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市民社会論の法律学的射程

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市民社会論の法律学的射程
市民社会論の法律学的射程
(2009年 5 月30日)
立てて,それを論証する。その論証に対して,皆
Ⅰ.広渡清吾教授(専修大学)報告
さんから批判があって,しかし私はそれをディ
Ⅱ.吉田克己教授(北海道大学)コメント
フェンドして,正しいのだということを主張し
Ⅲ.質疑討論
抜くという報告になる。
私自身は,振り返るとこれまで,本当に正し
い問題の設定かどうかということも考えながら
Ⅰ.広渡清吾教授(専修大学)報告
議論をしてきた。そこで,今日は,B問題,す
なわち「なぜ,法と社会の分析,および法学(法
今日のテーマだが,
「市民社会論の法律学的射
律学)の構成において『市民社会』という概念
程」は,私が2009年3月まで在職していた東京
が重要だと,私が考えるのか,あるいは私がど
大学社会科学研究所の紀要『社会科学研究』第
うして考えるようになったのか?」ということ
60巻第5−6号の特集の表題でもある。社研の
を中心にお話しする。
紀要は,編集委員が自分で特集のテーマを作り,
とはいえ,B問題は,私が個人的なさまざま
執筆者を集めて書いてもらうというやり方をし
な研究上の関心や,あるいは刺激されるいろい
ている。私も編集委員の一人で,この特集号を
ろな問題に応じながら自分で問題関心を持って,
編集した。
この同じ表題を今日は使っている。
今
これまで議論してきたことを辿るわけなので,
日のテーマは,要するに,市民社会論を巡って
そういう議論をすることが必要であり正しいと
法的な議論をする可能性が,どんなものである
思うから,そのように反応してきたのであり,A
かということについて考えてみようということ
問題とB問題は切り離された別々の問題ではな
である。
い。したがって,B問題的に問題を取り扱う中
このテーマで考えるとすると,問題は2つに
で,そしてA問題についても考えてみるという
分けて議論しなくてはいけないだろうと思った。
形で報告を作った。
次に,市民社会論の意義についてである。こ
<問題の設定について>
こでも同じ問題がある。市民社会論というと,市
A問題とB問題に分けた。A問題は,
「市民社
民社会というコンセプトをどのように理解すべ
会論の法律学的射程」について真理を問題にす
きか。どのように理解することが正しいのかと
るものである。つまり,
「現代において,
法と社
いう議論の仕方が当然ある。
会の分析,および法学(法律学)の構成におい
多くは,そういう議論が行われている。「ヘー
て『市民社会』という概念が重要な役割を果た
ゲルによればそうではない」とか,
「マルクスは
すというのは正しい考えか?」というように問
こうだ」ということになる。そのこと自身に正
題を立てるものである。もしこのA問題に即し
しい答えがあるかどうかということ自身もたぶ
て私がここで報告しようとすると,私が命題を
ん問題であって,ここで市民社会論という議論
125
の立て方は,市民社会という概念を媒介にして,
もともと私はどのように問題を理解していた
もちろんその場合には,どういうものを市民社
のか。私の世代の多少マルクス主義的な考え方
会という概念として理解するかということがあ
に親しんだ者にとっては,市民社会や市民法と
るが,その市民社会という概念の理解そのもの
いうものは,1つのイデオロギーであり,それ
の正しさ,正しくなさということを議論するの
を問題にするときには,市民社会というコンセ
ではなく,こういう定義で市民社会というもの
プトや市民法というコンセプトの抽象性や虚偽
を考えた場合に,その市民社会のコンセプトが,
性を批判するという文脈で位置づける概念で
法と社会にアプローチをし,また法学的理論を
あったと思う。
構成することについて,どんな意味を持つのか,
イデオロギーとは,一定の利害に制約された
そのことが学問的に意味のあることなのかどう
意識形態であり,それは現実をそのまま捉える
か,といった,そのようなアプローチを私は考
真理ではない,そういう理解をしていた。
えている。
従って,市民法というコンセプトについては,
もう1つ概念について,報告の表題は「法律
例えば加古祐二郎が「ブルジョア法の多元的構
学的射程」であり,
別の論文では「法学的意義」
造」で示したように,私法と公法と社会法のブ
と書いている。
「法律学的」と「法学的」は,
厳
ルジョア的に統一された体系的なものが生まれ
密に言うと違う日本語なので,
私も時々迷う。
な
てくる根本に,私法原理,つまり市民法原理の
ぜ「法律学的射程」にしているかというと,
「法
持っている抽象性・虚偽性があるのだと考えて
学」
というと日本語で腰が据わらない。
「基礎法
いた。
学」のように,前に「基礎」がつくと収まりが
もう1つ,実践的,政治論的文脈では,ドイ
良い。しかし,
「法学」というと,
日本の音楽を
ツの60年代の終わりから70年代にかけての法理
「邦楽」というように,
〔ホウガクという音の上
論を見ていたときの知見がある。60年代末から
での区別が定かでなく〕ふらっとしている言葉
70年代にかけてドイツでは社会民主党を中心に
であり,
「法学的射程」はもう1つノリが悪いの
した政府ができて,戦後初めて西ドイツは社会
で,
法律学的射程と表現しているだけである。
つ
改革を進めるという政治的な構造が生まれる。
まり,ここでは法律学は法学と同義であり,私
戦後西ドイツは,アデナウア内閣の下でほとん
は区別して使っていないということでご理解い
ど基本的な政治改革,社会改革が行われなかっ
ただきたい。
た。それが60年代末からの社会民主主義的な上
そこでB問題である。これは私が,なぜ市民
からの改革になるのだが,これ対して,それに
社会の概念が重要と考えるようになったのかと
抵抗し,批判の理論として出てくるのが市民法
いうことについての,私自身の問題関心の発展
論だと,ドイツの状況を私は見ていた。
のありようについてお話をして,そのあとで関
例えば,ドイツ基本法の憲法上の所有権概念
連させながらA問題,市民社会というコンセプ
と民法上の所有権概念を対比しながら,社会の
トがわれわれにとってどのように必要なのかと
基本的な制度設計をするときには,民法上の所
いうことについてお話しする。
有権概念こそが基本であって,憲法上の所有権
概念はそれに遅れるべきなのだという民法優位
<私のもともとの理解のし方>
論が社民的な土地法改革に対置された。それに
私の市民社会や市民法についての問題関心は,
対して社会民主主義的な改革は憲法優位論で対
同じ立場でそれがずっと発展したのではなく,
抗するといった法理論の状況があった。
私の考え方が変わった,あるいは明確になった,
また,私法の優位(Primat des Privatrechts)
コンバートした(転回)したと思っているので,
という言葉は,当時のCDU,キリスト教民主同
それについてお話をしたい。
盟系の法律家が,社会民主党の社会改革に対し
126
て,法の議論として反論する1つのキーワード
が出てきていたと,私には感じられた。
になっていたので,ドイツの政治的社会的文脈
その経過のなかで,20世紀末から21世紀にか
において,私は市民法論や市民社会論は,そう
けての国民国家の新バージョン,外国人住民を
いった保守的な位置づけを持つものであると認
共に社会の生きる者として抱え込んだ社会をど
めていたのである。
う構想するのかという問題について,
「国民」で
日本では民主的な立場からの市民社会論があ
はなく「市民」という概念の持つ重要性に気が
り,
市民法論があったが,
もともとイデオロギー
ついてきた。あるいは,そういう戦略的な概念
論的に発想し,また,ドイツの状況を眺めてい
の意義について多くの議論から学ぶようになっ
るので,
私は共感を持っていなかったと思う。
60
た。
年代末の現代法論の中で,東京のNJ研究会を中
ここでは,現在の段階における国民国家と市
心にした現代法論は,近代法・近代市民法とは,
民社会の関係ということに思いが至ると同時に,
現代法解析のための論理的措定に過ぎないとい
近代の成立過程においてnation- stateとcivil so-
う言い方をしていた。だから,それ自体をもっ
cietyはどういう関係にあるのだろうかという
て,なにか私たちが擁護すべき価値的なものと
問題関心を持つようになった。これは,後々,
は考えられていなかったのである。
civil society先行論,つまり,civil societyがあっ
以上のような基本的な発想が,どのように私
て,そこからnation- stateが生まれるのだとい
の中で転回してきたか。まず第1には,
非常に現
う私の発想につながっていく。
実的な問題関心として私がドイツの外国人問題
皆さんご承知の方が多いと思うが,ドイツに
について80年代前半から取り組んだということ
ウルリヒ・プロイスという憲法学者がいるが,
が大きい。
このプロイスも協力して,東西の左翼的な市
民・学者が集まって,ドイツ統一に際して,統
<国民国家と市民社会の関係> 一ドイツのための新憲法草案を発表したことが
ドイツの外国人は,比率にして8%くらいだ
ある。これは実定的なものにはならなかったが,
が,皆さんご承知のように70年代を通じて外国
かなり大きな反響を呼んだ。統一ドイツは新憲
人住民が増加する。そのなかで,外国人住民を
法を作らず,この草案も社会のなかの1つの提
integrateしてどういう社会を作るかという議
案に終わった。
論が,ドイツでは進歩派の人々にとって非常に
この統一ドイツのための市民を中心とした憲
大きな関心事だった。
法草案の中では,主権者のカテゴリーとして「主
そこでは,
「国籍者民主主義」が問題とされた。
権者=市民」という考え方が明確に打ち出され
私たちは,憲法学で参政権は国民固有の権利で
た。その法理論構成は,まず,憲法にいう主権
あるということをなんの疑いもなく習ってきた
者としての「国民 Volk」概念は維持され前提
わけである。
私もドイツに留学しているとき,
そ
されるが,これとならんで「市民」の概念が定
の観点から,外国人が選挙権を要求するときに
義され,同時に,憲法諸規定にいう「国民」は
は,どういうロジックで要求するのだろうかと
「市民」と読み替えられるべきものとされる。そ
最初は不思議に思った。そこで,近代国家の基
してこの「市民」の定義によれば,市民は「ド
礎にある国民国家,その国民とは何かというこ
イツ国籍者+市民権を得た外国人」であり,市
とが,私にとって非常に大きな関心事になった。
民権は,5年以上ドイツに合法的に滞在してい
ドイツを例にしても,あるいはヨーロッパの
る外国人が申請によって市民権を取得できるも
多くの国々においても,明らかに,国民国家が
のとされた。
なんらかの修正を迫られている。憲法理論上も
ここで国民国家の「国民」は,いまや外国人
そうだし,法理論全体についてもそういう問題
を含むものであり,この新憲法草案は,国籍者
127
+外国人を含めて市民と呼んで,それを国家主
ことができず,その場合,そのことを基礎づけ
権の帰属主体にしたのであり,国民国家から市
る理論として,来栖先生さんのフィクション論
民国家への転換が憲法理論的に実現されている。
を援用できるという議論を初めてだした。
この法理論的構想は,私の現実的な問題関心
フィクション論の理解によれば,これを単純
の基礎になった。
化すると問題だと思うが,フィクションとはイ
デオロギーではなく,人々の了解——これをコ
<市民社会という社会のあり方の積極的肯定>
モンセンスと言って良いのかもしれないが——
第2に,市民社会というあり方,敢えて民法
に基礎づけられて成立している社会のあり方に
的世界と言っていいかもしれないが,人々を自
ついての規範的な考え方であり,しかしそれは
由で平等で独立の存在として,そういう構成員
架空のものではなく,歴史的な社会の中に現実
が集まって作っている社会を市民社会として捉
的な条件を持つものである。
え,それを社会の基本的な枠組みとして積極的
文字通り実現しているものではない。けれど
に肯定するという問題関心である。
も,現実の可能性,条件を持っており,人々が
これについて,かつて私は,市民社会が抽象
それを共通に,そうあるべきだと了解している
性・虚偽性の産物であり,本当はそうではなく,
もの。それはイデオロギーではなく現実的なも
社会は階級社会だという議論をしていた。その
のである,という考え方で市民社会が基礎づけ
後,私はしだいに,それにもかかわらず,そう
られるのではないかと考えたのである。
いう市民社会そのものを額面通りに受け止めて,
それを大切なものだと積極的に法理論的に位置
<新自由主義政策による構造改革を批判する視
づけて肯定する,そういう議論が重要だという
点>
ことを考えると同時に,それをイデオロギーと
第3に,新自由主義政策による構造改革批判
いうのではなく,別の観点で位置づけることが
の視点としての市民社会論だ。これは実際に,21
できるという可能性をフィクション論に求めて,
世紀の社会を論じるときに,マーケット・ファ
市民社会論にポジティブな意味づけを与える方
ンダメンタリズム,市場至上主義に対する対抗
向に,さらに傾斜することになったのではない
戦略として,市民社会論的な社会のあり方を考
かと思う。
えることには,非常に大きな実際的な意義があ
それは,清水誠さんの市民法学を検討するな
り,これはかなりの人が,このような発想で市
かで考えてみたことであり,
加えて来栖三郎
『法
民社会を論じていると思う。
とフィクション』
(東京大学出版会,
1999年)と
つまり,国家から市場へと社会の秩序形成の
の出会いがあった。
来栖さんの
『法とフィクショ
ファクターが大きく変化させられている。そう
ン』は,本当に面白くて大きな影響を受けた。
いう方向がいいのだという議論が散々ある中で,
市民社会論,あるいは市民法擁護論の具体的
確かに国家は全面的に社会の秩序づけをするこ
な実益というのはおかしな言葉だが,法制史学
とができるgovernabilityを失ったとして,しか
会の50周年記念のシンポジウムが行われたとき
しそれは市場だけがその反対側のものとしてあ
に,私は学会のメンバーではなかったが,そこ
るのではなく,われわれ自身がそれを引き受け
に参加して「近代法の再定位」というテーマの
ることができる。つまり,非国家セクターにお
下,
「ナチズムと近代・近代法」という報告を
ける市民の事実的イニシアティブとネットワー
行った。
クを民主主義的に考えた場合,それをもってわ
その報告では,
ナチズムに対して市民社会,
