Comments
Transcript
Page 1 : 追手甲呼学院大学文学部靶要 26号 1992年11拜 マキャヴェリ
追手門学院大学文学部紀要26弓 1992年li月 マキャヴェリアンの遺産(上) -「知の資本」の系譜の研究 TV一 原 田 達 Inheritance from -A Machiavellians (Part 1) study on Genealogy of“Intellectual Capital"IV - Tohru Harada 第1章 演技する精神 第Ⅱ章 演技する論理(以上 本号) 第Ⅲ章 知と再生産 第IV章 知の信仰,信仰の知 社会主義者は勝利しうるかもしれない。しかし,社会主義は勝利し えない。社会主義は,その担い手たちが勝利する瞬間に死滅する。 (R・ミヘルス !911) 19世紀末のヨーロッパ社会は知と心情の葛藤のなかにあった。「普遍的」知の解体と「特殊 な」知の台頭,知の位階制構造に対置される心情の民主主義,この民主主義によって活力を与, えられ,大衆消費社会を離陸させる貪娶な消費への情熱,そして心情の爆発を生命線とする消 費文明のなかにあって密やかに復活する隠蔽された知の世界一これらが作りだす世紀末ヨー ロッパ社会史の一断面については,すでに前作「知と心情の世紀末」において論じたとおりで ある。 1 )Michels, R., Zur Soziologie des Partei切esens in der modernen.Demokratie. originally 会学』木鐸社, 1990, 443頁) 2)拙稿「知と心情の世紀末-「知の資本」の系譜の研究 号, (Stuttgart, 1970, published in 1911)S. 367, (森 博/樋口晟子訳『現代民主主義における政党の社 1991) 59 」(『追手門学院大学文学部紀要』25 マキャヴェリアンの遣産(上) だが,知と心情の葛藤はこれにとどまりはしなかった。政治,文化,芸術,そして学問の世 界もまたこの葛藤のなかにあった。とりわけ社会(科)学が経験した葛藤はふかい。ル・ボッ, ヴェーバー,フロイト,ジンメルなどの社会科学にその葛藤や格闘の軌跡を読みとることがで 3) 4) きる。これから論じようとするマキャヴェリアンたちもまた,そのような葛藤と格闘のなかに あってある方向性を打ちだした社会科学者であった。せいぜいエリート理論家とか大衆民主主 義の批判者としてしか論じられることのないかれらだが,しかしかれらがわたしたちに残した 遺産はそれにとどまらない。別の世紀の終わりにわたしたちが受けとるべき遺産とは何か,こ れから論じてみたいのはこのことである。 ところで,わたしたちの世紀は,ある意味で裏切りの世紀とも考えられる。美しい理念のも とにおおくの人びとが裏切られ,おおくの悲劇が演じられた。では,わたしたちはいかにして, そしてなぜ裏切られたのか。このことを解かないかぎり,わたしたちはその理念をふたたび掲 げることはできないだろう。マキャヴェリアンはその解答のいくっかを用意していた。これま で不当とも言えるほど無視されてきたかれらに注目するのは,このためである。 L演技する精神 5) ウォルター・バジョットが「君主は・・・目に見える統合の象徴となることができる」と 言ったとき,むろん極東の島国がやがて手にすることになる憲法について構想していたわけで はなかった。かれは19世紀後半のイギリスの政治風土について考えていた。この時代,この 国の社会には,かつて啓蒙思想家や自由主義的政治思想家が想定した「近代人」とは質の異な る人びとが出現していた。かれらの出現と同時に新たな政治の仕組みも形成されようとしてい た。この種の人びと,およびこの種の人びとが作りだす政治のシステムは,やがて「大衆」と か「大衆民主主義」とかと表現されるものである。バジョットは新たに出現しつつある政治構 3)ル・ボン,フロイトについては前作で論じておいた。 ヴェーバーの葛藤と格闘の軌跡はその学問 方法論に見ることができる。また当時のドイツの精神史的状況については上山安敏『神話と科学』 (岩波書店, 1984),およびF.リンガー『読書人の没落』(西村稔訳,名古屋大学出版会, 1991) を見よ。 ジンメルについてはここでは詳しく論じられないけれども,実証主義科学による学問領 域の帝国主義的分割の後に社会学を構築しようとしたジンメルにとって「生の哲学」を基礎とし た「心的相互作用論」は,知と心情をめぐるかれの格闘が生みだしたひとつの結論であったとも 考えられよう。 4)ここではw.バジョット, R.ミヘルス,G.モスカ,V.パレートをとりあげる。「マキャヴェリ アン」という呼称については,Burnham, Stuart Hughes, J.,The Machiavellians (New H., Consciousness and Society(New 識と社会』,みすず書房, York, 1970)を参照せよ。 - 5)W.バジョット『イギリス憲政論』(r世界の名著』60 中央公論 1970), 60- 1943)および York, 1958生松敬三・荒川幾男訳『意 100頁 原 田 達 造を見すえながら,そこにおいて君主はいかにしてその存在理由を得ることができるのか,と 考えていたのだ。それゆえ,バジョットの「象徴としての君主」という発想は立憲君主制と大 衆民主主義が出会うところにおいて成立するものであった。 ここには近代の自由主義的政治思想との断絶がある。まず,人間観が変化している。啓蒙思 想,自由主義,功利主義などの政治思想が前提とした人間像とは「理性的人間」であった。か れの政治的行為はかれの内なる理性,知性,合理的計算と判断にもとづくはずであり,もとづ かなければならない。行為の指針は内面化され,かれは内なる理性の声を聴く∩内部志向」の 人間であった。しかし,象徴はかれの内にあるものではない。それはかれの外部にあり,外部 からかれの政治的判断を左右しようとするものである。それゆえ,政治的象徴をうけいれる人 間はもはや「理性的人間」ではない。かれの外部にあるものに敏感に反応し,その徴(姿,外 観,立ち居振る舞い,声,服装,印象など)に感応しようとする人間である。このような人間 はたしかに「他人志向」の人間であるが,「感性的人間」と表現することもできるだろう。行 為基準の内部から外部への移行は,理性から感性への移行に対応している。というのは,外的 象徴に反応するためには,この刺激に敏感に感応する感性が必要とされるからである。した がって,バジョットの「象徴君主」論は自由主義政治思想が想定した人間像と断絶するところ 6) で成立するものであった。 じつは「理性的人間」から「感性的人間」への移行とは単なる人間像の転換を意味したので はない。政治学の方法じたいが変化してしまったのである。もともと「理性的人間」とは理念 型にすぎなかった。自由主義経済思想が想定した「経済人homo うに,自由主義政治思想が想定する「政治人homo oeconomicus」とおなじよ politicus」とは内実のともなわない思想 的公理であったし,それはまた初期ブルジョア社会が理想とした人間像であった。それゆえ, この人間像から始めようとする政治学は特定の社会的倫理の擁護者として歴史に登場する。と ころが「感性的人間」という人間像の提示は,このような社会的倫理との訣別を意味していた。 この訣別をささえたのは,理想(理念・道徳・倫理)からはじめるのではなく,現実からはじ めようという「科学的」態度である。こうした態度で現実を見つめたとき,そこで発見された ものは理性でも知性でも合理的判断力でもなく,慣習や模倣,尊敬や服従の動員,そして象徴 によってかすめ取られる心情の世界であった。