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牛女牧場∼搾乳体験始めました

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牛女牧場∼搾乳体験始めました
牛女牧場∼搾乳体験始めました
桃原 百合子
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
牛女牧場∼搾乳体験始めました
︻Nコード︼
N9820BC
︻作者名︼
桃原 百合子
︻あらすじ︼
中絶反対の産婦人科医、永山陽一郎は自身の小さすぎる性器で女
に馬鹿にされてきた。
そんな女のプライドをズタズタに痛め付けたい願望に悩まされてき
た。
そこでひょんなルートから中絶不可能まで放置したり、表に出られ
ない女達を[牛女]として多額の現金を払って引き換えに飼育する
1
事にする。
金に目が眩んだ女は子供を孕み続け、男達も多額の金を払って永山
の牧場生活を満喫していく⋮⋮⋮
と言う設定で始まる恋愛小説です。
2
私の性欲の満たし方︵前書き︶
かなり不快な内容かもしれません。すみません。
3
私の性欲の満たし方
﹁こんなに可愛い赤ちゃんを⋮⋮本当に何と言ったらいいか⋮﹂
そのご夫婦は目に涙を溜めて私に深々と一礼されました。
﹁四十半ばにて不妊治療を諦めた我々がこうして我が子を抱けると
は思いませんでした。血は繋がっていなくたって大事に大事にさせ
て頂きます﹂
ご主人も嗚咽を堪えておられるのか声は震え、目は真っ赤です。
﹁この子は生後1週間足らずで、私の産院に来ました。正確には⋮
⋮産着1枚で夜中の内に放り込まれたと言うのが正しいです。でも、
まだ親の良心があったからこそこうして受け入れてくれる家庭に巡
り逢えたんだと思います。お子さんが大きくなってもし、真実を告
げられるのであれば、実の親への恨みでは無く、お子さんへの愛情
を語ってあげて下さい﹂
﹁子供を捨てるのが良心ですか⋮⋮﹂
﹁ええ。日本人の一番の死因は自殺でも癌でもなく、人口中絶なん
です。勿論、死ぬのは母体ではありません。私は⋮⋮少子化が騒が
れているのに中絶が増える。育てられなくても産むだけ産んだら、
後は私達が全てサポートする様に、と促しています﹂
﹁最初は随分とマスコミでも騒がれましたが、⋮⋮先生は正しいと
思います。応援しています﹂
﹁正しい⋮⋮のかな、有難うございます。不妊治療をやめられて私
共の里親制度で里親になられた方のサークルやお茶会なんかもやっ
てるんです。パンフレットが受付にございますのでよろしかったら
是非﹂
そんな会話を暫くして、小さな命は泣いて喜んでくれる親と旅立っ
て行きます。
4
赤ちゃん受け入れ口と題した、そこには週に1人入るかどうかです。
でも、里親希望者は毎週3∼5組訪れるので、基本は審査を経て待
機されているご夫婦は2桁に上ります。
性別はともかく、赤ちゃんの年齢を余りにも気にする︵1歳超えは
嫌だとか︶里親は要注意です。
ペットショップに来ている感覚なのでしょう。
赤ちゃんルームで寝たりぐずったりしてるベッドの赤ちゃん達を見
回し、看護士さんに引き継いで私の本日の仕事は終わりです。
お察しかもしれませんが、私の家は3代続く産婦人科で、弟と2人
で経営しております。
実際は弟が院長をして里親の方は私が責任者として担当している感
じです。
勿論、産婦人科が忙しくなれば私も弟を手伝いますが、他にも医師
は常駐しておりますし、私には⋮上手い言い方が出来ませんが、秘
密の仕事があります。
そこに今から行かねばなりません。
5
続・私の性欲の満たし方︵前書き︶
無駄話満載です。
まとまり悪くてすみません。
6
続・私の性欲の満たし方
そこは都心から車で2時間程、東京のイメージとは程遠い東京の外
れの山の麓です。
廃屋なんかも結構あって、人が道を歩いているとお互いビックリす
るくらいの人気の無さ、それも廃墟マニアと思しき人間が迷い込む
程度です。
そこに私は数年前に別荘を建てました。
平屋で、別に豪邸でも何でもないのですが、地下に工夫を凝らしま
した。
地上は平屋の普通の2LDK、そこに3LDKマンションの間取り
が地下にある、と想像して頂ければ解りやすいでしょうか。
元々、私は休暇を自然の豊かな所で過ごす⋮⋮為に別荘を買ったの
ではありません。
下品な話ですが、オナニーの為に買ったと言っても過言ではありま
せん。
最初はハプニングバー的なSMクラブみたいなのを考えていました。
その話を高校の悪友の高浜武志に語ったところ、せっかくお前は産
科医なんだからもっと面白い事しようぜ、来週ちょっと何人か連れ
て来るからさ、と怪しげな話を持ち掛けられ、大きく使途が変わる
事となりました。
彼は私と同じ男子校の人間でしたが、目立つ容姿をしていて合コン
からナンパからクラブイベント関連に専ら精を出していて、子供の
頃から医者を目指すレールに乗っていた私からすると別次元の人間
でした。
7
かと言って、成績は悪くなく、運動も出来るのですが、何故か奥手
の私に親しくしてくれて、
﹁俺みたいなチャラいのより、
お前みたいな品のいいのがいた方が女の子も安心するんだよ﹂と良
く女の子を宛てがってくれるのですが、私には誰にも言いたくない
コンプレックスがありました。
ペニスが小さすぎるから、セックスが怖かったのです。
最大勃起時で女性の小指より短いのですからね。
煮え切らない私に苛立つのか、女の子がリードしてキスからハグま
では行くのですが、その後が続かないのです。
それでも、自分を好きになって告白してくれた女の子は大切にしな
いと、とは思うのですが、なかなかセックスに至らないので、猛ア
タックしてくれた女の子が私の煮え切らなさを遊び以下の扱いだ、
大切にしてくれないと誤解して去っていくパターンが年に数回はあ
りました。
でも二十歳の時に一回だけ、私はサークルの女の子を本気で好きに
なって、向こうも私を偶然にも好きと言うことで、交際が始まりま
した。
お嬢様イメージの強い女子大の子で、化粧も薄く、少しふっくらし
ていて性格もほんわかした感じの子でした。
いざ付き合ってみると、彼女が欲しくて堪らなくなりました。
母性本能が強いのか、よく
﹁おっぱいの時間ですよー﹂
と、カラオケや個室のレストランで私におっぱいを吸わせて頭を撫
でていました。そしてついスカートの中を触ってしまった事で私も
彼女が母性本能だけでなく、性的にも感じていた事が解りました。
そして私はラブホテルに勇気を出して誘い、チンコ小さいけどどう
か笑わないで欲しい事を伝えると、彼女は恥ずかしそうに笑って頷
きました。
しかし、いざ裸になると彼女は豹変しました。
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﹁ホントにちっさーい!﹂
と明るく言ってましたが目は笑っておらず、どちらかと言えば落胆
や怒りや侮蔑まで見え隠れしていました。
﹁とりあえず入れてみてよ﹂
と、申し訳なさに必死に知識だけで前戯をしている私にそういうと
仰向けに脚を拡げて寝そべります。
処女かどうかなんて考えた事もありませんでしたが、その小陰唇の
はみ出した左右非対称さやピンクと言うより黒ずんだ臙脂色に何だ
か悲しくなったのを覚えています。
﹁じゃあ⋮入れるね﹂
そんな惨めな扱いをされても、若かった私は悲しい事に痛いくらい
に勃起していました。
スキン越しに初めての肉襞の感触に感動していると、
﹁ねぇ、入ってる?﹂
と彼女に聞かれ、一気に萎えてしまいました。
﹁ごめん⋮⋮ホントにごめんね﹂
﹁え、あ⋮⋮私こそ失礼だったよね、あはは﹂
﹁俺、ちょっと風呂入って来ていい?﹂
﹁え?うん⋮⋮﹂
風呂じゃなくてトイレでも良かったんですが、とにかく彼女の目の
前にいるのがいたたまれなかったのです。
シャワーを浴びると、涙が出て来ました。
自分に合う性器の女の子はいるんだろうか、もしいたとしてもどう
やって巡り会えばいいんだろう⋮⋮何より彼女を満足させるにはど
うすれば⋮⋮⋮
するとシャワーの水音の向こうで、声がします。
テレビでも点けたのかな?と少しバスルームの扉を開けると、彼女
が誰かと会話をしていました。
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他人の電話に聞き耳は良くない、と閉めようとした時に
﹁いやーマジでポークビッツだったんだって!ありゃ見かけに騙さ
れるとダメだねー、誕生日プレゼント貰ったら別れてタカヒロと付
き合っちゃおうかな﹂
とまくし立てる彼女がいました。
自分の中で何かが切れました。
体も拭かずに私はベッドの上で下着姿の彼女の元にズカズカ行って、
携帯をはたき落としました。
﹁きゃっ⋮⋮何!?﹂
すると携帯から
﹁おーい、どうしたー??﹂
と聞こえるので、見ると﹁タカヒロ﹂の文字が見えました。
﹁俺の事⋮⋮﹂
﹁え、ただの地元の友達に電話してただけだって!﹂
﹁友達⋮⋮と付き合うのか?﹂
自分でもビックリする様な冷たい声が出ました。
﹁何?盗み聞きした訳!?﹂
﹁俺は聞きたくなかったよ﹂
﹁だってさぁ、あんた全然うちの事解ってないんだもん!﹂
うち⋮⋮?
それが彼女の家庭とかでなく、一人称だと言うのを認識するまでに
かなり時間が掛かりました。
﹁言いなりになればいいと思ってんの?顔がいいからって怠けない
でよ!!﹂
﹁意味が解らない⋮⋮君が喜んでくれると思って頑張ってたつもり
だったんだけど﹂
﹁いい店連れてって欲しい物買ってやれば満足すると思ったの?さ
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っすがボンボンって感じ、うちが欲しかったのはそんなんじゃない
し!!﹂
﹁でも⋮⋮欲しがったよね⋮﹂
﹁それ以外あんた何もないじゃん!エッチだってそんなんじゃ全然
気持ち良くないし﹂
それは⋮⋮そうだが、色々腑に落ちず、私の中で何かが沸々として
きました。
﹁ほらね、反論出来ないでしょ!?もう帰っていい?終わりにしよ
って事で﹂
﹁別れるって事⋮⋮﹂
﹁はぁ?言わせないでよ、大体がキープだったんだし!﹂
そう言って、携帯を拾うと
﹁タカヒロ聞いてたでしょ?今からそっちへ行ってもいい?﹂
とまくし立てました。
電話の向こうでギャハハハハと言う笑い声が聞こえ、私は一瞬息が
出来なくなった後に携帯を取り上げ、床に投げつけてしまいました。
﹁ちょっと何すんのよ!?壊れたら⋮﹂
そういう彼女をベッドに押し倒し、自分と彼女のジーンズのベルト
を電光石火の勢いで取り外して、彼女の両手をベッドの枕元の格子
に括り付けました。
自分でも内心、押し寄せた感情の激しさにビックリしていましたが、
その衝動は絶望から猛ダッシュで逃げる様な妙なスピード感を伴っ
て私を支配しました。
﹁何なの!?殺さないで﹂
﹁殺すかよ﹂
何故か私は自分が笑顔になっているのが解りました。
さっきまでは緊張で見えなかったもの、アダルトグッズの自販機や
冷蔵庫が目に入りました。
暴れ喚く彼女を横目に、財布を取り開くと明らかに半数以上の札が
抜き取られていました。
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私は携帯をそっと取って、録音のスイッチを押します。
﹁入れていたお金が無くなってる⋮⋮疑うのは悪いけどさぁ⋮⋮﹂
﹁か、返す!返すから帰らしてよ!お願い!!﹂
﹁今まで彼氏気分で浮かれさせてくれたお礼って事なの?﹂
﹁何で笑顔!?﹂
﹁自分でもよく解らない。多分、怒りを通り越したのかな﹂
﹁盗ったのは返すから!﹂
何か、もういいや。
私は携帯の録音をそっと終了させました。
アダルトグッズの自販機にお金を入れて片っ端からボタンを押し、
またお金を入れて全品買い占めました。
それをサイドボードに並べ、眺めてみました。
﹃極太絶頂肉棒﹄
﹃ラブピュッピュ﹄
﹃悶絶乳首クリップバイブ﹄
﹃クリ泣かせ!スーパーバイブのラブリーローター﹄
﹃ヌルヌレローション﹄
﹃ビッグアナルビーズ﹄
等など十数点、何だかすごいネーミングが並びました。
彼女はまだ泣き喚いていましたが、騒がしいので彼女の淡いピンク
に黒レースのパンツを丸めて口に押し込み、ストッキングを猿轡代
わりに噛ませるとモゴモガ苦しそうで、ちょっと可哀相かなと思い
つつ何故か裏腹に興奮してしまいました。
まず、ヌルヌレローション。
余りにドロドロで触るのも躊躇われた為、彼女の脚を拡げて陰部に
直接ドレッシングの様にかけました。
陰毛がペッタリ張り付き、シーツにドロドロの水溜まりが出来まし
た。
思わず、その細長い容器ごと彼女の膣に突っ込み、一気に搾り出し
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ました。
﹁んんんんぁあぁあぁあ!!!!﹂
気持ち良い訳はないと思いますが、アナルやお尻に漏れ出たローシ
ョンが伝って行く様は悪くありません。
180mlのローションの半分以上を注ぎ、一気に引き抜くとゴプ
ッと言う音と共に大量の透明なローションが吐き出されました。
まだ中に大量に入っているのは解るのですが、暴れて蹴ろうとして
くる足首を持ち上げ、すかさず次の極太バイブをそこに突っ込みま
す。
﹁いぃいいあぁあぁ!!!んんんんんがぁぁ!!!!﹂
涙と汗でグッチャグチャの顔、目に違和感が⋮?とよく見ると、付
け睫毛が取れています。
見抜けない経験の浅さを歎くより、自分が好きだったのとは顔も性
格も全然違う、別人な気がしてきました。
じゃあ今度は、と手を伸ばすとアナルビーズが手に当たりました。
面白そうですが、なかなかローションのヌメリが裏目に出て、入っ
てくれません。
なので洗面所にあった2本の歯ブラシの柄や綿棒を使い、アナルを
拡げ一気に突っ込みました。
また凄まじい叫びが聞こえますが、もう慣れていて気にはなりませ
ん。
するとローションの所為か腸が少し圧迫されたからか、極太バイブ
が膣から抜け落ちかけています。
私は迷わず大陰唇を目一杯に引っ張り上げ、振り回してバイブを取
り出すと、ポッカリと穴が空いていました。
そしてその上に、大豆みたいな突起があるのを見つけました。
指で力一杯摘むと、くぐもった叫び声と共に思い切り側頭部を蹴ら
れました。
何となく歯ブラシと一緒に入っていた小さな歯磨き粉をチューブ1
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本分塗りたくると、痙攣するかの如く暴れだしました。
面白い事に、ポッカリ空いた穴から見える肉襞まで一緒に痙攣して
いるのが見えて興味深かったです。
そして後はローターで歯磨き粉塗れのクリトリスを責め、何度も大
きな痙攣をさせると大量の潮を吹き掛けられ、おかしくて一人で笑
ってしまいました。
喉が渇いたので、冷蔵庫を開けるとスリム缶の飲み物が数本入れて
ありました。
﹁喉渇かない?何か飲む?﹂
と一応彼女に聞きましたが、うつろに半目で反応が無く、一応呼吸
はしているのでいいやと思い、欲しがったら飲ませようと1本枕元
に置いてから自分は見たことも無いパッケージのサイダーを飲み、
その辺りにあるもの色々彼女に出し入れして遊びました。
DVDのリモコン、先程のバイブ、そして未開封のスリム缶︵重い
方が入れやすいと思って︶、案外色々入る様になりました。
たまにアナルビーズの感触が解ったり、骨がゴリゴリしたり、なか
なか面白かったです。
そして最後は、乳首用のクリップバイブを乳首に付けて見ると、ま
た反応があり呻き始めました。
痛がっているのかな?
と思い、クリップをしっかり摘むと思い切り引っ張ってみました。
﹁ッギャグゴゴゴァアァァ﹂
彼女が目を見開いて、私と目を合わせました。
メドゥーサを思い出しましたが、彼女からすれば私も悪魔なのかも
しれません。
あんなに昨日まで愛しかった乳首も、もうどうでもよくなり、私は
そろそろ彼女を解放する事にしました。
シャワーを浴びて服を着て、ベルトを外し、猿轡を外し、涎でベシ
ョベショの下着を取り出すと彼女はえづく程に噎せました。
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﹁ゥエホッオエェッッ⋮⋮この変態⋮⋮警察⋮呼ぶから﹂
スッピンの誰だか解らない溶けたメイクでグチャグチャの顔で私を
睨み付けます。
﹁じゃあこれ聞かせるね﹂
携帯の通話録音履歴から先程の彼女との会話を再生してみました。
物的証拠としては弱い会話内容かなぁと思っていましたが、彼女は
真っ青になって黙りました。
﹁返す⋮5万﹂
﹁いや、こんだけさせて貰ったし、俺も警察とかサークルの奴とか
にも他言しないよ。結構酷い事しちゃったし﹂
﹁私もじゃあ⋮⋮私ね、その﹂
﹁あ、電車には乗れないよね、これでタクシーで帰って。俺、じゃ
先に帰るから﹂
と、親から貰ったタクシーチケットを財布から2枚取って、彼女の
側の有線の操作パネルに置いて部屋を出ました。
何だか、爽快感と絶望で笑いと涙が出て来ました。
生まれて初めて、本気で傷付いて本気で怒った気がしました。
生まれて初めて好きになった人にかなりショックなフラれ方をした
のにも関わらず、自分なりのセックスの活路を見出だせた気がしま
した。
ハッキリ言えば、一方的な快感の押し付けなので愛のあるセックス
とは言えないでしょう。
私は帰る間中、興奮していました。街中や電車で見掛けた好みの女
性を、みんな彼女みたいに犯す妄想に耽りました。
吊り革に固定して後ろからストッキングを破って⋮⋮等など、ポー
クビッツと笑われて失恋した割に、楽しい道中でした。
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話がだいぶ横にずれてしまいましたね、思わず私も思い出話を老人
の様に語ってしまいました。反省します。
確か⋮⋮高浜武志が私の別荘でやろうとしたのは、ってところでし
たよね。
﹁よっ、遅くなって悪い悪い﹂
また一段と派手な臙脂色のスーツに水色のシャツに濃い黄緑のネク
タイと云う海外アニメの悪役に出てきそうな出で立ちで高浜が女の
子達を連れて待ち合わせのレストランにやって来ました。
時間通りに着いたので、高浜が予約してくれた個室に先に入り、私
は先に軽くワインを飲んでいました。
連れて来られた3人はいずれもイマドキの若い女性です。2人は2
0代前半くらいで、1人はもしかしたら10代かもしれません。
﹁もうこの辺って20分400円とか取るのに駐車場無いのなー、
あ、みんな来たの好きなの食べて食べて﹂
﹁はーい﹂
﹁あ、じゃあいただきます﹂
﹁この人が先生なのー?結構イイ感じなんだけどー﹂
料理が間もなく運ばれて来て、女の子達もナイフとフォークを手に
しましたが、3人とも余りに使い方が下手でビックリしました。
﹁で、話ってのは﹂
﹁あぁ、そうそう。この子達ね、妊娠してんだわ。円光とか風俗で
本番ウッカリやちゃったりで﹂
﹁⋮⋮俺は何をすれば?﹂
﹁で、堕ろす金もねーし育てる気もねーって﹂
﹁⋮⋮⋮それは﹂
最悪、と言おうとして私は止めましたが、ロクでもないなと少し気
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分が悪くなりました。
NPO法人エンジェル
﹁でさぁ⋮⋮モノは相談なんだけど、俺ね、こんなん立ち上げたん
だわ﹂
名刺を渡され見ると、
高浜武志﹄
﹃里親里子を繋ぐ・全ての子供に生活を
プロジェクト代表
と書かれています。
﹁お前⋮⋮何やってんだ﹂
﹁俺もこう見えて子供ってのは大切だと心底思ってんだわ。で、お
前に提携医院を頼みたい﹂
﹁それはまぁ⋮⋮人数にも拠るけど。弟にも相談しないといけない
し、結構社会的に騒がれるだろうしさ﹂
﹁だって捨て子受け入れはやってんだろ?﹂
﹁あの時も前例があったから何とか立ち上げられたけど、イロイロ
な人間からイロイロ言われたよ。子供は犬猫じゃないとか﹂
﹁そうそう、一番に始めた病院なんてよっぽどだったと思うぜ。犬
猫じゃねーから助けたいってのにな。でさ、それまでこの子達使っ
て何か出来ないかな﹂
﹁何かって?﹂
﹁あ、うちらゎ、普通に働けない系の人間なんです﹂
一番若そうな子が口を開きます。
普通の通い仕事で働きたくないの間違いだろ、と内心思いましたが
黙ってました。
﹁だから、お前の別荘でSMクラブやるんだろ?そこで使えばいい
かなーって﹂
﹁無茶言うな、妊婦さんでSM?!﹂
﹁うん。会員制にしてさ、SMじゃなくて何か面白い事やろうって
話﹂
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﹁妊娠中なら避妊とか心配しなくていいしね﹂
﹁てか、生んだらお金くれるんでしょ?﹂
この女達、絶対どっか頭のネジぶっ飛んでるに違いありません。
流石にイラッとして高浜を見ると、高浜は
﹁な?﹂
と言いたげな表情でこちらを見ます。
﹁君らに確認したいんだけど⋮⋮ホントに産むつもり?﹂
私は出来る限り普通の口調に抑えて彼女達に確認すると、
﹁うん、里子に出せばお金もガッツリ高浜さんから出るって言うし、
妊娠中はソフトプレイでいいって言ってたし﹂
﹁流産しても元々堕ろせるなら堕ろすつもりだったんでぇ、チャラ
かなって﹂
﹁うんそうそう、だったら産むまで風俗で稼げたがいいもん﹂
﹁妊娠中に風俗って⋮⋮﹂
私が言いかけると、
﹁だってぇ、母乳が売りの店とかぁ、妊婦モノのAVってあるじゃ
ないですか?﹂
と、さも正論かの様に私に喰って掛かってきます。
これは⋮⋮久々に私の食指を刺激する女です。
﹁じゃあ⋮⋮3人で共同生活になるけどいいのかな?﹂
﹁先生と?﹂
﹁いや、私の別荘だ﹂
﹁マジ別荘とかすごいんですけど﹂
﹁聞いときたいんですけどぉSM系ってソフトですよねー??﹂
﹁そうだね、無理の無い程度に考えるよ﹂
かくして、私達は3人のスタメンとなる女の子を入手したのでした。
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牧場経営の始まり︵前書き︶
ようやく開幕って感じになりました。
ダラダラ遅筆ですみません⋮
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牧場経営の始まり
女の子達と会ったその晩、私達は彼女らを連れて別荘へと向かいま
した。
彼女らは安っぽいキャラクターの付いてたり中学生の女の子が好み
そうな柄のキャスター付きトランクを持って来ていました。
それにやたらでっかい合成皮革のバッグを持っています。
﹁荷物はそれだけ?﹂
と聞くと、みんな働いてるお店に店泊したり、家出して満喫生活だ
ったりで家が無い事が解りました。健康保険すら持ってない子がい
て、それは来週にでも高浜が1人だと出来ないだろうから申請させ
る事で丸く収まりました。
みんなの銀行口座の通帳をチェックして、これに出産まで振り込む
金額を決める事にしました。
﹁うわ、結構キレイじゃん﹂
﹁流石お医者さん∼庭もある∼﹂
防犯上、塀が高いので見えませんが、小さなプールもあります。
﹁さて、じゃあ今晩は楽しみますか﹂
﹁え⋮⋮今日からいきなりか??﹂
﹁まぁお客さんの収集は俺に任しといて。俺も常駐する覚悟だから﹂
﹁お前⋮自分の仕事は?つーか何やってんだ、いつも﹂
﹁俺⋮⋮?うーん⋮⋮デイトレーダー﹂
絶対嘘だろ、ホントだとしてもメインは何だよと思いましたが黙っ
て置きました。
まぁ理系は大学研究室勤務か医者、文系は司法系かこれまた大学研
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究室勤務が妥当とされる進路を取る卒業生の中で、高浜だけは
﹁俺は頭とチンコで生きていく﹂
と大真面目に宣言していました。
きっと10年近く経った今、それを実践しているんだろうなぁと勝
手に丸く収めました。
よくクラスメイトからも教師からも
﹁お前と高浜って何で仲イイの?﹂
﹁ナンパで高浜が落とせなかった女をお前が落とすんだろ?﹂
などとからかわれるくらい真逆のタイプでした。
女の子達がキャーキャー言いながら室内を見てる間、私はしばらく
使ってなかった水道を流し、洗濯機に漂白剤を入れて回します。
﹁お前ってマメなー。何で結婚しないの?﹂
﹁相手もいないし⋮⋮あんまり興味無いんだよ、実は﹂
﹁ふーん。お前って昔から淡泊だったもんな、女の子連れてきても。
あ、でも俺、子供は欲しいな﹂
﹁それはちょっと解る。誕生させるのは仕事でよく見ているけど育
児ってやったことないから﹂
﹁そっかー⋮⋮でも産んでくれる女があんなんだったら俺は泣く﹂
彼は深い二重の皺が見えなくなる程に伏せ目がちに彼女達を見遣り
ました。
﹁あのー仕事ってぇ、普通のマンヘルみたいな感じでいーんですか
?﹂
高浜が持ってきたノンアルコール飲料︵彼なりに妊婦に気を遣った
のでしょうね︶を飲みながら、一番若そうな子がおめでたそうな顔
で聞いてきました。
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﹁マンヘル⋮?﹂
﹁あーそうね、どっちかっつーとハプニングバーかもね﹂
専門用語︵なのか?︶が解らない私の代わりに、高浜がサラリと説
明します。
﹁週5くらいな感じで?﹂﹁もっと少ないよ、週に2日は丸々自由
行動でいいし﹂
﹁うそーマジ楽なんですけど﹂
ホントに?
ハプニングバー的なところに妊婦さんが軟禁されるって言うのに、
当人達は嬉しそうです。
﹁ご飯は??﹂
﹁この近くに大型モールがあるから基本的にはそこで。後は出前か
な、飲み物とかはネットで﹂
高浜は随分とエリアを調べて計画を立てています。
﹁あ、後ね、コイツは単なる糞真面目なお医者さんだから。君らが
出産の時に病院貸してくれるだけ。だから詳しい事は俺に聞いて、
俺は店長みたいなモンだと考えてくれたら﹂
﹁私ぶっちゃけ先生好みなんですけどー﹂
似た様な言葉を何度も聞いてきた私の中の何かが首を擡げて牙を剥
きます。
﹁ダメダメ、コイツはそうそう落ちないから。何十人撃沈させて来
たかな、俺が知るだけで﹂
﹁何十人!?マジでぇ??﹂
﹁それって産婦人科の知り尽くしたテクでって事ぉ!?﹂
﹁糞真面目じゃなくねー??﹂
何十人は嘘だと思います。
﹁いや、テク以前に女性と関係したくないんですよ﹂
高浜がチラリとこっちを見ます。
﹁なー?勿体ないけどそういう事。あんま先生困らせんな﹂
22
﹁えー余計気になるー﹂
﹁長浜さんもカッコイイけどぉ﹂
長浜?
高浜が私を制す様にニヤリと笑いました。ぎ⋮偽名??
﹁さて、働く以上みんなには契約書ってのを書いて貰うわ、よく読
んでサインしてね﹂
﹁はぁーい﹂
﹁印鑑持ってねーし﹂
私もちょっと首を伸ばして読みましたが、出会い系の利用規約みた
いにビッシリ文字が並んでいます。
あんまり読んでないみたいな印象ですが、彼女達はパパッと目を通
してアッサリとサインしました。
﹁じゃ身分証明書のコピーと一緒に保管するから。辞める時は返す
から﹂
彼は書類ケースにそれらを仕舞い、
﹁じゃ名前決めよっか﹂
と笑顔で言いました。
﹁名前?﹂
思わず聞いた私に彼は、
﹁本名でこういう仕事しないんだよ、解るだろ?﹂
と目配せしました。
﹁源氏名知らないとかマジワロスんですけど﹂
﹁先生って風俗行ったことないんですかー??﹂
﹁じゃうちはマロンで﹂
最初に言い出したのは栗色のゆるくフワフワなロングヘアの子でし
た。
﹁マロン⋮君は?﹂
﹁私?じゃあ⋮ユズで﹂
一番若そうな、ショートボブの子が言います。
23
﹁んーじゃ私はマロンちゃんとタメなんでメロンで﹂
﹁果物で来たか⋮⋮まぁいいわ、マロン、メロン、ユズね﹂
高浜も何かテキトーです。
﹁下手に名前負けな名前されても困るし﹂
﹁長浜さんきっつ∼﹂
高浜が上げたテンションもあって、和気藹々と女の子達は馴染みま
した。
﹁さて⋮⋮地下室開けて貰っていい?﹂
﹁ちかしつぅ!?﹂
﹁響きがヤバいっぽいんですけど﹂
マロンとメロンが盛り上がります。
﹁あははは、驚くなよ∼?コイツが作ったんだけどスゲーから﹂
地下室は防音扉で閉められているので、私が鍵を使って開けました。
若干、1階より濃い新居の匂いがします。
電気を点けると、女の子達の顔に緊張が走ります。
﹁雰囲気ヤバ過ぎ⋮⋮﹂
石造りを模した偽岩に、鍵がぶらさがったプレート、鉄の手枷や天
井からは200キロまで吊せるフック、一部鏡張りの壁には仰々し
いディルドが等間隔で数本付いてたり⋮⋮私の嗜好と元々SMハプ
ニングバーの様相を遺憾無く呈しています。
﹁あははは、久々に見たけどすっげーわ﹂
﹁やだー超金掛けてるし﹂
﹁ちょっとユズちゃん、ここ手入れてみてよ﹂
﹁えー??こうー??﹂
ガチャン。
﹁え、長浜さ⋮⋮﹂
﹁ヤバいわ、イイ眺め﹂
﹁キャー私もいいー?﹂
24
﹁私も私もー﹂
マロンメロンも同じく繋がれます。
頭の上で20cm程の間隔で壁に取り付けられた手枷に繋がれた3
人は、何かエロチックでした。
高浜がマロンのピンクのキャミソールをぐいっと上げます。
﹁い、いやぁあ﹂
﹁えーとマロンちゃんのは⋮⋮ここ、かな﹂
丸見えになった白地に黒レースのブラジャー越しに、高浜が指先で
丸くなぞると、すぐにプクッと突起が見えました。結構大きな乳首
です。
﹁い⋮⋮いきなり⋮﹂
﹁長浜さぁん、私はぁ?﹂
﹁メロンは⋮⋮これか﹂
﹁あん⋮ずるいぃ当たりー﹂
メロンは黒いブラジャーをずらされ、乳首そのものを摘まれていま
す。
﹁お前はユズちゃんやれよ﹂
﹁わ、私はいいよぉ、まだ仕事じゃないもん、外してよぉ﹂
﹁ユズちゃん⋮⋮﹂
よく見ると生意気そうな中学生みたいな顔立ちです。
﹁見ても、いい??﹂
と聞くと、小声で
﹁⋮⋮先生なら﹂
と言う返事が聞こえました。
ベアトップワンピースを下にずらすと、控え目な胸にパッドを盛っ
たピンクのブラジャーが現れました。
﹁私⋮⋮ちっぱいなんだ﹂
﹁おっぱいは大きさじゃないよ、感度だ。これから出産まで大きく
なって行くよ﹂
そう言って分厚いブラジャーをずらすと、小さな乳首が見えます。
25
妊娠しているからか、かなり色は濃いですが、可愛らしさでは一番
でしょう。
﹁あぁん、長浜さぁん⋮⋮激し過ぎるぅっ﹂
﹁いやぁあお腹がキュンキュンするぅ﹂
横を見ると、高浜は嬉しそうに2人の乳首をそれぞれ片手づつで弄
っています。
﹁ホントに感じてる?演技するなよ﹂
と、男でもゾクッとする様な上目の笑顔で執拗に捏ねくり回してい
ます。
頭とチンコで生きているのは本当な気がしました。
﹁アイツ⋮⋮すごいなぁ﹂
﹁先生⋮⋮焦らさないで﹂
ユズちゃんが膨れっ面をします。
こういう営業用の顔で落ちる男は少なくないだろうけど、悪い気は
しませんでした。
それに、小さな乳首は2つともピンピンに立っています。
私は引っ張って抓りあげたい衝動を抑え、触れるか触れないかの所
で撫で回しました。
﹁んっ⋮⋮先生、もっと激しくして欲しいんだけど⋮⋮﹂
﹁初期でも子宮収縮は良くないんだよ?﹂
﹁言ったじゃん、先生好みって﹂
﹁有難う、じゃお礼に⋮﹂
吸い上げて先端を尖らせた舌で舐め回すと、彼女が腰を浮かせまし
た。
﹁ひゃぁあぁあんやだぁキモチいいぃいぉお﹂
先程と違う、甘い幼い声が響きました。
﹁もういやぁあ、入れて入れて﹂
隣ではマロンの絶叫がしたので見ると、高浜が嬉しそうに手マンを
しています。いつの間にかメロンは解放され、膝立ちになって一心
不乱に高浜の太い剛直をしゃぶり回しています。
26
﹁メロン、もっと奥いい?﹂
﹁むりむりむ⋮⋮ぐほっ﹂
後頭部を掴まれ、ぐいっと入れると噎せましたが、高浜は構わずに
メロンの頭を操り続けます。
﹁せ⋮⋮先生、下も﹂
ユズちゃんが細い腰を突き出してきます。
ホットパンツの隙間から指を入れると、掻き出せる程にドロドロに
なっていました。
﹁私も⋮⋮先生のフェラしたいよぅ⋮⋮﹂
﹁俺のはいいよ、ユズちゃんの顔見てたい﹂
結構、正直な本音です。
﹁ユズちゃん毛が薄いね⋮無いのかな﹂
﹁あ、殆ど生えなかったの、いやぁあ見ないで﹂
ホットパンツを下ろすとピンクの紐パンが見えたので、人差し指で
前側を引っ張ると、ほぼ無毛の陰部が見えました。
﹁産科医の俺も初めて見た⋮⋮天然?﹂
必死にコクコクと頷くユズちゃん。
﹁小学生って言って⋮⋮円光してた﹂
﹁もっと見せてよ﹂
私は乳首を吸いながら、片方だけ紐を解きました。
﹁すごい⋮⋮見てもいい?検診とは違う意味で﹂
﹁拡げないで⋮⋮クリが空気に触れると⋮⋮﹂
﹁こうしちゃダメって事?﹂
大陰唇を人差し指と中指で拡げると、ユズちゃんは必死に首を振り
ました。
﹁あんまり見ないで。本当に恥ずかしいの!﹂
﹁スベスベで⋮⋮綺麗なのに。クリトリスだけ大きいんだね、小陰
唇はこんなに小さいのに⋮⋮子供みたいな﹂
﹁もう19歳ですっ⋮⋮﹂
﹁そうなんだ⋮⋮ここだけなら9歳って言われても驚かないよ、小
27
学生で生える子が殆どだから﹂
と、腰骨の窪みから無毛の丘を舐め回しました。
﹁でも男の人とはいっぱいしたよ?だから子供じゃない﹂
﹁子供なのに男の人といっぱいしたの?こんなツルツルしたの見た
ら誰も19歳なんて思わないよ﹂
と、モチモチの大陰唇を引っ張ります。
﹁先生ってロリコンなの?﹂
﹁さぁ⋮⋮ユズちゃんみたいな身体は初めて見たから解らないけど
⋮⋮興奮するな﹂
﹁ヤバいよ⋮⋮それ。大人のマンコばっか見すぎたんじゃないの﹂
﹁ヤバいのはユズちゃんの身体だよ、すごい触ってて気持ちいい﹂
スベスベの様で、ちょっとモッチリしている真っ白な恥丘の感触は
新鮮でした。
﹁や⋮⋮あっ先生上手いかもっ﹂
﹁ユズちゃん⋮⋮﹂
隣からは高浜の酔っ払いの様なテンションと2人の女の子の絶叫が
聞こえますが、そんなの気にならないくらいに私はユズちゃんの陰
部及び性器に魅入っていました。
可愛い。
久々に女の子を見てそう思いました。
﹁ユズちゃん⋮⋮ホントは不安なんじゃない?﹂
﹁何で?先生とえっちしたい﹂
﹁そうじゃないよ、妊娠してる事とか、出産に臨んで産んだ子供を
捨てるとか⋮⋮ユズちゃんは平気で出来るタイプじゃないから強が
ってない?わざと無責任と言うか無神経な発言してる気がしてきた
よ﹂
﹁別に⋮⋮﹂
﹁ならいいんだけどさ﹂
下から見上げてハッとしました。
ユズちゃんの顔がクシャクシャに歪んでいます。
28
﹁ゴメン⋮⋮何か不愉快だったね、印象で言っちゃって﹂
﹁ちが⋮⋮﹂
﹁不安なのは解る。でも堕ろせばいーやでユズちゃんが堕ろさなか
ったから、この子は生まれて大人になる事が出来る可能性が出来た
⋮⋮ユズちゃんは人間を一人救ったんだよ﹂
﹁だって⋮⋮どうしていいのかっわがんながった⋮お金無いし⋮⋮﹂
﹁そうだと思うよ、だからこそ、カタチはどうあれ産むという選択
をした自分にちょっとは誇りを持って欲しい﹂
﹁先生⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁お産って痛いんでしょ?怖い⋮⋮﹂
﹁そうだね、俺も男だから出産の経験は無いんだけど⋮⋮でも、嫌
なら2人も3人も産まないと思うんだ。俺だって歯医者嫌いだから
歯医者行きたくないけど﹂
﹁医者なのに変なの﹂
﹁うん、俺は痛いのは嫌だもん。でもそういう痛さとは違うみたい。
結構な割合でね、何時間も苦しんだのに赤ちゃん見たら笑うんだよ。
爆笑って意味じゃなくて、﹃可愛い﹄ってニコッて﹂
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
﹁俺も最善は尽くす。だから⋮⋮お腹の赤ちゃんを憎んだりしない
で欲しい﹂
お腹に片手を添えると、ユズちゃんが頷きました。
﹁解った⋮⋮先生、続けて﹂
ユズちゃんの陰部に指を這わすと、先程よりも濃い愛液が溢れ出し
て来ました。
﹁手⋮⋮外そうか?﹂
﹁ううん、ユズ、Mだから⋮﹂
﹁そうなの?﹂
﹁でも先生にも気持ち良くなって欲しいんだけど⋮﹂
﹁俺⋮⋮俺は⋮いいや﹂
29
﹁どうして?ユズじゃダメ?﹂
﹁そうじゃない⋮⋮そうじゃないんだけど﹂
短小だから見せたくないとは言えず、私は人生で何度目かの窮地に
陥ります。
ふと隣を見ると、高浜とメロンマロンがいつの間にかいなくなって
います。
でも、このタイミングでそれを口にしても話題を逸らす口実でしか
ありません。
﹁自信が⋮ないんだ﹂
﹁自信?﹂
﹁男のコンプレックスって言えば解るかな﹂
﹁うん⋮⋮大体は﹂
﹁そういう事﹂
﹁ユズもそうだもん。ユズ、パイパンでしょ?だから、高校の時も
彼氏に見せられなかった﹂
﹁痛いほど解る﹂
﹁するとね、彼氏は﹃お前俺のこと好きじゃねーのかよ﹄って怒っ
て﹂
﹁すごい想像出来る﹂
﹁無理矢理に押し倒されて⋮⋮で、誰にも言わないでって言ったの
に、女子からパイパンってあだ名ついてて﹂
﹁それはちょっと経験無いけど⋮⋮でも喜ぶ男も多いと思うけど﹂
﹁だから円光してた﹂
何だろう、カタチは違えど同じ類の傷を持つ匂いを感じました。
﹁ユズちゃん⋮⋮﹂
﹁あ、もうそれ以上いじらないで⋮⋮っ﹂
カパカパともクチュクチュとも聞こえる音を立てて、私はユズちゃ
んを掻き混ぜました。
30
産科医が妊婦さんにしていいことではありません。
でも、何か止まれない自分がいました。
この子を自分に取り込みたい様な、不思議な感覚です。
﹁あぁあ先生いやぁあぁあぁあっ﹂
ビチャビチャと勢い良く、透明な液体が豪快に床へと撥ね飛びます。
ガクッと力が抜けたユズちゃんを抱え、手枷を外しました。
﹁⋮⋮い⋮ちゃったぁ∼﹂
そう甘ったるい気怠い声で言うユズちゃんにそっとキスをします。
愛おしい。
久々に感じた感情でした。
﹁せんせの⋮⋮服がびちょびちょ⋮⋮﹂
﹁気にしないでいいよ﹂
呂律は回らないのに、小さな乳首がまだピンピンに勃っています。
﹁ネクタイが⋮ちくびにあたるぅ⋮⋮﹂
﹁あ、ゴメンね﹂
﹁ひあぁ気持ちいいよぉ﹂
そう言って、抱きかかえられた状態でユズちゃんは自分で弄り始め
ました。
﹁ごめんなさぃもう止まらないの先生ぇえぇ﹂
思わず私は叫ぶユズちゃんの唇を吸い、小振りの胸を抓る様に揉み
しだきます。
﹁はぁあぁん!!﹂
絞り出す様な声を出してのけ反って痙攣すると、ユズちゃんが一気
に重くなりました。
女性のオルガズムについては習った事もありますが、すごい絶頂な
んだなぁと感心してしまいました。
とりあえず、私はユズちゃんの服を持ち、抱きかかえたまま1階の
ベッドルームへ向かいました。
﹁わははは、お前もすっげーな﹂
31
途中のリビングで、高浜がシャンパンを飲みながら何故かカツ丼の
どんぶりを一人で食べていました。
﹁うん⋮⋮ユズちゃん寝ちゃったから﹂
﹁失神させたんだろ?お前、よくあんな心開かない子と打ち解けた
なー産科医ぱねぇ﹂
﹁いや、何て言うか⋮⋮ねぇマロンちゃん達は?そのカツ丼は?﹂
﹁欲しい?出前なんだけど。この辺の出前のクオリティー知りたく
てさ。お前にはオムライスがある。好きじゃん?マロン達はソファ
ーとベッドルームで寝てる﹂
﹁有難う⋮⋮二人とも運んだのか⋮⋮﹂
﹁うん、俺セックスすると腹減るのね。だから出前を頼んでから二
往復したね。アッサリ気絶すんだもん、お前はユズちゃんと真剣に
何やら話し込んでるからさぁ﹂
てっきり両肩に一人ずつ乗っけて一気に⋮かと思った自分が恥ずか
しいです。
﹁まぁでも、こんなにセックス好きな淫乱アクメっ子三人来て、俺
としては御の字だわ。乾杯しようぜ﹂
﹁じゃ客間のベッドにユズちゃんおいて来る﹂
淫乱アクメっ子⋮⋮
ユズちゃんは淫乱なんだろうか。
アイドルに憧れる中学生みたいな思考をかなぐり捨て、戻った私は
グラスを受け取って乾杯しました。
32
最初のお客様︵前書き︶
グダグダになりつつあります。
すみません。
33
最初のお客様
﹁兄さん、最近忙しそうだね。相談って?﹂
﹁まぁ⋮⋮お前や他の先生には苦労掛けてるから申し訳ない﹂
毅彦は私と年子の弟です。
私よりも遥かに医師としての手腕は優秀なのですが、我が家が長男
信奉色が強く、いつも二の次の扱いでした。
彼はさっさと海外の高校と大学に進学して、何故か病院を継ぐ為に
戻って来ました。
﹁いいよ、何とか回ってるから。少子化って言うけど赤ちゃんが全
然生まれない訳無いんだし、産婦人科も減ってるからねー。兄さん
も社会貢献活動してるじゃない、結構うちの考えに賛成って患者さ
んとか多いよ﹂
私とは似ていない、童顔のあどけない顔立ちで、彼はニッコリ笑い
ました。
﹁里子に出す前提で来る子の中にもたまにいるもんね、﹃やっぱり
私、育てます﹄って子。中絶して女一人としていたいか、情が芽生
えて母親としての道を取るかって何かスイッチがあるんだろうね﹂
﹁中絶は殺人って意識は持って欲しいよな﹂
﹁妊娠発覚してソッコー堕ろします!って子見てると、ちょっとカ
チンと来るんだよね﹂
﹁俺もだ﹂
﹁だから社会的にどう言われ様と、デキ婚を決めた若いカップルの
決意とか覚悟は褒めたい﹂
﹁確かにな、別にデキ婚は離婚したり虐待する可能性が高いなんて
印象植えつける風潮、良くないよね。叩かれる事くらい本人達が一
番解ってるんだろうし﹂
毅彦が頷きます。
34
コーヒーを一口飲むと、
﹁で、相談って?﹂
と聞いてきました。
﹁知人の紹介で女の子3人の定期的な妊婦検診から分娩までをお願
いしたいんだが、どうだろう﹂﹁3人の予定日次第だね。ってか知
人って、高浜さん?﹂
﹁よく解ったね﹂
﹁高浜さん⋮⋮元気?﹂
﹁相変わらずだ、いや会う度にパワーアップしてる感じだな、あり
ゃ﹂
﹁そうなんだ⋮⋮⋮﹂
﹁何か用なら伝えとくけど﹂
﹁いや、結婚とかしてないの?﹂
﹁どうだかなぁ、してはないみたいだけど。アイツの事だからいき
なり奥さんと子供紹介してくるかも﹂
毅彦は急に無口になりました。
﹁彼女いるってのも数年は聞いてないし⋮⋮毅彦?どうした?﹂
﹁いや⋮久しぶりだからどうなのかなって。彼女さんもいないの?﹂
﹁今度飯でも行こうよ、その時に聞いたら?﹂
﹁あ、うん﹂
この時の私は、私と高浜がしている事を毅彦に悟られまいと言う方
に重点を置く余り、毅彦が何故いきなり無口になったのかまでは考
えていませんでした。毅彦は性格の明るさと面倒見の良さと人なつ
っこそうなルックスで友達も多く、学生時代は元より看護士さんや
患者さんからもアプローチされているのに兄貴の友達の結婚気にす
るとか変なの、程度の気持ちが少しあったくらいです。
毅彦が10年以上も高浜の事で苦しんでいたのを知るのは、ずっと
後の事になります。
私は相手を労ろうと言う意識は無い訳ではないのですが、相手の気
35
持ちや機微に鈍いのかもしれません。
こないだのユズちゃんの、性的なコンプレックスを聞いた時は久々
に何かを人と共有出来た気がしました。
明日からは2連休。
ユズちゃんに会える事に喜んでいる自分に驚きました。
病院を出て車に乗ってすぐ、高浜に連絡をしました。
﹁はいもしもし∼﹂
のっけからハイテンションな高浜に少々引きながら、私はこれから
行く事を伝えました。
﹁2時間ちょっと掛かるけど、よろしくな。どう?何か問題ない?﹂
﹁ないない、あ、あるある﹂
﹁どっちだよ、ていうか何?﹂
﹁問題って訳じゃないんだけど、新しい女の子が2人来たよ﹂
﹁えぇ?計5人って事?﹂
﹁何かね、25歳と29歳なんだけど2人とも産後半年とか1年以
内で離婚して親権は旦那なんだ⋮よね?で、母乳がすっごいの﹂
﹁母乳?!﹂
﹁お見せ出来ないのが残念です。名前はねー、牛っぽいのがいいか
なって思ったんだけど、ベコとジャージーとホルスタインしか思い
付かなくてさー﹂
﹁ちょっと待って、今そこに何人いるの?﹂
﹁メロンとマロンはテレビ観てて、ユズは客間とかで寝てるのかな。
で、俺の股間に2人いる﹂
ちょっとぉー何言ってんのーとか何とか声が聞こえます。
﹁母乳かけられながらパイズリされて先っぽチロチロ舐めとかエロ
過ぎて気持ち良すぎ、お前も早く来いよーじゃ待ってるねー﹂
﹁わ、解った﹂
私は電話を切ると、ちょっと思い当たったので病院の備品室に行き、
高浜にプレゼントをする事にしました。
36
車を走らせている間、私はユズちゃんの生意気そうな大きなつり目
や小柄で細い身体を思い出します。
ユズちゃんと﹁先生、おっぱい張っちゃって痛いから早く飲んで﹂
と言うシチュエーションをうっかり妄想すると、また痛い程に下半
身に血が集まって来ます。
完全に高校生レベルで変態だ⋮⋮と自己嫌悪しながら車を飛ばしま
した。
別荘に明かりが灯っているのを見るのは初めてでした。
ガレージスペースに見慣れない白い大型バンが停まっています。
はて、と思いつつも扉を開けると、
﹁あ、お疲れー﹂
とさっきよりはトーンダウンした高浜の声が聞こえました。
﹁ユズちゃーん先生来たよー﹂
﹁先生来た?﹂
と高浜の後にユズちゃんの声が聞こえました。
正直、胸がキュッとなりました。
私は年下好きでもロリコンでも無いと思っていたのですが、年下の
超童顔の子にこんな気持ちになるなんて⋮⋮と少し背徳感すらあり
ました。
すっぴんにレモン色のパーカーワンピースに素足のユズちゃんは、
本当に13歳くらいに見えました。
﹁先生、おかえりなさい!﹂
笑顔で飛び出して来たユズちゃんに会釈するのが精一杯でしたが、
﹁おかえり﹂なんて学生時代以来言われてない自分に気付きます。
目を擦りながら出て来た高浜は、ジャージにタンクトップと言う、
こないだの華やかさとは正反対の出で立ちでした。
﹁高浜、寝てたの?﹂
37
﹁パジャマじゃねーよ、部屋着だよ。もう1日に4回5回やってる
と俺も体力持たねー﹂
﹁そんなにしてんの!?﹂
﹁メロンマロンと3Pでしょー?後は母乳祭でしょ?﹂
﹁すごい生活してるんだな﹂
何だか私の別荘に来たと言うより、高浜のハーレムにお邪魔してき
た感じです。
﹁お、お前ユズちゃんとしてないんだとかツッコミは無い訳?﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁私ね、長浜さんの好みじゃないんだって﹂
切り捨てられた様な言い方をしているユズちゃんも何故か笑顔でし
た。
﹁俺はムチムチのお姉ちゃんが好きなの。おっぱいとお尻がでっか
くてお腹と足首は締まってて足はちょっと太めでって感じの。結構
な割合で男って案外そうよ?﹂
﹁私と正反対なんだよね﹂
﹁ユズちゃんの好みだって俺じゃないだろ﹂
﹁私は線が細くて大人しそうな人が好きかな﹂
﹁コイツじゃねーか﹂
高浜が私の肩をポンと叩きます。
﹁だからそう言ってんじゃん!﹂
﹁つー訳で交渉決裂なんだわ﹂
﹁ねー﹂
でも私には出来ない様なノリの仲の良さに少し悶々としてしまいま
した。
﹁あ、先生って人来たのー?﹂
聞き慣れない声がしました。
﹁来たよ、噂のイケメン先生が﹂
高浜も無責任な返しをすると、ニューフェイス2人とこれまた眠そ
うなメロンとマロンが現れました。
38
﹁あー先生だぁ﹂
﹁いらっしゃ∼い⋮⋮仕事上がりならお疲れ様ぁ﹂
申し訳ないのですが、年甲斐も無くユズちゃん贔屓と言うのを抜き
にしても、私は背格好も化粧もソックリなこの2人がなかなか判別
出来ません。
未だに付け睫毛に拒否反応があるのは本業でも感じているのですが
⋮⋮⋮。
よく見ると、メロンちゃんには右肩に紫色の蝶のタトゥーが入って
いるのでそこで判別する感じです。
﹁眠そうだね﹂
﹁だぁって長浜さんがぁ﹂
﹁そーそー、イッてもイッても止めないからぁ﹂
﹁あのさ、たか⋮⋮長浜、お前妊婦さんは丁重にな、この状況で切
迫早産とか流産されても困る﹂
﹁だぁってもっともっとって言うからぁ﹂
﹁言うからぁじゃないよ、ホントに﹂
﹁はぁーい﹂
わざとらしく不貞腐れる高浜を見て、メロンちゃん達がカワイーと
笑います。
何かもうこのノリは私には出せないな、と心底思いました。
﹁あの⋮⋮私、榊原理恵って言います。よろしくお願いします﹂
黒髪のストレートに大きな目と丸顔が印象的な女性が挨拶して来ま
した。
﹁あ、お話は伺いました﹂
﹁私は和泉早苗です。先生、使って下さるって本当ですか?﹂
﹁使っ⋮⋮ええ、た⋮長浜のお話がどの様にかは存じませんが﹂
派手なプリン頭の女性も私に一礼して来ました。
細身でややキツネ目の女性です。
まさか﹁どっちが25歳で29歳ですかー﹂とは聞けませんが、高
浜の股間で母乳云々の女性には間違いありません。
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親権を取れなかった女性と言うのがひっかかるのですが、そこまで
私が言及する事でもないでしょう。
﹁あの、私はママ友とディナーと嘘ついてホストクラブで遊んだ借
金で離婚されたんです⋮⋮﹂
和泉早苗さんがいきなり語り始めました。
﹁育児に追われて息抜きが欲しくて﹂
﹁そうだったんですか⋮﹂
敏腕弁護士を雇った旦那さんに無理矢理に子供を奪われた訳では無
く、完全に有責なのが救いでした。
﹁先生も産科医なら育児の大変さって解るでしょう?私も自分の時
間が欲しくて⋮⋮﹂
って、涼しい顔で一般論にすり替える辺りはちょっとイラッとしま
した。
﹁私は産後鬱で子供を殺そうとしてしまったんです⋮⋮今思えばど
うかしていて⋮⋮﹂
続いた榊原理恵さんも結構な理由でした。
﹁そうでしたか⋮⋮お二人とも、ここでいいんですか?﹂
﹁はい﹂
﹁帰る家もないので⋮⋮実家とは絶縁されましたし﹂
アンダーグラウンドの世界とは失う物が無い人間程に好き勝手出来
るのかもしれません。
私だっせて世間にこの高浜と企てている事が明るみに出たら、タダ
では済まないでしょう。
でも何故か私は乗り気ですが。
﹁お前、飯まだだろ?出前取らない?﹂
高浜が20枚綴りのA4のファイルボックスを取り出します。
﹁こんなに集めたの?﹂
﹁そう。プリンター買ったんだけどまだ繋いで無くてさ。ネットで
調べて頼んで持ってきて貰ったりしたね﹂
40
みんなでワイワイと出前を頼んでいると、高浜の携帯が鳴りました。
その待受を見た高浜の表情が強張りました。
﹁もしもし、お久しぶりです⋮⋮はい。そうです。まだちょっと万
全ではありませんが⋮⋮そうですね、解りました。お待ちしていま
す。はい⋮その件も伺っておりますので。失礼致します﹂
珍しく畏まった様子で電話を切ると、
﹁みんな、明日の朝に早速お仕事だ﹂
﹁お前⋮⋮いきなり﹂
﹁準備段階でいいそうだ。お客様の顔見たらビックリするかもな、
有名人っちゃ有名人だから﹂
﹁マジ!?芸能人??﹂
マロンちゃんが食いつきます。
﹁いや⋮⋮大物ってだけ言っとく。後、俺にアシスタントが入るか
も。この手の風俗好きな大口の客には宣伝しといたから﹂
﹁大丈夫か?そんな色々な出入りさせて⋮⋮﹂
﹁こっちも証拠は押収するさ。管理売春で公然猥褻、違法な事する
にはお互いリスクがあるからさ。あ、でもお前は隠れとけよ。外出
ててもいいし﹂
﹁隠れるって⋮⋮﹂
﹁まぁ⋮⋮俺と違ってお前は風俗業は二の次な人間だ。まぁ信用に
値する人間ではない奴も紛れ込んで、お前の医者としての仕事に支
障が出たら申し訳無さ過ぎる﹂
﹁お前だってそうだろ、おじさんおばさんだってお前に何かあった
ら﹂
﹁とっくに絶縁してるさ。戸籍も抜いた﹂
﹁えぇ!?﹂
両親が大学卒業前に事故死した私とは違う形で彼も両親がいなかっ
たなんて知りませんでした。
﹁ま、だからそういう訳で俺は好き放題やってんの﹂
41
寂しそうなのか本当に楽しいのか、よく解らない笑顔で高浜は話を
切りました。
どう言っていいか解らない私に、高浜が携帯の画面を見せました。
そこには日本人ならかなりの人間が知っている大物音楽プロデュー
サーの名前がありました。
﹁シーッ!﹂
驚いて口を開いた私を彼は人差し指を立てて制しました。
﹁な?大物だろ?﹂
﹁確かに⋮⋮この人が来たのバレたら結構な騒ぎになりそうだね﹂
﹁まぁ⋮⋮最悪俺が消されちゃうよね、小学生円光組織の時みたい
にさ﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁だから楽しいんだよ、巻き込んで申し訳無いけどさ﹂
﹁後さ、アシスタントって言うのはいつ⋮⋮﹂
﹁それもこの人に頼んだ。何か俺と張り合えるイケメンらしいよ、
俳優で売れないけどAV業界からは結構オファー来てるとか何とか。
やっぱ女の子束ねるなら、ママさん的な女より理解あるイケメンだ
と思うんだ﹂
そういうもんなんかな。
女性は嫉妬、男性は異性だから贔屓とか色恋あってどっちもどっち
な気がしますが。
﹁先生、見て﹂
ユズちゃんに声を掛けられ振り返ると、そこにはビスチェ、ニーハ
イソックスに首輪のユズちゃんが立っていました。
先程のワンピースよりも濃いめのレモン色のビスチェはユズちゃん
の小振りな胸を盛り、細いウェストを締め上げて、ぷにぷにの恥丘
に食い込んでいます。
﹁先生、お散歩しよ?﹂
リードを渡すと、ユズちゃんは四つん這いになりました。
42
﹁うちらもほら∼﹂
メロンとマロンもいつの間にか着替えて、色違いのビスチェにニー
ハイ丈の網タイツを履いています。メロンは淡い緑色でマロンは深
い栗色でした。
﹁先生、お散歩早く﹂
﹁えぇーお散歩って⋮⋮﹂
リードを繋ぐとユズちゃんが四つん這いで歩き出します。
思わず白いお尻とクッキリ浮かび上がる割れ目に見入ってしまう自
分がいました。
﹁うはは、お前飼い主って感じな。こっちも見てくれよ﹂
と高浜を振り返ると、今度は母乳の2人も着替えていました。
﹁名前決めたんだ、榊原さんがチコで﹂
﹁私はミルクです﹂
2人はホルスタイン柄のホルターネックに股の部分がパックリ開く
黒いレースのタイツと言う姿でした。陰部は元よりレースのタイツ
なので丸見えな筈の陰毛が見えません。
いや気のせいか?と見ていると、高浜が後ろからホルターネックを
中央にぐいっと寄せて、榊原さんもといチコちゃんの乳房を露出さ
せました。
﹁あぁん長浜さん⋮⋮﹂
﹁先生が気になってるってさ。ここも見せちゃえ、ほら﹂
とレースのタイツを下ろすと、綺麗に剃り上げた陰部が見えました。
﹁暇だったから全員剃っちゃった。はは。ユズちゃん以外は﹂
﹁うるさいよ!!﹂
足元にいたユズちゃんが遮ります。
﹁ユズ、怒んなよー。でもさ、こうしたら乳絞りも楽チンだろ?﹂
と顕わになった乳首を摘みます。
﹁あんっ⋮⋮﹂
﹁俺ねー母乳プレイハマっちゃったかも﹂
高浜はそのままチコさんをソファーに押し倒すと、恥ずかしげも無
43
く乳首にむしゃぶりつきます。
﹁お、おい⋮⋮﹂
ちょっといきなりの展開に退き気味の私を無視し、2人は絡みはじ
めました。
﹁ながはまさぁん⋮⋮﹂
チコさんの甘い声を唇で塞いだ高浜の指先はチコさんの小豆色の乳
輪を扱き、そこから透明がかった母乳が幾筋にも弧を描いて飛び散
りました。
卑猥。
本当にそう表現せざるを得ない光景で、高浜の無駄の無い引き締ま
った浅黒い身体とチコさんのふっくらと柔らかそうな白い身体は、
もう何かこのまま作品になりそうな感じです。
﹁先生!!﹂
﹁うひゃっ﹂
いきなり太股の裏側を服の生地ごと抓られ、私は間抜けな声を出し
てしまいます。
見下ろすとユズちゃんが不機嫌そうに私を見上げています。
﹁そーーんなに母乳が飲みたいの!?﹂
﹁ユズちゃんも、もう少し経てば初乳は出ると思うよ﹂
﹁初乳?﹂
﹁そう、妊娠中でも透明に近い母乳が出るんだよ﹂
思わずユズちゃんの谷間を凝視してしまう自分がいました。
﹁ちょっとごめんね﹂
﹁あぅ⋮⋮﹂
ビスチェから無理矢理にユズちゃんの乳首を引っ張り出して、軽く
扱きました。
﹁先生⋮⋮今日は強引だね⋮⋮﹂こちらに脚を広げ、締め付けられ
て弾力のある局部を向けてきます。
﹁ほら、ユズちゃん⋮⋮この﹂
44
﹁やだぁ何か出てる⋮﹂
黄色っぽい液体と水の様な液体が少しだけユズちゃんの乳首から滲
みました。﹁そういえば悪阻は平気?みんなノリノリだけど⋮⋮﹂
﹁たまに気持ち悪い。メロンちゃんが結構大変そう⋮⋮﹂
﹁確かにメロンちゃん、お腹もちょっと目立って来たしね﹂
メロンちゃんを見ると、淡いミントグリーンのビスチェ越しに解る
くらいにお腹がポコッとしています。
もう5ヶ月目くらいには入っている様です。
高浜は妊婦検診にはちゃんと連れて来てくれるんだろうか⋮⋮⋮
﹁先生⋮⋮こないだの続きしよ?﹂
現実的な心配はユズちゃんの一言で霞み始めます。
﹁こないだの続き⋮⋮?﹂
﹁そ。こないだはユズばっか気持ち良くなっちゃったから、お返し
しないと﹂
﹁お返しって﹂
﹁ユズね、先生の事考えるとすぐグチョグチョになるくらい好きな
の﹂
﹁お返しは⋮⋮いいよ﹂
﹁何で?ユズとエッチしたくないって事⋮⋮﹂
ユズちゃんが傷付いた顔をしました。
何だか学生時代の思い出の苦しくも高ぶる気持ちを思い出しました。
自分が傷付きたくないからユズちゃんを傷付けるのは正しいのだろ
うか。
そもそも、お返しを丁重に拒否するのが悪いことなのか。
段々、理詰めでは答えられなくなり、私の頭はグルグルして息苦し
くなりました。
﹁ユズね、先生の気持ち何か解る気がするんだ﹂
﹁き⋮⋮気持ち!?﹂
道中の妄想全開の自分を思い出し、エロ本を家族に見つけられる様
な気分に襲われ、更にクラクラします。
45
どれだけ私は小心者なのでしょう。
﹁長浜さん達がいる前じゃダメでしょ?2人っきりになろ??﹂
そう言ってユズちゃんは真っ白いお尻を見せ付けながら︵私が見て
いただけかもですが︶、奥の客間に私を引っ張ります。
散歩中に飼い主を引きずる犬そのもの、私の別荘なのですがユズち
ゃんの部屋に行く様なドキドキがありました。
﹁ゴメンね、散らかしちゃって﹂
8畳の客間はユズちゃんの好きな物で溢れていました。
化粧品やゲーセンで取ったであろうぬいぐるみがボンボン置かれて
います。
﹁何か女の子の部屋って感じだね⋮⋮﹂
悪いとは思いませんが、私には居心地は良くありません。
同じ三十路でも高浜なら平気なんだろうなぁ、と自分の経験の浅さ
を実感しました。
﹁先生、隣に来て﹂
ベッドでピンクのモコモコした変な顔のウサギの長いぬいぐるみを
抱えたユズちゃんが笑顔で私を見ます。
可愛い。
本当にそう思いました。
﹁座って?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
隣に言われるがままに座ると、ユズちゃんが私の太股に頭を載せて
来ました。
﹁先生はどうしたい??﹂
﹁どうしたいって⋮⋮﹂
﹁ユズは先生と抱き合いたいな﹂
﹁抱き合うって⋮﹂
﹁もーーーー﹂
ユズちゃんがいきなり私を押し倒しました。
46
小柄なユズちゃんでも不意を突かれた私は後ろにひっくり返ります。
﹁あのねユズちゃん﹂
﹁私ね、先生はあの大きな産婦人科のお医者さんだって事しか知ら
ない。でもね、先生が何ていうのかな、ユズと同じ気持ちだった人
ってのは解る﹂
﹁何の話⋮⋮⋮﹂
﹁もし私が一重瞼だったとか髪がベリーショートだったとかの程度
の問題なんだよ、きっと﹂
ユズちゃんは私のシャツのボタンを器用に片手で外しだしました。
﹁きっと先生の問題だって、ユズが先生を好きになったら関係無い
レベルだと思うの﹂
アンダーウェアをめくると、ユズちゃんは舌先を尖らせて私の乳首
を容赦無く舐め始めます。
押し退けるとかは簡単に出来たでしょう。
それをしなかったのはユズちゃんの言葉に甘い期待が芽生えてしま
っていたのも確かでした。
また繰り返すぞと思っても、ユズちゃんを信じて、繰り返さないで
あろうと頼る気持ちが強かったんです。
﹁気持ちいいかな?﹂
﹁ん⋮⋮。あ、すごい気持ちいい⋮⋮﹂
最大限に勃起した私の下半身を服越しに擦られ、私は声を絞り出す
のがやっとでした。
﹁先生、いい?﹂
そう言いつつ、ユズちゃんの手は私のベルトを外し始めています。
駄目、とは言えず、はち切れそうな昂揚と今までの過去からの絶望
感がドロドロ混ざり始めます。
﹁先生のパンツ、オシャレ﹂
よく解らないところを褒められたのですが、もう瓦解はすぐそこに
迫って来ているのでしょう。
47
不意に局部に直に空気が当たった次の瞬間、暖かくヌルヌルした感
触に包み込まれました。
﹁うぁあ⋮⋮﹂
﹁ほのはお、はわうい﹂
﹁え⋮⋮?あ⋮ユズちゃん待って⋮⋮﹂
情けない声を出して私は呆気なく果てました。
涙が出そうなので、私は目をギュッと閉じて、
﹁ごめん⋮⋮﹂
と言いました。
早くて小さいなんて最低だろ、でもきっとユズちゃんは幻滅はして
も口に出して罵倒はしないんじゃないだろうか?
﹁ごちそうさまでした﹂
ユズちゃんがニッコリ笑って、私に抱き着きました。
﹁え⋮⋮﹂
﹁好きな人の飲むの、なんか変?﹂﹁いや⋮⋮あの⋮﹂
﹁いっぱい出たね、先生の顔が可愛くて⋮⋮あ、ゴメンね、馬鹿に
してるんじゃないよ、もう愛しすぎてキュンキュンしたって事﹂
﹁顔?﹂
﹁そう⋮⋮普段大人しいって言うか上品系の先生の顔が⋮えっちぃ
顔になるの﹂
そう言って、ユズちゃんが私を上目遣いで見てきます。
もう殺されてもいい。
そんな恥ずかしい思いが過ぎり、私は釘付けになりました。
﹁あ、もう復活したぁ﹂
亀頭の先に当たる感触はユズちゃんの固くなった乳首。
﹁ユズちゃんだって⋮わざと乳首当ててるよね﹂
﹁⋮⋮先っぽヌルヌルしてきたよぉ?﹂どんどん固くなる小さな乳
首がたまりません。
いれたい⋮かきまぜたい⋮⋮
48
私はユズちゃんを抱き寄せると、迷わす上になりました。
妊婦さんと毎日対面する仕事でも、セックスをするのは初めてでし
た。
﹁はいコレ﹂
いつの間にかユズちゃんがコンドームをくわえています。
銀色の包み越しの丸い形すら卑猥に見えてしまう自分に呆れながら
装着すると、
﹁⋮⋮ビックリしないでね﹂
とユズちゃんが小さな声で言いました。
﹁え、大丈夫だよ﹂
と意味も解らず返し、私は一気にスベスベした大陰唇を軽く指で拡
げ、ゆっくり挿入しました。
入ってるのか解らないと言われない事を願っていたのですが締め付
けは相当なモノで、私は思わず溜息が出ました。
コツン。
いきなり奥の方でコリコリした物に当たりました。
﹁うぅん⋮⋮﹂
ユズちゃんが呻き、私は触診の感覚からそれが子宮口であることを
確信します。
私のモノでキツい上に子宮口に当たる、これは出産の時⋮⋮と思わ
ず仕事目線で考えてしまいます。
﹁痛い?﹂
﹁ううん⋮⋮続けて、気持ちいい﹂
﹁じゃゆっくり動くからね﹂
そう言って私はユズちゃんを抱きしめました。
正直、経験が無いのでどうして良いのかが解らなかったのもありま
す。
ゆっくり腰を動かしながら、優しく乳首に舌を這わせると、恐ろし
49
いくらいの締め付けに襲われました。
﹁ユズちゃん⋮﹂
まだ十代の女の子に本気で恋をした挙句に、簡単に抜かれそうにな
っている自分。
どこまで行っても自分はセックスに於いて惨めなんだ。
﹁先生⋮⋮そんな顔、しないで。私も多分一緒だから⋮﹂
喘ぎながら途切れ途切れにユズちゃんはそう言うと、思いっきり私
に抱き着き、絞め殺す勢いで痙攣し、私をあっという間に射精させ
るとグッタリ崩れ落ちました。
同時に愛液で光っている無毛の性器から勢い良く潮を拭き、ベッド
と私の骨盤周辺をびしょ濡れにします。
﹁ユズちゃん﹂
私は飼い主に寄り添う犬の様に、グッタリしているユズちゃんに寄
り添いました。
こんな自分でも、潮を吹いてくれた。
﹁私も多分一緒ってどういうこと?﹂
返事はないと思っていましたが、ユズちゃんは目を閉じたまま答え
ました。
﹁ん⋮⋮?あぁ、先生も私と一緒で⋮⋮セックスしたいけど、自分
がイビツなんじゃないかって自信が無いのかなって⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁でもハッキリ解った、相手は探せばいる﹂
﹁相手?﹂
﹁神様のオーダーメードみたいな、そういう相手の事﹂
そう言うとユズちゃんは私に両手を回して囁きました。
﹁先生、すっごい⋮⋮良かった﹂
50
それから私は長い時間、ユズちゃんとくっついて過ごしました。
高浜やみんなは呆れたりドン引きしたりしていると思いますが、こ
んなに昂揚感があって、でも安堵感のある時間は初めてでした。
﹁私ね、エッチって痛いからあんまり好きじゃなくって⋮⋮でも童
顔で小柄でパイパンでキッツキツをレイプしたいって人が後を断た
なくて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮そうなんだ。やっぱり⋮その⋮お客さんとかが?﹂
﹁うん。でね、長浜さんから貰ってピルも飲んでたんだけど⋮⋮﹂
﹁ピルを?どうして高⋮⋮いや、長浜が﹂
﹁あれ?言っちゃいけなかったかな?﹂
﹁いや、言っていいよ﹂
﹁私、長浜さんが経営してる本番店で働いてたんだけど⋮⋮﹂
﹁本番店って?﹂
﹁んーと⋮⋮普通はね、マッサージ的な要素を含むモノがオッケー
で、本番ってセックスの事なんだけど、それやると売春になって、
長浜さんは管理売春で捕まるとか何とか言ってた気がする。だから
本番アリって言わないで、大人のお付き合いって言うんだって﹂
﹁そうか⋮⋮あいつ⋮⋮でも風俗ってエッチしに行くのかと思って
たよ﹂
﹁先生ってホント遊んでないんだねー、何で長浜さんと仲良いのか
不思議﹂
﹁⋮⋮アイツに比べられてもね﹂
ベッドに並んで寝そべって、そっと手を繋いで他愛無い話をする。
何故、私はこの幸せを知らずに生きて来てしまったんだろう、と思
いました。
自分のコンプレックスを隠す為に逃げ回っていたせいだとは解って
います。
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自分が傷付くのを避ける分、こう言う幸せも逃していたんでしょう。
﹁そろそろ行かなきゃ。シャワー浴びて来る﹂
ユズちゃんが携帯の画面を見て、起き上がりました。
どこへ?と聞きそうになり、私は彼女の立場を思い出します。
﹁先生⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁こんなことお仕事前に言うのも何だけど⋮⋮またエッチしようね﹂
私の返事を待たずに、ユズちゃんはタオルと着替えを持ってバスル
ームに向かうべく、部屋の扉を閉めました。
バタン、と言う音がして、足音が遠ざかると、ものすごい寂寥感に
襲われました。
いやいや、あれは彼女のお決まりの台詞みたいなもので私が想うほ
ど彼女は私に興味が無いのでは。
そう思うと、更に悲しさまで感じました。
メチャメチャにしたい気持ちと捨てないで欲しい気持ちが絡まって
眩暈すら覚えました。
ノックが聞こえたので、私は慌てて服を着て返事をすると、高浜が
入って来ました。
﹁うははは、シャツ裏っ返しだぞ﹂
﹁えっ﹂
﹁いやー良かったよ、ユズちゃんもご機嫌だしさ。お前、ああいう
子扱うの上手いのな﹂
﹁扱った覚えはないけど﹂
﹁そうなの?今日は初めてのお客さんが開店前の視察に来るからさ、
まぁ多分⋮⋮ユズちゃんが付く可能性が高いから良いときにモチベ
ーション上げてくれたって言うか﹂
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﹁付く?﹂
﹁うん、今日のプロデューサーはロリコンだもん。アイドルのパン
チラ大好きなドSロリコン﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前﹂﹁いや別に⋮﹂
私が男として好きな女の子を案じているのを察したのか、高浜の目
つきが若干鋭くなりました。
﹁ユズちゃんの立場を忘れるな。そしてお前の立場もだ。仕事に私
情は基本は挟まないのはどこだって同じだろ﹂
﹁いや俺は⋮⋮﹂
﹁落ち着け。仕事が終われば自由だし、お前がユズちゃんを水揚げ
したいっていうなら話は聞く﹂
﹁みずあげ?﹂
﹁経営者の許可を得て、夜の女を自分の女にすることだよ﹂
﹁そんなこと出来るの?﹂
﹁まぁ⋮⋮相談の上だな。だから仕事は仕事、俺だって妊婦組には
優しいけど母乳組には媚薬使いまくるくらいの鬼になる﹂
﹁悪阻は⋮⋮﹂
﹁それも考慮するよ、お客さんもいっくら妊婦さん相手でも悪阻で
吐かれたらビミョーだろうし﹂
﹁頼むぞ、俺は診察と検診しか出来ないんだから﹂
﹁お前はやっぱり⋮⋮だな、優しいし育ちがいいっちゃそうなんだ
けど﹂
﹁え?﹂
﹁ま、ユズちゃんとも程々にね﹂
一気にいつもの高浜の顔に戻り、そう言い残すと去って行きました。
高浜は何て言ったのか聞き取れなかったのですが、私は恋愛にのめ
り込みすぎて邪魔をしたんだ、と言う事は何となく解りました。
でも、世間の人は自分の人生観を変えるくらい好きになった人が、
仕事とは言えど他の、それも著名人とアブノーマルなセックスをす
53
るのが平気なんでしょうか。
お金の為と言う価値観の女性を好きになった私が越えなければなら
ない壁なのでは⋮⋮
フラフラしながら、ちょっと一人になりたくて書斎に入りました。
するとそこには、いつの間にか液晶が幾つも設置され、どうやら防
犯カメラの映像が送られてきている様でした。
﹁あっれ、長浜さんじゃないの?お兄さん誰?﹂
いきなり声を掛けられ、ビックリすると、ハイバックの椅子︵これ
も高浜が買った様です︶がクルッとアニメの悪役の様にがこちらに
向き直り、二十歳そこらくらいの派手なホスト風の男が座っていま
した。
﹁⋮⋮あの﹂
﹁お客さんですか?此処は従業員以外立入禁止ですが﹂
﹁いえ、この家の持ち主なんですが﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ?﹂
長浜さんの同級生であること等を詳細を省いて話すと、彼の表情が
一気に人なつっこい顔に変わりました。
﹁いや、失礼しました、すんません﹂
﹁中に誰もいないと思っていたので俺のほうこそノックもせずに﹂
﹁いやいやいや、自分の家ですもんね、挨拶も無く失礼しました﹂
何だか今までテレビや妊婦さんの付き添いで見るくらいの風貌の若
者でしたが、人は外見と中身のカテゴライズは一致しないもんだな
と今更当たり前の事を思いました。
﹁俺、さっき長浜さんにここで監視員やれって言われて﹂
﹁さっき?監視員って?﹂
﹁さぁ⋮⋮俺が先月仕事辞めたから暇なら来いって。大学でプール
の監視員やってた話をしたからじゃないっすかね、お客さんが無茶
しない様に見張っとけって感じで﹂
54
﹁そっか⋮⋮﹂
液晶を見ると、地下室で女の子達に指示を出している様なスーツ姿
の高浜と、横並びに整列して声を合わせて返事をする女の子達が映
っていました。
結構、体育会系な感じです。
﹁あ、朝礼やってる﹂
﹁朝礼⋮?﹂
﹁モチベーション上げる為によくやるんすよ、結構楽しいんですけ
どね、長浜さん話面白いし﹂
﹁そうなんだ⋮﹂
画面の端に、後ろ手に応援団の様に返事をするレモン色のビスチェ
のユズちゃんが映ります。
あぁ、仕事するのか。
割り切らないと。
﹁どうしたんですか?﹂
﹁いや、大丈夫⋮⋮朝礼とかやるんだなって﹂
﹁ははは、応援団みたいですよね。今日は大口のお客さん来るらし
いんで気合い入りまくりで﹂
﹁そう⋮⋮ねぇ、えーと君は﹂
﹁倉田です﹂
﹁倉田くん、俺ここにいてもいいですか?﹂
﹁あ、はい、大丈夫っすよ。一人で見ててもつまんないですし﹂
﹁ありがとう﹂
屈託無い笑顔で言われ、私は此処でユズちゃんのお仕事を見守る事
にしました。
見なくてもいいのでしょうけれど、見なければ見た以上に余計苦し
い気がするのです。
その男が来たのは、私と倉田君が小一時間ほど喋った後でした。
﹁来た!﹂
55
﹁え、あ⋮⋮﹂
カメラの映像で見るとテレビで見るより、そのプロデューサーは小
柄でやや小肥りでした。
高浜がやり手営業マンの様な仕種で挨拶をすると、横柄な態度でそ
れを受け流しています。
メロンちゃんとマロンちゃんが出てきて挨拶をすると、彼はいきな
り乳首を服越しにいじりだしました。
﹁音出しましょうか、面白そうだし﹂
と、倉田くんがスイッチを入れるとノイズと声が聞こえました。
﹃やぁだーもー﹄
﹃うわ君、乳首真っ黒だね、遊んでるだろ?﹄
﹃妊婦になるとそーなんですってばぁ﹄
﹃へえーおっぱい出る?﹄
﹃あぁーんもぅチュパチュパだめぇ∼﹄
﹃これに着替えてー﹄
ビスチェの色で察するにマロンちゃんの乳首をいきなり吸い出した
男はメロンちゃんからガウンを渡されています。
﹃そうだな、君らのオツユでスーツ汚されそうだしね、わははは﹄
ガウンを持って、男は奥の部屋に消えて行きました。
﹁あの豚、下品っすねー﹂
﹁うん⋮⋮﹂
下品でドSロリコンであるらしいあの男にユズちゃんは⋮⋮そう思
うと、激しい感情が湧きながらも私は勃起していました。
﹁でもマロンちゃん、さっき会ったばっかだけどエロい乳首してん
なぁ﹂
﹁そうだね⋮⋮﹂
﹁うわー俺も混ざりてー﹂
倉田くんの年齢ならそうなるよね、と思いつつ、私は黒っぽいガウ
ン姿でメロンちゃん達を両脇に侍らせて地下室へ向かう男を見送り
56
ました。
57
ユズちゃん︵前書き︶
行き当たりばったりで書いてるのがバレバレかもですが、沢山のア
クセス頂いてビックリしてます⋮⋮読んで下さっている皆さん有難
うございます!!
58
ユズちゃん
﹁あー地下室のカメラ、映り悪ぃっすね⋮⋮ちょっと解像度いじろ
っと﹂
何も知らない倉田くんはノイズの入る音声を調整しはじめます。
ユズちゃんは元々こう言う仕事をしていたんだから、好きになった
女の子の仕事なんだから、と自分に言い聞かせますが、やはりごま
かせない衝動的な苦しみに襲われます。
高浜なら⋮⋮こんな時はどうしてるんだろう。
絶対いい気はしないと思うんだが⋮⋮。
﹁うっわアイツ、抱っこされて乳飲んでるわ⋮⋮きっめぇー﹂
倉田くんが無邪気にドン引きしています。
﹁うっわーねーわ、ありゃキモ過ぎる﹂
恐る恐る画面を見ると、粗い画像ですが、ガウンが乱れて半裸状態
のあの男がどちらかに授乳されるみたいに抱っこされているのが解
ります。
自分の愚かしさにも程がありますが、恋愛感情の無い女性が抱かれ
ているのは嫌では無いのです。
正直、ユズちゃんがまだ何もされていないのにホッとしていました。
﹁ママァ∼おっぱいおっぱーい﹂
﹁はいはい、もっとでちゅねー﹂
もう家族や職場の人間に聞かれたら完全アウトなやり取りをマイク
が拾ってきます。
流石はプロ、授乳させつつ片手で男の局部を扱いている姿を見て感
心してしまう私がいました。
﹁倉田くん、君ってた⋮長浜の仕事には詳しいの?﹂
﹁まぁ長浜さんの元で働いてたんで多少は。でもあの人、イロイロ
やってるみたいで、年収数億らしいっすよ。噂ですけど﹂
59
﹁うん、それでね﹂
﹁数億ってのにビビらないってやっぱ別荘オーナーは違いますね﹂
﹁俺はそんな額はないんだけど⋮そうじゃなくて、水揚げって言葉
知ってる?﹂
﹁あぁ⋮⋮何か前の店でも600万くらい払って女の子を正式に愛
人にしたお客さんいましたね﹂
﹁600万でいいの?﹂
﹁さぁ⋮女の子によるのかな?あ、何かお目当ての子がいるんです
ね!?﹂
いきなり倉田くんがすごい怖い笑顔になりました。
お前俺の彼女に気があるんだろ?みたいな、余裕のある意地悪な感
じの。
﹁今すぐにって訳じゃないんだけど﹂
﹁長浜さんに言った方がいいんじゃないですか?﹂
﹁そっか﹂
﹁あの、オーナーさんって﹂
﹁オーナー?﹂
﹁別荘オーナーさんだから﹂
﹁あぁ⋮⋮永山でいいよ﹂
﹁永山さんすね。ま、この世界は本名なんて言っても仕方ないっす
もんね﹂
そうか、偽名でも良かったんだっけ?
ウッカリ本名を晒してしまう自分がいました。
倉田くんも偽名なんでしょうか、私の本名も偽名と思っている様で
す。
﹁永山さんってホント育ちいいんですね﹂
﹁何で?両親他界してるよ﹂
﹁俺も親はいないんすよ、ばーちゃんに育てられて。何つーか永山
さんって長浜さんと違うタイプかなって﹂﹁アイツは高校の同級生
なんだ﹂
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﹁そーなんすか!?何か長浜さん、高校野球になるとすっごい応援
してる高校あって﹂
﹁あ、※※高校じゃない?﹂
﹁そーそー、母校っすか!?あそこ超頭良くて甲子園にも結構いい
とこ行くし、貧乏人お断りで有名な⋮マジすっげぇ!!﹂
﹁そこまでかな⋮⋮別にみんな普通だったけどなぁ﹂
﹁普通が違いすぎるんですよ⋮﹂
何だか水揚げの事が聞きたかっただけなのに、高浜の個人情報まで
バラしてしまった自分すっげぇバカじゃねと、倉田くんと話してる
内に思えました。
﹁俺⋮⋮すごいアホだ﹂
﹁どうしたんすか、いきなり﹂
﹁やっぱ二十歳そこらくらいはイロイロやっとくべきだね⋮恋愛に
しても遊びにしても﹂
﹁だからどうしたんすか﹂
﹁たか⋮いや長浜や倉田くんみたいな人生を送れば良かった⋮⋮﹂
﹁な、何か俺悪いこといいました?!言っちゃってたらマジですん
ません﹂
本心でした。
高浜も倉田くんも頭の機転も利くし、相手の気持ちを敏感に察する
事が出来る。
でも自分は人生で恐らく初めての恋愛にこんなにも翻弄され、十歳
程も年下の倉田くんより気が利かない。
これから?
これからしっかりすればいいとかそういう問題なんでしょうか。
﹁傷付くのが嫌だからビビるのって良くないね﹂
﹁え?まー⋮そうっすね、俺的には人生で一番重要なのは、責任よ
り覚悟だと思ってるんですけどね﹂
覚悟。
後悔する覚悟が無い人間は悩むべきですら無いって事⋮⋮。
61
﹁永山さんは仕事や勉強に真面目で頭良い人なんですよ、長浜さん
は楽しんで生きる事に真面目って言うか。俺は⋮⋮何に真面目なん
でしょうね、今の彼女かな﹂
そう言って照れ笑いした倉田くんの笑顔を私は一生忘れない気がし
ました。
﹁あれ?音止まってない?﹂
いきなり高浜の声がしました。
﹁あ⋮⋮長浜さん﹂
﹁つーかお前、ここにいたの?﹂
﹁すまん、倉田くんに人生教えてもらってた﹂
﹁何だそりゃ⋮⋮音消すとかお前﹂
高浜がそう言いかけると、倉田くんが目で何かを訴えました。
﹁そんな気遣いか、はいはい。お前はここ入るなよ、何もない限り
大家さんはテナントのスタッフルームには入らないだろ﹂
そう言って私を引っ張って追い出しました。
四つん這いのユズちゃんをバックで攻めて何やら喚いているあの男
が画面に映っていましたが、何とか冷静でいられました。
ユズちゃんを好きになった覚悟、そう思って。
﹁いや、すまんな﹂
﹁何が?俺こそ勝手に入っちゃったし﹂
﹁そうじゃない、ここ使わせて貰って勝手にカメラ付けた上にあん
な冷たい言い方して。お前が見るべき映像でも無いと思って﹂
﹁何でだ?﹂
﹁いやな、倉田に何か言った?あいつは若いけど、すっごいしっか
りしてる﹂
﹁プールの監視員してたんだよね、だから監視員だって言ってた﹂
﹁まーそりゃこじつけだ。アイツはお前と一緒で欲がねーしな。で、
倉田と何話した?﹂
62
﹁お前と高校の同級生だとか、母校の事とか、焼肉で欠かせないメ
ニューとか﹂
﹁ちょ、マジかよ勘弁してくれよ、焼肉はいいけどお前本名とかバ
ラしてねーよな?﹂
﹁ゴメン⋮俺の名前は本名で教えちゃった。あと、水揚げって知っ
てる?みたいな事も聞いた﹂
﹁だからアイツは音声消したんだな﹂
﹁え?﹂
﹁俺がユズちゃんのお仕事を見せない様に連れ出したのと一緒だよ、
お前に音声聞かせない方がいいと思ったんだろ、画像消すと仕事に
ならないから﹂
﹁水揚げの事聞いただけだよ、別にユズちゃんが好きとか言ってな
い﹂
﹁水揚げ聞く時点であの中に目当てがいるってバレバレだろうが!
!﹂
頭を殴られて目から鱗が落ちたような衝撃でした。
﹁そうか⋮⋮やっぱりお前も倉田くんもすごいな﹂
﹁だーから医者は世間知らずが多いって言われるんだよ、ただでさ
え坊ちゃんが多数派の業界なんだから﹂
﹁でもいいんだよ、倉田くんに教わったんだよ﹂
﹁何を﹂
﹁人生で一番大切なのは覚悟だと﹂
﹁成る程ね、俺は人生で大切なものとか幸せとか金とかを考えずに
済む事が一番だと思ってるけど、人それぞれだしな﹂
それも一理あるな、と思いました。不安がる妊婦さんに偉そうな事
を言ってても、世間知らずの坊ちゃんだと言う自覚は今まで無かっ
たし、人生とか考える脳味噌も持ち合わせていなかった自分。
金銭面と家庭にそれなりに恵まれた分、足りないモノに気付かない
不幸があるんだと感じました。
﹁まーいいや、水揚げも考えとく。そうだ、来週の妊婦検診よろし
63
くな。俺はブヒが帰るまで待つけど、お前どうする?﹂
ブヒとはあの男の事でしょうか。
﹁あの⋮倉田くんがいた部屋に行ってもいいかな﹂
﹁いいけど⋮⋮⋮それこそ覚悟は出来てるんだろな﹂
﹁多分大丈夫だ﹂
見ないで悶々とするより、ショックを受ける覚悟で現実を見たい。
そう思いました。
ノックすると、
﹁はい﹂
と言う真面目な返事が返って来て、倉田くんはいないのかと思いま
したが、開けるとカップ麺を啜る彼がいました。
﹁あ、永山さんか。てっきり長浜さんかと。つーか二人とも﹃なが﹄
が付くんすね﹂
﹁じゃあ俺は高山でいいよ﹂
﹁山は譲れないんすか⋮⋮﹂
﹁いやそういう訳でもないけど﹂
﹁じゃ高山さんですね﹂
﹁⋮⋮混乱するからやっぱ永山で﹂
﹁もー混乱すんのこっちすよ、永山さんね﹂
また眩しい笑顔で倉田くんが笑いました。
﹁永山さんってモテそうですよね﹂
﹁全然。こないだまでほぼ童貞だったし﹂
﹁うっそだ、金あってそんだけイケメンなら余裕っしょ?!﹂
﹁うーん⋮⋮セックスが苦手だったと言うか﹂
﹁有り得ねぇ!俺は超好きですね、今日はここで三回抜きましたも
ん﹂
﹁三回⋮⋮﹂
純粋に羨ましく思いました。
﹁だってエロいんですって、ここでの全てが﹂
64
﹁いいね、俺はこないだセックスっていいなぁって思った。産科医
なのに﹂
﹁永山さんって産科医なんすね﹂
﹁あれ?あいつから聞いてない?﹂
﹁長浜さんからっすか?知り合いの別荘で仕事って聞いてただけな
んで、永山さんの事は何も﹂
私は思わず頭を抱えました。
また口を滑らせた⋮⋮。
﹁大丈夫っすよ、俺別に永山さんに恨み無いしリークしたりしませ
んから﹂
﹁ありがとう⋮⋮﹂
ポンポンと肩を叩かれ、安堵するより情けなさが増しました。
このままではユズちゃんに愛想尽かされるのでは⋮⋮と不安になり
ました。
﹁ぶっちゃけそんな落ち込む事も無いと思いますよ﹂
﹁いや⋮⋮最近アホな自分への自己嫌悪で一杯だ⋮⋮﹂
﹁そんなんよくありますって、人間なんて基本アホっすもん﹂
﹁倉田くん、君はいい人だ﹂
﹁ははっ、悪い事してる奴程ケッコーいい人多いっすよ。俺とか、
なんてね﹂
童貞卒業して両思いと思しき状況なのに、私は二十歳の若者相手に
こんなクダを巻いている。
﹁ねぇ倉田くん、今さっき音声下げたでしょ﹂
﹁まぁ永山さんだったから、その﹂
﹁いいよ、俺に気を遣わなくて﹂
﹁そっすか?⋮⋮じゃあ﹂
倉田くんが音声を入れると、
﹃いやぁあぁっ﹄
と言うユズちゃんの甘い声が響きました。
﹃孕め孕め、俺の子を産めぇ!!!あ、また⋮出すぞっ﹄
65
﹃いやぁあぁ出さないでっ﹄
恐る恐るモニターを見ると、手錠で拘束されてバックで犯されてい
るユズちゃんが映ります。
終わったら乳首を引っ張られ、
﹃何だ、真っ黒な乳首だな⋮遊んでんから孕むんだよビッチが!母
乳出せよオラ﹄
と、使用済の避妊具を陰部に投げつけられています。
﹃喉渇いたな⋮おい牛女ども、来い!!﹄
と縄を胸を強調する様に後ろ手に縛られた二人を両側に侍らせると、
それぞれの乳首を掴んで母乳を口に流し込みはじめます。
﹃あぁ⋮⋮痛い、痛いです!﹄
﹃痛いのにこのマン汁は何だよぉ!!スケベが!﹄
足の指でツルツルに剃られた陰部を目茶苦茶に弄り回します。
﹃あっはぁっ⋮⋮﹄
﹃んんー⋮⋮っ﹄
﹁この二人は媚薬仕込んでるんすよね、俺も混ざりてー﹂
倉田くんがムラムラしてるのが解ります。しかし、よくカップ麺な
んてこれ見ながら食べられたなぁと思いました。
﹃おいユズ!マンコ開け﹄
﹃こうですかぁ﹄
すると、チコさんの乳首を思いっ切り引っ張ります。
﹃いやぁあぁ痛い、痛いですぅ﹄
﹃おっぱいミルクで洗ってやるよ、お前の孕みマンコをよ﹄
﹃痛ぁあい!!﹄
何だか、思った程の葛藤はありませんでした。
さっきユズちゃんが、仕事だからと離れて行った時は絶対に他の男
に触れられたくないとすら感じていたのですが、少し醒めた気持ち
でした。おっぱいミルクとか孕みマンコとか、聞こえて来る言葉が
趣味に合って無いせいもあるのかもしれません。
隣の倉田くんを見ると、口を拳の親指で押さえて震えていました。
66
吐くほど不快なのかと思いましたが、笑っている様でした。
﹁おっぱいミルクって⋮⋮﹂
顔は真っ赤になり、目には涙すら浮かべています。
﹁すんません、何かツボッて﹂
﹁いや⋮⋮俺は逆にあの言葉で醒めたって言うか﹂
﹁アイツ面白いっすね⋮⋮あ、すんません⋮﹂
﹁いや、大丈夫。案外、大丈夫﹂
母乳を陰部にかけられ、陰部を拡げた格好のユズちゃん。
後ろから大きなたわわな乳房を、両側から思いっ切り潰す様に搾ら
れていても、チコさんは感じている様でした。
﹃あぁあ早く挿れて⋮⋮﹄
﹃お前も孕ませてやる!!!ノースキンだ!!﹄
﹃あぁッ⋮⋮あんッ⋮⋮﹄
今度はチコさんに、座位とバックの中間くらいで挿入すると男は腹
肉を揺らして激しく動き出しました。痛々しいくらい乳房を握り潰
され、たまに乳首を摘んで振り回されても痛がりながらも感じてい
る様です。
﹃そこのッ牛女、お前のッミルクをこっちのッ牛女に飲ませろッ﹄
ピストンに合わせて途切れる男の声に倉田くんはまた大爆笑です。
チコさんがミルクさんの前にしゃがみこんで、後ろから突かれてい
るミルクさんの口元に大きな乳房を差し出しました。
ミルクさんは言われるがままに、チコさんの乳首を吸いはじめます。
﹁す⋮っげぇー⋮⋮﹂
しかし私の視線は彼女達では無く、別モニターで手錠を引っ張り上
げられてイマラチオさせられているユズちゃんでした。
画面端にミルクさん達の脚が映っているので、すぐ傍の様です。
﹁んんッ⋮ぐむうッ⋮﹂
微かに聞こえる呻き声、
﹁ユズ⋮⋮あぁいいよユズ⋮﹂
と言う男の喘ぎ声。
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やっぱり胸の奥がザワザワしてきました。
よく解らない憎悪と比例して下半身に血が集まってきました。
﹁飲めよ⋮⋮俺のこぼすなよぉお﹂
悍ましい叫びと共に果てた男は、ユズちゃんの手錠の鎖を掴んだま
ま引きずって、ミルクさん達が絡んでいる前に投げ捨てる様に連れ
ていきました。
﹁牛女ども、コイツを犯せ﹂
とか訳の解らない事を良います。
ミルクさん達も少しキョトンとしていましたが、すぐ理解したのか
ユズちゃんの身体を舐め始めます。
﹁んあぁっ﹂
仰向けの状態で左右から乳首を舐められ、ユズちゃんが伸ばしてい
た脚を折ります。
﹁牛共ォ、尻はこっちに向けろ﹂
﹁あん⋮⋮ああん⋮やめてぇ⋮⋮﹂
執拗に乳首を弄られ喘ぐユズちゃん。
心なしか私の時より声も大きいし感じている気がしました。
男は向けられたミルクさん達の四つん這いの2つ並んだ尻に歓喜し、
両手で弄り始めました。
もう喘ぎ声のオンパレードです。
﹁あ、俺ちょっともうダメっす﹂
﹁え?﹂
苦笑い気味にそう言い残すと倉田くんは足早に部屋を出て行きまし
た。
生理的に嫌だったんでしょうか。
残された私は遠慮無く画面に魅入りました。
まるでAV女優の様に大きく喘ぐユズちゃんを見ていると、やっぱ
り私とするより気持ちいいんじゃないか、と思い始めました。
正直、ユズちゃんのお腹の子供が自分との子供だったらいいのにと
思っていた自分が段々恥ずかしくなります。
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﹃あ、いいぃ⋮⋮そこ気持ちいぃい﹄
﹃ユズちゃんクリトリス大きいのねぇ﹄
チコさんはユズちゃんの股間に顔を埋め、派手に音をチュプチュプ
立てて舐めはじめました。
﹃あぁん⋮あぁっ⋮あっっ!﹄
ミルクさんに乳首をくわえられると、更にユズちゃんの身体が反り
返ります。
﹃いい眺めだなぁオイ﹄
いつの間にかグラスを片手に男がやって来ます。
﹃ユズ、お前俺が拾ってやろうか?﹄
﹃あぁっ⋮⋮え、拾う?﹄
﹃デビューさしてやるよ、可愛いから気に入った。オーナーに話付
けてやろうか?﹄
思わず立ち上がり、私は部屋を出ました。
途中、気まずそうな笑顔の倉田くんにぶつかりそうになりました。
﹁高浜どこ行った!?﹂
﹁え⋮あ、長浜さんなら下にいませんか?﹂
﹁ありがとう!﹂
家の中で走ったのは久々でした。
学生の頃、忘れ物して引き返した時くらい久しいです。
書斎から地下室までが遠く感じました。
しかし、途中のカウンターキッチンに高浜はメロンちゃん達といま
した。
﹁で、出来上がり。お酒は3分の1入れるシリーズ覚えた?﹂
﹁はぁーい﹂
﹁やっば、超美味いんですけど﹂
ゆるく楽しそうにカクテルを作る高浜に突進すると、高浜は私の頭
を片手でガシッと受け止めました。
﹁牛かお前は!俺の牧場にオスはいらん﹂
﹁冗談言ってる場合じゃないんだ﹂
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﹁どうした?下で何かあったか?﹂
ちょっと高浜が怖い顔をします。
﹁いや⋮⋮﹂
﹁ちょっと外すから練習しといて。マロンは飲み過ぎ注意な﹂
﹁りょーかいーっす﹂
高浜が私をキッチンからの死角に引っ張って行きます。
﹁高浜⋮⋮アイツもユズちゃん狙ってるんだ﹂
﹁まぁ予想通りっつーかそうじゃないとえぇ?っつーかだけどな﹂
﹁どうしよう⋮⋮デビューさせてやるって言ってた﹂
﹁だから?﹂
﹁だから⋮⋮﹂
﹁お前が負けるとでも?﹂
﹁だって相手は﹂
﹁お前より有名人で金持ちだから、か?お前はいつからそんな卑屈
な奴になったよ、テレビにはお前だってチョコチョコ出てただろ。
結構人気あったぞイケメンで人道的なお医者さんってスレも立って
たしツィートだってかなり﹂
﹁知らないよ、そんなの﹂
﹁は?お前自分の名前ググったりしないの?﹂
﹁しないけど﹂
﹁何か社会的にするならそんぐらいしろよ﹂
﹁解った⋮⋮それはいいけど﹂
﹁ユズちゃんが水揚げされちゃうんじゃないかって話だっけ﹂
﹁そう、どうすればいいんだろう﹂
﹁ユズちゃんを信じろ。お前はユズちゃんが金と芸能界デビューを
自分より選ぶと思ってるのか?それであの男に行くならそれまでの
女だ、厄介払い出来てラッキーじゃんか﹂
﹁そんな⋮﹂
それまでの女⋮⋮確かに、心配をする時点でそう思ってたって事で
す。
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﹁いいか、俺だって色んなババアに若い頃は愛されたさ。ホモのオ
ッサンにも信じられない金額と共に愛人の話も来た。でもな、俺は
全部かわして今ではいいビジネスのお客さんだ﹂
﹁そりゃ高浜だからだよ﹂
﹁ユズちゃんだって断る事は出来る、そうだろ?断らなくても若い
ユズちゃんの未来を俺らがとやかく言う事じゃない﹂
﹁⋮⋮うん﹂
すると、いつの間にか倉田くんが傍に立ってました。
﹁長浜さん、ユズちゃん殴られました。支配人呼べってアイツ暴れ
てます﹂
﹁あーぁ⋮⋮ってオイ﹂
殴られた!?と地下室に走り出した私は高浜に脚払いを掛けられ、
派手にすっころびました。
﹁わりぃ、脚が長くてスマン﹂
﹁殴られたって何だよ!?﹂
﹁いいから、お前ここにいろ﹂
﹁だって⋮⋮﹂
﹁じゃあガウン着替えて客のフリして来い﹂
そう言い残すと、高浜はサッサと地下室に降りて行きます。
﹁大丈夫っすか?﹂
﹁メロンちゃん、ガウンを﹂
﹁え⋮ちょ永山さん⋮⋮﹂
﹁あ、はぁーい﹂
メロンちゃん達の声がして、ホテルにある様なガウンが渡されまし
た。
﹁あの⋮⋮俺が四の五の言う事じゃないんすけど⋮⋮ユズちゃんは
絶対結婚したい人がいる、芸能界なんて知らないからヤダってめっ
ちゃ言い返してビンタされたんですよ﹂
﹁⋮⋮⋮マジか﹂
﹁永山さんでもマジとか言うんですね、あ、別にそんな悪い意味じ
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ゃなくて﹂
﹁違う⋮⋮⋮﹂
自然に目から涙が出てきました。
﹁感動したんだ﹂
﹁ど⋮⋮どの辺に?!あ⋮⋮﹂
倉田くんは私が泣くほど感動した理由を理解した様でした。
きっと他のみんなも解ってるんじゃないかと思います。
﹁良かったっすね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ベソかいた自分が気にならないくらい、私は感動していました。
高浜が戻って来て私を見るとゲッと言う顔をしましたが、私からガ
ウンを慌てて引ったくります。
その直後、あの男がスーツに着替えてノシノシやって来ました。
﹁オーナー、また来るよ。あの小生意気な天使を落としてやる﹂
﹁大変失礼致しました﹂
﹁いや、いい。あそこでついて来られてもつまらんからね⋮⋮﹂
と、私と目が合います。
﹁おや?あちらは前にテレビに出てらした産科医の人じゃない?﹂
﹁あ、アイツですか﹂
高浜が声のトーンを落とします。
﹁うちの経営に文句ばっか言って来るんでさっきまで話付けてたん
です。で、埒あかないんで若いのにちょっと⋮⋮⋮﹂
﹁あははは、大変だねぇオーナーも。俺もフェミニスト団体とか青
少年何たらから怒られまくってるから解るよ、無視でいいから無視
で﹂
﹁はい﹂
高浜が突き抜ける様に爽やかな笑顔で返事をしました。
﹁それと⋮⋮そこのお医者さん﹂
﹁私ですか﹂
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﹁派手にやられたんだね、目が真っ赤じゃないの﹂
﹁いやこれは﹂
﹁すんません、あんましうるさいんで俺が﹂
私を遮って倉田くんが私の前に立ちます。
﹁でしょー?俺がここに来てる事バラしたらお宅もタダじゃ済ませ
ないからね、いーぃ?解ったイケメン先生﹂
﹁え⋮⋮⋮﹂
﹁そおいう事。じゃオーナー、また近い内に来るよ﹂
﹁お待ちしております﹂
バタン。
ドアが閉まると高浜と倉田くんがこっちを睨みます。
﹁お前⋮⋮﹂
﹁危なかったっすね⋮⋮﹂
﹁ごめん﹂
﹁まぁ俺もお前にガウン着て来いとか言っちゃったしね﹂
﹁俺も止めなかったから悪いんすけど﹂
﹁だってお前がガウン着て来いって言っただろ?﹂
よく解らず聞き返すと、高浜の瞳孔が開きました。
﹁お前、今回は俺らが庇ったから何とかなったんだぞ?﹂
﹁庇ったって⋮脚払いで?﹂
﹁そこじゃないっすよ﹂
﹁倉田、説明出来るか?﹂
﹁えー⋮⋮例えば、さっき永山さんがガウン着て行ったとするじゃ
ないですか。アイツは永山さん知ってたから、アイツがマスコミと
かにリークする可能性だってあるんですよ。で、ここ摘発されたら
持ち主の永山さんもアイツのリークのせいで言い逃れ出来ないっつ
ーか﹂
﹁ドラマみたいだね﹂
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﹁ぐわぁコイツ全然堪えてねぇ!!﹂
また私は無知による無神経な発言をしてしまいます。
﹁お前ってすっげーな、昔から﹂
﹁何が?﹂
﹁高一の時に、コイツと渋谷行ったんだよ﹂
﹁あ、カツアゲされたのは覚えてる﹂
いきなり懐かしい話題を出し、当時を思い出します。
﹁問題はその時のコイツの対応でさ、使途を聞きはじめたんだよ﹂
﹁使途!?﹂
﹁うん。で、幾らいるのかとか聞きまくって、親が末期癌でとかテ
キトー言われたら挙句の果てにはコイツ、下ろしに行っちゃって﹂
﹁マジすか!?﹂
﹁で、戻って来たら、コンビニって十万円しか下ろせないんだね、
もし良かったらおじさんが病院やってて聞いてみるからとか真顔で
詳細聞き出して﹂
﹁うぎゃー永山さんすげぇ﹂
﹁結局お前が怖くてそいつら逃げてったけどな﹂
﹁そうなの?お前が追い払ったんだと思ってた。今思うと癌の話は
嘘だと思うけど。何で俺が怖いんだ?﹂
﹁とか言うところが怖いんじゃないですかね﹂
﹁まぁ嘘解るならお前も成長したんだろ﹂
まぁそう言われても仕方ない気もしました。
今日初めて会った倉田くんと一緒にいて色々気付いたので、きっと
高浜はもっと歯痒く思っていたのでしょう。
﹁はぁあ∼アイツ最悪ぅ﹂
﹁キモかったぁ﹂
チコさん達がシャワーを浴びて、キャミワンピ姿で出て来ました。
﹁お疲れ様。でもアイツまた来るって﹂
﹁はあぁあ⋮⋮ねぇ、そこの可愛いコ誰?﹂
74
﹁あ、倉田っす。今日からここでアシスタントを﹂
﹁ちょっと可愛いじゃーん、お酒飲める?﹂
﹁チコさぁん、また借金嵩むって﹂
ミルクさんが皮肉っぽく言います。
﹁だぁって⋮⋮つか、ここはホストクラブじゃないし!﹂
﹁いっすよ、俺も酒好きなんで﹂
﹁ほれメロンマロン、練習しとけ﹂
﹁ふぁーい。つか飲めないとか有り得ないし﹂
﹁ノンアルコールの死ぬほど買ってやったろ﹂
﹁酔えないとかマジ無理ぃ﹂
﹁お前ね⋮⋮お腹に赤ちゃんいるんだろうよ﹂
﹁まぁそうなんだけどー⋮悪阻が酷いときとかやるせない﹂
確かにお酒好きな妊婦さんが言う愚痴です。
タバコ、お酒、覚醒剤は妊娠中と授乳中は御法度です。 まぁ覚醒剤は出産にも授乳にも関係無くダメにしても、タバコやお
酒、体重増加防止の為の食事制限はかなり堪える事だと思います。
﹁でもアイツ笑っちゃうよね、ユズちゃんに相当イレ込んでたし﹂
﹁あっははは、やっぱロリコンなんだよロリコン﹂
これには鈍い私もグサッと来ました。
﹁ちょっとチコさん!﹂
﹁あ⋮⋮先生の事じゃないです﹂
慌てて取り繕うので、気を遣わせても悪いと思い、
﹁若い子が好きなんじゃなくってユズちゃんが好きなんです﹂
と言っておきました。
その瞬間、沈黙が起きましたが
﹁なー?コイツこういう事サラっと言える奴なんだよ﹂
﹁育ち良すぎっすねー﹂
と高浜と倉田くんが丸く収めたようです。
﹁へーじゃあ今までは違ったんだー﹂
﹁そう、コイツの彼女は同い年くらいのばっかだったね、お嬢様系
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の子ばっか。だから俺も意外でさ﹂
﹁じゃあロリコンでもないんだねー﹂
﹁てっきり産婦人科で仕事で毎日見てるから変な方向に行ったのか
と思ったー﹂
と、私の好みで盛り上がっていると、
﹁私、もう結婚も出来るしお酒も解禁なんだけど﹂
と、待ち侘びた声がしました。
﹁あ、ごっめーんユズちゃん、聞こえてた?﹂
﹁聞こえてた﹂
バスタオルで出来た様な、肩がゴムになっている薄紫のワンピース
姿のユズちゃんが現れました。
﹁先生⋮⋮!﹂
ユズちゃんと目が合って、私は今までの事を思い出して狼狽してし
まいます。
﹁先生の隣行くぅ⋮⋮あ、お酒だぁーいいなー﹂
﹁酒は俺と倉田と乳牛女子のみ﹂
﹁ちょっと長浜さん、乳牛女子って何?﹂
﹁じゃあお前のミルクでモーツァルト割るぞ﹂
﹁いいわよ∼﹂
﹁わ、ちょ、マジでおっぱい出すんすか!?﹂
﹁倉田くん可愛い∼飲む?﹂
﹁え、ここではいいっす﹂
﹁じゃ俺が飲む∼﹂
﹁ヤバ過ぎっすよ、うっわエロッ﹂
倉田くんが焦ったりドン引きしたりする中、高浜はミルクさんの乳
首に吸い付き、マロンちゃん達はお酒を作り⋮⋮⋮
和気藹々としてるなぁと思いました。
何だか当初のおどろおどろしい、私の性癖を満たす為の別宅が大学
のサークル合宿所みたいになっている気がしました。
大学と言えば、余りいい思い出はありません。
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自分のコンプレックスで女の子とマトモに付き合えなかったし、こ
の性格なので当たり障りの無い友人関係しか無かった気がします。
陰では女タラシみたいな事も言われていたみたいですが、女の子と
関係を持たずにたらせる男なんているのかと内心苦笑していました。
だから、ユズちゃんなんだろうか。
自分の学生時代や二十代を取り戻すような感覚なんだろうか。
お互い普通にセックスが難しい身体なのに相性ピッタリなのは運命
なんじゃないだろうか。
彼女のお腹には、誰のかも解らない子供がいる。
その出産が無事に終われば、私はユズちゃんを水揚げしよう。
ダメだと言われたらこの別宅と引き換えに⋮⋮いやでも何かユズち
ゃんと言う人間と不動産を交換っていやらしいかな。
そう悶々としている私を、ユズちゃんがじっと見ていました。
﹁⋮何?﹂
﹁先生、今⋮⋮ユズの事考えてたでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁アッサリ肯定しちゃつまんなーい⋮まぁ先生らしくて可愛いけど﹂
﹁今日は大変だったね﹂
﹁ん⋮⋮まぁあんなもんでしょ、あーゆーお客さんは。先生こそユ
ズの為に怒ってくれたんでしょ?﹂
﹁怒ったって言うか⋮﹂
さっきまでの自分を思い出して、急に恥ずかしくなってきました。
﹁ユズ嬉しかったなぁ、先生って男らしいとこあるなぁって惚れた﹂
﹁ユズちゃん、出産終わったらどうする?﹂
﹁どうするって⋮⋮﹂
﹁違うな、どうしたい?かな﹂
﹁⋮⋮うーん⋮私、家無いから帰る場所も無いし決まってない﹂
﹁良かったら一緒に住まない?﹂
そう言うとユズちゃんはビックリした顔をしました。
心底、可愛いと思いました。
77
﹁⋮⋮いいの?﹂
﹁ダメだったら自分から言わないよ﹂
﹁だって先生はお医者さんで社会的にちゃんとした立場もあるし⋮
先生のお母さんとか納得しないよ、風俗嬢と同棲なんて﹂
﹁もう両親は他界してる。元風俗嬢になってくれればそれでいい﹂
﹁そっか、先生のお父さんお母さん⋮⋮でも嬉しいな。あのね、私、
専業主婦って何か嫌で﹂
﹁どうして?働きたいの?﹂
意外でした。
これまで知り合った女の子はみんな、医者と結婚して楽したいみた
いな子が多かったので、女の子は専業主婦願望が強い子が多いよう
な印象を持っていました。
﹁うん、やっぱり働かないと。せめて自分のお小遣いくらいは⋮⋮
ハンバーガー屋さんとかコンビニならやってたし﹂
﹁ユズちゃんがそうしたいなら構わない。でも⋮俺が帰る時には出
来ればいて欲しい。俺も夜勤とかもあるし出来るだけでいいから﹂
﹁解った。先生、ありがと。すっごい嬉しい﹂
﹁俺、ユズちゃんが嫌じゃなかったら結婚も考えてる﹂
﹁ホント!?⋮⋮これもすっごい嬉しいけどプロポーズはもうちょ
っと静かなところが良かったなー﹂
﹁プロポーズはちゃんとする⋮⋮そっか、今のがプロポーズか﹂
﹁先生、相変わらずだね﹂
そう言ってユズちゃんは私の肩に頭を凭れかけてきました。
私の学生時代に女子の間で流行っていたシャンプーと同じ甘い匂い
がフワッと香りました。
思わず学生に戻った様な錯覚を覚え、10年近い年月を感じました。
私が二十代前半、いや二十歳くらいならユズちゃんと釣り合いが取
れたのかもしれません。
高浜達は更にヒートアップしてスワッピング状態でしたが、私とユ
ズちゃんだけ時間に取り残されたみたいにくっついたままじっとし
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ていました。
高浜の地黒な筋肉質の身体に負けず、倉田くんも色白で細身ながら
かなり引き締まっていました。
それに柔らかそうな女の子達の身体が絡んでいる光景は本当に綺麗
だなと思いました。
﹁ふふ、乱交してる中でプロポーズとか一生忘れられない﹂
﹁⋮⋮また後日やり直していい?﹂
﹁楽しみにしてる﹂
乱交に触発されて私達も⋮と、ならないくらい私は満たされていま
した。
﹁先生、いい匂いする﹂
﹁何もつけてないけど⋮⋮あ、柔軟剤の匂いだと思う﹂
﹁先生解ってないなぁ﹂
そう言われ、ちょっと焦りましたがユズちゃんは私の肩に顔を埋め
ています。
﹁先生の匂いで落ち着くって意味だよ﹂
﹁⋮⋮自分の匂いって解らないからなぁ⋮﹂
﹁だからそういう話じゃ⋮⋮まぁいいや、先生大好き﹂
だからどういう話じゃ⋮⋮まぁいいや、何か解らんでもないし。
﹁もう今日は帰っちゃうの﹂
﹁今日は休みだし明日は夜勤だから、明日の午前中まではいるよ﹂
﹁はぁ⋮⋮今日の夜がずっと続かないかなぁ﹂
﹁何で?﹂
﹁⋮⋮先生って解っててわざと聞いてないよね?﹂
ユズちゃんにも鈍い奴と思われている、また私は切なくなりました。
﹁違うんだ、安心した﹂
﹁自分が鈍感な奴だって最近、いや今日気付いた⋮安心したって鈍
感だから?﹂
﹁あははは、違うって。演技だったら嫌だなって思っただけ﹂
自分は三十過ぎた男なのにぶりっ子と思われている場合もあるのか
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⋮⋮本当に言動に気をつけなくては。
私はそっとユズちゃんの肩に腕を回し、軽く抱き寄せました。
シャンプーの匂いが近くなり、その中にユズちゃんの匂いを感じま
す。
とても幸せで落ち着く、さっき言ってた意味が解る気がしました。
﹁そこの二人!﹂
いきなり高浜の声でうつらうつらしていた私達は目を覚まします。
﹁やりづれーから出掛けて来い!!!﹂
チコさんの腰を掴んで後ろから突いているのにやりづれーとは流石
です。
﹁出掛けていいの!?﹂
ユズちゃんが立ち上がりました。
﹁おう行ってこい!明日の朝くらいまで帰って来るなよ!!﹂
﹁ありがとう!長浜さん愛してる!﹂
長浜さん愛してる⋮⋮?
冗談と解っててもイラッとするお子様極まりない自分がいました。
﹁ユズ、先生の前で他の人に愛してるとか言っちゃダメだよ﹂
仰向けで喘ぐ倉田くんの局部に顔を埋めていたメロンちゃんの一言
で、私は我に返りました。
﹁長浜さんは今一瞬だけ愛しただけだもん、普段は全然﹂
﹁うるせー小学生、どっか行け﹂
﹁言われなくても行きますよー。先生、行こ行こ!!﹂
ユズちゃんが私の手を引っ張って、客間に向かいます。
客間のドアを閉めると、
﹁怒った⋮⋮?﹂
としょげた顔で聞いてきました。
﹁何が﹂
﹁長浜さんに愛してるとか言ったから⋮⋮あれは冗談で﹂
﹁そんなの気にしてないよ﹂
80
﹁本当?もうあーゆうことは言わない﹂
﹁いいよ、アイツだったら﹂
すると今度はユズちゃんが拗ねた顔をしました。
﹁アイツだったらってどういう事?﹂
﹁え?アイツなら間違いは起きないだろうし⋮⋮もしかしてユズち
ゃん﹂
﹁んな訳ないじゃん、長浜さんも私もお互い全然タイプじゃないか
ら安心して﹂
﹁うん﹂
﹁タイプって言えば、先生はお嬢様系がタイプなの?﹂
﹁あ、さっきの話?﹂
ユズちゃんが少し思いつめた顔をしています。
﹁私、全然違う。先生は私のどストライクなタイプだけど、先生は
お嬢様系が好きなの?﹂
﹁いや全然⋮⋮ユズちゃんは今まで感じた事無いくらいに好きだよ。
俺自身はどんな子がタイプって特に無いんだ。敢えて言うなら年上
と付け睫毛が苦手﹂
﹁つけま嫌いなんだ⋮覚えとく﹂
ユズちゃんがぐっと近くに来ました。
私は思わず、両腕の中に抱きしめます。
﹁ユズちゃん、結婚してくれる?﹂
﹁⋮⋮喜んで﹂
ユズちゃんが涙声で答え、私達はベッドにそのまま倒れて長いキス
をしました。
ユズちゃんの短い舌が私の前歯を舐め、私は応える様に舌でユズち
ゃんの唇や舌先をなぞりました。
﹁早く先生のお嫁さんになりたい⋮⋮﹂
ユズちゃんのお仕事はユズちゃんが辞めない限り仕方ないと思いま
す。
19歳の女の子にしてはかなりの大金を貰える訳ですし、私の仕事
81
は結婚前にユズちゃんの出産を無事に終わらせる事です。
もしかしたら、歳だけ喰った私と年齢以上に経験豊富なユズちゃん
では長続きしないのかもしれません。
でも、ユズちゃんの言葉全て真に受ければ、幸せな時間がマンネリ
化する可能性でまた躊躇するよりも、伴侶として一緒に人生歩むの
も悪くないかなと思いました。
﹁また何か考えてるでしょ﹂
ユズちゃんが意地悪そうな顔をして聞いてきます。
﹁ユズちゃんとの結婚の事を考えてたよ﹂
﹁⋮⋮今、お腹にいる赤ちゃんは誰かに貰われて行っちゃうんだよ
ね﹂
﹁まぁ里親希望者の方が多くてね⋮⋮でも俺はユズちゃんに任せる﹂
﹁どういう意味?﹂
産科医としての正義感とでも言うのでしょうか。
赤ちゃんをお母さんから余程の理由も無いのに無理矢理に引き離す
気はありません。
﹁ユズちゃんが可愛いって思ったら、俺は自分の子供として迎えて
もいいと思ってる﹂
﹁え⋮⋮だって父親はわかんないんだよ?﹂
﹁ユズちゃんの連れ子だから俺が父親になればいいでしょ。赤ちゃ
んなんてみんな可愛いし、実の子だって反抗期は厄介だろうし⋮⋮
血縁に捕われなければユズちゃんのお腹の子供と俺は親子として成
立するんじゃない?﹂
﹁先生⋮⋮﹂
ユズちゃんの顔が一気に子供の様な泣き顔になりました。
﹁⋮⋮どうしてそんなに優しいの?﹂
優しそうと言われる事は多いですが、どうしてそんなに優しいの?
と聞かれたのは初めてでした。
﹁優しいかなぁ⋮⋮俺って人の気持ち考えるの下手で﹂
﹁ふふふ、先生は鈍感で素直なだけだよ﹂
82
﹁やっぱ鈍感なのか﹂
﹁長浜さんの優しさは相手とのバランスを保ってる感じがする。先
生の優しさはね、愛なんだよ﹂
いとしいと書いて愛ですか⋮⋮り余り意識したり感じた事の無い感
情かもしれません。
﹁そうかな﹂
﹁先生の名前でググったら、先生って有名人じゃん。動画も出て来
たよ、先生って仕事だとあんなに冷静なんだね﹂
﹁まぁ、会見では噛んだりはしなかったと思う﹂
﹁コメントとか拍手もいっぱい付いてた。大体が賛成意見だったけ
どね﹂
﹁そりゃ捨て子や不幸な子供が減るに越した事はない。望まれずに
生まれても、愛情を注いで育ててくれる人がいればいい。だから里
親の選別にはかなり念入りにしてるんだ、職業や年収だけじゃなく
って、いくつか心理テスト的な適性検査もしたりして﹃じゃあお互
いお願いします﹄って流れになってる﹂
ユズちゃんはまだ涙目でしたが、頷きながら聞いていました。
﹁今の先生がお仕事モードの先生だね﹂
﹁まぁ仕事柄、この手の話には熱くなるのは自覚してる﹂
﹁私に育てられるのと、適性検査に受かった人に育てられるの、ど
っちが幸せかなぁ﹂
﹁子供は親を指名出来ないし、その子が大きくなってどう思うのか
は俺にも解らない。でも、誰じゃなきゃダメって事もないけど、本
当のお母さんが育ててくれるのが一番いいような気もする﹂
﹁私、迷ってるんだ⋮⋮もう大きくなっちゃってるでしょ?たまに
動くんだけど、ママだよって言っていいのかなって﹂
﹁どうなるのかは解らないけど⋮⋮言ってあげなよ、今はママって
思わせてあげた方が赤ちゃんの為だし産みの親としての愛情だと思
うよ﹂
﹁この子が先生の子供だったら良かったのにって、超都合いいこと
83
考えちゃうんだ﹂
またユズちゃんの目に涙が溢れます。
﹁偶然だね、俺もそう思った事ある﹂
﹁それにこの子のおかげで⋮⋮﹂
﹁ユズちゃんと俺は出会えたんだと思うから、俺は感謝してる﹂
﹁長浜さんのお陰ってのも大きいけど﹂
一気に高浜の不敵な顔立ちが脳裏に浮かんでしまい、ちょっと気分
が萎えました。
確かに、高浜が妙なビジネスを始めなければ私は恋愛にのめり込む
事も無かった訳です。
﹁でもね、出産⋮⋮すごい不安なの﹂﹁特に初産は殆どみんなそう
だよ﹂
﹁あの永山︵毅︶って書かれてる先生って、先生の兄弟?﹂
﹁あ、毅彦?弟だけどよく解ったね﹂
﹁全然似てないよね、やっぱ兄弟なんだ。その先生には産道が狭い
上に短いから切迫早産に気をつけてって言われて﹂
﹁まぁあいつはユズちゃんと俺が関係してるの知らないで見てるだ
ろうからね。まだ大丈夫だよ、早産の気配は無い⋮⋮けど、無理な
プレイはダメ。本当なら仕事もだけど車で2時間の距離なんてやめ
た方がいいんだ、検診の度に早産の危険が高まるから﹂
﹁先生って﹂
﹁⋮⋮また空気読めない変な事言っちゃったかな﹂
﹁ううん、本当にお医者さんなんだね﹂﹁今までお医者さんに見え
なかった?﹂
﹁お医者さんだとか余り考えなかった﹂
﹁何だそれ﹂
﹁好きってそういう事じゃない?﹂
そうか、私がユズちゃんが風俗嬢だろうと誰か解らない男の子供が
お腹にいようと好きなのも、好きになるとはそういう事なのか。
今までは病院持ってる開業医と言う肩書でしか私を見て貰えなかっ
84
た気がしてきました。
出来るだけ希望通りにしてあげる事が女の子の喜ぶ事だと無意識の
内に思っていたかもしれません。
﹃だからお前は甘いっつーの﹄
大学時代に高浜に言われた言葉を思い出します。
当時、高浜は大学には行かずにイベント会社を既に立ち上げていま
した。
早く社会を知っていた分、余計に私のたどたどしさが見えていたの
でしょう。
﹃女って或る局面では男の言いなりになりたい子多いぞ?女の言い
なりになっても捨てられるだけかもよ﹄
﹃でも今の子はそういうタイプじゃないと思う﹄
﹃予想してやるよ、半年⋮いや3ヶ月以内にお前はフラれる。それ
も表面では可愛い彼女のまんまで、お前の知らないところで本性出
してるぞ﹄
﹃そんな子じゃないと思うんだけどなぁ﹄
それが、あのホテル事件の彼女でした。
この高浜の予言から約2ヶ月半くらいの出来事で、高浜は超能力と
か何か読心術でも持っているのかと後々で震撼したのを覚えていま
す。
﹁まーた何か回想してない?﹂
腹ばいになって覗き込んで来たのでパイル地のワンピースの胸元が
緩み、ユズちゃんの小さな胸の谷間が見えました。
﹁明日にはまたしばらくお別れなんだよ?構ってよ﹂
﹁ユズちゃんって﹂
﹁⋮何?﹂
﹁俺には嘘無いよね﹂
﹁何いきなり⋮首筋舐めないで、弱いんだから⋮⋮っ﹂
﹁俺のいないところとかで﹂
﹁先生、元カノとかのトラウマは捨てなよ﹂
85
﹁⋮⋮!!﹂
﹁忘れるの無理でも私も一緒にしないでくれる?﹂
そう言うと、思いっ切り背中を抓られました。
﹁痛いでしょ?私も同じくらい精神的に痛いよ、元カノと同一視と
か本当やめて﹂
﹁ごめん﹂
﹁先生いい子いい子﹂
そういうと私の頭をナデナデして来ました。
﹁先生、ちょっと猫っ毛なんだね。ストレートかと思ってた﹂
﹁寝起きはすごい事になってる﹂
ユズちゃんの鎖骨辺りに載せた頭が撫で回されています。
﹁寝起き見たいなぁ、先生の寝ぼけた顔とか﹂
﹁今日見られるんじゃない?俺は見られたくないけど、ユズちゃん
の寝顔は見たい﹂
﹁あはは、私も見られたくないけど見たい派だし﹂
そう言ってお互いフフッと笑いました。
﹁もうちょっとこうしてたい、もっとギュッて抱っこして﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ユズちゃんの少し大きくなったお腹の固さを服越しに感じました。
今まで触診やエコーを見るときに器具越しで感じていた感触でした
が、密着して布一枚の距離では当然初めてです。
﹁お腹ちょっと大きくなったでしょ﹂
﹁うん、もう19週目だね﹂
﹁私、ちゃんと産めるかな﹂
﹁俺も医者だから、最善は尽くすよ﹂
﹁ねぇ、死産とかってどのくらいあるの?私が死んじゃう確率は?﹂
﹁6人に1人の赤ちゃんに何らか起きて元気に生まれて来れない。
0.01パーセントの確率で母体の命が失われる﹂
﹁0.01パーセントってどのくらい?﹂
﹁1万人に1人。俺も経験ないけど統計上はそうなってる﹂
86
﹁私、頭悪いからゼロじゃないと怖い⋮⋮そのちょっとの可能性の
中に入っちゃうとか考えたくない﹂
﹁逆に6人中5人は元気に生まれて来るし、99.99パーセント
のお母さんは死なないって考えてみて﹂
﹁安心した。私、単純で良かった﹂
初めての出産に不安要素の無い人は珍しいと思います。
私は如何せん男なので、知識と統計と経験でしか妊娠や出産を知る
ことは出来ません。
でも、産科は生命の誕生と消失を意図的に行える唯一の科だと思っ
ています。
ユズちゃんは私の手をギュッと握りました。
﹁分娩及び執刀は俺がやるから﹂
﹁しっとう⋮?﹂
﹁帝王切開の時の執刀﹂
余り考えずに言って後悔しました。
慣れとは怖いものです。
﹁先生、帝王切開すごい怖い﹂
﹁大丈夫、こう見えてそれなりに上手い方、と思う﹂﹁先生ってお
医者さんの時と普段ですごいギャップあるね﹂
﹁どっちがいい?﹂
﹁分娩中はお医者さんの方でお願いします﹂
服越しに触れるのは当然初めてです。
当然身体を密着させて感じたのは初めてです。
そっとお腹を撫でるとユズちゃんも手を私の手に重ねて来ました。
この子は自分の子供になるかもしれない。
そう思うと、ユズちゃんの体温が二人分の何かに感じました。
﹁先生、もうエッチな事はしてくれないの?﹂
﹁どうして?﹂
ユズちゃんが私の脇腹に手を回しました。
﹁子宮収縮で早産になるから?﹂
87
﹁全然ダメって訳じゃないよ。ただ⋮⋮最初やったみたいなのはも
うしない。抑えきれなかった自分を反省してる﹂
﹁ふふ⋮⋮先生すごかったもんね、やっぱり流石専門家って感じだ
ったよ﹂
触診には全く性的な興奮は無いので知識と経験は違うと思いますが、
そう言われて悪い気はしませんでした。
え、そう?本当に?とちょっと喜んでしまった自分がいます。
よく恋愛経験の無い男が女の子にいいようにされる話を聞きますが、
その場合の男としては盲目的でも懐疑的でも女の子を信じるしかあ
りません。
相手が変わればそれは当然違う人で、﹁前の恋人がそうだったから﹂
というのは余りに失礼な話だというのは解ります。
そう解っていても人間の学習能力が裏目に出てしまって、私はさっ
き思い切り背中を抓られたので、私は恋愛経験の無い男としてユズ
ちゃんを信じるしかないんだと思います。
ユズちゃんだって本心はどうかはさておき︵やはりまだ身構えてま
すね︶、医師としての自分は信用してくれているみたいですから。
﹁どっか行こうか﹂
﹁そうだね、せっかくオーナーの許可が出たんだし。着替えよっと﹂
ユズちゃんが身体を起こして、服を探し始めます。
﹁これでいいかな﹂
グレーのヒラヒラしたミニスカートに濃いピンク色のポロシャツを
見せられました。
ユズちゃんが着ている姿を想像するとなかなか可愛い組み合わせで
す。
まぁ⋮⋮三十過ぎた私と並んで歩くとどうかなと心配になりました
が。
﹁もうお腹が出てきたから、ウェストがゴムじゃないと着られない
⋮⋮﹂
﹁誰でもそうだよ、ユズちゃんは体重がそんなに変化無いし。悪阻
88
は大丈夫?﹂
﹁たまーに。私は軽いけどメロンちゃんがヤバい。毎日大変そうで
いつも高浜さんが介抱してる﹂
﹁高浜が介抱?﹂
﹁うん。飲み物あげたり背中さすったりして優しい旦那さんみたい
だよ﹂
﹁そうなんだ﹂
余り意外な感じはしませんでした。
やっぱりあいつ見た目はさておき良い奴なんだな、うん。
そう感心していた私の前で、ユズちゃんがバスローブみたいな薄紫
のワンピースの肩紐を外し、スルッと脱ぎました。
マタニティではない白に黒いレースの下着に目を奪われます。
後ろから見ると全然妊婦さんらしくない体型で、細い腰に目が行き
ます。
﹁あ、先生見てるでしょー﹂
ユズちゃんが少し振り返ってニヤッと笑いました。
﹁あ、ごめん﹂
﹁何で謝るのー⋮⋮きゃっ﹂
思わず後ろから抱き寄せてしまいました。
先程は私が押し倒されましたが、華奢なユズちゃんの身体は簡単に
私の膝の間に収まってしまいます。
﹁ビックリしたぁ⋮⋮くすぐったい!くすぐったいって!﹂
腰や少し大きくなったお腹、細い太ももを撫でるとユズちゃんはジ
タバタします。
でも後ろから首筋にキスをすると、﹁ん⋮⋮﹂と短い声を出して大
人しくなりました。
下着の肩紐を下ろして、そっとホックを外すと緩んだところからや
や固くなった小さな乳首が覗きます。
上から見る胸っていいなと思いました。
﹁先生⋮⋮お出かけどうするの?﹂
89
﹁やめる?﹂
﹁先生って意地悪だね﹂
﹁⋮お出かけの方がいい?﹂
﹁ちょ、意地悪じゃなくて天然なの?!もー⋮⋮﹂
そう言ってユズちゃんも振り返ってキスをしてきました。
やや顎よりのところから、ユズちゃんが背伸びをして唇に唇が届い
て舌が入って来て、私の理性がゆっくりと薄まっていくのが判りま
した。
﹁俺、すごいしたくなってきた﹂
﹁したくないのにこんなことされても困る⋮⋮先生の今の顔、すっ
ごい好き﹂
﹁えっ﹂
そう顔をジッと見て言われると血走った顔してたのかなと不安にな
りましたが、童顔のユズちゃんもすごく色っぽい目つきになってい
ます。
ユズちゃんは向き直って私のシャツのボタンをゆっくり外し始め、
アンダーをめくって私の乳首を舌先を尖らせて舐めて来ました。
﹁乳首弱いよね﹂
そう言われても頷くくらいしか出来ないくらいの快感が襲います。
﹁可愛いからもっといじめちゃおっと﹂
今度は反対の乳首を先端だけ抓られ、ついベッドに肘を付くとユズ
ちゃんが上に乗っかって来ました。
﹁気持ちいい?﹂
答える代わりに私もユズちゃんのさっきより固くなった乳首を両方
つまんで扱くと、ユズちゃんの熱い息が私の左胸を湿らせました。
﹁ユズちゃんだって弱いだろ﹂
﹁⋮あぁ⋮⋮んっ⋮﹂
ユズちゃんが段々力が抜けてきたを見て、押し倒して狭い膣内を指
で掻き混ぜたい衝動に駆られましたが我慢しました。
私は自分の上にユズちゃんを仰向けに乗せて胸をいじりつつも腕を
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拘束して脚で脚を羽交い締めにし、乳首や胸を出来るだけ優しく触
りました。
脱がされかけた状態のはだけた下着姿に興奮するのは私だけでは無
いと思いますが、その姿でユズちゃんはされるがままに甘い喘ぎ声
を出しています。
﹁可愛い⋮⋮﹂
﹁何言ってんの⋮っ⋮んぁんっ﹂
気の強いユズちゃんが照れ怒りみたいな語気で喘ぐ。
かなり私のツボでした。
﹁ね、動けな⋮いんだけどっ﹂
﹁そりゃそうだよ、動けなくしてるんだから﹂
﹁せんせーのむっつりドS!﹂
﹁ユズちゃんだってドMでしょ﹂
そう言って胸を寄せ上げて人差し指で乳首を弄ると細い身体がのけ
反りました。
ユズちゃんがもがく度に脚が私の局部を刺激し、私の胸部も何度も
ユズちゃんの肩甲骨で強く擦られ続けます。
﹁いかせて⋮お願い、いかせて!!!﹂
﹁ダメ﹂
思い切り調子に乗りたいのを我慢していましたが、私は自分の理性
の限界を感じはじめます。
妊娠してなかったらメチャメチャにしてやりたい。
例の彼女みたいなのではなく、ユズちゃんを拘束して何度も何度も
絶頂に達する姿を見てみたい。
気絶したら拘束を解いて、私の体力が続く限り何度も何度も中に射
精したい。
そんな妄想が雄叫びみたいに駆け巡り、私はユズちゃんを横向きに
してパンツを脱がしにかかりました。
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﹁や⋮⋮待って、見ないで!﹂
愛液が雫型に作った性器の形が、白い下着でもハッキリ判り、妙な
満足感が沸き上がります。
そっと脚の間に手を滑り込ませると、ツルツルしている筈のそこは
湿度高くペタペタと吸い付くように私の手を迎え入れてきます。
﹁いやぁあっ﹂
ユズちゃんを仰向けに組み伏せ、お腹を圧迫しないようにするとシ
ャツを脱いでベルトを外して下げると、前にユズちゃんがスキンを
仕舞っていた場所から拝借してゆっくりそっと挿入しました。
奥まで当てないようにゆっくり動くと、拒むように締め付けられま
した。
激しくは絶対しない、と自分を抑えてもユズちゃんの可愛い声と私
でもキツい締め付けの快感が勝ってしまい、理性や自己嫌悪を押し
退ける様に大暴れする自分の本性がある事に驚きました。
﹁もっと⋮おくまでついて⋮﹂
﹁ダメ﹂
﹁んんー⋮⋮﹂
ユズちゃんの巧みな腰の動きを必死で牽制し、私は刺激が少ないよ
うに少ないように、と導きます。
真っ白なユズちゃんの身体が自分と結合してうねる様は、何だか神
秘的でした。
高浜達の肉の宴みたいな生々しさは無い代わりに、綺麗なモノを蹂
躙してる様な背徳感や妙な支配欲を強く感じます。
﹁ゆっくりじゃ嫌?﹂
﹁ううん⋮⋮何か初めてする⋮⋮気持ちいい⋮﹂
ユズちゃんは私を奥に引き込むのを止め、上半身腕立て状態の私の
首に手を回して来ました。
トロンとした目で私を見て、
﹁⋮⋮大好き﹂
と小さな声で呟くと同時に言葉とは裏腹な凄まじい締め付けに遭い
92
ました。
﹁は⋮⋮っ﹂
思わず腰を引いた際に避妊具が外れ、私は高校生のように慌ててユ
ズちゃんのお腹にぶちまけてしまいました。
﹁あー⋮もったいない⋮﹂
ユズちゃんは涙目でしたがゆっくり身体を起こすと指で私の精液を
綺麗に掬って、その指を薄い唇に押し込みました。
それを見ていると、不本意に達してしまった後悔が沸々してきまし
た。
﹁ごめん⋮⋮イッちゃって⋮﹂
﹁んーん、気持ち良かったぁ⋮先生のせーし、美味しいんだよね﹂
﹁え﹂
﹁何だろ、何か薄口の麺ツユみたいな味かな。お代わり!﹂
﹁⋮⋮ちょっと休んでいい?﹂
﹁うそうそ。でもまたちょーだいね﹂
精液の味で褒められるとは⋮⋮嬉しいのかどうかも解らない感覚で
す。
﹁あ、抜けちゃったんだっけ⋮﹂
ユズちゃんが中に残された避妊具を引っ張り出し、愛しそうに見つ
めました。
﹁ふふ⋮今さっきまでエッチしてたんだね⋮⋮先生ってエッチの時、
ちょっと怖くてドキドキする﹂
﹁怖い?俺が?﹂
﹁そう⋮いつも穏やかなのに、エッチしてる内に征服されそうな感
じの顔になってる﹂
﹁征服⋮⋮﹂
﹁出産終わったら、本気エッチしてくれる?﹂
﹁いいの?﹂
﹁いいよ、でしょ?そんなに激しいのー!?﹂
ユズちゃんといるとセックスへのコンプレックスが嘘の様に消えて
93
いました。
セックス以上に、いつまでも一緒にいたいと本気で思います。
﹁ユズちゃん、お腹空かない?﹂
﹁んー⋮まぁ空いてる。先生おー代ーわーりー﹂
﹁ご飯食べに行ってからにしない?﹂
﹁いいよ、お代わり約束なら﹂
私も脱ぎ散らかした服︵普段なら考えられない脱ぎっぱなしぶりで
した︶を集めて着て、ユズちゃんも若干グシャグシャになったけど
許容範囲のさっきの服を着て、あっという間に薄化粧まで済ませま
した。
﹁じゃいっきましょー﹂
手を繋いで︵と言うか引っ張られる様に︶部屋を出ると、リビング
は真っ暗でテレビだけが煌々と心霊特集を映しており、その前で湯
上がりジャージ姿で一人焼きそばを食べている高浜がいました。
﹁いってらっしゃい﹂
﹁あれ⋮みんなは?﹂
すると高浜はところどころを指差し、そこには毛布を掛けられたみ
んなが眠りこんでます。
﹁何があったんだ⋮﹂
﹁いいから行ってこい、俺の夕飯邪魔すんな﹂
﹁長浜さんって料理上手いんだよー﹂
﹁コイツも上手いんだぜ、毎日弁当作ってるくらいだし。ユズ、俺
が花嫁修行してやろうか﹂
﹁えー⋮先生料理上手いの?﹂
﹁普通だよ、一人暮らししてたら誰でも出来る程度だから﹂
謙遜では無く本当に普通です。
コンビニも飽きたし、食堂もイロイロ人間関係が面倒なので、何も
なければ屋上で景色見ながら一人で作った弁当食べるのが好きなだ
けです。
スカイツリー出来上がって来たなとか、あっちの公園の桜早いなと
94
か見ながら。
暗いですかね。
﹁長浜さん、明日から教えて下さい﹂
﹁いいよ、ユズちゃん⋮⋮﹂
﹁おっし、じゃあ明日の昼飯から行くぞ﹂
確かに近くには出前とショッピングセンターしかないので飽きるは
飽きると思いますが、高浜が作っていたのは意外でした。
﹁すごいね、人数分とか﹂
﹁え?だって外で食うより経費安いだろ?﹂
﹁外食より美味しいしね﹂
﹁今のユズは今までで一番可愛い﹂
﹁止めてよもー先生本気にしたらどーすんの﹂
そっか⋮⋮私がユズちゃんユズちゃん考えてる間、高浜はずっとユ
ズちゃんといる。
いいなぁ。
﹁もー先生が悩んでんじゃん﹂
﹁コイツはそういう顔なんだよ、早よ散歩でもドライブでも行け﹂
﹁先生の車かっこいい﹂
﹁普通に国産車なんだけど。実は車に興味が無くて﹂
﹁長浜さんはね、真っ赤なコルベットってオープン。派手だよね、
らしいって言うか﹂
﹁車って持ち物と一緒で性格出るよね﹂
エンジンを掛け、ラジオをつけると懐かしい歌が聴こえて来ました。
もしも誰かを愛したら素直に気持ちを伝える事がこの世に生まれて
きた理由、そんな歌です。
高浜が当時好きだったアーティストで、音楽に疎い私の為にアルバ
ムをMDに落としてくれた事があるので覚えていました。
﹃いつの日かみんなどこかへ消えてしまう気がする﹄
って歌詞が私も好きでした。
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﹁この歌、いいね。先生知ってる?﹂
﹁これ?あいつが好きなんだよ、このアーティスト﹂
﹁一気に下がった⋮⋮でもいいな、声とか﹂
数キロ置きのコンビニと遠くに見えるラブホと街灯しか明かりの無
い暗闇の中、私達は他愛ない話を続け時折車を停めてキスしたりそ
JET
CITYのアルバム買っ
の先をしながら一緒に夜明けを見て帰りました。
今度来るときはBLANKEY
て一緒に聴こうかなとか考えながら。
96
★高浜武志・1★︵前書き︶
永山先生が暗くて鬱陶しくなったので、何となく番外編を書いてみ
ました。 登場人物は全員、職業は違えど身近にまんまなモデルがいます。 永山先生↓旦那さん 高浜↓元彼︵故人︶ 毅彦↓元彼友人 ユズちゃん↓旦那さんの元彼女︵当て付け︶
⋮⋮なので、今回は私が感情移入させまくりな女性を登場させてみ
ました。 旦那、すまない。
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★高浜武志・1★
車を駐車場に停めて降りると、遠くに見える建設中だったマンショ
ンの外観がかなり完成に近づいているのを見て、かなり長いこと家
に帰ってなかったなと思った。
やたら足音の響くアパートの階段を上がると、明け方だというのに
煮物の匂いがした。
あ、これ俺の大好きな肉じゃがじゃない?
そう思ってその匂いを辿ると、唯一電気が灯っているのは俺が帰る
203号室だけだ。
ドアを開けて
﹁ただいま﹂
と言ってみる。
返事はないのはいつも通りだ。
リビングに行くと、こちらに背を向けたまま、不機嫌そうに
﹁何帰って来てんの?﹂
と奈津が言った。
﹁ただいま。奈津、久しぶり﹂
そう言ってベリーショートの頭にポンと手を置くと、邪険に払いの
けられた。
﹁うっざい﹂
﹁寝てていいって。わざわざこんな良い匂いさせなくても﹂
﹁たまたま起きてただけだし﹂
﹁そう?身体壊すぞ﹂
﹁お前が大丈夫なら私だって大丈夫だ!﹂
そう言って俺を睨む。
こいつはいつもこの調子だ。
俺はこんな奈津が可愛くて可愛くて仕方がない。
98
﹁そうか﹂
すると奈津は立ち上がった。
立つと俺と余り変わらない。
俺が小さいのではなく、奈津が一応女性なのだが172cmあるの
だ。
180cm弱の俺と数cmしか変わらない。
それにベリーショート、そこらの男より荒い言葉遣い、化粧っ気の
無いのにくっきりした目鼻立ち。証明写真だと男か女か解らない。
だが首から下はめちゃくちゃグラマー体型で、下手に触れるとグー
が飛んでくる。
それなのに明け方帰るからと連絡すれば、俺の大好物を作って待っ
ている健気さ。
このギャップに俺は相当参っている。
奈津がスタスタ戻って来ると
﹁ほい﹂
と俺にハンガーを差し出した。
﹁いつまでその格好してんだよ﹂
﹁ありがとう﹂
そう言って俺は着替えに行く。
こうして着替えて戻って来ると、綺麗に盛り付けされた食事がテー
ブルに乗っているのだ。
湯気の出てる白いご飯や肉じゃがを見て、幸せだなぁと思う。
﹁いただきます﹂
﹁早く食えよ﹂
﹁うん、美味い﹂
﹁そう﹂真っ正面に座ってこちらをじっと見ている奈津の声が幾分
和らぐ。
かと言って喜んでいる風にも見えず、相変わらず俺を凝視している。
﹁奈津は可愛いな﹂
﹁うるさい﹂
99
眉間に皺を寄せても舌打ちされて睨まれても可愛い。
俺は病気なんだろうか。
﹁久々に顔見たけど、やっぱ可愛いわお前﹂
﹁黙れ馬鹿浜﹂
﹁はいはい﹂
もう胸の奥がキュンキュンするくらい可愛い。
そこで俺はいつもの質問をしてみる。
﹁奈津って俺の事好きなの?﹂
﹁⋮⋮またそれか。さっさと食えよ﹂
﹁いやだから好きか嫌いでいったらどっち?﹂
﹁嫌い﹂
そう言ってこちらを睨むが、奈津の顔は耳まで赤い。
何なんだろうね、ホント。
﹁ホントに嫌い?﹂
﹁しつっこいな、知るか﹂
そう言って奈津は怒って自室に篭った。
はははは。
可愛すぎるだろ。
俺は奈津の事を余り知らない。
本名が奈津川由亜、年齢は26歳。
出会いは知り合いがやってたクラブのバーテンの募集に来て、たま
たま居合わせた俺が一目惚れして今に至るだけ。
ただ、奈津が女として扱われるのが大嫌いなのは知っている。
一般論で行けば、スタイル良くてそこそこ美人なのに勿体なーいと
言われるタイプだ。
でも奈津はそんな事言われたら、﹁そうですか?﹂と無表情で返し
てトイレに篭って暴れるか泣いてしまうだろう。
何があったのか知りたいが、本人が話したがらない個人的な事情は、
必要の無い限り好奇心で掘り下げてはいけないと俺は思う。
俺は皿を片付けると、奈津の待つ︵本人は待ってはいないが︶寝室
100
に向かう。
﹁奈津?﹂
﹁⋮⋮何?﹂
奈津は敷布団に腹ばいに寝そべって振り向きもしない。
シングルサイズなので俺達2人には狭い布団に強引に俺も寝そべっ
た。
﹁奈∼津ッ﹂
﹁だから何だよ﹂
腕を細い肩に回すと、邪険に払いのけられる。
いつもの事だ。
奈津は絶対媚びない。
徹底的にはねつけてくる。
﹁飯食ったら自分の家に帰れ﹂
﹁遠いんだもん、面倒臭い﹂
﹁じゃソファーで寝ろ﹂
﹁ははは、待ってたって言えよ﹂
﹁死ね馬鹿浜﹂
奈津はとにかく、愚痴を言わない代わりに甘えて来ない。
こっちが通報されてもいいやってくらいしつこくして漸く、少しだ
けガードを緩める。
その瞬間がとても俺は幸せだ。
﹁奈∼津って﹂
﹁やかましい。離れろ﹂
そうは言っても奈津は離れない。
﹁お前のそういうところが良いんだよ﹂
﹁訳解らん。死ね馬鹿浜﹂
段々、奈津の耳が赤くなる。
﹁あのさ、俺の家来ない?ー部屋空けたんだよ﹂
﹁行くか馬鹿。行って⋮どうする﹂
﹁どうする?このまんまだろ﹂
101
﹁じゃこのままでいいだろ﹂
そうですよね。
まぁそう言われるとは思ってました。
言ってみただけです。
﹁高浜﹂
奈津が顔を上げた。
﹁お前は何で私に⋮⋮その⋮﹂
﹁はい負けー﹂
そう言って奈津の顔と布団の隙間に腕を回し込んで、抱き寄せる。
﹁何だよ!!離せ!﹂
思いっきり右肩に張手が入ったが、俺は敢えて何も言わない。
﹁気持ち悪いんだよ死ね馬鹿浜!!﹂
バッチンバッチン叩いて来るのを黙って更に抱き寄せ、ある意味ホ
ールドを掛ける。
すると奈津が大人しくなり、抵抗しなくなった。
﹁高浜﹂
﹁何?﹂
﹁何でこうなの?﹂
﹁何が?﹂
﹁言わせようとするな﹂
﹁ははは、すまんすまん﹂
奈津がこっちを見た。
ちょっと涙目の上目遣いになる角度で、わざとらしさが無いのがい
い。
﹁他の女としてきたな﹂
﹁してきたよ﹂
そこは正直に言う。
奈津が嫌がるまで俺は絶対他の女と関係を持ちたい。
逆に、奈津から嫌だと言われたいから敢えていちいち報告する。
﹁じゃあ他の女のところに行けよ﹂
102
﹁奈津よりいい女が見つかったらそうするよ﹂
﹁早く見つけろ﹂
奈津の目に涙が浮かんで、慌てて顔を伏せられた。
﹁お前と知り合ってから悩んでばっかりだ﹂
﹁だからたまにしか来ないようにしてるだろ﹂
﹁だから余計に悩む⋮⋮あ、別に毎日会い﹂
﹁会いたいなら毎日帰るけど﹂
﹁会いたい訳じゃないと言おうとした﹂
﹁そっか﹂
俺は奈津の背中に腕を回した。
奈津の身体が緊張で固くなる。
まだ早かったかな。
でも奈津は殴りもせず、払いのけもしない。
﹁奈∼津﹂
﹁うるさい⋮⋮﹂
奈津は静かに泣いていた。
余り表情の変化が無い奈津が泣いたり怒ったり、ペットショップに
犬猫見に連れて行くと少し笑うのが俺は凄く嬉しい。
奈津の腕がそっと俺の脇腹に回された。
それだけで勃起出来る自分。
奈津の前では中学生に戻れる気がする。
﹁高浜、変態﹂
﹁仕方ねーだろ、お前可愛いんだから﹂
﹁死ね﹂
そう言うと、奈津は思いっきり膝で擦って来た。
何故だかこいつは俺のポイントをよく知っている。
﹁ん⋮⋮﹂
﹁何感じてんだよ、ホント変態﹂
奈津の目がヤバい。
大きな茶色い黒目が上目遣いで俺を見ている。
103
それなのに口元はニヤッと笑っていて、最強にエロい。
強がりで女っぽくないのに、身体付きはエロいわ、スィッチが入れ
ばサディスティック極まりないわ⋮⋮たまにコイツに殺されてもい
い気分になる。
俺も段々、気持ち良くなって理性が揺らいできた。
抱きたい。
抱きたい抱きたい抱きたい。
﹁高浜、気持ちいい?﹂
﹁すっごい気持ちいいです﹂
﹁⋮⋮ならよかった﹂
﹁ならよかった?﹂
﹁⋮うるさい死ね﹂
﹁あぁあ﹂
思わず上から手でいい感じに握られて、俺は間抜けな声を出してし
まう。
こいつは何でこんなに上手いんだろう。
何かで女になっちゃっただけでホントは男なんじゃねぇの?
そんな気がする。
﹁高浜は面白いな﹂
﹁面白がるなよ﹂
そう言って俺は逆転した立場を挽回すべく、奈津にキスをした。
下唇を軽く噛んで口を開けさせ、舌を捩込む。
﹁んがっ﹂
何か凄い声が聞こえたが、知らないフリをして奈津の舌を誘い出し
た。
キスなら絶対負けない。
奈津の身体の力が抜けて来ている。
﹁どうだった?﹂
﹁んん⋮⋮﹂
また耳まで真っ赤になっている。
104
﹁⋮⋮他の女にもしてるんだと思うと大した事ない﹂
眠そうな目をしてる癖にまた強がる。
﹁俺はお前だけにしたいんだけどな﹂
﹁嘘つけ﹂
﹁嘘じゃないって解ってんだろ﹂
﹁知るか﹂
あーーー胸触りたい。
大体何でこいつはタンクトップなんて着てんだよ、さっきから谷間
ばっかり見せやがって。
まぁ俺が見てるだけなんだけど。
﹁高浜﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮わざと触ってないか、その⋮⋮﹂
﹁お前だって俺の触ってんだろ﹂
﹁だからって私の胸まで触るな﹂
﹁一緒に気持ち良くなろうと言う気はねぇの?﹂
﹁私はいいよ、高浜⋮⋮﹂
耳まで赤いちょっと恥ずかしそうなその顔を見て、俺はもう死にそ
うに苦しくなる。
﹁だから高浜⋮⋮やめろって﹂
段々、奈津の声に余裕が無くなって来る。
服の上からお互いいじっているだけだが、俺もかなり我慢出来ない。
今すぐ服を脱ぎ捨て飛び掛かりたいのを我慢する事に、奈津とのこ
ういう事をする楽しみがあるのだと割り切る。
今までの経験には無い経験だ。
きっとそれなりの価値がある。
﹁いい加減にしろよ﹂
﹁じゃ俺も止めるからお前もやめろよ﹂
最早、小学生レベルのやり取りだが、奈津は必死そうだ。
﹁私は大丈夫だからお前だけイケばいいだろ﹂
105
﹁そういう訳に行くか﹂
もう奈津は俺が抱きしめても嫌がらない。
でかいなぁ、奈津。
お前がヒール履いたら身長抜かれるわ。
でも俺は奈津がスニーカーとビルケンサンダルと仕事用の革靴しか
持ってないのを知っている。
デニムにパーカーにすっぴん。
デニムにポロシャツにすっぴん。
でも、それがだらしなく見えない女って案外いないんじゃないか?
それに奈津は買えないんじゃなくて、買わないのだ。
一回、﹁バカにするな!金ぐらいあるわ!!﹂と預金通帳を突き付
けられたが、もう一千万以上貯まっていた。
﹁使わないから貯まってるだけだけどな﹂
そう苦笑していたが、俺の友人もそんな事を言っている。
俺は有意義に使った分だけ何かしら返って来ると信じているのだが、
考え方なんて人それぞれだしな。
今までの癖で﹁今度俺が買ってやる﹂なんて言った日には、何が飛
んでくるか解らない。
最近は余り硬いものは飛んで来なくなったが、前は鍋や灰皿なんか
で平気でブン殴って来た。
今まで浮気して叩かれた事は何度かあったが、女としてチヤホヤし
ようとしてフライパンを投げられたのは初めてだ。
いいなと思った女に拒まれたのも初めてだし、そもそも別れるのが
面倒だから俺は余り女と付き合わないはずだったが、同棲したいく
らい奈津が愛しい。
この1年で2回ほど俺が強引に押し倒してしまったが、結局出来ず
終いだ。
奈津の心の傷も相当だが、その時の俺の生傷は未だに跡が残ってい
る。
でも、いつか奈津が俺でいいと言ってくれればいいなと思う。
106
それより奈津の好みの奴が現れて俺が切られるかもしれないが、そ
うなったら奈津を心底好きである俺が身を引くしかないけど。
﹁奈津、愛してるぞ﹂
﹁死ね馬鹿浜﹂
﹁泣くなよ﹂
﹁⋮⋮うるさい﹂
何十回と繰り返すこの同じ会話、それが堪らなく愛しい。
﹁安心しろよ、明日お前が起きる前に俺いなくなるから﹂
﹁⋮⋮じゃ今消えろ﹂
﹁嫌だ﹂
﹁何でだ﹂
﹁お前とちょっとこうしてたい﹂
﹁離せ﹂
﹁断る。お前こうされるの嫌か?﹂
俺は奈津に回した両手に力を少し篭めてみた。
﹁⋮⋮⋮⋮セックスは嫌だ﹂
﹁奈津が嫌ならもうしない﹂
﹁でもそう言ってこれは何だ﹂
﹁生理現象だから許せ﹂
今度は手の指で裏筋を巧に刺激して来る。
少し息が上がるが、何とか堪えた。
﹁お前こそ⋮何だよ、襲われたいの?﹂
﹁もう襲われたわ、2回も﹂
そうでしたね。
﹁射精しろ、高浜﹂
﹁嫌だ!!﹂
﹁高浜、我慢は良くない﹂
﹁お前が言うな!!!﹂
段々と手の動きが早くなり、俺は力が入って足の指が内側にこれ以
107
上ないほど折れるのを感じた。
﹁見せてよ、射精するの﹂
﹁お前の顔にぶっかけてやる!﹂
ここで襲ったら何となく負けな気がする。
でも、こんな手コキでイカされるのは癪だ。
もう俺は下着越しにかなり自分が先走ってるのが解る。
悔しいが気持ちいい。
うますぎる。
﹁奈津⋮⋮⋮﹂
﹁何だ高浜﹂
﹁お前⋮最高の女だ﹂
﹁うっっぜぇ﹂
そう言うと、奈津は俺の下着に荒々しく手を入れると、容赦なく扱
き始めた。
何で俺は抵抗しないんだろう。
﹁すっごいヌルヌル﹂
奈津はまだ涙の残る目で俺を蔑むように笑った。
﹁可愛いのは私じゃないな。高浜の方だ﹂
﹁お前⋮⋮っ﹂
﹁声出せば?高浜の喘ぎ聞きたいんだけど﹂
何でこんな事されてるんだ。
何で何にもさせて貰えないのに、一方的にされ⋮⋮
﹁いい顔してるよ、高浜﹂
お前もな、そう言おうとした時にカリをもう片方の手で包む様に扱
かれ、俺は果ててしまった。
本来ならもの凄く気持ちいい瞬間なのに、飛行機に乗り遅れた様な
脱力感がある。
﹁高浜、見て﹂
ぼんやりと目を開けると、奈津が搾り取った俺の精液の付いた手を
見せてきた。
108
ギャー。
思わず顔を反らすと、奈津はそれをじっと眺めた後、おいしそうに
舐め始めた。
﹁おい⋮⋮⋮!﹂
﹁まだ下にあるかな?﹂
そう最高に可愛い笑顔で言うと、奈津はスポッと俺の腕を抜けて布
団の中に潜った。
下着が下ろされ、扱きにグッタリとしているのも構わずに引っ張り
出すと、いきなり温かいヌルヌルしたものに包まれた。
﹁おい、お前⋮⋮﹂
慌てて布団をめくると、洞穴に住む動物みたいに奈津が見えて、俺
のをくわえていた。
﹁奈津、お前どうしたんだよ﹂
ニヤッと不吉な笑いをされ、噛みちぎられない事を俺は祈った。
﹁セックス嫌なんだろ?﹂
﹁セックスは嫌だ。でもこれなら楽しい⋮⋮あ、復活した﹂
すると奈津は笑顔で俺の上に寝そべると、珍しくキスをしてきた⋮
⋮と思ったが、違った。
生臭い液体が俺の口に流し込まれる。
﹁ぐぇえっ﹂
噎せる俺を見て、奈津はニコニコと無邪気に笑った。
﹁高浜は可愛いな﹂
﹁⋮⋮死ね馬鹿奈津﹂
生臭い愛しさを感じながら、俺達はお互い内容は違うであろうが笑
った。
まさか自分の精液飲まされるとは思ってもみなかったがな。
次は本番行けるかもと思った自分が嘆かわしい限りだ。
﹁高浜﹂
﹁何だよもう﹂
﹁可愛いなお前﹂
109
﹁うるせーよ﹂
とは言いつつ、奈津と少し仲良くなれた気がして嬉しかった。
明日も明後日も一緒にいたいが、お互いの予定がそれを許さないの
が残念。
﹁奈津?﹂
奈津はいきなり俺の上からズルッと落ちた。
見ると寝息を立てて寝ている。
そうか、こいつ煮物作って起きててくれたんだっけな。
こいつにお返しって何すれば解らないけど、とりあえず今日のお礼
はしておこう。
俺は奈津の鎖骨辺りに顔を埋めて作業に取り掛かった。
起きはしないかとドキドキしながらの仕返しは楽しかった。
色素ある?ってくらい白い肌に、俺が付けた印が増えて行く。
もうちょっと。
途中、奈津が﹁ん⋮⋮﹂と声を出したが大丈夫そうだ。
作業が終わると、俺は腹が減ったので台所に行って肉じゃがを完食
した。
いやー美味い。
あいつ性格良かったら絶対もう結婚してたな。
そんな事を思って、鍋を洗ってから冷蔵庫と冷凍庫を開けたり台所
を物色。
卵と蓮根と海老が見えたので献立決定。
片栗粉もちょっとある。
ちょっとこっちの方でお礼しようか。
そう思って俺があげたフードプロセッサーを出し、用意に取り掛か
る。
さっきの鍋に水を入れて火にかけて、その間に蓮根を適当に細かく
切って酢水に浸し、海老と一緒にフードプロセッサーに掛ける。
片栗粉と卵白を入れて、また掛けて、出来たそれをスプーンで取っ
て湯に落とす。
110
最後にお玉に卵黄を載せ、半熟になるまで鍋で熱する。
高浜特製、海老蓮根しんじょの完成。
後は残ったお湯にめんつゆと味醂を足して片栗粉でとろみを付けて
餡を作って出来たしんじょにかける。
ラップして置いとけば解るだろう。
じゃ片付けして風呂でも、と思って見ると、台所の入口に奈津が無
言で立っていた。
﹁ビックリさせんな﹂
﹁フードプロセッサーうるさい。何作ったの?﹂
﹁見て解るだろ、真丈だよ﹂
一目で解るかよ、そんな顔を奈津はした。
ごもっともだ。
﹁しんじょって何﹂
﹁食えば解る﹂
そう言って俺は奈津の胸元の芸術作品を見て吹きそうになった。
﹁何だ?﹂
﹁いや。俺はもう帰る﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
あら?