市
れわれの市民社会と呼ぶことができるのだとい
民法というものを擁護しようとすれば,それを
う議論である。
単にブルジョア的なイデオロギーだと批判する
そのときに,福祉国家のバージョンアップと
128
いうことも言われた。福祉国家は60年代の半ば
本のメッセージであった。
頃までは,批判的な社会科学者にとって本当に
山口さんが基本的に支持しているのは,ハー
イデオロギー批判の対象であって,まやかしの
バーマスの市民社会論である。ただ,私自身は,
ものであったわけだが,しかし,その後社会科
ハーバーマスの受け止め方について山口さんと
学の中で福祉国家というものが正面から位置づ
ニュアンスが違う。ハーバーマスの「新市民社
けられて,人々の平等を実現する,労働者の福
会論」と呼ばれているものは,従来のBürgerli-
祉を実現する現代国家として研究の対象となり,
che Gesellschaftと い う コ ン セ プ ト に 対 し て,
本当の意味での福祉国家を作るべきだという議
Zivilgesellschaftという新しい考え方を打ち出
論に変わっていったのである。
した。つまりマルクス主義的な市民社会理解と
その福祉国家の再編が,課題として,これは
は手を切って,新しい市民社会の考え方をハー
左右を問わず提起されたときに,その福祉国家
バーマスは示した。それと同時に,ハーバーマ
の肯定的な側面を踏まえながら,市民社会論的
スは革命=社会の全体変革を考えないという立
なアプローチをして,国民の福祉を支える体制
場を表明した。
を従来の全面国家依存型ではなくて,われわれ
社会主義が崩壊した過程と状況を見ると,い
の共同のイニシアティブで作り直そうではない
まやわれわれの国家をどこかを起点にして全体
かという議論が,市民社会論として提起された
をひっくり返すという改革,変革というものは
ということもある。
危ない,あるいはできないとハーバーマスは判
この時期に特に私にとってインパクトがあっ
断したということだ。
たのは,多くの皆さんがお読みだと思うが,山
ハーバーマスが打ち出した戦略は,市民のイ
口定『市民社会論—歴史的遺産と新展開—』
(有
ニシアティブとネットワークを強化して,市場
斐閣,2004年)である。山口さんは,ずっと市
と国家によるわれわれの生活世界の植民地化・
民社会論について関心を持ってきた政治学者で
蚕食を防衛すること,つまりディフェンディン
ある。もともとドイツが専門で,ナチスも研究
グなコンセプトを戦略として,ハーバーマスの
対象であり,山口さんが言われることは,私に
新市民社会論は打ち出されてきた。
とっては知的状況が似通っているので,非常に
私はその点は違う。そういうディフェンディ
分かりやすい。ここで山口さんは,明確に21世
ングな戦略論としてだけ市民社会論というもの
紀の新しい社会の中で,市民社会というコンセ
を考えるのは,狭すぎるのではないかと思って
プトに依拠しながら,社会のあり方を考えるべ
いるので,その点はずれがあるということを
きだということを打ち出している。
言っておきたい。
ところで,日本の戦後社会科学の中において
は,市民社会というコンセプトについては,ア
<市民社会論の戦後法学における意義の再確認>
ンビバレントな関係がずっと続いた。
それは,
丸
それから第4に,そのように考えていくと,日
山眞男さんの市民社会に対する関係の中に明確
本の戦後の法学の中で市民社会についていろい
に見てとれる。マルクス主義的なアプローチと,
ろ議論があったということに目を向けなければ
近代主義的なアプローチが,2つあって,市民
ならないことになる。これまで私はそういう議
社会というコンセプトそれ自身について,日本
論をフォローしようと思ったこともなかったし,
の社会科学はアンビバレントな関係にあったけ
それを自分の課題だとも考えなかった。
れど,いまや—山口さんは以前から市民社会擁
きっかけとなったのは,広中俊雄さんの『民
護派だと思うが—,もっと明確に市民社会のコ
法綱要』(創文社)が発表されたことで,大きく
ンセプトをプラスの方向に打ち出して,それに
影響されている。第1版は1989年,改版が2006
見合った社会構想を考えようというのが,この
年に出たが,いずれも非常に密度の高い議論が
129
展開されていて,
200ページ足らずのそんなに大
格を持ったコンセプトであって,実証的な存在
きな本ではないが,とにかく熟読玩味をすると
を,そのまま認識したものとして市民社会が論
いろんな発想が出てくる書物だ。
じられているわけではないと思っている。
今日資料として,私の論文を2本お配りして
こういう関連で,広中さんと川島先生の系譜
いる。これはいずれも広中さんの『綱要』を相
を考えていくと,実は戦後には,市民社会論に
手取り,これをネタにしながら書いた論文であ
ついて川島先生の系譜とは違った,戒能通孝先
る。
生の市民社会論という系譜があったのだという
この広中『綱要』というものを,市民社会論
ことに,当然に気がつく。
の視角からどう位置づけるか。広中さんは,明
川島市民社会論が描いた市民社会のイメージ
確に川島武宜先生の市民社会のコンセプトを受
は,資本主義的な近代だけれども,戒能市民社
け継いでいる。そのコンセプトに基づきながら,
会論が描いた市民社会は,市民が権力を確立し
日本では60年代に市民社会が成立したとことを
た民主主義的な近代である。単純化するが,そ
議論の前提に置いている。その市民社会が成立
ういうイメージの違いがある。
した日本社会の中で,民法という実定法が,法
そうするとわれわれは,資本主義を達成した
社会学的な基礎をもって把握できるので,その
かもしれないが,市民の権力が確立した民主主
規範的内容をこの『綱要』の中で明らかにする
義は本当にできているかという課題が残る。
ことが課題とされる。
そういう課題に即して,現在でも課題として
こうして『民法綱要』は,日本の市民社会と
の市民社会論というのが,法律学の営みの中に
いう実証的な存在を根拠にしながら,判例と法
探られる必要がある。戦後の市民社会論は,日
のテキストの解釈を通じて,実定民法の体系を
本社会をどう変えるかというその戦略に係わっ
提示するわけであり,まさに法社会学的な基礎
て議論されてきたわけなので,どういった社会
を持った実定民法論になっている。非常に壮大
を目指すかということと同時に,誰がその社会
な構想をもとにこの書物が書かれていると思う。
変革を担うのかという問題も含んで議論された。
その場合,これは皆さんがご承知の通りだが,
戒能市民社会論は,この後者の問題を重要視し
市民社会の秩序は四つに分けられて,その秩序
ている。
ごとに民法の体系が論じられる。この市民社会
広中さんは市民社会がすでに実証的に存在し
の秩序というのは,実証的な,現実的な秩序と
ているという理解なのだが,しかし,戒能先生
してまず前提とされている。
の系譜を引く渡辺,清水両先生の市民社会論は,
広中さんのこのような民法理論の構築におけ
依然として市民社会が課題であるという立場に
る政治的なimplicationは,日本社会の市民社会
立って日本の社会と法の問題を論じている。
化を課題とした戦後法学の課題の最終的遂行で
私は,渡辺先生の追悼論集(戒能通厚・原田
あった。このことは,今日ここにお見えではな
純孝・広渡清吾編『日本社会と法律学─歴史,
いが,水林さんが,広中『綱要』を書評した小
現状,展望─渡辺洋三先生追悼論集』(日本評
さな文章の中でも言っている。戦後の法律学は,
論社,2009年))の中で,「渡辺法学の構図─
川島先生以来,日本を市民社会化することを1
その素描」というテーマで,渡辺先生の全体の
つの課題とみなしたが,この課題が達成された
議論の流れを,市民社会,市民法論を1つの基
というわけである。
軸にしながらサーベイしてみた。その中で私は,
それにもかかわらず,これは後で吉田さんか
市民社会論・市民法論として渡辺先生が位置づ
らもコメントがあると思うが,私は,広中『綱
けてきている,この理論の性格は一体何かとい
要』は,法社会学的な基礎づけによる実定民法
うことについて,1つの考え方を示してみた。
論であり,広中さんの市民社会論も規範的な性
市民社会とは,歴史的な存在として認識の対
130
象であるのか,あるいはそうではなくて,規範
内容も非常に緻密に社会主義の体制・運動・思
的な構成物に過ぎないのか,そういう議論が
想の歴史が描かれている。
ずっとあるわけだが,渡辺先生は,自らは方法
2冊のうち後で刊行された『自由・民主主義
論的に整理してそう言っているわけではないが,
と社会主義1917-1991』(桜井書店,2007年)を
私は,渡辺市民社会論・市民法論は,中間理論
ある学会のミニシンポジウムで取り上げて議論
の性格を持つものであるという仮説を出してみ
し,そのときに報告をした。
た。
藤田さんは,社会主義は近代市民革命の原理
歴史社会の実証的な研究を通じて,歴史学や
としての自由と民主主義の真の実現を目指して
経済学や法律学が,明らかにしている歴史社会
きたものであると位置づけている。従って,真
の法則というものは,自然科学的法則とは違う。
の実現を目指すために革命は,政治革命,人民
また,このような歴史社会の法則的な認識を求
の権力の奪取,つまり民主主義の実現にとどま
める仕事の一方で,
実際に現在の社会の中で,
い
らず生産手段の社会化を中心とする社会革命に
ろんな問題があって,こうしなければならない
まで展開しなければならない。これが社会主義
という具体的な実践の課題がある。渡辺先生に
革命であると,この本の中で位置づけられてい
あっては,
この2つをつなぐ中間理論として,
市
る。
民社会論,あるいは市民法論が,位置づけられ
藤田さんによれば,このような意味での,真
ていたのではないだろうか。それは,一言で言
の自由と民主主義の実現を目指す社会主義の運
えば,規範的社会理論,あるいは規範的な社会
動と思想は,不朽のものであり,まずロシア革
構想と言えるだろう。
命でソヴィエト社会主義連邦の体制ができ,東
しかし,それは,まさに来栖先生が言ってい
欧に社会主義体制が成立し,しかし紆余曲折を
るように,勝手に論者が思い描いている社会構
経てその体制が崩壊・解体したが,なお,運動
想や社会理論などではなく,渡辺先生によれば,
と思想のレベルで見ると,このような意味での
市民革命期にその構想の歴史的な根拠がある,
社会主義は,世界的に見て今日,再び前進的な
そういう社会構想であり,社会理論であると位
局面にあるとされる。
置づけられて,しかも性格としては,それは規
この書物では,ソ連の体制について緻密な分
範的なものであると考えられていたのではない
析が行われている。私は,ソ連の体制が,自由
だろうか。
と民主主義の実現に向けての人類の大きな歩み
これは,コメントをしていただく吉田さんが,
のポジティブな一局面になったのかどうかとい
以前から論じている「規範的社会論」に通じる
うことについては,なお多くの皆さんが,諸手
ものがあると思っている。
を挙げてそうだと言えないのではないか,その
辺りのことをどう考えるのか,社会革命にまで
<社会主義と市民社会論>
進んだ体制が十分な政治革命を実現していたの
市民社会論をもう少し広げて考えてしまった
かどうかという問題を指摘した。
のが第5の「社会主義と市民社会論」だが,
そこ
また,政治革命から社会革命へ移るときに,社
まで行くと市民社会論の射程は,広がり過ぎる
会革命はどういう内容のものを実現することを
可能性もある。ことのついでにここまで広げて
目指すのかということが問題になる。実は,そ
しまった。
れについて現代の段階では,なかなかどの国の
藤田勇さんが社会主義論について,大きな2
社会主義政党・共産党も,明確にそのコンセプ
つの著作をものされた。80歳を超えて,2冊で
トを語ることはできないでいるのではないか。
1,300ページもある,とても大きな本を書かれ
例えば,ドイツには左翼党という,東ドイツ
て,そのこと自体が大変な驚異なのだが,その
の社会主義政党の後継政党がある。左翼党は社
131
会主義を目指しているが,同党は,社会主義の
の,あるいは自主的・連帯的なgovernabilityを
コンセプト自身を語ることを自覚的に避けて,
持つ市民のネットワークとしての市民社会,な
これまでの社会主義についての自己批判を十分
んらかの共同性を持った市民の横のつながりを
しなくてはいけないし,むしろ社会主義の内容
もって市民社会と位置づけて,市民の連帯と協
は,人々が自ら決めるものであり,人々が自ら
働の持つ意味を考えようという議論の仕方があ
決めることができるという体制を作り出すこと
る。
がわれわれにとっての重要な課題なのだという
次ぎに,国家と市民社会の二元論である。こ
議論の仕方をしている。
れは,水林さん的に言うと,ドイツ的な議論だ
これを考えると,日本の戦後の法律学,戦後
ということになる。フランスは,国家と市民社
の民主主義の議論の中で,なぜ市民社会論とい
会は一元的であって,société,civilが,いわば
うものが,こだわられてきたのかということに
国家と市民社会の両方を現すものであり,二元
思いが至る。
論はドイツ型だということだ。
人民の真の権力の確立,自由と民主主義の実
日本の社会科学では,ドイツ型で,かつマル
現,人々が自由で平等で独立の一人一人の人間
クス主義的な思考によって二元論が支配的だっ
であるということを実現することの持っている
たと考えられる。
意味,つまり,社会主義が自由と民主主義の真
この二元論に対して,国家の手段性を強調す
の実現を目指すと言ってきたそこのところと,
る市民社会一元論,公法私法二元論に対して市
市民社会論がどう関係しているのだろうか。こ
民法一元論を説く議論の仕方が,改めて現代の
のことを,改めて藤田先生のご本を読みながら
段階で意味を持つものになってきている。
考えた。
私はいくつかのところで論じたが,行政法学
なぜ,日本の戦後の社会科学や戦後の法学が,
者の高柳信一先生,民法学者の広中俊雄先生は,
マルクス主義の大きな影響の下にありながら,
いずれもこの市民法一元論,市民社会一元論的
その中で市民社会論にこだわり続けてきたのか,
な立場から,実定法としての行政法の位置づけ,
そしてこだわられ続けているのか,その意味を
実定法としての民法の位置づけを規範理論的に
もう一度ここで考えたということである。
展開した。私自身も,放送大学のテキスト『市
以上のように,
少なくとも私の頭の中では,
市
民社会と法』(放送大学教育振興会,2008年)の
民社会論が現代社会を論ずるいろいろなパース
中で,法の体系を論ずるときに,市民社会の法
ペクティブの中に文脈づけられるのである。
体系について,この一元論的な立場から説明を
さて,そこでA問題に入りたい。すでにB問
