを抑えられないフィーネさんってもうそれフィーネさんじゃな
いでしょ。
心
﹁フィーネさんの鉄は既に完成されています。だからこそ、今でも
強がりを言えるほどの耐久力があるのでしょうけど、それも限界で
しょう﹂
﹁⋮⋮では、どうしろと?﹂
彼女は相変わらず感情を表に出さない冷たい声を出している。で
も、どうも心なしか頼りない。
たぶん、彼女は感情を殺しているのではない。感情を上手く外に
出す方法を知らないのだろう。
﹁鉄は己の心を他者に伝えることはできません。自らが折れて砕け
るまで、ただじっと待つことしかできません。でも⋮⋮﹂
でも、彼女は鉄ではない。無機物で、無感動で、無味乾燥で、物
言わぬ冷たい金属ではない。
鉄のような心持つ、感情を持った人間だ。
899
﹁フィーネさんは人間です。感情を持つ、人間です﹂
話せば楽になる。と言ってしまってはまるで尋問みたいに聞こえ
るが、今の彼女にとってそれが一番大事なことなのだ。
そして、俺も感情を持った人間だ。だから、彼女の言葉を黙って
聞くくらいのことはできる。たぶんね。
数分の沈黙のうち、彼女はゆっくりと、そして小さな声で自らの
心情を吐露し始めた。それはある意味では彼女らしくもないことだ
が、でもいつまでも溜めておくのは良くないことだ。
フィーネ・フォン・リンツが歩き出したことを、今は喜んでおこ
う。
900
フィーネ
自分が、フィーネ・フォン・リンツが優秀な人間であると思い始
めたのはいつのことだったでしょうか。
恐らく、いえ疑いようもなく、士官学校に入学した時からでしょ
う。
士官学校の試験では、私は次席以上が当たり前でした。どんなに
調子が悪くとも、三席より下になったことはありません。
そして祖父は外務大臣クーデンホーフ侯爵、父は外務省の高級官
僚。
自分で言うのもなんですが、誰もが羨む家柄を持つ才女だったと
思います。
簡単に言えば、当時の私は自惚れていたのです。
私と同期の者で、私の上に立つ者は居ませんでした。爵位が上の
人間は少しいましたが、彼らは成績面では私よりかなり下でしたし。
そして士官学校最終学年になった時、私は軍の研修制度を利用し
ました。
研修制度を利用した者は昇進が早くなる。それは軍に配属される
前から早いうちからコネを作ることができるから。
だから利用した⋮⋮というのは半分嘘です。
実の所、私は士官学校に飽きていました。
901
誰も彼も、私より下の人間で、そして私を追い抜くことは殆どあ
りません。
やることと言えば、私とコネを作って自らの栄達を図ろうとし、
見え透いた偽りの友情を持ちかけてきたり。あるいは、友情ではな
く性的関係に持ち込もうとした下劣な者もいました。
ハッキリ言いましょう。私は士官学校にうんざりしていました。
学校は競争社会です。誰もが自身を磨いて、追いつき追い抜かれ
を繰り返しながら自己の才能を完璧なまでに研ぎ澄ます。そういう
施設が学校です。
ですが、私の周りにそれをする者はいませんでした。競争が起き
ない、停滞した社会が私の周りに出来ました。
だから私は、一刻も早く士官学校から抜け出したかった。
そして私は最終学年になる直前に、父の推薦によってジェンドリ
ン男爵の護衛をすることに決まりました。
正確には軍の仕事ではありませんでしたが、それでも嬉しかった
のです。9月から私は新しい環境で、新しい競争ができると、そう
思っていたのです。
ですが、現実は変わりませんでした。
男爵家にいる複数の他の護衛官、護衛先で出会う多くの軍人、そ
のどれもが、士官学校時の同期生と同じでした。
コネのために偽りの友情を持ち出してきて、自らの未来のために
婚約を持ちかけてきます。
902
研修4日目にして、私は配属先の変更を検討し始めました。です
がその変更の頼りにしていた父が、外務省の仕事の都合で長期出張
に出てしまいました。
そのため、私は父が戻ってくるまでこの嫌な仕事をしなければな
らなくなったのです。
そして父が戻ってきたのは、11月の中頃のことです。
よくもまぁ、2ヶ月も我慢できたものです。士官学校時代の方が
マシだと思えるほどの仕事でしたから。
私は帰ってきた父に対して早速、配属先変更願いを出そうとしま
した。ですが、父の方から仕事を持ちこんできました。
﹁フィーネ。護衛で忙しいと思うが私の仕事を手伝ってくれ﹂
その仕事とは、今度新しくシレジア大使館に赴任してくると言う
次席補佐官との接触でした。
そう、ユゼフ・ワレサ大尉のことです。
彼の話を父から聞いた時、会ってみたいと思わせる気持ちにはな
りました。
何と言っても、農民出身で、しかも私と1つ違いで大尉。卒業直
後の初の任地が大使館というのは、どう考えても普通のことではあ
りません。
この男は普通ではない。恐らく士官学校でもとりわけ優秀な男だ
ったのではないか。
903
私は期待に胸を膨らませて、そのユゼフ・ワレサ大尉と接触しま
した。
そしてその期待は、見事に裏切られました。
会場内では挙動不審でしたし、女性に年齢を聞くという失礼なこ
とを平気でする。質問ばかりで自分自身は何も情報を持っていない、
本当に連絡要員として来たのかと思わせるような人物でした。
ですが、15歳という年齢に相応しくない思慮深さは持ち合わせ
ていました。
不思議な人だと思いましたよ。ある方面では15歳なのに、別の
方面では30歳にも見える人です。
そしてその気持ちは、2度目の接触時により大きくなりました。
私が、正確には父が用意した人間に私なりの衣装を見繕って護衛
兼支援要員として大衆食堂に向かいました。私もそれなりの恰好を
して。
これならばれないだろうと、自分ではそう思いました。
ですが、彼はあっさりと私がフィーネ・フォン・リンツであるこ
とを見抜き、さらには護衛要員を言い当てました。
余りにもあっけなく見つけられてしまったので、つい私は彼らは
素人なのだと嘘を吐いてしまいました。
904
大尉は、私にとって良い競争相手になるのではないか。そう思っ
た日です。
ですがその思いは次第に薄れていきました。
ユゼフ・ワレサという人間は、私とは全く違う型の人間であると
認識しました。
それは、東大陸帝国の帝位継承規則に端を発する一連の出来事を
機に強まりました。
彼は、自己の職権を最大限に利用して、帝都中を走り回りました。
時にはその職権を上回る、つまるところ越権行為と弾劾されてもお
かしくはない事をしました。
私に会い、外務大臣に会い、高名な商家の娘と会い、さらには国
家間の交渉や妥結を全て1人でやりきったのです。
そしてその間私は、父から与えられた枠の中で、ただ降ってきた
情報を紙に書いて、記憶して、それを大尉に渡すことしかしません
でした。
自分がどうしようもなく無能で、惰弱な人間であると思い知らさ
れました。
そして開戦直前、大尉に会ってみると、そこには自信なさげな大
尉の顔がありました。
彼は言うのです。自分はもっと何か出来たのではないか、と。
何を言っているのか、わかりません。
あれだけのことをして、自分が無力だと言えるなんて、謙虚どこ
905
ろの話ではない。
私は必死に彼を励ましました。
無論それは、彼が単なる無力な人間ではないからと心から思った
からです。
でも、本当はわかっていました。
もしここで彼が無力な人間だと私が認めてしまえば、何もできな
かった私と言う人間が、どんな惨めな人間になるのかということを。
そんな惨めな人間となることが嫌で、そんな現実を見るのが嫌で、
私は必死に大尉を励ましたのです。
彼が有能な人間でないとしたら、私は一体なんなのか⋮⋮。
その無力感は、クロスノに来た時にさらに膨れ上がりました。
私も自己の職権の中で最大限に努力しようとしました。
あのいけ好かない内務省の人間を論破して、多少なりとも自分が
優秀な人間だと証明するために。
でも、できませんでした。
ベルクソンに会うことはできませんでした。
大尉は方針を変え、街の聞き込みを開始しました。
最初は順調でした。人の話を聞くだけですから。
でも、貧民街の調査に入ってから、変わりました。
906
貧民街の住民が、私を白い目で見ています。理由は明白です。私
は特権階級に居座る身で、そして彼らから見れば敵なのですから。
軍服を着ていなければ、おそらく殺されていたでしょう。
そして聞き込みを開始した時、現実という名の鞭が私の心を追い
込みました。
リヴォニア人のせいで。
貴族のせいで。
そこにいるお前みたいな奴のせいで。
何回言われたか、覚えていません。
そんなことはないと、反論したかったです。
ですが、できませんでした。
なぜなら、その殆どが事実でしたから。
私はリヴォニア人です。
私は貴族です。
私は、父が集めた情報を、ただ大尉に渡すだけの人間です。
何もしてないのに、何もできないのに、自分が優秀な人間である
と、必死に自分に言い聞かせた哀れな人間です。
聞き込みが終わると、大尉はひどく困惑した表情をしていました。
それは聞き込み結果が意外なものだったからなのか、それとも、
私が意気消沈していたからでしょうか。
907
その後大尉からの命令で、私は情報を集めました。
いつも通り、父から貰った情報を、紙に書くだけ。
自分が嫌になります。無知で無能な自分が嫌になります。
そんな陰鬱な気分で仕事をしていたせいか、随分と遅れてしまい
ました。
いつもならすぐ終わるのに、数日かかってしまった。
これが本当の自分の実力なのではないかと思えてきました。
情報を伝えるべく、大尉を探しました。
邸宅にいた近侍によれば、貧民街に出かけたとのこと。
貧民街にもう一度行くことは躊躇われました。
でも、私は歩きます。心を無にして、感情を殺して行けば、なん
とかなると思ったからです。
大尉はあっさり見つかりました。なぜか寝そべっていましたから。
私に気付いた大尉は、なぜか起き上がりません。
視線だけ上に動かしていました。
その時、気付きました。
大尉は、普通の人間なのだと。
目の前にいる女性に対して多少の劣情を催す、普通の人間なのだ
と。
908
﹁大尉は凄いですね﹂
気付けば私はそんなことを言いました。
こんな普通の人間が、精力的に動いている。
私なんかと違って。
私がこの領域に達するまでは、もう少し強くならなければならな
い。
こんなことでへこたれるような人間ではダメだ。
普通の人間である大尉だって、祖国の滅亡の危機に際しても、臆
することなく動いたと言うのに。
私がこんなことで心が折れてはいけないのだと。
でなければ、私は普通以下の人間のままなのだ。私なら、心を無
機物化させることだってできるはずだ。
﹁フィーネさん﹂
﹁なんでしょうか、大尉﹂
大尉は珍しく、真剣な目をしていました。
﹁相談にならいつでも乗りますよ﹂
意味が、よくわかりませんでした。
いえ、言葉の意味ならわかります。私が最近様子が変だと、鈍感
な大尉でも気付いたのでしょう。
﹁フィーネさん、最近様子がおかしいですよ﹂
﹁⋮⋮そんなことはありません﹂
909
下手な嘘を吐きました。
プライド
微かに残った、小さな小さな、私の矜持がそうさせました。
﹁強いのは結構ですけどね。でも、いくら鉄の心を持っていたとし
ても限界はありますよ。鉄を何十回も、何百回も叩けばいずれ折れ
るように、心も折れるのです﹂
﹁⋮⋮ですが刀剣は、鉄を何度も叩いてその強度を上げます﹂
やめてください。
私は折れません。折れてはいけないのです。
﹁﹃鉄は熱いうちに打て﹄とは昔から言いますけどね。でもフィー
ネさん、それは熱いうちに打つからこそ効果がある、という意味で
もあるのです﹂
知っています。
だから私は冷たい人間になろうとしているのです。
心
﹁フィーネさんの鉄は既に完成されています。だからこそ、今でも
強がりを言えるほどの耐久力があるのでしょうけど、それも限界で
しょう﹂
大丈夫です。
私はまだ、大丈夫です。
そう言おうとしましたが、その言葉は喉につっかえて出て来ませ
んでした。
代わりに出たのは、あまりにも弱々しい言葉です。
910
﹁⋮⋮では、どうしろと?﹂
感情を推し量られないように、苦労しました。
﹁鉄は己の心を他者に伝えることはできません。自らが折れて砕け
るまで、ただじっと待つことしかできません。でも⋮⋮﹂
言わないでください。
それ以上言わないでください。
でないと、決心が鈍りそうです。
お願い。言わないで。
﹁フィーネさんは人間です。感情を持つ、人間です﹂
−−−
その後、どうなったのかは記憶にありません。
ただ、私は溢れ出る感情と涙を抑え切れることができなかった、
という事実だけを覚えています。
911
彼らの思惑
フィーネ・フォン・リンツが無能な人間だと思ったことは一度も
ない。
確かに彼女は自分で情報収集を行わなかったかもしれない。でも、
彼女は別の方面で優秀な人間だ。
たぶん、フィーネさんは情報の取捨選択の天才なのだと思う。
彼女の父親、ローマン・フォン・リンツが集める情報は玉石混交
のものだろう。
その数多ある情報の中で、重要なもの、優先度が高い情報をピッ
クアップして、そして情報の点と点を繋ぎ合わせ、そしてそれを文
字に起こす。
これがどんなに大変な作業かはよくわかる。
前世で死ぬほど論文書いたからな。数多くある参考文献から必要
な情報を取り上げて、不要な情報を切り捨てて。そして集めた情報
を文章にして論述して自分の考えを述べる。結構難しいし、時間が
かかる。そして先生から﹁ここの考察が変。やり直し﹂って言われ
て死にたくなるのだ。
それを彼女は数日で終わらせるし、早ければ1日で片付けてしま
う。しかも非の打ちどころがないほど完璧にまとめる物だから、先
生の出る幕がない。
これを才能と呼ばず、なんと呼べばいいのだろうか。
これで情報収集能力手に入れたらフィーネさん情報面じゃ最強じ
912
ゃない? CIA作れると思うよ?
−−−
翌4月29日。
なんだかんだあったおかげで情報を詳しく見る時間がなかったの
で、今日改めて見ることにする。
昨日、フィーネさんが持ってきてくれた情報。3ページしかない
が、どれも貴重なものだ。
情報は、主に3つ。
内務省高等警察局。
内務大臣ホフシュテッター伯爵。
そして資源大臣政務官ウェルダー子爵。
俺はその情報を、リンツ伯爵家が懇意にしている男爵家の邸宅の
客間で見ることにした。
内務省高等警察局とは、オストマルク帝国内を監視している政治
秘密警察のことだ。
多民族国家オストマルク帝国が、各民族の独立運動によって崩壊
することを避けるために、その芽が出る前に排除することを目的と
している。
913
年間どれほどの人間が高等警察局に拘束されているかは公開され
ていない。だけど外務省の予想では年間1000人は下らないと言
う。
だがその中で、本当に分離主義を唱えているのは僅かだ。皇帝や
貴族に対するちょっとした陰口を叛乱の萌芽と見做して逮捕拘禁す
ることが横行しているのだ⋮⋮、とフィーネさんは予想していた。
その理由は、高等警察局は官僚主義的なノルマが課せられるから
だそうだ。年間1000人の逮捕者を出すことがノルマになってい
て、だからそのノルマを達成するために架空の分離主義者を摘発し
ているのだという。
では今回のジン・ベルクソンは架空の人間なのか、と思ったけど
それは昨日の調査で違うことがわかった。
ジン・ベルクソンは実在した。少なくとも数日前までは実在して
いた。だが彼は貧民街からひっそりと、誰にも知られずに消えた。
おそらく、あの高等警察局クロスノ支部の中にいるのだろうが。
それはさておき
閑話休題、重要なのは内務大臣と高等警察局の関係だと思う。
高等警察局は、一応帝国法においては独立した組織として存在し
ている。内務省の下に置かれているのは、大臣や長官を置く行政組
織ではないこと、人事面における権限が内務省にあること、そして
政治警察という都合上内務省と協力して摘発した方が効率が良いこ
とが挙げられる。
だが、いかに合理的な理由あって内務省の傘下にあるとしても、
運用する人間が合理的に政治警察を運営するかと言えば話が違う。
内務大臣が、自己の利益の為に高等警察局を利用する。高等警察
局員も、自身の栄達の為に内務大臣に協力する。
914
そしてもう1人、今回の事件でキーとなる人物がいる。それが資
源大臣政務官ウェルダー子爵だ。
資源省とは、オストマルク帝国で最も新しい省である。元々は内
務省資源管理局だったのだが、7年前に独立したのだ。
7年前。つまりホフシュテッター伯爵が内務大臣に就任した翌年
だ。
資源大臣に選ばれたのは、ホフシュテッターと懇意の者だったと
してもおかしくはない。
資源省の仕事は、農林水産資源及び鉱工業原材料の管理及び開発・
活用、そして人的資源の管理までも行っている。国交省と農水省と
経産省と厚労省を足して4で割った感じだろうか。
多岐に渡るその権限は当然巨大なものとなる。当然、資源大臣の
政治的存在感も大きくなるのだ。
そして、これら3者が第三次シレジア分割戦争を望む理由。それ
は言うまでもなく、シレジア南部のクラクフスキ公爵領だ。シレジ
アにおいて、王都シロンスクに匹敵する人口と経済規模を抱えるこ
の領地を手に入れられたら、自身の懐も、省の権限もより強固にな
るだろう。
内務省が国内世論を煽り、高等警察局が具体的にそれを実行する。
煽った世論は、宮内大臣政務官コンシリア男爵を通じて皇帝陛下
へ向かう。
皇帝は、煽られた国民世論に押される形で開戦を決意する。
そして実際に戦争が起こってクラクフスキ公爵領を悪徳なるシレ
ジア王国から解放する。すると新たに多くの農林水産資源、鉱工業
原材料、人的資源を手に入れた資源省の権限は益々大きくなる。
915
元クラクフスキ公爵領は、資源大臣やらの推薦でホフシュテッタ
ー伯爵領と名を変えることになるのかもしれない。
そしてホフシュテッターが元々持っていた伯爵領は、高等警察局
長殿が受け継ぐとなお良いかもね。
⋮⋮はぁ、人の国を一体なんだと思っているんだか。
と、その時にドアがノックされた。
﹁大尉、私です﹂
フィーネさんの声だ。
⋮⋮昨日、俺ってば随分恥ずかしい事を言ったからな。どうも会
うのが恥ずかしい。まぁ、門前払いするわけにもいかない。俺は﹁
どうぞ﹂と短く答えて、彼女の入室を促した。
が、なぜか1分経っても彼女は入室してこない。何やってんだ?
﹁フィーネさん?﹂
﹁あ、い、いえ。失礼します﹂
そう言って彼女はやっと部屋に入ってきた。服装は昨日と同じ軍
服だが、表情は憑き物が取れたかのように、心なしかすっきりして
るように見える。
が、同時に彼女は珍しく慌てている。ドアを閉める動きは妙にぎ
こちないし、歩くときも手と足が同時に出ている。見てて少し面白
い。
まぁ、その、なんだ。俺にもわかる。というか俺とほぼ同じ心境
なのだろう。恥ずかしくて目を合せずらいのだろう。
﹁⋮⋮調子はどうですか?﹂
916
とりあえず彼女の緊張の糸を解さなければ、と思って適当に話題
を振ってみる。
﹁⋮⋮大丈夫です。大尉のおかげで﹂
﹁私は、何もしてませんよ﹂
妙に恰好附けた台詞を言った記憶はある。ぶっちゃけ忘れたい黒
歴史だ。
﹁それでも、私は感謝いたします。それと、迷惑をおかけしました﹂
﹁フィーネさんのことを、迷惑だと思ったことはないですよ﹂
だからいつも通りにしてください。なんか妙に背中がむずむずす
る。
﹁それでフィーネさん。何の用ですか?﹂
﹁あぁ、いえ、その。昨日は色々あったおかげで情報を精査する時
間がなかったのだと思い、その、手伝おうかと思いまして﹂
うむ。どうやら彼女も昨日の出来事はあまり触れてほしくないよ
うだ。恥ずかしい、って感じの表情してるし。
その顔を暫く観察したいなぁ、と思わなくもなかったが、、まぁ
あまりやると本当に嫌われるので自重する。第一あそこまで彼女を
追い詰めたのって75%くらい俺のせいだもんね⋮⋮。
という訳で話題はさっさと変えよう。これ以上の交戦は双方を消
耗させるだけだ。主に心が。
﹁丁度いいです。私も今情報を見ていたところですから。少し、質
問してよろしいですか?﹂
917
﹁わかりました﹂
そう言うと、フィーネさんの顔がいつも通りの毅然としたものに
なった。いつもの、調査局のフィーネ・フォン・リンツだ。
﹁今回、私がこのベルクソン事件の調査を依頼された理由を知って
いますか?﹂
﹁⋮⋮いえ。父は話してくれませんでした﹂
ふむ。フィーネさんにも知らせない事情があると。あまり大っぴ
らにできないような事情があるってことか?
⋮⋮どうも胡散臭い話になってきた気がする。
俺はとりあえず、先ほどまで考えていたことをフィーネさんに披
露した。高等警察局のこと、内務大臣のこと、資源省のこと。今の
所状況証拠しかないが、俺の立てた仮説を話す。
﹁なんで呼ばれたんでしょうね﹂
﹁それは⋮⋮大尉が信頼に足る人物だからでは?﹂
﹁信頼してくれてることは嬉しいですが、でももっと他にいたでし
ょう﹂
ジェンドリン男爵だって信頼に足る人物だから調査隊の長に選ば
れたんでしょ?
別に俺みたいな士官学校卒業したばかりで15歳のガキンチョを
選ぶ必要性はない。それに俺は外国人だ。伯爵はなんか理由を言っ
てたけど、今思えばどれも説得力に欠ける。
﹁⋮⋮外国人だから、もしくは外交官で信頼できるのが大尉しかい
なかったと言うことではないでしょうか﹂
918
﹁んー、でもなんでわざわざ外交官を選んだんだ⋮⋮﹂
下手すれば内政干渉として弾劾されてもおかしくないようなこと
を、俺に依頼するかね?
自分の国調査に関しては自分の国の人間にやらせた方が効率が良
い。わざわざあんな調査協力令状なんて作る手間もかからないし、
万が一の情報漏洩のリスクも小さいし。
フィーネさんも疑問に思う所があるのか、右手を口にあて考え込
んでいた。
﹁もしかしたら⋮⋮﹂
﹁何か、心当たりでも?﹂
﹁⋮⋮これは予想なのですが、外交官にしかできないことを、父は
大尉にやらせようとしたのではないでしょうか﹂
﹁外交官にしかできない⋮⋮?﹂
なんだろう。外交官にしかできない事って。俺がやったことと言
えば、外交と、あとは情報収集と⋮⋮。
﹁大尉は、いえ外交官は、私たち帝国臣民には持っていないものを
持っています。それが、今回の鍵なのだと、私は思います﹂
フィーネさんが話した予想は、なるほど確かに筋が通っていた。
でも、そんなことをさせようとするなんて、リンツ伯爵は結構無
茶な人間だと思うわ⋮⋮。
919
到着
王国軍キシール元帥率いる9個師団がアテニ湖水地方の南端に到
着したのは5月15日のことである。ヤロスワフ解放が4月18日
だったため、実に1ヶ月弱の行軍だった。
その間、キシール軍団は特に敵襲を受けることはなかった。
﹁幸運と思うべきか、それとも罠だと思うべきか⋮⋮﹂
﹁どうしたのエミリア?﹂
高等参事官エミリア少佐は各部隊の激励をして回る途中、近衛師
団所属のサラ大尉に出会った。暫くは歓談に勤しんでいたものの、
ふとした瞬間、エミリアが不安を口にしたのである。
﹁帝国軍は予備兵力として合計10個師団を用意しているはずです。
しかし、帝国軍はなぜかその予備兵力を投入していません﹂
﹁⋮⋮それは、前に言ってた命令系統がどうのこうの、じゃないの
?﹂
ザレシエ会戦において、帝国軍総司令官ロコソフスキ元帥が戦死
した影響はたしかに大きかった。命令・情報系統が分断、攪乱され
たために、帝国軍は王国軍に各個撃破され続けていたのだから。
だが元帥戦死から既に1ヶ月。既に帝都ツァーリグラードも前線
で起きている事態を把握し始めている頃だ。だとすれば、命令系統
の再編、作戦の変更、そして予備兵力の投入をしてくるはず。
それに現在、アテニ方面における王国軍と帝国軍の戦力比は18:
20と拮抗している。このままずるずると持久戦、そして消耗戦と
なれば、帝国軍にもかなりの損害が出ることになる。一つの軍事小
920
国を滅ぼすために、そんな損害を覚悟してまで予備兵力投入を渋る
意味が、エミリアには理解できなかった。
﹁罠かもしれない、ってこと?﹂
﹁えぇ⋮⋮ですが。我々相手にわざわざ罠を仕掛けるでしょうか?﹂
﹁どういうことよ?﹂
﹁⋮⋮帝国軍は全体の兵力では我々を上回っています。我々が如何
に個々の戦場で勝利を挙げようと、全体兵力で下回るシレジアの負
けは必至です。だとすれば、帝国軍はその数の有利を生かして、た
だ圧倒的な物量で踏み潰してしまえばいい。なのに⋮⋮﹂
﹁なのに、帝国軍は動かないわね。どうやらこの1ヶ月、奴らはア
テニに閉じこもっているようだし﹂
サラの言う通り、帝国軍はアテニ湖水地方に1ヶ月間閉じ籠って
いる。
これが帝国軍が寡兵であるのならばまだ彼女らにも理解ができた
だろう。戦力が少ないから、攻勢に出れず、防御に徹していると。
だが先ほどエミリアが述べたように、帝国軍は数で勝っている。
数で勝る帝国軍が、シレジアに侵略してきたと言うのに、この1
ヶ月間は消極的すぎた。この間行われた戦闘と言えば、ウィグリ湖
畔の戦い程度のもので、あとは小規模な部隊同士による小規模な戦
闘だけだった。
ウィグリ湖畔の戦いを除くと、この1ヶ月間の戦死者数は両軍合
わせて1000名にも満たない。
その結果、王国軍は湖水地方外縁部に重厚な防御陣地を築き上げ
ることに成功している。つまり帝国軍は、敵に防御の時間を与えて
しまったと言うことになる。
﹁⋮⋮彼らは、何を考えているのでしょうか﹂
921
このエミリアの疑問に答えるためには、時間を10日ほど戻す必
要がある。
−−−
それは、5月4日午前11時10分。
東大陸帝国帝位継承権第一位、皇太大甥セルゲイ・ロマノフが護
衛を引き連れて帝国軍5個師団が駐屯するリダに到着した。
セルゲイは到着早々、この軍団の指揮官であるマルムベルグ大将
の下へ駆けつけた。
マルムベルグ大将は予想外の来客に一瞬狼狽えたものの、すぐに
事前に決められていた皇帝の策を思い出し、なんとか平静を装うこ
とができた。
セルゲイはマルムベルグに対し、帝国軍軍令部総長クリーク上級
大将の名で﹁帝国軍総司令官がミリイ・バクーニン元帥が指名され
た﹂こと、そしてさらに﹁マルムベルグ軍団合計5個師団を前線に
投入し、シレジア王国を僭称する叛徒共を討つべし﹂という指令を
伝えた。
この指令には、具体的な作戦案や侵攻案があったわけではない。
﹁軍団長の臨機応変な作戦によって対応すべし﹂という極めて抽象
的な文が書いてあっただけであった。
そのため、軍令部からの指令を伝え終わったセルゲイは、そのま
922
ま形式上の上官であるマルムベルグ大将に意見具申をしようとした。
だがそれよりも一瞬早く、マルムベルグは事前に策定していた作戦
をセルゲイに披露した。
﹁我々は北回りに行軍し敵を避け、アテニ方面軍団と合流する﹂
マルムベルグの命令を聞いたセルゲイは驚愕した。この無能者は
何を言っているのか、というような表情をしている。
﹁セルゲイ・ロマノフより大将閣下に意見具申の許可を﹂
その発言を聞いたマルムベルグは、皇太大甥の手前はっきりと拒
絶することはなかった。だがその顔は明らかに拒否の表情であり、
そしてそれは黙って俺の言うことを聞いて死ね、とも取れる表情で
もあった。
だがセルゲイは、上官からの明確な拒否がなかったため自らの作
戦案を提示した。
﹁叛乱軍は寡兵で、アテニ方面においても彼我の戦力差は約2:1
と聞いております。その状況下で、さらなる戦力集中を図る意味を、
小官は見出せません﹂
戦力を集中すればするほどその軍団の攻撃力は飛躍的に高まる。
だが、一方で限界がることも確かである。
これはかつて、シレジア王国軍総合作戦本部長ルービンシュタイ
ン元帥が高等参事官エミリア少佐に指摘した事でもある。
﹁では、貴官どうすべきだと?﹂
﹁はい。ここは南の街道を利用し、叛乱軍6個師団が展開している
というギニエに向かいます。そしてそこで、我が帝国軍と対峙して
923
いるであろうこの叛乱軍の後背を討ちましょう。友軍が呼応すれば、
理想的な挟撃戦が可能です﹂
リダは、王国軍が展開するギニエから約10日程行軍した距離に
位置している。馬を最大限に使えば2日もかからない。
王国軍は、現在アテニ湖水地方に無数に存在する湖と湿地を有効
に使い、さらには馬防柵や落とし穴等を築き上げて帝国軍20個師
団をアテニ湖水地方北東部に閉じ込めている。
無論このまま待っていれば国力に勝る帝国軍が勝つことは自明の
理だが、だからと言ってこの状況で放置することはセルゲイにはで
きなかった。消耗戦となれば多くの将兵と物資が天へと召されるこ
とになり、勝てたとしても帝国にとって重大な損失になると考えた
からだ。
だからこそ、セルゲイは短期決戦に挑み、王国軍を速やかに壊滅
させようとしたのである。
だが、このセルゲイの思いがマルムベルグの心に届くことはなか
った。
マルムベルグにとってセルゲイは政敵であり、協力する義理を感
じなかったからである。
﹁貴官の提案は却下する﹂
﹁⋮⋮ッ! なぜですか!﹂
﹁既にこの作戦は貴官が到着する前に決定されていたことだ。今更
作戦を変更するのは非合理的だ﹂
﹁しかし!﹂
﹁黙れ、セルゲイ少将。この軍団の指揮官は私だ﹂
セルゲイ・ロマノフは皇太大甥である。だが、帝国軍という組織
の中では彼は一介の少将でしかない。
924
少将は、大将の命令を聞かなくてはならない。
﹁当初予定通り、我々は北回りで総司令官バクーニン元帥の軍団と
合流する。良いな?﹂
﹁⋮⋮了解しました﹂
ある意味において、セルゲイは幸運だったかもしれない。
マルムベルグがその気になれば、今すぐセルゲイ指揮する1個師
団を出撃させ、王国軍ラクス大将の軍団約6個師団を攻撃しろ、と
命令できた。この命令をされた場合、セルゲイの年齢は17で止ま
ることは疑いようもなかった。
だがそのあからさまな愚劣な命令を、マルムベルグは出す勇気が
なかった。終戦後、セルゲイを無為に戦死させた罪を着せられる可
能性があったからだ。
セルゲイは、セルゲイの責任で名誉ある戦死を遂げなければなら
ない。
マルムベルグはそう思うと、旗下の部隊を北に移動させるべく準
備を始めた。
帝国軍がこの1ヶ月間動かなかったのは、セルゲイ・ロマノフが
前線に立ち、そして王国軍が重厚な防御陣地を築き上げ、そしてそ
れに果敢に挑んだセルゲイが串刺しにされることを、帝国軍の高級
士官が望んでいたからである。
大陸暦637年5月16日。
帝国軍25個師団と、王国軍18個師団が、シレジア北東部アテ
925
ニ湖水地方に集結した。
後に、大陸の歴史に大きく刻まれることになる﹁アテニの血戦﹂
が、今この時始まろうとしていた。
926
レギエル北街道の遭遇戦
5月17日。
アテニ湖水地方の南部にある放棄されたレギエルという小さな町、
その初級学校校舎内に王国軍の前線司令部が設けられた。
そこでは各軍団の長や一部幕僚、師団長が集まり、現状確認と今
後の方針について話し合っている。
﹁シレジア王国には大小様々な湖が約3000ほど存在しますが、
そのうちの3分の1がこのアテニ湖水地方に集中しています。それ
に加え、湿地や森林も多く、歩兵や騎兵の移動を極度に制限してい
ます﹂
総合作戦本部から派遣された高等参事官、エミリア少佐の司会に
よって会議は進められている。
﹁そして我が軍は、このアテニ湖水地方の南外縁のギニエ、レギエ
ル、そして北部のセドランキに軍を配置させ、その各軍団の総兵力
は18個師団、約17万3500余名に上ります﹂
エミリアがそう述べた後、仮設司令部はにわかにどよめいた。平
時における全戦力を上回る規模の人員がこの地方に展開していると
あれば仕方のない事である。
﹁ですが、各軍団の状況は良くありません。特に長距離の行軍を強
いられたキシール元帥率いる軍団︱︱便宜上、キシール軍団と呼び
ますが︱︱は兵の疲労も大きく、また士気も落ちています。また、
927
セドランキに展開するクハルスキ軍団も、度重なる戦闘による精神
的消耗が大きいです﹂
王国軍はその数こそ18個師団と、国の経済規模からすれば十分
な量を保持している。だが実情は満身創痍と言っても良く、多くの
徴兵された農民兵の心中は厭戦気分と望郷の念で占められていた。
一番マシなのが、戦闘の回数が少なく、また行軍距離もキシール
軍団よりは短かったラクス軍団である。
﹁そして、肝心の帝国軍の配置状況なのですが⋮⋮﹂
﹁それは私からお答えしましょう﹂
エミリアの発言を引き継いだのは、ラクス大将の幕僚ホイナツキ
大佐である。
﹁この1ヶ月間、我が軍団の偵察部隊が得た情報によりますと、帝
国軍は占領したタルタク砦を拠点に20個師団を集結させつつあり
ます。また、我が軍団は捕虜を得ることに成功しました。その度重
なる苦労の中、ようやく捕虜からの情報を聞き出せましたが、それ
によれば帝国軍は予備兵力を投入し、おそらく今頃には、帝国軍は
25個師団に膨れ上がっていると思われます﹂
ホイナツキ大佐は、殊更に﹁我が軍団﹂を強調していた。それは
あからさまな武勲の主張であったが、この発言を聞いていた多くの
高級将校がホイナツキを白い目で見た事は言うまでもない。
とはいえ、彼の厚顔無恥さをさておくにしてもこの情報は重要で
あることは確かだ。
﹁ホイナツキ大佐の情報を下に、帝国軍に対する具体的な攻撃作戦
の立案に移りたいと思うのだが⋮⋮﹂
928
キシール元帥はそう言って、この場にいる者たちからの意見を聞
こうとしたのだが、それは会議室に突然やってきた若手女性士官の
訪問によって遮られた。エミリアの侍従武官にして、シュミット師
団第21剣兵小隊長マヤ・クラクフスカである。
彼女は﹁ご無礼を﹂と言って短く敬礼すると、会議室内にいた全
ての者にあることを伝える。
﹁報告します。シュミット師団所属の第12歩兵中隊がレギエル北
の街道にて帝国軍200ないし300の歩兵隊を発見。現在交戦中
の模様です﹂
﹁⋮⋮またか﹂
この1ヶ月間、このような小規模戦闘が断続的に続いている。そ
の行動は威力偵察と嫌がらせを狙った戦いであると王国軍の高級将
校たちは理解したが、マヤの報告はまだ続きがあった。
﹁しかし、妙なところがあるようです﹂
﹁妙、とは?﹂
﹁はい。詳細は不明ですが、敵に交戦の意思を感じられない、との
ことです﹂
﹁⋮⋮確かに妙だな﹂
威力偵察であるとすれば、敵を挑発するように行動し、敵の動向
や規模を推し量ろうとするものである。可能であればそのまま敵陣
深く侵攻し、敵の後方拠点を荒らし回るものである。しかし消極的
な行動をすれば、かえって敵の攻勢を誘って全滅する恐れがある。
何かの罠なのか、とこの時高級将校の誰もが思った。キシール元
帥もその例外ではなく、判断に迷い、近くにいた者に意見を求める
ことにした。キシール元帥から1番近かったのは、高等参事官エミ
929
リア少佐だった。
﹁エミリア少佐。貴官はどう思う?﹂
﹁⋮⋮やはり我々を誘う罠だと思われます。敵の消極的行動は、我
々を敵陣深くまで誘い込んで包囲撃滅することが目的かと﹂
エミリアの助言を聞いて、最初に発言をしたのは総参謀長ウィロ
ボルスキ大将である。彼は気色の悪い笑顔を浮かべながら、なおか
つ少し不満気な顔でエミリアに言い放つ。
﹁つまり、ザレシエにおける貴官の作戦を、敵味方入れ替えた形に
なるということか﹂
﹁⋮⋮はい﹂
エミリアは、総参謀長の皮肉めいた褒め言葉に対して嫌な顔せず、
また特に感想らしい感想を持たなかった。むしろ嫌な顔をしていた
のは、報告しにやってきたエミリアの副官だった。
大公派高級士官と王女自身の微妙な人間関係はさておくとして、
王国軍はこの妙な動きをする帝国軍をなんとかせねばならない。
﹁敵が罠を張っている、いないに関わらず、セドランキへの街道が
敵に遮断される事態は好ましくない。至急増援を送りこれを迎撃す
る。ヨギヘス中将﹂
﹁ハッ﹂
﹁至急、この帝国軍を迎撃せよ。わかっているとは思うが、深追い
は無用である。それ以外は、貴官の善処に任せよう﹂
﹁了解しました。すぐに向かいます﹂
930
こうして、5月17日の作戦会議は帝国軍襲来の報によってなし
崩し的に終了した。
−−−
ヨギヘス中将旗下の第9歩兵連隊が、報告のあった戦場へと到着
したのは同日15時40分のことである。
第9歩兵連隊の連隊長ロランダス・マズロニス中佐は戦場に到着
するなり、戦闘中の第12歩兵中隊長のヴァルダス・パクサス大尉
の下へ駆けつけ詳細な情報を聞きだそうとした。
﹁それで、被害は?﹂
﹁⋮⋮ありません﹂
﹁なに?﹂
﹁い、いえ。正確に言えば負傷17名ですが、いずれも軽傷で治癒
魔術師の治療を受ければ問題ないかと思われます﹂
マズロニスは、パクサスの報告を聞いて言葉を失った。
敵の戦意が低いことは予め聞いていたが、中隊規模の歩兵が数時
間戦って被害僅少というのは異常と言うより意味不明である。
しばし黙ったままのマズロニスを不審に思ったのか、パクサスが
声をかける。
﹁どうしますか? 攻勢に出ますか?﹂
﹁⋮⋮あぁ。いや、ダメだ。ヨギヘス中将閣下より罠の存在に留意
せよと言われている。ここは様子を見るか﹂
931
﹁では、このまま中級魔術による遠距離戦闘を?﹂
﹁うむ。⋮⋮しかし、あまりダラダラと戦っていては将兵の疲労も
大きくなるのも確かだ。ここは一気に攻めてみるのもアリだな﹂
マズロニス相反する考えをほぼ同時に言い放った。これを聞いた
パクサスが混乱しても誰も文句は言わないだろう。
実際、パクサスは判断に困っていた。マズロニスの第9歩兵連隊
が戦場に到着した時点で、パクサスの第12歩兵中隊はその指揮下
に置かれる。マズロニスが判断に迷えば、第12歩兵小隊も上手く
動けず、結局この不毛な戦いを続ける羽目になる可能性もあった。
幸い、マズロニスは数分の思考の後にパクサスに命令した。
﹁一度、敵に対して積極的攻勢をかける。だが短時間で攻勢を中止
し、その後退く﹂
﹁⋮⋮それに何の意味が?﹂
﹁敵が罠を張ろうとしているのか、それとも単に戦意がないのかを
見極める。もし罠であれば、我々が後退すると同時に再攻勢に出て、
我が部隊を有利な地点に引き摺り込もうとするだろう﹂
﹁なるほど。罠でなければそのまま逃げるはずだ、と?﹂
﹁その通りだ。すぐに準備をしてくれ﹂
﹁了解しました!﹂
このマズロニスの命令から10分後、旗下全部隊は攻勢のための
陣形の再編を終了した。マズロニスの連隊には上級魔術師が居なか
ったため、残念ながら魔術攻勢には出れなかった。だが敵はたかだ
か300、後れを取るはずもない。
彼はそう判断すると、号令をかけた。
﹁よし、全隊同時に前進せよ!﹂
932
創造性のかけらもないマズロニスの命令を受け、旗下の部隊も前
進を始める。王国軍歩兵連隊は当初、部隊を横に広げるなどをせず、
ただ単純に前進した。帝国軍が罠を張っているかを見極めるかどう
かの攻勢だっただけに、なまじ半包囲をしようと両翼を伸ばしてし
まえば、罠云々の前に帝国軍は全力で逃げてしまうだろう。
それでは意味がない上に、第一面白くもない。というのがマズロ
ニスの言い分だった。
﹁帝国軍、後退します﹂
﹁よし、当初予定通りこちらも一旦停止。敵の様子を見る﹂
﹁ハッ﹂
マズロニスの命令を受けた連隊は、同時に停止する。一糸乱れぬ
その部隊運動は、王国軍の指揮と練度の高さを証明する物である。
﹁中佐、敵が再度攻勢に出ます﹂
﹁やはりな! 生かして帰すな、総員突撃せよ!﹂
自分の読みが当たった、という甘美な興奮に包まれたマズロニス
は、その興奮をそのまま声に乗せて全隊に突撃を命令した。
熱狂的な突進を始める1個連隊を、攻勢の中途にあった1個中隊
が防げるはずもなく、帝国軍は急速に後退した。
﹁逃がすな! 囲んで叩け!﹂
マズロニスは更に前進を命令した。この時彼の脳裏には、ヨギヘ
ス中将から聞かせられた﹁罠の存在﹂は完全に記憶の奥底へと封印
されていた。
だがあるいはもしかすると、彼は罠の存在を承知で突撃したのか
もしれない。それは帝国軍が稚拙な罠でこちらを貶めようとしてい
933
るのだと。でもそれは王国軍には無意味なのだと教えるために、わ
ざと突撃を命令したのかもしれない。
だがどちらにせよ、マズロニスは完全に敵の術中にはまっていた。
16時15分。
敵陣深くにまで引き摺り込まれた王国軍の歩兵連隊は縦に非常に
長い陣形となっていた。
これは無遠慮な突撃を繰り返す余り、一部の将兵がその速度につ
いていけず脱落したためでもある。だがなにより、敗走している帝
国軍が湿地と森と湖の間を縫うように逃げているため自然と道幅が
狭くなっているのである。
だが、その終わりのない鬼ごっこはついに、もしくはやっと終幕
を迎えることになった。
﹁中佐、左です!﹂
﹁⋮⋮!﹂
イグニスキャノン
マズロニスが視線を左に移すと、その先には中級魔術﹁火砲弾﹂
の群れがあった。
−−−
934
﹁⋮⋮上手くいきましたね﹂
﹁そうだな。拍子抜けするほどだが⋮⋮運が良かっただけだと思っ
ておこう﹂
潰走する王国軍の歩兵連隊を遠巻きに見つつ、2人は悠長に歓談
していた。
﹁叛乱軍がザレシエで行った策を真似てみたのだが⋮⋮どうやら、
これは思ったよりも使い勝手がいいのかもしれない。もっと多くの
部隊で包囲していれば、あの連中は全滅していただろうな﹂
﹁それでは追撃をかけますか?﹂
﹁いや、無用だ。少なくとも我々は敵の3割は倒したはず、残敵掃
討も必要ない﹂
﹁承知しました、殿下﹂
殿下と呼ばれた彼、セルゲイ・ロマノフ少将は微かに笑って、傍
らに立つ男に言葉を返した。
﹁戦場で殿下って呼ぶなよ、親衛隊長殿﹂
935
レギエル北街道の遭遇戦︵後書き︶
簡単な図説
アテニ湖水地方全体の両軍の配備状況
<i154219|14420>
例によって縮尺適当。
今回戦ったのは、セドランキとレギエルの中間地点です
936
皇太大甥 VS 第一王女 5月17日の遭遇戦を皮切りに、帝国軍はアテニ湖水地方各所で
小規模な攻勢を連続して行った。
5月18日、ギニエ北の地点でラクス軍団所属のインベル准将指
揮の1個旅団が、帝国軍1個師団によって半包囲され、3割を超え
る損害を出して敗走した。
翌5月19日の早朝、クハルスキ軍団の拠点であるセドランキに
対して、またしても帝国軍1個師団が奇襲をかけ少なからぬ損耗受
しちょう
ける。さらに同日夕刻、損耗したクハルスキ軍団の補充と補給を行
うために移動していた輜重兵部隊が、やはり帝国軍1個師団の側面
攻撃を受け、こちらは文字通り全滅の憂き目にあった。
このようなことが立て続けに起きれば、王国軍と言えども流石に
﹁この1個師団は全て同じ部隊なのではないか﹂と勘付いた。
5月20日、王国軍総司令官キシール元帥は王国軍の主要な高級
士官を集め作戦会議を開いた。
﹁この小うるさい奴を止めなければ、味方の士気にも関わる。何と
してでも奴に一撃を加えて、その鼻っ柱をへし折るのだ﹂
﹁この部隊を止めるためにも、今回皆に集まってもらったわけだ。
全員の活発な意見に期待する﹂
キシール元帥は温厚な人物として知られてはいたが、流石の彼も
﹁18個師団が1個師団に翻弄され続ける﹂という事実を前には怒
りの少しも覚えることだろう。しかも本来これを諌めるべき彼の参
謀らも止めるどころか煽りに行くのだから余計性質が悪かった。
937
エミリアが止めても良かったが、彼女はこの時は止めることはし
なかった。上官であり、さらには政敵でもある総参謀長ウィロボル
スキ大将の怒りを買わずに諌める方法を思いつかなかったためでも
ある。だがそれ以上に、彼らが言うこの﹁小うるさい奴﹂を止める
手立てを、既にその頭の中で考えていたからである。
﹁閣下、ご提案があります﹂
エミリアが提示した作戦案は、副司令官ラクス大将やヨギヘス中
将らの助言と修正を経て、キシール元帥の了承を得て実行に移され
ることになった。
−−−
5月21日。
戦線各所で王国軍を翻弄し続けた、セルゲイ・ロマノフ率いる帝
国軍1個師団はレギエル北東にある森の中に潜んでいた。この森の
中はレギエルから探ることは難しく、そして森の中からはレギエル
周辺が見やすいという、奇襲をするのならば絶好の仮拠点となる場
所である。
彼はこの森に潜み続け、この数日の王国軍の動きを逐一見守って
いた。
午前11時。木陰で休憩しているセルゲイ少将の下に、親衛隊長
にして彼の唯一の友人であるミハイル・クロイツァー大佐が報告し
に来た。
938
﹁殿下⋮⋮失礼、少将閣下。敵が動きました﹂
殿下、と一瞬呼ばれたことに対して、セルゲイは少し不満顔だっ
た。だが怒る前に、敵情を知ることを優先してクロイツァーにその
怒りを向けることはしなかった。
﹁⋮⋮どこだ?﹂
﹁レギエル駐屯の軍団が、北と東に分かれて行軍を開始。おそらく、
各方面への増援と街道警備だと思われます﹂
﹁ふむ。予定通りだ。空き家を狙うぞ。それと、総司令部に連絡。
﹃敵が混乱したところで攻勢に出て、一気に叛乱軍を撃滅しよう﹄
とね。勿論、敬語を使うのは忘れずにな﹂
﹁了解です﹂
この時を待っていた、と言わんばかりに彼の師団はすぐに部隊と
陣形の編制を終え、行軍を始める。
旗下の将兵たちは、連日連戦にも関わらず疲労の色を見せていな
い。これは、連戦にして連勝であり、部隊の士気が高まっていたの
である。高まる士気は疲労を覆い隠し、そして実力以上の能力を発
揮させることができる。
そしてその士気の高さは、セルゲイ・ロマノフという人物であっ
ても例外ではない。
午後0時15分。
セルゲイ・ロマノフ少将率いる帝国軍1個師団が、増援を出して
手薄となったレギエルに対して奇襲をかけた。
939
レギエルは元々小さな町である。タルタク砦放棄後、急速に野戦
築城がなされてある程度要塞化されたものの、急場凌ぎであること
には違いなく、防備が薄くなったところを攻撃されては失陥は時間
の問題である。
そして攻撃を始めた直後、セルゲイにとって驚くべき事実がわか
った。レギエルに駐屯する王国軍が1個師団しかいないと言うこと
だった。増援を出したことは、クロイツァーの報告通りではあるが、
この手薄さは異常とも言えた。セルゲイは、この機に一気にレギエ
ルを占領し叛乱軍を分断すべきではないかとの誘惑に苛まれた。
だがその誘惑も、友人であるクロイツァーの一言によってどうに
か踏み留まることができた
﹁閣下。ここは占領はせず、予定通り場を乱すだけ乱して後退しま
しょう。ここを占領しても、タルタク砦と街道が繋がってるわけで
もないここを長期的に維持することは不可能です﹂
セルゲイの作戦は、5月17日から19日までの間、ギニエとセ
ドランキを交互に攻撃して王国軍の耳目をギニエとセドランキに向
けさせる。そしてレギエルが手薄になったところでそこを攻撃し、
王国軍の中央を突破する。王国軍が混乱して増援を引き返してきた
ところで、帝国軍本隊として10個師団がギニエと後退する王国軍
の後背を襲撃して王国軍を壊滅させるという、言わば二重の陽動作
戦であった。
この極めて実行困難に思えるような作戦は、セルゲイ自身が先導
を切るという条件によってバクーニン元帥から作戦実行の許可を受
けた。これはセルゲイをどうにかして亡き者にしたいという帝国軍
上層部の意向も多分に含まれていた。失敗すればセルゲイは死ぬ、
成功すれば戦争に勝てる、という理屈である。
940
そのような打算があったことはセルゲイも承知していた。だから
こそ、セルゲイ師団はレギエルを絶対に手に入れなければならない、
というわけではない。セルゲイは冷静さを取り戻し、友人の注意を
潔く受け入れた。
﹁⋮⋮そうだな。お前の言う通りだ。このまま叛乱軍を攻撃、牽制
しつつしかる後に後退する﹂
セルゲイはそう命令したが、そう易々と退かせてやるほど王国軍
は寛容ではなかった。
レギエルを防衛するのは、ザレシエ会戦、カレンネの森の戦いに
おいて重厚な防御陣を敷いて帝国軍の攻勢をいなし続けたシュミッ
ト少将率いる1個師団である。彼の鉄壁とも言える防御戦闘をし、
さらには帝国軍が後退の意思を示したところで逆突出を仕掛けて、
帝国軍セルゲイ師団をレギエル外縁に拘束した。
セルゲイは、全面後退の指示を出せぬまま時間だけが過ぎていっ
た。ここは犠牲を覚悟で無理にでも撤退すべきではないかと迷って
いた。
だがその時、王国軍がさらに先手を打った。
﹁⋮⋮ッ! しまった!﹂
セルゲイがそう舌打ちした時、彼の指揮する師団の左右両翼から
新手の王国軍2個師団、合計4個師団が現れたのである。王国軍は
速やかに行動し、セルゲイ師団を半包囲せんと部隊を展開させる。
セルゲイの作戦が、高等参事官エミリア少佐によって見抜かれて
いたのである。
941
エミリアは、帝国軍の所謂﹁小うるさい奴﹂が緒戦で王国軍の注
意をギニエとセドランキに引き付け、その隙にレギエルを攻撃して
王国軍を混乱させ、一気に攻勢をかけることを意図しているのだと
気づいた。
そして攻勢を受けるの地点はギニエかセドランキで、そして八割
方ギニエが攻勢を受けると考えたのである。
そう考えたエミリアは、レギエルに主力を集めて帝国軍を迎撃す
る案をキシール元帥に上申した。だがその案は、ヨギヘス中将助言
によって﹁手薄になったレギエルを敵に占領させ、占領間もなく地
形を把握していない帝国軍1個師団をすぐさま包囲撃滅する﹂とい
う作戦に変更された。
またギニエの軍団には死守命令を出し、その防衛に当たったのは
ラクス大将率いる6個師団と決定された。
もしこの作戦が成功していれば、セルゲイ・ロマノフは齢18に
して天に召されることになり、さらには帝国軍もギニエに対する攻
勢作戦の失敗によって多大な出血を強いられたことだろう。
だが、セルゲイはクロイツァーの助言を聞きレギエルに侵入する
ことはなかったため、包囲されるということはなかった。彼は自分
が罠に陥ったことを悟ると、すぐさま作戦失敗の伝令を帝国軍総司
令部に伝えた。
だが、セルゲイ師団は数に勝る王国軍に半包囲され、シュミット
師団のみと相手していた時よりもさらに苦しい状況から撤退せねば
ならなかった。
セルゲイは苦心の末に陣形を再編させると、王国軍にたいして逆
突出を仕掛けてその動きを一時的に受動的にした後、急速に部隊を
後退させていった。
942
セルゲイ師団が当初拠点とした森に戻っていた時、彼の部隊は将
兵4500余名を失っていた。
﹁どうやら、調子に乗りすぎていたようだ﹂
﹁閣下⋮⋮﹂
﹁授業料は高くついたが⋮⋮でも、いい経験となった。大佐、叛乱
軍が追撃してくる可能性がある。ここはタルタク砦まで撤退しよう﹂
﹁了解しました﹂
クロイツァーは、セルゲイの命令を受けて撤収の準備を始める。
拠点としていた地点を放棄し、王国軍に利用されないよう物資は焼
き払った。
その光景を見ながら、セルゲイは誰にも聞こえないような声で呟
く。
﹁とりあえず、総司令部の奴らに説明する言い訳を考えなくてはい
けないな﹂
943
ガトネ=ドルギエ会戦
5月21日のレギエル攻防戦において、セルゲイ師団は損耗率が
実に4割を超えていたが、ギニエに対して攻勢の準備をしていたキ
リエンコ大将率いる帝国軍10個師団も少なからぬ損害を受けてい
た。
キリエンコ軍団は、セルゲイ師団からの﹁作戦失敗﹂の情報を割
と早い段階で入手していた。キリエンコは作戦中止命令を旗下の部
隊に下達したが﹁一戦もしないで撤退するなど帝国軍の矜持に関わ
ることだ﹂という、生産性も欠片もない事を言い出す貴族出身の中
級指揮官が複数いた。
さらにこの中級指揮官らは、ついにはキリエンコ大将の指揮下を
離れて﹁自分たちで勝手にやる﹂とまで言い出した。結局キリエン
コは、この言うことを聞かない貴族に背中を押される、というより
崖から突き落とされるような形でギニエに対する攻勢作戦を続行せ
ざるを得なかった。
午後2時50分、キリエンコ軍団はギニエから少し北にあるガト
ネ=ドルギエの平原に布陣し、ギニエに対する攻勢準備をしていた。
だがその時、キリエンコ軍団の正面に上級魔術の発動光が確認され
たのである。
﹁どういうことだ!?﹂
キリエンコは、主に2つの意味で混乱していた。
1つは、王国軍が待ち伏せしていたことが、ここまで前進してな
ぜ気づかなかったのかということである。
944
如何に湿原と湖が多いアテニ湖水地方と言えども、山があるわけ
でもない。通常の索敵行動をしていれば、敵の大軍を見つけること
は酷く容易であるに違いないからである。にも拘らず、キリエンコ
軍団は王国軍を発見できなかったのである。
そのキリエンコの疑問は、急遽派遣された偵察部隊からの情報に
よって解消され、そして別の疑問が湧いたのである。
﹁叛乱軍5個師団が上級魔術の有効射程外に布陣しています!﹂
﹁何!?﹂
遠くに居たから見つけられなかった、という理屈は流石のキリエ
ンコの頭でも理解はできた。問題は、上級魔術の射程外に陣取って
いることである。
﹁叛乱軍は何を考えているのだ? この距離から撃っても当たりは
しない、奇襲をしたいのであれば上級魔術など使わないはずだ﹂
威力の高い上級魔術の欠点は、何よりも隠密性が皆無である点に
ある。
上級魔術は魔術師が魔力充填詠唱をする時、上空に魔力の塊が発
生して自然発光する。そのため奇襲の時には使えない、というより
も使ってはならない忌むべき策なのである。
だが王国軍はその常識を無視して、射程外から攻撃を準備してい
た。
これを見たキリエンコが全軍の行軍を停止させるのは当然のこと
だ。そしてまた当然のこととして、目の前の叛乱軍は魔術を発動さ
せようとしない。今魔術を撃ったところで、魔術は帝国軍の前方に
着弾することは目に見えているからである。
945
何かの罠か、と考えるのは自然の摂理である。キリエンコはしば
らく様子を見るとして、軍団を停止し続けた。だが、それに対して
またしても不満を持ったのは貴族の指揮官だった。
﹁こんなところで立ち止まっている暇など、我々にはない! キリ
エンコの役立たずが動かないと言うのであれば我々は突撃して、野
蛮な叛乱軍に帝国の威を示してくれようぞ!﹂
と御高説垂れた後、帝国軍の一部の部隊が︱︱と言ってもその数
は2個師団あった︱︱野蛮な叛乱軍、もといシレジア王国軍副司令
官ジグムント・ラクス大将率いる5個師団に突撃した。
この、帝国軍の無謀とも言える突撃を目にしたラクス大将は流石
に目を剥いた。
﹁⋮⋮勇猛なのか、それともバカなのか?﹂
結論から言えば、帝国軍の突出してきた部隊の指揮官は、ラクス
大将の言う﹁バカ﹂だったことは確かである。
ラクス大将は上級魔術攻撃をせず、剣兵と騎兵による物理的な攻
勢によって帝国軍の前衛部隊を叩いた。防御戦闘で、かつ彼我の戦
力差は2:5であれば、帝国軍が負けることは容易に想像がついた。
この無様な光景を見たキリエンコ大将は動かなかった。なぜなら、
突出した貴族の師団が全滅したとしても、帝国軍は8個師団が残る。
確かに2個師団を失ったことは大きいが、ここで貴族に呼応して突
撃したとしても、あの上級魔術の業火に焼かれるか、もしくは王国
軍が用意しているであろう罠によってさらに被害が増大すると考え
たからである。
946
結局、突出した帝国軍2個師団は50分間の戦闘によって7割の
損害を出して敗走した。キリエンコはこの敗戦の責任を、勝手に突
出した貴族に取らせようとしたそれは無理であった。なぜならその
貴族は今頃、神の名の下に裁判を受けているからである。
その後、キリエンコは﹁あの貴族のようになりたくなければ動く
なかれ﹂という命令を全軍に徹底させた。
だが、動いてくれなければ困るのは王国軍である。特に、発動直
前で1時間以上も止められている魔術兵たちの心労は既に限界に達
していた。
その魔術兵たちの心労を和らげるためにも、ラクス大将は次の手
を打った。
午後3時30分。
キリエンコ軍団の背後に、王国軍の新手1個師団が突撃してきた
のである。1個師団とは言え、背後を突然襲われた帝国軍は浮足立
った。
﹁全軍を180度回頭させろ! 背後の備えを!﹂
キリエンコ大将はそう命令したが実行は困難であった。
湖と湿地に囲まれた狭い平原において8個師団が180度回頭す
・・
るなどと言うことは容易ならざることである。キリエンコは部隊の
いくつかを前進させて、回頭が容易になるように空間的な余裕を作
らせて、個別に回頭しようとした。
そう、前進させてしまったのである。王国軍の上級魔術の有効射
程内に、帝国軍はまんまと入り込んでしまったのである。
ラクス大将は、この時勝ちを確信した。
947
﹁魔術攻撃を開始、発動後すぐに再詠唱をし、連続した魔術攻勢に
よって敵を混乱させるのだ﹂
王国軍本隊は、苛烈極まる魔術攻勢によって帝国軍8個師団を混
乱させた。背後から攻撃を受けた事、空間的余裕を作ろうと無茶な
行軍をさせた事、そして回頭中に攻撃を受けた事などの一連の出来
事によって、帝国軍キリエンコ軍団は全面崩壊に至った。
混乱し、陣形が乱れきった帝国軍に対し、ラクス軍団は容赦ない
全軍突撃を命令した。前後から挟撃され、防御陣を敷く暇もなく騎
兵に蹂躙される帝国軍の姿は醜態と言っても良かった。
午後5時10分。
ガトネ=ドルギエ会戦は帝国軍の惨敗という形で幕を閉じた。王
国軍の死者8400余名に対し、帝国軍のそれは3万1300余名
だった。さらにキリエンコは、突出した貴族に責任を押し付けるこ
とができなかったばかりか、自らが﹁敗軍の将﹂という烙印を押さ
れてしまったのである。
このように、5月21日の帝国軍によるギニエ・レギエルに対す
る攻勢作戦が失敗に終わると、戦線は再び膠着した。
948
朗報
MIA
5月21日までの今戦争の戦死傷者及び戦闘中行方不明者数の合
計は、シレジア王国軍が約3万5000名、帝国軍のそれは捕虜と
なった者を含めて約22万3800名に達していた。
単純な戦闘不能者の比較で言えばシレジア王国軍が圧勝している
と言っても良い。だが戦略的視野から見るとそうとも言えない。
帝国軍は未だアテニ湖水地方に22個師団、予備兵力5個師団、
そしてさらに帝国本土には360個師団が存在している。一方の王
国軍は、残余17個師団がほぼ全兵力であり、余力はほとんどない。
もしも帝国がさらなる動員をかければ、王国軍は瓦解するだろう。
さらに言えば、補給の問題もある。
前述の保有軍隊の数を見るまでもなく、東大陸帝国とシレジア王
国では国力の差があり過ぎる。国力の差とはそれ即ち兵站の差であ
り、損害からの回復力もまた著しい差があった。
この差を埋めるためにも、帝国軍が橋頭堡としているタルタク砦
を奪還し、帝国軍を孤立させることが最善であると前線司令部内の
作戦会議において結論付けられた。
5月25日、王国軍は7個師団によるタルタク砦奪還作戦を発動
したが、この作戦はほどなくして失敗した。
第二次ガトネ=ドルギエ会戦において、王国軍7個師団は帝国軍
12個師団の強固な防御陣を突き崩すことができず、結局3時間の
戦闘で4000の損害を出して退却した。
949
だが帝国軍の方でも攻め手を欠いていた。彼我の戦力差が未だ帝
国軍有利であるとはいえ、戦線各所の王国軍の防御陣は容易に突き
崩せるものではなかったのである。
結局、またしても小規模な戦いと睨み合いに終始することになっ
た。帝国はその数と補給の差を生かして持久戦に挑み、シレジア王
国の経済が疲弊したところで有利な講和を結ぼうと考えたのである。
消耗戦、長期戦となれば、王国軍の不利は免れない。
この不利を覆すためには、戦略的、政治的な勝利を得るしかない。
もしこの状況下でシレジアが講和に持ち込めたとしても、総兵力
に劣り、そしてなおかつ帝国軍をシレジア王国領から追い出すとい
うことが出来なければ不利な講和になるのは自明の理だった。割譲
される領土は少なくて済むかもしれないが、戦後賠償金の額は膨大
なものとなるであろう。
だが、戦力が未だある中で講和をしなければならないのも確かで
ある。
戦力がなくなってしまってから講和に持ち込んだとしても、それ
は完全屈服の選択肢しか残されていない。ここで敗北を認め、領土
割譲と賠償金で済むのであればまだマシであると言える。
それに帝国に対してここまで善戦して、かつその程度の条件で講
和に持ち込めたのならば、それは非難される所以はない。むしろ後
世の人たちは﹁シレジア王国は善戦した﹂と好意的に評価するだろ
う。
エミリア王女はそう考えていたが、彼女は負けることを受容でき
ずにいた。
950
ユゼフ
それは単に王女が負けず嫌いな性格だったからでもあるが、遠き
異国の地で1人奮闘して、外交的な援護をしてくれる友人の存在が
大きかった。
﹁エミリア殿下、考えるのも良いですが、たまには休まないとダメ
ですよ﹂
気づけば、エミリアの目の前には彼女の侍従武官がいた。数時間
にわたって考え事をしていたエミリアは、この来訪者の存在に気付
かなかった。ふと窓の外を見てみれば、すでに日は沈みかけていた。
エミリアは、マヤが持ってきた軽食と飲み物を口にしつつ、自分
の考えを彼女に話した。
﹁マヤ。この戦争、勝てるでしょうか?﹂
エミリアの表情は珍しく自信がないように見えた。少なくとも、
マヤにはそう見えた。
彼女は語った。王国軍が戦略的不利を未だに覆せないでいること、
それを戦術的勝利で何とか持ちこたえていると言うこと。このまま
講和に持ち込めば、その講和が降伏条約となるのは目に見えている
と言うこと。
エミリア王女は全てマヤに語った。
自信無さげに、そして少し寂しげに彼女は語った。
﹁勝てると思いますよ。私は﹂
マヤは、いつも通り自信満々の態度でそう答えた。その言葉を放
つ彼女の口ぶりと表情に一点の曇りもなく、これが嘘偽りのない発
言だということを証明していた。
951
﹁⋮⋮だと良いのですが﹂
﹁エミリア殿下にしては、えらく消極的ですね﹂
﹁そうならざるを得ません。今のシレジアは加速度的に状況が悪く
なっているのですから﹂
﹁確かにそうかもしれませんが、ですが戦術的な勝利は積み重ねて
います。それが戦略的敗北を覆すことも可能なのでは?﹂
﹁このままずっと戦い続けることが出来れば、あるいはそれは可能
でしょう。ですが、その前に王国は滅亡しますよ﹂
エミリアは、自信を持った口調で﹁滅亡する﹂と言った。勝つこ
とに対して自信はなく、負けることについては自信があったという
ことである。
それを聞いたマヤは、少し驚いた。開戦前、あれほど自信に満ち
て作戦を立案し、王都を駆け回った者と同一人物だとは思えなかっ
たのである。
﹁理由をお聞きしても?﹂
﹁⋮⋮先ほど言ったことが主な理由ではありますが、もう1つ看過
できないことがあります﹂
﹁それは?﹂
﹁⋮⋮周辺国の動向です﹂
シレジア王国は、今回の戦争に対して非公式な外交ルートからリ
ヴォニア貴族連合、カールスバート共和国双方に﹁この戦争に介入
するな﹂と通告した。だがそれはあくまで非公式であり、なおかつ
﹁3ヶ月﹂という期限付きのものだった。
すでに開戦してから2ヶ月。つまり残り1ヶ月で戦略的な勝利を
掴み取らなければ、この戦争は﹁第三次シレジア分割戦争﹂と命名
されることになる。
952
﹁なら、心配はいりませんよ﹂
﹁?﹂
﹁外交的な問題は、むしろ好転しているのですから﹂
エミリアは、マヤの言うことを理解できなかった。どうしてこの
状況で、外交的な好転が起きたのか。戦略的な面で言えば、負けと
言ってもいいのに。
エミリアはマヤに心意を聞こうとしたが、その前にマヤは行動し
た。彼女は懐から一通の手紙を出すと、主君に渡しながらこう伝え
た。
﹁オストマルクのユゼフくんからの早馬の手紙です。御一読くださ
い﹂
953
火の用心
時は巻戻り、5月7日になる。
奇しくもこの日は俺の16歳の誕生日だったのだが、その日の夜、
クロスノの町の外れにあるオストマルク帝国軍クロスノ警備隊駐屯
地兼内務省高等警察局クロスノ支部︵正式名称なげぇなオイ︶でち
ょっとした事件が起きた。
もとい、起こした。
−−−
22時40分。
良い子は寝る時間だが、今日の俺は悪い子である、問題ない。
﹁あの⋮⋮大尉、本当にやるんですか?﹂
﹁すみません。他に方法が思いつかなくて﹂
俺は今、帝国軍クロスノ駐屯地に無断で侵入しようとしている。
帝国法? なにそれ食べれる?
まぁバレたら間違いなく即刻殺されるだろうけど、そこは上手く
やるさ。軍人だもの、多少のリスクは背負わなきゃいけない。虎穴
に入らずんばどうのこうのって言うしね。
954
それにここ数日調べた結果、駐屯地の警備は案外ザルだった。1
人2人ならバレずに済むだろう。
﹁フィーネさん。作戦通りに外で待機してください。それで事が起
きたら⋮⋮﹂
﹁わかっています。それよりも、無事に戻ってきてくださいね﹂
﹁当然です﹂
さて、今回の作戦を説明しよう。
このクロスノ駐屯地は、当たり前だが軍が管轄している。当然そ
れは駐屯地内にある内務省高等警察局クロスノ支部でも同じことが
言えるのだが、前にも言った通り治外法権がある。平時において、
軍は高等警察局の敷地に許可なく入ることはできない。
そう、平時において、だ。
つまり、有事においては軍の権限が優先される。これは当然だろ
う。戦争してる最中に内務省の文官がコソコソ動いてたらやりづら
いったらありゃしない。
これは帝国戦争特別法第15条の2に規定されている、らしい。
無論この情報はフィーネさんがくれたものである。ていうかフィー
ネさん、まさか帝国法全文覚えてるとか言わないよね?
⋮⋮うん、これ以上このことを考えるのはやめよう。なんか怖い
よフィーネさん。あの記憶力で自分を無能扱いできるってどういう
ことだってばよ。
ともかく、有事が起きればクロスノの中にいる高等警察局員は軍
の指揮下に入るのだ。
で、有事ってなんや、になるのだが、これについては規定が曖昧
955
なのだ。
先の帝国戦争特別法においては﹁有事=戦争など、国家もしくは
地方、国民の生命及び財産その他が危険にさらされた時﹂と定めら
れている。ちなみに官僚用語で﹁その他﹂とか﹁等﹂は、﹁全部﹂
という意味です。
まぁつまり要約すると﹁軍が﹃有事﹄って言ったら﹃有事﹄だか
らバーカ!﹂ってことだ。長い法律文で規定した意味ないなオイ。
という訳で、俺は今からその﹁有事﹂を起こすために忍び込んで
いるのだ。
あぁ、他国の軍事施設に入り込んで悪いことをするなんて本当に
スパイ映画だな。床に重量センサーが仕掛けられてるかチェックし
なきゃ⋮⋮。
22時50分。
人目を盗み、壁伝いにそろりそろりと動く中、ついに目的地周辺
に辿りついた。内務省高等警察局クロスノ支部の、簡易留置所だ。
留置所の窓は10個。つまり10部屋ある。全てが独房で、つま
りそれはクロスノ支部は10人しか収容できないということである。
警察の留置所ってそう言うもんなのかは知らないが、クロスノの場
合はそうらしい。まぁ、高等警察局は政治犯用だし、一般刑事犯の
留置所は警備隊が別に持ってるから問題ないのだろう。
で、たぶんジン・ベルクソンはまだあの場所にいる。これも数日
間調べた結果わかったことだ。
駐屯地内の物資及び人員の出し入れは軍の管轄だ。俺みたいなス
956
パイが荷馬車に紛れて忍び込んだり、危険物を持ち込められたり、
さらには軍の機密文書を勝手に持ち出されないようにするための措
置で、高等警察局の馬車も当然徹底的に調べられるそうだ。
﹁秘密警察なのに情報ガバガバじゃねーか!﹂と思わなくもない
が、この際それが救いだ。
ジン・ベルクソンが拘留されてからの1ヶ月、駐屯地から逮捕者
が出た、という情報はなかった。これもフィーネさんが調べてくれ
ました。いや本当恐ろしい⋮⋮。
さて、どうするかな。
・・
俺の今の目的は、ジン・ベルクソンの拉致ではなく駐屯地で有事
を起こすことだ。問題はどういう有事を起こすかだが⋮⋮分かり易
い方が良いな。
火事と言うのであれば、外で待機してるフィーネさんにも分かり
易いし、警備隊の人間が火に目が行って俺を見逃すかもしれない。
イグニスキャノン
俺はそう考えて早速詠唱の準備を始める。派手に燃やしたいから、
今回は火系中級魔術﹁火砲弾﹂を使おう。
とした時、警備隊の人間が近づいてきた。やばい!
﹁おい、そこに誰かいなかったか?﹂
﹁ん? そうなのか?﹂
そこは否定しろよスカポンタン! ここで俺を見つけても給料変
わらないんだから見逃せ!
えーっと、こういう時ってどうすればいいんだっけな。このまま
影に隠れてても見つかるだろうし⋮⋮。そ、そうだ。猫の鳴き真似
957
をすればいいんだ! ってバカか! 猫の鳴き真似が人間がやった
ところですぐバレるだろ!
⋮⋮待てよ?
バレても良いんじゃないか?
イグニスキャノン
こっそり様子を窺って見ると、歩哨との間はまだ大分ある。ここ
で俺が火砲弾を撃って﹁放火犯が侵入した﹂という有事を起こせば、
フィーネさんにも分かり易いし俺は逃げれるし高等警察局の人間に
も文句は言えないだろう。
⋮⋮でもいざやるとなると足が震える。今までと違って﹁悪い事﹂
と認識してるからだろうか。
近づいてくる歩哨の足音に紛れて、俺は深呼吸をする。ひっ、ひ
っ、ふぅ。ひっ、ひっ、ふぅ。
よし。やるか。
詠唱を終え、掌に仄かな明りが灯される。中級魔術の魔力でも自
然発光現象はあるんだな、と妙なところで感心してしまった。
後は敵、もとい歩哨と呼吸を合わせて⋮⋮。
﹁おい、やっぱり誰かいるぜ。応援を呼ぶべきじゃないか?﹂
﹁そんなことしてもし見当違いだったらどうする? 俺たちが確認
してからでも遅くないだろ﹂
残念ながら遅いよお二人さん。敵かな? と思ったらすぐに報告
するのが歩哨の仕事だろ。いくらここが平和だからと言って油断し
ちゃあかんぞい。
958
ま、これも授業料だと思って受け取ってくれ。
イグニスキャノン
﹁火砲弾!﹂
959
調査許可令状
フィーネ・フォン・リンツなる若手の女性士官候補生が、クロス
ノ警備隊駐屯地内で火の手が上がったのを見たのは22時55分の
ことである。
彼女はそれを見ると﹁本当にやったのか﹂とやや呆れつつ、事前
に決めた作戦通りに行動することにした。
﹁何事ですか!?﹂
彼女は、駐屯地入口にいた警備兵に﹁今ここに着いたんだけどな
んか騒々しいね﹂と言った風に慌ててみせた。彼女の迫真の演技に、
警備兵は騙されただろう。
テロ
﹁わ、わかりません! 突然爆発が起きて⋮⋮﹂
﹁事故か⋮⋮いえ、もしかしたら何者かによる破壊活動かもしれま
せん。至急基地司令に連絡を取ってください!﹂
﹁り、了解しました!﹂
﹁私も駐屯地内に入って協力致します。よろしいですね?﹂
﹁はい! どうぞ!﹂
ここ数日、フィーネは彼らと協力して調査をしたおかげである程
度信頼関係を築けることに成功していた。それは彼女が、14歳の
美少女であることにも原因があるだろう。
この事実に気付いた彼女はやや憮然としていたが、この信頼関係
をすぐに崩してしまうことをこれからするつもりであったために、
むしろ申し訳なさの方が先に立った。だとしても、彼女は今更作戦
変更をすることはしなかった。
960
フィーネは、自分の後ろに立っていた男を呼んだ。
﹁大尉、行きますよ!﹂
﹁は、はい!﹂
フード
その男は少しやせ気味で、春だと言うのに頭巾を目深に被ってい
た。通常なら、警備兵に止められたことは疑いようはないが、それ
は現在の駐屯地の状況にあっては問題はなかった。
23時00分。フィーネと大尉と呼ばれた謎の男は、クロスノ駐
屯地へ侵入することができた。
−−−
いやぁ、士官学校入学仕立ての時のアレ思い出すね全く! しか
も今回は援護なしだし、辛いわ本当に。
でも、なんとか追っ手を撒いてフィーネさんと合流しないと意味
がない。
﹁どこに行った!?﹂
﹁東側に行ったらしいぞ、左右に分かれて挟み撃ちにしろ!﹂
警備兵たちは意外とまともな行動をしている。2人1組で行動し
て散開し、俺を建物や駐屯地の壁に追い込む形で部隊を移動・配置
している。さらには軍用犬まで繰り出してくるので厄介だ。ええい、
961
ワンワン吠えるな! 俺は怪しくないぞ!
わんわんお
30分程警備兵と軍用犬と戯れた後なんとか危機を脱することが
できた。ていうかまぁ、駐屯地の外に出ただけなのだが。
警備兵たちは他に侵入者がいないかだとか、駐屯地の外に出て俺
を追おうとしたり、未だ燻ってる火を消すのに勤しんだりと⋮⋮う
ん、ごめんなさいね。みなさん。もうすぐ日付が変わるって時に⋮
⋮。
23時15分。
ぐるっと回って駐屯地の正面入り口から堂々と入る。入り口の警
備兵とはここ数日の調査で顔馴染みになってしまったから殆ど顔パ
スである。フィーネさんが中に居るらしいから入れてほしい、と言
ったらちょろいもんである。
こいつフィーネさんに惚れてるんじゃないだろうな⋮⋮このロリ
コンめ。
それはさておき
閑話休題、難なく駐屯地に再侵入を果たした俺はフィーネさんを
探す。と言っても事前の作戦では内務省高等警察局の入り口付近で
わんわんお
待機することになっているから、そこを目指せばいいのだが。
飼い主
途中、どっかで見た事がある軍用犬と遭遇。すっごい吠えられた
けど、近くにいた警備兵は﹁この人を新たな侵入者として認識して
るんやろなぁ﹂くらいにしか思ってないのだろう。
こやつめ、ハハハ。
言うまでもなく犬の答えが正解です。
駐屯地を堂々と歩くこと5分、ようやくフィーネさんを見つけた。
962
﹁遅刻ですよ﹂
開口一番そんな風に毒を吐くフィーネさん。デートしてもこうい
う態度貫くのだろうか、とどうでもいいことを考えていた。
﹁ちょっと人気者になってしまって﹂
俺がそう言うと、フィーネさんは心底呆れたように大きなため息
を吐いた。﹁こいつバカだ⋮⋮﹂っていう反応ですね。間違いない。
フード
フィーネさんの隣には、頭巾を深く被った謎に包まれた第三の男
がいた。外套も組み合わせると、一見しただけでは男か女もわから
ない。
﹁さて、大尉さん。それ外していいですよ﹂
﹁だ、大丈夫か⋮⋮?﹂
﹁大丈夫ですよ。むしろそのままだと怪しいですから、外しちゃっ
てください﹂
そう言うと、その謎の男は外套を脱ぎ捨てた。中から現れたのは
なんとも頼りなさげな顔つきと体つきをしている1人のオッサン。
かつて俺が貧民街で見つけて銅貨1枚を払った﹁ジン・ベルクソン
を知る者﹂こと、ヴォルガ系民族のアンダ・ヤノーシュさん。ヴォ
ルガ系は姓が先なので、アンダが姓になる。
﹁アンダさん。これからあなたはオストマルク帝国軍の軍人でこの
駐屯地の兵、そして階級は上等兵です。それなりにキチンと、堂々
と行動してくださいね﹂
963
無論これは嘘である。が、俺もフィーネさんも、ジン・ベルクソ
ンの顔を知らない。似顔絵もないし、当然写真なんてオーバーテク
ノロジーもない。なので、その顔を確認するためにコイツを呼んだ
のだ。
そしてわざわざその為だけに軍服一着用意した。だからきりきり
働きたまえ。
﹁は、はぁ。でも⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですって。それに、これに成功したら報酬は⋮⋮﹂
﹁銀貨5枚⋮⋮!﹂
銀貨5枚で命を投げ出すほどの危険を冒すのか、とも思わなくは
ないが貧民街に住むアンダさんにとっては銀貨5枚は大金だ。
うん、まぁ、せいぜい他の路上生活者に盗まれないようにしてね。
23時30分
﹁アンダ・ヤノーシュ上等兵であります! ここの責任者と至急お
話がしたい!﹂
高等警察局入り口前でそう叫ぶアンダさん。結構演技上手いね。
﹁ダメだ﹂
そして相変わらずのこの態度である。ダメの一点張りか。でも、
それは今回は通じない。
﹁駐屯地に何者かが侵入し、あまつさえ放火をした。この件に際し
964
て基地司令は緊急事態を宣言している。責任者と話がしたい﹂
はい、みんなー﹁帝国戦争特別法第15条の2﹂の出番ですよー。
覚えてるかにゃー?
有事の際は高等警察局だろうと基地内にいる限り軍の管轄下に入
る。なので、この警備の鬼いさんに拒否する権限はない。
それが分かっているのか、このいかつい顔をした警備員は奥に引
っ込んでしまった。
扉の向こうから話し声が聞こえるが、何を話してるかはわからな
い。
数分後、警備員は責任者と思われる者と一緒に出て来た。なんと
いうか、顔は青白いし頬はこけてるしハゲだし⋮⋮アレだな、ムン
クの叫びにそっくりだわ。
﹁ここの責任者のマニンだ。一体何の用だ? 今は忙しいのだが﹂
﹁忙しいかは関係ありません。中を見せてください。賊がここに入
った可能性があります﹂
フィーネさんは、マニンさんとやらの有無を言わさず、局内に入
ろうとしている。無論マニンさんは止めるが、マニンさんには法的
に止める権限はないはずだ。
﹁君は外務省の人間ではなかったかね? ならば軍の権限を行使す
ることはできない﹂
﹁私のことをご存知とは光栄とは思いますが、私はオストマルク帝
国軍の人間です。身分証を見ればわかります﹂
フィーネさんはそう言って身分証をマニンさんに差し出す。それ
965
は偽造身分証ではない、本物の身分証だ。オストマルク帝国軍曹長
フィーネ・フォン・リンツと書かれているはず。俺も、フィーネさ
んと初めて会った時に見せられたから覚えてる。
﹁これは失礼した。⋮⋮入っていい﹂
意外にもマニンさんとやらはすんなり通した。合法なら入れる、
違法なら入れない。というスタンスを明確にして、無用な摩擦を起
こさせないようにするための措置だろうか。
フィーネさんが入ったことを確認すると、それに続いてアンダさ
んも中に入る。ていうかアンダさんは偽物なんですけど、身分証提
示を求めなくてもいいのマンニさんや。
まぁいいや。俺もアンダさんに続いて⋮⋮
﹁おい、そこのシレジア人﹂
ダメですよね。シレジア人で帝国軍の服を着てない俺が易々と入
れるわけないですよね。
﹁お前は帝国軍人ではないな。何者だ?﹂
﹁⋮⋮在オストマルク帝国シレジア王国大使館附武官次席補佐官の
ユゼフ・ワレサです。身分証はこれです﹂
この長ったらしい役職名も久しぶりに口にした気がする。身分証
も久々に出した。
﹁⋮⋮シレジアの駐在武官か。ということは君はシレジア軍の者だ
な?﹂
﹁左様です﹂
﹁では、ここに入る権限は君にはない﹂
966
そう来ると思ったよ。シレジア軍がオストマルク軍の駐屯地で好
き勝手して良いなんて法律はない。
でも、俺には秘密兵器がある。
﹁この令状を見てください﹂
﹁⋮⋮﹃調査許可令状﹄?﹂
﹁えぇ。外務大臣、司法大臣の許可済みです。という訳で、通して
戴けますかフィーネさん、アンダさん﹂
調査許可令状。
外国人の俺でも一定の期間、地域で捜査権限が付与される悪魔の
令状だ。司法大臣、外務大臣両者の同意があって初めて有効になる。
で、この調査許可令状だが、なにもベルクソン事件に限って捜査
権が与えられているわけじゃない。
つまり俺がここで﹁高等警察局内にいるかもしれない賊を見つけ
るための捜査がしたい﹂と言えば、この調査許可令状が役に立つ。
でも先日は、帝国刑事法第11条第2項﹁国事犯に限っては内務
省の調査が優先﹂という法を盾に使われてしまった。外国人の立場
では、ここが限界だった。
だが、今は﹁有事﹂である。駐屯地内における高等警察局の権限
は、一時的に軍に移動している。
だから俺は聞いたのだ。軍人であるフィーネさんと、軍人のふり
をしているアンダさんに許可を求めた。
当然、答えは決まっていた。
967
﹁わかりました。ユゼフ・ワレサ次席補佐官の同行を許可します﹂
﹁なっ⋮⋮! いや、しかし!﹂
フィーネさんの許可は得られたので俺はズケズケと局内に入る。
法的には何の問題はないのだ。え? 放火? 何のことだ?
俺の放火の件は差し置いておくとして、今回のケースはかなり特
殊だ。調査許可令状を持った外交官が有事の際に高等警察局内を調
査できるかどうか、なんて規定は帝国法にはない。当たり前だ。何
を想定した法律だよそれ。
これに対してマニンさんは抗議をするが、法の根拠がない以上強
制的に止めることはできない。止めたいのであれば裁判所に行って
判断を仰ぐくらいしかないが、時間はないだろう。
という訳で俺らは、堂々と高等警察局内の調査に乗り出した。
968
ジン・ベルクソン
高等警察局内は薄暗くいかにも秘密警察の拠点、といった雰囲気
だ。
俺らはひとつひとつの部屋を見て回る。表向きは賊の捜索、真の
目的はジン・ベルクソンの発見だ。途中に﹁拷問室﹂っていう部屋
があったのは見なかったことにしよう⋮⋮。
そして目的の人物は、7番目の部屋に居た。
﹁間違いないです。ジン・ベルクソンです﹂
アンダさんはそう言ったが、表情は暗い。なぜなら、ジン・ベル
クソンの身体は見るに堪えない状態だったからだ。
上半身は裸で、何回も鞭で打たれたような傷跡がある。手枷、足
枷もしっかりされており、自由な行動はほぼ不可能。よく見れば手
の指の爪は何枚か剥がされているようにも見える。
目を瞑りたくなるような光景が、そこにはあった。
拷問を禁止する帝国法はない。科学捜査なんて夢のまた夢だろう
し、拷問が手っ取り早いのは、この世界では仕方ない事なのだろう。
でも、それがわかっていたとしても、納得できない部分もある。
﹁マニンさん。枷を外してくれますか?﹂
﹁⋮⋮理由をお聞きしても?﹂
﹁尋問をするのに枷が邪魔だからです﹂
無論嘘である。ジン・ベルクソンの痛みを少しでも和らげようと
969
思っただけだ。俺もフィーネさんも治癒魔術を使えない以上、俺に
出来ることはこれくらいだ。
マニンさんは渋々、俺の言うことを聞いてベルクソンの枷をすべ
て外した。権限がこちらにある以上、彼はこっちの言うことを聞か
なければならない。なぜベルクソンを尋問するのかという抗弁も許
されない。
俺はベルクソンの前にまで来て、そしてそこに座る。正座でね。
﹁ジン・ベルクソン。いくつか質問をしたい﹂
﹁⋮⋮﹂
反応はない。ただの屍のように、なにも言わない。いや、既に目
は死んでいる。
﹁最初に言っておくけど、私は君を害するつもりもない。君が望む
のなら、私は君の味方になろう﹂
﹁⋮⋮﹂
やはり反応はない。というか、こっちを見ない。当然か。信じろ
という方が無理だ。
﹁⋮⋮では、質問その1。総督府を襲ったのは君か?﹂
﹁⋮⋮﹂
反応なし。黙認なのか、それとも黙否なのかはわからない。
﹁その2。もし襲ったのが君だったら、なぜそのようなことをした
のだ?﹂
970
﹁⋮⋮﹂
またしても反応なし。微動だにしない。
﹁その3。⋮⋮貧民街での生活は、寂しかったか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
少し、反応があった。俺に対して目を逸らしたのだ。
寂しかったのだろう。
それは俺も思ったことだ。あの日、貧民街の地面に横たわってみ
てわかったこと。
あの冷たい地面の上で何日もの間寝ていた。誰からの支援もなく、
知り合いもいないこの異郷の地で。
寂しかったはずだ。
愛の反対は憎しみではなく、無関心である、と誰かが言ってた。
確かマザー・テレサの言葉だっただろうか。俺にとっては遠い昔
の人間だが、この世界の人間にとっては未来人だ。たぶん。
そして誰からも無関心に扱われた人間は、その孤独感から﹁どん
なことをしてでも自分の存在を認知してほしい﹂と願うようになる。
それが、凶悪な事件として全国報道されることが、前世でも稀に
あったことだ。
社会から孤立した人間は、何をするかわからない。それは社会の
監視を逃れるからだけじゃなく、単に寂しくてやってしまう、とい
うのもあるのだろう。
悪いことをすることでしか、自分の存在を証明できない。
971
ジン・ベルクソンの場合はどうだろうか。
孤独故に、なにか悪いことをしようとするのは因果関係はある。
でも、民族運動に直結することはない。
たぶん、いや恐らく、あることが関係してるはずだ。
﹁質問その4。君は貧民街で、この後ろの男に会ったね?﹂
俺は後ろを振り向かずに、親指でその男を差した。真っ先に反応
したのはマニンさんだった。
﹁ワレサ次席補佐官、貴方いったい何を⋮⋮﹂
﹁複数の人間の証言もあります。その人が貧民街に来ていたと﹂
それを聞いたマニンさんは心底不機嫌な態度をした。直接顔を見
たわけじゃないけど、そういう雰囲気を感じ取った。
﹁何をバカなことを言っている。そんなことは嘘に決まっているじ
ゃないか﹂
﹁そうですか?﹂
﹁当たり前だ。私は貧民街になど行かないッ! これ以上適当なこ
とを言うのであれば、ここから出て行ってもらう!﹂
マニンさんはそんな権限もないくせに俺に命令してきた。第一適
当ってなんだよ。
﹁心外ですね。私は事実しか申しておりません﹂
﹁何処がだ! 私は貧民街などと言う糞溜めには⋮⋮!﹂
﹁いつ、私がマニンさんのことだと言いましたか?﹂
972
﹁⋮⋮なに?﹂
俺は適当に指差して﹁この後ろの男﹂と言っただけだ。
﹁私は、後ろにいるアンダさんに言ったんですよ。そうですよね、
アンダさん?﹂
﹁当然ですよワレサ次席補佐官。自分は貧民街出身なのですから﹂
﹁それはそうでした。ついうっかり﹂
事前に決めた台本通りに、アンダさんと俺は一見バカな会話をす
る。最も、バカみたいな顔をしている人間が1人いますね?
﹁どうしてマニンさんは、必死になって否定したのでしょうか。マ
ニンさんに質問してないのに﹃自分は貧民街に行ってない﹄なんて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうしました? 急に黙るなんて﹂
マニンさんは黒だな。彼は貧民街に行った。彼曰く、糞溜めみた
いな貧民街に。
にしてもこんな簡単なことに引っ掛かるなんて、こいつ秘密警察
の才能ないな。コネで出世した口だろうか。
でも放っておくと、適当な言い訳を思いつくだろう。﹁自分は勘
違いしただけだー﹂とか言って。その前に言質を取らなくてはなら
ない。
﹁質問その5。ベルクソンさん、マニンさんに初めて会ったのはい
つですか?﹂
気がつけば、ベルクソンさんの目は少し生気を取り戻していた。
さっきの茶番は、マニンさんを弾劾するためのものではない。ベ
973
ルクソンさんに、俺が高等警察局と対立する人間だと明確に認識さ
せるためだ。
﹁尋問を中止しろ! さもなければ、お前らも民衆煽動罪で告発す
るぞ!﹂
はいはい少し黙ってくださいねー。てか、それ言っちゃうと自分
の立場危うくなるだけですよー?
マニンさんのこの一言がトドメになったのか、ベルクソンはよう
やく口を開いた。
﹁⋮⋮2月の下旬だ﹂
﹁おやおやそれは⋮⋮﹂
確定である。クロスノ総督府襲撃事件は3月20日だ。なのに、
2月下旬にマニンさんとベルクソンさんは会っていた。
にしてもベルクソンさん意外と声低いね。
尋問を続ける中、マニンさんその他はギャーギャー騒いでいる。
でも、いつの間にか他のクロスノ警備隊の人間が高等警察局内に入
ったことから、もうひっちゃかめっちゃかだ。
俺は構わず、質問を続ける。フィーネさんとアンダさんが証人だ。
どんどん喋りたまえ。
﹁どこで会いました?﹂
﹁⋮⋮貧民街。俺が1人でいるとき、この薄気味悪い顔した男が来
た﹂
﹁何を話ました?﹂
﹁協力してほしい、と﹂
﹁協力とは?﹂
974
﹁クロスノ総督府を襲撃すること、そして逮捕されること﹂
﹁目的は聞きましたか?﹂
﹁いや、何も。だが逮捕されてからは、この通りだ﹂
孤独を感じてる中、ベルクソンさんはマニンさんに出会った。
マニンさんは、自分を必要としてくれていた。だから彼の言う通
りに行動した。
俺も、貧民街で寝転がってベルクソンさんの孤独を追体験してる
時にフィーネさんに話しかけられた。アレはまさに天使降臨の瞬間
だった。ベルクソンさんにとってもそうだったのだろう。たとえ相
手が気味悪い顔をしていたとしても。
そして彼はマニンさんに利用されて総督府を襲い、そして予定通
り逮捕されて、そして予定外の拷問を受けた。人間不信にもなるだ
ろうな、それは。
だが、今俺は十分な証言は得た。
﹁最後の質問だ。これからどうしたい?﹂
﹁⋮⋮﹂
無言だ。でも、さっきとは違って悩んでる様な顔だ。
﹁さっきも言ったけど、君が望むのなら私は君の味方になる。なん
でも言うと良い。出来る範囲で、助けよう﹂
﹁⋮⋮﹂
ベルクソンさんは暫く無言だった。悩んでいるのか、それとも言
って良いのか、俺が信用できる人間なのかを考えているのか。
975
そして彼が言ったのは、酷く単純なことだった。
﹁ここから出たい﹂
976
特権
﹁ベルクソンさん。立てますね? 足を拷問で切り落とされた訳じ
ゃないでしょう?﹂
﹁あ、あぁ﹂
俺がそう促すと、ベルクソンさんはノロノロと立ち上がった。身
長は俺と同じくらいだ。ふむ。もしかしたら同い年かもしれないな。
﹁よし。では行きましょう。私の手を握ってください﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁いいから。私だって男と手を繋いで一緒に歩きたくはないですが、
それが君の助けになるので﹂
彼は頭に疑問符を並べつつも、俺の言うことを聞いて手を握って
くれた。男どうしで手を握って歩き出す俺ら。間違っても俺はホモ
じゃないぞ?
﹁では一緒に歩きましょう。歩いて外に出ます﹂
﹁⋮⋮それだけか?﹂
﹁それだけですよ。簡単なことです﹂
ベルクソンさんと俺が一緒に歩くだけで、彼は自由になれる。
でもベルクソンさんにとっては少し辛いかもしれない。裸足かつ、
足の爪も剥がされてる。尋常じゃない痛みを彼が襲っているはずだ。
﹁おい、待て! どこに行くつもりだ!﹂
977
ベルクソンさんの少しでも痛みを和らげるためにも、会話をしな
がら歩こう。ちょっと周りが五月蠅いのは、まぁ、その、なんだ。
賑やかし要員ということで。
﹁質問その7。年齢はいくつですか?﹂
﹁ま、待ってくれ。質問はさっきので最後じゃ⋮⋮﹂
﹁あれは嘘です。で、何歳ですか?﹂
﹁⋮⋮16だ。あと10日で﹂
﹁おぉ、私と同い年ですか!﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁私も今年で16ですよ﹂
﹁えっ?﹂
彼は意外そうな顔をした。いやだなぁ、どっからどう見ても健全
な15歳にしか見えないでしょう? フィーネさんなんてあの能力
と落ち着いた雰囲気で俺より1歳年下なんだよ? それと比べたら
俺なんてまだマシじゃないか。
﹁ワレサ次席補佐官! 待ちたまえ!﹂
﹁では質問その8。同い年だと分かったので、敬語やめていいです
かね?﹂
﹁⋮⋮あぁ、それは構わないが﹂
﹁許可を得たから敬語やめたけど、どうした? なんか歯切れが悪
いけど?﹂
﹁いや、あ、アレは良いのか?﹂
﹁アレって?﹂
俺がそう聞くと、ベルクソンは恐る恐る指差して﹁あれ﹂と短く
答えた。
その指先に居たのは、ムンクの叫び、もといマニンさんだ。さっ
978
きから本気で叫んでるのだけど、顔は無表情のままだ。すげぇ怖い
んだけど。
さえず
﹁⋮⋮アレは放っておいて。小鳥の囀りとでも思っていればいいよ﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
マニンさんはそのまま俺たちのことを止めようとしてくるが、フ
ィーネさんやアンダさんが巧妙に進路妨害をするためなかなか割り
込めないでいる。
じゃあフィーネさんを拘束すればいいじゃないか、と思ったのだ
ろうが、当のフィーネさんは﹁私関係ありません﹂という風で歩い
ているからマニンさんは手が出せない。それに今はフィーネ親衛隊
も周りにいるし⋮⋮って、フィーネさんいつの間にか人気高くなっ
てない?
﹁質問その9。好きな食べ物は?﹂
﹁え、いや、特にないが⋮⋮強いて言うなら南海料理かな﹂
南海料理、この大陸ではイタリア料理のことを指す。俺も好きだ
シェーブルチーズ
よパスタ。シレジアで一番うまい料理は南海料理だと思うわ。
﹁質問その10。嫌いな食べ物は?﹂
﹁山羊乳だ﹂
﹁おう、即答だね﹂
﹁まぁな。嫌いだからな﹂
﹁でも山羊乳じゃ飲み物じゃない?﹂
﹁山羊乳を使った料理も嫌いだ。例えば山羊乳乾酪とかな﹂
﹁なるほど﹂
山羊乳か。馴染みはないな。そもそも牛乳も飲まなくないし。
979
気付けば俺たちはいつの間にか高等警察局どころかクロスノ駐屯
地の敷地からも出ようとしていた。
そしてマニンさんその他高等警察局員数人に回り込まれて、進路
を塞がれた。
﹁ワレサ次席補佐官。これ以上の狼藉はどうか慎まれたい﹂
﹁嫌だ、と言ったら?﹂
﹁貴官に拒否権はない。おい、そこの軍人!﹂
そこの軍人、と呼ばれたのはフィーネさんでもアンダさんでもな
く、駐屯地入口にいたクロスノ警備兵だ。例のフィーネさんに惚れ
てたロリコンさんだね。
﹁なんでしょうか?﹂
﹁駐屯地内の緊急事態宣言はどうなった?﹂
﹁それなら先ほど解除されました。侵入者は1人だけと確認されま
したし、その侵入者も既に駐屯地外へ逃走した模様です﹂
ロリコンくん。半分外れだ。侵入者はまだギリギリ駐屯地内にい
るよ。しかも目の前に。
と、言えるはずもない。重要なのは今は﹁有事﹂でなくなったこ
とだ。
﹁そうか、ありがとう。ではワレサ次席補佐官。帝国刑事法第11
条第2項により、その男の身分引き渡しを要求する﹂
有事でなくなったことにより、国事犯の扱いは高等警察局が優先
されるようになった。
でも、想定内だ。問題ない。
980
﹁嫌だ、と言ったら?﹂
﹁その時は貴官を、民衆煽動罪並びに犯人隠匿、拉致、その他諸々
の罪で逮捕する! 残りの人生、楽に歩ませるわけにはいかん!﹂
だとさ。ケッ。
どうせベルクソンを開放したところで俺を逮捕する気なのは目に
見えている。その手に乗る者か。
するとフィーネさんが後ろからやってきて、コッソリとベルクソ
ンに耳打ちする。
﹁ワレサ次席補佐官の合図で、ベルクソンさんは馬車に向かって全
力で走ってください。強行突破します﹂
﹁だ、だが⋮⋮﹂
﹁自由になりたいのであれば、指示に従ってください﹂
フィーネさんの声には珍しく熱がこもっていた。彼女も本気のよ
うです。
そして彼女は前に出ると、今度は打って変わって冷たい声で、こ
の場にいる全員に言った。
﹁どうやら私たちは関係ないようなので、失礼いたします﹂
彼女はそう宣言した。高等警察局の人間は、それを﹁ワレサの身
の保障について一切関知しない﹂と受け取ったようで、マニンさん
の顔は少し笑っていた。
フィーネさんとアンダさんはそのまま駐屯地入口近くで待機させ
ていた馬車に乗り込む。アレは、俺がクロスノに来る時に使ってい
たシレジア大使館の公用馬車だ。
981
﹁ワレサ次席補佐官、ベルクソンの身柄をこちらに。これが最後通
告だ﹂
もしこれ以上引っ張るなら逮捕しちゃうぞ☆ ってことだな。は
いはいそうですかそうですか。
﹁お断りします﹂
﹁そうか。案外君はバカだな。よし、拘束し⋮⋮﹂
だが俺は、先手を打った。好きにさせるかこの野郎!
ファイアボール
﹁火球!﹂
﹁はっ!?﹂
俺が魔術を発動させた瞬間、隣のベルクソンは、いやその場にい
た全員が驚愕した。﹁部外者が基地内で魔術をぶっ放すなんて非常
識極まりない!﹂って感じだ。
突然の魔術に驚愕した高等警察局員は、哀れにも腰を抜かしてい
た。火球は誰にも当たらなかったが、俺らの進路を妨害する者が一
時的にいなくなった。
﹁よし、走れ!﹂
俺がそう合図すると、ベルクソンは一瞬戸惑ったものの、意を決
して馬車に向かって走り出した。
足の爪が剥がれ、そして裸足で走るのは辛いだろうし、1ヶ月以
上も拘禁されていたから心配だったが、彼は予想外に速く走り抜け
ていった。
982
馬車に到着した時、ベルクソンさんはアンダさんの手を借りなが
ら遂に馬車に乗り込むことに成功した。
これで八割方作戦は成功した。後は俺が逃げるだけだ。
だが、既に高等警察局員は体制を立て直している。逃げる隙はな
い。
﹁ユゼフ・ワレサ! 貴様を傷害未遂の現行犯で逮捕する!﹂
マニンさん、怒りの逮捕執行。他の局員も俺の周りを囲んで拘束
しようとしている。こんな人数相手に戦えるほど白兵戦に強くはな
い。サラさんじゃあるまいし。
だが、拘束される気はさらさらない。
﹁お断りします。マニンさん﹂
俺は、毅然とした態度で︱︱毅然としてるよね? 自信無いけど
︱︱そう反論した。
﹁何を言う! 貴様の罪は明白だ!﹂
罪は明白。そうだな。俺もそう思うよ。で、それが何か問題?
俺は開き直って、懐からある物を出す。俺の最後のカード、そし
て最強の切り札。外交官の身分証だ。
・・・
﹁私は、シレジア王国外交官ユゼフ・ワレサです﹂
﹁⋮⋮それがどうした?﹂
マニンさんのバカには通じなかったようだが、俺を囲んでいた一
983
部の局員は気づいた。俺が﹁外交官﹂であること、それが何を意味
するのか。
﹁外交官である私の身体は、エスターブルグ条約第29条において
﹃いかなる方法によっても抑留・拘禁することができない﹄と定め
られている。よって私は条約によって規定された正当な権利をここ
に行使する!﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
外交官だけが持つ最強の切り札。それが﹁外交特権﹂である。
外交関係における諸規定は、全てエスターブルグ条約によって明
文化されており、この条約は大陸に存在しているすべての国が批准
している。これは最近できたばかりのラスキノ自由国や、敵の多い
東大陸帝国でさえ例外ではない。当然、オストマルクもシレジアも
批准している。
この外交特権の中でも最も凶悪なのが﹁外交官の不逮捕特権﹂だ。
つまり外交官は何をしようと、例え殺人しようが強盗しようが轢
き逃げしようが食い逃げしようが街歩く女性のスカートを捲ろうが、
帝国治安当局は外交官を逮捕することができない。
﹁だ、だが、こんなことは許されない!﹂
﹁知りませんよそんなことは。私は明文化された条約による正当な
権利を行使しただけです。異論がおありなら、後日改めて正式な外
交ルートで抗議なさればよろしいかと﹂
外交官がある罪を犯してそして外交特権で逃げたら、外交官の逃
げ得になる。それをなんとかする方法が1つある。
ペルソナ・ノン・グラータ
それは、﹁外交官待遇拒否﹂を発動することである。これはまぁ、
984
簡単に言うと﹁この外交官全然信用できないんだけど!?﹂という
ことだ。
今回の場合、まず帝国政府がシレジア大使館を通じて﹁ユゼフ・
ワレサとかいうクソガキが好き勝手やるので外交官資格を取り消す
か本国に帰ってもらうかしてください﹂と通告する。
そしてシレジア大使館は本国にその旨を通知して審査をし、そし
て本国外務省が﹁じゃあユゼフ・ワレサは本国に戻ってきてね﹂と
命令すれば、俺は本国に帰らなければならない。
一方、一定期間経っても本国召還命令が出なかった、もしくは拒
否された場合は、帝国の治安当局が俺を一般人扱いで逮捕・拘禁で
きることになっている。
ペルソナ・ノン・グラータ
この﹁外交官待遇拒否﹂も、さっき言ったエスターブルグ条約で
規定されている。
ペルソナ・ノン・グラータ
じゃあ今目の前にいるマニンさんが﹁外交官待遇拒否﹂を通知す
ペルソナ・ノン・グラータ
ればいいのか! とは残念ながらならない。
なぜなら、﹁外交官待遇拒否﹂の布告権限は外務省にしかないか
らだ。
そして今回、俺は外務大臣クーデンホーフ侯爵や外務大臣政務官
リンツ伯爵、その娘フィーネさんを味方につけている。そして外務
ペルソナ・ノン・グラータ
省と内務省は、シレジア問題で対立している。
どう考えたって俺に﹁外交官待遇拒否﹂は来ないだろうよ。それ
に﹁もし内務省から正式に要請があったら、外務省は拒否するよう
にと伝えておく﹂とフィーネさんに言われた。だから俺の身の安全
は約束されたも同然だ。
985
マニンさんに今できることは、黙って俺に道を譲る事だけだ。
﹁じゃ、私は行きますので﹂
﹁ま、まだだ! 補佐官が乗る前にあの馬車を接収して⋮⋮﹂
﹁それも拒否します。あれはシレジア大使館の公用馬車です。公用
馬車の不可侵権も、エスターブルグ条約で定められています﹂
だから馬車の中に居るベルクソンも安全だ。馬車の中はシレジア
王国と言ってもいい。
マニンさんはそれ以上俺に反論することはなく、静かに道を開け
た。
23時50分。
俺とベルクソン一行は、安全に駐屯地を脱したのである。
⋮⋮死ぬかと思ったわ。
986
ベルクソン事件最終報告書
﹁こういう事は、二度としないでくださいね大尉﹂
﹁はい、ごめんなさい﹂
明けて5月8日。
深夜の激闘を終えて、ジェンドリン男爵邸で一息つこうとした時
にフィーネさんから怒られてしまった。
﹁外交官の不逮捕特権は、派遣国を信頼しているから与えられてい
るものなのです。それを悪用して軍の基地に不法侵入したあげく放
火をして、仮にも犯罪者として拘留されている者を拉致し、あまつ
さえ高等警察局員に魔術を放つなど、言語道断です!﹂
﹁いや、その、あの、本当に、反省してます⋮⋮﹂
彼女の言っていることは正論である。確かに非常識極まりない事
だと思うし、普通こんなことしたら重大な外交問題になるだろう。
今回は帝国外務省にコネがあって半ば身分保障されてるからこんな
ことができたのだ。
﹁わかりましたね大尉?﹂
﹁はい。二度としません﹂
フィーネさんからのお説教は、帝国政府からの正式な抗議がない
代わりだと思えばそんなに苦ではない。美少女に怒られてると思え
ばむしろ快楽すら感じゲフンゲフン。
987
﹁よろしいでしょう。今回は祖父に免じて許して差し上げます﹂
﹁御寛恕いただき、誠にありがとうございます﹂
俺はそう言って深々と頭を下げたが、なぜかフィーネさんは頭に
手を当てていた。
﹁反省しているようには見えないのですが⋮⋮﹂
いやいやいやいや。滅茶苦茶反省してますよ? なんなら靴舐め
ようか?
﹁まぁいいです。問題はこれからのことでしょう﹂
﹁これからですか⋮⋮﹂
これからね。十中八九ベルクソンさんのことだろう。
﹁ベルクソンさんの身の安全はどうなのですか?﹂
﹁ベルクソン氏はこの館にいる限りは大丈夫でしょう。ジェンドリ
ン男爵は顔が広いですから、下手に捜査権を行使しようとすると出
世に響きますからね﹂
﹁なるほど。ではアンダさんも?﹂
﹁大丈夫です。彼には後で報酬を払わなければなりませんね。意外
といい仕事をしてくれましたし﹂
確かに。今回のアシスト王はアンダさんだ。ベルクソンさんの発
見、マニンさんの進路妨害、そしてベルクソンさん逃亡の補助。ア
シスト王には相応の賞金を与えねば。
﹁というわけで大尉。一応表向きとして、ベルクソン氏はシレジア
王国大使館の庇護下にありますが、どうなさるおつもりですか?﹂
988
﹁そうですね⋮⋮。彼は総督府を襲撃したことは認めていました。
それに私たちの援護の下に脱獄に成功した。たとえ政治犯でなくと
も、通常の刑事犯であることには変わりはありません。このままオ
ストマルクに居座れば、警備隊によって捕まるのは当然です﹂
﹁ふむ。それで?﹂
﹁可能であるならば、シレジアへの亡命が最良だとは思います。で
もその場合、帝国も困りますでしょう?﹂
﹁困りますね。いたずらに我が国とシレジアの間に不和をもたらす
ようなことはしてもらいたくはありません﹂
シレジアに亡命すれば、当然帝国法の司法の網は届くはずはない。
だが一般刑事犯がシレジアに逃げ込めば、帝国司法省は﹁おう、そ
の刑事犯うちに寄越せや﹂とシレジアに要求して来るかもしれない。
拒否すれば、シレジアとオスマルクの友好の阻害となるかもしれな
い。
だからベルクソンは亡命はできない。
﹁となると、あとは選択肢は1つだけですね﹂
﹁それは?﹂
﹁フィーネさんも人が悪いですよ。その方法を教えてくれたのは貴
女じゃないですか﹂
﹁あら、そうでしたか?﹂
彼女は意地悪く小悪魔的な笑みを浮かべると、﹁その方法﹂の準
備をすべく部屋から退室した。
−−−
989
今回のベルクソン事件が終幕を迎えた5月20日までの出来事を
ザックリ説明しよう。
5月9日。
ジン・ベルクソンに対してジェンドリン男爵率いる外務省の調査
団が取調を開始。ベルクソンは供述を拒否せず、調査団が聞いた事
を全て話したらしい。
5月10日。
ベルクソンの供述と、調査団の独自調査による結果を元にフィー
ネさんが最終報告書を作成。その後、報告書はエスターブルグのク
ーデンホーフ侯爵に提出する。
ペルソナ・
ほぼ同時に、内務省高等警察局クロスノ支部長オレグ・マニンが
ノン・グラータ
外務省に﹁シレジア大使館駐在武官ユゼフ・ワレサに対して外交官
待遇拒否を布告せよ﹂と要請する文書を外務省に送る。
5月13日。
アンダ・ヤノーシュさんに対して報酬として銀貨5枚と、ジェン
ドリン男爵邸の事務官助手の仕事︵三食+家つき︶を支払う。アン
ダさんは号泣しながらフィーネさんと握手してぶんぶん振ってた。
彼女の困り顔は見てて面白かったです。
5月15日。
990
ルソナ・ノン・グラータ
ペ
調査団が作成したベルクソン事件最終報告書と、内務省からの外
交官待遇拒否要請書が外務大臣クーデンホーフ侯爵の下に届く。
クーデンホーフ侯爵は、内務省からの要請書で鼻をかんでこれを
黙殺した模様。
5月16日。
外務大臣政務官リンツ伯爵が公式発表。発表内容を纏めると、
①外務省の独自調査によって内務省高等警察局の不当捜査が発覚。
高等警察局があるシレジア人の罪を捏造し、拷問を繰り返して自白
を強要した。罪を捏造されたそのシレジア人は現在外務省の庇護下
にある。
②高等警察局副局長の証言により、内務大臣ホフシュテッター伯
爵と資源大臣政務官ウェルダー子爵の癒着が発覚。資源の横流し、
横領を確認。横流しされていた資源の行き先は現在調査中。
③一部貴族が、この一連の事件に関与していたことも調査の結果
発覚。詳細は現在調査中のため不明。
④最後に、この調査に対して全面的に協力してくれたシレジア王
国に対して感謝の意を表するものである。
つまり、何もかもクーデンホーフ侯爵、もしくはリンツ伯爵の手
の平の上だったと言うことだった。高等警察局副局長も抱き込んで、
一気に政敵を追い落とそうとしている。
この発表によって帝都は大混乱。内務大臣ホフシュテッター伯爵
はすぐに反論したものの、証拠を握られているため、かえってそれ
は逆効果だった。
当然、帝国臣民の怒りの矛先は内務省と資源省に向けられた。そ
991
れに反比例して外務省の好感度は鰻登り。クーデンホーフ侯爵は救
国の英雄みたいな扱いを受けている。
5月17日。
オストマルク帝国皇帝フェルディナント・ヴェンツェル・アルノ
ルト・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー陛下が、報道官を通じ
て声明を発表。
﹁皇帝陛下が愛してやまない無垢なる帝国臣民を、不当に扱った高
等警察局の不当捜査は極めて遺憾である。皇帝直属の調査委員会を
設立し、内務省及び資源省の調査を行う。その調査が終了するまで、
高等警察局の全権限を一時的に剥奪する﹂
勅令である。逆らえる者など帝国にはいない。
ちなみに調査委員会の委員長は外務大臣政務官兼調査局長のリン
ツ伯爵に決定された。凄い根回しである。
5月20日。
調査委員会が内務省及び資源省の不正事件に関する一次報告書を
発表。大まかな内容は以下の通り。
①資源省が横流しをしていた資源の行き先が一部判明。内務大臣
ホフシュテッター伯爵を筆頭に、宮内大臣政務官コンシリア男爵、
ベーム伯爵など、複数の貴族に横流しされていた模様。
②昨年、高等警察局によって逮捕拘禁された政治犯1253名の
内、1083名が無実だったことが判明。拷問による自白しか証拠
がない例が多数見られた。また、517名が獄中死していたことも
判明。
992
この報告書に対して皇帝陛下は﹁さらなる調査を進めて、一気に
帝国の膿を取り除く﹂との声明を出した。
更に面白いことに、資源の横領をしていた貴族というのが軒並み
シレジア分割派だったと言うことだった。便乗参戦世論を煽ること
が、資源着服の条件だったのかもしれない。
もっとも、日和見主義の貴族や同盟派貴族も少なからず資源を着
服してただろうが、そいつらは意図的に発表しなかったのだろう。
皇帝陛下からの勅令で進まれているこの調査、一度弱みを握られ
ると厄介だ。同盟派貴族を増やすのに一定の効果はあるだろう。
この一次報告によって内務省と資源省は更に肩身が狭くなっただ
ろう。高等警察局は元から国民に嫌われてたし、資源省も権限が強
すぎって言われてたから、尚更非難の嵐が凄いことになってる。
⋮⋮本当にリンツ伯爵って怖いわ。
−−−
5月21日。
シナリオ
﹁で、今後の台本はどういうものになるんですか?﹂
事の顛末をエミリア王女に送る手紙に書きながら、俺の部屋に来
たフィーネさんに尋ねてみた。彼女はいつの間にか運ばれてきた紅
993
茶を伯爵令嬢らしい優雅さで飲みながら、俺の質問に答える。
﹁そうですね。多分に私の予測が含まれますが⋮⋮﹂
﹁構いませんよ。たぶんその予測は当たってるんで﹂
﹁⋮⋮そうですか。では遠慮なく話します﹂
彼女はカップは机に置いて、順々に話してくれた。
﹁恐らく、名だたる便乗参戦派貴族は資源横領の罪で告発されます。
罰がどの程度のものになるかは皇帝陛下の御心次第ですが、ただで
は済まないことは確かです﹂
﹁便乗参戦派以外の貴族は?﹂
﹁日和見主義者の貴族を何人か晒し首にした後は放置でしょう。そ
れ以外の貴族は告発せず、伯爵個人が注意⋮⋮もとい脅しをかける
でしょうね﹂
おぉ、怖い怖い。リンツ伯爵は他人の弱みを握る天才のようだ。
﹁私たちが頑張って暴いた高等警察局の不正の方はどうですか?﹂
﹁高等警察局は現在、一時的に全権限が剥奪されていますが、恐ら
く近日中に﹃永久に剥奪する﹄と文言が変わるはずです﹂
﹁つまり、高等警察局は解散ですか﹂
﹁その通りです﹂
まぁ、ある意味当然だけど、国内を監視する秘密警察が居なくな
ったら大変じゃないか?
その疑問に答えてくれたのは目の前に居る才女さんである。
﹁クーデンホーフ侯爵は、ある構想をお持ちのようです﹂
﹁それは?﹂
994
﹁国内に林立する情報機関を1つの機関に統合すること。便宜上﹃
情報省設立構想﹄と呼ばれているようです﹂
﹁つまりそれは外務省調査局、内務省高等警察局、軍務省諜報局な
どを情報省に一本化して、そして情報大臣にリンツ伯爵が就任する、
ということですか?﹂
﹁御名答﹂
情報大臣リンツ伯爵か。恐ろしい。
現在、国内から大バッシングを受けている内務省は、この構造改
革に強く異を唱えることはできないだろう。そして軍務大臣に対し
ては﹁資源省みたいになりたい?﹂って言えば、ある程度は引き下
がるだろう。
⋮⋮政治って怖いなぁ。戸締りしておこう。
﹁これによって帝国世論は近いうちにシレジア同盟派が多数派を占
めることになると思います。そうなれば、大尉がクーデンホーフ侯
爵に取り付けた約束が、いよいよ履行されることになりますよ﹂
ふむ。随分時間がかかったが、ようやく俺の成果が出てくるのか。
ちょっと嬉しいな。
これが、今回の事件のあらましだ。
はぁ、これどうやって手紙に纏めればいいんだろうか。第一、エ
ミリア殿下信じてくれるかしら⋮⋮。
995
読了
5月26日。
オストマルク駐在武官ユゼフ・ワレサからの報告書を、レギエル
の仮司令部内にある執務室で読み終えたエミリア王女は、その内容
の濃さから思わず溜め息をついた。
﹁ユゼフさん、暴れすぎじゃないですか⋮⋮?﹂
﹁それ、エミリア殿下が言う台詞ではありませんよ﹂
﹁どういう意味です?﹂
言うまでもなく、エミリアはこの戦争で最も活躍している佐官で
あると言っても過言ではない。それを差し置いて、他人の暴れっぷ
りのみを注視するエミリアの言動に、マヤは思わず笑ってしまった
のである。
﹁それはともかく、これでオストマルク帝国による﹃非難声明﹄の
発表は時間の問題かと思われます﹂
﹁オストマルクが曲がりなりにもシレジアと手を組む。となれば東
大陸帝国のみならずリヴォニア貴族連合やカールスバート共和国に
対する牽制にもなり得ます。我々は政治的・外交的優勢を確立でき
るというわけですね﹂
﹁えぇ。それにオストマルク国内で同盟論が主論となれば、旧シレ
ジア領の帰属問題解決の一助となるやもしれません﹂
﹁ですがそれは、すべてはこの戦争が終わってからの話です。今は
後顧の憂いがなくなったことを喜び、今後の作戦を考えましょう﹂
996
エミリアは毅然とそう言ったが、マヤはそれを聞いて静かに首を
横に振った。
﹁考えるのは後にしましょう、エミリア殿下﹂
﹁⋮⋮なぜです?﹂
﹁それは、その、面と向かって言うのは心苦しいのですが⋮⋮﹂
言いたいことをはっきり言うマヤにしては珍しく、彼女は言うべ
きか言わざるべきかの判断に迷っていた。エミリアは、ここは主君
としてマヤに発言を促さなければならない。そうしなければ、もし
かしたら重大な問題を引き起こすかもしれない。
そう考えたエミリアは、先ほどと同じく毅然とした表情で彼女に
言う。
﹁大丈夫です。言ってください﹂
エミリア王女に発言を促されたマヤは、十数秒悩んだ後、意を決
して主君にある質問をぶつけた。それはエミリアにとって、いや世
の全ての女性にとって重大な問題だったと言えよう。
ゆあ
﹁殿下、前回湯浴みをしたのはいつですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その質問をぶつけられたエミリアは明確な答えを見つけることが
できず、ただ自分の腋や着ている服の臭いを確認することしかでき
なかったと言う。
−−−
997
もくよく
さて、軍隊における沐浴の問題は割と厄介なものである。
ユゼフの言う前世世界と違って、水の調達というのは魔術でなん
とかなるためそこは問題にはならない。問題は、いつでも好きな時
に湯浴みができるわけではない、という点にある。
湯浴みは、兵の士気と衛生上の問題に関わる重要なものである。
特に後者は厄介で、窮屈な軍靴と軍服を着続けている関係上、色々
な問題が湧きあがるのである。その問題を書き連ねると酷いことに
なるのでここでは述べないが。
ウォータ
それを防ぐためにも、できれば5日に1回は沐浴をすることが望
ましいとされている。
ーボール
水を浴びるだけなら、別段工夫は必要ない。服を脱いで頭から水
球を掛ければいいだけである。軍隊で圧倒的多数派の男性兵は、数
少ない女性士官の目など気にせず急に脱いで水浴びをする光景が多
発する。警務兵、もとい憲兵の目が厳しいためそのまま女性士官を
襲ったりはしないのがせめてもの救いだ。
女性士官も、人目を気にして水浴びをすることは多い。その時、
女性憲兵や他の女性士官の厳しい警戒の中で水浴びをしなければい
けないため、心は休まないだろう。
なお、これは用を足すときも同様の問題を孕むのだがここでは関
係ないので述べない。
ファイアボール
だが、温水は残念ながら魔術では召喚できない。水球と火球を組
み合わせてお湯を作るしかない。
温水の適温は、水球何発に対して火球何発が望ましいか、という
998
ノウハウの積み重ねは既にある。
問題となるのは、場所の確保だ。
それなりの温水を溜めることができる広さ、そして女性兵の入浴
を男性兵から覗かれないようにするための警戒がしやすい場所。そ
んなものが野戦場にあるはずもない。
できるのであれば建物の中が最適で、公衆浴場があれば百点満点
である。
で、話はエミリア王女の湯浴み問題に戻る。
場所の確保は問題なかった。仮司令部のあるレギエルには、幸い
王女
という身分の女性の身体保護である。
公衆浴場が設置されており、警備上の問題は解決している。温水確
保も問題ない。
問題は、エミリア
ここで言う身体保護は、身の危険だけでなく、貞操の危険や﹁下賤
なる一般男性兵がエミリア王女の生の肢体を見る﹂という危険とい
う意味も含んでいる。
フィロゾフパレツ
と言うわけで、5月26日におけるレギエルの公衆浴場は、王都
シロンスクにある賢人宮並の厳重な警備が敷かれることになった。
またエミリア王女と同行して湯浴みを行う者は、侍従副官マヤ・ク
ラクフスカ中尉、近衛師団第3騎兵連隊所属のサラ・マリノフスカ
大尉のみとされた。
その際、エミリア王女の親衛隊長エマーヌエル・バラン准将は公
衆浴場を警備することになった親衛隊及び女性士官、女性警務官ら
に対し、以下のような極めて過激な通達をしたと言う。
999
﹁武器を所有し、公衆浴場に無断侵入をしたものは即刻斬殺せよ。
なお、武器を所有すると疑われる者、無断侵入をしようとしたと疑
われる者に対しても、これと同様に処置すべし﹂
これは、事実上無差別殺人を認めたものである。
実際にはこの通達はエミリア王女自身の﹁流石にそれは可哀そう
ですから、一時的な身体拘束で許してあげてください﹂という発言
によって修正が加えられることになった。
この日、公衆浴場に対して強行偵察作戦を実行した勇敢なる偵察
部隊、男性兵348名、女性兵8名全員が警務隊と親衛隊に拘束さ
れたのは、また別の話である。
−−−
﹁なんだかすみません、みなさん⋮⋮﹂
﹁大丈夫よ! むしろ王女なんだから、これくらいは当然よ!﹂
公衆浴場に入館が許された女性士官らは、脱衣所で2か月間寝食
を共にしてきた軍服と下着を脱ぎ捨てていた。エミリアはマヤに手
伝われて、サラは豪快に、である。
ちなみに替えの下着は事前にマヤが用意しているため、そのまま
捨てても問題はない。が、それに関してサラがひとつ要望をした。
﹁あ、マヤ。私たちのその下着は後で焼却処分しといて﹂
﹁⋮⋮? それは構わないが、なぜだ? このまま捨てても問題な
1000
かろう?﹂
﹁いや、前にユゼフが言ってたのよ。﹃世の中には女性が履き続け
た下着だけで興奮する変態がいるから、使用済み下着の行方は気を
つけろ﹄とかなんとか﹂
﹁その変態、まさかユゼフくん本人だったりしないよな?﹂
﹁んー、わからないわね。私もそう思って、マヤと同じこと言った
けど﹃中身の方が良いに決まってるだろ!﹄って叫んでたわよ?﹂
﹁⋮⋮ある意味、男らしいのかそうでないのか﹂
ちなみにサラは気づいていなかったが、その台詞を吐いていた時
のユゼフは僅かに鼻血を垂らしていた。
﹁でもそのユゼフさんの発言は、下着に興味がないわけじゃない、
とも取れますね?﹂
﹁⋮⋮エミリアの言う通りね。今度会ったら鳩尾殴っておくわ﹂
﹁あらあら、手加減してくださいね?﹂
﹁善処するわ!﹂
善処する、と言うサラが本当に善処した例はないと、この時サラ
以外の2人はほぼ同時に思ったそうだ。
﹁ところでサラさん。ひとつ聞きたいのですが良いですか?﹂
﹁ん? 何?﹂
﹁その、どういう経緯で下着の話になったんですか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮内緒﹂
サラは顔を真っ赤にしながら顔を背け、供述を拒否した。
1001
心の温泉
プール
この大陸の公衆浴場は、どちらかと言うとユゼフの言う前世世界
における小さめの水浴施設に近い。お湯の温度もぬるく、もしユゼ
フがこの場に居たら﹁あと8度上げろや!﹂と叫びながら平泳ぎを
したことは間違いないだろう。
が、彼のそんな特異な出生秘話を知らない若き女性士官たちは気
にせず久々の沐浴を堪能していた。
﹁あぁ⋮⋮生き返るわね⋮⋮﹂
入浴劈頭、ややオジさん臭い台詞を吐くのはサラだった。彼女は
半身浴が推奨されるこの公衆浴場において首までドップリお湯に浸
かっていた。
だが、今日に限ってはそれを咎める者は居ない。この場に居るの
は、気心の知れた親友たちだけである。
だが、サラはあるものを見つけるとしばし不機嫌になった。不審
に思ったエミリアが彼女に話しかける。
﹁どうしました?﹂
﹁んー、いやね。マヤの身体が気になってね⋮⋮﹂
サラが先ほどからジロジロ見ていたのは、エミリア王女の補助を
しつつ自らも沐浴を堪能していたマヤである。
﹁私の身体がどうかしたのか?﹂
﹁⋮⋮むむむ﹂
1002
﹁?﹂
彼女が見ていたものを正確に描写するのであれば、サラはマヤの
胸の脂肪の塊を凝視していた。数秒して、マヤはサラの視線にある
先にあるものを確認すると、くつくつと笑いながら問いかけた。
﹁そんなに羨ましいのかい?﹂
﹁そういうわけじゃないけど⋮⋮どうしたらそうなるわけ?﹂
﹁どうしたら、と言われても別段努力をして大きくしたわけではな
いからな。それに不便だ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁あぁ。気づけばこんなだ﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
サラは言葉の上だけでは納得していたが、態度と目線は明らかに
不満顔そのものだった。
﹁もしかして、好きな殿方の好みが私みたいな女だったのかな?﹂
﹁どうしてそうなるのよ!﹂
﹁違うのか?﹂
﹁違うわよ! 第一、まだ確認して﹂
﹁ん? 好きな殿方がいるのか?﹂
﹁い、いないってば!﹂
サラは怒りと恥ずかしさを6:4くらいの割合で顔を赤らめ、そ
して誤魔化すかのようにそのまま鼻の部分まで身体をぶくぶくと沈
ませていった。一方のマヤは全ての事情を知っているような趣味の
悪い笑いを浮かべていた。
この不毛とも言える話題を打ち切ったのがエミリア殿下である。
1003
﹁なに下品な話をしているのですか。もう少し淑女らしく振舞って
ください﹂
ちなみに、この3人の中で一番胸が慎ましいのはエミリア王女そ
の人である。
その後十数分に亘って会話に花を咲かせていた彼女たちだったが、
ふとした瞬間エミリアは小さな溜め息を吐いた。その溜め息は誰に
も聞こえないような小さなものであったはずだが、耳聡いサラはそ
れを聞き逃さなかった。
﹁どうしたのエミリア、元気ないわね?﹂
﹁あぁ、いえ、大丈夫です﹂
﹁大丈夫な人が溜め息吐くはずないでしょ。ほら、言いなさいよ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
エミリアはしばし悩んだ。
それは言うか言うべきかの悩みではなく、今ここで真面目な話を
してしまっては楽しい雰囲気が消えてしまうのではないか、という
悩みだった。
だが、やはりそれを目敏く見抜くのはサラであった。
﹁エミリア!﹂
﹁へっ、はい?﹂
﹁言いなさい!﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁エミリアの話だったらなんでも聞くわ!﹂
1004
ただなぜか言葉で伝えるのは下手なのは、彼女のどうしようもな
い欠点である。
でも、サラのその欠点を誰よりもよく知るのはエミリアだった。
﹁わかりました。少し真面目な話なのですが⋮⋮﹂
エミリアは、サラの言動に深く追及することはなく、自分が抱え
ていたその悩み事を打ち明けた。彼女の言う通り、その悩み事は真
面目なもので、そして少し壮大なものだった。
エミリアの悩み事は、この戦争について。
ユゼフの努力によって外交的には好転している。だが軍事的には
不利なまま、政治的には微妙であるこの状況。どうすればいいか、
彼女は沐浴の最中にも考えていた。
所々マヤが補足を入れつつ、エミリアは長く話した。途中髪を洗
ったり、体を洗ったりを挟みながら、彼女は親友に悩みを打ち明け
ていた。
そしてサラはその悩みを真摯に受け止めた。普段なら眠くなるよ
うな話だが、彼女は頑張ってその話を聞いて理解した。
気づけば数十分間の湯浴みは終わり、再び彼女たちは脱衣所に戻
っている。
替えの下着と軍服をその身に纏いながら、悩み事を聞き終えたサ
ラが最初に放った言葉はこんなことだ。
﹁エミリアは考え過ぎね﹂
﹁そうでしょうか?﹂
﹁そうよ。私なんてあんまり考えてないもの﹂
﹁私としては、もう少し考えてほしいのですが⋮⋮﹂
1005
﹁んー、普段はユゼフとかエミリアに投げてるから。勿論、自分の
職責に関することは、自分で考えてるけど﹂
自由奔放に見えるサラだが、その実考えているのも確かである。
ただ周囲の人間が考え過ぎ、という面もある。
﹁もう少し緊張を解さなきゃだめよ。そういう時に、意外といい案
というのは浮かんでくるものよ﹂
﹁⋮⋮そうなのですか?﹂
﹁そうよ? まぁ、エミリアは考えるのが仕事かもしれないけど。
でも、たまにはいいじゃない﹂
思えば、エミリアはいつも何かしらのことを考えていた。
5年前のあの日、あの戦争の時から、エミリアはずっと考えてい
た。
自分でも、何も考えない日を作った方が良いと思ってはいたが、
結局十分もすれば彼女は思考していた。
﹁エミリア。10日に7日くらいは休む日を作りなさい﹂
﹁⋮⋮え、そんなに?﹂
﹁そうよ。そうすれば、真面目なエミリアのことよ。いくつかの休
みの日を仕事に充てて釣り合いを取ろうとする。そしたら、多分本
当に働くのは10日に7∼8日くらいは働くでしょうね。残りは休
み!﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁その休みの日は、私とマヤと遊びましょう! 何も考えずにね!﹂
この発言には、多分にしてサラの個人的な欲求が含まれていた。
サラも、士官学校時代から遊ぶことよりも訓練を重視し、そして
軍役についてからも仕事と戦争ばかりだった。
1006
年頃の女子としては、同じ年頃の友人と遊びたかったのである。
そして同様の事は、エミリアも微かに思っていたことだ。
﹁せめて、10日に1日にしましょう﹂
こうして、エミリアの悩みは1つ解決した。
肝心の、長々と話した真面目な悩み事については何一つ解決して
はいなかったが。
1007
サラの作戦
エミリア王女が抱えていた悩みに解決の兆しが見えたのは、彼女
らが沐浴を満喫した翌日の5月27日のことである。
この日、レギエルの初級学校に設置された仮司令部の高等参事官
仮執務室に2人の来客があった。
1人は悩み事を打ち明けた相手である、近衛師団所属のサラ・マ
リノフスカ大尉。
もう1人は事情を知らないはずの、王国軍補給参謀補ラスドワフ・
ノヴァク中尉である。
彼女らは、初級学校にありがちな﹁廊下を走るな﹂という規則を
豪快に無視して、エミリアの下を訪れた。
﹁エミリア!﹂
﹁⋮⋮あの、サラさん。廊下は走っては駄目ですよ?﹂
﹁そんな軍紀はないわ!﹂
サラの言う通り﹁初級学校に貼られている注意書きを守れ﹂とい
う軍紀は王国軍にはない。
社会常識上の問題はこの際置いておく。
﹁はぁ、それで。どうかしましたか? そんなに急いで﹂
﹁私に良い案があるわ!﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
エミリアは一瞬何を言われたかわからなかった。だがその時サラ
1008
から受け取った紙を見て、それが昨日の悩み事の解決案だと気づい
てすぐに得心がいった。
そして数秒後、再びサラが何を言ったか理解できなくなった。
﹁⋮⋮⋮⋮サラさんが?﹂
﹁?﹂
考えることはユゼフとエミリアに投げている、と豪語していた彼
女がまさか作戦を立案するとはさしもの彼女も思いもしなかったこ
とである。これは他の者も同じようで、ラデックやマヤも不可解な
現象を見るような目をしていた。
﹁サラ殿が作戦を?﹂
﹁あのマリノフスカ嬢が?﹂
﹁⋮⋮意外ですね﹂
﹁みんなしてなにその反応⋮⋮﹂
この周囲の失礼な反応を見たサラは一瞬しょぼくれたが、すぐに
気を取り直して﹁良い案﹂について話した。
﹁ま、みんなの気持ちもわかるわ。ラデックに来てもらったのも、
この作戦について色々聞きたかったのよ﹂
﹁そういうことなの?﹂
﹁教えてなかったんですね⋮⋮﹂
﹁あぁ。急に腕を引っ張られて連れてこられたからな﹂
﹁それはともかく!﹂
サラはエミリアの机を思い切り叩いて会話の流れを変えた。感情
をその腕に乗せすぎたせいか、叩いた本人の顔が少し歪んだ。
1009
﹁とりあえず作戦書を読んでみて! 話はその後よ!﹂
サラの作戦は、とても作戦と言えるようなものではなかった。何
せ紙1枚で、内容も酷く単純だ。
人員配置、作戦日時、補給計画、その他諸々の諸計画が全て省略
されていた。あるのは、部隊の抽象的な作戦行動と、その目的だけ
だ。
本来であれば読まずに捨てられるであろうお粗末な作戦書だった
が、エミリアはそんなことはしなかった。一文字一文字丁寧に読ん
で、そして彼女なりの解釈と修正を加えたのである。
サラの立案した作戦は以下の通り。
﹁機動力に優れた少数精鋭の騎兵を用いて、戦場︵この場合アテニ
湖水地方全域︶を大きく迂回。敵後方を襲撃、攪乱し、補給線を遮
断する。その際、可能であれば敵の後方拠点を壊滅させる﹂
という作戦である。
この作戦を実行した場合の利点は2つ。
ひとつは、補給が途絶えた帝国軍25個師団が最悪の場合餓死す
ることになるということ。そこまで行かなくとも、将兵の士気と体
力を大いに削ることができる。人口も少なく、経済的にも裕福とは
言えないアテニ湖水地方では、食糧の現地調達など不可能だ。
飢えたところで一気に王国軍が攻勢に出れば、帝国軍は瓦解する
可能性が高い。
1010
もうひとつは、和平交渉時において重要な材料として使える可能
性がある事だ。
補給が途切れて飢えかけている20万以上の将兵の命を助けたけ
れば、今すぐ占領地を放棄して講和しろ、と言えるかもしれない。
帝国が如何に農奴に対して悪逆非道な統治をしようと、建前とし
ては助けないわけにはいかないのである。帝国としては、悩みどこ
ろだろう。
この作戦を実行するにあたって、サラは﹁少数精鋭の騎兵隊﹂を
用いるとした。
これは戦利に適っていた。奇襲を行うと言う関係上大部隊を動か
すわけにはいかない。人数の多い部隊を動かせば、敵に察知される
確率も高まる。せいぜい1個中隊300騎が上限だろう。
騎兵という点も理解ができる。一撃離脱に秀でた騎兵ならば、奇
襲に成功した場合の戦果は計り知れないだろう。これは先のレギエ
ル会戦の時、近衛師団第3騎兵連隊が帝国軍左翼部隊の左側背を襲
い、莫大な戦果を挙げたのがいい例である。
エミリアは、サラ・マリノフスカという女性士官が、頭だけは優
秀なユゼフ・ワレサから戦術を教わった人物であると再認識せざる
を得なかった。
だが、エミリアもまたユゼフから戦術を教わった身であるため、
すぐにこの作戦の欠点に気付いた。
﹁サラさん。騎兵の戦略速度はご存知ですね?﹂
﹁⋮⋮えぇ。勿論よ﹂
1011
エミリアが言わんとしたことは、騎兵科次席卒業のサラにも理解
できた。
軍における速度には2つの種類がある。
戦場における速度である﹁戦術速度﹂と、拠点から戦場に移動す
る際の速度である﹁戦略速度﹂である。
確かに、馬は速い。人間の数倍の速度で戦場を駆けるため、その
機動力は重宝される。
だが、長距離移動となると話は別である。いくら馬が速くとも、
馬にだって﹁体力﹂というものがある。疲れれば走れないし、休み
たくもなる。そして草を食べさせ腹を満たし、十分消化させてなけ
れば体力は回復しない。
そして騎乗している人間も、当然体力というものがある。人間も
疲れたら休みたいし、パンを食べて腹を満たさねばならない。
通常ならば、補給部隊が物資を輸送するか、手持ちを最小限に留
めて強行軍を行うなどの方法がある。
だが、サラの作戦のように騎兵隊が独立して長距離移動し、補給
が届かない敵地を通る場合、馬や人が口にする食糧を運ばなければ
ならない。そして、そのような物資を満載した馬が、速く移動でき
るわけがない。
この時の騎兵隊の戦略速度は歩兵並か、せいぜい歩兵より少し速
い程度でしかなくなるのだ。
敵の補給拠点を襲うためのこの作戦案が、補給に悩まされる。サ
ラが作戦書に補給計画を書かなかったのは、そして作戦案を提出す
る際にラデック補給参謀補を連れてきたのは、これが原因なのかも
1012
しれない。
﹁問題はもう1つ。肝心の、敵の後方拠点の位置が分かりません﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
アテニ方面における帝国軍の拠点で、現状分かっているのは2ヶ
所だけだ。
ひとつは、失陥したタルタク砦。だがこちらは橋頭堡や前線基地
としての意味合いが強く、補給拠点としては不適格である。襲うに
しても、帝国軍の警戒は厳重であるため奇襲は難しい。
もうひとつは、帝国軍の予備兵力5個師団が駐屯していたリダで
ある。だがリダは戦場から遠く離れすぎており、補給拠点とはなり
難かった。無論リダを奇襲しても効果は多少あるだろうが、それで
も移動距離が長すぎるため、途中で発見される危険性が高い。
エミリアはそれを丁寧に作戦立案者であるサラに説明した。説明
を重ねるごとにサラの表情はどんどん暗くなっていったが、エミリ
アは容赦はしなかった。
なぜなら、もしこの作戦を承認したらサラが﹁自分がこの作戦を
実行する﹂と言うに決まっているとわかっていたからである。エミ
リアにとって数少ない親友を失いたくないという、身勝手な理由が
あった。
﹁この作戦には見るべき点はあります。ですが、それ以上に問題も
多いです﹂
﹁⋮⋮そう、ね﹂
サラは完全に憔悴しきっていた。エミリアが、彼女のこんな表情
を見るのは士官学校で第2学年に進級するとき以来だった。
エミリアは、作戦不承認と、そしてサラに対する慰めの言葉を頭
1013
に用意したが、その言葉はエミリアの隣に立つ者の発言で消えた。
﹁エミリア殿下。いえ、エミリア少佐。この作戦、行けるかもしれ
ません﹂
1014
彼女たちの作戦
﹁マヤ、どういうことですか?﹂
エミリアは、脇に立つ侍従副官マヤ・クラクフスカ中尉に言葉の
意味を尋ねた。
﹁そのままの意味です。補給の問題を解決して、かつ敵の警戒線を
潜り抜ける方法があります﹂
﹁そんなものが⋮⋮?﹂
もしマヤの言うことが正しければ、このサラの作戦は一気に現実
味を帯びてくる。執務室の中に居た誰もが、マヤの発言に注目して
いた。
﹁あの、皆、そんなにジロジロ見られると話しづらいんだが⋮⋮﹂
﹁あ、ごめん﹂
豪胆なマヤらしくもなく、彼女は若干委縮していた。彼女自身も
ったいぶって言い放った割には自信を持っていないようである。
マヤは二度三度咳き込んでから、続きを話し始めた。
﹁ラスキノを通りましょう﹂
﹁⋮⋮ラスキノ?﹂
﹁えぇ。我ら士官候補生が血道を上げて独立させた﹃ラスキノ自由
国﹄を経由するのです﹂
マヤの言うことは単純だった。ラスキノを通れば、帝国には察知
1015
されない。何せ今回の戦争に全く関与していない第三国である。国
境警備隊はいるだろうが、すぐ近くで戦争をしていると言う関係上、
その警戒網は穴だらけになっていることは疑いようもない。
問題があるとすれば、それはラスキノという国自体だろう。
﹁しかし、ラスキノは中立国です。もし我らがラスキノに軍を派遣
したら、侵略と解されて東大陸帝国側につく可能性があります﹂
﹁その点は心配いりませんよ。第一に、ラスキノが東大陸帝国に軍
の通行権を与えてしまっては、帝国軍がずっとラスキノに留まって
しまっていつの間にか国が乗っ取られる可能性が極めて高いです﹂
他国軍の領内通行権は、おいそれと渡す物ではない。その国の軍
事力が低ければ、通行と称して占領活動を行う可能性がある。ラス
キノは独立したばかりで、師団数も数える程しかない。そんな国が
最大の仮想敵国と同盟を結ぼうなどと考えるはずがなかった。
﹁第二に、ラスキノにはシレジアに対して大きな借りがあります。
拒否はしないと思いますよ﹂
先ほど彼女が言ったように、ラスキノ独立に最も貢献したのはシ
レジアとオストマルクの義勇兵である。公式には両国とも参戦して
いないことになっているが、公然の秘密としてラスキノにはシレジ
アに借りがある。
その借りを軍の通行許可という形で返してもらおう、というわけ
である。
﹁第三に、ラスキノは中立宣言をしていません。この戦争に不参加
というだけです﹂
これは些か屁理屈ではあったが、エミリアには理解できた。
1016
ラスキノは中立宣言をしていない。これは形勢がどちらかに傾い
た時、それに便乗して勝ち馬に乗ろうという日和見主義の表れであ
る。
﹁⋮⋮なるほど。確かにマヤの言う通り、ラスキノ経由案は有効で
すね。では、補給の問題はどうするのですか?﹂
エミリアはそう質問したが、彼女は既に解答を知っているようで
少し微笑んでいた。それはマヤにもわかっており、まるで試験の答
案用紙を見せ合うかのように答え合わせを始めた。
﹁まずラスキノまでに至る道は問題ありません。我が軍の後方基地
であるリーンを経由すれば、敵の斥候にもばれず、なおかつ物資も
馬もあります。そこまでは騎兵の強行軍で移動すればかなりの時間
短縮になるはずです﹂
﹁確かに。では、ラスキノ国内ではどうするおつもりですか?﹂
﹁そうですね。現地調達が一番かと﹂
ここで言う現地調達とは略奪のことではなく、対価を払って物資
を買うことを指す。別に即金である必要はない。国家間の約束であ
るため、適当な約束手形に﹁戦争に勝ったら代金に色を付けて払う﹂
と書けば良い。
そうすれば、合法的かつ平和的、友好的に物資を調達できる。
また今回の作戦の場合、ラスキノを通過する部隊の総兵力は1個
中隊であり、ラスキノの国民に影響を与えない程度の物資調達がで
きるだろう。
﹁そして現地調達した物資を頼りに、ラスキノ=東大陸帝国国境を
突破します。どうやって突破するかは現地で考えるとして⋮⋮これ
で、帝国に察知されずに後背をつけます﹂
1017
﹁なるほど。さすが私の自慢の副官です﹂
この言葉を聞いたマヤは流石に口角をあげずにはいられなかった。
彼女は一通りの感謝の意を述べた後、口角の位置と話題を元に戻し
た。
﹁問題は帝国に侵入してからでしょう。肝心の後方拠点の位置がわ
かりません﹂
エミリアが先ほどあげた最後の点、それが敵拠点の位置である。
現地で偵察をするという選択肢もあるが、敵地に居る時間が長けれ
ば長いほど危険も大きいことは確かである。これは5年前、シレジ
ア=カールスバート戦争において、王女暗殺を目的としたカールス
バート騎兵隊が王女襲撃の翌日には活動拠点が発見されて壊滅した、
という前例がある。
その二の舞にならないよう、敵情の把握は重要である。だが、さ
すがのユゼフからの事前情報には、その後方拠点の位置は書かれて
いなかった。
だが、この点に関して案を出したのは、補給参謀補ラスドワフ・
ノヴァク中尉である。
﹁それなら問題ないと思うぜ。少佐、地図あるか?﹂
﹁え、あ、はい。少し待ってください﹂
ラデックに促されたエミリア少佐は、執務机の引出しから地図を
出した。アテニ湖水地方周辺の地図で、東大陸帝国領リダまでが入
る大きな地図である。
−−−−−−
1018
<i155001|14420>
黒線:国境
灰線:街道
青円:アテニ湖水地方
黒■:シレジア王国拠点
赤■:東大陸帝国拠点
紫■:ラスキノ自由国拠点
緑矢印:行動線︵予定︶
茶破線:5月末時点の戦線
−−−−−−
﹁エミリア少佐、ラスキノ=東大陸帝国国境付近に帝国軍の砦はあ
りますか?﹂
﹁ありません。元々、帝国のこのあたりの拠点はカリニノでした。
ですが、ラスキノが独立してしまっため、この地点における帝国の
砦は0です﹂
現在、ラスキノ自由国領となっているカリニノも、ラスキノのよ
うな城郭都市である。独立戦争時、この地でも反帝国運動が起きた
が、独立派の数が少なく、開戦まもなく鎮圧された。だがそのおか
げでカリニノの被害は少なく、現在でも城郭都市としての機能は十
分ある。
﹁新しく建てられた可能性はないの?﹂
サラからの質問に答えたのはマヤである。
﹁⋮⋮いや、恐らくないと思う。ラスキノ独立は10月末。そこか
ら新たに建設するための資材と金と人員を集めるのは時間がかかる。
仮に着工出来たとしても、年末にはシレジア征服が東大陸帝国皇帝
1019
の意向で決定された﹂
﹁シレジア征服するなら砦を置く必要はない、ってこと?﹂
﹁そうだな。砦が完成するまでに開戦を待つことなどできなかった
だろうし、よしんば出来たとしても、すぐに滅亡するような国のた
めにわざわざ金と資材は使わないだろう。使うとしたら、全力でタ
ルタク砦を落とした方が良いと思う﹂
﹁なるほどね。じゃあ、このヴァラヴィリエ? って街が拠点?﹂
サラは地図を覗き込みながら必死にこの作戦会議に参加したが、
この意見はすぐにエミリアに一蹴された。
﹁いえ、恐らくそれもありえません。街の中に補給基地を建てるの
は少し危険です﹂
﹁何が? 結構防衛しやすいと思うけど?﹂
﹁いえ、帝国は防衛を考える必要はありません。何しろ侵略の為に
来ているわけですから、防衛のことなんて頭にないはずです。それ
を抜きに考えても、街の中に拠点を作ってしまうと民間の馬車や人
が邪魔で、通行が困難になってしまいます。少しでも早く前線に物
資を運びたい帝国にとって、街に拠点を置くことはないでしょう﹂
﹁つまり、帝国の奴らは仮の拠点しか作ってないと言うことだ。馬
テント
防柵も落とし穴も、そう言った類の防御施設もないと考えていい。
天幕をいくつか建てて終わりだろうな﹂
﹁うーん⋮⋮だとすると、ラデックの﹃どうにかなる﹄って嘘だっ
たの?﹂
サラはラデックを疑いの目で見出した。もしかしたらこいつは当
てずっぽうで言い出したんじゃないか、という目である。ラデック
は首を大きく、そして派手に横に振りながらそれを否定した。
﹁嘘じゃねーって。もし俺が帝国の補給士官なら﹃どこに中間補給
1020
基地を置くかな﹄って考えたのさ﹂
﹁ふーん? で、どこよそれ﹂
﹁十中八九ヴァラヴィリエの近くだろう﹂
﹁理由は?﹂
﹁後方勤務だとしても兵の休暇は必要だ。その際、街が近くにあれ
ば娯楽もある。それに補給基地で何かしらの物資が不足した時、街
から調達できるという利点もある﹂
﹁なるほどね。じゃあやっぱり私の意見があってたってことじゃな
いの!﹂
﹁いや、マリノフスカ嬢は街が拠点だって⋮⋮はぁ、まぁいいや﹂
﹁とにかく、敵の後方拠点のおおよその位置はわかりましたね。後
は現地で偵察して詳細な位置を見つければ⋮⋮﹂
もしそうなれば、その拠点は壊滅するだろう。王国軍最精鋭の、
近衛騎兵によって。
その後、エミリアらは詳細な作戦計画と日程の具体的な立案にか
かった。大分加筆修正がされたものの、最初のサラの作戦の骨子は
そのまま残されている。だが、肝心の作戦提案者は意外なことをエ
ミリアに言った。
﹁エミリア。これエミリアが考えたことにしといてくれる?﹂
﹁え? あ、あの、それではサラさんに功績が⋮⋮﹂
﹁ダメよ。私は武勲じゃなくて勝利が欲しいの。でも、その作戦を
考えたのが私だって知られたら、採用しないに決まってる。なら、
今までいくつか作戦案を出してきたエミリアの方が、この作戦案通
りやすいと思うわ!﹂
﹁⋮⋮いいのですか?﹂
﹁いいわよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。わかりました。私が責任をもって、司令部に上申しま
1021
す﹂
こうして、彼女たちの作戦が出来上がった。
1022
上官として
エミリアは作戦案を司令部に上申すると言ったが、最初に渡した
相手は総司令官キシール元帥ではなく、近衛師団長サピア中将だっ
た。
サピア中将はこの突然の来訪者に驚いた。エミリアはサピアの直
接の部下ではない。彼女は総合作戦本部所属で、サピア中将は近衛
師団。エミリアが作戦を提案するというのならば、今までと同じよ
うにキシール元帥にする方が良い。
無論、エミリアには理由はある。
ひとつは、サピア中将の許可済みとなれば作戦案に箔がつき、作
戦承認がされやすくなる。
ふたつ目は、この作戦が実行された場合、実行部隊として選ばれ
るのは間違いなく近衛師団の騎兵隊であるため。
そして最後に、友人であるサラ・マリノフスカ大尉の所属する第
15小隊を、この作戦から外すよう要請するためである。
サピアは作戦書を一通り読むと、この提案に賛成の意を示しつつ、
彼女に聞いた。
﹁エミリア少佐。この作戦を実行する部隊がどこが適任だと思うか
ね?﹂
﹁⋮⋮それは、近衛騎兵が最適かと﹂
エミリアは一瞬悩みつつも、最適解を導き出した。
1023
その悩みを目敏く見抜いたサピアは、作戦実行部隊の選定に移っ
た。
﹁そうだな。貴官の言う通りだろう。では、第3騎兵連隊の⋮⋮そ
うだな第1中隊あたりが良いだろう﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁何か問題かね?﹂
﹁⋮⋮﹂
問題はない。第3騎兵連隊第1中隊は、連隊の中でもっとも武勲
を立てている部隊だ。第3騎兵連隊からどれかひとつの中隊を選べ
と言われれば、第1中隊が選ばれるのは当然だった。
だがエミリアにとって問題にしているのは、第1中隊には第15
小隊が含まれているという点にある。つまり、サラをこの危険な作
戦に参加させると彼は言っているのだ。
サピアは、エミリアが何を悩んでいるのか正確に読み取った。数
少ない親友を、危険な戦地に送り出すことに迷っているのだと気付
いた。
﹁エミリア少佐。君はこの先もっと出世するだろう。恐らく、10
代の内に﹃閣下﹄と呼ばれるくらいにはな﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女は否定しなかった。王族の彼女は出世も早い。それにエミリ
アは軍事的才覚にも恵まれているため、数年以内に1個師団を率い
ることになってもおかしくはない。既に軍の一部においても﹁マレ
ク・シレジアの再来﹂と評されている彼女である。
﹁少佐。出世するということは、多くの部下を持つことだ。そして、
1024
上官は部下を1人でも多く生還させる義務と責任が生じる﹂
﹁⋮⋮存じております﹂
これは士官学校1年の時に学ぶ基本的なことである。階級が上に
行くたびに権限は大きくなるが、それに伴う部下の生命に対する責
任も重くなる。それはとてつもなく精神を削るもので、それに耐え
きれず昇進を拒む者までいる。
一部の無責任な貴族士官を除いて、多くの指揮官はこの責任を背
負っている。
﹁だが、時には我々は部下に﹃死ね﹄と命令しなくてはならない。
それが、大多数の人間を救うための手段であるのなら﹂
戦争において、このような﹁死ね﹂という命令を下さなければな
らない場面と言うのは往々にしてある。それは直接的な命令として
下す時もあれば、間接的に下す時もある。
前者としては、例えば﹁死守命令﹂がそれにあたる。﹁死んでも
拠点を守れ﹂という命令は、つい先日も下されていた。
後者には、例えば﹁包囲下に置かれている友軍を見捨てる﹂とい
う命令がある。包囲下の部隊の全滅は時間の問題で、そしてそれを
救出することは困難を極める。100の友軍を助けるために100
0の兵を死なせてしまっては意味がない。
多くの者を守るために、少数を見捨てなければならない。たとえ
その少数に、手塩にかけて育てた部下がいたとしてもである。
﹁そういう時、我々にはできることは少ない。なんだかわかるかね
?﹂
﹁⋮⋮わかりません﹂
1025
エミリアは正直に答えた。あえて言うのなら援軍を呼ぶことだけ
だが、今回の作戦の場合は援軍は呼べないから答えから除外した。
﹁信じることさ。部下や同僚をな﹂
答えとしてはありきたりなものだっただろう。だがその言葉は、
エミリアの心に深く突き刺さった。
そのわずかな心境変化に気付いたサピアは、この時初めて作戦書
の感想を彼女に伝えた。
﹁この作戦を立案したのはエミリア少佐ではないな。⋮⋮いや、そ
れだと些か語弊があるか。この作戦を最初に立案したのは少佐では
ない、と言うべきかな﹂
﹁⋮⋮ご存知でしたか﹂
﹁いや、知らなかったよ。だが、読めばわかる。作戦の根幹を考え
たのは、マリノフスカ大尉だな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ならば、一層信じたまえ。同期だろう?﹂
サピアはそう言ったが、彼は別の視点からマリノフスカ大尉の作
戦を信用していた。
彼女は、今回の戦争において度々サピアに意見具申をしていたか
らである。作戦案を上申した数は合計で8回。だがどれも穴があり、
採用されたのはただ1回だけだった。
﹁レギエル会戦の時、彼女は﹁第3騎兵連隊のみで帝国軍左翼師団
を叩くべし﹂と上申してきた。おかげで我々は前衛3個師団の後背
を突くことにも成功したのだ。彼女の騎兵としての才覚は本物だ﹂
﹁⋮⋮そんなことが﹂
1026
このことを知らないのは無理もない。サラは周囲にこの功績を誇
ることはなかったからである。彼女の部下も、そして友人にも知ら
せていなかった。エミリアの作戦の方が優れているのに、そこで小
さな功を主張することはできないという、サラの矜持がそうさせた。
思えばエミリアは、親友のことを何も知らなかったのかもしれな
い。そして、このような配慮をされて喜ぶサラではないことも気付
いた。
エミリアはそこまで考えると、ついに決断した。
﹁では、もう一度聞こう少佐。この作戦、どの部隊が適任だと思う
か?﹂
エミリアの返答は、明瞭にして適確だった。
1027
上官として︵後書き︶
現在、大陸英雄戦記設定集︵http://ncode.syos
etu.com/n7347cq/︶を順次更新中です
1028
作戦開始
近衛師団サピア中将と総合作戦本部高等参事官エミリア少佐の連
名で上申された作戦案が、レギエルで開かれた作戦会議にて了承さ
れたのは5月29日のことである。作戦に参加する部隊は、王国最
強の近衛師団第3騎兵連隊、その中核を担う第1中隊。副連隊長ダ
リウス・ミーゼル中佐の指揮の下、6月5日に出撃することが決ま
った。
また第1中隊出撃に同行して、第一王女エミリア・シレジアがラ
スキノに対して陸軍の通行許可及び補給物資の調達を求めるべく護
衛隊も出撃することになった。王女は帝国領に侵入することはない
が、それでも念のため、親衛隊と近衛歩兵を数十名引き連れての進
発だった。
その王女一行がレギエルを出発する直前、ちょっとした幕間狂言
が催された。
﹁殿下! なぜ私を連れて行ってくれないのですか!?﹂
王女の侍従武官マヤ・クラクフスカは、主君に対して抗議をして
いた。それは抗議と言うより、自分の悲劇の度合いを訴えるような
口調であったが。
それに対して、彼女の主君であるエミリア王女は諭すような口調
で説得をした。
﹁マヤ。我が儘を言ってはなりませんよ?﹂
﹁我が儘などではありません! 私はエミリア王女の侍従武官です
! 王女に付き従う義務と責任が⋮⋮﹂
﹁あら? 今は違うでしょう?﹂
1029
﹁えっ?﹂
﹁ザレシエ会戦の時、貴女はどこにいましたか?﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
マヤ・クラクフスカはザレシエ会戦前、エミリア王女の意向によ
りシュミット師団の剣兵小隊長に転属している。その後、別命がな
かったため今でもマヤはシュミット師団所属と言うことになってい
る。それは急遽決まったことで暫定的な措置であったため、直属の
上司であるシュミット少将でさえ忘れていたことだった。だが、そ
れ以来マヤは王女に付き従う義務と責任は生じていないのは確かで
ある。
﹁いや、でも、その⋮⋮﹂
﹁心配いりませんよ。私は敵地に赴くわけではありません。少し政
治交渉しに行くだけです。それに﹂
﹁それに?﹂
﹁私とサラさんが一時的にアテニから離れてる間、帝国軍が攻勢に
出た時、マヤがこの地を守っていただかねば困ります﹂
﹁殿下⋮⋮!﹂
マヤはエミリアの言葉に感動を禁じ得なかった。我が主君は、自
分に背中を預けてくれたのだと理解すると、侍従の身としては歓喜
の極みである。
もっとも、これはエミリア王女の方便だったのだが。
エミリアは、帝国は暫く大規模な攻勢に出ることはないと考えて
いた。理由は不明だが、帝国軍予備兵力の残り5個師団がこの情勢
になっても王国軍の後背に出ようとしない。そんな時に帝国軍が攻
勢に出ても出血多量で死を待つのみだ。
1030
が、そんな事情を知らない、少なくとも知らないように見えるマ
ヤは、大きな声でエミリアに忠誠と命令遵守を誓った。
﹁殿下。ここは私が守りますゆえ、どうぞ気兼ねなくご自身の責務
を果たしてください﹂
﹁無論です。マヤも、お願いしますね﹂
6月5日午前5時20分。
朝日が眩しい朝、近衛師団第3騎兵連隊第1中隊とエミリア王女
一行はレギエルを発した。
−−−
一方の帝国軍では、一部の将帥の中級士官が高ぶっていた。その
殆どは皇帝派貴族家の当主、もしくは嫡男だった。彼らは新たな領
地と名声と爵位を求めて、武勲を欲しがっていたのである。
﹁元帥! こうやって睨み続けているだけでは勝てませんぞ! こ
こは一気に攻勢に出て、叛徒共の首を、この剣先に吊るしてやりま
しょう!﹂
﹁そうだ! 子爵の言う通りだ!﹂
﹁元帥! 出撃の許可を!﹂
彼らは、正式に帝国軍総司令官の座に就いたバクーニン元帥に執
拗に上申を繰り返していた。自らも皇帝派であるバクーニン元帥自
1031
体、攻勢を仕掛けたいと思っていた。だが堅固な防御陣を敷く王国
軍によって、彼の、もしくは彼の部下が立案した作戦はその悉くが
跳ね退けられていた。
王国軍を叩くには、もっと広い視野から戦術を組み立てねばなら
ぬことはバクーニンもわかっていた。だがそれをできるだけの能力
が彼にはなく、出来ることと言えばアテニ湖水地方に立て籠もり続
けて、敵の疲労と補給の負担が限界に達するまで待つことだけだっ
た。
そんなバクーニンの弱腰にも見える指揮は、一部の貴族から不評
を買った。特に5月21日の帝国軍の攻勢作戦が失敗すると、貴族
の暴走に拍車がかかった。﹁バクーニン元帥が出来ないのならば俺
がやる﹂と言わんばかりに、バクーニンに攻め寄ったのである。
挙句の果てには待機命令を無視して勝手に突撃を繰り返す将帥も
続発した。
5月31日には、バクーニンに陳情していた士官の1人であるバ
ルジャイ子爵が旗下の騎兵隊を率いて、王国軍ラクス大将の軍団に
突撃、勇敢とも無謀とも言える戦いを行った。当然、バルジャイ騎
兵隊は王国軍の反撃に遭って、バルジャイは戦死を遂げた。
これによって貴族共は大人しくなったかと言えば、そうでもなか
った。
ある貴族はバルジャイ子爵を﹁帝国に殉じた英雄﹂としてその行
動を讃え、またある者は﹁バルジャイは無能だから死んだ。俺がや
れば違っていた﹂とバルジャイを公然と非難した。
こんなことが帝国軍内部で頻発すれば、下級兵の士気や今後の作
戦にも関わる。バクーニン元帥は早急に、彼らの不満を逸らす必要
性に迫られたのである。
1032
このような事が頻発している理由は開戦前、今は亡き前帝国軍総
司令官ロコソフスキ元帥の激励のせいである。彼はその時、信賞必
罰の心を必要以上に強調していた。それを真に受けた貴族の将帥が、
このような短慮な行動に出てしまったのである。
一人頭を抱えるバクーニン元帥を傍目に、帝位継承権第一位にし
て帝国軍少将であるセルゲイ・ロマノフは悠然としていた。
彼は5月21日の作戦失敗以来、軍内部における発言権を著しく
低下させてしまっていた。旗下の師団も戦力が定員を割ったままで
あり、彼自身も自由に動けることもできずにいた。
﹁でも、方法がないわけじゃない﹂
セルゲイは、脇に立つ友人兼話し相手兼護衛の親衛隊長のミハイ
ル・クロイツァー大佐と一時の休息︱︱と言っても彼此1週間以上
は経つが︱︱を取っていた。クロイツァーもセルゲイと同じく暇を
持て余していたため、彼の話し相手という重要な任務を続けている。
﹁そうなのですか?﹂
﹁あぁ。もし俺が叛乱軍、もといシレジア王国軍とやらだったら、
バクーニンが意図している消耗戦にちんたら付き合うわけない﹂
﹁確かに⋮⋮。では、閣下が元帥の地位にあればどうなさります?﹂
﹁そうだな。今コーベルで油を売っているだろう残りの予備戦力を
投入して、王国軍の背後を襲う。そうすればたちまち奴らの敗北へ
の坂道を転がり続けるだろうな﹂
﹁では、それを司令部に上申されては?﹂
﹁え? なんで?﹂
これを聞いたクロイツァーは驚かざるを得なかった。セルゲイは
1033
心底疑問に思っているような表情をしていたからだ。
﹁なぜって、それをすれば我が帝国は勝てるのでしょう?﹂
﹁勝てるよ。たぶん将兵の命を無駄に失わせることはないだろう﹂
﹁ではなぜ?﹂
﹁なぜって、十中八九この提案が通らないことがわかっているから
さ﹂
それを言った彼は心底不機嫌そうな顔をした。クロイツァーから
見れば、盛大な溜め息をつくセルゲイの行動が庶民的すぎて、少し
可笑しかった。無論不敬にあたるため、顔に出すことはしなかった
が。
﹁俺は立場上、マルムベルグの指揮下にある。だから作戦案を上申
するとしたら、まずあのマルムベルグの野郎に許可を取らなければ
ならないんだ。あの、マルムベルグだ﹂
セルゲイはリダに到着した時のマルムベルグの対応を思い出し、
より一層不機嫌になった。眉間に酷い皺が寄っているのが、なによ
りの証拠である。
﹁では、非礼を承知でバクーニン元帥に直接上申してみては? 少
なくともバクーニン元帥はマルムベルグ大将よりは話の分かる方で
す﹂
クロイツァーはそう助言したが、確証があったわけではなかった。
それにバクーニンは現在、貴族の相手に忙しく他の部隊の上申書を
読む暇もないだろう。セルゲイの不機嫌さを和らげるために言って
みただけ、という意味合いが強かった。
だが、セルゲイはクロイツァーの予想を裏切った。いや、クロイ
1034
ツァーはもしかしたら予想はしていたかもしれない。セルゲイは、
やる時はやる男である。
﹁そうだな。バクーニンの奴も俺の政敵には違いないが、将兵を無
駄に死なせるよりはマシか。早速上申書を作って提出するとしよう﹂
セルゲイが作成した上申書が、クロイツァーの助言通りバクーニ
ン元帥に手渡されたのは、6月5日のことである。
1035
カリニノ城
ダリウス・ミーゼル中佐率いる騎兵隊とエミリア王女が、シレジ
ア=ラスキノ国境に到着したのは、6月6日午前8時30分のこと
である。当初予定通り、王国軍後方拠点のリーンで馬を乗り換えて
全力で走ったため、本来の行軍速度では10日かかる距離を、僅か
1日で国境に到着した。
﹁ここからは他国となります。私が交渉しに行きますので、隊はこ
こで待機していてください﹂
﹁了解しました﹂
騎兵隊に先んじてラスキノに入国するのは、エミリア王女とその
護衛、そして騎兵隊長ミーゼル中佐とラスキノ独立戦争に参加した
サラ大尉である。だが入国と言っても、国境線には何かあるわけで
はない。独立後間もないこの国では、国境を十分警備できるだけの
兵力を置くことができないのだ。
カリニノは、国境線から馬を全力で走らせて半日の距離にある。
よって、6月7日の夕刻にはエミリア一行は目的地に到着した。
カリニノは、ラスキノ旧市街よりも立派な城壁に守られている城
塞都市である。だがラスキノ独立戦争勃発当初、この都市を守る独
立軍は300に満たなかったため、帝国軍の鎮圧部隊にあっさり降
伏している。だが幸か不幸か、激戦となったラスキノと違い市街の
被害が少なく済んでいた。
独立戦争がラスキノ独立派の勝利に終わると、帝国軍もカリニノ
から撤退したという。対シレジア拠点として重要な都市だったカリ
1036
ニノを手放した理由は不明だが、ともかくカリニノもラスキノ自由
国領と相成ったわけである。
エミリア王女は、城門を警備する兵に自らの身分を明かすと、数
分で都市内部へ入ることができた。
この街はラスキノと同じく中央に荘厳な城があり、そしてラスキ
ノと違ってほぼ真円の形をした城壁によって守られていたことがわ
かった。
エミリアは本音を言えばゆっくり観光をしたかったが、今はその
時ではないことを思い出すと、早速中央のカリニノ行政府庁舎を兼
ねた城へと歩を進めた。
だが、その城の入口には意外な人物が待ち受けていた。
﹁お久しぶりです。エミリア・ヴィストゥラ様。いえ、エミリア・
シレジア王女殿下、でしたね﹂
﹁⋮⋮はい。お久しぶりです。ニキタ・タラソフ中佐﹂
ニキタ・タラソフと呼ばれたその男は、かつてラスキノ攻防戦南
西戦線において精鋭の剣兵隊を率いて勇戦し、そしてラスキノ独立
軍の捕虜となった、東大陸帝国軍の士官である。
彼と面識のあるのは、南西戦線で直接降伏勧告をしたエミリアの
みだ。彼女は目の前にいる人物を珍獣のように見ていたが、傍に居
たサラはタラソフの名を思い出すとすかさず剣の柄に手を掛けた。
数ヶ月前までは敵として戦い、そして今も敵かもしれない帝国軍士
官となれば、その対応は正しい。
だがエミリアは剣を抜きかけたサラを素早く制止すると、1歩進
んで彼に問いただした。
﹁⋮⋮タラソフ中佐がなぜここにいるか、理由を聞いても?﹂
﹁構いません。ですがここではなんですので、どうぞ中へ﹂
1037
彼はそう促しつつ、エミリア一行に無防備な背中を晒して歩き出
す。それは、彼がエミリア一行に手出しする気はないという意思表
示でもあった。
タラソフは客人を先導しつつ、先ほどのエミリアの質問に少しず
つ答えていった。
﹁自分がここにいる理由はニつあります。一つ目は、捕虜になった
その瞬間から、帝国には私の居場所はありません﹂
﹁⋮⋮なぜですか?﹂
﹁帝国では、少なくとも建前において士官が捕虜になることは禁止
されているのです。下級兵が甘んじて捕虜となることは許されます
が、佐官以上の者は機密漏洩防止のためということで、捕虜になる
ことを禁じた軍紀があるのです﹂
﹁つまり、帝国に帰っても軍法会議が待っているだけだと?﹂
﹁その通りです。死刑にはならないとは思いますが、不名誉除隊に
はなるでしょう﹂
それを聞いたエミリアは、心の中で笑わざるを得なかった。それ
はタラソフを笑ったものではなく、今回の戦争においてシレジアの
捕虜となった帝国軍上級大将ルイス・グロモイコの存在を思い出し
たからである。彼は自分が助かりたいがために甘んじて捕虜になる
だけではなく、ヤロスワフを包囲していた帝国軍5個師団の武装解
除命令まで出している。恥も外聞もなく、彼は自分の命を守るため
にあらゆるものを捨てていた。
無論、それが帝国軍高級士官共通の認識ではないことは彼女もわ
かっている。ザレシエ会戦の終盤、帝国軍総参謀長ワレリー・ポポ
フ上級大将は、王国軍の降伏勧告を受諾、全軍に武装解除を命じた
後自ら命を絶っている。ポポフの武人としての最後の矜持がそうさ
せたのだと、彼女は理解していた。
1038
エミリアはその心の中で再びポポフに対して敬礼すると、タラソ
フに質問を続ける。
﹁ご家族は、大丈夫なのですか?﹂
﹁⋮⋮そうですね。それが二つ目の理由です。もし私が帝国に帰っ
て不名誉除隊となれば、家族に迷惑が掛かります。私の家は一応貴
族ですが、それでも政治的発言力の低い男爵家です。もし戦死した
はずの私が帰ってきたら、最悪家が取り潰しになってしまいます﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
タラソフの声は酷く無感情なものだったが、それこそが彼が﹁家
族に会いたい﹂と強く思っている証拠ではないかと、エミリアは思
った。もしかしたら、彼の言う﹁家族﹂には、恋人や妻、子供も含
まれていただろう。タラソフが戦死扱いになっているのなら、彼は
二階級特進を果たし、そして家族には帝国政府から遺族年金が出て
いるはずである。だが彼が帰還してしまった場合、年金を全て没収
されるばかりか、﹁卑怯者とその家族﹂という汚名を背負いながら
生き続けなければならない。
だからタラソフは帝国に帰ることができなかった。 彼は演技をしなければ、その弱い感情が全て表に出てしまい、自
我を保てなくなるほどに精神が崩壊してしまうのではないか。そう
思うと、彼女は帝国軍将兵もシレジア王国民と同じ人なのだと再認
識せざるを得なかった。
だが、エミリアは立ち止まることは許されないし、立ち止まろう
ともしなかった。
自分が大量殺戮者の端くれで、多くの人民の血と涙を流してきた
人間だと認識しても、なお彼女は祖国を守るために戦うことを決意
1039
したのである。
﹁こちらが、行政府長の執務室になります。既に首長にはエミリア
王女殿下が来ることはお伝えしてありますので、ごゆっくりどうぞ﹂
﹁えぇ。ありがとうございます、タラソフさん﹂
エミリアは、立ち去るタラソフの後ろ姿をしばし見つめた後、執
務室の戸を開けた。
1040
物資調達
カリニノ行政府長レポ・ハルナックからの王国軍の通行許可はエ
ミリアも驚くほど簡単に認められた。この作戦が立案された時、マ
ヤが指摘した通りである。ラスキノには選択肢は少なく、そしてシ
レジアには大恩があるのも確かだった。
だがそれでも、エミリアは少しばかりの不安と疑問を感じ、それ
をハルナックに問いただした。
﹁中央政府の意向は、その、よろしいのですか?﹂
カリニノはあくまでもラスキノ自由国の中にある一都市に過ぎな
い。他国軍の通行許可などという重要な案件を、その一都市が認め
ると言うのは本来ありえない話だ。少なくとも、この国の政府首班
であるゼリグ・ゲディミナスには話を通さねばならないであろう。
そのエミリアの問いに対して、ハルナックは悪びれもせず次のこ
とを言った。
﹁まぁ、事後承諾と言う形になりますかな﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
無論、この世界においても事後承諾は危険を伴う行為であること
は間違いない。最悪の場合ハルナックの首が飛ぶ。現在の政府首班
があのゲディミナスであることを考慮すると、その可能性は高い。
﹁王女殿下がご心配なさるのも道理。ですが、ゲディミナス閣下に
話しを通したところで結論は同じです。彼も私も、貴国には大恩が
あるのです。どうぞお気になさらず﹂
1041
彼は何事もなく、まるで夕飯の献立を決めるかのように、簡単に
通行権を認めた。
そしてもうひとつ、シレジア王国軍に対する補給物資の提供につ
いても、双方の同意が得られた。
﹁我が国は自由な商取引が認められています。ちゃんとお金を払っ
てくれるのであれば、いくらでも物資をお売り致しましょう﹂
とのことである。
ハルナックからの約束を取り付けたエミリア王女は、挨拶もそこ
そこに執務室から退室した。
6月9日。
通行許可を得たシレジア騎兵隊が国境を越えカリニノに到着。そ
こで物資の調達と、ささやかな現地住民との交流を図った。
だが騎兵隊は長居することなくそのまま東へ出立する。カリニノ
城門付近で、騎兵隊長ミーゼル中佐は作戦の最終確認を行った。
﹁ラスキノ=東大陸帝国国境を越えるにあたって、我々はなるべく
敵に発見されないようにするしかない。そこで、越境は夜間に行う。
わらぐつ
足音で勘付かれないよう、速度を出さずにな﹂
﹁⋮⋮隊長。馬に藁沓を履かせましょう。足音をいくらか軽減でき
るはずです﹂
﹁そうだな。藁ならばすぐに調達できるだろう。すぐに手配してく
れ﹂
﹁はい!﹂
1042
帝国領へ侵入を目論む王国軍にとって、障害となるのは地形であ
る。
シレジア周辺の地形は、その殆どが平原であり大きな起伏がない。
故に山間を縫って浸透を図ると言うことができず、敵に察知されず
に侵入することは困難を極める。
その察知される危険を少しでも減らすために、視界の悪くなる夜
間に、足音を最小限にして越境するしかない。だが、それでも敵に
察知される危険はある。
﹁⋮⋮問題は、月齢だ﹂
月齢。即ち、月の満ち欠けである。月が満ちていれば当然明るく、
そして欠けていれば暗い。暗ければ暗いほど敵に察知される危険性
は低い。
だが残念なことに昨日︱︱つまり大陸暦637年6月8日︱︱の
月齢はおよそ15、満月だった。
こればかりは自然の成り行き故に仕方のないことだが、ミーゼル
中佐は悪態をつかざるを得なかった。
﹁夜間浸透するには最悪の夜だ﹂
﹁ですが、次の新月まで2週間もあります。それまで戦線が維持で
きるという保障がない以上、やるしかないでしょう﹂
﹁わかっている。だが、これは難しいな⋮⋮。作戦決行日の夜が悪
天候なのを祈るしかあるまい﹂
ミーゼルは彼の信じる神に祈りを捧げつつ、行軍経路の策定に取
り掛かった。
1043
一方、政治交渉を意外と早く終えたエミリア王女は、サラと買い
物をしていた。無論ただの買い物ではなく、騎兵隊用の物資の調達
である。即金で払うことができないので、いわゆる﹁ツケ﹂という
形になるのだが。
だが年頃の女子2人に対してカリニノ一般商業地区で私的な心を
すべて排除して軍務を真っ当しろ、と言える人間は意外と多くない。
一方が王女だとすれば尚更である。
なので、物資の調達を手早く効率的に終わらせた2人が、作戦開
始時刻まで買い物に勤しむのは仕方ないことなのだ。
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁どうしました?﹂
モットー
第15小隊隊長サラ・マリノフスカ大尉は﹁即断即決﹂を標語と
している士官である。その彼女が、ある店の商品棚を凝視していた。
その店はちょっとした金属細工を取り扱う店であり、展示されてい
る商品は確かに魅力的なものばかりだった。
﹁はぁ⋮⋮﹂
だが、値段が高い。
彼女が凝視している商品の値段は、彼女の月収の殆どを支払わな
ければならないほど高額だった。
﹁サラさん?﹂
﹁ひゃ、は、はい!﹂
﹁あの、慌てなくてもいいですけど⋮⋮それ、欲しいんですか?﹂
﹁そりゃあ、まぁ、欲しいけど⋮⋮﹂
1044
欲しいが、値段が高い。まさか軍事物資でもなんでもないただの
金属細工を国家予算で払うわけにはいかない。だがエミリアは意外
なことを言った。
﹁では買いましょう﹂
﹁はい?﹂
サラの疑問を余所に、エミリアはそのまま店へ入ってしまった。
呆気にとられたサラは暫く動けずにいたが、なんとか体を動かし、
慌ててエミリアに続いて店に入ろうとした。だが時すでに遅く、エ
ミリアは買い物を済ませて店から出てきてしまった。
﹁あの、エミリア? まさか⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ。いくら王族とはいえ、国家予算で装飾品を買うほ
ど恥知らずな人間になった覚えはありません﹂
それを聞いたサラは安堵した。毅然で公明正大な彼女の気質を今
更疑っていたわけではなかったが、万が一と言う可能性もあった。
だが王女がちゃんと身分を弁えてくれたおかげで、サラは何とか生
き延びることができた。
エミリアは、今買ったのであろう装飾品を布袋から出すと、そっ
とサラに手渡した。
﹁サラさんが欲しかったものとは似ても似つかぬ安物ですが、どう
かこれを﹂
ブリキ
それは、鉄葉製の小鳥の形をした簡素なペンダントだった。その
鳥は、少なくともサラは見た事がなかった。恐らく、細工師が考え
た架空の鳥であろう。
1045
﹁え、と⋮⋮?﹂
﹁お守りです。サラさんが、無事に帰ってくるように﹂
﹁エミリア⋮⋮﹂
軍人は、戦闘時に唯一の例外を除いて装飾品の類を身に着けてい
ない。下手に装飾品を身に着けてしまうと、それが原因でケガをし
ドッグタグ
てしまう可能性があるからだ。そのため今彼女らは、その唯一の例
外である皮製の認識票意外は、何も持ってはいなかった。 サラは暫く渡されたペンダントを眺めていた。そして彼女は、親
友が今この時、この贈り物をしてくれた意味を見出した。
﹁ありがとう。私、絶対戻ってくるから﹂
﹁えぇ。お願いします﹂
6月9日午後4時20分。
ミーゼル中佐率いる騎兵1個中隊約300名は、エミリア王女に
別れを告げ、カリニノの街を後にした。
1046
越境
帝国軍少将セルゲイ・ロマノフが後方拠点のあるヴァラヴィリエ
に到着したのは、彼がタルタク砦を出立してから2日後のことであ
る。
彼は6月5日に﹁予備兵力を投入し叛乱軍の後背を遮断すべし﹂
という上申書を帝国軍総司令官バクーニン元帥に手渡した。数日後、
この上申は受け入れられたのだが、バクーニンはその伝令役として
セルゲイを任命したのである。
﹁体のいい厄介払いだろう。俺が意外と武勲を立てて、しかもピン
ピンして帰ってくるもんだから鬱陶しく思ってきたのだろうな﹂
﹁閣下、声が大きいです﹂
セルゲイ師団は、師団と名がついているものの戦力は補充されて
おらず、さらには魔術兵や弓兵、騎兵と言った専門性の高い兵科が
引き抜かれてしまったため、実態としては1個歩兵連隊になってい
た。
それは帝国軍でも戦力の余裕がなくなってきたからとバクーニン
から説明されたが、セルゲイの意見は違っていたようである。
﹁確かに戦力は減っているさ。でも、多分俺に戦力を持ってかれる
のが嫌なのさ。俺が1個師団を持っていたら、戦果を挙げるだけだ
とようやく気付いたらしい﹂
それはバクーニンの人を見る目の無さを批判しつつ、自らの能力
に多少の自信を持っていることの表れだった。無論セルゲイは過剰
に自信を持つことは避けていた。それが過剰な自信は慢心に繋がり、
1047
それが敗北への近道だと、彼は先日の戦いで知ったからである。
だがこれ以上彼を好きに喋らせると、周りから何を言われるかわ
からない。セルゲイの友人であるクロイツァーはそう思うと、半ば
無理矢理話の流れを変えさせた。
﹁それよりも閣下。どうなさるのですか?﹂
﹁⋮⋮どうするも何も、命令には従わなければならないだろう。ま、
﹃急いで行け﹄とは言われなかったから、自分のペースで行くこと
にするさ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
こうして、伝令兵の任務を授かったセルゲイがその任務を半ば放
棄してヴァラヴィリエの後方警備を始めたのが6月10日の午後8
時30分のことである。
−−−
ほぼ同時刻、王国軍ミーゼル中佐率いる騎兵隊300は、ラスキ
ノ=東大陸帝国国境付近に陣を敷いていた。あと数時間東に進めば
ラスキノ
国境を越えることとなるため、日没まで待機する。春が通り過ぎ、
既に夏に突入している高緯度地域では、太陽は午後9時にならない
と完全に沈まない。
では午後9時になれば暗くなるのかと言えばそうではない。太陽
という強大な光源は、例え地平線の向こうに沈もうとも大地を照ら
1048
めい
おうまがとき
はく
し続ける。日が没しているにもかかわらず、空が明るい時間を﹁薄
明﹂と呼び、東方では﹁逢魔時﹂と呼んでいる。
そしてこの薄明にはさらに市民薄明、航海薄明、そして天文薄明
という3つの時間に分けられる。
簡単に言えば、市民薄明は文字通り市民が活動できるくらいの明
るさがある時間。航海薄明は、天と地の境目を認識できる時間。そ
して天文薄明は、夜空の星が全て肉眼で確認できる時間である。
今回の作戦、夜間浸透を行うのであれば、少なくとも航海薄明の
時間まで待たねばならない。だが先述のようにラスキノは高緯度地
域で、夜の時間は非常に短い。そのため天文薄明の時間はわずか3
0分しか存在しせず、航海薄明も合計で4時間程しかない。
そして午前3時になれば、早くも太陽が自己主張を始めるのであ
る。そのため王国軍が動ける時間は、3時間が限界だろう。
そしてそのわずか時間でさえも、月齢およそ17の月が照らして
いるのである。
空は晴れていた。雲一つないわけではないのがせめてもの救いだ
が、依然危険性は高い。
そこでミーゼル中佐は、サラ・マリノフスカ大尉の第15小隊を
国境付近の監視に当たらせた。帝国軍の国境警備隊がどれほどいる
のか、その警戒網に穴があればすぐに浸透を図るための偵察である。
だが、その任務を請け負ったサラは不満顔だった。
﹁ザレシエと言い、今回と言い、なんで私が偵察任務ばかりしてる
のかしら⋮⋮思えばラスキノでも偵察ばっかしてたわ﹂
﹁隊長? どうしました?﹂
﹁なんでもないわよ﹂
1049
隠密偵察という都合上、その任に当たる者の能力が低かった場合
敵に察知される恐れがある。ミーゼル中佐は、だからこそ今回の戦
争で活躍した第15小隊に偵察任務を与えたのだが、その事情を知
らないサラは終始不貞腐れていた。
無論、だからと言って任務に手を抜くような彼女ではない。
﹁コヴァ。何か見える?﹂
望遠鏡を覗いている部下に対して、サラは不満の感情を彼女なり
に封じ込めながら状況を聞いた。
﹁なんでそんなに不満を押し殺してる様な声をしてるのか知らない
ですけど、帝国軍の国境警備隊の類は見えませんよ隊長﹂
﹁⋮⋮前半の部分はいらないわよ﹂
彼女は部下から望遠鏡をひったくりつつ、前方を注視する。確か
にコヴァルスキの言う通り、国境地帯には誰もいない。既に太陽は
地平線近くにおり、日が完全に没すれば辺りは暗くなる。その前に
帝国軍警備隊が展開しなければ、国境の判別がしにくくなってしま
う。
﹁既に日が傾いているのに、この付近に一兵もいないって言うのは
どういう意味だと思う?﹂
﹁普通に考えれば、ラスキノ軍が侵入してくる可能性はないと踏ん
で戦力を別の場所に移しているのでしょう。ですが⋮⋮﹂
﹁ですが、何?﹂
﹁罠、と言う可能性もあるのではないかと﹂
﹁罠ね⋮⋮﹂
コヴァルスキの言う通り、罠の可能性がないわけではない。帝国
1050
軍がどこからか情報を掴み取り、王国最強の近衛騎兵を罠に掛けよ
うとしている。その可能性をコヴァルスキは警戒していた。
だが、サラはその可能性をすぐに否定する。
﹁たぶんその可能性はないわね﹂
﹁⋮⋮理由をお聞きしても?﹂
﹁女の勘﹂
その答えを聞いたコヴァルスキは唖然としたが、彼女の勘が外れ
たことがない事を思い出した。
サラの言う女の勘は、女性特有の感覚と、騎兵特有の感覚が組み
合わさったもので、その精度は非常に高いものになっていた。
もしも他の者がこれを聞いたら﹁理論的でない﹂と嘲笑するだろ
う。だが彼女のこの勘は、理論的にも当たっていたことは確かであ
る。
仮にサラの傍に、親友であるエミリアやユゼフが居たらきっと以
下のように答えたことは疑いようはない。
﹁帝国軍がシレジアのこの作戦に気付いたのならば、奇襲隊を待ち
伏せして撃滅するなどと考えず、ただ1個師団を国境に張り付ける
だけで良い。そうすれば国境警備隊との数の差を見た奇襲隊は戦わ
ずして撤退するだろうから﹂
だが、ラスキノ=東大陸帝国国境には警備隊の姿は見えない。こ
れは夜間浸透の好機と言えるだろう。
﹁コヴァ。中佐の所に戻って報告。﹃今夜にでも越境すべし﹄とね。
私はここで見張りを続けるわ﹂
﹁了解です﹂
1051
コヴァルスキの報告から数時間後。
太陽は完全に地平線の彼方に潜り込み、その姿を消している。そ
の太陽に代わって東の空から現れたのが、月齢およそ17の月だっ
た。満月から少し欠けた程度のその月は、付近を見渡すだけの十分
の光量を放っていた。
サラは日が沈んでからもずっと国境の監視を続けていた。相変わ
らず帝国軍の警備隊は見えない。越境するには、最高の時機かもし
れない。もしもこれを逃せば、明日には大量の警備隊が現れるかも
しれない。月夜を恐れるあまり、敵が少ないという好機を逃すこと
は愚策であると、彼女は判断した。
﹁大尉。どうだ、行けそうかね?﹂
わら
気付けばミーゼル中佐が彼女の近くまで来ていた。サラが気付か
ぐつ
なかったのは、監視に集中していたためでもあるが、それ以上に藁
沓を履いた馬の足音が極限までに減らされていたこともある。
﹁私としては、絶好の機会だと思います。警備の数が少ないため、
月齢を気にしなくても良いかと﹂
﹁⋮⋮わかった。貴官の報告を信じよう﹂
それを聞いたサラはゆっくり立ち上がり、そしてミーゼルが連れ
てきた自分の馬に乗る。ミーゼルが全員の騎乗を確認すると、小さ
な声で、だが全員に聞こえるようにハッキリとした声で号令した。
﹁これより、越境作戦を開始する。なるべく音を立てるな﹂
それを聞いた部隊は返事をすることなく、ただ静かに首を縦に振
ったのみである。
1052
6月10日午後10時30分。
シレジア王国軍近衛騎兵奇襲部隊は、静かに国境を越えた。
1053
流血なき戦い
王国軍騎兵が4時間でどれほどまで帝国領奥深くまで浸透できる
かが、この越境作戦の鍵となる。
もしここがシレジア国内であれば、補給を受けつつ、馬を乗り換
え、休みなく走れば1日に80km以上は走り抜けることが可能だ。
そしてそれは実際に、レギエルからシレジア=ラスキノ国境地帯ま
での行程で行われている。
だが、ここは既に帝国領。当然替えの馬もなく、補給も馬に背負
わせている物資のみ。この状態では、ゆっくり走るしか他にない。
だがあまりゆっくりし過ぎれば、帝国軍国境警備隊に発見される恐
れがある。その絶妙な均衡の中、ミーゼル騎兵隊は少しずつ、確実
に帝国領への浸透を進めていた。
日付が変わり、6月11日午前0時20分。
数少ない女性士官であるサラ大尉があるものに気が付いた。
﹁ミーゼル中佐。右前方に正体不明の集団です。距離不明﹂
﹁⋮⋮なんだと?﹂
ミーゼルは報告された方向を見たが、何も見つけることはできな
かった。彼女の見間違いではないのかという疑問が湧きあがったが、
彼がそう思ったのも無理はない。サラは、月明かりがあるとはいえ
かなり遠くにいる集団を発見したのであるから。
1054
﹁大尉。それは本当かね?﹂
﹁私は嘘を吐くのが嫌いなので﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
彼女の言う通り、もしここに何らかの集団がいるとすればそれは
十中八九帝国軍である。それが哨戒部隊なのか増援部隊なのか、そ
れともそれ以外なのかは不明だが、これを放置することはできない。
﹁全員、一旦停止。様子を見るぞ﹂
ミーゼルは旗下の部隊にそう命令すると、一度下馬をして、再度
レンズ
右前方を眺める。今度は単眼望遠鏡を使ってである。
そしてその望遠鏡の透鏡に映ったのは、篝火と、それに照らされ
る帝国軍兵。あまりにも遠いため星と見分けがつかなかったが、そ
れは確かに人工的な火だった。
サラが見つけたのは、帝国軍部隊が一時の休息としている野営地
である。
﹁地平線ギリギリに居るとすれば、距離はおよそ4000か﹂
ミーゼルはサラの視力に感嘆せざるを得なかった。夜で視界が悪
いにもかかわらず、昼間と同じだけの観察力を持っていたからであ
る。
﹁良く見えたな大尉﹂
﹁いえ、見えませんでした。ただ何かあると思って望遠鏡を覗いた
ら、そこに帝国軍がいたのです﹂
﹁⋮⋮どうして何かあると思った?﹂
﹁カンです﹂
1055
ミーゼルは絶句した。一方彼女の部下であるコヴァルスキ曹長は
﹁またか﹂といった表情をしている。
﹁はぁ。ともかく、マリノフスカ大尉のおかげで帝国軍を発見でき
た。恐らく敵はこちらに気付いていないだろう。少し北に進路転換
してこれを避ける。今敵に発見されるのはまずいからな﹂
だが、午前1時丁度。北東方向に進路転換したミーゼル騎兵隊が、
今度は正面に移動中の小規模集団を発見した。この集団は主に幌馬
車で構成され、篝火を掲げつつ街道沿いを南下している。そして少
しずつミーゼル騎兵隊に近づいていた。このままでは発見されてし
まう恐れがある。
ミーゼル中佐は再び隊の行軍を停止させた。その間、どう行動す
べきかを探る。
彼が思いついた選択肢は二つ。
一つは、西に、つまりラスキノ国境方面に転進して集団と距離を
取る。
もう一つは、その集団を襲撃して目撃者を消すことである。
だがどちらを取っても欠点はある。
前者の選択をした場合、敵に発見される可能性が極めて低くなる
代わりに、時間と距離が余計にかかってしまう。帝国領に長く居る
わけにはいかないミーゼル騎兵隊にとって、別の危険性が高まるの
だ。
では後者を選択した場合はどうだろうか。その場合、集団を全滅
させたとしても遺体や馬車が残る。それを発見されたら、我々がこ
こにいることを敵に悟られてしまう。南には帝国軍の野営地があっ
1056
たため、発見される時間は早いだろう。
二つの策を比べた場合、敵に察知される危険性が低いのはやはり
前者である。
ミーゼルはそう結論付けると、部隊を一度西に進路転換して距離
を取ろうとした。だが、そこでサラが三つ目の案を彼に提示した。
﹁中佐。このまま街道沿いを北上しましょう﹂
﹁⋮⋮何?﹂
ミーゼルが彼女の発言に疑問に思ったのは、今夜で二度目である。
このまま北上すれば敵に見つかる。それはこの集団を見つけた張
本人であるサラ自身が良く知っていたはずである。それでも彼女は、
北上を進言した。
ミーゼルはこれまでのサラの活躍ぶりから、彼女が無能ではない
ことを知っていた。だからこそ彼は、彼女の提案の真意を問い質し
た。
﹁ここは帝国領です。敵にとっても、私たちがここに居ることは予
想外のはず。もし所属不明の騎兵隊を見つけたとしても、きっと味
わらぐつ
方だと思って不審に思うことはないと思います。無論、ばれないよ
うに最低限の距離を保ちましょう。馬の藁沓を脱がせてあからさま
に音を立てれば、なおのこと味方だと誤認するかもしれません﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
もしこれが成功すれば敵にばれず、なおかつ帝国領深く浸透する
ことができる。失敗したとしても、その時はミーゼルが考えた二つ
目の策、つまり襲撃を行うということもできる。彼はそう考えると、
サラの意見を採用し、あえて帝国軍にばれるように迂闊な行動した。
その結果、
1057
﹁隊長、右前方に騎兵隊らしきものが見えますが?﹂
﹁んー? あぁ、どうせ味方だろう。敵がこんなところに居るわけ
ないし、居たとしてもあんな音を立てて﹃俺たちがここにいるぞ!﹄
と宣言するような行動を取るものか。きっとアレは、ヴァラヴィリ
エに向かう伝令の騎兵とかそんなんだろうな。気にせず馬車の運転
に気を遣っとけ﹂
﹁りょーかい﹂
こうして、ミーゼル騎兵隊は深夜の4時間の浸透行軍によって敵
中深くにまで侵入することが出来た。空が少しずつ明るくなり始め
た午前3時頃には、騎兵隊は国境とヴァラヴィリエの中間地点にあ
る林の中に仮拠点を作ることに成功した。
1058
後方補給基地奇襲作戦
6月11日午前4時。
帝国領内に仮拠点を設けることに成功したミーゼル騎兵隊が最初
にやったことは、休息だった。前日の夕刻から不眠不休で動いたた
め、兵の疲労は大きく、すぐに偵察行動に移ることはできなかった。
ミーゼル中佐は兵達に交代で休息の時間を与え、まずはその体力
の回復を図ることに専念した。
そしてほぼすべての兵の休息が終わったのは、だいぶ日も高くな
った午前10時15分のことである。それと前後して、ミーゼルは
周辺の偵察を行い、帝国軍後方拠点を探し求めた。彼はその偵察が
3日以上かかるものだと予想したが、その予想は大きく裏切られた。
それは同日午後4時10分。帝国軍の補給基地と思われる拠点を
発見したからである。
場所は現在ミーゼル騎兵隊が設けた仮拠点から東北東に歩兵の足
で半日の距離、タルタク砦からは3日の距離にあった。
﹁随分早いな⋮⋮。それで、拠点の規模は?﹂
﹁偵察部隊からの報告によりますと、かなり大規模なものになって
います。一時的に保管されている物資食糧の総量は、概算で10個
師団が1ヶ月間行動できる量であります﹂
﹁流石の帝国の国力、と言ったところか﹂
﹁はい。ですが貯蔵されている物資の量に比して警備は薄いです。
駐屯している兵はおそらく1個大隊から1個連隊程度とのこと﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
1059
この帝国軍の補給拠点は事前の予想より遥かに大きい規模だった。
10個師団1ヶ月分の物資、つまりアテニに展開する帝国軍20個
師団強を2週間養えるだけの食糧がその地にあることは、作戦立案
者にとっても意外だっただろう。まして、その作戦を実行していた
部隊の長の驚きは計り知れない。
そしてこれほど大規模な拠点だとは思わなかったために、敵の戦
力を過小評価していた。確かに偵察部隊の言う通り、物資の量から
してみれば警備は少ない。だが、それでもミーゼル騎兵隊の総数は
300騎しかなく、敵が2000前後だとすると彼我の戦力差は大
きい。
通常の強襲では、恐らく太刀打ちはできない。
﹁となると、やはり奇襲が一番か﹂
ミーゼルはそう結論付けたが、これは当初の計画通りである。3
00ばかりの騎兵が、奇襲以外の攻撃方法を持ち合わせてるわけで
はないのだから。問題なのは奇襲の方法となる。
ミーゼルは、傍に立っていたサラに意見を求めた。
﹁どうすべきかな、大尉﹂
﹁⋮⋮そうですね。私としては、払暁奇襲を提案します﹂
﹁夜襲ではなく?﹂
﹁はい。夜は視界も悪く、敵味方の区別がつきにくいです。ですが
朝、日の出直前であればこのような心配をしなくて済みます。それ
にこの時期空が白み始めるのは午前4時頃です。その時間に起きて
いる兵など、そう多くはないでしょう﹂
﹁つまり、その時間に奇襲を仕掛ければ、敵の大半は夜襲時同様眠
っており、そして我々は昼間攻撃時のように敵味方の見分けがつき
やすくなって命令系統に混乱を期さない。と言うわけだな?﹂
﹁左様です﹂
1060
サラの返答は自信満々だった。なぜなら、これはエミリアが提案
したからである。
それは6月9日、カリニノで物資調達に勤しんでいた時にエミリ
アが﹁拠点を襲う時は日の出直前が良いでしょう﹂と言った。理由
は先ほどサラが述べた事と全く一緒で、即ちエミリアの意見をその
まま剽窃した形となる。
だがそれが、エミリアの﹁せめてサラに武勲を立てさせてあげた
い﹂という策略だったことは、この時点ではサラは気づいていなか
った。
無論、そんなことを知るわけもないミーゼルは、彼女の意見にさ
らに改良を加えた。その改良案がどのような結果をもたらしたのか
は、約12時間後に明らかになる。
−−−
一方、ミーゼル騎兵隊の偵察部隊が報告したヴァラヴィリエ補給
基地に駐屯する帝国軍3000を率いているのは、皇太大甥セルゲ
イ・ロマノフ少将である。
彼はバクーニン元帥からの﹁伝令﹂の任務を半ば放棄していた。
それは彼の旗下の騎兵部隊がバクーニンに引き抜かれたため、彼ら
は徒歩で遠くにいる予備師団の下へ行かねばならないからだ。﹁徒
歩だから伝令の日付が数日前後してもそれは仕方ないことだ﹂と彼
は判断すると、部隊は数日このヴァラヴィリエ補給基地で休息を取
っていたのである。
1061
しかしそれも、そろそろ限界だと感じていたのも確かだった。彼
は明日にでも出立し、予備兵力への投入の命令を部隊に伝えること
にした。
だがそのセルゲイの下に、彼の親友クロイツァーから不可思議な
報告があったのは6月11日午後5時35分のことである。
﹁⋮⋮正体不明の騎兵?﹂
﹁はい。昨夜、タルタク砦へ向かう輜重兵が道中で見かけたそうで
す。その時は味方だと思い無視したそうですが、途中で野営してい
た友軍に確認したところ﹃そんな部隊は見ていない﹄とのことです﹂
﹁それは、妙だな。確か今日、ここに騎兵隊は来ていないよな?﹂
﹁はい。ですが敵だということは考えられない、という報告もあり
ました。敵だとすれば隠密行動を取るはずなのに﹃蹄鉄が土を踏み
荒らす音がはっきり聞こえた﹄とのことです﹂
﹁⋮⋮それが我々を錯覚させる罠、と言う可能性もあるか﹂
﹁えぇ。ですが敵だとしてもいくつか納得できない点があります。
どうやってココまで来たかです﹂
クロイツァーが指摘した点は、5月27日に王国軍高等参事官エ
ミリア少佐が作戦会議の時に言ったこととほぼ同じである。あまり
にも行動線が長く、それ故に補給の問題が起きることなど、クロイ
ツァーはいくつか不可思議な点を列挙した。その上で、彼もこれが
敵ではないと結論付けた。
だがセルゲイは彼の進言を無視し、冷静に現実を受け入れた。
﹁理論と相反する現実と直面した時、重視すべきなのは現実の方だ。
なぜなら、相反する現実とやらがある時点で、その理論が間違って
いるということだからな﹂
﹁それは、そうですが⋮⋮。では、敵はどうやってここまで⋮⋮?﹂
﹁いや、今はそれを議論する時間ではない。今やるべきことは、こ
1062
の敵をどうすべきかだ﹂
﹁すぐに偵察隊を編成して、周囲を捜索させますか?﹂
﹁ダメだ。今から探してもすぐに見つける前に夜が来るだろう。そ
れにバクーニンのアホのせいで俺らは偵察用の騎兵を持っていない
のだからな﹂
別に歩兵で偵察ができないわけではない。ただ歩兵は足が遅いた
め、今のように迅速に偵察活動をしたい状況では役に立たない。ま
た敵の規模が分からない以上、無理に偵察をしてしまえば、それが
戦力分散となり各個撃破されてしまうことにも繋がりかねない。
であればセルゲイが取るべき選択は戦力を集中し、後方拠点の防
備を万全にすることである。
﹁恐らく今夜にでも奇襲があるかもしれんな⋮⋮敵はどこから来る
と思う?﹂
﹁輜重兵隊の報告によれば、その騎兵集団は彼らの右方向、つまり
西側に居たそうです﹂
﹁すると敵は西から襲撃してくる公算が非常に高い、か。よし。す
ぐに防御態勢を整えさせよう。西から来るであろう騎兵隊を迎撃す
るために主力を西に置く。交代で休憩を取りつつ警戒を怠らないよ
うにな﹂
﹁ハッ!﹂
こうしてヴァラヴィリエの防御態勢が、王国軍の予想を裏切って
築かれるに至った。
だがセルゲイの方も、王国軍の襲来を意外な長さで待ち続けるこ
とになった。
1063
皇子 VS 騎士
明けて6月12日午前3時丁度。
ヴァラヴィリエ補給基地を警備する帝国軍少将セルゲイ・ロマノ
フは巨大な眠気に襲われていた。
彼は今夜にでも基地が襲撃されると予想して徹夜をしたのだが、
既に空が白み始めても一向に敵は表れなかった。
無論、払暁奇襲という可能性はあったためセルゲイ自身は警戒は
怠らなかった。だが、旗下の将兵たちもそう思っていたかと言えば
違う。彼らは、自分たちの指揮官が状況判断を誤って架空の敵を警
戒しているのではないかという不安を抱き始めていたのである。そ
れを増長させたのが、ザレシエ会戦における帝国軍元帥ロコソフス
キの慎重すぎる指揮が、かえって彼の死を早めたという事実である。
そのためか、午前3時を過ぎた時点で﹁敵の夜襲はない﹂と進言
する下級士官が続出した。
このような事態が数十分に亘って繰り返されれば、並の将帥であ
れば自らの判断に迷いを生じさせただろう。だが、セルゲイは下級
士官たちの判断をその悉くを退けた。
・・
そのセルゲイの予想が半分正しいことが証明されたのは午前3時
20分のことである。
・・・
﹁閣下、東から騎兵集団です!﹂
﹁なに!?﹂
1064
セルゲイは西に騎兵集団がいるという情報から、主力を基地の西
に展開させていた。だが、王国軍ミーゼル騎兵隊は無防備の東側か
ら襲ったのである。基地の東側にいるのは、休息中の友軍と大量の
食糧と物資のみである。
イグ
セルゲイは直ちに起床ラッパの号令をかけたが時既に遅かった。
ニスキャノン
ミーゼル騎兵隊約300騎は既に基地外縁に到着し、中級魔術﹁火
砲弾﹂を斉射していたからである。脆弱な柵しか持たない基地は一
瞬にして火に包まれ、そして貯蔵していた食糧物資に次々と引火し
た。
王国軍ミーゼル騎兵隊の先陣を切るのは、視力に優れ、かつ馬の
扱いに長ける赤髪の女性士官サラ・マリノフスカ大尉率いる第15
小隊である。
彼女らは火系初級・中級魔術を乱射しながら突撃し、帝国軍の微
弱な抵抗を払いのけた。
﹁魔術の出し惜しみはしないで、全力で焼き尽くしなさい!﹂
サラは、火砲弾着弾の爆音や騎兵の轟音、そして帝国兵の悲鳴に
負けないような大きな声で部下に命令する。と言っても、既に突撃
に成功した彼女が下した命令は単純明快。﹁全てを破壊しろ﹂であ
る。
第15小隊に続き、ミーゼル騎兵隊の本隊も補給基地を襲撃。手
当たり次第に物資を焼き、狼狽する帝国兵を切り捨てる。果敢にも
槍を構えて騎兵を迎撃しようとした小隊が少なからずいたが、騎兵
隊が日の出を背にして突撃してきたため目が眩み、陣形を組む前に
蹂躙された。
その数分後、セルゲイ少将率いる帝国軍歩兵約1000が基地に
1065
戻ってきた。既にこの時、基地の4割が焼失しており、休息してい
た兵も多くが逃げるか殺されたかしていた。
﹁クソッ。総員、陣形を固めろ!﹂
セルゲイは直ちに陣形を整え、突撃してくる王国軍騎兵隊第15
小隊の前面に躍り出た。このまま第15小隊が突撃すれば、馬は怯
んで速度を落とすか、槍によって串刺しにされる。隙間から初級・
中級魔術を撃てば敵は倒せるはずだと。
このセルゲイの判断は正しかった。騎兵に対しては歩兵の密集陣
が効果的だと言うのは戦術の常識である。
だが、この点に関してはサラの方が上手だった。彼女は小隊を右
に回頭させ、帝国軍歩兵の密集陣の外側、初級魔術がその威力を減
衰させて脅威とならない距離を保ちながら反時計回りに回り始めた
のである。
﹁みんな! 弓を準備して!﹂
彼女がそう命じると、第15小隊は騎兵の速度を落とさないまま
剣を鞘に納め、そして背中に装備していた弓を構えたのである。こ
の瞬間、第15小隊は剣騎兵から弓騎兵に兵種を変更した。
サラの合図とともに、数十本の矢が上空から降り注ぐ。帝国軍約
1000の部隊に対して数十本の矢は少ないが、弓は初級魔術並の
連射速度で中級魔術並の威力を持つ強力な兵器である。密集して動
かない歩兵など、大きな的でしかなかった。
弓は、両手で扱わなければならない。そのため弓で攻撃するとき
は手綱から手を離し、足だけで馬を操らなければならず、それを実
行するにはかなりの訓練が必要となる。
だがサラ・マリノフスカという馬術の天才率いる第15小隊は、
1066
まるで自分と馬が一心同体となってるかのように巧みに馬を操った。
第15小隊は長距離から延々と矢を放ち続け、しかもかなりの速
度で動き回るため帝国軍の魔術攻撃はなかなか当たらない。成す術
なく一方的に攻撃を受けたため、ついには一部の兵が狂乱状態とな
って突出した。だがその度に第15小隊は騎兵の足で振り切り、再
び遠距離から弓矢を浴びせかけた。サラに至っては、後ろを向きな
がら馬を巧みに操りつつ、弓を構えて矢を撃ち続けるという離れ業
までやってのけた。
さらには陣形が乱れた密集方陣の隙をついてミーゼル中佐率いる
本隊が方陣に突撃を敢行し、それを繰り返したことによって華々し
い戦果を挙げることになった。
だがセルゲイの方もただやられてはいなかった。部隊の命令系統
を維持し、組織的抵抗を最後までし続けた。補給基地の混乱を収め、
生き残りの帝国兵をなんとか集めながら部隊を再編することに成功
したのである。
この時点でセルゲイ率いる守備隊は2000にまで膨れ上がって
おり、また第15小隊の矢が尽きかけていたことから戦闘は王国軍
騎兵隊の完全撤退をもって終了した。
この日帝国軍が失った兵はおよそ850、基地に保管してあった
物資類はおよそ9割が焼失し、帝国軍の戦略に大きな影響を与える
こと疑いようもなかった。さらに王国軍は基地襲撃後、周辺の輜重
兵部隊及び帝国軍の野営地をも襲ったため、被害はとてつもなく大
きなものとなっていた。
一方の王国軍の損害は僅か17騎。
この戦いにおいて、どちらが勝者の名に値するのかは論じるまで
もない。
1067
−−−
完全に日の出を迎え、事態の混乱がようやく収まったのは午前5
時40分のことである。
セルゲイは被害状況の把握と、タルタク砦への報告を急いだ。そ
して詳細な被害がセルゲイに報告されると、彼はこめかみを押さえ
つけて悩まざるを得なかった。
﹁やれやれ。これは一体だれの責任になると思うクロイツァー?﹂
﹁普通に考えれば、基地司令官か、警備部隊を十分に駐屯させなか
った総司令部の責任ですが⋮⋮﹂
﹁だが、総司令官がアレじゃあな﹂
﹁えぇ⋮⋮﹂
一時的とは言え、セルゲイが駐屯していた補給基地が襲撃を受け、
基地に保管してあった物資の9割が使用不能になったことは事実で
ある。皇帝派のバクーニン元帥がこれを聞けば、セルゲイの責任を
追及することは疑いようもない。
もしそうなれば、セルゲイの政治的立場が危うくなり帝冠が遠退
く可能性がある。
だが、セルゲイは思いの外暗い顔をしていなかった。クロイツァ
ーが不思議に思って問い質すと、彼は意外なことを言った。
﹁まぁ、ここで責任を追及されて帝都召還命令を受けた方が俺にと
1068
っては幸せかもしれん﹂
﹁⋮⋮なぜ?﹂
﹁考えてもみろ。ここにあった補給物資はほぼ全滅。アテニに引き
籠る我が軍の物資は、タルタク砦に保管してある物資は僅か3日分。
近隣の村や町から調達するにしても、アテニにいる帝国軍はおよそ
20万。それを養えるだけの物資を確保できるはずがない﹂
﹁それに開戦時から既に物資の調達を行っていましたから、農村に
も物資は残っていないでしょうね﹂
﹁あぁ。帝国軍の命運は残り4日。それ以上長引けば、彼らは餓死
するしかない﹂
セルゲイにとって、それは辛い事であったに違いない。連携に欠
ける皇帝派の将帥がいくらでも死ぬのは彼は受容できるが、その旗
下に居る20万の帝国臣民を犠牲にするのは耐えられるはずもなか
った。
だが同時に彼は、王国軍に対する敬意をも抱き始めていた。
﹁叛乱軍。いや、シレジア王国軍は優れた将帥が多いと見える。常
に我々の先手先手を打って、数に勝る我々に戦術的な勝利を与えて
いない。見事なものだな﹂
﹁ですが感心してばかりいられません。事実上アテニの20個師団
は孤立しました。恐らく数日後には王国軍の大攻勢が始まるはずで
す﹂
﹁⋮⋮そうだな。バクーニン元帥に全面撤退を具申するしかない。
クロイツァー、頼むよ﹂
﹁分かりました﹂
こうして、6月12日の戦いは幕を閉じた。セルゲイの撤退具申
がバクーニンの手元に届いたのは、翌6月13日のことである。
1069
惨落
ヴァラヴィリエ補給基地壊滅の報は、セルゲイの予想通りバクー
ニン元帥を激怒させた。
﹁1個連隊が駐屯しておきながら、僅か300の叛乱軍に壊滅させ
られただと!? あの小僧は何をやっていたのか!?﹂
バクーニン元帥の怒りは的外れだったというわけではない。確か
に数の上で見れば、いかに王国軍騎兵隊が精強だったとしてもここ
までの被害を出したのは醜態と言っても良かった。だが、いつまで
も怒り心頭と言うわけにもいかない。補給基地が壊滅した以上、帝
国軍はタルタク砦に残された3日分の食糧だけで戦うか、撤退する
か、あるいは降伏するかを選択しなければならなかった。
バクーニンは全ての戦闘を中止させ、帝国軍諸将を一度タルタク
砦に戻させた上で、緊急の会議を開いた。
﹁それで、補給が元に戻るのはいつになるのだ?﹂
セルゲイ・ロマノフの直属の上司であるマルムベルグ大将は、や
や不機嫌な口調で会議に参加していた補給参謀に問うた。
﹁ザレシエ、オスモラ方面の砦から至急物資を手配させるとしても、
およそ7日はかかります﹂
﹁そんなに⋮⋮!? し、周辺の都市や村から、徴発できんのか!
