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心を持ったロボットを作るとはどういうことか
䣔䣕䣌䢴䢲䢳䢴䣃䣅䢶䣐䢴䢯䢺 心を持ったロボットを作るとはどういうことか ○小山虎 (大阪大学) 1. はじめに 本稿では哲学とロボット工学の接点となりうる「心」 に関して、ロボット工学がどのような役割を果たしう るかについて検討する。以下、第 2 節で心に関する哲学 の現状と認知科学の関係について説明する。第 3 節で は、それを踏まえて、現状のどこに問題があるのかを 注意(attention)を具体例として論じ、それを解決す る方法として、心の社会性に注目する方針を紹介する。 2. 心の哲学と認知科学 心の哲学は哲学の一分野であり、その主要な研究テー マは心の本性の解明、つまり、 「心とは何か」という問 題である。心の哲学において現在主流となっている考 え方は機能主義と呼ばれるものである。それによれば、 心とは人間が持つある特定の「機能」のことである。こ こでの「機能」は、入力に応じて一定の規則に従って 内部状態を変化させ、それに応じた出力をおこなうも の、として特徴づけられる。 心の哲学において機能主義が広く受け入れられてい ることの理由のひとつに、認知科学との密接な関係が ある。認知科学とそれ以前の心理学との違いは、内部 状態のモデルを立てることである。認知科学以前の心 理学の主流は行動主義であり、行動主義では研究対象 が観察可能なものに厳しく限定されていた。これは、当 時からすればまったく謎めいたものである「心」とい う概念を用いることなしに心理学的研究をおこなうと したせいであり、その意味では健全な態度だったと言 えるだろう。それに対し、認知科学では観察可能な入 出力に加えて、その入出力を制御するメカニズムに関 する仮説を立て、実験によって検証するという手法が 一般的である。 このことは、 「認知」という語に注目すれば理解しや すい。認知は心の働きの一種であり、特に主体の外部か ら情報を得ることが重要な要素であると考えてよいだ ろう。よって、 「認知」についての科学という観点から すれば、感覚器官から入ってくる入力を処理するメカ ニズムが探究すべき対象となると考えられるのである。 このような過去の心理学と一線を画す認知科学が大 きく広まり、現在では認知科学の方法論を採用する心 理学が主流となっていることは、説明を要しない周知 の事実であろう。 機能主義の観点からは認知科学は次のようなものと して理解できる。もし認知科学が探求しているメカニ ズムを「機能」を明らかにするものとして理解し、加 えて、認知を心の典型的な機能だとみなすならば、認 知科学の方法論はまさに機能主義に基づいていること になる。認知科学の成功を考慮すれば、「心とは何か」 という問題に対し、認知科学は大きな貢献をしている はずである。機能主義に従い、心を機能とみなせば、認 知科学の成功をうまく説明できるのである。 ᪥ᮏ兑兀儧儬Ꮫ➨䢵䢲ᅇグᛕᏛ⾡ㅮ₇凚䢴䢲䢳䢴ᖺ䢻᭶䢳䢹᪥ࠥ䢴䢲᪥凛 また、認知科学では、認知は情報処理モデルで理解 されることが一般的である(最近ではそうでもないが、 これについては後述)。すなわち、入力からもたらされ る情報をエンコードした内的表象(あるいは記号)が 計算論的に操作され、その操作の結果として得られた 内的表象に応じた出力がおこなわれる。これは要する に、 「心はコンピューターである」ということだと理解 できる。これを文字通りに解釈する機能主義(「機械機 能主義(machine-functionalism)と呼ばれる)は、機 能主義の最初期の形態でもある。 3. 心の本性の解明にとってロボットで何が できるか 心の本性の解明という心の哲学の課題にとってロボッ ト工学が大いに貢献しうると考えられる理由のひとつ は、認知の情報処理モデルはロボット工学と親和性が高 いことである。人間の認知機能が何らかの情報処理機 能なのであれば、同じ機能を実装すればその認知機能 を持ったロボットが作れると考えるのは自然なことだろ う。これは机上の空論ではない。実際、ロボットの視覚 的注意(visual attention)では、特性マップ(feature map)と顕著性マップ(saliency map)を使ったものが 広く見られるが、これは認知科学での選択的注意の研 究に端を発するものである。最初に視覚認知科学にお いて理論が提唱され、次にそれに基づいた計算論的モ デルが作られ、その後それを実装したロボットが制作 されている。 まず、1980 年に A. M. Treisman により、特徴統合理 論(feature integration theory)が提唱される [1]。こ の理論によれば、視野内の情報は、最初は色や輝度な どの特性毎に複数の特性マップへと並行的に処理され、 それを統合することにより別のマップが作られ(位置 マップ(map of location)と呼ばれていた)、それに より注意が向ける対象が選択される。