Comments
Transcript
第 7 章 同業者組織からみた「粗製濫造」 - DSpace at Waseda University
第7章 同業者組織からみた「粗製濫造」観念と製品検査―日本・中国の比較を中心に 第 4~6 章では、日本と中国・台湾における在来産業のあり方を比較してきた。そこから 得られた両地域の違いは、産業によって多様な表れ方をしていたことが分かる。たとえば 第 4 章の花莚と、第 6 章の模造パナマ帽とでは、一方の比較対象がそれぞれ中国と台湾で あるという違いがあるにせよ、取引が規律正しい中国像と、取引が流動的な台湾像という、 一見すると対照的な違いが見いだされた。特に、花莚と模造パナマ帽・メリヤス製品との 間には、日本で同業組合がまだ組織されていない時期に成長した前者と、同業組合・工業 組合が組織されていた時期に成長した後者 2 つという違いがあった。そのため、前 3 章の 違いすべてを、日本と中国・台湾との違いとして一般化することはできない。 しかし、それらの違いの中から、共通する違いを見いだす努力も無意味ではなかろう。 ここで、日本の特徴として、中国と比べ、「粗製濫造」が問題視され品質改善が意識された こと、そして、その品質改善を可能にするため同業者組織が活用されたことが挙げられる。 この 2 つの側面を、産業別ではなく、産業横断的に分析したのが本章である。本章では、 「粗 製濫造」・同業者組織・製品検査に着目し、上記の仮説の一般化を試みたい。 1.問題提起 日本では、戦前期を通じ、「粗製濫造」という言葉が流行語のように多用されてきた。こ の問題が国民的課題と認識された証左であろう。しかし、 「粗製濫造」にもかかわらず、日 本は輸出を拡大させていった。というより、輸出拡大がこの問題を生み、それが問題視さ れたからこそ、さらに輸出を拡大させることができたと言うべきかもしれない 1 。この「粗 製濫造」を認識させた日本人の経済意識とは、どのようなものであったのであろうか。他 の国と比較するとどのように見えるであろうか。 「粗製濫造」を議論するためには、2 つの視角が考えられる。一つはその実態に注目する ものであり、もう一つはそれを問題視させるメカニズムを対象とするものである。前者に 関する研究としては、橋野知子氏の研究が挙げられる。氏は、「粗製濫造」を、技術の問題 とモラル・ハザードの 2 側面でとらえるべきであるとし、そのうち技術の問題に対処する 機関として工業学校を取り上げている 2 。それに対して、モラル・ハザードに対処する制度 として、同業組合・工業組合が挙げられる。しかし、実態に関する議論には、「粗製濫造」 を問題視することが前提とされており、日本で「粗製濫造」が解決すべき課題と認識され た背景を解明することが残された課題である。実態として品質低下が起こったとしても、 それを問題とみなさない限り、それを解決しようとしない可能性もあるからである。 まず同業者組織について概観しよう。日本における同業者組織としては同業組合・工業 組合があり、中国でそれらに対応するものとして伝統的な公所と民国期に組織された公会 「粗 がある。同業者組織の目的の一つは、ある種の「市場の失敗」を解決することである 3 。 1 正田健一郎「明治前期の地方産業をめぐる政府と民間」(高橋幸八郎編『日本近代化の研究(上)』東京 大学出版会、1972 年所収);斎藤修・谷本雅之「在来産業の再編成」(梅村又次・山本有造編『日本経済史 3 開港と維新』岩波書店、1989 年所収)、256~257 頁。 2 橋野知子「織物業における明治期「粗製濫造」問題の実態―技術の視点から」 (『社会経済史学』第 65 巻 第 5 号、2000 年所収)、特に 45~48 頁。 3 たとえば Gustafsson, B., “The Rise and Economic Behaviour of Medieval Craft Guilds: An Economic-Theoretical 104 製濫造」も市場の失敗の一つであり、同業組合・工業組合はこの問題を解決するために組 織された。中国でも組合(ギルド)が重要な役割を担ったことは戦前から指摘されてきた。 本章の目的は、同業者組織の比較 4 を通じてその背景にある意識を検討することである。 日本の同業組合・工業組合、中国の公所・公会は、ともに「制度」の一つである。青木 昌彦氏によると、 「制度」とは「共有された予想の自己維持的システム(self-sustaining system of shared beliefs)」と定義されている 5 。すなわち、経済主体の予想(beliefs)がその主体の 採る戦略を規定し、その戦略の均衡(ナッシュ均衡)として制度が生まれ、そしてその制 度が再び予想にフィードバックすると考えられている 6 。翻って言えば、このような制度は、 各経済主体の「共有された予想」、言い換えれば経済意識を体現し、制度が「共有された予 想」と矛盾しない場合、安定的なものとなる。この議論に立脚すれば、安定的制度を検討 することが、制度の背景にある「共有された予想」を垣間見ることにつながろう 7 。もちろ ん、後述する通り、この違いは法律によって決まる部分がある。しかし、同業者組織に関 する法律も、立法に携わった政治家や官僚の意識を反映しているし、政治過程に業界の有 力者も関与していることから、業界の有力者の意識も反映していると考えられよう。 まず、日本・中国においてその制度が安定的であったことを示し、次にその背後に潜む 経済意識に接近したい。ただし、ここでは、「粗製濫造」のうち、「粗製」の面に着目して 検討することを付け加えておく 8 。 2.日本と中国における「粗製濫造」の実態 まず、「粗製濫造」の実態について簡単に触れておきたい。先述した意識の問題は、実態 と表裏一体の関係にあることは確かである。しかし、日本に関する先行研究から窺えるよ うに、 「粗製濫造」の実態は、産業・地域によって異なり、産業ごとの分析が不可欠である。 残念ながら、詳細な分析は別稿に譲らなければならないが、中国に関する限られた史料と 本稿の分析から、「粗製濫造」の実態を、最低限、概観する必要はあろう。 第 4 章で取り上げた花莚では、中国製品は、日本製品に比べて低価格であった。価格比 が品質の違いを表すとすると、中国製品の方が「粗製」であったことになる。それにもか かわらず、「粗製濫造」が問題として認識されたのは日本の方であった。 花莚とともに日中両国の主要輸出品であった生糸は、花莚より複雑であった。中国の 2 大生糸産地は上海と広東であるが、上海では品質・技術ともに日本より優れていたか、ほ Interpretation” (in The Scandinavian Economic History Review, Vol.35, No.1, 1987); Miyamoto, Matao, “Concluding Remarks” (in Yamazaki, H. and M. Miyamoto eds., Trade Associations in Business History, University of Tokyo Press, 1988), p.313; Pfister, U., “Craft Guilds and Proto-Industrialization in Europe, 16th to 18th Centuries” (in Núñez, C. E. ed., Guilds, Economy and Society, Proceedings of the Twelfth International Economic History Congress, Sevilla, 1998). 4 斎藤修「市場経済の類型学と比較経済発展論」 (篠塚信義ほか編著『比較工業化の比較史的研究』北海道 大学図書刊行会、2003 年所収)、特に 44~48 頁では、西欧・日本・中国のギルドを比較している。また、 大森一宏「戦間期日本の海外情報活動―陶磁器輸出を中心に」(『社会経済史学』第 69 巻第 4 号、2003 年 所収)、特に 48 頁において、海外情報活動の観点から、日本・アメリカ・中国の同業組合を比較している。 5 青木昌彦『比較制度分析に向けて』(瀧澤弘和・谷口和弘訳)、NTT 出版、2001 年、14 頁;North, D. C., Understanding the Process of Economic Change, Princeton University Press, 2005, Chapter 3. 6 同上書、14~17 頁。 7 この観点に近いものとして、武田晴人『日本人の経済観念』岩波書店、1999 年参照。 8 「粗製」と「濫造」を分けて論じるべきか、議論もあろう。この 2 つを概念上分けることもできるが、 実際は「粗製」と「濫造」が同時に起こることが多い。本章では、主に「粗製」の側面から分析を進める。 105 ぼ並んでいたのに対し、広東では品質・技術ともに劣っていた 9 。また、明治中期の領事報 告(『通商彙纂』など)には頻繁に生糸価格が掲載されているが、これを見る限り、日本の 生糸価格は、イタリア産を下回ってはいたが、中国の七里糸の価格と同程度か、それを上 回っており、常に広東生糸の価格を上回っていた。価格からみると、広東を中心に中国の 方が「粗製」の傾向にあり、上海も含めても、品質面では日本と並ぶ程度であった 10 。くわ えて、実績でも、中国の輸出拡大は日本よりも緩慢であった。それにもかかわらず、やは り日本の方で「粗製濫造」が問題視された。数少ない事例 11 から即断はできないが、粗製・ 技術の停滞・輸出の縮小など、中国の実績の方が悪く、粗製の問題は中国の方が深刻であ ったか、少なくとも日本と同程度にあった。