それゆえ,バジョットの「象徴君主」論はリア リスティックな政治学のひとつの結論として登場してくる。 7) 6)わたしたちの国の憲法が想定している人間像もまたこのようなものである。「象徴」が統合に必要 であると想定することは,近代的人間像と近代民主主義思想への破綻を宣言している。 そのよう な憲法はせいぜい大衆民主主義化された憲法にすぎない。 7)このような視点こそマキャヴェ'J (アン)のものである。 ステュアート・ヒューズはバジョット を「マキャヴェリの後裔」に加えてはいないけれども,しかしわたしはバジョットを「マキャ ヴェリアンの先達」と考えたい。 Oi マキャヴェリアンの遺産(上) と同時に,バジョットの「象徴君主」論は政治空間にたいする新しい見方を提供した,と思 う。わたしはその見方のことを「演劇的政治空間論」とでも呼びたいと思うのだが,それはこ ういうことだ。バジョットの『イギリス憲政論』を読めば,この著作が演劇的用語にあふれて いることに気づく。「観客」,「演技」,「俳優」,「見せもの」,「クライマックス」,「仮装」など の用語をいたるところに発見することができる。しかしバジョットは,社会学者がしばしばそ うするように,政治(や社会)は演劇のように,演劇として捉えられると考えたのではない。 そうではなく,かれは政治とは演劇だ,と言ったのである。だから頻出する演劇的用語はけっ して比喩として用いられたのではなかった。たとえばバジョットは憲法の有効性をふたつの部 分にわけて考えたが,第一の有効性とは憲法の「威厳性」であり,それは国民の感覚に訴えて, 憲法に尊敬の念を喚起する演劇的要因のことであった。この演劇的要因がなければ,第二の有 効性である「機能性」がいくら優秀であっても憲法はうまく働かない。それゆえ,バジョット の憲政分析の核心はこの演技する憲法という把握にあったのである。 バジョットの具体的言葉を見てみよう。すこし長い引用になるけれども,かれはこう語った。 「最大の尊敬を呼び起こしやすいのは,演劇的要素,すなわち感覚に訴えるもの,最大の人 間的想像の化身であると自負するもの,またある場合には超人間的起源を誇るものである。 神秘的な権利をもっもの,不思議な行動をするもの,華麗に見えるもの,変幻自在なもの, 隠れているようで隠れていないもの,表面は美しくて興味があり,見たところ触知できそう で実際には触れることを許さないものーこれらはいずれも,どのように形を変え,また どのように定義され,説明されようとも,大多数の人間の心を打つものである。しかもかれ らの心を打つものは,これしかない。」(傍点 著者) これが憲法の「威厳をもった部分」についてのバジョットの説明である。当然のことながら, この「部分」が君主へと収束されることになる。だから,「象徴」としての君主とはまた演技 する君主でもあったのだ。もともと象徴とはつねに演出され,またみずから演技するものであ る。象徴とは徴によって人びとを惹きつけ,酔わせるものである。だから,バジョットはいく 度も君主を「俳優」と表現しているけれども,それはけっして比喩ではなかった。この時代の 9) イギリスの君主こそ立派な社会的演技者であった。 8) 9) バジョット,前掲書, 71頁。 「この時代」に限らず,およそ「象徴化」された立憲君主の存在意義は,かれ(かの女)の社会的 演技にしか存在しない。しかし,その演技は国家的規模で演出される。誕生,結婚,出産,戴冠, 「国家元首」としての外交儀礼,そして死亡。かれらほど大規模な舞台を用意された演技者はいな い。この演技者の校指さは,その演技の失敗の責任をけっして負わないことである。 −62− 原 田 達 ここでふたつのことを思い浮かべよう。ひとつは,このような政治理論の先駆者について。 もうひとつは,この時代の社会史的特徴について。 リアリスティックな政治把握,演技者としての君主,このような発想にはひとりの思想的先 駆者がいた。ニッコロ・マキャヴェリである。かれの政治的リアリズムについてはここで説明 する必要はないだろう。かれは政治を道徳から切り離し,近代政治思想の先駆けとなった。そ のマキャヴェリの政治的リアリズムは君主に演技する精神の必要性を説くことになる。たとえ ば,こうである。 「君主は・・・いろいろなよい気質をなにもかもそなえている必要はない。 しかし,そなえ ているように思わせることは必要である。・・・そうした立派な気質をそなえていて,つね に尊重しているというのは有害であり,そなえているように思わせること,それが有益であ 10) る。」 君主は立派である必要はない。立派であると「思わせること」,そのような偽装こそが必要な のである。このようにマキャヴェリは『君主論』のいたる所で「思わせること」「見せること」 「振る舞うこと」という,いわば演技する精神の重要性について論じている。 なぜか。それは人間は君主の外面しか見ないからであり,かれらは実体に触れて考えること よりも見ることによって生きているからである。たとえば,こうである。 「人間は,総じて実際に手にとって触れるよりも,目で見たことだけで判断してしまうもの である。 ・・・すべての人が外見だけであなたを見てしまい,実際にあなたに触れているの は,ごくわずかの人である。」 だから,演技する精神とは人びとの外面を重視する性向,もっと言えば外面によって欺かれる 感性のうえに成立するものである。マキャヴェリは人びとは外面にれを「象徴」とか「表 象」とかと言い換えてもよい)によって欺かれやすいという現実のうえに演技する君主という 構想を提示したのであった。『君主論』とは「演劇政治theatrocracy」を演出しようとする 12) ひとつの台本であったと考えてもよい。 10) N。マキャヴェリ『君主論』(『世界の名著』16 中央公論 1966)114頁。 11) 同書, 115頁。 12) 詳しい分析ではないが,このような視点でマキャヴェリの『君主論』を論じたものとしては,ラ - イマン/スコット『ドラマとしての社会』(清水博之訳,新曜社, 63 − 1981)かおる。 マキャヴェリアンの遣産(上) こうしてみれば,バジョットはあきらかにマキャヴェリの「演劇政治」という構想の跡を継 ぐ者であった。辻清明はバジョットがリアリスティックな政治戦略論を提示したこと,その分 析がすべての政治的支配に内在する普遍的真実を含んでいることに注目して,かれの(イギリ 13) ス憲政論』を第二の『君主論』であると評価したが,バジョットはマキャヴェリから「演劇的 政治空間論」もまた継承したのである。 ところで,19世紀後半のヨーロッパ社会は,まさにこの「政治という演劇」が上演されや すい状況にあった。前作で論じたように,この時代のヨーロッパ社会には社会全体に演劇的装 置が配置されようとしていた。百貨店はこの演劇的装置のひとつである。この時期,イギリス, フランス,ドイツ(そしてアメリカ)において登場する百貨店は,きらびやかな室内装飾や ディスプレイ,光線の演出によって消費者を眩惑しようとした。装飾,ディスプレイ,光線, これらは劇場の演出装置である。こうして百貨店自体が劇場となる。上流階級がオペラ座で味 わう演劇の興奮を庶民は百貨店「ボン・マルシェ」で堪能した。「ボン・マルシェ」にかぎら ず,「ル・ルーブル」,「ル・プランタン」,「ラ・ペル・ジャルディニェール」,「メイシー」な 14) どの百貨店はふっうの人びとにとっては「出入り自由」のオペラ座であったのだ。 劇場につきものの光の演出が劇場を出て都市全体をおおうようになるのもこの時代である。 街灯や室内照明は夜の街を人工的な幻想空間に変えた。