奈津の顔が何か女の子っぽい。
いや、女の子なんだけど。
とにかく奈津に芸術作品を気付かれる前に帰ろっと。
﹁また飲ませてやる﹂
﹁飲んで下さい、だろ?﹂
何故か奈津が玄関まで見送りに来る。
何だよ、いきなり女の子じゃん。
靴履いてから、キスでもしようと振り返ると奈津が玄関にある全身
鏡を見ていた。
しまった。
﹁⋮⋮高浜⋮⋮これ、何?﹂
111
﹁キスマークでサインを作りました﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁高浜の﹃た﹄を表現しました。ハッキリ平仮名の﹃た﹄と⋮⋮﹂
言い終わらない内に、強烈なソバットが繰り出される。
微かにチップしたが、ドアを開けるタイミングが幸いして何とか鳩
尾に喰らわずに逃げられた。
しかし、奈津は裸足のまま追っ掛けて来る。
﹁落ち着けって!﹂
﹁ホンッと死ね馬鹿浜!!!﹂
階段から突き落とす勢いでまた蹴りが来るが、90°ターンでかわ
して駐車場へ。
俺の愛娘であるコルベットを破壊されかねない勢いだったので、俺
は180°回って向き直る。
﹁奈津﹂
奈津は肩で息をしている。
タンクトップから見える点々と赤黒い﹃た﹄の文字が凄いシュール。
写メ撮れば良かったな。
﹁お前これ⋮どうしてくれるんだよ﹂
奈津が俺を見た。
ただでさえ目が大きいのに瞳孔が開いてると迫力が違う。
﹁それが消える前に、また来るから﹂
﹁いや来るなよ﹂
またまた。
強がっちゃって。
殺気立ってても可愛いな。
﹁だからそれまでお互い頑張ろう?﹂
上手い事言えなくて申し訳ない。
﹁お前がいなくても別に平気だ﹂
﹁知ってるよ。でも俺は奈津がいないと嫌だ﹂
奈津の瞳孔が収縮し、代わりにまた目が潤みだした。
112
﹁嘘つけ﹂
﹁嘘で﹃た﹄とかやるかよ、面倒臭ぇ﹂
﹁ははっ⋮⋮早く消えて欲しいけどな﹂
﹁それ見れば大抵の男は引くだろ﹂
﹁余計なお世話だ﹂
泣き顔で奈津が笑った。
﹁それとも乗ってく?﹂
俺は車の助手席のドアに手を掛けてみる。
﹁⋮⋮いや、いい。しんじょを食べてみたい﹂
﹁そっか﹂
飯か。
高浜真丈、心して食え。
﹁じゃあな﹂
﹁うん、また﹂
裸足でスタスタ、奈津は歩いていく。
203号室に入る時だけちょっとだけこっちを振り返り、
﹁早く行けよ﹂
と言って扉が乱暴に閉まる。
すごい。
奈津と会うと毎回、俺は初恋の時以上に高揚している自分に気付く。
今日は何しようかな。
俺は基本的に呼び出されるまで暇なのだ。
傘下の店の抜き打ちチェックか、漫画喫茶でジョジョでも読むか。
タバコを吸いながら車を走らせ、考える。
とりあえずコーヒー飲もうかな。
そう思って純喫茶風の小さな喫茶店を見つけたので、コインパーキ
ングに停めて入ってみる。
入って俺はビックリした。
店内の小さなテレビに、高校の同級生がアップで映っている。
113
何でも人工中絶を減らして子供に恵まれない人に養子に出す為、病
院が分娩までを完全バックアップする方針を打ち出したらしい。
しばらく会ってなかったけど、あいつ元気に産婦人科医やってんだ
な。
大人しい奴だと思っていたのに、マイクを向けられても臆する事な
く淡々と語っている。
﹃日本人の自殺者数より、人工中絶で失われる命の方が多い事実は
知っておいて頂きたいです﹄
﹃もちろん無理強いは出来ません。でも我々の仕事は命を安全に誕
生させる事、それが産科医の使命だと私は思っております﹄
なかなかの目力に説得力。
天然キャラは封印したらしいな。
俺が座った席の傍のカウンターではマスターらしき男性とウェイト
レスの女の子が、
﹁若いのにしっかりした先生だよね﹂
﹁私かなりタイプですー﹂
と雑談していた。
俺来たの気付いてる?
まぁいいや。
俺は新聞を取って開くと、そこにもテレビで語っている同級生の顔
が載っている記事を見つけた。
そうか。
今度はこれか。
俺の頭の中が舞台装置みたいに切り替わる。
面白い事になる気がしてきた。
とりあえず俺は携帯を出し、メモリー全てをチェックする。
新しい事をするには人脈の掘り起こしから。
な行で奈津の名前を見るとちょっとこれ以上忙しくするのは躊躇わ
れたが、いつもの事だ。奈津だって毎日俺の顔見てもウンザリだろ
うし。
114
ある程度ピックアップすると、手帳に人とナリをメモして整理して
行く。
これは結構行けそうかも。
一段落したので、メニューを見ると﹃生搾りミックス﹄とある。
どうしてもエロい事しか思いつかない俺はアホなんだろうか。
﹁注文いいですか?﹂
とカウンターに行くと、マスターも女の子も俺を見てビクッとして
平謝りでオーダーを取りに来た。
﹁生搾りミックスで﹂
と言ってもまだ女の子がビクッとするので、逆に不安になる。
女に自分の精液飲まされて朝から海老真丈作る奴なんて全身から異
様なものが出ているんだろうか。
自分の生搾りミックス飲んだだろ的な。
まぁいいや。
ニュースは動物園から脱走したカピバラの話題に変わっている。
あんなモッソリしたの脱走させんなよ。
奈津が喜んじゃうだろ。
と思った矢先に携帯にメールが着たので見ると、奈津から。
本人がいたら、﹁やっぱり俺達繋がってるよね﹂とか真顔で言って
思いっ切り殴られたい。
好きな女からだったら、付けられた生傷見ても重症な人間は和める
ものですから。
メールは件名ナシで一言、
﹁しんじょってうまい﹂
とあった。
なので、
﹁﹃た﹄のしい時間をありがとう。そして肉じゃが御馳走様でし﹃
た﹄。しんじょは﹃た﹄くさん作っておい﹃た﹄ので残りは冷凍で
115
もして﹃た﹄べてくれ。﹃た﹄かはま﹃た﹄けし﹂
と、フルネームまで入れて出来るだけ﹃た﹄を多用するメールを返
した。
携帯折るなよ、奈津。
漸くカウンターからミキサーの音が響いて来る。
きっと俺の生搾りミックスはもうすぐ来る。
きっと来る。
そう思って俺は新聞を読み続けた。
116
毅彦︵前書き︶
三十路目前な女の青春回顧も兼ねた妄想に沢山の方々にお付き合い
頂き、申し訳無くも感動しております。
117
毅彦
あれから1週間が経ちました。
ユズちゃんとは毎日メールや電話で今日あったことや世間話をし、
高浜からは売上と妊婦検診の報告がいち早く届きました。
3人の妊婦検診は私は分娩の真っ最中だったので毅彦が診て、私は
カルテとエコー写真でチェックしただけですが3人とも順調です。
ただ、ユズちゃんだけ産道となる子宮頚管が短い故に切迫早産の恐
れがある為、万一のお腹の張止めとして使われるウテメリン処方と
書かれていました。
日本では一種のお守り代わりに出す病院も少なくない錠剤です。
稀に手の震えや動悸が副作用で起きる人がいる為、毅彦曰くアメリ
カでは錠剤で出さない薬だそうですが。
カルテを見た限りは今のところ、みんな心配はなさそうです。
サガラユズキ
それでもいつ何があるのか解らないのが出産の怖いところです。
それより一番驚いたのは、ユズちゃんの名前が﹃相良柚希﹄だと言
うのを私が知らなかった事です。
ユズキから一文字取ったんだな。
私の目の前で源氏名とやらを決めたのに、私はずっとユズちゃんは
ユズちゃんと言う感覚でいました。
誕生日も恥ずかしながら、カルテで知りました。
今日はいい天気なので、屋上に出て相変わらずのお弁当です。
昼休みや仮眠がキチンと取れる仕事では無いので、この時間が取れ
るのはとても1人でも楽しみな時間です。
118
しかし今日は違いました。
私が包みを広げていると、屋上へのドアが開き、ビックリして飛び
上がると、大柄なシルエットが見えました。
﹁永山君﹂
﹁あ、保倉先生!﹂
保倉先生は私の研修医時代の恩師です。
周産期領域の権威の先生でもあるのですが、院内の医療ミス隠蔽を
おおっぴらにして大学病院を追われ、教授の名誉も捨てて何故か私
のところへ来て下さった方です。
当時、毅彦はアメリカから帰って来たばかりで日本の医師免許を取
り直すべく日本語診療能力検査の勉強中で診察すら出来ず、
父の代から勤めていた古株の先生達はまだ二十代のぺーぺーの私の
出来の悪さに失望したのか半分が離れて行き、残った先生も激務で
倒れたりな惨状でした。
近隣の産婦人科から先生を応援で呼んだり本当に忙しく、ブラック
ジャックが通りかかってくれたらなぁと心底思うほど私も参ってい
ました。
そんな時に、私の卒業した大学病院を辞めた保倉先生が尋ねて来ら
れたのです。
会社と同じ様に医師にも役職があり、医員<医長<部長とあって私
が産科部長で毅彦が婦人科部長な訳ですが、永山産婦人科には部長
の上に﹁神﹂と言う暗黙のポジションがあります。
もちろん保倉先生のポジションで、知識と技術と理念に於いて毅彦
と私の知る限り最高の先生だと思っています。
﹁ははは、またお弁当か。なかなか美味しそうだ﹂
119
﹁はい。最近は余裕があるので﹂
﹁君、何かあったのか﹂
﹁何かって⋮⋮﹂
色々有りすぎて、私は困惑しました。
﹁よくスタッフの女性陣が盛り上がってるよ、永山先生明るくなっ
たって。いい人出来たんじゃない?って噂しとったね﹂
﹁え⋮⋮まぁ⋮いい人と言うか、婚約して来ました。医者だとか関
係無い、私も専業主婦にはなりたくないって子で、歳は僕よりかな
り若いのですが﹂
日頃ユズちゃんの事を話す相手もいないので、うっかり饒舌になっ
た私の反応に保倉先生が笑って言われました。
﹁安心したよ﹂
﹁安心と言われますと?﹂
﹁うん、君は学生の頃から他人と関わらなかったから。人当たりも
いいしなかなか熱意もあるし医師としての才能もある、でも他人に
興味が無い感じがしたね﹂
確かに。
でも当時は高浜以外に本音で話せる同級生がいない事に不便はして
なかったのです。
﹁特に女性が相手のこの分野なのに、好意的な女性への警戒心の強
いこと強いこと⋮⋮ようやくいい人見つかったなら良かった、私も
120
安心したし永山産婦人科も安泰だな、何か問題が無い限り﹂
﹁⋮まぁ、毅彦もいるので﹂
﹁毅彦くん?あぁ⋮⋮本人も言ってたけど彼は多分、結婚は難しい
と思うね。毅彦くんには何も言わないであげなさい﹂
﹁え?﹂
﹁とにかく大事にしなさい、その子を。有りのままの自分を受け入
れてくれる人なんてそうそういない。それが異性なら尚更だ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁おめでとう、永山くん﹂
﹁ありがとうございます⋮﹂
私は思い切って先生に聞いてみたい事がありました。
﹁あの、先生⋮⋮医者の奥さんってやっぱり大変なものですか?﹂
﹁ん?﹂
﹁その、彼女が心配するんです。彼女は若いし高校も出てないし、
そういう世界の事も全然解らないから⋮⋮って。医者の妻ってそう
いうものなんですか?﹂
﹁がははは、若いっていいね﹂
﹁え?﹂
121
﹁大丈夫だよ、永山くん。本人同士が相手を思いやれば大丈夫。君
が彼女の足りない部分を心から補って、彼女が君の立場を真面目に
考えればいい﹂
﹁本人同士で何とかなりますよね!﹂
私は思わず大きな声が出ました。
﹁君も変わったね、いい方にって意味だよ﹂
﹁え、はい⋮﹂
確かにそれは自分でも感じていました。
都合のいいもので、何かに大きく満足すると他にも余裕が生まれる
もんなんだな、そう思います。
﹁まぁ邪魔して悪かったね﹂
﹁いえ、わざわざありがとうございます﹂
立ち去ろうとする先生が、
﹁あ、そうそう﹂
とこちらを向き直りました。
﹁知らなかったかもしれんが、私の女房も芸者だったんだ。年齢も
10離れていて⋮⋮君を見てると、ちょうど君くらいの歳の自分を
思い出すよ﹂
122
えぇ?
先生の奥さんが芸者さん?
かなり意外でした。
私も医者の奥さんイコール、
みたいな感覚があったのかもしれません。
そこにショックでした。
﹁親にも反対されたけど、今思えば私が人生で初めて何かを決断し
たのが女房との結婚だったな。もう30年以上も昔の話になるが、
もし私が働かなくても私が働くとか言う勝ち気な女だったんだ﹂
﹁医者じゃなくても好きって言われると意外な気持ちになりますよ
ね。それだけ僕も医者と言う仕事にブランド意識があったって事だ
って反省しました﹂
﹁女房には知り合ってしばらくは私は自分の職業を隠していた﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁先輩に連れて行って貰った時に知り合ったんだけどね、私も若か
ったから放蕩息子を装っていたと言うか⋮⋮昔の話だから﹂
と言うと保倉先生は照れた様に笑います。
こんな表情を見たのは初めてでした。
﹁君みたいに二枚目じゃ無いし、そこまでモテてた訳じゃないんだ
けど。それでも好いてくれる女はそれなりにいた、いい大学院出て
る子もいたし、お嬢様もいたし⋮⋮でも私は今の女房以上の女はい
ないと今でも信じているよ﹂
123
﹁⋮⋮⋮!!﹂
﹁ははは、永山君がこんな表情豊かなの初めて見たな﹂
私は表情に乏しかったんでしょうか。
﹁でも気を付けろよ、恋愛に呑まれるな﹂
﹁のまれる?﹂
﹁酒と一緒でね、依存すると自分が自分じゃなくなる⋮⋮と言うか、
相手の一挙一投足に振り回されるようになったら、その恋愛には見
切りを付けた方がいい。じゃ、先に戻ってるね﹂
保倉先生は私の肩をポンと叩くと、戻って行かれました。
何だろう。
すごく不思議な気持ちになりました。
話には深く共感したのに、最後に釘を刺されたような⋮⋮。
私は手付かずのお弁当を眺めながら考えました。
私は振り回されているように見えるんだろうか。
それとも、将来的に振り回されるように見えるんだろうか。
ただ忠告して下さっただけなんだろうか。
会えない時に相手の事を思うのはセーフなんだろうか。
思わず高浜の顔が浮かびました。
そう言えば、彼の恋愛って余り聞いた事がありません。彼女も何人
か会った事ありますが、特定の子が好きで好きでたまらないと言う
風には余り見えませんでした。
高浜なら、保倉先生の話を聞いて何て言うんだろう。
私は生姜焼きを食べながら悶々とします。
大好きな豚の生姜焼きの味もよく解らない自分がいました。
124
椅子を隅に片付け、下に戻ってお弁当箱を洗って伏せて私の昼休み
は終わりです。
﹁あ、先生お帰りなさーい﹂
助産師さんの染谷さんとバッタリ会いました。
﹁あ、戻りました﹂
﹁先生って彼女さん出来たんですか?﹂
﹁はい﹂
思わず言ってしまったけど、まぁ婚約もしてるしいいや。
咄嗟に楽観的な自分にちょっと驚きました。
﹁えぇー院内の人ですか!?﹂
﹁いや、違いますよ。医療とは全く関係の無い人です﹂
﹁キャバ嬢とかでもないですよね﹂
﹁飲み屋のお姉さんではないです﹂
何だ何だ?
何でこんなに?
興味とかゴシップではなく、彼女のそれは詰問でした。
普段は明るい人なのですが、何だか浮気を疑われているような気ま
ずささえありました。
125
﹁そうなんですか。先生ってどんな人が好きなんですか?﹂
﹁余り考えた事ないですけど⋮⋮﹂
本音でした。
どんな人が好きか考えた事も余りありませんでした。
ユズちゃんが好きと言う事しか自分にはありません。
見た目がユズちゃんだからなのか、中身がユズちゃんだからなのか
⋮⋮多分、最初は三人の中で一番若い子としか見ていなかったので、
中身が大きいんじゃないかな。
でもユズちゃんの顔や身体を見るだけで、散歩に行きたい犬が飼い
主にするみたいに気持ちはユズちゃん目掛けて飛んで行きます。
ユズちゃんが好きだからユズちゃんの外見も好きなのかもしれませ
ん。
﹁永山先生、また悩んじゃいました?﹂
﹁えぇ⋮⋮やっぱり、彼女が彼女だったから見た目も中身も好きに
なったんだろう、と思います﹂
﹁きゃぁあー先生、相変わらずサラっと言うぅ∼﹂
﹁え?﹂
﹁じゃ、じゃあ先生ってどんなタイプが嫌いなんですかぁ?﹂
﹁嫌いなタイプですか﹂
これは真っ先に答が出ました。
126
でも、説明するのもあれだし⋮⋮で、
﹁付け睫毛⋮ですかね﹂
と解るような解りにくいような答になりました。
﹁つけま?それってケバい子が嫌って事ですか?﹂
﹁⋮⋮ちょっと違います﹂
﹁えーー超気になる﹂
﹁そうだな⋮⋮つけまつげ付けないと可愛くない子は嫌ですね﹂
と、テキトーに濁します。
﹁へぇーじゃ、先生が彼女さんを選んだ決め手って?﹂
﹁あの、そんなに私の恋愛って気になりますか?﹂
﹁超気になりますよ!だって先生、謎が多いですから﹂
そうだったんだ。
⋮⋮私に謎が多い?
自称デイトレーダーの高浜の私生活然り、人が謎だと感じるものは
七不思議にせよ未解決事件にせよ、興味があるのだと思いますが⋮⋮
﹁謎ってどの辺りがですか?﹂
﹁先生って優しいしみんなの事も考えてくれるのに孤独な感じだけ
ど寂しそうじゃないから。あ、もしかしてそのお弁当って﹂
127
﹁自作です。一人暮らしだし簡単な料理なら好きなので﹂
﹁そーなんだぁ、毎日お弁当だからてっきり彼女さんと一緒に住ん
でるのかって﹂
﹁まだ、一緒には住めないかもしれません。それにまだ2回しか会
ってないんです﹂
﹁え?2回!?遠距離とか!?﹂
﹁メールと電話だけ毎日してますが、やっぱり毎日会いたいです﹂
﹁どんな人なんですか?年下?芸能人で言うと?﹂
﹁⋮⋮そんなにユズちゃんが気になるんですか?﹂
﹁ユズちゃんって言うんですか!?﹂
しまった⋮⋮またやってしまいました。
﹁何か若そうー﹂
﹁⋮⋮一回り近く若いですよ﹂
どうせ結婚したらバレる訳ですし。
ウエディング・ハイが自分にも来るなんて思いませんでしたが、私
は誰かに話したくてたまらない気持ちになりました。
﹁へぇーどうやって知り合ったんですか?﹂
128
﹁友人を介してです。紹介ってほどでもないんですけど﹂
これでも上手くごまかしたつもりです。
﹁えーやっぱ可愛い?﹂
﹁可愛いですよ、すごく﹂
思わず顔が緩みました。
段々自分が馬鹿なのが実感として湧いて来て、私はこの辺にしてお
こうと思いはじめました。
﹁うわー今、めちゃめちゃいい笑顔しましたねーいいなーユズちゃ
ん羨ましい∼﹂
﹁いいものですよね、好きな人出来るって。毎日すごくやる気にな
ります﹂
﹁ちょっとも∼ユズちゃん羨ましすぎぃ﹂
きっとユズちゃんの名前は、明日には院内で広まっているのでは⋮
⋮と思いましたが、私は結婚するって決まってるので、どうせゆく
ゆくバレるんだしいいやくらいに思っていました。
﹁私もお医者さんと結婚して幸せになりたーい!若い内から優雅な
生活出来ていいなぁ、ユズちゃん﹂
﹁あ、ユズちゃんは働くそうですけどね﹂
﹁ここで?﹂
129
﹁さぁ?コンビニとかハンバーガー屋さんなら経験あって働けるっ
て。専業主婦にはならないみたいです。﹂
﹁うそー﹂
﹁健気でいいですよね、せめて自分のお小遣いくらいは自分で出し
たいって言うので﹂
﹁何でお医者さんと結婚してコンビニとかハンバーガー屋さん?!﹂
﹁私はした事が無い業種だから解らないですが、ユズちゃんは好き
なんじゃないんですかね﹂
﹁えぇー?そういうもの?どうしてかなぁ﹂
﹁お金の無い若い子の方が案外しっかりしてるのかもしれません﹂
﹁かなぁ。私もいい人いないかなぁ﹂
﹁下手に欲しがらない方が、いきなり現れるかもしれませんよ﹂
﹁そういうもんですかねぇ﹂
﹁正直、マトモな恋愛って初めてなので解らないんですけど﹂
﹁またまた∼騙されませんよ﹂
﹁⋮⋮本当ですよ、その手の話は全然なかったでしょ?﹂
﹁確かに⋮⋮毅彦先生もそうですよね﹂
130
﹁アイツの方が先かと思ったんですけどね﹂
すると給湯室に毅彦が入って来ました。
﹁呼んだ?﹂
﹁あ、毅彦先生⋮⋮﹂
﹁今、俺達兄弟って全然女っ気無いって話してたんだよ﹂
﹁はぁ⋮⋮またそういう話?﹂
毅彦はワイドショーの芸能人の話くらいどうでも良さそうな顔をし
ました。
先程の保倉先生の話が蘇ります。
﹁二人とも男前なのに勿体ないって話です﹂
染谷さんが言うと、
﹁ははは、まぁ兄さんがいいお嫁さん貰えば安泰って事でいいじゃ
ない。兄さん最近いい彼女出来たって噂だし﹂
﹁え、毅彦先生もユズちゃん知らないの?﹂
﹁ユズちゃん⋮⋮⋮?﹂
毅彦の動きがピタッと止まりました。
﹁何でも一回り若くていい子らしいの﹂
131
染谷さんの一言に毅彦が私の方を向き直りました。
何か言いたげでしたが、
﹁知らなかった、今度時間あったら紹介して﹂
と軽く言うと、コーヒーメーカーからエスプレッソを出しました。
よくあんな苦いの飲めるなぁといつも感心しています。
検診で会ってるはずですが毎日何十人も見ている訳ですし、言った
ところで覚えてもないでしょう。
事情を説明するのも今でなくてもいいしな、そう思いました。
﹁兄さんって解り易いよね﹂
﹁何が?﹂
﹁幸せですってプラカード持って生活してる感じ﹂
それを聞いて染谷さんが笑いました。
﹁いや、そう言われると﹂
﹁現段階なら微笑ましくていいと思うよ。俺の分まで頑張って﹂
何も言わないであげなさい。
保倉先生の言葉がまた蘇ります。
どうしてなんだろう。
私みたいな悩みがあるのでしょうか。
同性愛者とか?
でも、毅彦から何も言わないなら私から何か言う事もない気がしま
132
す。
﹁じゃ先戻るね﹂
﹁俺も戻る⋮⋮染谷さん、あんまりユズちゃんの事、バラさないで
下さいね﹂
﹁はぁーい﹂
絶対バラさないで欲しい気持ちと、バラされたら困るなーどうしよ
うーとちょっとバラされたい自分もいました。
小学生か!と自分を戒め、私は毅彦と並んで歩きます。
﹁兄さんさ﹂
﹁何?﹂
﹁あんなに言っちゃって大丈夫か?﹂
﹁あ、さっきの?﹂
毅彦は前を向いたまま、相変わらず早足で歩きます。
身長は私より少し高いのですが、歩幅が恐ろしく広いので並んで歩
くと私はセカセカとしてしまいます。
短足なんですかね、私が。
﹁すっっ⋮⋮ごい勢いで広まるよ、この手の話﹂
﹁そうだろうな﹂
133
﹁⋮⋮こないださ、相良柚希さんって子が来たんだけど﹂
私はバランスを崩して、つんのめりそうになりました。
﹁なっ⋮⋮﹂
﹁いや、何か俺の名札見て何か思ってそうだったから。﹃永山先生
が二人いるんですね﹄って顔見て、あー兄さんの方が良かったのか
なって思ってさ。で、名前を俺がサガラユキさんって読み間違えた
ら、ユズキですって言ってて。それで。あの子で合ってる?﹂
﹁⋮⋮正解です﹂
毅彦はやれやれ、と言わんばかりに苦笑しました。
﹁兄さんって結構な趣味してんね﹂
﹁何だ、どういう意味で?﹂
﹁いやー⋮⋮まぁいいや。で、あの子の子供は里子希望になってる
けど?﹂
﹁⋮⋮⋮俺の子にしてもいいとは言ってある﹂
﹁兄さんの子供じゃないの?!﹂
﹁初めて知り合った時に14週くらいだったから﹂
﹁何だそれ⋮⋮大丈夫なの、その子。普通じゃないでしょ、兄さん
もその子も﹂
﹁⋮⋮解ってる﹂
134
不穏さが霧のように現れ、浮かれた気持ちをぼかして行きます。
﹁でも⋮⋮どうしていいのか解らないくらい好きなんだ﹂
﹁はぁ⋮⋮そうですか。で、もう触診した?﹂
﹁触診って言うか、うん、子宮頚管の話だろ﹂
﹁切迫早産﹂
﹁解ってる。気を付ける﹂
﹁後さ⋮住所ってあれ、兄さんの別荘じゃない?﹂
﹁そこにいるんだ⋮⋮あっ﹂
﹁何で?兄さんの家にいた方が近いし安全じゃん﹂
﹁そうなんだけど⋮⋮﹂
﹁とにかく車で来たとか言うから焦ったよ。歩いた方がいいとかじ
ゃないけどさ、遠い時点で危険過ぎる。近所にするよう奨めたけど、
兄さんに家なら歩いて15分だし﹂
﹁そうだよな、高浜に言っとくよ﹂
﹁は?何で高浜さん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
135
もう頭を床に打ち付けて転がり回りたい衝動に駆られました。
ホンッと馬鹿だ!!
自己嫌悪がピークに達すると、倉田くんと話したい気持ちで一杯に
なりました。
倉田くんもいい迷惑でしょうけれど。
﹁高浜さんが世話してるとかなの?兄さんの別荘で?﹂
﹁まぁそういうこと⋮かな﹂
﹁じゃあ春日成海さんも飯田茜さんも兄さんの別荘に高浜さんと住
んでるって事?﹂
メロンちゃんとマロンちゃんの事でしょうか。
毅彦がカルテの現住所までチェックしてフルネームで覚えていると
は思いませんでした。
この辺が私と毅彦の能力の違いだと痛感します。
﹁いや、何か兄さんの住所が書いてある子が⋮相良柚希さんと飯田
茜さんの二人いたからデータ検索かけてみたんだ﹂
﹁うん﹂
﹁そうしたら、同じ日にもう一人⋮⋮春日成海さんが出てきた。ね
ぇ、前に言ってた高浜さんの知り合いを三人頼めるかって言ってた
よね、別荘で三人は住んでるってどういう事?﹂
﹁高浜が連れて来たんだ﹂
﹁⋮⋮高浜さんの子供なの?﹂﹁違う﹂
136
﹁全然わかんないんだけど﹂
﹁高浜がね、身寄りの無い妊婦さん集めて来て﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
毅彦は怪訝な顔のままです。
﹁それでまぁ、うちで出産まで面倒見るって事になって﹂
﹁で、どうするの?﹂
﹁うん、一応うちで出産って話にはなってるけど﹂
﹁じゃあ陣痛来たら早めにうちに来いとか?2時間掛けて?﹂
﹁今の段階ではそうなる﹂
﹁兄さん⋮⋮もっとさ、都内にしなよ、その子達預かるなら﹂
﹁お前から高浜に言う?俺だと丸め込まれそうだし﹂
﹁お⋮俺が高浜さんに?﹂
毅彦が動揺しました。
何故か毅彦は高浜の話になると妙な反応をします。
﹁兄さんが友達なんだから兄さんから言えばいいだろ﹂
﹁うん、でもお前が言った方がいいんじゃないかと思う。今度呼ぶ
からご飯でも食べながら話を高浜本人から聞けば⋮﹂
137
さりげなく毅彦への説明を高浜に丸投げしている自分に嫌気が差し
ましたが、私が変な事言って自爆するより遥かにマシだと思いまし
た。
﹁そう⋮⋮﹂
しかし、毅彦と私が同時に休むのは人手の理由で不可能です。
だから高浜に来てもらうのが最善かな、そう思いました。
﹁まぁ⋮⋮高浜さんが来てくれるなら﹂
毅彦は首の後ろを手首の内側で擦ります。
昔から怒られた時や苛立った時の癖でした。
冷や汗が出たのは私ですが、毅彦は急に無口になりました。
﹁兄さんさ、もっと考えなよ﹂
﹁最近、よく反省してる﹂
﹁彼女出来て嬉しいのはいいけど、彼女さん⋮⋮柚希さんか、柚希
さんの事まで余り喋っちゃダメだよ。何だか見世物みたいになるだ
ろうし﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁兄さんと柚希さんは良くても、周りはそう思わない事もありそう
だからさ﹂
子供の事とか?
法律で良くても世間体は良くないと言いたいのでしょう。
138
それは解っているつもりです。
﹁このままでもし、柚希さんに何かあったら?飯田さんや春日さん
は?﹂
﹁全員、無事に出産を終わらせたいとは思ってる﹂
﹁じゃあうちで受け持つなら別荘から引越しは大前提﹂
﹁そうだな⋮⋮今度、三人で話しよう﹂
﹁三人って俺と兄さんと﹂
﹁高浜﹂
また毅彦は無口になります。
毅彦が中学生の頃から高浜とは面識もあるし、高浜と毅彦はそれな
りに仲は良かったというか毅彦が懐いていたように思いますが、私
の知らない何かがあったのかもしれません。
何だろう。
でも、聞いてはいけない気がしました。
﹁じゃ、午後の回診行くね﹂
﹁うん、解った⋮⋮﹂
毅彦が回診に行く時は私は下で検診及び診察です。
差し出されるカルテは、A4サイズの表紙に氏名や生年月日、住所
などが書いてあり、見開きで書き込んだりファイリング出来るよう
になっています。
139
私は氏名と週数と前回の記載くらいしか見ていなかったので、毅彦
は瞬時に全部目を通しているのかと感心しました。私の両親は後継
ぎは長男!と私ばかりを見ていましたが、実際の能力は圧倒的に年
子の弟の毅彦の方が高いのです。
私はそれに小学生の頃に気付いたのですが、両親に言っても全く伝
わらず、毅彦も特にひけらかす事も無かったので海外に出る事によ
って活路を見出だしたようでした。
しかし、日本では順調に行けば6年で取れる医師免許も、毅彦の行
ったアメリカでは8年掛かり、その医師免許だって日本でそのまま
使う事は出来ません。
厳正な書類審査に日本語診療能力調査を経て、じゃあ国家試験受け
させてあげるねみたいな難関を突破しない限りは無理なのです。
私が研修医で下積み中に両親が他界し、毅彦と保倉先生がいなけれ
ば永山産婦人科は廃業か一時的に譲渡するしか無かったと思います。
危機感が極端に薄い私が、余り不安やプレッシャーを感じずに生き
て来れたのも私自身がどうと言うよりは、周りあっての事だと最近
痛感しています。
人間として何かが極端に足りないであろう私を周りが助けてくれて
いたのです。
今日の診察は毅彦を見習ってかなりカルテに目を通してやってみま
した。
そしてカルテにも、些細な個人情報までメモするようにしてみまし
た。
これだけでも大きく違ってくる気がしました。
﹁こんにちは﹂
﹁うわーテレビに出てましたよね!私、テレビ観てここ選んだんで
す﹂
﹁ありがとうございます﹂
140
みたいなやり取りもだいぶ増えました。
宣伝や売名︵とよく言われますが︶では無く、単に取材が多かった
ので会見形式で答えたのがマスコミに予想以上に大きく取り上げら
れただけなのですが、病院の方針に理解を持って頂けるのは有り難
い事だと思います。
それに、うちに来たら説教されて無理矢理産まされる感じがするイ
メージが定着しているのか、中絶希望で来る方がいなくなりました。
それは社会的に減少したのではなく、単にうちに来にくいだけかも
しれませんが。
ただでさえ、出産は出産一時金という制度があり、40万前後のお
金が自治体から出ます。
だから産むだけなら余程の何かが無い限り資金的なものは心配無い
はずです。
そしてそれは病院を通して、余ったお金は申請すれば、うちの病院
なら大体2∼4万円くらいは余りますのでそれは全額出産した人に
返されます。
管理入院からその手続きに至る額全て病院が負担して、最終的には
妊婦さんの出産後の経済活動、出産で一時的に休んでも法的に仕事
先の保障まで出来たらいいなと言うのが最終的な理想です。
中絶希望者が激減し、不妊治療希望で来る人で里親希望者になる人
が増えた分収入が減少しても、出産希望者が殺到してくれたので経
営にはかなりプラスになりました。
例え収入が減ろうと、病院の存続に関わるレベルに来るまでは私は
里親里子を止めないと思います。
自分がその立場になるとは考えもしませんでしたが、血が繋がって
いなくても親子になれるし、親子としての信頼関係は成立すると私
は信じています。
141
﹁あ、陽ちゃんだ﹂
その妊婦さんは診察室に来るなり私をそう呼びました。
子供の頃、私が友人に呼ばれていた呼び名でした。
カルテには
﹃久川桃花・31歳﹄
とありましたが、その妊婦さんの顔を見ると何か思い出します。
﹁覚えてないかなー、小学校一緒だったんだけど﹂
﹁久川さん⋮⋮あ、6年の時に確か飼育委員だった?﹂
﹁そうそう!﹂
みたいな懐かしい出会いもたまにあります。
先々代から開業医なので子供の頃から私は地元を出ていませんが、
地元を離れた人が出産で里帰りして戻って来るのです。
﹁何か陽ちゃんにお腹見せるの変な感じ⋮⋮内診とか﹂
﹁嫌だったら他の先生に代わる?時間余裕あれば他の⋮⋮﹂
すると久川さんは首を振って言いました。
﹁永山︵陽︶先生でお願いします﹂
﹁いいならいいんですけど﹂
よく産婦人科医︵私は産科医を名乗っていますが︶と言うと触診の
事をからかわれますが、当然私はそこに微塵も性的なものはありま
せん。
他の産婦人科医の方もそうだと思うし、それが目当てで産婦人科医
になる人も今のところ知りません。
部位が部位なのでそういう風に思われるかもしれませんが、歯科医
が口腔内を見るのとか内科医が胃カメラを使うのと同じ感覚だと思
います。
142
プローベと言う細い管を挿入してエコーに映る卵巣や子宮を観て性
的な興奮は私にはありません。
むしろ逆に、私の場合は無意識の内にユズちゃんに内診をしてしま
うくらいです。
﹁陽ちゃん、赤ちゃん元気?﹂
﹁元気だね。28週でしょ?﹂
頭の大きさと大腿骨の計測をして大まかな身長体重を出します。
﹁何かさ、いつもエコー写真貰うんだけどさ﹂
﹁うん﹂
﹁専門用語って言うかアルファベット3文字が一杯並んでてよくわ
かんないんだ、旦那とかに見せるとき﹂
﹁そうか⋮⋮確かにそうだね﹂
意外な盲点でした。
体重と身長だけ伝えればいいと思ってましたが、エコー写真の色ん
な記載が気になる人は気になるのか。
﹁このBPDが頭囲、FLってのが大腿骨﹂
﹁そこ見て大きさとか測るんだよね﹂
﹁目安だから2割弱の誤差はあるけどね。で、このFWが予測体重。
有り難う久川さん﹂
143
﹁え?﹂
﹁今度から用語の一覧表作って渡す事にするよ。待合室にも貼っと
こう﹂
﹁うん、そうして。うちの父親とか馬鹿に頑固だから﹃何で説明出
来ないんだ!お前は子供の事に関心ないのか!﹄って怒るんだもん。
ググってもややこしいし﹂
こういう声って大事だなーと思います。
身長と体重と胎児の状態を見るのが目的なので、それを伝えるのみ
と言うのが一般的なやり方ですが、渡す写真に記載されている以上
は内容を教える義務があると思いました。
久川さんは前の病院では教えて貰えなかったから性別を聞きたいと
言うので、性器が映ってるエコー映像を指して女の子だと伝えると
﹁やったー!何かあそこがコーヒー豆みたいに見えるねー﹂と笑っ
ていました。
性別を伝えると最悪産みたくないと言う人がいるので難しい問題で
はあるのですが、希望があれば伝えると言う風に当院では決めてい
ます。
特に親族に長男信奉が強い場合は大変なので、田舎の方は教えない
ところもあると聞いた時は私も引きました。
せっかく赤ちゃんが元気に生まれて来たのに性別性別うるさいと、
ゲンナリします。
うちであったケースでは、私の目の前で義理の母親と思しき人が女
の子を妊娠している妊婦さんに
﹁いつになったら男の子産むんだ、産み分けの為に魚を毎日食べさ
せたのに﹂
144
とよく解らない事を言いながら詰め寄っていたので、
﹁性別は男性の精子によって決まるんです﹂
とつい言ってしまった事があります。
﹁え!?じゃあ⋮うちの息子は一人息子なのに子供は女の子しか生
まれないって事ですか!?﹂
﹁しかって事はないです。因みに精子の染色体で、男性の母親に由
来するX染色体ってのが受精すると女の子になるんです﹂
﹁じゃ母さんの染色体が強いって事?﹂
⋮⋮いたのか旦那さん。
カーテンの隅にいたので気付きませんでした。
自分の奥さんが自分の母親に責められているのに、よく平然として
いられるなと思いました。
まぁ私も母親に頭が上がらなかったので責める資格は無いかもしれ
ませんが。
﹁染色体が強いと言うか、まぁ男性のX染色体は誰から貰うかと言
うとお母さんからでY染色体はお父さんから。どっちを持った精子
が受精するかで性別は決まります﹂
﹁じゃうちの息子に原因があるって事ですか?﹂
﹁まぁ⋮原因と言うと響きが悪いですけどね、そういう事です﹂
﹁どうすれば男の子を産めるんですか?うちは一人息子なんです!﹂
145
﹁⋮⋮妊婦さんがストレスを溜めると、酸性に耐性のある女の子が
生まれ易いとかはあるみたいですね。後は性交前に男性のカフェイ
ン摂取量が多いと男の子が生まれ易いと言う報告もあります。スト
レスを与えない事ですよ、特に産前産後のストレスは致命的な後遺
症を残しますので気をつけて下さいね、周りの方は特に﹂
と言うと、旦那さんが
﹁お前、ストレス溜めるなよ﹂
と妊婦さんに言ったので心がずっこけましたがお義母さんは静かに
なりました。
流石に家庭の事は一介の医者が口出し出来ませんが、機会があれば
医者の立場から説明くらいは出来ます。だから無茶を言う人が親族
にいたら、医学的な説明を聞かせる為にも診察室に連れてきてお医
者さんに任せましょう。
こういう場面に遭遇すると、分娩中も家族の立ち会いの有無はきち
んと妊婦さん本人に確かめなくては後々大変な事になるので気を付
けないと⋮⋮と言うのも、産後すぐカンガルーケアと言って母性の
増幅の為に、生まれた直後のまだちょっと胎脂でドロドロした赤ち
ゃんを抱っこするやり方がありますが、稀に体調や状態が良くなく
て、すぐに赤ちゃんを抱っこ出来ない方もいます。 その時に、お母さんより先にお義母さんが抱っこしてしまっただけ
で、何年も嫁姑関係に深い根が残るくらい出産直後は神経質になる
人が多いからです。 かと言って、可愛い孫をいち早く見たいおじいちゃんおばあちゃん
の事も蔑ろに出来ません。 すごく難しいです。
146
﹁陽ちゃん、同窓会来ないもんね。今度あるんだよ、ハガキ着たで
しょ?﹂ ﹁うちは基本的に慢性人手不足の24時間営業だから難しいね﹂ ﹁だよねー、彼女も出来ないよね﹂ 彼女も出来ない⋮⋮。 私はふと思いました。 ﹁⋮⋮やっぱりこういう勤務体系だと、嫌なものかな﹂
﹁まぁ会えないのは寂しいし、割り切れるまでは難しいんじゃない
かな。これは私個人の意見って事で﹂
最後慌てて付け加えた久川さんを見て、不安が過ります。 そうだ。 今はいいけど、後々この不規則さが溝となって⋮⋮ ﹁あ、ごめんごめん。また何か考えちゃった?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂ ﹁昔から変わらないね、いきなりピタッと止まって考え事すんの﹂ ああ、確かに。
だからみんなに﹁また何か考えてる﹂ってバレるのでしょう。 カーテンの後ろから、バシッと次のカルテが投げ込まれました。 ﹃無駄話も大概にしろ﹄と言うスタッフの方のメッセージの様でし
た。 147
﹁じゃ⋮これで検診は以上です﹂
﹁うん、また検診で会いましょ﹂ ﹁血液検査あると思うから待ってて下さいね﹂ ﹁解った﹂ 久川さんが立ち上がると、私の目の高さにお腹が来ました。
小学校の同級生以上の何も無い間柄でも、知人の出産を担当するの
は何とも言えない気分です。 別に何か意識したり卑猥な事を考えたりではなく、バイト先に知人
が来るってこんな感じかなぁと思いました。 ﹁今の、誰?!﹂
若い助産師さんがカーテン越しにニヤニヤしてます。
﹁小学校の同級生ですよ、ちょっと話が逸れて遅くなって申し訳な
いです﹂
﹁えーあの感じは単なる同級生って感じじゃないなー﹂
意地悪そうな顔をされて、ちょっと辟易しました。
単なる同級生でこれ、彼女の目から見たら同級生全てそういう感じ
に見えるのでしょうか。 次の妊婦さんが呼ばれ、私は慌ててカルテに目を通しました。 148
﹃どうしたの、先生﹄ 空き時間の仮眠の時間の際、私はユズちゃんに電話をしました。 ﹃何かあったの?﹄
優しく労うような声に癒されます。
﹁今日ね、同級生の妊婦さんが来て﹂ ﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄ ﹁俺みたいな勤務体系って彼女からしたら寂しいんじゃないかって﹂
﹃⋮⋮⋮何なのその人﹄
﹁え、だから同級生。小学校の時の。里帰り出産で戻っ⋮﹂
﹃だから何でその人が自分が彼女の前提で話すの?何なのって言っ
たの、そこだから﹄
余りに冷たい声に私は固まりました。 ﹁いやだからユズちゃんもそうだったらって心配に﹂
﹃だから他の女と一緒にすんの止めてって言ってんでしょ?今の状
態でも私は我慢出来てるんだよ?わかんないかな﹄
﹁ごめん、ユズちゃん﹂
﹃嫌なら嫌って、お互いちゃんと言う事にしよ?私だって不安がな
い訳じゃないけど、要は私達本人同士の信頼感なんじゃないの?﹄
149
﹁それは解ってるけど﹂
﹃解ってたらさっきみたいな事言わないと思いますが﹄
﹁いや⋮⋮ユズちゃんが嫌じゃないなら安心した﹂
﹃仕事に嫌だって言っても仕方ないじゃん⋮⋮私の今の仕事だって
先生、実は嫌でしょ?﹄
うん、と言いそうになって慌てて言葉を探します。
﹁それは会った時から⋮⋮うん、賛成出来ないけど仕方ないってあ
るね﹂
﹃ね?だから先生は仕事頑張って。私も⋮先生と会えるの楽しみに
頑張るから﹄
﹁ありがとう﹂ その後、少し雑談をして電話を切りました。 苦労かけるから大丈夫かな、そんな軽い気持ちが怒らせてしまった
ようです。 余りのユズちゃんの迫力に負けてしまい、上手く言えなかった分は
メールで謝りました。
﹃先生の言いたい事も解るよ、だけど仕方ない部分ってあるからそ
こはお互い様ってことでいいんじゃない?ユズと付き合う事で先生
の立場が心配なときもあるけど、お互い思いやりを持って頑張りま
しょ☆﹄
150
と返信がすぐに着ました。
言葉は違いますが、保倉先生に言われたのと同じ事を言われた気が
しました。 その直後に高浜から
﹃お前が尻に敷かれる事決定。おめでとうございます﹄
と絵文字一杯のメールが来て、一気に温かい気持ちが削がれました。
高浜と言えば⋮⋮
毅彦との会話を思い出し、 ﹃今度、毅彦と3人の場を作りたいんだけど時間ある?﹄
と返信すると、すぐに電話が掛かったきました。 ﹃もしもし?お前また余計な事言っちゃった?﹄
﹁かもしれない。毅彦がね、メロンちゃん達3人の住所が俺の別荘
なのはどうしてって言うから﹂
﹃で、どこまで喋っちゃったの﹄
﹁えーとね、高浜が妊婦さん3人の世話を別荘でしてる話くらいま
で﹂
﹃ふーん⋮⋮ってそれならそこまででいいじゃん。何が問題なの﹄
﹁いや、その⋮⋮説明は高浜がした方がいいかなって。毅彦も高浜
に会いたそうだったし﹂
﹃毅彦かぁ⋮﹄ ﹁高浜、毅彦と何かあったの?﹂
151
﹃直接は何もないから、お前からは何も言わないでやれ﹄
高浜まで毅彦に対して保倉先生と同じ事を⋮⋮。 何だか不思議な偶然を感じました。 ﹃うん、何もって何があるのか知らないし﹄
﹁まぁ嫌いとか険悪とかではないから。毅彦いい奴なのは俺も知っ
てるから﹂
と言われたら気になってしまいます。 保倉先生と高浜が知ってて、兄の私だけ知らない何かが⋮⋮何だか
仲間外れな感じがしてやるせなくなります。 でも毅彦に﹁高浜に何かあるの?保倉先生に何をカミングアウトし
たの?﹂と聞いてはいけない事なのは私でも解ります。 ﹃とにかくそっちの日程に合わせるから。倉田が優秀だから俺も休
日作れるし﹄
﹁別荘からうちの病院遠すぎるって毅彦怒ってた﹂
﹃まぁ何かあった時にって事だろ?それは俺も懸念してる⋮⋮出産
近い子から順次俺の家に回すかなとか。まだまだ人材はいっぱいい
るしな。あ、ユズはお前の家に行かせてやるけど﹄
﹁その⋮⋮仕事ってどのくらい⋮⋮﹂
﹃売上通りだよ、客も週1くらいだけど大口来るから赤字はない。
寧ろ黒﹄
152
﹁そっか﹂
﹃日程決まったら連絡くれ。またな﹄
高浜、毅彦の事で何か知ってるんだな。 毅彦も高浜の事になると何か変な感じだし。 こんな時、何も言わないでいいと言うのは救いでした。
﹁俺の休日?﹂
毅彦はまた警戒心剥き出しの表情をしました。
﹁うん。俺とお前抜きで回る日ってあるよな﹂
﹁無いことも無いけど、何⋮⋮あ、高浜さん?﹂ 更に毅彦の表情が曇りました。 地雷が見えているのに踏まなければならない感じが恐ろしいです。 ﹁高浜さんが?﹂
﹁いや、その昨日言ってた事について﹂
﹁あぁ⋮⋮まぁ話は聞いておきたいよね﹂
毅彦が手首で首筋をゴシゴシし始め、何故か私までソワソワしだし
ました。
今までこんなに周りの人間の感情の変化に流される事がなかったの
に、確かに自分でも変化を感じます。
﹁いいよ、会って話するだけでしょ﹂
153
﹁うん。軽くご飯でも。高浜も来るって言ってたし﹂
﹁いや、いいよ⋮⋮応接室でいいでしょ﹂
﹁そっか。応接室で出前取ればいいよな﹂
﹁兄さんがご飯食べたいだけなんじゃないの?!﹂
﹁いや、何なら俺は席を外しても﹂
﹁無理﹂
毅彦の目が見開きました。
人間の眼球は黒目より白目の面積が圧倒的に多いのを実感する見開
き方に、私もびっくりして眼窩に緊張が走りました。 ﹁兄さん、びっくりし過ぎだよ﹂
﹁お前がすごい顔するから﹂
﹁とにかく兄さんも同席で。いいね?﹂ ﹁あ、うん、解った﹂
毅彦はパラパラと手帳を捲ると、また手首で首筋を擦りながら ﹁今週の木曜かな、休診日だし﹂
と言いました。
休診日は検診が無いと言う意味であり、陣痛やトラブルが予測不可
154
能な産婦人科に実質的な休みはありません。 慢性的な人手不足に悩まされます。 ﹁じゃ木曜って連絡しとく﹂
﹁うん⋮⋮﹂ 毅彦はやっぱり沈んでるけど嫌じゃなさそうな、変な表情の儘でし
た。 木曜日、深夜。 この日は平和で珍しく暇でした。 私はうっかり机でうたた寝していたのですが、スタッフの人に ﹁高浜さんと言う方が⋮﹂
と言われて慌てて飛び起きます。
﹁毅彦はいます?﹂
﹁ここにいるけど﹂
いきなり隣にいたので驚きましたが、笑うスタッフさんに施錠を解
く様にお願いして、下まで迎えに行くと何故かユズちゃんと高浜の
姿がありました。 毅彦と私は並んで立ち尽くしました。 ﹁おす、大きくなったじゃんか毅彦﹂ ﹁先生、来ちゃった﹂
来ちゃったって⋮⋮。 155
どうしよう、と隣を見ると毅彦はまだ硬直しています。 でも前に向き直り、 ﹁高浜さん、お久しぶりです。相良さんまで⋮⋮﹂
と笑顔で頭を下げます。
﹁あ、覚えてくれてたんですね﹂
﹁兄がお世話になってます﹂
今度は高浜とユズちゃんが硬直しました。
﹁毅彦、知ってたの?ユズの事﹂
﹁はい、兄が口を滑らせたので﹂
﹁ちょっと先生∼⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
何だか微妙な空気を纏ながら、私達は2階の応接室に向かいます。 向かう途中、スタッフさん達の目線が私にも解るくらい痛かったで
すが。
﹁さて、どこから話せばいいのかな。あ、毅彦、これ﹂
高浜がサッと名刺入れから例の名刺を出しました。
﹁⋮⋮﹂
名刺を受け取るのすら、毅彦は萎縮している様に見えました。 156
保倉先生にも誰にでもサクサク物を言う毅彦なだけに、珍しい光景
でした。 ﹁これは⋮⋮﹂
﹁お前らがやってる事とコンセプトは一緒﹂
毅彦は名刺を見つめて黙ったままです。 ﹁違うのは俺は妊婦さんを集めて、ここに連れて来れるようにお膳
立てするだけ﹂
﹁何で⋮⋮そうしようって思ったんですか?﹂
﹁俺もよく解らん﹂
﹁え?﹂
﹁ある日、喫茶店に入ったらそこのテレビや週刊誌にこいつが出て
た﹂
と、高浜は私を指しました。 ﹁いやー立派になったなぁって感動したよ。天然さゼロの会見に。
会ったら何も変わってなくて、あれ?って感じだったけど﹂
﹁そんなにか?﹂
思わず呟いた私に
﹁兄さん自覚ないの?﹂
﹁先生って自分では解ってないの?﹂
157
と左右から突っ込みが入りました。 ﹁まぁ、それで俺も考えたんだよね。俺もこれなら社会的にも貢献
出来るんじゃないか?って。今は少子化でヤバいと言うが、本当に
今の儘じゃ未来が無さすぎる、と﹂
﹁確かにそうですね﹂
﹁まぁ今の俺らや俺らより若い子が色々な面で可哀想なのは仕方な
い。でも、少子化を食い止めるには子供を産む環境が必要、そう思
った﹂
﹁育つ環境も必要ですけどね﹂
﹁それはお前らが里親をきちんと選べ、血の繋がりなくとも全然問
題無い。18年間いた両親が実の親じゃなかった俺が言うから間違
いない﹂
思わず、高浜以外の全員が
﹁え?﹂
と言ってしまいました。 ﹁うん、俺も親子の縁を切ろうと区役所行った時に知った。今の法
律だと勘当も親子の縁を切るのも出来ないから分籍って形になるけ
ど⋮⋮まぁそれは置いといて﹂
﹁いや、高浜さん、ちょっと待って下さい﹂
﹁何だよ、俺の実の親は誰とかそういう話?﹂
158
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁実の親はね、解りません。興味無いから﹂
﹁本当に興味ないの?﹂
ユズちゃんも身を乗り出します。 ﹁だって知ってどうすんの?第一、俺と会うつもりなら向こうから
来るのが筋じゃない?まぁご存命なら、の話ですけど﹂
﹁そうかなぁ﹂
﹁まぁ元父親曰く、お母さんは美人だったそうです。それで十分で
す﹂
﹁日本人なの?﹂
﹁俺もよく親が日本人かどうかとか聞かれるけど、実の親の事はサ
ッパリ。単に顔が濃いだけかと﹂
ユズちゃんが無邪気に笑います。
私はまだ混乱していました。
高浜の家に行った時に出迎えてくれた人達はみんな、高浜と血縁が
無かった。
確かに高浜だけ体型も顔立ちも全く違ったのは印象的でした。
よくよく考えれば、それが里親里子なのです。 ﹁まぁ俺がこいつの会見見た日、その日は俺にとっても印象深い1
159
日だったんで、5月4日は生搾りミックス記念日と俺は呼んでいる﹂
﹁何それ、響きエロい﹂
﹁生搾りミックス⋮?﹂
ユズちゃんと毅彦がまたも同時に突っ込みました。 ﹁喫茶店で頼んだメニューとか言わないよな﹂
と私が言うと、 ﹁何で解った?﹂
と高浜が笑いました。 ﹁生搾りの話は置いといて⋮⋮⋮毅彦、俺どこまで話したっけ?﹂
﹁生搾りミックス記念日の由来まで、ですかね﹂
﹁あれ?そうだっけ。まぁ頭良いお前が言うならそうだろうな﹂
高浜はニヤリと笑うと、卓の下から私の脚を脚でつついてきました。
確かに、毅彦の顔から猜疑心が消えていました。
﹁そんな訳で俺も子供を一人でも多く世に出そう、んでこいつに協
力を仰いだ訳です﹂
﹁あの、高浜さん。妊婦さんってどうやって集めてるんですか?﹂
160
﹁さすが毅彦、いいとこ突くね﹂
高浜は余裕綽々ですが、私とユズちゃんは居心地が悪い気がしまし
た。 高浜がどう出るのか、少しドキドキします。 ﹁毅彦さ、病院来ないで産む奴ってどんな奴か解る?﹂
﹁それは検診に来ないって事ですか?﹂
﹁いや、出産も考えられず中絶も金銭的に無理な場合の話﹂
﹁そんな⋮⋮﹂ ﹁いるんだよ、案外たくさん。それでいて家も保険証も無いような
子が。そういう子に住居と安心して産める環境を与えるのが俺の仕
事﹂
毅彦をみんなで騙している様な気分になりましたが、嘘は言ってい
ません。
﹁そうでしたか⋮⋮ただ、俺が懸念している事があるんですが﹂
毅彦は相変わらず高浜とは目を合わせず、でもいつもの毅彦に戻り
始めたようでした。
﹁距離の問題な?﹂
﹁はい﹂
161
高浜は何の気無しにタバコの箱を出し、手の甲と指を使って回し始
めました。
何だか手慰みの様で手品みたいで思わず見てしまいます。
﹁あれすごいよね﹂
ユズちゃんが呟きます。
﹁それは、俺も考えてる。調べたら、長時間の車の振動も早産の原
因になりうるらしいし﹂
﹁それに緊急時はどうするんですか?﹂
毅彦はウネウネと高浜の手で遊ぶタバコの箱を見ながら聞きました。
流石の毅彦も気になるようです。 ﹁だから、俺のマンションを使おうかなとも考えてる。今は殆ど帰
ってないし﹂
そうだね、泊まり込みだもんね。
私はあの別荘で繰り広げられる光景を思い出します。 ﹁高浜さんのマンション?﹂
毅彦が聞くと、高浜は窓の外を指差しました。 ﹁あの右の高いやつの隣の。あそこの27階。一応、3LDKあっ
て部屋余ってんだよ。毅彦、良かったら今度遊びに来いよ﹂
﹁いや⋮⋮⋮﹂ 162
また毅彦が萎縮します。
もしかして⋮⋮毅彦は高浜の熱狂的なファンか何かなんでしょうか。
あの毅彦がこんなにも下手に出るなんて、兄の私が見ても珍しい光
景です。 いつの間にか、高浜はタバコの箱をしまっていました。 ﹁あ、高浜、灰皿あるけど﹂
﹁お前ねー、敷地内ならともかく産婦人科院内で吸えるかよ﹂
と常識的な答えが返って来ました。 ﹁じゃ引っ越しも考えてくれますよね?何なら俺が手配してもいい
んですが⋮⋮﹂
﹁いや、これは俺の事業だからいいよ。俺のマンションなんて一時
凌ぎだし、どっか借りるわ﹂
﹁高浜さん⋮⋮資金って言うか、寄付金ってどうなってるんですか
?﹂
﹁寄付金はこんな感じ﹂
と、高浜はカバンを開けてファイリングされた書類を毅彦に渡しま
した。 ﹁毎週こんなに多額の⋮⋮?﹂
163
多分、料金を寄付金と言う名目で取っているのでしょう。 考えたな、と思いました。 ﹁これ⋮⋮﹂
﹁そう、あの音楽プロデューサー。俺のプロジェクト気に入ってく
れてさ﹂
私の手をユズちゃんがそっと握って来ました。 あぁ、あの日か。 倉田くんと会って、あの男が来て、乱交してる中でプロポーズした
日⋮⋮高浜なら何記念日にするんだろう、カラダ記念日とかか? と、私が下らない事で悶々としていると、毅彦が一言、 ﹁よく解りました﹂
とだけ言いました。 ﹁聞きたい事あったらいつでも連絡して来いよ、名刺の連絡先⋮⋮
あ、今ここでやればいいのか﹂
﹁あ、じゃ携帯持って来ます﹂
毅彦がパッと席を立ち、部屋から出ると私は何故だかホッとしまし
た。 私は特に毅彦側の立場の人間でありながら、高浜と結託してる後ろ
めたさが拭いきれません。 ﹁毅彦先生って⋮⋮﹂
ユズちゃんがポソッと言いました。 164
﹁すごい頭も良いし、いい奴なんだけどな﹂
高浜も苦笑しています。
私だけが﹁??﹂と言う感じでしたが、2人は何とも言えない顔を
していました。 ﹁すみません﹂
毅彦が戻って来ると、高浜は
﹁はーいじゃあ赤外線∼﹂
とチャラさ全開で毅彦に携帯を突き付けます。 ﹁こう、かな。すみません、余り使い慣れてなくて。あ、来ました﹂
と毅彦も何とか受信に成功したらしいです。 ﹁ま、そういう事。後は毅彦、そこの2人をよろしくな﹂
﹁何で2人なんだよ﹂
と私が言うと、毅彦は
﹁解りました﹂
とだけ言いました。 ﹁兄貴は天然で未来のお義姉さんは小学生だけど頑張れ﹂
165
﹁はい﹂
毅彦がくすぐったい表情で頷きました。 ﹁小学生って何よ﹂
﹁相良さんは出産後に二十歳になりますよね﹂
﹁何で覚えてるんですか?﹂
ちょっと驚いたユズちゃんに、毅彦は ﹁こないだ診察した時にカルテ見たので﹂
と素っ気なく言いました。 ﹁相良さんの誕生日が出産予定日と2週間違いだった、はず﹂
﹁そっか、毅彦先生すごいんだね﹂
﹁兄貴の方はユズの誕生日知ってるか疑問だがな﹂
﹁知ってるよ。11月9日、カルテ見たから﹂
﹁ユズも先生の誕生日知ってる、12月25日でクリスマスだもん
ね﹂
﹁何で知ってるの?﹂
166
教えた記憶が無いので思わず驚くと、
﹁え?病院のパンフレットのプロフィールに書いてあったよ?毅彦
先生が4月16日とか。経歴も言えるよ、覚えてるもん﹂
と、得意気に言いました。
記憶力良くて羨ましいです。
﹁何で2人とも間接的なの﹂
と、横で聞いていた毅彦が苦笑いしていました。 ⋮⋮確かに。
そんな感じで、上手く高浜が立ち回って丸く収まりました。 ﹁相良さん﹂
﹁はい?﹂
﹁あの⋮⋮すごく頼りないし変わってるかもしれないけど、兄をよ
ろしくお願いします﹂
毅彦がユズちゃんに頭を下げました。 ﹁えっ⋮⋮こちらこそ、全然釣り合ってないですけど、ありがとう
ございます﹂
ぎこちない挨拶を見て、高浜は私に﹁良かったな﹂と口パクしてき
ました。 167
毅彦も疑問が解決して満足そうです。 その時、応接室のドアが勢い良く開いて、 ﹁先生、急患入ります!どちらか行けますか?!﹂
と助産師さんの声が響きました。 私と毅彦が同時に立ち上がり、一気に仕事モードに突入します。
﹁状態は?﹂
﹁プロムの可能性大です﹂
﹁エムニケーター反応調べて。週数は?﹂
﹁鴫野華恵さん、39週です﹂
﹁じゃ第二分娩室に入れて!抗生剤と収縮剤も準備お願いします﹂
と、一気に怒号が飛びかいます。 毅彦は私を手で制すると、
﹁俺が行くからいいよ、高浜さん⋮⋮⋮今日はありがとうございま
した﹂
と何か言いたげな表情でしたが、白衣を羽織って颯爽と応接室を後
にしました。 ﹁先生、いいの?急患だって⋮⋮﹂ 168
﹁ああ、39週なら多分このまま出産になると思う。ただ、プロム
で卵膜が﹂
﹁仕事モードに入ったところすまんが⋮⋮全然話が解らん﹂
高浜が隣で腕組みをしていました。 そうか、確かに。 ﹁えーとね﹂
﹁あ、いつもの先生に戻っちゃったね﹂
﹁前期破水って言ってね、陣痛が来る前に破水しちゃう事なんだけ
ど、破水って言うのは卵膜って言う赤ちゃんを包むバリアが破れて
羊水が出る事で﹂
﹁ほう﹂
何だか高浜に説明をしてるのが変な感じです。 ﹁そのバリアが破れると赤ちゃんに感染症が出る可能性が高くなる
から、応急処置をするんだけど﹂
﹁応急処置ってどうやってするの?﹂
﹁うん、酸性の膣内が羊水でアルカリ性になっているかを調べてか
ら⋮⋮39週なら生まれて問題ないから出産になるかな﹂
﹁膣内とか言われても全然エロさがねーな﹂
169
﹁高浜さん、ここは産婦人科だから﹂
高浜とユズちゃんが何やら喋っています。
あれ? ﹁今、ユズちゃん、高浜って言わなかった?﹂
﹁ユズには教えた。いずれお前とくっつけばバレるしいいかなって﹂
﹁もうくっついてるもん﹂
ユズちゃんが私に腕を回します。 嬉しいですが、職場でされると緊張が走りました。
﹁毅彦先生、大変だね﹂
﹁うん、一人で大丈夫って言ってたけど異常分娩にならない事を祈
っ⋮⋮﹂
﹁そこじゃなくて﹂
ユズちゃんが何を言わんとしてるかが解らないので黙ると、 ﹁ユズ﹂
と高浜がユズちゃんを制しました。 何だ? 何だ何だ? やっぱり私には全然解りません。 ﹁あのさ⋮⋮高浜って毅彦と何かあったの?﹂
170
﹁直接的には何も﹂
﹁あったらあったでちょっと大変かもね﹂
ユズちゃんも高浜も何か知っているようですが、言葉を濁します。 ﹁まぁ⋮⋮見てて解らないってのがお前らしい﹂
﹁うん、先生はそれでいいんだよ﹂
結局何も解りませんが、見てれば解る事なのでしょうか。 ﹁何か毅彦、お前の事になると挙動不審だから何かあったのかって
思って﹂
﹁そっとしといたげなよ、お兄ちゃん﹂
ユズちゃんが私の腕に腕を絡ませたまま、言います。 ﹁直接的には何もないから心配すんな﹂
やっぱり解らん。 私は鈍感なんだなぁ。
そうつくづく思いました。 ﹁じゃ俺らは帰るわ﹂
﹁私ももっとこうしてたいしその先もしたいけど帰る﹂
﹁ユズ置いて行こうか﹂
171
それは困る⋮⋮けど、置いていってくれと内心願う自分がいます。 ﹁この部屋出たら、ユズって呼んじゃダメだぞ。もう名前がバレて
んだから﹂
と高浜に牽制をくらい、私は2人を見送りに下に降ります。 ﹁高浜、今日はありがとう﹂
﹁じゃあな、毅彦によろしく﹂
﹁またね、ブランキー聴きながら帰ろう﹂
﹁うんうん、よく解ってんじゃんか﹂
手を振りながら、私は毅彦と高浜の事を考えました。 一瞬、ちょっと凄い発想が浮かびましたが、高浜と毅彦でそんなま
さかあり得ないと掻き消しました。 それよりユズちゃんと一緒のところに帰れる高浜が羨ましかったの
が本音でした。
並んで駐車場に向かう2人はどう見ても妊婦さんと旦那さんにしか
見えずに私は悶々としましたが、焼き餅妬いても仕方ない事です。 私は仕事仕事、と呟き振り返ると、スタッフさん達が立っていまし
た。 みんな何か言いたげに、いじめっ子の笑顔みたいな表情なので、何
か言われる前に私は高浜の名刺を見せる事にしました。
﹁何だぁ⋮⋮てっきりユズちゃんかと思ったけど違うんだ﹂
172
と言う声は、独り言だと割り切って無視させて頂きます。 ﹁でもあの人かっこよかったねー﹂
と、高浜の方に話が移り、女の人が多い職場に救われた気持ちにな
りました。
173
★高浜武志・2★︵前書き︶
こんな事言ってたな、あんな事あったなとか思い出してたら何だか
やたら長くなりました。 実話をもとにしたら書きやすいかなーと思いましたが、私の場合は
逆でした。 意外な発見。
いつもながら⋮まとまり最悪ですみませんです。 ストーリーを最初に考えても全然浮かばないので、旦那や元彼に成
り切って書きながら進めてるんですが、裏目に出てくるのはまとま
りと言うか起承転結の部分ですね⋮⋮。 174
★高浜武志・2★
はぁ⋮⋮虚しい。
俺は久々に帰った自宅のソファーに寝っ転がる。 動物園みたいにガラスで囲まれたリビングから見える夜景も飽きた。
奈津の家から見えるお寺やマンションが見たーいとか考えると虚し
さ倍増。 俺はトタン張りでもいいから、煮物の匂いのする家に帰りたい。
いや、重要なのは煮物を誰が作るかだ。
金銭的に不自由しないと金で買えない物が欲しくなるってホントな。
家主の俺が不在の間、FAXは真面目に仕事していたようで用紙が
何枚も床に落ちている。
どうせ店の収支報告書だろ。
ソファーの肘置きに腹這いになり、非常に苦しい角度でかき集めて
一応チェック。 うむ、やっぱり俺が仕込んだ奴に任せると売上いいわ。
やるな倉田。 もうちょい頑張れよ、小栗。
売上いいのは桁で解るが字が汚くて日本語かどうかも疑問だぞ、横
山。
可愛い舎弟達の顔が浮かんで来る。
俺が作った日直日誌を真面目に送る彼らに拍手。
後でメールしとこう。
175
やっぱね、俺みたいなオッサンは経験や経歴が武器だけど、冷静で
上昇志向の強い若者には勝てんよね。 んで、俺に意見する時も頭良い奴は上手いんだわ。
﹁それなんですけど俺が思うのはぁ﹂とか﹁あのー間違ってるかも
しれないんすけどぉ﹂なんて言い方して来ないって言うか。 ﹁解りました。有難うございます。あ、ちょっと聞きたいところが
あるんですけど﹂って言い方で攻めて来る。 別に﹁オーナーの俺に意見すんのか?﹂とか言う気持ちはないし、
寧ろ意見言えるだけ真剣に考えてると思うが、上の立場の人間にサ
ッと気を遣えない人間に接客及び従業員の統括なんて任せられるか
微妙だし。 なんてちょっと考えながら、俺はFAXの束を店舗別のファイルに
入れる。 あーやる事ねぇ。
いや、いっぱいあるんだけどやりたくねぇ。
生搾りミックスも同級生の連絡待ちだもんな。
奈津のところもこないだ行ったばっかだしな。
大体、メールが﹃しんじょってうまい﹄一行だけとかどうなの? かなりの率で片思いって奴だろ。
片思い切ねー。
でも思い通りにならないってちょっと楽しー。 何かよく見た目でSと思われがちだが、最近俺はかなりドMだと気
付く。 だってあんなに好きな女に突き放されて喜んでんだもん。 程度にもよるけど、恋愛は会わない方が長続きしそうだし。
奈津が飲み屋のおねーさんなら毎月シャンパンタワー入れても⋮⋮ あっそうか。 奈津の働いてるお店に﹁今度は俺に飲ませろ﹂ってお客さんとして
176
行けば⋮⋮⋮。 いや、ダメだ。 俺だって営業時間に自分に気のある女に居座られたらやりにくいも
んな。 はぁ⋮⋮⋮。
俺はソファーの背もたれに脚を乗せた。 腰から下が伸びて気持ち良い。
その時、携帯が鳴る。 メール⋮⋮もしかして、と期待をすると、例の産婦人科医の同級生
から。 物凄いデコメで着て、俺はかなり引いた。 カラフルな上に絵文字やフラッシュだらけだが、内容は空いてる日
程の詳細のみ。
場所は俺に任せる、とあった。
最後の一文に、﹃変なところいじったらしく読みにくくてごめん。﹄
とあったので安心した。 つーか普通、解除方法探すか作成し直すだろ。 何で30過ぎて、しかも男に携帯任せのデコメすんだよ。 まぁ、そこは変わってねーな。
場所⋮⋮かぁ。
俺はちょっと考える。
いきなり店まで行って喜んでくれる女ではない気がする。
でも、純粋に友人と行くだけならいいんじゃないの? 違うの? やっぱり止めた方がいいの?
俺は自問自答したが、奈津の気持ちなんぞサッパリ解らん⋮⋮と言
うのは嘘で、行かないに越した事は無いのは解っているが、奈津を
見たい気持ちが何とか客としてでも奈津の働く店に行きたがってい
177
る。 これが片思いか。
いや、ストーカー心理って奴か。 俺はとりあえず、忙しい友人に都合いい場所を聞くために連絡をし
た。 奈津の店が新宿にあるので、﹃新宿辺りで大丈夫?﹄とパッと見は
何の変哲も無いが我ながら下心が気持ち悪いメール、送信。
意外にもすぐ返信が来る。
﹃新宿ならむしろ好都合だから大丈夫。スマホって使いにくいね﹄
と言うメールが着て、友人が新宿がいいと言う既成事実ゲット。
あー我ながら気持ち悪い。 片思い期間長い人達ってどうやって進展させてんだろう。
不細工に生まれてたらこんな事ばっかやってんのかもしれん。 いや、二枚目も不細工も関係無い。 好きになった相手が、見た目を評価してくれるかどうかが見た目の
全てだ。
そもそも俺自身が二枚目である確証が無いしな。
外国人に英語でよく話し掛けられたり、親の国籍聞かれる顔なのは
自覚してるが⋮⋮奈津ってどんな顔がタイプなんだろ。 本当は顔のタイプなんて余り恋愛には関係無いって解ってるんだけ
どな。
やっぱ気になるよな。 顔だけ好きになられても微妙だが、奈津は初対面の印象からして俺
の事がタイプな様には見えない。 先日可愛いと言われたが、それは奈津の玩具として扱う分にであっ
て、俺が奈津に対しての可愛いとは違う⋮⋮のか?
178
とか何とか思いながら、奈津に何て言うか考える。 あーもう警察に立ち入りされて色々聞かれる時より頭を使う。 ﹃友人と新宿で会うんだけど店に行っていい?﹄
みたいな感じでシンプルに。 あくまで友人と行くけどってのを全面に。 これが緊張するって奴か。 ちょっと気持ちいいのな、性的な意味で。
メールだと断られて終わる可能性高いから、電話しよう。 長い事会ってないので履歴には無いので電話帳検索して、えぃって
感じに通話ボタンを押す。
今出られるかな、つーか俺からの着信に出るかな、あいつ。
プルルルルル∼と言う音が聞こえて6回目、
﹃何だよ﹄
と言う声が聞こえる。 やったー。 奈津が出てくれたー。 あしらわれても無視されても指名し続ける客の気持ちが超解るー。 ﹃何の用だ﹄
﹁奈津に会いたいんだが﹂
﹃私は別に会いたくないが﹄
﹁そうなの?あのさ、今度友人と新宿で会うんだけど、奈津の店使
っていい?﹂
179
﹃⋮⋮⋮新宿なら他にどんだけでもあるだろ、何で私の働いてると
ころにわざわざ﹄
はい、予想通りの反応。
でも食い下がれば予想外の展開を用意してくれるのが奈津だ。
﹁俺がいると意識しちゃって邪魔か?﹂
﹃意識するかしないか以前に存在自体が邪魔﹄
うわー⋮⋮これ、奈津以外の人間から言われたら結構ショックかも
しれない。
﹃で、いつ来るんだ﹄
﹁今月の14日かな、奈津いる?﹂
﹃⋮⋮金曜日か。また休めない日に来やがって﹄
金曜日⋮⋮そうか、そうだな。
そこは意図的じゃなかったが、永山のスケジュールに感謝。
﹁ダメならいいけど。奈津の仕事の邪魔になるなら行かない﹂
﹃従業員の私の好き嫌いで客を減らす訳には行かないから﹄
あ、分かりにくいけど、取り敢えずオッケーなんだ。
﹁奈津を遠目に見られるだけで俺は幸せですから﹂
180
と言って罵られようとするドMな俺。 さぁ来い、俺を罵倒しろ。 ﹃あの⋮⋮何で店なんだ?﹄
﹁は?﹂
﹃別に店までわざわざ来なくても﹄
店以外でどこでお前に会うんだ⋮⋮と言い掛けて、俺はちょっとハ
ッとした。 これがハッとしてグーと言う奴なんだろうか。 遠回しに遠回しに⋮⋮いや、下手に前向きに考えたらいかん。
﹁何?﹂
﹃⋮⋮私の顔を見る為なら、何でわざわざ店に来るんだ﹄
﹁これから御自宅にお伺いしましょうか?﹂
﹃⋮⋮断る﹄
﹁だから、だよ。俺は奈津に会いたい。視界の端に留めるだけでも
いいから﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮グシッ﹄
またか。 また泣いてるのか。 181
もうさっさと電話切って家まで行きたいけど多分行かない。
シカトされたり殴られたりはいいけど、家に行くのは今さっき断ら
れたしね、うん。 ﹁奈∼津∼﹂
セ∼ガ∼みたいに言ってみる。 奈津がクスッと鼻声で笑った。
﹃次は壁コンボ決めてやろうか?﹄ セガなだけに鉄拳ネタで来たのか。
そういやちょっと飛鳥に似てるかも。
リリでもジュリアでは絶対ないしな。 ﹁お前に翠連刈脚を連続で決められたい﹂
﹃お前、鉄拳知ってるのか﹄
﹁知ってるよ﹂﹃そうか⋮⋮私は飛鳥では無くパンダと熊が好きだ
な﹄
一緒だろ、キャラクター決定時に押すボタンが違うだけだろ。
﹁俺は⋮⋮何だろうな、決まってない。奈津ってバイオハザード以
外もやるのな﹂
﹃バイオハザード以外って、サイレントヒルもサイレンも全部持っ
てる。私の半分はゲームで出来ている、そんな感じだ﹄
182
そうなのか。 俺が行っても全然やらないからそんな好きとは知らなかった。
ってホラーゲームばっかやってんじゃねーよ。 ﹁奈津って怖いの平気なのな﹂
﹃まぁ攻撃が出来れば怖くないな﹄
ん? って事は一方的に脅かされるお化け屋敷はダメって事か? 想像すると下心がうずうずする。
奈津となら遊園地でも動物園でもどこでも行きますよ。年甲斐も無
くね。 ﹃高浜は怖いのダメか?﹄
﹁いや?グロいのはダメだか怖いのは平気。お化け屋敷とかは怖い
と思った事ないな﹂
﹃そうか﹄
これは何か進展があるのかもしれん。 ﹃私はホーンテッドマンションで限界だ﹄
か、可愛い!!
ディズニーランドのアトラクションが限界って!!
⋮⋮ちょっと待て、奈津、誰といつ行ったんだ?
183
﹃思わず母親にしがみついて泣いた。大人になっても多分あれは無
理だ﹄
そっかぁ、お母さんかぁ⋮⋮昔過ぎるだろ。
まぁ奈津が誰と行こうが俺にどうこう言われる筋合いはないがな。
とは解ってるが⋮⋮俺も女と何十回も行ったし。 奈津が彼氏と言わなかった事に安心してる、自分が本当に気持ち悪
い。
奈津には俺の知らない奈津の人生が云々、とか理屈じゃ抑え切れな
い嫌な感情だ。
﹃だがな、高浜。ジェットコースターは死ぬ程好きだ!﹄
﹁そうか﹂
俺は嫌いだ。 あの下からヒュンッてなる感じが大嫌いだ。 でも奈津が好きなら俺はジェットコースターに乗る。
⋮⋮流石に何回も乗るなら考えますけど。
﹃⋮⋮⋮それだけ﹄
﹁そうか﹂
そうなのか。 じゃあ⋮⋮遊園地なら来てくれるって事でいいのかな、俺は幸せな
気持ちになる。 ジェットコースターなんぞ怖るるに足らん。
184
その代わり、お化け屋敷には入って貰う!! ﹁奈津﹂
﹃⋮⋮なんだ、馬鹿浜﹄
奈津はちょっとテンションが下がっていた。 何かソワソワした感じを受けたが気のせいか? ﹁今週の休日いつ?空けておけ﹂
﹃何でだ﹄
﹁相変わらず日月休み?﹂
﹃そうだが何でだ﹄
﹁日曜の朝イチに迎えに行く。9時には用意しといて﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮グジッ﹄
またか!! 何でデートに誘って泣かれなきゃいかんのだ? 泣く程嫌なのか!?
⋮⋮とは思いたくない。
﹁いい?﹂
﹃⋮⋮わがっだ、じゃ﹄
185
と、唐突に電話が切れた。 通話時間は7分25秒。
奈津との最長記録樹立だ。
いつも2分以内だし。
⋮⋮⋮あれ?
俺は奈津に何で電話したのかを思い返し、友人に店の位置だけ連絡
した。 お前のお陰で奈津と遊園地行ける事になったよ。
有難う、有難う永山君︵友人︶!!
俺は取り敢えず、PCを起動させて遊園地のピックアップをする。 都内で日帰りならラクーアでしょうな、やっぱ。 ディズニーはジェットコースターが無いし雰囲気苦手だから却下。
後は⋮⋮雰囲気と言えばとしまえんが個人的には好きだが⋮⋮⋮ いや、せっかくのデートだし車なんだから遠出しよう。
遠出。
行き先は決まりだ。
最強のジェットコースターと最恐のお化け屋敷、富士急ハイランド
だ!! 晴れろ日曜日!!
何が何でも晴れろ!!
一人暮らし、独身、31歳。 片思いの彼女と遊園地に行けるだけで、窓ガラス割って飛び出した
いくらい浮かれる。
こんなんだから独身なんだろうな、結婚願望ないけど。 186
明日から頑張るぞー、って言っても何も頑張るネタが浮かばない。
それが火曜日の明け方。 俺は火曜日は1日浮かれて、水曜日からガツガツ働いた。 まぁ俺の場合は呼び出し以外は自分から動かない限り、仕事はない。
だから色々動いた。 とりあえず、NPO法人として新ビジネスを始めようと言う事にな
り。 こればっかりはスポーツ新聞のバイアグラ販売とかみたいに長浜奈
津夫とか言ってられないので、本名で登録。 奈津夫とか奈津にばれて散々罵倒されてボコボコにされる期待を込
めた偽名だが、まだばれてないらしい。
後は14日に会う産婦人科医の友人、永山の動向次第だしな。
水曜日、木曜日、金曜日、そして土曜日の夜。 忙しいと時間なんぞあっという間だ。
俺の二十代みたい。
やっぱりヤキモキしたりモヤモヤしたら仕事に打ち込むに限る。
不安な気持ちに飲まれるより、仕事と言う現実に向き合う方が実は
楽なんだよね、俺の場合。
﹁高浜、書類出来たよ﹂
行政書士の知人から連絡が来ていた。 学業とは18歳でお別れしたが、取り敢えず進学校に在籍していた
利点として、医者と弁護士等の法に関する仕事をしている同級生が
多い。 ははは、高校時代は﹁何だあいつ﹂って目で見ていた奴等も大人に
なったら違うらしく、今ではお互いの専門分野でお返しし合う仲に
187
なった。
下手な依頼は受けない奴でも、こっそりその手の専門の人を紹介し
てくれたりするし、モチツモタレツとは正にこの事。 いやはや、同窓会に出ておいて良かった良かった。 てっきり塩撒かれるかと思ってたけど。 当時から教師陣はやたら買い被るか爪弾きにするかの二極化だった
が、同級生はどうだったんだろうな。
他校の奴ばっかとつるんでいたが、唯一何故か俺と気が合って行動
をしていたのが件の産婦人科医の永山だ。 彼も持ち前の凄まじいマイペースで、同級生達からも一歩引かれて
いた。
容姿はなかなかだが、中身は何を考えているかサッパリだし、人当
たりもいいし性格も優しいんだけど、光の入らない真っ黒な目が怖
い。 そして何かを考える時、瞬きすらせずに動かなくなる。 元々は高校で出席番号が近かったから話す様になったが、最初にそ
れをされた時は何が起きたかと思った。 ﹁あのさ、この後に繋げるの不定詞だっけ﹂
と英語のプリントを見せると、 ﹁どこ?あ、ここ?﹂
と俺の指先を見て言ったきり、ピタッと止まった。
﹁どうした﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
188
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁多分ね、ナニナニしたものだって意味になるから、不定詞で合っ
てると思うよ﹂
と時間が止まったかの様な沈黙の後、普通に何事も無かったかのよ
うに言われた。
﹁そっか、ありがと﹂
と言うのが当時の俺は精一杯だった。
お陰で15年経っても
<used to ∼ : 以前はよく∼したものだ>
と言う、その時聞いた熟語は忘れる事が出来ない。
ウッカリ授業中に難問を当てられるとやっぱり考えている間は固ま
るので、避ける教師もいたくらいの違和感だったしな。 まぁでも、奴のいい所は人の為に動ける事と、余り競争心や自己顕
示欲が無い事。
良く言えばオットリ、悪く言えば極端にズレているところだ。
合コンとかに連れて行っても、見た目の受けが良いけど天然全開。
合コンの趣旨が余り解ってない。
マドラーをストローだと思って頑張って吸っちゃうとかの連続で、
俺はなかなか面白かった。
そんな超天然系の草食系を超えて光合成しそうな永山が、社会に問
題提起してアクションを起こした。 内容も全面的に同意するし、俺みたいなのが社会貢献するいい機会
だ。 バラマキって良くないけど、金で釣れば何とかなる未来ってあるん
189
だよな。
まぁいいや。 俺はもう風呂入って寝る。 起きたら昼でしたとか勘弁だし。 ⋮⋮寝られん。 全く以て寝られん。 どうせなら明日の予定を考えよう。
9時に奈津のとこ行くから8時には家出るでしょ。
⋮⋮で、東名高速飛ばして御殿場辺りで⋮⋮前にアウトレット行っ
た時がオフシーズンで2時間弱だった気がするから、まぁプラス1
時間として⋮⋮昼くらいには着くよな。 で⋮⋮どーせアレだろ?
絶叫乗りまくりだろ?
いきなり男が試されるな。
然しながら、2階建てで1時間掛かる病院のお化け屋敷もあるんだ
って。 それだけが楽しみ。 ジェットコースターなんて乗るくらいならな、1人で下で鳩に餌で
もやってたいのが本音。 仮に奈津がそれを許したとしてもだ。
もし野郎ばかりの奇数グループなんぞがいて端数の奴が奈津の隣に
座ったり、下で鳩に餌をやりながらそれを眺める⋮⋮くらいなら、
俺は乗る。
俺だってディズニーのビッグサンダーマウンテンが限界なんだよ!!
でもお前が死ぬほど好きだから乗れ、と言うなら乗る。
死にはしないだろうしな、多分。 190
何やら動悸がして来たので、恐怖で﹁無理∼!怖∼い!!﹂とか言
って俺の腕にしがみついて来る奈津を想像⋮⋮出来ねぇ。
あいつが怖がるとかシチュエーション、あんのか?
無かったらまた俺が一方的にやられて終了とかになってしまうので
は。 うぎゃー。 いや、万一俺が具合悪くなったら介抱⋮⋮してくれるのか?あいつ
が? 鳩尾に一発入れて、﹁ほれ、行くぞ馬鹿浜﹂ってなモンじゃねぇの
? いやいやいやいや。 そもそも、戦慄何たらに奈津をどうやって入れるか、だ。 遊園地と言えど、良い歳した男女が入る入らないで口論とか。 んでどーせ俺がボコられて終わり、みたいな感じなんだろうか。 うわー子供もいる場所でやるべきじゃねー。 そこは上手く交渉しなきゃな。 1時間の恐怖で、奈津が腰抜かして歩けなくなったら、周辺の宿泊
施設で休ませよう。 そうしよう!! 宿泊施設。 遠出のデートに何て素敵な響きなんだろう。 着替えはアウトレットで買ってもいいし!
風呂上がりに浴衣とか用意してあったらいいよな。
その先も期待したいし。
息子も俺を見上げて同意しだす。 あ、でも奈津がまた⋮⋮こないだみたいなスィッチ入ったらどうす
る? そう思ったら、息子はスネた様にうなだれ始めた。
だよな。 はぁ⋮⋮全くを以てして眠れん。 191
もう3時じゃん。
とか言いつつ、俺は7時前に目が覚めた。 おはようライジングサン、そしてマイサン。
晴れたね、頑張ろうね。
ノロノロ台所に向かって、換気扇と空気清浄機点けて一服。 待ってろ、奈津。 俺は道を間違えたりしないように最終確認して、朝食前の習慣でダ
ーツ。 やっぱりテンション高いと何事も上手く行く気がする。 さて。
朝何食うかな。
作ると言っても冷蔵庫は空。
出前って時間もない。 ははは、こんな時はだ。
﹁おはよう、奈津。朝飯一緒に食わない?﹂ ﹃飯ならもう食べたが﹄
﹁早いな﹂
﹃まぁ朝まで起きてたからな﹄
﹁いくら俺とのデートが楽しみでも、ちゃんと寝ろよ﹂
﹃死ね馬鹿浜。久々にバイオ4を最初からやったらクリアしてしま
ったんだ。それだけ﹄
192
あ、何かお前って粗削りのエイダみたいだな。 もうジョンでもいいよ、奈津がエイダだったらレオンでなくとも。 俺の愛情は止まらない。
間違ってもクリスとジルでもクレアとスティーブでもないもんな。
﹁奈津ってエイダの気持ち解る?﹂
﹃⋮⋮⋮え?﹄
﹁女心に疎い俺に説明しろよ﹂
﹃⋮知るか。とっとと来い、待ってるから﹄
﹁ご飯食べてないんだが﹂
﹃そのまま来い、何か食べさせてやるから。じゃ後で﹄
またも電話が切られる。
俺はバイオ4に負けたのか? いや、あれは奈津お得意のいつもの奴なんじゃないだろうか。 髪の毛も申し訳程度にいじればいいし⋮⋮服装もポロシャツにデニ
ムでよかろう。
大体、遊園地って言ってもどんな服装で行けば良いか、オッサンに
は解らんよ。
ウォークインクローゼットから出ると、ガランとした6畳半の部屋
193
が向かいにある。
敢えて何も置かない。
気持ち悪いよね、解ってる。
でも、やっぱりいつかここに来て欲しいなって思う。
気に入ってくれたら即引っ越ししていいよ。
いや、して下さい。 奈津はエレベーターにキレるだろうがな。 ﹁遅い!まだ着かんのか!﹂
とか言って暴れて停止とか⋮⋮そうなっても全然オッケー。
じゃあ俺が引っ越しますから。 うむ、ストーカーって案外本人は前向きに明るい未来を信じて楽し
いんじやないのか? される方は堪ったもんじゃないけどな。
ストーカーか⋮⋮⋮ 奈津も嫌々承諾してるだけなのかもしれない。
だから泣いてしまう可能性もあるね。
よし、着信拒否されたら俺も身を引こう。
何だか楽しみなデートが、一気に別れ話されたらどうしよう的な気
分になって来た。
とまぁ、奈津は俺に色んな事を気付かせてくれたのだ。 まずね、思い上がり。 別に自分の容姿に酔ったり小金に困らない事を誇ったりはしないけ
ど、いいなと思った子とは、とりあえず何かいい感じになる前提な
感覚が無意識の内にあった。 最初は化粧も薄いしサッパリした口調の、宝塚の男役みたいな子だ
194
なと思ったんだけど、カクテル作る手付きに惚れ惚れした。
知人の店の募集に来た子で、知人はもっと華やかな子がいいと言う
のを俺が推したのだ。 話し掛けても、﹁はい﹂﹁そうですね﹂﹁違います﹂
と薄笑いを浮かべる程度で、過度なリアクションが無い。
質問をしても﹁奈津川由亜です﹂﹁26歳になりました﹂﹁この仕
事は4年目です﹂と次が続かない感じ。
いいなぁ。 こんな女の子。
2人になったら、どんな風になるんだろう。 まぁ、下心が無い訳じゃなかったけど⋮⋮でもセックスって目的じ
ゃなくて一環じゃん? でも考えますよね、この子にあーしたらどうなる、みたいなのは。 最初は店長が俺に必要以上にペコペコしてるのを見て遠慮がちだっ
た奈津だが、俺がプライベートに侵入して来たら豹変した。 早い話が、俺が大好きな奈津になった訳ですよ。
仕事帰りに迎えに来てみて、2人っきりになってちょっと隣にくっ
ついてみたら何か違和感を感じた。 ﹁⋮⋮何なんですか?﹂
﹁何が?﹂
﹁私じゃ相手が違うと思います﹂
﹁何の?俺は結構奈津川さん好きなんだけど﹂
195
そんなやり取りをして、何かもう少し喋ったかな。 奈津のデニム
の脚がワナワナしだした。
﹁⋮⋮⋮ってんだよ﹂
﹁え?﹂
﹁どんだけ調子乗ってんだよ!﹂
そう言って立ち上がり俺の事を凄い顔して見下ろした。 同じ事を男にされても怖くないが、この時は海に沈められる奴の気
持ちを思った。
﹁何か悪いことしたか?﹂ ﹁⋮⋮私は男にベタベタくっつかれるのが大嫌いだ﹂
﹁あぁ、そうなの?じゃこのくらい離れればいい?﹂
﹁距離の話じゃなく、放って置いて貰えます?﹂
そう言って、俺の横をすりぬけて先に店のあるビルの出口に向かっ
た。
﹁⋮⋮店長に私を推薦して下さったのは感謝してます﹂
﹁そんな事気にしないでいい﹂
この時、フラれたと気付く俺がいた。
だってあんまりにもバッサリ来たから解んなくてさ。
196
﹁後な、お前まで俺に変に気を遣うな﹂
﹁どういう意味ですか﹂
もう何か、自分を殺しに来た奴と会話してる気分になった。
﹁まぁ、店長にはさて置き、俺には普段の奈津川さんが話す感じで﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい?﹂
﹁奈津川さんにタメグチ利かれたいしな﹂
﹁うるさい死ね!!﹂
そう奈津は俺を突き放し、長い脚でガコーンと扉を蹴り飛ばすと通
りに出て行った。
それを見て、俺は奈津に心底惚れてしまった。 肩に手すら回せなかった俺は扉を羨ましく思ったくらい。 その後は奈津が店を辞める辞めないで揉め、どさくさに紛れて家ま
で迎えに行ったりして今に至る。
いやー⋮⋮デートまで漕ぎ付けるまで半年。
恋愛はゲームとか言う奴はどんなジャンルのゲームだって言ってる
んだろうな。 俺と奈津だとタイマン勝負だから格ゲーかね。
明治通りを巣鴨方面に抜けてサンシャインを見送ると、いよいよ敵
陣が近づいて来る。
197
アパートの駐車場に車を停め、階段を上がろうとすると、階段の柱
の影に黒いワンピースのビニール袋を持った女が見えた。 一瞬、錯覚かと思ったが、足首とビルケンサンダルで解った。
﹁⋮⋮⋮何、やってんの?﹂
﹁何もしていない。お前が来るのを待っていただけだ﹂
俺はちょっと動転した。
可愛いと思った女の子のすっぴんを見た時の逆の衝撃だ。 ﹁やはり時間より早く来るんだな﹂
﹁まぁ⋮15分前には﹂
女が顔を上げると、目深に被った帽子から待ち焦がれた顔が見える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前、それ似合⋮﹂
俺がそう言い掛けると、奈津が水を掛けられた猫のようにいきなり
階段を駆け上がった。 凄い音が響いて、近隣住人の方には申し訳ないが俺も訳が解らない
まま後を追う。 ﹁どうしたんだよ!﹂
﹁うるさい!!﹂
198
203号室まで走り抜き、奈津が扉を開ける。 鍵は?と思った瞬間、閉まると思った扉が開き、思いっきり顔をぶ
つけた。 ﹁いてぇ!!﹂
﹁着替えるから待ってろ!﹂
﹁何でだよ!!﹂
一瞬にしてガチャリと鍵を掛けられ、俺は扉を叩く。
﹁やかましいぞ馬鹿浜!!﹂
﹁似合ってるって言っただろ!メチャクチャ可愛いぞ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うるさい、もう帰れ!!﹂
か、帰れ!? ﹁ふざけ⋮﹂
そうドアに向かって叫ぶと、ふと205号室のドアを半分開けてこ
ちらを見ている金髪の若者と目が合った。 ﹁⋮⋮すみません﹂
俺が謝ると彼は見た目に反してビクッとして慌ててドアを閉めた。 199
﹁奈津!﹂
﹁奈津って﹂
俺はドアに耳を付けるが、何も聞こえない。 ﹁解った、帰るよ。じゃあな﹂
と声高に宣言をし、俺はドアの蝶番側に座った。 しばらくすると、ガンガンガコンと何やら壁にぶつける音がして、
ドタドタと凄まじい走る音が響いた後、勢いよくドアが開いて半分
ワンピースを脱いだ奈津が飛び出して来た。 ⋮⋮おい。
205号室の人、今は開けるな。
奈津は扉の裏側に座っている俺には気付いていないらしい。 そしてアパートの手すりに前回りしそうな勢いで突進すると、俺の
車を確認したのかちょっと落ち着き、振り返って俺と目が合うと固
まった。 俺も奈津の顔を見て固まる。 髪の毛もグシャグシャだし、顔も涙と鼻水でグシャグシャだが、極
めつけは顎まで垂れた鼻血だ。 ﹁何をじでいる﹂
﹁お前こそどうした⋮⋮とりあえず、服を何とかしろ﹂
俺が立ち上がると、下の階の住人らしき人間が携帯を片手にこちら
200
を伺っているのが見えた。
﹁何でもありませんので﹂
奈津は作り笑顔で言うが、下にいる人は鼻血ダラダラで半裸の奈津
と立ち尽くす俺を交互に見て、俺のコルベットを見て、まだ立ち尽
くしたままだ。
﹁早く入れ!﹂ 奈津は俺の手を取ると、ドアの中に引き入れた。 ﹁完全に何もしてない俺が悪者じゃねーか﹂
﹁⋮⋮お前が変な事言うから﹂
似合うって言っても似合わないって言っても、同じ結果な気がした。
どうしろってんだよ、ホント。
﹁⋮⋮俺、女に暴力とか絶対しないのに﹂ ﹁まぁお前の見た目がそう見えるんじゃないか?﹂
悔しい。 何か体面を気にしてる自分も自分だが、あの目は俺が奈津をボロボ
ロにしたと思い込んでいる目だ。 ﹁奈津、下着見えてるから﹂
201
﹁着替える﹂
﹁何でだよ、似合うじゃねーかワンピ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁奈津、はい﹂
俺はティッシュを何枚か取って渡すと、奈津は顔を拭いて ﹁鼻血出てるな﹂ と何事も無かったかのようにティッシュを弾丸のように丸めると鼻
に詰めた。 ⋮⋮⋮おい。
間違ってはないけどさ。
﹁必死に着替えてるのにお前が帰るとか言うからだ﹂
乗り出した奈津の鎖骨がグィッと出て、俺は目を背けた。 帰れと言ったのはお前だろうが!!
いや、何の為に俺はこの1週間頑張ったんだ。
落ち着け、俺。
﹁⋮⋮服を着ましょう﹂
﹁ちょっと待て、着替えてくる﹂
よく見ると、奈津の額がうっすら赤い。 ⋮⋮⋮衝動的に頭突きしたとか言うなよ。
202
さっきのガンガン言う音が蘇った。
俺は奈津の手を握って引き寄せ、肩紐を直す。 ﹁これでいいだろ﹂
﹁うん⋮⋮﹂ ん? 何か違和感があったので、黒いワンピースを見て俺は吹き出してし
まい、言ってしまった。 ﹁これ、サイドファスナーだぞ﹂
﹁⋮⋮⋮!?﹂
﹁いや、こっち側。左﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮!!﹂
はははは、そりゃ脱げねーって。 つーかよく着られたな。
俺は耳が真っ赤になっている奈津の後ろ姿を見て、さっきの一連の
事はどうでもよくなって来た。 いいよいいよもう、初対面の人間にビクッてされるのは国籍訊かれ
るのと同様に慣れてるから。
﹁あぁああぁあぁ!!﹂
203
いきなり奈津が頭を掻き毟って叫んだ。 ﹁どうした?何があった﹂
何かね、人は大きな衝撃を受けた後って全てが小さく感じられるら
しい。
俺は何故か冷静だ。
﹁やっぱり無理だ。無理だったんだ!!﹂
﹁だから、何がどうしたんだって﹂
﹁お前、ツチノコ飼いたいと思ったりした事ないか?﹂
﹁⋮⋮ねぇよ。お前、どうしたんだよ﹂
﹁普通の人間がチワワとか飼いたいところを、敢えてツチノコを飼
いたがる人間がいるんだ!﹂
﹁⋮⋮まぁ、いるだろうな﹂
﹁だからお前はそうなんじゃないかと聞いているんだ!﹂
ツチノコ⋮⋮どんなのだっけ。実在するんだっけ。
﹁あのさ、俺はツチノコってよく解らないんだが﹂
﹁ツチノコは例えだ!﹂
俺は物凄い難問を出されている気分になる。
204
﹃普通の人は可愛いチワワを飼いたがるけど、敢えてツチノコを飼
いたがる人間がいる﹄
そして俺はツチノコを飼いたがる側の人間だと疑われている、と。 難しいな、ツチノコが何のメタファーなのかが解らない。 知人にでもメールして聞きたい気分だ。 ﹁違うのか﹂
﹁お前の中でのツチノコの位置付けは何だ﹂
﹁たくさんいたら取り上げられない上に駆除されるであろうが、珍
しいから注目される生き物だ﹂
﹁⋮⋮解った。お前の事だな﹂
﹁そうだ﹂
﹁で、可愛いチワワってのが﹂
﹁高浜の周りにいるであろう女のメタファーだ﹂
﹁あー⋮はいはい﹂
つまり、周りにチワワみたいな愛くるしいのばっかりいるであろう
俺が、ツチノコみたいな自分が珍しいだけで執着してるんだと言う
ことを言いたいんだろうか。 ﹁個人的に思うのだが、ツチノコは爬虫類にしてあの体躯だからし
て俊敏な動きで獲物を取るのも難しい、だから個体数が少ないだけ
なのではないだろうか、と﹂
205
俺はツチノコに対して﹁何か聞いたことがある﹂としか何も浮かば
ない。 困ったので、適当に ﹁何か田舎の伝統料理みたいなのにあったよな、ツチノコみたいな
名前の奴﹂
と時間稼ぎする。 が、⋮⋮ツチノコって言われても⋮⋮。 ﹁それはハチノコだな﹂
奈津が何故か得意気に振り返る。 ちょっとツチノコとハチノコが気に入ったらしい。
﹁ハチノコっておいしいのかな、高浜、食べた事ある?﹂
﹁ねぇよ﹂
﹁売ってないもんな﹂
難しい。
話を逸らすポイントが掴めないし、俺の中で奈津のチワワとツチノ
コの問いに対する明確な答えが出ていない。
でも蒸し返してまた壁に頭突きのテンションに戻られても困る。 ﹁マカロニであんなのあったよな﹂
206
﹁ああ⋮⋮﹂
﹁で、お前はツチノコ派なのか﹂
﹁だから俺はツチノコって知らないんだ﹂
すると、奈津は電話の横のメモ用紙とペンを持ってきてスラスラと
書き始めた。 ツチノコの説明からか。
富士急ハイランドは必要以上に遠くなって行く。 ﹁これだ﹂
そこにはペッタリと潰された蛇の様な絵が描いてある。
﹁すまん、星の王子さまに出てきた奴くらいしか解らん﹂
﹁お前、サン・テグシュペリ好きなのか﹂
﹁いや、小学生の時に読んだだけ。中身はよく覚えてない﹂
﹁そうか。残念、あれはウワバミだ﹂
うわーマジでどーでもいー。 ﹁私はあの話が大嫌いだな。何でぽっと出の宇宙人の子供に説教さ
れなきゃならないんだって言うのが正直な感想だ。
で、話を戻すが、これが珍しくて実在するか否かも解らない奇怪な
生き物だとしたら、チワワよりツチノコを選ぶのか﹂
207
やっぱり蒸し返すの? ここで下手な答えを出したら、床が抜ける勢いで脱落なのかもしれ
ん。 チワワは可愛いし人気者。
ツチノコは見た目が可愛くないが珍しいから価値がある。 ⋮⋮⋮そうか。 そういう事か。 自信は全くないが俺のファイナルアンサーを聞け、奈津。 ﹁チワワもツチノコも俺の好みじゃない﹂
﹁二択問題だぞ﹂
﹁いや、だって飼うのは俺って前提だろ?俺はみんなが見て可愛い
からとか珍しいからと言う理由で動物の世話をしたくない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そして俺は動物を飼わない。飼おうと思った事もない。そして今
の家はペット不可だ﹂
﹁じゃどっちもダメなんだな⋮⋮﹂
何故か奈津のテンションが下がる。 解ったぜ、奈津。 チワワとツチノコは世間の可愛いと言われる女とお前のメタファー
なんだろ?
﹁ただ、チワワでもツチノコでも心底飼いたいと思ったら俺は今の
家を引っ越す。そしてその生き物と共存する上で最良の環境を考え
208
る、と思う﹂
﹁そうか﹂
奈津はちょっと何かを考えた。 ﹁じゃ着替えてくる﹂
﹁⋮⋮どうしても着替えるのか﹂
﹁やっぱり落ち着かない﹂
﹁じゃ着替えて来いよ﹂
﹁しばし待たれよ﹂
⋮⋮何だそれ。 ふざけて言ってるんだよな?
﹁でも奈津、すごい可愛いぞ﹂
﹁死んでしまえ馬鹿浜﹂
わーい。 いつもの奈津のテンションだー。 奈津はつかつか、奥の部屋に入る。 脱いじゃうのかー。 まぁいいや、俺も﹁高浜はスーツの方が似合うからスーツで遊園地
行こう﹂とか言われたら微妙だもんな。 209
つーか腹減った。 何か食わせてやるって言ってたが、キッチンに何かある気配はない。
﹁どぉしてお腹が減ーるのかなー﹂
歌ってみる。 喧嘩をすると減るのかな。 ﹁忘れてた、馬鹿浜⋮⋮﹂
奈津がグレーのパーカーにデニムで出て来た。 また目が赤い。 さっきの俺のアンサーはお気に召さなかったんでしょうか。 奈津はキョロキョロとすると、部屋の隅に落ちていたさっきのビニ
ール袋を拾った。 ﹁ほい﹂
﹁⋮⋮サンドイッチ、潰れてる﹂
﹁⋮⋮すまん、多分⋮踏んだ﹂
﹁奈津が踏んだなら食べる﹂
と、俺がアルミホイルの包みを剥がすと、何か封筒が中に入ってい
る。 何で食べ物と一緒にアルミホイルの中に入れるんだよ!
奈津を見ると耳まで赤い。 金券ショップの名前が書いてある封筒を開けると、
210
ラクーアと後楽園の1日券が2枚出て来た。 何だよ、このケーキに婚約指輪みたいな古風なやり方。
﹁行き先はそこで﹂
﹁えぇー⋮⋮俺、今日は﹂
富士急ハイランドに予定してたのですが、と言おうとしたら、奈津
が殺気に満ちた顔付きでチケットをひったくって来て、破ろうとす
る。
﹁おい!﹂
﹁いやいい!忘れろ馬鹿浜!!﹂
﹁いや、行こう。行こうぜ後楽園!!﹂
﹁⋮⋮⋮ホント?﹂
﹁ホントだ﹂
﹁だってお前さっき﹂
﹁俺は富士急ハイランドを予定していた﹂
﹁⋮⋮ホント?!﹂
﹁ホントだ﹂
211
﹁でも⋮⋮﹂
﹁お前が後楽園行きたいなら、せっかくチケットあるんだし行こう﹂
奈津がちょっと笑った。
﹁次、富士急ハイランド行くか﹂
﹁おう。その時は俺に任せろ﹂
次の目処が立ちましたね。
それだけで鼻血やツチノコ問答が霞みだす。 踏まれたサンドイッチも救われるな。 ﹁⋮⋮悪かったな、踏んで﹂
﹁いや、味は美味かったからいいよ。奈津が作ったんだし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮グジュ﹂
﹁お前ねー⋮⋮毎回泣く理由が聞きたい﹂
﹁知るか。アレルギーだ﹂
はいはい。
こんなタイミング良いアレルギーなんて聞いたことないです。
﹁何の﹂
すると、奈津の人差し指が俺の眉間に突き付けられた。
212
﹁決まってんだろ、お前と関わらなきゃ何もないんだから﹂
﹁ああそう﹂
奈津より俺の方が照れるよね。 大体のアレルギーって一生治らないって言うじゃん?
﹁これからずっとアレルギーで泣く、と﹂
﹁お前がいなくなれば治る﹂
﹁俺が死んだら悪化するかもよ?﹂
﹁死⋮⋮グジジッ﹂
今悪化してどうすんだよ!! ﹁上手かった、ご馳走様。はいはい行くぞ﹂
﹁馬鹿浜⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁何で死ぬとか言うんだよ!!!﹂
奈津がグシャグシャの顔で、俺を殴った。 痛ぇ!! 容赦無く鈍い音が響くレベルで殴り続ける。 213
﹁お前が死ね死ね言うから、例えだよ例え﹂
﹁ホンッと死ね!お前のせいで毎日⋮⋮!!!﹂
肩で息をしながら、奈津はわなわなしていた。 うぅ⋮⋮いつになったら行けるんですか、戸外へ。 ﹁安心しろよ、人間簡単に死なないから﹂
﹁⋮⋮じゃあ複雑に死ぬのか﹂
﹁詳しくは寝室行って語ってもいいぞ﹂
﹁断る﹂
﹁早く行こうぜ、外に行けばアレルギーも治るだろ﹂
とまぁ、漸く俺は奈津を外に出す事に成功した。 時計は既に10時半を回っている。 上手く行っていれば、ワンピ姿の奈津とサンドイッチ食いながら今
頃はドライブ出来ていた筈なんだが。
俺の要領の悪さが悔やまれる。 まぁいいや。 次の予定も出来たし。 何より奈津は高浜アレルギー。 楽観したらストーカー、そう思ってもツユダクな幸せ。 ﹁ちょっと待て、何故車で行く?﹂
﹁え?﹂
214
﹁丸の内線があるだろうが!日曜故に駐車場満杯かもしれないだろ
!!﹂
﹁えぇ?﹂
電車? 悪いとは言わないけどさぁ⋮⋮。
﹁いや⋮⋮﹂
と言い掛けて、俺は背筋が凍った。 奈津の背後のアパートの103号室の小さな風呂場の窓から顔が覗
いている。 さっきの携帯片手に見ていた男だと思う。 雰囲気が異常と言うか、明らかな俺に対する憎悪を感じた。
﹁高浜、どうした﹂
﹁奈津⋮⋮下の階の部屋の人ってどんな方?﹂
﹁下の階?佐川さんか、さっき下から心配そうに見てた人だ﹂
やっぱり。
余りよく見ていなかったが、30そこらの普通の男だった気がする。
﹁佐川さん、奈津と仲良いの﹂
奈津はちょっと首を傾げた。 215
﹁御近所さんだし挨拶くらいは﹂
﹁そうか、奈津⋮⋮気を付⋮﹂
﹁よく色々持ってきてくれるんだ、実家が農家で食べきれないとか
何とかで野菜とか﹂
﹁ちょっ⋮⋮それ食べちゃダメだぞ﹂
バタン、と佐川さんの風呂場の窓が閉まる。 きゃー。
﹁何で?佐川さんも野菜が片付くし私も助かる。最近、野菜って高
いからさ﹂
﹁ダメだ!﹂
﹁お前、人の厚意まで⋮⋮﹂
違う。 そういう話じゃないと思う。
﹁いや、お前⋮⋮普通、上の階の女の家に野菜持って行くか?絶対
何か理由付けてお前に近付こうとしてるだけじゃねぇか?﹂
﹁それはお前も一緒だろ﹂
そっか。 佐川さん、ごめんなさい⋮⋮じゃない。
何か違う。
216
俺は違うと信じたい。
﹁じゃ佐川さんもお前の事が好きで好きで堪らないって事になるな﹂
﹁考え過ぎだ﹂
﹁お前、佐川さんが遊園地行こうって言ったら﹂
﹁言わないだろ、そんな話しないし﹂
﹁仮に言って来たら?﹂
﹁はぁ?﹂
﹁とにかく、佐川さんが何か言って来たら俺に言えよ﹂
今すぐ佐川の家に行ってシメ上げたい気持ちで一杯です。
勘違いならきちんて大人のごめんなさいしますから。
﹁あ、でも﹂
﹁でも?﹂
﹁あの凄い車の派手な人って彼氏?日本人なの?って聞かれたから、
ストーカーだって言っといた﹂ うっがぁあぁああ! 俺はボンネットに頭突きしたくなる。 ストーカー呼ばわりされた事より、完全に危ない人が奈津と床一枚
越しにいる事実が許せなかった。
217
佐川に国籍ネタ言われると非常に腹ただしい。
﹁高浜、そんなに車で行きたいのか﹂
﹁もう電車でもいいよ⋮⋮﹂
俺には何してもいいから、奈津には何もしないでくれ。 俺をストーカーだと聞いているなら、あれは警察に連絡しようとし
てたんだろう。
大体、このアパートの風呂の窓の高さって普通の身長じゃ届かない
ぞ。
わざわざ風呂場から覗く理由が怖い。
﹁安心しろ、佐川さんと何にもないから﹂
﹁あってたまるか!﹂
﹁⋮⋮高浜?﹂
風呂場の窓から覗いてた事を言おうか迷った。 ﹁そうだ、俺、佐川さんに一言謝りに行く﹂
﹁何で?﹂
﹁ドタドタ迷惑掛けたし﹂
﹁誤解も解きたい、と﹂
218
﹁まぁ何でもいいよ。車で待ってろ﹂
俺は車の鍵を開けて、奈津を促した。 ﹁外車か﹂
うっかり運転席を開けた奈津はそそくさと助手席に回った。 いつもならキュンとするところだが、今の俺には余裕が無い。
奈津同伴で行った方がいいのかは解らないが、余り聞かれたくない
会話になるかもしれないし。
ピポーン。 玄関チャイムを押す。
反応がないので、もう一度。 すると、扉越しに気配がするので俺はドアの覗き穴を指で塞ぐ。 ﹁いるんでしょ、佐川さん﹂
すると観念した様に扉が開く。 隙間から半分だけ覗く顔は、俺と同い年くらいかちょっと下の普通
のお兄さんだ。 ﹁⋮⋮何か﹂
明らかに俺に悪意があるが、子羊の様なびびり方だ。
﹁いえ、さっきはお騒がせしてすみません﹂
219
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁いつも奈津がお世話になっているようで﹂
敢えて、奈津と愛称で言ってみる。 ﹁あぁ⋮⋮由亜ちゃんの﹂
由亜ちゃん!? 人の事だから言わせて貰いますが⋮⋮お前、奈津の何なんだよ?
﹁奈津の?何ですか?﹂
﹁え⋮⋮⋮﹂
流石に本人の俺にストーカーとは言えないよね。 ﹁由亜ちゃんはいい子なので⋮﹂
﹁はい、奈津が何ですか?﹂
﹁今日だって⋮⋮﹂
﹁今日、奈津が何か?﹂
﹁いや、よく解んないですけど⋮⋮﹂
﹁奈津には手を焼いてます。俺が可愛いって言ったら壁に頭突きし
て鼻血出す女ですから﹂
﹁はぁ⋮⋮⋮﹂
220
ほら疑ってる。 そして俺が殴ったと思い込んで怒ってるっぽい。 ﹁いつまで待たせんだよ、暑い!!﹂
奈津がドアを開けて叫んだ。
﹁すぐ戻るから待ってろハニー!!﹂
﹁ハニー?!何言っちゃってんだよ、死ね馬鹿浜!!﹂
﹁いいから!⋮⋮すみません、連れがああなもので。先程のお詫び
に伺ったまでなのですが、お騒がせしました﹂
よし、奈津。 いいタイミングで罵詈雑言吐いてくれた。 佐川版由亜ちゃん崩壊してくれ。
﹁は、はい⋮⋮﹂
終始ビビった様子だった佐川さんは、早々に扉を閉めた。
俺は陰湿なので ﹁奈津に下手に近付いたら俺は許さないですからね﹂
と扉の向こうの佐川さんに笑顔で言ってみた。 多分聞こえたと思うが。 ﹁お待たせ﹂
221
﹁遅い。佐川さん恐がってたじゃないか﹂
﹁恐がって下さらないと困りますし﹂
﹁やめろ、お前はただでさえ目立つ上に威圧感あるんだから﹂
﹁じゃあ由亜ちゃんとか呼ばせるなよ!!﹂
思わず怒鳴ってしまった。
嗚呼、空はこんなに青いのに⋮⋮ ﹁由亜ちゃんって何の事だ﹂
﹁佐川さんがお前の事そう言ったんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮奈津川さんじゃなくて?﹂
あれ? 奈津は腑に落ちないと言う感じで微妙な顔をしている。 ﹁普段は奈津川さん、なんだな?﹂
﹁⋮⋮⋮そうだ﹂
﹁間違いねーよ。佐川さんの中では奈津が思う以上に奈津と親密に
なっている﹂
﹁どういう事だ?﹂
222
﹁奈津、俺は佐川さんを刺激する様な事をしてしまったんだが﹂
﹁何したんだ?﹂
﹁お前も共犯だ。きっと自分の知らない奈津が俺といるのに悶々と
しているだろう﹂
﹁何だよ、佐川さんの知らない私って﹂
﹁⋮⋮お前、佐川さんには丁寧語で笑顔まで付けるじゃねぇか﹂
﹁日頃厚意で色々してくれる近所の人に普通に接しておかしいか﹂
奈津が余りに真面目に言うので、これはダメだと思った。 ダメって言うのは、厚意を好意と見抜いていないって意味で。 ﹁佐川さんの中では、お前は由亜ちゃんなんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮そんな言い方された覚えない﹂
﹁だから気を付けろって言ってんの﹂
﹁そういうモノか?だったら205号室の川井さんだってしょっち
ゅう、やってるバンドの新曲出来たら持って来るけどそれもお前の
中ではアウトなのか?﹂
信号が赤になり、俺は停止線を越えそうになった。
﹁あの金髪もか⋮⋮﹂
223
﹁何で知ってる?﹂
﹁今日見た﹂
﹁⋮⋮高浜、考え過ぎだって﹂
﹁お前が鈍過ぎるんじゃないか?おかしいだろ、一人暮らしの女の
家に周りの家の男があれこれ持って来るって﹂
﹁川井さんには彼女がいるが﹂
﹁関係ねぇよ、彼女いたっていなくたって﹂
何だかなぁ。 俺、何の為に先週あんなに浮かれて頑張ったんだろう。 風はこんなに暖かいのに。 ﹁高浜、どうした﹂
﹁⋮⋮お前、さっきツチノコとチワワの話を俺にしたな﹂
﹁あぁ。馬鹿浜にしてはいい答えが聞けたな﹂
良かった良かった。
ちょっと安心した、自信なかったんだよねー。 ﹁奈津さ、野菜を一杯持って来てくれる佐川さんと音楽が得意な川
井さんと⋮⋮﹂
﹁お前の3人だったら誰か、とかそういう話か﹂
224
﹁まぁそうだ﹂
﹁比喩も何もないな﹂
﹁直球ですので﹂
﹁⋮⋮⋮さぁ?﹂
﹁さぁ!?﹂
﹁何か自分が選ばれる前提で言ってる感じが高浜らしいな﹂
﹁俺を無理に選ばなくていいから、他の奴を選ぶ理由を言えよ﹂
奈津がちょっと黙る。 並列横並びとかなら、俺は運転席の窓から飛び降りたい。
﹁⋮⋮⋮川井さんと佐川さん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮と話してても平気だ﹂
﹁と言いますと﹂
﹁お前と話してるとたまに爆発したくなる﹂
爆発したくなる⋮⋮新しいな、その表現。 225
﹁それが違いだ﹂
﹁⋮⋮⋮そうか﹂
﹁でも、第一印象で言ったらブッチギリでお前が最下位だった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あ、だから⋮何だろう、第一印象がって話だ﹂
最下位⋮⋮。 最下位ですか。 そうですよね、作り笑顔ですら無かったですものね。
﹁高浜∼﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁馬∼鹿∼浜ッて﹂
﹁⋮⋮だから何だよ﹂
﹁お前も私の気持ち解ったか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮サッパリ解らん。何か悲しくなって来た﹂
﹁そんな、自分の飲まされた時みたいな顔すんなよ﹂
﹁追い討ちかけんな﹂
ワンピースもツチノコも佐川も川井も、俺の中でぐるぐる回ってい
226
る。 それは螺旋を描いて大きな渦となり、この世界を飲み込んで行く⋮
⋮とか何とか。
﹁高浜は可愛いな﹂
﹁真似すんな﹂
﹁自分が私にしている事に比べてみろ﹂
﹁俺が奈津に⋮⋮﹂
色々ありすぎて解らんよ。
何かハンドル握る手にも力が入らない。 ﹁パッと解らんか、相当だな﹂
﹁⋮⋮⋮何が﹂
﹁周りに高浜を好きな女がいて、お前は言い寄って来る女の気持ち
を逆手に取ってヤッちゃってる訳だろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
何だか居心地が悪くなった。 痴話喧嘩ってより、不倫が子供にバレた親の気持ちみたいな取り返
しの付かない感じの、だって向こうが⋮とか少しでも自分を正当化
したい惨めな気持ちだ。
﹁それを言っている﹂
227
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁何で疑問形なんだよ、馬鹿浜ァアァ﹂
﹁危ねぇえぇ!!﹂
奈津がいきなり俺の襟首を掴んだ。 ﹁佐川さんがどうの川井さんがどうのって⋮⋮お前が他の女として
る事と比べてみろよ!!﹂
⋮⋮確かに、そうだね。
でも俺は奈津がいて、奈津に他の女と関係するのは嫌だと思われた
いからするって言うか⋮⋮。 いや、気持ち良いは良いし、セックスは大好きですけど⋮⋮。
とか襟首掴まれながら弱々しく考える。 奈津が襟首の手を離さないので、取り敢えず路肩に止まってみた。
後続車の方、申し訳ない。
﹁あのさ、奈津﹂
﹁何だよ﹂
奈津がちょっと手を緩める。 ﹁俺はいつも言ってたと思うが﹂
﹁何をだ﹂
228
﹁あのー⋮⋮﹂
﹁早く言えよ﹂
いつもお前1人に絞りたいんだけどって、事ある度に申し上げて参
りましたが。
聞いてなかったんですか。
﹁奈津って俺の何なんだろうね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁泣くなよ﹂
﹁⋮⋮⋮うるさい﹂
奈津が手を引っ込めた。
﹁お前が嫌なら他の女とは寝ないって話はいつもしてんじゃん﹂
﹁私にそんな事言う権限ないだろ⋮⋮﹂
ある。 あるんだよ。 俺はそれを待っている。
いやーでも何か、言って欲しいけど言わないでーみたいな二律背反
した気持ちになりますね。 好き好き言ってこないからいいんだよ、奈津は。 ﹁すまん﹂
229
﹁何で奈津が謝るんだよ﹂
﹁お前と出会ってからこんなんばっかりだ。爆発しそう﹂
﹁するなよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁俺ね、今日はめちゃくちゃ楽しみにしていたんだが﹂
﹁わた⋮⋮﹂
﹁ん?何だ?﹂
﹁何でもない﹂
そうなの。 奈津もそこは同意してくれるのか。 よし、やる気出てきた。
今日は奈津をアパートに帰さない。 ⋮⋮防犯上の事情ですよ。 シートベルトを外していたのでゴロッと横を向いて、奈津の頭を撫
でてみた。 ﹁気安く触るな﹂
﹁さ、行くか。もう観覧車見えてるぞ﹂
﹁あれが高速回転するなら乗ってやるよ﹂
230
うぅ⋮⋮観覧車なら俺でも乗れるのに。
高速回転したら、遠心力で飛んでっちゃいません? ﹁観覧車嫌いか﹂
﹁⋮⋮⋮そういうお前の下心が嫌いだ﹂
﹁そうか﹂
春日通りを直進し、バブルの遺産と言われる宇宙船のような区役所
の後ろの観覧車を目指す。
色々あったけど、デートは漸く始まる感じ。 すんなり行かないって、素敵な事ですね。
駐車場に車を停めて、狭いエレベーターで地上へ。
﹁ビッッグオォオーー!!﹂
奈津が観覧車に向けて、両手を挙げて叫んだ。 ﹁サンッダァアドルフィーーーン!!﹂
最早酔っ払っているとしか思えない。 日曜なので多数の通行人が、奈津を怪しんだり哀れんだりした目で
見ている。
俺はすみません、って感じで奈津の手首を掴んで引きずる。 ﹁わははははは来ちゃったな、遊園地!!高浜!!早く乗るぞ!﹂
231
いやー奈津さん声でかい。 ﹁⋮あのー⋮奈津⋮﹂
﹁最初は何に乗ろうか高浜!!﹂
観覧車∼∼。 恐ろしい角度のジェットコースターや垂直落下する座席のアトラク
ションのを見て、俺は心底そう思った。 ﹁高浜!!﹂
﹁俺の名前を連呼するな﹂
﹁高浜高浜高浜高浜!高浜武志!!!﹂
何このテンション。 いつもはもうちょっと明るい奈津もいいなとは思っていたが、酔っ
払いにしか見えない。 でも奈津がキラキラしてる。 ディズニーランドやヴィーナスフォートで男が唯一救われる瞬間は、
多分こんな時だ。 ﹁チケット有難うな﹂
そう言って財布からチケットを出すと、 ﹁⋮⋮ペアの方が安いんだよ﹂
と奈津が一瞬で真っ赤になった。
232
﹁はい﹂
パスポートチケットを渡すと、奈津はまたキラキラの笑顔になった。
可愛い。 何か俺、生きてて良かった。
﹁さて。何に乗ろうか﹂
﹁こっちだ!!﹂
﹁え?﹂
観覧車の入り口じゃないの、それ。 そっかぁ、奈津も可愛いところあるなぁ。 そう思って階段を上ってついていくと、サンダードルフィン入り口
と言う看板が見えて来た。 ﹁あぁああ﹂
﹁早く!早くっ!﹂
奈津が俺の背中を押す。 俺は階段の格子越しにジェットコースタ
ーの全貌を見て、本日2度目の戦慄を覚えた。
﹁奈津、俺は身長140cm未満だから乗れないかもしれん﹂
﹁何言って⋮⋮⋮あ、まさかお前⋮⋮﹂
233
俺はションボリいた犬のようにうつむいた。
あのジェットコースターのコースに速度。 無理だワン。
﹁⋮⋮⋮嫌なら嫌だって前以て言えよ馬鹿浜!!﹂
奈津がまたしても俺の襟首を両手で掴んだ。
﹁いや乗るよ、もちろん。乗ります﹂
﹁それでいい!!﹂
はぁ⋮⋮列がどんどん前に詰まって行く。
ほらほら、この緊張を楽しいと思えよ俺。
奈津もピョンピョンして喜んでる。
大体富士急ハイランドに比べれば全然なんだろ。 ﹁高浜﹂
﹁何だよ﹂
﹁お前、可愛いな。いい顔するじゃないか﹂
﹁うるせーよ!﹂
﹁大丈夫、私がついてる﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
お前が隣にいたってサンダードルフィンは急降下はするだろうが。 234
つーかそんな事言われて喜ぶ男がいるかよ。 ﹁次は高浜が乗りたいのに乗るから、ね?﹂
奈津が可愛い。 ﹁ね?﹂なんて言ってもらえたら頑張るしかない。 いよいよ、乗る順番が回って来る。 ﹁高浜∼一番前ゲットしたぜよ!!﹂
竜馬奈津は猛ダッシュして一番前に乗り込んだ。 俺は足が重いぜよ。 ﹁あはははははは、私、ぜよとか言っちゃったわ、意図せずして土
佐弁とかあははははは﹂
奈津が肩を固定する奴を下ろしながら脚をバタバタした。 奈津ってこんな笑うんだな。
俺ってジェットコースター以下なのか。
﹁あはははははは高浜、早く座れようひひひひ﹂
大丈夫ですか? そして俺自身も大丈夫なんでしょうか。 ﹁サンダードルフィンはー﹂
係員が何やら盛り上げる為の振り付け有りの説明を始める。 俺はギュッと目をつぶった。
隣で奈津が係員の言い回しに合わせて何やら言っている。
それではいってらっしゃーーい、みたいなのが聞こえてゆっくり全
235
身が始まる。
ガタゴトガタゴトガタゴト⋮⋮⋮。 ちょっと待て。 車なら絶対上がれないぞ、こんな急勾配。 ガタゴトガタゴトガタゴト。 ﹁たっかはっまたーけしー﹂
﹁奈津川由亜∼⋮⋮﹂
﹁たぁっかはーまたっけしー﹂
﹁なつかわゆあ∼⋮⋮﹂
ガコン。 お互いの名前を天と地ほど差のあるテンションで呼び合うと、一番
高いてっぺんで止まった。 やだ、ちょっと故障? と不安になった瞬間、フワッとしてものすごい力学的な何かが自分
の身体に掛かって来て⋮⋮⋮⋮ ﹁あははははははははははははは!!﹂
奈津が手を叩いて爆笑している。 俺は全くを以て声すら出ない。
﹁高浜、大丈夫?﹂
何で普通に話せるんだよ、あなたは。 236
﹁今のお前の顔を待ち受けにしーたぁーいぃいー﹂
急カーブで奈津のテンションも最高潮。 あの、俺って今、生きてますよね。 東京が回る。 空が回り、地上が天を向いたり、飛行機が地上に見えたりして。 佐川さん。 川井さん。 と、顔を羅列するとちょっと俺は意識が戻る。 一瞬、何故か佐川さんと川井さんに姦されてる奈津が浮かぶ。
込み上げる吐き気と共に、俺の意識がハッキリこちら側に戻った。 隣では奈津が相変わらず大爆笑している。 ﹁たかーはーまー生きてるかー﹂
﹁生きてるよ、大丈夫っぐあぁああぁあぁ!!﹂
やっぱ無理。 急降下ホント無理。 ﹁ぎゃっはははははははははははは﹂
﹁あぁああぁああぁあ笑うなぁ﹂
﹁笑わせんな∼∼﹂
何でコイツは急降下中に普通に会話出来るの? 何か特殊な訓練でもしてんのか? 237
﹁安心しろよ、もう終わりだ﹂
奈津のテンションが一気にいつもに戻っていた。 勾配は平坦になり、スピードも落ちていく。 もういいじゃん、ぺったんこな道をゆっくり行けよ、最初から。 ﹁つまらん!物足りん!!﹂
奈津⋮⋮お前、セックスの時にもそれ言いそうだな。
車両が止まり、肩の拘束が外れても俺は立ち上がれなかった。 ﹁高浜、こっちこっち!﹂
奈津が俺の手を両手で掴み、後ろ向きの体勢で俺を引っ張る。 やめろ、フラフラのオッサンをあんまり無理させ⋮⋮ 顔を上げたその時、下り階段が奈津のすぐ後ろに見えた。 ﹁奈津、後ろ見ろ!!﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
案の定、奈津は見事に階段を踏み外し、俺も慌てて手を掴もうとす
るが、脚が言うことを聞かずに結果奈津にタックルをする羽目にな
る。 ﹁コラァアァアァア!!﹂
﹁奈津すまん!すまんすまん!!﹂
俺と奈津は派手にすっ転んで、階段を転がり落ちて行く。 238
先頭だったから人が少なかったから良かった物の、人が多かったら
大惨事になっていたかも。
﹁大丈夫ですか?!﹂
若者カップル達や家族連れに囲まれる。 ﹁大丈夫です﹂
奈津がニコッと作り笑いをし、 ﹁すみませんでした﹂
と俺が頭を下げた。 ﹁でも、彼氏さん、口から血が⋮⋮﹂
家族連れのお父さんらしき人が、俺を覗きこんだ。
また流血ですか。
あ、彼氏さんって俺ですか?
それはマジな話ですか?
﹁彼氏ではないので大丈夫です。行くぞ、高浜﹂
奈津が余計な事を言い、俺の背中を突き飛ばした。
もー⋮⋮みんな﹁は!?﹂って顔をしてんじゃん! 更にフラフラになると、奈津が写真の前でまた爆笑している。
何でこんな隠し撮りをわざわざ売るのか、俺には解らない。 とか言いつつも自分を探す俺。 239
﹁高浜つまらんな﹂
﹁何?﹂
奈津が指差す方向を見ると、満面の笑みの奈津の隣に証明写真でも
撮るのかと聞きたくなるくらい真顔の俺がいた。 あんな顔をして乗ってたのか、俺は。 まぁたまたま真顔だったなら良かった。
﹁まぁいいか。情けないお前を見られただけで私は満足﹂
﹁そう⋮⋮﹂
はぁ⋮⋮。 これってデートなんだろうか。 彼氏じゃないとか言われちゃうしさ。 いや、彼氏かと言われれば微妙なんですけど。 ﹁高浜、トイレ行って来る。お前も血拭いてこい﹂
あ、血が出てるんだっけ。 さっきから周りの人とやたら目が合うと思ったよ。 ﹁ほい﹂
奈津が小さいウェットティッシュをくれた。 ﹁ありがとう﹂
﹁高浜、ちょっと﹂
240
﹁何?﹂
奈津が斜め下を指差すので見るが、何もない。 その代わり、奈津の頭が近づいて来て口元に何かが這った。 それが奈津の舌だと解ると、俺は少し元気になった。
血とか舐められるの初めてだ。
﹁行ってこい。私も行く﹂
一瞬、奈津も男子トイレに入るのかと焦ったが、奈津は女子トイレ
に入って行った。 当たり前ですけどね。
入ると先にいた人達の目線が痛い。
鏡を見ると、わぁ。
顎の右半分が血だらけだ。 フキフキすると、傷口は唇の下にある小さな裂傷と解った。 顔ってちょっと怪我すると結構、血出るよね。 トイレから出ると、奈津が小さな髪の長い女の子と手を繋いで立っ
ていた。 女の子の顔は涙と鼻水でグシャグシャだ。
何だ何だ、仲間か奈津の。 ﹁高浜、リナちゃんが迷子だ﹂
﹁迷子か﹂
﹁おがーざん⋮⋮﹂
241
﹁トイレにはさっき母親と来たから探しに来たらしい。トイレに母
親はいなかったから﹂
﹁そっか、インフォメーション行くか﹂
俺は奈津のこういうところが好きだ。 奈津は周りが困ってたら、すぐに身体が動く。 ﹁お母さんの名前解る?﹂
俺が聞くと、 ﹁ながおみさき﹂
と言われる。 あら、小さいのにお利口さん。 インフォメーションセンターはトイレから近く、途中にお化け屋敷
があって俺はニヤリとする。 ﹁リナちゃんか、ここのお姉さんに、お母さんの名前を言って﹂
と告げ、案内のお姉さんに事の詳細を告げる。 ﹁あぁ、すみません。ありがとうございます。さ、リナちゃん、お
姉さんにお母さんの名前教えて﹂
﹁ながおみさき﹂
﹁解った。ながおみさきさんがお母さんの名前ね﹂
242
﹁うん﹂
リナちゃんはもう泣いていない。 良かった良かった。
﹁じゃ、お願いします﹂
そう言って、俺はバイバーイと言うリナちゃんに手を振り、タバコ
吸いたくなったので奈津に許可を取ろうと振り返った。 ﹁ちょ、お前⋮⋮﹂
﹁だがはま⋮﹂
奈津はさっきのリナちゃん以上にグシャグシャになっている。 ﹁何だ、どうした﹂
﹁お前は子供が好きなのか﹂
﹁え?迷子だったんだろ、あの子⋮⋮﹂
﹁子供が好きなのか﹂
﹁まぁ、嫌いとは思わないけど。何だよ、どうしたって﹂
﹁嘘だ、絶対お前は子供が好きなんだ!!﹂
さっきは酔っ払いテンションで階段から転落。
今は迷子を送り届けたら今度は奈津が泣いて。 243
遊園地ってこんなに忙しいんだっけ。 ﹁うわぁあぁあぁ﹂
﹁奈津ーーー!?﹂
奈津が思い切り号泣し、流石に周りもこちらを見た。
リナちゃんもカウンター越しにビックリしている。
俺もタバコの箱を持ったまま、硬直した。
﹁あのさ、奈津﹂
俺は話を逸らす時の一種の手品をやろう!と閃いた。 まぁ、ペン回しみたいなもんなんですが。
﹁お前、何があったのかは知らないけど﹂
タバコの箱を手の平から手の甲に、旧肉球部分を使って移動させる。
生きてるみたいでしょー?
奈津の目がタバコの箱を追っている。 ﹁俺が子供好きとか嫌い以前に、迷子を助けるって当たり前だろ。
最初に助けたのはお前だし﹂
くるくるくる。 良かった、成功した。 ﹁そうだけど⋮⋮﹂
244
奈津が落ち着いた気がする。 俺は指の間を潜らせたり、手の平に戻したりして、最後は投げてク
ルッと縦向きに持った。 ﹁吸っていい?﹂
上が灰皿になっているゴミ箱を指して言うと、 ﹁構わないが﹂
と奈津が言った。 下を指でトン、とやってピョコンと出てきた一本を掴むと、奈津が
言った。
﹁私の家に来た時は吸わないんだな﹂
﹁タバコ吸わない奴の家で吸えるかよ、自分の家でも換気扇の下で
吸うのに﹂
﹁灰皿は準備したから吸うかと思ってた﹂
俺を殴ったあのガラスの? 準備してくれてたのか、まぁそうだよな、喫煙しないのに灰皿がテ
ーブルにあるとかおかしいもんね。 ﹁美味いか﹂
﹁⋮⋮考えた事がない﹂
﹁何故吸うんだ?何もメリット無いだろ﹂
245
そうなんだよね。 タバコの不思議だよね。
﹁まぁ⋮⋮嗜好品なんてそんなもんだろうよ﹂
﹁そうか。普通、人間の身体は有害物質を拒絶したり排出する様に
出来ているだろう﹂
﹁そうだね﹂
またややこしい話? 嫌いじゃないから付き合うけど。 ﹁ニコチンか、何故有害物質を好んで摂取するんだ?﹂
﹁さあ。麻薬みたいなもんじゃないの﹂
﹁⋮⋮健康に悪い﹂
﹁そうだな﹂
いきなり大音量で音楽が流れだし、音に合わせて噴水が吹き出した。
きれ∼い。 奈津が言わなそうだから俺が思う。 ﹁高浜⋮⋮⋮﹂
﹁何だよ﹂
246
﹁綺麗だな﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
はぁ⋮⋮⋮。 何か来て1時間でこの密度。 今日の夜まで、俺は身体持つかね。 何だろう、久々に充実してる。 ﹁わはははははははは﹂
﹁ちょっともー⋮⋮⋮﹂
俺達は地上を遥か離れて行く。 落下傘と言う、ゴンドラに傘が付いてるだけの簡素な乗り物だ。 ﹁これ、落下傘って言うだけあって落下するんですよね?﹂
﹁そうだ!案外怖いんだ!!﹂
﹁怖くないって言ってたじゃねぇか!!﹂
﹁あははははは、落ち始めたらしっかりここを掴んで飛び降りてみ
たいぞ!!﹂
﹁やるな!絶対止めろ!!﹂
﹁パズーとシータだ!﹂
247
﹁こんな歳食ったパズーとシータは勘弁⋮⋮﹂
と言い掛けたとき、おもむろに上昇が止まり⋮⋮ ﹁うぁあぁあぁあああーーー!!﹂
﹁わはははははははははははははは!!﹂
絶対無理、もう奈津は頭がおかしい!! 俺はまた地上に着いてもフラフラで、奈津に引きずり出される。 ﹁大丈夫か﹂
﹁労う割には⋮⋮お前、次は﹂
﹁次は座れるのにしよう﹂
俺はタワーのようにそびえ立つ、座席ごと落とされるアトラクショ
ンを見据えた。 ﹁⋮⋮あれの事ですか﹂
﹁いや、地下にもジェットコースターがあってだな﹂
﹁あのさ、せっかく来たから全制覇しないか﹂
﹁⋮⋮全制覇?﹂
﹁絶叫は絶叫でも、俺は違う絶叫をだな﹂
248
﹁⋮⋮⋮違う絶叫⋮⋮﹂
奈津の顔から笑顔が消えた。 ﹁奈津はホラー系に強いだろ﹂
﹁ゲームの話ならな﹂
﹁いや、まさか奈津⋮⋮お化け屋敷怖いとか言わないよな﹂
さぁどうくる? 涙目で嫌って言うならサンダードルフィンと落下傘は許す。
﹁何でそんな一方的に脅かされるのに行かなきゃならないんだよ﹂
﹁一緒だろうが、ジェットコースターだって一方的じゃん!!自分
の足で歩こうぜ﹂
﹁⋮⋮お前は平気なのか、お化け屋敷は﹂
﹁平気ですとも﹂
多分。 血とか臓物が飛び散らなければ。 ﹁そうか、いいよ。高浜も好きなの乗らないと不公平だしな﹂
そう言った奈津は、少し俺にくっついて来た。 ゾンビパラダイス⋮⋮怖くないだろ、これ。 249
さっきのサンダードルフィンの近くのところにあるのが一番怖そう。
奈津は一気に無言になった。 俺もそんな奈津が面白いので無言になってみる。
﹁高浜﹂
﹁なんだ﹂
やっぱやめよ?お前の家でゆっくりしたいとか懇願してくれたらや
めてもいいよ。 ﹁お前は何を考えているんだ﹂
﹁⋮⋮それはどの部分に対してだ﹂
﹁至るところ全てだ﹂
﹁具体的にお願いします﹂
﹁⋮⋮私にもよく解らないから聞いているんだ﹂
﹁質問者がそれだと回答者は凄い困るんだが﹂
﹁⋮⋮⋮そうだな﹂
奈津⋮⋮⋮。 あれか、テンション上がりっぱから急に下がると、人って必要以上
に冷静になるみたいな。 250
俺はカリビアン・コム現象と勝手に呼んでいるが。 俺は奈津の左手を握った。
奈津がビクッとする。 チンコ握れる癖に手と手は嫌とか、俺には理解出来ん。 でも別に振り解かれる訳ではないので、遠慮無く。
﹁お前に何があったのかとかは俺は知らないけど、別に今の奈津で
いいと思うぞ﹂
﹁嘘だ﹂
﹁嘘ついてどうするよ﹂
﹁私は余り⋮⋮普通の将来を考えられる相手では無いと﹂
﹁何だよ、普通の将来って。死ぬ以外は人それぞれで違うだろ﹂
﹁恋愛して結婚して子供を育てる、それが普通の将来だと私は思う﹂
すみません。 そんな将来、考えた事ないです。 ﹁私には絶対来ないと思ってる﹂
﹁いいんじゃない、俺も考えた事がない﹂
﹁⋮⋮生物学的な話で、だ﹂
﹁生物学?﹂
251
生物学的に、恋愛して結婚して子供を育てる将来が絶対来ない? んな訳あるかよ。 恋愛と結婚は相手次第、子供が出来なければ永山先生に相談だろ。
俺が短絡的であると言われればそれまでですけれど。
﹁奈津さ﹂
﹁何だよ馬鹿浜﹂
﹁何か⋮⋮お前が俺に気にしてる事って、俺は全然気にならない気
がするんだけど﹂
﹁それが原因で将来離れられるくらいなら、私はずっと1人でいい
と思っている﹂
﹁人の将来なんて解るかよ。始めからダメだと決めるのはずるいと
思うよ﹂
﹁何でだ?﹂
﹁上手く行かなかった時の言い訳になるからな。やらない事の言い
訳にもなるし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁全くやりもしない奴の無理とか駄目とか信用出来るかと、俺は思
うのですよ﹂
奈津がちょっと蔑んだような目をした。
252
﹁前向きになれとかそういう話か﹂
﹁前向きって言葉も、厭味でなければキチンと向き合わない奴の僻
みだと思うから、俺は悪い意味でしか使わない﹂
﹁そうか﹂
奈津はちょっと考えていた。 そして俺はちょっと言い過ぎたかなと考えていた。
そして、並んでスタスタと無言で進む。
奈津は泣きもせず、ずっと無表情だった。
でも手だけは繋いでたんだよね、何か不思議。
﹁⋮⋮⋮⋮ここなんですけど﹂
﹁ここは⋮⋮⋮﹂
真っ黒な壁に真っ暗な入り口。 奈津が案の定、引いている。 落下傘からここまでは、後楽園・ラクーアの施設を縦断する距離。 ほぼ端と端だ。 よくもまぁ、ずっと無言で来れたよな。
繋いだ手にギュッと力が籠められると言えば可愛らしいが、ギュッ
てレベルじゃない。 ﹁じゃあ、入りますか﹂
﹁⋮⋮うん﹂
253
怖いなら入りたくないってお願いしてごらんなさい。 俺はニコニコしていた。
﹁じゃ、大人2枚﹂
なにーーー!? 何か⋮⋮俺、今日のチケット代全部奢られてない? ﹁2枚ですね、千円になります﹂
﹁奈津、いいって﹂
しかし奈津は硬派な使い込んだ黒い革財布から千円札をサッと出し
チケットを受け取る。 そして振り返った奈津の目は瞳孔が全開だった。 ﹁行くよ、高浜!!﹂
行く⋮よ? 何か口調まで違うのが気になるが、奈津はスタスタと入って行く。
おい、話が違うぞ。 遊園地でも一方的にやられっぱなしか。
まぁいいや⋮⋮と思った瞬間、奈津が走りだす。
﹁おい?!﹂
身を寄せ合っているカップルや親子連れ、中学生くらいの女子グル
ープを掻き分ける様に、奈津は物凄いスピードで走っていく。 ﹁すみません⋮﹂
254
俺も謝りながら頭を下げながら後を追うが、全く追い付かない。 何か視界の端々に棺桶やら何やらが見えるが、堪能する気にもなれ
ん!
俺の昨日の幸せな妄想は、加速する現実に打ち砕かれてどうのこう
の。 ﹁ぎゃあぁああぁあぁどこだ馬鹿浜!!!﹂
バダーン!と言う凄まじい音がして、奈津の絶叫が先から聞こえて
来た。 あいつ、また頭突きしたのか?! 可哀想に、目の前のお父さんらしき人と小学生くらいの娘さんが奈
津の絶叫に驚いて立ち尽くしている。 ﹁あぁああぁあぁ無理!!無理だ、高浜ぁぁあぁ!!どこだぁあぁ
!﹂
このアトラクションで何が怖いって、絶対お前だよ。 声が遠ざからないところを見ると、奈津はどこかで止まっているの
だろう。 やれやれ。
俺は走るのを程々にして、早足で通り過ぎた。
途中、血だらけの何かが見えて目を背ける。 うぇえ、こういうのは無理。 暗い中を進むと、いきなり奈津が四つんばいで這う様に角から現れ
た。 ﹁奈津、もうだいじょう⋮⋮﹂
255
﹁何してたんだよ!遅い!遅い遅い遅い!!﹂
優しく差し伸べた手はスルーされ、代わりに奈津が足元から侵食し
て来るように伸びてくる。 やだ怖い。 奈津が一番怖い。 ﹁走れ!いいから走るんだ!!﹂
﹁危ないから走るな、俺に掴まっとけよ﹂
﹁壁にぶつかるなよ!!﹂
そりゃお前だろ。 やはりさっきのはお前がぶつかった音か。 しっかりと俺の腕にしがみつく奈津を見て、やっと俺の思う遊園地
デートになって来た気がする。 隣を見ると、奈津は歯を食い縛って目を閉じている。 こんなんで走ったらそりゃ壁にぶつかるだろ。 ﹁もう嫌だ!!何だよこれ!!!﹂
﹁とか言って何も見えてないだろ。解説してやろうか⋮⋮いてぇ!
!﹂
か、噛まれた!! ﹁離せ、肉が千切れる!!!﹂
256
﹁んっぐぁあうぅう!!!﹂
﹁痛いから!奈津!!﹂
﹁んんんんぁああ!!﹂
無理だ。 もう俺は後悔しか無かった。 全然、仕返しになってない。 俺は溜息が出た。 ホラーアトラクションで溜息をついたとか初めて。 ﹁もういいから、ほら来い﹂
奈津の毒牙から左腕が解放されたので、俺は奈津の肩に手を回し、
しゃがんで膝の裏辺りを支えて持ち上げた。
身長があるから結構な重さだが、別に困るほどではない。 うん、お化け屋敷でお姫様抱っことか頭おかしいよね。 でも俺と周りの他のお客さんの安全の為にも、仕方ない。 うわー早く出たい。 漸く出口の明かりが見えて来る。 ﹁奈津、もう出口だ⋮⋮奈津?﹂
奈津が動かない。 ちょっと待て、大丈夫か? 外に出ると、やたら人だかりがあって俺と一斉に目が合った。 ﹁⋮⋮?﹂
﹁ヤバいね、入るの止めとく?﹂
﹁あの人、四つんばいになってた女の人じゃないの?﹂
257
﹁てか気絶する程なん?﹂
みたいな声が飛びかうので見ると、白黒の画像で中の様子が画面に
映っている。 あぁ⋮⋮俺達の痴態は群衆に晒されていたのか⋮⋮。
﹁奈津?﹂
いつまでも抱っこしている訳に行かないのだが⋮⋮ ﹁あの、ここどうぞ﹂
初老の夫婦がベンチを開けてくれた。 ﹁ありがとうございます﹂
﹁具合悪いの?﹂
﹁彼女さん大丈夫?﹂
俺は﹃彼女じゃないから大丈夫です﹄と思いつつ、頭を下げながら
奈津をベンチに横にした。 ﹁ちょっと⋮⋮﹂
夫婦は俺の左腕を見て絶句している。 赤黒い歯形に無数の爪痕、掴まれていたところも手形がうっすら残
っている。 ﹁お兄さん、アテが外れたね﹂
258
譲ってくれた老夫婦の旦那さんは俺をポンと叩き、奥さんに制され
た。
﹁そうですね。助かりました、ありがとうございました﹂
はぁあぁあ。 老夫婦の後ろ姿を見送り、俺はベンチの隅に座って深い溜息をつい
た。 腕時計を見ると、14時半ちょっと。 これから一体⋮⋮と思うと、奈津が目を開けていた。 ﹁⋮⋮⋮大丈夫か﹂
﹁高浜も大丈夫か、かなり恐かったな﹂
お前がな。 言い返すのも躊躇われるくらいにな。
﹁少し休もうよ、疲れて身体に力が入らない﹂
奈津はズルズルと仰向けで俺の太ももに頭を載せた。
逆だ、逆だよ。 何で⋮⋮もういいや。 頭上では件のサンダードルフィンが疾走している。
下から見るとそこまででも⋮⋮なくない。 ザブーンと目の前の池?に別のアトラクションが着水する。 いや∼⋮⋮富士急ハイランドじゃなくて良かったかも。 ﹁高浜って映画好き?﹂
259
﹁内容による﹂
﹁チャーリーと﹂
﹁チョコレート工場か、観たよ。借りてだけど﹂
あ。
だからサンドイッチにチケットが入ってたのか。 芸が細かいな。 ﹁金のチケットか、そういう事か﹂
﹁突っ込みが無くてちょっとガッカリしたがな﹂
﹁⋮⋮⋮奈津﹂
﹁何だよ﹂
﹁⋮⋮⋮俺の事、好き?﹂
﹁またか。またそれか﹂
﹁いいから答えろよ﹂
﹁はは、死ね馬鹿浜。よし!﹂
﹁ぐぁあっ﹂
奈津は勢いよく立ち上がったが、うなだれていた俺の顎に思い切り
260
頭突きをした。 お互い罵詈雑言を浴びせた後、奈津の提案でアトラクションより行
列の出来ているサーティワンに行く事に。 ﹁ナッツトゥユー!﹂
﹁俺は抹茶で﹂
﹁後は?﹂
﹁いや、それでいいよ。ダブルで行けるだろ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
と、また奈津は手に財布を持っている。 えぇー⋮⋮ちょっとこれ以上出されても心苦しいんですけど。 ﹁いいから奈津、財布しまえ﹂
﹁いや、高浜。こういう時は私が払う﹂
﹁何だそれ。いいよ、身体で払ってくれれば﹂
案の定、凄まじい平手打ちが後頭部に来る。 また周りドン引き。 もう何度目なんだろう、段々慣れて来た自分がいる。
レジのお姉さんの視線が左腕に注がれている気がしたが、とりあえ
ず会計を済ませてアイスを受け取る。
﹁な、何故カップにした﹂
261
﹁駄目か﹂
﹁アイスはコーンじゃないとアイスに見えないだろ﹂
﹁食べにくいだろ﹂
﹁⋮⋮そうか、そうだな﹂
﹁そこ空いたな﹂
とりあえずテーブル席を確保出来たので座る。 アイス好きなのか。 甘い物食べてるの初めて見た気がする。 ﹁高浜、すまんな﹂
﹁気にすんな、チケット代何気に奈津が出してもらったから、アイ
スくらいで﹂
﹁そうじゃない、左腕が﹂
﹁あぁ、これか﹂
俺は凄惨な左腕を見た。
歯形もまだまだくっきり、爪痕もびっしり付いている。
﹁気にするな﹂
﹁⋮⋮これは私の芸術作品って事でいいか﹂
262
私の? あぁ、こないだの俺が付けたのの仕返し? 一瞬で美味しい抹茶アイスは生臭い思い出の味に消された。 何か食ってる時はやめろ。
﹁あの日も色々あったな﹂
﹁馬鹿浜といると1日が盛り沢山だな﹂
⋮⋮⋮明らかに原因は俺じゃないと思うがな。 俺はこれからの後半戦を思いやった。
疲れるだろうが、もうどうにでも。 俺もジェットコースター系を克服出来るいいチャンスかもしれない。
結局その後は奈津のターンに戻り、俺はグッタリしては引きずり降
ろされの繰り返しとなった。
ディズニーみたいなキャラクターや雰囲気で水増し出来ない分、体
力と気力勝負だった。 サンダードルフィンも合計3回乗りました。 ⋮⋮⋮まだまだ克服出来そうにありません。
﹁高浜はまだお腹空かないか?﹂
﹁言われれば、まぁ⋮⋮何が食べたい?﹂
﹁飯だ、ご飯だ﹂
﹁じゃ奈津はライス大盛な﹂
﹁ははははは、そう来るとは思わなんだ﹂
263
思わなんだ、って。 今日の奈津さん、たまに言葉遣いが変。 ジェットコースターに乗っている時の爆笑はさておき、今日の奈津
はよく笑う。 結局食事はどこでするか、でも何処も満員だし、奈津の希望は﹁美
味いもの﹂であった為、一旦ここを出よう、またご飯食べてまた乗
りに帰って来ればいいじゃないみたいな話になった。 駐車場に行き、車に乗ると一気に疲れが来た。 ﹁奈津、疲れた?﹂
﹁ん⋮⋮⋮﹂
もう眠いのか。 そうかそうか。 ﹁奈津、寝てていいよ﹂
﹁そんな下心全開の笑顔で言われて寝られるか。お前が私に言った
事を考えてただけ﹂
別に下心とか無く、微笑ましいと思っただけなんだけどね。
つーか俺、何か言ったっけ。 ﹁馬鹿浜は頭がいいんだな﹂
﹁全然褒められてる気がしない﹂
264
﹁でもやっぱり解らん﹂
﹁何が?﹂
うぅ⋮⋮また奈津の大好きなアレが始まるのか。 流石に日に何回もあると、馬鹿浜もゲンナリですよ。 って言うのも、奈津が俺の事を好きか嫌いか答えを出せば全て解決
する話なんだもん。 でも﹁どっちなんだよ!﹂ってのが、奈津のいいところ。 全く媚びないけど肉じゃが作ってくれる辺りは見事にストライク。 31歳にもなって、こんなにも1人の女に振り回されるとは思いま
せんでした。
﹁なぁ高浜、今日いたカップルはどうやってカップルになったんだ﹂
﹁さぁ?色々だろ﹂
あら、奈津さんも見てたの? 確かに最初は﹁ああいう感じに遊園地なんていいなー﹂って思っち
ゃったね。
でも、俺はもういい。
奈津があんなに大人しかったらつまらないし。
﹁今日、俺といて楽しかった?﹂
﹁⋮⋮⋮今日は今まで生きてて一番楽しかった﹂
﹁え?!﹂
265
ホントか? どの辺り!? ﹁特に、落下傘やサンダードルフィン乗っている時のお前が可愛く
て仕方なかった。ふふふふふふふ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
そこか。 お化け屋敷でお姫様抱っこまでしたのに、そこなのか。 思い出し笑いが止まらない程か。
﹁私はどうしたらいいのかが解らないんだよ﹂
﹁この後どうしたら、って?﹂
﹁お前に会うだろ?それで私は毎回毎回グッチャグチャにされるん
だ、精神的に﹂
グッチャグチャ⋮⋮。 グッチャグチャにしたいです、精神的にでは無くて肉体的に。
﹁お前が乱入して来たはずなのに、お前が帰った後の部屋って何か
なくなってるような違和感がある﹂
乱入⋮⋮。
何かなくなってる⋮⋮。
響きはとんでもないが、言ってる内容は好意的に捉えれば嬉しいか
もしれない。 266
﹁で、今は?その違和感はあるのか?﹂
﹁ない。むしろ何か色々⋮⋮ありすぎる感じだ﹂
﹁そうか。奈津、まだお前は乗り物乗りたいか﹂
頼む、そろそろ飽きて下さい。 ﹁乗りたい﹂
えぇ?! 乗りたいの? ﹁でも、もういい﹂
﹁そうか﹂
﹁また来れるかな﹂
﹁来れるだろ﹂
うん、富士急ハイランドは止めにします。 これより大規模とか、もう疲れる以上に冗談抜きで点滴が必要なレ
ベルになりそうだし。 ﹁でも帰ったらまた、何かない違和感がある﹂
﹁奈津さ、俺が言うべき言葉じゃないけど、それって喪失感って言
わない?﹂
267
﹁喪失感⋮⋮﹂
奈津はまたも真っ赤になりながら、繰り返した。 余り核心を突く答えは急ぎたくないが、やだやだ聞きたい言わせた
いな自分もいる。 ﹁何で笑うんだ﹂
﹁いや、お前の事笑ったんじゃないから﹂
﹁だから何で今、笑った?﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
はあぁあぁ⋮⋮。 まだるっこしい!! 何か電話の前で吉報を待つ補欠合格者の気分だぜ、もう。
﹁今日のカップルの皆さんもな、理由は色々だが⋮⋮最低どちらか
が、奈津が感じる違和感とか喪失感を持ってるから付き合ってるん
だと思うよ﹂
﹁そうなのか﹂
﹁多分﹂
﹁高浜も喪失感あるのか﹂
⋮⋮ちょっと考える。 268
いや、喪失感はないな。 ﹁ない﹂
奈津が俯いた。 安心しろよ、まだ続きがあるから。 ﹁俺は喪失感や違和感を感じない様にすればいい方法を考える﹂
﹁どうしたら感じないんだ?﹂
﹁俺の場合は、まず仕事に打ち込む。それでもまだ消えなかったら
奈津に電話する﹂
俺は先週の自分を思い出した。 家に帰ったら煮物出来てたらいいのにとか、永山を言い訳に奈津の
店に行こうとした自分は完全オンザシェルフ。
まぁ⋮⋮どうしたらいいのか解らない感情を全て拒絶するのも手段
としてはアリかもしれないよね。
でも、そのやり方で自分が苦しくなるなら、それは解決になってな
い訳で⋮⋮。
﹁お前が私に言う事って、どうせ他の女にも同じ事言ってるだろ?﹂
﹁じゃあお前は他の男にも死ねだのツチノコだの言ってんのかよ﹂
﹁言うかよ﹂
﹁でしょ?﹂
269
また沈黙。 何で俺、冷静なんだろう。
他の男と言って、奈津のご近所の不安因子共の顔がちょっと過った
けど。 ﹁俺思うんだけどさぁ、どうしていいのか解らないって言う時って、
大体もう答えは出てるだろ﹂
﹁そう、かな﹂
﹁それを面倒だったりビビったりするから、どうしていいのか解ら
ないって結論づけてない?﹂
﹁お前にはどうしたらいいのか解らないって時ないのか﹂
﹁さあ?どうにも出来ない事はあるんじゃない?目を覚ましたら簀
巻きにされて海の中にいたとか﹂
﹁よく生きてたな﹂
﹁いや、例えだから﹂﹁そうか、ビックリした﹂
例え簀巻きで海底にいても、何とか助かろうと思うだろ。
﹁まいっか﹂とか﹁こりゃ無理だから﹂なんて思わねーだろ。 ってのは極端だが、俺は別に現状に不満はない。 ただ、奈津が苦しいなら何とかしてあげたい。 とか言いつつもやらしいよね、確実に俺がいないと寂しいでしょ?
って結論に至らせようと誘導してる気もするー。
望む答えを聞いても醒めたりしないだろうし。 でも答えを聞いても聞かなくてもいい気もする。
270
恐いから聞きたくないんじゃなくて、聞かなくても何か、こう⋮⋮。
やっぱりこれがストーカー心理か?
﹁高浜﹂
奈津が意を決したように、こちらを向いた。 ﹁女の身体に詳しそうなお前なら薄々感付いたかもしれないが﹂
何?何が?? 何も感付いた記憶がない。
﹁今日私がワンピースを着てたのには理由がある﹂
﹁是非聞かせろ﹂
﹁うん、別にお前にかわ⋮⋮いや、その、女々しい気持ちからは着
てない﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
ちょっと期待した俺が馬鹿だったのか。 ﹁お前に言わなければならないかな、と言う話がある﹂
⋮⋮思い出した、リナちゃんの時だ。 何かいつも以上に凄い威圧感があった気がする。 奈津はいきなりベルトを外すと、腰を上げて少しデニムを下げた。
﹁おい﹂
271
行く前に見えた黒のブラとお揃いのシンプルな下着が見える。
もうちょい下も!つーか脱いじゃえ!!と応援したが、ヘソの下に
走る10cmくらいの傷痕をみて、何となく察しが着いた。 ﹁これはな、子宮摘出した跡だ﹂
﹁⋮⋮子宮、摘出﹂
携帯で打つ様に漢字変換してみた。 ﹁そうだ。18歳の時だな、子宮筋腫と言う奴になって﹂
﹁子宮筋腫⋮⋮﹂
多分、永山に聞けば解るのだろうが、俺には全く想像が付かない。 子宮を摘出せねばならない程の何か⋮⋮だろう。 子宮口までなら馴染み深いが、その先は俺の知らない領域だし。 ﹁⋮⋮まぁ早い話が生理も無ければ子供も産めないんだよ﹂
﹁まぁそうだろうな﹂
﹁だから⋮⋮⋮﹂
だから? 奈津がまた涙目になる。
﹁お前が今日言ってた普通の将来の話か﹂
272
﹁⋮⋮⋮そうだ﹂
﹁申し訳ないんだが﹂
俺がそう言い掛けると、奈津はギュッと目を閉じた。 ﹁やっぱり俺には何が問題なのか解らない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮大問題だろ﹂
﹁そうかな、奈津が子供が産めないからって何か俺に問題があるの
か?﹂
﹁いや、それは⋮⋮﹂
﹁まぁ子供第一って奴なら別だろうが、俺は今のところそんなの無
いし⋮⋮﹂
﹁でも将来的には﹂
﹁だから将来将来うるせーんだよ馬鹿奈津﹂
思わずイラッとして強く言っちゃった。 だっておかしいじゃん、未来を心配してばっかで現在を無駄にする
とか。 ﹁でもおばえごどもずぎだお?﹂
でもおまえこどもすきだろ?
まだ気にしてるのか。
273
﹁嫌いじゃない。でも欲しいと思った事もないし﹂
涙て鼻水でグシャグシャで変な発音になっている奈津に何を言えば
いいんだろう。 難しいな。
﹁⋮⋮だからお前が問題だと思ってても、俺には⋮余り問題じゃな
いって言わなかった?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
奈津ってよく泣くな。
俺のアレルギーとか言ってたけど、根本にあるものが何か判って来
た気がする。
﹁じゃあお前、俺が子供出来ない身体だったら⋮⋮どうする?﹂
﹁⋮⋮わがらなび﹂
﹁そうか﹂
そんなに子供が欲しいのか。 相手が好きか嫌いの問題じゃないのか。 俺は奈津のミミズのように盛り上がった白い筋を見ながら考えた。 ﹁⋮⋮じゃあ、逆だったら俺はお前に相手にすらされなかったって
事か﹂
﹁わがらなひ﹂
274
﹁そうか⋮⋮俺はお前が奈津である以上は関係ないとだけ解って欲
しい。俺の顔が日本人離れしているのとかと一緒で、そこは本人に
は生物学的に変えられない部分をとやかく言っても何も始まらない
と思うし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁俺ね、お前が俺の事をボロクソに言っても精液舐めたり血を舐め
たりしてくれるのが嬉しかったけど、そういう次元で楽しいとか満
足って思えないか?﹂
﹁⋮⋮何言ってんだ﹂
奈津がまた蔑むように笑う。
ホントだよね、俺もそう思う。 でも奈津さん、ちょっとご機嫌直りましたね、良かった良かった。
あ、もう衣服は直しちゃうんですね。
まぁ娯楽施設の駐車場ですものね、その先なんて考えてはいけませ
んよね。
﹁奈津、早くライス食いに行こうぜ﹂
﹁私の家に来ないか﹂
﹁えっ?﹂
唐突な提案に、103号室の佐川さんの顔が過った。
﹁いや、今日はあの家には帰さん﹂
275
﹁は?﹂
﹁今度はお前が俺の家に来いよ﹂
﹁はぁあ?﹂
﹁決まり。行こう﹂
奈津が嫌だと言わないならOKって事で。
いいよ、エレベーターで暴れるなり何なりとしなさい。 俺は慈愛に満ちた気持ちでアクセルを踏む。 って、駐車券はどこだ? ﹁ほい﹂
そっか、助手席の奈津が持ってたのか。 ﹁じゃ行くか﹂
﹁⋮⋮⋮お前の家か﹂
﹁もっと嬉しそうな顔しろよ﹂
﹁清水の舞台からって、こんな気持ちか﹂
⋮⋮何それ? そう思ったが、俺は都合良く捕えて白山通りを右に直進して行く。 どっちか解らない不安定な時って一番楽しいのって俺だけかね。
276
★高浜武志・2★︵後書き︶
って感じで仏陀切ってしまいました。
歳取ると話長くなるってホントな。
駐車場の奈津のカミングアウトから﹁いやこれは小説だから。実話
要素いらねぇから﹂って頭を切り換えました。
そうだ、ラクーアって温泉施設で、行ったのは東京ドームシティに
なるのかも⋮⋮ いや、でもラクーアで通じるよね、大丈夫だよね。
東京都文京区にある、都内最狭で最高の娯楽施設です。 ってのはマジな私見です。 277
★高浜武志・3★︵前書き︶
番外編、他の誰かも書いちゃおうかなー。
本編って何だっけな気分になってきました。
読んで下さっている皆さん、ありがとうございます!