?﹂
﹁出来なくはありませんが、何分ここは人口も経済力もない僻地で
1070
す。またアテニ方面に軍を集めすぎたが故に、補給に過大な負担が
かかっておりました。そのため、農村からの調達は数週間前から始
めております。これ以上は、おそらく農村にもないでしょう﹂
﹁なんと⋮⋮。ではここらで一番物資があるのは、叛徒共の領地の
中だけだと、卿はそう言うのか!?﹂
﹁⋮⋮残念ながら、それは認めざるを得ません﹂
それを聞いたマルムベルグは怒りを通り越し、ただ口を餌を求め
る魚のように動かすだけだった。そして実際、既に帝国軍は食糧を
求めざるを得ない状況にあった。
﹁今回の作戦会議では今後我々がどうするかを決めるために開いた
ものである。食糧はあと3日、持って4日しかない。そして補給物
資の調達に目途が立った頃には、叛乱軍は一斉に攻勢を仕掛けてく
るだろう﹂
﹁飢えた状態ではまともに戦うことなど不可能。だとすれば、食糧
があるうちに決断せねばなりませんな﹂
﹁撤退か、玉砕か、ですか⋮⋮﹂
この期に及んで、玉砕を主張する者はこの場にはいなかった。い
や、武勲を立てさせろと騒ぐ貴族の中級士官ならばそれを声高に叫
んだかもしれない。だがバクーニンら高級士官と、身勝手な貴族ら
とでは課せられた責任と状況が違っていた。
貴族の士官は、例え戦死したとしても、周りにどう思われようと
しょうしゃく
も﹁名誉の戦死﹂という箔がつくことになるだろう。残された家族
にとっても、それは陞爵の機会が与えられる機会となるやもしれな
い。
だが司令官として部隊を指揮する中将以上の高級士官たちは、戦
死してもなお敗北の責任を取らせられることは疑いようもない。特
1071
に総司令官の座となってしまったバクーニンの責任は大きく、もし
このまま帰還すれば﹁帝国軍40個師団を無為に死なせさせた無能
な将軍﹂として弾劾されるだろう。
しかしバクーニンは別の考えも持っていた。それは王国軍に対し
て攻勢を掛け、王国軍の拠点を落とし、そこにあるであろう物資食
糧を略奪すると言う、極めて過激なものだった。
もし失敗すれば、それが玉砕に繋がると言うことはバクーニンに
も理解はできた。だが成功した場合、物資不足を嘆く心配はなくな
るだけでなく、アテニ方面の王国軍を無力化できる。
撤退か、それとも略奪か。バクーニンはどうするかを、会議室に
集まった者たちに聞こうとした。だがその前に、事態は帝国軍にと
って意外な方向に転がり始めた。
午後4時35分。
作戦会議室に、ある人物がノックもなしに闖入してきた。それは
バクーニンの副官で、彼は大変慌てた様子であった。あまりにも慌
てていたため周囲の者が彼を落ち着かせようとしたが、その副官は
それらの善意を無視して、バクーニンの傍に駆け寄った。
﹁元帥閣下! 大変です!﹂
﹁どうした?﹂
﹁そ、それが、今早馬の通信文が届いたのですが、その、あの⋮⋮﹂
﹁落ち着け、息を整えろ。何があった?﹂
バクーニンに促された副官は、二度三度深呼吸をし、どうにか落
ち着いた。だが彼が発した言葉は、作戦会議室に居た者全員の呼吸
を一瞬止まらせるのに十分な威力を持っていた。
1072
﹁オストマルク帝国が、我が国に対して非難声明を発表した模様で
す!﹂
﹁なに!?﹂
カード
それは、在オストマルク帝国シレジア外交官ユゼフ・ワレサによ
る最後の切り札だった。
そしてその切り札が切られた意味を、この場に居た帝国軍諸将は
余すことなく完全に理解した。オストマルク帝国が反シレジア同盟
から離脱し、それどころか敵対することになったのである。さらに
この非難声明に、キリス第二帝国が便乗してしまう可能性もあった。
主力がシレジア国境に移動し、そして現在シレジア戦で財政的負
担を抱えている東大陸帝国が、この二つの帝国の侵略を阻止するだ
けの余裕はない。
その結論は、セルゲイに散々無能だと評されたマルムベルグにも
理解が出来た。
そして無言の内に、衆議は決した。
﹁すぐに叛乱軍、いやシレジア王国軍と和議を結ぶ。それに伴い、
一切の戦闘行為を禁止する! 良いな!﹂
﹁ハッ!﹂
−−−
オストマルク帝国外務省が発表した非難声明の情報は、当然シレ
ジア王国軍前線基地レギエルの下にも届いていた。それと同時に、
1073
ミーゼル騎兵隊が帝国領への侵入に成功したという情報も司令部に
入り、王国軍諸将はこの瞬間戦争の勝利を確信した。王国軍総司令
官キシール元帥は即日高級士官を集めて会議を開き、今後の検討を
開始した。
なお、この場にはエミリア王女はいない。彼女は未だラスキノ自
由国領カリニノにおり、王国軍騎兵隊の帰りを持っている
まず最初に発言したのは、総参謀長レオン・ウィロボルスキ大将
だった。
﹁これは、絶好の機会。なのではありませんか?﹂
﹁⋮⋮卿の言う﹃絶好の機会﹄とやらは、何の機会なのだ? 攻勢
を掛ける機会か? それとも講和をする機会か?﹂
﹁無論、攻勢です。エミリア高等参事官の作戦のおかげで、我々は
敵の補給線を断つことに成功する、いやそろそろ成功したはずです。
いずれ敵は飢えて行動できなくなり、そして非難声明のおかげで積
極的な行動が出来なくなっているはず。そこを突けば、一気に敵を
壊滅させることが叶いましょう。可能ならば、こちらが帝国に対し
て殴り込みをかけることも出来る﹂
ウィロボルスキの意見は間違ってはいなかった。
敵の補給が切れ、そして政治的・外交的優位をシレジアが確立し
た以上、ここで一気に攻勢を掛けて帝国軍を撃滅、さらには帝国に
対する逆侵攻作戦を仕掛ける。そうすれば、かつて第二次シレジア
分割戦争で帝国に奪われた旧シレジア領をも奪回することができる
可能性があった。
だが、これに対して慎重論を唱えたのはヘルマン・ヨギヘス中将
だった。
1074
﹁総参謀長の意見にも一理あるとは思う。だが、帝国に逆侵攻する
だけの戦力と兵站の余裕は、我々にはない。現状、アテニに対する
攻勢にも苦戦しているのだからな﹂
﹁ヨギヘス中将は慎重だな。だがいずれ帝国軍は飢える。逆侵攻は
無理だとしても、アテニの20個師団をその悉くを撃滅することが
可能ではないのか?﹂
﹁出来なくはない。だが、撃滅してどうするのだ? 恐らく帝国の
奴らは我々に和議の申し出をしてくるだろう。条件は占領地の解放、
原状回復だ。それは帝国軍を倒しても、倒さなくても同じなはずだ。
だとすれば、要らぬ犠牲を出す理由はないだろう﹂
﹁⋮⋮なるほど。確かにな﹂
これはどちらかと言うと戦術や戦略ではなく政治の論理だったが、
ヨギヘス中将の意見は正しかった。
王国軍がアテニに立て籠もる帝国軍20個師団を撃滅せんと動け
ば、当然王国軍にも被害が出る。だが、帝国軍は既に戦意はなく、
人口も経済力もないこの地方を占領し続け割譲を迫る余裕もない。
いずれ和議が結ばれれば、アテニ湖水地方は無血の内に解放される
だろう。
ヨギヘス中将の意見に、総司令官キシール元帥や副司令官ラクス
大将、そして総参謀長ウィロボルスキ大将が賛同したため、帝国軍
に対する攻勢作戦は無期限延期とされた。
翌6月14日午前9時50分。
東大陸帝国の使節団と名乗る集団が、白旗を掲げながらギニエに
訪れた。使節団の代表者はミリイ・バクーニン元帥。彼らの目的は、
休戦交渉だった。
1075
﹁我ら東大陸帝国は、貴国に対して休戦を提案する﹂
彼らの態度はやや尊大だった。つい昨日まで王国軍のことを﹁叛
乱軍﹂と呼称していたにも関わらず、今になってやっとシレジアを
国扱いを始めたことに怒りを覚えた将軍も多くいた。だが休戦交渉
の席についたキシール元帥はそれを指摘することなく、帝国と休戦
交渉を開始した。
キシール元帥は彼らの尊大さの裏に、ある感情が隠されていたこ
とを見抜いていた。
帝国の使節団は焦っていた。それを殊更表に出すことはなかった
が、キシールは彼らの状況と様子を観察して、それを見抜いた。
休戦交渉が始まったとしても、帝国軍が現在抱える補給の問題は
何も解決していない。彼らが今すぐ撤退すれば、物資が尽きるか尽
きないかのギリギリの時に増援の補給部隊と合流できる。だが交渉
が長引き、軍を後退することができない状況が続けば、帝国軍は飢
え始める。
総司令官キシール元帥と総参謀長ウィロボルスキ大将は帝国軍の
その状況を確認すると、少々冒険的な要求を帝国軍に吹っかけた。
﹁シレジアを占領している帝国軍の完全撤退、及びアテニ湖水地方
に隣接する旧シレジア領ヴァラヴィリエとルダミナに帝国軍を駐留
させないこと。これが条件である﹂
帝国軍の補給基地があったヴァラヴィリエ、そしてタルタク砦か
ら東南東に位置する帝国領ルダミナは、かつて第二次シレジア分割
戦争の時、東大陸帝国に奪われた旧シレジア領である。キシールは
1076
﹁その二つの土地はシレジアが恒久的に占領、つまり割譲させるた
めに空けておけ﹂と言ったのである
キシールとしては、別にその要求が帝国に蹴られても良かった。
ただこちらに余力がある様に見せつつ﹁ヴァラヴィリエとルダミナ
の割譲だけで許してやる﹂という態度を取ったのである。
帝国としても、ヴァラヴィリエとルダミナを固守する必要性はな
い。元々シレジア領であったのもそうだが、それ以上に失っても痛
くないほどの人口と経済しか持っていない地域だったからである。
バクーニン元帥は﹁即答できない﹂と答え、当初は﹁結論は明日
以降に持ち越す﹂としていた。だが、その間にもタルタク砦の物資
は減っていく。ここに至ってバクーニンは、敗北を認めざるを得な
かった。
キシールの提案から数時間後。帝国軍総司令官バクーニン元帥は、
アテニ湖水地方からの完全撤退、そしてヴァラヴィリエの駐留軍移
動に合意した。だが、ルダミナについては﹁保留﹂とし、今後の両
国の政治交渉において決着を図ると述べた。
キシールとウィロボルスキは、蹴られると思っていた要求が半分
通ったことに満足し、バクーニンの提案に賛同した。
大陸暦637年6月14日午後2時。
後世﹁ギニエ休戦協定﹂と呼ばれることになる休戦協定は、この
時に結ばれたのである。
1077
新たなる時代へ
シナリオ
﹁それで、全ては大尉の台本通りということですか?﹂
6月29日。つまりオストマルク外務省が非難声明を発表してか
ら約1ヶ月、シレジアが東大陸帝国と休戦協定を結んでから2週間
ちょっと。
シレジアの情報収集がしやすいという理由から、大使館に帰らず
にいつまでもクロスノで食っちゃ寝してたらフィーネさんから呼び
出しを受けた。休戦協定に関する追加情報が来たとのことだ。
で、開口一番これである。
﹁フィーネさんが私のことをどう思っているのかはだいたい想像つ
きますけど、私は超能力者じゃないのでそこまで状況を操ることは
できませんよ﹂
タイミング
﹁そうですか? でも東大陸帝国軍が飢餓に陥りかけた途端、芸術
的時機で非難声明が現地に届きましたよね? あと数日前後してい
たら、こんな有利な協定にはならないと思いますが﹂
そう言って彼女は手に持っていた資料を机に叩きつける。
俺がそれを拾い上げて読んでみたが、まぁなんともシレジア有利
な条件だ。
占領地の放棄だけではなく、旧シレジア領ヴァラヴィリエの軍の
駐屯禁止。さらには捕虜にされた帝国軍将兵7万強はその一部しか
解放されず、だいたい5万人程はシレジアに抑留されたままだ。今
後の停戦交渉において政治的材料にするつもりだろう。体のいい人
質だな。
1078
このまま停戦条約締結の交渉が進めば、ヴァラヴィリエの割譲は
確実に認められる。ルダミナの割譲については、確率半々と言った
ところだろうか。賠償金については何とも言えない。
東大陸帝国にとって不利な協定となった原因は二つ。
一つは、王国軍が帝国軍の補給線を断ったことにより、帝国軍は
数日で飢える羽目になったこと。つまり現地駐留軍にとって交渉の
引き伸ばしや本国政府に相談と言った手段が使えず、交渉の余地が
なかったこと。
そしてもう一つは、オストマルクの非難声明によって東大陸帝国
が二正面作戦を強いられる可能性があったこと。最悪三正面、四正
面作戦もあり得たかもしれない。ヴァラヴィリエとルダミナという
辺境地域に固執するあまり、もっと広い領地をオストマルクに取ら
れたら意味がない。
恐らく東大陸帝国の事実上の降伏条約が数ヶ月以内に結ばれるこ
とになるだろう。
非難声明の伝令が、もし王国軍の補給線破壊作戦の前に帝国に伝
わっていたら、帝国は焦らずじっくり交渉を行うことができたはず
だ。
では非難声明の伝令が、補給線が断絶して帝国軍がアテニから完
全に撤退した後だったらどうだろうか。その場合、やはり帝国軍は
補給が回復しているし、アテニに再攻勢を掛けることも可能だった。
その状況で割譲が要求できるわけがない。
どちらにしても、原状回復の休戦協定が結ばれただけだろう。
タイミング
フィーネさんが﹁芸術的な時機﹂と評したのも頷ける。数日前後
していたら、協定は単なる白紙和平となり、国力を大幅に削ったシ
1079
レジアの判定負けになってただろうな。
で、フィーネさんはこんな結果になったのは俺が全部仕組んだか
らじゃないか、と疑ってるらしい。
そうだったら面白いだろうけど、残念ながらこれは偶然と言わざ
るを得ない。帝国の伝令が補給線が断たれた後にアテニに着くこと
が出来る程有能じゃないんでね。
むしろ、俺の報告書を受け取って非難声明が近々発動すること、
その報が伝わる前に帝国軍に対して戦術的勝利を得て有利な講和に
持ち込もうとしたエミリア高等参事官の策謀じゃないかと俺は疑っ
てるわけだが⋮⋮考え過ぎだろうか。
シナリオ
﹁それはともかく、大尉の台本の続きを是非拝聴したいものですが
?﹂
﹁そんな大それた物は持ってませんよ。予想外の出来事ですから﹂
﹁怪しいですね﹂
いや、本当に信じてくれませんかね。フィーネさん俺を過大評価
しすぎだから。
シナリオ
﹁大尉のせいで、こちらの台本まで滅茶苦茶です。まさか大尉、こ
れでシレジア大勝利めでたしめでたしだとは思ってませんよね?﹂
﹁⋮⋮思ってませんよ。さすがに﹂
今回の戦争、たぶん単なる国境紛争で終わらない。具体的にどう
なるかわからないけど、大陸のパワーバランスを大きく揺るがすか
もしれない。小国の勝利は大国の警戒と報復を招くとも言うし、油
断はできないな。
1080
﹁⋮⋮まぁ、それは将来のこととしておきましょう。状況と情報が
落ち着くまでは何もできませんから﹂
﹁そうですね。とりあえず、そろそろエスターブルクに戻る準備で
もしますかね﹂
さすがに2ヶ月半も理由なく本来の勤務地から離れるのはまずい。
いや一応ベルクソン事件の後始末と言うことになってるけど。
﹁その前に、大尉にいくつか情報をお渡しします﹂
﹁まだあるんですか?﹂
﹁えぇ。東大陸帝国と、我がオストマルク帝国についてです。どち
らから先に聞きたいですか?﹂
﹁⋮⋮では東大陸帝国の方から﹂
休戦が発効したからと言っても、正確にはまだ戦争中ってことに
なってる。当然シレジアの動員令は解除されてない。だから敵国の
情報は少しでも集めないとな。
﹁あぁ、そんなに重要な情報ではありませんよ。肩の力を抜いてく
ださい﹂
﹁あ、そうなんですか﹂
なんだ。戦争とは関係ない情報なのかな。
﹁去る5月29日、今回の戦争の原因のひとつとなった皇帝イヴァ
ンⅦ世の孫娘エレナ・ロマノワが出産しました﹂
﹁ほう⋮⋮。それで、性別は?﹂
﹁身体に何の障害を持っていない、健康な男児だそうです。名前は
ヴィクトル・ロマノフⅡ世﹂
﹁⋮⋮そうですか。皇帝は無理して帝位継承規則を変えた意味があ
1081
りませんでしたね﹂
自分の曾孫を帝位に着かせたいと謀略を張り巡らしたのに、その
悉くをシレジアや天運に邪魔されて無駄骨になったわけか。ちょっ
と皇帝が可哀そうだが⋮⋮。
﹁その皇帝も敗戦の報を聞いた直後に床に伏している、という未確
認情報があります。残り僅かでしょう。そして皇帝もそうですが、
皇帝派貴族も敗戦で権威を失ってしまいました。この男児は恐らく
幸福な人生を歩むことはないでしょう。その母親も﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
イヴァンⅦ世はセルゲイ・ロマノフの継承権を剥奪しなかった。
あくまで女児にも継承権を与える、混乱を生まないために継承順を
変えることはしない、とした。その上でセルゲイを謀殺しようとし
たんだろう。
でも皇太大甥が死んだ、という情報は入ってきてない。だとすれ
ばほぼ確実に彼が帝位を継ぐ。
そして彼にとって、この生まれてきたヴィクトルⅡ世と言うのは
赤子と言えども政敵。反抗勢力がヴィクトルⅡ世を担ぎ出して内戦
となる前に手を打たなければならない。セルゲイの人となり次第だ
が、良くて辺境に流刑、最悪生後数ヶ月で殺されるだろう。
生まれてくる子供に罪はない。だがそれが分かっていても、俺に
は何もできないしな⋮⋮。
﹁後はセルゲイがどのように帝国を統治するか、ですね﹂
﹁これも今は判断ができませんね。東大陸帝国の内情に介入できる
実力もコネもありませんし﹂
1082
それがあるの、残念ながらシレジアじゃ親東大陸帝国派のカロル
大公だしなぁ⋮⋮。
まぁいい。それも今は置いておこう。
﹁それで、オストマルク帝国の情報というのは?﹂
﹁これも大した情報と言うわけではありません。二つあるのですが、
一つは皇帝陛下が﹃拷問禁止法﹄を提案したことです﹂
﹁⋮⋮それは、文字通りの法律で?﹂
﹁無論です。拷問で得た自白は証拠としてはならない、という法律
になるようです。皇帝陛下からの勅令でありますから、恐らく近い
うちに制定されますね﹂
﹁随分と思い切りましたね。治安当局からの反発はなかったんです
か?﹂
﹁その真っ先に反発しそうな高等警察局は、現在権限剥奪中ですの
で﹂
﹁なるほど﹂
どうやらフェルディナント⋮⋮なんとか皇帝陛下はそれなりに優
秀らしい。こうも思い切った内政改革を実行できる、しかも皇帝で
も介入しにくいだろう治安機構の改革に踏み切るなんてね。それと
も、これもリンツ伯爵の差金だったりするのだろうか。
﹁そしてもう一つ。今回の件について皇帝陛下から直接、ジン・ベ
ルクソンの無罪が言い渡されました﹂
﹁無罪? それは民衆煽動罪に問われることはないと言うことです
か?﹂
﹁いいえ。民衆煽動罪含めて、彼が犯した罪、器物損壊、不法侵入、
脱獄、これら全てに関して無罪が言い渡されました﹂
﹁⋮⋮では、彼はもう刑事犯でも政治犯でもない、普通の帝国臣民
になったのですね﹂
1083
﹁その通りです﹂
これでフェルディナントは少数民族に対しても優しい皇帝だと認
識されるかもしれない。リヴォニア系貴族の不正を告発し、貧民を
救った皇帝。これで民族問題は暫く出てこないだろう。
優秀な君主を持った国か、羨ましいね。あぁ、エミリア王女が陛
下と呼ばれるようになったらなぁ⋮⋮。
まぁいい。とりあえず今はフィーネさんと話し合って、今後の方
針と相談をしますかね。
1084
召還命令
大陸暦637年7月7日。
シレジア王国宰相府の主は、一通の報告書を眺めていた。
差出人は、オストマルク帝国在勤シレジア大使館附武官ルーカス・
スターンバック准将。
報告書を読み終えた彼は特に何も言うこともなく、ただ立ち上が
って執務室の窓の外を眺めた。見えるのは王都の街並み、綺麗に区
画割りされた行政区画。そして視点を絞ると、そこには軍務省庁舎
があった。
その日、ユゼフ・ワレサに対する王都召還が軍務省より発布され
た。
−−−
オストマルク帝国外務省がシレジア王国に対して謝意を表明する
どころか、王国に侵略する東大陸帝国に非難声明を突き付けたこと
は、当然オストマルク国内の世論を大きく動かしたことは間違いな
い。
そして俺の上司であるスターンバック准将や、シレジア大使への
パーティーの招待状が一気に増えた。政府主催の公式パーティーが
1085
3割、残りの7割は貴族主催の私事のパーティーだった。どうやら
帝国貴族は、今後シレジアとオストマルクの関係が改善し経済交流
その他が増えるだろうから今のうちにコネをこねこねしよう、とか
思ってるのだろう。
でも残念ながらシレジア一番乗りのオストマルク企業はグリルパ
ルツァー商会って決めてるから。おめーらの席準備してねーから!
そのグリルパルツァー商会は今回の戦争でたぶん一番の利益を上
げたところになるだろう。国債の売買だけでも相当な利益だったら
しい。リゼルさん、恐ろしい子⋮⋮。
まぁ、それはさておく。
非難声明発表からこの1ヶ月と少し、俺とダムロッシュ少佐は大
使館業務でてんやわんや。休日返上で仕事するなんてもう俺社畜の
鑑だね。そろそろ男爵位くらい貰えてもいいくらい。いらないけど。
そんな日々が続いて、ようやくパーティーラッシュが終わった7
月12日に、ダムロッシュ少佐に呼び出された。なんだと思って少
佐の下に行くと、1枚の紙を貰った。えーと、軍務尚書アルバート・
シュナーベル侯爵の名前があるな⋮⋮。え? どういうこと?
﹁軍務省から貴官に王都召還命令が来ている。よって、貴官は7月
22日を以って次席補佐官から解任し、王都に帰ってもらう。新し
い辞令については、軍務省に出頭後その指示に従うこと。何か質問
は?﹂
⋮⋮えーっとちょっと待ってね。今頭混乱してるから。
ふむふむ。早い話がクビってことかな? え? マジで? いや
落着け俺。次席補佐官職を解任されただけで軍から解任された訳じ
ゃない。だから俺はまだ大尉で、大尉相当の給料は貰えるはずだ。
1086
⋮⋮貰えるよね?
ペルソナ・ノン・グラータ
でも俺去年の11月に着任したばっかだよ? 8ヶ月で解任って
早くない? オストマルク外務省が裏切って俺を外交官待遇拒否し
たって話聞いてないし。
﹁えっと、理由をお聞きしても良いですかね?﹂
﹁⋮⋮聞きたいか?﹂
ダムロッシュ少佐の声が少し低くなった。怒ってらっしゃる。﹁
お前そんなこともわかんねーのかよあぁん?﹂ってっ感じだ。
﹁あ、やっぱりいいです。大丈夫です命令に従います﹂
自分で考えるしかないな。
えーっと。召還理由は時期的に考えて間違いなく、今回の非難声
明関連だよな。シレジアとオストマルクとの関係改善、それどころ
か同盟の可能性がでてきた。それに不満を持つシレジア政府首脳部
による圧力ということか。
⋮⋮大公派か。もしかするとカロル大公自身の手によるものかも
しれない。軍務尚書は中立らしいけど、宰相でもある大公の圧力の
前には強く言えないだろう。
大公が用意してある脚本ではオストマルクが敵か味方かはわから
ない。でも、この大使館内の人間が末端に至るまで大公派で占めら
れているということは、彼の脚本ではオストマルクも重要な役者っ
てことだろうな。
そこに1人、王女派の人間が入り込み、そして大公の脚本をグチ
ャグチャにした。だから召還、と。
筋は通ってるな。たぶんあってると思う。いやもしかしたら単に
1087
﹁お前の独断専行し過ぎてるからクビ﹂って可能性もあるけど。
﹁あー、もう1つよろしいですか?﹂
﹁なんだ?﹂
﹁後任はいつ来ますか? 業務の引き継ぎをしなければなりません
ので⋮⋮﹂
﹁あぁ、そうだな。後任は4日後、7月16日に着任する予定だ。
それまでに終わらせておくべき仕事は終わらせるように﹂
﹁わかりました。⋮⋮あぁ、ちなみに、その後任の名は?﹂
﹁気になるか?﹂
﹁気になりますね﹂
王女派だから召還されたってことだし、今更俺が旗色を誤魔化し
たところで何も変わらん。政敵らしく探り合いをしよう。別に4日
経って本人の口から聞いても大差ないし。
少佐は執務机の引出をごそごそやっていた。名前を忘れた、って
いう手前でやってるけどパーティー会場で帝国政府の重鎮や貴族、
各国大使の名前を漏らさず記憶している少佐が、後任の次席補佐官
の名前なんて憶えてないはずがない。たぶん、資料を探すふりをし
て教えるべきか教えないべきかを考えてるのだろう。
そして30秒後。少佐は1束の資料を取り出すと、そこに書かれ
ていたであろう後任の次席補佐官の名前を告げた。
−−−
1088
﹁と言うわけで、私は7月22日にココを去ります﹂
リリウム
翌7月13日。久々の休日を与えられた俺は、早速東大陸帝国弁
務官府前の喫茶店﹁百合座﹂に行った。てか、思えばここも久しぶ
りだ。開戦前に行ったきりだし。
そこでフィーネさんと会って、俺の王都召還命令の事などを話し
た。俺がオストマルクを離れるという情報に際してフィーネさんは
どんな顔をするのだろうかと期待したが、無反応だった。相変わら
ずですね。
﹁それで、後任の次席補佐官の名前は?﹂
﹁ロッテ・クランスキー大尉という美味しそうな名前の人です。年
齢は俺より10個上ですね﹂
﹁美味しそうな名前っていうのがよくわからないのですが⋮⋮﹂
ちなみに俺はやっと16歳になった。つまりクランスキー大尉は
26歳だ。俺が16歳で大尉ってこともあってか感覚が鈍ってるけ
ど、26歳で大尉もなかなかのものだと思う。たぶん。
﹁クランスキーですか。確か子爵家でしたね﹂
﹁え? そうなんですか?﹂
﹁なんで大尉が知らないんですか⋮⋮﹂
いや貴族家なんて数多すぎて覚えてないから。公爵家と閣僚名簿
を全部覚えただけでもう諦めてる。オストマルク皇帝なんてフルネ
ームも覚えてないし。
﹁クランスキー子爵は大公派です。なのでシレジア大使館は大公派
の巣窟に戻ることになりますね﹂
1089
あぁ、それも当たり前と言えば当たり前だな。
王女派を追い出して新たに王女派を入れるわけないし、元々あそ
こは大公派の家だし。
﹁しかし問題は、今後両国の情報交換がしにくくなったことですね﹂
元々オストマルクとシレジアの情報共有と関係調整のために、王
女の命を受けて俺が着任しに来たのだ。だから俺がいなくなった後
も、それが続けられるようにしないといけない。
﹁そうですね。どうすればいいと思いますか大尉?﹂
﹁⋮⋮言っても良いですけど、フィーネさんはもう代案は用意して
あるのでしょう?﹂
﹁あら、ばれましたか﹂
そりゃあね。8ヶ月も一緒にいると慣れるよ。
﹁ジェンドリン男爵には既に話は通してあります。あとはその任に
誰が就くのかというだけです﹂
﹁わかりました。帰国したら王女殿下に伝えておきます﹂
さて、この店のコーヒーを味わえるのも、あと1回くらいかな。
1090
召還命令︵後書き︶
新章突入。ですが、今後の展開全然考えてないので場合によっては
更新遅めになります。︵プロット用意してなかった⋮⋮いつものこ
とだけど︶
追記
ブックマーク数が10,000の大台を越えました。みなさん本当
にありがとうございます!
1091
百合座
後任のクランスキーに業務の引き継ぎをしたり各所の挨拶をした
りで早くも7月20日に。
溜まった仕事をさっさと片付けなきゃ⋮⋮って勢いで仕事してた
ら後任が意外と優秀で事務を滞らせるどころか、俺が情報収集と称
してサボってた時期の仕事まで片付けられてしまった。つまり暇に
なった。嬉しいような悲しいような申し訳ないような。
そのせいかやることがなくなって大使館内をウロウロするしかな
くなったんだけど、そんな俺を見たスターンバック准将が
﹁邪魔だ。もう22日まで休みでいい﹂
と仰られたので、これ幸いにと俺は全力でサボることにした。
まぁ、本当にサボるわけにはいかないのだが。業務の引き継ぎが
終わったと言っても、それは大使館内業務だけだ。まだフィーネさ
ん達の方は終わってない。
リリウム
と言うわけでいつも通り喫茶店﹁百合座﹂でコーヒーを飲みつつ
その人物を待っていた。のだけど、いつもより遅いな。よくわから
んけどフィーネさんって30分以内に現れるのに今回は1時間経っ
ても来なかった。
忙しいのかな。それもそうか。彼女だって予定の1つや2つもあ
るだろうし。もしかしたらその辺の男に口説かれてランデブーでも
してるかもしれない。
後10分待って来なかったら大人しく観光でもするかな、と思っ
1092
た時に、ようやく見知った人物が俺の目の前に現れた。
﹁相席、失礼するよ﹂
俺の断りもなしに勝手に座って、そして勝手に注文。店員は当然
の如く俺の会計伝票に注文を加筆する。いやいやまさか俺に支払わ
せようと言うんじゃないかね。
﹁娘がこの店の焼き菓子が美味しいと言っていたので。少し気にな
って私も来てみたんだ﹂
と、言うわけで今回のゲストはフィーネさんの父親のローマン・
フォン・リンツ伯爵です。
リンツ伯爵は運ばれてきたショートケーキに舌鼓を打っている。
ふむ。すごい絵面だな。伯爵にケーキって似合わないってレベルじ
ゃねーよ。
って、そんなことはどうでもよろしい。
﹁大臣政務官で調査委員会の委員長がこんなところで油売っていて
も良いんですか?﹂
﹁大丈夫さ。私の部下は優秀だからね﹂
そりゃ良かったね。で、なんでここに来たの? まさか本当に菓
子を食いに来たわけでもあるまいし。
そんな俺の疑問を感じ取ったのか、リンツ伯爵は紅茶を飲みつつ
答えてくれる。てかリンツ伯爵家は親子揃って紅茶派なんだな。
﹁あまり時間がないから手短に言おう。ワレサくん。私の部下にな
る気はないかね?﹂
﹁ないです﹂
1093
俺は間髪入れず即答する。
﹁私が上司じゃ不満か?﹂
﹁不満ではありませんけど、伯爵か王女かと問われれば王女を取る
のは当然です﹂
﹁明瞭でよろしい﹂
お褒めいただいた。口調から察するに冗談半分、本気半分だった
のだろう。が、次に発せられるリンツ伯爵の言葉は冗談3割、本気
7割だった。
﹁では﹃フィーネを嫁にやる﹄と言ったらどうする?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
え、なにそれどういうこと。
﹁君がフィーネと結婚すれば伯爵令嬢の夫となる。私が皇帝陛下に
お願い申し上げれば、帝国子爵位くらいなら下賜されるやもしれな
い。これは君にとって悪い話ではないと思うが?﹂
﹁⋮⋮シレジア人が爵位を戴いても良いんですか?﹂
﹁ん? 大丈夫だよ? 別にリヴォニア人しか叙勲されないという
決まりはないからね。確かに前例はないが、もし君が我が国初の非
リヴォニア人貴族となれば、良い前例が出来るし国内の民族問題解
決の一助となるはずだ﹂
なるほど。つまりこの提案は帝国にとっても俺にとってもWin
−Winなものだってわけね。なんとも伯爵らしい。⋮⋮でも、や
っぱり俺の答えは決まってる。
1094
﹁大変ありがたい話ですが、辞退させていただきます﹂
﹁どうしてだい?﹂
﹁私自身、貴族になる気がないですし、それに貴族社会は何かと面
倒でしょう? そんな所に好き好んで入り込みたいとは思わないの
で。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁それに、フィーネさんの意思がわかりませんので﹂
彼女の意思とは関係なく俺の所に来られたら罪悪感で死ねる。と
いうか俺と彼女が結婚ってどうも想像がつかないんだが⋮⋮。
﹁意思、か。確かに私は娘の意思を確認していない。だが、それで
もフィーネは三女だ。貴族社会において爵位を継がない娘は政略結
婚の道具になる。いずれ彼女の意思をとは関係なくどこぞの家に嫁
ぐだろう。それよりも、ある程度親しいものと結婚すれば彼女の負
担も減ると思うが?﹂
うーん。正論だな。確かに知らない性的倒錯趣味を持った下劣な
貴族の所に行くよりかは俺のところに来た方が⋮⋮って、いやいや
いや何考えてるんだ俺。人をそんな、ねぇ?
﹁確かにそうかもしれませんけど、そもそも伯爵はフィーネさんを
手放す気があるのですか?﹂
﹁⋮⋮ほう?﹂
ふむ。言ってみただけだけど、反応から察するにどうやら当たり
らしい。
﹁フィーネさんは優秀な人材です。それを政略結婚だなんて事に使
うのは勿体ない、と伯爵もお考えなのでは?﹂
1095
たぶんフィーネさんは独力で高級官僚だか高級士官になれる器が
ある。そんな娘を嫁に出してしまうのはダメだ。そんなことするく
らいなら伯爵がハッスルして新しい娘を作った方が良い。
﹁ふっ。君の言う通りだ。確かに私はフィーネを君以外の者にやる
つもりはない。今の所はね﹂
いやそこは俺にやるって部分も否定してくれませんかね。反応に
困るから。
﹁さて、どうしたものかな。私の部下もダメで、フィーネもダメと
来たら、私には手の出しようもないが﹂
どうだか。
本気になれば俺を無理矢理拘禁して言うことを聞かせるってこと
も出来るだろうに。そこは俺の自由意思に任せてくれてるってこと
だろうか。
﹁何か良い手はあるかな、そこの御嬢さん?﹂
﹁えっ?﹂
伯爵はいつの間に俺の後ろのテーブル席についていた客に話しか
けた。って、どっかで見かけた事のある後姿ですね。
﹁お父様。何を話しているのですか?﹂
﹁おや、こんだけ近くにいたのだから全部把握してるだろう?﹂
そこに居たのはリンツ伯爵の娘、つまりフィーネさんだった。
1096
﹁いつからそこに?﹂
﹁大尉がこの店に来る10分程前から﹂
なん⋮⋮だと⋮⋮?
え、つまりさっきの話聞かれてたの? 全部? 余すとこなく?
やだ、恥ずかしいってレベルじゃないんだけど⋮⋮。
﹁どうやら私は大尉にフラれてしまったようですね﹂
フィーネさんは紅茶が入ってるであろうカップを持ちながら会話
している。俺に背を向けたままなので彼女が今どんな表情をしてい
るか察することはできない。
﹁え、あの、いやそれは違くてですね⋮⋮﹂
﹁おや、大尉は私を口説いているんですか?﹂
﹁あー、違いますけど、なんていうか、あのー⋮⋮はぁ、もういい
や﹂
諦めた。もうどうにでもなれ。もう俺は帰る。無論会計伝票は置
いたまま。今日は伯爵の奢りだからな!
−−−
リリウム
ユゼフが百合座を去ってから数分後、その父娘は席を移動するこ
となくただ目の前にある紅茶を消費し続けていた。
1097
﹁フィーネは、ワレサくんのことをどう思っている?﹂
﹁優秀な人だと思います。さすが16歳で大尉というだけはありま
す﹂
﹁いや、そうじゃなくて﹂
﹁?﹂
﹁彼の事、異性としてどう思っているのか聞いているのさ﹂
リンツ伯爵は、少しおどけた口調で彼女に聞いた。年頃の娘に対
する質問としては愚の骨頂だが、そんなことは彼には関係なかった。
﹁⋮⋮⋮⋮別にどうも思っていませんが﹂
フィーネは努めて無感動にその言葉を言ったが、その努力は彼女
の父親には通じなかった。
﹁ふっ。そうか。ところでフィーネ﹂
﹁なんでしょうか?﹂
リンツ伯爵は立ち上がると、ユゼフと自分の会計伝票、そしてフ
ィーネの会計伝票を手に取りながら、娘に言い放つ。
﹁いつまで空の紅茶の味を愉しんでいるんだい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
リンツ伯爵は言うことを言った後、会計を済ませて店を出た。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
一人残されたフィーネは、店員に紅茶のおかわりを頼んだ。
そして紅茶を運んできた店員は、顔を真っ赤にした彼女を見た。
1098
謝意
7月22日。
大使館の面々と適当に別れの挨拶を済ませ、いよいよ俺はシレジ
ア大使館を去ることとなった。
外交官身分を剥奪されたわけでも失効したわけでもないし、新た
な辞令を貰っていないので正式には俺はまだ外交官だ。次席補佐官
じゃなくなるけど。でもなにより面倒な事務仕事もこれでオサラバ
である。いやっほう!
いやだからと言って体力仕事が大好きというわけでもないけど。
大使館が用意した公用馬車に乗って、すぐにでもシレジアに帰ろ
うと思ったけど少し寄り道する。
向かったのは、オストマルク帝国外務省庁舎。シレジア=オスト
マルク同盟を画策し、ベルクソン事件を利用して政敵を追い落とし、
そして東大陸帝国に非難声明を突き付けた辣腕なる外務大臣クーデ
ンホーフ侯爵閣下に会おうと思ったのだ。
アポはない。会えなかったらそのまま退散するつもりだった。
が、侯爵は地獄耳らしい。俺が外務省庁舎に入った途端、目の前
にクーデンホーフ侯爵が数人の護衛と秘書を携えて待っていたから
だ。ホント、どこから情報が来るんだろうね。
﹁閣下。今回はありがとうございました。おかげで祖国の民は無事
に麦を収穫できます﹂
大陸の大穀倉地帯であるシレジアも、そろそろ収穫期を迎える。
1099
収穫期前に休戦が発効したから、徴兵された農民も安心して家に帰
ることができる。それに今年は例年に比べて寒かったとか暑かった
とかは聞いてないから、たぶんいい感じに実ってるだろう。
﹁それはよかった。私も貴国の麦は好きでね、来年以降も期待して
いるよ﹂
侯爵閣下はそう言う表現で、オストマルクとシレジアの関係改善
に言及した。
来年以降も、また良い収穫期を迎えられるかどうかはシレジアに
かかってる。そしてその麦を使ったパンを口にしたい侯爵も協力す
る。そんな感じかな。
﹁それで、今日は何用かな?﹂
知ってるくせに。
﹁退任の挨拶をしに。今日で私は次席補佐官職を解かれますので﹂
﹁おぉ、そうか。それは寂しくなるな﹂
声を聞いた感じ、寂しくなる、ということは思ってないだろう。
でも具体的に何を思っているかまではわからない。そこは流石外務
大臣閣下。感情を読まれたら交渉で不利になるもんね。
﹁私の方こそ、君に礼を言わなければならない。君のおかげで、こ
れからの人生が楽しみで仕方ないよ﹂
﹁恐縮です﹂
オストマルク帝国影の帝王が何を楽しみにしているのか。それは
ちょっと怖くて聞けなかった。
1100
侯爵は忙しいとのことで、退任の挨拶は15分程度で終わった。
この同じ庁舎に居るであろうリンツ伯爵とも今後の事を話すつい
でに挨拶しようかな、と思ったけどやめておく。一昨日の事を思い
出すとどうも恥ずかしくて会いにくい。まぁ伯爵ならなんとかする
でしょ。
じゃあフィーネさんは⋮⋮と思ったけど普段彼女ってどこにいる
んだろうな。家だろうか、それとも士官学校か、あるいはそれ以外
か。
⋮⋮うん、面倒だな。彼女に会うのもやめよう。そんなに時間に
余裕があるわけでもないし。
あ、そうだ。もう一人挨拶しなきゃいけない人が居たな。こっち
もアポなしだけど突撃してみるか。
−−−
﹁ユゼフさん。お久しぶりですね﹂
﹁申し訳ありません。散々お世話になったのにお礼も挨拶も出来ず
に﹂
﹁大丈夫ですよ﹂
リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。東大陸帝国
1101
軍の内部情報を俺に売ってくれた人であり、友人の婚約者である。
プラチナブロンドの長い髪と体の一部のでかさは世の男性陣の目を
惹くこと間違いなし。
婚約者が友人でなければ口説こうなどと思ったかもしれないけど、
そこは自重する。
思えばイケメンの商家の息子を婚約者に持つ大社長の美人令嬢っ
て勝ち組ってレベルじゃねーわ。
﹁それで、今日はどんな御用ですか?﹂
﹁御用、という程の用ではないのですが⋮⋮今日を以って私は帝国
を去ることになったので、お別れの挨拶に﹂
﹁あら、そうなのですか⋮⋮﹂
リゼルさんがしゅんとしてる。ちょっと可愛い。
﹁愛しのラデックさんのお話ができる貴重な友人が⋮⋮﹂
あ、違ったわ単なる惚気だったわ。帰国したらラデックを2、3
発殴らなきゃ。
ラデックの話題をできる人がいなくなると分かったリゼルさんは、
その後怒涛の勢いで惚気話に花を咲かせていた。遠距離恋愛っての
もあるからだろうが、にしてもラブラブである。
俺はその惚気全開の話題を適当なところでやめさせて、本題に入
る。
﹁コホン。えー、今日は別れの挨拶ついでに、リゼルさんにちょっ
とご相談があって来ました﹂
﹁相談ですか?﹂
﹁えぇ﹂
1102
そう言って俺は懐から財布を取り出す。中に入っているのは当然
オストマルク硬貨。安月給の俺のなけなしの財産だが、オストマル
クから去るとあってはこれはもう無用の長物。シレジア硬貨に両替
しても良いけど、その前に少し買い物がしたい。
いちば
﹁大してお金があるわけではありませんが⋮⋮これで買い物をした
いんですよ﹂
﹁買い物ですか? なら普通の市場の方がいいかと思いますが?﹂
﹁それはそうなんですけどね。普通の買い物ではないので?﹂
﹁⋮⋮はて?﹂
﹁贈り物をしたいんですよ。世話になった人に渡そうと思ったんで
すが、忙しいのと恥ずかしいのとで買えなくてですね。それに私は
センスがないみたいなので﹂
前世じゃそういうのは知恵袋で適当に調べて密林でポチればなん
とかなったけど、そんな便利なシステムがこの世界にあるはずがな
い。センスがあってそれを用意できる人と言うのは、オストマルク
じゃリゼルさんくらいしか知らないのだ。
﹁なるほど。それで私が代わりに見繕って、その人に渡せばいいと
いうことですか?﹂
﹁そういうことです﹂
﹁ふむ⋮⋮。わかりました。本来なら手数料を取るところですが、
友人の頼みということで無料でお受けいたします﹂
﹁ありがとうございます﹂
良かった。手数料と称してお金半分取られるかと思ったわ。
﹁それで、渡す相手はどなたですか?﹂
﹁えーっとですね。リゼルさんも良く知ってる方です。具体的に言
1103
えば、高級官僚の父親を持つ士官候補生で、情報整理能力に長けて、
でもあまり感情を表に出さない某才女なんですが﹂
﹁⋮⋮ふむ。最後の一文を省けば心当たりは1人しかいませんね﹂
え? あの人そんなに感情表に出さないでしょ? 無表情が大得
意だし。それともリゼルさんには結構感情を表に出すのだろうか。
﹁彼女には散々お世話になったので。お願いします﹂
﹁わかりました。私もその方にお礼がしたかったですし、いい機会
です﹂
こうして俺とリゼルさんの今年最後の商談が成立した。
だいぶ待たせてしまった御者さんに詫びを入れながら、公用馬車
に乗り込み、一路シレジアを目指す。と言っても1日で着くわけが
ないので、幾度か宿場町で休息を挟む。そして3日後の7月25日
には、ついにオストマルク=シレジア国境付近に到着した。
欲を言えばクロスノに寄りたかったが、それだと王都到着が数日
遅れてしまうから自重した。ベルクソンやアンダさんにも挨拶はし
たかったが、仕方ない。
8ヶ月しかいなかったけど、もう今日で最後なのだと思うと感慨
深い。明日には再び俺はシレジアの土を踏むことになる。
﹁⋮⋮オストマルクの物価が安くなるか、俺の給料が高くなったら、
また来ようかな﹂
1104
−−−
ユゼフがシレジア=オストマルク国境に到着した頃、ある2人の
女性が、東大陸帝国弁務官府前の喫茶店で長閑に会話をしていた。
1人は、オストマルク帝国士官候補生にして伯爵令嬢のフィーネ・
フォン・リンツ。
1人は、グリルパルツァー商会社長令嬢にして男爵令嬢のリゼル・
エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。
﹁時間的に言えば、大尉はそろそろ国境に到着した頃でしょうか﹂
フィーネが唐突にそう呟くと、それに反応したリゼルはすかさず
茶化す。
﹁フィーネさんは、あの方が本当に気に入ってるようですね﹂
﹁まさか﹂
フィーネは無感動に即答し、紅茶を飲む。今回はちゃんと中身も
入っていたが、リゼルはその行動をも予測していた。この数ヶ月、
彼女らは何度か一緒にお茶をしていた。その時に、リゼルはフィー
ネの癖を見抜いていたのである。
無論、その癖を指摘するようなことはしない。それを見ることが、
リゼルの楽しみのひとつだからである。
﹁あ、そうそう。時間で思い出しました。渡したいものがあるんで
す﹂
1105
リゼルはそう言うと、持参した鞄の中から小さな箱を取り出し、
それをフィーネの目の前に置いた
フィーネは訝しみながらその箱を手に取り、箱の正体をリゼルに
問い質す。
﹁これは?﹂
﹁ユゼフさんからの贈り物です。﹃謝意は形のあるもので﹄﹂
﹁⋮⋮﹂
フィーネはその言葉を覚えていた。なぜなら、自分が言った台詞
である。リゼル、いやグリルパルツァー商会によって東大陸帝国軍
の子細な情報が手に入った。その情報はユゼフにもたらされ、彼が
フィーネに﹁エミリア王女の下にこの情報を届けて欲しい﹂と願い
出た時、彼女が言った台詞だ。
﹃謝意はいずれ形のあるものでお願いします﹄
彼女はそれを冗談で言ったのだが、律儀にもあの男はその約束を
守ったのである。
その行動にフィーネは感動を覚えるよりも前に呆れ果てた。まっ
たくもって行動が読めない人物である、と。
﹁⋮⋮開けてもよろしいですか?﹂
﹁どうぞ。と言うより、今開けてほしいですね﹂
リゼルのその言葉は﹁一見鉄仮面に見えるフィーネがどんな反応
を見せるか﹂というものだったが、そんな事情を知ってか知らずか、
フィーネは思い切ってその箱を開けた。
箱の中の物を取り出すと、彼女はそれが何かをすぐに理解した。
1106
﹁⋮⋮懐中時計、ですか?﹂
﹁はい。ヘルヴェティアの時計職人が作った、1年で1分しか狂わ
ないと言われる時計です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
この世界にも当然時計はあるが、職人がひとつひとつ丁寧に作る
ということもあって、とても高価なものになっている。ましてや、
時計職人を多く擁することで有名なヘルヴェティアの高精度懐中時
計ともなれば、価格は跳ね上がる。
当然、ユゼフのような安月給で買える物ではない。だからこそ、
フィーネは理解した。
﹁⋮⋮ありがとうございます。リゼルさん﹂
﹁ふふ。おかしいですね。それを贈ったのはユゼフさんですよ﹂
﹁でも、私は貴女にお礼を言います。ありがとうございます、と﹂
リゼルも、直接自分の手で友人に贈り物をするのが恥ずかしかっ
た。だから、リゼルはユゼフを言い訳にしてこの贈り物をしたのだ
と。
2人が贈ってくれたこの時計は、それが壊れて動かなくなった時
も、フィーネは後生大事に懐にしまい続けたと言う。
1107
謝意︵後書き︶
前話投稿時、フィーネさん関連の感想が20件以上来て驚きを隠せ
ない作者。なお、次回以降彼女の出番は暫くない予定。
1108
次の任地
突然ですがここで問題です。
王都シロンスクで、8ヶ月ぶりに出会った友人兼剣術の師範であ
るサラ・マリノフスカに子供が出来たと知った時の俺の気持ちを1
40字以内で答えなさい。
−−−
時は休戦発効から2週間程が経過し、6月28日までに遡る。
その日、シレジア王国軍総合作戦本部高等参事官エミリア・シレ
ジア少佐を筆頭に、エミリアの侍従武官であるマヤ・クラクフスカ
中尉、近衛師団第3騎兵連隊所属のサラ・マリノフスカ大尉、補給
参謀補ラスドワフ・ノヴァク中尉などの一部の士官は、一足先に王
都シロンスクに帰還した。
暫くは王都でゆっくりと戦場の垢を落とし、そしてそれが終われ
ば各員は戦後処理に追われた。
そしてそれも一段落したのは7月7日、この日オストマルク駐在
武官ユゼフ・ワレサに対する召還命令が出されたが、それと時を同
じくして軍務省内において今回の戦争における論功行賞が行われた。
1109
軍務省庁舎外でエミリアら4人は、かつて士官学校卒業直後の時
のようにその人事を見せ合った。ただし、ユゼフはいないが。
だがそれに先立って、エミリアは陰鬱な顔で大きなため息を吐い
ていた。
﹁どうしたの、エミリア?﹂
﹁いえ、それが⋮⋮﹂
エミリアはおずおずと言った感じで、先ほど人事局から手渡され
た辞令をサラに見せた。
﹁えーっと⋮⋮。大佐に昇進⋮⋮? え、あの、エミリア大佐にな
ったの!?﹂
大佐。
通常であれば40歳手前でやっとこの階級になる。最速でも30
歳手前なのだが、エミリアはなんと16歳で大佐となってしまった。
確かにエミリアは今回の戦争において多くの作戦を立案し、そし
てシレジアに勝利をもたらした立役者とも言える存在だった。だが
それ以上に、王族と言う彼女の独特の立場によるものであるところ
が大きいだろう。それでも、16歳の少女に大佐は些かやり過ぎ感
はある。
大佐ともなれば、率いる部隊は1個連隊約3000が通例である。
後方勤務であっても、参事官職や各部局長級の身分が与えられるだ
ろう。
だが、エミリアの悩みの種はそれだけではなかった。
﹁問題は次の役職なのですが⋮⋮﹂
1110
﹁役職⋮⋮? えーっと⋮⋮軍事査閲官? 勤務地はクラクフ⋮⋮
ってどっかで聞いたことあるような⋮⋮﹂
﹁サラさん。マヤの姓は覚えてますか?﹂
﹁⋮⋮ヴァルタ?﹂
サラの冗談としか思えないその発言に、マヤは慌ててツッコミを
入れる。
﹁それは偽名の方だ。本名はマヤ・クラクフスカと言う﹂
﹁あぁ⋮⋮なるほど。そう言えば名前に﹃クラクフ﹄って入ってる
わね。それで身に覚えがあったのね﹂
地名が名字となることは、シレジアにおいては別に珍しい話では
ない。何しろ料理名が名字になる国である。
だがマヤ・クラクフスカの場合、通常のそれとは些か事情が異な
る。
﹁クラクフという都市名の由来は、クラクフスキから来ている﹂
﹁え? ってことは⋮⋮﹂
﹁そう。クラクフという街は、クラクフスキ公爵領の領都だ﹂
クラクフスキ公爵領。
シレジア南部に位置し、領都クラクフは王国において一、二を争
う経済力を持っている。そしてさらに、クラクフと同規模の都市で
あるカトヴィッツを擁しているため、全体で見れば王都シロンスク
を凌駕している。
﹁⋮⋮つまりエミリアはクラクフスキ公爵領勤務ってことね。でも
軍事査閲官ってなにをする役職なの?﹂
1111
その問いに答えたのは、クラクフスキ公爵令嬢で、将来において
その身分になるかもしれないマヤであった。
﹁軍事査閲官は、クラクフスキ公爵領の領主、つまり私の兄である
ヴィトルト・クラクフスキを軍事面において補佐し、時に業務を委
任される。クラクフスキ公爵領は人口と経済力が多大なだけに、仕
事量も多いからな﹂
つまるところ、クラクフスキ公爵領軍事査閲官とは、当地限定の
軍務尚書であると言い換えても良い。その職権はクラクフスキ公爵
領における軍政全般に及ぶ。
﹁でも、王都の総合作戦本部勤務だったのにな。なんか左遷にも見
える﹂
そう指摘したのはラデックだった。確かに、軍事査閲官の地位は
相当高いものだが、総合作戦本部高等参事官という職に比べたら、
果たしてどちらが良いかということになる。
﹁だからこそ、エミリア殿下を大佐に特進させてお茶を濁したのだ
ろうな﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
サラとラデックはそれで納得したが、当事者であるエミリアは違
う見解を示していた。
﹁いえ、恐らくこれはお父様の意向が多分に含まれていると思われ
ます﹂
﹁え、つまりまた国王陛下が人事に介入したと?﹂
﹁はい。証拠はありませんが﹂
1112
﹁どういうことよ?﹂
﹁今回、私は高等参事官として最前線にまで行きました。実際に敵
と剣を交えることはありませんでしたが、お父様はそれを憂慮した
のでしょう﹂
エミリアは、自ら前線に立って国民を率いることを使命に士官学
校に入り、そして軍に入った。だが国王陛下であり彼女の父親であ
るフランツ・シレジアは、娘に身の危険が及ばないよう、そして監
視がしやすい王都勤務とした。
だが戦争によって彼女は前線に立った。それが彼女が望んだ結果
にせよ、国王がはいそうですかと黙っているわけにはいかない。
オストマルクが友好国となった現在、クラクフスキ公爵領の軍事
的重要性は下がりつつあり、そしてまた懇意にしている貴族の下で
あれば監視も効く。そして、彼女が自由に戦場に立つことがないよ
うに、その職権をクラクフスキ公爵領に限定させた軍事査閲官と言
う職を与えたのである。
﹁はぁ⋮⋮まぁ、人事には従いましょう。着任日まで、早急に仕事
を片付けねばなりませんね﹂
そして、このエミリアの人事によって、他の2人の女性士官の次
の配属先も決定された。
﹁エミリアがクラクフに行くなら、私もクラクフに行くのね﹂
サラ・マリノフスカは少佐に昇進した。これは今回の戦争におい
て多大な武勲を立てたからであり、その功績が正当に評価された結
果である。
エミリアが16歳で大佐となったため、この人事は影が薄いよう
1113
にも見える。だが、一般の士官が見ればこの人事も十分に異常であ
カヴァレル
る。18歳で少佐というのは、大貴族の血統を持つ者でもない限り
あり得ない話だからだ。それを、無名の騎士の娘でしかないサラが
なってしまったのである。
そして彼女の次の役職は、近衛師団第3騎兵連隊第3科長である。
これは連隊内において連隊長、副連隊長に次ぐ地位である。それと
同時に、副連隊長は第1大隊隊長、第3科長は第2大隊隊長も兼任
することになっている。
また近衛師団第3騎兵連隊という部隊は、本来は有事におけるエ
ミリア王女の護衛専門の部隊である。今回の戦争においては、実戦
部隊にして精鋭の部隊としての活躍が目立っていたが、通常の業務
は護衛である。
そのため、エミリアがクラクフに異動となれば、必然的にサラも
クラクフへ転属となる。
﹁また3人が同じ勤務地とは、いやはや嬉しいね﹂
そして当然、エミリア王女の侍従武官であるマヤ・クラクフスカ
もエミリアに同行することになる。彼女も大尉に昇進しているが、
役職は変わっていない。
問題は残る1人、ラスドワフ・ノヴァクの辞令である。
﹁ラデックくんはどうだったんだい? 昇進出来たのかい?﹂
﹁えぇ。おかげさまで大尉に昇進ですよ﹂
ラデックも、今回の戦争において事務を滞らせることなく補給業
務を円滑に行ったことが評価され大尉へと昇進した。それに伴い、
1114
新たな役職が提供された。
﹁次の役職は、クラクフ駐屯地補給参謀補ですよ﹂
﹁ラデックも!?﹂
こうして、4人は同じクラクフスキ公爵領勤務となったわけであ
る。
これが偶然ではなく、ある人物が意図して行ったことだと言うこ
とは、この時点では誰も気づいてはおらず、各人は昇進と異動・転
属に伴う残務処理と業務引き継ぎ作業に没頭した。
1115
サラの散歩
エミリア王女が王都を離れ、クラクフへ向かう日は7月31日と
定められた。これは高等参事官職の残務処理が思ったよりも多いこ
とが原因とされていたが、一方では別の事情も存在していた。
エミリアが王都を離れれば、それと同時に近衛師団第3騎兵連隊
も移動する。だが、その第3騎兵連隊に所属している1人の女性士
官が、ここ最近急に業務が多くなったからである。
今回の戦争において、精鋭である近衛師団と、騎兵隊の有用性が
再評価された。そしてその近衛師団で最も戦果が大きかった第15
小隊は、軍の高級将校からは自然と注目を浴びるようになる。
その戦果の源は、サラ・マリノフスカ少佐による熱血指導による
ものと分かると、必然的に﹁我が隊の教育もしてはくれないだろう
か﹂という依頼が公式・非公式を問わず殺到した。そしてさらに第
3騎兵連隊が王都を離れると分かると、さらに多くの依頼が彼女の
下に流れ込んできた。
あまりの多さに、彼女は休日返上で他の部隊の教育をする羽目に
なった。なまじ作戦と訓練を司る第3科長に任じられたために、そ
れを拒否することができずに部下の訓練に励まなければならなかっ
た。
またその教育時において、将官級の人間が見物に訪れることもあ
って、さらに精神的な負担が増大したのである。
そのおかげで、この1ヶ月における近衛師団や王都防衛隊各隊の
練度は目に見えて上昇したのだが、それと反比例して彼女の体力は
減っていき、ユゼフ・ワレサが王都へ戻ってくると言う情報さえも
聞き逃すほど疲労していた。
1116
そして7月27日。
大佐に昇進し、そして第3騎兵連隊の連隊長となったミーゼルか
ら2日間の休日を半ば強引にもぎ取ることに成功したサラは、よう
やく体を休めることができた。7月27日は、佐官以上の者に与え
られる官舎で一日中寝て過ごし、翌7月28日は朝の訓練を終えた
後は王都観光に勤しむことになった。
﹁うーん、でもやることないわね⋮⋮﹂
彼女は王都の事情を深く知ってるわけではない。王都に居たのは
開戦前のほんの数ヶ月であり、その殆どは訓練に専念していたのだ。
本格的な散歩は、大尉任官前、ユゼフと一緒に喫茶店でお茶をした
時以来となる。
その一連の出来事を思い出した彼女は、若干頬を赤らめつつ、そ
の喫茶店を探し出すことにした。だがその喫茶店がどこにあるかは
既に記憶の遥か彼方にあり、探し出すことなど最早不可能だった。
﹁ま、散歩してたら見つかるでしょ﹂
彼女はやや投げやりな感じで王都の街を闊歩する。大した私服を
持っていない彼女は休日にも関わらず軍服姿のまま散歩をしていた
ため、やや人々からは敬遠されていた。そのためか、通行人に道を
尋ねようとしても、彼らはその前にどこか遠くへ行ってしまうのだ
った。
﹁⋮⋮喫茶店の前に、服買おうかしら﹂
1117
だが、その希望が叶うことはなかった。なぜなら、彼女は喫茶店
の位置以上に服屋の位置を知らなかったからである。
結局サラは王都を適当に歩くしかなくなり、そして気づけばシロ
ンスクの貧民街を歩いていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
事ここに至って、彼女は迷子になったことをようやく認めた。だ
が認めたところで現実は変わらなかった。貧民街の住民は、サラの
着ている軍服に過剰に反応し、姿すら見せなかったため、道を聞く
という選択肢がなくなったのである。
﹁⋮⋮⋮⋮えーっと、左、かしら﹂
人は道に迷った時、自然と左へ進んでしまうという話がある。例
えば何も目標物がない砂漠では、右利きの人間は、真っ直ぐ進んで
いるつもりでも徐々に左へ曲がってしまい、結局は大きな円を描い
て元の位置に戻ってしまうらしい。
今のサラの状態は、まさしくそれだった。
彼女は30分間貧民街を歩き続けた結果、元の場所に戻ったので
ある。
﹁⋮⋮訓練だ何だで忙しかったせいか、感覚が鈍ったらしいわね﹂
言い訳のように聞こえるが、確かにヴァラヴィリエの補給基地を
襲った時の彼女であればこんなことにはならなかっただろう。
彼女はもう一度考え直し、左がダメだったから今度は右に進もう
と結論付けた。
だがその時、彼女の右後方で緊迫した声が聞こえた。
1118
﹁やめてください! おねがいです!﹂
﹁っるせぇ! 黙ってろ!﹂
その声がサラの耳に入った途端、彼女は走り出した。その声がす
る方向へと、全力で。
貧民街は、区画整理などと言う言葉とは無縁な街。建物が無秩序
に林立し、街路は複雑である。そのため音も反響してしまい、音源
の正確な位置を辿るのはかなり困難である。
だがしかし、彼女は持ち前の耳の良さから、最短距離で、最高の
効率で音源に向かって走った。
常人であれば30分はかかるだろう場所の特定を、彼女はたった
2分でやってのけた。
そしてその音源に居たのは、3人の男と、壁に追い詰められ蹲り
頭を必死に腕で庇っている1人の少女だった。
それを見たサラが、冷静でいられるはずもなかった。
彼女は何も考えず全速力で突っ込み、そして拳を握り、速力と持
てるだけの全ての力を、最も恰幅の良く、そして偉そうな男に向か
って殴り抜いた。
数分の戦闘︱︱いや、一方的な虐殺と言った方が適確か︱︱によ
って、3人の男は頭から血を流しながら退散した。彼らが死ぬこと
はないだろうが、死ぬような思いをしたことは確かである。
一方のサラは右拳を痛めた程度で、無傷と言って良かった。
1119
﹁大丈夫?﹂
サラが振り向くと、そこには蹲ったままの少女が居た。外見年齢
は6歳前後だが、栄養状態の悪い貧民街ではそれはあてに出来ない
だろう。そして少女の足元には、破れかけた小さな麻袋がある。穴
からはシレジア銅貨が辛うじて見える。つまるところ、これがあの
男たちに襲われた理由である。
少女の身体はあちこちに傷がある。それがあの男たちにつけられ
たものなのか、それとも別の要因によるものなのかは判断がつかな
かった。だが、それを放置することはサラにはできない。サラは治
癒魔術を使えるわけではないが、それでも簡単な傷の治療くらいは
できる。
そう思って、サラは少女に手を伸ばした。だが
﹁ご、ごめんなさい!﹂
少女は再び怯えてしまい、腕で頭を庇うような体勢になった。
サラはこの時、自分が軍服を身に着けていることを思い出した。
つまり目の前のこの少女は、軍人が怖いのである。
貧民街の子供が軍人を怖がる理由など枚挙に暇がない。
そう思った彼女は静かに腰を下ろし、少女と目線を合わせて諭す
ように言った。
﹁大丈夫よ。私は貴女に危害を加えることはしないわ﹂
もしサラが男であれば、この言葉は少女に信用されることはなか
っただろう。だが彼女は間違いなく、とりあえず生物学上は女性で
あったことが幸いだった。
﹁⋮⋮⋮⋮ほんとう?﹂
1120
﹁本当よ。私、嘘つくの嫌いだから﹂
サラがそう毅然と言うと、少女もそれを信じたのかおずおずと腕
を頭から離し、そして落ちていた硬貨の入った麻袋を拾い上げた。
そしてそのまま袋を開けてひっくり返し、サラに対してその袋の中
身を全て︱︱と言ってもシレジア銅貨2枚しか入っていなかったが
︱︱を差し出した。
それに対してサラは、静かに首を横に振った。
﹁それは貴女のよ﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁それよりも、私は貴女の名前が知りたいわ﹂
﹁なまえ⋮⋮?﹂
﹁そうよ。名前﹂
﹁⋮⋮わからない﹂
貧民街の子供に名前がない場合、大抵は捨て子である。物心つく
前に貧民街に捨てられ、そして貧民街の住民の手によって生き延び
る。だがその過程において、名付けをされることはない。名前を付
けてしまうと、愛着が湧いてしまうからである。自分1人を養うの
に精一杯なのに、さらに子供1人を養うことはできない。
そのため、殆ど多くの場合は捨て子は名前も付けられることなく、
そして最終的には生き延びることは出来ず死に至るのである。
その事情は、サラも知っていた。
﹁⋮⋮じゃあ、家は?﹂
ニエ
サラはそう聞いたが、答えはわかっていた。名前がない子に、家
なんてものがあるはずもない。当然少女の答えは﹁否﹂だった。
1121
﹁わかった﹂
サラは短く言うと、唐突に少女を抱きかかえ、そして歩き出した。
﹁あ、あの!﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮ど、どこに?﹂
少女はたどたどしく質問した。
それに対して、サラはハッキリと答えた。
﹁私の家。とりあえず、お風呂に入りましょうか﹂
7月28日。
王都シロンスクの貧民街の人口が1人減り、そしてサラがユゼフ
と再会したのはこの日の出来事である。
1122
サラの散歩︵後書き︶
サラさんを次席副連隊長から、いくつかコメントのあった第3科長
に変更しました。皆さんの貴重なご意見本当にありがとうございま
す。これからもどうぞよしなに
1123
名付け親
7月28日。
軍務省の出頭命令に従って王都を歩いていたらサラに久しぶりに
会った。
声を掛けようかと思ったら、彼女は子連れだった。
な、何を言ってるかわからねーと思うが、俺も何が何だか全然わ
からん。
﹁⋮⋮え、えーっと、久しぶりねユゼフ﹂
サラも凄い気まずそうな顔をしている。
こういう時ってどういう風に言えばいいの? 普通におめでとう
って言えばいいの?
そして考え抜いたあげく、俺が言った言葉はこんなのだ。
﹁⋮⋮お幸せに﹂
﹁何の話!?﹂
何の話って、文字通りの意味だけど。
うんうん。サラさん結局あのナルシスト子爵と結婚して早くも子
供を作ったんだ。なら友人としては祝ってあげないとね。うん。
と思った矢先殴られた。久しぶりに味わうこの痛み。この痛みが、
サラが子連れであることが現実であると教えてくれていた。顔と心
が痛い。
1124
﹁なんか勘違いしてるような気がするんだけど、よく見なさい!﹂
そう言うと彼女は、ひょいとその子供を持ち上げた。
ふむふむ。外見年齢は6歳前後でたぶん女の子。服はボロボロだ
が、お風呂に入った直後なのだろうか身体や髪は綺麗である。その
髪は白色だ。⋮⋮白色?
﹁ハッ! 髪が赤色じゃない!? と言うことはサラさんの子供じ
ゃないな!﹂
﹁理由が間違ってるのに結論が当たってるのがムカつくし第一さん
付けすんじゃないわよ!!﹂
この後滅茶苦茶殴られた。
数分後。
肩で息をしながらようやく俺をサンドバックするのをやめてくれ
た彼女に対して俺は土下座をしながら言い訳をする。王都のど真ん
中で。
﹁いや、わかってたんだよ? サラが18歳で6歳くらいの子供を
持つはずがないし、もし仮に出来ていたとしてもそんなボロボロの
服を着させるようなサラじゃないって﹂
﹁わかればいいのよ﹂
ようやく許してくれたらしいので、俺は土下座体勢を終了させて
立ち上がる。周囲の目と王都の地面は冷たかったですハイ。
1125
﹁それで、この子どうしたの?﹂
﹁拾ったのよ﹂
いやそんな犬猫を拾ったみたいに言うなよ。
﹁拾ってどうするの?﹂
﹁育てるわ!﹂
だから犬猫みたいに以下略。
﹁どうやって育てるつもり?﹂
﹁一緒に官舎に住めばいいのよ!﹂
だから⋮⋮あぁ、もういいや。突っ込むだけ無駄だ。
﹁って、今官舎って言った?﹂
﹁言ったけど?﹂
そう言うとサラは何かに気付いたようで、ここぞとばかりにドヤ
顔で階級章を見せびらかしてきた。見ると、そこには王国軍少佐を
意味する階級章がある。
⋮⋮うん。なんとなく想像ついたけどさ、出世はやくない?
官舎は基本的に佐官以上の者に与えられ、尉官以下の者は兵舎に
住むことになる。どう違うかと言えば、官舎の方が豪華で兵舎は詰
め込み式ってことだな。
確かに官舎なら広さもそれなりにあるから子供1人を育てられる
余裕もあるし、少佐なら給料も良いからその辺も問題ないか。
⋮⋮あれ? もしかしてコレ止められないっぽい?
1126
﹁⋮⋮ちなみにどこで拾ったの? だいたい想像つくけど﹂
﹁貧民街よ!﹂
ですよね。
うーん、褒められた事ではないんだよなぁ⋮⋮。いや、素晴らし
い事ではあるかもしれないけど。
﹁ねぇ、もしかしてまだ拾う気ある?﹂
﹁⋮⋮ないわ。今の所はね﹂
最後の一言は引っ掛かるけど、それなら良い。孤児院を開く勢い
で子供を拾い集める程経済力はないし。
﹁じゃ、それが最後だからね?﹂
﹁⋮⋮わかってる﹂
﹁よし﹂
サラは物凄くむすーっとした顔をしている。うん、その犬猫を拾
ったような感覚はやめようか。
でも言質は取った。サラに言質が有効かはわからないが。
﹁そんなことより!﹂
え? 子供を拾ったことが﹁そんなこと﹂扱いなの? おかしく
ない?
﹁ユゼフ、この子の名付け親になってあげて!﹂
﹁はい?﹂
﹁この子、名前がないのよ!﹂
1127
﹁あ、そうなの?﹂
と言うことは捨て子かな。名字もないってことだろうか。
﹁って、サラが名付け親になれば良くない?﹂
﹁マリノフスキ家では女の子が生まれたら父親が名付けするのが決
まりなのよ﹂
﹁へー﹂
じゃあサラという名前も、父親としては赤点な騎士様が名付けし
たってことね。
﹁って、俺はいつからマリノフスキ家になったんだ﹂
﹁いいから﹂
﹁いや、いいからって⋮⋮あ、わかったから、その肩を掴むのやめ
て?﹂
えーっと、名前ね。名前。俺の肩が砕ける前に考えないとダメだ
な。
単純に考えよう。サラも犬猫理論で子供拾ったから、俺も犬猫の
名付けみたいに外見的特徴から名付けしようかな。
とりあえずその少女を眺めてみ⋮⋮ってあれ? どこ行った?
﹁サラ? あの子は?﹂
﹁ん? 私の後ろに居るわよ?﹂
そう言う彼女の後ろを見てみる。確かにサラの後ろで彼女の服を
掴みながらちょっと涙目でぷるぷるしてる。やだ、かわいい。⋮⋮
ってこれ怯えられてる?
1128
﹁ねぇ。なんで俺怯えられてるわけ?﹂
﹁知らないわよ。あんた私の知らないところで悪さしたんじゃない
でしょうね?﹂
﹁いや、してな⋮⋮って痛いよ! 力入れないで!?﹂
俺の肩を掴むサラの握力が3割増しになった気がする。アカン。
本当に肩の骨が砕ける。
少女は明らかに俺を避けるかのような動きをする。そのためその
白い髪の毛以外を見ることはできない。
仕方ない。じゃあその髪の毛由来の名前を付けよう。
﹁じゃあ名前は﹃シロ﹄で﹂
﹁今度は首ね﹂
﹁待って冗談だから首はやめて死んじゃう﹂
流石にふざけ過ぎた。安直過ぎだし犬の名前だし。
白、白と言えば⋮⋮。
と、そこで思い出したのが、次席補佐官してた時によく行った喫
茶店の名前である。あの花も白色だった。そんでシレジア人女性風
に、名前の最後の音を﹁A﹂にする。サラもエミリア殿下もマヤさ
んも、非実在彼女フィーナさんもみんな﹁A﹂で終わってるし。そ
れにちょっと日本人女性名風になるし、如何にも俺が名付けたっぽ
い名前になる。
うん、これに決定。
﹁えーっと、﹃ユリア﹄ってのはどうだろうか﹂
﹁⋮⋮ゆりあ?﹂
1129
真っ先に反応したのはその少女だった。サラに隠れながら顔を半
分だけひょっこり出してる。かわいい。ハイエースしたい。
おっといかん、邪心が⋮⋮。
﹁そう。ユリは花の名前さ﹂
﹁⋮⋮﹂
気に入ってくれただろうか? ちなみにシレジアでは百合の花の
事をリリアと呼ぶ。だからリリアでも良かったけど、日本語要素入
れたくてね。ユリアって名前も珍しいってわけじゃないし。
﹁サラおねーちゃん﹂
﹁ん? 何?﹂
﹁はなしてあげて﹂
﹁わかったわ﹂
ふぅ。やっと解放された。どうやら彼女は気に入ってくれたらし
い。
って、サラお姉ちゃんって呼ばせてるんだな。まぁサラおばちゃ
まとかよりはずっといいけど。
﹁ま、この子⋮⋮ユリアも気に入ってるようだから、それを採用す
るわ﹂
よし。首の皮一枚繋がったな。比喩じゃなくて本当の意味で繋が
ったわ。
﹁じゃあ、貴女の名前は今日からユリア・マリノフスカ=ワレサね
!﹂
﹁おいちょっと待て﹂
1130
その後、数分間にわたる交渉とボクシングにより、この少女はユ
リア・ジェリニスカという名前になった。
法律上の保護者はサラ・マリノフスカ。サラは俺も保護者にしよ
うとしたが、それは丁重にお断りしといた。
1131
クラクフへ
サラとユリアと一緒に軍務省庁舎に向かう途中、ラデックと再会
した。彼はユリアのことを見た瞬間
﹁お、お前らいつの間に子供なんて⋮⋮﹂
全てを言い終わる前にラデックはサラの拳によって数m程吹っ飛
んだ。残念ながら当然。
そしてエミリア殿下とマヤさんとも再会。やはりと言うかなんと
言うか、この2人も
﹁つ、ついに2人が!﹂
﹁おめでとう⋮⋮!﹂
勿論、王女様に拳を突き付けるサラではなかったが﹁どうしてみ
んなしてそうなるのよ!﹂と顔を真っ赤にしつつ、俺が脇から事情
をみんなに説明した。
うん。どうやら俺の思考は正常だったらしい。良かった。
軍務省人事局に出頭し、新たな辞令を受け取りさっさと退室。軍
務省の空気は大使館で事務処理を延々としていた時のトラウマが思
い起こされるので長居は無用である。
﹁で、どうだったの?﹂
1132
庁舎から出ると、そこにはいつものメンバーが待機していた。一
応みんな現役の軍人なのに、なんでみんなして暇そうにしてるの?
一斉休暇なの?
﹁えーっとね。クラクフスキ公爵領だって。役職名は公爵領の軍事
参事官⋮⋮って、もしかしてまた事務仕事じゃ⋮⋮﹂
なんだろう。大使館と言い今回と言い。事務仕事はそんなに得意
じゃないんだけど。戦術研究科を卒業した意味とはいったいなんな
んだ?
が、その人事を聞いた面々は不思議な顔をしていた。
﹁⋮⋮ユゼフさんも?﹂
﹁⋮⋮﹃も﹄?﹂
聞けば、エミリア殿下を筆頭にみんな昇進の上クラクフスキ公爵
領へ転任らしい。なにそれ怖い。絶対誰か人事に介入しただろ!
﹁って、皆昇進してるんだね﹂
﹁え? ユゼフ昇進してないの!?﹂
﹁そうみたい﹂
大使館で結構頑張って情報収集したのに、昇進は見送られた。理
由は人事局長曰く﹁独断専行が過ぎると報告書があった。確かに功
績は大きいが、軍隊という組織で独断専行は許されない。だから、
功績と失敗を相殺して昇進はなしになった﹂らしい。
まぁ農民出身である俺がそんなにホイホイ出世できるわけでもな
いから、それで無理矢理納得できたけど、どうやらエミリア殿下や
サラは納得できないらしい。
特にサラが。
1133
﹁ユゼフ。ユリアを頼むわ。ちょっと人事局長に会ってくる﹂
﹁やめなさい﹂
﹁なんでよ! 会いに行くだけよ!?﹂
﹁絶対会いに行くだけじゃ済まないからだよ!﹂
たぶんこのままじゃ数発殴るだろう。
とりあえずサラを羽交い絞めにして止める。ついでにイケメンラ
デックが何やらユリアに吹き込んでいたようで、10秒後ユリアが
通せんぼをしたおかげでサラの暴走は止まった。
ふむ。どうやらユリアは良いブレーキ役として成長してくれそう
だ。
−−−
7月31日。
エミリア王女を筆頭に、約3000名のシレジア人が一斉に民族
大移動を始める。目的地はクラクフスキ公爵領クラクフ。
当地の軍事査閲官として赴任する予定のエミリア大佐と、その副
官であるマヤ大尉は王族専用の馬車に乗り、俺とラデックとユリア
は荷馬車に便乗。サラは第3騎兵連隊第2大隊長なので普通に馬に
乗って馬車の護衛をする。
道中暇だったので、俺とラデックは積もる話をしていた。ちなみ
1134
にユリアは爆睡中。
﹁んで、ユゼフはオストマルクで何やってたんだ?﹂
﹁んー⋮⋮外交?﹂
﹁具体的に﹂
﹁そうだなー⋮⋮。リゼルさんに会って、リゼルさんと一緒に仕事
したり、リゼルさんと一緒に馬車に乗ったり、リゼルさんと一緒に
食事したり、リゼルさんと一緒に買い物したり、リゼルさんと一緒
に結婚式場を見繕ったりしてたかな﹂
﹁おいちょっと待てそれのどこが外交だ。ってかお前人の婚約者と
何を﹂
﹁あとついでに、ラデックから送られてきた惚気満載の手紙をリゼ
ルさんに渡しておいた﹂
﹁本当にお前は何をやってるんだ!?﹂
﹁静かに。ユリアが起きる﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
こう言っちゃなんだけど、子供って便利だな。傍に居るだけで相
手の怒りを鎮めることができる。
にしても、リゼルさんの事を話した途端ラデックの顔が赤くなっ
ている。それが怒っているからなのか、それとも恥ずかしがってる
のかはわからない。でも見てて楽しいので今後もこれをネタに彼を
からかってみることにしよう。
なに、気にすることはない。飽きたらやめるから。飽きる予定な
いけどね。
﹁ラデックの方はどうなんだ?﹂
﹁ん? 別に何もない。ただ書類と格闘してただけだ﹂
﹁それは⋮⋮大変だっただろうね﹂
﹁まぁなー。って、お前もそれで苦労した口か﹂
1135
﹁うん﹂
大使館内での仕事は事務ばっかだったし、そして俺の事務処理能
力が低いせいか結構滞らせてしまっていた。挙句の果てには情報収
集と称して上司に仕事を丸投げしていた日々⋮⋮。てへ。
⋮⋮ダムロッシュ少佐ごめんなさい。あと後任のクランスキーさ
んも頑張ってね。
﹁てか、なんでまた俺ら一緒の勤務地なんだ? あり得ないだろ?﹂
﹁確かにね⋮⋮5年くらい会えないと覚悟してたのに﹂
まったくもう、去年の11月、軍務省庁舎前で円陣を組んでた時
はこんなことになるとは思いもしなかった。恥ずかしい台詞みんな
言ってたのに⋮⋮。
うん、これはみんなのためにも言わない方が良いな。黒歴史だ。
﹁ユゼフ、なんでだと思う?﹂
﹁そうだな⋮⋮まぁ、順当に考えると国王陛下の御恩情だな﹂
と言っても確証があるわけでもない。エミリア殿下も直接陛下に
真意を問い質したわけじゃないみたいだし。
そして別の可能性もある。これも確証があるわけではないが、カ
ロル大公が指示した可能性だ。政敵であるエミリア王女とその仲間
たちを一網打尽にするために一ヶ所に集めたのではないか、という
もの。俺が王都召還されたのも恐らくカロル大公の圧力のせいだか
ら、その後の人事も彼が操作している可能性がある。
でも考え過ぎかな。それに推測の上に推測を立てたものだから、
本当かどうかはかなり怪しい。
1136
単純に偶然の結果かもしれないし、あるいはもっと強大な存在に
よる操作かもしれない。
そして馬車に揺られること数日。8月3日の昼に、俺らはマヤさ
んの故郷であり、そして王国で一、二を争う大都市であるクラクフ
スキ公爵領の領都クラクフに到着した。
今日から俺は、この地の軍事参事官となる。
⋮⋮で、軍事参事官って結局何やるわけ?
1137
クラクフスキ公爵領
クラクフスキ公爵領総督府は、領都クラクフの中心の丘の上に建
っている。
総督府はマヤさんの、つまりクラクフスキ公爵家の私邸でもあり、
そして警務局のクラクフ支部でもある。つまり役所兼警察署兼家。
そのため内部構造はごちゃごちゃ⋮⋮でもない。
﹁西棟が総督府、東棟が警務局、そして北棟が我が家だ﹂
﹁⋮⋮私の目には北棟が一番大きく見えるんですけど﹂
総督府は、前世日本風に言えば都道府県庁みたいなもんだ。記憶
の奥底にある神奈川県庁舎よりもオシャレでデカい建物がそこには
あった。そしてその総督府よりもクラクフスキ公爵邸の方がデカい
っていうのが、クラクフスキ公爵家の力を表してるのだろう。
マヤさんの案内で、エミリア殿下と俺は西棟総督府の中を歩く。
サラとラデックは郊外にある駐屯地勤務なので今は別行動である。
さすがに総督府内の警備に近衛騎兵はいらない。ちなみにユリアは
マヤさんの家の人に預けてる。
西棟の最上階。市街を一望できるほどの高さの階に、総督執務室
があった。
マヤさんがノックをすると、中から﹁どうぞ﹂と短い返事があっ
た。扉を開けるとそこに居たのは、どことなくマヤさんにそっくり
な顔のイケメンが居た。
﹁というわけで紹介しよう。クラクフスキ公爵領の領主にして当家
の長男、そして私の兄であるヴィトルト・クラクフスキ総督だ﹂
1138
−−−
軍事参事官執務室なんて豪勢なものはない。まぁ俺はたかだか大
尉なので専用の部屋があること自体がおかしいのだが。俺の今の仕
事場は、軍事査閲官執務室。軍事査閲官の執務机の左手前側に軍事
参事官、つまり俺の執務机が用意されている。
軍事参事官の仕事は軍事査閲官の補佐役らしい。そして軍事査閲
官はエミリア大佐なので、俺は彼女の補佐をすれば良いと。マヤさ
んとの違いは⋮⋮俺が参謀で彼女が副官ってことかな。
﹁何をするにも現状把握です。総督閣下から渡された資料を見て、
今後の方針を決めましょう﹂
というわけで、軍事査閲官エミリア大佐からの指示により最初の
1日は資料を読み込むだけで終わった。もう紙の仕事は嫌だ⋮⋮。
かと言って力仕事が良いと言うわけでもないのだけど。
翌8月4日。
クラクフスキ公爵領の現状がだいたいわかった、らしい。らしい
と言うのは、資料を読み込んで尚且つそれを十分に理解したのがエ
ミリア殿下だけだったからだ。
﹁春戦争の前と後で財政がかなり悪化していますね。まだ許容範囲
ですが、このままだとまずいです﹂
1139
春戦争と言うのは、大陸暦637年4月1日から6月14日まで
行われたシレジアと東大陸帝国の戦争である。王国軍務省での正式
名称は単に﹁大陸暦637年シレジア=東大陸帝国の戦役﹂なのだ
が、凄い長いし味気ないので、春の到来と共に開戦したことから﹁
春戦争﹂と通称されている。
﹁現在は一部動員が解除されたので暫くすれば多少はマシになるは
ずです。国内の産業も平時体制に戻りつつあります﹂
﹁それはそうです。ですが、軍人恩給や召集手当など人件費がバカ
にできません。それにこれらの支出は増えることはあっても減るこ
とはできませんし⋮⋮﹂
﹁軍関係の給与削減は反乱の契機になり得ますからね﹂
うん。この2人、総合作戦本部勤務だったこともあってか軍政に
関してかなり板についてる。
俺? 俺は送られてくる書類を右から左へ流すだけの簡単な作業
をこなしているけど?
﹁ユゼフさんは何かありますか?﹂
﹁⋮⋮なんで2人とも元気なんですかね﹂
いや本当に。いくら経済力と人口があるからと言って、この書類
の量はなんだ。そしてエミリア殿下が仕事の鬼すぎる。ここに来て
から彼女の手が止まっているところを見た事がない。
﹁これが仕事ですから﹂
その一言だけで効率が上がるなら世の中には無能者はいない。
1140
さて、エミリア殿下とマヤさんの話を俺なりに解釈したところ、
このクラクフスキ公爵領の抱えている大きな問題が財政収支だ。
クラクフスキ公爵領の財政は、歳入が減り、歳出が増えていると
いう分かり易い状況が続いている。
原因もやはり分かり易い。今回の戦争のせいだ。戦争の為にかな
りの人員と資源を軍に吸い取られた結果歳入が激減、そして戦死者
が出る度に恩給の総額が膨れ上がっている。まだ東大陸帝国との講
和条約が結ばれていない現状では、賠償金でどうにかするという手
段は使えない。
財政赤字分は公債の発行でなんとかなってはいるようだが、でも
公債が増えることはあまり好ましくない。公債の償還費と利子、そ
して恩給と言った人件費だけで予算の大半を取られてしまうと財政
が硬直化してしまう。
これはマヤさんも結構頭を抱えていた。
﹁公債償還費と利子はどうにもならないが、人件費をどうにかでき
ないだろうか﹂
﹁マヤさんの言うこともわかります。ですが、人件費を削るには役
人の数を減らす以外には方法はないでしょう﹂
﹁⋮⋮給与を下げる、ではダメか?﹂
﹁ダメです。役人の給与を下手に減らすと、不正や賄賂が増えるだ
けですから﹂
役人だって人間だ。当然お金は欲しい。少ない給与に我慢出来な
くなって賄賂を受け取ったり、役人を辞めてしまうかもしれない。
となるとリストラくらいしか思い浮かばなかったが、エミリア殿
下はそれも否定する。
1141
﹁ですが、現状では役人を減らすことも出来ませんね﹂
﹁なぜです?﹂
﹁既に、人口当たりの役人の数が必要最低限の数にまで落ちている
からです。これ以上人員を減らしてしまうと⋮⋮﹂
あぁ、なるほど。残業祭りになるわけね。事務の効率が落ちるっ
てレベルじゃねーわこれ。
﹁となると歳入面の改善ですか⋮⋮﹂
﹁ですがそれは、我々武官の出る幕はありません。そちらは文官の
方たちの範疇になります﹂
武官が口を出せるのは軍事の部分だけ。歳入、つまり税金だの貿
易収入だのの民政の部分は文官の仕事だ。公爵領の場合は民政長官
っていう人がいるから、その人の仕事。軍隊って社会の生産に何ら
寄与しない金食い虫だし、軍事査閲官が歳入をどうこうすることは
出来ない。
例外はエミリア殿下ら王族、あとはクラクフスキ公爵家のマヤさ
んくらいだろう。でも2人とも文官の職責を犯す気はないようだ。
本来なら良い事なんだろうが、才能が無駄遣いされてる気もしなく
はない。
そして俺には民政どころか軍政にもあまり権限はない。
本当に軍事参事官って何やればいいんですかね。もしかして、こ
れって名誉職なんじゃ⋮⋮。
1142
軍事参事官の日常
エミリア殿下、もとい軍事査閲官殿とその副官のマヤさんは、ラ
デックやサラがいるクラクフ駐屯地の視察に行くとして総督府を後
にした。その間、留守を預かった俺は軍事参事官として事務処理を
行わなければならない。
軍事参事官として処理できる案件はすぐに取りかかり、軍事査閲
官のサインが必要な仕事は、自分の頭の中で要約して覚えておいて
エミリア殿下の負担を減らす。
殿下のスケジュール管理はマヤさんの仕事だから、もしかしたら
次席補佐官時代より楽かもしれない。そして何より、政敵であるス
ターンバック准将のパシリより、親友であるエミリア殿下の手伝い
の方が気合が入るのは当然だろう。
とは言っても、戦後ということもあって仕事量は多い。
﹁次は⋮⋮﹃ツェリニ捕虜収容所の予算追加要請﹄か﹂
東大陸帝国軍の捕虜5万人は未だシレジアに多くいる。今後の帝
国との停戦交渉における材料とするためなのだが、財政難に喘ぐシ
レジア王国では臨時に建てられた捕虜収容所の管理経費が重く圧し
掛かっている。この経費もいずれ帝国に払わせられるのだろうか。
いっそヴァラヴィリエの割譲は諦めて賠償金をたくさんふんだく
れば良いのに。そしたら少しは楽になるだろう。
﹁⋮⋮ツェリニ収容所は、元々は確か一般刑事犯の刑務所だったよ
うな﹂
1143
財政難のシレジアは、刑務所を捕虜収容所に転用することによっ
て経費削減を狙っている。その効果は確かにあったようだが、別の
問題が噴出しているのだ。それが﹁刑務所の仲が捕虜でいっぱいだ
から刑事犯が入れません﹂問題である。
これによって裁判所が﹁え? 刑務所空いて無いの? じゃあこ
いつ大した事してないから減刑して罰金刑だけにするね﹂ってこと
が起きちゃうのである。本来なら懲役刑になる凶悪犯が罰金刑や執
行猶予で済まされて市井に放たれる。恐ろしいったらありゃしない。
今回のツェリニ捕虜収容所、もといツェリニ刑務所はクラクフス
キ公爵家が維持管理している私設収容所である。資料によると定員
は1200名。だが捕虜を養うために無理無理に詰め込んでいるた
め、今は2000人が狭い収容所の中で暮らしているそうである。
だが収容所の予算はこのままの状態だと今月中に使い切ってしま
うほどしか渡されていないらしい。一応、国からは補助金が出ては
いるみたいだが、焼け石に水だ。
⋮⋮うーむ、結構重大だな。まさか刑事犯や捕虜を釈放しろと言
えるわけでもなし。
参事官に予算執行の権限はない。俺に出来るのは、どれくらい予
そろばん
算を増やせば年度内でギリギリ足りるかを計算することだけだ。あ
ー、もうだめ。電卓が欲しい。この際は算盤でもいい。
次席補佐官時代ならここで本当に仕事を投げ出しただろうが、今
はエミリア殿下にいい所を見せたい純情な男心があるので頑張って
計算する。
十数分の格闘によって概案が完成。後はエミリア殿下にこれを渡
して話を詰めるだけだ。
1144
その後数時間で5件程の仕事を終わらせる。と言っても後で殿下
のサインが必要なものなので正確には終わりじゃないのだが。
﹁疲れた⋮⋮﹂
もうゴールしてもいいよね⋮⋮。
と言ったところで執務室の扉がノックされた。
﹁お仕事中失礼します。大尉殿﹂
﹁んにゃ、大丈夫。ちょっと休んでたところだし。で、どうした?﹂
入ってきたのはエミリア殿下の従卒兼俺の従卒のサヴィツキ上等
兵。でもエミリア殿下にはマヤさんが居るので、殆ど俺の従卒にな
っている。
女の子の従卒が良かったなー、と思わなくもなかったがマヤさん
曰く﹁女性は基本的に尉官以上しかいないぞ?﹂とのことである。
たかだか大尉の身分で尉官の従卒を求めるのは可笑しいので、従卒
候補の中で一番若かったサヴィツキ上等兵に任せた。今年で19歳
らしい。
﹁ワレサ大尉に面会を求める者が総督府入口に来ておりますが﹂
﹁面会? そんな予定あったっけ?﹂
﹁いえ、約束はしていないと言っておりました﹂
アポなしで、俺に会いに? エミリア殿下とかならともかく、俺
に会いに来るって誰?
﹁どこの馬の骨の人だい?﹂
﹁オストマルクからの使者である、と大尉に伝えればわかると﹂
1145
あ、わかった。いや具体的に誰だかわからないけど何の用かわか
った。
﹁その人を隣の応接室に通してください。あとコーヒーよろしく﹂
﹁わかりました﹂
1146
問い
﹁久しぶりだね、ベルクソン﹂
﹁久しぶり、ワレサ大尉﹂
オストマルクからの使者はジン・ベルクソン。かつて内務省高等
警察局に拘束されていたシレジア人男性。歳は俺と同じで、たぶん
友達。⋮⋮友達だよね?
﹁にしても使者がベルクソンとはなぁ⋮⋮﹂
﹁意外か?﹂
﹁いや、そうでもないな。俺とフィーネさんのことをよく知ってい
るオストマルクの人って言ったらベルクソンかアンダさんしかいな
いし﹂
﹁そうだな。それにアンダはジェンドリン男爵邸勤務と考えると、
俺に絞られると言うわけか﹂
﹁そういうこと﹂
ベルクソンの正式な身分は、オストマルク在クラクフ領事館の二
等書記官。つまり外交官の端くれだ。
ベルクソンがシレジア大使館に、つまり俺に保護された時、彼は
そのまま帝国外務省に身柄を引き渡された。内務省と資源省の不正
事件の証人として扱われ、そして事件が終わりを迎えた頃、フィー
ネさんの献策で外務省勤務となったのだ。
そして今は善良なる帝国臣民として、クラクフにあるオストマル
ク領事館勤務となり俺と情報交換をする役を仰せつかった、という
こと。
1147
それにクラクフスキ公爵領総督府にリヴォニア人が出入りしてい
たら目立つだろう。同じシレジア人なら、クラクフの住民だと思わ
れてさほど警戒はされない。さすがフィーネさんと言うべきか、そ
れともまたリンツ伯爵あたりの力添えだろうか。
﹁もう少しオストマルクに居たかったな。そうすれば、フィーネさ
んの士官学校卒業式見れたかもしれないのに﹂
﹁卒業式の時だけ行けばいいだろう﹂
﹁そんな暇はないよ﹂
俺はとりあえず現状をベルクソンに伝える。いつもの5人組がな
ぜか同じクラクフ勤務で、エミリア殿下は軍事査閲官、俺が軍事参
事官であることなど。
にしても、ベルクソンは独房に入っていた時は見違えるほど元気
になっている様子だ。ケガの跡はないし、みなりもキチンとしてい
るせいか結構ハンサム顔になっている。羨ましいね。
﹁そう言えば、クロスノはどうだい? なんか変わった?﹂
﹁いや、特に何もない。強いて言えば、皇帝代理総督が代替わりし
て外務省派貴族になったくらいだな﹂
相変わらずリンツ伯爵は頑張っているご様子。本当怖い。
﹁あ、そうだ。ワレサ大尉。手紙を預かっていますよ﹂
﹁手紙? 誰からです?﹂
と聞いてみたもののベルクソンはその問いに答えてはくれなかっ
た。ただ懐から手紙を一通出して俺の目の前に置いただけだ。読め
ばわかるってことかな。
特に疑問も持たず開封。ちなみに封筒には何も書かれていない。
1148
﹁⋮⋮⋮⋮なんともまぁ、彼女らしいというかなんというか﹂
差出人の名前はリゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァ
ー。オストマルク帝国勅許会社﹁グリルパルツァー商会﹂の現社長
の令嬢。そして我が友ラスドワフ・ノヴァクの婚約者。爆発しろ。
﹁なんて書いてあったんだ?﹂
﹁ん? あぁ、簡単な話だよ。﹃代金が未払いです﹄ってね。要は
督促状です﹂
﹁代金⋮⋮?﹂
と言っても代金は比喩だ。これは﹁東大陸帝国軍の情報を教えて
あげたんだから、そっちもちゃんとシレジア市場開放の約束守って
ね︵はぁと︶﹂という意味である。はいはい、わかってますよ。
まずはエミリア殿下かマヤさんに言って、とりあえずクラクフス
キ公爵領の経済開放を行う。いきなり王国全体でって言うのは大公
派や財務尚書が五月蠅いだろうしね。
﹁良いのか? そんなにホイホイ市場開放なんてしちまって﹂
﹁良いんだよ。そもそも外資がないと今後の発展は不可能だからね﹂
グリルパルツァー商会は貿易業。だとすればグリルパルツァー商
会の得意分野だけ狙い撃ちで関税を引き下げるのが良いかもしれな
い。かなりゲスいと思うけど。
あとは⋮⋮そうだな。シレジアはオストマルクより物価が低い。
ということは人件費や土地代が安いということだ。工場の生産性は
工場の規模と工員の数だけが頼り。となれば1人当たりの給与が低
いシレジアで工場を建ててしまえば⋮⋮世界の工場シレジアの完成
だな! その中で技術革新が起きれば万々歳だ。
1149
まぁ、でも最終的な決定権は民政長官か総督にしかない。あくま
で提案するだけだ。それにこれをやって何かしら問題は起きるだろ
う。経済の専門家じゃない俺がああだこうだ悩んでも仕方ないし。
﹁とりあえず﹃エミリア殿下とよく相談の上で決めたいと思います。
近日中に結論が出ると思うので、しばらく待ってほしい﹄と伝えて
おいて﹂
﹁わかった﹂
やれやれ。これは明らかに軍事参事官の仕事じゃあないな⋮⋮。
﹁そうそう、東大陸帝国の情報も入っている。未確認の部分も多い
が、聞きたいか?﹂
﹁勿論﹂
﹁わかった。いつも通り、リンツ伯爵からの情報だが⋮⋮﹂
もたらされた情報を要約すると、東大陸帝国皇帝イヴァンⅦ世は
重病だと言うことだ。そして皇帝の代理として、帝位継承権第一位
のセルゲイ・ロマノフが帝国宰相の地位について国政を壟断してい
るらしい。
そして今回の春戦争によって帝国軍三長官は全員が辞表を提出。
だが、シレジア侵攻に慎重だった軍事大臣レディゲル侯爵は慰留さ
れ、その地位に留まっている。それどころか元帥に昇進したそうだ。
これで軍事大臣レディゲル侯爵は皇太大甥の味方だということは
分かった。あとは何を目的として動いてるかが問題だな。
﹁軍令部と帝国軍総司令官職の後任はまだ決まっていないそうだが、
恐らく皇太大甥派貴族で占められることは確実だろう。何せ今回の
1150
戦争で皇帝派の貴族の戦死するなり発言権がなくなるなどしててん
やわんやだそうだからな﹂
﹁でしょうね﹂
まさか、レディゲル侯爵はシレジアが勝つことを見越して政敵を
最前線に立たせて戦死させたのだろうか。俺はオストマルクでクー
デンホーフ侯爵の掌の上だったけど、もしかしたらシレジア王国軍
はレディゲル侯爵の掌の上だったのかもしれない。
そう思うと寒気がするな⋮⋮。
﹁それともうひとつ面白い情報だ。皇太大甥が、今回の春戦争だっ
けか? の時に前線に立ってそれなりの武勲を立てたらしい﹂
﹁ほう⋮⋮?﹂
﹁と言ってもこれは噂だが﹂
⋮⋮噂、か。たぶん本当だろう。確証はないけど。
でもそうなると、セルゲイは少なくとも軍事方面には詳しい皇帝
にはなるということか。怖いな⋮⋮。
﹁ま、これが今の所俺が持っている、もといリンツ伯爵が持ってい
る情報だ。なんか質問は?﹂
﹁そうだな。特にないかも。⋮⋮いつもいつも、情報面では伯爵に
頼りっぱなしだな﹂
そろそろ自分たちで集めなければならないだろうけど、どうも我
が王国は情報戦に弱いみたいだし⋮⋮。
﹁良いじゃないか。頼っても﹂
﹁いや、ダメだ﹂
1151
このままオストマルクに頼るのはダメだろうね。いろんな意味で。
﹁なぜだ?﹂
﹁昔々、どっかのお偉いさんが言った言葉がある。﹃大国を頼り切
ることは、大国に逆らうのと同じくらい危険なことだ﹄とね﹂
オストマルクに頼り切れば、シレジアは事実上オストマルクの属
領になってしまう。シレジア分割は免れたけどオストマルクに併呑
されました、っていうのはちょっとね。
﹁なるほど。確かにそうかもしれないさ。でも、シレジアがオスト
マルクを頼る以外、何か他に生き残る道があるのか?﹂
﹁ベルクソンの言う通りだ。今の所はそれ以外に道はない。でもだ
からと言ってその道を進み続けなければならないと言うわけじゃな
いのさ。道がないなら自分で道を切り拓くだけ、その準備をしよう
としているのさ﹂
とりあえずオストマルクの友好関係を維持しつつ、他国との関係
も改善を図る。その際に重要になるのが、オストマルク情報省設立
構想みたいなものがシレジアにも必要になるだろう。
﹁⋮⋮なぁ、ワレサ﹂
この時初めてベルクソンが俺のことを呼び捨てにした。彼の顔が
結構顔がマジだし雰囲気も神妙だ。
どうした。
﹁なんでお前はそんなに頑張るんだ?﹂
﹁なんで、って?﹂
﹁お前は16歳だ。それでいてこんなにも祖国に尽くしてる。どう
1152
考えても普通じゃないだろ﹂
﹁それを言ったらベルクソンも俺と同い年の癖に結構頑張ってるじ
ゃん﹂
﹁良いんだよ。俺は命の恩人に恩返しをしたいと思ってるだけだか
らな﹂
うーん、ベルクソンって義理堅いな。そのうち俺にも恩返しして
くれるのかしら。
﹁でも、お前は違う。昇進が見送られても、それをどうとも思って
ないように見えるが﹂
﹁確かに、俺はどうとも思ってないね﹂
﹁じゃあ、どうしてそんなことをするんだ? 本来の評価をされて
るとは思えないのに。なぜワレサはそんなことをするんだ?﹂
ベルクソンはもう一度俺に問いただした。肘を膝に置いて、前か
がみになって。
こういう状態でおどけて誤魔化しても仕方ないか。正直に答えよ
う。
﹁決まってるだろ?﹂
俺は正直に、隠し事もなしに彼に答えを告げる。
結構恥ずかしかった。
1153
軍事査閲官の日常
﹁まぁ、これ以上の経費削減は無理だと思いますよ。現状でも足り
てないのに﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
クラクフ駐屯地を視察している軍事査閲官エミリア大佐は、士官
学校時代の友人であり当駐屯地の補給参謀補であるラスドワフ・ノ
ヴァク大尉に根掘り葉掘り聞いていた。駐屯地内の現状や財務状況
などは本来であれば聞きづらい、話しづらい内容である。だがそこ
は友人である2人、隠し事は一切なしに面と向かって話し合ってい
る。
その事情をよく知らない周囲の者は、方や王族で最年少大佐、方
や一介の大尉に過ぎない士官という2人の会話をハラハラしながら
聞いているのだが。
﹁ここに来てからまだ数日なのでまだ何とも言えないですけど、欲
を言えばあと2割程予算を増やして欲しいですね。勿論これはエミ
リア殿下⋮⋮失礼、大佐の管轄ではなく軍務省辺りの仕事でしょう
が﹂
﹁殿下でも大佐でもどちらでも構いませんよ。なんだったら呼び捨
てでもよろしいです﹂
﹁いえ、恐れ多すぎるので遠慮しておきます﹂
エミリアらは友人と雑談を交えながら仕事の話をしている。そし
てエミリアの目の前にいるこの男は、ユゼフと違って手際よく仕事
をこなしながら会話をしている。
1154
﹁話は戻しますが、やはり財政面の改善は文官に任せるしかないで
しょう。軍隊は物を売買する組織ではありませんので﹂
﹁そうですね⋮⋮あるいはマヤ辺りに相談して、間接的に総督閣下
に意見を通しましょうか⋮⋮﹂
エミリアが言ったのは、マヤが総督にして兄であるヴィトルトに
家族として意見を言えば問題ないのではないか、というものである。
貴族特有の意見の通し方ではあるが、確かにこの方法は確実性があ
る。問題は、あまりにも特権的なやり方で少し良心の呵責があると
いうことだろうか。
﹁いずれにしても、補給参謀補という立場から言わせてもらえば、
この駐屯地のみならず軍関係の経費削減は無理でしょう。今頃軍事
参事官殿の執務机の上には予算増額申請書が溜まっているはずです
よ﹂
ラデックのその予想は、正鵠を射ていた。
この時ユゼフは、ツェリニ収容所の増額申請のみならず複数の施
設・部隊からの陳情を多く処理していたのだから。
﹁わかりました。貴重なご意見ありがとうございます﹂
﹁いえいえ。小官如きの意見で良かったら、いつでも言いますよ﹂
−−−
補給参謀補を始め、クラクフ駐屯地の幹部達との会談を終えた後、
1155
エミリアはサラ少佐に会おうとした。しかし、それは叶わなかった。
ラデック曰く、
﹁マリノフスカ嬢⋮⋮いやマリノフスカ少佐は、近衛師団第3騎兵
連隊はこの駐屯地にいる警備隊を巻き込んでの訓練の真っ最中です。
新任少佐なのに訓練を統括する第3科長になってしまって、少佐は
暇がないみたいですよ﹂
とのことだった。エミリアは落胆しつつ、待機していたマヤと共
に駐屯地を出て馬車に乗る。
そのまま総督府へ帰る⋮⋮と思いきや、エミリアは途中で馬車を
止めた。
﹁どうしました?﹂
﹁い、いえ。少し買い物をですね⋮⋮﹂
エミリアが馬車を止めたのは、クラクフの中心から少し外れた場
所にある庶民向けの市場だった。
どう考えても、エミリアのような王族が買い物をする場所ではな
い。
﹁⋮⋮﹃大佐﹄殿。何を買うつもりか聞いても?﹂
マヤは、周囲の人間に彼女が王族だと気づかれないよう﹁大佐﹂
という言葉を強調した。エミリアが庶民として市井の様子が見たい
のではないか、そう思ったのである。だが、マヤから見たエミリア
の様子は少し変だった。
﹁え、えっと⋮⋮ユゼフさんに、その⋮⋮贈り物をしようかと﹂
1156
エミリアが頬を赤らめながらそう言ったのを、マヤはハッキリと
確認したのである。
思えば彼女は16歳。普通であれば恋のひとつやふたつする年齢
である。その相手が、エミリアを陰から支え、そして今でも参事官
として彼女を補佐している同年齢の男子だとしても、別に可笑しく
はない。
が、その結論に至ったマヤがそれを安易に受容できるかと言えば
話は別である。
﹁⋮⋮大佐、お気持ちはわかりますが余り事を急ぐのもどうかと思
います﹂
﹁し、しかし、あんなにお世話になったのに、昇進も何もないので
はユゼフさんが可哀そうです。せめて任務を与えた私が彼の功を労
わなければ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ、そっちですか﹂
マヤの誤解は、ほんの数秒で解けた。
エミリアは、情報的支援を行ってくれたユゼフが勲章も昇進も金
一封さえも与えられなかった事を心配したのである。だからこそ、
異国の地で孤軍奮闘してくれた彼に対して、エミリア自身がその功
績を讃えなければならない。そのために、何か贈り物がしたいとい
うことだった。
マヤが考えていたような不純な動機はなかったのである。
﹁どうしましたか?﹂
﹁い、いえ、なんでもありません大佐殿﹂
ややせっかちな副官は何事もなかったのように一度咳をすると、
1157
改めてエミリアに何を買うのかを聞いた。
﹁殿方に贈るには何が良いかわかりません。マヤ、わかりますか?﹂
﹁んー⋮⋮そうですね⋮⋮﹂
マヤには2人の兄がいる。当然マヤもその兄に対して贈り物をし
たことがある。王国の中でも指折りの力を持つ公爵家の令嬢らしく
高級な贈り物をしていた。
だが、今回の場合は相手は平民である。あまり高級な物を贈って
も扱いに困るだけだ。
﹁普通は、実用的な物を贈りますね。男は思いが込められた物より、
実用的な物を好む⋮⋮と言うのは兄の言葉ですが﹂
﹁なるほど、実用的⋮⋮だとすれば時計とか⋮⋮でもそれは高いで
すし⋮⋮﹂
この時のエミリアはやや不審だったかもしれない。前ではなく地
面を見ながらぶつぶつと呟きつつ歩く姿は、彼女が美少女と呼ばれ
る容姿を持つ者で、そして軍服を着ていなかったら確実に通報され
ていただろう。
そして数分彼女は人通りの多い市場を歩き、そしてある店の前で
足を止めた。
﹁陶器店⋮⋮これにしましょう﹂
﹁なるほど。確かユゼフくんは珈琲派でしたね﹂
﹁そう言うことです﹂
彼女らは店に入ると、中は多くの陶器で埋め尽くされていた。陶
器の名産地とよばれる地域で作られた小洒落たティーセットから、
クラクフスキ公爵領で作られた大皿まで様々である。
1158
だが高級な物は選べない。今回は、平民にとっては無理をすれば
買えるかも、という値段の物を選ばなくてはならず、それは王族と
公爵令嬢である彼女らには難しい事だった。
そして彼女らは店長の勧められるがままに、陶器生産で有名なカ
ールスバート共和国製のコーヒーカップを購入してしまったのであ
る。しかも、エミリアとマヤの分を含めた3つ。
﹁⋮⋮所謂﹃お揃い﹄というものでしょうか﹂
﹁そう、なりますね﹂
結局、恋人に贈るような物になってしまったな、とマヤは心の中
で呟いた。
1159
家族もどき
8月10日。
﹁⋮⋮えーっと、貰ってもいいんですかね﹂
﹁貰ってください。でないと困ります﹂
エミリア殿下からコーヒーカップを下賜された。オストマルクで
の功績、ということらしいが、なぜか殿下とマヤさんとお揃いのコ
ーヒーカップである。
どういうことや、なにがあったんや。
﹁その点に関しては余り深く追及しないでくれると嬉しいです⋮⋮﹂
殿下の台詞は先細りになっていた。
うん。殿下の面子のために聞かないでおこう。なんか怖いし。
﹁と、とりあえずサヴィツキ上等兵にコーヒーを入れさせましょう
か﹂
﹁そうですね﹂
というわけでしばしコーヒーブレイク。ここ最近俺にしては頑張
って仕事してるし、それに殿下がくれたカップを使ってると考える
といつも以上に美味しく感じる。サヴィツキくんの入れ方が上手っ
ていうのもあるけどね。
ちなみに俺はコーヒーには砂糖を入れずにミルクだけ入れる派。
エミリア殿下は逆で、ミルクを入れずに砂糖だけ入れる派。そして
1160
マヤさんはブラック派だった。マヤさんってば漢だね!
でもこの2人はどちらかと言うと紅茶派で、いつも小休憩すると
きは紅茶を飲んでいる。
﹁ところでユゼフさん﹂
﹁はい? なんでしょうか﹂
﹁ユリアちゃんはどうしてますか?﹂
﹁いえ、どうもしてませんよ。法律上の保護者はサラですから、私
がどうこうするのも変ではないですかね﹂
﹁でも最近、サラさんは忙しいみたいですし、誰かが構ってあげね
ばならないでしょう﹂
むー。確かにな。拾ったのに捨て置いてる状態がここ数日続いて
いる。サラは昇進が異常に早かった弊害か、休日返上の日々らしい
し。
﹁それに、どうもユリアちゃんは官舎に引き篭りがちみたいですし、
少しは外に出させてあげるべきでしょう﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
それはまずいな。引き籠りニートネットゲーマーユリアになられ
ても困る。そしてFXだの株取引だのでガッツリ稼いで家の中だけ
で生活が完結したと思ったら全身熊装備でゲーム世界に飛ばされて
しまうかもしれない!
よし、仕方ない。名付け親の責任ってことで俺が構ってやろう。
と言うわけで俺はちゃっちゃか仕事を終わらせる。次席補佐官時
代の反省で仕事を終わらせてからプライベートの事をしないと昇進
に響くってわかったからね。
1161
翌8月11日。
エミリア殿下から下賜された休日を利用して、ユリアの下に向か
う。マヤさん曰く、今はサラと一緒に官舎に住んでおり、サラが忙
しい日はマヤさんの実家、つまりあの馬鹿でかいクラクフスキ公爵
邸に預けてるのだそうだ。
というわけで俺はサラとユリアの愛の巣に向かって歩く。地図を
読むのは苦手だが、比較的区画整理がなされているため10分迷っ
ただけで目的の場所に到達した。
⋮⋮ここか。随分立派な建物に見える。佐官級になるとこれが普
通なのか、それとも近衛師団の幹部ともなるとこうなるのかはわか
らん。とにかく2人暮らしには困らないだろうな。
とりあえず呼び鈴を鳴らす。
あれ? そう言えばサラって忙しいんだっけ? だったら官舎じ
ゃなくて公爵邸に行けば会えるじゃん。まさか6歳の子供を官舎に
置いてけぼりってのはまずいだろうし。
と、その時に扉が開いた。出てきたのは、当たり前と言えば当た
り前だがサラだ。サラが官舎にいるなら俺がここに来た意味ないよ
うな気がするんだけど。
いや待てでもその前に言いたいことがある。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
問題は、なぜかサラさんが家に居る時の葛城ミ○トさんの格好よ
りはちょっとマシ、って感じの格好をしていたってことだ。
いや、あの、その格好で家をうろつくならまだしも、ドアを開け
1162
るのはやめた方が良いと思うよ。うん、刺激が強すぎるから。
﹁⋮⋮っ!﹂
ようやく自分の状況を理解できたらしいサラの顔が見る見るうち
に赤く染めあがり、そして躊躇なく俺の鳩尾に一発拳を入れた。胃
が飛び出してきそうな猛烈な痛みが俺を襲う。俺が朝は食べない派
で良かった⋮⋮。
俺は慌てて閉まる扉を横目に、しばらく官舎の前で二度寝するこ
とにした。ぐふっ。
それからどれ程の時間が経ったか知らないが、気付けば俺は知ら
ない天井を眺めていた。
周囲の情景と二度寝前の状況から察するに、ここは官舎の中だろ
う。流石のサラも俺をあの場に放置することはまずいと思ったのだ
ろうか。
﹁あ、起きた?﹂
と天井をボーっと眺めていたところでサラが視界に割り込んでき
た。表情を察するに、心配も反省もしてないようだ。少しはして欲
しいもんだが。
﹁気分はどう?﹂
﹁悪くはない。枕が少し固い以外はね﹂
なんだかこの枕はゴツゴツしてるし少し背が高いし形が変だし。
1163
もうちょっといい枕を買った方が良いんじゃないかな。
が、それを聞いたサラは拳を俺の眉間に割と強い力でゴリゴリと
やった。やめて地味に痛いんだけど。
﹁悪かったわね、筋骨隆々の足で﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
むくり。
振り返って、今まで使っていた枕を確認。
⋮⋮まぁ、うん、予想してたけど。
膝枕ですね。
⋮⋮⋮⋮。
﹁よし、二度寝しよう﹂
﹁ダメに決まってるでしょ!﹂
あぁ、2度目の人生にして初めての女の子の膝枕が拳に変わって
しまった⋮⋮。もうちょっと楽しめばよかった。
よく観察するとサラの服装が変わっていた。気絶する前は結構露
出が多かったけど、今は落ち着いた格好だ。ちょっと彼女の雰囲気
に合ってない感じだけど、まぁさっきのよりは良い。
﹁って、なんで膝枕したの﹂
﹁つい﹂
つい、って犯罪者みたいな言い方するな。
﹁ユゼフだって前やってたじゃない﹂
1164
﹁やってたっけ⋮⋮?﹂
﹁私は記憶ないんだけど⋮⋮ほら、マヤの家で飲んでた時に﹂
﹁あー⋮⋮サラが泣き喚いて泣き寝入りした時ね﹂
﹁ちょっと待ってなにそれ﹂
ふむ。本当に記憶がないらしい。
教えてやってもいいけど、そうすると面白いものが見れないよう
な気がするので適当に誤魔化して黙っておこう。そして今度サラの
家来るときは酒でも持って来るかな。
って、俺何しに官舎に来たんだっけ。
えーっと、確かエミリア殿下が⋮⋮っと、そうだった。ユリアだ。
﹁あれ? ユリアは?﹂
﹁⋮⋮あ、そう言えばいないわね。いつもは私の近くに居るんだけ
ど。ちょっと探してくるわ﹂
⋮⋮うん、もしかして俺ユリアに嫌われてるのかな。名付け親な
のに。でも名付けした時はちょっと目が輝いてたのに。﹁名前は気
に入ったけどお前のことは気に入らねェ!﹂ってことだろうか。悲
しい。
にしてもいつも一緒なのか。本当に親子みたいに⋮⋮いやこれ言
うとまたサラに殴られるから、歳の離れた姉妹くらいにしておくか。
でも方や赤髪の暴力女子、方や白髪の無言ロリ。うん。全然似てな
いな。
そして数分後、サラはユリアと仲睦まじく手を繋いで部屋にやっ
てきた。
で、ユリアは俺の存在を確認した途端サラの後ろに隠れてしまっ
た。そろそろ泣いていいかしら。
1165
﹁ねぇ、やっぱりあんた私の知らないところでユリアに変な事した
でしょ?﹂
﹁⋮⋮してない、はず﹂
ちょっと自信がなくなってきた。
1166
買い物
ユリアの服を買いに市場へ行こう、と言ったのはサラである。
﹁なんで?﹂
﹁忙しくてなかなか買えなかったのよ⋮⋮﹂
サラがこんなにも仕事の鬼だとは知らなかった。
そう言えば、サラは第3騎兵連隊で3番目の地位にいるんだっけ
か。新任少佐なのに。異例の、そして異常な出世の速さだ。いくら
サラが武勲を立てまくったと言っても限度はあるだろうに。それと
もエミリア殿下の覚え目出度いからだろうか。
﹁普通は中佐か最先任少佐がやるのが普通なのに、なぜか私がやる
羽目になったのよ!﹂
サラは若干帝国語がおかしくなるくらい怒っていた。昇進した者
だけが持つ悩みと言う気がしなくもないが、それを言うと嫌味った
らしくなってしまう。そして最終的にはまた拳が飛んでくる。
﹁まぁ、サラの教え方は上手だからね。そこら辺が評価されたんだ
と思うよ﹂
ひとえ
実際上手い。剣に振り回されたり弓術の点数が5点だった俺が士
官学校を卒業できたのは偏に彼女のおかげである。サラ大明神様っ
て呼びたいくらいだ。
﹁あんたは下手だけどね﹂
1167
﹁ごめんなさい﹂
いやアレでも結構頑張った方なんだけどね。みんなが割と優秀だ
から下手な授業でも理解してくれたんだろうけど。ちょっとタイム
マシン開発して授業やり直したい気分だ。今なら上手くやれ⋮⋮る
気がしない。同じ結果になりそう。
﹁で、話は戻るけど一緒に買い物に付き合ってくれない?﹂
あぁ、そういえばそんな話してたね。
聞けば、忙しくてユリアの服のバリエーションが少ないらしい。
﹁ユリアも女の子なんだから1ヶ月分服が欲しい! もちろん日替
わりでね!﹂とかなんとか。いやいやいや30着はどう考えても買
い過ぎでしょう。
⋮⋮え? それが普通なの? 本当に? 俺なんて3日で1ルー
プするよ?
まぁ春夏秋冬で着分けるとしたら1シーズン当たり7、8着とい
うことになるからそれなら普通⋮⋮ってことだよね? まさか本当
に一気に30着も買わないよね?
それともユリアが体の良い着せ替え人形になってる可能性が⋮⋮。
いや、これ以上は考えるのはよそう。なんか怖くなってきた。
﹁⋮⋮まぁ別に行っても良いけど、俺が行くとユリアが怯えるぞ?﹂
﹁それは今回の買い物で誤解? を解けばいいでしょ﹂
解ければいいけどね、解ける気がしないんだけど。そもそもどう
誤解されてるかわからないんじゃ、手の打ちようがない。
﹁まぁ、そこも今回の買い物で見つければいいのよ﹂
1168
﹁行き当たりばったりすぎない?﹂
﹁いいから﹂
あ、もうだめだこれ。サラが﹁いいから﹂って言ったらもうそれ
は﹁決定﹂って意味だし。これ以上無用な抵抗をすれば肩が砕ける
か胃が破裂するかのどちらかが俺を待っている。
−−−
年頃の女の子と一緒に買い物。前世ならばそれだけでご飯3杯は
いけるのだが、相手が相手なだけに素直に喜べないのが悲しいとこ
ろである。
現在、サラとユリアは市場を歩きながらウィンドウショッピング
に勤しんでいる。服を会に来たはずなのになぜか宝飾店の展示物を
眺めたり、あるいは本屋でユリアに何を読ませたら良いだろうかと
悩んでたりしている。
その間俺は蚊帳の外である。例えるならば修学旅行の時に班行動
を強制されたけどクラスに友達がいないために2、3歩後ろに下が
ってついてくるだけの奴になった気分だ。決して俺の実話じゃない
ぞ、本当だぞ。
まぁそんな異世界の話などどうでもよい。問題は今のサラの行動
である。買い物でテンション上がりまくってる彼女の言動はどう見
てもオカンにしか見えない。サラさんが本当に子供作ったらあんな
風な感じになるのかね。そもそもサラさんが結婚してる情景がどう
も思いつかないけどさ。
1169
1時間程寄り道したものの、ようやく本来の目的である服屋に到
着。これからが本番なのに凄い疲れた。もう帰りたい。
﹁ねぇ、ユゼフ! どっちが良いかしら!﹂
ようやくサラは俺のことを思い出したのか、ようやく話しかけて
くれた。荷物持ち扱いだと思ったらちゃんと勘定に入ってたのね。
で、彼女は今女性向けの服を2つ持っている。いわゆるこれは、
原宿で頭の弱そうなカップルが﹁ねぇ、どっちが良いと思う?﹂﹁
うーん、右かな﹂﹁えー、私左が良いなー﹂っていう状況になって
いるな。だったら最初から聞くんじゃねーよ。
﹁どっちもユリアに大きさが合わないと思うけど?﹂
﹁⋮⋮知ってるわよ! そんなの!﹂
サラは逆ギレしつつ商品であるはずの服を乱暴に棚に戻す。迷惑
だからやめてあげなさい。
その後は彼女は普通にユリアの服を見繕っている。どうやら30
着一気に購入は嘘だったようで、夏服と秋服を数着だけ買うようだ。
まぁ、そんなに手に持てないしね。
んー、本当に着せ替え人形にしか見えない。サラが結構楽しんで
るし、ユリアは若干引き顔だし。
そしてサラと離れると俺の居場所がない。婦人服店だから不審者
にしか見えないだろう。ちょっと店員さん、そこでヒソヒソするの
やめてください。俺みたいな人間がこんなところに居るのおかしい
って本人が一番知ってるから。
1170
なんや、買えばええんか! 俺がなんか買えば満足か! 男が婦
人服店で女性物の服買ったろうか!?
﹁ユゼフ、何してんの?﹂
﹁見ての通り買い物です﹂
見てろ店員共め。俺だってこんなオシャレな服屋でも服買えるん
だぞ。し○むらだけじゃなくユ○クロにも行けるんだからな!
﹁⋮⋮女装趣味あるの?﹂
﹁うーん⋮⋮興味はあるけど、今は別にいいかな﹂
﹁興味はあるのね⋮⋮﹂
まぁ、女装に憧れる男性諸氏は多いと思う。そして女に生まれ変
わりたいって男も多い。
でも俺はなぜか二度目の男人生だ。別にいいけど。
﹁女装趣味云々はともかく、買いたいなら買えばいいじゃない﹂
﹁いや、買わないって。第一お金がないし﹂
﹁えっ? そうなの?﹂
﹁うん。オストマルクの物価が高くてさ、予想外に給料が消えるの
早かったんだよね﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
まぁ本当は結構貯金はあったんだけどね。2年くらい大使館にい
るつもりでいたのに8ヶ月でシレジアに帰ってきたもんだから貯蓄
をする意味がなくなった。
そして残ってたオストマルク通貨でフィーネさんに贈り物をしか
ら財布はスッカラカンだ。
1171
無論こんなことサラには言えない。なぜか俺の脳みそがそう言っ
ている。それを言ったら漏れなく拳が飛んでくるぞ、と。
さて、妙なところで勘が良いサラを誤魔化すために、サッサとこ
の話題を終わらせよう。
﹁それで、ユリアの服は決まったの?﹂
﹁だいたいはね。たくさん買えるほど気に入ったものがなかったし﹂
そう言ってるサラの足元には確かに大きな袋が鎮座している。3
0着とは言わないまでも10着くらいは入ってるだろう。
﹁まさかユリアのと称して自分の買ってないよね?﹂
﹁私は軍服と最低限の普段着があれば大丈夫だから﹂
最低限の普段着があのミ○トさんか。来客があった時とかどうす
るんだろうね。
﹁じゃ、次の店に行きましょうか!﹂
﹁え、まだ買うの!?﹂
﹁当然よ。何のためにユゼフは腕が2本もあるのよ!﹂
やはり俺は荷物持ちとして呼ばれたらしい。結局サラとユリアは
夕刻までに当初宣言通り30着ほどの服を買ったようだ。それ以外
にも夕食の準備だなんだで食材も買い漁り、俺の腕にかかる負担が
半端ない。
でも金銭的な負担は全部サラだ。さっきも言ったように金がない
のと、それに両手が塞がってるから財布が取り出せないし。それに
サラの方が給料良いしね!
1172
そしてほぼ日が沈みかけた頃、ようやく官舎に戻る。疲れた。あ
と腕が早くも筋肉痛で悲鳴を上げている気がする。早く帰りたい。
﹁じゃ、また買い物に付き合ってね!﹂
﹁えー⋮⋮﹂
ハッキリ言えば嫌だが、俺の心境を察したのかサラの語気が若干
強くなった。
﹁付き合ってくれるわよね?﹂
﹁是非お供をさせてください﹂
自分でも感心するほど深々と上司にお辞儀するとサラは満足した
ようで、別れの挨拶もそこそこに扉を閉めた。これもパワハラにな
るんだろうか。
⋮⋮あれ? そう言えばなんで俺ってサラの家に来たんだっけ?
1173
兄のような
8月20日。
﹁少しは進歩したと思ったらそうでもないみたいだな﹂
﹁何が?﹂
現在俺はクラクフ駐屯地の司令官と所用を終えた後、同駐屯地の
補給参謀補でありたぶん俺の親友であるラデックを廊下で見つけた。
呼び止めようと思ったけど彼は書類の束を抱えておりとても忙しそ
うだ。
ふむ。仕事の邪魔してやろう、と意地の悪いことを考えてしまっ
た私は悪い子です。てへ。
と言ってもラデックは俺とは比較にならないくらい事務処理能力
に優れている。
俺に呼び止められ、そして俺と会話をしながら抱えている書類に
目を通してる様子。たぶんこいつは一度に3つの事をこなすことが
できると思う。その手腕は遺憾なく発揮され、駐屯地の物資や兵士
の情報は一分子も漏らさず彼の下へ集まるという。
ラデックは時々鉛筆を使ってメモを取っているようで、彼もまた
エミリア殿下並の勤勉さの持ち主だと再認識する。周りの連中が仕
事の鬼なのか、それとも俺がサボりすぎなのだろうか。
で、話題は先日のサラとユリアとの買い物の件についてだ。
﹁そういう時はな、彼女が欲しがってる服を目敏く見つけて、こっ
1174
そり買っておくんだよ﹂
﹁で、忘れかけた時に﹃これ、前欲しいって言ってたやつだろ? キラッ☆﹄って言って渡せってか?﹂
﹁そうだな。﹃キラッ☆﹄はいらないけど、そういうことだ﹂
﹁歯が浮くわ﹂
凄い頭が弱いと思うよそれ。そんなの見かけたらとりあえず呪う。
デート
﹁折角の逢引だから大丈夫だろ﹂
﹁あれはちょっと違うと思うぞ﹂
普通デートっていうものは相手の鳩尾を殴ってきたり肩を砕いた
りはしないし子連れもあり得ないだろう。サラもたぶん、あれが逢
引とかデートだとは思ってないんじゃないかしら。
﹁じゃあ、お前にとってあれはなんだったんだ?﹂
﹁買い物。それ以外なにがある?﹂
俺がそう言うと、ラデックは作業する手を止めて俺に対して養豚
場の豚を見る目を向けていた。いやその顔やめろ。男にやられても
嬉しくはないぞ。
﹁はぁ⋮⋮まぁいいや。どうなろうと知らん﹂
﹁何が﹂
﹁こっちの話だ。それより、ユリアちゃんの件についてはどうだっ
たんだ?﹂
幼女に対して﹁ちゃん﹂付けが許されるのは女子とイケメンだけ
だ。羨ましい。
まぁ、それはともかく。
1175
﹁ユリアは相変わらず俺を避けてるよ。名前は気に入ってくれてる
みたいだけど、それはサラがユリアって名前を気に入ってるからだ
と思う﹂
ユリアにとってサラは母親とか姉とかじゃなくて神様みたいなも
んだ思う。リアルに﹁ぐへへ幼女ハァハァ﹂されそうになってると
ころを拳数発で助けてくれたんだからな。そりゃ崇拝もするだろう
よ。
﹁なんでお前嫌われてるわけ?﹂
﹁さぁね⋮⋮﹂
もしかしたら俺が16歳と240ヶ月ってバレたからかな? ﹁
こいつ中身オッサンだから危険だ!﹂って内心思ってるのかもしれ
ない。ある意味では正しいことだが、それを受ける身としては悲し
い。
﹁でも、サラがいきなり孤児を拾うとは思いもしなかったな﹂
﹁そうだな。結構攻めてるなぁ、とは思ったよ。長く離れた分の反
動が来たんだろうさ﹂
﹁え? 何の話?﹂
﹁こっちの話だ﹂
またか。今日のラデックはよく話が脇道に逸れるな⋮⋮。
⋮⋮にしても、孤児か。
今回の春戦争、勝ったは良いけどこっちの被害も多かった。シレ
ジア王国の人的被害はおよそ4万。東大陸帝国のそれよりかはマシ
1176
と言っても、全体人口当たりで計算すると比較にならない。
そして戦死者の数と比例した数の未亡人と孤児がいる。この人た
ちに対する政策も何かしら行わなければならないが⋮⋮比較的経済
力のあるクラクフスキ公爵領でも財政難に苦しんでいる。この状況
下で有意義な福祉政策が打ち出せるのだろうか。
孤児に対する福祉政策って、前世だと教会がやってたってイメー
ジがあるな。後はアルプスのお爺さんくらいしか思いつかない。
この世界の教会も孤児院をやっているところもあるけど⋮⋮でも、
教会も余裕があるわけじゃない。それに何より孤児の数があまりに
も多いって問題がある。
﹁どうした、また何か考え事かユゼフ?﹂
﹁まぁね。考えることが仕事みたいなもんだからな﹂
でも、考えたところで何もできないんだよな。民政の権限は武官
の俺にはない以上、考えるだけで終わる。後は一市民として総督だ
か民政長官に陳情するしかないのだ。
﹁ま、俺らとしてはお前に考えてもらった方が色々楽だ。俺らが頭
ひねって考える必要もないし、それに結構うまくいくことが多い﹂
﹁それは買い被りすぎだ。俺だって失敗はするよ﹂
﹁お前がこういうことで失敗したことあったか?﹂
﹁まだ軍役に就いてから1年も経ってないから何も言えないけどね、
でも﹃もっといい方法があっただろうに妙な選択をしてしまった﹄
というのは何度もあったさ﹂
士官学校時代、ラスキノ戦、そして次席補佐官時代。毎回毎回反
省の繰り返しだったさ。反省を経て成長できるならまだしも、どう
も俺自身そんなに成長出来てない気がするのだ。これは、中身オッ
1177
サンのせいかな。
﹁それはお前の考えることが最善ではないだけで、比較的良い案を
思いつくことができるってことだろ﹂
﹁でも、やるからには最善の方が良いだろう?﹂
﹁そりゃそうさ。でも、人間ってのは毎回毎回最善の方法を思いつ
くわけじゃないだろ?﹂
﹁どうだろうね。エミリア殿下辺りなら出来そうな気もするけど﹂
殿下は日に日にカリスマ性に磨きがかかっている。あと5年もす
れば王冠に相応しい能力を手に入れられるくらいにはね。カールス
バート戦争の時のあの我が儘娘が、どうやったらこんな風になるの
かと不思議に思うよ。
﹁殿下は例外。あの方は規格外だ﹂
﹁それは同意するよ﹂
﹁だったらこれも同意しろ。お前はエミリア殿下に劣る存在だ﹂
﹁⋮⋮あー、うん。そう言われるとなんか悲しくなるな﹂
﹁事実だろ?﹂
﹁まぁね﹂
俺みたいなオッサンはどう頑張っても、成長期真っ盛りの殿下に
追いつけない。だからその立場に甘んじて最善ではない道を突き進
め。ラデックが言ってるのは多分そう言うことだろう。確かに、そ
の道が最悪じゃなかったら別にいいか。
﹁なんだかラデックがお兄ちゃんみたいだな﹂
﹁何を今更な事言ってんだよ。俺はお前より6個も年上なんだぞ?﹂
この時俺は﹁ラデックより俺の方がもっと年上なんだぞ﹂とは当
1178
然言えなかった。けど、それ以上に思いもしなかった。
兄を持つとしたら、こういうのが良いのかね?
﹁さ、お前はそろそろ帰れよ。さすがにこれ以上ここでサボってる
のは最悪の道だと思うぞ?﹂
﹁おっと、そうだな。ラデックの仕事の邪魔をするのはこれくらい
にしておかないと、ここの基地司令に怒られる﹂
﹁確かに邪魔だったな。じゃ、さっさと帰れ﹂
﹁言われなくても⋮⋮って、あれ?﹂
違和感に気付いたのはその時だ。
駐屯地の廊下を、慌てた様子で走り抜ける兵士が多い。何か緊急
事態でもあったのだろうか。
そしてその数秒後、1人の人物が俺の下に︱︱いや、正確に言え
ばラデックの下に︱︱駆け付けた。階級章を見るに伍長だが、それ
以上に彼は慌てていた。
﹁ノヴァク大尉、御歓談中失礼します!﹂
﹁あぁ、いや、大丈夫だ。それよりどうした?﹂
﹁緊急事態です。基地司令が至急作戦会議室に集まれ、とのことで
す﹂
﹁⋮⋮? 何があったんだ?﹂
﹁はい。実はですね⋮⋮﹂
その伍長が語った緊急事態の内容は、ラデックが持っていた書類
の束を床に落とす程の、そして俺の言語中枢を一時的に機能停止さ
せる程の威力を持っていた。
近衛師団第3騎兵連隊第3科長サラ・マリノフスカ少佐が、叛乱
1179
未遂の容疑により王国宰相府国家警務局に指名手配されたと言う情
報だった。
大陸暦637年8月20日14時20分の事である。
1180
マリノフスカ事件
サラ・マリノフスカが指名手配されたという報せは、即日クラク
フスキ公爵領総督府にもたらされた。
公爵領軍事査閲官であり、そして彼女の親友でもあるエミリア大
佐はこの報せを信じなかった。と言うより、耳を塞いで一向に信じ
ようとはしなかった。彼女の下に届いた情報というのが、﹁マリノ
フスカ少佐、王女暗殺未遂の容疑で指名手配﹂となれば尚更である。
だが、そのエミリアの下に直属の部下である軍事参事官ユゼフ・
ワレサ大尉が同様の事態を報告しに来ると、その情報に、そしてユ
ゼフという人間に対して激怒した。
﹁ユゼフさん! あなたがそのような趣味の悪い冗談を言うとは失
望しましたよ!﹂
凡人であれば、この言葉を聞いて平静を保つことはできなかった
だろう。だが彼女の部下であるユゼフは、彼女にとって残酷なほど
冷静に事に対処した。
﹁エミリア大佐。冗談を言えるほど状況に余裕はありません。この
事態に至って、大佐には軍事査閲官としての責務を果たしていただ
きたく存じますが﹂
﹁⋮⋮﹂
エミリアは徐々に彼女らしい冷静さを取り戻した。それはユゼフ
が必要以上に冷酷だったこともあるが、それ以上に彼の拳が細かに
1181
震えているのを見たからである。
怒りに任せて喚き散らしたいのは、ユゼフ自身だった。
﹁⋮⋮つまらぬこと言いました。忘れてください﹂
﹁いえ、大丈夫です﹂
やはりユゼフの言葉冷たい。震える拳を除けば、彼はいたって冷
静に事を対処していた。
﹁⋮⋮。ユゼフさん。事の子細を話してくれますでしょうか﹂
エミリアも、ユゼフに倣って冷静に話を聞こうとした。今から話
される部下の言葉に、臆することなく立ち向かおうとした。
だが、ユゼフが話したことは別の事である。
﹁⋮⋮来客があります。隣の応接室にお通ししておりますので至急
お会いになってください﹂
﹁いえ、今は⋮⋮﹂
﹁会った方が良いでしょう。私より、この事件に関して詳細な情報
を持っている人間ですから﹂
﹁⋮⋮? それはいったい、誰でしょうか?﹂
エミリアのその質問に対し、彼は一瞬躊躇いつつ、その来客者の
名を明かした。
﹁国家警務局の、ヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック少佐です﹂
−−−
1182
エミリア殿下がヘンリクさんと会見してる頃、俺は自分のために
用意された席に座る。
冷静に応対できた、と思う。軍事参事官として、私情を排して仕
事ができたと思う。
応接室と執務室の間にある壁は厚い。それでも微かにエミリア殿
下の感情的な声が聞こえるのは、それほど彼女が混乱しているから
に違いないだろう。
それもそうだ。自分の親友だと思っていた人物が、自分を害する
ために動いていたなんて、容易に信じられる話ではない。俺もそう
だった。
俺は目の前に積まれた書類の数々を無視して、天井を見上げる。
何もない、役所として相応しいほど無味乾燥な天井に、先ほどヘン
リクさんから知った情報、そして今頃エミリア殿下が聞いているで
あろう情報を思い出していた。
︱︱30分前。
エミリア殿下に報告すべく、そして事態の対応を求めるべく俺は
公用馬車で総督府へ向かっていた。いつもならファンタジー的な乗
り物である馬車をゆっくりと楽しんでいたが、この日限りは馬車の
速度の遅さに辟易し、御者を何度も急かしていた。
そして総督府の入り口に着いた頃、見覚えのある顔を持つ人物に
会ったのだ。
かつてクラクフスキ公爵家で酒を飲み交わした、国家警務局、い
わゆる憲兵隊所属のヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック少佐と、
1183
付添人と思われる人物だった。
その顔を見た時、俺は懐かしさを感じる前に﹁彼がこの事件と何
らかの形で関わっている﹂と感じた。そしてそれは事実だった。彼
こそが、この事件、マリノフスカ事件の担当者だったのである。
そして、彼の口から直接事の次第を聞いたのだ。
7月初頭、国家警務局に複数の密告が届いた。
それは王国軍の一部の士官に不穏な動きあり、という極めて抽象
的な密告だった。
警務局はその密告を悪戯と考え無視したが、日が経つにつれて密
告の内容が具体的になっていた。
最初は犯人は﹁王国軍士官の一部﹂だ、と言う情報だけだったが、
それが﹁王都にいる士官﹂となり、﹁近衛師団所属だ﹂という密告
が届き、そして7月末には﹁近衛師団第3騎兵連隊の幹部﹂となっ
ていった。
そして不穏な動きとやらについても、日が経つにつれて具体的に
なり、最終的には王女暗殺となったそうだ。
ここまで詳細な密告が届き、さらには王族の暗殺を狙ったものだ
とすれば、さすがに警務局としても動かざるを得なかった。
この事件を担当することになったのは、警務局長の推挙によって
王女派であるヘンリクさんに決定された。彼ならば王女を守るため
にも、そして彼の栄達のためにも全力で捜査をしてくれるだろうと
いう理由で選ばれた。
実際、ヘンリクさんはエミリア殿下の身の安全の為に捜査をした。
1184
近衛師団第3騎兵連隊がクラクフへ移動するのと時を同じくして極
秘裏にクラクフに入り、近衛師団やクラクフ駐屯地に関する情報を
集めた。
そして、意外なほどあっけなく犯人がわかった。その犯人こそが、
エミリア殿下の友人にして近衛師団第3騎兵連隊の幹部であるサラ・
マリノフスカ少佐だったのだ。
ヘンリクさんの部下が集めた情報によれば、サラは駐屯地内の物
資の一部を横領して資金を貯め、その資金で有用な人物を雇い、エ
ミリア殿下殺害の機を窺っていたという。
その雇われた人物についての所在は不明だが、横領した物資の質
と量は把握済みで、資金を得る過程で作られた会計書類を見つけ出
した。それらの証拠全てがサラの犯行を裏付けていたという。
﹁サラ・マリノフスカ少佐には、エミリア王女暗殺未遂の重要参考
人として出頭要請を出した。だがそれを伝えに彼女の官舎に赴いた
が、既にもぬけの殻だったのだ。逃亡を図ったということで、彼女
の罪は明白となり指名手配となったのだ﹂
﹁⋮⋮つまり、まだ逮捕されていないと?﹂
﹁あぁ。複数の証言では、彼女は今朝まではクラクフ駐屯地にいた
ことが確認されている。時間的に考えて、まだ彼女は公爵領の何処
かにいるだろう﹂
そこまでの事情を聞いて、俺は安心し、そして確信した。
そして恐らく、ヘンリクさんも俺と同じことを思っているだろう。
彼に置かれた状況や責務から、そしてヘンリクさんの隣に立つ付添
人、もとい監視役のせいで、思ったことを言えず、ただ事実を述べ
たのだ。
﹁貴重な情報、ありがとうございます﹂
1185
﹁あぁ、それで頼みがあるのだが、軍事査閲官殿にお会いしたい。
約束はしていないのだが、構わないだろうか?﹂
﹁わかりました。事の次第を報告するついでに、エミリア大佐にそ
う伝えておきます。とりあえず応接室に案内しますので﹂
俺はヘンリクさんらを案内しながら、必死に怒りを抑えていた。
自分で言うのもなんだが、よく我慢できたと思う。
1186
国家警務局
ヘンリクさんと話を終えたらしいエミリア殿下は、マヤさんに支
えられなければ満足に歩けないほど憔悴しきっていた。なんとか軍
事査閲官の席に座った彼女は、しばし無言を保った後﹁少し1人に
してほしい﹂と掻き消えそうな声で呟いた。
無論、こんな状態の彼女を1人残すことは躊躇した。でも確かに
1人でいる時間は必要だろう。そういう判断で、俺とマヤさんは執
務室の隣にある、先ほどまでヘンリクさんが使っていた応接室で待
機することにした。
長い沈黙の後、最初に口を開いたのはマヤさんだった。
﹁今回の事件︱︱既にマリノフスカ事件と命名されているようだが
︱︱は、ヘンリク殿からどこまでのことを聞いた?﹂
﹁おおよその事件の流れまでを、ですかね﹂
﹁そうか⋮⋮だが、ユゼフくんならこの場に居ながら事件の全貌が
見えるのではないか?﹂
﹁全貌かどうかは解決してみたいと分かりませんが、でも半分くら
いはわかりますよ﹂
﹁半分か、まぁ。今の所、それくらいわかれば十分だな。君の意見
を聞こうか﹂
マヤさんの言い様を考えるに、多分この人も同じこと考えてるの
だろう。あるいは自分の考えに自信がないから答え合わせをしよう
だとか思ってるのだろうか。
まぁいいや。結構簡単な話だ。
1187
﹁まず、九分九厘この事件の犯人はサラではないです。というより、
事件そのものが捏造されたと考えていいでしょうね﹂
﹁それは私も同感だが、証拠はあるかね?﹂
﹁犯罪がないということを立証することなど不可能ですよ。そもそ
も警務局は証拠を握っている⋮⋮少なくともそう主張しています﹂
﹁そうだな。﹃あっけないほど簡単に﹄と言っていたね﹂
﹁えぇ。そしてそれが証拠だと思います﹂
﹁理由は?﹂
﹁警務局が証拠を手に入れた過程の問題ですね。彼らは駐屯地の物
資の流れを監視して、サラが横領していたことを突き止めた。そし
て芋づる式に辿って、最終的に暗殺事件の全容を掴んだ。確かこん
な感じでしたね﹂
俺がそう聞くと、マヤさんは大きく頷いた。自信に満ち溢れてい
る首肯、おそらく同じ結論に至ったのだろう。この警務局の調査、
肝心なのはこれだ。
﹁サラの居たクラクフ駐屯地には、ラデックがいます﹂
俺よりも4、5倍事務仕事ができるラデック。彼が駐屯地に居る
限り、その駐屯地内における物資と人員の流れは一分子も漏らさな
い。でも警務局は、それをあっさり見つけ出したのだ。
そんなものがもし本当にあるのならば、警務局の前にラデックが
気付いたはずだ。
﹁ラデックがグルという可能性もありますが、それなら警務局も気
付けたでしょう。なのに彼は逮捕どころか警務局の調査も受けてい
ないそうですし﹂
﹁まぁ、これからどうなるかはわからんがね﹂
1188
確かに。まぁ基地関係者、士官学校同期生ということで根掘り葉
掘り調査はされるだろうね。
それが﹁彼ら﹂の目的でもあるだろうし。
﹁ヘンリクさんがこの事件を担当することになったのは、警務局長
からの御指名だそうですね?﹂
﹁あぁ。それは私も聞いたよ。ついでに彼の付添人が、その情報を
エミリア殿下に伝えた時は一瞬表情を変えたよ。何か良いことがあ
ったようだ﹂
﹁なら、確定ですね。国家警務局の正式名称は﹃シレジア王国宰相
府国家警務局﹄ですから﹂
ヘンリクさんは警務局長からの直々の命令で事件の調査に当たっ
た。
そして警務局長は恐らくさらに上の人間の命令でやったのだろう。
王国宰相府の長、つまり宰相カロル大公の命令によって。
﹁ヘンリクさん⋮⋮いや、ローゼンシュトック公爵家の人間をマリ
ノフスカ事件に利用するとは、なかなか悪辣なことをしますね。さ
すが、公明正大で文武両道と謳われる人間なだけあります﹂
﹁だが、有効な手であることも確かだ﹂
﹁えぇ﹂
王女の親友が王女の暗殺を謀り、そして王女派の人間がその親友
を断罪する。
すると事情をよく知らない周囲の人間はこう思うはずだ。﹁王女
派の内部はかなりガタガタしてるんじゃないだろうか﹂とね。王女
派が一枚岩じゃなく、その中で苛烈な争いがあるのではないか。な
らば大公派に与したほうが身の安全の為に良いのではないだろうか。
普通の貴族連中ならそう考えるだろう。事件が起きて、それがロ
1189
ーゼンシュトック家の嫡男であるヘンリクさんが担当であることは、
既に内外に知れ渡ってるだろうな。結構まずい状況だ
﹁戦術研究科らしいことを言えば、今の状況は﹃先手を取られた﹄
ということです。敵に状況を作られ、こちらは後手後手に回るしか
ないでしょう﹂
﹁そうだな。それで我々がどう立ち回るかで、サラ殿の命と、エミ
リア殿下の未来が決まるだろう﹂
﹁えぇ。でもどうやっても我々は傷が残ると思いますよ﹂
﹁ふむ。どういうことだ?﹂
マヤさんがやや前傾姿勢になる。どうやらここから先は彼女でも
思いつかない領域だったようだ。
﹁この策謀で最も悪辣な部分は、この事件がどのような終幕を迎え
ようとも我々には大きな傷が残るということです﹂
順番に説明しよう。
今考えられる事件の決着は⋮⋮そうだな、3つある。
1つ目、サラが逮捕され、そして合法的な裁判によって断罪され
る場合だ。
事件と証拠を捏造され、おそらく一度裁判なり軍法会議なりにか
けられれば有罪は間違いないだろう。王女暗殺未遂、まぁ普通に考
えれば死刑と言ったところだろう。
もしそうなれば、親友を失った王女殿下が平静を保っていられる
だろうか。聞いた話じゃ、春戦争でも殿下とサラは互いを支え合っ
てたらしいし。
エミリア殿下の精神力にもよるが⋮⋮最悪廃人になる。王位継承
争いから脱落してしまう可能性もあるわけだ。そうなれば、カロル
1190
大公の地位は盤石だ。
もしエミリア殿下の精神が意外と屈強だとしても、やはりこの事
件を担当したヘンリクさん、ひいてはローゼンシュトック公爵家に
対する不信は拭えない。王女派内部の関係に亀裂が入ることは確実
だ。
それに無視できないのは、サラの部下、第3騎兵連隊の連中だ。
敬愛する上司が冤罪で処刑された、そしてその際に、サラが忠誠を
誓った相手であるエミリアが何もしなかったと知れば、エミリアに
対する不信も芽生える。
殿下が兵士に信頼されなくなる。これも憂慮すべき事態だろう。
⋮⋮いや、何より俺が平静でいられるだろうか。殿下より先に、
俺が廃人になってしまう可能性の方が高いかもな。ゲームの廃人な
らまだしも、親友を失った悲しみで廃人になるのは嫌だ。
サラの処刑は何としてでも、例え法的に、倫理的にまずいことを
してでも回避しなければならないだろう。
2つ目、エミリア殿下が王族の特権を使ってサラを助け出すこと。
王族は、訴追を免除する特権を有している。つまり刑事的、民事
的な訴訟を起こされた時、その裁判を王族特権でなかったことにで
きるのだ。そしてそれは自らだけでなく、他者にも有効だという点
だ。
現状では、もっとも簡単でそして確実な方法ではある。だが問題
は、無理にその特権を使うことは非難を浴びることは必至という点
にある。
特に、本当に公明正大なことで有名な王女派貴族である法務尚書
1191
タルノフスキ伯爵なんかはどう思うか。
かつて俺とサラとラデックの上司だったタルノフスキ伯爵の次男
が言っていたことだが﹁父上は公明正大故に、継承権の順に王位に
就くべきだ﹂と。つまりそれは、伯爵自身はエミリア殿下に忠誠を
誓っているわけではないと言うことだ。彼が忠誠を誓っているのは
王国の法のみ。
だからこそ、継承権が下の人間が策謀しているのが気に食わず王
女派となっている。
だが、王女が特権を濫用して国事犯を無罪放免にしたら、その伯
爵はどう思うだろうか。
王族に認められた特権とは言え、それを無暗矢鱈行使してしまえ
ば伯爵はエミリア殿下に従わなくなるかもしれない。むしろ法の公
正さを訴えてるであろう大公にすり寄る。そうすればエミリア殿下
は、その最大の味方を失うことになる。
閣僚の中で王女派筆頭だったタルノフスキ伯爵が鞍替えをすれば、
残るは内務尚書ランドフスキ男爵くらい。そして彼も形勢不利を悟
って大公派に寝返る可能性もある。
だから、エミリア殿下が王族の特権を使うのはできるだけ避けた
方が良い。これは最終手段だ。
そして3つ目。軍事査閲官エミリア大佐として動くこと。
クラクフスキ公爵領限定の軍務尚書と呼ばれる軍事査閲官。であ
れば当然、領域内にいる軍人に対する監察権も持っている。それを
利用して、エミリア大佐の手によってサラに対する軍法会議を開く
のだ。
1192
エミリア大佐が裁判長となる裁判であれば、サラは無罪にするこ
とも可能だし、それがまずいと言うのならば軽い量刑でも構わない。
昇進には響くだろうが、減俸1年とかそんな感じ。
でもこれも王族特権と同じ危険があるか。あまり軽すぎると、本
家大元の軍務省及び軍務尚書に何を言われるかわからない。エミリ
アとサラの軍事的権限は狭まるだろうし、やっぱり大公派連中から
攻撃を受けることは必至というわけだ。
妥協案とも言える結果になるが、現状ではこれが一番現実的かも
しれないな。
そんなようなことを、マヤさんに説明する。説明下手な俺が言っ
てちゃんと伝わるかどうか不安だったが、彼女はちゃんと理解して
くれたようだ。
説明を一通り聞き終えたマヤさんは、恐らくこの意見が正しいこ
とを認めた上で、さらにこうも言った。
﹁でも第4の可能性もあるのではないか?﹂
﹁⋮⋮それは一体なんです?﹂
﹁ヘンリク殿が言っていただろう。サラ殿は逃亡中だろう、と﹂
﹁⋮⋮そうか。そうですね。恐らく今回の件で、敵の唯一の誤算は
サラが逃亡していることにある。だとすれば、サラが逃げ続けてい
る間に、こちらから攻めることも出来るわけですか﹂
王都に戻って法務尚書を説得したり、あるいは内務省と協力して
警務局を叩いたり、色々できる可能性があるってことだ。もしかす
るとサラは、自分に嫌疑がかけられていると悟った時点で、逃げる
ことが最善手だと理解したのかもしれない。
1193
ふむ。良い手だ。戦術戦略を教えた甲斐がある。
﹁そういうことだ。そしてサラ殿が逃げ続けなければならない、と
いうわけでもない﹂
﹁⋮⋮?﹂
どういうことだ? サラが捕まっても良いってことだろうか?
疑問符を頭の上に並べる様子を見たマヤさんはちょっと優越感に
浸ったのか、少しドヤ顔で言い放った。
﹁わからないか? 警務局を出し抜いて、我々の手でサラ殿の身柄
を確保するんだ。つまり﹃鬼ごっこ﹄さ﹂
1194
孤児と名付け親
エミリア殿下はどうにか立ち直ったようで、16時30分の段階
では、とりあえず見た感じではいつもの殿下に戻っていた。そして
殿下も、マヤさんや俺と同じような結論に至ったらしく、次の事を
述べた。
﹁ユゼフさん。今回の事件についての調査をお願いします﹂
つまり、自分が王族として、そして軍事査閲官として不用意に動
くのはまずいと考えたのである。
事件はまだ始まったばかりだ。切り札はそれが有効になる時まで
待たなければならない。
﹁必ず、エミリア大佐の御期待に添えるよう努力いたします。それ
まで、しばしお待ちください﹂
﹁⋮⋮頼みます﹂
殿下のその懇願するかのような言葉は、とても力強くて、そして
儚いものだった。
軍事参事官ユゼフ・ワレサ大尉。
次席補佐官の時とは違って、俺には特権はおろか権限も何もない。
そしてエミリア殿下の援護射撃も期待はできない。
さらに、時間もない。
やれやれ。こんな仕事を連続でする羽目になるとはね。諜報科に
でも入っておくんだった。
1195
さて、直属の上司たるエミリア殿下からの命令を受けたことだし、
早速サラの行方を追おう。と言いたいところだがまずにやらねばな
らないことがある。ユリアの事だ。
今日はサラが忙しい日だったから、マヤさんの家、もといクラク
フスキ公爵邸にいるはずだ。
サラが逃亡中の間、ユリアの世話を誰かがやらなければならない。
﹁マヤさん。暫くユリアの面倒を見てもらってもいいですかね?﹂
サラの官舎は当然使えないし、俺は未だ大尉で詰め込み式の兵舎
に住んでいる。となるとエミリア殿下かマヤさんかになるだろうが、
ユリアは暫く公爵邸に住むことになるだろうからマヤさんの方が良
いだろう。
と思って提案したのだが、マヤさんは即答しなかった。10秒程
の沈黙の後、彼女はようやく答えた。
﹁⋮⋮いや、それは君が見るべきだろう﹂
﹁えっ?﹂
意外だった。マヤさんならすぐに答えてくれるだろうと思ってい
ただけに、ちょっと面食らう。
対応に困ったのでエミリア殿下に目を向けてみる。殿下に説得し
ようとしてもらおうと思ったんだけど、殿下は首を横に振った。
﹁ユリアちゃんの世話は、ユゼフさんがするのが良いと思います﹂
﹁⋮⋮なぜです? 私は彼女に怯えられているので、難しいと思い
ますが﹂
﹁なぜ怯えられているかはわかりません。でもサラさんは、ユゼフ
さんの下に預けたいと思います。名付け親ですし、それにこういう
1196
時に言うのもなんですが、誤解を解いて、ユリアちゃんのことを知
るいい機会かと思います﹂
﹁私もエミリア殿下の言葉に同意する。付け加えるならば、私と殿
下はユリア殿のことをあまり知らないし、彼女も私たちの事は知ら
ないのだ。それよりかは⋮⋮﹂
確かに。ユリアとはこの間買い物に行ったばかりだしな。サラの
次にユリアと面識があるのは俺しかいないわけか。
これも名付け親の責任ってことかな。さすがに親に二度捨てられ
るのは酷だろうし
﹁分かりました。私が世話を見ます。その間、私は公爵邸に出入り
することになりますが⋮⋮﹂
﹁その点は構わない。必要であれば、公爵邸で寝泊まりすればいい。
少なくとも君のいる兵舎よりはマシなはずだ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
自分の事を怯えている幼女の世話か、結構難しそうだな。
いや、物は考えようか。16歳と240ヶ月の俺が6歳の子供を
持っているのは普通のことだ。うん、そう言うことにしておこう。
公爵邸にある一室、なんか矢鱈豪華な客室にユリアはいるらしい。
考えてみれば、貧民街の孤児だった幼女が偶然軍の士官に助けられ
て公爵邸で寝泊まりすることが多いって下手な少女漫画よりシンデ
レラストーリーしてる気がする。
道中、どうやってユリアと接すればいいのかウンウン唸って考え
たが、結局良い打開策を思いつくことができずに部屋まで来てしま
1197
った。まぁいいや。会ったら考えよう。
ドアをノックしても反応がなかったのでそのまま開けてみる。
するとユリアは着替え中で⋮⋮なんてラノベみたいな展開はない。
ただ彼女は、その体の大きさに似合わない程の大きさのソファで寝
ていた。サラに買ってもらったのか、公爵邸の誰かが気を利かせた
のかは知らないが、ユリアと同じくらいの大きさのクマのぬいぐる
みを抱えてそれを抱き枕にしてるようだ。
うむ。結構かわいい。写真撮りたい。
にしても、ちゃんとベッドあるのになんでソファで寝てるんだろ
うか。しかもみんなの憧れ天蓋付きベッド。って、天蓋付きベッド
って実在するのか。てっきりファンタジー限定かと。
ベッド以外の部分も観察してみる。子供に与える部屋としては過
剰な設備とも言えるが、公爵令嬢の友人にして軍士官の子供に与え
る部屋と考えればそうでもないのかもしれない。でもそれを使用し
ている形跡はない。たぶんユリアも使い方わかってないのだろう。
⋮⋮と、そこで視線を感じた。振り返ってみると、ユリアが起き
ていたのだ。どうやら無遠慮に部屋を観察しすぎたせいで起きてし
まったのだろう。貧民街で路上生活するときは寝てる最中に追剥に
遭う可能性あるから、寝てる時でも気が緩めない。ユリアもその辺
の能力が高いのだろう。悲しいことに。
そしてさらに悲しいことに、ユリアは俺を確認した途端びくびく
し出した。身体を縮めて、まるで本物のクマか泥棒が入ってきたと
きのような目をしている。分かり易く言うと﹁くっ、殺せ﹂とか言
い出しそうな感じ。違うか。
1198
﹁⋮⋮えーっと、とりあえず俺はユリアに危害を加えるつもりはな
いよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
ユリアの目は変わらない。それもそうか。こんなんで信じてくれ
るほど世の中甘くないしな。第一、幼女に話しかける男と言う時点
で色々アウトだ。
なんでや、名付け親なんやぞ! もうちょっとなんかあったって
ええやろ!
仕方ない。対幼女用決戦兵器を投入しよう。
こんなこともあろうかと、先ほど公爵邸の料理室を借りて自作し
たキャラメルのような別の何か。
いや、だって遥か昔、たぶん小学生くらいの時に作ったきりだっ
たからさ。その記憶を掘り当てながらどうにかこうにかして作った
んだけども、どうも細部があやふやでね。その、うん。ほんとごめ
ん。付き合ってくれた料理人さんありがとう。面識ないのに。
材料は、砂糖と牛乳とバター、あと適当にフレーバー入れて、熱
して溶かして型とって冷やしただけのお手軽お菓子です。ただしキ
ャラメルみたいな粘りはない。た、食べられるし、それなりに美味
しいから問題ない。はず。
それはともかく、俺はユリアの目の前で、このいろんな意味で未
知なるお菓子をチラつかせる。
﹁ほーら、美味しそうなお菓子があるぞー?﹂
⋮⋮⋮⋮あ、これ完全に不審者だわ。幼女誘拐の時によくある手
口だわ。
1199
でもユリアはこのキャラメルもどきのお菓子に釣られたのか、と
ことこと近づいてくる。よし来い、そのまま来い。そして俺と親睦
を深めるんだ!
と思ったのも束の間。ユリアは俺の鳩尾を思い切り殴った。幼女
の腕力なんてたかが知れてるが、それでも痛いものは痛い。一方の
ユリアは、俺を殴るだけでは飽き足らず、俺が持っていたキャラメ
ルもどきをひったくってそのまま口に入れた。
表情から見るに、ユリアは満足してる様子。それがキャラメルも
どきの味が良かったのか、それとも俺を殴り抜いたことによる快感
なのかはわからない。
って、この流れ妙な既視感があるぞ?
﹁ユリア、もしかしてサラからこうしろって教わったのか?﹂
ユリアは何も言わず、ただコクリと一回頷いただけだった。あい
つユリアになんてことを教えてやがる⋮⋮。いや、不審者に対する
行動と見れば普通かもしれないけど。
とりあえずサラをなんとしてでも捕まえて、その暴力主義な教育
方針を直させよう。
1200
孤児と名付け親︵後書き︶
︻お知らせ︼
﹃大陸英雄戦記﹄がアース・スターノベル様︵http://ww
w.es−novel.jp/︶より書籍化されることが決定しま
した。
これも読者の方々の応援のおかげです。本当にありがとうございま
す。
具体的な内容については追々活動報告、もしくは作者Twitte
r︵@waru︳ichi︶で行うつもりです。
これからもよろしくお願いします。
1201
置手紙
ユリアの事が気になったのは、別に世話の話だけではない。
犬猫のように孤児を拾ったサラだが、なんだかんだと言って責任
感は人一倍ある奴だ。ユリアを捨てて自分一人で逃げるような奴で
はないだろう。一緒に逃げる、ということはしなくても何かしら伝
言はしただろうという考えだ。
その伝言がもしかしたら、サラを捕まえる足掛かりとなるのでは
⋮⋮まぁ確証があるわけではない。
﹁⋮⋮﹂
問題はこの黙りこくってるユリアにどうやって聞き出すかだ。
現在俺は先ほどまでユリアが寝ていたソファに腰掛けている。
一方のユリアは部屋の角に居座って、先ほど俺から強奪したキャ
ラメルもどきを食べている。結構たくさん作ってしまったからまだ
彼女の手元には大量のお菓子があるため口以外を動かしていない。
ペド
俺とユリアの距離は目測で⋮⋮そうだな。シャトルランが出来る
くらい離れてる。
フィリア
角に居るから簡単に追い詰められるけど、それやると完全に小児
性愛者の変態である。
﹁あのー、ユリアー?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1202
そしてこの頑とした態度である。とてもつらい。
手持無沙汰になってしまったので、傍らに1人寂しく座っている
クマのぬいぐるみを持ち上げる。改めて見ると結構デカいが、手作
り感もある。
前世みたいな高度なミシンがあるわけでもないし、ぬいぐるみっ
て結構作るの大変だしね。手縫いで、しかもこの大きさともなれば
雑な仕事になるのも仕方ない。実際このぬいぐるみの背中なんて解
れが⋮⋮? って、これってよくあるアレかな?
何も考えずに、ぬいぐるみに開いている穴に手を突っ込む。見た
目はアレだが質の良い綿を使ってるようで結構気持ちいい。でも高
級なのか庶民的なのかよくわからないぬいぐるみだな。たぶん高い
だろうけど。
ちなみに俺がぬいぐるみに手を突っ込んだ瞬間、ユリアが再び泣
きそうな顔になった。うん、ごめんな。でもおかげで目的の物を見
つけたぞい。
﹁ユリア、サラさんから手紙だぞ﹂
﹁⋮⋮!﹂
俺がそう言うとユリアは食べるのと泣くのを中断してとことこと
近づいてきた。ごめん嘘。食べるのは中断してなかった。そんなに
気に入ったのならまた作るぞ? あとちゃんと歯を磨けよ。
﹁手紙があることは知ってたの?﹂
ユリアはコクリと1回頷く。
1203
﹁でもどこにあるのかは知らなかった、と﹂
今度は2回。
相変わらず喋らないが、また泣きそうな顔になる。
このやりとりで、サラとユリアがどういう会話をしたかだいたい
想像がついた。
サラが何をきっかけに捜査の手が自分に伸びているのがわかった
のは知らないが、自分が捕まることによってユリアに危険が及ぶか
もしれないと思ったのだろう。
ユリアや俺らに伝えたいことは多くある。だがユリアに直接手紙
を預けることはリスクが高い。そこで手紙の存在だけを教え、ユリ
アを通じて俺に手紙を探させようとしたのだろう。
結局、ユリアは怯えっぱなしで、俺が勝手に見つけてしまったの
だが。まぁいい。結果オーライだ。
しばし考えていると、ユリアが﹁その手紙を早く読め﹂と言わん
ばかりに袖を引っ張ってくる。かわいい。
手紙は酷く簡素で1枚しかない。文字数も多くないが、字だけは
綺麗である。いろんな意味でサラさんらしい手紙だろう。
﹁ん、じゃあ読むよ﹂
−−−
1204
﹃この手紙を読んでるのは、多分ユゼフかエミリアだと思う。
ユリアはまだ文字が読めないし。当たってるかしら?
まぁいいわ。あまり時間がないから、用件だけ伝えるわね。
まず、自分の置かれた状況と、エミリアが置かれた状況はわかっ
てるつもり。
誰が何をした結果なのかは知らないけど、たぶんユゼフならすぐ
わかったと思う。
だから伝えることはひとつ。
私が捕まっても、何もしないで。
そして私がどうなろうと、何も思わないで。
私なんかのために、自分が犠牲になろうとは思わないで。
それだけ。
追伸。
ユリアのこと、お願いね。﹄
−−−
1205
﹁と、サラさんは言ってるけど、ユリアはどう思う?﹂
﹁⋮⋮﹂
ぷるぷるしてる。若干涙目だが、これは悲しいと言うより怒って
いるのだろう。ユリアは俺に対しては無口なだけで、本当は6歳ら
しい感情の起伏がある様だ。慣れると何考えてるかわかるようにな
る。
﹁そうか。ま、俺もユリアとだいたい同じ気持ちさ﹂
冗談
冗談が嫌いなサラのことだろうから、たぶんこれは全部本音なの
だろう。
が、それでも性質の悪い本音である事は確かだ。
﹁サラさんには後60年くらい生きてもらわないと困る。ユリアも
そう思うだろう?﹂
ユリアは何度も何度も、力強く首を縦に振る。意志の固さはわか
ったが、あまりやると頭がぐわんぐわんするからやめた方が良いと
思う。
ていうかアホだな。俺らがこんな手紙で止められると思ってるの
なら、サラには再教育が必要だろう。
でも、手紙には手掛かりはなかった。おそらくクラクフ市内に入
ると思うが、それでも南シレジア最大都市であるクラクフを端から
端まで探すことはできない。
人海戦術が一番だが、捜索に当たれるのは俺だけだ。警務局に先
を越されるだろう。だから、ピンポイントで探すしかない。
1206
﹁ユリア、サラさんを探すの手伝ってくれるか?﹂
ユリアが、唯一の手掛かりだ。
ユリアもそれがわかっているのか、それとも単純にサラを探した
いのか、彼女は再び大きく頷いた。
1207
置手紙︵後書き︶
書籍化情報を活動報告に纏めました
http://mypage.syosetu.com/mypa
geblog/view/userid/531083/blog
key/1186468/
1208
道行く少女
サラがどこに居るかなんてわかるわけがない。
おそらく彼女がおおよそどこにいるかがわかるのは、今俺の目の
前を歩いている元孤児の幼女だけだ。
だから俺は、ユリアに対して﹁サラさんを探して﹂と言った以外
は特に何も指示をしていない。
ユリアはクラクフの街を歩いている。そして俺はその後ろをつい
ていく。案外、ユリアは何の策もなしに歩いているのかもしれない
が、それをどうこう言うつもりはない。たぶん俺以上に真剣にサラ
を探してるだろうし。
てかユリアの動きがすばしっこい。人が混み合う市場をするする
と抜けていき、そして唐突に右に曲がったり左に曲がったり、肩幅
しかほどない路地を通ったり。適当に歩いてるのかそうじゃないの
かの判断がつきにくいな⋮⋮。
1時間ほど市街を歩き、そして17時40分にクラクフの貧民街
に俺とユリアは到着した。
予想外だった、とは思わなかった。
貧民街に指名手配犯が逃げ込むのは、創作物ではよくある話だ。
本当に予想外だったのは、ユリアが最短経路で、最短の効率で、
公爵邸からこの貧民街まで辿りついたことだ。
これは最初からユリアは確信していたことは間違いない。そして
ユリアは、この広いクラクフの街の道という道をすべて覚えている
1209
ことも間違いない。それはサラの教育の成果なのか、それともユリ
アの生まれ持った才能なのか。
恐ろしい話である。
あぁ、俺の周りに普通の人間がいない。みんな有能過ぎて泣ける。
それはともかく、ユリアが﹁サラ神は貧民街にいるから探せ﹂と
仰る︵当然無言だが︶ので、適当に探⋮⋮そうとしたのだが、やは
り敵も同じことを思っている様子だ。
貧民街の入り口に数人の警務局の人間がいた。ここに数人ってこ
とは、街全体では1個中隊は居そうだな。
もしサラがここに本当に居るとしたら、時間はない。それこそ彼
らが虱潰しに探したら近いうちに見つかる可能性がある。
﹁サラさんが具体的にどこに居るかわかるかい?﹂
ユリアにそう聞いてみたが、彼女はふるふると首を横に振る。ま
ぁ、さすがにわからんよな。
でも、ローラー作戦をするほど時間も人員もない。
⋮⋮ふむ。まずはあの警務局の人間がどの程度捜査を進めてるの
か聞いてみよう。写真がないこの世界、まさか俺の顔と素性を警務
局の末端の人間が知っているわけでもない。
事情を知らなそうな下っ端に声をかけて、一軍人、一大尉として
偉そうに話しかければ恐らく洗いざらい喋ってくれるだろう。
と言うわけで如何にも下っ端雰囲気を醸し出しているメガネの男
に話しかける。階級は伍長で、歳は20そこそこって感じかな。
﹁何があった?﹂
1210
﹁⋮⋮こ、これは大尉殿!﹂
俺が後ろから話しかけると、俺の階級章を確認した伍長くんは慌
てて敬礼する。階級6個も上だし、しかも明らかに年下の顔つきだ
から驚きもするだろう。
でも﹁ユゼフ・ワレサとかいうクソガキ﹂に注意しろとか言われ
てるかもしれないから、自己紹介はしない。階級章を見れば、俺が
紛う事なき若き王国軍士官であることは明白だからだ。
﹁で、何があったのだ?﹂
﹁はい! 実は、叛乱を企図した女性士官が、この貧民街に逃げ込
んだという情報を入手しまして、その捜査をしているのであります
!﹂
ほうほう。つまりユリアの勘、もしくは判断は正しかったと言う
ことか。まずは満足すべき結果かな。
問題は、サラが今もここに居るかだけど。
﹁それで、その凶悪犯とやらは見つかったのか?﹂
﹁い、いえ。お恥ずかしながらまだ⋮⋮﹂
﹁いや、謝る必要はない。じっくり、確実にやってくれ﹂
じっくりやって、そして確実に取り逃してください。
﹁捜査はどの程度まで終わったのだ?﹂
﹁はい。えー、第3地区は終了しております。現在第1地区を捜索
中です﹂
クラクフ貧民街は、王都シロンスクの貧民街と違ってそれなりに
区画整理がされている。と言うのも、何もなかった場所に貧民が家
1211
を建てたのがシロンスク貧民街で、元々中産階級市民の街に貧民が
住み始めたのがクラクフ貧民街だから、らしい。
北が第1地区、西が第2地区、そして東が第3地区。伍長くん曰
く、警務局は貧民街の入り口を全て封鎖し、第3地区から反時計回
りに捜査をしている。建物を1棟ずつ、それこそ虱潰しに。第1地
区の捜査終了も結構時間がかかるだろう。
俺は適当なところで伍長を返して、さてどうするかと考え込む。
﹁どうすべきだと思う?﹂
俺は無言のままのユリアに話しかける。当然彼女は何も喋らない
が、俺は喋るのをやめない。人に話すと考えが纏まるっていうのは
事実だ。どこぞの名探偵も推理中によく喋るし。
﹁俺の考えとしては、このまま放っておくべきだと思う﹂
そう言うと、ユリアの目が若干きつくなった。見捨てるつもりか、
という目だ。
無論、見捨てるつもりはないがね。
﹁現場指揮を執っているのが誰だか知らないけど、たぶん警務局の
人間はサラさんを見つけられないだろう﹂
今度は﹁なぜ?﹂という感じの顔だ。
てか、この前より表情が豊かになったな。これは俺に心を開いて
くれる証左だろうか。
﹁警務局の動きが遅すぎる。1棟1棟順番に探しているせいだ。警
務局が1棟調べるたびにサラさんは1棟分移動する。そしていつま
1212
でも警務局とサラさんが反時計回りに追い掛け逃げる状態が続くと
思うよ﹂
警務局が本当にサラを捜し出したいなら、追い詰めるように調べ
なければいい。例えば第1地区と第3地区を制圧して、そこから第
2地区に向かって歩を進めればいい。そうすればサラは自然と逃げ
場がなくなる。
これじゃ﹁遅拙﹂だな。たぶん数時間もすれば警務局の人間は貧
民街からは既に逃げてるのではないかと判断して、封鎖を解くだろ
う。
﹁俺とユリアは、ただここで待っていればいい。警務局が疲れ果て
て、完全に撤収するまでね﹂
そう言うとユリアは納得したのか、それとも諦めたのか、俺を睨
むのをやめて、ただ俺の軍服の裾を掴んだ。
﹁とりあえず立ったまま待つのは疲れるから、適当な場所でお茶で
もしようか﹂
ドロヴァール
貧民街の入り口近くにある喫茶店﹁樵﹂でコーヒーを飲んでいた
が非常に気まずかった。
ユリアは全然コーヒーを口にせず、ただ貧民街の方向を眺めてい
ただけだし、なによりそのコーヒーが不味い。味音痴の俺にもわか
るほどコーヒーが不味い。砂糖とミルクで誤魔化したけど、多分砂
糖牛乳飲んだ方が美味しい。
そして微妙に価格設定が高い。多分この店は近いうちに潰れるだ
1213
ろう。ていうか潰れろ。
19時30分。
だいぶ日が陰ってきた。警務局の人間もサラを見つけることがで
きず、日没後の捜査を打ち切り三々五々帰途についていた。
コーヒー
そのまま30分ほど待ち、20時を過ぎた段階では既に貧民街に
は警務局員はいなかった。
﹁じゃ、俺らの仕事をしよう﹂
ユリアはコクリと1回頷く。
この数時間、俺とユリアはただ黙って泥水を啜っていたわけでは
ない。サラさんを見つけるための作戦を考えていたのだ。
そして結論は出た。
﹁あの野生児⋮⋮じゃぁなかった。あの騎兵精神溢れる少佐殿を捕
まえることができるほど、俺とユリアは身体能力は高くない。だか
ら捕まえるのは諦めようか﹂
春戦争時の戦闘詳報を軽く見てみたが、サラの武勲が凄まじい。
ザレシエ会戦で敵右翼を撃滅させ、カレンネの森の戦いで敵陽動
部隊も打ち砕いた。そしてアテニでは少数騎兵による迂回奇襲作戦
を立案、自ら実行しこれを成功させた。
それだけでなく、教官としての能力も高い。近衛師団を王国最強
の部隊にした張本人だし。
そんな人間を、実質俺1人で捕まえろって? 無茶を言わないで
くれ。
1214
﹁捕まえることはできない。なら発想を逆転させよう。サラさんを
捕まえるんじゃなくて、サラさんが捕まえればいい﹂
これを言った時、ユリアはポカンとしていた。
ユリアにわかるように作戦を説明し、そしてこうも伝える。
﹁この作戦を成功させるためには、ユリアの協力が必要だ。頼める
かな?﹂
ユリアは暫し悩み、そして大きく首を縦に振った。
よし、これで算段はついた。
⋮⋮⋮⋮これでこの作戦が失敗したら、ユリアからは永遠に軽蔑
されるだろうなぁ。
1215
月明かりの下で
20時15分。
サラ・マリノフスカ少佐が指名手配されてから、やっと6時間が
経過した。彼女にとってその6時間は無限にも感じられる長さであ
ったが、彼女は警務局に捕まらないために少なくとも600時間は
逃げるつもりだった。
それくらい逃げ続ける事が出来れば、クラクフにおける捜査の手
は緩むだろう。そして彼女の親友の下へ行ける隙もできる。
それまで、彼女はこのクラクフ貧民街で耐えるつもりだった。
彼女は五感に優れる。
先ほど警務局がクラクフ貧民街の捜査をした時も、彼女はその優
秀な五感を使ってその捜査の網を掻い潜った。確かにユゼフの言う
通り警務局の捜査は穴だらけではあったが、それでも数時間に亘っ
て逃げ続けた力量と我慢強さは称賛に値するものである。
警務局が去ってから数十分、彼女は今夜ここに寝泊まりすること
を決めた。つい昨日まで佐官用官舎にあるベッドの上で寝ていた彼
女だったが、今日は貧民街の冷たい土と壁がその代わりである。
﹁⋮⋮夏とは言え、さすがに夜になると冷えるわね。毛布と一緒に
逃げるべきだったわ﹂
そうひとりごちたところで、空から毛布が降ってくるはずもない。
彼女は身を縮ませて、体温の低下を抑えようとする。
1216
そんな時、思い出すのはシロンスクの貧民街に迷い込んだ時のこ
とである。
あの日、サラは孤児を拾った。何も考えず、ただ自分の信じる正
義を貫き通しただけだ。
その孤児は、彼女にとって大切な人間によってユリア・ジェリニ
スカと名付けられ、そしておそらくその名付け親が引き取っている
だろう。
まどろみ
心配だったし、このようなことがなければ会いたかった。だが、
状況がそれを許さず、彼女は次第に微睡の中に身を沈めていった。
はずだった。
数分後、彼女の近くで声がした。
いや、それは声と言うより、悲鳴に近かった。
﹁⋮⋮めて! 離⋮⋮!﹂
ユリアの事を思い出していたせいなのか、サラはその悲鳴がユリ
アに聞こえた。
もしかしたら、ユリアが自分を捜しに1人でここに来て、そして
暴漢に襲われているのではないか。
サラは耳を澄まし、声の方角を探る。
彼女から見て右前方、貧民街の第2地区中心より少し東の地点。
そこが音源。
音源を特定した彼女は、すぐさま行動に移した。そして走りなが
1217
ら、彼女は考えた。
この悲鳴が、警務局による罠という可能性である。
でも、彼女は悩まずに夜の貧民街を駆ける。
ここでユリアかもしれない少女を見捨てて自分の身の安全を確保
できるほど、彼女の正義感は安くなかったためである。
罠でないならそれでよし。罠であっても、助けられれば後悔する
はずもない。
そして思いの外近くだった音源に辿りつく。
そこに居たのは、壁に寄り掛かった1人の少女。10日前に買っ
たばかりの新品の服を身に纏った、サラが拾った孤児がただ1人立
っていたのである。
﹁⋮⋮ユリア?﹂
サラの声を聞いたユリアが反応する。その少女の目には心なしか、
涙が浮かんでいた。
半日会っていないだけなのに、まるで半年ぶりに会ったかのよう
な気になった。
サラがユリアに駆け寄ろうとしたその刹那、もうひとつの音源が
近づいてきた。サラの右後方、月明かりも射さない狭い路地裏から、
その音は近づいてくる。
やはり罠だったのか、とサラは勘付いた。
だが相手は恐らく1人で、であればまだ対処できるはずである。
サラはそう考えて、その足音に気付かないふりをした。
1218
そしてその足音は、サラのすぐ後ろで途絶える。推定距離、およ
そ2メートル。
如何に彼女が武術に秀でると言っても、腕も脚も2メートルある
はずがない。
サラは、その人間が全く動いていないのを確認する。
そして頭の中で、その人間を倒すシュミレートをし、実行に移し
た。
﹁死ねぇ!﹂
彼女の雄叫びと、彼の悲鳴が夜の貧民街に重なり合って響いた。
その時、ユゼフは﹁サラに対してドッキリを仕掛けてはならない﹂
という教訓を獲得したのである。
−−−
まったくもって酷い話である。
いや、サラを見つけることに成功したという点においては酷くは
ない。
彼女は苦しんでる人を見ると助けずにはいられない性格をしてい
るようだし、それが聞き慣れたユリアの声ともなればきっとノコノ
1219
コと現れるに違いないと思ったのだ。そしてそれは実際成功した。
そしてそんな彼女の後ろからコッソリ近づいた俺が殴られるのは、
むしろ当然なのかもしれない。
でもさ、サラが俺の鳩尾を思い切り殴って、俺が苦しみ悶えてい
るときになんて言ったと思う?
﹁って、この鳩尾の感触って⋮⋮もしかしてユゼフ?﹂
どういう覚え方だよそれ。
とりあえずサラには﹁殴る前に対象の顔をよく見るように﹂と厳
命しておいた。守ってくれるといいな⋮⋮。いや、守ったところで
殴られる未来しか見えないのだけど。
﹁にしても、よく私が貧民街にいるってわかったわね。手紙に書い
た覚えはないのだけれど﹂
﹁それはユリアに聞いてくれ。俺はただユリアの案内に従っただけ
だ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
もう一方の当事者であるユリアは先ほどからサラに抱きついたま
ま離れない。たぶん泣いているのだと思うが、それに突っ込む程俺
は野暮じゃないし、サラにも反省していただきたい。
サラはばつの悪そうな顔をした後、ユリアの頭を静かに撫でた。
小さな声で﹁心配かけてごめんね﹂と言ったそれは、まるで本当の
母親⋮⋮失礼、姉みたいである。
﹁とりあえず、いつまでもココで会話しているのはまずいだろう。
あまり目立つことをすると警務局か警備隊に目をつけられる。場所
1220
を変えよう﹂
官舎には戻れないから、公爵邸が良いだろう。警務局クラクフ支
部が近くにあるのが気になるが、マヤさんらと協力して闇夜に紛れ
てコッソリ行動すれば問題ないと思う。
でもなぜかサラは動かなかった。
彼女の目は珍しく悩んでいるようにも見えた。ユリアも心配して
サラの顔を見上げている。
﹁サラ?﹂
﹁⋮⋮ねぇ。私、戻ってもいいのかしら﹂
﹁はい?﹂
何言ってんの?