試みている。
題を話しながら,市民社会というコンセプトが
それがどういう意味を持つのかということだ
どのように重要かということについても,自分
が,市民・市民社会が第一義的で,国家は後だ
なりの考え方を示してきたが,改めて市民社会
という考え方に立って,実定法の構造を描き出
概念の有用性について何点かに渡ってお話する。
し,説明することが社会における人々のイニシ
アティブの重要さを位置づけることになるとい
<現代社会のトータルな構造変化を捉える手段
うことだ。
としての市民社会概念>
それから,国家と市場と共同体,これは個人
ここでは,市民社会概念のいろいろな使い方,
を取り巻く三つの秩序ということになるだろう
使われ方が見られる。
か。この三つの中で個人を位置づけたときに,個
まず,これは樋口陽一さん的な近代社会の構
人がその三者とバランスの良い関わりを持つこ
図だが,国家と個人の二項対立的な構図,ある
とが,個人の自由と生存の確保のために必要な
いは国家と市場の二元性に対して公共圏として
のだという議論がある。ただし,この議論は,市
132
民社会をどこに位置づけるのかがはっきりしな
この辻中さんも参加した市民社会をテーマに
い。
する日独シンポに私も呼ばれたことがあり,そ
もう1つ,国民国家的な枠組みを超える共同
の時は,“Zivilgesellschaft und Rechtssystem in
性の基礎づけとしても市民社会論が使われてい
Japan“という報告をした。主催者の注文は,日
る。これはご承知のように,global civil society
本の市民社会における人々のつながり方の問題
論があり,ここでは世界国家ではなく,世界的
について,法制度的に見て欲しいということ
な,グローバルなcivil societyの議論をすること
だったので,日本の法人制度改革の問題をそこ
で,グローバルな空間でのgovernabilityをどう
で紹介した。こういう形の議論が進んでいる。
考えるかという議論が展開している。
こういう現代社会のトータルな構造変化を捉
<実証的研究の対象としての市民社会と規範的
える手段的なコンセプトとして市民社会が使わ
社会論としての市民社会>
れており,それぞれにおいて,どのようにそれ
このように実証的研究の対象としての歴史的
が意味を持つのかということを考えなくてはな
経験的市民社会と同時に,規範的社会論として
らない。
論じられる市民社会論があるのは,これまでの
話でお分かりいただけたと思う。最初に言った
<現代社会の市民的活力の具体的実証としての
ように,いずれが正しい方法なのかという議論
市民社会という視角>
をするつもりはない。市民社会というコンセプ
これも社会科学の中で,かなり大きな動きと
トがどのような文脈で,どのように使われてい
して見られるが,市民のイニシアティブ,ネッ
るかということ,それ自体を私たちが認識的に
トワーク,さらにものや施設を介したネット
捉えることが重要だ。
ワークとしてのコモンズ的関係が取り上げられ
哲学者の平子友長さんは,もともと市民社会
る。要するに市民が集まって何かをしようとい
概念とは思想史的に見ると,何かを記述すると
う共同性と,
あるものの利用や管理を通じて,
市
いう概念ではなく,その当時の人々が了解し
民の共同性ができあがる。都市生活では,その
あって,良き社会を作るという場合に,それを
ようなものがいろいろ見られるし,古くは入会
媒介する概念として使われたのが市民社会概念
のようなところにも見られる。そういうものの
なのであるという哲学的思想的な議論をしてい
実証的研究が市民社会研究として行われている。
る。
これに関しては例えば,筑波大学の辻中豊さ
そうだとすると,市民社会概念はもともと規
んが中心になって,
『現代社会の市民社会・利益
範的な性格をもって歴史的にもあったのだとい
団体研究叢書』全6巻(木鐸社)が出されてい
うことが推測される。こういう平子さん的な市
る。これは,中国やカナダや日本やアメリカな
民社会概念の捉え方についてはもちろん反論も
ど,いろいろな国を比較研究しながら,具体的
あるだろう。いずれにしても両義的な概念であ
には市民の組織が,どんな形でどのようなポテ
ることは,これを見てもよく分かる。また,市
ンツを持って広がっているかということの実証
民社会の歴史的な研究,つまり対象としての歴
的研究である。調査のために市民組織の定義と
史的実証的な市民社会の研究が必要であること
基準を設定し,それに応じて市民組織がどの程
は言うまでもなく,それは当然に行われなくて
度広がっているかを調査している。この市民組
はならない。
織の広がり具合によって,その市民社会の活力
こうした事情は,例えば早稲田大学21世紀
がどの程度かを測定し,それが政治的な民主主
COEが刊行した『企業・市場・市民社会の基礎
義の質にどのように関連するのかを議論しよう
法学的考察』(日本評論社,2008年)からもうか
とするものである。
がわれる。これは非常によくできた本であり,内
133
容の濃い本だということに読んで初めて気がつ
文脈の中で問題を考えなくてはいけないので,
いた。自分たちで研究会をやっているときには,
こういう研究が必要であることはもちろん言う
こんなに立派な本ができるとは思っていなかっ
までもない。
た。
しかし,同時に規範的社会論としての市民社
この中で,水林さんの論文は,2つの側面の
会という考え方があるということも,合わせて
絡み合いを歴史的に考察しているように思う。
確認をしなければならないだろうと思っている。
これに触発されて考えると,
私のみるところ,
フ
それは,市民社会が近代社会のいわば理念とし
ラ ン ス のcitoyenと 英 米 のcitizenと ド イ ツ の
て近代社会の形成において意識的な作用を果た
Bürgerが,政治的文脈では対応しない概念だと
したことを考えることである。これは,次の最
いうことは,ドイツのBürgerというものについ
後の論点にも関わる。
ての議論を見るとすぐ分かる。
英 米 のcitizenは,subjectに 対 す るcitizenで
<市民社会=フィクション論について>
あって,それはいわば王のsubjectから,社会の
最後に市民社会=フィクション論についてお
主人公としてのcitizenに転換するという歴史的
話しする。
なimplicationをもってcitizenという概念がある。
市民社会は,1つのフィクションであるとい
Bürgerにはそういう意味がない。だから,ドイ
う議論を,この間,試みてきた。腰溜めの議論
ツ語では,citizenshipという概念をニュアンス
のような気もしているが,敢えてもう一度ここ
として表現できない。
で整理する。フィクションの議論は,seinと
ドイツ語でcitizenshipに対応する語は,独英
sollenの二元論ではなく,存在と規範の二元論
辞典を見るとStaatsangehörigkeit(国籍)と書
ではなく,seinの一元論でもない。seinの一元
いてある。だが,citizenshipを日本語の意味で
論になれば,sollenのほうはイデオロギー形態
の国籍,ドイツ語のStaatsangehörigkeit,文字
にしかならないのだが,そうではなく,人々の
通り国に所属する,国家所属性という意味で
了 解・ 要 求・ 希 望 に 根 ざ し たsollenは, 価 値
言ってしまうと,citizenshipのニュアンスが表
的・規範的なものだが,同時にそれはseinに根
現できていないのではないかと思われる。
ざしているものであり,これがフィクションで
実際にドイツ人もそれに気がついていて,EU
あると考える。
関係のドキュメントを見ると,英語でcitizen-
人々が自由で平等で独立の存在であって,相
shipと表現されているところにどういうドイツ
互に水平的に交流する,そういう社会であると
語 が 当 て ら れ て い る か と い う と, そ こ で は
いう,それは単なるイデオロギーではなく,現
Staatsangehörigkeitと は 当 て ず,Zivilbür-
実に根拠を持っていて,かつその現実の根拠が
gershaftという言葉が当てられている。これは,
歴史的な条件の中にあり,同時に人々がそれを
新造語である。ドイツ語には,Bürgerschaftと
望んでわれわれの社会はこうあるべきであると
いう言葉がある。schaftは英語のshipに当たる
了解し,要求し,希望している,そういうもの
ものなので,これはcitizenshipに対応しそうだ
として市民社会というものを考えることはでき
が,ドイツ語のBürgerschaftは固有名詞に近く
ないかということである。
て,ハンブルグの市議会を意味する言葉だ。だ
そんなことを言って何の意味があるのだと,
からこれをこのまま使うことはできない。
おそらく誰もが思う。先ほど紹介した『社会科
そこでZivilを前につけて,Zivilbürgerschaft
学研究』の特集号に立命館大学で法社会学を講
という造語が使われている。こういうニュアン
じている高村学人さんにも寄稿してもらった。
スというものを,
歴史的にきちっと探究して,
市
高村さんは論文(「コモンズ研究のための法概念
民社会の歴史的形成というドイツの歴史研究の
の再定位—社会諸科学との協働を志向して—」)
134
の中で,
市民社会フィクション論を批判して,
お
いたいことを高村さんが分かってくれていない
おむね次のように述べている。
ような気もするという微妙なところである。な
「市民社会の歴史的,実証的研究から市民社
お議論を続けたい。
会・市民法の歴史的正当性を基礎づけることか
私の市民社会フィクション論は,もう1つ先
ら離れて,市民社会・市民法の把握を,フィク
に展開している。
ションと論ずるのは,観念論であり,法の自律
私が東大社会科学研究所で参加した最後の共
化─広渡が解釈すれば,法というものが,社
同研究は,希望学の研究だった。今,その成果
会経済的な諸条件によって規定され生成するも
が書店に並んでいるが,
『希望学』全4巻(東京
のだという論点を外して,法を法それ自体の中
大学出版会)の刊行予定であり,第2巻まで出
から正当化する,法の内的視点による正当化を
た(2009年5月時点)。第1巻が4月7日に発売
図ること─に偏向することである。その結果,
されて,まだ2カ月にならないが,3刷に入っ
市民が法へアクセスすることをいっそう困難に
た。この手の本としては,非常に良く売れてい
し,法と社会の関係の適切な把握を妨げるもの
る。といっても,4000−5000の部数だから,昔
になる」
というのが,
高村さんの市民社会=フィ
はもっと売れた。
クション論に対する批判になっている。
社会学研究所のプロジェクト研究の成果で一
そういう批判もありうるかなと思わないわけ
番売れたのは,私より少し上の世代が中心に
でもない。少し問題意識が違う,ずれていると
作った『基本的人権』全5巻(東京大学出版会,
も思い,ずれているということをうまく表現で
1968−69年)であり,この第1巻は17,000部売
きない。高村さんは法社会学の立場からこうい
れて,これがレコードである。
う批判をしているのだが,法社会学はでは社会
なぜ希望の研究をしたかということは,編者
に関わる規範的理論をどのように取り扱うのか
によって縷々書かれているが,私は第1巻の巻
という問題がある。高村さんは,法と社会につ
頭論文を執筆している。自分でも非常に気に
いて観察をする,その観察のミクロ的視点に
入っているが,全く法律学的な論文ではない。
立っていて,市民社会=フィクション論はマク
「希望と変革─いま,希望を語るとすれば」
ロ的視点に立っているとさしあたり違いを言え
というタイトルである。章立てを紹介すると,第
るかもしれない。
1章「希望の外延」,第2章「希望の原理」,第
先ほどご紹介した早稲田大学21世紀COEの
3章「ユートピアのない時代」,第4章「希望と
研究成果には,福島大学の中里見博さんも「法
市民社会」,第5章「希望とフィクション」,第
的人格のジェンダー・クリティーク」と題する
6章「希望とリスク」,第7章「変革の力として
論考を寄せているが,ここでは私のフィクショ
の希望」,第8章が「希望に関するテーゼ」とし
ン論が引かれており,中里見さんはこれを極め
て展開した。
て肯定的に位置づけている。
この中でポイントは,希望とフィクションが,
それによると「広渡のフィクション論は,市
相似的な構造にあるということを基礎づけ,希
民社会,つまり近代市民社会というものを,肯
望,フィクション,市民社会と三つの関係を論
定する意図を持ったものであるけれども,それ
じていることだ。
は明確にポストモダン的な近代否定論に対する
そこでの論理だが,
「希望の原理」の章でドイ
対応をするためのものである」と位置づけられ
ツ の 哲 学 者 の エ ル ン ス ト・ ブ ロ ッ ホ の“Das
ている。
Prinzip Hoffnung”という書物を使った。ブロッ
いずれにしてもミクロ的視点とマクロ的視点
ホは,希望とは“Noch-Nicht-Sein”,(未だないと
は,あまり的確な表現ではない。高村さんが言
いう存在)と言っている。つまり,「未だない」
おうとしていることは分かるが,しかし私の言
という形で「存在している」ものとして希望を
135
位置づけている。だから希望は未来に向かって
ある。
の人々の意識の中にあるものだが,それは今の
希望に関するテーゼを二つ,三つご紹介する。
現在の中に存在している。だから,現在と未来
第1テーゼ「希望は,未来の変化について望
が,
希望によってつながれる。希望なしには,
現
ましいものとして意欲された主観的表象である。
在の変革の可能性というものを,現在の中に探
それは,将来に起こりうる事態についての事実
ることはできないという議論をしている。
分析による『予測』とは異なる。また,破壊や
このように言うと,すでにそれは主観主義的
侵害などの未来に生じうる望ましくない変化に
な社会の理解の仕方だ,幸福の科学と同じだと
ついての表象は『リスク』と呼ばれる。希望と
なってしまうと批判される。これが幸福の科学
リスクは,共に未来に関わるものとして共通性
とどこが違うかということを,この本は一生懸
を持つが,その未来が望ましいものとして表象
命議論している。私もそこを一生懸命議論して
されているか,望ましくないものとして表象さ
いる。
れているかにおいて異なる」というところから
フィクションもまた,
いわば未だない存在,
つ
始まり,第4テーゼでは「希望が時間軸におい
まり現実に可能性を持っているが,しかし実現
て『未だない存在』であるのに対して,フィク
していないものである。人々が規範的に意識し
ションは同一空間における『未だない存在』で