このように、 「粗製濫造」を問題視するために は、単なる品質水準だけではなく、さまざまな要因が絡んでいる。 第 4・5 章で取り上げた花莚や靴下では、中国製品の方がデザインなどでは劣るが耐久性 には優れ 12 、どちらが粗製であるか、一概には言い難い。一般に中国人は実用性を重んじる 傾向があるため、日本人にとっては粗製であっても、彼らの需要に照らせば粗製ではない 点も考えられる。また、 「粗製濫造」を問題視する上で、平均的な品質水準ではなく、品質 のばらつきの方が重要であったかもしれない。花莚では、中国製品は画一的である一方、 日本製品の中には良質なものから粗製品まで幅広く存在した。このように、そのばらつき が「粗製濫造」を問題視させた可能性がある。粗製品が粗製品として販売・購入される以 上、社会問題にはなりにくい。品質の問題のみならず、品質のばらつきとも関連する取引 上の「情報の非対称性」 、もしくは零細業者が支配的であるために産地や国をブランドとす る取引が支配的であるという「公共財」(ブランド)供給の問題のために、「粗製濫造」が 認識されている点が強調される必要があろう。以下では、その点について検討したい。 3.日本の同業者組織と「粗製濫造」観念 (1) 同業組合・工業組合の安定性 日本の同業組合・工業組合は、一貫した意識を反映した安定的制度と言えるのであろう か。後述するように、同業組合・工業組合に関する法律は再三変更され、その効果につい ても様々な疑問が提起されている。また、組合の組織過程で、政府の立法化・働きかけが あったことも事実である。そのため、同業組合・工業組合を、安定的な制度とみなすこと に、批判もあるに違いない。 9 Ma, Debin, “Europe, China and Japan: Transfer of Silk Reeling Technology in 1860-1895” (in Latham, A. J. H. and H. Kawakatsu, eds., Asia-Pacific Dynamism 1550-2000, Routledge, 2000); 金子晋右「生糸を巡る日中地域間競争 と世界市場―棲み分けと繭生糸品質との連関を中心に」(川勝平太編『アジア太平洋経済圏史 1500-2000』 藤原書店、2003 年所収)などを参照。 10 やがて器械製糸業の発達によって上海生糸の品質が向上し、日本では普通糸の輸出に特化していったた め(石井寛治『日本蚕糸業史分析』東京大学出版会、1971 年;Sugiyama, Shinya, Japan’s Industrialization in the World Economy 1859-99, Athlone Press, 1988, Chapters 4 and 7) 、上海生糸の価格は日本生糸の価格を上回った。 しかし、日本では普通糸の品質向上が目指されたことは事実であろう。 11 陶磁器でも、景徳鎮を例外として、中国製品は日本製品に比べて粗製品であった。たとえば、1915 年万 博における評価には、 「支那 日本人に依りて教導せられたる湖南及四川の出品物ありと雖も粗悪なるを免 れず江西景徳鎮の製品依然佳良なり」(「勁敵は独製品 桑博の陶磁器」[『読売新聞』大正 4 年 7 月 6 日]) とあり、景徳鎮の品質が例外的に良質であったものの、それ以外の製品は粗悪なものであったと言う。 12 靴下については、中国製品の方が単価は高かったが、その分、地合が厚く耐久性に優れていた(「天津地 方に於ける莫大小品需給状況」[『通商公報』第 806 号、1921 年所収])、403 頁。花莚は第 4 章参照。 106 戦前期には、同業組合準則(1885 年)、重要輸出品同業組合法(1897 年)、重要物産同業 組合法(1900 年) 、重要輸出品工業組合法(1925 年) 、工業組合法(1931 年)と、同業組合 または工業組合に関する法律が相次いで制定されている。同業組合と工業組合の違いにつ いては、諸研究者によって既に指摘されてきた。たとえば、①工業組合は共同購入・共同 施設などの共同事業(営利事業)を行うことが可能になった点、②同業組合では地域内業 者に加入義務がある一方、工業組合への加入は義務ではないが、工業組合法によってアウ トサイダーに規制を加えることができる点、といった違いが挙げられてきた 13 。くわえて、 ③商人主導の同業組合から製造業者主導の工業組合への性格の変化(工業組合における問 屋資本排除) 14 、④有名無実な同業組合から実効的規制が可能な工業組合への質的変化 15 、 ⑤株仲間へ回帰しようとした同業組合から同業組合を形骸化させるための工業組合への変 化 16 、といった違いも指摘されてきた。さらに、経済統制の観点から、1920 年代の重要輸 出品工業組合法と 1930 年代の工業組合法との間にある不連続を強調する研究も多い 17 。こ れらの研究は、共通して、同業組合から工業組合への質的変化から、日本資本主義の変化 を解明しようとしたと言える。そのような質的変化が重要であることは論を俟たないが、 本章では、日本と中国を比較する目的から、その質的変化の背後に潜む一貫性に着目した い。 同業組合の効果についても両極の見解が存在する。まず、同業組合の効果を否定的に捉 える見解としては、由井常彦氏が「製品の取締り自体は、まったく(同業:引用者)組合 の自治にゆだねられたので、しだいに製品検査は形式化し、組合も多くは有名無実化する ようにな 18 」ったとして、同業組合に対して、消極的にしか評価していない。他方、同業組 合・工業組合が、程度の差はあれ、積極的な効果を及ぼしたとする見解も近年多い 19 。組合 活動が成功したか否かは、様々な影響を受けるため、一概には言えない。しかし、多くの 産業で同業組合が組織されたことから、少なくとも日本の各経済主体には、同業組合・工 業組合の結成を当然とする意識が芽生えていたことは言えよう。 同業組合は「其地区内ノ同業者三分ノ二以上ノ同意ヲ得テ(重要物産同業組合法第 3 条) 」 農商務大臣の認可を受けて発足するものであるため、政府の承認とともに、同業者の多数 の意見が反映される必要があった。この一社一票制度は工業組合にも継承されたため、同 13 磯部喜一『工業組合論』甲文堂書店、1936 年、32~39, 385~391 頁。 通商産業省編『商工政策史第 12 巻 中小企業』商工政策史刊行会、1963 年、81 頁。 15 由井常彦『中小企業政策の史的分析』東洋経済新報社、1964 年。 16 藤田貞一郎『近代日本同業組合史論』清文堂、1995 年、特に 124~178 頁。 17 橋本寿朗『大恐慌期の日本資本主義』東京大学出版会、1984 年;白木沢旭児『大恐慌期日本の通商問題』 御茶の水書房、1999 年、第 8~11 章;平沢照雄『大恐慌期日本の経済統制』日本経済評論社、2001 年。 18 由井常彦『中小企業政策の史的研究』東洋経済新報社、1964 年、41 頁。 19 山崎広明「両大戦間期における遠州綿織物業の構造と運動」(『経営志林』第 6 巻第 1・2 合併号、1969 年所収) ;阿部武司「播州綿織物業の発展」 (同『日本における産地綿織物業の展開』東京大学出版会、1989 年所収) ;同「明治における地方産業の発展と組合・試験場―今治綿織物業の事例を中心に」 (『年報近代日 本研究 13』1991 年所収);松本貴典「大正期における織物同業組合の機能―反動恐慌期の泉北機業におけ る泉北郡同業組合の機能を事例として」(『大阪大学経済学』第 38 巻第 1・2 号、1988 年所収);同「反動 恐慌期から昭和期の泉州織物綿毛布工業における同業者組織の機能―泉北郡織物同業組合の限界・改組と 日本毛布・敷布工業組合の機能」(『大阪大学経済学』第 38 巻第 3・4 号、1989 年所収);大森一宏「日露 戦後経営と殖産興業―愛知県の同業組合を事例として」(『日本歴史』第 514 号、1991 年所収);同「明治 後期における陶磁器業の発展と同業組合活動」(『経営史学』第 30 巻第 2 号、1995 年);青木隆浩「明治期 における酒造組合の形成と組織的変容―埼玉県を中心として」 (『人文地理』第 52 巻第 5 号、2000 年所収)。 14 107 業組合・工業組合は、中小業者に主導権がある組織であった 20 。組合が数多く結成された事 実からは、特に中小業者の間に組合を当然とする意識が存在したことが窺えよう。 (2) 同業組合・工業組合の機能と検査制度 同業組合・工業組合に通底する特徴とは何であろうか。松本貴典氏は、戦間期における 同業組合の機能を、①製品検査機能、②市場調査機能、③評価公示機能、④宣伝広告機能、 ⑤インフラストラクチュアの整備機能、⑥共同事業、の 6 つに分類している 21 。それに対し、 工業組合を検討した磯部喜一氏は、その機能を、①品質改善(検査)、②生産原費切下げ(共 同購入・共同的生産設備)、③利子負担の軽減(金融)、④競争緩和(販路協定・価格協定 など)、⑤生産調節、⑥商企業化、の 6 つに大別している 22 。両者を比較すると、製品検査 機能が同業組合・工業組合を通じて一貫した機能であったことが分かる 23 。同業組合と工業 組合(、そして官営検査所)の間で、製品検査の担い手をめぐって争いが生じたことはあ ったが 24 、逆に言えば、製品検査が各組織で共通した機能であったことを示している。 この製品検査は、明治 10 年代に制定された茶業組合準則・蚕糸業組合準則に、既に定め られていた 25 。