﹁今ここで私が戻ったら、エミリアとか、その、ユゼフに迷惑が掛
からないかしら?﹂
﹁掛からないと思うけど?﹂
むしろサラが居ない事の方が迷惑だとは思うし、らしくもなく殊
勝な態度するのもなんかそわそわするからやめてほしいのだが。
あぁ、でも彼女は手紙に﹁自分がどうなっても何も思うな﹂とか
書いてたな。自己犠牲なんてらしくもないと思って、その手紙はご
み箱に捨てたけど。
﹁でも、もし私がエミリアの傍に居るって奴らにバレたら⋮⋮﹂
﹁それは心配しなくていい。策は考えてあるから﹂
俺はサラと違って無策のまま人を拾うことはしないんでね。
1221
﹁その策って言うのは、またユゼフ1人が犠牲になるような策なの
?﹂
﹁⋮⋮﹂
今度黙ったのは俺の方だった。図星だったからだ。
どう答えたもんかと逡巡して、結局肩を竦めることしかできなか
った。
むこう
﹁エミリアから聞いたわ。ユゼフ、オストマルクで結構危ない橋を
渡ったって﹂
﹁俺は、危ない橋だとは思わなかったけどね﹂
﹁でも、そのせいで昇進できなかったんでしょ。それに本来なら3
ヶ月の減俸処分になるところを、エミリアの口添えで免れた、って﹂
⋮⋮それは、知らなかったな。どうやら俺は知らないところでエ
ミリア殿下に迷惑をかけてしまったらしい。
﹁じゃあ、今回は俺1人が責任を負う形にならないとな。これ以上、
エミリア殿下に迷惑をかけるのも⋮⋮﹂
﹁なんで、そうなるのよ!﹂
サラは語気を荒げ、俺に唾がかかる勢いで怒鳴り散らした。彼女
がこれほどまでに怒りの感情を露わにしたのは、もしかすると今回
が初めてかもしれない。
とりあえず夜で、しかも街中で大声を出すのはまずい。指名手配
犯であるサラに俺は﹁静かに﹂とジェスチャーする。でも、彼女は
それに従わず、その代わりに俺の胸倉を掴んできた。
﹁私が1人で背負おうとしてるのは、すぐにダメだって言うくせに
! なんで、なんであんたが全部背負おうとするのよ!?﹂
1222
﹁落ち着けサラ、な?﹂
﹁はぐらかさないで!﹂
いやでも、本当に落ち着かせないとやばい。貧民街の連中は、巻
き込まれないようにだんまりを決め込んでいるようだが、誰かが気
を利かせて通報でもされたら困る。それ以上に、ユリアが少しサラ
に怯えているのだ。
はぁ⋮⋮。こりゃ説得じゃなくて、真面目に答えた方が良い。
﹁人には得手不得手がある。サラにはサラの得意なやり方があるよ
うに、俺には俺の得意なやり方がある﹂
﹁⋮⋮﹂
なぜサラは戦うのか。これは明瞭、彼女は仲間の為に戦う人間だ。
仲間の為に、最前線に立って兵を率いて最大限の努力をして最大
限の武功を立てる。そういうやり方をする人間だし、実際それが得
意な人間でもある。
じゃあ、俺の場合はどうなのか。
これも明瞭。サラと同じく、仲間の為だ。でも、サラみたいに前
線に立って武勲を立てるのは無理だ。
サラ
﹁俺は、仲間の為なら手段を厭わない。そう言う人間。そして思い
つく手が、なぜか泥にまみれた物ばかりでね﹂
サラとかエミリア殿下は、華麗で輝かしいやり方が最も似合う人
間である。
じゃあ俺がそれをやれと言われても⋮⋮どうも性に合わないし想
像もできない。そんな勇者みたいなものに憧れることができない程
1223
に歳を取ってしまった、ってのもあるかもしれないな。
﹁サラにはこのやり方は無理だと思う。それに、似合わないよ﹂
﹁⋮⋮﹂
俺の胸倉を掴むサラの拳の力が弱まった気がした。
それを見逃さず、彼女の手を握って引き離す。それに対してサラ
は抵抗せず、そっぽを向いた。
﹁⋮⋮それで、あんたは良いの?﹂
﹁良いと思ってるよ。手段を選んでいられるほど余裕があるわけで
もないし﹂
ただまぁ、手段を選ば無すぎて反省はずっとしてる日々だ。もっ
と綺麗なやり方があっただろうに、ってね。でも、後悔はしていな
い。一部例外を除いて。
昇進が遅れることについても、まぁ残念だとは思ってもそれ以上
は何もない。
﹁でも、私だって、ユゼフの為なら何だってやるつもりだわ﹂
サラは弱い声でそう言った。いつもの、力強い彼女らしくもない。
﹁その気持ちは嬉しい。なら、俺の為と思って自己犠牲の精神はや
めてほしい﹂
﹁⋮⋮じゃあ、あんたも私の為に、自分だけが責任負うのはやめて﹂
﹁無理な相談だね﹂
﹁なんでよ﹂
1224
答えは簡潔明瞭。
﹁それがサラの為で、自分の為でもあるからさ﹂
何度も言うが、こういうのはサラが用いる手段ではない。似合わ
ないし、頭を使うようなことだしね。
そして俺は仲間が傷つき倒れる所を見たくない。そんな独り善が
りために、法的に倫理的にダメな事でもやる。
ただ、それだけなのだ。
サラは納得しなかったと思う。
でも、ユリアが泣きそうな顔でサラに抱き着いてきたことで、俺
の言うことを聞いてくれた。
今はそれでいいかもしれない。俺の為じゃなくて、ユリアの為に、
今は戻るべき場所に、俺たちは戻るのだ。
1225
査閲官と参事官
日付が変わり、8月21日になる。
0時30分頃に、俺とサラとユリアはクラクフスキ公爵邸に戻っ
てきた。と言っても公爵邸の隣は警務局クラクフ支部であるため、
闇夜に紛れて裏口からコッソリ侵入する形となったが。
そして裏口で待っていたのは、我らがエミリア殿下⋮⋮の副官の
マヤさんだった
﹁ユゼフくんは事務以外の仕事は早いな。今回も想像以上だ﹂
﹁ありがとうございます﹂
サラの身柄は公爵邸で保護することになる。
でも彼女の身が法的に完全に自由となるまで軟禁状態にするしか
ない。突撃精神溢れる彼女がそれに耐えられるか不安だ⋮⋮。早い
とこ解決してあげた方が良いだろう。俺の身体と精神衛生上。
﹁⋮⋮エミリアは?﹂
﹁殿下は先ほどまでここでサラ殿を待っていたが、2人⋮⋮いや、
3人が何時戻ってくるかわからなかったし、仕事の関係もある。だ
から現在は官舎に戻ってお休みされている﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁何か用があるのか?﹂
﹁まぁね﹂
サラがエミリア殿下に会う用?
ふむ。仲の良い女子2人、たった半日とはいえ引き裂かれた間柄。
1226
そんな2人が出会ったらもうそれはタワー建設待ったなしである。
エミリア殿下が寝ているとあれば、もっと彼女たちを引き合わせる
べきだろう。夜這い的な意味で。
﹁とりあえず、今日はもう遅い。3人とも、ここに泊まりたまえ﹂
﹁そうですね。ようやく鳩尾の痛みが和らいだころなんでゆっくり
寝たいです﹂
﹁鳩尾⋮⋮?﹂
混乱するマヤさんとサッと目を逸らすサラを尻目に、用意された
豪華な客室で惰眠を貪ることになった。
そして7時30分に起床。
我ら公爵領軍事部門は9時5時の公務員生活を送っている。しか
も今日は職場と家が直結してるから通勤時間を考えなくても良い。
よし、あと1時間は寝れるな!
と、できないのが悲しいところである。聞けば我らが上司軍事査
閲官殿は始業時間と起床時間がほぼ同じだそうだ。マヤさん曰く﹁
これでもまだ週に1日休みを取ってくれるだけマシさ。高等参事官
時代は休みなしだったからな﹂らしい。エミリア殿下が休まないと
副官であるマヤさんも休めないわけで、それでもしっかり仕事をこ
なすマヤさん凄い。
俺? 聞くな、悲しくなる。
それはともかく、同い年の金髪美少女の王女殿下兼上司が既に働
いているのに俺だけベッドの上でゴロゴロできるわけがない。だか
らここ最近は自主早出残業ばかりだし、エミリア殿下に会わせて週
1227
1で休日を取る。
エミリア殿下にもっと休めと言ってもたぶん無駄だろうなぁ⋮⋮。
そんなことを思いながら仕事場、つまり軍事査閲官執務室に到着
する。扉を開けるとそこにはエミリア殿下と副官のマヤさん。そし
て事件当事者であるサラがいた。
﹁遅刻よ﹂
開口劈頭、相変わらずサラはそんなことを言う。待ち合わせの約
束はなかったはずだが⋮⋮。
﹁えーっと、どうしたの? 夜に言ってた、エミリア殿下の用事の
話?﹂
﹁そうね。それもあるわ﹂
それもある? つまり本題は違うってことか?
﹁それよりもユゼフさん。報告はサラさんからある程度聞きました
が、ユゼフさんの言う﹃策﹄とやらを聞かせてもらえませんか?﹂
⋮⋮なるほど。サラがここに来た本題ってのは、俺の策を聞くた
めなのね。昨日のアレを引きずっているのだろう。本人を前にして
この策を言うのは少し憚られるが、言わないと俺の鳩尾がまた悲鳴
を上げる結果になるからな。言わないとダメだろう。その上でエミ
リア殿下らに迷惑が掛からないようにしないとな。
﹁軍事参事官として、犯人逮捕の為にあらゆる手段を講じます﹂
1228
﹁⋮⋮はい?﹂
エミリア殿下は意外と素っ頓狂な声を出した。
ちょっと面白かったので、もっと彼女を混乱させるように説明し
なぐ
てやろうと意地の悪いことを考えてしまったが、そんな余裕はない
しやりすぎるとサラに怒られそうなので普通に説明した。
作戦を順々に説明する。するとエミリア殿下の眉間に皺が寄り始
める。うーむ、やっぱりダメかな⋮⋮。
﹁ユゼフさん﹂
﹁はい﹂
﹁それが最良の策ですか?﹂
﹁現状では、こちらの被害最小、加害最大の策だと思います﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
エミリア殿下そっと目を伏せると、しばし考え込むように肘をつ
いた。
30秒ほど経った後、エミリア殿下はようやく口を開く。
﹁わかりました。軍事査閲官エミリア・シレジア大佐の許可済みと
いうことで、作戦の実行を許可します﹂
﹁いや、あの、それでは殿下の御立場が⋮⋮﹂
﹁私の立場を考えてくれるのは嬉しいうれしいですが、この際はそ
れは無用です﹂
﹁ですが、軍事参事官の独断とすればエミリア殿下の被害も小さく
て済みます。それにすべてが終わった後に私の責任を問えば事はそ
れで済むはずです﹂
軍事参事官で平民出身の士官の暴走であればみんなに迷惑は掛か
1229
らない。でも、エミリア殿下の許可済みということは、殿下が共犯
になってしまう。それじゃ大公派に反撃できても、エミリア殿下の
出世にも響くことだろう。
﹁ユゼフさん。この件に関しては、私はサラさんと同意見なのです
よ﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
サラの方を見てみると、サラも俺の事をキッと睨みつけていた。
この件、というのは昨日サラが言っていたアレのことか。と言う
ことはサラがこんな朝早くにエミリア殿下に会ったのはそのことに
ついて? なにそれちょっと恥ずかしいんだけど。
まぁ、恥がどうのこうのはこの際どうでもいい。問題は殿下の事
だ。
﹁殿下の方こそ、私の立場を考えなくても良いのですよ。私はたか
だか平民ですし、出世云々も気にしてませんから﹂
﹁ダメです。私の名の下に作戦を実行するか、作戦を許可しないか。
二者択一です﹂
﹁いや、あの、でも⋮⋮﹂
おい誰だこれ入れ知恵したの。サラか? もしくはマヤさんか?
いずれにしても他にいい案が思いつかないし、思いついたとして
も軍事査閲官殿の許可がないと作戦実行はできない。なんとも悪辣
な⋮⋮。
ここはイエスと答えるしかないじゃないか。
﹁そうそう、その作戦を実行するに際してはマヤとラデックさんに
1230
も協力してもらった方が良いでしょう。マヤ、早速作戦の準備に⋮
⋮﹂
﹁いやいやいやいや殿下、待ってください!﹂
﹁何ですか?﹂
﹁私やエミリア殿下だけでなく、皆も巻き込むつもりなのですか!
?﹂
﹁大丈夫です。ラデックさんも﹃何でも協力する﹄と仰っていまし
たから﹂
今なんでもするって。
いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
﹁⋮⋮そんなことをすれば、出世に響きますよ﹂
﹁それも無用な心配です。16歳で大佐と言う時点でやり過ぎと思
っていますから、少しは評価を下げて出世速度を落とさないと下級
兵の鬱憤が溜まるでしょう﹂
﹁いや、そうかもしれませんが⋮⋮﹂
どうやって説得したもんか⋮⋮。いや無理かな。エミリア殿下っ
て変なところで頑固だから、鶏が烏だと主張し始めたら止まらない
のだ。
そんなときにマヤさんが左肩をポンと叩いてくれた。おぉ、マヤ
さんが援護射撃をしてくれるのか! マヤさんが説得したら、エミ
リア殿下も少しは考えを改めてくれるかもしれない!
﹁ユゼフくん。君の負けだ。大人しく諦めたまえ﹂
違ったわ降伏勧告だったわ。
それを横目にエミリア殿下とサラは満面の笑みだった。畜生め。
こんな状況じゃなければ﹁その笑顔可愛いですね!﹂とでも言えた
1231
のだろうが、とてもじゃないがそんな気分ではない。
結局俺はマヤさんからの降伏勧告を受諾し﹁これで本当にいいの
だろうか﹂という気持ちのまま、作戦の実行をエミリア殿下に委ね
ることになった。
なんだか、俺カッコ悪いなぁ⋮⋮。
1232
報復
8月30日。
王都シロンスク、その行政区画の中心に王国宰相府がある。その
館の主である宰相カロル・シレジア大公は、専用の執務室において
今日も政務に没頭していた。彼がひとつの仕事を終え、そして執務
机にうず高く積まれた書類の塔を数枚分低くしようとした時、彼の
秘書の1人が入室してきた。
﹁宰相閣下。財務尚書のグルシュカ男爵が目通りを請うていますが﹂
﹁財務尚書が⋮⋮? 今日は面会の予定はなかったはずだが?﹂
﹁至急の御用事、とのことですが﹂
﹁⋮⋮わかった。応接室に通してくれ﹂
数分後、応接室に移動したカロル大公を待っていたのは、秘書の
報告通り財務尚書グルシュカ男爵だった。彼は秘書も連れず、単身
で宰相府にやってきたようである。
財務尚書グルシュカ男爵は、尚書として見れば、その行政手腕に
おいては他の閣僚に引けを取らない、むしろ勝る部分も多い優秀な
人間である。一方貴族的な視点で見れば、彼は現在王女派と大公派
の継承争いに興味を見出していない、中立派とも言うべき貴族であ
る。
その財務尚書が単身宰相府へやってきたとなれば、その中立姿勢
を捨て大公派に与することを決意したのではないか。カロル大公が
そう考えたとしても、それは無理のない事である。
だが実際は、カロル大公の考えとは真逆の方向の言葉を吐いた。
1233
﹁宰相閣下。いえ、カロル大公殿下。もしこれ以上、クラクフスキ
公爵領に対する圧力をかけるのであれば、私はエミリア王女殿下に
味方することになりますぞ﹂
﹁何⋮⋮?﹂
それは、事実上の最後通告だった。だが、カロル大公はその通告
の言葉の意味を掴み兼ねていた。
それも当然のことである。大公が立案した策謀がどのような結果
を生み出したのかを、彼はまだ知らないのだから。
大公の唖然とした表情を見た財務尚書は、やや不機嫌となり眉間
に眉を作る。
﹁知らない、と申されるのですか。であれば、僭越ながら私が、事
の次第をお教えしてあげましょうか﹂
財務尚書が話した﹁事の次第﹂は、カロル大公の度肝を抜くのに
十分な威力を持っていた。
時は、大陸暦637年8月23日までに遡る。
クラクフスキ公爵領の領都クラクフから王都シロンスクへ向かう
街道は、一年を通して交易商人や旅人、乗合馬車などが列を成して
いる。特に公爵領の境界に建てられた関所付近は渋滞が酷くなる。
だが今日は、なぜかその列はいつも以上に長かった。少なくとも、
数日前より2倍の長さになってはいるだろう。
その列に居た1人の旅人は、この長蛇の列を前に卒倒しかけた。
1234
いつもならすぐに着く距離だろうが、列はちっとも動かない。クラ
クフの現状を知らないその旅人は、彼の近くに居た交易商人の馬車
に話しかけた。
﹁おい、これは一体なんなんだ? クラクフとやらはいつもこうな
のか?﹂
﹁いや、昨日からだって聞いたよ。どうも軍の連中が関所を封鎖し
ているらしい﹂
﹁は? 戦争でもするのか?﹂
﹁俺も詳しくは知らんのだが、どうもクラクフで反乱が起きたそう
だ﹂
﹁なんだって!?﹂
旅人が驚いたのも無理はない。シレジア王国が如何に末期状態で
あるとはいえ、ここ十数年は反乱などなかったからである。しかも
シレジアで一、二を争う経済力を持つ公爵領で反乱となると、それ
は独立運動に直結する事態となるからである。
だが近くに居た別の商人はそれを否定した。
﹁いや、軍の封鎖は事実だが、反乱云々は嘘だそうだ﹂
これに真っ先に反応したのは旅人だった。
﹁どういうことだ?﹂
﹁聞いた話じゃ、クラクフの近くにあるツェリニ刑務所に収容して
いた帝国軍の捕虜が集団脱走したらしい﹂
﹁は!?﹂
旅人は、反乱の噂を聞いた時以上に驚愕した。
1235
だが、それでは終わらなかった。
﹁いや違うね。カールスバートから集団で密入国してきた奴がいる
らしい。あの国、結構政情不安が続いてるらしいからな﹂
﹁待ってくれ。私はツェリニ収容所が襲撃されたと聞いたぞ?﹂
﹁ツェリニ収容所と言えば、先月財政難で閉鎖して一般刑事犯から
帝国軍の捕虜まで全員を仮釈放したという噂もあったな﹂
﹁俺はクラクフスキ公爵の当代が暗殺されたって聞いたぜ?﹂
﹁あぁ、それは俺も聞いたよ。確か公爵は宰相と敵対してたらしい
からな。たぶんその筋だろう﹂
﹁もしかしたら、収容所に居た人間を利用して公爵を襲わせたんじ
ゃないか?﹂
﹁おい皆聞いたか! オストマルク帝国軍が動き出してシレジア分
割戦争を始めたってよ!﹂
噂は噂を呼び、気づけば旅人の下には多くの不確定情報がもたら
されていた。
旅人の脳内容量はついに限界を超え、彼は溜め息をついてぼやく
しかなかった。
﹁一体、あそこで何が起きているんだ⋮⋮?﹂
−−−
真実を隠すなら嘘の中。嘘を隠すなら真実の中。
1236
昔の人はそんなことを言ったらしい。そして実際それは当たりで
ある。情報公開する際にはどうでもいい真実を開示して信憑性を上
げ、核心の部分は嘘を吐くか隠すかするしてお茶を濁す、なんてこ
とはどの世界でもやってることだ。
今回俺がやったことはふたつ。
ひとつは、街道の封鎖である。
表向きの事情は、反乱未遂犯サラ・マリノフスカ少佐を公爵領に
閉じ込めて逮捕するため、軍事査閲官エミリア大佐が街道封鎖命令
を出したからだ。
一方裏の事情は複数ある。その中でも一番大きいのは、公用馬車
を軍の権限で出入りを制限したいがためである。
するとどうなるか。そうだね。とりあえず公爵領から国に支払う
べき税金の出納ができなくなるね。
いやぁ、月末なのに大変だなー。ちなみにシレジア王国の会計年
度は1月から12月です。財務尚書よ、今年度はまだあと4ヶ月あ
るぞ。ゆっくり財政破綻して逝ってね!
つまり今、クラクフスキ公爵領は逆経済封鎖を行っているのだ。
春戦争によって財政が一層厳しくなっているシレジア王国、一方
そんな中央政府とは違って堅調な経済成長を続けている公爵領。公
爵領の財政が物凄い健全と言うわけでもないが、他の貴族領や本国
政府よりはマシである。
そのため、王国と公爵領の経済的な力関係はほぼ拮抗している。
通常なら、王国が公爵領を経済封鎖するのだろうが、今回は逆で
ある。だから逆経済封鎖。
前世日本で例えると⋮⋮そうだな。﹁大阪、税金払うのやめるっ
てよ﹂って感じだろうか。電子決済とかいうのがあるわけないので、
1237
街道を封鎖するだけでこうなるのだ。怖い。
勿論、意図してこんなことをやってるわけじゃないよ。あくまで
も﹁国事犯サラ・マリノフスカ容疑者を逮捕するための致し方ない
一時的な措置﹂だし。あまり長くやると領民の生活が苦しくなる。
ま、国境は封鎖してないから物資食糧その他の経済活動は問題に
なってない。関税とか通行料の額が少し高くつくってくらいだし、
短期間なら問題ないレベル。
そしてオストマルク方面の物資運搬はグリルパルツァー商会の独
占状態。独占の代わりに通行料や仲介料をだいぶ減らして貰ってい
るので、まぁリゼルさんの収支もトントンと言ったところだろうか。
公爵領で作られている王都シロンスク向け商品の一部は帝都エス
ターブルクに回している。またオストマルク経由で他のシレジア貴
族領とも交易を行っている。時間はかかるが、おかげで市井は殆ど
影響がない。
影響しているのは、政治分野だけ。
この辺のことはエミリア殿下とマヤさんと一緒に、民政長官とク
ラクフ総督を説得して﹁短期間で終わるなら別に構わない﹂という
ことで実現させた。持つべきものは話の早い文官である。
さて、些か長くなったな。
俺がやったことのふたつ目は、噂をいくつか流すことである。街
道封鎖で長くなった商人の列に俺が忍び込んで、こんなことを言っ
た。
﹁指名手配された反乱未遂犯を捕まえるために街道封鎖してるんだ
1238
ってさ﹂
﹁どうやら宰相閣下直々の命令らしい﹂
﹁ツェリニ刑務所は予算不足なんだって﹂
ご覧の通り、全部事実である。全部事実であるが、その噂が真実
性を保ったまま世の中を歩き回るかは話が別である。
アルコール
噂なんてものは、大抵は酒の席の肴になる。
そして酒の肴になった噂は、酒独特の含有成分によって虚偽や欺
瞞と言う名のフレーバーをかけられるのである。数日もすればあら
不思議、なぜか﹁宰相の意を受けた間者がクラクフスキ公爵の暗殺
を謀るも、これに失敗して追い回されている﹂という噂の完成であ
る。
どうしてこうなった。
ってまぁ俺がその場で立ったエミリア殿下の不評に関する噂をす
ぐに揉み消して、カロル大公に関する悪評を煽りまくったからだけ
ど。
スキャ
これらのカロル大公の噂は数日中に王国中へ届くだろう。エミリ
ンダル
ア殿下に関する噂も少し流れることになるが、まぁそれくらいの醜
聞の類はある程度許容できる。
サラに関する噂もいくつかあったが、これもどうしようもない。
そもそも指名手配された時点でいくつか噂が立ってたし、これを揉
み消すことはできない。
だから、というわけではないが大公殿下にも噂の主人公になって
いただいた。大公の悪評が、他の貴族の耳に届いたらどうなるか、
今からそれが楽しみで仕方ない。
1239
みんなの為に
8月24日、即ち逆経済封鎖3日目。
街道封鎖による市井の混乱は落ち着き始め、それと反比例して警
務局の人間が慌てふためいているのが総督府の窓からよく見える。
街道封鎖をした理由が国事犯の逮捕だからだろう。
14時20分。
俺とエミリア殿下とマヤさんは軍事査閲官執務室で現状確認と今
後の方針を話し合っていた。
﹁よくもまぁ、こんな手を思いつくものだな﹂
マヤさんは溜め息を吐きながらそんなことを言う。怒っていると
いうよりは呆れているという部類の感情で、俺に対して非難をして
いるわけではない。が、うん、まぁ、ごめんなさい。それとありが
とう。
﹁皆さんが手分けしてくれたおかげで、効率よく経済封鎖が実現し
ましたよ。1人じゃ無理でした﹂
エミリア殿下と公爵令嬢にして総督の妹であるマヤさんが総督や
民政長官に働きかける。
ラデックが街道封鎖に必要な人員配置や、不足するであろう物資
を駐屯地から開放して市井の混乱を最小限に抑える。
サラは⋮⋮うん、ユリアの世話してる。まぁ今まで忙しかったん
だから、長めの休暇だと思えばいい。
1240
まさに適材適所、当初予定より早く効果が出ると思う。
1人でやって責任をかぶろうとしたけど、皆に協力してもらって
むしろ良かったのかもしれない。
﹁しかし、少々危険な手ですね。経済的な危険もそうですが、政治
的な危険も大きいでしょう。一貴族領が反乱紛いのことをしている
のですから﹂
﹁エミリア殿下の言う通りだとは思いますが、これでも危険性は低
くしているつもりです﹂
今回の逆経済封鎖、名目的には国事犯の逮捕の為の一時的な措置
だ。
マリノフスカ事件の真相や、そしてそれが王女派と大公派の抗争
であることを知らない貴族や一般市民に対する言い訳はこれで立っ
た。
事の真相や裏の事情を知る大公派貴族に対しても、大公に関する
悪評と言う形で抑え込んでいる。
﹁こんな噂で大公派貴族が黙るとは思えないが?﹂
﹁確かに、こんな噂じゃ黙らないでしょうね﹂
﹁つまり、これは失敗か?﹂
﹁いえ、たぶん成功するでしょう。クラクフスキ公爵領に近い、大
公派貴族のシェミール伯爵が何も言ってこないのがその証拠ですよ﹂
シェミール伯爵領は、クラクフスキ公爵領の北隣に位置しており、
クラクフと王都を結ぶ街道のひとつがこの伯爵領を通っている。当
然、今頃は伯爵領の領主だか総督の耳に届いているだろうが、伯爵
が声明を発表したとか、私兵を動かしたとかという話はまだ入って
きていない。
1241
﹁この噂にはどういう意味があるんだ?﹂
﹁簡単な話ですよ。大公が悪者だという印象を不特定多数に植え付
けさせるんです﹂
一般市民から貴族に至るまで、不確定情報ながら﹁大公は悪人﹂
という噂がドッと流れてきたらどうなるだろうか。
少なくとも、表立って大公に味方することはできない。たとえ大
公派貴族として有名なシェミール伯爵であっても、下手に動けば﹁
伯爵は悪者に味方する貴族なんだ﹂と領民に思われてしまうと今後
の統治が上手くいかなくなる。
だから何も言えない。とりあえず、この抗争が一段落するまでは
大公派貴族は何もできない。
新聞はあるが、この世界の一般庶民の情報調達手段は噂が主流。
故に、噂の力は凄まじいものがある。
問題は、いつまでそれが持つかだ。人のうわさも75日と言うし、
噂の力も限界がある。エミリア殿下も、どうやらそれが不安なご様
子。
﹁ですが、いつまでもこの状態が続くとは思えません。ボロが出な
いうちに次の手を打つべきでしょう﹂
﹁わかっております。マヤさん、準備は出来てますか?﹂
俺は予めマヤさんに次の作戦の準備をさせていた。
彼女は当然と言わんばかりに、その豊満な胸を張る。
﹁大丈夫だ。ヘンリク殿にも、話は通してある﹂
﹁流石ですね﹂
1242
そそ
事件はまだ始まったばかり。むしろ、これからが本番とも言える。
サラの汚名を雪ぐためにも、先手先手を取らないとね。
﹁本当に、ユゼフさんが敵でなくて良かったと思います﹂
エミリア殿下はそう呟いたが、聞こえなかったことにしよう。褒
めてるんだろうけど、なんかちょっと悲しい。俺はそんなに悪辣な
人間じゃないのに。日々真面目に生きているのに!
翌8月25日、13時30分。
執務室の隣にある応接室で、俺とマヤさんはある人物と面会して
いた。その人物とは、国家警務局所属のヘンリク・ミハウ・ローゼ
ンシュトック少佐、そして彼の付添人兼監視役の謎に包まれた第三
の男である。
その第三の男の名前はイツハク・パデレフスキ。ヘンリクさんと
同じく国家警務局に所属する警務局員で、階級は少尉。そしておそ
らく、大公派から監視のために送られてきた刺客的な存在。
﹁⋮⋮何の用ですか、軍事参事官殿。私は今、国事犯逮捕のために
忙しいのですが﹂
パデレフスキ少尉は敬語を使ったが、凄い嫌味ったらしかった。
まぁ遥か年下で階級が2つも上だと少しは嫉妬するし、そしてなに
より俺は政敵だからね。ま、俺もそれに倣ってタメ口で相手してあ
げよう。年下にタメ口にされるってどういう気分?
﹁今日はローゼンシュトック少佐、そしてパデレフスキ少尉に商談
1243
があるので﹂
﹁商談⋮⋮?﹂
顔を顰めたのはパデレフスキ少尉、無表情を貫き通しているのは
ヘンリクさんだ。まぁ、ヘンリクさんは四六時中表情が変わらない
のだけど。
﹁商談と言っても難しくはないよ。サラ・マリノフスカ少佐に対す
る指名手配をなかったことにしてほしいってだけだから﹂
﹁何を仰るかと思えば⋮⋮﹂
口を開いたのはまたしてもパデレフスキ少尉。ヘンリクさんはだ
んまりのまま。別に彼とは事前打ち合わせをしたわけじゃない。た
ぶんこちらの出方を窺っているのだろう。
そんな事情を知ってか知らずか、パデレフスキ少尉は口を閉じる
ことはしない。
﹁まさか、封鎖を解く代わりと言うのではないでしょうね?﹂
﹁おや。さすがは警務局の方ですね。小官如きの提案を看破すると
は﹂
相手が嫌味ったらしく言ったのでこっちも全力で嫌味ったらしく
返答する。うわー警務局の人間は優秀だなー。ついでにここだけ敬
語にしてさらに煽っていく。相手がイラついてボロが出ればめっけ
もんだ。
﹁そんな取引に応じると思わないでいただきたい。私はこれでも警
務局の端くれです。そんなものの為に、法を曲げても良い訳があり
ません﹂
1244
ふむ。お手本にしたいくらいの正論である。警察官が行政の圧力
に屈するわけにはいかない、というスタンスは重要だよね。でも、
今回の場合は屈してもらわないと困る。少なくとも、警務局に非が
あるこの状況では。
パデレフスキ少尉はヘンリクさんを促して退室しようとしたが、
その時マヤさんが鞄から一束の書類を出した。
﹁少尉、これが何かわかるか?﹂
﹁⋮⋮なんですそれは﹂
﹁これは、クラクフ駐屯地における2週間分の全物資の動きをまと
めたものだよ﹂
クラクフ駐屯地補給参謀補ラデックが一晩でやってくれました。
まぁ2週間分の仕事を束にしただけなので、正確には一晩でやって
はいないが。
﹁国家警務局の調査では、確か駐屯地の物資横領が証拠のひとつだ
った。でも、これを見る限りそんなことは起きていないようだけど
?﹂
これは前に俺が指摘した通りの事である。ラデックはクラクフに
着任してからずっとマメに物資流出入をチェックしていたようで、
おかげで子細な資料を残していた。
でも、パデレフスキ少尉は態度を崩さない。
﹁⋮⋮その資料の中身が、真実であると言う証拠はあるのですか?
偽造された可能性もあるでしょう﹂
パデレフスキ少尉の言うことは間違ってはいない。
確かに国事犯として指名手配されている容疑者を助けるために用
1245
意されたとしか思えない資料を提出されて信じろ、という方が無理
だろう。むしろ、資料偽造を疑うのは当然だ。
でも大丈夫。これも想定の範囲内だ。
﹁もうひとつ見せたいものがあるんだけど﹂
﹁⋮⋮なんだ?﹂
ついにパデレフスキ少尉は敬語をやめた。結構イラついてるよう
で、貧乏ゆすりをやめようともしない。この部屋の中で一番階級が
低いのは彼のはずなのにね。それくらい彼も追い詰められてるって
ことか。
その時、丁度良いタイミングでドアがノックされる。マヤさんが
﹁どうぞ﹂と短く返事すると、入ってきたのは従卒のサヴィツキ上
等兵、そしてハゲ散らかしたオッサンが1人。
そのオッサンが部屋に入った時、ヘンリクさんは僅かに眉を動か
し、そしてパデレフスキ少尉は慌てた様子で立ち上がった。
﹁⋮⋮お、お前は!﹂
﹁少佐たちはご存知かと思いますが、会計士の⋮⋮なんでしたっけ
?﹂
﹁サボニスです。ファジェイ・サボニス﹂
﹁あぁ、そうでしたすみません。サボニスさんです。マリノフスカ
事件の証拠のひとつだった、マリノフスカ少佐が物資を横領し、そ
して換金したという証拠である会計書類を作成した人です﹂
今回の事件の主な証拠は、物資の横流しがあったことを証明する
書類、物資を売り捌いて、その過程で得た会計書類、そしてそれで
得た資金で人を雇った形跡、恐らく契約書、この3つだ。
1246
物資の横流しを否定するのはラデックがやってくれた。ではもう
1つ、資金を得た証拠を否定する。これを否定できれば、自然と3
つ目の証拠も消滅する。資金を得てないなら契約できないからね。
と言うわけでサボニスさん。やっちゃいなさい。
﹁私は、そこにいらっしゃるパデレフスキ少尉に命令され、会計書
類を作成しました﹂
﹁⋮⋮な、何を言っているのだ! いい加減なことを言うな!﹂
サボニスさんが会計書類を作成し、それを警務局に証拠として提
出した。
でもそれはサラが依頼したのではなく、警務局が命令して偽造し
た証拠だということだ。
サボニスさんの存在については、ヘンリクさんに聞いたら﹁別に
隠すようなことじゃない﹂と言って教えてくれた。まぁ、こういう
ことに使うことは万が一の情報漏洩を防ぐために黙っていたけど。
﹁いいえ。私は少尉に命令されました。報酬として金貨15枚も受
け取ったことも覚えています。なんなら、その時にあなたから渡さ
れた﹃こういう書類を作成してほしい﹄という書類も提出しても構
いません﹂
﹁な、お前、嘘を吐くな! それは会計書類を受け取るとき、私の
目の前で燃やしたではないか!﹂
はい。自滅。皆さん聞きましたね? パデレフスキ少尉は今自分
で証拠の存在を認めましたよ。
うん。予想外にうまくいったな。﹁目には目を、歯には歯を﹂理
論で、そのサボニスさんの言う偽造会計書作成依頼の書類を偽造し
1247
てたんだけど、使う前に少尉がゲロったから使わなくて済んだ。つ
いでにサボニスさんが裏切らないよう、金貨30枚を掴ませておい
た。公爵家のお金だけど、マヤさんは快く﹁貸して﹂くれました。
返済の事を考えるとすごい鬱になる。
まぁ、証拠捏造するのが警務局の特権だと思わない方が良いぞい。
偽造書類の方は使わなかったけど。
﹁パデレフスキ少尉!﹂
ヘンリクさんは、パデレフスキ少尉を怒鳴りつけた。この時初め
てパデレフスキ少尉は、自分が遠回しな自白をしたことに気付いた
ようだ。すごい﹁やっちまった﹂って顔してる。
﹁⋮⋮少尉、あとでそのことについてゆっくり聞くことにする。そ
れまで黙っていろ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
ヘンリクさん、怒ると本当に顔が看守のそれになる。超怖い。
まぁそんな哀れなパデレフスキ少尉はさておき、ここからが本番
だ。
﹁⋮⋮パデレフスキ少尉。話を戻しますけど、商談をしましょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
少尉は黙ったままだ。ヘンリクさんの命令を守っているのか、そ
れとも単に何も喋る気がないのか。
でも、今はどっちでもいい。とりあえず敬語に戻して彼と商談の
続きをするのが先決だ。
1248
﹁少尉は、今回の事件の黒幕ではないことはわかっています。これ
以上事を進めても、計画は失敗します。そうなれば、あなたはトカ
ゲの尻尾切りに遭う。その黒幕とやらは、あなたに全責任を押し付
けるでしょう。それは、あなたの本望ではないでしょう?﹂
少尉が独断でこんなことをしたとは考えにくい。たぶん黒幕の命
令を受けてヘンリクさんを監視し、証拠を捏造してサラを貶めよう
としたのだ。その命令に逆らえば首が飛ぶ、となれば命令に従うし
かない。中間管理職の辛いところだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮どうしろって言うんだ﹂
少尉はとても小さな、そして低い声で呟いた。全責任を押し付け
られたら、自分がどうなるかを想像したのだろう。
﹁私はサラ・マリノフスカ少佐の名誉回復をしつつ、こちら側の被
害を最小限に抑えたい。そしてあなたは全責任をかぶることなく、
その黒幕とやらに責任を押し付けたい。だとすれば、やることは簡
単です﹂
俺はその簡単なことを、少尉に伝えた。彼はしばし項垂れつつも、
それを実行すると約束してくれた。
1249
事件の顛末
事件が一段落したのは、9月5日のことだ。
﹁というわけで、サラの原隊復帰命令が来てるよ。明日から仕事、
長い休暇は終わりだ﹂
インドア派の俺だったら、軟禁状態とはいえ2週間以上続いた休
暇が終わることなんて耐え難い事だ。でもサラはどちらかと言えば
アウトドア派だし、むしろ休暇が終わったのはいいことかもしれな
い。
が、サラの反応はちょっと意外だった。
﹁ふぅん⋮⋮。寂しいわね﹂
﹁寂しい?﹂
﹁えぇ。だって休暇中、ずっとユリアに構ってられたのよ。それが
出来なくなるのは寂しいと思わない?﹂
なるほど。確かにそれはあるかもしれない。
﹁じゃ、今度からはちゃんと連隊長に適度に休暇を要求しなよ。そ
うすれば、ユリアとエミリア殿下と一緒に買い物を楽しめるかもし
れないし﹂
﹁いいわね、それ。その時はユゼフも付き合ってね﹂
﹁善処するよ﹂
まぁでも、査閲官と参事官が一緒に休暇取ったら事務が滞るし、
一緒に休暇を取ることはないと思うけど。でもそれを言うと彼女が
1250
休暇を取らなくなるかもしれないので﹁善処する﹂という日本人的
表現をしておこう。
﹁それで、こうなった経緯を私知らないんだけど、説明あるわよね
?﹂
﹁⋮⋮しなきゃダメ?﹂
﹁当然﹂
ですよね。
うーん⋮⋮話しても問題ないけど、疾しい事ばっかりやったから
好感度下がりそうだな⋮⋮。
﹁今回の事件が、大公派によるエミリア殿下に対する政治的攻撃だ、
ていうのは知ってるよね?﹂
﹁知ってる。だから私は逃げたの﹂
そう。サラは逃げて警務局に捕まらなかった。思えば、大公派は
この時点で負けていたのかもしれない。
彼女の身柄を確保してから犯人に仕立て上げればよかったのに。
﹁そして王女派の警務局員であるヘンリクさんを使って、事件の捜
査をさせる。これによって大公派は、王女派内部に不和を起こさせ、
そして王女派貴族の不信を煽ることを狙った﹂
﹁でも失敗したのよね? ユゼフのせいで﹂
﹁あの﹃せい﹄ってのはやめてくれないかな⋮⋮﹂
なんか悪い事したみたいじゃないか。いや結構えぐい事したな、
とは自分でも思うけどさ。
﹁俺がやった︱︱いや、正確に言うなら、俺が提案して、エミリア
1251
殿下が承認して、マヤさんとラデックの協力によって実行した︱︱
のは、公爵領の逆経済封鎖、大公の悪評を広めること、そして最後
に、﹃犯人﹄を捕まえたことだ﹂
﹁犯人⋮⋮?﹂
﹁うん。犯人。まぁ、その説明は後にして、順に説明しようか。た
ぶんその方がわかりやすいから﹂
﹁え? あんたって他人にわかりやすい説明なんてできたっけ?﹂
⋮⋮⋮⋮。無理かも。
妙な間を置いた後、サラが﹁早く言え﹂と眼力だけで急かしてき
たので、説明を続ける。
﹁⋮⋮えーっと、まずは最初の逆経済封鎖の効果について。これは
一貴族領とはいえ経済規模が王国で一、二を争うクラクフスキ公爵
領。ここからの税収が途絶えれば、中央は混乱する。これは良いよ
ね?﹂
俺がそう聞くと、サラは頷く。よしよし、細かく彼女に聞けばわ
かりやすく説明できそうだ。
王都の混乱ぶりがどんなものだったかは、裏の事情を把握してい
た内務尚書ランドフスキ男爵の娘であり、エミリア殿下の友人にし
て酔うと舌っ足らずになるイリア・ランドフスカさんからの手紙で
知った。曰く、
﹃王都の貴族の狼狽えようは喜劇と言っても差し支えないくらいね。
特に大公派は滑稽だった。連日連夜宰相府に押しかけたせいで、大
公も宰相の仕事に手が付けられなくなったって噂よ﹄
ということらしい。さらには
1252
﹃中立を標榜していた財務尚書グルシュカ男爵が、ある貴族の娘の
誕生日会でエミリア殿下を擁護する発言をしたそうよ。具体的に何
を言ったのかは知らないけど、彼は王都では王女派って見做されて
る。他の中立派も大公に対する不信を隠せないでいるようだけど、
ユゼフくんって一体何やったわけ?﹄
最後の一言が余計だが、この逆経済封鎖、そして市井に流れる大
公の悪口のおかげで、大公派の勢力をかなり削ぐことに成功した。
もっとも、逆経済封鎖なんて荒事を強行したエミリア殿下に対する
風当たりも強くなってはいるようだけど⋮⋮。
まぁ、これはエミリア殿下が俺の作戦の﹁許可﹂を出した時点で
覚悟していたことだ。今更言ったって仕方ない。
﹁逆経済封鎖で王都の貴族を混乱させて、大公の悪評で公爵領周辺
の貴族領を受動的にした。これが最初にやったことだ﹂
﹁なるほどね。で、最後の﹃犯人﹄ってのは何? この事件の犯人、
私ってことになってるわよね?﹂
﹁うん。大公派貴族の勢力を削いだだけじゃ、サラに対する指名手
配が解除されない可能性もあった。よしんば解除されたとしても、
事件を担当したヘンリクさんが﹃偽の証拠に踊らされて無実の人間
を指名手配させた﹄として処罰を受ける可能性もあったんだ﹂
まだまだ味方が少ないエミリア殿下。だからローゼンシュトック
公爵家を見放すことはできなかった。もしかするとカロル大公は、
ヘンリクさんの助命と引き換えにローゼンシュトック公爵家を自分
の勢力下におく可能性もあった。そうすればこの戦いは痛み分け、
実質エミリア殿下の判定負けになる。
ヘンリクさんの処罰を免れつつ、サラの名誉回復を図る。そして
1253
できれば大公派に一撃を加えたい。
だから俺は、証拠をでっちあげたパデレフスキ少尉を利用した。
﹁パデレフスキ少尉を通じてやったことは単純。﹃この証拠は捏造
されたものだ! だからマリノフスカ少佐は犯人じゃない!﹄って
宣言して、誰がその証拠を捏造したかを突き止めるべく捜査を始め
たんだ﹂
﹁⋮⋮えーっと、確かそのパデレフスキってやつが証拠捏造したの
よね?﹂
﹁そうだよ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
サラは﹁何言ってんだこいつ﹂って顔してる。久しぶりに見た気
がするなこの表情。
﹁証拠捏造をパデレフスキ少尉に命令した人、おそらく国家警務局
長が真犯人さ﹂
﹁⋮⋮そいつがやったって証拠は?﹂
﹁ないね。今の所状況証拠だけだ。でもイリアさんに頼んで、内務
省治安警察局に動いて貰うつもりだ。たぶん数日中には結果が出る
と思うよ﹂
我ながら悪いことをしてるな、と思わなくもない。
国家警務局長自身も、大公の命令によって仕方なく証拠捏造を指
示した可能性もあるのだ。そう言った点ではパデレフスキ少尉と立
場は同じ。
そして大公の責任を追及できるほど証拠が固まってるわけじゃな
い。それにあまり責任を追及しすぎると、国家警務局という組織自
体の信用が危うくなる。国家警務局は、内務省治安警察局という政
1254
治秘密警察とは違う、この国の一般刑事犯用の警察機構だ。国家警
務局の権限を落とそうとしたら、王国内全体の治安維持能力が低下
する恐れもある。
また国家警務局は宰相府の組織ということになっているが、構成
員は軍務省から拠出された人間、つまり軍人であり、人事権は軍務
省にある。
そして逮捕された人間は裁判所に送られ、法によって裁かれる。
もしも俺らが本気で国家警務局に対して責任を追及しようとすれ
ば、国家警務局長のみならず、国家警務局を管轄する宰相府、人事
権を持つ軍務省、そして司法行政を担う法務省にまで及ぶ可能性が
ある。
宰相のカロル大公はともかく、軍務尚書は現在宮廷内闘争に中立
の立場で、法務尚書は王女派だ。カロル大公に責任を問えるかどう
かわからないのに、軍務省と法務省を敵に回すことはできない。
だから、名も知らぬ国家警務局長に責任を問うのが関の山。それ
が、サラとヘンリクさん、そしてエミリア殿下の政治的立場を守り、
かつ王女派の被害を最小限にする最善の方法だと信じている。
現在、逆経済封鎖も噂の拡散も行っていない。作戦は既に最終段
階で、サラの指名手配はヘンリクさんとパデレフスキ少尉の手によ
って解除されており、また警務局長が証拠捏造で告発されたことは
既に市民に知られている。
あとは、時間の問題だ。
サラは理解してくれるかな。
いや、理解しないでいてくれた方が嬉しいかもしれない。まっす
1255
ぐな正義感を持っている彼女が、こんな悪役みたいなことをした俺
に嫌悪感を抱くのではないか、そう思った。だから説明するのが嫌
だったのだ。
数十秒経った後、サラはようやく口を開いた。どんな罵詈雑言が
飛び出してくるのか、はたまた拳が飛んでくるのかと身構えていた
が、出てきたのは意外なものだった。
﹁⋮⋮ありがとね﹂
サラはそう言うと、弱く握りしめられた拳によって俺の胸を軽く
小突いた。
1256
事件の裏側
サラが突然﹁長く部屋に閉じこもってたから体が鈍ったわね。ち
ょっと訓練付き合って﹂と言い出したためにボコボコにされたり、
国家警務局長の懲戒処分が通達されたり、リゼルさんから手紙で﹁
当然、私たちの働きぶりにたいする対価は用意されていますよね?﹂
と要求されたり、ベルクソンさんと情報交換をしたり、軍事査閲官
エミリア大佐の手伝いをしていたらいつの間にか9月9日になって
いた。
だいぶ疲れて自室でへばっていた時、マヤさんから呼び出された。
寝たいから後日にしてほしかったが﹁軍務省から通達が来てる﹂と
言われてしまっては従わざるを得ない。
休暇にもかかわらず軍服を着て、軍事査閲官執務室へ出頭する。
エミリア殿下とマヤさんが部屋にいるのは当然として、なぜかサラ
とラデックも部屋にいて俺の到着を待っていたようだ。なにこれ。
﹁⋮⋮なんでみんな揃ってるの?﹂
﹁あぁ、それは軍務省からの通達が非常に重要だからさ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
サラとラデックを呼ぶほどの重要な通達ね。戦争でも起きたんだ
ろうか。カロル大公が死んだとか言うんだったら大喜びなんだけど
な。
﹁とりあえず読もう。﹃ユゼフ・ワレサ。右の者、王国軍少佐に任
命する﹄。以上だ﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
1257
﹁というわけで、ユゼフさん。昇進おめでとうございます﹂
⋮⋮えっ?
﹁なに素っ頓狂な顔してんのよ﹂
﹁え、いや、あの、昇進の名目がない気がするんだけど⋮⋮﹂
佐官昇任試験を受けたわけでもない、戦争で武勲を立てたわけで
もない。じゃあ次席補佐官時代の功績が認められたのか、と思った
がアレは昇進見送りどころか減俸処分を受ける所だったらしいし。
なにがあった。
そんな疑問を答えてくれたのは目の前にいる仲間たちではなく、
背後から現れた人物である。
﹁国王陛下からの直々のお達しらしいよー!﹂
﹁って、えっ、イリアさん!? なんでここに!?﹂
王都の様子を手紙で教えてくれたイリア・ランドフスカがそこに
いた。彼女は内務尚書ランドフスキ男爵の娘で、軍務省魔術研究局
所属の研究員だ。例の部分はマヤさんよりは小さいが、それでも伯
爵級である。
って、そんなことは重要じゃない。
そしてさらにイリアさん後ろからヘンリクさんがヌッと現れた。
怖い。
このメンバーが揃うのは10ヶ月ぶりだな。前回は王都にあるク
ラクフスキ公爵邸で、そして今回はクラクフスキ公爵領総督府。公
爵家関係の建物で会わなければならない縛りでもあるのだろうか。
﹁私がここにいるのは、クラクフにあるヨガイラ大学応用魔術学科
1258
の視察だよ。名目上はね﹂
﹁名目上ってことは⋮⋮?﹂
﹁本当の理由はユゼフくんと飲むため﹂
おいおい。冗談だろ? 冗談って言ってください。
﹁まぁまぁ、そんな顔しないで。大丈夫、ここに居る全員適当な理
由つけてココにいるらしいから﹂
﹁え、そうなの?﹂
集団でサボり? しかも軍事査閲官執務室で酒盛りでも始めるつ
ウォッカ
もりなの? なぜかイリアさんは酒瓶持ってるし、マヤさんもどこ
に隠してあったのか執務机から蒸留酒取り出してるし。
﹁まぁそれはともかく。ユゼフくんが昇進したのは国王陛下、つま
りエミリア殿下のお父上が軍務省に口添えした結果らしいよ。私の
お父さん、つまり内務尚書ランドフスキ男爵がそう言ってた﹂
﹁えっ⋮⋮と、エミリア殿下が何かをしたってことですか?﹂
﹁いえ、私は何も⋮⋮﹂
エミリア殿下経由の話でもないとすると、どういうことだ?
﹁それに関しては私が答えよう﹂
と言ったのはヘンリクさん。ヘンリクさんが知っていると言う時
点で、ちょっと陰謀の香りがするんですが。
﹁そもそも今回の、エミリア殿下一行の人事は、宰相カロル大公の
差金らしい﹂
﹁え、そうだったのですか!?﹂
1259
エミリア殿下は目を丸くしていた。というか、たぶんこの部屋に
居た全員が似たような顔をしていたと思う。
﹁これはパデレフスキ少尉から聞いた話だが、エミリア殿下をクラ
クフスキ公爵領に送る。すると自動的に副官であるマヤ殿と近衛騎
兵のマリノフスカ殿も異動となる。そしてマリノフスカ殿を冤罪に
よって逮捕せしめた後、エミリア殿下とマヤ殿が軽挙妄動に出るこ
とを期待したのだ﹂
サラを捕まえればエミリア殿下とマヤさんが動く。親友を助ける
ために、下手を打ってそこを糾弾する。そこまでは俺も予想したが、
大公はさらなる野望を持っていたらしい。
﹁クラクフスキ公爵領で反乱事件が起きて、そしてその犯人たるマ
リノフスカ殿を釈放するために軍事査閲官とその副官が軽挙に出れ
ば、当然それを監督する立場にあるクラクフスキ公爵領の総督、つ
まりヴィトルト・クラクフスキの責任も問われることになる。もし
そうなれば⋮⋮﹂
﹁なるほど。叔父様はクラクフスキ公爵領そのものの弱体化を狙っ
たのですね。総督の責任を追及し、領土の一部を大公派貴族に分け
与える。そんなところでしょうか﹂
﹁殿下の仰る通りだと思います。もっとも、これはパデレフスキ少
尉と私の推測が含まれているのですが⋮⋮﹂
そこまで考えて冤罪事件を仕組んだとなると、大公も結構侮れな
いな。サラが逮捕されて、警務局によって身柄が拘束されていたら、
事態はどうなっていたことやら⋮⋮。
﹁サラは、なんで警務局が自分を狙ってるってわかったの?﹂
1260
﹁女の勘﹂
サラの勘怖すぎるでしょう。
﹁⋮⋮話を戻しますけど、それが俺の昇進とどう関係するんです?﹂
国王陛下の話と繋がってないような気がするのだが。
﹁あぁ、それについても説明しよう。これは俺の同期の奴から聞い
た話だが、国王陛下は今回の大公の動きを、どの段階からかは不明
だが、察知したらしい。その対策として、打てる手を打ったのだろ
う﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
﹁そうだ。ユゼフ・ワレサの王都召還命令と、クラクフへの転任は
国王陛下が軍務省に圧力をかけたからだ﹂
⋮⋮マジかよ。
﹁で、でもどうして俺が?﹂
﹁国王陛下は、君の事を知っていたのさ。士官学校時代のマヤ殿の
報告書と、そして次席補佐官としての功績をね。そしてこうも思っ
たのだろう。﹃ユゼフ・ワレサという人間をエミリアの傍に置けば、
なんとかするのではないか﹄とね﹂
それはその、なんというか、名誉なことで⋮⋮。
いやいやいやいやいやいや。怖いって、なんで陛下がそんなこと
知ってるんですかね!
﹁それで、なんとかできてしまったから、お父様は軍務省に働きか
けてユゼフさんを昇進させたのでしょうか?﹂
1261
﹁恐らくは﹂
今更かもしれないけどさ、俺を貴族社会の荒波に巻き込むのやめ
てくれますかね⋮⋮。
暫くの間、俺はショックでサラの介抱なしでは立ってられなかっ
た。
数分後、ようやく立ち直ったら、既に場は酒宴の準備に取り掛か
っていた。
そう言えば、イリアさんが﹁この場に居る人は全員適当な理由つ
けてる﹂とか言ってたけど本当だろうか。とりあえず順番に聞いて
みよう。もしかしたらイリアさんの間違いって可能性が微粒子レベ
ルで存在しているかもしれない。いや、もうないだろうけど。
﹁⋮⋮エミリア殿下はなぜここに?﹂
﹁名目上は、査閲官として事務処理をするために﹂
そういう殿下の執務机の上には書類の類は一切なく、代わりに俺
と柄がお揃いのカップがあるだけだ。名目上って言ってるし、あの
殿下もサボる気満々なのか⋮⋮。
﹁あの、仕事の方は良いんですか?﹂
﹁大丈夫です。急ぎの案件はありませんし、もしあったとしても問
題が無いよう、私はお酒は飲みませんので﹂
これは高度なサボりと見るべきか、それとも酒が弱いエミリア殿
1262
下が体よく飲酒を拒否したと取るべきなのか。どっちもか。どっち
もだな。
﹁マヤさんは⋮⋮別にいいか﹂
﹁いや、なんで聞かないのだ?﹂
﹁だって﹃主君の行動に従うのが副官としての役目﹄とか仰るんで
しょう?﹂
﹁⋮⋮その通りだが﹂
やっぱりな。これも忠誠心の表れと見ていいのだろうか。いや、
ダメか。
﹁サラは?﹂
﹁私は至極真っ当に連隊長から休暇の許可は貰ったわ。ユリアも連
れてこうかと思ったけど、酒盛りするとなると、ちょっと教育上よ
ろしくないでしょ?﹂
確かに。サラさんが酔って大泣きする姿をユリアに見せたらダメ
な気がする。
⋮⋮いや、いっそそういう場面を見せてサラに対する崇拝心を削
いでおくのもいいかもしれない。隙を見てユリアも呼び出そう。
﹁ラデックは?﹂
﹁俺も至極真っ当に基地司令の許可は貰ってあるよ﹂
﹁なんだ、なら良かっ⋮⋮﹂
﹁休暇の許可じゃねーけどな﹂
﹁おいどういうことだ﹂
﹁﹃軍事査閲官殿のサインが必要な書類があるから諸々の用事を済
ませるついでに総督府に行っても良いか﹄というのに対しては許可
はとってある﹂
1263
﹁それで、諸々の用事ってのは、まさか酒盛りのことじゃないだろ
うな?﹂
﹁お、よくわかったな!﹂
ラデックの元気のいい声を聞いてガックリ来た。そりゃわかるよ。
ほとんど答え言ってたじゃん。
﹁⋮⋮一応、最後に聞いておきますけど、ヘンリクさんは?﹂
﹁サボりだ﹂
﹁そんな予感はしてました⋮⋮﹂
曰く、﹁30分で終わる仕事を6時間かかるフリをして、余った
5時間30分でここに来た﹂という。
⋮⋮なんかもう、なんだろうこれ。嫌だもう帰る。
と、いうわけにもいかないのが世の中の辛いところである。
﹁と言うわけで、それぞれの上司にばれない程度に飲むよ! ユゼ
フくんの昇進祝いに、かんぱーい!﹂
イリアさんの乾杯の音頭でなし崩し的に始まった酒宴は、従卒の
ブランデ
サヴィツキ上等兵を巻き込んだり、サラの泣き顔を見せようとユリ
ー
アを呼んだり、エミリア殿下が飲んでいた紅茶にこっそり葡萄蒸留
酒を入れて殿下がほろ酔い状態になるなど、前回以上の騒ぎになっ
た。
重要な案件が飛び込んでこなくてよかったな、と思いつつ俺は素
面のまま目の前にある殿下とお揃いのコーヒーカップに注がれたコ
ーヒーを飲み続けた。
1264
﹁あ、ゆれふのカップがエミリアとおそろいじゃーん! わたしも
ほしー!﹂
﹁あ、ちょ、そんなに乱暴に扱ったら落とすよ!﹂
この数日後、俺はサラのために同じカップを買う羽目になったの
だが、
それはまた別の話である。
1265
事件の裏側︵後書き︶
とりあえず今回でクラクフ編は終了です。
次章は、士官学校を卒業したある人物が再登場する予定です。
が、番組は私のモチベ次第で予告なく変更される場合があります。
追記1:7月8日頃に累計PV数が10,000,000を超えま
した。読んでくださった皆様本当にありがとございます。これから
もユゼフくんの外道にお付き合いください。
1266
帝都の夜明け
大陸暦637年9月1日6時丁度。
オストマルク帝国の帝都エスターブルグは、太陽がその身を帝国
の土から這い上がってから間もなく通りを行きかう人も少ない。だ
がそこは﹁芸術の都﹂とも称される街だけあり、初秋の夜明けなら
ではの芸術的美しさに街全体が包まれていた。
そんな帝都の街並みから少し郊外に出た場所に、とある貴族家が
住む邸宅が存在する。
その貴族は伯爵位を持ち、高級官僚にして高級軍人、そして外務
省大臣の義父を持つと言う、帝国の中でも一際異彩を放つ存在であ
る。だが現在この邸宅にはその伯爵はいない。公務で帝都を離れて
いるためである。
では伯爵邸には誰もいないのかと言えば、そうではない。伯爵の
妻、そして夫婦の間に生まれた4人目の子供、そしてその人物たち
の世話をする執事や近侍が邸宅内にいる。
一部の執事と近侍は、静かな帝都の様子とは逆に忙しなく動いて
いた。理由は明瞭。伯爵の4人目の子供が、時計のように正確に、
下手をすれば並の時計よりも正確に6時に起床するためである。
そして今日も、昨日と同じ6時丁度に彼女は目を開けた。おそら
く彼女は明日も6時丁度に目を覚ますだろう。
彼女が起床後にやることは、やはりいつも同じである。
まずはカーテンと窓を開け、陽の光を体に浴び体を完全な起床状
態にする。
次に、寝衣を丁寧に脱ぎ、そして軍服に着替える。彼女がまだ初
1267
等学校の生徒だった頃は近侍に着替えを手伝って貰っていた。だが、
ベッド
今は面倒な貴族衣装を着る機会がなくなったため1人で着替えてい
る。
着替えが終わると彼女の寝具脇に飾ってある、彼女にとって大切
な人から贈られた懐中時計を手に取る。その時計の針が正常に動い
ていることを確認し、それを身に着ける。
その一連の作業を終えた後、彼女はやや広い自室の外へ出る。そ
して扉を開けるとそこには、伯爵家に仕える執事と彼女の近侍達が
数名がいつもと同じように深く礼をして待っていた。
﹁おはようございます、お嬢様。ご朝食の準備が出来ております﹂
こうして、彼女の1日は昨日と同じように始まる。
だが昨日までの彼女と、今日からの彼女は身分がやや異なってい
た。
今日、大陸暦637年9月1日から彼女は正式にオストマルク帝
国軍少尉に任官するのである。
﹁⋮⋮はぁ﹂
執事と近侍以外誰もいない食堂で、彼女は今日何度目かの溜め息
を吐いた。
彼女の性格から考えれば、溜め息を吐くこと自体が珍しい。なぜ
彼女がそんなに溜め息を吐くのかと言えば、それは先月彼女に手渡
された辞令に理由がある。
今更彼女は軍人になることについて不安を覚えたりはしない。
なぜならば帝国の士官学校で研修制度を利用して、ほぼ1年間要
1268
人警護と父の仕事の手伝いをしたからである。その時の経験は彼女
にとってとても大きく、だからこそ自信を持って軍役に就けるはず
だった。
だが、士官学校で彼女に手渡された軍務省からの辞令には、他の
者とは大きく異なる内容が書かれていた。曰く、
﹃右の者、情報省第一部への配属を命ず﹄
である。
情報省というのは、オストマルク帝国内務省高等警察局、外務省
調査局、軍務省諜報局の一部機能を統合した対外・対内情報機関⋮
⋮となる予定のものである。情報省は、まだその存在を認められて
いない。にも関わらず、彼女の手元には情報省配属を命じる辞令が
届いたのである。
これは少なくとも軍務省内においては設立が認められ、近いうち
に情報省が正式に設置される、そして今のうちにコネクションとな
り得る人材を選定しておこう、とそういう意向が軍上層部において
見出されたことは彼女にも理解できた。
なぜなら彼女は、外務省調査局長にして情報省大臣筆頭候補の娘
であるから。
﹁⋮⋮問題は、第一部が何をする部局なのか、ですかね。⋮⋮私の
立場、軍人としての私、外務省官僚の娘としての私と考えると、や
はり対外諜報が妥当でしょうか﹂
彼女が不安を覚えたのは、まさに﹁対外諜報﹂という点にあった。
この時彼女は、つい数ヶ月前まで在オストマルク帝国シレジア大
使館に勤務していた次席補佐官の男の事を思い出していた。彼はシ
レジア外交官として情報収集活動を行い、またその過程において彼
1269
女の父と祖父が目論む策略の一助となるなど、多大な功績を残した
人物である。
その功績は本国政府においてあまり重要視されていないようだが、
彼女はその彼の功績を正当に評価していた。そして評価していたか
らこそ、彼の存在と言うものがとても大きく映って見えたのである。
﹁⋮⋮悩んでいても、仕方ありませんね。他人を過大評価して自ら
を貶めるような愚は恥ずべき結果を産みます﹂
彼女は誰にも気づかれないよう呟いた後、素早く朝食を済ませる
ことにした。
その後、彼女は手早く支度を始める。その支度の途中何度も懐中
時計の動作を確認しては、少し表情を緩めることを繰り返していた。
7時45分。
ベッド
支度を終えた彼女は、執事が用意した私用馬車に乗るべく伯爵邸
を出る。ちなみに彼女の母親はまだその身を寝具に預けたままであ
り、その心は無限の夢の中を彷徨っている。
彼女は外で待機していた御者に挨拶をした後、彼女の後ろで頭を
垂れている執事に伝える。
﹁落ち着いたら週に1度は戻ってくるとは思いますが、しばらくは
軍の女性官舎に住むことになります。その間、母のことを頼みます﹂
﹁承知致しました。邸内の事はお気になさらず、どうぞ職務に励ん
でください。お嬢様﹂
﹁えぇ。そうするわ。⋮⋮それと﹂
彼女はそう前置きした後、しばし言葉を詰まらせた。執事が不審
に思い顔を上げると、そこには久方ぶりに見る彼女の笑顔があった。
1270
﹁今まで我が家に仕えてくださり、ありがとうございます。⋮⋮と
言っても、まだまだお世話になる予定ですが﹂
彼女が執事にそう伝えると、執事の反応を待たずに馬車に乗り込
んだ。一方の執事は呆けた表情を一瞬した後、再び慌てて深く礼を
した。
﹁行ってらっしゃいませ、お嬢様﹂
彼女は外務大臣政務官兼調査局長ローマン・フォン・リンツ伯爵
の娘、元オストマルク駐在武官ユゼフ・ワレサと共に内務省高等警
察局を潰し、その後オストマルク帝国第一士官学校情報科を首席で
卒業した女性。
そして、今日から情報省第一部の職員として働くことになる。
その人物の名前は、フィーネ・フォン・リンツ。
1271
帝都の夜明け︵後書き︶
と言うわけで新章突入です。
﹁おい主人公戦えや﹂という読者様からのツッコミと﹁フィーネさ
んの出番はよ﹂という要望にお応えする予定です。が、やはり私の
モチベ次第で変わる可能性あります。
1272
公爵領改革
大陸暦637年10月18日。
クラクフスキ公爵領の統治は順調そのものだ。と言っても軍事査
閲官と参事官の職務は、公爵領内の軍事及び治安維持が主だ。その
ためさすがに王国政府が指揮統括する王国軍にメスを入れることは
できないが、公爵の私兵部隊は自由にできる。
クラクフスキ公爵私兵部隊、長ったらしいので﹁公爵軍﹂と総督
府内では呼称しているが、その規模はクラクフ駐屯地に駐留する警
備隊その他に匹敵する規模を持っている。なんとその数は合計で1
万5000名である。
指揮官は当然クラクフスキ公爵であるが、公爵は領地に関するこ
とマヤさんの兄であるヴィトルト総督に任せている。そしてそのヴ
ィトルト総督も、軍事に関することは軍事査閲官に委任している状
況である。現在、クラクフスキ公爵領軍事査閲官の地位にいるのは、
エミリア・シレジア大佐。
つまり、この公爵軍はエミリア大佐の私兵と言っても過言ではな
い。
1万5000の兵を率いる大佐ってなんやねん、って感じだが、
あくまでも1万5000という数字は﹁合計﹂だ。実際に動かすと
なるともっと少なくなるだろう。当のエミリア大佐も、
﹁さすがに1万5000人も動かせる自信はありませんね⋮⋮﹂
と仰っている。春戦争じゃ参謀的な役回りが多かったと聞くし、
その前のラスキノ戦は小隊レベルの指揮しかしてなかったから仕方
ないとも言える。
1273
さて話を戻すが、貴族が保有する私兵部隊というものの役割は主
に2つある。
ひとつは、戦時において王国軍に兵を拠出するための存在だ。
ノブレス・オブリージュ
貴族の義務の代表的なものに﹁国家が危急の際には貴族は無償の
奉仕﹂をしなければならない、というのがある。その無償の奉仕は
資金提供、物資提供、人員提供が主だ。そして王国軍に人員を提供
する時に私兵部隊の人員が優先的に提供される。そしてその私兵部
隊が戦争で武勲を立てると、国から武勲に見合った報奨を受け取る
のだ。
もっとも、春戦争のような国家総力戦となると予備役やら使えそ
うな国民を片っ端から徴兵することになるので、貴族私兵の活躍は
相対的に低くなるが。
もうひとつの役目は、領内の治安維持である。
この国の治安維持は主に軍の役割だが、そのための機関は3つあ
る。宰相府所轄の国家警務局、王国軍所轄の警備隊、そして貴族の
私兵部隊である。
国家警務局は前にも説明した通り、命令系統が宰相府で人事権が
王国軍にある。役割としては広域警察で、まぁ前世風に言うとFB
Iって感じだろうか。命令系統と人事権が別なのは軍の暴走を止め
るための措置なのだが、先日のマリノフスカ事件のように宰相府が
暴走するときもある。ちなみに証拠捏造を指示した国家警務局長は
無事閑職に飛ばされたらしい。
警備隊は、まぁ説明しなくてもわかるだろう。警備隊は軍隊であ
るとともに警察でもある、ってだけだ。戦時には前線に立ち、平時
1274
においては警察として働く。それだけだ。これを統括するのは軍務
省及び総合作戦本部であるが、軍事査閲官にも治安維持に関して一
定の権限がある。例えば街道封鎖とか街道封鎖とか街道封鎖とか。
で、最後に貴族の私兵。これはまぁ、前世で言う所の町内会のお
じさんおばさんが町内を巡回して見回りをしたり、時には大捕り物
に参加したりするもののでっかいバージョンだと思って大差ない。
この治安維持を目的とした私兵を指揮統括するのが、貴族の当主で
あり、総督であり、軍事査閲官である。
説明が長ったらしくなったが、まぁ要約すると
﹁公爵軍が1万5000いるからってそのほとんどは治安維持用に
残さないといけないからエミリア大佐が動かせる実戦部隊はせいぜ
い1個連隊程度なんだからね! 勘違いしないでよね!﹂
である。
1個連隊とすれば、まぁ大佐の身分には相応しい兵力だろう。大
公派にとってもクラクフ駐留の王国軍を使えば、もしエミリア殿下
が私兵を使って反乱を起こしても鎮圧できる程度の人員しかいない
ことになる。これで反発が多い日も安心だね!
まぁ、えらく支持者が多い近衛騎兵のサラさんを勘定に入れたら
大変なことになるけどネ。
それはともかく、このエミリア殿下の裁量で自由に動かせる私兵、
そしてクラクフ駐屯地補給参謀補のラデックを経由して王国軍クラ
クフ警備隊の軍政改革にこの数ヶ月勤しんでいた。
1275
やってることは酷く単純だ。綱紀粛正、あらゆる作業の効率化推
進、各隊の編成の見直し、補給物資の無駄遣いがないかの監視が主。
でもこれを徹底するだけで効果が表れているようで、、たった1ヶ
月の改革で既に予算に余裕が出来始めた。
財政の赤字圧縮に成功はした。だが歳入が増えなければ意味はな
い。
と言うわけで伝家の宝刀、コネを使うときが来た。
14時丁度。軍政の仕事が一段落ついた頃、従卒のサヴィツキ上
等兵が入室してきた。
﹁参事官殿、グリルパルツァー商会の方が見えています﹂
﹁わかりました。いつも通り、応接室に通してください。えーっと
⋮⋮あの人は確か紅茶派だったから、それを準備してほしい。俺の
はいつもので良いから﹂
﹁わかりました。すぐに準備します﹂
サヴィツキくんも結構有能である。俺に権限があれば彼を伍長に
昇進させてあげたいが⋮⋮。でも従卒の昇進ってどういう基準で決
まるんだろうね。
数分後、俺は交渉用の資料を持って応接室に入る。そこに居たの
はラデックの嫁候補、リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパル
ツァーである。彼女はオストマルク帝国の貿易会社﹁グリルパルツ
ァー商会﹂の社長令嬢。春戦争前は帝国軍の情報を俺に提供してく
れた人物であり、その対価を今日払うという目的で約束を取り付け
た。
1276
わたくし
﹁わざわざ我が国まで御足労いただいて申し訳ありません﹂
﹁いえいえ、私も愛するラデックさんに会いたかったので、そのつ
いでですよ﹂
ラデックとリゼルさんの婚約は親同士が勝手に決めた、いわゆる
政略結婚なのだがなぜかラブラブである。たぶん﹁ついで﹂という
言葉に嘘偽りはないだろう。
はやく彼女を開放してラデックの下へ向かわせてあげよう。別に
俺がこの人の惚気話が苦手だとかそういう理由は一切ない。ただ純
情に2人の幸せを優先しただけの事であり、決して﹁長く話すと面
倒なことになるんだろうな﹂とかは本当に考えてない。
﹁早速本題に入りますが、戦前に約束したことを履行したいと思い
ます﹂
﹁つまり、代金を払ってくれるということですか?﹂
﹁そうです。まぁ、代金という形で履行はしませんけどね﹂
リゼルさんが求める対価は一時的な売上ではなく、永続的な利益
である。ともすれば俺らが払わなければならないのは代金ではなく、
提案だ。この提案は、民政長官と総督にも話は通してある。そして
初期の交渉については面識のある俺に一任された。もっとも、最終
調整と契約は流石に民政長官と総督にやってもらわないとならない
が。
﹁リゼルさん。この公爵領に生産拠点を置く気はありませんか?﹂
﹁⋮⋮ほほう﹂
マニュファクチュア
つまり工場誘致である。工場と言っても石炭なんかの化石燃料が
ないこの世界、工場の形態は﹁工場制手工業﹂が主になる。
リゼルさんも興味を持ったようで、目つきが経営者になった。暴
1277
騰寸前のシレジア国債をどれほど買うかの相談をしてきたときを思
い出すなぁ⋮⋮。
﹁毛織物工場、なんてどうですかね?﹂
肥沃な土地に恵まれたシレジア王国の主要産業は農業で、大陸の
大穀倉地帯としても機能している。そして小麦を作る傍ら、牧畜に
も古くから力を入れてきた。牛、豚、馬、そして羊。
﹁そう言えば、シレジアや東大陸帝国の羊は肉にしても毛にしても
品質が良いことで有名ですね﹂
﹁さすがの御見識です﹂
﹁しかし、実行するとなると私たち商会にとっては初の国外工場の
建設となります。利点はなんでしょうか?﹂
﹁はい。まず我がシレジア王国は、オストマルク帝国に比べ物価水
準が低いです。つまり、工場建設費や人件費、原材料費が安くなり
ます。同じ工場を作るのなら、安い方がいいでしょう?﹂
﹁なるほど。ですが国外工場となれば国境通行料や距離が問題とな
ります。それによって輸送費が増大してしまえば元の子もないでし
ょう﹂
﹁確かにそうです。ですが距離は問題とならないでしょう。クラク
フスキ公爵領はオストマルクとも国境を接していますので、最大の
消費地たるエスターブルクへも馬車数日の距離ですから。そして国
境通行料に関しては、既に引き下げの方向で調整しています。近日
中には実行されるでしょう﹂
そう言って俺は手元から資料を出す。
軍事参事官として働く傍らに作成した、クラクフスキ公爵領各所
の平均賃金表、クラクフからエスターブルクまでの輸送距離及び輸
送費の試算、そして国境通行料の引き下げ率などなどを記載した書
1278
類だ。民政長官も作成の手伝いをしてくれたから、その数字はかな
り正確だ。
リゼルさんはそれを熟読すると、口に手を当てて色々考えている
様子。恐らく彼女の脳内では物凄い勢いで数字が動いているはずだ。
﹁なるほど。これならば高級服のみならず、中産階級向け衣服の生
産でも元は取れそうですね﹂
よし、掴みは上々だ。
﹁しかしだからと言って建てましょう、とはなりませんね﹂
﹁というと?﹂
﹁確かに工場建設費は帝国内で建てるよりかは安いです。ですが、
リスク
帝国内でも地価と賃金が低いところはいくらでもあります。そうな
ると国外工場という危険性を軽減する﹃何か﹄を、公爵領で用意し
てくれない限り、この提案には乗れませんね﹂
やはりそう来たか。
でも大丈夫、まだ想定内。こういうこともあろうかとヴィトルト
総督に土下座してお願いしといたのだ。
こちら
﹁工場建設費用に関しては、公爵領が半分出しましょう﹂
﹁⋮⋮それは、許可済みですか? それとも思いつきですか?﹂
﹁無論、総督閣下の許可済みです﹂
俺の綺麗な土下座を見た総督閣下の反応は﹁お、おう﹂みたいな
感じだった。曰く﹁普通に説明してくれたら素直に認める内容なの
に土下座されるなんて﹂ということである。つまり土下座した意味
がなかった。くすん。
1279
﹁しかしまだ弱いですね。これなら帝国内にもいくつか候補が⋮⋮﹂
リゼルさんは経営者らしく、もしくは交渉者らしく俺から譲歩を
引き摺り出そうとしている。
なら、こちらも切り札を出そう。
﹁⋮⋮工場収益が赤字の場合、公爵領に払う分の資産税及び売上税
は徴収致しません﹂
﹁売上税はともかく、資産税もとなると大きいですね﹂
どんな事業も初年度黒字なんてなかなかできないからね。もし赤
字でも税金免除してあげるよ、となれば商会としても工場建設に弾
みがつくだろう。
でもまだリゼルさんは条件を欲しがっているようで。うーむ⋮⋮
最後の切り札が必要か。結局場に全部出すことになってしまった。
﹁黒字でも、1年は税を減免しますよ﹂
そう言うと、リゼルさんは笑顔になった。お? 交渉成立か?
俺が期待の眼差しをリゼルさんに向けると、彼女は短く、そして
ハッキリと言った。
﹁3年﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁3年の税減免で、この話をお父様に通しましょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は、リゼルさんの目の前でつい思わず右手で顔を覆ってしまっ
た。一方のリゼルさんはそれがおかしくてたまらないようで、笑い
1280
を堪えているように見える。
3年、うん3年か。つまりその間歳入は増えないのか。でもまぁ
雇用創出による領民の所得増加で、間接的な歳入増は見込める⋮⋮。
長い目で見ればは黒字だし、王国に対する税の減免はしてないか
ら全く税収が入ってこないと言うわけではない。国境通行料の引き
下げのおかげで物流拠点としての公爵領の地位も上がるし⋮⋮。
結局俺は数分悩んだ後、結局その条件を呑む羽目になってしまっ
た。こっちが譲歩するだけ譲歩しといて交渉と呼べるものではなか
った。
あるいは、俺が工場誘致の提案をした時からリゼルさんはこの結
末を予想していたのかもしれない。
リゼルさん、恐ろしい子。
1281
公爵領改革︵後書き︶
追記
Q.おい主人公交渉しろよ
A.代金支払いも兼ねてるし、多少はね?
1282
元共和国
文官の領分に武官がしゃしゃり出てはいけない。
そのことを今回の交渉とも言えない商談で身を持って知ることと
なったが、その商談が終わる間際にリゼルさんから気になる情報を
聞いた。
﹁カールスバートが最近妙な動きをしているのですが、ご存知です
か?﹂
カールスバート共和国。
シレジア王国の南西に位置する共和制国家⋮⋮いや、元共和政国
家だ。5年前の政変で軍事独裁政権が誕生、そしてシレジアに攻め
込んできた国だ。
その国がまた妙な動きをしている、という情報は聞き捨てならな
い。
﹁⋮⋮何があったんです?﹂
﹁いえ何があった、というのは詳しくはわかりません。ただそのカ
ールスバート共和国軍の一部から我が商会に、極秘に武器購入の依
頼があったのです﹂
﹁共和国軍の、﹃一部﹄ですって?﹂
﹁えぇ﹂
共和国軍が正式なルートで武器を購入するならまだしも、極秘で
一商会から武器を調達するってどういう⋮⋮?
ただ
リゼルさんは今、結構重要な情報を俺にもたらそうとしている。
しかも無料で。たぶんシレジアの安全保障、そして商会がこれから
1283
持とうとしているシレジアの権益を守るための情報となるのだろう。
﹁それで、その依頼は受けたのですか?﹂
﹁まさか。東大陸帝国の息がかかった国に武器輸出するなど、外務
省に何を言われるかわかりませんよ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
そりゃ何も情報がないとそうなるわな。あえて少量の武器を輸出
して、その武器がどこに行くのか、誰が使うのかを追うことが出来
れば、共和国の内情を知ることができたかもしれないが⋮⋮。
まぁ、過ぎたことはどうでもいい。
﹁にしても、軍の﹃一部﹄が武器調達ですか⋮⋮。安易に判断する
ことはできませんがもしかすると⋮⋮﹂
﹁私もユゼフさんと同意見です。今は油を撒いている最中、と言っ
たところでしょうか。後は誰がどのようにして火花を散らすか⋮⋮﹂
そして燃え上ったら、こちらとしては介入する絶好の機会を得る
ことになる。しかもクラクフスキ公爵領にほど近いカールスバート、
兵站の心配も少ないとなると⋮⋮うん。いい感じだね。
﹁ユゼフさん、悪い顔をしていますよ﹂
⋮⋮しまった、つい思わず。
﹁ヤダナー、ワタシゼンゼンワルイコトナンテカンガエテマセンヨ
ー、ホントダヨー﹂
﹁お手本にしたいくらいの棒読みですね﹂
﹁お褒め戴き光栄です﹂
1284
そう言うと、リゼルさんは呆れたのかちょっと間を空けてしまっ
た。勝った。
﹁⋮⋮⋮⋮まぁ、それはさておくとして、今後も隣国の情勢は注視
すべきでしょう。私達の予想通りの情勢が推移するのか、もしくは
鎮火するのか﹂
﹁そうですね。とりあえず在共和国シレジア大使館に連絡して情報
を集めますかね。後はこちらからも諜報員を派遣しましょうか﹂
﹁それがよろしいでしょう。我が商会の方でも既に人員を派遣して
情報収集に当たらせています。帝国外務省にも一応通報しておいた
ので、早ければ数日中には子細な情報が得られるでしょう﹂
﹁随分熱心なんですね?﹂
﹁えぇ。我が商会にまで延焼しそうになったらさっさと逃げません
と、損害がバカにできませんから﹂
今度は俺が呆ける番だった。強かだなぁ⋮⋮。
そんな俺の情けない顔を見た彼女は満足そうな表情で紅茶を飲み
干すと、綺麗な動きで立ち上がった。ここら辺は育ちの良さが垣間
見える。
﹁本日は良い﹃交渉﹄が出来て大変嬉しく思います。またお会いし
ましょう﹂
なんか﹁交渉﹂の部分を強調してくるのは、俺を慰めていてくれ
てるのか、それとも皮肉で言っているのか。うん、深く考えるのは
よそう。
﹁こちらこそ重要な情報を戴き感謝しています。⋮⋮情報料をお支
払いした方が良かったですかね?﹂
1285
冗談で言ってみたのだが、彼女は一瞬迷うふりをした。その行動
を見て﹁言わなきゃよかった﹂と肝を冷やしたが、そんな俺の気持
ちを感じ取って満足したのか、こんなことを言った。
デート
﹁いえ、先ほどの﹃交渉﹄だけでも十分に料金は戴きましたよ。そ
れに今日はこの後ラデックさんと逢引の予定があって私は大変気分
が良いです。今回は無料で良いですよ﹂
﹁それはよかった﹂
またしてもラデックのモテ男っぷりに助けられてしまった⋮⋮。
イケメンで事務仕事では右に出るものはいない、しかも美人で有
能な社長令嬢の婚約者がいるラデックさん。なんて羨ましい人生を
送っているのだろうか。それに比べて俺は⋮⋮あ、だめだ悲しくて
涙が出てくる。違うんや、これは目にゴミが入っただけなんや。
そんなやり取りがありつつも、一応重要な顧客と言うことで総督
デートコース
府の入り口まで案内する。その短い間にも俺はリゼルさんから﹁今
日のラデックとの逢引行程﹂を聞くことになった。幸せそうでなに
よりですが、リゼルさんから﹁既成事実﹂とか﹁危険日﹂だとかの
単語が出てきたので話を右から左に流すだけに留めておいた。
うん、まぁ、その、なんだ。
両親どっちに似ても顔つきが良くて賢い子が産まれると思います
よ。
1286
大陸史 その5
カールスバート共和国という小さな国の歴史を知るためには、こ
の大陸全体の歴史という大きな視点から見る必要がある。少し長く
なるけど、それを今回説明しようと思う。
大陸暦302年。第33代皇帝の地位を巡って起きた3人の皇女
皇子の争いは、遂に武力衝突という形にまで発展した。これが大陸
帝国初の内戦で、かつシレジア王国が独立するきっかけとなる争い
だったのは覚えているよね?
その独立を手助けしたのが、皇女オリガ・ロマノワの手によって
経済的に裕福となった西大陸帝国だ。この国はその経済力で以って
独立派や不平派貴族を煽り、そして各地で武力蜂起をさせた。
そしてその結果、大陸暦311年にヘルメスベルガー大公を国家
元首とするヘルメスベルガー大公国が独立。さらに318年にザイ
フェルト公爵が団長を務めるクールラント騎士団が武力蜂起し独立
を宣言。続く320年にはウェーバー侯爵領が独立しウェーバー侯
国が成立、321年にビアシュタット子爵が統治する自由都市ホー
エンツォルレンが独立し、330年にはディートリッヒ辺境伯領が
東大陸帝国から分離独立を宣言した。
さらにさらに独立の波は止まらず、大陸暦311年から360年
の間に現在のリヴォニア貴族連合がある場所に、同じリヴォニア人
の国が40以上も独立したのである。多いってレベルじゃねーなこ
れ。
1287
無論、こんなに多くの国に分かれてしまったのにも理由はある。
曰く﹁東大陸帝国中央政府にああだこうだ言われるのが凄いスト
レスだった。俺たちの領地では好き勝手やりたいから独立した。西
大陸帝国の援助があるから簡単だったしね﹂という理由である。
小さな国が乱立すると言うことは、それだけ経済や国防と言った
点で不利になるのは自明の理である。そのことについて危機を訴え
る国もあったが、その声が多数派となることはなかった。
そして大陸暦373年にヘルメスベルガー大公と親戚関係となっ
たオストマルク帝国が独立すると、さらにその国防の危機は遠退き、
それと比例してリヴォニア統一を訴える声も小さくなった。
大陸暦452年にシレジアが独立しすると、最大の仮想敵だった
東大陸帝国と直接国境を接することはなくなり、以来この40の国
は纏まることはせず、リヴォニアという単語も地理的概念へとなり
下がったのである。大陸帝国の内戦も事実上終了し、この領邦国家
たちは栄華を極めようとしていた。
だが彼らは理解していなかった。大陸帝国内戦の終幕は、東大陸
帝国だけが敵である時代の終幕であると同義であることを。
その凝り固まった偏見が打ち砕かれたのは大陸暦470年。リヴ
ォニアの東にある王国で、大陸帝国初代皇帝ボリス・ロマノフにも
匹敵しうる軍事的才覚を持った男がその王国の頂点に立った。
シレジア王国第2代国王、マレク・シレジアの即位である。
マレクは、父から受け継いだシレジアの経済基盤を元に軍備拡張
を推し進めた結果、貴族の私兵に毛が生えたレベルでしかなかった
シレジア王国軍を、大陸最強と謳われるようになるまで作り変えた。
そしてその軍隊で以って大陸暦473年に東大陸帝国に宣戦布告。
1288
戦争の天才マレクを、東大陸帝国の惰弱な軍隊は止めることはでき
なかった。結果シレジア王国は多数の領土を奪い取った。
調子と勢いに乗ったマレクは、続いてオストマルク帝国に宣戦布
告。東大陸帝国と違って経済力も軍隊の質も良質なオストマルクだ
ったが、マレク指揮する王国軍に対し成す術なく敗戦し領土を奪わ
れる。
そんな向かう所敵なしのマレクが、小さな国に分かれ、個々の軍
事力も小さいリヴォニアの領邦国家たちを見逃すはずがなかった。
大陸暦480年、シレジア王国はリヴォニアに侵攻開始。纏まっ
た軍隊を持たない小国の微弱の抵抗をマレクは物ともせず、リヴォ
ニアの領邦国家を次々と各個撃破していき、開戦6ヶ月で7つの領
邦国家を滅亡させてしまった。
事ここに至り、リヴォニア各国の貴族はやっと気付いた。﹁この
まま分かれてたんじゃやばい﹂ってね。
大陸暦481年、リヴォニアの領邦国家はこの危機に対して団結
することを決意し、滅亡を回避するために互いに協力し合うことを
約束した。
約束したのだが、約束だけだった。貴族たちはこの約束を守らな
かったのだ。
と言うのも、この約束は﹁誰が軍隊を指揮するのか﹂というのを
決めなかったのである。
つまり﹁滅亡するのは嫌だから他の奴らと協力するよ。でも黙っ
てあいつらの下に立って命令を受ける側になるのは嫌だ﹂というこ
とを言い出す貴族が多数派だったのである。
1289
結局、リヴォニアの残った33の貴族は指揮命令系統を決めない
まま各々が自由に動くということになった。そんな領邦国家たちの
醜態を見たマレクは﹁これは軍隊ではなく﹃烏合の衆﹄と呼んだ方
が適切だ﹂と至極真っ当なことを言ったらしい。
そんな烏合の衆に負ける程マレクは弱くなかったし、それに手加
減してあげる程慈悲深くもなかった。
大陸暦482年、シレジア王国軍の補給線が伸び切り攻勢限界に
達したところで終戦。40あった領邦国家の内、16ヶ国が大陸の
地図から消滅してしまうという最悪の結果に終わったのである。哀
れ。
そしてやっとリヴォニア人たちは目覚めた。
﹁リヴォニアに統一国家を作ろう﹂
今更な気がするが、目覚めてからの行動は早かった。
大陸暦483年。ヘルメスベルガー大公国、クールラント騎士団、
ウェーバー侯国、自由都市ホーエンツォレルン、ディートリッヒ辺
境伯領は盟約を結んだ。5つの国を統合し、最高意思決定機関とし
て元老院を設立、それぞれの貴族の階位を公爵と同列にし、4年毎
の輪番制で議長を決める。
そう、この時にリヴォニア貴族連合の礎が作られたのだ。
でも、この動きに反対する輩もいた。﹁統一国家の樹立の必要性
は認めるけどお前らの下に就かなければならないなんて俺は嫌だ﹂
といういつもの理論である。
そんなことを言い出してしまえば、シレジア王国に攻められたと
1290
きの失敗を繰り返してしまうことになる。元老院の各貴族は、反対
派を渡り歩いて説得していった。だがその努力は無駄になってしま
った。
言ってダメなら、武力に訴えるしかない。元老院による衆議は決
定された。
大陸暦495年、元老院によるリヴォニア統一に賛同する領邦国
家10ヶ国と、それに反対する14ヶ国が武力衝突を開始。後世﹁
リヴォニア統一戦争﹂と呼ばれる戦争の始まりだった。
さらにこの戦争に西大陸帝国が﹁東に強力な統一国家ができるこ
とは国防上看過できない﹂と判断し反対派を支援することを表明し
たり、オストマルク帝国が﹁同じリヴォニア人として統一国家が出
来ることは歓迎である﹂として統一派に対して支援したりするなど、
リヴォニア統一戦争は各国の思惑がくんずほぐれつノーガード殴り
合いの大乱闘泥沼戦争と化していった。
ちなみにシレジア王国は何度目かの対東大陸帝国戦争に忙しいの
と﹁こんな煮え滾った鍋に手を突っ込んだら火傷する﹂として介入
はしなかった。
そして大陸暦499年。西大陸帝国が反対派支援を打ち切ったり
反対派が内部分裂を起こしたりして統一戦争はようやく終わり、翌
大陸暦500年に領邦国家24ヶ国が統合し、元老院議長を国家元
首とするリヴォニア貴族連合が成立した。
うんうん良かった良かった。リヴォニアは長く苦しい戦乱の時代
を終えて、統一国家を作ることができたんだ。涙が止まらない、映
画化決定やで。
1291
⋮⋮え? カールスバートの話が一切出てこなかったって? う
ん、大丈夫。今までのは前置きだから。これから話すよ。
リヴォニア貴族連合による統一が成し遂げられ、そして戦争によ
って傷ついた国家基盤を立て直すために元老院は内政に力を入れた。
内政が安定すると軍事力にも力を入れ、いつか起きるだろうシレジ
ア王国に対する復讐戦争の準備をしていた。
そして大陸暦518年、常勝無敗の天才マレク・シレジアが馬か
ら落ちて無事死亡。急な国王の崩御に国政が混乱してる今がチャン
ス、と言わんばかりにリヴォニア貴族連合はシレジア王国に宣戦布
告⋮⋮できなかった。
マレク・シレジア崩御の報から間もない頃、オストマルク帝国の
使者が元老院を訪れ、そしてこんな提案をしてきたのだ。
﹁やあ元老院のみんな! 経済復興と軍事力回復が順調そうで、同
じリヴォニア人として鼻が高いよ! そしてあの忌々しいマレクの
野郎が死んだって聞いたかい!? これで国防上憂慮すべき問題が
片付いたね! そこで相談なんだけどさ、元老院にオストマルク帝
国も参加して良いかな!?﹂
⋮⋮いや、さすがにこんなはっちゃけた口調で言ってないよ? ただわかり易さを追求して⋮⋮その、あの、ごめんなさい。そんな
に睨まないでくださいあと肩を掴まないでください。
コホン。
要は﹁リヴォニア人の大帝国作らない? オストマルクとリヴォ
ニア貴族連合が一緒になれば大陸統一も夢じゃないし、マレクが崩
御したからシレジア王国も介入してこないだろう﹂ということであ
1292
る。
当然、元老院はこの申し出を却下した。
確かにオストマルク帝国はリヴォニア人の国家である。オストマ
ルク帝国皇帝は若干ルース系の血が入っているがほとんどリヴォニ
ア人だし、オストマルクの貴族は全員リヴォニア人だ。でも国家全
体でみると、オストマルク帝国は多民族国家、多数派のリヴォニア
人でさえ全人口の3割にも満たない。
そんな国と一緒になれって何の冗談だ、ってことで元老院は拒否
したのだ。
なんでオストマルクがこんな提案をしたのかと言えば、リヴォニ
ア貴族連合のリヴォニア人を取り込めれば、帝国内においてリヴォ
ニア人の人口比率が半分を超えるから。全体の過半数がリヴォニア
人になれば、少数民族に対する弾圧⋮⋮もとい同化政策がやりやす
くなるだろう。
そんな面倒なオプションがついてくる統合が誰が呑むのだと言い
たくなるが、この国は本気です。
大陸暦518年、リヴォニア=オストマルク戦争勃発。
統一戦争から20年弱が経ったとはいえ未だオストマルク帝国と
の経済力には差があるリヴォニア貴族連合と、少数民族弾圧の為に
少数民族から徴兵して戦うオストマルク帝国の戦争は泥沼化した。
双方決め手を欠いたまま死者の数だけ増える戦争となった。やば
いと思った両国は停戦に向けて交渉を開始、結果オストマルクは元
老院に対する要求を取り下げ、リヴォニアは統一戦争時のお礼をオ
1293
ストマルクに支払うことで合意したのである。
こうして大陸暦520年に停戦したのだが、この時ちょっとした
事件が起きた。
オストマルク帝国内の少数民族のひとつ、ラキア系民族の独立運
動である。
独立運動が起きた理由は明瞭。
﹁リヴォニア人の野郎が俺らラキア人を弾圧するためにリヴォニア
貴族連合に喧嘩吹っかけて、しかも俺らを徴兵して貴族連合と戦わ
せるとかバカじゃねーの? しかも戦場になっているのは俺らの故
郷、カールスバートだぞ!﹂
リヴォニア=オストマルク戦争の主戦場はカールスバートだった。
しかも先述の通り泥沼化してしまったため、かなりの被害がを受け
てしまったのである。権力に居座るリヴォニア人を助け、自分たち
を弾圧するための戦いに身を投じ、その結果自分たちの故郷が焼か
れる。そんな光景をラキア人が見たら、そりゃ独立運動が起きるわ
な。
そしてリヴォニアとオストマルクの和平が成立した大陸暦520
年にラキア人が建国を宣言、カールスバート王国が成立した。
オストマルクは当然激怒し鎮圧部隊を送る⋮⋮なんてことはしな
かった。﹁カールスバートに続け﹂と言わんばかりに各地で武力蜂
起が発生し、その鎮圧に忙しかったからである。
またシレジア王国やリヴォニア貴族連合が﹁カールスバートって
緩衝国家になり得るんじゃないか?﹂と考え独立を承認してしまっ
たのである。
1294
そんなことがあってもなおカールスバート王国を滅ぼすことがで
きる程、当時のオストマルクには余力がなかった。泥沼戦争終えた
ばっかりだしね。
結局なし崩し的にカールスバート王国が成立した。
リヴォニア=オストマルク戦争は、和平成立時点では引き分けだ
った。でもカールスバート王国の独立によって国内が混乱したため、
歴史家の間ではオストマルクの判定負けと評されている。
ちなみに、オストマルク帝国はこのカールスバートの一件で反省
したのか、時の皇帝の鶴の一声によって少数民族に優しい政策に舵
を切ることになった。
その政策の結果が、かつてクロスノで見た理想的な﹁民族の家﹂
なのだが、それはまた別の話である。
1295
大陸史 その5︵後書き︶
第190話﹁公爵領改革﹂に関してユゼフ君のへたれっぷりに批判
殺到、作者大感激。
一応補足と言い訳を活動報告に纏めました←
http://mypage.syosetu.com/mypa
geblog/view/userid/531083/blog
key/1194968/
これからもどうぞよしなに
1296
三つ巴
在カールスバート共和国シレジア大使館から共和国の子細な内情
が送られてきたのは、情報収集要請から6日後の10月24日のこ
とである。
俺はその情報を一読すると、もしかしたら重大な事態になるかも
しれないと思い、サラとラデックを総督府の軍事査閲官執務室に呼
んだ。
そしてその情報を話す前に、エミリア殿下が不安を口にした。
﹁いくら共和国の大使館に大公派の人間が少ないと言っても、随分
早いような気がするのですが﹂
マヤさん曰く、在共和国大使館の大使は中立派で、その部下は国
王派と大公派が半々だという。これは元々この大使館は国王派の巣
窟だった。政変前のカールスバートがシレジア王国に友好的であっ
たし、例の不可侵条約締結は国王派による尽力が大きかったからで
もある。だが政変によってカールスバートが事実上東大陸帝国の属
国となると、親東大陸帝国派である大公派が勢力を拡大、結果この
ような状況になったという。
そのため大使館内部ではきっと激しい対立があるに違いなく、情
報はもっと遅くなるのではないかというのがエミリア殿下とマヤさ
んの予想だったらしい。
無論、情報が早く来た理由はある。しかもそれは不安を煽るよう
な理由で、である。
1297
﹁どうやら共和国内は不穏どころの話じゃないようで、大使館員が
退去準備を始めているそうです。当然政争なんてやってる暇はあり
ませんし、それに本国に対し危急を知らせる意味でも情報を早く流
したのでしょう﹂
﹁そんなに大変な事態なのですか⋮⋮?﹂
﹁えぇ﹂
現在のカールスバートはガソリンを全力でばら撒いた家、と言っ
た感じだ。誰かが火を着ければ、いやちょっとしたことで火花が散
ってしまえばたちまち家全体が燃え上がるだろう。
この尋常ならざる隣国の雰囲気を感じていたのは、どうやらこの
場にもう1人いた。クラクフ駐屯地補給参謀補のラデックだ。
﹁なるほど、それでか﹂
﹁ラデックは心当たりがあるのか?﹂
﹁まぁな。たぶん民政長官辺りも気付いてると思うが、ここ最近カ
ールスバートからの人員と物資の流入量が増えてるんだ。それが流
通に影響して、こっちの補給業務にも一部支障が出てた﹂
なるほど。そりゃ確かに不穏だろう。交通の要衝であるクラクフ
スキ公爵領ならではか⋮⋮。
今後どうするべきか、そう考えていた時に不意に袖を引っ張られ
た。引っ張られた方向を見ると、そこには不貞腐れてるサラさんの
顔があった。
﹁全然話が見えないんだけど﹂
﹁⋮⋮あ、ごめん。説明不足だったね﹂
エミリア殿下もマヤさんもラデックも、みんなそれぞれ別のルー
1298
トから事情を大雑把に把握していたみたいだから説明しなくても大
丈夫かな、って思ったけど事情を知らない人がここにもう1人いた
のを忘れてました。てへ。
﹁順番に説明しようか﹂
﹁あとわかりやすく頼むわ﹂
わかりやすく、サラにも理解できるように⋮⋮結構難しい。
﹁カールスバートで、近日中に内戦が起きる。たぶん数週間以内に
はね﹂
﹁⋮⋮内戦? なんで?﹂
﹁考えられる原因は2つ。ひとつ目は春戦争だ﹂
大陸暦632年のカールスバート政変、あれが東大陸帝国による
介入によって起きた結果だというのは確定事項だと思って良い。シ
レジアとの戦争は引き分けに終わったけど、先述の通りカールスバ
ートは東大陸帝国の属国に成り下がったため、帝国の援助によって
傷口は小さく済んだ。
そしてその帝国からの援助を利用して国内の経済をなんとかする
と、国民はひとまず軍事政権を支持するようになった。共和政時代
の不況を立て直してくれた、という評価が国内世論の多数派を占め
ていたのだろう。
﹁でも、春戦争でシレジアが大勝した。正式な講和条約はまだだけ
ど、これによって東大陸帝国はカールスバートを援助する余裕がな
くなったんだと思う。余裕があったとしても、その援助はオストマ
ルク帝国を経由することになる﹂
﹁だけど、それはユゼフがなんかしたせいでオストマルクがシレジ
アと友好的になって、そんで道が塞がれたってことね﹂
1299
﹁御名答﹂
武官が文官の領分にしゃしゃり出てはならない。なぜなら大抵は
上手くいかないからだ。それは先日、俺も身を持って知ったからわ
かる。
政変後のカールスバート政府首脳部は軒並み軍人だった。軍人の
軍人による軍人のための経済政策だったとしても不思議じゃない。
そしてその頼みの綱だったのが東大陸帝国の援助。 援助で経済を回しそれでお茶を濁したようだけど、援助が断たれ
た後は悲惨だ。
﹁これがふたつ目。経済政策の失敗で国民の不満が噴出したってこ
とだ。これは、大使館からの情報にも書いてある。﹃ハーハ大統領
の経済政策は成功とはとても言えるものではなく、首都ソコロフの
貧民街は日を追うごとに拡大している﹄とね﹂
﹁ふぅん⋮⋮。で、さっきラデックが言ってたアレはどういう意味
?﹂
そのサラの質問に答えるのは、俺じゃなくて当事者であるラデッ
クの方が良いだろう。と言うことで目配せしてラデックに説明を促
す。
﹁あぁ。たぶんだけど、国が貧窮して内戦間近だと悟ったカールス
バートの資本家が、損失を免れるためにクラクフに逃げ込んできた
んだと思う。持てるだけの財産と物資を持ってな﹂
﹁亡命、ってことでいいのかしら?﹂
﹁まぁそれでいいんじゃないか?﹂
カールスバート資本家が国外に逃げる。おそらく外国人資本家も
そうだろう。資本が急激に逃げれば、カールスバートの経済はさら
1300
に後退するだろう。
貧困が貧困を呼び、最終的にその日の食い物にも困るようになり
餓死者が出てくるとなると、もう国としてはお終いだ。革命なんて
ものは、貧困が切っ掛けになることが多い。
まぁ、たぶんその前にカールスバート政府首脳部は民間資本の国
有化だとかをして資本流出を食い止めるかもしれない。でもそんな
強権的なことをすれば反発を招くのは必至だ。
﹁カールスバートの内戦は近日中に起きるというユゼフさんの意見
は私も同意します。問題は、それに際して我々がどう動くかです。
即ち、内戦に介入するか、それとも静観を決め込むか⋮⋮﹂
﹁待ってエミリア。カールスバートの内戦に介入できるの?﹂
サラの言うことはわかる。
現在、シレジア王国は春戦争で受けた被害の回復に勤しんでる真
っ最中だ。そんな時勢で、他国の内戦に介入することなんてできる
のか、ということだろう。それに介入したとしても、その介入費用
に見合った成果が得られるのかもわからない。
﹁それは状況次第ですね。⋮⋮ユゼフさん﹂
﹁なんでしょうか、殿下﹂
﹁内戦が勃発するとして、どのような組織が軍事政権に相対するの
ですか?﹂
﹁⋮⋮そうですね。グリルパルツァー商会からの情報、そして大使
VS
反政府組織﹂みたい
館からの情報を総合的に判断すると、この内戦は恐らく三つ巴の戦
いになります﹂
﹁三つ巴⋮⋮?﹂
エミリア殿下は恐らく単純な﹁政府
な構図を予想したのだろう。
1301
でも、寄せられてきた情報を精査した結果、どうやらそんなに単
純な事ではないようだ。
俺はそのことを説明する前に、カールスバート共和国の歴史につ
いて話した。
大陸帝国内戦から始まり、マレク・シレジアの台頭、リヴォニア
統一戦争、そして大陸暦520年のカールスバート王国の誕生まで。
﹁⋮⋮なんか長ったらしく説明したけど、それがなんの関係がある
の?﹂
﹁サラ。カールスバートが独立した時は﹃王国﹄だったって言った
よね?﹂
﹁そうね。それが関係してるの?﹂
﹁うん。たぶんね﹂
カールスバート共和国は、元々カールスバート王国だった。
でも、大陸暦572年に革命が起きた。カールスバート王政は僅
か52年で倒れ、カールスバート共和政が誕生したのだ。そしてそ
の共和政は、大陸暦632年の時に60年という短さで幕を閉じた。
建国から110年の内に2回も政体が変わり、そして今また政変
が起ころうとしている。
﹁今回のカールスバート内戦は恐らく現政権の国粋派、共和政復活
を望む共和派、そして王政復古を狙う王権派の三つ巴になると思い
ます﹂
1302
来客者の名は
10月26日。
カールスバートの情報を集めつつ執務に専念していた時、エミリ
ア殿下が﹁そう言えば﹂と何かを思い出したようだ。
﹁昨日、オストマルク領事館に新しい館員が着任したようです。そ
の挨拶に、と今日ここに来ると連絡がありました﹂
領事館には現在、二等書記官としてジン・ベルクソンがいる。で
も元々貧民街出身の平民だということから慣れない事の連続で大変
らしい。それを補佐する人の追加派遣ということだろうか。今の現
状を考えると情報の専門家あたりの増援が来てくれると嬉しいなっ
て。
﹁どのような方が来たんです?﹂
﹁えー、と。少し待ってください。確か資料が⋮⋮﹂
エミリア殿下は執務机の引き出しをあちこち探している。もしか
してなくしたのか? とも思ったが違った。どうやらマヤさんが持
ってたようで、スッと脇から資料を出した。
﹁ありがとう、マヤ。⋮⋮っと、オストマルクの士官学校を卒業し
たばかりの方のようですね。年齢はまだ15です﹂
﹁ほう、若いですね﹂
﹁えぇ。と言っても私達も似たような年齢ですが﹂
1303
ま、確かに。
いくら15で大人扱いされるこの国でも、まだまだガキんちょで
あることには違いない。しかも佐官だし。
だがエミリア殿下はそんなことも気にせず、資料に書いてある情
報を読み上げる。ただ読み忘れてるのか、資料に書いてないのかは
知らないが名前を言ってくれない。もしかしたら知り合いかもしれ
ないのに、ちょっと気になる。
﹁オストマルク第一士官学校情報科を首席卒業。その後少尉に任官
し、軍の情報部門に入っているそうです﹂
﹁15歳で情報科首席ですか。かなりの秀才なんでしょうね﹂
﹁そうですね。ついでに美人だそうです﹂
いや、なんでそんな主観的な容姿が資料に書いてあるんですかね。
おかしくない?
﹁父親は伯爵で高級官僚、祖父は侯爵で大臣。血筋良し、容姿良し、
能力良しの超人ですね﹂
⋮⋮⋮⋮ん?
﹁いや、それはエミリア殿下も同じだと思いますよ﹂
マヤさんが意固地になって反論した。エミリア殿下もそれに対し
て、
﹁あら、マヤもそれは同じだと私は思いますけどね?﹂
と反論した。
確かに王族で16歳大佐の美少女と、公爵令嬢で剣兵科首席卒業
1304
の美女って考えてみれば凄い組み合わせた。その点俺は対して美男
子でもない農民の子で席次も下から数えた方が早くて⋮⋮悲しいな
ぁ。いや、俺はあの両親の子供でよかったとは思ってるから別にい
いけど。
て、今はその話は重要じゃない。
伯爵の娘で情報科首席卒業の才媛だって? なんだろう、なんか
そいつのこと知ってる様な⋮⋮。
いや、待て。もしかしたらこれは気のせいだとか気の迷いだとか
悪い夢かもしれない。オストマルクには士官学校がいくつかあるだ
ろうから、もしかしたらそっちかもしれないし。
だからエミリア殿下に名前を教えてもらって、確認をしよう。ち
ょっと怖いけど。
俺は意を決してエミリア殿下に尋ね⋮⋮ることができなかった。
このタイミングでノックがあったからだ。
﹁どなたですか?﹂
﹁私よ!﹂
⋮⋮さらに状況を混乱させるような感じの人が来たんですがそれ
は。
エミリア殿下の許可を得て入ってきたのは、やっぱりというかサ
ラだった。
﹁サラさん、お仕事はの方は良いのですか?﹂
﹁大丈夫よ。今日は休暇だから﹂
﹁なるほど。でも休暇と言うのならユリアちゃんに構ってあげた方
が良いのでは?﹂
﹁いや、今はユリア初級学校に行ってるのよ﹂
1305
﹁あ、そうなのですか﹂
ユリアは今月から初級学校に通っている。でも入学が1ヶ月遅く
なってしまったし、ユリア自体は年齢不詳、しかもコミュニケーシ
ョン能力不足っぽいところもあるから少し心配だ。いじめられてな
いかな。もしいじめられてたら教育予算減らして校長らに圧力をか
けてやろうか。いや、そんなことしないし権限もないけどさ。
﹁それで暇だからエミリアたちに会おうかと思って﹂
﹁⋮⋮いや、俺らは暇じゃないんだけど﹂
﹁なによ。私に会うのが嫌なの?﹂
来客がある、ということがなければ嫌じゃなかったけどね。
あ、そうだ。せっかく近衛騎兵連隊の幹部であるサラが来たんだ
から手伝ってもらおう。確かクラクフ駐屯地に一時的に駐留する近
衛騎兵に関する案件がいくつかあった。まだ余裕はあるけど、それ
を手伝ってもらおうかな。
﹁サラ、今暇?﹂
﹁さっきも言ったけど暇よ。何?﹂
﹁ちょっとこれなんだけどね⋮⋮﹂
そう言って彼女に仕事を手伝ってもらった。休暇中なのに仕事を
するなんて、と怒られるかと思ったがそんなことはなく、むしろ喜
々として協力しているようだ。サラさんってば意外とワーカーホリ
ックなんやな。あとちょっと離れてくれますかね、仕事しにくいで
す。
﹁あ、そうだサラ。連隊の連中に﹃いつでも出撃ができるように準
備しておいて﹄と言ってくれないかな?﹂
1306
﹁それは、﹃出撃待機命令﹄ってこと?﹂
﹁いや、そこまで大袈裟な事じゃないよ。敢えて言うなら﹃出撃待
機命令待機﹄ってところかな﹂
カールスバートの内戦がどう転ぶかわからない以上、一応動かせ
そうな部隊をすぐに動けるようにしておかないとな。もしかしたら
内戦の危機を避けたい国粋派が2回目のシレジア侵攻を企図する可
能性だったあるんだ。
﹁わかったわ。注意喚起くらいにしておけばいいかしら﹂
﹁ありがとう﹂
そして俺とサラさんがそんな会話をしていたのをエミリア殿下は
聞いていたようで、
﹁ならば公爵軍にも注意喚起した方が良いかもしれませんね。もし
かすれば難民がどっと流入してくる可能性もありますから﹂
との発言があった。軍事査閲官として、公爵領を守るために公爵
軍を動かすと言うのであればだれも文句言わないだろう。
﹁そうですね。それが良いと思います。明日にでも公爵軍の部隊長
に伝えておきましょう﹂
こうして、何事もなく事務をこなしていった。そして14時30
分に従卒のサヴィツキくんが来るまで、例の﹁来客者﹂のことを忘
れてしまっていた。
1307
来客者の名は︵後書き︶
次回予告︵CV.銀河○丈︶
食う者と食われる者
そのお零れを狙う国
剣を持たぬ者は生きてゆかれぬ暴力の大陸
あらゆる情報が交錯する街
そこは統一戦争が産み落とした、ソコロフの市
ユゼフの躰に染みついた奇特な臭いに惹かれて
危険な彼女らが集まってくる。
次回﹁出会い﹂
ユゼフが飲むクラクフのコーヒーは、苦い。
※番組は予告なく変更する可能性があります
1308
火のない所に
14時30分。
サヴィツキくんから来客があったことが報告され、そして来客者
の名前が報告された途端、俺は謎の下腹部の痛みに襲われていた。
う、産まれそう⋮⋮。
エミリア軍事査閲官殿に挨拶する名目で会いに来たらしいので﹁
俺は参事官として執務室に残りましょう﹂と提案したのだが
﹁今日の仕事は8割5分を終わらせたので不要です。それに情報交
換を兼ねた挨拶になりそうですので、ユゼフさんも来て下さい﹂
エミリア殿下の有能さに俺は泣いた。
数分後、サヴィツキくんに紅茶を用意するようお願いした後応接
室に行く。
そしてその応接室に居たのは⋮⋮まぁ、そうだよね。この人だよ
ね。数ヶ月ぶりに会った彼女は容姿はそんなに変わってないはずだ
が、心なしか有能そうな顔つきになってる。元々有能だけど。
﹁この度、オストマルク領事館駐在武官に着任いたしました、フィ
ーネ・フォン・リンツ少尉と申します。高名にして聡明なるエミリ
ア殿下、いえ、エミリア大佐にお会いでき、誠に光栄の至りです﹂
﹁恐縮です。私もリンツ伯爵のご令嬢にお会いすることができて嬉
しいです。どうぞ立ち話もなんですから、おかけください﹂
1309
本来なら俺も再会を喜ぶべきなんだろうけど、それも出来ない事
情がいくつかある。
ひとつ、エミリア殿下らにはフィーネさんのことを報告していな
い。当時はまだ彼女は士官候補生で正式には軍人じゃなかったこと、
途中で何かの間違いで検閲されても大丈夫なようにということで、
彼女の名前や性別、年齢などの素性は書かなかった。
まぁ、それを今明かしちゃってもいいんだけどね。それが出来な
いのよね。
なぜか俺の隣にサラさんがいるから。これがふたつ目の理由。
﹁ねぇ、もしかしてあの人私達より年下なんじゃないの? 結構若
く見えるんだけど﹂
﹁サラの言う通りだよ。あのフィーネさんは俺とエミリア殿下の1
個下だから﹂
俺とサラさんは、応接室の入り口付近で突っ立って、エミリア殿
下とフィーネさんの挨拶を横から聞いて、かつばれないように小声
で会話している状況だ。彼女たちは情報交換をせずに会話に花を咲
かせている。これだけ見ると年相応の女子トークみたいだ。
ちなみにフィーネさんは俺に気付いているだろうが、一度もこち
らの方を見てくれない。いや見られても困るけど。
﹁ところで、ユゼフ?﹂
﹁何?﹂
﹁なんであの人名前で呼んでるの?﹂
サラさんの警戒レベルが1上がった。
1310
﹁⋮⋮エミリア殿下も言ってたけど、あの人はリンツ伯爵の娘さん
だから、名前で呼ばないと混同しちゃうかもしれないから﹂
﹁なるほどね。じゃあ私もあいつのことフィーネって呼んだ方がい
いかしら?﹂
﹁そうじゃない?﹂
サラさんの警戒レベルが1下がった。⋮⋮生きた心地がしない。
さて、一方当事者であるエミリア殿下とフィーネさんは挨拶と前
座の会話を終わらせて、本題である情報交換に入った。最初の話題
は、カールスバートの内情について。
﹁と言っても、我々オストマルクもそう多くの情報を持っていると
いうわけではありません。大使館や商会を通じて情報を得てはいま
すが、国内が3派に分かれて火を燻らせている、ということくらい
しかわからないのです﹂
﹁あら、意外ですね。既に多くの情報をお持ちなのかと。あ、すみ
ません嫌味っぽくなってしまいましたね﹂
﹁大丈夫です。私達自身、そう思うわないでもないのです。でも我
が国では、最近情報機関の再編があったばかりで、まだ情報網の構
築が不十分なのです﹂
これはかつて言ってた情報省設立構想のことだろう。まだ正式に
発足したと言う話は聞いていないが、再編が会ったばかりというこ
とは近日中に設立されることになるのだろう。
しかし情報面での支援がオストマルクからは暫く得られないのは
ちょっと不安だな。やっぱりこっちも独自の情報機関、せめて情報
網を持たないと⋮⋮。
﹁なるほど⋮⋮ユゼフ少佐﹂
﹁ハッ。なんでしょうか﹂
1311
﹁今日までに手に入っているカールスバートの情報を彼女に⋮⋮と、
その前に紹介がまだでしたね。彼は⋮⋮﹂
﹁いえ、エミリア殿下。私は彼を知っています。ユゼフ・ワレサ元
シレジア大使館附武官次席補佐官ですよね﹂
﹁あら、ご存知だったのですか?﹂
そう言うとエミリア殿下は驚いた顔でこっちを見てきた。﹁それ
なら最初から言えばいいのに﹂って目をしている。いや、だってエ
ミリア殿下が名前教えてくれなかったんだもん。
﹁えぇ。私とユゼフ少佐は、春戦争における帝国軍の情報収集及び
国内事件の処理を行ってきました。短い間でしたが大変世話になっ
た恩人でもあります﹂
﹁もしかして、報告にあった旧シレジア領の⋮⋮﹂
﹁はい。その時も私がお手伝いさせてもらいました﹂
エミリア殿下は楽しそうにフィーネさんと会話している。歳が近
い女の子だし、そういう喜びもあるのだろう。
一方、俺はちょっと生命の危険を感じていた。
横をちらりと見やると、そこには俺を凝視するサラの目が。彼女
の警戒レベルが5くらい上がってる。
﹁⋮⋮⋮⋮ユゼフ?﹂
タイミング
﹁ち、違うんですサラさん。決してこれは隠していたとかじゃなく
て話す時機が﹂
﹁さん付けするな!﹂
ごすっ。
サラは客がいる手前、最小限の動きと力で俺の鳩尾を正確に肘鉄
1312
していきた。いくらいつもより弱い力とはいえ、鳩尾を殴られると
痛い。そろそろ鳩尾専用の防具でも買わないとダメかしら。
﹁っと、そんなことを話している場合ではありませんでしたね。ユ
ゼフさん、カールスバートの現況を話してくれますか?﹂
﹁あ、はい。わかりました﹂
と言うわけでかくかくしかじか。こちらも多くの情報を持ってい
るわけではないが、ここ数日はシレジア大使館と、亡命してきたカ
ールスバート資本家から集めた情報を下にカールスバートの現況を
予測していたのだ。
﹁現在、共和国内では国粋派、共和派、王権派の3派で抗争が繰り
広げられています。それら3勢力の実力比はこちらの予測では6:
3:1です﹂
﹁⋮⋮王権派だけが随分弱いのですね﹂
﹁はい。王政復古と言っても、カールスバート王政時代から100
年以上経っている現状、市民の支持を得られにくいのがあるのだと
思います﹂
国粋派は共和国軍大将ハーハが大統領となった故に、軍部の殆ど
を掌握している。経済政策には失敗したことから大統領としては微
妙な人だが、軍人としてのハーハ大将は人望・実績共に豊かな人ら
しいのだ。
共和派は、軍部を殆ど掌握できていない代わりに民衆からの支持
が高い。軍事政権の経済政策失敗による失業によって前体勢に戻ろ
うとするのは無理からぬことだろう。でも、所詮寄せ集めと言った
感じは拭えない。軍部の協力者が少ないからね。
王権派については小規模勢力っていうのもあって情報はまだわか
らない。これは暫くかかりそうだ。
1313
﹁なるほど、わかりました。王権派についは我が国も調べましょう。
⋮⋮っと、もうこんな時間ですね﹂
そう言うと、フィーネさんは懐からなんか高そうな懐中時計を取
り出した。便利さで言えば腕時計の方が良いんだろうが、懐中時計
はなによりもロマン溢れてる。俺も欲しい。そもそも腕時計なるも
のがこの世界にあるかどうかは不明だが。
そして今まで黙って話を聞いていたマヤさんも、その懐中時計に
興味を持ったらしい。
﹁それは確かヘルヴェティアの高級高精度懐中時計でしたね?﹂
﹁はい、そうです。友人から貰いました﹂
友人⋮⋮だれだろうか。高級時計ってことはリゼルさんあたりだ
ろうか。
フィーネさんはその懐中時計で時刻を再度確認すると、立ち上が
って退出の意を示した。
﹁申し訳ありません。この後も仕事があるので、今回はこれにて失
礼いたします。有意義なお話、ありがとうございました﹂
﹁いえ、こちらこそありがとうございます﹂
フィーネさんは従卒のサヴィツキくんの案内で部屋の外に出⋮⋮
る直前、何かを思い出したらしく立ち止まった。
﹁ユゼフ少佐﹂
﹁はい?﹂
﹁3つほど、お伝えしたいことがあります﹂
1314
⋮⋮どうしよう。あんまり聞きたくないんだけど。でも礼儀の上
では聞かないわけにはいかないよね。
﹁なんでしょうか?﹂
﹁まずこの懐中時計、ありがとうございました﹂
⋮⋮え、もしかしてさっき言ってた友人って俺のことなの? リ
ゼルさん経由で渡したお礼の品、あれだったのか。でも、そんな高
そうな時計買えるような金はリゼルさんに渡してないけど?
あと、俺の横にいるサラの目つきが若干吊り上った。警戒レベル
も2上がっている。やばい。噴火しそう。
﹁ふたつ目は、父からの伝言です﹂
﹁リンツ伯爵から?﹂
﹁はい。そのままお伝えします﹂
フィーネさんはコホン、と1回咳払いすると、彼女はリンツ伯爵
の言葉を爆弾に変えて俺に伝える。
﹁﹃フィーネとの婚約について気が変わったらいつでも連絡してほ
しい﹄、とのことです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
あの、なんでそれを今ぶっこんで来たのかな? かな? おかげ
でエミリア殿下とかマヤさんとか目を丸くしてるし、サラさんなん
て今にも掴みかかって来そうなくらいワナワナ震えてるんだけど?
サラさん頑張れ、頑張れ。客人の前でキレちゃだめだぞ、掴みか
かってきたらダメだぞ。主に俺の精神力と体力がやばくなるからね!
﹁そして最後に、もう一度私から﹂
1315
﹁⋮⋮はい﹂
﹁今日、夕食の御予定は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ゑ?﹂
その瞬間、俺の世界が激しく動き回った。俺は応接室の床に叩き
つけられ、そしてなぜかサラさんが俺の胸倉を掴みながら馬乗りに
なっている。たぶん脇から見ると﹁これ絶対入ってるよね﹂になる
格好だ。
﹁ユゼフ、これはどういうことかしら?﹂
﹁へっ、いや、あの⋮⋮!﹂
サラさんの表情は鬼のようになっていた。こんなに怒っている彼
女を見るのは久しぶりだが、それ以上にこんな鬼みたいな顔をして
いても元の顔が良いから結構美人に見えるんだな、と割と変なこと
も考えていた。
いや、これは余命があと数分であることを察知した俺の脳が現実
逃避を図っているのだろう。これを自覚した瞬間、俺は死の恐怖を
感じた。
﹁ユゼフ﹂
﹁な、なんでしょうか﹂
﹁あんたを殺して私は逃げるわ﹂
それはただの通り魔って言うんですよサラさん。そこは﹁私も死
ぬ﹂じゃないの? いやどっちにしても困るけど。
一方爆弾を投げ込んできたフィーネさんは涼しい顔をしていた。
﹁どうやら、お取込みのようですから今日の所は諦めましょう。夕
食はまたの機会に。それでは失礼します﹂
1316
ファイアボール
そう言って彼女はさっさと部屋から退室した。火のないところに
燃料をばら撒いたあげく火球を放って逃走した、と言い換えても良
い。しかもフィーネさんのスカートの中身が角度の関係で窺い知る
ことができなかった。畜生め、俺になにも良い事がないぞ。
﹁って、あんたどこ見てんのよ!﹂
そして俺は、エミリア殿下とマヤさんが2人がかりでサラを止め
てくれるまでボコられ続けた。
うん。生きてるのが不思議だ。
1317
遠慮
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁サラさん、謝る相手が違いますよ?﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
フィーネさんが退室してから暫く、ようやく落ち着きを取り戻し
フィーネさん
たサラさんにエミリア殿下が﹁客人の前で喧嘩を始めるとは非常識
けんせき
極まります!﹂という至極真っ当なことを叱っている。まぁ客人自
体は気にしてない様子だったので軽い譴責処分ということになった。
⋮⋮友人同士の場合でも譴責処分になるのかどうかは不明。
﹁ゆ、ユゼフ⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁ん、大丈夫﹂
まぁ、殴られたことに関してはもう慣れたからある程度許せる。
それに今更殴られたことを気にし始めたらサラに会ってからのこの
6年間は一体なんだったんだという話になる。
﹁じゃあ、サラさんは始末書を後日私に提出してください。いいで
すね?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁では、退室してよろしいです﹂
そこは手加減してあげないんですね。友人とは言えミスとか不手
際とかは公正に、ってことだろうか。それはそれで重要な事だろう
1318
けど⋮⋮。
サラさんはしょぼくれて、尚且つたどたどしく歩いた。あまりに
も不安定な歩き方だったので、マヤさんが介抱しながら応接室から
退室させる。俺はその様子を確認した後、エミリア殿下に話しかけ
る。
﹁まぁ、必要なことだとは思いますけどあまり責めないでください
ね。あれでいて結構純粋ですから﹂
﹁⋮⋮あの騒ぎを起こした原因の一端がそれを言うのは変です﹂
﹁え、あの、いや。まさか私も譴責処分なんです⋮⋮?﹂
そう俺が問うと、エミリア殿下はにっこりと笑った。うん、これ
は悪魔の笑みとか怒る前兆とかそういう笑いですわ。
﹁昔の人はいいことを言いましたね。﹃喧嘩両成敗﹄だと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
始末書 書き方 [検索]
って、無理やん。グー○ル先生がこの世界にログインしてないせ
いで検索できないやん。始末書ってどう書けばいいの? まさかエ
ミリア殿下に聞かなきゃダメ?
と思ったらさすがに冗談だったようで、エミリア殿下は可笑しそ
うに笑っていた。
﹁まぁ、今回の場合の責任はサラさん自身に帰するべき点が多いよ
うに思われます。今回は口頭注意くらいにしておきましょう﹂
﹁⋮⋮ご宥恕、ありがとうございます﹂
﹁では本題に入りますが、ユゼフさんはなぜサラさんが怒ったのか
わかりますか?﹂
1319
﹁えー⋮⋮と﹂
サラが怒った理由ね、うん。わかるよ。⋮⋮⋮⋮うん、本当に。
﹁フィーネさんのことを黙ってたから?﹂
﹁25点﹂
エミリア殿下はやたらリアルな点数を即行で弾きだした。25点
って⋮⋮俺の最盛期の弓術の点数が5点だったことを考えると結構
良い数字に違いない。5倍ですよ、5倍!
﹁ユゼフさん?﹂
﹁あ、すみません。考え事をしてました﹂
﹁⋮⋮まぁ良いでしょう。今言いましたが、ユゼフさんは原因の4
分の1しかわかっていないのです﹂
﹁はぁ﹂
﹁﹃はぁ﹄ではありません! 毎回こんなことをされては何も進展
しないではないですか!﹂
﹁も、申し訳ありません!﹂
なんだろう、結局サラさんの譴責の時より怒られてる気がする。
﹁まぁいいです。赤点のユゼフさんにもせめて50点は取れるよう、
わかりやすく説明しましょう。残りの10点は自分で考えてくださ
い﹂
﹁お願いします﹂
するとエミリア殿下は口元に手を当ててなにやら考えている。も
しかして俺がバカだから結構頑張ってわかりやすく説明しようとし
ているのだろうか。うん、出来の悪い生徒でごめんなさい。
1320
﹁⋮⋮そうですね。わかりやすく例え話をしましょうか﹂
﹁例え話ですか﹂
﹁えぇ。例えば、ユゼフさんがオストマルク帝国で必死になって情
報収集をしてる時、あるいは旧シレジア領で調査に当たっていると
き、ユゼフさんは大変な思いをしたでしょう?﹂
﹁⋮⋮いえ、あの程度なら殿下らに比べたら﹂
﹁謙遜は不要ですよ。ともかく、ユゼフさんは頑張りました。そし
て私達はユゼフさんの成果を基盤にして戦いました。ここまでは実
際にあった話ですね?﹂
﹁はい﹂
﹁で、ここからが仮の話です。もしユゼフさんが頑張って情報を集
めている間、私たちの誰か︱︱例えば、ラデックさん︱︱が任務そ
っちのけで、もしくは右手で任務をこなし左手で女性を抱き、数日
おきに休暇と称して複数の女性と遊んでいた、という事実があった
らユゼフさんどうします?﹂
﹁ラデック殺す﹂
あの野郎、あんなイケメンでしかも愛が溢れすぎてる婚約者を持
っていながら自分は現地妻と愛人、恋人を複数持っていたなんて万
死に値する。この世の苦しみと痛みというものを全て経験させてか
ら生きたまま火山の中に放り込んでやりたいくらいだ。
﹁ユゼフさん。顔が怖いです。あくまでこれは例えですよ﹂
﹁⋮⋮失礼しました﹂
そうだった。危うく我を忘れて醜い嫉妬心をラデックにぶつけて
しまう所だったが、ラデック自体は純情で純潔な奴だ。たぶんリゼ
ルさんの手によって童貞は卒業してるだろうが、それでも士官学校
在学中は誰とも付き合わず童貞貫いてた奴だからな。うん、ごめん
1321
よラデック。
﹁今回のサラさんの事件は、それと同じようなものだと思ってくだ
さい﹂
﹁⋮⋮そうなのですか?﹂
﹁えぇ。無論、少し違う部分もありますが、自分が最前線で戦って
る時に親友が異国の地で女性と婚約話をするくらい親密なことをし
た。そう考えると、誰しも多少の怒りは覚えるでしょう。ユゼフさ
ん、良かったですね? 殺されずに済んで﹂
﹁⋮⋮﹂
まぁ、確かにエミリア殿下とマヤさんがサラを止めてなければ半
殺しくらいにはさせられただろう。
いやでも、その場合俺は何をすれば良かったんですかね⋮⋮。今
さらだけど。
﹁過ぎてしまったことは仕方ありません。あとは今後どうするかで
す﹂
﹁今後、ですか。どうすればいいんでしょうかね⋮⋮﹂
﹁それは自分で考えてください﹂
ちょっと語尾キツめに言われた。くすん。
仕方ないか。いつでもなんでも教えてもらうばかりじゃダメだも
んね。
﹁わかりました。とりあえずじっくり考えてみることにします﹂
﹁それがよろしいと思います﹂
とりあえず話が終わったので執務を再開しようとしたが、エミリ
ア殿下は手元に残っている紅茶を飲むのに専念するようでその場に
1322
座り続けていた。そして何かを思い出したかのように、右手の人差
し指で天を指した。
﹁⋮⋮あ、それとあと1つだけ﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁サラさんに殴られること、嫌だとハッキリ言った方が良いですよ。
でないと一生あのままになる可能性がありますから﹂
うーむ⋮⋮。﹁君が﹃嫌だ﹄と言うまで殴るのをやめない﹂って
考えてみれば可笑しな話である。普通は言わなくてもわかりそうな
もんだけどね。サラらしいと言えばサラらしいが。
﹁ご忠告ありがとうございます⋮⋮ですが﹂
﹁ですが?﹂
﹁嫌じゃないので﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の返答に対しエミリア殿下は呆れて物が言えない、みたいな感
じで右手で顔を覆った。この﹁マゾヒズム! 変態!﹂って思われ
てるかな。でも激しい鳩尾の痛みさえなんとか我慢できれば苦じゃ
ない。むしろご褒美です。
いや、さすがにそれは冗談だけど。
﹁どうにも説明がしにくいんですけど、アレは私と彼女だけの特殊
な友人関係を象徴する行為だと思っていますので。まぁ痛いのは確
かに嫌ですけどね﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
エミリア殿下は微妙な顔をしていた。ピンと来てないのかな。そ
れは仕方ない、俺もよくわからんしな。なんだこの台詞。カッコが
1323
つかないし⋮⋮。あ、やばいちょっと恥ずかしくなってきた。
このままだと殿下に俺がちょっと赤面してることがばれそうなの
で、さっさと退室して職務に励むことにする。サラのことはその後
考えよう、うん。
−−−
ユゼフが応接室から退室した後も、エミリアはその場を動かず茶
を愉しんでいた。しかし、従卒のサヴィツキ上等兵が入れてくれた
紅茶は既に少なく、おかわりを頼む気力もない。それでも彼女が動
かないのは、先ほどから考え事をしているからだろう。
ユゼフ退室から暫くした後、サラを介抱するため一旦外に出てい
たマヤが紅茶ポッドを携えて応接室に戻ってきた。
﹁⋮⋮ありがとう、マヤ﹂
﹁いえいえ。主君の為に紅茶を入れるのも副官の務めですから﹂
﹁それは少し違うと思いますが⋮⋮﹂
そう言いつつ、エミリアはマヤの淹れてくれた熱い紅茶の香りを
楽しむ。従卒のサヴィツキ程ではないが、マヤも紅茶を淹れるのが
上手い方だ。
﹁それで、どうでした? ユゼフくんとサラ殿の方は﹂
﹁⋮⋮よくわかりません﹂
それは彼女の正直な感想だった。士官学校時代からの長い付き合
1324
いとはいえ、友人たちの中でも奇特な性格と雰囲気を醸し出してい
るこの2人の内心を、エミリアは完全に掌握し切れていない。特に
ユゼフの方は深刻で、彼の妙なところでの秘密主義によってその内
心を窺い知ることは容易ならざるを得なかった。
だが2人の心の内がわからなくとも、親友であるエミリアには結
論が見出せた。
﹁これだけは言えます。あの2人は遠慮せずに思いの内を晒せばい
いんです。これでスパッと解決です﹂
﹁そうですね。3人が正直に言えば良いと思います﹂
マヤは、﹁3﹂という数字を強調して、なおかつエミリアの目を
見て言った。さもその3人の中にエミリアが含まれているかのよう
に。
それを聞いたエミリアは、少し意外な顔をした後すぐに目を伏せ
た。
﹁何のことか、見当もつきませんね﹂
﹁そうですか?﹂
﹁えぇ﹂
そう答えると、彼女は手元の紅茶を一口飲む。紅茶特有の香りと
味が熱を伴って喉元を通り過ぎる間隔が、エミリアが紅茶を好む理
由である。
だが、この時はなぜかその独特の感覚を掴むことはできなかった。
﹁例えマヤの想像が正しいとしても、それは互いに不幸を呼び寄せ
るだけですから﹂
1325
彼女はそう冷淡に言い放った後、無味乾燥なものとなってしまっ
た紅茶を飲み続けることに終始し、結局その日は上記以外の感想ら
しい感想を言うことは二度となかった。
こうして、クラクフの人間関係に微妙な変化が生じていたとき、
隣国カールスバート共和国では大きな変化に見舞われていた。
大陸暦637年10月27日、カールスバート共和国暫定大統領
エドヴァルト・ハーハ大将暗殺未遂事件がそれである。
1326
遠慮︵後書き︶
前話投稿後、感想が一気に60件以上来てビビりました。みなさん
本当にありがとうございます。
1327
炎上
大陸暦637年10月27日。
この日、カールスバート共和国首都ソコロフにある大統領府前の
広場には、多くの民衆が集まっていた。その規模は計り知れず、見
渡す限り人で埋め尽くされている。そしてその場にいるほぼ全員が、
大統領府のバルコニーに立つ人間を注視している。
その人間こそ、この国において最大の権力を手中に収めているエ
ドヴァルト・ハーハ暫定大統領である。
彼は広場に集まった民衆に対し手を振り、目の前に映る民衆の群
れの規模に思わず笑みを浮かべた。高らかに、張り上げた声で、そ
して遠くにいる者へも伝わるように広範囲な通信魔術を使いながら
民衆に語りかける。
﹁カールスバート国民とは何か、ラキア人とは何か!?﹂
彼は一語一語、ハッキリと丁寧に、そして猛々しく語る。
民衆も、彼の言葉を一語一語聞く。
この演説会の目的は簡潔にして明瞭である。
明日にでも起きるであろう、カールスバート共和国の内戦。その
ための準備として、国民の支持を集め、そして自ら指揮する国粋派
の勢力を伸張する。最大の敵である共和派の民衆の支持を奪うため
の策である。
﹁我らラキア人は、安楽椅子に座り自らの欲求のために血税の使用
1328
を厭わない者に対して忠誠を誓う奴隷であるのか! それとも、酒
と女に溺れた惰弱な権力者が密室の内に決めた事項にただ従うだけ
の衆愚であるのか!﹂
彼は、そのような表現で王政と共和政の批判をした。
かつてのカールスバート王国の国王は、政治に興味を示さず政治
の腐敗を招き、それが経済の低迷に繋がり、革命によって崩壊した。
かつてのカールスバート共和国の大統領は、密かに愛人を作り、
酒も金も困らずその日々を大統領府で過ごしていた。それに対して
民衆の抗議行動に応えた軍部が、その政府を倒した。
﹁否! 否である! ラキア人は、自らの手と足で以ってその幸福
を掴み取る誇り高き人民の事である!﹂
オストマルク帝国の首脳部が聞けば卒倒しそうなくらいの民族主
義的な演説によって、場は盛り上がる。ハーハは、その民衆の歓声
に酔いしれていた。
だが注意すべき点は、この場に集まっている﹁民衆﹂と言うのは
半分が国粋派の軍人である。偉大なる指導者であるハーハ大将の演
説を聞きに来た者もいるが、大半はいわゆる﹁サクラ﹂に該当する
だろう。
ハーハ大統領が民衆の支持を得ている。そう国内外に印象付ける
ための演説。無論、このことについてはハーハは知っている。だが
それでも、彼はその他半数の一般的な民衆からの支持を得たことに
高揚し、甘美な興奮の中に包まれていた。
その後、彼は20分に亘り言葉を吐き続ける。ラキア人としての
民族の誇り、国家としての誇り、それを守るのは軍部であり、そし
て軍部が頂点に立っている今こそがカールスバート全盛期であると。
1329
その全盛期をより良いものにするために、国民は一致団結しなけれ
ばならないと。
その後、演説は高らかな歓声と共に終わりを告げる。
満足したハーハは数分間民衆に手を振った後、バルコニーから去
った。
瞬間、大統領府は燃え上がった。
大統領府は瞬く間に各階に延焼し、20分後には建物全体が燃え
ていた。
炎上する大統領府を、ハーハの演説の為に集まった数万の群衆は
まず呆然と、そして次に悲鳴を上げながら見ていた。ハーハはどう
なったのか、放火なのか、そのような声が次々と上がる中、誰かが
叫んだ。
﹁卑劣な軍国主義者に対して、共和主義の象徴たる大統領府がその
身を以って抵抗したのだ! 言わば、これはハーハに対する天罰で
ある!﹂
3時間後。
軍による懸命の消火活動によって、大統領府はようやく鎮火した。
だがかつて白く美麗な輝きを放っていた大統領府は黒く焦げ、そし
て一部は崩落し見る影もなかった。必死の救命活動が行われたもの
の、中は多くの焼死体で埋め尽くされていた。
ハーハ大統領は死んだのか。救助隊の誰もがそう思った時、大統
領府の地下室が開かれた。
1330
現れたのは、間違いなくこの国の国家元首だった。
﹁⋮⋮閣下! 御無事で!﹂
﹁あぁ、緊急用の地下室があって助かった。共和主義者共の数少な
い功績だな﹂
ハーハ大統領は軽い火傷を負ったものの命に別状はなく、すぐに
事件の解決を図るよう部下に命じ、そして自身は厳重な警備の中大
統領公邸に避難した。
翌10月28日。
共和国軍憲兵隊が、大統領府放火事件の犯人を逮捕したとの声明
を発表した。曰く、
﹁昨日の大統領府放火及び大量虐殺事件の主犯である、共和主義者
にして自治市民党の党首を名乗るツィリル・ハンスリックを本日未
明に逮捕、拘禁せり。右の者は法律に則り、厳正な裁判においてそ
の罪を問われることになるだろう。またこの事件に関与したと思わ
れる者も判明し、現在憲兵隊によって捜索している﹂
この声明と同時に、暗殺未遂事件の共犯とされる783名の共和
主義者の逮捕者リストが、共和国軍憲兵隊各員に配られた。無論、
この逮捕者リストの存在は憲兵隊に残っていた共和主義者を仲介し
て共和派幹部に漏れた。
そしてそのリストを見た共和派のある幹部は、もはや他に手段な
しと見て、決断した。
1331
﹁一斉蜂起を行い、ソコロフを悪逆非道なる軍国主義者共の手から
解放する﹂
大陸暦637年10月29日。
この日付こそが、カールスバート共和国内戦の勃発日として大陸
の歴史年表に刻まれた日である。
1332
意外な客人
ここ最近、クラクフスキ公爵領総督府は妙な客が出入りすること
が多い。
リゼルさんを筆頭にしたグリルパルツァー商会の皆さん、フィー
ネさんやベルクソンなどの領事館関係者の方々、そしてカールスバ
ートからの亡命資本家。おかげで公爵領はかつてない賑わいと混沌
さを生み出している。
だけど今日総督府の扉を叩いた来客者の名、もしくはその人物の
肩書きは上記の者たちと比べ物にならないくらいの驚きがあった。
おそらくそいつがこの総督府に来たという時点で後世の歴史に語り
継がれるような人物。
つまり、旧カールスバート王の末裔のカレル・ツー・リヒノフで
ある。
11月1日13時40分。
軍事査閲官室の隣にある応接室にて、軍事査閲官たるエミリア殿
下、そしてその補佐役として軍事参事官である俺と殿下の副官であ
るマヤさんがそいつと対峙している。
リヒノフさんは3人の護衛だか副官を連れているため、応接室に
は7人がいることになる。別に応接室が狭いわけではないのだが、
でも肩身が狭い。
﹁王族の末裔と言っても我は遠縁、共和政移行後は﹃ツー﹄の冠詞
1333
も飾りみたいなものだ。だからあまり畏まらなくても良い﹂
曰く、リヒノフさんは現在20歳。カールスバート王国最後の王
じゅうてっそん
であったヴァーツラフ・スラヴィーチェクⅡ世の従姉妹の孫、つま
り従姪孫に当たるらしい。
そしてカールスバート王国はオストマルク帝国から独立した影響
か、貴族の命名方法にリヴォニアの影響が残っているのだという。
リヴォニア系貴族において﹁フォン﹂は貴族を表す冠詞だが、それ
以外に﹁ツー﹂というのもある。どう違うかと言えば﹁フォン﹂の
後に来るのは家名、﹁ツー﹂の後に来るのは領地名ということらし
い。
つまりフィーネ・フォン・リンツの場合は﹁リンツ家のフィーネ
さん﹂になり、そして俺の目の前に座る人物の場合﹁リヒノフを統
治するカレルさん﹂という意味になる。
でも、現在カールスバートに貴族はいない。彼の言う通り共和政
移行後に、持っていた領地を国に没収されたのだろう。ちょっと﹁
ざまぁ﹂って感じだな。言わないけど。
﹁それでリヒノフ様、今回はどのようなご用件でしょうか﹂
エミリア殿下は紅茶の入ったカップを手に取りながらリヒノフに
問いかける。一方のリヒノフさんは出された紅茶を先ほどから口に
していない。コーヒー派なのかしら。ちょっと親近感が湧く。
﹁⋮⋮此度、我が故郷で内乱が起きているのをご存知か?﹂
﹁はい﹂
ま、やっぱりその話だよね。まさかこんな時に﹁今日の夕食は一
1334
緒にどうですか?﹂なんて⋮⋮言った奴はいるか、うん。なぜだろ
う、思い出すだけで胃がキリキリしてきた。
﹁そして今、我が再びカールスバート王となるための戦いが始まる﹂
ほほう? ということはリヒノフさんが王権派の名目上のトップ
となるわけね。そんな人物が、クラクフスキ公爵領総督府の扉を叩
いたということは⋮⋮。
﹁⋮⋮その戦いに、是非ご協力願いたい﹂
−−−
エミリア殿下は﹁即答しかねる﹂として、﹁中央政府と相談の上
回答する﹂とだけリヒノフさんに伝えた。リヒノフさんの方も即答
は求めていなかったので、連絡要員として1人を総督府に残して当
面宿泊しているホテルに戻って行った。
彼が総督府から出たのを確認した後、エミリア殿下は俺とマヤさ
んに命令した。
﹁ユゼフさん。私は総督閣下に報告しに参ります。その後、これか
らの方針を決めたいと思いますので、クラクフ駐屯地と近衛騎兵の
幹部、それとオストマルク領事館の方に声を掛けてくれますか?﹂
﹁わかりました。すぐ手配します﹂
﹁ありがとうございます。マヤは中央政府に報告する書簡の準備を
1335
お願いします﹂
﹁了解しました﹂
こうして、総督府の中は少し慌ただしくなった。
カールスバートとクラクフスキ公爵領は国境を接している以上対
岸の火事では済まないとは思ったけど、まさかこういう形で向こう
からやってくることになるとはちょっと予想外だったな。
11月8日15時40分。
総督府内にある会議室のひとつにエミリア殿下、マヤさん、近衛
師団第3騎兵連隊第3科長のサラ、クラクフ駐屯地補給参謀補のラ
デック、そしてオストマルク領事館駐在武官のフィーネさんと二等
書記官のベルクソン、俺を含めて総勢7人がここに集まった。
議題は無論、隣国カールスバート共和国内戦についてだ。
会議劈頭、参事官たる俺の方からカールスバートの現状を話す。
﹁去る10月27日、カールスバートの首都ソコロフの大統領府が
放火されました。同国政府の公式発表によりますと、当時大統領府
で演説を終えたばかりのエドヴァルト・ハーハ暫定大統領が軽い火
傷を負いました。さらに、大統領府に詰めていた職員80余名が焼
死、大統領の演説を聞きに来た一般市民や大統領府職員合わせて3
00名以上の死者及び重軽傷者が出た模様です﹂
その悲惨とも言える事件に、会議室にいた全員が顔を顰めていた。
最初に口を開いたのはラデックだった。いつもなら結構軽い感じの
言葉を放つ彼でも、さすがにこれには驚いたらしく目が真剣だった。
1336
﹁⋮⋮随分と派手に燃えたんだな﹂
﹁そうだな。それが突発的な放火ではなく、周到に用意された放火
だということの証拠だと思う﹂
﹁それで、犯人は?﹂
﹁翌28日に共和国軍憲兵隊が犯人を﹃逮捕﹄してるね﹂
犯人は共和政時代、議会で第一党だった自治市民党の幹部だった
ということである。またその関係者として少なくとも700名が指
名手配されたという情報がある。
﹁しかし、それはあくまで政府の⋮⋮つまり国粋派の主張というこ
とですね?﹂
﹁はい。エミリア殿下の言う通りだと思います﹂
証拠は何もないが、この大統領府放火事件が自作自演という可能
性もある。あるいは政府の言う通り共和派の犯行なのかもしれない
が、それを一斉摘発の材料ということもありえるだろう。
だが、もうそれは重要じゃない。
﹁いずれにしても、この事件のおかげで共和国は完全に燃え上がり
ました。10月29日には首都ソコロフで共和派の一斉蜂起があり、
それに追随する形で共和国各地で暴動が発生している模様です﹂
だが、燃え上がってからの情報は入ってきていない。それは内戦
状態に突入して情報が錯綜しているからと、今までの情報の出所だ
ったシレジア大使館が閉鎖したからだ。内戦突入後にクラクフにや
ってきた亡命者からも情報は来るのだが、もたらされる情報は一貫
性と客観性に欠けている。あまり信用できないだろう。
そのため、30日以降のカールスバートの状況は不明。まぁ、そ
1337
れまでの情報から現政権の国粋派と共和派の正面衝突という感じな
のだろう。
﹁ユゼフさん、ありがとうございます。⋮⋮さて、聞いての通りで
す。これを踏まえ、我々がどうするかを決めるのが今回の議事とな
ります。皆の活発な意見をお願いします﹂
それに対して最初に発言をしたのは、オストマルク領事館駐在武
官のフィーネさんだった。
﹁その前にエミリア殿下、シレジア王国政府の意向はどういうもの
なのですか?﹂
これだけの大きな事案、一公爵領が勝手にして良いはずがない。
だから何をするにも国家として動くのが普通だろう。フィーネさん
がそう言うと、エミリア殿下はマヤさんから1つの書簡を受け取っ
た。
﹁我が王国の外務省からの正式な書簡が届いております。曰く﹃ク
ラクフスキ公爵領軍事査閲官の責任において最善と信じる方法で対
処すべき﹄とのことです﹂
﹁⋮⋮それだけですか?﹂
﹁それだけです﹂
エミリア殿下は笑顔でそう言ったが、質問したフィーネさんの方
は呆れていた。まぁ、その気持ちはわかるよ。
要は外務省が﹁面倒だからそっちで考えてね。勿論俺は責任取ら
ないから!﹂と言ったのである。誰だか知らないけど仕事しろ外務
尚書。
1338
﹁まぁ、物は考えようですよフィーネさん。我々は中央政府や王宮
内のゴタゴタを気にせず自由な裁量でカールスバートに介入できる。
成果が上がれば責任を取る必要はないです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
フィーネさんとベルクソンのオストマルクコンビはまたしても呆
れ顔である。これがシレジア王国の現状なんでね、慣れてください
な。
﹁ユゼフくんの言う通り、今回は我々には権限が与えられてると言
って良い。だからこその今回の会議、即ちカールスバート内戦にお
いて我々がどの勢力を味方するかだ﹂
﹁それについては、考えるまでもありません﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁はい。我々は、王権派に味方すべきでしょう﹂
俺がそう言うと、会議室に集まったメンバーの反応は3つに割れ
た。
驚愕の反応を示したのは、マヤさんとラデック。会議の結論を既
に持っていたのかって感じ。
一方﹁まぁそうだろうな﹂という納得の反応を示したのはエミリ
ア殿下とフィーネさん。どうやら彼女たちも同様の結論に至ってい
たらしい。
そして最後に状況を全然呑み込めてないサラとベルクソン。顔が
﹁お前は何を言っているのか﹂と言っている。ベルクソンはまだ良
いけど、サラの表情は相変わらず読みやすくて助かる。
とりあえず、サラを基準にして説明してあげよう。会議に入って
から一言も発してないから、たぶん何もわかってないんだろうな。
1339
﹁まずは国粋派に味方するのは論外です。これは言うまでもないで
しょう﹂
5年前に政変起こしてそしてシレジアに戦争吹っかけてエミリア
殿下の殺害を企てた奴と手を組むなんて何の冗談だ、という話であ
る。そんなことは理性よりも感情で理解してくれるだろう。
勿論理性的な意味で論外な部分もある。
国粋派は親東大陸帝国派だ。シレジア王国、そしてオストマルク
帝国最大の仮想敵である東大陸帝国と手を結ぶ国粋派に味方するこ
とは、それは東大陸帝国を助けることにもなり得る。それはダメだ。
会議室のメンバーを見やると、国粋派の味方を主張したい者は皆
無だった。サラさんも頷いてたからちゃんと理解してる。たぶん。
﹁つまり我々にある選択肢は共和派か王権派ということにな。それ
でユゼフくんがその二者択一から王権派を選んだ理由は?﹂
﹁簡単です。恩に着せることができるからです﹂
﹁ほう?﹂
国粋派と共和派と王権派の実力比は6:3:1で、王権派が圧倒
的不利だ。カールスバート共和国軍は、確か5年前の時点で30個
師団を持っていた。これをそのまま当てはめると国粋派はシレジア
王国軍1個分に相当する18個師団を保有し、そして王権派は僅か
3個師団だ。
これでは王権派は絶対に勝てない。いくら三つ巴でも戦力差があ
りすぎる。
1340
でも、もしシレジアとオストマルクが王権派を支援したらこの戦
力差は多少は埋まり、そして活路が見いだせる。絶対に勝てないと
思われていた王権派が勝てたら、王権派の連中はどう思うか。
簡単である。感謝感激雨霰だ。﹁助けてくれてありがとう代わり
に何でもするよ!﹂とか言い出すかもしれない。そして俺らはそれ
につけ込んで復活したカールスバート王国の内政に干渉しまくって
属国にするのだ。
しかも幸運なことに、先日王権派のトップであるカレル・ツー・
リヒノフが正式に援助要請をしてきた。
かんぺき!
﹁それは勝てたらでしょ?﹂
と、サラさんからの冷静な突っ込みが飛んできた。よかった。ち
ゃんと理解できたのね。
﹁まぁね。勝てるかどうかは俺ら次第﹂
﹁でも、弱い方に味方するなら共和派でもいいんじゃないの? 国
粋派の半分しか戦力ないから、支援したら恩に感じてくれると思う
んだけど。それに共和国って確か、シレジアとなんか条約結ぼうと
してたわよね?﹂
﹁サラさんが言ってるのは、シレジア=カールスバート相互不可侵
条約ですね。政変のせいでなかったことになりましたが﹂
﹁そう、それ。共和派を援助すれば、またそれを結べるんじゃない
の?﹂
ふむ。確かにそれもある。でも、それでも共和派は援護できない
な。もしクリーゲル大統領が生きていて、そして今の共和派を引っ
張ってくれてたならそれも選択肢に入れていたんだけど。
1341
﹁共和派を援護できないのは、共和派が共和主義者だからです﹂
﹁どういうことよ? っていうか、そもそも共和主義って何よ!﹂
そっから説明する必要があるのか⋮⋮と思ったけど、これは仕方
ないことでもある。この大陸じゃまだ共和主義だの民主主義なんて
思想はまだマイナーだ。シレジアとオストマルクなどの大抵の大陸
諸国は君主制、リヴォニアは寡頭制だもんな。
というわけでかくかくしかじか民主主義について説明する。共和
主義と民主主義は違うみたいな話を聞いたことあるが、んなことは
今は関係ないしそこまで深く説明する必要もない。中学生レベルの
民主主義が理解できればいいだろう。
﹁わかった?﹂
﹁⋮⋮たぶん﹂
⋮⋮⋮⋮理解してくれたと解釈しよう。
﹁話しを戻しますけど、共和政国家では手続きが面倒です。議会や
選挙という手段で意思決定を行う関係上、下手すると1つの決定を
下すのに1年かかる場合があります﹂
君主制や独裁制なら、国家元首の鶴の一声で一瞬で事が決まる。
一瞬で決まるからこその欠点もあるわけだが、今回の場合は時間を
掛けられたら困る。
例えば﹁シレジアが攻められてるから軍隊貸して!﹂とシレジア
が言った場合。君主制なら決断が早いから下手をすればそれこそ一
瞬で軍隊が来てくれる。
1342
でも共和制だったら? ﹁議会の承認があり次第派遣します﹂っ
て言われ、その間に滅亡する場合がなくはないのだ。大統領による
強権発動にも限界はあるし、こちらの要求を通しやすくするには君
主制を標榜する王権派の方が何かと便利だ。
だから共和派は援助しない。
俺らも国益で動いてるのだから、国益が反映されやすい王権派を
支援するのは当然ということ。
﹁わかったようなわからないような⋮⋮﹂
サラさんの頭がショートした。
でも大事なところだから説明しないわけにもいかないのよね。
一通り説明し終えた俺は、エミリア殿下に同意を求める。決裁権
は殿下にあるからね。
﹁ユゼフさんの意見が正しいと私も思います。⋮⋮オストマルク帝
国の考えはどうなのでしょうか、フィーネさん﹂
﹁私もユゼフ少佐の意見に同意です。味方するなら王権派が一番で
しょう﹂
エミリア殿下とフィーネさんの同意が得られた。その後も反対意
見が出なかったため、自然と王権派支持に議決が成された。あとは
いつ、どのように介入するかだが、エミリア殿下はそれは既に決断
していた。
﹁それでは我々は部隊を編成し、すぐにカールスバートに向かいま
しょう﹂
﹁すぐに、ですか?﹂
1343
﹁はい。早く行かなければシレジアやオストマルク以外の勢力が介
入し、恩に着せることが出来なくなる可能性があります。それに内
戦が長引けば、カールスバートの民衆や国家経済にかなりの損害が
出るでしょう。それは看過できません﹂
なるほど。ある意味ではエミリア殿下らしい正しさだ。
﹁ユゼフさんは反対ですか?﹂
﹁いえ、エミリア殿下の判断に従います﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
エミリア殿下は一瞬目を伏せたが、すぐにいつもの毅然とした顔
付きに戻り、そして会議室にいる全員に指示を飛ばし始めた。
﹁サラさん!﹂
﹁なに?﹂
﹁第一王女エミリア・シレジアとして第3騎兵連隊に要請します。
私が動かせる公爵軍は3000程度、これでは心許ないので、これ
に合流して欲しいと﹂
﹁⋮⋮エミリアもカールスバートに行くの?﹂
﹁当然です。公爵軍の指揮官は私ですから﹂
サラは一瞬迷ったが、最後は軍人として階級が上であるエミリア
大佐の指示に従い、軍人としての返事をした。
﹁了解しました。連隊長のミーゼル大佐にそう伝えます﹂
﹁頼みます﹂
エミリア殿下がそう言うと、サラは忙しなく敬礼して退室する。
走る彼女の顔は心なしか笑顔で、たぶんエミリア殿下と一緒に出撃
1344
できることを喜んでいるのだろう。
﹁ラデックさん﹂
﹁なんでしょうか﹂
﹁先ほどのサラさんの命令と関連することですが、戦力が足りない
ためクラクフ駐屯地の人員を貸してほしいのです。先日の事件のよ
うに、軍事査閲官としての正式な要請です。それと﹂
﹁それと?﹂
﹁今回の出征で、ラデックさんに我が部隊の補給参謀になってほし
いのです﹂
それを聞いたラデックは、面食らった表情になった。まぁ、俺も
同じような表情してると思う。ちょっと予想外だったからね。
﹁俺で良いのか?﹂
﹁ラデックさんが良いのですよ。信頼できる補給参謀は、私はラデ
ックさんしか知らないですから﹂
﹁⋮⋮なら、俺に拒否する理由はありません﹂
﹁ありがとうございます﹂
ラデックはニヤニヤしながら退室する。ちょっと気持ち悪かった。
いや、気持ちはわかるけど。
﹁マヤは私と共に具体的な部隊編成の手伝いをしてくれますか?﹂
﹁承知しました。なんなら私一人でやりますが?﹂
﹁そんな無茶は言えませんよ。ただでさえ忙しいでしょうに﹂
マヤさんはエミリア殿下と談笑する。
にしても、エミリア殿下にマヤさんにサラ、ラデックが一緒に出
撃か。いつぞや以来だな。
1345
俺はたぶん無理だろう。軍事査閲官だけじゃなく軍事参事官まで
もが任地を離れるわけには⋮⋮。
﹁ユゼフさん﹂
﹁は、はい。なんでしょうか?﹂
﹁ユゼフさんには作戦参謀として今回の出征に参加してください﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁不満ですか?﹂
﹁い、いえ、そんなことは⋮⋮ただ、よろしいのですか? 公爵領
の軍事部門に誰もいなくなることになりますが﹂
いくら事態が逼迫してるとはいえ、責任者が誰もいないのはまず
いと思うけど。
﹁大丈夫ですよ。既に総督閣下の了解は得ています﹂
﹁いつの間に⋮⋮﹂
﹁はい。ですからお願いできますか? 私も、信頼できるユゼフさ
んに傍に居て欲しいのです﹂
⋮⋮やばい、ちょっと泣けてきた。
よかった。エミリア殿下は俺のこと信頼してくれてたんだ⋮⋮。
なら、俺はその信頼に応えないとね。
﹁わかりました。不肖の身ながら、殿下にお供します﹂
俺がそう言うと、エミリア殿下は笑って頷いてくれた。うん、生
きてて良かった。
﹁最後に、フィーネさん﹂
﹁はい﹂
1346
﹁今回の事に関して、情報面での支援を要請します﹂
﹁わかりました。領事と相談の上、早めに結論を出します﹂
﹁ありがとうございます﹂
こうして、会議は終わった。
みんなが忙しなく動き出す。やることは多い。作戦参謀になった
俺もその例外ではなく、とりあえず作戦の内容、日程や行路などを
考えなければならないだろう。
思えば、1年ぶりに俺は戦場に立つことになり、そして軍に所属
してから初めての実戦となるわけだ。
1347
意外な客人︵後書き︶
︻今回の陣容︼
公爵領の私兵+王国の正規軍による混成部隊
指揮官:エミリア・シレジア大佐
副官:マヤ・クラクフスカ大尉
作戦参謀:ユゼフ・ワレサ少佐
補給参謀:ラスドワフ・ノヴァク大尉
情報参謀:フィーネ・フォン・リンツ少尉
なお、これにサラ・マリノフスカ少佐が鍛えた王国最強の近衛騎兵
連隊が加わります。
1348
帝国の思惑
会議室から出て﹁さてこれからどうしたものか﹂と考えながら廊
下を歩いていたとき、後ろからフィーネさんに呼び掛けられた。
﹁ユゼフ少佐、少しよろしいですか﹂
﹁良いですよ。ただ時間が惜しいので歩きながらで良いですかね﹂
﹁大丈夫です。すぐに終わらせます﹂
許可を得たので俺はフィーネさんの速度に合わせながら手元の資
料を見る。エミリア殿下にああ言われてしまったからつい安請け合
いしてしまったものの、これほどの大規模な作戦を考えるのは初め
てだからね。どうも大変なんだ。
ちなみにそのエミリア殿下とマヤさんは、会議の結果を総督に伝
えるために総督執務室に行っている。つまり会議室から軍事査閲官
執務室までの廊下を歩くのは俺とフィーネさんだけで⋮⋮って、あ
れ?
﹁ベルクソンはどうしました?﹂
﹁彼には先に帰らせました。少佐に聞きたいことがあったので﹂
マジか。久しぶりに彼と話もしたかったが⋮⋮。まぁ仕方ない、
彼も忙しいだろう。武官じゃないから会議中は発言を控えていたよ
うだが、彼には彼の仕事がある。
それよりもフィーネさんが俺に聞きたいことってのが気になる。
まさかまた結婚の話とか夕食の話とかじゃないだろうな。もう爆弾
ぶん投げるのやめてほしいのだが⋮⋮。
でも俺の横を歩くフィーネさんは、そんなこと知ったこっちゃな
1349
いと言った感じで俺に問いかける。
﹁先ほどの会議、少佐は何か思う所があったのではないですか?﹂
そう言われて、つい歩くのをやめてしまった。
さすが情報科首席卒業の才媛と言ったところかな。そう思いなが
らもう一度歩き出す。
﹁よく気づきましたね﹂
﹁伊達に少佐と8ヶ月も共に行動していませんから、それくらいは
わかります﹂
簡単に言うけど、俺は6年間付き合いになるサラさんが何考えて
るか未だにわからないよ? それともこれは俺が鈍感すぎるだけな
のかしら。
﹁共和派を支持しない理由、他にもあるとお見受けしましたが﹂
﹁⋮⋮オストマルクの士官学校では人の心を読む術も習うのですか
?﹂
﹁いえ、単に推測してみただけです﹂
﹁なるほど、さすがですね﹂
リンツ伯爵の遺伝子を確実に受け継いでいるようだ。情報のスペ
シャリストになる器があるね。シレジアに来てシレジア版CIAで
も作ってくれないかしら。
﹁そういう反応をするということは、私の推測が当たっていたとい
うことでしょうか?﹂
﹁そうですね。正解です。ではついでに、私が考えた他の理由につ
いても推測してみては?﹂
1350
﹁無理ですね﹂
﹁理由は?﹂
﹁先ほどから考えていますが、理由がわかりませんので﹂
だから直接聞いてきた、ってことね。
まぁ良い。ここまでバレといてなお隠し続けても無駄なことだ。
﹁わかりました。ただこのことは他言無用で﹂
﹁大丈夫です﹂
﹁では正解発表。答えは﹃シレジア王国内向けの理由があるから﹄
です﹂
すると今度はフィーネさんが歩みを止める番だった。そんなにこ
の答えが意外だったのか、それとも他に理由があるかはわからない。
﹁⋮⋮具体的に教えていただけますか?﹂
そう言ってフィーネさんは、先ほどよりも少し速度を上げて歩み
を再開させる。おかげでフィーネさんが前に出る格好になったが、
別段すごく早いというわけじゃないのですぐに追いついた。
﹁具体的に言うと、﹃共和制なんて貴族の敵だから﹄ですね﹂
﹁⋮⋮というと?﹂
﹁共和制というのは、言い換えると﹃国民すべてが貴族階級﹄にな
ります。それを標榜する共和派をエミリア王女が支援すると聞いた
ら、大公派の大貴族はどう思うことやら⋮⋮﹂
﹁なるほど。逆に言えば王権派の支援をするということであれば﹃
旧来の秩序と権益を守るための戦いである﹄と大公派に言い訳でき
るということですね﹂
﹁そういうことです﹂
1351
そらくカールスバートの民衆のためには共和制が一番いいかもし
れないと思う。そうすれば民衆に政治的な権利は戻ってくるし、自
由も保障される。
でもその考えがシレジアにまで入り込んだらどうするのか、シレ
ジア革命が起きてシレジア共和国が誕生するのではないか。それを
危惧する貴族も多いだろう。
だからその危険の芽を潰す意味で、俺は共和制をぶっ潰す。
﹁でも少佐は農民階級出身のはずですよね?﹂
﹁そうですね﹂
﹁貴族はお嫌いでは?﹂
﹁嫌いですね﹂
﹁でも、貴族特権を守るために共和制と戦うと少佐は仰ります。そ
れは矛盾していませんか?﹂
﹁少し違いますね。私はエミリア王女のために共和制と戦うのです
よ﹂
別に俺は民主主義だの共和主義だのが嫌いなわけじゃない。むし
ろ平均的日本人らしく、君主制だらけのこの大陸に凄い馴染めない
でいるのだ。平民にもっと権利を与えろ、とも思っている。
でもだからと言って急進的な政治改革を行うのは、今のシレジア
では得策とは言えない。なまじ革命なんて起きたら、周辺国に介入
の口実を与えるだけだ。それこそ、リヴォニア統一戦争のような血
みどろの戦いになるかもしれない。
農民階級の俺が貴族の特権を守るために共和主義と戦う。
後世の歴史の教科書には﹁平民の敵﹂として書かれるかもしれな
1352
いな。
﹁納得しましたか?﹂
﹁まぁ、だいたいは﹂
よかった。理解してくれたらしい。これ以上説明するのも心苦し
くなるだけだったしね。
﹁あぁ、そうだフィーネさん。オストマルク帝国政府は今回の内戦、
誰に味方するつもりなのですか?﹂
﹁王権派です。理由は、少佐の意見とほぼ同じです﹂
俺の意見と一緒。つまり王権派に大きな貸しを押し付けつつ強権
的な体制が出来て欲しいということか。
﹁どのような支援をするのかは決まっていますか?﹂
﹁⋮⋮そうですね。軍の派遣は行わず、情報や補給物資の供出と言
った間接的な支援に終始することになると思います﹂
﹁なるほど。国内政治向けの賢明な判断だと思います﹂
﹁⋮⋮気付いてましたか﹂
﹁えぇ。伊達にフィーネさんと8ヶ月も共に行動していませんから、
それくらいはわかりますよ﹂
オストマルクとカールスバートは、その建国の歴史のせいか因縁
が深い。
帝国内に多くいる少数民族の独立運動を抑えつつ、カールスバー
トの内戦を自国有利にしたい。だとすると、下手に軍隊は出せない。
だから実戦に関してはシレジアと王権派に任せ、帝国政府は高見
の見物ということか。まぁ、補給物資の支援を受けられるだけ貧乏
なシレジアにとってありがたい話ではあるが⋮⋮。
1353
そうこうしてるうちに、俺とフィーネさんは軍事査閲官執務室前
に到着した。
﹁少佐の仰る通り、我が帝国は自らの国益のために火中の栗をシレ
ジアに拾わせることになります。そして復活するであろうカールス
バート王国を自国の影響下に置きたいのです﹂
フィーネさんは、別れの挨拶の代わりと言わんばかりにそれを言
った。わかっていたことだが、やはりあの国は大国なのだなと思う
よ。リンツ伯爵かそれともクーデンホーフ侯爵の考えも、段々読め
てきた。
それを、俺は執務室の扉を開けながらフィーネさんにぶつけてみ
る。
﹁そして将来的にはオストマルクはカールスバートと同君連合を組
みたい、ですかね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
フィーネさんからの反応はなかった。ただ、少し目を丸くしただ
けだ。
﹁冗談ですよ﹂
俺は別れの挨拶の代わりにそんなことを言って、執務室の扉を閉
じた。
1354
エミリア師団
11月11日。
部隊の編成、作戦計画の立案及び補給計画の策定をほぼ終えた。
公爵軍と近衛師団第3騎兵連隊、さらには王国軍正規兵部隊から
人員を借りたことにより、エミリア殿下の指揮に入る軍隊の総数は
1個師団約1万人。
これに補給等の後方支援を担う輜重兵を含めると1万3000人
となる。補給物資の方はオストマルク帝国から支援されることが決
まっていたのだが、それだけでなくカールスバートからの亡命して
きた資本家にも支援要請をした。シレジア王国が彼らの生命と財産
の保護を約束する代わりに、内戦介入のための金銭や物資の供出を
頼んだのである。現在これは民政長官を中心に交渉が進められてい
るが、7割方賛同を得ているそうだ。
これを補給担当のラデックに言ったら、
﹁それを早く言えよ!﹂
とキレられた。ついでに手に持ってた書類の束を俺に投げつけた。
投げつけられた書類の一部を見てみたが、どうやら貧乏なシレジ
ア王国でどう補給物資と戦費を捻出しようかと頭を悩ませ3日3晩
徹夜で補給計画を練っていたらしい。
で、俺の一言で無駄になったということである。
うん、その、なんだ。
本当にごめん。
1355
報告・連絡・相談の三原則は大事であると改めて認識したところ
で、その日の夕食はラデックに少し高い飯を奢って適当にお茶を濁
した。
そして、翌11月12日10時30分。
ここでちょっとした問題が起きた。と言うより、この問題に今ま
で気付かなかった。
﹁階級が足りません﹂
との、エミリア殿下の言である。執務中での唐突な発言だったた
め、マヤさんも俺も最初は意味を掴み兼ねていた。
﹁階級ですか?﹂
﹁はい。今回私は1個師団を指揮することになりましたが、私の階
級はまだ﹃大佐﹄です﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
1個師団を指揮するのは通常は少将である。准将が1個旅団、大
佐は1個連隊。つまりエミリア殿下の階級が2つ程足りないのであ
る。
大佐が1個師団を指揮するなんてありえないし、それを無理矢理
やったら反発も招く。部下たちに﹁大佐ごと気が命令するんじゃね
ー!﹂って言われては烏合の衆になってしまう。
﹁⋮⋮何か方法はないのですか?﹂
﹁なくはないですが⋮⋮﹂
1356
エミリア殿下は凄い言い辛そうな顔をしていたが、その方法とや
らを教えてくれた。それが﹁野戦任官﹂である。
﹁なんですかそれ?﹂
﹁戦時において、指揮官が足りなくなった時に行うものですね。わ
かりやすい例は﹃戦死﹄です﹂
例えば、1個師団を指揮するA少将と副司令官のB准将がいたと
する。だが何を間違ったのかA少将は戦死してしまい、その師団が
指揮官不在となってしまった。その時に発動するのが﹁野戦任官﹂
で、B准将が一時的な措置としてに少将に昇進しその師団を指揮し
続ける、というもの。
そしてB准将も戦死して師団内に将官が居なくなった場合、C大
佐が少将に昇進することもあるそうだ。
あくまで一時的な措置であるため、戦争が終わったり、あるいは
代わりの人間が赴任してきたりするとその昇進はなかったことにさ
れる。即ちBさんの場合は准将に、Cさんの場合は大佐に戻る。
﹁その権限は誰にあるのですか?﹂
﹁⋮⋮上官です﹂
上官ね。まぁそれもそうか。
⋮⋮で、エミリア殿下の上官って誰? 確か軍事査閲官って公爵
領の軍事部門のトップだよね?
公爵領に居る上官と言えばクラクフ駐屯地の基地司令で、確か階
級は准将だった。でも公爵領軍事査閲官と王国正規軍准将じゃ別系
統だしなぁ⋮⋮。
公爵領総督府の中で見ると上司はヴィトルト・クラクフスキ総督
閣下だけど、あの人は文官だし⋮⋮。
1357
え、本当に誰? まさか軍務省? そこまで行くと野戦任官とか
必要なくない? 正式な手順踏めばいいし、そこまで時間に余裕が
あるわけでもない。ぐずぐずしてると国粋派が勢力を広げるだけだ
しな。
どうやらエミリア殿下もまさにそのことで悩んでいるようで、先
そら
ほどから唸っている。いくら殿下が優秀だと言っても王国軍の人事
規則を全て諳んじているわけではない。
でも適当にやってしまうわけにはいかない。そこら辺はキッチリ
しないと後々が面倒になる。一番無難なのは適当な将官を引っ張り
出して指揮を執ってもらうことだが、でも今から信頼できる将官を
連れてくるなんて無理な話だ。
⋮⋮この際は仕方ない。あの手で行こう。
同日13時40分。
俺とエミリア殿下とマヤさんは、ある人物と会った。﹁カールス
バート王国﹂の元首、国王カレル・ツー・リヒノフ陛下である。
彼には既に、シレジアが王権派に味方することは伝えてある。で
もその前にこの階級問題を解決しなければならず、それに関するち
ょっとしたお願いをしに来たのである。
﹁問題は承知した。それで、我に何をしろと言うのだ?﹂
それに答えたのは、エミリア殿下ではなく発案者である俺だ。
﹁そう難しい話ではありません、陛下。我が公爵軍1万3000の
1358
兵をカールスバート王国軍に貸し、その指揮下に入ることを承知し
てほしいのです﹂
つまり名目上の指揮権をカールスバート王国軍、つまり王権派に
与えるのである。そうすれば形だけ見ればエミリア殿下はカレル陛
下の部下になり、そこで野戦任官だか戦時任官を使ってエミリア殿
下を一時的に将官に昇進させ、戦場でエミリア少将に実質的な指揮
を執らせるということである。
やや迂遠な方法だが、これならば合法的かつ反発も少ないやり方
である。やってることはラスキノ戦争のときの義勇軍とあんまり変
わらないしね。
カレル陛下は暫し俯いて考えたが、すぐにこう回答した。
﹁良いだろう。公爵軍1万3000を内戦終結まで受け入れ、エミ
リア・シレジア殿を少将待遇で迎い入れよう﹂
こうして、ようやく全ての準備が整った。
俺らの名目上の所属はカールスバート王国軍第7臨時師団、ある
いはシレジア王国軍第32特設師団。
そして非公式な名称として﹁エミリア師団﹂の名がカレル陛下か
ら付与された。
司令官はエミリア・シレジア大佐︵少将待遇︶。エミリア殿下は
副官にマヤ・クラクフスカ大尉を、補給参謀にラスドワフ・ノヴァ
ク大尉を任命した。
また今回の作戦にはサラ・マリノフスカ少佐が王国最強の第3騎
1359
兵連隊の第3科長として参戦する。それに加え、フィーネさんが観
戦武官としてエミリア殿下に同行し、情報面での補佐をしてくれる
ことになった。
ちなみにベルクソンは文官なので領事館でお留守番、後方から間
接的な支援をしてくれるらしい。ありがたい。
そして俺、ユゼフ・ワレサ少佐は作戦参謀兼参謀長に⋮⋮って、
参謀長!?
﹁ダメですか?﹂
﹁い、いや、あの恐れ多くて⋮⋮。それに私は卒業後初の実戦です
し⋮⋮﹂
﹁それは無用な心配です。ユゼフさんならできます﹂
⋮⋮これ、失敗したらエミリア殿下からの信頼が地に落ちそうだ
な。あかん、必死に頑張らないと⋮⋮!