劇場のスポットライトが光と闇のゴッ ドラストを作りだすことによって開示と隠蔽の舞台装置として機能するように,都市に配備さ れた人工の光は「見せるべきもの」を見せ,「隠すべきもの」を隠す演劇的支配装置として機 15) 能した。 19世紀のフランスの革命運動にいく度も登場する「街灯破壊」は,この都市照明が 16) もつ演劇的支配性にたいする反逆であったのだ。だが,「街灯破壊」は社会運動の昂揚期に間 歌的に登場したにすぎない。都市の人工照明は演出される幻想的空間を庶民の日常生活のなか に着実に定着させていった。前作でも触れた「街灯の助けをかりてそぞろ歩きをする群衆 noctambulists」は,この時代のヨーロッパ社会の一般的な風俗となったのである。かれら は「見せるべきもの」を見せられ(に魅せられ),「隠すべきもの」を忘却させられ,幻想的な 都市という舞台に酔う「夢遊病者noctambulists」となる。 廓O II 辻清明「現代国家における権力と自由」(『世界の名著』60に所収)5−60頁。 パリ・オペラ座と百貨店「ボン・マルシェ」の類似性については,高山宏『世紀末異貌』(三省堂, 1990),とくに「商人アリステッド・ブーシコーの世紀末」を参照。 15) 「照明」がもつ「開示と隠蔽」の併存的効果のことを,わたしは「スポットライト効果」と呼びた い。拙稿「大衆社会論と知識人」(『追手門学院大学文学部紀要』, 20号, 1986)参照。ただ,この 「照明」は物理的照明に限りはしない。報道,評論,論文や著作,そして何よりも教育(という啓 蒙Enlightenment)活動は「スポットライト効果」をもっとも発揮する「照明」である。 16)W.シヴェルブシュ『闇をひらく光』(小川さくえ訳,法政大学出版局, 1988)を参照。この著作 - は18−19世紀ヨーロッパ社会における「光」の意義について示唆に富んでいる。 64− 原 田 じつはこの時代のヨーロッパでは「見ること」に革命的変化が生じたのである。その変化は 自然的視野から人工的視野への変化と表現することができるだろう。ガス灯,アーク灯などの 人工照明はその一翼をになった。しかし,それに限りはしない。鉄道の発達もまた高速で移動 する視点を可能にし,風景を固定的なものから流動するものへと変化させた。この鉄道旅行の 17) 体験は人びとの視覚認識(や社会認識)になんらかの影響をあたえただろう。たとえば,高速 で移動する鉄道に乗車した人びとにとって風景の前景はつぎつぎと流れさり,認識することの 困難なものとなる。遠い田園風景だけがゆるやかに変化し,かれらは遠景の変化をただ眺める だけの乗客となる。流れさる前景が風景と乗客の関係を切断してしまった。シヴェルブシュが 言うように,馬車旅行においては風景と旅人の密接な関係が成立していた。しかし,高速移動 する鉄道はこの情景に参加する旅人というモメントを不可能にしてしまったのである。鉄道の 乗客に残されたものは,ただ「見る」という行為でしかなかった。行為者の行為がさまざまな 可能性のうちから「見る」という単一の行為へと限定されてゆく。参加すること,触れること, 声をかわすことなど,風景とのコミュニケーションの契機が奪われ,乗客は物静かな旅客へと 変化させられる。それはまるで舞台との交渉を断たれ,かりそめの演技に感動し,咳さえ押し 殺して,上演される劇を静かに眺めている「観客」の姿である。鉄道旅行におけるこのような 体験,つまり風景との切断,視野の受動性,乗客の「観客」イヒなどが人びとの社会(政治)認 識にどれほどの影響を与えたのかは詳しくはわからない。しかし,明らかなことは,社会生活 の細部において社会は劇場化しつつあったのである。それを可能にしたのは,この時代に登場 した新しいテクノロジーであった。 その新しいテクノロジーを「見せびらかしたexhibit」のが,万国博覧会exhibitionで あった。 トーマス・クックが仲介した鉄道団体旅行を利用して人びとはロンドン万国博覧会へ 出かける。そこでふたたび人びとはテクノロジーの眩惑に出会うことになる。その代表が水晶 館である。ガラスをとおして室内に満ちあふれる光線をあびて,人びとは水晶館に代表される 近代テクノロジーを進歩の「象徴」と感じたことだろう。ただ,注意しておきたい。「象徴」 として捉えられたテクノロジーは「見せびらかされた」テクノロジーであって,理解されたテ クノロジーではなかった。人びとは博覧会において科学技術の論理を理解したのではない。か れらはその成果に驚嘆したのである。「人を感動させるのは知能ではなく,知能の成果である」 (バジョッO。 アーク灯が登場したとき,人びとはその科学的論理に興味を示したのではな 18) 17)この点については, w.シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(加藤二郎訳,法政大学出版局, 1982)が貴重な示唆に富む。また,小池滋『英国鉄道物語』(晶文社, 18)バジョット,前掲書, 1979)も参照のこと。 280頁。同様のことをマキャヴェリもまた語っている。「大衆はつねに,外 見いかんによって,また出来事の結果だけで評価してしまうものである。 しかもこの世の中には 大衆しかいないのであり・・・。」マキャヴェリ,前掲書,115頁。 −65 − マキャヴェリアンの遺産(上) く,眩いばかりに輝く青白い光にただ感嘆したのである。なぜか。それは科学技術の内的論理 と人びとの知識が切れはじめたからであった。おおくの人びとは高度に発展しはじめた科学技 術の論理についていけなくなっていた。流れさる車窓の前景が乗客と風景を切断したように, 科学技術の発展はテクノロジーの成果と人びとの知識を切断する。この切断が成立したとき, テクノロジーは理解の対象から「象徴」の地位に登りはじめる。テクノロジーは人びとによっ て「内的に」理解されるものから人びとを「外から」眩惑するものへと変わるのである。その ような切断された関係が「見せびらかし」のテクノロジーを可能にする。鉄道で旅行する乗客 が「見ること」だけを許された受動的観客になったように,万国博覧会を「見物」にきた人び ともまた受動的観客となった。テクノロジーをめぐっても演劇的関係が成立しはじめていた。 以上のことを敷術すればこうなる。幻想的な舞台(百貨店・夜の街・車窓の遠景・万国博覧 会)一美しい俳優(百貨店の商品・街灯・鉄道・「見せびらかし」のテクノロジー)一切 断された関係(ウィンドゥショッピング・流れさる前景・発達した科学技術)-「見る」こ とだけを許された観客(百貨店の顧客・夜歩く群衆・鉄道旅行の乗客・博覧会の見物人),こ のように演劇的関係が社会生活のいたる所に拡大してゆき,社会が演劇的に構成されはじめる。 これが19世紀末のヨーロッパ社会の特徴であった。 さて,ふたたびバジョットにもどろう。バジョットはこのように変化するヨーロッパ社会史 の実態をはっきりと意識していた。かれの「演劇的政治空間論」は単なる空想の産物ではなく, 社会史の実態を反映した「科学的」政治学であった。たとえば,次のバジョットの言葉はこの 時代のイギリス社会の特性をふまえながら,そこで展開される政治演劇を描きだそうとしてい る。 「かれら(イギリス国民の大多数)は,いわゆる社会の演劇的な見せ物に敬意を払っている。 かれらの面前を華麗な行列が通り過ぎる。威儀を正したお偉方や,きらびやかな美しい婦人 たちが通って行く。そしてこのような富や享楽のすばらしい景観が展開すると,かれらはそ れに威圧される。 ・・・宮廷や貴族階級は,大衆を支配するための偉大な資格を備えている。 すなわち,大衆の注目をひくものをもっている。 ・・・上流社会は・・・俳優(宮廷人)の ほうが観客(大衆)よりもはるかにすばらしい演技を行なう舞台なのである。」 