その後の重要物産同業組合法第 10 条に「同業組合及同業組合連合会ハ各其 定款ニ於テ検査規定ヲ設ケ組合員ノ営業品ヲ検査スルコトヲ得」と規定されたように、同 法に定められた唯一の機能が製品検査であった。さらに、同法第 20 条には「同業組合又ハ 同業組合連合会ノ証票若ハ検査証ヲ営業品ニ偽リテ附シタル者又ハ偽造、変造ノ証票若ハ 検査証ヲ営業品ニ附シタル者ハ十五日以上六月以下ノ懲役又ハ拾円以上百円以下ノ罰金ニ 処ス」と規定され、政府は、検査証を偽造するなど、検査を妨害した者に刑事罰を科すこ とを通じ、検査の実効性を支える姿勢を示した。たとえば、資料の得られた岡山県では、3 組合を除き、ほぼすべての同業組合で検査制度が導入されていた 26 。埼玉県でも、工務局主 管の組合のうち、検査を導入していた同業組合は 9 割を占めていたと言う 27 。 工業組合への改組後も、製品検査が中心的役割であることに変わりなかった。そもそも 重要輸出品工業組合法でも工業組合法でも、製品検査機能が定められていた 28 。その点から、 同業組合との連続性が窺える。検査を貫徹させ、業界の利益を守るために、同業組合と工 業組合のどちらが有利か、で判断されるケースが多く、工業組合が結成されても、検査が 引き継がれる場合が多かったようである 29 。表 7―1 は、工業組合が実施した機能の比率を 示している。同表からは、同業組合からの機能的連続性のため、7~9 割の工業組合で製品 20 平沢照雄、前掲『大恐慌期日本…』54~55 頁。 松本貴典「両大戦間期日本の製造業における同業組合の機能」(『社会経済史学』第 58 巻第 5 号、1993 年所収)。 22 磯部喜一、前掲『工業組合論』より。 23 同業組合による製品検査の重要性をいち早く強調したものとして、竹内庵「明治中期同業組合政策の展 開」(安藤精一先生還暦記念論文集出版会編『地方史研究の諸視角』国書刊行会、1982 年所収)。戦後につ いては、竹内淳一郎「日本の軽工業と輸出検査制度」(『産業学会研究年報第 16 号 2000』2001 年所収)。 24 高橋亀吉『明治大正産業史』下巻、帝国出版社、1928 年、1347~1348 頁;藤田貞一郎、前掲『近代日本…』 ; 大阪織物同業組合編『大阪織物同業組合三十年誌』1936 年。 25 白戸伸一『近代流通組織化政策の史的展開―埼玉における産地織物業の同業組合・産業組合分析』日本 経済評論社、2004 年、26~28 頁。 26 岡山県重要物産同業組合連合会『岡山県重要物産同業組合誌』1930 年より。3 組合とは、岡山県蚕種同 業組合・岡山県製糸同業組合・岡山県売薬同業組合(売薬同業組合は国法による検査がある)である。 27 白戸伸一、前掲『近代流通組織化…』101 頁。 28 平沢照雄、前掲『大恐慌期日本…』;小池金之助『工業組合解説』昭和図書、1938 年、426,436 頁。 29 阿部武司、前掲「播州…」;松本貴典、前掲「反動恐慌期…」 21 108 検査が導入されたことが分かる。それに対し、価格協定や生産調節など、生産規制機能は、 1936 年末で半数を若干上回る程度であり、共同設備などの共同事業の普及率は 3~4 割程度 であった。このように、製品検査の普及率が一貫して最も高かったのである。 表 7―1 工業組合の機能変化 1930 年末 1933 年末 1935 年末 1936 年末 検査 104 93.7 250 72.7 510 77.0 635 74.7 生産調節 12 10.8 153 44.5 420 63.6 487 57.3 価格協定 8 7.2 114 33.1 377 56.9 454 53.4 取引先指定(協定) 1 0.9 39 11.3 72 10.9 102 12.0 共同設備 44 39.6 104 30.2 213 32.1 271 33.8 共同購入 35 31.5 123 35.8 199 30.1 345 40.6 共同販売 23 20.7 132 38.4 201 30.4 304 35.8 45 13.1 226 34.1 276 32.5 344 100.0 662 100.0 850 100.0 金融 計 111 100.0 〔出所〕通商産業省編『商工政策史第 12 巻 中小企業』1963 年、70, 150, 157 頁;商工省 工務局編『工業組合概況 附工業組合一覧』工業組合中央会、1934 年より作成。 〔注〕左欄は組合数、右欄は比率(%)。 表 7-2 藺草・藺製品・真田の同業組合における歳入構成 証紙料 X 証紙料率 X/Y 賦課金等 歳入計 Y 年度 岡山県藺草同業組合 45,600.0 95.9% 250.0 A 47,550.0 1924 年 岡山県花莚同業組合 22,029.5 73.9% 2,650.0 B 29,813.5 1924 年 岡山県畳表同業組合 22,961.0 69.3% 3,155.0 C 33,134.3 1924 年 岡山県真田同業組合 26,600.0 75.3% 1,223.6 C 35,318.0 1918 年 福岡県花莚同業組合 8,800.0 64.1% 2,858.0 C 13,728.0 1931 年 大分県莚業同業組合 19,933.0 68.7% 4,500.0 C 29,008.0 1931 年 [出所]岡山県内務部編『岡山県ノ藺草並藺製品』1925 年;岡山県藺草同業組合編『藺草 及藺莚視察報告書』1931 年;佐藤国吉編『岡山県真田同業組合沿革史』1920 年より。 [注]賦課金等は、組合によって名称が異なる。A:証票及看板料 B:販売人割・捺染業 者割・製造休業割計 C:賦課金。比率以外の単位は円。 製品検査が組合の中核にあることは、歳入面にも表れている。ほとんどの同業組合の歳 入は、加入者を単位として賦課する賦課金・看板料などと、検査料(証紙代)とで構成さ れていた。表 7―2 は、藺草・藺製品・真田の同業組合を例に、その歳入構成を示したもの である。同表からは、これらの同業組合では、検査費に対応する証紙料が歳入全体の 64~ 95%を占めていたことが分かる。また、検査料収入と検査費用を比較すると、前者の方が 109 多く、検査料が、検査事業のみならず、他の費用にも充当されていたことが読みとれる 30 。 すなわち、検査料は収入面でも重要な役割を担ったのである。 (3) 組合検査に潜む経済意識 製品検査制度は高品質生産者に有利であり、生産者に品質向上の誘因を与えたと考えら れる 31 。検査制度の導入に対して、同業組合・工業組合参加者の多くが賛同しなければなら なかったことから、同業者組織の中で、同制度の導入によって有利になる生産者が主流を 占めた可能性を指摘できる。すべての同業組合を追うことは不可能であるが、諸組合の設 立経緯・沿革を蒐集・比較することにより、共通した傾向を見出すことはできよう。共通 した特徴を示すと考えられる伊予織物改良同業組合の設立経緯に関する記述を引用したい。 「当業者が売行の盛況に乗じ竊に粗製濫造を企て品質を粗にし染色を偽り丈幅を短縮した るため需用者の信用を失ひたるに因るものにして当時之れが救済の策を講ずるにあらずん ば伊予織物の前途は絶滅の運命に陥りの外なく啻に当業者の不幸のみに止まらず主要の国 産を失ひ延て地方の盛衰に重大の影響を及すものあるを以て地方の有志は大に之れを憂ひ 之れが恢復の策を画することに腐心したり。…(中略)…此の時に当り松山市の有志栗田 与三瀬川喜七小玉源三郎等卒先して之れが救済の策を立て明治十二年縞会社なるものを設 立し問屋仲買商の間に規約を結び問屋に於て販売するものは悉く会社の検査を経ることと したり…(中略)…我伊予織物の衰頽は延て地方の経済を攪乱し諸種の商工業を不振なら しめ多数失業者は生活困難の為職業を択ふに暇あらず非倫の醜業も之れを厭はざるに至り 地方風教上大害を及ぼすものあるを以て地方の有志は爰に三たび蹶起して之れが救済を決 意し栗田卯三郎瀬川善三郎近藤治三郎宮本積徳藤崎直愛高本邦和佐伯一徳長阪忠平門田正 経世良藤蔵青木一貫等相謀り明治十九年四月松山市及風早和気温泉久米(今の温泉郡)伊 予の五郡内に於る織物関係者の大会を開催し之れが善後策に就き協議する所あり更に厳重 なる規約を制定し改めて又組合を組織せり之れを伊予織物改良組合とす…(中略)…織物 業に関係のあるものは悉く之れに網羅し厳重の取締を為すこととし各地便宜の場所に検査 員を派出し組合員の製品は一々之れを検査し規約に背きたる不合格品に対しては重きは之 れを寸断し軽きは違約金を徴収して将来を警むる等最も厳重の処置をなし毫も仮借する所 なかりし蓋し斯くの如く果断の処置をなさざれば以て昔年の悪弊を矯正すること能はざる を以て当時組合理事者は非常なる決心を以て事に当りたりしも組合員は尚未だ組合取締の 必要を感知せず動もすれば不要の干渉を為すものの如く誤解し異論抗議百出して経営甚困 難なりしも理事者は終に当初の決心を翻さず百難排して目的の遂行に努めたる結果幸に空 しからず漸次製品を改良し伊予織物の声価を回復し産額を増加するに至れり 32 」 特にこの下線部からは、最初に産地の有力者が「粗製濫造」を問題視し、その解決のた め、有志で同志会(伊予織物同業組合では「縞会社」)が組織され、検査制度が導入された 30 この傾向は工業組合になっても変わらない。磯部喜一、前掲『工業組合論』97~98 頁。 製品検査によって粗悪品が排除されるとともに、検査料は製品 1 単位あたりで課された(製品が多様で あれば、その種類に応じ検査料が個別に定められた)。検査料は、品質に無関係に課されるため、従量税的 性格を有している。従量税は、高品質であるほど、販売価格に対する税率は低くなるため、高品質生産者 にとって有利であり、その性格だけからも、品質改善の誘因をもたらした可能性が理論的には指摘できる。 