11月13日。
カレル陛下、そしてエミリア殿下率いる部隊はクラクフを離れ、
一路カールスバートへ向かった。
1360
エミリア師団︵後書き︶
200話到達です。
この調子で書き続けたら1000話とか余裕で超えそうなんですけ
ど大丈夫なんですかね⋮⋮
1361
共和国最悪の日
大陸暦632年に勃発したシレジア=カールスバート戦争。その
戦争における主戦場は2ヶ所で、ひとつはシレジア南西部国境付近
にあるコバリの町。
激戦の地であるコバリは戦闘の影響で町が消滅し、かつ両軍合わ
せて2万の将兵がその地を墓に選んだ。いや、正確に表現すれば﹁
選ばされた﹂と言った方が良い。彼ら自身の自由意思で自らの墓穴
を掘ったわけではないのだから。
そしてもう1ヶ所が、カールスバート共和国領北東部に位置する
国境の町カルビナである。
ここは、コバリと比べて戦闘が小規模だった。侵攻する側である
・・・
共和国軍に不利になる地形で、それに両国の首都から離れていたた
めに戦略上軽視された町だった。そのため、両軍の死者はたった3,
000人足らずで、町も辛うじてその姿を保っている。
コバリの惨劇がクローズアップされる度、カルビナは人々の記憶
から消え去っていく。今やその記憶を語り継ぐ者は、町の入口近く、
目立たない場所にひっそりと、誰が建てたかわからぬ小さな慰霊碑
のみである。
そんな町に、カールスバート王権派の拠点がある。
−−−
1362
11月15日。エミリア師団がカルビナに到着した。
エミリア殿下を始めとした俺ら士官は小さな慰霊碑に黙祷を捧げ
た後、カルビナにある王権派司令部に向かう。
そのついでにカルビナの町の様子も観察していた。カールスバー
トは内戦中。首都から離れた国境の町と言えど、廃墟が多くて道行
く人々は陰鬱な表情をしているのではないか⋮⋮という懸念はあっ
さりと打ち砕かれた。
﹁思いの外活気がありますね﹂
と、エミリア殿下が一言。マヤさんもそれに同調した。
﹁確かに。とても内戦中だとは思えません。行きかう人々には笑顔
も見えます﹂
マヤさんの言う通り、カルビナには陰惨な雰囲気はない。首都ソ
コロフでは共和派の一斉蜂起があってかなり悲惨なことになってい
ると聞いていたから、流石にこの町の雰囲気に鼻白んだ。
一方、俺らを先導し司令部に案内してくれている、もしくは監視
している王権派の幹部であるアレシュ・シュラーメク共和国軍少佐
は胸を張って高らかに声を上げる。
﹁これも、カレル陛下の統治の賜物です!﹂
シュラーメク少佐はカレル陛下の政治手腕やら政策の妥当性を強
調し、その手腕が共和国全体に及べばカールスバートに更なる繁栄
と栄華をもたらすだろう、とか何とか言ってた。
1363
だが、クラクフスキ公爵領をずっと俯瞰的な視点で見てきたウチ
の補給参謀の意見はどうやら違うようで、傍に居た俺とフィーネさ
んにだけ聞こえるような声で呟いた。
﹁⋮⋮シレジアと国境接してるからだと思うけどな﹂
つまるところ、カルビナは町の規模が小さいクラクフスキ公爵領
だということだ。シレジア王国と国境を接して交易の拠点として発
展している。それがこの活気の良さの証拠だという。
そしてエミリア師団に情報を提供する立場にあるフィーネさんが、
このラデックの説を更に後押しする情報をくれた。
﹁我が帝国大使館から送られてきた情報によりますと、どうやらカ
ルビナ以外の国境の町は国粋派が牛耳っているようです。そして国
粋派は、他国が内戦に介入して来るのを嫌い、全ての国境を封鎖し
ているようです﹂
つまり、カールスバートに残された最後の交易拠点、それがカル
ビナになってしまったのである。なるほど。カールスバートからク
ラクフスキ公爵領に亡命してくる人が多かった理由は、他に行き先
がなかったからなのか。
しかし、国粋派以外が唯一持っている国境の町か⋮⋮。
﹁となると、この町は危険だ﹂
俺がそう言うと、ラデックとフィーネさんが強く頷いた。
国粋派から見れば、最後の国境の町である。ここを潰せば王権派
と共和派は外国からの支援を受けることが出来なくなり、遠からず
飢えて死ぬ羽目になる。そんな町を、国粋派が無視するはずがない。
1364
今はソコロフの一斉蜂起直後で手が回らないだろうが、いずれこの
町に軍隊を派遣して来るだろう。
とりあえず王権派司令部と協力して、この町の防衛計画策定と国
粋派の情報収集をするか。
−−−
ユゼフらがカルビナに到着した11月15日、その日は共和派に
とって最悪の日として人々の記憶に残る日となろう。
去る10月29日。共和派は首都ソコロフで一斉に蜂起した。そ
の日だけで市内の78ヶ所から火の手が上がり、混乱した国粋派に
対してゲリラ的な戦いを挑んだ。10月29日から11月7日まで
の7日間で国粋派の戦死は1万超え、一方の共和派の被害は500
弱だった。
だが11月8日、国粋派で暫定大統領エドヴァルト・ハーハ大将
の腹心として知られる共和国軍少将ヘルベルト・リーバルが直接指
揮を執るようになると、次第に共和派は劣勢に立たされていった。
リーバルは、まず首都以外の地域から兵力を引き抜いて首都の共
和派を全力で叩き潰すことから始めた。そして集めた兵力を使って、
市内各所で立て籠もる共和派の拠点をひとつひとつ丁寧に潰して行
った。
しかしそれだけでは不十分だと、リーバル少将はわかっていた。
1365
シラミ
﹁共和派はシラミの親戚だ。潰しても潰しても、またすぐに湧いて
くる。共和派を絶滅させるためには、ひとつひとつ個別に潰してい
ては非効率極まる﹂
と言うのは、リーバルが彼の参謀に放った言葉とされる。
共和派がソコロフ市内に何ヶ所の拠点を持っているのかについて
は、治安機構の殆どを掌握している国粋派と言えどすべて網羅して
いるわけではなかった。市内78ヶ所から火の手が上がったこと、
そしてリーバル少将が言ったように共和派は市内各所からシラミの
ように湧いてくることから考えると、それは相当な規模になるに違
いなかった。
そこでリーバルはまず、3ヶ所の拠点を大規模な魔術攻勢によっ
て区画ごと破壊した。当然、共和派はこの魔術攻勢の非人道性と残
虐性を声高に叫んだが、リーバルはそれを意に介さず、次の手を打
った。
11月9日。3ヶ所の魔術攻勢時に捕虜となった共和派構成員に、
こんなことを言ったのだ。
﹁私に協力すれば、お前の罪は問わない。家族や恋人にも手は出さ
ない。それどころか、今後の生活と安全を永遠に保障してやっても
良い﹂
無論このような甘言に乗るような人間は、最初から国粋派に楯突
こうなどとは思わない。それができない者は皆口を閉ざし、無言の
内に国粋派に協力しているのである。
だが共和派の全ての人間が、あらゆる精神攻撃に耐えられる勇者
であるはずがなかった。
1366
リーバルは、共和派のシェラークという男にこんな与太話をした。
﹁そう言えば、レフカーという女性を知っているか? ソコロフで
1、2を争う美人だそうだ。だが残念なことに、首都に火を放った
者の恋人であるらしい。レフカーも何らかの形で関わっていること
だろう。逮捕しなければならないな。最悪の場合、処刑されるかも
しれない﹂
それは古典的な論法だったかもしれない。﹁恋人の命を助けたけ
れば、協力しろ﹂と言うものである。だが、これだけで落ちるなら
ば苦労はしない。シェラークという男も、蜂起前にレフカーと言う
名の恋人に﹁君にも危険が及ぶ可能性がある﹂ことは伝えてあった。
そしてレフカーもそれを承知し、﹁自分の身に構うな﹂と言ってく
れた。
世が世なら、それは美談として語り継がれることになるだろう。
だが、現実ではそれが悲劇の幕開けとなる。
﹁⋮⋮あぁ、そうだ。思い出した。名前は忘れたが、つい先ほど女
が逮捕されたそうだ。興味あるか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その女の名前がレフカーであると、自分の恋人であると、シェラ
ークでも理解できた。
リーバルに連れられ、拘置所があった首都防衛司令部の屋上に出
る眼下には首都の街並みが見えるが、それよりも目を惹く物が防衛
司令部の中庭にあった。
ロの字型の防衛司令部は、外部から見えない中庭がある。その中
庭は100名以上の共和国軍兵士と、手足に枷を付けられ身動きが
取れない数十名の女性の姿があった。
1367
リーバルはご丁寧にもシェラークに単眼鏡を差し出して、その集
団を見るように促す。
そしてシェラークは、その集団の中にレフカーが居るのを確認し
た。
シェラークは、混乱に陥る。あれはなんだ、何をする気なのか、
と。
彼の混乱を観察していたリーバルは、懐から時計を取り出す。ヘ
ルヴェティアの時計職人が丹精込めて作った、高精度懐中時計であ
る。
そんな懐中時計を見ながら、リーバルは笑顔で言う。
﹁あと15分程で、判決が下る﹂
﹁⋮⋮判決、だと?﹂
﹁あぁ﹂
シェラークは全身に猛烈な鳥肌を立てていた。悪い予感が、彼の
全身を貫く。
そして一方のリーバルは笑顔を保ったまま、またしても与太話に
興じる。
﹁そう言えばシェラーク君、こんな話を知っているかね。大陸帝国
初代皇帝ボリス・ロマノフが大陸統一を成し遂げる前、魔術師は奇
怪な目で見られたという。ある者は神と崇められ国を支配したが、
別の国では悪魔の使いと見られて迫害された。その最たる例が﹃魔
女裁判﹄なのだが、君は知っているかな?﹂
長々と与太話をするリーバルを余所に、シェラークは単眼鏡で恋
人のレフカーを見続けていた。よく見ると顔には痣のようなものが
1368
あり、酷く衰弱していた。
そして周りを取り囲む共和国軍兵士たちは、興奮しているようで
落ち着きがない。まるで早く判決が下るように祈っているかのよう
に。
﹁﹃魔女裁判﹄で有罪になった女性たちは大変な目にあったらしい。
主な刑は焚刑、溺死刑、そして⋮⋮﹂
リーバルは少し溜めた後、恋人を見続けるシェラークの耳元で囁
くように言い放った。
﹁姦刑、だ﹂
それを聞いたシェラークは、あの中庭で起きるであろうことを全
て悟った。
彼は目を見開いて、リーバルの顔を見る。そして相変わらずリー
バルの笑みは崩れない。
﹁あぁ、そこにいるハゲ男が見えるかね? あれは私の士官学校時
代の後輩でね。彼には色々と貸しがあるのだが、まだ返してもらっ
ていないのだ。⋮⋮今回はどうやらあの裁判の裁判長を務めるよう
だね。さて﹂
そう言ってリーバルはようやくシェラークの目を見た。リーバル
が見たシェラークの目には、猛烈な怒りが見て取れた。
﹁先ほどの提案、検討して戴けるかな?﹂
この提案を蹴ることができる人間は、この大陸に何人いるだろう
か。
1369
だが少なくとも、このソコロフ防衛司令部の屋上には1人もいな
かったことは確かである。
こうしてリーバルは、同様の手法で38名の協力者を得ることが
できた。
38名の協力者を得たリーバルは、その協力者を使って共和派に
情報を流した。人質を取られている協力者は必死に、かつリーバル
の思い通りに動いてくれた。
流した情報は、こんな感じだ。
﹁大変だ。国粋派の奴ら、今度はここの拠点に魔術攻勢をかけるつ
もりだ﹂
﹁すぐにこの拠点は引き払った方が良い。あそこの拠点なら、まだ
国粋派にバレてないから安全だ﹂
﹁レトナ国立公園に人を集めて、国粋派の連中に一撃を加えよう。
共和派の力を見せつけてやれ﹂
このような情報を各所に流す。
同じ共和派で知り合いの人間が流した情報を疑う者などそう多く
はない。さらに言えば、魔術攻勢で区画ごと破壊されるという恐怖
感が、情報の説得力を上げていた。
こうして11月15日、首都ソコロフ各所に立て籠もっていた数
千名の共和派が、郊外のレトナ国立公園に集結した。
市内数十ヶ所の拠点に散らばり、鎮圧に回る国粋派の戦力を分散
させるのが共和派の戦略であったはずなのに、共和派は集まってし
まったのである。
1370
当然それは、国粋派の軍隊を呼び寄せる結果を生んだ。
同日15時30分。
レトナ国立公園を国粋派が包囲。まずは大規模な魔術攻撃により
共和派の半数が焼死し、辛うじて逃げ延びた共和派に対して容赦な
い包囲殲滅戦が行われた。
公園には死体の山が築かれ、そしてその死体の山の中には38名
の協力者の死体もあったという。
またこの攻勢と前後して、数十名の女性共和派の﹁処刑﹂も執り
行われ、首都ソコロフにおける共和派はほぼ一掃されるに至った。
1371
出動
11月16日。
首都ソコロフから共和派を一掃し曲がりなりにも治安の回復に成
功した国粋派は、首都以外の反政府勢力の鎮圧に動くことが決定さ
れた。
第一目標は、首都から東北東の方向に100kmの地点にあるチ
ェルニロフという地方都市。ここは共和派が占拠し、かつ首都から
近いこともあって優先的に叩く必要があった。だが共和派は、先の
レトナ国立公園の殲滅戦によって主要構成員と幹部が死亡したため
統制が失われつつある。統制を失った集団など烏合の衆でしかなく、
国粋派の敵とはなり得ない。
となると、チェルニロフの次に落とすべき地点は自ずと決まる。
国粋派のトップであるハーハ大将は、部下に命じた。
﹁カルビナを、不当な反動主義者共の手から解放する﹂
王権派を叩き潰せば、国内にまとまった戦力を持つ敵は居なくな
る。あとはじっくりと犯罪者を逮捕すればよい。そしてハーハは、
信頼できる部下の1人であるノルベルト・バレシュ少将に、カルビ
ナ攻略を命じた。
彼が指揮する国粋派1個師団が首都ソコロフを発ったのは、11
月18日10時20分のことである。
1372
−−−
11月20日。フィーネさんが国粋派に関する情報を持ってきて
くれた。
﹁この状況下でよくわかりましたね﹂
﹁どうやら、かなりえぐい方法で共和派を弾圧してるようで国粋派
から人心が離れているようです。おかげで情報提供者の数が増えま
した﹂
フィーネさんが持ってきてくれた情報によると、11月15日に
首都ソコロフの共和派一斉蜂起はほぼ全て鎮圧されたそうだ。だけ
ど、共和派一掃の代わりに多くの市民が敵対とまでは言わないまで
も、国粋派に対する不信感を募らせているようだ。
まぁ、元々軍部独裁の恐怖政治で国を纏めてるから、今さら人心
が離れても問題ないと判断したのかもしれない。内戦が早く終われ
ば、反抗的な連中をゆっくり減らすことも出来るしね。
つまり俺らがやることはハーハ大統領の向う脛に思い切り蹴りを
入れて、市民蜂起を促し泥沼化させることだ。いくらド外道の国粋
派と言えど、そう簡単に民衆虐殺をするわけにはいかないからな。
﹁それともうひとつ。国粋派の軍隊およそ1万が11月18日に首
都を出発、カルビナに向け行軍している模様です。首都からカルビ
ナまでの距離と国粋派の行軍速度からすると、12月1日までには
カルビナに到着する計算ですね﹂
﹁いよいよですか﹂
1373
俺らは共和派の蜂起と国粋派の長距離行軍のおかげで、王権派に
は合計1ヶ月の準備期間が与えられた。その間にカルビナ周辺の地
形などの情報もだいぶ集まったし、なにより兵の士気も高まってい
る。
さて。エミリア殿下に相談して、迎撃作戦を練りますかな。
そして同日14時10分。
王権派が司令部を設けているカルビナの初等学校に、エミリア師
団の幹部及び王権派司令部の面々が集まって会議を始めた。ちなみ
に初等学校の窓は割れてないのはちゃんと確認したよ。
﹁敵が動いた、となればこれを迎撃することについては皆異存はな
いと思う。問題はどう戦うかだ。それを決定するために、今回の会
議を開くこととなった。皆それぞれ立場は違うが、遠慮せずに発言
してほしい﹂
とのカレル陛下の言葉によって会議が始まる。
これに続いたのは、王権派幹部の1人で共和国軍少佐のシュラー
メクだった。
﹁進軍してくるのはたった1個師団だと言う。それに比べ我が王国
軍は3個師団、シレジア王国からの援軍を含めれば4個師団! 恐
れるに足らず! 全力で出撃し、国粋派の連中にどちらに正義があ
るかを教えてやろうぞ!﹂
シュラーメクがそう言うと、彼の傍に居た他の王権派幹部も便乗
して﹁そうだ!﹂﹁少佐の仰る通りだ!﹂とか言い出した。うん、
1374
なんだこの野蛮な連中。頭が痛くなる。シュラーメクもよくそれで
少佐になれたな。
﹁シュラーメク少佐の意見は机上の空論です。全軍で出撃すれば、
このカルビナが空になります。それを国粋派が黙って見ているとお
思いですか?﹂
俺がそう言うと、シュラーメクは気まずい表情をした後その場で
ストンと座った。ちょっと面白い。
﹁これだからシレジア人は⋮⋮﹂
うん、今それ関係ないよね。でもシュラーメクを始めとした王権
派幹部達は俺たちに聞こえるか聞こえないかくらいの声量で悪口を
言い合う。
﹁どうせ負けそうになったら逃げるに決まってる﹂
﹁自国の話じゃないから真剣味に欠ける﹂
﹁所詮は外国人だ﹂
あー、懐かしいな。こういうの。確かラスキノ独立戦争の時にも
似たようなことはあった。国は違っても考えることは一緒なのかね。
なんだかもう﹁こんな奴の為に俺ら戦わなければならないのか﹂
って思うと戦意が下がる。いや俺の戦意が下がるだけならまだしも、
下級兵士たちまでそう思われたらまずいなぁ。
だけど彼らは悪口をやめない。むしろ声量を徐々に上げていき、
公然と俺らを非難するような形になっている。
﹁しかもなんだ、あの女。16歳で大佐だと?﹂
﹁どうせ王族だなんだで優遇されてるだけのへっぽこだろ﹂
1375
﹁それにリヴォニア人までいやがる。俺らを迫害していたリヴォニ
アの貴族様らしいじゃないか﹂
彼らの悪口がエミリア殿下やフィーネさんに対する個人的なもの
に移った瞬間、俺の右隣に座っていたサラさんが机の下で拳を握っ
た。たぶんこのままだと、数秒で机に拳を叩きつけて彼らを怒鳴り
散らすだろう。
でもそんなことをしても不和を広げるだけだ。ここは自制しても
らわないと。
そう思い、俺は彼らに悟られないようそっとサラの拳を握る。す
ると彼女はこっちを向いて、そして怒りで頬を赤らめながらも何か
を悟ったかのように落ち着きを取り戻した。よしよし。サラもよう
やく自制心というのをわかってきたね。
一方、悪口を言われたはずのエミリア殿下とフィーネさんは表情
を崩さない。まるで﹁私その言葉聞こえてません﹂というような態
度だ。それも彼ら王権派幹部にとっても癇に障る行為だったかもし
れないが、それを彼らが追及する前に、この場で最も高位な人物が
怒りを顕わにした。
﹁何をやっとるか、貴様ら!﹂
カレル陛下のその怒号は、初等学校のガラスをビリビリと振るわ
せるほどの破壊力があった。やめて、窓割れちゃう。心がぞんぞん
しちゃう。
﹁彼女らシレジア人兵たちは我らの要請でここに来ている。であれ
ば客人として遇するのが礼儀であろう! にもかかわらず、客人を
公然と罵倒するとはどういう了見か!﹂
﹁も、申し訳ありません!﹂
1376
シュラーメクら幹部は口々に謝罪を始めたが、カレル陛下の怒り
は暫く収まらない。そんな陛下に対して、シュラーメクらの悪口に
便乗しなかった見た目穏健的な共和国軍士官がとりなしを試みた。
お
﹁で、ですが陛下。彼ら外国軍に対して一部の将兵が不審を抱いて
いるのもまた事実。特にそこに居られるリヴォニア人貴族がそうな
のです。彼らはかつて我々ラキア人を、それがどんな人間であろう
とお構いなく迫害致しました。それ故、また同じことが起きるので
はないかという危惧があるのです﹂
﹁ほう、可笑しな論理だな。リヴォニア貴族が誰彼構わずラキア人
を迫害するのはダメで、我らラキア人がリヴォニア貴族を誰彼構わ
ず罵倒するのは仕方がないと申すのか﹂
﹁い、いえ、それは⋮⋮﹂
⋮⋮ふーむ。王権派に味方するときにずっと気になっていた﹁次
期国王がもし暴君だったら﹂という懸念は心配する必要もなさそう
だ。カレル陛下は賢君や名君でないにしても、少なくとも暗君や暴
君と呼ばれる人間ではないと思う。
カレル陛下は今、暴走する幹部をその口先だけで抑えることに成
功した。もしかしたらカレル陛下は優秀な人間かもしれない。
﹁⋮⋮数々の非礼を詫びる。この通りだ﹂
そう言うと、カレル陛下は迷いもなく俺らに頭を下げた。一国の
王となるかもしれない男が、あっさりと頭を下げたのだ。そんな光
景を見て、さすがにエミリア殿下も戸惑った。
﹁い、いえ。気にしていませんので⋮⋮﹂
1377
エミリア殿下の返答を聞いたカレル陛下は頭を上げると、少し笑
みを浮かべていた。
嫌な顔せず、悪いことだと思ったら素直に頭を下げる王、か。結
構良い人かもしれない。
一連の謝罪劇が終わると、会議は元の話題に戻る。進撃してくる
国粋派1個師団、これを如何にして止めるかが今回の議題だったが、
それに関してエミリア殿下がこんなことを言った。
﹁カレル陛下。此度の戦い、我が王国軍にお任せください﹂
﹁⋮⋮貴国の軍隊、1個師団だけで迎撃すると?﹂
﹁はい、そうです﹂
エミリア殿下は毅然と言った。
たぶん、エミリア殿下が意図することは先ほどの王権派幹部の悪
口にも関連することだろう。つまり﹁シレジア人が信頼できる人物
だと証明するために、先陣を切る﹂ということだ。
そんな事情を汲み取ってくれたのか、カレル陛下はエミリア殿下
の提案を聞き入れてくれた。
﹁わかった。そちらに任せよう。必要とあらば、こちらから人員も
貸し出す﹂
﹁ありがとうございます、陛下﹂
こうして迎撃作戦案は決まった。と言っても、エミリア師団が迎
撃の任に入るということだけだ。具体的な作戦案はこれから、つま
り俺が考えるということになるだろう。
そうだな、とりあえずこの辺の地理に詳しい人を貸してくれるよ
1378
うカレル陛下にお願いして⋮⋮。
と俺が作戦を考えていた時、右隣から声がした。
﹁ねぇ、ユゼフ﹂
﹁ん? あぁ、サラ。どうした?﹂
﹁い、いや、あの、大したことないんだけどさ⋮⋮﹂
彼女は頬を赤らめつつ俯いている。そしていつもの彼女らしくな
い小さな声で、俺に言った。
﹁あの、そろそろ手離してくれると嬉しいんだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
王権派幹部の陰口が始まった時にサラを抑えるために彼女の拳を
握った。そして、どうやら俺はカレル陛下の謝罪を受け場が静まっ
た後、そのことを忘れてしまったのだ。サラの方も会議中に俺に掴
みかかるようなことは、先日のこともあって自重した。そのため会
議が終わるまで指摘できなかった、と。うん。
俺は急に恥ずかしくなって慌てて手を離し、暫くの間サラの顔を
見ることができなかった。
かくして、11月20日の会議は終了した。
そして11月22日。
俺の立案した作戦計画に則り、エミリア師団が国粋派1個師団を
迎撃の任を帯びてカルビナを離れた。
1379
これが国粋派と王権派が、初めて戦場にて対峙する戦いになるだ
ろう。
1380
フラニッツェ会戦
王権派の拠点であるカルビナを攻略せんと動く国粋派1個師団、
これを指揮するのはこの年29歳になるノルベルト・バレシュ少将
である。
16歳で大佐や少佐の身分となっているシレジア王国の若手士官
と比べると見劣りするものの、それでもなお29歳で少将は異例の
出世の早さと言って良い。事実、彼は共和国軍の中でもかなり若い
将官であり、将来を嘱望されている共和国期待の英雄である。
そんな彼の下に王権派の軍隊が動いたとの情報がもたらされたの
は11月24日、部隊が共和国東部最大の軍事拠点であるオルミュ
ッツ要塞に到着した時のことである。
﹁オルミュッツ要塞から東南東に2日の距離にあるフラニッツェに
王権派が布陣してる模様です。数およそ5000﹂
この報告を聞いたバレシュは勝利を確信しても良かったかもしれ
ない。なぜなら彼が指揮する部隊の合計は1万で数に勝っている。
普通ならば負けはしない。しかしだからこそ、バレシュは疑問に感
じただろう。
﹁なぜこんなにも数が少ないのだ? 我々の進軍を予想しての布陣
ならば、せめて同数を用意するのが順当だろうに﹂
このバレシュの疑問にすぐに答えられる者はいなかった。なぜな
らば、王権派は内戦において最弱の勢力で、それ故に戦力の出し惜
しみをしているのではないかと考えていたからである。
1381
バレシュは暫く考え込んだ。偵察部隊からの情報によれば、王権
派が布陣する地点には川があるため防御のし易さで言えば確かに迎
撃に適した地点である。だが、それを考慮しても数5000は余り
にも少なすぎる。王権派は何か罠を仕掛けているのではないか、と
彼は考えた。
不自然な事態に疑問符を浮かべ、かつ慎重に考えるバレシュだか
らこそ、共和国期待の英雄と呼ばれるようになるのである。
翌11月25日、彼の疑問を解決する助けとなる情報が偵察部隊
よりもたらされた。
﹁王権派は2000の部隊を戦場北側の丘陵地帯に待機させている
模様です﹂
﹁なるほど⋮⋮そういうことか﹂
バレシュは、王権派の意図するところを見出した。つまり500
0の王権派本隊がバレシュ師団を抑えている間に2000の支隊が
自軍の後背に回り込み挟撃する、という作戦を取ったのだと考えた
のである。
﹁こちらの偵察隊は発見されたか?﹂
バレシュは報告しに来た偵察部隊の隊長に尋ねた。それに対し偵
察隊長の返事は明瞭で、即ち﹁いいえ﹂だった。つまりバレシュは
敵に気付かれることなく、敵の作戦の要となる奇襲部隊を発見した
のである。
﹁伏兵の存在が事前にバレてしまった以上、王権派に勝ち目はない。
奴らはただでさえ少ない戦力をさらに分散させるという愚をおかし
たのだ﹂
1382
そしてバレシュは作戦を立案した。
部隊を5000ずつに分ける。1隊が敵本隊5000の動きを封
じる間に、もう1隊が敵支隊2000を奇襲攻撃。しかる後に敵本
隊の後背に出て挟撃する。
このバレシュの作戦が成功すれば、味方の損害を少ないままに王
権派の迎撃部隊を撃滅できるだろう。
﹁敵本隊を食い止める部隊は私が直接指揮する。敵支隊を攻撃する
隊は副司令官トレイバル准将に任せよう。全ての偵察部隊が回収出
来次第、出撃する﹂
同日13時丁度、バレシュ師団は部隊を2つに分けて東に進軍を
始めた。
だがそれこそがユゼフの仕掛けた罠であることを、この若き共和
国の英雄は身を持って知ることになる。
11月26日10時30分。
フラニッツェで国粋派を迎撃すべく布陣していたエミリア師団、
その司令部に立つ作戦参謀兼参謀長ユゼフ・ワレサ少佐は半ば勝利
を確信していた。だがそこで焦燥や慢心が禁物であることも彼はわ
かっていた。
国粋派はユゼフの仕掛けた罠にまんまと引っ掛かった。
偵察隊に気付かないふりをしていた支隊2000は既に場所を変
え、事前に用意していた防御陣地に引き篭っている。ここらの地形
1383
に詳しい王権派幹部である人物から最も複雑な地形を有する場所に
現在、支隊2000が布陣している。これであれば、勝てはしない
までも敵の奇襲部隊に対して長い間持ちこたえることができるだろ
う。
そして支隊が時間稼ぎをしている間、敵に見つからないようさら
に後方で待機していた第3騎兵連隊と合流した本隊8000が、敵
本隊を撃滅する。
ユゼフはエミリアに半ば作戦が成功したことを伝える。するとエ
ミリアは
﹁さすが戦術の先生です﹂
とユゼフを褒めた。
彼自身は先生と言われるほど凄いことを考えたわけでもないと思
っていた。エミリアも春戦争の時に有効な作戦を数多く立案し、そ
して東大陸帝国軍を追い出したことを考慮すると、そう思ってしま
うのも無理ない事である。
だがそんなユゼフの考えを余所に、エミリアは次の段階に移るた
めに命令を飛ばす。
そしてサラを始めとした第3騎兵連隊が本隊と合流した直後、偵
察部隊より報告があった。
﹁敵影、発見!﹂
途端、司令部に緊張が走る。そして一番早く口を開いたのはマヤ
で、彼女は威勢の良い声をこの場にいる全ての味方に伝える。
﹁総員、戦闘配置につけ!﹂
1384
マヤの号令と共に、味方は慌ただしく、しかし事前に言っていた
通りの動きをする。その間にも司令部に続々と情報が入ってくる。
﹁敵は、フラニッツェの街道に沿って東に進軍中。距離8000、
数およそ5000!﹂
﹁予想通りですね﹂
エミリアは思わず笑みを浮かべた。何もかもがこちらの思い通り
に事態が推移していたが、それは頼りになる味方に囲まれているか
らこそだと納得していた。一方の作戦立案者は思い通りに行きすぎ
て逆に不安がっていたようではあるが。
間もなくして、エミリアらがいる司令部からも国粋派のバレシュ
の部隊が見えるようになる。
この時、バレシュ少将は油断していた。それもそのはずで、事前
に彼の下にもたらされた敵本隊の位置は、現在地より東に半日の距
離にあるのだから。
そのためバレシュ隊は街道を無防備に東進し、戦列が長く伸び切
っていた。敵地でなければ問題とはならなかっただろうが、残念な
がらここは既に戦場だった。
﹁総員、攻撃準備完了。いつでも行けます!﹂
﹁魔術兵隊に連絡。上級魔術の詠唱開始。詠唱終了後、敵陣形の中
央部に向け一斉に集中攻撃してください。敵を前後に分断します!﹂
﹁ハッ!﹂
エミリアがそう部下に素早く命令する中、ユゼフの隣に立って単
眼鏡で国粋派の様子を見ていたフィーネが何かに気付いた。
1385
﹁あれは⋮⋮﹂
フィーネはそう呟くと、鞄の中に入っていたひとつの資料を取り
出す。彼女は手際よくページをめくり、そしてお目当ての物を見つ
け出した。
﹁フィーネさん、どうしました?﹂
﹁ユゼフ少佐、これを見てください﹂
そう言ってフィーネは、ユゼフに身体をくっつける形を取ってそ
の資料を見せる。無論これは計算した動きであるのだが、戦場でそ
んなことに現を抜かす余裕があることが、既にこの戦いの趨勢が決
まっていたことの証左であろう。
もっとも、そのことについてはユゼフは気づいていない。そして
さらに言えば、彼の後ろに立って不貞腐れてるサラの存在にも気づ
いては居なかった。
それはともかく、フィーネがユゼフに見せた資料には、あらゆる
絵が描かれていた。ユゼフが不思議に思っていると、フィーネが単
眼鏡を彼に渡し敵を見るように促す。
﹁敵が掲げている隊旗が見えますか?﹂
﹁えぇ。⋮⋮そこに描いているのと同じ模様が見えますね。という
ことは⋮⋮﹂
﹁はい。共和国軍少将ノルベルト・バレシュの部隊です﹂
フィーネは、ユゼフから単眼鏡を返してもらいつつ、自分が知っ
ている、いや正確に言えばオストマルク帝国が調べ上げた情報を彼
に伝えた。
1386
﹁ノルベルト・バレシュは共和国最年少の少将です。ハーハ大将と
親交も深いようです。ですがそれを考慮しても、29歳で少将とな
ると余程優秀なのでしょう﹂
﹁なら、そんな若き将軍に敬意を表して、共和国最年少の大将にし
てあげましょうか。サラ!﹂
﹁な、なに!﹂
突然呼ばれたサラは一瞬狼狽えたが、ユゼフはそんなこともお構
いなしにサラに伝える。
﹁上級魔術発動後、薄くなった敵中央部に騎兵突撃をしてバレシュ
隊を前後に分断してほしい﹂
﹁わかったわ!﹂
﹁頼むよ﹂
ユゼフがそう言った瞬間、エミリア師団の上空が輝き出した。上
級魔術発動直前特有の発光現象である。
その光は当然、バレシュ隊も確認した。
﹁か、閣下! 上級魔術発動光を確認! 右翼です!﹂
﹁何!?﹂
プロメテウス
バレシュがその方角を見ると、既にそこには発動光はなく、代わ
りに自らの部隊に向かって突進してくる火系上級魔術﹁火神弾﹂が
あった。
上級魔術の集中攻撃を浴びたバレシュ隊は一時的な混乱に陥った。
バレシュはなんとかして態勢を整えさせ反撃しようとしたが、その
前にシレジア王国最強の近衛師団第3騎兵連隊が勇猛果敢に突撃し
てきたのである。
1387
﹁全騎突撃!﹂
第3騎兵連隊連隊長ミーゼル大佐の掛け声と共に、近衛騎兵30
00が突撃する。その圧倒的な破壊力を前に混乱したバレシュ隊が
対抗できるはずもなく中央を突破されてしまった。
前後に分断されたバレシュ隊は指揮命令系統にさならなる混乱を
きたしていた。これでは組織的な抵抗など最早不可能で、分断され
た前半分の部隊に至っては戦列も何もなく潰走状態にあった。そこ
を第3騎兵連隊は容赦ない追撃を掛けたのである。
その頃エミリアは、やや憮然とした顔をしていた。
﹁ユゼフさん﹂
﹁どうしました、殿下?﹂
﹁指揮官は私です。勝手に命令しないでください﹂
﹁あ、申し訳ありません。つい﹂
ユゼフはあくまで参謀であり、命令権はない。にも拘らず、彼は
勝手に第3騎兵連隊に突撃命令を掛けたのである。
だがエミリアは憮然とした顔をすぐにやめて笑みを戻した。
﹁でも、ユゼフさんのことは信頼していますから。大丈夫ですよ﹂
エミリアはそう言いつつ、バレシュ隊を追い詰めるべく次の命令
を下した。
11時15分。
バレシュ隊の分断された前衛部隊およそ2000は、その半分を
1388
第3騎兵連隊によって打ち倒され、残りの半分は散り散りになって
何処かへと逃げてしまった。
一方バレシュが直接指揮する後衛3000は、エミリアが直接指
揮する5000の部隊に後方を遮断されていたため逃げることがで
きなかった。
だがこの時バレシュは部隊の指揮命令系統の再編をほぼ終えてお
り、部隊を密集させてエミリア隊の中央を突破し脱出を図ったので
ある。
﹁あと少し、あと少しで敵陣を突破できるぞ! 突撃だ!﹂
バレシュが突撃命令を飛ばすこと4回、その度に鋭く巧妙な攻撃
によってエミリア隊に対して強かに出血を強いた。エミリアはこれ
に対して、陣形を固めつつ少しずつ後退し敵の攻撃を受け流し、第
3騎兵連隊の来援があるまで時間を稼ぐことに専念した。
だがそれも、ノルベルト・バレシュという共和国最年少の少将に
して期待の英雄の名に恥じない果敢な突撃の前に、ついにエミリア
隊の戦列に亀裂が生まれた。このままバレシュが突撃すれば、撤退
に成功しただろう。
だがこれは、バレシュ隊の左側背に現れた部隊によって阻止され
た。
エミリアの副官であり剣術の達人であるマヤ・クラクフスカ大尉
が指揮する歩兵隊300名が、バレシュ隊に切り込んできたのであ
る。
﹁エミリア殿下をお守りしろ!﹂
マヤ率いる歩兵隊は戦場を迂回してバレシュ隊の後方に回り込み、
1389
そこで剣兵による切り込みを仕掛けて荒らし回った。その結果バレ
シュ隊に対し華々しい戦果を挙げるに至り、かつその動きを止める
ことに成功した。その間にエミリア隊はバレシュ隊によって開かれ
た亀裂を塞ぐことに成功したのである。
これらは作戦参謀たるユゼフの献策によるものだったが、彼自体
は﹁これはマヤさんが頑張った結果だから﹂と自らを過小評価して
いたようである。
だがそのおかげでバレシュ隊の行き足は完全に止まり、そしてつ
いには駆け付けた第3騎兵連隊に後方を襲われ、エミリア隊に完全
に包囲されてしまったのである。
そして11時55分。
共和国軍最年少の少将は、ユゼフの宣告通り最年少の大将になっ
てしまった。
バレシュ隊を撃滅したエミリア隊は直ちに陣形と部隊の再編を行
い、支隊2000を救うべく部隊を動かした。
12時20分。
分厚い防御陣を築いたシレジア王国軍支隊2000を前に攻めあ
ぐねていたトレイバル准将指揮する国粋派5000は、エミリア率
いる本隊8000に後方を襲われ包囲されてしまった。
この時トレイバルは自らの敗北を認め、無駄な犠牲を出すことは
できないとしてエミリア師団に降伏の意思を伝えた、トレイバルも
負傷しながらも生きながらえ捕虜となった。
こうして、王権派と国粋派の最初の会戦は、王権派の圧勝によっ
1390
て幕を閉じたのである。
1391
オルミュッツ要塞攻略作戦 ︲作戦開始︲
バレシュ師団を完膚なきまで撃滅した後、俺たちはすぐに戦場の
後片付けに入る。優先的に片付けをするのは、シレジア人の戦死体
だ。
というのも、シレジア王国が内戦に介入してきたことを悟らせな
いためだ。まぁ敗残兵が拠点に戻って報告するかもしれないが、そ
れでも可能な限り証拠隠滅はしておきたい。証拠がなければ、敗残
兵の証言が取り上げられる確率は減るだろうし。
﹁それで、戦死者の数は?﹂
俺がエミリア殿下やマヤさんと一緒に今後の方針を練っていた時、
後続の輜重兵部隊を率いて死体回収の指揮を執っているラデックか
らそんな質問があった。戦死者の数を正確に把握して、漏れが無い
ようににしたいのだろう。
﹁戦死583、戦傷1029﹂
﹁戦力が互角だったのに随分と少ないんだな﹂
﹁もっと少なくする予定だったんだけどね﹂
損耗率15%。まぁ戦傷者はカルビナに戻って本格的な治癒魔術
を受ければほとんどが戦線に復帰できるだろう。そう考えると損耗
率は5%だけど、でも最後の最後で敵の頑強な抵抗にあったからな
ぁ⋮⋮あれが本当に突破されていたら、どうなっていたことやら。
﹁それで、進捗はどう?﹂
﹁順調だな。進捗率8割ってとこだ﹂
1392
それを聞いて真っ先にラデックを褒めたのはマヤさんだ。
﹁さすがラデックくんだ。こういう妙な仕事は結構早い﹂
﹁⋮⋮褒めてるんですかそれ?﹂
﹁褒めてるに決まってるじゃないか﹂
いや褒めてるように聞こえないよマヤさん。どっちかというとバ
カにしてる。まぁたぶん彼女は本気で褒めてるのだろうけど。
実際こういう仕事はラデックは効率よくこなすから結構助かる。
そういう人材って結構少ないから貴重だ。大事にしなきゃね。
﹁んで、作業が終わったらカルビナに戻ればいいのか?﹂
ラデックからそう問われたが、俺は即答できなかった。
﹁⋮⋮それについて、エミリア殿下と相談してたんだけどね﹂
﹁戻らないのか?﹂
﹁ちょっと気になることがあってね﹂
王権派の話によれば、ここから西北西にここらで最大の軍事拠点
であるオルミュッツ要塞があるということらしい。もしここを落と
せば、共和国東部は王権派が手に入れることになるかもしれないの
だ。
なぜなら、オルミュッツ要塞は共和国東部の国粋派各駐屯地の兵
站を一手に引き受けている補給拠点でもあるから。つまりオルミュ
ッツ要塞が落ちると、要塞の兵站に頼っている国粋派駐屯地も一網
打尽になるのだ。これは大きい。
そして俺らがさっきまで戦っていたのは、共和国でも英雄的な扱
1393
いを受けているバレシュ少将の部隊。それが壊滅したとなれば、要
塞の混乱は大きいのではないか。その混乱が冷めやまぬ中、俺らが
急襲したら勝てるかもしれない。
となると問題は、要塞の守備隊か。
﹁エミリア殿下、報告が⋮⋮﹂
とやってきたのは情報担当のフィーネさんだった。いいタイミン
グで来たね。
﹁あ、フィーネさん。ちょっと良いですか?﹂
﹁? なんでしょうか、ユゼフ少佐﹂
﹁オルミュッツ要塞のこと、何か情報ありますか?﹂
﹁⋮⋮丁度、その件について報告しに来たところです﹂
マジか。フィーネさんさすがやで。
﹁捕虜からの情報です。オルミュッツ要塞には現在1個師団が守備
隊として駐屯、指揮官はクドラーチェク少将とのことです。詳細は
こちらに﹂
そう言って、フィーネさんはエミリア殿下に報告書を渡す。俺も
その報告書を脇から覗きこむが、かなり多くの情報を得られたよう
だ。
﹁⋮⋮よくこんなに喋りましたね。オストマルクの情報士官は優秀
で助かります﹂
﹁いえ、そんなことは⋮⋮。それに、この程度の情報であれば、お
そらくどこの国の人間がやっても集められるかと﹂
﹁そうですか?﹂
1394
﹁えぇ。どうやら、国粋派は兵の教育に失敗してるようですから﹂
フィーネさん曰く、国粋派の兵士たちは﹁捕虜になるくらいなら
死ね﹂と言われているらしい。どっかで聞いたことある様な教育だ
が、そのせいで予想外の事態が発生しているそうだ。それが﹁捕虜
になるのは嫌で死にたかったけど何かの間違いで生き残って捕虜に
なっちゃった場合の対処がわかりません﹂という問題だ。
本来であれば﹁もし敵の捕虜になったらどうするべきか﹂という
教育を必ず受ける。士官学校でも俺はそれを習ったし、捕虜になる
確率が高い下級兵にも教える。勿論、だからと言って全ての情報を
遮断することはできないけど、ある程度制限することが可能だ。
でも、国粋派は精神論を掲げたばかりに、捕虜になっちゃった場
合の教育をするのを忘れてしまったのである。その結果、
﹁捕虜はベラベラ喋りましたよ。ちょっと褒めてあげたらちょろい
もんです﹂
とフィーネさんが笑顔で言っていた。恐ろしい。いやでもフィー
ネさんくらいの美少女に褒められたら誰でもゲロってしまうんじゃ
ないか? うん、なら仕方ないな。
ともあれ、俺らはオルミュッツ要塞の子細な情報を手に入れるこ
とができた。
俺らが今持っているのは、エミリア殿下が指揮する1個師団、要
塞に関する子細な情報、そして捕虜だ。
﹁この捕虜を使って、要塞を落とします﹂
1395
俺はエミリア殿下に攻略作戦の概要を話したが、彼女は少し不安
な表情をしていた。
﹁⋮⋮大丈夫でしょうか? いえ、ユゼフさんを信頼していないわ
けではありませんが﹂
﹁あ、いえ。お気になさらずに。確かに私も不安ですから﹂
でも、やってみる価値はある。
失敗したところで、俺たちが何らかの損害を被るわけじゃない。
﹁あー、やっぱ失敗しちゃったかー﹂で済むのだ。その後はカルビ
ナに戻ってゆっくり対策を考えればいい。
ちなみに、この作戦をサラにも話してみた。返ってきたのはこん
な言葉だ。
﹁よくわかんないけど、ユゼフが考えたってことは成功するに決ま
ってるわ﹂
こういうこと言われると、それがお世辞であっても多少は自信が
つくというものだ。
−−−
﹁バレシュ少将の部隊とは連絡がつかんのか!?﹂
12月1日15時30分。
1396
共和国東部最大の軍事拠点であるオルミュッツ要塞は、元々オス
トマルク帝国がリヴォニア=オストマルク戦争の時に建設した要塞
であり、幾度となくリヴォニア貴族連合軍の攻撃を跳ね返してきた。
そしてカールスバートの独立と共に同国軍の支配下に置かれ、以後
100年以上リヴォニア人はこの要塞に踏み入れていない。
そして現在、そんな難攻不落とも言って良いオルミュッツ要塞は
混乱の極致にあった。バレシュ少将率いる1個師団との連絡が、1
1月26日を境に途絶えたのである。
内戦中であることを考慮すれば、連絡が途絶えた時点では敵と接
触し戦闘中なのではとすぐに推測できる。だがそれから5日間も連
絡がないとなると、残される可能性は1つ。即ち、バレシュ師団が
全滅したということである。
だがその推論を、オルミュッツ要塞司令官のヴァルトル・クドラ
ーチェク少将は認められずにいた。共和国最年少という将来を嘱望
されていたバレシュ少将が、国内最弱勢力である王権派ごときに、
連絡員を送る余裕もなく全滅に憂き目に遭うなどあり得ないと考え
たのである。
﹁司令官閣下、第17騎兵偵察隊より報告です。﹃フラニッツェに
て大量の死体と放棄された装備を発見﹄とのことです﹂
﹁我らと敵と、どちらの被害が大きかったかわかるか?﹂
﹁⋮⋮いえ。我らと敵の軍服が同じだったようで、判別は不可能だ
と﹂
﹁バレシュ少将の行方は?﹂
﹁それも不明です。ですが、現場に遺体はなかった模様です﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
クドラーチェクとしては、まさに思案のしどころだった。
要塞に駐留するのは1個師団およそ1万と、相当な戦力を有して
1397
いる。だが戦況がわからぬ以上、無闇に要塞を離れることはできな
い。だがもしバレシュがまだ生きて、そして何処かでまだ戦ってい
るのだとしたらすぐに増援を出さなければならない。
バレシュは、この国の元首であるエドヴァルト・ハーハから信頼
されている将帥の1人である。そのような人物を見捨てた、ともし
ハーハ大将に言われてしまったら、自分の身はどうなるか。
いや自分の身だけならばまだ良い。首都に置いてきた、否、首都
に人質として置かれている自分の家族がどうなるかがわからない。
裏切り者としてハーハから弾劾されれば、家族は先日起きた﹁魔女
裁判﹂と同じ目に遭うのではないか。
その恐怖が、クドラーチェクを迷わせていた。
結局クドラーチェクは決断できず、さらなる偵察部隊を編成して
情報収集に努めることに専念した。
そして翌12月2日。
クドラーチェクが待ち望んでいた情報が入った。
﹁バレシュ師団に所属していた兵が数名、戻ってきました﹂
﹁数名⋮⋮?﹂
﹁はい。かなり衰弱していましたが、なんとか意識は回復したので
情報を得ることが出来ました。彼らが所属していたのは副司令官ト
レイバル准将指揮する旅団でしたが、旅団は敵に包囲され降伏した
模様です。彼らは降伏し、敵に身柄を拘束されそうになったところ
をギリギリで脱出し、ここまで戻ってきたようです﹂
﹁⋮⋮そうか。それで、バレシュの方は?﹂
1398
﹁叛乱軍から脱走した兵達が聞いた話によると、現在フラニッツェ
北のバレノフ山中において敵3個師団に包囲されているとか﹂
﹁なるほど⋮⋮その者たちには感謝せねばならんな﹂
﹁閣下、いかがなさいますか?﹂
﹁⋮⋮すぐ近くで苦戦している味方がいるのだ、放っておくわけに
も行くまい。すぐに増援を出さねばならんだろう﹂
クドラーチェクが下したこの判断は、戦術や戦略と言ったものか
らは程遠いものだったかもしれない。彼の置かれた状況を鑑みれば、
それは致し方ないことではあるが。
﹁わかりました。ではどれほどの部隊を出撃させますか? あまり
多く出すと、要塞が手薄になりますが⋮⋮﹂
﹁そうだな。だが多く残す必要はない。敵は3個師団だということ
だったな?﹂
﹁はい﹂
﹁王権派を名乗る反動主義者共は多くの戦力を有しているわけでは
ない。確かに3個師団は予想外だったが、それ以上の軍人を養うの
はカルビナの経済力だけでは不可能だろう﹂
﹁となると敵には予備戦力は殆どない、ということですね﹂
﹁そういうことだ。今敵は恐らくバレシュ師団を叩くのに全力を費
やしている。まぁ、1個大隊もいれば十分守りきれるだろう。留守
は⋮⋮そうだな、ハルバーチェク大佐に任せる。そう伝えてくれ﹂
﹁了解です﹂
こうして、12月2日の13時45分にオルミュッツ要塞から守
備隊9000がクドラーチェク少将の指揮の下出撃した。3個師団
相手に1個師団で立ち向かうのは無理なことだが、敵軍を奇襲し、
それによって包囲を解いてバレシュを救い出すだけならば可能であ
ると、彼は考えたのである。
1399
だが彼は、バレシュを助けることに夢中で重要なことを忘れてい
たかもしれない。逃げ出した部下が持っていた情報を精査するとい
うことを、である。
1400
オルミュッツ要塞攻略作戦 ︲攻城戦︲
フラニッツェ会戦において、シレジア王国軍は3000名の国粋
派を捕虜にとった。しかしその内数名、正確に言えば8名が脱走に
成功し、そして2日間の逃走劇を経てオルミュッツ要塞に辿りつい
たのである。
彼らは要塞に着くなり、王権派の脅威を声高に叫んだ。その叫び
は要塞司令官クドラーチェク少将の耳にも届き、守備隊9000名
がクドラーチェクの直接指揮の下出撃していったのである。
クドラーチェクにとって不幸だったのは2つある。
1つは、この国の元首である暫定大統領エドヴァルト・ハーハか
らの信頼が篤いノルベルト・バレシュ少将が行方不明だったこと。
これによりクドラーチェクは、ハーハから粛清されないよう戦術や
戦略と言った点を無視して動かざるを得なかったことにある。
クドラーチェクの任務はあくまで要塞の守備にあり、バレシュを
救うために遠征する義務はないのである。もし彼がハーハに怯える
ような人間でなければ、バレシュを救わず情報収集に努め、首都や
近隣の駐屯地に増援を要請することも選択肢のひとつだった。
そして2つ目の不幸は、脱走に成功した国粋派捕虜8名の内、3
名が王権派の幹部だったことである。
−−−
1401
12月2日14時丁度。
エミリア殿下の下に、オルミュッツ要塞から守備隊が出撃したと
いう情報が偵察部隊よりもたらされた。
﹁予定通りですね、ユゼフさん﹂
﹁えぇ。あとは潜入しておいた工作員が仕事をするのを待つだけで
す﹂
工作員の仕事は3つ。
1つは、要塞守備隊を出撃させるよう偽の情報を流すこと。これ
は半ば成功しており、あと半日待てば守備隊は要塞から見えない場
所に到着するだろう。
2つ目は、要塞の正門を開くことである。要塞に肉薄して魔術で
ぶっ壊しても良いけど、先ほど出撃した守備隊にできるだけ勘付か
れたくないから派手なことはできない。だからできるだけ静かに侵
入できれば万々歳だ。
そして最後の仕事は、俺らが要塞に近づいても要塞から反撃され
ないように内部で騒動を起こすことである。ここら辺は工作員の善
処に任せている。要塞にいる士官の暗殺でも、反乱でもなんでもい
い。ともかく俺らに構ってられないような事件を起こして欲しいの
だ。
というのも、オルミュッツ要塞には戦術級魔術師、あるいは要塞
級魔術師がいる可能性があるのだ。戦術級魔術の威力派凄まじく、
1発で1個大隊から1個連隊を消滅させることが可能だ。空き家を
強奪するために俺らがのこのこやってきたときに、要塞から戦術級
魔術が撃たれたら⋮⋮恐ろしい。それを阻止するのが工作員の役目
1402
だ。
﹁問題は、彼がちゃんと仕事をするかだな﹂
そう不安を口にしたのはエミリア殿下の脇に立つマヤさんだった。
いや、不安というより言ってみただけって感じの方が強いかもしれ
ないけど。
﹁潜入した彼らが、要塞にいる奴らに感化されて裏切る、という可
能性もあるのではないか?﹂
マヤさんは意地の悪そうな笑顔で俺に聞いてくる。なんかそれ﹁
おいユゼフ、焼きそばパン買ってこいよ﹂って言いそうな顔ですね。
﹁まぁ、大丈夫だと思いますよ﹂
﹁理由は?﹂
﹁マヤさんも覚えているでしょう、あの作戦会議﹂
俺がそう言うと、マヤさんは﹁あぁ、なるほど﹂と言って大きく
頷いた。これだけでわかってくれるのがさすがだな。
﹁どういうことよ?﹂
一方、わかってなかったのは俺の隣に居たサラさんである。彼女
がこういう状況を理解してないのは割といつも通りのことだ、問題
ない。感覚的に戦況を読み取る能力は高いから差し引き0だ。
﹁サラ、作戦会議で王権派が悪口言ってたのは覚えてるよね?﹂
﹁えぇ。1発殴りたかったわ﹂
1403
サラはむくれた表情をしていた。本当にイラついてて殴りたいの
はよくわかるけど、我慢してくれてよかったよ。
﹁あの時、カレル陛下からお叱りを受けたはずの幹部連中は、気ま
ずい顔をした程度で怒ってはいなかったんだ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん﹂
叱られるのは、誰だって嫌だ。相手が美少女だの美女だのだった
らかえってそれはご褒美になるかもしれないけど、普通なら多少の
怒りは湧くものだ。
でも彼ら王権派幹部は、そう言った感情を見せなかった。それは、
彼らがカレル陛下に忠誠を誓っている事の証左であろう。
だけど、マヤさんはそれでも多少の不安感が抜けないようだ。
﹁でも、それはカレル陛下に対して忠誠を誓っているだけだろう?
私達の命令に従ってくれるかどうかとはまた別問題だ。しかも﹃
このシレジア人どもめ﹄と言っていたしな﹂
﹁その点は確かに不安ですが、でも先のフラニッツェで我々は完勝
しました。それを目の前で見せたのですから、多少は信頼してくれ
ると思いますけどね。それに﹂
﹁それに?﹂
﹁それに、俺は彼らにこう言ったんですよ。﹃貴方たちの手で、カ
レル陛下に要塞をご献上致しましょう﹄ってね。そしたら彼らはや
る気満々でしたよ﹂
行き過ぎた忠誠心と言うのは扱いが難しく、時にその忠誠心故に
部隊の行動を制限してしまうことがある。だが今回は、その忠誠心
が役に立っているのだ。
1404
﹁だから、あとは成功を祈るのみです。成功したら、我々は要塞が
手に入る。失敗しても特に被害は受けない。それだけです﹂
出撃させた守備隊が罠に気付き、要塞に戻ってくるまであと1日
半と言ったところか。その間に要塞の正門が開いたら、それは何も
かも上手くいったという合図だ。戦術級魔術に怯える必要もない。
裏切りが起きたら⋮⋮という不安も持ってないわけじゃないが、そ
れは可能性は高くないとは思っている。味方の裏切りを前提とした
作戦なんて、俺には立てられないし。
﹁失敗したら被害は受けない⋮⋮か。だが、我々は潜入させた王権
派幹部を失うことになるぞ?﹂
﹁確かにそうですが、それが問題ですか?﹂
﹁何?﹂
マヤさんは訝しむような顔をしていた。まぁ、それも当然か。人
の命をなんだと思っているんだって感じだよな。
俺はそんなマヤさんに対して、彼女にだけ聞こえるよう声を絞っ
てこう言った。
﹁少し酷な言い方になりますが、失敗したら彼らが無能だったとい
うこと。忠誠心だけ異様に高いけど実績が伴わない佐官など不要で
す。そんな人間、忠義の戦死を遂げて二階級特進させた方が何かと
幸せでしょう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁冗談ですよ﹂
これは割と本心だったけど、やっぱり言わない方が良かったかな。
ちょっとマヤさんに白い目で見られた。
1405
でも、大丈夫ですよマヤさん。彼らはたぶんやり遂げると思う。
それは信頼というよりは、主君に対して忠誠を誓って何かをやろう
とする彼ら王権派幹部の姿勢に、ちょっと親近感を湧いただけだ。
ちょっとだけだけどね。
そして翌12月3日の夜明け前。
オルミュッツ要塞の正門が、開かれた。それを見た俺は、思わず
ガッツポーズして
﹁よし!﹂
と叫んでしまった。するとエミリア殿下に﹁余程嬉しいみたいで
すね﹂と少しからかうような口調で言われてしまって我に返った。
恥ずかしい。
﹁でも、本番はこれからです殿下﹂
﹁えぇ、存じています﹂
そうなのだ。正門が開かれただけでは、占領した事にはならない。
ここからは実力行使だ。エミリア殿下は部隊を素早く展開させて要
塞に肉薄する。正門にまでたどり着くまで、戦術級魔術が飛んでこ
ないかと不安だったが、どうやら工作員の工作は上手くいったよう
で、散発的に飛んでくる矢や中級・上級魔術などの微弱な抵抗を受
けたのみだった。
そして正門に辿りつくと、そこに居たのは潜入させていた工作員
3名の姿があった。うん。どうやら二階級特進をさせてやる必要は
1406
なさそうだな。
到着早々、エミリア殿下は手早く命令を下す。
﹁マヤ!﹂
﹁ハッ、御前に﹂
﹁マヤ。あなたに剣兵1個大隊を与えます。あなたが先陣を切って、
要塞の主要施設を制圧してください﹂
﹁仰せのままに!﹂
マヤさんはそう言うと、手早く部下を纏めて出撃の準備を整えさ
せた。さすがの手腕である。
﹁マヤさん。よろしいですか?﹂
﹁ん、ユゼフくんか。なんだ?﹂
﹁フィーネさんから渡された、要塞内部の構造は頭に入っています
か?﹂
オルミュッツ要塞はオストマルク帝国が建設した要塞。そのため、
要塞に関する情報はフィーネさんを経由して王権派にもたらされて
いる。要塞は突入をされた後でも抵抗できるように、中を迷路のよ
うにしているのだが、この情報のおかげで効率的に攻略ができる。
﹁あぁ、問題ない。中央指令室の位置から司令官の隠し金庫の場所
までキッチリ覚えているよ﹂
マヤさんはそう笑ってみせた。うん、たぶん大丈夫だろう。問題
は、フィーネさんがくれたオルミュッツ要塞内部の地図には隠し金
庫の位置なんて記載されていないということなのだが。
1407
﹁頼みます﹂
俺がそう言った後、マヤさんは要塞に入って行った。マヤさんは
剣術の達人で、統率力もある。たぶん大丈夫だろう。
だから、俺も出来る限りのことをやろう。
﹁サラ!﹂
﹁ん、何?﹂
﹁うん、第3騎兵連隊の一部の部隊を散開させて、周辺の偵察を⋮
⋮﹂
と言ったところで背後に気配を感じた。振り向くと、そこにはエ
ミリア殿下の憮然とした顔が。やばい。
﹁⋮⋮えーっと、周辺の偵察をさせた方が良いと小官は存じ上げま
すがどういたしましょうかエミリア殿下﹂
参謀に命令権はない、ってつい先日言われたばかりだったからね。
反省反省である。
﹁良いと思いますよ。お願いします﹂
﹁わかりました。と言うわけでサラ、お願い﹂
﹁⋮⋮あんたも大変ね﹂
サラはそう言いながら馬に跨ぐと、旗下の部隊を率いて何処かへ
と消えてしまった。
うん、大変ですよ。本当に。
1408
オルミュッツ要塞攻略作戦 ︲激闘︲
12月3日9時40分。
マヤ・クラクフスカ大尉は剣兵1000名を率いて要塞内を進撃
する。と言っても要塞は狭く入り組んでいるため1000名が一塊
になって行動することはできない。
﹁第2中隊は中央指令室、第3中隊は北門、第4中隊は南門、第5
中隊は西門を制圧。第1中隊は私と共に戦術級魔術師を捕える。質
問は? ⋮⋮よし、ならば各自作戦行動に移れ!﹂
マヤは手早く部下に指示し、各中隊はそれぞれの任務を帯びて要
塞の制圧にかかる。
彼女が直接指揮するのは剣兵1個中隊200名。任務は彼女自身
が先ほど言ったように、戦術級魔術師の捕縛である。
戦術級魔術師の存在は、大陸においては貴重だ。
彼らは、野戦において活躍する上級魔術師以上の訓練を必要とす
るため、育成に莫大な費用が掛かる。問題なのは、育成した者全員
が戦術級魔術師と足り得ない点にある。これは才能の差、と言って
も良い。そして、どこの誰がその才能を持ち得るのかの判断は難し
い。
そしてその戦術級魔術師を揃えられたとしても、戦術級魔術は発
動条件の難しさから拠点防衛にしか使えない。
そのため国家財政に余裕がなく、国土全体がほぼ平原で要塞の重
要性が低下しているシレジア王国では戦術級魔術師の育成は行って
1409
ダイヤモンド
おらず、大国でも積極的に戦術級魔術師を拡充しているわけではな
い。
結果、戦術級魔術師の価値は黄金や金剛石よりはるかに貴重とな
るのだ。
それを捕縛、そしてあわよくば王権派に寝返らせることが出来れ
ば万々歳である。
だがもしこちら側に恭順しない場合、歩く兵器とも言える戦術級
魔術師は殺すしかない。
﹁問題は、本当にこの要塞に戦術級魔術師がいるのか、いたとした
らどこにいるかだ﹂
上級魔術以上の魔術の射程は、魔術師の視界に依存している。魔
術師が見える範囲であれば、それは射程範囲内である。もっとも魔
術は距離によって減衰するため、見えていても届くだけ、という場
合が往々にしてある。
つまり有効射程と最大射程がほぼ一致する地点がギリギリ見える
高さの場所に、戦術級魔術師が居るのである。
マヤはそれを思い出し、彼女の脳内でその距離と高さを計算する。
そして先ほどまで居た場所から見えたオルミュッツ要塞と比較し、
具体的にどこにいるかを判断する。
﹁よし、私に続け!﹂
マヤ率いる剣兵200名は、要塞内を駆けた。
だがこの要塞には、彼女にとって思いもよらないことが起こって
いた。
1410
﹁⋮⋮クソッ!﹂
要塞内部の構造が一部、完璧に記憶したはずの地図と全く異なる
のである。
一方、シレジア王国軍が要塞の制圧を始めたのとほぼ同時刻、要
塞を出撃したクドラーチェク少将は、要塞から約1日進撃した地点
に到達したときに違和感を感じた。
﹁⋮⋮妙だな﹂
彼の呟きに対し、真っ先に反応したのはクドラーチェクの副官、
サムエル・ネジェラ大尉である。
﹁妙、とは?﹂
﹁戦闘音が聞こえない。戦場であるバレノフ山まであと半日の距離
であるのに、それが全く聞こえないのは妙だ﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
戦闘とは、総じて騒音を伴うものである。
魔術の着弾音、馬が地面を蹴る音、兵士の雄叫び、悲鳴、突撃ラ
ッパ、ありとあらゆる音が戦場を覆い尽くす。
それがないということは、考えられる理由は2つ。
1つは待ち伏せ。そして2つ目は、
﹁⋮⋮クソッ、私としたことが、敵にまんまと乗せられたのか!﹂
﹁閣下!?﹂
1411
﹁直ちに部隊を反転させ、要塞に引き上げる! 敵の目的は、オル
ミュッツ要塞だ!﹂
12時30分。
オルミュッツ要塞北東の森林において索敵行動をしていたエミリ
ア師団第3騎兵連隊所属のルネ・コヴァルスキ曹長は、オルミュッ
ツ要塞に引き返す国粋派をその目に捉えていた。
﹁隊長!﹂
コヴァルスキは、傍に居た上司、すなわちサラ・マリノフスカ少
佐に報告をする。だが彼女も敵が突進してくるのを確認していた。
彼女が覗く単眼鏡のレンズには、平原を爆走する騎兵1個連隊の姿
が見えた。
クドラーチェクの意図は明確だった。敵、即ちエミリア師団が自
分の部隊を発見し何らかの対抗策を取る前に動くことで、エミリア
師団の戦術的選択肢を狭めようとしたのである。
そのためクドラーチェクは、数の不利を承知で、自らが先陣を切
って騎兵隊を統率、進撃していたのである。
﹁ユゼフの作戦が敵にばれたわ。急いで報告しないと﹂
﹁報告と言っても、馬では間に合いません!﹂
敵が騎兵で爆走している以上、如何に馬術を極めているサラであ
っても敵騎兵との相対速度は0にしかならない。サラが要塞に辿り
ついている頃には、敵騎兵も要塞周辺に展開を終えているだろう。
1412
それでは意味がない。
﹁なら、信号弾を上げるしかないわね﹂
﹁しかし、それだと我々の位置が敵に悟られてしまいます!﹂
イグニスキャノン
﹁構うことはないわ。敵にとって大切なのは要塞の死守で、私達み
ウォーターボール
たいな雑魚に構うことじゃない。そうでしょ?﹂
﹁そう、ですが⋮⋮﹂
﹁じゃ、コヴァ。あんたは水球3発を上空に。私は火砲弾を上げる
わ﹂
イグニスキャノン
サラが指示した信号弾の意味は﹁総員、即刻撤収せよ﹂と﹁敵襲﹂
である。要塞が遠くにある関係上、強い光を放つ火砲弾でなければ
要塞に敵襲の報告は届かない。サラはそう考え、そして詠唱を始め
た。
同時刻。
オルミュッツ要塞の防衛を任された国粋派のハルバーチェク大佐
は、防御指揮官としての手腕を思う存分発揮していた。
﹁北門、西門、南門は放棄。全守備隊は中央指令室を全力で死守し、
友軍が戻ってくるまでの時間を稼ぐ。クドラーチェク閣下が戻って
くれば、我々の勝利だ!﹂
彼は残っている要塞守備隊1000名の兵を1ヶ所に集め、徹底
した防御戦を行う。
敵要塞攻略部隊が各施設の要所を抑えるために兵力を分散させて
いること、要塞内部の構造を完全に把握していないこと、そしてハ
1413
ルバーチェクがここの要塞司令官に信頼されるほどの堅実な手腕を
持っている男だったことから、彼は効率よく敵を撃退していった。
実を言えば、この要塞には戦術級魔術師は配備されていなかった
のである。そのため居もしない戦術級魔術師を探す1個中隊は完全
に遊兵となり、攻略部隊の戦力は更に制限されている形となってい
た。
そして、部下からある報告が入る。
イグニスキャノン
﹁大佐殿! 北東の森林地帯にて﹃火砲弾﹄を視認しました!﹂
﹁敵の信号弾か!?﹂
﹁おそらくは!﹂
イグニスキャノン
火砲弾が意味はどの国でも同じ﹁敵襲﹂である。敵がその﹁敵襲﹂
の信号弾を撃ち上げたということは、彼らにとっては﹁増援の到着﹂
を意味していた。
﹁北の森林地帯からこの要塞までは、騎兵で数時間の距離だ。なら、
行ける!﹂
この時点でのハルバーチェク率いる要塞守備隊の戦死傷者数は合
計で僅か28名。彼がこのまま防衛をし続ければ、クドラーチェク
の来援を得るまでに持ちこたえることは確実だった。
12時32分。
正門を含めた要塞各門を完全に制圧したシレジア王国軍は、つい
1414
イグニスキャノン
数分前まで勝利を確信していたが、哨戒部隊から放たれた﹁火砲弾﹂
によって浮足立っていた。
﹁殿下、申し訳ありません。想定外に早く気付かれてしまいました﹂
要塞攻略の作戦を立案した当本人であるユゼフは、上司であるエ
ミリアに陳謝した。それに対してエミリアは、
﹁大丈夫です。今はそれよりも、対策を考えなければなりません。
要塞の制圧も、だいぶ苦戦しているようですし⋮⋮﹂
﹁そのようですね﹂
この時、ユゼフは予想外の連続で混乱していたかもしれない。要
塞内に1個大隊の守備隊が残っていることは予想はしていたが、こ
れほどまでに頑強な抵抗に遭うとは思ってもいなかったのである。
フィーネから渡された要塞内部の情報が一部違っていた、という報
告を受けたこともあり、その混乱に拍車がかかっていた。
それと同時に、要塞と言う名の﹁あらゆる戦術に対して鉄壁の防
御を施した、軍事学上の最高傑作﹂の恐ろしさを実感した。
﹁我ながら、敵を侮りすぎていたようだ。ラスキノ、フラニッツェ、
そしてこの要塞守備隊が私の罠にかかったこと、全てが自分の思い
通りだったことに、慢心していたんだな。まったくもってバカだな
俺は﹂
彼は誰にも気づかれないような小さな声で、そう呟いた。
﹁ユゼフさん⋮⋮?﹂
エミリアが心配そうに、彼の顔を覗き込む。だが、彼はその呟き
1415
とは正反対に、思いの外スッキリした顔をしていた。
そして、思い切り自分の頬を叩いた。
当然、周囲の者はその行動に驚いたが、彼はそんなこともお構い
なしにエミリアに告げる。
﹁殿下、作戦変更です﹂
1416
オルミュッツ要塞攻略作戦 ︲激突︲
俺の当初の作戦では、さっさと要塞を落として戻ってきた要塞守
備隊を撃滅する、という算段だった。兵力が足りないかもしれない
から、伝書鳩なり伝令なりでカルビナに増援要請をすれば、要塞守
備隊を前後より挟撃できただろう。
でも、この作戦は失敗した。残りの守備隊の抵抗が思ったよりも
堅固だったこと、出撃した守備隊が戻ってくることが予想外に早か
ったこと等によって、逆に俺らエミリア師団が挟撃される危険性が
でてきた。
どうやら俺は﹁敵は雑魚﹂という前提で作戦を組んでしまったの
かもしれない。思えば、フレニッツァでも敵の強力な反撃を受けて
しまったし、俺もまだまだだ。とりあえず﹁戦術の先生﹂という称
号は捨てた方が良いかもね。
﹁殿下、作戦変更です。戻ってきた敵部隊を迎撃しましょう﹂
俺がそう提案すると、エミリア殿下は少し不安げな顔をした。
﹁しかし、それでは要塞に背を向けることになります。背後を要塞
残存部隊に襲われる可能性がありますが?﹂
﹁マヤさんの剣兵隊を、攻略ではなく敵の足止めに用います。兵力
が足りないようでしたらもう1個大隊を要塞に残しましょう。それ
くらいいれば恐らくは大丈夫です﹂
﹁それでは、こちらの戦力が減ります。敵部隊9000に対し、我
らは先の会戦で失った戦力と要塞に残す戦力を引くと6000強し
1417
かありません。これでは不利です﹂
エミリア殿下の言う通り、実際数の不利は痛い。
何だっけ、ランチェスターの法則って確か﹁戦闘力は兵員数の2
乗﹂だっけ? それだと彼我の兵力比が9:6だとすると、戦力比
は81:36になる⋮⋮とかなんとか。それが当たっているかどう
かはわからんが、そうでなくても防衛は難しいのは確かだ。
だが、まだ勝ち目はある。
それが、先ほど戻ってきた索敵班からの情報だ。
﹁敵の戻ってくる戦力は1個連隊の騎兵です﹂
﹁⋮⋮それならば、数の差はこちらが有利⋮⋮いやしかしそれでも、
騎兵突撃が怖いですね﹂
さすがエミリア殿下。理解が早い。
こちらの戦力は、およそ6000。その内、索敵行動に出ていな
い第3騎兵連隊の残りが2000で、騎兵に対して絶大な防御力を
誇る槍兵が3000。残りの1000が弓兵や魔術兵、軍医や治癒
魔術師などだ。
騎兵に対しては槍兵、でもこの場に居る槍兵は3000。これで
騎兵3000の突撃を完全に吸収できるかと言えば微妙だ。でも⋮
⋮。
﹁これを撃滅できれば、要塞に残っている敵守備隊の戦意を削ぐこ
とができるでしょう。増援が目の前でやられるのですから﹂
﹁⋮⋮撃滅、ですか。何か手があるのですか?﹂
﹁あります﹂
1418
俺は、思いついた手をエミリア殿下に話す。少し博打な手な気も
したが、成功すれば損害は無視できるほど小さいものとなるだろう。
そしてその提案は、エミリア殿下の承認を得て実行に移された。
−−−
15時20分。
クドラーチェク少将が直接指揮する騎兵連隊は、ついにその視界
にオルミュッツ要塞と敵部隊を視認した。
彼の目には、火の手が上がったオルミュッツ要塞と、そしてその
手前に展開する敵野戦軍4000ないし5000が見えたことだろ
う。彼我の距離は約4000。彼らが乗っていた馬の疲労の限界は
近かったが、敵の防御が薄いことを見抜いたクドラーチェクは、す
ぐさま決断する。
﹁敵は手薄だ、このまま正面突破する! 全騎、突撃ィ!﹂
部下たちは一斉に馬の腹を蹴る。強行進撃を繰り返していたこの
部隊は疲労も溜まっていただろうに、クドラーチェクの適確な統率
によって見事な戦列を組んでいた。その戦列は上空から見れば﹁Λ﹂
の形であり、突撃に最も向いた﹁偃月陣﹂と呼ばれているものであ
る。その﹁Λ﹂の先端に、クドラーチェクが居た。
彼は猛然と敵に突撃し、凄まじい勢いで距離が詰まっていく。そ
して距離が2000まで詰まった頃、敵に動きがあった。
1419
この時エミリアは、旗下の部隊に命令を発した。
﹁弓兵隊、前進せよ!﹂
その命令に従い数百名の弓兵が、槍兵の前に出る。
クドラーチェクは一瞬その動きを訝しんだが、すぐに﹁遠距離攻
撃によって突撃力を弱めようとしている﹂という結論を出した。実
際、それは戦術的には正しい行動である。しかし彼の見た所、弓兵
の数は少なく、実際にその通りだった。これでは投射できる矢の絶
対量が足らず、魔術による支援攻撃を足し合わせても十分に突撃力
を弱めることはできないだろう。
彼はそう判断すると、部下に再度呼びかける。
﹁臆することはない! このまま進め!﹂
クドラーチェクは弓兵の一斉射撃に備えつつ、さらに突撃する。
だが彼が弓兵の攻撃に注意を割いたために、別の方面でも敵が動い
ていたことを彼は見逃してしまった。
彼から見て左翼前方、つまり南西方向から敵の騎兵が突撃してき
たのである。
それはエミリア師団の精鋭部隊、第3騎兵連隊だった。彼らは、
突撃の為に長い縦列となったクドラーチェク騎兵隊の横っ腹を突こ
うと、猛然と駆けていた。
クドラーチェク騎兵隊が第3騎兵連隊の存在に気付いたのは、不
運なことにエミリア師団弓兵隊の有効射程圏内に入った時だった。
﹁放て!﹂
1420
エミリアの号令と共に数百本の矢が飛翔し、急角度で落下する。
それらは第3騎兵連隊の突撃に一瞬怯んだクドラーチェク騎兵隊に
容赦なく矢が降り注いだ。そしてエミリアは間髪入れずに初級及び
中級魔術の斉射を命じた。
その結果、クドラーチェク騎兵隊の突撃力が一瞬弱まる。第3騎
兵連隊の連隊長ミーゼル大佐は、その瞬間を見逃さなかった。
﹁今だ!﹂
彼は短く部下に声を掛けると、さらに馬の速度を上げ、そして敵
の側面に突撃することに成功した。
この時の、速度の乗っている騎兵隊同士の衝突はまさに圧巻だっ
たであろう。爆音にも似た衝撃音は、エミリア師団の各員の鼓膜を
響かせ、友軍であるはずの第3騎兵連隊に対する恐怖をも覚えた。
そしてその恐怖は、第3騎兵連隊に無防備な側面から突かれたク
ドラーチェク騎兵隊の方がずっと大きかっただろう。
彼の部隊は、その一撃によって一瞬にして瓦解した。混乱に陥っ
たクドラーチェク騎兵隊は、エミリア師団歩兵隊の突撃を受け、各
個撃破される。分断され、速度を失った騎兵など最早敵とはならな
い。
エミリアの命令により、容赦ない残敵掃討が行われる。
そして16時丁度。クドラーチェク少将以下、国粋派騎兵300
0がここに全滅した。
またこの壮絶な殲滅戦を、要塞の監視塔から見ていたハルバーチ
ェク大佐以下要塞守備隊およそ1000は、まだ遠くにクドラーチ
ェク師団の生き残りが居たのも拘わらずその戦意を喪失。
1421
その結果、要塞守備隊は降伏の意思をエミリアに告げ、そしてハ
ルバーチェク自身は中央指令室にて自害した。
12月3日、17時のことである。
1422
要塞からの景色
12月4日。
﹃我、オルミュッツ要塞奪取せり﹄
エミリア師団司令官エミリア・シレジア本人から送られたこの通
信文は、伝書鳩によって即日王権派司令部のあるカルビナにもたら
され、そして王権派幹部の腰を盛大に抜かせた。
ある者はこれを﹁国粋派の周到な罠ではないか﹂と疑ったが、総
司令官カレル・ツー・リヒノフは
﹁数で圧倒的に勝る国粋派がそのような小細工をするとは思えぬ。
恐らく、事実だろう﹂
とし、この通信文を信用した。
だだこの時点では、要塞周辺のの各駐屯地が奪還作戦を仕掛ける
可能性もあった。折角奪ったオルミュッツ要塞を手放すことはでき
ないし、なにより共和国中西部へ向かう足掛かりとしてこの要塞の
戦略的な重要性は極めて高い。
恒久的にこの要塞を王権派によって維持できれば、この内戦の趨
勢も変わるはずだ。
カレルはそう判断すると、王権派において最も階級の高いマティ
アス・マサリク共和国軍中将に2個師団を預け、即刻オルミュッツ
要塞へ向かうよう命じた。
1423
一方、国粋派の混乱は王権派のそれより遥かに大きかったことは
疑いようもない。
特に動揺が大きかったのは、クドラーチェクを失った﹁元﹂要塞
守備隊6000である。クドラーチェクは騎兵3000で急ぎ要塞
に戻り、そしてエミリア師団によって殲滅された。司令官を失い、
敵中に孤立しあてもなく彷徨う彼らは、今後どうするべきかを検討
しなくてはならなかった。
だが、彼らが持っている物資の量は心許ない。補給は要塞に依存
していたが、その要塞が制圧されてしまっては補給を受けることは
出来なくなっていた。
今から他の駐屯地に向かうだけの物資もなく、彼らには2つの選
択肢しか残されていない。
戦いを挑み、玉砕するか。
それとも、敵に降伏するか。
残された者たちは喧々諤々の議論を行ったが、容易に結論を見出
せずにいた。
と言うのも、残された部隊の中で最も階級の高かった副司令官バ
ルターク准将が強硬に玉砕を主張したからである。
﹁誇りある共和国の軍人が、敵に降伏するなど許されない! この
上は共和国軍として最後の戦いに挑み、華々しい最期を遂げようで
はないか!﹂
この男は単に要塞守備隊副司令官ではない。彼は生粋の国粋派の
人間で、暫定大統領ハーハ大将に心酔する士官だったのである。
バルタークは副司令官としての職務を全うする間クドラーチェク
1424
の監視もしており、もしもクドラーチェクに裏切りの兆候が見られ
れば、すぐに中央に連絡しクドラーチェク及びその家族を粛清させ
ることがでる立場に居た。
だが、今やクドラーチェクもいない。それどころか戻るべき要塞
もない。この時点ではバルタークら残存部隊は要塞に立て籠もる敵
部隊の総数を知らず、やりようによっては要塞を奪還する可能性も
あることを彼らは知らなかった。
議論は紛糾し、遂には日が落ちた。
結局副司令官バルタークは折れず、明日にでも要塞攻撃を行うこ
とで会議は終了した。
しかし、それは実行されなかった。玉砕を主張していたバルター
クが死んだからである。
いや、正確に表現するのであれば、玉砕を主張していたバルター
クが、降伏を主張していたクドラーチェクの﹁元﹂副官、サムエル・
ネジェラ大尉によって殺害されたからである。
﹁⋮⋮この男の独り善がりの為に、6000人の部下の命を差し出
すわけにはいかない﹂
そして12月5日、国粋派6000名の兵はオルミュッツ要塞に
居座るエミリア師団に降伏、捕虜となった。
フラニッツェ会戦に続く一連の戦いで、王権派は1万人以上の捕
虜を得るに至った。
オルミュッツ要塞に王権派の増援が到着したのは、12月8日の
1425
ことである。
増援部隊の指揮官であるマサリク中将は、要塞が本当に陥落して
いたことと、その要塞に7000人の捕虜が居たことに驚きを隠せ
ないでいた。
だがその一方で、要塞を落とした側のエミリア師団の幹部は割と
謙虚な態度だった。
司令官エミリア・シレジアは
﹁ほとんどユゼフさんの功績によるものですから﹂
と言って自らの功を主張することはなかった。
要塞突入部隊の指揮を執ったマヤ・クラクフスカ大尉も
﹁結局私は何もできなかった⋮⋮﹂
と、ややションボリした顔で言った。
第3騎兵連隊のサラ・マリノフスカ少佐は
﹁そもそも出番がなかったわ﹂
不貞腐れつつ、でもユゼフの作戦が上手くいき要塞を奪取したこ
とを内心喜んでいたようである。
補給参謀ラスドワフ・ノヴァク大尉は
﹁好き勝手物資使いやがって! 少しは﹁節約﹂と言う言葉を覚え
ろよ!﹂
キレた。これは要塞に残されていた物資を接収することができた
ため、それに関わる彼の負担が増大したという嬉しい悲鳴もあるの
1426
だが。
そして要塞奪取の立役者でもある作戦参謀ユゼフ・ワレサ少佐は
﹁この作戦は失敗だった﹂
と言って、自分の功を否定していた。これはエミリア師団の戦死
傷者の数が事前の想定よりも多かったことから﹁もっと犠牲者の少
ないやり方があったのではないか﹂という反省があったからである。
それでも、多くの者は彼を功績第一として評価するだろう。
だが、マヤやユゼフ以上に落ち込む者がいた。
それが、オストマルク帝国からの観戦武官にして情報参謀のよう
な任務を帯びているフィーネ・フォン・リンツである。
−−−
フィーネさんの様子が変だ。
エミリア殿下らが奪取した要塞の様子を見たり、マヤさんが部隊
の再編を行っている間、作戦参謀たる俺はひとつの大作戦を終えた
ばかりということで束の間の休暇が与えられた。
その時に、周辺を一望できる要塞監視塔でちょっと切なげな表情
をするフィーネさんを見かけたのだ。
最初は、オストマルク帝国が建設したこのオルミュッツ要塞に1
1427
17年ぶりにリヴォニア人が足を踏み入れたことに感慨に耽ってい
るのかな? と思ったのだが、
﹁はぁ⋮⋮﹂
と言った感じで先ほどから小さな溜め息の連続、顔も酷い。考え
てみれば、彼女が﹁感慨に耽る﹂っていうのはありえないかも、と
も思った。
いつぞやのクロスノで見た顔に似ているが、まぁそれよりはマシ
な表情をしている⋮⋮と思う。たぶん。いや、女心はどうのこうの
と言うくらいだから、実際はどうなのかは知らない。
これって構ってあげた方がいいのかしら。こういうのって往々に
して﹁構って! 今落ち込んでるから!﹂って意味もあるからなん
か相手してあげたくない。
でも放っておくのもまた面倒なことになりそうだし、とりあえず
サラがエミリア殿下に報告しに行っている間にさっさと終わらせて
おこう。
﹁どうしたんですか、フィーネさん。さっきから﹂
﹁⋮⋮少佐。⋮⋮⋮⋮何もありませんよ﹂
嘘だッ!
こいつは嘘をついている味だぜ! たぶん。
﹁何かあるなら、力になりますよ?﹂
士官が沈鬱な表情をしていると、部下に与える影響が大きいから
な。さっさと笑顔を見せてください。そういう軽い気持ちで聞いて
みたのだが、
1428
﹁力になりたかったのは私の方なのですけどね﹂
﹁えっ?﹂
フィーネさんの表情は更にふさぎ込んだ感じになってしまった。
力になりたかったって、結構力になってくれたと思うんだけど。
﹁私がもたらした共和国軍の情報は役に立たぬ物ばかり。将帥の情
報は名前と隊章がわかるだけ、我が帝国が建設した要塞見取り図も
一部間違っていたこともあって占領が遅れました。結局私は何もで
きませんでした﹂
あー、うん、そうね。それね。気にしすぎじゃないかなぁ⋮⋮ど
うもフィーネさんって完璧主義だよね。リンツ伯爵がその方面では
偉大過ぎるから、影響受けているのかも。
﹁そもそも、これらの情報集めたのはフィーネさんじゃないでしょ
う? なら、これは伯爵の落ち度で⋮⋮﹂
﹁私ですよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁私が⋮⋮いえ正確に言えば、私が指示して情報を集め、纏めたの
がこれです﹂
﹁え、でも、帝国の情報機関の再編があったばかりで情報が少ない
って言ってましたよね?﹂
俺とサラが取っ組み合いの喧嘩︱︱と言っても一方的に殴られた
だけだけど︱︱したあの日の会談で、フィーネさんは確かそんなこ
とを言っていた。情報網の構築がなされているわけではない、と。
﹁そうです。情報網の構築が出来ていない、それに嘘偽りはありま
1429
せん。その結果がこれなのです﹂
と言ってフィーネさんが俺に渡してきたのが、フラニッツェやオ
ルミュッツ要塞攻略の時に俺に見せてくれたあの資料だ。共和国軍
の将帥の情報、要塞の見取り図などなど。
⋮⋮まさか、不十分な情報網でこれをかき集めたってこと?
﹁無論、いくつかの情報に関しては情報機関再編前に既に帝国が握
っていた物はあります。例えば、要塞見取り図は100年以上前の
情報ですね。改築の可能性を見過ごしていた私のミスです﹂
﹁⋮⋮﹂
いや、そうだとしてもこの情報量はすごいぞ⋮⋮? 帝国がいつ
から共和国の情報を集めていたのか知らないけど、これだけの情報
量を一朝一夕で集められるはずがない。
もしかしたら意外と早く、彼女の情報面での手腕はリンツ伯爵を
超えるかもしれない。
敵でなくて良かったと思うし、敵に回したくないなぁ⋮⋮。
﹁はぁ⋮⋮少佐と違って、まだまだですね﹂
しかし、彼女の自己評価は低いままだ。向上心があるのか、それ
とも否定的すぎるのか判断がつきかねる。
﹁⋮⋮⋮⋮まぁ、そういうところは好きですけどね﹂
俺はどう慰めていいのかわからずそんな適当なことを言っただけ
で、あとは彼女の隣に立って暫く要塞監視塔から景色を眺めていた。
思えばフィーネさんがこういう悩みを人前で話すなんて、数ヶ月
1430
前までの彼女なら想像がつかないな。クロスノのアレ以前であれば、
また内部でストレスを貯め込んで終わりだっただろう。
まぁ、俺に話したという時点である程度は解決するんじゃないか
な。悩みは打ち明けた時点で解決するとはよく言うしね。
−−−
一方その監視塔には、別の女性の人影があった。ユゼフやフィー
ネからは死角になる場所で、彼女はただ気配を消し聞き耳を立てて
いた。
その顔は監視塔に立つフィーネ以上に沈鬱の表情を浮かべていた
のは間違いない。だが彼女が何を思ってそこに居たのかを知る者は
いないだろう。ただ1人を除いて、であるが。
そしてその唯一の例外が、いつの間にか彼女の傍に立っていた。
﹁⋮⋮サラさん﹂
名前を呼ばれた彼女は、初めてその存在に気付き、その人物の名
を呼ぶ。
﹁どうしたの、エミリア﹂
エミリアは声を抑え、足音を立てずにさらに近づき、ただ一言だ
け彼女に伝える。
﹁お話をしましょう。少しだけ﹂
1431
サラはそれを受け入れ、ユゼフらに気付かれることなく監視塔か
ら去った。
1432
王国軍第4師団
オルミュッツ要塞陥落の報が、カールスバート共和国首都ソコロ
フにいる暫定大統領エドヴァルト・ハーハ大将の下にもたらされた
のは、12月9日の午前のことである。
その時彼らは、王権派拠点カルビナの制圧した後どのようにして
内戦を終わらせるかの会議を開いていたという。そのため、ハーハ
は怒鳴り散らすのではないかと多くの者は不安であった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だがハーハは、一国を支配する独裁者としては些か拍子抜けする
ような冷静さを持ち合わせていた。
オルミュッツ要塞失陥の情報に対しても、部下たちに特に何か感
想らしいことを言うことはなく、十数分に亘って沈黙を保ち続けて
いたのみである。
それを見ていた一同は、ハーハはこの時にでも冷静さを保ってい
られる人間だと思い、彼の人となりを評価していた。だが彼の目は
怒りに燃えていることは、傍に立っていたハーハの副官が確認して
いる。
﹁⋮⋮閣下、いかがなさいますか?﹂
黙り続けるハーハに、さすがに1人の士官が我慢できずにそう切
り出す。それに対してハーハは怒鳴りもせず、冷徹な目を取戻し軍
の最高司令官として指示を出した。
﹁要塞周辺にある5つの駐屯地の内、4つの駐屯地を放棄。兵力は
1433
シュンペルクに集結させよ。それと、ドゥシェク中将﹂
﹁ハッ﹂
﹁貴官は3個師団を率い、ヴラノフへ向かってほしい。要塞を占拠、
攻略する必要はない。ただ王権派の連中がこれ以上しゃしゃり出な
いよう、圧迫してくれれば十分だ﹂
﹁了解しました﹂
ハーハとしては、それ以上命令の出しようもなかった。
敵がどれほどの規模なの、要塞をどのような手段で奪取したのか
が不明な以上、再奪取作戦など容易にできるものではない。
そのためハーハは要塞から北西にあるシュンペルク駐屯地に残存
兵力を集め、そしてオストマルク帝国との交易が活発だったヴラノ
フを押さえるくらいの命令しか出せなかったのである。
ハーハはその命令を出した後、会議を解散させた。だが部下たち
が退室しても、彼は彼の副官と共に暫く会議室に残った。
そしてさらにその数分後、ハーハは脇に立つ副官に抑えた声で尋
ねた。
﹁彼の国からは、何もないか﹂
その質問をある程度予想していた副官は、ハッキリと答える。
﹁ありません。あの日以降、何も﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ハーハは深い溜め息を吐き、そしてようやく立ち上がった。
1434
−−−
オルミュッツ要塞周辺の国粋派駐屯地が放棄されたらしい。まぁ、
それが目的でこの要塞を落としたんだからそうでないと困る。
その放棄された駐屯地に偵察部隊を派遣してみたが、もぬけの殻
だったようだ。残された物資もすべて焼かれ、兵士どころか治安維
持用の警備の者までいなかったとか。つまり駐屯地近くの村や町で
は治安機構が突然いなくなったことになる。
カレル陛下は王権派の士官複数名を各町に派遣し、治安悪化を防
ぐための自治組織を作らせることにした。それらの自治組織の中心
となるのがオルミュッツ要塞。
というわけで、王権派総司令部はカルビナからオルミュッツ要塞
に移された。カルビナには補給路の安全を確保するための1個師団
が留まり、あとは皆オルミュッツ要塞に移動したのだ。
司令部がココに移ったことで情報伝達、指揮命令のしやすさは確
保されたが、兵力は分散された形になる⋮⋮と思われた。
というのは、フラニッツェ会戦やオルミュッツ要塞攻略戦の時に
捕虜になった国粋派の将兵1万が、国粋派を見限りカレル陛下に忠
誠を誓ったのだ。
捕虜の中で最も階級が高かったトレイバル准将が、カレル陛下と
会談した時の内容を一部紹介しよう。ちなみにその時は俺もシレジ
ア代表として臨席した。
1435
﹁ハーハ大将は確かに実力はある方だ。国を率いる度量と才幹もあ
る。だが⋮⋮﹂
﹁だが?﹂
﹁だが、あの方は負ける! なぜならば、陛下がいらっしゃるから
です!﹂
途端、トレイバルは鼻息を荒くし、そして陛下に対しグイグイ迫
る感じで演説を始めた。
﹁陛下の軍はたった1個師団で我がバレシュ師団を破り、オルミュ
ッツ要塞を落とし、クドラーチェク師団を壊滅させました! 陛下
のお力あってこそ、ハーハ大将が勝てるわけありません! 是非、
私も陛下の覇業のお手伝いをさせてください!﹂
﹁⋮⋮ハーハ大将への忠誠はないのか?﹂
﹁忠誠ですか? ありませんよ! 敗軍の将となる方に対する忠誠
心など不要なだけです! この要塞が落ちたと聞いた時、私は確信
したのです。陛下こそ勝利者たる資格があると!﹂
﹁⋮⋮﹂
その時、陛下が目を丸くしたのを覚えてる。表情や言葉に出した
りはしなかったが、たぶん内心ではドン引きしてただろうな。
﹁陛下、私をどうか臣下に加えてくれませんか!?﹂
﹁⋮⋮それは構わぬが⋮⋮その、貴官の部下はどうなのかね?﹂
﹁大丈夫です。私の部下は国粋派ではなく、単に命令されたから従
っているというだけの者が大多数であり、ハーハに忠誠を誓ってい
る者はございません﹂
﹁そうか⋮⋮。なら、問題はない。貴官の力を余に貸してほしい﹂
﹁御意にございます!﹂
1436
こうして、トレイバル准将以下3000名の共和国軍がこちらに
寝返った。一応彼の指揮下にいた士官、下士官は全員取り調べをし
たが特に怪しいものは居なかったため、すんなりと王権派に組み込
まれた。
些か間の抜けた話ではあるが、たぶんトレイバルは信用できる。
というのも、フラニッツェ会戦時の状況から考えて、彼がスパイ
になる可能性は低い。まさかバレシュを戦死させて7000の国粋
派将兵と引き換えに1人のスパイを最弱勢力である王権派に送る意
味はない。
それに彼は王権派が勝つと予想して国粋派を裏切った。つまり俺
らが勝ち続ければ、彼はずっとこちら側に居る人間となる。
彼は、矜持とかプライドとかそういう物は勝利の前には意味をな
さないと思っているのだろう。そういう人間っていろんな意味で尊
敬できるよ。
でもね准将閣下、要塞落としたの陛下じゃなくて殿下ですから。
無論、トレイバルみたいな奔放な人間だけではなかった。
オルミュッツ要塞守備隊の生き残り、クドラーチェク少将の副官
だったネジェラ大尉がそうだ。
﹁⋮⋮クドラーチェク閣下の御家族を、国粋派から助け出したい。
ですが、私だけの力ではそれは無理なのです﹂
曰く、ネジェラさんはクドラーチェクと仕事だけではなく、個人
的にも家族ぐるみで世話になったそうだ。そのクドラーチェクは国
粋派に家族を人質に捕られ、そしてその政治的な束縛によって最終
1437
的には戦死した。
世話になったクドラーチェクの無念を晴らすためにも、カレル陛
下の下で働かせてほしいとのことだった。
無論、陛下は即決でネジェラを登用した。
それだけでなく、ネジェラと共についてきた6000の兵もカレ
ル陛下に忠誠を誓った。どうやらクドラーチェクは部下から信頼さ
れていたようで、そのクドラーチェクを間接的に亡き者にした国粋
派を許さない、ということらしい。
トレイバルの時と同様調査が行われたがやはりその中に怪しい者
はおらず、その結果クドラーチェク師団の生き残り6000と、要
塞に立て籠もっていた1000の兵合わせて7000が王権派の兵
となったのだ。
捕虜、いや元捕虜で構成されたこの部隊は、多少の入れ替えや補
充があった以外はほぼそのままの編成になり、カールスバート王国
第4師団と命名された。
カレル陛下は、王権派の将官であるレレク准将を少将に昇進させ
第4師団の司令官に、そしてトレイバル准将を副司令官に添えた。
⋮⋮レレク少将、あまり話したことないけど、あの鼻息荒くして
いたトレイバルをちゃんと抑えることができるんだろうか。不安だ。
それはともかく、第4師団に関する諸々の処理が終わったのが1
2月14日。そしてその日、新たなる情報が王権派司令部にもたら
された。
1438
曰く、﹁オストマルク帝国との国境に近いヴラノフ駐屯地に向け、
国粋派3個師団が出動﹂である。
1439
作戦参謀の悩み
12月14日17時15分。
﹁何かあったのかい?﹂
俺が1人要塞内の作戦会議室で唸っていた時、マヤさんがひょっ
こり顔を出してきた。エミリア殿下の姿は見えないので、どうやら
彼女1人だけらしい。
マヤさんは俺の隣に座りつつ、俺の言葉を待っている。まぁ、俺
も他人の意見を聞きたいと思っていたところだから良いのだけど。
﹁ちょっと悩んでるんですよ。3つ程ね﹂
﹁3つか。君はいつも複数のことで悩んでるんだな﹂
まぁね。ここ最近は悩むことが仕事だし、しかもだいたい掛け持
ちしている。
それも国を左右するようなことばっかり。明らかに16歳の仕事
ではない。いやまぁ、本当は16歳と240ヶ月だけどね。
俺は深い溜め息を吐きつつも、相談に乗ってくれるらしいマヤさ
んに3つの悩み事を話してみる。
﹁まずは、先ほど偵察部隊から入ってきた情報についてですね。こ
れはマヤさんもご存知だとは思いますが⋮⋮﹂
﹁あぁ、ヴラノフに国粋派3個師団だろう?﹂
﹁えぇ﹂
1440
オストマルク帝国との国境に近いヴラノフ。国粋派は、王権派が
ヴラノフを奪取してオストマルクと結託するのを防ぎたいから部隊
を動かしたことは間違いない。
ま、王権派は既にシレジアとオストマルクと手を結んでるから無
意味なんだけどね。
﹁これをどうするべきか、と悩んでまして﹂
﹁⋮⋮無視するのか?﹂
﹁どっちもどっち、ですかね﹂
現状、俺らはオストマルクからの補給物資と情報の支援は受けて
いる。だがカルビナとクラクフスキ公爵領を経由している都合上、
情報と物資が来るのが結構遅くなってるのだ。
特に物資の遅滞は堪える。カルビナを経由した場合の物資の到達
時間は4∼5日ほどで、途中事故が起きたりすれば1週間以上かか
ってしまう。そして補給線が伸びれば、輸送途中の物資欠損の確率
が増大し、また輜重兵部隊の護衛にかかる負担が多大なものとなる。
ただでさえ戦力が少ないのに、護衛に兵を吸い取られてしまうとこ
れ以上の攻勢ができなくなる。
クラクフや、王権派統治下にある共和国東部の各農村から徴収す
ると言う手もあるが、それにはやはり金がかかる。物資の現地調達
の基本は現金払いだ。共和国を恒久的に統治する以上、略奪して現
地住民の好感度を下げるわけにはいかない。
でもヴラノフを落とし、オストマルクとの新たな道が拓ければこ
れらの問題は一気に改善される。ヴラノフはオストマルク帝国の帝
都エスターブルクから馬車で2日もかからない場所にあるし、オル
ミュッツ要塞からでも3日以内には着く。
情報も食べ物も新鮮な物が届くのだ。これは大きい。
1441
﹁万々歳じゃないか﹂
﹁万々歳だけなら悩んでませんよ﹂
﹁それもそうだな。何が問題なのだ?﹂
﹁そのヴラノフに3個師団もいる、って言うのが問題なのですよ﹂
王権派の全戦力は4個師団、エミリア師団を含めて5個師団。だ
が、要塞やカルビナの防衛のためにそれぞれ1個師団は配置しなけ
ればならない。そうなるとこちらの戦力は3個師団だ。
3個師団が守る駐屯地を3個師団で攻略、というのは難易度が高
い。よしんばこれに成功しても、ヴラノフを維持できるだけの戦力
もない。
第4師団みたいに、捕虜が陛下に忠誠を誓うということがあれば
話は別だが、そんな不確定要素の高いものを戦略の基幹に据えるわ
けにはいかないしなぁ⋮⋮。
﹁とにもかくにも戦力が足りません。欲を言えば後5個師団くらい
欲しいですね。国粋派との戦力差がありすぎます﹂
﹁それを今更どうこう言ったところでどうしようもないだろう。ま
さか本国政府に増援を求めるわけにはいかないからな﹂
そう。ラスキノと違うのは、これがエミリア殿下の独断というこ
とになっている点である。それに財政難で動けない状況が続くシレ
ジア王国にこれ以上の負担は求められない。
それともエミリア殿下が国王陛下に助力を求めれば⋮⋮いやいや
いや、そはダメでしょどう考えても。
﹁まぁ、これは追々作戦会議で決めると良いだろう。敵もこの要塞
に対して積極攻勢を掛けるつもりもないようだから、時間はたくさ
んあるんじゃないか?﹂
1442
﹁⋮⋮そうですね﹂
時間が解決してくれる、というわけじゃないが、こういうことは
俺1人で決められる話でもないからね⋮⋮。あぁ、でも本当につら
い。戦力欲しい。戦力の多寡は戦術的な選択肢を増やしてくれるっ
てばっちゃが言ってた。
﹁それで、2つ目の悩みっていうのはなんだい?﹂
﹁あぁ、そうですね。まぁこれは悩みというより不安というかなん
というか⋮⋮なんですがね﹂
﹁言ってみろ﹂
﹁⋮⋮リヴォニア貴族連合の動向が気になるんですよ﹂
﹁リヴォニアの⋮⋮?﹂
﹁はい﹂
カールスバートと国境を接しそしてこの国の建国の歴史に、リヴ
ォニア貴族連合も絡んでる。そんな国が今回の内戦に不介入、とい
うのはおかしな話だ。
オストマルクは少数民族の関係があるから積極介入できない、っ
ていうのはフィーネさんから聞いたけど、でも単一民族国家である
リヴォニアはそうじゃない。
﹁リヴォニアは今回の内戦、介入してるのか、してないのか。して
るとしたら、どうやって介入してるのかが気になるんですよ﹂
﹁なるほど。確かにそれはあるな。もしあの国が、シレジアやオス
トマルクの専横を許せないと判断すれば国粋派か共和派を援助する
ことも考えられるか﹂
﹁えぇ。そうなればオストマルクが全面介入できない以上、国力の
差から言って王権派は負けます﹂
﹁王権派が負ければ、我々が介入した意味はなくなる。そしてカー
1443
ルスバートは仮想敵国のままになる、か﹂
﹁そういうことですね﹂
リヴォニア貴族連合が何を考えているのか、という話は全く入っ
てきていないのも気になる。東大陸帝国皇帝派の独断で始まった春
戦争には不介入を貫いてくれたけど、だからと言って彼の国が味方
になったわけじゃない。
もしもリヴォニアが支援するとしたら、どこの勢力だろうか。孤
立無援の共和派か、勝つ見込みがあって、尚且つ東大陸帝国との繋
がりの深い国粋派か。
あるいはどこの勢力にも与さず、第4の勢力を打ち立てて侵略し
てくるのか。これ以上内戦が泥沼になってしまうのは困るな⋮⋮。
マヤさんも同様の推論をしているのか、徐々に眉に皺が寄ってい
る。あまりそれやると皺が残りますよ。もうマヤさんも若くないん
ですから。いやまだマヤさん20代前半だけど。
﹁ユゼフくん。もしリヴォニアが王権派と敵対する勢力に積極的に
支援を開始したら、どうする?﹂
﹁⋮⋮王権派を見捨てます﹂
酷な話だが、実現するかわからないカールスバート第二王政を守
るためにシレジア王国を危険に晒すことはできない。損害が大きく
ならないうちにさっさと撤退するのが吉だ。
いや、あるいはオルミュッツ要塞を国境にしてカールスバートを
分割統治するという手もある。
そうすれば、少なくともシレジア王国はカルビナ方面においては
侵略を気にする必要はなくなるから、コバリに戦力を集められる。
1444
ヴラノフがこちら側の勢力下になればオストマルクとの交易も捗
るし、それだけできれば黒字だろう。
﹁と言っても、これもまだ仮定の段階ですけどね。現状ではリヴォ
ニアが積極介入してきたという話もありませんし﹂
﹁そうだな。これ以上議論を積み重ねても机上の空論にしかならな
いな﹂
とりあえずこの問題も保留、と。
⋮⋮結局マヤさんに相談しても保留の連続で何も解決してないな
ぁ。いや、悩みを打ち明けた時点で結構身軽にはなるからそれは助
かるのだけど。
﹁で、最後の悩みは?﹂
﹁あぁ、そうでした。3つあるって言ったんですよね私﹂
すっかり忘れてた。話終わらせるところだったわ。マヤさんもそ
れがおかしいのか、くつくつと笑っている。
﹁自分の言ったことを忘れるな﹂
﹁すみません。それで最後の悩みなんですけど⋮⋮ちょっと個人的
なものなんです﹂
﹁というと?﹂
﹁あのー、そのー⋮⋮。サラの様子が最近変でして﹂
俺がそう言うと、マヤさんの顔が固まった。たぶん国がどうの戦
略がどうのの話をしていたのに急に話しのレベルが下がったからだ
ろう。
﹁⋮⋮あー、詳しく言ってくれ﹂
1445
﹁はい。と言っても詳しくは俺も知らないんですけどね。俺がサラ
に話しかけようとすると、どこかへ逃げてしまうので⋮⋮嫌われた
のかなって﹂
サラがそういう態度に出るのはこの6年で初めてのことだ。だい
たい殴るか蹴るかだったのに、まさか逃げるとは。逃げるにしても
殴る蹴るをしてからだったし、なんだろう、俺と顔を合わせるのが
嫌になったのかな⋮⋮。
俺がそんな風にしょぼくれていると、マヤさんはポンポンと肩を
叩いた。
﹁ま、そう言うときもあるさ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
そういう慰めはいらないです⋮⋮。
1446
情報戦
12月20日。
王権派幹部たちの数回の作戦会議の結果、シュンペルクとヴラノ
フに対する攻勢は延期された。こちら側の戦力が国粋派に比べてあ
まりにも少ないからだ。
1ヶ月前の、エミリア殿下やフィーネさんの陰口を堂々と言って
いた頃の王権派幹部なら、攻勢作戦を強硬に主張しただろう。
だが俺らシレジアからの派遣軍がフラニッツェでバレシュ少将の
部隊を破り、オルミュッツ要塞を陥落せしめたことで、彼らも少し
は身を弁えるようになったようだ。おかげでこっちの意見を冷静に
聞いてくれるし、理性的な反論もあった。良い傾向である。
だが内憂外患の内憂が除去されても、まだ外患が残っている。
王権派の現有戦力は全5個師団、対して国粋派のそれはヴラノフ
駐屯3個師団、シュンペルク駐屯2個師団と拮抗している。
でも、それはいつまでも拮抗状態のままであるはずがない。今は
共和派勢力による散発的な暴動や蜂起が共和国で起きているため、
国粋派の戦力がそれの鎮圧に吸い取られているからだ。
もし共和派が全滅したら、国粋派の残存戦力16個師団が共和国
東部なだれ込んでくる。さすがにその数を防げるほど戦力に余裕は
ない。
敵に反撃の隙を与えず先手先手を打って勝利を掴み取る。これが
王権派の基本計画で、その結果オルミュッツ要塞を落とすことには
成功した。でも国粋派が要塞周辺に5個師団を集めた時点で、もう
1447
戦術的な手がない。
⋮⋮なら、戦略的、あるいは政治的な攻勢に出るしかない。問題
は、どうやって戦略的優勢を手に入れるかだが⋮⋮。
などということを考えながら要塞内をウロウロしていた時、後ろ
から急に声がした。
﹁ユゼフ少佐。少し、よろしいでしょうか﹂
振り向くと、そこにはフィーネさんがいた。いつの間に背後に回
り込んだのか、ニンジャかな?
にしても最近はよく背後を取られてる気がする。俺が気付いてな
いだけでもしかしたら1日に30回くらい誰かが後ろに居るかもし
れないな。今度転生するときは背中にも目を付けなきゃ。
﹁フィーネさん、どうしました?﹂
﹁情報を持ってきました﹂
﹁早速成果が出たんですか?﹂
﹁そうです﹂
彼女はそう言うと、俺に資料を渡してきた。
これは、俺とフィーネさんが協力して構築したカールスバート共
和国内の情報網の一端である。
内戦が激化するにつれ、オストマルク帝国大使館やグリルパルツ
ァー商会の情報収集活動がやりにくくなっているようで、近頃は情
報が手に入りにくくなっていた。
そこで王権派⋮⋮というよりエミリア師団の、新たな情報調達手
1448
段が必要となったのである。
共和国東部を支配下に置いた王権派は、各地に臨時の治安機構と
して自治組織を築いた。その自治組織を経由して住民との繋がりを
得て、情報収集を図る。
町や村というのは独自のコミュニティを持っている。そしてその
コミュニティは町同士、村同士で繋がっている場合が多い。交易に
よる交流、情報のやり取りでそういう繋がりが自然とできるのは当
然のことで、それを阻止することはできない。
国粋派が共和国中央及び西部を支配下に置いているとしても、そ
ういう独特の情報網というのは完全に把握できないものだ。
まさか辺境の農村でも軍用伝書鳩による情報交換が行われている
とは思いもしなかったよ⋮⋮。
さらに国粋派は、人心を掌握できていない。恐怖政治の弊害と王
権派勢力圏内の統治の良さが合わさり、それは加速度的に悪くなっ
ている。だから、東部の住民は喜んで情報をこちらに提供してくれ
るし、国粋派勢力圏の情報を集めてきてくれる。
そうやって手に入ったのが、今俺の手元にある情報だ。
﹁これを足掛かりに、エミリア王女殿下直属の情報機関を設立する
のが少佐の構想、ということですか?﹂
﹁よくわかりましたね﹂
﹁えぇ。少佐はわかり易い顔をしていますから﹂
⋮⋮俺ってそんな表情に出やすいのかね。思えば次席補佐官時代
もフィーネさんにそのこと指摘された気がする。
実際彼女の言う通り、これはシレジア版CIA設立構想︵勝手に
1449
命名︶の最初の1歩だ。トップは無論、エミリア殿下。
﹁なんなら、無表情の練習に私が付き合ってあげましょうか? 帝
国士官学校直伝の表情の作り方、読み方を教えてあげますが﹂
﹁いえ、結構です﹂
フィーネさんの教育方針がどういうものなのかわからないけど、
失敗するたびになんかネチネチ言うのが容易に想像できたので遠慮
しておく。
一方の彼女は﹁残念﹂と呟くと本当に残念そうな表情をしていた。
何が残念なのかは知らないけど私の精神衛生上フィーネさんとの授
業は⋮⋮いやでも年下の美少女と授業というのはそれはそれで良い
のか?
いや、今はそんな場合じゃないか。そういうのはやることやって
から後でじっくり検討して拒否しておこう。うん。
俺はごまかすように咳を1回した後、そんなことよりも、と前置
きして本題の続きをする。
﹁現在は東部、それもオルミュッツ要塞周辺の自治組織を中心に動
かしています。これを国粋派勢力圏内へと浸透させ協力者を得るた
めに、次の手を打たねばなりません﹂
﹁次の手、ですか。しかし国粋派勢力圏内への人員の派遣は難しい
ですよ?﹂
﹁別にこちら側から派遣する必要はありません。国粋派勢力圏内の
人間が自発的にこちらに協力するようにすればいいのです﹂
﹁⋮⋮具体的には?﹂
﹁そうですね。たとえば王権派が何か戦術的な勝利を得て、そして
共和国全域に情報をばら撒くんです。﹃国粋派、王権派に惨敗。死
1450
傷者多数﹄とかね﹂
﹁なるほど。それによって民衆蜂起を促したり、協力者を得るとい
うことですか﹂
﹁そういうことです﹂
情報網の構築はまだまだ始まったばかり。これからどうにかして
協力者の輪を広げて、首都ソコロフにまで手を伸ばしたい。
ただ、フィーネさんはそれでも少し不安なようだが。
﹁問題は集まってくる情報は玉石混交、しかも軍ではなく民生に関
する情報ばかりということですね﹂
﹁それは仕方ないでしょう。軍事政権下の中、軍中枢の協力者を得
るなどということは容易ならざることですから﹂
最終的な目標としては、首都ソコロフの防衛司令部に諜報員を送
り込むことだけど、でもそれは難易度は高そうだ。
そもそも、防衛司令部に送り込んだ人材がハーハ大将に信頼され
るかが問題だ。あるいは視点を変えて、ハーハに信頼されている人
材をこちら側に寝返れば良いかもしれない。方法は思いつかないが
⋮⋮。
﹁ま、それでも有用な情報はありますけどね。これとか﹂
そう言って俺は、この情報を集めた当本人であるフィーネさんに
それを見せた。
それは12月15日のこと。
オルミュッツ要塞から西北西、首都ソコロフとの中間地点から少
し東に位置しているポルナーと言う名の小さな町でこんな事件が起
きた。
1451
﹁国粋派の軍隊がこの町にやってきて、やや強行な方法で町の倉庫
から食糧を徴発したという情報です。これによって町は食糧難の危
機に⋮⋮は、ならなかったそうですが﹂
俺がそう言うと、フィーネさんが頷いた。
﹁こういう時勢では公営倉庫と国からの徴発を免れる隠し倉庫が別
にあるのが常ですからね、それで備蓄があるのでしょう﹂
﹁俺もそう思います。ですが重要なのはそこではないんですよ﹂
﹁というと?﹂
﹁えーっとですね。この事件から得られる情報は2つあります﹂
フィーネさんが首を傾げた。
ということは、まだフィーネさんは情報の収集と取捨選択しか才
能が目覚めてないのかな。情報を細かく分析する能力ってのがまだ
ないのだろう。
⋮⋮いや、目覚められても困るかも。本当に俺の立つ瀬がなくな
る。
ま、まぁ、将来のこととしておいて。
﹁1つ目は、おそらく共和国全域において国粋派への忠誠が失われ
つつあるということです﹂
﹁なぜそうなるのです?﹂
﹁えーっと、ここですね。﹃物資供出を渋る住民たちに対して、軍
が強行に徴発を実行した﹄という部分です。もしも住民が国粋派に
従っている人間だったら、物資供出を渋ったりはしないでしょう?﹂
﹁確かにそうですが⋮⋮しかし国粋派は武力で住民を抑圧していま
す。多少の不満は出すとは思いますが?﹂
1452
﹁そうだとは思います。ですが、そんな不満をあからさまに軍の前
で出すと思いますか? 少なくとも、軍の前では大人しく従順なフ
リをしておくものですよ。さもないと命に係わりますから﹂
国粋派に従順なフリをしておいて、裏で舌打ちをするのならまだ
わかる。
あるいは国粋派に積極的に協力して﹁持ってけドロボー!﹂状態
であっても不思議ではない。
でも住民たちは一度渋り、そして軍による強行的な徴発を受けて
いる。渋らなければそんな暴力的な事態にはならなかっただろうに。
たが
﹁国粋派からの人心が離れていることの良き事例、ということです
か﹂
﹁そういうことです。ついでに言えば、国粋派の統治にも箍が外れ
かけているということ。ポルナーは共和国中部、国粋派の完全勢力
圏内です。それなのに住民の反抗的な態度がこの小さな町にも表れ
ている。おそらく都市部に行けばもっとひどいことになっていると
思いますよ﹂
もしかしたら、都市部では共和派にも王権派にも属さない、ただ
単に国粋派に反発する勢力が組織されているかもしれない。それを
取り込むことが出来れば、大きな前進だ。
﹁なるほど⋮⋮では、2つ目は?﹂
﹁2つ目は、﹃食糧を徴発﹄してきたことです。これは少し希望的
観測が入っているのですが、国粋派は飢えかけているかもしれませ
ん﹂
﹁⋮⋮国粋派の食糧庫が空で、それを埋めるために徴発したと?﹂
﹁えぇ。理由は恐らく、我々王権派が東部を制圧したせいでしょう﹂
1453
カールスバートの人口は、西に偏っている。つまりそれは東が穀
倉地帯で、西が消費地であるということ。そのカールスバートの食
糧生産地である共和国東部を王権派が制圧したため、食糧供給が滞
ってしまった。
しかも今は12月。収穫がガッツリ減る冬の真っ最中だ。
﹁あるいはもしかしたら、都市部の飢餓が始まっているのかもしれ
ません。平時であれば、東部穀倉地帯から調達したり、外国から輸
入できるのですが⋮⋮﹂
﹁でも東部は王権派が握り、そして国境は国粋派自身の手によって
封鎖されている。外国からの介入を防ぐために﹂
﹁えぇ。なまじ国境を開放して食糧と共に、共和派や王権派を支援
する工作員や他国の軍隊が潜入して来ても、彼らは困るでしょうか
ら﹂
ま、それは俺らがオルミュッツにいる時点で無駄な心配でもある。
でも、国粋派はどうやらシレジアやオストマルクが本格介入してい
ることをまだ知らないようだし。
﹁カールスバート国民が飢え始めれば、自然と国粋派の信用は落ち
ます。それと反比例して、反抗勢力である共和派と王権派の支持は
広がるでしょうね﹂
でも、ここでまた大きな問題が起きる。
今言ったように、これは共和派の勢力を広げることにもなりかね
ない。国粋派が絶滅して共和派が代わりに東部を支配しますでは困
る。王権派からしてみれば頭が変わっただけ、しかも人心を失いに
くいだろう共和派がトップになった分難易度は上がる。
1454
ならどうするか。簡単な話だ。だけど、それで犠牲になるのは⋮
⋮。
﹁少佐?﹂
色々と考えていたら、いつの間にかフィーネさんの顔が目の前に
あった。
どうやら急に黙った俺を心配して顔を覗き込んできたようだ⋮⋮
って、近い近い。息がかかる距離まで近づく必要はないんじゃない
かな!?
﹁なんでもありません。ともかく、この調子で情報収集と、可能で
あれば工作をしましょう﹂
﹁わかりました。ではまた﹂
そう言ってフィーネさんはやや小走りに去っていく。
結局俺は思いついたことを彼女に言えなかった。まぁ、言わなく
て正解だったかもしれない。たぶん、本気で軽蔑されるようなこと
を思いついてしまったから。
共和派を貶めるために、共和派が民衆を虐げるように仕向ける、
なんて。
1455
情報戦︵後書き︶
︻お知らせ︼
アース・スターノベルの公式HP︵http://www.es−
novel.jp/schedule/︶が更新されましたのでお
知らせです。
書籍版﹁大陸英雄戦記﹂のイラストレーターさんは、ニリツさんに
決まりました。
こんな高名な方に描いてもらえる⋮⋮なんだか、申し訳ない気持ち
で一杯です。
これからもどうぞよしなに
1456
戦場の聖日
何の因果かは知らないが、この世界でも12月24日と25日は
宗教的に重要な日である。
大陸の宗教はひとつしかない。大陸帝国の何代目かの皇帝が﹁俺
を神格化させた宗教を広めてやる!﹂と意気込んだのに、ある国家
において単なる土着宗教にすぎなかった宗教に魅せられてしまった。
皇帝は﹁もうこれ国教にしようぜ﹂と言い出し、その結果この単
なる土着宗教が大陸全体の宗教となるわけだ。
この宗教の名前は特にない。今や大陸で信仰されている宗教がひ
とつしかないからだ。まぁ、あえて名前をつけるとしたら、最高神
の名を取って﹁ペルーン教﹂となる⋮⋮が凄い間の抜ける名前であ
る。
最高神、という言葉がある様にこの﹁ペルーン教﹂は多神教だ。
最高神にして雷神ペルーン
あらゆる魔法を使いこなす魔法神バーバ
三つ頭の軍神トリグラフ
イケメン軍神スヴェント
勝利の美人女神マーチ
などなど。
登場神物の数は算出不能。たぶん本気で数えたら800万くらい
いる。だって神以外にも天使とか妖精とか悪魔とか妖怪とか色々い
るんだもの。あと普通に人間も出てくる。なんて自由な宗教だ⋮⋮。
1457
これらの神様他多数が泣いたり笑ったり戦ったりする物語が﹁ペ
ルーン教﹂の経典であり、その経典の最後に最高神﹁ペルーン﹂が
人間に対して﹁お前ら、これ読んで自らの行動を顧みろ﹂と諭して
終わる。だから宗教と言うより神話とか説話みたいな感じだな。
ま、それはともかく。
12月24日と12月25日は、このペルーン教の説話の1つに
関わりがある。
イケメン軍神スヴェントが、醜くも性格の良い女妖怪ジヴァに惚
れてしまった。
そしてスヴェントがジヴァに求婚するも、彼女はそれを固辞。
しかしスヴェント諦めず軍神らしくアタックを続ける。少し強引
な方法でデートに誘ったり、サプライズプレゼントを用意したり、
細かいところに気を遣いなんとかジヴァの心を引きたく見境いなし
にアタックした。
しかしジヴァからは身分の差がどうの、顔面偏差値がどうのと言
われてしまい婚約はやっぱり拒否された。
また、スヴェントの親類縁者がジヴァの容姿や、妖怪という血筋
を問題にして2人の婚約に反対。
さらには見た目老婆な魔法神ババア⋮⋮じゃない、バーバがジヴ
ァに嫉妬し、スヴェントの親類と協力して得意の魔法でジヴァの醜
い心をスヴェントに見せびらかそうとした。
が、この魔法によってジヴァが本当に心が綺麗だったこと、﹁本
当は嬉しいけど、婚約してしまえばこんな醜い女を嫁にしたスヴェ
ントは神様達から笑われるに違いない。それは申し訳ない﹂と思っ
ていることがバレて逆効果だったり。
1458
しこめ
そんな善悪美醜様々な事態を経てようやく最高神ペルーンの仲介
で色男スヴェントと醜女ジヴァの婚約が認められた。
ジヴァの本当に綺麗な心を見た魔法神バーバは改心し、魔法によ
ってジヴァをスヴェント好みの見た目16歳の美少女︵しかも気を
利かせてジヴァが純潔処女であることを魔法で確認したり︶に作り
替えた。
最高神ペルーンも、ジヴァを妖怪から女神に昇格させ、2人の婚
約を祝して12月25日に盛大な結婚披露宴を開いた。
神話に登場する全ての神様他多数を招待した披露宴は新郎新婦含
めて飲めや歌えやの大騒ぎ。当然その騒ぎが1日で収まるはずもな
く、披露宴が終わったのは翌年の12月24日。
1年に亘る結婚式を経て、スヴェントとジヴァはようやく初夜を
迎えることが出来ました⋮⋮というところでこの話は終わっている。
長々と話したが、1行で纏めると﹁顔も心もイケメンな神様が最
終的に顔も心も綺麗な美少女を手に入れました死ねばいいのに﹂と
いう話である。結局イケメンがなんもかんも攫って行くんやなって。
以上のように、12月24日と25日は重要な日だ。なんてった
って神様の結婚記念日と初夜記念日だもんな。
そのためか、この2日間は大陸中で結婚式と子作りが盛んに行わ
れる日として人々に記憶されている。気になるあの子の誕生日から
逆算するともしかしたらこの日に集中するかもしれない。
ちなみに、この説話における最高神ペルーンの教訓は﹁結婚式は
短めに終わらせた方が新郎新婦の為になる﹂である。教訓にすべき
1459
なのはどう考えてもそこじゃない。
−−−
﹁というわけで、今日と明日はお休みです﹂
﹁⋮⋮どうしたんですか急に﹂
12月24日。
エミリア師団の士官全員に、エミリア殿下から緊急招集が掛けら
れたのはその日の午前9時のこと。敵襲があったのか、と思って急
いで集合場所の作戦会議室に駆け付けたのだが、到着早々そんなこ
とを言われたのだ。
﹁別に急というわけではありませんよ。本来であれば、12月24
日、あるいは25日は休日ですから﹂
﹁いや、まぁ、そうですけど⋮⋮﹂
エミリア殿下の言う通り、本来はこの2日間は休日である。軍隊
においても、下士官以下の下級兵士たちは両日、あるいはどちらか
片方を休める。
が、准尉以上の士官の場合、かかる責任と仕事の量を加味すると
この2日で休めるのは相当優秀な人間に限られる。ましてや今は戦
場、休日が貰えるなんて発想はなかったが⋮⋮。
他の面々も似たようなことを考えたのか、皆首を傾げている。い
や、事前に聞いていたらしいマヤさんだけは涼しい顔をしていたが。
1460
﹁あぁ、皆さん。あまり深く考えずに。要は下級兵士と同じく、我
が師団とカールスバート王国軍士官が休日を取ることになったので
す。カレル陛下も了承済みです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
休暇、休暇ね。嬉しいけども、この状況下じゃ⋮⋮。
と、思ったが、マヤさんがこれに補足した。
﹁それに部下をキッチリ休ませる必要がある。﹃上司が働いている
のに、自分たちが休んでいるのは気が退ける﹄という考えを持つ者
がいるからな﹂
﹁そういうものですか?﹂
﹁そういうものだよ。本人の前で言うのは多少憚られるが、エミリ
ア殿下がお休みにならないと、私も休むに休めないのでね﹂
なるほど確かに。
エミリア殿下という金髪美少女ロリが頑張って働いてるのに俺が
ソファで寝転がりながらテレビを見られるかと言えば、たぶん無理。
自殺したくなる。
それを防ぐために俺ら士官もこの聖日に休む、か。まぁ理屈はあ
ってるな。
⋮⋮問題は、俺が働いているところを見て罪悪感を覚える奴が果
たしているのだろうか、という点にあるが。ラデックと違ってイケ
メンでもないし、サラみたいに部下からの信頼が厚いわけでもない。
俺が働いても問題ない気がしてきた。
が、そんな事情を知らないエミリア殿下は構わず全員に休暇を与
えた。
1461
﹁マヤの言った通りです。我がシレジア王国軍の士官、及びカール
スバート王国軍士官は24日と25日に休暇を取ります。無論、敵
が攻めてくる可能性があるので交代で、ですが﹂
その後エミリア殿下が誰がどの日に休むかという文書を見せてき
た。それによれば、俺は24日は仕事で25日は全日休み。
殿下は質問があるかを問うてきたが、こちらからは特に質問はな
くそのまま解散となった。
会議室から出た後、さて明日はどうしたものかと考える。とりあ
えず今日は舞い込んできた情報の整理と、もしも敵が攻めてきたと
きのための防衛計画の策定をするとして⋮⋮要塞で休日と言われて
もなぁ。
要塞の近くには小さな農村があるだけで、後は何もない。かと言
って要塞内の娯楽は限られてるし⋮⋮いっそ敵が攻めてきてくれた
方が色々と楽な気がする。
そんな、やや不謹慎なことを考えていたら肩を叩かれた。首だけ
動かしてみると、そこにはサラがいた。
サラは俺の肩に手を置いたまま動かない。俯いて、なぜか顔を赤
くしている。風邪でも引いたのか? いや、でもバカは風邪引かな
いって言うしな⋮⋮。
﹁あ、あの、ユゼフ﹂
﹁どした?﹂
そんなにしどろもどろでどうした。
﹁あ、明日って暇?﹂
1462
﹁暇だけど?﹂
今エミリア殿下から休日貰ったのはサラさんもご存知の通りです
よ?
﹁⋮⋮じゃ、じゃあ、その、あの、で、でで﹂
﹁サラ、落着け。で、なんだ?﹂
俺はとりあえずサラに深呼吸させる。なんか過呼吸で死にそうな
んだけどこの子大丈夫?
デート
﹁明日、私と逢引、しなさい!﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁はい?﹂
1463
戦場の聖日︵後書き︶
︻進捗︼
空母おばさんが⋮⋮ダイソンが⋮⋮
︻追記︼
そう言えばカールスバートの地図を貼るのを忘れてました。
国境線は現チェコ共和国の白地図を使用しています。
<i161646|14420>
緑線:街道
①首都ソコロフ
②カルビナ
③フラニッツェ
④オルミュッツ要塞
⑤コバリ︵シレジア領︶
⑥チェルニロフ
⑦シュンペルク
⑧ヴラノフ
1464
2人きりの
12月25日13時15分。
サラからデートのお誘いがあったので受けてみたら、なぜか彼女
は要塞の外で馬を連れていた。そして脇にはもう一頭馬が用意され
ていて、サラは﹁早く乗りなさい﹂と急かした。
﹁じゃ、行くわよ﹂
﹁⋮⋮どこに?﹂
﹁あそこ﹂
彼女がそう指差したのは要塞から北東の方向にある山だった。
﹁⋮⋮何しに行くの?﹂
﹁決まってるでしょ﹂
彼女はそう言うと、馬に跨りながら、当然と言わんばかりにそれ
を告げる。
﹁偵察よ﹂
久しぶりに乗る馬は少し不安だったが、なんとかうまく操ること
ができた。自転車とか泳ぎ方とか垂直離着陸戦闘機と一緒で、馬も
一度乗ったら忘れないようである。
﹁偵察なら紛らわしい事言わずに正直に言えば良かったのに﹂
1465
﹁⋮⋮仕方ないじゃない。私の休暇、昨日だったから﹂
何がしかたないのかは知らないが、そういうわけで俺とサラの2
人で偵察任務だ。おかしいな。今日は俺休暇のはずなのに⋮⋮。
﹁別に偵察だったら、他にもいるだろ? なんで俺?﹂
﹁どうせユゼフ暇でしょ?﹂
﹁仰る通りで﹂
まぁ、女の子と2人きりで乗馬しながら大自然を駆けるのはある
意味デート⋮⋮でもないか。相手はサラだし、ここら辺の景色は見
慣れちゃったし。
そして要塞から出て数十分後。当初の目標である山の麓に到着し
た。この山︱︱いや、丘と言った方が適切かもしれない︱︱は標高
は高くなく傾斜は緩やかだが、鬱葱とした森が広がっている。その
ため騎兵での侵入は不可能。迂回するか、あるいは降りるしかない。
﹁どうする? 森を迂回するか?﹂
﹁⋮⋮降りる。降りて頂上まで登って、そこから周りの様子を観察
するわ﹂
﹁了解﹂
俺とサラは、適当な木に馬を繋いで山を登る。休日に冬山登山を
することになるとは、つい数時間前までは思いもしなかったことだ。
冬装備で防寒着着用、雪が降ってないし、標高が低いこともあって
そんなに苦ではない。でも早く帰りたい。
﹁⋮⋮ここで良いか﹂
1466
山を半分程登ったところで、突然サラがそんなことを呟いた。頂
上までまだ大分あるし、何が良いの?
﹁ね、ねぇ、ユゼフ﹂
﹁ん?﹂
﹁な、なんか暑いわね?﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
12月25日。つまり真冬。カールスバート共和国はシレジアよ
りはマシだが、それでも寒い。石畳の路面が凍結するくらいには寒
い。
それを暑いって言うなんて、もしかして風邪か? よく見ればサ
ラの顔面が真っ赤だし、熱があるのかも⋮⋮。
そう思い、俺は手袋を外してサラの額に手を当ててみた。
﹁はぅっ!?﹂
﹁あー、動くな。測り辛いだろ﹂
サラが手を振り回して慌てているが殴りかかってくる様子はない。
興奮してさらに赤くなっているようだが。
⋮⋮うーん、周囲の気温が低いせいかすぐに手が冷たくなる。お
かげでサラが本当に熱出てるのか、俺の手が冷たいだけなのかが判
断つかない。
仕方ない。少し恥ずかしいけど直接測るか。
そう思って、今度は俺の額をサラの額に直接当てて調べる。
﹁ちょ⋮⋮ちょっと!?﹂
﹁だから動くなって﹂
1467
額同士をくっつけて体温を測る。少女漫画みたいな話だが、割と
有効な方法だ。自分の体温が正常なら、自分と比較して熱があるか
ないのかを調べられるし、前世でも額で体温を測ることができる体
温計っていうのがあった。
⋮⋮問題は、男女でやると本当に恥ずかしいことだが。でも脇に
手を突っ込むよりはマシな方法だ。
サラは、額をくっつけた直後は抵抗をしていたがその後は顔を真
っ赤にしながらも、特に目立って嫌がるような態度は取っていない。
時々力弱く俺を押し退けようとするだけだ。
鼻がぶつかっている距離なので、息がかかる。サラも恥ずかしい
のか興奮しているのか、少し過呼吸気味になっているのがわかった。
﹁⋮⋮ふむ。ちょっと高いかもしれないけど、問題ない⋮⋮かな?
サラ、調子悪いとかあるか?﹂
﹁な、ない⋮⋮わ﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当よ! 私は冗談嫌い、だから!﹂
そうか、なら大丈夫かな。
体温を測り終えた俺はサラから離れ、先ほどの意味不明な発言を
追及することにした。
﹁でもなんで急に暑いって言ったの? 防寒着の着すぎ?﹂
﹁ち、違うわよ! ちょっと間違えただけ! 寒いって言おうとし
たの!﹂
﹁あ、そうなの。なら納得だ﹂
1468
確かに寒い。気温計がないからわからないけど、多分氷点下にな
るかならないかの気温だと思う。昼間だけど、俺らの上空には覆い
かぶさるように針葉樹林の葉があって、太陽の熱と光を遮断してい
る。このままだと、たぶん本当に風邪ひきそうだ。
﹁サラ、一応偵察は適当なところで済ませて要塞に⋮⋮﹂
戻ろう、と言いかけたところで俺の口は止まってしまった。
なんでって、サラがなぜか上着を脱ぎだしたからだよ。
﹁サラ!? 何やってんの!?﹂
既に彼女は上着を脱ぎ捨て、軽装と言っても良いほどの格好にな
っている。春や秋なら問題ないが、12月にそれはやばいですよ!
﹁え、あの、寒いから、その、脱ごうかと思って﹂
﹁前の文と後ろの文が繋がってないけど!?﹂
寒くて脱ぐ。この時俺の脳裏に思い浮かんだのが﹁天は我々を見
放した﹂という、有名な台詞である。これを今思い出したのは、き
っと気の迷いではないだろう。
﹁サラ、落ち着いて服を着るんだ。そのままだと寒さで発狂して全
裸になって冬山をはしゃぎ回ることになる﹂
﹁は、発狂なんてしないわよ。ただ、その、寒い時は人肌で暖め合
った方が良いって聞いたことあるから!﹂
そう言うサラは顔面真っ赤、所々呂律が回っていないし、なんか
頭と目がぐるぐるしてる。やばいやばい。末期症状だよこれ。
俺の心配をよそにサラは何回目かの脱衣を試みているようで、俺
1469
はその腕を掴んで必死に止めつつ自分の上着をサラの体に掛ける。
このままだと風邪どころか凍死するぞ本当に。
必死の努力が実ったのか、サラは脱ぐのをやめてくれた。よかっ
た。それ脱いだら殆ど下着姿になるからね。うん。
と思ったのも束の間。今度はサラが、俺に突進してきた。予想だ
にしない攻撃に俺は倒れて、後頭部に鈍い痛みが走る。岩があった
らたぶん死んでた。いや、サラなら安全を確保したうえで押し倒し
て⋮⋮押し倒して?
押し倒された!? え、どういう状況!?
﹁サラ、どうした!﹂
﹁ひゃ、ひゃから、ユリアが妹か弟が欲しいって!﹂
落ち着け! ユリアはそんなことを言う子じゃないぞ! たぶん
あの子はサラが居れば他に何もいらないとか本気で思ってる子だぞ!
俺は迫ってくるサラの体を必死に退けようとするが、いかんせん
筋力の差がありすぎる。そりゃそうだね、俺は一介の参謀でサラは
精鋭部隊の隊長さんだもんね。勝てるわけがない。
サラの表情は、逆光のためか窺い知ることはできない。だが首筋
まで赤くなっていることはわかった。
あぁ、なんて光景だろう。いや、ある意味において幸せかもしれ
ない。美少女に押し倒され組み敷かれてなんかむにむにした感触が
俺の体に伝わってくるんだから。相手発狂してるけど。
って、そんなことを考えてる場合じゃない。いくらなんでも意識
1470
外でやっちゃったらまずい。さっさとサラを落ち着かせないと。
でも筋力に勝る相手にどうやって勝てばいいの?
俺が少ない知識から有用になるかもしれない知識を動員しようと
していた時、静かなはずのこの森で俺ら以外の音が聞こえた。
﹁サラ、サラさん﹂
﹁な、なによ! 怖気づいたの!?﹂
﹁違う、落ち着けって。あと殴らないでお願い﹂
ぽかぽかと弱々しく殴ってくるサラの両腕をなんとか掴み、サラ
の耳元で先ほど聞いた音の情報を小声で伝える。
﹁音がした。サラから見て10時の方向。何の音かはわからない﹂
﹁⋮⋮!﹂
途端、サラの顔に正気が戻った。顔も赤くないし、目も真剣だ。
⋮⋮よかった。死ぬかと思った。
サラは、俺を押し倒したままの姿勢で目を瞑ると、集中してその
音の正体を探っている。なるべく音を立てないよう、俺も身ひとつ
動かさずに彼女の言葉を待つ。
﹁⋮⋮人ね。枝を踏む音、話し声もする。たぶん、2人。あとユゼ
フ、10時の方向じゃなくて11時の方向だったわよ。報告は正確
にして﹂
﹁こりゃ失礼﹂
そう謝りつつ、俺は懐から懐中時計を取り出す。正確な時計じゃ
ないけど、だいたいの時間さえわかればいい。
1471
現在時刻は、14時20分。
サラの背後に見える太陽の位置と、オルミュッツ要塞の緯度から
計算すると⋮⋮その人がいるのは西北西の方向。国粋派2個師団が
集結している、シュンペルクがある方向だ。
﹁⋮⋮とりあえず、その﹃人﹄が敵なのか味方なのか、あるいは民
間人なのか。それを見極めよう﹂
﹁そう、ね﹂
そう言うとサラは身なりを整えつつ、万が一に備える。
俺も彼女から防寒着を返してもらってから準備する。サラとの実
力差から見ると足手まといなのは変わらないが、かと言って1対2
で戦わせるわけにはいかないからね。
すると、サラは俺に聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
﹁こんな時に、空気読みなさいよ⋮⋮全くもう⋮⋮﹂
﹁ん? 何が?﹂
﹁な、なんでもないわよ!﹂
サラは対象にばれないよう小さな声で怒鳴りつつ、俺の額を小突
いた。
うん。いつものサラで安心した。
−−−
1472
一方その頃のオルミュッツ要塞では、オストマルク帝国からの観
戦武官でありエミリア師団の情報参謀であるフィーネ・フォン・リ
ンツが、キョロキョロしながら要塞内を歩いていた。
それを不審に思った補給参謀ラスドワフ・ノヴァクが、彼女に話
しかける。
﹁どうしました、リンツ嬢﹂
﹁あ、ノヴァク大尉。あの、その、ユゼフ少佐を見かけませんでし
たか?﹂
フィーネは、ユゼフを捜していた。
理由は、彼女が今日休暇であり、そして同じく今日休暇であるは
ずの彼に会って色々するためである。
﹁ユゼフを? なんかまた新しい情報でも?﹂
﹁え、えぇ、似たようなものです﹂
似たようなもの、という彼女の言葉は嘘ではない。実際、些細な
ものだが新しい情報が手に入り、それをユゼフの元へ届ける、とい
う口実で会おうとしていたのだから。
ラデックの方も特にフィーネの言葉に疑問を持つことはなく、彼
女の質問に素直に答えた。
﹁ふーん⋮⋮。確かユゼフは、マリノフスカ嬢⋮⋮あぁ、いや、マ
リノフスカ少佐殿と一緒に偵察行動に出てるって話だ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁まぁ、驚くよな。少佐2人で偵察なんて、普通はありえないし﹂
1473
ラデックの言う通り、フィーネは確かに驚いた。だが、その驚愕
の種類はラデックの考えていることと少し違っていた。
今日何をするのかを昨日考えていたのに、いざ休日本番となると
彼の姿が見えない。
そして彼の友人であるラデックから告げられたその言葉によって、
フィーネはユゼフに再会してから何度目かの敗北感を味わう羽目に
なったのだ。驚きもするだろう。
そんな事情を知らないラデックは、フィーネに話しかける。
﹁あ、そうだリンツ嬢。帝国からの補給物資の件についてなんだが
⋮⋮﹂
だが、その時には既にフィーネはラデックに背を向けて歩いてい
た。一応は階級も年齢も上であるラデックに対しては無礼な行動だ
ったが、当の本人はそれどころではなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮あの人があんなに肩を落としてるのを見るのは初めてだ
な。ってまさか﹂
と、ここでようやく彼は気付いた。
今日の日付が12月25日。同年代の男性を捜し求める女性の姿。
そして、その男性が別の女性と仕事とはいえ2人きりで外に出たと
聞き、肩を落とす。ラデックは気付いた。
﹁⋮⋮気付かないふりしておこう﹂
なんだか面倒なことになっている。彼はそう思い、何も見てない
ことにした。
1474
大陸暦637年12月25日。
その日付は、フィーネ・フォン・リンツが初めてサラ・マリノフ
スカに対して情報戦で負けた日として、後世の歴史家に語り継がれ
ることに⋮⋮は、当然ながらならなかった。
だが、当の本人たちにとっては、忘れられない日になるのは確か
だろう。
1475
捕虜
貞操の危機を脱した俺は、落ち着きを取り戻したサラと音源に向
かって進む。対象にばれないように、物音を立てず、身を屈めて。
慎重に山を登ってみると、ようやく2人の人間が見えた。対象と
の距離は目測で10メートルほどしかなかった。木や草が生い茂っ
ていたせいで発見が遅れたが、たぶんそれは向こうも同じ。
しかもこちらに背を向けていて気付いていないようだ。
俺とサラは適当な草むらに隠れ、対象の様子を窺う。対象の服装
は、散々見た事があるもの。つまり、カールスバート共和国軍の軍
服だ。
たすき
﹁敵かしら?﹂
﹁たぶんね。襷がないし﹂
国粋派、共和派、そして王権派の各軍は同じ軍服を着ている。で
もそれだと戦場で敵味方の区別がつかない。そのため俺らエミリア
師団が内戦に介入した時に、王権派の連中に識別用に赤く幅のある
襷を作らせておいた。
ただ、数万人分の襷を一気に作ることなんてできなかったため、
全ての兵に襷が行き渡ったのはつい先週のことだが。
それはさておき、目の前にいる2人の共和国軍の軍服を着た2人
の男は襷をしていない。つまり、王権派ではないということ。共和
派がどういう識別方法を取っているか知らないが、まぁ情勢から考
えて九分九厘国粋派、そしてシュンペルク所属と見て間違いないだ
1476
ろう。
問題は、この男達をどうするかだが⋮⋮。
敵の斥候に出くわしたら殺すのが常道だ。もしかすると重要な情
報を握っているかもしれない斥候を、生かして帰らせるわけにはい
かない。
﹁どうする?﹂
﹁そうだね、倒す⋮⋮いや、捕まえよう﹂
﹁捕虜にするってこと?﹂
﹁そういうこと。国粋派が陣を張っているシュンペルクについての
細かな情報が欲しい。ま、2人共連れて帰るのは無理だから、1人
だけ﹂
﹁⋮⋮わかった。ちょっと待って﹂
サラはそう言うと、軍服の下から護身用の、刃渡り15センチほ
どのナイフを取り出した。下手に魔術を使ってしまうと、下手すれ
ば近くに居るかもしれない敵を呼び寄せることになる。それにここ
は森の中で、木が多く剣は使い物にならない。
だから背後からの不意打ちで、かつ近接戦最強のナイフでもって
肉薄できれば、反撃を受ける前に倒すことができるだろう。
﹁ユゼフ。右と左、どっちを捕まえた方が良い?﹂
﹁⋮⋮んー、左かな。さっきから右の男に指示してるし、態度も見
た感じ横柄だ。きっと上官だろう﹂
階級が上がれば、当然持っている情報量も多いはず。尋問方法に
気を付ければ、洗いざらい喋ってくれるかもね。
﹁じゃあ、少しやってくるわね。それまで、ユゼフはそこで隠れて
1477
て﹂
﹁あぁ。気を付けて﹂
頼もしいなぁ⋮⋮。さすが騎兵科次席卒業で、しかも剣兵科首席
のマヤさん相手にも互角に戦える剣術を持っているだけある。
アクアキャノン
でも、1対2だ。万が一ということもあり得る。一応、中級魔術
﹁水砲弾﹂の準備はしておく。
そして俺が魔術詠唱を唱える直前、サラが飛び出した。
背後の草むらから突然現れた謎の人物に対して、敵2人の動きは
違っていた。
左側にいた上官然とした男は咄嗟に腰の剣に手を当て、今まさに
抜こうとしている。一方、右側にいた部下の方は完全に状況を掴め
ず狼狽していた。これでじゃ彼女の敵ではない。
一気に距離を詰めたサラは、右の男の首に思いきりナイフを突き
刺した。頸動脈からは、心臓の鼓動に合わせて赤い鮮血が噴き出し、
そのまま男は倒れた。
サラは首に突き刺したナイフを抜かず、そのまま捕縛すべき左の
男に素早く向き直る。男の方は一瞬で倒れた部下に目もくれず、す
ぐに剣を⋮⋮抜けなかった。
抜こうとした時に、近くにあった木に引っ掛かってしまったのだ。
サラみたいにナイフか短剣を使えば大丈夫だったろうに。
男は剣を抜けないことに若干焦り、そしてそれを見逃すサラでも
ない。
彼女はいつも俺相手にやってる以上の威力を持った拳でもって鳩
尾を思い切り殴り抜き、男を吹っ飛ばした。漫画みたいに男は背後
1478
の木に打ちつけられ、そのまま蹲っている。こりゃたぶん気絶して
るな。
うんうん。その痛みわかるよ。この6年でどれほど俺が鳩尾を鍛
えられたか⋮⋮。いや、そもそも鳩尾は鍛えるもんじゃねーな。
さて、無事魔術詠唱をした甲斐がなくなったな。
﹁大丈夫か?﹂
﹁ふん。こんな雑魚にやられる私じゃないわ﹂
サラさんイケメン。抱いて。
﹁で、どうするの? これ?﹂
﹁ま、ここじゃどうしようもない。拘束して要塞まで持って帰ろう。
話はそれからだ﹂
さてさて、この⋮⋮この⋮⋮誰だろう、このオッサン。せめて名
前聞いてから気絶させればよかったな。階級章を見ると、共和国軍
曹長らしい。
・・・・・・・・
じゃ、曹長さん。ちょっと要塞でお話しましょうか?
−−−
16時50分。
1479
要塞に帰投し、そして捕虜を連れて帰った俺とサラを出迎えたの
はフィーネさんだった。
﹁⋮⋮ユゼフ少佐。その後ろにあるのは?﹂
﹁えーっと、これ?﹂
﹁それです﹂
言うまでもなく、曹長さんのことです。
﹁えーっと、この人が私たちに協力してくれるようなので、ちょっ
とお話をしようかと﹂
﹁はぁ⋮⋮。王国軍の軍紀では、捕虜の拷問は禁じられているはず
ですよね?﹂
﹁えぇ。ですので、平和的に人道的にお話をしますよ﹂
﹁⋮⋮﹂
フィーネさんの目が怖い。やだなぁ、拷問なんてそんな野蛮な真
似するわけないじゃないか。HAHAHAHAHA。
﹁では少佐、私もその拷⋮⋮コホン。尋問に付き合ってもよろしい
ですか? 一応、士官学校情報科で尋問の方法は習いましたので、
役に立つと思いますが﹂
今フィーネさん一瞬﹁拷問﹂って言いかけたよね。オストマルク
帝国の拷問禁止法とはいったい⋮⋮あ、いやでもアレはまだ成立し
てないのかな。半年ほど経つからそろそろ成立しててもおかしくな
いけど。
まぁ、それはさておき。
1480
﹁いえ、フィーネさんは朗報を待っていてください﹂
﹁⋮⋮なぜです?﹂
俺の言葉に、ちょっとフィーネさんが残念そうな、あるいはちょ
っと怒ってる様な顔をした。信頼されていないのか、とか思ってい
るのかね。
別にそういうんじゃないよ。
﹁フィーネさんみたいな綺麗な人に尋問されたら、それはもうご褒
美じゃないですか﹂
そう言うと、彼女は目をぱちくりさせて固まってしまった。
よし、この隙に尋問を済ませるか。そう思って﹁ではまた﹂と軽
く挨拶してサラと共にその場を立ち去る。
捕虜の尋問はやったことはないが、確か王権派の中にそれが得意
な奴がいたはずだ。そいつに任せよう。
﹁サラ、王権派の誰かに連絡して⋮⋮って、どうしたその顔﹂
なぜか彼女は、むすっとした顔をしていた。何? サラも尋問に
参加したかったの?
﹁別に!﹂
サラは、ふんっ、と鼻息を吹かすと、そのまま俺の足を思い切り
踏み抜いて何処かへ行ってしまった。
⋮⋮俺、何かしたっけ?
1481
彼の男
翌12月26日。
捕虜から得た情報を、エミリア殿下とフィーネさんに報告した。
シュンペルク駐屯の国粋派の規模、構成、兵の士気などについて。
え? 拷問? いやいや、拷問なんてしてないよ。
拷問って、痛みから逃げるために適当な嘘を言う人が多いからね。
嘘か本当かを見抜けるだけの技量ないと、最悪偽の情報に踊らされ
て不利になる可能性があるから。
ま、具体的な尋問方法はさておき、エミリア殿下らが一番興味を
持ったのが敵の指揮官に関する情報だった。
﹁シュンペルク駐屯2個師団を指揮するのは⋮⋮共和国軍中将ヘル
ベルト・リーバルです﹂
それを告げた時、2人は驚きを隠せずにいた。当然だ。俺もこれ
を聞いた時は、結構驚いたから。
ヘルベルト・リーバル。
首都ソコロフにおいて共和派をほぼ一掃し、国粋派の土台を盤石
にした男。
特に11月15日のレトナ国立公園の殲滅戦における名声とその
手法は、王権派拠点のカルビナにまで届いていた。
﹁中将ということは、その時の武勲で昇進したということですか﹂
﹁そういうことになりますね﹂
1482
そのリーバル中将は、国粋派においても嫌われているらしい。当
然か。あんな外道な方法じゃね。確かに短期間でかつ効率的に共和
派を一掃した手腕と、その外道方法を躊躇なく実行できる度量は大
したものだが⋮⋮。
﹁まぁ、彼の行ったことの是非はともかく、これで敵情がだいぶ知
ることができました。あとはシュンペルクをどうするかです﹂
﹁攻略すべきです﹂
俺の台詞に食い気味でそう言ったのは、情報担当のフィーネさん
だ。
﹁リーバル中将は、確かに恐ろしい男です。でも、それでも攻略す
べきだと思います﹂
﹁⋮⋮随分と強気ですが、その論拠は?﹂
﹁これです﹂
そう言って、フィーネさんは俺に資料を見せてきた。オストマル
ク帝国が集めた情報ではなく、王権派が元々持っていた情報のよう
だ。
﹁⋮⋮なるほど、確かにこれは重大ですね﹂
﹁でしょう?﹂
フィーネさんは、僅かに笑顔を見せていた。普段あまり笑顔を見
せない人が不意に微笑むとちょっとドキッと来る。思わず﹁惚れて
まうやろー!﹂と叫びたくなるが、まぁ今はそれより。
俺はそのまま資料をエミリア殿下に渡す。すると殿下も納得した
1483
ように頷いた。
﹁リーバル中将は、治安維持が専門ということですか﹂
﹁そう言うことになります﹂
フィーネさんから貰った、ヘルベルト・リーバル中将の情報。
大陸暦617年、共和国軍士官学校憲兵科次席卒業。共和国各駐
屯地の憲兵や法務士官として功績を立て続け、政変直前の631年
末に大佐に昇進。ソコロフ駐屯地警備隊の憲兵隊長になり、さらに
634年に准将に昇進するとともに首都防衛司令部に配属、636
年に少将に昇進し同司令部の司令官となり、そして内戦が勃発し現
在に至ると。
うん、見事に前線指揮官としてのキャリアがない。フィーネさん
は、そこを指摘したのだ。
﹁無論、彼は首都ソコロフにおける共和派との戦闘で多少の武功は
立てています。ということは、市街戦にはそれなりに心得はあるの
でしょう。ですが、数万人が一堂に会する野戦では、おそらく才は
ないと思われます﹂
数万人の部隊を編成し、指揮統率するのは並大抵のことではない
し、勿論一朝一夕で身につくものではない。もしそうならこの世に
士官学校はいらない。
リーバルも、憲兵等の治安維持担当の武官としての能力は高く、
それ故に出世したのだろう。治安維持能力だけで中将にまで昇進し
たというのは相当有能であることには違いない。
でもその代償として、彼は野戦における実戦経験が殆どない。そ
んな彼が率いるのは、要塞陥落と共に各駐屯地から退却した寄せ集
めの4個旅団、即ち2個師団だ。
1484
どう考えても、烏合の衆。シュンペルク攻略の絶好の機会だ。
だがその前に、ひとつの疑問が浮かぶ。最初にそれを口にしたの
は、エミリア殿下だ。
﹁ですが、なぜそんな彼が前線に⋮⋮?﹂
何度も言うが、リーバル中将は前線に立つ男ではない。後方に下
がり治安維持を専門とする将官だ。野戦で2個師団を率いる男では
ないのだ。
﹁レトナ国立公園のことを鑑みると、なにか罠があるのでは⋮⋮﹂
エミリア殿下の不安はもっともだ。不自然な事に関しては﹁何か
あるのではないか﹂と疑うのは当然。さらに悪名高きヘルベルト・
リーバルとくれば尚更だ。
でも、俺はそれとは別の見解がある。
﹁あるいはもしかすると、人材不足なのかもしれません﹂
﹁⋮⋮どういうことです?﹂
﹁確証があるわけではないのですが⋮⋮﹂
現在、この共和国は軍事独裁国家だ。そして独裁者というものは、
古今東西裏切りを気にする生き物でもある。
勝ち続けていれば、あるいは物事が何もかも上手くいっていれば、
部下の信頼は得られる。だがそれが一度負の方向に傾けば、部下か
らの信頼も一気に傾く。
現在、独裁者エドヴァルト・ハーハは共和国東部において王権派
1485
に負けている。負け始めると﹁勝ち馬に乗って生き残る﹂という人
間に見離されることになるのだ。そして残念なことに、世の中は勝
ち馬に乗りたがる奴で大半を占めているのだ。
共和派は既に没落しつつあるが、王権派は勢力を増しつつある。
勝ち馬に乗りたい奴らの、ハーハに対する忠誠心が揺らぎ始める頃
ということ。そしてそれは裏切りを気にするハーハも目敏く勘付く
のでは⋮⋮。
まぁ、仮定に仮定を重ねて、そこから推測しているだけだから当
たっているかはわからん。状況証拠すらない、希望的観測とも言え
るものだ。
だけどその観測を補強する材料を、フィーネさんは持ち合わせて
いた。
﹁少佐の言う通りかもしれません﹂
﹁どういうことです?﹂
﹁国粋派には、まだ多くの将官がいることは確かなのです。少なく
とも2個師団を率いることができ、かつ国粋派でも有能な部類に入
る者は多くいます。恐らくは20名程度は﹂
﹁でもハーハ大将はその20名から選ばず、リーバル中将を前線に
行かせた⋮⋮﹂
﹁えぇ﹂
となると、本当にこれは好機かもしれない。
エミリア殿下もそう判断したのか、毅然とした声で告げる。
﹁王権派幹部との作戦会議を行います。例えリーバル中将とやらが
罠を張っていたとしても、それを張らせる前に動けば問題ありませ
ん。ユゼフさん、すぐに集めてください﹂
1486
﹁わかりました﹂
こうして、シュンペルク攻略に向けて要塞内が少し忙しい雰囲気
に包まれた。
シレジア軍幹部と王権派幹部を集めて作戦会議を開き、情報を共
有する。憎きリーバルを討つとあって、王権派の連中も士気が高ま
りつつあった。
要塞内に駐留する全4個師団が、作戦開始の為の準備を着々と行
った。
だけど、それは結局準備だけに終わってしまった。予期せぬの出
来事が、作戦会議翌日の12月28日14時30分に起きたからだ。
報告に来た部下が、その衝撃の事実を俺らに伝えた。
﹁要塞の北門に、共和国軍中将ヘルベルト・リーバルを名乗る者が
来ています!﹂
1487
彼の情報
なんか最近、変な客が突然来ることが多い気がする。
最初はフィーネさん、次はカレル陛下、そしてトレイバル准将と
続いて、今度はリーバル中将。揃いも揃って変人⋮⋮いや、カレル
陛下はマシかな。反乱軍の首謀者という点を無視すれば。
﹁⋮⋮あれ、本物?﹂
俺は要塞監視塔から単眼鏡を覗きつつ、誰に言うというわけでも
なくそう口にしてしまった。
北門入口付近で立つ男は、自らをヘルベルト・リーバルと名乗っ
たそうだ。⋮⋮偽リーバル中将という可能性がなくはない。でも、
それは隣に立っていたマヤさんが否定した。
﹁いや、王権派幹部連中に何人か彼のことを知っている奴がいた。
曰くあれは本物だそうだ﹂
﹁⋮⋮双子の弟とか、そういうのはいますか?﹂
﹁いたら報告してるさ﹂
﹁ですよね⋮⋮﹂
よく見れば護衛の数も8人と少ない。仮にも2万の将兵を率いる
お方が護衛8人で反抗勢力の拠点に乗り込む意図がわからん。
﹁どうする? ユゼフ君﹂
﹁どうしようもないですよ﹂
決定権は総指揮官、つまりカレル陛下にある。俺にはどうしよう
1488
も⋮⋮。
﹁入れたまえ﹂
﹁⋮⋮陛下!﹂
いつの間にか背後には噂のカレル陛下が。ここにもニンジャの素
質を持つ男がいるとは。
﹁よろしいのですか?﹂
﹁構わぬ。それにこの寒空の下、長時間待たせるわけにもいかぬ。
﹃丁重に﹄おもてなししたまえ﹂
﹁⋮⋮御意﹂
陛下は﹁丁重に﹂という言葉をやたら強調していた。要は招き入
れつつも、十分に警戒しろってことか。
とりあえずカレル陛下の命令があったのだ。彼の男を入れるか。
﹁北門を開け彼らを中に入れましょう。罠の存在に留意しつつ、慎
重に出迎えますよ﹂
−−−
16時丁度。
陛下の御意に従い、リーバル中将らを要塞内に招いた。ただし客
人としてではなく捕虜としてである。武装解除を命じ、そして念入
1489
りに身体チェックをした⋮⋮のだが、士官用の剣を護身用の短剣以
マジシャン
外は何も持っていなかったし、護衛も軽装だった。
もしかしたら護衛は全員チート魔術師で拳一発で要塞を粉砕する
能力が⋮⋮あるわけないか。そんな奴いたらシレジアは今頃滅んで
る。でも一応警戒して護衛は全員一人ずつ独房に監禁し、そしてリ
ーバル中将とも引き離した。
ま、どれもこれもみんな大人しく従ったんだけどね。中将も護衛
も、借りてきた猫のように大人しい。というのは、彼がここにやっ
てきた理由に原因がある。
現在、俺はリーバル中将と相対している。先日サラが捕まえた捕
虜を尋問した時と同じ尋問室で、彼と話し合いをしているのだ。
あ、勿論罠が怖いのとエミリア殿下の代理としてマヤさんも同席
しています。
﹁して、大変高名なお方がなぜここに?﹂
リーバル中将が要塞に来てから、何度目かの質問。それに対して
中将は、やはり何度目かの返答をする。
﹁降伏しにやってまいりました。出来れば、あなた方と共に戦いと
思い参上した次第です﹂
ということらしい。
⋮⋮どうも胡散臭い話だ。当然、こちらとしては罠を疑うわけだ
が、それを感じさせるものをリーバル中将からは感じないのだ。
武器も持たず、さらに部下と引き離しても文句を言わず、殆ど単
身で要塞に乗り込んできた。つまり、彼の生殺与奪は俺らの手にあ
るということ。まぁ捕虜ならそれは当然なのだけど⋮⋮。
1490
﹁なぜ、降伏を?﹂
﹁国粋派に不満を持ったから、ですかね?﹂
いや﹁ですかね?﹂と言われても困るんだけど。嘘なのか本当な
のか判断がしにくいな⋮⋮。
﹁不満とは?﹂
﹁⋮⋮ご存知でしょう?﹂
⋮⋮えっ? 何を?
マヤさんの方を見てみるが、彼女も静かに首を横に振った。マヤ
さんが知らないとなると、恐らくエミリア殿下も知らない事だろう。
どういうことだ?
﹁知りませんか。あぁ、なるほど、そういうことですか。納得しま
した﹂
﹁あなたは何を言っているのですか?﹂
﹁いえ、こちらの話ですよ﹂
そう言ったきり、彼はこの日新しい情報を口にすることはなかっ
た。
−−−
12月30日。
1491
リーバル中将らの尋問︱︱と言うより、会談か︱︱の結果をエミ
リア殿下を始めとしたいつものメンバー5人に報告した。
﹁⋮⋮﹃ご存知でしょう﹄ですか﹂
﹁はい。確かにそう言いました﹂
リーバル中将が降伏してきた理由は﹁不満﹂だという。それを彼
は、俺らが知っていると勘違いしていた。そして俺らが本気で知ら
ないという態度を取ると、勝手に納得して後はダンマリ。しつこい
くらいに言っていた﹁降伏して、ここで働かせろ﹂みたいなことも
言ってこなかった。
1日中彼と相対しても、遂に何も喋らなかった。俺は時間の無駄
と判断し、他の面子と相談しに来たということだ。
﹁他の⋮⋮リーバル中将の護衛から、何か情報は入ったでしょうか
?﹂
エミリア殿下のその質問に答えたのは、俺がリーバル中将と睨め
っこしてる間に護衛を尋問していたらしいフィーネさんだった。
﹁いえ、彼らは何も知らないようです。﹃中将がこの要塞に乗り込
むというから、道中の護衛を頼まれただけだ﹄と⋮⋮﹂
﹁それだけですか?﹂
﹁それだけです、殿下﹂
つまり、全ての事情を知っているのはリーバルだけということか。
﹁にしても、そのリーバルってやつ、随分味方からも嫌われてるの
ね﹂
1492
と、唐突にサラさんからそんな感想が飛び出してきた。
﹁というと?﹂
﹁だって、この要塞に殆ど単身に乗り込むって言ったのに、誰も止
めなかったのよ? その他の護衛の連中も﹃護衛を頼まれただけだ﹄
なんて、自分は関係ないって感じだし﹂
﹁確かに。まぁ、悪名が高いからね、あの人﹂
針の筵だから逃げ出してきました、というのだったらいっそ信じ
ることが出来たかもしれない。
﹁まぁ、リーバル中将とやらの評判や人気はともかくとして、やは
り問題となるのはなぜ彼が要塞に来たかです。ユゼフさん、何かわ
かりますか?﹂
何かわかるか、と言われても当の本人は何も喋らないから想像で
答えるしかない。もし俺が敵の立場だとするならば⋮⋮。
﹁最初は﹃死間﹄だと思っていたのですけどね﹂
ス
﹁死間、ですか? つまり、リーバル中将らが要塞内を混乱させる
目的で来たということですか?﹂
パイ
この﹁死間﹂とは、古典的な罠のひとつだ。文字通り、死んだ間
者。
あえて敵に捕まり、偽の情報を流して混乱させ、その隙に攻勢を
かける。間者が敵に捕まることが前提なので、当然処刑なりなんな
りされる。だから﹁死間﹂と呼ばれるのだ。
﹁ですが、リーバル中将自身がこれを行う理由が分かりませんでし
1493
た。彼の悪名は我々も知っていますから、彼が言う情報なんて早々
信じませんし、現にそうなっています﹂
まぁ、こっちはデメリットがないから犬死にしてくれても問題な
いわけだが。
ではリーバルがこの要塞で死ぬのが目的で﹁リーバルが死んだ!
王権派のロクデナシ!﹂と宣伝し士気を上げ、一気に要塞を攻め
落とす⋮⋮という算段なのかと思ったがやはりそれも違うと思う。
さっきサラが言ったように、彼には人気がない。リーバルが死ん
だところで士気は上がらないだろうし、かえって﹁リーバルが死ん
だんですか!? やったー!﹂ってなってしまえば国粋派の分裂が
早まる可能性もある。
それに大前提として、国粋派は依然総兵力で勝っている。いくら
この要塞が堅固だろうと、王権派と国粋派では兵力差と国力差があ
りすぎ、いずれ長期戦に持ち込まれて敗北する。
死間にしても何にしても、こういう罠は兵力が勝る側は行わない。
普通にやれば勝てるのだから。
﹁⋮⋮となると、サッパリわからんな﹂
マヤさんが顔を顰めつつ頭を抱えてしまった。というか、みんな
似たような顔をしている。ちょっと面白い。
﹁いずれにせよ、こちらは派手に動かない方が良いでしょう。シュ
ンペルクに対する攻勢作戦は延期です﹂
﹁⋮⋮そうですね。罠がないという確証もありませんから﹂
いや、もしかすると、こうやってこちらの動きを受動的にするこ
とが彼らの目的なのか? ならば今部隊を動かして一気に⋮⋮でも、
1494
そうと思わせて積極的に動く俺らを迎撃して来るかもしれない。
あぁ、ダメだ。これじゃババ抜きだ。どっちがジョーカーだかわ
からない。
まぁいい。トランプと違って二者択一と言うわけではない。やれ
ることをやろう。
﹁ラデック﹂
﹁ん? なんだ?﹂
﹁これが罠だとして、こちらの動きを受動的にして大規模な補給線
破壊を行うかもしれない。輜重兵隊の警戒と護衛の強化を頼めない
か?﹂
﹁わかった。王権派の連中と相談しよう﹂
﹁頼むよ。⋮⋮マヤさん﹂
﹁ん? なんだい?﹂
﹁こちらから打って出ることができない以上、敵の動きを見るしか
ありません。索敵を強化しましょう﹂
﹁そうだな。近衛騎兵隊は⋮⋮﹂
﹁決戦兵力として温存したいので、通常の騎兵隊でお願いします﹂
﹁わかった﹂
ラデックは粛々と、マヤさんは剛毅溢れる雰囲気で部屋から退室
する。うん、性格がよく表れてると思うよ。
あとは、やることはあるか⋮⋮あ、そうだ。アイツらだ。
﹁フィーネさん﹂
﹁なんでしょうか。ユゼフ少佐﹂
﹁やってきた中将の護衛8人の尋問を続けてください。中将の行動
に関して知らなくても、シュンペルクや首都の状況だったら彼らも
1495
知っているでしょうし﹂
﹁そうですね。そうしましょう﹂
そう言うとフィーネさんは早々と退室して尋問の準備をするらし
い。そう言えばどんな尋問してるんだろう。まさか拷問⋮⋮。今度
覗いてみようかな、ちょっと興味ある。
なんて考えていた時、サラさんが音を立てずに俺の傍までやって
きて、くいくいと袖を引っ張ってくる。どうしたそんな可愛い仕草
して。
﹁ユゼフ﹂
﹁どうした?﹂
﹁あれ⋮⋮﹂
あれ、と言いながら視線で指し示したのは、この部屋の主である
エミリア殿下⋮⋮のジト目である。
⋮⋮あ、うん、はい。えーっと。やってしまった。またやってし
まった⋮⋮。
﹁ユゼフさん﹂
﹁は、はい。何でしょう殿下﹂
怖い。エミリア殿下の言葉にちょっと怒気が含まれている。
﹁少し私の執務を手伝ってくれますか?﹂
とても綺麗な笑顔と、その笑顔に含まれた微量な怒気を向けられ
て、その言葉を断れるこの要塞にはいないと思う。
﹁喜んで!﹂
1496
いや本当、ごめんなさい。
1497
大晦日の共和国
時計の針を、12月27日の10時までに戻す。
シュンペルク駐屯地は、その時混乱の極みにあった。
﹁おい、見つかったか!?﹂
﹁いや、こっちにはいない。兵舎の方は!?﹂
彼らが捜しているのは、この駐屯地に赴任してきたばかりの司令
官、即ちヘルベルト・リーバル中将である。彼は駐屯地の大多数の
人間に何も言わずに外出し、あろうことか敵の要塞に向かってしま
ったのである。
この時点で、リーバルが要塞に向かったということを知る者はこ
の駐屯地にはほとんどいなかった。30分後、駐屯地入口の警備兵
が昨夜の内に数人の護衛を引き連れて外出していたことを証言し、
混乱に拍車がかかった。
18時20分になり、ようやくリーバルがオルミュッツ要塞に向
け移動したことが判明したのである。
駐屯地に残った国粋派将官4名が緊急の会議を開いたが、それは
会議と言うより怒りと疑念のぶつけ合いだった。
﹁リーバル閣下は何をお考えか!? 無断で、しかも僅かな護衛の
みで要塞に乗り込むとは!﹂
もっとも怒りを顕わにしたのが、副司令官のブラーハ少将だった。
彼は元からこのシュンペルク駐屯地の司令官であり、オルミュッツ
1498
要塞陥落後の各駐屯地の混乱を手際よく収拾した人物でもある。
ブラーハはその功績を認められ中将に昇進され2個師団を率いる
ことを期待した⋮⋮のだが、昇進はなく、中央から派遣された将官
に指揮権を奪われてしまったのである。形だけで言えば、彼は昇進
どころかシュンペルク駐屯地警備隊司令官から副司令官に降格され
てしまったのである。
しかもその派遣された将官が、嫌われ者にして野戦の知識が全く
ないリーバルだったことが、ブラーハ少将の激しい怒りを買った。
そして今回の独断専行である。怒りが爆発するのもやむを得ない
事だろう。
﹁少将閣下、少し落ち着かれてはどうか﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
部下から諌められたブラーハは、表面上は落ち着きを取り戻した。
だがそれはあくまで表面上の物であり、心の中では激しい怒りに燃
えていたことは否めない。それに止めに入った部下というのが、駐
屯地を放棄した敗残の将であることが、さらにブラーハをイラつか
せる結果となった。
﹁ともかく、要塞にいるリーバル閣下をどうお救いするべきか⋮⋮﹂
表面上の冷静さを取り戻したブラーハはそう切り出して、議事を
進めた。この会議は敵中に囚われの身となったリーバルの奪還、こ
れを行うにあたって具体的にどうするかを決めるものである。
だがこのブラーハの発言の直後、先ほどとは違う部下がこれを遮
った。
﹁ちょっと待ってくださいブラーハ殿。リーバル閣下を救出するこ
1499
とは決定事項なのですか!?﹂
﹁違うのか?﹂
ブラーハは﹁何を言っているんだ﹂と言わんばかりの表情でそれ
を言ったが、部下の詰問がそれで終わるはずもなかった。
﹁リーバル閣下は今あの難攻不落の要塞にいるのです。そんなとこ
ろに行くなど、自殺行為ですぞ!﹂
﹁危険は承知している。だが、もしヘルベルト・リーバル中将が行
方不明だと中央が知ったら、どうなることかな?﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
ポーズ
﹁そういうことだ。少なくとも、我々は中央に﹃救出しようとした
が無理だった﹄という姿勢を見せなければならない﹂
ブラーハのこの言葉によって、3人の部下は皆押し黙った。リー
バルの置かれた政治的立場がそうさせたのである。
国粋派はバレシュ少将に続き、またしても中央の意向を気にして
間違った戦略的判断を実行する羽目になってしまった。
こうしてシュンペルク駐屯2個師団は、独断でオルミュッツ要塞
に対する攻勢作戦を行うことになった。部下たちはせめてヴラノフ
駐屯3個師団との連携作戦を望んだが、それはブラーハの﹁リーバ
ル閣下に関する事はシュンペルクだけに留めさせよ﹂という命令に
よって黙殺された。
そして12月30日。
シュンペルク駐屯2個師団は﹁嫌われ者のリーバル﹂の救出のた
めに、戦略的に無意味な出陣をしたのである。
1500
−−−
オルミュッツ要塞北側で索敵行動を行っていた騎兵隊から﹁シュ
ンペルク軍団動く﹂の報が俺の手元に届いたのは、12月31日の
ことである。
﹁⋮⋮シュンペルクだけですか?﹂
エミリア殿下にその情報を報告したところそのような発言が飛び
出した。
確かにどの疑問はもっともである。たった2個師団で難攻不落の
要塞を落とすなんて無茶な話だろう。いや俺ら1個師団で落としち
ゃったけど。
﹁はい。ヴラノフ軍団が動いたという情報は入ってきておりません。
恐らく、あのお方を救出するために軽挙に出たということでしょう。
彼の政治的立場を思えば不思議ではありません﹂
軍人が政治的立場を気にして戦略的判断を誤る。軍事独裁国家な
らではの弊害か。いやまぁ、貴族制国家でも、前線に取り残された
やんごとなきお方を見捨てられずに軽挙妄動に出るってことはある
か。
やっぱりこの世界に必要なのは、患部をバッサリ切り捨てる度量
を持った君主だね。⋮⋮エミリア殿下には、それができるのだろう
か。
⋮⋮いや、今はそれどころじゃないか。
1501
﹁ともかく、2個師団だけが出撃というのは各個撃破の好機です。
すぐに迎撃しましょう﹂
﹁そうですね。王権派の者と相談の上、具体的な迎撃作戦案を⋮⋮﹂
と、エミリア殿下が言いかけた所で、俺はそれを制止させた。殿
下が首を傾げながら﹁どうしました?﹂と聞いてきたのに合わせて、
俺は懐から殿下が求めている作戦案を提示した。
﹁実は、もう作っていたのです﹂
﹁⋮⋮いつの間に?﹂
エミリア殿下が唖然としながら聞いてきた。その表情を見れただ
けで頑張って作った甲斐があります。
﹁シュンペルク2個師団が攻めてきた場合、ヴラノフ3個師団が攻
めてきた場合、シュンペルク・ヴラノフの連合5個師団が攻めてき
た場合を想定して事前に策定しておりました。多少の修正は必要か
と思われますが、これを軸にしていただければ、味方の被害最少で
戦果最大を期待できます﹂
こうして俺の作戦は王権派との会議の結果、ほぼそのまま採用さ
れるに至った。﹁実は要塞陥落時から考えていました﹂と言った時
はちょっと変な目で見られたけど。まぁ、それはいいや。
1502
大晦日の共和国︵後書き︶
物語時間内でクリスマスまでに内戦終わらせる予定でした
1503
年明けは流血と共に
大陸暦638年1月1日。
大陸各地では新年を祝う宴会が催されていた。貴族たちは華やか
な衣装と煌びやかな宝飾品に包まれ、庶民は家族と共に細やかな御
馳走を前にしている。
だが、内戦が未だ終わりを見せないカールスバート共和国におい
てはそうではない。富裕層はその悉くが国外に逃亡し、庶民は町に
響く軍靴の音に恐怖し、縮み上がっていた。
一方その軍靴を踏み鳴らす軍人も不安がっていた。下級兵士たち
には厭戦気分が広がり、高級将校には東部で支配を続ける王権派の
勢力に怯えている。
つまり多くの国民が、新年を祝う余裕すらなかったのである。
特に共和国東部、シュンペルクとオルミュッツ要塞の中間地点に
あるロシュティッツェにおいては、新年を祝う宴会の代わりに戦端
が開かれようとしていた。
シュンペルクから出撃した国粋派2個師団︱︱便宜上シュンペル
ク軍団とする︱︱は街道を南南東に進撃していた時、王権派2個師
団と遭遇した。
2つの軍隊が進んでいたこの街道は、南西と北東方向に広大な森
林が広がっているため大軍を展開させるだけの空間的余裕はない。
特に最初に王権派と国粋派が相見えたロシュティッツェは特に狭く、
そのために大軍を迎撃する地点としては最適であった。故に王権派
が布陣していたのである。
1504
そして11時40分、ついに両軍が衝突する。
後世﹁ロシュティッツェ会戦﹂と称されることになるこの戦いは、
当初独創性の欠片もない平凡な形で始まった。
定石通りに上級魔術の撃ち合いにはじまり、前衛の接触と槍兵に
よる近接戦、剣兵による切り込み、全てが教科書通りに行われた戦
いだった。
それは当然と言えば当然である。同数の兵力が、奇策の入り込む
余地のない地形であるロシュティッツェでぶつかったとあれば、定
石通りの戦いとなるのはむしろ必定と言える。
敢えて言えば、要塞攻略、あるいは軍団司令官たるリーバルの救
出を企図するシュンペルク軍団は攻めの姿勢であった。故に国粋派
が攻め、王権派が守る。
しかし国粋派の動きは鈍重だった。
新年早々家族と共に過ごす余裕もなく出撃を命じられ、しかもそ
の理由が﹁嫌われ者のリーバル﹂の救出となれば、兵の士気は自ず
と低くなる。
そしてさらに、その士気の低さは高級将校においても同じだった。
パフォーマンス
﹁どうせ要塞にいるリーバルを救出するのは不可能。これは中央向
けの政治的な演技だ﹂と割り切っていたため、執拗な攻勢に出るこ
とはしなかった。
国粋派のやる気を感じられない戦いぶりを見た王権派2個師団を
率いるマティアス・マサリク中将は些か混乱していた。
﹁⋮⋮事前にその可能性は聞いていたが、まさか本当にこんなにも
やる気がないとは思わなかった﹂
1505
事前に聞いたという﹁その可能性﹂とは、まさにこの迎撃作戦を
立案したシレジア王国軍の若手士官の推測だった。マサリクは﹁子
供の戯言﹂として当初その予想無視していたが、だが迎撃作戦をあ
らかじめ立案していた事、その作戦案が予想外の出来だったことは
彼を驚愕させた。
そして﹁その可能性﹂とやらも正鵠を射ていたことを考慮すると、
マサリクは﹁子供の戯言﹂という考えを改めざるを得なかった。
﹁じゃ、少しは子供に良いところを見せないとな。さもないと﹃老
害﹄だなんだと言われてしまう﹂
マティアス・マサリク中将はこの歳53歳。世間では老害と風潮
されるほどの歳ではないが、そう呼ばれることを恐れ、彼は遺憾な
くその手腕を振るうことになった。
マサリクはユゼフ立案の迎撃作戦の基幹から外れないよう、変化
した状況に対応して部隊を動かし続けた。
同日14時20分。
消極的な攻勢と積極的な守勢を繰り返し膠着していた戦線に、微
妙な変化が生じた。それはシュンペルク軍団を指揮するブラーハ少
将にもたらされた情報に端を発する。
﹁反乱軍は、我が精鋭なる剣兵隊の攻撃を受け壊乱状態にある模様
です。閣下、ここは一挙に攻勢を仕掛け、敵を殲滅致しましょう﹂
この報を受けたブラーハは、すぐには決断しなかった。
兵の士気が低く積極的攻勢に耐えられる程ではないのではないか
1506
という不安、そして政治的姿勢意外に意味がないこの戦いをこれ以
上続ける意味があるのかという判断が、彼の決断を鈍らせていた。
要塞攻略戦という最も戦術的な困難が待ち受けていることを考慮
すれば、それは彼にとって最良の道であったことは言うまでもない。
彼は一度、混乱し後退する敵に合わせて、自身の軍団も撤退させ
ることを命じようとしていた。
だがそれは、ブラーハに報告をした参謀長によって遮られた。
﹁閣下。もしここで攻勢に出て敵軍を少なからずとも打ち減らすこ
とが出来れば、閣下の悩み事は多少なりとも減じることができると
思います。敵味方の被害がほとんどないまま撤退してから中央に言
い訳するよりも、敵に多大な出血を強いてから撤退し、状況を報告
した方が説得力があります。どうか、追撃の御命令を﹂
参謀長の意見は間違いではない。確かに戦果僅少のまま撤退すれ
ば﹁言い訳の為に戦った﹂と中央に疑われてしまう可能性がある。
だが戦果を挙げればそれを心配する必要もなく、例え疑われたとし
ても武勲と相殺ということで咎めは軽いものとなる。
さらに言えば、もしここでブラーハが武勲を立てつつリーバルを
見捨てれば、中央への言い訳が立つだけでなく念願の中将昇進もな
る可能性だってある。
ブラーハがそう打算の方程式を脳内で組み立て上げると、彼は決
断した。
﹁参謀長の意見を採用、敵を追撃する﹂
こうしてシュンペルク軍団は、王権派2個師団を追撃すべくさら
に南下した。
1507
これを見た王権派のマサリク中将は、勝利の笑みを浮かべたとい
う。
﹁ふん。追撃してきたか。手間が省けていい。当初予定通り、この
まま敵を牽制しつつ街道を南下するぞ!﹂
マサリクは敵剣兵隊の攻撃に合わせて偽装退却を実施した。つま
りブラーハはこの偽装退却に釣られてしまったのである。
もしブラーハがそれを見抜き前進を止めたり、あるいは後退した
場合はすぐさま退却を中止して攻勢に出るつもりだったが、その必
要性はなくなった。
だが、追撃を仕掛けるブラーハ率いるシュンペルク軍団の動きは
慎重だった。
実の所、ブラーハは王権派の壊乱が偽装退却なのではないかとい
うことに半ば気付いていた。そのため彼は罠の存在に留意するよう
部下に命令し、追撃の手が緩くなったのである。
このことに気付いたマサリクは、敵の指揮官が無能な人間ではな
いことを認め、さらに工夫を凝らして退却戦を行うことにした。
後退し、時には攻勢に出て、戦線が膠着したら適度に兵を休ませ
る。そうして一進一退の攻防を続けながら少しづつ、亀のような速
度で南下し続けた。
その結果ロシュティッツェ会戦の緒戦は、国粋派ブラーハの慎重
な追撃戦と王権派マサリクの緻密な退却戦によって、3日間にも亘
る長期戦となったのである。
1508
その長き退却戦に終止符が打たれたのは、1月3日13時20分
のことである。
シュンペルク軍団はその時、王権派によって陥落させられたオル
ミュッツ要塞を視界に収める距離にまで前進していた。
将兵たちの胸に﹁もしかしたら要塞を落とす好機なのではないか﹂
という念が生まれても、それは仕方ない事である。指揮官たるブラ
ーハも一気に攻勢に出て要塞に肉薄すべきなのではないかと考えて
いた。
だがその考えが口に出されることは終ぞなかった。副官からの報
告に、思考が遮られたためである。
﹁こ、後方より敵影! 5時方向、数およそ1万!﹂
﹁何!?﹂
﹁攻撃来ます!﹂
副官のその報告の直後、シュンペルク軍団の後衛部隊に容赦ない
上級魔術攻撃が行われた。ブラーハが振り返って後方を確認すると、
確かにそこには敵軍が布陣していた。
それは、エミリア・シレジア率いるシレジア王国軍1個師団であ
った。
﹁どうして敵の接近を許したのだ!? いや、そもそも森林に挟ま
れているこの街道で、後背に回り込むことなど不可能なはずだ!﹂
苛烈な魔術攻撃を受けながら、ブラーハはそう部下に尋ねた。だ
が部下が状況を全て把握できる全能な神であるはずもなく、ブラー
ハの怒りにも似た問いに答えることはできなかった。
しかし、実のところ答えは簡単である。
1509
こういう戦況になることを予測し、森林を大きく迂回して後背に
回り込んだだけである。無論簡単と言っても、このような戦況にな
ることをほぼ完璧に予測する力と、その戦況を作り出す前線指揮官
の実行力は並大抵のものではない。
それを成し遂げたのは、作戦を組み上げた作戦参謀ユゼフ・ワレ
サ、その作戦を元に部隊を大胆かつ機動的に動かした指揮官エミリ
ア・シレジア、そして何よりも敵にこの作戦を悟られないまま数日
間に亘る退却戦を演じた王権派のマティアス・マサリク中将だった。
どうやって敵を引き摺り込むか、どの地点に敵が来た時に挟撃す
るか、それらを事前の作戦会議によって決め、そして現実が事前の
想定と違う状況となっても動揺せず臨機応変に対応する。彼らはよ
く連携し、そしてシュンペルク軍団を挟み撃ちにすることに成功し
たのである。
エミリア師団の大規模魔術攻勢を確認したマサリクは後退命令か
ら一転、総反撃を命ずる。
﹁敵の混乱に乗じ、一気に敵を殲滅する! 総員突撃せよ!﹂
背後から突然攻撃を受け指揮系統に混乱を来したシュンペルク軍
団が、マサリクの突撃を食い止められるはずがなかった。シュンペ
ルク軍団は混乱状態から一気に壊乱状態に陥る。
一方、シュンペルク軍団の背後を取ることに成功したエミリアは
突撃命令を下さなかった。それによってシュンペルク軍団は苛烈な
攻撃の中に晒されることはなかった。
だからと言って、エミリアがマサリクより優しい、というわけで
1510
はない。むしろ彼女が下した命令は、国粋派にとってはまさに死刑
宣告に相応しいものである。
﹁魔術と弓矢による遠距離攻撃を繰り返し、敵の戦力を削ります。
前衛はマサリク軍団の攻撃から逃げようとする敵のみを確実に葬る
ことだけを考えてください﹂
既に壊乱状態にある敵中に突撃しても、それは混戦となって遠距
離魔術攻撃が出来なくなるだけである。部隊の損耗を出来る限り抑
えたい彼女は、敵味方の被害が大きくなる白兵戦を避け、敵の手が
届かない遠距離攻撃を延々と続けたのである。
そしてマサリク軍団の突撃に怯んだ敵はエミリア師団の魔術攻撃
に身を晒すこととなり、それを掻い潜ることができた者も最終的に
はエミリア師団前衛隊によって串刺しにされる運命にあった。
それでもいくつかの部隊はエミリア師団への突撃を敢行するも、
その悉くをエミリアの適確な指示によって跳ね返されてしまった。
そしてその時ユゼフは、少し唖然とした表情でエミリアの顔を見
ていた。不思議に思ったエミリアが問いただすと、我に返ったユゼ
フは
﹁いえ、前線に立って指揮するエミリア殿下があまりにもお綺麗だ
ったので、惚れてしまいそうになっただけですよ﹂
と冗談じみて言った。確かに前線で指揮を続けるエミリアの態度
は壮麗なるものだったが、それに対してエミリアは冗談で返した。
﹁あら、惚れても私は全然かまいませんよ?﹂
1511
彼女は微笑みつつ敵に向き直ると、すぐに表情を毅然なものとし
て指揮を続けた。
その一連の会話を見ていたマヤが﹁戦場で何をやっているんだか
⋮⋮﹂と困り顔で呟いたのは言うまでもない。
一方エミリアとユゼフが冗談を言い合っている間に生み出した非
情な状況を、いつまでも黙認し続けるブラーハではなかった。彼は
混乱し続ける味方をなんとか落ち着かせ、命令系統の再編を急がせ
た。
だがその動きは、すぐにエミリア師団の作戦参謀ユゼフ・ワレサ
の知ることになる。
﹁⋮⋮んー、フィーネさん。ちょっと良いですか?﹂
﹁何でしょうか、少佐﹂
﹁あそこの、部隊が密集を始めているところ、あの部隊の隊旗わか
りますか?﹂
﹁少し待ってください⋮⋮。えっと、ブラーハ少将の部隊で間違い
ありませんね﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
つまりそれは、敵の指揮官が混乱を収拾し、そして指揮命令系統
と陣形の再編を行っている最中だということである。それを見抜い
たユゼフは、すぐに次の手を打つことにした。
﹁殿下。魔術攻勢を中止し前進しましょう。敵を圧迫します﹂
﹁⋮⋮構いませんが、その意図は?﹂
﹁既に敵は3割近い損害を出していますが、それでも指揮命令系統
の再編を行っている模様です。このまま魔術攻勢を続けても効果が
出ないでしょう。ここは前進して、敵兵に恐怖感を与えてその足並
みを乱して混乱に拍車をかけた方がよろしいかと﹂
1512
そのユゼフの説明を聞いたエミリアは納得し、そして微笑みなが
ら部隊に命令を下す。
﹁師団総員、前進。整然と、そして堂々と﹂
エミリアの命令を受けた師団は、一斉に動き出す。よく訓練され
たらしい統率された師団の動きはまさに圧巻の一言に尽きる。そし
てその威風堂々とした隊列と、静かにやってくる死の予感を感じた
シュンペルク軍団は、収まりかけた混乱をすぐに呼び戻してしまっ
たのである。
ブラーハは、遂に命令系統の完全な再編を行うことはできなかっ
た。
前後から挟撃されたシュンペルク軍団は、最早軍団と呼べるもの
ではなかった。士官のほとんどは職務放棄し狼狽するばかりで、そ
して下級兵の狼狽えようはその数倍にも及ぶ。
同日16時15分。
シュンペルク軍団の損害は1万を超えていた。その内の半数は戦
死し、半数は捕虜となった。
果敢に、そして無駄に命令を飛ばし続けていたブラーハも、遂に
それを実行するだけの体力と精神力を失い、半ば自暴自棄になって
後方のエミリア師団への突撃を命令した。
それは最良と言うよりも、唯一残された生存への希望だったこと
は確かだ。前方の2個師団を突破するよりも、後方の1個師団を突
破する方が楽なはずだ、という単純な計算である。
1513
だが、彼らの生への執着は凄まじかった。エミリア師団は彼らの
突進を正面から受け止めていたが、考えなしに突撃してくるシュン
ペルク軍団は統制の取れた部隊よりも恐ろしい存在だったかもしれ
ない。
﹁⋮⋮ユゼフくん。このままだとまずいんじゃないか?﹂
﹁確かに。マヤさんの言う通りかもしれませんね﹂
死を恐れない兵、というものほど恐ろしい者はない。剣兵科卒業
試験の時、狂乱した敵兵役の教官を相手したマヤはそれをよく知っ
ていた。そしてそれをこの戦場で相手しているのは、本来は敵を殺
すことに慣れていない徴兵された農民たちである。
このままでは、敵兵の気迫に気圧されて隊列が瓦解するかもしれ
ない。ユゼフはそう考えると、エミリアにある提案をした。
﹁殿下。敵の攻撃が集中している地点を開き、脱出路を作ってやり
ましょう﹂
﹁敵をみすみす逃がすのですか?﹂
﹁いえ、サラが逃がしはしないでしょう﹂
ユゼフがその親友の名を口にした時、エミリアはユゼフの外道と
も言える戦法を理解した。
﹁⋮⋮なるほど、そういうことですか﹂
﹁そういうことです﹂
16時40分。
エミリアの命令により、師団はあえて二手に分かれてシュンペル
ク軍団に脱出路を作った。この時シュンペルク軍団は、エミリア師
団とマサリク軍団の攻撃によって7000にまで討ち減らされてお
1514
り、そして統制を完全に失っていた。
そして指揮をするべきブラーハが、真っ先にその脱出路に駆け込
み、下級兵や士官もそれに続いた。3日間続く戦いに辟易した将兵
には、最早交戦の意欲はない。
しかし脱出路の両脇にはエミリア師団が布陣しており、命からが
ら逃げようとするシュンペルク軍団を左右から容赦なく攻撃したの
である。
シュンペルク軍団の下級兵たちは剣を捨て、槍を捨て、ありとあ
らゆる装備をその場に捨ててなんとか生き延びようと必死に逃げた。
そして半数は逃げ延びることに成功したのである。
ようやくこれで帰れる。
ようやく地獄から抜け出せる。
多くの者たちはその希望を持って、シュンペルクに向けひたすら
走った。
だがその希望は、シレジア王国最強の騎兵部隊、近衛師団第3騎
兵連隊の容赦ない追撃によって打ち砕かれることになる。
翌1月4日15時丁度。
王権派の苛烈な殲滅戦から逃がれた者たちがようやく彼らの拠点
に戻ることができた。司令官であるブラーハ少将も我先に逃げたお
かげか奇跡的に生還することが出来た。
12月30日の出撃時には2万を数えたその軍団は、ブラーハ少
1515
将を含め17名まで減っていたという。
1516
彼の理由
1月5日、オルミュッツ要塞。
今回の戦いの影の功労者に、俺は会っていた。でもそのことに言
及すると、彼は素知らぬ顔をした。
﹁さて、なんのことですかな?﹂
﹁御存知のはずでしょう、リーバル閣下﹂
彼はヘルベルト・リーバル。元国粋派の共和国軍中将にして、虜
囚の身。会戦直前に王権派に降伏した謎の男だ。そして⋮⋮
﹁ブラーハ少将を逃がすように俺に助言したのはあなたでしょう、
閣下﹂
俺がそう言うと、リーバルはニヤリと嗤った。その顔は10人中
13人が﹁気持ち悪い﹂と答えるだろうな。余りの3人は聞いても
いないのに勝手に答える奴だ。
それはともかく、先の会戦の結果、シュンペルク軍団のほとんど
が地上から消滅した。と言っても全員が死んだわけではない。さっ
き俺が言ったようにブラーハ少将はシュンペルクに逃げたし、それ
に捕虜もいる。トレイバル准将の時みたいに、王権派に与する奴が
いないかを兼ねて取り調べているが、いくつか気になる情報も得た。
﹁シュンペルク軍団の高級士官は、あなたが王権派に寝返ったこと
をまるで考慮していなかったようです。下級兵が疑っていましたよ﹂
ほとんど単身で敵の要塞に乗り込んだリーバルを救出するために
1517
作戦を実行し、そして全滅。少し出来過ぎている、と感じて捕虜に
問い詰めたらコレである。
普通、将官級の人間が敵の拠点に単身で乗り込んだら、それは亡
命だとか裏切りを意味するだろう。死間をするにしても軍団司令官
自らがそれを行うとも思えない。
でもシュンペルク軍団の将官級の人間は﹁救出しなくちゃ﹂とは
思っていても﹁リーバルが裏切った﹂ということを露ほどにも思っ
ていなかったらしい。下級兵士でさえ気づいたことを、ブラーハ少
将が気付かなかったとは考えづらい。
つまり、色々と不自然なのだ。
リーバルが要塞に来た経緯にしても、そして会戦が開かれた理由
にしても。
それを俺が指摘すると、当の本人は
﹁でしょうな﹂
と、しれっと言い放った。ちょっと腹立つ。結構年上だけど殴り
たい。だが彼はそんな俺の怒気に気付いてるだろうに、白々しく供
述し始めるのだ。
﹁事の始まりは12月25日。何があったか知っているかね?﹂
⋮⋮あの日か。よく覚えてるよ。サラが八甲田山した日だ。うん、
色々と大変だったね。サラが急に熱出したと思ったら脱ぎ始めて押
し倒されて、かと思ったら敵兵が近くに居て捕虜にして⋮⋮、って
なるほどね。
﹁私が、国粋派のナントカっていう曹長を捕虜にした日ですね﹂
1518
すると、リーバルはまたしても気持ち悪い笑顔で頷くのだ。その
顔やめろ。
﹁そう、君達は我が軍⋮⋮いや、国粋派の人間を1人捕虜にした。
それは即日私の下にもたらされてね。﹃帰還しない偵察部隊がいる
ので調べたら当該区域で遺体発見、ただし1人だけ﹄とね。まぁ偵
察行動中に戦死し、あるいは捕虜となるのは珍しい話ではない。だ
がこれが好機だと思ったのだ﹂
﹁好機?﹂
﹁あぁ。降伏する好機だ﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁簡単だ。捕虜が出たということは﹃治安維持専門のヘルベルト・
リーバルがシュンペルクにいる。だから攻めよう﹄と、王権派が思
うのは当然のことだろう?﹂
正解だ。エミリア殿下とフィーネさんの話し合いで、そういう結
論が出た。そしてそれがリーバルも承知していた⋮⋮ということは、
なるほど確かに降伏する好機かもしれない。
リーバルが最初から降伏するつもりでシュンペルクに来たのだと
したら、まずは敵、つまり王権派に﹁リーバルがシュンペルクにい
る﹂と何らかの形で伝えなければならない。
なんてったって﹁外道なリーバル﹂だもの。いきなり要塞に﹁リ
ーバルでーす! 降伏しにきましたー!﹂って来られても信用はで
きない。でも予め何らかの形で情報を伝えられたら﹁もしかしたら
本当に⋮⋮?﹂と思って確認くらいはするだろう。事実、俺らはそ
の情報を下に王権派の中でリーバルを知っている士官を捜し出して
確認させた。
1519
そして彼が言った﹁治安維持専門の﹂云々のくだりも重要か。さ
っさと降伏しないとシュンペルクが戦場となり、彼は指揮をしなけ
ればならない。大規模会戦中に降伏するなんて、危険性が高すぎる
し、当然罠だと思われて信用されない。
だから捕虜が出た時が﹁好機﹂ということになる。もしかしたら、
捕虜が出るように偵察行動を強化していたかもしれないね。恐ろし
い。
﹁では、将官級の人間があなたの裏切りを予想しなかった理由はな
んです? だいたい想像がつきますが﹂
﹁ほう? どんな想像をしたのか気になるね﹂
﹁別に大した想像ではありませんよ。シュンペルク着任当初からこ
れを狙っていたのなら、方法は限られますからね﹂
つまり自分が生粋の国粋派の人間であり、ハーハに心酔する将官
だという認識を手っ取り早く植え付けさせる方法。そんなの簡単だ。
﹁少しでも王権派や共和派に同情的、あるいは妥協的な考えを持つ
人間を非国民だとして首を刎ねた。そんなところでしょう?﹂
﹁御名答。君とは仲良くなれそうだね﹂
するとまた例の笑顔をするリーバル。私はあなたと親しくなろう
だのとは思ってませんよ。もっと美女になってから出直してきてく
ださい。いや性転換手術とかはしなくていいけど。
﹁12月の23日だったかな。あの日の作戦会議の議場で、果敢に
も王権派との妥協を提案する士官がいてね。確か大尉で、その階級
の割に若い士官だ。優秀だったのだろう﹂
﹁そしてその場で大尉の首を刎ねたと?﹂
1520
﹁ふふ、流石だね。君もあの会議に参加していたのかな?﹂
だろうと思ったよ。その方が色々効果的だからね。
王権派に同情的な士官の首を即行刎ねる。このことによって自分
が生粋の国粋派であることを高級士官の間に周知させることができ
る。それと同時に、彼は﹁嫌われ者のリーバル﹂という称号を得る
ことになるのだ。
高級士官から下級兵に至るまで嫌われた軍団司令官。当然、その
士気は下がる。士気が下がった軍隊というのは案外もろい。
そのリーバルが敵の要塞に乗り込み捕虜となり、そして彼を救出
するために軍団を動かした。士気が著しく下がった軍団が政治的立
場を気にして﹁嫌われ者のリーバル﹂を救う。彼が生粋の国粋派で
あるという先入観から﹁裏切るはずがない﹂と思い込み、政治的立
場を気にして出撃する。結果は知っての通り、というわけだ。
外道な男だが、計算高い男でもあるようだ。王権派も国粋派も彼
の掌の上だったのだから。
﹁シュンペルク軍団2万人の将兵は、信頼の証としてカレル陛下に
献上した次第。信用していただけたかな?﹂
﹁⋮⋮﹂
できるわけないんだよなぁ⋮⋮。
いやまぁ、そこまでした何か罠を張ろうとする意味がないことは
わかるのだ。それに先ほどからこっちの質問に対してベラベラ喋っ
ているのも、たぶん自分が信頼に値する人間だということの証明行
為なのだろう。
﹁まだ、答えていない質問が残っていますよ。閣下﹂
1521
﹁? なにかあったかな?﹂
﹁会戦前、私はあなたに聞きました。﹃なぜ降伏したのか﹄と﹂
﹁あぁ、それか。なるほどね﹂
そういうと、彼はその理由を喋り出した。。包み隠さず、そして
恐らくは真実を。エドヴァルト・ハーハの腹心だったからこそ知り
得た情報と、謀略家としての彼の推測を交えた言葉。確かにそれは
筋が通っていたし、納得がいったものだ。
だがそれよりも、ヘルベルト・リーバルが放った言葉は俺に大き
な衝撃をもたらしたのだ。
﹁この内戦、貴国の、シレジア王国の宰相たるカロル・シレジアが
仕組んだものだと言ったら、君はどうする?﹂
1522
彼の理由︵後書き︶
海風ちゃんゲットだぜ
1523
他国の意思
1月6日。
昨日のリーバル中将から聞いた話を、フィーネさんに明かした。
﹁カロル大公、ですか﹂
﹁えぇ。彼はそう言っていますが⋮⋮﹂
だがそれは推測らしい。リーバルも確証があったわけでもなく、
だからこそ﹁どうする?﹂と俺に聞いてきたのだ。
推測と言うのも、結構あやふやだ。
まずこの内戦のきっかけとなった大統領府炎上事件。エドヴァル
ト・ハーハの暗殺を企図したのは明らかだが、リーバルによれば﹁
犯人は不明﹂らしい。そして状況から考えて、共和国内の各勢力の
いずれかの犯行とは考えづらい点があるのだという。
国粋派の犯行だとすれば、あまりにもやり方が雑だ。なんてたっ
て、大統領自身が本当に死にかけているのだから。事実彼は軽傷だ
が火傷を負っている。地下室があったから助かったものの、もし本
当に国粋派が自演をしたければ、わざわざ大統領を殺しかけない時
期や方法を選ぶだろうか。
それにもうひとつ、この大統領府炎上事件で共和派に対する弾圧
を強化したが、共和派はそれをされる前に首都で一斉に蜂起し、リ
ーバルがそれを鎮圧するまで国粋派は共和派に負けっぱなしだった。
もっと確実に、効率的に共和派を殲滅できる時機に自演すればいい
のに、いざ事件が起きたら共和派に良いようにやられているのは不
自然だ。
1524
共和派の犯行だとするのも変。事件当初、大統領府には多くの職
員が詰めており、火災発生後多くの死傷者を出している。共和派の
掲げる主義主張を考えると、無関係の人間を大量虐殺するような手
段を使うだろうか。それに大統領府は共和派にとっても象徴的な建
造物、簡単に放火するとも思えない。
そして王権派もあり得ない。王権派のトップであるカレル陛下が
クラクフに来たのは11月1日、大統領府炎上事件は10月27日。
シレジアに支援を求めたのが事件が起きた後なのだ。
もし王権派が手段を選ばず共和国の実権を握りたいのならば、シ
レジア王国に支援を求めて、その後に時機を読んで大統領府を燃や
せばいい。そうすれば、二大勢力たる国粋派や共和派が混乱してい
るうちに電撃的に王権派が要所を押さえることも出来たはずだ。
﹁つまりあの事件の犯人は国粋派でも、共和派でも、ましてや王権
派でもない。おそらくは他国の策謀である、と。リーバル中将はシ
レジア王国の介入を疑ったみたいです。確かにどの国内勢力でもな
いとすれば、国外を疑うのは当然です﹂
あるいは誰かが突発的にやったこと、というのも考えたけど可能
性としてはそれほど高くない。仮にもハーハが演説中の大統領府に
怪しまれずに侵入し油を撒いて火を着けることができる実行力とそ
の組織力は、生半可な勢力ではできないだろうし。
同様の見解に辿りついたフィーネさんも、深く頷いた。
﹁なるほど。そして要塞で少佐らに会う、あるいは事前にシレジア
王国が介入していたことを知って、事件の犯人をシレジア王国だと
予想したということですか﹂
﹁そう言うことです。加えて言うのであれば、シレジア王国はハー
ハ大統領に戦争を吹っかけられた過去がありますからね。暗殺する
1525
理由としては十分でしょう。例の﹃ご存知でしょう﹄は﹃君達が火
を着けたのだから知ってるだろう﹄ということだったのです﹂
﹁そして介入してきたのが王女派であるのを知って、カロル大公が
真犯人だと確信したと?﹂
﹁おそらくは﹂
やっとこさリーバル中将の行動原理が読めてきた。最初からそれ
を言え、と言いたくなる。まぁ言ったところで信用はしなかっただ
ろうけどね。
﹁降伏してきた理由については、何かおっしゃっていましたか?﹂
﹁いえ、それは話しませんでした。でも何回か言葉を交わしている
うちにわかりましたよ。どうやら彼は、生粋の国粋主義者のようで
すね﹂
﹁と言うと?﹂
﹁彼が望んでいるのは多くの国粋派の人間と同じ、強いカールスバ
ートの復活。そしてハーハ大統領にそれを実現するだけの力量がな
い。そんなことを、結構遠回しに言っていましたよ﹂
となると、国粋派の勢力を一気に減じさせる要因にもなる話だ。
国粋派を殲滅するのではなく、王権派の方が彼らの利益になると教
えればいい。その上で、カレル陛下をこちらの統制下に置くことが
出来れば⋮⋮。うん、国粋派に妥協した王権派、軍部王朝と言った
ところの完成か。
﹁しかしユゼフ少佐。少佐は、リーバル中将を信用しているのです
か? 罠という可能性もありますが﹂
フィーネさんからそんな質問。彼女の言う通り、あんな詐欺師み
たいな男を信用しろというのは確かに無理がある。
1526
﹁無論、信用していません。しかしだからと言って、彼の言葉を全
て聞かなかったことにすることはできません。もしも彼の言う通り
カロル大公がこの内戦に一枚噛んでいるとしたら、色々腑に落ちる
点があります﹂
﹁⋮⋮それは?﹂
﹁フィーネさんは覚えていますか? 我が王国外務省からエミリア
殿下に届いた書簡の内容を﹂
俺がそう問うと、フィーネさんが少し俯いて考え込む。恐らく彼
女のことだから書簡の内容は覚えているだろう。そしてそれをカロ
ル大公と組み合わせると、ある予測が立つ。
﹁なるほど、エミリア王女を国外に追い出すための口実と言うわけ
ですか﹂
フィーネさんは、俺と同じ結論を見出した。
王国外務省から送られてきた書簡は﹁クラクフスキ公爵領軍事査
閲官の責任において最善と信じる方法で対処すべき﹂である。
カロル大公がシレジア王国内で何か派手なことをしたい場合、国
内にエミリア王女がいると何かと妨害される危険がある。クラクフ
スキ公爵領軍事査閲官として私兵をそれなりに抱えているし、内戦
を回避したいカロル大公にとってエミリア王女は目の上の瘤だ。
マリノフスカ事件、サラに対する冤罪事件が成功していればそん
なことを気にする必要はなかっただろう。だけど、今はまさに身か
ら出た錆となってしまったわけだ。
だからカロル大公が行ったのが、カールスバートに放火すること
だ。もしカールスバートで内戦が起きれば、俺たちはシレジアにと
1527
って有益となる共和国にするために介入するだろうと踏んだ。ある
いは軍務省や外務省辺りに手をまわして﹁介入しろ﹂と命令するつ
もりだったかもしれない。いずれにしても、エミリア殿下は合法的
に、自発的に動かせるだけの私兵と軍を以って国境を越えたのだ。
つまり、現状はカロル大公が﹁何か﹂をするにはとても動きやす
い環境が整ったということになる。それは俺らにとってはまずい状
況に違いない。
﹁カロル大公が何をするのかはわかりませんが、私達を外国に追い
出す為にわざわざこんなことをしたというのであればかなり大規模
なことをやるつもりかもしれませんね﹂
﹁そうですね。考えられるのは、東大陸帝国との接触、あるいはも
っと踏み込んで講和条約の締結とかですか⋮⋮﹂
﹁いや、もっと重大なことかもしれません﹂
まぁもっと重大とか言いながら、俺の考えた事態は規模が縮小さ
れてるのでこの表現は正しくないかもしれない。フィーネさんも首
を傾げているし、もしかしたら大陸全土を巻き込んだ思考をしてい
るかも。
﹁国王の暗殺、とか﹂
俺がそう言うと、フィーネさんは納得したように頷いた。
﹁そしてエミリア王女がカールスバートの地に拘束されているうち
に王冠を戴くわけですか。有力貴族の支持を得ていれば、数が少な
い王女派の妨害は無視できますし﹂
﹁そうです。あるいはエミリア殿下に戦死してくれれば、とも思っ
ているかもしれませんね﹂
1528
王女の影響力や意思が国外に向いていれば、気付いたら王国が大
ぎょうこう
公のものになっていたという事態になっているかもしれない。とな
ると、早い段階でカロル大公の策謀に気付けたのは僥倖だ。
だが問題は、これが真実かどうかだ。
﹁これはリーバル中将の推測に、我々がさらに仮説を立てたもの。
証拠はありません﹂
物的証拠は何もなし。状況証拠も怪しい。そもそもの仮定がリー
バルが提出したものだからね。そもそもの大統領府炎上事件が、カ
ロル大公の策謀によるものという証拠はないのだから。
﹁しかしやることは変わらないと思いますよ、少佐﹂
﹁⋮⋮そうですね。この内戦を如何に早く終わらせるかです﹂
最悪、エミリア師団を退かせるのも手だ。要塞があるし、国粋派
の戦力もだいぶ削れたはずだ。暫くは拮抗するだろう。このまま内
戦状態を維持するだけでもカールスバートの脅威は減るというもの
だ。
でも、今はまだ良い。とりあえずは王国内の監視を強化するよう、
イリアさんを経由して内務省治安警察局に要請を⋮⋮。
と考えていたとき、フィーネさんがなぜかこちらをジロジロ見て
いた。なんですかそんなに見つめて、顔になんかついてます? そ
れとも間違って俺に惚れたんですかね? あぁ、なぜだろう。なん
か鳩尾あたりが痛くなってきた⋮⋮。
などと俺が鳩尾を押さえていると、フィーネさんの口が開いた。
1529
﹁少佐。質問よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮どうぞ?﹂
﹁なぜ、私にだけこのことを話しているのですか? 話の内容から
して、エミリア王女にも伝えた方が良いと思うのですが﹂
うん、まぁそうだね。実を言えばここまでは前座だ。これから話
すことが本題で、そしてそれがちょっとアレな話なのだ。
﹁あぁ、えーっとそれはですね、ちょっと変なことを考えていまし
て﹂
﹁はい?﹂
﹁なんていうか、その、今からフィーネさんに話そうとしているこ
とがエミリア殿下とかに知られると、ちょっと本気で軽蔑されそう
な内容ですので﹂
﹁⋮⋮私なら問題ないと?﹂
﹁というより、こういう話をすんなり出来るのはフィーネさんくら
いしかいないんですよ﹂
サラに言ったら殴られそう、エミリア殿下やマヤさんに言ったら
白い目で見られそう、ラデックは政戦謀略関係については詳しくな
いから話せない。王権派連中に気兼ねなく話せる人はいない。
でもフィーネさんはあのリンツ伯爵の娘だ。そういうことには耐
性があるだろうし、それに俺はオストマルクでは何回かこういうこ
とやったからね。
そんなことを舌足らずな口で、そして遠回しに説明したら、フィ
ーネさんは納得したか納得してないのかわからないような表情をし
ながら、頬をポリポリと掻いていた。そんな仕草をする彼女を初め
て見たが、まぁいい。
1530
﹁⋮⋮わかりました。とりあえず﹃話そうとしていること﹄とやら
を聞かせてください﹂
﹁はい﹂
そうして、俺は考えていたことをフィーネさんに話した。俺が説
明下手ということもあって10分くらいかかったが、何とか彼女は
理解してくれたと思う。
さらにはフィーネさんは俺の意見にドン引きせず︱︱いやちょっ
と引いてたかも︱︱助言もしてくれた。ありがたい。
そして最後に、良い笑顔でこんなことを言うのだ。
これ
﹁やはりユゼフ少佐は妙なことを考えますね。内戦が終わったらオ
ストマルクに来て、情報省で働きませんか? 今なら適当な地位と
職も用意できると思いますが﹂
⋮⋮これが褒め言葉なのか、ちょっと判断に困った。
1531
密談
1月11日、ヴラノフとシュンペルクが王権派の手によって占領
された。
⋮⋮あ、うん。唐突だったね。まぁ話すと長くなるからサックリ
纏めると、
1月7日、リーバル中将が脱獄。
1月9日、リーバル中将がヴラノフ駐屯3個師団を撤退させる。
1月11日、師団がいなくなったヴラノフと、先のロシュティッ
ツェ会戦で師団が壊滅したシュンペルクを王権派が強奪。
そして俺らは今、その奪取したヴラノフにいるのだ。
うん、これだけだ。何もおかしくはない。
﹁いえ、おかしいですよ少佐﹂
﹁どこがですか。フィーネさんは納得してくれたじゃないですか﹂
﹁納得はしましたが、おかしいとは思います。なんですか﹃脱獄﹄
って﹂
﹁いやー、まさかリーバル中将が脱獄するなんて思いもしなかった
なー﹂
この警備厳重な要塞から脱獄するなんてリーバルすげーなー。
﹁白々しいですよ少佐。﹃脱獄﹄と言ってましたけど、リーバル中
将に﹃あなたをまだ信用できない。信用を得たいのであれば、弁舌
ではなく実績で示せ﹄と言って独房から彼を出したのは、どこのシ
1532
レジア人でしたか?﹂
﹁ごめんなさい﹂
表向きは﹁リーバル中将が策謀を巡らして王権派の士官数名を味
方につけて要塞を脱獄した﹂ということになっている。
スパイ
本当の理由は、先ほどフィーネさんが言ったように﹁工作員とし
て国粋派に潜入させた﹂のである。当然、リーバルは間諜として疑
われるだろうが、その点についてはいいトカゲの尻尾が用意されて
いる。それが、シュンペルク軍団副司令官で軍団を壊滅に追いやっ
たブラーハ少将だ。
ブラーハ少将に全ての罪をなすりつける。ヴラノフ駐屯の国粋派
の部隊は、リーバルがどういう状況にあるのかを知らない。﹁ブラ
ーハ少将が独断専行で部隊を指揮したために軍団が壊滅しリーバル
が捕虜になってしまった﹂とかなんとか。
そしてシュンペルク軍団が壊滅したことにより、ヴラノフ軍団は
突出した形になる。本来であれば、王権派がヴラノフに攻勢に出れ
ばシュンペルク軍団が王権派の後背を扼すはずだったが、それがで
きない。だから後退し戦線を縮小させるよう、ヴラノフ軍団司令官
に具申する。
それらがヴラノフ軍団の司令官に通用するかはリーバルの舌にか
かっていた。
ま、それはどうやら成功したらしい。だから王権派はサックリと
ヴラノフを落とした。それにもし失敗してもリーバルが死ぬだけだ
からこっちとしてはローリスクハイリターンだ。数名の監視もつけ
てたし。
1533
これらの経緯を知っているのは、情報流出を防ぐためにエミリア
師団の信頼できる一部士官とフィーネさん、そして王権派トップの
カレル陛下とマサリク中将だけだ。
ちなみにラデックからは﹁中将をこき使う少佐ってなんなんだ⋮
⋮﹂と呆れられてしまった。確かに変だ。
そして、これから起きることを知っているのはフィーネさんだけ
だ。
﹁それで、当のリーバル中将は?﹂
﹁彼はそのまま国粋派に合流し、敵対勢力を引っ掻き回す手筈にな
っています。具体的な方法は彼に一任していますが﹂
そう言うと、なぜかフィーネさんが黙ってしまった。表情も暗い。
たぶん、これから起きるかもしれないことを想像しているのだろ
う。ヴラノフ奪取の計略までは彼女は賛同していたけど、その後の
ことはちょっと抵抗があるのかもしれない。
﹁少佐、過ぎてしまったことですが⋮⋮その、よろしいのですか?﹂
﹁決めた事です。それに、これが最も効率的な選択だと思います。
このまま力押ししても、内戦が長くなるだけですから﹂
﹁⋮⋮﹂
またしても彼女は沈黙する。俺も何を言えばいいかわからず、妙
な空気がフィーネさんとの間に流れた。
リーバル中将は、危険な男だ。
目的の為にはあらゆる手段を講じる。共和派殲滅のためにかなり
えげつない事をしたし、王権派から信用を勝ち取るために2万の将
兵の生命を簡単に差し出した。
1534
そんな男を自由にし、そして王権派勝利のために働かせる。いっ
たいどんなことをするのだろうか、と不安になるのは当然だ。監視
を付けているとはいえ、土壇場で裏切る可能性が全くないとも言え
ない。
俺だって不安だし、本当に外道なことをしたら良心の呵責を覚え
るだろう。でも、それを躊躇するほどの余裕がなくなったのも確か
なのだ。
﹁心配しても始まりません。今はヴラノフ奪取を喜び、オストマル
ク帝国との連絡線を確立させましょうか﹂
﹁⋮⋮はい。わかりました﹂
そう言って、フィーネさんが俺の傍を離れ⋮⋮と思ったら振り返
って、じーっと俺の目を睨んでくる。な、なんですか。グッと睨ん
だだけで相手を石に出来るんですか。
﹁少佐﹂
﹁はい?﹂
﹁⋮⋮いつでも、相談に乗りますよ﹂
彼女はただそれだけを俺に伝えると、小走りでこの場から去って
行った。
−−−
1535
王権派がヴラノフ、シュンペルク両都市を陥落せしめたのとほぼ
同じ頃。共和国に放火し、共和国全体を業火に見舞わせた真犯人は、
ワイン
贅を尽くした豪華な邸宅において悠々自適に過ごしていた。
彼は白の葡萄酒を片手に、彼の自宅を訪問していた人物と歓談に
興じている。
﹁奴を暗殺し損ねたことは恥ずべきことだが、最悪の結果にはなっ
ていない。王政復古を企む反動共がよく頑張っているおかげか﹂
﹁あの王女、意外にも才幹溢れる者のようですな。ただの箱入り娘
かと思っていましたが﹂
ひとごと
彼らは、自分たちの手で放火したにも関わらずまるで他人事のよ
うな口調で話していた。そして事実、現在の共和国の状況が自分た
ちの管制下から離れ、勝手に延焼しているに過ぎないという事態に
陥っている。
だが彼らの最終的な目的の前には、そのことは些末な問題に過ぎ
ない。
﹁暗殺に成功しても、失敗しても最終的にはあの国は我々が乗っ取
る。今まさに前線で戦っているあの王女には申し訳ないが、甘い汁
は我々の手で奪い取らせてもらおう﹂
﹁閣下も、存外お人が悪いですな﹂
﹁フッ、それは君もだろう?﹂
ワイン
彼はそう言うと、手にした葡萄酒を一気に飲み干す。そしてそれ
と同時に、執事が部屋に入ってきた。執事は声に感情を込めずに、
ただ淡々と職務に励む。
﹁閣下、お客様がお見えになっています﹂
1536
﹁どこのどいつだ?﹂
彼は楽しい歓談を邪魔されたことに若干の不満を覚え、それを表
情に出した。それを見た執事は一瞬怯んだが、すぐに主の質問に答
えた。
執事がその来客者の名を口にした時、この邸宅の主は一転笑顔に
なる。
﹁ようやく来たか、待ちわびたぞ! 私が直接出迎えようか﹂
彼がそう言って立ち上がると、客人であるはずの目の前の男もそ
れに続いて立ち上がった。どうやらこの男も来客者を出迎えるよう
である。
執事は彼らを先導する形で玄関に向かった。そして執事は歩きつ
つも後ろに続く自分の主とその客人の会話を聞いていた。その会話
は明るい口調であり、それはどうでもいい雑談にも聞こえた。だが
その会話の内容は、この大陸の情勢を大きく動かすほどの重大な会
話であると執事には理解できた。
そして邸宅の正門に辿りつくと、そこには執事の言った通りの人
物が立っていた。
﹁これはこれはご両人が揃って出迎えるとは、光栄ですな﹂
来客者は微笑みながら、邸宅の主とその脇に立つ男に挨拶をする。
暫く玄関で雑談に興じたあと、先ほどまで2人が歓談していた部屋
にまで戻る。
そして執事が部屋から退室したのを確認した後、邸宅の主である
彼が本題を切り出した。
1537
﹁では早速ですが、分割案について話し合いましょうか。レディゲ
ル侯爵閣下﹂
その密談は、夕刻まで続いた。
1538
密談︵後書き︶
︻忘れている人の為のメモ︼
アレクセイ・レディゲル侯爵は東大陸帝国の軍事大臣で、同国の皇
太大甥セルゲイ・ロマノフ派閥の人間。
カールスバート政変を引き起こし、シレジア=カールスバート戦争
ではエミリア王女の捕縛あるいは暗殺を企てました。
1539
凋落の国家
ヴラノフを占領し、オストマルク帝国との補給線が確立された王
権派はさらに勢いづいている。
また王権派の占領した共和国東部では統治が行き届いており、内
部から崩壊するようなことは起きておらず、シレジアやオストマル
クとの交易も相まって王権派勢力圏内の共和国民は自由を謳歌して
いる。
そしてその影響は、凋落の一途を辿っている国粋派勢力圏内にま
で及んでいた。
国粋派勢力圏内の共和国民たちは、その多くは国粋派に進んで協
力しているというわけではない。刃向ったら弾圧される、このまま
国粋派優位のまま内戦が終われば平穏な暮らしが戻ってくる。それ
を信じてただひたすらに耐えてきただけである。
だが国粋派が劣勢となり、さらには生活水準においても王権派に
劣るとなると話は別である。王権派に協力すれば富と自由が保障さ
れるというのであれば、もはや彼らに国粋派に味方する意味は存在
しない。そして王権派勢力圏内に住む国民が如何に裕福な暮らしを
しているのかを、王権派がその独自の情報網を通じて声高く宣伝す
るのだから余計性質が悪かった。
無論、そのような性質の悪いことを考えそうな人間というのは少
なく、そしてそれを敵中で吹きまわす者の存在もまた限られている。
それはさておき
閑話休題。
1540
国粋派勢力圏内の各地域や農村において国粋派に対する非協力的
な態度が如実に現れるようになり、さらには民衆暴動が発生して警
備隊と衝突する事件が度々発生していた。
そして王権派や共和派を倒し、暴動を鎮圧する任を担っているは
ずの軍にも離反者が数多く出たのである。
特に1月16日に発生したランシュクロウン事件がその顕著な例
と言えよう。
それは1月13日、シュンペルクから西南西に1日の距離にある
ランシュクロウンという町において民衆蜂起が発生した事に端を発
する。王権派はこの蜂起を支援する目的でレレク少将率いる1個師
団を派遣するが、国粋派はこれに対抗してシェンク中将率いる2個
師団を派遣したのである。
本来であれば勝負にすらならないほどの戦力差なのだが、国粋派
シェンク軍団にとって想定外の事態が起きたのである。
それはシェンク軍団がランシュクロウン郊外に差し掛かった1月
15日に、軍団の後方にあったフラーデクという地方都市で王権派
を支持する暴動が発生したのである。このためシェンク軍団は敵中
に孤立することになり、補給を受けられないまま王権派と対峙する
羽目になった。
さらに不運なことに、その国粋派の軍団の中で裏切りや降伏が相
次いだ。そして軍団司令官たるシェンク中将ですら王権派に降伏し
てしまい、軍団はもはや軍団と言えるものではなくなってしまった
のである。
結果、国粋派はランシュクロウンにて数的有利にあったにも関わ
らず王権派に降伏し、そればかりか王権派に合流して彼らの勢力を
伸張する結果を産んでしまったのである。
1541
シェンク軍団がランシュクロウンに到達するときを見計らったか
のように起きたフラーデクの暴動。そしてシェンク軍団の兵士や軍
団司令官の降伏、これらの事象が全て王権派の謀略の結果だったの
ではないかと噂されたのだが、事の真相が明かされたのはだいぶ後
のことであった。
このランシュクロウン事件に代表されるような類似事件は、共和
国東部戦線において多発したのである。規模の大小を問わなければ、
少なくとも10回は確認されている。
また国粋派は相次ぐ敗戦により兵力が不足しつつあった。そのた
め治安維持能力にも問題を来たしており、反乱分子を十分に抑圧で
きるだけの能力を維持することが出来なくなりつつあったのである。
その結果、国粋派の総本山たる首都ソコロフでは、王権派を支持
する地下組織が1月末時点で60以上も存在していたと言われてい
る。
また、共和派勢力圏内においても同様の問題が起きていた。
共和派が、王権派や国粋派に勝っている点と言えば﹁全国民に政
治的権利が保障されている﹂というただそれだけである。そう言っ
た政治的権利は、まず第一に全国民がある程度裕福でないと成立し
えないのはどこの世界でも共通の事である。
飢えた国民が求めるのは食糧であり、戦争に怯える国民が求める
のは安定した社会である。その事実の前には、多少の政治的権利は
放棄するのである。
事実、共和派の中でも王権派に妥協ないし鞍替えする者が多くい
た。共和派自体が国粋派との長い闘争によって人員を失い、ついに
は王権派にも劣る国内最弱勢力にまで転落したことも原因である。
1542
ともかく共和派の勢力は今や問題外となっていた。
このように国粋派と共和派の劣勢は誰の目にも明らかであり、不
可能と言われた王政復古の兆しが見え始めたのである。
だがそのような状況に至ると、その状況を利用しようとする勢力
が現れる。
その情報がオストマルクを経由してユゼフの耳に届いたのは、1
月28日のことであった。
−−−
1月28日15時20分。
オストマルク帝国外務省とフィーネさんを通じて送られてきた情
報を、俺はエミリア殿下とマヤさんに報告した。
その情報は、とても厄介な問題を孕んでいた。俺の報告を聞いた
エミリア殿下らも困惑の表情を浮かべている。この情報の意味を、
十分に理解しているのだろう。
﹁リヴォニア貴族連合が、内戦に介入してくるのですか?﹂
﹁⋮⋮まだ確定ではありません、がその危険性があります﹂
オストマルクから寄せられた情報、それは﹁リヴォニア貴族連合
が、軍隊をカールスバートとの国境線に集結させつつある﹂という
ものだった。
1543
これがどういう意味を持つかは、2つ考えられる。
1つは、内戦が続く隣国からの亡命者や不法入国者を牽制する目
的で派遣している。そしてもう1つは殿下の言っていた通り、内戦
への介入の可能性だ。
しかしマヤさんは、前者の意見をすぐに捨てた。
﹁現状では介入と見た方が良いだろう。この時期に内戦に対する予
防策を講じるのは遅すぎる﹂
マヤさんの言葉に対してエミリア殿下が頷き、そして発言を引き
継いだ。
﹁問題は介入がいつになるのか、そしてどのような形で介入するか、
ですね﹂
﹁えぇ。もしも彼らが国粋派を支援すると言い出したら、この内戦
は泥沼化します﹂
沈鬱な面持ちで、マヤさんは言う。彼女の言う通り、もしリヴォ
ニアが国粋派を支援すれば国力の差から言って王権派の負けは確定
だ。オストマルクが本格的な軍事介入が出来ない以上、シレジアは
傷口を広げる前に撤退しなければならないだろう。
だが、俺はそれを否定した。
﹁リヴォニアは、恐らく国粋派を支援しません﹂
﹁⋮⋮なぜです?﹂
﹁国粋派の中枢に潜らせておいた諜報員からの情報ですが、ハーハ
大将はリヴォニアの軍の動員にかなり動揺しているようなのです﹂
この情報は、リーバル中将からもたらされたものだ。そしてその
情報の信憑性は、随行させている王権派士官によって保障されてい
1544
る。
﹁⋮⋮となると、リヴォニアの狙いはいったい?﹂
エミリア殿下は深く俯き、考え込んでしまった。でもそれに対す
る、俺の考えは結構単純な物だ。リヴォニアが介入しないとなれば、
残る選択肢は1つ。
﹁リヴォニアは、カールスバートに侵攻するかもしれません﹂
﹁侵攻、ですか?﹂
﹁はい。そうすれば泥沼化せずに済みますから、リヴォニアの被害
が小さくなり、かつ得られる利益も莫大になります﹂
この情勢下でリヴォニアがカールスバート国粋派に宣戦したらど
うなるか。簡単だ。国粋派は共和国東部で王権派と対峙しており、
その背後を突かれることになる。負けは確定、最悪の場合、大して
反撃できないまま滅亡する可能性がある。
そしてリヴォニアは、カールスバートの中でも人口も多く経済的
にも裕福な首都ソコロフや、国防上重要な拠点であるズデーテン要
塞など、共和国西部地帯をほとんど無血で手に入れることができる。
つまり一番美味しいところを土壇場で全部掻っ攫うのだ。まさに外
道。
この場合、王権派が手にしている共和国東部は残る。でも人口も
経済も希薄な東部だけを獲得しても、王権派にとっても俺らにとっ
ても戦った意味はないし、大国にして旧敵国たるリヴォニア貴族連
合との国境線が長くなるのは国防上看過できない。
﹁いずれにしても、リヴォニアの介入は防がねばなりません。もし
彼の国が介入した段階で、我々の敗北は確定です﹂
1545
そしてもし敗北してエミリア師団がシレジアに戻ったら、俺らは
敗残兵の烙印を押される可能性がある。エミリア殿下の私戦という
意味合いが強いこの介入、負けは回避したい。
となるとやはり早急に内戦に決着を付けなくてはならない、とい
うことだ。
﹁しかし早く決着をつけると言っても国粋派との戦力差は依然まだ
あるのだ。容易に終わらせることなど⋮⋮﹂
﹁えぇ、マヤさんの言う通りだと思います。ですから軍事的決着に
固執せず、交渉で決着させる。これしかありません﹂
国粋派は衰えたりとは言え、数だけでは王権派よりも多い。軍事
的な決着に拘っていたら、リヴォニアに纏めて殺される可能性もあ
る。
だから交渉しかない。だがその前程として問題となる点があった。
それを指摘したのはエミリア殿下だ。
﹁交渉⋮⋮ですか。しかし、彼らが交渉に応じるでしょうか。よし
んば応じたとしても、こちらが交渉で優位に立てるという保障もあ
りませんし⋮⋮﹂
﹁殿下の仰ることは正しいと私は思います。軍事力で拮抗している
以上、彼らから譲歩を引き出すのは難しいでしょう﹂
軍事力で拮抗していると譲歩させるのは難しい。ならば、その均
衡状態を打ち崩せばいい。
エミリア殿下もマヤさんもそのことに気付いたようで、目を見開
いていた。マヤさんに至ってはその目に闘志を煮え滾らせている。
﹁先ほども言いましたが、国粋派もリヴォニアの動きを把握してい
1546
ます。そしてハーハ大将にまともな戦略眼を持っていれば、王権派
を打倒して早期の内戦終結を目指すはずです。リヴォニアが軍の動
員を完了するまでの時間、国粋派が共和派と妥協ないし殲滅するま
での時間、そして我々との交渉の時間を考慮すると⋮⋮﹂
俺が頭の中でその時間を計算を始めた時、同じ考えに至っていた
エミリア殿下は既に答えを持っており、俺の言葉を引き継いだ。
﹁2月の半ば、恐らくは10日から15日の間。そして⋮⋮﹂
そう言うとエミリア殿下は、執務室に飾ってあるカールスバート
共和国の地図を見た。その視線は次第に絞られ、そしてある地点で
止まる。
﹁決戦となるのは、恐らくはここです﹂
エミリア殿下が示した場所は、俺の予想していた場所と同じだっ
た。
首都ソコロフから東南東に7日、オルミュッツ要塞から北西に3
日の地点。
共和国中部の地方都市リトミシュル郊外、スヴィナーという小さ
な農村であった。
1547
お土産︵前書き︶
大変お待たせして申し訳ありません。223話です
1548
お土産
カールスバート共和国中部、地方都市リトシュミルの郊外にある
スヴィナーという小さな農村に住んでいた、ある少女の日記が残さ
れている。
﹃ にがつじゅうにち。
わたしの村にいっぱい人がきた。
お母さんから﹁外に出ちゃだめよ﹂って言われたけど、
こっそりぬけ出して、その中にいたお兄ちゃんに聞いてみたの。
﹁なにかのおまつりですか?﹂
って。そしたらお兄ちゃんは
﹁まぁ、そんなものかな﹂
って、よくわからないことを言ったわ。
﹁わたしもそのおまつりに行っていい?﹂
ってわたしが言ったら、
﹁これはね、君みたいな女の子は参加できないお祭りなんだ﹂
お兄ちゃんはそう言ったの。でも、ぜったいうそだ。
だってお兄ちゃんのうしろに、真っ赤な髪の毛のお姉ちゃんが
1549
いたから。
もしかしたら、わたしのせが小さいのがいけないのかなぁ?