19) (傍点 著者) 大衆(観客)はもはや政治に参加するものではない。「上流社会」という「舞台」はがれらが 登場するのにふさわしくない,切断された社会空闘である。 それゆえ大衆には,宮廷人(俳 19)バジョット,前掲書,279頁。 66 原 田 達 優)の演技を感嘆し(威圧され)ながら眺めるしか術はない。分離された観客席から大衆は 「俳優」たちの「華麗」で「威儀」をもった「きらびやか」な象徴性や表象性(「大衆を支配す るための偉大な資質」,「大衆の注目をひくもの」)に「敬意を払う」受動的観客となる。それ は言い換えれば,きらびやかな「象徴(もしくは表象)」によって眩惑され,操作される大衆 であった。 このようなバジョットの「演劇的政治空間論」が当時のイギリスの社会現象をいかに反映し たものであったか,つづけて引用しよう。 「この演劇は,至るところで上演されている。 ・・・この演劇のクライマックスに立つのは, = = = − ㎜ W W W W 女王である。 ・・・田舎者は,ロンドンにやってくると,すばらしい見せ物やわけのわから ぬ機械類の博覧会を,眼前に見ているような気がする。これと同様に,人はイギリスの社会 構造によって,想像することも,つくり出すこともできない,またそれに類似したものを見 ● ・ ● ● S ● ● ●●● 20) たこともない政治事象の一大博覧会を,眼前にながめているように感じるのである。」 (傍点 原田) ロンドン万国博覧会がバジョットの思考に影響を与えたことはあきらかである。そこでかれが 見いだしたものは「わけのわからぬ」ものを「眼前にながめ」て,それにひれ伏す大衆の姿で あった。このような社会的構図はすでに社会のいたる所で成立していた。それが先に説明した, 劇場としての百貨店,光が演出する眩惑の効果,鉄道旅行が作りだす視野の受動性,そして 「見せびらかされた」テクノロジーであった。 バジョットはこれらの社会現象に直接言及して いるわけではないけれども,しかしこれらの社会現象はかれの「演劇的政治空間論」をささえ る社会的基盤であったろう。 このような演劇的装置が完備したところで,「演劇的政治」が可 能となる。そして,この「演劇的政治」のクライマックスに立つのが「象徴としての君主=女 王」であった。 ただ,「象徴」は演技をするものではあるけれども,また演出されるものでもある。「象徴」 の背後にはこの演出者の姿がつねに隠されている。「演劇的政治空間論」が政治権力の分析に おいて優れている点は,権力を演技するものと演出するものという二重構造で把握する点てあ る。バジョットはその政治的演出者をこのように描きだす。 「イギリス国民の表面上の指導者たちは,華麗な行列の中でいちばん人目をひく人物に似て いる。群衆は彼らに感動し,見物人はかれらに拍手を送るのである。ところが真の指導者た 20)同書, 280頁。 67 マキャヴェリアンの遺産(上) ちは,目だたない馬車の中に隠れている。だれもこれに気づかず,関心ももたない。しかし 人は,真の指導者を先導し,その光を奪っている者のはなやかさに目を奪われて,盲目的に, 無意識的に,真の指導者に服従しているのである。」 21) ここで述べられた「目だたない馬車の中に隠れている・・・真の指導者」とは誰か。それがダ ウニング街,すなわち内閣(さらに付け加えるならば,議院内閣制のもとで内閣の背後にひか える議会)であり,’これこそ憲法の第二の有効性を構成する「機能する部分」である。「その 時代の最も有能な人材」「社会について多くの知識を習得」した人材によって構成される内閣 こそ,「一般的に見て・・平凡な能力しかもたない人間」である「象徴」(すなわち「君主」) の背後にあって「象徴」を操作する「真の指導者」である。 残念ながら『イギリス憲政論』のバジョットには,この内閣の社会階層的性格についての詳 細な分析はない。かれは勢力の衰えた貴族層と台頭する中間層の融合のなかに「機能する」内 閣の未来を見ていた。だが,社会階層上の詳細な分析をわたしはバジョットにもとめない。こ こでは「象徴」による政治,演技する政治という政治空間が,他方で冷静な演出する意思に よってささえられていたということを示すことができれば充分である。と言うのは,前作の末 尾で提示したテーゼ,「社会がいかに非合理・感覚・心情の世界という外観」をとろうとも, 「知を武器に生きる知識人・・・の社会的権力は隠された社会的位相において力を揮う」とい う命題の例証をバジョットの「演劇的政治空間論」とかれが生きたイギリス社会にもとめるこ とができれば,それで充分だからである。思い起こしておきたいのだが,百貨店や街灯,鉄道 やテクノロジーという「知能の成果」に大部分の人びとが眩惑されたにしても,それらを発明 し,利用しようとした人びとは「知能」そのものに生きた少数の人びとであった。 ただ,冷静な演出する精神も卓越した俳優の助けがなければ心を揺さぶる演劇を上演するこ とはできない。ここに演出と演技との切り離すことのできない相互依存関係がある。この相互 依存関係のうえに観客の感動が生みだされるのである。内閣(「機能する部分」)は君主(「威 厳のある部分」)をとおして大衆を統治し,君主は内閣に依存しなければ魅力的「象徴」とし ての地位をうしなう,これがバジョットの憲法論の大要であった。ここには計算しつくされた 演出と眩惑する演技が劇場空間で融合することによって,人びとから感動を引きだしてくると いう図式がある。それは「合理的なもの」−「象徴」−「非合理的なもの」の特殊な結合形態で ある。バジョットの「演劇的政治空間論」が明らかにしてみせたものは,合理的計算がパ フォーマンスする「象徴」と結合することによって非合理的心情の政治的動員を可能にすると いう19世紀末の政治状況であった。 21)同書, 280−81頁。 68 原 田 達 こんなことを言うのは,このような政治構造の完成がモスコヴィッシの言う「西洋的専制主 義」を可能にしたのではないか,とわたしが考えているからである。モスコヴィッシはフラン ス革命以降の西洋社会に成立した政治体制は自由主義体制でも民主主義体制でもないと考える。 かれはそれを「専制政治」だと言うのである。かれはこう言った。 「西洋的専制主義・・・は,学校,新聞,ラジオといった感化あるいは暗示の道具の支配を 前提としている。前者(東洋的専制主義)は,欲求の管理(たとえば水,食料といったもの の管理)のおかげで人間集団を統治することに成功していた。 第二のもの(西洋的専制主 義)は,一人の人物,一つの思想,なおまた一つの党にたいする多数の者たちの信仰の管理 によって,それに到達する。 ・・・つまり,大衆の外面的服従が内面的服従に場所をゆずり, きわめて目につく支配力が,目に見えない,それだけにいっそう防ぎようもない精神的支配 22) 力にとって代えられているのである。」 ここで注目したいのは,「西洋的専制主義」が「信仰の管理」として登場してくるというモ スコヴィッシの発想である。そしてこの「信仰の管理」は「一人の人物,一つの思想,一つの 党」をとおしておこなわれる。このとき「人物・思想・党」などは信仰する人びとにとっては 信仰の対象であるにしても,この信仰を「管理」する者にとっては信仰的操作のための「象 徴」となる。「学校,新聞,ラジオといった感化あるいは暗示の道具」がこの「象徴」を操作 する。こうした宗教的「象徴」をとおした「管理」だからこそ,この統治は「防ぎようもない 精神的支配力」を獲得することになる。「西洋的専制主義」とは象徴操作によって精神を支配 する専制主義のことであった。このようなモスコヴィッシの発想にはあきらかにバジョットと の類似点かおる。