32 伊予織物改良同業組合『伊予織物改良同業組合沿革誌』1917 年、2~4 頁( 『明治前期産業発達史資料 別 冊(61)一』明治文献資料刊行会、1970 年所収)。 31 110 ことが分かる。組合が業界内から組織された後 33 、法律・補助金を通じて政府が組合を追認 する事例も多かったのである。政府の働きかけがあった同業組合もあるが 34 、働きかけに対 して容易に同意が得られた組合も少なくなかった 35 。おそらく良質な製品を生産する有力者 が「粗製濫造」を最も意識し、その解決策として組合による検査制度が導入されたのであ ろう 36 。政府が“上から”組合を組織したというよりも、“下から”組合が組織された、少 なくとも“下から”の要求に政府が呼応した面が強かったのであり、そこには、同業組合 が担う検査機能に対し、ある程度の同業者の間に暗黙の了解があったことは指摘できよう。 もちろん、この過程で、政府が先か、業界有志が先か、という議論を立てることも可能で ある。しかし、ここでは、後述する中国との関係から、政府と業界が互いに情報や期待を 共有し、それぞれが補完的な関係にあったことを強調するだけで十分であろう。 官営検査所に関しても、同様の議論が成り立つ。経費の節約・検査の貫徹といった目的 のためには官営の方が有利と判断されただけで、組合による検査と官営検査の間には連続 性があった。最初の官営検査所は 1895 年に設立された生糸検査所であるが、国内から検査 制度を設けようとする試みが常に存在した 37 。官設の生糸検査所の設立経緯について、以下 の史料を引用しよう。 「其の製品は往々にして粗製に流れ需要地の苦情は頻々として到り横浜市場に於ける取引 の状況尚ほ旧態を改めさるもの多く内外商の紛議は往々にして醸出せられ而して之れか為 に我の被むる所の損害は之を価格に計上する時は恐くは数百万円の多きに達せん本邦輸出 品の巨臂たる生絲の貿易状況夫れ斯の如くなるは国家の為め斯業の為め甚た憂ふへくして 此儘にして之を放擲し去るへきにあらす是を以て官民共に汲々乎として之か矯正策を講し … 38 」 それによると、「粗製濫造」と内外商の紛議とを解決するため、「官民共に…矯正策を講 33 管見の限り、有志・有力者が同業組合(準則組合)を組織しようとしたとの記述がある組合史として、 福井県絹織物同業組合『福井県絹織物同業組合創立三十五周年記念 三十五年史』1921 年、18 頁(『明治 前期産業発達史資料 別冊(57)二』1970 年所収);足利織物同業組合編『足利機業誌』1908 年、11~12 頁 (『明治前期産業発達史資料 別冊(51)四』1969 年所収);佐野機業誌発行所編『佐野機業誌』1914 年、8 頁(『明治前期産業発達史資料 別冊(51)四』1969 年所収);三遠玉糸製造同業組合事務所『三遠玉糸製造 同業組合成績』1926 年、1~2 頁(『明治前期産業発達史資料 別冊(55)二』明治文献資料刊行会、1970 年 所収);伊勢崎織物同業組合『伊勢崎織物同業組合史』1931 年、178~179 頁;遠州織物工業協同組合『遠 州輸出織物誌』1950 年、7 頁;梅原貞康編『秩父織物工業組合史』大日本孝道宣揚会、1937 年、23~29 頁; 播州織同業組合『播州織同業組合沿革史』1928 年、13~18 頁;東京織物製造同業組合編『東京織物製造同 業組合沿革史』1944 年、6~8 頁;今井清見編『米沢織物同業組合史』1940 年、216 頁。 34 管見の限り、道府県や郡の働きかけなどがあって組合が組織されたとの記述は、大槻喬編『西陣織物同 業組合沿革史』1939 年、19~20 頁;北都留郡甲斐絹同業組合史編纂会編『北都留郡甲斐絹同業組合史』1942 年、100~101 頁;十日町織物同業組合編『十日町織物同業組合史』1940 年、547~548 頁;佐藤国吉編『岡 山県真田同業組合沿革史』1920 年、2 頁。 35 たとえば、岡山県真田同業組合に関しては、 「両郡長ハ直ニ郡内ノ有志者ヲ集メ其意見ヲ徴セシガ当時両 郡内此説ヲ唱フルモノ少カラサリシヲ以テ協議忽チ纏マリ…」とある(佐藤国吉編『岡山県真田同業組合 沿革史』1920 年、2 頁)。 36 良質商品の生産者がある水準以上存在するところでは、検査が不完全でも、良質生産者に有利な状況を 生み出せることは、理論的に示される。Anania, Giovanni and Rosanna Nisticò, “Public Regulation as a Substitute for Trust in Quality Food Markets: What if the Trust Substitute cannot be Fully Trusted” (in Journal of Institutional and Theoretical Economics, Vol. 160, 2004). 37 農林省横浜生糸検査所編『横浜生糸検査所六十年史』1959 年、1~11 頁。 38 農商務省生絲検査所『生絲検査所業務一斑』1908 年、5 頁(『明治後期産業発達史資料』第 456 巻、龍溪 書舎、1999 年所収)。 111 し」た結果、生糸検査所が設立されたのである。生糸検査所が官民挙げて設立されたこと は注目すべきことであろう。 この引用によれば、製品検査には、同業者間で品質を改善しようとする意識とともに、 外商との関係も重要な契機となっていた。たとえば神戸では、以下に示されるように、外 商が強い交渉力を持っていた。 「居留地外商館の商品買入上に行はるゝ習慣的弊害は、総て商品見本を点検し、見本同様 品幾何、何月何日限り、直段何程を以て買受くべしと約し、扨て現品持参後検査を行ふに 至り、苟も意に適せざる事あらんか、直ちに約定直段取消の口実を案出し、更に直引を迫 るに在り。…(中略)…外商は内商の此事情を透見し、常にペケ権を濫用し、以て内商を 苦むる最好手段と思惟せるなり 39 」 この商権をめぐる競争の中に商品検査を位置づけることができる 40 。花莚では、「売込問 屋ハ合格品ヲ輸出商ニ持込ミ、更ニ其拝見ヲ受ク。拝見取引ハ今尚ホ花莚ニ就イテ行ハル ル処ニシテ、所謂商館ハ官設ノ花莚検査所ニ於テ付シタル成績ヲ信ゼズ持込ミタル花莚ヲ 検査シテ之ヲ一等二等『ペケ』ノ三種ニ分チ 41 …」とあるように、外国商館が持っていた検 査権をめぐって、外国商館と内商・検査所との間に対立があった。検査所の設置は、外商 の掌握していた交渉力・検査権を弱める方策でもあったのである。外商の強い交渉力は、 検査所をめぐって業界を団結させる共通の敵になった可能性も指摘できる。 当時、外国商人の優位性は、国内における無秩序な競争と「粗製濫造」に帰せられると 認識されていた 42 。明治期には、「粗製濫造」と検査制度、商権をめぐる競争は、三位一体 の関係にあったと言える。熾烈な競争による「粗製濫造」が外国商館に対する国内商人の 立場を弱くしたことが 43 、「粗製濫造」が問題視される状況をさらに強め、製品検査の必要 性も大きくしたのである。 製品検査は、 「粗製濫造」に伴って、契約当事者間で生じる「情報の非対称性」を緩和す る制度でもあった。同業組合・検査制度は、良質な製品を生産していることを市場に示す 「シグナル」機能を発揮したに違いない 44 。この機能は、「情報の非対称性」を情報の優位 な側から緩和する方策である 45 。シグナルとして、ほかに個別工場・個別製品の商標を選ぶ こともできるが、産地ごとに同志会・同業組合を組織し、組合による検査を通じて、産地 の商標を構築する方策も考えられる 46 。その結果、買い手は、検査後に貼られる産地の標章 39 村田誠治編『神戸開港三十年史』開港三十年紀年会、1898 年、651~652 頁。 同様の点は、既に今津健治「輸出工産物の技術的課題」 (角山榮編著『日本領事報告の研究』同文舘、1986 年)、197 頁。 41 平井真次郎『日本花莚業調査報告書』東京高等商業学校、1907 年、194 頁。 42 生糸でも同様の現象が見られたが、外商が主導する個別検査の慣行は、当初、 「粗製濫造」問題に起因し ていたという。志村茂治『生絲市場論』明文堂、1933 年、67~68 頁。 43 同上書、262 頁によると、 「吾等は吾国輸出生絲市場に依然として存する居留地貿易的商慣習の弊害を充 分認めざるを得ない。正量、原量、品位、格付検査に関しては国家機関の介入によつて、検査技術に基く 輸出商の誤魔化しは廃棄された」と言う。 44 模造パナマ帽では、沖縄においてこのような過程を辿ったことは、本稿第 6 章で論じた。同様の記述は、 松本貴典、前掲「両大戦間期…」52 頁も参照。 45 Spence, M., “Job Market Signaling” (in Quarterly Journal of Economics, Vol.87, No.3, 1973);情報理論を経済史 に導入する試みとして、古田和子「経済史における情報と制度―中国商人と情報」 ;大森一宏「戦間期日本 の海外情報活動―陶磁器輸出を中心に」(ともに『社会経済史学』第 69 巻第 4 号、2003 年所収)。 46 個別商標については、中林真幸「大規模製糸工場の成立とアメリカ市場―合資岡谷製糸工場における経 40 112 を信頼して購入することが可能になる。たとえば、三遠産の玉糸については、「機業家及仲 買人ハ安心シテ団体標章銘ヲ以テ取引ヲナス就中海外輸出品ニ於テハ団体標章銘ヲ以テ二 三ヶ月後受渡ノ契約ヲ為スト雖トモ受渡期日ニ至リ延滞ヲ為シタル事ナク絲価ノ高下ニ依 リ破約ヲ為スガ如キ行為更ニナク品位ノ点ニ於テ苦情ヲ生シタル事少ナク… 47 」とあり、買 い手が「団体標章」を信頼した状況が読みとれる。