﹁わたしも行きたい、今は小っちゃいからだめかもだけど、いつ
か行きたいわ﹂
そう言ってみたけど、お兄ちゃんは首をふったわ。
﹁お祭りはね、今回が最後だから﹂
お兄ちゃんはそう言って、そのままうしろにいたお姉ちゃんと
いっしょにどっかに行ったの。
わたしもいっしょに行きたかったけど、お母さんに見つかっち
ゃったわ。
家にかえって、お母さんにおこられた。
でもそのあと、お母さんが
﹁ランシュクロウンにいるカテジナおばさんのところに行くわよ﹂
って言ったの。
カテジナおばさんは、お母さんのいもうとなの。
おばさんが作るおかしは好き。おまつりに行ってたらおかしが
食べられないところだったわ。
おまつりのあいだは、ずっとおばさんのところにいるんだって。
だから、おまつりがおわらないでほしいなー。 ﹄
1550
−−−
﹁⋮⋮ユリアも、あれくらいの歳だったかしら﹂
スヴィナーでの住民の避難誘導をしていた時、サラがそうポツリ
と言った。思えば俺らがクラクフを発ったのが11月13日。あれ
からもうすぐ3ヶ月となるのだ。
﹁ユリア、元気にしてるかしらね⋮⋮﹂
そう呟くサラの顔は完全に子煩悩な母親か、妹思いの姉のそれで
ある。
サラの法律上の被保護者であるユリアは、現在クラクフスキ公爵
領の人に預けつつ初級学校に通わせている。だが元貧民街の住民と
いうこともあってかコミュニケーション能力が欠けている。そのた
めサラはユリアが心配で気が気でないらしい。
まぁ、俺はあまり心配していないが。
﹁ユリアはしっかりした子だから、案外うまくやっていると思うよ﹂
なにせ逃亡中のサラを見つけた人間だしね。
﹁うーん⋮⋮。でもユリアにとっても不安な時期に出征が決まっち
ゃったから、もしかしたら嫌われてるかも⋮⋮﹂
﹁それはないと思うけど⋮⋮﹂
神と書いてサラと読む。あの子の中ではたぶんそうなっているは
ずだ。
1551
﹁ま、俺くらい嫌われることはないと思うよ﹂
目を合わせる度に顔を背けられ、話しかける度にどっかに逃げる
ユリア。不審者対応は完璧だな!
⋮⋮はぁ。死にたい。
﹁あ、それで思い出したわ。ユリア、あんたのこと嫌いじゃないみ
たいよ?﹂
﹁え? そうなの?﹂
﹁うん。なんか、ユリアってば私に会う前にユゼフに会ったことが
あって、それでその時のことでちょっと苦手意識を持ちゃったみた
い﹂
苦手意識を持たれることと嫌われることってどう違うんだろうか。
それはさておき、ユリアと一昨年の時点で会った記憶はない。あ
んな特徴的な白髪の可愛い貧民の女の子なんて、会ったらそうそう
忘れる訳ないと思うのだけど。
﹁確か、一昨年の冬くらいに会ったって﹂
むこう
﹁冬? おかしいな、冬は俺シレジアに居なかったし﹂
﹁あ⋮⋮そう言えばそうね。あんた11月の中頃からオストマルク
に行ってたんだっけ。じゃあ、ユリアの記憶違い?﹂
﹁どうだろう⋮⋮?﹂
ユリアって結構頭良いからな。クラクフでサラを捜しているとき、
道に迷うそぶりを全然見せなかったし。
と言うことはユリアの言っていることは正しい? でも俺がラス
キノから帰ってきて、オストマルクに行くまでは1週間しか⋮⋮っ
て、あっ。
1552
﹁思い出した﹂
﹁え? やっぱり会ってたの?﹂
﹁うん。正確に言えば、俺が王都で道に迷って貧民街に辿りついた
時、それっぽい子に会った。暗くて髪の色とかは判別できなかった
けど、今思えばあれがユリアだったのかも﹂
そしてその時、俺はあの子を見捨てた。苦手意識を持たれている
のはそういうことなのだろう。
にしてもあんな一瞬の出来事、しかも俺の顔までもしっかり覚え
ているなんてサラん家の子は優秀だな!
そしてそのサラと言えば、なぜかちょっと笑っていた。どうした
のだろうと不思議に思って聞いてみると、笑いを堪えながら答えた。
﹁ユゼフも王都で道に迷って貧民街に入ってユリアを見つけたなん
て、って思ったのよ﹂
﹁﹃も﹄? ってことは⋮⋮﹂
﹁私も、王都で道に迷って貧民街に入っちゃったのよ。そこでユリ
アを見つけたの﹂
なるほど確かに、面白い話である。偶然の一致なのか、それとも
そういう運命なのか⋮⋮。いや偶然だろうけど。
﹁案外、俺とサラって似てるのかね?﹂
﹁うーん⋮⋮なんかそれはそれで嫌だわ﹂
﹁なにそれ酷い﹂
﹁冗談よ﹂
冗談に聞こえなかったんですが⋮⋮。
1553
というツッコミをする間もなく、サラは話の方向を戻した。
﹁ま、それはともかく、ユゼフは帰ったらユリアと話して誤解解い
ときなさいよ。じゃないと困るわ﹂
﹁困る⋮⋮まぁ、確かに会うたび避けられるのは心が痛むな﹂
幼女に避けられるって本当に辛いのだ。不審者扱いと言うか、事
案発生された気分である。いやホント転んだ女の子に声かけただけ
でひそひそしないでくださいお願いします。
一方、保護者であるサラは別の問題が噴出しているようである。
﹁それもあるけど、一緒に⋮⋮ようになったら⋮⋮﹂
なんか、顔は背けるしゴニョゴニョ言ってるし声は小さいしで後
半は殆ど解析不可能だった。
まぁ、こういう挙動不審はサラにとっては日常茶飯事だから問題
ない。それに深く突っ込むと拳が鳩尾目がけて飛んでくるからね。
まだ鳩尾用防具は調達してないし。
俺はサラをとりあえずスルーして、村民の避難誘導を再開した。
俺が仕事をしているのを見たサラも、ぷーすこ言いながら手伝いを
始めてくれた。うん、どうやら意識は戻ったな。
そして村民の避難がほぼ完了したかなというところで、数時間前
に俺に話しかけてきた女の子近づいてきて、そして話しかけてきた。
﹁お兄ちゃん﹂
﹁なんだい?﹂
﹁あのね、おまつりのおみやげ、買ってきてほしいなって⋮⋮﹂
﹁お土産?﹂
1554
﹁うん。わたし、おまつりに行けないから⋮⋮だめ?﹂
お祭り、ね。まぁこんな辺鄙なところに何十人も集まったらお祭
りだろうけど、これからやることは血祭なのだ。お土産なんてもの
は、せいぜい敵将の首くらい⋮⋮。
﹁あのね、もうすぐおとうとか、いもうとができるの﹂
﹁え? お母さん子ども産むの?﹂
確か村民に妊婦はいなかったはずだけど⋮⋮と、手元の資料を見
ていたら、目の前の少女は首を振った。
﹁ううん。カテジナおばさん﹂
﹁おばさん?﹂
﹁うん。ランシュクロウンにいる、お母さんのいもうと。もうおな
かも大きいよって、お母さんが言ってた﹂
なるほど。つまりは叔母で、従兄弟が産まれるってことね。
俺が納得すると、その子はさらに詰め寄ってきた。
﹁あのねあのね。わたし、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、いもうとも
おとうともいないの。だから、おばさんの子どもを、だいじにした
いの。だから、その⋮⋮だめ?﹂
ちょっと涙目になりながら上目遣いで懇願してくる女の子を無碍
に扱える奴がいるのだろうか。いや、いない。
﹁いいよ。ただちょっと時間がかかるかもしれないから、その時は
ごめんね?﹂
1555
俺がそう言うと、女の子は途端に明るい顔になった。さっきまで
の涙も姿を消している。まさかその歳で嘘泣きを⋮⋮? 恐ろしい。
﹁ありがとう! 大好きだよお兄ちゃん!﹂
そう言って女の子は、心配して探していたであろう母親に発見さ
れ、そしてぺこりとお辞儀した後何処かへと消えた。
ま、その、アレだな。あれが嘘泣きで演技だったとしても、あの
言葉が聞けただけでだいぶ黒字だ。
﹁さて、あの子との約束を守るためにも、お土産を用意してげなき
ゃな﹂
﹁⋮⋮え? ユゼフってばあの子に敵将の首をあげるの?﹂
﹁いやそんな趣味の悪いことはしないよ、さすがに﹂
下手すればトラウマものである。
﹁じゃあ、何をお土産にするわけ?﹂
﹁んー。そりゃ勿論、産まれてくるだろうあの子の従兄弟のために
なるものさ﹂
﹁前置きはいいから、それは何よ?﹂
サラは雰囲気も何もなく、早く答えろと言わんばかりに詰め寄っ
てくる。顔も心なしか近い、というか全体的に身体が近いってば!
﹁いやー、それはー、ね? わかるでしょ?﹂
﹁わからないわよ。だから早く言って﹂
言うのか。ちょっと恥ずかしいぞ。たぶんマヤさんあたりならこ
こぞと言う場面でカッコよく言い放てるんだろうけど、どうも俺は
1556
そっち方面の才能がないらしい。
結局、俺は渋々、ちょっと恥ずかしがりながらそれを言うはめに
なった。
﹁この国の平和。それが、産まれてくる子のためになる一番のお土
産かなって﹂
俺がそう言うと、サラはポカンとした顔をした後に、噴き出した
ようにクスッと笑った。
﹁もうちょっとカッコ良く言いなさいよ﹂
1557
18万人の祭
内戦勃発時の2大派閥、そして今や斜陽の最大勢力と没落の最弱
勢力と化した国粋派と共和派は、2月1日に停戦交渉を行った。
共和派の中には、王権派と妥協し、共同で国粋派を討つことを主
張した者もいた。国粋派よりは妥協がしやすいことや、快進撃を続
けることがその主張の幹であったが、その実行は困難だった。
というのは、王権派と共和派の間には確かな交渉ルートが存在し
ないのである。共和派の拠点であるチェルニロフは、国粋派の拠点
である首都ソコロフから1日の距離に位置する。つまり共和派は国
粋派勢力圏内にあるのである。
共和派は﹁王権派と交渉するから国粋派のみなさんどいてくださ
い﹂などと言えるはずもない。
さらに言えば、もし共和派が確かな交渉ルートを持ち、王権派と
交渉を行おうとしても、王権派はそれを受け入れなかっただろう。
これは王権派を支援するシレジア王国とオストマルク帝国の思惑
がある。かつてこの両国が内戦に本格的に介入する前に、エミリア
師団作戦参謀ユゼフ・ワレサ少佐も言及していた。
共和制は、全ての国民に政治的権利を保障し、貴族にする思想で
ある。その思想がシレジア王国にまで入り込んだら、国内が混乱す
ることになるかもしれない。その事情から、ユゼフは共和派への支
援を諦めた。
1558
また交渉せず、事態の動向を静観することも選択肢のうちのひと
つだったが、それは即時却下された。
王権派と国粋派、どちらかの破滅をのんびりと待っている間、リ
ヴォニア貴族連合と言う大国が侵攻してくる可能性があったため、
共和派の持久策も得策とは言えなくなっていた。
つまり共和派にとっては、国粋派としか交渉ができなかったので
ある。
2日間に亘る交渉の末、両者の間に妥協が成立。内戦終結後、カ
ールスバート議会選挙を行い、国粋派の監視下・制限下で議会を再
招集することで合意し、その目的達成の為に王権派との戦いに共に
望むことが決せられた。
国粋派にとっては議会を再招集したところで権限が制限されてい
るため影響は少なく、共和派にとってみれば、長い闘争の末に民主
政復活を勝ち取ったと宣伝できる。
両者が納得する合意が得られた、と国粋派と共和派の幹部たちは
そう思った。
だが、それでも不満の声がなかったわけではない。特に共和派内
部においてそれが顕著であった。
議会の復活を取り付けたことは、民主政の完全復活の足掛かりと
なることは確かである。だが多くの親類友人を失った部下の気持ち
がそれに納得出来るかと言えばそうではなく、そのために下級兵の
中には不満と怒りを燻らせる者が多くいた。
大陸暦638年2月10日。
国粋派・共和派連合軍は必要最低限の治安維持部隊をその勢力下
1559
に残した後行軍を開始。その道中で部隊を合流、編成させつつ一路
リトシュミルへ向かう。
そして2月12日の時点で、連合軍は合計で10個師団を集結さ
せた。後方支援部隊を含めた連合軍の総兵力は10万5800余名
にも上る。内訳は、国粋派8個師団8万3000余名、共和派2個
師団2万2800余名。連合軍総司令官は暫定大統領にして元共和
国軍作戦本部長であるエドヴァルト・ハーハ大将が自らが勤め、副
司令官は共和派のペトルジェルカ中将を、総参謀長には元ヴラノフ
軍団司令官であるドゥシェク中将を充てた。
そしてその連合軍がリトシュミル郊外に差し掛かったのを確認し
た王権派は、オルミュッツ要塞から戦闘可能な全師団を出動させた。
名目上の総司令官はカレル・ツー・リヒノフ国王であるが、彼自身
には軍事的才覚はそれほどない。そのため実質的な総司令官は、副
司令官にして先のロシュティッツェ会戦の武功によって大将に昇進
したマティアス・マサリクであり、カレル自身もマサリク大将に全
てを任せていた。
この時点での王権派は7個師団にまで膨れ上がっており、シレジ
ア王国からの増援を含めると8個師団にまで達する。
そして王権派はその大部分である7個師団、7万4000余名を
出撃させたのである。オルミュッツ要塞、カルビナ、ヴラノフと言
った王権派の重要拠点には、1個連隊程度の守備兵力しか残されて
いなかった。
﹁後方の守備をガッチリ守れる程、兵力が潤沢にあるわけじゃない。
後ろを気に過ぎて正面が薄くなって全軍崩壊になったら元も子もな
いし﹂
1560
と言うのは、王権派を支援する目的で介入してきたシレジア王国
軍エミリア師団の作戦参謀ユゼフ・ワレサ少佐の言葉である。
彼自身、これがハイリスクな手であることを自覚していた。欲を
言えば各拠点には1個師団ずつ配置しておきたかった。だがそれを
すれば正面戦力が4∼5個師団となり、10個師団で迫る国粋派・
共和派連合軍に太刀打ちできないのである。
もしも連合軍がその事情に気付き得たら、王権派は背後を突かれ
瓦解しただろう。
しかしユゼフは、その可能性はそれほど高くないと予想していた。
その最大の理由はエドヴァルト・ハーハが疑心暗鬼に陥っている
ことである。
度重なる裏切りと降伏事件により、ハーハは度の部下を信頼して
良いかわからないでいた。もし不用意に部下に部隊を預けたりすれ
ば、その部隊が丸ごと王権派に裏切って自分たちを襲ってくるので
はないか、と。
このハーハの猜疑心を増大させたのは紛れもなくユゼフと、彼に
協力した元国粋派将官であるリーバル中将であるのだが、ともかく、
ハーハは全ての部隊を自分自身で動かすしか勝ち目がないと考えた
のである。
だが彼は腐っても共和国軍大将であり、作戦本部の本部長であっ
た男である。それなりの戦術的手腕を持ち合わせているのは間違い
なく、その意味では王権派は危機にあったと言えるだろう。
そして、大陸暦638年2月14日10時45分。
国粋派・共和派連合軍10個師団と、王権派7個師団が、ここ共
和国中部の寒村スヴィナーで対峙する。
1561
両軍合わせて18万人の軍勢、それはカールスバート共和政時代
の平時戦力に匹敵し、軍政移行後の平時戦力の6割に相当する規模
である。
王権派はスヴィナーに陣取り、国粋派・共和派連合軍は軍楽隊の
軽やかな曲調に合わせ、スヴィナーに向かってゆっくりと前進する。
王権派は既に上級魔術の詠唱を完了しており、空には光が瞬いて
いる。そして連合軍の前衛部隊が、その上級魔術の有効射程範囲内
に突入した時、王権派副司令官マサリク大将が総司令官カレル・ツ
ー・リヒノフに呼びかけた。
﹁陛下。準備、整っております﹂
マサリクの呼びかけに対し、カレルはしばし無言であった。祈る
かのように目を閉じ、ただ屹立していた。
そしてマサリクの言葉から30秒後。
彼は静かに目を開き、そして低く、だが声を大にして部下に号令
する。
﹁攻撃開始!﹂
それは共和国内戦最大の、そして大陸の歴史に永劫語り継がれる
こととなる﹁スヴィナー会戦﹂の始まりを告げる号令でもあった。
1562
18万人の祭︵後書き︶
2015/9/3、国粋派と共和派の妥協について加筆修正しまし
た。
1563
スヴィナー会戦 ︲前哨戦︲︵前書き︶
前話、224話﹃18万人の祭﹄において説明不足があったため加
筆修正を行いました。
ご指摘してくださった方々、本当にありがとうございます。
1564
スヴィナー会戦 ︲前哨戦︲
数において劣る王権派は、師団の弱点となる側面、もしくは後背
から攻撃して半包囲攻撃を試みることが会戦前の作戦会議によって
決定されていた。
マサリク大将やエミリア王女はその為の準備として部隊の編成や
配置を行ったのだが、これらの努力は会戦のごく初期の状態で水泡
に帰した。
というのは、連合軍司令官であるハーハ大将が﹁王権派が包囲戦
を試みるのではないか﹂という推測を立て、戦場にありったけの歩
哨を展開させたからである。
これは、昨年のシレジア王国と東大陸帝国の間で起きた﹁春戦争﹂
の緒戦、ザレシエ会戦の教訓がある。この会戦では、東大陸帝国軍
総司令官ロコソフスキ元帥率いる10個師団が、シレジア王国軍総
司令官キシール元帥指揮の8個師団の偽装退却によって前衛部隊が
誘い出され、短時間の内に各個撃破・包囲殲滅を受けた。
もし王権派が数の不利を覆そうと考えるのであれば、伏兵を使っ
て王権派にとって有利な地点に連合軍を誘い出すのではないか。彼
はそう判断し、伏兵を探すべく、あるいは敵の作戦展開を封じ込め
るために大量の歩哨を放ったのである。
ハーハのその判断は正しく、連合軍が大量の歩哨を放ったことを
確認した王権派は半包囲戦の試みを捨てざるを得なかった。
さらにハーハは、王権派が次なる作戦を立案・実行する前に先手
1565
を打ったのである。
2月14日14時10分。
連合軍はこれまで数的優勢を利用した持久策を取ったが、ハーハ
は一転、速攻戦に移った。
﹁第7、第9騎兵連隊に伝達。右方向から敵左翼に突撃し、一気に
陣形を崩せ﹂
ハーハの意を受けた騎兵隊合わせて5000が、突撃を敢行。王
権派左翼に向け馬の腹を蹴った。
王権派にとって不運なことは、左翼を担っていたのがレレク少将
の師団であったことである。レレク師団は、フラニッツェ会戦とオ
ルミュッツ要塞攻略戦において獲得した捕虜で構成される師団、そ
の特異な編成ゆえ、レレク少将は部下からの忠誠を完全に掌握して
いなかった。その結果レレク師団は有機的・合理的な部隊運動を行
うことができず、連合軍の唐突な突撃を前に狼狽し、一時は陣形を
乱して後退した。
このまま連合軍の追撃が続けば、王権派左翼は一気に瓦解してい
ただろう。
だがそれを食い止めたのは、マサリク大将だった。
﹁レレク少将は死んでも現地点を死守し、敵騎兵隊を迎え撃て! その間に我が騎兵連隊で以って突撃してくる敵の側面を叩く!﹂
このマサリクの怒号にも似た命令は、伝令兵によって若干言葉が
柔らかくなりつつも即時レレク少将の下に伝わった。これを聞いた
レレク少将は
1566
﹁あのクソおやじ! 順番から言えば、あいつの方が先に死ぬんだ
! ここで死んでたまるか!﹂
と叫んだ。その叫びがあまりにも滑稽なものだったため、戦場だ
と言うのに部下の笑いを誘った。それが起因となったのか、あるい
はレレクの必死の指揮によるものなのかは定かではないが、レレク
師団は一時の混乱から脱することに成功し、かつ敵騎兵隊の突撃を
跳ね返すことに成功した。
王権派が陣形を即座に再編したことを知ったハーハは、騎兵隊に
連絡し攻勢を中止させ、傷口が広がる前に後退した。ハーハは、可
能であれば突出してきたマサリクの騎兵隊を討とうと考えたが、マ
サリクの方も深追いを避けたため、部隊に後退を伝達した。
連合軍の攻勢に耐え、双方ともに敵と距離を取って陣形を再編さ
せた。それ以降数時間に亘ってごく平凡な戦闘が続き、戦線はやや
膠着状態となった。
一方、エミリア王女率いる1個師団は後方に下がって待機をして
いた。当初予定では、エミリア師団が敵本隊の側背に回り込んで挟
撃する予定だったのだが、ハーハの哨戒網を前に作戦が頓挫して以
降、戦列に参加する機会を失ってしまったのである。
ちなみに、この状況下を一番喜んでいたのは補給参謀ラスドワフ・
ノヴァク大尉である。部隊が動かなければ、当然物資の消耗は少な
い。そうすると彼の仕事は軽減され、楽ができる。
このまま王権派連中だけで勝ってはくれまいか、と彼は思ってい
たが、同時にそれが不可能であることも理解していた。そのため、
1567
彼はこれから起きるであろう戦闘に少し鬱になっていた。
﹁まぁ、予備戦力と言う奴だな﹂
と、呑気に言ったのはユゼフだった。
彼の性格を考慮すれば、その呑気さはいつもの事ではある。だが、
それを聞いた彼の友人らは何とも形容しがたい顔をしていた。事実
なので反論はできなかったのだが。
その友人たちの中で、ユゼフの言葉に最初に応答したのは第3騎
兵連隊所属のサラ・マリノフスカ少佐だった。
﹁﹃予備戦力﹄っていうのは嫌だわ﹂
﹁なんで?﹂
﹁だって﹃予備﹄よ? 否定的な意味はないってわかってても、な
んか響きが二軍みたいで嫌なのよ﹂
ここで言う﹁予備戦力﹂と言うのは﹁決戦兵力﹂あるいは﹁即応
部隊﹂と言い換えても良い。
敵が瓦解仕掛けている時、それ崩壊という言葉に変えるのが﹁決
戦兵力﹂。そして敵が何かをしようと蠢動しているとき、その動き
に応じて部隊を動かすのが﹁即応部隊﹂である。
どちらも戦術的判断力と打撃力を必要とする任務であるため、生
半可な練度の部隊ではその任務に耐えうることはできない。故に多
くの国ではこの﹁予備戦力﹂は精鋭である場合が多い。
そしてそれを任される部隊が、王権派の中でも練度と戦果が飛び
抜けているエミリア・シレジア王女率いるシレジア王国軍エミリア
師団であった。
だがそれがわかってるとは言っても、闘志をその目に煮え滾らせ
1568
ているサラと、エミリアの副官たるマヤ・クラクフスカは我慢でき
ずにいた。
その都度、エミリアはそんな彼女たちを宥める。
ファンタジー
﹁英雄叙事詩的な物語では、主役は最後に登場するものです。我々
はそれに倣いましょう﹂
そう言って、エミリアはじっと出番が来るのを我慢していた。
しかし、終始何もしていなかったというわけではない。
エミリアは、戦況が王権派にとって不利になったのではないか、
と感じた時に旗下の部隊を動かした。その動きはまるで連合軍の側
面や後背を突こうとしているように見え、実際連合軍司令官ハーハ
の目にはそう見えていた。
そのためハーハはエミリア師団に気を取られて全面攻勢に移るこ
とができず、エミリア師団に即応できるよう部隊を残しておかなけ
ればならなかった。つまりエミリア率いる1個師団が、連合軍全体
を翻弄させることに成功したのである。
このようことに代表されるように、スヴィナー会戦の初日は、戦
線が膠着したまま夜を迎えた。
だが王権派にとってはいつまでもそれをするわけにはいかない。
王権派は数的劣勢にあるため、双方の部隊が互いに消耗しつくして
も国粋派はその勢力圏下の数個師団が残る。王権派にはそれがない。
そんな状況を防ぐためには、王権派は打開策を講じなければなら
なかった。
その日の夜、21時30分。夜襲を警戒しつつも開かれた、王権
派高級士官による作戦会議の席において、エミリア師団作戦参謀ユ
1569
ゼフ・ワレサ少佐提案の作戦が承認された。
その作戦のために、翌2月15日の夜明け前から事前準備を行い、
そして夜明けとともに実行に移された。
1570
スヴィナー会戦 ︲斜線陣︲
2月15日9時30分。
国粋派・共和派連合軍司令官エドヴァルト・ハーハは、対峙する
王権派が妙な動きをしていることに気付いた。王権派左翼が急進し
ているものの、中央及び右翼はその左翼の前進に追いついていなか
った。王権派の奇妙な陣形に対して答えを導き出したのは、彼の傍
らに立つ参謀長ドゥシェク中将であった。
﹁閣下、敵部隊﹃斜線陣﹄を取りつつあります。﹂
﹁⋮⋮なるほど。どうやら敵には戦史オタクがいるようだ。確かあ
れは、古代のどっかの国が編み出した戦法だったな?﹂
﹁はい。キリス帝国だったかと﹂
ここでドゥシェク中将が言った﹁キリス帝国﹂は、ゲオルギオス・
アナトリコンが建国した﹁キリス第二帝国﹂のことではない。大陸
帝国がまだ大陸の覇者ではなかった頃に存在した、今は亡き国家の
ことである。時の皇帝が考案したこの﹁斜線陣﹂と呼ばれる陣形は、
キリス帝国の精鋭で構成された左翼集団を突出させ、敵右翼を一気
に破壊させた戦術である。
敵は右翼救援のために左翼と中央を旋回させ、突出してきたキリ
ス帝国軍左翼の側面を攻撃したかった。だがそうすれば、キリス帝
国軍が中央と右翼でもって味方の左翼を攻撃する敵部隊のさらに側
面を攻撃するだけとなる。それによって敵左翼と中央が遊兵化し、
数と質で勝る左翼で敵右翼を撃滅し決着をつける、というものであ
る。
1571
王権派の陣形は、まさにその陣形だったのである。
だが敵が斜線陣を取っていることに気付いた連合軍参謀長ドゥシ
ェク中将は、同時にこの斜線陣の欠点も知っていた。
バランス
﹁斜線陣は主力翼と予備戦力の戦力の平衡が難しいです。主力翼の
戦力が足りなければ敵を崩壊させることができず、逆に強過ぎれば
タイミング
中央と反対翼の戦力が過小となり、そこから陣形が崩壊します。よ
しんばそれが上手くいっても、主力翼が敵を突破する時機が難しく、
急場しのぎの戦術としては不適格です﹂
﹁そうだな。参謀長の考えは正しいと思う。して、現実で我々に向
け斜線陣を敷いている敵左翼は、貴官の言う﹃戦力の平衡﹄を取れ
ているのか?﹂
ハーハの質問に対し、ドゥシェクは単眼鏡で暫く王権派の布陣、
主に突撃してくる左翼と、国粋派ハルヴァート中将指揮する連合軍
右翼を観察して答えた。
﹁⋮⋮ここから見るに恐らくは前者、主力翼の戦力が過小かと﹂
突撃してくる王権派左翼は3個師団、対して連合軍右翼は3個師
団。数の上では同格であり、また連合軍右翼が防御に徹すれば王権
派左翼が如何に精鋭であろうとも突破に時間がかかりすぎる、と参
謀長は考えた。
﹁右翼には防御を固めさせ、敵を疲弊させるがよろしいかと存じま
す﹂
だがこれを聞いたハーハは、参謀長の意見とは真逆の命令を発し
た。
1572
﹁後方の予備戦力1個師団を右翼に投入。敵左翼が疲弊したところ
で攻勢に転じ、一気に壊滅させる。敵が斜線陣を意図しているので
あれば、あの左翼は敵の精鋭部隊ということだ。これ撃滅し後の憂
いを断てば何かと役に立つであろう﹂
ハーハのその決断は、政治的には妥当な物であった。
精鋭とは即ち主力であり、それが失われるとなれば王権派の戦力
は半減どころの騒ぎではなくなる。最悪の場合、軍としての体を失
って王権派自体が崩壊する可能性があり、その後の政治交渉で有利
に働くだろう。
軍事的にはどうだっただろうか。
突撃してくる王権派左翼3個師団が精鋭部隊であった場合、連合
軍4個師団は数の差で優位であっても苦戦を強いられただろう。そ
のためハーハは一度防御の姿勢を敷き、敵が疲弊した時に攻勢に出
るように命じた。これであれば、如何に精鋭と言えど突破は可能だ
ろうと。
ハーハの命令に問題は見当たらず、彼の意図を理解した参謀長や
旗下の部隊はハーハの命令通りに動いたのである。
そして11時丁度。
連合軍右翼4個師団と王権派左翼3個師団の戦いは激烈を極め、
そしてついに王権派左翼が耐え切れずに後退を始めた。
﹁よし、総攻撃だ! 右翼はそのまま突撃、中央及び左翼はこれを
支援するぞ!﹂
﹁了解!﹂
この時ハーハ以下、連合軍の諸将は勝利を確信したかもしれない。
少なくとも、右翼4個師団を指揮する将帥はそう思っていた。
1573
だがこの時点で連合軍の誰もが忘れていた問題があった。それは
王権派が、本当に﹁斜線陣﹂を意図しているかが不明であったこと
である。
−−−
11時10分。
俺は作戦が半ば成功したことを確信し、それをエミリア殿下に伝
える。
﹁殿下!﹂
ちょっと興奮して叫ぶ格好になってしまったが、エミリア殿下は
それを気にしなかった。殿下の方でも理解していたようで、そして
俺をからかうかのように彼女も大きな声を出して命令を下す。
﹁全魔術兵隊に連絡。敵左翼及び中央部隊の戦闘集団に上級魔術攻
撃を集中させ、その前進を阻んでください! それと、マヤ!﹂
﹁ハッ!﹂
﹁剣兵隊を率いて左翼のマサリク大将と合流、敵右翼に切り込みを
仕掛けてください﹂
﹁了解です!﹂
命令を受けたマヤさんの顔は闘志に溢れていた。
そう言えば彼女が剣兵隊を率いて切り込みを仕掛けるのは要塞戦
1574
以来だな。しかもその時はマヤさんの部隊は苦戦したみたいだし、
その汚名返上という考えもあるのだろう。
マヤさんが走り出した直後、王権派の全魔術部隊の詠唱が完了し
プロメテウス
たのか、上空には眩い光の塊が浮かんだ。そしてその数十秒後、上
級魔術﹁火神弾﹂が敵目がけて放たれる様子が見えた。敵はその攻
撃に怯んで前進を停止させている。
このまま敵中央及び左翼に魔術攻撃と弓の遠距離攻撃を間断なく
続けてその前進を阻めば、突出してきた敵右翼4個師団は孤立する
ことになる。つまり、各個撃破のチャンスだ。
俺と同じく敵の前進が止まったことを確認したエミリア殿下は、
俺の脇に立っていたサラに命令した。
﹁サラさん、第3騎兵連隊に出撃命令を伝えてください。突出して
くる敵右翼と前進を止めた中央の間に入り込み、敵右翼の後方を遮
断すべしと﹂
﹁わかったわ!﹂
﹁あと、気を付けてくださいね﹂
﹁大丈夫よ! どっかの誰かと違って鍛えてるから!﹂
どこの誰の事だろうな⋮⋮。
そんなことを言うサラも、マヤさんと同じく喜々としており燃え
滾る闘志を隠そうともしてない。
でもさ、サラさんは連隊長じゃないからその辺は自重してね。あ
まり目立つとミーゼル大佐の昇進が遅れちゃうから。いやあの人は
年齢の割に昇進が早い部類に入るけど。
だがエミリア殿下は、戦いを前にして喜ぶ親友を温かい目で見守
1575
っている。年齢はサラの方が上なのに、エミリア殿下の方がなんか
お姉ちゃんっぽいぞ。
んじゃ俺もお兄ちゃんになってやろう。
﹁サラ。第3騎兵連隊がいかに精強と言っても数に差がありすぎる。
敵が反撃に出て、危険だと思ったらすぐに撤退するんだ。なにせ⋮
⋮﹂
﹁わかってるわよ! 今更そんなこと言わなくても!﹂
それもそうでした。サラもバカじゃないし、いつまでも戦術の教
師風情かましているのも腹が立つか。実際、サラの拳が俺の顔目が
けて突っ込んできてるし⋮⋮。って顔かよ! やめて! 顔はやめ
て!
﹁サラさん﹂
エミリア殿下の一言によって、そのサラの拳を俺の顔の数ミリ手
前で止めた。あ、危なかった。サラはハッとした後、顔を赤くして
慌てて言い繕う。
﹁わかってるってば!﹂
彼女はそう言ったが、握っていた右拳はデコピンに変わって俺に
襲ってきた。地味に痛い。そしてサラはそのままプンスカ言ったま
ま、彼女の愛馬に跨ってそのまま部隊と合流した。
うん、なにこれ。状況から見るに、殿下が何か言ったんだろうけ
ど。
﹁エミリア殿下、サラさんに変な事言いました?﹂
1576
そう俺が聞くと、エミリア殿下は小悪魔的な笑いを浮かべてこう
言ったのだ。
﹁内緒です﹂
−−−
国粋派・共和派連合軍右翼4個師団は完全にユゼフの罠に陥った。
ユゼフが考案した作戦はある意味においては斜線陣であったこと
は確かである。だがその意図は強力な左翼で敵陣を突破するのでは
なく、副司令官マサリク大将指揮下の左翼3個師団が擬似突出と偽
装退却を行うことによって連合軍右翼を誘い込むことにあった。
連合軍右翼の追撃にハーハは中央と左翼を支援にあたらせたもの
の、その支援は王権派の上級魔術攻撃によって前進が止まってしま
ったために、右翼は有効な支援を得られないまま追撃してしまった
のである。
その結果、連合軍右翼と中央の間に広大な空間が生まれてしまっ
たのである。そこにシレジア最強の第3騎兵連隊が突入した。
このことに気付いた連合軍右翼の司令官ハルヴァート中将は、慌
てて後退命令を出したもの、その命令を出すのは遅すぎた。
﹁全軍、陣形を立て直して一時後退しろ!﹂
﹁ダメです! 退路を敵騎兵隊に阻まれました!﹂
﹁何!?﹂
1577
ハルヴァート中将は急ぎ後方を確認すると、確かにそこには騎兵
隊が存在した。だが、その騎兵隊の数が少数であることも気づいた。
﹁後方の敵騎兵隊は少数だ。であれば、軍団を反転させ後方の敵を
強行突破し友軍部隊と合流する!﹂
﹁ですが閣下、この状況下で反転すれば敵の攻撃に対して無防備に
なります!﹂
﹁少々の損害は覚悟の上だ。全軍反転せよ!﹂
ハルヴァートはそう言って参謀長の意見を一蹴したが、この判断
は間違いとは言えない。確かにこのまま挟撃下にあれば、如何に数
の上で有利であってもかなりの被害が出る。であれば、多少の損害
が出たとしても味方と合流した方が全体で見れば被害が少なくて済
むであろうということである。
だがそのハルヴァート軍団の行動は、王権派も想定済みだった。
12時20分。
回頭を始めるハルヴァート軍団に対し、マサリク大将の軍団に合
流したマヤ・クラクフスカ大尉率いるの剣兵隊が切り込みを始めた
のである。
マヤが率いる剣兵隊の総数は僅か200名であり圧倒的な戦力差
があったことは言うまでもない。だが後方を襲われ慌てて回頭する
ハルヴァート軍団には、その剣兵隊を有効に防ぐことができず、僅
か200名の剣兵隊に4個師団の軍団が翻弄されると言う事態が発
生した。
さらにマサリク大将は、クラクフスカ剣兵隊によって乱れた戦列
に対し攻撃を集中させて穴をあけ、そこに騎兵隊を突撃させて驚く
1578
べき戦果を挙げたのである。
ハルヴァートに襲い掛かる悲劇はこれだけではなかった。マサリ
ク大将の総攻撃を受けつつも回頭を試みるハルヴァート軍団に対し
て、エミリア率いる師団が軍団の左側面に躍り出て横撃を仕掛けて
きたのである。
本来であれば、このエミリア師団の攻撃に対して連合軍中央と左
翼は阻止攻撃をするべきであった。だが、彼らは王権派の全魔術兵
隊と右翼2個師団の遠距離攻撃によって有効な支援をすることが叶
わず、その結果ハルヴァート軍団は前方にマサリク軍団3個師団、
左側面にエミリア師団、後方に第3騎兵連隊に囲まれて猛烈な半包
囲攻撃を受けたと言うことになる。
1時間あまりの半包囲攻撃を受けたハルヴァート軍団は3割以上
の損害を出し、壊乱状態となるのは時間の問題かと思われた。
だがこの時連合軍右翼ハルヴァート軍団の全面崩壊を防いだのは、
皮肉にもかつて彼らと敵対していた共和派にして連合軍副司令官で
もあるペトルジェルカ中将だった。
ペドルジェルカは連合軍左翼を指揮しており、王権派の熾烈な上
級魔術攻撃に耐えつつも陣形の再編、部隊の再配置を行った。
そして半包囲攻撃を受けて壊乱状態に陥りかけていたハルヴァー
ト軍団を救うべく、1個師団を王権派の上級魔術攻撃の射程範囲外
に移動し、戦場の外縁部を大きく反時計まわりに迂回を開始。ハル
ヴァート軍団の後方を襲っている第3騎兵連隊のさらに後方に展開
しハルヴァート軍団の支援を始めたのである。
前方に4個師団、後方に1個師団の敵がいる状況下で生き残るこ
とができる程、第3騎兵連隊は精強ではなかった。そのため連隊長
1579
ミーゼル大佐は撤退を決め、挟撃体勢が構築されていないうちに退
路のある右方向に馬首を向けて撤退に移った。だがこの時、思いも
よらない行動を取る部隊があった。
﹁突撃よ! 前方の軍団を強行突破して、味方と合流するのよ!﹂
﹁﹁﹁応!﹂﹂﹂
それは、サラ・マリノフスカ少佐率いる第3騎兵連隊第3大隊で
あった。
彼女は連隊長ミーゼル大佐の命令を半ば無視し、眼前に展開する
ハルヴァート軍団に対して突撃を命令し、それに同調した彼女の部
下や、第3大隊以外の一部の隊員も突撃を開始したのである。
この時のハルヴァート軍団は王権派の苛烈な攻撃を受けたとはい
え未だ膨大な兵力を有していた。そのためサラ率いる第3大隊その
他大勢1100に対して、ハルヴァート軍団は2万8000とその
差は歴然としていた。
この兵力差には、敵どころか上司であるミーゼル大佐でさえも第
3大隊の全滅を覚悟した。
だがこの狂気じみた突撃命令は、驚異の戦果を挙げるに至る。
ハルヴァート軍団は半包囲攻撃の中部隊の統制を失いかけており、
その時に狂気と闘志を隠そうともしない圧倒的な破壊力を持ったサ
ラ率いる第3大隊に後方から襲われたのである。しかもそれは今ま
でのように、ある程度進んだら撤退してまた突撃するという反復攻
撃ではなく、第3大隊止まることを知らない暴走馬車と化していた。
その狂気の塊を受けてしまったハルヴァート軍団は甚大な被害を
受け、ついにその狂気は軍団司令官ツィリル・ハルヴァート中将を
襲い、彼は生半可な治癒魔術では回復不能なほどの重傷を負ってし
まったのである。
1580
それだけでなく、第3大隊はハルヴァート軍団を僅か1100騎
で突破してマサリク軍団に合流することに成功してしまった。
そのあまりにも非常識な事態に、マサリク大将指揮下で剣兵隊を
率いていたマヤが、危うくサラを敵と見誤って攻撃しかけると言う
事態も発生したと言われている。
この時の第3大隊の戦果は、戦況が混乱していたこともあって正
確な数を測ることは困難である。だが、第3大隊の被害が僅か87
騎であったことを考えると、少なくとも第3騎兵連隊の精強さと勇
猛さは大陸指折りであるという事実は最早覆すことができないだろ
う。
ともかく、指揮官重傷によって統制を失ったハルヴァート軍団が
完全に壊乱状態となったのは言うまでもなく、彼らはマサリク軍団
の猛烈な追撃を受けた。
その追撃は、16時30分頃に態勢を立て直した連合軍中央及び
左翼の支援攻撃によって阻まれるまで続き、結果4万を数えたハル
ヴァート軍団が最終的には2万にまで討ち減らされてしまったので
ある。
なお、その後サラがミーゼル大佐から命令違反と独断専行を糾弾
され、エミリアやユゼフから﹁無理をするな﹂という助言を無視し
たのを叱責されたのは言うまでもない。
1581
情報大臣
2月15日の夜。
この日の戦闘は終了し、俺らは戦線各所の補充と補給、陣形の再
編、負傷者や捕虜の後送等の仕事をしつつ、夜襲を警戒して歩哨を
展開させたりしている。
敵味方の戦力規模が膨大なため、当然補給参謀の仕事量も莫大。
﹁おいユゼフ、もうちょっと加減して戦ってくれ。仕事が増える﹂
﹁だが断る﹂
﹁物資を効率よく使ってくれないか﹂
﹁はいはい善処します﹂
使うのは俺じゃなくて前線の兵士だけどね。
まぁ、ラデックの仕事の辛さはわかるよ。なんてたって後方任務
ってかなり重要で大変なのに裏方過ぎてあまり注目されない。それ
どころか軽蔑の対象になることもある。
でもうちの補給参謀はそれでもめげずに、円滑に補給をしてくれ
るありがたい存在。ラデック大明神とでも呼ぼうかな。あとでエミ
リア殿下に﹁戦闘詳報にラデックが勲功第一って書いてください﹂
とでも言っておこう。どんな優れた作戦もそれを実行するだけの兵
力と兵站がなければ無意味だしね。
﹁⋮⋮じゃあせめて、さっさとこの戦い終わらせてくれないか﹂
﹁それは敵に相談してくれ。今日の攻勢も成功とは言い難いし﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁まぁね。予定じゃ、今頃は追撃戦に移行して敵を壊滅させてると
ころだったんだけど⋮⋮。共和派連中が国粋派を援護するとは想定
1582
外だったよ﹂
もしあそこで共和派が国粋派を見捨てていれば、今頃は完全勝利
だった。意外と戦いが長くなってしまったから、ちょっと考え直さ
ないとな⋮⋮。
一方、補給参謀殿は盛大に溜め息をつきつつも手元の書類を手際
よくさばいてる。ちょっと覗いてみたが、どうやらオストマルクか
ら来た支援物資をどの部隊にどう割り振るかで頭を悩ましていたよ
うだ。あぁ、ダメだ。大使館の仕事思い出してきた。これ以上文字
を見ると気絶しそう。
と、ここで突然、ラデックが何かに気付いたかのようにこっちを
向いた。
﹁オストマルクで思い出したんだが⋮⋮リンツ嬢はどうした?﹂
リンツ嬢? ⋮⋮あぁ、フィーネさんのことか。
彼女はここにはいない。というより、この会戦が始まる前に司令
部から去っている。
﹁フィーネさんは別の仕事があって2月の頭あたりから別の仕事を
頼んであるよ﹂
﹁別の仕事?﹂
﹁うん。この戦場での勝利を、より戦略的な勝利に結びつけるため
に動いて貰ってるところ﹂
﹁ふーん⋮⋮てことは、ここで勝たないと意味はないってことか?﹂
﹁そういうこと﹂
﹁んじゃさっさと勝てよ﹂
﹁それができたら苦労はしない﹂
1583
−−−
フィーネ・フォン・リンツがいるのは、カールスバート共和国内
ではない。彼女がいるのはオストマルク帝国の帝都エスターブルク、
その中心にある官庁街である。その官庁街に、最近新しい建築物が
出来た。フィーネは今、そこにいる。
﹁オストマルク帝国情報省本庁舎﹂
それが、この建築物の名前だ。
情報省の設立が正式に決定され、その活動が始動したのはつい最
近のことである。だがフィーネは情報省設立前から、情報省配属と
なる武官となることが決定していた。
フィーネが勤める部署は﹁情報省第一部﹂である。それはこの本
庁舎の主たる情報大臣の直接指揮の下、対外諜報及び工作を実施す
る、情報省の中核を担う部局である。
そして彼女は、上司たる情報大臣と執務室で会見を行っていた。
﹁お久しぶりです。大臣閣下﹂
﹁フッ。2人きりの時はそんな堅苦しい呼び方はしなくていいよ。
いつも通り呼んでくれても構わない﹂
﹁⋮⋮はい、お父様﹂
情報大臣ローマン・フォン・リンツ伯爵。
外務大臣レオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデンホーフ侯爵の
義子であり、外務大臣政務官、外務省調査局長、内務省及び資源省
1584
不正事件調査委員会委員長を歴任した高級官僚にして、フィーネ・
フォン・リンツの実の父親である。
﹁それで、なぜここにいるんだい? 確かカールスバートにいるは
ずだけど?﹂
﹁私は書類上、まだクラクフの帝国領事館にいることになっていま
す。問題ありません﹂
﹁それもそうだな﹂
無論、クラクフにいるはずの情報省の人間がカールスバートの内
戦に干渉し、そして無許可のうちに帝都に戻ってきたことは、普通
ならば問題である。だがそれはこの親子にとっては些細な問題であ
った。
﹁お父様。折り入ってご相談があります﹂
﹁なにかな?﹂
フィーネは、カールスバートに本格介入しているシレジア王国の
士官からの頼み事を、一字一句漏らさずに目の前に座る父に言い放
った。そしてその父親は、若干笑みを浮かべつつ何度も頷いた。
﹁やはりワレサ大尉⋮⋮いや、ワレサ少佐の考えることは面白いね。
是非我が省に来てもらいたい。今なら、審議官くらいの地位を提供
できるのだが﹂
リンツ伯爵はさらっと言ったが、それはとんでもない待遇である。
オストマルク帝国の中央省庁内の建制順は政治上の頂点たる大臣
に始まり、参政官、大臣政務官、大臣補佐官、大臣秘書官、事務方
の頂点たる事務次官、そしてその次に来るのが審議官である。つま
りリンツ伯爵は、ユゼフに事務方のナンバー2に登用すると言った
1585
のである。無論、農民出身のシレジア人、しかも16歳の人間がそ
の地位になるのはあり得ない話である。
そのため、フィーネはそれを冗談として受け止めた。
﹁提供したところで了承しないと思いますよ。なにせ少佐は事務仕
事が苦手のようですので﹂
﹁ふむ⋮⋮それは残念だな﹂
娘の答えに、リンツ伯爵は本当に残念がっているようにも見えた。
その表情が冗談なのか本気なのかは、今のフィーネには判断がつか
なかった。
そしてリンツ伯爵は、そうだ良い事を思いついた、というような
わかりやすい顔をした。情報の専門家たるリンツ伯爵が殊更感情を
表にすることはないことを娘は知っていたため、これが演技だと言
うことも当然見抜いていた。だが、そんな下手な芝居をうつ父親の
言葉は予測できなかった。
﹁あ、そうだ。フィーネを彼の補佐につけさせればいい。そうすれ
ば、彼は嫌いな事務仕事から解放され、フィーネは得意な事務仕事
をこなせる。それに2人一緒に居る時間も長くなれば、彼も婚約の
話について前向きに⋮⋮﹂
この父親、未だユゼフを義子として迎える算段をしていたようで
ある。
フィーネはそんな父親を見て、恥じらいを覚える前に呆れてしま
った。父親の公私の差と、その混同は日に日に増して酷くなってい
るのではないと、彼女は感じたのである。
﹁閣下。話が逸れていますよ﹂
1586
父親の無粋な考えを、フィーネは適当なところでやめさせた。
﹁そうだな。フィーネも、たまには自力で欲するモノを勝ち取りた
いと考えているだろうからね﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女は何も言わなかった。図星だったからである。
さすが情報の専門家と褒めたたえるべきか、乙女心に無粋な横槍
を入れてくるダメな父親と貶すべきか、フィーネは判断に迷ってし
まったのである。
﹁それよりも閣下。先ほどの話、ご検討いただけますか?﹂
フィーネは傷口を広げないよう、全力で話を逸らし、かつやや他
人行儀で応対した。
が、父親にそれは通じなかった。
﹁そうだな⋮⋮フィーネと婚約することを前提に認めれば⋮⋮﹂
﹁閣下!﹂
フィーネは真っ赤になりつつも、父親に真面目に考えるように促
す。
﹁冗談だ。軍務大臣に言っておこう、無料でね﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます。お父様。では私は用が済んだので、
これにて失礼します﹂
そう言って、彼女は足早に大臣執務室から退室した。
そしてリンツ伯爵は、やや強めに閉まった扉を見ながら呟く。
1587
﹁やはり年頃の娘を持ちそれを可愛がるのは、父親の特権だな﹂
リンツ伯爵は、結構親バカであるかもしれない。
なお彼はフィーネ以外にも、あと2人の年頃の娘がいる。
1588
スヴィナー会戦 ︲亀裂︲
王権派の正面に立つ連合軍の動きに異変に気付いたのは、2月1
6日12時10分の事。その異変に最初に気付いたのは、意外にも
サラだった。
﹁ねぇ、ユゼフ﹂
﹁ん?﹂
﹁敵左翼の動きが⋮⋮なんかこうアレじゃない?﹂
﹁アレ?﹂
﹁そう、アレ﹂
なにその指示語。なんか語彙が貧弱なお父さんみたいになってな
い? サラのお父さんがそう言う人だったりしてね。テレビのリモ
コンがアレで、空調のリモコンがソレだったり⋮⋮しないか。する
わけないか。
﹁アレって何?﹂
﹁うーん⋮⋮えーっとね、ほらアレよ! ラスキノ時みたいな!﹂
﹁ラスキノ⋮⋮?﹂
待てよ。ラスキノでも似たような会話したな。確か、あの魔術攻
勢の時だ。
俺と同様にサラの指示語が気になったらしいエミリア殿下は単眼
鏡で敵左翼の様子を窺い、何か気付いたようだ。
﹁⋮⋮敵左翼の動きが鈍化していますね。攻撃に積極性が見られま
せん﹂
1589
なるほど、確かにラスキノだ。あの時もサラが野性的嗅覚を以っ
て敵の不自然な動きを察知していたし。となると問題は⋮⋮、
﹁問題はこの動きが陽動であるのか、あるいは単に疲弊しているだ
けなのか、それ以外なのか。そうだろう、ユゼフ君?﹂
マヤさんに台詞を取られた。くすん。まぁ、彼女の言う通りだ。
疲弊しているのであれば、これは攻勢をかける絶好の機会だ。敵
左翼を一気に切り崩し、その勢いを保ったまま中央と右翼も撃滅さ
せる。
だがこれが罠だとすれば、昨日の連合軍の醜態、あれを攻守を変
えて再現するような物だ。そんなことになれば﹁昨日自分が仕掛け
た罠と同じ物に今日引っ掛かった偉大な愚将﹂として後世の戦史の
教科書に残る羽目になる。そんなのは嫌すぎる。
⋮⋮でも、それは敵も思っているはずか。相手にしてみれば﹁昨
日敵が使った罠を今日我々使っても無意味だ﹂と普通は思うはずだ
もんな。
となると、やはり単に疲弊しているだけか。思えばこの会戦も3
日目、敵はともかく味方の将兵にも疲労の色が見え始めている。と
りあえず昨日の攻勢が成功に近かったから、士気の高さでそれを誤
魔化してはいるけど、敵はそうではないだろう。
だとすると、結論はひとつだ。
−−−
1590
ユゼフの予想は外れていた。
確かに連合軍左翼の兵たちは疲労していたが、その疲労の度合い
は王権派将兵のそれとほぼ同じだったのである。ではやはり罠だっ
たのかと言えば、それも違う。
連合軍左翼の動きが鈍化していたのは、その左翼を担うのが共和
派のペトルジェルカ中将指揮する軍団だったことである。その辺の
事情が、この時の左翼の動きの鈍化を招いていた。
その事情を完全に理解するためには、少し時間は遡らなければな
らない。
それは2月15日の夜、連合軍諸将の作戦会議が終了した直後の
ことである。ペトルジェルカが自身の指揮する軍団に戻ってきたと
き、彼は酷く怒っていた様子だった。
ユゼフ立案の王権派の攻勢作戦を察知したばかりか、味方の全面
崩壊を防いだことからわかるように、ペトルジェルカは﹁良将﹂と
称しても良い戦術的手腕を持っているのは確かである。そのような
人物が怒りと共に会議から帰還したことは余程のことがあったのだ
ろう、と軍団副司令官で共和派のオプレタル少将は推測した。
﹁閣下、どうかされましたか?﹂
オプレタルがそう尋ねると、怒りの溜まっていたペトルジェルカ
はその全てを質問者に、いや司令部に居た全員にぶちまけたのであ
る。
﹁どうもこうもあるか! ハーハの奴、俺らをなんだと思ってやが
1591
る!﹂
曰く、ハーハ大将以下の国粋派諸将が、先のペトルジェルカによ
るハルヴァート軍団の救出の功に対して十分な労いを与えなかった
そうである。
ハーハは作戦会議の場で、自らそのことを言及しなかった。見か
ねたペトルジェルカの副官がそれを質すと、ハーハ少し考えた後、
﹁大義であった﹂
と述べただけで、以降これを口にすることはなかったのである。
それだけならば、ペトルジェルカは怒らなかっただろう。多少の
イラつきと反抗心を覚えただけで済むはずだった。だが、問題はそ
の後だった。
ハーハは、敵の罠にはまって全軍の崩壊を招く寸前にまで陥らせ
たハルヴァート中将に対して﹁数的不利の中果敢に戦い全軍崩壊を
防ぎ、自らは負傷した英雄﹂として褒め讃えたのである。
ハルヴァート自身は負傷もあってその作戦会議の場に同席しなか
ったため、それ以上の論功行賞は行われなかった。
武勲を立てた者が正当に評価されず、逆に敵に翻弄され軍団を半
壊させた者が讃えられる。そんなことがあれば、武勲を立てた者の
怒りが増すのは当たり前である。
また、ペトルジェルカ指揮下の軍団の規模が縮小もその時の作戦
会議で決定された。会戦勃発時のペトルジェルカ率いる左翼は共和
派2個師団、国粋派1個師団、計3個師団の混成部隊だった。その
ためペトルジェルカは思うように部隊を動かすことができなかった
のだが、2月15日の王権派の攻勢によるハルヴァート軍団の損耗
1592
を補填する形で国粋派1個師団が引き抜かれたのである。
ペトルジェルカにとっては、喜ぶべきことだった。確かに軍団の
規模が縮小されたことは痛かったが、これで純粋な共和派勢力のみ
で構成された部隊が出来たのであるから。
﹁閣下、いかがなさるのですか﹂
副司令官オプレタル少将はそう尋ねた。数に劣る王権派に翻弄さ
れる国粋派が意外に頼りないことが分かり、さらに功に報いようと
しないハーハの態度に辟易したオプレタルは、個人的な心情を言っ
てしまえばこの機に国粋派を裏切って王権派に寝返りたかったので
ある。
そしてその思いは、指揮下の下級兵達も同様だった。
誰も彼も、国粋派の指揮下で王権派と戦うという共和政府の意向
に上下一心というわけではなかった。共和派を弾圧し、かと思えば
不利になった瞬間に横柄な態度で和平を持ち込んでくる。それを受
ける政府も政府だが、それ以上の怒りが国粋派に向けられるのは至
極当然のことであった。
だが、ペトルジェルカ中将は判断に迷った。彼の問題としてると
ころは国粋派ではなく、上層部の意向だったのである。
ペトルジェルカが共和政府から受けた命令は﹁国粋派と協力し王
権派を撃滅せよ﹂と言うものであった。彼は、その命令を順守すべ
きか、あるいは背を向けるべきかわからなくなっていたのである。
なぜならば、共和政府の発した命令に従わないどころか、それに
反する行動に出ることは共和国家の大原則たる﹁文民統制﹂を破る
行為にならないのかという不安があったのである。軍人が政治的決
定を覆すことは、共和国家では許されない。
1593
共和派を救うためには共和国家の原則を打ち破らねばならない。
ペトルジェルカが悩んでいたことは、そんな高度な政治性を伴った
ことだったのである。
そして長き沈黙の後に、彼はようやく決断する。
﹁今はまだ、その時ではない。まだな⋮⋮﹂
こうしてペトルジェルカ中将指揮下の共和派2個師団は、とりあ
えず国粋派に味方することに決した。だがその動きが鈍くなってし
まうのも、また無理からぬことであった。
その鈍くなった動きが王権派に悟られたのが、2月16日の12
時10分の事だったのである。
1594
スヴィナー会戦 ︲亀裂︲︵後書き︶
︻お知らせ︼
年間戦記ランキング3位にランクインしました。
ブックマーク・評価を入れてくれた読者の皆様方に感謝します。
これからも末永くよろしくお願いいたします!
1595
スヴィナー会戦 ︲崩壊︲
2月16日13時30分。膠着していたかに見えた戦線に変化が
訪れた。
﹁閣下、敵が攻勢に出ます!﹂
国粋派・共和派連合軍参謀長ドゥシェク中将が叫んだ。だが、そ
の声を聞いたハーハはややイラついた。
﹁そんなことはわかっている。一々報告せんで良い﹂
ハーハは、前日の王権派の斜線陣を完全に見抜けなかった参謀長
に怒りを覚えていたのである。しかし敵の作戦に気付かなかったと
言う点ではハーハはそれも同じだったため、公然とドゥシェクを責
めることができず、故に向けるべき方向を見失っていた怒りを苛立
ちに代えてあらゆるものに当たっていたのである。
そのハーハの苛立ちを真に受けたドゥシェクだったが、彼は動じ
なかった。これは一過性のもので、戦術的成功を収めればすぐにそ
れが消えると考えたからである。故に彼は、自らの責務を果たす。
﹁敵左翼が、我が右翼に対して攻勢に出ています。如何致しましょ
うか﹂
﹁⋮⋮﹂
もしハーハが、昨日までの冷静な判断力を持ち合わせていたのな
らば、ここで参謀長に意見を聞いて指示をしていただろう。だが今
1596
の彼にはそれが出来ず、命令はいつまでたっても下されなかった。
一方、前線で王権派の熾烈な攻勢を真に受けていた連合軍右翼3
個師団は混乱していた。この部隊を指揮するのは、ハルヴァートが
健在の頃に右翼のある師団の司令官を勤めていたリーズナルである。
彼は、ハルヴァート重傷の際、ハーハの命令によって一時的に中将
に昇進した。つまり彼は元々少将で、この激戦の中野戦任官を受け
たのである。当然彼の才覚は少将止まりであり、中将として3個師
団も指揮する能力を持っていない。そのため、彼は総司令部からの
命令をひたすらに待った。
だが、その肝心の総司令官ハーハの命令が来なかった。後退して
敵の攻勢を受け流すべきなのか、現地点を死守してその隙に中央が
敵左翼の側面に出るのかが判断できなかったのである。
どちらにしても中央の指令と支援が必要な行動であったが、ハー
ハ自身が猜疑心によって自らの行動を縛ってしまったために部隊が
柔軟に動くことができなかったのである。
・・
結局、リーズナル中将は独断で後退することにした。なんらかの
事態が起き、ハーハが命令できない状態に置かれたのではないかと
いう判断から、損害の少ない後退命令を出したのである。
その判断は間違いではなかったが、問題は3個師団の戦列を維持
しつつ損害を少なく後退させるという難易度の高い技を行わなくて
はいけないことだった。
そしてリーズナルは、そんなことはできなかった。何の変哲もな
い攻勢を受けて、無様にも戦列を乱して後退する様は、敵である王
権派が﹁ここまで乱れているとなると何かの罠ではないか﹂と勘繰
ってしまったほどである。当然罠などではなく、リーズナル中将率
いる右翼3個師団は1割強の損害を出してしまったのである。
1597
独断で後退を決めたばかりか、戦列を乱して後退するというその
無様な光景を目にしたハーハが怒りを覚えたのは当然である。だが
彼はその怒りをぶちまける前に、やるべきことをしなければならな
かった。
右翼が独断で後退した影響で、ハーハが直接指揮する中央3個師
団の右側ががら空きとなりつつあった。このままでは右翼から王権
派に攻撃され分断される可能性がある。
ハーハは怒りを抑えて旗下の部隊に後退を命じると共に、左翼の
ペトルジェルカ中将に向け撤退の伝令を出した。
13時50分の時点で、連合軍中央は右翼のいる地点まで後退を
開始した。だが、この時なぜか左翼が中央のに連動しなかった。
ハーハが中央と左翼の後退命令を出したとほぼ同じ時、王権派が
左翼に対して攻勢を仕掛けたのである。
﹁閣下、敵右翼部隊が急進してきます!﹂
﹁慌てるな。我が左翼と敵右翼はほぼ同数、中央本隊と呼吸を合わ
せてゆっくり後退すれば問題ない﹂
ペトルジェルカは部下の慌てぶりとは正反対に、冷静さを以って
部隊を機動させた。だがその2分後、部下から届いた2つ目の情報
に、彼はその冷静さを一時的に失ってしまったのである。
﹁左翼後方より敵部隊! 数およそ1000!﹂
﹁何!? どうやって、いつの間に⋮⋮!﹂
ペトルジェルカ軍団の左側背を襲ったのは、かつてフラニッツェ
会戦で捕虜となって王権派に寝返ったトレイバル准将指揮する部隊
1598
であった。
彼の部隊は、王権派左翼の攻勢によって連合軍の耳目がその方面
に向けられた事に便乗し、部隊を迂回させたのである。ペトルジェ
ルカが索敵を怠っていた訳ではない。だが、この広い戦場において
全ての戦域を監視できるだけの哨戒網を完全に構築するに至ってお
らず、その網の目には小さいながらも穴があった。
本来であればそれは問題にはならない範囲であったが、トレイバ
ル准将にかかればそれは大きな穴だったのである。彼は歩哨の目が
粗い地点を線で結び、それに沿って部隊を迅速にかつ慎重に機動さ
せることによってペトルジェルカの目を掻い潜ることに成功したの
である。
だが無論、そのような奇襲攻撃をするには兵力は少なくなる。故
にたった1000の部隊であったのだが、ユゼフが咄嗟に立案した
作戦では問題とはならなかった。
ペトルジェルカは、後退しつつ後方のトレイバル准将の1000
名の歩兵部隊を撃砕することを命じた。軍団を回頭するのではなく、
後方に兵を集めて防御を厚くすると言う方法が取られた。これは前
日の斜線陣と同じ目に遭わないための措置だった。
だがペトルジェルカがその部隊配置を終えさせ後退を実行するま
での間、左翼2個師団と後退を続けていた中央3個師団との間には
かなりの距離が出来てしまったのである。
さらにこの時、王権派右翼はペトルジェルカ軍団の左正面へと回
り込み、半包囲を試みるような三日月形の陣形を展開したのである。
つまりトレイバル准将がペトルジェルカ軍団の左側背を襲ったの
は、ペトルジェルカ軍団の後方を扼すためではなく、真の目的は王
権派右翼が陣形を変更し部隊を展開させるための時間稼ぎだったの
1599
である。
﹁たった1000人で2万人の部隊の後方を遮断できるわけないじ
ゃん﹂
と、作戦を立案した当の本人はトレイバルに対してそうぬけぬけ
と言ったそうである。
彼の言動はともかく、これでこの作戦における根幹の舞台は整っ
た。
14時10分。
王権派右翼2個師団とトレイバル准将の部隊は、連合軍左翼に対
して攻勢に出た。
後方と前方左翼からの攻勢を受けたペトルジェルカ軍団は、その
猛烈な攻勢を受け止めることができなかった。中央部隊と離れてし
まったために、友軍の支援を得ることができないでいた。
﹁陣形を整えつつ右翼方向へ移動せよ!﹂
耐えかねたペトルジェルカは、後退した中央部隊が先ほどまでい
た場所に軍団を移動させた⋮⋮いや、正確に言えば﹁移動させられ
た﹂のである。王権派が狙っていたのは、まさにこの瞬間だったの
だから。
連合軍右翼と中央は大きく後退し、その後退によって生じた狭い
空間に連合軍左翼部隊を押し込むような形で部隊を展開・機動させ
たのである。
これによって、連合軍左翼2個師団は正面に王権派中央3個、左
側面に王権派右翼2個師団を相手することになってしまったのであ
1600
る。
この事態に至った時、ハーハは全ての状況を理解した。このまま
では左翼2個師団を失う羽目になる。それが共和派と言えど、今の
国粋派にとっては貴重な戦力である。
ハーハはすぐに旗下の部隊に命令を出した。ペトルジェルカ軍団
の左側面を襲う王権派右翼の後方に躍り出て半包囲態勢を崩すのだ、
と。
だが連合軍がそのようなことをする時間的な余裕を、王権派が与
えるはずもなかった。
王権派司令官カレル・ツー・リヒノフが吠えた。
﹁全軍突撃せよ!﹂
14時30分。王権派中央と右翼、合計5個師団が連合軍ペトル
ジェルカ軍団2個師団に対して総攻撃を実施したのである。彼我の
戦力差は5:2であり、加えてペトルジェルカ軍団は半包囲下にあ
ることもあってその総攻撃を耐えることができるはずもなかった。
さらに、ユゼフさえも予想だにしなかったことも起きていた。そ
れはペトルジェルカ軍団が、位置的に国粋派の前に立ち国粋派を守
るような態勢になっていたことによる弊害が起きていたのである。
それはつまりば、共和派が国粋派の肉盾となる格好になっていたの
ということだった。そのような状況下で、まともに戦おうという意
思を持つ者は共和派たるペトルジェルカ軍団には存在しなかった。
よって戦闘と呼べるものは10分で終わり、ペトルジェルカ軍団
は全面崩壊に至る。この時の軍団の損耗率は不明だが、戦闘時間か
ら計算してもまだ僅少だったことは確実である。だが、統制と士気
が完全に崩壊してしまい、共和派の将兵たちは戦列も陣形もなく散
1601
り散りになって逃げだしたのである。
その無秩序な逃亡は、後背に控えていた連合軍中央及び右翼の国
粋派の軍団に襲い掛かった。崩壊する戦線を維持しようにも、ある
いは支援をしようにも、逃亡する共和派将兵に阻まれて実行するこ
とができなかったのである。
﹁クソッ!! 魔術兵隊、弓兵隊は、逃亡を図る修正主義者の連中
ごと反動主義者の軍勢を攻撃せよ!!﹂
ハーハは怒りを顕わにして、部下にそう命じた。だがその命令を
聞く者はいなかった。共和派と言えど先ほどまで味方として戦った
者、さらに元を正せば同じカールスバート国民である。それを攻撃
することなど、国粋派の将兵たちはできなかった。そこにハーハに
対する不信感が合わさり、国粋派内部においても士気が崩壊し始め
たのである。
そのため国粋派は、決壊したダムのように押し寄せてくる逃亡兵
と王権派の軍勢に狼狽していた。
このような予想外な結果を見たユゼフは、唖然としながら頭を掻
いていた。
﹁⋮⋮どうしてこうなった﹂
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、という言葉
はまさにこのことであっただろう。
﹁どうするのよ、これ﹂
ユゼフの隣で彼と同じく呆然として戦況を見やっていたサラが、
誰に向ける訳でもなくそんなことを呟いた。
1602
それに答えたのは、エミリアの脇に立つマヤだった。
﹁どうもこうもない。このまま突撃して、追撃戦に移行する。この
会戦の主目的は国粋派と共和派の戦力を撃滅させて、講和を有利に
持ち込むことにある。ここで慈悲の心を見せては意味がない﹂
﹁マヤの言う通りです。ですが慈悲の心は必要ですよ﹂
エミリアはそう言って微笑みつつ、覗いていた単眼鏡を下した。
﹁敵を殺傷するのではなく、出来れば降伏を促しましょう。これは
内戦ですし、王権派の方々にとっては同じ国民であるはずですから。
それにあまりにも多く殺傷してしまえば、後日に遺恨を残すことに
なります﹂
エミリアのその判断は軍事的なものではなく政治的なものであっ
た。それは今の状況では軍事的な勝ちが揺るぎなく、政治的判断を
するだけの余裕が生まれた事の証左であっただろう。
エミリアの判断に、ユゼフ以下司令部の皆が納得した。マヤの指
示によってそのエミリアの意向が伝令兵を経由してカレルに伝えら
れると、カレルもそれを了承して無用な殺生は避け、捕虜とすべし
と訓示した。
またそれと同時にエミリアは馬に跨り、そして衝撃的な発言をし
たのである。
﹁では、陣頭指揮を取ります。後方の士気はユゼフさんに任せ⋮⋮﹂
﹁ちょ、ちょっとエミリア!?﹂
サラは慌ててエミリアを止めようとしたが、彼女はそれに従わな
1603
かった。
﹁サラさんが近衛騎兵として、私を守ってくれれば問題ありません
よ﹂
﹁で、でも万が一何かがあったら⋮⋮﹂
﹁あら、サラさんは自信がないんですか? であれば、私はやめま
すが⋮⋮﹂
シュンとするエミリアの顔を見たサラは、慌てて言い繕った。
﹁そんなわけないじゃない! 相手が何万人だろうと、守ってやる
わよ!!﹂
﹁ちょっと!?﹂
今度はユゼフが慌てる番であった。エミリアを止めるべきサラが、
逆にエミリアの徴発に乗せられてしまったのであるから。
ユゼフは2人を止めようとしたがそれは無駄に終わってしまった。
サラは急いで馬に跨ると、部下に命令して第3騎兵連隊第3大隊を
集めて命令したのである。
﹁みんな・近衛騎兵の名に恥じぬよう、エミリア殿下を死んでもお
守りするのよ!﹂
﹁﹁﹁応!!﹂﹂﹂
ここまで場が盛り上がってしまっては、最早ユゼフは止めること
ができなかった。そして彼の視界の端には、エミリアやサラと同様
に馬に跨るマヤの姿があり、彼は盛大に溜め息を吐いたという。
﹁ではユゼフさん。後は頼みますね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
1604
ユゼフのその力ない返事を聞いたエミリアは満足し、そして彼女
は力強く手綱を握り、馬の腹を蹴りつつ叫んだのである。
﹁総員突撃! 我に続け!﹂
−−−
エミリア殿下率いる騎兵大隊が、崩壊する連合軍を追撃すべく突
撃していった。
王女が陣頭指揮なんてどうかしてると思うが、でもエミリア殿下
はいつまでも後方に下がって指示をするだけの存在になりたくはな
いと願っていた。だから最後くらい⋮⋮ということなのだろう。
まぁ、追撃戦における部下の武勲を横取りするつもりなのかと後
ろ指を差される可能性はあるのだが⋮⋮別にいいや。
敵陣に突撃するエミリア殿下の姿があまりにも綺麗で、危うく惚
れそうになるところだった。王女と農民なんて、どう考えても不相
応だしね。
﹁で、ユゼフはどうするんだ?﹂
いつの間にか俺の隣に立っていたラデックが、そう聞いてきた。
ラデックも、なんか本気で﹁どうするんだこれ﹂みたいな顔してる。
1605
﹁ま、エミリア殿下の命令に従うよ﹂
﹁そうか。じゃ、なるべく物資その他は効率的に使ってくれ﹂
﹁保障はしかねる﹂
俺がそう言うと、ラデックは盛大な溜め息を吐きながら輜重兵隊
の方へ駆けて行った。うん、なんだかんだ言って物資を調達してく
るラデックにはいつもいつも感謝してるよ。
⋮⋮さて、と。エミリア師団にはまだ突撃していない部隊が1個
旅団程度いる。俺はそれを任されたのだ。任されたからにはちゃん
とやらないとな。
﹁陣形を整え最後尾を固める! エミリア殿下の背中をお守りしろ
!﹂
﹁ハッ!﹂
1606
スヴィナー会戦 ︲崩壊︲︵後書き︶
日間総合ランキング40位にランクインしました!︵何があった⋮
⋮︶
皆さん本当にありがとうございます!
1607
祭の片付け
大陸暦638年2月16日。
カールスバート共和国内戦における最大規模の、そして最後の会
戦であるスヴィナー会戦が終わった時刻と言うのは正確には判明し
ていない。
シレジア王国軍の戦闘詳報によれば、2月16日の22時30分
に追撃を終了したとある。だが、まだこの時正式な政府を持たず、
反乱勢力のひとつでしかなかったカールスバート王権派が何時まで
追撃をしたのかというのは正確な記録が残っておらず不明であった。
捕虜になったある国粋派の士官によれば、2月17日になっても王
権派騎兵隊が連合軍を追い回していた、と回想している。
しかし戦闘終了時間がどうであれ、国粋派・共和派の被害は甚大
だった。
スヴィナー会戦開戦時10万5800名を擁していた連合軍は、
その内約4割にあたる4万3000名の戦死傷者を出し、さらに4
万5000余名が王権派の捕虜となってしまった。戦死者名簿の中
には、連合軍右翼を指揮しユゼフの罠にかかったハルヴァート中将、
連合軍副司令官にして共和派のペトルジェルカ中将らの名もあった。
そして生き残った、あるいは虜囚の身とならなかった者の数は1万
8000弱、その約半数、ハーハ大将以下9000名が首都ソコロ
フに帰還することができ、残りの半数は何処かへと逃げ去った。
対して開戦時兵力7万4000余名を擁していた王権派の被害は、
戦死傷1万3500余名であった。捕虜も数千人出ていたが、連合
軍の後方拠点であるリトシュミルが王権派が占領したため、捕虜は
解放されている。
1608
王権派は、連合軍を追撃するとともに占領地を広げることができ
た。獲得した捕虜や、国粋派勢力圏内に留まっていた兵の中には、
王権派に翻って国王カレル・ツー・リヒノフに積極的に協力する者
も現れた。
スヴィナー会戦によって王権派は多くの将兵を手に入れ、王権派
の兵力は11個師団にまで増大した。共和国の3分の2をその手中
に収め、統治の公正さから住民の信用も獲得しその基盤を確固たる
ものにすることにも成功した。
一方、最盛期18個師団を誇っていた国粋派の兵力は残余5個師
団にまで討ち減らされ、共和派に至ってはスヴィナー会戦にほとん
どの兵力をつぎ込んだために2000名しか残っていなかった。
だが1つ問題があった。事ここに至っても、暫定大統領エドヴァ
ルト・ハーハ大将が降伏を認めず、交渉に応じなかったのである。
﹁全軍で首都に立て籠もれば、まだなんとかなる。確かに我々は劣
勢であるが、まだ負けてはいない﹂
ハーハはそう言ったが、確かに軍事的にはその通りである。
残り5個師団とはいえ、首都に立て籠もれば数ヶ月は抵抗できる
だろう。首都を包囲する側となる王権派は補給の問題を気にする必
要があるし、何よりリヴォニア貴族連合の内戦介入を許してしまう
可能性もある。
決戦を行い、国粋派を交渉の机に引き摺り出す。それが王権派の
戦略目的であったが、このままではその戦略目的を達成することが
できない。王権派の幹部は頭を悩ませた。
が、その幹部の中で1人呑気な者がいた。
1609
エミリア師団作戦参謀、ユゼフ・ワレサ少佐である。
−−−
﹁ユゼフさん﹂
﹁? なんでしょうか、殿下﹂
国粋派の暫定大統領ハーハを交渉のテーブルにどうやって引き摺
り出すかの会議が結論有耶無耶のうちに終わった時、エミリア殿下
に呼び止められた。
﹁﹃なんでしょうか﹄ですか。それは私の台詞ですね﹂
はて?
俺なんか変なことしたっけ。
﹁ユゼフさんは優秀なのは良いのですが、もう少し私に相談とか、
報告とかしてほしいものです﹂
﹁それは⋮⋮どうもすみません﹂
なんか殿下がプンスカしてらっしゃる。金髪ロリ美少女なエミリ
ア殿下が不貞腐れておられる。可愛いです。
などと、俺がやや不敬なことを考えていた時、王権派の下士官が
敬礼もそこそこに俺に話しかけてきたのである。
﹁ワレサ少佐宛てにお手紙があります﹂
1610
﹁あぁ、どうもありがとう﹂
俺が手紙を受け取ると、彼はそのまま別の仕事があるからと言っ
て立ち去った。ちょっと態度が余所余所しいのは殿下がいるからな
のか、それともやっぱり遥かに年下の人間が遥か格上の上司である
のは話しづらいのか⋮⋮悲しい。まぁ我がエミリア師団では最年少
のエミリア殿下が指揮っているけどね。
それはさておき、手紙か。例のアレが上手くいったのかな。まぁ
彼女のことだから上手くやって⋮⋮
﹁なるほど、これを待っていたのですね﹂
手紙をエミリア殿下にひったくられた。殿下はそのまま封筒を観
察し、そして差出人がないことを確認するとすぐに封を開けたので
ある。
﹁あ、あの、殿下!?﹂
﹁ふむ⋮⋮差出人の名はありませんが、筆跡は覚えがあります。フ
ィーネさんですね﹂
﹁あのー、殿下。手紙を返して貰えませぬか?﹂
﹁私がすべて読み終わったら返します﹂
王女殿下兼大佐からそう言われてしまうと立場上何もできないん
ですが⋮⋮。
封筒に入っていた手紙は、俺が脇から覗いてみた限り確かにフィ
ーネさんの筆跡だった。内容は、俺が彼女に頼んだことの成果報告
だ。
﹁ユゼフさん﹂
1611
﹁はい、殿下﹂
﹁報連相はしっかりしてください﹂
﹁申し訳ありません﹂
と、言われてもこういうことって話辛いんだよね。評価云々より
も、殿下からの好感度が落ちそうで怖い。いやでも殿下の今の様子
見ている限り、報告しないことによって好感度が下がっているよう
な⋮⋮。
﹁ユゼフさん。私はそんなに上官として信用できないでしょうか?﹂
﹁い、いえ、そんなことは!﹂
上目遣いでうるうるしないでください、さすがにそれは卑怯です。
﹁本当ですか?﹂
﹁はい。エミリア殿下以外の方を上司とすることは考えられないほ
どには!﹂
﹁⋮⋮そうですか。では、次からはしっかりと事前報告をしてくだ
さいね﹂
エミリア殿下がそう言った途端、うるうるしていた殿下の目が普
段通りに戻った。え、アレは嘘泣きだったんですか? 王女ってそ
う言う芸当ができるの? なにそれ怖い。
﹁ところで殿下、質問よろしいですか?﹂
﹁伺いましょう﹂
﹁⋮⋮なぜ私が隠し事をしているのかがわかったんですか?﹂
俺がそう言うと、エミリア殿下は目をパチクリさせた。﹁お前そ
んなこともわかってないの?﹂と言いたげな目である。わからない
1612
から聞いてるんですけどね。
﹁んー、これを言ったらユゼフさんの言葉の、嘘と本当の見分ける
ことができなくなりますね⋮⋮﹂
え、なに、そんなにわかりやすいの俺。
殿下は本気で悩んだようで、数十秒後ようやく口を開けた。
﹁勿体ないので、内緒です﹂
そう言って、微笑みながら人差し指を唇に当てたのである。そん
なのを見せられたら、これ以上の追及はできない。
もしかして、そう言うのを見越してこういう行動をしたのだろう
か⋮⋮。王女、恐るべし。
1613
最後の一投
大陸暦638年2月20日。
カールスバート共和国の首都ソコロフにある首都防衛司令部は陰
鬱した空気が流れていた。その空気の理由は明快にして明瞭。それ
は2月18日、ソコロフから東北東に100kmの地点にある共和
派の拠点チェルニロフが王権の手によって陥落、共和派は王権派に
対して全面降伏したのである。
そしてチェルニロフ陥落後も、王権派は手を緩めることなく、足
を止めることなく、国粋派の拠点たるここソコロフに向け進撃を進
めている。21日にもなれば、王権派の軍靴の音が首都外縁部に達
するであろう。
そして王権派が一歩一歩近づくのと比例して、ソコロフにおいて
は反政府暴動が頻発した。国粋派を打倒し、王権派を支持する暴動
ではあったが、それは名目的な理由にすぎず、実質的な理由は単に
﹁物資の欠乏﹂にあった。
農村地帯は殆どが国粋派の勢力から離脱し、国粋派に対する農産
物の供給を拒否した。リヴォニア、オストマルク、シレジアからの
物資供給など受けられるはずもなく、ソコロフの備蓄物資は日に日
に減っていた。そしてその数少ない備蓄物資でさえ、首都籠城のた
めとして軍隊が徴発したのである。故にソコロフの市民は飢え始め、
それが暴動へと繋がった。
王権派はまもなく首都に来る。そして首都では暴動が頻発する。
首都駐屯の兵の士気も低い。
1614
内憂外患とはまさにこのことだが、暫定大統領エドヴァルト・ハ
ーハはまだ勝ち筋を描いていた。
﹁リヴォニア貴族連合を味方につければ、まだなんとかなるかもし
れない⋮⋮﹂
この期に及んでハーハは、リヴォニア貴族連合との同盟を模索し
ていたのである。今からカールスバートを侵略せんとするリヴォニ
アが同盟を受け入れるかどうかは甚だ疑問であるが、彼にも言い分
はある。
名目的な支配権をリヴォニアに認め、実質的な自治権を国粋派が
握る。さすれば、まだカールスバート軍事政権は守られるはずだ、
とそう考えたのである。
既に数を減らしていた国粋派将官らは、ハーハの考えに同調しな
かった。だが彼らはハーハを裏切ろうなどとは考えなかった。今ハ
ーハに従っている者は、カールスバート政変前からハーハを慕い、
そして共に政変を実行した者達である。理性よりも感情の面から言
って、彼らは簡単にはハーハを裏切れなかったのである。
そんな彼らの理性と感情を揺さぶったのは、王権派の策謀の結果
であった。その情報は、2月20日の16時40分、作戦会議の席
上にてもたらされた。
﹁去る、2月19日。オストマルク帝国領ローアバッハにて、オス
トマルク帝国軍が軍事演習を実施した模様です!﹂
副官からの報告を聞いたハーハは、その場で立ち上がりつつ机を
大きく叩いた。そんなことはあり得ない、と言いたげな表情をして。
1615
﹁なっ⋮⋮!? そ、それは本当か!?﹂
﹁間違いありません。帝国軍務省の公式発表もあります。規模も相
当大きく、数万人規模に達するとのことです⋮⋮﹂
﹁なんとういうことだ⋮⋮﹂
ハーハは報告を聞いた後、ぐったりと椅子に腰かけたのである。
軍事演習とは、それ単体では特に意味を持つことはない。規模の
違いはあれど、どの国でも行っていることである。
だが、場所が問題だった。今回の軍事演習が行われた場所はオス
トマルク帝国領ローアバッハという地方都市。そこは帝国の北西部
のクーデンホーフ侯爵領にあり、カールスバート共和国、そしてリ
ヴォニア貴族連合との国境地帯にほど近い都市である。
ハーハは、そして彼の幕僚たちはその軍事演習がどういう意味を
持つかを理解した。
それはカールスバート国粋派に対する明らかな宣戦布告の意思、
そして軍事介入をしようとするリヴォニア貴族連合への牽制である。
これによってリヴォニア貴族連合の軍事介入の可能性は低くなる、
あるいは延期されたのである。カールスバートのために、第二次リ
ヴォニア=オストマルク戦争をしたいなどと考える首脳部はそう多
くないはずであるから。
また、この軍事演習が行われた場所であるローアバッハは、先述
の通り帝国北西部に位置している。王権派と敵対行動を取りたいの
であれば、ローアバッハではなくもっと東の地点で行うはずである。
つまりこの軍事演習の目的が国粋派に対する示威行為であり、そし
て間接的に王権派を支持することになるのは自明の理だった。
1616
つまりこの瞬間、国粋派は完全に孤立無援となったのである。
だが実際には、それははるか前に決定されていた。この時ハーハ
以下国粋派の諸将は知らなかったが、オストマルクは内戦勃発当初
から間接的に王権派を支援していた。こうなることは、ある意味に
おいては運命だったのである。
そういう運命を手繰り寄せたのが、エミリア師団作戦参謀ユゼフ・
ワレサと、彼の策謀に賛同し協力したオストマルク帝国情報省第一
部所属のフィーネ・フォン・リンツなのである。
ここまで来れば、さすがにハーハの幕僚たちも感情を捨てざるを
得なかった。
﹁閣下、最早我々はここまでです。せめて一刻も早くこの内戦を終
わらせ、愛する国民の命を守ることに致しましょう﹂
﹁閣下、御決断を!﹂
幕僚たちの説得の前に、ハーハは暫し無言だった。彼は手を組み、
祈るような格好で前屈みになった。
不安に思った幕僚の一人がもう一度話しかけようとした時、彼は
ようやく口を開いた。ただしその時のハーハの声は、彼の人となり
から考えるととても小さなものであったかもしれない。
﹁⋮⋮考える時間を欲しい。全員、部屋から出てくれ﹂
その生気のないハーハの声を聞いた幕僚たちは自分たちの耳を疑
った。まさかハーハから、こんな弱気な台詞を聞くことがあるのか
と。
彼らは莫大な不安を抱えつつも、上官であるハーハの命令に従い
作戦会議室から出た。副官は残ろうとしたが、ハーハが再び命令し
1617
たため黙って外に出た。
会議室の外で待機していた幕僚たちは、小声で話し合っていた。
﹁閣下はどうなさるおつもりだろうか⋮⋮﹂
﹁彼我の戦力差は巨大、しかも我が物資と軍の兵の士気は底をつい
ている。このような状況で抵抗をしても無意味に終わるのは、閣下
もおわかりのはずだ﹂
﹁だが、閣下はもしかしたら﹃名誉ある戦死﹄を望むかもしれん⋮
⋮﹂
エドヴァルト・ハーハは戦術家であり、戦略家であった。彼は大
将の階級章を身につけ、軍部の長たる作戦本部長の地位を持ってい
た。それだけに、今の苦しい国粋派の状況を理解できぬはずもなか
った。
だが、やはり彼は武人でもある。﹁降伏するくらいであれば名誉
ある戦死を﹂と言わない確証はどこにもない。一度決めた信念をお
いそれと曲げることが出来る人間が独裁者となることは不可能なの
だから。
そんな不安が、彼らにはあったのである。
そして幕僚たちが、次第にハーハの暗殺という手段に出るべきか
と考えたのは無理からぬことである。防衛司令部の窓から見える群
衆の波が、彼らにその決断を促した。
彼らは意を決して、武器を携えてハーハがいるはずの作戦会議室
の扉を豪快にぶち開けた。長く彼の下で戦っていた幕僚たちが、ハ
ーハを暗殺すると心に決めて、感情を押し殺し勢いに任せたのであ
る。
1618
大陸暦638年2月20日16時55分。
ヴォイチェフ・クリーゲル大統領の暗殺から始まったカールスバ
ート軍事政権は、エドヴァルト・ハーハ暫定大統領の暗殺でもって、
その短い歴史に幕を閉じたのである。
1619
悲願
大陸暦638年2月28日。
俺は今、占領した首都ソコロフの防衛司令部にいる。
ライオン
長らく共和国の国旗がはためいていたこの防衛司令部は、今は旧
カールスバート王国の国旗が掲げられている。銀色の獅子を模した
紋章の上に王冠、その紋様を菩提樹の葉が囲んでいるという、なか
なかカッコイイ国旗だ。
ソコロフが陥落したのはハーハ大将暗殺が起きた2日後、2月2
2日のこと。
王権派の軍勢がソコロフの入城を果たした時、市民は歓呼の声で
これを迎えた。悪辣な独裁者の手から解放したカレル陛下の好感度
は今や天井知らずだ。
うんうん、よかったよかった。ラデックを説得して王権派が持つ
物資食糧の一部を開放して市民にばら撒いた甲斐がある。その代わ
りラデックの仕事は増えたけど、市民の好感度を上げるために犠牲
になってほしい。やっぱりばらまき政策は鉄板なんだなって。
ともあれ、俺たちは首都を占領した。今はまだ名目的な政権移譲
が行われていないから共和国のままだけど、カレル陛下曰く、明日
3月1日に正式に王政復古の令を出すという。新たに生まれるこの
カールスバート第二王政、あるいはカールスバート復古王朝はシレ
ジア王国とオストマルク帝国の政府承認を受けることになる。そう
すれば、リヴォニア貴族連合が介入してくる心配も完全に消えるし、
何よりシレジア王国は南部国境地帯を憂慮する必要はなくなるのだ。
1620
ところでカレル陛下って戴冠してもカレル・ツー・リヒノフを名
乗るんだろうか。リヒノフってどっかの地名なんだよね? リヒノ
フを治めるカレルさんじゃなくなるから、カレル・ツー・カールス
バートとでも名乗るんだろうか。まぁ、いいか。
にしても、ここまで来るのに結構時間がかかっ⋮⋮たと思ったけ
どそんなことはなかった。内戦勃発が10月29日だから、まだ4
ヶ月しか経ってない。3年くらい戦った気がしないでもないのだが。
あぁ、ユリアどうしてるだろうな⋮⋮。あと両親もどうしてるだ
ろうか。書類上は生きていることは確認してるけど、前回会ったの
がシレジア大使館着任前のことだから、元気にしてるかどうかはわ
からないのだ。
﹁ユゼフ少佐﹂
色々考えていた時、今回の内戦の最大の功労者の1人であるフィ
ーネさんに声を掛けられた。
﹁あ、今回はどうもありがとうございます。フィーネさん﹂
﹁⋮⋮いえ、私は何も﹂
﹁謙遜しなくても良いんですよ。あの軍事演習をローアバッハで行
うように仕向けたのはフィーネさんだと聞きましたが﹂
﹁たまたまです。祖父の領地があそこにあっただけですから﹂
彼女はそっぽを向きながら自らの功を否定する。でもリンツ伯や
クーデンホーフ候の名前を出さなかった辺り、どうやらフィーネさ
んが場所を指定したのは間違いないらしい。俺は国粋派勢力圏内に
近い場所で軍事演習してほしいと要請しただけだ。
1621
それを指摘すると、フィーネさんは2度3度わざとらしく咳き込
むと、手に持っていた資料のいくつかを俺に渡してきた。
﹁少佐。それよりも先ほど、共和国軍憲兵隊の情報が公開されまし
た。例の大統領府放火事件の情報も手に入りました。こちらです﹂
共和国内戦における、最初の火種。大統領府放火事件。渡された
共和国軍憲兵隊の捜査資料と、フィーネさんの憲兵隊員の尋問によ
って手に入れた情報が、その資料には書いてあった。
内容は、とてつもないものだった。共和国軍憲兵隊と、そして共
和国を統べる地位にあったハーハは当然これを知っていただろうし、
当然例の人物も知っていたはずだ。
だとすると、俺たちにはやり残したことがある。
内戦は、まだ終わっていない。終わったことにはなっているけど、
このままでは終われない。フィーネさんもそれが分かっているよう
で、俺と目が合うと深く頷いた。
﹁少佐、最後の仕事しましょう﹂
また、エミリア殿下に報告をせずに事を運ぶことになりそうだ。
事後承認でいいかしら。
−−−
14時10分。俺とフィーネさんは、この内戦において際立って
1622
目立っていた男の下に居る。彼は、この首都防衛司令部の司令官執
務室において、椅子に深く腰掛けて随分リラックスしている様子で
座っていた。
﹁久しぶり、少佐﹂
﹁⋮⋮こちらこそ、中将閣下﹂
首都防衛司令部司令官、そして元シュンペルク軍団司令官、エド
ヴァルト・ハーハ大将の幕僚、即ちヘルベルト・リーバル中将であ
る。
﹁此度の帝国の軍事演習、仕掛けたのは少佐と聞いたよ。まったく、
若さに見合わない武勲と度量だな﹂
褒められた気がしない。字面だけ見ると褒めているのはわかるの
だが、彼の独特な見た目とその抑揚のせいで、どうも皮肉っぽく聞
こえてしまう。
﹁お褒め戴きありがとうございます⋮⋮が、暫定大統領暗殺という
武功に比べれば、小官如きの武勲など大したものではありませんよ
中将閣下﹂
これを推測したのは、俺じゃなくてフィーネさんだった。大統領
暗殺の現場に、どうやらリーバル中将もいたことは国粋派の人間の
尋問で明らかになっていた。
それに対して、リーバルは笑みを保ったままだった。否定をしな
いと言うことは、たぶん幕僚たちの不安を煽って暗殺をするよう促
したのはリーバルだと言うフィーネさんの推測は正しかったのだろ
う。
1623
﹁して、今回は何用かな。王国の若き英雄君﹂
﹁そんな大層なあだ名を頂戴した覚えはありませんよ。私はただ、
最後の仕事をしに来ただけです﹂
俺がそう言うと、リーバルはいつもの不気味な笑顔のまま聞き返
してくる。
﹁最後の仕事?﹂
﹁はい。この内戦を、より良い終わりにするために﹂
﹁ほほう。おかしなことを言うね。外を見てみるといい。内戦はも
う終わったのだよ?﹂
﹁終わってませんよ。外のアレは、終わった気になっているだけで
す﹂
この内戦は、大統領府放火事件に始まった。そしてこの大統領府
放火事件の真相を暴かぬ限り、内戦は終わりではない。
﹁中将閣下、あなたの現在の地位は?﹂
﹁そうだな、首都防衛司令部司令官と暫定大統領軍務補佐官と言っ
たところかな?﹂
﹁そう、あなたは首都防衛司令部司令官だ。であれば当然、首都の
憲兵隊のこの捜査資料についても知っていたはずですね?﹂
そう言って、俺は先ほどフィーネさんから渡された共和国軍憲兵
隊による大統領府放火事件の捜査資料を、リーバルの執務机に叩き
つけた。その捜査資料には、リーバルのサインもちゃんと書かれて
いる。知らないはずがない。
一方のリーバルは、その資料に一瞥もくわえずに相変わらず気持
ち悪い笑みを浮かべている。
1624
﹁この資料には面白いことが書かれていましたよ。﹃消火の終えた
大統領府を捜索すると、東大陸帝国の人間の焼死体が発見された。
死体の傍には、放火に使われたと思われる道具もあった﹄と。つま
りあの大統領府放火事件の主犯は、東大陸帝国だったということで
しょう?﹂
東大陸帝国が、本気でエドヴァルト・ハーハを暗殺しようとした。
そのために工作員を潜入させて、大統領府を燃やしたのだ。その時
犯人自身が焼死したのは、東大陸帝国が証拠隠滅を図ったためでも
あるのだろう。
リーバル中将が最初に要塞にやってきて俺らに降伏した時﹁御存
知でしょう﹂と言ったのは恐らくこれが原因だ。
カロル大公は親東大陸帝国派閥。そしてカールスバートを放火し
たのも東大陸帝国。そこに王権派を支援する謎のシレジア人集団。
普通なら俺らをカロル大公派だと考えるだろう。だから﹁御存知で
しょう﹂と言ったのだ。﹁東大陸帝国がこの国に火を着け、そして
帝国の意思を確認したあなた方カロル大公派がこの国へとやってき
たのだから、御存知でしょう﹂ということだ。
リーバルはそれを最初から知っていた。当然だ。首都の憲兵隊の
指揮権を握っているのは彼だから。
だがリーバルは、この放火事件を共和派弾圧のための道具として
利用した。些か性急すぎる判断だったために共和派の蜂起がしばら
く続く羽目になった。でも、おかげで東大陸帝国の陰謀だと気づく
者はごく一部の者に限られたのである。
それを指摘した瞬間、リーバルの笑みがさらに酷くなった。万人
が認める気持ち悪さと言っても良い。そしてその笑みを保ったまま、
大仰な拍手を数回した後こう言ったのだ。
1625
﹁御名答﹂
白々しく、そう言った。腹立つくらい白々しいが、腹を立てる暇
はない。
この推理が当たっているらしい。だが問題が3つある。
1つは、なぜ東大陸帝国がハーハを暗殺しようとしたのかという
点。2つ目は、エミリア殿下をカールスバートに派遣するように間
接的に指示した外務省の意図が不明な点。そして3つ目は、王権派
を支援することが東大陸帝国になんのメリットがあるのかという点
だった。
その疑問に答えたのが、今俺の目の前に偉そうに座る男である。
﹁エドヴァルト・ハーハはこの大陸にとって害悪となる存在になっ
た。だから排除しようとしたのさ﹂
引っ掛かる言い方だった。﹁東大陸帝国にとって害悪﹂ならまだ
わかる。だが﹁この大陸にとって害悪﹂とはどういうことだろうか。
まるで、万国共通の敵みたいな言い方だ。フィーネさんも、困惑の
表情を浮かべている。
だがリーバルはお構いなしに自供を続ける。
﹁大統領府放火事件のあの日、ハーハは演説をしていた。どんな内
容か知っているかね?﹂
知らない。でもフィーネさんは知っていたようで、リーバルの質
問に即座に答えた。
﹁確か、強きカールスバート、強きラキア人の復活でしたね﹂
1626
﹁御名答、リヴォニアの御嬢さん。それが理由だ﹂
﹁御嬢さんなどと気安く⋮⋮は? 今なんと?﹂
フィーネさんが混乱のあまりリーバルを二度見した。
演説の内容が、大陸の害悪だった。だから殺した。リーバルが言
ったのはそういうことだ。
﹁オストマルクの人間なら知っているはずだ。﹃強きラキア人の復
活﹄が、どういう主義なのかを﹂
そのリーバルの問いに対して、フィーネさんはハッとして気付い
た。
﹁⋮⋮民族主義、ですね﹂
フィーネさんが、声を震わせながらも答えに辿りついた。
俺も、次席補佐官としてオストマルクに居たからよくわかる。オ
ストマルクでは、民族主義運動に運動に敏感だった。国内にそう言
う動きがあれば、これを先制して叩き潰し、かつ全民族を公平に扱
うことに血道を上げていた。
それと同じことを、東大陸帝国がやろうとしたのである。
オストマルクと異なるのは、国内の民族主義者を叩き潰したこと
ではない。他国の民族主義者を叩き潰したのだ。属国とはいえ、他
国の長を民族主義者だからと言って暗殺しようとした。
これが、カールスバートの民族主義を煽って内戦を起こして介入
を図るのならまだわかる。でもカールスバートの民族主義の火を消
す理由なんて、そう多くはない。
1627
それをするなんて、理由は1つしか思いつかなかった。
リーバルは、俺とフィーネさんが同じ結論に達したことを表情か
ら読み取ると、続きを話した。
﹁私が王権派を支持した理由はこれだ。私が求めるのは強きカール
スバートの復活。だが、国粋派に与する限りそれは東大陸帝国の従
属国となること。そして王権派に従えば、カールスバートの復活が
成し遂げられると思ったのさ。もっとも、要塞に来たときにシレジ
ア人を見かけた時は、少し冷や汗をかいたよ﹂
なるほどね。
リーバルが、王権派にシレジアが関与していると分かったのは要
塞に来た時が初めてだったと言うことか。それと悟られず上手い嘘
を積み重ねて、俺らも混乱させた。大公派による陰謀なのではない
かというのも、恐らくはその場で考えたのだろう。
彼は、強きカールスバートの復活を求めている。当然それは、ラ
キア人の手によって。それが彼の目的だ。だが国粋派は東大陸帝国
の言いなり、しかもハーハは王たる器もなく民族主義者で東大陸帝
国から敬遠される存在。だから敗戦を悟って王権派に与したと。
東大陸帝国にしてみれば、民族主義者ハーハが死んでも国粋派が
国内を牛耳ってた方が都合が良かっただろう。王権派とはコネがな
いだろうし、内戦勃発当時は勢力も小さかった。でも、最終的な目
的の前には、それは些細な事だろう。
そう、東大陸帝国の最終的な目的。これが、この内戦の勃発理由。
初代皇帝ボリス・ロマノフが成し遂げ、第33代皇帝マリュータ・
ロマノフによって崩壊した帝国の悲願。
1628
即ちそれは、全大陸の統一である。
1629
水面下
首都防衛司令部の屋上から見るソコロフの風景は、全体的に黒ず
んでいる。風が吹けば焦げた臭いがどこからか漂ってくる。共和派
の一斉蜂起と、それの鎮圧のために盛大に火系魔術が使われたせい
だ。
放火事件があった大統領府も、まだ修復も再建もされていない。
白く美麗だった大統領府は、黒く醜悪な大統領府になったまま。
そんな風に屋上の欄干にもたれつつ首都の風景を楽しんでいた時、
隣に長身の女性が俺と同じ姿勢で街を眺め始めた。
﹁エミリア殿下の護衛と補佐はいいんですか?﹂
﹁良いんだよ。護衛と補佐役はサラ殿がやっている﹂
マヤさんはこっちを向かず、声だけで答えた。
てかサラに護衛はともかく補佐は無理だと思うのだけどいいの?
いや大丈夫だろうと判断されたから仕事を任せたのだろうけど。
﹁それよりも、らしくもなく君は黄昏ているのかい?﹂
﹁⋮⋮いえ、ちょっと疲れたので休んでただけですよ﹂
いやほんと、今の俺はなんかもういろいろあって疲れている。
カロル大公派閥の陰謀で内戦が勃発したのかと思いきや、東大陸
帝国の策謀だったとはね。カロル大公の時の話とは違って、共和国
軍憲兵隊の捜査資料と言う確たる証拠もある。ほぼ間違いない。大
公が企てたと言うよりも、東大陸帝国の策謀に大公が乗じたという
ことなんだろう。そしてそれ以外にもいろいろと検討しなければな
1630
らないことも多い。
さらにそれらをエミリア殿下にどう説明しようかと考えると、さ
らに疲れがこみ上げて⋮⋮
﹁ふぅん⋮⋮? ま、どうせ例の中将閣下のことだろう?﹂
﹁え、なんで知ってるんですか﹂
今の所、それを知ってるのはフィーネさんだけのはずだが。情報
どこから漏れてるんだ。
﹁ただの当てずっぽうさ。そう答えたってことは、あたりってこと
でいいのかな?﹂
﹁⋮⋮そうですよ﹂
当てずっぽうと彼女は答えただろうけど、実際はそれなりに確信
があったのだろう。エミリア殿下辺りが俺の表情を見て悟ったのか
な。そろそろなんとかして隠し事を表情に出さない練習をしないと。
フィーネさんあたりに頼んで睨めっこでもしようかしら。
そんな風に考えていたら、マヤさんが割といい笑顔をこちらに向
けながら割と核心的な事を言ったのだ。
﹁どうせ、あの男を暗殺するかしないかで悩んでいたんじゃないか
な?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それも当てずっぽうですか?﹂
﹁いや、ただの推測だよ。復古王朝の秩序の安定のためには、旧弊
を一掃してその手の人間を排除する必要がある。その筆頭は暫定大
統領ハーハ、そしてあの男だ。違うか?﹂
マヤさんは言葉を濁したが、ほぼ間違いなくあのド外道中将閣下
のことであるのは確定だ。ヘルベルト・リーバルは、レトナ国立公
1631
園の虐殺を例にするまでもなく危険な男だし、それは国民も理解し
ている。だけど⋮⋮。
﹁だけどユゼフ君はあの男を、いやあの男の能力を使いたい。そん
なところかな?﹂
﹁はぁ⋮⋮なんでそんなことわかるんですかね。正解ですよ﹂
陰謀なんてものが得意な人間は少ないし、時には倫理に外れる策
を用いることができる勇気を持つ人間はもっと少ない。それをどち
らも出来る人間は貴重な存在だ。感情的には国粋派も共和派も王権
派も手玉に取ったリーバルを許せないが、その能力は確かなものだ。
﹁リーバルが要塞抜けた時から、それを考えていたのかい?﹂
ここ
﹁⋮⋮いえ、少し違いますね。最初は本当に殺そうとしたんですよ﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁えぇ。ハーハから信頼されているリーバルを首都防衛司令部に戻
す。そして彼を通じて中央の情報得て、王権派を勝利に導く。それ
には成功し、実際スヴィナーで大勝利と相成ったわけです。そして
全てが終わった時、リーバルを断罪する。そうすれば内戦には勝て
て国民の敵リーバルは死ぬ、カールスバートはこうして平和になり
万事めでたしめでたし、となる予定でした﹂
﹁なんとまぁ⋮⋮﹂
マヤさんは、やや呆れた顔をしている。
本当、リーバルと俺はどっちが外道なのかと自分でも思うくらい
だが、一応良心の呵責がないわけではない。さんざん利用するだけ
して全てが終わったらポイ捨てだもの。もしリーバルが絶世の美女
だったら大陸中の男たちから非難轟轟となっただろうね。よかった、
あいつがオッサンで。
1632
﹁で、いつからなんだ? リーバルを生かそうなどと思い始めたの
は﹂
﹁⋮⋮つい先ほど。リーバルと会っていろいろ話した時ですよ﹂
俺は少し迷ってから、マヤさんにリーバルとの会話を明かした。
所々エミリア殿下らに内緒にしていた部分についてはちょっと濁し
ておいて。
マヤさんの表情は真剣味を帯びていた。俺が全てを話し終えた時
には、彼女は敵師団に切り込みを仕掛けるときの顔を4割ほど和ら
げたような顔になっていた。つまりちょっと怖い。マヤさんはその
顔のまま、俺に質問をぶつける。
﹁ふむ⋮⋮しかし、東大陸帝国が大陸統一の野望を持っていること
など考えるまでもないことだ。そのための行動を何かしらするのは
当然ではないのか?﹂
﹁いえ、今回の場合は帝国の野望がどうのこうのが重要じゃありま
せん、重要なのは、時機の問題です﹂
﹁時機?﹂
﹁はい。帝国が統一の野望を持っているからと言って、常日頃それ
に向けて動いているなんてことはないです。金もかかるし人員も割
くし面倒この上ないですからね。小国の民族主義者の排除だなんて
具体的な行動、普通はしないんですよ。そもそも大陸が統一できな
きゃ意味のない陰謀で終わってしまいますから﹂
﹁だが、実際はそれをした⋮⋮ということは﹂
マヤさんの表情が驚きに変わった。どうやら理解したらしい。
つまりそれは、今この時、帝国で具体的な大陸統一に向けた行動
や陰謀が企てられているということだ。
ではなぜ今なのか。それも簡単だ。内戦勃発前、帝国で何が起き
たのかを知らないシレジア人はいない。帝位継承問題に端を発する
1633
戦争、つまり春戦争が起き、そしてシレジア王国が勝利した。
あの結果、東大陸帝国皇帝イヴァンⅦ世を中心とした派閥はその
権威を失った。代わって台頭したのは、陰謀家として有名な軍事大
臣レディゲル侯爵らを含む皇太大甥セルゲイ・ロマノフ派閥。
﹁皇太大甥とやらが既に大陸統一に向けた計画を立て、それを実行
に移しているのか?﹂
﹁私の予想では、たぶんそうです。もしかしたら準備はもっと前か
らやっていたのでしょう。イヴァンⅦ世の孫の懐妊発覚前なら、レ
ディゲル侯爵とやらもそれなりに自由に動けたでしょうし﹂
﹁それが、春戦争で一気に⋮⋮というわけか﹂
東大陸帝国が大陸統一のために具体的な行動を取っている、とい
うのは憂慮すべき事態だ。なぜならば真っ先にその大陸統一の犠牲
となるのは、国境を接しつつ軍事小国であるシレジア王国に間違い
ないのだから。
春戦争で祖国を守ったら、それが帝国の大陸統一の念を増やす結
果になったというのは皮肉と言うかなんというか⋮⋮。それを後悔
しても仕方ないのはわかっているが。
﹁話をリーバルに戻しますが、そんなわけで彼を生かしておきたい
のですよ。あいつは帝国の事情について知っていることがある。そ
れがなくても、何らかのコネを持っている可能性がある﹂
﹁つまり、彼を諜報工作活動のために生かしておきたいと﹂
﹁そういうことです﹂
帝国の大陸統一に向けた計画がどの程度まで進んでいるのか、そ
してどうやって統一するのかを調べる必要がある。そのためには、
ここでリーバルを殺すのは躊躇われる。彼にはまだ利用価値がある。
1634
でも⋮⋮
﹁でも問題はカレル陛下に頼んで彼に恩赦を与える、なんてことを
したら国民は納得しないことなんですよね﹂
﹁だろうな。彼は敵だ。今も、そしてこれからも。王国安定のため
の人柱として、最低でも公開処刑くらいはしなければならない﹂
マヤさんの言っていることは正しい。公開処刑なんて野蛮な⋮⋮
と思うかもしれないが、旧勢力の悪を排除したと強弁することは、
新勢力の安定と秩序に繋がる。公開処刑は、そのための証人作りと
いうことだ。今回の場合は、王権派⋮⋮いや、復古王朝が国粋派と
いう悪を打倒したことを示す儀式となる。
さてどうしたものか。
俺が頭を抱えて悩んでいると、マヤさんが唐突に話題を変えた。
﹁そう言えばユゼフ君。この首都には有名な奇術師がいるそうだ﹂
﹁奇術師?﹂
魔術師じゃなくて、奇術師? え、手品がどうしたの?
しかしそんな俺の疑問を余所に、マヤさんは話しを進めた。
﹁首都解放の時、解放の祝いと称して大統領府前の広場で奇術を披
露していたのだ。面白かったからそのまま見ていたが﹂
ギロチン
﹁はぁ⋮⋮。あの、それが何の関係が⋮⋮﹂
﹁その時披露された奇術のひとつに、断頭台を使ったものがあった。
トリック
驚いたことに、彼は斬首され、首だけになった状態でもピンピンし
ていたよ﹂
﹁それは⋮⋮おそらくそういう仕掛けが⋮⋮﹂
1635
うろ覚えだが、確か刃の形がちょっと変わっていて、刃を落とし
てもそれが回転して切れないというものがあったような⋮⋮。あと
は机の上に上手く首だけ出して適当に血糊を付けてそれっぽく見せ
⋮⋮あっ。
そこでやっと気付いた。
俺の分かり易い表情を確認したマヤさんは、わざとらしい声でこ
う言った。
﹁⋮⋮どうだいユゼフ君、今度私とその奇術師の下に行かないか?﹂
10分後、エミリア殿下とサラが屋上にやってきた。どうやら俺
たちを捜していたようだが、エミリア殿下が﹁ユゼフさんとマヤは
いつの間にそう言う関係になったのですか﹂と茶化してきてちょっ
と大変なことになった。主にサラが。
1636
王政復古
大陸暦638年3月1日。
国王カレル・ツー・リヒノフによってカールスバート王政の復活
が宣言された。王政復古とカレル陛下の戴冠に伴い、陛下の姓も変
わった。格好としては旧王国のスラヴィーチェク朝を復活させたこ
とになるので、陛下の新しい名はカレル・スラヴィーチェクとなる。
名目的な政権移譲は、エドヴァルト・ハーハ亡き後暫定大統領の
地位を引き継いだ国粋派の誰かさんからさらに受け継いだ形となる。
つまりカレル陛下は数分だけ暫定大統領だったこともあるというこ
とだな。
カレル陛下の最初の仕事は、旧弊の一掃。つまり軍事政権下にお
いて悪事を働いた者、特に積極的に共和派・王権派の弾圧と虐殺に
勤しんだ軍及び官僚の処罰だった。軽い禁錮刑から公開処刑まで。
元暫定大統領エドヴァルト・ハーハは既に死体となっていたが、ハ
ーハを描いた絵画を燃やして﹁処刑﹂した。
また、国民からの怨嗟の声が集まっているヘルベルト・リーバル
の公開処刑も実施された。彼は軍から除籍され、そして見せしめと
政治宣伝のために、共和派が大量虐殺されたレトナ国立公園におい
て刑が執行された。
斬首された後の彼の首は1日中衆目に晒され、国粋派に対する恨
みと王国の政治的・倫理的正当性を主張するに役立ったそうだ。
﹁と、後世の歴史教科書にはそう書かれることになる。リーバル中
将生存説なる陰謀論が、たぶん数百年後くらいに勃興すると思うけ
1637
ど﹂
﹁ユゼフ少佐、それは陰謀論ではなく歴史的事実の間違いでは?﹂
﹁まぁ実際そうなんですけどね﹂
今俺は、フィーネさんと共に今後の方針を話し合っている。とり
あえずカールスバート第二王政はシレジアとオストマルクからの政
府承認を得られるとして、問題なのは暗躍する東大陸帝国の内情に
関する情報収集が要となる。
﹁それで、あのリーバルを我が帝国に押し付けると?﹂
﹁押し付けるんじゃありませんよ。彼は自由意思によって帝国に亡
命するんです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
フィーネさんはややウンザリ顔である。良いじゃない、オストマ
ルクの望み通りシレジア人が前線で血と汗を流したんだから。それ
に東大陸帝国の内情に詳しそうな人間をお土産にするのはむしろリ
ンツ伯に喜ばれると思うよ。たぶん。
それに、リーバルをシレジアで引き取ることはできない。という
のは、彼に与えるポストがないのだ。対外諜報・工作機関として適
当なのは軍務省と外務省だろうけど、軍務尚書は中立、外務尚書は
恐らく大公派。なのでポストを用意できない。
こういうのは地位職責が過小だと裏切る可能性がある。だから帝
国の外務省か情報省で⋮⋮そうだな、審議官くらいの地位を与えて
やればいいと思う。
﹁まぁ、良いでしょう。どうせ悩むのはお父様です。﹃ユゼフ少佐
からのお土産です、どうぞ受け取ってあげてください﹄と言ってお
きます﹂
1638
やめて! そんな皮肉たっぷりの笑顔でリンツ伯に言うのはやめ
て! なんかすごい嫌な予感しかしないんだけど!?
﹁それはさておき、少佐はどうするおつもりですか?﹂
﹁そうですね⋮⋮とりあえずはシレジアに戻って東大陸帝国との講
和の準備でもしますかね⋮⋮﹂
春戦争の講和条約はまだされていない。法務省や財務省、一部貴
族を中心に早期講和条約締結の論が高まっているが、何を企んでい
るのか宰相や外務省がその動きを止めている。エミリア殿下を通じ
てフランツ陛下に直訴して条約を結ばせた方が良いだろう。
と、フィーネさんに言ったのだが、
﹁いえ、そっちではないです﹂
﹁え? じゃあどっちなんです?﹂
﹁あっちです﹂
と彼女が指差した方向を見ると、なぜか廊下の曲がり角から顔を
半分だけ曝け出している赤髪の近衛騎兵がいた。何だろうあれ。﹁
メイドは見た﹂的な何かを感じるのだが。
﹁何やってんだサラさん⋮⋮﹂
﹁嫉妬でもしてるのだと思いますよ?﹂
﹁嫉妬?﹂
嫉妬されるようなことあったっけ?
﹁恋人としては普通の反応だと思いますよ。2人きりで、しかも話
し相手が女性だと言うのは﹂
﹁え? 何の話ですか?﹂
1639
﹁えっ?﹂
﹁えっ?﹂
なにこれ怖い。
﹁ユゼフ少佐とマリノフスカ少佐は、そう言う仲なのでは?﹂
﹁え? いや、まぁ良き戦友ですが⋮⋮﹂
﹁はい?﹂
え、なにどういうこと。もしかしてあれかな、漫画でよく見る﹁
勘違いすんなし! べ、別に付き合っているわけじゃないんだし!﹂
って奴かな。なんでそうなった。
﹁付き合ってはいないのですか?﹂
﹁私の記憶が正しければ、そうですね﹂
﹁⋮⋮でも、私がクラクフ総督府で婚約話を持ち込んだとき、大ゲ
ンカになりましたよね? あれってそういうことなのでは?﹂
あぁ、うん、なるほどそういうことね。サラがいきなり襲い掛か
ってくるのに慣れてしまったもんだからそこら辺の感覚が抜けてた
わ。
確かに、旗から見れば﹁彼氏が知らない女性に婚約話を持ってこ
られたのでキレて彼氏に襲い掛かる恋人﹂という図式になるわな。
フィーネさんはそういう特殊事情を知らないから勘違いしたと、な
るほどなるほど。
﹁そういうんじゃないですよ。あれは一種の⋮⋮習性みたいなもん
です。慣れればどうってことないですよ﹂
この説明であっているかどうかは知らないが、間違ってはいない
1640
と思う。
で、説明を受けた方のフィーネさんはと言えば、困っているよう
な恥ずかしがっているような呆れているような、そんな微妙な顔を
していた。
﹁どうしました?﹂
﹁⋮⋮いえ、自分がバカらしくなっただけです﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
何があったんだろうか。あまり深入りしてはいけないような気も
するが、彼女の自己評価が低くなるのは何か不味い気もする。
﹁すみません少佐、少し野暮用を思い出したので失礼します﹂
﹁あ、はい。わかりました⋮⋮、と、フィーネさん﹂
﹁はい?﹂
﹁相談事があれば、いつでも聞きますよ?﹂
いつぞやのフィーネさんが俺に言った言葉を、そのまま彼女に返
してみる。フィーネさんはそれに気づいたのか、ちょっと驚いた顔
をしていた。その後、頬をポリポリと書きながら口を開いた。
﹁では、ひとつだけ﹂
﹁はい﹂
﹁私との婚約話、ご検討いただければ幸いです﹂
﹁いやそっち方面の相談は受け付けてないんで﹂
だからいい加減諦めてください。
フィーネさんは俺の返答が想定内だったのか、そのまま肩を竦め
ながら﹁意気地なし﹂とボソッと言ってその場離れた。そう言われ
ても、あの場で﹁はいわかりましたじゃあ結婚しましょう﹂とはな
1641
る男はいないだろうよ。⋮⋮いないよね?
さて、と。
未だあそこに張り付いて動かない人をどうにかしないとな。とり
あえず近づいて呼びかけを試みる。
﹁サラさん何やってんの?﹂
﹁⋮⋮﹂
俺が呼びかけても、サラは割と無反応だった。大人しいサラって
結構レアだよ。出来ればこのままでいて欲しいと言う気持ちがなく
はないが、騒がしさも彼女の利点なのでそれはそれで困る。
﹁おーい、サラさーん?﹂
﹁⋮⋮さん付け禁止﹂
ぺちん、と軽くデコピンされた。いや軽くと言っても地味に痛い
んだけどね。
サラはやや俯きながら、彼女らしくもなくボソボソと小さい声で
俺に話しかけてくる。
﹁ねぇユゼフ。あんた結婚するの?﹂
さすが地獄耳のサラである。フィーネさんとの会話は全部聞かれ
ているようだ。
﹁面倒だからしないよ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁そうだよ?﹂
1642
そう言うと、なぜかサラさんが不思議そうな顔をしている。これ
はアレだな、いつぞやの戦術の居残り授業で見た﹁何言ってんだお
前﹂って顔だ。
﹁婚約者なのに?﹂
﹁そもそも婚約者じゃない﹂
あっちが、というよりリンツ伯だけがノリノリの案件なのだ。フ
ィーネさん自身はどう思ってるかはわからないし、第一オストマル
クの貴族社会ってシレジアよりめんどくさそう。民族的なアレな意
味で。
﹁それに、フィーネさんと結婚したらサラさんと離れる結果になり
そうだしね﹂
サラだけでなくエミリア殿下やラデック、マヤさんとも離れるこ
とになる。数少ない友人と離れるのはちょっと寂しい。
一方、サラは顔を真っ赤にしてエサを求める金魚のように口をパ
クパクさせていた。ふむ。ちょっとキザっぽかったかしら。確かに
俺に似合わない恥ずかしい台詞だったかな。これは後で思い出して
死にたくな⋮⋮あちょっと待ってサラさん、右腕を思い切り振り上
げないで拳を握らないで! さん付けしたのは間違いだから!
﹁こ、このバカ!﹂
サラは怒りと共に、その拳を俺の脳天目がけて振り下ろした。直
前で拳の力を弱めたせいか、軽いチョップみたいな感じになった⋮
⋮けど、痛いです先生。
﹁心配したのがバカみたいじゃないの! もう!﹂
1643
﹁な、何が?﹂
﹁なんでもないわよ! あと、さん付け禁止!﹂
ちょっと聞いてみただけなのに、もう一度俺はデコピンを貰う羽
目になった。一時のように鳩尾目がけてえぐりこむように殴るわけ
じゃないのが唯一の救いだっただろう。
その後、ストレスを発散させることができたせいなのかは知らな
いが、サラはそのままちょっと笑顔で場を立ち去った。
⋮⋮うん、その、なんだろう。
毒舌じゃなくて暴力的でもなくて素直で大人しい平民の女の子く
ださい。
俺の知り合いの中じゃ、それに該当するのがユリア︵推定6歳︶
しかいないのが何とも悲しい。
1644
儀式
3月3日。
エミリア殿下から﹁撤退命令﹂が下ったのはその日である。
﹁もう我々がやるべきことはありません。シレジア大使館も時機に
再開するでしょうし、一部連絡将校のみを残して我が師団はカール
スバートより撤退いたします﹂
とのことである。
戦後処理はまだまだ終わっていない。だがそれをするのは新生カ
ールスバート王国の仕事であって俺たちの仕事ではない。
今回の内戦介入でシレジア王国が手に入れたのは、カールスバー
ト第二王政という友好国とその軍・政府高官とのコネ、カールスバ
ート国内における情報網、オストマルク帝国との関係強化、そして
いくらかの戦訓。失ったものは、シレジア王国兵1800余名。会
戦参加数に対してこの程度の被害で済んだのは幸運というものだが、
かと言って手放しで喜べる話でもない。
﹁ユゼフさん﹂
﹁あ、はい殿下。なんでしょうか﹂
﹁撤退計画と行程について、早急に用意してください﹂
﹁了解です﹂
撤退作戦の立案ね。まぁ戦争も終わったし適当でいいか。⋮⋮あ、
でも適当に撤収したら格好がつかないか。せめて人がいる所じゃ格
1645
好は付けなきゃいけない。参勤交代みたいなもんだな。
撤退経路は⋮⋮やっぱりカルビナ経由の方が良いな。あまりシレ
ジア国内で1万の将兵を引き摺るのは内戦を起こす気かと大公派に
睨まれるかもしれない。カルビナを出た後はすぐにクラクフスキ公
爵領だし。
などと色々行動計画を立てていたら、我が師団の補給参謀殿がや
ってきた。
﹁おいユゼフ﹂
﹁なんだいラデック﹂
﹁金がない﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁兵士たちに払う、金がない﹂
⋮⋮。
﹁クラクフを離れたのは11月13日、撤収日程は知らんがクラク
フに帰れるのは3月10日くらいだろ? 4ヶ月分の給料と出征手
当、傷害手当、戦死者遺族年金、戦傷者退役金諸々の経費が⋮⋮だ
いたいこれくらいだな﹂
と、ラデックが1枚の紙を渡してきた。公式の書類でもないし、
概算の会計書類の為すごくシンプルなのだが、そこに記載されてい
る﹁0﹂の数が半端なかった。
﹁じゃ、なんとか予算を確保してくれよ。クラクフスキ公爵領軍事
参事官殿﹂
そう言って、ラデックは何処かへと消えた。
1646
⋮⋮⋮⋮うん。
﹁帰りたくない⋮⋮﹂
内戦が終わったからついに俺は事務仕事に逆戻り。いや平和なの
は良い事だけどね。こうなんていうか、もっとやりがいが欲しいで
す。
そして暫くした後、俺の下にやってきたのはマヤさんだった。な
んか入れ代わり立ち代わりやってきてるけど、今度は何。また面倒
なことがやってきたのか!?
﹁ユゼフくん⋮⋮どうした? 妙に暗いが﹂
﹁いえ、何もありませんよ。平和です﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
マヤさんがやや引いてた。どうやら俺は相当変な顔をしているら
しい。人を寄せ付けない才能は自信があるよ、前世から⋮⋮。
﹁そんなことよりマヤさん、何か用ですか?﹂
﹁あぁ、そうだった忘れてた。カレル陛下から殿下と君に御呼びが
あったのだ。殿下は既にカレル陛下の下に行っている﹂
今度はカレル陛下が面倒事を持ってくるのか⋮⋮。安寧の時を私
に下さい。
とはいえ、従わないわけにはいかない。エミリア殿下が言ってい
るのに、遥か格下の人間がサボりってわけにはいかんだろうし。
﹁わかりました。陛下は大統領公邸⋮⋮いえ、臨時王宮ですか?﹂
﹁いや、この防衛司令部に来ているよ。1階の広間だ﹂
1647
﹁ありがとうございます、ちょっと行ってきますね﹂
﹁あぁ。ま、私も参列するのだが⋮⋮﹂
⋮⋮参列? え、何があるの?
−−−
﹁申し訳ありませんカレル陛下、エミリア殿下。遅れました﹂
﹁構いませんよ、ユゼフさん﹂
﹁あぁ。余と君の仲だ。あまり畏まらなくても良い﹂
いや陛下と私ってあんまり接点なかったはずでは⋮⋮いや、まぁ
いいか。遅刻を責められることはないんだし。
首都防衛司令部1階の広間に居たのは、俺、エミリア殿下、カレ
ル陛下とその護衛数名、そして目出度く王国軍初代総司令官の座に
就いたマサリク大将など高級士官数名。合わせて10名ちょっと。
そしてその周りに観客がずらずらといる。よく見ると観衆の中にサ
ラ、ラデック、マヤさん、そしてフィーネさんもいる。なにこれ。
まず最初に口を開いたのは、主催者たるカレル陛下だった。陛下
が何度か咳き込むと、集まった者達に対して挨拶する。忙しい中、
そして急に開いて申し訳ないとか、色々言っていた気がするがどう
も記憶にない。
話を纏めると、どうやらエミリア殿下の撤収命令に驚いたカレル
陛下が準備を急がせてこの会を開いたのだそうだ。あの、でもこれ
は何の場なのだろうか? と思ったらすぐに答えが出た。
1648
﹁ではこれより、今回の内戦において多大なる功績を上げた英雄に
対する勲章授与式を執り行う﹂
カレル陛下のその御言葉と同時に、観衆が一斉に拍手をした。
勲章? エミリア殿下はともかく、俺にも? だったらサラとか
マヤさんとかラデックにも上げればいいのに。
﹁此度の内戦では、多くの者が英雄となった。だが彼ら全員に勲章
を渡すだけの時間が残念ながらない。そこで、今回は代表として、
ここにいる2人の英雄に勲章を授与するものである﹂
えーっと、うん、そのエミリア殿下だけでいいんじゃないかな。
俺何もしてないよ。意地の悪い作戦考えただけだよ! それを戦場
で指揮して実行した人が凄いんだから。俺が指揮しても、たぶんあ
あはならなかったと思います。
と声を上げたいのだけどこれだけの観衆の前でそう言えるだけの
勇気は残念ながらない。まぁ、エミリア殿下のお零れと思って貰っ
ておこう⋮⋮。
﹁シレジア王国大公にして、カールスバート王国軍第7臨時師団司
令官エミリア・シレジア大公﹂
﹁はい﹂
まずはエミリア殿下から。格式が高い者から順にと言うことなの
だろうか。ちなみにエミリア殿下の正式な身分は国王の弟であるカ
ロルと同じ﹁大公﹂である。王女は正式な爵位ではなくあくまで通
称だしね。
エミリア殿下の所作は流石王族、キッチリ動いてバッチリ決まっ
ている。一応カレル陛下の方が格式が上なので殿下が頭を下げる格
1649
好になっているものの、結構様になっている。普段の殿下の仕草を
知っているだけに微妙に違和感があるのはたぶん気の迷いとかたぶ
んその辺。
﹁エミリア・シレジア大公。卿は1万余名の将兵を率い、我が王国
の勝利に多大なる貢献をした。よってここに、カルロヴィ・ヴァリ
銀獅子勲章を授与する﹂
その瞬間、広間は微かにどよめいた。
これは後から聞いた話だが、カルロヴィ・ヴァリ銀獅子勲章は旧
カールスバート王国において最高位の勲章であるらしい。なんでも
歴史上この勲章を授与したのは僅か3人、つまりエミリア殿下で4
人目だ。この勲章の効果は、問答無用で公爵位へ叙爵、無論領地も
与えられ終生年金も出る。死去した場合は国葬と国立墓地が用意さ
れ、費用は全て国が持つという贅沢ぶり。
が、今回はエミリア殿下は外国人でしかも王族、これらの効果が
実際に得られるかどうかは微妙なところである。
﹁また、卿には王国軍大将の地位と、王国軍総司令部名誉顧問の職
を与えるものである﹂
カールスバートには旧王国時代も共和国時代にも元帥という階級
がないため、大将が最高位となる。いずれにしても、エミリア殿下
が大佐から大将へと4階級特進を遂げたわけだ。すげえ。
エミリア殿下は頭を下げた状態でカレル陛下に一通りの感謝の意
を述べた後、綺麗に後ろに下がった。
﹁次に、カールスバート王国軍第7臨時師団作戦参謀ユゼフ・ワレ
サ少佐﹂
1650
﹁ハッ!﹂
呼ばれた俺は、カレル陛下の下まで行ってそこで跪く。⋮⋮こう
いうのあんまり経験ないけど、これで会ってるよね? 間違ってな
いよね? 先ほどのエミリア殿下の見よう見まねだけど⋮⋮。
どうやら間違ってないようで、周囲もそれほどまでざわついてな
い。よかった。
﹁ユゼフ・ワレサ。貴官は、此度の内戦において有効な作戦を多く
立て、王国の勝利に貢献した。よってここに、戦十字章1級を授与
する﹂
カレル陛下が差し出してきた小さな箱を、頭を下げつつ貰う。こ
の手順があっているかどうかは知らないが、まぁ非礼ではない⋮⋮
と思う。
箱は既に開けられており、中身が見えるようになっていた。中に
ある勲章は、教会にある様な十字の上にⅩ字形にクロスさせた剣、
そしてその交点の部分にカールスバートの国章たる獅子が描かれて
いる。なかなか中二心を擽るカッコイイデザインである。
勲章を受け取ったのでそのまま後ずさりしようとしたが、その前
にカレル陛下が口を開いた。
﹁勲章と共に、ワレサ殿に﹃卿﹄の称号と、王国軍参謀本部常任理
事の職を与える﹂
⋮⋮ん?
カレル陛下の言葉につい思わず俺は顔を上げてしまった。なんか
今聞き捨てならない言葉が聞こえたんだけど!? ﹁あ、あのそれは⋮⋮私には勿体なく思いますが⋮⋮﹂
1651
文句があるわけじゃない。だが、貴族位はちょっとアレよ? し
かも常任理事ってなんか面倒くさそう⋮⋮と思ったのだが、俺がそ
う言うのは想定内だったらしい。
﹁案ずることはない。貴官がそういうものに抵抗があるのは、事前
にエミリア王女から聞いておった。だが、王としては武勲を立てた
者に対して勲章だけというのは気に食わなくてな。これは余の我が
儘だ。まぁ、﹃卿﹄の称号は貴族の中で最も下で実体のあるもので
はないし、﹃参謀本部常任理事﹄も名誉職だ。だから、受け取って
くれまいか?﹂
あぁ、なるほど⋮⋮。まぁ確かに正論か。軍においては論功行賞、
信賞必罰は行わなければならない。俺がここで受け取らないという
選択肢を取ると、他の人間が受け取り難くなるというのもあるか。
名誉称号に名誉職というのであれば、面倒も少ないから良いか⋮⋮。
﹁ありがたく、お受けいたします﹂
﹁うむ﹂
こうして、俺は名誉称号とはいえ一端の貴族となってしまったの
である。﹁ワレサ卿﹂って、なんかもう響きが悪いし、鬱だなぁ⋮
⋮。
1652
帰郷の途中
帰りたくない。なんでって、クラクフの総督府に戻ったら大量の
予算請求書が俺を待ち受けているからだ。無論、俺の気持ちがどう
であれ帰らないわけにもいかないのだが。
エミリア師団は勲章授与式から2日後の3月5日には首都ソコロ
フを発った。できるだけ人件費を抑えたいので強行軍で行くことに
する。金は体力より尊いのだ。
そして3月7日。帰路の途中に寄ったヴラノフでフィーネさんと
別れた。例の重要人物を帝国に持ち帰るためだ。
エミリア殿下らが一時的に俺から離れた時を見計らって、彼女が
話しかけてきた。
﹁私は一度本国に戻ってお父様⋮⋮いえ、情報大臣に報告せねばな
りません。それが終わればまたクラクフの帝国領事館に戻りますの
で﹂
﹁そうですか、わかりました。初めての戦争と軍務と言うことあっ
て疲れたでしょうから、ゆっくり帝都で休んできてくださいね﹂
フィーネさんは割とトラブルを持ってくる人だから、できるだけ
クラクフ到着を遅らせて欲しいという思いでそう言ったのだ⋮⋮が、
その思いは通じなかった。あるいは、通じてるかもしれないけど敢
えて無視したのか。
﹁ありがとうございます。リンツ伯を説得して出来るだけ早く戻っ
てくるように致します﹂
1653
そんな答えが返ってきた。彼女のことだ、どうせわかって言って
いるのだろう。
﹁あぁ、そう言えば言い忘れていたことが。ユゼフ少佐⋮⋮いえ、
ユゼフ卿と御呼びした方がいいですかね?﹂
ちょっと人を小馬鹿にするような笑顔で﹁ユゼフ卿﹂って言わな
いでくださいな。絶対自分でも﹁変な響だ﹂って思ってるでしょ!
﹁やめてください、なんかむずむずするので。なんですか?﹂
俺が問うと、彼女は途端に真面目な顔になった。情報を扱ってい
るときの、仕事モードになっているときのフィーネさんの顔だ。
フィーネさんは声を絞って、そして顔を近づけて俺の耳元で用件
を伝えた。あ、あのさ、情報漏洩を気にするのはいいんだけどさ、
そこまで近づかなくてもよくない? ちょっと耳に息がかかってる
んだけど。
﹁最近、東大陸帝国の皇太大甥セルゲイ・ロマノフ派閥周辺の動き
が活発です。少佐も、シレジアに戻ったら注意してください。大公
派が暗躍している可能性もあります﹂
やはりと言うか、エミリア殿下のいないシレジアのこの4ヶ月、
何もないと考えるのは楽観的すぎる。とりあえずはイリアさんやヘ
ンリクさん辺りから事情を聞いた方が良さそうだ。
﹁⋮⋮情報ありがとうございます。何かあったらベルクソンを通じ
て伝えます﹂
﹁了解です﹂
1654
その時、エミリア殿下やサラたちが戻ってきた。どうやらヴラノ
フ駐屯のカールスバート王国軍と何やら話いたようである。十中八
九、例の情報網に関する事だろう。
フィーネさんはエミリア殿下を確認すると、やっと俺︵の耳︶か
ら離れてくれた。危ない危ない。このまま息を掛けられたら変な性
癖に目覚めてるところだったわ。
一方フィーネさんはと言うと、エミリア殿下の下に行き、仕事モ
ードの顔のまま殿下に感謝の意を伝えていた。
﹁エミリア殿下。此度は我が国の作戦にご協力いただき、帝国政府
に代わって御礼申し上げます。おかげで我が国は友好国と情報と、
そして何より信頼できる方々と出会えました。本当にありがとうご
ざいます﹂
やや事務的な口調だったかもしれないが、言葉の端々に感情がこ
もっていた。内容も、恐らくは真実だろう。
礼を受け取ったエミリア殿下も、フィーネさんに返礼する。
﹁いえ、我が国も帝国に多大なる援助を戴き感謝に堪えません。帝
国政府、そして皇帝陛下に﹃感謝します﹄と、そう伝えてください﹂
﹁はい。必ず﹂
その後、2人は固く握手をし、そして別れた。
フィーネさんは去り際に意味ありげな視線を俺に送ったが、もし
かしてまだ婚約の話引き摺ってるのかしら⋮⋮。
1655
−−−
3月9日。
オルミュッツ要塞陥落以降足を踏み入れていなかった、王権派の
元拠点カルビナに到着した。強行軍とか言いつつ予定の行程より1
日遅れているため、ちょっと焦ってます。こりゃクラクフに着くの
は11日だな。
遅れるとわかっているのなら慌てて急ぐ必要もないかも。将兵を
ゆっくり休ませて、後は普通に歩くか。
そう思いながら撤退作戦の修正をしていた時、エミリア殿下が叫
んだのである。その声には並々ならぬ決意が多分に含まれていた。
﹁決めました、やはりユゼフさんに爵位を与えます!﹂
⋮⋮え、いらない。さすがに爵位はいらない。でも、殿下の暴走
︵?︶は止まらないようで、その意見表明は長く続いた。
﹁カレル陛下が外国の英雄を讃えるのに、私が自国の英雄に対し何
も与えないのでは面目が立ちません! カールスバートが﹃卿﹄の
地位を与えたのであれば、私はユゼフさんに男爵位くらいはあたえ
ねばなりませんよ!﹂
﹁いや、あの殿下、それは少し⋮⋮﹂
どうしよう。面と向かって﹁いらない﹂とは言えないし、でも受
け取ったら何かと面倒が起きそうだし。いや既に貴族社会の面倒事
に俺は片足突っ込んでるけど。
そもそもエミリア殿下は、俺は貴族になるのは嫌だと言う意思を
1656
カレル陛下に伝えたんだよね? ならどうして卿の称号を俺は貰っ
たんだろう。そこら辺をエミリア殿下が強く言っておけばこうなら
なかったんじゃ⋮⋮。
という疑問は、マヤさんの言葉で解決した。
﹁カレル陛下が﹃卿﹄の称号をユゼフくんに与えたのは私も驚いた
よ。事前の打ち合わせじゃ﹃彼に貴族位を与える予定はない﹄と言
っていたからね﹂
﹁そうなんですか﹂
ということは、どうやら陛下から賜ったこの﹁卿﹂の称号は突発
的なものだったようで、エミリア殿下やマヤさんを驚かせたようで
ある。
そしてカレル陛下の要らん配慮によって思わぬ事態が起きた。と
いうのが、今回の内戦におけるシレジア側の論功行賞である。
武勲に値する相応の褒美を与えるのは、軍隊の基本。だから戦争
で武勲を立てたら、まぁ基本的には報酬をあげなければならない。
それが勲章だったり昇進だったり金一封だったりするのだが、問題
は今回の内戦介入は軍務省の命令ではなく、エミリア殿下からの命
令によって行われたものである。
軍務省は黙認、外務省は白紙委任。実質的にはどうあれ、名目的
にはこれはエミリア殿下の私戦である。
ということはつまり、エミリア殿下は部下の武勲に対して何かし
らの報酬を与えなければならない。昇進や栄転などの人事権の行使
しょうしゃく
は軍務省にあるのでそれ以外、つまり王室が与える勲章か金一封か、
あるいは貴族への叙爵・陞爵となる。
1657
もしカレル陛下が気を回さなかったら、殿下は適当な勲章かボー
ナスか、あるいは休暇でお茶を濁すことはできただろう。でも、カ
レル陛下が俺に間違って貴族の称号を与えてしまったもんだから話
がややこしくなった。
つまり﹁カールスバート王がシレジア軍の平参謀に貴族位を与え
たのに、シレジアの王女は部下には何も与えないなんてケチだな!﹂
という事態が起きる可能性があるのである。
これを回避する方法は簡単、カレル陛下が俺に与えたのと同じだ
けの報酬を殿下が渡せばいいのである。
﹁ユゼフさん、事態が一段落したら王都に行きますよ! お父様に
掛け合ってすぐに叙爵の準備をしましょう!﹂
⋮⋮いや、理屈はわかっていても﹁はいそうですかありがとうご
ざいます﹂とはならない。やめて、男爵位とかそんな実質的な地位
はいらないです。でも、殿下はなんかノリノリである。
﹁殿下、お気持ちはありがたいのですが私は貴族には⋮⋮﹂
﹁既になってるじゃないですか、ユゼフ卿!﹂
﹁いやあの、そんな風に呼ばないでください。なんか背中がむずむ
ずします﹂
なんとかして叙爵は避けねばならないと思っていたが、エミリア
殿下は引き下がらなかった。
﹁⋮⋮ユゼフさんはカールスバートの偉大なおじ様から貴族位を貰
うのは良くて、私みたいな女の子からの些細な贈り物は受け取らな
い方なんですね⋮⋮﹂
﹁誤解を招く言い方やめてくれますか殿下!?﹂
1658
それじゃ俺がおじさん趣味があるみたいじゃないか! 俺は若く
て綺麗な女の子が大好きですよ、殿下みたいな!
途端、エミリア殿下は可笑しそうにクスクスと笑い出した。どう
やら本気でそう思っているのではなく冗談だったようである。⋮⋮
冗談だよね?
﹁それはそれとして、王都に行くのは決定事項です。今回の内戦に
関して中央政府には報告せねばなりませんし、それは書簡ではなく
責任者が行くことになるのは当然ですから。ユゼフさんも、ついて
きてくれますか?﹂
﹁⋮⋮わかりました。お供します﹂
まぁ、王都に居るイリアさんとヘンリクさんから情報を受け取ら
なければならないし、丁度良いだろう。
カヴァレル
﹁ついでに、お父様に会ってユゼフさんの叙爵についても話し合っ
てきます﹂
﹁⋮⋮それはあの、ちょっと﹂
﹁安心してください。男爵位は恐らく無理ですが、騎士くらいなら
大丈夫です﹂
いや私が大丈夫じゃないですから安心できる要素がないですから
カヴァレル
! とも言えず。
騎士か⋮⋮。となると、サラとお揃いの階級となるわけか。
⋮⋮ってあれ? そう言えばサラが静かだな。
どこかに消えたのか、と思ったけど割と近くに居た。ただ、彼女
はらしくもなく借りてきた猫状態である。何か思い詰めたような表
情をしているが⋮⋮。
1659
あの日
それはエミリア師団がオルミュッツ要塞を陥落させたばかりの頃、
大陸暦637年12月5日のことである。
その日、サラ・マリノフスカは要塞の監視塔を目指し歩いていた。
別にその場所に用があったわけではない。その場所に居るはずの、
オストマルクからやってきたある女性士官と話をするためである。
何を話すのかと言えば、やはり他愛もないもの。外交官としてオ
ストマルクへ赴任した友人が、当地でどのようなことをしたのか、
どう活躍したのか、そしてどういう関係になったのかを根掘り葉掘
り聞くためである。別に対抗心とかそういうものではない。とりあ
えず彼女の中ではそうなっていた。
だが、その監視塔には先客がいた。エミリア師団作戦参謀、彼女
と同期の士官であるユゼフ・ワレサだった。
彼女は声を掛けようか、それとも見なかったことにしてその場を
去ろうか判断に迷い、そして下した決断は﹁2人がどんな会話をし
ているのだろうか﹂という意地の悪いもの。
でもそれは、彼女にとっては誤った決断であろう。
会話の中で、ユゼフはこう言ったのだ。
﹁まぁ、そういうところは好きですけどね﹂
と。
1660
無論それは、彼の脇に立つフィーネ・フォン・リンツに向けられ
た言葉である。
﹁⋮⋮﹂
その後、2人は無言であった。当然サラも無言だった。だが、フ
ィーネとユゼフの無言と、サラの無言ではその種類が違っていたの
である。
その違いを、具体的にどう違うのかを見出すことを、サラはその
時はできなかった。
﹁⋮⋮サラさん﹂
不意に、そう呼ばれた。
サラが声のする方を見れば、それは彼女の親友であるエミリアだ
った。
﹁どうしたの、エミリア﹂
サラは監視塔に居るユゼフらに気付かれないよう、声量を出来る
限り抑えて話しかけた。エミリアの方も、静かにサラに歩み寄る。
﹁お話をしましょう。少しだけ﹂
エミリアのその言葉に、サラは静かに頷いてそれに従った。ユゼ
フらに気付かれることなく、監視塔から離れる。
ある程度距離を取った後、エミリアは廊下を歩きながら、共に歩
くサラに話しかけた。
その会話の内容は、サラも良く知っている話。
1661
なぜエミリアが、士官学校に入ったのか。士官学校でどう生活し、
何を得たのか。
初の実戦であるラスキノ戦争で、何を見たのか。
王国総合作戦本部で、何を感じていたのか。
初めて立案した作戦で、帝国とどう戦ったのか。
そんなこと、サラは良く知っていた。
知ってはいたが、エミリアの言葉を遮ることなく楽しそうに話す
親友の相手をしていた。
だが次第に、会話の内容が少しずつ変化していった。
﹁ユゼフさんは凄いです。私と同い年なのに、オストマルクでは大
活躍だったらしいんですから﹂
﹁でもフィーネさんと仲良くしているのはちょっと戴けません。私
としては、ユゼフさんを最初に貴族に叙するのは私でありたいので
す﹂
﹁そうそう、フラニッツェでのユゼフさんの顔は良かったです。士
官学校やラスキノで何度か見た事がある、頼りがいのある顔でした。
マヤやラデックさんは﹃そうでもない﹄って言ってましたけどね﹂
徐々に、会話の内容はエミリアの話ではなくユゼフの話になって
いた。
エミリアは、変わらず笑顔でサラに話しかけている。一方のサラ
と言えば、ユゼフの話題になった途端に不機嫌になっていた。いや、
不機嫌であることに気付いたのである。
その不機嫌さの理由は、言うまでもない。
嫉妬しているのだ。
1662
だからつい、言ってしまった。
﹁エミリアとユゼフが結婚したら、良い夫婦になるんじゃない?﹂
それはどうにも抽象的な言葉ではあったが、サラはその夫婦を容
易に想像できた。
夫婦ともに博識であり、政戦両略に長けている。エミリアが王と
なれば、ユゼフはさしずめ宰相か軍務尚書あたりか。当たり前のよ
うに、そうなるのだと確信できる組み合わせでもあった。
だが、エミリアからの返答はサラにとっては意外なものであった。
﹁それはありえませんね﹂
エミリアは、先ほどとは打って変わって暗い顔となった。
﹁⋮⋮王族と言うものは、平民にとっては確かに憧れの舞台でしょ
う。でも、実態はそうではありません。王族は特権を持っている代
わりに、あらゆる行動に制限がかかります。私がこの要塞にいるこ
とでさえ、本来ではあり得ぬことなのです﹂
王族には制限がかかる。そしてその制限の代表が結婚なのだ、と
エミリアは言う。
王族の伴侶となるのは、大抵の場合大貴族である。それは身分が
確かに保証されているという安心感と、政治的な繋がりを得たいと
言う王族・貴族両者の思惑からなる。場合によっては、他国の王族
や貴族が伴侶となる。
そしてそこには、当事者の意思などは入り込む余地はない。
1663
﹁それにユゼフさんは貴族社会があまり好きではないでしょう。も
しも無理矢理私の伴侶とするようなことがあれば、彼は貴族社会の
荒波に揉まれてしまいます。それは少し、嫌です﹂
だから、彼との結婚はあり得ない。彼女はそう突っぱねた。だが
その言葉の裏にあるものを、サラは予想してしまった。
エミリアの表情と、その言葉の選び方を見て、予想してしまった
のである。
﹁サラさんは、王族ではないですよね?﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
﹁なら、そういう自由はあるはずです。なのにどうしてサラさんは、
自分で自分を縛るのでしょうか﹂
エミリアは、微笑みながらサラにその言葉を伝える。
その言葉の意味、その微笑みの意味を、サラは正確に予測できた。
だがその前に、彼女は確認しなければならなかった。
﹁ねぇ、エミリアって⋮⋮その、ユゼフの事、どう思ってる?﹂
サラは、そう聞いた。
そしてエミリアも、単純明快な答えを出した。
﹁決まってるじゃないですか。私は︱︱﹂
−−−
1664
﹁︱︱? ︱︱さーん? おーい、返事しろーい。目を開けたまま
死んでるのかサラさーん?﹂
深く考え込んでいたサラを現実世界に引きずり戻したのは、彼女
の目の前で手を振っているユゼフだった。彼は珍獣を見るような目
で、サラを観察しているのが見て取れた。
とりあえずサラは﹁そんなわけないじゃないの! あとさん付け
禁止!﹂と叱りつつ、彼に思い切りデコピンした。ユゼフはやや過
剰な反応をすると、立ち直って用件を伝える。
﹁サラ、たぶん明後日くらいには公爵領につくと思う。公爵領につ
いたらとりあえずは駐屯地に寄って、そこで下級兵たちを開放して
そこで師団を解散させる。だからその後のエミリア殿下の護衛は少
数で良いってミーゼル大佐に伝えてほしいんだ﹂
﹁わかったわ﹂
﹁ん、頼むよ﹂
ユゼフは用件を済ませると、やることがあるからとサラの下から
立ち去ろうとした。だがその前に、サラはユゼフの腕を掴んだ。
﹁⋮⋮どうした?﹂
﹁いや、あの⋮⋮﹂
サラは慌てて腕を離したが、ユゼフの方は離れなかった。むしろ
体調が悪いではと勘繰って心配そうに見つめている。その彼の仕草
で、サラは余計に挙動不審となってしまう。
1665
だから、彼女は意を決して彼に言葉をぶつけた。
﹁ねぇユゼフ。あんたって、私の事どう思ってるのよ﹂
﹁⋮⋮はぁ!?﹂
質問を聞いたユゼフは、真っ赤になって両手をぶんぶん回してい
た。誰の目に見ても、それは慌てている人物の動作であった。
それを見たサラは可笑しくてたまらず、つい噴き出してしまった。
笑いだすサラを見たユゼフと言えば
﹁変な質問したと思えば、途端に笑い出すのか⋮⋮﹂
とやや呆れていた。
﹁仕方ないじゃないの、ユゼフの動きがあまりにも変なんだもの!﹂
﹁それは、サラが変な質問するから⋮⋮﹂
質問の内容を思い出した彼の顔は、またしても赤く染めあがって
いる。そんな彼の姿を見たサラは、あの日のエミリアの言葉を思い
出した。
あの日のエミリアは、物怖じも何もしていない。年下なのに、こ
ういうことに関してはまるでダメだ。だからあの日以降、サラはそ
のことでエミリアに相談したことがあった。そしてエミリアは、そ
れを嫌がりもせず、相談に乗ってくれる。
そしてサラは、今言葉を紡いでいる。
あの日、要塞でエミリアが自分に対して言った言葉。それを自分
なりの言葉で、彼に伝えようと。
1666
﹁ねぇ、ユゼフ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
サラは、彼女が実行できる限りの笑顔で、その思いを伝えた。
﹁私、ユゼフのこと好きよ!﹂
1667
あの日︵後書き︶
これにて﹁大陸英雄戦記 共和国炎上編﹂は終了となります。
次章はこの内戦において暗躍していた東大陸帝国にスポットを当て
てみたいと思います。よって少し時間軸が前後する予定です
1668
大陸史 その6
東大陸帝国の正式な国名は、未だ﹁大陸帝国﹂である。
自らが正統な大陸帝国の継承国なのだと称するのだから、これは
当然な話。だがこの自称大陸帝国と同じく、大陸帝国の正統なる継
承国だと主張する国家が大陸西端に存在する。
そのため両国を東大陸帝国、西大陸帝国と呼び分けることが通例
となっており、バカ正直に﹁大陸帝国﹂と名乗るのは一部の愛国者
と公文書のみとされている。
そんな東大陸帝国には大陸暦637年までに59人の皇帝がいる。
大陸暦元年が第20代皇帝の時なので、637年の間に39人の皇
帝が生まれたことになる。即ち1代当たりの平均在位期間は16年
強となるわけであるが、それを長いと見るか短いと見るかは後世の
歴史家の評価次第である。
と言うのは、平均在位期間16年強というのは王朝と言うものに
あってはごく普通の数字だからである。
だが第20代皇帝から大陸帝国分裂の契機となった第32代皇帝
崩御までは299年間であることを考慮すればこの限りではない。
第20代から第32代皇帝までの平均在位期間は25年弱であった
のに対し、大陸帝国分裂後の第33代から第59代皇帝までの平均
在位期間13年となるのである。
これは大陸帝国分裂後の東大陸帝国の内情が不安定となり、それ
に伴い宮廷内闘争による皇帝・皇族の謀殺事件の続発に伴うロマノ
フ皇帝家の威信の低下、貴族の独断専行等の社会不安と不況が巻き
起こって皇帝の代替えが頻発したためである。そう考えれば、よく
13年で済んだものである。
1669
このような事態が解決したのは、大陸暦555年に即位した第5
5代皇帝パーヴェルⅢ世の功績が大きい。パーヴェルⅢ世は内政改
革と外交政策の転換によって帝国の内情を安定させることに成功し
た。彼の功績の中で最も大きい政策は大陸暦559年の﹁反シレジ
ア同盟﹂の成立である。シレジア王国と言う共通の敵によって結託
した各国は経済と政治の交流を活発化させることができ、かつシレ
ジア王国に奪われた領土を奪還することによって皇帝の威信を回復
させることができた。
その結果として第55代皇帝パーヴェルⅢ世から第59代皇帝イ
ヴァンⅦ世までの平均在位期間が20年程となっていることを見て
も、帝国社会の内情が安定していることがわかるだろう。
さて、大陸暦637年時点での皇帝は前述の通りイヴァン・ロマ
ノフⅦ世であるが、そのイヴァンⅦ世の評価は芳しくない。
﹁控えめに言って凡君、正直言って暗君﹂
と言うのは、後世の歴史家の評である。
東大陸帝国の沈滞期にあって、彼は特別何か改革を行おうとはし
なかった。前代の皇帝が行った良き政策も悪しき政策もすべて受け
継ぎ、それを次代の皇帝に渡すだけだった。彼の統治の間は改革も
なく、結果的に東大陸帝国は時代に取り残されてしまった。
だがこれだけならばまだ良かった。彼を暗君たらしめたのは間違
いなく春戦争である。
内政改革を放って、領土的野心に目覚めたイヴァンⅦ世は隣国シ
レジア王国へ侵略を開始する。皇太大甥セルゲイ・ロマノフの即位
阻止という目的だけを持って侵略をするなど愚の極みだが、両国の
1670
戦力差から言えば東大陸帝国の圧勝となると思われた。
だがこの時、シレジア王国ではマレク・シレジアの再来と称され
る稀代の軍事的天才が現れていた。
シレジア王国第一王女エミリア・シレジアである。
彼女は開戦当時15歳で少佐の身分であった。15歳で少佐とい
うのは王族だからこその措置だったが、彼女の軍事的才覚はそれ以
上だった。
エミリア・シレジアの立てた作戦とシレジア王国軍の良将達の活
躍により、東大陸帝国軍シレジア征伐部隊は壊滅。逆に領土を奪わ
れる羽目になり、イヴァンⅦ世の権威は一気に失墜することになる。
東大陸帝国軍敗北の報を聞いたイヴァンⅦ世は、病床に伏すよう
になった。それでも彼は政務を怠ることはなかったと言う。最も、
もともとイヴァンⅦ世はそれほど政務に熱心だったわけではないの
で、これが称賛に値する事象なのかは評価に窮する。
彼がその頃になって急に労働意欲に目覚めたのは、なんとしても
セルゲイに帝位を受け渡したくないと言う思いと、生まれたばかり
の曾孫ヴィクトルⅡ世への情愛だったのではないかと言われている。
だが彼自身が、春戦争以降セルゲイやヴィクトルⅡ世に関して特に
何も感想を言うことはなかったため、事の真実は不明である。
大陸暦637年10月30日になると、イヴァンⅦ世の病状は益
々悪化したため政務の続行が困難となっていた。そのため彼は、セ
ルゲイに皇帝の代理としての権限を与えるしかなくなり、セルゲイ
は翌10月31日に帝国宰相の地位を獲得した。
だが以上の事があっても、イヴァンⅦ世の評価が変わったと言う
わけもない。彼は東大陸帝国最大の敗者、内政を軽んじる暗君とし
1671
て歴史に名を残し、エミリア・シレジアを主役とする歴史小説にお
いて﹁絶対悪の敵役﹂としての地位を獲得したのである。
彼を最も好意的に評価した言葉は、
﹁第60代皇帝セルゲイ・ロマノフの先帝﹂
である。
1672
帝国宰相
﹁俺には、なんであの皇帝が病床に伏してるのかさっぱりわからん
のだ﹂
東大陸帝国の帝都ツァーリグラード、その行政区の外れに立つ宰
相府執務室の主は唐突にそんなことを言った。会話の相手は、執務
室で彼と共に執務に励む友人兼侍従武官である。
﹁突然どうされましたか、宰相閣下﹂
侍従武官の言葉に対し、宰相閣下と呼ばれた男の名はセルゲイ・
ロマノフ。東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の大甥、
帝位継承権第一位にして帝国宰相の職を数日前に病床の皇帝より賜
った人物である。本来では﹁セルゲイ殿下﹂と呼ぶのが通例だが、
セルゲイは友人に﹁殿下﹂と呼ばれることはあまり好きではなかっ
た。
彼はロマノフ皇帝家の証たるその特徴的な銀髪を掻き分けながら、
友人に言葉を返した。
﹁知ってるかクロイツァー。あの皇帝、あんなお粗末な戦争に本気
で勝てると思ってたらしいぞ?﹂
クロイツァーと呼ばれたその青年の全名はミハイル・クロイツァ
ー。春戦争時点では彼はセルゲイ親衛隊の隊長の地位にあったが、
現在は少将となって宰相たるセルゲイの侍従武官として宰相の執務
の補佐をしている。
1673
クロイツァーは、仮にも帝国最大の権威者である皇帝をバカにす
るような言動を繰り返すセルゲイに肝を冷やしていた。執務室は現
在セルゲイとクロイツァーのみではあるが、もし万が一盗み聞きさ
れていたらと思うと気が気でなかった。
そのためクロイツァーは出来る限り声量を抑えて返答するのだが、
当のセルゲイは若く覇気に富んだ声を抑えようともしない。
﹁確かに彼我の国力差は歴然だった。あの野郎が適当に政務を放置
していても帝国がなんとか回っていけるくらいにはな﹂
﹁国力差が歴然であれば、帝国が負けるはずがない。そう思うのは
必然でしょう?﹂
この言葉は、嘘偽りはない。彼の目の前にある帝国統計局が提出
した資料に書いてある数字が嘘偽りのものでなければ、東大陸帝国
とシレジア王国の国力差は巨人と赤子ほどには違うのだ。
﹁昔からよく言うだろう。﹃負けに不思議の負けなし﹄とな。負け
る側には負ける理由があるのさ﹂
﹁⋮⋮その理由について、閣下には心当たりがおありのようにお見
受けしますが﹂
﹁そうだな。帝国が負けた理由は、思いつく限りでは3つある﹂
﹁⋮⋮意外に多いですね﹂
﹁そうでもないさ。たぶん細かい理由を上げていれば際限がないと
思うぞ﹂
セルゲイはそう言うと、目の前にあるコーヒーに手を付けた。皇
族と言うだけあって質の良い豆と高級な陶器のカップを使っている
が、それ以上にそのコーヒーを飲むセルゲイの所作はその華麗な見
1674
た目に相応しいものであった。
ただひとつ難点を挙げるとすれば、そのコーヒーには角砂糖5個
とたっぷりのミルクが入っていたことであるが。
﹁細かい理由はさておいてだ、帝国が負けた理由は3つ。補給、時
機、そして目的だな﹂
﹁⋮⋮補給はなんとなくわかりますが、後の2つは?﹂
﹁そうだな。順番に教えようか。まぁ、補給は言わずもがなだな﹂
東大陸帝国が、旧シレジア領ヴァラヴィリエの割譲を事実上認め
た﹁ギニエ休戦協定﹂が結ばれた理由は、ヴァラヴィリエの後方補
給基地が王国軍騎兵隊の活躍によって壊滅させられたことが原因の
1つである。
﹁それに予備を含めて50個師団に後方支援部隊、合計60万の大
動員を行ったくせに徴発できた食糧物資の量は過小だった。補給基
地の警備態勢が脆弱だったこともそうだが、どうにも兵站の不備が
あったことは拭えない。軍令部は略奪が前提の作戦を策定していた
ようだな﹂
﹁となると、敵が焦土作戦を取っていたら⋮⋮﹂
﹁我が帝国軍は正面兵力40万を丸々失う結果となっただろうな。
シレジア側の被害も相当酷くなっただろうが、もしかするとシレジ
アが逆攻勢作戦を行うかもしれなかった。そう考えるとよくあの程
度の敗戦で済んだものだ﹂
セルゲイはやや自嘲しながらそう言った。もしシレジアがその策
を取っていたのならば、予備戦力として派遣された彼自身も戦死し
ていたことは疑いようがない。
だが同時に、シレジア王国が未だに第一次、第二次シレジア分割
戦争時の敗戦の傷を引き摺っており、財政的にも経済的にも余裕が
1675
ないことはセルゲイも知っていた。焦土作戦を取れば国土の過半が
焼失して国力が半減し、逆攻勢作戦を行えるだけの兵站と兵力を維
持できないと彼は理解した。
﹁兵站を維持するためにはまず国力を底上げする必要がある。国力
とは即ち兵站の維持能力の事であり、そして兵站能力が高まれば多
数の兵を養い、士気を維持することが叶う。国力の差が戦力の決定
的差であるのはこういうことだ﹂
﹁なるほど。内政を放置していた皇帝陛下には到底無理な話、とい
うわけですか﹂
﹁そういうことだな。クロイツァーも言うようになったじゃないか﹂
セルゲイは、その友人の言動が可笑しくてたまらなかった。
先ほどまで自分の皇帝批判を慌てた様子で見ていたクロイツァー
自らが不敬な発言をしたためである。
そのことに気付いたクロイツァーは、二度三度咳き込んでそれを
誤魔化し、セルゲイに続きを話すように暗に促した。
﹁シレジア王国に対する復讐戦の声はないわけじゃないし、俺自身
したい気持ちもある。だが帝国の今の惨状からはこれは無理だ。暫
くは国力回復に努めるさ。ヴァラヴィリエなんて辺境に固執する理
由もないしな﹂
﹁敗戦によって国民の間には厭戦気分が高まっていることも確かで
すし、高級士官の不足も目立っています。再戦は無理でしょうね﹂
帝国軍の平時戦力は400個師団。春戦争による兵力の損失は、
巨大な人口を抱える帝国においてはすぐに回復できた。だが高級士
官の損失の補填は一朝一夕でなるものではない。更に言えば、セル
ゲイは政敵である皇帝派の貴族士官を使うことはできない。
1676
もっとも、春戦争敗戦による責任追及と維新の失墜は全て皇帝と
皇帝派の貴族がかぶっているため甚大な被害というわけでもない。
それに、セルゲイ自身はこの事態を逆用して内政及び軍制改革を
断行する気でいた。
﹁さて、話を敗戦の理由に戻すか。⋮⋮他の理由はなんだったかな﹂
﹁時機と目的と仰っていましたが﹂
﹁そうだった。まずは時機からだな。クロイツァーは覚えているか
? 今回の戦争が決まった日と、戦争が実際に始まった日の日付を﹂
﹁決まったのは636年の末、確か12月15日のことだったかと。
開戦は4月1日です﹂
﹁そうだ。つまり開戦まで4ヶ月程の時間があったと言うことだ。
4ヶ月もあれば、例えサルが国王でもそれなりの準備ができるだろ
うよ﹂
セルゲイの言う通り、シレジア王国はその4ヶ月という時間を有
効に使った。
戦時体制への移行、具体的かつ緻密な迎撃作戦の立案、予備役の
動員及び訓練と配置、防御陣地の構築、補給物資の手配、外交によ
る他方面の安全の確保、帝国軍に関する情報収集など。
これらを行ったのは王国の若き士官たちであるのだが、セルゲイ
はまだそのことを知らなかった。しかしその有効性をハッキリ理解
していた。
﹁﹃主動の原則﹄と言うものがある。機先を制し、常に有利な状況
を作る立場に身を置くことが大事という原則さ﹂
﹁しかし機先を制することに執心して、こちらが準備不足となるこ
ともあるでしょう? それでは元も子もないのでは?﹂
1677
﹁勿論最低限の準備は必要だが、準備不足は敵も同じ。防御側が態
勢を整える前に速攻を掛ければ、多少の準備不足は意に介さないも
のさ﹂
もしイヴァンⅦ世に軍事的な才覚が少しでもあれば、またはその
ような者が近くに居れば、セルゲイの言うように敵に時間を与える
ことはしなかっただろう。
例えばイヴァンⅦ世がシレジア王国への侵略意思を3月ごろに表
明し、4月に開戦した場合はどうなるか。シレジア王国の予備役動
員は間違いなく開戦に間に合わなかっただろうし、防御陣地の構築
もままならなかったはずである。ユゼフによる外交努力も時間が足
りず、開戦後は変化する戦局に情報が日々更新されて情報収集は不
可能に近かいものとなるだろう。
水際作戦が不可能となるために、シレジア王国軍は予備役を動員
できないまま不毛な焦土作戦を取るしかなくなる。だが国力の差か
ら来る兵站の差と、外交交渉を行えなかったことによって他の反シ
レジア同盟諸国の言質が取れず四正面作戦を強いられる可能性があ
ったことを考えると、あの戦争は第三次シレジア分割戦争と命名さ
れることになったはずである。
﹁にも拘らず、帝国は負けた。20万の将兵を失い、皇帝は健康を
害し、財政と経済は火の車さ。敵に時間を与えることが如何に危険
か、よくわかる事例だとは思わないか?﹂
そう言うとセルゲイは、喋りすぎた反動から喉の渇きを覚え目の
前にあるコーヒーを統べて飲み干した。それでも足らずに、従卒を
呼んで本日3杯目のコーヒーを所望する。
﹁そして、最後の敗因である﹃目的﹄だが、これも結構大きな敗因
1678
だな﹂
﹁﹃目的﹄ですか⋮⋮よくわかりませんね﹂
﹁こう言いかえても良いぞ。﹃大義名分﹄とな﹂
セルゲイは、微笑の表情を顔に浮かべながら運ばれてきた3杯目
のコーヒーに手を付ける。無論、砂糖とミルクはたっぷり入ってい
る。
﹁﹃大義名分﹄などというものが、それほど重要なのですか?﹂
﹁重要さ。﹃大義名分﹄を作れない戦争は得てして悲惨なことにな
るものさ﹂
セルゲイの言葉を聞いたクロイツァーは、やや唖然としていた。
﹁大義名分を作る﹂という、少し可笑しな帝国語を聞いたような気
がしたからである。
だが、セルゲイは帝国語を間違えていなかった。
﹁﹃大義名分﹄と言うものがあるだけで2つの効果が得られる。国
内世論と国際世論だ﹂
﹁⋮⋮世論、ですか?﹂
クロイツァーの疑問を聞いたセルゲイは、深く頷くと同時に突飛
な質問を彼にぶつけた。
﹁ところでお前、人殺しは好きか?﹂
﹁⋮⋮はぁ?﹂
﹁いいから、どうなんだ?﹂
突然の質問にクロイツァーは少し慌てたが、数秒後には答えを導
き出せた。
1679
﹁当然、嫌いですよ。出来るならば一生避けて通りたいですね﹂
﹁そうだな。俺も嫌いだ。大抵の人間はそうなんだ。そんなことが
好きな連中に会いたければ刑務所にでも行けばいい﹂
﹁⋮⋮それで、閣下と私の人殺し嫌いがどう関係するのですか?﹂
﹁大いに関係があるよ。戦争と言うものは、要は人殺しの事だから
な。兵士と呼ばれる職業の人間が、戦場と呼ばれる職場で軍紀に則
って敵国の人間を殺す仕事のことを、人は﹃戦争﹄と呼ぶ。細かい
定義を別とすればだがな﹂
﹁はぁ﹂
﹁人殺しが嫌いな人間が、戦争で人を殺さなければならない。当然、
兵達の士気は落ちる。ではどうすればいいか? 簡単だ、人殺しを
正当化する理由があればいい﹂
春戦争において、人殺しが嫌いなはずな両軍下級兵の心境はどう
いうものだっただろうか。
シレジア王国軍の場合は理由は明瞭である。愛する家族や故郷を
守るために、悪の侵略者たる東大陸帝国軍を打ち倒す。たとえ刺し
違いになってでも。負けそうになったとしても決死の覚悟で大切な
物を守るという心は、そうそう打ち砕かれない。
故に王国軍の士気は末端に至るまで高まっていた。古今東西、士
気が高まった軍隊というのは練度が確保されていれば、それは堅固
で強力なものとなる。
では東大陸帝国軍の場合はどうだったのだろうか。その答えは、
開戦前ロコソフスキ元帥の演説に垣間見ることができる。
﹁ロコソフスキは開戦前に恩賞の話ばかりしていたし、徴兵された
農奴1人1人に語りかけたらしい。つまり自分から﹃侵略者﹄だと
名乗っていたことだ﹂
1680
自らが悪の侵略者だと宣伝するような演説をしたロコソフスキ元
帥だったが、演説をした時点ではまだ大きな失敗だったわけではな
い。あまり褒められたことではなかったが、確かに貴族の高級士官
には効果覿面だった。侵略することによって自己の地位と富と名声
を上げることができるのだから。
だが、そんな貴族に率いられる兵の士気は陰惨たるものだった。
自分たちの富と自由を奪う貴族の未来の為に、なぜ戦わなければな
らないのかという不信感が根強かったのである。特に社会の底辺に
位置する農奴階級の人間がその顕著な例だっただろう。
そしてそんな状況下で、下級兵たちが劣勢を悟った場合どうなる
か。
貴族の士官は奪うことのみを考えて士気が高く後先考えず攻勢に
出るが、下級兵たちは﹁死にたくない﹂気持ちしか残っていない。
その結果起きるのが、士気の崩壊である。
もっとも分かり易い事例が、春戦争の緒戦に起きたザレシエ会戦、
その会戦におけるユーリ・サディリン少将の師団である。
サディリン師団は、ザレシエ会戦で積極的な攻勢と突撃を何度も
繰り返した。だが左側背より、王国軍近衛師団第3騎兵連隊の突撃
と正面から王国軍1個師団の逆撃を受けた時、士気が一気に崩壊し
た。サディリンは勇猛にも、あるいは蛮勇に指揮を続けたが、士気
が崩壊した下級兵たちはその指示に従わなかった。
その結果、サディリン師団は第3騎兵連隊に縦横に蹂躙され、サ
ディリン自体も戦死を遂げている。
﹁大義名分のない侵略軍というのは得てして士気が崩壊しやすい。
1681
だから防御側に匹敵する士気の高さを維持するためにも、有用な大
義名分を作らなければならないのだ﹂
もしサディリン師団が王国軍だった場合はどうなっていたか。
おそらく帝国軍に挟撃されてもなお、士気を維持することができ
ただろう。ここで自分たちが逃げてしまえば故郷がどうなるかとい
う心理が、彼らにはあるのだから。
﹁なるほど。だから宰相閣下や軍事大臣閣下が、色々と動き回って
いると言うことですか﹂
クロイツァーはそう指摘した。
実際、ここ最近のセルゲイ派閥の人間の動きは活発だった。軍事
大臣レディゲル侯爵を筆頭に、皇帝官房長官ベンケンドルフ伯爵、
そして他国に派遣しているセルゲイ派の外交官たち。
﹁なんのことかな﹂
とぼ
セルゲイは、そうすっ呆けて見せた。
その直後、彼はクロイツァーと喋りながらも作成していた書類を
完成させた。クロイツァーがその書面を一通り確認する。
﹁⋮⋮よくもまぁ、宰相になったばかりなのにこのようなことを思
いつきますね﹂
﹁ふっ、俺を誰だと思ってる。次期皇帝だぞ? それよりも、軍事
大臣レディゲル侯爵と内務次官のナザロフ子爵に宰相府に来るよう
に言ってくれないか。このことについて相談したいと﹂
﹁了解です、閣下﹂
彼が今完成させたその書類が、大陸の歴史に大きく刻むことにな
1682
るのだが、その成果が目に見えるようになるのはまだ先の話であっ
た。
1683
計画
大陸暦637年11月1日。
帝国宰相セルゲイ・ロマノフは、自身の執務室に軍事大臣アレク
セイ・レディゲル侯爵と、内務次官のオリェーク・ナザロフ子爵を
呼び、彼が考案した政策について相談をしたのである。
セルゲイがこれから行おうとしている政策は、かなり大胆な物で
ある。
彼の政策は3つのものを柱にしている。東大陸帝国内においてイ
ヴァンⅦ世どころか歴代の59人の皇帝でも比較的軽んじられてい
た民政や、軍制、外交政策の大改革である。
無論このような大改革をセルゲイ1人では実行できない。そこで
セルゲイは信頼できる人物にこの政策の相談をしたのである。
だが相談を受けた側の人物の一人である内務次官ナザロフ子爵は、
セルゲイの相談に乗ることはできなかった。というのも、ナザロフ
の理想とするところの全てが、若き帝国宰相から手渡された資料に
書かれていたからである。
﹁⋮⋮私といたしましては、文句のつけようがございません。ほぼ
完璧です、殿下﹂
ナザロフ子爵はセルゲイをそう称賛したが、称賛された側のセル
ゲイはそうもいかなかった。
﹁そうか、ほぼ完璧か。ではどうしたら完全に完璧となるのだ?﹂
1684
この男は貪欲だった。
凡人ならば子爵の言に満足し、そのまま国璽を押して実行すると
ころだっただろうが、彼はそうしなかった。
﹁⋮⋮では、ひとつだけ。ここまでの大改革となりますと、既得権
益にしがみつく貴族、特に殿下の政敵たる皇帝派貴族が五月蠅いで
しょう。多少根回しや妥協をするか、あるいは段階的な改革を実行
すれば良いと思われます﹂
﹁そうか、確かに卿の言う通りだろう。検討しておく。今日は下が
ってよい。感謝するよ、内務次官﹂
﹁はい、では失礼し⋮⋮﹂
とナザロフが退出しようとした時、セルゲイが﹁言い忘れていた
ことがあった﹂と言って彼を引きとめた。
﹁ナザロフ子爵。恐らく近いうちに陛下は逝去する。そうなれば自
動的に余が皇帝となる。その時の閣僚人事で、卿を大臣にするつも
りだ﹂
大臣への内定。それを聞いたナザロフ子爵が多少狼狽するのも無
理はない。
確かにナザロフは皇太大甥派貴族の中では有能ではあるが、彼の
自己評価はそれほど高くなかったからである。故に、この人事には
些か不安だった。
だがセルゲイは、ナザロフの内心を把握していた。そして少し笑
みを浮かべつつ、ナザロフに説明する。
﹁卿が帝国貴族の中にあって珍しく民政の改革を唱えてきた人物で、
尚且つ経済に詳しい。余としては、そんな人物をいつまでも次官職
1685
に留まらせておくのは勿体ないと思ってな。どうだ?﹂
セルゲイは、ナザロフが自分で思っているよりも有能であること
を知っていた。もっとも。現在は閣僚の人事権に関しては未だ皇帝
イヴァンⅦ世が握っているための措置だった。
﹁⋮⋮身に余る光栄、感謝の極みにございます。不肖の身なれど、
殿下に、いえ次期皇帝陛下に忠誠を尽くす所存です﹂
ナザロフは深く礼をし、そして宰相執務室から去った。
それを確認したセルゲイは、笑みを消してもう1人相談相手、レ
ディゲル侯爵に向き直る。
﹁⋮⋮さて、お待たせして済まないレディゲル侯。2つほど相談が
ある。1つ目は今渡した政策資料についてだが﹂
﹁その点につきましては、大枠では小官に異論はありません﹂
﹁そうか。細かなところは卿に委任しよう。その方が良いだろうか
らな﹂
﹁畏まりました、殿下。して、2つ目の御相談とは?﹂
レディゲルからそう聞かれたセルゲイは、一瞬不敵な笑みを浮か
べる。
﹁卿も予想してるのではないか? 昨日ベンケンドルフ伯と会って
いたそうじゃないか﹂
﹁これはこれは、御存知でしたか﹂
ベンケンドルフ伯爵。皇帝を補佐する皇帝官房長官であり、帝国
唯一の政治秘密警察である皇帝官房治安維持局の局長である。
レディゲルはそのベンケンドルフという人物と度々会っており、
1686
セルゲイが宰相となった10月31日にも会談していた。
﹁卿のことだ。春戦争に参加しなかった皇帝派貴族の粗探しでもし
ていたのだろう。それで、どうだったのだ?﹂
﹁御賢察、恐れ入ります。ベンケンドルフ伯の調査によると、春戦
争に参加しなかった皇帝派貴族97家の内、73家が帝国刑法もし
くは民法、あるいはその両方に反する行為をしていた模様です。詳
細はこちらです﹂
と、レディゲルは一束の資料をセルゲイに手渡した。その資料は
ベンケンドルフが作成したものだが、その厚みはとてつもないもの
である。
﹁ふむ。典礼大臣のペクシー男爵が宮廷予算の一部を着服していた
のか。あの野郎、宮内省と散々予算獲得競争をしたあげくに、増額
された予算をそのまま自分の懐に入れてたのか。クズだな﹂
レディゲルが目の前に居ると言うのに、セルゲイはペクシー男爵
を罵った。レディゲルは特に何も言わず注意することはなかったが、
内心は﹁有能なのは確かだが、まだ年相応なのだ﹂と思っていた。
確かにセルゲイはまだ18歳であり、レディゲルとは親子以上の年
齢差がある。
﹁それで、いかがなさいますか殿下﹂
レディゲルは平静を装ってそう聞いたが、セルゲイの怒りはまだ
収まらなかった。
﹁そうだな。どうやら証拠もあるようだし、着服した予算の全額返
却を要求する。もし銅貨1枚でも支払いが欠けていたら、男爵位を
1687
剥奪して一般市民用の刑務所に入れる。司法大臣とも相談せねばな
らん。それと、典礼省はもう廃止で良いだろう。宮内省に業務を引
き継がせればいい。どうせ残したって碌な事しないだろうからな﹂
彼は行儀悪く肘を付きながら、典礼省の廃止とペクシー男爵の処
罰を夕飯の献立を決めるかのような態度で決定したのである。
そしてセルゲイは、犯罪者貴族名簿に飽きたのか資料を執務机に
だらしなく放り出し、次の案件に移る。
﹁ベンケンドルフ伯で思い出したが、カールスバートの件はどうな
った?﹂
カールスバート共和国は4日前、つまり10月27日に大統領府
炎上事件が発生している。その事件は後に共和国憲兵隊、そして内
戦に介入したシレジア王国によって真相が暴かれることとなるのだ
が、この時はまだ当然のことながらセルゲイもレディゲルもそのこ
とは知るはずもない。
﹁伝書鳩での連絡となるので詳細は不明ですが、どうやらハーハ大
将の暗殺には失敗したようです﹂
﹁ふむ⋮⋮そうか﹂
﹁申し訳ありません、殿下﹂
﹁いや。大丈夫だ。今回の件はハーハに教えるためにあるようなも
のだ。計画が実行に移された、それだけでも半分は成功したことに
なる。陳謝は無用だ﹂
そう言うと、セルゲイはハーハ大将の生死に興味をなくし﹁それ
よりも﹂と前置きしてレディゲルに尋ねた。
﹁レディゲル侯爵、卿は今回の我々が放火したカールスバートの内
1688
戦。どの勢力が勝つと思うか?﹂
﹁⋮⋮順当に行けば、国力と兵力の差から言って国粋派でしょう﹂
﹁ふっ、そうだな。順当に行けば、な﹂
セルゲイは、鼻で笑ってそう言った。順当に行かせるつもりはな
い、とでも言いたそうな表情である。
不思議に思ったレディゲルが問いただすと、セルゲイは隠すこと
もなく直球でその胸の内を晒した。
﹁今回の内戦、隣国の王女様に介入させたらどうなるかなと思って
な﹂
﹁隣国の⋮⋮まさかエミリア・シレジア王女のことですか?﹂
﹁そうだ。聞けばなかなかの軍事的才幹があるらしいじゃないか。
彼女に内戦に介入させるのも面白いことが起きるんじゃないか?﹂
面白い事がある。そんな理由で、セルゲイはレディゲル侯爵とベ
ンケンドルフ伯爵を使って、シレジア王国宰相カロル・シレジア大
公を操り、エミリア王女に内戦介入させることにしたのである。
勿論、そんな酷く低俗な理由だけでエミリアに内戦介入を勧めた
のではない。
セルゲイらが目論む大陸の統一の為には、シレジア王国宰相カロ
ル大公の協力が不可欠である。だがここ最近は国内勢力が二分しつ
つあり、多数派工作の必要性がある。そこでエミリアを王国から合
法的に追い出し、カロル大公に工作の時間を与えることにした。
そしてもうひとつ理由がある。
﹁おそらく彼女は王権派とやらに味方する。そして、彼女の才覚を
もってすればカールスバート王国の再建も叶うだろう﹂
1689
カールスバート王国の再建は、東大陸帝国にとっても不利益はな
い。むしろ大陸統一に際しては、利益になる場合がある。それを間
接的に成し遂げてくれる、敵国の王女に彼は期待したのだ。
だがそのセルゲイの予測に対して、レディゲルが疑問を呈した。
﹁そんなことが可能だとお思いなのですか? たかが16歳の王女
に?﹂
﹁侯爵も知っているだろう。彼女が春戦争最大の立役者であること
を﹂
﹁ですが何者かが裏で考えたという可能性の方が高いと思われます
が⋮⋮﹂
レディゲルの予測は、確かに一般常識から外れるものではない。
16歳の少女とも言えるエミリアが、数に勝る東大陸帝国軍を打
ち破る作戦を独自に立てたなどということはにわかには想像できな
い。
だが、セルゲイの見解は違っていた。
﹁いや、恐らくそれはないな。そんな人間が士官学校に入ろうとす
るものか。恐らく彼女は本物だ。半分は私のカンだが﹂
﹁⋮⋮殿下がそう仰るのであれば、小官は何も言うことはありませ
ん﹂
レディゲルは不承不承と言った感じで引き下がった。
後にカールスバート内戦が終結した時、レディゲルはこの時の会
話を思い出すのだが、そこに至るまではまだ5ヶ月程の時間を要す
るのだった。
1690
計画︵後書き︶
35000pt越え+累計ユニーク20万越え+感想1000件到
達です。
皆様本当にありがとうございます!
1691
伯爵家の娘
帝国宰相セルゲイ・ロマノフが、帝国内だけでなく全大陸国家に
自身の政策を発表したのは、大陸暦638年1月3日の事である。
彼が発表したその政策は、大陸中に衝撃をもたらしたことだけで
も評価できるものだった。
当然ながら、それらの情報はオストマルク帝国情報大臣の耳にも
自然届いた。
﹁これをどう思う?﹂
情報大臣ローマン・フォン・リンツ伯爵は、目の前に立つ女性に
話しかけた。まだ若く、少し幼さの残っている顔つきだが、既に幾
度の現場を経験して確実に自身の才を伸ばしている、自慢の娘に。
﹁どうもこうもありませんよ。これだけでは情報が足りない、もっ
と多くの情報を集めなければなりません。具体的には、予算の変動
や政府要人の具体的な動向、特にレディゲル侯爵が何か積極的に動
いているようですから。まずはそこを調べる必要があると思います
よ、お父さん﹂
彼女は毅然とした態度で、そして正確な論評でそれを父に伝えた。
それを聞いたリンツ伯は満足げな顔で大きく頷く。
﹁流石、我が愛娘だな。これなら安心してリンツの家名を継いでく
れそうだ﹂
﹁私はまだ継ぐとは言ってませんが﹂
1692
﹁それは困る﹂
リンツ伯は本当に困ったような顔をした。情報大臣がこうも感情
を表に出すことは本来ないのだが、それは愛する娘を前にすれば自
然と顔はほころぶものである。つまり俗的な言い方をすれば彼は﹁
親バカ﹂なのだ。
リンツ伯と今会話しているのは、リンツ伯爵家の長子にして、何
もなければ将来そのリンツ伯爵の家名を継ぐ者。今年20歳となる
クラウディア・フォン・リンツである。彼女の顔と性格は妹のフィ
ーネと似ているが、これはリンツの血統を受け継ぐ女性の特長であ
る。
クラウディアの現在の地位は、オストマルク帝国外務大臣秘書官
補。つまりリンツ伯の義父、クラウディアやフィーネの祖父である
レオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデンホーフ侯爵の部下という
ことになる。彼女は祖父の命を受け、父親にこの帝国の若き宰相の
情報を提供しに来たのである。
﹁まぁ、具体的な内容はともかくとして、この帝国新政策は成功す
ると思うかね?﹂
﹁⋮⋮わかりません。帝国宰相セルゲイの度量次第かとは思います
が﹂
東大陸帝国は3つの重大政策を幹とし、それに多くの政策が付随
する形となっている。当然、その幹となる3つの政策が重要となる
わけだが、彼らはその斬新さに目を惹いている。
﹁農奴解放、反シレジア同盟を始めとした外交政策の抜本的見直し、
そして軍縮。東大陸帝国にしては随分思い切った改革だ。特に大陸
帝国建国以来、1000年近く続いた農奴政策の撤廃などというの
1693
は余程の大転換と言っても良い﹂
﹁反シレジア同盟の見直しと軍縮についてもそうですね。それとも
これは、あの大国の財務状況が悪くなっていることの証左なのでし
ょうか﹂
﹁わからない。確かにそのあたりの情報を集めてみるしかないな﹂
セルゲイの発表は、まだその表題が示されただけである。具体的
な内容については言及されておらず、特に各国が注目している軍縮
の規模についても不明だった。
その点に思いを馳せたリンツ伯は、ふとある人物の名を思い出す。
﹁私の友人なら、あるいは答えを導き出せるかもしれない﹂
﹁友人?﹂
﹁あぁ。友人で、フィーネの婚約者だ﹂
﹁⋮⋮え、あの子婚約者いたの?﹂
クラウディアにとって、その婚約者の情報は寝耳に水だった。セ
ルゲイの新政策がどうでも良くなるくらいには衝撃的な情報だった。
﹁と言っても、まだ先方は承知していないがね﹂
﹁⋮⋮﹂
つまりはリンツ伯の企みのひとつであったのだが、クラウディア
はその企みが成功することを半ば確信していた。なぜならば、自分
の父親がそういう画策を失敗したことがないからである。表向きは
何もしていないと見せかけて、裏で凄まじく悪事を働いていたとし
ても、クラウディアは驚かない自信がある。
﹁まぁ、お父さんの妄想縁談はともかくとして、その友人に聞けば
答えがわかると?﹂
1694
﹁そういうことだ。と言っても、答えを聞きたくても彼は今この帝
国にはいないから無理なのだが﹂
﹁⋮⋮と言うと?﹂
クラウディアの質問に対し、リンツ伯はニッコリと、意味深に笑
みを浮かべる。
﹁彼は今、歴史の最前線に立っているよ﹂
父の言葉に、クラウディアはその﹁友人﹂とやらに初めて興味を
持ったのである。いったいどんな人物なのか。伯爵の友人というの
であれば、やはり帝国爵位を持つ者なのかと想像していたのである。
だがクラウディアの想像は全て外れていた。そのリンツ伯の友人
は、当時まだなんの貴族的称号を持たない農民出身の士官だったの
だから。
クラウディアは暫く想像の翼を広げていたものの、リンツ伯はす
ぐに話の方向を元に戻した。
﹁ま、事の次第はともかく、これでセルゲイ・ロマノフが次期皇帝
たる器と資格を持っていることは証明された。彼自身がこれを考え
見出したのでなかったとしても、このような大改革を是認するだけ
の度量はあることには違いない。そう言う点では、彼は名君となる
ことを約束されたも同然だ﹂
リンツ伯の論評は正しく、そして危険な結論でもあった。
隣国の、最大の仮想敵国である東大陸帝国に名君が生まれたこと
は、オストマルク帝国にとっては看過できない問題だった。これを
どう切り抜けるかが、今後の帝国の存亡を決める最大の鍵となる。
1695
クラウディアも同じ結論に達していた。だが同時に彼女は、父親
とは別のことを考えていた。
それはシレジア王国と手を結ぶことが本当に良きことなのか、と
いうことである。東大陸帝国が再びシレジア王国に対し戦争を仕掛
けたらば、先の春戦争のようには上手くいかないことは確かである。
その時、オストマルクはどうするか。シレジア王国が滅亡してし
まえば今までの努力は無駄になるどころか、東大陸帝国に目を付け
られ近い将来に戦争になるのではないかという懸念があった。
今からでも遅くはない。リンツ伯か、クーデンホーフ候に相談し
てシレジア分割論を高めていくべきではないかと考えたのである。
﹁ところでクラウディア、話は変わるが⋮⋮﹂
クラウディアがやや危険な方向に思考を巡らせていた時、急にリ
ンツ伯がまたしても話題を急転換させたのである。
﹁なんでしょうか?﹂
彼女の単純な問いに対し、リンツ伯も明快な答えを彼女に返した。
﹁クラウディアにも縁談の話がいくつかある。興味あるか?﹂
その時、情報大臣執務室は数十秒間の静寂に包まれた。
何せ、この父親が縁談の話を持ってくることは今回が初めてだっ
たこと、そしてリンツの家名を継がせる気で、且つ結婚によってさ
らなる家の発展を目指すとなると、相手は余程の高名な人物となる
可能性がある。
1696
クラウディアはやや返答に困った。だが彼女自身、そろそろ結婚
しないとまずいのではないかと考えていただけに、これは好機とも
言えただろう。
﹁⋮⋮⋮⋮あまり興味はありませんが、伺いましょう﹂
クラウディアは、平静を装って、さも嫌々という風でそう答えた
のである。もっとも、実の父で情報の専門家たるリンツ伯に通じる
かどうかと言えば、微妙な策だっただろうが。
大陸暦638年1月3日。
その日はリンツ伯爵家の長子クラウディア・フォン・リンツが縁
談を受け入れた日であり、そしてカールスバート内戦において王権
派・シレジア王国連合軍がロシュティッツェ会戦において国粋派を
打ち破った日でもある。
1697
放浪息子の帰宅
時代や国家が違えど﹁男女間の問題﹂と言うものほど厄介な物は
ない。
古くは神話の時代から人類社会に深く関わるこの問題は、時に歴
史を大きく動かしてしまい、国を滅ぼすこともある。あるいはそれ
を目的として敵国に美女を献上し、その美貌によって敵国の王がた
ぶらかされ、実際に国家が衰亡した例もあったのだ。
それだけにこの問題は根深く、そして一度こじれると非常に面倒
になる。
さて、そんな厄介で面倒な問題を抱えてしまった男が、大陸暦6
38年3月20日のシレジア王国にいる。
彼が当時抱えていた問題はひとつではなかった。国家の存亡に関
わる問題を大真面目に考えていた傍ら、それをも超える煩雑な難題
を処理しようとしたのである。
それはある日、彼と最も長い付き合いの女性から言われた言葉が
問題の発端である。だがそこまでだったら、大きな問題とはならな
かったかもしれない。なぜなら、今となってはこの問題が複数の人
間と国家を巻き込んだものとなってしまったからである。しかも、
彼自身の失策によって。
彼、ユゼフ・ワレサはある女性に告白された。
﹁で、どう思います? フィーネさん﹂
1698
そしてあろうことか、そのことを彼に思いを寄せている別の女性
に相談してしまったのである。
そんなことをするから、話がややこしくなる。
﹁⋮⋮はぁ﹂
彼女としては、そんな反応しかできなかった。
なぜこのような事態に陥ったことを理解するためには、暦を少し
戻さねばならない。
−−−
大陸暦638年3月11日10時40分。
カールスバート内戦への介入を終えた俺らエミリア師団はようや
くクラクフに帰ってこれた。これでじっくり休め⋮⋮るわけもない
か。俺を待っているのは総督府軍事査閲官執務室に溜まった大量の
書類だ。自然と、総督府へ向かう俺の足取りは鈍くなる。帰りたく
ない。
いや、それはまだ良い。書類仕事はちょっとずつ慣れてきたから。
問題は⋮⋮
﹃私、ユゼフのこと好きよ!﹄
1699
⋮⋮あ、やばい。ちょっと思い出してしまった。なんか恥ずかし
い。たぶん今顔真っ赤になってる。だって仕方ないじゃない。ああ
いうこと言われるの16年と255ヶ月の人生で初めてなんだもの。
恥ずかしさのあまり、もういっそ殺して欲しい。
その台詞を聞いた時は俺も結構狼狽えたが、サラさんも割と顔真
っ赤にしてた。いやいつものことだけど。
﹃⋮⋮えっ?﹄
﹃⋮⋮あっ﹄
なんていうか﹁言ってしまった感﹂を彼女から感じた。言うつも
りなかったのに勢いで言ってしまったという、彼女らしい部分を垣
間見た。
まぁ、問題はその後の彼女の台詞でして。
﹃あ、あの、これは、その、親友としてよ! ユゼフと恋人になり
たい奴なんているわけないじゃないの!!﹄
割と酷い言い種を聞いた気がするが、まぁそこで﹁そうか、そう
言う意味なら安心だね!﹂とはならない。あそこまで言われて勘違
いできるはずもなし⋮⋮いや、案外その通りだったりするのかもし
れないけど。だってサラさん割と挙動不審だし。
⋮⋮うん。ダメだな。考えがまとまらない。敵が何を意図して兵
を動かしているのかを考えるのは得意なんだけど、女子が告白した
あとそれを慌てて訂正する意味に結論を見出せない。何、ツンデレ
なの? サラさんどちらかと言えばツンボコじゃない?