特徴統合理論に 基づいた計算論的モデルの登場はほぼ同時期といって よい。1985 年に C. Koch らが提案した計算論的モデル は、複数の特性マップとそれらを統合したマップを持 つ(この論文では後者は「顕著性マップ」と呼ばれる ようになっている)[2]。ロボットへの実装についても それほど時間はかからず、1988 年におこなわれている [3](詳しくは [4] を見られたい)。 これは認知科学とロボット工学の関係として成功し ているように見える。特に、最初に認知科学的モデル が提案され、次にそれに基づいた計算論的モデルが作 られ、それが実際のロボットに実装されるという流れ は、理想的であるかのようにすら思われるかもしれな い。このことは、ロボット工学だけに目を向けるなら 正しいのかもしれない。しかし、心の本性の解明とい う観点からすれば、実はまったく満足なものではない。 䣔䣕䣌䢴䢲䢳䢴䣃䣅䢶䣐䢴䢯䢺 3·1 注意の認知科学 注意に関する科学的研究では、W. James の言葉が引 かれることが多い。James は、注意がどういうものか は誰もが知っていることだと考え、その本質は意識の 焦点を定めたり、意識を集中することだと考えた [5]。 このような注意の理解はまったく問題ないように見え る。しかし、それから半世紀以上後、特徴統合理論を 提唱した Tresman は、「意識の焦点を定めること」の ような注意の定義に従った心理学的研究は不毛であり、 結論の出ない論争に終始していると述べている [6]。実 際、James の特徴付けにとらわれない理論がいくつも 提案されている(Tresman 自身もその後、特徴統合理 論も提唱している)。 理論がいくつも提案されることは科学として健全な 状態であろう。しかし、残念ながら、そういった理論の どれかが支配的になったとは言えない。大きな理由は、 ひとくちに注意といっても様々であることが明らかに なったことである。例えば、注意が向けられるのが視 野内のある一点であることもあれば、もっと広い範囲 に向けられることもある。また、程度を許す注意もあ ればそうでない注意もある。それ以外にも、意識的に 注意をむけることとと無意識に注意を向けることもど ちらもある。さらには、注意ということで時間幅のあ るプロセスを考えるのか、ある対象に注意が向くとい う出来事(事象)を考えるのか、それとも注意が向いて いるという状態を考えるのか、という違いもある。注 意にはこのような様々なバリエーションがあり、しかも それらが様々な機能を持つとみなしうることを考える と、注意の本性を明らかにするという試みに悲観的に なるのも無理はないだろう。実際、D. A. Allport は、 注意に関する現象すべてに適用できるような一様な計 算論的機能はなく、注意などといったものは存在しな いのではないかと思えてくる、と論じている [7](注意 研究に関する以上の状況については、[8] を見よ)。こ のように注意が定義を与えるのが難しい現象だと考え られていることは、現在でも大きくは変化していない と思われる(例えば、[9] を見よ)。 このことが示すのは、注意という認知機能の解明に とってし、ロボット工学がたいして貢献していないと いうことである。機能主義の観点からすれば、特徴統 合理論は、注意という認知の一形態がどういう機能か についての理論である。よって、同じ機能がロボット に実装され、しかもそれが人間の注意と変わらないも のであれば、注意の理論としての特徴統合理論が実証 されたと言ってよいはずである。ところが、事実ロボッ トへの実装は競合説への大きなマイナス要因にはなら なかった。 これは単に、認知科学者や哲学者がロボット工学での 成果を無視したからというようなことではなく、本質 的な問題があると思われる。それは、ロボットへの実装 が理論の検証に当たるかどうかを評価することが難し いことである。ロボットへの実装を工学的観点から評価 することには何の問題もない。しかし、認知科学あるい は哲学的観点から評価するには、対象としている認知 機能(この場合は注意)がどのようなものであり、何が できればその機能を持っているかが分かっている必要が ある。しかし、分かっているのは 人間の機能としての ᪥ᮏ兑兀儧儬Ꮫ➨䢵䢲ᅇグᛕᏛ⾡ㅮ₇凚䢴䢲䢳䢴ᖺ䢻᭶䢳䢹᪥ࠥ䢴䢲᪥凛 注意である。同じ機能を持っているかどうかを検証す るには、他の条件を揃える必要があるが、人間とロボッ トは注意以外の機構が大きく異なるがゆえに条件を揃 えて比較することはできない。言えるのは、人間の注 意と同じ機能を実現している「ように見える」という ことまでである。 このことは、機能主義を前提にしたままでは、ロボッ トを用いて認知、ひいては心の本性を解明するという 課題を達成するには大きな障害があるということを示 している。 