むろんバジョットには「思想」や「党」までも「象徴」として捉えるという 発想はなかったけれども,大衆の出現を前に「第二の君主論」を書いたバジョットと『群衆の 時代』の政治分析をおこなうモスコヴィッシはともに「象徴」による「精神的支配力」の強固 さを認識していた。 さて,モスコヴィッシについてはふたたび触れる機会もあるだろう。つぎの章では,別のマ キャヴェリアンたちについて論じようと思う。というのは,かれらは,意図していたにせよ, していなかったにせよ,バジョットの「演劇的政治空聞論」を受け継ぎ,「思想」や「党」さ えもが「象徴」イヒされる状況を告発したからである。 22)S.モスコヴィッシ『群衆の時代』(吉田幸男訳,法政大学出版局, −69− 1984)72頁。 マキャヴェリアンの遺産(上) Ⅱ.演技する論理 19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ社会は言語をめぐる状況におおきな変化が もたらされた時代であった。この変化は,言語への失望と言語への期待という相反するプロセ 23) スとして把握できる。前作で述べた「言語の政治化」の過程は言語への失望の過程であった。 つまり,普遍的な理性の言語(「自由・平等・博愛」など)は内容のない虚偽意識にすぎず, だからこれらの言語を特定の政治的文脈に位置づけ政治的意味を与えること(「定義づけの闘 争」)が必要とされる。ここには普遍的言語にたいする失望があった。にもかかわらず,政治 は言語に依拠せざるをえない。もはや暴力や搾取,詐欺などが政治の世界に通用する時代では ない。とにもかくにも「民主主義」の時代である。そして民主主義は言語を使用する政治のシ ステムであった。そこで,定義づけられた言語によって人びとを動員すること(「政治の言語 化」)がどうしても必要となる。 こうして政治は言語の力に期待せざるをえなくなった。 この 時代,言語はそれが指ししめす「意味」をますます解体させながら,言語記号そのもの(「表 象」としての言語)の力を拡大していった。言語をめぐる変化とはこのことを指している。 このような過程は政治と言語の関係においてのみ進行したのではない。芸術の分野において ii) もこの過程は進行した。詳しくは別のところで論じたのでここで詳しく説明することはしない けれども,たとえばウィリアム・モリスの文字装飾は文字記号がさし示す「意味」をではなく, 文字記号そのものに価値を与え,それを芸術にまで高めようとする努力であった。それ自体と しては「意味」をもたない表音記号にモリスが装飾を凝らしたのはこのためである。 記号を 「意味」から切り離し,記号自体に芸術性を与えようとする試みは,その他にマラルメの図像 化された詩作(『般子一擲』)にもイリア・ズダネヴィッチのタイポグラフィーにも見ることが できる。これらの芸術がめざしたものは,「意味するもの(シニフィアン)」から「意味される もの(シニフィエ)」を切り離し,「意味するもの」自体が演技する(represent )可能性に 賭けた「表象representation」の芸術であった。 このような状況が,同じ時代を生きたマキャヴェリアンたちに思想的影響を与えないわけが ない。一般にマキャヴェリアンといえば,そのエリート理論に注目されることがおおいのだが, しかしかれらのエリート理論の根底には「演技する言語・演技する論理」という発想があった 23)拙稿「知と心情の世紀末」のほかに, c.ミューラー『政治と言語』(辻村明,村松健生訳,創元 社, 1978)も参照のこと。 ミューラーには言語と政治についての社会史的分析はないけれども, しかしかれは「歪曲の動員」や科学技術とイデオロギーなど,この論文と共通する関心を提示し ている。 24)拙稿「言語の表象化-あるいは図像化され近代」(『東洋文化年報』, 7号, 1992)参照。モリス については,『小野二郎著作集1/ウィリアム・モリス研究』,『同2/書物の宇宙』(晶文社, /1986),マラルメおよびズダネヴィッチについては,高山,前掲書を参照のこと −70− 1986 原 田 達 のではないか。考えてみたいのはこのことである。 まず,ミヘルスをとり上げてみよう。かれがその名を有名にしたテーゼ,「寡頭制支配の鉄 則」を引きだしてくるのは,世界最大の組織力を誇ったドイツ社会民主党の分析からであった。 「平等」をもとめる「民主的」政党組織が大規模化し組織化が進展することによって反民主的 な少数者支配に転化するという「結果のパラドクス」(ヴェーバー)をミヘルスは「寡頭制支 配の鉄則」と表現した。それゆえ,かれのエリート理論は少数者支配の根源をエリートの組織 25) 能力にもとめた,と言われている。ただし,ミヘルスは肥大化してゆく組織編成のメカニズム にのみ注目したのではない。かれは単純な機械論者ではなかった。ミヘルスには独自な象徴論 が存在している。 たとえば,なぜミヘルスは『現代民主主義における政党の社会学』の序論第三章で「社会闘 争の倫理的装飾としての全体性への欲求」について語ったのか。かれがここで論じようとした のは,「全体性」をもとめる言葉が美しい(=倫理的)「装飾Ornament」となり社会的「武 器Waffe」として機能するという事実であった。その言葉とは,「国民」,「博愛」,「民主主 義」,「人類の解放」などである。「すべての政府は,その事実上の権力を倫理的な一般原則の 上に築こうとする」のだが,近代の国民国家が依拠しようとする「倫理的な一般原則」こそこ れらの言葉がさし示すものである。そしてそれが「武器」であるというのは,これらの言葉に よって敵対者を排撃し,おおくの人びとを味方につけ,権力の正当性を獲得しようとするから である。ミヘルスもまた「言語が政治化され,政治が言語化される」状況のことを考えていた のだ。 しかし「政治化された言語」とはもはや冷静な言語ではない。それは「知的言語」から「心 情の言語」に変化した言語である。ミヘルスが「民主主義はつねに口数が多い。その言葉は, 比喩の織物とでも呼ぶことができる」と言ったとき,かれは民主主義社会においてこそ神秘化 される言語があることを見ぬいていた。先にあげた言葉がこの種の言語である。そしてかれは, 「比喩の織物」によって打ち立てられる権力と動員される大衆のことを考えていたのだ。動員 のために仕掛けられた「比喩」の言語とは人びとの心情を搦めとろうとする「表象」のことで ある。 ミヘルスが「倫理」をその内にはらむ言語のことを「装飾」とか「装飾品Staffage」 とか「武器」とかと表現したのは,「政治化された言語」の「表象」としての動員力の大きさ を見ていたからである。これらの言語はバジョットの「威厳のある」君主とおなじ働きをする 25)たとえばG.パリイ『政治エリート』(中久郎他訳,世界思想社, 1982)を見よ。またエリート理 論の簡潔な整理には,居安正「エリート理論とエリート主義」(『基礎社会学 第IV巻 社会構造』, 東洋経済新報社所収, 1981), T.ボットモア『エリートと社会』(綿貫譲治訳,岩波書店, などが役に立つ。 ibid.,SS. 17−20,前掲書, 18−21頁。 - 26)Michels, 71 1965) マキャヴェリアンの遺産(上) ことになる。 ここにはミヘルスの大衆心理学がある。たしかにミヘルスのエリート理論はひとつの組織論 として理解される傾向が強いのだが,しかし,かれは組織過程だけを注視したのではなかった。 ミヘルスが「第一部 指導制の病理学」において分析したのは,組織過程に注目した「指導制 成立の技術的・管理的要因」(三つの章)のほかに,大衆心理に注目した「指導制成立の心理 学的要因」(五つの章)と知の位階制に注目した「指導制成立の知的要因」(ひとつの章)であ る。