ているが,空間のレベルにおいて「未だない存
ある。フィクションは,近代社会を構成する原
在」が,
市民社会というフィクションである。
希
理の重要なあり方であり,これは,時間軸にお
望は,
時間軸における,
未だない存在である。こ
きなおせば,希望の一類型となりうる」と言っ
うして,希望とフィクションは,相似的な構造
ている。そして,社会科学的な位置づけは,第
を持っている。私は,この本の中で,市民社会
11テーゼで行っている。「希望は,『個人』の希
は,現代社会の中の1つの希望であると位置づ
望から,はじまる。それは,社会の希望として
けた。これは,社会主義というオルタナティブ
の共同表象に展開しうる。社会科学は,このよ
が喪失した時代における戦略的な意味を持った
うな未来についての表象を現在の社会構造の実
希望でありうると,この論文では展開している。
在的要素として位置づけ,それらの関連を分析
そういう論文なので,
これを読んだ人から
「広
し,現在社会の可能性をとらえることによって,
渡さん,初めのほうは学術的だけれど,後ろの
現在社会を歴史的なダイナミズムのなかに対象
ほうはアジテーションですね」
と言われたが,
そ
化することができる。」
うだと思う。
たぶんわれわれが学んだマルクス主義は,法
もう1つの仕掛けは,
「希望に関するテーゼ」
則的な可能性を現在の社会の中に見いだすとい
を最後の章に置いたことである。
「希望に関する
う場合,それはあくまで客観的な法則的な可能
テーゼ」は11テーゼから成り立っている。端数
性なのだが,希望やフィクションというものを
だ。研究プロジェクトが終わって打ち上げをす
この中に入れるとすると,主観的に人々の表象
るときに,
「どうして11なのかって誰も訊いてく
の中にあるものを,社会の現実的な要素として
れなかったので淋しかった」と言ったら,
「サッ
捉えて,それが社会の変革を引き起こす可能性
カーですか?」と言われた。お気づきのように,
を持つものだと位置づけ直すということだ。
これはマルクスの「フォイエルバッハに関する
そういう意味では,主観主義的な社会分析に
テーゼ」の数である。それを意図して11にした。
なる可能性もある。だが,それをできるだけ客
ブロッホは,この「フォイエルバッハに関す
観的に認識していくことによって,まさに文字
るテーゼ」の第11項「哲学者はさまざまに世界
通り今の社会が持っている歴史的な変化のダイ
を解釈してきた。……」という,あのテーゼに
ナミズムというものを捉えることができるので
こだわってこの希望の哲学的解明を志したので
はないか。これが「希望の社会科学」という問
136
題提起だった。
対象である存在が設計図による構築という世界
フィクション論について,もう1つ最後の論
であり,法則を認識する科学ではなく,プログ
点として早稲田21世紀COEの本に戻る。この書
ラム科学であると述べられる。プログラム科学
物には,社会学者・吉田民人さんの「<所有>
とは,そこにどういう設計図があるのか,その
をめぐる1つの社会学的考察─<社会的制御
設計図に従って,どのように社会が構築されて
能>の歴史的理解とその理念的・現実的選択
いるのか,設計と構築されるものの関係はどう
─」が寄稿されている。これを読んでなるほ
か,そういうことについて,研究する学問であ
ど,使えるなと思った。これを最後にお話する。
るということである。
この論文は,所有をめぐる1つの社会学的考
科学論が論じられる文脈の中で,吉田さんは,
察であり,コモンズをめぐる制度設計の話が中
来栖先生がフィクションの例に出した社会契約
心的な話なのだが,その前提に科学論が展開さ
について触れている。この記述に,来栖先生が
れている。そこに私は非常に大きな関心を持っ
考えているフィクションや私が考えているフィ
た。
クションと同じような含意がみられるかどうか
吉田民人さんは,学術会議の副会長のときに,
は,よく考えなければならないところがあるが,
学術体系論を提示して,会員総会のたびごとに
次の通りである。
壇上から口角泡を飛ばして述べられた。これら
「社会契約論の理念は,一方<理念型>ない
は,認識科学,設計科学および科学的技術とい
し<虚構的事実>として社会構築を認識し,す
う3本立てで学術の体系を理解するという報告
なわち社会的現実を認知的に構築し,他方<マ
書にまとめられた。私は読んでなかなか面白い
スタープラン>として社会構築を設計する,す
ものだと思った。
なわち社会的現実を指令的に構築する。伝統的
その後,2008年に私は,吉田さんの宮中での
な用語でいえば,社会構築への<記述的>アプ
年始行事「講書始めの儀」におけるご進講に陪
ローチと<規範的>アプローチである。<理念
席して「社会を作るのは法則か規則か」という
>は,しばしば認識論的には現実を隠蔽する<
報告を聴いた。報告は25分だったが,おそらく
仮象>として機能し,設計論的(規範的)には
天皇は分からなかったと思う(笑)
。
私は,
「ふー
現実を整合的に解釈するための法技術的な<擬
む」と言う感じで聴いていた。
制>として機能する。」
そのときの「ふーむ」がこの論文を読んで「な
フィクション論という考え方は,科学論的に
るほど」になった。ここでは,
分かりやすく,
新
言うと,吉田さんの言っているプログラム科学
存在論と新科学論として展開されている。吉田
という理解に結びつく可能性がある。そういう
さんによれば,存在論は,物質層,生物層,人
問題がここでは提起されている。
間層の三つに分けて論じられうる。
物質層は,
法
ところで,実は,定年退職の際の研究所での
則および所与の前提条件に規定されて生成する。
私の最後の研究会報告でこの話をしたら,吉田
生物層および人間層は,法則的に生成せず,所
民人さんは東大の社会学を駄目にした先生だと
与の設計図および所与の前提条件に基づいて構
思う,と発言した人がいた。なぜかというと,こ
築される。
ういう観念的な議論ばかりして院生を惑わせて,
生物層が,設計図に基づいて展開される,構
院生が社会学で一番大切な調査を全くやらなく
築されるという根拠はゲノムである。ゲノムの
なったというわけである。そこで「広渡さん,そ
発見によって,生物というものは,ゲノムとい
ういう変な議論に付き合わないほうがいいので
う設計図によって構築されているという理解が
は」と言われた。私も,一面,そういう感じが
可能だというわけである。
しないわけではない。
また,人間層を対象にする社会科学は,その
けれども,このような議論は,私たちが社会
137
科学のあり方について迷っている事柄に関連し
会論分析を通して広渡の市民社会論を探る」と
ている。実証科学を目指して科学としての法律
書いた。広渡さんが市民社会に関して今までお
学として追求してきた法律学,他方でフィク
書きになったものには,広中先生や清水先生,渡
ション論や市民社会論を含みながら語る法律学,
辺先生など市民社会論を展開した諸論者の議論
これらがどのように関わり,どのように位置づ
を検討するものが多い。そこでは,ご自分の市
けられるかは,やはり,正面から論じられなけ
民社会論を展開することが目的とされているわ
ればならない。
けではないのだが,そのような論文の中から広
法律学の場合,法解釈論は,本質において規
渡市民社会論を抽出していく。そういうスタン
範論なので,法解釈論をやっている限りは自ら
スの作業を少し意識してやってみようというこ
規範論として,科学としての法律学の範疇外だ
とだ。
ということで二分論に安住してしまえるのかも
第2点目として,
「吉田の市民社会論も適宜織
しれない。しかし,
法解釈学の営為を含めて,
法
り交ぜる」と書いた。広渡市民社会論を析出す
律学の全体において,実証性と規範性の2つの
るだけでなく,私なりの市民社会論も適宜織り
要素を,認識の問題としてどのように位置づけ,
交ぜ,それと広渡市民社会論を比較対照させて
法科学的な議論を立てるべきか,ますます重要
いく形でコメントさせていただきたい,という
な法学的課題であるように思う。法学の構成や
ことだ。私の市民社会論は,実定法学,法解釈
法理論のあり方を考えるときに,科学としての
学に価値を持ちこむ準拠点を作るという問題意
法律学が考えた実証的な基礎とは違った位相で,
識を強く持っている。これに対して,今日,広
法学の学問的,客観的基礎を考えなくてはなら
渡さんのお話を伺って,広渡さんの場合には,社
ないような問題があるのではないかということ
会実践の準拠点として市民社会論があるという
が,今日のような報告をした背景である,
印象を改めて持った。これからの話で,私の理
「今後の課題」は言わずもがなのことがある
解と広渡さんの理解の違いのようなことにも触
ので,もし後でご質問があれば,お話しするこ
れることになろうが,それは,今申し上げたス
とにして,時間がかなり超過したので,一応報
タンスの違いによるところが大きいという気が
告はこれで終わりにさせていただく。
している。
さて,レジュメでは,4つほど論点を用意し
Ⅱ.吉田克己教授(北海道大学)コメン
ト
た。しかし,最後の第4点目として挙げた「憲
法と民法」という論点は,今日の広渡報告では
触れられなかったので,私のコメントからも落
【はじめに:コメントの基本的スタンス】
とし,最初に示した3つの論点についてお話し
当初コメントの予定はなかったのだが,いろ
したいと思う。
いろな事情でコメントをすることになった。改
<Ⅰ 市民社会概念の理論的位相:記述概念か
めて広渡さんの市民社会論を勉強させていただ
価値(規範的)概念か?>
き,いろいろ得るところが多かった。コメント
まず,最初の論点として提示した「市民社会
の機会を与えていただいたことに感謝したい。
概念の理論的位相:記述概念か価値(規範的)
お手許に,今日のコメントに関する簡単なレ
概念か?」というところだ。先ほどの広渡報告
ジュメを差し上げている。それに即してコメン
でも触れられたが,これは,あれかこれか,ど
トしていきたい。
ちらが正しいかという問題ではない。市民社会
レジュメの冒頭部に,コメントの基本的スタ
概念にはこの両義があり,その相互関係が問わ
ンスということで2点ほど書いてある。
れるという問題だと思うが,それを前提にした
第1点目として,
「広渡による諸論者の市民社
上で,広渡さんは,規範的概念としての市民社
138
会というつかまえ方に明確にコミットしておら
するおぼえがき」民法研究第4号〔2004年〕75
れることをまずもって確認しておきたい。これ
頁)。この点に関しては,早稲田大学の藤岡康宏
がこの項目の第1点目の指摘だ。
先生から,以前北大で行ったさるシンポジウム
この点に関わって,レジュメには,広渡さん
におけるコメントで,広中秩序論は法社会学的
の論文の中から抜きだした文章を挙げておいた。
発想だが,それに対して吉田の議論はどうもそ
「法学における市民社会論は,
現実の資本主義社
うではないようだ,両方の関係はどうなってい
会を批判する文脈において,規範的な社会構想
るのかという趣旨の指摘を受けたことがある
論(ただし抽象的な想念ではなくて,歴史的な
(藤岡康宏「(シンポジウム『競争秩序への多元
根拠をもつものとして)の意義を担ってきてい
的アプローチ』における)コメント」北大法学
る」
(広渡清吾「市民社会論の法学的意義」戒能
論集56巻3号〔2005年〕1336頁以下)。これは深
通厚・楜澤能生編『企業・市場・市民社会の基
めるべき論点だと感じている。
礎法学的考察』
(日本評倫社,
2008年)61頁)と
先ほど広渡さんと雑談していたときにも触れ
いう文章だ。ここに明確に「規範的な社会構想
たのだが,今日(2009年5月30日),仙台で民法
論としての市民社会論」という観点が見出され
理論研究会という研究会が開かれている。そこ
る。ただ,それについて,カッコ書きでだが,
で新潟大学の民法の先生である中村哲也さんが
「抽象的な想念ではなくて,歴史的な根拠をも
「民法と権力秩序─民主主義的国家形態に関
つ」という把握がされていることにも留意して
連する民法総論上の問題─」というテーマで
おきたい。この点には,また後で立ち返る。
報告されている。そのレジュメを研究会案内と
このような観点から,広渡さんは,渡辺洋三
ともに送っていただいたのだが,それを拝見す
先生の法学の営みを「規範的社会論の構築」と
ると,その報告では「秩序」概念を用い,「法形
いう形で総括され(前掲「渡辺法学の構図」829,
成の社会的意味の把握をテーマとする本稿では,
844,846頁)
,これはレジュメにも出てきた。関
法教義学的使用と結びつきやすい法秩序概念は
連して,広渡さんは,広中先生の市民社会論の
用いない」とされている。中村さんは,広中先
位置づけについても,市民社会を規範的に把握
生直系のお弟子さんなので,広中先生の秩序論
する契機が存在するという理解を提示される
を意識してこのような把握を打ち出しているの
(前掲「市民社会論の法学的意義」61 〜 62頁)
。
かもしれない。これも,市民社会概念が記述概
この点について補足的に触れておくと,広渡
念か価値概念かという問題に関連するものであ
さんが広中市民社会論についてこのような理解
ろう。
をするのはどうしてかだが,2点が指摘されて
それでは私の考え方はどうかというと,先ほ
いる。1点は,広中先生が市民社会を理念型と
ど広渡さんからも紹介していただいたが,私は,
して語っていること,もう1点は,広中先生は
市民社会論を規範的社会理論として展開してい
市民社会を基本的諸〈秩序〉の構造として分析
るつもりである。そのような観点は,2006年5
するわけだが,この〈秩序〉は市民社会の構成
月に法社会学会で「市民法学・市民法論の現在」
員の社会的規範意識を媒介として形成されると
というミニシンポジウムが開かれ,そこで行っ
広中先生が把握していることである。このよう
た「規範的社会理論としての市民社会論」とい
な点から,広渡さんは,広中理論の中には市民
う報告にも明確に出ている(このシンポジウム
社会を規範的に把握する契機が存在するのでは
の紹介として,清水誠・篠原敏雄「市民法学・
ないかと見るわけである(同上論文同上個所)
。
市民法論の現在」法時79巻13号〔2007年〕366頁
ただ,広中先生ご自身は,この秩序論を「法
を参照)。それは,最初に申し上げたように,実
社会学的な観察」
だとおっしゃっておられる
(広
定法学と市民社会論をつなぐという問題意識か
中俊雄「主題(個人の尊厳と人間の尊厳)に関
ら出ている。という次第で,この最初の論点に
139
ついての広渡さんの結論的な把握については,
が,まさに問われる。そのような把握から,あ
全く異論がない。
る意味では当然に来栖フィクション論への着目
次に,
この項目の第2点目として,
「問題の立
という視点が出てくることになる。