3·2 身体化された認知とその限界 この障害をクリアすることは別に難しくないと思わ れるかもしれない。特に、認知を機能や情報処理モデ ルとしてとらえることは、今日では「古典的 AI」と呼 ばれるひとつのプログラムに過ぎず、むしろ認知を「身 体化されたものとして」とらえるプログラム(これは 「身体化された認知(embodied cognition)」と呼ばれ ているものである)が認知科学の内外で大いに存在感 を増していることを知っていれば、単に古典的 AI の限 界を示しているにほかならないように見えるかもしれ ない。 身体化された認知によれば、認知とは、古典主義者 が考えるような、認知主体から切り離された外部から の入力に反応して主体の内部でおこなわれる計算過程 ではなく、主体が為す目的を持った行為とそれに対す る周囲の環境の反応、そしてその反応を観察すること から生じるフィードバックとして理解されるべきもの である。すなわち、認知は環境とその中の主体のカッ プリングによって実現されているものであり、どうい うタイプの認知が生じているかには主体の身体がどの ようなものであるかに大きく依存するようなものなの である。 また、このような認知のとらえかたの源泉のひとつ がロボット工学である(R. A. Brooks の包摂アーキテ クチャ(subsumption))ことを考えれば、ロボットを 用いて認知の本性を解明するには、このアプローチを 採用するもは極めて自然であるように見えるだろう。 しかし、身体化させた認知によってこの障害がクリ アできるという考えは誤りである。そもそも機能主義 は古典的 AI と同じものではない(古典的 AI は機能主 義の一バージョンに過ぎない)。むしろ逆に、身体化さ せた認知に従えば、人間とロボットを条件を揃えて比 較するのはさらに難しくなる。環境をまったく同じに したとしても人間とロボットは身体が異なるので、生 じる認知にかかる制約も異なってくるからである。こ の場合でも言えるのは、やはり、人間と同じ認知をし ている「ように見える」に留まるのである。 3·3 心の社会性 もちろん、人間と同じ認知をしている「ように見え る」だけでも工学的には十二分に素晴らしいことであ ろう。しかし、本稿の目的は、ロボット工学の範囲を 越えて心の本性の解明に至るにはどうすればいいかを 検討することである。 身体化させた認知の重要な洞察は、認知が主体単独 で成立するようなものではなく、適切な環境とカップ リングされて初めて成立するというものである。しか 䣔䣕䣌䢴䢲䢳䢴䣃䣅䢶䣐䢴䢯䢺 し、認知や心の本性の解明にとっては、さらに、解明 されるのは われわれ人間が持っている 認知や心の本性 であり、解明するのもわれわれ人間である という点も 忘れてはならない。どれだけ高性能なロボットを作り、 それが特定の環境では高度な認知らしきものを実現し ているように見えたとしても、われわれ人間がその環 境で同じ認知を実現できることが、われわれ人間の観 点から見て判明しなければ、そのロボットよっておこ なわれていることは、まさに目標とされている認知で あるかどうかは分からないのである。 このことが意味するのは、認知や心がある種の社会 性を必要とするということである。すなわち、認知や心 は、われわれ人間を含む環境とカップリングされ、その 環境においてわれわれ人間が実現している認知を同じ ように実現している必要があるのである。言い換えれ ば、もし実際にそのように認知を実現しているロボット を作ることができれば、そのロボットはわれわれ人間と 同じ意味でその認知を実現していると言ってよい。なぜ なら、これはまさにわれわれが他人が心を持っているこ とを確認するときと同じことだからである。このよう なロボットが 本当に 認知していると言ってよいかは明 らかではないと思われるかもしれないが、もしそれは他 人が心を持っているかどうかが明らかではないのと同 じ意味で明らかでないのなら、別に問題にならない。そ のロボットの認知や心は われわれ人間と同じレベルで 実現していることになるからである。 また、解明が目指されているのが、人間と動物 がど ちらも持っているような認知の本性なのであれば、こ のような社会性は不要となる。われわれ人間が動物に 対して認知を認める場合と同じ環境で同じことができ るロボットを作ればよいからである。さらに、人間の 大人と子供 がどちらも持っているような認知の場合も 同様であろう。認知に含まれる現象の中にそのような ものが含まれることは否定しない。しかし、認知の全 体像、あるいは心そのものの本性の解明にとっては、人 間と同格の存在を作ることによって理論を検証する必 要がある。 最後に、以上の議論と心の哲学に関して論じておき たい。