意外なことに,ミヘルスがもっともページを割いているのは,「心理学的要因」であった。 そしてこの部分を一読すればわかるように,ミヘルスにはル・ボンやタルトからのつよい影響 がある。たとえばミヘルスはル・ボンのつぎのような文章をすでに読んでいたのである。 「道理も議論も,ある種の言葉やある種の標語に対しては抵抗することができないであろう。 群衆の前で,心をこめて,それらを口にすると,たちまち,人々は,うやうやしくなり,頭 をたれる。 ・・・心象を鍬かす漠然さそのものが,神秘な力を増大させるのである。」 27) そのミヘルスの大衆心理学なのだが,「表象」との関係について注意しておきたいことは 「知ること」と「信じること」の分離というかれの発想である。大衆社会,とりわけ普通選挙 法が施行された大衆民主主義政治において候補者に必要とされることは,かれが大衆の味方で あるよう大衆に信じ込ませることだとミヘルスは言う。このように。 「議会に登場できるようにするためには,彼にとりうる手段はただ一つしかない。すなわち, 民主的な風采をもって選挙区に現われ,農民や農業労働者を自分の職業仲間として呼びかけ, 彼らの経済的社会的利害が彼自身のそれと一致するという確信を彼らに与えることがそれで 28) ある。」 じつは,ここで言われている「彼」とは「民主主義者」のことではない。ミヘルスは「貴族主 義者」について語っている。しかし,たとえ「彼」が「貴族主義者」であったとしても,「彼 みずからが受容れず内心においては破棄せざるをえない〔民主主義的〕原理にもとづいて自分 を当選させることが絶対に必要である」ほど「民主主義」はすでに強力な象徴として力を発揮 しているのであり,だからこそ「民主的風采demokratischer 27)Le Bon, G., Psvcholosie des foules,(Presses Universitaires de France, Paris, 1971, first published in 1895), p. 60, (福井成夫訳『群衆心理』,創元社, ibid.,S. 8,前掲書,9頁。 - 28)Michels, 72 − Geste 」という偽装が必要と 1952)106−107頁。 原 田 達 される。偽装としての「演劇的動作Geste」こそ大衆にたいして「貴族主義者」でさえも味 方であると「確信Uberzeugung (思い込ませる)」させるものである。民主主義はなんらか の理念や制度的特性をあらわす言葉ではなくなり,演技される「しぐさ・立ち居振る舞い Geste」に楼小化される。 この緩小化を生みだしたのは,大衆心理における実体を「知ること」よりも外観を「信じる こと」の優位である。大衆心理の特性に対応して,「民主主義」という言葉は「意味が形象化 されたものSinn-bilden」という意味での「象徴Sinnbild」の地位から「意味の前に立ち vor-stellen,意味を演じるものvorstellen」という意味での「表象Vorstellung」の地位 に移行する。 もはや「表象」は簡単に「意味Sinn」に開かれてはいない。それは「前に 立ったものの上演Vorstellung」によって人を惹きつけ,ときには「意味」と観客を切断す るものである。大衆社会において民主主義(に限らず,すべてのもの)は表象化されてしまっ た。だからこそ,この社会においては「(意味を)知ること」よりも「(表象を)信じること」 のほうが大きな社会的影響力をもっことができる。ミヘルスはこの「知ること」と「信じるこ と」の分離を眺めていた。それゆえミヘルスが「指導者に要求される付随的特性」として「演 説の才」,「美男子」,「宗教的感情を新たに爆発させる」カリスマ的な「人格的特性」,「著名 さ」などを挙げているのは理由のないことではない。これらはいわば演劇的才能と表現しても よいものであった。 ところで,別のマキャヴェリアンたちもまた同じ問題を考えていた。たとえばモスカは,言 語が「武器」として機能した歴史的事実についてこう語る。 「事実の問題として, 19世紀を通じてもっとも過酷な闘いが展開され,最悪の迫害と虐殺が おこなわれた。しかしこれらは,まったく超自然的なものにもとづかない教義の名において, むしろ万人の自由,平等,博愛を主張する教義の名において,おこなわれたのであろう。」 モスカは逆説的でペシミスティックな歴史認識をもった人物であって,ヴェーバーがプロテス タンティズムの倫理に「意図と結果の逆説」を見たように,かれは啓蒙の理念にこの逆説を見 る。そのようなかれの視点を象徴するような言葉はこうである。 29)ここで註18)のバジョットの言葉,そしてマキャヴェリの言葉を思い出しておこう。かれらは共 に「知ること」と「信じること」の分離を考えていた。 30)G.モスカ『支配する階級』(志水速雄訳,ダイヤモンド社, 整理にはつぎの著作が有益である。 Albertoni. E., Mosca - Blackwell, Oxford, 1987). 73 − 1973), 211頁。またモスカの思想の and the Theory of Elitism,(Basil マキャヴェリアンの遺産(上) 「社会を道徳的・物質的に改善しようとして企てるすべての試みは,必ず憎悪,恨み,最悪 の情熱を解き放つ。これこそ人間の悲劇的運命なのだ! 人間は善と考えるものをたえず追 い求め,達成しようと熱望しながら,そこで見いだすのはきまって互いに殺し合い迫害し合 31) うための口実である。」 この「口実」が19世紀においては「自由・平等・博愛」であった。 こうして普遍的言語が 「武器」となり,啓蒙のスローガンの名において「最悪の迫害と虐殺」がおこなわれることに なる。 なぜそのようなことが生じるのか。それは,たとえ「自由・平等・博愛」を喧伝する教義で あっても,およそ教義が社会的影響力をもつのは,それが真理と結びついているからではなく, 人びとの感情を満足させるからであるーこれがモスカの解答であった。「教義の真理を云々 するより,人間の精神の中に広くかつ非常に深く根づいている感情を満足させ,したがって大 32) きな自己繁殖力をもつような教義が存在するといったほうがはるかに正確である」。それゆえ モスカは,教義の意義をそれがさし示す科学的真理や歴史的真実によって測ろうとはしない。 問題は,それが人びとにいかに受容され,いかにその「感情を満足」させたか,である。教義 の意味は教義(というテクスト)のなかにすでに構造化されているのではなく,受容する過程 のなかで教義の意味は生まれるーまるで「ニュー・クリティシズム」から「受容理論」への 33) 批評理論の転換にも似た構図がここにはある。こうしてモスカは,教義が掲げる理念と受容さ れる教義の乖離を提示する。かれは教義をたんなる理念の体系化されたものとしては考えない。 かれのリアリズムは教義の背後にあって教義を衝き動かし,教義によって合理化され,教義に よって増幅されるものの存在を見ていた。それが「情熱や感情」という人間の「非合理的なも の」である。ここには第一章で述べた「理性的人間」から「感性的人間」への人間像の転換が 31)同書,211頁。ゲーテがメフィストーフェレスを「つねに悪を欲し,つねに善をなす,あの力の一 部分」(新潮文庫版『ファウスト』87頁)と表現したのにたいして,ヴェーバーはこのアフォリズ ムを逆転させてプロテスタントの禁欲を「つねに善を欲しつつ,つねに悪を作りだす力」(梶山 力・大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波文庫,〈下巻〉, 224頁) と表現した。 このペシミズムへの転換をモスカもまた受け継ぐ者である。 