たまにアクセスとかチェックすると幸せな気持ちになります。
278
★高浜武志・3★
無言って心地良い。
何か、そういう気持ちになる。
気まずさや嫌悪感からだったり、
お互い何かに没頭してるからだったり理由は色々だけど、
人間関係として成り立ってないのに成り立つ空間みたいのが、すご
い新鮮。
汐留を過ぎて、いよいよ我が家が近付いて来る。
いやー⋮⋮全然キャピキャピ感が助手席からしませんね。
とても新鮮です。
車に乗せてしまえば逃げられないとか考える歳でも無いが、
助手席の女性がドアを開けて飛び降りる可能性なんて、初めて危惧
するリスク。
﹁着いたぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
マンション併設の立体駐車場の2709と書かれた場所に車を入れ、
声を掛けた。
道中ずっと座席で体育座りをしていた奈津だが、俺が声を掛けると
やたらゆっくり緩慢に手足を伸ばした。
﹁疲れただろ﹂
﹁⋮⋮⋮飯は﹂
279
﹁炊く﹂
と答えたものの⋮⋮すっかり忘れていた。
そういや俺が遊園地が限界だったから食事をと促し、混んでるから
外で美味しいものを食べようとしたんだよな。
とりあえず飯を炊く。
家に帰ってする事決まり。
奈津は助手席のドアを勢い良く開けそうなので、先に俺が出て開け
る。
別に女の子だからそうするんじゃなくて、右隣の車がランボルギー
ニカウンタックさんだから。
どんな人なのかは知らないが、余り関わりたくない。
この駐車場は外車展示場みたいだ。
俺のコルベットなんてお隣りに比べれば軽自動車みたいなもんだが、
幼稚園児の頃から一番気に入っていたミニカーがシボレーの赤いコ
ルベットコンパーチブルで、大人になったら乗ると決めていた。
ミニカーがプラモになり、ちょっと空白はあったが、漸く手に入れ
られた車。
女の子ってどんどん欲しい物が成長と共に広がりますけど、男の子
の欲しい物で成長と共に変わるのは玩具の値段ではないでしょうか
ね。
まぁ、人に拠りますけどね。
一人暮らしで東京都23区に住むなら、仕事で必要で無い限り車は
必要無いし。
でも﹁タケちゃん絶対こんな車無理だよ買えないよ﹂
と子供の時に友達に言われてたけど、頑張ったら乗れたなんて素敵。
もっと高い車買えだの派手好きだの色々言われるが、多分廃車にせ
ざるを得ないくらいまでは乗り倒すと思う。
280
価格やネームバリューの問題じゃなく、俺の子供の頃の気持ちを大
切にしたいだけ。
思い入れってやつだね。
﹁背中痛い﹂
﹁体勢の問題だろ、体育座りなんてするからだ﹂
﹁⋮⋮座席に問題がある﹂
俺が払いのけられる覚悟で手を差し出すと、奈津は少し躊躇った後
にしっかり掴んで来た。
いいじゃん座席くらい!俺の愛娘に文句言うな!!!
と言う声は、ちょっと意外なその反応に掻き消される。
車高の低さによろけた奈津は隣の車に頭突きをする羽目になり、
﹁このポリゴン!!﹂
と意味の解らない罵倒をカウンタックに浴びせた。
お前⋮⋮中に人がいたらどうするんだよ。
﹁お前の車が目立たないくらい派手な外車ばっか﹂
﹁そうだな、確かに﹂
﹁高浜も外国人の中に居れば、目立たないのかもしれんな﹂
﹁俺は日本人だ﹂
﹁そう、中身の外車の持ち主は大概が日本人だろう。でも外側の車
281
は日本製じゃない﹂
﹁まぁそうですね﹂
﹁高浜みたいだな﹂
もういいじゃん、そんなこと俺だって自覚してるもの。
﹁ちょっといいか﹂
俺の愛娘を眺めていた奈津はボンネットに背を向けて立つと、ゴロ
ンと仰向けになった。
﹁こっちはこんなに背中にフィットするのに⋮⋮﹂
奈津じゃなかったら、そのまま急発進したいけどな。
ボンネットでストレッチなんてされたら。
﹁気は済んだか﹂
﹁もうちょっと⋮⋮﹂
何かすごい光景。
傍から見たらボンネットに仰向けの奈津の前に、直立不動の俺。
ちょっと事件性を感じなくもないかも。
また何か俺が疑われるのか、今日3度目だぞ。
つーかいつまで駐車場にいなきゃならないんだよ。
﹁はぁ⋮⋮気持ち良かった﹂
282
﹁今のいいな﹂
﹁何が﹂
﹁もっかい言って﹂
﹁はぁ、気持ち良かった⋮⋮って死ねよ馬鹿浜﹂
殴られると思ったが、奈津は蔑むような笑い方をしただけだった。
内心、俺は殴られる事を期待していた。
もしかして、奈津と接近すればする程、俺は失望して行くんだろう
か。
好きな子に好きと言われてすることしたら醒めちゃう⋮⋮のが常だ
ったが、奈津がこんなに気になるのは好きと言わなそうな奈津を落
としたい気持ちだけなんだろうか。
数ヶ月前に付けられた生傷だってうっすら残ってるし、今日だって
左腕は歯型と爪痕、そして殴打の数々。
俺は女に力で支配されたいんだろうか。
散々ボコボコにやられた後に、ちょっとだけ優しくされるとかが好
きなんだろうか。
あ、かなり好きだ。そりゃ普通の子と長続きなんてしないわな。
そうかそうか、そうだったのか。
そんな事を考えながら、俺達は駐車場を後にした。
エレベーターで降りて、隣接するマンションに向かう。
﹁マンションと言うか、最早これはビルだ!﹂
奈津は建物を見上げて言った。
そうだね、俺も最初同じような事を思ったよ。
283
﹁火災とか地震が起きたらどうするんだ﹂
﹁さぁ⋮⋮俺なら家でじっとしてるけど﹂
﹁私のアパートならすぐ逃げられるのにな﹂
﹁まぁな、俺もそう思⋮おい!!﹂
ゴイィーン。
俺の方を見て歩いていた奈津は、自動ドアの左右の部分のガラスに
ブチ当たって尻餅を着いた。
﹁大丈夫か﹂
俺が笑いを堪えながら覗き込むと、奈津は俯いたまま耳まで真っ赤
になっている。
﹁⋮かが明るいと、がたがうつ⋮いから全然⋮⋮んなかった﹂
﹁え?﹂
﹁中が明るすぎて、自分の姿が映らないから全然わかんなかった!
!!!!﹂
﹁俺の事見すぎなんじゃないの﹂
﹁⋮⋮は?死ねよ馬鹿浜!!﹂
来た来た来た来た!!
284
真っ赤になったままそう言い放つと、奈津は思い切り俺に張手をか
ます。
痛い。
相当に痛い。
でも、この方はこうでないとね⋮⋮と内心思っちゃう自分。
﹁ほら、行くよ﹂
俺は入口のロックにキーを差し込む。
ピー、カチャンと音がして玄関のロックが外れる。
﹁それ、鍵なのか﹂
﹁そうだよ﹂
﹁紫外線チェッカーかと思ったよ﹂
﹁何で俺が紫外線気にするんだよ﹂
﹁まぁそれ以上黒くなっても困るか﹂
﹁そんなにか﹂
確かに、お前と並ぶと時計焼けした時の時計部分とその他の部分く
らいの違いはあるな。
﹁こう⋮手を並べると旨そうだな﹂
﹁旨そう?﹂
285
﹁食パン思い出す。高浜、飯だ!﹂
﹁帰ったらすぐ炊く﹂
﹁本当に飯だけなのか!﹂
﹁いや、それは無いけどさ。何か作りますよ﹂
そう言いかけて、俺は傍と立ち止まった。
冷蔵庫、何かあったっけ。
卵と酒とかしか入ってないんじゃないか?
途中あれだけ色々あったんだから買って来れば良かった⋮⋮。
作ると言っちゃった手前、ピザとか寿司とか言いにくいし。
俺は冷凍庫のタッパー達に期待を馳せる。
﹁エレベーターがいっぱいだ!﹂
﹁6基ある﹂
﹁どれに乗る?﹂
どれに乗る!?
俺は一瞬で後楽園に戻されたような錯覚を起こした。
﹁どれも各階止まりなので好きなのにどうぞ﹂
﹁そうか、じゃ奥の左側﹂
奈津は嬉しそうにボタンを押して、中に入った。
286
﹁馬鹿浜、早く﹂
﹁何でそんなに嬉しそうなんだ﹂
﹁え?そうか?﹂
﹁何かエレベーターをアトラクションみたいに思ってない?﹂
﹁だって38階建て、こんだけ高いって事はうふふふふ﹂
⋮⋮⋮残念だったな、普通なんだよ。
そう俺は内心苦笑して乗り込む。
エレベーターが上昇を始め、奈津の顔からは輝きが失せていた。
﹁⋮⋮遅い、だろ?﹂
﹁⋮⋮期待外れだ﹂
8階辺りに差し掛かると
﹁まだ半分も来てないのか﹂
15階まで来て
﹁遅ぇ!!﹂
20階を越えた辺りで
﹁お前、こんなん毎日2回もよくやってられるな﹂
287
と完全にイライラしていた。
﹁もっと速いエレベーターを期待していたのだが﹂
予想通り過ぎて、俺は溜息が出た。
﹁⋮⋮チャーリーと?﹂
﹁チョコレート工場。ああまではならなくていいんだけど﹂
透明なエレベーターが水平移動とか天井突き破って飛んでいくシー
ンを俺は思い出す。
﹁着いた、やっと27階だ﹂
﹁出たら右な。9号室﹂
﹁了解﹂
エレベーターホールを出て、俺は奈津と並んで歩いた。
﹁あのさ、お前って﹂
﹁ん?﹂
﹁絶対悪いことしてるだろ﹂
﹁俺が?﹂
うーん⋮⋮まぁ、確かに。
288
でも俺名義ではしてないのが大半だよ、なんて言い訳するのもねー。
﹁まぁ⋮⋮公務員や会社員ではないとだけ言っておく﹂
﹁私も人の事は言えないけどな﹂
﹁え?奈津ってバーテン以外に何かしてるの?﹂
﹁今は、してない﹂
そうなんだ。
じゃあいいじゃん。
見た目からするとスナイパーとかしか浮かんで来ないけど。
薄暗い照明の廊下を進み、俺達は2709と言うプレートのドアの
前で止まる。
﹁ここ﹂
奈津はまたも耳まで真っ赤になっている。
﹁どうした﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
えぇ?ここまで来て嫌とか!?
この家に引っ越してから初めて来た女の子が、この反応か。
まぁそれがいいんだよ、うん。
すごーいめっちゃ家賃高そうーとか言われても﹁ええ、まぁ⋮﹂っ
てもんだしな。
289
﹁入ろうよ﹂
俺は紫外線チェッカーのような鍵を差し込み、カチャンと開く音が
すると奈津の目もハッと大きくなった。
﹁入って﹂
﹁⋮⋮お邪魔します﹂
顔中真っ赤だが、靴を揃えて入る奈津に見習って俺も揃える。
﹁勝手に電気が点くのな﹂
﹁玄関と洗面所とトイレと風呂場がセンサーライト﹂
﹁ほう﹂
そう言って奈津は玄関に戻って行く。
﹁わはは、本当だ﹂
何かライト点いて嬉しそうね。
そこかよって気もするけど、喜んでくれて良かった良かった。
廊下を抜けてリビングに来ると、
﹁ほぅ⋮⋮!!﹂
マンションに入ってから、奈津が初めて感心したような声を出した。
290
﹁ここ、下の階って人いるの﹂
﹁いや?今のところ空いてるみたいだけど。下のポストにも名前無
いし、駐車場にも車無いし﹂
﹁そうなんだ﹂
そこまでは良かった。
事もあろうに、奈津は側転をしだしたのだ。
体育でマットの時とかにする、とんぼ返りって奴です。
﹁ちょ、危ないって!!﹂
﹁4回出来た!広い広い﹂
﹁奈津、ちょっと待てって!﹂
﹁私の家じゃ出来ないからな、神経質な佐川さんに迷惑だし﹂
佐川さん⋮⋮せっかく忘れてたのに!!
今度お前の家に行くことがあったら、神経質な佐川さんの為に室内
で二重跳びしまくってやりたいくらいだ。
とりあえずグルグル回ってる奈津を捕まえると、奈津は余り抵抗し
なかったが硬直してしまった。
﹁離せ﹂
﹁じゃ大人しくするか?!﹂
291
﹁飯だ﹂
﹁大人しくする?﹂
段々、自分の声が卑猥になって来てる気がする。
でも、好きな女を後ろから抱きしめる体勢取ってたら普通⋮⋮ねぇ
?
﹁側転しないと言ったら﹂
﹁え?﹂
﹁離さないのか?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁この手を離したら側転じゃ済まないかもしれないぞ﹂
﹁何だそれ?﹂
﹁さぁ飯の為に離すのか、家の無事を願って離さないのか﹂
表情は見えないが、それは離してはいけないと言う事なんだろうか。
それとも、奈津お得意の謎掛けが始まるんだろうか。
前者で。
離してはいけない、で是非。
﹁お前が離して欲しいなら、離す﹂
﹁⋮⋮⋮やっぱ離せ﹂
292
⋮⋮⋮⋮はーい。
何か今、ちょっといい感じだった気がするんですけどね。
でも﹁抱っこして﹂なんて言っちゃうのは奈津さんじゃありません
もの。
ストイックで理論的だけど、意味不明。
もうね、断言します。
ミステリアスに感じる異性とは、性的好奇心の表れなんじゃないか
って。
﹁相変わらず俺の片思いですな﹂
パッと手を離してそう呟くと、
﹁何だそれ。もういい、台所を貸せ﹂
と言われる。
﹁え、いいよ。やるから﹂
﹁いいから﹂
何だか気まずい。
だってさっきから飯行くだの作るだの言って、俺何もしてないし。
いや、でもお客さんがいきなり側転始めたら止めるだろ、普通⋮⋮。
何だかよく解らなくなったところで、俺はキッチンに向かう。
ドキドキしながら冷蔵庫を開けると⋮⋮うん、全然無いわ。
卵と酒とチーズと海苔佃煮くらいしか入ってない。
冷凍庫を開けると、カレーとハヤシの冷凍したのがあるのみ。
⋮⋮全然帰って無かったもんなぁ⋮⋮。 293
何処にいたかを考えると奈津に申し訳ない限りです。
そう思うなら止めろだけどね、そこは嫌だと言わない奈津さんが悪
いと思います。
とりあえずご飯を炊こう。
﹁奈津、すまん﹂
﹁何だ﹂
﹁あの、ご飯は今炊いてるんだけど﹂
﹁⋮⋮しんじょの材料が無い、と﹂
﹁いや、しんじょ云々以前にだな﹂
﹁今度はお宅の冷蔵庫を拝見させて頂こうか﹂
﹁⋮⋮はい﹂
奈津と2人で冷蔵庫を見る。
いや、ちょっといいな。
﹁見事に空っぽだな﹂
﹁ちょっと留守にしていたもので﹂
﹁ほう⋮⋮その間どちらへ﹂
﹁どちらへ?﹂
294
﹁⋮⋮言ってみろ﹂
何かもう、今日ほど自分の情けなさを実感した日はないと思う。
奈津はこちらを振り返らず、いつも以上に抑揚の無い声で続ける。
﹁何で今更﹂
﹁いいから、言え﹂
嘘は言いたくない。
でも本当の事はもっと言いたくない。
﹁えー⋮⋮日頃お世話になっている方々がいて﹂
﹁その方々の性別は﹂
﹁⋮⋮全員女性です﹂
﹁高浜﹂
﹁はい﹂
いきなり腰骨の辺りに衝撃が走って、俺は安定を失う。
蹴られた、と判りつつよろけたところに襟首を掴まれ、そのままキ
ッチンの壁に倒れ込むと髪の毛を掴まれ、目の前に瞳孔全開で微笑
む奈津の顔があった。
いや、多分笑ってない。
引き攣りすぎて笑顔に見えるだけだ。
295
﹁何で濁したよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何でハッキリ、他の女の世話になってたって言わないんだよ﹂
ぐぅの音も出ないとはこれか。
こんなシチュエーションは何度かあったが、いつも逆ギレして俺が
逃げていた気がする。
﹁何とか言えよ馬鹿浜!!﹂
﹁⋮⋮浮気になるのか?﹂
﹁知るか!!﹂
﹁そんなに嫌なら言えよ、嫌だって﹂
﹁何故だか解らんが死ぬほど腹ただしい!!何でだ答えろ!﹂
﹁俺の気持ちが解っただろ﹂
﹁解るか!!﹂
﹁だから俺が何で佐川さんシメたか解るだろ﹂
﹁佐川さんは彼女もいなければいつも一人で寂しいと言ってるのに
野菜を持ってきてくれる優しい人だ!﹂
﹁優しい人が本人の知らないところで﹃由亜ちゃん﹄なんて言うか
!!﹂
296
すると奈津はちょっと考えて、
﹁そこは不思議だよな﹂
と大真面目に言った。
やっぱダメだ、こいつを放っといたらどんどん変なのが取り巻くん
じゃないか?
他の女と関係している事を言及されていると言うのに、俺は妙な奈
津を守らないといけない正義感が湧いて来た。
﹁でもお前みたいにグッチャグチャにしてこない﹂
﹁佐川さんに奈津をそんなんされてたまるか。他の男に触られると
か絶対嫌だ。ホント無理﹂
﹁どの面下げてそんな事言えるんだよ﹂
まぁ⋮⋮そうだよな。
でも今日は俺も若干感情が高ぶっておりますので、言い返させて頂
きます。
揚げ足取り開始。
﹁俺が他の女と関係してるのは身体だけなんだが、嫌なのか﹂
﹁嫌に決まっ⋮⋮﹂
奈津が言葉を飲みこむ。
言え、言うんだ奈津さん!
是非聞きたい。
297
﹁今、嫌だって言った?﹂
﹁だから⋮⋮私にそんな権限無いじゃないか﹂
﹁じゃ何で怒るんだよ﹂
あ、ちょっと切り込み過ぎたな。
奈津の目が真っ赤になって涙が溢れ出した。
﹁解らない。お前が他の女といるってだけで腹ただしかった﹂
﹁腹ただしい、か﹂
﹁どんなに足掻いても私には敵わないのにな﹂
﹁お前が一人勝ちだろ、どう見たって﹂
﹁嘘をつけ﹂
﹁何でわかんないかね⋮⋮﹂
殴られても蹴られても口説いている俺の気持ちが届かない理由が知
りたい。
﹁俺の言動に信用がないか﹂
﹁それはある﹂
298
﹁正直に言ってるのに﹂
﹁⋮⋮⋮まぁ、そうだな﹂
そうだよ。
世間の不誠実な方々は﹁仕事で忙しい﹂って言うんだよ。
俺の貞操観念はそこなんだが、どうなんだろう。
傍目に見てかなり見た目麗しい異性が、身体だけでもいいから好き
みたいな謙虚な態度で来たら、みんなちゃんと断れるんですか?
恋人いても配偶者いても、じゃあ身体だけねってお約束でちょっと、
何かしちゃいませんか?
仮にそれを断ったとしても、恋人や配偶者に報告しないで胸にしま
っておくんじゃない?
可愛い・かっこいい人に告白されたいい思い出みたいな感じで。
そこを好きな相手に正直に言おうと思うところに、誠実さを感じて
いるのは俺だけなんだろうか。
相手が許してくれるって見下して、思い上がってるだけなんだろう
か。
﹁奈津はいい女だよ﹂
﹁⋮⋮そんな顔して言うな﹂
そう言われると焦る。
今どんな顔してたんだろう?
﹁本当だよ﹂
299
﹁私はお前とは釣り合わんぞ﹂
﹁釣り合わん?﹂
﹁店長に言われてる﹂
﹁店長⋮⋮坂崎か?﹂
俺より年下なのにやたら貫禄のある、坂崎の顔を思い出す。
坂崎のところ遊びに行って奈津が面接に来て⋮⋮。
﹁高浜さんが何故お前を買い被るか解らないがいい気になるな、と﹂
﹁あいつそんな事言ったのか﹂
﹁高浜は気まぐれで私をからかってるだけで、幾らでもたくさん女
がいるんだから私は勘違いしてはいけないそうだ﹂
﹁それは坂崎が言っただけで俺はそんな事は思ってない﹂
﹁でも⋮女はたくさんいるんだろ﹂
奈津の顔から怒りが消えている代わりに、一気にふて腐れた顔にな
った。
幾らでもたくさん⋮⋮か。
何だか違う誰かの話を聞いている気がする。
俺が知らないだけかもしれないけど、そんな男って実在すんのかね。
﹁坂崎に言っとくわ、気まぐれじゃないから余計な事言うなって﹂
300
﹁やめろ、余計に波紋が広がる﹂
﹁何で俺の言う事より坂崎の言う事を信じるんだよ﹂
﹁店長だけじゃない、お前を知る人間みんな同じ事を言うんだ﹂
﹁そうか、じゃあ俺が直接﹂
﹁だからお前は何もするな!!﹂
⋮⋮⋮はぁ。
俺の心が溜息をついた。
キッチンでボコボコにされた後に床の上に座ったまま禅問答ですよ。
でも思い通りに行かないから面白い。
何だよもー、ホント何なんだよ⋮⋮この連続が俺の愛情としてマイ
ルのように蓄積して行く繰り返し。
よし、貯まったマイルを使ってみよう。
﹁奈津、一旦整理しようか﹂
﹁何を﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
順序を間違えれば一発アウトか、延々と2を3で割り続けるような
羽目になるかもしれないな。
﹁お前は最初は俺の事を﹂
﹁生理的に嫌いだった﹂
301
うむ、グサッと来たが過去形なのに安心する。
﹁⋮⋮で、俺が何だかんだあの手この手でお前に接近した訳だろ﹂
﹁通報されなかっただけ有り難く思え﹂
⋮⋮通報すべき相手が違うだろ!!
一瞬ちょっと思い出して佐川さんへの怒りが湧いたが、まぁ今はい
いとする。
何が由亜ちゃんだよ、死ね!!
⋮⋮とか思わない思わない。
﹁で、何でそんな生理的に無理な男にお前は飯を作ったり、一緒に
デート紛いの事をしようと思ったんだよ﹂
﹁⋮⋮さぁ﹂
﹁それとも何だ、俺以外の男でも普通にそういう事するとか﹂
﹁⋮⋮それはない﹂
だよな、しないよな!!
良かった良かった安心したよ!
﹁何でだろうな、お前が血を流したり汗かいてたり勃起してると舐
めたいと言うか⋮⋮自分でもよく解らない気持ちになる﹂
⋮⋮嬉しいが、そこまで飛躍しなくていい。
それに何かうっすらカニバリズム入って来てない?
302
体液舐めたいって言われたのは生まれて初めてだ。
﹁⋮⋮最初は思わなかったんだろ﹂
﹁だから生理的に受け付けなかったんだ、始めの方は﹂
そうか、それからスタートして精液舐めて貰えるまで発展出来たの
か。
自分で自分を褒めてあげたいってこんな時か。
﹁段々⋮⋮何かお前がいない方に違和感を感じてきて﹂
﹁さっき言ってたな﹂
﹁うん、まぁ⋮⋮今に至る﹂
﹁そっか﹂
﹁そうだ﹂
奈津は先生に叱られる小学生のような決まりの悪い顔をしだした。
何かこれ以上、言及するのも馬鹿馬鹿しい。
俺の勘違いでは無いと信じたい、それ自体が勘違いならそれでいい
気もするくらい。
俺の脳味噌のスペックでは、ここまでの展開だと都合の良い結果し
か浮かんで来ないんだもん。
死ねと言われ殴打されても好きな俺と、最初は生理的に無理だった
のにこうして家まで来た奈津。
もう言葉なんて無意味な気がする。
303
俺が奈津と呼び始めた頃、奈津の暴行と馬鹿浜呼ばわりが始まった
と記憶している。
きっと奈津は俺自身への生理的嫌悪感が薄らいだ自分を認めたく無
かったんじゃないだろうか。
いや、逆だ。
俺がどうこうより、奈津は自分が女である事から逃げていたんじゃ
ないだろうか。
それが子宮摘出と関係があるのか、もっと前からそうなのかは知ら
ないが、奈津は男に好意を持つ自分が許せないように見えて来る。
俺が嫌いなのに俺が他の女と関係を持つのは腹ただしいって、俺は
奈津が好きだから他の男が近付いて来るなんて我慢出来ないのと一
緒じゃないか?
﹁お前はどうしたいんだ﹂
﹁奈津がどうしたいのかによる。あ、今回は解らないってのは無し
ね﹂
﹁私は⋮そうだな、正直に言わせてもらうと﹂
そう奈津が言いかけた時に、ピロリラリ∼と間抜けな音が聞こえて
くる。
空気読めよ、炊飯器!!!
﹁正直に言わせてもらうと!?﹂
﹁高浜、飯だ﹂
﹁ひっでーな、ホント⋮⋮﹂
304
奈津はニヤリと笑って、近付いて来た。
﹁はははは﹂
﹁何だよ﹂
﹁飯だ﹂
﹁解りましたよ﹂
何だかねぇ、と溜息混じりに立ち上がると、
﹁お前っていい匂いするよな﹂
と言われた。
え?
香水も何もつけてないのに匂いって⋮⋮ちょっと焦燥感。
いや、馴れ初めの頃に﹁そんなチャラい匂いさせて家に来るな﹂と
怒られて以来、奈津と会う時は無臭を心掛けていたんだが⋮⋮。
﹁⋮⋮何の匂いだよ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
奈津は俺の脇腹や耳の後ろをフンフンしだす。
やめろ、やめてくれ⋮⋮オッサンを苦しめるな。
﹁ハチミツ?﹂
305
﹁ハ、ハチミツ!?﹂
﹁⋮⋮をうっすらコーヒーで割って、そこへマスカットを混ぜた⋮
ような?﹂
﹁何だそれ、全然解らん!﹂
﹁お前が長くいたところって、しばらくこの匂いがするんだよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮!!﹂
﹁いや、悪い匂いじゃないって。この匂いは好きだから、文句言わ
なかっただろ﹂
﹁あのー⋮奈津が嫌がるから一切何もつけてないが⋮⋮﹂
﹁あ、そうなの?じゃあお前の体臭だな、多分﹂
た、体臭⋮⋮。
何か今までの流れ全てが、ガラガラ崩れ落ちて行くくらいの衝撃。
そっか⋮⋮俺っているだけで匂いがつくくらいの体臭があるんだ⋮
⋮⋮31年間知らなかった。
ショックで立ち尽くす俺に、奈津は追い撃ちをかける様に目を閉じ
てクンクンしながら近付いて来る。
﹁いや、ホント止めて貰えますか﹂
﹁いいから嗅がせろよ。何だろうな、ホント﹂
306
﹁⋮⋮風呂に入って来る!﹂
﹁そしたら消えちゃうんだよ、しばらくは﹂
無理。
無理無理無理無理!!!
風呂入ってもしばらくしたら漂うとか、もうショック過ぎる。
何で今まで誰も言ってくれなかったのかが悔やまれる。
﹁どっちかと言えば、食欲をそそる匂いかも﹂
どっちかって、食欲ともう片方は何だよ!?
ぎゃーもういやだ、せめて風呂に入らせろ!
俺はジリジリ壁際まで追い詰められる。
﹁いやー⋮⋮お前、いい匂いさせながらいい顔するよな﹂
奈津が裏切り者を追い詰めた不良のような顔をして、どんどん近付
いて来る。
﹁俺⋮⋮全然知らなかった⋮⋮﹂
﹁そう?まぁいいじゃないか、悪い匂いじゃないんだし﹂
﹁今までそんな事言われた事なかっ⋮⋮﹂
と言いかけて、またストリーミング再生が始まる。
﹃何か香水つけた?﹄
307
﹃初めて嗅いだけど何使ってる?﹄
﹃何か武志の匂い、落ち着く﹄
⋮⋮⋮あった、何かそういう行為の前後にそういうやり取り、あっ
た!!
﹁あ、そういえば﹂
﹁そういえば?﹂
﹁いや、そういえばあったなって。何か匂いの事言われたというか
⋮⋮﹂
すると奈津の顔がまた危険な表情になる。
妖艶とかじゃなくて、生命の危機を感じる意味の方で。
﹁それを言った方々の性別は﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮全員女性です﹂
﹁⋮⋮正直でいい﹂
あ、蹴られないんだ。
ちょっとホッとしつつもガッカリする、ハチミツをうっすらコーヒ
ーで割ってマスカットを混ぜた様な体臭であるらしい自分にドン引
き。
﹁いやー残念残念﹂
﹁何が?﹂
308
﹁私以外にもこの匂いに気付く奴がいたなんて、腹ただしい﹂
﹁すみません﹂
﹁謝るくらいなら⋮⋮控えろよ!何なんだよ死ね馬鹿浜!!!﹂
見事な蹴りに感動する。
おかしい、さっきまでは俺が勝ちだったのに、炊飯器の辺りからま
た不穏な感じに⋮⋮。
﹁お風呂洗って来ます﹂
﹁お前、飯作る気ないだろ﹂
﹁奈津が匂い匂い言うからだろ!﹂
﹁褒めてんのに何でお前は逃げ回るんだ!!﹂
﹁⋮⋮それは奈津も一緒だろ!散々こんだけ俺が言っても伝わらね
ぇとか意味が解らん!﹂
﹁それはお前の言うこと信じてたら⋮⋮いちいち信じ⋮⋮﹂
﹁信じてたら何だよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮グジッ﹂
﹁泣くなよ﹂
309
﹁⋮⋮余計に混乱するわ!!﹂
そう言って奈津は助走をつけて見事なフォームでソファーに突っ伏
した。
ベリーロールだっけ、あのフォーム。
俺が一週間前に奈津奈津言ってウダウダしてたソファーに、奈津が
突っ伏してジタバタしながら泣いている。
はぁあぁあ⋮⋮⋮何かこんなつもりじゃ無かったんだけど。
﹁じゃ風呂入れて飯作ったら俺は風呂に入る!﹂
﹁いや飯は私が作る!﹂
﹁あぁああぁもう何なんだよ﹂
﹁そこをどけ馬鹿浜!﹂
﹁俺がどかなくてもキッチン行けるだろうが!!﹂
﹁⋮⋮高浜、落ち着けよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前も歌ってだろ、今日﹂
﹁歌?﹂
﹁どぅおっしてお腹がへーるのかなぁあ﹂
﹁喧嘩をすーると⋮﹂
310
﹁減るのかな、だろ?﹂
﹁奈津⋮⋮﹂
お前、ビックリするくらい音痴だな。
﹁そうだ、仲良くしってっても減るもんな∼ぁ∼﹂
⋮⋮それ、俺が歌ってたのと違う歌なんじゃない?と聞きたくなる
ような音程で、奈津は涙と鼻水でダクダクの割に笑顔でキッチンに
向かう。
じゃあ俺はお風呂洗って入れて来ますね。
女の子が来て、お風呂準備なのに全然エロくねぇとか有り得ん。
しかし使ってなくても風呂とか水回りって妙に汚れるもので、俺は
鳥肌を立てながらゴシゴシ洗う。
﹁ごはんですよ!﹂
﹁解った、早いな﹂
﹁いや、商品名読み上げただけだ!はははは、返事したな馬鹿浜﹂
⋮⋮知るか。
知るか知るか知るか!!
俺は綺麗になった浴槽にお湯をためて行く。
15分後でお願いします、とタイマーセット。
風呂場を出ると、何やらいい匂いがする。
ああ⋮⋮さっきの一連のやり取りが無ければ⋮⋮。
311
でも、奈津が他の女の存在を嫌がってるってのが解って嬉しい。
殴られ蹴られした甲斐がある。
俺はちょっと病気なんだろうか。
﹁見ろ、じゃじゃーん﹂
上機嫌の奈津がテーブルを指す。
﹁オムライスか!﹂
大好きだ!!
さっきまでの全部無しにしてもいいよ!
﹁ハヤシライスとチーズが決め手だな、よくぞあのメンバーを厳選
した﹂
﹁厳選した訳じゃないけどな、いただきます﹂
﹁お代わりはないぞ!その代わりお前の顔を描いてみた﹂
ケチャップが妙な盛り付けになってると思ったら顔なのか⋮⋮歌唱
力以上にすごい画力だな。
⋮⋮結局、チケット代に始まり夕飯まで世話になっちゃってるのな
⋮⋮。
﹁あ、飲み物は﹂
﹁酒しかなかった﹂
﹁バーテンだろ、飲めよ﹂
312
﹁私は下戸だ﹂
﹁はぁ?嘘つけ、下戸であれだけ作れるかよ﹂
﹁酔わすつもりか﹂
﹁もーいいから飲めって﹂
俺は冷蔵庫からビールを2本取り出し、置いた。
奈津は
﹁本当に飲めないんだが﹂
と前置きしてから開けると、
﹁じゃ馬鹿浜が商品名に反応したのを祝して!!﹂
と缶を差し出して来た。
﹁何でだよ⋮⋮もういいよ、乾杯!﹂
何だか味の削がれたビールを飲んで、オムライスを食べるも、美味
い。
﹁相変わらず料理上手いな﹂
﹁私は卵部分しか作ってないがな﹂
﹁そっか﹂
313
﹁お前、ハヤシライス作るとき何入れた?﹂
﹁市販のルーに生クリームと⋮コンソメ入れたかな﹂
﹁そうか、心得た﹂
﹁あと⋮コーヒー⋮⋮﹂
もうコーヒーって言うのも嫌。
ハチミツとマスカットも嫌だ。
﹁コーヒーか、カレーにも入れると美味しいよな、ハチミツと林檎
なんかも、あっ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁コーヒーとハチミツか⋮⋮ぐはははは、何かカレーとお前っての
が似つかわしくてわははははは﹂
﹁奈津⋮⋮⋮﹂
﹁すまんすまん﹂
そう言って奈津はビールをグイ飲みした次の瞬間、火傷したように
真っ赤になった。
﹁大丈夫か!?﹂
﹁言ったろ、飲めんと﹂
314
そう言い残すと、奈津はソファーまでヨロヨロ歩き、
﹁すぐ起きるから安心しろ﹂
みたいな事を呟いて寝息を立て始めた。
はぁあぁあぁああぁ。
もう何が何やら。
俺は自分の分をサッサと食べると奈津のはラップして冷蔵庫に入れ
て、皿を洗い終わった頃に、ピポーンと言う給湯完了の音が風呂場
から響いた。
いいタイミングだ給湯器、お前は俺の味方なんだね。
俺はブランケットを持ってきて奈津に掛けると、奈津が﹁ふふふお
前ってほんとふふふふ﹂と寝たまま笑った。
俺も﹁ははは⋮⋮﹂と力無く笑い、電気を消してとっとと風呂へ。
洗面所と風呂場が俺を出迎えるように明るくなる。
つ⋮疲れた、疲れたよ。
手応えがあるようで、全くない。
俺が人生で一番頭使った中学受験なんて目じゃないくらい頭使って
この結果。
やっぱ俺が歳取ったからかね。
三十路、かぁ。
うーん⋮⋮⋮⋮。
浴槽に浸かってジャグジーでブクブクしていると、
﹁高浜!?高浜ぁあぁ!?﹂
315
と言う、奈津の声が聞こえた。
もうお目覚めですか。
でも今日の奈津、色々だったな。
やっぱ可愛い。
﹁高浜ーーー!?﹂
心からそう思う。
ドタドタビッターン、と言う騒々しい音の後に
﹁痛い!﹂
と言う怒声がして、洗面所に奈津の気配がする。
来た来た。
と思ったら風呂場のドアが勢いよく開けられる。
﹁おい!﹂
﹁うわぁ!?﹂
うわぁ!?じゃねえ!
どっちかと言えば俺の台詞じゃないの、それ。
﹁⋮⋮高浜、髪の毛洗うとそんななるのか﹂
﹁いや、閉めろよ﹂
﹁髪の毛下ろすとホントに西洋人だな⋮⋮⋮でもお前、すごい身体
してるな﹂
316
﹁見るなよ﹂
﹁何か鍛えてたのか﹂
﹁いいから閉めろ!!﹂
﹁照れるなよ﹂
﹁お前が照れろ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
何故か沈黙。
よし。
﹁奈津も入るか?﹂
﹁うん!入る!!﹂
﹁え、ちょ⋮⋮﹂
高らかに上がる水しぶき、そして全身に来る衝撃。
そのまんま来た、そのまんま来たよこいつ。
﹁あっはははははは﹂
﹁お前⋮⋮﹂
317
おかしい。
何かが違う。
全裸の俺とびっしょびしょの服の奈津が浴槽で⋮⋮どうしろってん
だよ。
﹁あはははははは﹂
﹁楽しそうなところ悪いんだけど﹂
﹁何だ馬鹿浜、えいっ﹂
﹁ぶはっ⋮⋮﹂
いきなり顔面に大量の水を掛けられ噎せる。
これがTシャツとかで来たらちょっと可愛いよ。
透けもしないパーカーとジーパンで来るとか。
⋮⋮あ、奈津。
俺の勝ちだ。
﹁お前さ﹂
﹁んーー?﹂
全裸の男の上で着衣泳しといて、んーー?じゃねぇ。
でもな、言わせろ。
﹁お前、着替えどうするんだ﹂
﹁着替え⋮⋮﹂
318
奈津の顔から笑顔が消える。
﹁あぁ、着替えないだろ﹂
﹁⋮⋮⋮ないな﹂
﹁どうするの?奈津?﹂
﹁何で嬉しそうなんだよ﹂
﹁乾燥で乾かしても2時間以上掛かるけど、その間ぶがっ﹂
﹁わははははは、お前は隙がありすぎる!えいっ﹂
﹁止めろ!お前が上にいたら身動きが取れん!!﹂
﹁すまんが馬鹿浜、何か着替え貸してくれ。洗って返すから﹂
何も考えずに服のまま風呂に飛び込む奴に馬鹿呼ばわりされるとは。
﹁いいけど﹂
﹁私はガタイがいいからお前のでも大丈夫だ、多分﹂
そうか。
じゃあ俺でもでかいTシャツ着せてやる。
あ、でもちょっとそれいいかも。
可愛いですよね、事が終わった後に女の子がYシャツ羽織ったりす
るのって。
319
それで冷蔵庫とか開けたり、枕元の携帯取ったりする後ろ姿はとて
も好感が持てますよね。
﹁この変態が!!﹂
﹁風呂で女に上に乗られたら仕方ないだろ!﹂
﹁お前、こんなんで⋮⋮﹂
﹁止めろ!触るな!!﹂
すると奈津は悪魔のような笑いを浮かべて、顔を近付けて来る。
そして耳元で
﹁この、変態!﹂
と囁くように言われ、あーーもう無理、大体男の家来て風呂に乱入
したお前が悪い!!みたいな気持ちが急上昇する。
﹁奈津、お前⋮⋮ぐはぁ!﹂
また水をぶっかけられ噎せる。
そうか、これは騎乗位じゃねぇ。
一方的にボッコボコ、マウントポジションだ。
﹁お前、今変な考え起こしたろ﹂
﹁⋮⋮無茶言うな、お前っ⋮⋮﹂
﹁はははは、溺死するぞー﹂
320
﹁後ろ手で弄るな!!﹂
うがぁ全然嬉しくない!
好きな女が風呂で扱いてくれてるのに全くエロくない!!
﹁高浜、めちゃめちゃすごい事になってるぞ⋮⋮あ、そうだ﹂
奈津は一瞬だけ腰を浮かすと、俺の脚の間に来る。
⋮⋮ポジション的には悪くない。
いやー浴槽が大きくてよかった⋮⋮と思った次の瞬間、ものすごい
衝撃が来た。
﹁奈津!?﹂
お前、どこに指入れてるんだよ!
俺は混乱して言葉が出ない。
﹁⋮⋮この辺かな﹂
あ、何かすごい気持ちいい。
いやいやいや指を抜け!!
嫌だこんなの!!!!
﹁はははは、相変わらずいい顔するなぁ﹂
﹁やめろ、ホント無理!!やめろって馬鹿!!!﹂
﹁馬鹿?自分の今の立場、解って言ってるのか?﹂
321
﹁うあぁああぁ﹂
何だ?
嘘、俺⋮イッたの?!
﹁ほい﹂
﹁掛けるな!﹂
﹁くっふふふ、高浜可愛い﹂
﹁奈津、手洗えよ﹂
﹁何で?﹂
﹁俺が嫌だ!!﹂
﹁高浜、処女だったのか﹂
﹁処女と言うのか知らんが当たり前だ!!﹂
﹁ふふふ、そうなんだ。良かった﹂
﹁俺は良くねぇ!!!﹂
﹁泣くなよ馬鹿浜。大人になれて良かったじゃんよ﹂
はぁあぁあぁ⋮⋮もういいです。
何で気持ち良く風呂入ってたのに、指なんて挿し込まれた挙げ句に
自分の出したの顔面に掛けられなきゃならないんだよ。
322
俺は浴槽から出てもう一度、頭から洗う。
うえぇえぇ、洗っても洗っても何か乾いたらパリパリしそうだ。
奈津はそんな俺を愛おしむように、浴槽に頬杖をついて眺めている。
﹁見るなよ﹂
﹁お前、ホントすごい身体してるな﹂
﹁お前の身体も見せろよ﹂
﹁⋮⋮いいよ﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
えっ?
いいの?
じゃあ早く見せろ!
最初からとっとと見せやがれ!!
奈津は濡れすぎて黒にしか見えなくなった重そうなグレーのパーカ
ーを脱ぎ捨て⋮⋮その下の白いタンクトップからは、今朝ワンピー
スから見えていた黒い下着が透けている。
いい!すっごくいい!!
あ、下から脱ぐんですね。
全然構いませんけど。
そう思った瞬間、奈津が浴槽に吸い込まれて行った、様に見えた。
ガコーンと後頭部を派手に縁にぶつけ、奈津が沈んでいく。
﹁おい!﹂
323
﹁げはっ⋮げほぇ⋮⋮たがはま、ぬげない!ぐほっ﹂
﹁デニムのスキニーなんか履いたまま水に入るからだろ!﹂
﹁おえぇえっ⋮がはぁっ﹂
助け起こすと、奈津は肩で息をしながら這う様に浴槽から出た。
﹁水飲んだ⋮⋮﹂
﹁俺を玩んだ天罰だろ、大丈夫か?﹂
﹁ちょっと高浜、先に出てて﹂
﹁解った﹂
俺も慌ててたんだろうね。
俺が先に浴室を出ると、後ろでカチッと鍵の閉まる音がした。
あ、俺、締め出されただけ?
﹁脱げた、脱げたよ高浜!!﹂
﹁じゃ着替えを受け取ろうか!?﹂
﹁ううん、大丈夫!﹂
何でこんな時だけ女っぽく話すんだよ。
振り返ると擦りガラス越しに奈津の真っ白な身体が見える。
324
﹁じゃ、シャワー借りるぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どうぞ﹂
ドアを壊して入る程の元気は無く、俺は身体を拭いて下着を着てタ
バコを吸いに換気扇の下へ。
空気清浄機もつけなきゃ。
奈津はまだ上がって来ない。
もういいよ、服着ちゃおう。
期待をすればさっきの屈辱が蘇るだけですもの。
⋮⋮何かおかしいだろ。
好きで好きで堪らない女が家に来て、合作のご飯食べて一緒に風呂
に入って、一発抜いて貰ったのに釈然としない。
﹁高浜ー、着替え貸せー﹂
﹁⋮⋮断る﹂
﹁断る?さっきいいって言っただろ﹂
﹁やっぱり断る!﹂
﹁じゃあ洗濯機貸してくれー﹂
﹁それはいいよ﹂
﹁ありがとう、やっぱお前の服もお前の匂いするな﹂
325
え、ちょっと何してんの?
思わず洗面所に行くと、深緑色のバスタオル1枚だけの奈津が俺が
今日着ていたポロシャツを持っている。
﹁ヴィトンにポロシャツなんてあるのな、タグ見えて知った﹂
﹁いや、服のブランドはどうでもいい。俺の服を嗅ぐな﹂
﹁え?一緒に洗おうかと思ったんだが嫌か?﹂
﹁嫌なのはそこじゃない﹂
はぁ⋮⋮⋮。
でもまだまだ⋮⋮と思ったその時。
﹁高浜のパンツだ!﹂
﹁奈津!嗅ぐな!﹂
もう何なんですか、この人!!
でもバスタオルの奈津は可愛い。
解けろ、バスタオル。
俺の味方でいてくれ。
﹁ねぇ、これ着ていい?﹂
﹁いや、何で俺が今日着たの着るんだよ﹂
﹁お前が着替え貸さないって言うから﹂
326
﹁そうか⋮⋮ちょっと待ってて﹂
流石にそれは可哀相過ぎるよね、俺は適当にTシャツとジャージを
渡す。
俺でもでかいサイズXLでも着てろ。
﹁はい﹂
﹁ありがとう⋮⋮何だよ?﹂
﹁着て﹂
﹁着るけど﹂
奈津は俺が見ている前でサッサと着替えだす。
そっかぁ⋮⋮最後にバスタオル取るんだね。
全然何も見えませんでした。
奈津はTシャツの下からバスタオルを引きずり出すと、洗濯機にほ
うり込む。
あ、ちょっとバスタオル類と衣服は分けて欲しいんですが。
出来れば下着はネットに。
⋮⋮まぁいいや。
﹁これ、どんぐらい入れればいいんだ?﹂
﹁貸して﹂
俺は計量の目もりを見て、洗剤入れに流し込む。
柔軟剤も入れとこう。
で、洗濯乾燥を押す。
327
﹁ドラム式の洗濯機ってタイムマシンになるんだぞ、高浜﹂
﹁知ってる。バブルへ﹂
﹁ゴー。あれ、面白いな﹂
﹁あぁ、俺も観たわ﹂
当時の彼女と。
もう顔も余り覚えてないけど。
﹁頑張れ洗濯機。下着早く乾かないかな﹂
﹁下着?﹂
そうか。
俺は奈津の首から下を眺める。
ブッカブカのTシャツにジャージの下に思いを馳せてみる。
うむ、素晴らしい。
はぁ⋮⋮セックスしたい。
﹁⋮⋮⋮馬鹿浜﹂
﹁はい﹂
﹁お前、どうしようもなく変態だな⋮⋮ちょっと⋮やめっ﹂
奈津もいきなりキスされたらそういう反応するんだな。
328
﹁⋮⋮離せ﹂
﹁無理。真っ赤になって何言ってんだよ﹂
﹁うるさいな⋮﹂
﹁嫌なら止める﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ほらほら答えないと次行くぞ次!!
﹁ここだとちょっと⋮﹂
﹁そうだな﹂
洗濯機の前でするのもね。
俺もそこは冷静に考えた。
﹁こっち来る?﹂
﹁⋮⋮⋮うん﹂
先に洗面所を出た俺の後を、奈津は意外にも素直について来る。
でも油断はしないぞ、と身構えている自分をすごく感じる。
だって⋮⋮2連続で恥辱の巻き返しとか⋮⋮有り得んよ、ホントに
⋮。
寝室を開け、電気を点ける。
329
﹁何か照明がやらしいな﹂
﹁元々ついてる奴だがな。ここに入った女はお前が初めてだ﹂
﹁嘘つけ﹂
﹁本当だよ﹂
ベッドに腰掛けた奈津の隣に座る。
さぁ、どう始めようか。
意外にも奈津の方が先に俺の首に手を回して来た。
﹁何でそんな警戒するの﹂
﹁いや⋮⋮また何かあるんじゃないかと﹂
﹁しないって﹂
する﹃の﹄?
奈津が俺の首筋を吸って来て、あぁやっぱりこいつ上手いなと思っ
た。
やっぱりお前が上か。
仰向けにゆっくり倒れると、俺の立てた脚の間に挟まるように身体
を滑り込ませて来た。
服の中に奈津の手が探るように入って来る。
﹁電気、消す?﹂
﹁消したら高浜の顔が見えないだろ﹂
330
﹁お前の顔が見える事も忘れるなよ﹂
﹁高浜、すっごいいい顔してる﹂
そう?
いやー初めて奈津に顔を真面目に褒められた気がする。
俺がデレデレしてる間に、何でこんな的確なのか解らないくらい俺
の上半身を指と舌で攻めて来る。
﹁この匂い、やっぱりエロいな﹂匂いの事は気になるからやめろ、
と思いつつ俺も奈津のブカブカのシャツの中に手を入れる。
やっぱりかなり胸あるな。
肩から脇腹をなぞってからそっと包み込むと、奈津が短い溜息をつ
いた。
奈津の頭が下がった時に一気に脱がすと、形の良い胸に腹筋の目立
つ腹が見える。
いいね、色も薄すぎず濃すぎずで。
そう思って抱き寄せて舌先で転がすと、すぐ硬くなったのに比例す
るように奈津の動きが鈍くなって来た。
﹁高浜⋮⋮﹂
後頭部に回された手が、俺の顔を胸に押し付けて来た。
残りの片手は反撃防止の為に俺が手首を押さえとく。
ここで横向きの体勢になり、一気に俺が上になった。
﹁まだいれないの⋮?﹂
﹁奈津がお願いしてくれるまで入れない﹂
331
﹁何で﹂
はは、奈津って大好きなんだな。
俺の腰に脚を絡めて引き寄せて来るとか相当だろ。
⋮⋮⋮何で今までさせてくれなかったんだね。
過去に無理矢理しようとして爪でえぐり取られた肩の傷跡を見なが
ら、俺はちょっと不思議に思った。
身長172cmとは言え、やはり俺でも余裕があるようなジャージ
だと片手でも脱がせる。
全裸の奈津を見て、俺は何だか下剋上でもしたかのような気分が沸
々としてきた。
今まで仕えて来た主人を裏切るような、背徳感と達成感と言うか。
﹁⋮⋮早くしようよ﹂
﹁奈津の可愛い顔見てたいから断る﹂
﹁高浜⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁後、何回くらい出来そう⋮⋮?﹂
うーん⋮⋮⋮。
さっき1回風呂場で抜かれたし⋮あ、こういう事考えると元気減退
しそうだからやめよう。
﹁さぁ?﹂
332
﹁いっぱいしよう﹂
うん!!
じゃあ⋮⋮あ、ちょっと待て。
俺は奈津の意外に濃い下の毛を見て、あーもう無理すぐしたい!と
騒ぐ下浜を制する。
﹁奈津、まだイクなよ﹂
﹁何だよ⋮⋮﹂
俺はそっと指を舐めると、奈津の中に入れてみる。
舐める必要が無いくらいだったけど、きつい。
﹁⋮⋮はぁ⋮っ﹂
奈津の声と共に更に締まる。
それに結構な⋮⋮カズノコ感がある。
奥に行くと少し広くなり、そこの天井辺りを軽く擦ると奈津の腰が
反った。
後は下側。
俺の両脇にある脚に力が入る。
そしてもう少し奥。
⋮⋮ん?
何かコリコリするこれ、子宮口なんじゃないか?
どういう事だ?
俺は奈津の鎖骨辺りを吸うように舐めながらも頭の上にはでっかい
疑問符が出ていたが、当の奈津は腰を上下に動かしながら短い息を
吐いている。
333
俺は片手を着いて上半身を起こすと、そんな奈津を眺める。
いいよね、このポジション。
何か中のいじる場所によって、色んな反応見られるんだもん。
また横を向いて声を押し殺す様子がホントにいい。
お腹の白い手術跡は意外にも気にならない。
﹁奈∼津っ﹂
﹁馬鹿浜っ⋮いいか⋮げんに⋮⋮﹂
﹁いいかげんに?﹂
﹁早く入れて﹂
うん、これはお願いしてくれたんだね。
下浜もこれ以上ないくらい悦んでいるけど、ちょっと奈津さんには
今までの事もありますし。
俺は奈津の言葉を借りれば爆発しそうな頭で、さっき調べたところ
を思い出しながらもう1本、計2本の指を入れる。
いい感じに解れてきていたのですんなり入るが、もう俺の手首まで
滴るくらいに⋮⋮。
あーもう無理、理性って弱いよね。
俺は一気によがる奈津を果てさせるとサッサと服を脱ぎ捨て、ちょ
っと力無い奈津の口を舌でこじ開けた。
あ、ちょっとグッタリした?
ここぞとばかりに掬った愛液を飲ませて見ると、ちょっと眉をしか
めたが、俺の指に舌を巻き付けて来る。
あ、これ好き。
指って何で感じるんだろうね。
あんなに普段色んなものに触れて刺激を受ける部位なのに。
334
﹁奈津、入れてもいい?﹂
﹁さっきから⋮⋮早くって言ってんじゃん⋮﹂
﹁⋮⋮そう﹂
﹁そのまま⋮⋮入れて⋮お願い、たかはま⋮﹂
お願い高浜。
やったーー!
下浜と俺は心の中でハイタッチして、一気に中に入った。
中に出しても妊娠しないとかそういう問題より、奈津がお願いして
くれた方が嬉しかった。
﹁ぁあぁあ⋮⋮⋮!!﹂
﹁大丈夫か⋮⋮ぐっ⋮﹂
何だこれ、ただでさえキッツいのに目茶苦茶に締め付けてくる!!
負けるか。
俺は奈津にキスしながら動き続けた。
俺の局部はもう奈津の返り愛液でかなりびしょ濡れ。
いやー⋮⋮感慨深い。ツブツブのキュウキュウでヌルッヌルで最高
に気持ちいい。
﹁たか、はまっ﹂
奈津もしっかり俺の脇腹に腕を回してくれてる。
いいなぁ、密着しての正常位って。
335
しばらくそうしてると、奈津が俺の顔を振り払うように顔を背けた。
﹁いきそ⋮⋮う⋮﹂
﹁どうぞ﹂
安易に言って後悔。
奈津の腹筋がメコメコ盛り上がり、もの凄い締め付けが来る。
予想以上、最早不意打ちに思わず俺が腰を引くタイミングを誤る。
﹁ごめん⋮⋮!﹂
イッたと思ったが何とかセーフ。
つい謝っちゃったな。
﹁もう俺もいい?﹂
﹁⋮⋮飲みたい﹂
えぇ?
いいのに、もう中がいい!中中中!!絶対中中中!!!
﹁た⋮かはま⋮⋮﹂
﹁奈津﹂
こんなに興奮してスパート切ったの久々。
100m走猛ダッシュしてゴールしたくらいの達成感の後は、水泳
336
の授業の後の倦怠感を思い出す瞬間がやってくる。
﹁⋮⋮中に出した?﹂
﹁⋮⋮出した﹂
﹁いいよ、何回でも出せよ﹂
あ、何かいつもの奈津だ。
さっきまでちょっといつも以上に可愛かったのにな。
奈津はモゾモゾ起きると、四つん這いになり、まだ余韻に浸ってい
る下浜をくわえた。
うぅ⋮⋮くすぐったい⋮⋮。
でもお掃除フェラって愛を感じる、気がする。
胸の谷間から見える脚に、俺の出したのと奈津のが混ざって幾筋に
もなって流れ落ちて行くのが見える。
﹁高浜﹂
﹁何?﹂
﹁すごい気持ち良かった﹂
それは良かった!!
ちょっと不安だったんですよね、飲みたいって言ってたのに出しち
ゃったから。
﹁お前もな﹂
337
﹁しよ?﹂
﹁悪いがもうちょっと待っ﹂
もうちょっと待ってて、と言おうとする前に、奈津にお掃除して貰
って元気になった下浜が返事をするように復活した。
﹁ほら、今度は口でするから﹂
﹁ねぇ奈津﹂
﹁何だ﹂
﹁挟んでやって欲しいんだが﹂
﹁挟む⋮⋮こうか?﹂
素直に奈津は両手で胸をギュッと中央に寄せ、俺を挟んだ。
これはね、感触も去ることながら見た目の悦びが大きいな。
出来る女も限られる訳だし。
あんなに俺を寄せつけなかった奈津が、俺にパイズリフェラとか、
人生の展開ってわかんないよね。
上手いな、誰が仕込んだんだろう。
俺は奈津の頭を撫でながら思った。
天性の可能性もあるがセックスって数を熟すよりも、上手い奴が教
え込む方が上達すると思う。
誰が教えたんだろう⋮⋮。
﹁ほんらのはいっれはんだな﹂
338
﹁え?﹂
﹁よくはいっらとほほふお﹂
あぁ⋮⋮それはどうも。
こんなの入ってたんだな、よく入ったと思うよ、俺はそう聞こえた。
根気強く奈津がしてくれたお陰で、本日3回目終了。
奈津は何でこんなに精液が好きなんだろう。
聞いてみよう。
﹁変な事聞くが⋮⋮奈津って精液好きな﹂
﹁お前のね、何だろうな⋮⋮ジンライムみたいな匂いがするから﹂
﹁ジンライム⋮⋮﹂
病院行った方がいいんだろうか、俺。
体臭にせよ、精液の味にせよ、良くない何か症状なのかも⋮⋮。
うわー何か良くない原因があるとかだったら嫌すぎる!!
﹁どうした馬鹿浜﹂
﹁いや⋮⋮﹂
﹁じっとして﹂
あ、キスか。
339
可愛いな⋮⋮と思った瞬間、思い出深くも生臭い味が口中に広がる。
﹁うぇええぇお前⋮⋮!!﹂
﹁わははははは﹂
またか⋮⋮。
あの﹁早く入れて⋮﹂な奈津はどこへ⋮⋮。
俺は洗面所にうがいをしに行く。
全然ジンライムでも何でもねぇよ!
戻ると奈津は裸のまま、
こちらに背を向けていた。
﹁たがはま﹂
何か泣いてる。
どうしたの、ねぇどうしたの?
俺が駆け寄ると、
﹁りゅうがぐやめよっがな﹂
と更に声がグジャグジャになった。
﹁⋮⋮⋮え?﹂
﹁うわぁあぁああぁあぁ!!﹂
﹁何?りゅうがぐ⋮⋮?﹂
340
﹁だがはまどいっじょにいだい!!﹂
高浜と一緒に医大?
いや、﹁居たい﹂と解釈しよう。
だとすごい嬉しいな。
じゃ⋮⋮りゅうがぐやめよっがな⋮⋮。
﹁奈津、留学するの?﹂
﹁⋮⋮ざらいげついぐ﹂
﹁再来月⋮⋮7月か!?﹂
えぇえぇえ。
何で早く言わねーんだよ!!
﹁やっばやめる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前、もしかして留学費用貯めてたのか﹂
奈津が頷いた。
﹁だまりずぎだげど﹂
﹁⋮⋮⋮そうか﹂
一千万かけて留学、どこに行くんだろう。
これで終わりとか、ないよな?
俺はもう居ても立っても居られなくなる。
341
﹁だいがぐのどぎ、いげながっだがらじゃがいじんりゅうがぐでい
ごうがなって﹂
﹁うん⋮⋮そうか﹂
嫌だ。
絶対嫌だ嫌だ嫌だ!!
俺はハフハフする心を抑える。
大学の時、となるとまぁ普通なら最低でも4年前だろ?
⋮⋮4年間、頑張って金貯めたんだな。
在学中からだと、もっとだもんな。
﹁どこに行くんだ﹂
奈津は嗚咽が収まり始めるのを待って、言った。
﹁ずっと子供の頃からカナダに住みたかった。大学時代には経済的
に行けなかったから﹂
カナダかぁ。
南の島ばっか行った俺には未踏の国だ。
﹁でもいい。止め⋮﹂
﹁止めるなよ﹂
自分でもビックリするような、冷静な声が出た。
﹁高浜?﹂
342
﹁お前、子供の時からって言ったな﹂
﹁そうだ﹂
﹁俺のコルベットが、それだ﹂
﹁あの赤いのか﹂
﹁そうだ、ミニカーで買って以来、いつか本物が欲しいって25年
間以上思い続けたんだ﹂
﹁四半世紀もか﹂
﹁すごい頑張って危ない目にも遭って、もっといい車があるだろう
って声も無視してやっと手に入れたんだ﹂
﹁⋮⋮背中のストレッチとかして悪かったな﹂
﹁それはもういいよ﹂
そんな事もあったなぁ。
でも奈津なら許しちゃうね、好きって怒りのハードルが下がる。
くぐれないくらいに低く。
﹁だから行けよ、絶対行かないと後悔するぞ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁俺もお前もいなくなっちゃう訳じゃない。メールもスカイプも国
際郵便だって色々あるだろ﹂
343
﹁うん⋮⋮でも高浜⋮⋮お前は2年間も私の事覚えてないだろ?﹂
﹁覚えてるだろ﹂
﹁いや、忘れる。って言うかどうでもよくなってそう﹂
あぁ⋮⋮身に覚えが⋮⋮。
でも違う。
多分、そんな風にならない。
﹁忘れん。どうでもよくもならない、と思う﹂
﹁無理だ、お前にはたくさん幾らでもいるんだから﹂
﹁知るか!お前みたいなのはまぁ1人で十分だ﹂
耳の周りがもぞもぞする。
うむ、久々な感覚。
﹁⋮⋮お前も赤面すんのか?﹂
﹁そりゃそうだろ﹂
﹁色が変わった⋮⋮﹂
﹁擬態したみたいに言うなよ!﹂
﹁はははは﹂
﹁だから行ってこいよ﹂
344
﹁なかなか言い出せなくてすまんな⋮⋮﹂
うん、すっごいビックリした。
えええやっとここまで来れたのにって気持ちはある。
でも俺より若い奈津の、しかも子供の頃からの俗に言う夢と言うの
を、俺が阻害するのは絶対嫌だ。
﹁馬鹿浜、ホントに2年間の長期だぞ﹂
﹁解ってる、さっき聞いたよ﹂
﹁はぁあ⋮⋮﹂
﹁忘れるか﹂
﹁⋮⋮てるぞ﹂
﹁俺もだよ﹂
聞き取れなかったけど、何か伝わりました。
﹁俺達気が合うよね!﹂
﹁うるさい。気は合うかもしれんが噛み合ってない﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
俺は奈津の背中を見ながら、何とも言えない気持ちになる。
2年間、か。
345
嫌だ嫌だ行くなって気持ちも無い訳じゃない。
ハッキリ心の奥底で燻ってる。
でも、止める権限は俺には無い。
奈津の言ってた権限の意味が、漸く解った。
﹁奈津、今日はどうする?﹂
﹁さぁ﹂
﹁俺は暇なんだけど﹂
﹁私も暇だ﹂
奈津が涙目で俺を振り返る。
﹁とりあえず飯だ﹂
﹁白御飯ならたくさんある﹂
﹁おかずが無いな﹂
﹁ごはんですよ﹂
﹁ごはんですか﹂
そう言って俺達はちょっと笑った。
俺もお腹空いた。
セックスすると腹が減るよね。
冷蔵庫は相変わらず、いや、昨日より空っぽで、俺達は昨日の奈津
346
の分のオムライスをチンして分け合って食べた。
日曜月曜、奈津と2日過ごして俺はもう何か一種の決心が固まった
気がする。
奈津の留守中の荷物は俺の家で預かる事となった。
アパート1LDK分の荷物は6.5畳の空き部屋に収まりそうだ。
ちょっと形は違うが、奈津が俺の家に来た感じはする。
そして、奈津も出発まで俺の家に1ヶ月ほど居る運びとなる。
アパート最後の日、奈津は佐川さんと川井さんにとりあえず挨拶を
しに行った。
川井さんは留守で、佐川さんは動揺した様だが車で待つ俺と奈津を
交互に見ていた。
奈津が留学の準備をしながら働くと言うので、俺は毎日送り迎え。
暇なんだよね、やる事は沢山あるけどやりたい事が無いんだもん。
奈津が仕事してる間に何やらチマチマこなして、また奈津を迎えに
行って。
店長に事の次第を告げると非常に驚かれる。
﹁高浜さんが何で奈津川なんですか?冗談でしょ?﹂
と言われて鏡月でぶん殴りたくなったが、我慢する。
人が毎日同じ飯を食ってセックスしてる女に﹁何で﹂はねーだろ。
大体お前が釣り合い云々言うからややこしくなったんだけどな、と
だけ諌めておく。
347
永山との約束の日も、奈津を送ってからまた改めて店に行く事にし
た。
どれだけ奈津一色なんだろうな、振り回されてボッコボコにされて
も全然嫌だと思わない。
そういえば最近、奈津は俺に手を上げなくなった気がする。
そこだけちょっと寂しい。
﹃これから向かうから半には着くかな。やっぱりこれ解除出来ない﹄
とまたもデコメが届き、まだ30分以上あるし⋮と俺は近くの駐車
場でうたた寝してしまい、ギリギリの時間になり焦った。
ぎゃー。
遅刻とか有り得ん!
店のドアを開けると、最初に飛び込んで来たのはカウンター越しに
楽しそうに談笑する永山と奈津だった。
奈津⋮⋮俺の時と全然違うじゃねーか。
そんなだから勘違いする奴が出てくるんだよ。
思わず永山に助走を付けてドロップキックしたくなる。
いやー、俺ってこんなに嫉妬深かったかね。
﹁あ、高浜!﹂
永山が手を挙げて俺を見ると、奈津は目を伏せた。
いやいやいや。
何でお前が無視するんだよ、まぁ仕事に私情挟まないのはいいこと
だけどさ。
﹁久しぶり。今、これ作って貰ったんだ﹂
348
久々に会った永山は、激務のせいか少しやつれていたが珍しく明る
かった。
﹁何だそれ﹂
緑色の液体にバニラアイスと毒々しいチェリーが浮かんでいる。
﹁あのね、向こうのお客さんが頼んでるのが美味しそうだったから、
あれ下さいって言ったらカクテルだったんだ、予想外にも。
お酒だったんだよ﹂
ここはバーですよ、永山さん!
俺は突っ込みたくなった。
向こうのお客さん⋮⋮二十代半ばくらいの結構可愛い女の子4人が
テーブル席で騒いでいる。
もう食指も動かない。
俺の変化を見ろよ、奈津。
﹁で、クリームソーダみたいなのかと思ったって言ったらこちらの
バーテンさんが作ってくれたんだよ。どうもありがとうございます﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
奈津もおかしそうに笑った。
﹁楽しそうだね、奈津川さん﹂
﹁あ、高浜、知り合いなの?﹂
349
奈津も俺を一瞥すると、
﹁こちらのお客様のお連れ様は高校の同級生とのみ、お聞きしてい
たので⋮⋮まさか高浜さんとは存じませんでした﹂
と、淡々と言った。
やっぱ俺にはその態度なんだな。悔しい。
﹁普段無口な奈津川さんが楽しそうだから、奈津川さんってこうい
う人がタイプなのかなと!﹂
﹁お客様に対して好み云々はございませんので!!﹂
﹁クリームソーダとか久しぶり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮永山、それ、マドラーだぞ﹂
﹁⋮⋮そうだな、出てこないからあれって思った﹂
﹁あ、失礼致しました﹂
奈津が慌ててストローを差し出す。
まぁこれは奈津の失敗だな。
相変わらずマドラー吸っちゃうのか、永山は。
しかも俺達が他人行儀でバチバチしてる中、クリームソーダ久しぶ
り、か。
﹁ホント楽しそうだな、奈津川さん﹂
﹁ええ、こちらのお客様が面白い方で﹂
350
﹁こちらって俺が?﹂
﹁お前しかいないだろ。永山、何を話してたんだよ﹂
﹁特に何も。世間話かな﹂
﹁普通の話でしたよね﹂
そう言い残して、奈津は仕事に戻った。
﹁永山、お前何か明るいけど彼女出来たの?﹂
﹁全然。高浜みたいに一度に沢山の女の子と付き合う器用さも無い
し⋮⋮恋愛はもういい﹂
余計な事を⋮⋮⋮。
奈津、絶対聞こえてる。
背中から不穏な殺意が滲み出てるもん。
永山も永山で、忙しいに加えて10年ほど彼女がいないらしい。
せっかくの見た目してんのに⋮⋮1回こっぴどくフラれてから、益
々女嫌いになったと言うか。
元々根が真面目だからな。
﹁あのさ、高浜﹂
永山はすごいキラキラした表情をして続けた。
﹁SMって楽しいな﹂
﹁SM⋮⋮?﹂
351
一瞬、何の事か解らなかった。
横目に見ると奈津も動きが止まっているが、耳が赤くなっているの
を見ると必死で笑いを堪えている。
﹁高浜なら俺より色々知ってると思うんだ﹂
﹁いや、SMってお前﹂
高校の時、遊びに行く度に永山のお母さんは、
﹁武志君、余り陽一郎を変なところに連れて行ったりしないで下さ
いね﹂
と俺に釘を刺していた。
あの⋮⋮お母さん⋮息子さん、俺が何もしなくても変な方向に走っ
て行っちゃいましたけど⋮⋮。
変わったね、違う意味で大人になったんだねと永山を見ると、彼は
無表情でストローとマドラーを箸のように使ってバニラアイスを食
べていた。
俺は吹きそうになり慌てて顔を背ける。
﹁どうした?﹂
﹁⋮⋮奈津川さん、ロングスプーンを忘れてるけど⋮﹂
﹁あ⋮⋮失礼、致しまし、た﹂
352
俺が笑いを堪えて伝えると、奈津も俺と同じ反応をした。
精一杯らしく手が震えている。
永山はそれを普通に礼を言って受け取る。
﹁あ、そうか。こういうのついて来るよね。変なメニュー頼んで申
し訳ない﹂
﹁いえ、とんでもない﹂
そうだそうだ、奈津。
お前が永山にいい顔してクリームソーダなんて作るからだぞ?
しかもクリームソーダにマドラーは要らん、ストローとロングスプ
ーンだ。
そしてそれに気付けよ、永山。
﹁俺はジンライムで!﹂
ガシャン。
奈津がグラスを落とす。
割れなくて良かったね。
﹁かしこまりました﹂
﹁高浜がジンライムって珍しいね﹂
﹁クリームソーダ食ってる男に言われたかねーよ﹂
﹁別にいつも頼む訳じゃないから。話戻していい?﹂
﹁どこにだ﹂
353
﹁SMって楽しいんだよ﹂
﹁そこかよ﹂
﹁高浜はそういうの無いのか?﹂
﹁無い訳じゃないけど﹂
﹁これなら自分にピッタリってのがあるんだね。性癖って言うかそ
ういう部分が﹂
﹁そうですか﹂
﹁お前なら詳しいかなと思って﹂
奈津が⋮俺の彼女が聞いてる前で⋮⋮。
知らないって怖い。
奈津の事を言ってもいいけど⋮⋮こいつの言動は全く読めない。
﹁俺が詳しい?﹂
﹁高浜の性癖は幅広そうだし﹂
﹁性癖⋮か、俺は好きな女に振り回された挙げ句にバッチンバッチ
ン叩かれたり蹴られたりもっと酷い事されて2年間くらい放置され
たら愛が深まる、とか何とか﹂
すると永山は心配そうに俺を見つめた。
﹁高浜⋮⋮それ、大丈夫か?﹂
354
﹁お前が言うな﹂
そう言い返したら、奈津がニヤッと笑って俺を見る。
やっぱ聞こえてるよな、全部。
﹁そっか、お前⋮⋮顔に似合わずマゾなんだな﹂
﹁お前がサドな方が怖えよ﹂
﹁そう?﹂
永山が邪悪な笑いをした。
何かその顔のまま、平気で人も子犬や子猫も殺しかねない表情だっ
た。
永山君のお母さーん⋮⋮。
﹁永山、お前って好きな女っていたことあるか?﹂
﹁好きな女⋮⋮か﹂
彼の暗い光の無い目の瞳孔がちょっと開く。
俺が人のこと言うべきじゃないけど、こんな怖い顔はそうそう無い。
顔立ちが整っているだけに狂気が浮き彫りになっているような。
﹁よく解らないんだよな﹂
﹁まだ昔の彼女に未練があるのか﹂
﹁それはない﹂
355
うう⋮⋮更に怖い。
俺、絶対地雷踏んだ。
口元は柔らかく笑顔だけど、目が怖い友人は今度はロングスプーン
の柄を口に入れた。
あ、違った、紛らわしいなぁとか何とか言いながら、マドラーとロ
ングスプーンをコースターの上に置く。
こいつは一生これをやる気がした。
﹁うん⋮⋮やっぱり好きって余り⋮⋮感じた事が無いな﹂
そうか。
やっぱりお前、根本的な何かが欠けてるのかもな。
﹁いきなり現れるんだよ、そういう相手は﹂
﹁そうかな﹂
﹁うん、永山の周りに既にいるかもしれないし、ある日突然﹂
﹁そうか⋮⋮でも、これだけ女性と毎日顔合わせてても何にも全然
無いけど﹂
﹁産婦人科医だからな⋮⋮ま、人妻と何かあっても嫌だろ﹂
﹁だからそういうのは無いと何度も﹂
そっか。
俺には想像も付かないよ、毎日触診するとか。
でも永山の疲れた表情を見ると、一般の男が想像するようなものは
356
全然なさそうだ。
﹁相手が現れたら恋愛してみろよ、いいぞ片思い﹂
﹁お前みたいに器用に出来ればいいんだけどな⋮⋮女の子によって
自分を使い分けするとか俺には無理﹂
ゴゴゴゴゴ⋮⋮。
カウンター内からまたも殺気が漂って来た気がする。
ああ⋮⋮結局奈津と一緒にいられるなら、こいつとの待ち合わせに
この店使うんじゃなかった!!
違う違う、聞けよ奈津。
﹁俺ね、ここ最近愛に目覚めたんだよ﹂
﹁前もそんな事言ってたな﹂
﹁言ってない!﹂
﹁そうだっけ?﹂
﹁高浜さんは女性に不自由なさらないですもんね、沢山いくらでも
いらっしゃるようですし﹂
もーー奈津川さんが怒っちゃったじゃん!
このクソ天然産科医!!
﹁ほら、奈津川さんもそう言ってるだろ。やっぱり高浜に1人の女
性なんて無茶。高浜らしくないよ﹂
357
﹁⋮⋮⋮そうなんですか﹂
﹁いや、だから何でお前は俺の言うこと以外を信じるんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮馬鹿浜さん、声が大きいですよ﹂
﹁やっぱ高浜は綺麗なお姉さんに囲まれてるのが合ってるんだよ、
絵的にも﹂
奈津が馬鹿浜って言ったの気付いてないのか、馬鹿山は。
母音は一緒だけど濁音だぞ。
﹁でも高浜って、奈津川さんと仲良いな﹂
﹁仲が良いわけないじゃないですか、高浜さんと﹂
奈津⋮⋮。
そんな切り捨てなくても。
あれからずっと一緒にいて御飯も交代で作ったりほぼ毎日セックス
してるのに、仲が良いわけないってあんまりだと思いますけど。
もう次はこの店でなくても個室のあるところにしよう。
永山の悪気のない絨毯爆撃が危な過ぎる。
﹁何かお前と奈津川さんって幼なじみみたいに見えるな﹂
﹁幼なじみ⋮⋮?﹂
俺と奈津は顔を見合わせる。
358
﹁うん、何か全然違うんだけど似てる気がする﹂
﹁全然違うなら似てねぇだろ﹂
﹁そうか。話は変わるが高浜、俺ね、うっかり別荘建てたんだけど﹂
﹁うっかりで別荘建てるな﹂
﹁いや、不動産屋が⋮⋮上手いんだよ、営業さんって﹂
流石の奈津も﹁ないない﹂という顔をしてる。
その永山の話は俺がやり始めた事と歪んだ形で重なって、奈津のい
ない間の暇潰しと言うかちょっとした思い付きで変な方向に突っ走
る。
まぁ、結果として永山の人生観が大きく変わる事となるなんて思っ
てなかったけどね。
﹁あのさ、永山﹂
﹁何?﹂
﹁俺って何か匂いするのか?﹂
﹁いや?焼肉でも行ったの?全然気にならないけど﹂
﹁そういうんじゃない、何ていうか体臭みたいな﹂
すると永山は例のフリーズをしたが、すぐに首を傾げて、
359
﹁柔軟剤の匂いとかじゃない?﹂
と言って口から結ばれたチェリーのヘタを出して灰皿に入れた。
奈津が俺を見て笑っていた。
俺が忙しくしても、暇してても時間は同じように過ぎていく。
あぁ⋮⋮来ちゃったね、7月。
一緒にTOEFLの問題集を復習して﹁流石だ現地人﹂なんて言わ
れたり、相変わらず殴られたり蹴られたり飲まされたりしたけど、
すごく楽しかった。
あれだけ怖がりな奈津が意外にも幽霊と言うか、心霊写真みたいな
のが好きな事も発覚。
奈津って、英語堪能。
英検準1級止まりの高校生から進歩が無いどころか退化してる俺と
は熱意も能力も違う。
﹁高浜って頭良かったんだな﹂
﹁過去形か。今の俺がアホなのは自覚してるけど﹂
﹁お前、そのまま大学行って就職したらかなり良いセン行ってたん
だろうな﹂
﹁何言ってんだよ、多分結果は同じだろ﹂
そう思う。
人には適性や嗜好があるから、他人がどうこう言っても俺の人生は
これでいい。
俺がそれなりに進学してそれなりに就職してたら、奈津とは会って
360
ないだろうし。
進路も性格も人種も違っても、永山みたいに15年間変わらず付き
合う相手もたまにいる訳だし。
気付いたんだよね、今周りにいる知ってる人間って、ちょっと進路
を変えたら知らない人だったんじゃないか。
当たり前なんだけど。
そんな気分になるくらい、俺は落ち込んでいたと言うか、色々考え
させられた。
何かドラマとかならプロポーズする展開だが、いかんせん俺には結
婚願望が無い。
奈津は未だに自分は子供が産めない事を気にしているみたいだが、
奈津は奈津の子供の頃から希望していた将来に届いた訳だしな。
でもやっぱり本当は行って欲しくない。
冷蔵庫にあれあっただろ、あのDVD借りよう、そんな他愛ない事
が暫く出来ないのがこんなにも悲しいとは思わなかった、と言うか。
一緒に帰ってどっちが御飯作るかとか、ドアを開けたらおいしそう
な匂いがしたり、お風呂で英会話練習したり。
誰とでも出来そうな事が、もう奈津と出来なくなる。
残される俺としてはここで別れてもいいんだろうね、お互い楽しか
ったね、いい思い出です的な感じで。
そうすれば楽になるのにそれを俺が全く望んでない。
これが情に流されると言う事なんだろうか。
明日には奈津がいなくなる。
そう思うともの凄く冷静な自分がいた。
361
﹁あ、そうすね、知ってますけど﹂と言わんばかりのふてぶてしさ
で現実を捉えようとしている理由を考えると、また沈んで行く。
弱ぇ。弱すぎる。
会えない間に、きっとどっちかが変わってて、もう奈津と一緒に料
理したり出来ないのか⋮⋮と苦しむ事すら物語の一環として他人事
のように楽しんでる自分が、嫌だ。
何でもっと素直に1つの事を1つの感情で捉えられないんだろう。
結局、強い奴って傷付かないように感情を制御するのが上手いだけ
なんじゃないのか。
そんな事を考えながら、もしかしたら最後かもしれないと言う気持
ちで奈津と朝まで目茶苦茶にセックスして、いつも通り一緒に風呂
に入って朝食を共にする。
そして余り会話はないまま、奈津が出る時間になった。
﹁本当にここまででいいのか﹂
﹁見送りとかホントやめろよ﹂
俺は見送りは玄関まででいいと言われ、次に進もうとしてる奈津に
はもう俺はいらないと言われた気分になって、ガッカリした。
理由はコルベットにはトランクが乗らないから、だそうですが。
タクシーあるじゃん。
そう言っても、奈津は断固として断る。
はぁ⋮⋮あのトランクに入りたい。
﹁ホントここまででいいから﹂
﹁奈津﹂
362
﹁そんな顔するな、お前が行けって背中押したんだろが﹂
奈津は笑顔で俺にキスすると、
﹁あっちでお前の母親に会えるかもしれん﹂
とよく解らない事を言った。
﹁いるかよ。いても解るかよ﹂
﹁まぁそうだなはははははは﹂
はぁ⋮⋮奈津さん、嬉しそう。
そうだよね、子供の頃からの願いなんだもんね。
叶ったら嬉しいよね。
﹁何か私が出ていくのに、愛犬馬鹿浜を野に放す気分だ﹂
﹁それ、捨て犬って言うんじゃないのか﹂
﹁ははは、そうか。そうだな﹂
最後まで訳解らん。
でも、奈津が泣いたりしなくて良かった。
﹁さよなら高浜﹂
﹁⋮⋮じゃあね奈津﹂
奈津は颯爽と玄関を出て行った。
363
ドア越しにキャスターの音が遠ざかって行く。
エレベーターホール辺りで静かになって、間もなくエレベーターに
乗るらしい音がガコンガコンと響いた。
俺はリビングに行ってみる。
動物園みたいなでかいガラス窓から下の往来を見ていると、でかい
トランクを引いて歩く奈津が見えた。
俯いてトランクを引いてない方の手を不自然にずっと顔に当てなが
ら歩いているのも、通行人がそんな奈津を振り返ったり立ち止まっ
て見てるのも、視力のいい俺には見える。
どうせ泣くならあんなに強がらなくてもいいのに。
そんな奈津が見えなくなるまで見送ると、何だか妙な開放感に襲わ
れる。
良かったな、これで元通りだ。
今は気持ちがあるからいいけど、2年間なんて現実的にお互い無理
だろ。
そうかな。
やっぱ家にいるとダメだ、俺も次に進もう。
近所にあるオシャレなコーヒー屋さんのカウンター席で必死に色ん
な事を考えていると、
﹁隣、いいですか?﹂
と言う声がした。
﹁どうぞ﹂
364
と答えて振り返ってみると、凄く綺麗なお姉さんが俺を覗き込んで
いる。
空席は他にも全然あるのに、お姉さんは俺の隣に座った。
﹁ここ、よく来るんですか?﹂
﹁来ます﹂
初対面の奈津か合コン時の永山か、ってくらい俺は語彙に乏しいや
る気の無い返事をする。
﹁そうなんですか﹂
お姉さんは怯まない。
寧ろ笑顔になった。
﹁この後、暇?﹂
散々使って来たこの言葉を久々に言ってみる。
﹁暇と言えば暇、ですけど﹂
お姉さんはまた笑って言った。
あ、そうなんだ。
どうしようもない自分に少し嫌気が差した。
お姉さんと夕飯を食べて、夜遅く帰って俺はソファーに寝っ転がる。
FAXは相変わらず俺がいてもいなくても真面目に仕事をする。
奈津が家にいる時は用紙抜いててごめんなFAX。
365
プリント出来なくて困っただろう。
俺は立ち上がって用紙をセットすると、次々にプリントされては床
に落ちて行くのをじっと見ていた。
今日くらいは奈津のいなくなった自分で落ち込んでいたい気もする
が、止めとこう。
この気持ちに飲まれたら迷う。
迷うと言うか、感覚が狂って他の事にまで支障が出そう。
俺がそうなったら迷惑を被る人間だって出る訳ですし。
もうFAXをチェックしたら風呂入って寝ちゃえ。
1ヶ月そこらの楽しかった時間にその後の時間まで捕われてどうす
るんだね。
寝ようとベッドに寝転ぶとまたも奈津のいない感覚が湧く。
元々俺しかいなかったはずの空間が、奈津がいないと言う事実に飲
み込まれていると言うか。
これが奈津が言っていた違和感とか喪失感なんだろうか。
案外きついな。
⋮⋮俺の枕が無い事に気付く。
持ってっちゃったのか、あいつ。
電気も点けず暗闇で俺は仰向けになって考える。
考えても考えても、やっぱり奈津のいない違和感と喪失感みたいな
のに行き着いてしまう。
この家を出よう。
ちょっとそこまでと言う意味じゃなくって、長期的に。
何見ても奈津を思い出す、調子狂う空間なんて俺には要らない。
366
自分自身とPCとFAXと携帯あれば何とかなる簡単な職業ですか
ら。
携帯が鳴ったので見ると、さっきのお姉さんからメールが来る。
何を返信しようか考えたが、FAXの束を手にとって見てると、あ
ぁこれをこうして⋮⋮と、色んな考えが纏まって来た。
これで俺はこの家をしばらく出られる。
やっぱ同棲なんてするもんじゃないな。
ふと、そんな考えが過ぎった。
367
★高浜武志・3★︵後書き︶
うん、そうだね。
しない方がいい相手もいるよね。
でも結婚する相手とはしておくべきかも。
それが同棲だと思います。
368
鏡を見た時に思う事︵前書き︶
いやー嫉妬って醜いですよね。
解ってます、自分の自信の無さの責任転嫁なんて事くらい。
でも⋮⋮⋮
夫﹁何か会社の女の子が体調悪いから迎えに来て欲しいんだって、
行ってくるね﹂
私﹁⋮⋮タクシー使えって言えば?﹂
夫﹁何疑ってんの⋮⋮可哀相だろ、具合悪いって言ってるのに。お
金無いってよく言ってるし﹂
私﹁そのまま死ねとお伝え下さい﹂
夫﹁そんなだから怖がって﹃奥さんには絶対内緒で﹄とか言われる
んだよ⋮⋮﹂
私﹁今、何つった?﹂
夫﹁だからね、お前って何か同性に威圧感みたいなのあるんだろう
ね。男から見たら親しみ易いけど、女から見たら怖いんだよ相当。
さっき連絡してきた子もお前が怖いから、奥さんに内緒で迎えに来
てほしいって言ったんだと思う﹂
369
私﹁あのー⋮⋮⋮私も行っていいか?﹂
夫﹁え?別にいいけど変に疑ったりしないでね。常識あるいい子だ
から心配無い、会えば解るよ﹂
私﹁常識あるいい子はな、人の旦那に配偶者に内緒で迎えに来いな
んて言わねぇよ!この馬鹿!!︵中段蹴︶﹂
夫﹁蹴るなよもー⋮⋮お前絶対人間不信とかじゃない?﹂
この会話で私が間違ってると思う方は挙手をお願いします。
因みに件の彼女は、助手席の私の顔を見たら笑顔から一気に体調が
悪化しました。
私のせいか。
ははは、死ね。
370
鏡を見た時に思う事
﹁可愛い⋮⋮﹂
﹁可愛いですね﹂
﹁でも⋮私には育てられないって言うか﹂
﹁⋮⋮そうでしょうか。確かにあなたが育てられなくても、この子
の両親は私達が責任を持って選びますが﹂
﹁そうですか⋮⋮⋮名前もその人達が決めるんですよね﹂
数時間前に出産を終えたばかりの彼女に、赤ちゃんに会いたいと、
何故か私が指名されました。 彼女は畑野さんと言って23歳、里子希望での出産をした方です。
父親は元彼氏だと言う事ですが妊娠発覚と同時に音信不通になり、
悩んだけど可哀想だから堕ろさずに産む決意をしたのは勇気のある
覚悟だと思います。
実家住みのフリーターと言っておられましたが、産むと決めて臨月
までお仕事をされた訳ですし。 まぁ⋮⋮うちの場合は自治体の出産一時金の他に病院が独自で奨励
目的で補助金を出している為に、何かない限りは中絶よりも安く済
むんです。
それが件の制度です。
その補助金は、先代から積み立てていた病院の改装費から主に出し
371
ています。 これは私見なんですが、地方にありがちなシティホテルみたいな外
観及び内装って、何かお金掛ける場所が違う気がするんですよね。 やっぱり女性はそういうのが好きなのかな、余りに殺風景なのもな
ぁって思いますけど、毅彦と私の考えで先代のシティホテル化計画
は反古にしました。
だって設備や清潔さはともかく、病院に豪華絢爛さって求めないと
思うんですね。
じゃ積み立てた改装費で何を改善する?って話を毅彦や他の医師や
スタッフさんや受付の人みんなの意見を募りました。 まず、待合室。 ソファーを座り心地がいいものにしてみました。 で、マタニティ雑誌以外の出産関連の本も置こう。
後は上のお子さんがいる場合の為のプレイルームを拡大して、大型
玩具を置いて保育士免許を持つ人を探してスタッフとして常駐させ
たりもしました。
外観も内装も三代前から大きくは変わりませんが、待合室はフカフ
カの家に欲しくなるようなソファーと大型液晶テレビと書籍、そし
て12畳のプレイルームが完成しました。
すると、毅彦が2階の賞状とか盾が邪魔だと言い始めました。
ずっとそこにあったので私には盲点なところでしたが、毅彦はメー
カーさんや企業に連絡を取って、これから使う人が実際に触って確
かめられるようにサンプル品を並べる⋮⋮と言って1週間後には、
そこはマタニティー及びベビー用品展示場となり、商品発注書まで
置かれる事となりました。 賞状の類は毅彦の住む実家に飾る事となりました。
372
⋮⋮話はまたも大幅にそれましたが、そんなこんなしても積み立て
の1割にもなりません。 ﹁これは有意義に使えるよね﹂
と、毅彦は嬉しそうに言いました。 そして今、改装費用の為の積み立て金は、足したり引いたりしてそ
れは出産のみで里子希望の妊婦さんの出産や入院費の予備費となっ
ている訳です。 ⋮⋮どうなんですかね。
普通の病院って感じより、豪華絢爛な内装の病院の方が好まれるも
のなんでしょうかね。 毅彦は ﹁化粧と一緒で医療面の自信の無さの表れじゃないの?﹂
と言っていますが⋮⋮。 ﹁あのー⋮⋮永山⋮先生?﹂
心配そうに、顔を覗かれました。
また色々考えてました。
﹁あ、すみません﹂
﹁あの、里子の件は考えさせて貰っていいですか⋮⋮﹂
﹁と言うと?﹂
373
﹁いや、やっぱり自分で育てるのもいいかなって、何かちょっと考
えちゃって﹂
﹁⋮⋮もし気持ちが固まったら、スタッフセンターに言えば大丈夫
です﹂
やっぱり育てると言う人だって中には出てきます。 これが産後の女性ホルモンが増幅させる母性と言うものなんでしょ
うね。 ﹁下で相談すればいいんですか﹂
﹁はい。良かったら母子同室に変えましょうか?もうちょっと新生
児室で検査がありますが、その後なら﹂
﹁⋮⋮お願いします﹂
気付いて貰えて良かった。
何が最善かは解りませんが、赤ちゃんには世話をしてくれる保護者
が必要です。
養子な以上は将来的に血縁の有無で悩むかもしれませんが、実の産
みの親が育てればそれはありません。
スタッフセンターに行き、
﹁今日出産の畑野さん、検査終わり次第同室にして下さい﹂
と言うと、助産師さん達が﹁?﹂と言う顔をしました。 ﹁だって畑野さんは﹂
374
﹁まだ里子は考えさせて欲しいって﹂
﹁そうですか⋮⋮でも、やっぱりいらないとかならないかしら、若
いから﹂
﹁⋮⋮若くても若くなくてもそれは解りませんね﹂
ちょっとユズちゃんの事が浮かびました。 若くても若くなくても、里子に出す人は出すし、育てる人は育てる
ものです。
その時、受付の人がスタッフセンターに来ました。
﹁陽一郎先生、お客さんがいらっしゃってます﹂
﹁お客さん?毅彦が対応しなくていいんですかね﹂
﹁陽一郎先生にって来てます﹂
テレビに出てから、何故か医療機器や器具の業者さんの訪問が今ま
での何倍になりました。
私は上手く説明されると買ってしまうクチなので、毅彦がいつも対
応することになっています。
﹁あの、これ名刺⋮﹂
﹁出版社⋮⋮いや、週刊誌ですか⋮⋮﹂
﹁今日はご挨拶だけとの事です。応接室通しますか?﹂
375
﹁お願いします﹂
里親里子を打ち出し、里子の出産から捨て子まで受け入れると発表
した時は、かなり色々取材が来ました。
その病院の制度云々より、何故か騒がれる内に私自身に話題が逸れ
てしまったので忙しさを理由に逃げた事も多々あります。 色々批判もありましたしね。 でも間違ってない、と言える自分がいます。 白衣のまま応接室に向かうと、先に待っていた三十代半ばくらいの
ベージュのスーツ姿の女性に満面の笑みで挨拶されました。 ﹁初めまして、週刊女性時代編集部の初田と申します﹂
﹁副医院長兼産科部長の永山です﹂
前にも申し上げたかもしれませんが、婦人科部長は毅彦です。
そして院長名義も毅彦です。
医療従事者としては優秀な人間が上に立った方がいい訳ですしね。
それに保倉先生がいらっしゃいますしね。
名刺を頂いた事を思い出し、私はポケットの名刺入れを探しますが、
入っている気配がありません。
名刺を頂いたのにこちらが渡さないって失礼になるので少し焦りま
した。
﹁すみません、名刺が﹂
﹁あ、お気になさらず結構ですよ。本物の生の永山先生にお会い出
376
来て光栄です﹂
まるで偽物がいるみたいな不思議な言い方でした。
生とは現物を意味しているのは私でも解りますが。
﹁今日伺ったのはですね、先生にインタビュー記事のご協力を頂き
たいと思いまして﹂
﹁はぁ﹂
﹁何だか先生って、テレビで観るのと印象がだいぶ違っていらっし
ゃいますね﹂
﹁⋮頼りないですか?﹂
﹁いえ、そんな意味じゃないですよ?!﹂
﹁ならいいのですが⋮﹂
良かった、ちょっと安心しました。
﹁こんな感じで、対談形式で行いたいと﹂
慣れた手付きで書類鞄から、A4サイズの出版社の名前の入った封
筒が差し出されます。 中の書類を出そうとしますが、どうやって入れたのかジャストサイ
ズ過ぎて書類が出て来ないので、側面の折目に指を入れて少しずつ
破って出していると、初田さんが吹き出しました。 ﹁あ、すみません。書類出させて頂きますね﹂
377
と私から封筒を取り上げると、流石と言うしか無いような慣れた手
付きでサッと取り出しました。 私の苦労は何だったんでしょうか。
﹁こちらがインタビューの概要です﹂
﹁有り難うございます﹂
渡された書類を見ると、簡単な社交辞令の後に、 ・永山先生の考える産院としての将来像
・永山先生の考える結婚と出産 ・永山先生の理想の女性
等々、小学校の図書室を思い出すような永山先生シリーズが並びま
した。 ﹁⋮⋮病院より私がメインなんですか?﹂
﹁まぁ女性誌ですので﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁申し上げてしまうとですね、全国の読者の皆さんから、永山先生
のコーナーの要望や問い合わせが多かったんですよ﹂
﹁コーナー?﹂
378
﹁ええ、数ヶ月前に記事として写真付きで載せたら、反響が良かっ
たと言うか﹂
﹁それは⋮うちの病院の指針がって事ですか﹂
﹁それもありますけど⋮⋮まぁ、読者の多数が女性ですので﹂
何だ、何が言いたいんだ。 最近浮かれて忘れていた感情が、再び湧いて来ました。 ﹁そんな警戒なさらないで下さい。あくまで産婦人科のお医者さん
としての記事にしますから﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
嫌だな、何か。 妊娠や出産等の専門的な事なら喜んで応じたいですが。
言い方は悪いのですが⋮⋮何か俗っぽい感じが否めません。 私の事を掘り下げても、誰も得をしないでしょうし。 ﹁あのー⋮⋮⋮永山先生?﹂
﹁はい﹂
﹁どうかされました?﹂
﹁いや、ちょっと考えていただけです﹂
心底心配そうに覗きこまれました。
379
﹁今、考えさせて頂いたのですが⋮⋮私個人の事を掘り下げても何
も面白くないと思いますよ﹂
﹁真面目な内容に、所謂恋バナトークも交えて下さると﹂
﹁こいばな?﹂
﹁まぁ、先生の恋愛経験というか、ですね﹂
私は思わず、眉間に力が入るのを感じました。 そんなの私に聞くより高浜にでも聞いて欲しいです。
﹁あ、別に恋愛論程度で構いませんから﹂
﹁私は今まで余りそういう経験がないので、お話する事があるかど
うか﹂
﹁まったまたー﹂
﹁本当です﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁少なくとも今までは﹂
﹁じゃ今ならあるって事ですか﹂
﹁⋮⋮って事でもないです﹂
﹁もし不快な点がございましたら、削除致しますので﹂
380
と、先程の2枚の紙を指して言われました。 全部、とは言いにくいし⋮⋮と私が困惑しているその時。
ノックが聞こえて
﹁陽一郎先生、永山です﹂
と言う妙な言い方の後に、ドアが開いて毅彦が入って来ました。 ﹁どうも初めまして、院長の永山毅彦です﹂
﹁あ、弟さんが院長先生⋮﹂
﹁はい、名義上だけですが。まぁ院内の医師個人の意思が病院全体
の総意だと思われても困りますので。特に兄の場合は﹂
特に兄の場合は。 ちょっと突き刺さりましたが、否定出来ない事は私も実感していま
す。 ﹁確かに⋮⋮でも一種の、永山先生のファンへの記事みたいな要素
を含むものなので﹂
何ですかそれは。
私は段々居心地が悪くなって来ました。 大学の飲み会なんかで感じていた、妙な感じが蘇りました。 どう応えていいのかも解らない、見世物みたいに扱われる気持ち悪
さです。
﹁兄は正直、女性が喜ぶ様な内容を述べられる人間ではありません
よ﹂
381
﹁あははは、そんなつもりは無いです。もし良ければ、永山先生お
二人と言うのも﹂
﹁って事は弟でもいいって事ですよね?永山先生に変わりは無いで
すし﹂
と閃いた私が言うと、 ﹁それは違いますね﹂
﹁⋮⋮話聞いてた?!﹂
と、同時に二人に怒られてしまいました。
これ、前にもあったな。
あの時は前に高浜と毅彦がいて、隣にはユズちゃんがいて。
毅彦は高浜に何があるんだろう。
そう言えばユズちゃんにはまだメール返信してないから昼休みにで
もしなきゃ。
いきなり、隣から脚を蹴飛ばされて私は我に返ります。 ﹁すまん⋮﹂
﹁とにかくですね、こちらの内容に関しましては私共で検討させて
頂いた後にご連絡致しますので﹂
﹁え?お受け頂けるって事ですか?﹂
﹁申し訳ないですが、本日、この取材⋮⋮インタビュー記事をお受
けするか否かに関しましては後日ご連絡致します﹂
382
そう言って、毅彦は卓上にあった書類を揃えると、スッスッと封筒
にしまいました。 あんなにスムーズに出し入れ出来るものなんですね。 指で破っていた自分が恥ずかしくなりました。 毅彦が華麗な巻き返しをして初田さんを追い返すように帰らせると、
こちらを振り向き、 ﹁勘弁してよ、ホント﹂
と呟きました。 ﹁何か、毅彦⋮⋮高浜に似てきたな﹂
と言うと、毅彦は一瞬憎悪に満ちた鋭い表情になりましたが、 ﹁高浜さんみたいな、ああまでは無理だよ。て言うか兄さんに見習
って欲しい﹂
といつもの人懐っこい顔に戻りました。 やっぱり高浜のファンなんでしょう。
﹁兄さんってさ﹂
﹁え?﹂
﹁危機感と洞察力が無いよね﹂
﹁⋮⋮うん、最近実感してる⋮⋮﹂
383
これでも、最近は意識しているつもりだったのですが⋮⋮。
﹁多分、兄さんが女だったら厄介な事になってたと思うよ﹂
﹁女だったら厄介?﹂
﹁兄さん、断れないじゃん。優しいと優柔不断って、字は一緒でも
意味は違うと思うよ﹂
と言いました。 毅彦の言うとおりかもしれません。
﹁ごめん、言い過ぎたな﹂
﹁余り気にしてないから大丈夫だよ﹂
﹁いやいやいや、気にしてよ。気にしてくれないと困るから!!﹂
﹁解った﹂
鈍感な私と違って毅彦は感情の起伏が大きくて大変だな、と首を手
首で擦っている毅彦を見て思いました。 ﹁後さ、こないだの⋮⋮相良さん達が来た時﹂
﹁高浜が来た時か?﹂
やっぱり毅彦は高浜と聞くと黙ります。 直接は何も無いと高浜本人が言うだけに、やはり気になります。
384
﹁それが何?﹂
﹁⋮⋮相良さんを見たスタッフさんが、ユズちゃんじゃないかって
噂してるから気を付けてよ。同一人物だってバレたら厄介だしさ﹂
﹁⋮⋮⋮解った﹂
﹁じゃ、俺は診察戻るから回診よろしくね﹂
そう言うと、毅彦はスタスタと相変わらず大股で遠ざかって行きま
した。 ﹁⋮⋮って事があったんだよね﹂
昼休みにユズちゃんに連絡し、事の次第を話しました。 ﹃良かったね、毅彦先生来てくれて﹄
﹁うん、助かった﹂
﹃でも何か⋮⋮芸能人みたいな扱いになっちゃってるんだね﹄
﹁芸能人にはならないと思うよ、医者だし俺がなりようが無いし﹂
﹃いやいやいや、扱いがって話。先生って鏡見ないの?﹄
⋮⋮⋮鏡見ないの? 別に自分がモテると思った事もかっこいいと持て囃される人種では
無い事も自覚していますが、ユズちゃんに鏡見ろと言われると凹み
385
ました。 ﹁別に俺は自分の容姿を芸能人なんて思った事ないけど⋮⋮⋮﹂
﹃だから、変な取材が来た意味が解らないんだね﹄
﹁そう。何かすごい気持ち悪い。何て言うか、変な好奇心持たれて
いる感じ﹂
すると苦笑する様な声がして、 ﹃そんなだから先生はいいんだよね、そこが私は大好き﹄
と言われて混乱しました。
何だ?何なんだ? と思う反面、大好きかぁ⋮と喜ぶだらしない自分がいましたが、 ﹃永山∼テレホンセックスも大概にしろ∼﹄
と高浜のからかう声が聞こえて一気にまた凹みました。 ﹃うるさいな、日本語上手ですね!!﹄
﹃俺は日本人だ!!﹄
﹁日本語上手?﹂
﹃そう、みんなで買い物行ったら高浜さんが店員さんに言われちゃ
ったんだよね。誰も庇えなかったし、あははははウケる﹄
﹁まぁ外国人と間違われるのは俺も何度も見たな﹂
386
﹃やっぱり。私もハーフってより外国人そのものかと思ったもん、
顔は白人系なのに黒いし﹄
﹃人が気にしてる事を⋮⋮﹄
﹃いいじゃん、メロン姉さんはそんな異国情緒溢れる人が好きなん
だから。最近ねー、超いい感じなんだよメロンちゃんと長浜さん﹄
あ、そうなの?
ちょっと意外でしたが、友人としては悪い話ではありません。
﹃小学生は知らなくていい話だから余計な事言うなよ﹄
楽しそうだなぁ。 私は白衣のポケットから手帳を出しました。
⋮⋮久しく休日らしい休日を取っていません。
﹁今度の木曜日か金曜日、何もなさそうだったらそっち行きたいん
だけど大丈夫?﹂
﹃やったぁあ!!ねー、木曜日か金曜日に先生来るらしいんだけど﹄
﹃ちょっと待て。木曜日は⋮⋮朝ならいいよって言っといて。倉田
もいるから悩み事相談会開催かな、根暗なあいつも倉田と話せば何
とか持ちなおすだろ﹄
聞こえてる。 全部聞こえてるから。
でも、自分の別荘が風俗店になるなんて思いもしませんでしたが、
行くのが楽しみな自分がいました。
387
﹃じゃ先生、待ってるね木曜日﹄
﹁うん、じゃあね﹂
と電話を切った後に、高浜の顔を思い浮かべました。
本人は会う人会う人にハーフ?だの日本語上手いだの言われてウン
ザリしたり静かにキレたりしていましたが、私も高浜の出生ルーツ
を今更ながら思いました。
こないだの衝撃発言の際に言っていた様に、高浜自身が産みの親に
は興味が無いなら、そこは謎のままでもいいところでしょうね。
初田さんではありませんが人が人に好奇心を持つと、持たれる人の
気持ちは二の次になりがちですしね。 舞い上がる私のやる気に応える様に、水曜日は出産ラッシュでした。
毅彦も私も他の先生達、保倉先生、助産師さん達全員で走り回って
6人の赤ちゃんが無事に生まれました。 助産師は医師免許が無いとか助産師がいれば産科医は異常分娩以外
はいらないとか言う議論が巷にありますが、永山産婦人科ではそん
な事言ってられません。
私や毅彦や保倉先生の3人では無理ですし、助産師さんは帝王切開
等は出来ない訳なので、双方が協力しないと安全な出産にはならな
いと忙しい時ほど実感します。
まぁ当院は女医さんがいない代わりに助産師さんは全員女性なので、
医師に相談しにくい事は助産師さんに言いやすいメリットはあると
思います。
388
﹁お疲れ﹂
毅彦がまたコーヒーを片手に歩いて来ました。 ﹁お疲れ様⋮⋮﹂
毅彦の目の下の隈を見て、私も酷い事になっているのかなと思いま
した。 でもどんなに忙しくても、保倉先生が来る前はもっと大変だった、
と言うのが私達兄弟の合言葉みたいな感じになっています。 ﹁兄さん、明日は﹂
﹁休みだけど﹂
﹁いや、行くんでしょ、あっちに﹂
何故か毅彦はコーヒーを啜りながらゴシゴシ首を擦っています。 ﹁行くつもり﹂
﹁そう⋮⋮⋮﹂
人生の半分近くをアメリカで過ごしたせいか、毅彦は私には中学生
の時の喋り方のままだな。 とか、どうでもいい事に気が付きました。
まぁ顔が童顔だからか違和感が無く、数年仕事を一緒にしていても
気が付きませんでした。 ﹁まだみんないるんでしょ、あっちに﹂
389
﹁まぁ、そうだな﹂
﹁⋮⋮⋮いつまでそうするつもりなの?﹂
﹁出産が近くなれば、この近くに来るとは聞いているけど﹂
﹁高浜さんは凄い人だと思うけど⋮⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁兄さんは医者として提言してあげなよ、友達としてじゃなくて﹂
﹁する時はしてる﹂
毅彦は更に左手首で首を擦り始めました。 ﹁俺さ、あの後色々考えたんだよね。その⋮⋮高浜さんの名刺見な
がら﹂
何を? 頭の切れる毅彦なだけに私は身構えました。 何か高浜と毅彦に挟まれるだけの頭脳があれば、と心から思います。
身構えたところで、何も先手が打てない自分が切ないです。
﹁俺が高浜さんなら、何を思っていきなりこんな事するかなって﹂
﹁うーん⋮⋮高浜の場合は思い付きで現実的に行動するから﹂
390
﹁うん、知ってる。天才だよね、あの人﹂
毅彦が言うくらいならそうなんでしょう。 確かにあいつは周りに迷惑を掛けずに我が道を行く天才です。
﹁だから俺には全然何故かは解らない。だから、妊婦さんをビジネ
スに使う可能性について考えてみた﹂
﹁ビジネス⋮⋮⋮﹂
﹁どうなんだろうね。俺の稚拙な発想だと、高浜さんはとんでもな
い事をしてる事になるんだけど﹂
今日はすごくゴシゴシしてるなぁ⋮⋮⋮。 ﹁とんでもない事?﹂
﹁うん、でも高浜さんは女の人に酷い事する人では無いと思うけど、
女の人に囲まれて何も無い人じゃないって言うか⋮⋮俺には理由が
解らない﹂
正しい、正しいよ毅彦。
すまない気持ちで一杯になりました。
﹁高浜の女好きは俺も知ってるけどね、最近ちょっとある人といい
感じになってるとか何とか、ユズちゃんが言ってた﹂
と言うと、毅彦がカップを落としました。 ﹁⋮⋮ごめん﹂
391
幸いメラミン製だったので割れませんでしたが、毅彦は拾いもせず、
ただ一言言って立ち尽くしていました。
あれだけの忙しさだったので、億劫になるのは私も理解出来ました。
私は足元に転がって来たカップを拾うと、
﹁はい﹂
も毅彦に手渡しますが、毅彦はまだ固まっています。
大丈夫かな。 案外、暢気な私の方がストレスや忙しさには強いのかもしれません。
﹁あ、ごめんごめん﹂
毅彦はカップを受け取ると、 ﹁やっぱ疲れてると碌な事考えない。明日は休診日だからゆっくり
出来る﹂
といつもの毅彦に戻ったのでホッとしました。 ﹁毅彦、何かストレスとか溜まってたらすぐ言えよ﹂
﹁⋮⋮ははははは﹂
毅彦は﹃兄さんに言うくらいなら解決してるから﹄と言いたげに笑
392
います。 頼りない兄ですまない限りです。
﹁じゃ、俺の分までデートして来なよ。相良さんにもよろしくね﹂
﹁毅彦、大丈夫だよ﹂
﹁何が?﹂
﹁いい人っていきなり現れるから﹂
﹁ははは、ご馳走様﹂
そう言って毅彦はフラフラと、しかし首筋を擦りながらスタッフル
ームを後にしました。 大丈夫だろうか、明日の人員云々よりも毅彦の事が心配になりまし
た。 直後に来た染谷さんが ﹁今、毅彦先生とすれ違ったんですが⋮⋮何か異様な感じでしたよ﹂
と言って来ました。 他人が見てそう見えるなら相当に疲れてるんだろう、毅彦は真面目
だし頭もいいから余計に負荷が掛かるんだろう⋮⋮。
﹁毅彦って最後いつ休んでましたっけ﹂
﹁さぁ⋮⋮毅彦先生、余り休みませんもんね。先生だって全然休ん
でないじゃないですか﹂
393
﹁そうですが⋮⋮﹂
でもあんなカップ落として立ち尽くすなんて事は私にはありません。
きっと何か、もの凄いストレスがあるのでは⋮⋮。
励ましても、俺の分までデートしてとか言うくらいなら、毅彦にも
いい彼女が出来れば変わるんじゃないかな。 高浜に紹介して貰うとか⋮とも思いましたが、毅彦の好みなんて私
は知る由もありません。 高浜なら見抜けるのかな、明日ちょっと聞いてみよう。 そんな事を考えている内に私は椅子に座ったまま1時間以上も寝て
しまい、起きたらブランケットを誰かが肩に掛けてくれていて感激
しました。
﹃やったぁあ先生と会える!!ユズね、すごい楽しみにしてたんだ
よ!!﹄
高浜の携帯に連絡をすると、
携帯をひったくったらしいユズちゃんが電話に出ました。 ﹃何でお前が出るんだよ!子供には解らない話かもしれないだろ!
!﹄
﹃え?そうなの、じゃあはい﹄
と言うやり取りの後、 ﹃これから来るの?﹄
394
と高浜の声に変わりました。
彼の携帯に掛けたのに、ユズちゃんのまんまでも良かったんだけど
⋮と思った自分がいました。
﹁そう、夜勤明けだから。昨日は出産ラッシュで毅彦すら相当な感
じだった﹂
﹃大変だな、お疲れ。事故るなよ、ピノコが待ってるぞ﹄
﹃ピノコって何?!﹄
﹃うるせーな、あっち行けよ小学生。じゃ、待ってるから﹄
﹁高浜良かったね﹂
﹃何が﹄
﹁メロンちゃんといい感じって聞いたよ﹂
﹃お前ってホンッと⋮⋮まぁいいや、早く来いよ。じゃ後でな﹄
そう言って電話が切れたので、高浜もこんな反応するんだなと微笑
ましく思いました。 手土産に途中のサービスエリアで色々買って、私は長い道中、ユズ
ちゃんの顔を思い浮かべたりしながら車を走らせました。
風景からビルが消え去り、やたら駐車場の広いコンビニが増え、そ
して遠くに深い山々が見えだし⋮。 395
ここに別荘を建てようと考えた時は、酷く荒んでた自分がいました。
ちょうど不動産の営業が来て、いつもならお引き取り頂くのに何故
か話を聞いてしまい、不自然なくらいの安値の土地を見つけたので
した。
当時は、私も激務でちょっと病んでいたんだなと思います。
両親の遺産を私は妙な方向に使う次第となりましたが、だからこそ、
私はユズちゃんと出会えたのです。
疲れて少し病んでるかもしれない毅彦にも、そんな出会いがあると
いいなとお節介な気持ちになります。
いつも助けて貰ってばっかりで苦労を掛けているし、私が感じるよ
うな幸せが来れば、心からそう願いました。
別荘の入口で、何やら掃除をしている倉田くんとメロンちゃんが見
えました。
和気藹々と言うより、何だか思い詰めたような面持ちで何かを話し
ています。
どうしよう、何か邪魔するようで悪いけど⋮⋮後続車はいませんが、
道が狭いし山道だから方向転換するのも難しい。
でも何か深刻そうだなぁ。
気を遣うって難しいです。
すると、倉田くんが停止している私の車に気付いて手を振って頭を
下げました。
メロンちゃんも振り向いてペコッと頭を下げます。
私はホッとして車を発進させ、車庫に入れました。
レンタカーと思しき白いバンと高浜の赤いコルベットと私の車で、
門の周りはぎゅうぎゅうです。
﹁先生こんにちは!﹂
﹁お久しぶりです﹂
396
二人は珍しく駆け寄って来ました。
﹁久しぶり﹂
弟の毅彦とか付き合いの長い高浜よりも、実は倉田くんの方が話し
やすい気がします。
倉田くん、迷惑なおじさんでごめん。
﹁あの⋮⋮先生ってずっとユズちゃんと過ごします?﹂
いきなりメロンちゃんに聞かれました。
﹁まぁ⋮邪魔にならない程度には一緒にいたいですけど⋮⋮﹂
﹁あ、ですよね⋮⋮ちょっと相談って言うかぁ、あの出産関係の話
じゃなくて長浜さんの事で﹂
何で?
高浜といい感じなんでしょ?
本人に聞けばいいじゃない、と思いましたが、ハッキリ﹁長浜﹂と
メロンちゃんは言いました。
ユズちゃんには本名を教えたのに⋮⋮真剣な表情のメロンちゃんが
可哀相になり、咄嗟に
﹁いいよ、俺で解る事があるか解らないけど﹂
と言ってしまいました。
﹁永山さん、俺もヤバいんですよ。それを今話してたんだよね﹂
397
倉田くんが同意するとメロンちゃんも頷きます。
﹁俺の彼女、浮気してて俺が切られたんすよね⋮⋮﹂
﹁倉田くん⋮⋮﹂
﹁マジ酷いよね、浮気して開き直る時点で人として無理っつーか﹂
メロンちゃんが慰め、倉田くんが心底切なそうな顔をしています。
﹁そっか⋮⋮﹂
﹁まぁ先生幸せなんだし、ユズの事を大事にしなよ﹂
何だか若いこの2人がこんなに悩んでいるのに1人で浮かれていた
自分が申し訳なくなってきました。
﹁何か⋮ごめんなさい﹂
﹁何がですか?﹂
﹁俺だけ何も悩んでないから申し訳なくなってきた﹂
するとメロンちゃんと倉田くんが同時に吹き出しました。
﹁ちょ、そんなん気にしないでいいんですけど!!﹂
﹁こっちこそ先生の幸せに水差してすみません!﹂
398
若い人達は素直で優しい人が多い気がします。
それだけ私みたいなおじさんおばさん達に鍛えられてるんでしょう
か。
﹁金曜の夜までいるから、それまでに話は聞かせてもらうね﹂
﹁先生ってカナリ癒し系ですよね、最初はエッ?てなったけど、段
々天然キャラに癒されるって言うか﹂
﹁お医者さんさんとは思えないくらい面白いですよね﹂
面白い?
どういうところがどんな意味で?
日頃、高浜や毅彦から怒られている事を思い返してみました。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だから固まらなくていいってーもー超ウケるし!﹂
深刻な顔をしていた2人が笑ったので、私も少し安心しました。
メロンちゃんの相談は高浜の事でしょうし、倉田くんには﹁解る解
る、俺も似たような事あって立ち直るまでに10年掛かったんだよ
!﹂みたいな気持ちでいっぱいでした。
﹁じゃ、先生後で⋮﹂
﹁俺のは別に全然いいんで、コイツの方が深刻なんで⋮⋮先生しか
相談出来ないんですよ、聞いてやって下さい﹂
399
﹁⋮⋮マジでお願いします、すみません﹂
﹁まぁ、俺で答えられるところなら﹂
倉田くん、君はやっぱりいい人なんだなぁ。
ほうきとちり取りを片して中に入っていく2人を見ていると、高浜
とメロンちゃんより倉田くんの方がしっくりくる気がしました。
﹁きゃぁあぁ先生∼∼﹂
中に入るとユズちゃんが飛び付いて来ました。
倉田くんやメロンちゃんの話が無ければ素直に喜べたのですが、何
とも申し訳ないような後ろめたさがありました。
﹁久しぶり、ユズちゃん﹂
﹁先生⋮⋮どうしたの?﹂
﹁何か、ちょっと⋮⋮ユズちゃんと会えたのはすごい嬉しいんだけ
ど﹂
﹁何?﹂
﹁何だろう⋮ちょっと深刻な悩みを聞いちゃったって言うか﹂
﹁あー⋮⋮﹂
ユズちゃんは高浜の方を見ました。
高浜は何故かソファーに座って釣竿をいじっています。
400
今度は何を始めたんだろう。
﹁お前⋮⋮それ、釣竿?﹂
﹁そう。渓流釣りに暇な時はよく行ってる。﹂
﹁渓流ってイワナとか?﹂
﹁ヤマメとか。地元の愛好会の人と仲良くなったし最近の趣味﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁案外釣れるから庭で焼いて食ってる﹂
⋮⋮⋮何だか高浜まで微妙なテンションだなぁ。
人の事だから言ってしまいますが、恋愛が絡むと厄介なものですね。
﹁大丈夫だよ、先生﹂
ユズちゃんがそっと私を引っ張りました。
﹁メロンちゃんとよく2人でお出かけしてるもん、長浜さん﹂
﹁そうなんだ﹂
さっきのメロンちゃんの表情から見て余り大丈夫には見えないけど
⋮⋮にしてもユズちゃんはみんながいるときは、ちゃんと長浜さん
って呼んでるんですね。
私は気をつけていても、つい高浜と言ってしまうので、本人には二
人称、他のみんなには三人称にする事にしてます。
401
﹁さっきね、メロンちゃんから相談があるって言われたんだけど﹂
﹁えーーーノロケじゃないの、だってすごいラブラブだし﹂
﹁なのかなぁ﹂
そうには見えないのは私だけなのかなぁ。
﹁そうだよ。だって悪阻の時とかね、メロンちゃんが一番酷いんだ
けど旦那さんみたいに優しいの見てたし﹂
そうユズちゃんが言うと
﹁俺はみんなに優しいけど﹂
と高浜が呟く様にいいました。
﹁そうだけど⋮⋮ま、釣浜さんは放っといてー⋮⋮﹂
﹁他のみんなは?﹂
﹁いる、みんな好きな事してるんだよ。寝室行こ?﹂
ユズちゃんがワンピースを翻して私の手を取って引っ張ります。
途中、ソファーに座って無表情で釣り竿をいじっている高浜が気に
なりましたが目が合うと高浜は一言だけ、
﹁ごゆっくり﹂
とだけ言っただけでした。
402
何だかなぁ。
でも私が何か言って好転させる自信がありません。
むしろ拗らせるような気がします。
﹁先生さ﹂
﹁何?﹂
﹁先生は普通のまんまでいなよ﹂
寝室に入るとユズちゃんが私の目をしっかり見ながら言いました。
可愛いなぁ。
一瞬幸せな気持ちになりましたが、やっぱりみんなの事が気になっ
てしまいます。
﹁俺のまんま⋮⋮で、いいの?﹂
﹁うん、ユズだって解るもん﹂
﹁何を?﹂
﹁⋮⋮⋮高浜さんがメロン姉さんに気を遣ってるだけだって﹂
﹁だって電話の時、いい感じで旦那さんみたいだって﹂
益々混乱する私に、ユズちゃんは正面から小さな身体をくっつけて
来ました。
その華奢な背中に手を回すと、大きくなったお腹が私の下腹部に当
たりました。
403
﹁⋮⋮私は気付かないフリをしてるだけ。高浜さんもそれは解って
ると思うし﹂
﹁何で?﹂
﹁⋮⋮わかんない。でも、高浜さんはメロン姉さんが好きな訳じゃ
ない﹂
うーん⋮⋮。
だってお互いすごく気持ち良さそうにセックスしてた情景が思い起
こされました。
でも、そんなのは高浜からしたら一緒に御飯を食べるくらいの感覚
なのかもしれません。
﹁メロン姉さんだって解ってる、でも高浜さんが好きなんだよ﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁先生、そこ流すところ?﹂
﹁メロンちゃんの片想いって事なんでしょ?﹂
﹁まぁ、そうだけど﹂
ユズちゃんが苦笑します。
合ってるけど0点だよ、と言われた気分になりました。
﹁でも私には何も出来ない。だからメロン姉さんと高浜さんは両想
いって思ってるフリをしてた方がいいかなって﹂
404
﹁⋮⋮すごいな、俺にそんなこと﹂
﹁出来ない、と思う。だからちょっとメロン姉さんに協力してあげ
てよ﹂
﹁何を?﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮高浜さんのプライベートを知っているのは先生だ
けなんだから﹂
﹁俺もよく解らないんだけど、あいつのプライベートは﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁うん、職業とかもよく知らない﹂
﹁そっかぁ。高浜さん、一枚上手だなぁ﹂
﹁だから協力って言われても⋮⋮﹂
段々、高浜が一番親しい友人と思ってたのが勘違いだった気がして
きました。
逆に言えば、高浜くらいしか会話が続かなかったのもあります。
何だか寂寥感が湧いて来ました。
﹁大丈夫、高浜さんは先生の事をすごく信用してるよ﹂
﹁信用されてるかな﹂
405
﹁だってみんなに﹃何で仲良いのか解らない﹄って言われても、﹃
まぁあいつといるのが一番楽しい﹄って言ってるもん﹂
ちょっと安心しました。
高校、大学、大人になってからも﹃お前ら何で仲良いの?﹄は10
0回以上聞かれました。
その度に高浜は﹁こいつくらい面白い奴いないし﹂と笑ってみんな
納得していたのを思い出します。
確かに私も、高浜以外で何でも言える友人と言える友人は思いつき
ません。
友達いないってこういう事なんですね。
﹁まぁ男の友情は置いといて。先生、挟まれて大変かもしれないけ
ど、高浜さんの味方はとりあえずしないで大丈夫﹂
﹁高浜の味方?﹂
﹁だから先生はそのまんまでいなよ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁先生﹂
ユズちゃんが背伸びをして来ます。
私も特別身長が高い方ではありませんが、152cmのユズちゃん
では届かない高さです。
私は釈然としない気持ちが消えませんでしたが、身体を少し曲げて
ユズちゃんとキスをすると現金な事に段々どうでもよくなって来て
しまう自分がいました。
406
﹁先生、ずっと固まってるんだもん﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁あ、そうだ。高浜さんね、多分好きな人がいるんだよ﹂
﹁あいつにはいっぱいいるよ﹂
﹁違う。高浜さんはその人の為なら死ねるくらいのレベルで好きな
人﹂
﹁えー⋮高浜が?﹂
﹁うん、絶対いる﹂
高浜が1人の女性を死ぬレベルで好きになる?
有り得ない事ではありませんが、どんな女性なのかは想像がつきま
せん。
﹁何で恋愛って上手く行かねーんだろうな、それがどうでもよくな
らないからずっと好きでいられるのかねって言ってた﹂
﹁あいつが﹂
﹁そう。切なそうにめちゃくちゃカッコイイ顔して言ってた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あ、ごめん。大丈夫、全然ドキドキとかないから﹂
407
ユズちゃんまで高浜に行ってしまうのでは、と焦りました。
並んだら勝ち目が無いのは解っていたつもりですが、嫉妬って醜い
なと反省しました。
﹁うん﹂
﹁ちょっとビックリしちゃって。こないだの毅彦先生と会った時の
帰り。あ、これ内緒にしといて﹂
車中で2人っきりで、高浜の切なそうな横顔をかっこいいと思って
見つめるユズちゃん。
すごく面白くない気持ちが沸々としてきます。
すると、ユズちゃんはネクタイをギュッと引っ張ってきました。
﹁先生まで変にならないで﹂
﹁ごめん﹂
﹁先生は先生、高浜さんは高浜さん。私が好きなのは先生﹂
﹁ありがとう﹂
また安心してそういうと、ユズちゃんは人懐っこい笑顔で笑いまし
た。
﹁ごめんね、表現下手で﹂
﹁俺もそうだから大丈夫だよ﹂
﹁⋮⋮知ってる﹂
408
ユズちゃんは私のネクタイを解き、ボタンを片手で器用に外して来
ます。
﹁先生、しようよ﹂
﹁うん﹂
でもやはりユズちゃんの大きなお腹が気になります。
子宮への大きな刺激にならない程度の定義が無いので、すごく慎重
にしないと⋮⋮。
普段口で言う言葉が重く感じました。
言われた妊婦さんも、﹃そんな事言われても加減が解らん﹄と思っ
た事でしょう。
胸の辺りに鋭い快感が走って我に返ると、ユズちゃんが私を下から
挑発的な目で見上げています。
左右同時に指先で弄ばれ、私は思わず短い溜息をついてしまいます。
﹁はい、考え事はそこまで﹂
﹁ごめん⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮相変わらず弱いんだね、乳首﹂
ものすごく恥ずかしい事を言われましたが、私は素直に頷きました。
そして無意識の内にユズちゃんの首筋や鎖骨に顔を埋め、ワンピー
スの裾から手を入れていた事に気が付きます。
そう思っても性行為に及ぶ段になるとそれを肯定的に捉えてしまう
自分がいました。
409
﹁ユズちゃん、寝てくれる?﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁立ってるのきついでしょ?﹂
私はユズちゃんを仰向けにベッドに寝させると、両手首をしっかり
押さえました。
﹁や⋮ちょっと怖いんだけど⋮﹂
﹁大丈夫﹂
何が大丈夫なのか自分でも解りませんでしたが、最初の時みたいな
無茶はしないでおこうと肝に念じ、私はユズちゃんを下敷きにしな
いように気をつけて片手でワンピースの胸元の3つのボタンを外す
と、また細い手首を掴んで首筋に舌を這わせました。
﹁んぁあ⋮⋮⋮﹂
さっきまであんなに理論的で冷静だったユズちゃんが、自分に組み
伏されている事実が私をどんどん追い立てます。
そして、私の知らないところで他の男にもされていたんだと思うと、
やり切れない気持ちになりましたが、紺色のワンピースのボタンの
外れた胸元の生地をくわえて少しずらすと、薄いオレンジ色の下着
が見えました。
その中央に顔を埋めると、少しユズちゃんの腰が反ります。
会えなかった間、どんな事をされていたんだろう。
410
何回も絶頂を迎えたんだろうか。
だとすれば私が自分を抑えて加減する意味はあるんだろうか。
振り払っても振り払っても、ユズちゃんが他の男に悦ばされ続ける
映像だけが浮かんで来ます。
割り切っていた筈なのに、それが私の中で火元となりつつあるのが
ハッキリと判りました。
﹁あ⋮⋮ちょっとあんまり吸っちゃだめ⋮﹂
我に返ると、あちこちに私が付けた印が赤紫色に点在しています。
﹁あ、ごめん⋮⋮﹂
独占欲。
その一言に尽きる浅ましい衝動でした。
﹁これ、次に先生が来るまで消えないで欲しいな﹂
﹁ごめんね⋮⋮﹂
﹁先生が帰った後とか寂しいけど、これ見たら元気出る﹂
高浜が知ったら怒るかなぁ。
ちょっと冷静になってしまった自分がいました。
﹁大丈夫?﹂
﹁あ、いつもの先生だ﹂
411
ガッカリした様な諦観の笑顔のユズちゃんは続けます。
いつもの⋮と言うことはさっきまでは尋常じゃなかったって事なん
でしょう。
﹁⋮⋮さっきまでどんなだった、俺?﹂
﹁私がね、決定的に先生を好きになっちゃった顔﹂
﹁⋮⋮どんな感じ?﹂
きっと興奮してだらしない顔になってたんだろうな。
﹁すっごいアブノーマルな感じでね、このまんま殺されてバラバラ
にされちゃうんじゃないか、みたいな﹂
﹁⋮⋮⋮俺、そんな顔してた!?﹂
﹁いいの、先生はどっちでもかっこいいから﹂
かっこいい⋮⋮全く同じ表現で高浜の事を言っていたのを思い出し、
カッとなるのを感じます。
⋮⋮前にも、こんなのあったな。
内容が全く違いますが、激しい衝動に飲まれた記憶が蘇り始めます。
﹁先生?﹂
ユズちゃんも私の変化に気が付いて、ちょっと不安そうな顔をしま
した。
やっぱり私は、女性不信みたいなものなんでしょうか。
412
﹁⋮⋮⋮ユズちゃんさ、他の人でも、その⋮感じてる訳でしょ?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
じゃあ俺じゃなくても高浜でもお客さんとして来る男でもいいんじ
ゃないの?
そう思う自分と、それだけは絶対に嫌だとがんじ絡めに独占したい
気持ちが交錯します。
思い出してはいけない感情でした。
﹁ごめん⋮⋮私、何か悪い事言っちゃった?﹂
﹁⋮⋮特には﹂
自分でも引いてしまうような冷たい声が出てしまいました。
今更怒ったって仕方ないし、私の男性としての自信の無さから来る
所謂逆ギレみたいな感情なのは解っていました。
でも、ユズちゃんに全部ぶつけないと気が済まないような衝動を必
死で堪えます。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
ユズちゃんが押し殺すような声で言いながら、目に溜まった涙を流
しました。
﹁あ、ごめん、ごめんね﹂
それを見て咄嗟に私は我に返ります。
413
﹁私が軽率だったよね⋮⋮またやっちゃったって、言った後に思っ
た⋮﹂
ユズちゃんが泣き出し、私の中の憎悪が晴れていきます。
﹁本当にごめん⋮⋮﹂
謝り慣れて無いのか、私には謝罪の際の語彙が乏しく、何を言って
良いのか解りません。
﹁ユズちゃんが高浜と何もないのは信じてるから﹂
﹁⋮⋮当たり前じゃん、お互い全然好みじゃないんだもん﹂
でもかっこいいって言ったよね、そう燻る気持ちを私は無視して続
けました。
﹁申し訳ないんだけど、俺も余り経験が無いのは前にも言ったと思
う﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁で、これは言ってなかったけど⋮⋮最後、いや最初で最後の彼女
⋮⋮かどうかも解らない女の子がいたんだけど﹂
﹁⋮⋮最後の彼女って何?私は何なの?﹂
﹁婚約者﹂
そう言った途端、ユズちゃんが少し笑顔になりました。
414
﹁婚約者、かぁ﹂
﹁うん、ユズちゃんは別格。で、その女の子に俺は浮気されていた
と言うか、財布代わりにされていたと言うか、まぁ俺が彼女だと思
い込んでいたと言うか﹂
するとユズちゃんはいきなり起き上がり、
﹁⋮⋮何、そいつ﹂
と、見た事の無いような表情で言いました。
殺意と言う言葉がしっくり来る顔で、やっぱりユズちゃんも怒らせ
たら怖いんだなと思いましたが、私は続けます。
﹁でも俺も頭に来たと言うか、酷い事をしちゃったんだよね﹂
﹁酷い事?全身滅多切りとか?﹂
﹁ううん、違う。衝動的にしちゃったんだよ、まぁ例えば⋮⋮﹂
と続けると、ユズちゃんが
﹁そんな事しかしなかったの?私が代わりに二度と女として生きて
いけないようにしてやりたい﹂
と、かなり本気な顔で言いました。
﹁解ってて先生を傷付けたって事だね?﹂
415
﹁まぁ、俺も若かったからショックが大きかった﹂
﹁その女の名前は?﹂
﹁名前は覚えてないんだけど﹂
﹁嘘だ!﹂
ユズちゃんに怒鳴られて私はビクッとしてしまいました。
﹁⋮⋮先生、怒るよ﹂
これ以上怒ると言われて動揺しましたが、私は必死で例の彼女の名
前を思い出します。
﹁鮎⋮⋮違うな、苗字に魚篇が付いてた﹂
﹁ちょ⋮⋮ホントに名前覚えてないの?﹂
﹁浮気相手の名前がタカヒロっていうの⋮⋮は⋮﹂
﹁先生!?﹂
急に動悸がして、私は一瞬でが滴る程に脂汗が出ました。
﹁⋮⋮痛い⋮﹂
﹁先生大丈夫!?真っ青だよ!??﹂
﹁すぐ直る⋮⋮かな⋮﹂
416
息苦しい訳ではありませんが、思い出そうとすればする程に側頭部
と心臓が激しく脈打ちます。
﹁ごめんね、もう思い出さないで⋮⋮!!﹂
ユズちゃんが私の頭を優しく抱き抱えてくれましたが、それすら昔
の記憶の感触と重なって行きました。
痛い。コメカミまでギリギリ痛くて視神経がブチッと切れそうな気
がしました。
情けないなぁ。
ごめんね、ユズちゃん。
泣きながらも私の体重を支えてくれているユズちゃんの匂いをいき
なりハッキリと感じました。
体臭でも何かの香料でも何でもなく、ユズちゃんの肌の匂いなのか
もしれません。
﹁あ⋮⋮ちょっと治まった﹂
﹁よかった⋮⋮死んじゃうのかと思った﹂
﹁そんなに?で、どこまで話したっけ﹂
﹁もういい、もういいから﹂
ユズちゃんは大泣きしながら私を抱き抱えました。
もう過去とはリンクしなくなっていたので、私はホッとしました。
﹁⋮⋮みっともないところ、見せちゃったね﹂
417
﹁いいの、もういい。一時の感情でガーーッて言っちゃってごめん
ね﹂
20cm以上も身長差のある私なんて重いし邪魔なのに、ずっと私
の上半身をユズちゃんは支えています。
﹁もう大丈夫だから﹂
﹁⋮⋮本当?﹂
﹁うん﹂
激しい何かが引き潮の様に消え失せ、私の目には泣き顔のユズちゃ
んしか映っていません。
私はモソモソと起き上がり、ユズちゃんに頭を下げました。
﹁ありがとうユズちゃん﹂
﹁ううん⋮⋮私のせいだから﹂
﹁私のせい?﹂
﹁⋮⋮私ね、先生に危害加える人間はみんな殺せる気がする﹂
﹁ユズちゃん?﹂
殺すとか言っちゃダメだよ。
物騒過ぎる、でも気持ちは嬉しい気がします。
逆だったら⋮⋮私はどう思ったんだろう。
418
﹁先生⋮⋮⋮﹂
ユズちゃんが笑顔になり、
﹁ね、先にメロンちゃんのところに行って来なよ﹂
と言いました。
正直、﹁やっぱり邪魔になったのでは﹂と焦りが生まれます。
﹁何で?俺⋮﹂
﹁違う。私も気持ちを整理したい﹂
﹁そう?﹂
さっきのユズちゃんの形相と殺すと言う言動を思い出し、私の顔見
て思い出しても悪いので素直に従う事にしました。
﹁本当に頼りない男でごめん、また後で来るね﹂
﹁⋮⋮先生は頼りなくなんてないよ﹂
部屋を出る時にそう言われ、私はちょっと嬉しくなりました。
メロンちゃんを探すと、酎ハイ片手のミルクさんに出会いました。
﹁長浜さんなら釣りに行ったけど﹂
﹁いえ、メロンちゃんいます?﹂
419
﹁何で?先生ユズちゃんは?﹂
ちょっと意地悪そうな顔をされました。
﹁あ、何か聞きたい事⋮⋮があるとか言われてて﹂
﹁ふぅん⋮メロンちゃんならキッチンにいるんじゃない?﹂
﹁ありがとうございます﹂
私はまだ妙に意地悪そうな表情のミルクさんに礼を言って、キッチ
ンに向かいます。
キッチンは暗く、その前のリビングにメロンちゃんが携帯をいじり
ながら、さっきの高浜と入れ替わるようにソファーに座っていまし
た。
﹁メロンちゃん﹂
﹁わ、ビッ⋮クリしたぁ﹂
﹁ごめん﹂
﹁先生、ユズは?もういいんですか?﹂
﹁後で行くって約束しといた﹂
﹁そっか、すみません﹂
そう言ってメロンちゃんが髪の毛を掻き上げると、蝶々のタトゥー
420
が見えました。
タトゥーがあるのがメロンちゃん、無いのがマロンちゃん。
そんな程度にしか見てなくてすまない気持ちになります。
﹁あの⋮⋮長浜さんの事で﹂
﹁うん、俺が知ってる事なら﹂
﹁長浜さん⋮⋮の、好みの女性って知ってます?﹂
﹁あいつの好み⋮⋮﹂
歴代の知っている彼女を思い起こします。
﹁うーん⋮⋮美人かな﹂
﹁えぇえ参考にならなぁーい!﹂
﹁でもメロンちゃんとかマロンちゃん系だった気がする﹂
﹁マジですか!?﹂
﹁う、うん。系統的に﹂
一瞬明るい表情をしましたが、メロンちゃんはまた俯きました。
﹁めっちゃ片思いだし釣り合ってないのは解るんですけど﹂
﹁片思い、なの?﹂
421
ユズちゃんの考察を思い出します。
私がそういうと、
﹁決まってるじゃないですか﹂
とメロンちゃんが寂しそうに言いました。
そうなんだ、片思いか。
片思い?
⋮⋮⋮ピンと来ない私は余り力になれないんじゃないかと思えて来
ました。
﹁先生だけですもん、あの人の事知ってるの⋮⋮長浜さんの今好き
な人、どんな人なんですか?﹂
﹁あいつの好きな人?﹂
するとメロンちゃんは携帯に付けていたパスケースから名刺を取り
出しました。
﹁長浜さんにしつこく聞いたら⋮⋮これが全てだからって﹂
﹁全て?﹂
﹁多分、好きな人のヒントがこの名刺の中にって事でしょ﹂
メロンちゃんは冷静でした。
でも真剣なのは私にも解ります。
﹁これ?﹂
422
TO
YOU代表
長浜奈津夫﹄
見せられた名刺は、黒にパールがかった白い字で
﹃NUTS
と書かれていました。
ナッツトゥユー?
何故に穀物?
いや、ナッツは種実類か。
あなたへの種実類。
このグループ名であろう名称からは全然何も解りません。
ナッツって何か隠語あったかなぁ⋮⋮。
﹁何か、この名刺が全てだって言われて⋮⋮私、全然わかんないし
⋮⋮⋮先生?﹂
﹁今、考えてたんだけど⋮ごめん、解らない﹂
﹁そっかぁ⋮﹂
ナッツトゥユー。
何だろう。
私は携帯を出し、未だに慣れないスマホを使って検索をしてみまし
た。
﹁アイスの名前⋮⋮?﹂
﹁そう、サーティワンの。それは知ってる。好きだったけどもう食
べられない﹂
423
サーティワンのアイスの名前。
これはただ、高浜が好きなだけかもしれません。
いや⋮⋮前に﹁アイスは抹茶が断然好き﹂みたいな話してたなぁ。
どうでもいいですが私は王道のバニラが一番好きです。
﹁うーん⋮⋮あいつは抹茶派だとか言ってたけど⋮アイス⋮﹂
NATS
﹁長浜奈津夫って方にヒントありそじゃないですかね⋮﹂
﹁長浜奈津夫﹂
大体、何で長浜奈津夫?
﹁ローマ字だとどうかな⋮⋮﹂
私は携帯のメモ機能を何とか出して、NAGAHAMA
UOと打ってみます。
苗字の母音が全部A!?⋮⋮と思いましたが、よくよく考えれば彼
AMAHAGAN。
の本名の高浜も私の永山も全部母音はAですね。
OUSTAN
逆から読んでも⋮⋮ダメだ、解らん。
外人でもそうそういない名前な気がします。
AN
AMAHAGAN。
NATUOでやってみると、
OUT
冠詞が母音に対してanになってる!!
でもAMAHAGANってなんなんだろう。
﹁もう全然解らないでしょ?﹂
424
﹁すまないけど⋮⋮俺、こういうの合ってた試しが無いんだ﹂
メロンちゃんがクスッと笑いました。
﹁私も検索とかしまくったけど、全然無理﹂
﹁でもヒントがあるんでしょ、高⋮⋮その、あいつの思い人の﹂
﹁そう。本人が見たらキモいんだよ死ね!ってボッコボコにされる
くらいの名前なんだって﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
私は頭を抱えました。
全然解らん⋮⋮。
NUTと奈津の音が類似してる⋮⋮から何なんだ。
でもその女性本人が見たら、キモいんだよお前とボッコボコ⋮⋮高
浜がボッコボコ?
あいつそういうの⋮⋮あっ。
一瞬、何かが掠りました。
﹁何か解った!?﹂
﹁前にね、あいつと仕事終わりにバーで待ち合わせした時に言って
たなぁ⋮﹂
﹁何?何何何!?﹂
メロンちゃんが私に詰め寄って来ます。
解った!と手を挙げて指されたら混乱しちゃって答えられない子供
425
の気持ちみたいな感覚です。
﹁そこでね、た⋮長浜と性癖の話をした時に何か⋮﹂
﹁長浜さんの性癖⋮⋮﹂
﹁えーーーーと⋮⋮﹂
﹁先生、固まってもいいから思い出して下さい!!﹂
﹁固まる?﹂
﹁いや、とにかく長浜さんの性癖っつーのを聞きたいです!﹂
人間の記憶力って、一言一句を覚えるのは難しいんですね。
何て言ってたかなぁ。
私は必死に思い起こします。
﹁確か⋮好きな女に振り回されて酷い事を2年間されたら愛が深ま
る⋮⋮だっけな﹂
﹁何なんですかそれ﹂
﹁うん、すごい心配した。大丈夫なのかなって﹂
﹁長浜さんくらいのレベルの男の人をボッコボコにしたり酷い事を
2年も続ける人って⋮⋮﹂
メロンちゃんも複雑な顔をしています。
﹁あ、じゃあメロンちゃんもあいつをボッコボコにしてみたらいい
426
んじゃないの?﹂
﹁⋮⋮違うと思います﹂
うーーーーん。
高浜が女の子に振り回されてボッコボコにされている絵が浮かばな
い⋮⋮。
ボッコボコが暴力行為の事であるのは間違いないと思いますが。
﹁でも長浜奈津夫にはヒントがあるんだよね?﹂
﹁多分⋮⋮﹂
﹁ナッツトゥユー。わざわざアイスの名前をつけるって事は、俺の
勝手な推測なんだけど、これってあいつのその好きな子がよく頼む
とかなんじゃないかな﹂
﹁うわーますます食べれないし!!﹂
﹁俺の推測だから正解かは解らないよ。で、問題は長浜奈津夫だね﹂
ナッツと奈津が韻を踏んでいる。
いや、長浜から。
携帯で検索すると、滋賀県の地名以外に、ロシアのオジョルスキー
と言う村の日本領時代の名前、と言うのが出て来ました。
﹁先生、今⋮⋮長浜さんってロシア人だったんだって思ったでしょ﹂
﹁うん⋮やっぱ検索した?﹂
427
メロンちゃんが苦笑いしながら頷きました。
﹁ここの出身とかなのかも﹂
﹁⋮⋮長浜さんが?﹂
﹁又は、その⋮女の人が﹂
高浜は実はロシア出身とかロシア系の血が入っていて、自分のルー
ツを偽名の苗字に⋮⋮?
ロシアは何となく、顔立ちで納得出来ます。
肌が浅黒いのは謎ですが、顔はアジアと言うよりは白人の系統の顔
立ちな気がします。
﹁じゃ苗字はロシアの地名で一旦置いとこうか﹂
﹁問題は奈津夫の方なんですよね、ナツって季節の夏くらいしか思
いつかなくて﹂
﹁夏⋮⋮夫より男って字を当てたらあいつっぽくなるね、夏男﹂
﹁ロシアの夏男⋮⋮あはははは超納得するんですけど!﹂
メロンちゃんが笑いました。
ちょっと元気出たんですかね、よかった。
﹁って全然女の人の要素入ってなくない?!﹂
﹁そのまま字を当てると奈津⋮の夫、か。無理があるな、こじつけ
過ぎか﹂
428
﹁じゃ奈津ってのが長浜さんの好きな人?﹂
﹁奈津⋮⋮歴代でそんな名前の子、俺は記憶に無い。大体、名前で
も珍しいんじゃない?﹂
﹁夫って事はもしかして結婚してるとか⋮⋮だったら私、諦めがつ
くな﹂
メロンちゃん⋮⋮。
何だかすごく、身を引く覚悟までしているメロンちゃんが可哀相に
なって来ました。
私はここに来れば、あんなに出迎えてくれるユズちゃんがいます。
でも、いつも一緒にいて身体の関係まであるのに、好きな相手に振
り向いて貰えないなんて辛いだろうな。
高浜は高浜で何か抱えてるみたいだけど、メロンちゃんと気が合わ
ない訳じゃないなら、ちょっと付き合ってみてもいいんじゃないか
な。
でも、それで本人が満足かどうかは別の問題です。
高浜がこうしてかわして、ユズちゃんに教えた本名をメロンちゃん
には教えて無い訳ですから。
あれ?
高浜、何で自分の事を好いてくれているメロンちゃんより、好みで
はないユズちゃんに本名教えたんだ?
もしかして高浜とユズちゃんって、お互い浮気相手とかだったり。
⋮⋮さっきの苦しい衝動が蘇って来ました。
﹁先生?﹂
429
﹁大丈夫、さっきもこれあったんだ﹂
﹁真っ青じゃん、救急車呼ぶ!?﹂
﹁ユズちゃんと高浜⋮⋮﹂
﹁たかはま?﹂
﹁また間違えた⋮⋮﹂
﹁ちょっと!!﹂
私はソファーの背もたれに頭を載せました。
﹁⋮⋮すぐ治るから大丈夫﹂
﹁ちょっと待ってて﹂
メロンちゃんはサッと立ち上がると、キッチンから氷を出す音や水
の音が聞こえて来ました。
間もなく私の額に冷たい布が置かれる感触がして目を開けると、メ
ロンちゃんが
﹁こんなんしかなくて﹂
と済まなそうに私を見下ろしています。
﹁メロンちゃん優しいね﹂
430
﹁そんな、フツーだし!これでいいのかもわかんないし⋮⋮まだ具
合悪い?﹂
﹁⋮⋮ありがとう、大丈夫﹂
ちょっとメロンちゃんは照れたような顔をして、
﹁全然、大した事してないんで﹂
と両手をパーにしました。
こんないい子なのに。
ボッコボコにしてくる思い人より絶対いいんじゃないか、と思いま
すが。
だいぶ調子も戻ったので起き上がると額の布が落ちました。
⋮⋮⋮これ、台拭きだよメロンちゃん。
でも気持ちは有り難いと心から思いました。
﹁あ、もう大丈夫﹂
﹁よかったー、それ多分仕事の疲れとかじゃないんですか?﹂
﹁さっきもユズちゃんのところでこうなっちゃったんだよ。何か⋮
⋮頼りない上に申し訳ない﹂
﹁あははは何かね、ユズが先生の事好きなの解る﹂
﹁そうかな﹂
どの辺で?と言う気持ちは拭えませんが、そう言われて悪い気はし
ません。
431
﹁先生、ユズと幸せにね﹂
﹁ありがとう、名刺の謎が解けなくてごめん﹂
﹁いいって、私は部屋戻ってるね﹂
いい子だ、いい子だよ高浜。
何にも問題無いのに⋮⋮多分、メロンちゃんは高浜に暴力とか無い
だろうし。
そう思って私は台拭きを拾って流しに洗って乾かしに行きました。
﹁⋮⋮と言う感じだった﹂
ベッドに並んで腹這いになっているユズちゃんに事の次第を告げる
と、
﹁高浜さんが仕事に使う名刺にまでその人が解るような名前を使う
って相当だよ﹂
﹁ロシアだもんな﹂
﹁そこじゃなくて﹂
﹁⋮⋮字をそのまま考えるなら、奈津の夫って意味が一番最有力候
補だよね、あいつ意外にストレートだから﹂
﹁でも先生は奈津って人知らないんでしょ﹂
うーーーん⋮⋮。
432
やっぱ心当たりがありません。
それに知る限りの高浜の歴代の彼女にバイオレンス系はいなかった
と言うか、高浜に捨てられないように必死な感じがする子が多かっ
たと言うか。
﹁ロシアは一旦切り離さない?余り関係ない気がする﹂
﹁そうかな﹂
私達は大きく
﹃長浜奈津夫﹄
と書いた紙を見ながら黙りました。
﹁でも、そんな好きな人がいるって先生にも言わなかったんだよね
?﹂
﹁うん、実はちょっとショックだ﹂
﹁まぁ解るけど⋮⋮そこは高浜さんなりの何かあるとか。後は高浜
さんがそれとは無しに伝えたのに、先生が忘れてるとかじゃない?﹂
﹁紹介もされてない﹂
﹁そっかぁ⋮⋮﹂
もう恋人ムードは消え失せ、私達は探偵気分でした。
何で言ってくれなかったんだろうとも思いますが、もしかしたら私
が鈍すぎて伝わらなかっただけかもしれません。
433
﹁わかんないね﹂
﹁俺も﹂
そう言った時にユズちゃんの唇が耳に当たり、舌先が耳殻をなぞる
様に這って来ました。
﹁あっ⋮⋮﹂
一瞬何かが頭の中で綺麗に繋がった気がしましたが、
﹁わかんないから、一旦休憩しよ﹂
と首に手を回され、顎に添って這わされた舌先が私の口をこじ開け
た辺りで、繋がったそれは見えなくなってしまいました。
﹁先生、キス上手いよね﹂
﹁⋮⋮あんまりした事ないんだけど﹂
﹁えー?﹂
猜疑心いっぱいの笑顔を見て、本当だってと焦りました。
私の人生でキスした回数なんて数えられるくらいなんじゃないかな
ぁ。
﹁はい思い出はそこまで。考え事禁止!﹂
ユズちゃんの声がして私は我に返り、嫉妬にかられた私が先程付け
434
た、白い胸元に点々とする赤黒い斑点が目に入ります。
申し訳ない気持ちと共に、もうああいう風になるのは嫌だな、と猛
省しました。
今度は誠意と言うか、ユズちゃんの身体の事を大切に考えて及ばな
いとな。
そう思って私は俯せから横向きになり、ユズちゃんを抱き寄せまし
た。
くすぐったそうに笑って素直にピッタリくっついて来るユズちゃん
を見て、酷い事は出来ないなと思いました。
﹁何度も言うけど、さっきは本当にごめん﹂
頭を撫でながらそう言うと、ユズちゃんは軽く頭を振りました。
﹁いいよ、私も悪かったから﹂
謝る立場の人間が思う事ではないかもしれませんが、健気な可愛さ
に血が逆流しそうになりました。
出来る限りゆっくり丁寧にしたつもりでしたが、終わるとすぐにユ
ズちゃんが寝てしまい、私は箪笥の着替えを出して風呂に入る事に
しました。
何故か良い匂いがするので、引き出しを見ると、入れた覚えのない
防虫剤が入っています。
私の私物への誰かの配慮を嬉しく思いました。
何回もここには来ましたが、久々に入った別荘の浴室は別物になっ
ていました。
潔癖症の高浜の手入れが行き届いているのか、水垢もカビも無く、
浴槽の周りにはオシャレな入浴剤が置かれ、洗面台には使い捨ての
歯ブラシやサニタリー類が整然と充実しています。
435
それを見たら、何だか職場を思い出してしまいました。
昔から高浜の部屋はディスプレイ要素が強く、それでも合理的な整
理整頓の限りが尽くされていたのを思い出します。
あいつの奥さんになる人は大変だなぁ、そう思ったのを覚えていま
す。
私がそこら辺に置いた学校の鞄やコートをサカサカとハンガーに掛
け、会話をしながらも自分の周りをウェットティッシュで拭いたり
していたくらいなので、今でも彼の潔癖は健在なのでしょう。
私は見た目はかなり神経質に見えるそうですが、一人暮らしだし家
の掃除も余程目立たなければ週に1、2回程度しかしません。
突然の来客があってもまぁ大丈夫かなと言う程度に綺麗にしておけ
ばいいというレベルです。
部屋もかなり殺風景ですしね、ユズちゃんの持ち物で賑やかになる
日が早く来るといいなと思っています。
サッサとシャワーを浴びて着替え、脱いだ物を持ち帰れる様に袋に
入れて浴室を出ると、帰って来たばかりらしい高浜と出くわしまし
た。
﹁あ、高浜、あのさ⋮﹂
﹁見ろ、これ﹂
そう言ってクーラーボックスを差し出され、風呂上がりに魚はちょ
っと⋮⋮と思いつつも開けると、イワナやヤマメらしき魚︵私は殆
ど切り身しか買わないので魚の形状には余り詳しくありません︶に
加えて、鰻が数尾入っていました。
﹁永山、鰻は捌ける?﹂
﹁魚は大好きだけど、魚を捌いた事自体はない﹂
436
﹁そっか﹂
﹁鰻ってこんな釣れるの?﹂
﹁ペットボトルに重りと針を入れて﹂
﹁え?﹂
﹁置いとくと捕れると聞いて﹂
﹁こんなに捕れるの﹂
﹁お前、タレ作れる?﹂
﹁鰻重のタレ?調べようか﹂
⋮⋮何だか、こんな話をするハズでは無かったんだけどなぁ。
私はメロンちゃんの名刺の事を聞こうと思ってたのに何故かウナギ
の話になってしまっています。
﹁⋮⋮あのさ、ちょっと聞きたいんだ﹂
﹁断る﹂
﹁いや、だって余りにも﹂
﹁﹃メロンちゃんが可哀相﹄とか言うなよ﹂
うん、やっぱり読まれていました。
437
﹁お前は好きって言われた全員と付き合う訳?俺より全然すごいぞ、
そんなん﹂
﹁まぁ⋮⋮そうなんだけど。すごい悩んでたから﹂
﹁⋮⋮⋮こういう女ばっかの空間で男が1人いたらよくある事だろ、
逆に考えろよ。男5人の中に30そこらの女が1人いたら何もない
方がおかしい、そうだろ?﹂
﹁そうかね﹂
﹁まぁ⋮俺は俺なりの最善の対応をするから心配するなよ﹂
⋮⋮何だか、高浜の言う事が解るようで解りません。
心配するなよ、か。
みんな私にはそう言うんだな。
今日はやたら駄々っ子みたいな感情に流されてしまうのは、何故だ
ろう。
﹁⋮⋮お前、何か今落ち込んだ?﹂
﹁いや、何か疎外感がね﹂
﹁疎外感?誰も仲間外れとかしてねぇだろ、子供かよ﹂
高浜が呆れた様な顔をしています。
私は思い切って聞いてみました。
﹁高浜、お前さ⋮⋮ボッコボコにされるの好きなの?﹂
438
﹁ボッコボコ?﹂
ちょっと質問の論点がズレたかもしれません。
彼の眉間の皺は深まりましたが、その言葉には反応がありました。
﹁それ、メロンから聞いたな?﹂
﹁そう﹂
﹁じゃ名刺も見せられたかな﹂
﹁見たよ。全然解らなかったけど﹂
﹁⋮⋮お前も解らないのか?﹂
お前も。
私も他の人も解る可能性があるって事か。
それより高浜の少し寂しそうな苦笑が気になります。
﹁俺はあの名刺を切る度に思い出すんだけど﹂
﹁思い出す?﹂
﹁お前、ホントにピンと来ないの?⋮⋮俺としてはかなり残念です﹂
﹁ローマ字でも漢字追って行っても全然﹂
﹁もういいじゃんよ、俺が誰を好きでも﹂
439
﹁そこじゃない、お前がそういう話を俺に一切しなかったから﹂
﹁疎外感か﹂
﹁まぁ、そう﹂
﹁お前までメロン化してどうするよ、疎外感の意味調べて来い﹂
確かに。
何で高浜の好きな人がこんなに気になるのか、と思いました。
そんな女の子いるなんて知らなかったし⋮と言う気持ちと謎解き感
覚の好奇心が根底にある気がします。
高浜からすれば迷惑そのものでしょう。
好奇心で探られる気持ち、私はインタビュー記事の件を思い出しま
した。
﹁すまん⋮⋮﹂
﹁謝る事でもないよ。お前とユズみたいな関係じゃないし﹂
﹁俺とユズちゃん?﹂
﹁まぁ⋮⋮片思いってやつかな﹂
﹁片思い!?﹂
﹁そんな驚く事でもねぇだろ﹂
まぁそうかもしれませんが、高浜がこんなに寂しそうな顔になる程
に落とせないとなると相当な女性なのだと思います。
440
喧嘩も力も強い筈の高浜が、ボッコボコ且つ酷い事をされて片思い
でいられる女性⋮⋮ダメですね、何か北斗の拳の悪役みたいなのし
か浮かんできません。
﹁⋮⋮お前、今何か変な事考えてたろ﹂
﹁うん﹂
﹁まぁお前だってユズに振り回されたら嬉しいだろ﹂
﹁振り回す?﹂
﹁好きな女に馬鹿だの死ねだの言われて殴る蹴るされた挙げ句に振
り回されたら、もっと好きになっちゃうだろ﹂
﹁えー⋮⋮?﹂
私は想像してみました。
ユズちゃんが私を罵りながら殴る蹴るしていきなり家出したり高い
物欲しがったり仕事中に今から来ないとどうのこうの喚いたりする
⋮⋮。
無理です。
そんなの、可愛いと思えません。
﹁まぁそこは好みの問題だな﹂
﹁⋮⋮あの名刺の謎解きだけ教えてくれ﹂
﹁見たまんまじゃねぇか、本人見たら死ね馬鹿浜!とか言って蹴り
飛ばすくらいのレベルで﹂
441
﹁本人が解らないから聞いてるんだ、お前の好きな人を暴きたいと
言うより、謎解きが気になってしょうがない﹂
﹁一緒だろ﹂
高浜はタッパーに魚を移し替えながら言いました。
正方形のタッパーに鰻はどうやって入れるんだろう。
﹁で、俺なりに考えてみた﹂
﹁ほう、聞かせろ﹂
﹁まずさ、最初のグループ名はアイスクリームの名前だろ﹂
﹁そうだよ﹂
﹁でもお前は抹茶派だ﹂
﹁ああ﹂
﹁だからあれは⋮その女の人がサーティワンでよく頼むメニューな
んだと思った﹂
﹁正解です﹂
合ってた、合ってるってメロンちゃん!!
私は快哉を叫びたいのを堪え、続けます。
﹁で、苗字の長浜。これはお前のルーツなんだろ﹂
442
﹁ルーツ?﹂
﹁日本領時代のロシアの村の名前だ﹂
﹁は?﹂
﹁だからお前か女の人の出身と思って﹂
﹁いや⋮⋮あの、俺ってロシア人なの?﹂
﹁⋮⋮違うの?﹂
﹁あれはねー⋮⋮好きな女そっくりの女優が出てる裏DVD注文し
たら、俺の名前が長浜ってなっててた事があって宅配ボックスに入
れないで手渡しって事件に因んでいる。品名にアダルトDVDって
書かれてたんだぞ?あの頃の俺は逆レイプ物が好きで好きで⋮⋮今
もだけど﹂
﹁ロシアのオジョルスキー村の旧称じゃないのか﹂
﹁どこだよそれ。ロシアから離れろ、そこは不正解﹂
高浜は段々愉快そうな顔になっていました。
﹁で、最後の奈津夫だけど﹂
﹁来た来た﹂
﹁これは⋮⋮その女の人との婚約を仄めかしてるんじゃないかって﹂
443
﹁あーそれは無い﹂
﹁違うの?じゃアイス以外ヒントないじゃん﹂
﹁いや、婚約とかは無い﹂
﹁でも夫って⋮⋮奈津さんって人の夫って意味かなと﹂
﹁ははは、意味は合ってる﹂
﹁奈津さん?﹂
﹁⋮⋮⋮正解﹂
高浜は楽しそうなのに、ちょっと切なそうな顔をしていました。
奈津さんって誰?と聞きたいけど、ここまで付き合ってくれた高浜
にこれ以上を望むのは酷な気がします。
﹁⋮⋮やっぱりお前、ピンと来ないの﹂
﹁奈津さん⋮⋮⋮ごめん、お前の歴代の紹介してくれた彼女を考え
ても解らない﹂
﹁そうか﹂
﹁うん、だから奈津さんを見たい気持ちも無い訳じゃないけど、そ
こまで好奇心でやっちゃうのも悪いし﹂
﹁お前さ﹂
444
﹁⋮⋮何?﹂
﹁会ったのに忘れてるって、そこが一番俺には悲しいところだな﹂
﹁え?﹂
﹁まぁいいよ、別にみんなに見せびらかしたいとか無いし。お前の
スケジュールのお陰で急接近させて貰えたとか何とか﹂
﹁俺のスケジュール?﹂
﹁お前には言ってもいいか。大ヒントね、クリームソーダ﹂
﹁クリームソーダ?﹂
﹁⋮⋮⋮これで思い出してくれなかったら永山さんは脱落です﹂
カウンターから司会者のように、高浜は私に言いました。
私の頭の中に、深いグラスに入った緑色のソーダに大好きなバニラ
アイス、毒々しいチェリーに黒いマドラーが刺さったクリームソー
ダが浮かびました。
いや、クリームソーダにマドラーっておかしいだろ⋮⋮ストローと
ロングスプーンだ。
隣から高浜の声がして、失礼しましたって差し出されて。
あ、そうそう、これは高浜と会ったときに指定されたバーのカウン
ターだ。
懐かしいな⋮⋮って、結構最近の話です。
445
半年まではいかないかな。
そうそう、この時のチェリーのヘタが短くて、口の中で結ぶのに苦
労したんだ。
あ⋮⋮⋮。
何かが頭の中で気付け!!と叫んだ気がしました。
その日のバーでの会話が断片的に流れます。
﹃あ、これってお酒なんですか⋮⋮クリームソーダかと思った﹄
﹃クリームソーダ?良かったらお作りしましょうか?﹄
﹃え、いいんですか?﹄
﹃はい、お好きなようですし﹄
﹁思い出した、クリームソーダを作ってくれた人、奈津川さんって
人だったね⋮⋮で、あだ名が奈津か﹂
﹁ね、いい女でしょー﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
いい女も何も、奈津川さんって男性じゃなかったか?
短い髪の毛に、余り覚えていませんが整った目鼻立ちだった気がし
ます。
話し方や声の感じからしても、記憶が薄らいでいるとは言え、女性
だった記憶は全くありません。
高浜⋮⋮お前⋮⋮。
私は脳味噌がイトミミズの塊になったようなザワザワした感じにな
りました。
446
﹁何だよその顔⋮⋮人が好きな女に文句付けるな﹂
﹁いや⋮⋮いいよ、高浜がそうだったんだったら、俺はまぁ、その
⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て、だからその反応は何なんだ﹂
﹁いや、やっぱり人の性癖云々をどうこう言うつもりは無いし﹂
﹁永山、お前すっごい失礼な事言ってるのに気付けよ﹂
段々、高浜の顔から笑顔が消えました。
私も言葉を選ぼうと必死です。
﹁ごめん、⋮⋮いきなりカミングアウトされても、どう反応してい
いのか⋮⋮﹂
﹁カミングアウト!?何だよ、そこまでの話じゃねぇだろ?﹂
﹁うん、いいんだよ、そういう一般には理解出来ない壁を超えた形
の恋愛ってあるだ﹂
ろうし。
そう言い切らない内に、高浜はカウンターキッチンを片手で乗り越
え、その足で私に強烈な飛び蹴りを食らわせました。
﹁マイノリティだから差別するなんて言ってないだろ!﹂
﹁だから奈津を好きイコールマイノリティってどんだけ失礼なんだ
よ!!﹂
447
﹁いや、だってさ⋮⋮同性を好きと言われたら、普通ビックリする
⋮﹂
﹁同性!?そりゃお前の弟に言えよ!!﹂
お前の弟⋮⋮毅彦に言え?