製品検査が信頼されると、買い手はそ の製品を製造業者の名前ではなく、産地の名前で評価するようになる。前田正名『興業意 見』を筆頭に、この製品検査を正当化する理由として、国、もしくは産地の「声価」を維 持することが頻繁に登場する 48 。特に中小業者の多い産業では、個別業者の商標を構築する ことは難しく、産地全体で商標(標章)を提供することが有効であった 49 。情報入手が難し い海外の流通業者・消費者であれば、なおさら産地、または生産国の名前を基準に品質が 認識され、検査の必要性もさらに増幅させる。このように、検査が特に輸出品で実施され たことは合理的であったと言えよう。 ただし、産地の商標が十全なシグナル効果を発揮しない場合もある。たとえば、粗悪な 製品の生産者が産地の評判にただ乗りする場合が考えられる。産地の「声価」 ・ブランドは、 その産地の構成員ならば誰でも利益を受けられる「クラブ財(公共財)」であり、それにた だ乗りするフリーライダーを抑制するため、産地を単位とした取り組みが不可欠になる 50 。 さらに、この制度にはもう一つの限界を伴う。その限界とは、個別商標を付ける能力を 有した大生産者層と、産地のブランドに頼らざるを得ない中小規模の産地有力者層との対 立である。個別商標で「シグナル」を送ることができる生産者にとって、組合による検査 は不必要になる。その状況下では、組合が弱体化したり、同業組合と工業組合に分裂した りするケースも見られた 51 。これは、個別企業の商標と産地の商標との対立でもあった 52 。 営発展と商標の確立」(『社会経済史学』第 66 巻第 6 号、2001 年所収);産地の商標については、同「問屋 制と専業化―近代における桐生織物業の発展」(武田晴人編『地域の社会経済史』有斐閣、2003 年所収)。 47 三遠玉糸製造同業組合事務所、前掲『三遠玉糸…』12 頁。 48 前田正名も「物品の声価は全く地を払ふ」など、 「声価」を論じている(前田正名『興業意見・所見』[『明 治大正農政経済名著集①』農山漁村文化協会、1976 年]、145 頁など)。 「声価」を根拠に検査の導入を提唱 する例は枚挙に遑がないが、一例を挙げると、1936 年の重要輸出品取締法の説明には、「海外市場ニ於ケ ル其(重要輸出品のこと:引用者)ノ声価ノ維持向上ヲ図ラントス」とある。 49 Haucap, J., C. Wey and J. F. Barmbold, “Location Choice as a Signal for Product Quality: The Economics of ‘Made in Germany’,” (in Journal of Institutional and Theoretical Economics, Vol.153, 1997). 50 藤田貞一郎、前掲『近代日本…』のように、「粗製濫造」・検査制度を理由に、新規参入を抑制し、かつ ての株仲間に回帰しようとしたとする見解も存在する。この見解は同業者組織が常に独占に堕する危険性 を強調した点で一聴に値する。同業組合を悪用した業界があったことは否めないし、理論的にも、最低品 質規定の設定権が業者にあると、過剰に厳しい基準を設けることは、Leland, Hayne E., “Quacks, Lemons, and Licensing: A Theory of Minimum Quality Standards” (in Journal of Political Economy, Vol.87, No.6, 1979)参照。し かし、政府・業界・国民ともに、 「粗製濫造」の防止を理由に、同業組合・検査制度を是とする意識があっ たと捉えることも可能であろう。 51 山内太「日露戦後期における地域振興策とその性格―福島県伊達郡川俣町を事例として」(『土地制度史 学』第 147 号、1995 年所収) ;同「明治後期輸出絹織物業における品質管理問題」 (『市場史研究』第 22 号、 2002 年所収);同「同業者組織と輸出振興策―福島県伊達郡の絹織物業」(武田晴人編『地域の社会経済史 ―産業化と地域社会のダイナミズム』有斐閣、2003 年所収)。また、今津健治、前掲「輸出工産物…」198 頁には、≪現品取引→見本取引→産地を単位とする銘柄取引→商標取引→メーカー取引≫という発展経路 を示している。この過程は、その整理によると、 「銘柄取引→商標取引」に該当する。ただし、産地の結束 力次第では、銘柄取引が見られないか、短期間に終わる可能性もあろう。 52 検査に伴う産地の商標と個別企業の商標とが、常に対立するとは限らない。伊勢崎織物同業組合編、前 掲『伊勢崎…』185 頁では、商標と検査印を併記することを求め、日本輸出莫大小同業組合連合会編『日 113 このように、産地の商標が常に形骸化する 53 という限界を内包しつつも、特に輸出の初期段 階において、産地・国の「声価」を育成する試みが重要であったと言える。 以上から、日本の特徴として、①産地には、良質の製品を供給する有力者層と、それ以 外の周縁的生産者層とが存在し、有力者層が主導して組合を組織したこと、②買い手側は、 国・産地の「声価」を基準に製品の品質を認識したこと、③「粗製濫造」が意識されるた めには、外国商人の影響力の強さもあったこと、などが挙げられる。製品検査に代表され る産地の対応が、買い手も産地を基準に売買すればよいという「共有された予想」をさら に強化した。業界内で「粗製濫造」と認識された一因は、産地の「声価」を確立したい有 力者層が、ただ乗りしようとする周縁的生産者を問題視した結果であったと言える。そし て、政府もこの有力者層の見解と共鳴したし、政府の助力も不可欠であった。さまざまな 事情により、同業組合が機能不全に陥ることもあったが、その試みが国・地方あげて行わ れた事実は看過すべきではなかろう。 4.中国の同業者組織と「粗製濫造」観念 (1) 同業者組織の安定性 本節では、中国の同業者組織を検討し、それを鏡にして日本の「粗製濫造」問題を逆照 射してみたい。最初に、中国の同業者組織(公所・公会)は、どのような原理に立脚して いるのであろうか。その点に関する記述を、以下に引用しよう。 「支那の組合は、人民自から発起し、自から組成し、自から維持するものに係はり、其の 」 発生に国家の干與する所なく、而も儼然たる一個独立の社会団体を形成するものである 54 。 この記述が正しいとすれば、中国の組合は、政府と無関係に組織された点で、下から自 発的に組織された制度であり、かつ安定的制度でもあった。この組合を検討することによ って、それを組織した経済主体の意識を読みとることができよう。 中国では、明清期に組織された同業者組織が存続し近代に至っていることが多いが、近 代に入ると、その組織に変化が生じたと言う。同郷者組織より同業者組織が増加し、同業 者組織が地域横断的組織へと巨大化した。機能面でも、価格の統一などによって競争を制 限する旧来の規定にくわえ、度量衡の統一や品質の維持など、取引を秩序化する規定が混 在した 55 。その点では、中国の同業者組織も時代の変化に対応していた。それは、近世期の 株仲間が明治初期に廃止され、新たに同業組合が組織された日本の状況と、軌を一にする 面もある。宮本又次氏は、株仲間の機能を、①独占機能、②権益擁護機能、③調整機能、 ④信用保持機能の 4 機能に分類し、近代の同業組合は、そのうち③・④の機能のみを有す るようになったと整理している 56 。日本の相対的断絶、中国の相対的連続という違いはある 本輸出莫大小同業組合連合会会史』1928 年、3 頁では、検査とあわせて商標もしくは符号を附する義務が 課されていた。メリヤス製造業では、種類が多種多様で数量も多いので、抜取検査に頼らざるを得ず、製 造業者の責任を明らかにするため、製造業者の商標・符号も付する義務が課されたと言う。 53 Spence, op.cit.は、状況が変化すると、シグナルは最善のものではなくなる可能性がある(それでも惰性 によって持続することがあり得る)点を付け加えている。 54 上海出版協会調査部編著『支那の同業組合と商慣習』上海出版協会、1925 年、52 頁。 55 Rowe, William T., Hankow: Commerce and Society in a Chinese City, 1796-1889, Stanford University Press, 1984, pp.252~288; 彭 『 』 2002 45~51 「 」(『 』2004 2 ) 「 」(『 』2004 5 ) 56 宮本又次『株仲間の研究』有斐閣、1937 年;同『ギルドの解放―明治維新と株仲間』大阪大学経済学部 114 が、近代に入って、両国は似た展開を辿ったとも言える。 民国期になると、旧来の「公所」から、日本・西洋の法律を模範とした「公会」への改 組が行われている。しかし、日本の同業組合から工業組合への変化と同様、公所から公会 への変化の中に、一貫した特徴が読みとれる。根岸氏は、2 つの違いとして、法制上の統制・ 民主主義の強化を挙げたものの、両者の違いは大きくないとしている 57 。また、公会章程は 官憲から与えられたもので、現実と遊離していたため、実際には同業仲間の共同意思に支 えられていたとの指摘もある 58 。公会への変化は表面的なものであり 59 、公所と公会は連続 したものとみなした方が妥当なようである。このように、公所と公会が連続し、民国期に 入っても機能があまり変化しなかった。その点を考慮すると、中国における各経済主体の 「共有される予想」が、一貫して反映されていたことが窺える 60 。 (2) 同業者組織と製品検査 これらの同業者組織は、どのような機能を担ったのであろうか。