て方について」というところである。これは多
<Ⅱ フィクションとしての市民社会>
少細かい話になる。今回,広渡さんのご論文を
そこで2番目の論点,
「フィクションとしての
再読させていただいたのだが,広渡さんは,記
市民社会論」という部分に入る。広渡市民社会
述概念か価値概念かというこの論点に関して,
論では,来栖先生のフィクション論への着目が
2つの書き方をしておられる
なされているわけであるが,その際に,私が注
早稲田大学21世紀COEの研究成果をまとめ
目したいと思うのは,広渡さんが来栖先生の
た本に最近公表された論文の中では,
《あれかこ
フィクション論を捉まえる際に,来栖フィク
れか》という書き方をされておられる。引用す
ション論においてはポストモダン的な発想から
ると,
「
『市民社会』なるものが特定の社会の歴
の差異化がなされているという視点を前面に打
史的発展段階を写し出す記述的な性格を持つ概
ち出している点だ。それは,もちろん広渡フィ
念であるのか,または,望まれる社会の構想を
クション論自身がそのようなポストモダンから
表明する規範的な性格を持つ概念であるのか」
,
の差異化を意識しているからだ。広渡報告の中
これが市民社会論一般における論争点である,
で中里見博さんが広渡フィクション論を高く評
このような形の問題提起がされている
(前掲
「市
価していることが紹介されていたが,中里見さ
民社会論の法学的意義」61頁)
。
んの評価も,広渡フィクション論のそのような
これに対して,以前,清水先生の古稀記念論
側面に着目したものだと思う。広渡フィクショ
集で出された論文では,─この論文は,最近
ン論のこのような性格については,レジュメに
出た『比較法社会論研究』に収録されているが
引いておいた次のような文章を参照すれば直ち
─,少しニュアンスが違っている。市民社会
に了解されるだろう。「ポストモダンの議論は,
が歴史的な対象として記述的な概念であり,し
「意思自由」の主張を起点にして構成される近代
かし,同時に目標としての規範的概念であると
市民社会を1つの〈システム的構築物〉であり,
いう,この関係をどう理解し位置づけるか,こ
その限りで〈virtual reality〉であるとして,文
れが問題なのだという形での問題提起がされて
字どおりのフィクション性を強調するのである。
いる(広渡清吾「市民・市民社会と国民・国民
来栖の理解は,これに対して,〈架空でないフィ
国家と法」同『比較法社会論研究』
(日本評論社,
クション〉を支える人々の共通了解と合意を重
2009年)206頁〔初出は2000年〕
)
。
要なものと考え,そこに近代の現実と理念の緊
時期的には,後者の理解,つまり同時に2つ
張を見ている」(広渡清吾『比較法社会論研究』
の性格を持つという把握が先行して,その後に
(日本評倫社,2009年)215頁〔初出は2000年〕)。
あれかこれかという前者の把握が出てきたわけ
私も,フィクションとしての市民社会論にコ
だが,私は,両者の関係を問うという後者の把
ミットしている。先ほど言及した規範的社会理
握が正当であり,広渡さんの問題の立て方もそ
論というのは,基本的にはフィクションに他な
のようなものなのだろうと思う。前者は,一般
らないと思っている。ただ少し微妙なところも
にはそのように問題が立てられているが……と
あるので,これについてはまた後で言及するか
いう広渡さんの事実認識なのだと思う。
もしれない。私の理解では,実定法学者の課題
要するに,これはフィクション論に結びつく
の大きな部分は,いかにして説得的なフィク
わけだが,市民社会概念を規範的な概念という
ションを紡ぎ出すことかだ。ただ,これは広渡
だけでは,問題は深化しない。それと,記述概
さんの理解と同じだと思うが,私にとっての
念,事実認識との連結構造をどう考えていくか
フィクションは,架空のものではない。説得的
140
なフィクションを紡ぎ出すためには,現実を十
問題性の指摘については,強い違和感を覚えま
分に踏まえることが必要だ。先ほど,小沢さん
した。私も市民社会論をフィクションと考えて
からご紹介いただいた1999年の私の著書『現代
いるのですが,それが社会分析と切断されて法
市民社会と民法学』で,市民社会の歴史的発展
規範のみを認識対象とする方法などとは考えた
論を展開している。つまり,近代市民社会から
こともなかったからです。私は,規範論として
現代市民社会へという発展図式の分析だ。その
の法学の課題は,いかに説得力のあるフィク
ような歴史的アプローチは,架空のものではな
ションを紡ぎ出すかだと考えていますが,その
いフィクションを紡ぎ出すためには不可欠の手
ためには,実在としての社会分析の深さが決定
続だと思っている。
的に重要です。また,フィクション論を媒介と
それを申し上げた上で,次に「フィクション
して,個別具体的な価値判断をする際には,事
としての市民社会論に対する批判」という部分
実分析が決定的に重要です。それは,事実から
に入る。最近,高村学人さんがフィクションと
価値を導き出すというようなものではなく,人
しての市民社会に対する批判を出している。私
間が価値判断をする際には当然に行うべき作業
は,これは基本的には誤解に基づく部分が多い
だと思うのです。価値と事実を峻別して別々に
と思っているが,それでもいろいろ考えなけれ
論じることは,現実の人間にはありえないこと
ばいけない問題を含んでいるのではないかと考
でしょう。このような話を詳しく述べることは
えている。
避けますが,私には,ご論文で展開されている
高村さんが,どういう形でフィクションとし
フィクションとしての市民社会論批判には,根
ての市民社会論を批判しているかについては,
本的な誤解があるように思えてなりません。」
広渡報告の中で紹介があったので,繰り返すこ
私は基本的にそのように思っているのだが,
とはしない。私がこの批判についてどのように
それに対しても高村さんからお返事をいただき,
考えているかだが,実は,高村さんからこの批
要するに広渡市民社会を批判せよと言われたの
判を展開した抜刷りをいただき,お礼状を差し
で,一生懸命批判したということだった(笑)。
上げた中で,私の感想を述べている。私信なの
まあ,実際にはもう少し婉曲に書いてあったの
でこのような場で紹介するのはどうかとも思う
だが,大事だと思ったのは,高村さんが,それ
が,紹介させていただく。
に続けて,
「フィクション論そのものとこれまで
高村さんは,この論文で,コモンズ論をやっ
の歴史社会分析がどのような関係にあるのかは,
ておられる。論文の冒頭で,コモンズのガバナ
広渡先生や他の市民法論の立場に立つ先生方に
ンスにおける重層構造という議論をされていて,
ぜひ伺ってみたいと思っています」と言ってお
私は,これは大変結構だと思った。・それで,お
られる点だ。これは,大事な問題指摘だと思う。
礼状で私も全面的に賛成すると書いたところ,
「研究会の機会に吉田先生からもいろいろご意
高村さんからのお返事の中で,このアイデアは,
見いただければ,大変ありがたく思います」と
私がどこかで原田純孝さんの公共性論に関連し
も言われており,私としてもきちんと考えなけ
て公共性の重層構造と書いたのを見て,
「これは
ればならない問題を提起されたと思っている。
いいな」と思って引っ張ったのだということ
私の理解では,フィクションというものは,決
だった。そうであれば,私がいいなと思うのは,
して架空のものではない。この点は,来栖先生
ある意味で当然のことであった。
のご本にも明確に出てくる。その〈架空のもの
それに続いて,私は,フィクション論として
ではない〉という意味が改めて問われているの
の市民社会論の批判に対して,こういう具合に
だと思う。
お礼状を書いた。
私がフィクションを〈架空のものではない〉
「他方,フィクションとしての市民社会論の
という場合には,その背景に実在としての社会
141
が存在するという認識がある。そこで,実在と
な把握を少し詰めておく必要があるだろう。以
しての社会を分析した上で,その実在そのもの
上が第2の論点である。
を記述するだけでなく,それを踏まえつつ,規
<Ⅲ 社会の規範的構成に向けて その1:市
範・観念の世界に意識的に離反する。それが
民社会一元論と市民社会と国家の二元論>
フィクション論だと思っている。実在としての
それでは,規範的社会論を構築していくに際
社会から離反するが故に,現実の社会に対する
して,どのような論点があるか。「その1」とし
批判が可能になってくるというのが,私の理解
て,「市民社会一元論と市民社会と国家の二元
だ。
論」という問題を取り上げたい。「その2」とし
ここからは広渡さんへの質問になるかもしれ
ては「憲法と民法」を用意したが,先ほども申
ないが,広渡さんの場合には,人々の合意など
し上げたように,これは今日は扱わない。
をかなり強調されているように論文からは受け
今日の広渡さんのご報告の中で,国家と市民
取れる。そうすると,認識論のレベルでは,ポ
社会の一元論,二元論の問題が取り上げられた。
ストモダン的な認識論,社会構築主義などの考
そして,従来有力と見られる二元論に対して,国
え方にかなり近くなってくる可能性がありはし
家の手段性を強調する一元論の今日的意味を評
ないか。広渡フィクション論においては,ポス
価すべきことが強調された。具体的には,広中
トモダンとの差異化が意識されていると先ほど
先生が民法の領域で説得的で強力な市民社会一
言ったし,それはそうだと思うのだが,しかし,
元論を展開しておられ,高柳先生が行政法の領
基本的なスタンスがどのようになっているのか
域で市民社会一元論を展開しておられる。広渡
が,ここで改めて問題となるのではないか。そ
さんのご議論もまた,この一元論に強くコミッ
れが高村さんによる批判とも絡まっているので
トしている。一元論にコミットしながら,国家
はないかと思う。
の手段性,市民社会に奉仕する機関としての国
この点がさらに,広渡さんが今日の報告の最
家という観点を強調されておられるわけである。
後で触れられたフィクションとしての希望とい
それを確認した上で,次の「市民社会一元論
う問題と関係してくると思っている。私は,正
を踏まえつつもう一歩先に?」という項目につ
直に申し上げれば,希望などをフィクションと
いて多少の点を述べたい。広渡さんのご議論を
して捉まえることに対しては違和感がある。先
踏まえながら,もう一歩先に行くべきではない
ほどそれを広渡さんに申し上げたところ,
「お
か,これが私の基本的観点である。その点を多
前,本を読んだのか」と言われた。実はまだ読
少申し上げて,広渡さんがどのようにお考えに
んでいないのだが,それであればちゃんと読ん
なるかをお聞きできれば幸いである。
でからものを言えということだった。それはそ
2点申し上げたいが,まず,レジュメに「公
の通りなので,
読ませていただこうと思うが,
と
共性の重層的・多元的構造」と書いた部分であ
もあれ,この辺りに,広渡フィクション論をめ
る。市民社会と国家との関係にかかわる私のこ
ぐる1つの論点があると思う。
れまでの議論については,二元論と理解されて
来栖先生のフィクション論は,もともと両義
いるのではないかと思う節もある。レジュメに
的で,いろいろな理解が可能な議論だ。だから
は,さらにカッコの中で「公法・私法峻別論批
村上先生は村上先生なりに,ポストモダン的に
判の不徹底?」と書いた。先ほど触れた中村哲
捉まえる。広渡さんは,もう少しモダンを前面
也さんが今日仙台で行っている報告のレジュメ
に出して捉まえる。この両義的ないずれの側面
には,このような観点からの吉田批判がはっき
を掬い出すかが問題なのだと思う。私は,別に
りと出ている。吉田公私協働論は変だ。なぜ変
ポストモダンがそれ自体として悪いものだとは
かというと,そこには公法概念が残っている。そ
思っていないが,ともあれ,この辺りの理論的
こでの公法概念は,たしかにドイツ的な国家の
142
超越性を前提とした公法概念ではないかもしれ
る。
ないが,しかしそれを清算しきっておらず,そ
そうすると,公共性の問題についても,一般
の結果,議論が不透明かつ説得力が弱いものに
的には,市民主体,下からの公共性形成を大事
なっている。このような批判が展開されている
にしましょうという話をするのだが,他方でそ
わけである。
れを下からというだけで絶対視するとまずいの
まず確認しておきたいが,私は,市民社会一
ではないか,それを統御する枠組みを置いてお
元論に異論があるわけではない。市民社会から
く必要があるのではないかという問題意識があ
超越した国家があることを,規範論のレベルで
る。この統御する枠組みという場合には,当然
肯定しようとは全然思っていない。ただ,他方
に公共団体の果たす役割に相応の位置づけを付
で,これは先ほどのフィクションを紡ぎ出す前
与する必要があるだろう。
提としての市民社会をどう捉えるかという問題
以前に,「憲法と民法」をテーマとして,民科
にも関わるが,市民社会内部には,現実には鋭
民事法分科会主催でシンポジウムをやったこと
い利害対立,緊張関係があると思っている。こ
があり,広渡さんにもコメンテーターとして来
れをフィクションとしての市民社会にどの程度
ていただいた。そのとき,広渡さんに,私の議
反映させるか,これが重要な問題だというのが
論の特徴としてそのような発想がある,問題を
私の認識だ。そして,法解釈なり法形成論を考
絶えず複眼的に捉える,そういう視点を用意し
える場合には,そのような利害対立・緊張関係
ているのだというご指摘をいただいた(広渡清
を,
市民社会論に取り込んでおく必要がある。
レ
吾「コメント」法時74巻2号〔2004年〕90頁)。
ジュメに「市民社会内部の利害対立・緊張関係
誠にその通りであると思っている。そのような
をどのように理論化するか?」
と書いたのは,
そ
観点の背景には,今申し上げたような認識があ
のような問題意識からだ。
るわけである。
少し具体的に述べると,たとえば市民社会に
ただ,その際に広渡さんから,複眼が,「あれ
おける公共性の形成を考えてみる。私は,もと
これ」を見るというものではなくて,どのよう
もと土地法や都市法から自分の研究を出発させ
な統一した像を描くものであるかが重要なポイ
ているわけだが,
そのような領域を考えると,
い
ントだとも指摘していただいた。これもその通
ろいろなレベルで,これが公共性だという話が
りだろうと思うが,今申し上げたように,私は
たくさん出てくる。市民社会論の基本的発想は,
あえて統一的な像を描くことをしないで,緊張
公共性は,下から市民によって形成されるとい
関係を緊張関係として投げ出しているというと
うものだ。そのようにして,土地利用のあり方
ころがある。ただ,その一番根っこに,人間の
に関して市民の実践の中から一定の形が形成さ