何で毅彦が出てくるのか、サッパリ解りません。
﹁あぁあああぁ今のは忘れろ!!何でもねぇから!!﹂
そう叫ぶと、また高浜は私の胸目掛けて蹴りを繰り出します。
そこまで本気ではなさそうですが、かろうじて避けてチップしただ
けでも、かなりの風圧でした。
﹁何なんだよ、俺は訳が解らない﹂
﹁こっちが聞きてぇよ、この馬鹿山!﹂
何で同性愛を前置き無くカミングアウトされて一方的に怒られない
といけないのか、不条理な気持ちになります。
驚きましたが別に私が対象と言うわけではなさそうですし、私だっ
て同性愛を否定した記憶はありません。
﹁⋮⋮高浜、落ち着けよ。別に悪いなんて言ってないだろ﹂
私は襟首を掴む高浜の手を握り返しました。
﹁うるせぇ!!お前が奈津の事を四の五の言うから⋮⋮﹂
448
高浜に隙が出来たので、私は手首を捻って高浜の懐に入り、ソファ
ー目掛けて投げ飛ばします。
﹁いってぇ⋮⋮﹂
﹁だから落ち着けよ!俺だって⋮⋮正直、どう対応していいのか言
葉を慎重に選んでたつもりなんだから!!﹂
﹁ふざけんなよ永山!!﹂
ソファーに寝た状態から脚を振り上げ、高浜は瞬時に床の上に立ち
上がります。
⋮⋮⋮すごい筋力だな、このまま肉弾戦が続いたら絶対負ける。
私に緊張が走ります。
﹁お前だってユズの事好きなんてマイノリティだの理解に苦しむだ
の言われたら頭に来るだろが!!!﹂
﹁うん⋮⋮﹂
確かにそうです。
でも、論点はそこではありません。
﹁でも、好み云々の話じゃないだろ、高浜だって解ってる筈だ﹂
﹁何が!?﹂
﹁やっぱさ、その⋮⋮性別を超えるの難しいって言うか、それが悪
449
いとは思えないけど﹂
﹁⋮⋮⋮性別を超えるとか、さっきからお前、何言ってんの?﹂
﹁え?﹂
﹁何なんだよだから、性別とか壁とか﹂
﹁だって奈津川さんって男﹂
今度は高浜もかなり本気でした。
目を見開いた高浜の拳で口の内側が奥歯に思いっ切りめり込み、血
の味が広がります。
私も頭に来て、高浜の膝に本気の蹴りを入れてしまいました。
﹁いてぇ!!お前、俺が絶対許せない類の勘違いしてるだろ!!﹂
﹁勘違い!?寧ろ応援してやるよ!!﹂
﹁てめぇの心配してろ!!﹂
﹁お前の方が心配だよ!!﹂
お互い攻撃する度に、ガツッと手応えがあるような殴り合いになり
ました。
高浜と喧嘩したって勝ち目無いのは解っていますが、何か一方的過
ぎて許せない自分がいました。
﹁ぎゃぁああぁ永山の血が付いたぁあ!!﹂
450
﹁お前が殴るからだろ、逃げんな!﹂
私は血を見て怯んだ高浜の襟首を掴んで、地面に倒しました。
痛い。
顔も手も腹も、全部に固いものをぶつけたような痛みが充満してい
ます。
よくここまでこいつと喧嘩出来たなー。
ちょっと高揚感すら覚えました。高浜が加減しているのだと思いま
す。
﹁ちょっと何してんすか!?﹂
﹁先生!?﹂
流石に騒ぎを聞き付けたのか、みんなが出て来たようでした。
止めないで欲しい、と思う気の立っている自分がいました。
確かに高浜の性癖、同性愛のカミングアウトを聞いて動揺したのは
悪かったし、言葉選びも悪かったかもしれない。でも⋮ここまで殴
る蹴るする事はないだろう!?
そんなの奈津川さんとだけにしろよ!!
﹁いいかげんにしなって!﹂
ユズちゃんの声がして、目の前に本人が飛び込んで来ました。
﹁何やってんの!?﹂
危うく、ユズちゃんまで巻き込むところだった。
一気に戦意喪失しました。
451
﹁先生⋮血が出てるよ?ちょっとた⋮長浜さん、先生に何したの!
?﹂
﹁あのー血なら俺も出てますけど﹂
﹁長浜さんは大丈夫でしょ?﹂
﹁何だよそれ⋮あぁああぁ納得いかねぇ!!﹂
﹁落ち着いて下さい!﹂
ユズちゃんに責め立てられ天井を仰いで怒鳴った高浜を倉田くんが
宥めます。
何か、高浜が罠にかかったライオンみたいに見えて来ました。
﹁もういい。もっかい釣り行って来る。倉田、後は頼む﹂
﹁待て﹂
フラフラと立ち上がった彼を私は呼び止めました。
﹁俺の言い方が悪かった⋮⋮のかな、何かすまん﹂
﹁⋮⋮言い方どうこうじゃねえよ。もういい、口で言ってもダメそ
うから、本当のところ見せてやるよ。ちょっと表出ろ﹂
えぇえぇ⋮⋮いいのに。
私は鳥肌が立ちました。
﹁いや、いいよ、そんな﹂
452
﹁それだから来いって言ってんだろうが!永山、お前に見せるべき
ものがある﹂
﹁本当にいいから。お前の心の内に秘めとけ﹂
﹁あぁああぁもうお前って⋮⋮﹂
高浜が頭を抱えて掻きむしりました。
私も高浜の本気の恋愛とやらに首を突っ込んだ事に深く後悔を覚え
ました。
立ち尽くしているメロンちゃんに⋮⋮何て言おう。
高浜の好きな人はバーテンさんなんだよ。
結構かっこいい系の。
ダメだ、何の慰めにもならない。
メロンちゃんはいい子なのに、気の毒になって来ました。
奈津川さんを知ったら諦めつくかな。
絶対ショックだと思うんだけどなぁ。
﹁いいから来い!!﹂
いきなり高浜に手首を掴まれ、私はまた鳥肌が立ちました。
﹁ちょっと⋮⋮先生、怖がってるじゃん﹂
﹁こいつの怖がってる顔の方が怖ぇだろが。ユズ、もう喧嘩しない
から安心しろよ﹂
﹁絶対だよ?﹂
﹁うん、もうこいつ誤解し過ぎてどーーーーしょもねぇから。例の
453
件でちょっと﹂
﹁あぁ⋮⋮解った﹂
何が!?
そう思ってユズちゃんを見ますが、ユズちゃんは冷静でした。
いってらっしゃい、そう目が私に語りかけています。
私も冷静になろう。
みんなの心配と好奇の入り混じった目線の中、私は高浜の後ろをつ
いていきました。
﹁こっち来い﹂
高浜は灰皿の置いてある、裏庭に私を促します。
﹁⋮⋮⋮⋮何?﹂
﹁もーーーお前ってホンッと⋮﹂
電話口でも同じ言葉を言われた記憶が蘇ります。
高浜は何を伝えたいのでしょう。
正直近付くのも本能的に躊躇われます。
私は自分で思う以上に偏見の強い人間だったんだな、そう実感しま
した。
﹁ホントは見せたくないんだけどな﹂
タバコに火を点けると、高浜は薄笑いをして携帯を出しました。
454
何を見せられるのか解りませんが、怖いもの見たさで私は携帯の画
面を見ます。
画面に映っていたのは、こちらを迷惑そうに睨んでベッドに横たわ
る全裸の女性でした。
光沢のある濃いグレーのベッドシーツに横たわっている、身体の均
整の取れた真っ白な肌のショートカットの女性です。
全裸ですが性的と言うよりは、一種の絵画のような感じを受けまし
た。
﹁⋮⋮これは?﹂
﹁だから奈津だよ﹂
高浜が迷惑そうな顔をして言いました。
﹁余りに綺麗だったから、本人の承諾を得て撮らせて頂きました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
一瞬で自分の勘違いに気付きました。
撮影を承諾した様には見えない表情ですが、記憶の中のボンヤリと
した奈津川さんの顔と重なります。
シャープではっきりと整った目鼻立ちですが、こうして見ると確か
に女性です。
失礼な事に、声と喋り方と短髪で私は奈津川さんを勝手に男性だと
思い込んでいたと言う事か⋮⋮。
﹁はい終わり﹂
455
﹁高浜⋮⋮俺⋮⋮﹂
﹁解ったか?俺が何でブチ切れたか﹂
﹁本当にすまない⋮⋮﹂
﹁まぁ⋮⋮奈津が男っぽいのは俺も認めるけど﹂
﹁そうなの?﹂
﹁でも俺の知る限り一番可愛い﹂
﹁一番可愛い、か﹂
﹁本人にお前が会うことがあるかは解らないけど、これ見せた事は
秘密で﹂
高浜、照れてるんだろうか。
何か顔の色が濃くなってる気がする。
色々気になりましたが、散々勘違いで高浜を怒らせ、殴り合いにま
で発展させた私に質問をする権利は無いような気がしました。
﹁永山さ、お前ってユズとどうなりたいんだ?﹂
﹁どうなりたいとは?﹂
﹁まぁ、その⋮⋮あるだろ、将来展望みたいなのが﹂
﹁結婚して子供を作って家族を作りたい、かな。今のお腹の子も俺
456
の子供にしてもいいし﹂
﹁お前もそう思うか﹂
﹁だってユズちゃんの子供には変わりないんだし﹂
﹁そっちじゃない。お前も結婚してとか考えてるんだな﹂
﹁まぁ⋮⋮﹂
別段何も考えず、ユズちゃんと出会ってからそう思っていました。
お互い好きだと思って、ちょっといいなって言うレベルを超えた向
こう側に、
家庭を築きたいと思う気持ちが存在するって何かおかしいのでしょ
うか。
﹁永山、お前なら子宮筋腫って解るな﹂
﹁え?子宮筋腫?﹂
﹁どんな症状なんだ?調べたけどよく解らん﹂
いきなりどうした?
奈津さんの事かな。
私は邪推はしないで、純粋に聞かれた事に要点だけ説明をしようと
心掛けました。
﹁子宮の筋状の筋繊維が何らかの原因で渦巻き状や束状になってコ
ブみたいになって行く症状。悪性でもないし、出産可能な女性の内
の5人に1人くらいはある症状だ﹂
457
﹁そんなにあるのか﹂
﹁うん、自覚症状も薄いみたいだから、何かお腹がゴリゴリすると
思ったら赤ちゃんの頭くらいの筋腫があったなんて話もある。悪性
の子宮肉腫とか子宮癌とは根本が違う﹂
﹁⋮⋮結果として、子宮自体を摘出する場合もあるんだな﹂
﹁程度と場合による。再発防止の為もあるし。筋腫だけを取り除く
手術は結構技術がいる﹂
﹁出来ない訳じゃないって事か?﹂
﹁うん、何度かやったけど﹂
﹁お前が?﹂
﹁そう。子宮鏡を使って電気メスで筋腫を取るのが慣れないと難し
い。それだけだと芽みたいなのが残ってしまうからまた再発してし
まう例もある。だから、周りの細い血管からの出血を抑えながら筋
腫核群、まぁ筋腫部分とその芽を炭酸ガスレーザーでくり抜く様に
焼き切って行く方法だと数時間以上を要する結構な手術になるんだ。
だから、投薬治療もダメな患者さんにとって健康への悪影響が強い
筋腫の場合は医者から見ても患者さんにも出血や感染症のリスクが
少ない、子宮摘出を薦める産婦人科は多い﹂
﹁そうか、でも摘出しちゃったらもう子供は望めないんだろ﹂
﹁まぁそういう事になる。でもそれは出産が出来ないという意味で
458
の話だ。出産が出来なくても社会的に子供を持つ一つの手段を俺や
毅彦は提供しているつもり﹂
﹁そうだな﹂
﹁うん﹂
﹁ちょっと気になるんだが⋮⋮子宮摘出って所謂⋮⋮女性らしさが
無くなったりと関係ある?﹂
やっぱり奈津さんの事だな。
失礼ながら私は思いました。
﹁理屈で行けば、無い﹂
﹁そうなのか﹂
﹁女性ホルモンは卵巣が分泌していて、意外かもしれないけど子宮
にはホルモン分泌させる機能はない。本来は卵くらいの大きさの筋
肉の固まりで、毎月まだ来ぬ受精卵への高機能ベッドを提供してい
るような器官。そのベッドメイキング時に起こるのが月経で子宮が
無くなるとそれが無くなるけど、卵巣まで取らない限りは女性ホル
モンの分泌量がダダ下がりするとかはないよ﹂
﹁そうか。子宮摘出しても⋮⋮子宮口みたいなのが残ってたりって
のはある?﹂
﹁そういう一部だけ残すやり方もある。ただ﹂
﹁ただ?﹂
459
﹁⋮⋮こんな言い方したくないけど、人道的に考えれば将来子供が
欲しい人や若い人の子宮摘出は極力避けるべきだと俺は思う。
子宮って俺らが思ってる以上に多くの女性に取っては大きな意味を
持つ器官であるのは間違いない。
それを失う事で、自分の性まで否定してしまう人もいる。妊娠しな
い上に生理ないとかいいじゃんって発想の人もたまにいるけどね﹂
﹁⋮⋮悲観的に捉えるか楽観的に捉えるかって事か﹂
﹁そうだ、そこは男性の方も受け止めて支えてあげるべき部分だ﹂
﹁永山⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁いや、普段のお前と余りにも違うから﹂
﹁そう?﹂
高浜は珍しく、余裕が無いと言うか躊躇っている様な顔をしました。
だから、奈津川さんの事なんだろ?
そう思っても、もう高浜の恋愛に私から踏み込んではいけないんだ
と思います。
みんなが私に心配するなだのそのままでいろと言った理由が解る気
がしました。
さっきまでの勘違いを思い出すと、高浜にも奈津さんにも申し訳無
い気持ちで一杯になります。
460
﹁永山って本当に医者なんだな﹂
﹁今まで俺の職業を何だと思ってた?﹂
﹁高校の同級生﹂
﹁⋮⋮職業って聞いたんだけど﹂
お互いちょっと笑い、さっき殴り合った時の口の中の傷が痛みまし
た。
高浜もちょっと眉をしかめて切れている唇を手の甲で抑えていまし
た。
血とかグロテスクな話が大嫌いな彼ですが、奈津さんの身体の話に
なると真剣に聞くんだな。
空に広がって消えていくタバコの煙を眺めていると、
﹁まぁ俺がどうこう言っても仕方ないんだけどね﹂
と高浜が伏せ目がちな切なそうな表情をしました。
ああ、これか。
これがユズちゃんの言っていたかっこいい顔なのでしょうか。
結婚願望が無い高浜と、子供を産めないけど結婚や出産を望んでい
たらしい奈津さん。
何らかの形で2人の人生が交差して、あの高浜がこんなに想ってい
るんだと思うと、映画を見ているような気持ちになりました。
﹁永山さ、お前ってユズと2年会わなかったらどうなる?﹂
﹁理由による﹂
461
﹁んー⋮⋮理由ね。例えば、ユズの子供の頃からの夢が留学で、カ
ナダの短大に行くためにこの仕事してた。お前どうする?﹂
﹁⋮⋮留学﹂
直球で具体的過ぎて、私は返答に困ります。
奈津川さんは、留学で2年カナダにいるんだな。
ずっと子供の頃からのたっての希望で、お金も頑張って自分で貯め
て。
仮に、の話なのに思わず情景が浮かびます。
﹃私ね、カナダに留学するのが子供の頃からの夢だったんだ。その
為にお金も自分で貯めたんだ﹄
ユズちゃんにそう言われたら私は何て言うでしょうか。
﹁⋮⋮行きなよって言うと思う。会えなくて寂しいのはあるけど、
2年って決まってるなら耐えられる﹂
﹁やっぱそうだよな﹂
﹁でも心配はするよ﹂
﹁心配?﹂
﹁ユズちゃんがあっちで何かあっても、俺はすぐ駆け付けられない
しね﹂
﹁そっちの心配か﹂
462
﹁他に心配ある?﹂
﹁向こうで好き勝手やっちゃって日本にいる自分は忘れられちゃう
とか﹂
﹁え?﹂
﹁だから、どうなんだろうって﹂
奈津さんに忘れられるのが不安なのに⋮奈津さんがいないのをいい
ことに他の女の人とも関係を持つ。
何だか私には理解出来ない行動です。
それを望む女性がいるとは思えないぞ、奈津夫さん。
﹁⋮⋮あのさ、高浜﹂
﹁何だよ﹂
﹁奈津さんもそう思ってないか?﹂
﹁何で?﹂
﹁お前、放っといてもすぐ女の人が来るだろ?﹂
﹁お前もそうだろ﹂
﹁俺はそういうのない﹂
﹁あるだろ﹂
463
﹁ない﹂
﹁嘘つけ、気付いてねぇだけだ﹂
﹁じゃ知らない。興味も無いし﹂
﹁絶対あるよ、お前は俺と違って第一印象いいもん﹂
﹁⋮⋮第一印象悪いと致命的な仕事なんだが﹂
﹁で、何だっけ﹂
﹁だから⋮⋮奈津さんは忘れられる云々じゃなくて、自分がいなく
なったらお前は増して他の女性と関係を持ちまくるんじゃないかっ
て、心を痛めてるのではないかと﹂
﹁いやそれは⋮⋮お前はどうなんだよ﹂
﹁⋮⋮離れても自分の事を思ってくれている人がいるのに、そんな
事出来ない﹂
﹁そうか、事実上は一人でもか﹂
﹁女の人って、周りの女の人や前の彼女の事気にするでしょ﹂
﹁あー⋮⋮まぁ、そうね﹂
﹁俺は語る程の経験がないのが救いなんだけど。言おうとすると動
悸がしたし﹂
464
﹁動悸?俺だって語る事ねぇよ、そんなにいちいち記憶力よくない
し﹂
⋮⋮⋮駄目だ、こいつ。
お節介ながら、何だか奈津さんが可哀相になってきました。
息をするように女と寝ると言うか⋮⋮。
﹁俺が言うべきじゃないかもだけど、連絡って取ってるのか?﹂
﹁⋮⋮⋮取ってない﹂
﹁何でだよ﹂
﹁さぁ﹂
﹁連絡しないと、益々切られる可能性高くなるんじゃない?﹂
﹁アパートの荷物はうちに全部あるんだが﹂
﹁それを人質みたいに言うなよ。倉庫として使うためにお前の家に
来たんじゃないと思う﹂
﹁⋮⋮だからあの家には帰りたくなくてな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
高浜も寂しいとかあるんだな。
ちょっと可哀相になって来ました。
難しいな。
465
﹁連絡しなよ、奈津さん喜ぶぞ﹂
﹁えー⋮⋮何て﹂
﹁何でもいいだろ、世間話レベルで﹂
﹁だって向こうからもねぇし﹂
﹁待ってるんだよ、多分。ほら、携帯出せ﹂
﹁無理﹂
﹁はぁ?﹂
﹁何をどうすればいいものか﹂
﹁何言ってんの?﹂
﹁お前、電話とかメール前にそういうの考えねぇの、何言おうとか﹂
﹁彼女に連絡するのに別に考えないよ﹂
﹁えぇえぇ無理ーそれに今日のお前、何か怖いし﹂
﹁いきなり蹴り飛ばして来たのはお前だろ﹂
﹁それはお前が奈津を男とか言うからだろうが﹂
段々、コイツ本当に奈津川さんの事が好きなんだろうかと言う疑念
466
が沸き上がりました。
高浜は高浜で、私に奈津川さんを男だと思われた事を根に持ってい
ます。
確かに好きな女性を男だと思われたら不愉快でしょうし、私も謝っ
たとは言えど申し訳無く思ってます。
耳に当てました。
﹁そこまで奈津さんの為に怒れる癖に電話一本も出来ないか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
煽ると結果を出す高浜は、携帯をいじって
意地張るとよくないし。
ユズちゃんもそう言ってたよ。
間もなく、
﹁あ、奈津?﹂
と高浜は安堵の表情になりました。
﹁どうした⋮⋮か、どうもしてないけど。あのさ、お前の店行った
ときにいた俺の友達覚えてるか?⋮⋮そう、マドラー吸っちゃう人。
その人がさ、お前に話があるとか何とか﹂
﹁え?﹂
そっと立ち去ろうとしていた私の服の背中が掴まれました。
﹁うん、まぁお礼とかなんじゃない?代わるわ﹂
サッと差し出された携帯からは
467
﹃ちょっとまてよ馬鹿浜!おい馬鹿浜!?﹄
と慌て気味の奈津さんの声がします。
もっと話してればいいのに。
そう思いましたが、高浜の気迫に押され、仕方なく携帯を受け取り
ました。
﹁もしもし⋮⋮すみません、永山と申します﹂
﹃あぁ、前に来て頂いた﹄
﹁クリームソーダ、御馳走様でした。あのですね、高浜が奈津川さ
んに連絡を自分から取れないと言うことで﹂
﹁おい!﹂
高浜が吠えました。
そんなに焦るなんて高浜らしくない。
その様子を見ていると何か意地悪したくなってきますが必死で抑え
ました。
﹃馬鹿浜が⋮⋮私に何か?﹄
﹁いえ、高浜は奈津さんの事が好きで好きでしょうがないんですね﹂
﹃高浜は私の事は忘れて他の女と遊んでいるのでは、と思いますが﹄
すごく強い人だ、そんな印象を持ちました。
声が低いのに加え、突き放すような感じ。
468
その圧倒的な支配力を持つ威圧感に、携帯を当てている頬の内側の
傷口が何故か呼応する様に痛みました。
﹁奈津川さんに忘れられたらどうしよう、捨てられたんじゃないか
ってそればっかなんですね、高浜は﹂
﹁ちょっと永山!?﹂
﹃⋮⋮⋮捨てても忘れてもいません﹄
ほらね、大丈夫だろ。
奈津川さんの言葉に私はちょっと安心します。
﹁高浜は意外に照れ屋なんですかね、奈津川さんに連絡したいけど
何話していいか解らないって。
今日はまた高浜の恋煩いが原因で俺と殴り合いに発展しまして﹂
﹁いやいやいやお前それは﹂
﹃殴り合い?﹄
﹁もう高浜の中はどこ切っても奈津川さんって感じなんです。だか
ら暇な時は連絡してやって下さい。高浜も一杯一杯で待ってますか
ら﹂
﹃グジッ⋮⋮ありがどうございばす﹄
﹁もういい、返せ!﹂
タックルされる様に携帯を引ったくられました。
469
自分から急に渡してきたのにねぇ⋮⋮私は意地悪な気持ちを抑える
のに一杯一杯です。
﹁先戻ってる﹂
と小声で高浜に言うと、高浜も解ったと目配せしました。
かなり歪曲して言いすぎましたが、奈津川さんも高浜も気持ちは一
緒だったって事なのでしょうし。
さっきまではもう踏み込む気は無かったんですが、やっぱり私もお
節介なんでしょうね。
でも﹁それ絶対上手くいってるのに﹂って関係を拗らせてるのを見
ると、心がモゾモゾします。
ドアを開けるとユズちゃんが飛びついて来ましたが、私の顔を見る
と表情が一変しました。
﹁先生⋮⋮長浜さんはどうしたの?﹂
﹁何か心配なの?﹂
﹁いや、何か先生の笑顔が⋮⋮﹂
﹁あいつなら、大丈夫﹂
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
今度はメロンちゃんが私を見ました。
⋮⋮そうだ、すっかり忘れていました。
470
ごめんねメロンちゃん。
何も協力出来なかったどころか、名刺の謎を解くだけのつもりがメ
ロンちゃんが一番傷付く展開に持って行ってしまったと気付きまし
た。
﹁ちょ⋮⋮あの、長浜さん⋮死んでたりしないですよね﹂
倉田くん⋮⋮?
高浜が私を外に連れ出したのに、何で高浜が死んでる事になるんで
しょう。
むしろ生き生きとしているはずですが。
他のみんなもどうしたらいいか解らない面持ちで私を見ています。
大丈夫、大丈夫だって。
高浜、今は大好きな奈津川さんと⋮⋮。
そう言いたいですが、メロンちゃんの手前、言えません。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
意味の解らない緊張した沈黙が続き、私も段々また何かやらかして
しまったかな、と不安になって来ました。
﹁みんなどうした?﹂
意外にも高浜が早く帰って来ると、みんなの表情が安堵に満ちたも
のとなります。
471
﹁良かったぁ⋮⋮﹂
﹁先生がすごい怖い笑顔で帰って来たから⋮⋮﹂
﹁てっきり何かあったんじゃないかって心配してたんですよね﹂
﹁無事だったんだ、長浜さん﹂
え?
私だけが何だか訳が解らずキョトンとしているようですが、みんな
高浜の無事を喜んでいました。
﹁仲直りしたんだね、良かった﹂
ユズちゃんまで高浜を労っています。
結構私も頑張ったんだけどなぁ。
まぁいいや。
高浜も奈津川さんと上手く行っただろうし⋮⋮。
﹁あ?みんなどうしたんだよ﹂
高浜もみんなの反応に訳が解らない顔をしていました。
﹁いや、だって先生が﹃殺っちゃいました﹄みたいな顔で帰って来
るから﹂
マロンちゃん⋮⋮?
﹁あぁ⋮⋮こいつたまに笑顔が怖いからな﹂
472
﹁俺の笑顔が?﹂
何だかちょっと腑に落ちない気分ですが、みんなどうやら私が外で
高浜に何やら殺害に準じる凶悪な行為をしたと思っていたようです
ね。
せっかくいいことしたのに。
考え事してても笑っても怖いと言われるって、かなり心外です。
﹁そっかぁ、名刺の謎が解けたんだね﹂
﹁そう。ロシアは関係無かったのが残念﹂
﹁だから言ったじゃーん⋮⋮﹂
散歩がてらユズちゃんと車で出かけ、余り詳しく話すのも高浜に気
の毒なので事の次第をかい摘まんで話しました。
﹁やっぱ怖いの?奈津さんって﹂
﹁どうなのかな⋮⋮俺には全然普通と言うか。まぁ多少の威圧感は
あったけど﹂
﹁先生が威圧されるって相当だよ、しかも産婦人科医の先生でも男
性と間違える様な女の人なんでしょ?﹂
﹁うーん⋮⋮でもすごい目鼻立ち整った綺麗な人だよ、全身真っ白
でプロポーションもすごくいいから結構長身だと思う﹂
473
﹁⋮⋮何で全身真っ白って解ったの﹂
あっ。
私は隣のユズちゃんを恐る恐る見ましたが、案の定怒っているよう
でした。
こっちの威圧感の方が私には比べようがないくらい怖いです。
﹁しかもプロポーション抜群って⋮⋮先生、何見たの﹂
﹁俺が男だと思い込んでいたから、写メを高浜が見せてくれたんだ
よ﹂
﹁⋮⋮⋮どんな﹂
﹁ベッドで寝てる写メ﹂
﹁そんなの見て高浜さんと喜んでたんだ﹂
﹁いや、何か絵画みたいな綺麗さなんだ、エロさとか無いくらい﹂
﹁⋮⋮⋮チンチクリンの小学生ですみませんね﹂
﹁何が?﹂
﹁先生が目鼻立ち整った綺麗でスタイルいい長身の女の人が好きっ
てよく解りました﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
474
何でそうなる?
私は溜息をつきました。
こういう時に一対一だと難しいですね。
確かに目鼻立ちが整っているに越した事はありませんが、好きにな
ったら見た目とかどうでもいい気がします。
現に私は十代の若い子に興味は無かったのにユズちゃんと付き合っ
てる訳ですし。
﹁俺、そんな意味で言ってないんだけど﹂
﹁言った。プロポーションがどうの長身がどうのって言った﹂
﹁でもそれが好きなんて言ってない、特徴として言っただけだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう﹂
ユズちゃんだって高浜をかっこいいって言ったよね。
でもここでそれを言ったら喧嘩になるのは私にも解ります。
﹁ユズちゃん﹂
﹁はい?﹂
﹁⋮⋮アイス食べ行く?﹂
﹁モール行くの?﹂
﹁うん、サーティワンあったよね﹂
﹁いいよ、行こう!﹂
475
妊婦さんにアイス勧めるとか医者失格かもしれません。
妊娠中は全く食べていけないって事でも無いですし、ユズちゃんの
現在の体重増加率と血中糖度ならちょっとくらいなら大丈夫です。
﹁あ、でも﹂
﹁何?﹂
﹁高浜さんとメロンちゃんに会っちゃうかもね、さっき2人で出掛
けてたし﹂
私はハンドルを切り損ないそうになりました。
あいつホンッと⋮⋮あ、これ、こういう時に使う表現なんですね。
﹁高浜さんね、ちゃんと鳴海って呼んであげてるんだよ。メロン姉
さんといる時﹂
﹁⋮⋮でもメロンちゃんは高浜って知らないんだろ﹂
﹁うん、いいんじゃない﹂
﹁何で?﹂
﹁だって高浜さんは奈津さんが好きなんでしょ。でもメロン姉さん
が好きなのは長浜さんなんだから﹂
﹁どっちも高浜だろ﹂
﹁うーん⋮⋮何かさ、ドラマの中の役と俳優本人の違いって言うか
476
⋮⋮メロン姉さんも割り切ってると思う﹂
﹁全然解らない﹂
﹁うん、それでいいんだよ。じゃあさ?高浜さんが姉さんを完全シ
カトしたり滅多切りにフッちゃえばいいの?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁絶対鬱になるよ、ただでさえ一番悪阻が酷いんだもん。そうやっ
て考えると高浜さんの役割って貴重じゃない?﹂
﹁そうか、そうなのかな﹂
確かに最善の対応をするとは言ってたけど。
私が女性だったら、少々見た目が良くても目を離せばすぐ他の女性
に手を出す男性は勘弁して欲しいような気がします。
でも高浜はそれが普通だし、女性の方から来るのでいちいちかわす
のも面倒なのかもしれません。
モテなくて良かった、私には好きな女の人が1人いれば十分です。
﹁まぁメロンちゃんも可愛いいい子だし、これからいい出会いはあ
るといいよね﹂
﹁⋮⋮先生、メロン姉さんの顔好きなの?﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
ユズちゃんってこんな嫉妬深かったっけな⋮⋮うん、深かった。
私達はショッピングモールの立体駐車場で仲直りをして、意気揚々
477
とサーティワンに向かいます。
﹁私はねー⋮⋮チョコミントとポッピングシャワー﹂
﹁じゃバニラとナッツトゥユー﹂
﹁あはははナッツトゥユーって。サーティワンでバニラ食べる人初
めて見た﹂
﹁こんだけ色々あるのに何の変哲も無い定番のバニラがあるって、
美味しいって事じゃないの?﹂
﹁そっか﹂
﹁ユズちゃんのその凄いの、何?﹂
﹁パチパチなるやつが入っててね⋮﹂
﹁良かったらどうぞ﹂
私達の会話を聞いていたらしい店員さんが、ピンク色のスプーンに
緑にカラフルな粒々の入ったアイスを取って渡してくれました。
﹁あ、すみません﹂
﹁食べてみて食べてみて、美味しいから﹂
口に入れるとパチパチ弾けるような刺激があります。
こんなアイスあるんだ⋮⋮。
そんなこんなで注文をし、レジ前で財布を出すユズちゃんに驚いた
478
りしながら席に着きました。
若い女の子って、割り勘が普通なんですかね。
﹁先生ありがとう﹂
﹁何が?﹂
﹁お金﹂
﹁いいよ、アイスくらい払わせて欲しい﹂
久々に食べるバニラもですが、ナッツトゥユーが美味い。
これはグループ名にしてもおかしくない味だな、と思いました。
﹁あははは先生、パチパチ苦手?﹂
﹁苦手じゃないけど﹂
﹁何か固まり方が猫みたい﹂
﹁猫⋮⋮⋮﹂
﹁うん、先生って猫っぽい﹂
こんなたわいない会話も、ユズちゃんが留学していなくなったら出
来ないのか。
辛いな、高浜。
ふいにちょっと同情しました。
479
それからユズちゃんの買い物をして、ユズちゃんの希望でベビー洋
品見たり楽しい時間を過ごしました。
やっぱり私が頼りなく見えるのか、店員さんがピッタリ私に着いて
詳しく産前産後の妊婦さんのケアやパパの在り方を説明していまし
たが、
﹁あ、この人産婦人科医なんで﹂
のユズちゃんの気迫の篭った一言で一気に店員さんは撤退しました。
﹁別に言わなくていいのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あのさ、先生。鏡見なって言わなかった?﹂
また言われた⋮⋮。
何となしに売場に設置されていた鏡を見ましたが、いつものボンヤ
リした自分の顔が映っているだけです。
頼りなさげだからあんなに店員さんが来たのかと思いますが、やっ
ぱり鏡には見慣れた自分が映っているだけでした。
﹁まぁ解らない方がいいかな、高浜さんみたいになられても困るし﹂
﹁俺は高浜みたいにはならないよ、ユズちゃん1人で満足だから﹂
﹁⋮⋮そういう意味じゃないけど嬉しいからいいや﹂
そんなこんなで帰路に着き、道中﹁先生やっぱり綺麗でスタイルい
い人が好きなんじゃん!﹂﹁そんな事言ってない﹂﹁何度も言って
るし﹂﹁言ってないから﹂と言う話に何故かなってしまい、私は帰
って早々倉田くんに泣きつく事になりました。
480
倉田くんは慈愛に満ちた眼差しで、
﹁それをヤキモチと言うんですよ﹂
といいました。
﹁そうかなぁ⋮⋮潜在的なコンプレックスとかじゃないかなって思
うんだけど﹂
﹁それがヤキモチなんじゃないですかねぇ﹂
﹁⋮⋮そうか、そうかも﹂
﹁先生は鏡見ても何も思わなかったんでしょ?﹂
﹁うん、大した事無い顔なのは自覚してるけど﹂
すると倉田くんはニヤッと笑って言いました。
﹁それだけですか?﹂
﹁何が?﹂
﹁だから、鏡見て自分が映ってるってだけしか思わなかったんです
よね﹂
﹁だって他に映りようが﹂
﹁それは先生が顔にコンプレックスが無いからですよ﹂
481
﹁⋮⋮⋮⋮!?﹂
﹁例えば俺とか、身長低いじゃないですか﹂
﹁そうなの?﹂
﹁先生何cmあります?﹂
﹁175とか、かな﹂
﹁俺が163cmなんですね﹂
﹁そうなの?もっと高いと思ってた﹂
﹁人間ってオデコの分の身長は自覚してない事が多いんでしょうね、
そう言われます﹂
﹁でも困る身長じゃないと思うけど﹂
﹁でも低いじゃないですか、長浜さんと並んだりすると﹂
﹁そう﹂
﹁そこでやっぱり自分より身長高い人と並ぶのビミョーに嫌だなっ
てなるんです。それがコンプレックス﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁外見に恵まれてる人には解らないでしょうね﹂
482
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁だからユズちゃんはスタイル良い人とかにそう思ってヤキモチ妬
いてるんですよ。先生が悪いってよりユズちゃんに問題がある﹂
﹁って言ったら怒るよね﹂
﹁言わない方が良いっぽいですね、こればっかりは変えられない﹂
﹁そっか、みんなあるんだね﹂
﹁先生もあるんですか﹂
﹁あるよ﹂
﹁えぇー?例えば?話せる範囲で﹂
⋮⋮話せる範囲。
そういえば倉田くん、彼女に浮気されてどうのって言ってたな。
私は例の過去の話を話す事にしました。
本日3回目ですが、不思議なもので倉田くん相手だと全く何も起き
ませんでした。
﹁⋮⋮⋮それ、俺より大変じゃないすか⋮⋮俺の元彼女はそこまで
は⋮⋮﹂
﹁そう⋮⋮かな、でも立ち直れたの最近だよ﹂
﹁先生ってキレると怖いんですね﹂
483
﹁余りキレる方では無いと思うんだけど﹂
﹁だから余計怖いんですよ﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁その顔で解ります﹂
どの顔?
こんな時こそ鏡があればいいんですが。
﹁長浜さんってコンプレックス何なんだろう﹂
﹁さぁ⋮⋮﹂
すると、後ろから
﹁顔﹂
と言う声がしました。
私と倉田くんは同時に振り返ります。
﹁⋮⋮ビックリした﹂
﹁永山の顔に俺達はビックリするけどな﹂
高浜は腕組みをしながら、戸口に立っていました。
顔⋮⋮か。
何だか高浜が言うと違和感があるな、イラッとすると言うか。
484
﹁長浜さん⋮⋮マジで言ってます?﹂
﹁うん、何もここまで濃くなくてもいいと思う﹂
﹁全然いいじゃないですか﹂
﹁お前ね、会う人会う人にビクッとされたり、親の国籍聞かれたり
日本語上手とか言われてみ?それにこの顔じゃなかったらちゃんと
1人の女性と真剣にお付き合い出来たんじゃとか何とか﹂
﹁あーうっざい、長浜さんマジでうざい﹂
﹁顔が濃くても1人の女性とは真剣に付き合えるだろ﹂
﹁そうか?綺麗なお姉さんに身体だけでもいいからって言われたら、
お前ら嫌だって言える?﹂
﹁言えるよ、付き合ってる人いたら。ねぇ倉田くん﹂
﹁俺は自信ないなぁ⋮﹂
﹁えぇ?﹂
そうか、倉田くんも高浜と乱交してるもんなぁ。
そんな最中にユズちゃんにプロポーズしてしまったのが今更悔やま
れました。
﹁でしょ?だから俺があながち間違ってる訳でもない﹂
485
﹁奈津さんの前でやってみろよ﹂
﹁それは出来ない。多分勃たない﹂
﹁じゃその⋮奈津さんって方が他の男にやられてるのは?﹂
倉田くん⋮⋮結構切り込みますね。
流石です。
﹁あー⋮⋮﹂
高浜はちょっと目を閉じて考えているようでしたが、
﹁想像すると燃える気もするけど、実際は絶対無理。多分死人出す
レベルで許せない﹂
と、かなり真面目な顔で言いました。
﹁そうなんだ﹂
﹁でも奈津に俺がされるのは全然いい。考えるだけでイキそう﹂
﹁そこまでか﹂
﹁すんません、あのー⋮⋮奈津さんって誰なんですか﹂
高浜はものすごい輝きを目に留めて、
﹁俺が会った中で最高の女﹂
486
と言いました。
さっきまで電話1本するしないであんなに揉めたとは思えない自信
が満ち溢れています。
﹁どんな女の人なんですか?﹂
﹁えー?﹂
﹁ベリーショートで色白ですごいスタイルいい人﹂
﹁ベリーショート!?﹂
﹁いいだろー?顔がいい男は坊主頭、顔がいい女はベリーショート
にしたら解る。ショートで可愛い女は顔立ち自体が可愛い﹂
﹁確かにそうっすね﹂
﹁そうだね﹂
何だか高校の時を思い出しました。
みんな真面目で大学進学を目指していたのに、女の子の話になると
結構真剣になっていたのを思い出します。
﹁永山も苦労したんだな、だからあの時にもあの女は止めとけっつ
っただろ﹂
﹁うん、お前が言った通りだったもんね﹂
﹁女って難しいんですよね、構いすぎてもうざがられるし、忙しく
て仕事で構わないと⋮⋮フラれるし﹂
487
最初に会った時の、今の俺が真面目なモノは彼女と言った倉田くん
の爽やかな顔が思い出されました。
何で上手く行かないんだろうな。
﹁それはバランスが悪いからじゃねぇの?﹂
高浜が椅子に前後逆に座りました。
よくそうやって次の授業の宿題聞いて来たな。
休み時間に慌てて宿題やるなよ、と思いましたが、試験の成績は高
浜の方が良かったんですよね。
﹁⋮⋮お前が言うかな﹂
﹁え?俺はちゃんと好きだの可愛いだの思ったら言うよ?﹂
﹁信用されないだろ、お前の場合﹂
と言うと高浜はニヤッと笑って
﹁何で解った?﹂
と言いました。
﹁長浜さんは日頃が日頃ですからね⋮⋮﹂
﹁えぇ?だって俺、好きじゃない子に好きとか言わないよ?﹂
﹁そうなの?﹂
488
﹁当たり前だろ﹂
倉田くんと私は顔を見合わせました。
﹁だから多分、信用が無いのはこの顔がいけないんじゃないかと俺
は思うのですが?﹂
﹁長浜さん、俺がタメだったらどついてますね﹂
﹁うん、普通の人が聞いたら絶対厭味にしか聞こえない﹂
﹁それがコンプレックスなんだろ、倉田?﹂
﹁⋮⋮⋮聞いてたんすか﹂
﹁ごめんね、ちょっと通り掛かったら面白そうな話してたから﹂
﹁盗み聞きするなら最初から加われよ﹂
﹁だったら戸口開けてデカい声で語り合うな!﹂
高浜が満面の笑みでクッションを私に投げつけました。
﹁うるさい、さっきのお前動画でとっときゃよかった!!﹂
私も投げつけられたクッションを高浜に投げると、
﹁全然何の事だかサッパリ﹂
と、何故か倉田くんに思いっ切りクッションをぶつけます。
489
﹁うわっ⋮何で俺にトバッチリ来るんですか!﹂
﹁お前も偉くなったな!﹂
﹁痛い!!﹂
﹁クッションで痛いか!?じゃ永山死ね!!﹂
﹁死ねって何だよ!!﹂
﹁俺がこんなに切ねぇのに幸せ振り撒きやがって!!﹂
﹁おすそ分けしてやるよ﹂
﹁よく言うじゃねぇか!﹂
バスン、ボスンとクッションの投げ合いをしてる内に、辺りは羽根
だらけになりましたが、構わず続けました。
﹁もー⋮⋮2人とも今日はどうしたんですか⋮﹂
倉田くんが流石にウンザリした顔をしています。
本当に迷惑なおじさん達で申し訳ないですが⋮⋮ごめんね、すごい
楽しい。
﹁一人達観してんじゃねぇよアターック﹂
﹁いってぇ!!何で俺だけ蹴りなんすか!?もーーー﹂
490
倉田くんが高浜を押しのけました。
﹁あ、そういえばさ﹂
﹁何だよ﹂
﹁この中で失恋で落ち込んだ経験の無い人って俺だけじゃね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁はは、お前ら頑張れよ、じゃ﹂
そう言って高浜は部屋から走り去り、つい倉田くんと私は追ってし
まいます。
﹁めっちゃムカつくんすけど今の何すか!?﹂
﹁あのままフラれちゃえば良かったのにな!!﹂
﹁あはははははは!!﹂
ドタドタと高浜を一発どつかないと気が済まない衝動に任せて走っ
ていると、正面からユズちゃん達が走って来ました。
駄目だって妊婦さんが走っちゃ⋮⋮と言いかけた時に、
﹁何してんの!!?﹂
と一喝され、私達は一気に静かになりました。
491
﹁もーーー先生まで何してんの?!小学生はどっちよ!!﹂
﹁ごめんなさい⋮﹂
﹁何か俺、今何してたんだろ⋮⋮﹂
と思わず謝った私と我に返った倉田くんを尻目に、
﹁俺は掃除してきます﹂
と高浜はいつの間にか掃除機を持って上手く部屋に逃げました。
あいつ⋮⋮!と思って見ると倉田くんも同じような気持ちのようで
す。
﹁先生、今日何か変だよ?﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁その顔見たら安心した。楽しかったんだね﹂
﹁すごい楽しかった﹂
﹁もー⋮⋮﹂
ユズちゃんも諦めた様に笑いました。
奥の部屋から掃除機をかける音が聞こえて来ましたが、途中で音が
鈍くなり、﹁あぁ羽根が多すぎて詰まったんだな﹂と私と倉田くん
は顔を見合わせて朗らかな表情をしました。
492
ここに来ると盛り沢山だな、明日からまた頑張ろう。
﹁ごめんねユズちゃん、心配掛けて﹂
﹁ふふ、先生も男子って感じだね﹂
﹁30過ぎてるけどね﹂
﹁重症だ﹂
﹁かもね﹂
全くを以て年甲斐は無いかもしれないけど、すごい楽しかったんだ
よ?
そんな気持ちで私はユズちゃんの頭を撫でたのでした。
493
鏡を見た時に思う事︵後書き︶
楽しいですよね、クッション&枕投げ。
羽根が出る方が燃えますよね。
でも掃除が嫌ですよね。
放っておくと怒られるので難しいですよね。
494
婚姻関係︵前書き︶
もう⋮⋮どんな話にしたいのか先が全く見えなくなってきました。
でも、何も考えず始めたので終わるときは何も考えずに終わろうと
思います。
因みに作中の専門的な語句や説明は、その辺で話しかけて来た人か
らの知識と、家系に医者が多いので聞き齧りで書いてます。
間違ってたらすみません。
495
婚姻関係
熱風に巻き上げられる火の粉が飛ぶのを、私はじっと見ていました。
魚の焼ける匂いと蚊取り線香の匂い。
いいなぁ、初めて経験するのに懐かしい感覚に襲われます。
わざわざ用意したらしい、豚の蚊取り線香入れ︵正式名称が未だに
解りません︶からは、細い煙が出ています。
私は膝を抱えてじっとそれらに見入っていました。
何かこういう時って、色々考えたり思い出したりしてしまいますよ
ね。
炎の向こうに見える、掃除機を分解している高浜にビールを飲んで
る倉田くんにミルクさんとチコさん、ビールケースを椅子代わりに
座ってるユズちゃんとメロンちゃんとマロンちゃん。
いいなぁ、何か。
﹁終わったぁあ﹂
高浜がドライバー片手に叫んで、ユズちゃんが早く掃除機戻して来
れば?って冷たく言い放って、倉田くんが笑って。
﹁冷たいよね、みんなね﹂
と語りかけた掃除機を愛犬の様に従え、羽根だらけの中を高浜が歩
いていって、ユズちゃんが高浜が忘れたドライバー持って早足で追
い掛けていく。
まさか、30過ぎてこんな気持ちになるなんて思ってもみなかった
です。
496
パチパチ言っては巻き上がる火の粉をぼんやり眺めていると、
﹁お前、遭難してるみたいな﹂
と高浜がぶち壊しに来ました。
﹁⋮⋮してないよ﹂
﹁大丈夫か?﹂
今度は心配そうに覗きこまれます。
﹁このメンバーだったら遭難してもいいな﹂
﹁俺は嫌だ﹂
﹁ここに奈津さんが加わったらいいのにね﹂
﹁⋮⋮お前、嫌な奴な﹂
高浜は体育座りをしている私の隣に胡座をかきました。
フェイスタオルを首にかけ、タンクトップにジャージという装いが
これほど似合う人間はいない気がします。
﹁はぁ⋮⋮俺一人で格闘してたよ。お前達が掃除しないから﹂
﹁一人だけ逃げたりするからだよ﹂
﹁俺、怒られるの嫌いだし﹂
﹁ボッコボコにされるのは好きなのにね⋮⋮﹂
497
﹁ユズに説教されて興奮するかよ﹂
説教でも殴る蹴るでも普通はしないだろ、私は溜息をつきました。
私はユズちゃんに怒られると、恍惚とする以前に思考が停止してし
まいますが。
﹁いい光景だな﹂
﹁うん、それをずっと見てた﹂
﹁さっき楽しかったー⋮⋮俺ら今年で32な﹂
﹁そうだけど﹂
﹁でもああいうの楽しいんだよなー﹂
さっき⋮⋮あぁ、クッション投げして追っかけっこした時の事だと
すぐに解りました。
確かに私も倉田くんも躍起になって羽根を撒き散らすクッション投
げ合って高浜を追い掛け⋮⋮⋮こうして冷静になると年甲斐も無く
何してんだ?ですが⋮⋮久々に感じた高揚感はまだ少し残っていま
す。
﹁俺はお前が後ろ向きに座った時、休み時間を思い出した﹂
﹁ははは、高校の時は家で全然宿題してなかったからなー⋮夜遊び
に夢中で﹂
498
﹁でも成績わりと良かったよね﹂
﹁だって通知表で小遣い決まるんだもん﹂
﹁⋮⋮そんなシビアだったっけ﹂
﹁何か、俺だけ扱いが違ったと言うか﹂
﹁先生もお前には違う意味で手を焼いてたもんね﹂
﹁いや、家庭内での話﹂
そっか、高浜って実は養子なんだよな。
私は複雑な気持ちで高浜を見ました。
今、私達がしている事は⋮⋮果たして里子を受け入れ里親を探すや
り方は、子供本人にとってはどうなんでしょう。
﹁まぁ俺一人だけ何かおかしいってのは感じてたけど﹂
﹁それは家族の扱いが?客観的な見た目でって事?﹂
﹁見た目が一番かな、両親の態度もだけど﹂
そう苦笑した高浜の家には何度か遊びに行きましたが、両親とお姉
さんはみんな小柄で色白で狐目と言うか一重の切れ長でした。
高浜だけが長身で色黒、そして明らかに日本人離れした顔をしてい
たのでちょっとビックリしたのを覚えています。
私と毅彦も全然似ていませんが、両親と並ぶとまぁ親子かなと言う
のは解る範囲です。
499
﹁やっぱ⋮嫌なものか?﹂
﹁親と血縁がないのがって事か?﹂
﹁うん﹂
﹁嫌じゃないと言えば嘘になるけどな⋮⋮でもあんだけ金掛けて私
立入れてくれたし、普通より良い暮らしさせて貰えたのには感謝し
てる﹂
﹁じゃ何で分籍したの?﹂
﹁決まってるじゃん、仕事だよ﹂
﹁仕事?﹂
﹁これから色んな橋渡るってのに、迷惑掛かっちゃうし⋮⋮元々、
ホストファミリーみたいな感じだったし﹂
ホストファミリー⋮⋮。
高浜も自分の血筋が日本人じゃない気はしているのかもしれません。
私も含め、高浜の顔を知る全員が言及しないだけでそう思っている
とは思います。
﹁もう会ったりしないの?﹂
﹁⋮⋮どうかな﹂
実の両親が突然他界した私と、里親と事実上離縁した高浜。
500
どっちがどうとは言えない気がしてきました。
﹁まぁ⋮⋮両親とは余り仲良く無かったけど、親父とは最後に和解
したって言うか﹂
﹁和解?﹂
﹁そう、﹃お前が部下だったら良かったのに﹄って言ってた。実の
母親の事話そうとしてたから、そこは断ったけど﹂
﹁まぁお前も興味ないって言ってたもんね。お姉さん優しかったよ
ね﹂
﹁姉ちゃんね⋮⋮。最後、泣きながら料理のレシピ本を何冊もくれ
たわ。一緒にお手伝いしよっていつも色々教えてくれたし﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁そのお陰でこうして炊事洗濯担当になっちゃったけどな﹂
高浜は楽しそうに笑いました。
﹁毎日、えーと7人か。7人分のご飯作って、皿洗って、洗面所と
風呂の掃除して⋮⋮あのさ、家事が大変って奴って何人家族なんだ
ろうな﹂
﹁お前、完全寮母さんみたいになってんのか﹂
﹁ははは、案外家庭向きなのかね。結婚願望ねぇけど﹂
501
パチパチパチパチ。
バチィッ。
いきなり大きな火の粉が飛んで来て、私と高浜は左右に避けました。
﹁あぶねっ﹂
﹁ビックリしたね﹂
﹁そろそろこれ食えば?﹂
高浜が串に刺さって火に立て掛けられ、こんがり焼けた魚を指差し
ます。
﹁これは?﹂
﹁イワナ﹂
﹁こっちが⋮⋮﹂
﹁ヤマメかな﹂
﹁見分けがわからない﹂
﹁焼いちゃうとな⋮⋮どっちもぱっと見はマスにしか見えないが、
レア度はイワナの方が高い。警戒心が強いらしくてほとんど釣れな
いから﹂
﹁じゃイワナ食べてみたい﹂
502
﹁はい﹂
と、串に刺さった魚を差し出されました。
私は焼き鳥ですら箸で全部外してから1つずつ食べる癖があるので、
串に刺さった魚をこのまま食べるとなると、ちょっと困惑してしま
いました。
﹁⋮⋮これ、このまま食べるの?﹂
﹁皆さんああされてますが﹂
顔を上げると、倉田くん達はビール片手に魚を串に刺さったまま綺
麗に食べています。
﹁箸が欲しい、取って来る﹂
﹁いいだろ、遭難したとか何とか思って食えよ。串刺さってるから
食いにくい訳でもねぇし﹂
﹁うーん⋮⋮頂きます﹂
恐る恐る食べると、炭の匂いが少ししますがすごい美味しい。
川魚=泥臭いと言う先入観があったので、新しい発見でした。
﹁やだー先生、無人島にいる人みたい﹂
ユズちゃんが炎の向こう側で笑います。
掃除機から出て来た白い羽根が、どんどん熱風に巻き上げられるそ
のホムラの向こうに見える楽しそうなユズちゃん達。
503
何だか幻想的な光景でした。
﹁何かさ、風俗店ってこんな感じなの?﹂
﹁何が?﹂
高浜も魚をくわえて、慣れた感じで食べだしました。
﹁何かさ、合宿思い出す。移動教室みたいな﹂
﹁あー⋮⋮まぁね、そっちの方が楽しい思い出になるだろ。前から
希望者だけ集めて、よく晴海埠頭辺りでバーベキューしてたもん﹂
﹁バーベキュー?﹂
私は華やかなお姉さん達と高浜の仲間みたいな人達が晴海埠頭で、
バーベキューをしてる絵を想像します。
もっと陰惨な感じだと思っていたのに、案外楽しそうなんだなと思
いました。
﹁まぁ⋮⋮イベント事は大好きですから﹂
﹁イベント事か﹂
﹁イベントっつったらお前、同窓会行ってる?同窓会でお前見た記
憶がない﹂
﹁1回も行ってない﹂
504
そうか、同窓会か。
いつも何も考えずに欠席に丸を付けていました。
別に行きたい訳でもないし、﹁同窓会行くから土曜日休むね﹂とか
言ったら毅彦に激しく首ゴシゴシされそうだし、人員的な問題で無
理です。
﹁⋮⋮もう1人、お医者さんが来てくれたらいいんだけどね﹂
﹁忙しいもんな﹂
﹁うん⋮⋮⋮こんなんで本当に結婚出来るかって不安はある﹂
﹁不安?﹂
漫画に出て来そうなくらい、綺麗に頭と尻尾と背骨だけになった魚
を彼は炎に投げ入れました。
﹁この勤務体系だと彼女は辛いんじゃない?みたいな事を小学校の
同級生の妊婦さんに言われて﹂
﹁それ、ユズに言ったの?あいつそういうの大嫌いだろ﹂
﹁⋮⋮とても怒られた﹂
﹁まぁそうだろうな、それはユズの意見では無くしてその人妻同級
生の意見だ﹂
505
﹁人妻同級生⋮⋮あ、久川さんって苗字変わって無い⋮⋮﹂
﹁まぁ色々あんだろ、夫婦別姓とかシングル覚悟したとか﹂
私は﹁陽ちゃん﹂と昔の呼び名で呼んできた久川さんの顔を思い出
しました。
余り深い思い出はありませんし、学年の半数がバラバラに私立中学
に行く公立小学校だった為、卒業後は全く交流はありませんでした。
﹁高浜は同窓会って行ってるの?﹂
﹁小学校のからほぼ全部行ってる﹂
﹁すごいな﹂
﹁案外みんなね、大人になると俺みたいなお仕事気になるみたいよ
?﹂
﹁そうか﹂
﹁お前の事はよく話題に出る。まぁ⋮⋮産婦人科医になったのって
お前と麻倉だけかな﹂
﹁麻倉、産婦人科来たんだ﹂
﹁うん、永山はともかく何でお前が産婦人科なんだよってからかわ
れてた。あいつは真面目に目指した結果なのにな﹂
﹁⋮⋮やっぱそういう目で見られちゃうのな、どんな医者でも診察
あるのに﹂
506
﹁まぁ⋮⋮産婦人科とタイトルに付いているのは大体エグイの多い
しな﹂
﹁何の話だ?あ、お前大好きだもんな﹂
﹁うるせぇな、お前こそSM好きじゃん﹂
﹁いいよね﹂
﹁知るか﹂
﹁そこ、さっきから熱く語り合い過ぎ﹂
いきなりマロンちゃんに指差しで笑われます。
﹁今、好きなアダルト動画のジャンルについて真剣に語り合ってん
だよ!﹂
﹁お前⋮⋮﹂
ちょっと顔がいいと色んな言動が許されるんだろうな。
顔が怖いとよく言われる私が同じ事言うと全然違う反応になる気が
します。
﹁先生って何が好きなの?﹂
ユズちゃんがそう言うと、
﹁先生は調教物が大好きだぞ﹂
507
と高浜が無責任な事を言います。
﹁ちょっと違う﹂
﹁え、ちょっとしか違わない訳!?﹂
と、引き気味のマロンちゃんに高浜が有り難くないフォローをしま
す。
﹁こいつドSなんだよ。何で縛るかね、縛られる方が絶対感じるの
に﹂
﹁長浜さんドMなんすね﹂
﹁えー嘘、超引くんだけど。メロンちゃーん変な人いるよー﹂
﹁俺は断ッ然一方的にするより一方的にされたい派だもん﹂
﹁⋮⋮何を?﹂
振り返ったメロンちゃんが下目遣いの笑顔で聞きました。
﹁お前がよく知ってんだろ﹂
高浜も下世話な話題をしているとは思えない、不敵な笑顔で言い返
します。
﹁聞かせて聞かせてメロンたん﹂
マロンちゃんが気怠そうな感じで聞きました。
508
2人ともお腹大きくなったなぁ。
検診にはちゃんと来てるみたいですが、ちょっと色んな心配をして
しまいます。
﹁えぇー⋮言えないよぉ⋮⋮﹂
﹁言えないくらいってどんだけですか﹂
倉田くんもちょっと興味津々でした。
﹁殴る蹴るに傷になるくらい爪で引っ掻かれて髪の毛掴んで引きず
り回される、だっけ﹂
私が無責任な事を言うと、
﹁それで最後に髪の毛引っつかまれて耳元で愛してるって言われた
ら最高だよね、這いつくばってる俺としては﹂
と高浜も真剣に頷きます。
﹁やっぱ俺にはついていけねぇえ﹂
﹁え、ちょっと私そんなことしてないから﹂
ドン引きする倉田くんにメロンちゃんが慌てて言いました。
高浜がそれを許す女性は1人だけだと思います。
﹁お前も経験してけば解るよ、女に征服される悦びが﹂
﹁いや、あんま解りたくないっすけど﹂
509
﹁人生損するぞ﹂
﹁何言ってんすか﹂
﹁それだけの女と巡り会えない人生なんて倉田、可哀相⋮⋮﹂
﹁えぇ?!﹂
倉田くん、あんまり気にしないでいいよ。
心からそう思いました。
﹁そういう女の子が普通のセックスして感じてくれるのがまたいい
んだよ﹂
﹁じゃ最初から普通でいいじゃないですか﹂
﹁いやいやいや、お前話聞いてた!?それじゃ意味ねぇだろバカ!
!﹂
﹁何で怒ってんすか﹂
話の内容はともかく、微笑ましいなぁ。
私はヤマメだかイワナだかの反対側を食べ始めました。
もう一本行けそうなくらい美味しい。
川魚を見直しました。
その辺で無人で売っている野菜や釣った魚を食べて、こうして夜は
魚焼いて宴会して。
こんな生活してたら不健康になりようが無い気がしてきます。
510
その時、大きな蛾が熱風に煽られながらヒラヒラとやって来て、炎
に飲まれて行きます。
飛んで火に入る夏の虫ってこれか。
あっという間に蛾の姿は炎の中に見えなくなり、みんなの騒ぐ声の
中にパチパチと火の粉が飛ばされる音だけが聞こえます。
私は相変わらず、じっと体育座りをしたまま火を見続けていました。
﹁さて俺は風呂入って寝る﹂
﹁もう寝るの?まだ10時だよ﹂
﹁朝食は8時。俺は6時半には起きたい﹂
8時間寝るのか。
そんな生活、久しくしていません。
下手をすれば睡眠時間は仮眠のみと言う生活です。
﹁でも寝不足なんだよねー﹂
﹁何でだよ、子供より寝てるだろ﹂
﹁こいつのせいだ﹂
いつの間にか、メロンちゃんが高浜の隣に来ていました。
﹁ナル、一緒に入ろっか﹂
メロンちゃんは嬉しそうに頷きます。
なる⋮⋮あぁ、春日鳴海さんって言うんだっけ。
511
高浜、自分の本名は教えない癖にニックネームなんて付けちゃうの
か。
⋮⋮⋮一緒に入ろっか!?
メロンちゃんの肩に腕を回して去っていく高浜を振り返って、奈津
さんの事を思いました。
嫌だろうな。
嫌なんてもんじゃないだろうな。
で高浜が下手にこの職場の上司としての立場を優先して、従業員の
メロンちゃんを突っぱねるのが正しいのか。
そこは難しい気がしました。最初はメロンちゃんを応援したい気持
ちがあったのですが、
一連の高浜の態度と電話で話した奈津さんの感じからすると、メロ
ンちゃんが横入りしている事になります。
じゃあ奈津さんが念願の留学を止めて、高浜も留学に反対して一緒
に生活しているのが正しいのかと考えると、そうも言い切れないし。
自分の想像を遥かに超えた何か大きな渦みたいなものに感じて来ま
した。
﹁先生、また何か考えてるでしょ﹂
ユズちゃんが魚を食べながら、隣に来ました。
ユズちゃんの魚だけ異様に大きいのがちょっと気になります。
ユズちゃんの顔が小さいから余計に目立つと言うか。
﹁何かね、⋮⋮奈津さんと高浜とメロンちゃんを考えてたら、壮大
な物に飲まれそうに⋮⋮﹂
512
﹁何それ?私達だってそうでしょ﹂
﹁私達?﹂
﹁先生∼⋮⋮﹂
ユズちゃんが苦笑しました。
何だか最近、いきなり大人っぽくなって来た気がします。
お母さん成り立てみたいな、しっかりした若芽の様な強さと言うか。
私は何も変わらないのに、自分の周りが変化して取り残されるとい
う、焦りと不安と圧倒される気持ちが入り混じります。
﹁先生、人の心配してる場合じゃないよ﹂
﹁何が?﹂
﹁高浜さんより私達の方が先に、なんだろうな⋮⋮前に進むと思う﹂
﹁前?﹂
﹁あのー⋮あれはその場の盛り上がりでとか言わないよね﹂
あれとはきっと、私が結婚の話を持ち掛けた時だと思います。
そうだ、みんな性的な意味で盛り上がってたところでそんな雰囲気
だったから、高浜に追い出されたんだ。
﹁それはない﹂
﹁でももう、そんな時間も無いんだよ﹂
﹁そうだね﹂
513
私は何だか壮大な物に圧倒された気持ちのまま、ユズちゃんのお腹
を眺めました。
もう週数的にも、ユズちゃんの身体だったらいつ生まれてもおかし
くないな。
そう思いました。
ユズちゃんも不安でしょうし、私は知識と色んな例を見てきた経験
がある分、余計に不安要素を感じてしまうのは確かにあります。
ふと、奈津さんの顔を思い出しました。
経験もまだまだな自分の腕を過信している訳ではありませんが、私
なら摘出手術はまずしなかったんじゃないか。
でも、高浜が特に結婚も望んでいない様だし、今まで女の人との間
に子供が出来てどうのという話も聞かないので、案外成立する関係
かもしれない。
ただ、出産が可能かどうかを聞いてきたのは意外でした。
ユズちゃんはお腹の子供を育てたいんじゃないだろうか。
それなら私も賛成するし、私もユズちゃんが望んでくれるなら子供
は3人くらいは欲しい気持ちがあります。
3人と言うのも、私が毅彦と2人兄弟だったのでもう1人、それも
女の子がいたらいいね、と言う話は家族でよくしていました。
その度に、お母さんは気は強いけど身体が強い人じゃないからと父
が締めくくっていたのを思い出します。
ユズちゃんだって、決して楽観視出来る身体ではありません。
急に現実、それも職場に引き戻された気がしました。
隣を見ると、ユズちゃんが私をじっと優しい眼差しで見ています。
﹁おかえりなさい﹂
﹁あ、うん⋮ごめんね、色々考えてた﹂
514
﹁知ってる﹂
﹁今ずっと考えていたんだけどね﹂
﹁どんな事?﹂
私はちょっと身構えてる様にも見えるユズちゃんに言いました。
﹁俺とユズちゃんも前に進もう﹂
﹁前ってどっちに?﹂
﹁どっち⋮⋮?﹂
どっちが前か解ってんのか?とかそういう意味?
私はちょっと狼狽しました。
﹁先生の望む前って、どういう感じ?﹂
﹁どういう感じ⋮⋮か﹂
﹁具体的にお願いします﹂
何かユズちゃん、高浜みたいな言い方するなぁ。
若いから影響受けやすいのかもしれませんが、友達としてならとも
かく結婚を考えている女性に影響を与えられて嬉しい人間では無い
気がします。
ここにいたら⋮⋮。
515
一瞬、また奈津さんの迷惑そうな顔が浮かびました。
そうか。
わだかまりの正体が解った気がしました。
奈津さんの気持ちと、多分似ている気がします。
仕方ないけど、止めてほしい。
辞めさせたいけど、仕方ない。
出会う前から元々そうだった本人を前にすると、相手を自分の望む
様に変える力のある存在であると言う自信や効力がない自分に気が
つくんですね。
そしてそれを伝えて、いい方向に持って行ける自信もなかったりし
て。
﹁ねぇユズちゃん﹂
﹁何?﹂
﹁⋮⋮いつまでここにいたい?﹂
﹁え?﹂
﹁臨月までとか陣痛来るまでここにいるつもり?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
臨月までお客さんの相手とか無茶です。
本当なら﹁仕事辞めて俺のところに来ればいいよ、生活だって保障
出来るし問題無いから﹂
と言いたい気持ちはあるのですが、ユズちゃんがそれを望んでいる
のか解らないから先延ばしにしていた事に気付きます。 いや、私自身が何故か逃げていたのでしょう。
516
ユズちゃんに会いに行けるーやったーと浮かれてここまで来ていま
したが、よくよく考えればユズちゃんを私の家に住まわせれば毎日
会えるのですから。
ここに来るのを楽しみにしている自分がいるのは否定できません。
﹁そこは私も考えちゃうんだ﹂
﹁考えちゃう?﹂
﹁何かね、先生と一緒になりたいのに、みんなとお別れするの寂し
いって言うか﹂
そうだね。
みんな出産したらバラバラに、それぞれの生活に戻って行っちゃう
もんね。
そこは理解出来る気がしました。
今まで卒業式で泣いたりとかそういう感情とは無縁でしたが、この
雰囲気がもう無くなって、私の家でポツンと1人いるのは寂しいだ
ろうな。
そう思える自分がいました。
仕事はきつくても職場の雰囲気が良ければ続けられる。
そこは高浜の経営者的な意味での手腕を認めざるをえません。
彼の周りがいつも華やいでいる理由は、彼自身にあるんだろうと思
いました。
﹁高浜さんに聞いてみるね﹂
﹁何を﹂
﹁先生と前に進んでいいかって﹂
517
﹁俺が聞くよ﹂
巨大な魚の背鰭をいじっていたユズちゃんが顔を上げました。
﹁私は?行かない方がいい?﹂
﹁⋮⋮とりあえず俺が行く﹂
﹁先生って⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁最近、男らしい﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁だってあの高浜さんと殴り合いしちゃうんだもん。先生強いんだ
ね﹂
﹁あれは高浜が加減してたんだよ﹂
﹁そうかな?結構すごかったじゃん﹂
﹁多分、高浜が本気で殴ったのは俺が奈津さんを男だと言ったとき
くらい﹂
私はまで鈍く痛む頬の内側をそっと舐めました。
奥歯がめり込んだのでしょうが、結構深くえぐれていました。
﹁そりゃ怒るよ、高浜さんも﹂
518
とユズちゃんは笑いましたが、
﹁目鼻立ちが綺麗でスタイル抜群で全身真っ白の自分の彼女を男だ
って言われたら﹂
と一瞬で真顔になりました。
﹁いや⋮⋮ユズちゃん﹂
﹁身長欲しい。もっと胸大きくなりたい。スタイルよくなりたい。
アンダーヘアもちょっとは欲しい﹂
﹁今のユズちゃんでいいのに﹂
﹁先生はロリコンとかじゃないんだよね!?﹂
﹁断じて違う。ユズちゃんは大好きだけど、ユズちゃんと同系列の
子がみんな好きな訳じゃない﹂
﹁大好きかぁ。でも外見は好きじゃないって事ね⋮⋮﹂
﹁いやだってユズちゃん、俺の性格が高浜だったらどう思う?﹂
﹁⋮⋮恐すぎる﹂
﹁恐⋮?まぁいいや、逆でもいいんだけど﹂
﹁逆は⋮多分、イラッとする﹂
519
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
何か、自分の全てを否定された気持ちになって、ちょっと私は塞ぎ
ました。
ユズちゃんくらいは恐がったりイライラしないでいてくれると勝手
に信じていたのかもしれません。
﹁先生と高浜さんで入れ換える時点で何かちょっと無理。高浜さん
は高浜さんであれでいいし、先生は先生じゃないと嫌だ﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁今、ちょっと喜んだでしょー?﹂
﹁うん﹂
お互いちょっと笑いました。
小さいけどすごく幸せな気持ちになります。
﹁じゃ、ユズちゃん後でね﹂
﹁解った﹂
そう言って立ち上がり、ユズちゃんの背中を何気無く振り返ると、
ユズちゃんの頭の両側から、串に刺さったさっきの異様に大きな魚
の頭と尻尾が見えます。
何か魚ごと串がユズちゃんに刺さってる様に見えて、ちょっと立ち
止まって見てしまいました。
520
中に入ると、高浜は電気も点けずに巨大なオムライスを食べながら、
またオカルト系の番組を見ています。
前にもあったな、この光景。
確か前はヤキソバを食べていた気がしますが。
﹁何見てるの?﹂
﹁⋮⋮本当にあった心霊動画特集﹂
﹁メロンちゃんは?﹂
﹁終わってすぐ寝ちゃった﹂
﹁⋮⋮で、腹が減ったんだな﹂
﹁そう﹂
スプーンと皿の当たるカシンカシンと言う音が響きます。
﹁作ったの?﹂
﹁うん。2人で食おうかと思ったらナルが寝ちゃったから﹂
﹁ナル⋮⋮﹂
﹁あいつの本名ちょっと略して、ナル﹂
﹁あぁ⋮⋮奈津川さんが奈津、みたいな感じか﹂
521
﹁これ観てる時に言うな、余計悲しくなる﹂
﹁何故⋮⋮?﹂
私はテレビに目を遣りました。
もうおわかり頂けただろうか。
テレビから﹁その言い方が一番怖い﹂と言いたくなる声がしました。
﹁あのね、高浜﹂
﹁何だ?半分欲しいなら皿持って来いよ﹂
﹁前に水揚げの話したよね﹂
﹁⋮⋮したな﹂
﹁ユズちゃん、そろそろ限界だと思うんだ。ユズちゃん本人がって
より、週数的に﹂
高浜は盛大にモグモグしながらこちらを見ました。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁いや、返事は飲み込んでからでいいから。それで、俺が水揚げと
いう奴をするってダメかなって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お茶でいい?﹂
522
高浜がモグモグしながら無表情で頷いたので、私は冷蔵庫に入って
いたお茶と皿とスプーンを持ってきました。
﹁すまんね、ありがとう永山。掻っ込んだ時にお前がいきなり質問
するから﹂
﹁半分いいの?﹂
﹁どうぞ﹂
私は高浜が食べていない方を遠慮目に取り分けました。
ケチャップライスに対する隠し味のチーズの量もさることながら、
卵がすごい。
どうしたら卵をこんなにフワフワのトロトロに出来るんだろう。
﹁相変わらず料理上手いな﹂
﹁男に言われても⋮⋮⋮それはユズに言ってやれよ﹂
﹁ユズちゃんに?﹂
﹁暇な時はすごい手伝うんだよ、あいつ。先生と結婚して出来なか
ったら恥ずかしいし迷惑だから教えてくれって﹂
﹁ユズちゃんが?﹂
﹁やっぱ若い子は自然にやる気出すからいいよな﹂
私は小さな身体に大きなお腹で、せっせと高浜に教えを乞うユズち
523
ゃんを思い浮かべました。
私に気を遣って、慣れない家事を覚えようとするユズちゃん。
なんて健気な光景なんだろう。
ちょっと胸の奥がジンとしました。
﹁ちょ⋮お前、泣いてない?﹂
﹁感動した。疲れて帰ったらユズちゃんの料理が食べられるんだ⋮
⋮﹂
﹁お前が食ってるのは俺が作ったオムライスだけどな﹂
その一言で一気に現実に引き戻されました。
そうだ、目頭を熱くしてる場合じゃなかったんだ。
﹁あのさ、話はさっきの話に戻すが﹂
﹁さっき?どっちの話?﹂
﹁どっちって⋮⋮水揚げの話だ﹂
﹁あ、そっちか﹂
他にないだろ。
高浜はわざと話をずらしているのでしょうか。
だとしたら理由は聞いておきたいところです。
﹁高浜、俺は毅彦みたく行かないからな﹂
524
﹁え?﹂
﹁いや、ちゃんと聞いてた?﹂
﹁ユズを嫁に貰う話だろ﹂
﹁え、あ⋮⋮まぁ、そう﹂
﹁本気なんだろうな、永山﹂
﹁本気?﹂
高浜はソファーの背もたれによっ掛かって脚を組みました。
﹁何で今更そんな⋮⋮﹂
﹁マジと書いて本気だろ﹂
﹁逆だよ﹂
﹁だからお前さ、本当にユズと結婚すんの?﹂
﹁何が﹂
段々イライラして来ました。
高浜におちょくられている感じが否めません。
﹁ユズちゃんと俺が一緒になって何か問題ある?﹂
﹁何も﹂
525
﹁⋮⋮さっきから、お前何か企んでる気がする﹂
﹁全然﹂
私は無駄に笑顔なのに要領を得ない高浜の答えに不安になって来ま
した。
﹁あのさ、何かあるなら言って欲しいんだが﹂
﹁別に⋮⋮特にないです﹂
﹁高浜﹂
﹁はい﹂
﹁じゃあ問題無いって事でいいの﹂
﹁あのさ﹂
﹁何だよ﹂
﹁お前、この指止まれで最初の女がユズだったとかじゃねぇよな﹂
こ、この指止まれ!?
あの1人がそう言ってみんなでワーーッて人差し指を奪い合う、子
供の遊びですよね。
私はした事がない気がします。
﹁⋮⋮何だそれ﹂
526
﹁本当に、お前はユズしかいないと思ってる?﹂
﹁どういう意味だよ﹂
﹁んーー⋮⋮何か早急過ぎる気がすんだよな﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁だって結婚、だろ?たった何回か会って普段一緒にいないんだっ
たら、そんなん何もわかんねぇだろうがよ﹂
確かに、高浜が言うのも解ります。
早急なのかもしれないし、私はユズちゃんと普段会えないので美化
したり補正している可能性もあるかもしれません。
でも、自分でもよく解らないのですがユズちゃんに決めてしまって
いる自分がいました。
経歴や職業や年収や外見、初めてそういうもので判断しなかった女
の子で、自分との身体的な相性もかなり合う。
話していてもすごく楽しい。
そんな子に、二度と巡り会えない気がしました。
﹁永山さ、何人か他の女を知ってからじゃダメなの?﹂
﹁何言ってんだよ﹂
﹁だって余りにも﹂
﹁お前の言いたい事はよく解る気がする。でもさ、この女の人だっ
て感覚みたいなの、今のお前なら解るだろ﹂
527
﹁奈津はいい女だもん﹂
﹁だからだよ、お前だってもっと他の女と知り合えとか言われたら
⋮⋮どう思う?﹂
﹁僕はこれ以上女の人の知り合いはいりませんって言う﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ちょっと倉田くんに同情しました。
いつも高浜にいじられている倉田くん、さぞかしキツいだろうな。
毎日こんな調子でやられてるんだろうし⋮⋮。
﹁じゃ俺も同じ言葉を言わせて貰うよ﹂
﹁ずるいぞ、パクるな﹂
⋮⋮⋮どうしたものですかね。
何かもう、明日帰るときにユズちゃんと一緒に帰っちゃおうかなと
言う気にすらなって来ました。
高浜はテーブルに立ててあったボールペンを取ってペン回しを始め
ていました。
初めて見た時は衝撃だったな、これ。
曲芸の様に小指から人差し指までくるくるとペンが来て、また小指
に戻って行く技です。
﹁ねー永山﹂
528
﹁⋮⋮何だよ﹂
﹁ユズはお前と結婚するって決めてるの?﹂
﹁⋮⋮多分﹂
﹁多分!?﹂
高浜が大袈裟に驚きます。
あぁイライラする⋮⋮⋮。
いや、イライラして怒ったら多分こいつの思う壺、なのでしょうが
⋮⋮。
﹁結婚すんのに多分はねぇだろ、絶対おかしいよそれ﹂
﹁⋮⋮いや、ちゃんと言ったよ﹂
﹁何て言ったの?ねぇ何て言ったの?﹂
﹁何でお前に言わなきゃなんないんだよ!﹂
﹁え、俺にすら言えない様なプロポーズしたの?﹂
﹁普通だよ﹂
﹁普通ってどんなの?﹂
﹁出産終わったら一緒に住もうとか、嫌じゃなかったら⋮その、結
婚も考えてるとか﹂
529
﹁結構ストレートね、それでそれで?﹂
﹁だから何でお前に言わなきゃならないんだよ﹂
﹁じゃ俺をユズだと思って再現してみ?﹂
﹁馬鹿かお前は!!﹂
思わず大きな声を出してしまい、そんな自分にビックリしてしまい
ました。
﹁怒ることねぇだろ、俺の向学の為にも友人の経験は参考に⋮⋮﹂
﹁お前だったら何て言うんだ?﹂
﹁えー何で永山に言わなきゃいけねぇの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁僕は結婚願望そのもの自体が無いんですけど、それでも言わない
となりませんか?﹂
﹁俺を奈津さんだと思って言ってみろよ﹂
﹁何それ絶対無理だし!何様なんだよ永山お前﹂
﹁お前もさっき俺をユズちゃんだと思ってって言っただろうが﹂
﹁だから再現VTR的な意味でだよ﹂
530
﹁お前じゃユズちゃん役は無理にも程がある﹂
﹁先生∼⋮⋮怖い顔しすぎだよぉ﹂
﹁全然似てない!!﹂
ユズちゃんの特徴はかなり掴んでいますが、それを笑う余裕も余り
ないくらい、もう私の我慢も限界になって来ました。
いや、怒っちゃダメだ。
友人とは言えど、私はテナントオーナーで彼はテナントに入ったお
店の店長みたいなものです。
やっぱりユズちゃんをどうこうと言うなら、高浜を通すのが筋な気
がします。
高浜もユズちゃんの現状は解っているんだろうし。
﹁高浜さ﹂
﹁何?﹂
﹁結局のところ、どうなの?﹂
﹁何がだよ﹂
﹁俺はユズちゃんを連れて帰っていいのか?﹂
高浜はすごく嫌な笑顔をしていました。
思いやりのあるいじめっ子と言うか、このあと何か絶対来るなと思
わせる顔でした。
531
﹁どうなんだ?﹂
﹁あのさ、永山。重要な事言うから、心して聞けよ﹂
﹁⋮⋮⋮何?﹂
高浜が一転して真面目な表情になったので、私も身構えてしまいま
す。
今までの一連のふざけた態度は⋮⋮何か重要な事への布石だったん
だろうか。
ワンクッション置けば、私もショックを受けないとか考えてくれて
いるんだろうか。
﹁さっきからお前、あーだこーだ言ってるけどさ⋮⋮俺はずっとこ
う思ってお前の言葉に耳を傾けていたんだ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁俺、ダメって言った覚えないけど?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何でダメって言われたみたいな前提で、俺に食ってかかって来て
いるんだろうって不思議で不思議で﹂
﹁あのさ﹂
﹁何?﹂
﹁やっぱりお前、おちょくってたよね﹂
532
﹁アッサリ、うんオッケーいいよーとか言われても何か嫌だろ﹂
﹁⋮⋮⋮そっちの方が解りやすいんだけどな﹂
すると高浜は
﹁お前ってさぁ、何で頭も顔もいいのに相手のいいなりにされちゃ
うの?﹂
と身体を起こして真剣な顔で聞いて来ました。
﹁相手の言いなり?﹂
﹁そう。何で?﹂
私はちょっと考えました。
確かに、病院に来る営業さんを断ったりするのは得意ではないです
し、﹁ちょっとそれは⋮﹂と思っていても、最終的には相手の意見
を飲んでしまう事が多いというか、殆どそうなっていると言うか。
﹁ね?気を付けなさいね﹂
私の母親みたいな言い方をして、高浜は何とも言えない優しい顔を
しています。
﹁⋮⋮⋮解った﹂
﹁ユズの実家に行く事があれば、それは肝に銘じとけ﹂
533
﹁ユズちゃんの実家⋮⋮﹂
﹁ま、もうちょい経てばアイツも成人すんだろ?そうしたら保証人
だか証人だかの記名だけでも結婚は出来るから、お前らだけでも書
類は出せると思うけどね﹂
そうか。
自分の親がいないから私には盲点でした。
ユズちゃんの実家⋮⋮どこにあって兄弟がいるいないと言う話すら、
本人からは聞いた事がありません。
﹁そういえば⋮⋮ユズちゃんの実家の事は何も情報が無い﹂
﹁だと思った﹂
﹁お前、何か知ってるの?﹂
﹁まぁ少し﹂
﹁何を?﹂
﹁⋮⋮⋮奥さんの実家の話なんだから、俺からじゃなくて奥さんか
ら聞けよ﹂
そうか、それもそうだな。
高浜がスンナリ言わないところを見ると、何か問題があるのかもし
れません。
ユズちゃんの実家。
高浜の﹁相手の言いなりにならないように気を付けろ﹂と言う忠告
は、何を指しているんだろう。
534
﹁ま、俺的には女の子は3人くらいいればいいかなって感じ。
ユズがいなくなってもメロンマロンがいなくなっても、すぐに空き
は埋められるから、人事面は気にするな﹂
⋮⋮すぐに空きは埋められる。
いまいるみんなの様な、そういう子って結構いると言うことなので
しょう。
みんな、望まぬ妊娠をして、中絶費用の工面も出来ず、かと言って
育てる決心も付かずして悩んでいて、そして保険証も無いから病院
に行くことすら躊躇われる。
そうか⋮⋮。
﹁ユズみたいに﹃可愛い可愛い君の子供なら俺の子供にしても問題
無いよ﹄みたいな男が見つかる場合もあるから。お前がそんな考え
込まなくていい﹂
﹁⋮⋮俺、そんな軽薄な言い方してない﹂
﹁でもそう思ってるでしょ﹂
﹁まぁそうだね﹂
﹁一番の問題はねー⋮⋮お前の病院が遠い事だ﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
﹁何か問題があった時、ここだとお前に迷惑が掛かる﹂
何か問題。
535
最悪を考えると、胎児や妊婦さんの死亡事故とかでしょうか。
出血量が多かったりすると⋮⋮。
﹁だからお前は、地下室の改装は知らなかったって事にしとけ。そ
れがお前の為だから﹂
﹁知らなかったって⋮⋮﹂
私は困惑しました。
半年足らず前の、SM行為を目の前で見たい気持ちから、高浜に相
談に相談を重ねて受注も任せたのは記憶に新しいです。
ラブホテル専門の建設業者、モルタルで作る擬岩の専門業者などな
ど、高浜が色々な人に知り合いがいたのに驚きました。
そうか⋮⋮だから私ではなく長浜名義で見積書作ったのか⋮⋮。
支払いは高浜がしたり私がしたりでしたが、子供の頃の秘密基地を
作るような感覚でしか無かった自分が、本当に子供だったんだと実
感しました。
﹁問題が起きて消されるのは俺と倉田にしても、お前まで社会的に
消される理由は無いし﹂
﹁消される?﹂
﹁⋮⋮⋮永山、お前は人道的にも、言い換えれば日本の未来にも正
しい事をしているんだと俺は思う﹂
﹁形は違うがお前もだろ﹂
﹁俺はお前の二番煎じだ。俺みたいなのが社会的に貢献出来るのは
536
金銭的な浪費くらいだろ﹂
﹁そうか?﹂
﹁でもな、社会的に正しい事をする奴は批判を食らったり潰そうと
されたりするんだ﹂
﹁そういうもんかね﹂
確かに批判はありました。
里親里子なんて時代錯誤だの、女性を子供を産む道具にしてるだの、
まぁ結構な量のメールや封書が応援のメッセージ以上に当時は殺到
しました。
最近でもたまに来る事があります。
﹁そういう方々からしたらな、お前がここの持ち主ってのは非常に
有り難い燃料なんだよ﹂
﹁そう⋮⋮か﹂
﹁そして俺が妊婦使って商売してるだろ?公然猥褻の管理売春だ﹂
﹁犯罪なのか、やっぱり﹂
﹁そうだ、バッチリ法に触れる。だから自発的に本番デリヘルの店
を希望した倉田に店畳ませて引っ張って来た﹂
﹁本番。何の本番?﹂
537
﹁あー⋮⋮えっとね、普通の風俗店ではエッチな事してもセックス
はしちゃいけないの﹂
﹁え?そうなの?﹂
﹁はい。客には﹃大人のお付き合い﹄って形で濁して、本人達が勝
手にやっちゃったって形にしてる。大体がおかしいだろ、ヘルスだ
のソープだの、何でそんな言い方すんだよ﹂
健康⋮⋮石鹸。
女性の前で脱ぐ勇気の無い私には、縁の無い言葉でしたが、聞き覚
えくらいはあります。
﹁だから一般的に本番無しは健康マッサージの延長線って事にして
ヘルス、本番アリはお風呂屋さんのサービスって事でソープ。料金
を入浴料って言うくらいだし﹂
﹁知らなかった。前にちょっとユズちゃんからも聞いたけど⋮⋮お
前、詳しいな﹂
﹁まぁ俺の収入源の半分はここを含めた性風俗だからね。もう半分
は飲み屋がメイン﹂
結構すごい発言ですが、高浜だと余り変な感じはありません。
違和感無いってこういう事なのかもしれませんね。
﹁お前に職業聞いたらデイトレーダーって言ってたけど﹂
﹁あ、そうだっけか?まぁでも、今までは俺は警察への届け出はち
ゃんとしてたんだが⋮⋮ここはしてない﹂
538
﹁何で?﹂
﹁出来るかよ、法人で登録してるところに風俗店の届け出なんて﹂
﹁警察?﹂
﹁多分、今のままで行けば無いよ。防犯カメラも、お客さんに﹃証
拠はこっちも撮ってるから言い触らすなよ﹄って牽制のつもり。
法人宛に寄付金としてちょっと多めの料金振り込んで貰ってからお
楽しみ頂く訳で。
客側も寄付金と言う慈善行為の既成事実が出来て、俺ら側も女の子
に支払う資金源が確保出来てウィンウィンの関係が成立すると言う
か﹂
﹁⋮⋮ごめん、混乱して来た﹂
私は高浜に女の子工面して貰って、延々と女の子と男の行為を眺め
てたいだけだったので、そこまでビジネス要素は考えていませんで
した。
何故か尊敬は出来ないのですが、高浜の頭の切れには感心させられ
ます。
﹁まぁ俺なりの日本の未来への貢献のつもり。完全お前に助けられ
てるけどね﹂
﹁俺に?﹂
﹁そう。最初はここまで構えてやるつもりじゃ無かったんだわ﹂
539
﹁構える?﹂
﹁うん、普通のデリヘル屋さんみたいな感じで考えてたんだけど⋮
⋮﹂
﹁デリヘル屋さん⋮⋮﹂
子供の遊びにはまず出て来ないその言葉のインパクトに、私は思わ
ず繰り返してしまいました。
﹁完全裏メニューだからだよ、高浜系列では﹂
﹁裏メニュー?﹂
﹁表立ては妊婦さんの寮みたいなもんだけどな﹂
﹁寮か﹂
﹁永山、NPO法人って解る?﹂
﹁特定非営利活動団体、だろ?お前の名刺にあったな﹂
﹁そう。高浜の方のね﹂
高浜はグラスに残ったお茶を飲み干しました。
長浜の方の名刺には手を焼いたなぁ。
私はちょっと苦笑しました。
﹁⋮⋮永山、今のニヤリは何だ﹂
540
﹁高浜じゃなく長浜名義の名刺⋮⋮色々あったなって﹂
すると高浜は口元を片方だけ上げ、
﹁いいだろ、俺もそういうところあるの﹂
とだけ言いました。
﹁でもナッツトゥユー、ユズちゃんと食べたけど美味しかった﹂
﹁だからもう止めて?思い出すと調子狂うから﹂
﹁すまん﹂
高浜もそういうところがあるなんて、またちょっと意地悪な気持ち
が蘇ります。
﹁もーお前、話戻していい?﹂
﹁どうぞ。特定非営利活動団体の話から﹂
いつもと逆の立場で閑話休題、話は続きます。
﹁まぁ⋮⋮俺も余りお勉強はこの10年以上してないから、斎藤い
たじゃん?斎藤光輝。あいつが行政書士やってるから何か知ってる
かなーって﹂
﹁お前、斎藤と仲良いんだっけ﹂
斎藤光輝⋮⋮気難しそうな切れ長の目に銀縁の眼鏡で痩せ型、いつ
541
も高浜を馬鹿にしていた記憶があります。
﹁あんな馬鹿はコネでしか来れない﹂とか平気で聞こえよがしに言
ってましたが、高浜の成績が決して悪くない事を私が言うと一気に
黙っちゃったなぁ⋮⋮。
正直、私も余り仲が良かった人間ではありません。
﹁斎藤君か⋮⋮﹂
﹁うん、斎藤君﹂
﹁お前、斎藤といつ仲良くなったの?﹂
﹁同窓会の二次会の居酒屋。男子校なのが悔やまれる響きだけど﹂
同窓会って大人になると一種の人脈が繋がる場になるんですね。
クラスメイトはそれぞれの職業に就いている訳で⋮⋮。
職場関係の他は高浜くらいしか付き合いのなかった自分に改めて気
付きます。
﹁何かね、みんな優しくなってたんだよな﹂
﹁そうなの?何でだろ﹂
﹁俺のお仕事が気になるんでしょ、斎藤君にも協力して貰ったお礼
を致しましたし﹂
﹁お礼?﹂
﹁まぁ、東京高浜ランドでちょっとしたおもてなししました﹂
542
﹁何それ、抽象的過ぎて解らない﹂
﹁斎藤君の名誉の為にも自重します﹂
﹁そう﹂
﹁で、何の話だっけ﹂
﹁斎藤君に協力してもらって⋮って辺り﹂
﹁うん、それでまぁ、社会的な肩書を持って、俺はお前の後を追っ
た訳です﹂
﹁何で⋮⋮お前がそうしようと思ったの?﹂
﹁だから言っただろ、毅彦と応接室にいた時﹂
﹁⋮⋮⋮えーと生搾り何とか﹂
﹁ミックス。5月4日に放送された、お前の会見に心打たれたんだ
よ﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
本当かなぁ。
何か裏を探りたくなりますが、正直高浜にこの別荘での仕事のメリ
ットはありません。
収入は黒との事ですが、高浜が住家を離れてまでする理由⋮⋮。
そこまで考えて、思い当たりました。
543
﹁ねぇ、じゃ2年経ったら⋮⋮どうするの?﹂
﹁お前いちいち気が付くな﹂
高浜は頭の後ろで腕を組みました。
﹁そん時はそん時だろ﹂
﹁だってここを奈津さんに知られたら﹂
﹁タダじゃ済まないと思う。小さい子供と俺が話すだけで泣いちゃ
うあいつに、出産関係の話はしたくないと言うか﹂
﹁じゃあ何でお前﹂
﹁言ったろ?日本の将来の為だ﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
﹁お前まで俺の言うこと信用しねぇのな﹂
﹁しない訳じゃないけどさ﹂
﹁もうね、お金の方は十分儲けさせて頂いておりますから﹂
﹁年収数億って凄まじい年収だよね﹂
﹁数億?﹂
544
﹁そう、聞いたけど﹂
﹁誰から﹂
﹁え、倉田くんが言ってたよ﹂
﹁あいつ⋮⋮そういうとこはバカなのな﹂
﹁違うの?﹂
﹁お前もサラっとバカだな、年収数億ってちょっと考えろよ。0が
1つ多いだろ﹂
﹁お前の仕事って何かすごい稼いでそうな感じだから、そういうも
んなのかなって﹂
﹁家中ひっくり返してもそんな金ねぇよ、あったらカナダで余生を
過ごしてる﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
﹁しかも収入は不安定だし。まぁ一般的な外車買えるくらいの時も
あれば、酷い時はその半分以下とか。最近は安定して来た方﹂
﹁すごいな高浜⋮⋮﹂
﹁国家資格持って別荘持ってるお前に言われてもな﹂
﹁両親の遺産が大きいだけだよ。何より、お金の使い道が余りよく
解らない﹂
545
本音でした。
高浜みたいにポロシャツ1枚に数万出す事も無ければ、車も外車で
はなくして軽自動車で全然平気なのですが、ディーラーさんに乗せ
られてしまっただけです。
食費も殆ど自炊で、家に半日以上はいないから光熱費もたかが知れ
ているし、交際費も高浜と御飯食べるくらい。
衣服も気に入れば何年も着てしまうタイプです。
使わないから貯まる、それだけでした。
よく毅彦からは﹁勧誘とか来たら、俺はこの家の人間ではないので
っていいなね?﹂と言われていたくらい、うっかり乗せられ易いの
は自覚しています。
実家からオートロックのマンションに引っ越して良かったと思いま
す。
﹁俺の年齢だと医者だから高給取りって訳でもないから時給に直す
と全然。研修医時代なんてもっと安かったし﹂
﹁⋮⋮永山さんはですね、一度ユズと一緒にハンバーガー屋かコン
ビニ等で働かれると世の中がお分かりになられるかと思います﹂
﹁バイトはした事あるよ﹂
﹁あるの!?﹂
﹁近所の家の高校生の家庭教師。大学2年の時に、週2で4ヶ月く
らいやったかな﹂
﹁何それ、女子高生?﹂
546
﹁いや、高3の男の子。傍で見てるだけでぐんぐん成績上がってね、
すごく楽だった﹂
﹁そりゃお前みたいのが隣でジッと見てたらサボらないだろ﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁嬉しそうだな、まぁ⋮⋮俺が思うに教え方以上に、お前の存在感
自体がまぁ、その、その子のやる気を出したんじゃないか?危機感
を持たせたと言うか﹂
﹁危機感か⋮⋮最初は大変だったよ。
大学なんて行かない、勉強嫌いだ、医学部行けるお前と俺は違うん
だよって騒ぐから困った。
静かになるまで隣でしばらくどうしたものか、ずっとその子見なが
ら横で考えてたんだけど﹂
﹁その子、ノイローゼにならなかったか?大丈夫?﹂
﹁いや?そうしたらね⋮いきなり2回目に行った時から無言で猛勉
強しだしてさ。
宿題も出してみたら完璧にやりあげてる。こんなに真面目な子はそ
うそういない、俺は必要無いんじゃないかって感心して見てたらア
ッサリ国立の文学部に行って、よく解らない内に感謝されて終わっ
た﹂
﹁案外適役だったんだな。他には?﹂
﹁したことない。元々親にも反対されてたしその後は全然出来なか
った﹂
547
﹁やっぱり永山さんはユズと一緒にもう一度人生をですね﹂
﹁いや、大学が忙しくなったんだよ﹂
要領の悪さへの言い訳になるかもしれませんが、私の通っていた大
学の医学部は学年制で、1つでも単位を落とすと落第になります。
だからいきなり夕方まで掛かったりする不定期な授業時間にシフト
の対応をしてくれて、1ヶ月弱の試験が年2回あるからそれも考慮
してくれて⋮⋮となると、案外無いのが実情なのではないでしょう
か。
それに、6年間の内の最後の2年間は臨床が始まり、医師免許取得
の為の受験勉強もあり、私はかなり余裕がありませんでした。
それでも、毅彦もそうだったらしいですが、ベビーシッターや引っ
越しや夜の仕事等でバイトをしていた人はしていたのを知った時は
心底驚いたものです。
やっぱり処理能力の違いって、こんな時に大きく出るんですね。
高浜だって推薦で中堅私立大学には行ける成績を出しながら、毎日
遊んだり家にも学校にも内緒でアルバイトしていた人間です。
どうやって両立させているのか、24時間張り付いて見てみたかっ
たくらいです。
﹁まぁでも、今のお前や毅彦見てると医者っていいなーとは思わん
よね﹂
﹁そうだろうね、医者ってブランドだけで医学部来る人多いと思う﹂
後は私みたいに、子供の頃からレールを敷かれてそのまま来ちゃっ
た人とか。
548
﹁俺は今の自分の生活が気に入ってるから、自分の人生を間違って
るとは思わないけど﹂
﹁うん、俺も大変だし机に突っ伏して寝ちゃう時あるけど、辞めた
いって思った事ない﹂
﹁じゃ大丈夫だな﹂
高浜は横目でこっちを見て、片方の口元を上げました。
﹁大丈夫って何が?﹂
﹁お前の事だからさー、結婚したら仕事辞めちゃうんじゃないかっ
て﹂
﹁何で結婚してわざわざ無職に⋮?﹂
﹁先生∼ユズいっつも1人なんだよぉ?って言われて、⋮⋮⋮そう、
みたいなノリで﹂
私とユズちゃんの特徴をハッキリ掴んでいるのが解るだけに、イラ
ッとします。
﹁じゃお前だって﹃こんな仕事辞めてしまえ馬鹿浜!﹄って言われ
たらどうだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
高浜はキョトンとした顔で私を見ました。
549
自分だって今の仕事が気に入ってるんでしょ?
そう思って、私は続けました。
﹁な?辞めないだろ?﹂
﹁お前、今の奈津の声⋮⋮どうやってやった?﹂
﹁いや、お前が俺とユズちゃんの真似するから﹂
﹁目茶苦茶そっくりじゃねぇか、もっかいやってもっかい﹂
﹁⋮⋮⋮ちょっともう無理っすね﹂
﹁あ、今の倉田じゃん!お前何でそんな才能隠してたの!?何で!
?﹂
久々に高浜に褒められた気がしますが、自分でも喜んでいいのか解
らないところです。
声真似⋮⋮。
何か使えるのかなぁ。
﹁面白い!面白過ぎる!!じゃあねー次は﹂
﹁いい加減にしろよ、馬鹿浜!﹂
﹁きゃー目を閉じれば奈津だぁ!!よくあれしか話してないのに⋮
⋮すげぇ!俺さ、目閉じてるから、えーとね﹂
﹁高浜さん、馬鹿なんじゃないですか?﹂
550
﹁何で倉田なんだよ馬鹿山!!﹂
﹁高浜さんって時々⋮⋮よく解らないんだよね﹂
﹁あはははは毅彦!毅彦だ!!ゴシゴシしてるのが浮かぶ!﹂
私も段々楽しくなって来てしまい、悪ノリしてしまいます。
やっぱり女の人の声は難しいな、なんて考える時点で私も何故か真
剣でした。
﹁お前、マロンやってマロン!﹂
﹁えーー何で?ちょっと無理⋮⋮﹂
﹁わはははははは、お前ホントすごいわ、じゃメロン!﹂
﹁つーかそろそろ、マジで止めません?﹂
﹁似てる!目茶苦茶似てる!!﹂
大笑いしてる歯並びのいい高浜の口の中を眺めながら、私は自分で
は似てるのか似ていないのか解らないモノマネを続け⋮⋮⋮ちょっ
と疲れて来た自分がいました。
そろそろ辞めよう、何が本題か解らなくなって来た。
﹁明日の朝までやってたい!!お前、すごい!すごすぎ!!﹂
﹁無茶苦茶言ってんじゃねぇよ﹂
﹁あ、今のもしかして俺!?俺なの!?﹂
551
﹁他にいねぇだろ﹂
﹁確かに俺だわははははは、ねぇそれでユズやってユズ﹂
﹁それは断る﹂
﹁他があんだけ出来るんだから出来るって!!﹂
﹁ユズちゃんは何か出来ない﹂
﹁えーー何で?じゃあ、奈津やって奈津﹂
﹁この犬!!﹂
﹁うわーー永山の顔が無かったらめっちゃ興奮するのに!!﹂
﹁それは残念だね﹂
﹁あ、今のまた毅彦!?お前いつもそんな冷たい言い方されてんの
!?﹂
﹁⋮⋮⋮何で解った?﹂
﹁俺はそんな怖ぇ顔しねぇよ!!﹂
﹁喉痛いんだけど止めてもいいかな﹂
﹁あははははは永山だぁ、あはははははは﹂
552
﹁あのさ﹂
﹁永山があのさとかあはははははは﹂
大丈夫かな、高浜。
そんなに喜ばれる程に完成度が高いとは思えないだけに、心配にな
って来ました。
﹁ねぇ、結局どうなの﹂
﹁ぶっふぁはは⋮⋮え?何が?﹂
涙目で高浜が私を見ました。
ユズちゃんに男らしいと言われて送り出して貰ったのに⋮⋮⋮似て
るのかさえ微妙なモノマネ大会になってしまって、悪ふざけしてし
まった自分への不甲斐なさが沸き起こります。
﹁⋮⋮だから、ユズちゃん連れて帰っていいのかって。
他のみんなもだ﹂
﹁永山﹂
高浜は目尻の涙を指先で拭き取ると、
﹁明日の朝には準備しとくわ。だからユズはお前が連れて帰れよ﹂ と、笑顔で言いました。
﹁⋮⋮⋮え?他のみんなは?﹂
553
﹁他のみんなも今月中には東京に戻らせる。毎回検診連れてったの
俺だし、そこは俺なりに考えてた﹂
﹁お前⋮⋮⋮﹂
﹁何だよ﹂
﹁本当に経営向きの脳味噌なんだな﹂
﹁何だよそれ﹂
高浜が片眉をクィッと上げました。
あぁ、久しぶりに見たな。
いつだか、高浜それどうやってんのって話になったのを思い出しま
す。
﹁永山⋮⋮オデコが痙攣してるぞ﹂
﹁うん、やっぱり眉毛を片方だけ上げるの難しいね﹂
﹁何言ってんの?﹂
それに一番予定日が近いのはメロンちゃんです。
⋮⋮が、つい感情移入してしまいました。
﹁お前さ、医者なんだろ?﹂
高浜がちょっと高圧的に私に言いました。
554
﹁ちゃんと俺にダメ出ししろよ、あんまり遠慮すると毅彦に怒られ
るぞ﹂
﹁⋮⋮⋮解った﹂
既に幾度と無く怒られたよ。
そう思った時に、そこは高浜に私から忠告するところだったと今更
ながら気がつきました。
﹁すまん、高浜﹂
﹁どうした?﹂
﹁俺、ついここに来るのが楽しみになってて⋮⋮﹂
﹁いいことじゃねぇか。俺の暇潰しで、こんなにお前が明るくなる
とは思ってなかったもん﹂
﹁ただ今回は運が良かったんだ、最悪流産とか他のトラブルが無か
ったから良かったものの﹂
すると高浜は、最強にズルそうな顔をしました。
﹁⋮⋮中絶でただ殺される子供に、ちょっとでも世の中に出るチャ
ンスを与えるにはこの方法しか俺には思いつかない﹂
﹁高浜?﹂
﹁こうでもしないと、生まれる事が出来ない子供がいる﹂
555
﹁⋮⋮⋮そうだね﹂
﹁そういう子供を世に出すのが永山、お前らだ。
そして俺は、母体を管理する係。
万が一、お前の病院まで間に合わない最悪のパターンもあるかもし
れないが、恐らく新しく生まれる命はそれ以上にある﹂
新しく生まれる命。
高浜が言うからかもですが、若干の胡散臭さを帯びた真剣さが響き
ました。
﹁お前⋮⋮﹂
﹁俺だって将来的に子供欲しい気持ちが無い訳じゃないよ。
でも俺は子供より女を取った訳で﹂
﹁奈津さんか⋮⋮﹂
﹁それ以外いねぇだろが﹂
そうか。
私はまたあの迷惑そうな顔の奈津さんを思い出します。
電話口で泣いてしまった奈津さん。
顔や話し方からするとあんなに普段絶対泣かなそうな強い女性が、
嗚咽を漏らすくらいの存在がこいつなんだな、と思いました。
﹁だから、お前はユズと一緒に将来に進んどけ﹂
﹁うん、上手くいくか解らないけど﹂
556
﹁今からんなこと言うなよ、過去に縛られても仕方ないだろ。お前
とユズがどんな人生を送って来ようと、お前次第だ。ユズを下らん
好奇心とかやっかみから守ってやれよ﹂
﹁⋮⋮⋮ありがとう、高浜﹂
また目頭が熱くなって来ました。
さっきの健気なユズちゃんを思い浮かべた時とは全く違う、打ちの
めされたようで感謝に満ちた不思議な感情が私の中に生じているの
が解ります。
﹁お前ねー⋮⋮そんな泣き上戸だったっけ﹂
﹁⋮⋮すまん。俺も何が何なのかよく解らない﹂
﹁さっきは俺にあんなに強気だった癖に。携帯出せよって言ったお
前と同一人物とは思えん﹂
﹁あの時のお前も大概だったよ﹂
﹁うるさいですね、俺もああいう時あんの﹂
そう言って高浜は立ち上がりました。
﹁いいよ、皿は俺が片しとくから﹂
﹁じゃあ俺はみんなのところに行ってくる、火もそろそろ消さない
とな﹂
557
私はお皿を重ねながら、その後ろ姿に内心感謝をし続けました。
皿をカウンターキッチンに持って行くと、廊下にメロンちゃんが立
っているのが見えました。
﹁あ⋮⋮先生﹂
﹁ビックリした。いつからいたの?﹂
﹁先生があんなにモノマネ上手だったなんて知らなかった﹂
﹁⋮⋮⋮見てたんだ﹂
一瞬で耳までカッと熱くなるのを感じました。
学芸会の舞台で親の姿を確認した時を思い出す、気まずい類の恥ず
かしさがジワジワ広がって来ます。
﹁ふふふ、先生ってモノマネでテレビ出れるって﹂
﹁⋮⋮⋮ありがとう。何か完成度に自信が無いのにノリでやっちゃ
ったんだけどね﹂
とか言いながら、気恥ずかしいので私はお皿を洗い始めます。
シンクは人が住んでいるとは思えないほどピカピカで、キッチン自
体が使っている形跡が感じられないほどに綺麗でした。
私は自分の家ですが水滴を落とす事に罪悪感を覚えつつ、洗ったお
皿を伏せました。
﹁もうお別れなんだね、ここと﹂
558
メロンちゃんが中指で目を押さえながら、呟くように言いました。
﹁俺もすごい楽しいから、気持ちはすごい解る﹂
﹁お互いここで好きな人出来たしね﹂
一瞬、言われた意味が解りませんでしたが、お互いと言う言葉が私
とメロンちゃんを指すと解ると、妙な親近感が生まれました。
そうだね。
でもメロンちゃんは⋮⋮。
﹁愚痴っちゃうけどごめん、私ね、きっともう長浜さんを超える人
って人生で会えないと思う﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あんなに顔良くて頭良くて優しい上にあっちもめっちゃ上手いと
か、そうそういないもん﹂
﹁まぁ⋮⋮そうだろうね﹂
﹁子供産んだら、また1人なのかなぁ﹂
﹁1人?﹂
﹁⋮⋮そう、また働くお店探して、今度は家も借りないと﹂
﹁あいつに相談した?﹂
﹁出来ない。これ以上あの人に頼れない﹂
559
でもあの人、困ってる人いたらぱっと見は無茶苦茶だけどちゃんと
便宜は図ってくれる⋮⋮はずなんですが、高浜がメロンちゃんにど
う言っているのかも解らないので、私はまた言葉に困ります。
﹁いい思い出になった﹂
﹁メロンちゃん⋮﹂
﹁そろそろ東京戻らないとなって話は結構最近よく聞いてたし﹂
辛いね。
私の場合は過去を振り切るいい場所になったけど、メロンちゃんは
⋮⋮⋮。
私は言葉を選びきれず、ただメロンちゃんを見ていました。
﹁先生って優しいんだね﹂
﹁え?﹂
言葉を選び切れなくて途方に暮れていたのに、優しいと言われて私
は更に混乱しました。
﹁長浜さんは切り捨てるところは切り捨てる、クールなところある
けど先生は違うよね﹂
﹁弟に言われたんだけどね⋮⋮優しいと優柔不断って、字は一緒だ
けど違う意味だって﹂
﹁弟さんってあの、目大きい人だね。倉田とあんまり変わらないく
560
らいの﹂
﹁うん、毅彦ね。全然似てない優秀な弟⋮⋮だけど、今年で30だ
よ﹂
﹁そうなの!?先生が幾つ?﹂
﹁あいつと一緒だよ、今年で32歳﹂
﹁見えないなぁ⋮⋮でもさ、先生はいいお医者さんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁あ、それ喜んでる?﹂
﹁普段あんまり褒められないからやっぱり嬉しい﹂
段々、メロンちゃんが笑顔になって来ました。
そういえば、今日の昼もこんな事あったなぁ。
﹁長浜さんね、よく先生の事褒めてるし﹂
﹁あいつが?嘘でしょ?﹂
﹁ううん、キリストと同じ誕生日なだけあるって﹂
何だそれ⋮⋮。
そんなの褒める要素になるか?
私はちょっと何とも言えない気持ちになりました。
声真似と誕生日を褒められても反応に困ります。
561
﹁だって先生の会見があの人を動かしたんだよ?﹂
﹁それ、本当なのかなぁ﹂
﹁本当だと思うよ?だって長浜さん、ここにいるメリットって余り
ないじゃん﹂
そうなんですよね。
そこは私も気になるところです。
でももし、それが本当なら高浜の事を尊敬出来そうな気がしました。
﹁私もね、いい思い出にしようって思って﹂
﹁⋮⋮⋮大丈夫なの?﹂
﹁うん、また戻ってくればいいやって﹂
﹁そうだね⋮⋮⋮ん?﹂
﹁また赤ちゃん出来たらここに来ようかなって﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂
私は言葉に困りました。
確かに、望まない妊娠をした妊婦さんの寮とは聞きましたが、意図
的にとなると⋮⋮。
それに、次にメロンちゃんが戻って来ても、今度は奈津さんが戻っ
て来てしまうのでは⋮⋮。
高浜を落とす以上に奈津さんの方が手強そうです。
562
﹁冗談だよ、先生。ごめんね、固まらないで﹂
﹁冗談⋮⋮﹂
だったら良いんですが、そうには見えません。
むしろ冗談と言って自分を納得させてると言うか。
﹁あのさ、メロンちゃん﹂
﹁何?﹂
﹁俺、すごい感じる事があるんだけど﹂
﹁どんな事で?﹂
﹁どんな⋮⋮あ、そういう感じるじゃなくて﹂
メロンちゃんがまたクスッと笑います。
﹁誰から聞いたか忘れたんだけど、人っていきなり出会うんだよ﹂
﹁え?﹂
﹁恋人かもしれないし、友達なのかもしれないんだけど⋮何にせよ、
人っていきなり自分に影響を与える人と出会っちゃうんだよ﹂
﹁うん、言ってるの何か解るな﹂
﹁うん、だから⋮⋮そこで過去に会った人と比べたりすると、良く
563
ないんだ。特に恋愛面で﹂
﹁確かに﹂
﹁俺はそれでユズちゃんによく怒られる﹂
﹁あははは、そうなの?元カノとかと?﹂
﹁うん、俺はずっとそれで女の人と仕事以外で話すのも無理だった﹂
﹁へぇ⋮⋮そうなの?何かもったいないね﹂
もったいない。
別に不特定多数の女性と関係したいと言う気持ちは元々ありません
でしたが、必要以上に敬遠してしまっていたのは確かです。
どうせ自分は肩書でしか誰も見てくれないんだ、肩書があるからこ
うして女の人が寄って来るだけなんだ、そう言って仕事へ仕事へ逃
げていたんですね。
でも逆に言えば、何の取り柄も自信も無い私が肩書に依存していた
だけだったのかもしれません。
損得で考えるのもおかしな命題ですが、やはり勝手に心の中で可能
性を二重線で消してしまうやり方は損だ、そう思いました。
﹁だから、メロンちゃんもあいつ以上の人はいないって思うのは今
はいいと思う。でも、次にこの人いいなって人がいたら﹂
﹁解った、次こそ⋮⋮﹂
そうメロンちゃんは言って、私にそっとよっ掛かって来ました。
⋮⋮⋮え?
564
こういう時、どうすればいいんだろう。
意外過ぎる展開に困惑し、窓を開けて高浜を呼びたい気持ちを抑え、
何とか
﹁⋮⋮⋮大丈夫だよ﹂
と独り言のように言うのが精一杯でした。
何がどう大丈夫なのか解らないですが、踏んだり蹴ったりなメロン
ちゃんが可哀相になり、私はそっとメロンちゃんの背中に片腕を回
してポンポンと叩いてみます。
ユズちゃんより少し背の高めのメロンちゃんの髪の匂いが、フワッ
と鼻腔になだれ込んで来ました。
ごめんねユズちゃん、何でもないんだ。
メロンちゃんに下心的なものは絶対何もない、でもごめんなさい。
何故か頭の中ではユズちゃんに対する謝罪や言い訳めいた物が飛び
交いました。
﹁いいなぁ、ユズ﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁ううん、何でもない﹂
段々服越しにメロンちゃんの呼吸や体温が伝わって来て、私は更に
何とも言えない焦りが湧いて来てしまい、身体を離しました。
﹁先生ごめんね﹂
﹁ちょっとビックリした。
565
申し訳無いが、こういう時ってどうすればいいのか解らない﹂
﹁あはは、先生の対応で大体合ってるよ﹂
そうか、なら良かった。
ユズちゃんに知られたらタダじゃ済まないでしょう。
でも悩んでる女の子に泣きながら身体をくっつけて来られて、そん
な展開になったら普通の人はどうするんだろう。
身体をそっと離すくらいしか思い付かない気がします。
それに泣いている理由も理由だし、でも自分にはユズちゃんがいる
から下手な言葉も掛けられない。
﹁困っちゃったね、ごめん﹂
﹁何も力になれなくてすまない﹂
﹁十分だよ。本当にありがとう⋮⋮﹂
何だか、こんな綺麗な子だったかな。
自分の中に、メロンちゃんを庇いたいような妙な気持ちが過ぎりま
す。
何だろう、これ。
丁度、その時に玄関の扉が開く音と共に、いつもより早足の特徴的
な足音が近付いて来たので、私とメロンちゃんは咄嗟に身体を更に
離しました。
﹁先生、何やってんの﹂
566
﹁ユズ、いい旦那さん捕まえたね﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ユズちゃんの顔は、余り喜んでいませんでした。
何してんのよ、そう私達を睨んでいるように見えます。
﹁あのさ⋮⋮﹂
私が言いかけると、
﹁⋮⋮姉さん、先生結構簡単に落とせそうとか考えないでね﹂
と結構な威圧感でメロンちゃんを牽制しました。
﹁えー違うよ、ユズ考えすぎ﹂
﹁ならいいんだけど﹂
﹁じゃ先生、悩み事聞いてくれてありがとう﹂
﹁うん﹂
メロンちゃんはサッサと、高浜のところに行くのか外に出て行きま
した。
﹁もー⋮⋮先生、遅いんだもん。高浜さんもとっくに外出てきて、
倉田くん火に焼べようとして遊んでるし、先生何してんだろうって﹂
⋮⋮⋮倉田くん可哀相に⋮⋮。
567
そして何してるんだ、高浜は。
﹁何かメロン姉さん言ってた?﹂
﹁うん、高浜以上の人は現れないとか⋮⋮後、俺が言うのも恥ずか
しいんだけど、ユズちゃんいいなみたいな事言ってた﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
そう言って懐に抱き着いて来たユズちゃん、可愛いなぁと幸せな気
持ちで両腕を回すと、一瞬で表情が一変して身体を離しました。
﹁先生、メロン姉さんと何したの?﹂
﹁何って⋮⋮高浜と離れるのが切ないみたいに泣いてたから、大丈
夫だよってこう、ポンポンしたくらい﹂
﹁服から姉さんの匂いがするんだけど、どういう事!?﹂
﹁姉さんの匂い?﹂
移り香と言うものなのでしょうか。
思わず確認してみますが、余り解らないと言うか、誰かが入れてく
れていたタンスの芳香防虫剤の匂いが微かにする程度です。
﹁何なの、何してたの!?﹂
段々、ユズちゃんも怒りに満ちた顔になってきました。
それに反比例して、私は萎縮してしまいます。
568
違う⋮⋮と言いたいですが、何が何とどう違うのか説明出来ない自
分がいました。
﹁何って言う程の事じゃないんだけど﹂
﹁じゃ正直に言いなよ﹂
﹁だってさ、泣いてる女の子に寄り掛かられたらどうすればいい?
投げ飛ばす訳にも行かないし⋮⋮﹂
﹁投げ飛ばせばいいじゃん、婚約者がいるからって言って!!﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
ユズちゃんと同じ妊婦さんにそれはおかしい、そう思いましたがユ
ズちゃんの冷たい目線に言葉を飲みます。
最近怖いなぁ。
特に女の人絡みの事になると。
私が浮気したとかならともかく、そうではないのに⋮⋮。
こういう時もどうしていいのか解らないなぁ、そう困っているとさ
っきの高浜の言葉が何故か頭に響きました。
﹁ユズちゃん⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁一緒にお風呂入ろう﹂
何で高浜の言葉を選んだのかは、我ながら全くを以て謎ですが、ユ
ズちゃんの顔が少し柔らかくなります。
569
﹁え?⋮⋮いいよ?いいけど﹂
私は点けっぱなしのテレビに気がつき、消しに行きました。
﹁もう、お気づきだろうか﹂
まだやってんのか、知らないよもう。
そう思って私はリモコンの電源ボタンを押しました。
私達は着替えをそれぞれ取りに行き、お風呂場に集合する事にしま
した。
ユズちゃんはお風呂セットと思しきオレンジ色のバスケットを持っ
ています。
﹁初めてだね、一緒にお風呂入るの﹂
ユズちゃんも嬉しそうに言いました。
私はと言えば、女性と一緒に入浴する事自体初めてです。
暗い洗面所で、お風呂場の電気だけ点けると、ユズちゃんの細身に
大きなお腹のシルエットが白熱燈の明かりに陰影を帯びて浮かび上
がりました。
綺麗だな。
心からそう感じました。
﹁何、ちょっとそんな見ないでよ﹂
﹁いや、綺麗だなって思って﹂
570
﹁もー⋮⋮⋮﹂
狭いお風呂場ですが、とりあえず並んで入ってシャワーを浴びます。
高浜とメロンちゃんが入れるので無理な訳ではありませんが窮屈は
窮屈、でも何だか楽しい気持ちになりました。
﹁立ってるの辛くない?椅子使えば?﹂
﹁ううん、平気。あのさ、先生と高浜さんって脇毛ないよね。何で
?﹂
﹁⋮⋮脇毛?﹂
そんな言葉あったっけ、と言うくらい全く気にしてない部位です。
腕を上げてまじまじと見ると、全く無い訳ではないですが、殆どあ
りません。
﹁全然気にした事なかった﹂
﹁処理ってするのかなって思った。脇毛あるの倉田さんだけだ﹂
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
何か仲直り的なものを求めて一緒に入った訳ですが、ユズちゃんは
浴槽の縁に寄り掛かって脇毛の話に熱心です。
﹁先生、絶対普通の女の人よりないと思う﹂
﹁あった方がいいの?﹂
571
﹁うーーん⋮⋮濃すぎなければ私は別に気にしないけど﹂
﹁そう⋮⋮あのねユズちゃん、話は変わるんだけどさ﹂
﹁何?﹂
﹁明日から⋮⋮俺の家に来る?﹂
私は明日、一緒にここを出る事を告げました。
﹁俺の家って、先生の住んでる方の家って事?﹂
﹁そう。病院も徒歩15分くらいだし﹂
﹁いいの?﹂
﹁ダメなら言わないよ﹂
﹁そっかぁ⋮⋮先生、その話してくれたんだね﹂
﹁うん、完璧おちょくられたけど﹂
﹁おちょくられたって、高浜さんに?﹂
私はさっきまでのやり取りを思い出しました。
ユズちゃんは持ってきたオレンジ色のバスケットから、ぶどうの写
真の付いたボトルを取り出し、丸いフワフワしたネットで泡立てま
した。
一気に浴室にぶどうの匂いが広がります。
572
﹁散々おちょくっといて、﹃俺、ダメって言った覚えないけど﹄っ
て﹂
﹁ちょっと先生﹂
﹁何?﹂
﹁今、高浜さんが喋ってたみたいだったよ!?何それ、すごい!!﹂
﹁本当に?高浜にもそれで色々やらされた。俺も調子乗っちゃった
けど﹂
﹁⋮⋮だから遅かったんだ﹂
﹁いや、マジですみません﹂
﹁あはははは、倉田さんじゃん!すごい先生!!﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁もう先生、それで生きて行けるよ!!﹂
一瞬、私は小さなミニシアターみたいなところで物真似で生計を立
てている自分を想像してしまいました。
医者を辞めてどうこう以前に、人前に出て何か芸を披露するとか考
えるだけで無理でした。
﹁そんな真剣に考えないでよ、先生はお医者さん辞めちゃダメ。先
生はお金儲けを考えないお医者さんなんだから﹂
573
﹁え?﹂
﹁高浜さんもそうだけど、先生も別荘乗っ取られてこんな事してて
もメリット無い訳じゃん?﹂
﹁それは⋮⋮⋮﹂
﹁でも先生は病院が自腹切って、子供を産んで貰う事を考えたんで
しょ?﹂
﹁うん、毅彦も同じ意見だったけど﹂
﹁私、お医者さんの世界ってわかんないけど、それって凄い事だと
思うんだ﹂
そうか⋮⋮。
そうなのか。
高浜に言われた事、ユズちゃんに言われた事。
何だか、今日はやたら褒められるので、逆に不安になります。
盛大なドッキリとか、何かあいつを糠喜びさせてみんなで楽しもう
とか⋮⋮。
そんなのされたら立ち直れない気がします。
﹁でもね、その反面⋮⋮ユズちゃんに迷惑掛けるかもしれない﹂
﹁何で?﹂
﹁うちって開業医なんだけど、例の件を始めるにあたって色々削減
した結果、毅彦と俺の給料は普通より少なめにする事にして⋮⋮だ
574
から他の開業医さんの家みたくリッチに生活出来ないんだ﹂
﹁いいって、お小遣いくらいは私が自分で稼ぐし。変な事聞くけど
⋮先生の月収ってどのくらいなの?﹂
私は正直に先月の給料を告げました。
年齢と同じくらいだった研修医時代よりはありますが、それでも先
代の父の代の5分の1にも満たない額です。
﹁⋮⋮先生さ﹂
﹁そう、だからそこは不安なんだけど﹂
﹁あのね、その半分で普通の人は子供3人とか育ててるの。3分の
1でも行けるかもしれないよ﹂
﹁3分の1?﹂
私の経済観念がおかしいのかもしれませんが、都心で夫婦と子供1
人の所得の3倍と言うのは疑わしい収入です。
﹁そう。だから生活は心配無いって事だよ。私も働きたいし﹂
﹁⋮⋮出産まではダメだよ。出産後も⋮⋮1ヶ月以上はじっとして
て⋮⋮﹂
頭を洗っていた私は目に泡が入ってしまい、思いっ切り目を閉じな
がら言ったので、ユズちゃんの顔は見えません。
でも、嫌と言われてもダメと言うしか無い事です。
雇う職場があるのかも謎ですが⋮⋮。
575
﹁はい﹂
慌てて頭を流していると、不意に濡らしたボディタオルらしき物で
目をギュッギュッと押され、私の視界が戻りました。
﹁先生はシャンプーハットが必要だね﹂
﹁ありがとう⋮⋮いつもは大丈夫なんだけど﹂
﹁そりゃそうでしょー﹂
そう言ってユズちゃんが笑いました。
まだちょっと目が滲みますが、私は続けました。
﹁俺もこの先病院自体がどうなるのか解らないけど、ユズちゃんに
不自由だけはさせないから﹂
﹁ふふ、やっぱ先生男らしい。でもちょっと寂しい﹂
﹁何で?﹂
﹁だって私が協力出来るところは無いんだもん⋮⋮﹂
﹁協力?﹂
﹁えーだって私、高校も出てないんだよ?先生の仕事の手伝いは出
来ないし﹂
そういう事か⋮⋮。
576
人によりけりでしょうが、私は余り仕事面でと言うよりは家庭面で
のパートナーとして奥さんを考えています。
誰かが自分の帰りを迎えてくれたり仕事の疲れを労ってくれる、そ
れって結構幸せな事なんじゃないかな。
別に収入は自分が得るから家事は奥さん任せ、と言う考えも私には
ありません。
高浜ほど潔癖でも料理上手ではありませんが、何年も一人暮らしな
ので最低限の家事くらいは出来ますしね。
﹁あのね、ユズちゃん﹂
﹁おかえり、何?﹂
全身泡だらけのユズちゃんを見ながら、私は今考えていた事を伝え
ようと思いました。
﹁⋮⋮俺、奥さんって家にいてくれるだけでいいと思ってる﹂
ちょっと違うな。
そう思い、ユズちゃんを見ると可愛いらしい表情でキョトンとして
います。
﹁私⋮⋮それはちょっと﹂
﹁うん、バイトしたいとかは全然構わない。でも、家に誰かがいて
おかえりって言ってくれるってすごく嬉しいと思う﹂
﹁あ、それは解る﹂
﹁だから、余り俺の仕事は気にしなくていい。たまに帰れない事も
577
あるけど⋮⋮﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん、申し訳ない﹂
﹁でも浮気とかじゃないなら。仕事だもんね﹂
﹁浮気なんてしないよ、しようとも思わないから﹂
本心ですがユズちゃんの表情の変化を見ると、また何か言ってはい
けない事を言ってしまったようです。
﹁先生は、無意識の内に浮気しそうだし﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
﹁それ完全アウトでしょって事を女の人からされたら断れなさそう﹂
あぁ、さっきの。
仲直りするつもりが蒸し返してしまいましたね。
段々慣れっこになっている自分がいます。
﹁いや、浮気はしないから﹂
﹁そんなかっこいい顔して言ってもダメ。先生はエッチしないけど、
他の女の人に必要以上優しくして勘違いされるんだと思う﹂
﹁⋮⋮どうすればいいの?﹂
578
﹁親切にしすぎない事と、女の人に隙を見せない事﹂
﹁親切にしすぎない、か﹂
﹁高浜さんはメロン姉さんに隙を与えないから、メロン姉さんが隙
だらけの先生に甘えちゃったんでしょ﹂
﹁だって、メロンちゃんは俺とユズちゃんの事知ってるし⋮⋮﹂
﹁それが大きな隙なんだってば、先生の﹂
﹁⋮⋮そんなに俺、信用ないかな﹂
ふとそう零すと、ユズちゃんの叱責が止みました。
﹁俺はメロンちゃんが軽く寄り掛かって来たときも、肩ポンポンし
てすぐ離れたし⋮⋮職場の人にもちゃんとユズちゃんが好きな事は
伝えてる。それでもダメなの?﹂
﹁⋮⋮⋮ごめんね﹂
﹁え?﹂
﹁あんまりにも先生が優しいから心配になっちゃって。全部、私の
独占欲みたいなもんなんだけど﹂
優しい、か。
大切な人をイライラさせる優しさって優柔不断の方の優しさなのか
な。
579
そんな事を思いました。
私はそっと泡だらけのままのユズちゃんを抱き寄せてみます。
﹁重いね、私﹂
﹁全然だよ、元が軽いしこの体勢なら﹂
﹁体重の話じゃない、存在の話﹂
﹁存在の話⋮⋮?﹂
﹁うん、正直に言わせてもらうと、先生と関係を持ったり、好意を
持った女の人は全員死んでほしい﹂
﹁えぇ?﹂
それなら誰も死なない気がしました。
きちんと体の関係を持った女性はユズちゃんだけですし、私自身の
人生を振り返ると、私は好奇心で多少いじられる事はあっても恋愛
対象にはまずならない類の男性だと自覚しています。
そこに倉田くんの言うコンプレックスを感じていなかったのだとす
れば、余り私自身にもそういう願望自体が無いのだと思いますし。
﹁何かね、もう先生が他の女の人と仕事以外で関わるとか、無理だ
から﹂
﹁大丈夫だよ。元々女性にそこまで興味が無い﹂
﹁⋮⋮じゃ何でユズと結婚するの?﹂
580
﹁⋮⋮えぇ?﹂
何だか、何を言っても裏目に出る気すらして来ました。
倒しても倒しても、新たなボスが現れるような感じと言うか。
﹁俺も、特に高浜もそこは驚いてると思う﹂
﹁先生に彼女が出来たって事を?﹂
﹁まぁそうだね、自分でも結婚なんて絶対出来ないって思ってたか
ら﹂
﹁何で?先生って女の人が好きな要素ありまくりじゃん﹂
﹁⋮⋮男性女性に関わらず、俺と話すとみんな離れて行く気がする
んだけど﹂
﹁あはは、私はそこが好きなんだけどね﹂
﹁⋮⋮友達いないのが?﹂
﹁違う違う、先生のそういうところが好き﹂
﹁⋮⋮具体的に﹂
﹁お願いします、か。えーとね、自分に胡座かいてないところかな﹂
﹁自分に胡座?﹂
581
﹁そうそう、後はお風呂上がってから話そう?﹂
ユズちゃんの身体の泡が、私の身体との潤滑油みたいになって心地
好い感触です。
風俗のソープってこんな感じなのかな、とかちょっと考えてしまっ
た自分がいました。
﹁⋮⋮お腹パンパンになって来た⋮﹂
お風呂から上がって服を着ると、ユズちゃんの呼吸が少し上がり始
めました。
﹁すぐ横になって﹂
﹁うん⋮⋮先生いると心強い﹂
寝室に連れて行き、ユズちゃんと並んで横になります。
医学的な知識はある筈なのですが、お腹が張ってる妊婦さんの横に
いて自分が出来る事⋮⋮案外無いんですね。
医療機器や器具があってこその医者で、私一人だけだと何も出来な
いんだな。
そんな無力感がありました。
﹁背中さすろうか?﹂
﹁ううん、大丈夫。最近ね、結構張るんだ。赤ちゃんも元気なんだ
よ、よく動くし﹂
﹁⋮⋮入籍、先にしようか﹂
﹁え?にゅうせき⋮⋮﹂
582
﹁生まれてからより、その子の為にも生まれる前に済ませた方がい
いでしょ?﹂
﹁先生⋮⋮本当にいいの?﹂
﹁ダメなら言わない﹂
ダメって言わせるように持って行く事ってこれか。
それはダメであるかもしれない不安と、もしかしたらダメでない事
への若干の疑心の顕れがそうさせる結果だとは思います。
ダメって言われたら、やっぱダメかって自分が納得するように身構
えていると言うか。
﹁だって先生の子供じゃないんだよ?﹂
﹁俺は⋮⋮そうだな、ユズちゃんの連れ子って感覚かも﹂
﹁連れ子⋮⋮ね﹂
何か言い方悪かった?
また怒られるのでは、私はちょっと身構えました。
﹁先生、本当に後悔しない?﹂
﹁何を?﹂
﹁自分の子供じゃない子供を私と育てるんだよ?﹂
583
﹁何が問題なの?﹂
社会的に見てどうなのかは解りませんが、そこは未婚の母となる女
の人を好きになった自分には当然の結果なんだと思います。
どんな赤ちゃんでも、赤ちゃんは可愛いでしょうから。
﹁お腹、触っていい?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
そっとお腹に手を回すと、随分固く張っていました。
私には経験のしようが無いのですが、きついだろうな⋮⋮そう思っ
てお腹をなでてみます。
﹁もう大丈夫⋮収まって来た。先生、手大きいよね﹂
﹁手は大きくないけど、ピアノやってたからかな⋮⋮指が﹂
﹁確かに長いね。ピアノやってたんだ﹂
﹁中学生までね。上達はしなかったけど﹂
実家にある、母親が大切にしていたグランドピアノを思い出します。
リビングにガラスで区切られた防音壁の狭いピアノ室があり、いつ
もそこで先生が来て私は渋々ピアノを習っていました。
大人になってもたまに休日やることがない時に弾いていましたが⋮
⋮何年も弾いてません。
当時、私より断然頑張っていた毅彦は弾いてるのかな。
﹁何かピアノとか、本当に育ちいいのが伝わる﹂
584
﹁そうかな、小学生の時はピアノやってた子がほとんどだったけど﹂
﹁私の周りでは家がお金持ちの子しかやってなかったな﹂
﹁ピアノの先生が近所にいるかいないかも大きいと思う﹂
﹁そっか⋮⋮田舎だったからなぁ﹂
田舎⋮⋮?
そうだ、私は高浜に言われていた事を思い出しました。
﹁ユズちゃんの実家にも挨拶しないとね﹂
何の気無しにそういうと、
﹁それは止めて、しないでいい﹂
と言う答えが返ってきます。
﹁何で?俺もよく解らないけど結納とか何とか、義理の親子になる
訳だからご挨拶はしないと⋮⋮﹂
﹁嫌だ。もう一生会いたくない﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁先生もお金むしり取られちゃうよ⋮⋮特に先生優しいから﹂
﹁先生﹃も﹄って?﹂
585
﹁いいから﹂
﹁そういう訳には行かないんだ﹂
﹁毅彦先生と先生のお父さんお母さんのお墓に報告すれば十分﹂
﹁何で?﹂
﹁もう私は実家と関わりたくない﹂
その言い方に相当の、根強い何かを感じました。
でも、その原因をこれから親戚になる訳だし、私が知っておかない
といけない気がします。
﹁申し訳ないんだけど、簡単にで良いから⋮⋮ユズちゃんがそう思
う理由を聞かせて欲しい﹂
﹁聞いても私を嫌いにならないでくれる?﹂
﹁うん、逆に何か出来るなら力になりたい﹂
ユズちゃんはこちらに向き直り、話しはじめました。
東北地方の私は聞いた事の無い町の出身であること、お兄ちゃんと
お姉ちゃんがいること。
お兄ちゃんは地元、お姉ちゃんは東京にいて、実家から取り立ての
ようにしょっちゅうお母さんがお金を取りに来られること。
586
﹁だから私は家を持たなかった﹂
﹁そうだったんだ⋮⋮﹂
何だかドラマの粗筋を聞いているような話でした。
でも、私相手なら適当な事を言えば隠せるのに、細かく教えてくれ
ている事に安心します。
﹁⋮⋮⋮でね、お兄ちゃんともお姉ちゃんともお父さんが違うの﹂
﹁え?﹂
﹁お兄ちゃんは前の前のお父さんとの子供で、お姉ちゃんは前のお
父さんとの子供。私は解らないんだって﹂
﹁お母さん、2回結婚されてるんだね﹂
﹁今はどうか知らない。思い出したくもない。先生、何されるか解
らないから関わらないで﹂
﹁⋮⋮⋮大丈夫だよ﹂
我ながら何が大丈夫なのか全く解りませんが、今回は自分ならユズ
ちゃんの力になれる気がしました。
お金をむしり取られるとの事ですが、親戚がお金に困っているなら
多少の援助は当然だと思いますし、第三者の私が介入して解決出来
る問題もあるかもしれません。
﹁男の方としては、奥さんの実家へご挨拶とかしないのはちょっと
⋮⋮﹂
587
﹁どうしてもダメ?高浜さん言ってたよ、成人同士なら保証人だか
証人2名の署名で結婚出来るって﹂
﹁⋮⋮そうなんだろうけど﹂
何だか、急に結婚と言う言葉が現実味を帯びはじめました。
本人同士でどうにでもなる事なのかもしれませんが、やっぱり相手
の家を意識してしまいます。
﹁私が先生の奥さんになるってだけでも反発みたいなのはあると思
うし﹂
﹁⋮⋮反発?﹂
﹁そうだよ、学歴も家柄も最低だし、見た目も余りお医者さんの奥
さんって感じじゃない⋮⋮﹂
私は突然、保倉先生を思い出しました。
﹁あのさ、俺の職場に大学時代の元教授で、産婦人科医で知らない
人は少ないんじゃないかって先生がいるんだけど﹂
﹁うん﹂
﹁その先生の奥さんも芸者さんだったそうでさ﹂
﹁芸者さん?あの着物で三味線とか弾く⋮⋮﹂
﹁俺も見たこと無いんだけど、多分そう。その先生と奥さんは歳が
588
10離れてるそうなんだけど﹂
﹁今思ったけど⋮⋮私達は12離れてるね﹂
そうだね。
余り離れてる感覚はしないのは私が幼いのかユズちゃんが大人びて
いるのかどっちなんでしょうね⋮⋮。
﹁ちょっと前にね、お医者さんの奥さんって大変なのか聞いたんだ﹂
﹁絶対大変だと思うけどなぁ⋮⋮全然何も解らないけど﹂
﹁お互いの信頼関係と思いやり、確かそう言われた﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
﹁さっき高浜も同じような事言ってたから、きっと一般論なんだと
思うけど﹂
﹁高浜さんが一般論⋮⋮﹂
﹁うん、気持ちは解る。でも、あいつも言ってたけど⋮⋮もし俺と
結婚してユズちゃんに何か不都合な事があるなら、そこは俺が守ら
ないといけないところであって﹂
﹁先生⋮⋮﹂
ユズちゃんが一瞬悲しそうな顔をしたので、私はまたやらかしたか
と内心頭を抱えました。
今日は何か、悪いことをした自覚が余り無いのですが、ユズちゃん
589
に怒られる事ばかりしてる気がします。
﹁⋮⋮惚れ直した﹂
﹁え?ほれな?﹂
﹁もーどうしたの先生、何かめちゃくちゃかっこいい事言うよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ちょ、何で固まってんの?褒めてるんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮良かった﹂
私は顔の力が抜け、口元が緩むのを感じます。
ユズちゃんも身体をピッタリくっつけて来ました。
きっと、私が笑っても怖がらないでいてくれるのはユズちゃんだけ
だろうな。
明け方、ふと目が覚めて何かお茶でも飲もうと起きた時に、枕元の
ユズちゃんの携帯の液晶に弾みで触れてしまったらしく、バックラ
イトが点きました。
慌てて目を背けましたが、不都合の文字と携帯辞書の文字が一瞬見
え、検索したのかなと寝ているユズちゃんを微笑ましく思い、私は
携帯が照らしてくれた明かりを頼りに部屋を出たのでした。
590
婚姻関係︵後書き︶
昨日、非常に暇だったので
﹁お前を題材に小説書いてみた﹂
と、遠く離れた海の向こうに出張中の旦那にカミングアウトしてみ
ました。
﹁えぇー⋮⋮何それ?﹂
﹁うん、お前に成り切って一人称で書いてるわ。お前の思考回路に
成り切ってると気持ちが沈んで沈んで﹂
﹁あの、それ⋮⋮どういうの?﹂
﹁お前と私の元彼が友人として出会ってたらって話。お前のクソウ
ザい元カノも出てきてお前と結婚するだのどうのこうの﹂
﹁何だ、それ⋮⋮﹂
﹁わはははは、読みたきゃURL教えて差し上げる。PCの履歴で
お前が見たエロ動画を参照してもう一本書いてみたり余りに気持ち
悪くなって止めたり﹂
﹁いいよ、もー⋮お前は⋮⋮。でも楽しそうで安心した﹂
﹁いやいやいや、不安材料しかねぇじゃんよ!!嫁がエロ小説書い
591
てて安心する旦那がいるか!?﹂
﹁エロ⋮?ちょっと何してんの?﹂
﹁私は結婚してから一切そっちの遊びも控えてんだが?レスにも程
があんだろ、とっとと帰って来いバカ!!﹂
﹁⋮⋮解った、待っててね。ふふふ﹂
スカイプを切るとやっぱり暇なので、Wiiでファイヤーエンブレ
ム聖戦の系譜を始め、ウッカリ夜明けを見たのでした。
頑張れ、旦那さん。
最強に不向きな仕事をしてる奥さんを性的に応援してくれ。
592
続・婚姻関係︵前書き︶
漸く、長い長い永山先生の2日間が終わります。
593
続・婚姻関係
結局、お茶を飲んでから私は眠れぬまま朝を迎えました。
ユズちゃんがやって来る喜び以上に、結婚というものの重さを感じ
られたと言うか。
確かに、ユズちゃんの誕生日を待って成人同士の結婚とすれば高浜
の言う通り、本人同士と証人の署名をして区役所に提出すればいい
だけだとは思います。
ただ、やはり両家⋮⋮と言っても私の場合は親戚も少ない上に両親
も他界しておりますので毅彦くらいしかいませんが、ユズちゃんに
は少なくともお母さんとお兄さんお姉さんがいるわけなので、蔑ろ
にする訳にはいかない問題な気がします。
ユズちゃんに何とか、解ってもらおう。
そう思いました。
ユズちゃんが成人する前に子供が生まれる可能性も高い。
その子の為にも早目の方がいい、やっぱり時間を取ってユズちゃん
の家にご挨拶に行くべきなんじゃないか。
私は隣で静かに寝息を立てているユズちゃんを見て、そう決めまし
た。
いきなり何か温かいものが口を塞ぐ感じがして、私は目が覚めまし
た。
何か巨大なナメクジの様な生き物が私の口をこじ開け⋮⋮舌?
これは、人間の舌だ。
誰の?
そう考えた瞬間、私は目が覚めました。
594
飛び起きると、目の前にはユズちゃんがニコニコして立っています。
﹁ビックリした﹂
﹁先生の顔でユズもビックリしたよ、おはよ﹂
何故かメロンちゃんかと思ってしまい、瞬間的に意識が戻ったので
すがそれは言わない事にしました。
﹁朝方まで寝られなかったんだ﹂
﹁何で?﹂
﹁⋮何か、結婚するに当たって色々あるなって﹂
﹁先生、それマリッジブルーじゃない?﹂
﹁マリッジブルー?﹂
いや、そんなんじゃなくてもっと現実的な⋮⋮。
ユズちゃんの実家へのご挨拶の話を切り出すのが、何故か躊躇われ
ました。
﹁先生、結婚式ってしたい?﹂
﹁何で?﹂
結婚式。
仕事関係で何度か行った事はありますが、卒業式同様に余り感慨深
いものではありませんでした。
595
私自身に何かを祝うと言う感覚が薄いのかもしれません。
﹁私も気が進まない。先生もビミョーなら無しでいいでしょ﹂
そう聞いてちょっとホッとしてる自分がいました。
呼ぶ程の友人も親戚もいませんし、大学病院と違って開業医なので
医局関係の繋がりも余りありませんし。
それに結婚式の雰囲気に憧れる女性が悪いとは思いませんが、そう
いう女性とは何となく上手く行かない気がします。
﹁後ね、高浜様が呼んでる﹂
﹁高浜様?﹂
﹁うん、見れば解ると思う﹂
顔洗って髪の毛くらい直したいですが、急ぎらしくユズちゃんは私
を引っ張って行きました。
ダイニングに行くと、銀縁の眼鏡にパリッとスーツ姿の高浜がテー
ブルに座っていました。
﹁遅かったな﹂
﹁すまん、どうした?﹂
高浜は眼鏡を中指で直すと、私達に座るように促します。
私の命運はこの男に握られているのではないかと思うほどの、もの
すごい威圧感でした。
﹁⋮⋮お前、コンタクトだったっけ﹂
596
﹁両目1.5です﹂
﹁眼鏡いらないじゃーん﹂
ユズちゃんが笑うと、
﹁伊達です﹂
とだけ含み笑いで返ってきました。
普通なら笑えるのかもしれませんが、この迫力で言われるとまるで、
伊達眼鏡が当然であるかのような感覚に襲われます。
高浜は慣れた手つきでファイルから数枚綴りの書類を出しました。
﹁さて、ご結婚おめでとうございます﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁有難うございます﹂
どう反応していいのか解らない私をよそに、ユズちゃんは明るく頭
を下げました。
﹁相良柚希さん﹂
﹁はい﹂
﹁こちらの契約約款通り、今までの月のお給料は全額振り込んであ
ります。こちらですね﹂
597
そう言って、高浜は等間隔にATMの明細が貼られた紙と、通帳を
出しました。
ATMの明細に倉田くんの印鑑が押してあるところを見ると、倉田
くんが給与の振込をしていたのかなと思いました。
﹁こちらを御確認下さい﹂
﹁はーい﹂
ユズちゃんは通帳を受け取り、3枚の明細を1枚ずつ、通帳の記載
と併せて確認しました。
﹁うん、全部合ってる﹂
﹁そしてこちらの約款内の第三項、ここをご覧下さい﹂
高浜とは思えない口調の高浜は、ラインマーカーで真っすぐ線の引
かれた部分を指しました。
﹁こちらの内容を要約させて頂くと、相良さんの場合は子供を実子
としてご出産される上に婚姻による希望退職と言う形になりますの
で、出産御祝い金の方は当団体からお出しする事は出来かねますの
でご了承下さい﹂
﹁うん、読んだから解るよ。辞書も引いてちゃんと読んだ﹂
専門的な文言でびっしり書かれている約款に私も横目で目をを通し
598
ます。
これは高浜が考えて斎藤君が作成したんだろうか。
ふとそんな事を思いました。
いつか覚えの無い迷惑メールの苦情をサイトに出した時、ご利用規
約をお読み下さいと怒られ、素直に全部読んだ時を思い出します。
読むだけ無駄でしたけどね。
﹁ご理解頂けました?﹂
﹁はい。今まで有難う、た⋮長浜さん﹂
いや、有難うって⋮⋮ユズちゃん達は最初はこのお祝い金目当てだ
ったんじゃないの?
私はちょっとユズちゃんの明るい反応に混乱しました。
﹁そして、永山さん﹂
高浜は鋭い目線で私を見ました。
無表情の様で、どこかおちょっくっていて、それすら反論させない
ような凄まじい威圧感でした。
これが仕事モードの高浜なんでしょうか。
高浜武志﹂
何だか高校からの知り合いだったのは実は嘘だったのでは、と感じ
るくらい別人のようです。
﹁まずはこちらをお受け取り下さい﹂
そう言うと、高浜はドンと分厚い包みを出しました。
その包みには水引きの飾りが付いていて、﹁御祝儀
と見事な達筆で書かれていました。
599
﹁⋮⋮⋮高浜?﹂
﹁⋮⋮⋮え?﹂
私もその恐ろしく分厚い包みに驚きましたが、ユズちゃんも呆気に
取られた顔をしています。
﹁改めて結婚おめでとう﹂
﹁いや、ちょっとこれは⋮⋮﹂
﹁ん?何か嫌なの?﹂
一気にいつもの高浜の口調に戻りましたが、私とユズちゃんはまだ
ビックリしたままです。
﹁もーー言わせんな!これ持ってけよ、お祝い金プラス俺の気持ち
が入ってるから﹂
﹁え、だって毎月以外のは出さないって⋮⋮﹂
﹁だから俺からって書いてあるだろがよ、小学生!わざわざ筆ペン
買ってまで書いたのに﹂
﹁高浜⋮⋮⋮お前﹂
﹁有難う、高浜さん⋮⋮﹂
﹁うん﹂
600
高浜は眼鏡を外して、目を擦りました。
﹁もー朝起きたらいきなり眼鏡とかどうしたの!?ってビックリし
たんだよ、私﹂
﹁この眼鏡、睫毛がレンズに当たって気持ち悪い﹂
﹁じゃ掛けなきゃいいじゃん!﹂
﹁あった方が永山がビックリするかなって思っ⋮⋮永山?﹂
私はまだ、ボンヤリしていました。
高浜が祝ってくれているのは解りますし、感謝の気持ちはある筈な
のですが、最初の高浜の変わりっぷりに対する緊張がまだ抜けませ
んでした。
﹁おい、大丈夫か?﹂
﹁先生?﹂
﹁⋮⋮⋮ごめん、まだ混乱してる﹂
﹁まぁ怖がらせてすまんな、さっき朝飯作ってる時に閃いてさ﹂
﹁閃いた?﹂
﹁いや、まぁサプライズ的にお渡しした方がいいかなと﹂
﹁最高のサプライズだよ⋮⋮お金もだけど、高浜さんっていい人な
んだね﹂
601
﹁⋮今解ったとか言うなよ?﹂
高浜は脚を組み、椅子を後ろに斜めに倒しました。
高校の時、学活の時にこれをやって重心を崩して倒れて来て、後ろ
の席だった私の机をひっくり返し、弾みで私まで椅子から落ちた記
憶が蘇ります。
その時はちょっとイラッとしましたが、15年以上経ってその高浜
に、こうして結婚を祝福されるとは思いませんでした。
﹁有難う、高浜﹂
﹁まぁ⋮⋮お幸せに﹂
﹁また遊びに来てもいい?﹂
﹁おう⋮⋮⋮あっ!﹂
高浜がガタンと椅子を真っ直ぐにして、更に書類を出します。
﹁忘れてたわ、これ書いて送って。切手も貼ってあるから﹂
さっきとえらい違いに、ちょっと引き気味の私がいますが、高浜は
クリアファイルに入った書類を出しました。
﹁何これ⋮⋮賃貸契約書?﹂
﹁そう。お前になるべく迷惑が掛からないように﹂
﹁いいのに⋮⋮﹂
602
﹁まぁ家賃の欄はお前が適当に書ていいから﹂
﹁適当って言われても﹂
﹁だってここの光熱費、全部お前持ちになってんじゃん﹂
あ、そういえば。
余り考えていませんでしたが、基本料金は毎月払っていたし、高浜
達がいてもそんなに驚くような額でも無かったので気にしていませ
んでした。
かと言って、請求する程の額でも無いだろうしなぁ。
ちょっと悩んでしまいます。
﹁まぁこれからもあるから、賃貸契約って事にしといた方が何かあ
った時の為にも﹂
﹁うん⋮⋮じゃ、月々幾らならいい?﹂
﹁だからお前が決めろ、光熱費込みの賃貸料を﹂
﹁えぇー⋮?じゃ3万円って書いとく﹂
﹁お前、ホンッと欲がねぇな。下手したらマイナスだぞ﹂
﹁いいよ、お前には⋮⋮本当に感謝してるから﹂
これは本心でした。
高浜がいなかったら、自分はずっと何も無いのに何だかよく解らな
いモヤモヤした気持ちで生きていた様な気がします。
603
﹁まぁ俺は飯に付き合わせたり合コンに連れてったりしたくらいし
かしてないがな﹂
﹁⋮⋮⋮これからは合コンには連れて行かないでね﹂
ユズちゃんがボソッと呟くように言いました。
私も正直、合コンの雰囲気は結婚式以上に苦手でした。
﹁元々こいつ乗り気で来ないから大丈夫だろ﹂
﹁先生って無意識の内に女の子に何かされちゃうから﹂
﹁そんな事⋮⋮﹂
と言いかけて、昨日の一件を思い出しました。
一気に気まずい思いが蘇って来ます。
﹁何だよ、お前もう何かやらかしたの?﹂
﹁いや、俺は何も⋮⋮﹂
﹁だから困るんだよねー﹂
ユズちゃんが心底困った顔をしています。
メロンちゃんとは、本当に何もない。
そう言いたいですが、高浜の手前何か言えない自分がいました。
﹁まぁ、そこは奥さんの躾次第だな﹂
﹁⋮⋮高浜さんも奈津さんに躾られるの?﹂
604
﹁ユズ、嫌な事言うなよ﹂
﹁大丈夫だよ、ユズちゃん。高浜はね﹂
奈津さんが帰って来たら浮気しないよ、そう言いかけた時に高浜が
立ち上がり、私にラリアットからのヘッドロックを掛けました。
﹁⋮⋮痛い﹂
﹁お前の言動は読めないから怖いんだよ!﹂
﹁だって奈津さんはお前を﹂
﹁あぁもーうるせぇな、この天然産科医!!﹂
﹁止めろ、痛い!!﹂
﹁じゃ黙れ!!﹂
﹁お前の婚姻届の証人は俺とユズちゃんで書いてやるよ!!﹂
﹁何でだよ、俺は結婚願望ねぇっつってんだろが!!﹂
そう言いつつ、ちょっと力が緩んだので私は頭を抜きました。
﹁そんな熱くなる程好きなら、お前も結婚しちゃえよ﹂
﹁お前、段々キャラが変わって来たな﹂
605
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁やっぱ変わってねぇか﹂
﹁結婚しろ、馬鹿浜﹂
﹁何で奈津の声で言うんだよ!?﹂
﹁お前から来るの待ってるぞ﹂
﹁だから奈津の声使うな!!止めろ馬鹿山!﹂
﹁ホント仲いいねー、先生と高浜さん﹂
朝から暴れる私達を、ユズちゃんは椅子に座ったままニコニコと眺
めていました。
支度を調えて賃貸契約書と分厚い御祝儀を鞄に入れると、ユズちゃ
んも大きなトートバッグを持っています。
だいぶ荷物は減った代わりに、例の変な顔のピンク色のウサギとや
たら縦に長いクマのぬいぐるみを小脇に抱えています。
﹁ここともお別れかぁ⋮⋮﹂
私は月に何回か来た程度ですが、毎日を過ごしたユズちゃんが少し
寂しそうに言いました。
﹁みんなにお別れしなくていいの?﹂
606
﹁うん、また東京で会うかもしれないし。起こしちゃうの悪いから
後でメールする﹂
﹁そっか。俺もまた遊びに来ると思うし﹂
﹁⋮⋮⋮先生、高浜さんに会いに行くだけだよね﹂
﹁ん?高浜だけじゃないよ﹂
倉田くん達もいるし、と言いかけた時、ユズちゃんの目が変わりま
した。
﹁お客さんとして行くつもりは無いけど⋮ユズちゃんも一緒に来て
いいし﹂
﹁私がいない時に、高浜さんが﹃この子、お前好みだろ﹄って女の
子紹介したら?﹂
あぁ⋮⋮またスイッチ押したのかな。
私はもう焦る事もせず、普通に返します。
﹁そこは奥さんいるからって言うよ、断る﹂
﹁私より先生の好みでも?﹂
﹁ユズちゃんいるのに他には行く理由が無い。高浜もそこは解って
るよ﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
607
ユズちゃんは高浜を凄く信頼しているんだな、そう思うとまた面白
く無い自分がいました。
確かに、私がスーツを着て眼鏡を掛けてもあんな冷たい圧倒的な威
圧感は出ませんし、和気藹々とした雰囲気で人を纏める能力も無い
のは自分でも解ります。
﹁ユズちゃんさ、俺より高浜の方が信用出来るの?﹂
﹁⋮⋮何で﹂
﹁見てて、たまにそう思う﹂
﹁高浜さんの事は信用してるよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だって、私が先生が好きって言ったら私には手出さなかったもん。
仕事の仕方と、後はお母さん的な意味で私は高浜さんが好きなんだ
けど﹂
﹁お母さん的な意味で好き⋮?﹂
何故かそこだけ引っ掛かりました。
何で私はいちいち浮気を疑われるのに、浮気し放題の高浜が信用さ
れるんだろう。
しかも好き、って⋮⋮。
それは私と高浜の人間性や、人としての能力を比べての信頼なんだ
と思いました。
﹁先生さ、じゃ続けるよ?ノリが何となく合うし、いいお医者さん
608
だから毅彦先生も好き。これなら解る?﹂
﹁毅彦も好き⋮⋮か。うん、高浜を好きって意味解った﹂
﹁もー⋮⋮揚げ足取りは良くないよ?﹂
全くですね。
どうしてもユズちゃんの言葉にいちいち反応してしまう自分を少し
反省しました。
所謂、単なるヤキモチでしかない訳ですし。
﹁あっ⋮⋮﹂
﹁どうしたの、先生?﹂
﹁いや、何でもないよ﹂
﹁ちょっともー何なの?﹂
苦笑するユズちゃんを見ながら、
﹃それをコンプレックスって言うんですよ﹄
と、いつかの倉田くんの声が脳内で再生されました。
そうか、ユズちゃんが好きと言ったからどうこう以前に、私が高浜
にコンプレックスを感じていたのか。
だからと言って高浜が憎い訳ではありませんが、モヤモヤした気持
ちの正体が解った気がしました。
﹁ユズちゃん、倉田くんが言ってたんだけど、ヤキモチってコンプ
レックスの表れらしい﹂
609
﹁コンプレックス⋮⋮﹂
﹁うん、ユズちゃんが高浜を褒めるとイラッとするのも、俺が他の
女の子と何かあるってユズちゃんが思うのも、多分これだと思う﹂
﹁⋮⋮私は心配なだけだもん﹂
﹁だからそれがコンプレックスの裏返しなんじゃないかな﹂
するとユズちゃんは、上を向いて
﹁身長欲しい!綺麗なお姉さんになりたい!先生が見てスタイルい
いって言われる身体が欲しい!!﹂
とまた叫びました。
ちょっと呆気に取られていると、
﹁私の奈津さんやメロン姉さんへの気持ちは、これの裏返しだと言
いたいんだね、先生は﹂
と真顔で私に向き直りました。
﹁多分、そう﹂
﹁自分の問題から目を背けて責任転換してるって事ね﹂
転嫁、かな。
今言うべきじゃなさそうなので、私は黙って頷きました。
610
﹁でも自分じゃどうしようも無い事だからなぁ﹂
﹁俺は全然気にしてないんだけどな、ユズちゃんが叫んだような事
は﹂
﹁そうかなぁ⋮⋮だって先生もスタイル良いとか可愛いとか言うじ
ゃん﹂
﹁それは⋮⋮その人の特徴であって、別にユズちゃんにそれを求め
て無いよ﹂
﹁でもスタイル良くて目鼻立ちが綺麗で肌が真っ白な人はいいなと
思うでしょ?﹂
あぁ⋮⋮あれ。
私は軽率に奈津さんの特徴を伝えてしまった昨日の車内の会話を思
い出しました。
﹁だからって、俺は奈津さんがいいと言った覚えは無い﹂
﹁まぁそうなんだけど、気になっちゃうんだよ﹂
﹁気になっちゃうか⋮⋮まぁ俺もユズちゃんが高浜褒めるとちょっ
と気になるし、そこはおあいこって事だよ﹂
﹁私はそんな意味で言ってない﹂
﹁だから、俺もそんな意味で言ったんじゃないよ?﹂
﹁⋮⋮⋮でもそういう女の人が好きじゃん!いいと思ったから言う
611
んでしょ!?﹂
﹁悪いとは思わないけど⋮⋮だからってユズちゃんよりいいと思っ
た訳では﹂
﹁もーいいよ先生の馬鹿!!!﹂
﹁落ち着こうよ、だから俺は﹂
﹁いいからちょっと一人にさせて!!﹂
私は押し出されるように寝室から出され、バタンと勢いよく扉が閉
められました。
どうしたんだろう。
さっきまであんなに、幸せだったんだけど何が悪かったのかな。
奈津さんの特徴をどう伝えれば、こんな禍根を残さず済んだんだろ
う。
全体的に整った人だよ。
違うな、全体的って何!?って怒られる気がする。
段々苛立ちを覚えつつ、ユズちゃんにどうしたら許して貰えるか弱
気になりつつリビングに向かいました。
リビングでは、寝癖の付いた倉田くんと普段着に着替えた高浜が朝
食を取っていました。
何やら楽しそうに話しています。
いいなぁ、楽しそうで。
私はフラフラと近付いてみました。
612
﹁うわビックリした⋮⋮騒がしかったけどお前何があったよ﹂
﹁先生、火の玉出てますよ⋮何か雰囲気的に﹂
私は2人に事のあらましを語りました。
何故か2人とも真剣に聞いてくれています。
﹁⋮⋮と、言う事になって今すごく困ってる﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
2人とも同じような表情をしていました。
同情しつつも、﹁解る解る﹂と言いたげと言うか。
この2人なら何か解決策を出してくれるかもしれない。
私も八方塞がりで他力本願な気持ちが否めません。
﹁つまり、奈津が美人で超スタイル良くてビックリするくらい色白
なのがいけないって事な﹂
﹁⋮⋮長浜さん!﹂
倉田くんが高浜を制しました。
私も昨日の狼狽ぶりを見ているので何を言っているんだ、と内心思
いました。
﹁だって今の話聞く限りそうだろ?俺、あんないい女見た事ねぇも
ん﹂
613
﹁どんだけっすか、もう﹂
﹁⋮⋮⋮こういう時、高浜と倉田くんはどうしてる?﹂
私が聞くと、一気に2人共黙りました。
そうか、みんなこれで苦労するのかな。
そう感じました。
﹁俺は相手の怒鳴る殴る蹴るに任せる。それで最後はベッドで仲直
りする﹂
﹁普通そこまでしないっすから﹂
﹁愛があればそんなもんだろ﹂
﹁しませんって﹂
﹁⋮⋮では倉田は俺が愛されて無いとでも?﹂
﹁いや、長浜さんの場合は怒鳴る殴る蹴るされて嬉しいんでしょ?
名刺に奈津とか使っちゃうくらい﹂
﹁肉よこせ﹂
﹁あー何で取っといたのに⋮⋮まぁいいですけど﹂
高浜は倉田くんの皿から豚肉を取り、何事も無かったかのように食
べ始めました。
⋮⋮ピカタか。
おいしそうだな、相変わらず。
614
でも今は食欲どころではありません。
﹁⋮⋮倉田くんならどうする?﹂
﹁何で俺にもっと聞かねぇの!?﹂
と言う高浜を無視して、倉田くんに聞いてみました。
倉田くんは細い顎を親指で押さえると、
﹁お前が一番好きって、相手が納得するまで伝えると思います﹂
と、真剣な面持ちで言いました。
確かに、一番と言う言葉は私は使いませんでした。
こんな性格の私が結婚するんだから、そんなの伝わっている前提の
内だと勝手に思っていた事に気がつきます。
﹁でもお前、それでもフラれてんじゃんよ﹂
高浜が容赦無い一言を浴びせました。
﹁一番好きとか言うから、相手がこの男はモノになったからじゃ次
ってなったんじゃねぇの?﹂
﹁俺がフラれたのは会えないから寂しかったからって理由なんです
けどね﹂
珍しく倉田くんがちょっと高浜に食ってかかりました。
﹁俺はしばらく年単位で会えませんが、フラれてませんよ?﹂
615
高浜⋮⋮。
涼しい顔して何て嫌な事を言うんだろう。
しかし倉田くんは大人でした。
﹁まぁ、長浜さんならそうなんでしょうね﹂
﹁いや倉田くん、コイツこんな偉そうだけど昨日まで⋮﹂
そう私が言いかけると、またも高浜が立ち上がり私にラリアットか
らのヘッドロックを掛けます。
﹁⋮⋮だから痛いって!!﹂
﹁昨日まで何なんすか?﹂
﹁お前は倉田くんに偉そうな事言えな⋮⋮痛い痛い痛い!!﹂
﹁ちょっと長浜さん、スリーパー入って来てますよ!!﹂
慌てて倉田くんが私と高浜を引き離しました。
﹁でも俺、フラれてなかったもん!!﹂
﹁もん、じゃないだろ!?フラれたんじゃないかって不安がって電
話すら⋮⋮痛い痛い痛い!!﹂
﹁⋮⋮先生も長浜さんも落ち着いて座って話しませんか?﹂
倉田くんの正しい提案に、我々は冷静になり、席に着きました。
616
﹁あのね、倉田くんが言っていたコンプレックスの話をしたんだ﹂
﹁うわー先生、冒険しますね﹂
﹁うん、解ってくれると思ったんだよね﹂
﹁ただ奈津の特徴言っただけなんだろ、永山は﹂
﹁そう、それなんだけどね⋮⋮﹂
﹁まぁ奈津がいいとこしかないから仕方ないよな。完全ユズの逆切
れじゃんよ﹂
﹁⋮⋮長浜さん﹂
倉田くん、ちょっと怖いです。
が、気持ちは解ります。
﹁あのさ、お前らってどうして女の逆切れに付き合うの?﹂
﹁どうしてって⋮⋮﹂
﹁理不尽に怒ってる相手に正論言っても、通じる事ってあんまし無
い気がするんですけど﹂
﹁うん、俺もそう思う﹂
私が倉田くんの冷静な意見に同意すると、高浜はニヤリと嬉しそう
に笑いました。
﹁だからお前らフラれるんだよ﹂
617
﹁お前⋮⋮﹂
﹁先生⋮⋮何か俺、クビになってもいい気がしてきた﹂
私は伏せ目がちに怖いオーラを出す倉田くんの気持ちに共感しまし
た。
高浜は気にせず続けます。
﹁いいですか?ハッキリ言わせて頂きますけど、こちらが頼りない
態度を取れば取るほどに相手の無茶な主張に拠る怒りを助長させる
だけですよ?﹂
﹁確かに、そうですね﹂
今クビになってもいいとまで怒っていた倉田くんが、ふざけた口調
の高浜に普通に返しました。
慣れってこういう事なんでしょうね。
﹁ではこちらが違う角度からキレたら、相手はどうすると思います
か?﹂
﹁⋮⋮それじゃ意味ないだろ﹂
私がそういうと、倉田くんが
﹁あ、そういう事か﹂
と言いました。
618
﹁押してもダメならって事っすね?﹂
﹁そうです。キレる時は同じ土俵でキレないって言えば解り易いで
すか?﹂
そうか⋮⋮確かに。
引いたら余計強く出られる、かと言ってされた以上にこちらが高圧
的に出て相手を引かせる事が出来てもそれは違う気がします。
﹁でも、引いてもそのままだったら?﹂
私がそう言うと、
﹁それはありません。僕には経験の無い事ですが、引いて追って来
ない場合は残念ながら脈が無い証拠ではないでしょうか﹂
と、高浜はまたも涼しい顔をして言いました。
﹁引き方も大事っすね⋮⋮﹂
﹁そうですね﹂
﹁お前ならどう引くの?﹂
﹁色々な引き方がありますよ。例えば⋮帰れと感情的に言われたら、
こちらは冷静に﹃解った、じゃ帰る﹄って言うんですね﹂
帰れと言われたら、じゃ帰ると言う?