東亜同文書院の分類で は、工業者組合・商業者組合ともに、「開業ニ関スルコト(開業規制)、賃銀及売価ヲ一定 スルコト、祭神ニ関スルコト、徒弟ニ関スル件、処罰ニ関スルコト、其他ニ関スルコト 61 」 に整理されている。また、根岸佶氏によれば、 「公所」には、事業独占(強制加入・競業制 約)とともに、信用維持、業務規約(価格・賃銀・度量衡・貨幣・商行為の統制)、共同事 業、警察・調停・裁判及び制裁、共同防衛といった機能があり 62 、その結果、「商業取引の 円滑、資金の融通、信義の尊重 63 」が実現されたという 64 。そうした機能、特に厳しい制裁 によって、取引を円滑化し、商人の信義を尊重させたのである。 しかし、各組合は機能面で多様であり、上記の機能をすべて備えていたわけではない。 加入義務を課す組合、課さない組合、価格統制を行う組合、行わない組合など、多様であ った。バージェスが北京にあるギルドを調査した結果を表 7―3 に掲げよう。加入義務が強 制的であったり 65 、価格協定や賃金協定を採用したりしているのは、全体の 3 割程度である。 確かに、加入義務を課したり、価格協定・賃金協定を結んだりする組合がなかったとは言 えないものの、これらの協定が中国の組合に共通するものと断定するには難しい比率であ る。また、手工業組合でそれらの比率が高くなっているが、商人組合ではこのような協定 はほとんど見られなかった。中国では、日本の同業組合と違い、工業・商業を含んだ同業 者組合は見られず、また業種によって特徴を異にしていたことが窺える。 ここで、敢えて中国の特徴を挙げるとすれば、無いものねだりになるが、検査が主な機 社会経済研究室、1957 年;岡崎哲二『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』講談社、1999 年。 57 根岸佶『中国のギルド』日本評論新社、1953 年、418~422 頁。 58 仁井田陞『中国の社会とギルド』岩波書店、1951 年、147 頁。 59 たとえば、皮行会館では、「公会は社会局の命令でつくっただけでやめるわけにはいかぬ」(佐伯有一他 編註『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集(三)』東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センター刊行 委員会、1978 年、561 頁)との言及がある。 60 1930 年代になると、旧来のギルドの持っていた機能が、さらに弱体化する現象も観察された。金子肇 「1930 年代の中国における同業団体と同業規制―上海の工商同業公会を素材として」(『社会経済史学』第 63 巻第 1 号、1997 年所収)。その点では、この時期までには、大きな変化があったのかもしれない。 61 在上海東亜同文書院編『支那経済全書』第 2 輯、1907 年、638~640,657~660 頁。 62 根岸佶、前掲『中国の…』53~59,348~402 頁。 63 上海出版協会調査部編著『支那の同業組合と商慣習』上海出版協会、1925 年、60 頁。 64 Rowe, op. cit., pp.294~299 参照。 65 「随意」と言っても、実質的には加入が強制されているギルドも存在した。 115 能にならなかったことではないか。日本では、ほとんどの同業組合で導入された検査が、 中国では導入されなかった。その点は、先述した根岸氏の分類に検査機能が明記されてい ないことからも窺える。 表 7―3 バージェス(J. S. Burgess)が調査した北京の 42 ギルドにおける特徴 手工業組合 加入義務 価格協定 技職組合 合計 強制的 10 0 4 14 不確定 2 1 1 4 随意 4 17 3 24 合計 16 18 8 42 行うもの 5 3 2 10 行わないもの 6 13 1 20 報告なし 5 2 5 12 16 18 8 42 行うもの 9 0 1 10 行わないもの 6 15 6 27 報告なし 1 3 1 5 16 18 8 42 合計 賃金協定 商人組合 合計 [出所]バージス・J・S『北京のギルド生活』(申鎮均訳、牧野巽校閲)生活社、1942 年、 157,257~260 頁;村松祐次『中国経済の社会態制』東洋経済新報社、261 頁。 法律の条文でも、 「工商同業公会規則」、 「工商同業公会規則施行弁法」 (ともに 1918 年)、 「修正工商同業公会規則」 (1923 年)の中に、検査という用語は登場せず、南京政府によっ て 1927 年に制定された「工芸同業公会規則」で、同業公会の権限に初めて「検査」が挙げ られている 66 。もちろん、法律とその運用状況は常に異なるため、法律に定められたからと 言って、検査が実施された程度を過大評価すべきではないが、検査制度が日本とは異なる 過程をたどったことは確かであろう。踏み込んで言えば、検査制度を当然のこととする意 識が、官民ともに育たなかったのではないか。 管見の限り、いくつかの組合規約に「検査」という言葉が登場するが、多くの場合、契 約当事者間の検査 67 や、度量衡を統一するための秤の検査 68 を指すことが多い。花莚輸出で も、商人と生産者、中国商人と外商との間で商品の検査が行われたという記述があるもの の 69 、その検査は、組合によるものではなく、あくまで私人間契約の履行を確認する検査に 過ぎなかった。検査は私人間の責任で行うもので、日本で支配的であった“組合による製 前掲『 …』72~76 ; 『 』 1995 985~995 たとえば、上海棉業規條(上海出版協会調査部編著、前掲『支那の…』215 頁)参照。 68 たとえば、上海荳米業修正條規(同上書、175 頁)参照。 69 「清国商人ト製造者ノ間ニ於ケル取引ニハ毎巻検査ヲ行フモノトシ清国商人ト輸出商即居留外商トノ取 引ニハ抜検査ヲ行フヲ以テ慣習トシ概ネ十巻ニ対シ一巻ヲ検査ス」 (農商務省商工局編『重要輸出工産品要 覧 後編』1908 年、390 頁)。 66 67 116 品検査”という発想は、中国では主流にならなかったのである。 組合による検査の試みも一部には見いだせたが 70 、芳しい効果をあげたとは言い難い。広 東の花莚問屋組合が輸出品に対し検査員制度を導入しようとしたものの、 「此悪弊(「粗製濫造」のこと:引用者)ヲ矯正スルタメ昨年夏外国商ト取引ヲ有スル広東 及其他ノ花莚組合ハ合議ノ上品質検査委員ヲ挙ケ厳密ニ品質ノ検定ヲ為サシメ若シ規約ニ 違反スル者ハ科料ニ処スル等ノ取極ヲ為セシニ其結果職工方ニ於テ組合ニ対シ反抗ノ気勢 ヲ示シタリシガ次テ当国ニ於ケル本品輸入商等ハ本年春会議ヲ開キ同シク品質改良ノ点ニ 於テ一ノ決議ヲ為シ之ヲ支那ニ於ケル前記組合ニ送リ警省ヲ促セルコトアリ然ルニ該地方 ニ於テ前記規約励行ノ結果本年旧暦正月後同盟罷工起リ荏苒六ヶ月ニ亘リシガ調停ノ未遂 ニ再ヒ其業ヲ執ルニ至リシモ之カタメ支那花莚ニ及ホセル影響少カラス 71 」 とあるように、輸出外商・問屋側と職工側との間で製品検査をめぐる対立が起こった。中 国では、製造業者と問屋組合の間で共有された意識が脆弱であったことが読み取れる。 その結果、公所の収入は検査料では賄えなかったことが予想される。それを示すため、 収入に関する記述を引用しよう。 「公所は、その目的を達するが為めに経費を要し、経費は、種々なる収入に依りて充たさ る。その収入の源泉は、入会金、寄附金、罰金、共有財産の利用及び賦課金の五項に区別 せられ、…(中略)…賦課金は、公所の重要なる財源であつて、組合員に賦課する四つの 方法がある。一は毎月公所費を徴収するもの、二は貨物の出入に賦課するもの、三は貨物 」 売上代金に賦課するもの、四は船舶の出入に賦課するもの是である 72 。 当然ながら、日本における同業者組織では主要収入源であった検査料は登場しない。徴 収法として列挙されている 4 つのうち、第二・第三の方法で徴収された賦課金が、敢えて 言えば検査料に近いが、おそらく間接税に近いものとみなす方が妥当であろう。 日本では、外国商からの商権の奪回という課題が、「粗製濫造」や検査制度の導入と直結 したことに言及した。日本に比べれば、中国では、買弁や同業者組織により国内商人の方 が売買・取引において相対的に優位にあった 73 。そこからは、商権の掌握と、それに付随す る「粗製濫造」の問題視という状況は、起こりにくかった。そのような “相対的”安定性 のために、「粗製濫造」に対する認識が妨げられ、検査の必要性が認識されなかったことも 考えられる。 中国に製品検査制度が全くなかったわけではない。輸出検査については 1902 年に設立さ れた官立水気検査所による綿花検査を、工業品に限ると 1920 年に上海で設立された生糸検 査所を嚆矢とする。しかし、組合による検査がほとんどなかったところでは、日本のよう に、組合検査の延長線上に官設検査所が生じることはなかった。上海の生糸検査所は、当 初はアメリカと中国の協力で作られた施設であったが、中国側が資金を提供しないなど、 70 仁井田陞、前掲『中国の…』179 頁に、銀爐業で「仲間の作る馬蹄銀の品質量目を検査し検印を押す仕 組み」があったという記述があり、牛羊桟業同業公会へのインタビューには「買うときに病気の検査があ り、西直門でまた検査」との記述があるが(佐伯有一他編註『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集(六)』 東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センター刊行委員会、1983 年、1381 頁)、組合検査かどうかは分 からない。 