尊厳なり,個人の尊重といった価値を置くとい
れてくる場合には,それを公共性として尊重し
う点で,統一性を確保しようとしているつもり
ようという話になるだろう。国立の例の景観訴
である。
訟がその典型的な例を提供している。
他方で,
都
要するに,一元論を前提にした上で,より具
市計画法には,再開発都市計画という制度があ
体的な法的戦略を構想する際のやり方として,
るが,この制度ができた際の問題意識は,言っ
一元的に行くのか,それとも二元的あるいはさ
てみれば地権者である資本,土地を買い占めた
らに多元的に行くのか。このような問題がある
資本が,計画を作って,それを公共性あるもの
のだと思っている。この辺りについては,広渡
としてそれまでの土地利用規制の適用除外,穴
さんのご意見を聞いてみたいというのが1つで
抜きを認めさせるというものだ。下から形成さ
ある。
れたからと言って,これを無条件で認めるのは
もう1つは,レジュメに次に「公私2領域区
やはりまずいというのが私の価値判断としてあ
分について」と書いたところにかかわる。レジュ
143
メに,
「人間の人格的充実と私的領域」と書いた。
しゃるのか,歴史的にそういうことが言えるも
自由の領域としての私的領域は,人間の人格的
のとお考えなのか。
充実にとって重要である。これを社会の規範的
例えば,来栖三郎さんの本では,フィクショ
構成においてどのように位置づけていくのか。
ンのいろいろな例に神というのも含まれている。
これが重要な問題であると思う。
こうしたフィクションを社会設計のために使う
この2領域区分については,周知のように,
という読み方を,あの『法とフィクション』と
ジェンダーの観点からの批判がある。私は,そ
いう来栖さんの遺稿集を編集した村上淳一さん
の批判は理解するつもりだが,だからといって
はなさっていると思う。
私的領域が重要でないということにはならない
つまり,たとえば神は,存在論的に言えば,そ
と思っている。問題は,私的領域の範囲の切り
れはいないかもしれないが,いることにして,い
方ではないかと考える。私は,家族と市民社会
ることによって神を頂点とし,その下に教会や
という切り方ではなく,個人のところで,私的
世俗権力が位置づけられるという形で社会が構
な,privateな領域を確保するという観点を重視
造化ないし秩序化される。そのメリットを活か
している。ともあれ,市民社会論でこのような
すという使い方を人間は,古代以来してきた。近
問題をどのように理解していくのかという点は,
世の「市民社会」についても同じことがいえる。
やはり重要な問題だと思うので,この点につい
そういうふうに考えると,市民社会の起源を,か
ても広渡さんのご理解をお訊きしてみたいと
なり遡って考えなければいけない。
思っている次第である。
そう考えると,ポストモダンの議論とも関係
最後に「憲法と民法」という論点をレジュメ
するが,市民社会論が,非常にある特定の色彩
では示したが,先ほど申し上げたように,これ
を帯びてくるように,私には思われる。特定の
は省略する。近時の文献を並べておいたので参
色彩というのは,市民社会のいわば政治的機能
照していただきたい。最近,特に水林さんの問
ないし政治的性質ということだが,例えばルー
題提起を受けて議論が一気に沸騰している領域
マンが『法社会学』の中でローマ法を「政治的
であり,関心を持つべき領域だということだけ
私法」と呼んでいることを想起したい。山川出
を申し上げて,私のコメントを終わりたい。
版社のブックレットの中で,島田誠『古代ロー
マの市民社会』(山川出版社,1997年)という
Ⅲ.質疑討論
ブックレットもある。ローマについて市民社会
という概念を使うことに非常に学問的な意味が
《討論者(発言順)
》
ある。
・大江泰一郎(元静岡大学教授)
われわれの関連では,ローマは自分たちの社
・楜澤 能生(早稲田大学教授)
会をres publicaと考えた。公共的なるものとい
・戒能 通厚(早稲田大学教授)
うことだ。その場合に,res publicaというのは,
・西村隆誉志(愛媛大学教授)
非常に政治的な色彩を帯びている。つまり,こ
・小川 祐之(拓殖大学非常勤講師)
れはハーバーマスが,
『公共性の構造転換』の中
で,一番貫通的に強調したのも,市民社会の政
○大江:静岡大学大江です。比較法のようなこ
治的機能だということだと思うし,それから今
とをやっている。
広渡さんに伺いたいのだが,
吉
日のお二人の報告の中には出てこなかったが,
田さんにも関連すると思うが,フィクションと
市民社会を非常に強調しているのは,民科系の
いうことと関連して,市民社会を考えることは
法律学者だけではなく,例えば星野英一さんみ
非常に重要だと思うが,
その際に広渡さんは,
市
たいな人もいる。
民社会を近代特有の現象として考えていらっ
星野英一さんも,市民社会の「政治的」機能
144
ということを非常に強調する1人だ。私はそう
買うという事態が生じたときに,そういった展
いう関心を持っている。そういう観点から伺っ
開を制御する規範が生まれる。これが市民法で
ている。
あり,この市民法が,資本主義社会における自
○楜澤:早稲田大学の楜澤です。大江先生の今
己目的化した価値増殖を規律する。資本主義に
のご質問と基本的には同じことだが,市民法と
先立つ歴史社会の社会構造と,そこから観念さ
は,架空ではないフィクションであり,希望の
れた市民の法(民法)が,その後の資本家の法
問 題 と も 関 わ り, エ ル ン ス ト・ ブ ロ ッ ホ の
(商法)を規律するという考え方ではないかと思
Noch-Nicht-Seinという,未だない存在,しかし
う。
現実の社会の中になんらかの芽がある,そうい
広渡先生の場合には,市民法という観念形態
うものだと思う。その意味で,市民法が架空で
を生んだ現実の歴史社会の構造をどのようにと
ないフィクションであるということは,現実社
らえられているのかをお伺いしたい。それは吉
会の中に一定の基礎があって,それを観念化し
田コメントにもあったし,高村さんも指摘して
たものと捉えることができる。だとすると,近
いる,現実の特定の社会関係との関連は一体ど
代という特定の歴史社会の社会的現実のうちに
うなっているのかということの疑問につながっ
一定の社会関係があって,それが人々の観念に
ているのではないかと思う。
規範的な意識として反映したもの,それを市民
○広渡:非常に基本的な視点について,いろい
法として捉える,
こう考えていいのかどうか。
そ
ろご意見をいただいてありがとうございました。
うだとすると,市民法という観念形態を生む特
吉田さん,大江さん,楜澤さん,それぞれ私
定の歴史社会として,現に存在したどのような
の考えていることの基本的な立脚点についての
歴史社会を想定するのかが問題となる。
問題が出されたので,うまく全部お答えできる
例えば一橋大学の水林彪さんは,すでに封建
かどうか分からないが,楜澤さんのご指摘のこ
制ではなく,しかし未だ資本主義社会でもない
とに関して話を始めたほうがいいかと思う。
歴史段階として市民的社会という時代があった
今日の報告でお分かりいただいているように,
ことを想定し,そこでは基本的に独立自営業者
もともと近代の社会は,資本主義的な社会構成
が生活必需品を生産して,それを単純商品交換
と市民社会的な社会構成が二重的であり,前者
の中で交換し合っているという社会関係があり,
が後者を媒介に,つまり市民社会的構成を媒介
この現実の社会関係から抽象された規範を市民
にして,資本主義経済が実現するという社会で
法だと捉えている。
あり,このように近代社会を2つの視点から統
その後,労働力が商品化されていくことを通
合的に把握するというのが戦後法学の出発点に
じて,資本主義社会になっていくが,すでに封
なっている。
建社会ではなく,しかしいまだ資本主義でもな
それは川島先生の市民社会論もそうだし,戒
い,市民的オイコスにおいて,人々が必需品を
能通孝先生もそうだし,渡辺先生も,清水先生
交換するための手段であった貨幣が,資本主義
もそうだし,そこからみんな始まっているが,そ
社会においては自己目的化し,そしてそれが価
こにおける市民社会的構成と資本主義的構成と
値増殖をしていくという展開になる。水林さん
の関係をあらためて私は問題にしているという
は,そういった市民的オイコス社会を,土地交
位置づけである。
換社会とも,
土地商品化社会とも言っていて,
土
それを前提にして,市民社会的に構成される
地が商品化される社会である。そこでは土地は,
近代と,資本主義的に構成される近代との相互
必要という観点から交換されるのだが,これに
関係について,近代社会は資本主義的な性格が
反して土地それ自身が野放図な交換,つまり必
本質なので,それを媒介しているに過ぎない市
要のために土地を買うのではなく,売るために
民社会論的構成とは,イデオロギー形態なのだ
145
と,もともと私は理解していた。ここのところ
的に展開する社会の格差を生む階級的な性格を
が,その関係の理解の仕方が変わってきたとい
持つ社会のあり方が市民法を規定している。社
う話を,フィクション論として論じている。議
会法は,この後者の側面から生まれると川島先
論のレベルとしては,市民社会についての歴史
生は,付け加えていた。いずれにしても,この
的な研究をその限りでは前提にした話から始
ような二重性,2つの側面の関連をどうとらえ
まっていて,
もっぱら私のフィクション論は,
資
るのかが,私のフィクション論のモチーフであ
本主義社会において,市民社会という社会論的
る。
構成がどんな意味を持っているのか,
それを,
価
そのように捉えたときに,ポストモダンは,近
値的なものとして位置づけるとすれば,私が今
代が市民によって構成される社会,その市民と
まで考えていたようなイデオロギー的な性格を
は自由な意志を持って独立な存在であるという,
持ったものとしての位置づけと異なったどんな
まさにフィクションのフィクション性をネガ
位置づけの仕方が可能であるのかを考えようと
ティブに暴露して,フィクションとして維持す
するものである。
ることの意味のなさを批判するわけである。そ
大江さんから「神もフィクション」という来
ういう議論に対しては,まさにそれをわれわれ
栖先生の議論が出されたが,例えば文学作品の
が歴史的基礎を持ちながら共通に了解している,
虚実皮膜論的な,つまり文学作品はフィクショ
そのような社会のあり方が,われわれにとって
ンを作ることによってより真実に迫るというこ
は意味があり,擁護すべきものだといわなくて
となど,来栖先生はいろいろなアプローチを
はならない。その道筋の1つを考えるのがフィ
フィクション論として展開されている。
クション論である。
そのようにいえば,私が理解した来栖先生の
フィクション論と歴史研究の関わり方につい
フィクション論は,私の問題関心に引きつけて
て,たとえば,さきにふれた川島先生の市民法
来栖先生のフィクション論を使っているとこと
論の2つの側面についての指摘など,わたしは
になるのかもしれない。来栖先生が生きておら
重要な1つの手がかりとしてもっと検討を深め
れて私の議論を聞かれたら「広渡君のようなこ
たいと考えている。
とを僕は考えたことはなかった」と言われるか
大江さんが言及された星野先生の市民社会論
もしれないので,そこは留保を付けたいと思う。
であるが,これは私が見るところ,戦後法学的
関連する話として,川島先生が,市民法と社
市民社会論の系譜から外れていると思う。
会法についての『法律時報』30巻4号(1958年)
戦後法学的市民社会論は,日本の市民社会化
の特集で,メインの論文を書かれていないがコ
を課題にして,その前提に市民社会をどのよう
メントをしている。そこでは,市民法の2つの
に理解するかという問題意識を非常に強烈に
側面が指摘され,市民法は,人々の日常生活に
持っている議論である。星野先生の市民社会の
関わる規範的理念を表現するという市民法と,
コンセプトには,ここで話をした市民社会一元
資本主義経済の本質的な要素を保障するという
論的なコンセプトが最初から排除されている。
市民法という2つがあるとしてその関係を問題
それについては全く言及がない。
にされている。
川島先生の市民社会論がそうであるように,
資本主義的な社会構成と市民社会的な社会構
市民社会を課題にする戦後法学の市民社会論は,
成の二重性が,ここでは市民法の2つの側面と
市民社会から出発して,国家を位置づけるとい
して捉えられている。一方で,われわれは全て
う議論が一番重要な論点だった。それは,川島
生まれながらに権利能力者であり,自由な存在,
説でも戒能説でも同じであって,We the peop-
独立な存在であるというこの社会のあり方と,
le,
「われわれ」というところから全ての議論を
他方で,そういうあり方を通じて最終的に現実
始めよう。国家は,特権的に公的なものを担う
146
ものではなく,公益というのは,われわれの利
構築主義の立場からとらえて,そのようなフィ
益であって,われわれ以外の利益ではないとい
クション性は当たり前のことであり,来栖フィ
うことが,非常に強調されていた。
クション論はポストモダンへの未熟な形態とい
星野先生の『民法のすすめ』
(岩波書店,
1998
う捉え方である。
年)では,この問題意識がみられない。市民社
私は,木庭さんの来栖理解に共感をもったが,
会は,最初から国家と対峙するものとして位置
来栖先生の考え方それ自身をどう理解するかは,
づけられていて,二元論を前提にして市民社会
議論が分かれると思う。
理解のヴァリエーションが,
市場的経済社会,
経
吉田さんのコメントで,両立てか,あれかこ
済とそれ以外の社会的なものを含んだ社会,そ
れかという論点がだされたが,すでにお話しい
してハーバーマス的な市民社会が示されている。
ただいたように,あれかこれかというのは,も
吉田さんから指摘された観念化する方向での
ともと私の主旨ではない。両立てで考えること
危険性,希望はもっとファジーなものになって
が必要だろう。また,今日の報告の前提で申し
しまうという指摘は,十分に受け止めなければ
上げたように,市民社会について何が正しいコ
ならない。市民社会は,資本主義的な経済的な
ンセプトであるのかという問題の立て方をせず
関係によってその歴史的な条件を作られている。
に,いろいろな議論が市民社会のコンセプトを
しかし,
希望とは人々が希望するだけであり,
そ
使って行われているので,その図柄全体をその
れはいろいろなフラストレーションから出てく
1つ1つの文脈を対象として取り上げて市民社
るものであって,しかも人々が主観的に表象し
会論を論じ,法律学の課題や展望を考えたいと
ているものにすぎない。しかし,それが個人の
いうのが私のスタンスである。