私と倉田くんは高浜の言葉を待ちました。
619
﹁それで本当に帰る必要はまだありません。帰るフリしてドアの死
角にでもいて、慌てて向こうがドアを開けるのを待っていればいい
んです﹂
﹁⋮⋮⋮生々しいな、何か﹂
﹁実体験っすか?﹂
﹁それで出てきた彼女が鼻血出してようが服が乱れてようが、ドア
を開けてくれたなら全てオッケーです。その後はこちらのターンと
言っても過言ではないと思われます﹂
﹁ちょっと待て、鼻血って何なの?﹂
﹁モロ実体験なんでしょうね、俺も先生と同じところが気になるん
すけど﹂
すると高浜は無表情で続けます。
﹁説明させて頂くと衣服の事はさておき、頭突きに至っては強情張
ってる自分に嫌気が差して壁に頭突きしたと考えましょう。それで
鼻血なんて可愛らしい。素直じゃない方が僕は好きです﹂
﹁あのさ、段々参考になるのか不安になってきた﹂
﹁頭突き必要あります?﹂
私は高浜の話が遠い世界の話に感じて来ました。
帰れと言われて帰るフリをしても、出て来たユズちゃんが壁に頭突
620
きして鼻血だして服がぐしゃぐしゃしてたら⋮⋮。
考えると余計に混乱します。
﹁それから理不尽な禅問答が続くかもしれませんが、そこは男の見
せ所と言っても過言ではないと思われます﹂
﹁俺はその理不尽な禅問答に困ってるんだが﹂
﹁だから言ってるじゃないですか、男の見せ所だって﹂
﹁男の見せ所っすか﹂
﹁はい﹂
﹁そこを俺はどうすればいいのかを聞きに来たんだけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
また沈黙が流れます。
高浜、頼りになるのに参考にならない男だな。
他力本願な私はそう思ってしまいます。
こういう思考は良くないですね。
﹁あのー⋮⋮今思い出したんすけど﹂
﹁何?﹂
沈黙を破ったのは倉田くんでした。
621
﹁ユズちゃん、マタニティブルーって奴なんじゃないですか?﹂
﹁あ、何かあったなそんなの⋮⋮ってそれ、永山の専門分野じゃね
ぇかよ﹂
高浜がここぞとばかりに私を叱責するような言い方をしました。
﹁うん、産後間もない女性が、妊娠中に盛んに分泌されていた女性
ホルモンが出産後に一気に低下してホルモンバランスが崩れた結果、
自律神経系に影響して情緒不安定や軽い鬱状態になる事で⋮⋮妊娠
中でも胎盤が出来上がる辺りからホルモンバランスが変わるから、
産前でも似たような症状が出る可能性はある﹂
﹁⋮⋮すげぇ、サラっと説明来ましたね﹂
﹁倉田知ってた?こいつって医者なんだよ﹂
そうか、ユズちゃんはホルモンバランスによる情緒不安定なのかも
しれない。
出産や環境の変化への不安なんかも原因の可能性も高いな。
知識の上では、幾らでも説明出来ますし学説も引用出来ます。
しかし⋮⋮⋮。
﹁じゃ医学的に解決出来るんじゃねぇの?﹂
﹁どうすればいいんですか?﹂
私は笑顔の戻った2人に、どう答えるか悩みました。
622
﹁⋮⋮⋮不安を解消するだけの十分な休養と環境を提供する事、か
な﹂
﹁難しいですね﹂
﹁振り出しに戻った気がするの俺だけ?﹂
﹁妊婦さんへの指導としては、旦那さんの協力が一番大事とあるん
だけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
また沈黙が戻ります。
旦那さんの協力と簡単に自治体や産院の指導で言いますが、正直自
分がその立場になると案外無力な気がしました。
家事育児を手伝うだけならまだしも、奥さんの機嫌も取らないとい
けないのか。
難しいです。
﹁昨日はね、一緒にお風呂入ったら機嫌直ったんだよ﹂
﹁じゃユズと風呂入って来ればいいだろ﹂
﹁でもこのタイミングで風呂っておかしくないっすか?﹂
623
﹁お前のメロンちゃんへの言葉が参考になったんだけどね﹂
﹁俺何か言ったっけ?﹂
﹁一緒に風呂入るって案外仲直り出来るんだなって﹂
﹁マジっすか?風呂で?﹂
﹁まぁ服のまま飛び込んで来なきゃいいよな、一緒に風呂って﹂
﹁⋮⋮服のままお風呂に飛び込んでどうする﹂
﹁何か長浜さん変な恋愛してないっすか?﹂
﹁変な恋愛ってお前⋮⋮⋮あのさ、漢字の変と恋と蛮って似てない
?﹂
﹁部首がだろ?﹂
﹁はははは永山、理系だな﹂
﹁え?﹂
高浜がこれ以上無いくらい勝ち誇った顔で言いました。
﹁部首はな、変はふゆがしら、蛮はむし、そして恋はしたごころだ
ぞ﹂
﹁えぇ?﹂
624
﹁マジすか!?だって上の部分一緒じゃないっすか﹂
﹁まぁ聞けよ医学部文学部。上の部分は、漢文なんかで訓読みで﹃
また﹄と読む、なべぶたを部首とする漢字だぞ?﹂
﹁またしたごころ、で恋とかすげぇ﹂
﹁⋮⋮知らなかった﹂
そうか、あれって上の部分が部首じゃなかったのか。
倉田くんが文学部出身だったのも初めて知りました。
﹁因みに変態と言う字をこう書いて﹂
高浜はFAX台から正方形のメモを取り、見事な達筆で﹁変態﹂と
縦書きに綴りました。
変態って書く人間を初めて間近で見た気がします。
﹁そして2つの字の間で中表に折って、こう﹃また﹄の部分と﹃し
たごころ﹄が見える様に折り返しますと﹂
﹁あ、恋って字になった!何かすげぇ!!﹂
﹁そして開くと﹂
﹁変態、か﹂
﹁俺としては恋愛の本質だと思うんだよね﹂
﹁今、俺、何か感動しちゃった﹂
625
﹁⋮⋮⋮うん、俺も何か納得したかも﹂
﹁しかしながらですね、結婚の場合﹂
高浜はまたもう1枚メモを取ると、また凄まじく綺麗な字で﹁結婚﹂
と書いて、縦半分や横半分に折りはじめます。
﹁このようにどこで折ってどこを隠しても、変えられません﹂
﹁確かに⋮⋮﹂
﹁奥深ぇ⋮⋮﹂
﹁だから僕は末広がりの恋愛に対して、どういじっても変化のない
結婚には魅力を感じない訳です﹂
﹁漢字なだけにですか⋮⋮﹂
倉田くんまで⋮⋮。
私も、あぁ恋愛と結婚は違うと言うけど文字にしても違うんだなぁ
と一種の感心を覚えました。
﹁そんな訳で、余り結婚を前提とした話に僕には力になれる事は無
いような気がしますので、タバコ吸って来ます﹂
そう言って高浜は颯爽と出て行きました。
テーブルの上にはお皿の隙間に折り目を付けられた﹁恋愛﹂﹁結婚﹂
の2枚のメモが残されています。
626
﹁凄いね、倉田くん。俺、漢字でそこまで余り考えたこと⋮⋮あっ﹂
﹁⋮⋮⋮やられましたね﹂
私と倉田くんは同時に玄関を振り返りました。
もうそこには高浜の姿はとっくにありません。
﹁完全に逃げられましたね﹂
﹁まぁ⋮⋮この手の話は、今のあいついるとややこしくなる気がす
る﹂
﹁奈津さんって服着たまんま風呂に飛び込んで来るんすかね⋮⋮﹂
﹁幾ら何でもそれは無いでしょ、例え話だと思う﹂
﹁例えがいちいち極端なんですよね、俺は長浜さんが不思議過ぎる﹂
そう言って、倉田くんはゴミ箱を取り、2枚のメモを入れました。
﹁見て下さいよ、これ﹂
ゴミ箱の中には、同じメモ用紙で折られたと思われる数十羽の折り
鶴が捨ててあります。
ピッチリと折られた折り鶴の山に、﹁変態﹂と﹁結婚﹂の文字のメ
モが捨てられているゴミ箱の中は、何とも前衛的な光景が広がって
いました。
﹁こないだ、ちょっと偉い人から電話来た時、めちゃめちゃシリア
スな口調でこれやってたんですよ﹂
627
﹁電話中に折り鶴⋮⋮﹂
﹁話元に戻していっすか﹂
﹁うん⋮⋮何で鶴しか折らないんだろうね﹂
﹁⋮⋮⋮ユズちゃんの話なんすけど﹂
﹁あ⋮⋮そっか﹂
我に返って、完全に高浜に乗せられた自分に嫌気がさしました。
そうだ、ユズちゃん。
俗に言う産前鬱かもしれないんだよな⋮⋮。
医者である私に思いつくのはカウンセリングを受ける事くらいで、
自分自身に何が出来るかを考えると何も思いつかないのが悔しいと
ころです。
﹁恋愛に臆病な奴って自分が傷つくのが怖い奴が多いって言うじゃ
ないですか﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
何だかいきなり自分の事を言われた気がしてしまいました。
向き合うより拒絶する方が楽だと、知らず知らずにそんな風に生き
て来てしまった自分に気付いたのは最近の事です。
﹁俺、何かテキトーな考察になっちゃうかもしれないんすけど、ユ
ズちゃんって安定して愛される事に不安があるんじゃ無いんですか
?﹂
628
﹁安定して愛される事?﹂
﹁そう、俺が見ても先生ってユズちゃんを十分大事にしてるなって
思うんですよ﹂
﹁そのつもりなんだけどね⋮﹂
﹁問題はユズちゃんがそれを信じ切れてないって感じがするの俺だ
けですかね﹂
﹁それはある、のかな。俺が他の女の人の特徴を言うと怒る﹂
﹁綺麗とか可愛いとか?﹂
﹁そう。昨日、奈津さんってどんな人なのって言うから普通に言っ
たら未だに根に持たれてる﹂
﹁何て伝えたんですか?﹂
﹁目鼻立ちがハッキリしててスタイルがよくて全身真っ白、とかか
な﹂
﹁あー⋮⋮全身は余計でしたね﹂
﹁うん、そこを最初に突っ込まれた﹂
﹁先生って奈津さん知ってるんだ﹂
﹁知ってると言うよりは、あいつの指定して来たお店のバーテンさ
んだったんだ。女性だとは思わなかったんで殴られたけど﹂
629
﹁どんだけベリーショートなんすか、奈津さん﹂
私は残念ながら奈津さんの記憶は曖昧でしたが、性別すら間違えて
いたと言う勘違いをしていた事を思い出し、申し訳なさが込み上げ
て来ました。
﹁つーか全身真っ白って解ったのは何で?﹂
﹁⋮⋮あいつが写メ見せて来た﹂
﹁俺には、﹃お前が好きになっちゃうといけないから見せない﹄っ
てはぐらかしてたんですよ﹂
そうなのか⋮⋮倉田くんには見せてないんだ。
私に見せたのも友人だからと言うよりは、性別の誤解を解きたいが
故に仕方なくと言う感じでした。
現に私にも最初は奈津さんの事は言わなかった訳ですし⋮⋮。
私は彼女が出来たら嬉しくて、聞かれれば喋ってしまう方ですが。
﹁⋮⋮先生?﹂
﹁はい﹂
﹁どうしたんですか?﹂
倉田くんはお皿を下げながら、私に心配そうに聞きました。
﹁倉田くんって、彼女出来たら友達に言う?﹂
630
﹁聞かれない限りはあんまり言わないかも﹂
﹁何で?﹂
﹁隠す訳じゃないし⋮⋮何か、取られるとかじゃないんすけど、本
当に好きな子って他の男に言いたくないっつーか﹂
倉田くんが少し恥ずかしそうに言いました。
あぁ、この笑顔いいな。
顔の造作の問題以前に、きっとこんな素敵な表情は私には出来ない
気がします。
私はこのくらいの歳の頃、大学に通う以外で何をしていたんでしょ
うね。
余り記憶に無い気がします。
﹁まぁ話を戻すと⋮⋮先生、俺が思うにユズちゃんは幸せが怖いん
じゃないかな﹂
﹁幸せが怖い?﹂
﹁そう。今までの人生が一気に好転するって、やっぱ不安じゃない
ですかね﹂
﹁好転?﹂
﹁⋮⋮言い方悪いですが、一般に先生みたいな条件の人とトントン
で結婚まで行くのを玉の輿って言うじゃないですか﹂
631
﹁⋮⋮そんな良いものじゃない気がする﹂
﹁十分ですよ、婚活パーティーとかで先生みたいな人がいたらモッ
テモテだと思いますよ﹂
﹁未婚者の女性が多い職場なんだけど⋮⋮そこですらモテた記憶が
全く無い﹂
﹁先生はその認識でいいと思います。でも、ユズちゃんからしたら
気が抜けないんでしょうね﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁もし未婚の女性から、﹃好きです付き合って下さい﹄って言われ
たら先生どうします?﹂
﹁ユズちゃんと婚約してる話はもう職場中に広まってるけど﹂
﹁じゃ、ユズちゃんと会う前だったら?﹂
﹁まず有り得ないけど多分断ってる﹂
﹁それでも一緒に帰りましょうとか、家の鍵が無いからどうしよー
とか言われたら?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ちょっと想像してみました。
一緒に帰るにしても私の家は徒歩で駅から反対方向だから、一緒に
632
帰るにしても病院の門までだし、家の鍵が無いなら時間があれば一
緒に探すかな。
﹁今度、手料理作りに家に行っていいですか的な事とか言われたら
?﹂
﹁⋮⋮俺、ほぼ毎日自炊でお弁当だから余り言われない﹂
﹁え、お弁当って先生が作るんですか?﹂
﹁そうだけど﹂
﹁流石っすね、だからユズちゃん一生懸命に長浜さんに教わってた
んだ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
さっきまでの気持ちが晴れ、少しだけユズちゃんへの愛しさに変わ
って行きました。
やっぱり健気さには弱いです。
﹁とにかく、先生って先生が自覚されてないだけで結構女の人から
狙われてる気がするんですよね﹂
﹁それでも、今まで生きてて一度も女の人家に上げた事ない﹂
﹁マジっすか!?﹂
﹁うん、そういう機会自体がなかったから。ちゃんと好きって言っ
てくれた女の人ってユズちゃんぐらいだよ﹂
633
﹁えぇ?!﹂
﹁⋮⋮だから余計悩む﹂
﹁でもユズちゃんも本気で好きじゃなきゃ、そこまで怒らないです
よ。先生が好きだから過剰反応してるだけだと思いますけどね﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
私はテーブルの上で両手を組むと、頭をその上に乗せました。
職場でよくこうやって寝ちゃうんだよな。
そうか⋮⋮今日の夜には戻らないと。
ユズちゃん、それまでには機嫌直るかなぁ。
色んな事が頭を飛び交いました。
仕事中には余り無い事ですが、こうして仕事から離れると結構色ん
な事を考えるな、と思いました。
﹁⋮⋮そろそろ、ユズちゃんのご機嫌見てくる。ありがとう、倉田
くん﹂
﹁俺は何もしてないですけど﹂
﹁倉田くんと話すとすごい楽になる﹂
﹁そんな事ないでしょー﹂
また倉田くんが眩しくニコッと笑います。
いや、本当にありがとう。
私は心から感謝をして寝室に向かいました。
634
寝室に近付くと、ユズちゃんが誰かと話しているのが扉越しに聞こ
えてきました。
⋮⋮電話かな。
じゃあまた後で、と引き返そうとすると、中からハッキリと声が聞
こえてきました。
﹃もーーだから困ってるんだよね、ハッキリ言ってくれないんだも
ん﹄
﹃あいつが結婚考える時点で奇跡だけどな﹄
⋮⋮⋮え?
盗み聞きも悪いと思い、ノックをすると物凄い勢いで窓が開く音が
しました。
﹁⋮⋮⋮入っていい?﹂
﹁どうぞ?﹂
ユズちゃんの返事と同時に開けると、ベッドに座っているユズちゃ
んと不自然に開かれた窓が目に入りました。
﹁今⋮⋮﹂
﹁高浜さんいたよ﹂
リビングを通らないと外からは入れないのですが、窓から侵入する
とは流石だなと思いました。
635
喫煙所から寝室はすぐなんですけどね。
﹁何で窓から入って窓から出て行くんだ?﹂
﹁私もビックリした。先生を余り困らせるな、みたいなお説教され
たよ﹂
﹁お説教⋮⋮﹂
私はベッドの上の、ユズちゃんの隣の、人がいた形跡を眺めました。
ベッドに膝をついてカラカラと窓を閉めるユズちゃんの後ろ姿を見
て、何で私の言うことは聞かないのに高浜の言うことは素直に聞く
のか⋮⋮と、またモヤモヤして来ます。
﹁先生、私どうしたらいいの?﹂
﹁⋮⋮俺が聞きたい﹂
自分でも引いてしまうくらい、冷たい声が出ました。
ユズちゃんも少し戸惑ってるような気もします。
﹁ちょっと俺も考えさせて﹂
そう言って私はユズちゃんに背を向けて横になりました。
別に深い意図は無かったのですが、ユズちゃんが心配そうに覗き込
みます。
いたたまれなくなって、私は足元にあった毛布を頭からすっぽり被
りました。
636
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮俺もよく解らない﹂
﹁ねぇ⋮⋮先生?﹂
ユズちゃんの手が毛布越しに私の肩に添えられ、握り返そうにも関
節がその向きに曲がらないのと、反対の手も届かないのですが、毛
布から身体を出すのは何故か躊躇われました。
駄々っ子みたいだな。
我ながらそう思います。
﹁ねぇ⋮⋮どうしちゃったの?﹂
段々、息苦しくなって来たので私は少し隙間をベッドと毛布の間に
開ける事にします。
こんなに布団から出たくないと思ったのはいつぶりだろう、そんな
事を考えました。
﹁ごめんね﹂
﹁⋮⋮何が?﹂
﹁八つ当たりしちゃって﹂
﹁八つ当たり?﹂
﹁ユズね、高浜さんと話して気付いたんだけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
637
﹁やっぱり先生の優しいのに甘えちゃってたんだと思うんだ、ごめ
ん﹂
﹁高浜は何て言いにきたの﹂
﹁﹃あまり永山を困らせるなよ﹄って言ってた。﹃あいつ元が真面
目で根暗なんだから、追い込むな﹄って。逆ギレで喧嘩してもお互
い怪我して終わるだけだぞ、みたいな事も言ってた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
真面目で根暗な私は返す言葉がありません。
高浜は高浜で私達の間に入ってくれたんだと思います。
そんな事を考えても、モヤモヤした気持ちは晴れませんでした。
﹁ユズちゃんさ、俺と一緒になるの不安?﹂
﹁ううん、すごく幸せだよ。だから怖い﹂
﹁怖い?俺が?﹂
﹁違う。今までそんな事無かったから。家から逃げるのに一生懸命
で、何だろ⋮⋮何しても余りいい方向に行った事が無いから、逆に
すごく不安なんだよ﹂
徐々に泣き声になり始めた声を聞いて、私は反射的に毛布から顔を
出しました。
私と目が合うと、ユズちゃんは少し気まずそうに微笑みます。
638
﹁だからつい八つ当たりしちゃったんだよね、先生が他の女の人の
事褒めるのが悔しかったりで﹂
﹁⋮⋮いつもはそういうのは無かったりする?﹂
﹁え?﹂
﹁だからいつもは、昨日の俺が言ったみたいな言葉にはそこまで反
応しなかったりする?﹂
﹁わかんない。でもこんなにイライラはしなかったかも﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
じゃやっぱり精神的に他の要因が関与してるんだろうな。
それなのに感情的になってしまった自分を諌めたい気持ちになりま
した。
そうか、19歳でこれだけ色んな事があった人生です。
私の人生での大きな出来事は、数年前の両親の事故による他界しか
ありません。
何も考えず、幸せに生きて来てしまうのも問題なんだなと最近思い
始めました。
﹁先生は?﹂
﹁俺?﹂
﹁先生、何か高浜さん敵対視してない?何かあったの?﹂
﹁そのつもりは無かったんだけど、さっき気付いたんだよね﹂
639
﹁⋮⋮あぁ、さっき言ってた﹂
﹁うん、高浜が憎いとかじゃなくてそうなれない自分が何と言うか﹂
﹁悔しいよね、だからイライラしちゃうんだよね﹂
悔しくてイライラ。
そんな激昂や葛藤を感じる程ではありませんが、面白く無い気持ち
が燻っているのは確かです。
﹁それを倉田くんはコンプレックスって言ってた﹂
﹁倉田さん、いいこと言うよね﹂
﹁俺は10年前に会いたかった﹂
﹁10年前って倉田さん中学生だよ。ふふ、先生可愛い﹂
﹁何で?﹂
﹁そんな餃子みたいな格好でコンプレックスとか語っちゃうんだも
ん﹂
﹁ギョー⋮ザ?﹂
可愛らしい満面の笑顔で言われても、全く何の事か解りませんでし
た。
﹁先生⋮⋮まさか餃子食べた事ないの?﹂
640
﹁餃子ってあの中華の?﹂
﹁そう﹂
﹁何で俺が餃子なの?﹂
そう言うと、ユズちゃんは携帯を出して立ち上がると私に向けてシ
ャッターを切りました。
フラッシュが瞬いて乾いたシャッター音が響きます。
﹁見て、餃子でしょ﹂
画面を見せられると、毛布にくるまってアザラシみたいな自分が写
っていました。
薄いクリーム色の布団を掛けて身体を横に向いているので、盛り上
がった形は言われてみれば餃子っぽく見えなくはありません。
﹁ありがとう、餃子の意味解ったから消去していいよ﹂
﹁待受に設定しちゃったーー﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
観念して布団から出ると、ユズちゃんは
﹁もう先生の専用フォルダ作ったんだよ。先生の隠し撮りも結構貯
まったんだよね⋮⋮23枚﹂
と嬉しそうに言いました。
641
﹁そんなこっそり撮らなくても﹂
﹁だって先生、写真嫌いそうだから﹂
﹁まぁ⋮⋮好きではないかな﹂
自分の会見の録画を見たときは消えてしまいたいとすら思いました。
でもそれは他人が見ている自分に違いありません。
自分の写真や映像を見て嫌だと思う⋮⋮と、言うことは私は実際の
自分以上に自分を買い被っていたのか、と思ってしまいました。
鏡を見るのは抵抗が無いのに、写真や映像の媒体を通じて見る自分
は苦手です。
﹁ユズちゃん、そのフォルダ見せて﹂
﹁えーーーやだぁ﹂
﹁何で、俺の写真を俺が見る分にはいいでしょ。他のところはいじ
らないし﹂
﹁えーー⋮⋮じゃ一緒に見よ﹂
そう言ってユズちゃんは私の横にチョコンと座りました。
﹁これが今の餃子で、これが寝顔で、これが考えてる先生﹂
﹁俺⋮⋮撮られてるの全然気付かなかった⋮⋮﹂
﹁で、これが倉田くんと会議中の先生。真剣だね﹂
642
﹁これいつ撮ったの?﹂
﹁これは遭難中の先生。かなり気に入ってる﹂
火を見ながら魚を食べている私は確かに、遭難して途方に暮れてい
る人みたく見えました。
この液晶に写る自分こそ、他人の客観的な視点で見た私なんでしょ
う。
﹁先生って余り動かないから撮りやすいんだよね﹂
﹁動かないって⋮⋮﹂
﹁これは段差の下に落ちたスリッパ探してる先生。すぐ傍にあるの
になかなか見つからないんだねって可哀相になった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
次はカウンターキッチンにしゃがんで笑顔で人差し指を立てている
高浜と、カウンターの向こうにいる私の写真が出てきました。
﹁これは高浜さん探してる先生﹂
﹁⋮⋮⋮何で教えてくれなかったの?﹂
﹁ふふふふふ﹂
﹁しかも俺、全部同じ顔してない?﹂
﹁そうかな、私は全然違うように見えるけど﹂
643
﹁俺、表情変化に乏しいんだな﹂
﹁あははは、大丈夫だって﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
ちょっとホッとしました。
自分ではどうしようもないコンプレックスって、それを受け入れて
くれる人がいればそれでいいんじゃないかな。
そう思いました。
人の幸せを祝えない、自分に持ってない物を持っている人にイライ
ラする⋮⋮それは全部コンプレックスから来るヤキモチなのかもし
れません。
傷付くのが嫌だから前には進めないからと言って、前にいる人が悪
い訳ではない。
でもやっぱり、高浜みたいなのをユズちゃんに褒められるとモヤモ
ヤする自分は未熟なんでしょうね。
同性としての負けを感じていて、それを逆恨みしていると言うか。
﹁先生、これからよろしくお願いします﹂
いきなりユズちゃんが正座をして頭を下げたので、私もついつられ
て姿勢を正して頭を下げました。
﹁俺の方こそ⋮⋮﹂
﹁あははは先生、正座似合う﹂
﹁正座似合うって言われても⋮⋮﹂
644
私は椅子に座る以外は体育座りが好きです。
家でもよくソファーの前に体育座りをするくらい、好きな座り方で
す。
その内ユズちゃんに﹁何でソファーに座らないの?﹂と突っ込まれ
そうだな。
そんな幸せな時間や空間がすぐ現実に間近に来ているんだ。
私はユズちゃんのお腹を見ながら、そう思いました。
その前に山積みになっている問題もあります。
結婚ってやっぱり大変だなぁ、でも結婚して夫婦になったら離婚か
死別するまで関係が続く訳ですからね。
それをいいと思えば結婚すればいいし、それが窮屈なら高浜のよう
に独身を標榜して生きて行くのもアリだと思います。
何だか、結婚が人生について初めて考える機会になった気がしまし
た。
保倉先生が仰っていた、人生で初めて自分で決めたのが結婚と言う
のが解った気がします。
﹁今日から、先生の家で同棲生活が始まるんだね﹂
﹁うん﹂
﹁何か緊張する﹂
﹁緊張?﹂
﹁何でも2人で協力すれば大丈夫だよね﹂
﹁⋮⋮⋮そうだね﹂
645
お互い嫉妬深いので、それさえ無ければね。
さっきみたいな遣り取りが頻繁に起きたらどうしよう、そんな懸念
が生まれました。
でも、今までこんなに誰かの言動にいちいち反応したのは初めてな
気がします。
﹁仲直りしたんですね﹂
寝室から荷物を車に詰んでいると、倉田くんと高浜が出てきました。
﹁ありがとう、特に倉田くん﹂
﹁最近お前の俺の扱いにちょっと疎外感﹂
﹁⋮⋮お前にもすごく感謝してるよ、疎外感の意味調べて来い﹂
そう言うと、高浜はニヤッと笑いました。
﹁でも解ったろ?同じ目線でキレないって﹂
﹁うん、何かそれを実践したつもりは無いんだけど、結果そうなっ
たって言うか﹂
﹁な?ベッドの上で仲直りに限るだろ?﹂
﹁ベッドの上は上でも、正座だったけどね﹂
﹁何それ?ねぇ正座でどうやんの?詳しく教えろ﹂
646
﹁もーー長浜さん、いいじゃないすか仲直りしたんだから﹂
﹁いや、こいつ絶対またユズ関係の事でここ来るね。来なかったら
倉田の給料倍にしてもいい﹂
﹁⋮⋮⋮先生、気にせず遊びに来て下さいね。先生の別荘なんだし﹂
倉田くんが大人の対応で、またニコッと笑いました。
高浜が言うのも正しい気もするのですが、倉田くんのお給料倍にな
るなら我慢しようと本気で考えた自分がいました。
﹁ありがとう、倉田くん﹂
﹁俺も早く次の彼女見つけられるように頑張りますんで﹂
﹁倉田くんなら大丈夫だよ﹂
﹁⋮⋮⋮何か最近のお前ら、ちょっと怖い﹂
高浜がちょっと訝りながら言います。
﹁何で?﹂
﹁少年漫画も真っ青な友情を感じる﹂
﹁⋮⋮うるさいな、成人誌は﹂
﹁ホントですね﹂
647
私と倉田くんと高浜がそんな感じで騒いでいると、ユズちゃんがみ
んなに見送られながら出てきました。
﹁ユズ。幸せにねー﹂
﹁ありがと。頑張る﹂
ユズちゃんがペコッと頭を下げ手を振りながら、後ろ歩きをしてこ
ちらに振り向いた時、私とメロンちゃんの目が合いました。
何かを口パクされましたが、全然解らない私の反応を察したらしく
苦笑されてしまいました。
わざわざ聞きに行くのもユズちゃんに怒られる気がしたし、メロン
ちゃんも口パクするくらいだからユズちゃんには言えない事なんだ
ろう、そう思って私も振り向いてユズちゃんを車に乗るように促し
ました。
﹁まぁユズ、永山を困らせるなよ﹂
﹁解った﹂
﹁せっかく仲直り出来たんだから、仲良くしろよ﹂
﹁先生ってね、怒るとギョーザになるんだよ﹂
﹁ギョーザ?﹂
いい、言わなくていい。
私は内心叫びました。
いい歳して何であんな布団に隠れていじけてしまったのか、今更な
がら後悔と反省の入り交じった気持ちになりました。
648
﹁ね?先生?﹂
﹁もうやらない﹂
﹁何だよ、ギョーザって⋮⋮俺の今後の為にも﹂
﹁高浜さんがやったら具がイタリアンになっちゃうから、これは先
生の特技。ね?﹂
﹁具が俺だとイタリアン?﹂
ユズちゃんは適当に濁しただけだと思いますが、高浜は見事に悩み
始めました。
﹁本当にありがとうございました﹂
高浜に礼を言って助手席に乗り込んだユズちゃんは
﹁今度は高浜さんに悩んで貰お﹂
と嬉しそうに言いました。
倉田くんが運転席側に来て、
﹁じゃ先生、お幸せに﹂
とユズちゃんと私に微笑みました。
﹁倉田さん、ギョーザって何考える?﹂
﹁中華のギョーザで?﹂
649
﹁上手くあの人に説明したげて﹂
﹁ギョーザ⋮⋮?﹂
倉田くんは耳たぶをペコッと折りました。
あ、本当だ、耳たぶをそうすると餃子みたいになるんだ。
私はちょっと意表を突かれました。
﹁こうやるのしか思いつかないっすけど⋮⋮﹂
﹁あははは、それでいいや﹂
﹁よく解らないけど、餃子?﹂
﹁うん、あいつに何か聞かれたらそう言っといてくれるかな⋮⋮俺
のためにも﹂
私もキョトンとしている倉田くんにそう言いました。
﹁はぁ⋮⋮解りました﹂
﹁倉田、ギョーザって何だ?﹂
案の定聞きに来た高浜に、
﹁知らないんすか?中華料理で挽き肉とかを皮で包む⋮⋮﹂
と倉田くんが更に濁します。
650
﹁そうじゃねぇよ、今聞いてたんだろ﹂
﹁耳を、こう⋮⋮﹂
﹁あ、ホントだ。倉田の耳がギョーザみたーい﹂
と、言った後にこちらを向き直って
﹁まぁその内お前が口を滑らせるだろ﹂
とニヤリと笑いました。
まぁ大した事でもないのですが、﹁永山ってスネると毛布に閉じこ
もっちゃうんだな﹂みたいな話になるのも嫌なんですよね。
つまらない事で意地張るのは良くないって本当だと思いました。
山道のカーブを曲がって見送ってくれたみんなが見えなくなると、
隣のユズちゃんとお腹の中の子供と私の3人しかいない世界に来た
ような不思議な感覚になりました。
﹁区役所、間に合うかな﹂
﹁今日行くの?先生の家行く前とか?﹂
﹁そう。書類だけでも貰って来たい﹂
﹁先生のお陰で、夢が叶った﹂
﹁何?﹂
﹁私、一回も家族や家庭をいいって思えた事が無いから、自分が結
651
婚して子供を育てていい家庭を作りたかったんだ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁そう。先生と会えて良かった﹂
私の場合は良い悪い以前に、家族や家庭に疑問を持った事がありま
せんでした。
突然の両親の他界で、暫く誰もいない家に一人いて、家庭が無くて
も自分と言う人間が存在するんだと言う感覚が生まれたのを覚えて
います。
毅彦は忙しい中、帰国してくれましたが、10年間余り会う事のな
かった毅彦は背も私を追い越し、更に頭の回転の早い別人になって
いました。
この弟との再会で27年、家からも出ず何も変わらない自分を自覚
出来た気がします。
﹃兄さんさ、1人で生活出来るの?﹄
その一言はかなり私に衝撃を与えました。
16歳で親元を離れた彼は学費を含め、渡米の際にはまとまったお
金を渡されたそうですが、向こうではそのお金を遣わないように遣
わないようにしていたという話は聞いた事があります。
アルバイトも留学生は学内でしか出来ず、週間の時間数も制限があ
る為に個人と契約したと聞きました。
何をしていたのかは詳しくは解りませんが、独身の人の家での住み
込み家政婦みたいなものだったと聞いた気がします。
形は違いますがユズちゃんだって高校を中退して家を飛び出し、最
低限の荷物を持って転々と生活していたようですし。
未成年の十代は親の庇護の下でと言うのは法的な話に過ぎず、実は
もっと早くから親離れって出来るんだなと28歳でやっと一人発ち
出来た私は思いました。
652
﹁でも本当は全部、この子のお陰なんだよね﹂
ユズちゃんが大きくなったお腹を愛おしそうにさすりました。
﹁最初はお金も無いしどうしようって思っちゃったんだ。それで相
談したらね、こういう事やりだしたからって教えられて、先生と会
って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私の方も何となく乗せられて買ってしまった不動産に始まり、出席
番号が前後していたから話す様になった高浜に遡ると、本当に人生
って読めないんだなと思いました。
もし高浜と私が違うクラスだったら、ユズちゃんと私は出会ってい
なかったかもしれないし、ユズちゃんが高浜の傘下のお店で働いて
いる時に妊娠しなかったら多分私とは出会っていません。
良くも悪くも、誰かとの出会いとかのきっかけ次第で人生って変わ
るんだな。
また、こないだの火を見ていた時以上の、大きな渦のようなものが
頭の中に見えて来ました。
﹁俺⋮⋮人の出会いってすごいと思った﹂
﹁うん。でも、形を変えても出会うって事はないのかな﹂
﹁形?﹂
﹁そう。絶対出会うようになってる運命みたいなそういうの﹂
653
﹁どうかな、俺には解らないけど﹂
どんな運命的なものだって偶然が重なって出来た結果だと思います
が、必然的なものってあるんだろうか。
私は発生学の授業を思い出しました。
18世紀まで精子と卵子に人間の雛型と言うか小さな赤ちゃんが入
っていて受精によって完成する前成説が信じられていた。
しかし何も無いところから生命が発生するのではと言う後成説は、
2千年以上前にアリストテレスが唱えていて、卵や精液が子供を作
るのではなく月経血が子供になって行くという辺りを除けば、発生
学の概念を誕生させたと言える。
そして受精卵が胎児と呼ばれるまでの着床後の約8週間は胚と呼ば
れ、そしてそれは生命の進化の相同性を見せながら人の形になって
いく。
それを聞きながら、今世の中に存在している人間は約3億分の1の
精子が受精に成功して無事に着床して進化の過程を繰り返すように
して胎内で育ち、今目に映る姿まで無事に成長するという物凄い高
倍率で発生した生命なんだな、と確率論で行けば当たり前の前提に
妙に感動したのを覚えています。
その時も何だか自分の想像を超えた大きな渦みたいな物が頭の中に
見えた感覚がありました。
現実的で科学的な話を聞いて見える、大きな渦って抽象的な概念は
何なんだろう。
見える私にもよく解らないので人には話した事がないのですが、毎
回圧倒されてしまう渦のような何かを感じる度に、毎回締め付けら
れるくらいの高揚感がありました。
﹁⋮⋮⋮ごめん﹂
654
﹁いいよ、先生﹂
我に返ると、ユズちゃんが優しい眼差しで私を見ていました。
﹁先生は運命とか前世の繋がりとかって信じる?﹂
﹁運命⋮⋮﹂
私はさっきの渦が遠ざかって行くのを感じます。
また見えるのが楽しみなようで畏怖感がある、妙な感覚でした。
﹁そう、絶対こうなるって運命﹂
﹁俺は運命って結果論だと思う。自分が望む結果への絶対的な結び
付きのこじつけか、仕方ないって諦観⋮諦めを運命って呼んでる気
がする﹂
﹁うん、何となく解る。じゃ前世とかってどう思う?﹂
﹁⋮⋮前世については、人口増加と平均寿命の長寿化との説明が欲
しい﹂
﹁人口増加と平均寿命の長寿化⋮⋮あ、そういう事か。その生まれ
変わる魂って言うか、それの回転率考えたら間に合わないだろって
事ね﹂
魂の回転率。
そう、それ。
ユズちゃんのボキャブラリーに感心しました。
﹁うん、人間が人間に生まれ変わるなら、人口と寿命はどっちかが
反比例して減少しないとおかしいと思う。どこかでその、ユズちゃ
655
んの言う魂が量産されていると言うならまだしも﹂
﹁そうだね、それに前世って大体何か中世の∼みたいなのばっかだ
もんね﹂
﹁そうなの?﹂
﹁こないだ倉田さんや高浜さんと話してたんだよね。高浜さんは﹃
じゃ一番最初って何があった訳?そのスタメンの使いまわしで今の
人類が存在しているとしたら色んな矛盾が無いか?﹄って言ってた﹂
﹁そんな話してるんだ⋮⋮﹂
﹁うん。倉田さんは﹃突き詰めるとタマゴとニワトリみたいな話で
すね﹄って言ってたけど﹂
﹁タマゴとニワトリ⋮⋮あ、どっちが先に存在したかって話?﹂
﹁そうそう、私はねタマゴ無いとニワトリは生まれないから絶対タ
マゴ派。先生ってタマゴとニワトリどっち派?﹂
タマゴとニワトリ、どっち派?
これから結婚する女性に聞かれると、不思議な感じがします。
﹁うーん⋮⋮ニワトリに程近い何かが産んだタマゴから生まれた突
然変異がニワトリなんじゃないかな﹂
﹁突然変異かぁ⋮⋮いきなり違うのが出て来ちゃったって事だね﹂
﹁そう。まぁ人工的に交配されたんだと思うけど、ニワトリになっ
656
ていない親鳥のタマゴからニワトリが生まれたと俺は思う﹂
﹁倉田さんも高浜さんも先生と同じような事言ってたなぁ⋮⋮あれ
?先生は結局どっち派?﹂
﹁⋮⋮ニワトリである前提に限定すれば、親はニワトリではない訳
だからタマゴ派になるのかな﹂
﹁タマゴないと産まれないじゃんって私も思ってたんだよねー﹂
何だかこれからも、こういう会話あるのかな。
いつか考えが纏まったら、ユズちゃんに圧倒される渦の事を詳しく
言ってみようかなみたいな気持ちになりました。
他の事に於いてもそうですが、何かユズちゃんなら自分の言動に引
かないでくれる気がするんですね、これが配偶者への甘えなんでし
ょうか。
﹁あのさ、色々考えたんだけど﹂
﹁知ってる。いっぱい写メも撮らせて貰いました﹂
ユズちゃんが液晶をスライドさせ、私のボンヤリした横顔が出て来
てくじけそうになりましたが、続けます。
﹁俺、自分は絶対結婚出来ないと思ってたんだよ﹂
﹁何で?先生いっぱいモテる要素あるじゃん﹂
﹁それはない。少なくとも俺の望ましい形でモテた記憶も無い。合
コンとか結婚式の二次会とか、あの雰囲気は本当に嫌い﹂
657
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
﹁俺と一緒に生活出来る女の人なんていない、自分を好きになる人
間なんていないんじゃないかってずっと卑屈になってた﹂
﹁⋮⋮どうしてそう思ったの﹂
﹁何か自然にそうなった﹂
﹁でもさ?私も含め高浜さんや倉田さんや他のみんなも、先生の事
大好きだと思うよ﹂
﹁何で?﹂
﹁先生は面白いからじゃないかな。自分の良さを利用してない優し
さもあるし﹂
﹁自分の良さを利用⋮⋮⋮﹂
﹁そうだよ。結構大きな病院のお医者さんってだけでいいって人は
いると思う﹂
﹁そこがいいって言われても困る﹂
﹁私は先生がバイト先のコンビニの店長とかでも、多分好きになっ
てたと思う﹂
﹁店長⋮⋮﹂
658
一瞬想像してみますが、何かユズちゃんぐらいのバイトの子に﹁サ
ッサとやって下さい﹂とか冷たく言われそうな気がします。
﹁先生が無職で途方に暮れてても私は先生が好きだと思う﹂
今度は公園のベンチで、何故か白衣姿で途方に暮れている自分を想
像しました。
これで好きって言われても本当かなぁ⋮⋮。
﹁もー⋮⋮通じてないかな﹂
﹁変な絵しか浮かんで来ない﹂
﹁もうね、ハッキリ言うよ?私と先生は出会ってしまったんだよ﹂
﹁出会ってしまった⋮⋮﹂
﹁そう。一体何人の彼氏彼女のカップルが結婚まで行く?結婚を自
然にしたいと思える相手と出会うって相当だと思う﹂
﹁⋮⋮⋮うん、それは思う﹂
﹁それに先生と私は普段は絶対出会わない生活をしていた訳で⋮⋮
それもすごい事だと思う﹂
ユズちゃんと出会ったのも、高浜がたまたま連れてきたから。
その高浜と私も、高校でどちらかが隣のクラスだったら多分仲良く
なってない。
元を突き詰めると中学受験で合格していなければ、ユズちゃんとは
659
出会わなかった。
すごいなぁ、人生って。
ほんの少しの進路で将来は大きく変わるんですね。
逆に言えば、どんな進路を取ったって将来は来る訳ですが⋮⋮。
﹁これを先程言った運命と言わずして何というんだね、先生は﹂
﹁言いたい事は解るんだけど、何かユズちゃん⋮⋮高浜みたい﹂
﹁えぇー何それ!﹂
ちょっと心外そうな顔のユズちゃんに私は続けます。
﹁まぁ⋮⋮俺みたいな奴が結婚とか考えるくらい、ユズちゃんを思
ってるのは解って欲しい。他の女の人に何言われてもこれだけは言
える﹂
﹁うん、解った。あ、先生⋮今、照れてる?﹂
﹁まぁ、うん﹂
そんな会話をしている内に高いビルが見えはじめ、あっという間に
首都高に入りました。
﹁これ高浜の家だよ﹂
﹁うそー⋮⋮でも帰りたくないんだよね、あの人﹂
﹁らしいね﹂
660
サイドミラーに遠ざかる巨大なツインタワーのマンション。
そこには奈津さんの荷物があると聞いた記憶があります。
早く一緒に暮らせるといいな、そう思いました。環状七号線から青
梅街道を右に曲がると、一気に私の生活圏に入って来ます。
﹁ここ、いつも検診で通ってる﹂
﹁あのマンションがうちなんだけど、先に区役所行っていい?﹂
﹁いいよー、ふふふ﹂
﹁身体辛かったら先にうちで⋮⋮﹂
﹁いい、先生と一緒に区役所行きたい﹂
結構長時間のドライブなので、お腹への心配もありましたが、ユズ
ちゃんが元気そうなので区役所に向かう事にします。
﹁ふふ、先生の家って超楽しみ﹂
﹁楽しみ⋮⋮⋮﹂
私は頭の中で、自分の家を玄関から思い出してみました。
テーブルとソファーとテレビ以外、何もないリビング。
寝室もセミダブルのベッドと本棚にPCデスクと小さな箪笥がある
のみで、高浜がいじった別荘の方がインテリア性は高いくらいです。
よく言えばシンプルですが、悪く言えば殺風景な家です。
そこにユズちゃんが来たらどうなるんだろう。
頭の中で、ソファーに変な顔のピンクのウサギとやたら縦に長いク
マが座っている光景が浮かびました。
661
余り可愛いもので一杯になるのもどうかと思いますが、家の中に好
きな人の気配が生じるのは楽しみな気がします。
青梅街道から区役所通りに入り、立体駐車場に車を停めて私達は区
役所に向かいました。
﹁えーと⋮⋮戸籍課かな﹂
と向かうと、婚姻届は戸籍住民課で貰ってくれと言われ、私達は番
号札を取って待つことにしました。
﹁そうそう、高浜さんがねー、本籍地を富士山とかスカイツリーに
しろよって言ってた﹂
﹁何でまた﹂
﹁何かね、ぶっちゃけ皇居でもいいらしいよ?﹂
﹁⋮⋮そうなの?でも俺の家でいいよね﹂
﹁えぇー⋮⋮⋮﹂
新しく戸籍を作る訳だから、本籍地も変えられると言うことなんで
しょうか。
かと言って、皇居やスカイツリーが本籍地って言うのも⋮⋮。
どうなんでしょうね、通る話なのか疑問ですが窓口で﹁本籍地って
富士山でもいいんですか?﹂と聞く勇気はありません。
﹁冗談だって、先生の家でいいよ﹂
662
﹁富士山とかスカイツリーは高浜が結婚する時にしてもらえば﹂
﹁そだね。富士山の住所調べといてあげよ﹂
そんな話をしてる内に番号が呼ばれたので私達は窓口に向かい、祝
福の言葉と共に婚姻届を入手しました。
﹁あ、戸籍謄本が必要ですので戸籍住民課で貰って置いた方がいい
ですよ﹂
の一言に、﹁⋮⋮さっき言ってくれればいいのに﹂と思いつつ、私
達は戸籍住民課に戻り番号札を取り直し、戸籍謄本も手に入れまし
た。
後は署名と印鑑等の記載を済ませて提出するのみです。
これだけで婚姻関係は成立するんだ。
ちょっと重く捉えすぎていた自分に気付きました。
その時、何故かユズちゃんの上着からエクソシストのオープニング
が流れます。
意外な着信音使うな、そう思ってユズちゃんを見ますが、出る気配
がありません。
﹁⋮⋮電話鳴ってるよ﹂
﹁うん﹂
﹁出なくていいの?﹂
﹁お姉ちゃんかお母さんだと思う﹂
お姉ちゃんかお母さんの着信音がエクソシスト⋮⋮やはり実家とは
663
何か確執があるのかな、そう思いました。
余りにも鳴り止まないので、ユズちゃんは苛立った様子で携帯を取
り、一気に通話終了ボタンを押します。
﹁これでいい﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁せっかく幸せな気分がぶち壊しだ!!﹂
今まで見た顔の中でも、1、2を争うくらい怖い顔でユズちゃんは
吐き捨てるように言いました。
何か用事あったんじゃない?、そう言いかけた時に、後ろから
﹁ユズだよね?﹂
と声がしました。
振り返ると背格好はだいぶ違いますが、顔立ちでユズちゃんの親族
だと確信出来る若い女性が立っています。
﹁何か用ですか?﹂
振り返りもせず、ユズちゃんはただそれだけ冷たく言い放ちます。
私はとりあえず挨拶をしなければと思いましたが、女の人は私には
目も暮れずにユズちゃんに近付きます。
﹁やっぱりユズだ﹂
﹁⋮⋮何でお姉ちゃんがここにいるの﹂
664
﹁私ここでバイトしてるんだもん。ユズこそ何やって⋮﹂
そう言いかけた時に、私と目が合いました。
﹁⋮⋮ユズ、結婚すんの?﹂
お姉ちゃんと呼ばれたその女の人は、ビックリしたようにユズちゃ
んに詰め寄ります。
﹁何でそんな事、お姉ちゃんに言わないといけないわけ?﹂
﹁はい、この度⋮⋮﹂
私とユズちゃんが同時に言いかけ、私は﹁何で言うの!?﹂と目で
威圧されました。
﹁そうなんだ⋮⋮じゃ初めましてですね、相良瑞希です﹂
何だ、普通の人じゃないか。
そう思って私も自己紹介を返します。
﹁永山陽一郎と申します﹂
﹁ユズ、良かったね﹂
﹁⋮⋮ありがと﹂
﹁あんた臨月なんじゃないの?もっと早く入籍すればいいのに﹂
おっしゃる通り過ぎて、私は言葉を失いました。
665
詳細を説明するにも、どこから話せばいいのか迷います。
﹁⋮⋮永山さんとの子供じゃないから﹂
﹁は!?﹂
永山さんと呼ばれたのにも抵抗がありましたが、ユズちゃんの発言
にお姉さんは心底驚いた顔をしました。
私は感覚が麻痺しているのか別段驚く事では無いのですが、お姉さ
んの驚きは相当なようです。
﹁それでもいいって言ってくれたの﹂
﹁はぁ⋮⋮?﹂
﹁じゃあね、行こう﹂
そう言ってユズちゃんは私の腕を引きますが、流石にこのまま引っ
張って行かれる訳には行きません。
ユズちゃんがなかなか話そうとしない、実家の事も聞けるかもしれ
ない。
私は勇気を出して、言ってみました。
﹁お時間があるなら、ちょっとよろしいですか﹂
すると、瑞希さんはニコッと笑って
﹁もう仕事も終わりましたので、構いませんよ﹂
と言いました。
666
﹁ちょっと先生⋮﹂
﹁ユズは席を外しててもいいよ﹂
﹁絶対嫌だ﹂
もう隣から漂う尋常じゃないくらいの怒りにちょっと恐怖しました
が、ユズちゃんの親族にお会いできる機会があるか怪しい為に申し
訳ないけど少し我慢して貰おう、そう思いました。
区役所の中にレストランなのか喫茶店なのか解らないお店があった
ので、私達はそこでとりあえず落ち着く事にしました。
中は広くて学食を思わせる内装で、食品サンプルの代わりに写真が
飾られていて、大学病院の食堂より安いのにちょっと驚きました。
﹁私はカレーを食べる﹂
ユズちゃんは憮然とした表情のまま、チキンカレーを指差します。
﹁うーーん⋮⋮私もカレーでいいや﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
何かすごく険悪な雰囲気を一方的に出すユズちゃんと裏腹に、お姉
さんは余り気にしていないようです。
どうしよう、どう切り出そう。
私はメニューどころではありません。
﹁永山さんは何にされます?﹂
667
﹁いや⋮⋮﹂
﹁カレー。みんなカレーで﹂
中に入ると食券機があり、私はとりあえずお金を入れてみんなに選
んで貰おうと思いましたが、ユズちゃんは﹁数量3﹂のボタンを押
してチキンカレーをビシッと押します。
そして私の目線を察知したのか、バニラアイスまで押しました。
見ていただけなので頼むつもりは無かったのですが、ちょっと自分
では押しにくいので喜んだ自分がいます。
そんな甘い物食べる雰囲気ではないんですけどね。
食券をカウンターに出すと、バニラアイスだけが先に出されました。
暇だったのか席に持ってきてくれたのですが、店員さんは何も言わ
ずにユズちゃんの前にアイスを置いて何か言って去って行きます。
ユズちゃんは無言で、私の前にバニラアイスを移動させました。
﹁甘いものお好きなんですか﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮チェリー貰っていい?﹂
﹁いいよ﹂
ユズちゃんがチェリーだけ取って食べはじめ、私は残されたヘタを
舌で結びたいのを我慢します。
何だろう、このユズちゃんとお姉さんとの温度差。
668
﹁何か聞きたい事があるんでしょ?﹂
お姉さんが私を覗き込むようにして、言いました。
お父さんが違うとは聞きましたが、顔立ちはそっくりですが何か違
うものを感じます。
私が今まで警戒してきた女性の匂いを感じました。
﹁ええ、この度柚希さんと入籍させて頂く事となったのですが、御
実家にご挨拶に伺おうと﹂
そう言うと、すごく困った笑顔でお姉さんは言いました。
﹁永山さん、それはしなくていい﹂
﹁お姉ちゃんが全部バラすに一票﹂
ユズちゃんが高浜みたいな言い方をしました。
こっちの方もちょっと気になります。
﹁言わない言わない、大丈夫だよ。安心して下さいね、永山さん﹂
﹁どうかな﹂
﹁⋮⋮ユズ、確かに迷惑掛けた事は謝るよ。でも私もあの家から逃
げるのに必死だった訳﹂
﹁じゃ私名義で借りたお金全部返してから言えば?﹂
⋮⋮ユズちゃん名義で借金?
思わず、お姉さんを猜疑心丸出しの目で見てしまった気がします。
669
﹁それは悪いと思ってる﹂
お姉さんも私の手前、決まりの悪そうな顔をしました。
﹁いずれ返そうと思ってたけど、あんた連絡着かないんだもん﹂
﹁まぁお姉ちゃんとお母さんからはロクな電話来ないからね﹂
被害者はユズちゃんの様ですが、2人の会話は毅彦と私の会話を思
い出します。
結構冷たい言い方されると焦るよね、そんな同情めいた気持ちが湧
きました。
でも、ユズちゃん名義で借金をした事実があるなら、ユズちゃんの
態度も当然だと思います。
たった19歳で自分が借りた訳でもないのに督促が来るなんて、気
の毒にも程があります。
﹁何でユズちゃん名義でされたんですか﹂
﹁当時、私も一杯一杯だったんですよ。実家から離れても離れても、
どこから調べるのか母が家に押しかけて来るんです﹂
﹁⋮⋮お母さんが家に押しかけて来る?﹂
何か不思議な言い方だなと思いました。
実の親の訪問を押しかけと言うのが、私には不思議でした。
それだけ何かあるのでしょうが⋮⋮。
﹁もういいよ、うちには来させないから﹂
670
﹁でもユズが結婚したって聞いたら絶対来ると思う﹂
﹁お姉ちゃんが言わなきゃいいじゃん﹂
﹁お兄ちゃんだって結婚してからも苦労したんだよ?﹂
﹁だから何?﹂
﹁お母さんも1人で寂しいんだと思う、ユズもいなくなっちゃった
し﹂
﹁⋮⋮⋮馬鹿じゃないの?じゃお姉ちゃんとお兄ちゃんで面倒見な
よ、私はもう一切関与しない﹂
そう言ってユズちゃんはお姉さんを真っすぐ見据え、
﹁私は二度とお母さんとは会わない﹂
と、絞り出すように言いました。
﹁ほら、永山さん固まっちゃってるよ!?ユズが過激な事言うから
⋮⋮﹂
﹁いつもだもん、先生は考え事してるだけだよ﹂
﹁⋮⋮先生?学校の?﹂
﹁違う!﹂
671
ユズちゃんがちょっと焦ります。
私の職業まで隠したいのかな、やっぱりそこは不思議です。
﹁じゃ⋮⋮まさか、永山さんってお医者さん?﹂
﹁はい、産婦人科医です﹂
﹁⋮⋮⋮っ!!﹂
ユズちゃんが馬鹿正直に言うなと言う顔で、前髪をかきあげました。
﹁うっそ、ユズすごいじゃん!?お医者さんと結婚すんの!?﹂
﹁⋮⋮⋮って言っちゃうんでしょ、お姉ちゃん﹂
私は黙ってアイスを食べながら会話を聞いていました。
お姉さんはユズちゃん名義で借金をして、それはユズちゃんに返済
されていない事。
お兄さんもお姉さんもお母さんに苦労している事。
そしてその苦労も多分、金銭絡みの事なのかもしれません。
余り人の事情に首を突っ込むのが憚られますが、親族となる場合は
どうなんだろう。
﹁お姉さんにちょっと伺いたいのですが﹂
﹁はい?﹂
﹁私に出来る事って何ですか﹂
﹁え⋮⋮?﹂
672
﹁私自身、結婚にあたっては相良さんの御実家に御挨拶させて頂く
のが筋かと思います。その際に、何か問題がありましたらおっしゃ
って頂きたいのですが﹂
﹁先生⋮⋮﹂
ユズちゃんが私を見ます。
今のはセーフかな、私はユズちゃんの表情を見て続けました。
﹁見ての通り、柚希さんは出産を控えておりますので、長時間の移
動が困難な場合もあるかもしれません。その場合は私だけでも出向
くべきだとは思っています﹂
﹁母はよく東京に来るんですが⋮⋮﹂
﹁近々来られる予定はありますか?﹂
﹁さぁ⋮⋮いつもいきなりですので﹂
木曜日か土曜日の午前中だと有り難いな。
ちょっとスケジュールに関しては自分本位な自分がいました。
本来は先方からの希望に添うべきなのでしょうが、予定が合うんだ
ろうか。
その時、漸くカレーが運ばれて来ました。
アイスの後にカレー、こんなので栄養指導なんて出来ないなと全く
関係の無い、悠長な思いが過ぎります。
ユズちゃんは無言で黙々と食べはじめました。
私はお姉さんがカレーを盛大に掻き混ぜて食べるのが、ちょっと気
になってしまいます。
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﹁もしお母さんが東京に来られる事がありましたら、私の方に御連
絡頂けませんか﹂
﹁先生!﹂
﹁じゃ番号交換します?﹂
そう言ってお姉さんは携帯を出し、
﹁赤外線の準備はいいですか?﹂
と聞いてきました。
﹁いいって、もう!!﹂
﹁あのね、ユズちゃん。やっぱり今後の為にも会わない訳には行か
ないんだよ﹂
と言いながら、私は赤外線受信ってどうやるんだっけと色々いじっ
て漸く見つけました。
お姉さんの携帯に近づけると、間もなく﹁相良瑞希﹂の名前が液晶
に出ました。
﹁行きました?﹂
﹁はい。永山陽一郎先生、っと﹂
﹁先生ってついてませんよね﹂
674
ちょっと不安になって聞くと、お姉さんは吹き出し、
﹁大丈夫、付いてませんから﹂
と笑いました。
女性誌編集者の初田さんを思い出す笑顔でした。
﹁もうやだ﹂
ユズちゃんはカレーを食べながら、相当に嫌そうな顔をしています
が私は心で宥めながらお姉さんに言いました。
﹁仕事中で出られない場合があるので、2つ目の病院の方に電話し
て下さい﹂
﹁病院⋮⋮開業医さんなんですか﹂
﹁はい、世襲ですが﹂
﹁せしゅうって何?﹂
そうユズちゃんが聞くと、お姉さんは
﹁親の仕事とか地位とかを子供が受け継ぐ事だよー?﹂
と子供に諭すように言いました。
﹁私、先生に聞いたんだけど﹂
﹁ユズはもっとお勉強が必要だね﹂
675
あ、キレた。
ユズちゃんが全身から発する殺気に、何故か私が身構えてしまいま
した。
﹁お姉さん⋮⋮ユズちゃんって凄い賢いんです。私が19歳の頃、
こんなに頭の回転は良くなかったですから﹂
﹁あはは、まぁ、お医者さんと結婚出来るくらいだから頭は働くん
でしょうね﹂
私の隣でもの凄い音がして、カウンターの中の店員さんもちらほら
いた他のお客さんも、一斉にこっちを見ました。
ユズちゃんが派手にテーブルを叩いて立ち上がったのですが、その
ままお姉さんに﹁⋮⋮死ね﹂と呟き、早足で去って行きます。
余りの出来事でしたが、私も段々ユズちゃんのキレるのに慣れて来
たのか、
﹁余りユズちゃんを刺激しないで頂けますか?御連絡お待ちしてい
ます﹂
とだけ伝え、後を追いました。
私の非難がましい言い回しにも、ユズちゃんの反応にも焦る事無く、
お姉さんは笑顔で
﹁解りました﹂
とだけ言って、グチャグチャに混ぜたカレーに目を戻します。
お店の外で追いつくと、ユズちゃんの唇から血が出ています。
676
高浜の鼻血の話が蘇りました。
﹁何であんな奴に良い顔するの!?﹂
﹁いや、良い顔をした訳では﹂
﹁⋮⋮何か私、先生まで許せなくなって来た!!﹂
掴んだ手を払いのけられ、私もちょっと驚きましたが今までのユズ
ちゃんの話からすると当然の反応な気もしました。
いくら相手がしなくていいと言っても、相手の実家に義理立てしな
いのはどうなんだろう。
最近ではアリなんだろうか。
幾ら考えても咄嗟に何の答えも気の利いた言葉も浮かびません。
もしかしたら蜂の巣を突くような真似をしただけなんだろうか、そ
んな思いになりました。
﹁逆だよ、ユズちゃん﹂
﹁何が﹂
﹁⋮⋮ユズちゃんの実家とユズちゃんの間に何があったのかは具体
的に解らなかった。でも、第三者が介入すればユズちゃんにも有利
に働く事が出来るかもしれないと思う﹂
﹁第三者って先生でしょ?﹂
﹁まぁ、そう﹂
﹁お姉ちゃんにコロッと乗せられるのによくそんな事言えるね!?﹂
677
﹁乗せられた?﹂
﹁何で連絡先まで教えちゃうの?﹂
﹁親戚間なら普通じゃない?﹂
﹁絶対嫌だ、私も高浜さんみたいに分籍する!!!﹂
﹁大丈夫、結婚すればもう籍は抜けるから﹂
﹁でも親戚として付き合いはあるんでしょ!?そんなの絶対耐えら
れない﹂
そうじゃない、そういう意味で言ってない。
早足で歩くユズちゃんの前に回り込むと、やっとユズちゃんの歩み
が止まりました。
﹁お母さん達からの連絡は基本、俺が全部受けるから﹂
﹁先生が全部⋮⋮?﹂
﹁そう。ユズちゃんに何も不都合が無いように俺がシャットアウト
するって事だよ﹂
﹁出来るの?﹂
﹁⋮⋮⋮多分。やってみる﹂
﹁今の顔でお母さんと喋れば行けるかもね﹂
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﹁今の顔?﹂
また怖い顔してたのかな。
そう考えていると、ユズちゃんに少し笑顔が戻りました。
﹁先生なりに考えてくれてたんだね⋮⋮ごめんね﹂
そこまで深くは考えていませんでしたが、あの感じからするとユズ
ちゃんが実家と接触がある時は極力一緒に、又は私だけが出た方が
いいのかな、そんな気がします。
カレーの食べ方はさておき、お姉さんのユズちゃんへの対応を見て
いると、姉妹と言うよりはいじめっ子といじめられっ子みたいな感
じで気持ちの良いものではありませんでした。
だからこそ自分が入って、ユズちゃんをこれ以上刺激したり傷つけ
ないようにするべきだろう。
そんな義勇に満ちた気持ちが湧きました。
これが、相手を大切にしたいって気持ちなのかな。
漸く繋ぐ事の出来た手を見て、ふと、そんな事を考えました。
駐車場に行き車にユズちゃんを乗せ、私が運転席に乗り込むとユズ
ちゃんが無言でキスをしてきました。
ちょっと血の味がしますが、ユズちゃんの血だと思うと気にならな
い自分がいました。
﹁先生、いきなりだけど赤ちゃんの名前決めよ﹂
679
﹁そうだね、男の子だから⋮﹂
﹁先生とユズから名前取るのどう?﹂
﹁ゆずいちろう?﹂
﹁⋮⋮陽と言う方が欲しい﹂
﹁ようき?﹂
ながやまようき⋮⋮一気に何か工業的な響きがします。
永山容器。
﹁陽って字を、ハルって読めばいいんじゃないの?﹂
﹁ながやまはるき⋮⋮﹂
ハルって読めるんだろうか。
稀に妊婦さんも凄い名前を付けたがる人や、1ヶ月検診でビックリ
するような名前を赤ちゃんに付けられた方がおられますが⋮⋮名前
を余りにも訂正して回る人生は余り子供に歩ませたくない気がしま
す。
月と書いてルナとか、役所も了承する事実にビックリしますが、そ
ういえば、毅彦の同級生にもフランス系アメリカ人のお父さんを持
つハーフの子で、獣王と書いてリオンと言う子がいたのを思い出し
ました。
本人は毅彦がインフルエンザで中学受験がダメになった時、私の母
が面会を断った為に窓から入ってお見舞いに来てくれた優しい子で
したが、獣王でリオンってアリなんだなと感心したのを覚えていま
す。
680
﹁ダメ?﹂
﹁ハルって読めるならいいけど﹂
﹁検索したらオッケーだって。わりと使われてる﹂
﹁ならいいけど。余り奇抜な名前は子供が苦労しそうだから﹂
﹁そうだね﹂
正直、鈴木一郎と言うお名前で大出世された有名人もいる訳で、私
は名前には余りこだわりがありません。
読めない読み、子供が中年になっても臆する事の無い名前を付けて
あげたいです。
現代に於いてウメとかトメがいないのと一緒で、﹁子﹂が付く名前
も減っているので名前の流行とかスタンダードの変遷があるのは解
りますが⋮⋮。
﹁君の名前は、永山陽希だ﹂
ユズちゃんがお腹をさすりながら、そう呟きました。
﹁ハルって呼ぼうかな﹂
﹁何それ、2001年宇宙の旅みたい﹂
﹁何でユズちゃん知ってるんだ?﹂
﹁観たもん、みんなで﹂
681
﹁⋮⋮エクソシストも?﹂
﹁高浜さん以外みんな観た。高浜さんは途中リタイア﹂
﹁女の子が吐いたり刺したりするから、あいつにはキツいかもね﹂
﹁そうそう、何で魚捌けるのに血ダメなんだろうね﹂
﹁男の方が血がダメって人多いらしいよ﹂
﹁えーでも先生は﹂
﹁俺は慣れたけど、慣れるまでは戦慄の毎日だったよ﹂
﹁やっぱそうなんだ﹂
﹁研修医時代、外科と産婦人科はかなり凄まじいと思った﹂
﹁研修医って産婦人科だけじゃないんだね﹂
そんな他愛ない会話をしながら、私達はやっとマンションに到着し
ました。
駐車場に車を入れ、助手席のドアを開けるとユズちゃんが手を差し
出して来たので、軽く引っ張り起こします。
そうか、お腹が張るから座って立つのも大変なんだな。
これからサポートすべき事も、考えなくてはいけないな。
立ち上がるとユズちゃんはトランクに駆け寄り、
682
﹁早く開けて開けて!﹂
と嬉しそうにピョンピョン飛びます。
﹁ちょっと⋮⋮飛び跳ねちゃダメだよ﹂
﹁ごめーん、嬉しくって﹂
﹁荷物は俺が持つから﹂
﹁じゃ私はキレネンコとノワール持つ﹂
ウサギとクマのどっちがキレネンコでノワールなのか解りませんが、
ユズちゃんは両脇に2匹を抱えました。
﹁何階?﹂
﹁4階。ここね、非常階段走った方が早いくらいエレベーター遅い
んだよね﹂
﹁そうなの?じゃエレベーターの中でゆっくりあんな事こんな事出
来るね!﹂
﹁あんな事こんな事⋮⋮﹂
﹁あはは、冗談だよ﹂
やっと来たエレベーターに乗ると、ユズちゃんはニコニコしてピッ
タリくっついて来ます。
生まれて初めて女の子を家に上げるのですが、こんな喜んでくれる
683
なんて良い意味で意外でした。
﹁1号室だから出て右﹂
﹁はぁーい⋮⋮あれ?ドアにもボタンがある﹂
﹁俺の携帯の真ん中4桁なんだけど解る?﹂
﹁えーと⋮あ、解った﹂
ピーと施錠が開く音がして、ユズちゃんと私は部屋に入ります。
﹁殺風景でしょ﹂
﹁綺麗でビックリした!!広いねー﹂
﹁1人だと広いんだけど⋮⋮赤ちゃん生まれたら狭いと思う﹂
﹁うっわー先生と同棲生活だぁ﹂
ユズちゃんはキレネンコとノワールを抱えて、ソファーに座りまし
た。
﹁先生も来て来て!先生の仲間もいるよー﹂
﹁仲間⋮⋮?﹂
キレネンコとノワールの事?
そう訝りつつ、習慣でついソファーの前に体育座りしてしまった私
を見て、
684
﹁何で先生、ソファーに座らないの?﹂
とユズちゃんが笑いました。
いつかも言われるんじゃないかと思いましたが、やっぱりそう言わ
れたな。
﹁やっぱ変かな﹂
﹁ううん、先生らしくていい﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
そう言ってまたお互い笑って、私達は深夜まで今後の事を語り合い
ました。
そしてどちらともなく、いつの間にか眠ってしまい、そのままソフ
ァーの上と下で同棲開始初日の朝を迎えたのでした。
685
続・婚姻関係︵後書き︶
毅彦の元にした人から、数年ぶりに連絡が来ました。
人づてに聞いて読んだらしいんですが、こんなん書くの私に違いな
いってバレちゃってました。
まぁ⋮⋮そうだろうな。
知ってる人が読んだらバレるのか。
そうかそうか。
﹁何であんたの旦那の弟なのよ!?何なの首ゴシゴシって!?そん
なんしないし!!ゲイじゃないんだけど!?つーかあんた葬式バッ
クレるし全然泣きもしなかった癖に未練たらしいとか何様なのよ、
この子沢山少子化担当大臣!!﹂
みたいな事を女言葉全開でまくし立てられました。
いきなり何だよもー録音して職場に送ってやりたいぜ、なんて事は
考えません。
首ゴシゴシと似たような事はしてるのに自覚ないんだな、そう思い
ました。
﹁何であんたみたいなのが女に生まれたのか理解出来ない﹂
出会って間もなくから、彼︵女︶からは幾度と無くそう言われてま
した。
686
その度に逆の言葉を返しました。
お互い現在の性別に不満はある者同士ですが、私はバイセクシャル
なので何とかなりました。
女に生まれて良かったかもしれん、とさえ思えました。
旦那も勘付いている様ですが、どっちかと言えば女の子の方が好き
です。
基本的に女の子が好きだけど顔と身体が良ければ男でもいいです、
とまぁそんな感じです。
でも機会で見ると圧倒的に男性が多かったので、まぁいい⋮かかっ
て来いやぁあ!!と言う気持ちで毎晩クリ広げてました。
﹁⋮⋮でも高浜︵仮︶、ホンッといい男だった。ホンッとあんたに
は勿体なかった﹂
そう言われて、私もちょっとだけ顔や匂いを思い出し、電話を切っ
た後に珍しく涙が出ました。
残された人間に残された道は、後を追うか忘れるかしかないじゃん
よ。
歳を取ると、こんな気持ちにふとした事でなるのかな。
そう思いました。
エグい後書きですみません。
687
同じ場所で始まる新生活︵前書き︶
新婚ラッブラブな幸せを描いてみようと思いました。
とても静かな気持ちになりました。
688
同じ場所で始まる新生活
暑い⋮⋮。
私はじっとりとした感触に、目を覚ましました。
ピンク色の視界に、私を見据える虚ろな大きな眼が映ります。
これ知ってる、変な顔のウサギの眼。
﹁先生、おはよう﹂
⋮⋮ユズちゃんの声で喋るんだな、この変な顔のウサギ。
﹁ユズちゃんみたいな声だ﹂
そう口に出すと、取り繕って慌てた様に意識がハッキリしました。
私は床に座った状態でソファーの座面に頭を乗せて寝てしまったよ
うです。
身体を起こすと合皮の座面と私の間に篭った水分が一気に気化して、
ベタ付いた妙な涼しさを後頭部から背面にかけて感じました。
だらしなく投げ出した私の脚の間に、ユズちゃんが変な顔のウサギ
を抱えてニコニコしながら座っています。
﹁起こして悪かったかな﹂
ちょっと寝癖でハネた髪のユズちゃんが、ブラインドから漏れる朝
の光りの中ではにかむ様に笑って、あぁもう今日から1人じゃない
んだ、ユズちゃんと陽希の3人暮らしなんだな、そんな気持ちにな
りました。
そう思うと不思議なもので、親兄弟以外の誰かと棲んだ経験の無い
689
私でも、一種の責任感みたいな気概が生じて来ます。
﹁もうちょっと寝てたい?﹂
﹁いや、もう大丈夫。今何時かな﹂
﹁5時半﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁いつも何時に先生って起きるの?﹂
﹁⋮⋮7時半くらい﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹁いいよ﹂
そう私が言うと、ユズちゃんは申し訳なさそうな面持ちでそのまま
ゆっくりと、私に倒れこんで来ました。
安全ピンの飾りがピアスの様に刺さっているウサギの耳の先端が私
の目に入って来て、私はウサギを心底邪魔だと思いました。
でもゲンキンな事に、首に両手を回されると間に挟まれているウサ
ギはどうでも良くなりました。
それでもやはり邪魔なので、さりげなくウサギの耳を結んでやろう
としますが、
﹁あ、キレネンコの耳結んだらプーチンになっちゃうよ?﹂
と、私には非常に理解しがたい事をユズちゃんが笑いながら言いま
690
した。
若い女の子なら﹁あ、そうだねー﹂って納得出来る話なのかな。
私が理解出来たのは、このウサギの名前がキレネンコで、耳を結ぶ
とプーチンと言う別の生き物及びキャラクターの模倣になること、
そして消去法により縦長のクマの方がノワールであること。
そのくらいでした。
﹁⋮⋮あっ﹂
﹁ふふ、やっぱ感じやすいねー﹂
小さな手がTシャツの裾から這うように入って来て、私の脇腹をな
ぞりました。
﹁すべすべだー﹂
﹁いや⋮すべすべって⋮⋮﹂
﹁先生って感じてる時、怒られてる子供みたいな顔するよね﹂
﹁⋮⋮怒ら、れてる子供ッ⋮⋮?﹂
息が上がって来てまともに返事が出来なくなっている事が更に恥ず
かしさに拍車を掛けますが、怒られてる子供みたいな顔と言う表現
も気になります。
泣きそうな顔とかだったら、勘弁して欲しい。
﹁いい意味でだよ?先生は上でも下でもいい﹂
﹁上⋮⋮?﹂
691
﹁前もいったじゃん。ユズをいじってる時の、バラバラにして殺し
てやるって感じの楽しそうな顔﹂
﹁⋮⋮そんな顔しないよ﹂
弱いところ弱いところを執拗に触られ眉間に力が入りますが、キレ
ネンコの耳の間から上目遣いのユズちゃんが猫の様な口で笑ってい
るのが見えます。
一瞬、昨日の瑞希さんの顔と重なりました。
追い詰めた獲物をいたぶってる様な顔、そう感じました。
﹁でも先生、責められると可愛い﹂
﹁可愛い、って⋮⋮﹂
何で動いてないのにこんなに苦しいんだろう。
ユズちゃんの手が齎す知覚刺激が、抹消神経を経て脊髄性勃起中枢
と間脳性勃起中枢を刺激し、興奮状態になっているが故に心拍数と
呼吸数が上がっているから苦しいんだ。
そうとは解っていても抗えないくらいの衝動に対して、気まずい事
をしている罪悪感に近い気持ちで無理矢理フタをする様な、この感
情の方が苦しい気がします。
ユズちゃんが少し体勢を変える気配がしたので、何とか目を開ける
とまたもキレネンコの虚ろな目が私を捉えていました。
同時にベルトが外され、局部に開放感を感じます。
⋮⋮ユズちゃん。
愛しい思いで覗き込むと、やはり目の前に⋮⋮本当に邪魔だな、キ
レネンコ。何とかさりげなくどかそうとすると、ユズちゃんがゆっ
692
くり身体を起こして
﹁ダメ﹂
と愉快そうに言いました。
﹁⋮⋮何で?﹂
そう聞いた瞬間にTシャツごと思い切り乳首を抓られ、私はまた鈍
い声を漏らします。
﹁先生は何もしなくていいの﹂
﹁でもその体勢辛いでしょ?﹂
﹁私?大丈夫だよ?﹂
﹁⋮⋮俺も触りたい﹂
﹁ダーメッ﹂
ダメって⋮⋮。
押し倒し返したい気持ちでユズちゃんに目を向けると、どうしても
キレネンコが視界の中央で私を見据えるので、遂に私はキレネンコ
をソファーの上に置きました。
﹁あぁっキレネンコーーー!!﹂
﹁これがあるとユズちゃんが見えないんだ⋮⋮だってこれ、必要無
いでしょ?﹂
693
﹁もーー⋮⋮ダメって言ったのに﹂
﹁痛ッ﹂
下着の前開きから毛を強く引っ張られ、私はユズちゃんに何があっ
たんだろうと少し不安になりました。
ユズちゃんの肘が太ももにめり込み、鈍い痛みが走ります。
﹁パンツのボタン留めるんだ﹂
﹁何か変?﹂
﹁ううん、変じゃないけど珍しいなって﹂
そう話す声と言うか息が毛を揺らし、一気に熱が下着の中に篭りま
した。
﹁先生って可愛い﹂
﹁お腹は大丈夫?辛くな⋮⋮﹂
﹁らいりょうぶ﹂
一気に根本までくわえられ、反射的に両足の指が内側に曲がります。
ゆっくりと舌の表面で削ぎ取られるように両側や裏側を舐められ、
耳の辺りや首筋にゾクゾクと快感が走りました。
セックスって脚の間に来た人間が主導権を握るのかな。
そんな事を考えました。
頭を撫でていたつもりの手が、無意識の内にユズちゃんの頭を無理
694
矢理に動かしていた事に気付き慌てます。
﹁⋮⋮あ、ごめん﹂
﹁もういきそう?﹂
先端を固く尖らせた舌先でつつきながら、ユズちゃんは優しい笑顔
で私を見ました。
﹁頭押さえちゃってた⋮⋮﹂
﹁せんせいのペットみたいにあつかわれたいな、エッチするとき﹂
﹁⋮⋮ペットなんて⋮⋮思ってない﹂
﹁いいの、エッチしてるときはペットでいい﹂
例えるならやっぱり猫かな。
いや、ウサギ⋮⋮と思いかけると、すぐ脇に置かれたキレネンコが
浮かんでしまいます。
違う、ウサギはウサギでももっと可愛い。
エッチの時はペットとして扱われたい、よく解らないけどすごい響
きだなと思いました。
でも主導権はペットの方にあるんだな⋮⋮。
一昨日、最後にセックスした時を思い出しました。
負担が無いように無いように、無い経験を知識で補いながら精一杯
丁寧にしたつもりでしたが、ユズちゃんはどうだったんだろう。
一番最初にした時は欲望に負けて無茶をしてしまったし、次は嫉妬
に駆られてしまったし⋮⋮。
一度もユズちゃんの希望に沿ってセックスに応えられてない気もし
ます。
695
ペットとして扱うと言われても⋮⋮私の経験が無いのがいけないの
でしょうか、余り絵が浮かんで来ません。
﹁焦らし過ぎたかな﹂
﹁え?﹂
﹁じゃ本気出すよー﹂
﹁⋮⋮!﹂
いきなり思いっ切り口腔全体で絡み付かれ、思わず腰が浮きそうに
なったところを太股の付け根辺りを親指でギュッと強く押されまし
た。
吸い出される様に絡み付かれて、それでいて舌が巻き付いて来る、
それを繰り返されると頭の中が真っ白になり、それを振り払おうと
した瞬間に全身にすごい緊張が来て私は自分が射精したのを感じま
した。
﹁んんー﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹁飲むつもりだったからいいの、御馳走様﹂
そう言って、ユズちゃんは甘える様に抱き着いて来ました。
さっきまでと打って変わった様子に、気怠い気持ちを掻き分ける様
に愛しさを感じます。
ボコン。
696
ユズちゃんのお腹の、本来なら動き得ない位置が勢い良く波打つ様
に動きました。
﹁⋮⋮陽希が動いたね﹂
﹁先生も解った!?﹂
﹁カルテは全部チェックしてる、エコー写真も﹂
﹁1回も先生に当たらないよね⋮⋮毅彦先生が一番多いな、後はち
ょっとおじいちゃんの大きくて優しい⋮⋮えーと⋮⋮﹂
﹁保倉先生だね﹂
﹁あ、その先生ってもしかして花魁と結婚した大学の先生⋮⋮﹂
﹁花魁じゃなくて芸者さん﹂
﹁何か違うんだっけ﹂
﹁俺はよく知らないから説明出来ないけど、違う気がする﹂
﹁ふぅん⋮⋮保倉先生は芸者さん、んで先生は﹂
﹁ユズちゃんと結婚する﹂
﹁あ、そう言ってくれるんだ﹂
﹁何か間違えたかな?﹂
697
﹁ううん⋮⋮私と結婚してくれて有難う﹂
﹁それは俺も同じ事を思ってる﹂
私がユズちゃんの背中に両腕を回すと、更にユズちゃんはきつく抱
き着いて来ました。
私の鳩尾の辺りに、またボコボコと胎動が伝わって来ます。
﹁あはは、きついのかな﹂
﹁元気だね﹂
そう言って私達はお互いの腕を緩めます。
2人で抱き合っているのに、何だか2人で陽希をそっと抱きしめて
いる様な不思議な感覚でした。
﹁さて⋮⋮そろそろご飯炊こうかな﹂
﹁そっか、先生のお弁当!﹂
ユズちゃんがガバッと起き上がりますが、私はソファーに座る様に
促し、テレビのリモコンを渡します。
﹁大丈夫だよ、花嫁修行してきたから﹂
﹁いいよ、ゆっくりしてて﹂
テレビを付けると、東京湾にアシカが泳いでいるニュースが流れま
す。
こないだはカピバラか何かが逃げ出して大騒ぎして、今度は近隣の
698
水族館のアシカか。
カピバラもアシカも塀を乗り越えるが得意そうな動物には見えませ
んが、やるときはやるんだな。
ちょっと生き物の底力を見せられた気がしました。
当人達の為にも生態系の為にも、早く捕まえて欲しいですけどね。
﹁ねぇ、ここでボール投げたらクルクル回してくれるのかなぁ﹂
﹁⋮⋮どうだろうね、条件反射でやっちゃうんじゃない?﹂
﹁何が不満だったんだろう、餌も家も水族館にはあるのに﹂
﹁前から不満があったのか解らないけど、外に出る機会が来たから
出ただけじゃない?﹂
﹁あはははは、出てみたら案外俺1人でやってけんじゃん!みたい
な感じ?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
一瞬、アシカとカピバラに親近感を持ってしまった自分がいました。
彼等の脱走理由なんて私には知る由もありませんが、家から出た事
も無いのに広い外に出たい気持ちは解らなくもありません。
私はキッチンに行き、炊飯器の中釜を洗い、計量カップでお米を入
れました。
いつも毎日4合、夜に研いで7時にタイマーセットして炊くのです
が⋮⋮ユズちゃんってどのくらい食べるんだろう。
でも聞くのもなぁ。
とりあえず上限の6合炊こう。
米びつ代わりのストッカーから計量カップで擦り切り擦り切り入れ
699
ていると、いつの間にかユズちゃんがすぐ横に立っていました。
﹁先生、結構ご飯炊くんだね﹂
﹁いつも4合なんだけど﹂
﹁え、1人で?﹂
今までの周りの反応から、自分はかなり食べる方である自覚はあり
ます。
バイキングや立食形式のパーティーとかでは、ついデザートばかり
食べてしまうのも自覚しています。
﹁そっかぁ、私も頑張らないとな﹂
﹁いや、そんな身構える程では⋮⋮普通の外食では一人前で抑える
し﹂
﹁先生はバイキングの方がいいんじゃない﹂
﹁⋮⋮うん、それは毎回思う﹂
﹁太らないんだね﹂
﹁たまにちょっと太る﹂
﹁えー?﹂
﹁でも気が付くと元に戻ってる﹂
700
﹁そうなんだ⋮⋮先生って何が好き?﹂
﹁何が好き⋮⋮⋮﹂
﹁アイスとかお菓子以外で﹂
ワサビとか唐辛子が強くなければ、普通の一般的なメニューなら何
でも好きな気がします。
﹁悩んじゃうか⋮⋮じゃあ何が嫌い?﹂
﹁ワサビとか唐辛子とかが強いと困る﹂
﹁激辛って事?お寿司はサビ抜き?﹂
﹁昔はそうだったけど、今はちょっとなら平気﹂
﹁あはははは、甘党だ﹂
﹁そうだね﹂
私は器で掻き混ぜた溶き卵を、一番小さいフライパンに注ぎました。
端から等間隔に巻きつつ、卵を足してまた巻いて、どんどん大きく
なって行く厚焼き卵を作るのは堪らなく好きです。
﹁上手だね﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
平素、料理をしていて褒められる事は無いので、ちょっと嬉しい自
701
分がいました。
﹁そっちの肉は?豚肉?何でパックごと水に入れてるの?﹂
﹁ショウガ焼きにするんだけど、流水解凍してる﹂
﹁りゅうすいかいとう、覚えとこう﹂
卵が出来ると適当な皿に置いて、私は冷蔵庫からモヤシを出してシ
メジと炒めました。
邪道かもしれませんが、少し水を足して置くとウッカリしても焦げ
付かない気がします。
﹁すごい⋮⋮先生も料理上手い﹂
﹁自炊してたらこんなモンじゃない?誰かに教わった事も無いし﹂
豚肉が大分柔らかくなった様なので、深めのフライパンでめんつゆ
と炒め、最後にショウガ。
ショウガはチューブが使い易いから好きです。
何か歯磨き粉くらいの、いやもっと大きいサイズがあればいいのに
と毎回思います。
﹁入れすぎじゃない?先生辛いの嫌いなんでしょ!?﹂
﹁ややこしくて申し訳ないけど、ショウガは大好き﹂
﹁そうなんだ。でも、すぐなくなっちゃいそうだね﹂
﹁⋮⋮箱で買ってる﹂
702
﹁ショウガの箱買いね、覚えとく。1本で3回持たなそう﹂
﹁残り2本くらいになったら、今度教えるけど、すぐそこに業務用
スーパーがあるからそこで買ってる﹂
﹁先生って手元見ないで料理出来るんだね﹂
﹁え?﹂
﹁ずっとこっち見ながら料理してる、すごい﹂
﹁⋮⋮⋮そうかな﹂
それだけ延々と同じ生活してるって事だよ。
私は心の中で苦笑しました。
野菜炒めにオイスターソースを適当にかけて火を止め、私は弁当箱
と夕食用の皿をいつもの習慣で出し、気がつきました。
﹁⋮⋮⋮あっ﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁ユズちゃん、お昼どうする?﹂
﹁お昼?﹂
私1人なら帰って温めてで、いいのですが、ユズちゃんの昼食と私
達の夕食となると無理です。
今更ながら、7人分を3食作っていると楽しそうに言っていた高浜
を尊敬しました。
703
﹁お昼は自分で練習も兼ねて何か作るよ。お買い物も行くし﹂
﹁この辺は歩道が無い道があって危ないから﹂
﹁あのー私、もうすぐ成人するんですけど﹂
﹁重い物持ったりするのも良くないし欲しい物をメールしてくれれ
ば、昼休みに買い物して戻って来るけど﹂
﹁いいよ、大丈夫だって。散歩がてらどこに何があるか把握しとか
ないとさ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁大丈夫、解らなくなったら人に聞くから﹂
﹁そう﹂
でももし万が一に。
そう思う気持ちを私は抑えました。
ここで生活の基盤を築く意思があるユズちゃんに、いちいち言うの
も⋮⋮。
﹁もしお腹が張ったりしたら買い物はいいから。冷凍室にパン屋さ
んが持って来るパンが入ってるから解凍して食べて﹂
﹁ありがとう⋮⋮って、パン屋さんが配達してくれてるの?﹂
﹁そう。鳳来堂ってパン屋さんが実家の近くにあるんだけど⋮⋮父
704
親が同級生で、俺の祖父が分娩中にその人のお母さんの異変に気付
いて、命を救ったとか何とかで⋮⋮ずっと届けてくれてる。俺が一
人暮らし始めたって言ったら﹂
﹁持ってきてくれるんだ﹂
﹁うん、タダでいいと言うところを千円受け取って貰ってるけど、
量がすごいから夜食とか朝ご飯用に冷凍してる。
土曜日か日曜日の夜に鳳来堂ってインターホン来たら、そのパン屋
さんだから開けてあげて﹂
﹁解った。先生面白いなぁ﹂
﹁何で?﹂
﹁パン屋さんって言い方が可愛い﹂
﹁他に何て言えばいいの?﹂
﹁ううん、パン屋さんでいいと思うよ﹂
﹁でしょ?﹂
ベーカリーと言う言葉を閃きましたが、店舗名以外で余り日常的に
遣われていない気がします。
パン屋って言うのも鳳来堂の人を蔑ろにしてる感じがするしなぁ。
やっぱりパン屋さん、かな。
⋮⋮あれ?
パンって何語なんだろう。
英語だとbreadだった気がする。
705
後で忘れなければ調べよう。
﹁先生?﹂
﹁⋮⋮何でもないよ﹂
﹁ちょっと⋮⋮夫婦で隠し事は良くないよ?﹂
﹁大した事じゃないんだ、パンって何語なんだろうって﹂
﹁そんな事考えてたんだー⋮⋮ポルトガル語だよ、ランドセルとか
カステラもそうだったはず﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん、小学生の時に使ってた漢字練習帳だったかな、それに書い
てあった﹂
﹁あの虫とか花の表紙の?俺も小学校で使ってたけどそんなのあっ
たかな、覚えてない﹂
﹁私が使ってたのはそれじゃなかったな、でもポルトガル語って書
いてあったのは覚えてる。絵もあったし﹂
﹁前も思ったけど、ユズちゃんって記憶力いいよね。毅彦みたい﹂
﹁そお?﹂
ユズちゃんが瞳孔を開いた目をしてニヤッと薄く笑いました。
あくまでニコッではなく。
706
ユズちゃんってそんな顔をする事があるのか、ちょっとビックリし
ます。
﹁⋮⋮じゃお風呂入ろうかな﹂
﹁一緒に入っていい?﹂
﹁うん﹂
﹁あれ?お弁当はどうするの?﹂
﹁上がってくる頃には冷めてる﹂
﹁なるほどねー﹂
そう言うと、ユズちゃんはそそくさとテレビを消してオレンジ色の
バスケットのお風呂セットと着替えを持って来ました。
そうか⋮⋮。ユズちゃんの衣服や荷物を入れる場所が無い。
私の物を処分するにも、多いとは言えない物をこれ以上処分するの
は躊躇われました。
私は部屋の間取りを間違えた気になりましたが、ここに決めて引っ
越して来た4年前、まさか12歳年下の出産を控えた女の子と結婚
を前提に同棲するなんて全く考えていませんでした。
毎朝、適当に何か作ってお弁当と夕食分に分けフライパンを洗って、
パン食べながらテレビ観たりして時間になったら徒歩15分の職場
に行って。
買い物して帰ったらテレビ観ながら温めた朝の残りの夕食を食べて、
食器を洗ってお米をセットしてお風呂に入って本読んだりネットを
見て就寝。
夜勤の時も、それは変わりません。
707
4年間、特に予定が入らない限りは延々とそうして暮らして来た事
に気付きます。
他人の入る余地の無かった私の生活に、奥さんになる人が来てくれ
た。
時間の使い方も変わるだろうし、この1LDKの空間もキレネンコ
とノワール以外にもユズちゃんの色が入って来る訳で。
﹁どうしたの?﹂
﹁ユズちゃん、欲しい家具ってない?﹂
﹁ほ、欲しい家具!?﹂
﹁うん、箪笥とかクローゼットとか﹂
﹁⋮⋮箪笥とクローゼットって違うんだっけ﹂
﹁⋮⋮ごめん、一緒﹂
テーブル、ソファー、ウォー
女の子に必要な家具が、箪笥しか思いつかなかった自分に少し嫌気
が差します。
机、椅子、箪笥、本棚、テレビ台、
ターサーバー。
部屋を見回し、それ以外で必要な家具を考えました。
ウォーターサーバーは場所は取るが家電に入るのかな。
いや、リースみたいなもんだから違う⋮⋮すぐに論点がずれる自分
に苛々します。
⋮⋮⋮あっ。
﹁ドレッサー﹂
708
﹁⋮⋮え?ドレッサー!?﹂
ユズちゃんの目が大きくなり、笑顔が消えました。
﹁母親が使ってたの思い出した﹂
﹁ドレッサーとかすごい憧れるけど⋮⋮でも鏡とポーチあれば十分
だよ、大丈夫﹂
﹁憧れるなら買いなよ﹂
﹁⋮⋮いいの?﹂
﹁うん﹂
実家で母親が使ってたドレッサーを思い出しましたが、あの大きさ
は無理かもしれません。
ちょっと狭い家なのが悔やまれます。小さいのもあるだろう、と勝
手に想定して置きます。
﹁本当にいいの?どこ置く?﹂
﹁ユズちゃんが使い易いところでいいよ、空けるから﹂
﹁いや、十分場所はあると思うけど⋮⋮﹂
﹁どんなのがいいのか俺は解らないから、余り大きいのでなければ﹂
﹁ありがとう、ネットとかで調べてみるね﹂
709
﹁うん﹂
良かった。
ビックリされた時はまた変な事を言ってしまったかと思いましたが、
喜んでくれそうです。
﹁わー洗面所広ーい﹂
﹁広いかなぁ﹂
確かに別荘のよりは広いかもしれませんが、特筆すべき広さではあ
りません。
普通の一般的な、洗濯機が置いてある洗面所兼脱衣所です。
﹁洗うのってここに入れていいの?﹂
﹁そう﹂
﹁分けたりしない?﹂
﹁分ける?﹂
﹁高浜さんが、タオルと服は絶対一緒に洗わないって﹂
﹁あぁ⋮⋮言いそうだね。俺は一緒に洗っちゃうけど﹂
﹁下着類はネットに入れるとか、ネットには名前書くとか、色々決
まってた﹂
﹁細かいな。でも7人もいたら、混ざったり無くなったりがあるか
710
らだろうね﹂
﹁そう。流石の高浜さんも洗濯終わったら服は各自で干せってなっ
た、あんまりにも多いから﹂
別荘の洗濯機で7人分、それも洗濯物によって分けて洗って。
もうマメとか言う次元を通り越してるし、家政婦さんとかに頼まな
いのも内部を知られる可能性を懸念しての事なのかな。
あいつは一体、何を考えて別荘に住んでるんだろう。
奈津さんの帰りを一人で待つのが嫌なのと、日本の将来の為に子供
を産んでもらう目的だけなんだろうか。
ただ掃除と炊事が好きなんだろうか。
15年以上も何だかんだで付き合いはありますが、あんなに謎が多
い人間は私は会った事がありません。
﹁何かね、高浜さんに色々考えさせられた﹂
﹁⋮⋮何を?﹂
﹁うーん、何だろ。言い訳ばっかしてちゃいけないって言うか﹂
﹁言い訳?﹂
﹁出来ない言い訳する暇あったら、とりあえずやってみないといけ
ないんだって。やりもしない奴の出来ないなんて通用するか!!っ
て、怒られた事ある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁でも先生みたいに静かに何でも出来る人もいるよね﹂
711
﹁俺は多才なタイプの人間じゃないと思うけど﹂
﹁多才だよー﹂
﹁例えば?﹂
﹁えー?お料理もモノマネも上手いお医者さんってすごいって﹂
﹁お料理とモノマネ⋮⋮﹂
﹁後ね、先生の世界観みたいなのが好き﹂
﹁世界観?﹂
﹁うん、静かにシュールな﹂
﹁静かにシュール!?﹂
初めて言われる言葉でした。
静かにシュールな世界観。
そんな世界は私本人すら知らないし、想像の付かない世界です。
﹁ごめん、必死で考えてるけど何の事言われているのか解らない﹂
﹁だから凄いんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
静かにシュールって凄いんだ。
712
私には解らない評価ですが、ユズちゃんが好きならいいかな。
少し喜びつつも、内臓の位置を褒められる様な⋮⋮ユズちゃんの言
うビミョーってこれか。
﹁お風呂も広いねーー﹂
﹁あそこよりはね﹂
こちらも洗面所同様、一般的なマンションの広さの浴室です。
換気扇を通して、通路側にお風呂の音が聞こえるからなぁ。
ちょっと過敏になってしまう自分がいました。
﹁今日の夜はお風呂入れよう﹂
﹁あ、うん!!きゃー初めてじゃん、先生とバスタブ!!﹂
先生とバスタブ。
この浴室の浴槽の前に、何故か白衣姿の自分が気をつけをして立っ
ている絵が浮かびました。
揚げ足を取る様に変な絵を浮かべてしまう癖は昔からですが、これ
がユズちゃんの言う静かにシュールな世界観と言うものなんでしょ
うか。
浮かんだ変な絵を話題に出した事は無い気がしますが⋮⋮。
そんな事を考えていると、シャワーの湯気の中にぶどうの匂いが一
気に広がりました。
身体を洗っているユズちゃんの横で、私は顔を洗います。
﹁ちょ⋮⋮先生、何それ!?﹂
713
顔を洗おうとした時に話し掛けられ、弾みで鼻の中に思い切り小指
を突っ込みました。
脳天まで突き抜ける様な、痺れを伴う痛みが走ります。
﹁⋮⋮痛い﹂
﹁きゃ、先生鼻血!!﹂
私は両膝で挟んだ洗面器を置いて、上を向きました。
お風呂で鼻血は初めてかなぁ。
幸いそこまでの出血量は無く、すぐ止まりそうなので私は顔を洗い
直します。
﹁ごめん、ごめんね!!ただ何で脚で洗面器挟んで洗ってるんだろ
うって不思議で⋮﹂
﹁⋮⋮顔って普通どうやって洗う?﹂
﹁シャワーでザーーッて﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
そうなんだ。
小学生くらいからずっとこうして洗っていたので、疑問は持ちませ
んでした。
﹁あれだね、やっぱり男の人の家のお風呂だね﹂
﹁何で?﹂
714
﹁石鹸とシャンプーしかない﹂
﹁俺は余りこだわりないから、ユズちゃんの好きなのにしていいよ﹂
﹁了解っ。ね、シャンプーこれ使ってみて﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
差し出されたボトルをそのまま押すと、甘いお菓子の様な匂いが広
がります。
﹁ちょっと待って、これ匂い残る?﹂
﹁残るよ、ストロベリーバニラの匂い﹂
﹁⋮⋮仕事上まずい﹂
﹁あ、そっかごめん、私が使う﹂
そう言ってユズちゃんは、忙しく頭を濡らすと私に向けました。
私は脳天に円を描く様にぐるぐる手の平を回している内に、擦り付
けるくらいなら洗ってあげようとシャカシャカ洗いはじめました。
﹁や、ちょっとくすぐったぁあい﹂
﹁そう?俺もいい匂いと思うけど、妊婦さんにはキツイかもしれな
い﹂
﹁私も妊婦さんだけど平気﹂
715
﹁個人差あるから。基本的に病院は無臭だし﹂
﹁そっか⋮⋮あははくすぐったい耳はいい!!もーー陽希も動いて
るよ!!﹂
本当だ。
下から上、そして斜めに横切る様にお腹が内側から波打っている。
胎動の起きているお腹の状態を知らない訳ではありませんが、自分
が父親になると決めた子供の胎動はちょっと特別でした。
﹁次の検診は?﹂
﹁火曜日の14時に取った﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
﹁⋮⋮何かダメなの!?﹂
﹁ううん、そういう訳じゃない﹂
﹁もーー先生がそんな顔で言うと何かあるのかと思っちゃうよ⋮﹂
そんな顔⋮⋮。
強張ってたのかな、私はゴシゴシと顔を擦りました。
同時に目に痛みが走ります。
﹁⋮⋮はい、タオル濡らしたよ﹂
﹁ありがとう﹂
716
﹁あはは、一昨日と全く一緒じゃん!﹂
﹁いつもは本当に大丈夫なんだけど﹂
﹁うっそだー?﹂
そんな感じで、和気藹藹とお風呂を上がります。
ユズちゃんと、と言うか女性とお風呂に入るのは2回目ですが、男
女が裸で密室に入ると言う感じは意外に無い気がします。
大人になると肉親と入る方が躊躇れると言うか。
そもそも私の肉親と呼べる人間は毅彦しかいないので、入浴を肉親
と共にする機会自体がありませんが。
下着姿でお弁当を詰めていると、ドライヤーを掛け終わってキッチ
ンに来たユズちゃんが噴き出しました。
﹁ちょっと何それ﹂
﹁⋮⋮何か変?服着る前に詰めたいんだけど﹂
﹁いや、頭のタオル﹂
﹁これ?﹂
風呂上がりに頭にタオルを引っ掛けて、思い出したらガシガシとや
ってタオルは洗濯カゴに。
タオルが勝手に水分を吸ってくれるので、家では常にこれでした。
ドライヤーが苦手なのもありますが。
﹁先生、巻こうよ﹂
717
﹁巻くの嫌い﹂
﹁じゃおいで﹂
﹁おいで?﹂
﹁こう端っこマフラーみたいにしたら、マトリョーショカみたいに
なるよ﹂
何故かタオルの両端を顎の下でクロスされます。
マトリョーショカなんて渋いの知ってるな。
ロシアの有名なピーナッツみたいな民芸品ですが、箱根の入れ子人
形が伝わったのが元で、19世紀末のパリ万博で世界に知れ渡った
とか何とか。
私がマトリョーショカに想いを馳せている間、ユズちゃんは母親み
たいに私の頭をシャカシャカとタオルで拭いています。
私が中学生になっても、母親は風呂上がりの私を捕まえてこれを続
けて来たのを思い出します。
中学2年生のある日突然、何でもしてくれる母親に憂鬱になりまし
たが、疑問を持たないとは恐ろしいと思いました。
﹁はい終わり﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
ふと時計を見ると、7時45分。
いつもならテレビを観たりしながら、食事の用意を1人でしていた
718
時間です。
でもユズちゃんが来て、母親みたいにされるとまたダメになりそう
だな⋮⋮。
甘えちゃダメだ、むしろユズちゃんに甘えてもらうくらいじゃない
と。
そんな気持ちになりました。
なので率先して配膳を始めてみます。
﹁はい、ユズちゃん﹂
﹁ありがとう、先生の分ある?﹂
﹁大丈夫。ご飯足りる?﹂
﹁そんな食べません⋮⋮って先生のそれ、お茶碗って言わないよ﹂
﹁知ってる、どんぶりでしょ?﹂
﹁器の名前じゃなくて。本当にいっぱいご飯食べるんだねー﹂
茶碗で3杯お代わりするより、どんぶり1杯の方がいいと思うので
すが。
そう思いながら私がテーブルに座ると、いつもはリビングの窓が見
えるだけの視界の中央にユズちゃんが座っています。
﹁じゃ先生、いただきまーす﹂
﹁⋮⋮いただきます﹂
この言葉、いつから家で使ってないんだろう。
何故かとても新鮮な言葉に思えました。
719
﹁先生がチューブ半分くらい入れた時はどうなるかと思ったけど⋮
⋮ショウガ焼き美味しい﹂
﹁そう?良かった﹂
﹁あれ?先生⋮﹂
﹁ご馳走様でした﹂
﹁先生、いつ食べた!?私、正面にいるのに全然⋮﹂
﹁たった今、食べ終わったんだけど﹂
﹁えーご飯どこ消えたの!?時間止めた!?﹂
﹁⋮⋮⋮食べるの早いってよく言われる﹂
﹁早過ぎでしょー!?﹂
サーティワンで食べたくらいしか、一緒に向かい合って食べた事な
かったから気付かなかったのかもしれません。
色々お互いの知らない面に気付くんですね、一緒に住むと。
﹁じゃ先生、食器は私が洗っておくからそこ置いといて﹂
﹁いいよ、自分のは洗うから。ユズちゃんも使った食器は置いとい
ていいからね、俺が帰って洗うから﹂
720
﹁何それ、食器くらい洗えますけど﹂
自分なりに気を回したつもりですが、旦那さんの協力って難しいも
のですね。
これでいて、違うところを見落としてしまったりしたら、一回り上
なのに使えない旦那さんと思われる気がしました。
﹁じゃ⋮⋮いいの?﹂
﹁いいから﹂
﹁解った。でももし﹂
﹁お腹が張ったら安静にする。もー先生、気にしすぎだよ﹂
知識に加え、いくらでも悪い結果の例を知っているからこそ、心配
や懸念が消えません。
あぁ⋮⋮親の気持ちってこれなんだな。
言われる方だった自分は内心鬱陶しかったのですが、悪い結果を必
死で阻止したい気持ちと言うか。
でも、それは心配される側の自由を奪い、出来る事も出来なくさせ
る場合もあるんだ。
支配と保護は根本が違うけど、過保護が支配を生む事はある。
27歳まで子供で居続けた私がそれに気付けたのも、両親が他界し
てからです。
﹁⋮⋮無理はしないって事と何かあったらすぐ病院に来る事。それ
だけ約束して﹂
﹁解った﹂
721
ユズちゃんがホッとした様に笑いました。
﹁もー先生、お母さんみたいなんだもん﹂
﹁そのつもりは無いんだけど、やっぱり心配。本当なら一緒につい
ててあげたいくらい﹂
﹁もー何それ、心配し過ぎ!!いいから大丈夫だよー﹂
﹁⋮⋮約束﹂
﹁うん、大丈夫。何かあったらすぐ行く﹂
まだ半分くらいしか食べ終わってないのか、ユズちゃん。
そう思いつつ流しに食器を持って行き、癖で水道を捻るとユズちゃ
んの﹁そのままでいいって﹂と叱責が飛んできたので、仕事に行く
準備に掛かる事にしました。
身支度を調え、最後に鞄の中身を確認すると、分厚い御祝儀と婚姻
高浜武志﹂の恐ろしい程に達筆な文字を見て、思わず
届と賃貸契約書が出てきました。
﹁御祝儀
﹁ありがとう﹂と声が出て、そんな自分に驚きました。
机の引き出しに御祝儀と賃貸契約書を仕舞い、毅彦にでも署名して
貰うべく婚姻届は鞄に入れたままにします。
結婚の話を毅彦にするのが悪い気がするのは何故でしょう。
毅彦が未婚で彼女の話も一切聞かないから当てつけがましい⋮⋮と
言うのともまた違う気がする、理由のよく解らない躊躇でした。
722
﹁行ってきます﹂
4年振りに家から出る時に言った言葉に、
﹁いってらっしゃい﹂
と言う返事が来て、足音が近付いて来ます。
この一連の流れが新鮮なようで懐かしいような、不思議な感じがし
ました。
﹁先生、いってらっしゃい﹂
﹁うん﹂
靴を履いて鞄を取ろうとすると、ユズちゃんが背伸びをしてキスを
して来ました。
いいな、こういうの。
すっかり満足して
﹁じゃあね、なるべく早く帰るから﹂
と言って外に出て、エレベーターを待っていると重大なミスに気付
きます。
慌てて戻ると、エレベーターホールの入口の陰に、ユズちゃんが後
ろ向きに立っていました。
﹁あ⋮⋮﹂
﹁気付かなかったらどうしようと思った﹂
723
満面の笑みでそう言われ、鞄を差し出されます。
私はさっきとは根本的に違う﹁ありがとう﹂を言いました。
﹁⋮⋮行ってきます﹂
﹁今度こそいってらっしゃい﹂
エレベーターに乗って1階のボタンを押して閉めると、笑顔で手を
振るユズちゃんがゆっくりと昇るように消えて行きます。
実際に下がっているのはエレベーターに乗っている私の方なのです
が、帰るまで会えないんだなと言う気持ちと、
早く帰らないといけないなと言う気持ち、そして帰ったらユズちゃ
んがいるんだと言う前向きな気持ちが混ざって何とも言えない気分
になります。
これから毎日、こんな感じか。
先は全く見えないけど、取り留めも無く幸せだなぁ。
気持ちで感じるというより、包まれているような幸せでした。
3階で待っていたスーツ姿の若い男性とエレベーターの窓越しに目
が合うと、男性はちょっと驚いた顔をして硬直して、扉が開いても
なかなか乗って来ません。
﹁あの⋮⋮?﹂
﹁あ⋮⋮あ、す、す、すみません!﹂
速足で乗り込んで来た男性は私に背を向けましたが、前を向いてい
るとエレベーターの窓に映っている怯えた感じの表情のその男性と
何度も目が合います。
724
全然知らない人なのですが、何なんだろう。
気になるけど、こちらから話し掛ける程でもないし。
それに変に何度も目が合うのも何だかな。
そう思って私は目線を男性の後頭部辺りに移し、恐ろしく遅いエレ
ベーターの狭い空間の中で幸せな余韻に浸り続けたのでした。
725
同じ場所で始まる新生活︵後書き︶
一章一章が長いと言う御指摘を頂いたので、若干短くしてみました。
確かに⋮⋮。
読んで下さった皆さん、申し訳ないに加えて、本当にありがとうご
ざいます。
これからはこんな長さで行くつもりですが⋮⋮まだ長いですかね、
もし何かございましたら御指摘頂ければ幸いです⋮⋮。
私は婚姻届を出すにあたっては、
﹁マジで結婚すんの!?今ならやめられるし同棲でいいじゃんよ!
!﹂
と言う気持ちと
﹁これで可愛い可愛いお前は次に書類出すまで俺のもんだぜガハー
ハハハハ!!﹂
みたいな気持ちが混ざり合いました。
結婚願望が無かった私も、不思議な力に導かれて主婦に成り下⋮⋮
成れました。
こんな生活を望んで、みんなパーティー行ったり合コンしてんのか
726
⋮⋮正気か?
仕事して終電逃して溜息ついてコンビニの灰皿の脇で携帯でズーキ
ーパーしながらタバコ吸ってたら可愛い顔したのにナンパされて朝
まで過ごしてガッツリ風呂入ってスッピンでホテル出て同じ格好だ
と気まずいと気付いて一番に出社してロッカーの紙袋から着替え出
して着替えて身支度して出勤時間までネット見て仕事の勉強しなが
らやっぱりタバコに火を点けて。
平日はこれで満足していた低俗な私には高尚過ぎて息が詰まりそう
な生活ですな、専業主婦って。
ある意味、ヒモですぞ?
子供に囲まれて一体何がしたいんですか?
って本文削ったのに後書き長くしてどうする、何がしたいのか解ら
んのは私も一緒かもしれません。
727
人の幸せを願うという事︵前書き︶
永山先生、独善的に弟の幸せを願い始めます。
728
人の幸せを願うという事
何だかフワフワした気持ちで出勤しましたが、カードキーを通して
職場に入ると、専用クリーナーで磨き落とされた様にフワフワが無
くなりつつあります。
切り替えってこれかな、そんな事を思いました。
﹁おはよう⋮⋮﹂
青白い顔にクマの目立つ顔で、毅彦がコーヒーを飲んでいます。
とても婚姻届の署名を⋮と切り出せそうにない雰囲気です。
﹁ごめん、2日丸々休んで﹂
﹁まぁ木曜日と金曜日は兄さんの休日だから、休むのは悪くない﹂
﹁何か大変だったみたいだね﹂
﹁あと1人、手が足りればって2日間だった﹂
﹁⋮⋮⋮ごめん﹂
毅彦は意地悪そうな笑顔で私を見ました。
席は私と隣なのですが、改めて見ると毅彦のデスクが凄い事になっ
ています。
元々雑然としていましたが、高浜が見たらオデコを押さえて気絶し
そうな堆積物の山。
上着をハンガーに掛け白衣を羽織って席に着くと、毅彦の机の堆積
729
物であるファイルや本、プリントが左側に見えます。
冗談抜きで高さ50cm以上はあるな、そう思いました。
﹁毅彦、これちょっと何とか出来ないか?﹂
﹁何が?﹂
﹁雪崩みたいに崩れて来そうなんだけど﹂
﹁あぁ、これ﹂
﹁うん、何か前から気になってた﹂
﹁そうだね、片付けないとな⋮﹂
少し伸びた髪を掻き上げ、毅彦がこちらを見ました。
目が大きいせいか、目の下の涙袋のクマが異様にクッキリ見えます。
﹁すごい疲れてるな﹂
﹁まぁ⋮⋮色々と。兄さんはどうなの、楽しかったんでしょ﹂
﹁申し訳ないけど、すごく﹂
﹁⋮⋮⋮高浜さん元気?﹂
﹁うん、何かお母さんみたいになってる﹂
﹁⋮⋮⋮誰の﹂
730
﹁ユズちゃん達の。料理から洗濯掃除まですごい行き届いてる﹂
﹁そうなんだ⋮⋮あの人、凄いよね⋮⋮﹂
﹁うん、色々変わってるけど凄いと思う﹂
何だろう、今日の毅彦。
普段いつも吠えてくる犬がションボリしてて吠えられなかった様な、
安心感のある心配が湧きました。
こないだの、カップを落としても微動だにしなかった毅彦を思い出
しました。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁お前、やっぱり疲れてるんだよ⋮⋮﹂
﹁疲れない仕事なんてないでしょ﹂
﹁そうだけど、お前何か幽霊みたいで怖い﹂
﹁兄さんに言われるって相当じゃん。兄さんって疲れる事あるの﹂
﹁疲れるよ、でも疲れないようにしてる﹂
﹁何それ、どうやって﹂
﹁⋮⋮⋮何て言うか、張り合いのある事を見つけるとか﹂
﹁張り合い?﹂
731
﹁うん、趣味でもいいし会うのが楽しみな彼女でもいいし、何かあ
ると違う﹂
﹁彼女は俺にはいらないかな﹂
﹁それが良く無い。俺もそう思ってたけど、実際すごい変わるんだ
よ﹂
﹁何、惚気?勘弁してよ﹂
﹁違うよ。好きな人出来て一緒に住めば変わる﹂
﹁⋮⋮無理でしょ﹂
﹁だから、それが良くないんだよ。半年前の俺みたいで放って置け
ない﹂
﹁で、兄さんさ、俺に何か他に言うこと無いの﹂
﹁他に?﹂
﹁何かあるんでしょ?﹂
脚を組んだまま回転椅子をクルッと回し、毅彦はこちらに向き直り
ました。
子供の頃は目がクリクリしてあんなに可愛いかった毅彦は、背も私
より10cm近く高くなり、年齢も三十路を迎えたんだなと思いま
した。
女の子と間違われて怒っていた、あの可愛い弟はどこに行ったんだ
732
ろう。
目の前にいるふてぶてしい青年を見て、昔の毅彦を思い出しました
が重なりませんでした。
倉田くんと同い年くらいに見えると誰かが言っていた気がしますが、
若い倉田くんの眩しい笑顔はないなと人の事だけに思ってしまいます
﹁あのさ、疲れているところ申し訳無いんだけど⋮⋮これ﹂
﹁⋮⋮賃貸契約書?﹂
﹁間違えた、こっち﹂
﹁何?⋮⋮うわー⋮⋮﹂
婚姻届見て眉間にシワ入れて﹁うわー﹂はない気がしますが、書い
て貰う手前、黙っておきました。
﹁本当に結婚すんの?﹂
﹁⋮⋮何が﹂
﹁いや、だってさ、早過ぎる気がするんだよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁1人で寂しいところに女の子がたまたま来て、何かいいなーよく
解らないけどいい子っぽいし結婚しよう、そんな感じならちょっと﹂
﹁お前までそういう事言うのか﹂
733
﹁お前までって?他に誰に言われたの﹂
それを聞いて、心の狭い私はちょっと勝てそうな気がしました。
毅彦が何故か黙る、あの呪文のような⋮⋮こんなに幸せな気持ちを
2回もコケにされて、ちょっと頭に来て感情的なのは認めます。
﹁全く同じ事を言われたんだ﹂
﹁だから誰⋮⋮﹂
﹁高浜﹂
ほら黙った。
私はかなり意地悪なんですね。
高浜にも毅彦にも、普段あんなに世話になっているのに、何でこん
な時に意地悪をしたくなるんでしょう。
底意地が悪いってこれかな。
自分の性格について考える機会が無かった私は思いました。
﹁自分の事は棚に上げて俺にはかなり言ってきたんだ、あいつも﹂
﹁そりゃ兄さんが心配だからだよ、多分﹂
﹁心配⋮⋮﹂
﹁何かコロッと騙されそうだから。昔からいっつも厄介な女の人連
れて来るから﹂
﹁そんなことないだろ、連れてきた記憶は無い﹂
734
﹁連れて来た事は無いけどさ。俺がアメリカ行くまで、色んな女の
子と色々あったじゃん﹂
﹁⋮⋮色んな女の子!?﹂
高浜もそうですが、何だか私の恋愛遍歴の言い回しと言うか、捏造
がすごいなと思います。
食事や外出に誘われたりはありましたが、身体の関係は全くありま
せんでした。深く関われば関わったで例の彼女だった訳で⋮⋮。
﹁そうだよ、覚えてない?いきなりキスされてオロオロしたり、駅
で待ち伏せされたり、高校までそんなんばっかだったじゃん﹂
﹁ばっかって⋮そんな回数もないだろ。どうしていいのか解らない
から困ったし﹂
﹁俺も困ったよ、中学生の兄が小学生の弟に相談してくるんだから﹂
﹁だって当時他に相談出来る相手がいなかったから﹂
﹁今もいないでしょ、高浜さん以外で﹂
﹁そんな事ない。心強い若い子で1人増えた﹂
﹁相良さん?﹂
﹁違う。それに今まで彼女って言える彼女がいた試しが無い﹂
﹁は、そうですか。じゃ相良さんは何なの?﹂
735
﹁婚約者﹂
﹁⋮⋮そういう事。いい子ではあるよね、しっかりしてるし﹂
﹁いい子だよ﹂
﹁兄さんと本気で恋愛結婚するなんて、変わり種好きか目茶苦茶い
い子に決まってる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何かいつもの毅彦になったのはいいですが、攻撃的だなぁ。
いつもの事かもしれませんが、疲れのせいか毒が効き過ぎていると
言うか。
私もフワフワした後遺症なのか、鞄は忘れそうになるし、机に仕舞
ったと思い込んでいた賃貸契約書は持って来ているし⋮⋮。
﹁あっ﹂
﹁今度は何?﹂
﹁お弁当忘れた⋮⋮﹂
﹁弁当忘れたって言う人、初めて見た﹂
﹁はぁ⋮⋮でもユズちゃん食べてくれるかな。中身は朝と同じメニ
ューなんだけど﹂
﹁あ、もう相良さん来てるのか。つーか朝御飯も弁当も兄さん作っ
てんの﹂
736
﹁だって妊婦さんだよ?昨日うちに来たばかりなのにこき使えない
だろ﹂
﹁そういう事言ってる時点で、兄さんが尻に敷かれるのが目に見え
る﹂
﹁⋮⋮お前、また高浜と同じ事言った﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁毅彦と高浜って、全然違うようで似てるところあるよね。頭が良
いと言うか感性が﹂
﹁兄さんに手焼いてるってのは共通点でしょ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何しょげてんの?﹂
﹁しょげてはない﹂
何故かふいに、さっき毅彦が話題に出した、中学生の頃の事件を思
い出しました。
予備校から、同じ沿線で駅も1つ違いだから一緒に帰る事となった
女の子がいたのですが、何故か1つ前で私と一緒に電車を降りて私
の家まで歩いて来るのです。
理由を聞いてもダイエットだの運動の為としか言わないので、当時
の私はそういうものかと思っていました。
ある日、家の前で﹁じゃあね﹂と言おうとした時に、いきなり生ま
737
れて初めてキスをされ、走って行かれて世界が終わった様な気分に
なった一部始終を毅彦に見られていたというものです。
人によっては青春の思い出だと思える内容かもしれませんが、その
後しばらくはずっと背中に刃物を突き付けられている様な、緊張と
恐怖の入り混じった感覚に苦しんだのを覚えています。
当時小学6年生の毅彦は私より大人で、哲学的なパックマンみたい
な絵本を貸してくれて、閃いた私はそれを使って説明したら女の子
も納得したと言うか、塾自体に来なくなったと言うか。
思い出と言うにしても、余り良い思い出ではありません。
女の子は結構綺麗な子だったと毅彦からは言われましたが、私自身
が余り人の顔を気にしないので、それすら特に認識していませんで
した。
﹁毅彦、あの時の絵本まだ持ってる?﹂
﹁絵本⋮⋮あぁ、あれか。どっかあるよ﹂
﹁そう。タイトルだけでも教えて欲しい﹂
﹁シェル・シルヴァスタインの﹃ぼくを探しに﹄﹂
﹁それだ。あの本、思い出すと気になるからメモしとこう。ぼくを
⋮さがし、に﹂
﹁じゃ俺はこれに名前書いていい?﹂
﹁署名しといて﹂
﹁解った﹂
738
そういうと毅彦は休暇申請のカレンダーボードに、相変わらずの乱
筆で永山毅彦と書いた紙を貼りに行きました。
﹁何だそれ﹂
﹁休暇申請書。署名しろって言ったじゃん﹂
﹁てっきり婚姻届の事かと⋮⋮まぁ俺も休み貰ったし、毅彦もゆっ
くりしないとね。いつ休むの?﹂
﹁来週の火曜日﹂
﹁⋮⋮ユズちゃんの検診だ﹂
﹁兄さんか保倉先生いればいいでしょ、俺は日曜日の夜勤明けから
火曜日まで休む﹂
﹁そう、どっか行くの?﹂
﹁まぁ、うん﹂
そうか、毅彦も⋮⋮その何かを隠している様な感じに私は微笑まし
くなりました。
﹁何⋮その顔﹂
﹁いや、いいんだ。良かったね﹂
﹁兄さんって幸せだよね﹂
739
﹁俺もそう思う。お前も早くこうなればいいと思ってる﹂
﹁⋮⋮無茶言わないでよ、なれないって﹂
﹁なれる﹂
﹁断言したね﹂
﹁断言出来る﹂
﹁ははは、相良さんってさ、永山家の先祖が遣わせた何かそういう
のに思えて来た﹂
﹁何それ﹂
﹁だって兄さんが結婚しないとここで絶えちゃうじゃん、うちの家
系が﹂
﹁毅彦、諦め過ぎだ﹂
何でこんなに自暴自棄なんだろう。
自分もそうだっただけに、やっぱり放って置けない気がしました。
私より社交的で頭も良いのに、何でそんなに諦めているんだろう。
保倉先生も毅彦は難しいと思うと言ってらっしゃった訳ですが、私
はそんな事は無いと思います。
何も言わないであげなさい。
そう言われても自分の経験があるからこそ、この場合は諦めても良
い事なんて無いでしょう。
諦めても拒絶はしない方がいい、というか。
740
﹁はい、これ﹂
いつの間にか毅彦が、婚姻届を書いてシャチハタまで押して渡して
来ました。
中学生でもそうそういないと言いたいくらいの汚い字ですが、悪意
が無いのは知っています。
アルファベットや筆記体は綺麗なのに、平仮名、漢字、特に片仮名
が酷い。
利き手と逆で書いたのでは、と疑いたくなる時もあります。
よく解読を頼まれるので、毅彦にはもうローマ字表記で書いて欲し
いと思っているスタッフさんは少なくないと思われます。
私も意識しないと丸っこい文字になり、よく昔の少女漫画みたいと
笑われるので兄弟揃って⋮と言う感じが否めません。
﹁いつ提出するの﹂
﹁近い内に﹂
﹁再来月の頭にしたら﹂
﹁何で?子供が生まれる前にしたいんだけど﹂
﹁ユズちゃんがばれてるんだから、永山柚希って一発でばれそうじ
ゃん。だから予定日の月か、早まる恐れがあるから前の月の頭とか
にすれば?﹂
﹁保険証確認か﹂
﹁そう﹂
741
この病院⋮⋮まぁ大体の病院がそうであると思いますが、その月の
最初の診療時に保険証の確認を行っています。
それは法律で確認義務が定められていて、保険証の不正利用なんか
でレセプト、つまり保険の請求が通らなくて病院側の利益にならな
くなる問題と同時に、提示した患者さんの医療負担を正常に管理す
るという面があります。
保険機関を通して来るお金は数ヶ月先なので、余りにも不正利用や
古い保険証利用なんかでレセプトが突っ返しに合うと経営にも業務
にも支障を来たしてしまうんですよね。
そして不正利用される患者さんは、連絡がつかない事がほとんどで
す。
﹁永山柚希で入院って言うのもアリだとは思うけどね。入院中の相
良さんがどう思うかだな﹂
﹁そうだね⋮⋮﹂
私は助産師の染谷さん達の反応を思い出します。
初めて彼女が出来てテンション最高潮で、うっかりユズちゃんの名
前を出して暴走した自分を、過去に戻って説教したくなります。
﹁まぁそこは相良さん次第﹂
﹁うん、聞いておく﹂
そんな話をしていると、保倉先生が出勤されました。
﹁おはよう﹂
﹁おはようございます﹂
742
私達が挨拶をすると、大柄な保倉先生の後ろから小柄な若い男性が
顔を見せました。黒い半袖パーカーに青のブロックチェックのハー
フパンツにグレーのクロッグサンダル、背の高さはユズちゃんとそ
んなには大差無い気がします。
すると毅彦が勢い良く立ち上がりました。
﹁うわぁホックじゃーん!本当に来たんだぁ!﹂
﹁あー毅ちゃん久しぶりー﹂
毅彦が立ち上がった拍子に、50cm分のファイル等の山は静かに
スライドして、全て右側の私のデスクに散らばりました。
毅彦は気付いていない様ですが、私にはかなり衝撃的なスローモー
ションの映像でした。
片付けていいのかな⋮どれが大切なのかも毅彦しか知り得ない訳で
⋮⋮全部捨ててやりたいとすら思ってしまいます。
最近の私はやたら、感情的になる事が多いです。
そして⋮⋮ホックくん。
年齢は倉田くんと同じくらいか、ちょっと若いくらいかもしれませ
ん。
色白で切れ長の大きな目に、猫の様な少し厚めの唇に細面。
芸者さんのイメージにピッタリな顔立ちだな、そう思いました。
私は芸者さんをよく知らないので、かなり貧困な偏見に近いイメー
ジですが。
整って弧を描く眉毛は保倉先生に似てるから、体格はだいぶ違えど
息子さんなのかもしれません。
じゃあ保倉先生の前でホックはちょっと⋮⋮アメリカ生活が長すぎ
743
たか?と何故か私が焦ります。
﹁毅彦君には世話になってたみたいだね、すまない﹂
﹁いえ、全然ですよ﹂
﹁どっちかと言うと俺が世話してたけどー﹂
﹁言うじゃんコイツめ!﹂
毅彦は嬉しそうに、ホックくんを持ち上げます。
ホックくんも笑顔のまま、毅彦に持ち上げられています。
私はただ、訳が解らずポカーンとしていたと思われます。
﹁降ろしてー﹂
微笑ましいと言うより、反応に困る光景でした。
恩師の目の前で、恩師の二十歳過ぎたであろう息子さんが自分の弟
に高い高いされて喜んでいる。
そしてホックくんも⋮⋮何と言うか⋮⋮すごくユルい感じです。
決して悪いとは思いませんが、寝起きのテンションで満面の笑顔、
そんな感じでした。
﹁永山君、君は初めて会うと思う。三男の豊だ。
毅彦君とはここ最近仲良しらしい﹂
﹁保倉豊です。今、大学3回生です﹂
天井近くに持ち上げられたまま、豊くんは私に改まった一礼をして
挨拶してくれました。
744
語尾を伸ばさなければ普通なんだな、そう思いました。
高い高いをされた人に、自己紹介されたのは初めてです。
﹁⋮⋮初めまして、永山陽一郎です﹂
﹁毅ちゃんのお兄さんー?﹂
﹁そうそう、前に何度か話したよね。えーい﹂
﹁わーーー﹂
今度は持ち上げたまま回り始めた毅彦を無視して、私は助けを求め
る様な気持ちで保倉先生を見ました。
﹁あの⋮⋮豊くんは毅彦とはどういう?﹂
﹁⋮⋮私もよく解らんけど仲は良いらしい﹂
﹁でも、何だか前々からの知り合いみたいに仲良さそうに見えます
が﹂
﹁私のせいであの子は大学にやりづらくなってね、大阪の方にやっ
たんだ﹂
﹁だから3回生って言い方したんですね、3年生では無く﹂
﹁うん⋮慣れない土地で1人なのが苦しかったらしくてね、大学の
休みは全て東京に帰って来ていたんだ。
私のせいだからね、豊には申し訳ないと思っているよ﹂
745
保倉先生が御自分の地位と引き換えに明るみに出した、病院の隠蔽。
それは贈賄や医療ミスのレベルの範疇ではありませんでした。
子宮に珍しい悪性肉腫を持った若い患者さんの症例が、世界で数え
る程しか報告が無かった症例の為に、すぐに手術をせず経過観察と
してデータ集めの為に事実上放置されました。
その患者さんは学会発表された直後に死亡しています。
保倉先生はカルテの改竄を見つけ、論文の為に患者さんを結果的に
死亡させた⋮⋮と言う事を明るみに出しました。
数回行った手術回数も1回のみしかした事になっておらず、医療ミ
スや過失と言うよりは末必の故意と言っていいと思われました。
子宮全摘出を早い内にすれば、転移もせずに助かったであろう若い
女性が、研究への好奇心と名誉欲の犠牲になった。
もし私が保倉先生の立場で、それを知ったらどうするだろう。
多少悩むにせよ、黙ってる訳には行かないと思います。
患者さんは臨床データの材料の提供の為に病院に来る訳ではないの
ですから。
過去の戦争における人体実験で医学が進歩した側面は否定出来ませ
んが、病院で医者がしていい事ではありません。
﹁わーそろそろ降ろして毅彦ー﹂
﹁あっははははホック軽い軽ーい﹂
まだやってたのか。
毅彦も私にはあんなに冷たいのに、豊くんにはあんな笑顔見せるん
だな。
今更ですが、毅彦は私にだけ冷たい言い方をする事に気付きます。
今までが今までなので、かなり嫌われてるんでしょうね。
そんな事を思っていると、保倉先生が諦めた様な笑顔で言いました。
746
﹁いじめられっこで不登校までなって引きこもりがちだった豊が、
友達が出来たーと喜んでこっちに帰る度にその友達の家に入り浸っ
ていたんだが⋮⋮それが君の実家にあたる毅彦君の家だったんだ。
偶然って怖いものだね﹂
﹁うちに?﹂
﹁そう。冬休みと春休みはほとんどお邪魔した様だね。毅ちゃんと
は誰なのかと家内と心配になって聞いたら、﹃毅ちゃんはねー永山
毅彦さんって言う大きな産婦人科病院のお医者さんなんだよー﹄っ
て言うから驚いたよ。どこで知り合ったんだろうねぇ﹂
保倉先生も豊くんの台詞は語尾を伸ばすんだな。
ちょっと微笑ましくなります。
失礼ながら、豊くんの話し方なら私も真似出来そうな気がしました。
﹁全く存じませんでした⋮⋮﹂
﹁まぁ、ちょっと私も言ってもいいのか悩んだからね⋮⋮今年の夏
は海外に語学留学と言う名目でイギリスにやって阻止したけど﹂
﹁阻止ですか⋮別に実家なら部屋も空いているし全然構いませんよ﹂
﹁そう言ってくれるのは有り難いんだが、まぁ父親としてそれでい
いのか難しいところでね﹂
もし、自分の子供が保倉先生の御兄弟の家に勝手に世話になってい
たら⋮⋮。
御兄弟である保倉先生に言ってもいいか悩む事があるのか、全く解
747
りませんでした。
むしろ﹁うちの息子がすみません﹂と言う類の気持ちになる気がし
ます。
無神経で鈍感な私には気付かない、気遣いとかあるのかな。
と思いますが、やはり私には理解が出来ません。
﹁毅彦ー夏休み行けなくてごめんねー﹂
﹁そーだよー来ると思ってたのにイギリス行くとか言うからさー﹂
﹁すっごい嫌だったよー。それにー大学始まるから来週大阪戻っち
ゃうんだよねー﹂
﹁えぇー何それ、じゃーそれまで泊まってけよー﹂
もう高い高いはしていませんが、毅彦まで豊くんみたいな話し方に
なって来ています。
悪いとかどうこう以前に、何かもう私や保倉先生の入れない世界が
展開されている気がしました。
毅彦も友達とはあんなに無邪気にはしゃぐんだな。
何よりそこに驚いています。
﹁ホックはどこ行くかもう決めたー?﹂
﹁うーん⋮⋮考えてるんだよねーどこがいいかなーオルトとか惹か
れるかなー﹂
﹁えー人手不足だからギネ来いギネー﹂
﹁でも新生児科って気になるんだけどねー﹂
748
﹁じゃーNICU勤務だなー﹂
オルトは整形外科、ギネが婦人科。
他にも泌尿器科はウロで皮膚科がデルマなど、ドイツ語や英語から
出来た隠語の一種です。
本来は医学の素養の無い一般人に内容を知られない暗号みたいな役
割を持っていたものですが、その半分くらいに対して私は、﹁日本
語でいいでしょ﹂と言う気持ちが拭えません。
まぁ最初は親や先輩も使っている言葉なので、これは専門用語なん
だと言う気持ちはありましたし、秘匿性には一役買っているだろう
し、片仮名表記やアルファベット表記は漢字で書くよりササッと表
記しやすい利点はあると思います。
でもたかだか食事に行くのを﹁エッセン﹂とか言われても、﹁ご飯
食べて来る﹂でいいのではと思ってしまう自分がいました。
入院したばかりの患者さんの既往歴や病歴等の看護上の情報を得る
事を、ドイツ語のアナムネーゼから﹁アナムネを取る﹂とか言うの
は感覚として理解出来ます。
まぁでも、それが医学界の一般的な常識なので、私がゴネても仕方
のない事ですけどね。
﹁毅ちゃんはいつ決めたのー?﹂
﹁俺はもー最初から決めてたねー﹂
﹁そっかーでもお兄さんもいるでしょー?﹂
﹁だってー兄さん1人に任せるわけにいかないしー元々永山産婦人
科の為に医学部進んだよーなものだしー﹂
749
﹁そーなんだー﹂
そうだな、両親が他界する前から﹁兄さんだけに任せられないから﹂
って言ってたな。
ゆくゆくは毅彦が1人いれば大丈夫なんじゃないかな、そんな気分
になりました。
﹁⋮⋮大丈夫だよ、永山君﹂
﹁はい?﹂
果てしなく緩い緩い会話をボンヤリ聞いていた私に、保倉先生が囁
く様に言いました。
﹁君は医者になるべくしてなった人だから﹂
﹁⋮⋮⋮なるべくして、なった?﹂
﹁毅彦君は普通の人より桁違いな能力があって優秀なんだけどね、
才能と言うかセンスは君の方があると私は思う﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
そうなんですかー?
そんな事をいきなり言われても、普段が普段です。
鞄は忘れるし、お弁当は忘れるしなんですが。
ちょっと褒められているのにふて腐れている自分がいました。
きっとこれも、ヤキモチと形の違うコンプレックス。
﹁でも毅彦君のあの超人的な仕事へのバイタリティーはね、永山君
750
を支えなきゃいけないって気概が根底にあるからなんだと、私は思
っている﹂
﹁頼りない兄で申し訳ないですが﹂
﹁君も随分変わったよ、だから大丈夫﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
どう大丈夫なんですか?
そう具体性を求めたい自分もいましたが、保倉先生の教えを説く様
な妙な有り難みで満足している自分がいました。
知識や地位の及ばない物を持っているこの感じ、永山産婦人科医院
の神と呼ばれる所以なのかもしれません。
気の強い毅彦にボンヤリ頼りない私の全く違う個性の兄弟を、上手
くまとめて導いて下さっていると言うか。
﹁ねー赤ちゃん見てっていいー?ガラスの外からでいいんだけどー﹂
﹁俺も仕事終わりだし着替えて来るから待っててー﹂
満面の笑みで毅彦が﹁お疲れ様でしたー﹂と出ていこうとするので、
私は急いで歩み寄り、肩に手を置きました。
﹁何?﹂
一気に醒めた顔で、毅彦が振り返りました。
私は怯まず、言いました。
﹁あれ、何とかして﹂
751
と、私が机を指差すと、
﹁あれ?うっわ崩れてんじゃん、ごめん﹂
と毅彦がデスクに駆け寄りました。
本当に気付いて無かったのか。
どれだけ豊くんが来て舞い上がっていたんですかね。
⋮⋮舞い上がる?
何だか妙な違和感を感じました。
仲が良いと言うのか、何と言うのか。
でも私も倉田くんを見ると安心するので、そういう感じを毅彦が表
現するとああなるのかな。
﹁毅ちゃん相変わらず片付け出来ないんだねー﹂
﹁相変わらず?﹂
私が思わず聞くと、
﹁うん、もーねー家がすっごい事になってるんだよねーせっかく広
い一軒家なのにー﹂
と言う返事が返って来ました。
﹁毅彦⋮⋮?﹂
﹁何?﹂
﹁家が凄い事ってどういう事だ?﹂
752
﹁簡単だよ、掃除してないって事﹂
﹁⋮⋮掃除してないの?﹂
﹁そー。だからいっつも一緒に片付けからするよねー﹂
﹁言うなよそーゆー事﹂
﹁だってすごい汚いんだもん、お兄さんが見たらビックリされるよ
ー?﹂
﹁⋮⋮⋮毅彦?﹂
思わず、また名前を呼んでしまいました。
毅彦はファイルや封書を確認すると、また重ねて自分の机の上にド
ンと置きます。
﹁どっちも汚いと思ったけどこーすればお兄さんの机は綺麗だねー、
片付けなよ毅ちゃーん﹂
﹁いいの﹂
﹁いや、全然よくないだろ﹂
保倉先生は苦笑しながら、その様子を見守っておられました。
﹁じゃ着替えて来るねー﹂
﹁俺も行くー赤ちゃん見たいー﹂
753
﹁先生、兄さん、お疲れ様でしたー﹂
2人が控え室を出て行くと、私と保倉先生が残されます。
﹁⋮⋮まぁ毅彦君のお陰で明るくはなったかな﹂
﹁豊くんですか⋮⋮私は毅彦があんなにはしゃぐとは知りませんで
した。豊くん持ち上げて回った時はどうしようかと﹂
﹁いいんだ、私もね⋮⋮豊にはかなり心配している。末っ子だから
と甘やかすなと家内とよく口論になったものだけど。でもね、親が
どうにも出来ない子供の、何というか素質ってあるんだね﹂
﹁私の両親も、私の事でよくそんな言い合いになってました﹂
﹁永山君の御両親が君に?﹂
﹁はい。私が余りにもボケーッとしているので、母が甘やかすから
だと父がよく﹂
﹁そういうものなのかな﹂
﹁そういうもの?﹂
保倉先生は苦笑いをしながら、頷きました。
﹁あんないつまでも小学生みたいな喋り方で、いじめられるのは当
たり前だと思う気持ちと⋮⋮比べる訳じゃないが長男次男と余りに
も違う、ずっといじめられっこなのが心配で可哀相で焦ってしまう
気持ちがね﹂
754
﹁一般的に見た場合と親として見た場合って事⋮⋮﹂
﹁そう言う事だね。でも私を見てたからかな、医学を志したのは豊
だけだった﹂
﹁長男さんと次男さんは⋮﹂
﹁それぞれ教育学部と体育大に進んだよ﹂
権威と呼ばれる先生の子供でも、違う道を進むんだな。
保倉先生のお子さん達もそうですが、高浜の両親もまさか養子で迎
えた子供が分籍までして夜の世界に羽ばたいた後に日本の将来を憂
うなんて思わないだろうし、倉田くんのおばあちゃんも文学部に進
んだ孫が、山奥の別荘で妊婦さんに囲まれて生活するなんて思わな
かっただろう。
私と毅彦みたいに、結果として親の意向を汲む子供もいるし⋮⋮。
ふと、陽希の事が浮かびました。
私は本当の父親ではありませんが、どういう風に育つんだろう?と
言う純粋な興味を覚えます。
私は特にこうなって欲しいと言う強い希望は今はありませんが、本
人が大人になって進むと決めた道は進ませた方がいいんじゃないか
な、そう思いました。
﹁兄さーん﹂
755
いきなり扉が開いて、茶色のポークハットを被った黄色いTシャツ
にジーパンにスニーカーの毅彦が入って来ました。
似合うは似合っていますが、未だに着替えて帰る程にスーツが嫌い
なんだな⋮⋮。
原色が好きな毅彦と、黒と紺と灰色が好きな私との違いなんでしょ
うね。
たまに茶色を着ると冒険した気分になる程、私の服装に於ける色彩
は乏しいです。
﹁どうした?忘れ物か?﹂
﹁お兄さんの彼女さん来てるよー﹂
﹁⋮⋮彼女?﹂
豊くんの声にちょっと慌て、保倉先生に断って外に出ると、青と白
のボーダーの長いワンピース姿のユズちゃんが済まなそうに立って
いました。
とりあえず、控え室に入ってもらいます。
﹁あの⋮⋮本当は来ない方がいいかなって思ったんだけど⋮⋮﹂
﹁もしかしてわざわざ﹂
﹁⋮⋮はい、これ﹂
ユズちゃんがピンクに青と黄色の星柄の小さなトートバッグを差し
出しました。
﹁入れるのもこれしか無くて﹂
756
﹁うわー手作り弁当いいなーお兄さんー﹂
﹁ユズちゃん有難う﹂
﹁うん、じゃ私帰るね⋮失礼します。あ、えーと、お弁当は私が作
ったんじゃないです﹂
何だか届けてくれたのに、萎縮しているユズちゃんにいじらしさと
申し訳なさを感じていると、
﹁永山君の婚約者の方だね﹂
と保倉先生の声がしました。
豊くん以外ハッと言う顔をして振り返りますが、保倉先生は優しい
笑顔で続けられました。
﹁今、9時前。まだ朝礼まで30分あるね﹂
﹁はぁ﹂
﹁君が⋮その、ユズちゃんかな﹂
﹁⋮⋮相良柚希と申します﹂
﹁えー夫婦別姓なのー?﹂
﹁⋮豊﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
757
悪気無しの的確な突っ込みを、保倉先生が止めました。
﹁良かったら相良さん、お話しませんか?﹂
意外な申し出に、私とユズちゃんは顔を見合わせました。
﹁じゃ俺ら帰るね。行こーホック﹂
﹁待ってよ毅彦ー﹂
バタンとドアが閉まり、騒がしい2人が出て行くと、私とユズちゃ
んと保倉先生が残されました。
﹁何か入口でどうしようって思ってたら、裏から出て来た毅彦先生
が通り掛かって﹂
そう焦り混じりにユズちゃんが私に話し掛けると、保倉先生が毅彦
の椅子をコロコロと差し出します。
﹁どうぞ座って。毅彦君の隣にいた小さいのは豊と言う、うちの三
男坊です﹂
﹁⋮⋮そうなんですか﹂
﹁父親に全然似てないけど、あれで今年21歳だからね﹂
初対面ではありませんが検診以外での面識が無いからなのか、年配
の一番偉い先生だからなのか、ユズちゃんは萎縮したままです。
私も自分のデスクの椅子をコロコロと持って来ました。
758
いつも私と毅彦と保倉先生の3人で使っている部屋に、毅彦の代わ
りにユズちゃんがいるだけで新鮮でした。
﹁あの、お話と言うのは⋮﹂
ユズちゃんが怖ず怖ずと切り出しました。
﹁話って言う話はないんだ。ただ、前にね、永山君と昼休みに結婚
の話をしたんだよね﹂
﹁あぁ、はい。主人からも伺っております﹂
⋮⋮ユズちゃん、かなりきちんと喋れるんだな。
何だか今までユズちゃんを軽んじていた気がして、後ろめたい気持
ちになります。
でも主人と言われて、ちょっと驚きつつも嬉々とした自分がいまし
た。
﹁ユズキさんか、幾つかな?﹂
﹁19歳で、11月で二十歳になります﹂
﹁豊の1つ下か﹂
﹁⋮⋮⋮豊さん、21歳なんですね。私は毅彦先生の私服に驚きま
したけど﹂
ちょっと黙った空白の間は、普段なら﹁うそだー?﹂と言っている
ハズの間だと思います。
さりげなく毅彦の私服に話題を逸らしたのは意図するしないに関わ
759
らず上手いな、と思いました。
﹁毅彦君はいいんだけど豊はね⋮いつまでも小学生みたいで私は心
配なんだけどね﹂
﹁私も主人の友人には散々小学生と言われましたよ﹂
あぁ、あれか。
今喋ってるユズちゃんを見たらそう言わないよ。
そう思いました。
段々、ユズちゃんの表情にも余裕が出て来た気がします。
﹁まぁ⋮そうだね、毅彦君みたいな友人が出来て明るくなっただけ
でも良かったと思うべきかな﹂
﹁友人?﹂
ちょっと意外そうにユズちゃんが言いました。
友達なんだって、10歳近く下の。
そう12歳離れたユズちゃんに心の中で言ってみます。
﹁まぁ⋮⋮そうらしい﹂
﹁毅彦先生も嬉しそうだったね﹂
急にユズちゃんがこちらを向きました。
保倉先生とユズちゃんが話しているので私はずっと黙っていたので
すが、加わった方が良かったのでしょうか。
﹁⋮⋮そう。ずっと高い高いしてはしゃいでたんだよ、あいつ﹂
760
﹁高い高い!?その、豊さんを?﹂
﹁逆なら無理だ、身長差がありすぎて豊が潰れる﹂
保倉先生が笑いました。
﹁三男と言ったようにね、私は3人の息子がいるんだ﹂
﹁⋮⋮⋮はい﹂
﹁まぁ私がちょっとやらかして大学病院を追われたせいもあるのか、
上の子供達は医者を志さなかった﹂
﹁その⋮⋮継がなかったと言う事ですか?﹂
﹁元々は大学病院の先生だし、継ぐも何もないんだけどね。多少の
便宜が図れるくらいはあるかなってくらいだ。でも私は上の2人に
はちょっと期待してた面があったんだけどね、それぞれ教育学部と
体育大に行った﹂
﹁じゃ、豊さんが﹂
﹁学校も休みがちだったあいつが、意外にも医学部に行くと言い出
したんだ。そして現役で大阪の医大に行った﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
﹁だからね、ユズキさん。そこまで気負う事でもないんだ、医者の
妻とか子育ては﹂
761
﹁え?﹂
﹁医者の子供だろうと無職の子供だろうと⋮⋮親がある程度の補助
をして、見放し過ぎず縛り過ぎず接していれば、子供は必ず自分の
道を見つける﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁だから、自分が医者の妻に相応しいかどうかは気にしないでいい
って事を言いたかった。でしゃばってごめんね﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
ユズちゃんが涙目になって手の甲で鼻を押さえました。
私もつい、話に聴き入ってしまっていました。
﹁あの⋮⋮私、すごいそれが心配で﹂
﹁だろうね、うちの奥さんもそうだったから﹂
﹁しかも、お腹の子は⋮⋮﹂
﹁永山君が自分の子供だと言うなら、永山君の子供だろ?﹂
﹁いや、そのもう主人に会う前に﹂
﹁ユズちゃん、そこはいいから﹂
どこまで話されるか心配になり、思わず遮ってしまいました。
人間の小ささに我ながら先が思いやられます。
762
﹁ユズキさん、永山君が何を始めたか知っているよね﹂
﹁⋮⋮はい、色々と﹂
﹁それを永山君本人が、私生活で実践するのは何かおかしいかな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁まぁ大丈夫だと思うけど、もし永山君が何かその子の事で何か言
い出したら私がぶっ飛ばしてあげるから﹂
﹁はい。有難うございます﹂
ユズちゃんが鼻声だけど笑顔で言いました。
身長はそう変わりなくても、体格差だけでも1.5倍近くある保倉
先生にぶっ飛ばされたら堪らないな、何故かそこを真剣に捉えた1
75cm67kgの私がいます。
﹁そんだけ。ごめんね、緊張しちゃったでしょ﹂
﹁最初はお説教されるかと思いました﹂
﹁でもね、ユズキさんと会って永山君が変わったんだよ﹂
﹁うん﹂
私自身も思わず頷いてしまいます。
﹁えー⋮⋮どんな風にですか?﹂
763
﹁明るくなった。前はね、いい若者ではあるんだけど何か、ティム・
バートンの世界観と言うか⋮⋮知ってる?ティム・バートン﹂
﹁はい、ナイトメアービフォアクリスマスとかのですよね﹂
﹁うん、私はコープスブライドを観て思ったね﹂
﹁あっ、ぶっははは﹂
﹁ちょっと全体的な雰囲気が似てるだろう?﹂
⋮⋮何だ?
2人ともちょっと楽しそうです。
アダムスファミリーにいそうと言われた事はありますが、コープス
⋮⋮?
調べたいような、でも見たくないような気持ちになります。
﹁まぁそこから一気にピクサーの様な世界観に変わったと言うか﹂
﹁そこまでですか!?﹂
ユズちゃんが笑いを堪えています。
話がサッパリ解らないのですが、和気藹々としている感じに私もホ
ッとしました。
﹁詳しいんですねー﹂
﹁あの三男がああいう、3Dアニメーションみたいなのが大好きな
んだ。お父さーんこれ観てーといつも映画を持ってくる。観てみる
となかなか面白いね﹂
764
﹁私もかなり好きですね﹂
﹁いやはや、私は永山君と毅彦君を、つい甥っ子以上息子未満みた
いな感じで見てしまう。永山君が結婚となると親心みたいなのが働
いてしまって。ユズキさんの事もちょっと気になってたし⋮⋮変な
意味では無くね﹂
﹁あははは、有難うございます﹂
﹁さ、これで9時13分。長々と済まなかったね、ユズキさん﹂
﹁いえ⋮⋮こちらこそ楽になりました。本当に有難うございました﹂
ユズちゃんが立ち上がると、毅彦のデスクの堆積物の下から、ピロ
リロラリと着信音が聞こえます。
ピロリロラリ。
﹁何かどっかで無限1UPしてない?﹂
ユズちゃんが笑います。
﹁あいつ⋮⋮﹂
私が恐る恐る堆積物の下に手を差し込むと、ジャラジャラと色んな
キャラクターの付いた携帯が出て来ました。
液晶には﹃自宅﹄、そして27年使った懐かしい番号が表示されて
いるので出てみると、
765
﹃あーすみませーん今、その携帯どちらに落ちてますかー?﹄
と豊くんの声がしました。
﹁毅彦の汚いデスクに埋まってたけど﹂
﹃さっきのデスクにあったってー、よかったねー。これから取りに
行きますねー﹄
﹁いいよー私が届けるからー﹂
ユズちゃんが言いました。
﹁家、解る?大丈夫?﹂
﹁すぐ隣じゃん。ここ来る途中ですぐ解った﹂
﹃もしもし?兄さん?取り行くからいいよ!!﹄
﹁いいよ⋮⋮届けるから﹂
ユズちゃんが手首で首をゴシゴシしながら電話口に向かって言いま
す。
﹁毅彦?﹂
﹃何?届けて貰うの悪いし俺がこれから﹄
﹁携帯忘れる人って初めて見たよ﹂
766
﹃なっ⋮⋮嘘つけ!!もー﹄
私はちょっとスッキリした気持ちで通話終了ボタンを押して、ユズ
ちゃんに渡しました。
﹁じゃね、先生。保倉先生も有難うございました﹂
﹁うん、また遊びにおいで。永山君、下まで送ってあげなさい﹂
﹁え?﹂
﹁ほら、29分にはスタッフルームにいないと。時間ないぞ行った
行った﹂
そう言って保倉先生が私の背中を大きな手でバスンと押します。
本当にぶっ飛ばされたら困る、そんな威力でした。
控え室を出て、私達は並んで歩きます。
﹁こないだのとこの隣だったんだね﹂
﹁うん、そう﹂
こないだのとこ、とは応接室の事でした。
階段を上がってすぐにスタッフルーム、そして隣接する医師控え室、
その奥が応接室です。
﹁保倉先生、いい先生だぁ﹂
767
﹁俺もちょっと感動した﹂
﹁うん、先生が最高のお医者さんって言ってたの解る気がする﹂
﹁先生って?﹂
﹁ちょ⋮陽一郎さんの事ですよ﹂
﹁いっぱい先生いるからなぁ﹂
﹁3人だけでしょ。名前が何もついてないのが先生﹂
﹁そっか﹂
﹁うん﹂
緑の擦りガラスに覆われた外階段の扉を開け、私達はどちらともな
く手を繋いで降りてみました。
職場で許される事では無いと思いますが、それが逆に何と言うか⋮
⋮。
﹁先生、お仕事頑張って﹂
﹁解った、帰る時に連絡する。わざわざ有難う﹂
私も何を血迷ったのか、ユズちゃんの紅茶色の前髪を掻き分けてオ
デコに軽くキスをしてみると、珍しくユズちゃんが真っ赤になりま
した。
﹁大胆だね﹂
768
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁もー⋮お仕事頑張って!﹂
そう言って困った様に笑いつつ真っ赤な顔のまま去って行きます。
私はその姿が視界から見えなくまで見届けると何とは無しに腕時計
に目を遣り、慌てて階段を1段飛ばしで駆け上がったのでした。
769
人の幸せを願うという事︵後書き︶
幸せとは何か。
とか考えられる時点で、既にある程度は幸せなんですよね。
私はタバコとコーヒーと大量の本と画材があれば、まず満足です。
んで週5くらいはうっざい上司のパワハラにトイレで歯食いしばっ
て頭突きしまくってお前のデスクを俺のもんにしてやるぜ見てやが
れ!と終電ギリギリまで残業。
んでまぁ、余興として週3くらいは相性の合う人間と男女関係なく
性的な関係持つくらいで。
それが今も昔も私の幸せです。
反して、配偶者の幸せは﹁家族との時間と子供の成長﹂だそうです。
そこはお互い違う人間、押し付けない事にしているので、どうとで
もなります。
でも内心では﹁あいつマジでそう思ってんのか﹂とお互いそう思っ
ていると思います。
770
★高浜武志・4★︵前書き︶
2007年、2008年くらいの業者の話です。
今はもうちょっとお利口さんかもしれません。
細かいところははしょってますが、作中の上司や職場の雰囲気は大
体⋮いや結構忠実に書いてみました。
771
★高浜武志・4★
携帯が鳴って目が覚める。
目に入った壁の時計は8時を指している。
バンクーバーとの時差は16時間、学校が終わった時間なのかも⋮
⋮と、俺は携帯に飛び付くが、画面を見ると﹁鹿田社長﹂と言う文
字。
それを見て俺は一気に意気消沈して電話に出た。
﹁お久しぶりです﹂
﹃高浜、これから出てこれるか。場合によってはちょっと野暮用頼
むかもしれんが﹄
﹁構いませんが﹂
休日に上司からの電話が来たリーマンの気持ちが解る。
はぁ⋮⋮てっきり太平洋の彼方、カナダからの電話かと思っちゃっ
たよ、寝起きから重症ですけど。
﹃じゃこれから新宿御苑の⋮⋮﹄
と、一方的に場所を言われ、メモの準備を⋮と言う間もくれないだ
ろうから俺はベッドシーツに指で書きながら覚える。
﹁解りました、これから伺います﹂
772
﹃ちょっとお前向きかもしれない面白い仕事だ。まぁ来いよ﹄
﹁はい﹂
こんな時間にいきなり何だよもー。
なんて思わない思わない。
俺向きかもしれない面白い仕事、って言ってたのも気になる。
俺は寝起きの頭を押さえたり摘んだりしながら、洗面所に向かった。
顔をザブザブ洗って、撥ねた水の処理ついでにペーパータオルで洗
面所の掃除。
帰って来てあの鏡の鱗状の跡とか見ると、何か疲れが増す。
考えるだけでゾワゾワしちゃって無理。
お外に行く前にお片付け、鉄則です。
朝食は何食おうかな。
俺はダーツのティップをいじりながら考える。
チクチク。
指の腹や手の平をつついてみる。金属製のハードティップなので健
康に良さそうな痛さでは、ない。
君の刺さりで今日の運勢は決まるとか何とか、1人501始め。
手持ちのハード9本全て連投して、その中で501点以上を取れれ
ば今日はいい日みたいな高浜ルールで行う。
ダーツはとにかく、中央のブルズアイを含む円の円周上に当てない
と高得点が狙えないと言うか、9本で501点は超えられない。
ダーツの得点は大きい円がダブルリングでスコアが外側に書かれた
数字の2倍、それより内側の小さい円がトリプルリングで3倍のス
コアだ。
中央の小さな円が一番高いかと思いがちだが、一番中央の円のブル
773
ズアイは50点、外側のアウターブルが25点。
ダーツボードの一番大きい数字は20だから、20のトリプルリン
グで60点が最高得点。
ダーツボードを初めて貰って、ルールも解らず中央ばかり狙ってい
た中学生時代、お陰で中央を狙う変な癖がついてしまったのもいい
思い出。
それでもダーツはこの手軽な緊張感が好きだ。
こないだまで一緒にいた奈津もダーツが好きで、よく一緒にやった。
床からブルズアイまでが私の身長と同じ172cmなんだぞ、とよ
くダーツボードに頭を付けて立っていた。
たまに口論になるとピシピシ俺に向けて投げて来て焦ったが、奈津
が投げて来るのはソフトティップ、先端がプラスチックのものだけ
だった。
当たると痛いは痛いが、そこに愛を感じた。
あぁ、つい2週間前なのに、すごい昔みたいに懐かしい。
そして全く音沙汰が無いので、もしかしたらもう帰って来ないのか
なぁとか思うと悲しくて不安で、会う子会う子とセックスしちゃう
自分に嫌気が差す、そんな2週間でした。
何かこういう時に限って、来るんですよね、やたら綺麗だったり可
愛かったりする子が。
神様に試されていると言うか。で、そういう子とそういう事をして
も、奈津が一番と思える自分は天に刃向かっている気持ちになると
か何とか。
いやー弱い、弱すぎる。
テキトーさって絶対の自信があるようで実は心の弱さの表れなのか
もしれない。
774
早くここ出たい。
ソファー見るだけで、スーツのまま奈津にネクタイを引っ張られた
り髪の毛引っつかまれつつも、片手や脚でしごかれている自分を思
い出す。
それで耳元で﹁⋮変態﹂って蔑むように笑われて、イッたらイッた
で相変わらず飲む事を強要されて⋮⋮⋮。
ダメだ。
ここにいてはいけない。
ハッキリ言って調子が狂う。
自分から連絡出来ない面倒臭がりにして小心者の俺には、この家に
いるのは耐えられない。
俺はちゃっちゃと身支度をして、家を出た。
501点は超えなかったけど、運が無い分は努力しろって事だろう。
途中のセミオーダーのサンドイッチのチェーン店で朝食を済ませ、
俺のベッドのシーツに書いた記憶を辿って行くと、赤茶色の雑居ビ
ルがあった。
ここかな。
俺はパーキングに車を停めると、エレベーターの3階を押す。
着いたそこは、かなり広いオフィスだった。
リースと思しき数十台のPCが並び、色とりどりの頭がタトゥーの
入ったり入ってなかったりの腕でカタカタとキーボードを打ってい
る。
入口正面にはただ机がポツンと置いてあって、タイムカードリーダ
ーが置いてある受付に、ハデハデ綺麗なお姉さんが座っていた。
775
﹁⋮⋮武志?﹂
俺は一瞬考えたが、その盛った髪とメイクの下の顔は昔散々迷惑を
掛けてお世話になった記憶の中の顔と重なった。
﹁莉奈?何してんの?﹂
人差し指を立てて、俺に小さく手招きする。
何?何なの?
俺はもう携帯代にも家賃にも困ってないから大丈夫だよ?
﹁武志、あんた何しに来たの﹂
﹁鹿田社長に呼ばれた﹂
﹁何で?ていうかよく私の事覚えてたね﹂
﹁お前にはあれだけ世話になったのに忘れるかよ﹂
西田莉奈。
名前も漢字で覚えている。
10年以上前、俺が金が無くて袋ラーメンで生活していたのを知っ
ている女だ。
と言うか、俺のワンルームで週の大半を過ごしていたので半同棲だ
ったのだが、余りにも世話焼きで結婚向きな女なので俺が逃げてし
まったと言うか。
俺の1つ上だから、今年で33歳か。
⋮⋮⋮人のことだから言うけど、お互い派手ね。
776
﹁いきなりお金振り込んで消えちゃうんだもん⋮⋮暫く立ち直れな
かった﹂
﹁そう?俺は一緒にいても迷惑掛けるから申し訳無いと思っての事
だったんだけど﹂
﹁あんたねー⋮⋮﹂
段々、周りの目線が俺達に集中してきているのが解る。
そりゃそうだよな、受付嬢が上目遣いの小声で来客者とヒソヒソし
てんだもん。
そんなの俺でも気になる。
﹁鹿田社長は?﹂
﹁奥のあの扉のあっちが事務所だからそこにいる。で、あんたは何
で呼ばれたの?﹂
﹁さぁ?﹂
﹁さぁって⋮⋮﹂
﹁とりあえず行ってくるわ﹂
﹁⋮⋮⋮うん﹂
夥しい数のPCの群れを掻き分けるような細い通路を通って、俺は
奥の大きな扉に向かう。
注がれる視線は気にしないようにして、俺は扉を開けた。
中の社員らしき、スーツは着てても出所は知れてる感じの数名の若
777
い男が俺を見てビクッと驚いた顔をした。
﹁遅くなりました﹂
﹁お、来た来た。まぁ座れよ﹂
鹿田社長は背は低いが恐ろしくやり手の男だ。
俺より10歳以上年上らしいが、年甲斐が無いと言う意味ではない
意味で、全く年齢を感じない。
俺も前まではかなり世話になったが、バックがバックだし余り関わ
りたい相手ではない。
面長の輪郭にニワトリとか猛禽類の様な目と薄く裂けた様な口が、
キレた時は直視出来ない形相を呈するのを見ちゃった俺は特にそう
思う。
﹁空いてるデスクにでも座れ﹂
職員室みたいに並んでいる簡素なデスクに、様々な書類が山積みに
なっていて、空のスナック菓子の袋やテンコ盛りの灰皿にナイトワ
ーク求人情報誌なんかがところどころ置いてある。
⋮⋮片付けろよ。
ちょっと拒否反応が出た。
﹁じゃ失礼します﹂
一番綺麗そう、と言うか誰も使ってないらしい錆と傷だらけの空き
デスクに腰を下ろすと、キシャ⋮と座面が破れかけた椅子が軋む。
うぅ⋮⋮嫌だこんなの。
社長とデスク換えて欲しい。
778
﹁こいつは高浜と言うんだが、お前らの中にも聞いた事ある奴いる
だろ﹂
鹿田社長がそういうと、何人かが﹁あっ﹂と言う顔をする。
やだ、何で俺の事知ってんの?
﹁高浜は商売の天才なんだ。こいつがやるところは全部な、売上が
凄まじい﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
社員達の視線が俺に注がれる。
感心していると言うより、自分達とそんな歳も変わらない俺が褒め
られたのがムカつくみたいな顔に見える。
もー⋮⋮俺帰りたい。
いや、やっぱ帰りたくない。
誰もご飯作ってくれない暗い家に帰りたくないなぁーい。
あー奈津とセックスしたい!!
もう俺の気持ちは、頭の中の奈津の脚の間に一直線に飛び込んで行
く。
﹁こういう初めて来た事務所でこれだけ冷静でいられる奴がどれだ
けいる?お前ら出来るか!?﹂
いつの間にか横一列に並んだ社員が
﹃出来ません!!﹄
と声を揃えた。
ちょ⋮⋮ちょっと待って。
779
不意打ち過ぎて⋮⋮。
俺が必死に笑いを堪えていると、 ﹁初めての場所でこんな不敵な面構え出来るくらい、お前らもしっ
かり度胸持て!!﹂
﹃はい!!﹄
﹁お前らに足りないのは何だ!?今教えてやったろ!!﹂
﹃度胸です!!﹄
⋮⋮何これ。
俺は呆気に取られた。
体育会系とは聞いていたが、こんなタイムボカンシリーズもビック
リなアホな悪役は見たことない。
俺を笑わそうとしてるとしか思えない、つーかもう限界。
高浜、アウト。
﹁しかし高浜も余裕こき過ぎだぞ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁お前何ニヤニヤしてんだ?入って来るなり人の女口説くしな﹂
何で俺にとばっちり来たのか解らんが、莉奈の今の男はこいつか。
堕ちたな、莉奈。
大きなお世話だが、俺と結婚を夢見てただけあるな。
男を見る目が無さ過ぎる。
ふと俺が顔を上げると、部屋の前方の社長のデスクの横の壁にガラ
780
ス張りの部分があって、その大きな窓から広いオフィスを覗ける事
に気付く。 さっきのやり取りを見てたんだな。
﹁高浜、お前ちょっと俺の為に一肌脱ぐ気はないか?﹂
﹁⋮⋮何をすれば?﹂
﹁ここにちょっとの間、来てほしい﹂
﹁来てほしい、とは?﹂
こんな体育会系の社風は俺には合いません、女の子いっぱいの華や
かなカンパイワーク系に転属して下さい、とは言えない。
鹿田社長の逆鱗に触れてシメられた同業者の末路を知っているだけ
に、俺は出来る限り慎重に出ようと思った。
﹁フルで来いとは言わないが、お前もやる事ないだろ?週4くらい
でお前もここに来い。
お前が来れば雰囲気も変わりモチベーションも上がるのを期待して
いる﹂
﹁⋮⋮はい﹂
フルで来いとは言わないが週4。
殆ど一緒じゃねーか、しかもさりげなくボランティアっぽい感じだ
し。
まぁ俺の可愛い可愛い部下に儲けが行く訳じゃないなら、こういう
役目は俺がやらないとね。
バックがでっかいだけに逆らうと厄介な方ですしね。
781
﹁じゃ、俺は席外す。高浜も来い、急だったから飯まだだろ﹂
えー食べちゃったよ、さっき。
とか言っちゃいけないんですよね、こんなん続いたらサラリーマン
の皆さんもメタボになっちゃいますね。
でも相手が相手だし断れませんよね、仕事の話だとね、立場上ね。
俺は一列に並んだ社員の前を通り、鹿田社長の後を追った。
事務所を出ると、一斉に視線が注がれる。
そして一瞬だけ莉奈と目が合った。
﹁ちょっと出るから頼むぞ、りーたん﹂
りーたん!?