71 「紐育ニ於ケル花莚商況」(『通商彙纂』明治 37 年第 65 号、同年 11 月 28 日発行)、3~4 頁。 72 上海出版協会調査部編著、前掲『支那の…』50~51 頁。 73 中国では、外商に対してボイコットで応じる事例が散見される。また、生糸などでも、検査権は買弁が 有していたと言う(東亜同文館編『支那経済全書』第 12 巻、1908 年、117~118 頁)。 117 中国商人側の非協力的な姿勢によって妨害を受けた 74 。そこには、もともと存在した商人相 互の検査慣行が検査所の利用を妨げていたと言われている。また、綿花検査にも紆余曲折 があり、当初は、中国商と外国商の協力で組織されたものの、中国商の脱落により、結局、 外国商のみの組織になったと言う 75 。やはり、中国では、検査所の設立は、外国からの“外 圧”に依存し 76 、中国の個別的検査の慣行を覆すことにはならなかった。 表 7―4 1929~30 年に導入された官設検査の品目 検 査 品 目 上海商品検験局 棉花・桐油・畜産品・生絲・砂糖製品・豆類・肥料・蜜蜂・茶・蚕種・植物油類 漢口商品検験局 棉花・桐油・畜産品・茶・豆類・植物油類 青島商品検験局 畜産品・豆類・油類・砂糖製品・葉煙草・蜜蜂・肥料・棉花・蚕種 天津商品検験局 棉花・畜産品・砂糖製品・蜜蜂・肥料・豆類・野菜種・杏仁・胡桃 広州商品検験局 畜産品・葉煙草・桂皮・砂糖製品・肥料・苗木・種子・果物類・水産品 [出所]支那経済事情研究会編『支那経済年報』昭和 10 年版、改造社、128~129 頁。 [注]分処の検査品目は割愛した。 その後、1929 年に生糸・綿花などの輸出品に対し官営検査が導入され(表 7―4 参照)、 1932 年には、検査の細目を定めた検験暫行条例、検験局暫行組織章程が発布された 77 。し かし、この制度は、「支那政府は近年先進国に倣ふて商品被験局を要地に設立し 78 」たとあ るように、政府が“上から”設立し、業界内から自発的に導入されたとは言い難い 79 。検査 所設立の過程で、日本と中国は似て非なる経過をたどったのである 80 。 (3) 商品検査がないことの帰結―検査に代わる慣行を題材に 74 蚕絲業同業組合中央会編纂『支那蚕絲業大観』岡田日栄堂、1929 年、536 頁;東亜研究所『支那蚕糸業 研究』大阪屋号商店、1943 年、210~214 頁。 75 安原美佐雄編著『支那の工業と原料』第壱巻・上、上海日本人実業協会、1919 年、459~484 頁;實業部 上海商品檢驗局『實業部上海商品檢驗局業務報告 民國十八年一月至二十年三月』第三篇 1 頁。 76 同様の傾向は他の商品でもみられた。桐油では、 「品質不揃ひにて一定出来ないから、外人から時に不評 を買ふことがあつた。こゝに於いて民国十九年二月一日、実業部上海商品検験局はこれを要検査輸出商品 の一に加へた。」 (中支建設資料整備委員会『浙江省の桐油業』 [「編訳彙報」第 48 編]、1940 年、序文 1 頁)、 「只実業部上海商品検験局に対し一人として充分なる認識を有するものなく、見聞の比較的広い杭州の油 商すら、多くが怪奇な顔附にて知らぬ態をする有様である」(同上書、81 頁)といった記述から、検査所 が外商の要請から生まれ国内の業者との関係が希薄であったことが読みとれる。實業部漢口商品檢驗局『實 業部漢口商品檢驗局業務報告』1932 年(?)にも綿花・桐油・茶の検査に関する言及があるが、国内当業 者が要請してその制度が設けられたという記述はない。 77 支那経済事情研究会編『支那経済年報』昭和 10 年版、改造社、128~129 頁。 78 同上書、128 頁。 79 ただし、金子肇、前掲「1930 年代…」95 頁によると、鮮腸を事例に、旧来の同業者組織が弱体化した結 果、 「粗製濫造」が問題になり、輸出鮮腸の検査を厳格にするよう、同業公会が政府に求めたという。管見 の限り、唯一国内業者の要請で設けられたのは、腸衣の検験である(前掲『実業部上海…』第三篇 24 頁)。 このように、1930 年代になると、日本と同様の状況が見られたことが窺えるが、日本では開港後間もなく 発生した現象が、中国ではここまで遅れたのは興味深い。 80 同様のことは台湾でも指摘できよう。青果(バナナ)や本稿第 6 章で取り上げた模造パナマ帽の事例で も、日本(沖縄)と比べ、同業組合・検査制度は業界外から導入された印象が強い。青果については、台 湾青果同業組合連合会『台湾青果同業組合連合会創立十年史』1937 年参照。その記述からは、同業組合が 弱く、共同販売・出荷統制・検査制度など、日本より強い統制策に転じたことが分かる。 118 日本における商品検査は、「情報の非対称性」を緩和して取引を円滑にすること、外国商 の商権・検査権を奪うこと、などを目的としていた。中国では、外商の専横は日本より限 定的であったが、中国にも「情報の非対称性」は存在し、その取引を秩序化する制度・慣 行は不可欠であったろう。そのため、検査とは異なる仕組みが必要であったと考えられる。 製品検査に対応するものとして、先述した根岸氏の分類における「信用維持機能」が挙 げられる。氏は、この「信用維持機能」を、①契約遵守、②原料・製品・商標の統制、③ 詐欺・闇取引・空売買の禁止、④債務の弁済と清理、の 4 つに分けている 81 。この 4 機能の うち、①の「契約遵守」を反映した記述として、『通商報告』に記載されている花莚問屋の 同業組合規約(「清国広東呉坐問屋組合規約」)の一部を引用しよう。 「凡ソ買手問屋ニ来リ出来合品ヲ買ヒ又ハ注文ヲ為ストキハ如何ナル種類ヲ論セス先ツ貨 物品位ノ高下ヲ見定メ然ル後代価ノ多少ヲ相談スルモノトス一度買入約定ヲ為シタル上ハ 破約ヲナシ又ハ故障ヲ申出ツルヲ得ス万一事故アリテ破約ヲナシ買入ヲ為ササルトキハ組 合集会ヲ開キ該買手ノ屋号ヲ適指シ暫ク之ト取引ヲ停止シ以テ弊害ヲ防ク若シ其後私ニ之 ママ ト取引ヲナス者アレハ仲間一同相談ノ上其者ヘ百弗ノ罰金ヲ課ス 82 」 この引用からは、契約を破った者に、取引停止や罰金といった厳しい措置がとられ、同 業者組織が契約を遵守させる機能を担ったことが分かる。冒頭に、「先ツ貨物品位ノ高下ヲ 見定メ然ル後代価ノ多少ヲ相談スルモノトス」とあるように、慎重に契約を結ぶことに注 意を促した上で、契約締結後における契約の変更・破棄は認められていない 83 。上海棉業規 條にも以下の規定がある。 「一 外商たると支商たるを論ぜず棉花を取引せる場合は価格を見極め売買契約書を交換 すべし若し市価に変動あるも異議を申立つるを得ず総て後日に至り悔ゆるも売買契約書に 準拠す又或は市価に準じて差金決済を為す場合若し不義あらば商務公所に申請裁断を受く べし 一 既約の貨物にして受渡期限の到来せるものは吾業に在りて総て売買契約書面記 載の品種とし其の品種は契約の場合提示せる見本に依るものとし変更取替を為し得ず以て 商標を重んずべし客商も亦故意に変更するを得ず此の種弊害を防止し以て市場を維持す 84 。」 この条文も、契約書を交わした後、契約に従うよう、組合員・組合外商人を強制してい る。先述した契約当事者間の検査も、この契約を遵守させる機能の延長線上にある。 ここで残る問題は、同業者組織が最低限の取引ルールを遵守させることに貢献したとし ても、日本と同様、製品の品質を完全に見きわめることは難しく、「情報の非対称性」が依 然として残る点である。この問題を緩和するには、組合検査とは異なる方策を必要とした であろう。史料に見られる解決策を、個人間で解決する方策と、組合に解決を委ねる方策 とに分けて挙げておこう。まず、個人間で解決する方策としては、 (i)買い手側が商品を見 81 根岸佶、前掲『中国の…』350 頁。 「広東花呉坐製造及取引景況」(『官報 通商報告』2558 号、明治 25 年 1 月 13 日所収)。 83 中国人の契約観については、武田晴人、前掲『日本人の…』116~117 頁;明清期の契約意識をみても、 近代中国の契約観念に影響を及ぼしていよう。明清期については、寺田浩明「合意と契約」 (三浦徹・岸本 美緒・関本照夫編『比較史のアジア―所有・契約・市場・公正』東京大学出版会、2004 年所収)。 84 上海出版協会調査部編著、前掲『支那の…』215 頁。 82 119 (ii)買い手と売り手が長期的取引関係を結び信頼関係を きわめる能力を身につけること 85 、 構築することによって、品質を悪化させる誘因を低下させること 86 、(iii)大工場・大商人 を中心に、個別の商標を設け「シグナル」を送ること、の 3 つが考えられる。次に、組合 の解決に委ねる方策には、(iv)取引市場を整備すること 87 、(v)組合が製品・品質を画一 化して「情報の非対称性」を緩和することなどが挙げられる。 この 5 つは、それぞれ中国の取引慣行に関する記述に見られる。たとえば(ii)は、村松 氏によって指摘された、 「徹底した自由競争」でもあり「私人的保証」にも制約されたとい う状況に当たる 88 。自由競争の中で「情報の非対称性」を解決できない状況では、取引が「私 人的保証」に限定されることがあるため、「自由競争」と「私人的保証」とは必ずしも矛盾 しない。取引上の信用を集団的に保証しようとするのではなく、むしろ、個人間信頼の連 鎖によって保証しようとしたと言える。 (iii)でも、商標を基準に取引することによって、当事者間の商品検査が形式的なものに なった 89 。先に掲げた上海棉業規條にも、「一 吾業の貨物買付にして小量宛店頭にて看貫 の上買付るものは必ず品質の良不良を検査の上自店の商標を附し以て商標声価の永遠に馳 名を得ることを図り其の販路の拡大に務むべし 90 」と規定した後で、「商標を重んずべし」 との一節がある。ここで言う「商標」とは、個別業者の商標である。