希望としてではなくて,社会的に共同して共通
それから,吉田さん自身の議論の二元論のと
に表象されたものとして成立する場合,社会の
ころだが,私は吉田さんの議論が二元論的に
変化を引き起こす現実的な要素だという捉え方,
なっていることを,いけないと言ったわけでは
これを私は重要だと考えて,希望とフィクショ
なく,そういうふうに言われているよというこ
ン,そして市民社会を関連させて論じた。希望
とを示唆した(笑)。
論は,現代の社会科学の重要な問題を指摘する
というのは,広中先生から吉田さんの議論に
ものと考えたのだが,十分に慎重な議論が必要
コメントした『創価法学』掲載の短い論文(広
であることはその通りである。
中俊雄「12年を振り返る─とくに“民法の体
フィクションとポストモダンとモダンとの関
系”のこと─」
『創価法学』32巻1−2号(2002
わりでは,来栖先生の『法とフィクション』に
年))を頂戴した。そこでは,吉田さんが「市民
収録されている木庭さんと村上さんのコメント
社会的公共性」と「国家的公共性」という公共
が興味深い。
性について2つの概念を使っていることに対し
あの2人のコメントの仕方は対極的である。
て広中先生は「自分は国家的公共性などという
非常に分かりにくいのだが,木庭さんが『国家
ものは,考えていない」ということを述べてい
学会雑誌』の自分の文章をそこで引用している
る。広中先生の考え方は,市民社会に公共性が
ので,それも含めて読んだ。木庭さんは近代社
あって,その公共性を実現するために,市民社
会における「了解」
,これは政治思想,社会にお
会が国家を作っているという,市民社会一元論
ける思想や理念のレベルのものとして位置づけ
的な理解だということだ。私はそのことをよく
られるが,それが実は市民社会を支えているの
分かっていたので,そのことを『法律時報』の
だということを言っているのではないかと思う。
「憲法と民法」の特集号(76巻2号(2004年)〕
私は「了解」という言葉を,それから使うよう
で書いたら先生からお褒めに預かった。
になった。村上さんは,近代のフィクションを
しかし問題はそこで終わらないというのが,
147
先ほどの吉田コメントであり,その先をどうす
実定法体系の理解についても,その基礎をなす
るのかという議論をしなければならない。公共
のが憲法か民法かという議論がある。それは,市
性の理解の仕方について,国家か市民社会かと
民社会の理解にも関わる。私は,学生に「市民
いう議論ではすまない。例えば,私人が集まっ
社会と法」というテーマで講義をしているが,市
て何か物事を相談する,それを枠づける公的な
民社会一元論に立った説明をしたうえで,法の
制度のあり方がある。そこからある種の公共性
体系を論ずるときには,憲法と民法が市民社会
を内包した決定が生み出される。その場合の公
の基本法であり,民法は市民社会の一般法と説
と私は,どのような関係にあるものとして考え
明していて,十分に考え抜けていない。
るか。市民社会的公共性という観点で,一元化
これらの問題は,まだ理論的には十分に解か
するといっても,公共性を形成する実際のシス
れていないし,これからの問題ではないかと思
テムを作るときには,国家的モメントと市民社
う。吉田さんもはっきりと自分も市民社会一元
会的モメントが緊張関係をともなって働くだろ
論であって,そこから法体系論を考えるという
う,というのが先ほどの話だった。私も,そう
お話があったので,今後の展開を期待したい。
だろうと思いながら聞いていたが,広中的議論
ジェンダー論の公私二分論批判は,性的な秩
と吉田的議論の関係は,公共性の基礎付けにつ
序が私的な領域に押し込められていることにつ
いての広中的議論の上に,より具体的なレベル
いての批判なのではないかと理解している。こ
の公共性形成に関わる吉田的議論があるという
れについては,広中先生が提起された市民社会
理解もできる。
の人格秩序の二段階的発展の考え方が重要では
市民社会一元論は,民法一元論なのかという
ないかと考えている。人間の平等についてのフ
問題もある。早稲田大学21世紀COEの成果の中
ランス人権宣言的な理解と世界人権宣言的な理
で水林さんは,フランスに則して憲法が,soci-
解,つまり「権利における平等」から「人間の
été civilの本源的な,
基本的な法であると分析し
尊厳における平等」への展開を基礎として,家
ている。この対象は1791年憲法である。そして,
族構成員の平等が新たに基礎づけられるという
Code Civilができた段階で,憲法は統治機構に
視点がこの人格秩序の二段階的発展論に示され
関するものに縮小して,1804年以降は民法が本
ている。近代市民社会論的な人間の捉え方だと,
源的な地位をもつ。このことについて水林さん
人格の自由・平等が商品交換主体としての存在
は,
『民法研究』第5号(2008年)の論文(水林
によって基礎づけられるので,商品交換社会の
彪「近代民法の本源的性格─全法体系の根本
外に立つ家族における構成員の平等は,このよ
法としてのCode civil─」
)で考察している。
さ
うな自由・平等からは十分に基礎づけることが
らに1946年フランス憲法が出て,もう一度フラ
できなかった。
ンス人権宣言を憲法が取り込むことによって,
これに対して,人格秩序の現代的発展のなか
憲法の本源的地位が回復する。
で,一人一人の人間の個人の尊厳が市民社会の
水林さんの視角を借りれば,市民社会の構造
基礎に据えられることによって,原理的に初め
の本源的基礎を形成する法が民法か憲法かは,
て家族構成員の平等・自由というものが基礎づ
それぞれの国の歴史の中で実証的に研究されな
けられるようになる。広中先生の人格秩序論は,
ければならない。ドイツでいえば,近代の統一
このような視点を提供しており,これが親密圏
ドイツはじめての1871年憲法は,統治機構につ
の現代的な理解であるべきではないかと思って
いての規定だけで人権規定がなく,それゆえす
いる。
べての人間の平等の権利能力を宣言した,1900
○戒能:早稲田大学の戒能です。まさに今学会
年施行のドイツ民法典こそが,不完全ながらも
でも市民社会論を論じるのはこの2人しかいな
ドイツ市民社会の本源的な法になるであろう。
いというその組み合わせで非常によかったと思
148
う。
れがずっとやってきたのは,トータルな分析と
最初に広渡さんが,戦後市民社会論とおっ
いうことだ。つまり,トータルの分析と市民社
しゃった。その戦後市民社会論というのは,渡
会との関係がどうなっているかが見えない気が
辺洋三先生の現代法論と非常に関わってくる。
した。
川島先生と渡辺先生の現代法論,戦後市民社会
もう一度繰り返すと,われわれは今どういう
論の基本的な違いは,やはり市民社会化が達成
構造の中にいて,その構造から脱却するために
されたというのが,川島先生によればだいたい
は,どういう論理,手がかりがあるかというこ
60年代だ。ということは,日本社会が川島先生
とを,市民社会論との関係の中でどう位置づけ
の場合,都市化して,そこに都市市民的なもの
ておられるかということを,ぜひ教えていただ
が範疇的に成立した。そういう時代状況の中で,
きたいと思う。
市民社会の確立と捉えておられたとすれば,そ
○西村:愛媛大学の西村です。ここまで聞いて
れは渡辺先生によれば,まさに国家独占資本主
いて,私は法律をやってきたものなので,法か
義の段階だということだ。
ら見て良くわかるのですが,なぜ法かという素
つまり,現代法論,市民社会論というのが,要
朴なところで,どう整理したらいいかというこ
するに先ほどフィクションという話が出たが,
とをお訊きしたい。
市民社会という概念が出てきたときには,まさ
先ほど大江先生から,ローマのres publicaと
に新しい社会を作るためのフィクションという
いう話が出て,政治社会という形で,政治の方
ことで,そうすると担い手の問題がある。
面,それから資本主義的社会,生産力,生産関
担い手はどういうものがそういうことを主張
係,経済関係,そして市民法論ということだけ
して,どういうふうに展望を開こうとしたのか
ではなく,先ほど広渡先生がおっしゃったよう
ということだと思う。そうすると,そういう担
に戦後法学的な市民社会論の系譜を踏まえての
い手は,ある社会構造の中にビルトインされた
議論だったということで,法的に考えるという
担い手だから,その社会構造からどういうふう
のは分かる。どう整理したらいいかというのが,
に脱却して,
新しい社会に突き進むかという,
そ
私にはこれから考えていくのに教えていただき
のときの戦略は,そういう担い手がどういう社
たい。
会構造の中にビルトインされていたかというと
○大江:感想めいたことで申し上げたいことが
ころを解明しないと,まさにフィクションは
2点ある。1つはフィクションと絡めると市民
フィクションにとどまる気がする。
社会論が,ある一面で非常にシャープになって
お二人に共通する感じがするのは,特に具体
くるというのを,突き詰めて考えてみたほうが
的には現代日本を対象にしているわけだから,
いいという気がしている。哲学的な側面の問題
われわれはどういう社会構造の中にぶち込まれ
が1つだ。
ていて,それからどう脱却すると,どういう展
来栖さんのフィクションの話は,ファイヒン
望があるのかというのは,われわれが置かれて
ガーのals obの哲学がもとになっている。とこ
いる社会状況,あるいは社会の構造というのを,
ろが,ファイヒンガーは孤立しているようで,ど
どう分析して,そこからどういうふうに展望が
のように哲学的な流れの中に位置づけたらよい
開けるかという,その論理がないと,非常に抽
か分からない。
象的な議論にとどまるような気がする。
私が考えているのは,ファイヒンガーが言う
それは,広渡さんがずっと民科で議論してい
als ob,かのようにの哲学とは,今で言うと,20
た。民科でやっていた全体的な議論の中で,あ
世紀初めのソシュールとウィトゲンシュタイン
る収斂先として市民社会論が出てきていると理
の言語学的転回の後の人文社会科学のあり方の
解するのだが,全体の社会構造分析は,われわ
流れの中で,おそらく位置づけられるのではな
149
いか。ここでウィトゲンシュタインをもちだす
者は,ラテン語に訳して,res publicaとか,so-
のは,その哲学を踏まえているH.L.A.ハートの
cieta civilisと言った。
『法の概念』
のような理論構想を考えたいからだ
中世のsocieta civilisで来て,その辺はずっと
(ハートのこの作品は法哲学というよりも法社
言葉でも一元論だ。ところが,近代に来て政治
会学の構想として,
私は捉えたい)
。端的に言う
的国家と市民社会が,ヘーゲルが典型だが,二
と,ウィトゲンシュタインの言葉で言えば,言
元化する。どっちにつくかという話ではなく,そ
語ゲームという話だが,それをH.L.A.ハートは,
れは歴史の話だと見ると,そもそももとは一元
practiceと言い,ウィトゲンシュタインはpraxis
論で,一元論の心棒は上向きの共和主義的イン
(プラクシス)
というギリシア語を使っているわ
パクト,プレッシャーだ。
けだが,そこに注目している。
そう考えると,私は民法一元論は,そちらに
そこに注目すると,今日,広渡さんが引用さ
与したいのだが,最近私が今年の春にやった学
れた来栖さんの文章の3行目の「社会的現実を
術会議のシンポジウムで,あれはカルボニエの
指令的に構築する」と。
言葉を借りたわけだが,法制史学会で作った,
○広渡:それは吉田民人さんだ。
Code civil 200年の中で繰り返されている,「フ
○大江:それでもいいが,つまり先ほどブロッ
ランス民法典は,フランスの真の憲法である」
ホの希望という話があったが,そうではなくて,
とある。あれはフランス特有なこととは,ある
希望を理念というのも良いのだが,理念に向
意味では言えるが,イェーリングが『権利のた
かって何かを高めるというのとは逆に,それが
めの闘争』の中で「政治の最良の学校は憲法で
われわれを拘束する。例えば,憲法がわれわれ
はなくて,私法である」と言っている。
を拘束するという関係で考えなければいけない
ローマ社会を生み出したのは,まさに私法の
と思うのだけれど,その拘束的な力をどこから
体系だ。公法の理論は,非常に貧弱なもので,多
持ってくるかということを哲学的に考えると,
くは慣習の中に埋まっていた。ローマ社会を作
ウィトゲンシュタインを使うと非常に分かりや
り出したのも民法である。ローマ社会はまさに
すくなるのではないかというのが,私のアイデ
res publicaで,本来共和制だった。それが最後
アで,それが1つだ。
は,帝政に落ちぶれていく。
もう1つは,
空漠たる哲学の話で,
フィクショ
そういう意味で言うと,必ずしも近代社会に
ンだとか,プラクシスだとか,言語ゲームだと
限定しないほうが,担い手とか,拘束力とか,社
言っても,宙に浮いたバーチャルな問題ではな
会学的な現実のプレッシャー,ダイナミクスを
いか。そこをつなぐ社会学的,ないし政治学的
考える場合には,便利なのではないかという気
な問題は,先ほど広渡さんが言ったWe,戒能さ
がする。私の感想である。
んが言われた担い手をどこに見いだすのかとい
○小川:一元論・二元論の話を受けて質問させ
うことだ。
ていただきたい。これは先ほど話に出た水林先
私の理解で先ほどローマに遡っていうと,身
生が指摘されていることだが,フランス民法典
分闘争が平民と貴族の間にあった。平民の側か
は,国籍条項を冒頭に持ち,しかも,日本では
ら上向きのプレッシャーを最近のこれもルネッ
憲法29条にあたる財産権保障規定を組み込んだ
サンスになってだが,共和主義という言葉に引
法典である。このようなフランス民法典を念頭
き寄せて言うと,支配に対する下からの共和主
に置いて「民法が基底にある」と言うのと,
「此
義的な政治的インパクト,これを考えると,例
の所民法入るへからす」という意識の下でつく
えば,ギリシア以来,ギリシア人は自分たちの
られた日本民法典を前提として言うのでは,仮
社会をkoinonia politikē(コイノニア・ポリティ
に同じ「民法一元論」と言っても,全然,違う
ケー)
,政治共同体,それをローマ人や中世の学
はずなのに,日本では,この議論がどこかクロ
150
スして展開しているように思う。水林先生の議
論ということを君は言っているけれど,自分は,
論は,COE叢書での論文を見れば分かるよう
戦後法学の中で市民社会論が展開されたという
に,フランス型の民法典にくわえて憲法も射程
ふうには思っていない。戦後法学の中で展開さ
に入れたうえでの議論であって,水林先生の議
れたのは,市民法論じゃないのか」と言われた。
論を「民法基底的重層論」だとするレッテル貼
「いや,先生そんなことはないですよ」と言った