俺はまた不意打ちを喰らうが、りーたんは冷静に顔色一つ変えずに
﹁解った、いってらっしゃい﹂
と俺とは目を合わせずに言った。
奈津川を奈津と呼ぶ俺の遥か上を行く愛称。
愛されてるじゃん、りーたん。
俺はバックレた身でありながら、ちょっと安堵した。
ここは男性と女性の違いかもしれません。
女性は次の本命が出来ると、何かしら都合が悪くなるまで昔の男を
サッパリ忘れる方が多い気がしますが、
男性は一度好きになった女性は余程の事をされない限り、なかなか
情だけは消えないんです。
まぁ平素思い出しもせず忘れてる癖して今更何言ってんだ、ですけ
どね。
犬と猫の違いみたいなものだと思います。
俺がそんな事を考えているとは知らない鹿田社長は、エレベーター
782
に乗り込んだ瞬間から仕事の話を始めた。
﹁お前、この業種どう思う﹂
﹁出会い系、ですか﹂
法律が変わり、闇金の取り締まりが厳しくなって出会い系やオレオ
レ詐欺に行く闇金業者は多かったと思う。
ネズミ講と一緒で所詮、頭打ちの来る商売だ。
ネズミ講だって、もし順調に行くといずれ日本の人口を超えてしま
うのにそれに気付けない奴が引っ掛かる。
闇金だってオレオレ詐欺だって、その先の広がりは望めない。
先細りなのが目に見える。
アウトローでリスクを冒すならもっと、みんなが幸せになる将来性
のあることしたくないの?
﹁本当に最終的に客同士で出会えるなら、まぁ出会い系としてはサ
クラ使うのはアリでしょうね﹂
﹁馬鹿だな、高浜。それじゃ客が減るだろ﹂
はぁ!?
何言ってちゃってんの、このコロポックルは!?
俺は顔に出さないように努めたが、売り上げが思わしくないであろ
う理由が一発で解った。
客からタカっちゃいかんって。
俺が上司なら説教部屋行きだが、それをダイレクトに言っては鹿田
社長に拷問部屋に送られそう。
でも俺に売り上げ上げさせたいのか。
783
考えろ、俺。
﹁客はな、馬鹿だからいきなり数千万やるって言われてホイホイ数
万使うんだよ﹂
﹁それが継続出来ればいいんですけどね﹂
﹁それが出来るアタッカーがいない﹂
アタッカー⋮⋮メールを打つサクラの事か?
いや、つーか絶対無理じゃんよそんなん。
まずあんたが手本見せろ。
やだ、この人ちょっとおかしいのかしら?
ちゃんと見ててあげないと駄目じゃないの、りーたん。
﹁そこで、お前くらい頭の切れる奴にやらせたらどうなるか、それ
を見たい﹂
﹁⋮⋮俺がアタッカーをやるんですか?﹂
﹁いや、お前には現場指揮を取って欲しい﹂
﹁俺は出会い系に関しては全くの素人なのですが﹂
﹁そこから一気に巻き返すのがお前のすごいところだ。お前の能力
は俺もかなり買っている﹂
うわー。
俺はとてつもなく面倒臭い事を引き受けちゃったのを感じた。
まぁ⋮⋮でも出会い系なんて自発的には絶対手を出さない畑なので、
784
いい体験になるかもしれない。
俺は小さな鹿田社長の横顔を見ながら、そう思った。
何だか男同士で来る感じじゃないカフェに入り、鹿田社長と俺はメ
ニュー表を広げた。
﹁俺は最近歳なのか、余り食えないんだよな⋮⋮とりあえずホット
だけでいいや。高浜、お前は若いんだから気にせずガッツリ食って
いいぞ﹂
えぇえ!?
こんな時、恐ろしく大食漢のあいつがいてくれたら⋮⋮と、俺は産
婦人科医の友人、永山の顔を思い浮かべた。
あーーもうサンドイッチをハーフにしなかったのが悔やまれる。
俺はもう永山になった気分で、軽食のメニューを見ると、事もあろ
うにサンドイッチしかない。
もういい。
俺はサンドイッチしか食べられない体質になったんだ、そう思う事
にした。
﹁お前、それで足りるのか﹂
﹁最近太り気味なので﹂
﹁全然太ってないぞ、女みたいな事言うなよ﹂
太ってたまるか。
ここ10年は体脂肪率一桁代キープしてる俺は鹿田社長の優しさに
逆切れする。
何かね、最近ちょっとお腹一杯まで食べるとすぐプニッてするんだ
よね、背中とか脇腹が。
785
とりあえずコーヒーと本日のサンドイッチセットを頼むと、鹿田社
長が話を戻した。
﹁高浜、お前ならどんなメールの文章打つ?﹂
﹁それは⋮⋮出会い系での話ですか﹂
﹁当たり前だろ、お前と女のイチャイチャしたメールなんかに興味
ねぇぞ﹂
イチャイチャしてません。
俺が女から受け取るのは件名無し絵文字無しの一行メールです。
⋮⋮⋮いや、待て。
﹁イチャイチャしたメールは打たないんですか?﹂
﹁そんなんより、何千万あげますとか中出ししてくれたら100万
円とかの方が食いつくだろ﹂
﹁それで食いついてます?﹂
﹁あ?﹂
﹁もし俺や社長が年収300万以下の彼女無しのサラリーマンやフ
リーターだったら⋮⋮パトロンみたいな女が欲しいって思いますか
ね﹂
﹁年収300万なの?﹂
﹁200万でも100万でもそこは構いませんよ。キャバクラにハ
786
マって身を崩す男って、お姉さんにパトロンになって欲しくて通う
訳では無いでしょ?﹂
﹁そりゃ落とすまでが楽しいんだよ。あ、うちの会社の受付嬢は別
だけど﹂
﹁⋮⋮受付嬢は別?﹂
﹁お前もさっき口説いてたんだろ?あいついい女だから、俺が引き
抜いたんだ﹂
﹁口説いてませんよ﹂
ちょっと昔話をしていただけです。
まぁでも早い内に莉奈には口止めしとかないとかな。
金だけ残して俺に逃げられたみたいな話とか鹿田社長にされたら、
俺が危ういかも。
﹁あいつな、ああ見えて今年33歳なんだよ。見えないだろ﹂
﹁⋮⋮そうなんですか﹂
﹁うん、すごくいい女だ。お前もいい歳なんだから、そろそろ本腰
入れていい女探した方がいい﹂
﹁そうします﹂
何で俺にいい女いない前提でお説教されてんの!?
もーーこの人、全部知っててわざと俺の事おちょっくてるんじゃな
いの!?
787
だって人をおちょくるのってすっごい楽しいですもの!!
まぁ⋮⋮される側になると頭に来るけどな。
﹁まぁあいつの話は置いといて﹂
りーたんからの閑話休題。
そして意見を求められるが反論が許されない、不毛なビジネス討論
に戻る。
﹁お前はキャバクラと出会い系の客が同じだと言いたいのか﹂
﹁まぁ⋮⋮キャバクラに通う奴の方が俺は理解出来ますけどね。狙
ったお姉さんが初回でアフター付き合ってくれてアッサリとヤラせ
てくれたら、次にその店に行きたいですかね﹂
﹁俺は行かないかもな﹂
﹁だから色恋で釣った方がメールのやり取りの数は稼げると思いま
す。金銭の授受や性行為のみを目的とするやり取りだと、振込み先
を伝えるまでで終わってしまうのではないでしょうか。だから金銭
の授受の合間に、客側が情を持つような色恋要素を入れると少しは
長続きするのかな、と﹂
﹁高浜お前⋮⋮﹂
鹿田社長がじっと俺を見据えた。
何だか、鷹にさらわれて巣に連れて行かれたウサギの気持ち。
社長の経歴はよく知らないが、どうしたらこんな顔が出来るんだ⋮
⋮とか、自分の出生は棚に上げちゃう俺。
もしかして、何か間違った事言っちゃったかな?
788
俺が自分の言った言葉を反芻していると、
﹁お前、本当に頭いいな﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
いや、絶対おちょくられてるんだって⋮⋮そう思いたい。
でもあの応援団みたいなのを大真面目に社員にやらせるお方だし⋮
⋮まぁやる方もやる方だけど。
サンドイッチが運ばれて来て、俺は本日のサンドイッチが何か聞か
なかった事に後悔した。
タルタルビッグカツサンドって。
とっても美味しそうなんだけどお腹一杯。
作ってくれた厨房の人に申し訳無い気持ちで、俺は食べ始めた。
﹁じゃあお前はキャバクラのような色恋と言うか、駆け引きメール
を打てと言うんだな﹂
﹁まぁ⋮⋮相手のお客さん次第ですよね、援助目当てのおめでたい
男もいるでしょうし﹂
俺が莉奈と出会った頃の経済状態で、悪徳出会い系など何も知らな
い場合に﹁数千万円援助しまーす﹂みたいなメールが急に着たらど
う思うかな。
ちょっと考えてみる。
⋮⋮⋮多分、イタズラだと思ってスルーか、よし、万が一本当だと
しても恐すぎて何もしない気がする。
だってあんだけ忙しいラッシュ時の駅のキオスクですら、時給10
00円行くかどうかですよ?
789
俺がやってる店の綺麗なお姉さんですら昇給と売上還元はかなり優
遇しておりますが、基本時給は一律3500円スタートです。
親の遺産と宝くじくらいだろ、ほぼノーリスクな大金が入る手段っ
て。
﹁なるほど、やっぱりお前に来てもらって良かった。お前は俺が見
込んだだけあるよ﹂
鹿田社長はさも得意げに言った。
中学生なのに九九出来て凄いね、そんな褒められ方されても嬉しく
ない。
自分がどれだけ経営の手腕があるんだと言われると窮するが、こん
な社長の元で働く社員は可哀相な気がする。
ワンマン社長の目茶苦茶な威圧に加えて、毎日が笑ってはいけない
状態だもんな。
出会い系⋮か。
俺なら自発的にはまず手を出さない畑だ。
経営を任される訳でもなさそうだし、案外得るものはあるかもしれ
ない。
そう思うと何故か興味が⋮⋮よし。
﹁社長、では今日からよろしくお願いします﹂
﹁え?何が?﹂
関西だったら店にいる人間全員が椅子からずっこけるのではと言う
返事を真顔でされたが、俺はめげずに続ける。
﹁この仕事、教えて下さい﹂
790
﹁おっ、やる気になったか。お前の持ち前のモノでうちの社員を扱
き倒してやってくれ﹂
俺の持ち前のモノで扱き倒してとか、もー社長⋮⋮って、社長の顔
は大真面目だ。
てっきり狙ったのかと思った。
天然系には耐性があると思っていたが、俺もまだまだ未熟。
﹁食い終わったな、じゃ行くぞ﹂
そう言って鹿田社長はさっさと店を出る。
あ、会計は俺持ちか。
別にいいけど、面白かったし。
会計を終わらせてスタンプカードを貰って説明を受け、店を出ると
鹿田社長は歩道のど真ん中の灰皿も無い場所でタバコを吸っていて、
俺の姿を確認するとポイッと排水溝に捨てた。
あー⋮⋮やっぱ俺、この人無理だ。
他人に苦手意識を持つのは久々で、だから逆に好奇心に変わってく
る。
何でこの人はこんなに俺をイライラさせるんだろう。
そして何で俺はこの人が許せないと思うんだろう。
答えはすぐ出る。
その不快感を相手に伝えられない自分に苛立っているだけ。
きっとそう。
﹁遅かったな、高浜﹂
﹁すみません﹂
791
﹁じゃ、オフィス戻るぞ﹂
﹁はい﹂
俺のやり方で、管理共を⋮⋮何だっけ。
まぁいいや、暇だもの。
俺の暇潰しが違う物を潰しちゃう結果になるなんて、この時は思わ
なかったけど。
再びオフィスに入ると、莉奈が脚を組んで下目遣いでネイルバッフ
ァで爪を磨いていた。
こんな受付嬢、嫌過ぎる。
﹁りーたん、こいつに仕事の説明してやって﹂
ちょっと優しい鹿田社長の言い方が微笑ましい。
さっきは堕ちたとか思ってごめんね、りーたん。
﹁仕事の説明?私が?﹂
意外にりーたんは鹿田社長に高飛車に出る。
女からの扱われ方だけはちょっと社長に共感出来る気がする。
いいよね、﹁何言ってんの?死ねよ﹂って蔑む目つき。
﹁そうだ、こいつには当分ここで仕事をしてもらう事になった﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁変な事されそうになったらすぐ俺に言えよ﹂
792
﹁社長の大切な彼女に何もしませんって﹂
俺はにこやかに言い放ち、りーたんも引き攣った笑顔で応じた。
﹁私、英語話せないけど﹂
﹁大丈夫、これでも日本人だから日本語で平気だ。って、りーたん
さっき話してたでしょ?色々教えてあげてよ﹂
﹁えぇー?何で私が﹂
﹁こいつは見た目に反していい奴だから平気だよ﹂
鹿田社長は身体を屈めて思春期の娘を説得する様に、りーたんを説
得する。
お互い苦労しますな、気の強い女好きになると。
りーたんはダルそうにネイルバッファをペン立てに戻すと、
﹁西田莉奈です﹂
と俺に向き直った。
さっきの俺との再会に動揺していた莉奈はもういない。
﹁高浜武志です﹂
﹁じゃ、何かあったら呼べな。りーたんも親切にね﹂
﹁はい﹂
793
鹿田社長が何度も振り返りながら事務所に入って扉が閉まると、り
ーたんは一瞬で莉奈に戻った。
﹁何で今更現れるかなー⋮⋮﹂
﹁知らねぇよ、何でお前と再会しなきゃならんのか説明しろ﹂
そう言って俺は莉奈の隣のパイプ椅子に座る。
何かこの木目の机とパイプ椅子って学校とかでよく使う組み合わせ
だな、体育館の前とかの受付みたい。
﹁嫌なの?﹂
﹁嫌とかじゃねぇけど、お前愛されてんな﹂
﹁⋮⋮まぁね﹂
前を向いたまま、横並びで俺達は会話を続ける。
こちらからは蛍光灯の反射でよく見えないが、鹿田社長のデスク横
の窓から俺達は丸見えな訳で。
﹁お前さ、俺との﹂
﹁何それ、言うメリット無くない?﹂
﹁ならいいけど﹂
﹁つーかあんたがここまで出世するとは思わなかった﹂
﹁お前、多分アゲマンなんだよ﹂
794
﹁うるさいし。携帯代払えなくて困ってた癖に。ちゃんとご飯食べ
てる?﹂
うぅ⋮⋮何か母親といるような気持ちになる。
若かったから、こういう女に惹かれたのかな。
つーかあんなに甲斐甲斐しいこいつでも33歳まで独身なのか。
解んねぇな、結婚市場って。
﹁で、りーたんは俺に何を教えてくれるのかな﹂
﹁あんたがりーたん言うな﹂
﹁西田さん、僕に仕事を教えて下さい﹂
﹁⋮⋮机にタイムカード並べて﹂
﹁え?﹂
﹁ここはね、6時と18時の二交替勤務なの﹂
﹁うん﹂
﹁で、出勤者と退勤者のタイムカードをここを境にそれぞれ並べる﹂
﹁何で?自分で押すもんじゃねぇの?﹂
﹁不正防止だって﹂
﹁はぁ?﹂
795
俺はコールセンターばりに並んだ数十人のバイト達の後頭部を眺め
た。
あいつら全員とほぼ同数の人間が6時と18時に一斉にここに殺到
する訳?
効率悪いにも程があんだろ、この人数で。
並んでるだけで数分経過して勤務時間超過したり遅刻になったりし
ない?
でもまぁ、そう決まってるならそうするしかない。
こんな馬鹿馬鹿しいやり方する機会なんて逆に二度とないだろうし。
﹁だから、顔を覚えてどんどん押して行くしかないんだけど﹂
﹁あのさ、お前から鹿田社長にこれ効率が悪くない?って突っ込め
よ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁いや、まずお前が疑問持て﹂
﹁でも他にやる事ないしなぁ。シフト変更とか欠勤者の入力とかく
らいで﹂
﹁⋮⋮⋮後は12時間、ネイルケアかよ﹂
﹁後はストレッチしたりさりげなく雑誌読んだり﹂
﹁お前が不正勤務だろ﹂
﹁まぁそうだね﹂
796
ダメだな、鹿田社長。
りーたんは頭も身体も働くタイプの女なのに、12時間雑誌読んで
ネイルケアさせちゃうとか。
どこから取っ掛かろうか以前に、突っ込みどころが多過ぎて、もう。
俺もいつまでも訳もなく座っているのが苦痛で、タイムカードを並
べてみる。
午前午後で区切られて保管されているそれらを、机の真ん中から左
右にそれぞれ並べる。
﹁そんな綺麗に並べなくても﹂
﹁何か嫌だろ、等間隔じゃねぇと﹂
﹁もー相変わらずそういう潔癖で几帳面なとこ変わってないんね、
だから結婚出来ないんだよ﹂
﹁お前が言うな﹂
﹁私はしないだけだもん﹂
﹁俺も未だに結婚願望ねぇし﹂
﹁まぁあんたに捨てられてから、結婚は諦めたんだけど﹂
捨てたんじゃなくて逃げたんだよ、お前があんまり結婚匂わせるか
ら結婚願望が皆無な俺といてもいいことないと思って。
﹁俺が悪いのか﹂
797
﹁あんたのせいだもん﹂
﹁俺みたいなのと結婚考える時点でお前がおかしい﹂
﹁だからもういいの、私は結婚は諦めた﹂
﹁まぁお前もいい相手見つかって良かったな﹂
﹁いい相手?﹂
﹁結婚する以上の価値のある相手だよ、俺にもそういう女がようや
く⋮﹂
﹁結婚する価値も無い、じゃなくて?﹂
﹁お前⋮⋮﹂
俺は思わず鹿田社長に同情した。
椅子に縛られた人間に高笑いしながら、ゴルフクラブでフルスイン
グ数十発かます様な鹿田社長が、あんなに下手に出てまでりーたん
りーたん言ってるのに。
奈津が俺のいないところでこんな事言ってたら⋮⋮どうしよう。
﹃お前と結婚する価値なんてあるか!!﹄
⋮⋮あ、想像したら何か下からドキッって来た。
悪くはねぇな、うん。
﹁武志、おめでとう﹂
798
﹁何がだよ﹂
﹁いい人見つかって﹂
﹁完全に俺が捨て置かれてる感じだけど﹂
﹁あんたが?捨て置かれてるって何なの?﹂
﹁かなり片思い。俺の一方通行﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
﹁信じてねぇな﹂
﹁まぁね﹂
そんな話をしてると、机に置かれていた携帯電話から着信音がした。
﹁あ、メール⋮⋮欠勤か﹂
そう言って莉奈は後ろのPCに向き直り、俺に画面を指差す。
﹁このメールまず見て﹂
携帯の画面にはアルファベットと数字が数文字で件名、本文に17
日欠勤と言う文字が見えた。
﹁このスタッフナンバーを入力すると、個人シフトのページが出る
799
んだけど⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁欠勤って来たから、この青いシフトのラインをクリックして消す﹂
﹁うん﹂
﹁で、勤務日前日の欠勤だから罰則無し﹂
﹁罰則?﹂
﹁うん、当日欠勤は翌週の時給マイナス100円、無断欠勤はマイ
ナス200円﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
そこはまぁいいか。
こういう業界は理解不能な出勤をする奴が多いし、それに辞める時
もバックレが前提だし。
罰則を設ければきちんとやるだろう、そういう事か。
俺は画面を見て、手順を理解した。
﹁⋮⋮で?﹂
﹁終わり﹂
﹁あのさ、他に何かやる事ねぇの?﹂
﹁無いよ﹂
800
﹁いやいやいや、もっと色々俺に説明する事とかあんだろ﹂
﹁説明?何を?﹂
﹁サイトの事とか、俺は何にも解んないんだが﹂
﹁あー⋮⋮そっか。まずね、サイトは大きく分けて3つ﹂
﹁うん﹂
俺は手帳を出して、メモを始める。
﹁ラブゲット、ラブリーメール、人妻セレブ専科﹂
﹁何か1個だけおかしいと思う﹂
﹁まぁ聞いて。この中で、ラブゲットのみは最終的にお客さん同士
がやり取り出来る﹂
﹁後は?﹂
﹁後は言っちゃえば全部サクラ﹂
﹁まず会えない、と。で、課金サイトは?﹂
﹁3つとも有料サイト﹂
﹁優良⋮?サクラ使って優良って何だよそれ﹂
801
﹁有料違いだよ、有るに料理の料の方﹂
﹁はいはい。3つとも有料ね﹂
うわー⋮⋮長くやる気ねぇだろ。
手短に稼ぐにしても規模でかいし、上が何考えてるのかサッパリ解
らん。
﹁⋮⋮で、無料サイトはバイトの研修用に1つあるだけ﹂
﹁ははは、成る程な。サクラの練習って事か﹂
﹁そう。後は写メッチュ﹂
﹁何それ﹂
﹁普通に写メを送って閲覧出来る簡易プロフみたいなサイトなんだ
けど、ここに来た写メをキャラクター用に使ってるの﹂
﹁キャラクター⋮⋮?﹂
﹁これから話す。キャラクターってのは、メールを送ってるとされ
る人物﹂
﹁数千万くれる未亡人とかの?﹂
﹁そうそう、それ﹂
﹁架空のキャラクターに実在の人間の写メを無断転載してるって事
な﹂
802
﹁武志ってやっぱすごい頭良いよね﹂
いや、お前が説明してくれたのまとめただけだが?
莉奈⋮⋮あんなに良い子だったのに。
俺は二十歳くらいの莉奈と知り合った頃の気持ちを思い出し、少し
切なくなった。
お互い10年ちょっとで取り返し付かないくらい汚れたね、そんな
感じ。
﹁あのさ、客って自分で登録するのか?﹂
﹁殆どが違う。誘導って言って全然違う他のサイトに登録した個人
情報を使ってるの﹂
﹁全然違う他のサイト?﹂
﹁女性なら占いサイトとかデコメサイトかな。男性ならまぁ⋮アダ
ルトサイトとか。後は懸賞サイトなんかからも結構﹂
﹁そこに登録すると、自動的にここの出会い系サイト全てに登録さ
れちゃうって事か﹂
﹁そういう事。まぁ無料でおいしい思いを出来ると言うアマアマな
人間の方が釣られやすいって事で﹂
﹁あのさ、無料でおいしい思いをしたい奴が登録した覚えの無い有
料サイトに課金してメールするのか?﹂
﹁そこは難しいよね﹂
803
難しくねぇだろ、答えはほぼノーとしか言いようがない。
携帯にいきなり来る変なメールの正体が解った。
そうか⋮⋮アダルトサイトもやっぱり繋がってるんだ⋮⋮。
アダルトサイトに課金は全然惜しくないが、サクラサイトに課金と
か俺には解らない。
﹁でもね、無料って言葉に全く疑問を持たない人間は騙し易いかも﹂
﹁どういう事だ?﹂
﹁これ使おうかな﹂
莉奈はまた違う使い古された携帯を出した。
2年くらい前の機種で、塗装も剥げて赤とグレーの斑模様になって
いる。
いやー無理、何か他人の使い古しの携帯とか触りたく無い。
﹁すみませーーーん、赤使いまーす﹂
そう莉奈が叫ぶと、振り向きもせずに最後列の男が手を挙げた。
﹁了解でーーす﹂
莉奈が言った赤とは、この斑携帯の事だろう。
﹁じゃサイト開くから、武志やってみて﹂
﹁は?﹂
﹁いいから大丈夫だから﹂
804
﹁その携帯じゃないとダメ?﹂
﹁うん、アタッカー研修用IDでサイトに登録してある携帯だから﹂
﹁客の立場になれるって事か﹂
﹁そう﹂
俺は意を決して、その汚い携帯を掴んだ。
何かグレーの部分から粘液出て来そう⋮うぇえぇ、気持ち悪い。
画面を見ると、ハート一杯のラブリーメールと言うサイトのロゴが
見えた。
﹁さ、使って使って﹂
﹁無料って書いてあるけど?ポイントも300ptって書いてある
し﹂
﹁うん、いいから使ってみなって﹂
俺はとりあえず、受信箱を見てみる。
︻白鳥麗子︼と言う女性から夥しいメール。
メールを開くと、俺は余りの内容に顎が床まで落ちそうになった。
﹃日本の未来の為に汚い政治家にお金を渡したくないので8000
万円受け取って下さい!!﹄
って件名長ぇよ!!
どんだけ慌て者なんだね、白鳥麗子さんは。
805
本文読むのもうっぜぇ、じゃ次。
﹃まだご決断頂け無いのですか!?こちらはお振り込みする用意は
出来てます!!早く︻受取希望︼と送信下さい。そうすればあなた
にすぐ8000万円、もう準備は出来ているんです!!﹄
だから件名に全文入れる理由は何だね、白鳥さん。
奈津を見習え。
8000万円振り込むって⋮⋮作成した人間は意味は解ってるのか?
俺は早速︻受取希望︼と件名に入れて﹃贈与税とか税務署には何て
言えばいいんですか?﹄と知恵袋的な文言を入れて送信してみる。
すると1分後、目の覚めるようなピンク色の髪のお兄さんがトライ
バル模様の入った腕を上げる。
﹁すんませーん。白鳥麗子で、税務署とか⋮おくるよ税?の質問来
たんですけどぉ﹂
おくるよ税⋮⋮。
もしかしたら、俺はものすごくハイレベルな笑いの国に迷いこんで
しまったのではないだろうか。
すると後ろの方に座っていたさっき莉奈に返事をしたと思われる黒
縁眼鏡の美容師風の男がスタスタと、おくるよ税のお兄さんのとこ
ろに歩いて行った。
何やらモゴモゴと話している。
何話してるのかとっても気になる。
数分後、グロ携帯に白鳥麗子様から返信が着た。
﹃大丈夫です!!私は政府の公認裏ルートからお振り込み致します
のであなた様が何か損をする事は一切ございません!!なので早急
に︻受取希望︼とご送信下さい!!﹄
806
政府公認裏ルート⋮⋮⋮。
あれだけ真剣に話し合ってたっぽいのに、この返信。
只者じゃないな。いや、︻受取希望︼って送ったじゃん白鳥さん!!
あんたの大丈夫は信用出来ん!!
俺は笑いを堪えていた名残の目尻の涙を拭き取りつつ、気付いた。
ここで﹁受取希望って送ったじゃん!?﹂と客に思わせツッコミを
待てば、同じ内容で2回分のポイントが消費出来るって事かな。
俺はトップページに戻り、ポイントを確認すると160ptとガッ
ツリ半分近くが減っている。
﹁ねぇ莉奈、ポイント消費一覧表ってどっかねぇの﹂
﹁よく気付いたね、ご利用規約に書いてあるよ﹂
﹁ご利用規約?どこだ⋮⋮これか﹂
それはページのかなり下の方にあった。
そしてそのご利用規約のすぐ上に、﹁無料進呈分のポイントをご利
用なさったお客様は後払い希望とさせて頂きますので御了承下さい﹂
と、いやいやそれは一番上に書くべきだろ?みたいな一文があくま
でさりげなくあった。
後払い⋮⋮?
つまり、300ptがマイナスになったらそこから料金発生って事
か?
﹁ねぇ莉奈、後払いって何?﹂
﹁ポイントがマイナスになった分の事だよ﹂
﹁それを払うって前提でどんどんマイナスポイントにする訳か﹂
807
﹁そう。まぁでも後払い上限は2000ポイントまで﹂
﹁2000ポイント⋮⋮﹂
俺はご利用規約をクリックして読む。
まずは四角く囲まれた、ポイント一覧表。
これが見たかったんだよ、ってオイ!?
目で見て、俺は絶句した。
1pt=10円
メール閲覧⋮50pt
メール送信⋮30pt
写メ添付⋮200pt
特殊文字⋮10pt
⋮⋮えぇええぇえ!?
あの脳味噌オープンリーチなメール見るだけで500円!?
うっかり返信したら800円。
写メのっけるのに2000円。
募金されるとかならまだ考えるけど、おくるよ兄さん達の給料にな
っているのかと思うと感慨もヒトシオです。
だってその辺でいいなと思った子に声掛けて、オシャレなカフェで
お茶しても2000円も行かないだろ!?
その後ラブホ入ってもトータル1万円で出来ない事もない話な訳で。
⋮⋮⋮出会い系の存在意義自体を考えてしまう。
つーか特殊文字って何だ?
俺はご利用規約を読み進める。
勝手に他のサイトからの宣伝メール飛ばすけどいいよね、ユーザー
808
同士のやり取りには一切関与しないよ、個人情報はこっちで必要な
時に色々使うけどいいよね、特殊文字って︻︼とか<>も含むよ、
支払い方法はビットキャッシュとか決済方法は色々あるよ、後払い
になっちゃったら2日以内に払わないとちょっと怖いよ⋮⋮等など、
少々人格に問題のある男でもここまで自分本位な事は言わないであ
ろう、俺国俺法な利用規約が展開されていた。
まぁ俺もちょっと今、新しい事始めるに当たって似た様なもの作っ
てますけど、何か次元が違う。
でもみんなこれ読んで納得して課金して⋮⋮るのかな。
でもまぁ、返信するか否かはお客様の明確なご意思による判断です
ものね。
法的には完全に詐欺だと思います、が。
タバコのポイ捨てにイラッとする俺だが、詐欺と言うものに関して
は内容にもよるが寛容な感覚がある。
意識の無い人間や身体の自由が利かない人間、人の決定的な弱みに
付け込んだモノや本人に無断で個人情報を⋮⋮と言うのはかなり悪
質な犯罪だと思うが、中出ししてくれるだけでひゃっくまんえーん
等の謳い文句に本気で乗っちゃう人って、その人自体がどうなんだ
ろう。
お前の人生はどんな人生だ!?
と、聞きたい。
もし俺の前に超絶成金系の女が現れ、﹁中出ししてくれるだけで1
00万円よ!!﹂と現ナマで目の前にポンと置かれたら、間違いな
く俺はダッシュで逃げる。
それがメールと言う媒体で来る訳で、そのメールを打っているのは
贈与税も読めない三十路近いお兄ちゃん達。
もしかしたら広い世の中にはホントにあるのかもしれないから、信
809
じると言う人は俺は止めない。
でもまぁ⋮⋮詐欺集団の親玉の鹿田社長が莉奈のキャラに騙されて
いる訳で、知らない内に俺も何かに騙されているのかもしれないし
ね。
まぁ⋮⋮奈津が実は海の向こうに行ってない、とか。
永山が実は巧妙に表情を使い分けて計算高くボケを繰り出している、
とか。
でももしそうだとしても、ショックはかなりショックだが﹁うっそ
ー俺、騙されてたぁー!﹂ってドッキリかまされたみたいな気分が
あると思う。
よくここまで騙せたね、やられたわーみたいな感心に近い気持ちが
少しはあるだろう。
騙した自分を如何に、楽しませてくれるかどうかが大きい気がする。
フィクションとノンフィクションの違いと言うか。
ファンタジーが嘘でも許されるけど、ドキュメンタリーは嘘ではい
けない。
ミッキーに人が入っていても誰も怒らないが、富士急ハイランドの
ジェットコースターに乗ってディズニーレベルだったらみんな怒る
と言うか。
そこで金だけ搾り取ったら、恨みしか残らないだろうと思うんだけ
ど。
説明下手で解りにくいか、ごめんね。
﹁たーけーし﹂
いきなり耳元間近で声がして、俺は我に返った。
810
﹁そこの窓から全部見えてるんだぞ、りーたん﹂
﹁知ってるよ﹂
﹁何がしたいんだよ﹂
﹁えー?私の二十代の仕返しかな﹂
﹁はっ!?﹂
﹁あんたに捨てられて目茶苦茶になった私の時間の代償を、って感
じ﹂
﹁捨ててねぇだろ﹂
﹁⋮⋮捨てたでしょ﹂
﹁逃げたんだよ、お前の望みに答えられねぇから﹂
あ、言っちゃった。
寝てる時のヨダレの如く、抑え切れなかった自分に失望。
もしかして俺、カッとなると言ってはいけない事を言ってしまうタ
イプなんだろうか。
えーそれって結構ダメダメじゃん。
直さないとね、そういうの。
﹁俺が必死で作ったナケナシの150万円渡しただろ﹂
﹁お金の問題じゃない﹂
811
﹁じゃ何、ずっと俺の事恨んでたの?﹂
﹁すごい探したよ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁今の住所も知ってるし、赤いコルベット乗ってるのも知ってるけ
ど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ちょっと待て。
それここ数年の話だぞ?
俺はちょっとグロ携帯から莉奈に目を移した。
すぐ横に、目が無表情の莉奈の笑顔があったので、思わず目を伏せ
た。
﹁今度は私の番かな?﹂
﹁えぇー⋮⋮?﹂
あ、これってこういう気持ちの時に言う言葉か。
俺は自分で蒔いた種ながら莉奈に同情しつつも、
かなり引いている自分がいた。
どうなんだ、この話。
莉奈の目的が全く解らない。私の番って何なの?
﹁私も若かったからね﹂
812
﹁俺も若かったしね﹂
﹁今は恨みしか無いけど﹂
﹁今恨まれても困るけど﹂
俺は椅子にキャスターが付いていればいいのに、と思った。
莉奈が俺の方に乗り出している分、俺が机からリングアウトするよ
うに斜めになっている。
何か平行記号//みたいな感じ。
﹁お前さ、本気で言ってる?﹂
﹁あんたの顔見たら全部思い出した﹂
﹁それまで忘れてたんだろ?﹂
﹁忘れようと頑張ったって言ってくんない?﹂
何で俺が悪い事になってるんだろう。
結婚願望は無いって何度も伝えたし、それでも何度も婚姻届まで突
き付けられて泣かれたら、もう別れるしかないだろ。
﹁俺の結論な﹂
﹁は?﹂
﹁俺ごとき忘れるくらいの男を捕まえないお前と、俺を忘れさせら
れないお前の歴代の男の努力不足﹂
813
﹁自分は悪くないんだ﹂
﹁俺の何が悪いんだ﹂
何故か俺はどんどん煽る。
⋮⋮もしかして俺、イライラしているのか?
厄介な方に誘導したい理由は何だ?
イライラに負けると好転するものも好転しない。
イラッとしたからって卓をひっくり返すような言動が許される訳じ
ゃない。
でもひっくり返したら楽しいだろうなぁ⋮⋮。
いやいやいやいや。
そして一方で、あのお金作るのにどんだけ苦労したと思ってんの!
?と言う気持ちが燻る。
生活費すらギッリギリだった俺が150万円ですよ?
まずこの思考が良くない気がするけど。
あぁああぁあもう何か嫌。
何か知らないけど、無性にバッティングセンター行きたい!!
カキーンってしたい!!
﹁何が悪いってあんた⋮⋮﹂
﹁お前の要求を飲まなかった俺が悪いのか?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁それとも俺が心底嫌そうに婚姻届に署名して、あのままヒモにで
もなれば、お前は満足だったのか?﹂
814
﹁それでも良かったな﹂
﹁だからお前は次に満足出来ねぇんだよ﹂
﹁何それ﹂
﹁満足しない現状に妥協してその中で相手より上に立とうとするか
ら、永遠に思い通りにならないスパイラルって事﹂
﹁どんだけ薄情なの!?﹂
﹁じゃ薄情な男と結婚しないで済んで良かったじゃねぇかよ﹂
﹁はっ、そうかもね﹂
俺はもう自分の感情の触れ幅を抑えるのが嫌になり、
﹁18時には戻って来るから﹂
と事務所に行った。
こうして逃げる時点で完全に俺の負けなのかもしれないが、こんな
オッサンVSオバサンの結論の出ない堂々巡りな昔話は嫌だ。
だって被害者ぶっての上から目線だもん。
下目遣いで蔑まれるのはドキドキするけど、上から目線でヨシヨシ
されるのは苦手と言うか、善意の裏の見下してる感じが嫌。
育ててくれた家族と分籍までして好きな方向に行きたい人間を、泣
き落としてでも婚姻と言う戸籍に縛り付けて飼いたいと思うって俺
の意向は完全無視な証拠。
815
しかもそれでヒモでいいとか、それじゃペットじゃねぇか。
ヒモが悪いんじゃない、ヒモである事を受け入れる奴がいるからヒ
モが生まれるんだぞ。
まぁそこで甘えるか甘えないかが、ヒモになるかならないかの分か
れ道なのかね。
一方的に尽くされるのが苦痛な俺には向いてなかっただけか。
事務所の扉を開けるに当たって、俺は鹿田社長に何を言われるかシ
ュミレートしながら或る程度練った。
覚悟はいいですか?
いいですとも、いっちにーのさぁーん!!
﹁失礼します﹂
社員達の目が注がれるが、俺は社長の動向を伺う。
社長は携帯の画面に釘付けだ。
﹁ん?どうした?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
﹁受付は飽きたか?﹂
﹁そういう訳ではありませんが、西田さんからは色々説明して頂き
ました﹂
﹁そう?あいつ愛想悪いから大変だったろ。でもさっきも言ったが
いい女なんだよ﹂
﹁いえ、親切に説明してくれましたよ。赤い携帯も使わせて頂きま
816
したし﹂
﹁もうそこまで教わったのか?﹂
いや、だって18時までやる事ないって言うし!!
シフト変更の勤怠入力してタイムカード並べて押す仕事だと聞きま
したけど?
﹁高浜は仕事の覚えが早いな﹂
⋮⋮⋮落ち着け。
これはきっとフェイクだ。
俺の反応を見る為のブラフみたいな何かそういうの。
俺の猜疑心を煽って一気に巻き返す魂胆もあるのかもしれない。
﹁⋮⋮高浜﹂
﹁はい﹂
ほら来た!
来たぞ!!
俺の中で緊張感が高まる。
あ、何かちょっと気持ち良い。
階段踏み外した時みたいなヒヤッとする気持ち良さだ。
﹁お前に聞きたいが﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ゲームする?﹂
817
﹁⋮⋮はい?﹂
ゲームする?とは、俺がゲーマーであるか否かの話なのか、それと
も鹿田社長が俺にゲームをするという意味なのか。
そういえば社長の顔⋮⋮ちょっと塗ればSAWのビリー人形とやら
にソックリじゃねぇか!!
いやぁあぁ。
映画自体は内容聞いただけで観たことはない。
結構血が出るみたいだから観る事もないだろう。
俺とここにいる社員の5人で何か生き残りを掛けてゲームみたいな
を始めろって事じゃなかろうな?﹁お前、ネトゲってする?﹂
﹁ねとげ?﹂
﹁うん、ネトゲ﹂
ネッ⋮トゲ⋮ーム?
解った、オンラインゲームの事だな!?
よし⋮⋮謎が解けた。
これで俺は自由だ!!
問題は俺が全然やった事ないってくらいか?
﹁課金制のですか?﹂
﹁そう﹂
今、SAWって言ったー!!
ちょっと個人的にヒットだが、笑う訳にも行かない。
818
何か今日、俺自身が何か変。
客観的に色々変なのは知ってるけど、主観的におかしいと感じる。
自分の感情に振り回されている気がする。
ビリー&りーたんカップル、おくるよ兄さん、そして笑ってはいけ
ない職場。
どれも俺には耐えがたいが、耐えろ。
こんな面子は一生味わえないかもしれない。
﹁高浜、どうなんだ?あれって面白いのか?﹂
﹁⋮⋮ハマり要素があれば初心者もハマる分野でしょうね﹂
ん?俺、何言ってんだろ。
全然意見として内容を成してない気がする。
でもハッキリ知らないって言うといきなり怒ったりするんだよね、
鹿田社長。
でもこんな意見、俺なら﹁お前何も考えてねぇだろ﹂って感じるか
も、軽はずみに言っちゃった自分を反省。
﹁やっぱそうだよな⋮⋮おいお前ら!!!﹂
﹃はい!!﹄
俺の懸念をよそに、社長の一喝で社員達が一斉にガターンと立ち上
がった。
このノリ⋮⋮やっぱダメだ。
俺はさりげなく、人差し指の第二関節を鼻の下に付ける。頼む、必
死で笑いを堪えている俺に気付かないでくれ。
﹁出会い系の次はオンラインゲームが来ると俺は思う。飯田、お前、
819
ネトゲする?﹂
﹁し、します!﹂
﹁詳しい?﹂
﹁あ、ある程度は⋮⋮﹂
飯田と呼ばれた真面目そうな眼鏡の男は、鹿田社長にビビりながら
も答えた。
﹁作れる?﹂
﹁⋮⋮イチからですか?﹂
﹁そう﹂
えぇーゲームってゲームが好きなら作れるもんなの?
料理と訳が違う気がするが、もしかしたらSAW言うものなの?
俺は萎縮しまくりの飯田に同情した。
﹁流行りのスイーツ、あれ美味しいの?﹂
﹁美味しいよ﹂
﹁じゃ作れる?﹂
﹁え?イチから!?﹂
﹁⋮⋮作れないの?﹂
って例えると結構な無茶振りじゃない?
﹁高浜﹂
﹁はい?﹂
820
﹁お前の知り合いなら、イチからオンラインゲーム作れるくらいの
スキルある奴がいるんじゃないか?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
思い付きの上に他力本願か。
そこは俺と一緒ね。
俺は鼻の下に指を置いたまま、ちょっと考えた。
そうだ、理工学部とか情報学部に進んだ奴らなら⋮⋮誰か何か引っ
張って来れるんじゃないかな。
こないだのNPO法人設立の際に協力して貰った時みたく、東京高
浜ランドの優待で何とか⋮⋮。
﹁少しお時間を頂くかと思いますが、探してみます﹂
﹁流石だな﹂
﹁確約は出来ません﹂
﹁格安?幾らなら雇える?﹂
﹁⋮⋮金額も当該の人物が見つかって交渉出来ればの段階の話にな
りますが﹂
﹁じゃトーガイ?の人間を探さないとな。お前らも周り当たってみ
ろよ!?﹂
821
﹃はい!!﹄
何だろうな。
俺はどうすればいいんだろう。
社長とはしばしば、会話が噛み合わないまま進んでしまう。
模試とかで全く解らない問題にぶつかった様な、久々な感覚に襲わ
れる。
でもきっと解答と言うか正答がある。
バツ付けられて見直し出来る環境って、恵まれてたな。
しかし、正答が1つでは無い可能性と、誤答から限りない正答に導
ける可能性があるのが大人の楽しいところだ。
困ったら楽しめ。
笑ってはいけないお笑い養成所でありながら、一歩間違えれば治外
法権のこんな職場に巡り会うチャンスはそう無いって。
﹁ちょっと携帯の電話帳見てみます﹂
と携帯を出そうと⋮⋮あれ?
えぇ?
さっきまで入っていたはずの携帯がポケットに無い。
﹁どうした?﹂
﹁いや、携帯が⋮⋮﹂
やだ、こんなアホ丸出しの返答。
だってちゃんと入れてたもん、俺ポケットから出してないもん!!
﹁あれ、お前の携帯じゃないのか?﹂
822
鹿田社長がガラス窓から受付を指差す。
目いいんだな、俺もだけど。
確かに、無数の俺が並べたタイムカードの脇に、黒い長方形が見え
る。
﹁⋮⋮ちょっと取ってきます﹂
﹁お前も意外にドジなんだな﹂
いやいやいや、何で社長嬉しそうなの?
大体、俺の携帯があんなところにあるなんて絶対おかしい。
あっ⋮⋮さっきか。
りーたんが顔を近付けて来て、俺がグロ携帯いじってた時に取られ
たんじゃねぇか?
だとしたら俺もボケーッとし過ぎだ。
俺が事務所を出ると、やっぱ何人もと目が合う。
俺は受付にずかずか歩いて行った。
﹁携帯返せ﹂
﹁そこ置いてあるし﹂
﹁⋮⋮何した?﹂
﹁私のメモリ入れといた﹂
悪びれもせず、莉奈はネイルバッファで爪の先を磨いている。
﹁それだけか?﹂
823
﹁携帯チェックしたくらい。どれがあんたの彼女か解らなかったけ
どね﹂
﹁携帯チェック⋮﹂
﹁だって私がポケットから携帯取っても全然気付かないんだもん﹂
﹁⋮⋮堕ちたな、お前﹂
上目遣いでニヤけてる莉奈にそう冷たく言い捨て、携帯を取って事
務所に戻った。
またやっちゃったー。
感情的になっちゃダメってさっきも思ったばっかりなのに。
でも男だったら多分、手か脚が出てるレベルで許せない。
いや、でも男に携帯擦られて勝手にメモリ登録されて携帯チェック
までされるなんて無理、怖すぎる。
何がしたいんだよって思う。
男と言えば高校生の頃に、友人の弟に泣きながらの告白された事が
あったくらいだが。
流石に受け入れは出来なかったが、それを理解した上でグシャグシ
ャになって謝りながらの中学生からされた告白は、同性でも意外と
そこまで嫌とかはなかった。
何だかこっちが申し訳無くなったくらいだ。
今の莉奈とその友人の弟のどちらか選ばなくてはいけない、と言う
境地にもし立たされたら、俺は莉奈を選べない気がするくらいに先
程の一連の言動が受け入れられない。
違いは簡単。
人のことだから言わせて貰うが、自分の一方的な気持ちをぶつけら
れる相手の気持ちを考慮してるか否か、だ。
何なんだよ、人の携帯擦って勝手に登録して携帯チェックとか。
824
それも10年以上前に世話してやったと言う支配欲の名残と、捨て
られたと思い込んだ被害者冥利の顕れなんだと思うと⋮⋮もう何か
莉奈を好きだった事が逆に汚点みたいな感じになって来た。
イライラ最高潮で俺が手を事務所の扉に手を掛けた瞬間、勢いよく
扉の方が開いて俺の人差し指を逆反りにさせた。
バスケットボールが当たった時くらい痛い。
間髪を入れず、殺意に満ちた鹿田社長が早足でチョコチョコと出て
きて、すれ違い様に﹁これ以上⋮ったら⋮す⋮からな﹂と何か聞こ
えた気がした。
何?事務所で何かあったの?
俺はやれやれと事務所に入ると、座って仕事をしている1人以外の
社員3人がガラス窓に張り付いている。
入って来た俺の姿を見ると、みんなビクッとする。
先程のデスクに座ってテンコ盛りの灰皿の中身をごみ箱にぶちまけ、
俺はタバコに火を点ける。
社員達は俺を見たり窓の外を見たりしながら、何か言いたそうだ。
無言の織り成す沈黙。
そして好奇心と遠慮の入り混じった視線。
こういう時間は結構嫌いじゃない。
しかしながら、話の進まない沈黙は仕事中はいらない訳で。
﹁ご質問がある方はどうぞ﹂
俺が半ば自棄気味に言い放つと、社員達は各自の席に怖ず怖ずと着
いた。
俺もこう聞かれたらこう答えるみたいな本日2度目のシュミレーシ
ョンを脳内で展開しながら煙を吐く。
825
﹁あのー⋮⋮高浜、さん?﹂
カピバラみたいにグリグリした顔の男が、最初に口を開く。
﹁はい﹂
﹁あ、俺は木下って言います﹂
自己紹介出来るな、こいつある程度良い奴。
﹁高浜さんは西田さんとも知り合いなんですか?﹂
﹁西田さんの知り合いなのは合ってる。西田さんと俺が知り合いな
のを社長が知ってるのかは謎です﹂
﹁あの、俺も聞いていいですか!?﹂
体育会系特有の声のでかさで、今度はえらいガタイのいい男が言う。
よし、社員の俺に対する警戒心が解れつつある、そう感じた。
﹁お名前は﹂
﹁細井です!﹂
細井か⋮横にでかいのに細井かよ、と絶対言われる気がする。
何でそんな意気込んでるのか、体育会系にも程が⋮⋮。
﹁何で西田さん泣いちゃったんすか!?﹂
﹁泣いた?﹂
826
いつ?まさか今?
理由は人の携帯パクっていじって堕ちたなって言われて?
ホンッと堕ちたな、あいつ。
莉奈が泣き出したから、みんなガラス窓から見てたのか。
﹁高浜さんが携帯取り行って、何か西田さん泣き出したから社長が
怒って出て行ったんです!﹂
﹁俺は人の携帯を勝手に触る人間は嫌いですって意味を端的に伝え
ただけよ?﹂
﹁携帯を勝手に触る!?﹂
﹁うん、まぁ。社長ってすぐ戻って来るんですかね﹂
俺がそう言うと飯田が無言でスタスタと歩きだし、窓を開けて下を
見た。
﹁社長のBMないですね。当分戻らないかもしれませんね、あ、俺
は﹂
﹁飯田君でしょ、よろしくね﹂
﹁あ、はい。よろしくお願いします!﹂
飯田は多分、元カタギ。
礼の仕方や態度で何となくそう感じた。
﹁⋮⋮西田さん絡みだと長いだろうな﹂
827
飯田の横にいた、1人で仕事をしている何だか暗そうなのがボソッ
と言う。
何それ、超公私混同じゃん。
すると、暗そうな彼は俺の方を向いた。
﹁⋮⋮高浜さんと西田さんって何かあるんですか?﹂
いきなり切り込まれたな、さぁどうしよう。
俺はそいつの真っ暗で光の無い瞳に親近感を覚えつつ考える。
ここで白状するのもまだ早い気がする。
﹁⋮⋮⋮あっ﹂
そいつはいきなり無表情のまま、ガバッと瞳孔を開いた。
何か⋮⋮この感じ⋮⋮。
﹁⋮⋮名前言ってませんでしたね、すみません。僕は百目鬼です﹂
﹁どう、め⋮き?﹂
﹁百目の鬼でドウメキ﹂
﹁印鑑なさそうだけどかっこいい!因みに下のお名前は﹂
﹁ドラゴンの龍に聖なるの聖で、リュウセイ﹂
﹁⋮⋮すごい﹂
何か鹿田尚文とか高浜武志とか全然だな。
828
お前が代表取締役やればいいのに。
代表取締役◆百目鬼龍聖
って、もう何か文字だけで凄い。
反して本人のどこを見て何を考えているのか全く読めない感じは、
さぞかし周りは困惑するだろうが個人的には親しみ易い。
﹁⋮⋮完全に名前負けですけどね﹂
﹁いや、俺も高浜武志でこの顔だから﹂
﹁⋮くくっ⋮⋮くっ⋮﹂
笑ってくれたけど、怖い。
細井も飯田も木下も、何かこいつには遠巻きな感じがする。 こいつを下手に怒らせたら式神とか飛ばされそうだもんな。
﹁くく⋮くくくっ⋮⋮で、高浜さんと西田さん、何かあるんでしょ
?﹂
すさまじく邪悪な笑顔で、そいつは俺を見た。
多分悪気は無いんだろう、何となくそう思った。
﹁何だよ百目鬼、高浜さんに失礼だろ?﹂
﹁お前何でいっつも空気読めねぇんだよ!!﹂
木下と飯田が百目鬼を叱る。
俺ね、何かお前らの気持ちが結構解る。
ここでそういう事サラっと言っちゃダメだろ!!って言った本人よ
りこっちが焦っちゃうよね。
829
まぁこの場合、俺は気にしてないからいいけど。
で、どうしたもんかな。
百目鬼の質問に何て答えよう。
彼は無表情で微動だにせず、瞳孔開いてこちらを見ている。
これで瞬きしなかったらどうしよう⋮⋮御親戚とかじゃ⋮⋮。
あ、した。よかった。
当たり前だよな、瞬きしないで無表情で静止とか普通ないない。
すると彼の首がゴキッと右側に120度近く曲がった。
ぎゃー。
﹁⋮⋮違いますか?﹂
﹁百目鬼君はどう思う?﹂
﹁⋮⋮何かさっきの携帯を取りに行く時の高浜さんの感じで、あぁ
そうなのかなって﹂
本家よりずっと鋭いな。
名前以上に何か色々、こいつのポテンシャルに期待。
﹁だから百目鬼、お前そういう事言うな!!﹂
細井が百目鬼をどつくと、首が一瞬で真っすぐに戻った。
いやー何か、久々に恐ろしい。
さて、賭けに出るか。
この4人の社長への忠誠心が勝つか、不満が勝つか。
忠誠心が勝てば、多分筒抜けになるし、莉奈の出方次第で俺の立場
は完全に危うい。
しかし、社長への不満又は俺への信頼感があれば秘密の共有になる。
830
問題はそのどちらかに4人全員がつく可能性が薄い。
﹁まぁ言っちゃいますと、西田さんと俺は10年程前にお付き合い
してたんですよ﹂
﹁えぇ!?﹂
そんなに乗り出す程ビックリか、細井君!
﹁まぁ僕がクルクルパーだったのでフラれたんです。そういう事に
しておきましょう﹂
﹁クルクルパー?﹂
飯田が半笑いで反応した。
まぁ俺もツルッと出た言葉だけど普段は使わない。
﹁まぁ西田さんと俺の過去を鹿田社長に言うかどうかは、俺は皆さ
んに任せますが﹂
みんないい人だなぁ。
明らかに興味津々なのに困った顔をしている。
よし、取っ掛かりの秘密の共有はクリア。
そして俺がフラれたって事にしておけば、そこは莉奈のプライドも
引いては社長の面子も少し保てる⋮⋮かな?
﹁まぁ⋮⋮りーたんの事は置いておきますが﹂
りーたんにみんな反応した。
831
クスッと嘲笑じみた笑いが一瞬起きる。
まぁな、俺が大真面目に奈津をなっちとか言ったら同じ反応される
だろう。
でも、大の男がそれだけ愛しい存在だと思ってるって事は、今の俺
には理解出来る。
﹁俺も尻に敷かれてる女はいるので、そこは笑わないで欲しいとこ
ろですが﹂
﹁高浜さんが?﹂
飯田が驚いた顔をした。
そんなに意外?
﹁俺はなっちって呼んでますけどね﹂
﹁⋮⋮嘘でしょ?﹂
物静かに話を聞いていた百目鬼が、腕組みをしながら瞳孔全開で顎
を引いてニヤリと笑った。
やっぱりお前⋮⋮親戚に産婦人科医とかいたりしない?
でもたまにあるよね、全然関係ないところで似たタイプの人に会う
って。
﹁まぁなっちは嘘ですが、似たような感じですね。長くなりますが
惚気ていいですか?﹂
﹁いや!勘弁して下さい!!﹂
よく言った細井!
俺も自分で言っといて語る気はゼロだ!!
832
﹁高浜さんって普段何してるんですか?﹂
大人しそうな飯田君がいきなり聞いてきた。
﹁純喫茶巡りとかマン喫でジョジョ読んだりしてます﹂
﹁あ、俺が聞きたいのは趣味の話じゃなくて﹂
﹁じゃ飯田君さ。逆に俺、何してそうに見えます?﹂
﹁え?﹂
逆質問のススメ。
答えを見失ったら、オウム返ししてそこから相手の気に入る答えを
探る。
って合コン初心者かよ。
しかも男4人相手に。
﹁マフィアのドン﹂
ちょっと百目鬼さん?
ヤクザじゃなくてマフィアって辺り、日本人の僕に喧嘩売ってます?
﹁うーん⋮⋮風俗王﹂
響きは酷いが、飯田君がいいセン来たね。
833
﹁えぇー⋮アデオスとか言ってそうな雑誌のモデルとか!?﹂
気持ちは嬉しいけど前半部分いらねぇよ、細井君。
髪型雑誌以外で出た事ねぇし。
﹁デイトレーダー系?﹂
木下が一番何か、俺をマトモな人間に見てくれてる気がした。
でもデイトレーダーってどんな感じなんだ?
﹁皆さんが俺をどう思っているのかよく解りました。答えは鹿田社
長に気軽に聞けば、フレンドリーに教えてくれると思います﹂
﹁えぇえ!?﹂
﹁気軽には聞けねー﹂
﹁ちょっとそれはない⋮﹂
﹁真面目に考えたのにな﹂
最後の百目鬼、ちょっと顔貸せ。
とか思ったが、解った事は上層部は少人数なのにトップ⋮社長との
コミュニケーションと言うか意見交換の機会が取れてないって事。
少人数組織としては致命的じゃないか?
良くないよな、完全に鹿田社長とりーたんだけ好き放題して浮いち
ゃってるって言うか。
まぁ聞く耳をお持ちかどうかにもよるけど。
しかも社員が引きこもって時給6000円のバイトに任せて政府公
834
認裏ルートとかバ⋮⋮いや、余り内容がよろしくないであろう嘘メ
ール打たせてるんだろ?
そりゃいかんよ。
俺は別に何を任された訳でもないけど、何故か使命感を伴ったやる
気が出て来た。
社長の御望みのゲームクリエイターも探さないとな。
俺自身の新しい仕事を始めるに当たり、全く関係のなさそうな業種
で腕馴らしするか。
﹁で、結局教えてくれないんですね﹂
木下が諦観に満ち満ちた顔で俺に言った。
﹁俺の仕事の話?﹂
﹁はい!そうです!!﹂
細井が相も変わらずの勢いで言った。
こいつは元々こうなのか、この鹿田グループに入って感化されたか
らこうなのか、ちょっと気になった。
後者ならお節介ながら、目を覚ましてあげたい気もする。
﹁今日から俺の職場は当分ここです﹂
﹁は?﹂
飯田が振り返って眼鏡を直し、木下が立ち上がり掛けて口を開けて
静止し、百目鬼がこちらを見ながらシャーペンの芯を入れ替え、細
835
井が汗を拭いながら見守る中、俺は続けた。
﹁今日からここで出会い系のお仕事のお勉強をさせて頂く、新人の
高浜武志と申します﹂
﹁え?仕事の勉強って?﹂
﹁ええ!!?新人さんだったんですか!?﹂
﹁ちょ、嘘でしょ?﹂
﹁ですので、皆さん何卒よろしくお願いします﹂
﹁よろしくお願いします﹂
そう一礼すると、キョトンとしている他の4人を差し置いて、百目
鬼だけが普通に一礼した。
そんな感じで、俺は暇潰しのつもりで最強に厄介な職場に足を突っ
込んだ訳です。
836
★高浜武志・4★︵後書き︶
これが7月、高浜がユズ達集めて別荘に行く直前の話なのですが⋮⋮
うむ、この先どうしよう。
高浜も社員と仲良くなっちゃったしな。
⋮⋮ちょっとは考えろよな、私。
時給1500円/シフト自由/服装自由/デスクワーク
何だよ、この仕事!!
副業に持って来いじゃんか。
そう安易な気持ちで、24歳の私は履歴書を持って馴染み深い新宿
二丁目を抜けて、新宿御苑のオフィスに行きました。
詳しくは牛女牧場を完結させてから、またきちんと書きたいです。
本編も番外編も、まだ全然何も決めてませんが頑張ります。
837
異性の家の是非
すっかり日の落ちて暗くなった道を、私とユズちゃんは無言で歩い
ていました。
心なしか、私と1歩分程の距離がある気がします。
横目で様子を見ますが、さっきの口論の怒りがまだ収まってないん
だな。
そう思いました。
事の発端は、30分程前に遡ります。
土曜日は検診が殺到するのですが仕事も無事終わり、宿直を買って
出て下さった保倉先生に引き継ぎを済ませ、初めて帰宅の旨の電話
をユズちゃんにしました。
まだ婚姻届は出していませんが、ユズちゃんに﹁これから帰るけど
何か買って行くものある?﹂と言う電話をするシチュエーションが
嬉しかったのは認めます。
電話にはすぐ出てくれたものの、私の仕事終わりを労ってくれたユ
ズちゃんの声の向こう側で
﹃あーもうそんな時間かー﹄
﹃ユズッキー良かったねぇー兄さん今日早くてー﹄
と例の2人の声がして、一気に嬉しい気持ちが失せました。
⋮⋮ユズッキー?
﹁⋮⋮今、どこにいるの?﹂
838
﹃え?携帯届けてから毅しゃんの家にお邪魔してる﹄
﹃毅しゃんって言わなくていーからユズッキー﹄
﹃だってそう決めたでしょー?﹄
と、何だか和気藹々とした緩い雰囲気にイライラして来た自分がい
ました。
時計を見ると、18時55分。
朝の9時半頃から何でこの時間まで、毅彦と豊くんと一緒にいるん
だ?
と言う、非常に面白くない気持ちになります。
﹃先生、今病院?じゃそっち行くね﹄
﹁⋮⋮いい。迎えに行く﹂
﹃⋮⋮そう?﹄
この時点で、ユズちゃんはもう私の苛立ちに気付いていたそうです
が、何で朝からこんな夕方まで毅彦と初対面の豊くんといるんだろ
うと言う気持ちは沸々としていました。
何だかなぁ⋮⋮そんな気持ちで久々に病院から徒歩3分の実家の扉
を開けると、玄関にはぺしゃんこにされた大きな段ボールの山。
ユズちゃんと豊くんの揃えられたサンダル以外は、脱ぎ散らかされ
た革靴とスニーカーの数々。
839
階段には衣服まで散らばっている有様に唖然としました。
すると2階から
﹁ちょっとやだ!!怖いって、無理無理無理ーー!!﹂
と言うユズちゃんの叫び声がしたので私は階段を駆け上がり毅彦の
部屋を開けると、部屋の中央に天井付近まで重ねられた小さな段ボ
ールの塔が見えました。
﹁わ、ビックリしたぁ﹂
﹁あのさ、ノックくらいしてくれる?﹂
﹁⋮⋮何だ、これ﹂
私が呆気に取られつつも拍子抜けしていると、
﹁アマゾンジェンガー﹂
と豊くんが何やら床の上に腹ばいになり、メジャー片手に計算式を
書いています。
毅彦とユズちゃんは並んでベッドに座っていました。
﹁アマゾンのねー段ボールが大量にあったからーそれでジェンガし
てたんですよねー﹂
豊くんは嬉しそうに言いました。
﹁すごいんだよ、毅しゃんと豊くん。ジェンガに数学の公式まで使
840
ってるんだよ﹂
﹁いや、大した事じゃないんだけど。あの電気の紐を軸に見立てて、
回転体みたいに積むにはここにある段ボールで可能なのかな、と﹂
﹁まず底面積で苦労するよねー直方体並べて円柱作るとかー﹂
﹁⋮⋮それをずっとやってたの?﹂
私が聞くと、3人は少し止まってから笑いだしました。
﹁流石にそこまでは。オヤツ食べて大掃除してからだよね﹂
﹁毅ちゃんさー本当片付け出来ないよねーどんだけ段ボールあるの
!?って。ねーユズッキー?﹂
﹁ほんとほんと、開けてないのもいっぱいあったよね﹂
﹁それ以外はただ色々話してただけだけど?何で?﹂
何故か毅彦が首をゴシゴシしながら言いました。
ゴシゴシする様な何を話したのか聞きたいところですが、何だかも
うユズちゃんをここから早く出したい気持ちで一杯です。
﹁⋮⋮帰ろう、ユズちゃん﹂
﹁じゃーユズッキーまた明日ねー﹂
豊くんが無邪気に手を振ると、毅彦が立ち上がり、
841
﹁大丈夫?立てる?﹂
とユズちゃんに手を差し出し、ユズちゃんも何の抵抗も無くその手
を握って立ち上がろうとします。
﹁よいしょっ、きゃっごめん!﹂
﹁危ないって!﹂
毅彦が笑いながら、尻餅をつきそうになったユズちゃんを抱えて起
こした辺りで、何かが私の中で切れました。
いつも閉じられていた扉が開くと言うか、堰を切ったと言うか、そ
んな感じです。
﹁⋮⋮どけよ、毅彦﹂
﹁え?何が?﹂
﹁やっぱさーもっと円周小さい方が円柱に近くなるよー?﹂
﹁⋮⋮帰ろう、ユズちゃん﹂
﹁⋮兄さん?﹂
珍しく毅彦がキョトンとした顔をしていましたが、私はユズちゃん
の手を毅彦から放すと引っ張るように玄関に向かいました。
﹁何で先生怒ってるの?﹂
842
﹁怒ってる⋮⋮?﹂
﹁すごい怒ってるじゃん、何?何なの?﹂
玄関の毅彦の馬鹿でかい靴を避けながら外に出ると、2階の窓から
毅彦と豊くんが手を振っていました。
﹁またねーユズッキー火曜日まではいるからーまた遊ぼうねー﹂
﹁またおいでー﹂
﹁わかった、じゃあねー!!﹂
ユズちゃんも楽しそうに手を振りました。
⋮⋮何かおかしい気がする。
自分の奥さんとなる人が、ベッドに男性と並んで座っているのを目
の当たりにすると、いくら毅彦と言えど不愉快でした。
それに毅彦も豊くんもユズッキーとか言い出す始末です。
根源が何なのか自分でも解らない、生理的な不快感を伴う怒りが沸
いて収まりません。
﹁ねぇ⋮⋮何か誤解してない?﹂
﹁誤解?﹂
﹁何かさ、私が浮気したみたいな感覚で怒ってない?﹂
﹁浮気⋮⋮?﹂
843
﹁毅し⋮毅彦先生と豊君とは何にも起きないよ﹂
毅彦達と起きてたまるか、そう思います。
ただ、何だか自分の知らないところで男性2人とニックネームを付
け合って和気藹々と部屋に半日一緒にいた、それだけが引っ掛かり
ました。
私が異性との交友経験が無いから理解出来ないのだ、ユズちゃんの
世代の感覚だと普通なのかもしれない、とか色々歩み寄る方向で考
えてますが、やっぱりベッドに並んで座るのは変だとユズちゃんが
おかしいと言う結論が出てしまいます。
それが正しいと断言出来ないので、無限ループなのだと解っていて
も理屈とは別ベクトルで無理でした。
﹁遊んでたのがダメだった?﹂
﹁いや、そこじゃない﹂
﹁先生って毅彦先生に変な感情持ってない?﹂
﹁⋮⋮違う﹂
ユズちゃんとあんな感じで、並んでベッドに座った次の展開を自分
に置き換えているだけ。
そしてそれを21歳の豊くんが目の当たりにして、思う事も想像に
難くない。
毅彦とユズちゃん。
想像するだけで、もう精神的に破綻を来たしそうな組み合わせでし
た。
それに豊くんが加わる⋮⋮。
844
﹁何が言いたいの?﹂
﹁あんなに親しいとちょっと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮意味が解らないんだけど﹂
﹁ぴったり隣に座ってたり、身体を触られたりは抵抗がある﹂
﹁毅彦先生には内診までされてるんだけど?そこはいいの?﹂
何かもうそれも許せない自分の馬鹿馬鹿しさが苦しいですが、毅彦
がユズちゃんに悪い感情を持ってないのは私にも解ります。
ユズちゃん本人が毅彦にバレた時の﹃結構な趣味してるね﹄は毅彦
の好みの対象外、と言う意味だと思っていました。
ユズちゃん本人も﹃毅彦とはノリが合うし良いお医者さんだから好
き﹄と言っていて、高浜と同列だと言うのは聞きました。
毅彦はユズちゃんをどう思っているんだろう。
有り得ないと信じる気持ちと、あったら絶対許せない排他的な気持
ちが生まれます。
﹁先生だって、こないだお姉ちゃんと仲良くしたじゃん!!﹂
﹁お姉さんとは親戚関係上の最低限のお付き合いしかしないし、身
体的な接触は今後も全くない﹂
﹁身体的な接触⋮⋮何でそういういやらしい目で見るの?﹂
﹁だってさっき﹂
﹁じゃ何?私がよいしょって起き上がって尻餅付くのを毅彦先生は
ただ見てればよかった?﹂
845
﹁いや、その前に﹂
﹁別に肩に手を回されてたとかじゃないじゃん。ベッドしか座れる
場所が無かったんだもん﹂
﹁肩に手を回すって⋮⋮﹂
﹁まぁ毅彦先生ならされても大丈夫だし﹂
﹁されても大丈夫!?﹂
﹁あ、ごめん。先生の思ってる様な意味じゃない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの⋮さ、毅彦先生も豊くんも私とはまず、そういう風にはなら
ないんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮何で﹂
﹁何で⋮⋮か、まぁとにかくならないの﹂
﹁だから何でそんな事言えるんだ?﹂
﹁⋮⋮先生さぁ﹂
﹁何?﹂
﹁自分の事は棚に上げてよく言えるよね﹂
846
﹁自分の事?﹂
﹁メロン姉さん抱きしめといて何で、何もしてない毅彦先生をあー
だこーだ言える訳!?﹂
⋮⋮あぁ、あれか。
でもメロンちゃんに対しては、性的な意味合いはありません。
なので、私の中ではいい思いをした様な感覚は全くありません。
﹁抱きしめてない﹂
﹁一緒でしょ?匂いが移るくらいって相当だよ!?﹂
﹁あれは向こうから﹂
﹁向こうから来たら抱きしめちゃうんだ!?﹂
﹁いや⋮俺がその気も全然無いし、その先に行かないのは解ってる
でしょ﹂
﹁知らないよそんなの!!﹂
﹁俺は拒絶出来るけど、男の方から来られたらユズちゃん﹂
﹁力ずくでされても、大好きな旦那さんいるって断るよ!?﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁何で喜んでんの!?先生こそ投げ飛ばさなかったじゃん!﹂
847
﹁だってメロンちゃん、妊婦さん⋮⋮﹂
﹁あっそ、じゃあ妊婦さんから来られたらいいようにされちゃうっ
て事ね?﹂
﹁いいようにはされない﹂
﹁もうされたじゃん!﹂
﹁されてない﹂
何だかなぁ。
いつもこうなってしまうのは、何でなんだろう。
私は整理をしてみました。
まず、ユズちゃんが身内とは言えど男性2人の家で半日いた。
まぁ家と言っても私の生家ですが、今は毅彦の家とします。
そして毅彦とユズちゃんが、ベッドで至近距離で座っていた。
極めつけは、毅彦とはそういう事にならないし、毅彦には腕くらい
回されても平気とユズちゃんが言い放った。
私のメロンちゃんへの対応が正しかったのかは解りません。
でも、ユズちゃんを裏切らない且つ失恋で悲しんでいるメロンちゃ
んにも傷付けない様に、私なりに徹したつもりでした。
駄目ですね、自分は間違ってないと言う気持ちがあると。
ただでさえ他人の感情の機微に疎いのに、自分を正当化する気持ち
が先立ってしまって相手の気持ちが読めません。
848
私はまずそこを謝ろうとして、ユズちゃんの方を向きました。
⋮⋮いない?
振り返ると、かなり離れた街灯の明かりの下を歩いているユズちゃ
んが見えました。
﹁ユズちゃん﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁こっちおいでよ﹂
﹁⋮⋮⋮うん﹂
ユズちゃんが歩み寄って来るのを待って、私は話し始めました。
﹁ユズちゃんが何もしてないのは解ってる﹂
﹁⋮⋮そりゃそうでしょ、あのメンバーで何が起こるの﹂
いや、起こらない前提の理由が解らないんだけど。
そう言いたい気持ちをしまいこみました。
﹁でも、今後ああいうのがあると心配⋮⋮そう、心配なんだ﹂
﹁心配?﹂
﹁やっぱり⋮上手く言えないけど、異性と自分の知らない時間を過
ごされるって、余り気持ちの良いものじゃない﹂
﹁⋮⋮隙あらば抱き合ってるかもしれないしね﹂
849
﹁抱き合ってない﹂
私はユズちゃんの手首を取ると、こちらに向かせました。
﹁何?﹂
﹁抱き合ってるって言うけど、こんな感じだった﹂
そう言って、私はメロンちゃんにした様な感じを再現してみました。
鎖骨くらいにユズちゃんの頭が来て、メロンちゃんとの身長差を感
じます。
﹁⋮⋮で、こう大丈夫だよって﹂
ポンポンと背中を叩いてみます。
ユズちゃんだと肩甲骨の中間辺りになりましたが、大体こんな感じ
だろうと言うのは伝わったかな。
﹁で、すぐ離れたんだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮先生さ﹂
﹁ん?﹂
﹁他の女の子を慰めようとしてやった事をされて、私がどう思うと
思う?﹂
﹁いや、抱き合ってたみたいな事を言うからそうじゃないんだと解
って貰い⋮﹂
850
﹁こんなん100パーアウトじゃん!!﹂
﹁えぇー⋮?﹂
ユズちゃんは真っ赤な顔で私を突き飛ばすと、すごく怖い顔で睨み
つけました。
﹁あ、この程度なんだ。大した事ないね!﹂と思って貰えると考え
ていた私が甘かったのかもしれません。
そんな事を考えていると、ユズちゃんが半分涙声で
﹁こんな時、高浜さんか毅彦先生がいてくれたら良かった﹂
と言い捨てるように言って、私に背を向けて歩きはじめます。
⋮⋮ああ、そう。
何故か血が逆流するくらい冷たい様な熱い様な、視界に映る全てを
破壊出来るのではないかと言う妙な感覚が沸き上がって来ます。
﹁⋮⋮じゃあ高浜か毅彦と付き合えばいい﹂
﹁は⋮⋮馬鹿じゃないの!?﹂
﹁そう思うくらい、何か今の一言で﹂
﹁何でそうなの!?﹂
だって今日に限らず今までの話を聞く限り、余り自分は必要とされ
てない。
そんな気がしました。高浜と毅彦の方が、結婚する自分より頼れる
んでしょ?
だったら、そんな頼りない人間といても仕方ないんじゃないか?
851
﹁先生こそ⋮⋮毅彦先生や高浜さんがいなくても平気な様になれば
いいじゃん﹂
﹁高浜達がいなくて困るのは俺じゃない﹂
﹁私だっていなくても困らないけど、それ以上に先生に困ってる﹂
﹁ユズちゃん⋮⋮﹂
向こうから歩いて来たスーツ姿の男性が何事かと言う顔をしていま
したが、私と目が合うと慌てて顔を伏せて凄まじい早足で通り過ぎ
て行きました。
住宅街で痴話喧嘩なんて全くを以て褒められたものではありません
が、如何せん収集が付きません。
﹁何かこの3日間、ずっとこんなの続いてるね﹂
追い付くとユズちゃんが前を向いたまま、そう言いました。
﹁何がいけないのか、私にはよく解らない﹂
﹁⋮⋮⋮必要以上に疑うからだよ﹂
﹁先生だってそうじゃん。先生の方が私を信用してない﹂
﹁⋮⋮信用してない訳じゃないよ。むしろ最悪の事態になって欲し
くない﹂
﹁毅彦先生と豊くんは絶対大丈夫なの﹂
852
﹁その感覚が俺には解らない﹂
するとユズちゃんはもどかしそうに、唇を噛んで耳の上辺りを掻き
むしりました。
﹁あーこれか、何かすっごいムズ痒い!!﹂
﹁頭が?﹂
﹁これだよ、これと一緒﹂
そう言って、ユズちゃんは手首を首の右側に擦り付けました。
﹁何かね、毅彦先生もイライラすると手首の内側と首の横が痒くな
るんだって﹂
痒がってたのか、あれは。
ただの癖だと思っていたので、何でなのか気にした事もありません
でした。
﹁お医者さんになっても理由は解らないって言ってた。医学的な根
拠は見つからないけど、イライラするとムズムズするらしい﹂
﹁⋮⋮そうなんだ、知らなかった﹂
﹁先生は⋮⋮毅彦先生の事、本当に何にも知らないんだね⋮⋮﹂
﹁うん、だって本人が余り話さないし﹂
853
﹁きっと話しても受け入れてくれないって思ってるんだよ﹂
﹁手首と首が痒くなる事とか?﹂
﹁他にも色々、もっと大きな事も﹂
﹁⋮⋮まぁ、あんまり一緒にいなかったからなぁ﹂
﹁でも毅彦先生はずっと先生を、心配したりしながら見ててくれて
たみたいだけどね﹂
﹁⋮⋮心配?﹂
﹁うん。悔しいけど放って置けないからって﹂
﹁何で悔しがるの?﹂
﹁うーん⋮⋮何かね、私は見た訳じゃないから聞いた感じだけだけ
ど⋮⋮どんなに頑張って1番になっても兄さんより評価は下だった
って言ってた﹂
﹁だって毅彦は優秀だから、俺と違って何させても1番だったんだ
よ﹂
﹁何で1番取ってたか解る?﹂
﹁何で⋮って、優秀だから一番だったんじゃないの﹂
﹁違うよ。お父さんお母さんに、お兄ちゃんより褒めて欲しかった
から頑張ってたんだよ﹂
854
﹁何だそれ⋮⋮﹂
我が家に於いては、陽一郎は自分じゃ何も出来ないけど毅彦は放っ
て置いても何でも完璧に出来る子である、と言う評価であった為に
学校でも家でも毅彦の方が評価は高かった気がします。
毅彦は優秀だから、友達と遊ぶのも買い食いをするのも許されてい
ていいなぁ、それでいて模試の成績も全国レベルでトップだなんて
凄いなぁ、そんな感じで見ていました。
﹁でも俺自身はそんなに褒められて無い。父親はいつも俺の出来の
悪さに悩んでたし、母親は何も出来ないからっていつまでも子供扱
いだったし﹂
﹁じゃ、毅彦先生は?﹂
﹁え?﹂
﹁誰が毅彦先生の事で悩んで子供扱いしてくれたの?﹂
﹁だってあいつに悩む必要も子供扱いする必要も無いでしょ?小学
生で自分の進路決めて、大人の通う様な英会話教室行って独学で留
学レベルの英語力付けられる様な奴なんだから﹂
﹁だから毅彦先生は外国に行っちゃったんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁家を出てから人生が始まったって言ってた﹂
855
﹁⋮⋮それは俺も解る気がする﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん⋮⋮親が邪魔だったって訳じゃないんだけど、親がいなくな
る事で自分を認識出来た﹂
﹁さっきね、先生のお父さんお母さんのお仏壇拝んで来たよ、ご挨
拶も兼ねて﹂
﹁仏壇?﹂
﹁そう。ビックリするくらい埃だらけで、気の毒になって豊君と掃
除したけど﹂
﹁そんな事⋮⋮﹂
そう言いかけて実の息子の私が両親の死後ほとんど何もしなかった
事に気付きました。
お葬式すら大半を葬儀屋さんに任せてしまったくらいです。
衝撃が大きすぎて当時の明確な記憶は余りありませんが、息子であ
る私よりも、ユズちゃんの方が両親を気遣ってくれたのは確かです。
﹁毅彦先生はあんまり、お父さんお母さんが好きじゃないみたいだ
ね﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁正直、お仏壇も要らないのにって言ってた﹂
856
﹁⋮⋮そこまで?﹂
﹁それだけ毅彦先生の傷は深いし、お父さんお母さんとの溝があっ
たんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
兄弟揃って親不孝で本当にごめんなさい。
思わずそんな気持ちになりました。
毎日自分の世話をしてくれて、学費から何から出してくれる。
よくよく考えると、そんな人は親以外にはまずいない気がします。
﹁それに、写真見たら先生ってお父さんそっくりでビックリ。先生
の遺影かと思った﹂
﹁⋮⋮似てると思った事はないんだけど。あれは52歳の時の写真
だよ﹂
﹁えぇ!?50!?もっと若いかと思った⋮⋮もう並んで固まられ
りしたら、私は泣いたかもしれない﹂
﹁⋮⋮並んで固まる?父親と俺は性格は全然違う。母親とも毅彦と
も全然違うけど﹂
﹁そうなんだ、見た目で言えば⋮⋮お母さんは目が大きいから毅彦
先生かなぁ。とにかく先生とお父さんがすっごい似てる﹂
﹁そうか⋮⋮だから迷子になった時、よく父親の元に連れて行かれ
857
たのか﹂
﹁そっくりだったからでしょ?﹂
﹁⋮⋮多分。高校生の時が最後だけど﹂
﹁ちょっと待って、高校生で迷子って何?﹂
私は気難しい父親の顔を思い出しました。
﹁もっと覇気を持て、しっかりしろ﹂といつも私に対してかなり苛
立っていた気がします。
そっくりか⋮⋮余り言われた事はありませんが、ユズちゃんが言う
ならそうなのかな。
﹁ユズちゃんはお母さん似?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁お父さんの違う瑞希さんとユズちゃんが結構似てるから、お母さ
んの顔立ちなのかなって﹂
﹁似てません﹂
﹁えぇ!?﹂
﹁もうね、あんなのと会う人会う人にそっくりって言われると顔面
焼きたくなる﹂
﹁が⋮⋮顔面焼きたい!?﹂
858
﹁そのくらい不愉快﹂
﹁そうなんだ⋮ごめん﹂
﹁ま、お父さんとそっくりって最初に言ったの私だしね﹂
お父さんか⋮⋮。
私ももう少しで父親になる、そう思うと何となくですが父親の私に
対する言動が理解出来た気がしました。
保倉先生が豊くんに言った一連の言葉と併せると、私にイライラし
ていたのも父親として私の将来を懸念していたからなのかな。
研修医として働き始めた辺りから何も言わなくなったのは、きっと
もう自分の庇護下から離れたと認識したからなのかもしれない。
今度は自分が親になるのか⋮⋮。
﹁⋮⋮仲直りしようか﹂
﹁え?﹂
﹁お腹の中の陽希にも聞こえてるんだよ、特にユズちゃんの声は﹂
﹁最悪じゃん、さっきのとか﹂
﹁だからだよ、お父さんお母さんの仲が悪いと思われても困るでし
ょ﹂
胎教の是非は、後天的な経験の方が大きいと言われています。
でも、少なからず与える影響はあると言う見方が強いです。
客観的に見ての良い悪い以前に、子供の感性的な部分への影響を考
えると⋮⋮でも、決して親の性格や生まれや収入で子供の人生は決
859
定する訳ではありませんし、吉と出るか凶と出るか解らないとは言
えど。親の子供に与える影響の大きさは計り知れません。
その後の色々な人や価値観との出会いの方も大きいと私は思います
が⋮⋮。
﹁先生ってヤキモチ妬きだよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
言い返したら、負けだ。
私は無言で頷きました。
﹁私は他の女の人との変な接触とかって言うか、先生がそれを知ら
ない内に受け入れるのが許せない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それはユズちゃんも一緒でしょ、そう言いたいのも我慢します。
毅彦と豊くんはまだ身内だから良いにしても、今後他の異性の家で
私の仕事上がりまで遊んでるとか⋮⋮やっぱり勘弁して欲しいと思
いますが。
﹁先生も何か私に言うことないの?﹂
怪訝な顔で覗き込まれ、私は戸惑いました。
今考えていた事を言ったら、最初の1ページ目に戻る事にならない
かな、そんな気持ちです。
そんな時に、私の携帯が鳴りました。
860
﹁⋮⋮毅彦だ﹂
﹁毅⋮彦先生?﹂
毅彦から掛かって来るなんて急患続きになって手が足りないとかで
しょう。
ごめん、これからこういう事は結構あるんだ、そんな言葉を用意し
て気持ちは病院に駆け付けて行く中、通話ボタンを押しました。
﹃あーもしもし兄さん?﹄
﹁⋮⋮どうした﹂
﹃今、大丈夫?家?﹄
﹁まだ着いてないけど大丈夫。どうしたんだ﹂
﹃えー!?まだなの?あのさー⋮ユズキさんそこいる?﹄
﹁ユズッキーなら隣にいるけど﹂
ちょっと!?
そんな感じで私の上着の裾をユズちゃんがしかめ面で引っ張りまし
た。
﹁ユズちゃんに用事なの?﹂
﹃違う。兄さんにちょっと﹄
861
﹁⋮⋮何?﹂
﹃あのさ、もうちょっとユズキさんの気持ち考えてあげれば﹄
﹁どういう事だ﹂
﹃まぁ俺が言うべきかどうか迷ったけど、あのまま喧嘩とかになっ
てたら俺達も気まずいし﹄
なったよ、もうなったよ毅彦。
何だか段々、全てお前達が悪い!と毅彦に完全逆恨みで苛立って来
た自分がいます。
﹃ユズキさんさ、兄さんがいない間ずーっと1人なんだよ。知らな
い土地で友達も近くにいない環境で﹄
﹁まぁ⋮⋮そうだね﹂
思わず、隣のユズちゃんを見ました。
ユズちゃんはサンダルのつま先をじっと見ています。
﹃だから俺らが協力出来るところはするよって事を話した。兄さん
は変な事考えそうだけど、そんな事はないから安心して﹄
﹃お兄さんは冷静そうだしー変なことなんて考えないってー﹄
﹁⋮⋮で?﹂
﹃だからさ、兄さんがもっとユズキさんを大事にしてあげろって事
862
だよ。俺らで浮気とか疑われたら身が持たないよ﹄
﹁⋮⋮お前と浮気なんてされてたまるか﹂
﹃もーほら、すぐそうやってユズキさんの事になるとムキになって
怒るじゃん。それが重いんだよ﹄
﹁重い⋮⋮﹂
﹃好きならまず、相手の気持ち考えてから好きって思わないと。ユ
ズキさんが可哀相だって﹄
﹁⋮⋮で、俺はどうすればいい?﹂
﹃は!?兄さん話聞いてた?﹄
﹁お前は俺にどうしろと言いたいんだ?﹂
﹃ホックーどうしよー兄さん通じなーい!!﹄
﹃えー!?あ、すみません。何か代わりました、豊です﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃えーとあの、ユズッキーはいい子だから心配しないで大丈夫です﹄
﹁⋮⋮⋮﹂
﹃僕が言うのも変なんだけど、何にもしてない人を怒っちゃお互い
一番ダメだと思います﹄
863
﹁そうだね﹂
﹃今日話してて思ったんですけど、ユズッキーは先生が大好きなん
です﹄
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹃よく解らないヤキモチに負けそうになったら信じてあげればいい。
僕はそう思ってます。毅ちゃんとかすぐ他の⋮痛ぁいっ!!﹄
﹃もういいだろホック、まぁそんな感じで。じゃ喧嘩しないでね﹄
と、一方的に電話は切られ、何が何だかと言う私の隣でユズちゃん
が笑いを堪えていました。
﹁何かあの2人と話すと調子狂う﹂
﹁ふふふ、面白いよね毅彦先生と豊くん﹂
豊くんが最後に叫んだのは何をされたのか知りませんが、きっと毅
彦に携帯を無理矢理奪われたんでしょう。
﹁何か仲直りしちゃったなぁー﹂
漸くマンションの入口に着くと、ユズちゃんが何とも言えない表情
で言いました。
﹁いいでしょ、仲直りした方が﹂
864
﹁帰ったら先生はお風呂入っていいよ、私はぁー⋮ご飯をぉー作る
ッッ!!﹂
﹁痛っ﹂
妙な気合いを入れた後に、ユズちゃんは私の脇腹を抓り上げました。
﹁⋮⋮今の何?﹂
﹁メタボチェック﹂
﹁メタボ⋮⋮俺、太ってる?﹂
﹁ううん、全然﹂
﹁痛かった﹂
﹁なぜか強くした﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁解らぬ!解らぬよ!!﹂
﹁⋮⋮ユズちゃん?﹂
エレベーターホールで、よく解らないテンションになったユズちゃ
んに引きながら、私はまだ来ないエレベーターを見て、ギョッとし
ました。
黒一色の窓部分のガラスに、男性の顔が映っています。
真後ろのエレベーターホールの内階段にサラリーマン風の若い男の
865
人が立っている⋮⋮?
私が思わず振り返ると、男の人は後ろから刺されたのではないかと
言うくらい驚いた顔をしました。
﹁え?⋮え、あ⋮⋮あの⋮﹂
﹁いえ、すみません﹂
その狼狽ぶりに思わず謝ってしまう私ですが、思い出しました。
この人⋮行きにエレベーターで一緒になった人だ。
失礼ながらその時も、こんな感じで挙動不審だった気がします。
なかなかエレベーターに乗って来なかったし、何かあるんでしょう
か⋮⋮。
﹁こんばんは﹂
ユズちゃんがにこやかに挨拶すると、その人は更に困った様相を呈
しました。
何だ⋮⋮?
﹁こんばんは﹂
私も挨拶してみると、絞り出す様な声で
﹁⋮こ、こん、こんばんは﹂
と挨拶してくれました。
﹁だからエレベーターのボタンが点いてたんだ﹂
866
ユズちゃんが笑いながらその男性を振り返ると、
﹁あ⋮はい⋮⋮えと、その⋮いました﹂
と、しどろもどろです。
私は何とも言えない気持ちになりました。
何でそんなに?と思う気持ちと、見た目的にも悪い人じゃないだろ
うと思う気持ちが交差します。
﹁あ、あの、あ⋮⋮おお俺、階段で行きますんで⋮﹂
そう言うと、その人はサッサと階段を上がって行ってしまいます。
﹁すみませーん、ありがとうございまーす﹂
ユズちゃんが何故か、階段に向けてお礼を言いました。
﹁⋮⋮知り合い?﹂
﹁まさか。私、昨日来たばかりじゃん。先生こそ4年住んでて知ら
ないの?﹂
﹁⋮⋮さぁ?でも行きに一緒になった気がする﹂
﹁先に待ってたのにさ、私達に気を遣って階段で行ってくれたんだ
よ﹂
﹁えぇー⋮?﹂
﹁だってそれしかないじゃん?後は先生にビビったのかも﹂
867
﹁⋮⋮何で俺に?﹂
と、言いかけて朝の彼の態度を思い出すと、何となくそんな気がし
ました。
どの辺が怖いのかなぁ。
妊婦さんとかその御家族に怖がられた事は無いと思うのですが。
さっきまで先程の男の人が映っていた、真っ暗な窓に映る自分を見
てみますが⋮⋮。
怖い、かな。
﹁ユズちゃん、俺の顔ってやっぱり怖いの?﹂
﹁かっこいいよ﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁見る人によっては怖いかも。でも先生を知ってる人は怖くないと
思う﹂
﹁⋮⋮それ、初対面の人は怖がるって事だよね?﹂
﹁私は何ともない。ほぼ一目惚れだから﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
﹁今すごい喜んでるでしょ﹂
前を向くと、だらしなく半笑いの自分が映っています。
868
やっと来たエレベーターの明るい照明が、その私の顔をゆっくり消
す様に降りて来ました。
﹁エレベーターターイム!﹂
﹁⋮⋮全部、防犯カメラに映ってるよ﹂
﹁今夜は寝かさんぞーー!﹂
﹁ユズちゃん⋮⋮?﹂
何だか先程からユズちゃんの言動が⋮⋮と気になりますが、腰に両
手をぐるんと回されて抱き着かれると、まぁいいかと思ってしまう
自分がいました。
﹁ふふふふ⋮楽しい﹂
﹁⋮⋮⋮そう﹂
私もユズちゃんの細い肩に背を回してみます。
やっぱり弟でも、ユズちゃんにこんな事されたら嫌だと心底思いま
した。
﹃ヤキモチ妬いたら相手を信じればいい﹄
豊くんの言葉をふと思い出します。
やっぱりあの先生の息子さんなんだな。
洞察力の鋭い倉田くんとはまた違う、素直な強さや重みを豊くんの
言葉に感じました。
869
﹁先生、帰ったらすぐお風呂入って﹂
﹁⋮⋮汗臭い?﹂
ちょっと不安になって聞くと、
﹁先生って汗かくの?﹂
と、哺乳類としてそれは⋮と言うような答えが返って来ました。
﹁汗臭いとかじゃない。私がご飯作ってるの見られたくないの﹂
﹁⋮⋮⋮何で﹂
﹁だってまだ全然下手だから。絶対見られたくない﹂
﹁そんなの気にしなくていいのに﹂
可愛いですね、こういうの。
こんなユズちゃんに、何でさっきあんなにきつい事言ったりしちゃ
ったんだろう。
何だか小さな愛らしい動物に蹴りを入れてしまった様な、取り返し
の付かない罪悪感すら沸いて来ます。
﹁ごめんね﹂
﹁⋮⋮⋮何が?﹂
謝った私に、ユズちゃんが半笑いに瞳孔の開いた眼で聞いて来まし
た。
870
まだ、怒ってるか⋮⋮そうだろうな、散々言っちゃったもんな。
﹁何かね、さっき豊くんに言われたんだ﹂
﹁⋮⋮⋮何を?﹂
﹁ユズちゃん⋮まだ怒ってるの?﹂
﹁⋮⋮怒ってる?私が?﹂
﹁だって顔が﹂
﹁⋮⋮私の顔が?﹂
﹁怖い﹂
⋮⋮ん?
何だかこのやり取り、いつもしてる気がする。
そう思った瞬間にエレベーターが4階に着き、扉が開きました。
﹁行こ?﹂
そう言って私の手を取ったユズちゃんの顔は、いつもの満面の笑顔
でした。
﹁で、さっき何を豊くんに言われたって?﹂
手を洗ってキッチンに来たユズちゃんが、私に言いました。
871
﹁あぁ⋮⋮あのね、ヤキモチ妬いたら相手を信じればいいんだって﹂
﹁あ、豊くんそんな事言ってた!?﹂
﹁うん﹂
﹁毅彦先生も⋮⋮な⋮⋮ころあるから⋮⋮ね﹂
﹁何?﹂
﹁ううん﹂
換気扇の音で途切れて聞こえませんでしたが、豊くんの話なのに何
故毅彦の話?⋮⋮なんて思わない様にします。
﹁じゃ先に入るね?﹂
﹁はーい。冷蔵庫の中身使わせて貰いまーす﹂
﹁どうぞ﹂
お風呂に入ると、何か色々な事が頭を飛び交いました。
本来なら、ユズちゃんにぶつけた様な衝動は二十代前半くらいでみ
んな卒業してるんじゃないだろうか。
現に豊くんや倉田くんがあんなに冷静な訳ですし⋮⋮。
でも、やっぱり他の男性には触られたくない気持ちが抜けません。
ここに来る以前のユズちゃんのお仕事は知っていますが、何故かそ
れに対しては理性で理解が出来る気がします。
でも、知っている男性⋮⋮まぁ高浜と毅彦、豊くんに触られるのは
抵抗があります。
何故か倉田くんにはその警戒心はありません。
872
倉田くんも高浜の傘下の人間だけあると言うか、モテる方の見た目
だと思いますが、ユズちゃんと並んでいても平気な気がしました。
でもやっぱりベッドで並ばれるときついかな。
あぁ⋮だから数百万円払ってでも水揚げをするのかな。
そう思いました。
逆に数百万もらってしまった私としては複雑なところです。
もうあれで高浜達が出ていくまでの家賃の前払いって事でいいや、
そう思いました。
1人でのお風呂は呆気なくササッと終わりました。
身体を拭いて洗濯機の上の、下着を入れているカゴに手を入れると、
コツッとプラスチックに指先が当たりました。
﹁⋮⋮⋮!?﹂
背伸びをして見ると、上も下も1枚もありません。
でも靴下だけはあるので、ほぼ同数揃えた下着が無くなるはずは⋮
⋮。
﹁⋮⋮ユズちゃーん﹂
﹁ちょっと待って、今ね毅彦先生から電話⋮⋮あ、もう大丈夫。何
ーー?﹂
何で毅彦から電話が!?
もう番号教えたの?と思いましたが、私も瑞希さんに自分から聞き
ましたね。
そこは冷静に考えれば、親戚なんだから構わないところです。
873
﹁どーしたのー?﹂
﹁俺のパンツがない﹂
﹁えー?じゃ切るね、バイバイ毅しゃん﹂
ユズちゃんは何故か満面の笑みで、携帯を片手にやって来ました。
洗面所のドアを開けると、焼き魚の匂いがして一瞬幸せな気持ちに
なりますが、まずは⋮⋮。
﹁ユズちゃん知らない?﹂
﹁⋮⋮何を?﹂
またこの⋮⋮何でこんな怖い顔するんだろう。
ちょっと不穏な感じです。
﹁だから俺のパンツとシャツ﹂
﹁仕事行かない時はパンツ要らないと思うの﹂
﹁えぇ?﹂
﹁いいから、こっち来て﹂
﹁来てって⋮⋮何?何なの?﹂
ユズちゃんは私の手を取って、リビングに引っ張って行きます。
全裸でリビング⋮⋮自分の家でも考えられない事でした。
874
﹁まぁ座って座って﹂
﹁ちょっと何⋮⋮﹂
﹁いいから﹂
焼き魚の匂いでいっぱいのリビングのソファーに座る様に促されま
すが、そのまま座るのには抵抗があります。
﹁ユズちゃん、やっぱりパンツ⋮⋮﹂
﹁えい!﹂
思いっきり突き倒され、私は尻餅をつくようにソファーに倒れ込み
ました。
皮革の感触を背中やお尻や太股で直に感じたのは、多分初めてだと
思います。
ひんやりしつつも湿っぽい感触はすぐ、私の身体からの水蒸気で蒸
し暑くひっついて来ました。
﹁ねぇ、さっきから全然意図が読めないんだけど⋮⋮﹂
﹁先生に、お仕置きです﹂
﹁何の!?﹂
﹁自分の胸に聞いてみれば?﹂
そう笑顔でユズちゃんは私の上に跨がる様に乗って来ました。
パンツは?
875
ご飯は?
何だか情けない言葉が頭の中に羅列されますが、ユズちゃんは嬉し
そうな顔で私を下目遣いで見下ろしています。
長いボーダー柄のワンピースの裾がくすぐったい感じに当たり、何
だかご飯もパンツもどうでも良くなって来た自分がいました。
﹁先生って感じ易いよね﹂
﹁こんな事されたら仕方ない⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふぅん。じゃ他の人に押し倒されてもこうなる?﹂
﹁⋮⋮⋮ぁ⋮!﹂
いきなり上から掴まれて思わず腰が浮きそうになりましたが、ユズ
ちゃんの身体が重しの様に乗っています。
お風呂上がりで湿った身体がソファーに張り付いて、上手く体勢が
整えられません。
かと言って下手に動くと、ユズちゃんがよろけたり落ちたりしそう
です。
﹁いいな、その顔﹂
﹁⋮⋮顔?﹂
﹁顔﹂
唇が這って来て、顔と言った時の息が鎖骨に掛かりました。
何でこんな積極的なんだろう?
何があったのか不安ではありますが、このシチュエーションにちょ
876
っとドキドキしている自分がいました。
両肩をしっかり押さえ込まれ、鎖骨から首筋をゆっくりとユズちゃ
んの唇や舌が這って来ると、うっすら汗と甘いイチゴジャムみたい
な匂いが近付いて来て、顎まで来ると顎の輪郭をなぞる様に吸い付
かれた辺りで、私もユズちゃんの身体に手を伸ばしました。
﹁⋮⋮ダメ﹂
﹁何で﹂
﹁ダメなものはダメです﹂
膝立ちのユズちゃんは脚を開くと、私の腕を気をつけの状態にして
ピッタリと太股で私の身体に押し付けるように押さえ込みます。
﹁朝もそうだったけど、何かユズちゃん⋮⋮﹂
﹁反論は認めません﹂
やっぱり思い切り乳首を抓り上げられて、私は思わず顎を反らしま
した。
何だろう、お仕置きって一体どういう⋮⋮。
とか考えつつも、こじ開ける様に口の中に入って来たユズちゃんの
短い舌を迎え入れようと、必死で絡み付かせながらなめ回す自分が
いました。
⋮⋮浅ましいな。
そう自虐的な客観視をすればする程、何故か求めたい気持ちが押し
寄せてきます。
﹁さて﹂
877
キスと乳首だけでかなり満足していたのですが、ユズちゃんはサッ
と身体を起こして脚を緩め、私の両手を解放しました。
﹁寝て下さい﹂
﹁寝る?﹂
﹁そうです﹂
私はお皿に張り付いたラップを剥がす様な感触を背中に感じながら
身体を起こして、横に倒れてみました。
﹁こう?﹂
﹁じゃ先生、さっきのお仕置き始めるね﹂
﹁⋮⋮さっきのお仕置き?﹂
ユズちゃんはポケットから、見慣れない黒いパッケージのスキンを
出しました。
見慣れるも何も、使用頻度が極端に無いので全然詳しくないのです
が⋮⋮何かいつものと中身も違う気がします。
﹁いいよ、自分で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮反論は、認めません﹂
今度は笑顔で陰嚢の裏側を軽く抓られ、思わず脚を閉じました。
878
﹁さて、では﹂
私の折った脚にのしかかる様にして私を覗き込みながらスキンをピ
リピリ破ると、何故かユズちゃんはそれを裏表にクルクルと伸ばし
始めます。
﹁逆⋮⋮じゃない?﹂
﹁解ってます﹂
﹁何するの?﹂
﹁見てて﹂
そう言うと、ユズちゃんはそれを何故か指に嵌めます。
何でそう使うのかサッパリ解らない私は、黙って見ていました。
﹁やだ、綺麗なトワタリ﹂
﹁トワタリ?﹂
﹁蟻の戸渡り、とはここの事です﹂
私の太股の裏側を押さえ、ユズちゃんの髪の毛が陰部を包む様にく
すぐり、普段何も当たらないであろう部分に思い切り舌が這わされ
ました。
﹁ぅあぁ⋮﹂
﹁気持ちいい?﹂
879
﹁気持ちいい⋮⋮けど何か変な感じ﹂
﹁じゃこっち﹂
﹁⋮⋮!!?﹂
﹁あはは、キュッてなった﹂
﹁⋮⋮そんなとこいいから!!﹂
﹁いいでしょ?﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
有り得ない事ですが、ユズちゃんが肛門にまで舌を這わせているの
がハッキリ解りました。
羞恥心が勝つか、このゾクゾクする高揚感が勝つか。
生理的にはすごく嫌な筈なのに、腰骨から下は喜んでいる、そんな
奇妙な分離を感じます。
﹁もういいのかな﹂
﹁⋮⋮⋮え?﹂
ユズちゃんの両手が離され、ホッと脚を下ろすと今度は
﹁ごめんねー忘れてないからねー﹂
と言いながら、性器自身にユズちゃんの舌が絡み付いて来ました。
880
﹁⋮⋮ユズちゃん﹂
﹁そんな喘ぎながら呼ばれると、こっちもドキドキする﹂
喘ぐ⋮⋮確かに呼吸数は走った後くらい上がっている気がします。
﹁はい、じゃ力抜いてー﹂
﹁⋮何?ユズちゃん何してるの!?﹂
﹁あはは、入ったね﹂
﹁なっ⋮⋮抜いて!苦しい!!﹂
﹁抜いて欲しい?あれ?ちょっと待って﹂
嘘だ。
こんなの絶対嘘だ。
吐きそうなくらいの衝撃の中、私の頭の中には最初に会った時のい
じらしいユズちゃん、アイス食べてるユズちゃんなど色々なユズち
ゃんの顔のスライドショーが高速でなされます。
﹁苦しいの?﹂
﹁もう無理!!﹂
﹁あっれー?確かドライオーガズムとか言うのが﹂
﹁ドライ⋮⋮オー⋮ガズム!?﹂
881
﹁何か出っ張りがある⋮⋮はず⋮⋮これ?﹂
﹁ぐあぁああぁ!!!﹂
﹁せ⋮⋮先生?﹂
﹁嫌だ!もう無理!﹂
ひたすら逃げようとしますが、ユズちゃんがしっかり指の関節を曲
げていて抜けないのと、私の動きに合わせてユズちゃんも身体を密
着させて来るので離れられません。
その内に、何だか尿意を限界まで我慢した様な感じに長時間の正座
の足の痺れを足した様な衝撃が全身を駆け巡ります。
﹁うあぁああ﹂
﹁どう?来た!?﹂
﹁⋮⋮うぁああ⋮﹂
そんな中でまた性器を口で激しく弄ばれ私は身体が反り返りますが、
かと言って暴れてユズちゃんに脚が当たったらと思うとひたすら耐
えるしかないと思いました。
水に無理矢理に頭を浸けられる感じに似た苦しさ、全身に来る激し
い痺れ、もう頭がおかしくなりそうなくらいの衝撃。
そこには快感はありませんでした。
ただただ、麻酔無しで身を削ぎ落とされる様な、苦行みたいな感じ
です。
﹁いたたた先生、締め過ぎ!指折れそう!!﹂
882
﹁いいから早く抜いて!!﹂
﹁抜けないってそんな締めたら!!﹂
ユズちゃんの指が中で動かされる度に、もう身体中に痺れが。
このまま死んじゃうんじゃないかな、そう思いました。
局部へもかなりの快感がある気がしますが、全身の強烈な痺れにも
似た感覚に打ち消されている様な気がします。
﹁もう無理!!!﹂
﹁いいよ、出して﹂
そう聞こえた直後、亀頭に吸い付く様に唇の裏側が当たり、陰茎全
体を思い切り扱かれながらも後ろから強烈な刺激が来て、それに耐
えているうちにいしきが
目を開けると、何だかうたた寝をした様な怠さに襲われました。
あれは悪い夢であって欲しいですが、全裸のままでタオルケットが
掛けてあり、内臓にまで及ぶ擦り傷の様なヒリヒリした痛みで現実
であった事を突き付けられます。
そして床の上に座ったユズちゃんが私の下腹部に上半身を突っ伏し
ていました。
何であんな事したんだろう?
私はユズちゃんの小さな頭を眺めると、 ﹁お目覚めですか﹂
883
とユズちゃんが可愛らしい笑顔で私に向き直りました。
﹁⋮⋮何であんな事したの?﹂
﹁先生にどうしたら気持ち良くなって貰えるかを医学的な見地から
ちょっと﹂
﹁医学的⋮⋮?﹂
﹁なのに何故か私が気持ち良かったんだねぇ﹂
﹁えぇ?﹂
﹁あんな顔であんな声出されたら、愛し過ぎる﹂
うっとりした表情でそう言われても。
何が何だかで無我夢中の半狂乱だったのですが、私の人生屈指の痴
態であった事は間違いありません。
いたたまれなくなって来て、私はモソモソとタオルケットをかぶり
ました。
﹁あー⋮⋮餃子だ。嫌だった?﹂
﹁もう嫌だ﹂
﹁ごめんね﹂
﹁あれって普通にする事?違うよね?﹂
884
﹁うーん⋮⋮男の人が感じるってどうやればいいのかって事で﹂
そんなの普通に愛のあるセックスするだけで十分なのに。
私は心の中で言いました。
﹁でも凄い反応だったからなぁ﹂
﹁⋮⋮死ぬかと思ったんだけど﹂
﹁あのさ、セックスって死にそうにならない?﹂
答えようとすると、代わりにゴギュッと言う音が私の腹部からしま
した。
もう散々な恥ずかしい目に遭ってお腹まで鳴らす自分なんて消えて
しまえばいい。
﹁いやぁあ餃子がお腹鳴らした!!﹂
﹁⋮⋮ご飯、もう冷めてない?﹂
﹁ふふふ、あともう少しのところで加熱を止めてあるのだよ﹂
﹁⋮⋮そうなの﹂
私が頭を出すと、ユズちゃんはニコニコと私を見ながら、キッチン
に向かいます。
﹁ご飯の前に﹂
﹁えー?あ、パンツ?﹂
885
﹁そう﹂
﹁⋮⋮先生、一緒にバスタブ入るって言ったじゃん﹂
﹁⋮⋮そうだね、でもご飯の時﹂
﹁うっふふふふ﹂
⋮⋮もういいや。
何かもう逆らえない自分がいました。
焼き鮭と甘辛いショウガの利いた野菜炒めと白いご飯が並ぶ食卓。
とりあえず普段全然使わなかったガウンを羽織って﹁いただきます﹂
と、鮭に箸を入れます。
﹁⋮⋮おいしい﹂
﹁よかったぁ!⋮って何か涙目じゃない!?﹂
﹁うん、まさか手料理誰かが作ってくれるなんて思わなくて﹂
﹁あははは、泣く事ないじゃん﹂
そう言って、食卓の椅子に座る為に前屈みになったユズちゃんの胸
元に、私の付けた後が点々とまだ赤黒く見えました。
この角度から見えるなら、きっと毅彦や豊くん、下手したら保倉先
生にも見えただろうな。
886
急激に職場に行きたくなくなった自分がいます。
﹁どうしたの?﹂
﹁ごめん、ユズちゃんが怒ったの解った﹂
﹁え?本当?﹂
﹁そんな跡いっぱい付けられたら誰でも怒っ⋮⋮﹂
﹁私が学校の先生なら居残りさせてるくらい間違ってる﹂
﹁そう⋮⋮⋮﹂
何だか夫婦になる筈なのに、お互いを理解するのは難しいな。
そう思いました。
特に何で怒ってるのかが解らないと致命的と言うか⋮⋮。
﹁ご馳走様でした﹂
﹁ちょっと⋮私、今食べはじめたんだけど﹂
﹁じゃ食べてるの見てる﹂
﹁何それ!?﹂
そう呆れるユズちゃんの口元や箸を眺めていると、
﹁先生、私ね⋮⋮朝言ってたドレッサーより欲しい物があるんだけ
ど⋮⋮﹂
887
と、切り出されました。
﹁ドレッサーより欲しい物⋮⋮﹂
﹁言っちゃ悪いけど、高浜さんにも毅彦先生も豊くんにも突っ込ま
れた。まだ貰ってないの?って﹂
結婚するのにまだ私がユズちゃんにあげてない物?
そして男性から見ても﹁まだ?﹂と言われる様なもの。
婚姻届は後1人の署名を貰うだけですし、あげる物ではありません。
私は腕組みをして考えました。
結婚で必要なもの⋮⋮。
﹁⋮⋮苗字?﹂
﹁そう来る!?実に先生らしい、そんな先生が私は大好きだぁ!!﹂
﹁苗字はね、婚姻届出してからじゃないと﹂
﹁⋮⋮私、苗字で合ってるなんて言ってない。いつから私達は夫婦
別姓になったんだね?﹂
﹁えぇー⋮?﹂
真っ赤になって笑いながらも、ユズちゃんは涙目になっていました。
高浜はともかく、毅彦や初対面の豊くんですら思う、結婚に於いて
私があげる物。
⋮⋮やっぱり解りません。
888
﹁いいよ、先生が気付くまで待ってる。毅彦先生達にもそう言った
し﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その後、お風呂を入れる間も入浴中も寝る段になっても、それは解
りませんでした。
お風呂から上がると下着は全て元通りになっていたので安堵しまし
たが、それ以上にユズちゃんの謎掛けが気になって仕方ありません。
自分はよっぽど、その辺の当たり前が抜けてるんだな。
一瞬だけ婚約解消の文字が浮かんで焦ります。
ベッドに入るとすぐ寝息を立てるユズちゃんの隣で悶々としている
と、ユズちゃんが私を見ていました。
﹁まだ考えてるの?目乾くよ﹂
﹁⋮⋮やっぱり解らない﹂
﹁いい、その内気付くよ。先生、まだしたい?﹂
﹁え?﹂
﹁エッチ﹂
思わず私が2回頷くと、ユズちゃんは笑いながら私の身体を引きず
り込む様に布団に包んで行きました。
指を深々と差し込まれ気絶してお腹を鳴らした挙げ句に、結婚に重
要な物すら気付かない。
889
そして身内にすらヤキモチが抑えられない。
こんな自分に付き合ってくれる人間はユズちゃんしかいない気がす
る。
そんな気持ちで私は身体を起こしてユズちゃんを腕の間に抱き寄せ
ました。
跡を付けるなら見えないところに残さないと、と心に刻んで。
890
異性の家の是非︵後書き︶
いいなぁ⋮⋮ユズちゃん。
﹁いぃつかおーーまーえにーー熱いこぶしでダーブルフィストォー
ー﹂
とか先程、千の風になって的に伝えてみたのですが。
﹁⋮⋮良かった、機嫌良さそうで安心した。じゃ、仕事戻るね﹂
﹁夫よ。今、外か?﹂
﹁そう。平日でも秋葉原は人が多い﹂
﹁じゃあ人混みで両手を挙げて近親相姦!!って3回叫んで!!﹂
﹁⋮⋮近親相姦?﹂
﹁連続アクメ地獄!!でもいい﹂
﹁⋮⋮子供達はもうご飯食べた?﹂
﹁じゃあコンビニで﹃肉マン!下さい!!﹄って可愛いレジの女の
子にだな﹂
﹁⋮⋮肉まん?俺、お腹空いてないけど?﹂
891
全く相手にされてない⋮⋮。
いいなぁ、ユズちゃん⋮⋮。
892
★高浜武志・5★
﹁おっかたづけ∼おっかたづけ∼﹂
何故シンセサイザーがあったのか解らないが、俺は大喜びで歌いな
がら弾いてみる。
俺と木下、飯田、細井、百目鬼で社長が帰るまでに、事務所を綺麗
にしようと言う事になり。
堆く重ねられたものを、軍手をしながら退けたら色んなものが出て
来てですね。
キーボードとか図書券とか、広告載せてるちょっとエッチな雑誌と
か。
俺はその雑誌をキーボードの楽譜置きに置いてめくりめくり弾いて
ます。
﹁さーぁさみんなでおっかたづけ∼∼﹂
﹁高浜さん、幼稚園の先生になれますよ﹂
飯田が掃除機を掛けながら微笑ましそうに言う。
こんなむさ苦しい幼稚園とか勘弁して下さい。
何でここまで放って置いたの!?お片付けしなさいよ!!と俺がキ
レると、
﹁片付けても社長がキレると散らかるから諦めた﹂
893
と何とも清々しい程に呆れ返る答えが全員一致で返って来る。
じゃあ社長が暴れても散らからない様に、全てファイリングしたり
棚に仕舞えばいいんじゃない?と俺が提案したら、みんな
﹁その手があったか﹂
と感心していた。
今日何回目かな、それで褒められても俺は素直に喜べないっつーか、
褒めてくれた人が心配になっちゃう感じ。
社長の机だけは結構綺麗だったけど、他が酷い。
特に木下と百目鬼にはゴミはゴミ箱へから教えたい。
特に百目鬼の机からはワサビ柿ピーの袋の中にまた大量のワサビ柿
ピーの袋が延々と出て来ると言う、計100袋以上の柿ピーマトリ
ョーショカが10袋以上出て来た。
他にもペットボトルの蓋とかダイレクトメールの空封筒とかプチプ
チビニールとかもう⋮⋮。
そんな中、デスクに整然と並べられた謎のグレーのカバーが掛けら
れた雑誌らしき本の数々。
これはきっと何かの秘蔵本に違いない。
まさかSM雑誌じゃなかろうな、と尋ねると非常に怖い顔で睨まれ
た。
﹁⋮⋮そんなんじゃないです﹂
﹁超気になるー﹂
﹁⋮⋮見ても引かないですか?﹂
894
﹁心の準備出来た﹂
﹁じゃどうぞ。大事に見て下さいね﹂
と、開けると見開き一杯に毛深いフカフカの⋮。
﹁何これ﹂
﹁⋮⋮知りませんか?﹃猫の手帖﹄﹂
﹁そうなんだ。はい、ありがとう﹂
﹁廃刊になったのが悔やまれます﹂
﹁そうなんだー﹂
うむ⋮⋮やっぱこの手の男は手強いな。
かと思えば、木下が
﹁あ、これか、虫の原因﹂
等と言い出した。
﹁虫⋮⋮?﹂
嫌な予感がして振り返ると、何か茶色いクリーム状の味噌みたいな
何かが入った袋を木下が持っていた。
﹁⋮⋮何、それ﹂
895
﹁バナナ、ですね﹂
視力の良さが悔やまれるが、俺には大量のショウジョウバエに小麦
色の節のある蛹や白く細長い幼虫がびっしりニョロニョロ動いてい
るのが見え⋮⋮。
気付くと俺は、事務所の外にいた。
﹁高浜さーん?﹂
﹁いや無理無理無理!!それ何とかしろ!!!﹂
アタッカーの皆さんは何事かとこちらを見ている。
そんなの気にならない、それどころじゃねぇ、俺は毛穴全てで吐き
そうなくらい全身総毛立った。
﹁捨てますよ、ちゃんと﹂
﹁その部屋に捨てるな!!﹂
﹁えー﹂
すると事務所の扉が開いて、木下が例のそれを持って出て来た。
アタッカー席から﹁キモッ﹂言う声が聞こえた。
そんなレベルじゃねぇ!!
﹁どうします、これ﹂
﹁うわぁあぁ!!馬鹿!木下お前ホンッと馬鹿!!近付けんな!!﹂
896
﹁どこに捨てればいいんですか?﹂
﹁いやいやいや業者呼んででもそこに捨てんな!!﹂
﹁ビニールでもう一重⋮﹂
﹁だから⋮⋮!﹂
そう言いかけると、ポンと背中が叩かれた。
振り返ると眉や口や耳に、計20個以上のボディピアスの着いたド
レッドヘアの若者が、蓋付きゴミ箱を差し出している。
﹁ここ捨てていっすよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
その気遣いに礼を言えたものの、木下が俺の目の前でコンビニ袋の
張られたゴミ箱に、例の物を入れるのが視界に入るとやっぱり無理。
﹁あぁああぁあ!!﹂
と、俺はまた頭を掻きむしってしまう。
﹁高浜さんって潔癖症ですね﹂
ドレッド君が持って行ってくれた後も、まだ気持ち悪さに頭を抱え
ている俺に木下がおかしそうに言った。
潔癖症も何も、普通はドン引きですからね!?
897
俺がふと振り返ると、アタッカーの結構な人数と目が合った。
仕事中、大騒ぎしたのは全面的に俺が悪い。
﹁騒いですみませんでした﹂
と軽く頭を下げると、目を逸らす奴もいるが大半の人は﹁いえいえ﹂
みたいな反応をしてくれる。
基本的に人は人に、優しい。
気を取り直して事務所に入ろうとすると、ドゴッと言う鈍い音がし
て、また叫び声が聞こえた。
もーやだ、今度は何!?
恐る恐る、扉を開けると、細井と木下が百目鬼の足元にしゃがんで
何かしている。
﹁何でシンセサイザーがこんなところにっ!?﹂
細井が叫ぶ。
意味が解らない。
机の上のゴタゴタから巨大なシンセサイザーが降って来て、百目鬼
の足の上に落ちた、そんな感じか。
百目鬼は半笑いで、シンセサイザーを退けようと頑張る細井達の様
子を見ていた。
﹁ちょっと⋮⋮大丈夫か?﹂
﹁くくくっ⋮⋮まさかこんなのが落ちて来るなんて⋮﹂
﹁早く足抜けば!?﹂
898
﹁あのね、高浜さん。重過ぎて抜けないんです、くくくくく﹂
⋮⋮そうなの。
怪我がないなら楽しそうだしいいのかな。
﹁行くぞ、せーーの!!﹂
何とか持ち上がったシンセサイザーはアダプターが差し込まれたま
まだった。
⋮⋮何であるのかはさておき、コンセント挿せば使えるんだな。
﹁そこ置くぞ、せーの!﹂
男2人掛かりで持ち上げられたシンセサイザーは、窓辺の空いてい
たところにドカンと置かれた。
おっきいシンセっていいなー。
俺はポンポンと鍵盤を叩く。
﹁ピアノ弾けるんですか?﹂
飯田がちょっと期待混じりの目で俺を見た。
弾ける弾けないで言えば、少しは弾ける。
でも小学3年生で辞めちゃったしなー。
﹁あ、電源生きてますよ!﹂
飯田がアダプターを繋いだせいで、俺のピアノへの情熱が沸き上が
った。
ちょっと⋮⋮景気付けに⋮⋮。
頭の中で、﹁じゃあおかたづけしましょう。武志くん、弾いて下さ
899
い﹂と美里先生の声がした気がした。
俺はひまわり組に戻った気持ちで、26年ぶりに冒頭の曲を弾き始
めて今に至る。
1週間前の食事は思い出せなくても、子供の時に覚えた事って結構
忘れないもので、指は自然に鍵盤を追う。
多分、その辺にいる奴にリコーダーを渡して﹁エーデルワイスを吹
け﹂と言ったら、案外みんな吹けるのではないだろうか。
ミーソレーードーーソファー、と。
ふと振り返ると、かなり片付き始めている。
いいぞみんな。
﹁おかたづけのうた﹂でテンションブチ上げて行け。
俺はもう飽きてきたけど。
﹁百目鬼、足は大丈夫?﹂
心配したのか飯田が聞くと、木下が
﹁こいつ痛覚鈍いから大丈夫だろ、首折れても平気だし﹂
と情の無い事を言う。
﹁まぁそうか﹂
って納得しちゃうのかよ、飯田。
チラリと振り返ると、百目鬼は無言で普通にファイルの仕分けをし
ている。
高校の頃によくあったな、こういう場面。
900
何だか、この面子でここにいるとノスタルジックな気持ちになるな。
シンセ弾きはじめた時は幼稚園で、今は高校生か。
この職場、ちょっと好きかも。
そうちょっと思えて来て、俺はいい加減シンセサイザーを弾く手を
止めた。
﹁⋮⋮何で止めちゃうんですか?﹂
百目鬼が不満そうにこちらを見た。
﹁え⋮﹂
﹁結構モチベーション上がってたんですけど⋮⋮﹂
幼稚園児か、お前は!!
そう言いたいのをぐっと我慢。
﹁ほら百目鬼、エアキャットしろエアキャット!﹂
細井が俺の顔を見て、慌てて百目鬼に言う。
もう顔に出ちゃってるのか、末期だな。
﹁⋮⋮今はいい﹂
ベアバッグとかキャッツクローみたいな感じ?
格闘技はそれなりに好きだが、そんな技は知らない。
俺は軍手を嵌め直しながら復唱してみる。
﹁エアキャット?﹂
901
﹁⋮⋮エアキャットです﹂
﹁どんなの?﹂
﹁例えば、ここに猫がいると仮定しますね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
そう言うと、百目鬼は危なくも優しい目をして口角を上げ、机から
20cmくらいの空を曲線を描いて掌を滑る様に動かした。
﹁今日はマンチカン﹂
﹁まんち⋮⋮?﹂
﹁これです﹂
片手は卑猥にも見える手付きで動かしたまま、百目鬼が例のカバー
付きの雑誌をめくる。
あら、可愛い。
っているんだな、こんなダックスフントみたいな猫。
猫の手帖をデスクに戻すと、百目鬼はエアキャットも止めた。
﹁猫好きね﹂
俺が言うと、
﹁その為に働いてます﹂
902
と言う答えが返って来た。
﹁コイツ、猫いたら女いらねぇって言うんですよね﹂
木下が引き気味で言った。
﹁⋮⋮一緒でしょ、猫も女の人も﹂
﹁一緒じゃねぇだろ、お前絶対おかしいわ﹂
﹁そうかな﹂
﹁ごめん、ちょっと気になる。猫と女が一緒って?﹂
俺が気になって聞くと、
﹁構うとウザがるし構わないと怒るじゃないですか、一緒ですよ﹂
と、例の笑顔で言われる。
言いたい事は解るが、猫が絡む辺りは一般的な意見なのかどうなの
かちょっと⋮⋮。
﹁じゃお前、猫とエッチする訳?﹂
木下が意地悪そうに言うと、細井がビックリした様に振り返った。
﹁猫とはした事ない﹂
﹁当たり前だろ!!じゃ人間の女の方が絶対いいじゃねーか﹂
903
﹁⋮⋮でも撫でてる時は一緒だよ﹂
﹁は?じゃお前、猫に愛撫してんの?﹂
﹁⋮⋮逆、かな﹂
そう言いながら百目鬼はファイルロッカーを開けようと、ガタンガ
タンしだした。
それ、取っ手のところにロックがあるよ⋮⋮そう言いかけるた瞬間、
ロッカーは見事に倒れてきて、机にぶつかり派手な音を立てた。
﹁おい!!﹂
俺が駆け寄ると、デスクと床とロッカーの作った直角三角形の空間
に、百目鬼が上手い具合に体育座りをしている。
⋮⋮⋮すげぇ。
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
﹁猫を撫でる様に人間の女の人も撫でてしまう、そんな感じ﹂
と、彼は座ったまま猫と女の対比論を締めくくった。
﹁そうなんだぁ⋮⋮﹂
﹁とか言うけどさ、何だかんだお前もエッチは好きなんだろ?﹂
俺がロッカーを起こそうとすると、手伝いに来た木下がまた百目鬼
904
に絡む。
木下は多分、自分の解せない相手を放って置かないタイプなんだろ
うな。
許せないとまでは行かないけど、納得するまで詰問しちゃうぞって
感じの。
いいじゃんね、猫と女が⋮一緒⋮⋮ごめん、やっぱり俺も気になる。
﹁フェラ大好き。頭とか耳の後ろ撫でたり出来るし﹂
﹁そこかよ!﹂
﹁うん、後は音がいい﹂
﹁音って意図的にしないと余りしないと思う﹂
ようやく飯田が口を開いた。
俺もちょっとそう思う。
﹁⋮⋮意図的﹂
﹁そうだ。お前を喜ばせようとして、わざと音を立ててるだけだぞ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
飯田にそう言われ、木下にも変人扱いされ。
結局、猫と女は一緒ってどういう事だったんだ。
細井が一番困ってるな、俺も困ってる。
おーい細井くーんとか思ってたら、細井が言った。
905
﹁百目鬼ってさ、ケモナーとか!?﹂
﹁ケモナー?﹂
﹁何かほら、人間プラス動物って感じのさ!?﹂
﹁人間プラス動物?﹂
出た、連続おうむ返し。
これも同じ傾向。
﹁耳とシッポとか付いてる女の子とか!!﹂
﹁⋮⋮あぁ、アバターみたいなの?﹂
﹁アバター!?あの映画の!?⋮⋮あれは可愛くないだろ!!﹂
﹁⋮⋮人間とケモノ、でしょ?﹂
百目鬼は確信犯なんだろうか。
でも、獣の耳とシッポが付いてる女と言われても俺も難しい気がす
る。
何故か欽ちゃんの仮装大賞が頭に浮かぶ。
そうか、獣の耳とシッポはバニーガール⋮⋮か?
すると、細井は裁断された裏紙を出し、サッサッと何かを描きだし
た。
﹁こういうのだよ!!﹂
ショートボブで顔は少女漫画みたいな猫の耳と手足とシッポが付い
906
た、ラムちゃんみたいな格好の女の子が一瞬で描かれていた。
おぉ絵上手いな。
誰がどういうのを持ってるか解らないのが才能だ、と改めて思う。
﹁これならどう!?ダメ!?﹂
﹁⋮⋮そこは人間でいい﹂
ダメも何も、その女とやる機会があるのか細井?
﹁じゃ普通に女の子と!?﹂
﹁⋮⋮普通だね﹂
﹁お前は絶対ノーマルじゃない気がする﹂
飯田がウェットティッシュでデスクを拭きながらボソッと言った。
僕も何故かそう思います。
﹁⋮⋮普通ですよ﹂
﹁どう普通なんだよ﹂
﹁⋮⋮中に出したら拭いてあげて、女の子が意識があれば口で綺麗
にしてもらって終わり﹂
﹁お前⋮⋮中に出すとかサラっと⋮⋮﹂
俺がこの手の奴に感じる一種の畏敬の念を抱くと、更に有り難いお
言葉は続く。
907
﹁ピル飲んでる子には中に出すけど、飲んでない子には後ろの穴に
出すくらい﹂
﹁う、うう後ろの穴!?﹂
﹁じゃピル飲んでない子はアナルセックスでフィニッシュか﹂
﹁うっぎゃーレベル高ぇ、女が可哀相﹂
﹁ちゃんと慣らしとけば、結構そのまま入る﹂
まぁその女性がそれでいいって言うなら構わないと思いますよ、俺
は。
﹁⋮⋮じゃみんなはどんなのしてるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何故か手を止めてみんな俺の方を見た。
どうしたものか。
奈津との神聖な時間を、ましてや対面初日の男共に暴露して堪るか。
何て言えばみんな納得するかな。
﹁僕、童貞なんで﹂
﹁⋮⋮は!?絶対嘘ですよね!?高浜さん童貞とか嘘だ!!!﹂
﹁いかなる時も僕の心は童貞のままです﹂
908
﹁西田さんとしてないんですかぁ!!?﹂
﹁声が大きい!﹂
﹁すんません!!!﹂
心はっつったじゃんよもー、あっぶねーでっかい声で何言っちゃっ
てんの細井くーん。
﹁じゃ高浜さん、目をつぶって人差し指と中指をくっつけて立てて
ください﹂
飯田が鬼の首取ったぜ顔で俺を見た。
眼鏡キラーン、みたいな感じ。
﹁⋮⋮こうですか?﹂
﹁はい。くっつけたそのまま、動かしてみて下さい﹂
﹁⋮⋮﹂
こうすると自然とそういう動きになっちゃうのか?
あっ何かエロい気持ちに⋮⋮。
﹁はい、やっぱり童貞は嘘ですね﹂
﹁やっぱ嘘じゃないですか高浜さーん!!!﹂
﹁何すかそのリアルな動き⋮⋮﹂
909
﹁中を掻き混ぜるよりも足の指で拡げて眺めて1人でしたい﹂
最後によく解らない意見が聞こえたが、俺は目を閉じて奈津の感触
を思い出す。
あ、いかん。
俺は内心大慌てでデスクに座った。
飯田の馬鹿!ここ数日セックスしてない俺に変な事させんな死ね!!
職場で勃起なんて超久々!
とっとと寝ろ下浜!!
布地と擦れるだけで気持ちいいとか言ってんじゃねぇ!!
俺はタバコに火を点けて、平静を装う。
はーーいみんなーお片付けもうちょっと頑張ってー。
﹁⋮⋮でも、普段は猫がいればいいんだよ﹂
﹁普段はって何だよ﹂
﹁女の子にいて欲しい時もある﹂
﹁お前、馬鹿じゃねぇの?猫の下りいらねぇじゃねぇかよ!!とっ
とと新しい彼女作れ﹂
﹁⋮⋮もう彼女はいらない。俺は猫の飼える物件に引っ越せればも
ういい﹂
うわー木下。
何があったか知らないけど絶対お前、地雷踏んだぞ。
﹁だってお前バイトに手出すんだもん﹂
910
飯田が更なる燃料投下を始める。
﹁しかも一方的にアタックされた子に逃げられるとか、お前に何か
問題がある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
一方的に好かれた女に逃げられる⋮⋮か。
何だかなー、百目鬼がこうしていじられてると物凄い庇いたくなる。
別に変な意味じゃなくて、﹁こいつは悪意ないんだよ、わざと変な
言動してるんじゃないんだよ﹂って言いたくなる。
でも百目鬼の場合はたまに確信犯っぽいもんな⋮⋮。
きっとこうして庇いたいけどまぁ本人にも非はあるしと躊躇してる
内に、イジメの傍観者は出来上がるんだろうか。
﹁もういいですよ、僕は一生独身でいいんです﹂
そう寂しそうに笑って、百目鬼は綺麗になったデスクに着いた。
一生独身⋮⋮俺には当たり前の感覚なんだけど、こいつは結婚願望
があったって事か。
﹁気落とすなよな﹂
お前がトドメ刺したんだぞ、飯田!
﹁俺もここで童貞卒業出来たし、そのうちいいことあるよ!!﹂
ちょっと待て、こちらの職場は恋愛御法度なんだろ細井?
そんな俺の頭の上のハテナマークが見えたらしく、
911
﹁細井の入社祝いに社長が丸蟹ソープ連れてったんすよ﹂
木下が笑いながら説明をくれた。
丸蟹って風俗を始め、宝石から格闘技ジムまで幅広いあのグループ
だよね?
確かこの近所にでっかい丸蟹ソープランドがあった気が⋮⋮。
﹁社長含むみんなで見送って、120分後に迎えに行って拍手して
寿司屋で歓迎会したんすよ﹂
﹁何それ⋮⋮﹂
俺は思わず絶句した。
風俗で童貞卒業自体は問題は無い。
でもソープ出たら同僚が拍手で﹁童貞卒業おめでとう﹂ってすごい
光景だな。
俺が中2の時に同い年の彼女の家で体験した、﹁これが女の子の身
体なんだ⋮!﹂ってその後何日も続く感動、120分で味わえた?
親が法事でいないと言う彼女の家で先走る気持ちを抑えながら、痛
くない?って確かめつつ、必死で無い経験を調べ上げた知識で補い
ながらの⋮⋮まぁ細井がいいならいいけど、うん。
﹁百目鬼、元気出せ!!﹂
﹁そうだ、目を合わせず黙ってればお前はモテるだろ﹂
﹁そうだ!それで行け!!﹂
912
励ましてるお前らが追い込んだんだろーが!と思いつつ、俺は失恋
について考える。
記憶に残る程に傷付いた経験、余りないな。
勝手に俺が逃げるか、相手にぶちギレられてフラれるかで。
歳取る毎に1人に限定するのを避け始めた気がする。
一般的に多くの人は歳取る毎に結婚を考えるそうですがね。
だから30過ぎて試練が来たのかもしれん、なーんて⋮⋮。
﹁畑野さんよりいい女の子はたくさんいるよ!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁でも畑野さん、百目鬼がシメられてからいきなり辞めたよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁百目鬼ボッコボコだったもんな、責任感じたのかもよ﹂
畑野さんと言う子は百目鬼との関係が発覚して、百目鬼がシメられ
てからいきなり辞めて音信不通か。
いやーやっぱ職場の恋愛話は盛り上がるね、どこも同じな気がする
わ。
﹁俺は見てないから解らんが、ボッコボコにされるの覚悟で畑野さ
ん⋮と付き合ったお前はある意味すごいと俺は思う﹂
﹁⋮⋮⋮そうですか?﹂
ちょっと喜んでくれたのかな。
913
何となくそう感じた。
﹁どっちかが辞めてからにすれば良かっただけだろ?﹂
﹁⋮⋮好きになっちゃうとどうでもよくなったんですね﹂
そうよね、社長こそがそうだもんね。
﹁あのさ、俺がこれから何する訳じゃないけど⋮⋮やっぱりそうい
う事しちゃうと誰かにバレちゃって社長にチクられてってパターン
なの?﹂
﹁⋮⋮畑野さんが忘れて行った携帯の待受が僕の寝顔で﹂
﹁で、お前の携帯も見せろって言われて、履歴が畑野さん一色だっ
たんだよな﹂
木下が少し気の毒そうに言った。
﹁その携帯を忘れ物で受け取ったのが昼勤の俺らだったら黙ってた
んですけど、夜勤の社員だったんで即バレでした﹂
﹁⋮⋮もういいでしょ﹂
﹁お前もよく警察行かなかったよな、あんな指折られて﹂
飯田も流石に気の毒そうに言った。
いやー⋮⋮百目鬼が悪いにしても指折るのか。
えげつねぇな、鹿田社長。
あぁ何かさっきのピアノ弾いていた時に比べて、オフィスの空気が
914
数段と悪くなってる。
⋮⋮いかん。
こんな職場の空気は俺は嫌だ!
﹁はい、起立!!﹂
﹁き、起立!?﹂
﹁エロい意味じゃねぇから安心しろ!さっきの応援団みたいなのを
俺もやってみたい!みんなお願い!!﹂
すると、みんなとりあえず立ち上がり、一列に並んだ。
しからば鹿田社長の真似事を⋮。
﹁みんなよくお片付け出来ました!!﹂
﹃はい!!﹄
﹁これからもこの状態を維持していきましょうね!!﹂
﹃はい!!﹄
﹁この中で25超えてる人手挙げ!﹂
﹃はい!!﹄
﹁全員か、じゃ30超えてる人!!﹂
﹁はい﹂
915
飯田だけか、2人で頑張ろうな。
﹁お幾つですか!!﹂
﹁俺は今年32です!﹂
﹁俺とタメです!!﹂
﹁はい⋮⋮えぇ?﹂
何?不満?
その様子を見た木下が失笑した。
﹁木下アウト!!﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁好きな体位は!!﹂
き
な
体位は!?﹂
﹁え?たい、い?﹂
﹁好
﹁座位です!!﹂
﹁すげぇ解る!!飯田!﹂
﹁はい!﹂
﹁お前の好きな体位は何だ!!﹂
916
﹁せい、正常位です!﹂
﹁案外普通だ!!﹂
﹁すみません!!﹂
﹁細井!!お前は!!﹂
﹁わ、わ解りません!!﹂
﹁120分何してた!?﹂
﹁すみません!!﹂
﹁そこ!さりげなく復活するな!!﹂
﹁くく⋮⋮すみません!﹂
﹁聞くの怖いけどお前のフェイバリット体位は!!﹂
﹁⋮⋮背面騎乗位です!!﹂
﹁変態!!﹂
﹁くく⋮⋮はい!﹂
﹁あ、あの、聞いていいですか!?﹂
細井が意外に切り込んで来た。
917
うんうん、積極性が出てきたね。
﹁何でもどうぞ!!﹂
﹁高浜さんの好きな体位は!?﹂
﹁座位からの騎乗位だ!!﹂
﹁解りました!!﹂
﹁他に質問は!!﹂
あっはっはっはぁー楽しい、これ楽しいじゃねぇか。
飲んでないのに酔ってるみたいな気持ちになるな。
﹁経験人数お願いします!!﹂
﹁木下!お前は今まで食ったパンの数を覚えているか!?﹂
﹁覚えてません!!﹂
﹁俺もそんな感じだ!!そろそろおしまい!!﹂
すると社員のみんなは後ろ手の気をつけを解いて席に着いた。
﹁何かすっげー楽しかった﹂
木下がウキウキ顔で言う。
いや⋮⋮社長の真似して悪ふざけしてただけなんですが?
918
﹁こんな感じで朝礼やればいいのにな﹂
飯田も腕組みしながら冷たい笑顔で言い放つ。
朝から好きな体位とか、アホに拍車かけてどーする。
まぁやりだした俺が一番アホですがね。
﹁ね、ねぇ百目鬼、背面騎乗位って何!?﹂
﹁⋮⋮女の子が後ろ向きになっての騎乗位﹂
﹁え、だってそれ⋮⋮﹂
﹁段々と力が抜けて来て這いつくばって来ると、すごく眺めがいい﹂
そうですね、無修正で全部見えますものね。
あーー何か無性に背面騎乗位したくなった!!
座位でも正常位でもバックでも何ッでもいい、セックスがしたい!!
﹁どしたんすか!?﹂
ちょっと情緒不安定な俺を不安そうに木下が見た。
﹁自分で振っといてなんだけ、ど⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁俺は無性に今、セックスがしたい!!﹂
﹁えぇえぇ何言って⋮⋮﹂
919
そう叫んで拳を思い切り天井に向けて繰り出してみた、その瞬間に
扉が開いた。
一気に事務所に緊張が走る。
俺の下半身に再び集まりかけてた血液も一気に解散した。
﹃社長、おかえりなさい!!﹄
﹁おぅ⋮⋮綺麗にしてたのか、すごいな﹂
俺は間抜けなアッパーカットフォームで静止しているが、社長は気
にしないんだろうか。
﹁高浜が檄を飛ばしてたのか、流石だな﹂
あ、そう見えました?
良かったーあと2分遅かったら俺達シメられてたかもね。
そう思って俺も席に着くが、社員の表情が引き攣る寸前に強張って
いる。
好きな体位を叫ぶ職場が正しいとは言わないけど、社員がずっと萎
縮しなきゃいけない職場ってどうかな。
どうなのかな。
かと言って、さっきみたいにおちゃらけ過ぎてもいけないんだろう
けどさ。
﹁あのな、高浜。りーたん間違えたんだって﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁ほら、高浜に謝って﹂
920
すると社長の斜め後ろに歩いて来たりーたんが俺を見下ろして
﹁すみませんでした﹂
と、絶対反省してねぇだろって言い方で謝って来た。
あら、りーたん服が変わってる。
メイクもちょっと薄くなってる⋮⋮あのー⋮⋮社長?
それに間違えたって下りがサッパリ意味解らない。
﹁ほら、りーたん、携帯見せて﹂
りーたんは仏頂面で、持っていた携帯を突き出した。
﹁お前のと大きさもそっくりだろ?だから、間違えて触っちゃった
んだよ﹂
﹁そうだったんですか﹂
そう一応言ったものの、俺は社長が可哀相になった。
本気でそう思ってるんだろうか。
りーたん⋮莉奈が俺のポケットから携帯抜いて自分のメモリー入れ
た挙げ句に、俺の携帯で今の彼女チェックしたのは社長は知らない
⋮⋮何か気の毒になってくる。
そして奈津とあんなにメールしてたのに、莉奈が判らないとか。
女の直感とは一体。
﹁だからお前の携帯触ったのは、わざとじゃないんだ。携帯触られ
るの不快なのは解るが謝ったんだし、お前もそんな怒らないでやっ
てくれ﹂
921
﹁そうでしたか、すみませんでした。西田さん﹂
俺がにこやかにそう言い放つと、社長の後ろで莉奈が舌を出した。
おい、お前幾つだよ!?
そう思った時、
﹁くっくっくくっ⋮⋮﹂
正面の百目鬼が笑った。
莉奈の顔が一瞬真顔になり、社長の目がギロッと百目鬼を見る。
﹁お前、何で笑った?﹂
﹁⋮⋮くくく⋮っはははは﹂
他のみんなと俺が凍り付く中で百目鬼は涙を流して笑い、社長を見
た。
﹁その面やめろっつってるだろうがぁあ!!!﹂
社長が強烈な蹴りを繰り出し、百目鬼は椅子ごと床に派手に転がっ
たが、俺は見た。
蹴られる瞬間、衝撃を和らげる為に自分から飛んだんだ。
こいつ、先程のロッカーと言い⋮⋮動体視力がかなりいいんだな。
﹁百目鬼、次やったら指ごと切り落とすからな。ゴルフクラブじゃ
済まないぞ﹂
社長は笑顔でそう言うと、俺の方に来た。
やだーまたとばっちり?
922
﹁⋮⋮で、見つかった?﹂
いやあぁー忘れてたー。
ゲーム作れる奴探せって無茶言われて、半ばっつーか完全に了承し
た事になってたんだよな。
﹁シンセサイザーに興じたり、液状化したバナナに悲鳴上げたり、
社長の真似っこしたりしててすっっっかり忘れておりました﹂
なんて、言えない。
りーたん、軽蔑してごめんね。
俺も嘘ついちゃう。
﹁やはり平日の日中は勤務中の奴が多いので。多分、近い内に連絡
は来ると思いますが﹂
﹁そうか、お前の友達は昼職が多いんだな﹂
ここにいるみんなも、そうなんじゃないの?
まぁいいですけど。
まず小学校から高校までの同級生で、交友関係広そうな奴と理系に
進んだ奴を中心に当たろう。
問題はそのメールなり電話をいつするかだな。
さっきやっとけば⋮ってのはもう遅いから思わない思わない。
俺は18時で帰っていいんだろうか。
そして18時で帰してくれるんだろうか。
﹁高浜﹂
﹁はい﹂
923
﹁俺達はこれで帰る﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁後の仕事はこいつらに聞け﹂
﹁解りました﹂
﹁⋮⋮⋮後﹂
社長は俺の目を覗き込むように見てきた。
やだ、何?今度は何?
﹁タイムカードに名前を書いておけ﹂
﹁タイムカード?﹂
﹁さっきりーたんと並べただろ、あれだ﹂
あぁ⋮⋮そうね。
携帯擦られる前に並べたね。
莉奈を見遣ると、相変わらず爪を気にしている。
自爪がそんなに気になるなら、スカルプにしろ。
いつかそう言ってやろう。
﹁じゃ﹂
﹃お疲れ様でした!!﹄
924
バタンとドアが閉まると、一瞬でさっきの空気が戻って来る。
何、この点呼終わった後の移動教室のノリは。
どうなのかな、俺は可愛い子分達を思い出す。
楽しく悪ふざけしながらやってる⋮⋮と思ってるのは俺だけなんだ
ろうか。
﹁マジうぜーよ、高浜﹂
﹁そーそー別にあいついなくても俺らだけでやれんじゃね?﹂
﹁もーあいついると調子狂うっつーかねー﹂
とか言ってたら⋮⋮悲しいな。
もう怒ったぞーじゃあ全部お前達でやりなさーい。
なんて思えないと思う。
まぁ⋮⋮同性に嫌われるのは慣れてますけど。
﹁もうさーお前って何であーゆーところで笑っちゃう訳!!?﹂
﹁⋮だって西田さん見たらおかしくて。高浜さんもしらばっくれて
るしくくくくく⋮﹂
﹁お前何であんな派手に蹴っ飛ばされて余裕なんだよ、ぜってーお
かしいから﹂
相変わらず百目鬼はいじられる。
変わってるけど排他性が無いからだろうな。
俺は携帯を出して、﹁知り合いの偉い人がこれからゲーム会社立ち
上げたいらしいんだけど、プログラミング出来る知り合いとかいた
りする?資本金とかは考えなくて大丈夫﹂
とメールを作って電話帳見ながら同級生に一斉送信。
そして全く同じ文章の最後に、﹁いつもウザくてごめんね、真面目
925
に働いてくれてありがとうハート﹂
と、愛すべき子分達にメールしてデスクの上に置いた。
さぁ⋮⋮一番乗りは誰だ。
即着信が着て、俺は携帯に飛び付いた。
携帯の液晶には俺の愛弟子、倉田の文字。
﹃倉田です。また新しい事始めるんすか﹄
﹁まぁ、依頼を受けてと言うか。お前の周りにいたら﹂
﹃大学の友達でアプリの会社やりだした奴がいたので、連絡取って
みます。横山達にも連絡して置きましょうか﹄
﹁すまんね⋮⋮連絡はみんなにしたから大丈夫だ。いつもありがと
う﹂
﹃⋮⋮どうしたんですか﹄
﹁いや、何かちょっと雇用側と被雇用側について考えさせられてだ
ね﹂
﹃俺らウザいなんて誰も思ってませんよ、高浜さんの事﹄
﹁ホントに?じゃみんなの事もっといじっていい?﹂
﹃⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁ほらやっぱウザいって思ってんじゃーん﹂
926
﹃高浜さんはいつもの高浜さんでいて下さいよ。あ、じゃあ店の電
話鳴ったんで失礼します﹄
電話の向こうで電子音のカノンが聞こえたと同時に倉田は電話を切
った。
あの子出来る子ねぇ。
そして次々に俺の携帯に、弟子達と同級生から着信とメールが来た。
多分、アタッカーの一斉送信メールより返信率高いんじゃないか?
ポイントレスだからとか抜きで、このレスポンスはプライスレス。
それから30分後にはもう、何か目星が付いた感じになった。
後は倉田みたいに知り合いを引っ張ってくれるって奴らにも期待。
にしても同級生すげぇ。
やっぱり人脈って大きいね、商売に関して言えば。
﹁何か凄かったっすね﹂
木下が俺の電話ラッシュが一段落すると、感心した様に言った。
﹁さっきの社長が言ってた奴ですよね!?俺もちょっと知り合いい
るし!!﹂
そうか、細井とか何かそういう知り合い多そうだな。
社長に会わす前に、一通り集まったら俺らで打ち合わせした方がい
いかも。
いきなり社長に会わしても何が何だかだろうしな。
﹁はぁ⋮⋮俺はゲームって振られた時は結構困ったね﹂
927
飯田がゲンナリな顔で言った。
まぁそうだろうな、俺もちょっと無茶振りだと思ったよ。
﹁⋮⋮聞く友達がいない﹂
それ喜ぶ事じゃねぇよ、百目鬼。
とりあえず、俺は携帯を見ながら返信の中から有力候補と思われる
回答を絞る。
同級生本人が名乗り出てくれたのもあれば、倉田みたいに知り合い
を当たってくれる場合もちらほら。
船頭が多過ぎると船が山に登っちゃうパターンになってもね。
まぁ鹿田社長がちゃんと羅針盤になって下さる⋮⋮のかな。
とか何とか考えていると、事務所の扉が開いた。
また社員達に走る緊張。
何だ?と入口を見ると大統領SPか地上げ屋かレスラーか、みたい
な男が4人入って来た。
﹃おはようございます!﹄
﹁うーす、お疲れ﹂
﹁どーだ、お前ら真面目にやってたかぁ?﹂
﹁あっれぇ?社長は?﹂
﹁受付誰もいねぇぞオラ!!﹂
928
何だか怖ーい。
そんな事を考えていると、そいつらが俺のデスクをエンターキーの
矢印みたいな感じに囲んだ。
﹁⋮⋮お兄さん、誰?﹂
﹁新しく来た人?﹂
﹁俺何も聞いてねーし﹂
﹁日本語喋れる?アーユースピークジャパニーーズ?﹂
俺がキレちゃダメだ、キレちゃダメだ、キレちゃダメだ、そして最
後の奴は中1からやり直せ⋮⋮と心で念じていると、
﹁あ、こいつ高浜じゃねぇの?何か顔的に﹂
﹁えぇー噂より全然小さいじゃんよ﹂
﹁ぎゃはははは日本人じゃないのはマジだ﹂
﹁お前があの高浜か?﹂
そう一番ガタイがいい奴が俺を至近距離で指差して来たので、イラ
ッとした俺はETをかます。
思い切り舌打ちされたが、小さいって初めて言われたな。
179cmって小さい⋮な、こいつらに比べたら多分。
つーか何だ、噂では俺はどんだけでかい事になってるんだ。
あの高浜ってどの高浜だよ。
929
﹁はじめまして、たかはまたけしです﹂
﹁お、喋った!!﹂
﹁きょうからこちらでであいけいのべんきょうをさせていただくこ
とになりました﹂
﹁ぎゃはははは、何か発音おかしいし!ぜってーあんた外人でしょ﹂
﹁とうきょうとこだいらしうまれです﹂
﹁ぎゃはははマジで!?﹂
飯田や木下達の視線を背中に受けながら、俺は或る意味で命懸けの
棒読みを続ける。
結構こういう奴らが多いこの業界、慣れてる自分がいた。
だってこんな失礼な奴らに僕がマトモに対応出来る訳ないじゃない
ですか。
﹁で、何でお前ここにいるの?﹂
﹁⋮さぁ?﹂
﹁ぎゃははは、高浜いきなり普通に喋ったし!!﹂
﹁さぁ?じゃねぇだろが!!﹂
と、笑いながら金髪ツンツンにいきなりデスクを蹴られる。
あぁあー何だか両手を挙げて今日の俺のイライラを塊にして全てぶ
930
つけてやりたい!!
みんな、俺にイライラを分けてくれ!!
しかし、木下達は無言だ。
期待の百目鬼に至っては悠長にコピートナーをトントン寄せながら
紙詰まりを直している。
﹁俺も正直解らんよ。いきなり社長に呼ばれただけ﹂
﹁はぁ?何でだ?﹂
﹁言ったらお前らが傷付くから言わなーい﹂
﹁こいつやっぱり絶対高浜だ!﹂
﹁だから高浜って言っただろ、俺の話聞いてた?﹂
良くないよね、イライラしたからって。
でも、こんなのに4人で囲まれたらさー⋮⋮。
だって飯田達の態度見る限り、決め付けるのは早いにしても余り会
社にとってプラスの感じじゃないもん。
﹁俺の話聞いてた?と来たよ﹂
﹁すっげームカつくわ、お前﹂
金髪と巨体に凄まれる。
こちらの身体の自由が利くなら怖くない。
とか思う慣れの方が怖い。
﹁あ、あの高浜さん﹂
931
飯田が遠慮がちに口を開いた。
お前、百目鬼や細井への上から目線の眼鏡キラーンを今やれよ!
﹁タイムカードは俺らで押して来ますんで﹂
﹁マジで?いいよ、初日の俺に⋮⋮﹂
そう言いかけて、昼勤のみんな的には早くここ出てこの4人から解
放されたいんだなと思った。
そうか、それなら。
﹁じゃ俺も﹂
﹁お前まで行く必要ねぇよ﹂
﹁こいつらに任せればいいって﹂
﹃じゃお先に失礼します!﹄
木下、細井、飯田が声を揃え、ブリーフケース片手に退散する。
﹁⋮⋮直った﹂
1人残された百目鬼は、コピー機からデスクに戻り、PCをいじる
とコピー機からプリントされた紙を一番でかいのに差し出す。
﹁これが昼の売上報こ⋮⋮﹂
そう言いかけた時、強烈な水平チョップをでかいのが繰り出す⋮⋮
932
が、百目鬼はマトリックス的な動きで避け、紙とそいつの手がチッ
プする音がした。
﹁いってぇ切った!!やっべぇいってぇええぇ﹂
人殴ろうとしてその人が持ってた紙で指切って大騒ぎとか、あなた
ね。
俺が呆れて見ていると、百目鬼はデスクの引き出しから絆創膏を出
した。
﹁ありがと∼、巻いて∼?﹂
そう言われたので百目鬼が素直にピリピリと絆創膏を剥がしている
と、また強烈な水平チョップが繰り出され、流石の百目鬼も完全に
避け切れず側頭部にチップした。
﹁⋮⋮痛い﹂
﹁いやーすまんすまん、お前見てると何かしたくなるわー﹂
百目鬼は無表情で、差し出された分厚い手の平に絆創膏を巻いた。
そしてようやく書類が受け取ってもらえると、百目鬼も帰り支度を
始めた。
何でさっきの3人と一緒に帰らなかったんだ。
そうか、売上報⋮告書かな、それをプリントアウトしようにも紙詰
まりで出て来なくて逃げ遅れたのか。
可哀相に。
﹁⋮⋮高浜さん﹂
933
﹁何?﹂
﹁⋮⋮僕、帰って大丈夫ですか?﹂
﹁とっととけーれ百目鬼!﹂
﹁お前いると心霊現象起きそうで怖ぇんだよ!!﹂
﹁⋮⋮何だったら﹂
﹁いいよ、大丈夫だから。お疲れ百目鬼﹂
何だったら⋮って、その先が聞きたい気もするが、ここにいて不意
打ち水平チョップ繰り出されても気の毒だし。
﹁⋮⋮はい。お先に失礼します、お疲れ様でした﹂
バタン。
その扉が閉まる音は、何故か俺を煽ると言うか鼓舞するような音に
聞こえた。
これで何か一般市民と言うか非戦闘員は避難完了しました、そんな
感じ。
俺はタバコに火を点けると、社員共に向き直った。
﹁あのさ、ここ見て何か思わないの?﹂
﹁何⋮⋮﹂
934
﹁ここってどこだ?﹂
﹁何が言いてぇんだよ﹂
﹁意味わかんねぇし﹂
﹁綺麗にお片付けしたんだよ、みんなで﹂
﹁昼勤が暇ならやれよって話じゃね?﹂
金髪が﹁は?お前何言ってんの?﹂みたいな顔で言った。
﹁暇どうこう以前に、何で木下達にお礼言わないの?﹂
俺は机に寄り掛かって煙を吐く。
どうでもいいが、机の角の部分で尻を下から持ち上げられるこの感
触、結構好き。
﹁何で俺らがあいつらに礼言わねぇとなんねぇの?﹂
﹁自分がしなかった仕事をしてくれた人にはお礼を言う、当然の事
だろ﹂
﹁はぁ!?馬鹿じゃねお前?﹂
﹁それに俺は自己紹介したが、お前らの誰も俺にはしてねぇだろ?
そんなんだから社長に俺が呼ばれちゃうんじゃないの﹂
まぁあんなふざけた自己紹介がアリなのか、と言われれば無しだろ
うけどな。
935
正直、こいつらの態度見てるとおちょくりたくて敵わん。
﹁はいじゃあ俺ね、佐藤。35歳A型﹂
一番ギャハギャハ笑っていた、ここ来るまでに3人くらい殺してき
ました、みたいな黒目の異様に小さい顔の坊主頭が最初に御挨拶。
血液型とか知らねぇよ、でも覚えとこう佐藤A型。
﹁んだよしゃーねー俺は鬼頭。33歳O型﹂
金髪のツンツンが大きな目を見開いてガン飛ばしながら言った。
タチの悪さなら負けませんよ。
鬼頭O型。
﹁俺は内藤、31歳O型﹂
一番でかい奴は内藤O型。
190cm以上はあって体重は100キロ以上はありそう。
細井はクマさんって感じなのに対して、こいつはグリズリーっぽい
感じ。
ってどんだけ血液型重視の自己紹介だよ。
普通勤続年数とか前職とか言わない?
違うの?
﹁俺は江口だ。29歳B型﹂
さっきから偉そうな奴が夜の最年少か、江口B型。
夜の最年少って響きがいいな。
いつかお前のサンズイを消してやる。
﹁改めて言わせて貰うが俺は高浜武志、31歳AB型﹂
936
そう俺が続くと、4人が
﹃AB型!?﹄
と一斉に反応した。
﹁来た来たAB!!﹂
﹁あっちゃーAB型来ちゃったかー﹂
﹁やっべぇ二重人格なんだっけABって﹂
﹁日本人の10人に1人だろ!?ヤバ過ぎAB型﹂
と、俺の血液型で軽い社員ミーティングが起こった。
そこかよ、そこなんだ。
﹁何でそんな血液型にこだわるんだ?﹂
俺がちょっと引き気味に言うと、
﹁俺らが血液型占いサイト作ったから。それでイロイロ勉強したん
だよ、な?﹂
と内藤が勝ち誇って言った。
﹁誘導サイトって奴か﹂
﹁おー詳しいじゃんよ高浜。んで登録して返信する結果メールの内
937
容書く為にな、結構調べたんだよ﹂
﹁それが結構当たってんだよな、血液型占いって。俺笑い止まんな
かったし﹂
﹁気付いた奴マジ天才だと思う﹂
⋮⋮客寄せの誘導の占いサイトで作る側が占いにはまるなんて、何
か腑に落ちない。
でもどうなんだろうな、やっぱりでかい儲け話を持ち掛ける奴に一
獲千金願望があるように、そういうものを求める奴の発想に釣られ
ちゃうんだろうか。
ははは、下らない。
そしてAB型について詳しく俺にも教えろ。
﹁さーて、仕事すっべ﹂
ツンツンこと鬼頭がここに来て初めて耳にするマトモな事を言う。
﹁だな、じゃ行くか﹂
そう言うと、彼らは鞄や売上報告書をデスクに投げ飛ばし、ペン立
てが落ちて散らばったのも構わずサッサと事務所を出る。
ったく何だよもー!
せっっかく綺麗にした矢先に!
俺が眉間に盛大にシワを寄せて、売上報告書をファイリングの後に
ペンをかき集めていると、再び扉が開いた。
﹁高浜、お前も来る?﹂
938
佐藤がやって来て、入口付近に落ちているカッターを拾って持って
来てくれた。
3人殺して来てそうとか思ってごめんね。
人が何か片付けてたら手伝うの当たり前だろ、そう思っちゃう自分
もいたりするが、
﹁ありがと﹂
と刀傷いっぱいの手から受け取ると佐藤は俺を見下ろし、
﹁お前ってさ?面の割に良い奴な気がすんだけど﹂
と刃物でも舐めてそうな笑顔で言われる。
⋮⋮デブに﹁ちょっと太ったー?でも顔が可愛いから大丈夫だよー﹂
って言われたって怒る女の子の気持ちがちょっと解る。
﹁そうか?﹂
﹁何かお前ってさ、ハイエナ商法してるらしいじゃん?絶対あくど
い奴だと思ってたわ﹂
﹁⋮⋮まぁな﹂
ハイエナみたいな商法、響きは悪いが大体合ってる。
だって新規で始めるより、廃業する奴から営業許可やハコを譲り受
けた方が楽なんだもん。
やーいお前んちおっばけやーしきーみたいな家を二束三文で買い取
って、内外をフルリフォームして違う施設にする感じ。
よく廃業したレストランをロクに改装せずに使う飲食店業者がいる
939
が、そういう居抜き出店しちゃう方が元手が掛からないし商材が良
ければ儲かる気がする、とバックも資金も無い25歳の俺は思った
訳です。
﹁まぁハイエナだな﹂
﹁おぅ、あん時って風営法変わってバタバタ廃業してった時だべ?﹂
﹁逆に俺としては好都合だったけどな﹂
﹁で、お前って何しに来たの﹂
﹁解らん。呼ばれて何かモノでみんなを扱き倒せとか言われて﹂
﹁ぎゃははははは社長ってさ、リアル笑ってはいけないだよな﹂
﹁あ、お前もそう思う?﹂
佐藤は手の甲で口を押さえて、頷いた。
何だか海外に行って、日本人旅行客に初めて会った気分だ。
まぁ⋮⋮現地人に道を聞かれる俺と会って相手の日本人観光客が安
心するかは謎だが。
﹁ま、俺はここ居心地いいから当分辞めないけど﹂
﹁居心地いいか?﹂
﹁社長がキレなければ。で、お前って何?今度はここ乗っ取るの?﹂
﹁やるって言われてもいらねぇよ、申し訳無いけどこんな未来の無
い業界。社長はゲームで何かするって言ってたけど﹂
940
﹁ゲーム?﹂
﹁佐藤、知らないの?﹂
﹁ただの思いつきじゃねぇの?社長、明日になったら忘れてんじゃ
ん?﹂
﹁⋮⋮は!?﹂
俺は一斉送信した事を悔いた。
思いつきはまだいい、明日になったら忘れてるって⋮⋮。
﹁ぎゃははは、お前って眉間にシワ入れると目と眉毛の間隔が超ー
狭ぇ!つーか元々狭ぇ!!﹂
佐藤が俺の顔を見て笑った。
こいつ、こんな笑い上戸なのにこの会社いたら大変だろうな。
顔で揶揄されるのには慣れているからいい。
出来ればしないで欲しいけど。
﹁ねー佐藤ー﹂
﹁何だよ﹂
﹁俺何かやる事ねーのー?﹂
﹁何かやりたいのか?﹂
﹁⋮⋮帰っていー?﹂
941
﹁高浜、いつからいる訳?﹂
﹁お昼前﹂
﹁ぎゃはははは、全然働いてねぇじゃん﹂
⋮⋮⋮そうか?
何だか俺はすごく働いた気分なんだが、時間は経ってないんだな。
﹁まぁいいんじゃね?﹂
﹁じゃ佐藤が帰って良いっつったって帰るぞ﹂
﹁マジか、きっついわーぎゃははは、社長は何て?﹂
﹁タイムカード作れとか言ってただけ。拘束時間聞かなかった俺も
悪いけど﹂
﹁え、それってもうお前、社員決定じゃね?﹂
﹁えぇー⋮⋮?いいよ、俺にも自分の仕事あるもん﹂
﹁お前って普段何やってんだよ﹂
﹁それ、昼の奴も聞いてきた﹂
﹁だから何やってんだよ﹂
﹁⋮⋮英会話講師﹂
942
﹁ぎゃっはっはははは!マジっぽい!﹂
調子に乗りはじめた俺は、鬼頭達へのサプライズプレゼントを思い
つく。
﹁佐藤ってさー、笑い堪えられる方?﹂
﹁あー無理だわ、涙出てくる﹂
﹁じゃダメか。お前がいない時にするわ﹂
﹁何だよ﹂
﹁フラワーロックって知ってる?﹂
﹁フラワーロック⋮⋮あの音でシャカシャカ動く、グラサン付けて
ギター持ってる花?懐かしー﹂
﹁それをあの社長の椅子の後ろのキャビネット辺りに置いとくから、
それ見ながら朝礼やれよ﹂
﹁⋮⋮⋮ぎゃっっはっはははは、無理!!想像するだけで腹痛ぇ!
!!﹂
﹁ははは﹂
﹁高浜面白れー﹂
﹁⋮⋮⋮そう?﹂
943
﹁何だよ怖ぇ面すんなよ、素直に喜べよ。じゃお前も仕事する?﹂
﹁いいのか、俺もそっち行って﹂
﹁ぎゃはははははお前、友達いねー奴みたいな事言うなよ!!﹂
そう言うと佐藤はこれから仕事と言いつつも、タバコに火を点ける。
﹁お前、仕事行く気ねぇだろ﹂
﹁ぎゃはは、そう言いつつお前もタバコ吸ってんじゃんよ!﹂
﹁そうだけどさ﹂
そう言って俺らは何故か無言になり、俺が1本吸い終わると佐藤も
合わせて火を消した。
こいつ、いい奴な。
﹁じゃ行こうぜ、言っとくけど夜番は管理も兼ねてるから忙しいぜ﹂
﹁わかった、よろしく﹂
扉の横に消火器が置いてあって、すぐ上に書かれた火元責任者の名
前が﹁佐藤登志夫﹂となっている。
﹁火元責任者?﹂
﹁ぎゃははは一番ヘビースモーカーな俺が火元責任者とか﹂
944
そこより名前が気になる。
人様の名前で笑うなんて人として良くないし、内容も非常に下らな
いが、たったそれですら笑いが込み上げて来そうなのを必死に堪え
る。
トラップ多過ぎるだろ、ここ。
どこまでも笑わせる事に余念が無いと見せかけて、そんな意図が微
塵も感じられない職場だな。
そう思って俺は佐藤登志夫に続いて事務所を出た。
945
★高浜武志・5★︵後書き︶
何だか完全に私の思い出与太話になってしまってますね⋮⋮
ついて行けなくなった、とのご意見を頂き、ちょっと反省しました。
他にもそう思ってるのに、我慢して読んで下さってる人がいらっし
ゃると思うと申し訳無い限りです⋮⋮
いつも読んで戴いて、本当にありがとうございます!!