やっぱりここは専門家に聞くべきかな。婚約者がいるイケメンラ
1700
デックとか、年長者のマヤさんとか。あ、でもラデックはリゼルさ
んという婚約者ができるまでは童貞だったんだっけ。ということは
恋愛経験はそんなんでもないと。
やっぱり年長者ということでそういう経験も割とありそうなマヤ
さんが良いかな。いやしかしマヤさん男っ気全くないからなぁ。な
んかもう﹁エミリア殿下の下に居るのが私の幸せ。男なんて要らん
!﹂って風格だしね。公爵令嬢としては結婚した方がいいと思うけ
ども。
﹁︱︱さん? ユゼフさん?﹂
﹁⋮⋮あ、はい。なんでしょうか、エミリア殿下﹂
いつの間にか近くに来て、ひょっこり覗き込んでくるエミリア殿
下にようやく気付いた。
﹁考え事ですか?﹂
﹁えぇ、まぁ﹂
ノーコメント
﹁顔を真っ赤にして?﹂
﹁⋮⋮回答拒否で﹂
俺がそう言うと、エミリア殿下はクスクスと笑い始める。どうや
らツボに入ったらしい。
﹁この場にはいない、オストマルクからの御令嬢に思いを馳せてい
たのですか?﹂
﹁いや、それはないです﹂
フィーネさんは今はこの場にはいない。帰路の途中で別れ、オス
トマルク帝国情報省に報告と﹃土産﹄を渡しに行っている。クラク
フにすぐに戻ってくるとは言っていたが、あまり早く戻ってきてほ
1701
しくないな。
それはともかく、今はエミリア殿下に適当な言い訳を言ってお茶
を濁さないと、変に勘ぐられたら困る。殿下が変なことを言ったお
かげか、割と素に戻れたし。主に顔が。
﹁東大陸帝国の動向が気になったんですよ。この間もご報告いたし
ましたが、今回の内戦であの国が介入してきたのは間違いないので
すが⋮⋮﹂
どうも戦場に居ると、そういう国際情勢に疎くなる。シレジア王
国に情報機関がない、少なくとも王女派に帝国との独自のコネがな
い以上、基本的に彼の国の情報はオストマルク帝国経由となる。で
も全ての情報を開示してくれるはずもないし、見返りも勿論払わな
ければならない。情報が正しいかの判断も出来ない。
﹁そう言えば、気になる情報が入りました。外務省からです﹂
恐らく大公派である外務尚書からの情報というのは半ば信じられ
なかったが、その情報の内容的には嘘はないのではないか、とエミ
リア殿下が言っていたので俺も信じることにする。
﹁東大陸帝国皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の命により、新たにセル
ゲイ・ロマノフが帝国宰相の職に就いたと﹂
﹁⋮⋮いつですか?﹂
﹁昨年の10月31日です﹂
随分前だ。内戦が起きた時に、帝国では政争にひとつの区切りが
ついたということか。
内戦勃発前後に既に権力を握っていたとすると、内戦の直接の原
因となったカールスバート大統領府放火事件はセルゲイ・ロマノフ
1702
による指示と言う可能性が高い。
﹁セルゲイは既にいくつかの新政策の発表を済ませていますね﹂
﹁彼の国の思惑が大陸の統一ならば、その政策は全て大陸統一のた
めの事前準備ということでしょうね。内容については?﹂
﹁ただ表題が発表されただけで、子細は不明です。主に3つの政策、
具体的には農奴解放、外交政策の見直し、そして軍縮です﹂
﹁⋮⋮軍縮?﹂
﹁えぇ。軍縮です。大陸統一のためには軍事力はいくらあっても足
りないはずですが、軍縮をするとは意外です。財政支出の圧縮をし
て、ひとまずは内政に力を入れるのではないかと思いますが⋮⋮﹂
﹁外交政策の見直し⋮⋮というのは反シレジア同盟の枠組みやキリ
ス第二帝国との紛争をどうにかするということですかね。それによ
って安全保障上の危機を乗り越えるつもりなのかもしれません﹂
と、言っても自信はない。
軍縮すると見せかけて、実は軍拡してましたというオチかもしれ
ない。そこら辺は生の情報を手に入れないと判断のしようがないだ
ろう。
こういう時フィーネさんがいてくれれば色々相談できるのだが。
﹁あらユゼフさん。また例の人について考えているんですか?﹂
目敏い殿下が俺の表情がちょっと変わったことに気付いたらしい。
ちょっとニヤニヤしてるのはご愛嬌。
﹁別にフィーネさんのことは考えていませんが﹂
﹁あらあら。私は﹃フィーネさん﹄とは言っていませんよ?﹂
﹁あっ﹂
1703
⋮⋮しまった。こんな単純な罠に引っ掛かるなんて。
罠を引っ掛けた方の殿下と言えば、再びクスクスと笑っいつつ少
し諭すように怒っているように見えた。
﹁全く。女性と話しているときに他の女性の事を思うなんて、嫌わ
れますよ﹂
﹁申し訳ありません﹂
口調は冗談っぽかったが目がマジだった。怖い。
﹁まぁユゼフさんのポカはともかく、確かにフィーネさん⋮⋮と言
うより、オストマルクからの情報支援が欲しいのは確かです。我々
も早急に情報網の構築をせねばなりませんが、いい方法はないもの
ですかね⋮⋮﹂
情報は力だ。戦場でも政治でも何でも、情報と言うものがなけれ
ば不利どころか土俵に立つことすら許されない。諜報員を敵国に送
るのが単純な手だが、それだと国家の中枢部に手が届くまでに時間
がかかる。既に国家の中枢にいる人間、あるいは中枢に行きそうな
人間を寝返らせるのが効率の良いやり方だ。
まぁ、問題はそんな人間はホイホイいないってことだが。しかも
東大陸帝国皇帝派の力が弱まったために、皇太大甥派に刃向おうと
する人間は減っているはずだ。
﹁⋮⋮そう言えば殿下。講和条約の締結に関して、何か具体的な話
はないのでしょうか?﹂
﹁講和ですか?﹂
昨年の春戦争の正式な講和条約はまだ結ばれていない。﹁ギニエ
1704
休戦協定﹂という仮の協定があるだけで、正式にはシレジアと東大
陸帝国は戦争中なのだ。故に両国の動員はまだ完全に解除されてい
ないし、捕虜も解放されていない。
現在、皇太大甥セルゲイ・ロマノフが帝国宰相となっている。帝
国としては、政治情勢が安定し始めたこの時機に講和を結びたいと
考えるのではなかろうか。
であれば、シレジアも準備をした方が良い。
﹁その講和条約を結ぶ際にあたって、帝国の要人に接触して情報収
集をしたり、あるいは条約の内容に罠を仕掛けて情報網を構築した
りする、というのを考えたのですが﹂
すると、エミリア殿下は深く何度も頷いた。
誰と接触するかとか、具体的にどういう条文にするかだとかを思
いついたわけじゃないが、そういう外交の場での情報収集も良いの
ではないだろうか。
それに講和条約の内容は恐らくシレジアに有利な条文になる。い
くらでも罠は張れそうだし、帝国の外交官や大臣級の人間をシレジ
アに呼ぶことも出来る、かも。
﹁なるほど。確かにそれは有効そうですね。至急、外務省に問い合
わせてみます﹂
殿下がそう言うと、小走りで俺の下から去り、マヤさんと合流し
て総督府へ向かう。エミリア殿下自身、あるいは総督たるマヤさん
のお兄さん経由で問い合わせるのだろう。
ま、王都からクラクフまでの距離を考えると返事が来るのは来週
1705
とかになる。それまでにエミリア師団の残務処理、総督閣下からの
事務引き継ぎを済ませるとしますかな。
1706
祝辞︵前書き︶
本日2回目の更新です
1707
祝辞
3月12日の13時30分。
久しぶりに座る軍事参事官執務机の椅子を愉しんでいた時に﹁来
客がある﹂と従卒のサヴィツキくんが報告しにきた。
﹁誰です?﹂
﹁グリルパルツァー商会のリゼル・エリザーベト・フォン・グリル
パルツァー様です﹂
と言うわけで、俺とリゼルさんは数か月ぶりに再会した。前回会
ったのは工場建設の交渉⋮⋮にもなっていないときのことだから、
結構久しぶりである。
そう言えば内戦介入の切っ掛けとなる情報を持ってきたのもリゼ
ルさんだったな。今回はどんな情報を売りつけてくるのだろうかと
戦々恐々としたが、実際はそんなんでもなかった。
﹁今月の末には、工場の1棟目が完成するのでご挨拶に参りました﹂
とのことである。うん。聞き捨てならない言葉が聞こえたね今。
﹁⋮⋮1棟目?﹂
﹁はい。1棟目です﹂
リゼルさんは相変わらずの眩しいくらいの営業スマイル。前回の
交渉の時でもそうだったが、彼女がこういう笑顔を見せているとき
はほぼ必ず悪いことを考えている。
1708
﹁コホン。私は所用でカールスバートに行っていたのと、民政に関
しては文官に任せていたので子細を知らないのですが⋮⋮その、何
棟建てる予定なのです?﹂
﹁そうですね。とりあえず3棟、最終的には被服工場以外の工場を
含めて8棟ほど建設する計画があります﹂
なにそれ怖いし聞いてない。いや土地はあるし化石燃料で動く蒸
気機関なんて環境に悪いものはないからどんどん建てて良いけどさ。
労働需要が増えて結果的にクラクフの人口や経済力が伸びるなら、
総督も万々歳だろう。たぶん。
﹁ですが内戦が予想より早く終わったのは計算外ですね。カールス
バート復興による建材費高騰と、人件費の安い難民の流入が止まっ
てしまったので、計画は見直されるかもしれませんが﹂
﹁あ、そうですか⋮⋮﹂
なんかさらっと言ったけど、メッチャ黒い発言してなかった? 戦争特需に完全に乗っかろうとしてたの? 武器工場でも作ろうと
していたのだろうか。
⋮⋮うん、あまり深入りするのはやめよう。そのうち玩具工場と
称して量子コンピュータを生産して世界の空を乗っ取るとか本気で
やりそう。
﹁まぁ内戦の復興需要もあると思いますし、収支トントンでしょう﹂
﹁そうですね。カールスバートからの亡命資本家と有用なコネを作
ることもできましたし、戦後復興事業の融資や協力を取り付けるこ
とも出来ました﹂
﹁いつの間にそんなことを⋮⋮﹂
﹁えぇ。好機というものはいつどこに転がっているかわかりません。
それを確実に拾うのが、私の仕事ですから﹂
1709
リゼルさん怖い。
彼女は確か次女だから、商会の社長職はお姉さんかお兄さんが継
ぐことになるだろう。でもリゼルさんのこの手腕を見る限り、それ
に匹敵する役職を与えてやってもいい気がする。いっそ独立でもい
いんじゃないか。
あ、でもラデックと結婚するとなると独立は無理かな。ラデック
が婿に入るのか、リゼルさんが嫁に入るのかはわからんけど。どう
いう形で経営統合するのか気になるところである。
それはともかく、その後は工場建設の具体的な日程や業態、労働
者との契約がブラックすぎないかなどの確認など、おおよそ文官に
渡される書類が俺のところにやってきた。理由を聞いたら
﹁ユゼフさんは騙⋮⋮コホン。失礼、話しやすい方なので﹂
酷いってもんじゃないが実際その通りなので﹁持ち帰って上に相
談します﹂という曖昧な返事だけをしておいた。助けて民政長官。
仕事が一段落しリゼルさんが帰ろうとした時、彼女は﹁お願いが
ある﹂と言ってきた。嫌な予感しかしないのは気のせいだろうか。
﹁ユゼフさん。ラデックさんに会いたいのですが、至急許可を取り
付けてもらいませんか?﹂
﹁ラデックにですか? 普通に申請をすれば会えると思いますが?﹂
﹁いえ、身内だけで話したいことがあるので、できれば駐屯地から
離れた場所で会いたいのです﹂
そう言うリゼルさんの顔は乙女だった。頬を赤らめ唇に手を当て
ちょっと俯き加減で俺にお願いしてくる。あざといってレベルの話
1710
じゃない。
そしてそれを断るだけの勇気は俺にはないので、二つ返事でOK
してしまった。
﹁わかりました。やや公私混同ですが、軍事参事官の権限で、彼を
総督府に出頭するよう命じておきます。明日でよろしいですか?﹂
﹁はい、大丈夫です。感謝致します。ユゼフさん﹂
−−−
翌3月13日。
軍事参事官の権限で﹁クラクフ駐屯地補給参謀補ラスドワフ・ノ
ヴァク、至急の用件につき総督府に出頭するように﹂と通達してお
いた。伝令の仕事は早く、その日の午後にはラデックがやってきた。
そして前日と同じく総督府応接室にて。そこにいるのは俺、ラデ
ック、リゼルさん。
リゼルさんがラデックを見た瞬間いちゃこらを開始。﹁仲が良い
ですね﹂と言いたいところだが、1分ほど愛を語らった後に衝撃の
御言葉がリゼルさんから放たれた。
﹁できちゃいました﹂
頬を赤らめ、恥ずかしそうに言いながらお腹に手を置く婚約者の
この言葉。どう考えても役満です。
その後数分間、心当たりがあるらしいラデックは動かなかった。
1711
うむ。﹁至急の用件﹂じゃなくて﹁子宮の用件﹂と通達しとけば
よかったかしら。
1712
結婚
現状。
応接室のソファで項垂れるラデック。その対面に座るにこやかな
顔をしたリゼルさん。困惑する俺。
そして応接室に入ってきたマヤさんは、この惨状に目を白黒させ
ていた。
﹁⋮⋮どうした。ラデックくんは戦争に負けたのか?﹂
﹁いえ、どちらかと言えばリゼルさんが勝利したという感じでしょ
うか﹂
とりあえずマヤさんに事情を説明。マヤさんの顔も困惑と驚愕と
喜びを混ぜたような顔をしている。その気持ちはわからんでもない。
俺もたぶん似たような顔をしてたと思うし。
恐らく、内戦勃発前のリゼルさんとラデックのデートの時にヤち
ゃったんだろうな。リゼルさんも虎視眈々と狙ってたし、だとする
と妊娠5ヶ月。そろそろお腹の膨らみが目立つ頃だろうが、彼女の
服装がその膨らみを隠しているようだ。
えーっと。前回会ったのが確か10月中旬のことだから、予定日
はたぶん7月の頭くらいになる。
﹁何にしてもめでたい事じゃないか﹂
﹁男か女か、両親のどちらに似るのか今から楽しみですね﹂
﹁そうだな。どちらにしても顔立ちも頭脳も良い子が生まれること
だろう。羨ましい事だ﹂
1713
一方、当人たちの様子は相変わらずである。
リゼルさんは﹁うーん、男の子がいいかも⋮⋮﹂とやや妄想の領
域に達しており、なんかちょっと危ない雰囲気を醸し出している。
そしてラデックはと言えば
﹁お前らうるせぇ。殺すぞ﹂
俺らを睨みつけつつドスの効いた声でそう言った。超こえぇ。歴
戦の戦士たるマヤさんもちょっと怖気づくほどの迫力だった。
その言葉の直後に、ラデックは長く深い、深ーい溜め息を吐いた
後、頭をガシガシと掻いた。うん、これは見た事がある。事務処理
が溜まってどうしようもなくなった時のラデックだ。
﹁はぁ⋮⋮ちょっと2人きりにしてほしい﹂
まぁ、積もる話もあるだろう。
俺とマヤさんは、暫くは外で待っていることにしよう。
−−−
数分後。
ラデックとリゼルさんの密談は思いの外早く終わった。会話を盗
み聞きしようとドアに張り付いて耳をくっつけていたのだが、そん
なに大声で話していなかったので内容はわからなかった。
が、部屋から出てきたリゼルさんが満面の笑みをしていたので悪
い話ではなかった模様。とりあえず中絶だの認知しないだのと言う
1714
話はないのは確かだな。
ただ問題はリゼルさんの意識がここではないどこかに完全に昇天
してるので、話しかけても全く反応がないことだ。たぶんこのまま
だと階段を踏み外して流産とかいう笑えないオチが待っているだろ
うから、とりあえずマヤさんを付き添わせることにした。
じゃ、俺はラデックに付き添うかね。
﹁おーい、ラデック。生きて⋮⋮ないな﹂
死んでた。執務室の扉を開けると、そこにはラデックの死体があ
った。正確に言えば息はあるし瞳孔も正常だし脈もある。ないのは
魂だけだ。
﹁まぁ、なんだ。俺でよければ相談に乗るよ?﹂
﹁断る﹂
ようやく口を開いたと思ったらこれである。悲しい。
が、彼は頭をボリボリと掻いた後に、まるで犯罪者が自供するか
のように事の次第を話してくれた。
﹁⋮⋮初めてだったんだよなぁ﹂
﹁何が?﹂
﹁子作り﹂
急に生々しい話が飛び出してきたな、オイ。
にしても、童貞卒業日が父親になった日に変わったのか。確かに
同情の余地はある。まぁなんだ、1発だけなら誤射かもしれない。
﹁できちゃったもんは仕方ないだろ。まさか流産させるわけにもい
1715
かんだろうし﹂
第一、相手は婚約者だから﹁望まない妊娠﹂というわけでもない。
むしろリゼルさんは大喜びでもある。それはラデックも承知してい
るので﹁まぁな﹂と言ってまたポリポリと頭を掻く。
﹁問題は、結婚の方なんだよな﹂
﹁あ、結婚する気あるのね﹂
﹁たりめーだろ。結婚する気ない奴と子作りはしない﹂
いやどうだろう。結構そう言う人は多い気が⋮⋮まぁいいや。本
人が良いって言ってるんだし。
﹁普通に結婚すりゃいいじゃん。婚約者だろ?﹂
﹁そうだな。相手が勅許会社の社長令嬢かつ異国人でなければな﹂
﹁あー⋮⋮。となると、ラデックの親父さん? に相談しないとダ
メか﹂
グリルパルツァー商会とノヴァク商会がなんらかの業務提携をす
る。そのための政略結婚というのが根本的にあるのだ。この2人は。
たぶん商会の規模から言って、ノヴァク商会がグリルパルツァー商
会に吸収される形となるだろうが。
﹁そうだな。まぁたぶん大丈夫だと思うが、勝手に決めるわけにも
いかない。だからリゼルには﹃ちょっと待ってほしい﹄って言った
んだ﹂
どちらも結婚する気満々なわけか。なるほどね。だから退室した
時のリゼルさんがあんなにウキウキだったのか。
1716
﹁オストマルクの要人と結婚するという事に関しても、軍務省に判
スパイ
断を仰がなきゃならんかもしれん。一応、旧反シレジア同盟加盟国
だ。間諜か何かと誤解されたら面白くない。近日中に王都に行くこ
とになるだろうな﹂
﹁⋮⋮そこまで考えてたのか﹂
﹁当たり前だ﹂
相談とか安易に言ってごめんなさい。私が子供でした。
ラデックの方は、俺と話しているうちに顔に生気が戻りつつあっ
た。平常心を取り戻せてはいるようだな。うん。よかったよかった。
﹁俺の事なんてどうでもいい。お前はどうなんだ?﹂
よくなかった。どうした急に。
﹁いつぞやも言ったけどよ、今すぐにとは言わんが結婚について真
剣に考えた方が良い﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
結婚ねぇ⋮⋮。まぁ、とある人から告白されたり、とある人から
娘の婚約を迫られてはいるけど。
⋮⋮あ、やばい。また恥ずかしくなってきた。落ち着け俺、こん
なところで顔を赤くしたらラデックに勘繰られ
﹁どうしたお前、急に顔赤くして。⋮⋮まさか﹂
勘繰られたああああああ! よし、とりあえず応接室の花瓶でラ
デックの頭を思い切り殴って記憶喪失させよう。あ、でもそれだと
リゼルさんとの子供の記憶も忘れてしまう。それはダメだ。畜生な
んでお前子供作ったし!
1717
⋮⋮ふぅ。クールになろう。深呼吸深呼吸。ひっ、ひっ、ふぅ。
﹁で、誰だ? リンツ伯の娘さんか? マリノフスカ嬢か? それ
とも⋮⋮﹂
﹁おいラデック、そろそろやめないとあそこの花瓶がお前目がけて
飛ぶことになるぞ﹂
﹁お、おう﹂
そう言うと、ラデックは大人しく引き下がってくれた。危ない危
ない。ありがとう花瓶。ちなみにあれはカールスバート製です。
﹁まぁ、花瓶の飛行実験はともかく。俺は具体的に誰と結婚すると
かは考えてない﹂
﹁その心は?﹂
﹁相手を幸せにできる自信がない﹂
﹁はぁ﹂
結婚したら2人とも不幸になりましたじゃあ報われない。俺に甲
斐性はないし。第一、身体年齢は一緒でも精神年齢に違いがありす
ぎる。
そりゃね、いい女性だと思うよ? だから俺なんかよりもっとい
い男探して幸せになってくださいと思う。家も顔も良いんだから引
っ張りだこだろうに。
と言うのを、精神年齢の部分を差っ引いてラデックに説明したが、
どうも彼は納得できないようである。
﹁その理屈はわかったけどよ。お前の純粋な気持ちはどうなんだよ﹂
﹁俺の?﹂
﹁そう。相手の幸せだの、そういうのを無視してな﹂
1718
﹁⋮⋮﹂
純粋な俺の気持ちね⋮⋮。よくわからん。16年と250ヶ月生
きて、こう言う機会はなかった。
好意を抱かれるのは素直に嬉しい。でも、俺が彼女らに向けてい
る気持ちが、こちらに送られてくる気持ちと同価値なのかは判断が
つかない。
﹁よくわからない、というのが本音かな。親友として好きかと言わ
れれば、確かにそうなんだけど﹂
﹁男女間に友情はない、とも言うぞ?﹂
﹁俺はあると思ってる。男女間にあるのが劣情だけなんて、ちょっ
と嫌だ﹂
ちょっとどころじゃないけど。
﹁まぁ、なんにせよ結婚する気はないな。相手の未来のことを考え
ると、どうもね﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
ラデックの本日何度目かの溜め息。
﹁お前は真面目なのか、そうじゃないのか判断がつかないな﹂
﹁ほっとけ﹂
1719
工場
3月15日。
もうすぐ完成すると言うグリルパルツァー商会の工場を見学、も
とい監査をすることにした。名目的には公爵領の法に抵触していな
いかを確認するのだが、それをするのは文官か軍法務士官である。
今回は、公爵領民政局の局員の付き添いという形だ。
と言っても早速はぐれたけどね! まぁ局員だけでも大丈夫だと
思うよ、うん。
今回訪れる工場の正式名称は﹁グリルパルツァー商会クラクフ紡
績工場1号棟﹂と言う。つまりは綿を糸に変えるための工場。
工場が建っているのはクラクフ中心部から東に少し外れた場所に
あるウェンクという場所。周囲には特に何もない、つまりは土地が
安いと言う意味。しかし不便というわけでもなく、むしろクラクフ
の中心部を流れる川に接しているため交通の便は良い。たぶんこの
川を利用して原材料の輸送を行うつもりだろう。
⋮⋮にしても、工場の規模が想像より大きかった。産業革命が起
きていないこの大陸、きっと工場の規模は小さいに違いないと思っ
ていたのだが。
工場は煉瓦造りで、高さは目算で30メートル。そして川と接す
る部分には原材料の積み込みを行う簡易埠頭と水車がある。
とりあえず外から工場を眺めていた時、聞い覚えのある声が工場
の方からした。
﹁予想より工期が遅れています。このままでは来週の落成式に間に
1720
合いませんよ﹂
﹁申し訳ありません。ただ人員が不足しておりまして⋮⋮﹂
﹁それはあなたの労働管理体制がなっていないからです。少し拝見
しましたが、この遊んでいる工員はなんですか?﹂
﹁いえ、それは⋮⋮﹂
﹁こんな管理体制では、工場が稼働した時どうなることやら﹂
リゼルさんである。
どうやら彼女も工場の様子を見ているらしい。そしてリゼルさん
と比べて30以上は年上っぽい人に指示をしている。割と手厳しい。
﹁捗ってますね、リゼルさん﹂
﹁⋮⋮あらユゼフさん。いらしてたんですか?﹂
﹁えぇ。工場の監査をしに﹂
﹁監査? ⋮⋮あぁ、そう言えば総督府の方が先ほど来ていました
ね。付き添わなくていいんですか?﹂
﹁いいんですよ。うちの総督府の職員はみんな優秀なんで、お飾り
の付添人はいなくても困らないんです﹂
実際工場の体制がどうのこうのというのは俺にはわからないし、
専門家に任せた方が良いのは自明の理。いてもいなくても一緒なの
は最初からわかってる。
問題は迷子になっても探しに来てくれるわけじゃないってところ
かな⋮⋮。ちょっと寂しい。
メイド
﹁ところでリゼルさん、妊婦なのに仕事なんてして良いんですか?
あまり負担をかけると⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ。仕事と言っても軽いものだけです。それに近侍も
ついてきていますから﹂
1721
と言って、彼女は後ろを振り向いた。そこには、工場建設現場で
汗だくで働くオッサンの群れの中に一際浮いているメイド服姿のメ
イドさんがいる。場違いってレベルじゃない。
一方、リゼルさんは気にしていないのか﹁ロミーは働き者ねー﹂
と言ってるだけである。ロミーと言うのがあのメイドさんの名前な
のだろう。見た目年齢はリゼルさんよりは上⋮⋮たぶんアラサーと
いう感じだろう。
﹁まぁ、そういうわけなのでお気遣いは必要ありませんよ﹂
﹁そうですか。でも、無理しないでくださいね。じゃないとラデッ
クが泣きます﹂
﹁ふふ。泣いているラデックさんというのも見てみたいですが、ほ
どほどにしておきます﹂
そう言うと、彼女は近くにいた1号棟の主任となる予定の人に業
務を引き継いだ。
﹁リゼルさんのここでの職責というのはどういう感じなんですか?﹂
﹁あぁ、そういえば言っていませんでしたね。私の今の役職は﹃グ
リルパルツァー商会シレジア支社長﹄です﹂
予想外に高位の職だった。支社長とは恐れ入る。
﹁驚くことはありませんよ。恐らくラデックさんも軍に居なければ、
今頃は高級幹部の職に就いていたでしょう。局長とか、取締役とか﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
まぁ確かにラデックは仕事は早いし、それくらいできてもおかし
くはないか。それに今のラデックの職はクラクフ駐屯地補給参謀補。
これもなかなかの地位だしね。
1722
﹁あと、ユゼフさんも人の事言えないですよ?﹂
﹁え?﹂
﹁だって、クラクフ総督府軍事部門の次席なのでしょう?﹂
そう言えばそうだった。エミリア殿下が色々凄すぎて忘れてたけ
ど、この歳で少佐は異例だ。うーん、そんなに変なことしたっけな
⋮⋮。まぁいいや。反論しても墓穴を掘りそうだし、話題を変えよ
う。
﹁にしても、意外に大きい工場ですね。しかもこの規模の工場があ
と2棟は立つのでしょう?﹂
﹁はい。今はこの紡績工場だけですけど、すぐ近くに被服工場を建
てます。計画通りに行けば、我が商会最大の工場となるはずです﹂
﹁そりゃすごい﹂
その後もリゼルさんから工場のスペックについて聞いた。
あのでかい水車を使った水力式大型自動紡績機が既に工場の中に
あるそうだ。その紡績機の性能は、従来の人力紡績機の30倍の生
産力を誇ると言う。技術革新は偉大だな。
﹁グリルパルツァー商会が考えたんですか?﹂
﹁そうです、と言いたいところですが違います。発明したのはアル
ビオン連合王国の発明家ですよ。私たちは、その図面を買い取った
だけです。高かったんですからね!﹂
高かったから儲けさせてくださいね! という意味だろうか。わ
かってますよ。儲けてくれないと公爵領としても困るからね。
ちなみにアルビオン連合王国とは大陸西北部の離島、つまり前世
でブリテン島と呼ばれた場所にある国家だ。
1723
にしても、高額な機械を導入して多くの工場を建てるのか。コス
ト大丈夫だろうか。
﹁これ、投資回収できるんですか?﹂
﹁既に顧客は確保していますよ。工場3棟分ですが﹂
なるほど。需要の成長具合を見て順次拡張すると言うわけか。
﹁これ以上の拡張は、確実な顧客確保が必要です。建てたは良いけ
ど稼働率3割以下、なんて事態はごめんです。今はエスターブルク
や周辺都市での営業をさせていますが、どうも我が商会の営業部は
余り優秀ではないようで⋮⋮﹂
﹁ダメなんですか?﹂
﹁ダメ、というより輸送費用の問題ですね。高級被服なら問題あり
ませんが、中所得者向けの衣服だと価格に直撃すしますから⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮﹂
なんか前世のニュースで度々聞いたことのある言葉だ。ガソリン
価格がどうの、人件費がどうので輸送コストが跳ね上がって商品価
格が上がる。そしてよくわからない町のおばちゃんが﹁高い﹂って
言うまでテンプレ。
まさかその現場を聞くことになるとは思いもしなかったが、確か
に経営者としては頭の痛い問題か。
﹁オストマルク以外の販路は?﹂
﹁⋮⋮カールスバートがあります。復興需要ですね﹂
﹁他には?﹂
﹁いえ、まだ⋮⋮﹂
1724
リゼルさんはションボリと俯いた。いかんいかん。お母さんがそ
んな顔見せたら子供の教育に悪いよ。
要は中所得者向け被服工場をここに建てたいのだ。クラクフを拠
点として、多くの販路を持ちたい。工場を分散化させることは、軍
隊で言えば﹁戦力集中の原則﹂を破ることにある。たぶん。
﹁じゃあ、シレジア向け商品でも作りませんか?﹂
﹁シレジアですか?﹂
﹁えぇ。いい機会です。現地生産現地消費ですよ﹂
﹁はぁ⋮⋮。しかし具体的にはどこに?﹂
﹁そうですね⋮⋮この工場の脇にある川、ヴィストゥラ川と言うん
ですが⋮⋮﹂
ヴィストゥラ。
エミリア殿下の士官学校時代の偽名、取り潰しになったヴィスト
ゥラ公爵家の名前の由来となった川だ。クラクフは上流にあるから
まだ川幅は狭いが、流れは比較的穏やかで下流に行けば川幅は広く
なる。
﹁このヴィストゥラ川、下流に行くとシレジア東部最大都市ヴィラ
ヌフに繋がっているんですよ﹂
﹁下流に⋮⋮﹂
﹁えぇ。下流に﹂
この大陸の輸送手段は、多くは馬車に頼っている。当然だ。鉄道
がないんだから。だけど馬車には欠点がある。大規模かつ長距離の
輸送に限界があるということ。
そしてそれを可能にできるのが、水運。川に船を浮かべて下流に
商品を運ぶこと。船は馬車なんかより大量輸送に向いているし、河
川交通は大陸では非常に重要な交通手段だ。
1725
﹁オストマルク向けということで割り切って当初は考慮に入れてま
せんでしたが、なるほど下流に大都市があるのであれば好機ですね﹂
﹁はい。ただ問題がありますが﹂
﹁問題?﹂
﹁ヴィストゥラ川流域の各貴族領が通行関税を要求する可能性があ
ることです。王女派貴族領ならまだなんとかなりますが、それ以外
はちょっとね﹂
事前にわかっていれば、まだなんとか交渉の余地はあっただろう
けど。
﹁解決法は?﹂
﹁ひとつひとつの貴族領と交渉するか、あるいは王都で交渉か、で
すね﹂
前者は論外だろう。非効率的すぎる。だから後者、国に頼むのが
一番だろう。
産業省か、あるいは国王陛下と交渉して特権商人となる。そうす
れば、各貴族領の通行関税の減免が通るし、なにより今後クラクフ
以外での商売もしやすいだろう。
無論、普通にやるとなると時間はかかる。友好国とはいえ外国企
業を特権商人にするのは、慎重にならざるを得ない。
でも、もしここにやんごとなき身分の方の紹介状、あるいは推薦
状があれば。
まぁいつぞやの情報のお返しに﹁王家のコネ﹂を約束したし、グ
リルパルツァー商会にはクラクフに資本を投下してほしいし。
それを察したのか、リゼルさんションボリ顔から商売人の顔に戻
1726
り、俺に向き直った。
﹁ユゼフさん﹂
﹁なんでしょう、リゼルさん﹂
﹁エミリア殿下に、よろしくお伝えしてください﹂
﹁えぇ。喜んで﹂
その答えを聞いたリゼルさんは笑顔で立ち去り、メイドのロミー
さんと何か相談を始めた。
よしよし。ついでにリゼルさんと一緒にラデックを付けて、王都
で結婚の話でもしてきてくださいな。
1727
彼女たちの結婚話
﹁王都に行きます﹂
エミリア殿下が唐突にそんなこと言ったのは、3月16日の朝の
ことである。
﹁⋮⋮急な話ですね﹂
﹁はい。申し訳ないです﹂
申し訳ないとか言いつつ、エミリア殿下とマヤさんはテキパキと
出立の準備をしている。おいおい。まさか今日出発するの?
﹁え、と。王都に行くことには反対はありませんが、その、重要な
用なのです?﹂
そう聞くと、エミリア殿下の手がピタッと止まった。マヤさんの
方は手を動かし続けてはいるが。
﹁⋮⋮言ってませんでしたっけ?﹂
﹁言ってませんでしたよ?﹂
どうやら事前に伝えていた気になっていたようである。いくら私
でもテレパシー能力までは身につけてませんね⋮⋮。あぁいや、テ
レパシー以外の超能力も持ってないけどさ。
一方、マヤさんは荷物を纏めつつ﹁うんうん﹂と二度三度深く頷
いている。気づいてたならそこは突っ込んでほしかったのだが。ま
ぁいいや。
1728
﹁申し訳ありません。昨日、王都から手紙が来たのです﹂
﹁王都から⋮⋮というと、外務省からですか?﹂
﹁それもあります﹂
⋮⋮それ﹁も﹂か。と言うことは、状況から考えて内務省か国家
警務局あたりからも手紙が来てるってことかな?
﹁外務省に問い合わせた﹃東大陸帝国の新政策﹄については、ほと
んど収穫がありませんでした。外務省が把握してないのか、それと
も私に教えたくないのか、﹃現在調査中につき子細は不明﹄とだけ
返事が﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
たぶん後者だろうな、情報が来ないのは。外務省がいくら無能で
も、仮想敵国の情報を何一つ持っていないのは不自然だ。外務尚書
は大公派だと言うし、そういう情報は入って来づらいか。
﹁ですが、イリアさんから別のお手紙も来ています﹂
﹁イリアさんというと、内務省治安警察局ですか?﹂
﹁はい。手紙によると、子細とは言えないまでもそれなりの情報は
集まったようです﹂
あぁ、イリアさん素敵。外務省より対外諜報に優れる内務省とか
なんだそれと思わなくもないが、今は大変助かる話だ。
﹁手紙では検閲される危険もありますので、直接会って情報を聞い
た方が良い。それにカールスバート内戦についての報告などの諸々
の話もありますので、私は王都に行くつもりです﹂
﹁なるほど。了解です﹂
1729
そういう理由があるのなら、反対はしない。まぁ公爵領軍事部門
のトップがホイホイ公爵領を離れることについてはどうかという話
もあるが、そこは次席である俺が残れば⋮⋮
﹁というわけでユゼフくん。エミリア殿下について行ってくれない
か?﹂
マヤさんはそう言って、俺に資料やらに持つやらが入った革袋を
渡してきた。
﹁えっ?﹂
﹁イリア殿から提供される情報は、やや高度な情報も含まれている
だろう。当地でそれを見て聞いて、解析する人物が必要だ。で、そ
れは私には無理だ。だから君が行ってくれ﹂
マヤさんは﹁そんなこともわからないのか﹂と言いたげな顔をし
ていた。いやいや、まずいでしょうよ。
﹁⋮⋮あのー、それだと公爵領の軍政は﹂
﹁私の兄がいるじゃないか﹂
﹁いやマヤさん、お兄さんの事もうちょっと労わってあげてくださ
いよ。過労死しちゃいます﹂
﹁問題ない。昨日のうちに許可は取ってある。カールスバートから
の土産と交換でな﹂
賄賂じゃねーか!
﹁それに私は残るよ。兄の手伝いをするのが、この許可の条件だっ
たからな。だからユゼフくんにはしっかりとエミリア殿下の支援を
1730
してほしい﹂
﹁いや、私だとエミリア殿下の護衛は務まらな﹂
﹁安心したまえ、サラ殿も同行する﹂
あ、これ完全に根回し済んでますね。俺が今さら何を言ってもダ
メなやつですわ。
﹁大公派諸貴族を刺激しないよう、護衛は必要最低限にする。無論
第3騎兵連隊の連中も今回は留守番だ。まぁ、サラ殿が指揮する騎
兵隊⋮⋮そうだな、1個中隊もいれば十分だろう﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
一王女の護衛が1個中隊200人程というのはなかなか質素な⋮
⋮。まぁ王都に行けば親衛隊もいるし、王宮の中なら襲撃の可能性
も少ないか。問題は道中だけど、この状況下で近衛騎兵1個中隊相
手に出来る部隊を動かせる貴族はいないか。
あぁダメだ。反論できる余地がない。
﹁⋮⋮はぁ。わかりました。エミリア殿下に同行します﹂
﹁あぁ、済まないな﹂
﹁大丈夫ですよ﹂
ただちょっと色々不安になってきただけです。
⋮⋮あ、そうだ。王都で思い出した。
﹁殿下、そう言えばラデックとリゼルさんが王都へ行きたいと仰っ
ていました。同行させても構いませんか?﹂
﹁ラデックさんたちが⋮⋮?﹂
﹁はい。彼らの結婚の話で﹂
1731
ラデックもげろ事案が発生したため、彼は王都に居る父親に結婚
に向けた具体的な話を進めなければならないそうだ。まぁリゼルさ
んが支社長職に就いたから遠距離の心配は暫くないし、ラデックが
軍籍を退く必要性もないから大丈夫とは思う。だからもげろ。
﹁なるほど。であれば大丈夫です。適当な理由をつけて同行を要請
しておきます﹂
﹁ありがとございます﹂
﹁いえいえ。ユゼフさんも、サラさんと王都でゆっくり話をしてき
てくださいね﹂
ちょっと待って、何言ってるのエミリア殿下。わわ、わたたたし
はサラさんと話なんてななななないですよ?
﹁コホン。私はともかく、こうなるとマヤさんだけクラクフに留守
番ですね﹂
﹁そうだな。まったく、みんなして私を置き去りにするのだ﹂
﹁寂しいですか?﹂
﹁そうだな。寂しくて毎晩枕を涙で濡らしている﹂
よだれ
マヤさんがすっごい棒読みだった。こりゃあれだな。涙じゃなく
て涎で枕濡らしてるな。一升瓶抱えて爆睡しているマヤさんの姿が
目に浮かぶ。でもここに男ができなくてヤケ酒しているという描写
も加えれば⋮⋮。あ、ちょっと悲しくなってきた。
﹁そう言えば、マヤさんは結婚はしないんですか?﹂
﹁結婚?﹂
﹁えぇ。だってマヤさんは今年で確か⋮⋮﹂
﹁そうだな。今年で22だな﹂
﹁はい。24です﹂
1732
﹁⋮⋮﹂
いやさらっと年齢詐称しないでくださいよ24歳でしょ。なんで
ばれないと思ったんですかね。
﹁公爵令嬢の結婚年齢がいくつくらいか知りませんけど、そろそろ
まずいのでは?﹂
出産的な意味で。
﹁問題ないよ﹂
﹁あ、そうなんですか。既に婚約者がいたり⋮⋮﹂
﹁いや、私は結婚する気はない﹂
﹁えっ﹂
いやいや。血統の維持は貴族の子弟の義務みたいなもんでしょ?
結婚しよう? もしかして相手いないの? 確かにマヤさんは豪
傑な人だから嫁の貰い手がいなさそうというのはあるけど⋮⋮。
﹁なにか君は失礼なことを考えているような顔をしているが、私を
嫁に迎えたいという殿方は多いよ。仮にも公爵令嬢で、自分で言う
のもなんだが性的な魅力はあるだろ?﹂
﹁はぁ﹂
いや、まぁ、確かにマヤさんは出るとこ出てるし、なんていうか
大人の魅力はある。戦場でのあの狂戦士ぶりを知らなければ、引く
手数多だろうね。
﹁じゃあなんで結婚しないんですか?﹂
﹁主君が結婚してないのに、臣下たる私が結婚するのはおかしな話
1733
だろ?﹂
あぁ、そういう⋮⋮。
一方のマヤさんの主君たるエミリア殿下は困り顔だった。
﹁私は気にしなくていいと言っているのですが⋮⋮どうも聞いてく
れないんです﹂
エミリア殿下の言うことも分かる、が忠義の篤い臣下というのは
往々にしてこういうことはある。主君が質素な暮らしをしていたら、
臣下はそれ以上に質素な暮らしをしなければならない。王侯貴族が
派手な暮らしをするのは、時にそう言う理由があるからなのだ。
﹁じゃあエミリア殿下が結婚すればいいんですか﹂
﹁⋮⋮そういうことにはなる、が﹂
﹁が?﹂
﹁エミリア殿下を不幸にする奴はこの手で首の骨を折ってやる﹂
怖い。
あぁ、これはエミリア殿下の婚期も遠退きますわ。殿下と結婚す
るためにはまずマヤさんを倒していかなければならない、言わばラ
スボスの手前にいる門番的な存在だ。
﹁しかしエミリア殿下の結婚ですか。想像がつきませんね﹂
エミリア殿下は⋮⋮こう言っちゃ不敬の極みだが、貴族の中では
珍しく成長が遅い方だ。同い年の俺が言うのも変な話しだけど、ま
だ子供っていう外見をしている。結婚というのが想像もつかない。
だが、マヤさんはそう思っていないらしい。
1734
﹁そうかな?﹂
﹁そうですか?﹂
﹁あぁ、殿下に相応しい人物というのは私には1人心当たりがいる。
その人と結婚する姿は、私には容易に想像がつくのだ﹂
マジですか。エミリア殿下にはもう婿候補がいるんですか。
なんだろう、娘を嫁に送り出すような感覚に襲われる。前世でも
現世でも娘はいないけど。
そしてそのエミリア殿下と言えば
﹁はぁ⋮⋮﹂
深ーい溜め息を吐きながら、いそいそと荷造りを再開していた。
本人の目の前でこういう話は不適切だったかな。反省反省である。
1735
幕間狂言
まさか本当に言ったその日に王都へ出発! ということはなかっ
た。さすがになかった。
マヤさんへの業務引き継ぎやら、ラデックとリゼルさんの予定調
整なんかもある。が、これらは割とスムーズにいった。リゼルさん
なんて
﹁ラデックさんの結婚話というのであれば他の仕事を放っても行き
ます!﹂
とかなんとか。いやいや、あなたは結婚の話もそうだけど特権商
人になることも含まれてるでしょうに。
まぁそんなこんなで、翌3月17日にはクラクフを出立すること
になった。
今回エミリア殿下に同道するのは俺、ラデック、リゼルさん、サ
ラ率いる近衛師団第3騎兵連隊第34中隊。そして、サラの法律上
の被保護者であるユリアだ。
しばらく会ってなかったから、ユリアが凄い成長したように見え
る。内戦始まる前に会っているからほんの数ヶ月の話なのだが、貧
民街暮らしの時に比べて食生活が改善したせいか体格もしっかりし
てきた。ぽっちゃりではないところを見ると、サラが訓練だか運動
だかに付き合ってあげてるんだろうな。
﹁じゃあマヤさん。後は頼みます﹂
﹁あぁ、任せておけ。君が参事官から更迭されるくらいには頑張る
1736
よ﹂
﹁その時は公爵領で雇ってくれるんでしょうね!?﹂
﹁保障はしかねる﹂
不安だ。マヤさんもエミリア殿下やラデック程ではないが仕事出
来る人だから、本当に参事官職を奪われかねない。
﹁良い報告を期待して待っているよ。あとイリア殿やヘンリク殿に
宜しく言っておいてくれ﹂
﹁了解です﹂
こうして俺らはクラクフを発った。
道中は特に何もない。近衛騎兵1個中隊の護衛付きの集団を襲う
奴なんて余程のアホか自殺志願者だけだ。むしろエミリア殿下が道
中の宿場町を見学をなさるので、その辺の配慮が大変だった。
まぁ、それ以外は特に何もない旅。
あえて言うのであれば、ユリアに初めて会ったリゼルさんの反応
が面白かったくらいである。
それは3月17日19時のこと。最初の宿場町であるタシチュフ
で起きた話だ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
なぜか見つめ合うリゼルさんとユリア。
いや正確に言えばリゼルさんは目をキラキラさせながらユリアを
観察し、ユリアはそんなリゼルさんを気味悪がって後ずさりしてい
る。
1737
うん。どういう状況。
﹁ユゼフさん!﹂
﹁あ、はい。何でしょう﹂
俺の存在に気付いてるくらいは意識があったらしい。ラデック相
手にデレデレしてる時みたいに周りが見えない、っていうことはよ
くある。まるでアイドルにぞっこんするその辺の女子みたいに。
﹁この子、ください!﹂
﹁はい!?﹂
﹁ラデックさんと私の子供にします!﹂
﹁いやいやいや、あなた既に子供いるでしょう!?﹂
ラデックとの愛の結晶があるのにユリアを欲しがる。これはまさ
か想像妊娠だとか結婚したいがための嘘なのでは⋮⋮。そういえば
昔テレビで﹁彼との子供が欲しかったけど産めなかったから他人の
子供を盗む﹂っていう事件が紹介されてたな。
いやまぁ、ラデックが言うには上半身脱がせてお腹が膨らんでい
るのは確認したらしいから今回は違うみたいだが。問題はこんな美
人を脱がせたことにある。もげろ。ナニとは言わないがもげろ。
﹁ユゼフさん﹂
﹁⋮⋮なんでしょう﹂
﹁子供って、7歳くらいが一番可愛いと思うんです﹂
﹁⋮⋮否定はしませんが﹂
確かにまだ純粋な心を持ちつつこっちの話もそれなりに理解でき
る、小学校低学年くらいの子供というのは可愛いと思うよ。いや別
1738
に俺はペドの趣味はないが。
﹁ユリアちゃん、髪も綺麗ですよね﹂
﹁そうですね﹂
そう言えばユリアは白髪、リゼルさんはプラチナブロンドの髪だ
から﹁姉妹です﹂と言われたら確かにそう見え⋮⋮?
﹁遠く帝国を離れ幾数ヶ月、お兄様やお姉様とも会えず異国の地で
1人奮闘する日々⋮⋮そんな私から、ユリアちゃんを奪うのですか
!?﹂
﹁奪うも何も、そもそもあなたの子供じゃないです﹂
うん、あれだわ。リゼルさんたぶんロリコンだわ。ラデックと同
じくらい子供が好きなんだわ。
﹁ユリアちゃん、私と一緒に帝国に行きませんか? お菓子食べ放
題ですよ?﹂
リゼルさんの口調が誘拐犯のそれである。警察署から事案発生の
メールが来るくらいには怪しい。
一方のユリアは、当然と言えば当然だがちょっと涙目になりなが
ら首を横にふるふる振って俺の背中に隠れている。ふむ。ユリアは
俺相手にこういう事をあまりしないけど、ここはやはり共通の敵が
いるからこその行動というわけか。
﹁ユリアがダメって言ってるので諦めてください﹂
﹁いえ、まだユリアちゃんは何も⋮⋮﹂
﹁や!﹂
1739
ユリア、渾身の拒絶。こうかはばつぐ⋮⋮
﹁ふふふ、では今日は諦めます。でも、いつかきっと⋮⋮﹂
んでもなかった。いまいちだった。そうぶつぶつ言いながら立ち
去る姿は、まるで不審者のよう。警備隊に連絡すべきか、ちょっと
判断に迷う。
後日、この一件をラデックに報告したところ、
﹁あぁ、リゼルは子供好きだからな。まぁ産んだら自分の子供にそ
の愛情注ぐだろうから大丈夫だろう﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁どうした?﹂
﹁いや、あの異常な愛情を注がれた子供がどうなるか心配で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮グリルパルツァー家には良い近侍もいるから大丈夫だ。その
はずだ﹂
ラデックの幸せ家族計画は、どうやら前途多難なようである。
−−−
そんなこんながありつつも、王都シロンスクに俺らが到着したの
は3月20日11時のことである。
そして王都に到着した俺らを待っていたのは、ちょっと意外な人
間だった。いやもしかしたら心の奥底で予想はしていたかもしれな
1740
いけど。
﹁お久しぶり⋮⋮でもないですね、ユゼフ卿﹂
﹁だからそう呼ぶのはやめてくれませんかね、フィーネ少尉﹂
どうも最近はフィーネさんが波乱を呼び込むことが多い。今回も
荒れそうな気がするのだけど、その予想が外れることを切に願う。
いやホントにマジで。
1741
治安警察局の日常
3月20日15時15分。
俺、エミリア殿下、サラ、ユリア、そしてフィーネさんは王都の
在シレジア王国オストマルク帝国大使館にお邪魔している。
王都についたのは午前中だったが、その後大使館に直行というわ
けではなく、先に王都で情報収集をしていたのだ。殿下とサラ、ユ
リアは外務省に、俺は内務省に行ったためにこんな時間になった。
それが済んでから、この大使館に来たのだ。
オストマルク大使館を利用したのは、大公派の目を盗めて情報漏
洩の心配がなくなる場所と言えばこことクラクフスキ公爵家くらい
しか思いつかないからだった。シレジアの王女様にとって絶対安全
の場所が、シレジア王国の主権が及ばない他国の大使館の中という
のは皮肉な話である。
大使館の応接室に通され、来客用3人掛けソファに上座から順に
殿下、サラ、俺が座り、フィーネさんがその対面に座る形となって
いる。ユリアはサラの膝の上です。
ちなみにラデックは軍務省に、リゼルさんは婚約者の実家、つま
りノヴァク家の御屋敷にいる。できちゃった結婚の許可をもらうた
めだろう。
にしても。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1742
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
大使館に来てからというものの、殿下とサラとフィーネさんの間
に流れる空気が重い。凄い重い。例えるなら離婚調停中の夫婦の間
を取り持つ仲介人になった気分。重すぎて俺はコーヒーを飲むこと
しか出来ないのだ。ユリアもサラの膝の上でくつろいで我関せず、
と言った表情。
殿下は黙って出された紅茶を飲み、サラはなぜか俺とフィーネさ
んを交互に凝視し、フィーネさんはすました顔でただ座っている。
でも、時間は貴重だ。この陰鬱な雰囲気のまま時間を消費するの
は非合理極まりない。無理矢理でも、なんとか道をこじ開けなけれ
ば⋮⋮。
﹁ふぃ、フィーネひゃん﹂
早速噛んだ。
そしてそれがなぜかフィーネさんのツボに入った模様。口を押え
てぷるぷる震えていらっしゃる。それがきっかけとなったのか、つ
られてエミリア殿下もちょっと笑った。サラは口を尖がらせたまま。
﹁コホン。失礼しました。少し大人げなかったですね﹂
ユリアに次いで若いフィーネさんが﹁大人げない﹂と言い、一番
年上のサラさんがむすっとしてるのはこれはフィーネさんによる高
度な威嚇⋮⋮なのか?
そんなサラさんの様子を見たエミリア殿下が、たまらずサラに話
しかけた。
﹁サラさん﹂
1743
﹁⋮⋮なに﹂
﹁我々は敵対関係ではありません。穏便に行きましょう﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
そうね、と言いつつむすっとしたまま顔を逸らしたサラさん。と
りあえず敵意たっぷりの目を俺とフィーネさんに投げるのはやめた
ようである。何があったのかは知らないが、何も知りたくないです。
そんなこんなありつつも、フィーネさんが話を始めたのである。
﹁あの内戦の後、私は帝国情報大臣から新たな辞令を受けました。
シレジア王国第一王女エミリア・シレジア殿下と情報交換、そのた
めの連絡将校として随行する。それが私の任務です﹂
そう言って、優雅に紅茶を飲むフィーネさん。情報交換とは懐か
しい。次席補佐官時代を思い出すよ、まだ1年も経ってないけど。
あの喫茶店まだやってるかなぁ。値段設定は高かったけど、味はそ
れに見合ってたんだよねぇ⋮⋮。
﹁こちらも、先ほど内務省に行き子細な情報を聞いてきました。そ
れなりに対価を与えることはできると思います﹂
と、エミリア殿下。殿下の言葉の中に﹁外務省﹂という単語はな
かったのは気のせいではない。教えてくれなかったんだもん。
まぁそんな外務尚書の怠慢はともかくとして、とりあえずはこち
ら側から情報を提供することになった。内務尚書ランドフスカ男爵
の娘、イリア・ランドフスカさんからの情報である。
1744
−−−
少し時間を巻き戻し、11時30分。
王都シロンスク行政区画に存在する内務省庁舎はちょっと古臭か
った。シレジア王国初代国王イェジ・シレジアの時代からこの庁舎
は存在する。単純計算、築180年程度ということだ。
まぁ、暴風雨や地震と言うものが少ないシレジアでは経年劣化の
具合は少なくて済むだろう。
それはさておき、その内務省には治安警察局という組織がある。
軍が警察業務を兼ねるのが普通なこの大陸、治安警察局が一般刑事
機構なはずもない。つまりは政治秘密警察である。政治秘密警察の
是非はともかくとして、内務省治安警察局の諜報能力はそれなりの
ものである。
だが、大公派と王女派で別れて水面下で陰謀を張り巡らせている
せいで、やや機能不全に陥ってる節がある⋮⋮と、イリアさんは嘆
いていた。
﹁国内の不穏分子の監視というのが治安警察局の一番の目的なんだ
けど、大公派勢力の横やりが入るのよね。割としょっちゅう﹂
イリアさんの本来の身分は軍務省魔術研究局の研究員。現在の階
級は魔研大尉で、普段は研究室に籠って魔術の解析や新理論の構築
を目指している。だが内務尚書の娘として、そして王女派貴族の娘
として、こうして治安警察局に対して情報を提供したり、エミリア
殿下に情報を渡したりしているのである。
1745
﹁それで、なにかわかりましたか?﹂
﹁ユゼフくんってばせっかちねぇ⋮⋮。もうちょっと労わってくれ
ない?﹂
﹁えーあー⋮⋮何をすれば?﹂
﹁そうねぇ⋮⋮。例えば﹃有給休暇365日分﹄とか﹂
﹁わかりました。軍務省監察局に行って﹃イリア・ランドフスカが
公金横領している﹄と告発して﹂
﹁待って、それ有給休暇じゃなくて悠久休暇になってるよ!?﹂
無論冗談であるが、反応を見るにイリアさんもそれはわかってい
るだろう。イリアさんとの交流はそんなに深くないけど、彼女は軽
いように見えて根はしっかりしってるから公金横領なんて真似はし
ない。単にノリが良いのだ。お酒に弱くて酔うと妙な方向にノリが
いくのが玉に疵だが。
﹁はぁ。じゃ、ユゼフくんに告発されたくないから情報を提供しよ
うかな﹂
﹁ありがとうございます。後日その辺の喫茶店でお茶を奢りますよ﹂
フィロゾフパレツ
﹁ありがと。⋮⋮さて、肝心の情報なんだけどね。2つある﹂
﹁2つも?﹂
﹁うん。と言っても1つ目は情報とは言えないよ。賢人宮の中では
有名な話になってるから﹂
そう前置きしてイリアさんが取り出したのは、1通の手紙だ。封
筒には﹁カロル・シレジア大公御成婚の報せと披露宴の開催につい
て﹂なる文字が。
﹁え、大公が結婚するんですか?﹂
﹁うん。ずっと独身貫いてきたんだけどね。あのお方はもう42歳、
子供を作るならそろそろ頑張らないとってことなんじゃないかな。
1746
まぁエミリア殿下と対立していなければ、素直に手放しで喜べるん
だけど﹂
まぁ、今の状況じゃ素直に喜べない。何か政治的な裏があると考
えるべきだ。
﹁相手は?﹂
﹁パヌフニク侯爵の娘、名前はマルセリーナだね。ちなみに今年で
21歳﹂
21歳差婚⋮⋮まぁ、子供を産むなら若い子の方が良いはずだか
らその点は問題ないけど、でも親子ほどの差はあるか。とりあえず
カロル大公のことはこれからロリコンと呼ぶかな。
にしてもパヌフニク侯爵か、知らないな。侯爵と言うことはそれ
なりの領地か官職を持っていると思うが⋮⋮。
そう悩んでいると、イリアさんは察してくれたのかパヌフニク侯
爵について補足してくれた。
﹁パヌフニク侯爵はシレジア王国北部の領地を治めているよ。領都
はオルシュティン、経済力と人口は心許ないけど、侯爵自身の経営
能力が劣っているわけじゃない。そもそもこの地方の人口と産業が
ないだけだからね﹂
﹁で、大公派貴族ですか?﹂
俺が聞くと、イリアさんは軽く頷きながら﹁勿論﹂と言った。そ
りゃそうか。王女派の人間が敵対勢力に娘を差し出す訳ないしな。
でもこの時点では特に怪しい点はない。侯爵程の地位の人間が娘
を差し出すことに違和感はないし、カロリコン大公との繋がりをよ
り強固にしたいというのであれば問題もなし。パヌフニク侯爵の能
力が良ければ、カロリコン大公が至尊の地位を得た後に侯爵が宰相
1747
となることも可能だ。
うーん、わからん。もしかしたら政治的意図はないのかな⋮⋮。
﹁ま、ここまでは前座だ﹂
﹁え? カロリ⋮⋮じゃなかった、カロル大公の結婚が前座なんで
すか?﹂
﹁ユゼフくんがなんて言いかけたかは知らないけど、そうだよ。重
要なのはここからだ﹂
イリアさんがそう言うと、今度は1束の資料を取り出した。厚み
はそれなりにあるが、厚いか薄いかで言えば﹁薄い﹂と言える範囲
の量だった。
﹁さてユゼフくん。話は変わるけど、ヴィクトル・ロマノフⅡ世は
知ってるかな?﹂
﹁⋮⋮知ってますよ。それがカロル大公と関係があるのですか?﹂
﹁うん。大いに﹂
ヴィクトル・ロマノフⅡ世。東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・
ロマノフⅦ世の曾孫、帝位継承権第2位の皇太子である。年齢は、
今年で2歳。母親であるエレナ・ロマノワのお腹に居た頃から大陸
の歴史を動かし続けたと言う、ある意味では凄い才能を持った人間
である。
﹁それで、まだまともに会話できないであろうヴィクトルⅡ世がど
うしたんですか? というか生きてるんですか?﹂
﹁生きてるよ。虫の息とはいえ、まだ皇帝はイヴァンⅦ世だからね。
セルゲイがヴィクトルⅡ世を鬱陶しく思っても、まだ殺そうなどと
は思わないはずだよ。それよりも、だ﹂
1748
そう言って、イリアさんは資料を数枚めくってあるページ、ある
部分を指差した。そこに書いてあるのは、一番上に人の名前と、そ
してその人物と親戚関係のある人間の一覧。
そして、イリアさんからの一言。
﹁ヴィクトルⅡ世の父親が判明したんだ﹂
イリアさんが指差した、リストの一番上に書いてあった人物は聞
き覚えがあった。そしてそれがただならぬ人間であることも理解で
きた。
﹁⋮⋮なるほど。内務省がこの情報を掴み得た理由がわかりました
よ﹂
﹁うん、そういうことだ。まさかこういうことになるとは、私もビ
ックリだった。それだけに、この情報をどう扱えばいいかもわから
ない。だから早馬でクラクフに手紙を送って、そして君達に王都に
来てもらったんだ﹂
内務省治安警察局は、前述のように大公派の妨害を幾度となく受
け業務に支障を来していた。そこで治安警察局の人間が、あるいは
内務尚書が、大公派の粗を探そうとやっきになるのは無理からぬこ
とだし、結婚の噂が立つ人間の身辺を調べ上げようなどと考えてし
まうのは当然のことだろう。
そして、治安警察局はそれを見つけた。いや、見つけてしまった
のである。
−−−
1749
﹁ヴィクトルⅡ世の父親の名前は、ルドヴィク・パヌフニク。シレ
ジア王家より侯爵位を賜る人物にして、王国宰相カロル・シレジア
大公の義父でもあります﹂
1750
大公の思惑
東大陸帝国帝位継承権第2位のヴィクトル・ロマノフⅡ世。彼の
腹違いの姉マルセリーナ・パヌフニカ侯爵令嬢が、カロル大公と結
婚した。
これを話した時のフィーネさんの顔は、珍しくわかりやすい顔を
していた。目を見開いて、飲もうとしていた紅茶のカップがその途
上、空中で停止している。どう見てもビックリしてます。
数秒、その態勢を保っていたフィーネさんは紅茶を飲むのを諦め
て静かにテーブルに置き、この情報の意味するところを考え始めた。
﹁要するに、この国の宰相はロマノフ皇帝家の外戚となったわけで
すか﹂
﹁そういうことです﹂
まぁ、さすがは伯爵令嬢と言ったところかな。こういう血筋に関
カヴァレル
する事がどういう意味を持つのかをすぐに察知できてる。
それができないのは、貴族とは名ばかりの騎士の彼女くらいのも
のである。うん、すごい悩んでる顔してるんだもの。これ何度か見
た事あるよ。士官学校の筆記試験のときの顔だ。ちなみにサラの膝
の上に座るユリアは舟を漕いでいる模様。かわいい。
﹁ね、ねぇユゼフ?﹂
﹁なんだいサラさん﹂
﹁さん付けす⋮⋮あぁ、もうなんでもいいわ﹂
サラは一瞬拳を握りかけたが、フィーネさんが初めてクラクフ総
1751
督府にやってきた時のことを思い出したのかすぐに拳を引っ込めた。
ちょっと面白い。
﹁それで、どうしたのサラ﹂
﹁あー、うん、その。意味が分からないのよ﹂
﹁何が?﹂
﹁カロル大公が、ヴィクトル? の親戚になった意味が﹂
﹁あぁ、うん。今から説明するよ﹂
スキャンダル
普通に考えたらただの大公の醜聞だ。貴族社会じゃどこぞの王侯
貴族の娘を貰って血縁関係を持つなんてよくあることだけど、それ
が敵国の、しかも帝位継承権を持つ人間となると色々ややこしくな
る。
﹁まずカロル大公がパヌフニク侯爵令嬢と結婚した政治的意味は簡
単。大公がロマノフ皇帝家の外戚となるためさ﹂
﹁それだけ?﹂
﹁たぶんね。もしかしたら両者の間には愛があるかもしれないけど、
それ以上に血筋は重要﹂
爵位を継がない貴族の娘に生まれた瞬間、その娘は政治的道具に
される運命にある。というかそれが仕事みたいなものだ。今俺の目
の前にいるフィーネさんにしても、いつかはそうなるのだろう。問
題は、彼女の父親なのだけど。いや今はその話は良いか。
﹁サラ。カロル大公じゃなくてもっと普通の⋮⋮そうだな、俺が名
のある皇帝家や王家と関係を持ったらどう思う?﹂
﹁⋮⋮えっ? あんた名のある王侯貴族と結婚するの?﹂
﹁例えだよ、例え話!﹂
﹁あ、あぁ、そうだったわね⋮⋮﹂
1752
なにちょっと絶望的な顔してるのさ! 農民出身の俺が王侯貴族
と結婚なんて普通ありえないでしょ!?
﹁つまりユゼフ・ロマノフとか⋮⋮あの、その、ユゼフ・シレジア
になる、ってことよね?﹂
ユゼフ・シレジアの名を若干言い淀むサラ。いやいや、そこは別
に深く気にする必要はないよ。例え話だし、エミリア殿下はもっと
高貴な方と結ばれる方ですし⋮⋮。まぁそれは置いといて。
﹁そこに何の意味があると思う?﹂
﹁えーっと⋮⋮、箔がつく? シレジアって姓を持つだけで、結構
すごいし﹂
﹁はい、正解﹂
﹁え?﹂
﹁それが答え﹂
俺がそう言うと、彼女はポカンとした。
﹁⋮⋮それだけ?﹂
﹁勿論、最終的な目的は違うけどね﹂
今回のカロル大公の結婚の場合、パヌフニク侯爵のことは考慮に
入れずとも良い。問題は、やはりロマノフ皇帝家の外戚になったこ
とによって箔がついたことだ。
そしてそれまで優雅に紅茶を飲んでいたエミリア殿下が、俺の言
葉を引き継ぐ。
1753
﹁王侯貴族の親戚となる。たとえ外戚であったとしても、それだけ
で権威や発言力が高まります。亡国の宰相と言うよりも、皇帝の外
戚にして宰相という方が良いに決まっていますから﹂
﹁で、でもそれって帝国の中ではでしょ? シレジアじゃ意味はな
いんじゃ⋮⋮﹂
﹁サラさんの言う通り、シレジアでは実質的な意味はありません。
むしろ﹃仮想敵国の皇帝家と関係を持った﹄ことを糾弾されても文
句は言えません﹂
﹁なら、なんでそんなことを⋮⋮﹂
サラは一層混乱した。確かにこのままではカロル大公は﹁俺の知
り合いに暴走族の人いるから﹂とか微妙な脅迫をする田舎のヤンキ
ーにしかならない。
だが、ここにある条件を加えると不吉な予感が漂うことになる。
エミリア殿下もフィーネさんもそんな予感がしているのか、眉間に
皺を寄せて深く考え込んでしまっている。
その2人の思考を、俺が代弁しよう。
﹁確かにシレジア国内じゃ意味がない。じゃあシレジアが、帝国に
とって国外でなくなったら?﹂
﹁それって⋮⋮つまり、シレジアが帝国に滅ぼされたら、ってこと
?﹂
﹁うん﹂
﹁そんなこと⋮⋮﹂
﹁あるわけない?﹂
﹁⋮⋮わからないわ﹂
サラはそう言うと、唇を噛んだ。まぁ、王国滅亡の話をしている
のだ。暗くもなる。
1754
だからと言ってこの話題を遠ざけるのもダメだ。それは大公派の
策略に乗ってしまうことと同義。今は考えなければならない。
へいどん
﹁もし東大陸帝国がシレジア王国を併呑した場合、問題となるのは
旧シレジア王国領の統治の仕方だ。ひとつふたつの貴族領ならば、
そこに居た旧シレジア貴族に引き続き統治させるなり、帝国中枢か
ら役人を派遣するなりできる。でも王国全土となるとそうもいかな
い﹂
東大陸帝国の最終的な目標は大陸の再統一。だとすれば、シレジ
ア王国の併呑なんてものは通過点に過ぎない。その後はリヴォニア、
オストマルク、キリス第二帝国と言ったシレジアとは比較にならな
い強国と戦わなければならない。
となると、シレジアの地政学的意味は大きくなる。キリス第二帝
国はともかく、リヴォニアやオストマルク、カールスバートを滅ぼ
すための中継地点として、あるいは東大陸帝国を守るための盾とし
てのシレジアという﹁地域﹂は重要な価値を持つ。
そんな重要な地域を、雑多な旧シレジア貴族に任せるのはダメだ。
そして最初から直接統治をするのも問題だ。シレジア人の反発を招
き、暴動が頻発したら意味がない。
シレジア併呑後の統治の初期段階では、実力があり、かつ帝国に
かいらい
従順で、そして帝国貴族が納得できる人物に名目的な権力を与え旧
シレジア領を統治させるのが良い。つまり、傀儡国家にするのだ。
﹁シレジアを間接統治下におけば、ある程度はシレジア人の反発は
抑えられる。名目的にはシレジア王朝家に名を連ねるものが旧シレ
ジア領を統治するのだから。名付けるとしたら﹃シレジア大公国﹄
かな﹂
1755
﹁そしてそのシレジア大公国を統治するのがおじ様、つまりはカロ
ル大公となりますでしょう。シレジア王朝家に名を連ね、かつロマ
ノフ皇帝家にも関係があるのは大公だけですから﹂
大公がロマノフ皇帝家の外戚となる意味は、考えられる中では2
つある。
1つ、東大陸帝国の各貴族への言い訳が立つ。
単なるカロル大公がシレジアを統治するとなると、仮にも旧敵国
の王族の人間を要職に就かせるのはまずいのではないか、という声
が上がるかもしれない。でもロマノフ皇帝家の外戚であると言い訳
が立てば、ひとまずそれで反発は収まるもの。
なぜなら名目が立てば、貴族たちは表立って反対はできないのだ。
反対する理由がなくなるからね。
貴族社会では、こういう﹁名目﹂というのは大切な話だ。時には
実質的な価値より名目的な理由を求めるのが面白い所である。
そして2つ目の理由は、フィーネさんが話してくれた。
﹁滅んだ国の王族というものは、普通は処刑はされません。貴族や
国民の反感を買う恐れがありますから。ですので、目の届く場所に
連行し、幽閉するのが定石です。そうすれば王族を担ぎ上げて蜂起
ツァーリグラード
を促す、などという事態を防げます。シレジアの場合、フランツ陛
下とエミリア殿下を帝都にまで連れていき、適当な城か宮殿で一生
を過ごすことになるでしょう。それなりの礼節でもって、自由を奪
われ、そして数十年間籠の中の鳥であることを強制される人生の始
まりです﹂
フィーネさんは、やや冷淡にそう説明した。
1756
当の本人たるエミリア殿下と言えば、それを悲痛な面持ちで聞い
ていた。
士官学校に入る前のエミリア殿下は、まさに籠の中の鳥であった
のだと、かつてマヤさんが言っていたことだ。その状態に逆戻りに
なる、いや逆戻りよりさらに酷い事態に至るというのは、殿下にと
っては耐えられない事だろう。
エミリア殿下は、俯いたまま。心配したサラが﹁エミリア?﹂と
問いかけるが、反応はない。
そして十数秒後、そのままの体勢でポツリと言ったのだ。
﹁⋮⋮ずっと、不思議に思っていたことがあるのです﹂
﹁えっ?﹂
﹁叔父様が本気になれば、私や、父のことなんてとっくの昔に葬れ
るはずなのに、なぜそれをしなのだろうと⋮⋮﹂
確かに、エミリア殿下の言う通りである。
シレジア=カールスバート戦争のときが、カロル大公にとって簒
奪には絶好の機会だっただろう。彼が本気で簒奪を試みるのであれ
ば、フランツ陛下を暗殺し、貴族の中では大勢を占める大公派貴族
の賛同の下、まだ幼いエミリア殿下の王位継承権を返上させて王位
に就くことができた。
コバリや、あるいはクラクフでの、あんな回りくどい策謀をしな
くても、機会はいくらでもあったはずであるのに。
﹁する必要がなかったんですね。最初から。叔父様にとって王位は
別に必要でもなんでもない、そして私のことも、私の努力も⋮⋮﹂
王位に就くことがカロル大公の目的ではなかった。東大陸帝国に
1757
併呑された後に生まれる、シレジア大公国の大公という地位を狙っ
ているのだと。
そしてエミリア殿下の生死には興味がなかったのかもしれない。
居たら居たで何らかの妨害をしてくるので、警告の意味で多少の暗
殺計画を実行しただけ。成功すればめっけもの、失敗したら別にど
うでもいい。その程度の認識だったのかもしれない。
まるで、自分の努力が児戯の如く扱われている。そんな風に思う
と、確かにやるせない気持ちにもなる。
エミリア殿下は、今にも泣きそうだった。でも、まだだ。
﹁エミリア殿下、まだ泣くのには早いですよ﹂
﹁⋮⋮ユゼフさん?﹂
﹁まだ、これは私たちの勝手な予想です。今後どう転ぶかは、カロ
ル大公も知らないはずです﹂
この予想自体、なんら物的証拠のあるものではない。単なる推測
であって、もしかしたらカロル大公の大ポカである可能性が、ある、
かも?
﹁よしんば予想が的中していたとしても、それを黙って見ているエ
ミリア殿下ではないでしょう?﹂
エミリア殿下は結構我が儘な人だ。国王陛下の反対と説得を撥ね
退けて士官学校に入学してくるくらいはね。
そんな人が、ここで諦めるのは可笑しい。
﹁そうよエミリア! こんなところでベソかいてたらユゼフに笑わ
れるわよ!﹂
﹁え、待ってサラ。それ俺が死んでるみたいなんだけど﹂
1758
﹁死んでるじゃないの! 軍人としての能力が!﹂
ひでぇ。でも反論できない悔しい。
そしてなぜかこのコントにフィーネさんも参戦してきた。
﹁そうですね。確かにユゼフ少佐はもうちょっと鍛えた方がいいと
思います。その体は少佐ではありません。二等兵からやり直してく
ださい﹂
﹁いやいやいやこう見えても私士官学校卒業しましたから! あと
ちゃんと鍛えてるんですよ、脱ぎましょうか!?﹂
元農民の筋力舐めるな! クワとかスキくらいなら持てるよ!
﹁気持ち悪いです。あとその子が起きますので静かにしてください
迷惑です﹂
﹁あ、はい、すみません。自重します﹂
あぁもう、ユリアの寝顔に免じて許してあげよう⋮⋮でもユリア
は俺にまだ懐いてない。悲しい。
などというコントをしていたら、いつの間にかエミリア殿下は笑
っていた。
﹁ユゼフさんもサラさんも、昔から変わりませんね﹂
﹁エミリアもね!﹂
﹁あら、そうですか?﹂
﹁そうよ! 例えば⋮⋮﹂
こうして暫くシレジア王国の運命とは別の方向に話が進んだ。カ
ロル大公のことなんて、サラはもしかしたら忘れているかもしれな
い。殿下の方もフィーネさんとの会話を楽しんでいるみたいだし、
1759
なんだか女子会みたいになっている。
でもまぁ、やっぱりエミリア殿下は笑顔が似合うからね。ずっと
沈鬱な表情をしてたら気が滅入って仕方ない。
だから、暫くはこのままでいいか。
1760
交換
﹁コホン。さて、少し話が逸れましたね。戻しましょうか﹂
10分程エミリア殿下らが話し込んでいたが、さすがに本題を忘
れそうになるくらい話していたら問題なので話題を戻す。カロル大
公の思惑についてだ。
﹁えっと、つまり大公が敵国の皇帝家と血縁関係になったのが、ま
ずいことなのよね?﹂
﹁まぁ一行で纏めるとそうなる﹂
長々と説明させておいてそんなザックリ纏められると説明した甲
斐がないが、サラに完全に理解させるのも手間なので放っておこう。
﹁じゃあ、それを指摘すれば何とかなるんじゃないの?﹂
﹁つまりこの婚約を材料に大公を弾劾しろってこと?﹂
﹁うん﹂
﹁恐らく無理でしょうね﹂
サラの提案を否定したのはフィーネさんだった。彼女は紅茶を飲
みつつ、その理由を述べる。
﹁理由は2つ。1つは、恐らくカロル大公は﹃ばれても問題ない﹄
と判断して結婚に至ったのでしょう。弾劾自体が出来るか、たとえ
公に訴えることができてもシレジア貴族で多数派を握るカロル大公
には決定打を与えられません。むしろ告発した側、つまりエミリア
殿下が攻撃される危険性もあります﹂
1761
多数派工作において、エミリア殿下の勢力は完全に負けている。
王族たる大公を弾劾するとなると貴族たちを召集して貴族による裁
判を行うことになるだろうが、大公派貴族が多数派であれば﹁無実﹂
と判定されるのは自明の理。
逆に告発したエミリア殿下の﹁王族としての品位﹂や、内務省治
安警察局が仮にも王族のプライベートを暴こうとしたことを責めら
れる可能性がある。そうなれば相討ちにもならない。
﹁む⋮⋮﹂
サラはぐうの音も出ない御様子。まぁたぶん半分くらいは何言っ
てるか理解してないんだろうけど、正論で反論されているのはわか
ってるから何も言えないのだろう。
﹁2つ目の理由は、もし大公の失脚に成功したところで意味はあり
ません。今回彼がやっていることは﹃シレジア併呑後の地位の保障﹄
であって、具体的なシレジア滅亡の策謀を巡らせているわけではな
いのですから。大公を失脚させたがシレジアは滅亡し大公が地位を
獲得すると言うことにもなりかねません﹂
﹁むむむ⋮⋮﹂
サラ、沈没。いやこの場合フィーネさんが大人げないと言った方
がいいのか。最年少の人間が最年長の人間に対して大人げない態度
を取るというのは若干矛盾してるが。
﹁私もフィーネさんと同意見です。現状じゃ大公の弾劾は益はあり
ません。むしろ放っておいて大公の動きを見て情報を集める方が良
いかと﹂
1762
大公ほど地位も職責ある人間が動くとなれば、その情報だけで色
々な推測ができる。東大陸帝国側の情報も欲しいし、具体的にどう
やって帝国と協力するのかも知りたい。それが分かった後に対策な
りすればいいんじゃないだろうか。
と思うのだが、フィーネさんは不敵な笑みを浮かべた。
﹁そう、上手くいきますかね?﹂
﹁不安なになるような事言わないでください。これでも内心はビク
ビクしてるんです﹂
﹁これは失敬﹂
やや冗談じみた口調だが、その憂慮はもっともなものだろう。リ
スクが大きくても、大公の暗殺という手も選択肢の内に入れておい
た方がいいかもしれない。
﹁ま、いずれにしても我々が提供できる情報と言うのは以上です。
毎度毎度少なくて申し訳ありません﹂
﹁いえいえ、大丈夫ですよ。とても有用な情報でしたから﹂
﹁そう言っていただけるとありがたいです﹂
と言っても調べたの俺じゃないけどね。後でイリアさんにお礼を
言っておこう。
﹁さて、では私の方からも情報を﹂
そう言って、フィーネさんはソファの脇に置いてあったらしい鞄
から資料の束を出してきた。物凄く分厚いってことはわかる。10
0ページは優に超えているだろう。
エミリア殿下がそれを取り、そしてその資料の表題を眺める。そ
して殿下の表情は徐々に険しいものとなっていった。
1763
﹁これは⋮⋮どうやって?﹂
﹁彼の帝国の内務大臣は我が国と懇意の関係にありますからね。最
近は新宰相セルゲイ・ロマノフによる帝国官僚の綱紀粛正の煽りを
受けて首筋が寒いらしいですが﹂
⋮⋮なにそれこわい。いや本当こわい。
フィーネさんが渡したその資料の表題は﹁東大陸帝国新政策の詳
細﹂である。
1764
帝国の改革
渡された情報は膨大な量である。
具体的な政策、規模、予算、人事など。東大陸帝国の閣僚がリー
クしただけあって、実に細かな内容が記載されている。オストマル
ク帝国情報省もいよいよ本格始動した、ということか。
﹁フィーネさん、ひとつ良いですか?﹂
﹁なんでしょうか、ユゼフ少佐﹂
﹁この情報、帝国の内務大臣が流したそうですが⋮⋮信憑性はどれ
ほどですか?﹂
﹁九分九厘本当だと思いますよ﹂
フィーネさんは即答した。そして紅茶のカップを口に運びつつ、
その理由も話してくれた。
﹁というのは、先ほども言いましたが東大陸帝国新宰相セルゲイ・
ロマノフは官僚の綱紀粛正を行っております。汚職官僚を解雇し、
実力あるものを躊躇なく上にあげる。春戦争の敗北によって有力貴
族の権威と発言力が低下しましたからね。セルゲイはその手腕を遺
憾なく発揮できるのです﹂
﹁⋮⋮そして、そのセルゲイの改革に内務大臣が危機感を覚えてい
ると?﹂
﹁はい。内務大臣の権限によって随分と私腹を肥やしていたようで
す。我が国も様々な商会が彼に必要経費を払って進出しているそう
ですし﹂
聞くところによると、グリルパルツァー商会もその口らしい。賄
1765
賂を払って東大陸帝国という巨大な市場に殴り込みをかけ、さらに
必要経費を払って情報を収集している。それが、春戦争勃発前の情
報収集で意外と早くリゼルさんが帝国軍の作戦規模と内容を把握し
た理由なのだろう。
﹁しかしセルゲイの改革によって内務大臣の不正も明らかになりつ
つあるそうです﹂
﹁そこにつけ込んで、亡命と引き換えに情報を要求した、そんなと
ころですか?﹂
﹁御名答﹂
そう言うと、フィーネさんはもう1部、おそらく同じ内容が書か
れている資料を手に取った。
﹁新宰相セルゲイの新政策。その3本柱は外交政策の見直し、農奴
解放、そして軍縮。既にこれらは帝国内で大なり小なり動いてそれ
なりの成果を出しています﹂
俺はフィーネさんの言葉を聞きつつ、エミリア殿下から受け取っ
た資料の中身を見る。
まず第一に、外交政策の見直し。
反シレジア同盟という枠組みを継承しつつも、ここ数十年紛争が
絶えないキリス第二帝国との停戦交渉を開始。いくつかの辺境領土
の割譲が行われるかが問題だそうだが、もし停戦が実現すれば東大
陸帝国軍の負担は減るだろうということ。
そしてこの政策は、シレジア王国との停戦条約締結も含まれてい
る。東大陸帝国にとっては、将来はさておいて今は内政に専念した
いのだろう。
1766
﹁今は各国に対し友好的ですが、東大陸帝国が全大陸の再統一を目
指しているとすれば、これは単なる平和ではなく準備期間でしょう。
その間に再統一のための下準備をする、と﹂
そう予測を立てると、エミリア殿下も同調したのか深く頷いた。
﹁加えて言うと、国交が回復して貿易が開始されれば経済的にも恩
恵はあります。その恩恵で得た税収でもって次なる内政改革を行う
ということでしょうね﹂
﹁殿下の仰る通りです。実際、宰相セルゲイは民政にかなりの力を
入れる、とのことです﹂
﹁その民政改革の目玉が﹃農奴解放﹄ですか﹂
フィーネさんが頷く。
農奴、という階級を未だ持っているのは東大陸帝国だけだ。他の
国は、農奴は既に過去のものとなっている。
東大陸帝国以外では、農奴ではなく自由農民が耕作を行っている。
自由農民には職業選択の自由や移動の自由が保障されており、土地
も自分のものだ。
そして貴族に農作物を収めるのではなく、農民が農作物を都市で
売りその所得の内の何割かを税金という形で収める。だが重税とな
らないよう制限を掛けており、シレジアの場合初代国王イェジ・シ
レジアの勅令によって税率が制限されている。
だが農奴の場合、そうならない。
農奴は貴族の所有物である。貴族の持っている土地を農奴に耕さ
せ、そして農作物の殆どが貴族の懐に入る。貴族はそれを売って私
腹を肥やしまくるのだが、農奴には生活できる最低限の物しか与え
1767
られない。
職業選択の自由、移動の自由は当然なく、それどころか結婚の自
由もない。そして貴族は所有する農奴に好き勝手できる。極端なこ
とを言えば﹁顔が気に食わないから死刑﹂ということも出来るし、
その蛮行を制限する法律もない。
例を挙げればキリがないほどに、東大陸帝国の農奴と貴族の格差
は酷い。
﹁ですが急進的な改革はむしろ農奴を悲劇に陥らせるだけです。そ
れもセルゲイはわかっているようで、情報によれば農奴解放は慎重
に行っていくそうです。即ち、農奴たちの生活の安定が制度的、実
質的に確立された上で人格的な自由を与え、完全な解放を実施する
のでしょう﹂
だがフィーネさんのこの説明に対し、エミリア殿下はやや懐疑的
な顔をした。俺が理由を聞くと、
﹁しかし帝国の人口を考えると規模はとんでもないものになるはず
です。予算がいくらあっても足りないでしょう﹂
﹁確かに⋮⋮。恐らく、国が貴族の保有する農地を買い取ってそれ
を農奴に無償、あるいは低価格で売るという方法を取るでしょう。
春戦争で権威を失った貴族であれば没収できますが、皇太大甥派貴
族にはそれができな⋮⋮あっ﹂
そこまで言って気付いた。思わずエミリア殿下の方を見ると、殿
下もこっちを見ていた。
先ほど、エミリア殿下が言ったことだ。
外交政策の見直し、近隣諸国との経済交流の活発化によって収入
が増える。それを使えばいい。更に言えば、春戦争で没落した貴族
1768
の財産を根こそぎ奪ってそれを予算とする、でも構わないはずだ。
皇太大甥派貴族には、農地と農奴を解放することと引き換えに皇
帝派貴族の土地を分け与えてしまえば、とりあえず文句も出ないの
ではないだろうか。
﹁上手くやるもんだな⋮⋮﹂
思わずそう呟いてしまったが、どうやらエミリア殿下やフィーネ
さんも同感らしい。ちなみにサラさんは全然話についていけてない
模様。後で説明してやるから、もうちょっと我慢してね。
﹁この農奴解放によって、上手くいけば帝国各地で巻き起こってい
る農民蜂起が一気に沈静化します。そうすれば、現在帝国が保有す
る軍隊を削減しても、治安には全く影響がありません﹂
﹁それが﹃軍縮﹄というわけですか﹂
﹁恐らく。﹃軍縮﹄に関する規模も判明しています。ここです﹂
そう言って、フィーネさんは資料に指差した。そこに書いてある
文字は、些か目を疑う内容だった。
﹁帝国軍の平時戦力417個師団の内、105個師団を削減⋮⋮!
?﹂
﹁はい。段階的に行うそうですが、帝国軍はどうやら2年後には現
在の4分の3にまで規模が削減されるそうです﹂
105個師団、つまり105万人。これを一気に削減する。それ
でも300個師団以上は残るわけだが、それ以上に怖いのは105
万人の方だ。この105万人の殆どは徴兵された農奴だろうが、そ
いつらは農奴解放政策によって人格的自由を得る。故郷に帰って農
地を耕しても良いし、恐らく今後帝国内でも立つだろう大規模工場
1769
の労働者となってもいい。
こりゃ、結構経済が回るかもね。
⋮⋮それに、資料を読んでいて気になる点も見つけてしまった。
﹁これ、実態は軍縮ではないですね﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
俺の言葉に対し、エミリア殿下がちょっと素っ頓狂な声を上げた。
﹁ここを見てください﹂
﹁⋮⋮えーっと、軍縮実施後の予算推移ですか?﹂
﹁はい。よく見てください﹂
と、言ったもののエミリア殿下は数十秒考え込んでも答えを見つ
けられなかった。フィーネさんの方を見てみたが、彼女も答えを見
いだせずに首を傾げている。
仕方ない、自分から答えを言うか。
﹁軍縮実施の前と後を比べてみると、軍事予算が減ってますよね?﹂
﹁え、えぇ。ですがそれは当然では⋮⋮?﹂
﹁確かに当然のことです。ですが、全軍の4分の1を削減したのに
もかかわらず、軍事予算の減りが少ないんですよ﹂
﹁えっ?﹂
フィーネさんが、慌てて資料を数枚めくってまた深く考え込んだ。
そして、今度は答えを導き出せたようである。
﹁⋮⋮確かに、少なすぎますね。計算では、この値の倍近い予算が
削減されるはずなのに﹂
1770
軍隊に置いて最も金のかかる分野は人、つまり人件費だ。その人
件費が莫大だと、他の部門になかなか予算は回ってこない。例えば、
装備や基地施設の近代化とかね。
﹁恐らく、削減した人件費の一部を使って部隊の近代化に努めるの
でしょう。具体的にどう近代化するのかがわからないですが⋮⋮お
そらく一般的に言う軍縮とはなりません。1個部隊当たりの戦闘力
が増した分だけ、実質的には軍拡となるでしょう﹂
この一連の改革によって、帝国は間違いなく再興する。経済状況
が良くなれば、国民はいずれ帝冠を戴くセルゲイを支持するだろう。
そしてそんなセルゲイが率いる軍隊の士気は、当然高くなる。軍
縮に見せかけた軍拡によって、軍隊全体の近代化も果たせる。
今までの東大陸帝国軍は、数だけだった。数で押しつぶすのが基
本戦略だった。だから一度負けに回ると、あっけなく士気が崩壊し
て前線が崩壊する。それは春戦争でも何度かあった話だ。
でも、セルゲイの改革によって帝国軍の質は飛躍的に上昇するだ
ろう。その前には、100個余りの師団削減なんて取るに足らない。
つまりこれは、大陸最強の軍隊が復活すると言う意味なのだ。
1771
帝国の改革︵後書き︶
︻お知らせ︼
この度﹃大陸英雄戦記﹄が小説家になろう累計ランキングTOP3
00位入りを果たしました。
ここまで来れたのは読者の皆様のおかげです。本当にありがとうご
ざいます。
完結までまだまだ時間がかかるとは思いますが、どうぞそれまでゆ
っくり作者に付き合ってもらえたら嬉しいです。
1772
宰相と内務大臣
ユゼフとフィーネらがシレジア王国王都シロンスクで情報交換を
している頃、東大陸帝国帝都ツァーリグラードでもほぼ同様の事が
起きていた。
帝国宰相セルゲイ・ロマノフはその日、皇帝官房治安維持局長モ
デスト・ベンケンドルフ伯爵と面会していた。
﹁それで、調べはついたのか?﹂
﹁おおよそは﹂
そう言って、ベンケンドルフ伯は資料をセルゲイに手渡す。
資料の中身は多くの情報が記載されている。政敵の情報を筆頭に、
周辺諸国の政治・経済・社会に関する情報、貴族同士のドロドロと
した内紛など。しかしその中でセルゲイが重視した情報は2つ。1
つは、
﹁あの内務大臣はやはりオストマルクと通じているようです。既に
宰相閣下の政策について、子細な情報が洩れています﹂
﹁ふんっ、あの豚野郎が。こういうことには才能を発揮できる男と
はな﹂
セルゲイは唾を吐き捨てながら、内務大臣に毒吐く。一応内務大
臣は皇太大甥派であったが、それは私利私欲の為であり、公益のた
めに身を捧げるなどという言葉から縁遠い男だった。それでも有能
であれば、多少の目溢しはしただろう。
だが、内務大臣はどちらかと言えば有能ではなく有害であった。
1773
﹁ベンケンドルフ伯﹂
﹁ハッ﹂
﹁あの豚はいざとなったらオストマルクへ亡命する気だ。自分の身
の安全を保障しなければ情報を渡さない。それが条件だったのだろ
う。でなければあんなにベラベラ喋るはずもない﹂
﹁承知しました。⋮⋮家族の方は、いかがなさいましょう?﹂
﹁家族?﹂
セルゲイは一瞬、顔を顰めた。幼い頃からロマノフ皇帝家の政治
闘争の波に揉まれながら生きていた彼にとっては、家族と言うもの
がよくわからない。
﹁要職の地位にあるとはいえ、彼は帝国と殿下を裏切った大逆人で
す。然るべき処置をすべきかと存じますが﹂
﹁然るべき、ね。具体的には?﹂
﹁具体的には、名誉ある死を﹂
﹁ふーん⋮⋮?﹂
内務大臣一家は、皇太大甥派でありながらセルゲイに不利益をも
たらすものとなる。それがいつか大火にならぬよう先手を打つべき
だと、セルゲイ自身の身の安全の為には、どれほどやってもし過ぎ
ると言うことはない。見せしめのためにもそうすべきだと、彼は考
えたからである。
だがセルゲイはその提案を拒否した。
﹁その必要はない。家族は監視をつけて、辺境に流刑。その程度で
良いだろう﹂
1774
その決断を告げた時、ベンケンドルフ伯はやや驚き、思わず﹁は
?﹂と聞き返してしまった。
﹁不満か?﹂
﹁い、いえ。殿下がそうおっしゃるのであれば、異存はございませ
ん﹂
セルゲイがベンケンドルフ伯の提案を拒否したのは、無論理由は
ある。内務大臣の家族構成は妻と子供2人であり、その子供も1人
は家督を継がない女性であり、もう1人は男ではあるがまだ10歳
だった。これならば将来脅威とならないだろうと、セルゲイは考え
たからである。
ベンケンドルフ伯にしてみればその子供が成長し、そして屈折し
た復讐心をセルゲイに向けてくるのではないかと考えたのだが、セ
ルゲイは子供を害する事を躊躇ったということになる。
﹁ま、内務大臣自身の身についてはベンケンドルフ伯に任せよう﹂
﹁承知しました。⋮⋮ところで﹂
﹁ん?﹂
﹁オストマルクについては、いかがなさいましょうか? 内務大臣
の件を大義名分とし、彼の国に宣戦布告しますか?﹂
﹁いや、やめておこう。これについてはオストマルクについては見
て見ぬふりをしよう。どうせ軍制改革中には戦争はできんし、国内
の状況を見てからでないとな﹂
セルゲイは、珈琲を飲みながら﹁それに﹂と付け足す。
﹁あの国は我が国の計画に参加してもらわねばならない。ここで変
に両国の仲を悪くする必要はないさ﹂
1775
これ以降、セルゲイは内務大臣の内通事件について特に感想を述
べることはなく、ベンケンドルフ伯自身も計画の内容を知っていた
ために再考を求めることもしなかった。
﹁⋮⋮さて、と。後気になる件と言えばシレジア王国かな?﹂
﹁それについては、いくつか気になる情報が入っております﹂
﹁ほう? なにかな?﹂
﹁第一王女、エミリア・シレジアについてです﹂
﹁⋮⋮エミリア? あぁ、あのシレジアの王女か﹂
﹁それなのですが殿下、どうやらあの王女はだたの箱入り娘ではご
ざいません﹂
ベンケンドルフ伯がそう言うと、もう一つの資料を見せた。先ほ
どセルゲイに手渡した資料とは違い、エミリア王女だけに焦点を絞
った情報である。そしてそれは王国宰相と外務省が提供したと言う
こともあってかなり正確だった。
だが正確だと分かっていても、セルゲイはそれらの情報をにわか
には信じ難かった。
﹁春戦争、カールスバート内戦において武勲巨大なり、か。確かに
彼女は軍事的才覚に恵まれているとは思ったが⋮⋮それでも、この
巨大さは信じられないな。彼女はまだ16歳だったはずだ﹂
﹁お気持ちはわかりますが殿下、その情報は極めて信憑性の高いも
のでございます。無視はできません﹂
﹁わかっている﹂
セルゲイはそう言って、宰相執務机の椅子に深くもたれる。その
後彼は目を閉じてしばし考え事をしていた。どのような思考を巡ら
せているのかとベンケンドルフ伯は考えたが、セルゲイが次に発し
た言葉は彼にとって意外なものだった。
1776
﹁これほどの才能を持つ王女か、興味があるよ。一度会ってみたい
な伯爵。あのカロルとかいう野郎は王女を排除したがっているよう
だが、私は彼女を正妃として迎えたいよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁冗談さ﹂
自嘲気味に彼はそう言ったが、ベンケンドルフは︱︱あるいはセ
ルゲイ自身も︱︱それが本当に冗談なのかは判断ができなかった。
会ってみたい、という気持ちは理解できなくもない。16歳にし
て軍事的才覚に溢れて既に武勲を立てている王女というのは、たと
え敵国であっても敬意の念を抱かずにはいられないだろう。だが正
妃となると、話は別である。
もしかしたら、王女を自分の傍に置きたいがために戦争を吹っか
け始めるのではないか、という不安がベンケンドルフ伯の脳内をよ
ぎった。だがそれは、彼の考えすぎかもしれない。セルゲイは平静
を保ちながら、伯爵に話しかける。
﹁まぁ、そのことはどうでもいい。ベンケンドルフ伯、ひとつ質問
がある﹂
﹁なんでしょうか、殿下﹂
﹁このエミリアとかいう王女、友人あるいは部下の武勲を横取りし
ているは可能性は?﹂
﹁⋮⋮先のカールスバート内戦については不明です。しかし春戦争
に限って言えば、大公派将官の証言と捕虜からの情報は一致してい
ます。﹃エミリア王女自身が作戦を立案し、そして前線に立った﹄
と﹂
﹁⋮⋮わかった。ありがとう伯爵、今日はもう下がっていい﹂
﹁ハッ。では、失礼します﹂
1777
そうして、ベンケンドルフ伯は宰相執務室より退室した。
それを確認し、そして部屋に1人となったセルゲイは立ち上がっ
て執務室の窓に近づく。窓に映るのは、相変わらず雰囲気の暗い帝
都の景色。
そんな帝都を眺めながら、彼は呟いた。
﹁我ながら、妙ことを言ったものだな﹂
1778
宰相と内務大臣︵後書き︶
︻お知らせ︼
秋刀魚乱獲してる暇がないくらい多忙につき、更新が遅くなります。
ごめんなさい
1779
捕虜と条約
﹁帝国は再興する。それは既定路線と言っても良い。問題は私たち
がどうするべきかです﹂
フィーネさんは、飲み終えた紅茶のカップを指先で叩きながらそ
う言った。カツカツと鳴る陶器の音が、静かなオストマルク大使館
応接室に響き渡る。
﹁どうするって⋮⋮妨害すればいいんじゃないの?﹂
と、サラさん。﹁ユゼフならできるでしょ?﹂みたいな顔してる
が、いやそんな簡単に言わないでほしい。
﹁妨害するにせよ、あるいはもっと情報収集するにせよ工作員が必
要だよ。現状シレジア︱︱いや、エミリア殿下の派閥は、かな︱︱
は東大陸帝国に工作員を送り込めていない。送り込もうとすれば大
公派が妨害するか、帝国に通報するだろうね﹂
俺の言葉に、エミリア殿下も補足する。
﹁加えて言うのであれば、私達には信頼できる人材というのが少な
スパイ
いです。なまじ帝国に人を送り込めても、その人間が大公派、皇太
大甥派に裏切って二重諜報員となってしまう可能性もあるのです﹂
﹁⋮⋮そっか、ダメなの﹂
サラさんがしょぼんとした。そして膝に乗っかているユリアに頭
をなでられている。なにこの光景。
1780
まぁそんなほのぼの親子︵?︶はさておき。
﹁んー、ダメではないんだよな。正確に言えば﹃妨害する工作員を
送り込めない﹄ってだけだから、妨害策が否定された訳じゃない﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。信頼出来て、かつ大公派に怪しまれない形で工作員を送り
込めれば良いのさ﹂
﹁⋮⋮できるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どうだろう﹂
自分で言っといてなんだが、割と不可能な気がする。可能ならば
俺自身が東大陸帝国に乗り込んでも構わないけど、オストマルクの
時と違って出世しちゃったし、なにより目立っちゃってるから確実
に怪しまれる。
ユゼフ・ワレサは静かに暮らしたい。割と本気で。
まぁ、この情勢じゃ無理か。どう頑張ってもあと数十年は平和な
時代は来ないんじゃないかと思う。
とりあえずは数十年後の平和を願うより明日の戦いを終わらせる
方が先だ。シレジアが工作員を送り込むのが不可能なら、オストマ
ルクが、あるいはオストマルク経由で送ればいい。
と思ってフィーネさんに提案したのだが、彼女は苦い顔してこう
言った。
﹁⋮⋮難しいでしょうね。皇帝官房治安維持局︱︱これは東大陸帝
国唯一の政治秘密警察なのですが︱︱の長であるモデスト・ベンケ
ンドルフ伯が活発に動いているようです。恐らく内部の不穏分子の
摘発、皇帝派の監視を行っていると思われます﹂
﹁つまり、内務大臣も調査されてオストマルクとの関係も浮き彫り
1781
になりつつあると?﹂
﹁そういうことです。現状、内政改革に勤しむセルゲイが我が国に
宣戦布告することはないでしょうが、我々に対する監視も強化され
るでしょう﹂
﹁なるほど﹂
シレジアもオストマルクも無理となると、あとはカールスバート
かラスキノあたりか。でもカールスバートは内戦終結直後で国内は
まだまだ不安定、ラスキノは小国過ぎて無理。
あれ、詰んでない?
エミリア殿下もその結論に達したのか、深く溜め息をついていた。
﹁はぁ⋮⋮。となると、我々にできるのは条約の締結に意見するく
らいですか。どれほど聞き入れてくれるかわかりませんが⋮⋮﹂
⋮⋮ん? 今なんて言った?
﹁条約って何よ?﹂
﹁えーっと、東大陸帝国との講和条約です。一応勝者は我々という
ことになっているので、ある程度有利な条約となると思います﹂
﹁んー、でもそれってセルゲイ? に効くの?﹂
﹁セルゲイがどういう人となりかわかりませんが、ギニエ休戦協定
を無視することはできないと思いますよ。国家の信頼に関わります
し、元首が変わってもこういう条約や協定というのは無効にならな
いんです﹂
﹁へー⋮⋮﹂
そうそう、たとえ東大陸帝国で共産主義革命が起きて赤と黄色い
星と鎌と鎚が描かれる国旗な国になっても条約は無効にならない。
それは両国間の交渉でのみ破棄できる。
1782
って、そうじゃない。重要なのはそこじゃない。
﹁エミリア殿下、その講和条約に我々はどれほど意見が出せるので
すか?﹂
﹁えっ? あの、えーっと、まだ何も交渉は始まっていませんし、
講和条約の草案は外務省で作られます。口を出せるとしたら、お父
様経由でと言うことになるので、草案の段階では難しいと思います﹂
草案では無理か。でも草案で盛り込まれる内容は、旧シレジア領
の割譲、捕虜の解放、賠償金の支払いなど。そのうちどれが呑まれ
るかは帝国との交渉次第だが、でも確実に呑まれる事柄がある。そ
れを利用すればいい。
﹁⋮⋮また、悪い事を考えている顔をしていますよ、少佐﹂
﹁悪い事とは聞き捨てならないですね。至極真っ当な事です﹂
﹁ふーん? なんですか?﹂
﹁いえね、捕虜を使って情報収集をしようかと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい?﹂
フィーネさんが固まった。﹁何言ってんだコイツ﹂って顔だ。
﹁ユゼフ少佐﹂
﹁はい﹂
﹁今更あなたの識見を疑うわけではありませんが、具体的に言って
くれませんか?﹂
フィーネさんらしくもなく直球で聞いてきた。
エミリア殿下も不思議に思ったのか、質問を投げかける。
﹁捕虜を工作員にする、というのは常道ですが、今の帝国にそれが
1783
通じるとユゼフさんはお考えで?﹂
﹁はい。できると私は思います。何せ我がシレジア王国は春戦争の
時に大量の捕虜を獲得しましたから﹂
﹁しかし捕虜が我が国の言うことを聞くでしょうか。農奴兵は何も
しなければ帝国の改革の恩恵を受けますし⋮⋮﹂
確かに農奴兵をスパイにすることはできない。そもそも農奴じゃ
収集できる情報は限られるから。
﹁農奴ではなく、貴族の方です﹂
そう言って、俺の思っていることを話す。まだ頭の中の計画とい
うか妄想の段階だが、でも上手く行けば大公派も、そして皇太大甥
セルゲイ・ロマノフの目も誤魔化せる。
それをすべて説明し終わった時、エミリア殿下、フィーネさん、
そして話の半分はわかってないだろうサラさんまでもが﹁うわぁ⋮
⋮﹂って顔をしていた。な、なんですか。そんなに変ですか!?
﹁ユゼフ﹂
﹁な、なんでせう﹂
﹁私、あんたの話してること良くわかんないけど、これだけは言え
るわ﹂
サラは一呼吸置いた後、こう言った。
﹁あんた、もしかすると誰よりも外道な人間よね?﹂
ひでぇ。
1784
フィーネの相談
捕虜交換で仕掛ける、というのが決まった後は特に何もなかった。
とりあえずはどこの誰を作戦に使うかを選別しなくてはならない
ので、一度軍務省なり総合作戦本部なりに行って名簿を作成しなく
てはならない。エミリア殿下は元高等参事官として、現本部長に協
力を得られるかもと言っていた。
フィーネさんの方も、捕虜に関する情報収集に努めると約束して
くれた。
﹁それでは、今回もありがとうございました。今度会うときは、ゆ
っくりお茶でもしましょうか﹂
エミリア殿下の言葉で、俺ら4人は立ち去ろうとしたのだが、
﹁ユゼフ少佐﹂
﹁はい? なんでしょう﹂
﹁少しお話があります、少し2人きりでよろしいでしょうか?﹂
嫌な予感しない。それと脳裏にリンツ伯のニヤニヤした顔がちら
ついてるのだけど、なんでですかね?
﹁何の話か聞いても?﹂
﹁⋮⋮何を警戒しているかわかりますが、その話ではありません﹂
なら安心だね! リンツ伯の顔もどっかに行ったし、たぶん真面
目な話だろう。
1785
﹁了解しました。殿下、サラ。申し訳ないけど、先に行ってくれな
いかな?﹂
﹁わかりました。先に総合作戦本部の方へ行ってまいりますので﹂
そう言ってエミリア殿下らは退室⋮⋮しようとしたのだが、なぜ
かサラはユリアと手を繋いだまま不動である。そしてなんかすごい
睨んでくる。な、なに? 俺の顔になんかついてる?
﹁サラ?﹂
﹁⋮⋮なんでもないっ。行きましょ﹂
ぷいっ、と顔を背けるとエミリア殿下を追い抜いて応接室から出
た。あとユリアが若干引き摺られてたけど、あの子大丈夫かしら。
﹁距離感を掴み兼ねている、そんなところでしょうか﹂
サラたちが外を出たのを確認したフィーネさんはそんなこと言っ
た。
﹁⋮⋮なにがです?﹂
﹁さぁ、なんでしょう?﹂
そう言って微笑みながら紅茶を飲む彼女の姿は、いつ見ても様に
なっていると思う。だいたい悪い笑顔だけど。
−−−
1786
﹁っ∼∼∼∼∼∼!﹂
﹁あの、サラさん? どうしたんです?﹂
﹁なんでもないっ!﹂
サラさんは、まだここが帝国大使館の中だということを忘れてズ
カズカと行儀悪く歩いています。誰の目から見ても﹁機嫌が悪い﹂
と感じる行動です。おかげで先ほどから大使館員が寄りつこうとも
しませんでした。
﹁あの、せめて静かに歩きましょう。じゃないと迷惑ですよ﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
そう言ってサラさんは一気にシュンとなって肩を落とし、そのま
まトボトボと歩きます。大使館を出てから、サラさんに事情を聞い
てみました。
﹁何があったんですか?﹂
﹁⋮⋮うん、その、あのね﹂
サラさんは、彼女らしくもなくもじもじしながら、それを言って
くれました。ちょっと意外のような、そうでもないような、そんな
内容です。
﹁⋮⋮私って、ユゼフに嫌われてるのかしら﹂
−−−
1787
﹁では少佐、少し話をしましょうか﹂
﹁なんです? 婚約云々の話なら帰りますよ﹂
﹁違うと言ったじゃないですか⋮⋮。真面目な話です﹂
そう言ってフィーネさんは紅茶のカップを机に置き、そしていつ
も以上に真面目な表情になってこう言ったのだ。
﹁現在、我が帝国に気になる話があるのですよ﹂
﹁気になる話?﹂
﹁えぇ。まだそれほど声は大きくないのですが⋮⋮エミリア殿下を
信用できない、という声があるのです﹂
﹁⋮⋮どういうことです?﹂
俺がそう問うと、フィーネさんは自嘲気味に微笑みながら、その
理由を話してくれた。
﹁難しい話ではありません。エミリア殿下はまだ今年で17歳、そ
のような子供が信用に足るのか。という問題です﹂
﹁それは⋮⋮﹂
それは、前から言われていた話だ。
遡れば、シレジア=カールスバート戦争の頃から。ラスキノ戦で
も、春戦争でも、カールスバート内戦でも、エミリア殿下は﹁若す
ぎる﹂ということで信用されてなかった。それは俺も同じことだし、
そして俺や殿下より年下のフィーネさんにもわかるはずだ。
﹁無論、私は殿下を信頼に値する人物とは思いますし、それは父も、
祖父も同じです。ユゼフ少佐を通じて、エミリア殿下が素晴らしい
1788
人間であると知っています﹂
﹁それは⋮⋮どうも﹂
今のは俺のことも褒めたのか、それともエミリア殿下しか褒めて
ないのか判断に困る。どちらにせよ嫌な話しではないけど、それが
どうかしたのだろうか。
﹁ですが、やはり詳しい事情を知らない貴族からしてみれば、彼女
は単に﹃部下の手柄を横取りしている将軍まがいの小娘﹄でしかな
いのです。﹃それと手を結ぼうとしている外務大臣は何を考えてい
るのか﹄という意見も出ています﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
仕方ない、とも言える話だ。立場が逆だったら、たぶん俺もそう
思っていたかもしれない。
17歳の王女が、戦場の最前線に立って1個師団を率いて武勲を
立てるなんて、普通じゃないのだから。
﹁それで、フィーネさんはなぜその話を私にしているのです?﹂
﹁2つあります。1つはエミリア殿下に直接言うわけにはいかない
ので、少佐1人に言っておく。そしてもう1つは、エミリア殿下を
少佐が支えて欲しいのです﹂
﹁はぁ⋮⋮それは言われるまでもありませんが?﹂
そんなことは士官学校時代からやってる。今更だ、問題ない。
﹁いえ、まだ話の途中です。これには続きがあるのです﹂
﹁続き?﹂
﹁えぇ。オストマルク諸貴族を納得させる場が、戦場以外でも必要
になり、そこに殿下と少佐がいらっしゃればいい。そして先ほど、
1789
少佐は東大陸帝国との講和条約で罠を仕掛けると仰っていましたよ
ね?﹂
﹁言いましたけど⋮⋮﹂
﹁その条約を結ぶにあたって、まだ講和会議の場所は指定されてい
ませんね?﹂
﹁そうですね。まだで⋮⋮ってまさか、オストマルクでやるつもり
ですか? 貴族を納得させるために?﹂
俺が逆に質問すると、フィーネさんは肩を竦めた。
﹁そうです⋮⋮と言いたいところですが無理ですね。我が国は春戦
争の当事者であり中立ではない。講和会議は中立国でやった方が軋
轢が少なくて済みます﹂
講和会議の場所というのは、案外重要だ。当事国の領土でやる場
合があるが、よっぽど一方的な決着がついた場合でなければそうし
ない。大抵は中立国の仲介によって事が進む。そうした方が、対等
の条件で会議ができると両国首脳が考えるからだ。
今回の春戦争の場合、当事国と言えるのはシレジア王国、東大陸
帝国、そして非難声明を出したオストマルク帝国。
そのため、この辺で講和会議の議場となりそうな中立国はカール
スバートかリヴォニアかということになるのだが、
﹁カールスバートは内戦が終わったばかり、そしてリヴォニアは反
シレジア同盟参加国。どちらも会議場としては不適切ですね﹂
﹁少佐の仰る通りです。ですから、私が⋮⋮と言うより、祖父が提
案しました﹂
フィーネさんの祖父、つまり外務大臣レオポルド・ヨアヒム・フ
1790
ォン・クーデンホーフ侯爵の提案。なんだろう、ちょっと怖い。
﹁オストマルク帝国と多少協力関係にあって、そして春戦争で中立
を保ち、当然反シレジア同盟国ではない国が近くにあります。その
国に働きかけて、自然な形でそこで講和会議を開くよう秘密裡に工
作しています﹂
そう前置きして、フィーネさんはその国の名を告げた。
それはリヴォニア貴族連合の北、北海とバルト海の境界となって
いる半島にある中立国。前世においてはデンマークと呼ばれた地域。
﹁シャウエンブルク公国です﹂
1791
フィーネの相談︵後書き︶
5日ぶりに更新、忘れられてないか不安です。
ちょっと暇が出来たので更新速度あげていけたらいいなって
1792
フィーネの疑問
シャウエンブルク公国は武装中立国家だ。
東にはスカンジナヴィア半島、そこを統治する東大陸帝国があり、
南にはリヴォニア貴族連合。この軍事大国に挟まれているというの
は、ある意味ではシレジアに似ている。
でもシレジアと全く異なるのは、この公国は軍事的には比較的に
は強国である点だ。
まず公国の首都エーレスンドが位置するのは島であるため軍が通
行しにくい。上陸戦を実行しようにも公国が有する強力な海軍に阻
まれ、成功しても今度はエーレスンドの都市自体がかなり要塞化さ
れているために落とすのは不可能と言われている程。
おかげで公国は中立を維持できている。リヴォニアと東大陸帝国
にしても、滅ぼすより交易の拠点としての価値の方が高いため攻め
ることはない。
﹁ですがシャウエンブルク公国も、最近は東大陸帝国、リヴォニア
貴族連合両国の軍事拡張を危険視しているようです。確かに公国は
軍事力はありますが、無敵というわけではありません﹂
﹁ふむ。なるほど、オストマルクがどうしたいのかわかってきまし
たよ﹂
﹁はい?﹂
フィーネさんがポカンとしている。これは﹁なぜわかった﹂的な
反応なのだろうか。でも普通に考えてもその結論に到達すると思う
んだけど⋮⋮まぁいいや。とりあえず言ってみよう。
1793
﹁恐らく、公国の中は2派に分かれているのでしょう? 今までの
中立政策を捨て、東大陸帝国やリヴォニアに恭順する派閥と、中立
政策を維持をしつつ他方面の味方を作る、︱︱まぁこれを中立と言
えるかはわかりませんが︱︱その筆頭として最近東大陸帝国との溝
が広がっているオストマルクがやってきたと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁フィーネさん?﹂
はずれか当たりかくらいは言ってくれないと恥ずかしくて死んじ
ゃうんだけどなんか言ってほしい。
﹁⋮⋮い、いえ、なんでもありません。気にしないでください﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
彼女は目を逸らした。はずれか、はずれなのか? 俺がドヤ顔で
間違っている意見を言ってるから哀れだと思ってるのか? なにそ
れ悲しい。
フィーネさんは一度咳き込むと﹁それはさておいて﹂と前置きし
て話を続けた。
﹁先程も言いましたが公国には自然な形で仲介を申し出る手筈にな
っています。それをするだけの動機は公国にはありますし、大公派
や東大陸帝国にも不自然に思われることはありません﹂
﹁⋮⋮わかりました。それで、オストマルクも会議に出席するので
すか?﹂
﹁はい。一応当事国ではあります⋮⋮と言っても大臣級の人間は来
ませんね。私も一緒についていくつもりですが、恐らく在シャウエ
ンブルク公国の全権大使か、あるいは本国外務省からそれなりの地
位にいて信用の置ける人物も参⋮⋮﹂
1794
と、そこでなぜかフィーネさんが口に手を当てたままのポーズで
固まってしまった。どうしたんだフィーネさん、今日の彼女はサラ
並に挙動不審だぞ。
ハジリスク
﹁フィーネさん? 呪いの魔法でもかけられたんですか? それと
も蛇の王に見つめられたんですか?﹂
すると、ようやく彼女は動いた。のだが、右手で頭を抱えるよう
にして項垂れている。
﹁いえ、嫌なことを思い出しただけです﹂
そう言うフィーネさんの顔を覗き込んでみると、なんか頭痛に悩
まされているような、そんな苦悶の表情を浮かべていた。頭痛では
ないとしたら、よっぽど嫌なことがあったんだろうか。
﹁何かあったら相談の乗りますよ?﹂
﹁大丈夫です。お気遣いありがとうございます﹂
フィーネさんは頭を上げて、いつもの冷静な表情に戻⋮⋮ってな
いな、ちょっと表情が固い。
プライベート
﹁まぁあまり個人的な話は聞かないことにしますけど⋮⋮本当に大
丈夫なんですか?﹂
﹁大丈夫ですよ。少し、お父様の話を思い出しただけなので﹂
なるほど納得した。確かにリンツ伯の言葉を思い出すとなぜか頭
が痛くなる。それは実の娘でも同じらしい。フィーネさんはこめか
みを押さえて、またうんうん唸っている。
1795
﹁何を言われたか聞いても?﹂
﹁⋮⋮いえ、ダメです。少し内輪の話なので﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
ということはリンツ伯爵家内部の問題⋮⋮つまり貴族の内部問題。
うん、この話は聞かなかったことにしよう。絶対面倒事に巻き込ま
れる。
﹁⋮⋮話を戻しましょうか﹂
﹁そ、そうですね。⋮⋮えーっと、私達何話してましたっけ?﹂
﹁講和会議の話ですよ、少佐﹂
講和会議ね、講和会議。うん、大丈夫大丈夫忘れてない。
﹁⋮⋮フィーネさんの言ではシレジア側の出席者にエミリア殿下が
含まれているのが良い、ということですよね?﹂
﹁そうですね。そして少佐の﹃作戦﹄のためには大公派も会議の席
に入れて講和の内容の信憑性を上げなくてはなりません。大公か、
あるいは外務尚書を連れて行くべきでしょう﹂
ふむ、なるほど。重要な会議である以上外務尚書が公国に行くの
は確定だとして、問題はトップの人間か。たぶんカロル大公がしゃ
しゃり出てくるはずだ。親東大陸帝国派としては行きたいだろうし、
彼らと情報交換をするためにもね。それだけの地位を持っている人
でもあるし。
でも、それは防ぎたい。大公に動き回られると困る。内務省の監
視下に置きやすいシレジア国内に居てくれた方が良い。となると⋮
⋮、
﹁やはりフランツ国王陛下が参列されるべき、でしょうかね﹂
1796
会議の主導権は、できればこちらが握りたい。つまり格式高い人
間を連れて行くべきなのだが、政治的な格式の高さではエミリア殿
下はまだ高くない。殿下はまだ大佐で武官、政治的地位は持ってい
ない。大公派の外務尚書より政治的格式が高く味方になってくれそ
うなのは、フランツ陛下しかいないのだ。
俺の考えに、フィーネさんも同意してくれた。
と言っても、俺に権限はない。恐らく実際に動くのはエミリア殿
下になりそうだ。とりあえず誰を連れて行くかな。軍部の代表者と
かも考慮に入れなきゃならんし⋮⋮。
﹁その辺りについては、ユゼフ少佐にお任せしますよ﹂
と、フィーネさんはそう言った。丸投げとも言う。
﹁わかりました。とりあえずフランツ陛下とエミリア殿下と、後は
護衛役としてマヤさんかサラさんを同行させることにしますかね⋮
⋮﹂
それに外務尚書と、軍務尚書か総合作戦本部長か参謀本部総参謀
長辺りかな⋮⋮。とりあえず一度殿下の下に戻って色々と相談せね
ば⋮⋮と思ったとき、フィーネさんが﹁そう言えば﹂と口にした。
﹁少佐、少し話が逸れますがよろしいですか?﹂
﹁大丈夫ですよ。フィーネさんの話なら何でも聞きますよ﹂
ただし婚約云々の話は除く。
﹁⋮⋮はぁ、まぁ、嬉しいです、けど﹂
﹁それで、なんですか?﹂
1797
﹁あぁ、失礼。マリノフスカ少佐で思い出したんですよ﹂
﹁サラさんですか?﹂
﹁えぇ﹂
そう言って、彼女はなぜか窓の方を見る。なんだと気になって俺
も窓の方を見てみる。別段何もない、いつもの王都の景色が見えて
いる。なんだ?
﹁⋮⋮もういませんか﹂
﹁何がです?﹂
﹁こちらの話です。ともあれ彼女について質問があるんですよ﹂
﹁?﹂
﹁彼女、マリノフスカ少佐は何かあったんですか?﹂
1798
もうひとつの相談
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮特に何もないですよ﹂
つい顔を背けて窓の外を見る。あー、相変わらず王都の景色は綺
麗だなー。
﹁本当に何もない人はそんなに間をあけて返答しませんよ﹂
﹁いや、うん、まぁその⋮⋮ね?﹂
ま、そりゃばれるよね。確かにフィーネさんの言う通り特に何か
あったよ、つい最近。
﹁よければ相談に乗りますが﹂
﹁⋮⋮﹂
さて、どうしたものか。あると言ったところで、かなり個人的な
問題だから口に出すのは躊躇われる。でも自分の中で解決できるよ
うなものでもなく⋮⋮あぁどうしようもどかしい。そもそもフィー
ネさんはサラのこと良く知らないしなぁ⋮⋮。
﹁ユゼフ少佐。あなたは変人です﹂
﹁⋮⋮なんですか急に﹂
なんかフィーネさんが突然俺を変人呼ばわりする。こんなにも日
々真面目に、誠実に生きている人間なんて今時珍しいのに、よりに
よって変人はないでしょう!?
1799
﹁少佐、あなたが先ほど私に言った言葉を覚えていますか?﹂
﹁えっ? えーっと⋮⋮講和会議の話ですか? それとも人選につ
いて? あとは大公の⋮⋮﹂
﹁違います。私が言葉を止めた時です﹂
﹁⋮⋮あぁ。あの、リンツ伯の言葉が云々でしたっけ?﹂
必死に聞かなかったことにしようとしていた、リンツ伯爵家の内
部事情についてのことだ。どうやら当たりだったようで﹁そうです﹂
とフィーネさんは頷いた。
え、でもそれ俺が変人って言われたことと何か関係あるの?
﹁先ほど少佐は﹃相談に乗る﹄﹃大丈夫か﹄と何度も仰っていまし
た。それは嬉しいのですが、途端立場が逆になると私に相談してく
れないのは不公平というものです﹂
﹁⋮⋮そういうフィーネさんも話してくれなかったじゃないですか﹂
﹁むっ⋮⋮﹂
フィーネさんの口が一瞬への字に曲がったが、その後何かを思い
ついたのか右手人差し指を顔の脇に出した。
﹁ではこうしましょう。私はユゼフ少佐に相談します。ですので少
佐も洗いざらい話してください。無論、話しにくい部分や個人的な
部分は省いてもらって構いません﹂
﹁それなんか双方に利があるんですか?﹂
﹁ありますよ。相談と言うものは喋った時点で解決する事も多々あ
りますし、そうでなくともとりあえずは問題の内容を理解する手助
けくらいはできます﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
確かにそうかもしれない。それにフィーネさんは情報の専門家、
1800
俺が抱えている問題を洗い出してくれるかもしれない。
﹁わかりました。その提案に乗りましょう﹂
俺がそう言うと、満足したように彼女は微笑みつつ頷いてくれた。
そしてテーブルの上の資料を片付けしながら﹁まずは私から﹂と言
ってその相談とやらを切り出したのだ。
﹁私が三女であることは言いましたよね?﹂
﹁えぇ。フィーネさんと初めて会った時に言われたので良く覚えて
いますよ﹂
﹁⋮⋮たいへん記憶力が良いようで。まぁそれはともかく、私には
姉が2人、兄が1人、そして弟が1人います﹂
﹁リンツ伯って子沢山なんですね﹂
﹁そうですね。両親は恋愛結婚でしたし、張り切りすぎたのでしょ
う﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんですか少佐、その目は﹂
﹁あぁいえ、なんでもないです。続きをどうぞ﹂
しも
別にフィーネさんが遠回しに下の話をするのがちょっと意外だっ
たなとか思ってないよ。
﹁まぁそれはともかく、問題なのは姉⋮⋮長子長女のクラウディア
お姉様なのです﹂
﹁そのクラウディアさんがどうしたんですか?﹂
﹁はい。まぁ細かい話は少し言えませんがザックリ言うと⋮⋮﹂
﹁言うと?﹂
なんだろう、やっぱり貴族特有のドロドロとした話があるのだろ
1801
うか。
﹁私はクラウディアお姉様が苦手なのです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
なんか一気に低次元の話になったのは気のせいだろうか。
﹁どう思います?﹂
﹁いやどうもこうもないですよ。情報量少なすぎます﹂
﹁⋮⋮と言っても、これ以上私から言えませんので、続きはクラウ
ディアお姉様から直接聞いてください﹂
﹁え? 直接?﹂
﹁はい。公国の講和会議の席に、我がオストマルク外務省から人員
を派遣させるかもしれないと言いましたよね?﹂
﹁言いましたね⋮⋮ってまさか﹂
俺がそう言うと、フィーネさんは肩を少し落としてため息交じり
に言った。
﹁その通りです。クラウディアお姉様は20歳にして現在外務省の
高官⋮⋮大臣秘書官です﹂
﹁え、かなり上の人じゃないですか﹂
そんな上の人間が姉か。確かにそれは尊敬はするだろうし同時に
苦手意識も持つだろうな。⋮⋮長女がこれだと次女・長男もやっぱ
りバケモノなんだろうか。フィーネさんも情報面ではかなり頼りに
なる存在だし、リンツ伯の遺伝子ってばかなり強力なんじゃない?
もう精子バンク作って売っちゃえばいいのに。
あぁいや、クーデンホーフ候の遺伝子も娘を通じてリンツ伯爵家
の子供たちに受け継がれてるのか。今さらだけど凄いサラブレッド
1802
な家だな。
で、そのような能力があり、そしてフィーネさんの姉ということ
は美人であることは間違いない次期リンツ伯爵家当主と公国で会う
可能性があると。
うん、そうだな。
﹁会いたいような、会いたくないような。なんとなくフィーネさん
の気持ちが分かったような気がします﹂
﹁それはどうも、ありがとうございます﹂
そう言う彼女は苦笑した。フィーネさんも恐らく、公国で姉に久
しぶりに会いたいと思いつつ、苦手だから会いたくないとも思って
いるのかもしれない。
まぁでも会いたくないと思ってる人間ほどなぜか会うし、今回も
そうなんだろうなきっと⋮⋮。
1803
もうひとつの相談︵後書き︶
︻お知らせ︼
書籍版﹃大陸英雄戦記﹄の書影と発売日が公開されました。
第1巻は11月14日、アース・スターノベル様より発売されます。
書影については某密林で公開されてますが直接リンクを貼るのは規
約上問題があるため差し控えていただきます。ので、各々ググるか
作者ツイッター︵waru︳ichi︶を見てください。
とりあえずサラさん可愛いですエミリア殿下尊いですマヤさんカッ
コイイです。
1804
ユゼフの相談
﹁とういうわけで、今度はユゼフ少佐の番です﹂
﹁いや私の番と言われましてもね⋮⋮﹂
さてどこから説明したものだろうか。個人的なことは避けたいけ
ど、俺の抱えてる問題が個人的すぎて隠したら意味わからないし晒
したらサラに迷惑だし、
﹁少佐、人に言わせといて自分はナシというのはやめてくださいね﹂
けどフィーネさんはこう言ってるし。どうしよう。
あ、でも彼女はサラ関連で俺が悩んでることはわかってるのか。
あいつの様子がおかしいからって話振ってきたんだもんな。じゃあ
大丈夫⋮⋮なのか?
﹁何を悩んでいるのかは想像がつきますが、私は少佐の相談内容を
他人に言いふらすような真似は致しません。たとえそれがお父様で
あろうと神であろうと﹂
﹁⋮⋮神様にも言わないって神様に誓えます?﹂
﹁その帝国語は矛盾している気がしますが、誓えます﹂
⋮⋮ま、話さなきゃ何も解決しないか。悩み解決の最も早い道は
﹁とりあえず相談﹂と言う奴だし、個人的な相談もフィーネさんな
ら信用できる。適当なところを端折って、端的に言うか。
﹁えーっと、ですね。まぁフィーネさんもわかっていると思います
けど⋮⋮サラさん関連の話でして﹂
1805
﹁はい﹂
こんな真面目な表情をして相談に乗る気満々どころかすっごい興
味を持たれてる目をフィーネさんがしてるとどうも相談しにくいん
だけど。内容が内容だけに口にし辛いというか⋮⋮。
﹁でですね、その⋮⋮⋮⋮されまして﹂
﹁⋮⋮すみません、よく聞こえなかったんですが﹂
﹁告白、されたんですよ﹂
その瞬間、フィーネさんの動きが止まった。動いているのは彼女
が持っている紅茶のカップから漂う湯気だけで、まばたき1つもな
い。ようやく口が動いたと思ったら、数秒半開きになった後に声が
出てきた。
﹁⋮⋮⋮⋮ごめんなさいよく聞こえなかったのであと12回ほど言
ってください﹂
﹁恥ずかしいのでこれっきりでお願いします﹂
さすがにこれを12回も言うのは恥ずかしさを通り越して死にた
くなる。
フィーネさんは余程驚いているのか、カップをテーブルに置く動
作が酷かった。なんかカチャカチャ言ってるし零しそうだったし。
﹁⋮⋮少佐﹂
﹁は、はい﹂
﹁具体的に﹂
怖い。何が怖いって、目が怖い。獲物を見つけた鷹か獅子かとい
う感じで普段のフィーネさんから想像もつかない表情である。
1806
ていうか今日のフィーネさん感情豊かだよね! 驚いたり悩んだ
り怒ったり︵?︶笑ったりで。いつぞやの彼女とは別人のようだ。
ただ、それほど表情に差異があるわけではなので慣れないと感情が
読み取れない。
まぁそれはさておき。
具体的にと言われてもどう話せばいいか。あまり具体的に言うの
も抵抗あるしな⋮⋮。あらすじくらいでいいか。
﹁⋮⋮えーっと、されたのはカールスバート内戦が終わってフィー
ネさんがオストマルクに行った後ですね﹂
﹁そんなに前ですか﹂
﹁え、えぇ﹂
﹁具体的には、その、どのような感じで?﹂
﹁なんでそれをフィーネさんに言わなくちゃいけないんですか!﹂
﹁⋮⋮後学の為に﹂
彼女は目を逸らしながらそんなことを言う。後学て、どっかの貴
族の坊ちゃまに言うための準備なのだろうか。勉強熱心なのは良い
事だけどさすがにこれは黙っておく。恥ずかしいから。いやだって
﹁好きよ!﹂って真正面から堂々と言われ⋮⋮、
﹁少佐、なにそんなに顔を赤くしてるんですか﹂
﹁⋮⋮そんなに赤くなってます?﹂
﹁えぇ。林檎のように﹂
やばい。穴があったら入りたい。なかったら掘りたい。そのまま
俺を埋めて欲しい。
それはともかく、その後の顛末も話す。﹁親友として﹂と言われ
たがそれが本当かわからないことも。
1807
﹁で、どう思います? フィーネさん﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
フィーネさんが再び固まった。今度は先ほどより早く石化の呪い
は溶けたようだが、一体彼女の中では何が起きているのかちょっと
気になる。
﹁にしても、少し意外というかなんというか、ですね。また負けま
した﹂
﹁え、負け⋮⋮はい? なにがです?﹂
﹁いえ、こちらの話ですのでお気になさらず﹂
と、フィーネさんは紅茶を飲みながら誤魔化した。
その前にフィーネさんさっきから紅茶飲みすぎじゃない? 数え
てないけど大分飲んでる気がする。
﹁それで、少佐は返事をしたんですか?﹂
﹁いえ⋮⋮まだ何も﹂
﹁してないんですか?﹂
﹁はい﹂
俺がそう答えると、フィーネさんの顔は今度は凄く呆れたものと
なった。﹁ありえない﹂と言いたげな眼である。
﹁少佐、やはりあなたは変人です﹂
﹁いやなんで急にそ﹂
﹁黙って聞いてください﹂
﹁はいすいません聞きます﹂
1808
フィーネさんがいつぞや以来のお説教モードに。クロスノのオス
トマルク帝国軍駐屯地で暴れ回った後の時と同じ状況だ。内容全然
違うけど。
﹁少佐。私と結婚してください﹂
﹁何度も言いましたがそれは断ったはずです。あとなんですか急に﹂
﹁これです、やはり変じゃないですか少佐は﹂
そう言う彼女は躊躇なく俺を罵った。いやいやいや、このタイミ
ングでいきなりプロポーズされても意味わからないし断るの今回が
初めてじゃないよね?
﹁いいですか少佐、私が怒っているのは婚約を断られたからではあ
りません。大部分は﹂
﹁は、はぁ﹂
割と最後の部分が気になる。大部分じゃない部分は何で構成され
てるのか気になる。
﹁少佐、先程の私の求婚はすぐに返事を出しましたね﹂
﹁出しましたけど⋮⋮﹂
﹁ではなぜ、マリノフスカ少佐の告白に対してはすぐに返事を出さ
ないのです?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
それは⋮⋮なんでだろう。タイミングを逃したから、というのが
一番だけど⋮⋮。
﹁私が思うに、マリノフスカ少佐はユゼフ少佐の答えを待っている
んですよ﹂
1809
﹁そうなんですか?﹂
﹁まぁ、私も経験が少ないので確かなことは言えませんが、﹃思い﹄
を伝えることは大変なのです。そして﹃思い﹄を伝えることに成功
したら、すぐに返事が欲しくなるものなのですよ﹂
なるほど。確かに告白イベントなんてものは一世一代のものだろ
う。そしてすぐ結果を求めるのは自明の理か。にしても、フィーネ
さんってそういう方面にも詳しいんだな。さすが情報科首席と言っ
たところか⋮⋮いやもしかして、
﹁それ、フィーネさんの経験談ですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言だった。黙認と言ってもいいかもしれない。
まぁ彼女も士官学校時代はモテただろうしな、経験ないわけない
か。軍隊なんて男社会に貴族の令嬢で優秀で美人な女の子が居たら
そりゃ勇気出して告白したくもなる。
そんなおモテになっただろうフィーネさんが再び喋り出したのは
その数秒後。
﹁まぁ、私の話は良いんです。問題はマリノフスカ少佐とユゼフ少
佐のこと。マリノフスカ少佐は勇気を出してユゼフ少佐に告白しま
した。ですがあなたはまだ何も伝えていないのは不公平と言うもの
です。だから⋮⋮あとはわかりますね?﹂
﹁⋮⋮わかります、けど﹂
タク
ニエ
わかるけど、その先を進めと言われても立ちすくんでしまう。﹁
可﹂か﹁否﹂の単純な問題でもない。前にラデック相手に言ったこ
タク
とだが、俺の、サラに抱いている気持ちが、彼女が持っているもの
と同価値であるのか判断できないから﹁可﹂と言えない。だけど﹁
1810
ニエ
ヤー
否﹂と言ったら今までの関係が壊れてしまいそうで⋮⋮。
ヤー
ナイン
ナイン
﹁少佐、悩んでいるところ悪いのですが、この問題は﹃可﹄か﹃否﹄
の2択ではありませんよ﹂
﹁え、そうなんですか?﹂
﹁はい。少佐の考えることはわかります。﹃可﹄でもないけど﹃否﹄
と言えば友人関係でさえも崩れるのではないか。そう思ってるので
しょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁図星ですね。だったら簡単です﹂
﹁⋮⋮なんです?﹂
﹁﹃保留﹄、つまり﹃考えさせてください﹄と素直に言えばいいん
ですよ。そうすれば、たぶん彼女は納得するでしょうから。何度も
言いますが、全く何も返事をしないのはダメです﹂
﹁⋮⋮それで大丈夫ですかね?﹂
﹁さぁ? それはマリノフスカ少佐次第なのでなんとも。でも、も
し私がマリノフスカ少佐だったらそれでひとまず納得しますよ。そ
の後は2人の努力次第です﹂
﹁⋮⋮なるほど、ね﹂
ふむ。そう言われるとなんだか希望の光が見えてきた。タイミン
グを掴んで、言うだけ言ってみるかな。とりあえず今日にでも⋮⋮
と思って窓の外を見たらもう夕方だった。やばい。さすがに長話し
すぎたか。
﹁フィーネさん、ありがとうございました﹂
﹁いえいえ。私も相談に乗ってもらいましたし、お互い様です﹂
﹁でも、助かったのは事実ですから。今度、王都の美味しい喫茶店
を紹介しますので、奢りますよ﹂
﹁楽しみにしておきます、少佐﹂
1811
そう言って適当に挨拶を済ませて、大使館の応接室を出た。
とりあえず明日、エミリア殿下とサラにそれぞれ言うことがある。
公的な事、私的な事をね。
−−−
ユゼフが応接室から出た後、部屋に1人残されたフィーネは空に
なった紅茶のカップの縁をなぞっていた。そしてその行為にも飽き
たかのように、深い溜め息を吐く。
﹁⋮⋮はぁ。私は、何をしているんですかね﹂
彼女が言及しているのは、無論先ほどのユゼフの相談の事である。
本来であれば敵であるはずのサラ・マリノフスカを利するような答
えをしてしまったのは、彼女にとっては確かに失策だった。
だがそれ以上に、彼女は自分の事を冷静に分析できていた。
ユゼフの相談に対してやたら具体的な答えを出したフィーネだっ
たが、この答えの源泉は紛れもなくフィーネがユゼフに抱く﹁思い﹂
だったのだと、彼女は理解できていた。それだけに、彼女は再び大
きく溜め息を吐く。
﹁⋮⋮ユゼフ少佐のことを言える立場ではありませんね﹂
その呟きは当然誰に聞こえることもなく、応接室の空気の中に紛
れて消えた。
1812
彼女の﹁思い﹂がその対象に伝えられるのは、まだ先の事である。
1813
ユゼフの相談︵後書き︶
︻おまけ︼
10/29−10/30に実施したツイッターヒロイン投票の結果
総投票数246票
サラさんの得票率21%、フィーネさんのそれは79%でした。
投票ありがとうございました。
なお何度も言いますが投票結果が今後の展開を変えることは一切あ
りません。
1814
間話:ある婚約者の話 その1
ラスドワフ・ノヴァクの実家は﹁ノヴァク商会﹂と呼ばれる、シ
レジアではそれなりに有名な商会である。
シレジア王国内の、特に宝飾品の卸売・販売を担っているノヴァ
ク商会はの歴史は浅く、現会頭、つまりラデックの父親が1代にし
て商会の規模をここまで大きくした。会頭は独自のコネと知識と、
宝飾品の目利きの才能、そしてたゆまぬ努力で這い上がった実力者。
無論、平坦な道ではなかった。新興勢力の台頭を鬱陶しく思う既
存の商会やそれに賛同した貴族の妨害の数は両手の指の数では到底
足りず、それによって失った硬貨は彼の髪の毛の数より多い。
それでも彼は諦めず、地価が高い王都に居を構え、ついにはシレ
ジア王家との取引も勝ち得た。ついでにその間に美人の妻を迎え入
れ、2人の子を儲けることもできた。長子は父から経営学を学び、
次子は軍とのコネを作る目的で士官学校へ送った。
そんな調子の良いノヴァク商会に目を付けたのは、隣国オストマ
ルク帝国の勅許会社﹁グリルパルツァー商会﹂だった。
グリルパルツァー商会の社長がある日、ノヴァク商会会頭の元へ
訪れ、そして突然こんなことを言った。
﹁御社を買収したい﹂
と。
当然、会頭は驚いた。だがそこで怒ったりせず、冷静に理由を尋
ねた。するとグリルパルツァー商会社長は答える。
﹁現在、我がグリルパルツァー商会の貴金属・宝飾品部門は低迷し
1815
ています。そこで宝飾品卸売業で名を馳せている貴社に目をつけた
のです。また貴社を通じて、シレジア王国市場への参入を視野に入
れています﹂
社長はそう正直に、そして誠実に答えた。その返答を聞いた会頭
と言えば、その申し出をその場で即受け入れた。無論社長は驚き、
今度は社長が会頭に理由を尋ねた。すると会頭は臆面もなく、
﹁私はあなたのことが気に入った!﹂
とだけ答えた。会頭の剛毅な声と大胆な回答を聞いた社長は、暫
し言葉を失った。
当たり前だが、他に理由がなかったわけではない。当時会頭は、
事業の拡大を目論んでいた。具体的には宝飾品以外の商品の卸売・
販売・流通をしたい、シレジア王国だけではなく他国でも事業を展
開させたいと。
しかしそれらを実行するためには大きく2つのものが必要だった。
資金力とノウハウである。その2つは、当時のノヴァク商会には用
意できなかった。
だがそんな時に、オストマルク帝国屈指の大企業たるグリルパル
ツァー商会から上記の申し出があったのだ。受けぬ理由はなかった。
その後彼らは具体的な協議に入り、どのような形で合併するかが
決まった。形としてはノヴァク商会がグリルパルツァー商会の傘下
に入ることとなるのだが、その経営方針は今まで通り会頭にある程
度自由な裁量権が与えられることになった。
そしてこの協議の最終段階、今後の互いの信頼関係を築く上で互
いの子供同士を結婚させてはどうか、という提案が社長から持ちか
けられた。聞けば、彼には年頃の独身の娘がいるとのことだった。
1816
そして会頭にも、年頃の独身の息子がいた。
こうして半ば自然の流れとして彼らの子供の婚約が成立した。
そして2人が初めて出会ったのは、ラスキノ独立戦争終結後間も
なくの頃、大陸暦636年11月4日のことである。
その日、ノヴァク商会会頭の次男ラスドワフ・ノヴァクは父親か
ら呼ばれ、そしてこう言われた。
﹁ラデック、お前に婚約者ができたぞ﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
父親のその言葉に対して、ラデックは別段驚きはしなかった。今
や有名資本家となった父親の息子としての自覚が彼にはあり、いず
れそういう話が来るだろうと思っていた。だからこそ、彼は士官学
校で女性の士官候補生と関係を持つことは控えていた。
そして時は来た。こうなれば彼に選択権はない。たとえ相手が自
分の好みではないような顔・体格・性格であったとしても受け止め
なければならないだろうと。
しかしそれはまだ先の話だと思っていたことも確かで、その点で
言えば彼は確かに驚いていた。だが、こおのそれ以上の威力を持っ
た言葉を彼に放った。
﹁幸運なことに、今日その婚約者が来てる。だから会うぞ﹂
﹁⋮⋮はい!?﹂
﹁どうした、早く準備をしろ。面倒だからその士官学校の服で良い
として⋮⋮まぁ、相手は格式高い人だから礼節を弁え﹂
﹁いやいやいやちょっと待て!﹂
ラデックは人生で初めて父親を本気で止めた。彼の父親は決して
1817
冷静に事を運ぶ人物ではないが、ここまで雑な段取りをする人物で
もないはずであるから。
﹁どういうことだ。婚約者がいるのは、まだいい。けどなんで今い
るんだ。しかもその口調だと今この家に居るってことだろ!?﹂
﹁お、正解だ。士官学校でしっかりと学んできたようだな﹂
﹁士官学校はそういうのを学ぶところじゃねーよ! じゃなくて、
なんでいるんだよ﹂
﹁ふむ。まぁ話せば長くなるが、ちょうど先方の父親が仕事で王都
に来ていてな、まぁついでにということだ﹂
﹁長くなるとか言って1行で終わってるじゃねーか⋮⋮﹂
﹁まぁそう言うな。そんなことより女性をあまり待たせるものでは
ないぞラデック。さっさと行くぞ﹂
﹁ちょっと待てまだ聞きたいことが﹂
﹁いいから来い﹂
ラデックの些細な抵抗を余所に、父親は強引にラデックの腕を引
っ張って応接室まで連行した。その部屋の前まで来たときは流石に
ラデックも暴れるのはやめたが、それでも不安な気持ちは晴れない。
相手は一体誰なのか、どんな人物なのか。せめて顔だけは合格点
でありますように。そう祈りながら扉を開けた。
そこに居たのは、相手の父親であると思われる40−50代の男。
そしてその隣に座るのが自分の婚約者だ、と
すぐに理解できた。しかし死角になっていたため、扉を開けた直後
はその顔は見えなかった。
﹁グリルパルツァー殿、これが例の息子のラスドワフだ﹂
﹁⋮⋮はじめまして。ラスドワフ・ノヴァクです﹂
1818
そう言って、彼は頭を深く下げる。グリルパルツァーという言葉
を聞いたことがあるからだ。オストマルク帝国の大企業グリルパル
ツァー商会、その社長で、そして自分の記憶が正しければ男爵位を
持っていた人物であるはずだとラデックは思ったからである。
﹁おぉ⋮⋮似ていますな。っと、こちらも紹介せねばならんな。リ
ゼル﹂
﹁はい、お父様﹂
凛と、そして澄んだ声が聞こえた。声だけで判断すれば、間違い
なく美女である。思わずラデックは顔を上げた。
声に似合った容姿を持つ女性、プラチナブロンドの髪と翠色の瞳
を持つ美女がそこに居た。彼女は貴族令嬢らしく、ドレスの端を持
って挨拶をした。
﹁リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァーです。以後、
お見知りおきを﹂
そのリゼルと名乗った女性の美しい仕草に、ラデックは一目惚れ
してしまったのである。
挨拶を終えたリゼルは、その時初めてラデックと顔を合わせた。
そして、ラデックとほとんど同じ状況に陥った。
目の前に立つ婚約者に見惚れ、そして一目惚れしたのである。
彼女は、今回の縁談はあまり気乗りしていなかった。小国の、グ
リルパルツァー商会と比べて小さな商会の会頭の次男。どうせ微妙
な男に決まっていると高をくくっていた。
だが、違った。目の前に立つ男は自分の好みど真ん中だったので
ある。
1819
﹁⋮⋮これから、よ、よろしくお願いします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は、はい!﹂
2人はややぎこちなく挨拶すると﹁後は若い人だけで﹂と彼らの
父親はそう言い残して部屋を出た。そしてその日のうちに、彼らは
ファーストキスまで経験することになるのだがそれはともかく、こ
うして両者納得の元、婚約が成立したのだった。
−−−
そして、大陸暦638年3月20日。
﹁⋮⋮はぁ﹂
シレジア王国王都の郊外、ノヴァク商会現会頭が住まう家を前に
して、会頭の次子であるラスドワフ・ノヴァクは本日13回目の溜
め息を吐いていた。
溜め息の理由は明白だった。彼は先日、父親になった⋮⋮いや正
確に言えば、父親になってしまったのである。
彼自身、それは不幸なことだとは思っていない。子供が生まれる
と言うこと自体は吉事であったにちがいないのだから。問題は、リ
ゼルの婚約者として、夫としての自覚と覚悟が生まれる前に父親に
なってしまったことである。
色々な段取りをすっ飛ばして父親になったラデックは、しばしば
1820
子作りの神︱︱が実際居るかはともかく︱︱を呪った。今回の場合
は事に及んでしまった彼にも責任がないわけではないのだが。
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ﹂
本日14回目の溜め息。今にでもしゃがみこんで鬱屈しそうにな
るラデックを支えたのは、彼の隣に立ち、彼の妻として、そして数
か月後には母親となる予定の人物だった。
﹁ラデックさん。気持ちはわかりますが、行きましょう﹂
リゼルは努めて優しく声を掛けた。ラデックはこの時普段あまり
しない表情をしていたため、余計リゼルを不安がらせていた。
﹁わかってる⋮⋮わかってる、大丈夫だ。うん﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁たぶん、な。でもいつまでも立ち止まってちゃダメだ。とりあえ
ず突撃する﹂
﹁⋮⋮はい、お供します﹂
こうして2人は、久々にノヴァク家の本邸へと突入した。まずは
呼び鈴を鳴らし屋敷の扉を開け、そこに居るであろう出迎えの人間
に対してどう言葉をかけるか、敷地を跨ぐときは右足からか左足か
らか、それもラデックはシミュレートした。
しかしそれは徒労に終わる。屋敷の玄関で待っていたのは、執事
でも近侍でもなく、ラデックの父親だったことからである。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1821
あまりにも意外だったため、2人は言葉が出てこなかった。﹁た
だいま﹂という帝国語を忘れるくらいには、記憶を失っていた。
1822
間話:ある婚約者の話 その2
﹁で、結局親父さんはなんて言ったんだ?﹂
﹁⋮⋮結婚については承知してくれたさ。軍務省についても大丈夫
ゴールイン
だろうけど、親父も手をまわしておくから安心しろってな﹂
﹁そらよかった。晴れて結婚となるわけだな﹂
翌3月21日の夕刻。前日に大きな仕事を終えたばかりのユゼフ
とラデックは、王都の大衆居酒屋で各々の仕事の成果を報告し合っ
ていた。多少のアルコールも交えて。
ユゼフがグラスを掲げると、ラデックもそれに応じて自身のグラ
スをユゼフのそれに軽くぶつける。ガラス特有の音が反響したが、
居酒屋の騒がしさの前にそれは儚く消えた。
﹁よく許可が下りたな。普通結婚してから子作りなのに、今回は子
供作ってから結婚なんだろ? リゼルさんは貴族の令嬢だし、そこ
ら辺の面子というかいざこざはなかったわけ?﹂
﹁ない、と言えば嘘になるな。お袋には小言を言われた⋮⋮でも、
元々結婚することは決まってたし、それに子供ができちゃったから
こそ、俺も親父もお袋も結婚に踏み切れたということでもあるのさ﹂
﹁なるほどねぇ⋮⋮﹂
リキュール
そう言いながら、ユゼフはグラスに酒を補充する。彼の机の上に
は果実酒と炭酸水とオレンジジュースが並べられており、それを彼
なりの配合で混ぜて飲むと言うやや変わった飲み方をしていた。
﹁まぁ、一番の決め手は﹃孫ができる﹄ってことだと思う﹂
﹁あー⋮⋮わかる気がする。孫って存在はそれだけで両親を落ち着
1823
かせることができるよな﹂
﹁そういうことだ﹂
ビール
そう言って、ラデックは父親の態度と言葉を思い出し、そして少
しおかしくなりながら麦酒を呷った。
ラデックが家に戻った時、玄関で父親が直接出迎えた。全ての事
情を知っているのかと覚悟しつつ、ラデックは事の次第を全て喋っ
たのだが、父親はその時かなり狼狽えたのだ。
父親は、自分が帰ってくることは知っていたが自分の孫が出来た
ことは知らなかったらしい。そして孫がいることを二度三度確認し
た後、大いに喜び、そしてそれを母親が諌めた。そんな見た事もな
い夫婦劇を目の前に見せられては、笑ってしまうのは無理からぬこ
とだった。
無論笑ってしまったことも含めて、母親に叱られたのだが。
﹁にしても、ラデックもリゼルさんも一目惚れとはね。運命の出会
いってやつか?﹂
ユゼフは前後の脈絡を無視して話題を変える。
彼の顔は既に赤く、酔っていることラデックには十分に分かった。
酒が苦手だと言っていたユゼフのために、そろそろ止めるべきかも
しれないと一瞬思った。しかしユゼフを潰してやろうという邪悪な
思いがそれを阻んでしまい、ラデックは友人の深酒を止めることは
できなかった。
﹁そんなところだ。あまり詳しくは言えないけどな﹂
﹁なんで?﹂
﹁恥ずかしいからに決まってんだろ﹂
ラデックはそう言って頭を掻きつつ、頬を僅かに赤く染めていた。
1824
それが酒によるものなのか、あるいはそれ以外なのかは容易に見当
がついた。
﹁んで、そんな運命の出会いを果たした夫婦の子供は、男女どっち
だと思う?﹂
﹁お前って奴は⋮⋮まぁいいか。⋮⋮どっちでもいいけど、どっち
がいいかと言われれば女の子だな﹂
﹁あ、やっぱり?﹂
﹁やっぱりってなんだ?﹂
﹁古今東西、どんな世界でも父親はまず娘が欲しいって思う。んで、
2人くらい娘を儲けたら﹃そろそろ男の子も欲しい﹄とか言い出す
んだよ﹂
﹁⋮⋮そういうもんか﹂
﹁そういうもんだよ。一姫二太郎って言うだろ。父親はまず娘が欲
しいって意味だ﹂
﹁いや、ちょっと違う気がするぞ?﹂
﹁そうだっけか?﹂
﹁あぁ。ありゃ確か、長女は母親の手伝いをしたがるから子育てし
プロ
やすいって意味だった気がするぜ﹂
﹁さすが子作りの専門家だな、よく知ってるね﹂
﹁その言い方誤解招くからやめろ﹂
それでは誰彼構わず子作りをしているみたいではないか、と彼は
怒りたかったが、さすがにそんな恥ずかしい事を居酒屋で声を大に
して言う気にはなれなかった。
﹁それにユゼフ、お前は俺にどうこう言う前に既に娘いるだろ?﹂
﹁は? 俺はまだ独身、娘なんていない﹂
﹁いるだろ、ユリアちゃんが﹂
﹁⋮⋮いや、あれはサラの子供。子供っていうか、養子か被保護者
1825
だな﹂
﹁マリノフスカ嬢は、お前の子でもあるとか言ってたけどな﹂
﹁まさか、血の繋がりも法律上の繋がりもない。ましてや育ててい
るのは主にサラ、俺が親になるはずないさ﹂
﹁それもそうか﹂
﹁そそ。でも、ユリアのためにはやっぱり片親っていうのは辛いだ
ろう。サラも軍務で忙しいし、幼いユリアを官舎に残すのは不安だ。
さっさと結婚すりゃいいのに﹂
やや憮然としつつ、ユゼフはそんなことを言った。ラデックから
見れば、それは少し異様な光景だった。
﹁じゃ、お前が貰ってやれよ﹂
﹁⋮⋮いや、そのつもりはない。前にも言ったけどさ。それにサラ
は婚約者いるとか言ってたしね﹂
﹁え? マリノフスカ嬢もいるのか?﹂
﹁あ? 聞いてないの? ⋮⋮んじゃ今の聞かなかったことにしろ、
サラに殴られる﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮﹂
ラデックは、それ以上そのことについては追及はしなかった。気
にならなかったわけではなく、ユゼフのその言葉と態度がどういう
意味を持っているのか推測していたからである。
友人の子供について真剣に考えて、そして少し不機嫌な態度を取
ってから﹁婚約者と結婚すればいい﹂と言うユゼフ。それを見たラ
デックは結論を見出して、そして自ら出したその結論におかしくな
って笑ってしまった。
﹁ん、どうしたんだ急にニヤニヤして。きもいぞラデック﹂
﹁なんでもねーよ。ただ、お前が変人だってことがわかって、ちょ
1826
っと笑ってただけだ﹂
﹁意味わからん⋮⋮﹂
それから数時間後。ユゼフは完全に酔い潰れ、そしてテーブルに
突っ伏し眠っている。いびきこそかいてはいないが、どう見ても熟
ウォッカ
睡である。そんな友人の寝顔を見ながら、ラデックはちびちびと残
りの蒸留酒を飲み続け、そして考え続けていた。
この友人の未来というものがどのようになるのか、期待とアルコ
ールとを交えて想像を膨らませていた。
だがその想像を彼が口に出すことはなく、代わりに出した言葉は
こんなことである。
﹁⋮⋮ま、見てる分には面白いから良いか﹂
1827
間話:ある婚約者の話 その3
おやこ
フィロゾフパレツ
3月22日。この日、王都シロンスクの中心に建つ王宮﹁賢人宮﹂
で、感動の父娘の再会があった。
﹁エミリアああああああああ!!﹂
﹁な、なんですかお父様急に! あ、あの、ちょっと痛いです!﹂
シレジア王国国王フランツ・シレジアは、実の娘であり唯一の子
供である第一王女エミリアを見つけるなり何も考えずに抱き着いた。
そのあまりにも急な出来事にエミリアは珍しく狼狽したが、フラン
ツはそれを気にすることなく叫び続ける。
﹁心配したのだぞ! 春戦争のときは最前線に行き、次の任地は安
全なクラクフだと思ったら今度は隣国の内戦に介入してまた前線に
立った! しかもそれに関して私に何も相談せずに行くとはどうい
うことなんだエミリア!﹂
﹁あの⋮⋮その、説明する前にそろそろ離してくれると嬉しいので
すが⋮⋮﹂
エミリアの酷く困ったような顔と声を聞いたフランツは平静を取
り戻すことに成功し、彼は何度か咳き込みつつ国王としての威厳と
品格をもってエミリアに再び問うた。
﹁エミリア。お前が士官学校に行く条件として﹃卒業後の軍務をし
っかりこなすこと﹄を課したのは、確かに他ならぬ私だ。だがねエ
ミリア。お前は軍士官である前に王族なのだ。身の安全のことを、
少しは考えて欲しい﹂
1828
﹁⋮⋮確かに、そのことは承知しています。ですがお父様、やはり
私は王族として最前線に立つことを望んだのです。安全な後方に下
がって、民や兵だけに危険を背負わせるわけにはいかないと﹂
そのエミリアの声色は、6年前フランツに自分の意を伝えた時と
変わらず、いや6年前より強固なものとなっていた。彼女の信念は
今なお確固たるものであり、そしてそれは今後も揺らぐことはない
ものだとフランツは理解できた。そんな娘を前にして、その信念を
曲げられる程の力を持った言葉を準備できるほどにフランツは弁舌
の才はなく、ただ短く﹁そうか﹂と言ったのみでそれ以上の追及は
しなかった。
﹁それで、軍の仕事にはもう慣れたのかい?﹂
﹁えぇ。お陰様で事務仕事も実戦もだいぶ慣れました。友人たちに
も恵まれて⋮⋮あ、そうだ﹂
エミリアは﹁友人﹂という単語を口にした時、王都に寄ったつい
での理由を思い出した。
﹁お父様、お願いがあります﹂
﹁ん? どうした?﹂
娘からお願いをされる、というのはフランツにとっては6年ぶり
のことであった。久しぶりに聞く娘の声と相まって、彼は娘の言う
ことをなんでも聞くつもりであった。
だが彼女のお願いは1つではなく、複数あった。
1つは、春戦争における帝国との講和会議への出席要請。王国宰
相カロル・シレジア大公が会議に出席すれば、会議の主導権を握ら
れてしまう可能性がある。それを封じるためには国王たるフランツ
の会議出席が必要であることを伝えた。
1829
これに関してはフランツは快諾した。彼自身、講和会議への出席
について元々意欲的であったのでこれは娘からお願いされるまでも
ない話だったからである。
問題は2つ目の﹁お願い﹂だった。これは親バカのフランツでさ
え︱︱いや、親バカのフランツだったからこそ︱︱考え込まざるを
得ない案件だった。
カヴァレル
﹁私の友人、ユゼフ・ワレサに﹃騎士﹄の爵位を与えて欲しいので
す﹂
フランツはその名の人物を知っている。
ラスキノ戦争の後、エミリアの手によって﹁賢人宮﹂に上がった
男。娘が最も信頼している人物の1人でもあり、フランツ自身も彼
の手腕を期待して人事に介入したことはある。その人事は成功し功
を上げたのも確かだし、それを報いるためにも確かに叙爵というの
は有り得る話だった。
のだが、フランツはこの時叙爵を躊躇った。理由は明確で、﹁ユ
ゼフ・ワレサ﹂の名を口にした時の娘の様子が気になったからであ
る。エミリアもその時の父の動きを不審に思ったのか﹁どうしんで
すか?﹂と問い質すと、フランツは悩みつつも娘の質問に答えた。
﹁⋮⋮エミリア。エミリアにとって、ワレサという少年はどういう
人間かね?﹂
﹁大切な友人⋮⋮いえ、親友です﹂
﹁それだけかね?﹂
﹁それだけです﹂
エミリアはきっぱりと答えた。他に何もあるはずがないではない
1830
か、と殊更主張するような口調で。それだけで、フランツは察する
ことができた。そして娘が、自身に課した義務と、自身の持つ感情
の間に挟まれていることも理解できた。フランツとしては、娘がそ
のどちらを優先させるのかを確かめなければならない。
﹁実はなエミリア。お前に縁談の話がある﹂
−−−
3月24日。クラクフスキ公爵領総督府総督執務室にて、ある2
人の兄妹が雑談に興じていた。
﹁それで、マヤはいつ結婚するんだい?﹂
メイド
マヤの実兄、つまりクラクフスキ公爵領総督のヴィトルト・クラ
クフスキは、近侍が運んできた間食と珈琲を口にしながら唐突にそ
んなことを言った。当然、マヤは不思議に思い首を傾げながら逆に
質問した。
﹁藪から棒にどうしたんだい兄さん﹂
﹁いやね、ふと思い出したのさ。マヤ、お前今年で何歳になる?﹂
﹁淑女に年齢を聞くものではないよ﹂
﹁⋮⋮淑⋮⋮女?﹂
﹁そこに疑問を持たないでくれるかな﹂
マヤはそう言って溜め息を吐きつつ、短く嘘偽りなく﹁24だ﹂
1831
と答えた。ヴィトルトもそれを聞いて思い出したかのように何度も
頷き、そしてこう言う。
﹁出産適齢期は20代。で、お前は今24。ちょうどいいと思わな
いか?﹂
﹁40手前でも子は産める。オストマルク帝国現皇帝の弟の誰かは
母親が39の時に産まれたそうだよ。さすがに40手前はないが、
30そこそこで結婚でも血統の維持はできると思うよ﹂
﹁それは確かにそうだが⋮⋮﹂
反論しようとするヴィトルトに対し、マヤは書類の束を執務机に
おいて執務の再開を促すと共に﹁それに﹂と付け加え、
﹁主君たるエミリア殿下は具体的な婚約の話すらない。それなのに
臣下たる私が結婚云々することはできないよ﹂
と言って兄の口を封じようとした。だがその言葉は兄も予想済み
だったのか、手早く間食を片付けた彼は書類に手を付けつつ反論を
試みた。
﹁それについてなんだがなマヤ。まだ内々の話だが、エミリア殿下
には縁談の話が来ているらしい﹂
マヤは思わず目を見開き、それなりに大きな声で﹁本当か﹂と叫
んでしまった。
﹁落ち着け。まだ内々の話と言ったろう。これは宮内省にいる俺の
貴族学校の同期から聞いた話だ。エミリア殿下にはオストマルクや
シャウエンブルクの王侯貴族や、無論国内の貴族から縁談の話が持
ち込まれていると言う話なのさ。まだ宮内省がその貴族の血統やら
1832
国王陛下の裁可を問う段階であるから、殿下の下にその話が持ち込
まれるのはだいぶ先さ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ヴィトルトは、マヤを落ち着かせるつもりでそう言ったつもりで
あったのだが、彼女の混乱は余計に拍車がかかっていたようである。
マヤは微動だにせず、まばたきひとつもせず、ただ兄の言葉を脳内
で何度も反芻していた。
﹁マヤ?﹂
﹁⋮⋮あ、あぁ。いや、なんでもないよ。兄さん﹂
﹁そうか? まぁいいさ。そういう話があるということだし、もう
主君がどうのこうのを気にせずそろそろ結婚について真剣に考えて
くれ。父も俺も、たぶん弟も、お前の気持ちを尊重するつもりだか
ら、もし気になる男が居れば言ってくれ﹂
﹁⋮⋮い、いや、今はいない﹂
マヤのこの言葉に、嘘偽りはなかった。だがエミリアの話が衝撃
的すぎて上手く言葉が出てこなかった。そのしどろもどろの口調を
聞いたヴィトルトは、やや見当違いな解釈をしてしまった。
﹁ふぅん? てっきり、あの若い軍事参事官の子が良いのかと思っ
ていたが、違うのか﹂
あまりにもバカらしいその言葉に、マヤは落ち着くことができた。
﹁まさか。彼は良い友人であるが、それ以外の何物でもないよ。そ
の前に兄さん、妹の結婚を考える前にまず自分の事を考えた方が良
いんじゃないか? 兄さんは昔から女心がわからない人だったから、
そういう人間いないだろう?﹂
1833
﹁⋮⋮まぁな。まぁ男の場合は40超えても大丈夫だから問題ない
さ﹂
﹁そんなこと言ってると60になっても独身のままだぞ。なんなら
私が見繕ってやろうか?﹂
﹁いらねーって﹂
そんな会話をしながら、次第にこの2人は本来の仕事を再開して
いった。経済成長の続く公爵領は、兄妹がゆっくり話す時間も、ま
してや結婚する暇も与えなかった。
クラクフスキ公爵領軍事参事官ユゼフ・ワレサから﹁春戦争講和
条約の捕虜交換に関する特記事項﹂なる文書が届いたのは、その日
の夕方のことであった。
1834
間話:ある婚約者の話 その3︵後書き︶
アース・スターノベル公式サイトで書籍版﹁大陸英雄戦記
1﹂の
試し読みが公開されました。イラストや地図も乗っているので是非
見てみてください。
↓http://www.es−novel.jp/newboo
ks/#tairikueiyu01
1835
旅支度
シャウエンブルク公国からの正式な﹁公国を仲介役とした講和会
議開催の提案﹂が来たのと、クラクフスキ公爵領にいるマヤさんか
ら捕虜の選定が終了したと報告が来たのは、大陸暦638年3月2
8日のことだった。
東大陸帝国との戦争を正式に終わらせ、かつ講和条約を結ぶこと
を目的としたこの重大な会議。開催場所はシャウエンブルク公国の
首都エーレスンドにある城で行われる。
シレジア王国側の主な出席者は国王フランツ・シレジアを筆頭に、
第一王女エミリア・シレジア、外務尚書ヴァルデマル・グラバルチ
ク子爵他、各尚書政務官・秘書官、総合作戦本部次長、在公国特命
全権大使などなど錚々たるメンバーが公国へ向かうことになってい
る。
もう一方の主賓たる東大陸帝国の出席者はフィーネさん、もとい
オストマルク帝国情報大臣リンツ伯からの情報によると国務大臣、
軍事大臣とその各大臣政務官・秘書官、皇帝官房長官、在公国弁務
官、そして⋮⋮、
﹁帝国宰相セルゲイ・ロマノフが、病床にある皇帝イヴァンⅦ世の
代理と出席する模様です﹂
﹁⋮⋮やはり来ますか﹂
﹁えぇ。東大陸帝国の次期皇帝を拝むいい機会となりますでしょう﹂
何度目かのオストマルク大使館での情報交換の席、フィーネさん
は東大陸帝国の出席者名簿を見せてくれた。当たり前だが、全員が
1836
皇太大甥派だ。いよいよセルゲイと会うことができる⋮⋮のはまぁ
格式の上から殿下だろうが、でも遠目から見ることはできるかも。
こう言うと誤解を招くかもしれないが、ちょっと楽しみだ。
けど悪名高いレディゲル侯爵も来るのはアレだな⋮⋮。
﹁それで、オストマルクや他の国からも出席者は来るのですか?﹂
﹁来ますよ。開催国であるシャウエンブルク公国は除外するとして
⋮⋮現状判明しているのは、リヴォニア貴族連合とカールスバート
復古王国、そして我が国です﹂
﹁どのような地位職責の方なんです?﹂
﹁少し待ってください⋮⋮っと、ありました。リヴォニアは外務省
の高級官僚と在公国の特命全権大使が出席、カールスバートは外務
大臣政務官と国王官房、それとやはり在公国特命全権大使ですね。
我が国からは、第二皇子グレゴール殿下、外務尚書クーデンホーフ
侯爵とその秘書官、そして情報省審議官が派遣されます﹂
と、フィーネさんはそこまでの情報を噛まずに言い切った。地味
に凄い。にしても、
﹁結構な人が来るのですね。リヴォニアやカールスバートの派遣人
員が少ないのはまぁ予想の範囲内でしたけど、オストマルク帝国は
第二皇子のグレゴール殿下まで来るのですか? いくら当事国とは
いえ、皇族が来るような案件ではないと思うのですが⋮⋮﹂
俺がそう疑問を呈すと、フィーネさんは肩を竦めながらこう言っ
た。
﹁別に、帝位継承で揉めるのはシレジアや東大陸帝国の専売特許で
はないですので﹂
﹁あー⋮⋮﹂
1837
つまりは外交の場に色々出て他国の支持を取り付けようとしてる
ってことね。どこの国もそう言う問題を抱えてるわけか、大変だな
ぁ⋮⋮。
−−−
シャウエンブルク公国へは主に海路で行くことになる。陸路が使
えないわけじゃないが仮想敵国であるリヴォニア貴族連合領を通ら
なければならないし遠回りになるのでかえって時間がかかる。とい
うわけで、シレジア王国唯一の海軍基地があるグダニスクから海軍
の船を使うことになった。
⋮⋮って、シレジアって海軍持ってたんだ。
フリゲート
﹁あるにはあるんだが、内海用の小型巡防艦を数隻持っているだけ
だ。それに正式には海軍ではなく、シレジア王国軍の船舶司令部だ
よ﹂
と、マヤさんが教えてくれた。あ、ちなみに彼女も今回の講和会
議にはエミリア殿下の護衛を兼ねて付き添うことになり、クラクフ
から来てもらった。代わりと言ってはなんだが結婚を認められたラ
デックと特権商人になったリゼルさんがクラクフに戻った。そのリ
ゼルさんは、
﹁早速結婚式を挙げたい⋮⋮のですが、やはりユゼフさんやエミリ
1838
ア殿下に出席してほしいと思うので皆さんが帰ってきてからにしま
す﹂
とのことである。会議が長引くとお腹の子が大きくなって結婚式
どころではなくなるし、もしかしたら式は出産後になるかも、とも
言っていた。
まぁラデックもげろ事案はさておいて、船の話に戻ろう。
﹁でも士官学校には船舶関係の兵科はありませんでしたよね?﹂
﹁当たり前だ。海のない士官学校に船舶部門を置いてどうする﹂
﹁ごもっともです﹂
﹁船舶部門の士官を育成するのは、グダニスクにある王国軍船舶司
令部隷下の海兵学校だよ。そこを卒業すれば、海兵准尉になれる﹂
なるほど、タメになる。
まぁ俺は海軍戦術はからっきしダメだし、第一シレジアは地理的
に海軍は重要視されないから、こう言う機会でもなければ縁がない
まま退役したと思う。たぶん。
その王国軍船舶司令部と外務省、そして宮内省の折衝により、会
議出席者一行の出立は4月4日と定められた。王都からグダニスク
までが2日、グダニスクから公国首都エーレスンドまでが4日、つ
まり4月10日に会議場に着く。
東大陸帝国は公国までに距離が離れているため、到着には時間差
がある。ということは、その間に公国首都を観光⋮⋮もとい情報収
集の時間が与えられると言うことだ。
今回は、護衛役としてサラとマヤさん、情報提供・分析役として
俺とフィーネさんがエミリア殿下に同行する。あと当然親衛隊の人
1839
もついてくる。
まぁ、なんにしても久々の外交という名の戦場である。元外交官
として気合入れないとな。
1840
船旅
青い空、白い雲。眼下に広がるは青く輝くバルト海。
リゲート
フ
現在エミリア殿下一行は、シレジア王国軍が保有する28門級小
型巡防艦2番艦﹁ゲネラウ・エウスタヒ・ハウケ﹂に乗艦しバルト
海を疾走している。と言ってもこのゲネラウ以下略は帆船なので、
蒸気スクリュー船のようにスピードは出ないのだが。
バルト海は周りを陸で囲まれている地中海である関係上、風向き
ガレー
が複雑に変わる。そのため帆を動かす水兵はとても忙しい。あまり
にも忙しいので﹁いっそ帆船やめて櫂船に戻した方がなんじゃない
か﹂とか言われているらしい。
ガレー
⋮⋮まぁ、櫂船の方がコスパ悪いんだけどね。
それはさておき。そんなことは今は重要じゃないのだ。今現在、
最も火急的に速やかに解決すべく問題を俺は抱えている。この問題
を解決しなければ、もしかすると俺は死ぬかもしれない。というか
死ぬ、死にそう。いやもっと正確に言えば、
﹁吐きそう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ユゼフってこんなにか弱かったっけ?﹂
現在大陸暦638年4月8日の正午。我、グダニスク沖バルト海
海上にて船酔い。
上述のように、バルト海は陸に囲まれている。だから風向きはよ
く変わっても波はそんなに荒くならない。まるで湖の上にいるよう
1841
な錯覚を覚えることもある。実際、航海初日は﹁本当に船に乗って
るのか﹂と思ったくらいには波は穏やかのだった⋮⋮のだが、この
日は大荒れである。たぶん低気圧がいるのだろう。新鮮な空気を吸
おうと甲板上に出たら風が強くて飛ばされそうになったし。
﹁あー、無理吐きそう﹂
﹁吐いちゃえば? 魚にはいい餌になると思うけど?﹂
﹁いや、なんか吐いたら負けな気がする﹂
﹁吐き気を催してる時点で完敗だと思うんだけど﹂
今俺は、船の艦尾にある士官用の船室で吐き気と戦っている。そ
してそんな状態の俺を心配したらしいサラさんが船室にやってきて、
先ほどから俺の背中をさすりながら時々デコピンをくれる。けどデ
コピンが来るたびに吐き気がなぜか若干和らぐので﹁もっとデコピ
ンしてくれ﹂と言ったらドン引きされてデコピンが来なくなった。
﹁こんなんだったら俺だけでも陸路で行けばよかった﹂
﹁陸路って言っても、エーレスンドは島だからどうせ船は乗らなき
ゃいけないのよ?﹂
﹁そうだった⋮⋮。にしても、サラとか殿下は大丈夫なの?﹂
﹁大丈夫に決まってるじゃないの。どっかの誰かと違って軟な体し
てないから﹂
﹁そうなのか⋮⋮﹂
エミリア殿下は見た目儚そうな感じだから、もしかしたら船に弱
いかもと思ったのだが。そこはやはり剣兵科三席ってことなのかな。
﹁艦長が言ってたけど、船酔いは暫くすれば慣れて自然に治るって。
だからそれまでは我慢しなさい﹂
﹁あい⋮⋮﹂
1842
にしてもつらい。馬車だの馬だのじゃ全然酔わなかったのに船に
は酔うのは可笑しいじゃないか。馬車の方が全然揺れるのに。
﹁⋮⋮はぁ、とりあず寝てなんとかする。起きたら波が穏やかにな
ることを信じて﹂
﹁ん、ゆっくり寝なさいな。あんたが寝てる間に吐かないように、
ここで見守ってるから﹂
﹁いやそこまでしなくても⋮⋮﹂
﹁もしユゼフが寝てる間に吐いたら寝具が勿体ないわ﹂
あぁ、そういう⋮⋮。
確かに俺なんかより寝具の方がこの際貴重だよね。海の上ではな
んだって貴重だ。水は無制限に出せるけど。
﹁まぁいいや。とにかく寝るから﹂
そう言って頑張って寝る努力はしてみたものの、やはり吐き気が
するのと近くに年頃の女子がいる状況だとなかなか寝付けないな⋮
⋮。
−−−
ユゼフが寝た。眉間に皺を寄せながら、という言葉が文頭に来る
けど、ユゼフはこの荒波の中寝ることができたようだ。
1843
にしても、本当につらそうだ。さっきから寝苦しそうに唸ってい
る。私やエミリアはこの程度の波はなんてことないし、マヤも﹁船
は初めてじゃない﹂と言ってたからたぶん大丈夫。大丈夫じゃない
のは、この険しい表情をしたユゼフだけ。
こうやって改めてみると、年相応の顔だ。普段のユゼフはエミリ
ア以上に思慮深い。考えてる時の彼の顔は結構⋮⋮まぁ、その、好
きだけど、でも無防備な時の彼の顔は普段のそれとの差があって、
不思議な感覚を覚える。
⋮⋮てか、ユゼフって案外可愛い顔してるわよね。女装させてみ
たら面白そう。似合うかはどうかは別としてだけど。
ちょっと試しに頬を突いてみると、ユゼフは右手でそれを払い除
けようとした。起こしたかも、と思ったけど無意識だったようで、
すぐに右腕は倒れた。その反応が少し面白くて、何度も突いてみる。
するとやっぱり、同じような反応が返ってきた。クセになりそうだ。
⋮⋮私、こいつより年上なのよね。
私は今年で19歳で、そろそろ結婚を考える年齢。でも婚約者は
いない。いや正確に言えば父親が連れてきた奴がいるけど、あれは
ダメ。顔は好みじゃないし、性格も悪いし、たぶん能力もない。あ
るのは家柄だけのクズみたいな男だ。そんな奴と結婚するくらいな
ら、一生独身の方がマシだ。
でも、できればユゼフと⋮⋮。
って、いやいやいやいや。何考えてるの私。第一、ユゼフが私を
好いてくれてるかどうかもわからない。それにユゼフは私みたいな
バカな女の子じゃなくて、もっと知識がある⋮⋮そう、フィーネと
かいうあのオストマルクの伯爵令嬢が良いに決まってる。あるいは、
1844
エミリアとか。エミリアは王族ってことで遠慮してるみたいだけど、
でも私的にはありだと思う。
⋮⋮はぁ。何考えてるんだろ、本当。
﹁これもあれも全部、あんたのせいなんだからね﹂
私は寝ているユゼフに、ちょっと毒吐いた。本当にもう、あんた
と会ってからと言うものの⋮⋮、
﹁えーっと、なにか俺悪いことした?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いつから起きてたの?﹂
﹁そもそも寝てない、です﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
ユゼフを久々に本気で殴ってしまったのは、そのすぐ後の事だっ
た。
1845
船旅︵後書き︶
11月14日発売の書籍版﹁大陸英雄戦記1﹂の特典情報公開の許
可が下りたので活動報告に纏めました。
↓http://mypage.syosetu.com/myp
ageblog/view/userid/531083/blo
gkey/1275570/
ご購入を検討される方は是非ご参考までに。
1846
会議前
シャウエンブルク公国首都エーレスンド。通称﹁公都﹂、そして
﹁海上要塞都市﹂というなかなか中二心を擽られるカッコイイ異称
もある。その異称に恥じず、エーレスンドは鉄壁の要塞だ。
島という特殊な地形、公国の保有する強力な海軍、そしてそれら
を撥ね退けてもエーレスンドの強固な、そして緻密に計算された城
壁が敵の行く手を阻む。
実際、過去何度かリヴォニアや東大陸帝国がエーレスンドを攻略
しようと軍を動かしたことはあるがどれも失敗しており、その結果
シャウエンブルク公国は中立国としての地位を獲得するに至る。
そんな無敵都市エーレスンドの港についたのは、当初予定から1
日遅れの4月11日。途中低気圧に遭遇したせいで航海日程に支障
が出たかららしいが、1日なら誤差の範囲だろう。
28門級小型巡防艦という見栄えのしない船とはいえ、国王と王
女、政府高官を乗せた船団。公国の出迎えは盛大だった。港に近づ
いた時に現れた公国の出迎えの船は、公国海軍最新鋭の130門級
一等戦列艦にして公国海軍総旗艦﹁ヴァルデマー6世﹂と84門級
二等戦列艦﹁ベレンガリア﹂だった。
そうだな、日本で例えると﹁小っちゃい駆逐艦しか持ってない小
国の王様が訪日したら長門と金剛の出迎えがあった﹂くらい凄まじ
いことだ。やばい。あとかっこいい! 砲門がいっぱいあるよ、な
んせ片舷65門だもの! やっぱり男の子としてはこういうのは感
動するよな! いやまぁ、当然大砲はないから撃つのは魔術なんだ
1847
けど。砲門を開けて中に居た魔術師が敵の船目がけて撃つ。だから
砲門というよりは舷窓と言った方がいいかも。
と、公国海軍の船を眺めるのに夢中になっていたら甲板から落ち
そうになった。すんでのところでマヤさんに助けられたからよかっ
たものの、下手すれば﹁シレジア王国士官、他国の港ではしゃぎ過
ぎて船から落下し溺れる﹂という黒歴史が永遠に教科書に載るとこ
ろだった。危ない危ない。
﹁やはりユゼフくんも、こういうところは年頃の男子ということか
な?﹂
﹁こういうところも何も、私は最初から年頃の男子ですよ﹂
そう反論したら、なぜかマヤさんは口をへの字型に曲げて黙って
しまった。なんでや。
−−−
エーレスンドの港についてからやることは多い。フランツ陛下は
勿論、エミリア殿下や外務尚書などの政府要人は迎賓館に行き﹁公
国からの篤い待遇﹂という名の外交会談の場へと連行される。それ
に付き添うのはマヤさんや各省政務官や秘書官と言った高級官僚で、
俺やサラと言った武官は公国が用意してくれた宿舎に移動するくら
いしかない。
まぁまだ初日だし、慌てる必要もない。それに俺らに別段堅苦し
1848
い儀礼の場に出なくていいと言うのなら結構自由に活動できるとい
うことだ。
﹁まぁ、ここは定石通り情報収集かな﹂
と、用意された部屋でサラとフィーネさんと作戦会議をする。
﹁情報収集って言っても、何の情報を集めるの? エーレスンドの
弱点とか?﹂
﹁いやいやいや。確かに無敵の要塞と聞くと粗を探してしまいたく
なるけど、今回はそれが目的じゃない。今回集めるべき情報は、時
機に開かれる講和会議を有利に進めるための情報さ﹂
﹁具体的には?﹂
﹁そうだな⋮⋮できるかどうかはさておき、一番欲しいのは﹃相手
国がどこを妥協点としているか﹄かな﹂
昨年の春戦争はシレジアにとって辛勝、帝国にとっては惜敗だっ
た。戦術的には勝利を積み重ねられたが、決定的な勝利とは言えな
い。帝国に余力を残したまま休戦したわけだから。
そのため今回の会議では、シレジアがどこまで要求し、帝国がど
こまで拒否するのか。その駆け引きが重要となる。
ギニエ休戦協定の内容は﹁シレジア領を占領している帝国軍の完
全撤退﹂と﹁旧シレジア領ヴァラヴィリエとルドミナに帝国軍を駐
留させないこと﹂だった。前者はともかくとして、後者は﹁正式な
講和条約が結ばれた時、ヴァラヴィリエとルドミナはシレジアに復
帰することになる﹂ということで、その前段階として軍を撤収させ
ろという意味になる。
それを、帝国がどう思うかだ。
1849
さっきも言ったが帝国は惜敗で、余力はまだある。今は軍制改革
中だろうが、それが終わればすぐにでも再戦できる。そういう態度
を取るだろう。
でもギニエ休戦協定自体は有効なものだし、それを公然と破るこ
とは今後の帝国の外交にも影響がある。﹁帝国は約束を反故にする
信頼に値しない国だ﹂と他国から思われたら、帝国宰相が掲げる﹁
外交政策の見直し﹂に悪影響をもたらすのは間違いない。
だから帝国はシレジアにある程度譲歩しなければならない。その
妥協点をどこに見出しているのか、というのを見極めることが出来
れば、実際の交渉の場で何かと役に立つ。例の捕虜の件とか、ね。
﹁フィーネさん。東大陸帝国やその他の国の到着予定日時と、宿泊
場所はわかりますか?﹂
﹁宿泊場所については既に大使館の方で確認が取れています。到着
日時については天候次第ですが、各国ともにおおよそ4月15日か
ら4月18日までに公都に着くものと思われます﹂
と言うことは、5日から8日は準備ができると言うことか。あり
がたい。それくらいあれば何とかなるだろう。
﹁なんか自信満々だけど、数日で有用な情報が手に入るなんて無理
じゃない?﹂
﹁まぁ、サラの言う通り無理だね。確かに8日じゃ何もできない。
地理を把握してちょっと動いただけで帝国の奴らが来るから、今や
るのは情報収集じゃない﹂
﹁え、さっき情報収集するって⋮⋮﹂
﹁情報収集はするさ。だから今から取り掛かるのは、情報収集のた
めの準備を整えることだよ﹂
﹁⋮⋮えーっと、具体的には?﹂
1850
﹁ん、簡単だよ。もしかしたらサラには適してる任務かも﹂
﹁えっ?﹂
サラが首を傾げた。情報戦で自分の出番はない、とでも思ってい
たのだろう。
いやいやいや、サラみたいな性格の人にしかできないことがある
⋮⋮無闇に人を殴らなければだけど。その辺りのことは俺はちょっ
と苦手だからね。出来ればエミリア殿下やマヤさんも加われば百人
力なんだけど、まぁそれは仕方ない。
﹁じゃ、作戦を説明⋮⋮作戦と言っても難しい事じゃないけどね。
俺たちがこれからするのは、観光だよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
サラの怒りゲージが1上がった。落ち着け、これはまだイントロ
の部分だここでキレられたら困る。どうどうどう、とサラの怒りを
鎮めながら作戦の続きを話す。
﹁観光するのは、東大陸帝国外交使節団が宿泊するホテル近辺の、
なんか適当なお店﹂
﹁⋮⋮﹂
うん、説明するからそんなに凄まないで? 説明しにくい。
﹁えーっとね、適当なお店の店員と仲良くなる、というのが作戦だ
よ﹂
﹁ねぇユゼフ、あんたわざとわかり難く言ってるの?﹂
﹁いやいやそんなつもりはなよ、だからそんなに睨まないで!?﹂
まさか船に乗ってた時のこと根に持ってるのかしら。俺は悪くね
1851
ぇ! 俺を寝てる物と勘違いしたサラ先生が悪いんだ!
それはともかく、サラにわかり易く説明、説明⋮⋮と思っていた
ら、フィーネさんが説明し始めた。
﹁マリノフスカ少佐。恐らくユゼフ少佐が言わんとしていることは
﹃東大陸帝国外交使節団が利用するであろう店を見つける﹄こと、
そして﹃彼らがその店でうっかり話してしまった機密内容を、店員
から聞く。そのために仲良くなる﹄と言うことだと思います﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
そうです。もう面倒だしフィーネさんわかってるみたいだから説
明はフィーネさんに任せよう。
﹁国家の命運を賭けた外交の場と言えど、息抜きは必要です。ずっ
とホテルに引き籠っていては鬱憤が溜まるでしょうし、公都の歓楽
街でそれを発散させねば肝心の外交の場にも影響が出ますから﹂
﹁それで、調子に乗って余所のお店で機密を喋っちゃうのを待つの
?﹂
﹁そういうことです。まぁ普通は事前に工作員を店に配置するのが
良いのですが、今回の講和会議は少し急でしたし準備不足でしから、
少し迂遠な方法を使います﹂
そう言って、フィーネさんはエーレスンドの地図を取り出した。
地図には既にフィーネさんが書いたと思われるマークやメモがある。
そのメモの中の1つに﹁東・外交団﹂なる文字が見えた。恐らくそ
こが東大陸帝国外交使節団の宿泊場所なのだろう。フィーネさんは
それを指差しつつ、説明を続ける。
﹁この宿泊場所に近く、かつ大使館の人間も同行できる場所となる
と⋮⋮北第3地区の歓楽街でしょうか﹂
1852
そう言ってフィーネさんは鉛筆で控えめな丸を書く。
﹁でも歓楽街だと店も多いんじゃないの?﹂
と、サラの質問。当然だ。店の数とか派手さとかは現代の比じゃ
ないけど、それでも3人でどうにかできるレベルじゃない。けど、
﹁そうでもないさ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁うん。外交使節団の連中は大抵男だろうし、となると行きたい場
所は限られてくる﹂
﹁⋮⋮つまり?﹂
﹁可愛い女の子がいる店﹂
可愛い女の子が店員をやっていて、かつ口が軽くなる酒を提供す
る居酒屋が良いだろう。カワイコちゃんに良い所見せようと思って
つい色々喋ってしまうのは古今東西どこの男も陥る罠である。
貴族出身の高級官僚ならそんな店行くはずがないが、彼らに帯同
する部下は平民も多くなるし、当然そういう店を行く人がいるはず
だ。そこを狙う。
﹁ユゼフ少佐。その場合売春宿も選択肢に入りますが?﹂
﹁⋮⋮えー、うん、まぁそうですけど﹂
あの真顔でそういう単語を言えるのはなんというか凄いと思うよ。
あと選択肢に入れるって言ったらどういう答えを出すのか気になる。
まぁそれはさておき。
﹁選択肢に入れませんよ。さすがにそういう専門のお店は罠がある
1853
ものと考えて、外交官は入店しませんからね﹂
まぁこれは国というか人によるけど。⋮⋮後で我がシレジア外交
使節団の連中にも釘刺しておこうかな。
﹁ま、そういうわけだからサラ。なんとかして可愛い女の子がいる
居酒屋の人と仲良くなって﹂
﹁⋮⋮あ、うん。やってみる﹂
これで上手くいかなかったら多分俺はサラに殴られるだろうなぁ
⋮⋮。
1854
第2巻 12月15日に発売されます!︵私が原稿
会議前︵後書き︶
︻速報︼
大陸英雄戦記
落とさなければ︶
また、アース・スターノベル公式HPにて大陸英雄戦記の特集ペー
ジが公開されました!
︵↓http://www.es−novel.jp/bookt
itle/13tairikueiyu.php︶
1855
王笏座
東大陸帝国宰相にして帝位継承権第一位のセルゲイ・ロマノフが、
シャウエンブルク公国首都エーレスンドの土を踏んだのは4月15
日のことである。シャウエンブルク公国の元首アルブレヒト・フォ
ン・シャウエンブルク大公は直接港に来て、帝国の若き宰相を出迎
えた。
その後彼らは外交使節団らしく公国の閣僚と面会し、対談し、あ
るいは密約を交わし、本来の目的であるシレジア王国との講和会議
への準備を始めることが出来たのは4月17日の午後であった。
﹁ったく、なんで俺はあんな能無しのジジイ共の相手をしなきゃな
らんのだ。あいつらの話を聞くだけで眠くなる。よく眠らなかった
もんだと我ながら思うよ。もう帰りたい気分だ﹂
東大陸帝国と言う超大国を実質的に支配している次期皇帝は、彼
の友人にして親衛隊長のミハイル・クロイツァー准将しかいない部
屋で、盛大に文句を言っていた。
﹁そう仰られないでください。帝位継承権第一位の次期皇帝、帝国
宰相という地位があるのです。彼らにして見れば﹃もし軽い扱いを
すれば自分たちの安全にかかわる﹄と思っているでしょうし﹂
﹁それはわかるが⋮⋮それにしても、どうにかならんものか。いい
加減作り笑顔を振りまくのに飽きてきたのだが﹂
﹁どうにもならないと思いますよ。閣下が現在の地位職責をお捨て
にならない限り﹂
﹁ふんっ、バカ言え﹂
1856
そう言って、クロイツァーはセルゲイにコーヒーを渡しながら彼
の体面に座った。クロイツァーはセルゲイのような輝くような銀色
の髪とは正反対の、漆黒の髪を持つ。性格もやはり正反対で、セル
ゲイが毒を持った鋭く尖った言動をするのに対し、クロイツァーの
それは温和なものだった。だからこそ彼はセルゲイの唯一無二の友
人でいられたし、そして気苦労の絶えない日々を送っている。
﹁まぁいい。クロイツァー、会議の日程はいつからだ?﹂
﹁公国外務省の参事官から先ほど連絡がありました。既にシレジア、
リヴォニア、カールスバート、オストマルクからの外交使節団は公
都に到着しています。閣下に特別な異存がなければ、4月20日に
公都港湾地区にあるカステレット砦にて会議を開催する、とのこと
です﹂
﹁⋮⋮ふむ、了解した。﹃異存はない﹄と、そう伝えて欲しい﹂
﹁承知しました。早速公国に連絡を⋮⋮﹂
そう言ってクロイツァーは立ち上がろうとしたが、その直前にな
ってセルゲイが何かを思い出したかのようにその動きを止めた。
﹁クロイツァー。公国への連絡が終わったら、19日までは休みで
良いぞ﹂
突然そんなことを言い出したセルゲイの言葉に、クロイツァーは
腰を微妙に浮かした状態で固まってしまった。セルゲイの言葉の意
味を掴み兼ね、彼は眼だけで﹁何事か﹂と訴えていた。
﹁何、思えばお前に休みをやったことがなかった。折角の機会だ、
少しは公都観光でもすればいい﹂
﹁はぁ⋮⋮。しかし、私は別に休みなどは⋮⋮﹂
1857
﹁そう言うな。どうせ20日以降は俺もお前もクソみたいに忙しく
なるんだからな。今のうちに休んでおかんと体が持たんぞ?﹂
セルゲイの口は悪いどころの話ではなかったが、それは彼なりの
友人への感謝の気持ちであったことは確かである。だがそれをクロ
イツァーが潔く受け止められるかと言えばそうでもなかった。むし
ろこんな品のないセルゲイを1人置いて自分だけ休暇というのはど
う考えても心が休まらないだろう、というわけである。
無論、それを本人に直接言えるはずもなく、いつもの柔らかな口
調で休暇を拒絶することしかできなかった。しかし、セルゲイはや
や頑固だった。
﹁じゃ、帝国宰相として命じる。休め。じゃなきゃクビだ。退職金
も出ないぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
そう言われてしまうと、クロイツァーは休むしかなかった。彼は
不承不承と言った感じでセルゲイから与えられた休暇を﹁ありがた
く﹂受け取ったのである。
−−−
4月18日。
俺が立てた﹁可愛い女の子がいる居酒屋を巡って店員と仲良くな
ってベロベロに寄った帝国外交使節団の情報を抜き取ってしまおう﹂
作戦は、予想外の効果をもたらした。
1858
東大陸帝国の使節団が来たのが15日、そして翌16日には貴族
ではない外交使節のメンバーが歓楽街に出没し酒に女に食い物にと
いろんな意味でやりたい放題し、当然俺やサラと仲良くなった店員
がいる店にも彼らが来た。
彼らというか、1人だけど。物凄く無礼講というか破天荒という
かハチャメチャな人がいるのである。後から知った話だが、こいつ
は東大陸帝国国務省の部長級ポストに居る人間らしい。酒を飲むと
ベロベロになってあることないこと色々喋ってくれるのだが大半は
愚痴である。
中間管理職って大変そうよね、うん。
彼は出現日目にして公都の新名物となった。﹁外国から来た偉い
人が居酒屋を梯子している。しかも金回りが良い﹂とかなんとか。
そして俺らが仲良くなった可愛い女の子の店員が働く居酒屋にも
当然来た。これでいろいろ話してくれたら万々歳、なんならそっと
近づいて誘導尋問すればいいかなって思った。
⋮⋮のだけど、ちょっと予想外の事態⋮⋮でもないか、予測でき
たはずなのにその可能性を無視していたというのが正しいかも。
シェプタ
つまりなんだ。﹁考えてみればサラも結構可愛いよね﹂ってこと
です、はい。
21時20分。
公都歓楽街にある大衆居酒屋﹁王笏座﹂でその事件は起きてしま
った。
﹁よぉねぇちゃん、綺麗だなァ! ヒック﹂
﹁ど、どうも⋮⋮﹂
1859
何杯飲んでるか知らないがベロベロにりしゃっくりが止まらなく
て息が臭そうな帝国国務省の官僚と、それを明らかに嫌がるサラが
そこにいた。わかり易く言うとナンパです。
そしてそれを、俺とフィーネさんが近くの席で他人のフリをしな
がら観察していた。一言一句聞き漏らさないように⋮⋮。
﹁名前なんてぇの?﹂
﹁さ⋮⋮サラーコヴァ、です﹂
と、サラは事前に決めておいた偽名で自己紹介した。これなら咄
嗟に﹁サラ﹂と呼んでしまっても、サラーコヴァの短縮形というこ
とにしとけば何とか言い訳は立つ。たぶん。
﹁サラーコヴァちゃんかー、てことはヒック、カールスバートだな
! おじちゃん知ってるぞー!﹂
おじちゃん、もといあの官僚の言う通りサラーコヴァはカールス
バート女性にある姓だ。あの国の女性の姓は末尾に﹁ヴァ﹂がつく
のが特徴だからね。﹁凄いだろ!﹂って顔してるけどそんなんでも
ないよ? その国務省官僚は﹁バザロフ﹂と名乗った。
﹁なに、観光にきたの?﹂
﹁え、えぇ﹂
﹁そうかー、おじちゃんはねー、ヒック、仕事さ!﹂
そう言ってサラに過剰なスキンシップを実行するオッサン、もと
いバザロフ。その勇気は買うがサラ相手にそれは高度に周到な自殺
だと思います。とりあえず鳩尾を1発殴られ、飲んだもの食ったも
のを床にぶちまけるだろうな。
1860
と思ったのだが、
﹁⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
顔を怒りで真っ赤にしながらも、なんとサラは耐えたのである。
凄いけど、凄いけど無理しないで! その顔見ると堪忍袋の緒が切
れた時酷いことになると思うから、嫌なら去っていいんだよ!?
でもサラはサラで情報収集をしようとしているらしく、怒り心頭
の表情のままでバザロフに﹁な、なんの仕事してるんですかぁ∼?