りが,以上のような発想の日本民法典を念頭に
のだが,法学的な課題として,戦後法学の中で
おいて行われているのだとしたら,それはかな
市民社会論を考えるとすれば,市民法論という
りのズレがあるように思う。
形で展開したそれを十分に分析し,また,市民
しかし,この議論のズレをどう整理したらい
社会論と市民法論の議論の位相の差異と関連を
いのかというと,分からないところがあり,そ
考えなくてはならない。そのことが藤田先生の
の点,教えていただければ幸いである。
私に対するコメントだったのかもしれない。西
○広渡:戒能先生のご指摘については,
『比較法
村さんのご質問は,これから課題として考えた
社会論研究』の中に「資本主義法の現在」とい
い。 うまとめを書いている。これは民科編集の『改
小川さんの質問は,今日お話ししようと思っ
憲・改革と法』
(法律時報増刊,
2008年)に執筆
ていた論点に関わる。水林さんは,1804年のフ
したものを収録した。ここでは,資本主義法の
ランス民法典ができた段階で,それが市民社会
現在の段階の構図を描いて,その中に,市民社
の基本法であると捉え,かつ,citoyenを「市民」
会論を位置づけている。
ではなく「国民」と訳出すべきであると言って
全体として言えば,現代的な福祉国家型の社
いる。私は,これはフランス型,フランスの歴
会構造が,新自由主義的な政策の展開の中で転
史的発展に即した問題の立て方,整理の仕方だ
覆されつつあり,かつ,対重としての社会主義
ろうと思っている。
体制がなくなった,
その21世紀の世界の中で,
も
フランス民法典は,第8条で,「全てのフラン
しわれわれが,社会の改革の方向を見出そうと
ス人は,民事上の権利を享有する」という規定
すれば,市民としてのWeの力に頼るしかない。
を置いている。これは,権利能力に関する規定
Weの力に頼るしかないという議論の表現の仕
だと捉えられている。民法典の法主体を市民,つ
方の1つが市民社会論だと私は位置づけている。
まり,citoyenであると考えると,フランス民法
大江さんが言われた共和主義的な下からの社
典における市民は,「すべてのフランス人」,つ
会の秩序の付け方というのは,現代のマルクス
まりフランス国民であり,それゆえ,フランス
主義者が言っているように,democracy against
ではcitoyenは国民だということになる。
capitalismというところに集約される。今,
担い
1900年のドイツ民法典は,ご承知のように,第
手と言っても,かつてのように労働者階級とい
1条で,「人間の権利能力は出生と共に始まる」
うものを,即自的に想定して,そこに社会の新
と規定し,Mensch,つまり人間としか書いてい
しい秩序を作る変革の主体を求めるということ
ない。第1節の表題は,Personであって,ドイ
は,現実的には,つまりそういう社会経済的な
ツ民法典によると,Menschは,生まれることに
条件が,見失われてきている。その中で,Weと
よって権利能力者となり,Person(人格)にな
しての市民に依拠する,市民の本当の市民とし
るという論理がそこでは示されている。
てのあり方を実現していくために,その行く手
ドイツ民法典は,このように人間(Mensch)
にある資本主義のルールなきあり方を変革する。
一般が権利能力者であり,外国人の権利能力に
西村さんが指摘された点だが,市民社会論は
関する規定が置かれていない。民法総則の古典
どこで法学的な議論になりうるのか。藤田勇先
的コメンタールをみると,権利能力に関わる事
生からも「広渡君,戦後法学における市民社会
項として,性別,年齢,精神能力などと並んで,
151
国籍が言及されるが,ドイツでは私法上の権利
少し留保をつけたが,その留保した部分を申し
能力について外国人に対する制限は18−19世紀
上げておきたい。
にほぼなくなり,現行法では全くないと記述さ
私が規範的社会理論という言葉を使ったのは,
れる。
この研究会の前に昔の記録を見てみたのだが,
これに対して日本民法典は,小川さんがおっ
10年ほど前に遡る。2000年に北大で研究会が
しゃったように「私権の享有は出生に始まる」
あって,そのとき1999年に出した『現代市民社
という第3条第1項のあとに第2項で,
「外国人
会と民法学』(日本評論社,1999年)という本の
の権利能力については法令または条約の規定に
自分の評価を話した。そのとき,私が『現代市
より禁止される場合を除き,私権を享有する」
民社会と民法学』でやろうとしたのは,本の中
と規定する。この条項は,外国人の権利能力の
ではそういう言葉を使ってはいないが,結局は
制限に関して規定するものである。
規範的社会理論の構築だったと自分では考えて
このようにみれば,フランス民法典,ドイツ
いるという報告をした。そのときに,このよう
民法典と日本民法典は,それぞれ民法典の出発
な考え方は,フィクション論と通底するものが
点である全ての市民が生まれながらにして法の
あるけれど,本当にそうかどうかはもう少し考
世界で自由・平等であるという,その理解の仕
えたいという留保を付けた。
方にニュアンスがある。
その後は,その辺の留保がだんだんなくなっ
citoyenを,フランス的に言えば「国民」と訳
て,自分で考えている規範的社会理論はフィク
出することは全くおかしくないが,ドイツの場
ション論と同じだというニュアンスが前面に出
合に,Bürgerを「国民」と訳すことは全くでき
てき,今日もそのようなニュアンスでお話しし
ないし,報告で言ったようにドイツ語のBürger
た。ただ,その後の質疑で,大江さんが,来栖
には,citizenの意味がもともと含まれていない。
先生のフィクションとしての神という話を紹介
そうすると,Staatsbürgerを国民というのか
された。また,広渡さんは,フィクションとし
という議論がその後に展開することになる。
ての希望という議論を展開されている。このよ
さきほど述べたように,市民社会と民法と憲
うな話を伺うと,規範的社会理論を直ちにフィ
法の関係,あるいは市民の概念と国民の概念の
クション論に持って行かないで,規範的社会理
関係は,それぞれの国における展開がさらに探
論で止めておいたほうがいいのかもしれないと
究されなければならないのではないか。
いう気がしてきた。
日本の民法典は,そのような当初の構成にも
それは楜澤さんが最初におっしゃった現実の
かかわらず,広中先生によれば,戦後の日本国
市民社会と資本主義というところを大事にした
憲法の成立と実際の市民社会の確立によって,
いという観点とつながる。現実に目の前にある
民法典にいくつかの新条項が加わったことをも
社会は,資本主義社会であり,それを踏まえな
基礎にして,制定時の民法典とは違った性格を
がら,同時に意識的にそこから離反して規範的
持った民法典として今あるという理解だと思う。
社会像を構築するという作業を私はやりたい。
○吉田:いままでの議論をお聞きして,2点だ
そのように考えた場合,当然に歴史論も入って
け申し上げてみたい。いずれも論点になってい
くる。たとえば,私がやった作業では,近代と
た問題だ。
は,村上先生的な把握だが,家長が織りなす社
第1点は,私の議論とフィクション論との関
会で,法主体間の財の交換を支える自由・対
係だ。私は,自分の発想について,先ほど規範
等・平等という理念は,まさに現実的基盤を
的社会理論という言葉を使って,これは基本的
持っていた。それが,市民社会の主体が大衆化
にフィクションと同じだという旨を申し上げた。
する中で,現実性を失ってくる。しかし,自由・
もっとも,多少微妙な問題があるとしてそこで
平等という理念は残っている。その理念を大衆
152
化した社会においてどのように実現していくの
れば,先ほど申し上げたように,
「私」+「自
か。このような発想である。
由」が語れる。この複数当事者が問題となる領
これと,希望としてのフィクションという議
域で,これまでよく用いてきた概念は,「共同」
論は,相当に距離があるような気がしてきてい
という概念であろう。「共同」は,個別的「私」
る。そこは,もう一度考えてみたいというのが
の集合として現れる。ともあれ,これらは,私
1つの点だ。
の理解では,まだ私法の世界だ。
2点目として申し上げたいのは,これも本日
もう1点指摘しておくべきは,
「利益」概念と
の議論で問題となった一元論,二元論という点
「私」なり「共同」なりとの関連だ。法は,人間
にかかわる話である。ある程度のことは先ほど
に関連する何らかの利益を保護することをその
申し上げたが,ここでは,公法私法論について
重要な内容とするが,私的世界においては,こ
多少補充したい。というのは,私は,もちろん
の「利益」は,法的主体に排他的に帰属する。そ
公法私法峻別論は採らないが,公法と私法とい
れは,「共同」の世界でも一緒である。
う観念自体にはあまり違和感がない。どうして
ところが,ある段階まで来ると,この利益に
そうなのかを考えてみたいということである。
着目した世界が,
「公共」の世界に質的に転化す
まず,私のイメージでの私的世界を申し上げ
る。何が転化するかというと,利益の排他的帰
ると,そこは,他者との関係が切れた世界で,そ
属がなくなる。問題となる利益が皆に開かれた
の特徴は,自由である。だから,よく私事につ
ものになる。「公共」の特徴は,まさにそのよう
いては自己決定権が保証されるという。要する
な開放性にあると思う。全ての人に関わる公共
に,私だけに関することであれば,自己決定で
的事柄が,この世界では問題となる。これが,古
自由に行動できる。ただ,それは,当然に,他
典的なポリスの世界だ。これを「警察」と訳す
者との関係が出てくるところでは,必ずしも自
と日本的では狭くなりすぎると思うが,Police,
由とはいかなくなるという理解を含意している。
Polizeiは,本来的にはそのようなすべての人に
ところで,私事というと,まずもって個人単位
かかわる公共的事柄を問題にする領域だと思う。
で考えるのだろうが,二当事者間ではどうだろ
これは,行政の世界だ。
うか。二当事者間だけで問題となる事柄で,他
公法というのは,このような公共の世界の行
の人には関わりがないというのであれば,二当
動原理をルール化したものだと思う。ただ,そ
事者間で自己決定できることになる。これが契
こで問題となる利益は,基本的には下から積み
約自由であり,私的自治の最も原初的な形態の
上がってきたものだ。まず私の利益があり,共
1つである。これが,当事者がさらに増えても,
同の利益があり,そしてみんなの利益があり,こ
同じことが言える。つまり,複数当事者間だけ
れが最終的なすべての者に開かれる。すべての
にかかわる事柄は,その当事者が自己決定しう
者に関係するがゆえに,特定の者への排他的帰
る。その複数当事者の自由の領域である。もっ
属は認められない。この配分のあり方やそれを
とも,どのような内容で決定を行うかは,その
前提とした行動ルールを定めるのが公法だとい
当事者の自由だが,いったん決めたあとは,そ
う理解だ。
の決定に従うことは当然であり,そこでは自由
このような理解は,たとえば権力的支配服従
の自己拘束がある。そのような世界が1つある。
関係という私法に対立する原理を作って,ここ
整理すると,一番下というか一番上というか
から先は私法立ち入るべからずという領域を確
は問題だが,ともあれ,まず個人がある。そし
保するという発想,これがドイツ的な公法私法
て,個人が自己決定しうる,他者と関わりのな
論だろうが,それとはまったく異なる。考えて
い「私」の世界がある。当事者が2人,3人と
みると,これは,フランス法の世界だ。フラン
増えていっても,他者に関わりがない事柄であ
ス法の行政法の理論は,このような発想から始
153
まっている。そのようなイメージが頭にあった
いう表現がある。私は正直に申し上げて,これ
ものだから,私法公法という発想にそれほど違
には違和感がある。つまり,私の理解では,市
和感がなかったのだろうと思う。
民社会はむしろすべての者に開放されている公
そのような点を踏まえて考えていくと,先ほ
共圏としてとして捉まえるべきである。これに
どから一元論の話が出ているが,私が申し上げ
対して,共同体は,排他的な立ち入りお断りの
ているのは,
「個人の利益」
,そして狭義でのみ
世界で,共同性は,私的な世界に属するものだ。
んなを意味する「共同の利益」
,
それから開放さ
典型的には入会である。これは,共同体内部で
れたみんなの「公共の利益」を考えていくとい
はみんなのものだが,外からは入ってくるな,外
う,要するに利益の一元論なのだと思う。ここ
部者が入ってきたら追い出そうという世界だか
では,
「公共の利益」は,
あくまで下から積み上
ら,市民社会の論理とはなじまないのではない
げてきたものであって,公共の利益になっても,
か。市民社会のロジックはそういうものではな
みんなの利益から乖離した,上から押しつけら
く,公共の世界としてみんなに開かれているも
れた利益ではないということになる。
のと捉えるべきものではないか。
そのような観点で一元的に捉まえた場合,実
共同性と公共性の概念の区別は,あまり議論
定法の体系に対応させると,民法一元とかそう
されていないような気がするが,私は,きちっ
いう話ではなくなるはずだ。つまり,個人の私
と議論すべき問題であるように思っている。以
的利益を守るというのは,民法だけの役割では
上である。
ない。場合によっては,刑法もそのために重要
な役割を担う。反対に,公共的利益を擁護する
役割は,行政法が第一義的に担うべきであろう
が,それに限定する必要はなく,民法や刑法も
その役割を果たしうる。刑法の個人的法益や社
会的法益を問題にする法益論も,実はそのよう
に構造を持っているものだと思う。この辺りは
水林さんが『民法研究』という雑誌に最近掲載
された論文で,フランス的な思考様式をクリア
に提示されている。そこでも指摘されていたが,
フランスでは,刑法は,ある意味では私法に属
する。Agrégationという教授資格試験がある
が,私法の中に刑法が入っている。個人的法益
を擁護することがその重要な機能だからであろ
う。それは1つのエピソードにすぎないかもし
れないが,
そのような基本的発想に立脚して,
法
全体の体系を考えるべきではないか,というこ
とである。そこでは,利益に即して公法と私法
の概念的分化があってもよいのではないかとい
う発想が,私にはあるように思う。
最後に申し上げた点との関係で,先ほどは指
摘しなかったが,今日の広渡さんのレジュメの
A問題の中に,
「共同体の最大規模としての市民
社会」
「共同性の基礎づけとしての市民社会」と
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