まぁこの⋮⋮話の元になった職場は、超が付く程おパンティな職場
で、
﹁あ?お前の給料だけ時給1500円を150円で打ってたわーし
かも2ヶ月連続だわー﹂
﹁これお前のマン毛だろ?﹂
は軽いジャブでした。
そして職場を1歩出れば、
新宿二丁目がすぐそばなのでタバコ買いにコンビニ行けば、﹁ちょ
っとぉーこれどこでやってもらったのよぉーん﹂とニューハーフに
おっぱい揉まれて謝られたり、
仕事帰りにはちょっと綺麗なお姉さんに
﹁君って男の子でしょ?﹂
946
と関係を迫られ、待ち合わせしている旦那を﹁ちょっと想定外の事
で遅くなる﹂と新宿三丁目のスタバに待たせて、公園のトイレで数
分ディープキスしてお互いの乳首吸い合って手マンし合って⋮⋮
そんな思い出がいっぱいの職場でした。
知るかよアホ!って感じですが⋮⋮
やっぱね、結婚して子供達がいても、女の子とエッチがしたい気持
ちは消えません。
あの感触や匂いを思い出すとダメです。
決して浮気がしたいとかじゃなくて、どんなに顔立ちやシルエット
で女とよく間違われている配偶者がいても、女装は愚か女物の下着
すら身につけてくれない男な訳で⋮⋮。
何かオナホ頼んだら極太バイブが来てしまった様な、コレジャナイ
感がたまにあると言うか⋮⋮。
後書きが一番ついて行けないって言われそうで申し訳無い。
本当はママさん全員が人妻かと思うとドキドキするし、ママ友さん
にカミングアウトしてドン引きされたいのですが、子供の手前そこ
は我慢しております。
947
★高浜武志・6★
事務所を抜けるとそこは、再び笑ってはいけない国だった。
静まり返った広いオフィスでカタカタとキーボードを打つ音だけが
響く。
﹁高浜さぁ、何やる?﹂
佐藤が嬉しそうに言った。
﹁初日の俺が決める訳にいかないから、逆に何すればいいか指示出
してくれ﹂
﹁じゃアタッカーやるか?﹂
空いているPCに促され、とりあえず座る。
昼の面子に比べて、夜は真面目そうな堅気っぽい奴が多い。
サラリーマンとかなんだろうな、飯田とか木下達いても解らないく
らい。
勿論、ミュージシャンの卵っぽいのもちらほらいるが、昼程ではな
い。
﹁今空いてるキャラは⋮⋮誰がいいかなぁ﹂
佐藤が後ろの管理のPCをいじっていると、内藤と鬼頭が嫌そうな
顔してやってくる。
﹁高浜にアタッカーさせんのか?﹂
948
﹁こいつなら絶対いいメール打てるって、高浜面白ぇもん﹂
﹁じゃ佐藤、まず日本語教えてやれば﹂
そう言って俺とは目を合わさず、それぞれの持ち場に戻る。
そうか、夜は管理もやるんだっけ。
﹁高浜、お前のIDこれな﹂
そう言ってメモに書かれたアルファベットと数字のIDを渡された。
﹁このログインってとこにこれ入力。で、パスワードはP・A・S・
S・W・O・R・D﹂
﹁普通にパスワードってスペルで打てって事か?﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁この欄外のPASSWORDをコピペで入れればいいんでしょ?﹂
﹁ぎゃははお前、いきなりアッタマ良いわ﹂
言われた通りに入力すると、色々な管理画面らしきものが出て来た。
﹁ここでキャラ⋮⋮お前のキャラはねー⋮︽菊穴マダム︾﹂
﹁ぐはっ⋮⋮ちょ、菊穴⋮ちょっと待て佐藤﹂
﹁ぎゃはははは笑い過ぎって!﹂
949
﹁はははは菊穴マダムって!﹂
ダメだ、そこまで面白いのか解らないが笑いが止まらない。
こんなユーザー名で登録する女はそうそういないと思う。
絶対男が決めたな、そう思われても仕方ない名前。
最早リングネームに近い。
しかし。
菊穴マダムの過去のやり取りの記録を見ると、かなりメールを稼い
でいる事が解った。
何でもアナルセックスに自信のある男性に100万円、愛人契約2
400万円と言う条件提示がなされているキャラらしい。
婚活用か?みたいなプロが撮った様な顔写真は、30半ばくらいの
綺麗目のお姉さんだ。
これも簡易プロフの写メから引っ張って来たんだろうか。
俺が女だったら自分の写真に対してブスとかバカとか中傷されるよ
り、菊穴マダムとして勝手に画像使われる方がきつい気がする。
﹁ここさ、メモがあるんだけど﹂
佐藤が画面の中の、箇条書きが連なっている部分を指差した。
﹁ここにな、前のアタッカーが使った追加設定とかが書いてある﹂
﹁引き継ぎ欄って事か?﹂
﹁そうそう、まぁベンツSクラス乗ってて他に黄色いフェラーリ乗
950
ってて起床は朝6時⋮⋮これが前の奴が送信した条件﹂
さすがだ⋮⋮!
朝6時に起床してベンツSクラスと黄色いフェラーリ︵型番不詳︶
を乗り回すなんてアナルセックスに100万円出す女は違う⋮⋮!
!
って思ってみんなメールするんだろうか?
つーかこの菊穴マダムとどんな話題を。
そう思って菊穴マダムの受信箱を開くと、15分前に着たメールが
最後だった。
﹃僕は菊穴さんの為にメールするのはこれで最後です。菊穴さんは
僕と続けるつもりは無いのですね、すごく綺麗な人だったので残念
だし悲しいですがお別れです。
さようなら﹄
き⋮菊穴さん⋮⋮。
いないと断言出来ないにしても、切ない文面が霞むくらいの結構な
破壊力のある呼び名だ。
36歳。
ユーザー名をクリックすると、客の管理ページが出て来る。
木島敏信
東京都豊島区。
血液型B型。
居住地
誘導サイト競馬
200pt使って載せたと思われる写メは、普通の真面目そうな会
社員風の36歳よりは全然若く見える好青年風の男性だ。
こんなに菊穴菊穴メール打ってる時間あるなら、普通にナンパでも
951
すればいいじゃないねー。
でも見た目が良いからって必ずしもモテたり女慣れしている訳じゃ
ないしな。
入会日:2008/11/22
ポイントランク:A
総消費:157520pt
俺はふと考えた。
この人は、ずーーっとこんな調子で会えない人妻を探しているんだ
ろう。
おそらく利用しているのは全く出会えないこのサイトだけでない気
がする。
いろんなサイトに課金し、尚且つ退会もせず⋮⋮こういう奴は何が
望みだ?
もしかしたら出会う出会わないは関係無いんじゃないだろうか。
菊穴マダムの送受信ボックスを開いて過去の履歴を見る。
﹃本当に明日までに振り込んでくれますね!?僕の口座は××銀行
普通口座××××××です!!携帯止まりそうなのでお願いします
!!﹄
に対する返信が
﹃文字化けして読めないわよ?もう1回送ってくれる?﹄
だったり、
﹃俺はスケベな人妻が好きなんでぶっちゃけあんたなら100万円
要らないからすぐ会おう。迎えに行こうか?﹄
952
と言うギラギラしたのに対して
﹃早く口座番号教えて。早くお互い楽しみたいわね﹄
と言う、非常に噛み合って無い会話が目立つ。
送信者IDが違うので、特定の人間が噛み合わないメールを送信し
ている訳ではなさそうだ。
出会い系って、本来何だ?
俺は使った事が無いので解らないが、通販みたいなものなのではな
いかと思う。
飲み会やナンパが実物を手にとって見られる店舗購入なら、出会い
系は通販。
だから商品画像、スペック含む商品情報、そしてその商品を扱う業
者がきちんとしてないと売れないんじゃないか?
﹁ねぇ佐藤﹂
﹁んー?﹂
﹁これさ、返信もっと考えないとまずいだろ﹂
﹁どれ?﹂
俺が椅子をクルッと回して後ろにいる佐藤に言うと、佐藤は立ち上
がってこちらに乗り出して来た。
﹁例えばさ?こいつとか普通にエロ目的で金いらねぇし迎えに行く
953
っつてんじゃんよ﹂
﹁んー、あぁそうだな﹂
﹁なのに口座番号教えろってさ⋮⋮萎えるだろ﹂
﹁⋮⋮確かにな。まぁいっぱい来るから返す奴もテキトーなんじゃ
ねぇの﹂
﹁テキトーでいいの?﹂
﹁とりあえず返信来りゃいいよ﹂
﹁そうか﹂
﹁お前のノリで菊穴マダム活躍させろ﹂
﹁俺のノリでいいの?﹂
﹁おう、ちょっとお前の手腕に期待してる﹂
隣の江口がイラッとした面持ちで俺達の会話を聞いている。
﹁あのさ、江口﹂
﹁いきなり呼び捨てかよ、高島﹂
﹁お前も間違えた上に呼び捨てじゃねぇか﹂
﹁知ってるよ。で?何だよ高浜﹂
954
﹁⋮⋮お前ならどんなメール返す﹂
﹁は?﹂
﹁お前が菊穴マダムならどんなメール返す?﹂
﹁てめぇで考えろよ、お前やり手なんだろ﹂
﹁いいの?﹂
﹁勝手にしろ﹂
と、一応佐藤だけが怒られないように江口も巻き込んだのを確認す
ると、俺は履歴から金目当ての奴以外をピックアップする。
本日のメールで未返信なのも一応チェック。
金目当てのメールは口座番号に一気に話が飛び、振り込む振り込ま
ないで終了しそうだから放置。
すると早速、メールが来る。
﹃すごいお金持ちなんですね!菊穴さんの仕事って何なんですか?﹄
仕事⋮⋮メモに書いてねぇな。
じゃ俺が決めちゃう。
勝手に貼られた女の顔を見て、個人的にジャーナリスト系のイメー
ジが沸いた。
テキトーでいいんだろ佐藤?
勝手にしていいんだよな江口!
955
﹃経済穴リストよ!きっと見た事あるんじゃないかしら?顔が知ら
れてるだけに誰とでもお会いする訳には行かないけど、メールして
みて良い方なら期待させて貰っていい?﹄
すると即返信が来る。
﹃本当ですか!?って言うかわざとですよね、穴リストってwww
エロリストみたいで面白いです!是非会って話したいです!!明日
会えませんか!?﹄
﹃穴たは私の話に菊耳持たないタイプなの!?﹄
送信っと。
そしてすぐ謝罪とスケジュールの言い訳の返信が来る。
﹃あァナルほどね、そういうことなら解った。じゃあこっちからも
質問いい?﹄
﹃菊穴さんって本当に面白い方なんですね!すごい会いたくなりま
した!!﹄
どうだろう。
これで既に俺は2400円稼いだ訳ですが。
すると後ろで佐藤の大爆笑が聞こえ、江口が俺を怒鳴った。
﹁高浜、てめぇ真面目にやれよ!!﹂
アタッカーが一斉にこちらを向いた。
佐藤は後ろにのけ反って大笑いしている。
956
﹁やってるだろ、この10分足らずで3往復させたぞ?﹂
﹁穴たは菊耳持たないとかあァナルほどとか馬鹿じゃねぇのかお前
!!﹂
﹁返信ちゃんと着てるんだが﹂
﹁次に引き継ぐ時はどうすんだよ!!考えろ!!﹂
﹁だからメモに菊と穴を必ず漢字変換しろって書いとくわ﹂
﹁ふざけてんじゃねぇぞ、真面目に考えろ!!﹂
﹁あのさー江口、知らない人に注目される時ってどんな時よ?﹂
﹁⋮⋮はぁ!?﹂
﹁じゃ逆でもいいや、お前が人に興味持つ時ってどんな時が多い?﹂
﹁⋮⋮知らねぇよ﹂
ちょっと弱腰になったわね。
菊穴武志は見逃さないわよ。
﹁一番簡単なのがギャップを逆手に使う事じゃないか?﹂
﹁何だそれ﹂
﹁相手に持たれたイメージと真逆の印象を持たせる。上手く行けば
興味持って貰えるし、悪く裏目に出ると幻滅になるけどな﹂
957
﹁ぎゃははは解る、俺が電車でジジババに席譲ると驚かれるみたい
な奴だろ﹂
﹁そう、佐藤が言ったのが俺の言いたい事﹂
そうだろうな⋮⋮佐藤、お前の気持ちは俺も解る。
会う人会う人にビクッてされるの、いい加減慣れちゃったよな。
俺はそれに国籍まで乗っかって来るんだけどな。
﹁そんだけで金の話の前に数通稼げるんじゃねぇの?違う?﹂
﹁お前⋮⋮﹂
あら?
何か間違ってたかしら?
ちょっと自分の言動を反芻するわね。
﹁すっげぇ頭良いんだな﹂
﹁⋮⋮⋮ありがと﹂
﹁あ、後さ、お前の顔写真貰いたいんだけど﹂
何故か江口はフレンドリーになった。
どの辺でアイスブレイクしたんだろう。
﹁何に使うんだよ﹂
﹁キャラ用に﹂
958
﹁どんな?﹂
﹁うーーん⋮⋮外人キャラっていないからさ?お前なら使えるなー
って﹂
﹁俺、両親とも日本人﹂
﹁は!?﹂
江口以外の周りの人達まで俺を振り返った。
﹁ぎゃはは、ラモスもロペスも日本人だしいいじゃん﹂
﹁いや佐藤、帰化とかじゃねぇ。小平市出身って言っただろ﹂
﹁それ、取り違えとかじゃないのか?﹂
あー近い。
意図的で合法的な取り違えだな。
﹁俺は家族⋮も、国籍もずっと日本人だ﹂
﹁マジか、家族にベッカムとかいるのかと思ったよ﹂
﹁何でベッカムが小平市にいるんだよ﹂
﹁ぎゃはははは小平市にベッカムとか小平市すげぇ!!﹂
小平には13年帰って無い。
959
⋮⋮駅前のドーナツ屋でよく勉強したなぁ。
またノスタルジー再来。
西武新宿線で高田馬場まで出て、山手線に乗り換えて中高6年通学
した思い出とか小学校の頃の思い出が駆け巡る。
素敵な響きだね、コダイラって。
﹁じゃ高浜、こっち向いて﹂
﹁マジで俺の使うの?﹂
﹁ダメ?﹂
﹁面白そうだし別にいいけどさ﹂
﹁フリー素材扱いで使ってやるよ﹂
﹁ぎゃっはははフリー素材とかどっかのシェフみてー﹂
俺はいきなり向けられたデジカメのカメラのレンズを睨む。
写真撮られるとか久しぶり。
﹁無表情でダブルピースとかいらねぇよ﹂
﹁解ってる﹂
俺は手を引っ込め、再び江口の持つカメラを見た。
﹁はいチーズ﹂
可愛らしい掛け声と共に、フラッシュが光った。
960
あ、目つぶったけど大丈夫?
﹁お、何か実業家っぽい﹂
﹁高浜って実業家って言えば実業家なんじゃね?﹂
江口と佐藤が盛り上がっているので俺も俺もーと見せて貰うと、証
明写真かと言いたくなる程に真顔の俺がいた。
あぁ⋮⋮ジェットコースター乗って撮られた時もこんな顔してたわ。
あの日は大変だったけど楽しかったな。
﹁⋮⋮どうなんだ、これ﹂
﹁ぎゃはは使うっきゃないでしょこれは!!﹂
﹁ねぇ俺ってどういうキャラになるの?﹂
﹁何だよお前、近いって!﹂
だって気になるもん、自分の写真にとんでもない肩書とリングネー
ム付くとか。
﹁スーツが金持ちっぽいから金持ちキャラだな﹂
﹁えぇーもっとさぁ⋮⋮﹂
﹁何だよ、イケメン外人で金持ちで不満か?﹂
﹁もっと何かいじって﹂
961
﹁ぎゃはははお前、結構変態だろ!?今の言い方で解るわ﹂
ふと自分が使ってたPCを見ると、返信が10件着ていた。
俺がそこまで真面目にアタッカーをやらねばならない義理は無いが、
メール無視はいかん。
俺はまた無責任なメールをサカサカと打って返信。
どうでもいいが、ポイントと打ったつもりが何故か3回連続でポイ
ンチオになっちゃった。
やだー何なのポインチオって。
クスッと自分に笑う俺。
﹁へぇお前、なかなかやるじゃん﹂
後ろでアタッカー管理画面を見ていた江口がデジカメをいじりなが
ら言った。
﹁30分で20返信とかすげぇ﹂
﹁コピペして打ってるからな﹂
﹁なっ、そんなんアリかよ!新人の使う手口か!?﹂
﹁だって同じ内容のメール送れる相手の名前変えればいいだけじゃ
んか﹂
﹁それは同報メールっつって一斉送信メールでやってんだよ、ポイ
ント譲渡みたいなメールで﹂
﹁ポイント譲渡?そんなん出来るのか﹂
962
﹁そう、セレブキャラが客にポイントあげるって設定で、2000
ptが受け取り料の3000円で貰えますみたいな﹂
﹁受け取り料高ぇな﹂
﹁でも300ptしか買えない金額で2000ptだから客は結構
喜ぶ﹂
﹁それでも会えないのに変わりはないだろ?それに気付かれたら終
わりじゃんかよ﹂
﹁だからそれまでに絞り上げるんだよ﹂
江口がさも当たり前の様に言う、が。
被害者が増えたらどうなるかは考えないんだろうか。
まぁこのサイトのメールに引っ掛かるのを被害者と言うのはどうも
違和感あるけど。
﹁それ、顧客増えないだろ?﹂
﹁増えてんだよ、どんどん会員は﹂
﹁⋮⋮じゃ言いたくねぇけど何で売上落ちるんだよ﹂
﹁そりゃ法規制とかが厳しく⋮﹂
﹁ぎゃははは会えないから去ってくんじゃね﹂
﹁それだろうな。お前らキャバ行ったりする?﹂
963
﹁行く﹂
江口が真面目に言った。
これは結構注ぎ込んでる顔ですね、何となく解ります。
﹁全員即日アフターオッケーって言ってるのに誰もアフターに了解
しなかったらどう思うよ﹂
﹁お前のやってる店ってそうなの?﹂
﹁馬鹿、そんなん最初に説明するわ﹂
﹁どんな説明?﹂
馬鹿とか言っちゃったけど、意外にも佐藤が興味津々。
あらー皆さん好きみたいですね。
﹁アフターは仕事場以上に気を遣えない奴はしないこと、アフター
では必ず﹃御馳走様﹄のご挨拶とタバコ程度のお返しをすること。
枕は相当の切り返しの自信の無い奴は絶対やらないこと、くらい﹂
﹁枕営業容認してんの?﹂
﹁そこは最終的には成人同士の問題だろ。色恋営業って短期決戦だ
から、そこで上手くやらないと常連にはまずならないから自信の無
い奴は止める﹂
まぁ⋮飲み屋さんの方はこんなもんですが、デリヘル関連の方は俺
964
が最初のお客さんになってきちんとお金を払って指導してます。
靴の揃え方に始まり、話し方とかお金を受け取ったら確認してテー
ブルの上に帰るまで置いておくとか、店への電話の仕方とか。
お風呂入れるタイミングとかタオルの用意の仕方も指導して、何に
もしないで60分終わる事が多いです。
60分過ぎてからお店に戻るかチェックアウトまで俺といるかは女
の子に任せてますけど。
そろそろ人気店の視察にでも行こうかなー。
まぁ視察つっても普通にお客さんとしてVIPコース取るだけです
けどね。
﹁ほぇー⋮⋮お前、経営者なんだな﹂
ほぇー⋮⋮。
不意打ちかますんじゃねぇよ、江口!!
俺は眉間にシワを入れて例に拠って人差し指の第二関節を鼻の下に
置く。
﹁まぁ俺の説明出来る領域に例えただけだ、それで行くと俺はお前
らのシステムにすごく矛盾を感じる﹂
﹁確かにそうだな⋮⋮﹂
﹁むしろ、4人に1人くらいは会わせてやった方がいいだろ﹂
﹁だってそれで殺人事件起きたりしたらヤバいだろが!!﹂
江口が一転して俺に食って掛かって来た。
965
詐欺集団が殺人事件の心配か。
そんなんだからアフター出来ねぇんだよ知らねぇけど!!
﹁いやいやいや、事件も何もこの仕事自体が詐欺だと言﹂
﹁あっ高浜⋮﹂
佐藤が言いかけたその瞬間。
バチコーン。
すごい衝撃が横から来た。
首が一回転しそうな衝撃だ。
やっぱり殴られる直前に飛ぶ方向なんて決められるものではない。
振り返ると、鬼頭が怒りで湯気でそうな顔で拳を掲げて俺を見てい
た。
隣の内藤もポッケに手を入れて俺を睨んでいる。
﹁てめぇふざけてんのか!!給料分は仕事しろ!!﹂
﹁俺は働きに来たんじゃねぇぞ﹂
﹁遊びに来たなら帰れ!!﹂
﹁⋮⋮何で社長が俺を直々に呼んだか考えろよ?﹂
殴ったのが奈津なら俺はきっと痺れる様な余韻に浸れる。
しかしこんな俺とタメに近いオッサンから殴られたので、すごく頭
に来てる。
﹁お前、何しに来たんだ?﹂
966
﹁アットホームでフレンドリーな社長に聞けよ﹂
﹁聞けるかよ﹂
﹁何でだよ、俺殴れるなら社長に話し掛けるくらい楽勝だろ﹂
﹁社長殴れるかよ!!﹂
﹁社長殴れなんて言ってねぇよ!﹂
﹁今言っただろ!﹂
﹁言ってない!﹂
﹁絶対言った!﹂
﹁絶対言ってない!!﹂
﹁絶対言った!言った言った!﹂
俺は再び鼻の下の人差し指に加え、親指で軽く唇をつまんだ。
段々﹁絶対イッた﹂に聞こえてきたんですよね。
もーやだ、どっちにしても30過ぎた男の会話じゃねぇよ。
﹁もぅいいじゃねぇかよ、高浜すげーんだよ実際。いきなり殴る事
ねぇだろが﹂
佐藤が内藤達を宥める。
﹁うっせーなソルティは黙ってろ﹂
967
﹁はぁ?お前何言っちゃってんの!?誰がソルティだコラ!?﹂
⋮⋮何か、1人増えた気が。
俺は恐る恐る後ろを振り返ると、そこには四白眼で鬼頭を見る佐藤
がいた。
ソルティ⋮⋮やっぱり佐藤登志夫の志夫部分の事かな。
﹁じゃシュガー、いいから黙ってろ!﹂
﹁てめぇ殺す!!﹂
尋常じゃない表情で佐藤が鬼頭に殴りかかり、慌てて間に入った俺
が両側から殴られる。
あーー嫌だこんなでっかいオッサン達の喧嘩の仲裁とか。
いいじゃん、流しなさいよ砂糖と塩。
﹁お前ら社員がバイトの前で喧嘩してどうする!﹂
﹁落ち着け佐藤!﹂
﹁お前も止めに来い内藤!!﹂
﹁いや俺はいい﹂
﹁お前最低!!﹂
﹁いや⋮つーか高浜がそもそも原因じゃねーかよ、俺は関係無い﹂
この状況で傍観者とか江口お前⋮⋮。
968
﹁どけよ高浜!俺前々から鬼頭はムカついてたんだよ!!﹂
﹁はぁ?殺すぞ佐藤!!﹂
﹁内藤も手伝え!!﹂
揉みくちゃにされながら俺は江口を諦め、内藤を見た。
﹁2人ともやめろ﹂
それだけかよ、もーー!!
あぁああぁあ面倒臭い!!!
アタッカーのみんなも慣れっこらしく、普通に仕事してる奴もいれ
ば面白がって見てる奴もいる。
﹁いい加減にしろ!!﹂
俺が思わず怒鳴ると、2人はこちらを向いて静止した。
アタッカーの皆さんも驚いた顔をしてこちらを振り返った。
やだ、そんなおおきな声出しちゃった?
いや出したわ、申し訳ない。
﹁もう事務所で話付けろ!他の人間の仕事の邪魔なんだよ!!﹂
俺は鬼頭の襟首と佐藤の手首を掴んで引きずって行く。
あー頭と首と背中が痛ぇ!!
すると鬼頭が忌々しげに俺の手を振り払った。
まぁそうだよな、襟首掴まれて引っ張られるとか苦しいし嫌だよな。
969
後ろから誰かついて来てる気がするが、とりあえずこの気性の荒い
2人をお説教だ。
もう高浜何様とかそういう話じゃない。
﹁はい入って!!﹂
俺は2人を投げ込む様に中に入れる。
﹁高浜⋮⋮﹂
佐藤がちょっと怯んだ様な顔をした。
怯んでも佐藤の方が怖いとか。
もーいい、そんなの関係ない。
﹁お前らさ、社員だろ?バイトの前で喧嘩とかしてどうすんだよ﹂
﹁⋮⋮すまん﹂
佐藤は反射的に俺に謝った。
鬼頭は全く反省の色が無い。
こういう時に性格って出るな。
﹁でも社長もそうだし﹂
﹁でもじゃありません!!﹂
俺は鬼頭に怒鳴った。
再び、ひまわり組の美里先生をちょっと思い出す。
だってさっきの段階で俺が普通に怒ったらバトルロワイアルが始ま
るだけだろうし。
970
﹁いい?あのね、怒ったからって人を叩いていい訳じゃないですよ
!?﹂
ダメだ、俺がやるとどうしても必要以上にキレ気味の美里先生にな
る。
﹁だってお前が余りにもふざけてるから﹂
﹁だってじゃありません!俺はふざけてないし、会社の利益の為に
色々考えて言っていたのにそれを横からグーパンかますとか信じら
れない!!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
美里先生ありがとう⋮⋮先生の真似したらジェイソンとフレディの
喧嘩が収束しつつあります。
俺が将来お嫁さんにしたいと思った女性は後にも先にも美里先生、
あなただけです。
﹁まぁそんな訳で仲良くしろよ。職場の雰囲気ってな、売上に影響
するんだよ﹂
﹁なぁ、お前の言う職場の雰囲気ってどんなのならいいの?﹂
佐藤が真面目な顔で聞いてきた。
971
﹁まずは個人の意見をとりあえず言える環境、かな﹂
﹁個人の意見か⋮⋮﹂
いつのまにか来ていた江口もちょっと何か考えている。
﹁勿論、全部は聞けないし叶えられない。○か×か△かは即答する
よって感じだけどな﹂
﹁△ってなんだよ﹂
﹁保留。ダメって程じゃないけど考えさせてって意味。○はオッケ
ーで×は申し訳ないけど不可﹂
﹁ここにはそれが全然ないよな﹂
そうだ、江口。
よく気付いた。
﹁だから強い奴が弱い奴を締め付ける構図が延々と続いてるんだ。
社長がお前らを、お前らが飯田達をはけ口にして、社員がそんなん
でバイトはどう思うよ﹂
﹁社員とバイトは元々格が違うだろがよ﹂
鬼頭がふてぶてしい顔をして言った。
﹁雇用形態以外でそう思うのは違うと思うね﹂
972
﹁あ?﹂
﹁バイトがいなくても社員だけで回せる会社じゃねぇだろ、ここ。
こんだけバイトがいて、社員候補とか社員希望っているか?﹂
﹁いや、俺は聞いた事ねぇ﹂
﹁つーか俺ら見てやりたいと思う奴いねーんじゃねぇの﹂
﹁⋮⋮だから、会社が衰退してんだろ﹂
俺の言い分に、鬼頭が更に言い返す。
﹁で、お前さっきから偉そうに何か言ってっけど俺らにどうしろっ
つってんの?﹂
﹁ハッキリ言ってやるよ、ワンマン社長を好き勝手させてんのはお
前ら社員のせいだ﹂
﹁何で!?﹂
﹁まぁ聞けよ佐藤。お前らや昼の面子がな、社長を暴れていいって
思わせる環境を作るからいけないの。そんな社長見て暴れちゃう社
員をバイトがどう思うか考えてみろ﹂
﹁でもどーしょーもねぇもん﹂
﹁って思うから何も変わらんのではないかと俺は思う﹂
﹁じゃどうするんだよ﹂
973
﹁嫌ならまず改善策を考えろよ﹂
﹁辞める、ってのは?﹂
江口が何だか洒落にならない表情で言い出した。
﹁それもアリっちゃアリ。逃げて新天地ってのも悪くない。たった
1人の横暴で職場全員で我慢するとかおかしいだろ、ウザい担任の
いるクラスみたいじゃん﹂
俺は何とは無しに、余り使われて無いと言うか掲示板みたいに使わ
れているホワイトボードを裏返した。
俺の手によって力任せに回されたホワイトボードは、すべやかで無
垢な裏面を露わにされる。
﹁まずさ?お前ら朝礼って応援団みたいなあれ、何の為にやってん
の?﹂
俺はホワイトボード用マーカーのキャップを外し、書こうとしたが
掠れて書けない。
きぇーイライラする。
お前らごみ箱行き!!
それを3本繰り返し、何とか緑のだけは書けたので、﹁朝礼﹂と書
いた。
⋮⋮⋮実は、何も考えてないのだが、とりあえず書いてみた。
﹁モチベーション上げる為、とか何とか﹂
﹁まぁそうだな、お前らの会社ってモチベーションって言葉好きな﹂
974
﹁でさ、モチベーションってどういう意味なんだ?﹂
鬼頭⋮⋮お前⋮⋮。
知らないで何かモチベーション上がった気分になってたのか。
調べなさいよ、辞書でも携帯でも!!
また、俺の中で高校の授業風景が広がった。
教壇にいるのは⋮⋮新婚というあだ名だった野田先生、じゃあこれ
は倫理の授業だ。
後ろを振り返ると永山が白目剥いて姿勢良く寝ていたが、催眠効果
絶大にして内容は一番面白かった授業だった気がする。
倫理と政経、大好きだったなー。
野田先生の声がゆっくり再生される。
﹃君らよくモチベーションって使うけど、あれ﹁動機付け﹂って意
味の心理学とかでよく使われる言葉。誰かをそんな気持ちにさせる
ように動機付ける意味、そしてその人の動機の根底にある欲求的な
側面を指す場合もあるけどね。まぁ最近はやる気とか士気みたいに
使われるかな﹄
そうか、解りました。
俺がそう思うと白目の永山も倫理の授業風景も一瞬で消え去って俺
は我に返る。
何だ、今日こんなんばっか。
疲れてんのか?
﹁⋮⋮モチベーションって心理学でよく使われる言葉で、﹃動機付
け﹄って意味。誰かをそんな気持ちにさせるように仕向ける事、と
か何とか﹂
975
﹁高浜お前って⋮⋮﹂
﹁ぎゃはははすっげぇ、お前すっげぇ﹂
﹁ちょっと待て、それ洗脳と違うのか?﹂
﹁まぁ一時的な洗脳みたいなもんなんじゃないですか?俺はよく解
motivated
by
∼で、∼によってやる気を起こ
りませんけどやる気や士気って意味でいいんじゃないかと﹂
be
すって熟語あるしな。
⋮⋮あったよな、多分。
何で﹁おかたづけのうた﹂は完璧に手元見ないでも弾けるのに、そ
れよりもっと最近である中学高校の内容が曖昧なんだろう。人間っ
て不思議。
﹁まぁそれでさ、俺が何を言いたいかって言うと﹂
俺は何も考えていなかったのだが、みんなが真剣な面持ちなので何
とか話を収束させようと頭をフル回転した。
﹁まず社長がいるだろ﹂
俺は﹁社長﹂と書いて楕円で囲んだ。
﹁で、お前ら社員がいるだろ?﹂
今度は四角形を3つ程、社長の楕円の下に書いた。
﹁おい。社員は8人、西田さん入れて9人だぞ?﹂
976
鬼頭⋮⋮お前、ホンッと⋮。
﹁まぁこの四角形1個を3人分と思ってくれ。で、社長がモチベー
ションとやらをお前らに飛ばす﹂
俺は社長から3方向に線を四角形に伸ばした。
葉巻型UFOみたいな感じ。
﹁で、お前らはそれをアタッカーの皆さんに伝えないといかんだろ
?﹂
更に四角形の下に、9個の円を書いてそれぞれ線で繋げる。
﹁で、上からモチベーションやら指示が来たら今度はここ、アタッ
カーから。下から上に来るものがないといけないと俺は思う﹂
﹁売上?﹂
﹁まぁそれも結果としての1つだな、うり、あげ、と。他は?﹂
﹁仕事の不満とか?﹂
﹁それもあるよな。ふ、まん。後は?﹂
﹁何か報告とか連絡系か?シフトの相談とか?﹂
報告、連絡、相談。
あ、何か知ってる!!
これ使おう!ナイス江口!!
977
お前のサンズイは当分消さないでおく!!
﹁それを仕事のホウレンソウって言うんだが、江口よく言った!!﹂
確か多分おそらくきっと。
頑張れ、ハッタリかませ俺。
俺はドヤ顔で報告・連絡・相談を書いてその頭文字を丸で囲んだ。
﹁これが滞ると組織の構成に支障が出る訳。んで会社のまぁ、動脈
硬化みたいな現象が起きて、結果的に売上の停滞が起こる訳ですよ﹂
あははは、あった、さっき書いたわ売上∼。
俺は無理矢理に繋げられた喜び一杯に、売上の文字に線を伸ばす。
﹁上から来るモチベーションやら指示や伝達事項だけで、下から見
た意見が全然反映されないと組織は上手く行かないって話ね﹂
うぅ⋮⋮みんな無反応か。
頭使って頑張ったんだけどな。
まぁそうだよな、初対面の何の知識も無い俺に偉そうに講釈垂れら
れたんだもんな。
﹁⋮と、俺はそう思う﹂
と、マーカーのキャップをして置くと、
﹁⋮⋮すげぇ﹂
と扉の方から声がした。
ん?と思って振り返ると、内藤がでかい身体を扉に挟んで立ってい
978
る。
何で自身がドアストッパーになってんだよ、今日何度目の不意打ち
だ。
﹁高浜って字が綺麗な﹂
﹁お前すげーわ!﹂
﹁何か社長がお前呼んだの解る﹂
良かったー。
俺は笑顔で頷くと、挟まったままの内藤がホワイトボードを指差し
た。
﹁で、そのホウレンソウをどうするかだな﹂
﹁ぎゃっははアンケートとかしちゃう?﹂
﹁メールでいいだろ、回収するの面倒だから﹂
﹁それもいいが、匿名の方がいいんじゃねぇの?メールだとお前ら
でも誰から来たか解っちゃうし﹂
タバコをスパーしながら俺が言うと、
﹁じゃホワイトボードに書いて貰うか﹂
と内藤が言った。
何気に乗り気じゃないの。
979
﹁いや⋮⋮それでも誰が書いたか見られたら解るから、トイレの個
室がいいと思う﹂
﹁そうだよな、あったまいいなーお前﹂
﹁トイレの個室に紙でも貼っとけよ、ボールペンでもヒモで付けと
いて﹂
﹁そうか、トイレなら誰が書いたか解らないもんな!﹂
﹁まぁこんだけ人数いたら誰にも会わない場所ってトイレくらいじ
ゃねぇの﹂
俺は回転椅子でクルクル半円の軌道を描きながら、何だかいい方に
進んで来た気がした。
﹁よし、じゃ仕事戻るか﹂
と、モチベーションが上がったらしい鬼頭が立ち上がった瞬間、ボ
サッと音がして使い込まれたモノグラムの2ツ折財布が落ち、散乱
したカードと共に⋮⋮。
﹁ぎゃっははっはっはは鬼頭、馬鹿じゃねーの!!﹂
﹁⋮⋮お前﹂
俺は気の毒で何も言えない。
備え有れば憂いなしって言う⋮⋮。
﹁財布にコンドーム入れてんなよ!あーお前マジで馬鹿じゃね!?﹂
980
﹁うっるせーな!!﹂
﹁いつから入れてんだよ!﹂
﹁いつもラブホの使うから入れっぱだっただけだ!!﹂
﹁ぎゃはははははは!!!﹂
財布を憔悴しきった様子で尻ポケットに入れ、真っ赤になりコメカ
ミに血管まで浮いた鬼頭は、何故か佐藤に蹴りを入れた。
佐藤も一瞬真顔になるも、また笑いながら鬼頭を蹴り返し、つかみ
合いが始まる。
俺はもう止めない。
避妊具。
片仮名にすると、ヒニング。
﹁ねぇ江口ー﹂
﹁何だよ、今度は止めねぇのか﹂
﹁うーん⋮⋮あのさ、ヒニングって人名っぽくない?﹂
﹁ぶはは、避妊具?﹂
﹁違う、ヒにアクセントでヒニング﹂
﹁じゃお前のキャラの名前それでいいか﹂
981
﹁⋮⋮好きにどうぞ﹂
﹁ヒニング会長?﹂
﹁ヒニング博士?﹂
鬼頭と佐藤が取っ組み合う中、内藤と江口は淡々とヒニング古今東
西を続ける。
そして俺は収束するまでの暇つぶしに、求人誌の名前の入った正方
形のメモで何の意味も無くして折鶴を折り始めた。
7羽目を折り終わった頃、
﹁お前何遊んでんだ!!﹂
と鬼頭に怒られた。
まだ紅潮マックスで血管ビキビキだが、鬼頭でコンドームとか狙っ
てるにも程が⋮⋮。
つい俺がグハッと吹き出すと、また鬼頭が真っ赤になって俺を睨ん
だ。
﹁てめぇ⋮⋮﹂
﹁俺だってヒニングなんだしいいだろ、気にすんなよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁鬼頭なだけにコンドームとかお前わははははははは!!﹂
﹁ぎゃはははははは!!﹂
982
﹁てめー殺す!!﹂
﹁決めた、ヒニング船長!﹂
﹁ヒニング船長!?﹂
思わず振り返った俺の脇腹に鬼頭の蹴りが入り、俺も咄嗟に蹴りを
返したが力が入ってしまって鬼頭は派手に後ろに飛んでファイルロ
ッカーにぶつかり、内藤と江口の﹁ヒニング船長!ヒニング船長!﹂
と言う謎の掛け声と共に佐藤の笑い声がこだまする。
昨日の今頃はこんな今日になるなって思わなかった⋮⋮いや、26
年前の幼稚園児の俺も、15年前の高校生の俺も今日の俺がこんな
になるなんて微塵も思ってなかっただろう。
俺は気の毒さから加減をしつつ、鬼頭にカウンターを決めると、人
生の数奇さを感じた。
ヒニング船長は豪華客船のオーナー。
それは船長ではないだろ、そんな突っ込みは要らない。
それは子供に特撮ヒーローの真実を説くようなものだろう。
ヒニング船長は丸い世界の水平線に何かがきっと待っている、そう
信じて新宿御苑を後にしたとか何とか、うあぁあ疲れた、疲れたよ!
聞いてる方も疲れるであろう話で申し訳無いが、ようやく俺は解放
されたのだ。
俺の顔写真を使ったヒニング船長の受信メールはたった1時間足ら
ずで100件以上稼ぎ、何でヒニング船長がいきなり大人気なんだ
か訳が解らない。
983
女性ユーザーもサクラなんじゃねぇの?とか思っちゃうよね。
あー何かその辺歩いてたら﹁あっあれは豪華客船オーナーのヒニン
グじゃない!?﹂とか言われてみてぇ!!
とか言いながらもう何が何だか、俺と佐藤はいちいち爆笑しながら
仕事をした。
さぞかしウザがられたであろう。
そんな中、終電組と呼ばれるバイトの人達が帰る段になって、
﹁あれ?高浜って昼からいるんだろ?﹂
と、ようやく気付いて貰えた。
もう管理の仕事まで結構教えて貰ってこれで俺も社員としてここで
っていやいやいやあはははは、
終電?終電とかもうね、つーか俺、車で来たわあっははははお腹痛
い!そんでもってお腹空いたあははははは。
﹁ぎゃははは高浜、飯食ってねぇの!?﹂
﹁あっははは昼以来食ってないけど昼飯2回食べたから大丈夫!﹂
﹁何でだよぎゃははははは!﹂
それだけでもう佐藤と俺は笑いが止まらない。
そんなテンションで俺は自分のタイムカードを作ってもらったが、
手元に来たタイムカードの名前は﹁高浜高志﹂。
って間違ってるじゃんよ内藤、高志じゃねぇよ武志だってあははは
は二重線で消せだと!?
﹁お疲れ様でした!!﹂
984
そう叫んでエレベーターに乗ると、俺は一気に我に返った。
いやー⋮⋮すごい。
海外旅行帰りの成田空港のロビーのテンションだろ、これ。
女性ならディズニーランド帰りの舞浜駅かもしれませんね。
俺は今日あった事を思い返しながらコインパーキングに向かった。
﹁嫌だ、行きたくないー!!﹂
途中、悲痛な泣き声がして何事かと俺は振り向いてしまう。
向こう側の歩道のガードレールに寄り掛かる様にして小柄な少年が
泣いていて、その小さな肩に手を置く長身の男が立っている。
そっか、ここから新宿二丁目だもんね。
よくある光景なんだろうな。
そう思って邪魔にならない様に通り過ぎようとしたが、長身の方が
左手首を首に擦り始め、それを見て思わず俺はそいつと目線を合わ
せてしまった。
﹁⋮⋮あ﹂
向こうも大きな目を更に大きくして、お互い言葉にならない声を発
したが、俺は軽く会釈をして泣いてる方に気付かれない様に立ち去
った。
妙な脳内タイムスリップの連続に莉奈との再会の次は友人の弟とバ
ッタリとか、今日は一体⋮⋮。
何か意味でもあるんだろうか。
985
帰って風呂に入って寝る段になっても、一連の数奇な事に関連性は
無いと言う結論しか出ない。
でもあるんだよね、何それ!?みたいな事の連続って。
﹁出会い系なんて興味ねぇし﹂って切り捨てなくて良かったと思っ
た。
そう思いながら寝返りを打つと、俺は広くなったベッドを実感して
しまう。
元々1人でダブルベッド、ずっと何年もこうだったから寂しいなん
て筈は無い。
そう思えば思うほど、2ヶ月足らずのそうで無かった時間があった
事が苦しい。
いや、違う。
その2ヶ月があった事が苦しかったのではなく、その時間が無くな
った事を実感するのが苦しい。
譬え奈津が帰って来ても、あの時間の延長で始まる保障はどこにも
ない。
こんな時、みんなどうしてるんだろう。
最悪と言われそうだが、俺は寂しさの言い訳に奈津を慰みものにし
てしまう。
いや、奈津の慰みものにされた記憶をオカズにすると言う方が正し
いかもしれない。
﹃いいからチンコ出せよ﹄
俺が帰宅してソファーに座るなり一番に仁王立ちの笑顔でそう言わ
986
れたり。
その癖にちょっとキスして、手首掴んで抱き寄せると一気にふにゃ
っとなるあのギャップ。
強いし無愛想な筈の奈津がすぐ 涙目で頷いて、ちょっとリードす
ると一変するから余計に愛しい。キスしたまま服の上から下着をず
らし、そっと円を描く様に弄って固くなったらそのベージュピンク
の色が透けるまで吸ったり舌で転がしたりして、その頃にはもう奈
津の背中が反り返って腰が動いてて。
すぐしたいのはお互い様なのに﹁もう我慢出来ないのか?﹂とか目
が潤んでる奈津に言って、﹁見るな!﹂って手で顔を隠すの見て余
計に興奮して。
その間に、俺もネクタイ外してシャツのボタンも外して、ベルトの
バックルを外す音には忠実に奈津が反応して、近付けると迎え舌す
るのが可愛くてその舌を奈津の口ごと食べるんじゃないかって勢いで
キスしてると奈津も自分で下を脱ごうとしてたりするけど、脚の間
の俺が邪魔で腰骨の少し下くらいまでしか脱げなくてイライラジタ
バタしてるけど、下腹部の白い手術跡にキスすると少し大人しくな
り、そこで一気に上も下も無理矢理脱がして下着だけの格好にする
と、さっき散々いじり回した乳首がずれた下着から覗いていて、あ
ーもう可愛い過ぎる無理だ我慢出来ない!!
⋮⋮と思うが、そこを我慢して今度は下着の上からなぞって、下着
の生地がくっきり形を残すくらい張り付いてるの見てまた興奮して。
それから自分を抑える様にまた、ねちっこくねちっこくして、あ、
やり過ぎたかな、歯を食いしばってた奈津がちょっと声を出して身
体を反らして2、3回痙攣するの見て満足して、よし行くかと奈津
の下着を膝まで下ろすと奈津自ら下着を荒々しく脱いで爪先で投げ
飛ばしたその足首を掴んで俺も結構濡れやすいんだなとか気持ち悪
い事考えつつ、先端を当てると奈津から中に入れようと腰を動かし
て来て、先端が入ったら一気に奥まで入れるとまた可愛い声が漏れ
て、パンパンパンパン派手に音立てて動く度に奈津の身体、それも
987
胸が俺の腰の動きに反応して揺れて、あーこの眺め大好き!奈津は
もっと大好き!!とか思って、﹁俺の事好き?﹂って聞いてみたり
すると、﹁うるっ⋮さ⋮い﹂とか息も絶え絶えなのにキュウキュウ
って締め付けて来て、何か搾り出されそうだけど我慢して腰骨ごと
抱えてちょっと衝くポイント変えたりして、もう奈津は泣いてたり
もするけどこういう時の泣き顔って余計に何か興奮して、何度も中
が痙攣して、サディスティックな締め付けが無くなる頃にはもう俺
も限界で、﹁出していい?﹂って聞くと頷いて最後の抵抗なのか何
なのかちょっと締まる膣壁を押し退ける様に奥で思いっ切り。
ベッドの枕元に手を伸ばしティッシュを取ると、現実の俺も思いっ
切り出した。
大きく脈打つ様な感じが3回来たら一気に気怠い気持ちになって、
ちょっと頭がクラッとしたが受け止めてくれる奈津の身体がないの
で、ごみ箱に夢の残骸と化したティッシュを投げ込んで手を洗って
戻ると、さっきより冷静な俺がいた。
これからきっと、100回くらいはこんな事があるんだろう。
奈津としたセックスが50回そこら、でも全部思い出せる自信も無
いし、こんな事したかったって言う願望で抜く事もあるだろう。
他の女の子としてる時は余り思い出さないが、1人でいるとアダル
ト動画の女優の顔は全て奈津に見えてくる。
もう動画の内容とか綺麗なお姉さんの的確な喘ぎ声なんてどうでも
いいくらい、頭の中で俺は奈津とだけセックスしている。
好きとか一方的に愛してるって、すげぇ。
窓から見えるこの海の向こうで、奈津も俺を思い出して少しエロい
気持ちになってくれたり、俺がいない喪失感を感じたりしてくれて
いるんだろうか。
988
⋮⋮してくれてないんだろうか。
そう思うと肺の裏側の辺りがギュッとしたが、それ以上に腹が減っ
たのでキッチンに向かう。
夜遅く食べたりするの良くないよね、ふっくらした俺なんて見たく
ないもの。
⋮⋮何か作ろうにも材料も無いし。
そう思いながら俺は、何故買ったのか解らないゴーヤチップを皿に
出す。
陶器とゴーヤの当たるカランサランと言う乾いた音が深夜の薄暗い
部屋に響き渡るのが、何か心地良かった。
989
★高浜武志・6★︵後書き︶
いきなり昔の感覚や記憶が質感を伴って蘇ると、ビックリしません
か?
すれ違った人がつけていた香水、当時は好きでも何でも無かった流
行歌、
近所の男子中学生とする白熱したバスケやサッカー。
思い出したその時間に戻りたいと言うより、戻れない切なさがいい
気がします。
どうでもいいんですが今日、遊びに来た近所の小学生が持ってきて
くれたカールのチーズ味を開封すると、
ものっっすごく卑猥な匂いに感じました。
たまにいるよな、クンニするとこの匂い漂わす女の子。
好きな方には大変申し訳ないですが、そんな匂いでした。
﹁あ、カール好きじゃないど?﹂
﹁うっそ!?めっちゃうまかけん!?信じられーん!!﹂
そう驚く小学生達に、おばさんは優しく言いました。
﹁お菓子はみんなで食べてよ、私はいいから﹂
まさかエロい匂いに感じてムラッとしたなんて言えません。
心配そうに私を見る小さな我が子達と小学生がサクサク食べている
990
横で、私は自分用にポテチを作るべく芋をスライスし始めました。
それも結局ほとんど子供達に食われて終わったんですけどね、いい
んです。
カールをお菓子に思えなくなったのはさて置き、もう私が次の世代
に何でも食わせる年齢なんだろうなと、そう思ってます。
でもやっぱり部屋に充満するカールの匂いは、あの匂い。
体臭フェチの私は、芋を揚げながらさりげなく深呼吸。
フガフガスゴーン。
⋮⋮カールのチーズ味、侮れん。
991
ターニングポイント︵前書き︶
イライラする、まだるっこしさがテーマです。
992
ターニングポイント
今夜、関東地方に大型の台風が上陸する。
その天気予報通り、東京は未曾有の大雨になりました。
病院内は珍しく何事も無く静かで、保倉先生も毅彦もいない当直で
す。
先程ユズちゃんに電話したところ、
﹃先生いなくて寂しいけど、大丈夫だからお仕事頑張って!﹄
と、理解があって有り難い様な、申し訳なくて後ろめたい様な言葉
を貰いました。
真に受けていいのか、それともその言葉の裏にある何かを汲み取る
べきなのか。
同じ女性でもユズちゃんと奈津さんとメロンちゃんが違う様に、女
性と一括りには言えないのかもしれませんが、女性の言葉って全て
を額面通り受け取ってはいけない気もするし、かと言って裏を読む
のは困難です。
私が邪推をすれば見事に裏目に出る訳ですしね⋮⋮。
﹃それより、そろそろ私の欲しい物解ったかなぁ﹄
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹃急がないし、ゆっくり考えて﹄
993
このまま解らないと、やっぱりユズちゃんが自分から離れて行く様
な気がして不安になります。
正直、入院している女性はほぼ既婚者なので﹁結婚に婚姻届以外で
必要な物って何ですか?﹂と何かの折にさりげなく聞けばいいのか
もしれないのですが、迷惑だろうという点と、カンニングをする様
な後ろめたさがあって未だに答えは出ないままです。
そんな私の葛藤を助長させる様に、雨足は更に勢いを増して行きま
す。
私は窓ガラスを流れる水滴を眺めるのが、子供の頃から好きでした。
1粒の水滴が他の水滴にぶつかって抉れたり、軌道上の他の水滴を
巻き添えにして下まで勢い良く流れて行って、たまに途中で他の水
滴と合体して止まる事もあったりして。
窓ガラス一面に繰り広げられるそれを、物心付いた時からよく眺め
ていました。
車に乗って家族で外出する時も、勉強の合間の息抜きの時も、それ
は雨さえ降っていれば眺める事が出来る、ほぼ無趣味な私の囁かな
楽しみの1つでした。
ユズちゃんとの出会いも、もしかしたら雨が降ってなかったら無か
ったのかもしれない。
ふと、そんな事を考えました。
思春期からずっと性行為は愚か恋愛にすら臆病で疎かった私が、初
めて自分から求めたくなる様な刺激を得られた日も大雨だったのを
思い出します。
994
その年も仕事以外に何も無い、病院でみんなでケーキを食べるだけ
の私の誕生日のクリスマスが終わって年末年始の街が一番活気づく
時期に、この病院の忘年会兼新年会がありました。
入院している妊婦さんがいらっしゃる以上、病院を無人にする訳に
は行かないので私は欠席しようと思ったのですが、保倉先生が
﹁永山君と毅彦君は行ってきなさい、何かあったら呼ぶから﹂
と病院で年越しの意思を示され、私なりに食い下がったのですが⋮
⋮結局は毅彦と私は翌日非番の助産師さん達の待つ、
新宿のお店にタクシーを走らせていました。
﹁もー⋮⋮兄さんだけ行けばいいのに﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
﹁俺、家で待ってる子がいる﹂
﹁家で待ってる子?﹂
﹁そう、まぁ、結構年下なんだけど仲良くなった友達って言うか﹂
今思えば、ここで結構年下の仲良くなった友達とは冬休みから家に
入り浸ってると保倉先生がおっしゃっていた、豊くんの事だったの
でしょう。
まぁ私も保倉先生のご子息が毅彦の家に出入りしていると聞いたら
驚いただろうし、ややこしくなるから伏せていたのは解る気がしま
995
す。
黒いロングコートをグシャッと無造作に抱えて、毅彦は溜息をつき
ました。
﹁俺と兄さんしか未婚男性がいない職場って、きつい﹂
﹁何で?﹂
﹁兄さん⋮⋮去年とか一昨年を忘れたの?﹂
﹁⋮⋮去年とか一昨年﹂
﹁もうさ、俺らの彼女の有無とかそんなんが話題の半分だったじゃ
ん﹂
﹁俺は恋愛に縁が無いから﹂
﹁あんたがそんなだから全部こっちに来るんだよ、兄さんこそテキ
トーにあの中の誰かと結婚しちゃえば?﹂
﹁無茶言うな、毅彦がすればいい。俺は結婚なんて無理だろうし﹂
﹁俺も絶対無理!全員対象外﹂
﹁⋮⋮助産師さん達に失礼だ﹂
﹁じゃあんたがしろっての﹂
そんな兄弟間の不毛な会話をしながら、私はワイパーに潰される水
996
滴やサイドウィンドウに叩き付けられては流れ行く水滴を見ていま
した。
無慈悲に等間隔のリズムで水滴をすり潰して消し去るワイパーは、
大量殺戮兵器の様に思えて来ました。
﹁あ、そこのバス停の前辺りでいいです﹂
急にタクシーが止まったので私が慌てて財布を探している間に、毅
彦はサッとカードで会計をして
﹁ほら何やってんの、行くよ﹂
と私をタクシーから引っ張り出す様に促します。
﹁申し訳無いから後で返す﹂
﹁いいよ、この程度の額でどうの言われても﹂
﹁⋮⋮じゃ、全額分のカップ麺で返す﹂
﹁いいから行くよ!!﹂
毅彦の好物で後払いする事に勝手に決めて、私達は雑居ビルにある
指定されたお店に向かいます。
今にも消えそうな蛍光灯の点滅するエレベーターの扉が再び開くと、
タバコとお酒や料理の匂いと店内の喧騒が一気になだれ込んで来ま
した。
﹁えーと7人で予約した⋮﹂
997
と毅彦がレジにいる紺色の作務衣みたいな服の店員さんに言った瞬
間、
﹁あー来た来た!!こっちこっち!!﹂
と、染谷さんが個室に仕切られた襖から顔を出しました。
桜色に上気した、結構出来上がってる感じです。
案内された個室に行って席に座ると、いつも制服と言うか薄いピン
ク色の仕事着の助産師さん達はみんな凄くメイクも服装も派手でし
た。
出退勤の時に会っても、いつもここまでバッチリと言う感じでは無
かった気がします。
私と毅彦しかいないのにそんなに気合い入れるなんて変なの。
そう思いましたが、去年も一昨年も同じ事を考えた記憶が蘇ります。
﹁ごめんね、遅くなっちゃって﹂
﹁お疲れ様でーす。もー来ないのかと思った﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁クリスマスも仕事してたけど先生達って彼女さんとかいないの?﹂
﹃いません﹄
兄弟で息が合うのは、こういう質問をされた時くらいかもしれませ
ん。
998
﹁えぇーそれってすごい勿体なーい﹂
﹁いいの、兄さんがどうせ先に結婚するから﹂
﹁えぇ!?うっそー予定あるのー!?﹂
﹁⋮⋮全然何もありません﹂
﹁やっぱもうね、俺ら兄弟は今の内から後継者を探さないと﹂
﹁やっだ諦め過ぎでしょー﹂
店員さんが私達のお酒の注文を取りに来たので、私はジントニック、
毅彦はビールと梅酒ロックを頼みます。
﹁何かぁ今話してたんですけどー、先生なら恋人にプレゼントって
何あげますー?﹂
﹁⋮⋮⋮さぁ﹂
﹁ネクタイ﹂
全く浮かばなかった私に対して、ぶっきらぼうに言い放った毅彦の
言葉にちょっと違和感を感じましたが当時の私は余り気にしません
でした。
﹁えー?あ、私達が男の人にあげるならネクタイって事?﹂
﹁一番無難じゃん?﹂
999
﹁陽先生は?﹂
﹁⋮⋮どうだろう、私が買える範囲で欲しいって言われた物をあげ
ると思います﹂
﹁きゃーー陽先生の彼女が羨ましい!!私が彼女になりたい!!﹂
本心では無いにしてもそう言われると、欲しいと言われた物を片っ
端からあげて浮気された過去のある私は無意識に身構えてしまいま
した。
﹁過去に何人の女の人にそうしてあげたんですか?﹂
﹁ひとりだけです﹂
﹁えーー1人だけ!?﹂
﹁⋮⋮多分、二度としません﹂
﹁何それ、悪い女に引っ掛かった的な﹂
﹁あのね、兄さんを余り虐めないであげて﹂
﹁虐めてないですよー﹂
﹁じゃぶっちゃけ毅彦先生は元カノどんな感じよ?﹂
﹁数えないよ、そんなんいちいち。彼女って言うのも微妙だし﹂
1000
﹁うっわーこれは遊んでる!!﹂
﹁あのねぇ、俺は週に100時間以上は病院にいるの。それで遊ぶ
とか無茶でしょうが﹂
﹁じゃ遊んでないんだー﹂
﹁女の子との経験は平均より全然少ないと思うよ﹂
毅彦はネクタイを外して鞄に無造作に入れると、手首を首筋に擦り
始めます。
早速イライラが始まったのか。
仕事中とスタッフさんのテンションが全然違うのに戸惑いを感じて
いる私は内容的にも会話に入りきれず、する事も無いので毅彦の好
きなカップ麺を携帯でオーダーする事にしました。
届け先は⋮⋮毅彦は余り家に帰らないから職場でいいかな。
﹁兄さん、何してんの?﹂
﹁毅彦の好きなラーメン頼んでた。永山産婦人科に近々届くよ﹂
﹁あ、本当?有り難う!!ついでに箱でガリガリくんの﹂
﹁⋮⋮ガリガリくん、サッパリし過ぎて俺は余り好きじゃない。も
っと何かバニラの﹂
﹁俺、バニラアイス好きじゃない。くど過ぎる﹂
﹁え?﹂
1001
﹁何でイラッとすんの。そんなんでいちいちイラッとするからあん
た彼女出来ないんだよ﹂
﹁⋮⋮イラッとしてない。嫌いな人を初めて見たから﹂
﹁陽先生って甘党ですもんねー﹂
﹁俺がジャワカレー辛口派に対して、兄さんはバーモント甘口一択
だもんね﹂
﹁⋮⋮もう甘口じゃない、今は中辛﹂
﹁うそ!?兄さん、大進歩じゃん!!大人の味覚に近付いたね﹂
﹁⋮⋮だいぶ前からお寿司もサビ抜きで無くても平気だし、おでん
の辛子も除けなくて大丈夫﹂
﹁もーー陽先生、こういうところ可愛いよねー﹂
大進歩と言われたので他の例も提示してみたのですが、可愛いと失
笑されてしまいました。
そうか⋮⋮ガリガリくんが苦手でバニラが好きだと彼女が出来ない
のか。
高浜もガリガリくんは高校の時に良く食べてたな。
一瞬、世のモテると言われる容姿の男性がみんなガリガリくんを一
様にこぞって食べている絵が浮かんで来て、ちょっと面白くなりま
した。
﹁や、今ちょっと何で笑ったんですかー!?﹂
1002
﹁⋮⋮みんなガリガリくん食べてる﹂
﹁えっ?﹂
﹁はい気にしないでいいから。兄さんのこういう世界には誰も入れ
ない﹂
毅彦もガリガリくん。
そう思うと、何だか久々に楽しくなって来た自分がいました。
﹁もうね、俺思うんだけどさ?
相ッッ当の取り返しの付かない不細工とか、ものッッ凄い腋臭とか
でも無いのにモテないって確実に本人に理由がある﹂
相当の不細工と言われた記憶も無いし体臭を指摘された事も無い私
も、例外ではありません。
でもモテると言う状況を想像するだけで、家から出たくなくなる自
分がいます。
仕事以外での会話も人付き合いも得意でない私が、好意を持たれる
理由が無いからです。
﹁あー毅彦先生、相変わらずキッツいなー﹂
﹁だってそうじゃん?人の事だから言わせて貰うけどさ。
女の人の読む雑誌とかのモテとか自分磨きって、大抵が金だけ遣わ
せてカラ回りさせようとしてる様にしか思えないんだよね﹂
1003
﹁えぇーじゃあ私が女子力アップの為にエステとか英会話とか料理
教室行ってるのも、婚活には無駄ですかー?﹂
﹁無駄じゃないし良いことだと思うけど、じゃあさ?
肌が綺麗で英語喋れて料理上手ければ好きになる?﹂
﹁あ、ちょっと解ったかも﹂
﹁だから結局は相性。この一言に尽きる﹂
﹁やー相性とか何かエローい﹂
﹁そういうのも含めての相性でしょ、そこは﹂
毅彦の凄いところは、女の人に威圧感を与えずに色々と切り込んで
行けるところです。
言い方は突き放す様な感じなのに、最後には相手から自分に同意さ
せる様に持って行けると言うか。
﹁ねー毅彦先生の理想の人ってどんな人ー?﹂
﹁何だよ、前も言ったじゃん!﹂
﹁あたし聞いてなーい!﹂
﹁私も知らなーい!!﹂
思わず、私も蟹のハサミをかじりながら気になってしまいます。
聞いたところで何が出来る訳じゃないですが、兄弟や友達の好みが
ちょっと気になるって厭らしいですね。
1004
﹁⋮⋮俺の好み、か﹂
﹁そう!!私達の中で言ってもいいですよー﹂
﹁あ、それは無いから大丈夫﹂
﹁きっついなー相変わらず﹂
﹁俺に選ばれる女の人って相当だよ﹂
﹁うっわー何それ!?﹂
﹁んー⋮⋮あのね、何だろうな﹂
ゴシゴシ最高潮だな。
隣で見ている私も何故か緊張しています。
﹁女の子っぽいところもあるけど女に見えない人、かな﹂
﹁難しい∼﹂
﹁可愛い物が好きだけど、見た目はそんなのが好きに見えないって
事?﹂
﹁惜しいね、ちょっと違う﹂
﹁見た目とか感じがボーイッシュだけど乙女趣味って事?﹂
﹁近い。それでいいや﹂
1005
﹁あー⋮でも毅彦先生はそういう子が好きそう、女!!みたいなの
苦手そう﹂
﹁まぁそうだね﹂
﹁ねーじゃあ陽先生の好きな子ってどんな?﹂
⋮⋮こっちに振られた。
走って家に帰りたい気持ちが生じますが、グッと抑えて正直に答え
ます。
﹁⋮⋮解りません﹂
﹁ちょ、授業中当てられた中学生じゃないんですからー﹂
﹁⋮⋮考えた事も無いし、そこまで深い仲になれる女の人とまだ会
った事がないです﹂
そう私が言うと、何だかみんな静かになりました。
私はいつの間にか来ていたジントニックを取り、ライムを絞ります。
﹁あっははは、陽先生マドラー吸ってる!!﹂
﹁もう兄さんの持ち芸だよね﹂
指を差して笑われ、隣の毅彦も吹き出しました。
突き出しているからつい、ストローと間違えてしまうんですよね。
やっぱり、こういう席って苦手だなぁ。
1006
たったそれだけでみんなに笑われて、心からそう思いました。
飲み会そのものが悪いとかではなく、みんなが楽しい場に自分がい
る事自体が何だか場の空気を白けさせるようで、居心地の悪い気持
ちになります。
たまに来る集中砲火みたいな質問攻めが一番辛いです。
私は正座を崩して、膝を抱えました。
その時にテーブルが座敷ではなく掘り炬燵だったのに気付いて、痺
れた足が切なくなりました。
その後はスタッフさん達が主導で会話が続いて、仕事の話を始め保
倉先生の有り難い人間性の話、入院中の患者さんの愚痴やいない助
産師さんのほぼ悪口に近い愚痴が続いて、流石の毅彦にも疲れの色
が見えて来ました。
毅彦は何杯目か解らないお酒についていたチェリーを取ると、蔕を
私の取り皿に置いたので私はそれを反射的に取って舌で結び、吸い
殻で一杯になっている灰皿に入れました。
﹁やだー陽先生って絶対チュー上手いでしょー﹂
﹁⋮⋮上手いって言われた事はありません﹂
﹁陽先生って舌が凄い長いもんね﹂
﹁兄さんって迎え舌するから気持ち悪ーい。先端割れてるし何なの
って感じー﹂
かなり酔いの回っている毅彦が私の頭を邪険にグシャグシャと弄り、
思わずその手を払いのけます。
1007
舌の長さまで見られているんだな、そこに驚きました。
﹁陽先生、ベロ出してみてー﹂
そう言われたので、普通に出すと
﹃ギャアァアーー!!﹄
と毅彦含む私以外の全員が叫びました。
﹁顎の下まで付いてる!!﹂
﹁⋮⋮みんなそこまで行かないものなんですか?﹂
私がそう言うと、私以外の全員がベロッと舌を出しました。
こっちの方がよっぽど怖い光景だと思いますが、顔が違う様に舌の
形も違うんだな、そんな事を実感しました。
﹁やーーもう陽先生って本当不思議﹂
﹁兄さんは小学生の頃から宇宙人だって噂があったなー。だから宇
宙人の女の子連れて来たらいいのかなー﹂
﹁宇宙人じゃないでしょ、陽先生かわいそうだよ﹂
﹁でも何かー先祖は人じゃない気がするんだよねー兄さんはー﹂
私の先祖が人じゃなかったら、弟のお前も一緒。
まぁ、楽しそうに盛り上がっているからいいかな。
1008
何やら店員さんが入って来ましたが、気にせず私はお料理を取り皿
に載せて行きます。
女の人ってこういう飲み会の席でお酒を飲む割に、余り食べない気
がします。
大皿料理を取り皿で取るスタイルが嫌いなんだろうか。
私は消毒液みたいな匂いのお酒を出されるよりも食べ物の方が有難
いのですが、少数派なのかもしれませんね。
﹁お待たせ致しました﹂
今度は男性の店員さんが、トレーにデザートを載せて入って来まし
た。
﹁来たーーーーー!!﹂
﹁やー目茶苦茶おいしそーー!﹂
﹁俺的にはお兄さんが美味しそー!!﹂
﹁あれ?桃のパンナコッタって誰?﹂
⋮⋮いつ頼んだ?
私が食べるのに没頭していた時か?
﹁ラストオーダー、以上で宜しいでしょうか﹂
﹃はーい﹄
1009
いや、宜しくない。
そう思ってもラストオーダーと言う言葉を聞いた以上、言いにくい
です。
私が失敗に悶々としていると、
﹁弟様から﹂
と勢い良く小振りのチョコパフェが私の前に置かれました。
﹁⋮⋮毅彦が頼んだんでしょ?﹂
﹁えーだってみんながデザート頼んでるのにー1人聞いてなさそう
だったしー絶対後で欲しがるパターンだなって思ったから一番カロ
リー高そうなの頼んどけばいいかなってー﹂
﹁毅彦先生ってお兄ちゃんに優しいよねー﹂
﹁優しいと言うかーこれで30年来たしー俺が帰国して10年の間
に何も変わってなくてねー焦ったよねーそのマカロンのストラップ
可愛いー﹂
﹁え?これ?あぁスイーツストラップ、今集めてるんですよね﹂
﹁いいなー俺も欲しいー﹂
毅彦が女の人と盛り上がれるのは、きっとこういうところに目が行
くからなんでしょうね。
冷凍庫に入れっぱなしだったのでは、そんな食感のチョコパフェで
1010
したが、締めには丁度良いボリュームでした。
﹁ねー二次会どっか決めてる?﹂
﹁あー決めてないやー。どうしよっかーちょっと待ってねー﹂
締めにジョッキ生をあおった毅彦は上着からボールペンを出すと、
手元の割り箸の先端に★印を書きました。
そしてそれをその辺に転がっている割り箸と混ぜて握ると、みんな
の前に差し出しました。
﹁はい、じゃこの中で星の書いてある割り箸取った人のプランにし
よう﹂
﹁やだー王様ゲームみたぁーい﹂
本数的に見ると、私の分も入ってるんだ⋮⋮帰ろうと思っていたの
で、何だか足払いを掛けられた気分になります。
私が当たっても、﹁帰宅﹂とかとても言えない雰囲気です。
仮に言えても私の家で二次会なんて事になったら⋮⋮そうハラハラ
しながら引くと、幸運な事に割り箸は無印でした。
﹁あーあたしだ!!﹂
﹁じゃあれか、カラオケか﹂
﹁はい決まりー!!﹂
何だかんだで毅彦も楽しそうだし、良かった。
その時に丁度、
1011
﹁失礼しまーす、お会計よろしいですか﹂
と最初に来た女の子の店員さんが来たので、ここはやっぱり自分が
出すべきかな、そう思って鞄から見つかった財布から適当な現金を
出します。
﹁兄さん、お金出す前に伝票見なよ!もーやだ、この人何か絶対ズ
レてる!!﹂
そう言われて伝票を見ると、結構な料理に飲み放題であったにも関
わらず、1人当たり3000円程度なのにはちょっと驚きました。
﹁ご馳走様でーす﹂
﹁陽先生って本当に放って置けないタイプだー﹂
﹁俺は兄さんの一挙手一投足が怖くてならない﹂
そうこう言って身支度を調えるみんなと一緒にお店を出ると、私は
恒例の二次会から逃げる準備に入ります。
﹁ちょ、帰るの兄さん!!﹂
﹁⋮⋮申し訳ないけど﹂
﹁あー絶対コレは彼女いる顔だー!﹂
﹁えぇえぇうそー!!かなりショックなんですけど﹂
1012
彼女でも何でもいいから、帰りたいです。
そんな気持ちで一杯でした。
目が合った毅彦は、遅刻常習犯の生徒を見る教師の様な目付きで私
を見ると、一気に笑顔になりました。
﹁じゃーねー兄さーん。良いお年をー﹂
﹁彼女とお幸せにねー!!﹂
﹃良いお年をー!!﹄
こちらに手を振りながら歩き始めた毅彦達に軽く頭を下げ、私はそ
の後ろ姿を見送りました。
頭1つ飛び出している毅彦の黒い傘の周りを、ピンクや明るい紫色
や花柄の華やかな模様の5つの傘が囲んでいます。
1匹の大きな黒い虫に何本も花が集まっている、そんな光景が浮か
びました。
色彩も模様も統一性は無いけど何だか綺麗だな、そんな事を考えて
いると重要な事に気付きます。
⋮⋮傘を病院に忘れて来た。
仕方なく軒下を歩きながらタクシー乗り場に向かいます、が。
そこは数十人の傘の群れで長蛇の列でした。
傘をコンビニに買いに引き返すのが無難かな。
1013
暫くその列を向かいの歩道のシャッターの閉まった店の軒下で雨宿
りしながらボンヤリ眺めていると、
﹁ねぇお兄さんって、暇?﹂
と声が掛けられました。
振り向くと派手なお姉さんを2人肩を抱くように従え、ハリネズミ
みたいにツンツンした短い金髪の男性が私を見ていました。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
﹁お兄さん二枚目だね。ちょっと面子が1人欠けちゃってさ⋮良か
ったら付き合ってくれないかな?﹂
﹁⋮⋮付き合う?﹂
﹁ちょっと⋮⋮﹂
何が何だか解らない私の反応を見て、女の人の1人が怪訝な顔をし
ました。
﹁いいだろ、男ならホモじゃない限り大丈夫だろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ホモじゃない限り大丈夫、とは。
私の警戒心は益々強まりますが、好奇心がある為か断る理由も見つ
かりません。
1014
﹁ねぇあのさ、もっかい聞くけどお兄さん、暇?﹂
その金髪の男性に再度意思を尋ねられ、何故か頷いてしまった自分
がいました。
﹁よし決まり。じゃ行こうか﹂
﹁あの⋮⋮どこへ﹂
﹁え?んー何て言うか⋮⋮男なら絶対喜ぶところだよ﹂
﹁⋮⋮男なら絶対喜ぶ?﹂
﹁そう。お兄さんみたいなのいた方がいいんだよ、盛り上がるだろ
うし﹂
﹁⋮⋮盛り上がる?﹂
﹁まぁ一緒に行こ?﹂
さっきの怪訝な顔をした女の人では無い方の女の人が、ちょっと妖
艶な笑顔で私の腕をそっと取りました。
やっぱり、無理。
私の身体が硬直したのを見ると、3人ともおかしそうに笑い出しま
す。
﹁大丈夫。行けば変わるって﹂
﹁その顔で女性恐怖症とか⋮まさか童貞とか言わないよね?﹂
1015
無邪気な笑顔で言われましたが、結構な図星なので私が返答に困っ
ていると、
﹁んな訳ないだろ。逆に女に食われるタイプしょ?﹂
と、男性が笑って押すように私の背中に手を回します。
あぁ⋮⋮このまんま連れて行かれて物凄い金額請求されたり、最悪
コンクリートブロック付けられたりして海に沈められたりするんだ
ろうか。
そうなるなら、困る。
と思いましたが、珍しく好奇心が先に立ち、加わりたがっている自
分がいました。
﹁⋮⋮行き先だけ教えて下さい﹂
﹁言ったろーが、男なら絶対喜ぶ場所だってば﹂
﹁⋮⋮どんな﹂
﹁ここじゃ言えないね﹂
女の人2人が楽しそうに言いました。
自分も少し飲んできた身ですが、3人からお酒の匂いが漂ったのに
気付きました。
私の腕を掴んだお姉さんが少し下目遣いになると、伸びた上瞼に付
け睫毛が見えて更に私の緊張を煽ります。
1016
しかし何故か、私は躊躇しながらもこの3人に付いて行こうと決め
ていました。
その理由は全くを以て未だに解りません。
私は促されるままに、3人に付いて歩き始めます。
見知らぬ人間の誘いに乗った、それだけで初めて親に隠れて駄菓子
屋で買い食いした時くらいの緊張感や背徳感、そして一時的に何か
から解放された様な高揚感がありました。
コマ劇場が見えて、その街の雰囲気に何だか肩に当たる空気に質量
を感じます。
ここが歌舞伎町か。
案外平和なんだな。
そうキョロキョロしていると、女性に腕を組まれている事が気にな
らなくなっていました。
﹁ここ﹂
雨でも人通りの絶えない歓楽街を抜けて、ラブホテル街と思しき一
角の薄汚れた雑居ビルの入口で3人が立ち止まります。
﹁あ、お兄さんさ、今日ね﹂
私の腕を掴んでいる女性が、ハンドバッグから黒字に金色の文字で
何やらロゴが書かれたラミネートパウチされたカードを出しました。
﹁この名前で入って。このまんま署名すればいいから﹂
見せられたカードの裏面には
1017
Syoichi Eguchi
とタイプされた名前があり、アルファベットと番号が書かれていま
す。
﹁⋮⋮えぐちしょういち﹂
﹁俺の同僚。今日来る筈だったんだけどねー⋮ここってパートナー
いないと入れないからさ﹂
パートナー。
私は隣の女性を改めて見ました。
手入れの行き届いた綺麗なストレートの明るい色の髪に、さっき一
緒にいたスタッフさんくらいしっかりメイクをした細身の女性です。
﹁⋮⋮何のパートナー?﹂
﹁いいから﹂
﹁あの、名前⋮﹂
﹁私の事はヒカルって呼んでくれればいいから、ショウイチさん﹂
﹁⋮⋮ヒカルさん﹂
﹁よく出来ました﹂
狭い階段を上ると、何の変哲も無い薄灰色で塗料が所々禿げたドア
に小さなドアプレートが掛かっていて、黒字に金文字のカードと同
じ配色で
1018
﹃Brilliant Cat
と書かれていました。
﹄
金髪の男性と女性がサッサと慣れた様子で先にドアを開けて入って
行きます。
ドアの向こう側は黒いレースカーテンで見えませんでしたが、室内
の何だか不思議な匂いが一瞬だけフワッと漂ってドアは閉じられま
す。
﹁⋮⋮⋮ここは﹂
まだ躊躇の消えない私がそう呟くと、組んでいた腕が解かれ、首筋
に指が這わされました。
﹁ねぇ、キスしよ﹂
﹁⋮⋮キス﹂
﹁ここが何か解らなくても、キスは解るでしょー?﹂
解りますが、室内に入る前にキスをする。
疎い私でも、何だかこれから大変な事になってしまう気がしました
が、やはりどこかで好奇心が勝っています。
そうモヤモヤしていると首筋に置かれた手に力が加わり、私の顔の
向きをヒカルさんに向けようとしているのが解りました。
﹁ふふ、何か可愛いなぁ﹂
1019
﹁⋮⋮可愛い?﹂
﹁お兄さんって、慣れない悪い事する男の子みたいで可愛い﹂
もう30過ぎているのに男の子みたいで可愛い、か。
何だか悔しい様なむず痒い気持ちになりますが、そう言うヒカルさ
んは幾つなんだろう。
女性に年齢は聞いてはいけないと言うし⋮⋮。
撫でる様な動きで首筋の手が後頭部に来て、反対側の手も背中に這
う様に回されたのを感じた瞬間、ヒカルさんの顔が近付いて来て私
の口元に柔らかい唇の感触がしました。
蜜柑の果肉の詰まった袋の背中部分を押し付けた様な感触に焦燥と
言うか戸惑いを覚えますが、初対面の女性とのキスに思わず興奮し
てしまった自分がいました。
キスしたの、何年ぶりだろう。
過去に衝撃的だったグロスのベタッとした粘っこさも無いその少し
渇いた唇を吸い返すと、ヒカルさんは私の上唇と下唇を1回ずつ甘
噛みして押し開け、そっと舌を滑り込ませて来ます。
誰かと口腔内の粘膜を擦り合う様にくっつける、その行為だけでこ
んなにドキドキする物かと今更思いました。
いきなりされるでもなく、無理矢理に求められるでもないキスって
こんなに⋮⋮。
﹁キス上手だね﹂
﹁⋮⋮キス上手?﹂
1020
﹁作戦?奥手ぶってない?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁そうかなぁ、本当のところの実績は?﹂
﹁サクランボの蔕を結べるくらいです﹂
﹁あははは、それ根拠あるの?﹂
サクランボの蔕を結ぶのとキスでは舌の動きが全然違う気がしてい
たのですが、やっぱり根拠ないんだ。
そう思うと同時に、ふと気付いてしまった事がありました。
扉の向こうの世界が全く解らない初対面の私に、雑居ビルの通路で
こんなに扇情的なキスをする理由です。
その先に待ち受けている物を考えると、久々に高ぶっていた感情が
収まって行くのを感じました。
﹁もう⋮⋮どうしたの?﹂
﹁あの、この先って﹂
私は指差したドアを開けた先と言う意味で言ったのですが、ヒカル
さんは私の目を見て、また妖艶に微笑みます。
﹁今の続きを目一杯、楽しみましょ﹂
﹁⋮⋮今の続き﹂
﹁セックス、嫌いなの?﹂
1021
そんな訳ないよね、そう言いたげな含み笑いに何と返せばいいのか
悩みました。
セックスが嫌い⋮⋮なのではありません。
でもその前に、私が女性と深い関係になれない理由を言えない自分
がいました。
﹁まぁ⋮これからする事は確かに、最初は恥ずかしいかもね﹂
﹁⋮⋮これからする事?﹂
﹁そう、みんなの前でセックスするって事が﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁あ、もう言っちゃうね。ここね、会員制のハプニングバーなの﹂
﹁ハプニング⋮バー⋮﹂
さっきまで毅彦達といたのは、和風ダイニングバー。
同じバーでも⋮⋮?
聞いた様な聞いた事無い様な、不思議な響きの言葉でした。
﹁って言っても知らないかな?﹂
﹁行った事はありません﹂
﹁ねぇ⋮⋮本当にセックス嫌いとか同性愛者とかじゃないよね﹂
1022
﹁それは無いです﹂
﹁じゃ私に魅力が無いって事⋮かな?﹂
﹁⋮⋮それも無いです﹂
あぁ、女の人と1対1の場面でこうなるともうこの先には進めない
な。
また諦めに似た、そんな気持ちが燻り出しました。
﹁じゃあ⋮⋮ここでしてあげよっか﹂
﹁え?﹂
綺麗なサーモンピンクのマニキュアの指が私の太股の付け根辺りに
伸びてきて、私は反射的に腰を引きます。
﹁困ったなぁ、取り敢えず入ろっか﹂
ヒカルさんは心底困った笑顔で、薄灰色の塗料の禿げたドアを開け
ました。
室内の暖気に煽られた黒いレースカーテンが舞うと同時に、さっき
嗅いだ匂いが広がって思わず意識がクラッとしましたが、その一瞬
でまた腕をギュッと掴まれ、私はドアの向こう側に引き込まれまし
た。
思ったよりずっと高い天井も壁も漆黒の室内に、微かに聴こえる弦
楽器で奏でられていると思われる不思議な旋律のBGMが流れてい
ました。
1023
スポットライトに照らされた入口に小さなカウンターがあり、そこ
には長い黒髪に青いアイシャドウに紅い唇、水着かと思われる様な
露出の高い服装をした私より少し上くらいの年齢と思われる女性が
無表情で座っていました。
風俗とかそう言ったところに行った経験の無い私でも、玄人ってこ
ういう女性を言うんだろうなと何となく勝手に思いました。
﹁会員証と御記名お願いします﹂
低い声でそう促されると、ヒカルさんがサッと筆記体で記名して会
員証を出します。
私も先程の渡された会員証を出して同じ様にアルファベットで記名
をしようとしましたが、ついYoichiroと綴ってしまい焦り
ました。
ヒカルさんがブッと吹き出し、私からボールペンを引ったくるとそ
のYの前にSを加えて、私の丸い文字を真似た様な筆跡でEguc
hiと続けます。
﹁ごゆっくりどうぞ﹂
受付の女性が私達の様子に少し笑い、私達をカウンター右の﹃GU
EST ROOM﹄と書かれた扉へと私達を促します。
入口の塗料の禿げたドアとは打って変わって、壁と同じく黒に金色
の瀟洒な薔薇模様がドアを囲む様に彫ってありました。
入るとそこは6畳程の部屋で、やはり真っ黒な壁紙に小さな白い百
合のシャンデリアが淡いオレンジ色の光を放っています。
そして鼠色の普通のロッカーが並んでいて、プールなんかと一緒で
鍵が付いているのが空いているロッカーなんだろう、そう思って私
1024
は手近なところを開けてコートを掛けて、隣にいるヒカルさんを見
て息を飲みました。
ヒカルさんは私なんかいないかの様に服を脱ぎ始め、下着姿でロッ
カーの扉の内側の鏡を覗き込んで化粧を軽く直し始めます。
﹁ん?どうしたの?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁脱がないの?やっぱ抵抗あるかな﹂
﹁あの⋮⋮﹂
﹁ここね、男女兼用だから気にしないで。どうせあっちでみんな裸
になるんだから﹂
﹁⋮⋮どうしても、ですか﹂
﹁はい?﹂
ヒラヒラしたレースが裾まで隙間無く沢山付いているコルセットの
様な胸を強調した白い下着︵後にビスチェと言うものであると知り
ます︶に、黒いガーターベルト。
そんな姿の女性をこんなに間近で見た事が無かった私は、先程のキ
ス以上にどうして良いのか解らない躊躇の裏側にもの凄い劣情を感
じました。
余りに性的な意味での異性と縁が無さ過ぎたのか、下着姿の女の人
を見てこういう気持ちになるのは当たり前だと言う事すら忘れてい
たのだと思います。
1025
﹁上着だけでも脱いだら?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁見ているだけでもいいと思う。今日はね、年末だから特別イベン
トがあるの﹂
﹁⋮⋮イベント?﹂
﹁そう。サプライズゲストが来る﹂
﹁サプライズゲスト?﹂
﹁ふふふ、鸚鵡返しばっかしないの﹂
﹁すみません﹂
ヒカルさんは優しく笑って、謝った私の頬にそっと手を添えるとま
た唇を重ねます。
﹁ごめんね、巻き込んで﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁でも悪い様にはしないから安心して﹂
言われたままに上着を脱いでロッカーに入れると、ドアの前で私を
待っていたヒカルさんが
﹁鍵﹂
1026
と一言だけ言いました。
あぁ、そうか。
私は鍵を閉め忘れたんだ。
慌てて鍵を掛け、鍵が付いている黒いベルトを腕に巻きました。
ロッカーの番号が小さく金色で刺繍されていて、肉厚のベルトには
マジックテープが付いています。
﹁これね、マジックテープ開けてこのベルトの中に鍵を仕舞うの﹂
ヒカルさんが鍵の巻かれた細い手首を私に見せてくれます。
差し出された手首のベルトを見ているつもりで、どうしても見えて
しまう胸の谷間に視線が行ってしまう自分がいました。
﹁エッチしてる時に怪我しないように、ね﹂
﹁エッチしてる時⋮⋮﹂
﹁やっとその気になったかな。意外に結構Sでしょ?﹂
﹁⋮⋮どちらかと言えばそうなのかもしれません﹂
﹁さっきと違って⋮何か、サディスティックな顔してる﹂
どんな顔をしているんだろう。
思わず自分の顔を確かめたい気持ちに駆られますが、それ以上にヒ
カルさんの剥き出しの白い肩から盛り上がった胸元、そして黒いガ
ーターストッキングのゴム部分に少し窮屈そうに締め付けられてい
る肉付きの良い太股から目が離せなくなっていました。
1027
相当に血走った眼をしていたのでしょう、苦笑して歩み寄って来た
彼女は私の腰に両手を回して、身体を密着させて来ます。
もう自分の中では女性に対する警戒や緊張より、性欲の方が首を擡
げているのが解りました。
こんな時はどうすれば一番良いのか答えの出ないもどかしさや羞恥
心に逃げつつも、内心ではヒカルさんを押し倒してその先に行きた
い気持ちが出口を探して暴れ回ります。
﹁まだ緊張してるの﹂
﹁⋮⋮はい﹂
密着により、私の身体でヒカルさんの胸が押し潰されているのが見
えました。
服が邪魔だ、そう思ってもワイシャツを脱ぐ勇気はありません。
ロッカーの中に何も着替えが無かったのを見ると、女性も男性も下
着姿でここを出ているんだろうか。
そう思うと益々、羞恥心と言うか惨めさへの恐怖と性欲の間で混乱
しました。
﹁ちょっとだけ触ってみる?﹂
﹁⋮⋮何をですか﹂
﹁逆に何を触りたい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1028
﹁おっぱい、かな﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁ダメなら言わない﹂
そう言われて、私は反射的に鎖骨まで盛り上がっている膨らみに手
を伸ばします。
はちきれそうなのに柔らかい。
初めて触るそんな状態の胸の感触に驚きつつも、ピッチリとヒカル
さんの身体に密着している下着と肌の隙間に無意識に指を入れてい
た私の手首がギュッと掴まれました。
﹁はい、ここまで。続きは﹂
そう言って私から手も身体も離すと、こちらを振り返りながらドア
を開けます。
行くな、ましてや人の目がある中で最後までするなんて出来る訳な
い。
そんな声が私の中からではなく背後から聞こえた様な錯覚を覚えま
したが、私はヒカルさんの姿が見えなくなる焦りに似た感覚に突き
動かされ、ドアの外に出ました。
短く狭い廊下の先に、赤い紐で出来た暖簾みたいなカーテンが見え
ます。
﹁まぁ私に任せて。そのカッコでも大丈夫な様に何とかするから﹂
前を歩くヒカルさんの、盛り上がる左右対称の肩甲骨、キャラメル
1029
色のストレートの髪の毛から見える首筋、廊下の壁を撫でる様に滑
る華奢な手。
そんなヒカルさんを凝視している間、周りの音が一切聞こえません
でした。
ヒカルさんが振り返り私の顔を見て少し驚いた顔をしましたが、す
ぐにまた獲物を見るような笑顔に戻ります。
細い指が私の手に恋人の様に絡められ、私も思わず握り返しました。
赤い紐状のカーテンが纏わり付くのを払う視界に、肌色の人間が沢
山見えます。
肌色の人間と認識してしまったのですが、全裸の人間が性別を問わ
ず共にいる光景を捉えるのに、私の脳が追いつかなかっただけかも
しれません。
﹁おい遅ぇよ!!フケたのかと思ったぞ﹂
聞いた声がして振り向くと、ツンツンの金髪の男性が全裸で、セー
ラー服を着た先程の女性の肩を抱いて赤いソファーに脚を組んでい
ました。
﹁ごめんねぇ、このお兄さんなかなかでさぁ﹂
ヒカルさんが笑いながら、2人の方に向かいます。
﹁なかなかって何?﹂
﹁すごいの、このお兄さん。ね?﹂
﹁へぇ、どうなるかと思ってたけど良かったじゃん。で、何でお兄
1030
さんだけその服装なの﹂
﹁私が頼んだの、スーツ姿でされたくなったから﹂
⋮⋮そうだっけ?
緊張と興奮の入り混じった頭で考えましたが、断片的な記憶との辻
褄が合いません。
今思えば、ヒカルさんが最大限に私を庇ってくれたんだと思います。
黒い室内に灰色の大理石模様のローテーブル、そしてそれを囲む様
に赤いソファーが置かれていて、数人の男女がそこで談笑していま
した。
何だかホームパーティーの様な和やかさですが、ヒカルさんみたい
な下着姿だったりセーラー服やナース服の女性以外は全員が一糸纏
わぬ姿でした。
お風呂以外で服を着ているのが当たり前だと言う認識は、ここでは
異端なんだ。
ワイシャツにネクタイを締めている私を不思議そうに見てくる視線
と、何度も目が合いました。
﹁俺もう2回ヤッちゃったぜ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ヒカルは更衣室でしちゃった?﹂
﹁⋮⋮してません﹂
﹁あはは、したかったけどね、ちょっといい雰囲気だったし﹂
1031
﹁男なら如何なる時もゴム持っとけよ﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
金髪の男性に怒られ謝ると、ヒカルさんが私の首に手を回します。
﹁可愛いでしょ、この人﹂
﹁うん、外見は認めるわ﹂
金髪の男性に肩を抱かれている女性が私と目を合わさずに言いまし
た。
もしヒカルさんで無く、この人とパートナーとなるものだったら。
その女性の目元の、化粧のパールが付いて少しずれた付け睫毛が私
の中で何かドロドロした物を呼び覚ましました。
﹁まぁヒカルは⋮江口の時より嬉しそうだな﹂
﹁あっはは、んな事ないって。この人がショウちゃん本人だと思っ
てるから﹂
そっか、今の私は永山陽一郎じゃないんだ。
えぐちしょういち、更にフロントでの名前はSYoichiro
Eguchiな訳で⋮⋮毅彦とか武志だったら、書き間違えを取り
繕えなかったかもしれません。
今更ながらヒカルさんの俊敏さに感謝しました。
1032
﹁ねぇ、喉渇いてない?﹂
テーブルの下に屈んでいたヒカルさんが瓶を差し出して来ました。
どこから⋮とよく見ると、テーブルの下は小さな冷蔵庫が幾つも置
かれています。
﹁⋮⋮これ、飲んでいいんですか﹂
﹁お、やっと喋ったなニセ江口﹂
﹁じゃ、上で飲もっか﹂
﹁⋮⋮上?﹂
﹁ここね、ロフトになっているの﹂
﹁⋮⋮ロフト?﹂
久々に聞く懐かしい響きでした。
高浜が高校卒業してすぐ引っ越した家に遊びに行った時に、初めて
ロフトと言うものを見ました。
当時の私は何故かロフトに執着してしまって、そこで寝る許可を高
浜から得ました。
明け方にそこから乗り出して下を眺めていると、いきなり高浜が叫
んで驚いた私が階下に頭から落ちたんだ。
その日は私の携帯の充電が無くなって、高浜の携帯を借りて泊まる
旨を電話したのですが、宿泊の許可を母親から取るのは大変だった
な。
1033
偶然そこに帰って来た父親が意外にもすぐ了解してくれて、初めて
友達の家に外泊をした日でもありました。
思えばこの年齢まで、家族旅行や病院の当直や出張以外での外泊は
高浜の家しか記憶にありません。
﹁ちょっと、どうしたの?﹂
そう言われて我に返ると、ヒカルさんが私を心配そうに覗き込んで
いました。
﹁まさか高所恐怖症とか?そんな高さはないから大丈夫だと思うけ
ど﹂
﹁⋮⋮違います、ロフトが﹂
﹁ロフトが?﹂
﹁⋮⋮何でもありません﹂
﹁ヒカル、連れてってやれよ﹂
﹁そうだね。行こう、こっちだよ﹂
手を引っ張られて立ち上がると、ソファーやテーブルのあるこの部
屋の入口の反対側にも、赤い紐状のカーテンで仕切られた空間があ
るのが見えました。
1034
﹁あ、やっとこの部屋に先があるの気付いた?﹂
﹁この奥は⋮⋮﹂
﹁そこをこれから見に行きましょうか﹂
流石の私も、その先で何があるのか察しはついていたつもりでした。
引っ張られるままに部屋の隅に行くと、ギリギリ1人が通れるくら
いの幅の狭いやはり真っ黒な階段があります。
壁と同じ色なので、言われなければ通り過ぎていたのかもしれない。
数えると段数は7段ですが、急勾配で一段一段にすごく厚みがある
ので上りにくそうな階段です。
そう考えていると、私の前にいたヒカルさんが四つん這いで上り始
めます。
お尻がほぼ全部見えるくらい面積の狭い薄紫色の下着が見える、そ
の扇情的な姿勢にまた自分を見失いそうなくらいの興奮に襲われま
す。
腰の両脇で揺れる、下着の淡いピンクの紐を解きたい気持ちを抑え
るのに一苦労でした。
女性に腕を触られるだけで焦燥感を伴う嫌悪感を催すのに、こうい
う時には触りたいと思ってしまう自分に嫌気が差します。
﹁あはは、そんな固まらなくても﹂
先に上に着いたヒカルさんが振り返り、お酒の瓶を片手に振り返り
ました。
今度は胸に目が行ってしまい、思わず俯いてしまいます。
1035
﹁早く、こっちこっち﹂
促されるままにペタペタと手を着いて上がると、後1段と言うとこ
ろでヒカルさんの顔が目の前に来ました。
ヒカルさん、胸、唇、前歯。
﹁⋮⋮っ?﹂
ヒカルさんが少し驚いているのを感じましたが、私も限界だったの
だと思います。
ヒカルさんの耳の後ろ辺りに手櫛の様に手を置いて、その顔を引き
寄せ思いきり唇を吸いました。
熱い息が私の口元にかかり、舌が私の口腔内に這入って来て、それ
に私も応える様に舌を巻き付けて絡めた辺りで、自分の手が何かに
操られる様に動き始めました。
ピアスの光る耳元にあった左手は背中に移動し、右手は上腕骨から
鎖骨、そして肩甲骨と肩関節から肩鎖関節をなぞり、肋骨の辺りま
で動きました。このまま裸にしたい気持ちと共に、或る疑問が浮上
します。
⋮⋮どうやって脱がすんだろう。
そこで思わず我に返ったのですが、ヒカルさんの潤んだ目に気押さ
れて聞けない私がいました。
﹁何でやめるの⋮?﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
1036
﹁ふふふ、変なの﹂
とりあえず階上に到着すると、そこはカウンターキッチンくらいの
空間で、弾力のある床に銀鼠色のフワフワと毛足の長い床、そして
レースの様な透かし彫りのテラスの手摺りが見えます。
もう既に先客がいて、私より少し年上くらいのカップルが座位で濃
厚に絡み合っていましたが、ヒカルさんは気にせずに手摺りに向か
いました。
私は相変わらずヒカルさんの大きなお尻や太股に目が行きましたが、
立ち上がって見えたそこからの光景に衝撃を受けました。
3m程下に見えるそこは横長の大きな部屋でした。
黒い壁に光沢のある紅い絨毯が敷かれ、そこには10組近い男女が
全裸で絡み合っています。
さっきまでは気にならなかった女の人の喘ぎ声、甘ったるいお香み
たいな匂い、そして歌舞伎町とは比べものにならない濃厚な空気。
緊張してヒカルさんの身体に夢中だった時は気がつかなかった、そ
れらを一気に五感が捉えはじめました。
テラスにもたれ掛かっているヒカルさんの背後に行くと、ヒカルさ
んはこちらを振り返らずに私の両手を取って、その剥き出しの肩や
鎖骨の辺りにに導きます。
テラスにもたれている分、押し上げられて鎖骨まで盛り上がった胸。
さっき更衣室で私の身体で正面から潰されていた時以上に、下から
持ち上げられた胸の質感を感じました。
その存在をもっと感じようと、無意識に指先に力が入ります。
1037
﹁脱がし方、解らないよね﹂
少し振り向いてそう苦笑したヒカルさんは、自分からお腹に手を回
してパチパチとホックか何かを外しました。
白いレースがいっぱい着いたその下着をポイと無造作に下に置くと、
背中に爪と同じ様なサーモンピンクの下着の跡の筋が一直線に見え
ます。
手術跡を思わせる色にまたも気が散りますが、指先にあった弾力の
ある肉感が逃げる様に無くなってしまったので、後を追うように手
をヒカルさんの身体の前に這わせて行きます。
⋮⋮あった。
両方の掌に収まった柔らかい感触に、素直にそう感じました。
胸の大きい小さいの基準はよく解りませんが、手に丁度収まる心地
良さです。
胸を触った経験なんて殆ど無いのに、無意識に人差し指と中指で乳
首を扱く様に弄るとヒカルさんの背中が反りはじめます。
﹁⋮⋮ぁ⋮っ﹂
首筋に顔を埋めると、髪から漂う香水みたいな匂いと首筋から女の
人らしい甘い匂いの2つが合わさって鼻腔に流れ込んできます。
少し荒い息遣いとしっとりと少し汗ばんで来た身体。
私も同じ様な状態なのですが、ヒカルさんのお尻が私の局部をすり
潰す様に繰り返し押し付けられ、危うく達しそうになるのを必死で
冷静になろうと堪えます。
乳首は男性器と違って性的興奮に限らず気温の影響なんかでも勃起
1038
するから、別に私に触られているから勃起している訳ではない。
だとか、
声や息遣いは凄く感じている様に見えるけど、技巧的にも経験的に
も未熟な私に優しいヒカルさんが気を遣って感じているフリをして
くれているから勘違いをしてはいけない。
そんな事を必死で考えて、自分の感情を説得し出す始末でした。
第一、この体勢。
後背位で私が挿入出来る訳がないだろう。
そこまで考えると頭の前半分が削ぎ落とされた様に急激に冷静にな
った自分がいましたが、やはり止められず、先に進みたい衝動は消
えません。
視界の端の階下に、さっきの金髪の男性が脚を開いて座っていて、
その脚にそれぞれ先程一緒にいた女性と他の女性が1人ずつ四つん
這いで跨がって男性の性器を両側から舐め回しているのが見えまし
た。
そして初老の年齢の男性が2人の女性を後ろから指で掻き混ぜる様
にしていて、女性2人の顔は見えませんが男性2人は激しく屹立し
ながらも楽しそうです。
何でああ言う風に出来ないんだろう。
理由は自分の身体にあるのは解っていますが、後一歩のところで躊
躇して性的なものを排除しよう退けよう、そう考えてしまう自分に
一番原因がある。
﹁口でして欲しい﹂
1039
たったその一言が言えない、それがあの金髪の男性と自分の大きな
差なんだろうか。
もしかしたらヒカルさんなら、そうお願いして行為に至ったとして
も、笑ったり馬鹿にしないでしてくれるのでは⋮⋮。
いやでも、逆の可能性の方が高い気がする。
受け入れて欲しいのに、拒絶される羞恥心や失望への恐怖が勝つか
ら、駄目なんだ。
どうしたら、この先に進めるんだろう。
それはヒカルさんが自分を受け入れてくれる確約が無いと無理、そ
んな結論になってしまいました。
でも事前に勇気を出して言って笑って二つ返事で、二十歳の時のあ
の結果だった訳です。
一方的に傷付いた反動で激昂してしまったあの思いをもうしたくな
いから、女の人を避けてるのかもしれない。
もうあれから10年以上も経っているのに、まだ。
でも元々女の人自体が苦手だった気もする。
﹁どうしたの!?﹂
﹁⋮⋮あの﹂
﹁真っ青じゃない!!具合悪いの!?﹂
﹁⋮⋮ちょっと違います﹂
1040
﹁そっか⋮⋮ごめんね、無理矢理付き合わせて﹂
ヒカルさんが私に向き直り、そっと抱きしめてくれました。
何でこんなにヒカルさんにばかり、気を遣わせてしまうんだろう。
もしかしたら、自分は凄い我が儘で他人の配慮が無いと生きていけ
ない厄介な人間なのではないかと思いました。
﹁ごめんなさい﹂
﹁謝る事ないでしょ?﹂
ヒカルさんは困った様に笑いました。
その笑顔に少しだけ、安心を覚えます。
さっきはあんなにセックスへの衝動が強かった癖に、こうして身体
をくっつけてるだけの優しい笑顔とか体温の方が好きな気がしまし
た。
私自身を絶対受け入れてくれないだろう、そんな駄々っ子みたいな
気持ちがあった自分が段々恥ずかしくなります。
﹁でも、気にしない方がいいんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮何をですか?﹂
﹁あのね、私もそうなんだけど、気にするとセックスって感じなく
なっちゃうから﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁男の方がそういうのよくあるって言うか強いって言うし、あんま
り気にしない方がいいと思うの﹂
1041
気遣う様な優しい口調に隠された何かを感じますが、それは私を非
難するものでは無さそうです。
寧ろ私を前に進ませてくれようとしている様な気がするのですが、
やはり何か違和感を感じます。
﹁ゆっくりすれば大丈夫。こんな人の目があったら気になっちゃう
もんね、緊張するなって方が無理だと思う﹂
﹁⋮⋮大丈夫って?﹂
何だかよく解らない私にヒカルさんは更に優しい笑顔になり、慈し
む様に私の両頬を掌で包み込みました。
﹁だから、勃起しない自分を責めないの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ね?﹂
今さっきまで痛いくらいに勃起はしていたのですが、服越しとは言
えどあれだけ密着していたのにヒカルさんに気付かれなかった。
そういう事なんだと思いました。
ヒカルさんは、何も悪くない。
そう思いましたが、納得しようとする気持ちを強い失望感が包み込
んで行きます。
悪いのは勝手に甘い期待をした、私だ。
﹁ゆっくりして行けば大丈夫じゃない?﹂
1042
﹁⋮⋮無理だと思います﹂
﹁そう思うから何事も益々無理になる﹂
﹁でも﹂
﹁ほら、またそうやってすぐ出来ない方に出来ない方に考えちゃう
でしょ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁セックスはね、相手が感じている事に快感を得る事が大事だと思
うんだ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
そうだ、そこが無かったんだ。
ヒカルさんの身体と反応に勝手に興奮して、その先に進めるかばか
り気を取られてヒカルさんにもっと感じて貰おう、その気持ちが希
薄だった。
慰められたり、諭されたりするのはこんなにも静かで惨めな気持ち
になるんだなと思いました。
今まで誰もこんな風に自分に言ってくれなかった気がします。
私を見て苛立っていた父親から﹁お前、大丈夫なのか?﹂とよく言
われた訳が解った気がする。
﹁ぬるくなっちゃったかな﹂
ヒカルさんは下から持って来て床に置いていた瓶を取りました。
1043
薄いピンク色の中身は何なんだろう。
ヒカルさんの全裸に近い姿が隣に有って、周りの喘ぎ声や喧騒に対
しても私自身が慣れたのか、落ち着いている自分を感じました。
私はヒカルさんの持っている、見慣れない瓶のラベルを見ます。
﹁⋮⋮じ⋮ま?﹂
﹁そう、ジーマ。知らない?﹂
﹁お酒ですか﹂
﹁私もここ来て初めて飲んだんだけどね﹂
そう言ってヒカルさんは手摺りに寄り掛かって腰を下ろすと、手首
のバンドから鍵を出し、器用に蓋を開けて飲みはじめます。
伸ばされた顎から首、鎖骨のラインが嚥下に合わせて上下している
のが、綺麗だなと思いました。
瓶の3分の1程飲んだ辺りで、ヒカルさんは唇を軽く指で拭うと、
私に瓶を差し出します。
﹁飲む?﹂
﹁このままですか﹂
﹁⋮⋮私が飲んだ後、嫌?﹂
﹁そうじゃなくて、その﹂
誰かが口をつけて飲んだ物を、そのまま飲む事は相手にとても悪い
事だと思いました。
1044
でも、それはさっきしたキスと言う行為と矛盾する気がする。
キスした相手ならいいんじゃないかな。
第一、勧めてくれているのは隣に座っているヒカルさん本人な訳で
すし。
﹁⋮⋮ヒカルさんがいいなら﹂
﹁まさか潔癖症?﹂
﹁⋮⋮違うと思います、ただ﹂
﹁ただ?﹂
経験が無いから、何も解らないんです。
その一言が、どうしても言えませんでした。
経験を積めなかった理由も話す事になるかもしれない、そう考える
と更に私は萎縮する自分を感じます。
セックスを純粋に楽しみに来ている、私から見ればスペシャリスト
のヒカルさんが、
こんなにどうしようも無い自分とパートナーになったのが申し訳無
く気の毒でなりませんでした。
﹁どうしたの、そんな思い詰める事ないのに﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
瓶の中身は、ほんのり甘くスッキリした味のお酒でした。
異性が自分の内面を好きになる訳がない、そう思ってずっと女性と
1045
の接触から逃げて来た私は、何から逃げていたんだろう。
誰かと深い仲になる機会が無かった訳ではありませんが、やはり二
十歳の時の私にとっては強烈な経験からの失望が消えませんでした。
現に何度か誘いを断れずに外出したり食事をしましたが、回数を重
ねる毎にその先に進むのは無理だと言う結論に至りました。
全く盛り上がらない会話の展開に、相手を怒らせるのが常でした。
でもヒカルさんは私の職業も聞かないし、何を買えだのも一切言わ
ない。
そしてこんなに不甲斐ない私を怒りも見捨てもせず、寧ろ慈しむ様
に気遣ってくれている。
女性は肩書だけで来る。
そう思っていたのに、いざ職業なんかで自分を見て来ないヒカルさ
んみたいな女の人を前にすると、やっぱり何も出来ない。
自分の自信の無さを、女の人に責任転嫁していただけだったのかも
と言う気がしてきます。
﹁ヒカルさん﹂
﹁あ、動き出したのね﹂
﹁⋮⋮あの﹂
﹁ん?﹂
ヒカルさんはからかう様な呆れた様な笑顔で、私を覗き込んで来ま
した。
会って間もなくは大抵の女の人はこういう表情をするけど、その内
1046
に苛立って来るんだ。
それに話し掛けてみたものの、考えていた事が多方面過ぎたのか、
なかなか言葉が出てきません。
ヒカルさんは何も悪くないんです、本当にごめんなさい。
そう思う気持ちと、やっぱり自分には女の人と関係を持つのは無理
なんだろうと言う諦めと、その2つを押し包もうと燻っている﹁ヒ
カルさんとなら出来るんじゃないか﹂と言う下心で混乱していたの
だと思います。
﹁ねぇ、抱っこして?﹂
﹁⋮⋮抱っこ?﹂
悶々としていた私は、生まれて初めて言われた言葉に顔を上げまし
た。
ヒカルさんはさっきとはちょっと違う、優しい笑顔でした。
1047
ターニングポイント︵後書き︶
いやはや⋮⋮
間違ってウッカリ消去しちゃったので、書き直してみたんですが⋮⋮
全然違う話になっちゃいました。
不思議。
ガッツリ間が空いてしまって申し訳ないです⋮⋮
その間にも感想頂いた方、読んでいて下さった方、本当にありがと
うございます!!
1048
続・ターニングポイント︵前書き︶
間がかなり空いてしまって
本当にすみませんでした⋮⋮
それでも読んで下さる方がいらしたら凄く嬉しいです。
1049
続・ターニングポイント
﹁そう、抱っこ﹂
そう言うとヒカルさんは立てた私の膝に座り、滑り台みたいに私の
目の前に降りて来ました。
胸が顔の前に来たので慌てた私は反射的に脚を伸ばしましたが、ま
たあの甘い匂いがフワッと近付いて来て、両肩に腕が回されます。
不思議と、余り緊張はありませんでした。
﹁こうすると落ち着かない?﹂
﹁⋮⋮落ち着く?﹂
﹁さっきまであんなに嫌がってたじゃない﹂
﹁⋮⋮嫌がっていた訳では﹂
﹁そうなの?﹂
﹁どうしていいか、解らなかっただけです﹂
﹁正直ね、何か嘘っぽいんだよね﹂
﹁⋮⋮嘘っぽい?﹂
﹁経験の無いフリして焦らしてるのかなって﹂
1050
﹁⋮⋮それは違います﹂
本当に無いんです。
そう伝わらないどころか、意図的とまで思われるのは何故なんだろ
う。
どの辺でそう思えるのか、私自身が疑問です。
﹁モテるでしょ﹂
﹁全然モテません﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
疑わしげな目線と共に喉元に手が置かれ、あっという間にネクタイ
が解かれました。
その慣れた手つきで解かれたネクタイを、私は何故か握りしめてい
ました。
ワイシャツのボタンも順々に外され、されるがままにアンダーまで
万歳の体勢で脱がされる段になって漸く、
﹁ネクタイ置いとけばいいのに﹂
と、からかう様なヒカルさんの声がしたので、手の平を開くと私の
すぐ横にネクタイが落ちた乾いた音と気配を感じます。
頭を入れる穴からヒカルさんの裸の胸や腹部が見えて、あぁもう躊
躇はシャツと一緒に脱ぎ捨てればいいんだとか、柄にも無い事を考
えたのを覚えています。
﹁や⋮⋮ちょっと綺麗な身体してるじゃない。何で隠してたの?﹂
1051
﹁⋮⋮綺麗?﹂
女性が見て良いと思う男性の身体って高浜みたいなのかと思ってた
ので、お世辞でもちょっと嬉しかったです。
﹁すごい綺麗﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
﹁うん、スベスベ。女の子みたい﹂
そういう意味か。
素直に喜んだ自分を反省していると、いきなり上半身を上腕から肋
骨まで撫でられて身体が軽く跳ねてしまった私を見て、ヒカルさん
は嬉しそうに笑いました。
﹁ふふふ、敏感なんだね﹂
﹁⋮⋮敏⋮感?﹂
﹁可愛い﹂
﹁⋮⋮あっ⋮!﹂
ヒカルさんの指先で左右同時に摘まれて間抜けな声が出てしまうと
同時に、強烈な刺激に足の指が内側に折れ曲がりました。
﹁上半身なら嫌じゃないのね?﹂
1052
﹁⋮⋮嫌?﹂
﹁こんなに感じてるなら嫌な訳ないか﹂
自分でも気付かない内に、上を向いて喘ぐと言う醜態を晒していた
私の喉仏の辺りに、ヒカルさんの唇が吸い付いてきました。
その唇は這う様に首筋から鎖骨をなぞり、散々指で弄ばれている乳
首まで来ると抓り上げられた胸の肉ごと、一気に吸い付かれます。
前歯で軽く噛まれたり、舌先で転がされたりが続いて、堪えても短
い声が出てしまう恥ずかしさに気が遠くなりそうでした。
﹁ねぇ、私も触って﹂
﹁⋮⋮触っていいですか?﹂
そう声を搾り出すと、ヒカルさんは上目遣いで頷きます。
鎖骨がくっきり浮き出していて、すごく綺麗だなと思いました。
肩甲骨から手を滑らせ、紡錘状に揺れている胸を両側から押して寄
せるとヒカルさんの息が上がって眉間に少し皺が入ります。
熱い息が胸元に掛かり、人の息が掛かる事なんて平素ありませんが、
こういう時は不愉快どころか逆にこちらまで興奮してしまうものな
んだなと思いました。
固く勃起している乳首を親指と人差し指で軽く摘んで中指で先端を
擦ってみると、ヒカルさんも苦しそうに呻きます。
﹁⋮⋮嫌ですか﹂
﹁違⋮⋮もっと﹂
ヒカルさんは起き上がるとさっきしたキスとは比べものにならない
1053
くらい激しいキスをしてきて、食道から消化器官ごとズルッと吸い
出されそうなくらいに吸っては私の口の中を舐め回して必死に舌を
絡ませる、それを繰り返しました。
そして唇を離すと私の後頭部に手を置いて、胸を私の顔に押し付け
てピッタリ密着させて来て、その男性には無い脂肪の柔らかさに顔
を埋めると、私の呼吸とヒカルさんの体温で湿った空気に顔を包ま
れます。
私の後頭部に置かれた手にも、私が無意識にヒカルさんに回した手
にも力が入って、これ以上無いくらいに身体が密着しました。
﹁ねぇ﹂
そう言うと、ヒカルさんは私の右手をそっと掴んで腰まで導くと、
﹁イカせて﹂
とだけ耳元で小さく囁いて来ます。
イカ⋮せる?
知識の上ではどこがどういう構造なのかは解りますし、若い頃はそ
ういう映像を観た事も少なからずありますが、実際にしてみろと言
われると考えてしまいます。
結構しっかりした骨盤に手を添え、下着のラインに沿って指を滑ら
せてみると熱い息が耳にかかったので、強ち間違ってないんだと安
心しました。
﹁さわってくれる?﹂
思わず触診が浮かびますが、確実に性的に達して貰うためにどう触
1054
れば⋮⋮勇気を出して薄紫色の下着の紐を解くと、ヒカルさんがま
た手を取って望む場所に導いてくれます。
この下着の紐を解くのはさっきの階段を登っている時じゃなくて、
今だったんだと思いました。
﹁ねぇ⋮お願い、イカせて﹂
陰核、クリトリスか。
ちょっと触れただけで短い切なげな声が聞こえたので、滑りを良く
しようと小陰唇の方から愛液を掬うと、ヒカルさんの腰が反りまし
た。
陰部神経終末が高密度に分布している、性感のみの器官。
どうだろう、進化して男性の亀頭になった器官と言いますが⋮⋮。
指の腹で往復する様に触れるか触れないかで擦ってみると、ヒカル
さんの身体は更に反り上がります。
さっきまであんなに落ち着いていたヒカルさんの変貌に少し驚きま
したが、性的に感じてくれる事への喜びが解放された様に沸き上が
って来るのを感じました。
﹁⋮⋮あっ⋮んぁっ⋮あっ﹂
耳元で響く途切れ途切れの喘ぎ声と、後頭部の髪を掴まれる痛みと、
痛いくらいに勃起した時に起こる大きな脈拍とで、私も相当混乱に
近い状態だったと思います。
ヒカルさんの身体がビクビクと小刻みに激しく上下するので、何度
も胸が私の顔を打ちます。
これ以上無いくらいに固くなった乳首を引き寄せる様に吸うと、
﹁いゃあぁあぁ⋮⋮ぁっ﹂
1055
と言う叫び声がして、ビックリして私が顔を上げるとヒカルさんが
倒れ込んできました。
﹁⋮⋮あの、ヒカルさん?﹂
もしかしたら、乳首は余計だったんだろうか。
いや、逆に良かったのでは。
でも最後、嫌って言ってた気がする。
そんな色々な思いが一瞬で交差しました。
﹁はぁあ⋮⋮イッちゃっ⋮たぁ﹂
﹁⋮⋮イッちゃ⋮った?﹂
今のが?今ので?
そう思ってヒカルさんを見ると、子供みたいなあどけない無防備な
表情をしていました。
何だか可愛いなと思わず抱き寄せると、
﹁⋮⋮イッた後にギュッてされるの、好き﹂
と身体をもたれて来ます。
何だかとても愛おしくて首筋にキスをしたところ、赤い跡がクッキ
リと残って焦りました。
﹁今度はお返しさせて﹂
﹁いや、いいです﹂
﹁何で即答なのよ?﹂
1056
怒らせてしまったかな。
恐る恐るヒカルさんを見ると、気怠そうな笑顔でした。
﹁もー⋮⋮じゃ見るだけ﹂
﹁いいです﹂
﹁いいもん、見ちゃうから﹂
そう言ってベルトに手を掛けて来たヒカルさんの手首を握り、後頭
部に手を添えると一気に押し倒しました。
後頭部に手を回して床とのクッションにする知恵があったのか、そ
れともただ勢いだったのかは解りません。
押し倒すと、何だか形勢逆転した様な錯覚に凄く興奮しました。
驚きつつも嫌がる素振りはなさそうなヒカルさんの様子に安心しつ
つも、何故か少しだけガッカリした自分がいました。
﹁やだ、すごい⋮⋮﹂
何がだろう。
そう思いましたが、身体の方が考えるより先に動きました。
ヒカルさんの左側に寝転んで、その細い腕を私の身体の下敷きにし
てからもう片方の腕を動かせない様に、頭を支えていた方の手でし
っかり掴みます。
体勢としては、私が腕枕をしながら両手の自由を奪っている状態に
なりました。
体重は余り掛けない様に留意しつつも、ヒカルさんの身体を好きに
出来る征服感をヒシヒシ感じつつ、乳首に舌を這わせると叫び声に
1057
近い声が響きます。
いい声だなぁ。
更に反対側の乳首を指で摘むと腰がうねる様な動きを始め、乳首だ
けでこんなに感じてくれるんだ、それだけでかなり幸せでした。
でもやっぱり、あれだけ本人も達したがってたから、クリトリスも
触らないといけないだろう。
そう思って空いている片手を、先程のですっかり陰毛がぺったりと
張り付いている陰部に指を這わせました。
﹁ぁあぁ⋮!!﹂
ヒカルさんは切ない声を出して反ったりくねったりして暴れますが、
両手の自由を私に奪われている状態から脱却出来ずに、身体を捩り
ながら額や胸に汗を光らせて喘ぎ続けています。
すごく綺麗だな、心の底からそう思いながらさっきしたのより激し
く擦り続けてみました。
﹁あっ⋮あっあっ⋮⋮あぁあッ﹂
間もなく2回目の絶頂を迎えたらしく、大きく反り返った身体から、
一気に力が抜けたのが解ります。
﹁⋮⋮もう無理⋮⋮﹂
助けを求める様に涙目のヒカルさんを見ると、私の方が歯止めが利
かなくなり、身体を起こすとグッタリしたヒカルさんの腰骨辺りを
撫でてみました。
応える様に短い喘ぎが聞こえたので、まだ大丈夫だろう。
1058
そう自分本位な欲情でヒカルさんの肩から下を覆うように上になっ
て、さっきして貰った様に首筋から乳首までを口でなぞると、頭を
ガシッと両側から抱えられました。
結構な力にビックリしましたが、頭を固定されても両腕の自由は利
くので、腰の線から太ももまでをなぞって陰部に指を滑り込ませま
す。
女性が性的興奮をした時、膣から分泌される膣分泌液とバルトリン
腺から分泌される液が分泌されて性交時の潤滑油の働きをする。
それを知っていても、こんな量を分泌するんだと少し驚きました。
過去にローションを容器ごと突っ込んだ時を思い出して、また苦し
くも愉快な不思議な気持ちになりますが、当然ヒカルさんに対して
はあの怒りに任せた残虐な気持ちは全くありませんでした。
どうしたら、もっと気持ち良くなってくれるだろう。
ただ、それだけでした。
頭を押さえられている為に見えないので手探りでしたが、大体の位
置は解ります。
触診と目的と違う指の挿入をするに当たって、セックスの際にいき
なり入れると嫌がる女性が多いと聞きましたが、ヌルヌルの小陰唇
をなぞると膣口が開いて更にねっとりとした分泌液がトロトロと零
れ落ちてきます。
すごい。
ただ、仕組みや構造を図解で知っているだけだった自分に気付かさ
れました。
さっきまでの激しい興奮は、好奇心と指先の感触で収まってしまい
ました。
1059
もう一種の職業病みたいなものなんだろうか。
それでも内診の時には触れる事の無い、膣上壁にあるスキーン腺を
探してみたくなりました。
男性の前立腺ならクルミ程の大きさがあるので触れば解りやすいそ
うですが、女性の場合は尿道の末端部分にあるとだけしかヒントは
ありません。
尿道口がこの辺りだから、きっと⋮⋮。
ヒカルさんの反応を見ながらでしたが、或る部位に達すると苦しそ
うな声になって、物凄い締め付けが来ました。
この辺なんだろうか⋮⋮そう思って軽く数回撫でると、ビックリす
る様な叫び声がして何かが迸ります。
視界の端に水しぶきが見えて、ビシャッと夏場に杓で水を撒く様な
音がしました。
﹁や、やだ、ちょっと⋮⋮﹂
当人のヒカルさんが困惑した様な顔で身体を起こしました。
﹁私、漏らした⋮?﹂
﹁違うと思います﹂
私はそう答えつつも、女性の射精と呼ばれる現象を見られてただ感
動していました。
﹁やだぁ、何か⋮⋮これが﹂
﹁潮吹き、だと思います﹂
1060
﹁ふぁあ⋮⋮何かビックリしちゃったぁ⋮⋮﹂
そう言ってヒカルさんは子供の様に抱き着いて来ます。
あんなにさっきまで姐御っぽかったヒカルさんが、涙目で私の胸に
もたれ掛かって来るのに堪らない愛おしさと達成感を覚えました。
﹁⋮⋮初めてなんですか?﹂
﹁ちょっと⋮⋮変な事聞かないで﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁まぁ潮吹いたのは、初めて﹂
﹁⋮⋮そうなんですか﹂
私も初めてです。
そう言おうと思った矢先に、
﹁ねぇ、Gスポットって奴よね?﹂
と聞かれたので、
﹁⋮⋮多分﹂
とだけ答えておきました。
実は潮吹きって、諸説あっても余り解明されていないのが現状なん
ですよね。
男性の前立腺と相同であるのが女性のスキーン腺、前立腺の役割は
女性には必要無いはずなのに、未だに残されている組織です。
1061
男性の場合、射精と言うのは二段階に別れています。
まず陰茎亀頭部への摩擦の刺激で尿道前立腺部に精液が排出される
︵emission︶を経て、中枢興奮が最大限に高まった時に外
尿道部に精液が放出される︵ejaclation︶で射精となる
とされています。
女性の場合はどうなんだろう。
毛足の長い絨毯にまだ残る水滴を見ながら、ふとそう思いました。
﹁ねぇ大丈夫?﹂
﹁⋮⋮感動しました﹂
﹁何であなたが?﹂
今考えた事を言っても喜ばない気がしましたが、ヒカルさんはあど
けない怠そうな顔のままでした。
﹁こんなに上手にGスポット責められるのに、何でセックスしない
の?実はめちゃくちゃ上手いんでしょ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何かね、女の人の中を触り慣れてるのが解る﹂
﹁まぁ⋮それは﹂
産婦人科医師ですので。
そう私が職業を告げようとした時に、
1062
﹁ねぇスワップしない?﹂
と言う声が頭の上からしました。
ヒカルさんと見上げると、全裸の若い二十代半ばの男性と少し上く
らいの女性が立っていました。
﹁今の見させて貰いましたよ﹂
﹁是非、私も吹かせて欲しいです﹂
男性も女性もにこやかに私達を見ました。
凄い会話だな。
そう思いますが、腕の中のヒカルさんを離したく無い気持ちがあっ
たのは認めます。
ヒカルさんは身体をゆっくり起こすと、そのカップルの方を向いて、
﹁いいですよ﹂
とだけ言ったので、何だか切なくなりました。
﹁じゃあ﹂
私とヒカルさんの両側に、その男性と女性がそれぞれ来て、私は慌
てて散らばっているワイシャツとかネクタイをまとめました。
﹁ねぇ何で下脱がないの?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
1063
﹁腕時計にスーツの下だけって変だよ﹂
その女の人は早くも私の腰に手を添えてゆっくり撫で回して来ます
が、申し訳無いことにさっきの感動で性的な物への興奮が醒めてし
まった私がいました。
この女の人は、どうだろう。
今度は頭を押し付けられていないので、身体を起こして見てみよう
と思いました。
ヒカルさんよりかなり小振りな胸を軽く弄ると、何だか媚びる様な
甘い声が聞こえます。
私に媚びる必要性は全く無いと思いますが、悪い気はしないもので
した。
﹁もうマンコグチョグチョだから挿れて!﹂
⋮⋮そうなんですか。
何でしょうね、女性からハッキリ言われると益々萎えました。
経験が無いのもあると思いますし、もしかしたらセックスの時の常
套句なのかもしれませんが⋮⋮。
隣を見ると、ヒカルさんは男性と俗に言うシックスナインの状態に
なっていて、それを見ていると何だか胸を抉られる様な気持ちにな
りました。
あれだけ一緒にいて最後までしなかった自分が悪いし、ヒカルさん
は私の彼女でも何でも無いのですが無性に寂しい気持ちになって来
ました。
生まれて初めてセックスを目の当たりにした衝撃も背景にあったか
もしれません。
1064
﹁あはは、大好きなんだね﹂
﹁⋮⋮大好き?﹂
﹁パートナーさんが気になるんだ﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁彼女さんなんだ﹂
﹁違います﹂
﹁うちらはSNSで知り合って来たからあの人とは初対面なんだよ
ね、ぶっちゃけ﹂
﹁SNS?﹂
﹁そうそう。今日ってさ、これからイベントあんじゃん﹂
そういえば、さっき何か聞いたな。
色々な事が短時間の内にありすぎたのか、思い出そうとすると他の
違う事まで思い出されてしまいます。
相当混乱していたんでしょうね。
﹁ねー、セックスしよーよ﹂
良く言えば積極的、そんな感じです。
でも、何で全然色っぽく無いんだろう。
ヒカルさんの反省を活かす機会なのかもしれないのに、彼女を見て
1065
も性欲が余り掻き立てられないのは何故だろう。
隣からはさっきまで聞こえていたヒカルさんの喘ぎ声が聞こえて、
目の前には自分より若い女の人が全裸で誘っている。
もしかしたら身体の自信の有無に関わらず、自分はもう普通にセッ
クス自体が出来なくなっているんじゃないだろうか。
漠然とした不安に駆られていると、
﹁もーー⋮⋮﹂
と言う声がして、背筋から肩甲骨に指が這って来ました。
﹁初めてなんでしょ?﹂
﹁はい﹂
﹁ここ来るの﹂
﹁⋮⋮それも初めてですが﹂
﹁まぁそうだよねぇ、普通に生活してたらまず有り得ないもんね、
こんなん﹂
﹁⋮⋮いや、それ以前に﹂
﹁ねーあたしも潮吹きたいんだけど?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
何故だか話は進み、膝を立てて脚を開いている彼女に私は向き直り
1066
ます。
その時、彼女の後ろの黒い壁に小さなカゴと赤い字で何か書かれた
貼紙が見えました。
そういえば、このカゴと貼紙の組み合わせは下にも幾つかあった気
がする。
ふと、下にいた金髪の男性達を見ていた時の風景を思い出しました。
貼紙には太いゴシック体で
︻スワッピングの際にパートナー以外の女性とする場合は、必ず避
妊具を使用して下さい︼
︻お互い気持ち良く、無理な交渉は止めましょう︼
とだけ書いてあり、その下のカゴには色々なサイズ別の避妊具が美
容院の飴みたいに無造作に置かれています。
注意書きの貼紙、脚を開いている全裸の女性、そしてカゴ一杯の避
妊具。
これを据え膳って言うのかな。
美容院と言えば最後に行ったのは、ハロウィンの装飾があった時だ
から⋮⋮。
﹁ねーちょっと大丈夫ー?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
いきなり鍬形虫の様に脚で挟まれて引き寄せられ、私も我に返りま
した。
肉付きの良いヒカルさんの脚と違って細くて長い脚だし、顔立ちも
決して悪く言われる事のない顔立ちだと思います。
1067
でも申し訳無いことに余り性欲が湧かない。
今まで女性に腕を掴まれるだけでも強張る程に緊張していたのから
すれば、少しは成長したのかもしれませんが⋮⋮⋮。
目の前の少し浅黒い肌の女性の身体を改めて見ました。
彼女が浅黒いのか私が案外肌が白いのか、カフェラテみたいな配色
で私に絡みつく太ももをそっと撫でて隠毛の薄いそこを見ると、ぽ
っかりと膣口が開いています。
隣でヒカルさんと局部を舐め合っているこの男性との行為の跡だ。
室内の薄暗い照明を反射する様にテラテラと光沢を持っている小陰
唇や陰核の粘膜へ、そっと指を当てると、擦りつける様に腰が上下
します。
包皮が剥けて完全に露出している陰核を中指の腹でゆっくり撫でると
﹁ちょっと、焦らさないでよー﹂
とお叱りを受けたので、気にせずさっきみたいに下から上に擦り上
げると、またあの媚びた喘ぎが聞こえました。
もしかしたら普通に感じてくれて、自然に出ている声なのかもしれ
ません。
でも何か⋮⋮そう思った時、隣からカゴに逞しい腕が伸びて来て、
迷わず白いパッケージのゴムを取ります。
⋮⋮⋮ヒカルさんと、するんだ。
間もなく、
﹁あっ⋮やだ⋮凄い大きい⋮!﹂
﹁そう?ここ好きっしょ?﹂
﹁ん⋮⋮あぁっすごくいい⋮﹂
1068
と言うやり取りが聞こえて来て、何かが吹っ切れた気がしました。
耳を塞いだところで聴覚だけは遮断出来ないので、目の前の事に集
中しよう。
愛液でベタベタになった中指をゆっくり膣内に挿入すると
﹁あん⋮⋮っ﹂
ちょっと挿入しただけで大きな喘ぎ声で反り返った彼女に、更に冷
静になった自分を感じました。
本当に気持ちいいの?
何か無理してるんじゃない?
今思えば、女性に媚びられた先にある展開への恐怖と、ヒカルさん
が自分から離れて平気で他の男とセックスしている事実を受け入れ
たくなかった気持ちを理性で抑える事に一杯一杯だったんだと思い
ます。
腰のうねりに膣壁を傷つけない様に気をつけながら、つい習慣で奥
まで指を入れた瞬間、頭が一気に切り替わりました。
軽く下腹部を抑えて、グッと更に奥まで指を差し込みます。
﹁ちょっと痛い、痛いって!!﹂
﹁すぐ終わります﹂
﹁ちょっともう止めてってば!!﹂
﹁すみませんでした﹂
1069
﹁何なの!?最近セックスするだけでも超痛い時あるし、奥とか勘
弁して欲しいんだけど!!﹂
それを聞いて、ほぼ確信が芽生えました。
﹁生理痛がかなり酷いとかありますか?生理が終わってからも続く
とか﹂
﹁うん、まぁ。だからピルが悪いのかなーってピル止めたけど。何
で?﹂
﹁それは逆効果。生理が来ない様に間を空けずに飲み続けた方が良
かったかもしれません。
タンポンや夜用ナプキンでも収まらないくらい出血したりしますよ
ね﹂
﹁うん、去年くらいから⋮⋮ねぇ、何?そういうのが好きな人?﹂
﹁好き⋮な訳ではないですが﹂
﹁何?何なの?﹂
子宮の裏側の、直腸との隙間にあるダグラス窩に硬結がある。
硬結と言うのは柔軟な組織が鬱血や何かの炎症で強い結合の組織が
増殖して出来たものです。
文系の人だと違う解説をするかもしれませんが、医学に於ける硬結
とはシコリの事になります。
﹁ねぇ、何なのよ!?﹂
1070
﹁⋮⋮いつ頃から、痛みの異常に気付きました?﹂
﹁⋮⋮異常?﹂
苛立った表情が一変して、意表を突かれた顔から不安の色が感じら
れました。
多分、子宮内膜症だ。
こんな所でまさか、患者さんを見つけるなんて思いもしませんでし
た。
患者さんの方から来るもの、そんな感覚があった自分に気付きます。
﹁まだ断定は出来ませんが﹂
﹁そんな何かヤバいの!?﹂
隣から男性の声が聞こえます。
振り返るまでもなく、その声からは全く女性への心配が感じられま
せんでした。
この反応は、付き添いの男性が彼女に性病の陽性反応があった時の
反応と一緒だ。
SNSで出会ったばかりとは聞いていましたが、少なくとも1度は
関係を持った人にあんまりなんじゃないだろうか。
思わず、男性に対して意地悪な気持ちになってきた自分がいました。
﹁⋮⋮断定は出来ませんよ﹂
﹁何だよ、エイズとかじゃないだろうな!?﹂
﹁ちょ⋮⋮﹂
1071
ヒカルさんが慌てて周りを見ながら大声で叫んだ男性を制します。
⋮⋮しまった。
周りにいた2組のカップルが、ギョッとした面持ちでこちらを見て
いました。
かと言って、子宮内膜症以外に何か感染症が全く無いと断定出来な
いし⋮⋮⋮。
﹁ねぇ、正直に言ってよ!!怖いんだけど!!﹂
﹁ハッキリ言って。これから開いてる病院に行った方がいいの?﹂
目の前の女の人とヒカルさんに両側から同時に怒られて、女性に怒
鳴られると思考が停止しかけると言う私の悪い癖が出ますが、必死
で言葉を探しました。
﹁だから今の段階での断定は出来ません。触って子宮内膜症の兆候
があっただけです﹂
﹁子宮⋮内膜症?﹂
﹁おい、それ何なんだよ!﹂
ここが病院なら、すぐ検査出来るのに⋮⋮。
そうか、これから病院に戻って検査すればいいんじゃないか。
保倉先生もいるし、私が戻れば問題無い。
本来なら家族のいる保倉先生で無く、恋人も予定も何も無い私が仕
事をするべきなんだ。
1072
急激に女の人にウツツを抜かしていた自分が恥ずかしくなって、私
は無造作に纏めた服を取りました。
私がシャツを着て、ワイシャツのボタンを掛けはじめると、ヒカル
さんが私をジッと見て来ました。
﹁⋮⋮お医者さんだったの?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁個人病院なのね﹂
﹁何で解ったんですか?﹂
﹁病気が解った途端、こんな真夜中に慌てて服を着たから﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁自分の都合で病院の都合を動かせるのかなぁ、と﹂
﹁⋮⋮いや、あの﹂
そこまででは。
そう言いかけるとヒカルさんは更に私に問い掛けて来ます。
﹁でもね、何て言うつもり?﹂
﹁何がですか?﹂
締めかけたネクタイを掴まれ、ヒカルさんが私にグッと近付いて来
ました。
1073
﹁病院は婦人科とか産婦人科ってとこ?﹂
﹁そうです、だから﹂
﹁あなた1人だけの病院じゃないでしょ?﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
﹁他の医者や看護士に、彼女の事を何て言うの﹂
﹁検査が必要な人がいるから、すぐに検査の準備を﹂
﹁そうじゃない。あなたの事だから名前も聞かずに連れて行くでし
ょ?
彼女でもない女の人のその⋮子宮内、膜、症だっけ?それがどうい
うシチュエーションで解ったって説明する訳?﹂
﹁それは触し⋮⋮﹂
漸く、ヒカルさんの言う意味が解りました。
きっと好奇の目に晒されるだろうとは思います。
でも、目の前にかなり症状がかなり進んだ人がいるのに⋮⋮。
﹁ここで知り合ったって言うの?下手したら一斉摘発受けるわよ﹂
﹁一斉⋮摘発﹂
﹁だからお互いのプライバシーを聞かないのが、暗黙のルールなの。
さっき職業聞いちゃった私が言うのも何だけど﹂
1074
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ここはね、みんな写真付きの身分証のコピーでメンバーになって
るの。貴方のウッカリが原因で警察が動いたら、全てそのコピーは
警察に渡る可能性があるの﹂
﹁⋮⋮それは﹂
﹁貴方は身分証のリスクは無いでしょうけど、ここに来て公然猥褻
に加担した事実は変わらないわよ﹂
﹁⋮⋮公然、猥褻﹂
そうか、犯罪なのか。
犯罪と聞いてパッと浮かぶのは⋮殺人、傷害、窃盗、詐欺、横領⋮
⋮職業柄、犯罪より訴訟と言う言葉の方が身近な危機感を感じます。
﹁私達の楽しみの場を奪わない言い訳が出来る自信はあるの?会っ
たばかりの女の子宮事情をどうやってどこで解った?って聞かれて、
貴方は何て言うの﹂
﹁ちょ、待ってよ、それってどんな症状なの?死ぬとかある?﹂
またも同時に二方向から強く言われて混乱しますが、まずはヒカル
さんに
﹁上手く言える自信は全くありませんが、放っておく訳には行きま
せん﹂
と言ってすぐ、怯えきった彼女には
1075
﹁死ぬ事はありません。でもこのままだと痛みは酷くなるし卵巣に
異変が起きて不妊症になる可能性が高くなります﹂
とだけ伝えました。
﹁不妊症だけならラッキーじゃね?﹂
と、男性が揶揄する様に言って来たので、思わず睨むと
﹁うわ怖ッ。だって俺に何も責任無いでしょ?﹂
と睨み返されました。
﹁責任はありませんが⋮⋮心配はしないのですか?﹂
﹁だから言ったじゃんよ、俺はコイツと初対面なの!本名も知らな
いし﹂
﹁⋮⋮私も初対面ですが﹂
﹁っもーどーしたらいいかな、こういう奴﹂
﹁まぁ、とにかく﹂
ヒカルさんが心底ウザったそうに言いました。
髪の毛を掻き上げながら下目遣いのその迫力に、私も含めた3人が
気圧される様に静かになりました。
﹁貴女は今日は帰って早い内に病院に行く、貴方は付き添いたきゃ
1076
付き添えばいい⋮⋮そして﹂
最後に私に向き直ると、
﹁もう下に戻りましょ﹂
と少し笑顔で言いました。
﹁あの⋮最後に約束して下さい﹂
﹁えぇ、何が?﹂
﹁必ず、病院に行って下さい﹂
﹁うん⋮⋮あんたの病院って近く?﹂
﹁はい、あの青梅街道の﹂
﹁あのねぇ、わざわざこの人の病院行く理由ある?﹂
病院の位置を言いかけた私を遮って、ヒカルさんが涙目の女性にズ
ィッと乗り出しました。
流石に涙目とは言えど、イラッとした顔で彼女の方も
﹁何でよ、だってこの人が病院来いって言ったんだけど?﹂
﹁来い、じゃないでしょ。行けっつったのよ﹂
全裸の女性2人がお互いを威圧する様に見合っている光景なんて初
めて見ましたが、なかなか凄い迫力でした。
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何でヒカルさんがこんなにも私を空振りさせるのか、サッパリ解り
ません。
でもヒカルさんの目はふざけている様には見えませんでした。
﹁やっべ、俺帰っていい?﹂
﹁勝手に帰れば?あたしも帰るし﹂
﹁あんたね、彼女の事思えばタクシー代くらい渡すべきじゃない?﹂
﹁知らねぇし!﹂
そう言い捨て、男性はスタスタと階段に向かいます。
段差が大きいのでどうしても滑稽な降り方になるのは仕方ないとは
言え、何だか情けない姿だなと感じました。
﹁良かったじゃない、薄情なの帰ったし病気見つけて貰って﹂
﹁ねぇ、治るんだよね?﹂
﹁今の段階なら手術までしなくても、薬で何とかなると思うので必
ず早く﹂
﹁病院に行けばいいんだね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁何科行けばいい?﹂
﹁解らないなら精神科でも行けば?﹂
1078
ヒカルさんの毒づきにも屈せず、彼女は首を傾げながら私を見上げ
て来ます。
﹁婦人科です﹂
﹁お兄さんに診て貰いたいんだけど﹂
﹁私に?﹂
﹁だって見つけた人がいいし﹂
﹁予約取って頂いても空いた診察室から順にお呼びするので、私に
当たるかどうかの確約は﹂
﹁何を真面目に答えてるの?もう行きましょ﹂
﹁解った解った、もう邪魔しないし﹂
ヒカルさんが私を引っ張り、その女性も私をヒカルさんに押し付け
る様に押し出しました。
﹁じゃあ⋮⋮﹂
﹁うん、ありがと。じゃあね﹂
⋮⋮随分、反応が軽いけど本当に病院行ってくれるのかな。
そう不安になり振り返ると、彼女は背を向けたままです。
その背中に、病院に行け!絶対行け!!と念を送るように祈って私
はヒカルさんと階下に向かいました。
1079
﹁はぁ⋮⋮馬鹿馬鹿しい﹂
﹁何が、ですか?﹂
後ろ向きに降りる私に吐き捨てる様に言うヒカルさんが、疑問でし
た。
﹁何かさ?彼女の病気は気の毒だと思うけど﹂
﹁⋮⋮本当にちゃんと行きますかね﹂
﹁ま、貴方ががあれだけ言って行かなきゃ知った事じゃないでしょ﹂
﹁やっぱりもう1回﹂
﹁やめときなってば⋮⋮ヨウイチロウさん﹂
﹁何で名前を﹂
﹁自分で書いてたじゃないの﹂
﹁⋮⋮そうでしたね﹂
すっかり忘れていました。
そして署名をした時の私も、自分は﹁えぐちしょういち﹂である事
を忘れていました。
そこにヒカルさんがSを付けて、SYouichiroにしてくれ
たんだっけ。
1080
﹁はい、新しいショックが来たから彼女の事は忘れたかな﹂
﹁いや⋮忘れた訳では﹂
﹁もう見ててハラハラする、貴方みたいな人は﹂
毅彦みたいな事言うんだな。
そう思いましたが、言われる内容は一緒でも表情が全然違いました。
﹁貴方はきっとね、お医者さんってだけで損をする人よ﹂
﹁⋮⋮損?﹂
﹁言い方悪いけど、色んな厄介な事に巻き込まれたりする気がする﹂
﹁⋮⋮厄介なの?﹂
﹁そう、ちゃんとはねつけられる?さっきの彼女みたいなのが来て
も﹂
﹁さっきの彼女⋮⋮でもあれは﹂
﹁貴方に好意があったのは、見抜いてた?﹂
﹁こうい?﹂
ヒカルさんは私に苛立っているんだろうか。
でも、小心者の私が落ち着いていられるのが意外でした。
﹁下心の事よ。医者って聞いた瞬間、態度が変わったでしょ﹂
1081
﹁それはやっぱり不安だったからなのでは﹂
﹁それもあるけど、ああ言う女って凄いイライラする﹂
﹁⋮⋮ああ言う女?﹂
﹁まぁ私がどうこう言うのも、変なんだけど。ごめんね、行こう﹂
そう言うとヒカルさんは私の手を取って、先程のソファーに向かい
ました。
﹁おーー何だよ、お前ら語り合ってただけかよ﹂
覗き窓と言うには大きすぎる窓の前の赤いソファーに、金髪の男性
が相変わらず全裸で脚を組んで私達を出迎えました。
隣にはパートナーの女性が真っ赤な顔で寄り掛かり、寝息を立てて
います。
﹁ちゃんとする事したわよ、ね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お兄さんさー、何で脱がないの?どんだけ恥ずかしがりだよ。モ
ノが小さいとかなら気にすんな、全裸気持ちいいよ?﹂
そう冗談めかして笑われても、全く笑えない自分がいました。
何だか、そう出来ない事に生物的にオスとしての負けを感じた気が
します。
1082
﹁そんな事ない、あんたの毛深い身体と違って綺麗な身体してたも
ん﹂
﹁あ、そうなの?﹂
﹁しかもね、ショウちゃんって私の事を中でイカない女って言って
たけど、潮まで吹かされちゃったもん﹂
そこまで赤裸々に言わなくても⋮⋮そんな気持ちと、ヒカルさんに
はエグチショウイチさんと言う相手がいる事実が、不意に実感とし
て湧いてきました。
﹁マジかよ!?指長いっていいなー、俺が長いのは脚とチンコだけ
だもん﹂
﹁はいはい。ねぇ、何飲む⋮⋮どうしたの?﹂
﹁⋮⋮何でも、ないです﹂
﹁私⋮何か嫌な事、言っちゃった?﹂
﹁違います﹂
先程ヒカルさんが怒った感じと似ている様で、ベクトルは違う気も
するやる瀬ない気持ちが沸き上がって来ました。
もしかしたら、エグチショウイチさんはヒカルさんを大事にしてな
いのかもしれない。
だからこんな他の男性とヒカルさんが関係を持っても平気なんだろ
1083
う。
自分なら、耐えられない気がする。
﹁ヒカル、程々にしろよ﹂
﹁何がよ、カメちゃん﹂
﹁カメちゃんじゃねぇっつの!漢字違いだろが!!﹂
﹁程々とか言うからでしょ﹂
﹁お前ねー⋮⋮﹂
私を挟んで交わされる会話すら、遠く感じて来ました。
ヒカルさんが俗に言うフリーだとしても、私がどうこう出来た自信
はありません。
それをエグチショウイチさんの所為にしようとしている自分は、凄
く卑怯な人間だと感じました。
自分は女の人と肉体的にも精神的にも深い仲になる事はない。
そんな確信の様な自戒の様な言葉が、脳内に刻まれて行きます。
その時、派手な音楽が後頭部にぶつかる様に後ろの窓から流れて来
て、私の身体が跳ね上がりました。
﹁あ、始まった?﹂
寝ていた女性も起き上がり、男性も首を後ろに向けます。
1084
﹁俺ら向こうで見てくる﹂
そう言って男性は、ビール缶片手に起きぬけの女性と連れだって紐
状のカーテンの向こうに行きました。
﹁私達はどうする?﹂
どんどん人が奥の部屋に流れて行き、ソファーのある部屋は閑散と
し始めます。
何があるのか解らないのに、わざわざ移動するのも⋮と思ったので
﹁何が始まるんですか?﹂
と聞くと、
﹁うーん⋮⋮サプライズショーだからねー⋮⋮﹂
とだけヒカルさんが答えました。
﹁⋮⋮さっき言ってた﹂
﹁そうそう、ゲストが毎回面白いのよね﹂
﹁⋮⋮ゲスト?﹂
そう私が聞き返した時に、最初入る際に受付にいた女性が、音量が
かなり控え目なマイクで司会らしき事を始めます。
女性にスポットライトが当たると、今まで黒一色だった背後に暗幕
で包まれた何かが置いてあるのが見えます。
1085
私はソファーに後ろ向きに座り、これから何が始まるのか、怖いも
の見たさで好奇心が抑え切れませんでした。
1人ワクワクしていると、ガラスの張ってないその窓枠に置いてい
た私の手に、そっと柔らかい手が重ねられます。
チラリと横を見ると、ここに入る直前の時みたいな妖艶な笑顔のヒ
カルさんが私を見ていました。
﹁ワンちゃんみたい﹂
﹁ワンちゃん⋮⋮﹂
一瞬、野球監督が浮かびますが、その意図が読めずにいると、
﹁よく車の窓から乗り出してるでしょ﹂
と、優しくも色っぽい笑顔で続けられます。
叱られた男の子とか可愛いとか車から乗り出す犬とか⋮⋮。
それらから考えると、自分はヒカルさんの中では男性として対象外。
鈍い私でも、それはハッキリ感じました。
やっぱりヒカルさんには、えぐちしょういちさんが一番か。
先程の私の対応を考えれば仕方のない事だと納得が出来ました。
右手に感じるヒカルさんの体温を考えないように、私は目の前の事
に集中しよう。
先程の黒づくめの女性が、受付での感じからは想像出来ない様なテ
ンションで、ほぼ何を言っているのか聞き取れないくらい派手なマ
イクパフォーマンスが大音量の音楽を掻き消す様に響き渡ります。
一息に喋り終えた女性は、後ろの暗幕の左半分をバサッと翻す様に
1086
取り払いました。
現れたのは、上半身裸の色黒の男性でした。
うずくまっていた体格の良い男性が立ち上がると、集まっているギ
ャラリーから大きな驚きと歓声が上がります。
黒いパンツ一枚の格好からするとレスラーの様ですが、やたら全身
に光沢があって、ライトの光を全身で反射していました。
﹁やっ⋮⋮加藤鳶じゃない﹂
﹁⋮⋮加藤鳶?﹂
﹁知らないの?超有名AV男優よ?﹂
AV男優どころか、女優すら名前の挙がらない私ですが⋮⋮。
そうか、女性でも知ってる有名なAV男優なんだ。
また受付の女性が何か叫んでもう右半分の暗幕を取り去ると、
線分の始点と終点に、それぞれ手枷足枷のついた2m程の垂直な壁
の様なX字が2つ並んで出てきます。
XX。
性染色体を彷彿させますね。
ヒカルさんに加藤鳶と呼ばれたその男性は、マイク片手の女性の背
後にピッタリとくっつくと、日に焼けた光沢のある両腕は女性の脇
腹に回し、女性の胸を支える様にグッと鷲掴みに持ち上げました。
何の前置きも無いその行為に怯む事なく、女性は片手を後ろ手にし
て男性の股間を弄り始めます。
黒地の水着みたいにピッタリしたその生地と光の反射で、男性の方
1087
はあっという間に猛々しく勃起したのが遠目に判りました。
あの女性が拘束されるんだろうか。
誰が司会を⋮⋮いや、拘束されながら司会をするんだろうか。
想像力が乏しい私は色々考えましたが、女性は獣を懐柔する様に男
性を引き離して、X字の拘束する壁の後ろから懐かしい物を取り出
します。
先程から露呈する中で、初めて私が見て何だか判る物でした。
﹁この中に本日の使用ロッカーの番号を全て入れてある!!当たっ
た人は前に来ること!!﹂
それは子供の頃に誕生会等でよく使われる、ビンゴゲームの機械で
した。
最後に見たのは研修医時代、医局の納涼会の時⋮⋮⋮。
﹁男が当たっても女の子が当たっても一切拒否権無し!問答無用ス
タート!!﹂
そう女性が叫ぶと、スイッチが押されて青いガムボールの様な玉が
出てきます。
﹁18番!﹂
﹁ギャー!!﹂
﹁18番!はーい当たったのはどなた!?﹂
そう女性が叫ぶと、ギャーと言う声が聞こえた辺りから、細身の女
性が苦笑いしながら立ち上がりました。
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﹁はい一言!﹂
﹁び、びん⋮ご!!﹂
﹁じゃ前にどうぞ!!﹂
その18番のロッカーを使ったばかりに、綺麗に巻かれた栗色の髪
の女性は促されるままに前に出されます。
みんな全裸だからか、スポットライトに照らされたその細い裸身も
さほど嫌らしさはありません。
﹁あーあ、かわいそ﹂
隣から呆れた様なヒカルさんの声がして、私に重ねられた手の存在
を再び意識してしまいます。
﹁⋮⋮あの女の人はどうなるんですか?﹂
﹁え?バッテンのあの台に括り付けられるんでしょ﹂
﹁えぇー⋮?﹂
その先はどうなるんだろう。
想像出来る様で、いまいちピンと来ません。
何やら18番の女性がボソボソ何か言うと、最前列の方から笑いが
起きました。
司会の女性と加藤鳶がその女性に近付き、細い手首を両側から掴む
とX字の上に付いている手枷に入れました。
1089
鎖の先のその手枷は、腕時計みたいにベルトで調節する仕組みでし
た。
次に足首にも足枷が巻かれますが、そこには鎖は無く、足は全く身
動きが取れなくなります。
全裸の女性が、こうして磔にされている光景なんて生まれて初めて
見ましたが、意図せずして興奮している自分に気付きました。
女性は苦笑いを浮かべていますが、怯えて引き攣った表情にも見え
ます。
﹁ねぇ、もっと近くに行かない?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
耳元で声がして同時に腕を掴まれたのでヒカルさんの方を振り返る
と、拘束された女性によって喚起された性欲がヒカルさんに向かっ
ているのを感じました。
レースの沢山着いた下着に隠された胸元や、薄く開いている唇に視
線が行ってしまいます。
さっきの続きがしたくて居ても立ってもいられない、初めて感じる
焦りでした。
﹁そんな顔しないの﹂
ヒカルさんが困った様に私の左側頭部を撫でました。
それだけで首筋から腰の辺りに微電流の様なものが駆け抜け、何故
か耳の辺りがムズムズしました。
﹁ねぇ⋮⋮みんないないからロフト独り占め出来るよ﹂
1090
﹁⋮⋮独り占め?﹂
﹁あ、独り占めじゃないか。ヨウイチロウさんと私の二人占めだね﹂
ふたりじめ。
あの広めのバルコニーを。
今度はきちんと最後まで出来るだろうか。
またヒカルさんの達する顔が見たい。
お恥ずかしい話ですが、ヒカルさんが自分と2人の時間を考えてく
れている、その嬉しさは全て性欲に直結していきました。
ヒカルさんの太ってはないけどかなり肉付きの良い身体の感触が、
見ているだけで伝わって来ます。
﹁だーかーら、そんなエッチな顔しないで﹂
﹁⋮⋮エッチな顔!?﹂
﹁わ、ビックリさせないでよ、もう!!﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
﹁面白い人﹂
⋮⋮面白い人。
何だかどんどん、ヒカルさんの中での男性から離れて行ってる様な
気がしてきました。
二枚目を気取るキャラクターでは無いのは自覚していますが、三枚
目と言われると何と反応していいのかが解りません。
1091
﹁本当に可愛い﹂
﹁⋮⋮可愛い?﹂
エッチな顔、面白い、可愛い。
何一つとして、男性らしさを褒める言葉には聞こえません。
あぁ⋮⋮そうか。
えぐちしょういちさん。
どう足掻こうと、私はえぐちさんの欠員補充の穴埋めなんだ。
どんな人⋮⋮
どんな男性なんだろう。
﹁どうしたの﹂
﹁ヒカルさん﹂
その時の私の脳裏には、すごく都合の良いストーリーが浮かんでい
ました。
妄想するだけなら自由、そういう開き直りすら含まれた感覚でした。
可愛いとか面白いとか犬みたいとか、言われた事全てを好意的に捉
えて、最終的には自分を選んでくれる、そんな馬鹿馬鹿しい展開へ
の期待を、踏み締められた地面みたいに理性や経験測がブロックし
ている感じです。
﹁ねぇ、今なら大丈夫?﹂
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
﹁私達以外、誰もいないよ?﹂
1092
﹁⋮⋮はい﹂
﹁見せてよ、あなたの﹂
﹁⋮⋮あなたの?﹂
﹁私のばっか見た上に、潮まで吹かされたんだもん。仕返ししたい﹂
ガラスの無い窓枠にもたれていた私の腰に、ヒカルさんの手が撫で
る様に回されて来ました。
実際にそうなると頭の中の幸せな妄想は遠退いて、逃げ出したい程
の拒絶を感じます。
﹁もし⋮⋮私じゃ大きくならなくても、口でしたいの﹂
思わずヒカルさんに口でされている光景を思い浮かべると、また痛
いくらいに勃起が始まりました。
大きくならなくても。
どこまでも染み込んだコンプレックスが、言葉の意味に関係無く反
応してしまいます。
それでも萎える事はありませんでした。
ヒカルさんにして欲しい。
ヒカルさんのその唇や舌で、さっきキスしたみたいにして欲しい。
口でされた経験が無いので、キスの感触で想像してみると更に興奮
は増しました。
あの感触が。
舌で巻き付かれる様に何度もなめ回されたら、どんなに気持ちが良
いだろう。
1093
﹁そこのイチャついてる2人!!﹂
いきなり大音量で怒鳴られて、私達は簡易ステージの方を振り向き
ました。
そこでは受付の女性が、憤怒の眼差しでこちらを見ていました。
イチャついてる2人とは、私達の事なのだろうか。
そう思っていると、
﹁はい、番号は何番!?﹂
そう立て続けに怒鳴られました。
ヒカルさんが手首の鍵のベルトの番号を叫ぶと、
﹁はい、黙ってた子にはお仕置き付き!!﹂
と怒鳴られ、
﹃おっ仕置き!!おっ仕置き!!﹄
と観客からコールが響き渡ります。
﹁もー⋮⋮マジで?ちょっと行ってくる﹂
ヒカルさんも苦笑いしながら、アッサリと私を残してステージに向
かいました。
スポットライトの光に向かうヒカルさんの後ろ姿が、もう二度と会
えなくなるかの様に遠ざかって行きます。
ヒカルさんがステージに上がるとアッサリと拘束され始め、私も慌
ててステージの傍に向かいます。
どうしていいか解らず、仕方なく体育座りをしていると、隣にいつ
1094
の間にか金髪の男性が来ていました。
﹁ははは、ヒカルが当たるとはね﹂
﹁⋮⋮当たる?﹂
﹁お兄さんもきっと興奮するよ。自分の女が他の奴に何度もイカさ
れるって、1週間はそれで抜けるレベル﹂
﹁⋮⋮他の奴に何度も﹂
﹁そうそう。止めちゃダメだぞ﹂
﹁⋮⋮止めちゃダメ?何をですか?﹂
﹁まぁ見てろよ﹂
そう言われたので顔を上げてヒカルさんを見ると、ヒカルさんは私
から目を逸らしました。
意外と言うか、すごく寂しい気持ちとやるせない気持ちが葛藤し始
めます。
﹁はい!!ルーーーーールは簡単!!先にイッた方が生贄、耐えて
耐えて勝った方にはお年玉10万円!!﹂
いけ、にえ?
意味は知っていても実生活では全く聞かない言葉でした。
研修医時代に回った外科の重傷患者さんの状態が浮かび、思わず寒
気が走ります。
1095
﹁ヒカルーーー勝てよーーー﹂
金髪の男性の無責任な声援に、ヒカルさんは口パクで﹁うるさい!﹂
と答えますが、私の方は一切振り向きません。
﹁まずは私も愛用のローター責めで5分!!貴女の場合はそれにお
仕置きプラスします!!﹂
大音量のマイクでかろうじて、そんな内容が聞き取れました。
音楽が不思議な旋律のものに変わり、照明も赤に変わり、その赤い
光の中でヒカルさんと細身の女性の身体が浮かび上がりました。
ヒカルさんのレースが沢山付いた、水着みたいなコルセットの前が
司会の女性によってアッサリとはだけられ、さっき私の顔を打った
大きな胸が飛び出す様に露呈しました。
﹁でっけぇ!!﹂
誰かが叫ぶと、細身の女性が﹁うるさいなーもー!!﹂と怒ります。
更に女性はヒカルさんのパンツを太股の半分くらいまで下ろしまし
た。
細身の女性には、司会の女性が。
そしてヒカルさんには加藤鳶と言うAV男優がピッタリ寄り添いま
す。
﹁それでは始め!!﹂
そう叫ぶと女性はマイクを下に置き、細身の女性の首筋をネイルの
付いた指先で撫でます。
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そしてその指先は鎖骨や乳首に至り、細身の女性から照れ笑いが消
えると、司会の女性は拘束しているXの後ろに回り込み、乳首や陰
部をゆっくり弄り始めます。
女性の表情は苦悶に満ち、手枷の鎖がカシャンカシャン言う音が響
き、肋骨が隆起して太股の脂肪が揺れ始めました。
﹁あぁだめっ、だめだめだめぇっ﹂
ヒカルさんの声が聞こえて恐る恐る振り向くと、ヒカルさんの背後
から逞しい手がヒカルさんの大きな胸を鷲掴みしていて、その指先
は執拗に乳首を軽く引っ張ったりしつつ、こねる様に弄り回してい
ます。
﹁後ろからはだめだって⋮っ!﹂
後ろからはだめ。
そう言いながらも喘ぐヒカルさん。
思わず加藤鳶の位置に自分を置き換えてしまう自分がいました。
﹁ヒカルはエロいなぁ﹂
隣から聞こえる呟きに、ハッとしました。
初めて女性を絶頂に導く事が出来た、その達成感がいつの間にか独
占欲までも呼び起こしていたと言うか。
もしかしたら、えぐちしょういちさんより自分を選んでくれるかも
しれない、そんな突飛な期待すら薄々ありました。
そうだ⋮⋮。
ヒカルさんは、私に何の感情も無いんだ。
ただ、来られなかった自分のパートナーの穴埋め要員なだけ。
1097
そう思うと、これまでずっと自分を覆っていた絶望感と言うか、異
性に対する諦めに再び呑まれていくのを感じました。
可愛いだの犬だの男の子だのと言われて、心外だと思った自分が逆
に情けなくなります。
認められなくて当たり前。
これだけ機会があっても、自分は行為に及ばなかった。
正しくは臆病過ぎて及べなかった訳です。
﹁どうした?﹂
私は膝の上に組んだ腕に顎を埋めて、首を振りました。
何でもない、大丈夫です。
建前でもそう言いたいのですが、何でもなくないし全然大丈夫では
ありません。
隣の逞しい長身の金髪の男性、そしてこの場にいる全ての男性に敗
北を感じました。
服を着ているのは自分だけ、逆に言えば脱ぐ勇気すら無いのは自分
だけだと言う事。
その理由からして、男性としてオスとして最下位なんだ。
赤い光の中に浮かび上がるヒカルさんの表情が苦しそうな表情にな
ればなる程、恍惚としている様に見えました。
今思い出しても隣の女性は全く記憶に無く、ただただ喘ぎ声を堪え
ながら反り返るヒカルさんの身体が、さっきまで自分の腕の中にあ
った感覚にさえ懐疑的になり、苦しくも何だか逆に興奮さえ覚えま
した。
浅黒い大きな肉厚の手に鷲掴みにされて揉みしだかれているヒカル
さんの胸や、わざと左右に押し広げられて覗く陰核や小陰唇、そこ
1098
を無遠慮に掻き回す太い指。
そして必死に絶頂を堪えているヒカルさんの額に張り付いた髪や、
眉間の皺や見え隠れする綺麗に並んだ歯。
﹁あいつ、あんなに感じる女なんだっけなー﹂
金髪の男性の声が聞こえました。
﹁ははは、動画撮っといてやりたいわ﹂
動画。
私はリアルタイムで繰り広げられている、ヒカルさんの痴態を眺め
ます。
不思議とさっきのスワッピングをした時の様な、焦燥感も絶望感も
ありませんでした。
ただただ、さっき自分の腕の中で達したヒカルさんが他の、それも
AV男優らしき男性によって同じ様に感じて悶えている。
誰でも良いって事だ。
私には理解が出来ない感覚ですが、男性も女性もそういう事なんだ
ろうと思いました。
ちょっと好みなら尚良し、その程度なんだろう。
ここにいるみんながそうなんだ。
そして自分はそうなれない。
経験を積もうにも、経験を積む勇気が無い。
もういい、一生誰ともセックス出来なくて良い。
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そうどんどん落ち込むと、自分にあんなに気を持たせたヒカルさん
すら、悪者に感じて来ました。
そして勝手に甘い妄想を抱いた自分が更に許せなくなり、消えてし
まいたくなります。
途中ヒカルさんと目が合いましたが、縋る様な助けを求める様な表
情のヒカルさんが一変しました。
きっと、私の顔が怖かったのかもしれません。
でもどうでも良かった自分がいました。
女の人なんて、みんな一緒だ。
あのさっき包み込んでくれた胸も潮まで吹いて甘えてくれた事も誰
とでもする事の一環。
でも女性が達するのを見るのは、仕事や何やじゃ得られない癖にな
りそうな達成感ですが、延々と絶頂を見せてくれる女性なんている
んだろうか。
馬鹿にしたり笑わないで自分と行為を共にしてくれる女性なんて、
いる訳が無いんじゃないか?