︵裏声︶﹂と質問を投げかけた。
おいオッサン、死にたくないなら素直に答えた方が良いぞ。いや
マジで。
﹁んー、聞きたい? 聞きたいかなー?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁だめー、聞きたいならおじちゃんに﹃いいこと﹄してくれないと
なー?﹂
ボキッ、という音が響いた。
音の方向がしたのはサラがいる場所ではない。俺の手元からだっ
た。持っていた木製スプーンが折れてしまった音である。当然スプ
ーンが自壊したのではない。サラの前に俺の堪忍袋の緒が切れてし
まったということだ。
屋上行こうぜ⋮⋮久々に、キレちまったよ⋮⋮。
だが立ち上がろうとした俺の手を、目の前にいた女性に掴まれた。
1861
掴まれたと言うよりは手を添えたという感じだったが、意図すると
ころは明白だ。彼女は俺を止めようとしているのだろう。
確かにその判断は間違っていない。あのバザロフはまだ何も喋っ
ていないのに、ここで手を出したら意味はないということだ。
﹁らしくないですよ﹂
﹁⋮⋮らしくあるための限界を超えてしまったんですよ﹂
﹁気持ちはわかりますが、彼女の限界はまだです。そして目的も達
成されてません。本当にダメそうなら、彼女の方から手を出すでし
ょうし、それをできるだけの実力が彼女にはあります﹂
酷く冷淡に言う。女性に対する最悪の行動を今あのバザロフはや
っている。それはフィーネさんだってわかっているだろうし、サラ
の気持ちもわかっているはず。なのに、その声は冷静そのものだっ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮すみません﹂
﹁大丈夫ですよ。彼女はまだ、平気らしいですから﹂
そう言って、フィーネさんは目だけを動かしてサラを見た。俺も
つられて彼女の方を見ると、サラは先ほどよりも冷静な顔をしてい
た。俺がキレている間に何かあったのか、バザロフのセクハラ発言
を受け流しつつ、彼の仕事とやらを聞いている。相変わらずスキン
シップは過剰だが。
﹁俺の仕事は国を動かす仕事でなぁー。今度の会議でシレジアとか
いうアホみたいな名前の国と交渉すヒックのさ﹂
﹁どんなふうにですかぁ?﹂
﹁そうだなぁー、まぁとりあえずあいつら偉そうに﹃土地寄越せ﹄
つってるからな。別にあんな辺鄙な地域いらんのだけど、我らが宰
1862
相閣下はまだ国内に敵が多いからな。そこを俺の力でなんとかすれ
ば、ヒック、もう出世もんよ!﹂
アルコールが脳にまで達しているバザロフはベラベラと喋ってい
た。重要なことも、そうでないことも。
今のは重要な情報だった。東大陸帝国の譲れない点は﹁領土割譲
を認めない事﹂らしい。宰相閣下、つまりセルゲイはまだ国内平定
が万全ではないから、皇帝派貴族に﹁弱腰だ﹂と批判される恐れの
ある領土割譲は回避したい。そういうことだろう。
それが聞ければ、とりあえず大丈夫だ。さっさと撤収して⋮⋮、
﹁なぁサラーコヴァちゃんよぉ。ここまで言ったんだから、良いだ
ろぉ?﹂
﹁あの、ちょ、待っ﹂
﹁ちょっとくらいいいんじゃんかよー!﹂
そう言って、バザロフはサラに迫った。具体的に言うと口をタコ
みたいな形にして且つサラの両腕を掴んでその口を押し付けようと
している⋮⋮って、解説してる場合じゃねぇ!? 唇の押し付ける
速度がサラの反応速度を超えてる!? セクハラ能力に長けてるの
かあのオッサン! なんて無駄な能力だ!?
このままじゃサラの初めての相手がオッサンになるよ!
なんとかして止めたかったのだが、距離があった。遠くはないけ
ど、強制猥褻をすぐに止められる程近いわけでもなかった。間に合
わな⋮⋮、
と、その時、オッサンがひっくり返った。
サラが反撃したのかと思ったが、彼女は唖然とした表情をしてい
1863
た。彼女自身も状況を掴み兼ねてはいなかったようだ。当然俺も、
フィーネさんもわからなかった。
わかっていたのは、オッサンをひっくり返した張本人。黒い髪の
優しそうな、甘いマスクを持つ美青年だった。彼はオッサンの腕を
掴んで、警察が容疑者逮捕するときのように身柄を拘束している。
﹁大丈夫かい、御嬢さん?﹂
痛い痛いと泣き叫ぶバザロフを尻目に、黒髪の男はサラに話しか
ける。やってることと優しい声のギャップが凄まじい。
﹁⋮⋮え、あの。ありがとうございます⋮⋮﹂
﹁ん、大丈夫。でも今度からは嫌だったらちゃんと抵抗してね。毎
回良い人が助けてくれるわけじゃないから﹂
そう言って、彼は腕が変な方向に曲がっているバザロフのオッサ
ンを担いだ。バザロフは声にならない泣き声で嗚咽を繰り返してい
る。とりあえず﹁ざまぁ﹂とだけ言っておく。
﹁あと、君も助けるなら早く動いてね﹂
﹁えっ、あ、はい!﹂
黒髪の彼が急に俺に話しかけてきた。どうやら、俺が動こうとし
たのも見ていたらしい。あの状況下でオッサンだけでなく俺の方に
まで注意力を割いていたのか。
ていうか、柔らかな声+優しそうな顔+一瞬でバザロフを拘束で
きる身体能力でなんというか店に居る女性全員がもう彼に惚れてい
るのがわかった。黄色い声が店内から漏れているし。でもその気持
1864
ちはわかる。俺も危うく惚れる所だったから。危ない危ない。
その惚れている女性の1人、例の可愛い女の子の店員が勇気を出
して﹁あの、お名前を聞かせてください!﹂と詰め寄った。黒髪の
男は顎に手を当てて﹁うーん、言っても大丈夫かなー⋮⋮﹂と悩ん
でいる様子。その仕草がまた絵になるので、またしても店内から控
えめな歓声があがった。
﹁まぁいいか。俺はクロイツァー。ミハイル・クロイツァーだ。じ
ゃ、また会える機会があったら会おうか、御嬢さん方﹂
﹁は、はい!﹂
そう言って彼は勇気を出した女性店員に、自分とバザロフの料金
と迷惑料と称して多めの金を渡して店を出た。去り方までもが女性
たちのハートを射止めたようで、彼が居なくなったあとも呆けた声
がちらほら聞こえた。
そしてそれはフィーネさんも同じだったようである。
﹁ミハイル⋮⋮クロイツァー⋮⋮﹂
彼女は、黒髪の男の名を繰り返し呟き、心ここにあらずと言った
感じになっている。あれならいくらフィーネさんでも惚れもするか。
まぁいいや。俺は、今回の被害者であるはずのサラーコヴァさん
の状況を確認することにした。
﹁大丈夫?﹂
﹁あぁ、うん。なんとか⋮⋮﹂
サラの顔は、ちょっと元気がない感じだった。まぁキモいオッサ
1865
ンにセクハラされて元気でいられるはずもない。すんでのところま
でオッサンの顔が差し迫ったんだから怖いトラウマもんだろうよ。
とりあえず店を出るとしますかね。
1866
思わぬ再会
4月19日。
昨日の内に手に入れることができた情報は多かった。例のバナン
トカのセクハラ事件と、別のお店でも似たようなことがあったから
だ。と言ってもバナントカの情報の量と質が良かったから、情報は
玉石混交と言ったところ。
しかしそんな雑多な情報を纏めることができる専門家が今回同行
してきている。何も問題はない。
シェプタ
問題があるとすれば、例の﹁王笏座﹂で出会った﹁ミハイル・ク
ロイツァー﹂なる男をどうもフィーネさんが気にし過ぎていること
だ。
まぁ、なんだ。
恋に落ちた衝撃ってのもあるだろう。そのまま婚約云々もその衝
撃で壊れて欲しいのだが。
ともあれ、今日は特に何もすることはない。公都観光と行こうか
なと。1人で行くのもなんなので誰かを誘って⋮⋮と思ったのだが、
エミリア殿下は立場と仕事があるので無理、殿下に付き従うマヤさ
んも当然不可能。フィーネさんは先述の情報を纏める作業があるの
で同行できない⋮⋮とすると選択肢はサラさんくらいしかいないの
だが、
﹁え、っと⋮⋮ごめん、ちょっと考え事あるから﹂
1867
とのことである。考え事とはらしくもないが、そう言われてしま
ってはこっちとしては何も言えない。
⋮⋮つまり今日はぼっちで1人酒。とてもつらい。畜生余り飲め
ないけど飲んでやる! と言いたいがそういうわけにもいかない。
なんてったってアイド⋮⋮じゃなくて、翌20日から講和会議本番
だ。エミリア殿下に付き添うんだから飲んで2日酔いするわけには
いかないだろう。
だからこうして今俺は、歓楽街から離れ、かつ落ち着いた雰囲気
を醸し出している喫茶店﹁マルグレーテ﹂で呑気に珈琲を飲んでい
る。あぁ、やっぱりこういうお店は良い。心が穏やかになるし何よ
り仕事から解放され⋮⋮されないかも。
なぜか﹁情報収集﹂という単語が頭に浮かぶんだ。
リリウム
でもこのお店の焼き菓子は﹁百合座﹂と違う美味しさがある。甘
さ控えめでしかも価格設定は良心的。佐官に昇進したから給料も良
いけど、やっぱりまだこういう値段は気になる。
﹁癒されるなぁ﹂
つい、そんなことを口に出してしまうくらいには癒されていた。
そう言えば1人でゆっくり喫茶店に入るなんてこと最近あっただろ
うか。たまには1人もいいかもね。
﹁はぁ⋮⋮﹂
と、割と近くから物凄い陰鬱な溜め息が聞こえた。
おい誰だ。俺の優雅なひと時︵公国銀貨1枚分︶を味わっていた
のに邪魔しおって⋮⋮と文句を言おうと思い、溜め息のした方向を
1868
見やると、そこに居たのは黒髪のイケメンだった。
⋮⋮というか、例のミハイル・クロイツァーとかいうイケメンだ
った。
−−−
﹁まぁそいつも一応上司だから仕方なく言うこと聞いて休暇を貰っ
たけど、そいつはどうも挙動不審というかなんというかで⋮⋮﹂
﹁あー、わかりますわかります。目を離すと変な事やり出すんです
よね。私も上司じゃないですけど、そういう友人がいるんでよくわ
かりますよ﹂
﹁わかってくれるか⋮⋮嬉しいね。君とはもっと前から友人でいた
かったよ﹂
﹁奇遇ですね。私も同感です﹂
目と目があった瞬間、互いに互いを認識して﹁どうも﹂と挨拶し
いいひと
てしまったのが運の尽き⋮⋮と思ったらこのイケメン、もといクロ
イツァーさんは苦労性だった。
曰く﹁親友が上司なんだけど割と奔放な人間でしばしば常識から
外れる行動を突然やるもんだからついていくのが大変。でも事業は
成功しているから文句言えなくて余計目が回る﹂とのこと。
見た目年齢的には俺より年上⋮⋮たぶん20歳前後と言ったとこ
ろだ。俺が言える話でもないが、若い割に苦労しているようだ。で
も事業成功だの親友が上司だのと言っているからたぶん勝ち組なん
1869
だろう。
忙しくはあるけど楽しくもある。そんな感じの人生を送ってます
! というのが言葉の端々から聞こえてくる。
昨日の件も合わせるとクロイツァーさんは運動神経抜群で尚且つ
友人思いの優しいイケメンということになる。
女には困らないだろうが、たぶん彼の性格上女性をとっかえひっ
かえみたいなことはしないだろう。そこがまた結婚相手を幸せにで
きる要素だな。クロイツァーさんを夫にしただけで奥さんの方は勝
ち組確定です。
﹁あ、そう言えば君の名前は聞いてなかったな﹂
﹁⋮⋮そうでしたね﹂
どうしよう。たぶん二度と会うことはないだろうから本名でも良
いと思うけど⋮⋮でも念には念を入れるか。
確か﹁クロイツァー﹂はリヴォニア系の姓だったはず。クロイツ
ァーなる人物がオストマルク、あるいはリヴォニアの外交使節団の
中にはいないのは確認はしているが、使節団のメンバーと知り合い、
もしくは下っ端の下っ端という可能性もあるにはあるし。
よし、偽名を⋮⋮えーっと、偽名何にしよう。考える時間が長い
と不審に思われるだろうし⋮⋮いいや、某作品のキャラクターの名
前を合体させるくらいでいいか、と思ったんだけど、
﹁メイトリックスです。ジョセフ・メイトリックス﹂
名乗った瞬間後悔したのは言うまでもない。せめてクルーガーの
方にしておけばよかったかしら。
1870
﹁メイトリックスくんか、わかった。既に知っているだろうけど、
私の名前はミハイル・クロイツァーだ。よろしくな﹂
そう言って、彼は右手を俺に差しだしてきた。これが何を意味す
るのかは明瞭、俺も彼に倣って右手を出してその手を握り返した。
﹁よろしくお願いします。と言っても、また会う機会があるとは思
えませんけど﹂
﹁どうかな? 君はどう見てもこの国の人間じゃないし、私もそう
だ。でもこうして2度も会ってる。﹃2度あることは﹄なんとやら
と昔からよく言うだろう?﹂
﹁そうですかね?﹂
どう見ても、というのは俺の顔を見ているのだろう。確かに俺は
シャウエンブルクの人間とは違う顔をしている。﹁ジョセフ﹂はア
ルビオン連合王国に多い名前だし、つまるところ彼は俺を﹁シレジ
ア系アルビオン人がシャウエンブルクに来ている﹂とでも思ってい
るのかもしれない。
その後暫く愚痴ったり話したり飲んだりしていた︵勿論ノンアル
コールだ︶が、クロイツァーさんは仕事があるというので日が暮れ
る前には﹁また会おう、メイトリックスくん﹂と言って店を出た。
ついでに俺の分の支払いもしてくれたが、俺はクロイツァーさん
のその台詞でそれどころじゃなかったよ。﹁もう会うことはない﹂
って言った方がよかったかしら。
1871
思わぬ再会︵後書き︶
2巻書籍化作業の為、更新が滞るかもしれません。更新速度が取り
柄なのに、申し訳ないです。
1872
開催
公都エーレスンドは、要塞である。
高い城壁に囲まれたこの要塞都市は公国の保有する強力な海軍と
組み合わさって、まさに無敵の要塞となる。
しかし、無敵の要塞という存在には往々にして弱点と言うものを
持っている。エーレスンドもその例外とはなり得ない。
その弱点とは、このエーレスンドが海上物流の拠点であるという
ことに関連がある。
即ち、エーレスンドの弱点とは港である。
当たり前だが、海の上に城壁や堀などというものは作れない。縦
しんば作れたとしても、それは船の移動を妨げるだけとなり、物流
拠点として繁栄しているエーレスンドにとって文字通り致命的な障
害となる。
そこに、敵が大挙してやってきたら?
敵がそんなことをする前に海軍が蹴散らしてくれる、と安易に考
える者はこの公国にはいなかった。海軍だけで敵をすべて粉砕でき
るはずもないと知っていたからである。
ドクトリン
この国の基本戦略は、第一に海軍によって敵勢力を﹁威嚇﹂﹁弱
体化﹂させ、その弱体化した侵略軍を、城壁や堀によって地の利を
得た陸軍が殲滅するのである。
とすると問題になるのが、城壁が物理的に立てられない港湾地区
1873
である。
侵略軍相手に、公国陸軍は地の利を得られない。そして仮想敵国
たる東大陸帝国やリヴォニアと比べれば国力の劣る公国は、当然陸
軍戦力でも劣る。つまり、数の利は侵略軍にある。
これでは、エーレスンドは守れない。
そう結論付けた数代前のこの国の政府は、港湾地区防衛用の要塞
を建設することを決定した。
建設承認された要塞は、すぐさま公国屈指の設計士たちによって
設計された。この要塞の特徴は、城壁が全くないことにある。先に
述べたように物流拠点に城壁があると邪魔でしかないためだ。
だが堀はある。そしてその堀こそ、当時最先端の設計であった。
友軍の上級魔術の弾道、及び侵略軍の侵攻ルートや敵の視界や魔
術の火線、ありとあらゆる要素を緻密に計算し、そして完成させた。
それが、大陸暦638年4月20日始まったシレジア王国と東大
陸帝国の講和会議の舞台、上空から見れば星のように見える堀を備
えた要塞、カステレット砦である。
−−−
高い城壁を持つ要塞都市、130門級一等戦列艦に代表される強
力な海軍、そしてトドメに星型要塞。
1874
⋮⋮めっちゃ心躍る。
わかるか諸君、私のこの気持ちが!
カッコイイ+カッコイイ+カッコイイ=すごいカッコイイ! だ
ぞ!
この国に産まれたかった⋮⋮! と、思いたくなるくらいにはカ
ッコイイ都市、エーレスンド。でもきっとそういうのって大抵﹁住
めば地獄﹂なんだろうな。地元の人にとっては悩みは色々あるだろ
う。観光だけでいい。
まぁ、今の俺には観光を楽しむ余裕も転居をする予定もない。
カステレット砦には、今回は戦いに行くのだ。剣を交えず、血を
流さない戦場、外交である。
この会議におけるシレジア王国の目的は、当然講和条約の締結に
ある。けど、恐らく条約締結は約束されているだろう。シレジアに
しても帝国にしても、今の所再戦するつもりはないのだから。
だから今回の最大の目的は、エミリア王女派にとって有利な条約
とすることにある。
具体的には、工作員・諜報員に仕立て上げた捕虜たちを帝国に合
法的に送還すること、それを敵に悟られないようにすることだ。
そしてもう1つ、忘れてはいけない目的がある。
それはエミリア殿下の手伝い。オストマルク帝国に居るという、
エミリア殿下懐疑派を納得させるために、俺やマヤさんらが陰で支
える。殿下が有能で、オストマルクにとって有用な人物であると印
象付けるための場なのだ。
1875
その目的を知っているのは、俺とマヤさんとフィーネさん。エミ
リア殿下に言える話ではないし、サラさんには言おうかなと迷った
がうっかり殿下に喋ってもらっては困るので﹁近衛兵らしくしてね﹂
とだけ言っておいた。
⋮⋮まぁ、彼女には﹁言われなくてもわかってる﹂とデコピンさ
れながら言われてしまったのだが。確かに今更だね。
会議が開催されるのは、4月20日の15時丁度。
だがその会議の前に、各国外交使節団を招いた祝宴会が開かれた
のである。ここで、各国の外交官はアレがどのこ誰だということを
覚えたり、話しかけたり、前準備としてちょっとした交渉を始める。
祝宴会と謳っているが、もう既に交渉は始まっているということ。
フランツ陛下とエミリア殿下、そして外務尚書などは会場内を忙
しく動き回って各国の要人と対談している。
エミリア殿下に付き添うのは、サラさんとマヤさん。彼女たちは
エミリア殿下の後ろに立って、殿下のフォローをする。
そして俺とフィーネさんの仕事は⋮⋮、
﹁あそこに居る、大仰な軍服を着ている中老の男性。あれが帝国軍
事大臣アレクセイ・レディゲル侯爵です。その彼と対談しているの
は、在公国リヴォニア全権大使のアンゼルム・フォン・バウマン男
爵ですね﹂
﹁⋮⋮帝国の謀略家たるレディゲル侯爵が、祝宴会開催間もなく会
った人物がリヴォニアの全権大使ですか。臭いますね﹂
﹁えぇ。しかしバウマン男爵の表情や仕草から察するに、会話の内
容は恐らく雑談に類するものと思われます﹂
﹁まぁ、このような大勢の目がある場で重要な話はしないでしょう﹂
1876
情報収集だ。
帝国の要人が、どこの誰と話しているか。そしてその会話の最中、
当人たちはどんな表情をしているか、酒を飲んでいるか、どんなジ
ェスチャーをしているのか、笑っているのか、真面目な顔をしてい
るのか。それらを総合的に判断して、会話の内容を類推する。その
作業をしているのだ。
⋮⋮主に士官学校情報科首席のフィーネさんが。
なんというか、やっぱりフィーネさんは頭良いと思うよ。今さら
だけど、やっぱり情報面では頼りになる。情報の取捨選択だけでな
く、最近は情報収集や分析力も高まっている様子だし。
﹁別に大したことはありません。少佐もすぐにできますよ﹂
そろそろ、その自己評価の低さを治せばいいのに。簡単に言って
くれるが、彼女が今やっていることは全然簡単じゃないのだ。
﹁バウマン男爵というのは、どういう方なのです?﹂
﹁詳しくは覚えてませんが、確かリヴォニア元老院現議長であるザ
イフェルト公爵の息子⋮⋮三男だったかと﹂
ザイフェルト公爵。久しぶりに聞いた姓だ。そして、結構重要な
人物であったことも記憶している。
フィーネさん⋮⋮いや、非実在彼女フィーナさんと情報交換して
いた時に出た名前だ。
﹁確か、セルゲイ・ロマノフはザイフェルト公爵の遠戚でしたね?﹂
﹁はい。セルゲイの母親、アニーケ・フォン・レーヴィはザイフェ
ルト公爵の親戚です。つまり、あのバウマン男爵とセルゲイは遠い
1877
親戚と言うことになります﹂
﹁些か遠すぎる気もしますけどね⋮⋮﹂
人類みな親戚と言うが、貴族社会は本当に血縁関係がくんずほぐ
れつでややこしい。とりあえずセルゲイにはリヴォニアの血が流れ
ている。そしてそんな血が流れているからこそ、現帝国皇帝イヴァ
ンⅦ世は彼を排除しようとした、と。
レディゲル侯爵とやらは、バウマン男爵にそんな経緯を話してい
るのだろうか。
1878
開催︵後書き︶
ちなみに星型要塞﹁カステレット砦﹂は実在します
1879
敵︵前書き︶
2話同日更新
1/2
1880
敵
﹁何を話していらしたんですか?﹂
暫くした後、エミリア殿下とサラとマヤさんがやってきた。一応
公共の場だから深々とお辞儀しておいて、と。
﹁いえね。ちょっとした噂話を﹂
﹁噂話ですか。あなたのことですから、さぞ珍妙な噂なのでしょう
ね﹂
遠回しに俺が珍妙だと言われた気がする。そんなことないよね?
とりあえず格好は珍妙ではない。王国軍の軍服だし、これが珍妙
だと言うのならシレジア王国軍は全員珍妙になる。
サラとマヤさんの格好は近衛兵の正装で、今俺が着ている服より
も勲章やら装飾やらが目立つ。彼女たちが持っている護衛のみに持
ち込みが許された剣も装飾や紋様が豊富。明らかに実戦用じゃなか
った。
そんでもって当の主君たるエミリア殿下は貴族用ドレス姿。いつ
ぞや王都で見たものより華やかさが増している印象。服には詳しく
ないからこういうのをなんて言うのか知らないけど、ベルなんとか
のばらに出てくるドレスっぽく見える。
﹁ふふ、なんですかユゼフさん。見惚れたんですか?﹂
あまりジロジロ見過ぎたせいか、エミリア殿下にからかわれてし
1881
まった。
﹁えぇ。あまりにもお綺麗だったもので﹂
﹁それは嬉しいですね。でも、もっと具体的に言って貰わないと﹂
殿下はちょっと悪い笑顔でそう言ってきた。
えーっと、待ってね。具体的に⋮⋮具体的に⋮⋮。うん。無理。
私には無理です。
﹁ダメですよ。そういうのはスッと出さないとモテません。今この
会場に居る男性方は皆そういう能力を持っています﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
﹁えぇ。女性を褒めるのも貴族の仕事。特に懇意にしている貴族の
妻子を、ね﹂
そういうものか。
確かに自分の娘や奥さんが﹁お綺麗ですね﹂と言われたら当主も
悪い気はしないだろう。そのままいい気になって、褒めた側の言う
ことを聞いてしまうかもしれない。貴族社会特有の必須スキルと言
うことか。
⋮⋮めんどくせぇ。やっぱ貴族になりたくないね。もう片足突っ
込んで⋮⋮いやでも、まだギリギリ大丈夫だ。﹁卿﹂に実質的な意
味はないってカレル陛下も言ってたし。
﹁勉強になります﹂
﹁ふふ。ユゼフさんにも知らないことがあるんですね﹂
﹁知らないことだらけですよ﹂
俺は神じゃない。何でもは知らないし、知ってるはずのことを忘
1882
れることもある。
﹁ところで殿下。諸国の外交官らとのご対談は済んだのですか?﹂
﹁済んだ⋮⋮と言いたいところですが、何せ数が数です。全ては無
理ですね。とりあえず各国の代表と会っただけです。それに⋮⋮﹂
殿下はそう言って言葉を詰まらせ、ただ肩を軽く竦めた。マヤさ
んの方はちょっと怒りつつも苦笑い、サラはツンとして⋮⋮るのは
いつものことか。また何かハラスメント的なことを言われたんだろ
うか。
エミリア殿下に言うハラスメントと言えば⋮⋮やっぱりあれかな、
身長の事かな。
いやね、こう言っちゃ不敬極まりないけど、エミリア殿下って身
体的な成長が遅いのよね。6年前と変わらず金髪美少女ロリ。たぶ
ん年齢的にも身体的な成長は望み薄⋮⋮。士官学校という超体育会
系学校にいても身長伸びないなんて、運動すれば背が伸びるという
説はなんだったんだろう。
だけどそんな殿下は、武勲の巨大さはシレジア王国で右に出る者
は居ない。武勲と身長のギャップは激しい。もしその身長のことを
事前に知らなかった人間が、武勲の大きさのみでエミリア殿下を想
像し、そして実際に会ったらどうなるのか。
﹁まだ小さいのに武勲を立てるなんてすごいね!﹂
とか言うにちがいない。そのままズバリ言うわけないが、婉曲的
に、比喩的に、最大限華を飾って言うだろう。
本人はそれを気にしているのか、はたまた気にしてないけどさん
1883
ざん言われて辟易してるのかは知らないが⋮⋮いずれにせよこれだ
けは言える。
﹁私はそういうエミリア殿下が好きですがね﹂
金髪美少女のお姫様。お人形さんみたいで可愛いと思います。
一方、エミリア殿下は目をパチクリさせた以外は不動無口。驚い
ているようにも見えるが﹁お前は何を言っているんだ﹂という感じ
もする。
﹁あー⋮⋮申し訳ありません、いきなり。やや不敬でした。謝罪い
たします﹂
ここで怒らせたらまずい、と思い頭を下げたものの⋮⋮エミリア
殿下からの反応は暫く帰ってこなかった。もしかして謝罪だけじゃ
不満なのか、と思ったが、
﹁あ、その、だ、大丈夫です。ちょっとビックリしただけなので⋮
⋮﹂
エミリア殿下は頬を赤く染めてそっぽを向いてしまった。どうや
ら単に驚いただけらしい。まぁあんな恥ずかしいことをよくもまぁ
真顔で言えたもんだと。⋮⋮あ、ダメだ。思い出すとこっちまで恥
ずかしくなる。夜に布団の中でわーわー叫びたくなる!
﹁⋮⋮すみません﹂
とりあえず謝罪。殿下は﹁大丈夫ですから﹂と小さく慌てた声で
言ってくるが、こっちは黒歴史がかかってるので。
1884
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな慌てるエミリア殿下の脇で殺意の目を光らせている人物の
視線が余所に向かうまで俺は頭を下げるのをやめない。君がッ、視
線を逸らすまで、謝るのをやめない!!
なにこの卑屈な主人公。絶対受けない。
頭を下げ続けるのには限界がある。1分程度で俺は頭を元の位置
に戻さざるをえなかったし、そして当然エミリア殿下の両脇にいる
人間の視線が痛い。
﹁ユゼフ﹂
﹁⋮⋮な、なんでしょうかサラさん﹂
﹁さん付け﹂
﹁ハイ﹂
殴ることも蹴ることもデコピンもせず、わかりやすい単語を1つ
だけ放つサラがとてつもなく怖い。マヤさん以上の殺意⋮⋮いや、
ち、違う。こ、こいつ凄みで⋮⋮!
﹁公衆の面前で王族を口説くなんて、エミリアに迷惑掛かるでしょ。
たぶん誰にも聞かれてないだろうけど、次からは気を付けなさい﹂
﹁⋮⋮あ、うん。ごめんなさい﹂
あの、これ本当にサラ?
向けてくる視線は過去何度か見た事のあるソレだったけど、今の
凄い常識的な意見はどちらかと言うとマヤさんが放つものだ。でも
今のはサラの声だった⋮⋮。
1885
どういうことなの。なにがあったの。
﹁⋮⋮まぁ、サラ殿の言う通りだ。自重したまえ、ユゼフくん﹂
と、マヤさんからの忠告。
うん。サラにマジレスさせてごめんなさい。
﹁コホン。まぁ、それはさておいて、殿下はあの宰相閣下とお話に
なられたんですか?﹂
そう言って、俺はその人物を見やる。会場のほぼ中央、一際目立
つ存在がそこにある。東大陸帝国宰相セルゲイ・ロマノフだ。
彼は今、シャウエンブルク公国元首であるアルブレヒト・フォン・
シャウエンブルク大公と御歓談中。両者笑顔を振りまいているし、
衆目を浴びているということもあって、恐らくは雑談に興じている
だけだとは思うが。
﹁話しましたよ。少しだけ、ですが﹂
﹁どのような内容で?﹂
﹁⋮⋮特殊なことはしていません。所作やマナー、貴族的な言い回
しなどは完璧に近く、流石は次期皇帝であると言えるでしょうね﹂
そう言って殿下も若き帝国宰相へ目を向け﹁それに﹂と言って続
けた。
﹁会った瞬間⋮⋮いえ、正面から彼の目を見た瞬間、ただならぬ雰
囲気を感じ取りました。この方はきっと、その目の内に遠大なる野
望と、それを実行するだけの才幹と勇気があるのではないか。そう
思わせるだけの力が、彼の目に宿っていたのです﹂
1886
セルゲイを見るエミリア殿下の目は、少し切なげなものだった。
でもそれが何を意味するのかはわからない。そのまま口を結んでし
まったエミリア殿下に代わり、マヤさんが発言を引き継ぐ。
﹁私も似たようなことを思ったよ。恐らく彼の目を見た凡庸な人間
は、それだけで忠誠心を捧げてしまうだろうね。彼はそういう才能
を持っているのだろう﹂
﹁⋮⋮カリスマ性、という奴ですか﹂
﹁さぁな。いずれにしても、結論は出ている﹂
マヤさんはそう言うと、殿下と同じように、いやこの会場にいた
ほとんどの人間と同じように、セルゲイ・ロマノフを見た。殿下と
違って、マヤさんの目には闘志が宿っていたように見える。
﹁あれが、私たちの敵だ﹂
1887
姉︵前書き︶
2話同日更新
2/2
1888
姉
﹁あら、ここに居たの﹂
セルゲイの話を一通り終え、さてどうするかと一同で悩んでいた
時に急に話しかけられた。誰に話しかけたのか、ていうかそもそも
声の主は誰だと思ったが、後者に関しては割とすぐに解決した。
何せ、その人物が俺の良く知っている人間とそっくりだったから。
そっくりと言うより、その人物をあと5、6年程成長させたらこん
な感じになるんじゃないかな、という感じの人となりだったのだ。
その成長前の姿である彼女は小さい溜め息の後にその人物の正体
を言ったのだ。
﹁⋮⋮お姉様﹂
いつぞや聞いた、フィーネ・フォン・リンツのお姉さん。リンツ
伯爵家の長子長女で、将来に置いてその家督を継ぐ人物。
クラウディア・フォン・リンツだった。
−−−
事情を知らないエミリア殿下らに、フィーネさんは﹁姉のクラウ
1889
ディアです﹂と簡潔に紹介した。凄い事務的な表情と顔で。努めて
感情を表に出さないようにしているのがわかった。
妹から紹介されたクラウディアさんは、エミリア殿下らにご挨拶。
彼女の挨拶はガッチリ形式はまったものだったが、教科書通りの演
出という感じもしない。自然とこういう動作ができる人間というこ
となのか。これも貴族家長子に産まれた人間の必須スキルなんだろ
うか。
にしてもクラウディアさんは、フィーネさんに似ている。顔や声、
髪は勿論、紅茶派であること、ちょっとした所作もフィーネさんの
それに似ていたのだ。遺伝なのか、それともマナーを教えた人に似
たのか。
ただ、勿論違う点もある。
というか、そっちの方が目立つので結果的には﹁姉妹なのに全然
違うんだね﹂という結論に着陸する気がする。
まず1つ。表情が多彩で、そしてよく変化する。
最近は柔らかくなったとはいえ、自嘲以外の笑顔は滅多に見せな
い鉄仮面のフィーネさん。対して社交辞令かは知らないがとにかく
笑顔をばら撒くクラウディアさん。
そして2つ目は⋮⋮、
﹁そっか、君が噂のお父さんの友人なのかぁ。意外と可愛い顔して
るね。あ、もしかして女の子?﹂
﹁違いますけど⋮⋮﹂
﹁だよね! お父さんはフィーネと結婚させるんだって乗り気にな
ってるし、まさか女の子なわけないよね! そう言えば君いくつ?﹂
1890
﹁16、今年で17で⋮⋮あの﹂
﹁なるほど17歳。つまりフィーネと1個違いだね。うんうん、丁
度良いじゃん。お似合いだよ。可愛い妹と可愛い義弟。うんうん、
いい感じ。結婚しちゃえば?﹂
﹁いや、その気はないですので﹂
﹁なんでよー。⋮⋮わかった。年上が好きなんだね!﹂
﹁いや離れすぎていなければ年齢はあまり気にしな、じゃなくてク
ラウディアさん良いですか?﹂
﹁何?﹂
﹁そろそろ、離れてくれると嬉しいんですけど⋮⋮﹂
その2、なぜかいきなり抱き着いてきた。しかも一国の王女の前
で!
フィーネさんは絶対こういうことはしない。流石のこの事態にエ
ミリア殿下らは目を白黒させているが、この場で一番困惑している
のはたぶん俺だ。
いったいどういうことなのか説明して頂戴!
本当にこの人フィーネさんの姉、あのリンツ伯爵の娘なの!?
﹁えー⋮⋮﹂
﹁いや、﹃えー﹄じゃなくてですね、そろそろ辛いです﹂
頭の後ろにクラウディアさんの、その、大きなアレがあるという
状況が結構つらい。今必死に全然別のこと考えて荒ぶるあれを押さ
え込んでるんだから!
﹁んふふ、男の子だねぇ⋮⋮。あ、いいこと思いついた。ねぇ君、
私と結婚しない?﹂
﹁はいぃ!?﹂
1891
離れてくれない上に何言ってんのこの人!?
﹁だってさ、フィーネと結婚してくれないんでしょ? でも君と結
婚することで我が伯爵家には利点があるのは確か。だから結婚しま
しょうってこと。この場合、私は十中八九爵位は継げなくなるけど、
他にも弟妹はいるから問題なし、ていうか私は年下の男の子が好き
だし。だから私は家に迷惑をかけず君を娶ることができて⋮⋮じゅ
るっ﹂
おい待て今の﹁じゅるっ﹂て音は何だ。クラウディアさんの声質
もだんだん最初のものと全然違くなってるし、もうなんだろうねこ
れ。
﹁良い案だと思わない? ねぇ、私と結婚しましょ? そして⋮⋮﹂
﹁ダメですッ!﹂
と、ここでフィーネさんが俺とクラウディアさんの間に割って入
ってきた。おかげでクラウディアさんの暴走とも言える発言は中断
され、俺は開放された。よかった。そろそろ色々限界だったもんで。
クラウディアさんを引き剥がすことに成功したフィーネさんと言
えば、珍しく怒って⋮⋮珍しくないか。散々オストマルクでフィー
ネさんに怒られたし。
﹁クラウディアお姉様、場所と時間を考えてください。ここは講和
会議の場、エミリア王女の目の前、そしてあと数時間で会議開催な
んですよ﹂
﹁えー、でもー⋮⋮﹂
﹁でもじゃないです。お姉様が暴走するのは初めてじゃないから私
1892
は慣れましたが﹂
初めてじゃないんだ⋮⋮。フィーネさんから話聞いた時は、もっ
と﹁仕事の出来る女!﹂みたいなのを想像していただけに、なんと
も⋮⋮こう、ね?
﹁フィーネ、聞いても良い?﹂
﹁なんですか、お姉様。言い訳なら聞きませ﹂
﹁どうして﹃ダメ﹄って言って止めたのかしら。あなたの言い分だ
と﹃空気を読めないから﹄止めたということだけど、それだと﹃ダ
メ﹄って止めるのは可笑しいわよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
フィーネさんが珍しく固まった。こちらに背を向けているので彼
女の表情を窺い知ることはできないが、クラウディアさんのそれは
見ることができる。超ニヤニヤしてる。
﹁そ、それは⋮⋮家督を継ぐクラウディアお姉様がユゼフ少佐と結
婚しては家に迷惑が⋮⋮﹂
﹁その件については説明したじゃないの。別に長子以外の子に継が
せても別に問題ないのだし、それにヴェラもライナルトも優秀なの
はあなたも知ってるでしょ?﹂
﹁し、しかし、お姉様は聞けばお父様から縁談の話を持ち込まれた
って⋮⋮!﹂
﹁どうしたの、フィーネ。そんなに顔赤くしちゃって﹂
﹁してませんっ﹂
﹁ふーん? そうは見えないけど。まぁいいわ。お父さんには悪い
けど、縁談はたぶん破談になるわ﹂
﹁⋮⋮どうしてです?﹂
﹁ん? 年上だったから﹂
1893
﹁⋮⋮﹂
見えないけど今絶対フィーネさん口開けて呆けてると思う。賭け
ても良い。ショックから立ち直ったフィーネさんとクラウディアさ
んは小声で言いあっていたが、様子を見るにフィーネさんの惨敗。
クラウディアさんの口から﹁フィーネも小っちゃい頃は可愛かっ
たのよ。なんせ私の事﹂と言い出し始めたあたりでフィーネさんが
クラウディアさんを強制連行していった。
そして戦場跡地にはフィーネさん以上に呆けた顔をしているだろ
う俺とエミリア殿下、サラ、マヤさんが残る。
﹁なんて言って良いかわかんないけど、彼女、苦労してそうね﹂
サラさんの言葉に、一同は頷くことしかできなかった。
ちなみにその後、フィーネさんが戻って来たが﹁少し頭を冷やし
に行くので席を外します﹂と言ってこの場を立ち去った。
⋮⋮フィーネさんがクラウディアさんを苦手とする理由がよーく
わかった。
そして確信した。
クラウディアさんは間違いなくリンツ伯爵の娘だ、ってことがね。
1894
姉︵後書き︶
そう言えばフィーネさんってどんな髪色してると思います?︵決め
てない︶
1895
草案
4月20日15時丁度。
1分どころか1秒の狂いもなく、カステレット砦内にある宝玉の
間において後世﹁カステレット講和会議﹂と呼ばれることになる講
和会議の幕が上がった。
初日である今日の会議、﹁第一回本会議﹂の内容は、序盤はそん
なに重要なものではなかった。会議をどう運営し、どのように進め
るか。そして議長は誰か、決裁権の範囲はどれほどか。それを議論
する。議論といっても、このような会議では慣習に則って云々する
ので、この段階で異論が出ることは少なく、そして今回の場合もそ
うだった。
問題が起きるのはその後、シレジア王国が作成した講和条約草案
の提出である。提出だけで、特に議論することはない。東大陸帝国
側も草案を精査し、どれを受け入れてどれを拒否する時間がないと
判断しようがないからだ。
条約提出の後は﹁双方ともに実りある会議にしましょう﹂と締め
括られ、両国代表者の笑顔の握手によって初日の会議が終了し、そ
の後各国外交使節団と夕食を共にした⋮⋮らしい。
らしいというのは、一介の佐官である俺が会議や会食に出席でき
るはずもなく、エミリア殿下から聞いただけだから。
それをどうこう言っても仕方ないし、たぶん俺が出席しても緊張
で縮こまるだけなので不満はない。エミリア殿下を直接支えること
はできないが、会議前後ならばそれができる。
1896
会食が終了してから暫く経った、20時20分。俺、エミリア殿
下、そしてフィーネさんが適当な部屋に集まり、双方が提出した講
和条約草案を分析を始めた。サラとマヤさんは扉の外で待機し、万
が一に備えてもらう。
⋮⋮てか今さらだけど女子率高いな今回。別に困らないからいい
けど。
それはさておき、王国側が提出した条約草案の分析を始める。外
交交渉に来た王女が自国提出の草案の内容を詳しく知るのが今日が
初めて、なんていうのは普通は恥とも言える事態だ。どれもこれも
公開を渋った大公が悪い。
だからちゃんと勉強しなくちゃね。
シレジア王国提出の講和条約草案、要点だけを纏めると以下の通
り。
一、本条約の締結をもって、両国の戦争は終結すること。
二、東大陸帝国政府は、帝国西部ヴァラヴィリエとその周辺地域
及び村落、帝国西部ルドミナとその周辺地域及び村落をシレジア王
国に譲与すること。両地域に存在する東大陸帝国政府が保有する一
切の公共財産についても同様である。
三、東大陸帝国政府は、シレジア王国が戦争のために使用した費
用を全額払い戻すこと。払い戻しの金額や時期、方法は別途協議の
上で決定すること。
四、両国が保有する捕虜に関してはその全てを解放すること。捕
虜解放にかかる費用は、全て東大陸帝国政府が負担すること。
五、東大陸帝国政府は、ラスキノ自由国が完全無欠の独立国であ
ることを確認すること。
1897
とまぁ、こんな感じだ。
言ってしまえば、これはギニエ休戦協定の内容をさらに深めたも
のとなる。
一に関しては説明不要。
二の前半部分も説明はいらないかな。後半部分は、単に﹁その都
市にある役所や駐屯地などの不動産、書類や軍事物資などの動産も
貰うからね﹂という意味。
三は賠償金の話。
四も説明不要。ただし捕虜が全員帝国政府に従順とは限らないけ
どな!
五に関してはおまけみたいなもんだ。東大陸帝国政府は未だラス
キノを独立国家として認めてないからちゃんと認めてあげてね、と
いうこと。
⋮⋮なんていうか、ケチがつけようがないくらいまともな内容だ。
カロル大公のことだから﹁シレジアは何もいりません! 平和さえ
あればそれでいいんです!﹂って両手を上げながら言うのかと思っ
たんだけど。
﹁まぁ、対外的にも対内的にも色々と言っておかないといけません
からね。一応勝者ですから﹂
と、エミリア殿下。
実際その通りだ。勝者が勝者らしくしていないと、舐められる以
前に怪しさ満点だ。
問題は、この草案にどれほどエミリア殿下の意見を通せるかだが、
それは東大陸帝国側の返答を聞いてから判断するしかない。
1898
−−−
2日後、﹁第二回本会議﹂が開かれ、東大陸帝国外交使節団首席
セルゲイ・ロマノフが、シレジア王国側が提出した草案について返
答した。その気になる答えは⋮⋮
﹁一、四、五については完全に同意、三については﹃今後の協議次
第﹄と言われましたが大筋で合意。ですが二についてはシレジアに
占領されてすらいない地域を割譲することはできない⋮⋮とのこと
です﹂
﹁それはもう、完全拒否と言っていいのでは⋮⋮﹂
二の領土割譲については言わずもがな。三の賠償金についても﹁
大金払うつもりはない﹂と言っているようなものだ。それじゃ帝国
の負けではなくて、引き分けじゃないか。
フィーネさんも俺と同じ意見のようで、
﹁やはり帝国は負けていない、という意志の表明なのでしょうか。
気持ちはわかりますが、やはりここからどう有利に持っていくかが
問題ですね⋮⋮﹂
﹁えぇ。あるいはそうやって会議を長引かせ、私達が外国にいる間
シレジアに残る叔父様⋮⋮カロル大公に行動の自由を与える意図が
あるやもしれません﹂
このような講和会議、時間がかかることが通例だ。今回は交戦国
が2ヶ国だけなのでそんなに長くならないだろうが、それでも1ヶ
1899
月はかかると見るべきだ。もしこれが多対多の戦争だったら、利権
の奪い合いと折衝に時間を割かれ、半年以上は覚悟しなければなら
なくなる。
こりゃ、結構苦労するかもしれないな。
1900
草案︵後書き︶
フィーネさんの髪色について
茶色か銀色かという意見が多いようですね。私もどっちか迷います
ね。
というわけで気になったのでもうツイッター投票機能を使います。
↓https://twitter.com/waru︳ichi
/status/668862334178201601
今回は4択。銀、栗、焦げ茶、紅茶色。
もしかしたら投票結果が書籍版の絵に採用される⋮⋮かも?︵結局
は私の気分次第ですし深く考えなくても大丈夫です。参考にする程
度です︶
よろしくお願いします。
追記︶クラウディアお姉様の髪色もフィーネさんと同じになります
1901
改案
東大陸帝国外交使節との折衝は平行線を辿っている。
4月23日に開かれた﹁第三回本会議﹂では、オストマルクやシ
ャウエンブルクの外交使節団の仲介、あるいは援助によって東大陸
帝国政府に譲歩を求める発言をする。しかし帝国政府は頑としてこ
れを拒否。
この直後、ちょっと面白いことが起きた。
リヴォニア貴族連合外交使節団が﹁ヴァラヴィリエの領土割譲の
みを論点に議論しないか﹂と提案したことである。要は妥協点を示
したわけだが⋮⋮、
﹁リヴォニア政府はやはり反シレジア同盟という枠組みを堅守した
い、ということだろうか﹂
エミリア殿下の護衛として会議に同席したマヤさんがそう推測し
た。
リヴォニアのこの妥協案の提出は東大陸帝国政府に対する一種の
媚びではないか、というのが彼女の推測だった。
﹁微妙なところですね。そもそもリヴォニアがどういう目で現在の
大陸情勢を見ているのかが不明です。オストマルクのようにシレジ
ア滅亡後の東大陸帝国の伸張を警戒しているのであれば、今回の行
動はシレジア王国に対する援護射撃とも見れます。しかし反シレジ
ア同盟を堅守したいと考えているのであれば、おそらくマヤさんの
推測は当たっているでしょうね﹂
1902
﹁両方、という可能性もあるな﹂
﹁えぇ。⋮⋮その場合、中立という言葉であっているんでしょうか﹂
﹁いや、この場合は日和見主義と言った方が良いだろう﹂
シレジアが滅んでも滅ばなくても、東大陸帝国がリヴォニアの敵
となってもならなくても、どっちに転んでもいいような行動をする。
シレジアの味方と思わせておいて東大陸帝国の⋮⋮と思わせておい
てやはりシレジアの⋮⋮、ということだ。
もっとも、東大陸帝国側の反応を見るにこれは失敗だったかもし
れない。
﹁今までは東大陸帝国のことばかりを気にしていましたけど、もし
かしたらリヴォニアも同様な警戒が必要であるということですか。
ここらへんの情報をもっと集めなければなりません﹂ ﹁そうだな。と言っても、我が国の外務省にその気があるかどうか
⋮⋮﹂
国際情勢を掴むために一番役に立たないといけない外務省が政敵
というのは、なんとも辛い話だ。
−−−
翌4月24日。
オストマルク帝国外務大臣秘書官クラウディア・フォン・リンツ
1903
と連絡将校であるフィーネさん、そして俺とエミリア殿下で非公式
の会談。マヤさんとサラさんは扉の外で待機⋮⋮と言いたいところ
だったが、サラさんは、
﹁別に、一緒にいたって役に立たないし⋮⋮﹂
と、ややしょぼくれながらどっか行ってしまった。別に役に立た
ないとは言ってないのだけど⋮⋮。だけどクラウディアさんを待た
せるわけにも行かず、また彼女が足早にどこかへと消えてしまった
ので、残念ながら後を追うことはできなかった。
しかし、どうも今回の場合波乱を持ち込んでくるのはサラさんで
もフィーネさんでもなくクラウディアさんのようである。理由? 聞かないでくれ。
﹁うーん、君はどう思う?﹂
﹁いや、あの、その前に離れてくれると嬉しいのですが⋮⋮﹂
﹁えー⋮⋮﹂
いや本当に聞かないでほしい。何度も同じ説明をするのは骨が折
れる。
話の本題は、今後どうやって条約締結に持ち込むかの作戦会議、
のはずである。
クラウディアさんは渋々離れてくれたので、ようやく俺はそれに
ついて考えられることができる⋮⋮わけないわな。フィーネさんか
らの目が痛いし、ちょっと背中に感触がね?
﹁えー、あー、まぁ。戦争の結果は帝国の惜敗でしたから、領土割
譲と賠償金支払、どちらかは帝国は譲歩すると思います。それを妨
1904
げているのは、恐らくは帝国内部の政争。即ち、皇帝派と皇太大甥
派の争いでしょう﹂
シェプタ
会議開催前の情報収集時、﹁王笏座﹂でサラさんが国務省官僚か
ら得た情報によれば、帝国宰相セルゲイは政敵である皇帝派貴族へ
の警戒を緩めてはいない。恐らく、彼らに叛乱の名目を与えないよ
う神経を尖らせつつ、自らの勢力をじわじわと広げている最中なの
だろう。
﹁つまり、我々が彼らに提案するべきことは屈辱的和平ではないと
いうことですか﹂
﹁そういうことです、殿下﹂
﹁となると⋮⋮領土割譲は難しそうですね﹂
ヴァラヴィリエやルドミナを治めている貴族がどちらの派閥かは
知らないが、どっちにしろそれが叛乱の契機になる可能性がある。
皇帝イヴァンⅦ世が生きている間に、皇帝派はセルゲイを帝位継承
争いから追い落としたいのだ。
﹁ユゼフ少佐。それでは賠償金問題も彼らは渋るのでは? 捕虜解
放に関する費用供出には同意しましたが、やはり賠償金を払うこと
は負けたことと同義と取られます﹂
と、フィーネさん。
﹁いや、捕虜解放費用供出に彼らが賛同してくれたとあれば、やり
ようはあると思います﹂
﹁と言うと?﹂
﹁要は、賠償金を捕虜解放費用という名目で払わせるんですよ﹂
1905
賠償金を払う=負けた、と見られて皇帝派貴族が⋮⋮というのは
フィーネさんの言う通り。
なら賠償金という名目ではなければ? 例えば帝国政府の命令に
従い、そして命を賭して戦った兵士の帰還のための費用だとしたら。
まさかその費用をケチることはできまいし、実際セルゲイもこの
事項には賛同の意を示してくれた。なら、賠償金を捕虜解放費用に
入れてしまえばいいのさ。
表向きには捕虜解放費用、実質的には賠償金。
この際賠償金は﹁お金﹂じゃなくてもいい。帝国から来る捕虜を
運ぶための馬車に、賠償金代わりに相応の資源や物資を支払うでも
いい。
﹁なるほど。それなら皇帝派は叛乱の名目が立たない。むしろ﹃賠
償金が取られるかもしれない状況下で、よく賠償金項目を外した﹄
と、逆にセルゲイの評価が上がるかもしれない。そういうわけだね
? 君、結構すごいね﹂
と、クラウディアさんが推測。いや後半の部分は全然考えてませ
んでした。そんな敵国の宰相を応援するつもりなんて毛頭なかった
のに⋮⋮。
しかもフィーネさんがこれに追い打ちをかける。
﹁それにシレジア王国内の、国王派と大公派の対立も上手く避けら
れるでしょう。確かに﹃賠償金の支払い﹄という名目は立てられま
せんでしたが、実質的には妥結していますので国王派には﹃名を捨
て実を得る﹄ということで納得するでしょう。大公派貴族もセルゲ
イに協力する立場にあるため、セルゲイが損をしないこの条文には
反対しないはずです。名目的な問題で多少の攻撃はするかもしれま
せんが、実質的な賠償金はあるため口封じは容易ですね﹂
1906
﹁すごい!﹂という目を送ってくるフィーネさん。ごめんなさい、
そこまで考えてませんでした。フィーネさん凄いね、そこまで考え
られるなんて。
エミリア殿下はクラウディアさんとフィーネさんの考えを聞いて、
考え込んでいる様子。迷っているかというよりは、思考が次の段階
に入っているという感じの表情だった。
﹁ではその件については私から陛下に上申し、外務尚書らと共に協
議に入りたいと思います。残る領土割譲問題と併せて⋮⋮と言いた
いですが、やはりこちらは諦めるしかありませんか。国防上の問題
がないわけではない⋮⋮、というのは総合作戦本部次長閣下の言で
すが﹂
ここで殿下が言った﹁国防上の問題﹂というのは、恐らく﹁領土
割譲すると国境線が前進し、その分だけ戦線が長くなって兵が分散
される﹂ということだろう。それに伴って新しく軍事拠点を立てた
り軍拡したり⋮⋮というのは、今のシレジアの財政では無理がある。
まぁ、それに関しても案がないわけではない。領土割譲について
諦める、という意見には変わらないが、でも領土割譲以外に実のあ
る内容だと思う。
お互いにとってもね。
1907
改案︵後書き︶
フィーネさんの髪色は何色だ投票。
結果は
銀髪︵65%︶、栗色︵19%︶、こげ茶色︵6%︶、紅茶色︵1
0%︶
総投票数124票です。
ご協力ありがとうございました。
なお、参考にする程度なのでこの結果が反映されるかどうかは私と
編集さんの気分次第と言ったところです。
クラウディアさんもフィーネさんと同じ髪色って設定ですので。
1908
二度あることは
4月25日。
スピカ
捕虜解放費用と称した賠償金支払いと領土割譲に関する話し合い
の場が、カステレット砦にほど近いホテル﹁真珠星﹂に設けられた。
内容が内容だけにこの話し合いは非公式かつ非公開、そして出席
者も少ない。
シレジア王国側の出席者は、首席のフランツ陛下とその秘書、エ
ミリア殿下と補佐役のマヤさん、そして外務尚書ヴァルデマル・グ
ラバルチクとその秘書官が参加。対する東大陸帝国側は、首席のセ
ルゲイ・ロマノフ宰相、宰相の補佐役として皇帝官房長官と国務大
臣、軍事大臣がこの秘密会議に出席する。
シャウエンブルクやオストマルク、リヴォニアやカールスバート
などの第三国からの出席者はいない。
そして俺と言えば、秘密会議が行われている部屋の隣にある控え
室で、サラさんと東大陸帝国側の人間と待機している。
また会議に出席していないのか、とか言わないでほしい。一佐官
が出る幕ではない。フィーネさんから﹁エミリア殿下の補佐をして
ほしい﹂と要請されたのに全然補佐できてない状況に嘆いているん
だから。まぁ、殿下は普通に物事を考えられる御方なので俺みたい
な小物の補佐などいらないだろうが。
でも控え室にいる間も黙っているというわけではない。一応俺の
目の前には東大陸帝国の人がいるし、結構話しかけてくるのだ。結
1909
構気まずくはある。いろんな意味で。
﹁捕虜解放が賠償金代わりか。我々の立場をよく考えてくれて嬉し
・・・・・・・
いものだね。金銭で捕虜を交換していた時代のようだが、これが最
適解だと私も思うよ。メイトリックスくん﹂
﹁あの、もうその名前はやめてください⋮⋮﹂
シェプタ
俺の目の前にいる人間、居酒屋﹁王笏座﹂でサラを颯爽と助け帝
国国務省官僚を担いで何処かへと消え、と思ったらその翌日に喫茶
店﹁マルグレーテ﹂で盛大な溜め息を吐いていたイケメン。
帝国軍少将ミハイル・クロイツァー。帝国宰相セルゲイ・ロマノ
フの侍従武官である。
そんな人間に偽名を使ったあげく重要な外交会談で再会。今すぐ
窓を開けて飛び降りたくなるくらいの失態である。あの時フィーネ
さんが意味ありげに彼の名を呟いていたのは、もしかしてこのこと
を知っていたからかもしれない。
﹁気にすることはない。お互いに立場や任務というものがあるのだ
し、それに私自身世話になったしね。そちらの御嬢さんも、元気そ
うでなによりだ﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
と、これが気まずさの理由である。わかってくれるかこの空気。
今の俺はジョセフ・メイトリックスくんだし、助けられたサラも
なんて返事して良いのかわからないのかそっぽ向いてるし、でもク
ロイツァーさんは気にせず話しかけてくるしで何とも言えない空気
となっている。
1910
殿下! はやく会議まとめて!
﹁それでは、メイトックス改めワレサ少佐。この条約改訂案を考え
たのは、エミリア王女殿下ですか?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
ここでもう1度嘘を吐く度量は流石になかった。嘘を吐かなけれ
ばいけない理由も特に見当たらなかったし。むしろ下手に嘘を吐い
てこれ以上関係を悪化させたくもなかった。
﹁では、誰です?﹂
﹁私です。正確に言えば、私が提案し、エミリア殿下が改良を加え
たものです﹂
﹁なるほど。その年で大したものですね﹂
そうクロイツァーさんは褒めた。皮肉という言葉を知らなそうな
彼の優しそうな顔から察するに、それは本当に褒めている⋮⋮と思
う。その裏でとんでもなく俺のことをバカにしているのかもしれな
い。
シレジア王国・東大陸帝国講和条約改訂案。
改訂したのは賠償金と領土割譲に関する項目の削除。そして新た
な項目の追加。それこそが、今回の秘密会議の目玉と言って良いだ
ろう。
﹁領土割譲要求を放棄する代わりに﹃緩衝地帯﹄を設定か。考えた
ものだね﹂
クロイツァーさんは、良いとも悪いとも言わず、俺が提案した条
文をそう評した。
1911
具体的な条文は次の通り。
東大陸帝国側両国国境地帯に、幅100キロメートルの緩衝地帯
を設定し、当該地域における東大陸帝国軍の駐留及び軍事施設の建
設を認めないこと。なお、当該地域における治安維持目的のための
最低限の兵力を駐屯させることは例外として認める。当該地域の非
軍事性が遵守されているかどうかを監視するため、シレジア王国か
ら当該地域に武官を派遣すること。この条文は、双方の平和的な会
談の場においてのみ変更が可能であり、両国の承認なしに変更する
ことは認められない。
その後に細々とした条文が続くわけだが、今回は割愛。
﹁この緩衝地帯があれば、たとえ我が国が貴国を再び侵略しようと
しても、貴国には時間的余裕が生まれます。100キロメートルあ
れば5日から1週間程度は時間が空くし、その間に情報収集や防衛
体制の構築が叶うということですね﹂
﹁⋮⋮そういう解釈もありますね﹂
そういう解釈も何も、それを想定しての条文である。
この緩衝地帯があれば、どこからどれだけの軍隊がやってくるの
かを正確に測れることができるし、それだけ防御側が有利に働く。
次に起きる戦争がは、春戦争のように事前の情報収集が完璧にでき
るとは限らない。また軍事施設の建設も認められていないので、緩
衝地帯に補給基地を建設できず、侵略に際しては兵站の問題が出て
くる。
即ち、侵略しにくく、かつ防衛しやすい地帯を意図的に作るのだ。
1912
でも、東大陸帝国側にもメリットはある。あくまで当該地域は緩
衝地帯であってシレジア領ではない。軍事的空白地帯という意味を
持たせただけで、その地域の主権は東大陸帝国にある。
つまり、東大陸帝国はヴァラヴィリエもルドミナも放棄しなくて
いい。これならば皇帝派貴族の反感は小さなもので済むはずだ。
問題は⋮⋮これが呑まれるかどうか。呑まれるにしても、100
キロという長さが認められるか、賠償金問題との兼ね合いがどうな
るか。その辺の議論がたぶん隣室で行われているはずである。
でも、この控え室に来てからはその問題は考慮しなくなった。も
っと大きな問題を見つけてしまったような気がするからだ。
それが目の前にいる男、ミハイル・クロイツァーである。
﹁これでシレジア王国は、平和を手に入れることができる。そうい
うことですね﹂
﹁⋮⋮﹂
裏に何もない言葉だとは感じた。
でもなぜか﹁お前のやっていることは無駄なのだ﹂と言われた気
がしたのだ。
これで大丈夫なのか、少し不安になった。
−−−
1913
1時間程した後、隣室の扉が開き、中からエミリア殿下らが出て
きた。エミリア殿下の表情は、ちょっと暗い。
クロイツァーさんはセルゲイ・ロマノフに駆け寄り、俺とサラは
エミリア殿下に近づく。一通りの挨拶を済ませ、東大陸帝国外交使
節が離れたことを確認した後に殿下が申し訳なさそうに口を開いた。
﹁⋮⋮非武装緩衝地帯の設定は、50キロメートルということにな
りそうです﹂
﹁そうですか⋮⋮いえ、でも大きな収穫アリだと思います﹂
確かに100キロから50キロは随分減ったが、それでも非武装
緩衝地帯を設定できたこと自体は大きい。あとは運用次第でどうに
かなる。
﹁捕虜解放の件は?﹂
﹁そちらは大丈夫です。ただあちらの言い分としては﹃緩衝地帯設
定も考慮して戴ければ﹄とのことでして、具体的にどうなるかは⋮
⋮﹂
﹁まぁ、それも仕方ないでしょう。気に病むことはありません﹂
﹁⋮⋮はい。ありがとうございます﹂
そう言いつつも、殿下は元気がなかった。
﹁エミリア、大丈夫?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
サラの問いかけにも、暫く反応がなかった。サラが再び﹁エミリ
ア?﹂と声を掛け、ようやく反応を見せた。
﹁大丈夫です。少し、疲れただけですから﹂
1914
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁はい。本当です﹂
けどその日、エミリア殿下は一日中元気を取り戻すことは終ぞな
かった。
1915
2﹄書影公開。12月15日発売です
二度あることは︵後書き︶
﹃大陸英雄戦記
https://twitter.com/waru︳ichi/
status/670199023362424832
1916
落ち込む理由
エミリア殿下の様子が変だ。
まぁ、こういう時は慌てない方が良い。なにせこちらには我らが
マヤさんがいる。彼女も秘密会議に出席していたのだから事情は知
っているはず。そう思って彼女に聞いてみた⋮⋮のだが、
﹁⋮⋮うん、その、私にも一応守秘義務があってな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
マヤさんは目を泳がせながらバツの悪そうな顔をしていた。こん
な彼女の顔を見るのは久々な気がする。暫くそんなマヤさんを眺め
て無言の真相追及をしたおかげか、彼女は﹁やれやれ﹂と言った風
で首を振った。
﹁そんな見つめないでくれ。惚れてしまいそうになるだろ﹂
﹁冗談言う暇があるってことは、まだそんなに状況は逼迫していな
いということですか﹂
﹁ま、そういうことだな﹂
肩を竦めながら、マヤさんは﹁だが﹂という逆接の接続詞を置い
た。
﹁状況はやや危険でね﹂
﹁⋮⋮というと? まさか捕虜の件がばれたとか?﹂
﹁そういうんじゃないさ。もっとこう⋮⋮私的と言っていいのかな﹂
﹁私的?﹂
1917
いまいち要領を得ない回答だった。マヤさんもどう説明したもの
か、みたいな顔をしていたけれど悩まなくていい。いっそ直球に言
ってほしい。理解できなかったら嫌だし。
﹁⋮⋮つまりだな﹂
﹁はい﹂
マヤさんは息を2、3回大きく吸ってから答える。
﹁セルゲイ・ロマノフ宰相閣下が⋮⋮その、したのだ。求婚を﹂
﹁⋮⋮誰にです?﹂
半ばこの時理解できてはいたが、聞く外なかった。もしかしたら
ほら、セルゲイくんがゲイって可能性も微粒子レベルで存在するじ
ゃない?
﹁⋮⋮⋮⋮エミリア殿下に、だ﹂
なかった。ちっともなかった。
そうか、あの若き帝国宰相閣下がエミリア殿下に告白したのか。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮うん。
﹁えっ?﹂
もう一度マヤさんに聞き返したが、答えは一緒だった。
1918
−−−
翌4月26日。
次の本会議、つまり﹁第四回本会議﹂の開催は、東大陸帝国側の
都合により4月28日になる旨が通知された。昨日の秘密会議で早
々にこちらの草案に了承が得られたので、後は第三国の出方次第⋮
⋮。まぁ表立って反対する理由はないだろうから、第四回、あるい
はその次の第五回本会議で決定されるだろう。あとは締結と批准を
するだけ。
ということは、早ければ5月の半ばには戻れるわけだ。会議開催
が4月20日だから、やっぱりどんなに急いだところで1ヶ月はか
かるものらしい。
まぁ、それは今はいい。﹁どうでもいい﹂と言っても良い。今俺
が問題としているのはそこじゃない。というのは、シレジア王国外
交使節団が宿泊しているホテルをあてもなくうろついているときに
出くわした腕である。
比喩でもなんでもない。生身の人間の腕だ。
あ、別にホラーやサスペンス的な意味はないよ。ただ廊下の角か
らエミリア殿下が上半身だけ出して﹁ちょっとこっち来てください﹂
のジェスチャーをしているという意味だ。
⋮⋮どっちにしろ意味不明である。いや、かわいいけどさ。
﹁どうしたんですか殿下、こんな⋮⋮﹂
1919
こんなところで、と言いかけた時、思い切り腕を引っ張られた。
エミリア殿下にこんな力がどこに、と思ったがこの方は士官学校剣
兵科三席だった。実技壊滅の俺が敵うはずもない。
あれよあれよと引き摺られ、ようやくエミリア殿下が止まったと
思ったらそこは豪華な部屋だった。所謂﹁超ウルトラハイパースウ
ィートルーム﹂である。つまりここはエミリア殿下にあてがわれた
部屋と言うことになり⋮⋮つまりどういう状況だ。
困惑する俺を余所に、エミリア殿下は頭を下げた。綺麗な最敬礼、
つまり腰の角度を45度に傾けている。王族がそんな頭を下げちゃ
まずい、と忠告しようとした時、もっと事態を混沌とさせることを
エミリア殿下が言ったのだ。
﹁ユゼフさん、お願いします! 付き合ってください!﹂
⋮⋮うん。わかってるわかってる。大丈夫大丈夫。
﹁⋮⋮⋮⋮あの、殿下﹂
﹁お願いします。私にはユゼフさんしか⋮⋮﹂
﹁とりあえず殿下、頭をあげてください。王族たる者、私のような
賤しい身分の人間相手に簡単に頭を下げてはいけませんよ﹂
﹁は、はい﹂
殿下はそう言って頭を上げ、頭を下げたときの勢いで軽くボサボ
サになった髪を手櫛で整える。
﹁それで殿下、﹃付き合う﹄というのはいったい⋮⋮?﹂
1920
まぁここでは﹁殿下と俺が男女関係的な意味で付き合ってほしい﹂
という意味ではないのは確定的に明らか。そんなのはラノベで散々
読んだ展開だ。ページ捲ったら主人公が落胆する場面から事が始ま
っているまでがテンプレ。うん、大丈夫大丈夫。そういう展開だっ
てわかってるからこそ落ち着け⋮⋮、
デート
﹁ユゼフさん、私と逢引してください!﹂
おおおおお落ち、落ちちちちちちち落ち落ち落ち着つつつつつ着
けけ、俺! 落ち着いて素数を数えろ! 1、2、3、5、7、9
⋮⋮ってこれは素数じゃなくて奇数⋮⋮いや偶数も交じってる! とりあえず落ち着け!
﹁で、殿下。あの、最初から、順序立てて説明していただけると嬉
しいのですが⋮⋮﹂
﹁す、すみません、その、慌ててしまって⋮⋮﹂
エミリア殿下も事の重大さを理解したのか急に顔を赤くして手を
わたわたさせている。ふむ。その反応を見るにどうやら男女関係的
なアレではないようだ。
よかった。危うく理性を失う所だった。
エミリア殿下は1回小さく咳き込んだ後、事情を説明してくれた。
﹁⋮⋮マヤから、その、昨日の会議の内容の事は聞いていますか?﹂
﹁えーっと⋮⋮それは、セルゲイ殿下からの⋮⋮アレですよね?﹂
﹁はい。その、求婚の件で⋮⋮﹂
求婚、という単語を口にした時の殿下の顔は、恥を忍ぶ、という
感じではない。どちらかというと困惑といった感じで、エミリア殿
1921
下自身にその気はないということなのだろう。
でも、政治的な意味を考えるとなるとどうなのだろうか。まさか
古代の君主みたいに﹁結婚しない? んじゃ戦争﹂とか言い出さな
い⋮⋮と思う。そもそもセルゲイ・ロマノフはやっている政策から
考えてもそういうことを言い出す人間ではない。でも理性と感情は
別か⋮⋮まぁいい。ここは考えても仕方ない。
﹁それが、どうしたのですか?﹂
﹁はい、その⋮⋮えっと、先程セルゲイ殿下からの使者が参りまし
て﹃次回本会議まで時間があるので、ゆっくりお茶でもいかがです
か﹄と⋮⋮﹂
と、殿下は両手を胸の前で動かしながら説明した。
ふむ。話が見えてきた。
つまりエミリア殿下に求婚を受ける気はさらさらない。しかし政
治的な事を考えると無碍にはできない。断るにしろ受けるにしろ、
ここで誘いを断るのは愚策というものだ。
﹁でも、いきなり2人きりでというのは不安ですので、その、ユゼ
フさんについてきて欲しいのです。護衛と言いますか、付添と言い
ますか﹂
﹁なるほど﹂
まぁ、如何に私的な話とは言え護衛も何もなしに本当に2人だけ
で密会というのはあり得ない。どっちにしても相手は仮想敵国の人
間だ。注意すべきことではある。けど、密会の場に過度な警備をつ
けることは相手の心象を損なうだけ。だから護衛は1人か2人、そ
して今回の場合は1人ということらしい。
1922
﹁⋮⋮しかし私でよろしいのですか?﹂
﹁ユゼフさんが良いのです。恐らく、今回の密会は政治的な要素を
含む⋮⋮と、思いますから﹂
最後の部分だけちょっと自信なさそうに、エミリア殿下はそう言
った。
そう言う理由があるなら、こちらとしては拒否する理由はない。
道中の警戒としてサラとマヤさんをつければ戦力的な問題はないだ
ろうし。
﹁わかりました。お受けいたします﹂
﹁ありがとうございます、ユゼフさん! では早速参りましょう﹂
その瞬間、エミリア殿下は俺の手を掴み、そして再びどこぞへと
連行し始めた。
﹁えっ? 殿下、あの、どこへ?﹂
﹁セルゲイ・ロマノフ宰相閣下の下へ、ですよ﹂
今日だったんかい!
ま、待って! 心の準備が!
1923
彼の答え、彼女の答え
﹁突然お邪魔した私のような不遜な者に対し寛大なる接遇でもって
出迎えてくれたエミリア殿下に、重ね重ね感謝を申し上げると共に、
度々のご無礼をお許しいただきたい﹂
﹁お気になさらないでください。むしろこのような場しか用意でき
ず、申し訳なく思っています﹂
﹁いえ。そんなことはありません。それに会議の場で急に求婚する
など、今思えば無礼極まる行為。許してください﹂
まったくだ。非公式の場とはいえ真面目な外交会議の最中いきな
り求婚して、しかも急に殿下の宿泊先であるホテルを訪問するなん
て非常識だ。せめて1週間くらい前に予告してくれないかな準備で
きないから! 立場考えろ立場を!
かね
﹁私は予てより高名にして聡明なるエミリア殿下と、ゆっくり話を
したいと思っていたのです。そして今それが叶った。今日は本当に
よき日となることでしょう﹂
﹁いえいえ。私も噂に聞く銀の貴公子とお会いしたいと思っていた
ところですから﹂
というやり取りで、エミリア殿下と東大陸帝国宰相セルゲイ・ロ
マノフ閣下の会談が始まった。まぁ会談と言っても個人的な席だか
ら、そんなに政治的な要素はないはず。
⋮⋮ていうか、エミリア殿下の声のトーンがいつもよりちょっと
高い気がする。例えるなら⋮⋮そうだな、電話に出るときのかーち
ゃんみたいに。要は接待用ボイス。
1924
とりあえず言いたいことは1つ。もげろ。シレジア王国と俺の心
の安泰と平穏のためにもげろ。
﹁メイトリックスくん、顔が怖いです。もう少し落ち着いたらどう
ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
俺の隣に座る、セルゲイ閣下の補佐役であるミハイル・クロイツ
ァー少将がそう言った。おかげで正気を取り戻すことはできたが、
それでもやるせない気分は変わらない。
現在の状況、ホテルの地階にあるバー的な部屋のテーブル席でエ
ミリア殿下とセルゲイが歓談し、そこからほど近いカウンター席に
俺とクロイツァーさんが座って護衛と監視をしている。他の客はい
ないため、殿下らの会話はよく聞こえる。
勿論逆もまた然りなので、クロイツァーさんは極力声を抑えた。
何度か聞いた、優しげな声で。
﹁まぁ、メイトリックスくんが警戒する理由は理解しているつもり
です。仮想敵国の皇子が、自分の主君に求婚してきた。警戒するな、
という方が無理です。私だって同じことをされたら、やはりメイト
リックスくんのことを睨んだと思いますよ﹂
⋮⋮睨んでたのか俺。どうやら無意識にやってたらしい。
いやそれよりも前に、
﹁クロイツァー少将﹂
﹁なにかな、メイトリックスくん﹂
﹁その﹃メイトリックスくん﹄というのはやめて欲しいです。私は
1925
王国軍少佐ユゼフ・ワレサと申します﹂
﹁なぜ? 私も閣⋮⋮じゃない、殿下も﹃メイトリックス﹄という
姓を気に入っているんですよ?﹂
なにそれ怖い。メイトリックス姓を気に入るとか港湾労働者組合
加入者なのだろうか。彼の映画は異世界でも人気のようです。当た
り前だがこの大陸に映画はない。カメラすらないのに動画はさすが
に無理。
﹁まぁ、それはさておきワレサ少佐。一応言い訳させてくれないか
な﹂
﹁何がです?﹂
﹁君が警戒する理由です。君がセルゲイ殿下を警戒する理由も言わ
れもない。今のところは、ですがね﹂
﹁最後の語句が些か気になるのですが﹂
﹁永遠に警戒するな、と言っても無駄ですよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
どうも距離感がつかみにくい人だ。言葉遣いは丁寧で優しく接し
てくる。社交的ということだろうけど、精神的距離は一定のまま。
なんというか、うん、会話しにくい。
まぁいい、どうせ敵国の人。会う機会なんて早々ない。恐らくこ
の講和会議が最後なんじゃないかと思う。⋮⋮こういうこと言うと
大抵のマンガじゃまたひょんなところで再会するんだろうがここは
現実、そんなことは起こらない。はず。
﹁まぁ、このまま見ていればわかりますよ﹂
そう言って、クロイツァーさんは手元にある珈琲に手をつけた。
1926
−−−
﹁軍に志願する、あるいは士官となる王侯貴族というのは珍しくな
い。ですが王女で、しかも10歳という若さで士官学校入学を自ら
の意思で決めたというのは、寡聞にして聞いたことはありませんな﹂
﹁色々あったのですよ﹂
﹁色々ですか﹂
﹁えぇ﹂
エミリアは、目の前に座っている東大陸帝国宰相にして帝位継承
権第一位のセルゲイ・ロマノフを観察している。観察と言うとやや
無礼なことであるが、しかし彼女のしている行動はまさしく観察だ
った。
昨日、エミリアは彼、セルゲイに求婚された。
父親である国王フランツ・シレジアから縁談を持ち込まれてから
日も経たぬうちから、今度は直接求婚しに来た。それも仮想敵国の、
事実上頂点に立つ男が。
非公式とはいえ外交会談の席で求婚してきたということを除けば、
その行動は男らしく称賛に値するものだが、エミリアから見れば正
直言って﹁礼節を弁えない行動﹂であり、俗的な言い方をすれば﹁
ドン引き﹂である。
だがそのせいか、エミリアはセルゲイが何を考えて求婚してきた
のかを推察することができなかった。故に彼女は求婚してきたこの
1927
男を観察し、その真意を見極めようとしているのである。
﹁⋮⋮そのような目もするのですね、殿下は﹂
﹁あ、いえ、その、失礼しました⋮⋮﹂
﹁構いません。そのような行動を取ることはむしろ当然の事。しか
しそのような目をする女性というのは初めて見たもので⋮⋮やはり
あなたは凡百な人間とは違うのだと確信しましたよ﹂
そう言って、彼は笑顔で手元の珈琲を飲む。ミルクも角砂糖も何
も入れていない、ブラック珈琲である。
﹁貴女がそのような目で私を見る理由は簡単。私を警戒している。
最大の仮想敵国の宰相が何を意図して求婚しているのか、それを見
極めようとしている。そうでありましょう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無論、エミリアはそれに答えることはできなかった。だがその長
い沈黙こそが﹁正答﹂であるということの証左であり、セルゲイも
そう捉えた。しかしセルゲイはそれをあげつらって糾弾するような
ことはせず、会話の合間の単なる雑談としか考えていなかったよう
である。
﹁私が貴女に求婚した理由は他でもありません。私が貴女、エミリ
ア・シレジアという1人の女性に惚れてしまったからであり、他意
はないのですよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
エミリアは再び沈黙せざるを得なかった。だが今度の沈黙は先程
とは違い、どう返せばわからないという意味である。ここまで直球
に好意を示されたのは、この時が初めてであったこともその理由の
1928
1つである。
﹁意外ですかな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮正直に言えば、意外でした。私のような未熟な人間に惚
れる方がいるのか、と思いまして﹂
﹁随分ご自分を卑下するお方だ。貴女は、そんな人間ではないでし
ょう?﹂
そう言って、セルゲイは説明する。
10歳で士官学校に自らの意思で入学した事に始まり、ラスキノ
独立戦争、春戦争、カールスバート内戦に従軍。そして戦場に立ち、
友軍の後ろに隠れることはせず率先して最前線に立った。敵兵と切
り結び、血を浴び、そして時に負傷もしただろう、と。このような
ことは、大陸に数多いる有象無象の王侯貴族と一線を画すことだろ
うと、彼は語った。
﹁それだけでなく、貴女は、カステレット砦という外交の、大陸政
治の最前線に立っている。そして会談に出席し、さらには我々に対
して条約改訂案を提出した﹂
﹁いえ、それは⋮⋮﹂
エミリアはすぐに反論しようとするも、セルゲイはそれを手で制
した。
﹁確かに、エミリア殿下が提案したものではないとは聞いています。
ですが部下からの、突飛な提案とも言える改訂案をすぐに了承し、
かつその案を磨き上げることができるというのは、並大抵の人間に
はできぬこと。つまり殿下、貴女という女性は軍・民どちらにおい
ても類稀なる才能を持っている人物だということです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1929
﹁これが、私が貴女に惚れた理由です﹂
淡々と、彼はそう告げた。
自分がどういった理由で彼に好まれているのか、というのを長々
と説明されたエミリアであったが、だからと言ってそれを肯定的に
受け止めるということはなかったし、セルゲイに惚れるということ
もなかった。彼女の中で生まれた感情は、もっと別のものだ。
﹁⋮⋮残念ながら、私はセルゲイ殿下が考えている程の人間ではご
ざいません﹂
そう言って、エミリアは視線を横に移す。その瞳に映るのは、護
衛役として連れてきた彼、ユゼフ・ワレサの背中だった。
﹁私はただの我が儘な王女でした。それを変えてくれたのが友人で
あり、仲間であり、大切な人たちです。自らの才能ではなく、友人
たちから与えられたものを、利用しているだけの存在にすぎません
ので﹂
これは謙遜でもなんでもなく、エミリアの本心だった。
自分は無知無才の人間で、単に教えてくれる人間の能力がたまた
ま優れていただけ。それなのに自分の評価と能力が無闇矢鱈と上が
っていってしまっただけ。彼女は心からそう思っていたのである。
エミリアが視線を戻すと、セルゲイは目を見開いて固まっていた。
呆れているのか、絶望しているのか。だとしたらありがたい。こ
のまま求婚の話は有耶無耶に終わるだろう。そう思ったのだが、
﹁⋮⋮ふっ。ハハ、ハハハハハハ﹂
1930
セルゲイは人目も憚らず︱︱と言ってもこの場にはセルゲイ含め
4人しかいなかったが︱︱大声で笑った。ユゼフとクロイツァーが
驚いて振り向き、エミリアも目の前に座る男の突然の笑い声に驚く
以外の選択肢を持ち得なかった。
数秒してその笑いは収まり、セルゲイが話す。
おだ
﹁これは失礼。やはり貴女は別格の人間です﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁普通の貴族の子女というものは、煽てるとその気になって自慢を
始めるのですよ。そこまで行かなくとも、単に一言﹃そんなことは
ない﹄と言って、内心は喜んでいるものです。ですが貴女はそのど
ちらもせず、自分を否定している﹂
彼はそう説明し、珈琲を飲みつつ﹁それに﹂と続ける。
﹁自分を否定できる人間というのは、それ即ち何かしらの向上心を
持つ人間ということ。向上心の大きさというのは人それぞれですが、
沈滞し腐敗した特権社会に浸り続ける貴族には、殆どの場合それは
持っていないのもの。持っていても、﹃名誉﹄という得体のしれな
いものに固執し続けることが多い﹂
だから貴女は別格だ、とセルゲイは説明した。それ故に、惚れ直
しもしたと。
そう説明されたエミリアは、初めてそんなことを言われたことに
困惑し、ただ単純に﹁ありがとうございます﹂と言うことしかでき
なかった。
ただそれでもなお、エミリアの気持ちは変わらない。
彼女は思いの外頑固な人間であり、そしてその頑固さは父親から
1931
縁談の話を持ちかけられた時から一定している。
それ故に、エミリアはセルゲイに問う。
﹁⋮⋮では、もし私がセルゲイ殿下の求婚の申し出を断ったとした
ら、どうするのです?﹂
こんなに惚れている人間に告白し、でも相手が納得せず断ったら
どうするのか。政治的な意図などのないと彼は今しがた言ったばか
りだが﹁求婚を受け入れぬとあらば戦争﹂もしくは﹁条約締結拒否﹂
という可能性もあった。それを確認するために問うた。
この問いをしただけでも、十分にエミリアの﹁拒否﹂の意思は伝
わる。当然セルゲイにも伝わっていたが、だからと言って彼はそれ
について追及することなく、エミリアの問いに答える。
﹁特に何もありませんよ。私が思いの外魅力のない人間だった。単
にそれだけの話ですから﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
セルゲイは潔く諦めた。
惚れているエミリアの﹁拒否﹂の意思を明確に悟っても、彼は動
じずに諦めた。少しも悔しさの念を見せない彼の言動に、エミリア
の方が動じた形となる。
﹁私は嫌がる女性と繋がりたいとは思いません。それに先ほど申し
上げましたがこれは政治的な意図とは無縁の話。どうぞ理性を捨て、
感情の面だけで答えを出してください。どのような答えを出しても、
私はそれを受け止めます﹂
1932
セルゲイは、ハッキリとそう答えた。
﹁⋮⋮本当に、何もありませんか?﹂
﹁何もありません。1人の、平凡な若き青年の初恋が砕かれる。そ
れだけの話です﹂
彼は笑みを崩さなかった。まだ明確な﹁拒否﹂の意思を伝えてい
ないのにも拘わらず、そう言った。
そしてエミリアは、その答えを信用した。理性ではなく、単なる
感情によるものであった。
﹁⋮⋮セルゲイ殿下。申し訳ありませんが、今回の求婚の申し出、
お断りします。私はまだ、誰かと結婚する意思はありませんので﹂
エミリアは、毅然とした態度でそう答えたのである。
そしてセルゲイは、
﹁そうですか﹂
と、言って、少し笑った。別に何ともない、予想していたことだ
と言わんばかりの笑いだった。
それから数分後、セルゲイは﹁今日は楽しかったです。また今度、
お食事でも﹂というありきたりな社交辞令でもって退出の意を表明
する。エミリアもその言葉の真意を理解していたため﹁是非﹂と短
く答えただけだった。
1933
セルゲイは、彼の護衛であるクロイツァーに声を掛け、席を立ち、
そしてバーから出ようとした刹那、思い出したかのように、エミリ
アに向かってこう言ったのである。
﹁エミリア殿下。もうひとつ、聞きたいことがあったのを思い出し
ました﹂
﹁⋮⋮なんでしょうか?﹂
エミリアの問いの後、彼は一呼吸置いて言った。
﹁﹃平和﹄というものは、実現できると思いますか?﹂
1934
彼の答え、彼女の答え︵後書き︶
もうすぐこの章は終わり。
1935
道、未だ長く
セルゲイの問いに、エミリア殿下は明確な答えを出せなかった。
まぁ唐突にこんなことを聞かれてホイホイ答えられる人間というの
は限られているし、第一質問の内容が曖昧過ぎる。
でもセルゲイは答えが得られなかったのに、笑顔を崩さずそのま
ま退出した。それが社交辞令なのかはわからないが、本当に単に聞
いてみたかっただけなのかもしれない。
そんな肩の凝るイベントを終えたので、さっさと自室に戻るか。
と、思ったが、
﹁ユゼフさん。よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮なんでしょう、殿下﹂
エミリア殿下は、先程までセルゲイが座っていた席に俺を座るよ
うジェスチャーした。長い話になる、ということなのだろう。
この状況下でなにを話すかは、見当がつくが。
﹁先程のセルゲイ殿下の問い、ユゼフさんならどう答えましたか?﹂
﹁﹃平和は、実現できるか?﹄、ですか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
真剣と困惑と自信のなさを混ぜたような目をしていた。
王族として外交の場に来たのに、セルゲイの問いに対して明確に
答えを出せなかったことを悔やんでいるのだろうか。
1936
﹁そうですね⋮⋮まずは﹃平和﹄の定義がわかりませんね﹂
﹁定義?﹂
﹁えぇ。なにを以って﹃平和﹄とするか、ということです﹂
平和とは何か。
とりあえず麻雀の役ということではないのは確かだ。それなら実
現は割と簡単だよ、たまにタンヤオと間違えるけど。
冗談はともかく、﹁平和﹂の定義って難しい。
単に戦争してない状態と言うのなら、シレジア王国は今平和だ。
仮想敵国が強大化しようとしていても、戦争はしていない。
スラム
世紀末救世主伝説並に治安が悪化しても戦争してなければ平和な
のかとか、国内所得格差が酷くて貧民街が広がっている状態も平和
なのかとか。
シレジア王国一国だけの話なのか、それとも大陸全土に亘る話な
のか。一時的なのか、恒久的なのか。
そこをどうするかで、話が変わってくる。
﹁⋮⋮おそらくセルゲイ殿下が言っているのは、大陸全土から戦争
がなくなり、恒久的な平和が訪れる時が来るのか、可能なのか、と
いう意味だと思いますが⋮⋮﹂
まぁ、妥当なところか。東大陸帝国だけが一時の平和を甘受した
いというのなら話は簡単だからね。そのまま内政に勤しんで大陸統
一の夢など捨ててしまえばいい。
﹁おそらく、無理でしょうね﹂
1937
﹁⋮⋮無理ですか﹂
﹁無理です。恒久平和なんて、大陸中の政治学者がウンウン悩みな
がら理論を構築していますが、結局どれも机上の空論でしたから﹂
今でも戦争しているこの大陸が証明しているし、前世世界でも戦
争はなくならなかった。歴史上の偉人がいろんな理論を出したが、
結局はどこかで必ず戦争はしていた。
この世界で一番平和に近かった時代は、大陸帝国全盛期だ。宗教、
言語、文化、度量衡、暦、あらゆる差異が否定され、統一され、繁
栄を謳歌した時代。
でもその時代でさえも平和とは呼べない。暴動や蜂起は多かった
し、結局は大陸帝国の巨大な軍事力によって民衆の不満を抑えつけ
ていただけだからだ。その弊害は大陸暦302年に始まった大陸帝
国内戦で一気に噴出した。シレジア王国独立の原因も、その軍事的
圧力に耐え兼ねたシレジア伯爵と領民によるもの。
﹁⋮⋮⋮⋮恒久平和は来ませんか﹂
エミリア殿下は、そう言って目を伏せた。エミリア殿下は王族と
言う立場から、彼女なりに恒久平和を目指していたのだろう。為政
者としては正しいことだし、尊敬もする。俺なら即刻投げ出してい
たかもしれない。
﹁でも悲観することはないでしょう。恒久平和が無理でも、一時的
な、部分的な平和は実現可能です﹂
数十年間、戦争をしなかった地域や国というのはある。無論そん
な状態でも、国内外に緊張はあった。だけど戦争をして人命が大量
に失われるという事態は避けられた。
1938
﹁しかし、そんなちっぽけな平和でさえ、私たち政治家や軍人が身
を粉にして、あるいは多大な流血によって成し遂げねばならないこ
と。道は長いですよ﹂
﹁⋮⋮そうですね。ふさぎ込んでいる場合ではありませんか﹂
﹁はい。まずは、できることからちょっとずつ始めればいいんです
よ。恒久平和なんてあるかどうかわからないものより、目前の平和
に全力を尽くすのが、今の私たちの仕事ですから﹂
−−−
条約改訂案が各国に提示されたのは翌々日の4月28日の第四回
本会議、そして各国に承認を得て採択されたのは、さらに3日後の
5月1日の第五回本会議の事である。
1939
ユゼフの答え、サラの答え
本会議で条約は無事承認され、後は各国首席代表の署名式を残す
のみだが、その署名式の開催は5月7日の予定だという。サインを
するだけなのになんでこんなに日程が延びてるのか。第五回本会議
後すぐにやっても良いような気がするのだが、無論理由はある。
シレジア王国、東大陸帝国、シャウエンブルク公国、オストマル
ク帝国、カールスバート復古王国、リヴォニア貴族連合という大陸
東部の主要国家が揃い踏みのこの講和会議、外交するにはもってこ
いだ。各国ともにこれに乗じて大なり小なりの外交を実施している。
すべてあげるときりがないので、シレジア王国に関係のあるもの
だけピックアップしよう。
まず1つ目、5月3日に行われた、シレジア王国第一王女エミリ
ア・シレジア殿下と、オストマルク帝国第二皇子グレゴール・ライ
ムント・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー殿下の公式会談であ
る。
今までシレジア王国とオストマルク帝国は水面下でいろいろ協力
関係にあったが、考えてみればこういう政府高官レベルの公式会談
は全然やっていなかった。
ラスキノに始まり、春戦争、カールスバート内戦と散々世話にな
ったオストマルクとの友好関係がこの会談によってようやく大陸中
に広まったことになる。
まぁ知っている人は知っているだろうから今更感はあるが、それ
でもこの大陸暦638年5月3日が、公式上シレジアとオストマル
1940
クの緊張緩和の始まりということになるのだ。感慨深いものがある。
ちなみにグレゴール殿下は御年19歳。
オストマルク帝国との関係を重視したいシレジア王国にとっては、
外交以外でも関係を作りたい思うやつもいるだろう。今年17歳の
エミリア殿下の内心はともかく、だけど。
2つ目、5月5日に行われた、東大陸帝国皇帝官房長官モデスト・
ベンケンドルフ伯爵と、リヴォニア貴族連合外務省審議官にして元
老院議長ザイフェルト公爵の甥であるゲアハルト・フォン・シュタ
インマイアー男爵の非公式会談。
⋮⋮どうも妙な取り合わせである。
非公式ということで具体的な内容は不明。ベンケンドルフ伯爵が
なぜ、シュタインマイアー男爵と会ったのか。ここのところを突き
詰めると、リヴォニア貴族連合が何を考えているのかがわかるかも
しれない。
とまぁ、こんな感じだ。
翌5月6日。
俺はホテルの自室で、各国外交使節の動向をフィーネさんが纏め
た資料を眺めて色々考えている。各国がどういう関係を相手国に望
んでいるのか、どういう展望を持っているのかというのは、結構複
雑で頭が痛くなる。
シレジア王国と東大陸帝国の関係だけでも、ややこしいのに。
そうやってウンウン唸っていたら、気づけば20時30分。考え
るのに夢中になりすぎて、夕食を食べそこなってしまったのである。
1941
どうしよう。今から街に出て適当な飯屋に入っても良いが、ちょ
っと面倒⋮⋮。
そう思っていた時、ドアがノックされた。
﹁誰?﹂
﹁私よ﹂
サラの声だ。久しぶりに聞く気がする。
﹁入っても大丈夫だよ。鍵かけてないから﹂
﹁なにそれ、不用心過ぎない?﹂
ごもっとも。
でもホテル自体はシャウエンブルク公国軍が厳重な警戒を張って
いるから鍵をかけたところでセキュリティ云々は変わらない気がす
る。ホテルに侵入してくる強者がいたら、鍵程度じゃどうにもなら
ない。
﹁でもちょっと開けてくれないかしら、今手が塞がってるのよ﹂
⋮⋮なんだろう。扉開けた瞬間鳩尾ストレートパンチが繰り出さ
れるんじゃないかと不安になる。いや、それは流石にないか。ない
よね?
﹁ちょっと?﹂
﹁あぁ、ごめん。今開けるから﹂
そう言って、俺は一応警戒しながらドアを開けた。
すると、なぜか美味しそうな匂いが漂ってきた。驚いて確認する
と、サラはトレーを持ち、そしてその上には当然と言えば当然だが
1942
料理が乗っかっていた。しかも2人分。
﹁ユゼフ、夕飯まだでしょ? 持ってきたわ﹂
なんだ、救いの女神とはサラのことだったのか⋮⋮。
−−−
ユゼフと2人きりでご飯を食べるのは、いつぶりだろうか。なん
にせよ、結構久しぶりなのは確かだ。なんだかんだ言って、ユリア
やエミリアなんかが同席することが多い。
ユゼフ
⋮⋮でも、ご飯は単なる建前、好きな人に会うための口実。
私は彼に﹁好き﹂と言った。けど、すぐに恥ずかしくなって言い
訳してしまった。
その後、ユゼフはちょっと余所余所しくなった。いや、これは私
が勝手に思っているだけかもしれない。私の方も、ユゼフとの距離
感を掴み兼ねてる。
あのオストマルクの貴族令嬢、フィーネ・フォン・リンツ。彼女
が原因と言えば原因だ。別に彼女が悪いわけじゃない。私が醜い嫉
妬をしているだけ。
だっていつも、ユゼフの話を理解しているのはあの人だから。
そしてユゼフも、フィーネの話をよく理解している。
1943
政治とか、外交とか、そう言うことを考えているユゼフの顔は、
表面的には悩んでいるようで、その実内側では楽しそうだ。そして、
それはフィーネも同じ。
つまるところ、ユゼフとフィーネは相性がいい。
でも私は、ユゼフとそういうのはできない。何もしてやれない。
私とユゼフは、全然違うのだ。
もしかしたらユゼフはフィーネのことが好きで、そして私の事は
嫌っているのかもしれない。考えてみれば、私はユゼフに色々酷い
事をしてきた。何回殴ったか忘れたし、それでも彼は私を何回も助
けてくれたのに、殆ど恩返しはできていない。
エミリアに相談してみたけど、でも彼女は笑ってこう言う。
﹁サラさんはそのままで十分ですよ﹂
って。
年下なのに、気を遣わせてしまったとちょっと後悔した。
でも、嫌われていないことはわかったのは、この国に来てから。
私とフィーネと、そしてユゼフで、東大陸帝国外交使節に対する
情報収集をしていた時。
ユゼフは、私に情報収集の仕事を与えてくれた。私でも、そうい
うことができるのだと、ちょっと嬉しかった。
シェプタ
だから精一杯、頑張った。
あの﹁王笏座﹂で変なオッサンに言い寄られた時も、我慢できた。
情報も得た。何より、襲われそうになった時、ユゼフが助けようと
1944
してくれた。結局私を助けたのは、東大陸帝国の人だったけど。
嫌われてないのがわかって、少し安心した。
でも、フィーネには勝てないと思った。
その気持ちが強くなったのは、会議開催前。クラウディアという
フィーネの姉が来たとき。
彼女は言った。ユゼフとリンツ伯爵家の娘が繋がりを得ることは、
政治的に得策であると。
そしてもうひとつ、ユゼフといちゃつくクラウディアを見た、フ
ィーネの﹁ダメです﹂という言葉。
あぁ、フィーネはユゼフの事が本当に好きなんだなって。
あの子はたぶん、私と同じ。
そして私と違い、ユゼフに信用されて、そして役に立っている人。
でも、それがわかっても私は諦めきれない。
私は、なんだかんだで7年もユゼフのことを思ってきた。今更取
られたくない。こんなところで、取られたくはない。だから、フィ
ーネに追いつかなきゃいけない。
﹁ね、ねぇユゼフ。その資料、なに?﹂
﹁ん? あぁ、これは各国外交使節の動向を纏めたものだ。フィー
ネさんが作ってくれたんだ﹂
⋮⋮やっぱり、フィーネはユゼフの役に立っている。私の知らな
いところで、ユゼフの支援をしている。こんな、夕飯を運ぶだけで
その気になっている私とは違う。
1945
私だって、ユゼフの役に立ちたい。
﹁ちょっと見せてみなさい﹂
﹁いいけど⋮⋮わかるの?﹂
﹁わ、わかるわよ!﹂
わかる。私はユゼフより2歳も年上なのだから、これくらいでき
る。できる⋮⋮やってみせる。でも、なぜだろう。その資料に、何
が書いてあるのかわからない。
見たことも、聞いたこともない名前、なにを意味しているのかわ
からない単語。何がなんだか、全然わからない。
全然読めない。役に立てない。
だって、だんだん字が滲んできて⋮⋮。
﹁ちょ、ちょっとサラ!? なんで泣いてるの!?﹂
﹁泣いてなんか、ない⋮⋮わよ!﹂
必死に拭っても、溢れてくるものは止まらない。
こんなこともわからない。こんなので、勝てるはずない。
なんで⋮⋮こんなに⋮⋮。
﹁ちょっと待って本当に何が起きた落ち着けって大丈夫とりあえず
どういうことか説明しろ!﹂
ユゼフがそう言った瞬間、ぽこん、という情けない音がした。
非力なユゼフが私の頭を叩いたと気づいたのは、数秒経ってから。
全然痛くはなかったし、彼も力を加減したのはわかる。でも、
1946
﹁⋮⋮なぁにするのよおおおおおおおお!﹂
気づけば、私は感情に任せてユゼフを殴って、そして押し倒して
いた。彼は﹁しまった!﹂とか何とか言ってるけど、手を出したの
はコイツからだ。
﹁私が! 今! どういう気持ちなのかわかってるの!﹂
叫びながら、感情に身を任せる。馬乗りになりながら、拳を振り
下ろす。でも、力が上手く入らない。空を切るような、そんな感覚
になる。
﹁私だって、ユゼフの役に立ちたいのよ! でも、全然ダメなの!
なにもわからないの! なにが書いてあるのか、わからないのよ
!﹂
何度も、何度もユゼフの鳩尾あたりを殴った。力弱く、殴った。
あぁ、もうだめだ。バカみたいだ。感情の赴くままに人を殴りつ
けて、言いたいこと言って、自分が低能だと告白して、これで自分
を好いてくれなどと思っているのだから。
﹁⋮⋮⋮⋮ごめん﹂
今更謝ったところで、どうしようもない。
これで、私とユゼフの仲もお終いだろう。こんな終わり方になっ
たのも、全部自分がふがいないせいで⋮⋮、
﹁ホワタァ!﹂
﹁いっ!?﹂
1947
ユゼフが奇妙な掛け声をしながら、私の頭をチョップしてきた。
しかも今度は本気を出したためか、少し痛かった。
﹁このアホ!﹂
﹁⋮⋮はぁ!?﹂
しかも罵ってきた。しかも今私が凄い気にしていることを言って
きた。思わず殴ろうとしたが、ユゼフはその前に動いて、私の腕を
掴んだ。
﹁なに情緒不安定になってるのか知らんけど、サラがまったくもっ
てそう言う所で役に立たないのはみんな知ってるよ﹂
彼は躊躇うことなく、そう言いきった。
﹁⋮⋮知ってるわよ。だから私は、役立たずで、でも、私はユゼフ
のことが好きだから。けど、こんなんじゃ全然ダメで⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮うん、そういうことね﹂
私の気持ちを、理解したのだろうか。
ユゼフはポリポリと頬を掻いて、居心地の悪そうな顔をしている。
﹁よし、サラ。まず1つ言っておく﹂
﹁⋮⋮なに﹂
﹁俺はサラのそう言う所は嫌いじゃない。むしろ好感を持てる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい?﹂
﹁それなのにサラはああだこうだ考えてらしくもなく大人しくした
り考えたり、かと思えば喚き散らして殴りつけてくる﹂
﹁⋮⋮それはっ! それは、ユゼフがそういう人が好きだと思って
1948
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まぁ、色々やってくれるのはありがたいけど、でもダメだ。
俺は考えなしに行動するサラの方が好きだからね﹂
ユゼフは真顔で、そんな台詞を恥ずかしげもなく言うのだ。
はぁ、なんていうか、いろいろ考えていたのがバカみたいだわ⋮
⋮。
﹁ねぇユゼフ﹂
﹁なんだいサラ﹂
﹁⋮⋮私ね、ユゼフのこと好きよ﹂
すんなりと言えた。
二度目だからなのか、考えなしに行動するのが好きだと言われた
からかはわからない。
﹁⋮⋮あ、改めて正面から言われると結構恥ずかしいな﹂
﹁それは言わないでよ⋮⋮。私だって、その、恥ずかしいんだから
⋮⋮。で、その、あの、ユゼフは、どうなの?﹂
﹁えーっと、うん、まぁ⋮⋮﹂
﹁なによ、嫌いなら嫌いってハッキリ言いなさい﹂
﹁わかったから、わかったから肩に力入れるのやめて?﹂
しまった、ついいつもの癖で。
﹁サラ、正直に言おう﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁俺は⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮サッパリそういうのがわから
ん!﹂
1949
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
﹁好きか嫌いかで言えば好きなのは間違いない。ただそれがサラと
同じ気持ちなのかはわからない。これが俺の本音だ﹂
うん、とりあえず、1発殴ろう。
私は手加減して、ユゼフの鳩尾を殴った。短い悲鳴が下から聞こ
える。
ったく、私1人が恥をかいただけじゃないの⋮⋮もう。
⋮⋮でも、彼らしくはある。
それに少し身軽になった気がする。嫌われてないとわかったし、
もしかしたら可能性もあることもわかった。
考えるのはやめよう。
ユゼフはそれでいいと言ってくれた。
﹁ユゼフ﹂
﹁な、なんだいサラ﹂
殴られるのではないかと警戒しているユゼフに、私は拳じゃなく
て、言葉で伝えることにする。
﹁私、あんたを落としてみせるわ﹂
1950
ユゼフの答え、サラの答え︵後書き︶
もうちょっと続くんじゃ
1951
姉と妹と
5月7日。
シレジア王国と東大陸帝国両国の講和条約、通称﹁エーレスンド
条約﹂が各国首席代表の署名により締結、今日をもって春戦争は正
式に終戦となる。
主な内容は、
一、本条約の締結時より両国間の戦争は終結する
二、国境地帯に非武装緩衝地帯を設定する。条約締結時から20
日間以内に、東大陸帝国軍は接するシレジア国境50km以内から
撤収し、必要以上の駐屯を禁ずる。本項の変更は両国間の平和的交
渉によってのみ可能。
三、非武装緩衝地帯に、シレジア王国軍の武官を駐在させること
を東大陸帝国政府は認める。
四、両国が保有する捕虜に関してはその全てを解放する。捕虜解
放にかかる費用は、全て東大陸帝国政府が負担する。費用の総計に
関しては両国の交渉によって決定する。
五、東大陸帝国政府は、ラスキノ自由国が完全無欠の独立国であ
ることを確認する。
とまぁ、こんな感じ。
非武装緩衝地帯の設定以外はほぼ草案通りだ。
堅苦しい署名式が終わったのは、太陽が沈みかけた頃。そして現
在はカステレット砦内にて盛大な閉会式が執り行われている。これ
1952
が正真正銘、カステレットにおける最後の外交だ。
エミリア殿下がマヤさんを引き連れ各国外交使節に挨拶、東大陸
帝国宰相セルゲイ・ロマノフ殿も、降伏条約締結直後であるためか
笑顔控えめで挨拶回りをしているようだ。内心はどう思っているこ
とやら。
そして俺と言えば、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
バルコニーみたいな︱︱と言っても凄く広い︱︱場所でサラと一
緒に肩を並べ、なんとも言えない気まずい雰囲気の中にいる。理由
は察してほしい。
彼此数十分この調子なのだ。
たまに向こうの様子を窺おうとチラっと見ると、なぜかサラもこ
っちを見て目が合って双方慌てて顔を背けるというのを繰り返して
いる。5回くらい。
誰かこの状況をなんとかしてくれ!
という思いが通じたのかは定かではないが、状況が変わったのは
6回目のチラ見の後のことである。
﹁いえーーーーい! ワーレッサちゃーーーーん!﹂
サラ
と言いながら突進して抱き着こうとしているクラウディアさんの
目は猛獣だった。しかし動きは隣にいる猛獣の方が断然早かったの
1953
で、来るとわかっていれば回避は余裕でした。身を右に数歩移動さ
せただけで、クラウディアさんの攻撃は外れて空気を抱く。
ていうかなんだワレサちゃんって。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
なぜかクラウディアさんは自分を抱くような姿勢をしたまま動か
ない。自分の腕を揉んで何か感触を確かめようとして⋮⋮と思った
らあからさまにしょぼくれた顔をしてこっちを見る。
﹁なんで避けるの?﹂
﹁そりゃ避けますよ﹂
そしてなぜ涙目涙声なんだ。
﹁あんなに触れ合ったのに、ワレサちゃんはもう私を抱いてくれな
いのね⋮⋮﹂
﹁誤解を招く言い方はやめてください。あなたが勝手に︱︱﹂
そう言いかけた時、クラウディアさんが﹁隙あり!﹂と言って横
っ飛びしてくる。当然俺の方に。そして彼女の言う通り隙だらけだ
った俺は、
﹁ぬわあああああああ!!﹂
やはりまたクラウディアさんに抱き着かれる羽目になるのである。
あぁ、もうなんだか人生面倒臭くなってきた。はやくシレジアに帰
りたいよお母さん。
だがそんな状況は思いの外すぐに好転した。
1954
﹁お姉様!﹂
そう叫んだのは、クラウディアさんの妹さんのフィーネさん。
フィーネさんは俺とクラウディアさんの間に割って入って、どっ
かで見た事のある様な光景を繰り返している。まず最初に妹が姉を
﹁空気読め﹂と言ってお説教し、その後姉が﹁いいじゃん最後くら
い﹂と不貞腐れ、最終的に姉が妹の黒歴史をばらして試合終了。
とりあえずフィーネさんは幼い頃﹁おねえちゃんとけっこんしゅ
りゅ!﹂が口癖だったようです。どうしてこんな風に育ったんだろ
う。
黒歴史をばらされ魂が抜けているフィーネさんに対し、クラウデ
ィアさんはここぞとばかりに俺に抱き着いて養分を補給する。
ちなみにこれを行っている間のサラはもじもじしながら頬を赤ら
めているだけで助けてくれない模様。うん、まぁ、なんだ、なにを
思っているのかだいたいわかる気がする。恥ずかしいから言わない
けど。
﹁あー、君は本当に抱き枕にピッタリね⋮⋮﹂
﹁いや、そういう感想貰っても嬉しくないんで﹂
だから離して。サラが大人しい間に。
﹁ふふん、私たちリンツ家の人間は欲しいものは何が何でも奪い取
るのよ﹂
﹁なにそれ凄い怖い上になんか納得しちゃうんですが⋮⋮﹂
1955
俺にもそういうことをしそうな人物というのに心当たりがある。
リンツ伯とかリンツ伯とかリンツ伯とかリンツ伯とか。
﹁人間、何かをするときは躊躇っちゃダメよね﹂
﹁クラウディアさんの場合は少しは躊躇いを覚えてください﹂
﹁え、いいじゃんいいじゃん。世の中には躊躇いとか遠回しとかが
通じない男の子がいっぱいいるんだから、たまには直球勝負もいい
ものよ﹂
⋮⋮まぁ、それは反論しにくいというかなんというか。つい昨日
あったばかりだし。うん。
﹁あれ、急に大人しくなっちゃって。もしかして惚れたの?﹂
﹁んなわけあるかです。いいから離れてくださいッ!﹂
﹁えー⋮⋮﹂
結局、クラウディアさんは魂を取り戻したらしいフィーネさんの
2度目の介入があるまで俺を離さなかった。暫くフィーネさんから
説教を受けたクラウディアさんは妹に軽くハグした後、﹁補給した
から仕事に戻る﹂と言って盛宴の中に戻って行くのである。
⋮⋮疲れた。
−−−
クラウディア・フォン・リンツは実の妹とユゼフと遊んだ後、未
1956
だ盛宴が続いている会場にいる、彼女の上司であり祖父でもあるオ
ストマルク帝国外務大臣レオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデン
ホーフ侯爵の下へ赴いた。
﹁相変わらずだな、クラウディア﹂
﹁あらお祖父さん。何の話です?﹂
と、クラウディアはすっ呆けて見せた。無論、隠し通そうとする
意図ではなく、仲の良い祖父と孫娘の間におけるひとつの会話であ
る。
﹁なにを呆けているんだ。フィーネのことだ﹂
﹁あら、見てたんですか﹂
﹁開会式のときからずっとな﹂
﹁やだ。お祖父さんってば孫のこと好きすぎじゃないかしら?﹂
﹁孫が嫌いな祖父さんというのは聞いたことないな﹂
﹁そうね﹂
そう言って、クラウディアは給仕が運んできた白ワインを貴族令
嬢らしく丁寧に、かつ行儀正しく味わう。ワイングラスに残る口紅
を見ながら、彼女は呟く。
﹁あの子、優秀よね﹂
﹁⋮⋮それはどっちのことだ? フィーネか? それともあのワレ
サ少佐か?﹂
﹁両方よ。そして、ダメな部分もある。これも両方﹂
﹁ダメな部分?﹂
﹁えぇ。お父さんの些細な野望に関すること、かな? お父さんは
このことに関してはフィーネの自由にさせてるみたいだけど、私と
しては背中を押したくなるのよね﹂
1957
なにせ私と結婚したいって何度も言ってくれた可愛い妹だからね、
と、クラウディアは呟いた。
クーデンホーフ侯爵も、このフィーネが忘れたいであろう彼女の
幼い頃の言動を覚えている。クーデンホーフ侯爵はその光景を思い
出して静かに笑みを漏らした後、クラウディアに事の結果の報告を
求める。
﹁して、そのダメな部分とやらは改善できたかね?﹂
﹁ワレサ少佐については、昨日と今日じゃ別人みたい。たぶん、隣
に立ってた赤い髪の子と何かあったんでしょうね。問題はフィーネ
だけど⋮⋮﹂
﹁進展なしか?﹂
クーデンホーフ侯爵は、心配そうにそう質問する。
これに対してクラウディアは、何も答えなかった。彼女はグラス
に残っていた白ワイン越しに妹たちの姿を見て、数十秒たった後に
祖父の問いに答える代わりのように、
﹁⋮⋮⋮⋮ふふっ﹂
そう静かに微笑んだだけだった。
1958
妹の答え
クラウディアさんが去った後、それなりに広いバルコニーに取り
残されたのは俺とサラとフィーネさんのみ。そんな取り残された俺
たちに構わず、閉会式は粛々と続いている。
﹁⋮⋮﹂
そしてフィーネさんは姉を追い出して暫く経っても、無言のまま。
サラも俺も、あんなクラウディアさんの行動を見せられてしまっ
てはどう言葉をかけても良いかわからず、ただ時間だけが過ぎてい
く。
このままだと気まずいどころではない。とりあえずなんでもいい
から話しかけてみよう。
﹁あのー、フィーネさん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
へんじがない、ただのしかばねのようだ。
そんなに黒歴史公開されたことがショックだったのか。いや俺も
黒歴史ばらされたらあんな風になると思うけど。近所のおばさんの
動向を克明に記した危険人物秘密報告書なんかは思い出したくもな
い。近所のおばさん、名前知らないけどホントごめん。
それはさておき。
1959
﹁フィーネさん、若い頃はみんなそんなもんなんです。だから忘れ
ましょう、ね?﹂
﹁いや、フィーネってユゼフとほとんど年変わらないじゃないの⋮
⋮﹂
それもそうでした。てへ。
﹁⋮⋮はぁ﹂
ようやく、フィーネさんが動いた。溜め息だったけど。彼女は頭
を掻きながらこちらに向き直る。
﹁ユゼフ少佐、2つ程お伝えすることがありますが、よろしいです
か?﹂
﹁⋮⋮あまり聞きたくないんですけど﹂
フィーネさんがこういう前ふりをするときは大抵はよからぬこと
だと相場が決まっている。良い事だったらわざわざ前置きはしない。
﹁聞いておいた方が身の為だと思います。まず1つ﹂
そう言って、彼女は数歩俺に近づいて許可なく喋り出す。てか近
い近い。
﹁女性と大事な話をするときは、声量を抑えていた方が身のためで
すよ﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
急に何の話だ。
1960
﹁いくらホテルの質が良いからと言って、扉の防音性能には限界が
あります。多少なら許されるでしょうけど、あの声量では意味があ
りません﹂
﹁⋮⋮あー﹂
はい、昨日の話ですね。
⋮⋮え、てかフィーネさんいたの。あの会話聞いてたの。なにそ
れ恥ずかしい。
でもあれは殆どサラのせいだ。そう思ってサラの方を見ると、彼
女はそっぽを向いて素知らぬ顔を決め込んでいる様子。う、裏切っ
たな⋮⋮!
﹁ま、仲が良いのは基本的には好ましい事、羨ましい限りです﹂
と、真顔でそんな皮肉を言うフィーネさん。目が怖い。
﹁忘れてください。昨日のあれは、うん、まぁ、その、思い出すと
恥ずかしくなるので﹂
﹁無理な相談です。あんなことがあっては、私としては忘れること
ができません﹂
そう言ってから、フィーネさんは半歩ほど身を寄せてきた。息が
かかりそうなくらいの距離に、今彼女の顔がある。恥ずかしくなっ
て、思わず俺は顔を背ける。けど彼女の吐息が耳にかかって、少し
こそばゆい。
﹁人と話をするときは顔を背けてはなりませんよ、少佐﹂
﹁じゃあ少しは離れてくれませんか。話しにくいので﹂
﹁これは失敬﹂
1961
彼女はクスクスと笑いながら、半歩身を引く。まだちょっと近い
気もするが、これくらいならギリギリなんとか正面向いて会話を出
来るくらいの距離にはなった。
そんな妙な空気を感じ取ったのか、サラが俺とフィーネさんの間
に割り込む。
﹁ちょ、ちょっとユゼフ! なにやってんのよ!﹂
﹁俺は何もしてないんだけど⋮⋮﹂
やってきたのはフィーネさんのはずだ。そのはずだ。
﹁コホン。それはさておいてフィーネさん、残りの1つはなんなん
ですか?﹂
﹁⋮⋮あぁ、そうでした。これが1番重要でしたね﹂
フィーネさんはそう言うと、数秒間を空けた。そしてサラを押し
退けて、どんどん近づいてくる。息がかかるほどの距離まで詰めて。
だから俺は再び、顔を背けるしかなかった。
﹁ユゼフ少佐、顔を背けてはなりませんよ﹂
﹁⋮⋮フィーネさんが離れてくれたら考えます﹂
再び、このやりとり。
そしてまた、フィーネさんは後ろ手を組みながら半歩下がった。
ふぅ。なんなんだろう、今日のフィーネさん。ちょっと変じゃな
いかしら。問い詰めようとして、フィーネさんを見て、
﹁まったく、どうしたんで︱︱︱︱﹂
でも、そこから先の言葉は、発することができなかった。
1962
−−−
姉の事は、少し苦手です。
昔から姉には敵いませんでした。
何もかも、見透かされていました。
でも嫌っているわけではないのです。
むしろきょうだいの中では、好きな方。そうでなければ、幼い頃
姉に求婚するわけはありません。
けど、苦手です。
会話をすれば、姉の方がだいたい主導権を握ります。私の秘密が
暴露されることもあります。
姉の秘密を私が暴露しても、当の本人が秘密を秘密だと思ってい
ないため、効果がないです。むしろそれを武器にするのだから、成
す術がなくなります。
姉は優秀な人間です。
人をよく観察して、弱点を把握してから、近づきます。
今回の、講和会議の場でもそうでした。
対象は、ユゼフ少佐。
1963
姉は少佐を観察し、抱き着いたりして、でも彼は靡きません。少
佐の周りは女性ばかりでしたから、女性に弱いなどと考えたのかも
しれません。
でも、違いました。
お祖父様、即ち外務大臣クーデンホーフ侯爵曰く、クラウディア
お姉様はオストマルク=シレジア同盟懐疑派だったそう。お父様が
押しているその同盟論が本当にオストマルクのためになるのかと、
それを見計らうために、今回の会議に出席したようです。
そして彼の反応を見て、同盟論者の中心人物が信用に値するかど
うか見極める。それが姉のしたことでした。問題は、それを確かめ
るために奇行をする場合が多い事ですが。
その後、会議が進むにつれて、クラウディアお姉様はユゼフ少佐
を評価していきます。
決め手は、あの非武装緩衝地帯の設定などを盛り込んだ条約改訂
案でしょう。全方面へ配慮し、なおかつ自分の派閥に対しても明確
な利益を享受できる案。よくも考えたものだ、と姉は言いました。
このおかげで、姉は同盟懐疑派ではなくなったと思います。少な
くとも、同盟を妨害するようなことはしないでしょう。
だからもう少佐に構うことはしないはず。そう思っていました。
けど、その想像は外れました。
閉会式の時、姉はユゼフ少佐に再び抱き着きました。
私は慌ててそれを止めに入りましたが、姉は私の思い出したくも
1964
ない過去を晒して、奇行を続けます。近くにいるマリノフスカ少佐
を無視して、そしてこんな会話を続けるのです。
﹁ふふん、私たちリンツ家の人間は欲しいものは何が何でも奪い取
るのよ﹂
﹁なにそれ凄い怖い上になんか納得しちゃうんですが⋮⋮﹂
えぇ、そうです。
クラウディアお姉様も、お父様も、他のきょうだいも、皆、そう
いう人間です。家族だから、よくわかります。
じゃあ、私は?
私は、違うのでしょうか。
そんなことは、ないでしょう。
昨日聞いた、マリノフスカ少佐とユゼフ少佐の会話。
そして、クラウディアお姉様の言葉。
あぁ、そうか。なんだ。
ここにきて、私はやっと納得できました。
ユゼフ少佐については、ついでだったのでしょう。
本当は、私が対象だったのでしょう。
﹁人間、何かをするときは躊躇っちゃダメよね﹂
えぇ、本当に、そう思います。
私は躊躇いし過ぎていました。
ユゼフ少佐にかつて私自身が言ったことですが、行動しないこと
1965
が一番ダメだと。
その点で言えば、マリノフスカ少佐が上手です。
﹁え、いいじゃんいいじゃん。世の中には躊躇いとか遠回しとかが
通じない男の子がいっぱいいるんだから、たまには直球勝負もいい
ものよ﹂
そうですね。
私も、たまには、そうしてみましょう。
ユゼフ少佐の相談に乗った甲斐がありました。
もしあの相談に乗っていなかったら、私は﹁彼はマリノフスカ少
佐の事が大好きなのか﹂と勘違いして、行動できずにいたでしょう。
でも、その心配は半分なくなりました。
私にも可能性があると。
ユゼフ少佐は、私の事を知らないと。
ユゼフ少佐は、私の思いを知らないと。
彼は、私の初めての人です。
躊躇いもなく、何が何でも、奪ってしまいたい人です。
ライバル
敵は、とても強い。でも、諦めません。
誰かの言葉ではありませんが、私は彼を落としてみせます。
だから私は、彼に伝えます。
1966
1つはどうでもいいことですが、もう1つは大事なこと。
困惑するユゼフ少佐と、マリノフスカ少佐の隙をついて、私は伝
えます。
﹁まったく、どうしたんで︱︱︱︱﹂
今日が5月7日だということを、そして私の思いと共に。
﹁︱︱これが、私から少佐に贈る、誕生日の贈り物です﹂
私は、自分の唇に残る感触を何度も確認しながら、そう伝えたの
です。
1967
妹の答え︵後書き︶
﹁第60代皇帝﹂編これにて終了です。
第60代皇帝とか言いつつセルゲイの出番少ないですね。
ちなみにこの展開は例のヒロイン投票のかなり前から考えていたの
で、あそこでサラさんが勝っても展開は変わりませんでした。
次回更新については未定です。年末年始は忙しいので、それ次第で
す。
今の所エタる予定はございませんので気長にお待ちください。
1968
2﹄の刊行記念といたし
小さな王女の大きな悩み 前篇︵前書き︶
12月15日発売となる﹃大陸英雄戦記
まして番外編を投稿します。
詳しくは活動報告参照です。
↓http://mypage.syosetu.com/myp
ageblog/view/userid/531083/blo
gkey/1296498/
1969
小さな王女の大きな悩み 前篇
大陸暦633年の3月18日、士官学校にて上半期期末試験が終
わった頃のお話。
﹁ねぇ、エミリア。⋮⋮あの⋮⋮⋮⋮ごめん、やっぱなんでもない
わ﹂
﹁? なんですか、サラさん﹂
﹁いや、たぶん怒るから言わないでおく﹂
﹁何を言っているのですか。私とサラさんの仲ではないですか。遠
慮せずに言ってください。怒りませんから﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁本当ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あのさ﹂
﹁はい﹂
この後サラが放った何気ない言葉は、エミリアに些細な怒りを覚
えさせるに十分な威力を持っていた。それが後の大陸の歴史を大き
く動かし、王国にとって大きな災いの種となった⋮⋮という事実は
ない。
だが、あるちょっとした事件を起こす原因となったことは、誰も
否定できなかった。
−−−
1970
﹁エミリア様の様子がおかしい?﹂
﹁あぁ﹂
士官学校にある学食の一画で、あまり美味しくもない料理に舌鼓
を打っていたところでラデックを見かけた。知らない仲ではないの
で彼と無駄話に興じていた時、ふと思い出したかのように彼はそん
なことを言った。
﹁おかしいって、どうおかしいんだ?﹂
﹁んー⋮⋮口じゃ説明しにくいな。なんかこう、落ち込んでいると
いうかなんというか﹂
﹁嫌なことがあった的な?﹂
﹁たぶんな﹂
ふむ。随分曖昧な情報だな。これだけじゃ判断がつかない。
﹁何があったか⋮⋮普通だったら上半期試験の結果が悪かったとか、
あとはサラさんやヴァルタさんあたりと喧嘩したか、それともいじ
められてるのか﹂
﹁いや、エミリア様は剣兵科でもかなり成績良いらしいぜ? なん
でもヴァルタ嬢と時々首席の座を争うくらいらしいからな﹂
﹁へー⋮⋮。あの王⋮⋮じゃなかった、公爵令嬢殿は色々規格外だ
な。座学もできるし、実技もばっちり、さすがの育ちの良さと言っ
たところか﹂
﹁そうだな。ユゼフと違ってな﹂
﹁悪かったな、俺が実技壊滅のもやし野郎で﹂
﹁自覚あるなら、ちょっとは鍛えろよ﹂
﹁お生憎、戦術研究科は実技は重視されないんでね﹂
﹁さよけ﹂
1971
ラデックに凄い興味なさそうな返答をされた。自分で話振った癖
に! まぁラデックの所属する輜重兵科は戦術研究科以上に武術の
授業は重視されてないけどね。
﹁まぁ、それはさておき。エミリア様の話に戻すけどよ、あの人が
マリノフスカ嬢やヴァルタ嬢と喧嘩することなんてあるのか?﹂
﹁サラさんと喧嘩してるところは見た事ないけど、ヴァルタさんと
壁ドンされた
なら1度喧嘩⋮⋮と言うより仲違いというかすれ違いみたいなこと
はあったよ﹂
﹁え? いつ?﹂
﹁俺がサラさんに壁に追い詰められて尋問された挙句殴られたとき﹂
﹁すまん。心当たりがありすぎる﹂
ですよね。今月だけで同じようなことが3回くらいあった気がす
るし。別に美少女に追い詰められること自体は苦じゃないけどね!
ちょっと力加減してほしいくらいかな!
﹁でもその時はすぐに仲直りしたんだよ。だからもし今回同じよう
なことがあっても、すぐに解決するんじゃないかと思う﹂
﹁そうだな。あとはマリノフスカ嬢とだが⋮⋮あの2人が喧嘩する
ってのは見当つかないな﹂
﹁確かに﹂
エミリア様は常日頃、ヴァルタさんかサラさんと一緒に居る。こ
れは護衛の役割も兼ねているのだろうが、それ以上に当人の仲が良
いからだろう。そうじゃなきゃ四六時中誰かと一緒という状況は拷
問に近い事だし、それにサラさんはエミリア様の事を呼び捨てにし
ているか唯一の存在。そんなサラが喧嘩なんて⋮⋮。
1972
﹁となると、残る可能性は⋮⋮﹂
﹁いじめ、か﹂
どこの世界にでもいじめはある。人は3人集まれば社会を作り出
し階級制度を見出し差別を行う生き物だと言われている。そしてそ
れは士官学校を始めとした軍隊という巨大な組織でも同じことが言
える。
その最たる例が、目の前に座るラデックが所属する輜重兵科だ。
﹁いじめと言えば、輜重兵科は大変なんじゃないか?﹂
﹁まぁな。この間も騎兵科の奴らに変な事言われたぜ﹂
﹁それは⋮⋮なんというか、ご愁傷様です﹂
﹁どーも。と言っても俺はあんまり気にしてないが﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁あぁ。いちいち気にしてたらそれだけで日が暮れる﹂
輜重兵科は士官学校内において冷遇されている。
ここ、王立士官学校には10の科が存在するが、その内座学を重
視する科は半数の5科だ。俺が所属する戦術研究科、ラデックが所
属する輜重兵科、魔術理論を学び魔術の応用研究を主に行う魔術研
究科、法律や法務について学び軍の綱紀を正す警務科、そして情報
収集及び情報分析を行う諜報科だ。
この5科の内、憲兵養成科である警務科を除く4科は他の6科か
ら立場の低い者という扱いを受けている。無論、全生徒が思ってる
わけじゃないのだが、その中でも最も酷い扱いを受けてるのが輜重
兵科なのだ。
1973
﹁そいつが言ったのは、﹃軍人たる者、前線に立って敵と相対する
のが本分。後方に下がって机仕事をしている奴らが、日々厳しい訓
練を積み重ねている我ら騎兵科と同じ軍人だとは何とも嘆かわしい
事だ。これは我々に対する侮辱だ﹄とかなんとか﹂
﹁あぁ、じゃあ気にすることないな。たぶんそいつら早死にするか
ら﹂
輜重兵科は後方支援の専門家を養成する科だ。輜重兵は元々物資
輸送を行う兵のことだけどこの大陸では輜重兵は﹁後方支援全般を
行う兵﹂という意味になった。
後方支援の代表格が補給だ。補給と言うと軽視されがちな部門だ
けど、でも﹁腹は減っては戦はできぬ﹂と昔から言う。よしんば腹
を満たしても矢や剣がなければ戦えない。
どの部隊にどの量の物資を送るか、あるいは戦闘によって損耗し
た人員をどういう風に補充するのか。最適な選択肢を選び効率的な
部隊を作るのが後方支援だ。まさに縁の下の力持ち的な存在。
そんな輜重兵科を凄い古臭い考えでバカにするその騎兵科の連中、
戦争になったら補給軽視して飢えて死ぬフラグを立てているのだろ
う。南無南無。
剣兵科とか騎兵科とかが厳しい訓練をしているのはわかるが、輜
重兵科だって死ぬ程つらい座学授業に耐えてるんだぜ?
それはさておき
閑話休題。
問題のエミリア様は剣兵科だ。輜重兵科ではない。
﹁話を戻すけどよ、剣兵科でもいじめってあるのか? それにさっ
きも言ったが、エミリア様は成績優秀だ。いじめられる要素なんて
どこもないだろ?﹂
1974
﹁いや、わからない。もしかするとそれがいじめの原因になってる
かもしれないし﹂
﹁どういうことだよ?﹂
﹁簡単な話だよ。公爵令嬢という大層なご身分、そして誰もが目を
惹く美少女、あげくに成績は優秀。エリート意識が高い剣兵科や他
の貴族から見たらどう思うか⋮⋮﹂
﹁なるほど。要はやっかみって奴か﹂
﹁そうだな。醜い嫉妬って奴だ。本当に貴族って善悪の差が激しい
人種だよなぁ⋮⋮﹂
あまりにもウンザリしてしまってつい俺は口に出してしまった。
慌てて周りの様子を見るが、どうやら誰にも聞こえてはいなかった
ようだ。よかった。これがどっかの貴族様に聞こえてたらまずかっ
たかもしれない。
とその周りと見回した時、見た事がある人影が学食にやってきた。
噂をすれば影、まさしくそれはエミリア様の姿だ。
俺は声を縮めてラデックにそれを告げる。
﹁おいラデック、あそこ﹂
﹁ん? ⋮⋮って、ご本人登場か。聞かれたかな﹂
﹁いや、多分聞かれてない。それ以上にこっちの存在に気付いてな
いみたいだ﹂
俺らとエミリア様の距離はそんなに離れていないため気付いても
おかしくない。それにヴァルタさんやサラさんの姿が見えない。大
抵はその2人のどっちかと居ることが多いのに、珍しいパターンだ
な。そしてなにより⋮⋮
1975
﹁⋮⋮ラデックの言う通り、表情が暗いね﹂
﹁だろ?﹂
エミリア様はなんだか、この世の不幸を2割ほど背負っているよ
うな顔をしていた。手元の食事も進んでいないようで、終始物憂げ
な表情をしていた。
うん。重症かもしれない。
何か間違いが起きる前に、対策を打たないとまずいかも。とりあ
えずヴァルタさんに相談してみるか⋮⋮。
1976
小さな王女の大きな悩み 中篇
翌日、ヴァルタさんに事の次第を話した。エミリア様が何か変だ
と。そしてそれは当然のことながら、ヴァルタさんも承知していた。
﹁私自身、何かしたい気持ちはあるのだが⋮⋮﹂
﹁何か問題でも?﹂
﹁あぁ。エミリア様自身がそれを話してくれないのだ﹂
うーむ⋮⋮結構根が深いかもしれない。
いじめってのはなかなか把握しづらいと言うけど、その最たる原
因が﹁被害者が口を閉ざす﹂ことなのだ。親や友人に相談したら迷
惑がかかるのではないかとか、いじめられてるのは自分が悪いのだ、
とかね。
⋮⋮べ、別に経験があるわけじゃないし。いや、本当に。泣いて
ないし。
﹁どうした?﹂
﹁いえ、ナンデモナイデス﹂
﹁そ、そうか? 悩み事があるなら聞くぞ?﹂
﹁いや本当に大丈夫ですから⋮⋮﹂
みなさん、こうやっていじめは表に出てこないんですよ。という
よくわからないお手本を見せたところで本題に戻る。
﹁私の事はともかく、エミリア様の方が優先です。あのままじゃ大
変なことになりますよ﹂
1977
﹁そうだな⋮⋮。ワレサくん、明日は暇か?﹂
﹁授業が終われば、私はいつでも暇ですよ﹂
なんてったって友人が⋮⋮いや、もうこの話はやめやめ。俺が鬱
になる。
﹁そうか、では少し付き合ってもらおうか﹂
﹁何をです?﹂
﹁決まっている。尾行だよ﹂
⋮⋮えっ?
−−−
3月21日の放課後。
俺とヴァルタさんは、なぜかエミリア様のストーカーをしている。
どう見ても変質者で、周囲の人間は俺らを見た途端目を逸らして可
能な限り距離を取っている。帰りたい。
でも今日の相棒役であるヴァルタさんは気にしてない模様。これ
は忠誠心の表れなのか、単純に彼女がバカなのかは判断がつかない。
この変質者2人組に気付いてないのは、尾行対象のエミリア様だ
けだ。なんと異様な光景。俺が当事者じゃなかったら絶対教師か警
務科に通報してる。
1978
﹁ふむ。今日は一段と酷いな。顔が沈鬱どころか足元も覚束ない様
子だ。きっと今日は何かあるに違いない﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
もうヴァルタさん1人に任せようかな、って思わなくもない。で
もエミリア様がもし本当にいじめられてたら一大事だ。放っては置
けない。
﹁右に曲がったぞ。行くぞワレサくん﹂
﹁あ、はい﹂
でもそれはそれ、これはこれ。いっそ本人に突撃して事情を洗い
ざらい聞き出したい気持ちでいっぱいなのだ。ヴァルタさんの隙を
ついてそれを実行しようかとも迷ったが、前回の試験で剣兵科首席
の成績を取った彼女に隙なんてあるだろうか⋮⋮。
ヴァルタさんについていき、俺はエミリア様の後を追う。そして
角を右に曲がると、エミリア様はふと窓の外を見ていた。
太陽は今日の仕事は終わりだと言わんばかりに地面に潜り始めて
おり、外は既に暗くなりかけている。街灯なんてあるはずもないこ
の世界、月齢にもよるが陽が完全に没する前に寮に戻らないと本当
に真っ暗になる。
そんな世界を、エミリア様は溜め息を吐きながら悲しげな表情で
じっと見ていた。
﹁美しい⋮⋮﹂
あの、ヴァルタさん何言ってるんですか。確かに物憂げな表情を
1979
する金髪ロリ王女様の御尊顔は大変美しいとは思いますけど、今は
それどころじゃないでしょう。いや、でも本当に良いなあの表情。
なんでこの世界にはカメラがないんだ。この際フィルムカメラでも
いいから欲しい。現像の仕方知らないけど。
エミリア様は暫しその場を動かず、じっと窓の外を見ていた。
その後1分程してからようやく動き出した。俺とヴァルタさんは、
エミリア様の視界に入らないように追跡する。エミリア様は再び右
に曲がり、そしてある部屋に入って行った。
トイレ
﹁ヴァルタさん、あそこは⋮⋮﹂
﹁あぁ。⋮⋮女子化粧室だ﹂
⋮⋮ふむ。
﹁ヴァルタさん、私が中を調べますので貴女はここで待機を﹂
と言いかけた時、なぜかヴァルタさんに思いきり頭を叩かれた。
今や懐かしの漫才師のツッコミのごとく、綺麗に﹁スパーン!﹂と
音が鳴った。勿論痛い。
トイレ
俺はエミリア様に聞こえないよう、小声でヴァルタさんに抗議す
る。
﹁何するんですか急に!﹂
﹁言わなきゃわからないか! なんで君が女子化粧室に入るのだ!﹂
﹁それは、ほら、ヴァルタさん背が高いですし、目立つじゃないで
すか﹂
﹁男の君が入っても同じことだと思うぞ?﹂
チッ、バレたか。まぁ仕方ない。聖域への侵入は後日改めて行う
1980
として⋮⋮。
﹁冗談はさておき、これからどうします?﹂
﹁私には冗談には聞こえなかったが⋮⋮、まぁ君の言う通り私が入
っても目立つだけだからな。ここで暫く待機しよう﹂
そう言って俺らはトイレの入り口が見えて、尚且つ死角となり得
る場所でエミリア様のアレが出るのを待つ。
ここで、ふとエミリア様が見ていた窓の外の様子が気になった。
単に景色を見ていたのか、それとも何か特別な物が見えたのか。俺
はちょっと気になって窓に近寄って外を見た。と言ってもさっきま
でエミリア様が見ていた窓とは方角が違うから映る景色はちょっと
異なる。
俺が見ている窓はどうやら南向きのようで、ガラスの右側には綺
麗な橙色に染まるシレジアの空が映し出されていた。﹁この世界の
夕陽は美しい﹂と言いながら缶コーヒーを飲みたくなるね。
でもそれ以外の景色は特に何も変わっていない。窓を開けて、先
ほどまでエミリア様がいた方向の景色を見てみるが、やはり特に何
もない。あるのは練兵場くらいだ。
うーむ⋮⋮やっぱり何か特別なことがあったわけじゃないのかな。
もしかして﹁今ここから飛び降りれば楽になるかな⋮⋮﹂とか考え
ていたとか⋮⋮。いやいやそれはない。国王陛下に向かって啖呵を
切ったエミリア様がまさか⋮⋮ね?
だがその時、ちょっと切羽詰まった声が後ろから聞こえた。
﹁おい、ワレサくん!﹂
1981
その声を聞いて、俺は慌ててエミリア様がいた方向を見る。いや、
正確に言えばヴァルタさんがいた後方に振り返ろうとしたのだが、
エミリア様がいたはずの方向を見た瞬間、その動作が止まったのだ。
そこにいたのは、トイレから出てきたエミリア様。そしてそのエ
ミリア様の前に立つ、1人の少し恰幅の良い男がいた。どっかで見
た事があるような、ないような。
エミリア様とその男は会話をしている様子。どちらも小声なのか、
俺とヴァルタさんの耳には内容が全く入ってこない。
﹁犯人だな﹂
﹁いやヴァルタさん、決めつけるのが早いです﹂
﹁なぜだ。大抵の本ではここで現れる謎の男が犯人である場合が多
いだろう﹂
いや架空の世界の話を持ってこられても困りますよ。あと、俺の
知ってる推理物語じゃ犯人っていうのは全身黒タイツの変態だって
相場が決まっているものだ。あんなハッキリと色がついている男が
犯人のはずないだろうに。
﹁ともかくこのまま様子を見ましょう。話はそれからです﹂
﹁そうだな。だが事によっては私の手で直接⋮⋮﹂
﹁やめましょうか﹂
場合によっては死人が出る。
そんな俺とヴァルタさんのコントが繰り広げられているのを知ら
ないエミリア様と謎の男は会話を続けている。だがエミリア様の表
情は一段と暗くなっており、それが何かよからぬ事態が起きる予兆
だとしてもおかしくはなかった。
1982
ヴァルタさんもそれは同じようで、先ほどから顔を顰めている。
悪い予感がするのだろう。
そして予感というのは不思議なもので、良い予感というのは殆ど
アテに出来ない代物である。それは逆説的には悪い予感は結構当た
ることの証左でもある。今回もその説が残念なことが証明されたよ
うだ。
﹁おい!﹂
エミリア様に話しかけていた謎の男がいきなり叫んだ。見ると、
そこには乱暴に肩を掴む男の姿がある。ヴァルタさんが慌てて駆け
付けようとしたが、さらに事態は進行する。
エミリア様が、その場で崩れるようにして倒れたのだ。
﹁何をやっている!﹂
気づけばヴァルタさんは謎の男に肉薄し、思い切り胸倉を掴んで
いた。背中しか見えないから彼女の顔は想像するしかないが、たぶ
ん男には鬼の表情が見えているだろう。
ヴァルタさんが本気で怒ったら結構怖いのよ? その場に居合わ
せたことないけどさ。
一方の男は、慌てた様子で﹁違う、俺は何もしてない﹂と言って
いた。本気で怖がっているようで、言葉の端々が震えていた。
って、そんなことを考察してる場合じゃないか。
俺はエミリア様に駆け寄って抱き起す。どうやら失神してるよう
だ。目立った外傷はないが、倒れるときに頭を打った可能性もある。
1983
とりあえず医務室に運ぼう。でも非力な俺じゃ運べない。ヴァル
タさんに手伝ってもらいたいが、主君が急に倒れた反動なのか前後
不覚に陥っている様子でエミリア様の介抱ではなく容疑者の詰問に
終始している。
﹁お前ら何やってるんだ?﹂
と、そこで聞き慣れた声が背後から放たれた。振り返ると、そこ
にはラデックの姿があった。さすがイケメン、いいタイミングで来
るね。
﹁ラデック、エミリア様が倒れた!﹂
﹁本当か!?﹂
﹁あぁ、医務室に運ぶから手伝ってくれないか。俺だけじゃ無理だ﹂
﹁ったく、だから﹃鍛えろ﹄って言っただろう!﹂
そう文句を言いつつ、ラデックはエミリア様をお姫様抱っこして
近くの医務室まで運ぶ。こんな時になんだけど、イケメンが王女様
を抱き上げるという凄い絵になる光景が、そこにはあった。
1984
小さな王女の大きな悩み 後篇
エミリア様を医務室に運んでから数分後、ラデックは教官に報告
するために医務室を出た。
そして問題のエミリア様の具合だが⋮⋮、医務室にいた軍医さん
曰く﹁頭にこぶが出来たくらいで、大したことはない﹂そうだ。
軽い応急治癒魔術を施すだけであとは大人しくしていれば大丈夫
だろう、とのことである。
そして一連の治療が終わって暫くした後、エミリア様は目を覚ま
した。
﹁ご気分は如何ですか、エミリア様﹂
﹁⋮⋮ユゼフさん。あの、ここは?﹂
﹁医務室ですよ﹂
﹁あぁ⋮⋮そう言えばあの時、私は倒れてしまったのですね﹂
その時、ちょっと違和感を覚えた。彼女は今﹁倒れてしまった﹂
と言った。でもあの時は男に﹁倒された﹂ように見えたのだ。
その違和感を解決するために、彼女に聞かなくてはならない。
﹁エミリア様、いったい何が⋮⋮﹂
でもそれは、豪快に開け放たれた医務室の扉によって阻まれてし
まった。俺とエミリア様と軍医さんがびっくりして入り口を見ると、
そこには若干息を切らしているサラさんがいた。
1985
﹁エミリア! 大丈夫!?﹂
彼女はそう叫びながらエミリア様に駆け寄る。軍医さんの﹁静か
に﹂という命令も聞こえていないのか、サラは大きな声でエミリア
様の躰をあちこち触っている。
﹁大丈夫? ケガない?﹂
﹁大丈夫ですよ。それと、声を抑えてくれると助かります﹂
﹁あ、ごめん﹂
サラがようやく落ち着きを取り戻すと、ようやく俺と目を合わせ
てくれた。
﹁って、ユゼフいつからそこにいたのよ!?﹂
﹁最初からだよ﹂
というか気付いてなかったんですか。いつもなら出会い頭に右ス
トレートを飛ばしてくるくせに。
﹁まったく、影が薄いのね!﹂
﹁⋮⋮それは否定はしないけどさ﹂
でもそれは周囲の影が濃すぎて俺が相対的に薄くならざるを得な
い、と言った方が適確だろう。
まぁ、それを突っ込む気にはなれない。さすがに軍医さんの前で
サラの格闘術をお披露目するわけにはいかないからな。
﹁それで、エミリアってばどうしたの?﹂
﹁え、えぇ。実は、倒れてしまって⋮⋮﹂
﹁それはわかってるわ。外からエミリアが急に倒れて、それで運ば
1986
れるの見たもの﹂
マジか。
もしかしてあの窓から見た練兵場で訓練でもしてたのかな。よく
見てなかったから気づかなかったけど。
﹁そうなのですか? もしかして運んだのはユゼフさん⋮⋮?﹂
﹁いや、運んだのはラデックですよ。私はご存じの通り非力なので﹂
﹁ユゼフはもっと鍛えなさいよ﹂
ラデックだけでなくサラにまで怒られた。本当ごめんなさい。今
度から気を付けます。
﹁まぁ、ラデックがエミリアをお姫様抱っこしたのは見えたから、
私も医務室まで急いで来たってわけ。入り口探すのに少し手間取っ
たから遅れちゃったけど﹂
﹁お姫様抱っこ⋮⋮少し恥ずかしいですね⋮⋮﹂
そう言うエミリア様は本当に恥ずかしがっているようだ。なんと
なく頬を赤らめている。本物の御姫様名のに。
まぁでもわからんでもない。校内で一、二を争うイケメンにお姫
様抱っこされるなんて乙女ゲームのイベントか何かって話である。
ラデックもげろ。
﹁で、何で倒れたの?﹂
﹁え、えーっと⋮⋮あの⋮⋮﹂
エミリア様はなかなか切り出さなかった。そしてなぜか顔を赤く
したまま俺の顔をチラチラ見ている。な、何? 俺の顔に何かつい
てる? それとも社会の窓が全開だったりするの?
1987
﹁どうしたの?﹂
﹁い、いえ、あの、ユゼフさんの前では⋮⋮その、言いにくくて﹂
⋮⋮えーっと、俺が邪魔ってことかな。信頼してないし友人でも
ない農民出身で戦術の教官気取りの俺には話したくないってことだ
ろうか。やめて泣いちゃう。いやエミリア様に限ってそんな選民意
識は⋮⋮あー、でも初めてエミリア様に会ったときはそんな感じだ
ったっけ⋮⋮。
俺が根拠のない妄想によって自分を卑下している一方で、サラに
は心当たりがあったようだ。
﹁ユゼフには言えない⋮⋮って、あ、まさかエミリア。この間の事
?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
どうやらサラの心当たりは正解だったようだ。さすが親友同士、
以心伝心ってことだろうか。
⋮⋮そうか、陰で俺の悪口言ってたのか。へこむ。
まぁ冗談︵?︶はさておき。
﹁サラ。﹃この間の事﹄って何?﹂
俺はそう聞くと、サラは少し悩んだ。
俺に言うべきか、言わざるべきかという感じだ。一方の当事者で
あるエミリア様はサラを凝視している。こっちは﹁言うなよ! 絶
対に言うなよ! フリじゃないからな!﹂って目だな。
1988
さて、サラはどうするだろうか。俺だったら某倶楽部を思い出し
て言っちゃうけど、サラにとってエミリア様は親友だし、言わない
だろうな⋮⋮。
﹁ユゼフなら信頼できるわね。教えるわ﹂
サラも某倶楽部のメンバーだったことが発覚した。いやそういう
のではないだろうけど。そしてエミリア様はちょっとガックリして
た。これもある意味当然の反応か。
一方、そんなエミリア様の心情を知ってか知らずか、サラは﹃こ
の間の事﹄とやらを話しはじめる。もしかすると彼女の口からは凄
惨ないじめについての内容が語られるかもしれない。落書きが酷い
机を窓から投げ捨てられ﹁おめぇの席ねーから!﹂と罵られ、ロッ
カーに赤紙が貼られたことを契機に集団いじめが勃発してるのかも
しれない。
俺は、緊張で顔を強張らせながらサラの言葉を待った。
﹁エミリアってば、体重気にしてるらしいのよ﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
ずっこけそうになった。俺の緊張と不安を返せ。
そしてエミリア様の方は、
﹁サラさんのバカぁ⋮⋮﹂
と若干涙声で膝に顔を埋めていた。ちょっと可愛い。
1989
﹁えーっと⋮⋮サラさん、詳しく﹂
﹁わかってる。あとさん付け禁止﹂
そう言うとサラは、軍医さんが近くにいる手前俺の頭を軽く叩い
た。軽いと言っても叩き方が上手いせいか地味に痛い。
﹁まぁ、エミリアが体重気にし始めたのってほとんど私のせいなの
よ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。私がエミリアに軽い気持ちで﹃最近太ったんじゃないの?﹄
って言っちゃったから⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮﹂
そりゃ駄目だよ。女子は体重とか体型に命を燃やしてるから、そ
んなことを言ったらダメでしょうよ。しかも同性からの指摘という
のが色々辛い。
サラもその点は反省というか後悔してるようで、目を逸らしなが
ら﹁あの、ごめんなさい﹂と小さな声で呟いていた。
﹁もしかして今回倒れたのって⋮⋮﹂
﹁たぶん、そのせい﹂
無理な減量をしようとして食事を制限したのかな。厳しく激しい
訓練が続く士官学校剣兵科において食事制限によるダイエットなん
て危険極まる。
そして先ほどそれが限界にきてぶっ倒れてしまったということな
のだろう。つまり栄養不足による低血糖、低血圧による失神という
わけだ。
あぁ、そう考えるといろいろ思い当たる点が確かにあったな⋮⋮。
1990
俺とラデックがエミリア様の姿を学食で見かけた時、彼女は全然
食が進んでいなかった。あれは減量の一環だったのだろう。悩みが
あってそれで食べなかったわけじゃない。食事自体が悩みだったの
だ。
そしてヴァルタさんと一緒にストー⋮⋮じゃない、追跡してた時、
彼女は不意に窓を眺めた。たぶんあれは窓の外を見てたんじゃなく
て、窓に映る自分の姿を確認していたのだろう。夕方で、窓は東向
き、外はだいぶ暗かったため、窓ガラスが鏡の役割を果たしたこと
になる。
もしかしたらトイレに寄ったのも無理な減量が原因かもしれない。
空腹の時間が長いと吐き気を催すときがあるし、それを感じたエミ
リア様がトイレに、というのも考えられる。いや普通に大なり小な
りを出していた可能性もあるけど。
そして医務室に来てからもそう。エミリア様が俺に対して供述を
拒否したのは、体重なんてデリケートな話を異性の前でしたくなか
ったということ。
女の子って面倒だなぁ。
でも色々ヒントはあったわけだ。それに俺らが気付かなかっただ
けで。
﹁ユゼフさんにも変だと思われてます! サラさんのせいですぅ!﹂
﹁落ち着いてエミリア!﹂
そして空腹のせいかエミリア様はじたばたし始めた。彼女のキャ
ラがちょっとおかしくなり始めてる。やばいなこれは。
1991
﹁エミリア様﹂
俺がそう話しかけると、彼女の動きがピタリと止まった。そして
少しずつ俺の方に向き直る。壊れたゼンマイ式の玩具みたいな動き
でちょっと面白いと思ったのは内緒です。
﹁や、やっぱり私、太ってますか?﹂
うーん、ここで俺はなんて答えた方がいいのだろうか。﹁そのま
まの君が綺麗だよ。キラッ☆﹂なんて言ったらたぶんドン引きされ
るし俺自身が吐き気を催すだろうしたぶんサラに殴られる。
⋮⋮でも何度もぶっ倒れても困る。ここはちょっと偉そうにお説
教しよう。
﹁エミリア様、とりあえず寮に戻って夕飯食べましょう﹂
﹁で、でも、そんなことをしたら⋮⋮﹂
﹁体重が増えそう?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
低血糖でぶっ倒れてもなお食事制限を続けようとする。ある意味
ではエミリア様らしい頑固さだが、今はそれを褒める気にはなれな
い。
﹁ではエミリア様。人間は、食べるのをやめるとどうなりますか?﹂
﹁⋮⋮えっと、﹃痩せる﹄?﹂
﹁はずれです。正解は﹃餓死﹄です﹂
俺が模範解答を出すと、エミリア様が呆けた顔になった。これは
あれですね。栄養が頭にまわってないってことですね。そういうこ
1992
とにして。
﹁人間は食べるのをやめると死にます。当然のことです﹂
﹁それは、そうですけど、でも死なないくらいには食べますよ?﹂
﹁えぇ。みんなそう言うんですよ。﹃減らしただけ﹄だって﹂
ここからは前世知識だ。ダイエットネタなんて毎日毎日どこかの
チャンネルで特集を組んでるくらいメジャーな話題だった。だから
減量に興味なくてもある程度は知識が身についてしまう。朝バナナ
ダイエットでもなんでも俺に任せろ。
﹁ですがねエミリア様。エミリア様の頭ではそう思っていても、体
はそうは思ってないのですよ﹂
﹁体、ですか?﹂
﹁はい。いくらエミリア様が﹃大丈夫、まだ大丈夫だ﹄と思ってい
ても体は正直なんです。生きるのに必死になるのですよ。すると⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮すると?﹂
﹁ちょっと食べただけでも、生を維持するために体は栄養を貯め込
みます。つまり太ります﹂
俺がそう言うと、エミリア様だけでなくサラさんや軍医さんまで
ビックリした顔をしていた。そりゃそうだ。そんなに医学が発達し
てるわけじゃないしな。
﹁食べる量を減らして体重を減らす。すると体が勝手に太る。そし
てエミリア様はそれを勘違いしてまた食べる量を減らします。する
とまた体は貯め込もうとします。悪循環ですね﹂
そしてそのうち生理が止まるまで食べるのを減らして飢えて、そ
1993
して餓死する。
食べるのに困らない王族が餓死って何の冗談だ。
﹁そ、それではどうしたら⋮⋮﹂
どうやらエミリア様はまだ減らすのを諦めてない様子。
でも本当にそのままでいてほしい。減量する必要ないと思うよ?
けどそう言っても女子には通じない。女子にとっては標準体重と
デブは同義である。それが体重というものが持つ呪い。恐ろしい。
そして激しく面倒臭い。
﹁何もしなくていいと思いますよ?﹂
﹁冗談はよしてください﹂
﹁いや、冗談じゃないですけど⋮⋮。エミリア様、ここはどこです
か?﹂
﹁はい? いえ、医務室ですよね?﹂
﹁うーん⋮⋮もっと広く見てください﹂
﹁えっと、士官学校?﹂
﹁そうです。士官学校です﹂
士官学校と言うものは、世界最恐の体育会系学校だと思う。運動
しなきゃ死ぬんだからそうなるのは当たり前だ。つまり、士官学校
にいるだけで運動は死ぬ程やるのだ。俺ももう死にたい。体動かす
のは武術の授業しかないけど。
﹁エミリア様、運動すれば痩せます。そして士官学校は、ザックリ
言ってしまえば運動する学校です。もし痩せたいのであれば、食事
の量を減らすのではなく、運動、つまり自主訓練の量を増やしまし
ょう。そうすれば痩せもするし、それに訓練のおかげで成績が上が
ります。一石二鳥です﹂
1994
﹁そういうものですか?﹂
﹁そういうものですよ﹂
筋肉が増えれば基礎代謝も増える。基礎代謝が増えれば消費する
カロリーも増えて、結果的にたくさん食べても問題ない。というか
軍人はたくさん食べてかないと本当に死ぬ。ていうか死にそう。無
理。助けて。
どこの誰か知らないけど、余計なことをボソッと言ったせいでエ
ミリア様は士官学校で食事制限をしてしまったのだ。ここは本来の
道に戻すべき。
﹁もしそれでも不安だというのなら、また私に言ってください。笑
いもしませんし、痩せようと思うことは変とも思いませんから﹂
﹁⋮⋮わかりました。ユゼフさんを信じます﹂
よし。これで王族が士官学校で餓死という珍事件に発展するのは
回避できた。後は⋮⋮。
﹁サラ﹂
﹁何?﹂
﹁反省しようか﹂
本当に、不用意な発言は慎んでもらいたい。危うく金髪ロリが金
髪ガリになるところだったんだぞ。ひとつの萌えが消えそうになっ
たんだぞ。
そんな俺の意思が伝わったのか、サラはばつの悪そうな顔をした
後、素直に頭を下げた。
﹁エミリア、ごめん﹂
1995
﹁大丈夫です。気にしてません﹂
いやまぁ、気にしてたから今回の事態に至ったんですけどね。ま
ぁそれを突っ込むのは無粋というものだ。
とりあえず、これにて一件落着。後は寮に戻って夕飯を思う存分
食うだけだ。
⋮⋮⋮⋮って、あれ? なんか忘れてる様な⋮⋮って、あっ。思
い出した。
﹁すみませんエミリア様。もうひとつだけ確認いいですか?﹂
﹁はい? なんでしょうか?﹂
﹁エミリア様が化粧室から出た後、誰かと会話していましたよね?
アレはだれですか?﹂
﹁え? ユゼフさん見ていたんですか?﹂
﹁え、えぇ。たまたま偶然本当に通りすがったら見かけたんですよ﹂
ここで正直に﹁ストーカーしてました﹂と言えるはずもなく、俺
は慌てて釈明した。それが功を奏したのか、エミリア様は特に疑問
に思うことなく俺の質問に答えてくれた。
﹁輜重兵科2年のマズールさんですね。確かラデックさんの御友人
で、何度か見かけたことがあります﹂
なるほど。それで俺にもなんとなく見覚えがあったってわけね。
てか﹁何度か見かけたことがある﹂だけで名前まで憶えてるのか。
凄いなエミリア様。
って、今はその話じゃない。問題なのは⋮⋮。
1996
﹁その人と何を話していたんですか?﹂
﹁え? えーっと、他愛もない話ですよ。あ、それと顔色が悪いと
言われて、その後私がふらついて肩を抑えてくれてくれましたね。
結局倒れてしまいましたが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ユゼフさん? どうかしました?﹂
﹁い、いえ。何もありませんよ。ささ、早く寮に戻って食事にした
方がいいと思いますよ﹂
﹁? はぁ、わかりました。サラさん、一緒に来て下さいますか?﹂
﹁えぇ、良いわよ!﹂
﹁ありがとうございます。それではユゼフさん、またお会いしまし
ょう﹂
﹁ユゼフ、また今度ね!﹂
サラとエミリア様は俺との挨拶もそこそこに医務室から出る。サ
ラは元気そうだったが。エミリア様の足元は依然として覚束ない。
でもサラさんがいるから大丈夫だろう。
一方、俺は医務室から出られないでいた。不審に思った軍医さん
が話しかけてくる。
﹁どうしたんだい? 君も体調不良かな?﹂
﹁い、いえ。けど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
﹁あの、もしかしたらこの後けが人が1人来るかもしれませんので、
よろしくお願いします﹂
﹁は?﹂
そして俺は軍医さんから逃げるように、医務室から退室した。
1997
−−−
翌日、俺の男子寮で朝の点呼をしていた時。見覚えのある人物が
視界の端に映った。
その人物の顔には、昨日までにはなかった大きな痣があった。
1998
小さな王女の大きな悩み 後篇︵後書き︶
﹃大陸英雄戦記﹄第2巻、本日発売です。よろしくお願いします。
1999
ひと時の安寧
大陸暦638年5月7日に締結されたエーレスンド条約と、その
講和会議の場における様々な外交によって、大陸情勢は大きく変化
を遂げたと言って良い。
大陸暦559年から続いていた反シレジア同盟の事実上の崩壊、
オストマルク帝国とシレジア王国の接近、東大陸帝国とシレジア王
国の融和の兆し。大陸史において重要な事項として後世の歴史教科
書に掲載され、そして多くの受験生を苦しませた問題の誕生だった。
この条約によって多くの捕虜が解放されたことも、情勢変化に一
役買っている。
1つ、シレジア王国は捕らえていた数万人の捕虜を解放したこと
によって、ある程度財政が健全化した事。地味だがとても重要なこ
とだった。
クラクフスキ公爵領私設刑務所であるツェリニ刑務所を例にとれ
ば、定員1200名の所に2000名の捕虜と一般刑事犯を詰め込
んでいた。捕虜が政治的に役立つために無碍な扱いも出来ず、当然
それだけ経費は積み重なるし、その分公爵領の財政に重く圧し掛か
る。これがシレジア各地で起きていた。
それが解消される。﹁ここは豊かだから﹂という理由で多くの捕
虜を抱えることとなってしまったクラクフスキ公爵領では、特にそ
うだろう。
2つ、東大陸帝国内の情勢安定に寄与したこと。
2000
周知の通り、帝国は皇太大甥セルゲイ・ロマノフ派貴族と、皇帝
イヴァンⅦ世派貴族の対立がある。
春戦争によって皇帝派貴族の子弟が戦死ないし捕虜になったこと
は、皇太大甥派貴族にとってはまさに僥倖であった。これを機に皇
帝官房長官モデスト・ベンケンドルフ伯爵を中心とした工作と政争
によって、春戦争に参加しなかった皇帝派貴族の権威を失墜させた
のだが、まだ不十分だった。
皇太大甥派にとって邪魔な、皇帝派貴族の大多数をこちら側に取
り込む。そのための材料が、シャウエンブルク条約によって解放さ
れた捕虜だった。この時セルゲイは、捕虜となっていた皇帝派貴族
子弟の生殺与奪を手に入れたのである。
﹁死んだ息子に会うのと、余の軍門に下りて武勲を立てて生還した
息子に会う。卿はどちらを選ぶか?﹂
セルゲイは皇帝派貴族に対して、そう言ったそうだ。無論全ての
貴族に対して言ったのではなく、当代、あるいは捕虜となっていた
子弟が有能で有用だと判断した者のみにである。
皇帝派貴族の殆どは、セルゲイの下につくことを選んだ。彼らの
矜持はそれを許さなかったが、自分の代で家を取り潰されることと
引き換えにするほど、肝も据わっていなかった。
﹁私が皇帝になれたのは、4割程はシレジアのおかげだろうな﹂
と、後に第60代皇帝に即位したセルゲイ・ロマノフはそう述べ
た。
2001
そして3つ目。これが今回最も重要な事である。
シャウエンブルク条約によって全ての捕虜は解放された、と公式
ではそうなっている。だがこの文章を正確に直すと﹁殆どの捕虜は
解放された﹂となる。
それは、シレジア王国のある士官による策略だった。
この策略は、シャウエンブルク条約最大の特徴、非武装緩衝地帯
の設定と相まって、絶大な効果をもたらすこととなる。
士官の名は、ユゼフ・ワレサ。
彼は大陸暦638年6月1日、クラクフスキ公爵領総督府に新設
された﹁公爵領民政局統計部﹂の初代特別参与に着任した。
−−−
大陸暦638年7月7日。
条約締結から丁度2ヶ月が経ち、王国内の内情は極めて安定して
いると言って良い。
春戦争の正式な終戦を迎えたため、準戦時体制は解除、平時体制
に戻った。それを機に、軍ではいくつかの重大な人事異動があった。
軽く纏めてみよう。
まずは王国軍総司令官ジミー・キシール元帥、王国総合作戦本部
長モリス・ルービンシュタイン元帥の退役である。
キシール元帥もルービンシュタイン元帥も高齢で、退役待ったな
2002
しの状態が続いていたのだけど、春戦争のせいでそれが伸びていた。
今回正式に終戦し、残務処理もほぼ終えたことから、名誉の退役と
なったわけだ。
春戦争の時に両元帥に大変お世話になったらしいエミリア殿下曰
く、
﹁年齢を考えれば致し方ないのですが⋮⋮それでも、少し寂しいで
すね。特にルービンシュタイン元帥には、本当にお世話になりまし
たし⋮⋮﹂
とのことである。
当時少佐でしかなかったエミリア殿下の作戦案を承認し、かつ戦
場で参謀としての権限まで与えてくれた。中立派と聞いていたが、
もしかしたら王女派だったのか、と思ったのだが、マヤさん曰く、
﹁エミリア殿下がルービンシュタイン元帥の孫にそっくりだったか
ら⋮⋮という噂はあるがね。真実は闇の中さ﹂
⋮⋮なんだろう。ルービンシュタイン元帥がただの人当たりの良
い近所のお爺ちゃんにしか聞こえない。会ったことないけどさ。
それはさておき
閑話休題
次期総合作戦本部長には、総参謀長レオン・ウィロボルスキ大将
が、次期王国軍総司令官には副司令官であったジグムント・ラクス
大将が、それぞれ元帥に昇進の上その座についた。
ウィロボルスキ元帥は大公派、ラクス元帥は中立派らしく、どう
やら人事異動に託けて軍部トップを大公派に染められてしまったの
2003
である。
これは地味に辛いかもしれない。
クラクフにいる俺らにも人事異動があった。
まずはエミリア殿下。
クラクフスキ公爵領軍事査閲官という地位職責は変わらないが、
なんと准将に昇進した。17歳で准将というのは、例え王族だとい
うことを考慮しても結構早い。このまま行けば20歳になるころに
は元帥になっているんじゃないかとさえ思う。
ちなみにエミリア殿下のコメントは特になかった。軍務省で辞令
を受け取った直後の殿下の顔はとても陰鬱なものであったが。
次にラデック。
階級は大尉のままだが、クラクフ駐屯地補給参謀補という地位か
ら﹁補﹂の文字が消えた。なんでも前任の補給参謀が不祥事起こし
て不名誉除隊となったからだそう。
ちなみに彼はまだ結婚していない。リゼルさんが子供を産んだら
結婚式を挙げるそうだ。
サラとマヤさんに関しては特に何もなし。サラは少佐で第3騎兵
連隊第3科長、マヤさんは大尉で侍従武官のまま。
ただしサラ、ラデック、マヤさん︵あとついでに俺︶はカールス
バート内戦による武功が認められ、王室から勲章を賜った。これで
箔がついたし、次の人事異動じゃ昇進するかもしれない。
そして最後に俺。
2004
昇進はしていないが、公爵領軍事参事官の職は解かれ、代わりに
新設された公爵領民政局統計部特別参与とかいう、次席補佐官時代
を彷彿とさせる長い職を任せられることになった。
カヴァレル
あと、エミリア殿下から﹁騎士﹂の地位を戴きました。
貴族になりたくないという俺の思いは、無事打ち砕かれたのであ
る。
⋮⋮はぁ。
2005
ひと時の安寧︵後書き︶
新章です。短く終わらせる予定です。なに、クリスマスまでには終
わりますよ。
2006
策謀の地
13時10分。
﹁肩書きの長さの割には、お前暇そうだな?﹂
俺にあてがわれたこじんまりとした執務室にやってきたラデック
は、開口一番そんな失礼なことを言う。⋮⋮まぁ実際、書類仕事が
少ないのは確かだ。俺の為に用意された執務机の上には資料は少な
く、あるのは従卒のサヴィツキくんが入れてくれた珈琲と、手を付
けていない軽食だけ。
﹁今の俺の上司、即ち統計部長は事務処理が得意な人間でね。お飾
りの特別参与は暇なのさ﹂
﹁仕事しろ少佐﹂
﹁軍人に仕事がないことは良い事だよラデック﹂
﹁軍人は戦うことだけが仕事じゃないぞユゼフ﹂
ごもっとも。ラデックのそれが良き例である。
ラデックは、やや乱暴に俺の机に資料をいくつか置いた。体裁は
整っているし字も綺麗で読みやすく、彼の性格がよく表れている。
﹁それでよユゼフ、聞きたいことがあるんだが﹂
俺が資料の中身をザッと確認している最中、ラデックがそう聞い
てきた。
﹁なんだ?﹂
2007
﹁お前の⋮⋮えーっと、何だっけ? 統計部特別参与ってのは、結
局何するのが仕事なんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮言ってなかったっけ?﹂
﹁少なくとも俺は聞いてない﹂
マジか。
あぁでも、この職の詳細を知っているのは人事局に根回ししたエ
ミリア殿下とマヤさんだけなんだっけ。あとは例の策を知っている
サラとフィーネさんくらいで⋮⋮。
﹁ごめん。ラデックの事忘れてた﹂
端的に言うとそういうことだ。
俺の答えを聞いたラデックは、左手で頭を抱えた。
﹁理由がひでぇなオイ。⋮⋮まぁいい、さっさと教えろ﹂
﹁切り替え早いな﹂
﹁まぁな。もう慣れた﹂
凄い悲しいことをサラっと言った気がするけど、深く追及するの
はやめておこう。でもこいつには綺麗な嫁さんがいるし可愛い子供
も生まれる予定なので、その代償と思えば罪悪感は薄れる。爆発し
ろ。
﹁さて、と。どっから説明すべきかな⋮⋮﹂
﹁最初からで頼む﹂
﹁はいはい、最初から⋮⋮というと、やっぱり例の捕虜の件か﹂
そういうわけで、俺は大公派どころか味方であるはずの法務省に
知られたらまずいだろう、最高軍事機密が書かれている資料を渡す。
2008
この策略を知っているのは、俺らや内務省治安警察局などの王女派
の人間だけで、中立派の軍務尚書すら知らない話。
どこからこういう情報が漏れるかわからないからね。本当に最低
限の人間にしか知らせていない。
資料の中身を見て、それを理解したらしいラデックは絶句してい
た。俺と資料を交互に見ているが、信じられないと言った風だ。
﹁まぁ、そういうことだ。あ、その資料は極めて重要なものだから
返して﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮でもユゼフ。これは危険な手じゃないか? もし帝
国政府にばれたりしたら﹂
﹁危険は承知しているさ。でも失敗したところで彼らは今何もでき
ないよ。国内改革中で外征する余裕がないからね﹂
﹁だが、改革が安定したら?﹂
﹁改革が安定すれば、セルゲイの考えていることから考えてシレジ
ア王国に再戦を挑むことは疑いようもない。どのみち戦争になるの
なら、いっそ悪辣な事をしてしまえってね﹂
無論、だからと言って無策なわけではない。
バレない様な工作はしているし、エミリア殿下が政治的に不利に
立たされないよう細心の注意を払っている。
﹁そろそろ、その策が効果を発揮するころかな⋮⋮﹂
俺がそう言った瞬間、執務室の扉がノックされた。俺が﹁どうぞ﹂
と言うと、入ってきたのはクラクフスキ公爵領総督の妹、つまりマ
ヤさんが入室してきた。彼女が来たということは、結果が出たとい
うことだろうな。
2009
﹁例の件について、帝国領ベルスの駐在武官から報告が上がってき
ているよ﹂
誰かが裏で台本を書いているんじゃないかと疑ってしまうくらい
に、絶妙なタイミングだった。
−−−
遡って、大陸暦638年6月23日。
東大陸帝国宰相府宰相執務室の主であるセルゲイ・ロマノフは、
皇帝官房治安維持局長モデスト・ベンケンドルフ伯爵と会見してい
た。
彼らの顔に笑顔は一切なく、面持ちも謹厳たるものである。
セルゲイとベンケンドルフ伯がこうして会っているのは、ユゼフ
が仕掛けたある策の結果によるもの。つまり、シャウエンブルク条
約によって解放された捕虜に関する調査である。
﹁それで、調べはついたのか?﹂
﹁はい。春戦争に参加した皇帝派貴族は多く、当然捕虜の数も膨大
でした。故に、比例して策略の規模も非常に大きくなっております。
それだけに、やや手間取ってしまいました。詳細はこちらの資料に﹂
そう言って、ベンケンドルフ伯はセルゲイに資料を手渡す。資料
はとても分厚く、それだけで人を撲殺できそうなほどの厚みと重量
があった。
2010
その資料には、延々と人の名前が書かれている。
セルゲイが読む傍ら、ベンケンドルフ伯が要点を纏める。
﹁春戦争に参加した男爵以上の爵位を持つ皇帝派貴族子弟3840
名の内、1105名は戦死もしくは行方不明、捕虜となった者は1
255名。そして先の条約締結に際して帰還した1255名の内、
768名に叛乱の兆しがございました。彼らは殿下に忠誠を誓うふ
りをして帝国内部で武装蜂起をするつもりだったのです。既にいく
つかの証拠も掴んでおります﹂
セルゲイが資料を捲ると、その証拠の詳細も書かれている。
帰還後、彼らは親兄弟親戚を説得し、セルゲイから帝位継承権を
剥奪させるために蜂起することを決め、武器や金銭を集める最中だ
った。その動きを、帝国唯一の秘密警察である皇帝官房治安維持局
が掴んだのである。
ただし、政敵と言えど名だたる帝国貴族も蜂起に参加するつもり
だったようで、その規模は大きく、皇帝官房治安維持局だけでは限
界があった。皇太大甥派貴族や軍、内務省らと協力し、そして証拠
を掴んで逮捕したのは、つい先日のことだったと、資料には書かれ
ていた。
﹁⋮⋮ご苦労だったな、ベンケンドルフ伯。卿の功績を大とする。
引き続き軍と協力し、帝国の膿を掃除してほしい﹂
﹁畏まりました、殿下﹂
﹁うむ。⋮⋮にしても、これを策謀したのはシレジア王国か?﹂
﹁状況から考えれば間違いありません。ですが残念ながら物的証拠
は掴み損ないました。申し訳ありません﹂
﹁いや、大規模叛乱の芽を摘んだだけでも功績は大きい。それに物
的証拠を得たとしても、まだ国内の体制が整い切っていない我が国
2011
には何もできんよ。だからこそ、こうして思い切った手を打ってき
たのだろう。今後も、彼の国は警戒した方が良さそうだ﹂
セルゲイはそう感想を述べて、ベンケンドルフ伯を下がらせた。
広い執務室に1人取り残された彼は、このシレジア王国の策謀に
ついて暫し考え込む。
捕虜を使って、敵国内部に混乱をもたらす。これは権謀術数の初
歩の手段であり、何ら驚くことではない、実際セルゲイ自身、規模
はともかく起こり得る事態だと思いベンケンドルフ伯に警戒を促し
ていた。
しかし、それはシレジア王国側も承知していることではないのか。
セルゲイは、そこに疑問を覚えた。
先に彼が言った通り、失敗してもシレジア王国は安泰である。ま
た帝国を強く若返らせることに執心しているセルゲイにとって、皇
帝派貴族を捕まえる大義名分を得ることができたのも僥倖だった。
だがそれでは、シレジア王国にとっては不利なのではないか。あ
の国にとってもっとも喜ぶべきことは、帝国内部で延々と皇帝派と
皇太大甥派が足を引っ張り合って改革が遅々として進まないことで
あるはずだ。
にも関わらず、彼らは皇帝派貴族を差し出した。
その意図が、セルゲイは読めなかった。
彼がシレジアの、いやユゼフ・ワレサの真の目的に気付くことは、
終ぞなかった。
2012
−−−
﹁ユゼフくんの予想通り、元捕虜の帝国貴族たちはセルゲイに捕ま
ったよ﹂
2013
クラクフスキ公爵領民政局統計部特別参与
﹁⋮⋮おい、2人共。ちょっと質問して良いか?﹂
﹁なんだい、リゼル・エリザベート・フォン・グリルパルツァーの
旦那さん﹂
﹁おまけみたいに言うな。確かにリゼルと比較すれば俺は⋮⋮って
今はそれはいい﹂
若干ノリツッコミをしそうになったラデックは、マヤさんが持っ
ていた資料をひったくると同時に俺に質問を投げかけた。何を言う
かはだいたい想像がついたし、実際ラデックのそれはやはり想像通
りだった。
﹁なんで失敗するのが予想通りなんだ? お前さっき、皇帝派貴族
を煽って帝国内部で叛乱を起こすとか言ってたよな?﹂
﹁言ったよ?﹂
﹁だったら成功させろよ! 失敗させてどうするんだ!﹂
﹁良いんだよ。今回重要なのは蜂起を起こすことじゃないから﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁つまり、これは陽動だ。帝国唯一の秘密警察、皇帝官房治安維持
局とかの注意をそちらに向けるためのね。だいたい考えてみろ、捕
虜に不穏分子を混ぜて内部で混乱を起こそうだなんて、基本中の基
本。稀代の名君たるセルゲイ・ロマノフが考えないわけないし、当
然皇帝官房治安維持局とやらも気づくだろう? そもそも、武装蜂
起して色々準備すれば確実に足がつく。皇帝官房治安維持局と軍が
皇太大甥派にある限り、皇帝派の武装蜂起は未然に防がれる可能性
が極めて高い﹂
﹁⋮⋮﹂
2014
ラデックは再び固まった。
一方マヤさんは﹁やれやれ﹂と肩を竦めて呆れている。そうだよ
ね。この程度のこともわからないラデックにはほとほと呆れるよね!
﹁あー⋮⋮じゃあユゼフよ。武装蜂起未遂が陽動だとすれば、真の
目的はなんなんだ?﹂
と、ラデックが当然の質問をする。皇帝派貴族を生贄にして、俺
はもっと別のことをした。
それが書かれている、先程のとは別の資料をラデックに手渡した。
こっちも最高機密書類で門外不出。内容を知っているのはやはり内
務省治安警察局の人たち。
﹁⋮⋮なにやってんだお前⋮⋮﹂
彼の感想はそれだった。まぁ、そう思うのも無理はないか。なに
せ⋮⋮
﹁まぁ、ご覧の通りシャウエンブルク条約で解放されるはずだった
捕虜は、一部は拘禁されたままだ。一応公式には全員解放されてい
ることにはなっているけど、クラクフスキ公爵領ツェリニ私設収容
所に13人が拘禁されている。彼らは公式資料では戦闘中行方不明
ということになっているね﹂
﹁⋮⋮どういうことだ?﹂
﹁簡単さ。人質だよ﹂
ツェリニに今も拘禁されている13人の捕虜、彼らは全て帝国で
はそこそこ名のある貴族の子弟だ。彼らを人質として、本国にいる
貴族に情報を要求する。それだけだ。
2015
人質がいることと、その解放の条件を伝える役は東大陸帝国内務
大臣と繋がりのあるらしいオストマルク帝国情報省の皆さんにやっ
てもらった。
それと、本国の貴族連中がセルゲイに密告しないよう﹁もしばら
したら、残っている捕虜は全員殺す﹂というのも教えておいた。自
分の子弟を見捨てる奴はいるだろうが、自分が密告したせいで自分
より格式の高い貴族にも喧嘩を売る羽目になるのではないか、とい
う不安感を煽ることで、密告に対する抑止力としている。
彼らを使って帝国内部の情報を探る。些か非人道的だとは思うが、
相手が特権にしがみつく貴族の子弟だと考えれば罪悪感は薄れる。
危険はあるにはある。帝国政府に知れたら大変だろう。
だけど現状では知られる可能性は低い。本国の貴族が損失覚悟で
密告したとしても、ツェリニ収容所は公爵領の持ち物で、書類上は
彼らは行方不明扱い。
存在しない者を存在しないと証明しろ、というのは無理な話。立
証責任は彼らの方にある。
﹁じゃあ、さっきクラクフスカ嬢が言っていた﹃帝国領ベルス駐在
武官﹄ってのは?﹂
﹁帝国領ベルスは、シレジアとの国境に接している街⋮⋮つまり、
条約で設定された非武装緩衝地帯だよ。そこにいる駐在武官はヘン
リクさんの知り合いで王女派。そしてその駐在武官を経由して、こ
こに情報が送られてくるという訳﹂
つまり、非武装緩衝地帯が情報戦の最前線となる。
これがしたいがために、エミリア殿下に非武装緩衝地帯を提案し
たのだ。
2016
そう言えば、ラデックの質問にはまだ答えてなかったな。﹁統計
部特別参与は何をする役職なのか﹂と。これがその答えだ。
﹁クラクフスキ公爵領民政局統計部は、表向きには公爵領内部の経
済や民衆の活動に関する情報を収集して今後の民政に活かすことを
目的としている。特別参与の役目はその補助、特に軍事面における
統計情報を纏めることにある。だけど本当の目的はこれ、帝国に対
する情報収集のための拠点。そしてそのまとめ役が特別参与である
俺だ。これが、ラデックの質問に対する答えだよ﹂
一公爵領の民政局の下に、対外情報機関を作る、というのはエミ
リア殿下の発案だ。
殿下は長い間、シレジア独自の、そして王女派閥の対外諜報機関
を作ろうとしていた。そしてこの﹁クラクフスキ公爵領民政局統計
部﹂が、その第一歩となる。
と言っても、前途多難には違いない。上手く行くかは今後次第だ
し、貴族がいつまでも大人しくしているわけではない。これを踏み
台にしてさらに情報網を広げていかないとね。
﹁だから俺は今忙しい﹂
﹁嘘吐け仕事してないだろ﹂
カッコ良く〆たつもりだったが、ラデックにすかさず突っ込まれ
た。
2017
熾烈︵前書き︶
ユゼフくんの肩書きが露骨すぎたので﹁特別参与﹂に変更しました。
やることは一緒です
2018
熾烈
﹁ユゼフくんはやはり戦場よりもそっちの仕事の方が合っているの
ではないかな?﹂
一通りの説明を終えた後、マヤさんがそんなことを言った。
うん、今更だね!
﹁でも、私は戦術研究科を選んだことは後悔していませんよマヤさ
ん。実際問題、私は発想が出来ても実行ができない人です。特に情
報処理は苦手で、そういうのは専門家に任せた方がいいんです﹂
考えることができるのとそれを現場で実行することができるのと
では、それこそ月とスッポンほどの違いがある。チートハーレム小
説を書いている人間が必ずしも現実でモテモテというわけではない
のと同じだ。⋮⋮違うか。
﹁専門家ね⋮⋮。内務省治安警察局に、その手の事が得意な奴がい
たな。どうかな? 君が良ければ紹介するぞ?﹂
﹁あぁ、いえ大丈夫ですよ。現段階では、仕事の量は内務省の比で
はないですから﹂
﹁ふっ。そうか。でも無理はするなよ。君は何かと1人で仕事を抱
えたがる人間らしいからね﹂
﹁善処します﹂
こうやって何かと気にかけてくれるマヤさんは本当に頼りになる。
姉御肌と言うか、理想の上司というかそんな感じだ。階級的には俺
の下なんだけど。
2019
﹁あぁ、そうだ。情報云々で思い出したが⋮⋮﹂
﹁なんですか?﹂
するとマヤさんは、ニヤニヤしながら聞いてきた。
﹁リンツ家の御嬢さんとは、結局どうなったんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は珈琲を口につけながらそっと目を逸らす。
私は今何も聞かなかった。動揺しすぎてミルクを入れ忘れたけど
何も聞かなかった。ブラックは飲み慣れてないから余計苦く感じる。
ていうか、マヤさんの口ぶりからすると完全に何が起きたか知っ
てるよね? カステレットのアレを知っているのは俺と、目の前で
事を見てたサラだけのはずだ。
﹁やれやれ。サラ殿から子細を聞いていたが、結局君は何も成長し
ていないようだね﹂
﹁⋮⋮ほっといてください﹂
サラよ、なぜ喋ったし。
ラデックの方もニヤニヤ顔だったので、恐らくこいつも事情を知
っているようだ。
なにこの包囲網。
﹁放っておくことなどできるか。こっちはサラ殿から相談されてる
のだ。どちらを応援するということはしないが、かと言ってこのま
ま何も進展なしというのは2人が可哀そうだからね﹂
2020
マヤさんのその言葉は頼もしいのだが、口のにやけは変わってい
ない。相談に乗るというよりはこの状況を楽しんでいるのだろう。
ちくしょうめ。今俺は真剣に悩んでいるんだぞ。
﹁真剣に悩んでる風に見えるけど、どっちかと言えばお前、どっち
も選ばずに解決する方法を探ってるよな?﹂
﹁⋮⋮ラデックって読心術の心得あるの?﹂
﹁いや、お前の顔に書いてある﹂
マジかよ。誰だよ俺の顔に落書きしたの。
冗談はともかく。結構俺はやばい状況にいる。
あの日、フィーネさんに、その、キスをされてしまい、しかもサ
ラの目の前ということもあっててんやわんや。
﹃一応忠告しておきますが、私はユゼフ少佐のことを恋愛的な目で
見ていますので、誤解なさらぬようお願いします﹄
と、フィーネさん。ここまで言われてしまうとはどんだけ俺の感
性信用されてないの、と思わなくもないが前科があるから反論でき
ない。
そもそも、政治的な意味で再三求婚を申し出ていたフィーネさん
が、まさか恋愛的な感情を持ち得ていたのはハッキリ言ってしまえ
ば意外だった。そんなものとは無縁だと思ってたから。
ちなみにそれを横で聞いていたサラは、とりあえず俺を1発殴っ
た。前日にあれやこれがあったからその気持ちはわからんでもない。
2021
フィーネさんにしてもサラにしても、結構負けず嫌いの気がある
ようで、互いが互いを敵として認識して積極的に行動してきている。
男としては嬉しい反面、間に挟まれているので精神の消耗が思った
より酷い。
でも今はまだマシなのだ。条約締結後の忙しさと、各部署人事異
動のあれこれがあった。仕事でそこら辺の事を忘れられたし、フィ
ーネさんもオストマルクに一旦戻ってる。
もうほんと、どうしてこうなった。
なんで俺なんだろう。イケメンでもないし、能力がずば抜けてい
るというわけでもない。どう考えてもモテる要素ないだろうに。
﹁世に数多いるモテない人間が聞いたら卒倒する悩みだな? ユゼ
フ、今度から夜は1人で出歩かない方が良いぞ? たぶん刺される﹂
まったくだ。立場が逆なら俺はラデックのことを後ろから刺して
いたかもしれない。
どうすればいいんだか⋮⋮。
﹁ユゼフくんがここまで結論を出さずにいたのが最大の原因だ。因
果応報とはまさにこのこと、少しは自分で考えたらどうだい?﹂
﹁マヤさんは相談に乗ってくれるんですか、それとも面白がってる
んですか﹂
﹁どちらかと言えば後者だな﹂
ひでぇ。
﹁まぁ、ユゼフくんが他人の意見を求めているのだと言うのなら、
2022
女性として君に意見しよう。聞きたいかね?﹂
﹁是非ご教授くださいなんでもします﹂
﹁どんだけ必死なのだ⋮⋮まぁいい。教えよう。女性と言う生き物
は、個人差はあるが、基本的に独占欲が強い。君が何を選択しても、
その女性の独占欲によって何らかの弊害があるのは確かだ。だから
諦めろ﹂
﹁⋮⋮助言じゃなくて死刑宣告にしか聞こえないんですが﹂
﹁助言を与えるとは言っていないからな。﹂
マヤさん完全に相談に乗る気ないじゃん⋮⋮。
﹁どっちを選ぶ、あるいはどっちも選ばないというのは君の自由だ
からあれこれ言うことはしない。ただひとつだけ助言しておくと﹃
どっちも取る﹄ということはやめておいた方が良い﹂
﹁なぜです? 両手に花は男の夢ですよ?﹂
﹁男の夢は女の悪夢だ。さっきも言ったが、女性は大なり小なり独
占欲が強い。最初は上手くいっても、日が経てばどちらかを蹴落と
そうとやっきになること請け合いさ。妻の他に愛人を持つことの多
い王侯貴族でさえ、そのような話が度々出るくらいだからな﹂
なんと夢のない話だ⋮⋮。
しかし確かに、2人の女性と付き合うなんて不誠実だな。いやま
だどちらかと付き合うと決まったわけではないし2人の気が変わる
方が早いという可能性もある。というかそうなれ。そしたら色々楽
なのに。
サンドイッチ
そんなマヤさんは、さっきの俺の﹁なんでもする﹂発言を受けて、
机の上に放置してあった俺の軽食を手に取った。どうやら小腹がす
いていたようなのだが、一口食べた瞬間、彼女の顔が歪んだ。
2023
﹁⋮⋮ユゼフくん、なんだこれは﹂
﹁見ての通りタマゴサンドです﹂
﹁それはわかる。でもこの、ジョリっとした食感はなんだ﹂
﹁たぶんタマゴの殻ですね﹂
﹁⋮⋮もう1つ質問良いか?﹂
﹁なんでしょう﹂
﹁サヴィツキ上等兵の料理の腕前は私も良く知っている。こんなミ
スをする人間ではない。では、これは誰が作ったんだ﹂
﹁⋮⋮サラです﹂
ラデックが来る数分前、突然サラが現れて﹁疲れたでしょ! 持
ってきたわ!﹂と言って俺の目の前に置いたのが、今マヤさんが口
にしているタマゴサンドだ。
サラ曰く﹃ユゼフを落としてみせる﹄らしいので、それもその一
環なのだろう⋮⋮とは思う。でも肩を掴んで食べることを強要した
あげく感想も要求してくるのはやめてほしい。おかげでまだ口の中
がまだジョリジョリするし右肩がジワジワ痛むし。
これでフィーネさんがクラクフに戻ってきたらどうなるんだろう
かと思うと、今から胃が痛くなってくる。
﹁これは、色々と前途多難なようだな﹂
マヤさんのその言葉が料理に対する事なのかそれ以外の事なのか
はわからないが、彼女はタマゴサンドを残さず綺麗に食べた。
⋮⋮とりあえず、サラの料理を食べて生活している、彼女の法律
上の被保護者であるユリアがどんな食生活をしているのか不安にな
った。今度様子見てあげるべきかしら。
2024
訪問
その日の夕刻。
書類もやるべき業務も少なかったため、早々に仕事を切り上げて
ユリアの様子を見に行くことにする。
補給参謀として日々激務に追われているラデック辺りから﹁給料
泥棒だ﹂と言われそうだが、思えばさっき似たようなこと言われた
からさほど問題はない。
問題なのはユリアの食生活だ。
現在、ユリアはサラの被保護者として普通の、あるいは同年代の
子供から見れば裕福な生活をしている。これは当然の話で、サラは
の階級は少佐、今年で19歳ということを考えればかなり出世して
る方だ。そして少佐は会社で例えれば部長級ポスト、当然給料が良
いし、税金で建てた官舎に相場の4分の1の家賃で住んでいる。
つまりサラは富裕層で、ユリアはその家の娘。不便しないだろう
な。まぁ給与や官舎云々に関しては同じ少佐である俺も同じなので
細かい話はやめよう。
ちなみに、エミリア殿下は准将なので相当給料が良い⋮⋮はずな
のだが、必要なお金以外は全て返納し、またセキュリティの問題か
ら官舎を使用せず、クラクフスキ公爵邸の一室を借りている。マヤ
さんもこれに同じ。
ラデックの場合、まだ大尉なので個人用の官舎をあてがわれてい
2025
ない。だが彼はもうすぐ結婚するということなので、クラクフ郊外
の家を買って婚約者であるリゼルさんと同棲してる模様。幸せそう
で何よりですね!!
フィーネさんは⋮⋮よくわからないが、たぶんシレジアにいると
きは大使館か領事館に併設されている寮を使っているだろう。
それはさておいてユリアの話に戻るが、彼女の生活は基本的に平
日は初級学校、休日はサラと一緒、サラが仕事で忙しい時は公爵邸
の人たちが相手している。元孤児だったが食生活が劇的に改善した
ため、本当にどこにでもいる少女、という感じになった。
まぁ俺に対する微妙な態度は変わっていないのだけど⋮⋮。
そうこうしているうちにサラの官舎の前についた。公爵邸にはい
ないことを確認しているし、サラも今日は非番らしいのでここにサ
ラとユリアがいる可能性は高い。出掛けていたら後日改めて来る⋮
⋮のは良いとして、どうしよう。いやここまで来て引き返すことは
しないけど、どうも心の準備が。渦の中に居る俺がその水を掻き回
しているサラに会うのだ。緊張する。
⋮⋮よし、とりあえずノックしてみよう。
﹁はーい?﹂
ドア越しに声が聞こえた。サラだ。
﹁俺、俺だよ﹂
﹁⋮⋮ユゼフ?﹂
﹁そうだよ。ユゼフだよ﹂
2026
若干オレオレ詐欺っぽくなってしまったが、この世界にまだ電話
はないのでセーフ。玄関開けたらいきなりグサッとして強盗する事
案がないわけではないので、一応警戒すべし。
﹁今開けるわ﹂
その後、ドアノブがガチャガチャと音を立てる。が、なぜかなか
なか開かない。まさかサラ、ドアの開け方を忘れたとか言わないよ
ね?
そういえば、サラの官舎に来るのは約1年ぶりか。確かそん時も
夏で⋮⋮⋮⋮⋮あっ。
そこまで思い出していた時、やっとドアが開いた。なにをしてい
たんだと突っ込みたくなるがその前にやることがある。
﹁ちょっと待ったあああああ!﹂
そう叫びながら、俺は開かれようとするドアを阻止した。
﹁え、ちょ、な、なにするのよ!﹂
サラも困惑しつつも、そのまま強引にドアを押し開けようとする。
しかし悲しいことにサラの方が筋力が上なのでジワジワと押されつ
つある。
夕刻の官舎でドアを押し合う少佐×2という珍妙な事態が繰り広
げられているがそんなことは知ったこっちゃない。大事なのは⋮⋮、
﹁サラ、今どんな格好してる!?﹂
﹁どんなって、普通に⋮⋮﹂
2027
と、そこでサラの言葉は止まった。ついでに力も弱まってドアは
少しやかましい音を立てて閉まり、その後数秒間の何とも言えない
空気と時間が流れる。
﹁⋮⋮⋮⋮えっと、ご、5分待って!﹂
ふむ。どうやら1年ぶりの悲劇は回避されたようだ。
−−−
﹁お、お待たせ!﹂
5分待って、という言葉から10分程経った後、ようやくドアが
開かれた。中から現れたのは、ちゃんと服を着ているサラと、その
サラの背後に隠れているユリアだ。相変わらずである。
﹁で、急にどうしたの?﹂
﹁ユリアの様子を見に来ただけだよ。色々心配で﹂
﹁色々?﹂
﹁うん、色々﹂
なにが心配かを具体的に言ってしまうと何かが飛んで来そうなの
で言わない。どうやって自然に料理の話題に持っていくかが鍵とな
る。
失敗すれば⋮⋮言わずもがな。
2028
﹁色々⋮⋮ね。うん。色々あるわよね﹂
サラがやけに﹁色々﹂を強調してくるのだが、それがどういう意
味を持つかを追求するだけの勇気は持っていない。まぁ、その、な
んだ。落としに来るという話だろう。
﹁ま、ここじゃなんだから上がって! ちょうどご飯にしようかと
思ってたところだし!﹂
⋮⋮。
がんばれ、俺の胃袋。
2029
サラの料理
太陽が地平線に近づきつつある頃。調理場から、小気味良い音が
聞こえてくる。
エプロンを身につけやる気満々で夕飯を作るこの家の主、つまり
サラの姿は、見ていて⋮⋮なんというか違和感がある。似合ってな
いというわけではないのだが、俺に向かって拳を飛ばしまくり戦場
では敵の首を刎ねまくる彼女がそんな家庭的なことをしていると思
うと、どうにもしっくりこない。
俺とユリアはその音を聞きながら黙って居間でくつろいでいる。
いや正確に言えばユリアだけがくつろいで、俺は戦々恐々としてい
る。
ここの官舎はあまり広くないため、調理場と居間が直結している、
いわば中近世版ダイニングキッチンである。そのためサラがどんな
感じで作っているのかがよくわかるのだけど、作っているものがよ
くわからない。
アニメとかでよく見る、青だか紫だか茶だか蛍光色だかよくわか
らない色の料理が運ばれてくるんじゃないかと思うと心配なのだ。
いや、昼のあのサンドイッチの出来を見れば、そんなよくわからな
いモノが召喚される心配はないとは思うけど。
﹁あのー、サラ、やっぱり手伝⋮⋮﹂
﹁だ、大丈夫よ!﹂
2030
全然大丈夫に聞こえない声でそんなことを言われても不安が増す
だけである。
﹁なぁユリア。サラっていつもあんな感じなの?﹂
地獄耳のサラに聞こえないように声を絞って、俺の隣に座ってぬ
いぐるみをいじくって遊んでいるユリアにそーっと聞いてみる。
すると彼女は、コクリ、と1回頷いた。
サラは料理が下手な人特有の姿勢の悪さをしている。剣を構えた
り馬に乗ったりするときのサラは締まった表情と体をしているのだ
が、今の彼女の顔は眉間に皺を寄せ、肩を不必要に張っていたりす
る。というかそもそも包丁の持ち方が変。あれじゃ怪我するぞ。
いつもあんな感じなのかと思うと、ユリアよりもサラの方が心配
になってくる。
だが手伝おうにも彼女がそれを拒否するためにできない。無理に
やれば拳が飛んできそうだしその拍子に怪我でもされたら⋮⋮、
﹁痛っ!﹂
⋮⋮言ってる傍からこれである。
﹁なぁユリア、これもいつものことなの?﹂
﹁⋮⋮たまに﹂
たまにやっちゃうらしい。
さすがにここまで来ると手伝わざるを得ないだろう。どんな味音
痴でも﹁ケチャップ︵比喩︶で食べる新鮮野菜のサラダ∼爪の欠片
2031
を添えて∼﹂とかは食いたくない。
﹁やっぱ手伝うよ﹂
﹁大丈夫! ユゼフは座ってて!﹂
事ここに及んで未だ頑固である。がこっちはユリアと俺の胃袋の
未来がかかっている。退くわけにはいかない。
﹁怪我してるのに?﹂
﹁大したことないわ⋮⋮舐めれば治るし﹂
﹁料理に唾入れる気か?﹂
﹁そ、それは⋮⋮ちょっと﹂
﹁それに、あまり時間を掛け過ぎるとユリアが飢え死にする。だか
ら手伝わせろ﹂
﹁うー⋮⋮﹂
と、言うわけでサラの手料理は暫くお預け、2人で作ることにす
る。とりあえず後でサラに包丁の持ち方を教えるとして⋮⋮、
﹁そう言えば何作るの?﹂
﹁えーっと、材料あまりないし、ユゼフ来るってわかんなかったか
ら、これとこれを使って⋮⋮﹂
あー、そうだね。ごめん。気が利かなかった。今更市場には行け
ないし、手土産代わりに俺が何かを持ってくるべきだったか。まぁ
そこは俺の量を減らせばいいし、そもそもシレジアは﹁夕飯は軽く、
昼飯は豪華に﹂という習慣なのでさしたる問題ではない。
と言うわけで適当に調理。俺が材料を用意してサラが鍋で煮込ん
でユリアがそれを観察するだけの作業の始まり。って、なんでユリ
2032
アこっちをまじまじと見てるの? 男が台所に立つのって変?
﹁ユゼフ。味ってこんな感じでいいかしら?﹂
スープを煮込んでいたサラが小皿を突きだしてきた。作っている
のは、シレジアでは一般的なもので味はコンソメスープに近い。調
理方法も材料も簡単で済むという世のオカン大歓喜の料理だ。時間
はかかるけど。
で、肝心の出来はと言うと⋮⋮、
﹁⋮⋮﹂
﹁ど、どう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何か言いなさいよ!﹂
言えない。なんだかとってもエグい味がするとは言えない。考え
られる原因は1つ。というかそれ以外だったら俺でも対処しようが
ない。
仕方ない。ユリアの今後のためと思って鳩尾を殴られることを覚
悟の上で言おう。
﹁サラ、灰汁取りしてる?﹂
俺がそう聞くと、サラは瞬きもせず数十秒間固まり、そして聞き
返した。
﹁⋮⋮する必要あるの?﹂
その答えは予想外だった。
2033
色々ありつつも、数十分の調理によってとりあえず夕飯の体裁は
整った。
ザワークラウト
出来たのは、灰汁取りして香辛料加えて味を調えたスープと、パ
ンと、適当に保管してあったソーセージ、そしてキャベツの酢漬け
だ。現代日本人には朝食にしか見えないラインナップだが、これが
この国では普通なんです。
ちなみに香辛料の値段は思ったよりも安い。
どこぞの中世ファンタジー世界のように本のタイトルになったり
することはないし、どこぞの中世のように香辛料を巡ってガチンコ
の殴り合いをするということもない。理由はいろいろあるが、その
前に飯を食わせろ。
﹁﹁﹁いただきます﹂﹂﹂
どんな肉染みがあろうとも食事前のアイサツは欠かしてはならな
い⋮⋮と、古事記にもそう書かれている。食事前のアンブッシュっ
てなんだろう。やっぱりおはぎの中に針入れたりとかだろうか。
というどうでもいいことを考えながら、サラと作った料理を口に
する。自分で言うのもなんだが結構美味しい。と思っていたのだが、
俺の正面に座るサラは手を止めていた。
﹁どした?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮え、まさか美味しくないの? 俺ってばサラ以上に料理の腕
がないの? 味音痴なのは俺なの? どうしようユリアに変な物食
べさせてしまった。
2034
しかし当のユリアは何も言わずもそもそと食べている。いや彼女
の場合そもそも無口なので、美味しいと思ってるのか不味いと思っ
て俺を心の中で貶してるのかの判断ができない。
﹁⋮⋮あの、ユゼフ。ちょっといい?﹂
申し訳なさそうに、サラが目を逸らしながら言った。
﹁ごめん﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
なんで謝られたの? という俺の疑問は、直後に解決した。
﹁私って料理下手だったわ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ、うん。そうか﹂
こうして、サラは無事自分が料理下手であることを自覚したので
ある。
まぁ、自覚できたのなら向上の余地はある⋮⋮よね?