しかし、商標を広範 な市場で信頼のおけるものにするには、一企業では多大な費用がかかるため、商標のみに 依存する状況は、理論的にも史料からも、大工場に有利であったと考えられる 91 。 最後の(v)は、先述した根岸氏の区分における「原料・製品・商標の統制」に対応する。 「此等の規定(品質を一定にする規定:引用者注)は何れも皆品質を鑑定するの眼識なき 消費者に利益を与ふるものと言ふことが出来よう 92 」とあるように、「製品を一定にする」 ことが、情報劣位にある消費者を保護し、「情報の非対称性」の解決、取引費用の節約に寄 与した 93 。彭南生氏は、同業者組織の機能を「封建的」・「現代化」に二分し、「現代化」的 85 佐伯有一他編註『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集(六)』東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献 センター刊行委員会、1983 年、1316 頁の駝業同業公会に関する記述。 86 理論的には、Fafchamps, M. and B. Minten, “Property Rights in a Flea Market Economy” (in Economic Development and Cultural Change, Vol.49, No.2, 2001). 87 前掲『 …』104 105 88 村松祐次『中国経済の社会態制』東洋経済新報社、1949 年、271 頁;古田和子「中国における市場・仲 介・情報」(三浦徹・岸本美緒・関本照夫編、前掲『比較史の…』所収)。 89 本稿第 5 章で、中国の大規模工場が個別に商標を構築したが、日本と違い、組合の商標をあわせて構築 する動きはなかった点を指摘した。たとえば、生糸でも、 「上海ニ於ケル生絲ノ売買ハ其機械絲ト座繰絲ト ニ論ナク商標ニヨリテ取引サルルヲ常トス…(中略)…常ニ相往来取引セルモノノ間ニアリテハ其検査モ 只形式ニ過ギズ実際多大ノ信用ヲ商標ニ置ク場合多シトス」(在上海東亜同文書院編『支那経済全書』第 12 輯、1908 年、126 頁)とあり、商標が取引上、重要であったことを示している。日本のように検査と商 標がともに機能を発揮したのに対し、中国では検査制度がないため、商標のみに依存した取引が定着した 可能性は否定できない。 90 上海出版協会調査部編著、前掲『支那の…』215 頁。 91 中国では、 「其荷量少ナキカ或ハ未ダ商標ノ世間ヘ知レ居ラザルモノニアリテハ他人ノ商標ヲ借リテ之ヲ 添付シ以テ其売込ニ便ス」 (在上海東亜同文書院、前掲『支那経済全書』第 12 輯、135 頁)とあるように、 商標の確立が困難な中小業者に対し商標が貸し出されるケースも存在したようである。もちろん、商標の 貸し借りが商標の信頼性を損なわないためには、品質が均質であるなどの条件が必要であり、それを満た さなければ、商標の貸し借りによって商標が無意味になる可能性がある。 92 根岸佶、前掲『中国の…』269 頁。 93 Kindleberger, C. P., “Standards as Public, Collective and Private Goods” (in Kyklos, Vol.36, 1983)によると、製品 の標準化(standardization)の目的として、①取引費用を軽減すること、②規模の経済を達成すること、の 120 機能として度量衡の統一や製品の画一化による粗悪化防止を挙げている 94 。契約後に(事後 的に)規制される製品検査制度が存在した日本に比べ、中国では契約前の(事前的な)規 制、事前的ルールによる規制が支配的であった 95 。 日本でも、この 5 つは、程度の差はあれ、存在したであろう。ここで重要なのは、日本 で広範に見られた組合の検査制度が、中国にはほとんど存在しないことである。そこには、 品質の問題を個別企業で解決し、組合や政府による製品検査を通じて品質問題を解決しよ うとする発想が希薄であった姿が浮かび上がる。日本では、政府による法制化・制度化も 契機になって、買い手は産地を基準に商品を取引し、それが検査制度を必要とさせ、その 検査制度がさらに産地を基準に品質をみることを助長するという循環構造(ポジティヴ・ フィードバック)が作用した可能性が高い。逆に、中国では、そのような作用が働かなか ったのである。 中国では、画一化などによって「粗製濫造」の芽をあらかじめ摘んでおくか、その問題 に個別に対応することによって、「粗製濫造」を社会全体の問題とみなす背景が希薄であっ たと言えるのではないか。組合による検査が存在しないという中国の状況から、日本にお ける経済意識を東アジア史の中に位置づけ、その意義を照射することができよう。 本章の結論と展望 なぜ、日本では「粗製濫造」が広範に問題視されたのに対し、中国ではそれほど問題視 されなかったのか。当初は、両国ともに、高品質生産者も低品質生産者も存在したはずで あるが、結局のところ、日本で「粗製濫造」を社会問題化させる高品質生産者が主導権を 握ったのに対し、中国でその高品質生産者が主導権を握れなかった(握る必要がなかっ た?)点が指摘できるのではないか。 製品の質を、産地を基準に評価する社会では、よい産地になるために産地全体の取り組 みが不可欠になる 96 。しかし、産地の「声価」にただ乗りするフリーライダーが生まれる可 能性が常に存在する。その可能性を排除し、「声価」を維持するためには、業界内で製品検 査を貫徹させることで、産地の「声価」をさらに高める必要がある。その結果、買い手は いっそう産地を単位に購入するようになる。こうして産地の「声価」は好循環を始める。 規模が小さく輸出向けに生産を行う業者ほど、組合による製品検査が必要であるのは、そ 2 つが挙げられている。本章で問題としているのは、①の方である。 94 彭 前掲『 …』45~51 95 このような方策は、アメリカの組合による方法に接近してくるのは興味深い。管見の限り、アメリカの 同業組合でも、製品検査はあまり言及されていない(たとえば、三菱合資会社資料課編『米国の同業組合』 「資料彙報第 230 号」、1925 年;鈴木義雄「米国に於ける同業組合(Trade Association)―トラスト禁止法 と国民産業復興法を背景として」[商工省『工業調査彙報』第 11 巻第 5 号、1933-34 年])。例外として、 ジョセフ=ヘンリー=フォス『同業組合論』 (枡澤久之訳)、河出書房、1941 年、170~172 頁には、検査に 関する記述がみられる。ただし、ここで言う検査は、標準化を徹底させるためのものであり、その検査は、 中国でみられた組合による同質化と似ている。 96 地域内紐帯を強調した近年の研究としては、以下のものがある。寺西重郎『日本の経済システム』岩波 書店、2003 年、123~129 頁は、 「明治大正経済システム」の構成要素として、 「中間組織としての地域経済 圏」を挙げているし、斎藤修、前掲「市場経済の…」48~54 頁には、「競争主体としての地域」を強調し ている。最近は、高村直助氏が、“農村的「共同」社会とも都市的「利害」社会とも異なる、「非匿名的」 な関係が取り結ばれている地域社会”(別の箇所では「町場」)の重要性を指摘している(高村直助「書評 武田晴人編『地域の社会経済史』」[『歴史と経済(旧土地制度史学)』第 184 号、2004 年所収]、53 頁)。 121 のような分野で「情報の非対称性」が深刻であり、製造業者による商標を信頼に足るもの にすることが困難なためでもある。さらに、外国商人から商権を奪うという要因も加わっ ていたことを指摘した。ここで指摘した「粗製濫造」の問題視、外国商人の商権の強さ、 産地を単位とした取り組みは、相互に補完的な関係にあったと言えよう。 それに対し、中国では、同業者組織が、政府に代わって、個人間紛争を解決する裁判所 的機能や契約・取引を円滑にする機能などを担った。しかし、製品検査を導入してまで、 産地全体の信用力を維持・育成する目的は持たなかった。以上に見たように、同業者組織 に期待された機能、その組織の機能を支えた紐帯のあり方は、両国間で異なっていたので はないか。さらに、買弁に代表される個人間の信用を介した取引によってその実効性を高 めるという特徴が見られた。その結果、産地として、もしくは国家として、集団的に検査 を支えるような紐帯までは、生み出せなかったのである。 「粗製濫造」意識の脆弱さ、外国 商の商権の相対的弱さ、 「産地」を単位とした試みの欠如、政府と業者との距離といった諸 特徴は、日本と対照的でありながら、やはり相互に補完的な関係にあったと言える。 少なくとも、 「粗製濫造」に対する観念は、上記のような当事者の観念や社会的背景の違 いに応じて、異なっていたのではないか。日本について言えば、江戸時代の株仲間が一度 解体した後、品質改善などの目的に純化させながら、産地の諸問題の解決を再び同業組合 にゆだねていった。本章の冒頭で言及したように、前田正名や吉野信次を筆頭に、政治家・ 官僚の間でも、「産地」を単位とした解決策を重視されたことは、日本社会の中でこのよう な解決策が「共有された予想」になっていたことを窺わせる。おそらくこの選択には、近 世から受け継がれた遺産が影響を及ぼした可能性を指摘できよう。すなわち、藩の専売制 に代表されるような地域を単位とした旧来の取組みが、政策当局・経済主体の予想・期待 を、ともに「産地」を単位とする秩序化に収斂させていったのではないか。逆に、中国で は、同業者組織の解体がこのような仕組みを生まなかった。最後に、 「補論」でその点につ いて論じてみたい。 122