この30年以上、セックスは愚か恋愛すら縁が無かったのが一気に
吹き出したかの様にヒカルさんに全てをぶつけて勝手に失望して⋮⋮
もう目の前の光景が、本当に生け贄にされた女性の末路みたいに見
えて来ました。
赤いデジタルのカウントダウンも、残す所1分を切り、歯を食いし
ばって愛撫に耐えている2人の女性の表情は苦悶に満ちています。
ヒカルさんの太ももの半分くらいまで下ろされた、下着のクロッチ
部分の色は垂れた愛液で色が変わっていたり、執拗に鷲掴みされた
りで乳首が痛々しい程に勃起している大きな柔らかい胸を見ると
それらに絶望と劣情を感じては諦めが飲み込んで行く、その繰り返
1100
しでした。
周りではこの光景に触発された男女が再び絡み合い始め、更なる孤
立を感じました。
絶望したり孤独を感じたりしている割には、髪を振り乱して歯を食
いしばって快感に耐えているヒカルさんから目を離せない自分がい
ます。
﹁残り30秒⋮⋮﹂
そう司会の女性の愉快そうな声が聞こえた時に、ヒカルさんが大き
くのけ反ると、夥しい量の⋮⋮。
﹁うわー!?ヒカルお前!?﹂
隣の金髪の男性が何とも言えない叫びを上げます。
喜んでいる様でもあり、引いている様でもありました。
私が初めてだと聞きましたが、意図も簡単にヒカルさんは⋮⋮。
ヒカルさんが諦観した様にグッタリと再び私を見ますが、すぐに目
を逸らされました。
﹁おーしおき!おーしおき!!﹂
どこからか無責任な掛け声が飛び、瞬く間に客席の男女の殆どが嬉
しそうに叫び始めます。
手枷と足枷を外されたヒカルさんは、崩れ落ちそうになるのを後ろ
から伸びる太い浅黒い腕に抱えられる様にして四つん這いの体勢に
されると、そのまま男性は下着を脱ぎ捨てて全裸になり、ヒカルさ
んの腰をがっしりと掴みました。
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もう何が起きるのかは解っていましたが、男性の体が密着した瞬間、
グッタリと手を付いていたヒカルさんが再び反り返ります。
﹁やだっ⋮やだやだやだぁっ⋮⋮﹂
瞬く間に下着が脱がされ、全裸になったヒカルさんが苦悶とも恍惚
とも付かない表情で叫ぶと、何故か更に興奮した自分がいました。
﹁あっ⋮んぁあっ!あっぁっ⋮⋮﹂
ああ言う激しいので、ああ言う風に感じるんだ。
痴態と言えばそれまでですが、その姿は神々しい迄に私の視界を支
配し始めます。
そして周りの歓声や音楽の中、ヒカルさんのお尻と男性の局部がぶ
つかり合う音が私にはハッキリと聞こえました。
もう、あの愛しさに似た感情も、劣等感も感じませんでした。
こういうのが生で見たかったんだろうか。
久々に感じる、絶望と怒りを超えた先の好奇心がわきあがります。
過去の情景が思い出され、動悸がして苦しいのに、私は再び痛いほ
どに興奮していました。
男性がヒカルさんの両脇を抱えて、結合したまま身体を起こさせる
と、そのままヒカルさんの身体ごと立ち上がりました。
﹁ちょっ⋮⋮やだ!!やめてやめてやめて!!﹂
ヒカルさんも必死で抵抗しますが、如何せん不安定な体勢の為に必
死で男性の腕や肩にしがみつきます。
あんな事、出来るんだ⋮⋮。
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男性がヒョイッとヒカルさんの膝の裏辺りに手を掛けると、男性と
ヒカルさんの繋がっている部分が顕わになり、ヒカルさんの愛液で
男性の陰茎や陰嚢が照明を反射して光っているのが見えました。
男性はゆっくり、見せびらかす様にヒカルさんを持ち上げると、私
の前までやって来ます。
噎せ返る様な動物的な性の匂いがして、ヒカルさんの大きく充血し
た性器と男性の恐ろしいくらいに太い性器が繋がっているのが、座
っている私の目の前に見えました。
﹁お願い、見ないで!!見ないで!!﹂
落ちそうになりながらも必死でバランスを取るヒカルさんが叫ぶと、
男性は軽々とヒカルさんの脚を抱えたまま上下に動かします。
﹁すっげぇー!ヒカル、全部見えちゃってるぞー!!﹂
﹁あんた、じゃな⋮⋮よういちろっ⋮⋮﹂
見ないで欲しいのは知り合いの金髪の男性ではなく、私?
不可解な気持ちになりますが、私はどうしても視線を逸らす事が出
来ません。
﹁だめ、だめっ⋮いや⋮っ!!﹂
腫れ上がった小陰唇を出入りする男性の陰茎が血管を更に浮き上が
らせ太くなると、上下する動きも更に早くなりました。
﹁あぁ⋮ぁっ、だめ、お願いやめて!!﹂
1103
﹁中に出すぞ﹂
男性が無慈悲にそう言い放ち、ちょっとそれは⋮と私が我に返った
瞬間、男性の動きが止まりました。
﹁何⋮!!何で中に⋮!!﹂
﹁まだ出るな⋮⋮﹂
濡れそぼった陰茎が更に痙攣した辺りで、ヒカルさんの中から白く
濁って時折泡の立った、幾筋もの流れが陰嚢から床に滴りました。
﹁ご苦労様でした﹂
男性は愉快そうに、且つ丁寧にヒカルさんを床に降ろすと、ステー
ジに戻って何やらウェットティッシュの様な物を持ってきて、床に
はいつくばっているヒカルさんの局部を打って変わった優しい動き
で拭き取りました。
﹁⋮⋮触んないでくれる!?﹂
ヒカルさんが邪険に嫌がると、金髪の男性が真剣な面持ちで
﹁ちゃんとカットしてあるんだろうな﹂
と呟く様に言いました。
その言葉にヒカルさんの局部を拭き終わった男性が半笑いで頷きま
す。
1104
﹁流石、それで食ってるだけあるな﹂
﹁カメちゃんあんた人事だと思って⋮⋮﹂
持ち直し始めたヒカルさんに、何て言っていいのか解りませんでし
た。
ヒカルさんもちょっと気まずそうに笑ってこちらを見ました。
﹁せっかく⋮⋮2人だけで楽しもうと思ってたのにね﹂
﹁⋮⋮綺麗でした﹂
﹁え?⋮⋮何が?﹂
何故そんな言葉が出たのか、自分でも意外でした。
しかしそれは本心でした。
自分があんなに劣等感と戦わなくても、女性と接しなくとも女性が
達する姿を目の当たりに出来た、当時の自分の新しい活路を見出だ
せた気持ちで一杯でした。
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁何でヒカルが謝んだよ﹂
﹁あんたは黙ってて!﹂
私が首を振ると、ヒカルさんは私の腕を解き、まだ汗ばむ身体を膝
の間に滑らせて来ます。
行為を遂げる事も出来ず、AV男優のテクニックに遠く及ばないで
あろう自分にこうして気を遣ってくれるヒカルさんは、優しい女の
1105
人なんだなと改めて思いました。
再びソファーの間に戻っても、私はまだ浮遊しているみたいな不思
議な感覚が抜けませんでした。
隣では全裸のままのヒカルさんが腕を絡ませて来ますが、もう私に
は劣情は湧きません。
もう一度、あの姿が見たい。
ただただ、そう思いました。
﹁あーあ。ヒカルがビシャビシャ潮吹かなきゃ、俺ら焼肉行けたか
もしんねぇのに﹂
金髪の男性が意地悪そうな顔で言うと、ヒカルさんがパシッとその
頭を叩きます。
﹁お兄さん大丈夫?相当ショックだったんじゃない?﹂
﹁⋮⋮ショック?﹂
﹁さっきから深刻な顔してっからさ﹂
﹁⋮⋮そうですか?﹂
﹁本当にごめんなさい﹂
ヒカルさんが申し訳なさそうに、私の腕にもたれ掛かって来ました。
﹁⋮⋮何が、ですか?﹂
1106
﹁あんなにすぐイッちゃって﹂
﹁焼肉は食べなくても大丈夫です﹂
そう言うと、ヒカルさんも金髪の男性も可笑しそうに吹き出しまし
た。
﹁お兄さんって、弟とかいない?﹂
﹁⋮⋮!?﹂
薮から棒にそう言われ、私は動揺しました。
毅彦の知り合いだったんだろうか。
私の顔で毅彦の兄であると見抜くのはまず顔の造形上無理です。
でもそれなら、最初にそう言うだろうし⋮⋮。
﹁お兄さんさ、ここに猫がいるって想像してみて﹂
﹁猫⋮ですか?﹂
﹁そう、可愛∼い猫ちゃん﹂
そう男性はテーブルの上を指します。
意味が解らず、次の言葉を待ちました。
﹁ここに猫ちゃんがいたらどうする?ちょっとパントマイムやって﹂
何の意図があるんだろう?
そう思いましたが、テーブルの上に猫⋮⋮。
降ろすしか思いつきません。
1107
嬉々とした表情で私を見る金髪の男性に内心動揺しつつ、私は抱え
て降ろす動作をしました。
﹁今の、何?﹂
﹁⋮⋮テーブルから降ろしました﹂
﹁そんだけ?﹂
﹁はい﹂
﹁そっかぁ⋮⋮何でもないや、他人の空似﹂
他人の空似⋮⋮?
ちょっと気になりますし、私に似ている人がいるって事なら若干好
奇心も湧きますが、どう突っ込んで良いのか解りません。
﹁ごめん、何でもない。付き合わせちゃったけどさ、お兄さんどう
だった?楽しめた?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁そっか、だったら良いんだけど﹂
﹁あの﹂
﹁ん?﹂
私は勇気を出して思い切って、先程過ぎった事を聞いてみました。
1108
﹁⋮⋮こういうところで見てるだけって、出来ませんか?﹂
﹁はい?見てるだけ?﹂
﹁さっきの⋮⋮その、ヒカルさんみたいなのを﹂
﹁お兄さん、ああいうの好き?確かに興奮するよな、知ってる女が
イッちゃう姿って﹂
またヒカルさんが平手打ちを繰り出すも、男性はサッと避けました。
﹁そう⋮⋮いや、見てるだけって出来ますか﹂
﹁んー⋮⋮ここはカップル制だから難しいかも。オーナーくらいじ
ゃねぇの、自由に徘徊出来るなら﹂
﹁⋮⋮オーナー?﹂
﹁そう、こういうハコを作った経営サイドなら出来るんじゃない?﹂
﹁ちょっとカメちゃん、無責任にあんた﹂
﹁⋮⋮経営サイド?﹂
﹁それかアレだ、自分の家でやるとか⋮⋮あーでも無理だ、近隣住
民に通報されたら終わるわ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁どっかさ、山奥の廃屋でも改装してやれば無理な話でもないかも
1109
しんねぇけど﹂
﹁⋮⋮山奥の廃屋を改装?﹂
そうか、それなら。
深く考えずに内心立ち上がった自分がいますが、どうすれば山奥の
廃屋を手に入れて、どう改装すればいいのかは全く解りません。
﹁⋮⋮とりあえず、山奥の物件を押さえれば良いって事ですか﹂
﹁え?何、マジなの!?﹂
﹁⋮⋮いや、ちょっと﹂
﹁もー止めてよカメちゃん!この人凄いお金持ちだから本当にやっ
ちゃったらどうすんの!?﹂
﹁お兄さん凄いお金持ちなの?﹂
何故か金髪の男性のパートナーの女性が、こちらを振り返ります。
この人が自分に反応をしたのは、数時間いて初めてな気がしました。
﹁そこはどうでもいいでしょ﹂
ヒカルさんが遮ってくれましたが、私の頭の中には山奥の廃屋を改
装と言う言葉が何故か響きました。
﹁じゃ、そろそろ俺ら帰るわ。ヒカルどうする?帰るっしょ?﹂
1110
また意地悪そうに金髪の男性がヒカルさんをからかう様に覗き込む
と、ヒカルさんは何故か私を見ました。
﹁どうする⋮?﹂
﹁みんなが帰るなら、私も帰ります﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
何でそんな表情をするんだろう、あのヒカルさんの寂しそうな感じ
は未だに不可解です。
でもヒカルさんには、えぐちしょういちさんがいるでしょう?
それを言うのは何故か憚られましたが、私はハッキリ悟っていまし
た。
ヒカルさん達は自分の手の届かない世界の人間、そんな気がしたの
です。
金髪の男性達が更衣室に向かっても、ヒカルさんは立ち上がらずに
私の隣にいました。
ヒカルさんが動かないので、私も座った儘でした。
﹁よういちろうさん⋮⋮か﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁何でもない﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
1111
﹁このまま⋮⋮いな﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁何でもない、そろそろ行きましょうか﹂
ヒカルさんは寂しそうに笑って、立ち上がりました。
更衣室には金髪の男性達の姿は無く、ヒカルさんと私の2人だけで
した。
最初のここに来た時の、あのヒカルさんへの劣情を思い出すと一気
に恥ずかしくなりました。
﹁よういちろうさん﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁キス、しよう?﹂
そう言うとヒカルさんは私の首に手を回し、ゆっくり近付いて来ま
した。
ヒカルさんの呼吸が近付いて、柔らかい唇の質感が私の口元にピタ
ッとくっつきます。
舌を絡める訳でも無く、ただ唇と唇を重ねると、何故だか名残惜し
さすら感じました。
キスでも色々ある、そんな事を実感しました。
﹁さっきのあの男の言う事は、真に受けちゃダメよ﹂
1112
﹁⋮⋮さっきの?﹂
﹁あのツンツンの言った、山奥で何たらって話。こういう業種はね、
そういう道のプロの知り合いでもいない限り、足を突っ込まない方
が良い。特によういちろうさんみたいな人は⋮⋮﹂
そういう道のプロ。
一瞬で浮かんだ顔がありました。
いない限りは足を突っ込まない方がいい、逆に言えばいるならやっ
てもいい。
こういう時だけ妙な勢いに後押しされる、前向きな自分を感じまし
た。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
ヒカルさんがハンドバッグから新しい下着を取り出しているのを見
て、慣れてるんだなと思いました。
黒のシンプルなレースも無い下着で、個人的にはこういうのがいい
なと分も弁えず思いましたが、ヒカルさんが履いたのがTバックだ
ったのでちょっと目を逸らしてしまいます。
さっきまでは周りも私以外は全裸でヒカルさんも例外では無かった
のに一緒にいても平気でしたが、こうしてまた2人切りになると妙
にゾクゾクと緊張が走りました。
でももう、そこに激しさはありませんでした。
ヒカルさんは少し顔の皮脂で鼻筋のテカりが見えるくらいで、私の
掌に収めたはちきれそうな胸も肉付きの良い腰回りも、さっきここ
に来た時と何も変わっていないのに。
1113
﹁ごめんなさいね、無理矢理付き合わせて﹂
そうちょっと申し訳なさそうに、ヒカルさんが私を覗き込みます。
私は色々な思いが錯綜してしまい、でも無理矢理付き合わされた感
覚は無いので首を振りました。
﹁楽しかった?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ならいいんだけど﹂
何だろう、この雰囲気。
二度と会えない親しい間柄が、別れを惜しむかの様な⋮⋮。
﹁また⋮⋮会いたいって言ったら会える?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
ここに再び来て、またあの焦燥感と性欲の板挟みになるのを考える
と、躊躇してしまいます。
確かに良い経験になったし、私も敬遠し過ぎて忘れていた部類の感
情を少しだけ取り戻せた気がしました。
えぐちさんがいなかったらいいのに。
一瞬、大それた考えが過ぎって、私はそれを慌てて蓋をする様に打
ち消しました。
1114
﹁そっか⋮⋮そうだよね﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁あんな恥ずかしいところ見られちゃったし﹂
﹁さっきのあの⋮⋮大丈夫ですか?﹂
﹁大丈夫、カットしてるって﹂
﹁⋮⋮カット?﹂
﹁パイプカットよ。加藤鳶は有名なのよ、その道を極める為にパイ
プカットしたって﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁ごめん、もう帰りたいよね。あの男がうるさいから早く行きまし
ょ﹂
帰りたいのかは解りません。
でもヒカルさんに何かを言いたいのに、上手く言えない自分がいま
した。
私にとっては凄く大切な事で、ヒカルさんにも伝わって欲しい事な
のに、曇ったガラスの様にそれは頭の中でぼやけ続けます。
﹁お待たせ、行こう﹂
1115
軽くメイクを直したヒカルさんは、最初に会った時の姿でした。
この女の人と、あんな空間で。
夢や妄想だったんじゃ無いだろうか。
更衣室を出るとお店の受付は若い男性に変わっていて、そこにヒカ
ルさんがホテルで言うところのチェックアウトの旨を伝えると、男
性は礼儀正しく御礼を言って、ヒカルさんと私のサインをピッと線
で消しました。
﹁またのご利用をお待ちしています﹂
ヒカルさんがドアを開けると、その声を掻き消す様に冷気が入り、
受付の黒いレースのカーテンを翻します。
何だか現実世界に戻る扉みたいでした。
雑居ビルの通路に出ると、そこはもう現実でした。
あの酒池肉林の快楽の空間への記憶が夢の様に感じます。
﹁よういちろうさん﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁また会える、かな﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁今度はふた﹂
﹁ヒカル﹂
1116
ヒカルさんが何かを言いかけた瞬間、通路の階段の方から金髪の男
性の声がしました。
﹁お兄さん困らせんなよ﹂
﹁⋮⋮いたの。今の聞こえちゃってた?﹂
﹁あいつには黙っといてやるけど⋮⋮お前、結婚の話まで出てんの
にそりゃアイツにあんまりじゃねぇの﹂
﹁でも⋮⋮そっか、そうだよね﹂
何故か私まで気まずくなりますが、結婚まで至る関係なのにこんな
⋮⋮。
薄暗い雑居ビルの通路の何の変哲も無い扉の前で、私とヒカルさん
は向かい合っていました。
ヒカルさんが﹁また会いたい﹂と言ってくれたのは嬉しいところで
すが、婚約までされているとなると流石に倫理に反する気がします。
セックスすら出来ない自分には結婚なんて遠い遠い話ですが、やっ
ぱり私の入る隙は無かったのだと綺麗に纏められた気がしました。
金髪の男性は連れの女性と何やら盛り上がっていますが、その後ろ
のヒカルさんと私は無言のままでした。
明け方の歌舞伎町は、とても静かでした。
カラスがヒョコヒョコ跳んでゴミを漁り、派手な頭のスーツ姿の男
性と酔っ払った若い女性の組み合わせと何組かすれ違いました。
いつの間にか、金髪の男性達とはかなり距離が出来ていました。
そう思った時に
1117
﹁有難う、よういちろうさん﹂
と、絞り出す様な声が聞こえました。
﹁え?﹂
﹁御縁があったら、また会いたいな﹂
御縁があったら、また会いたい。
一緒に時間を過ごした女性からそんな事を言われたのは初めてなの
でたじろぎましたが、きっとヒカルさん達の世界のお決まりの挨拶
みたいなものなのかもしれません。
﹁ヒカルーーー、やっぱ焼肉行こうよぉ!!えぐっちゃんから仕事
終わりってメール来たよーー﹂
金髪の男性の連れの女性が携帯を片手にこちらを振り向きました。
﹁お前、着信もメールも無視とかひっでぇ奴だな﹂
金髪の男性も苦笑いしながら振り返ります。
﹁マナーになってて気付かなかっただけだってば!!﹂
そうヒカルさんも返しますが、更衣室で携帯を覗いてちょっといじ
っていたのを思い出します。
1118
でも、ヒカルさんとえぐちしょういちさんの仲を邪推する立場に、
私はいません。
先頭を歩く2人がゆっくり後戻りして来ました。
﹁焼肉好き?お兄さんも行かねぇ?﹂
私にも振られて驚きますが、そこは丁重に断りました。
﹁そこで潮噴きのハウツーをヒカルの彼氏に教えて⋮⋮いてぇ!!﹂
ヒカルさんの平手打ちが飛び、強烈な音が響きます。
﹁いえ、あの⋮⋮﹂
﹁俺ら大久保の方行くけど、お兄さんは?﹂
﹁仕事ですので﹂
﹁年末に?お兄さんってサラリーマンじゃねぇの?﹂
﹁いえ、医﹂
﹁カメちゃん、もう行こうよ!!お兄さんはタクシー拾う?﹂
私が職業を言おうとすると、ヒカルさんが遮りました。
﹁帰るならこっちより﹂
﹁ええ、あのさっきのドンキホーテの方に戻ります﹂
1119
﹁そうだね﹂
﹁あの⋮⋮﹂
言いかけると3人が私を見ました。
社交辞令でも無い感謝なんて、久しぶりな気がします。
﹁楽しかったです、有難うございました﹂
﹁マジで?そりゃよかった﹂
﹁えーホントに楽しんでた?﹂
金髪の男性達に突っ込まれてただ頷く私を、ヒカルさんは優しい笑
顔で見ていました。
そこで別れて彼らは大久保通りの方向へ、私は最初にタクシーに乗
ろうとしていた通りに戻ります。
雨は殆ど止んでいましたが、雨宿りしていた軒先を敢えて通ってみ
ました。
あの時ここに、いなかったら。
やっぱり夢だったんじゃないか?
そんな気もしますが、あの意外に広い店内の光景や匂いや音楽、ヒ
カルさんの感触全てを思い出せる自分がいました。
1120
タクシー乗り場も打って変わって閑散としていて、とりあえず乗る
と運転手さんは初老の男性で、最低限しか話さない方だったのでか
なり色々な事を車内で考えました。
金髪の男性曰く、所謂ハコを自分で用意すれば、あの世界は自分で
も作れるのかもしれない。
高浜に相談して、果たして乗ってくれるだろうか。
ヒカルさんが公然猥褻がどうのって言ってたのを思い出します。
高浜だってお金には困って無いでしょうし、わざわざそんな危ない
犯罪スレスレの私の我が儘に協力してくれるだろうか。
まずは、ハコかな。
どうすればハコが手に入るんだろう。
それから暫くして不動産屋の営業さんが
﹁景気が悪くて土地が下がってる今だからこそ﹂
と売り込みに来たのが、件の別荘の土地でした。
何となくよく解りませんが、ここだ!!と思いました。
﹁いいですね、買います﹂
そう私が即決すると、何故か薦めた側の営業さんが驚いていたのが
意外でした。
1121
そして私が一番悩まされたのが、1人でいるとヒカルさんとの行為
を思い出してしまう事でした。
そういう実際の経験は、財布代わりにされた挙げ句に浮気されてい
た例の女性しか今まで無かったので、性欲は全てその二十歳の時の
苦しさに直結してしまい、自慰行為どころか性欲自体を敬遠してし
まっていましたが、
さて寝るか、そう思ってベッドに横になると、急激に隣に女性が欲
しくなる事が度々ありました。
だから無理だって。
そう思いますが、ヒカルさん⋮⋮は結婚されるにしても、あの時の
ロフトでのヒカルさんがここにいたら、もしかしたら最後まで出来
るかも。
30過ぎて何を考えているんだ、そう言い聞かせても妄想は恥ずか
しいくらいに目を開けても閉じてもベッドの中で加速を始めました。
でも、段々と気付いたのが
自室のベッドでヒカルさんを辱める、そんな都合の良い妄想をどん
なにしてもヒカルさんの顔が思い出せない事でした。
唇の感触や、質感を伴って手に収まる胸や、色っぽく可愛らしい声
なんかは凄く克明に思い出せましたが、妖艶だったり気怠そうな表
情を思い出そうとすると、何故かピントがずれた様に顔が浮かんで
来ません。
また会えたらいいなと思う割に、矛盾を凄く感じました。
もう忘れなさいって事なんだろう。
1122
そう思いますが、なかなか割り切れません。
もしかしたら、私がそういう場を提供したら、また会えるのかもし
れない。
でもきっと、えぐちしょういちさんと一緒に来る。
やっぱり、そういう結果だろう。
自分みたいな人間が、女性と対等に付き合おうなんて大それた望み
なんだろう。
そうは思いますが、また会えるかもと言う一縷の望みは捨てきれま
せん。
選ばれないのが解っていて、それでも再び女性に会いたいと思うな
んて、生まれて初めてでした。
変な言い方ですが、当時の私はこんな自分をあんなに思いやってく
れる女性はヒカルさんしかいないと信じていたフシがあります。
初めて異性に相手にされた、そんな感じの喜びでした。
でもそれは間違っていたのだと今なら思う事が出来ます。
ヒカルさんが魅力的で優しくて気が利く女性であったのは、間違い
ありません。
でも、魅力的でも無い上に異性を思いやれず気すら効かせなかった
私に問題があったのだと思いました。
まず愛される訳が無いんですよね、自分が女性に敵意や苦手意識を
勝手に持っていたのですから。
﹁もう一度、ヒカルさんに会えるかも﹂
そんな淡い期待で足を踏み込んだ世界で、皆さんもご存知の通り全
く予期しなかった出会いが私にはありました。
唯一無二の女性、ユズちゃんです。
1123
でもユズちゃん以外にも色んな出会いがありましたし、今まで感じ
た事の無い類いの楽しさを感じました。
もし今、ヒカルさんと再会しても⋮⋮多分、あの1人で悶々と抱え
た気持ちは無いと思います。
ただ、心から感謝したい。
そう思います。
あの日、私が毅彦達と二次会に行かず、あの軒先で雨宿りをしてい
た事から全ては始まったんですね。
そこを突き詰めると高浜の存在があり、中学受験であの学校に行っ
て、高校2年生の時のクラスの出席番号順の席順から全ては始まっ
ていたのかもしれません。
もし高浜と違うクラスだったら、私とユズちゃんは会っていないと
思います。
そういえば、高浜と初めて話したのも雨の日でした。
始業式の日にゲリラ豪雨に遭って、傘が無くて困っていた所を友達
と連れ立った高浜が話し掛けて来てくれたんだ⋮⋮。
それから数百回の雨の日があってあの忘年会の日も雨で、また沢山
の雨の日を経て今日の雨が降っている、
そう思うと気象すら感慨深いです。
隠すつもりは無いのですが、今長々とお話させて頂いた事は、ユズ
ちゃんには暫く内緒にしておきます。
疚しい気持ちは無いのですが、私が説明をした所で
1124
﹁じゃあその妖艶で気の利くヒカルさんとバッタリ会ってえぐちさ
んと上手く行ってないって迫られたら、先生は絶対拒めないと思う
!!あ、でもいいのか、元々ヒカルさんに会いたくて別荘買ったら、
﹃たまたま﹄私が来ただけだもんね、誰でも良かったって事でしょ
!?﹂
って誤解からまた喧嘩になる気がするのです。
こういう場合も、隠し事する事になるのかな?
でもこれはユズちゃんに怒られない上手い説明が出来るまでは、内
緒にしておこうと思います。
ヒカルさんがいなかったら、私がユズちゃんと親密になる事も無か
ったかもしれませんが、それを言ったら更に拗れそうですしね⋮⋮。
自分本位で卑怯な気もしますが、ユズちゃんにこれ以上余計な心配
を掛けたく無いし、何よりユズちゃんが離れて行ってしまう事が今
の私には堪えられない事だと思います。
私達が出会えるキッカケだった、そう上手く伝えるにはどうしたら
いいだろう。
そう思うと、やっぱり纏まら無いんですね。
窓の外の雨はまだ当分、止みそうにありません。
でもこの仕事が明ければ、雨が降ってようが風が吹いてようが、ユ
ズちゃんの元へ帰れます。
1125
そう思うだけで当直すら苦にならないって事は、帰ったら伝えよう
と思いました。
1126
続・ターニングポイント︵後書き︶
いや、再度お詫び申し上げます。
携帯を大破してしまい
変えてみたところログイン出来ず
アドレスは変わっているし
パスワードもユーザー名も
片っ端からやってみても
携帯からもPCからも合致せず⋮⋮
そんな八方塞がりな状態でしたが
何とか思い浮かんだのでアクセスしたら
こうして繋がったので 一晩掛けて書き上げた次第です。
余りの更新の無さに
メッセージ下さった方、
ありがとうございました。
﹁もう書かないんですか﹂
って最近言って下さった方がいらして
申し訳無くもちょっと嬉しかったです。
何人かの方にはバレておりますが
1127
ここで書けなかった間は
アメブロなんかで
テキトーな日記を書いてました。
話の方向も薄ぼんやり決まったので
またチマチマ書いて行こうと思います。
こんな事言える立場じゃないんですが
これからも何卒よろしくお願いします!!
1128
★高浜 武志・7★︵前書き︶
別荘完成直前の話です。
ちょっとホラーテイストを含ませようとして
思いっ切り滑ってる感じになりました。
1129
★高浜 武志・7★
自然に囲まれた暖炉のある素敵な古民家風の喫茶店で、俺と永山は
サシで将棋をしていた。
もうかれこれ1時間半が経過している。
最初は適当に負けて終わらせようくらいに思っていたが、何か手抜
きがバレたら薪代わりに暖炉に放り込まれそうな気迫や真剣さが伝
わって来て、俺もつい本気で考えた。
今は夏だし暖炉は使われてなさそうだけど。
﹁⋮⋮王手﹂
アッサリと待った不可能な王手を喰らう。
ぎゃー悔しい。
真面目に頑張ったのにこれかよ!
飛車角、お前ら何してた!?
﹁⋮⋮目が疲れた﹂
﹁瞬きはちゃんとしろ﹂
﹁ドライアイなんだろうな、気付くと目がシパシパする﹂
⋮⋮違うと思います。
大体ねぇ、喫茶店で将棋とか。
確かに、﹁業者さんの呼び出し来るまで暇潰せる物が何かあるとい
いねー﹂みたいな事を言ったのは俺ですよ。
でも⋮⋮まさか雰囲気に誘われて入った喫茶店で鞄から将棋盤出さ
1130
れるとは思わなかった。
永山はいつだって本気だ。
﹁毅彦ともやってんの?その⋮当直で暇な時とか。暇があればの話
だけど﹂
﹁⋮⋮傍にいるだけで追い払われるし、仕事の話以外で話掛けると
迷惑がられる﹂
﹁そんなに?あの毅彦が?﹂
﹁それに必ず何かで呼び出されるから、こんなじっくり出来ない﹂
﹁そうか、大変だもんな。俺はお医者さんを尊敬する﹂
﹁⋮⋮そう?﹂
年々やつれて行くこいつを見ていると、医者=セレブリティ生活の
像が崩れる。
こんなに忙しいのに、研究やら論文もやらなきゃいけない仕事って
あるんだろうか。
難しい国家資格取っちゃえば生涯安泰でしょーみたいな目で見てた
事もあったが、よくよく考えれば難しい資格には難しい仕事を熟す
能力や人間性までセットなんだよな。
普通の仕事なら、真面目にやって失敗しても謝って金を払ったり責
任取って辞めれば済む。
でも医者の場合の失敗は、人命が掛かっているので一気に訴訟で殺
人罪となる事もある訳で⋮⋮。
俺が何だか畏敬に近い気持ちで眺めていると、永山は満足そうな表
1131
情でマグネットの付いた駒を再び初期配置に並べはじめた。
えぇえもう一局!?
そう思ったが、綺麗に並べ終わるとパタンと盤を閉じ、鞄にストン
と仕舞った。
﹁⋮⋮まだかな、連絡﹂
﹁まぁ先週、俺が見に行ったときはもうほぼ完成してたけどな﹂
﹁⋮⋮まだかな﹂
永山は昔の学研のCMみたいに繰り返して頬杖を付くと、有り得な
い量の砂糖を入れてすっかり冷めたコーヒーを飲んだ。
猫舌ならアイスコーヒーじゃ駄目なの?と聞いた事があるが、アイ
スコーヒーは薄まるから風味が落ちるとか何とか。
俺はまたもマニアックなメニュー、地元産フルーツのラッシーなる
ものを飲む。
氷でかなり薄まっていて、あぁ風味が落ちるってこれだなって。
﹁⋮⋮これで、俺の何も無い休日が充実するといいな﹂
﹁そうだな﹂
﹁やっぱり息抜きって必要なんだろうね﹂
﹁⋮⋮まぁな﹂
言葉だけ抜粋するとすごく前向きな台詞だが、こいつの息抜きの意
味が未だによく解らない。
だってですよ?
1132
うっかり地下室のある別荘建ててSMクラブにしたいからどうすれ
ばいいかな?
とか、いきなり彼女の前で言われた俺も思うところがあって、じゃ
協力するね!って二つ返事した訳です、が。
永山の意図は一体。
何で昔からあんなにも女嫌いなこいつがいきなり、不動産購入して
までSM鑑賞したいと願うようになったのは、異性に対する進歩と
して喜ぶべきなんだろうか。
まだ俺らが二十代前半で永山がまだ学生の頃、合コンとかに連れて
行ったりはしてたんです。
嫌だって言うのを半ば強引に。
永山がいると個人的に面白いし、あわよくば女っ気が無い友達に、
彼女とか出来たらいいなって完全に俺のお節介ですけど。
女の子も結構喜ぶしね、容姿の良い医大生って言う辺りで。
まぁ最初だけだけどね。
最初の自己紹介が終わるとまず始まるのが
﹁うっそー医学部なの!?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁じゃお医者さんになるんだね、すごーい!!﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ねー休みの日とかってどうなの?﹂
﹁⋮⋮予定が入る事は殆どありません﹂
1133
﹁じゃあさー今度、どっかご飯でも行かない?﹂
﹁⋮⋮えぇ?﹂
﹁ご飯行こう?暇なんでしょ?﹂
﹁⋮⋮暇は暇ですが﹂
ここまで先導しといて困った様に横目で俺を見られても。
決まって聞かれた事は全て正直に答えて、女の子の言いなりになる
様に仕向けておきながら、無言で隣の俺に助けを求める訳です。
俺は気付かないフリして携帯に
﹁バシッと決めちゃえ﹂的な無責任な文を打って卓の下で女の子に
見えない様に見せると、頷いた永山の目が意を決した様にキッとな
った。
女の子もこれは来るなって感じで、シタリ顔。
よし行け!!
迷うくらいならとりあえず決めておけ!!
﹁嫌です﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ!?﹂
俺もちょっとビックリした。
何か言葉間違えたかな?って不安になった。
すると、それを聞いていた他の野郎がかなりイラッとした感じで
1134
﹁ちょ、幾らモテんのかもしんねぇけどそれはないっしょ!?﹂
みたいなツッコミ入れて来る。
客観的に見れば、その気持ちは正しい。
﹁⋮⋮全然モテませんが﹂
﹁そりゃそーっすわ、そんな返ししたらモテねぇって﹂
﹁別にいいです﹂
﹁は?あんた何しに来たんですか!?﹂
﹁⋮⋮何しに来た?﹂
取り皿に色々載せながら、永山は怪訝な顔をする。
すまない、合コンでも料理が美味しい店に行くから延々と食べてい
れば良いと釣ったのは俺だ。
﹁女の子がここまで言って、マジ顔で嫌ですとかおかしいから!気
にしないでいいかんね、この人ズレてるわ﹂
﹁ひっでー永山さん、俺マジ引いた﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
初対面の野郎衆から詰られ、完全に永山は黙った。
でも手元は爪楊枝を挿したサザエを回している。
身体が動いているなら大丈夫だろう。
そしてサザエがスルスルと完全に出て来ると同時に、
1135
﹁断ってすみませんでした﹂
﹁⋮⋮謝られてもビミョーだし﹂
﹁でも遊んでなさそうで私はそういうのいいかもー﹂
って新興勢力が台頭してくる。
﹁何でそうなるんだよ!高浜さん何とかして下さいよ、このお友達
怖い!天然過ぎる!!﹂
﹁あはは、永山さんって面白ーい﹂
﹁あはは、永山って面白いよねー﹂
﹁高浜さん!?﹂
みたいな感じになり。
永山は場の空気を壊したと反省したのか、サザエのフタを無言で眺
めていた。
こうなると女の子が一気に別れる。
コイツ無理だわ派と結構いいかも派にパカッと。
でも実家が産婦人科って聞くと、いきなり生理痛が重いとかオリモ
ノがどうのとか振る女の子ってのが少なからずいて。
そんな男が無言になっちゃう話題になると、
﹁まだ医師免許は無い俺が言うのもですが﹂
と、いきなり饒舌になるんだよね。
1136
彼なりに家業を継ぐために勉強は熱心にしているらしく。
もう根っからお医者さん向けの性格なんだろうな。
だって遊びの誘いは嫌なのに、オリモノの色や小陰唇の状態は平気
で聞けるんだもん。
合コンで卵巣だの外陰部だの膣壁だの無表情で語れる男は、こいつ
以外に俺は知らない。
﹁まぁ実際に見ない事には何も解りません﹂
﹁⋮⋮え!?﹂
﹁だから早目に近所の婦人科外来に行った方がいいです﹂
何だそりゃ。
多分、全員がそう思っただろう。
それでも会計を終えて店を出るなり俺らに軽く挨拶だけしてタクシ
ーに乗る永山を見る度に、やっぱりこいつには女関係の誘いは迷惑
なんだなって思って、そこから申し訳無くなって余り誘わなくなっ
た。
で、全く女の話も影も無いままSMいいよねって言われてキラキラ
して来て、この計画が始まり。
俺も何回かこの永山邸に来る内に、自然豊かなところっていいかも
!ってなっちゃったんだよね。
まぁその前にはアシダカグモの出没と鹿田社長の難題をクリアしな
いといかんのですけれども。
1137
﹁まぁ永山も肩書が増えるな﹂
﹁⋮⋮肩書?﹂
﹁永山産婦人科副院長にSMクラブオーナー﹂
﹁⋮⋮オーナー?﹂
﹁オーナーだろ﹂
﹁名刺には書けないよね﹂
﹁何があっても絶対書くなよ﹂
﹁名刺もう1枚作った方がいい?﹂
﹁いや、お前は基本こっちの方では人前に出るな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何で悲しそうなのか解らんが、お前はもう顔が全国放送に出てる﹂
﹁⋮⋮じゃどうすればいい﹂
﹁何が﹂
﹁俺は見られないって事なの?﹂
そうか⋮⋮。
こいつは金儲けとかじゃなくて、趣味でこの話に乗ってるんだよな。
1138
﹁何か善処する﹂
﹁つまり⋮⋮俺だと解らなければいいって事だね﹂
﹁まぁそうだけど、どうするんだよ﹂
﹁⋮⋮甲冑とか﹂
﹁かっ⋮ちゅ⋮う?﹂
永山は長い人差し指を立てると、暖炉の傍に立っている中世にあり
がちな顔が格子状の鎧甲冑を指差した。
レプリカだろうけど、よく見ると凄い迫力だな。
⋮⋮って、甲冑!?
探偵推理漫画のネタばらしじゃねぇんだから!!
開けたらお前が入っているとか最強怖ぇよ!!
でも永山は無表情のままだ。
こいつが冗談を言う事は殆ど無い。
逆に言えば冗談みたいな事を本気で考えているから面白いんだけど
な。
﹁お前、あんなのいきなり動いたらプレイ中のお客様がビックリし
て倒れちゃうだろ﹂
﹁じゃビックリしないのならいいの?﹂
﹁ビックリしないのって何だ﹂
1139
﹁よく警察の⋮上目遣いでオレンジ色のネズミみたいなの歩いてる
でしょ﹂
﹁警察の上目遣いのオレンジ⋮⋮ピーポ君か?﹂
﹁ピーポ君って言うの?ああいうのなら怖くないと思﹂
﹁却下﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
甲冑とか着ぐるみとかもう⋮。
最近、俺の行く先々が単館上映のB級映画みたいな空気になるのは
何故だ。
まぁこいつは元々こうだけど。
﹁俺は横で見られない⋮⋮﹂
表情からは判らないが、雰囲気ですごくガッカリしてるのが解る。
まぁそうだろうな、それが目的だったんだし。
横で見るってまさか、体育座りでじーっとマジマジとかじゃねぇ事
を願う。
﹁お前が購入した別荘でその目的が果たせないのは気の毒だから、
そこは考える﹂
﹁⋮⋮どうしても見たい﹂
﹁だから何とかするわ﹂
1140
﹁あっ、犯人当ての時の⋮⋮マジックミラーとか出来ないかな﹂
﹁その代わり客がいる間、お前は地下のマジックミラー嵌めた空き
部屋に監禁されるぞ﹂
﹁天井とかも無理かな﹂
﹁今からは無茶。天井のマジックミラーに男が張り付いてるとか恐
すぎだ、却下﹂
﹁⋮⋮⋮そうか﹂
永山はテーブルの上で腕を組むと頭を載せ、気持ちションボリした
様に見えた。
﹁何か考えるから安心しろ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
その時、タイミング良く俺の携帯が鳴った。
施工業者からだ。
地下室の内装が完成したんだろう。
電話に出ると、営業モード全開の声でまくし立てられる。
﹃えーと長浜さんね、一応もうモルタルの方も大丈夫、片付けも綺
麗に終わりましたんで、いつでも﹄
﹁どうも﹂
1141
﹃それでお支払いの方は﹄
﹁現金一括で﹂
俺の言葉に永山が反応して鞄から銀行の封筒を数封出して、ドサッ
と重ねて俺の前に置いた。
いいよ、ここは俺が出すから。
俺が封筒を押し返すと、永山が首を振る。
いやいや俺が払うから!って何だよ、喫茶店の支払いを揉めるマダ
ムみたい。
﹁はい、じゃこれからそちらに伺いますね﹂
俺が電話を切ると、また俺の前に封筒が置かれている。
﹁いいって、俺が別荘使わせて貰うんだから﹂
﹁俺の希望で施工して貰ったんだから俺が払わないとおかしい﹂
﹁何でいきなり男気出すんだよ﹂
﹁⋮⋮だって﹂
﹁じゃ、ここの支払いお前出せ。それでいいわ﹂
﹁あっ﹂
永山は瞳孔を開いて俺を見据えた。
﹁俺、財布忘れて来たかも﹂
1142
﹁おい!﹂
﹁落としたかな﹂
﹁いやいやいや、とにかく銀行やカード会社に連絡しろよ﹂
﹁それは心配ない﹂
﹁お前ね、金持ちにも程があるだろ﹂
﹁財布にカード類は入れてない﹂
﹁そうなの?﹂
﹁よく財布無くすからカードは全部職場の机の引き出しに入れてあ
る﹂
﹁引き出し⋮⋮?﹂
﹁そう、一番上のペンとかメモと一緒に入ってる﹂
﹁お前ね﹂
﹁だって毅彦ともう1人の偉い先生しかいないんだよ?誰が俺のキ
ャッシュカードとクレジットカードを盗るの﹂
﹁それで無くなったらどうするんだよ﹂
﹁⋮⋮一旦停止して再発行かな﹂
1143
﹁まぁそうだな﹂
それでいいな。
俺だったら大慌てだけどな。
﹁じゃ、高浜がここの会計して業者さんにはこれで払って﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁お釣りで帰りのガソリン代と買い物するから﹂
﹁買い物?﹂
﹁そう、休みの日に買い出し行かないと食材が無くなる﹂
﹁買い物ってスーパーの買い物かよ﹂
﹁そうだよ?﹂
﹁これ、総額幾ら入ってるの?﹂
﹁600万﹂
﹁そんなに?﹂
﹁だって書類見たけどそんなもんじゃ無かった?﹂
﹁あの⋮⋮お前、引き算出来る?﹂
1144
﹁出来るよ﹂
﹁最終決定額は518万7380円よ?﹂
﹁だから多めに600万﹂
﹁お釣りは幾らよ﹂
﹁81万2620円。合ってる?﹂
﹁⋮合ってる﹂
何かね、こういう時に友達同士でも金銭感覚の違いを感じちゃうん
だよね。
切り上げの額が違い過ぎる。
﹁で、財布の件はどうすんだ﹂
﹁⋮⋮よく考えたら俺、朝から財布触ってない気がする﹂
﹁朝は俺が買ったもんな﹂
﹁うん、だから白衣のポケットかスーツのポケットに入れっぱなし
だと思う﹂
﹁大丈夫?﹂
﹁多分、職場か家にある﹂
1145
永山はホッとした様に言って、伸びをして立ち上がった。
職場か家のどっちかにあれば安心なのか、凄いな。
1070円の支払いで518万7380円貰えるとか、初めて。
そして財布無くしても飄々としてる人も初めて。
今思えば、学生の頃もよく財布とか定期入れを無くしてたが、その
時は結構本気で探してた気がするんだが。
一人だけの店員兼店長らしきおじいちゃんも無口だし、レジ前のピ
ンク色の電話とか甲冑とか鹿の首とか雰囲気が面白いな、また暇な
時に来たい喫茶店。
勝手ながら、武志ュラン3つ星に認定。
そう思って店の看板を見ると
﹃隠れ家・犬吠﹄
と、黒地に赤い丸ゴシック体で書かれていた。
カクレガイヌボエ⋮⋮。
やはりあの内装を作り出すくらいだ、ネーミングセンスも只者では
ない。
燃費が嵩むからって永山の車で行こうと言う事で、愛娘のコルベッ
トは永山のマンションの駐車場に入れて来たんだけど、タクシー以
外で誰かに運転してもらうのって新鮮。
しかしこいつは車への愛が全く感じられねぇ。
いい車乗ってる割に、軽自動車でも軽トラでも何でも良かった感じ。
ちょっとくらい壁に擦っても余り気にならないとか普通に言う。
信じられない。
1146
でも座席はフッカフカ、流石レクサスLS。
程なく会話も殆ど無くして永山の別荘に着いた。
﹁永山、ちょっと待ってろ﹂
﹁どうした?﹂
﹁業者帰るまでここにいろ﹂
﹁⋮⋮業者さんにも顔を見られちゃいけないのか﹂
﹁そうだ、すぐ終わるから﹂
﹁⋮⋮うん﹂
永山は詰まらなそうに溜息をつく。
何でこいつはこんなに危機感が無いんだろう。
誰かにバラされたら自分の仕事が危ういとか考えないんだろうか。
﹁終わったら呼ぶ﹂
﹁⋮⋮解った﹂
俺は自分の現金の入ったショルダーバッグを出して、キッチリ51
8万7380円の入った封を出す。
そこから7380円を俺の財布に移し、永山の渡した封筒から1万
足した。
その釣りと81万を返せばいいだろう。
1147
はぁ面倒ねぇ。
俺が出すって言うのに強情なんだから。
こうなったら永山が満足出来る何かで返上しないと。
簡単じゃん、高性能の防犯カメラ設置すればいいんだ。
防犯カメラは無茶な客への牽制にもなるだろうし。
しかし吉田カバンのショルダーに1千万以上入ってるとか。
今の俺は、歩く身代金って歌詞そのものだな。
別荘に有りがちなちょっとオシャレなドアを開けると、改装中の匂
いがした。
ペンキとかシンナーとかの、嫌じゃないけど嗅いでても満たされな
い匂い。
﹁長浜さん、終わりましたよ﹂
ペンキだらけの使い込まれた作業着の業者が出て来る。
続いて顔立ちも格好も似たような感じの、気の良さそうな明るい髪
色の若い男も笑顔で一緒に出て来た。
二十歳超えたくらいなのかな。
思わず倉田達を思い出す。
最早、父親の領域。
﹁もうね、この不景気に大口のお仕事頂けて有り難い限りですよ﹂
この業者は俺の知り合いのマンヘルの受注を引き受けた業者。
早い話が、そういうオーダーに慣れている半ば専門業者だ。
擬岩に始まりテレビや新聞でCM打ってる様な大手業者にはちょっ
1148
と言えません、みたいな依頼を受けてくれる。
﹁随分格安にして頂いてこちらこそ有り難いです。こちら、一応5
19万入ってるはずなので﹂
﹁有難うございます﹂
﹁でもこの土地に買い手がつくなんてって、地元の人は驚いてまし
たね﹂
そう父親らしき業者と一緒に頭を下げた若いのが軽く言うと、親父が
﹁キョウスケ!﹂
と言って小突いた。
キョウスケ君は﹁あ、ヤベッ﹂て顔をしたけど、聞いてみる。
﹁この場所⋮何かあるんですか?﹂
﹁あぁ、まぁ⋮⋮﹂
﹁何か事件とか?﹂
﹁事件⋮⋮って程では。大した事じゃないんです﹂
﹁是非、教えて欲しいです﹂
俺が好奇心で向き直ると、2人とも少し挙動不審。
やだー事故物件なのー?
1149
まぁ幽霊とか出ても見えないだろうし気にしないからいいけど。
﹁あの、ここは元々、地元の企業の社長が住んでいた家があったら
しくて﹂
父親の方は口を割りそうに無いのでキョウ君をじっと見ると、観念
した様に話し出した。
﹁愛人を何人も囲い込んでハーレムみたいなのを作ってたらしいん
ですね﹂
﹁⋮⋮ハーレム?﹂
﹁この地元では大きな会社を経営してたんですが、バブル崩壊の煽
りか何かで会社の倒産して。持ち主が首吊って家ごと焼身自殺した
とか﹂
﹁で、それからはどうなったんですか?﹂
﹁さぁ⋮家は燃えちゃって、ずっと更地だったそうです。でも何か、
地元では心霊スポットみたいな扱いっぽいです﹂
﹁そうなんですか﹂
奈津に言ったら大喜びだな。
あいつ何故か心霊系番組は大好きだもん。
﹁まぁその、その持ち主だった人もちょっとおかしい人で有名みた
いで﹂
1150
⋮⋮ちょっとおかしい人。
永山、すまん。
申し訳無いけど、思わず納得しちゃった自分がいた。
﹁やっぱ不景気だからか、ずっと全く買い手がつかなかったんです
って﹂
﹁それでそれで?﹂
﹁だから直接は事故物件とかじゃないですけど、ここらではこの別
荘自体が間宮邸って呼ばれてるみたいで﹂
﹁間宮邸?﹂
﹁長浜さんくらい若いと知らないかな、昔のホラー映画に出て来た
んですよ、﹃スウィート・ホーム﹄って映画﹂
﹁あ、それ、小学生の低学年くらいの時にあったかも﹂
﹁そう、ここのお家が直接の事故物件とかじゃないんでね、そこは
まぁ﹂
業者は別荘が事故物件じゃない事を強調すると、キョウスケ君を睨
んだ。
きっと後で絞られるだろうな。
でも⋮⋮全然大した事じゃなくない?
女を囲い込んで生活してた所有者が自殺した土地なだけなんでしょ?
人類史始まって誰も死んでない土地なんてそうそう無いんじゃない?
1151
何か問題でもあるんだろうか。
永山だって不動産屋に乗せられて格安の不動産を買ったって喜んで
たもの。
つーか格安だから買う不動産⋮。
やっぱりあいつとは金銭感覚の桁が1つ合わない。
﹁まぁそんなところです、不愉快にさせてすみませんでした﹂
業者は深々と頭を下げるとキョウスケ君も続いて頭を下げた。
﹁俺は全然気にしませんよ﹂
﹁そう言って頂けると﹂
﹁全然です。じゃあこちら⋮⋮﹂
俺がテーブルに置いた包みを指すと、
﹁あ、失礼しました!﹂
と慌てて紙幣計数機に通す。
何とも言えない軽快な音が響き渡る中、俺はこの別称間宮邸の話は
永山が言って来ない限り伏せて置こうと思った。
気にしなければ気にならないけど、余り気持ちのいい話じゃねぇし。
﹁ではこちら、お釣りと領収書です﹂
﹁はい﹂
1152
﹁じゃ、もう完成してますんで何かありましたらいつでもご連絡下
さい﹂
﹁有難うございました、またよろしくお願いします!!﹂
﹁いえ⋮﹂
そう言ってそそくさと2人は出て行った。
あれ?普通立ち会い確認みたいなのしない?
残された領収書と名刺を眺めていると、車が発進する音がする。
まぁいいや、途中経過は俺も3回見に来た時は特に何も不備はなさ
そうだし、完成度は永山の評価次第だ。
何かあったら連絡すればいい訳だしな。
そう思ってお金を仕舞って外に出ると永山が車内にいない。
⋮⋮また迷子か?
そう思って車に近付いた矢先に、いきなり運転席ごと永山が勢い良
く起き上がった。
声を上げそうになったのを堪えた分は心臓に来たが、俺が手招きす
ると永山は申し訳なさそうに降りてきた。
﹁ごめん、寝ちゃってた﹂
男に言われても全く嬉しくない台詞を吐くと、永山は喜々として別
荘に入って行く。
そうか、俺の愛娘と違って普通の車はシートが倒れるもんな。
1153
室内に入ると永山はゆっくりと室内を見回した。
﹁ここは何も変わってない﹂
﹁地下室しかオーダーしてないからな﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
ゆっくりと永山は地下室の扉の方に向かう。
ちょっとおかしい人間性の地元の会社経営者が、ハーレム目的で作
った別荘。
ユラユラ歩く永山の後ろ姿を見て、何だかその話をリアルタイムで
見ている様な錯覚に陥った。
前オーナーと永山の関係は何も無いのに。
分厚い防音性の高そうな扉を開けると、石段の様な見た目の幅の狭
い階段が伸びている。
壁の照明もちょっとナツメ球を使った燭台みたいにしたので、何か
映画とかアトラクションのセットみたいだ。
﹁すごいね、ここまで来ると何か﹂
そう振り返った永山はそのまま足を踏み外し、俺を見ながら地下に
吸い込まれて行った様に見えた。
﹁おい大丈夫か!?﹂
﹁指やっちゃったみたい﹂
1154
﹁突き指?﹂
﹁違うな、多分⋮亜脱臼だろうな﹂
﹁アダッキュー?﹂
﹁見て﹂
仄暗い階下から永山はこちらを見上げて、左手の人差し指を曲げて
いた。
よく見るとその指は不自然な角度で外側を向いていて、俺の背筋に
戦慄が走った。
﹁お前⋮⋮!アダッキューって何だ!?﹂
﹁亜脱臼。白亜期の亜に脱臼⋮⋮じゃないな、これは完全脱臼だな﹂
﹁救急車呼ぶか!?﹂
﹁大丈夫だよ、見てて﹂
永山は手品を見せる様に右手で左手の人差し指を握ると、引っ張り
始めた。
一瞬だけ顔をしかめた後に、
﹁ほら、直った﹂
と、気持ちぎこちなく指を曲げたりして動かしてみせた。
1155
﹁直ったってお前⋮⋮﹂
﹁ピアノ弾いてる時に指が脱臼してね、その度に適当に直してた。
ここまでのはそうそう無かったけど﹂
薄明かりの中、永山は快楽殺人犯みたいな顔で笑った。
これは﹁エヘッ﹂程度の笑いだと俺は知っている筈なのに、間宮邸
やら脱臼やらのインパクトが強すぎて俺は笑えない。
﹁整形外科みたいだな﹂
﹁整形外科にも行ったけどね、スーパーローテートの時に﹂
﹁スーパー⋮ローテート?﹂
﹁研修医の2年間でね、グループで交替で全部の科を回るんだ。俺
みたいに最初から決めてる人以外はね、その時にどこの科に行くか
決める﹂
﹁お前さ﹂
﹁何?﹂
﹁お前は実家が産婦人科じゃ無かったら、どうした?﹂
﹁⋮⋮実家が病院じゃなかったら、サラリーマンとかだったんじゃ
ない?﹂
﹁サラリーマン⋮⋮﹂
一瞬、百目鬼の顔が浮かんだ。
1156
顔や背格好は違うのに、何かが似てる。
﹁いや、産婦人科以外ではどこに進みたかった?﹂
﹁そういう意味か。プシ⋮精神科かな﹂
psychologyをドイツ語か何かで表してのプシ何とかなん
だろう。
素人の俺に解る様に言い換えてくれたのか。
って、精神科なの!?
﹁それはお前が通うって意味?﹂
﹁⋮⋮違う。精神科が一番興味深かっただけ。手術が無い分、色々
考えさせられた﹂
﹁永山が精神科医か﹂
精神を病んだ人が診察室の扉を開けると、永山が瞳孔全開の笑顔で
座っているとか想像するとちょっと⋮⋮何て言うか。
﹁⋮⋮でも、人の誕生を司るのは産科だけだって再確認出来たね﹂
﹁とか言いつつ中絶もするだろうが﹂
﹁⋮⋮そうだね。でも会見以来ガクッと減った﹂
﹁素人の俺は思うんだが、御都合で意図的に中絶する奴って児童虐
待を批判する資格は無いと思う﹂
1157
﹁⋮⋮高浜?﹂
永山が不思議そうに俺を見る。
自分でもちょっとビックリしたが、何か思わず語気荒くなった自分
がいた。
子供を持って家庭を持つのが普通の幸せと言いつつ、それが叶わな
い奈津を知っている事が大きいんだろうか。
奈津が子供が産めなかろうが、世間で中絶をする人からすればどう
でもいい、それこそ他人事だ。
無いものねだりなんだろう。
そんな事は解ってても、産める事がどれだけ産めない奈津が羨まし
がってるかを知っている俺としては耐えられない。
この感情は奈津にとって迷惑だし、中絶する人には余計なお世話極
まりないだろうけど。
﹁一部の特例を除いて、中絶って殺人に当たるんだろ?﹂
﹁⋮⋮まぁ、そうだね。刑法にも212条かな、堕胎罪って言うの
があって一応は﹂
俺の態度に戸惑っていたらしい永山は平静を取り戻したらしく瞳孔
が元通りになったと同時に、仕事モードの顔に変わった。
永山を包む得体の知れないものは一気に消え去り、一般に思われる
お医者さんらしい表情に早変わりした。
俺がこの顔を初めて見たのは例の会見の時だけど。
﹁でも年間30万件近くも中絶ってあるんだろ?堕胎罪との折り合
いはどうなってんだ﹂
1158
﹁そこは現実問題と倫理観の矛盾が生じるところかな。母体保護法
14条にあるんだけど、赤ちゃんの先天的な異常や、お母さんの身
体的或いは経済的なんかの健康や状態を憂慮する理由なら母体保護
法指定医師が人工妊娠中絶を行える事にはなっている。強姦による
場合は、また緊急措置として別扱いだったりするけど﹂
﹁お前も指定医師なんだろ﹂
﹁⋮⋮一応ね﹂
﹁産婦人科医師なら指定医師って事なのか?﹂
﹁各都道府県の医師会とか、社団法人ナントカ医師会って聞いた事
あるでしょ?そこが審査して決める権限を持ってるから﹂
﹁何でお前が決まったんだ?﹂
﹁3年くらいの専門研修期間を経ていたり日本産科婦人科学会の専
門医の資格があって、審査に通れば基本的にはなれる﹂
﹁詳しく教えて貰ってるのに悪いんだけど、堕胎罪とその母体保護
法の矛盾を感じるのは俺の理解力不足か?﹂
﹁⋮⋮そこの争点に関しては最終的には倫理観からの視点が大きい。
レイプでの妊娠にも堕胎罪が適用されると酷なところもあるし、遺
伝子的な戦後の人口増加を食い止める意味での国の政策である優性
保護法ってのが元々の始まりだから、警察もそんな熱心に動かない。
でも、早産で瀕死の赤ちゃんを助けようと必死になっている一方で、
順調に健康な赤ちゃんを同意書1枚で絶命させるのは非常に俺とし
1159
ては辛いところ﹂
﹁その政策が裏目に出て、現段階での少子化対策が遅れてるって事
?﹂
﹁それはあるだろうね。今のまま行けば産科医師が絶対的に足りな
くなるけど、もしかすると何も手を打たなくても大丈夫な程に少子
化が進んでしまうのか。どっちにしても社会的に見て現状もままで
は余り良い未来はないんじゃないか、と俺は思う﹂
﹁なるほどな﹂
﹁うん﹂
永山の顔がいつもの顔に戻った。
今まで話していたのは一体誰だったんだ?
そんな感覚に陥る。
亡くなった永山のお父さんでも乗り移ってたんじゃないかとさえ思
う。
永山の両親とは何度かお会いしたが、お母さんには﹁善良な息子を
悪の道に誘う不良﹂的な目で俺は見られていた。
それに反してたまたま家にいらしたお父さんは、俺を見るなり喜ん
だ。
﹁陽一郎が友達を⋮?﹂
みたいな反応。
俺も﹁いつも仲良くさせて頂いてます﹂って感じで。
お父さんは永山と顔や容姿はそっくりでも対照的な性格だった。
どちらかと言うと、俺に近いかもしれない。
1160
﹁高浜君は一緒に飲みたいタイプだな、高校生なのが残念残念﹂
と豪快にテーブルを叩いて笑った辺りから、俺の当時の気が強過ぎ
て怖い彼女の話とかお父さんの若い頃の悪事のカミングアウトで盛
り上がってしまった。
永山が昼寝してしまったのを良いことに、毅彦が部活で帰ってくる
まで2時間近くも、彼女の誕生日を忘れた時の言い訳や浮気がバレ
た時の対処法まで御教示頂いた程だ。
その後の人生にすごく参考になった。
永山の言う、神経質でとにかく怖いと言うのがどの辺りなのか俺か
らすれば全く謎だ。
こんな父親がいていいなぁって、他人の俺は羨ましく思った。
よその家族に対する客観的な視点ってそんなもんなんだろうか。
でも、永山の話になると
﹁疲れて帰ってあの陽一郎を見てると、心配を通り越して﹃お前は
目を開けて寝てるんじゃないのか!?﹄ってイライラしてしまうん
だ﹂
と苦笑していたから、永山が言うのはそのイライラの部分なのかも
しれない。
人にイライラするほど関心のある証拠だよね。
俺も人にイライラする時ってそうだもん。
毅彦の事も
﹁可愛がろうにも口達者過ぎて全く取り付くシマが無いから、進路
だけは応援してあげたいが⋮⋮心配をすると猛反撃喰らう。顔は可
1161
愛らしいのに性格がキツ過ぎる﹂
と少し切なそうだった。
永山のお父さんが個性の強い息子2人が大好きなのは、高校生の俺
にも伝わって来た。
でも、もういないんだよな。
あのお父さんもお母さんも。
とっくに成人した今の俺には聞きたい事がたくさんあるけど、何を
どうしても永山のお父さんと酒は飲めない。
俺と永山は薄暗い照明の中で無言で向かい合って、何故か腕組みを
していた。
﹁⋮⋮ごめん、何か色々語っちゃった﹂
﹁まぁ色々聞いたのは俺の方だけどな﹂
﹁⋮⋮まぁ、詳しくは毅彦とか、俺の指導医の偉い先生に聞いた方
がいいかも﹂
﹁毅彦、か﹂
﹁そう。高浜は何回かしか会ってないから覚えてないか﹂
﹁⋮⋮いや、覚えてるよ﹂
諸事情により。
1162
それに偶然こないだ見たし。
⋮⋮とはちょっと言えない。
状況説明が難しすぎる。
﹁俺より全然でっかくなって帰って来たんだ、見たら焦ると思う﹂
⋮⋮知ってる。
多分、お兄ちゃんより少し大きい俺よりもでかくなってたしな。
隣に小さいのがいたから余計にそう見えたのかもしれない。
﹁⋮⋮そして態度まででかくなってた﹂
悲しそうにそう言うが、永山の弟は最初に会った中学生の頃から随
分兄にはギャーギャー言ってた。
俺にはお兄ちゃん大好きと言うか物凄い兄貴想いな弟に見えたんだ
けどな。
﹁もー兄さん下手すぎ!見てられない!いいよ俺がやるからあっち
でイチジクでも採って食べてれば?﹂
みたいな感じで、永山を押しのけて俺らの文化祭実行委員の仕事も
すごい手伝ってくれた。
永山も素直にイチジクを採りに行って、半裸で作業する俺らの後ろ
でモソモソ食べてて。
文化祭の色んな装飾を作るときに、自由に出来そうな広い場所が庭
のある永山の家しかなかったんだよね。
学校で派手にやると教師に﹁そんな無駄な時間あるなら予備校でも
行け﹂って煙たがられるし。
チャリでホームセンターに買い出し行ったりしながら、永山兄弟と
俺の3人でトランクス1枚で看板のペンキ塗ったりして。
ブルーシート張り巡らせた庭で蚊取り線香ボンボン焚きながら、疲
れたら駄菓子とかイチジク食べて無駄話して。
1163
その時は毅彦にも﹁凄く申し訳無いと思ってる﹂彼女がいて、何も
知らなかった俺は無責任に恋愛話に花を咲かせていた。
恋愛話って言うか、完全に下ネタなんだけど。
﹁何だよ彼女可愛いじゃん!何でエッチ出来ない訳!?﹂ってプリ
クラ見て俺がアホ全開。
毅彦に負けず劣らずの大きな目にアヒル口の、ショートカットで美
人な彼女に大騒ぎした。
だってこんな可愛い子とエッチしてないと言うかしたくないとか言
うんだもん。
﹁髪型も俺の希望でショートにしてくれたんですけど、何をどうし
ても無理で。頑張って口でしてくれるんですけど⋮⋮身体見るとダ
メですね﹂
﹁何で何で!?俺が代わってあげたい!すぐ彼女連れて来い!﹂
﹁⋮⋮彼女は可愛いし性格もいい子なんで、多分俺がおかしいんで
しょうね﹂
﹁でも緊張したりすると勃たないってあるらしいよ?回数重ねれば
何とか﹂
﹁永山家も俺らの代で絶えちゃうと思います﹂
﹁諦め早ぇ!!何だよそれ!?﹂
﹁だって俺がこれで兄がアレでしょ、このまんま行ったら俺も兄も
結婚とか絶対無理ですよ。間違いなく永山家終了﹂
1164
﹁大丈夫だっつの、毅彦くん潔癖症とかなんじゃない?﹂
﹁はは、それはないですよ。女の子が触れないとかはないです﹂
左手首をゴシゴシと首筋に擦りつけながら、毅彦は割と真面目に続
けた。
﹁だから向こうが誘ってる態度になったら、将来医者になった時の
為って割り切ろうって﹂
﹁割り切ってる?﹂
﹁まぁ入口から奥までこんな感じなんだなとか。役に立つのか知ら
ないけど、指を入れても痛がらない様になるまでヌルヌルにさせる
までが大変なんですよね﹂
﹁ちょっとエロい!!俺が中学生の頃はそこまで余裕無かった!!﹂
﹁エロい、ですかね﹂
﹁聞いてる俺が半勃ちだ!﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁じっと見ないでいいって!!﹂
﹁⋮⋮まぁ俺もさっきからヤバいんですけど﹂
﹁何だよ大好きじゃん、ゴシゴシしてないでその想いをこの格好の
ままサッサとぶつけて来ればいいじゃねぇか﹂
1165
﹁ぶつけていいなら、ぶつけてますよ﹂
﹁もー意味解んねぇ!﹂
そう言ってひっくり返ると、背中に何かが幾つもくっついた。
ナメクジかと思って飛び上がって確認すると、イチジクの皮で。
﹁何でこんなところに捨てるんだよ!!﹂
振り返って体育座りでモグモグしてる永山を怒鳴ると、不愉快そうに
﹁⋮⋮毅彦の背中に投げてた﹂
﹁何で俺に投げるの!?﹂
﹁⋮⋮お前の彼女が来た時の俺の居場所が無いのを思い出した﹂
あぁ何か解った。
部屋が壁一枚の隣同士だもんな。
﹁何それ?﹂
﹁⋮⋮全部聞こえて来るので隣の部屋の俺はすごい困ってる﹂
﹁気を利かせて外出してよ!気持ち悪い!!﹂
﹁⋮⋮してるだろ。でも帰ってもまだ続いていて本当に困る﹂
﹁あ!それを理由に断ればいいのか、兄さんが隣で盗聴するって﹂
1166
﹁そりゃ色々違うだろ。毅彦くんさー何だかんだで楽しそうじゃね
ぇかよ!!﹂
﹁それがそうでもないんですって﹂
﹁⋮⋮盗聴なんて人聞きの悪い事言わなくても﹂
﹁永山も彼女作って対抗すればいいんじゃねぇの?﹂
﹁⋮⋮好きな子がいた事が無いし欲しいとも思わない﹂
そう言うと永山はまた剥いたいちじくの皮を投げるが、ベタベタし
て重いその黄緑とも臙脂とも付かない色の皮は俺が背中を付けた辺
りに落下した。
この意味不明な繰り返しで俺の背中に⋮⋮。
﹁はぁ⋮⋮何か知らない内に付き合ってる事になっちゃってたから、
別れる理由も考えつかない﹂
﹁そんなん共学の特権じゃんか。その元気を兄ちゃんに分けてやれ
よ﹂
﹁⋮⋮毅彦の元気なんていらない﹂
﹁だからいちいち皮を投げないでくれる!?この人、いちいち俺を
イラッとさせるんですよ﹂
﹁⋮⋮母さんが外出しない日に連れて来ればいいのに﹂
﹁いや、それはちょっと﹂
1167
﹁そうだろうな、あのお母さんなら心配しそうだしな﹂
そんな中高生男子にありがちな会話。
たまにお父さんが病院から抜けて来て、﹁高浜くーん﹂とか言いな
がら売店で買ったアイス差し入れてくれたり、お母さんが焼いたク
ッキー差し入れてくれたりして。
永山はお父さんが来ると萎縮し、お母さんが来ると無言になる訳だ
が、俺にしてみると何ていいご両親なんだろうって思った。
何だかんだで俺から見ると永山の家族は、お互いがお互いの言動や
動向にきちんと興味を持ってたり反応してたりで、愛のある家族と
して成立していた感じがするんだよね。
俺みたいに夜遊びして一晩帰らなかったら、永山のお父さんお母さ
んは警察沙汰にしたり倒れちゃうんじゃないかって勢い。
お互いの干渉を嫌う俺の家と全然空気が違ったと言うか。
成績さえ落とさなければ、後は補導されない様に好きにしなさいっ
てのは子供の俺には有り難かったけど。
まぁ、永山にはまだ言ってないけど、両親にとって俺が本当の息子
じゃないから俺が浮いてただけなのかもしれない。
﹁高浜、どうしたの﹂
﹁いや、何故か文化祭のあれ作ってた時を思い出してただけ﹂
﹁⋮⋮文化祭?あぁ、あの2年の時か﹂
1168
﹁今思うと正に青春って感じだったな﹂
﹁⋮⋮時間があったら業者に頼まず毅彦と3人で作ったりしたら楽
しそうだよね﹂
毅彦をこれに巻き込むのってどうなんだ、そう思ったが永山なりに
も、あの時間が楽しかったんだろう。
﹁お前また果物係だぞ﹂
﹁もう1回あれ出来るなら全然構わない。この辺にも何か成ってる
といいね﹂
大人になって色々楽しい事も解禁されてお金もある程度あるけど、
あの十代の頃の色々制限があっても楽しかった時の時間は取り戻せ
ない。
小テストとか定期考査とか模試とか、そして無償奉仕の委員会や行
事も全て遊びと両立して楽しめた。
バイトまでしてたくらいだ。
今は自分の仕事だけしかないのに、あの何をやっても感じていた楽
しさが余り⋮いや全然無いのは何故なんだろう。
逆に考えれば、いつから何でも無意識に全力で楽しめなくなったん
だろう。
鞄の中から単語帳や問題集が消えてビジネス書や仕事の依頼の書類
なんかに代わって、仕事が上手く行く程に財布とタバコと手帳と携
帯だけしか持ち歩かなくなった辺りだろうか。
手帳のスケジュールを満載にしても、携帯のメモリーは新規登録よ
1169
り使わないデータの方が毎年増えて行く気がする。
こんなもんなんだろうか。
未成年にありがちな様々な制限が無くなり、自由になればなる程に
楽しいんだと思っていた気がするんだが、何かが無くなっていって
る気がする。
特に現状に於いての不足は無いけど、一体何でこんな乾いた感じが
するんだろう。
﹁⋮⋮大丈夫?ドア開けていい?﹂
﹁いいよ、お前の家だし﹂
いつもと立場が逆で、今考えなくてもいい様な事をじっくり考えこ
んでいた俺を永山は心配そうに見ていた。
やだなぁ、最近こんなんばっかりだ。
地下室の最後の扉を開けるとそこはもう、映画のセットだった。
﹁⋮⋮すごい﹂
﹁想像以上だな﹂
薄茶色の擬岩に、所々に手枷もたいなのが設置され、中央には滑車
が3つ、そしてその下の⋮⋮
1170
﹁⋮⋮俺、脚立は頼んだかな﹂
﹁忘れ物なんじゃねぇの﹂
何故か滑車の真下に脚立があり、黄色と黒のロープが乗っていた。
業者の忘れ物にしてはデカすぎないか?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
永山はユラユラとそちらに向かうと脚立に上って跨がり、ロープを
手にとった。
そしてそれを滑車に通して行き、端の片方を俺に差し出した。
﹁永山?﹂
﹁高浜、ロープのこっち側持って﹂
﹁お前⋮何をするんだ!?﹂
﹁いいからしっかり持って﹂
とりあえず手に巻き付けて持つ。
何か首でも吊りそうで怖い。
自殺した持ち主の話を聞いたから、余計に。
﹁⋮⋮持った?﹂
﹁あぁ、何をす⋮⋮﹂
その瞬間に永山は脚立から飛び降り、すごい勢いで引っ張られて俺
1171
はよろけた。
﹁痛ぇえええぇ﹂
﹁あれ?高浜が持ち上がらない?﹂
﹁降りろ!!手が千切れる!!﹂
俺が必死で身体を持ってかれない様に両手でロープを引っ張ると、
永山がゆっくり上がって行く。
﹁あぁ⋮⋮俺が上がっちゃった?﹂
﹁何やってんだ!?手ぇ離すぞ!﹂
鬱血した右手から何とかロープを解くと、永山はドサッと床に落ち
た。
﹁何がしたかったんだよ﹂
﹁シーソーみたいに上がったり下がったりなるかなって﹂
﹁何であったのか知らねぇけどそういう風に使うもんじゃねぇだろ、
シーソーしたいなら公園行け!﹂
﹁⋮⋮この歳でお前と公園でシーソーなんてしたくない﹂
﹁俺をさりげなく仲間に入れるな﹂
﹁俺の方が軽そうだから勢いつければ、高浜がポーンって上がっち
1172
ゃうのかと思ったんだ﹂
﹁定滑車の張力とか何かそんな話か?﹂
⋮⋮永山なりにはしゃいでるんだろうか。
余り様子からは解らないが、行動が平素以上に突飛してる。
薄ら笑いを終始浮かべた永山はロープを戻すと、今度は壁の手枷を
眺めていた。
俺も何とはなしに、そのよく出来た手枷を見る。
一枚の鈍く黒光りする板に、手を通す部分が2つあるもう1枚を嵌
めて、ロック部分で固定する。
よくキッチンで使う粉物の口とかを止めるクリップを壁に固定して
あるみたいな作り。
ここに女の子が繋がれるのか。
何だか、背徳感が後ろからジワジワ来る。
やっぱり、俺の頭の中で両手を繋がれているのは奈津。
あのベリーショートを振り乱しながら、﹁お前、これは何のつもり
だ!﹂とか言われたら。
⋮⋮⋮悪くない。
むしろこちらの思うが儘ではないか。
繋がれたり、身動きの取れない女の子にやらしい事した記憶はない。
本当にない。
いつだって和姦100%。
でも⋮⋮いつもガツガツやられちゃう俺が、奈津に下剋上か。
髪の毛掴まれたり、頭を押しのけられたり、引っ掻かれたりと言う
1173
緊張感が無い分、一方的にこちらが好きに出来る⋮⋮。
段々、俺の頭の中で具現化してきた妄想が現実の景色に合成映像の
様に嵌め込まれて行く。
何か、すっごいエロい気分。
手錠とか縄でグルグル巻きとか、もし機会があったら寧ろ僕にお願
いします!だった筈なんだが、頭の中では万歳した状態の奈津の腰
を抱えて目茶苦茶なセックスをしてる自分が浮かぶ。
やっぱり胸は俺の腰の動きに合わせて上下に揺れるんだろうな⋮⋮。
ガシャン。
隣で実際に乾いた音がした。
これは⋮⋮。
拘束する際にこんな音が響いたら、何か変なスイッチが入ってしま
う気がする。
奈津が俺を場所を問わず変態変態と罵倒した理由が解る気がした。
普通のセックスが好きなだけならエロいだけで普通だろう。 エロさに何らかのコダワリを持つと変態なんだろうか。
﹁⋮⋮ねぇ、高浜﹂
﹁何だ﹂
﹁取れない﹂
﹁⋮⋮は?﹂
出来ればもっと悶々としていたかったが、取れなくなったと言う意
外な言葉に思わず振り返ると、そこには壁を向いて繋がれた永山が
1174
いた。
﹁お前、何やってんの﹂
﹁何となく手を入れて頭で押したら閉まったんだけど﹂
﹁取る時の事を考えてなかったんだな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
頭の中の悔しそうに俺を睨む桜色の肌の奈津が一気に遠ざかって行
った。
こういう時って﹁俺⋮何考えてたんだろ﹂な気持ちと、﹁良い夢見
てたのに何だよ!﹂って気持ちが
俺の場合は6:4くらいの割合でせめぎ合う。
まぁ現実に戻って来れないと困るしね、うん。
﹁このツマミを下に下ろすのか?はい、外れたぞ﹂
﹁これは1人では外せないね﹂
﹁自分で自分繋ぐ奴はいないって前提なんだろ﹂
﹁出来心がね、ちょっとね﹂ ﹁それで俺が帰っちゃったらお前どうするよ﹂
﹁大丈夫、高浜は困ってる人を見捨てないから﹂
﹁困ってる人は基本的に助けるけど、でも困った人は置いていくぞ﹂
1175
﹁⋮⋮もうやらない﹂
永山は目を閉じて、擬岩に片頬を付ける。
⋮⋮何かウットリした感じで、俺はついて行けない物を感じる。
﹁⋮⋮スベスベして冷たくて気持ちいい﹂
﹁置いていっていいか?﹂
﹁これ、何で出来てるの﹂
﹁モルタルに樹脂加工がどうたら﹂
﹁もるたる!!﹂
﹁何だよ、モルタルがどうしたよ﹂
﹁ねぇ、もるたるってよく聞くけどコンクリートと違うの?﹂
﹁1:3モルタルって書いてあったっけな。セメントと砂の割合だ
った筈﹂
﹁セメントに砂でもるたるか﹂
いまいち滑舌の悪いまま、永山は納得したらしく壁から離れた。
﹁ねぇ、これ排水溝?﹂
﹁だろうな﹂
1176
﹁部屋の中に排水溝?﹂
﹁まぁ掃除の時の﹂
﹁えぇー⋮?そんなに凄い事するの?﹂
﹁さぁ?お前の想像通りだといいよな﹂
﹁俺はね、延々と女の人が達する姿を見てたいだけなんだけど﹂
﹁⋮⋮いいんじゃない?﹂
﹁でもこう、間近では見られないんでしょ﹂
そう言って永山は手枷の横辺りに体育座りをした。
想像通りで泣けてくる。
﹁そこは俺なりに考えた。お前に特等席をやるよ﹂
﹁本当?﹂
﹁その代わり、ちょっと1部屋貰うけどな﹂
﹁いいよ﹂
安心した様に立ち上がり、永山はユラユラと地下室から出て行く。
その後ろ姿を見ているとやっぱり、悪いとは思うが自殺したちょっ
とおかしい元所有者の話と重なってしまう。
1177
﹁永山﹂
﹁何?﹂
﹁お前、変な気起こすなよ﹂
﹁何、変な気って﹂
﹁⋮⋮何でもないわ、すまん﹂
﹁⋮⋮⋮?﹂
異次元の通路の様な階段を上がり1階に出ると、一気に現実に戻っ
て来れた気がした。
ここが間宮邸だなんて、馬鹿馬鹿しい。
﹁さて帰ろうか﹂
﹁お客さんと女の子は俺が調達するから任せろな﹂
﹁うん﹂
俺の計画はギリギリで言った方がいいかな。
こいつに言ったらここでお医者さんに戻って説教喰らっちゃいそう
だし。
﹁参考までに、その、どんな女の子がいいとかあるか?﹂
1178
﹁どんな女の子?﹂
﹁お前の好みの方がいいだろ﹂
﹁⋮⋮俺の好み?﹂
﹁若いとか年上とか顔のタイプとか﹂
﹁年齢は十代とかお年寄りとかじゃなきゃいいし、顔って言われて
も解らない﹂
﹁そうか﹂
﹁うん﹂
﹁あのさ、永山ってそもそもどんな女が好きなんだっけ?﹂
﹁どんな女?﹂
﹁そうだよ、何かあるだろ﹂
﹁普通でいい。付き合う訳じゃないんだし﹂
﹁じゃ付き合うとしたらどういう女よ﹂
俺が何とはなしにそう言うと、永山の顔は一気にふっ切れた表情に
なった。
﹁そんな子、いない﹂
1179
﹁え?﹂
﹁俺が女の子と付き合える訳がない﹂
﹁何だよそれ。まぁお前は忙しいからな﹂
﹁暇でも忙しくても、俺を好きになって付き合いたいと思う女の人
はいないだろう、と﹂
﹁何だそれ﹂
﹁お前みたいに1人に決めないって言うのも出来ないし﹂
﹁あのさ永山、俺ね﹂
﹁いいんだよ、この先も恋人なんて出来なくても困らない﹂
﹁愛のある生活とかセックスって、結構いいもんだけどな﹂
﹁⋮⋮そういうのしてみたいって思ってた時もあるけどね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は思わず立ち止まった。
そういうのしてみたい。
確かに今、そう聞こえた。
先に車に向かう永山の背中を見て、何とも言えない気持ちになる。
勿論、俺みたいなのが良いなんて思わない。
でもさ?
30過ぎるまで異性と⋮まぁ同性とでも、お互いを特別と思える深
1180
い関係になれないってどうなんだろう。
お見合いが一般だった時代なら、婚前交渉は良くないと言う価値観
は解る気もする。
性格や身体の相性が存在するなんて知らない方が比較対象が出来な
いから良い、そんな感じだろう。
よくよく考えれば、親の都合で連れて来た相手なら誰とでも子作り
出来るって感覚がちょっと凄いな、とも思う。
俺からすれば、家柄や経歴なんて恋愛には一番後回しで良い物なん
だけどね。
まぁ、俺としては2ヶ月後のこいつに、この時のこいつの言葉を聞
かせてやりたい。
誰かがいなければ人は変わらないし、人は人で変わるみたいな典型
的な展開がこいつには待っている、そんな事は俺にも当人の永山に
も全く予想だにしなかったんだけどね。
車に乗り込み、俺は何となく永山に聞いてみる。
﹁あのさ、永山﹂
﹁何?﹂
﹁ここに、猫ちゃんがいるとする﹂
﹁猫ちゃん?シュレディンガーのみたいな?﹂
いきなりそう来るか。
1181
ダッシュボードの上を指差したまま、俺はちょっと考える。
悪いが、その手の難しい話はパスで!!
﹁違う、箱も放射性物質も波動関数も考えるな。普通に猫がここに
いる﹂
﹁心理テスト?この質問、前にも誰かに聞かれた気がする﹂
﹁猫がいたらどうするか動作で表してみ﹂
﹁猫がここにいる⋮⋮﹂
永山はダッシュボードの上を眺めると、徐に両手を伸ばし猫を抱え
る仕種をした。
そして運転席のドアを開けて、ポンと見えない猫を車から離れた地
面に置くとドアを閉め、こちらを向いた。
ただ外に出すだけか。
エアキャットするんじゃとワクワクしてた自分、完敗。
﹁⋮⋮こんな感じなんだけど、これで何が解るの?﹂
﹁えー⋮永山さんは、猫を猫として見てしまう人ですね﹂
﹁猫は猫でしょ?﹂
﹁いや、えーと⋮うん、猫の中にも色んな猫がいます。シロとかク
ロとかトラとかミケとかマンチカンとか﹂
﹁うん﹂
1182
﹁そして色んな猫ちゃんの中にも、お前に懐いて来る猫ちゃんと懐
かない猫ちゃんがいます﹂
﹁⋮⋮まぁそうだろうね﹂
﹁それを考えず、猫ちゃん=外に出すと言う行動を貴方は取りまし
た﹂
﹁まぁ車内に猫は⋮⋮家の中も職場にもちょっと﹂
﹁だから貴方は相手の反応を見ず、自分の中の第一印象や一方的な
カテゴライズのみで相手を捉えるタイプの人と言えます﹂
﹁⋮⋮なるほどな、そうかも﹂
俺がもしかしたらこの手の男は同じ行動をするのでは、と言う下ら
ない期待はアッサリ打ち砕かれ、永山は永山で俺の適当な分析を申
し訳無いくらい真剣に聞いていた。
すると永山の口が横に裂けた。
﹁ねぇ、他にはないの?﹂
﹁え?何が?﹂
﹁今のみたいな心理テスト、俺すごい好き﹂
うぁあ自業自得。
面倒な展開になったが、心理テストのネタには事欠かないんだよね。
心理テスト好きな人って多いし、特に女の子が結構聞いてくるから。
1183
﹁そうなのか、じゃあ⋮⋮赤、青、黄色、茶色の色に当て嵌まる友
人を﹂
﹁⋮⋮俺4人も友達いないんだけど﹂
﹁んーじゃあね⋮ジャングルで遭難したとします。一緒にいた女の
人が袋を持って食料を取りに行きました。帰って来た彼女が持って
きた食糧は?﹂
﹁瓜﹂
﹁瓜⋮⋮か、フルーツを選んだ貴方のアブノーマル度は意外にも低
めです。因みに哺乳類から離れる程にアブノーマル度が高くなるら
しい﹂
﹁⋮⋮アブノーマル度か、考えた事もないな。他には?﹂
﹁他ぁ?じゃあね、鞄を選ぶとしたら次のうちどれ?
A:ブランド物
B:一生モノの一流品
C:着回し気にせず機能性重視﹂
﹁間違いなく俺はC。これは?﹂
﹁えー⋮⋮と、恋愛傾向でAは学歴やルックスや職業重視、Bは妥
協する割に幸せな結婚を望む人、そしてCはどんな時も一緒にいて
くれて裏切らない人を望んでる人だったかな﹂
﹁⋮⋮⋮!!?﹂
1184
はははは、何かこれは聞く方が楽しいな。
いつも聞かれるばっかだったから新鮮だ。
﹁どんな時も一緒にいてくれて裏切らない人﹂
﹁まぁ深く考えるなよ、振ったの俺だけど﹂
﹁⋮⋮そんな人間、いる?﹂
永山は頭の上で手を組んで、遠くを見ていた。
いるのかいないのかで言えば、いるだろう。
ただ、会える保証はどこにもない。
だから会いたければ探すしかない。
探したからと言って見つかる保障もない。
そして俺みたいに探してなかったのにいきなり出会う事もある。
安易に探すのをサボって高望みしようとしたら、鹿田社長みたいな
人達が手薬煉引いて待っている。
21世紀にも占い師が健在なのは、将来への期待と不安は投薬以外
でどうも出来ないからなんだろうか。
すると隣から軋む様な、不可解な音がした。
﹁⋮⋮お腹、鳴っちゃった﹂
﹁今のは腹の音か﹂
﹁ダッシュボードにさ、眠気覚まし用の入ってるからそれで凌ぐ﹂
1185
﹁眠気覚ましので凌ぐ?腹減ってる時に刺激物は﹂
そう言いながらダッシュボードを開けると、ハイチュウが数本出て
来た。
⋮⋮眠気覚ましって言ってたよね、聞き間違いか?
﹁ぶどう味入ってる?悪いんだけどそれ取って﹂
﹁俺も1ついい?﹂
﹁どうぞ﹂
曇り空から晴れ間が見えて、風に吹かれた木々が揺れる。
俺と永山はエンジンも掛けていない為に蒸し暑くなる車内にて、で
溶け気味のぶどう味のハイチュウを無言で噛み続けた。
﹁⋮⋮暑い!﹂
いきなり苛立った永山は漸くエンジンを掛けて、冷房を掛け⋮⋮っ
て一気に最強か。
俺は有り難いけど、助手席が女だったら絶対ブーブー言われてキテ
ィちゃんのモコモコした膝掛けとか常備されるぞ。
暖房が嫌いな奈津はどうなんだろう。
腹と腰にカイロ貼れば冬場のアウターはフリースセーターにパーカ
ー1枚で平気な奈津は、暑い季節は好きなんだろうか。
タンクトップより露出の多いトップスにホットパンツを選ぶのでは
⋮⋮?
﹁暑くなって来たから、そろそろハイチュウの季節は終わりかな﹂
1186
﹁ハイチュウの⋮季節?﹂
何だか映画のタイトルみたいな響きに聞き返すと、永山は言った。
﹁夏場はメントスグレープ﹂
永山が放ったキャッチフレーズの様な言葉と同時に、車は東京都新
宿区に向けて動き出した。
眠気覚ましには秋から春はハイチュウ、夏場はメントスグレープ。
相変わらずの発想だね。
どうでもいいけど、俺はメントスではコーラ味が好き。
﹁高浜﹂
﹁何だよ﹂
﹁さっきみたいな心理テストもうないの?﹂
﹁そんなにかよ、じゃ検索してやるよ﹂
と思ったけど、こいつって考え事すると止まっちゃうんだよな⋮⋮
前を見て薄く笑いながらハンドルを握る永山に、俺は簡潔な質問で
済むものをピックアップする。
永山は飽きる事無く俺の質問に片っ端から答えては、結果を聞いて
﹁そうかなぁ﹂とか﹁まぁそうかもなぁ﹂と言ってはまた次の質問
を催促する。
そんな繰り返しが延々と続いて、遂に首都高まで来た。
1187
1時間以上も心理テスト尽くしとか。
そうだよな、将棋も1時間半みっちりだったもんな。
心理テストの結果で行けば、永山は愛情に餓えていて一緒にいられ
る人を欲している結婚願望の強い家庭的な人だ。
本人の弁とは全くを以て、真逆。
俺は愛情にドライで他人に冷酷で束縛も大嫌いで自分が何より大切
な自己中な人となった。
合ってる様な合ってない様な。
客観によって主観が変わる事はあるけど、心理テストで出された答
えって鵜呑みにしたところでどうするんだろう。
そう思いながら俺は途中で飲み物を買わなかった事を後悔した。
ハイチュウしかない車内って、思いの外キツい。
﹁高浜﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮もうネタ切れ?﹂
﹁ちょっと待て、探す!!﹂
自分ではそんな全然ドライでも冷酷でもないと思うんだがな。
どうなのかな。
俺は甘い物の連続攻撃でケバケバして甘ったるくなっている舌を上
顎に擦り付けると、携帯に視線を移した。
1188
出題者の俺が確信を持って言えるのは、﹁永山は普段は余り関心が
無くても一旦ハマったら延々とハマり続けるタイプ﹂と言うこと。
そして俺は﹁期待されると絶対期待以上の結果を出したがるタイプ﹂
なんじゃないだろうか。
そんな事を思いつつ、俺は次の心理テストを読み上げた。
1189
★高浜 武志・7★︵後書き︶
毎度毎度謝る事が沢山で
それが一番申し訳無いです。
もう高浜は高浜で本編終わった後に書けば良かったのでは⋮⋮
なんて今更思ってしまい
平素から自分の頭の悪さには
時折酔いそうになる事は度々あります。
早く本編に追い付け高浜!!
これからもその時の思い付きで
よく考えたつもりだったけど⋮⋮あれ?
そんな展開になるとは思いますが
お付き合い頂ければ幸いです!!
1190
★高浜 武志・8★︵前書き︶
お久しぶりです。
登場人物がダーッと出て来ますが
ほぼ流して大丈夫だと思います。
1191
★高浜 武志・8★
目の前で、ポソポソしたオムライスに赤いケチャップで俺の名前と
ハートマークが描かれて行く。
あぁ⋮⋮奈津が初めて俺の家に来たあの日の、俺の不可解な似顔絵
が描かれたオムライスはあんなにおいしそうだったのに、大好物が
美味しそうに見えないのは料理の所為なのか雰囲気の所為なのか。
﹁出ッ来上ッがりで∼す!﹂
ケチャップを片手に、ウサ耳を付けた何とも言えない衣装の女の子
がガッツポーズをした。
そして俺の名前とハートマークが描かれたオムライスを徐にスプー
ンで掬うと、
﹁あーーん﹂
と俺に向けて差し出す。
この子が不細工だとか可愛いとかは、正直どうでもいい。
恐らく写真だけなら、そこらの飲み屋のお姉ちゃんとして使える顔
ではあると思う。
でも、俺の思う店の女の子とタイプが違う。
﹁ほら、高浜!せっかくNo.1ウサピョンのキラちゃんがあーん
してくれてるのに!﹂
1192
﹁ごめんねーコイツ緊張しちゃってるんだよー怖いけど許してねー﹂
両隣から揶揄とも罵声とも付かない言葉が飛んで来る。
お前ら、豪快に殴らせろ。
そう思いつつ、俺は差し出されたスプーンを口に入れて見た。
ま、まずい。
家庭科の授業でももっと美味いの出来る気がする。
あぁ、俺はどうすれば⋮⋮。
﹁おいちーですかぁ?﹂
キラちゃんと呼ばれた子が、小首を傾げてウルウルと写メ詐欺のア
ングルで俺を見てくる。
⋮⋮あれか、先程から皆さんがされているあれをせねばならんか。
俺はキラちゃんの付け睫毛バシバシの瞳をジッと見た。
キラちゃんは﹁⋮えっ﹂って顔をしてうろたえる。
その仕草とウサギの耳に、俺も意志を固くした。
大嫌いなジェットコースターに数回乗った男だ、何のこれしき。
俺は小さく深呼吸をすると、両手首を頭頂部に付け、指先を天井に
向ける。
﹁おいしーーぴょん!!﹂
店内のやる気の無い照明を見ながら俺の世界は崩れた。
と言うか俺自身が吹っ切れた。
﹁じゃ次はキラちゃんにあーんしてあげる!!﹂
﹁えぇーいいんですかぁ?﹂
1193
﹁はいあーーーーーん!!!﹂
﹁もーやだぁー、おいしーぴょんっ!﹂
もう俺の勢いは止まらない。
何だか奈津に追っ掛けられてる時みたいな高揚とか疾走感すら感じ
つつ、俺は何故か鹿田社長を逆恨みした。
事の発端は、女の子を挟んで俺の両隣にいる高校の同級生の斎藤と
俺の小学校時代の同級生の川井の両氏がプログラマーだかクリエイ
ターの知人を連れて来る事になって。
じゃあ両氏初対面だけどどっか行こう、来て下さったそのお友達に
どこ行きたいか聞いといてねって事だったのだが、そのお友達が2
人共、偶然にもこの店を指名したのである。
何そこ全然知らない!ってホームページ見たら、まぁ、何と言うか。
そうだよね、キャバクラ行けば喜ぶ男ばっかじゃないもんね、俺も
知らない境地行く良い機会でしょう、そう思って俺も2つ返事でO
Kしたんです。
んで、細井も仕事終わってから友達連れて合流する並びになりまし
て。
秋葉原のドンキホーテ前で待ち合わせして、俺は駐車場に車停めて
から合流。
金曜日の夜の秋葉原で斎藤と川井を探すのは大変かと思ったが、向
こうがいち早く見つけてくれた。
1194
﹁高浜!﹂
最初に斎藤に出会った。
隣には斎藤より細い、金髪だけど地味な感じの大人しそうな男がい
た。
その彼は俺を見ると、ヤクザに凄まれたかの様な顔をした。
﹁新倉、大丈夫。こいつ良い奴なんだよ、日本語通じるから﹂
﹁あ、どうも。高浜と申します﹂
﹁あ、は、はい。俺、あの僕は新倉って言って斎藤と大学のゼミが
一緒で、何か今日はその﹂
﹁新倉、緊張しすぎって﹂
﹁新倉さん、今日はお忙しい中、ありがとうございます﹂
﹁いや、あの、別に忙しいとか、俺は今は。専門、通ったりで仕事
してなくて、いつでも暇なんで、大丈夫なんです﹂
話し方はたどたどしいけど、悪い奴じゃないのが伝わって来た。
﹁で、もう1人いるんだろ﹂
﹁そう、俺の小学校の同級生で川井って言うんだけど﹂
﹁川井さん、か。どんな人?﹂
﹁俺と一番仲良くて、川井が大学生の頃まではよく遊んでた﹂
1195
﹁大学?どこ?﹂
斎藤君⋮⋮相変わらずだね。
俺はちょっと内心苦笑した。
すぐ出身高校や大学の名前言うのは俺には解らない心理だが、まぁ
いいだろう。
川井の大学の名前を言うと、
﹁ふーん、国立か﹂
﹁今は市役所で働いてる﹂
﹁地方公務員か、いいなぁ﹂
みたいな反応。
高校の同級生ではよくある反応だし斎藤が間違っている訳でもない
んだろうが、俺が永山と一番仲良いのはこういうのが無いのが大き
い。
永山は少々変わっていても、人の話は彼なりにちゃんと聞くし、人
と張り合ったり自慢したりの自己顕示欲が全然無い。
﹁まぁすごいノリはいい奴だから。見た目バンビみたいだけど﹂
﹁ノリの良い市職員ってどんなだよ﹂
﹁会えば解る。ただ、奥さんと2歳の子供がいるから終電には乗せ
てあげないとまずい﹂
﹁えぇーもう家庭持ってんの?もっと遊べばいいのに。結婚なんて
1196
男にメリット無いだろうよ﹂
﹁まぁ、いいんじゃない?愛妻家なんて素晴らしいじゃんよ﹂
そんな話をしてると、
﹁たーけーし!!﹂
と、背後から鼻声がした。
﹁久しぶりじゃねぇか川井!!﹂
﹁お前は後ろ姿でも解るわー、あ、どうも。こいつの友人の川井で
す﹂
少しきつそうな紺のスーツ姿の川井が相変わらずの童顔に鹿を思わ
せる黒目がちな目をグリグリさせて斎藤達に挨拶をした。
斎藤はさっきの雄弁さは消え、川井に事務的な挨拶をする。
﹁でね、高浜、こちらは飯倉。俺の職場の後輩﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
川井の後ろから、やや髪が長めのポッチャリとした男が俯きがちに
声をくぐもらせて頭を下げた。
﹁飯倉は良い奴なんだよ、な?飯倉?﹂
1197
そう言って、川井は飯倉の背中をボスンと叩いた。
飯倉は更に萎縮している。
﹁高浜が怖いんじゃねぇか、そちらの⋮えーと?﹂
﹁に、新倉です﹂
﹁新倉さん?間違えそう⋮紛らわしいから飯倉はドンちゃんと呼ん
で﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁ドンちゃん?﹂
斎藤が聞き返すと、川井は笑顔でドンちゃんの肩に手を回し、
﹁どんどん仕事覚えるからドンちゃん﹂
﹁⋮ち⋮⋮違、ドン臭いの⋮﹂
﹁何だよ、そういう事にしとけよ﹂
そう笑顔で川井に押し切られ、飯倉改めドンちゃんは逆らえない感
じで頷いた。
﹁後で1人俺の⋮⋮知り合いの会社の奴が来る﹂
﹁武志の知り合いの会社?何の会社よ﹂
1198
﹁まぁ詳しくは後で話すわ、今日は顔合わせ程度に考えてくれ﹂
﹁えー今度は何やんの?ってか武志は今何やってんの?﹂
﹁まぁそれは後でね﹂
﹁何だよ、ホストはもう辞めてたっけ?﹂
﹁とっくに辞めてるわ﹂
﹁ホスト⋮⋮﹂
何故か同時に新倉さんと飯倉改めドンちゃんが呟いた。
﹁ごめんね、昔の話だけどガラに合わない仕事しちゃってて﹂
﹁い、いえ、何かすごい合ってると思います!﹂
って新倉さん、ホストがすごい合ってるって褒めてるの?
﹁高浜は今、キャバクラと風俗数店を仕切ってる﹂
﹁あっはっはっはっは、何か超納得﹂
斎藤、余計な事を言うな。
川井は笑っても、新倉とドンちゃんが引いてる。
﹁武志はねー、小学校の頃からこんな感じでしたからね﹂
﹁斎藤、話半分に聞いといて﹂
1199
﹁EHKリーダーは衰えてねぇのか﹂
﹁EHKって何ですか?﹂
﹁国営放送だよ﹂
﹁ちっげーだろ武志、エロ本研究所っすよ﹂
﹁え、えろほんけんきゅうじょ!?﹂
斎藤と新倉さんとドンちゃんが繰り返す。
3人が言葉を合わせるなんてそうそう無い光景だろう。
﹁何かね、俺らが子供の頃ってよくエロ本落ちてたじゃないですか﹂
﹁⋮⋮そうなんですか?﹂
﹁で、それを秘密基地でみんなで読んでて。そのリーダーがこいつ
で﹂
﹁秘密基地でみんなでエロ本を読む!?﹂
﹁そうそう、こいつめっちゃモテてたのに当時からエロ本大好きで。
まぁ俺もなんすけどね、廃工場とかに入ってみんなでね﹂
﹁廃工場、ですか⋮⋮!?﹂
﹁もう受験前日でもこいつは俺とどっちが出るか競争して⋮ってぇ
な、何だよ!﹂
1200
﹁育ちのいい斎藤君がドン引きしてるっつの、止めろって﹂
﹁どっちが出るって⋮⋮﹂
﹁え?当時は子供だったからどっちが早くイケるか競争とか普通に
してたんですよ、こいつは小学校の頃に既にもうってぇな、眼球飛
び出すかと思ったわ!!﹂
そう言って、川井は俺の後頭部を叩き返してきたのでまた俺が叩き
返す。
﹁目ならもう出てるだろ﹂
﹁出てねぇよ、出すのはお前遅かったよなってお前色んな意味で手
早いっつの!!﹂
いやーだって余りにも下品なんだもん、やだやだ。
まぁ他の3人いなかったら俺も乗ってた話題ではありますが。
えー⋮⋮80年代後半から90年代前半当時はですね、普通にその
辺にエロ本が落ちてたんです。
それを通行人がいなくなったのを見計らってサッと拾って、秘密基
地まで﹁EHK!EHK!﹂とかUSA!みたいなノリで言いなが
らダッシュで秘密基地まで持って行ってみんなで気まずくも大喜び
で読んでただけです。
19歳の時に
﹁戻すとき絶対手洗ってないのでは⋮⋮?﹂
と、レンタルが触れなくなった俺ですが、当時の落ちていたエロ本
は神様のプレゼントみたいな有り難みがあった気がします。
1201
勢いでみんなで無理矢理に皮剥いて絶叫して、親に脚の付け根が痛
いと体育見学して休み時間も大人しくなった僕らも、もうすっかり
大人になりました。
﹁女子が﹃高浜君をエロの道に連れて行かないで!﹄とか言ってる
時の、お前のやらしいドヤ顔が忘れられない﹂
﹁何それー知らなーい﹂
﹁何かね?こいつ顔は良いわ運動出来るわで女子にはめちゃくちゃ
モテて﹂
﹁高校の時も派手に鳴らしてましたよ、高浜は﹂
﹁でしょー?でも一番エロかったんですよ、チンコも一番でかかっ
たし!お前さ、さっきから俺の事殴り過ぎだっつの!!﹂
﹁俺の話で盛り上がってどうするよ﹂
﹁高浜⋮⋮お前、恐ろしい小学生だったんだな﹂
﹁いや、斎藤、あのね﹂
斎藤が軽蔑とも何とも言えない顔で俺を見ている。
あぁ⋮⋮川井とは、1対1で話すと最高盛り上がれるけど、流石に
他の友人の前でやられると辛い。
元EHKメンバーとならまだしも。
そうか⋮⋮あのメンバーで小平に残ったのって、川井だけだな。
﹁川井、お前奥さんと美緒ちゃんが泣くぞ﹂
1202
﹁いいよー、奥さんも美緒も俺の事大好きだから!俺も奥さんと美
緒の為なら死んでもいいもん﹂
﹁俺が奥さんと美緒ちゃんならお父さんがEHK副リーダーってだ
けで死にたいけどな﹂
そう言ったが、何かね、川井の顔見たら絶対勝てない何かを感じた
気がした。
勝ち負けってのはちょっと違うけど、守る物がある男に対して何も
無い自分を認識しちゃった。
かと言って結婚して家庭を持ちたいかと言うと、それは無いんだけ
ど。
少々ヤンチャしても、結局は高校からずっと付き合ってた彼女と結
婚した川井と俺の決定的な違いと言うか。
﹁お前にカナちゃんと美緒は絶対会わせん﹂
﹁何でだよ﹂
﹁高浜に会わせたく無いって気持ち、解る気がします﹂
﹁⋮⋮斎藤?﹂
﹁そーそー解るでしょ!?何か彼女とか絶対こいつに会わせたくな
い気持ち!!﹂
﹁何だそれ﹂
﹁俺の前の彼女も、卒業アルバム見せたらお前が一番カッコイイっ
1203
て言ってた⋮⋮﹂
﹁そうそう、うちの奥さんも武志指差して﹃この人、ハーフ?絶対
今イケメンになってそー﹄とか言うし、コイツ女見たらすぐ口説く
から美緒も危ない﹂
﹁ははは、美緒ちゃん⋮娘さん幾つなんですか?﹂
﹁女盛りの2歳ですよ、可愛いから誘拐されたらどうしようってい
つも心配で眠れない﹂
﹁2歳⋮⋮幾ら高浜でもそれは無いと思いますよ﹂
﹁いや、こいつのストライクゾーンはマウンド全体に及びますから
油断出来ない﹂
⋮⋮言いたい放題だな。
俺はちょっと自分を見つめ直したくなった。
そこまでか?
本気でそこまでなのか?
まぁいいや、それで斎藤と川井が仲良くなれるんなら。
で、斎藤と川井はいいにしても新倉とドンちゃんは⋮⋮。
後ろを振り向くと、新倉とドンちゃんも何やら話している。
盛り上がっては無いが、何やら共通の会話を見つけた様子。
良かった良かった。
メインはこの2人だからな。
﹁高浜、これから行くお店ってこの辺なんだよね?合ってる?﹂
﹁まぁそこは後ろの2人に聞いてやれよ。新倉さん、飯倉さん、こ
1204
っちで合ってます?﹂
俺が聞くと、2人はやっぱり硬直して俯いた。
口元は﹁⋮⋮はい﹂とか﹁⋮⋮まぁ﹂って感じに動いたので合って
るものとする。
﹁武志、ドンちゃん威圧するなよ、可哀相だろ﹂
﹁してねぇよ﹂
﹁で、どんなお店なの?﹂
斎藤がちょっと興味津々。
俺は一応ホームページは見たんだが、何と言えばいいか⋮⋮。
﹁あのチラシ配ってる女の子いるだろ?﹂
﹁あ、メイドさん?﹂
﹁あんな感じをちょっと凄くした様な﹂
﹁メイド⋮キャバクラ?﹂
キャバクラから離れろ、斎藤君。
まぁその世界に引き込んだのは俺だけど。
今度は俺の方が知らない世界に引き込まれる訳ですが。
﹁うははは、俺、ご主人様とか言われちゃうんだ﹂
1205
﹁川井の思うご主人様じゃねぇと思うぞ﹂
﹁えーいいじゃん、俺、怖いもの見たさで行ってみたかったし!ね
ぇドンちゃんってよくそういうの行くの?﹂
川井が振り返ると、ドンちゃん達はチラシ配りの女の子の勧誘に引
っ掛かっている。
ピンクのツインテールって言うのかな、何かのアニメのキャラクタ
ーなんだろう。
そんな女の子に引っ張って行かれそうになっていたので、
﹁ごめんね、もう予約してるお店があるんだ﹂
と、俺がその女の子に言うと、女の子はビクッとして引き下がった。
何かガッカリしてる2人を見て、店を指名したのはお前らだろが!
!とちょっと思っちゃう。
﹁あ、ここです﹂
もう暫く歩くと、当初の目的のお店に着いた。
﹃うさぎさんとねこさんの森﹄
と言う、絵本の様な店名の書かれた看板を見て、何故か不穏な気持
ちになるが勇気を出して扉を開ける。
カランカラーンとドアベルが鳴り、
1206
﹃おかえりなさいませー!!﹄
と言う若い女の子達の声が響いた。
あの、初見なんですけど⋮⋮。
﹁7時に予約した高浜です﹂
﹁はぁーい﹂
何かね、テーブルと椅子が学園祭レベルなんだよね。
まぁ俺がどうこう言う話じゃないけどね。
ドンちゃんと新倉さんが良ければ⋮⋮と2人を見ると、女の子そっ
ち除けで何かものすごく饒舌に何かを語り合っている。
あのー⋮⋮別にこのお店でなくても良かったとか何とか⋮⋮。
﹁おかえりなさいませ!この森に来るのは初めてですかぁー?﹂
何かアニメ声の女の子が俺達のところにやってきた。
カチューシャに猫の耳がついている。
ウサギの耳がついている子もいる。
どーせならバニーガールでいいじゃねぇかよと思うが、それでは趣
旨が違うんだろうな、多分。
おかえりなさいませ!で初めてですかぁー?って、何か不思議な感
じ。
﹁こちらメニューですー﹂
1207
﹁どうも﹂
メニューは普通のカフェにありそうな⋮⋮いや、タコ焼きとかある
から違うか。
ホストクラブやキャバクラの冷食で2000円とか取るのよりかは
少し安い程度の価格設定。
でもね、この規模の小さい店なのに、入って美味しそうな匂いが殆
どしない時点で冷食決定な気がする。
﹁ねーこの掻き混ぜサービスって何?掻き混ぜていいの?﹂
﹁あ、これはですねー、コーヒーとかお紅茶のミルクとお砂糖をマ
ゼマゼするサービスですっ!﹂
ミルクとお砂糖を混ぜ混ぜ⋮⋮。
別にエロい意味じゃないだろう。
﹁どこで混ぜ混ぜしてくれんの?﹂
川井⋮⋮オッサン全開だな。
﹁もーご主人様何言ってるんですかー﹂
女の子も慣れてるんだな、こういう迷惑なオッサンに。
でもどこで混ぜ混ぜするのか、ちょっとだけ言わせたい気持ちが解
る俺もオッサンだけどな。
﹁こーんにちはぁ﹂
ウサギ耳を付けた女の子が俺の隣に来た。
1208
フワッと甘い匂いがして、あぁ世の女の子はこういう匂いがするん
だよな、トニックシャンプー愛用とかしないんだよね、でも俺はト
ニックシャンプー好きな女が大好きなんだよとかよく解らない事を
考えた。
﹁キラちゃん⋮⋮!﹂
新倉とドンちゃんが、その女の子を見て会話を止めた。
﹁何、有名なの?﹂
斎藤が聞くと、
﹁ウサピョンNo.1の子です﹂
と、解るような解らないような簡潔な解説をドンちゃんがした。
﹁No.1なんだ﹂
俺がとりあえず笑顔で言うと、
﹁えー恥ずかしー!みんなが応援してくれたお陰ですぅーっ!﹂
とか何とか照れて見せた後に
﹁じゃいっくよーせーーの!キラァ∼⋮うっれしーピョン!!﹂
と両手首を頭頂部に載せ、ウサギの耳と重なるように手の平を立て
てそう叫んだ。
うれしー⋮ぴょん?
1209
前を見ると、新倉とドンちゃんが真剣な面持ちで同じウサギポーズ
をしている。
﹁あっはっはっは、やっべー楽しそー﹂
﹁あの、これやるって決まってるの?﹂
川井と斎藤の反応は対照的だが、俺は何かどっちの気持ちも解った。
うっれしーピョンなんて未来永劫やる事はないだろうから乗っとき
たい気持ちと、いやちょっとそれは⋮⋮って気持ちかな、多分。
とりあえず本日のオススメのメニューを注文して待ってる間、俺と
斎藤と川井は周りを伺っていた。
何かね、やっぱり人間って慣れないところに行くと周りを伺っちゃ
うもんなんだろうな。
キャバクラのカウンターで黒服のフリして見てると、慣れてる客と
慣れていない客ってすぐ解るもん。
そして今は俺がその側。
何かね、こういう時って妙な緊張があるんですが。
それをどう取るかで何かその後が変わったりする気がする⋮⋮⋮。
﹁お待たせしましたぁ!本日のオススメ、森のきのこのオムライス
ですっ!﹂
斎藤が真顔で﹁きのこの山のオムライス3つ﹂と名前を間違えて、
キラちゃんに失笑されたんだったな⋮⋮。
何かこの店で、俺はキャバクラに初めて行って居心地の悪い客の気
持ちが解った気がする。
何事も案外、無駄にはならない。
1210
そして、女の子が手にケチャップを持ち、
﹁お名前書きましょうか?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
で了承したとされたと言う展開で、冒頭に至る。
肝心の新倉&ドンちゃんも仲良くなれたし、後は細井の登場で全員
揃って、そこから次の予定である新宿御苑に連れて行けばいいかな
って算段。
もうね、鹿田社長は案の定、
﹁あ?高浜、もう動いてるの?﹂
みたいなノリで、興味があるんだか無いんだかよく解らない。
佐藤の言う、その場の気分みたいなのだったのかもしれない。
でも本来部外者の俺としては、やらないで怒られるより、求められ
る以上の物を出して逃げきった方が無難な訳で⋮⋮。
職場のモチベーションも売上も上がったみたいだし、そろそろ俺も
御苑から身を引こうかな、と。
そう思ってオムライスを食べさせて貰っていると、携帯が鳴った。
細井かと思ったが、倉田から。
ちょっとごめんね、そう言って俺は席を立った。
﹁どうした?﹂
1211
﹃今日ですよね、何か鹿田ミッションの顔合わせ﹄
﹁そう。今みんなで飯食ってる﹂
店の外に出ると、何だか身体が軽くなった。
店内の換気が悪いのもあるが、やっぱり何だかんだ言っても俺には
居心地が悪い。
その上何か敗北感まで感じた。
﹃あの、何かその例の友達、やっと捕まったんですけど、もし迷惑
じゃなければこれから合流してもいっすかね﹄
﹁そうか、ありがと。構わないけど、今ね俺達は秋葉原にいる﹂
﹃アキバですか⋮じゃこれから﹄
そう言った倉田の言葉を遮る様に、電話口からもう1人の声が聞こ
えた。
﹃クラッチさーアキバ行くんなら中央・総武線コンボじゃん?何で
山手線向かうかな、東京に何年住んでる訳?﹄
そっかちょっと待って、
電話口を塞いだらしく少しくぐもった倉田の声も聞こえた。
仕事でそれやっちゃダメだぞ。
﹃じゃこれから向かいますので、そうだな﹄
﹃快速あっから20分もありゃ着くっしょー、そっからどこ行くか
1212
知らんけど﹄
何て手強そうな御連れの方。
まだ新倉とドンちゃんの方が気が楽かもしれない。
﹁とりあえず秋葉原着いたら連絡してくれ、場所は後で﹂
﹃解りました、駅から連絡し﹄
﹃クラッチさぁー二度手間じゃんかよ、迷ってアーッてなって迎え
に来て貰っちゃうとかになる位なら場所聞いとけばぁ?場所なんて
電車乗って検索すりゃいーじゃん、駅着いたら着いたって連絡だけ
して﹄
⋮⋮ごもっとも。
非常に効率的なお友達だな。
﹃そうだな⋮あ、じゃお店の名前も聞いて置いていいですか?﹄
店の名前。
振り返って看板を眺め、一呼吸置いて読み上げる。
﹁うさぎさんとねこさんの森、だ﹂
﹃うさぎさんとねこさんの⋮⋮﹄
﹃ぎゃはははははははは!!俺でも名前知ってるくらいヤバい店じ
ゃん、ちょっクラッチ、どういう人と会うわけ﹄
﹃ギッポンお前うるせぇよ、ちょっと黙ってて﹄
1213
ギッポン⋮⋮って言うの?
頭も回る悪い奴では無いとは思うが、倉田を確実に見下してる様な
印象を受けて、正直俺は面白くない。
そんな個人的な印象以上に、良くも悪くも口さがないギッポン君を
鹿田社長に会わせるとどうなるのかなって心配がちょっと。
って思う時点で、俺がギッポン君を侮ってるのかもしれん。
﹃すみません、すぐ行きます﹄
﹃クラッチすぐイキそうなタイプだもんねー﹄
﹁待ってるよ、お友達にも宜しく伝えといて﹂
﹃高浜さーーん、俺、高浜さんと会えるの楽しみにしてますよぉ!
!﹄
ギッポン君の声が電話の向こうで近くなった。
電話が切れてからちょっと思った。
ギッポン君の態度、二十歳くらいの俺に似てるわ。
あそこまでバスバス言わなかったとは思うけど⋮⋮アレだな、同年
代の奴より何かが優れてるってその時ばかりの過信と、俺はやれる
人間なんだって絶対的な自信があるって言うか。
今思えば、あの頃のそういう気持ちは⋮⋮愛おしいくらい黒歴史だ
けどね。
あ、そうだ⋮⋮細井も用事終えたら来るんだっけ。
店の名前、メールしとこう。
1214
俺がメールを送って店の中に戻るとドンちゃんがウサギ耳の女の子
に囲まれ、手拍子に合わせて何やら激しく踊っている。
俺が遊んでた頃のクラブなんかでは余り見なかった振り付けだが、
ドンちゃんは汗でシャツの色を変えるレベルで真剣な眼差しで踊っ
ていた。
﹁あっははははははすごいすごい、ドンちゃんそれで窓口やんなよ
!!﹂
川井がでっかい口を開けてのけ反って爆笑している。
かなりの二重顎にちょっと驚いたが、同い年の俺もきっとどっかに
来てるんだろうな⋮⋮。
﹁はぁ⋮はぁ⋮リボンたん、どう?﹂
踊りが終わるのを待って俺がサッと席に着くと、ドンちゃんは汗を
光らせウサギ耳の子に詰め寄っていた。
﹁すっごい上手ですね∼いっぱい練習したんですかぁ∼?﹂
慣れた表情で返された笑顔に、ドンちゃんは照れながら俯いた。
﹁り、リボンたんのリクエストだから⋮⋮あっ﹂
俺と目が合うと、リボンたんとは対照的な表情で萎縮する様に俯い
た。
﹁楽しそうで良かったです﹂
1215
俺が笑顔で言うと、
﹁あっその、そういう何か、うん、踊りがあるって言うか、まぁ﹂
と可哀相なくらいしどろもどろ。
﹁ドーンちゃーん、窓口モード禁止ィ!!もう武志はヤクザ市民が
来た時の練習だと思って﹂
﹁川井⋮⋮﹂
﹁ヤクザじゃないですよねー、イケメンですもんねー﹂
俺の両肩に細い手が置かれた。
キラちゃん、ありがとう。
流石、No.1うさぴょん。
でもヤクザって俺が知る限り、顔面偏差値は案外高い気がする。
﹁チッ、また武志に持ってかれたよ﹂
斎藤が俺を小突く。
斎藤⋮⋮ここはそういうお店じゃありません、多分!!
﹁あの、高浜さん﹂
新倉さんが俺に恐る恐る尋ねる。
紛らしいからオサライすると、斎藤が連れてきた金髪の方が新倉さ
んで、川井が連れてきた市役所職員が飯倉さん。
金髪の隙間から見える、深い二重瞼の目は俺をジッと見ていた。
1216
﹁俺は今日、何をすればいいんですか﹂
﹁斎藤、伝えてないの?﹂
﹁え?﹂
﹁斎藤から﹃お前の力が必要なんだ!!﹄って言われて、あの﹂
何それ、何ッも伝わらねぇじゃん。
﹁だって俺も武志の説明がイマイチ解らなかったからさー﹂
解らないなら聞きなさい!!
まぁ俺はお願いした身分な訳で、ここでもう一度確認しておこう。
俺も全く未知の領域だから、どこまで何が出来るのか自己申告して
貰わないと⋮⋮。
﹁今日こうして来て頂いたのはですね、今から大きなプロジェクト
が始動する予定です﹂
﹁プロジェクト、あの山奥の別荘の﹂
お前に規約の文章頼んだそっちは違うっつの!!
俺は斎藤に軽く首を振ると、汗だくのドンちゃんと新倉さんに続け
る。
﹁まぁ一種のIT系の会社がですね、俗に言う⋮⋮ソーシャルゲー
ムのプロジェクトを立ち上げる訳です﹂
1217
2人は固唾を飲んで見守っている。
﹁それもイチから﹂
俺が含蓄めかすと
﹁い、いちから﹂
﹁おお、俺らでって事ですか﹂
と、好奇心より不安が勝った反応が同時に来た。
﹁それで申し訳無い事に、僕もその社長も全くの素人どころか無知
な訳です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の話を聞いてくれていると信じたいが、2人の視線は俺の背後に
いるキラちゃんにチラチラ移り、俺の声に被さる様に聞こえるキラ
ちゃんと斎藤川井のオッサンコンビのキャピキャピした絡みを無視
して俺は続ける。
﹁もし、これがやりたいとか、そこまでは出来ないってのがあれば
何でも遠慮無く言っ﹂
﹁とか言って絶対いるんでしょ彼氏﹂
1218
﹁いないですよぉ、キラはモテない子なんですっ!!﹂
﹁はいはい僕は信じませんよー﹂
﹁これから加わって頂く僕らの会社の人間も、一応まぁIT系を名
乗ってはいますが、ゲームのシステムや内容には全くの素人なんで
す﹂
﹁いない方がおかしいって、可愛いもんキラちゃん﹂
﹁いないですってー、ぶちゃいくキラをイジメないで下さいっ﹂
﹁怒っても可愛いねー﹂
﹁あの、もし無理な仕事内容とか言われたら、僕に言ってくれれば
善処致しますので﹂
﹁もーー眼鏡男子はドSって本当ですねっ﹂
﹁はははは解る?俺もそう思う﹂
﹁俺は武志と一緒で自分本位なドMだけどね!!﹂
⋮⋮⋮⋮。
何か、この店選んだの、失敗だった気がする。
話が噛み合わない。
キャバクラでするのは商談じゃなく接待。
ファミレス以上キャバクラ未満な感じだと思ってた俺が完全に間違
っていた。
1219
ドンちゃんも新倉さんも、俺の話を聞きつつ、キラちゃんや女の子
に目が泳いでいる。
これで風俗営業許可取ってないだなんて、法律はザルもいいとこだ
よな。 馬鹿らしー俺もコスプレ喫茶でもやろっかなー。
そんな俺が逆切れをしている間にも川井斎藤のオッサン2人は、俺
を挟んでキラちゃんやリボンたんと盛り上がっている。
﹁えー結婚してるんですかぁー?見えなーーい﹂
﹁そうそう、だからもうそろそろ帰らないと﹂
﹁もーちょっとゆっくりしてって下さいですよぉ﹂
﹁あははは奥さんに怒られちゃうから﹂
﹁既婚者って大変ですね﹂
斎藤が苦笑して川井に言うと
﹁まぁ⋮その分、独身には無かった幸せがいっぱいありますから﹂
と、川井が薄く笑って返した。
お互いの優越感に満ちたやり取りに見えるが⋮⋮いいじゃないね、
その人が幸せって思える進路選択で幸せになれば。
﹁あ、あのかか川井さん﹂
﹁ドンちゃんは大丈夫でしょ?明日振替休日なんだから﹂
1220
﹁そそうですけどででも﹂
先程の踊りまくってた勇姿はどこへ⋮⋮そんな勢いでドンちゃんは
川井に縋る様に乗り出して来た。
﹁あの、お、俺はこの後はどうすれば﹂
﹁んー?武志、この後は?﹂
﹁とりあえず⋮⋮後2組来るから、それまでに﹂
﹁ちょあの川井さん、お俺は1人でその﹂
﹁あのね、ドンちゃん﹂
汗でシャツの色が変わっているドンちゃんに川井が優しい口調にな
った。反して表情からはいつもの悪ノリが消えている。
﹁ドンちゃんが役所仕事じゃなくて本当はゲーム関連に進みたかっ
たって言うから、俺が持ち掛けた話に乗った訳でしょ?俺はあくま
で職場の先輩なだけでドンちゃんの得意分野は解らないから、いて
も何も助けられない﹂
﹁でででも初めて会う人だしその﹂
﹁俺らの仕事はそんなモンだよ。つーか何事もそんなモンじゃない
?﹂
そう立ち上がると川井は更に汗だくのドンちゃんの耳元で何かを囁
1221
く。
﹁えぇえそそそんな訳ないじゃないですかぁ!!そんなエンディン
グは﹂
﹁わかんないよ、ドンちゃんの頑張ってる姿見れば。ねぇキラちゃ
ん、頑張ってる男ってカッコイイよね?﹂
﹁え?頑張って⋮⋮﹂
いきなり振られたキラちゃんがキョトンとしたが、そこは流石No.
1。
﹁勿論ですよぉ!!頑張ってる男の人って、普段どんなキモメンで
もブサメンでもすっごい輝いて見えますよね!!﹂
と、ビミョーな答えを笑顔で言い放つ。
﹁頑張って、ドンちゃん。あ、武志さ、また飲み行こうな。後⋮こ
れ、ここの分﹂
そう千円札をそっと2枚差し出す。
﹁いいよ、俺が呼び出したんだし﹂
﹁あ、そう?ありがと。そうだ、次は小平集合でEHKの集まれる
奴は全員呼ぼうか﹂
﹁はは、いいな﹂
1222
﹁じゃ、皆さん、申し訳無いけどお先に失礼します﹂
そう川井は一礼して俺に軽く手を振ると、スタスタと出口へ歩いて
行く。その若干幅の広くなった背中を見送ったのが、俺と川井の最
後だった。
﹁さて高浜さ﹂
斎藤が俺に向き直る。
﹁うん﹂
﹁ドンちゃん⋮と新倉はどうすれば﹂
﹁まぁもう2人⋮いや、2組来るから、そしたらここ出て﹂
﹁何か早く出たいみたいな言い方な。俺、結構嫌いじゃないけど﹂
﹁いや、とりあえずさ﹂
そう話す俺らの前で、ドンちゃんと新倉さんはまた何やら盛り上が
りだしたのでホッとする。
とにかく俺らは部外者どころか全くの無知な分野、よく解らない基
準で来た彼らが纏まれば一番良い。
最大の難関は⋮⋮鹿田社長か?
﹁高浜さんって名前でありますか!?先に来てるハズなんですが!
!!﹂
1223
後ろでやたら焦りを帯びたデカい野太い声がした。
来たな、細井。
﹁細井、こっち⋮⋮﹂
﹁いたぁあぁぁ高浜さん!!﹂
細井は店内の人間全員の注目を浴びながら、大声で俺の名を叫んで
突進してきた。傍らには何故か休日のハズの百目鬼まで私服でいる。
引き攣った様な笑顔の口元に全開の瞳孔、そして私服の地味な色合
いに、再び俺は友人の産婦人科医を思い出した。
﹁遅くなってすみませんでしたぁあ!!細井と申します!!﹂
﹁⋮⋮俺は、百目鬼です﹂
﹁あ、初めましてー俺は斎藤﹂
斎藤はやる気無く言い放ちつつも、同窓会で久々に会う同級生を見
る様な目で百目鬼を凝視している。
言いたい事は何か解る気がした。
﹁高浜さん!!俺、今日は鹿田社長に何て言えばいいですか!?﹂
﹁お前はこっち側に回れる、アニメ絵が上手いんだから﹂
﹁そうかなぁ⋮⋮そうですか!?アハハ﹂
そうデカい声で照れる細井の横で、百目鬼は少し長めの前髪を顔に
1224
貼り付けたまま、
﹁俺は何故ここに連れて来られたのか解らない⋮⋮くくくくくく﹂
とか笑い始め、それを見た斎藤がちょっと引き気味な面持ちでこち
らに向き直った。
﹁お前⋮⋮こういうタイプの方に何か縁があるんじゃないか?﹂
﹁俺も最初そう思った。似てるって言うか雰囲気が﹂
﹁アイツ、弟いたよな﹂
﹁残念ながらあいつの弟は全然あいつに似てないんだよ。背が高く
て南国系のクッキリした顔﹂
﹁そっか⋮⋮そういや永山、どうしてるかな﹂
﹁うん⋮⋮相変わらず、あいつは面白いよ﹂
﹁やっぱ未だに仲良いんだ。お前とアイツってどんな会話してんの
か謎でしょうがない﹂
﹁それがあいつとは話し出したら話が尽きないんだよ﹂
﹁マジかよ⋮つーかアイツ、テレビ出たじゃん。何かエラい反響あ
ったみたいだよな﹂
﹁あ、見た?俺もそこは凄いって思ったね、賛同するって言うかさ﹂
1225
これ以上は永山の立場もあるんで語りませんけどね。
﹁やっぱさ、イケメンって重要だよな。顔が良ければ何でもヨシと
されちゃうとか得なんだよな﹂
そう来るの!?
顔とか関係ある話じゃなくない?と思ったが、斎藤の意見は斎藤の
意見。俺は﹁まーね﹂って感じで流すと、ドンちゃんと新倉さんは
意外にも細井に食いついている。
﹁じゃじゃじゃあ、あなたがチャーハン大帝でありますか!?﹂
﹁あはは、そう。ちょっとまぁその⋮⋮﹂
細井は得意げに笑いながらも俺らの様子を伺う。
﹁チャーハン大帝に会えるとは!!今日来て良かった∼!!﹂
チャーハン⋮⋮たい、てい?
手塚治虫のジャングル大帝の大帝しか思いつかないが、そんな人物
は一応世界史選択だった俺も知らない。俺が覚えてないとかそうい
う感じでもなさそう⋮⋮
﹁へぇ⋮⋮チャーハンさんってあんな感じなんだ⋮⋮﹂
さっきから無口だったキラちゃんが、俺の横で地声で呟いた。
﹁キラちゃん知ってんの?﹂
俺が聞くと、一気にアヒル口にアニメ声に女の子に戻る。
1226
﹁キラは恥ずかしいから読まないんですけどぉ、何かちょっとエッ
チなゲームや漫画とかで凄い売れてる絵師さんなんですよぉ﹂
﹁エッチなゲームや⋮⋮漫画!?﹂
俺と斎藤はちょっと顔を見合わせた。
﹁何かエロいシーンが凄いリアルでぇ⋮⋮あっキラはよく知らない
んで解んないんですけどね?そういうのよくまだ解らないしー﹂
いや、絶対読んでるだろー?
俺と斎藤は少し意地悪なスケベ心が芽生えるのをお互いの表情と共
に確信する。
﹁細井、お前って﹂
﹁いやいや大したモンじゃないんですけどねぇ!!あははははバレ
ちゃったかぁあははははは﹂
﹁ねぇ、ちょっと読みたいんだけど俺﹂
斎藤さん、正直過ぎ!!
﹁検索すれば出るの?チャー⋮ハン⋮あ、候補に出て来たわ﹂
俺もついつい斎藤の携帯画面を覗く。そこに連なって出て来た画像
は、前にも見た猫耳の女の子みたいな女の子が⋮⋮まぁ、何やら粘
度の高い乳白色の液体に塗れて半分白目剥いてる顔とか、何かそう
いう。
1227
﹁チャーハンさんはエロ描写がリアルなんですよ!!やっぱイロイ
ロ経験してんだろうなぁ﹂
いきなり饒舌な新倉さんが初めて俺らに向けて自発的に言葉を発し
た。
細井の経験は丸海老で120分コースしか知らんが⋮⋮俺はこの画
像みたいな女の子の状態を見た事が無いので何とも。
焦るだろ、ぶっかけて笑顔でダブルピースとかされたら必要以上に
冷静になるっつの!!とか言いつつも、斎藤の携帯から目を話せな
い俺。
そこには神社にいる巫女さん姿のまだ小学生高学年くらいに見える
女の子なんかが、必死で抗ってる描写とかが次々に並ぶ。
処女で強姦で気持ちいいとか⋮⋮凄い確率な気もするが⋮⋮でも確
かに漫画として絵は綺麗だし、商業的にクオリティが高いのは何も
知らない俺でもよく解った。
やるじゃん、細井!!!
﹁俺もたまにお世話にになるんですよ﹂
いきなり百目鬼が笑顔で俺に言い放ち、斎藤君は携帯に釘付け、そ
して他の3人はチャーハン万歳。
俺はキラちゃんに助けを求めると、
﹁リアルなのを知っちゃうとついてけないですよね﹂
って吐き捨てる様に俺に言って、両肩に手を置かれた。
何かさっきの画像が呼び水になって、ワイシャツ越しのキラちゃん
の身体とか体温を意識しちゃう自分をちょっと⋮⋮あぁあぁ無理、
1228
ちょっと俺、椅子引いていい?今絶対立ち上がれない!!!
さりげなく前屈みになって両肘をつく。食卓に肘なんてついちゃい
けないのは解ってますが、前屈みになりたい理由が俺にはある!!
そんな俺の肩から肩甲骨にゆっくり柔らかい手の平が移動して、あ
ぁあそのまま前に!!そしてゆっくり下の方に!!って俺は心から
願った。
﹁あー何か⋮⋮風俗行きてぇー﹂
斎藤君までいきなり叫んで、キラちゃんが俺からサッと手を離した。
えぇーもっと触っててって正直な気持ちは、お仕事モードに戻った
キラちゃんを見て払拭される。
俺は当分、収まりそうに無い。
﹁斎藤は彼女いるんだからいいじゃん!!﹂
﹁何で怒ってんだよ高浜。彼女はねぇ⋮⋮最近、周りが結婚出産ラ
ッシュで荒れてんの。すぐ重い話するからねー⋮⋮﹂
﹁そう⋮なの?﹂
いいじゃんよ全然!!
そう思うんだけど、﹁ちょっと今はそれは考えて無い﹂とか﹁君と
はちょっと考えられない﹂って本能的に感じた女の子に重い話を言
い寄られる気持ちは、お察しします。
でもそういう子はさ、もう見込み無いって悟ったらより都合の良い
1229
次が出来てっから⋮⋮りーたんみたいに。
あぁあでも俺の次が鹿田社長じゃなくてもよくない?やっぱお金?
なんて思っちゃ社長に失礼極まりないよね、じゃあ何で俺の携帯盗
んで⋮⋮
そうか。
俺は鹿田社長にビビってる様で、実は見下してたんだ。
微笑ましく思うって、そういう事だもんな。
俺を不意に襲った欲求不満は自己嫌悪で相殺された。されてくれた。
ゆっくり上体を起こし、俺らのそばにずっといるキラちゃんに、さ
っきの気持ちを申し訳無く思う。
そして⋮⋮奈津から何も連絡が来ない、そんな事をふと思い出した
ら少しピリッとした感じを鎖骨の下の方で感じた。
﹁ねぇ、高浜﹂
﹁何だよ斎藤﹂
﹁女の子、紹介してよ﹂
﹁何でだよ﹂
﹁俺、最近全然遊んでないから﹂
﹁はぁ?俺もだよ﹂
﹁ぜっってぇ嘘﹂
﹁いや、ホントに﹂
1230
斎藤から答えが無いのでチラッと見ると、斎藤は警戒心丸出しの顔
で前方を見ている。
そこにはこちらを暗い目で凝視している百目鬼がいた。
﹁何?えーと⋮百目鬼さん﹂
斎藤が目を細めて排他的な感じで言い放つと、
﹁⋮⋮すみません﹂
と百目鬼は俺に視線を向ける。
﹁お前、つまんねぇだろ、休日までこんな﹂
﹁⋮⋮でも細井が﹂
﹁あぁそうそう!!ちゃんとやるからそれも!!協力するからさぁ
!!﹂
﹁協力?﹂
﹁あの、えっとね高浜さん、コイツの元カノを探すって﹂
﹁⋮⋮そんな大声で言わなくても﹂
﹁だってね高浜さん、コイツ探偵とかそれで見つかって言うのがや
だって言うから!!自力で探すなら手伝うから今日一緒に来てって
言ったんです!!!!﹂
1231
﹁⋮⋮そういう事も言わなくていいのに﹂
何となく、俺は百目鬼にすごく親近感を感じた。
もう四半世紀付き合いがあっても家族のいる川井より、百目鬼に何
か心から共感した気がする。
﹁畑野さん、早く見つかるといいよね!!俺も全力で調べるからぁ
!!﹂
﹁⋮⋮実名まで出さなくていい﹂
百目鬼の眉間にクッとシワが寄る。
斎藤も﹁なぁ、やっぱりこの人アイツの﹂って顔で俺を見たが、気
持ちはすごく解る。
誰かに縋ってでも、誰かを探したい。
ストーカーでも何でもいい、その誰かはもう自分なんてどうでもい
いのかもしれないけど⋮⋮するとやっぱり、現在は鹿田社長の女と
である彼女の顔が浮かんだ。
﹃めっちゃ探したんですけど﹄
⋮⋮そうか、じゃ俺がその気持ちを味わう番か?
金だけ残してドロンした当時の自分の罪への罪悪感が今更、ホンッ
と今更ながら沸々とわきあがった。
もし彼女が俺と同じ類の気持ちでこの10年近くを過ごしたなら。
謝って済む話じゃないだろうな。
でも結局は何だろう、さっきのチャーハン細井の絵が発端となった
性欲の見せる勝手なセンチメンタルでしか無いんだろうか。
1232
﹁武志にはさぁ、絶対夢を叶えて欲しいんだよねぇ﹂
﹁ずっと一緒にいよ?武志が成功するとこ見たい⋮⋮ちょっとーど
こ触ってんの、え?セイコー違いだよもー⋮⋮﹂
﹁あのさ、こういう話好きじゃないかもしれないけど⋮⋮ずっと一
緒にいるんだったら入籍だけダメ、かな﹂
⋮⋮⋮⋮。
家賃8万の家、歌舞伎町や大久保通りのペンギンのマークのディス
カウントショップや通販の格安品で頑張って当時の自分では最大限
オシャレにしたつもりの部屋で、パステルカラーのパーカーにショ
ートパンツとモコモコした靴下を履いた、家バージョンの莉奈が次
々にハッキリと思い出された。
莉奈には関係の無い俺の仕事とかのことで辛く当たったりなんてザ
ラで無視して黙り込んでも、一瞬悲しそうな顔をするんだけどすぐ
笑顔で背中をさすったり頭を抱いて髪を撫でてくれたんだよ、うん。
そこまでしてくれた女に、俺はどうした。
なし崩しに押し倒したわ。
優しくされたところで外での仕事なんかの怒りは収まらなくて、子
供かよ俺は!!ってイライラをぶつける様に押し倒しても、莉奈は
表情一つ変えずに﹁いいよ﹂って言ってくれたんだよな。
﹁エッチして忘れよっか﹂とか何とか言って。
でも前戯もあったもんじゃないからいきなり挿入る訳無くて、それ
でも﹁⋮⋮ごめん、武志﹂って悪くないどころか被害者なのに謝っ
てくれて﹁キスしてくれたら、すぐ濡れると思う﹂って言うから口
1233
の中をえぐるみたいにキスして首筋とか吸ってわざと盛大に跡を付
けたりして、しかも外で遊ぶ為に練習台みたいに扱った事だってあ
った。
それでも﹁すっごい気持ちいい﹂とか﹁凄い上手﹂って喜んでくれ
て、じゃあもっとしてやるよって気絶させたり泣かせたりしてでグ
ッタリした莉奈に、責任取るとか考えずに何度も中に出した。
ごめん。
ホンッと、ごめん。
堕ちたのは莉奈じゃない。
自分がダメになるって解って逃げといて、自分の都合が悪くなった
ら甘えたくなる俺が全面的に⋮⋮
﹁高浜、ジュニアが見てるぞ。高浜って!!﹂
不意に耳元で斎藤の声がして我に返ると、正面の席の百目鬼がゆっ
くりパスタを少量ずつ吸い込みながら俺をジッと見ていた。
斎藤が再び俺に囁く。
﹁絶対、親戚じゃねぇの?あちらの﹂
﹁⋮⋮百目鬼です﹂
﹁すみません、聞こえてました?いえね、知人⋮俺らの同級生に、
百目鬼さんに似てる奴がいるんですよ。だから親戚なんじゃないか
って﹂
﹁俺に⋮⋮似てる?﹂
ゴキィッ。
1234
百目鬼が表情を変えないまま、首が120度くらいの角度に転がる
様に一気に曲がった。
斎藤の喉元から、巨大なクモを見た時なんかに漏れる様な声がした。
﹁⋮⋮言われた事ないです。誰かに似てるとか﹂
そう言いつつも、百目鬼はちょっと興味津々そうだ。
永山と百目鬼は、背格好はともかく確かに表情や雰囲気は非常に似
てる。
でも大きな違いは永山は自分から人に接さないけど、百目鬼は興味
を持ったら百目鬼なりにフレンドリーに接近してくる。
﹁⋮⋮どんな人なんですか?﹂
﹁医者のボンボンですよ。育ちも顔も申し分無い﹂
﹁⋮⋮お医者さん﹂
﹁最近、テレビとか週刊誌で取り上げられてたし、見た事あるんじ
ゃないかな?永山産婦人科の里子問題って奴﹂
﹁あぁ、何かありましたね、新宿の⋮⋮あぁあくくくくくくく﹂
﹁⋮⋮!?﹂
﹁⋮⋮結構、カッコイイ人だくくくくくく﹂
﹁まぁお前も顔は良い方だからそこも似てるんじゃないか﹂
斎藤が硬直したので、そう俺が無責任に間に入ると
1235
﹁⋮⋮高浜さんに言われると、くくく﹂
と口の両側から漏れる様な途切れた笑いを続けた。
斎藤、まだ硬直してるけど大丈夫かな。
そう俺が双方の様子を見ていると、百目鬼が急に真顔になった。
﹁⋮⋮あ。高浜さん、ヒントありがとうございます﹂
﹁ヒント?俺、何かヒント出したっけ﹂
﹁産婦人科⋮⋮産婦人科か﹂
﹁何だ、どうしたよ百目鬼﹂
﹁とすると逆算するとそろそろ﹂
﹁だから、どうしたんだ﹂
﹁ねぇ高浜さん。もし突然いなくなった彼女が﹂
﹁突然いなくなった彼女?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
百目鬼は俺を真っすぐ見て頷く。
何か見透かされてる様な眼差しに見えるのは、俺の心が弱ってるん
だろうか。
﹁その彼女が、どう考えても時期的に自分のと考えられる子供を産
んでたら、どうします﹂
1236
﹁俺の場合はそれは⋮⋮﹂
そう言いかけて、奈津が子供が欲しいけど子宮の無い自分を責めて
いる事を思い出し、そこで切った。
安易にバラすのは⋮⋮さっきはあんなに過去の莉奈に揺すぶられて
た癖して、やっぱり奈津を守ろうとするこの自分の無責任さ。
これが、ダメなんだろうな。
﹁⋮⋮仮に、ですよ。俺の場合ね、結構無責任な事をしてたんで、
子供が出来てもおかしく無いんじゃないかなって﹂
いきなり何言ってんの、あなた!?
手元で回るフォークには直径8cmはあろうかと言うパスタの塊が
巻き付いているが、百目鬼はフォークを回し続ける。
﹁⋮⋮産婦人科は盲点だったなぁ﹂
百目鬼は瞳孔の開いた真っ黒な目を手元に戻し、巨大なパスタの繭
を見てまた笑うと、裂ける様に口を開いて一気に頬張った。
﹁はんふぢんはは⋮⋮ほほらろう﹂
﹁ねぇメッキー、産婦人科どこだろうって何?﹂
それまでドンちゃん達と盛り上がってた細井がいきなり百目鬼に向
き直る。
﹁⋮⋮ひまへ、はははまはんがおれににへうひほがいる、ほえがは
んふぢん⋮⋮科の先生だって言うから、そこでちょっと﹂
1237
﹁えぇー高浜さん、メッキーに似てる産婦人科のお医者さんがいる
んですか!?﹂
よく理解出来てるな、細井。
﹁メッキーって⋮⋮﹂
﹁くくく⋮⋮ドラクエかよって話だよね﹂
すっかり産婦人科に彼女と再開の未来を感じてるらしい百目鬼は、
意外にも斎藤にタメ口で向き直った。
﹁⋮⋮ドゥメキ﹂
﹁はい?﹂
﹁⋮⋮ちょっとかっこよく言ってみた﹂
﹁え?はぁ、あ、御自分の苗字を?﹂
﹁そう、くくくくくく﹂
ほらーコソコソいじるからこういう振りが来るんだよ、斎藤君!!
俺も同情したくなるくらい、百目鬼は上機嫌に斎藤をロックオンし
だしたが、渡りに船で細井が飛び入って来る。
﹁でも百目鬼さ、思いついただけじゃん!?まだ産婦人科に入院し
てるとか決まって無いじゃん!!﹂
1238
﹁⋮⋮うん、でもきっとこうして可能性があるところを虱潰しに探
していけば、きっと会えるんじゃないかな﹂
﹁メッキーは畑野さん大好きだね!!﹂
﹁実名はださなくていい!!﹂
細井の太い首を男にしては小さな手がガッシリ掴んだ。
まぁ⋮⋮百目鬼も始終貼りついた様な笑顔で上機嫌であるのは間違
いない。
細井は職場で散々虐められてても、チャーハン大帝と言う違う顔が
ある。
百目鬼は百目鬼で普段何を考えているのか解らないが、いきなり音
信不通になった畑野さんの話になると突如、喜怒哀楽をハッキリ出
す。
人は人知れない一面を必ず持っているんだな。
当たり前な事を実感。
そんな事を考えていると、肩に手が置かれた。
﹁遅くなってすみません、高浜さん﹂
マイピクシー倉田!!
何だか海外で日本人に会った気分、再来。
﹁こちらがその⋮⋮﹂
と言いかけた倉田の指す方向を見ると、ジョニー・デップっぽい風
貌かつブンシャカ言いそうなデカい黒ブチ眼鏡にニットキャップに
やや長髪の若い男が、腕組みをして立っていた。
1239
﹁今日はわざわざお越し頂き、ありがとうございます﹂
俺がそう言うと、一気に相好を崩して歩み寄って来て、深く頭を下
げた。
﹁いえ。ギッポン改め木本と申します﹂
そうやや顎を引いた上目遣いで、俺を真っすぐ見据えるその野心に
満ちた瞳。
22歳とかそこらで、この溢れる自信。
いやー顔の濃さで初対面の人にビビられる俺に対してこれでしょ?
鹿田社長に会わせたら、どうなっちゃうんだろう。
﹁木本さんすみません、遠かったでしょ?﹂
﹁ははは、僕が力になれるって聞いて。正直ね、倉田から聞いてて、
高浜さんってどんな方なんだろうってお会いしたかったんですよ﹂
フッと形の良い口元が緩んで、再び俺をジッと見る。
やー何か俺、威圧されてる?
﹁僕は友人数名とアプリの制作会社を立ち上げたんです。元手も掛
からないし、法人ならイロイロ営利活動出来るかなって﹂
﹁凄いですね﹂
﹁今日は高浜さんに、イロイロなノウハウを教えて頂こうと期待し
てます﹂
1240
﹁俺が教えられる事⋮⋮あるかな﹂
﹁絶対あります。それに今日行く会社って、あのよく雑誌とかに載
ってるとこなんでしょ?凄い人脈とか出来たら良いなって﹂
凄く仕事熱心なのは解るが⋮⋮電話口で聞こえた喋り方と余りにギ
ャップがあり過ぎる。
いい子ぶってるって感じじゃなくて⋮⋮もしかしてだけど、そこが
狙いだったんだろうか。
タチの悪そうな部下の友達と言う印象を俺に持たせて、会ってから
一気に挽回してそのギャップで補正効果を⋮⋮?
﹁ねぇ高浜、俺はまだいた方がいいの?﹂
斎藤が俺につまらなそうに囁く。
﹁あ、高浜さんのお友達の方ですか?僕は高浜さんの下で働いてい
る倉田って言います。こっちは﹂
﹁ギッポン改め木本です﹂
改めるも何も斎藤はギッポンって知らないんだが、斎藤はやる気な
さげに挨拶をする。
﹁行政書士?すっげーマジっすか!!ちょっと聞きたい事あるんで
すけど相談しても⋮⋮?﹂
﹁何?俺で答えられる事なら聞くけど﹂
斎藤は能力を頼られるのが好きなタイプ。
1241
ギッポンはそこに切り込んだ。
そうとしか見えない気がした。
キラちゃんが椅子を2つ運んで来て、テーブルをもう1つ付けてく
れる。
ごめんね、何か最後の晩餐みたいになって。
﹁へぇ⋮⋮じゃあ示談交渉は弁護士がやるんだ﹂
﹁そう。公的に提出する書類とかの作成が主な俺の仕事。つっても
交通事故とかよりも離婚問題の養育費がどーのみたいのがほっとん
どだね、俺のとこは﹂
﹁そうなんですか⋮⋮法人向けとかは御専門ではない⋮?﹂
﹁あー何か会社やってるんでしたよね。内容にも拠りますけど、紹
介とかも出来るよ﹂
ギッポンは尻ポケットから革表紙の小さなメモを取り出し、斎藤の
話をメモり始めた。
斎藤は斎藤でキラちゃんと盛り上がった時以来の饒舌ぶり。
仕事熱心同士の初対面にして白熱した盛り上がりや如何に。
倉田がやれやれって顔で、俺を見た。
﹁何か面白いメンツですね﹂
﹁だろ?これで鹿田社長んとこ行くんだよ。そこの2人⋮⋮大きい
人と比較的小さい人が社員なんだけどね﹂
﹁⋮⋮朝番です﹂
1242
いきなり百目鬼が顔を上げて言うと、倉田がやはり強張った。
﹁どうも⋮俺﹂
﹁倉田さんですよね、百目鬼です﹂
﹁どうめ⋮?﹂
﹁⋮⋮百の目の鬼でドゥメキ。こっちは細井って言う漫画家﹂
﹁ま、漫画家⋮なんですか?﹂
﹁そう。ねぇ高浜さん。結局、何をしようとしてるんですか﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁⋮⋮これだけの人が集まったんですよ。人数の問題以上に鹿田社
長の思い付きで済まない話になる気がします﹂
そうなんだよ、そこが引っ掛かるとこなんだよ。
鹿田社長がどこまで何を考えておられるかだけど。
⋮にしても百目鬼、凄い饒舌だな。何か興味を持つと打って変わっ
て常人以上に饒舌になるんだな、やっぱ永山そっくり。
﹁さて。俺らは飯は済ませて来たんですよ﹂
﹁ギッポンが腹減った腹減った言うからだろ﹂
1243
﹁軽自動車なお前と違って俺は燃費悪いの、高級車だから﹂
﹁はぁ?言ってろバーカ﹂
﹁あーこのオムライスうまそう⋮⋮まぁいいや、クラッチみたいに
お腹プニプニしてもヤダし﹂
ギッポン君がそう言いつつ、クリームソーダを頼む。
倉田はビールだけ。
もうウサピョンのキラちゃんとかそういう要素が介入出来ないくら
い、何かが始まってる気がした。
このバラバラなのに一丸となりそうな連帯感。
きっと何か始まりそう。
﹁ねぇ高浜さん、俺⋮⋮ここにいていいんですかね﹂
倉田がビミョーな顔つきで俺に囁く。
﹁鹿田社長のとこ行くんでしょ?ぶっちゃけ俺、あんま顔覚えられ
たくない﹂
﹁まぁ⋮⋮大丈夫だろ、俺との関係をバラさなきゃいい。あくまで
ギッポン君の付き添いって事にしとけよ﹂
﹁うっわこんな使えん付き添い、俺に必要?﹂
﹁うっせーよギッポン﹂
1244
﹁うーそだって。ねぇ高浜さん、その鹿⋮田さんだっけ、結構資金
力あるでしょ?﹂
﹁まぁお金はあるだろうね﹂
﹁今の俺のネックは、立ち上げたばっかだしで零細中の零細だから
資金力不足なんですよ。そこにちょっと回してくれたらいいなーっ
て﹂
﹁上手くそう漕ぎつけるといいな﹂
﹁どんな人なんですか﹂
﹁下手したら消されるよ、特にお前みたいな口の悪い奴はさ﹂
倉田がギッポン君をどついて、ギッポン君が真顔で倉田の頭をはた
く。
こいつらの友情や如何に。
で、それから細井はドンちゃん達と盛り上がり、頼られ好きな斎藤
はギッポン君にレクチャー、百目鬼はデザートのチョコパフェまで
頼んで半笑いだか引き攣ってんだかな表情でつつきはじめ、何だか
取り残されたのは倉田と俺。
﹁さて高浜さん、あのここで言うのも何なんですけど﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁高浜さんが探してる様な女の子、とりあえず3人くらいゲット出
1245
来ました﹂
ゲットってポケモン感覚かよ。
倉田は腹の上を立体の半円状になぞった。
﹁結構いるもんですね、出来ちゃって金も無くてってどうしようも
無い女って﹂
﹁⋮⋮そう、だろうな﹂
﹁でね、高浜さん、ちょっと前に入った19歳の女の子覚えてます
?﹂
﹁え⋮﹂
﹁今年成人するって言う、中学生みたいな女の子いたでしょ﹂
﹁中学生⋮⋮﹂
﹁あの子ですよ、背が小さくてちょっと内気な感じの﹂
背が小さくて内気な中学生みたいな19歳の女の子?
どの子だ。
﹁お前の店の子?﹂
﹁はい。半年くらい前かな、高浜さんが指導してます。あのフンワ
リボブカットの子﹂
﹁ごめん、会えば思い出すと思う﹂
1246
﹁はい。で、その子が言うんですよね﹂
﹁何を?﹂
﹁妊婦でも仕事したいって﹂
﹁妊婦で⋮⋮仕事?﹂
仕事つっても俺らが斡旋出来るのは、簡単な事務バイトとか内職の
類では無い。
良くて水商売、後は売春って言う⋮⋮。
﹁だから俺の案なんですけど、SMクラブにその女の子達を出せば
良いんですよ﹂
どうなんだろう。
それだとハードなプレイは無理だろうな。
しかも見物客の永山先生が妊婦使ってSMなんてので満足するかど
うか。
そもそも妊婦さんにそんな事するなんてって怒られないか?
﹁それが一番良いと思いますよ。中絶する金も無い、腹に子供いて
も売春したがるなんて渡りに船じゃないですかね﹂
﹁でも大丈夫か?﹂
すると倉田は少し考えてから、
﹁でもみんなツワリとか乗り越えて仕事してる訳だから、大丈夫な
1247
んじゃないですか?妊婦モノとかジャンルであるくらいだし﹂
﹁その19歳以外の子は?﹂
﹁一応顔合わせて話だけは聞いたんですけどね、案外みんな乗り気
っぽいです。ギリギリまで金稼いでたいっつーか﹂
﹁そうか﹂
一気に自分の仕事の話になったので、現実っつーか頭が自分の為に
動き始める。
生活のままならない妊婦さんの為にSMクラブで資金をって思って
たんだけど⋮⋮お腹に赤ちゃんいても、自らそういうお仕事したい
のか⋮⋮。
ちょっと想定外。
﹁結構みんなルックスのレベルは高いですしね。さっき言ったあの
小柄な子とかかなりウケてたんで、ロリコン共に﹂
そう言い放った倉田はチラッと細井達の方を見た。
人目も憚らず卑猥な漫画本を広げて語り合っているのを見て、倉田
には珍しく残酷な笑顔を見せる。
﹁さっきも言ってた子か﹂
﹁ユズって女の子ですね。頑なに本名から取るって言って﹂
﹁ユズ⋮⋮?﹂
俺がイロイロ思い出しに苦労していると、倉田が俺に耳打ちした。
1248
﹁我がグループ多分初の、天然パイパンの子﹂
﹁⋮⋮あ、思い出したわ﹂
いたいた、思い出した。
最初の勤務指導でも、何だか援助交際してる気分っつーか俺も妙な
背徳感で引いちゃった子だ。
引き気味の俺に気付いたのか、
﹁私、子供みたいですか?今年で二十歳だから大丈夫です。エンコ
ーなら小3からしてたし、お母さんの彼氏が最初だから﹂
とか何とか、平然と言い放ったのを覚えている。
確かにフンワリボブカットだったわ。
でも天然パイパンの無毛の陰部以上に一番驚いたのが、俺も出会っ
た事が無いレベルでオサラだったってところだ。
﹁あの子か⋮⋮﹂
﹁そう、あの子。アレは絶対売れる﹂
﹁あの子、妊娠してたの?﹂
体型的には解らなかったものの、確かに肌の色が白くて綺麗な割に、
乳首とビラビラが異様に黒くてちょっと惜しいなって思ったけどね。
元々ってのもあるだろうけど、妊娠すると黒くなるって言うからそ
うなのかも。
1249
﹁そうなんですよ、しかも誰の子か解らないけど可哀相で下ろせな
いけど育てられないって必死で必死で。そこは他の女の子と違いま
したね﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
ケナゲなんだな。
そういう女の子と赤ちゃんの為に、俺は永山と平行してやっていき
たいところです。
今まで人の為社会の為に何もしてこなかったし、これからも何も生
み出さないであろう俺が、社会の為に出来る事を考えてみた。
幼稚園とか保育園とか児童施設にプレゼントをドーン!!って安易
なのも考えた事があるけど、出所が俺ってどうなんだろうね。
俺の身辺探られたら、子供に関わって良い人間じゃないもんな。
永山に触発されたのもあるけど、それでも俺らの住む業界で何か貢
献出来ないかな、何となくそう思ったんだよねー。
﹁いいよ、セッティングはお前に任せていいかな﹂
﹁解りました﹂
さて、そろそろ皆さん。
本題に入りましょうか⋮⋮
そう見渡すと、みんな何気に和気藹々としている。
携帯出してお互い何かしてるのを見ると、番号交換とかもしてるっ
ぽくて良い感じ。
斎藤まですっかり溶け込んで⋮いや、1人何かウットリした顔でテ
ーブルの上の空中を低くなだらかに撫でてる男がいるがいつも通り
1250
だ、大丈夫。
﹁あ、あの、移動って⋮⋮?﹂
ドンちゃんが怯えた様に俺を見た。
﹁今日お集まり頂いた皆さんは、ゲームクリエイターとしての即戦
力となって頂きます。勿論、俺も全くの素人で上から命令されたに
過ぎません。ただ、本当に自分が面白いと思うゲームを作りたい、
そう思っている方のスポンサーとなる会社があります﹂
﹁⋮⋮スポンサー、か﹂
何だか脂ぎったギッポン君の呟きが聞こえた。
俺が適当に都合悪いところだけをはしょった説明を終えると、鹿田
社長に会いたくない倉田と不安そうなドンちゃん達以外はみんな興
味津々そうだ。
いや⋮⋮まてよ?
ドンちゃんと新倉さんとギッポン君がメインだろ?
斎藤とか細井が喜々としてどうする?
そしてまだエアキャットしてるけど話聞いてるかな、百目鬼は。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ!!﹂
汗を更にかくドンちゃんに、細井がいつも以上にでっかい声で言っ
た。
﹁俺の働いてる会社だもん!!﹂
1251
﹁えっ、そそそうなんですか?﹂
﹁うん、大丈夫大丈夫!!﹂
細井って意外と先輩肌なんだろうか。
夜の社員に散々イジられてる様な片鱗は全く見えず、寧ろ出来る男
みたいなオーラが出ている。
﹁じゃ、じゃあ﹂
﹁ね!!一緒に働けたらいいよね!!﹂
いや、ドンちゃんが公務員辞めてまで⋮⋮。
まぁいいや、とりあえずキラちゃんに会計を頼むと、
﹁えーもう帰っちゃうんですかぁー?さっびしーなぁ﹂
と上目遣いで見てきたので
﹁また会社で接待の時、使わせて貰うね﹂
って俺も社交辞令の笑顔で返すと
﹁あっあの、これお店の﹂
といきなりお店の名刺を渡される。
裏返すとキラちゃん直筆メッセージ。
これね、俺の店もやってる。
ちゃんと相手の名前を書いて、今日の事と御礼を書いてからさりげ
1252
なく出勤の曜日を。
あくまでも、また来てくれたら嬉しいなってところに収める様に⋮
⋮ん?
﹁あの、それ﹂
キラちゃんは背伸びをして、俺の耳元に手を付けると
﹁キラのプライベートの番号です⋮あの﹂
⋮⋮だって。
もう風俗店じゃねぇの、ここ!!
﹁そう。じゃ予約する時はキラちゃんに連絡すればいいかな﹂
﹁はい、あの予約じゃなくてもいつでも大丈夫です!!﹂
⋮⋮あぁ、そう。
どうなんだろうね、風俗店ならこうやって店を通さず裏っ引きする
んじゃって感じだけど、ここのバイト︵多分︶のキラちゃんがこん
な間に入る理由⋮⋮。
俺、帰ります!!
﹁じゃお会計して、キラちゃん﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ウルウルと上目遣いのキラちゃんにカードで支払って、俺は真っ先
に外に出た。
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でもまぁ俺も根がスケベなので、わざわざ振り返ってガラス越しに
キラちゃんに軽く手を振ると、満面の笑顔で手を振り返してくれた。
﹁はーぁ。まーた高浜が持ってったわ﹂
﹁何だよ﹂
﹁どーせ会うんだろ、プライベートで﹂
﹁キラちゃんか?会うわけ無いじゃん﹂
﹁えっ?だってお前の名刺だけ電話番号書いてんじゃんか﹂
﹁だからって理由も無く会う必要無いっつの、みんな揃ったかな?﹂
そう俺が振り返ると、俺と斎藤の後ろを男が6人見事な縦一列にな
っている。
ちょっと何やってんの、これ。
わざとか!?
﹁どうしたんですか?﹂
俺の真後ろでワクワク全開のギッポン君が、立ち止まった俺を不審
な目で見る。
﹁いや⋮⋮何で縦一列なのかなって﹂
﹁俺と倉田は縦一列で歩いちゃう事が結構ありますね﹂
﹁お前が右側取るからだろ!!﹂
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﹁俺も右側で歩きたいの!!﹂
倉田が平手でギッポン君をはたくと、ギッポン君も肘を倉田に返す。
こいつらホントに仲良い⋮⋮のか?
﹁あの、普通に歩いて構いませんよ﹂
新倉さんと目が合ったのでそういうと、
﹁あ、そうなんですか?列になるのかなって思っちゃった!!﹂
代わりに細井が明るく返す。
金曜日の夜の繁華街でわざわざそんな事するか!!
でも細井、楽しそうで良かった。
百目鬼も細井の後ろで何やら忍び笑いをしている。
﹁さ、最後尾⋮⋮くくっ﹂
⋮⋮⋮⋮。
もうよく解らんからタクシー!!
あ、2台に分けないと無理か。
倉田に鹿田社長の会社の位置は事前に教えてあるから、倉田にカー
ドを渡した。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁鹿田社長に会いたくなかったら、お前は着いたらビルに入らず帰
っていいから﹂
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﹁でも⋮⋮あーどうしよ!!﹂
﹁クラッチビビりだねー。だから就活落とされたんじゃない?﹂
﹁うっせーな、お前は態度デカ過ぎて失敗したんだろ?﹂
﹁ハッ、だってさ?﹃絵に描いた林檎を具現化するにはどうします
か﹄とかそんなんばっか聞かれてみいよ、こいつら阿呆かって思う
し﹂
⋮⋮就活の面接、そんなん聞かれるんだ。
就活した事の無い俺にはよく解らないが、それは正答が聞きたいん
じゃなくてどう切り抜けるかを聞きたいのか?
それとも⋮⋮ハナから落とすつもりで意味不明な事を聞くんだろう
か。
前者ならともかく、後者みたいな会社に内定貰ってもビミョーかも。
﹁だから俺はさ?絵に描く被写体を予め用意しますって言ったら落
ちた訳。もーいいや起業しよって感じ﹂
あぁその会社は後者っぽい⋮⋮かも。
何故か縦一列のツアー状態で、俺らはタクシー乗り場の列にそのま
ま接合した。
﹁あ、そーだ。俺、高浜さんと一緒のに乗る!!いいですか、高浜
さん!!﹂
﹁全然いいけど⋮ちょっと待って、倉田もこっち来たら行き先を﹂
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﹁俺は別にギッポンと一緒じゃなくてもいいんで﹂
﹁あ、何その言い方!!﹂
﹁お前が自分からそっち行くっつったんだろ!!﹂
ポカスカ元気ね、君ら。
倉田も同年代とはこんな感じか。
ますます可愛らしい。
﹁じゃ俺も高浜達と乗るわ、新倉はそっち?﹂
﹁あ、俺はドンと細井さんと⋮⋮﹂
﹁くくくく⋮やっぱ覚えてもらえてない﹂
﹁百目鬼ね!!百目鬼って覚えにくいもんね!!﹂
﹁⋮⋮会社から来たのに会社に行くとか泣ける。細井、俺帰りたい﹂
﹁絶対ダメ!!﹂
﹁⋮⋮そう?くくくくく﹂
イマイチ噛み合ってないけど、百目鬼も絶好調に機嫌良さそう。
まぁ⋮⋮百目鬼の場合は、何かさっきの元恋人の話からだろうけど
な。
タクシーに乗って行き先を告げると、さりげなく百目鬼も俺の方に
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来た。
﹁あ、そっか。そっち5人になっちゃうもんな﹂
﹁⋮⋮昔からあぶれるのには慣れてます﹂
﹁いや、仲間外れにするつもりは。細井と一緒に行くのかなって﹂
﹁⋮⋮助手席で、いいです﹂
そう言うと、俺らに後部座席を譲る様に前に乗り込んだ。
﹁なぁ、お前ってああいうのに好かれる運命なの?﹂
未だに百目鬼に引き気味の斎藤が俺に囁く。
﹁いや⋮⋮﹂
﹁永山、どうしてんのかなぁ。アイツってテレビにも週刊誌にも出
てアイドルみたいになってんじゃん﹂
﹁まぁ本人はそう思ってないけどな、ただ社会的に是非を問われて
るだけくらいに思ってるんじゃねぇの﹂
﹁あいつ、惜しいよな﹂
﹁そうか?﹂
﹁そうだよ、見た目も家柄も学歴も職業も非の打ち所ないじゃんか﹂
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﹁まぁ⋮⋮うん﹂
永山には永山の悩みとかあるんだよ、こないだの心理テストの時の
反応でそう思った。
でも斎藤から見れば、こういう評価。
解らんとこよね、実際。
解る必要があるのかも解らんけどさ。
ギッポン君は俺と斎藤が話してる時は、ジッと携帯の画面を見て何
やら調べている。
倉田にはえらく横柄に当たってたからたまに﹁そこまで⋮?﹂って
ちょっと思ったけど、ギッポン君は仕事人間なのはよく伝わって来
た。
最初はどうなるかなってちょっと不安だったけど、何気に良いメン
ツが集まったのかもしれない。
非常に長くなってしまって申し訳無いけど、こうして集まった彼ら
はこれからそれぞれ人生を180度回転させて、恐ろしい発展を見
せる事となる。
案外すぐ終わっちゃったのが残念だが、1つの新しいビジネスケー
スの黎明にみんな関わる事となったんだ。
それに反して、この後一気に蹴落とされたのは俺って言うね。
⋮⋮まぁ、丸く収まったからいいけど。
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★高浜 武志・8★︵後書き︶
何も考えずに書き始めたこの話、
覚えて下さってる方は果たしていらっしゃるんだろうか⋮⋮
そう思いつつ、随分前に書いたモノを投稿しました。
3年は、長い長いあっという間でした。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n9820bc/
牛女牧場∼搾乳体験始めました
2016年12月20日09時29分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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