−−−
本当のところを言えば、彼女、サラ・マリノフスカは﹁自分が料
理下手ではないのか﹂という思いは昔から微かにあった。
しかしそれは﹁別に女が料理を作る必要はない﹂という、ある意
味彼女らしい男らしさと、軍隊という閉鎖的環境下にいたためであ
2035
る。このようなことが重なり、サラの料理の腕前は一向に上がらな
かったし、彼女自身も技量を向上させる必要性を感じなかった。
転機が訪れたのは、春戦争が事実上終結しサラが王都シロンスク
に戻ってきた、大陸暦637年7月28日。つまり、彼女がユリア
をシロンスク貧民街で拾った日である。
その日から、彼女は自炊を始める。
以前まで彼女は軍の士官食堂や町の大衆食堂などで食事を済ませ
ることが多く、また作っても簡素なもので終わっていた。だが被保
護者が出来てしまった以上、そんな生活はできない。
故に彼女は遅まきながら、ようやく料理を始めた。
勿論、今まで料理をあまり作らなかった人間が突然料理の腕前が
上がるなんてことはない。サラもその例外ではなかったのだが、問
題はそこだけではなかった。
食事を提供する相手が、その日の食事にも困るような生活を続け
ていた孤児のユリアと言う点である。
ユリアにとって見れば、食事にありつけると言うだけで豪華であ
る。たとえその食事がメシマズ女子が作った料理のようなモノでも。
初めてサラが本格的な料理︵のようなもの︶を作り、それを元孤
児ユリアに提供した時のこと。
﹁ねぇユリア? どう? 美味しい?﹂
その言葉に対してユリアは目に涙を浮かべながら、
2036
﹁美味しい﹂
と答えた。答えてしまった。
こうして、誰かにとっての小さな悲劇となる、サラの料理の歴史
が始まったのである。
2037
リンツ家姉妹の初恋事情
暦を遡り、6月27日のこと。
ベッド
オストマルク情報省第一部で働く女性士官、フィーネ・フォン・
リンツは久々に戻ってきたリンツ伯爵邸内にある自室、その寝具の
上で大いに悩んでいた。
彼女が抱えている悩みの種は、国家レベルのことから個人のこと
までと幅広いが、最も深刻に悩んでいたのは個人的なものだった。
﹁我ながら⋮⋮なぜあのようなことを⋮⋮﹂
部屋の外にいる人間にも気づかれないよう、フィーネは目頭を押
さえつつひとり呟いていた。
フィーネ・フォン・リンツは、ユゼフ・ワレサという人間に対し
て恋愛的感情を持っている。そして5月7日、カステレット砦にて
その想いを伝えた。やや恥ずかしい形で、であるが。
彼女が悩んでいるのは、まさにその恥ずかしさである。
﹁いくら気持ちが昂ぶったとはいえ⋮⋮いくら﹃躊躇うな﹄と言わ
れたとはいえ⋮⋮﹂
フィーネはかれこれ、このことで1ヶ月は悩んでいる。あの場で
やったこと、あの場で言ったこと、それを思い出しては赤面して目
頭を押さえたり枕に顔を埋めたりする日々が続いている。彼女を知
る人物がこの現場を見れば、間違いなく違和感を覚えること請け合
2038
いである。
だがその前に、彼女自身が違和感を覚えている。
それもそのはず。彼女は感情よりも理性を優先する人間だからだ。
フィーネの脳内で理性と感情が相反する結論を出した時、彼女は
理性が出した結論に従う。今までもそうだったし、これからもそう
だろうと考えていた。だが、カステレットでは違った。
﹁ユゼフ少佐に出会ってからというもの、感情に動かされることが
多くなりましたね⋮⋮。これがこのまま続いたら私は私でなくなっ
てしまうような⋮⋮﹂
そう呟いた時、背後から衝撃が加わった。そして聞き慣れた、そ
して聞きたくなかった声が耳元からしたのである。 ﹁いいじゃないの! 感情があるのが人間の最大の特徴なんだから
!﹂
﹁お姉様!? いつの間に!?﹂
フィーネの姉、リンツ家の長子、将来恐らくリンツ伯爵家の家督
を継ぐクラウディアである。
﹁一応ノックはしたし、フィーネにも声を掛けたよ? でも随分悩
んでたから、気付かなかったのかもね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私の聞いてました?﹂
﹁バッチリ。フィーネの意外なところ、また見ちゃった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
この日、フィーネはまたしても姉に弱みを握られてしまった。し
2039
かも完全に自分の落ち度である。しかしクラウディアは、項垂れる
フィーネをからかうことをせず、彼女の隣に腰掛けてこう言った。
﹁フィーネ。そういうことは1人で悩んでいても大抵は解決しない
よ?﹂
﹁⋮⋮そういうものですか?﹂
﹁うんうん。私にも経験あるからね。いつの事だったかな⋮⋮﹂
クラウディアは、ある話をした。珍しく真面目な顔で、そしてま
た最近にしては珍しく、仕事でもない、国の事でもない、個人的な
ことを語った。
クラウディアの初恋は、彼女が貴族学校の5年生で15歳だった
時。相手は2歳年下の、有名貴族の子息だった。リンツ家自体は、
子爵家とはいえまだこの時は無名だったが、クーデンホーフ侯爵の
孫娘と言うことで、彼女もそれなりに有名だった。そのためクラウ
ディアは﹁自分にも可能性はある﹂と信じ込み、誰にも相談するこ
となく彼に対して積極的に行動した。しかし、
﹁私の猛攻撃は、結局全部無駄、徒労、無意味に終わった。相手の
弱点も好みも何も知らず、ただ自分の信じる道だけを貫いた結果、
ひと
間違った道をひたすら突き進んだ。その結果は、奈落の底。彼は私
が恋に目覚めてから3ヶ月後に、別の女性とお付き合いを始めた。
しかも、その女性は私の元同級生﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁誰かに相談したりすれば、そんなことにはならなかったかも、と
思ったよ。彼についての情報も得られたし、もしかしたら私と彼は
両想いになれた⋮⋮かもしれない。私は結構すぐに立ち直れたけど、
それは個人差はある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
2040
﹁だから、結果的に成就するにせよ、失敗するにせよ、こういう色
恋沙汰は相談した方がお得だよ? 別に今更、フィーネからワレサ
ちゃんを奪おうだなんて、思ってもいないから﹂
﹁⋮⋮どうだか﹂
クラウディアの長い昔話の後、フィーネはジト目でそう呟いた。
カステレットでのあの過剰な触れ合いを見ただけに、どうにも信用
が出来なかったのである。
﹁本当本当。フィーネがワレサちゃんに本気であればね﹂
﹁⋮⋮私は本気です。だから、今真剣に考えてたんです﹂
毅然と、フィーネは姉に宣言した。
ベッド
﹁ならよろしい。で、何を考えていたの? まさかキスしたことを
いつまでも引き摺って赤面して寝具の上をゴロゴロしてるだけじゃ
ないんでしょう?﹂
﹁あの、お姉様それなんで知って﹂
﹁あ、本当なんだ。適当に言ったつもりだったんだけど﹂
フィーネはまたしても、クラウディアに負けてしまった。情報省
に勤務する情報の専門家が、古典的な罠にはまってしまったのであ
る。
彼女はまたしても自分の無能さと姉の狡猾さを恨んだが、一方の
当事者たる姉はそんなことお構いなしに話を続ける。
﹁で、どうなの?﹂
﹁⋮⋮とりあえず、クラクフに戻ります。いつまでも領事館の仕事
をベルクソン氏に任せるわけにはいきません﹂
2041
実を言えば、彼女はオストマルクに戻る必要はなかった。
一応彼女は、エーレスンド条約とその会議の場における各国外交
使節の情報を情報省に送るという任務を帯びていたのだが、別にそ
れは信頼できる人物、例えばクラウディアのような人間に任せても
良かった。
それをしなかったのは、ユゼフとのキスが恥ずかしくなって帰り
たくなった、ただそれだけである。
ライバル
だがいつまでもそうするわけにはいかない。
彼女がクラクフを離れている間、彼女の恋敵であるサラ・マリノ
フスカが積極的行動をするに違いないのだから。
﹁うんうん。その後は?﹂
﹁その後は⋮⋮﹂
数十秒溜めてから、フィーネはようやく答えた。
﹁臨機応変に、します﹂
﹁8点﹂
フィーネの回答に、クラウディアは即行点数を付けた。
﹁何点満点ですか?﹂
﹁6万5000点満点かな﹂
﹁私の評価低すぎませんか﹂
﹁フィーネの答えがダメすぎるの。あれからもうすぐ2ヶ月経つの
に⋮⋮もうちょっと真剣に、具体的に﹂
﹁そう言われても⋮⋮何をすべきかわからないので﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
2042
クラウディアのこの溜め息の意味は、2つある。
1つは、妹が思った以上にポンコツである点。
もう1つは﹁キスまでやってのけたのに、そこから先に進む勇気
と知恵が足りない﹂という点である。
だがそれ故に、クラウディアは相談のし甲斐があるというものだ。
彼女は妹にばれないよう密かに微笑むと、フィーネにこう言った。
﹁よし、お姉ちゃんがみっちり鍛えてあげよう!﹂
こうして彼女たち姉妹は、度々会って﹁どうすればユゼフ・ワレ
サとかいう人間を落とせるか﹂を話し合った。
それは、久々の姉妹の楽しい会話であったのかもしれない。
−−−
フィーネがオストマルクを発ったのは、7月7日の事である。
出立の時、クラウディアはフィーネを励ました。
﹁どっかの誰かが﹃初恋は破れるものだ﹄とか言ってたけど、私は
フィーネには実ってほしいって本気で思ってる。だから頑張ってね
!﹂
﹁当然です。お姉様のようにはなりません﹂
﹁うむ。それでこそ我が妹だ!﹂
そんな言葉を交わしつつ、姉妹は別れた。
街道を走る、フィーネの乗る馬車を見送りながら、クラウディア
2043
が呟く。
﹁ま、私の初恋の相手はフィーネとワレサちゃんのせいで、貴族位
を剥奪されたあげく辺境に流刑されてるんだけどね﹂
クラウディアの初恋の男性の名はヘルムート・ギュンター・フォ
ン・ホフシュテッター。前内務大臣にして、ベルクソン事件の主犯
であるシモン・フリッツ・フォン・ホフシュテッター伯爵の息子で
ある。
2044
お土産の効果
フィーネさんがクラクフに戻ってきたのは7月9日のことである。
そして今、俺と彼女は総督府の応接室で面と向かっている。あぁ、
サヴィツキくんが入れてくれた珈琲が今日も苦い。美味しいけど苦
い。
カステレットで色々あったから会いにくい⋮⋮とも思ったのだが、
今回彼女がここにやってきたのはクラクフ帰還の挨拶ではなく、情
報交換。つまりフィーネさんはフィーネさんらしく、いつも通りの
冷静な情報士官だった。
今回の情報交換、今までとは違ってシレジア側にも大きなアドバ
ンテージがある。カールスバート内戦を通じて構築したカールスバ
ート国内の情報網、そして東大陸帝国に対する捕虜を使った一連の
情報収集、及びそれを踏み台にした情報網の構築。まだ規模は大き
くなく情報量も少ないが、オストマルクに頼らない情報活動ができ
るというのは素敵なことだ。
﹁それに我々は、東大陸帝国内務大臣という情報源を失いました﹂
﹁⋮⋮というと?﹂
﹁去る5月28日、東大陸帝国内務大臣ユスポフ子爵は、不幸な事
故によって死亡しました﹂
少し怖い笑みを浮かべながら、フィーネさんは隣国の大臣の訃報
を伝えた。これが意味するところは容易に想像できる。
﹁死因は?﹂
2045
﹁帝国政府の公式声明では﹃焼死﹄となっています。5月28日の
夜22時30分頃、ユスポフ子爵邸にて火災発生。懸命の消火活動
にもかかわらず、邸内にいたユスポフ子爵は焼死。そして身元不明
遺体5人が発見されました。恐らく彼の妻と子供2人、子爵に仕え
ていた近侍か執事と思われる⋮⋮とのことです﹂
﹁おやおや、帝国政府は随分詳しく発表したんですね?﹂
﹁いえいえ、我がオストマルク情報省第四部の能力をもってすれば、
これくらいは簡単でしょう﹂
自嘲気味に、彼女は同僚を褒めた。これはもう確定である。
フィーネさんが随分前に言ったことがある。情報省の主な活動は、
4つの部に任せられていると。
対外情報活動を担う第一部、国内情報活動を担う第二部、第一部
と第二部が集めた情報を多角的・包括的に分析する第三部、それら
の情報を下に国内外で工作活動を行う第四部。
そして今彼女が褒めたのは、第一部ではなく第四部。つまりは、
そういうことなのだろう。
どうしてそれをしたのか。これも簡単だ。
機密漏洩を防ぐため、亡命してきたときの政治的問題を回避する
ため。他にも色々あるかもしれないが、これで十分だろう。
⋮⋮どうやらオストマルクは敵に回さない方が良いようだな。特
にリンツ伯には。いや本当に怖い。
﹁第四部とやらには優秀な人材がいるようですね。会ってみたいも
のです﹂
﹁きっと第四部の部長も喜びます。感動の再会になると思いますか
ら﹂
2046
クスクスと、フィーネさんは笑って見せた。
感動の再会? つまり俺が知ってる人物ってことか?
俺が知っているオストマルクの人間は意外と少ない。フィーネさ
ん、クラウディアさん、リンツ伯、クーデンホーフ候、ジェンドリ
ン男爵、ベルクソン、アンダさんくらいだ。暫く会ってないとなる
と、ジェンドリン男爵とアンダさんと言うことになるが、ジェンド
リン男爵のことは深い仲と言うわけでもないし、アンダさんは能力
に見合わない。
となると誰だろう⋮⋮。
そんな俺の密かな疑問を感じ取ってくれたのか、フィーネさんが
ヒントをくれた。
﹁ユゼフ少佐は、第四部部長の事をかつて﹃お土産﹄と称していま
したね﹂
﹁お土産⋮⋮?﹂
﹁えぇ。隣国の内戦が終わった後に﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あー⋮⋮ちょっと待ってね。今すっごい嫌なこと、というか嫌な
人物のこと思い出してるから。
﹁その人は元中将で元首都防衛司令官で内戦終結後晒し首にされた
人じゃないですよね?﹂
﹁その人は元中将で元首都防衛司令官で内戦終結後晒し首にされた
人ですよ? 名前は変わっていますが﹂
2047
⋮⋮⋮⋮。うん、前言撤回。絶対に第四部の人とは会いたくない。
あの人に工作活動なんて天職過ぎるでしょう。しかも内戦の時と
全く変わらず女子供に対しても容赦ない。これ以上に恐ろしい人は
いないだろう。
﹁そして少佐、その第四部部長クルト・ヴェルスバッハ氏より伝言
を預かっています﹂
﹁聞きたくないです﹂
﹁そうは言っても、伝えないわけにはいきません﹂
フィーネさんは懐からメモ用紙程度の小さな紙を取り出すと、い
つもの冷淡な声でそれを朗読した。
﹁﹃24時間の晒し首にされたことはよく覚えているよ。また機会
があったらゆっくりと話をしようじゃないか﹄⋮⋮とのことです﹂
怖い。文脈から漂う謀略さが怖い。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮フィーネさん﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁これ、確実に私殺されますよね?﹂
﹁大丈夫ですよ。私が護ってあげますから﹂
フィーネさんは真顔でそう宣言した。その宣言をする前に、私が
第四部部長に会っても殺されないという確約が欲しかったんだが⋮
⋮。
﹁これじゃ、暫くエスターブルクには行けませんね﹂
﹁それは困ります。お父様への結婚報告は早めに済ませたいですか
ら﹂
2048
いや本当に行きたくないです。
2049
コリント
﹁では、話を戻しましょう﹂
どっかの元中将の話で盛り上がったせいで本来の目的を忘れかけ
てしまっていたが、今回の本題は情報交換である。
情報機関における情報収集活動には、主に4つの手法がある。オ
シント、ヒューミント、シギント、コリントである。
オシントは、一般に公開されている情報を事細かに精査して重要
な情報を見つけ出す手法。たとえば政府の公式声明や官報なんかを
分析する。スパイ活動と言えば聞こえはいいけれど、その活動のほ
とんどはこのオシントに分類される。
ヒューミントは、人間を介して情報を集める手法だ。政府要人と
接触したり、事情を知っている者から聞き出したり、誘い出したり、
罠に嵌めたりする。分かり易く言うとコネ。俺がオストマルク大使
館に居た時にやったことだ。
次にシギント。これは技術的な情報活動のことで、郵便物の検閲
や暗号解読、伝書鳩や伝令馬の捕獲など。でも通信技術が発達して
ないこの大陸じゃあまり重要視されていないかも。
最後にコリント。これは別々の情報機関が、互いの苦手分野を補
い合って情報を集める手法の事だ。情報交換とか、情報収集手段を
教えたりする。今回やろうとしているのがこれだ。
2050
シレジア王国の情報機関、内務省治安警察局と公爵領民政局統計
部の得意分野は、シレジア王国内における親東大陸帝国派であるカ
ロル大公派や、カールスバート復古王国、東大陸帝国に関する事。
対してオストマルク帝国の情報機関である情報省は、隣国キリス
第二帝国や歴史的・民族的つながりのあるリヴォニア貴族連合の動
向が得意分野だ。
この得意分野の情報を教え合うのが、貸し借りなしの本当の情報
交換となる。情報収集をオストマルクに頼っていた期間が長いから
結構な情報を利子として払わなければならないだろうけどさ⋮⋮。
﹁じゃ、まずは私の方から⋮⋮﹂
と、俺からまず情報を提供することにする。
そうは言っても、最近の周辺国の情勢は大人しい。目に見えて謀
略を働いてるのは某元中将ぐらいなもんだ。
﹁1つ目。先日、カロル・シレジア大公とマルセリーナ・パヌフニ
カ侯爵令嬢の結婚式が挙行されたのは御存じかと思いますけど、そ
の結婚式に招待された各国使節の動向です﹂
エーレスンド条約が締結され、フランツ陛下やエミリア殿下がシ
レジアに帰還したそのすぐ後、結婚式を執り行う旨が宮内省より通
達された。
まぁ、王族の結婚式と言うこともあってエミリア殿下曰く派手だ
ったらしい。財務尚書グルシュカ男爵が若干悲鳴をあげてたくらい
には。
それはさておいて、結婚披露宴というのも外交の場となり得る。
ていうか各国のお偉いさんが集まっただけでそれは外交だ。
2051
けど今回の結婚式の場合、派手な動きはなかった。披露宴の場に
居合わせることが出来たのは内務省の人間くらいだったからあまり
大規模に探ることができなかったというのもあるが、警戒していた
のか怪しいものはなし。
あえて言うなれば、カロル大公が度々東大陸帝国大使と話してい
た程度だが、それは今更である。
﹁2つ目。東大陸帝国で、また新たな政策が実行されようとしてい
るみたいです。まだ起案段階ですが﹂
﹁どのような?﹂
﹁﹃警察﹄の設立です﹂
﹁⋮⋮秘密警察ですか?﹂
フィーネさんはそう言ったが、これは間違いだ。確かにこの大陸
では﹁警察=政治秘密警察﹂の事を指す。でもそれは、帝国におい
ては皇帝官房治安維持局という名で存在している。
だから今言っている﹁警察﹂はもっと別なもの。つまり、
﹁一般刑事専門の警察機構、ですよ﹂
シレジア含め、各国の一般刑事警察機構は軍が担っている。シレ
ジアの場合、各地の警備隊や国家警務局がそれだ。
しかし帝国宰相セルゲイ・ロマノフが進めようとしているのは、
恐らく前世世界における﹁普通の警察﹂を作ろうとしているのだと
思う。
﹁具体的にどのようなものになるのかはまだわかりません。警察省
を作るのか、宰相府や皇帝直轄の部局となるのか、規模はどうなる
のか⋮⋮。いずれにせよ、大陸の政治史に加筆が必要なのは確かで
2052
す﹂
これで近現代的警察機構が出来たらどうなるのだろうか。今はま
だ軍制改革中で予算もないだろうから、設立はだいぶ先になりそう
だけども。
﹁なるほど。並々ならぬ実行力がセルゲイにある、ということです
か﹂
﹁そういうことでしょうね﹂
もうこれセルゲイが転生者なんじゃないかと疑うレベルだ。俺だ
けが転生したかもしれないと調子に乗ってたけど、もしかしたら大
陸中にいっぱいいるのかも。
﹁興味深い情報でした。ありがとうございます﹂
﹁いえいえ。私たちはまだオストマルクから借りたモノを返しきれ
ていないですよ﹂
本当に、いつになったら利子を返せるのやら。
﹁さて、次に私から1つだけ。⋮⋮もっとも、シレジアにはあまり
関係のない話かもしれませんが﹂
﹁なんです?﹂
俺が聞くと、フィーネさんが1枚の紙を渡してきた。情報の量が
多くないのはまだ把握し切れていないのか、それともまだ表に出て
すらいない段階なのかはわからない。
確かに一見するとその情報はシレジアには関係ないようにも見え
る。でも、東大陸帝国やオストマルクにとってみればそうではない。
戦争の火種にもなるような話だ。
2053
﹁キリス第二帝国の動向が、少し怪しくなってきました﹂
フィーネさんは、やや沈鬱な表情でそう言ったのである。
2054
コリント︵後書き︶
︻速報︼
アーススター・ノベルより1巻・2巻刊行中の﹃大陸英雄戦記﹄が、
レーベル初のコミカライズ決定です。
詳しいことはまだ決まっておりませんが、これも皆さまのおかげで
す。ありがとうございます。これからもよしなに
2055
砂の都
キリス第二帝国。
かつての大陸帝国の継承国家を僭称し、後にその地位を捨てて独
立した国である。
香辛料貿易を始めとする南海貿易と、幾度かの隣国との戦争を繰
り返してこの国は成長し、栄華を誇っていた時代もあった。だがそ
んな黄金時代も今は昔。再び台頭する東大陸帝国と、急成長するオ
ストマルク帝国に阻まれ、今この国は危機を迎えている。
そのキリス第二帝国の帝都はキリス。
古代においては都市国家であり、そして今は﹁砂の都﹂という異
称を持つこの都市は、その異称に違わず砂漠地帯に位置している。
比較的寒冷なシレジア王国に対して緯度も低いため、夏は皮膚が焼
けるほどに暑く、冬の夜は一転して水が凍るほども寒くなる。
かつては同じ大陸帝国の一員だったとはいえ、やはりこの気温と
天候の違いからくる文化の違いは都市の構造や建築物の外見にも反
映されている。異国から来た数多くの旅人や商人を魅了させてきた。
そんな砂の都キリスの中心部に、この帝国でもっとも豪華で、そ
して大きな建物がある。それがアナトリコン皇帝家とその身辺の者
ハギア・ソフィア
が住まい、国家の中枢機関として長らくその役目を果たしている﹁
叡智宮﹂である。
ハギア・ソフィア
遡ること6月16日。
叡智宮では、皇帝自らが出席する御前会議が開かれた。
2056
議題は、シレジア王国と東大陸帝国が結んだ条約、即ち﹁エーレ
スンド条約﹂について。
サドラザム
第24代皇帝バシレイオス・アナトリコンⅣ世が最上座に座り、
順に大宰相、軍人官長、法官官長、財務官長、書記官長がそれぞれ
の席に座る。
最初に発言したのは初老の男、他国において外務大臣に相当する
職である書記官長だった。
﹁以前より、恐らく春戦争あたりからオストマルク帝国はシレジア
王国と急接近しております。反シレジア同盟という枠組みから外れ、
新たな大陸東部の秩序を作る。その中枢国家としての地位を彼の国
は狙っているのだと推測されます﹂
書記官長が語った言葉は、特に尖った物であったわけではない。
春戦争におけるオストマルク帝国の行動を見れば、それは十分に推
測されるものだった。
だが彼が﹁しかし﹂と付け足すと、御前会議の場は些か緊張した
空気を張り巡らされる。
﹁1ヶ月前、シャウエンブルク公国にて締結されたエーレスンド条
約は、我が国にとって重大な害となる恐れがあります﹂
﹁⋮⋮書記官長殿、それはどういうことなのだ?﹂
そう疑問を投げかけたのは、この国の軍事を司る軍人官長だった。
彼は身を乗り出して、書記官長に対して威圧的な態度でもって答え
を待つ。
そんな態度を見た書記官長は一瞬怯んだものの、だからと言って
2057
事実を捻じ曲げられる程軍人官長の威厳は大きくもなく、彼は淡々
と部下が調べた情報を報告する。
﹁具体的な経緯は不明ですが、エーレスンド条約においてシレジア
王国は、東大陸帝国に対して﹃賠償金なし、領土割譲なし﹄という
極めて穏便かつ宥和的な内容を提示しました。国境に非武装地帯が
作られはしましたが、その地域の主権は東大陸帝国に帰属したまま
です﹂
﹁それがなんだと言うのだ?﹂
﹁⋮⋮この内容を考案したのが、一部の情報筋によるとオストマル
ク帝国だというのです﹂
書記官長の放った言葉に、軍人官長も、皇帝バシレイオスⅣ世も、
誰もが驚愕のあまり沈黙した。
キリス第二帝国は、長きにわたって東大陸帝国、オストマルク帝
国と軍事的、あるいは経済的な紛争を繰り返していた。また東大陸
帝国とオストマルク帝国も、双方を仮想敵と見做して対立している。
つまりキリス第二帝国の周辺情勢は、巨大な3つの帝国が互いを
互いにあらゆる力でもって牽制し、紛争し、そして現在は宥和によ
る交易が開始されようとしていた。
しかしそのような状況下で、エーレスンド講和会議の場において
オストマルク帝国がシレジア王国を経由して、東大陸帝国に大幅な
譲歩をした。
キリス第二帝国の目にはこれがどう見えるのか、書記官長はもは
や説明するまでもなかっただろう。
そして結論を、この場にいる誰よりも地位の高い男が代弁した。
2058
﹁あの帝国は、結託して我が国を潰そうとしている。エーレスンド
はその下準備ということか﹂
−−−
﹁なるほど、確かにキリスにとってはそう見えても仕方ありません
ね。オストマルクが北と東の隣国と適当なところで手打ちして、か
つ友好的な関係を築いて軍事的負担を減らす。その間に南に軍を動
かしてキリスを討つ。そんなところですか?﹂
﹁そんなところだと思いますよ。もっとも、これはバシレイオスⅣ
世の被害妄想というものです﹂
フィーネさんのが語った情報の内容は興味深いものだった。
今までシレジアと国境を接する国の情報しか収集してこなかった
から、こういう遠隔地の国の情報は新鮮味を覚える。それに、俺の
思いつきの提案がキリス第二帝国の皇帝陛下を困惑させてると考え
ると、なんというか申し訳なくなってくる。
顔は知らないけどごめん。会うこともないだろうけど謝ります。
オストマルクが権謀術数を張り巡らせたんじゃなくて俺の脳内で適
当に決めたんです。
しかしいくら弁明したところでキリスにはそう見えている。砂の
都には今猛烈に砂嵐が舞っているのだろう。恐ろしい。
2059
﹁この6月16日の御前会議以降、キリスの各官僚は慌ただしくな
っています。特に書記官僚と軍人官僚の慌てようは凄まじく、何度
かオストマルク大使館に訪問があったらしいです﹂
その訪問とやらが友好的なものなのかはわからない。状況を考え
ると情報収集の一環と見た方が良いだろうけど、そのうち大使を呼
び出して注意喚起というか釘を刺すのかもしれない。
ちなみにここでフィーネさんの言っていた﹁官僚﹂というのはキ
リス第二帝国における﹁省﹂のことだ。その長は官長になる。長官
じゃないよ。
それはさておき、このキリスの無駄なオストマルク警戒は無駄で
終わるかもしれない。何せオストマルクが警戒しているのは東大陸
帝国。宥和なんてちっともしていない。
国家の情報収集能力の低いとこういう勘違いが起きるのか。他人
のことをあまり言えた立場ではないけど、これは良い反面教師にな
りそうだ。
﹁無駄で終わればいいんですけどね﹂
と、フィーネさんはやや不穏なことを言った。
﹁どういうことです?﹂
﹁キリス帝国軍が動いているんですよ。国境地帯に﹂
﹁⋮⋮それは、オストマルクとの?﹂
﹁当然です﹂
え、なにそれ。もしかして﹁やられるくらいなら先制攻撃だ﹂と
か思っている人間がいるとでもいうのだろうか。
2060
そんなバカはおらんやろ⋮⋮いないよね? まさか国家の中枢に
居座る人間が総じてバカなわけないよね?
﹁でもオストマルクは、現状何もできないでしょう? 露骨に軍を
動かせば、キリスに大義名分を与えてしまうようなもの。それにオ
ストマルクが築こうとしているのは反東大陸帝国同盟。当然、キリ
ス第二帝国も同盟に引き摺り込みたいと考えている。とすれば、こ
こで仲を悪くするのはダメでしょう?﹂
﹁⋮⋮少佐は妙なところで頼りになりますね﹂
﹁それって褒めてるんですか?﹂
﹁えぇ。べた褒めです。惚れてしまいます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ふふ、少佐。これは本当ですよ﹂
そこは﹁冗談ですよ﹂って言ってほしかった。
﹁いずれにせよ、今後もキリス第二帝国の動向は注視しなければな
りません。最悪の事態もあり得ますからね﹂
そう言いながら、フィーネさんは資料を片付けにかかる。帰ると
いう合図なのだろう。個人的なアレのせいで微妙にやり辛かった仕
事がようやく終わると思うと、肩の重荷が取れる。
﹁ユゼフ少佐、少し質問があります﹂
資料とカップの中身を片付け終わったフィーネさんがそう尋ねて
きた。
﹁どうしました?﹂
﹁聞くところによると、特別参与殿は大変お暇らしいですね? ク
2061
ラクフの補給参謀の方に聞きました﹂
﹁そ、そうですかね⋮⋮﹂
あの野郎、今度会ったらズボンのポケットに泥団子突っ込んでや
る。
﹁それと、マリノフスカ少佐も最近は訓練で忙しいとか﹂
﹁⋮⋮は、はぁ﹂
なぜだろう。今すぐ背後にある窓から飛び降りてここから全力で
逃げたい。ここ3階だけど。
﹁エミリア殿下の下にも挨拶に行きましたが、その時についでに聞
きました。少佐の予定表について﹂
﹁⋮⋮⋮⋮殿下はなんと?﹂
﹁﹃特にないです﹄と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
殿下、そこは正直になる場面じゃないです。心を鬼にしてもいい
んです。私に仕事をくれてもいいんですよ!
彼女は明らかに外堀を埋めてきている。外堀どころか内堀も城壁
も何もかも埋めてきている。
﹁ところで少佐。よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
面倒事に巻き込まれる、そんな予感しかしないが一縷の望みにか
けて聞いてみることにする。それ以外に選択肢ないが。
﹁今日、夕食の御予定は?﹂
2062
いつぞや聞いた台詞と全く同じ、彼女の表情も同じ。ただその時
と違って、俺の隣にはサラがいない。
﹁⋮⋮な、ないですけど﹂
そして俺は、正直に答えてしまったのである。
2063
箝口
﹁じー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あのー、どうしましたか?﹂
フィーネさんと食事することになってしまい、さてどうしたもの
かと悩みながら執務室を出ると、そこにはエミリア殿下の姿があっ
た。珍しくマヤさんの姿はなく、殿下1人である。
そしてなぜか見つめられている。マジマジと。穴が開くほど見つ
められている。数十秒ほどそれが続いた後、エミリア殿下が口を開
いた。
﹁フィーネさん、少しユゼフさんをお借りします﹂
﹁元々私が殿下よりお借りしているのです。問題はありません。た
だ早めに返して戴ければ幸いです﹂
俺の処遇に関する話なのに俺の意見を全く気にしない両者。ちょ
っとは聞いて欲しいなぁ⋮⋮決定権ないんだろうけどさ。
そんなこんなを思いつつ、俺より背が小さいはずのエミリア殿下
に俺は引っ張られて引き摺られるのである。
なんだこれ。
−−−
2064
﹁ユゼフさん。お話があります﹂
つい先日までの俺の職場だった軍事査閲官執務室、つまりエミリ
ア殿下の職場まで連行された。そしてここにもマヤさんの姿はない。
つまるところ俺は金髪碧眼美少女の王女様と2人きりということに
なる。
しかしそんな心躍るシチュエーションでもない。執務机で手を組
みつつズッシリと威厳ある座り方をする殿下はそれだけで女王たる
資格を持っている。簡単に言うと目が怖い。
﹁⋮⋮怒ってます?﹂
そう聞かざるを得なかった。
いつもと雰囲気が違い過ぎるし、突き刺さる視線が生優しいもの
ではないのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮怒っているかそうでないかで言えば、怒っています﹂
﹁申し訳ありません﹂
俺はすぐさまその場で土下座した。知らぬうちにエミリア殿下に
不敬な事をしてしまった⋮⋮と思ったのだ。
まぁこれを見たエミリア殿下が慌てた声で﹁あの、そこまでしな
くていいですから⋮⋮﹂と仰ったので、どうやらいつもの殿下なの
だということはわかった。
殿下からのお達しがあったので俺はスッと立ち上がって⋮⋮、
2065
﹁⋮⋮なぜ怒られているのか、わかるんですか?﹂
再び土下座した。忙しい。
﹁臣の不徳の至るところながら、全く事情が呑み込めておりません。
出来ればこの不肖の身に対し、エミリア殿下から御教授を戴ければ
幸いと思っております﹂
いや本当なんで怒られているか全くわからない。とりあえず謝っ
ておけと思ったから土下座したのだけど、理由がわからないのでは
逆効果かもしれない、と思っての行動だ。
そして二度目の土下座を見た殿下は、目頭を押さえて眉間に皺を
寄せていた。
﹁全く変わりませんね﹂
﹁どうも、私は成長しない人間でして﹂
﹁それだから、2人の女性に板挟みになって身動きが取れなくなる
んですよ﹂
と、殿下は笑いながら俺に立ち上がるように命令する。
ていうか、うん、まぁ予想はしてたけどエミリア殿下も事情知っ
てるんだね。またサラあたりの相談とやらなのだろうか。年下に恋
愛相談するのってどんな気持ちなんでしょうかね。
ノーコメント
﹁どうです? あれから進展はあったんですか?﹂
﹁⋮⋮無回答で﹂
下手に答えると変に勘繰られそうになる。ここは何も答えないで
おくのがいい。俺には黙秘権がある。そんな概念があるかは知らな
2066
いが。
﹁無回答無選択が、いつまでも貫き通せればいいですね?﹂
﹁⋮⋮どういう意味です?﹂
﹁サラさんもフィーネさんも、﹃今はまだ﹄ユゼフさんの自由意思
に任せている、ということですよ﹂
なにそれ怖い。
つまりエミリア殿下は﹁辟易した2人が強硬手段に訴えてくるか
もしれない﹂ということだろうか。サラの場合は暴力的な手段で、
フィーネさんの場合は権力的な手段だろうな。うん。
これを逃れる術はないものか。いっそ誰かさんみたいに亡命する
しか⋮⋮。
﹁ユゼフさん。また妙な事考えている顔になっていますよ﹂
﹁⋮⋮﹂
目を逸らした。逸らさずにはいられなかった。
まぁ俺が亡命することはない。愛国心ではないが、まだこの国に
はいたいのだ。
﹁で、どちらを選ぶかは決めたんですか?﹂
﹁⋮⋮決めていたら、こんなに悩んでいませんよ﹂
どちらも選ばずに﹁私たち親友でいましょうね﹂が一番楽な気が
する。どうにも表現がしにくいが、そういう関係でいるのが割と楽
しいのだと思う。
だからグイグイ来る向こうからの攻勢をどう凌ぎ切るか。これに
尽きる。
2067
﹁凌ぎ切るのは無理だと思いますが⋮⋮﹂
エミリア殿下は溜め息がちにそう言う。ま、まだ可能性あるし。
﹁それならまだ、どちらも選んで両手に花、という方が可能性あり
ますよ﹂
﹁⋮⋮マヤさんとは逆のことを言うんですね﹂
マヤさんは﹁独占欲が強いからやめろ﹂と言っていた。でも殿下
は、むしろそれを推奨してきてるようにも聞こえる。
﹁私にも、色々思うところはあるのですよ﹂
﹁色々?﹂
なんだろう、微妙に会話が成立していない気がする。
そしてエミリア殿下は俺の質問に答えず、顔を背けてぶつぶつ言
っている。なんかの呪文なのだろうか。
﹁まぁいいです。今回呼んだのは別の事なので﹂
そう言って、エミリア殿下は俺に席に着くようジェスチャーした。
長い話になるということなのだろう。俺は近くにあった軍事参事官
の席、つまり俺が先日まで座っていた席を引っ張り出してそこに座
る。
しかし、﹁まぁいい﹂と言うことはなんで怒っているのかとか、
そう言うことは教えてくれないということなのだろうか。エミリア
殿下に嫌われるのは嫌だから教えて欲しい。俺はどうも鈍感なんで。
2068
そんな願いは当然通じず、そして口に出せる訳もなく、エミリア
殿下は話し始めた。フィーネさんから俺を借りているという状況に
あるため、殿下が口を開いた瞬間が本題だった。
﹁これから話すことは最高国家機密に該当します。ユゼフさんを信
用してお話しますが、このことはサラさんやマヤ、ラデックさん、
フィーネさんらにも含めて他言無用でお願いします﹂
不穏な前置きだった。
そしてそこまで徹底して隠すとなると、どういうレベルの話なの
かも想像がついた。
﹁⋮⋮承知しました。天地天明、エミリア殿下に誓って他に漏らす
ことは致しません﹂
なんなら血判も用意できる。
だがエミリア殿下は誓約書にサインしろなどとは言わず、頷いた
だけ。そこまで信用してくれているのは、ちょっと嬉しい。
だが、エミリア殿下が放った言葉は、とてつもない重さを持って
いた。
﹁⋮⋮東大陸帝国帝位継承権第二位の、ヴィクトル・ロマノフⅡ世
が我が国に亡命してきました﹂
2069
帝国の陰
ヴィクトル・ロマノフⅡ世。
東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の曾孫。皇太大
甥セルゲイと対比して、皇太曾孫とも呼ばれている人物。
春戦争勃発の一因は彼にあるし、そして今はシレジアにいる。
なぜ亡命してきたのか、なぜシレジアなのか。そう考えると食欲
が⋮⋮、
﹁︱︱佐。ユゼフ少佐﹂
﹁⋮⋮あ、はい? なんですかフィーネさん。料理に蠅でも入って
ましたか?﹂
﹁もしそうだとしたら少佐ではなく店員を呼んでいます﹂
エミリア殿下から一通り話を終えた後、軍事査閲官執務室の外で
リーネ
待っていたらしいフィーネさんに連行されて、現在俺はクラクフ市
内にある喫茶店﹁馴鹿座﹂にいる。近年増えつつある中間所得層向
けと言った感じの店構えだ。
つまり伯爵家令嬢であるフィーネさんには似合わない店。だが、
﹃少佐と喫茶店でお話をするのは、割と楽しいですから﹄
リリウム
とのことである。俺が大使館勤務だった時によく行った﹁百合座﹂
の話をしているのだろう。店名も星座繋がりで、なんとも芸が細か
い。
ま、俺としても伯爵家令嬢という格に見合った店に連れて行かれ
ても困る。たぶん田舎者感丸出しでキョロキョロしてフィーネさん
2070
に恥かかせるだろうから。
閑話休題。
﹁この店に来てから3回ほど魂が抜けているようですが、何かあっ
たんですか?﹂
﹁いえ、別に大したことでは⋮⋮﹂
﹁大したことないのに少佐は魂が抜けるのですか。⋮⋮それとも、
私と一緒にいるのが嫌ですか?﹂
怒ったような声色から、一転して寂しがるような声と表情をする
フィーネさん。
﹁いやいやいや、まさかそんなことは。フィーネさんのような綺麗
な方といるのは大変光栄です、はい﹂
﹁ふふ、そうですか。では私と恋仲になって結婚する話も了承され
たということで⋮⋮﹂
﹁待ってくださいそこまでとは言ってないです﹂
毒を吐いたり怒ったり寂しがったり笑ったり冗談を言ったり。依
然表情は固いけれど、随分芸達者になったものだと感心する。これ
が恋の力なのだろうか。
⋮⋮いやそもそもの話、彼女が俺に恋愛的感情を抱いているとい
う実感が全然わかないというのが正直なところで。
﹁いくらそう言ったところで、私は諦めたりはしませんよ少佐。マ
リノフスカ少佐との仲も進展なしのようですし、私にも可能性があ
るということなのでしょう?﹂
﹁⋮⋮何をどう推理するかはフィーネさんの自由ですけど、何度も
2071
婚約拒否してるのですから諦めたらどうでしょうか﹂
﹁欲しいものは何としても手に入れたい主義なのですよ﹂
リンツ伯爵家の女子はみんなそうなんです、と彼女は続ける。
それは最近のフィーネさんの様子を見ればわかる。
そして感心するのは、彼女の父親、つまりリンツ伯の力を一切借
りていないところ。
正直な話、リンツ伯が政治的・権威的・権力的、あるいは軍事的
な側面から俺に対してフィーネさんの婚約を差し出して来れば、俺
としては選択肢がない。リンツ伯の性格を考えると、それをしない
とも言いきれない。あの人はそういう人だ。
でも、フィーネさんはそれをしない。それが彼女の矜持なのだろ
うし、リンツ伯もそれを尊重しているのだろう。
そういうのは好きだよ。いや恋愛的な意味ではなく、単に趣向の
話だ。か、勘違いしないでよね!
﹁話を戻しますが、魂を空中に漂わせて何を考えていたんですか、
少佐?﹂
先程注文した軽めの夕食を食べ終えて、食後のデザートに移って
いるフィーネさんがそう聞いてきた
﹁機密につき、申し上げられません﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
少し、フィーネさんは残念そうな顔をした。
そういう表情をして俺から情報を引き摺り出そうとしているのか、
2072
はたまた本当に残念だと思っているのか。
﹁機密の無いように触れない程度に、相談くらいなら乗りますが?﹂
﹁いえ、その必要性はありません。それに、まだ自分の中でもしっ
かりと情報を整理できていないですから、どのみち喋れないのです
よ﹂
整理ができたところで話せないのには変わらないのだが。なんて
たって、いるかどうかわからない神とかいう奴と、敬愛するエミリ
ア殿下に誓ったのだ。
だからエミリア殿下が俺に話した内容は、フィーネさんには明か
せない。
⋮⋮いや、これはちょっと不正確かな。もっと適確に言えばこう
だ。
相手がオストマルク帝国情報省所属のフィーネ・フォン・リンツ
少尉だと、この内容は話せない。
−−−
少し時間を巻き戻す。
エミリア殿下に引き摺られて、軍事査閲官執務室に来て、そして
ヴィクトルⅡ世が亡命してきたという事実を告げられた時まで戻す。
2073
﹁⋮⋮殿下、いくつか質問をしても?﹂
﹁構いません﹂
﹁ありがとうございます。まず1つ﹂
俺はそう言って、少し間を置いた。ちょっと脳内の記憶を穿り返
すためだ。
﹁失礼、まず1つ目ですが⋮⋮私の記憶が正しければ、皇太曾孫ヴ
ィクトルⅡ世が生まれたのは大陸暦637年5月29日。つまり亡
命してきたその人物は1歳になったばかりということですよね?﹂
﹁ユゼフさんの記憶は間違っておりません。私もそのように記憶し
ております﹂
エミリア殿下は即答する。剣兵科三席の優等生が正しいというの
だから、やはり俺の記憶は間違ってはいない。
﹁⋮⋮2つ目の質問です。1歳というと余程の天才でもない限り、
歩くことも喋ることも出来ないはずです。当然、自由意思で亡命し
てくるはずがないですよね?﹂
1歳になったばかりの赤子が﹁ごめんなさい親戚から殺されそう
なんで逃げてきました﹂と言いながらハイハイで亡命するはずがな
タク
い。してきたらほとんどホラーだろう。
無論、エミリア殿下の返答は﹁肯定﹂だった。
となると問題となるのは⋮⋮、
﹁では、誰がその子供を連れてこの国に来たのです?﹂
これだ。
2074
亡命ではしばしば、誰が亡命してきたかよりも、誰が亡命させた
のかのほうが重要になる。今回がまさしくそうだ。
数秒経って、エミリア殿下が答える。
﹁⋮⋮ヴィクトルⅡ世の母親、皇帝イヴァンⅦ世の孫娘、エレナ・
ロマノワ。そして彼女たちに付き従う皇帝派貴族。近侍・執事を含
めた亡命者の総数は9名です﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
意外のような、そうでもないような。
表面上は単なる亡命に見える。
でも裏に事情があるのではないか。いや、あるだろうな。政争に
敗れたとは言え、皇族だ。政治的な背景があるはずで、それが現帝
国宰相セルゲイ・ロマノフの策略によるものだとしても、別に驚き
はしない。
そこら辺の事情を聞いてみたが、殿下は首を横に振った。詳細は
不明であるらしい。
エミリア殿下曰く、皇太曾孫一派がシレジア王国に亡命してきた
のは7月2日のこと。東大陸帝国領ベルス、つまりエーレスンド条
約によって設定された非武装緩衝地帯に彼らがやってきて、亡命の
意思を表明したらしい。
ベルスにいた駐在武官は当初、女性が抱えている赤子がヴィクト
ルⅡ世だとは信じなかった。当然だ。顔を知っているはずもないし
﹁ちょっと身形のいい貴族か資本家が亡命してきただけ﹂と思った。
実際その手の亡命は、既に前例があったため、今回もそうなのだろ
うと高をくくっていたわけだ。
2075
ベルス駐在武官は、東大陸帝国臣民が亡命を希望したという情報
を内務省に報告した。通常、亡命者の報告は外務省にするのだが、
外務尚書は大公派、駐在武官は王女派で、そして亡命者は恐らく格
式ある人物。であれば、同じ王女派である内務省に報告して有効に
活用してほしい。そう考えての行動だった。
今回はその駐在武官の判断に助けられた。
内務省治安警察局がベルスにやってきて、彼らの身元を精査。そ
の結果、赤子は本当にヴィクトルⅡ世だったことが判明した。
すぐさまベルスのシレジア公館職員には箝口令が敷かれた。
皇太曾孫一派は内務省によって身柄を保護され、そして現在シレ
ジア南東部の地方都市ヤロスワフにて一応の礼遇でもって迎えられ
ている。
﹁つまりヴィクトルⅡ世がシレジアにいることを知っているのは、
在ベルスシレジア公館職員、内務省、そして私とユゼフさんだけで
す﹂
﹁なるほど。ですがそれは⋮⋮﹂
﹁えぇ。時間の問題です。帝国が気付くやもしれませんし、箝口令
を敷いたと言っても人の口を完全に閉ざすことはできません﹂
そう言って、エミリア殿下が資料を俺に渡した。表紙にはご丁寧
に赤字で﹁重要機密﹂﹁非公開﹂﹁複製厳禁﹂と書かれている。資
料作成者は内務省治安警察局局長の名だった。
資料の中身は簡素だった。
亡命者の名と身分、情報が乗っているだけ。しかし1枚目から﹁
ヴィクトル・ロマノフⅡ世﹂と書かれているのだから、実質以上の
重みをこの資料から感じる。
2076
とりあえず情報を精査するのは後にして、エミリア殿下に最後の
質問をすることにした。
﹁殿下。最後に1つだけ、よろしいですか?﹂
﹁どうぞ﹂
﹁⋮⋮この情報が重要な機密であることは理解しました。しかし、
なぜフィーネさんにも言ってはならないのでしょうか?﹂
サラやラデック、そしてマヤさんならまだわかる。彼女たちは正
式には軍人だし、情勢が定まっていない時点でこの情報に触れるの
はまずい。しかもサラの場合なんかの拍子で喋ちゃいそうだし。
でもフィーネさんは違う。彼女はオストマルク帝国情報省第一部
所属の人間。言わば対外諜報の専門家である。だが殿下は、この情
報をフィーネさんに教えて意見を聞くことを良しとしないようであ
る。それはなぜか、気になった。
俺の質問の意味を理解したらしいエミリア殿下は、少し悩んだ後、
小声で答えてくれた。
﹁⋮⋮ヴィクトルⅡ世の母親、エレナ・ロマノワの証言です﹂
﹁証言?﹂
﹁はい。その証言が無視できぬもので、そして全体の情勢がまだ見
えない状況にあったため、慎重を期してオストマルク側に情報を流
さぬようにしているのです﹂
エミリア殿下はそう言ってから、俺に資料を見るようジェスチャ
ーした。
何枚かページを捲ると、最後の方に各人の証言が乗っている。﹁
彼ら、特にエレナ・ロマノワに関してはやや興奮した状態にあった
2077
ため、情報の真偽については疑問の余地あり﹂という注釈がついて
いたものの、その証言は興味深かった。
エレナ・ロマノワ曰く﹁セルゲイはオストマルクと結託し、私た
ちを排除しようとしていた﹂と。
2078
帝国の陰︵後書き︶
血縁関係と登場人物がややこしくなっているのでおさらいです。
<i176579|14420>
追記:あけましておめでとうございました︵今更︶
2079
商業区にて
エミリア殿下から伝えられた情報が気になって、結局喫茶店で食
べた料理の味はよく覚えてない。
ちなみに料金は割り勘です。フィーネさんが払うって言ってたけ
ど、さすがに女性に食事代金払わせるのはまずいんじゃないかと思
って﹁ここは俺が﹂﹁いやいや私が﹂を暫く繰り返してそうなった。
そんなこんなあって店から出て、特にやることもないし帰るかな
どと思っていた時、
﹁少佐、少し寄りたい場所があるので付き合ってもらいますか?﹂
﹁え、いやでも私は⋮⋮﹂
﹁どうせ暇でしょう?﹂
仰る通りです。
そういうわけで、フィーネさんとクラクフの商業区を歩くことに
なった。
庶民が夕食の材料を買い求める市場、富裕層が高級家具や宝飾品
を買うための店、こんな商品誰が買うんだと思わせるようなマニア
ックな店などなど、最近のクラクフは面白い感じになっている。
オストマルク帝国や、カールスバート復古王国、シレジア王国各
所からの資本と資源、そして人間の流入が、クラクフの経済成長を
支えている。特にオストマルクからの資本流入が大きい。
2080
起爆剤となったのは、グリルパルツァー商会の大型工場だ。郊外
にある工場群のおかげでクラクフは潤い始めている。
無論、なにも問題がないわけじゃない。代表的なのは以下の2つ。
インフレ
ひとつは、物価上昇。ここ数ヶ月で急に経済が上向いたから、そ
れに伴って物価が上昇し、物価についていけない貧困層が増えてい
る。民政局長は、彼らに対する福祉予算の確保と物価の安定に悩ま
されているそう。
ふたつ目、工場労働者の給与が上がったことによって、既存の第
一次産業従事者の人口が減りはじめていること。特に、公爵領南部
に存在し、公爵家が運営しているキンガ岩塩坑だ。辛い、キツイ、
それでいて給料は工場労働者並。こんな状況で坑夫で働き続けたい
と思う輩はそう多くない。
岩塩坑の坑夫を減らさないために給与を上げてしまえば、それは
塩の価格に跳ね返る。塩の価格を抑えようとすれば、給料を支払う
立場、つまり公爵領の財政が圧迫される。
つまり、俺の名目上の上司たる民政局長はこれらの難題を押し付
けられているのだ。
⋮⋮俺が工場を誘致させたせいなのかと思うと、少し申し訳ない。
まぁ、これらの問題解決は後の事としておいて、今はフィーネさ
んの用事である。
﹁なんの店に用事があるんですか?﹂
﹁そうですね。姉に何か嫌がらせの品を送りつけてしまおうかと思
いまして⋮⋮何がいいですかね?﹂
2081
なにがあったんだろうこの姉妹⋮⋮。
フィーネさんはどこか特定の店に用があったわけではなく、適当
に商業区を歩いている。当然俺もそれに付き従うわけだが⋮⋮どう
も引っ掛かる。
﹁フィーネさん、本当にクラウディアさんに送る物を探しているん
ですよね?﹂
﹁そうですが?﹂
﹁その割には、店を覗きませんよね﹂
適当な商品を見つけるのに商業区を適当に歩くのはわかる。でも
彼女は店を覗かず、その代わりに人ごみを観察しているようである。
まるで物よりも人を探しているようだ。
そのことを指摘すると、
﹁さて、何のことでしょうか﹂
とはぐらかされた。
そしてさらに数分歩いた後、フィーネさんが突然足を止めた。
﹁ユゼフ少佐、お願いがあります﹂
﹁なんでしょう?﹂
俺が聞き返すと、フィーネさんは右手を差し出してきた。なんだ
ろう、飴ちゃんでも欲しいのだろうか。と思ったら、
﹁私と手を繋いでくれますか?﹂
﹁⋮⋮なんでですか?﹂
﹁恋仲にある男女は普通手を繋ぐものです﹂
2082
私とあなたはまだ恋仲になっていませんよね、と反論したかった。
が、その前にフィーネさんがほとんど強制的に俺の左腕を掴み、そ
のまま手を繋ぐ。しかも、その、あれだ。指を絡ませる恋人繋ぎと
言う奴だ。
なにこれ凄い恥ずかしいんだけど。
・・
﹁顔が真っ赤ですよ、ユゼフさん﹂
﹁⋮⋮そりゃなりますよ。ていうか急になんでさん付けですかちょ
っと恥ずかしいので普段通りに、あと手を離して戴ければ嬉しいの
ですがっ!﹂
﹁ダメです﹂
そう言ってフィーネさんは離すどころか両手でガッチリ俺の左腕
を捕まえる。ついでに当ててくる。ナニとは言わないがフィーネさ
んのその慎ましくも柔らかいそれを当ててきて⋮⋮って、街中でこ
ういうことをするのは恥ずかしいってレベルの話じゃない。たとえ
恋仲になったとしてもやりたくないんですけどっ!
たぶん今鏡を見たら茹蛸のように赤くなっている俺が映っている
ことだろう。フィーネさんから必死に顔を背けて対抗する。でも左
からはクスクスと微かに笑っている声が聞こえるので恐らく意味は
ないのだろうけど⋮⋮。
﹁あ、あの、フィーネさん? そろそろ⋮⋮﹂
離してください、と言いかけた時、後頭部に衝撃を感じた。固い
ものが何か当たったようである。足元を見ると、そこにはなぜかそ
れなりに形の良いジャガイモが落ちていた。当然だが、クラクフは
ジャガイモが自然と湧いて来たり降ってくるような都市ではない。
2083
つまり俺はジャガイモを投げつけられたということになるのだが、
なんだかとっても物凄く嫌な予感しかしないのはどういうことでし
ょう?
いっそのこと後ろのことは気にせずこのまま前に進んでしまおう
か。なんて思ったが確認を怠ることは俺にはできず、振り返ってし
まう。
そしてそこに居たのは、
﹁ユ︱︱︱ゼ︱︱︱︱フ︱︱︱︱︱!!﹂
サラ
俺の名を叫び、生のジャガイモを握り潰しながら殺意の炎を燃え
滾らせている鬼神がそこにいた。
なるほど、今日は俺の命日らしい。
2084
対決
目と目が合う瞬間殺されると気づいた。
俺の背後にいてジャガイモを投げジャガイモを握り潰していたの
は怒髪天を突いているサラさん。世が世なら神仏として讃えられて
いそうな、あるいは鬼として恐れられていそうな形相である。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
というか簡単に言えば本気で自分は死ぬんじゃなかろうかと思っ
た。だが、救いの女神は彼女の割とすぐそばにいた。
サラさんの横に立ってサラさんの裾をくいくいと引っ張っている
ユリアである。
ユリアは、俺の下に怒りの衝動に任せて歩きだそうとしたサラを
それで引きとめ、何かに気づいたようにハッとする。
⋮⋮大丈夫かな?
とりあえずフィーネさんも呆けているようなので腕を引っこ抜い
て距離を保つ。あわよくば逃げたい。フィーネさんにムッとされた
けど、あなたサラがいるとわかって行動したよね?
そうこうしているうちにサラが接近。怒りは抑えられているよう
だが顔はひきつっている。
﹁ひ、久しぶり。奇遇ねフィーネ﹂
﹁えぇ。お久しぶりですマリノフスカ少佐。本当に奇遇ですね﹂
2085
と、ややぎこちなく会話を始める2人。ピリピリとした雰囲気が
周囲に漂う。その緊張した空気は敏感な通行人たちも感じ取ったの
か、なんだなんだと遠目から見ている人が現れた。
この状況。非常にまずい。7割6分5厘ほど自分のせいだが、一
触即発、オストマルクとシレジアの士官がクラクフ市街で大乱闘ナ
ントカシスターズでもされたら色々と不味い。政治的な意味でも風
聞的な意味でも。
﹁ユゼフと、な、なにやってたのかしら?﹂
﹁いえ、別になんでもありませんよ﹂
﹁なんでもないわけ⋮⋮﹂
﹁なんでもありませんよ。ユゼフ少佐の単なるご友人であるマリノ
フスカ少佐には関係のない話です﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
2人共喧嘩腰。気まずい。とりあえず本当に喧嘩にならないよう
に⋮⋮、
﹁ま、まぁ2人共、とりあえず落ち着いて⋮⋮﹂
﹁﹁ユゼフ︵少佐︶は黙って︵てください︶!﹂﹂
あ、はいごめんなさい生まれてきてごめんなさい。来世ではもう
ちょっと誠実に生きます。
﹁マリノフスカ少佐はどうしたんですか? こんなところで﹂
﹁別に、夕食の買い出しよ。いつもこの時間に買い物するの﹂
そして俺を連れてきたのか。フィーネさんこわい。
2086
﹁そんなことよりユゼフ!﹂
﹁え、はい!? なに?﹂
﹁フィーネと、なにやってたの?﹂
にじり寄るサラ。相変わらず顔が引きつっている。そこから必死
さは伝わるが、どうか頑張ってほしい。こんな人目のあるところで
はまずい。
一方ユリアは表情を変えず﹁私何も知りませんよ﹂と言った風。
さすがユリアだと言いたいがここではサラのブレーキ役になってほ
しい。
﹁べ、別に大したことはしてないよ。ただ一緒にそこの喫茶店で色
々話してただけだし⋮⋮﹂
﹁色々って?﹂
﹁仕事の話とか⋮⋮﹂
これは本当だ。この状況で嘘言えるだけの度量はない。機密に触
れる内容が多いからあまり相談云々はできなかったが。
それはさておき、サラの怒りの度合いは話しているうちに徐々に
減っているのがわかった。先程の怒りは自分の勘違いなのかと思っ
ているのだろうか。いずれにしても歓迎されるべきこと、このまま
穏便に話を済ませ⋮⋮られないのが世の中の辛い所。ここで状況を
悪化させる言葉がフィーネさんの口から放たれる。
﹁マリノフスカ少佐、そろそろよろしいでしょうか?﹂
まだ自分は俺と大事な用があるのだという物言い。フィーネさん
煽りよる。
2087
当然、サラの怒りゲージも上がる。
﹁何よ。今こっちは⋮⋮﹂
サラが何やら反論を仕掛けた時、フィーネさんが食い気味にそれ
を言った。
﹁いけませんね。マリノフスカ少佐には、婚約者がいるのでしょう
? あまり余所の男性と話をしているとあらぬ誤解を受けますよ﹂
と。
⋮⋮サラの婚約者? って、あぁ待ってね。そういえば随分昔に
そんな話が⋮⋮えーっと。
﹁まだ婚約してたんだ﹂
と、つい口にしてしまった。
いや、実のところは意外だったのだ。確かに婚約破棄をしたとい
う話は聞かなかったけど、カステレットでのアレがあってから﹁も
うしたのかな﹂と勝手に思ってしまっていた。
婚約破棄なんて簡単じゃないのはわかる。確か相手は子爵家次男。
騎士階級の娘でしかないサラの独断で破棄はできない。けど、だか
らと言って﹁じゃあ結婚しちゃえよ﹂とは言えない。だって⋮⋮ね
ぇ?
でも、俺の言葉はやはり軽率だったかもしれない。
俺の言葉を聞いたサラは、細かく震えていた。そして涙声で、
﹁何よ! ユゼフまで!﹂
2088
と言われてしまったのである。俺の言葉には意味はなかったが、
サラにはそう聞こえなかったのだと、後になってようやくわかった。
﹁⋮⋮もういいわ。帰るから﹂
そう言ってサラは、俺を殴る蹴るということをすることもなく、
フィーネさんに何かを言うこともなく、ユリアを連れて雑踏の中に
消えて行った。
﹁⋮⋮フィーネさん﹂
﹁はい﹂
﹁サラに婚約者がいるってこと、誰から聞いたんですか?﹂
あの話を知っているのは、当事者と、俺と、ポロッと言ってしま
ったラデックだけ。ほとんど内々で進んでいた話だから、このこと
を知っている人間はごくわずかのはずだ。
﹁お姉様からですよ﹂
﹁⋮⋮クラウディアさんですか?﹂
﹁そうです。各国貴族の婚姻血縁関係は重要な情報だと、先のカロ
ル大公結婚式の時に改めて認識しました。ですのでシレジア内務省
に負けぬよう、私たちもそういう情報を集めたのです﹂
その過程でカリシュ子爵家次男のことを知ったのだ、とフィーネ
さんは続ける。
﹁マリノフスカ少佐は確かにユゼフ少佐と長い付き合いで、絆は強
固たるものである。ですがマリノフスカ少佐には婚約者がいる。そ
れは彼女にとっての弱点となるのではないか、ということ。実際は
2089
その通りみたいですね﹂
あぁ、まったくその通り。
またサラの泣くところを見てしまったのだから。
﹁少佐と彼女の絆を壊してしまえば私に勝機があるのではないか、
と﹂
﹁それがフィーネさんの策ですか?﹂
﹁そうですね。正確に言えば姉の発案ですが、実行したのは私です。
使わないに越したことはありませんでしたが⋮⋮﹂
そう言った後、フィーネさんは一度言葉を止め、数秒逡巡したも
のの続きを言った。
﹁ユゼフ少佐が、そうさせたんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それでは、またお会いしましょう﹂
そう言って、フィーネさんは足早に離れていった。
一人取り残された俺と言えば、
﹁はぁ⋮⋮情けねぇなぁ⋮⋮﹂
本当に、自分の情けなさが嫌いになる。
−−−
2090
クラクフ商業区にて、そんな些細な波乱を一部始終見ていた一対
の目があった。ユゼフどころかサラやフィーネにも気づかれずに済
んだ人物。
﹁⋮⋮さて、どうすべきかな﹂
ラスドワフ・ノヴァクは、そう1人呟いた。
2091
ラデックの悩み事︵前書き︶
章題を﹁クラクフ狂騒曲﹂に変更しました。
2092
ラデックの悩み事
ラスドワフ・ノヴァク。通称﹁ラデック﹂
彼と同期の者で、彼以上に幸せな人生を送っている者はそう多く
ないだろう。
ラデックは親が勝手に決めた婚約者、リゼル・エリザベート・フ
ォン・グリルパルツァーとの結婚を控えている。だが彼女は誰もが
認める美人であり、ラデック好みだった。そして尚且つ彼の事を心
から愛してくれている。さらに言えば名のある資本家の娘で、爵位
も持っている。
だからと言ってラデック自身に価値がないかと言えばそうではな
く、彼はシレジア王国軍大尉で補給担当の士官。戦死する確率の低
い後方勤務で尚且つ給与も良い身分に23歳という若さでなってい
る。シレジアの王女や公爵令嬢などと言った人物を親友に持ってお
り、その凄さは最早言うまでもない。
極めつけに年内に2人の愛の結晶、もとい子供が生まれるとなれ
ば⋮⋮もうここで人生を終えても悔いは残らないのではないかと思
われるほどの幸せぶりである。
ユゼフに言わせれば、
﹁爆ぜろ。もしくはもげろ﹂
ということになる。ユゼフが置かれている状況はさておき。
さてそんな幸せな人生を歩んでいるラデックなのだが、この日は
大いに悩んでいた。
2093
﹁⋮⋮まずいよなぁ﹂
彼と彼女の結婚生活を営むために購入した新居にて、貴族令嬢ら
しくなく料理の腕に秀でるリゼルの手作り料理を前にしながら、彼
は大きく溜め息をついて唐突にそう呟いたのである。
無論、それを聞いたリゼルは、
﹁あ、ごめんなさい⋮⋮﹂
と泣きそうになりながら勘違いをした。
﹁あぁいや、違う違う。リゼルの料理は相変わらず美味しいよ。今
のは、ちょっと別の話﹂
﹁⋮⋮本当ですか?﹂
﹁本当だよ。店を開いたら繁盛するんじゃないかって思うくらい﹂
その言葉に嘘はなかった。世帯収入がとてつもないことになって
いるこの家の夕食は材料にも当然拘れるし、それに作っている人間
の技量も相まって、一流料理店にも引けをとらない程になっていた。
﹁ふふ、ならよかったです。でも暫くはラデックさんとお腹の子に
しか作ってあげませんよ﹂
彼女は微笑みを浮かべながらそう惚気た後、首を傾げてラデック
に質問した。
﹁⋮⋮でも、そんなに溜め息をつくなんてどうしたんですか? お
仕事上手く行きませんでした?﹂
﹁あぁ、いや、仕事じゃなくてな⋮⋮﹂
2094
ラデックは天井を見上げて、暫し考え込んだ。リゼルに先程クラ
クフ商業区で見た光景を言おうか言うまいか、である。だがリゼル
はユゼフとフィーネを良く知る人間であることを思い出し、そのこ
とを言う決意をし、そして見たままのことを彼女に伝えた。
﹁と、言うわけだ﹂
﹁あらま⋮⋮﹂
リゼルは珍しく呆けた顔をした。
進展があった、という報告は以前にラデックから聞いてはいたも
のの、まさかそんな事態になっているとはさしもの彼女も想像がつ
かなかったのである。
﹁ユゼフの野郎が、まぁそういうことに不器用なのはわかっていた
が⋮⋮あれはちょっとまずいと思ってな﹂
﹁それは想像がつきます。ユゼフさん、女性の気持ちというのに鈍
感ですものね﹂
何せ彼女はオストマルクで、ユゼフとフィーネをよく観察してい
た人間である。フィーネがそういう気持ちを抱き始め、そしてそれ
にユゼフが気付いていないのも当然彼女は気付いていた。
﹁でもあいつはもう17歳だし、そういうのに敏感でもいいと思う
んだが﹂
﹁それは個々人によって違いますから⋮⋮でも、このままは確かに
まずいですよね﹂
リゼルは、これが放っておけばどうなるかを想像できていた。
ユゼフとサラの仲は嫌悪になり、そしてその原因を作ったフィー
ネとの仲も悪くなる。三者それぞれが互いを嫌悪し始めれば、もう
2095
修復は効かないだろうと。
﹁まぁユゼフにとっては良い人生勉強になっただろうよ。そうやっ
て男は女心をわかっていくもんだし﹂
﹁あら、実体験ですか?﹂
﹁⋮⋮いや、親父の言葉だ﹂
無論、これは嘘である。彼の初恋はリゼルと会うずっと前にのこ
とである。
だがそれはリゼルにとっても同様なので、彼女もラデックに無粋
なツッコミをすることはなかった。と言うより、古今東西初恋が結
婚に至る例というのは案外少ないものであるから、むしろそれが普
通のことである。
﹁まぁ、それはさておくとして。ユゼフさんにとって良い勉強にな
るでしょうけど、2人とっては致命傷です﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁そうです!﹂
そう言って、彼女は机を叩いて立ち上がる。
﹁乙女の寿命は短いんです。やっと良い恋ができたのに、こんな形
で有耶無耶にされるのはたまったもんじゃありません!﹂
﹁あー、有耶無耶ってのは⋮⋮?﹂
﹁無論ユゼフさんです! 女性2人から告白されてそれに対する返
答有耶無耶のまま告白前の関係を続けるなんて、最低ですよ!﹂
﹁最低なのか﹂
﹁最低です! 御馳走を前にしてひたすら﹃待て﹄をされている犬
の気持ちですよ!﹂
2096
それはちょっと違うんじゃないか、とラデックは言いたかったが、
目の前で演説するリゼルの気迫に押されてツッコミずらかった。
だが犬云々はともかくとして、ラデックはリゼルの言葉に納得で
きた。
﹁まぁ、どうにもユゼフの2人対する行動は失礼だとは俺も思う。
いや、正確に言えば行動しないことが失礼だということか﹂
﹁そうですね。慎重になりすぎて、あるいは真摯すぎて何もできて
いない。両方かもしれませんね﹂
﹁なるほどな。でもやっぱり問題となるのは⋮⋮﹂
ラデックは料理を口に運び、咀嚼しながら考える。
先ほどラデックが言った通り、ユゼフは行動しない。その理由は
ラデックには想像がついたし、ある程度同情も出来た。だがサラと
フィーネの気持ちを考えると、同情はできない。
やはり問題の鍵となるのは、ユゼフ自身なのだと。だがそのユゼ
フを、どうやって行動させるかが最大の難関である。
その難関に対する答えは、リゼルが出した。
﹁あの2人は恋に対して素直になりました。だから告白できました。
なら、ユゼフさんも素直にさせればいいんです。それで解決です﹂
﹁まぁ結局そうなんだろうが⋮⋮ユゼフってあんまりそいうこと言
わねぇからなぁ﹂
伊達に7年間もユゼフに付き合ってはいない。同室として、ある
いは年上として何度も相談に乗ったことがあるラデックだが、今問
題となっている事となるとユゼフは頑なになる。
﹁であれば、手段はひとつですね﹂
2097
﹁ひとつ?﹂
ラデックが首を傾げると、リゼルは笑って答えてみせた。
﹁えぇ。簡単です。腹を割って話すんですよ﹂
右手で拳を作って、そう言ったのである。
2098
来訪
⋮⋮⋮⋮あぁ。今日も空が青い。たぶん今の俺の目は死んだ魚の
目の如く濁っているだろうけど、そんな目で見てもシレジアの空は
青い。うふふ。
﹁あのー、ユゼフさん? 大丈夫ですか?﹂
執務室の窓の外を眺めていたら、いつの間にか背後にはエミリア
殿下がいた。どうやら夢中になりすぎて、殿下の入室に気付かなか
ったようだ。
﹁申し訳ありません殿下。どうも最近調子が悪いみたいで﹂
﹁そうなんですか? なら今日は休んで⋮⋮﹂
﹁いえいえ御心配なさらず。少し窓の外を眺めて蝶々と戯れてただ
けですし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮本当に大丈夫ですか?﹂
エミリア殿下が顔を覗き込んできた。どうやら俺は相当やばいら
しい。
いや、うん、原因は自分でもわかるからね。今ほど死にたいと思
ったことは17年と240ヶ月の人生ではなかった。
現在の日付は7月12日。つまりフィーネさんと会って食事をし
てサラと出くわして色々アレした日から3日経っている。
あれ以降、俺とサラとフィーネさんは顔を合わせていない。合わ
せたところで何も話せないだろうし気まずくなるのが目に見えてい
る。
2099
こうなる前にもっと早く手を打つべきだったな、と今更ながらに
後悔した。何をしても手詰まり感がある。自分のせいってことがわ
かってるだけに辛い。
あぁでもいつまでも悩んでいるわけにもいかない。いくらなんで
もエミリア殿下の前で個人の悩みを吐露するわけにもいかんし、そ
れになにより個人レベルのどうでもいい話より国家レベルの話をし
なければならないのだ。切り替える、あるいは諦めるしかない。
⋮⋮はぁ。
﹁それよりも殿下。今例の亡命者の方々はどうなっているんです?﹂
そう聞くとエミリア殿下は暫く何も答えずただ俺の顔をじっと見
ていた。どうやらまだ心配されているらしいが、すぐに本題に戻っ
てくれた。
﹁⋮⋮ヴィクトルⅡ世以下、9名の亡命者たちは私の判断で公爵領
に来るように指示しました。恐らく明後日にはクラクフに着くと思
います﹂
まぁ、妥当な判断だろう。
何をするにも亡命者一行は近くに置いた方が何かと面倒がない。
変に大公派に嗅ぎつけられても面倒だし、保護するとすれば監視が
しやすい公爵領にいてくれた方が良い。
まぁ、問題はこの厄介な亡命者を本当に受け入れるのか、という
ことにあるのだが。
﹁ユゼフさんは、どう思われますか?﹂
2100
と、殿下は唐突に質問した。
﹁何がです?﹂
﹁何が、と具体的には言い辛いですが⋮⋮。強いて言うなれば亡命
者の裏に何があるのか、でしょうか﹂
確かに。皇族が亡命するなんて前代未聞だ。だけど彼らは実際に
やってきた。なぜなのか。何を目的にシレジアにやってきたのだろ
うか。
あるいはひとつの可能性として、セルゲイがわざと逃がした可能
性というのもある。そしてシレジアがヴィクトルⅡ世を保護した瞬
間﹁シレジアが皇子ヴィクトルⅡ世を誘拐した﹂と主張し、それを
大義名分にして戦争を吹っかけるという魂胆かもしれない。
もっとも、内政・軍制改革中の帝国がそれをするとも思えない。
案外、ありきたりな亡命である可能性もなくはないのだ。故に、
﹁わかりません。やはり亡命者たちに直接事情を聞かないことには
⋮⋮﹂
そう、答えるしかない。
一応、例の情報網を通じて帝国内の動向を探っているが、如何せ
んクラクフと帝都ツァーリグラードは距離が離れすぎている。情報
が降ってくるのは早くても来週になる。
だから、今はヴィクトルⅡ世とその母親を出迎える準備くらいし
かできない。
﹁殿下、治安警察局か国家警務局に連絡して、尋問ができる人間を
2101
貸し出せないでしょうか﹂
﹁その点については問題ありません。既に王都から人員がクラクフ
に来ることになっています。こちらも、恐らく明後日には来るかと﹂
相変わらずエミリア殿下は優秀でいらっしゃる。もう俺いなくて
もいいかも。
そして2日後、7月14日の午後。
王都からヴィクトルⅡ世を尋問をするためにクラクフやってきた
のは、内務省治安警察局の人間1人、そして宰相府国家警務局所属
のヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトックさんだった。
﹁お久しぶりです、ヘンリクさん。中佐になられたそうですね﹂
﹁あぁ。例のマリノフスカ少佐の事件での功績でな。もっとも﹃昇
進が早すぎる﹄という理由で数ヶ月ほど放置されたが﹂
いくら功績を挙げた公爵家嫡男であっても早すぎる出世は疎まれ
ることになるから、という軍務省の配慮らしい。ヘンリクさんが王
女派であるのも理由のひとつだろう。
﹁そう言えばマリノフスカ少佐は元気かな?﹂
﹁⋮⋮元気ですよ。最近は忙しくて会えてはいませんが﹂
﹁そうか。挨拶しようかと思ったのだが、時間がなさそうだな﹂
実際は忙しいかもどうかわからないくらい会えてないのだけどね。
そうして俺の執務室でヘンリクさんと無駄話に花を咲かせていた
2102
時、扉がノックされた。どうぞ、と返事するとそこから現れたのは
エミリア殿下。
﹁お久しぶりですね。ローゼンシュトック中佐﹂
﹁殿下もご壮健のようで何よりです。遅ればせながら、准将昇進お
めでとうございます﹂
﹁ありがとうございます﹂
形式的で、けど楽しそうな挨拶は早々に切り上げて、エミリア殿
下は本題を切り出した。
﹁例のお客様が来ました。郊外のクラクフスキ公爵の別邸にいます。
挨拶しに参りましょう﹂
2103
来訪︵後書き︶
新作の戦記小説﹁狼娘カミラの従軍記﹂を投稿しました。よろしけ
ればご覧ください
http://ncode.syosetu.com/n4166
db/
更新については活動報告にまとめました。
http://mypage.syosetu.com/mypa
geblog/view/userid/531083/blog
key/1319177/
よろしくお願いします。
2104
亡命者一行
エレナ・ロマノワ。
大陸暦616年3月生まれ。
東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の孫娘、帝位継
承権第二位ヴィクトル・ロマノフⅡ世の母親。
伴侶はシレジア侯爵ルドヴィク・パヌフニク。
東大陸帝国皇帝家の複雑な血縁関係の真っただ中にいる女性と言
っても、過言ではない。
その女性は今、シレジア王国南部最大の都市クラクフの近郊にあ
るクラクフスキ公爵家別邸にいる。
−−−
﹁お初にお目にかかります殿下。私はシレジア王国宰相府国家警務
局所属、ヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック中佐でございます﹂
﹁私はエレナ。エレナ・ロマノワ。大陸帝国の皇女です﹂
と、エレナ皇女は東大陸帝国のことを、ほぼ死語化した正式名称
である﹁大陸帝国﹂と呼んだ。
エレナ・ロマノワは22歳。ロマノフ皇帝家特有の、狼のような
銀色の髪を持っている。顔も王侯貴族によくある美形だが、どこか
2105
妙に自信のなさげな顔をしている。
現在、クラクフスキ公爵家別邸にある応接室の1つを急ごしらえ
の取調室にしそこでヘンリクさんと内務省の人が、エレナ・ロマノ
メイド
ワに尋問している。俺とエミリア殿下は部屋の隅で黙ってその様子
を聞くだけだ。
またエレナ皇女の後ろには彼女たちの側近がおり、近侍の1人が
赤ん坊を抱いていた。あれが恐らく、帝位継承者の1人なのだろう。
俺自身尋問とか得意じゃないし、しかも相手は政争に敗れた人物
とは言え高貴な御方。ならば、公爵家嫡男で警務中佐のヘンリクさ
んの出番、内務省の人も王女派で爵位持ちらしく安心、というわけ
だ。
あと尋問と言っても相手が相手なので、尋問と言うよりは入国審
査の方が適切かもしれない。
﹁遠路遥々、お疲れのことと存じます。ですが事情が事情ですので、
我々に協力をして頂きたく、このような場を設けました﹂
﹁⋮⋮構わないわ﹂
エレナ皇女は掻き消えそうな声で答えた。
なんていうか、意外だ。もっと高慢な態度に出ると思っていたの
だが、この様子だと精神的に大分疲弊しているらしい。
質問するのは主にヘンリクさんで、事務的な確認からちょっと突
っ込んだ質問までする。そしてエレナ皇女の答えは恐らく全て本当
の事なのだろうが、やはり覇気がない。
5、6個程質問が終わったところで、エレナ皇女は唐突に深い溜
2106
め息をついた。心底どうでもいい様な口調で、
﹁⋮⋮もう、そんな迂遠なことはしなくてよろしいのではなくて?﹂
と述べた。
ヘンリクさんが聞き返したが、これの意図するところは明白だろ
う。
お前らが聞きたいことをさっさと言え、その方が効率が良い。そ
んなことを彼女は丁寧な言葉で言ったのである。
スパイ
﹁あなた方がこのような場を設けたのは、私が帝国の間諜である可
能性を探るためでしょう?﹂
エレナ皇女のその言葉に、ヘンリクさんは何も答えなかった。実
際本当の事だから否定しようもないし、考えればわかることだ。そ
れをわざわざ口にする必要性はない。皇女の側近の方々がびっくり
した目をしてるけど。
﹁そう言うことであれば、話は簡単です。私はセルゲイから逃げて
きました。彼の言いなりになるなどと言うことは、たとえ天地がひ
っくり返ろうともあり得ぬことです﹂
﹁⋮⋮そう、ですか﹂
まぁ口だけだったらなんとも言える。スパイに﹁お前はスパイか
?﹂と聞いてバカ正直に答える奴はおるまい。だがそこを問答して
も何も進展しないと判断したのか、内務省の人が話を進めた。
ツァーリグラード
﹁では、殿下の仰ることが真実であったとして、何故殿下は我が国
に? 帝都からシレジアに来れたのですから、もっと国力のあるキ
2107
リスやオストマルクでも可能だったでしょう﹂
この質問に答えたのはエレナ皇女ではなく、彼女の後ろに立つ執
事の男性だった。執事と言っても皇族の執事、彼も良い所の貴族で
あるかもしれない。
﹁殿下が貴国を亡命先としたのは、いくつか理由がございます。ま
ず1つには、我が帝国と貴国の間に設けられた非武装緩衝地帯が亡
命するに際し便利だったこと。2つ目は、キリスとオストマルクと
いう国を警戒した故の事です﹂
﹁⋮⋮それは、執事殿の判断で?﹂
﹁正確に言えば、エレナ殿下とのご相談の上に決定致したことにご
ざいます﹂
意訳﹁俺が考えてエレナ皇女に進言して決断させたんだぜ﹂と言
ったところかな?
まぁ1つ目の非武装緩衝地帯に関する事は文句はない。たぶん俺
が同じ立場だったらこれを使わない手はないし、実際にエレナ皇女
以外の人間もこの緩衝地帯を通じて亡命しているのだ。
問題はもう1つの、キリスとオストマルクの警戒について。キリ
スを警戒したのは紛争が終わったばかりだからだろうか。いやそれ
はシレジアとて同じことだ。オストマルクを警戒するのは反シレジ
ア同盟を事実上離脱したから?
うん、わからん。ここら辺を突っ込むしかない。
あと恐らく3つ目の理由、シレジア侯爵パヌフニクがヴィクトル
Ⅱ世の父親であることも関係しているだろう。知人縁者を頼って亡
命したってことだ。
とりあえず、キリスとオストマルクに対する警戒を探る必要があ
2108
る。ヘンリクさんもそれはわかっているのか、そこを重点的に攻め
ることにしたようだ。
﹁キリスやオストマルクを、なぜ警戒するのですか?﹂
﹁キリスについては、紛争が終わったばかり。そんな国に亡命して
も歓迎されぬことは自明の理です。オストマルクは、我が大陸帝国
と結託する姿勢を見せていると聞き及んでおりました﹂
オストマルクとセルゲイが結託している、か。事前にエミリア殿
下から聞いていたとは言え荒唐無稽のような気もする。オストマル
クはセルゲイを警戒しているし、そんなことを帝国にいながら察知
しえないというのはおかしい。
⋮⋮いや、あるいは本当のことなのかもしれない。
確かに俺らシレジア王国は、オストマルクと蜜月の関係にある。
だがそれは、現在オストマルク帝国内で主流となりつつある、否、
俺が次席補佐官時代に主流にさせた﹁シレジア同盟論﹂によるもの。
それを支持しているのは皇帝フェルディナンドや外務省。
だが、非主流派となった﹁便乗参戦論﹂支持者がセルゲイと結託
している可能性もある。オストマルク資源省と内務省が、権限縮小
された腹いせにセルゲイと結託しようと考えていてもおかしくはな
い。それによるメリットも特に思いつかないが⋮⋮。
うん、もしかしたらこの辺が理由かもしれない。仮定の上に仮定
を乗せた不安定な推測だけど。ともかくその可能性を見つける、あ
るいは潰すためにも、俺自身が質問した方が早いかもしれない。
﹁⋮⋮エレナ皇女殿下、私からもよろしいですか?﹂
2109
俺は皇女に問いかけたが、肝心のエレナ皇女は無言。代わりに答
えてくれたのはやはり執事だった。
カヴァレル
﹁貴官は?﹂
﹁私は騎士のユゼフ・ワレサ王国軍少佐です。ヘンリク中佐の補佐
として行動を共にしています﹂
カヴァレル
クラクフスキ公爵領民政局特別参与の地位は隠しておいた。一応。
カヴァレル
にしても﹁騎士﹂の称号を初めて公に名乗った気がする。名ばか
りとは言え騎士も貴族位だから、相手が王侯貴族であっても﹁平民
如きが﹂どうのこうのを言われなくても済む。
エミリア殿下、便利なものをくれてありがとうございます。と今
更感謝した。
っと、それはさておき。
﹁エレナ皇女殿下が、あるいは執事殿が、オストマルクと大陸帝国
宰相セルゲイ・ロマノフが結託していると考えた理由、それを聞き
たいのです﹂
2110
ヴィクトルⅡ世
エレナ皇女によれば、事の発端は5月28日22時頃のことだと
いう。
この日付と時間を聞いて、すぐにピンと来た。
東大陸帝国内務大臣ユスポフ子爵邸で火災が起きた日時。オスト
マルク帝国情報省第四部部長ヴェルスバッハ︵某国の元中将さん︶
の指示によって行われた事件。
﹁あの火災は自然的なものであると帝国政府は発表しましたが、そ
うでないことを私は知っているんです!﹂
やや妄執に囚われたかのような物言いと表情で、皇女は必死に説
明した。
帝国内務大臣ユスポフ子爵は、公金横領や情報漏洩の罪で罰せら
れることがほぼ確定していた。皇帝官房治安維持局という帝国の秘
密警察が証拠を掴んでおり、いつでも逮捕できる状況であった。
だが逮捕しようにも逮捕できない状況があった。エレナ皇女の祖
父、即ち現皇帝イヴァンⅦ世の存在だ。
帝国宰相となったセルゲイには、大臣の任用権がない。皇帝イヴ
ァンⅦ世が思いの外頑固で長生きなものだから、新しい内務大臣に
代替わりさせることができない。
セルゲイは一応行政府の長として国政のあらゆる部分において口
出しできる立場にあるが、それでもあらゆる改革に没頭し邁進する
中で、今後仕事が激増するであろう内務大臣職を兼任することなど
2111
不可能だし効率が悪い。
だから内務大臣を殺したのだという。
内務大臣を殺せば、後任が決まらない間は自然と次官職に就いて
いる者が仕事を引き継ぐ。事実、現在内務省を取り仕切っているの
は皇太大甥派の内務次官ナザロフ子爵であるという。
ナザロフ子爵を事実上の内務大臣にするために、セルゲイはユス
ポフ子爵謀殺を決めた。
しかし別の問題がある。皇帝派貴族だ。彼らに反セルゲイの旗を
掲げる大義名分を与えることはあってはならない。国内の部局を動
かせば足が出る。
オストマルクの手によって、ユスポフ子爵を謀殺する。そうすれ
ば東大陸帝国側に証拠は残らない。
⋮⋮と言うことを、滑舌悪く、長ったらしく、そして途中から半
狂乱状態になりながら、エレナ皇女は説明した。
あまりにも支離滅裂な部分が多くて、それを翻訳するのにヘンリ
クさんも俺も手間取ってしまったが。
﹁あの男は悪魔なんです! 邪魔になる者を徹底的に排除しする、
非情な男、人間の皮をかぶった悪魔です! そして彼奴の牙は、き
っと私たちにも向けられるはずなんです!﹂
彼女は号泣した。立ち上がり、机を叩き、ヘンリクさんや俺に怒
鳴り散らしながら泣いた。今度は自分の番だ、そうに決まっている。
と。
でもその狂乱はあまり長く続かなかった。エレナ皇女の背後で、
2112
赤ん坊の泣き声が聞こえたからだ。
ヴィクトル・ロマノフⅡ世、彼女の息子の声。
近侍が泣き止むよう、必死に子供をあやす。でも泣き止んだのは
エレナ皇女の方で、俺たちに構わず子供を抱きあげた。お母さんが
悪かったから、大丈夫だから、と。
⋮⋮普通の母親と子供にしか見えなかった。
ヴィクトルⅡ世が泣き止んだ後、か細い声でエレナ皇女は言った。
﹁⋮⋮私はどうなっても良い。でも、この子だけは助けたいんです﹂
−−−
エレナ皇女ら亡命者一行への尋問を終え、客室で休ませる。その
間に、残ったシレジア側の人間で話し合った。
﹁ヘンリクさんはどう思いました? エレナ皇女殿下の仰る事を﹂
エレナ皇女の言葉は、真実味に欠ける。何ら証拠があったわけで
はなく﹁いつ自分や子供が処刑されるかわからない﹂という恐怖が、
そうさせたのだろう。
﹁俺の経験から言って⋮⋮恐らく、エレナ皇女は嘘は言っていない。
彼女はアレを真実だと思っているのだろうと思う﹂
2113
ヘンリクさんは俯き、眉間に皺を寄せて答えた。
警務官として感情を表に出すことの少ないヘンリクさんだが、こ
の時の表情が何を意味するかは容易に読み取れた。
同情している、あるいは憐れんでいる。エレナ皇女を敵国の皇族
ではなく、単なる政治亡命者と見ている。
その気持ちは、たぶんこの場にいる全員が思っていたことだろう
と思う。アレを見せられたら、ちょっとね。
﹁ユゼフさんはエレナ皇女の証言、﹃オストマルクが皇太大甥派と
手を組もうとしている﹄という言葉、どこまで真実だと思いますか
?﹂
﹁⋮⋮真偽の割合は1:9程かと﹂
無論、1の方が真だ。
﹁理由は?﹂
﹁オストマルク帝国が、現状東大陸帝国と手を結ぶ理由が思いつか
ないのです﹂
皇太大甥セルゲイの最終目的は全大陸の統一。そしてオストマル
ク帝国の目的はあくまで周辺情勢の安定化である。両者の考えは水
と油、融合しようもない。
それに、俺はユスポフ子爵邸火災事件の真相を知っている。
﹁ユスポフ子爵邸火災事件の犯人はオストマルク帝国情報省第四部
である、ということを私はフィーネさんから聞いています。もしオ
ストマルク帝国がシレジア王国を見捨て皇太大甥と手を組むことを
選んだとしたら、この事を教える必要はありません﹂
2114
教えてくれなかったら、さっきの真偽の割合は3:7くらいには
なっていたかもしれない。
﹁⋮⋮真が1である理由は?﹂
﹁それは︱︱私の想像、というより妄想の域に達していますが︱︱
オストマルク帝国全体の意思ではない可能性、つまりセルゲイに同
調する派閥がオストマルク帝国内に存在し手を組んでいる可能性で
す﹂
これはエレナ皇女の妄執から離れる、てか全然関係ないレベルの
話だ。
オストマルク帝国非主流派がオストマルク帝国主流派とシレジア
王国の関係を悪化させたいがために謀略を張り巡らせた⋮⋮と考え
たのだが、自分で言っといてなんだけど時系列がグチャグチャだし
矛盾点が多すぎる。
でも、オストマルク非主流派の存在の有無、いたとしたら何をし
て何を企んでいるのか。その辺を確かめることが必要なのではない
か。
﹁ユゼフさんの疑惑の真偽がどうであれ、この場で決めるべきはエ
レナ皇女の今後の処遇についてです。そのことについてはまた改め
てということで⋮⋮﹂
エミリア殿下はそう言って締めに入ろうとしたが、俺の思考は止
まらなかった。むしろ加速させた感じもある。
﹁殿下、エレナ皇女の亡命は受け入れられません。大公派、皇太大
甥派がどう動くかがわからない以上、亡命受け入れは相当の危険を
2115
背負うことになります﹂
と、内務省の人が述べた。確かにその通り、シレジア王国はエレ
ナ皇女を受け入れられない。純政治的に。彼はそのまま言葉を続け
る。
﹁私としましては、東大陸帝国に送還するべきかと考えます。確か
に1歳の子供を死地に追いやることになるやもしれませんが、それ
でも﹃1歳の子供を救うためにシレジア王国に住む多くの臣民を犠
牲にすべき﹄などと言うことはできませんから﹂
彼の言い分を聞いて、ヘンリクさんも首を縦に振った。治安関係
者2人の意見が揃った形となる。
エミリア殿下はそれを見て、そしてやや暗い顔をした。先ほどの
やり取りを思い出しているのだろうか。
﹁ユゼフさんも、同意見でしょうか?﹂
殿下は俺も賛同するに違いないという思い込みで、そう言ってき
た。確かに純政治的には本国送還一択だろう。皇太大甥派にわざわ
ざ大義名分を作らせてやることはない。
だけど、俺は別の意見をエミリア殿下ら表明した。クラクフスキ
公爵領民政局統計部特別参与としての俺が、そうさせたのだ。
⋮⋮また、と言っては若干変だし自分で言って傷ついた。
つまり﹁人道的にこれはどうなのだろう﹂という提案である。
2116
一家
東大陸帝国皇女エレナ・ロマノワ。
東大陸帝国帝位継承権第二位ヴィクトル・ロマノフⅡ世。
シレジア王国にとって最も好まざる来客者であったことは間違い
ない。こいつらがしてきたことと言えば、妄想に取りつかれてシレ
ジアに亡命し、流言をばら撒き俺の仕事を増やしたこと。そんな奴
らにシレジア王国への移住なんてもってのほかだ。
⋮⋮というのは半分冗談として、
﹁世の中で起きているの事の全てが何者かによる謀略だ、と考えて
しまったことに我々の敗北があるのでしょうか﹂
いつの間にか俺の隣に立っていたエミリア殿下が、遠ざかる貴族
用馬車を眺めながらそう言った。馬車は街道を南下し、東大陸帝国
でも、シレジア王国でもない場所へ行こうとしている。
﹁シレジア王国のためには仕方ないと、自分に言い聞かせてきまし
たが⋮⋮それでも間近で我々の謀略によって被害を受けた者と会う
となると、結構つらいです﹂
﹁そうですね⋮⋮でも、あるいは本当に誰かの策略だったのかもし
れませんよ。でもそれを確かめられるだけの能力が私たちにはあり
ませんが﹂
エレナ皇女とヴィクトルⅡ世の亡命申請は却下された。受け入れ
た所で百害あって一利なし。感情的には同情できるが、ただそれだ
2117
けだった。
でもまぁ有用な道具⋮⋮げふんげふん。えー、何カトテモシレジ
アノ為ニ働イテクレルッテ言ッテタノデ、彼女たちには別の仕事を
用意してある。
大陸情勢は未だ複雑怪奇。使える物は使ったほうがいい。貧乏人
の発想である。
﹁敵国とは言え皇族を政治利用するだなんて、大それたことをしま
すね﹂
﹁殿下、人聞きの悪いことを仰らないでください。私はただ新天地
を用意してあげただけですから﹂
その新天地の住人が彼女らをどう処遇するかは保障しないがね。
とりあえずクラクフを南下したら⋮⋮当然だがオストマルク帝国
がある。彼の国の人たちに、まさかこのことを伝えないわけにはい
かないか。
あと、情報省第四部の人にも釘刺しておこう。今回の事件の原因
の3割くらいがあいつらのせいだ。
⋮⋮はぁ、なんか疲れた。帰って寝たい⋮⋮けど、やらなきゃい
けないことはたくさんある。
﹁殿下。このことに関する資料は全て廃棄しましょう。公爵領にあ
るものは勿論、内務省、国家警務局、帝国領ベルス駐在所にあるも
のも全て。このことは徹底的に隠蔽し、大公派に漏らさぬようにし
ましょう﹂
2118
やってることがアレなので徹底的に証拠隠滅する。エミリア殿下
に危害を加えたくないし。関わった人間もこの秘密を墓場まで持っ
ていくよう指令する。と言っても人の口は本当に防げないから、数
ヶ月か数年経てば﹁辺境に流布している妙な噂﹂となって漂うのだ
ろうな。
﹁公式にはエレナ皇女たちはシレジア王国に来なかったことになる。
彼女たちは東大陸帝国から直接彼の国へ亡命した、と歴史書に書か
れるのですね﹂
﹁そういうことです﹂
まぁ、いつかタイムマシンが完成すると思うから、その時歴史書
は改訂されるんじゃないかな。
−−−
ヘンリクさんや内務省の人と別れ、クラクフ市街に戻ってきたの
がその日の夕方のこと。
本来であれば報告書を作るのだろうけど、公式資料には残さない
という方針だしエミリア殿下は事の次第を把握しているので口頭報
告も簡易なものでいい。オストマルク帝国には私信という形で、ク
ーデンホーフ侯爵あたりに連絡することにする。リンツ伯には﹁情
報省第四部のせいで大変だったから今度なんか奢れ﹂というような
ことを着飾った文章で送ることにするかね。
⋮⋮本来であれば、クラクフのオストマルク領事館にいるフィー
2119
ネさんに要請するのが簡単なのだろうけど、どうも彼女には今会い
たくない。感情的な意味で。
べ、別に構わないし。別に情報交換も何もせず、そして有り余る
元気でもって突撃してタマゴの殻を食わせられることもない。仕事
に集中できるからよし。
寂しくない。いや本当に全然寂しくない。はっはー、空が綺麗だ
なー。
なんて色々考えていたら、入り口から声が聞こえた。
﹁ユゼフくん、何をそんな珍妙な顔をしているんだ﹂
アイエエエエエエ!? マヤさん、マヤさんナンデ!?
﹁マヤさん、いつの間に部屋に入ってきたんですか。ていうか入る
なら一言くださいよ﹂
﹁これでもノックして一言言って入ったのだがね。君が面白い顔を
していたから気づかなかったんだろう﹂
﹁面白い顔って⋮⋮﹂
ちょっと傷つく。
﹁コホン。まぁ私のイケメン顔はさておき﹂
﹁イケメン⋮⋮?﹂
﹁あのそこで疑問持たないでください本当に辛いです﹂
だから心底不思議そうな顔をしながら首を傾げないでください。
﹁ユゼフくんに良い事を教えてあげようか?﹂
2120
﹁いや、その前になんで入って﹂
﹁教えてあげようか?﹂
﹁オシエテクダサイ﹂
この流れ、結構前にもあった気がする。つまりいつまでたっても
俺はマヤさんには勝てないということだ。とてもつらい。
﹁まぁ簡単な話だ。イケメンの定義は顔ではないよ﹂
﹁⋮⋮よく聞く話ですね﹂
﹁あぁそうだ。そして君はイケメンではない。2人の女性を同時に
泣かせることができる人間がイケメンだとは到底思えないからね﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁というわけだユゼフくん、ちょっと私に付き合いたまえ。悪いよ
うにはしないさ﹂
2121
第三応接室
拒否権はなかったように思える。いや拳をボキボキ鳴らしながら
﹁ちょっと付き合え﹂って言う人間に対して頑と拒否できる人間が
果たしてこの世にいるだろうか。いるとしてもそれは俺ではない。
俺の執務室で話すようなことじゃないから、と連れてこられたの
は第三応接室。軍事査閲官エミリア殿下の執務室の隣にある応接室
ではなく、ちょっと外れた所にある秘境みたいな部屋だ。普段あま
り使っていないためちょっと寂れてる感がある。
まぁでもそこは天下のクラクフスキ公爵領総督府。第三応接室の
ソファもちゃんとした素材のものだった。
下座に俺、上座にマヤさんが座る。
果たしてどんなことを言われるのか。いやどんな説教をされるの
か、と言ったところかな。割と酷い事をしているというのは自覚が
ある。
﹁本題に入る前に、いくつか質問いいかい?﹂
﹁なんです?﹂
﹁私の⋮⋮じゃないな、我が公爵家の別邸を貸してくれ、と言って
いたのはなんだったんだい? 機密だなんだと言っていたが、そろ
そろ貸主である私に何かあっても良いんじゃないかと思うんだ﹂
あー。
うん。まぁいいだろう。結局あれはただの人騒がせだとわかった
のだ。機密解除とは言わないが、マヤさんには話しても構わないは
2122
ず。ダメだったら後でエミリア殿下に謝っておこう。
というわけでカクカクシカジカ。事の次第をマヤさんに話した。
﹁⋮⋮私の知らないところで重大事件が起きて、かつ変な解決方法
を見出すのが君の得意分野なようだね?﹂
﹁褒めてるんですかそれ﹂
﹁半分な﹂
やや呆れた口調で肩を竦めながら、マヤさんはそう俺を評価した。
﹁軍略や謀略という類ならそれでもいいだろう。ただ人の気持ちと
いうのはそこまで屈折してはいないのさ。実際に屈折している人間
は相当な変人か、あるいは目が悪いだけだ﹂
﹁⋮⋮マヤさんにしては遠回しな言い方ですね﹂
﹁君はそう言うのは好きだろ?﹂
﹁時と状況によりますかね。今結構疲れてるんで、色々と﹂
本来ならばさっさと仕事終わらせて家に帰って寝る予定だったの
だ。今相当疲れてる。それに精神的にも、だ。
﹁なるほど。まぁ人騒がせな亡命一家のことは君のせいではないだ
ろうが、まだ原因はあるだろう? まさか君程の人間が、たかが敵
国の皇族が亡命してきたことくらいで疲れるわけなかろうに﹂
俺をどんだけ変人だと思ってるんだろマヤさん。いや確かに他に
も理由はあるけど⋮⋮。
どうにも言い返せないでいると、マヤさんはまた﹁やれやれ﹂と
言った風で肩を竦めた。出来の悪い人間でごめんなさいね?
2123
﹁やはり使わざるを得ないか⋮⋮﹂
え? なに? 今なんて言った?
黙っている俺に対して﹁使わざるを得ない﹂ってなにやら悪い予
感しかしない。真実告白剤? それとも拷問? やだ、まだ死にた
くない!
と思ったらマヤさんはどこから持ち出したのかは知らないが、瓶
ウォッカ
を取り出してきた。
シレジア蒸留酒、アルコール度数40を超える強い酒の瓶である。
﹁⋮⋮まさかマヤさん、酒で俺を吐かせようってわけじゃないです
よね?﹂
﹁君が、真実と胃の中のもの、どちらから先に吐くか私は大変興味
があるんでね﹂
なんと趣味の悪い⋮⋮。
マヤさんは高そうなグラスに、蒸留酒を入れ、そして俺の手元に
差し出した。
﹁さ、どうぞ﹂
﹁いや﹃どうぞ﹄じゃないです﹂
ウォッカ
酒があまり飲めない俺としては蒸留酒はハードルが高いレベルの
話じゃない。素っ裸でエベレストを登頂しろと言っているようなも
のだ。
﹁古来より、﹃酒は人類の友﹄と言う。そして友は他人の悩み事に
耳を傾ける。君も少しは友、もとい酒の力に頼った方が良い﹂
﹁⋮⋮私にも友を選ぶ権利はありますよ﹂
2124
﹁馬が合わないのかな?﹂
﹁そんなもんです﹂
﹁⋮⋮そうか、なら無理強いはしないよ。だから君にはこっちを上
げよう﹂
リキュール
そう言ってマヤさんが取り出したるは、また酒だった。ただし限
界まで度数を下げた果実混成酒で、酒に弱い俺でも飲める奴だ。っ
て、最初からこれ出せばよかったんじゃ。もしかしてその蒸留酒は
マヤさんが飲むためのものなの?
マヤさんは、俺に差し出した蒸留酒をストレートで一気飲みする
と、空いたグラスに果実混成酒を入れて俺に差し出してきた。いわ
ゆる間接キスだ。俺はそういうの気にしないけど。
﹁ま、とりあえず飲みたまえ﹂
﹁⋮⋮いただきます﹂
飲むと、アルコールの味はそんなにしなかった。酒と言うよりは
酒風味で、本当に限界まで度数を下げている。
その後しばらくは、マヤさんと黙って酒を飲むだけで時間が過ぎ
ていく。俺はちびちびと、マヤさんは割と豪快に。でもまぁ飲んで
いけば自覚せざるを得ない程には酔いが回ってくる。そこに至って、
やっとマヤさんが口を開いた。
﹁さて、あまり時間もないし、本題に入るか﹂
﹁時間?﹂
﹁あぁ、客人が待っているからね。まだ余裕があるが、あまり長す
ぎると怒られる﹂
2125
いやその前に客人に会うのに何グビグビ酒飲んでるんですか。マ
ヤさんのことだから大丈夫だという判断なのだろう。なにが大丈夫
なのかわからんが。
﹁本題というのは紛れもない。あの2人に対する君の気持ちさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なんのことだかわかりませぬ﹂
﹁隠さなくていいさ。君とサラ殿とフィーネ殿がクラクフ商業区で
一悶着していたのは知っている。ここをどこだと思っている? 私
の父の領地だぞ?﹂
﹁もうマヤさんが特別参与になればいいと思います⋮⋮﹂
クラクフを牛耳る人物を父に持つ巨乳で美女な士官マヤ・クラク
フスカの諜報記録とか絶対人気出ると思う。書籍化決定やな。
﹁遠慮しとくよ。今回の場合はたまたまだからな﹂
本当にたまたまなら良いけど。
﹁さて、と。話を戻すと君が2人をどう思っているかについて、だ﹂
﹁⋮⋮いい親友だと思っています﹂
﹁それだけか?﹂
﹁戦友とも思っています﹂
嘘じゃない。これは本心だ。
サラさんもフィーネさんも、掛け替えのない友人であることは間
違いないし、失いたくはない人間だと思ってる。
﹁やれやれ。私にはそう見えないのだがね﹂
﹁そう言われても、事実ですし﹂
﹁そうなのかな? ではなぜそのことを2人には言わないんだい?
2126
﹃俺は君のことを恋愛感情で見ていない。でもいい親友だと思っ
ている﹄、これで済む話だと思わないか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
まぁ、その、うん、それはそうなんだけど。
﹁君は何に遠慮しているんだろうね? それとも怖いのかな?﹂
﹁怖い?﹂
﹁あぁ、私の直感だが、君は怖いんだと思うよ?﹂
﹁何が怖いって言うんですか﹂
﹁簡単さ。﹃どちらかを選べば、もう一方の人間に対する関係がす
べて失われるんじゃないか﹄と思っているんだ。自覚していなくて
も、心の中ではね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
⋮⋮そこから先の言葉は出てこなかった。
そういう気持ちはない、と強く言えるだけの度量がないのもそう
だが、概ね事実に即しているからというのが主な理由だ。
﹁どちらかを失うのが嫌だから、どちらに対しても返答を濁してな
るようになる。と言ったところかな。どちらも選ばずに2人の気持
ちが冷めるのを待って、元の鞘に戻れば良し、とね﹂
マヤさんはグラスをやや強くテーブルに叩き置いて、何杯目かわ
からない蒸留酒を注ぎながら﹁だが﹂と続ける。
﹁こんな言葉がある。﹃抜かれた剣は血塗られずして元の鞘に納ま
るものではない﹄と。君が何をしようにもまず、2人の方から状況
を変えてきたのだ。何かしらの結果が得られない限り、この剣が鞘
に戻ることはない。あるいは本当に、血に塗れるかもしれない﹂
2127
﹁⋮⋮えらく詩的ですね。文芸家に転職すればいいんじゃないです
か?﹂
﹁茶化すな。真面目な話をしているんだ﹂
ごめんなさい。
﹁サラ殿とフィーネ殿は剣を抜いた。現実に即した言い方をすれば
﹃2人は君に思いを伝えた﹄ということ。剣の対象である君は、そ
れに対して何かしらの結果を生み出す義務と責任がある﹂
﹁義務と責任ですか﹂
﹁あぁそうだ。別にやらなくていい類の義務と責任だが、放置した
場合は現状剣を抜いている人間が戦い始めるかもしれない⋮⋮いや、
既に戦っているのだろうな。その第一幕が、件の商業区の諍いさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁少し前に私が助言したのを少し後悔しているよ。アレのせいで状
況がややこしくなったんじゃないか、とね。だからこうして今、お
せっかいを焼いている﹂
それはアレだろうか。﹁どっちも選ぶことは女にとって悪夢だか
らやめろ﹂と言う話だろうか。でもあれは俺は賛成の立場だ。どっ
ちも選ぶなんて、要はただの浮気じゃないか。
﹁ユゼフくん。難しい話はここではしないことにしよう。男の夢だ
とか女の悪夢だとか、誠実がどうの不誠実がなんだという話をして
ばっかじゃちっとも前に進まないだろう﹂
﹁いやでも、そこはやっぱり一線を画すべきじゃないですか? い
くらなんでも⋮⋮﹂
﹁この前と言ってることが違うぞ。﹃両手に花は男の夢﹄とか言っ
ていたくせに﹂
2128
いやそれはそうだけど、一般論であって実行するとは言ってない
し。
﹁そういう理論は今は良いのさ。先程の亡命一家の件もそうだが、
世の中すべて理屈と理論で成り立っているわけじゃない。時には感
情でのみ話さなければならないときもある﹂
﹁⋮⋮いや、でも、あの﹂
だからと言って大事な部分を突き抜けちゃまずいんじゃないかっ
て本当に思うの。でもそのことを言う前にマヤさんは手でそれをや
や強引に制した。
﹁反論はいいから、君の率直な気持ちが聞きたいんだよ。ユゼフく
んは誤解しているようだが、この問題の前提は﹃両手に花は不誠実﹄
という話ではない。﹃ユゼフ・ワレサの本当の気持ち﹄さ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁言ってみろ。この場にはユゼフくんと私しかいない。言いにくい
のなら、酒の力でも借りればいいさ﹂
ウォッカ
そう言って、マヤさんは自身のグラスに入れた飲みかけの蒸留酒
を差し出してきた。
⋮⋮確かに感情は重要かもしれないけど、でもこれを言ったら俺
絶対嫌われると思う。恋仲どころか友人関係も終わってしまいそう
だ。
でも、目の前にいる女性士官はそれじゃ納得しないんだろうな。
俺が本音を言うまで酒を飲ませるのをやめないつもりだ。それこそ
俺がゲロか真実を吐くまで。
ええい、ままよ。もうどうにでもなれ。
2129
﹁マヤさん、ひとつ条件いいですか﹂
﹁なんだい?﹂
﹁⋮⋮このことについて、外に漏らしちゃダメですよ? 国家機密
ウォッカ
ですよ? サラの相談みたいにホイホイ言っちゃダメですよ?﹂
﹁エミリア殿下とこの蒸留酒に誓って、言わないと宣言しよう﹂
マヤさんは酒瓶を持ちあげながら、かすかに微笑みながらそう言
った。
⋮⋮まぁ、どこまで信用できるかはわからないが言質は取れた。
さっさと終わらせよう。それにゲロを吐くのも嫌だ。
ウォッカ
そう決意して、俺はマヤさんに差し出された蒸留酒の入ったグラ
スを豪快に呷った。
2130
第三応接室︵後書き︶
300話達成です。
2131
ユゼフの初恋事情
ウォッカ
さすがに蒸留酒一気飲みはダメだった。胸が熱くなるわ何やらで
考える暇も本音を言う暇もない。こんなものを毎度毎度グビグビ飲
めるマヤさんはいったいどんな肝臓を持っているのだろうか。
胸の熱が収まりかけた頃、蒸留酒のアルコールが全身を巡る感覚
が自分でもわかった。たぶんこのままだと10分程で倒れるかもし
れない。それはそれでありかも。
﹁さてユゼフくん。君がぶっ倒れる前に本音を聞こうか?﹂
全然ありじゃなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮じゃあ、まぁ、正直に言いますよ?﹂
﹁嘘は求めていない。さっさと言え﹂
マヤさんはイライラを募らせているのか、そして興味があるのか
前屈みになって聞いてきた。そんな姿勢を取られると少し話しにく
い⋮⋮。でもそこで本当に話さなかったら首を絞められかねない。
﹁コホン。えーっと⋮⋮ですね、2人をどう思ってるかですよね?﹂
﹁そうだ﹂
⋮⋮。
いや意を決したんだ。言え、言うんだ! マヤさんは誰にも話さ
ないって言ったじゃないか! よし、言うぞ!
2132
﹁⋮⋮⋮⋮恋、ってなんです?﹂
マヤさんがずっこけた。ギャグ漫画みたいに。
﹁全く、君って奴は⋮⋮﹂
目頭を押さえながらそう呟くマヤさん。
﹁ごめんなさい。でもこれが本音なんです。サラとフィーネさんの
ことは嫌いじゃないし、むしろ好感を持っていうのは事実なんです。
でもこれが、サラとフィーネさんが自分に抱いている者を等価値で
あるかわからなくて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮君は案外乙女だな﹂
誰がオカマだ。
﹁って、なんで俺が乙女なんですか。俺ほど男気溢れた人はいない
でしょう﹂
﹁寝言は墓の下で言え。⋮⋮男の方が恋愛感情を悩まないと思って
いたのだがなぁ﹂
﹁むしろマヤさんの方が男らし⋮⋮あ、いえごめんなさいなんでも
ないです﹂
そうか、俺は乙女だったのか。ユゼフちゃんって呼んでもいいの
よ? うふ。
⋮⋮おえっ。
﹁とまぁ、これが私の本音なんで帰っても﹂
﹁ダメだ﹂
2133
ですよね。
﹁君に質問がある。正直に答えたまえ﹂
﹁正直に答えなかったら?﹂
﹁葬式は盛大にやった方がいいかね?﹂
﹁正直に答えます!﹂
マヤさんってばなんで俺に対してはこう圧力をかけてきているの
だろうか。わからん。
﹁ラデック殿⋮⋮あるいは私でもいい。それらに対して感じている
気持ちと、サラ殿やフィーネ殿に感じている感情は同じか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っと、それは﹂
⋮⋮同じか、と言われてもなんというか、困る。
タク
同じではない。ラデックに対して思う感情とマヤさんに対して思
う感情は同一のものか、と問われれば答えは﹁肯定﹂だけど。
﹁結論は出たな。つまりはそう言うことだ﹂
﹁え、いや、でも⋮⋮違うってだけで別に⋮⋮﹂
﹁その違う感情が、所謂恋愛感情なのだと思うよ。今はまだハッキ
リしていないだけで、意識し出すとそうではなくなる﹂
経験上な、と彼女は続けた。マヤさんの経験がどんなんだったの
か些か気になるところではある。
いやでも俺がサラやフィーネさんに恋愛感情を持っているなんて
どうにもしっくりこな⋮⋮あ、でもなんか恥ずかしくなってきた。
﹁ユゼフくん、顔が赤いぞ﹂
﹁な、なんでもないです! ちょっと変な事考えてただけなんで!﹂
2134
落ち着け落ち着け、ここで赤くなったらマヤさんの思う壺。KO
OLになれ俺。
﹁第一ですよ、仮に俺が2人の事を好きだったとしてもですよ﹂
﹁﹃仮に﹄と前置きして恋愛語る奴はだいたいもう恋に落ちている
と思うぞ?﹂
﹁⋮⋮そんなことより! 2人の事好きだとしてもマヤさん承知し
ないでしょう!?﹂
﹁まぁな﹂
ほれみろ! マヤさんは両手に花は女の悪夢って言ってたし!
2人の女性を同時に好きになるなんて不誠実極まる。うん。いや
俺は別に好きじゃないけど。べ、べつに2人のことなんて全然全く
本当に気にしてなんかないんだからね!
﹁だが君の持っている感情と言うのは不誠実云々の理性を前にして
も変わらないさ。感情を理性で無理矢理押さえつけのは相当難しい。
ならいっそ理性を捨てて一度感情的になりたまえ。その方が鬱憤晴
れて楽になる﹂
﹁⋮⋮え、いやでも私は﹂
﹁頑固だな⋮⋮﹂
いやそうは言っても。
﹁いいか? 君がいつまでも結論を出さないと不幸になるのはあの
2人だぞ?﹂
﹁⋮⋮別に私を捨てて他の人と幸せになってくれればいいです﹂
﹁そうなると確実に君は2人と永遠の別れることになる。それは君
は嫌だろう﹂
2135
﹁⋮⋮﹂
﹁だが君が、あの2人に﹃恋愛感情全く抱いていない﹄と言うかど
ちらか、あるいは両方に﹃好きだ﹄と言えばいい。言っておくが、
2人対して結論を出さないのは、2人対して﹃好きだ﹄と述べる以
上の不誠実さだ。死んだ方が良い﹂
⋮⋮そこまで言うか。
あぁ、でもなんとなくわかってきたかもしれない。今更かもしれ
ないが、ユゼフ・ワレサと言う人間を他人に置き換えたら殺意が湧
いてきた。
うん、確かにこんなキャラの主人公のラノベあったら全力で燃や
してるかも。
じゃあ俺の結論はなんだろう。
2人対して抱いている感情は確かに友情ではない。ラデックもマ
ヤさんも大切な親友だと思う、エミリア殿下は理想の主君だと思う。
そしてサラとフィーネさんに抱いているのはまた別個のものだ。
それは、まぁ、そういうことなんだろうけど。
でも、でもなぁ⋮⋮。
﹁い、言えない⋮⋮﹂
﹁なんだ? また顔が赤いぞ。そろそろ自覚はしたのかな? ずい
ぶん遅かったじゃないか﹂
﹁他人事みたいに言わないでくださいよ! 誰のせいですか!﹂
﹁1から100まで君のせいだ﹂
マヤさんはもう呆れているというか飽きている感じの表情だ。も
う早く結論出せと顔が言って言る。
2136
﹁君が結論を言わないとみんな帰れないだろ。何でもいいから結論
を出したまえ。この応接室で人生を終えるのは私は嫌だ﹂
﹁⋮⋮言わなきゃダメですか?﹂
﹁ダメだ﹂
⋮⋮⋮⋮あぁ、もう、どうにでもなれ。なるようになれ。マヤさ
ん外に出さないって言ったんだから問題ないよね!
﹁⋮⋮⋮⋮マヤさん﹂
﹁なんだ? 結論は出たか?﹂
﹁はい。えーっとですね。たぶん私は⋮⋮﹂
そこで一度言葉を止める。ちょっと緊張してきた。深呼吸、深呼
吸⋮⋮ひっ、ひっ、ふぅ。
⋮⋮よし。
﹁たぶん、私は不誠実ながら2人のことを好きになってしまったよ
うで⋮⋮その﹂
﹁ふむ、そうか。⋮⋮しかし私は記憶力が悪くてね。2人って誰の
事だ?﹂
マヤさんがニヤニヤしてた。この期に及んで人の気持ちを弄ぶと
か悪魔か!
﹁その、⋮⋮のことが好きなんです﹂
﹁あぁ? 声が小さいなぁ?﹂
なにこの羞恥プレイ。もうだめ死にそう。でも言わないと帰れな
い。
2137
﹁だから、私はサラとフィーネさんのことが好きなんです!!﹂
恥ずかしさのあまり、クラクフ市街にも聞こえてしまうんじゃな
いかってくらいの大声でそう叫んでしまった。そのことが更に恥ず
かしさを増長させるが、応接室はどこも遮音性が高いし部屋にはマ
ヤさんしかいないし問題ない⋮⋮。けど恥ずかしい!
﹁そうかそうか。⋮⋮だ、そうだよ、お2人さん?﹂
﹁えっ?﹂
お2人さん? ナニイッテルノ? ここには2人しかいな⋮⋮。
と思った瞬間、マヤさんの座っているソファの後ろから見覚えの
ある人間がひょっこり出てきた。ただし鼻から下はソファの陰に隠
れたまま。
1人は、燃えるような赤い髪を持っている人物。
﹁ゆ、ユゼフを落とすつもりが逆にこっちが落とされたみたいね⋮
⋮ちょっと悔しいわ﹂
もう1人は、雪のような銀の髪を持っている人物。
﹁少佐はいつもいつも私の想像外のことを言うのですね。やられま
した﹂
⋮⋮⋮⋮。
うん。
その、
2138
まぁ、
なんだ。
﹁ま、マヤさん﹂
﹁なんだい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮嵌めやがったな!?﹂
ソファの後ろに居たのは、間違いなくサラとフィーネさんだった。
2139
ユゼフの初恋事情︵後書き︶
Q.最近恋愛の話多すぎ
A.この章が終わったら暫く戦争メインの章がたぶん2∼3章続き
ます。この章はその戦争を起こすための伏線を張る章なのでもうち
ょっとお待ちください。
2140
狂想曲
﹁難攻不落の要塞に対して正面から攻撃するは愚者のすることなり、
と誰かが教えてくれたのでね。それを私なりに実行しただけさ。効
果はあったようだな﹂
﹁いや、だってマヤさんこの場には2人しかいないって⋮⋮!﹂
﹁この場=この部屋という意味じゃないからな﹂
卑怯というか屁理屈すぎる! てか、サラとかフィーネさんがい
る部屋で俺エレナ皇女一家の亡命事件のこと喋っちゃったじゃん!
機密解除まだされてないんだよ!?
⋮⋮まぁフィーネさんにはどうせ知られる話だし、サラには後で
釘刺しとけば何とかなるでしょ。なるよね?
﹁じゃ、そういうことで私は帰る。あとは若い奴だけで任せる﹂
投げっぱなし!?
﹁ちょ、ちょっと、待ってくださいって! この変な空気どうすれ
ばいいんですか!?﹂
﹁そこまで面倒見なければならない義理は私にはないよ。せいぜい
参謀らしく考えたまえ。じゃあな﹂
と、そう言ってマヤさんは無情にも第三応接室から退室し⋮⋮と
思ったら、再びドアを開けて顔だけ覗かせてきた。
﹁あ、と。ひとつ言い忘れてた﹂
﹁なんです?﹂
2141
﹁若気の至りで子作りはやめてくれよ。一応ここは総督府だからな﹂
﹁何言ってるんですか!﹂
マヤさんがオヤジ臭くなってる。
彼女はくつくつと笑いながら、その後は何も言わずにパタリと扉
を閉めた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
微妙な空気に包まれたまま俺、サラ、フィーネさんは無言を貫く。
いやその前にいつまでサラとフィーネさんはソファの後ろに隠れて
るんだろうか。
﹁あー⋮⋮とりあえず、お2人さん。そのままだと話辛いし⋮⋮ね
?﹂
ソファに掛けたらどうだと勧めてみるも、なぜか2人は目だけを
出す格好をやめない。
﹁そういたいのは山々なんだけど⋮⋮ちょっと今顔出したら恥ずか
しいっていうかなんというかで⋮⋮﹂
﹁右に同じく﹂
いつまでもそういう格好になってるのが一番気まずいんだけどな
ぁ⋮⋮。
2142
−−−
﹁終わりましたか?﹂
第三応接室の外で、結果を待っていたエミリアはマヤにそう聞い
た。
﹁えぇ。無事⋮⋮かどうかは当人たちの努力次第ですが、一応の結
論は出ました。後はなるようになるでしょう﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
エミリアはマヤと目を合さず、顔を俯かせながら彼女の報告を聞
いていた。感情を読まれないように必死に努力しているようにも見
えるが、その行動こそエミリアの心理を突くものではないか。マヤ
にはそう思えた。
﹁殿下。あえて申し上げますが⋮⋮、私が真に正直に物を言うべき
なのはエミリア殿下なのではないか、そう思うのですよ﹂
﹁⋮⋮﹃真実﹄などと言うものは、どんな時でも一番の輝きを保っ
ているというものではないのです。時にそれはどす黒くて、隠さな
ければならないこともある。そうは思いませんか?﹂
﹁殿下がそれで満足するのであれば、私としてはそれ以上の追及は
しません。⋮⋮ですが、それで本当によろしいのですか?﹂
マヤがこの話題をエミリアに尋ねるのはもう何度目の事だったか、
当の本人たちは忘れていたが、結論はいつも決まって同じである。
﹁いいんですよ。私と彼は別世界の人間で⋮⋮私には私のするべき
2143
ことがあるのです﹂
エミリアはそう言い残して、第三応接室とマヤから離れる。
第三応接室の中からは先程とは違う喧騒が、でも少しだけ幸せそ
うな、そんな声が漏れ聞こえていた。そんなちょっとした声が、今
のエミリアには耐えられなかったのかもしれない。
自分が結婚するまでは、まだ時間はある。何時のことになるのか
わからないけど、今よりもっと国内・国外の情勢が安定したらそう
なるのはわかりきっていること。
だけど少しだけ我が儘を言えば、もうしばらく、この素敵な友人
たちと一緒にいたいのだ。
そう考えながら、エミリアは自らに与えられた地位職責を全うす
べく、自身の執務室の戸を開けた。
−−−
﹁ね、ねぇユゼフ﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁私、ね、今月誕生日なんだけど⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮7月25日だっけ?﹂
﹁な、なんで知ってるの!﹂
﹁なんで知らないと思ったの?﹂
﹁少佐、友人と言えど普通は他人の誕生日は知らないものですよ?﹂
2144
﹁そんなこと言ってフィーネさん私の誕生日知ってたじゃないです
か﹂
﹁好きな男性の誕生日くらい知ってて当然です﹂
﹁⋮⋮あ、うん。まぁ私もフィーネさんの誕生日知ってるけど﹂
﹁ちょっとユゼフ! 今は私が話してるの!﹂
﹁はいはい。で、もうすぐ19歳になるサラがどうしたの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮えーっと、ね。ユゼフって誕生日のプレゼントにフィー
ネから⋮⋮その、されたじゃない﹂
﹁あー、うん、まぁ、そうだね﹂
﹁だから、その、私にも同じことしてほしいかな⋮⋮って、その⋮
⋮﹂
﹁うん、サラさん。落ち着こう。そんな恥ずかしい事ホイホイ言っ
て⋮⋮﹂
﹁わ、私とはしたくないってわけ!?﹂
﹁いやそういうわけじゃなくてむしろ⋮⋮っていやいやいやいや﹂
﹁だ、だから今⋮⋮してほしいのよ!﹂
﹁いや待って今日はまだ7月14日⋮⋮!﹂
﹁いいから、後々だとちょっと恥ずかしいから!﹂
﹁少佐、いつまでも女性を待たせるのはダメですよ﹂
﹁あーうー⋮⋮いやだからと言ってフィーネさんの目の前で﹂
﹁あんただって私の目の前でしたじゃない! ちょっと来なさい!﹂
﹁あ、ちょっと待ってなんで胸倉掴んで︱︱︱︱﹂
−−−
2145
狂想曲︵後書き︶
というわけで﹃クラクフ狂想曲﹄終了です。
﹁恋愛パートが長い﹂とさんざん言われましたがそう言えば去年の
9月から戦争やってなかったね。ごめんなさい。
でも次からはガチで戦争する予定です。戦記だもんね。
私の脳内プロットでは次の章は戦争、その次の章も戦争、そしてた
ぶん次の章も戦争です。
どうぞよろしくお願いします。
そしてこの度、大陸英雄戦記が小説家になろう年間戦記ランキング
第1位を獲得しました。
今後ともポンコツユゼフくんとその仲間たちをよろしくお願いしま
す。
2146
場違いな客人
大陸暦638年7月25日。
キリス第二帝国西部、オストマルク帝国との国境地帯にある城塞
都市ハドリアノポリスはその日、気温が30度を超える猛暑の日だ
った。市民は服を脱ぎ捨て、都市近郊を流れるマリツァ川で水浴を
楽しんでいた。
そんな水浴を楽しむ半裸の市民の1人である男が、国境を超えて
やってくるある一団を目にした。
国境地帯と言うこともあって交易商人である可能性を彼は考慮し
たが、ここ数日キリスとオストマルクは些か緊張関係にあってそう
いう者達はめっきり少なくなっていたことも思い出した。久しぶり
にやってくる交易商人がいったい何の商品を運んできたのか彼の興
味は尽きなかったが、彼が望んでいる商品を運んでいない事を、そ
のすぐ後に気付くことになる。
ハドリアノポリス城門に近づくその一団は、彼が良く知っている
商人とは違う、全く異質のものだった。
商人にしては豪奢な馬車。
商人にしては小ぶりな荷馬車。
商人にしては贅沢な護衛。
商人にしては華美な装飾。
そして酷暑のキリスに似合わない、厚い服装。
2147
全ての視覚的情報が、商人ではないことを断言していた。
一団はハドリアノポリス城門に到着し、そこにいた衛兵に何者か
と問われる。
豪奢な馬車に乗っていた婦人は旅慣れていないのか疲労感を顕わ
にしつつ、しかし毅然と、かつハッキリと衛兵の質問に答えた。
﹁私は大陸帝国皇女、エレナ・ロマノワ。キリス第二帝国への亡命
を希望する者です﹂
このハドリアノポリスにやってきたロマノフ皇帝家の一団が、キ
リス第二帝国を大きく揺るがし、多くの者の運命を左右させるに至
ったのは必定と言えた。
亡命者の情報はあらゆる手段で以って直ちに帝都キリスへもたら
され、そこに住まうこの国の最高権力者にある決断をさせたのであ
る。
その決断がもたらす影響は、キリス第二帝国内に留まらなかった。
−−−
俺の情けないいざこざから2週間程経った7月28日。今日もク
ラクフは晴天なり。
2148
この2週間の2人との仲は⋮⋮うん、まぁ、色々あったね。
具体的に何があったとかは聞かないでほしい。恥ずかしいから。
とりあえず色々あったんだよ。
さて、特別参与としての俺の仕事の方は順調である。順調に仕事
が増えてる。当然、俺の下にやってくる書類の量は膨大で、しかも
機密に関わるようなものばっかりだから他人に任せることもできず
四苦八苦。
たまの休みを取っても色々あってとっても疲れる。
休みを﹁取っても﹂色々あって﹁とっても﹂疲れる。
HAHAHAHAHAHAごめんなさい。
とりあえずこの2週間で手に入った情報というのを簡単にまとめ
よう。
まず、東大陸帝国の国内改革は極めて順調。反対派貴族の権勢も
日を追うごとに弱体化し、それに反比例するように国民生活は向上
しているらしい。今までが今までだっただけに、皇太大甥セルゲイ
に対する好感度はうなぎ上りである。
それと、帝国内の綱紀粛正の波と監視の目がきつくなり始めたた
め、段階的に例の貴族捕虜たちを開放し始めている。一気に解放す
ると足がつきそうなので不定期に、かつ徐々にだ。
シレジア王国の事情はあまり変わっていない。
カロル大公派の動きは大人しく、エミリア王女派も勢力を拡大で
きていない。国内情勢は膠着状態だ。
カールスバート復古王国、リヴォニア貴族連合については変わり
なし。
2149
そしてオストマルク帝国については⋮⋮、
﹁ユゼフ少佐、よろしいですか?﹂
執務室のドアの向こう側から、聞き慣れた女性の声がした。
﹁どうぞ﹂
﹁失礼します﹂
と、入室してきたのはフィーネさん。とりあえず従卒のサヴィツ
キくんに紅茶を淹れてもらい、そして彼女を対面に座らせることに
した。フィーネさんの腕の中には分厚い束の書類がいくつもあるし、
多分長話になりそうだ。⋮⋮なんだか書類を見ただけで目が痛くな
る。
﹁⋮⋮どうしました?﹂
﹁なんでもないです。ちょっと疲れただけで﹂
なんで仕事というものはやる前から疲労するのだろうか。
﹁少しは肩の力を抜いた方が良いですよ。なんなら私がお手伝いし
ましょうか?﹂
﹁あ、いえ大丈夫です。さすがにこの程度の仕事は自分でやらない
と、情けなくて仕方ないですからね﹂
2人の女性の事を同時に好きになってしまいあまつさえそれを伝
えてしまったあげくに仕事を女性に任せるというのは流石にまずい。
そこまで外道になるほど俺は厚顔無恥ではない。
2150
﹁あ、そういえばフィーネさん。昇進おめでとうございます﹂
﹁⋮⋮耳が早いですね。ありがとうございます﹂
フィーネさんは昨日27日に、帝国軍中尉に昇進した。情報省第
一部シレジア王国担当情報武官という役職は変わっていないが、い
ずれにしてもめでたい事である。
﹁何か祝い品でも贈りますかね﹂
情報面で色々お世話になっているしそのお礼を兼ねて⋮⋮という
つもりで言ったのだが、フィーネさんはというと
﹁ではお祝いの会を我が伯爵邸で行いましょう。ついでに父に挨拶
して⋮⋮﹂
﹁あー、それはちょっと﹂
フィーネさんんことは好きだがリンツ伯のことは、その、うん、
怖い。暫くエスターブルクには行きたくはないのだ。それに結婚云
々についても色々問題が⋮⋮。
﹁どうして少佐はそんなに父のことを敬遠するんでしょうか。そん
なに婚約の挨拶したくないんですか?﹂
﹁そもそも婚約はしていませんよ﹂
﹁恋仲にはあります﹂
﹁⋮⋮この状態でも恋仲って言うんですかね﹂
現状、俺はサラとフィーネさんのことが両方とも好きである。お
恥ずかしながら。そんな情けない俺に対して彼女たちは達観してい
るのか諦めているのか、その状況に甘んじてくれている。
なのだけど、この状況は果たして付き合っている状態なのかはよ
2151
くわからない。付き合っているというよりは好き合っている状態。
そんな中﹁俺はサラとフィーネさんと恋仲にある﹂と断言してしま
うのは些か語弊があるし第一自分の事なのに自分を殺したくなるく
らい不誠実なことなのではと考えてしまうのだ。
﹁私は恋仲にあると思っています。あとはユゼフ少佐が婚約を呑ん
でくれれば﹂
﹁⋮⋮婚約を呑まなければ?﹂
﹁呑まなくても私は少佐のことが好きですよ﹂
⋮⋮⋮⋮。うん、何度聞いても恥ずかしくなる。
恥ずかしげもなくそう言えるフィーネさんに対し俺と言えば、
﹁ま、まぁ、それは私も、なんですが⋮⋮﹂
彼女の目を見て言うことはできないと情けないことになっている。
いや本当にこんな俺でごめんなさい。
﹁ふふ、少佐も正直になりましたね﹂
クスクスと、彼女は笑った。ダメだ、このままこの話を続けると
恥ずかしさで死んでしまう。
﹁しかし少佐。父に会うかどうかはともかく、エスターブルクに行
くことは既に決定事項と言ってもいいですよ?﹂
﹁⋮⋮なんでです?﹂
俺がそう聞くと、彼女の顔が一変して真面目なものとなった。い
やいつも生真面目な表情をしているフィーネさんなので些細な差で
はあるのだが、慣れると結構見分けはつく。
2152
﹁少佐が我が国に押し付けた一家が、キリス第二帝国に亡命しまし
た﹂
フィーネさんは持っていた資料を俺に見せながら説明を始める。
一家、というの東大陸帝国皇女エレナとその子供ヴィクトルⅡ世の
事。それが俺の計画通り、キリス第二帝国へ亡命した。7月25日
時点で、彼女らは国境の城塞都市ハドリアノポリスにいるらしい。
﹁そうですか⋮⋮。まぁ後はキリスの決断次第ですが⋮⋮オストマ
ルクとキリスが緊張関係にある中、オストマルクから亡命してきた
東大陸帝国の皇族。バシレイオス・アナトリコンⅣ世はさぞ混乱し
ている事でしょうね﹂
傍から見ればなんのことだかさっぱりわからない状況である。情
報収集能力の低いキリス第二帝国なら、なおさらである。
﹁まったく、少佐の考えることはいつも悪辣です。我が国に面倒な
ことを押し付けて⋮⋮﹂
﹁それはお互い様ですよ。それに我が国とキリスは国境を接してい
ませんので﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
フィーネさんの溜め息は、それはそれは深く大きなものだった。
2153
場違いな客人︵後書き︶
というわけで新章﹁砂漠の嵐﹂スタートです。
あ、湾岸戦争じゃないですよ。念のため
それと活動報告にも載せましたが、大陸英雄戦記の序盤、書籍版第
1巻に相当する第1話から第46話までをちょっとずつ書籍版に合
わせて改稿します︵現在﹃シレジア=カールスバート戦争﹄編まで
改稿済みです︶。
書籍版、WEB版ともども﹃大陸英雄戦記﹄をよろしくお願いしま
す。
2154
選択
いつものようにフィーネさんとの情報交換をし、それが終わるこ
ろには17時を回っていた。丁度腹が減る時間であり、さてどこで
何を食おうかと思案していると、
﹁少佐、夕食の御予定はありますか?﹂
﹁⋮⋮えー、あー﹂
フィーネさんと会ってから何度も聞いたセリフを言われたのであ
る。
拒否する合理的な理由はないのは確かであるが、どうにも乗り気
じゃなかった。いや、だってフィーネさんがこの言葉を言う度に何
故か知らないが厄介事が舞い込んでくると相場が決まっているのだ。
ほら、なんか執務室の扉の向こうからバタバタと足音が聞こえ︱︱
﹁ユゼフ! ごはんするわよ!﹂
壊れるんじゃないかという勢いでドアが開け放たれ、鼓膜が破れ
るんじゃないかってくらいの大声で彼女はそう叫んだ。この行動こ
そ騎兵隊の本領だろうけどせめて総督府内では自重してほしい。
﹁って、なんでフィーネがいるのよ!﹂
﹁いてはまずいですか?﹂
﹁まずくはないけど、今はユゼフに用があるの!﹂
﹁奇遇ですね。私もユゼフ少佐に用があるのです﹂
2155
⋮⋮始まってしまった。
突撃思考のサラと冷静沈着なフィーネさんと、2人の性格は正反
対も良い所である。なのに、2人とも負けず嫌い。
﹁へー、そうなの。でももう仕事も終わったでしょ。私はこれから
ユゼフとユリアと一緒にごはんだから﹂
﹁あらマリノフスカ少佐、子供は大切にすべきですよ。どうか親子
水入らず2人きりでお食事に行かれては?﹂
﹁ユゼフもユリアの名付け親だから水入らずさせてもらうから﹂
﹁法律上は何の関係もありません﹂
﹁それはフィーネも一緒でしょ!﹂
やめて! 私の為に喧嘩しないで!
などと一昔前の少女漫画のようなセリフが脳内に浮かび上がるの
はこの2週間で13回目くらいだろうか。
両手に花は男の夢だと言ったな。あれは嘘だ。
何かあるたびにこうしていがみ合う2人である。間に挟まれる俺
の身にもなってほしいが、俺自身が間に自主的に入り込んでいるよ
うなものなのでどうにもできない。口を挟もうにも﹁お前が元凶だ
ろ﹂となるので流れに身を任せるしか選択肢がなくなる。
俺に出来るのは頭の中で﹁今日はどっちが勝つか﹂と賭けをする
ことだけなのだ。
まぁそんなこと言っても弁術でサラがフィーネさんに勝てるはず
もないため、口喧嘩になったら大抵はフィーネさんが圧倒するので
ある。
2156
ほら、なんかサラが﹁ぐぬぬぬぬ﹂とか言ってるし。
﹁ユゼフ!﹂
﹁は、はい!?﹂
急に話を振らないでくれないかな!
﹁ユゼフはどっちがいいの!﹂
また答えにくい質問をしやがる。
どっちがいいのって、俺はサラのこともフィーネさんのことも好
⋮⋮っていやいやいや、何度恥ずかしいこと言わせる気だ。
﹁いっそ俺とサラとフィーネさんとユリアの4人でご飯するってい
うのはどうだろうか﹂
﹁﹁それは嫌だ︵です︶﹂﹂
綺麗にハモった。仲がいいのか悪いのか。
﹁ユゼフ少佐、今日は私が手料理を振る舞ってあげますよ﹂
と、フィーネさん。
って、フィーネさん料理できるの? でもどこで振る舞うつもり
なんだろうか。まさか夕飯の為にオストマルクの領事館に入るとい
うのは変だし、彼女はクラクフに自分の家を持ってないはずだし。
﹁わ、私だってユゼフのためにごはん作ったし﹂
と、サラ。
なぜだろう。似たような文章なのに身の危険を感じるのは。あ、
2157
でもサラは確か料理スキルの向上を図っているらしいから、以前の
ようなことにはなっていないのかも。ちょっと気になる。
だがどちらを選べっていうのは困る。もう君ら2人で決めて欲し
い。ジャンケンでもいいから。
﹁ユゼフ!﹂
﹁少佐﹂
ぐいぐい迫る2人。てかサラ顔が近い!
﹁えーあー⋮⋮そのー⋮⋮﹂
この状況下でどちらか一方を躊躇なく選べる人間は果たしている
のだろうか。
サラを選べばフィーネさんから精神的攻撃が飛んできて、フィー
ネさんを選べばサラから物理的攻撃が飛んで来るのは必定。俺は死
ぬ。
どうすればこの状況から逃れることができるか、と思案していた
時、執務室の扉が静かに開かれた。
﹁ユゼフさん、少しよろしいでしょう⋮⋮か?﹂
エミリア殿下、もとい女神降臨。
なのだが殿下はこの混沌とした状況を見て何かを悟ったらしく、
身を引き始める。
﹁お忙しいようですからまた後で⋮⋮﹂
﹁あ、いえ、大丈夫ですよ。全然大丈夫です﹂
2158
﹁⋮⋮そうなのですか?﹂
と、殿下は俺とサラとフィーネさんを順番に見る。さすがに一国
の王女の前で痴話喧嘩をしてる場合じゃないと大人しく引き下がっ
た。特にフィーネさんの場合は立場が立場なので、
﹁⋮⋮ユゼフ少佐。私はこれで失礼いたします﹂
﹁あ、はい。今日はありがとうございます。⋮⋮お食事に関しては、
良ければ明日にでも﹂
埋め合わせはしないと追っ払っただけになってしまうし、フィー
ネさんに失礼というものだろう。
﹁⋮⋮はい、喜んで﹂
そう言いながら微かに笑って、フィーネさんは執務室から出た。
入れ替わる形でエミリア殿下が入る。サラはエミリア殿下に場所を
空けたものの壁に寄りかかってその場で待つつもりのようだ。俺が
逃げ出さないための措置にも見える。
﹁相変わらず大変そうですね﹂
その言葉が特別参与の仕事に関する事なのか、それともサラとフ
ィーネさんのことなのか。⋮⋮後者だろうなぁ。
﹁まぁ、自分のせいですから﹂
﹁そうですね。ユゼフさんは罪作りな人です﹂
殿下は冗談じみた口調でそう言いつつ、脇にいるサラの事を気に
かけたのかさっさと本題に入った。
2159
﹁用⋮⋮と言う程のものではないのですが、ユゼフさんに少し聞き
たいことがあるのです﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁はい。例の亡命者の一団、どうなりましたか?﹂
﹁⋮⋮それなら先ほどフィーネさんが教えてくれました。先日、キ
リス第二帝国へ入国したと﹂
﹁なるほど。つまり、ユゼフさんの策略の第一段階は済んだと﹂
﹁そういうことです﹂
俺の策略、という程ではないが、今回の計画は概要はこうだ。
東大陸帝国のエレナ皇女は、帝国宰相セルゲイ・ロマノフとオス
トマルク帝国が結託している、あるいは結託しようとしている⋮⋮
と勘違いしている。その思考を利用できないかと考えたのだ。
つまり、オストマルクを疑っているエレナ皇女をキリス第二帝国
へ亡命させる。そして皇女のその妄言をキリス上層部に信じさせる
のだ。
無論、普通ならこんな妄想話を信じるわけないのだが、状況がそ
うさせていない。
エレナ皇女はロマノフの血を継ぐ者。情報戦に弱いキリス第二帝
国はその皇女の言葉を信じてしまっても仕方ない事だろう。
それに何より、現在キリス第二帝国とオストマルク帝国は緊張関
係にある。オストマルクが東大陸帝国との関係を修復しキリスを侵
略するのではないか、その懸念がキリス上層部にはあるのだ。
そんな状況下でエレナ皇女がそんなことを言えば、もうこれは信
じるだろう。自分たちの調査の結果オストマルクがキリスを攻めよ
2160
うとしているのがわかり、そしてそれを裏付ける証言を東大陸帝国
の皇女が言うのだから。
﹁おそらく近日中には、キリス第二帝国とオストマルク帝国は交戦
状態に入ります。全面戦争となると東大陸帝国の介入を招く恐れが
あるので、地域紛争になるでしょうが﹂
東大陸帝国と結託しオストマルクの力が増強される前に、先手を
打ってこの計画を叩き潰そうとする。キリスにとってはそれ以外の
選択がないのだ。周りに頼りになりそうな国もない。唯一可能性が
あるとすれば、オストマルクの西、前世においてイタリアと呼ばれ
た位置する﹁神聖ティレニア教皇国﹂だろう。皇国はオストマルク
と対立関係にある。
﹁ティレニアが介入する可能性はあるのですか?﹂
﹁なくはないですが、キリスとティレニアは南海権益で対立してい
るようですから⋮⋮﹂
いやもう、この世界ってなんでみんな仲悪いんだろう。いや仲良
かったら国境なんてものは存在しないのだけども。
﹁まぁ、地域紛争で済めば各国の介入は無視できるかと。観戦武官
の派遣程度はあると思いますが﹂
﹁そうですか。実は、それが今回の本題なのです﹂
﹁⋮⋮というと?﹂
俺が聞き返すと、エミリア殿下は一瞬言葉を詰まらせた。頭の中
で言葉を選んでいるような、そんな仕草をした後に言い放つ。
﹁私の父、つまり国王フランツ・シレジアに呼び出されたのです﹂
2161
﹁召還命令、ですか﹂
﹁そのような大仰なものではない⋮⋮のですが、暫く私とマヤはク
ラクフを離れることになるのです。もしオストマルクとキリスが戦
争になって、我が国が軍を派遣するようなことになればと思いまし
て⋮⋮﹂
なるほど、そういうことか。
まぁエミリア殿下の口調から察するに、殿下自身もうシレジアが
軍を派遣しないことはわかっているのだろう。どういう用でシロン
スクに行くのかはわからないが。
⋮⋮あ、でも軍は派遣しないにしても、もう1つの可能性がある。
というかフィーネさんに遠回しに言われたばかりだ。
﹁殿下。そのことについてなのですが⋮⋮﹂
﹁えっ、と。派遣するんですか?﹂
﹁いえ、軍は派遣しません。ですがフィーネさんから遠回しに﹃シ
レジアから武官を寄越せ﹄と言われまして⋮⋮﹂
俺がそう伝えると、エミリア殿下は眉間に皺を寄せて困ったよう
な表情をする。ついでにサラが目を丸くしている。
﹁そうなのですか⋮⋮、困りましたね﹂
本当に困った。
オストマルクとシレジアの関係上、また例の皇女一家のこともあ
るので、俺が行くのはほぼ確定みたいなものなのだが、そうなると
クラクフで情報を統括する人間がいなくなる。エミリア殿下にお任
せしようかと思ったのだが、殿下もマヤさんもいなくなるとなると
⋮⋮。
2162
﹁仕方ありません。マヤにはクラクフに残ってもらいましょう﹂
﹁⋮⋮よろしいのですか?﹂
﹁背に腹は代えられません。それに他に候補もいないですから﹂
﹁それはまぁ、そうですが⋮⋮﹂
でもそうなるとエミリア殿下を護衛する者が少なくなる。それは
心配だ。一応第3騎兵連隊や親衛隊はいるけど、信頼という点では
マヤさんの右に出るものは居ない。
﹁大丈夫ですよユゼフさん。これでも私は剣兵科三席卒業ですから﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
そう言う問題でもないような気がするし、肝心のマヤさんの意見
が不明のままだ。でも結局エミリア殿下に押し切られる形で、マヤ
さんのクラクフ残留が決定された。
2163
夕陽の中で
事が事なのでマヤさんに伝えないわけにもいかない。サラには悪
いが、夕飯はもう少し後だ。
﹁⋮⋮ということらしいので、マヤさんはクラクフに残留です。具
体的にいつになるのかはわからないのですけども﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
意外や意外、マヤさんの反応は淡白だった。もっとこう、﹁殿下
あああああああ! なぜ私を置いていくのですかああああああああ
ああ!!﹂と泣き叫ぶのを期待エフッエフッ想像してたのだが。
﹁なんかあったんですか、マヤさん﹂
﹁そうだな。君が2人の女性を侍らせているのが気に食わないと言
ったところかな﹂
﹁もうその話はよしてください﹂
そもそもそう言う風に仕向けたのはマヤさんな気がする。最終的
な意思は俺だけどさ。
﹁って、今はそれ関係ないですよね?﹂
﹁ばれたか。さすが特別参与殿だな﹂
﹁隠すのが下手過ぎるんですよ。何があったんですか﹂
事が重大であれば、最悪の場合俺のオストマルク行きは中止にな
る。マヤさんには吐いて貰わないと。
2164
﹁⋮⋮いや、やめておこう。これはまだ機密だからね。言えないん
だ﹂
﹁機密?﹂
﹁あぁ、そうだよ。もっとも、君が得意な分野の方の機密じゃない。
だからというわけではないが、そんなに警戒しなくても良い﹂
ならいいのだが。
﹁まぁ、ともかくマヤさんはクラクフ残留です。私はフィーネさん
から⋮⋮と言うより、オストマルク帝国より要請あり次第現地に赴
く予定です。表向きはシレジアとオストマルクの武官交流になりそ
うですね﹂
﹁そこにいるサラ殿はどうするんだい?﹂
﹁えっ?﹂
そこにいる、ということは近くにいるということ。俺が振り向く
と、確かにそこにはサラがいた。ついてくるなとは言わなかったか
ら別にいいのだが、ついてくるならついてくるで何かひとことあっ
ても良いじゃない。
﹁私はユゼフと一緒に行くわよ﹂
﹁え、あ、いやあのサラは第3騎兵連隊としてエミリア殿下の護衛
をするんじゃ⋮⋮﹂
﹁連隊長に任せるわ。1個連隊の近衛兵と、それに親衛隊もいるし﹂
﹁それもそうだけどさ⋮⋮﹂
まぁ、1個連隊の近衛兵と親衛隊を押し退けてエミリア殿下を排
除できる勢力が現れたら、確かにサラ1人がついてきたって一緒か。
それに第3騎兵連隊の連隊長であるミーゼル大佐は優秀と聞く。な
ら大丈夫⋮⋮かな?
2165
いや、でも万が一ということもあるか。サラやマヤさんをエミリ
ア殿下の傍に置かないとしても、対策を打たないわけにはいかない。
あとでそれ用の作戦を練ってマヤさんに渡しておくかな。
﹁話はそれだけかな?﹂
﹁あ、はい。そうです。すみませんマヤさん、面倒事押し付けて﹂
﹁いいさ。どうせ君たちの方が面倒なことをするのだろう?﹂
確かに、戦争は面倒だ。できればしたくない。
﹁じゃ、私は残ってる仕事の片付けに戻るよ。君はそこのイライラ
を隠せないでいるサラ殿の相手をしっかりしたまえ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
もう一度サラの方を見ると、マヤさんの言う通りわかりやすくイ
ラついているサラの顔があった。
﹁ユゼフ﹂
﹁はい﹂
﹁お腹減ったわ﹂
﹁わかりました﹂
これじゃどっちが料理を提供する側なのかわからないな。
−−−
2166
初級学校にいるユリアを迎えに行き、そして俺とサラとユリアの
3人で夕食の材料を求めて市場を歩く。八百屋に行けば、収穫した
ばかりの野菜を手に取って吟味する。肉屋に行けば、燻製にされた
豚肉をどれほど買うかを思案する。
時にユリアに物をあげたり、サラが俺に意見を求めたり。なんて
いうかアレだな。完全に⋮⋮いや、やめておこう。これ以上は恥ず
かしい。
﹁ね、ねぇユゼフ﹂
﹁ん? どうした?﹂
﹁な、なんだか⋮⋮親子みたいよね、これ﹂
やめて言わないで! せっかく自らを制して考えないようにして
たのに! 恥ずかしいじゃん!
﹁いや、まぁ、俺もそう思うけども⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
自分で言っといて顔を真っ赤にして黙るのはやめていただきたい。
会話が続かなくて気まずくなる。
﹁で、でも、まだ本当の親になるのは早いわよね?﹂
﹁そ、そうだな﹂
サラは俺を殺そうとしているに違いない。なぜこんなに恥ずかし
い思いをしているのだろうか。街中で。
﹁そんなことより、ユリアがどっか行っちゃったぞ﹂
﹁あっ⋮⋮と、雑貨屋のとこにいるわね﹂
2167
サラは持ち前の視野の広さで奔放な養子を見つける。迷子になる
ならまだしも誘拐されては困るので、さっさと団体行動をしないと
いけない。
﹁ユリアとは手を繋いだほうがいいんじゃないか?﹂
﹁⋮⋮うん。でもその前に﹂
そう前置きして、そして相変わらず顔を赤く染めているサラが手
を差し出してきた。
﹁ちょっとでいいから、私と手繋いでくれる?﹂
﹁⋮⋮お、おう﹂
女子と手を繋いで歩く。
男なら誰もが夢見るシチュエーションであるが、そんな悠長なこ
とが言えないくらいには緊張してたと思う。サラも同様のようで、
2人してガチガチに固まってた気がする。
結局俺とサラはその場から動けず、雑貨屋の陳列商品に興味を失
ったらしいユリアの方からこちらに近づいてくるまでそれが続いた。
そしてユリアは戻ってきて早々、こう呟く。
﹁顔まっか﹂
当たり前だ。こんなことをしてて平気な顔をできる奴がいたら紹
介してほしい。
﹁たぶん、夕陽のせいだと思うよ﹂
そんなつまらない、ベタベタな言い訳を言ってしまうくらいには、
2168
だいぶ混乱していたと思う。
その後、サラの官舎でサラとユリアと共に夕飯を取った。無論、
サラの手料理なのだが⋮⋮意外と言えば失礼だが出された料理は不
味くはなかった。まだまだ改善の余地はあるが、卵に殻は入ってな
かったしサラも怪我せず料理できていたので、まぁ満足すべきだろ
う。
⋮⋮ユリアの長きにわたる劣悪食生活に遂に終止符が打たれたと
思うと、なぜか目頭が熱くなった。
﹁なに泣いてんのよ﹂
﹁サラの料理が美味しくて、つい﹂
﹁⋮⋮そ、そうなの﹂
ユリアの成長が楽しみである。
2169
夕陽の中で︵後書き︶
主人公が幸せすぎてつらい
2170
帝国開戦
大陸暦638年8月8日。
それが、オストマルク帝国とキリス第二帝国との間に何度目かの
紛争が始まった日付⋮⋮とされている。というのもこの紛争、何か
しら明確な形で始まったというわけではない。
事の発端は、7月25日のエレナ・ロマノワ皇女亡命事件である。
エレナ皇女は、キリス第二帝国内部にてかなり声高にオストマル
ク帝国と東大陸帝国宰相セルゲイ・ロマノフの危機を叫んだ。
﹁オストマルク帝国は着々とセルゲイと繋がりを得ており、キリス
第二帝国の寿命は日を追うごとに短くなっている。あの国が狙って
いるのはシレジア分割などではなく、もっと経済的に旨味のあるキ
リス第二帝国であるのだから!﹂
と。
元々キリス第二帝国が、オストマルクと東大陸帝国の関係を疑っ
ていたのだから、この皇女の言葉がキリス上層部の人間に受け入れ
られるのに時間を要さなかった。
キリス第二帝国皇帝バシレイオスⅣ世もその例外とはなり得ない。
彼はエレナ皇女の言葉を信じた、というより、信じたかった。本当
であることを願った節がある。
オストマルクから東大陸帝国の皇族が亡命してきたという不審な
点について指摘する者もいたが、それが多数派となることは終ぞな
かった。日々高まるオストマルク脅威論に対抗できる、何らかの証
2171
拠があるわけでもなかったからである。
8月4日。
バシレイオスⅣ世は帝国全土にある布告を発した。
﹁来たる脅威に対処するため、帝国全土に戒厳令を布告する。軍は
速やか且つ適確に臨戦体制を敷き、この脅威に備えるべし。全国民
も、これに協力し、かつ帝国の義務を果たすことを切に願うもので
ある﹂
即ち、戦時体制の移行である。
オストマルクという巨大な帝国に対して、当面はキリス第二帝国
1ヶ国だけで立ち向かわなければならない。そして東大陸帝国や、
神聖ティレニア教皇国の介入を防ぐためにも、限定的且つ短期的に
決着をつけることが望ましいとされた。
こうして着々と戦争への準備が進んだのであったのだが、キリス
上層部にとって予想だにしなかったことが現場で起きてしまった。
8月8日。
オストマルクとの国境に位置する、キリス領ハドリアノポリスに
駐留する警備隊と、中央から派遣されたキリス第二帝国軍、総数5
000名が国境を厳重に警備していた。
しかし実質はどうあれ、形式的にはまだ戦争していない両国は交
易を続けている。ハドリアノポリスもその例外ではなく、オストマ
ルクからの商人を受け入れていたのである。
それが、誰かにとっての悲劇の始まりだった。
同日朝8時30分。オストマルク帝国の商人の一団が、ハドリア
2172
ノポリスを訪れた。平時なら珍しい話ではなかったが、準戦時とな
った現状においてはそうではなく商人は詰問を受けた。
﹁⋮⋮どこの国から来た?﹂
ハドリアノポリス駐在の警備隊に所属するとある下士官が、商人
に対して横柄な態度に出る。いつものハドリアノポリスでは入国証
を持っている商人に対する詰問は少なく、またあったとしてもへり
くだった態度に出ることが多い。
元々仲の良い両国ではなかったため、商人はこの下士官の行動に
対して多少の苛立ちを覚えたのは仕方のない事である。
﹁オストマルクだ。見りゃわかるだろ﹂
﹁なるほど、オストマルクか﹂
喧嘩腰の商人に対し、下士官は横柄な態度をやめない。それどこ
ろか、
スパイ
﹁間諜が荷物に紛れ込んでいる可能性がある。徹底的に調べろ!﹂
と部下に命令した。
準戦時体制下においては仕方ないことかもしれないが、つい先日
まで客人として扱われていた国で唐突にこんなことを言われてしま
った方としては、苛立ちを超えて怒りが込み上げてくるものである。
﹁おい! なにをしているんだこの野郎! 汚い手で商品に触るん
じゃねぇ!﹂
﹁こちらは正当な権利を行使しているだけだ! それとも何か隠し
たいのか!﹂
﹁そうじゃねぇ! お前らの態度が気に食わないだけだ!﹂
2173
こうして一商人に対して始まった軍の詰問が、喧嘩に発展し、そ
して他の商人の一団を巻き込んでの暴動に近い形になるのに1時間
を要さなかった。
スパイ
﹁オストマルクの間諜め!﹂
﹁キリスの豚野郎が!﹂
罵詈雑言と拳と初級魔術が飛び交う中、ついに中央から派遣され
たキリス帝国軍の将官が決断する。
﹁鎮圧せよ! 抵抗する者は殺して構わん!﹂
暴動が戦争に変わった瞬間である。
キリス第二帝国の公式声明によれば﹁商人に偽装したオストマル
クの工作員が警備隊に対して暴力を振るったため、やむなく武器を
使用しこれを鎮圧した﹂とされる。
キリス第二帝国側としては、これで開戦の名目は出来た。
即ちオストマルク帝国との戦争は、あくまでオストマルク帝国の
侵略行為に対する正当防衛である、と放言出来たのである。
しかしこの暴動に参加した商人はいずれもただの商人であった。
少し気が短いという以外は特に何も変わらない、初級魔術を使える
程度のオストマルク国民だった。
武器を持たない無防備なオストマルク帝国臣民に対して、キリス
第二帝国軍は武器を持って鎮圧しようとした。あまつさえそれをオ
ストマルク帝国の責任なのだと言い放ち、防衛行動と称して国境を
2174
越えた。
この事を知ったオストマルク帝国臣民と皇帝が怒りに沸いたのは
むしろ当然のことである。
キリスとの国境に位置し、ハドリアノポリスから30キロの地点
にあるオストマルク帝国領スビレングラートに駐留するオストマル
ク帝国軍3000名は、進軍するキリス帝国軍に対して直ちに邀撃
行動を開始。
オストマルク帝国軍とキリス第二帝国軍は、スビレングラードと
ハドリアノポリスの中間地点カピタン平原で遂に衝突、戦端が開か
れた。
両軍兵士が雄叫びを上げ、詠唱し、槍を突き出し、剣を交わす。
そしてそれは、第七次オストマルク=キリス戦争開幕の鐘の音で
もあった。
2175
第七次戦争
﹁というわけで殿下、オストマルク帝国とキリス第二帝国は戦争状
態に突入た模様です﹂
﹁⋮⋮ユゼフさん、ひとつ良いですか?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮7回目なんですか?﹂
﹁はい。大小含めて、ですが﹂
オストマルクとキリスは不倶戴天である。
8月10日。
軍事査閲官執務室、つまりエミリア殿下の執務室で俺はエミリア
殿下に、フィーネさんとの面会で得た情報を報告している。
フィーネさん曰く、オストマルク国内事情に大きな変化はないよ
うだが、対外情勢は完全に燃え上がったようである。つまり第七次
オストマルク=キリス戦争の勃発だ。
飽きもせず7回も戦争できるとは、大したものである。
﹁しかしシレジアも人の事言えませんよ。シレジア独立戦争に始ま
り、いったいシレジア王国は何回東大陸帝国と戦ったのでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エミリア殿下が天井を仰ぎ見ながら指折り数えていたようだが、
小指を折ったあたりで諦めた様子。戦争は大陸の風土病である、っ
て誰かが言ってたし。
2176
けしか
﹁でも今回の場合、ユゼフさんが嗾けたのではありませんでしたか
?﹂
﹁いやまぁ、そうなんですが⋮⋮。しかしこれはオストマルクの利
益にも繋がる話ですので、大目に見ていただければ幸いです﹂
オストマルク帝国の国益とは、東大陸帝国が肥大化することを防
ぐことである。彼の国が肥大化すると﹁大陸の再統一﹂という大戦
争が起きる可能性があるから。
そうならなくとも、シレジア完全分割後に共通の敵を失った東大
陸帝国、リヴォニア貴族連合、オストマルク帝国が覇を競い合う可
能性が高い。何処が勝っても国力が疲弊するし、そして国力が疲弊
し経済が低迷すれば、多民族国家であるオストマルクにとっては叛
乱を生み出す母体となる。
だからオストマルクはシレジアを緩衝地帯として生き残らせ、長
期的に帝国を安定化させる外交政策を取ったのだ。
しかし帝国宰相セルゲイ・ロマノフは名君だった。俺やエミリア
殿下と2つしか年齢が変わらないにも拘わらず、東大陸帝国を急速
に若返らせている。彼の国はまだ再建の途中だが、その効果は明ら
かだ。軍や治安機構を完全に掌握しているために暗殺という手段を
取れない。彼が帝位に就くのは確実。
﹁あんな偉大な人間であるとわかっていたら、早期に暗殺をしてい
たでしょう﹂
と、フィーネさんが前に言っていた。彼が有能であるとわかった
時には、彼は既に権力者だった。
つまり東大陸帝国の国力が肥大化することは確定されたようなも
2177
のだ。この状況に至ってオストマルクが打てる手は、シレジアを裏
切って東大陸帝国側に立つか、シレジア以外の国も巻き込んで反東
大陸帝国同盟を成立させるかである。無論、オストマルク主導で。
オストマルク外務省、つまりフィーネさんの祖父であるクーデン
ホーフ侯爵は後者を選んだ。理由はいろいろあるだろうが、東大陸
帝国の最終目標が大陸の再統一である以上、オストマルク帝国の自
主独立を守るためにはそれしか方法がないというのが一番の理由だ
と思う。
前置きが長くなったが、反東大陸帝国同盟の成立に至って障害と
なるものがある。それが、今回問題となるキリス第二帝国だ。
﹁帝国宰相セルゲイ・ロマノフの外交政策の見直しによって、東大
陸帝国とキリス第二帝国の仲は修繕されつつありました。それはオ
ストマルクにとって厄介です﹂
﹁そうですね。しかもカステレットでユゼフさんが変なことをした
せいで、変に疑われているようですから﹂
エミリア殿下はそう言ってクスクスと笑ってみせた。
﹁それについてはご勘弁を﹂
軽い気持ちで出した提案がここまで国際情勢を動かすとは思って
もいなかったんで。
﹁ふふっ、構いませんよ。情勢がこうなることを予測できなかった
のは私も同様なので、お互い様です﹂
﹁ありがとうございます﹂
まぁ過ぎた話は脇に置いておこう。
2178
﹁話を戻しますと、キリスにはオストマルク主導の反東大陸帝国同
盟に入ってもらいたい。ですがキリスはオストマルクが信じられな
い。キリスは東大陸帝国と一定の距離感を保ちつつオストマルクと
剣を交えることを選んだのだと思います﹂
﹁ユゼフさんの言う通りだとは、私も思います﹂
﹁⋮⋮妙に引っ掛かる言い方ですね﹂
﹁どうせユゼフさんのことですから、その後がもっと悪辣なのでし
ょう?﹂
違いますか? と言った感じで首を傾げて聞いてくる殿下。なぜ
だ。
﹁そんなことはありませんよ。ただこの戦争にオストマルクが勝つ
ことが出来れば、キリスをこちら側の陣営に引き込むことができる
かもしれない、と思っただけです﹂
﹁と言うと?﹂
簡単な話だ。
第七次戦争にオストマルクが勝てば、当然講和条約が結ばれる。
その時に言ってやればいい。﹁領土割譲は求めない。その代わり反
東大陸帝国同盟に参加しろ﹂とね。そこまで直球じゃなくても、東
大陸帝国との交易停止、同盟の永久禁止、そしてオストマルクとの
関係改善と交流を再開する事を約束させればいい。
キリスとの講和条約を土台にして、反東大陸帝国同盟を成す。こ
れが基本構想だ。
無論これを実現させるためにはオストマルクが勝つ必要がある。
それも辛勝ではなく、完勝に近い形で。それをどうやって実現させ
2179
るかはオストマルク帝国軍の腕次第と言ったところか。とりあえず
キリス第二帝国最大の都市ミクラガルドを陥落させればいいんじゃ
ないかな。
﹁と、こんなところです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの、殿下?﹂
なぜか殿下が数分間何も言葉を発さず、少し溜め息をついてから
やっと口を開いた。
﹁やはりユゼフさんは並々ならぬ人物だと思います﹂
お褒め戴いた。いや直前に吐いた溜め息の事を考えると絶対純粋
な意味で褒めてないと思うけど。とりあえず俺は﹁ありがとうござ
います﹂と返答したが、それに対するエミリア殿下の反応はまたし
ても数分間の沈黙と軽い溜め息だった。
なんでだろう。ごく無難な政策だと思うのだが。
﹁⋮⋮まぁ、ユゼフさんの才はともかくとして、ユゼフさんとサラ
さんは観戦武官として前線に赴くのですよね?﹂
﹁その予定です。フィーネさんも同行するかと﹂
たぶん途中で帝都エスターブルクに寄るだろうが、絶対にリンツ
伯とは会いたくない。あの人に会うとよからぬことが起きるのでは
ないかと不安なのだ。
⋮⋮いや、それよりも前に不安なことがあるのだけど。
﹁あぁ、そうだ。思い出しました。忘れぬうちにユゼフさんにいく
2180
つか情報を渡しておきます﹂
﹁情報、ですか?﹂
﹁えぇ。王都からです。こちらの資料を﹂
そう言って殿下から手渡された資料はそれほど分厚くはない。作
成したのは王国宰相府国家警務局所属のヘンリクさんである。
曰く、カロル大公派に近い人物が王都を発し、シレジア北部の港
湾都市グダンスクへ向かったとのことである。そこから船を使って
何処かへ、という動きはまだないそうだ。またそれ以外の人物にも
活発な動きが見られるそうだ。
エミリア殿下が王都へ行くというこのタイミングで動き出すカロ
ル大公派。嫌な予感がするのは臣下としては当然のことである。
﹁殿下、やはりマヤさんを王都に同行させるべきではないでしょう
か? 特別参与職が一時的に空席となってしまいますが、それは王
都から人を呼べれば⋮⋮﹂
エミリア殿下は近日中に王都へ赴かれる。その際護衛としてシレ
ジア王国軍最精鋭の近衛師団第3騎兵連隊が同行することになって
いる。
けど、やはり傍に誰かしら置いておくべきではないのかと思った
のだ。しかし殿下は、
﹁いえ、大丈夫ですよ。サラさんがいませんが3000名の護衛が
いますし、それに王都には親衛隊も、そしてヘンリクさんやイリア
さんもおります。私自身、これでも贅沢過ぎる護衛の量だと思うの
ですよ﹂
と言って頑として譲らなかった。
2181
殿下がそう言ってしまうと、こちらとしてはそれ以上強く言えな
い。結局マヤさんの残留とサラさんのオストマルク行きはそのまま
決定となった。
殿下はああ仰ったものの、不安が拭い切れるはずもない。
俺は万が一に備えて、王都にいるヘンリクさんとイリアさんに注
意を促す手紙を送ろう。それとマヤさんと会って﹁想定外﹂なんて
ものが無いようにしなきゃな。
⋮⋮過保護かな?
2182
国境を越えて
﹁ね、ねぇユゼフ﹂
﹁なんだいサラ﹂
﹁あのさ、やっぱりユリア連れてっちゃダメ?﹂
﹁ダメ﹂
8月12日。
諸々の準備を終え、さてオストマルクへ行こうかという日にサラ
は唐突にそう言ったのである。観戦と観光を履き違えてるんじゃな
いかと思うぐらいの頓珍漢な言葉である。
いや観戦という言葉も平和ボケした現代日本人なら﹁えっ? 東
京ドーム? それとも国立?﹂とか言い出しそうだが、残念ながら
今回の場合は﹁戦﹂争を﹁観﹂るのである。
﹁万が一ユリアに何かあったら困るから﹂
﹁むー⋮⋮﹂
口を尖らせながらユリアを抱き着いて離さないサラ。いや、そん
なに可愛らしく拗ねられてもダメなもんはダメである。カールスバ
ート内戦の時にもカステレットの時にも置いていったのだから、今
回も大人しくそうしておきなさい。
クラクフにはマヤさん一家もいるし食べ物は美味しいしメイドさ
んは美人だし色々安心である。
今回、俺に同行するのはサラとフィーネさん。ラデックにも一応
声を掛けようとしたのだが、彼は彼で忙しいのでやめておいた。
2183
いや、生後1ヶ月の双子の子供を前にしてキャラが崩壊してるパ
パラデックにどう声を掛けろと言うのだ。リゼルさんは双子の出産
という偉業を成し遂げた後なのでだいぶ大人しくなったそうだが。
ちなみに子供はどちらとも身体になんら障害のない元気な女の子
だそうで。今は良いだろうが子供が成長すると女ばかりになってパ
パラデックの居場所が狭くなるだろうな。
とまぁそんなわけなので今回は彼は同行しない。観戦武官に補給
担当の人間なんてたぶんいらないだろうから、それでいいと思いま
す。
﹁やぁ、出発かい?﹂
ユリアとの長い長い別れの挨拶をしているサラの背後からマヤさ
んが登場。今回はクラクフに残って情報を纏める係である。
﹁えぇ。ご覧の有様なので遅刻しそうなんですけどね﹂
﹁仕方ないだろう。我が子との別れは長くなるものだよ﹂
いやサラの場合はもうちょっと子離れした方がいいと思う。
﹁君の方は、誰かに挨拶しなくていいのかい?﹂
﹁お生憎、知人縁者が少ないもので﹂
両親には挨拶に行ってない。そもそもクラクフにいないから挨拶
しようがない。生きていることは確認しているし何回か手紙のやり
取りはしているのだが、ラスキノ戦争後のあの日以降会っていない
のだ。
よし、この戦争が終わったら両親に会ってみよう。なに、クリス
2184
マスまでには会えるさ。そうそう、俺もサラの料理訓練に付き合っ
たせいかパインサラダくらいならたぶん自作できるようになったよ。
今度振る舞ってあげよう。でも隣国の戦争が心配だな。ちょっと国
境の様子見てくる。大丈夫大丈夫、俺は戦術に詳しいんだ。私に良
い考えがある。トラストミー!
⋮⋮あ、やばい。自分で言っといてなんだけど色々不安になって
きた。
﹁マヤさん、後は頼みますね。本当に頼みますね!﹂
﹁⋮⋮いや頼まれるまでもないが、なぜそんなに必死なんだ。少し
目が怖いぞ﹂
そんなにやばい顔してるのか俺。
﹁大丈夫だ。それに何かあっても君が色々考えてくれたおかげで、
こちらも余裕はある。エミリア殿下もユリア殿のことも心配しなく
ていいさ﹂
﹁だと良いんですけどね⋮⋮﹂
いや、心配しても始まらないか。さっさと行かないと日が暮れち
まう。
﹁じゃあ、マヤさん。後は任せます。サラも行くよ。あまりフィー
ネさんに待たせるのも悪いし﹂
﹁うー⋮⋮わかった。じゃあユリア、またね﹂
若干涙を浮かべているサラの別れの挨拶に対して、ユリアの反応
と言えば、
2185
﹁⋮⋮⋮⋮ん﹂
と、1回首を縦に動かしただけである。すごい淡白な対応である。
でもサラを神聖視することが減るのは良い傾向⋮⋮なのかもしれな
い。
−−−
総督府から出ると、そこにはオストマルク帝国の公用馬車と護衛、
そして若干不貞腐れたような顔をしているフィーネさんがいた。
﹁27分遅刻ですよ、少佐﹂
﹁やけに細かいですね﹂
﹁少佐がくれた懐中時計は正確ですからね﹂
﹁⋮⋮もうちょっと安い時計にすべきでしたかね﹂
だがその贈り物の選定はリゼルさんがしたものだし、彼女も代金
を支払っていると思うのでそれは7割方リゼルさんからの贈り物と
言った方が良いかもしれない。
﹁それはそうと、さっさと前線に行ってキリスをぶっ飛ばしましょ
うかね﹂
﹁いえ、その前にエスターブルクへ寄りますよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁﹃えっ?﹄じゃありません。ユゼフ少佐をお父様やヴェルスバッ
ハ氏に会わせないといけませんから﹂
2186
﹁⋮⋮﹂
帰りたい。まだ出発してもいないけど帰りたい。
﹁ちょっとユゼフ、さっさと乗ってよ。後ろがつっかえてるわよ﹂
﹁あ、ごめんなさい今乗ります﹂
って、サラはエスターブルクで何させればいいんだろ。でもここ
は男としては格好良くサラのエスターブルク観光に付き合ってあげ
るべきかしら。
そう思いつつ、俺とサラとフィーネさんは公用馬車に乗る。
あまり広くない空間に3人がいるのでなんというか息苦しいとい
うか、いやそれよりも前に美少女2人と狭い空間一緒というのは男
の夢でもありさっさと解放されたいという悪夢でもある気がする。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
サラとフィーネさんが黙ってるので余計に空気が悪い。
どうしよう、これ。
2187
仲の良い2人
クラクフを発し、途中気まずくなりながらも2日間の旅程でエス
ターブルクにつく。
道中の宿場町で相も変わらずサラとフィーネさんは互いに会話を
しない状態が続いていた。怒っているという雰囲気は感じ取れなか
ったが、深く追及する気にもなれない。火事の原因は明らかに俺で
あるのだから。
まぁそれはさておき。
日付は大陸暦638年8月14日。時間はフィーネさんの懐中時
計によれば13時17分だ。
俺にとってはだいたい1年ぶりの帝都エスターブルク。相変わら
ず大都会で、街並みは相変わらず芸術的である。
﹁少佐、どうしますか?﹂
﹁⋮⋮どうしましょうね﹂
慣例に習うのであれば、在帝国シレジア大使館へ赴き挨拶、そし
て帝国軍務省と外務省、余裕があれば情報省へ行って挨拶するのだ
ろうが、ぶっちゃけ言ってしまえばどこにも行きたくない。
大使館に行けば駐在武官のスターンバック准将やダムロッシュ少
佐に、外務省に行けばフィーネさんの祖父クーデンホーフ侯爵に、
情報省に行けば勿論リンツ伯爵やヴェルスバッハもとい嫌われ者の
リーバル元中将に会ってしまう。どいつもこいつも会いたくない人
たちだ。
2188
﹁ですが行かないわけにはいかないでしょう? 礼儀的にも、政治
的にも、情報的にも﹂
﹁⋮⋮そうなんですよねぇ﹂
サラが代わりに行くと言う手もないわけではないが、でもそんな
負担になるようなことをサラに押し付けるようなことはしたくない。
はぁ、仕方ないか。俺とサラは一旦エスターブルクの中心市街で
下車し、フィーネさんにちょっとしたお使いを頼むことにした。
﹁とりあえず私とサラは大使館に挨拶をします。その間フィーネさ
んはリンツ伯爵やクーデンホーフ侯爵に根回ししてください。あ、
無理そうなら全然かまいませんから﹂
特にリンツ伯爵とヴェルスバッハさん。あとついでに再集合時間
と場所も決めて、と。
﹁わかりました。お父様には他の予定を投げ捨ててでも会いに来る
ように言っておきますので﹂
やめて。本気で胃に穴が開くから!
しかしそんな俺の願い虚しく、フィーネさんを乗せた馬車はさっ
さとエスターブルクの行政地区へ駆けて行った。
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
﹁大丈夫じゃないかも﹂
苦手な人たちとの挨拶三連荘とはなんとも不幸な話だ。サラが傍
にいてくれるからまだマシだろうけど。
2189
﹁ねぇユゼフ。私礼儀とか何も知らないけど大丈夫?﹂
﹁⋮⋮大丈夫じゃないかも﹂
王女護衛の近衛兵が礼儀知らずと言うのは何の冗談だという気が
しなくもないが、護衛対象が親友のエミリア殿下だし何よりサラだ
しなぜか納得できる、かも。
が、スターンバック准将やらダムロッシュ少佐やらに会うのにそ
れはまずい。特にダムロッシュ少佐なんて次席補佐官時代何回も衝
突した仲なのに早々に階級が同列になってさらに憎しみ倍増となっ
ているはず。あちらさんとしても会いたくないんじゃないか?
﹁相手も嫌がってるなら別に無理して会わなくても⋮⋮﹂
とサラは提案するのだが、それはそれで問題である。
﹁エミリア殿下に味方するオストマルク帝国のシレジア大使館が殿
下の政敵である大公派によって占められているのだから、情報収集
的な意味でも挨拶しに行った方が良いんだよねぇ﹂
﹁⋮⋮大変ね、相変わらず﹂
﹁まぁね。でもいくら嫌で大変だからと言ってエミリア殿下に泥を
塗るわけにもいかないから、行くっきゃない﹂
﹁じゃあ、私も行くわ﹂
﹁えっ、いやあの、大丈夫なの?﹂
礼儀的な意味で。
﹁⋮⋮ユゼフが手本見せてくれたら、たぶん﹂
あぁ、うん、まぁ、俺も礼儀に関しては専門家と言うわけでもな
2190
いし、バリバリの武官であるサラということもあって大目に見てく
れるかもしれないし、それに何より1人で行くのはちょっと胃に負
担がかかる。
﹁まぁ、サラが良いのなら﹂
﹁私は全然かまわないわ﹂
﹁そっか。⋮⋮じゃ、一緒に行くか﹂
﹁うん﹂
そう言って、さりげなくサラは俺の手を掴んでくる。ユリアとサ
ラと一緒に買い物に出かけたあの日以降、2人で街中を歩くときは
こんな風にすることが多くなったが⋮⋮何度やってもこれは恥ずか
しい。
−−−
ユゼフとサラがシレジア大使館へ挨拶に行っている頃、オストマ
ルク帝国情報省にある応接室において、2人の人物が会談をしてい
た。
1人は、情報大臣ローマン・フォン・リンツ伯爵。
もう1人は、帝国軍務大臣グラーフ・ヨルク・フォン・ヴァルト
ハウゼン伯爵。
﹁わざわざ呼び出してすまないねグラーフ﹂
﹁ローマンに当日になって唐突に呼び出されることには慣れたから
2191
な。士官学校時代からずっと﹂
﹁それでも律儀に来てくれる君には感謝しているよ﹂
2人は貴族特有の言い回しもせず、敬語も使わず、ざっくばらん
に会話をする。ヴァルトハウゼン伯爵の言う通り、この2人は士官
学校時代からの友人であり、同期の中で最も出世している人物でも
ある。
有り体に言えば、リンツ伯爵とヴァルトハウゼン伯爵は悪友だっ
たのだ。
﹁で、ローマン。急に呼び出して何の用だ? これでも俺は隣国が
戦争吹っかけてきたせいで忙しいんだが?﹂
﹁あぁ、その戦争についてだよ﹂
﹁ん?﹂
リンツ伯の言葉に、ヴァルトハウゼン伯が差し出されたコーヒー
を飲もうと伸ばしかけた手を止めた。
﹁シレジア王国から軍人が2名、観戦武官として前線に来ることに
なった。軍事顧問として口を出すことになると思うが、彼らを適当
な部隊に入れてくれないか?﹂
﹁⋮⋮また急に言うなよ﹂
﹁だからこうしてお願いしているのさ﹂
お願いしているように見えないリンツ伯の言動に、ヴァルトハウ
ゼン伯は大きく溜め息を吐く。彼にとって初めての事ではないから
慣れっこだが、だとしてもそれは慎んでほしい行動でもある。もっ
ともヴァルトハウゼン伯にとってリンツ伯は代えがたい友人でもあ
り恩人でもあり仕事仲間でもあるため、彼はリンツ伯のその言動を
2192
安易に受容してしまうのだが。
﹁ったく⋮⋮その2人、階級は?﹂
﹁両名ともに少佐、身分は騎士。17歳の青年と19歳女性だ﹂
﹁⋮⋮また扱い辛い人間を受け入れたな﹂
騎士階級というのは、聞こえは良いものの殆どは貴族扱いされな
い。名目上の貴族、実質上の平民という塩梅なのだ。しかも年齢は
どちらも20にも届いてない若さにも拘らず階級は少佐と高めであ
る。
これらの要素を配慮に入れながら最適な部隊へと配属させるのは
並大抵の事ではない。
﹁⋮⋮ちなみにその2人、恋仲なのか?﹂
17歳の男と19歳の女。いわゆる年頃の男女であれば、誰しも
自然とそう疑問に思うだろう。ヴァルトハウゼン伯もその例外では
なく、脳内で彼らどこの舞台に立たせるかを考えながら、そう質問
したのである。
﹁7年来の友人だとは聞いたが、最近の子細は知らないな。報告役
から手紙が来なくてね﹂
﹁報告役?﹂
﹁私の娘だ﹂
﹁あー⋮⋮フィーネちゃんだっけか?﹂
﹁そうだ。そして17歳男の婚約者でもある﹂
﹁⋮⋮は?﹂
リンツ伯の言葉にヴァルトハウゼン伯は一旦思考を停止せざるを
得ない。
2193
フィーネ・フォン・リンツの存在は、ヴァルトハウゼン伯もよく
知っている。そして貴族の令嬢である限り婚約者がいても別段不思
議ではないが、その相手が7年来の友人である女を連れてオストマ
ルクにやって来る、というのは些か問題なのではと思ったのである。
﹁そいつ、頭大丈夫なのか?﹂
﹁恐らく君よりは大丈夫だと思うよ?﹂
﹁17歳の子供に負けるほど俺は頭弱くねぇ﹂
﹁ハッハッハ。まぁグラーフが疑問に思うのはもっともだ。実はフ
ィーネとの婚約については、まだ相手方は承知していない現状なん
でね﹂
﹁そういうことか﹂
ヴァルトハウゼン伯はそのリンツ伯の言葉を聞いて、その17歳
の男性士官がどういう感情にあるかを推測できた。つまるところ7
年来の友人とやらの事を友人以上に思っているのだろうと。
だとすれば、その男性士官がフィーネとの婚約を呑まないのもよ
くわかる、と。普通に考えれば、伯爵令嬢との婚約は大出世だ。如
何にフィーネの父親がロクデナシでも、と。
となると、ヴァルトハウゼン伯としてはその19歳女性士官の方
を応援したくなった。理由は簡単で、単なるリンツ伯に対するから
かいと嫌がらせである。
﹁事情はわかった。軍部に連絡して彼らを適切な部隊に配置しよう。
⋮⋮そうだな、マルク・フォン・クライン大将の軍団が良いだろう。
リッター
クライン軍団は確か司令部の増員を求めていたからな、丁度良いだ
ろう﹂
﹁うむ。賛成だ。それにクライン大将閣下も騎士だったな。なら彼
らのことを良くわかってくれるだろう﹂
2194
﹁そういうことだ﹂
まぁ、それ以外にも理由はあるんだけどな、というのはヴァルト
ハウゼン伯は口にしなかった。その代わり口に出したのは、こんな
ことである。
﹁この件に関しては今日中に文書にするとして⋮⋮それで、だ。ロ
ーマン、お前のお願いを聞いてあげたんだから、何か対価あるよな
?﹂
﹁勿論。親しき仲にも貸し借りありだよ﹂
﹁相変わらず食えない奴だよお前は﹂
これも慣れたけどな、と彼は続けた。
いったい何を要求してやろうかと彼が思案していた頃、リンツ伯
の方から対価を提示してきた。
﹁対価は⋮⋮そうだな。先月の頭に君が、出張と称して奥さん以外
の女性︱︱確か金髪で巨乳だったな︱︱と2人きりでヴェネーディ
ヒへ旅行に行ったことは、グラーフと俺だけの秘密だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それとミラの別荘はもう少し遮音性に気を付けることをお勧めす
るよ。緑髪さんとのお熱い夜を愉しむのならね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
その後数分間にわたる長い沈黙の末、ヴァルトハウゼン伯はよう
やく口を開いた。
﹁なぁローマン﹂
﹁なんだいグラーフ﹂
﹁⋮⋮俺、お前と親友になれてよかったって心底思うよ﹂
2195
ローマン
ヴァルトハウゼン伯のその言葉を聞いた親友は、思い切り良い笑
顔で答える。
﹁俺もだ﹂
2196
帝都の中心で︵前書き︶
風邪引いてたら遅れました。ごめんなさい。
2197
帝都の中心で
古巣のシレジア大使館への挨拶は特に面白いこともなかった。普
通に挨拶して適当に言葉並べたてて逃げるように建物から出た。そ
れだけだ。
﹁何言ってるのよ、散々嫌味言われたじゃないの。﹃貴官のような
人間でも少佐になれるとは、私もまだまだ出世できると言うことだ。
なんとも幸福なことであろう﹄とかなんとか言ってたし、あのなん
とか准将﹂
﹁まぁね⋮⋮﹂
最早嫌味ではなく単純な悪口になっているスターンバック准将に
は散々皮肉を言われた。全部を文章に書き起こすのは面倒な上に鬱
になるだけなので要約すると、
﹃王女が友達ってだけで出世はやいなんて死ねばいいのに﹄
である。
まぁ、ある意味的を射てはいるのだが。確かにエミリア殿下の御
助力がなければ10代で少佐とはならなかっただろう。でも﹁だけ﹂
ではない。特にサラはね。
﹁サラはラスキノでも春戦争でもカールスバートでも武勲巨大だっ
た。それをエミリア殿下のコネだけで出世しただなんて、失礼だよ﹂
王国最強の騎兵隊を率いて戦果を拡張し、戦争の趨勢まで決定づ
2198
けたサラはまさに英雄とも言って良い。たぶんこのままだと、後世
サラを主人公とした小説がゴロゴロ出てくると思う。
﹁ユゼフもね﹂
サラをべた褒めしてしまったせいか、彼女は若干頬を赤らめつつ
もそうフォローしてくれた。でもサラに比べれば俺のやったことな
んぞ霞んで見える。
﹁俺は特に何もしてないよ。それなりに努力はしたけど﹂
﹁でも色々考えてくれたじゃない。オストマルクでもカールスバー
トでも﹂
﹁うーん、どうだろう。俺が考えたのは至極真っ当なことで⋮⋮﹂
俺のやったことは情報収集と作戦立案その他諸々のことだ。派手
さに欠ける地味な作業と事務仕事の連続だったし、それに俺じゃな
くても誰かがやってくれたような気がする。
なのだが、
﹁あんたの考えで真面なのってあったっけ?﹂
﹁そこまで言うか⋮⋮﹂
みんないい加減俺をゲスの極みにするのはやめてほしい。俺みた
いに日々明朗快活、清廉潔白に生きているのなんて、シレジアじゃ
エミリア殿下くらいのものだ。
﹁そこがユゼフの良い所でもあり、悪い所でもあるんだけどね﹂
サラは、溜め息がちにそう呟くように言った。
ちょっと意味を掴み兼ねた。俺が明朗快活で清廉潔白な男前であ
2199
るところが悪い所なのだろうか。
﹁えーっと、つまりどういうこと?﹂
﹁私はユゼフのことが大好きってことよ﹂
さりげなく、そしてやや早口で彼女はそう捲し立てた。顔はなん
ともないみいたいな表情をしていたのだが、耳が少し赤くなってい
るのを見つけてしまった。
なんていうかまぁ、こんな街中でそれを平然と言えるのはサラら
しいと言うかなんというか。恥ずかしいからやめてほしいのだけど。
こうなったらこっちもそれなりの方法で反撃するしかない。これ
がどんだけ恥ずかしいか目に物見せてやる。
﹁俺もサラのそういうところは好きだよ﹂
そしてサラが赤くなる理由もわかった。反撃とか言ってごめんな
さい。でも好きなのは本当なんです。
一方のサラと言えば、先程よりも如実に顔を赤くして、
﹁ま、街中で何言ってるのよ! ユゼフのバカ!﹂
そう怒りながら、俺のこめかみを少し力強く小突いてきた。
この行動も、あまり変わらないようである。とりあえずサラには
﹁お前が言うな﹂と言いたい。
−−−
2200
﹁外務省への挨拶は取りやめです﹂
待ち合わせ時刻15分前に待ち合わせ場所でフィーネさんと再会
し、そして彼女は開幕劈頭そんなことを言った。
﹁その心は?﹂
﹁祖父⋮⋮もとい外務大臣クーデンホーフ侯爵とその秘書官は現在、
キリス第二帝国との戦争に関して今国を出ているのです﹂
フィーネさんは秘書官とぼかして言ったが、この秘書官は恐らく
外務大臣秘書官にして彼女の姉、クラウディア・フォン・リンツの
ことで間違いはないだろう。
﹁クラウディアさんたちは今どこに?﹂
﹁⋮⋮別にお姉様のことだとは言ってません﹂
﹁違うんですか?﹂
﹁あってますが⋮⋮﹂
不承不承と言った感情を表に出しながら、フィーネさんは秘書官
がクラウディアさんであることを認めた。フィーネさんがどれだけ
自分の姉のことを苦手に思っているのかというよき例である。
まぁ俺もクラウディアさんのことは少し苦手だが。なぜか抱き着
いてくるわちゃん付けするわで。
﹁お姉様の事はともかくとして、お祖父様は現在オストマルクには
いません。一応外務副大臣と司法大臣からユゼフ少佐とマリノフス
カ少佐宛てに、国内の自由通行権と外交官待遇を認める書面が届い
ております﹂
2201
﹁外交官待遇か⋮⋮﹂
外交官待遇。つまり外交特権を手に入れられるのだ。身柄の不逮
捕特権、公用馬車の不可侵権などなど。つまりなにをしてもオスト
マルク当局は俺を捕まえられない!
﹁ユゼフ、顔が変になってるわよ﹂
﹁少佐。二度と悪用しない約束でしたよね?﹂
と、2人からほぼ同時に突っ込まれた。
実際、俺は過去、次席補佐官の時に外交特権を傘にオストマルク
内務省高等警察局と一悶着した前科がある。一悶着どころかオスト
マルク帝国軍警備隊駐屯地で放火と誘拐をした。
フィーネさんはそのことを指摘、サラも持ち前の野生の嗅覚でそ
れを察知したと言うことだろう。恐るべし。
﹁コホン。まぁ身分が保証されているのならば怖がる必要もなくな
ったというわけですね。じゃあさっさとキリスとの戦場へ赴きま﹂
﹁その前に軍務省と情報省です﹂
またしてもフィーネさんにすかさず突っ込まれた。
﹁⋮⋮行かなきゃダメですか? 軍務省だけでもいいじゃないです
か﹂
﹁ダメです。少佐には結婚挨拶をする義務があります﹂
リンツ伯の娘は真顔でそう言う。負けじとサラはそれに反撃。
﹁ちょっと! 何話してるの!? ユゼフと結婚するのは私よ!﹂
2202
﹁おや、マリノフスカ少佐には別の婚約者がいるはずでは?﹂
﹁そいつとはもう縁切ったわ!﹂
なにそれ聞いてない。
﹁あ、あの、サラ? いつの間に縁切ったの?﹂
﹁え? うん、もう会わないって決めたし﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
当たり前だが縁切った宣言だけでは縁は切れない。婚約となれば
なおのことである。⋮⋮これについても、色々根回しをしなければ
ならないだろう。まぁ、なんだ。好きな子の為となれば多少のやる
気が出るってもんだ。
﹁困りましたね。オストマルクもシレジアも重婚は法律違反ですか
ら⋮⋮﹂
﹁だからフィーネが諦めて﹂
﹁いえ、私と結婚した方がユゼフ少佐のためになります。伯爵家の
義理の子供となるのですから、文字通り﹃伯﹄がつきます﹂
﹁で、でも私の方が先に⋮⋮!﹂
﹁先とか後とかは関係ありませんよ。事、恋愛に関しては。それと
もマリノフスカ少佐は、もし私が先にユゼフ少佐と会っていたら、
彼の事を諦めるんですか?﹂
﹁⋮⋮ッ。そんなわけない、わ!﹂
﹁なら、それは私も同じこと⋮⋮﹂
街のど真ん中で、俺を挟んで喧嘩する2人。お察しの通り周囲か
らの目は痛い。無論、俺が浮気野郎で加害者でクズという目で見ら
れているわけだ。いや、実際その通りなのだけど。
結婚云々の前に、この2人の仲をどうにかする方が先かな。
2203
街中でこのような喧嘩をいつまでも続けるわけにもいかず、気が
進まないながらも周囲からの痛い視線を浴びるよりもマシというこ
とで、俺たちは軍務省・情報省へと足を急ぐのである。
⋮⋮いや本当、これどうすればいいんでしょ。
2204
情報省第四部︵前書き︶
番組の最後に重大なお知らせが!
2205
情報省第四部
オストマルク帝国情報省、その歴史は1年にも満たない。間違い
なく大陸で最も若い中央省庁である。
同国内務省と資源省の不正事件によって皇帝陛下からの直々の設
立勅許と軍務省の協力を経て設置されたこの省のメンバーは、やは
り内務省、資源省、軍務省、外務省の各省情報部門から信頼できる
人間、事件に不関与だった人間を抽出している。
内部分裂が少し怖いが、だからと言って新規採用を大規模に行え
ると言うわけでもない。
﹁まぁ心配してくれるのはありがたいが、これでもかなり厳選して
いる。それに士官学校情報科卒業生は優先的にこっちに回すよう、
軍務大臣ヴァルトハウゼン伯には色々圧⋮⋮要請しているからね﹂
と、情報大臣ローマン・フォン・リンツ伯爵閣下から色々な意味
で重要な答えが返ってきたのである。
﹁フィーネさんもその口なんですか?﹂
﹁そうさ。フィーネは情報科首席卒業だからな、引く手数多だった
よ。軍務省諜報局やら帝国軍統帥本部参謀部やらと、色々要請があ
ったと聞いているよ﹂
あらフィーネさんモテモテ。ちなみに帝国軍統帥本部というのは
軍令を司る機関だ。シレジアにおける総合作戦本部、東大陸帝国に
おける軍令部、カールスバートにおける作戦本部に該当する。
でも彼女が卒業する時、既に情報大臣に内定していたリンツ伯を
2206
押し退ける程に政治力を持った人間は他に居なかったようで、彼女
は情報省第一部所属の武官となったわけである。
なお現在この場、情報大臣執務室にはフィーネさんやサラさんは
いない。なぜって、面倒なことになるからだよ。結婚とか結婚とか
結婚の話で。フィーネさんとサラさんを2人きりにするのは些か不
安だがまさか殴り合いの喧嘩をするわけもなし。
その代わりと言ってはなんだが、リンツ伯の傍らには見たことの
ある気持ち悪い笑顔を浮かべている男がいる。場所が場所なら迷わ
ず官憲を呼んでた。
﹁君も我が国で仕事をしないかい? 一日中民衆に石を投げられ、
石が目に当たっても痛がりもせずじっとしているだけの簡単な仕事
とかどうだろうか?﹂
﹁そんなに暇じゃないので、お断りします﹂
カールスバート内戦を経て知己を得てしまったヘルベルト・リー
バル共和国軍中将。一度書類上の死を経験し、名前をクルト・ヴェ
ルスバッハに変えた彼は、内外で工作活動を行う部局である情報省
第四部の部長として就任した。
そして俺に変な笑顔を向けてくる。やめてほしい。背筋が寒くな
る。
﹁そうか。まぁ気が向いたらいつでも言ってほしい。私はいつでも
歓迎だぞ?﹂
だから嫌だって。
顔は笑っているが彼は恐らくだいぶ根に持っている。それほどの
ことをしたのだから自業自得、生きていることを喜んでほしい。
2207
本来であれば、女子供容赦なく皆殺しにしたヘルベルト・リーバ
ル中将は名誉も何もなく処刑されるはずだった。だが恐怖政治の申
し子であるこの人物より謀略・工作能力が秀でている人間を知らな
い。情報の専門家たるリンツ伯とタッグを組めばそれはそれは恐ろ
しいことになるだろう。
そういう算段で彼を生かして、リンツ伯の下で使ってもらおうと
したわけである。面倒事を押し付けたとも言う。その甲斐あって、
東大陸帝国前内務大臣ユスポフ子爵とその家族は無事不慮の事故死
を遂げている。
﹁ともあれやはり私は戦場で軍を率いるより、こうやって机の上で
他人を掌で踊らせるのが好きなようだ。こんな職場をくれたワレサ
少佐には感謝こそすれ、恨みつらみを晴らそうなどとは思わんさ﹂
﹁それはどうもありがとうございます﹂
今後もリンツ伯の下で色々とやらかすのだろう。というか、既に
やらかしているのだろうけど。
﹁ヴェルスバッハ部長の帝国に対するご献身ぶりは聞き及んでおり
ますよ。今回の第七次戦争でも開戦の大義名分を作ることに成功し
たとかなんとか﹂
﹁ん? フィーネはそこまで報告したのかい? 対外的には良いも
のではないからあまり喋るなと言っておいたのだが﹂
俺の言葉に対して、リンツ伯は眉に皺を寄せる。その言動、一挙
手一投足が、俺の言葉が事実だと言っているようなものなのだが、
リンツ伯はそれよりもフィーネさんの機密意識の低さを心配してい
る。でもそれは杞憂と言うものだ。
2208
﹁フィーネさんは閣下の忠告には忠実でしたよ。この件については
自力で調べました﹂
﹁ほう?﹂
別に伯爵が疑問に思うことはないと思いますがね。
開戦の契機となった、ハドリアノポリスでのオストマルク商人斬
殺事件。その背景について、色々調べた結果の結論なのだ。という
のは﹁もしも東大陸帝国が策謀した結果だったら?﹂という懸念が
なくはなかった。
そう言うわけで調べてみたのだが、意外なことにサックリと解決
した。1週間くらいを覚悟していたのだが、2日で概要を掴んでし
まったのだ。
﹁ハドリアノポリスで殺されたオストマルク商人、5年前に密輸の
罪で公爵領の警備隊に拘束されてましたからね﹂
交易都市クラクフならではである。もっとも密輸商品は貴金属だ
の宝飾品だのと言う生易しいものではなく、武器だったのである。
具体的にはオストマルク産の弓矢、槍先など数千本。それらを東大
陸帝国へ密輸しようとクラクフを通ったところで捕まったのである。
しかし、3年前のオストマルクはまだ純然たる仮想敵国だ。その
国の商人を処断する事については政治的な配慮があり、無傷で強制
送還となったそうだ。
﹁なるほど、よく調べているね。それとも公爵領の総督を褒めるべ
きかな?﹂
﹁総督を褒めてやってください﹂
2209
何せブラックリストが作られていたからな。
まぁ、これで終われば単なる密輸事件だった。だがこの密輸事件
で問題なのは時間と場所だ。3年前、つまり大陸暦635年、俺た
ちがまだ士官学校に居た頃。
先ほど言った通り、商人は東大陸帝国へ武器を密輸しようとして
いた。でも当時は反シレジア同盟は健在で、東大陸帝国とオストマ
ルクの関係は良好だったはず。なのに商人は仮想敵シレジアを経由
したのだ。
ここからは単なる予想だけど、この時から既にオストマルク外務
省は反シレジア同盟、特に東大陸帝国に懐疑的だったのだろう。だ
から水面下で交易を制限するような策を取っていたとしてもおかし
くはない。それを察知した商人が直接東大陸帝国に運ぶのを止め、
シレジアを経由することを選んだのだろう。
そして捕まった。強制送還された。
﹁それでもって武器密輸商人をいつか利用できると考えどこぞの調
査局さんが監視して、そして今回ハドリアノポリスへ武器密輸をさ
せた。そして当地で両者を煽って開戦の大義名分とした。概略とし
てはこんなのだと想像しますが、どうでしょう?﹂
ほとんど証拠はない、単なる妄想である。間違っている可能性は
大いにあった
Fly UP