世紀転換期はけっして 希望の時代ではなかった。 32)同書, 203頁。 33)批評理論については, T,イーグルトン『文学とは何か』(大橋洋一訳,岩波書店, 1985)を参照 せよ。「ニュー・クリティシズム」はしばしば作品を物神化することになる。それはテクストをす でに意味が構造化された体系として捉えるからである。しかし「受容理論」は意味を読書行為の なかで生まれるものとして捉える。ここからはテクストの物神化は生じない。 さらに, ザー『行為としての読書』(轡田収訳,岩波書店, - 木聡訳,勁草書房, 1986)を参照。 74 − w.イー 1982)およびR,ホルブ『〔空白〕を読む』(鈴 原 田 達 ある。この転換を基礎にしたとき,教義はたんなる理念の体系(「知るべきもの」)ではなく, 「情熱や感情」によって衝き動かされ,それを衝き動かすもの(「信じるべきもの」)に変化す る。 モスカがあらゆる教義がひろく支持されるための要因のひとつとして,「最大多数の人間 の情熱,感情,傾向を満足させるものでなければならず,とくに公衆のあいだにもっとも広く 34) 見られ,もっともしっかりと根づいている情熱や感情を満足させるものでなければならない」 と述べていることに注意しておこう。 さて,このような理論と感情の結びつきというテーマはたんにマキャヴェリアンたちだけの 問題ではなかった。この時代のヨーロッパ社会のいたる所にこのテーマをめぐる問題を見いだ すことができる。たとえば,カール・ショースキーが描き出した世紀末ウィーンの「新調子」 35) の政治家たちもまた,理論と感情の特殊な結びつきに気づいていた。汎ドイツ主義のゲオル ク・フォン・シェーネラー,キリスト教社会派のカール・ルエーガー,シオニズムのテオドー ル・ヘルッルたちは,「理性の政治から幻想の政治へ」赴いたり,マルクス主義の「経済的主 張ではなく,社会主義を前方に突き進めてゆく心理的動力」に感動したりしながら,理論の背 後にある「非合理的なもの」の重要性に注目したのだった。 とりわけヘルツルは,「純粋な心 理的エネルギーを歴史の推進力と認め」て,「ユダヤ人の知性ではなく心情に訴えかけよう」 とし,「ユダヤ人を奴隷状態に保つ社会的重力を打破するエネルギーを覚醒させるために,何 らかのシンボルが考え出されなくてはならない」(傍点 原田)と考えた。 こうしてかれは, シオニズム運動に乗り出してゆくのである。世紀末ウィーン,それはフロイトやシュニッツ ラー,ホーフマンスタールやクリムトなども含めて,おおくの知識人が知と心情の新しい関係 把握に格闘した都市であった。 ドレーフュス事件もまたこの問題を提起した。この事件にたいする右派勢力の活動からもし われわれが引き継ぐべきものがあるとすれば,それは思想の社会的相対性にたいするかれらの 感受性と思想の背後に「非合理的なもの」を読みとったかれらの洞察力である。これもまた前 作で述べたことだが,モーレス・パレスの存在意義は「普遍的言語」をあやつる知識人たちの 虚偽性,つまりその思想のイデオロギー性を暴いてみせたことだった。かれは「自由」,「人 権」,「正義」などの言葉の背後にこれらの「象徴」を駆使する進歩的知識人の特殊な政治的情 熱や利害関心を読みとろうとしたのだった。 この点は左右の立場が逆転しても変わらない。パレスとは対極の立場にいながら,しかしパ レスと同じ問題意識をもって状況を眺めていた思想家がジュリアン・パンダである。パンダは 柚匍 モスカ,前掲書,185頁。 K.ショースキー『世紀末ウィーン』(安井琢磨訳,岩波書店,1983),とくに第三章「新調子の政 治−オーストリアのトリオ」を参照のこと。 −75− マキャヴェリアンの遺産(上) ドレーフュス事件に揺れた世紀転換期のヨーロッパの思想状況についてこのように述べる。 「今日,どの政治的情熱も強力に構築された一大理論網を備えている。 その唯一の役目は, あらゆる観点から,各情熱の行動に最高の価値があると示すことであり,この理論をとおし て,各情熱は,当然ながらその力を倍増しようと,邁進するのである。」 36) ここでパンダは,政治的情熱という「非合理的なもの」が論理とむすびっき,政治的情熱が理 論によって武装されている状況を告発しようとする。いまや論理(もしくは「科学」的外観を とった「理論網」)はそれ自体として完結しているのではなく,政治的情熱という「論理外的 なもの」に奉仕する手段,もしくは「武器」となる。このプロセスがドレーフュス事件以降の ヨーロッパ社会に進行した。だからパンダはこの時代を「政治的憎悪の知的組織化の世紀」と 呼んだのであり,「憎悪」でさえも「知的なもの」に結びつけてしまった知識人の活動を「知 識人の裏切り」と表現したのだった。 さて,もうひとりのマキャヴェリアンはこのような状況をどう考えたのだろうか。パレート のドレーフュス事件把握はあまりに有名である。かれはこの事件を「エリートの周流」のひと 37) つのエピソードと考えた。しかし,ここで注目したいのは,このことではない。パレートは理 論と感情の関係をどのように捉えたのか。 周知のとおり,パレートは人間社会を徹底的に「非論理(非合理)的行為」というカテゴ リーで捉える。パレートにとって経済学が取り扱うような「論理的行為」は例外的なものにす ぎず,社会システムの基礎はあくまでこの「非論理的行為」であった。「理性的人間」像から 断絶した地点からかれの思考は開始される。辞書的説明を加えれば,「非論理的行為」のうち この行為の動因となる不変的な部分,つまり社会システムの基底に横たわるものが「残基」と 呼ばれるものであり,それは人間の「感情や本能」に対応するものである。そして,「非論理 的行為」のうち「断言」や「権威への訴えかけ」,「原理や感情への訴え」,そして「言葉のう えでの証明」という理論的仮装をもちいてこの行為の合理化を試みる可変的な部分が「派生 体」と呼ばれるものである。それゆえ「派生体」はしばしばイデオロギーと同一視されること になる。このよく知られた「残基」と「派生体」についての基礎理論はすでに理論と感情につ いてのパレートの考え方をよく示している。 それはこういうことだ。パレートにとっておよそ理論などというものは論理的なものではな く,それは「残基」である「感情や本能」を合理化し,これらに奉仕するものでしかない。と 陶拘 J.パンダ『知識人の裏切り』(宇京頼三訳,未来社, 1990), 138頁。 V.パレート『エリートの周流』(川崎嘉元訳,垣内出版, (0 1975)参照。 原 m 達 いうのは,人間の行為の大部分は理性によってではなく,「感情や本能」によって動機づけら れており,にもかかわらず「人びとはかれらの行為が推論raisonnementに依っているのだ と思いたがる」のであり,そこでかれらは自分たちの行為の「想像上の原因causes imaginaires」をなんとかして彫琢しようとする。 こうして握造された擬似論理的説明が(派 38) 生体」であった。だから「民主主義」理論も「社会主義」理論も,パレートの言わせれば,台 頭するエリートたちの「感情や本能」を隠蔽し,民衆を動員するための擬似論理的偽装という ことになる。 「新しいエリートは,そのおのれの企図するところを率直かつ公然と認めるようなことはし ない。否それどころか,すべての抑圧された人びとのリーダーシップを採っているかのよう 39) に装い,自分自身の利益ではなく,多数の利益を追求することを宣言する。」 「おのれの企図するところ」を隠し,民衆の味方であると印象づけるための理論的「装い」が 「民主主義」とか「社会主義」とかの「派生体」である。それゆえ,パレートはおよそあらゆ るや政治理論を「科学的なもの」とは認めない。