認知や心の社会性について、上記のようなとら えかたが正しいのならば、機能主義からは一歩踏み出 すことになると思われる。なぜなら、そのロボットに よって目標となっている認知機能が実現されたかどう かは、そのロボットと同じ環境に同じような身分で埋 め込まれた観察者によって発見されることであり、純 粋に機能そのものによって決まるとは言えないからで ある。むしろ、 「心的状態の内容は第三者からの解釈に よって規定される」という Davidson 流の解釈主義に分 類されるべきものだと思われる(具体的には、[10] で 論じられている「三角測量」を念頭に置いている)。 4. 結論 本稿では、心の本性を解明するという哲学的課題に ついて、ロボット工学がどのような役割を果たしうる かを検討した。結論としては、ロボット工学は認知お よび認知科学を媒介にして心の哲学と結びついている。 従来の認知科学のプログラム(身体化された認知も含 めて)に依拠する限り、われわれ人間がもっている心 ᪥ᮏ兑兀儧儬Ꮫ➨䢵䢲ᅇグᛕᏛ⾡ㅮ₇凚䢴䢲䢳䢴ᖺ䢻᭶䢳䢹᪥ࠥ䢴䢲᪥凛 の本性を明らかにするには至らないが、ロボットとわ れわれ人間が同格の存在として含まれる環境において その環境に含まれている人間によって認められるので あれば、そのロボットはわれわれ人間と同じレベルで 認知や心を実現していると言える。 謝辞 本稿は大阪大学グルーバル COE「認知脳理解 に基づく未来工学創成」での経験なしには作成するこ とは不可能であった。関係者各位に感謝する。特に、本 稿で論じた問題を著者に教示していただき、何度も議 論の相手になっていただいた一橋大学の井頭昌彦氏に は深く感謝する。 参考文献 [1] A. M. Treisman and G. Gelade: “A feature integration theory of attention”, Cognitive Psychology, vol. 12, pp. 97-136, 1980. [2] C. Koch and S. Ullman: “Shifts in selective visual attention: towards the underlying neural circuitry”, Human Neurobiology, vol. 4, no. 4, pp. 219-227, 1985. [3] J. J. Clark and N. J. Ferrier: “Modal control of an attentive vision system”, Proc. of the 2nd Int. Conf. on Computer Vision, Tampa, Florida, USA, 1988. [4] S. Frintrop, E. Rome, and H. I. Christensen: “Computational visual attention system and their cognitive foundations: a survey”, ACM Transactions on Applied Perception, vol. 7, Issue 1, 2010. [5] W. James: The Principles of Psychology, Harvard University Press, 1890. [6] A. M. Treisman: “Selective attention in man”, British Medical Bulletin, vol. 20, no. 1, pp. 12-16, 1964. [7] D. A. Allport: “Attention and control. Have we been asking the wrong question? A critical review of twenty-five years”, In D. E. Meyer and S. Kornblum (eds.): Attention and Performance XIV, The MIT Press, pp. 183-218, 1993. [8] S. Watzl: “The Nature of Attention”, Philosophy Compass, vol. 6, no. 11, pp. 722-733, 2011. [9] C. Koch and N. Tsuchiya: “Attention and consciousness: two distinct brain precesses”, Trends in Cognitive Science, vol. 11, no. 1, pp. 16-22, 2006. [10] ドナルド・デイヴィドソン (著), 清塚邦彦 (訳), 柏端達 也 (訳), 篠原成彦 (訳): “三種類の知識”, 『主観的、間 主観的、客観的』, 春秋社, pp. 317-339, 2007.