それらはたんなる「神話」にすぎない。パ レートにとって理論(擬似的理論)は感情に奉仕するものでしかなかった。パンダの主知主義 が感情に奉仕する理論の現状を憂えて「知識人の裏切りだ」と告発したのとは対照的に, ハ? レートは,それは当然のことだ,と考えたのである。 とすれば,パレートにとって理論(「派生体」)とは「演技するもの」になっていないか。 「企図」(「残基」)を隠しながら,これを正当化したり合理化したりする理論装置,そして「企 図」を実現するために他者を眩惑し誘導する理論装置とは,いわば印象操作のための装置であ る。それがいかに「科学的」装いをとろうとも,それはけっして「科学」ではない。「科学的」 外観それ自体が,眩惑と誘導のための「装飾」ということになるだろう。 このパレートの「派生体」という考えはモスカの「政治定式」とよく似た構成となっている。 モスカの「政治定式」もまた眩惑と誘導のための「装飾」として理解することができる。すで に述べたように,モスカもまた社会システムの基底に「非論理(非合理)的なもの」をおく。 だからかれにとって教義の意義は,それが内包する理念の質や論理的真実ではなく,人びとの 「感情を満足させる」ことにあった。社会は「大いなる迷信」,「普遍的な幻想」なくしては統 合されない。この「普遍的な幻想」を構成するものが「政治定式」であった。 38)パレートの基本概念の整理については,松嶋敦茂『経済から社会ヘーパレートの生涯と思想』 (みすず書房, 1985)が詳細であり,示唆に富む。さらにパレート『社会学大綱』(北川隆吉他訳, 青木書店, 1987)も参照。 39)パレート『エリートの周流』, 20頁。 77 マキャヴェリアンの遺産(上) ところで,人びとの社会意識や社会的性格は時代とともに変化するものである。だから「政 治定式」もまた時代とともに変化する必要がある。人びとが超自然的現象を信じている時代に あっては「政治定式」もまた超自然的なものを基礎としなければならないし,人びとの感情が 科学的精神を求める時代にあっては,それなりの外観をとる必要かおる。つまり「政治定式」 は特定の時代の特定の社会の価値観に依拠しなければならない。それゆえ,近代社会にあって は「たとえ実証主義的なリアリティに一致しないにしても少なくとも合理的に見えるような観 40) 念を基礎」(傍点 原田)としなければならないのである。問題は「政治定式」というテクス ト(上演される演劇)に構造化された意味ではないのだ。 このテクストが受容されることに 41) よって「読者」にいかなる意味(感動)を与えたのか,「政治定式」はそのためにどのように 「見えるよう」に構成(演技)されているのか,それが問題なのである。だから,近代社会に おける「政治定式」がいかに実証主義的な「科学的」外観をとろうとも,その「政治定式が科 学的真実に合致しているということはできない」。肝心なことはその外観が「科学的」である かどうか,なのである。ミヘルスにおいて「民主主義」が「演劇的動作」に瑛小化されたよう に,モスカにおいて「科学」は科学的「外観」に倭小化されてしまう。むろんかれはミヘルス と同様に,それでよし,としたわけではけっしてない。モスカはそのように矯小化された政治 科学(理論)を「神話」の体系として批判したのである。かれの本意はここにあった。 パレートやモスカは「派生体」や「政治定式」という聞き慣れない概念を提示することに よって,政治における理論,とりわけ「科学的」相貌をとるようになった政治理論の脱神秘化 をめざしていた。かれらがターゲットとしたのは,まず第一に「民主主義」理論であり,そし て第二に「社会主義」理論であった。これらの理論は,かれらにとって,「科学的」外観をと ることによって新しいエリートたちの政治権力の掌握を容易にする理論装置ということになる。 同じ時代,ロシア革命のさなかにマハイスキーが考えていたことと同じ問題をパレートやモス ■12) 力は考えていたのである。ただ,かれらにはマハイスキーにはなかった大衆心理学の知識が あった。この大衆心理への洞察が,社会システムの基底に「感情や本能」という「非論理的な もの」を措定し,理論とはこの「非合理」に導かれながら「非合理」を眩惑し誘導するひとつ ・13) の「演劇的精神」だという把握を可能にしたのである。 40)モスカ,前掲書, 78頁。 41)ここでは「政治定式」を受容する者たちを批評理論にならって「読者」と表現したけれども,こ れまでの文脈からいってこの「読者」を「観客」と表現してもよいだろう。 42)拙稿「J.W.マカイスキー,その生涯と射程-「知の資本」の系譜の研究 H」(『追手門学院大 学文学部紀要』23号,1989)参照。本稿では発音現地主義にしたがって「マハイスキー」と表記 した。 43)このような表現をかれらが使用しているわけではない。 これはわたし自身の表現にすぎない。 し - かし,以上のような理由からこう表現してもあながち間違いではないとわたしは考えている。 78− 原 田 達 ところで,「民主主義」理論や「社会主義」理論が新しいエリートが権力への途をあゆむた めの演劇的理論装置であるとしても,そのような理論の体系は,パレートやモスカが想定する ように,たんに「感情や本能」に奉仕するという第二義的意義しかもたないものであろうか。 こんなことを言うのは,わたしはパレートやモスカがある種のジレンマに陥っていると考える からである。たとえば,パレートは「感情や本能」,「非論理的行為」を人間行為の本質的部分 と見ることによってパレート自身かおるジレンマを背負い込むことになったと思う。つまり, それほどまでに「非論理的行為」が本質的なものであるにもかかわらず,それは「断言」や 「権威への訴えかけ」,「原理や感情への訴え」,「言葉のうえでの証明」を駆使する「派生体」 というレトリックを必要とすると語ること自体,「派生体」の重要性をパレートは証明したの ではなかったか。パレートにとって理論が「科学的」相貌をとっているということは批判の対 象ではあった。しかし,今日「残基」がそのような相貌(「科学的」外観をとった「派生体」) を必要とするということを,パレートは期せずして論証してしまったのではなかったのか。 「民主主義」や「社会主義」が現代の最大の「神話」であると証明することは,現代において 「神話」は「民主主義」や「社会主義」という相貌をとることが必要であると証明することで もある。と同時に,このような相貌をとるよう理論を操作する者たちの重要性を証明すること にもなってしまう。ジレンマというのはこのことである。 モスカの「政治定式」についても同じことが言える。モスカは実証主義の時代にあって「政 治定式」もまた「科学的に見えるよう」に装うことが必要だと言った。しかし,そのようなモ スカの論証は「科学的に見えるよう」理論を彫琢し操作する者たちの意義を浮かび上がらせは しなかっただろうか。たしかにモスカは,(政治定式が大衆をだまして服従させるためにうま く発明された単なるいかさま療法にすぎないということにはならない」と断言する。なるほど 44) 「単なるいかさま療法」であるならば問題はない。 しかし,この時代の「科学的」外観を備え た「政治定式」(とりわけモスカが批判の対象にしたマルクス主義の理論体系)はけっして 「いかさま療法」ではなかった。あえてモスカの考察に準拠して言えば,現実は,マルクス主 義という「科学的」外観をとった「政治定式」がおおくの人びとの「感情や本能」を解放して いる。だからこそマルクス主義は勢力を得たのであったし,モスカの危機感もまたここにあっ た。とすれば,モスカは「政治定式」を操作する者たちの理論彫琢行為(たとえそれが擬似理 論であっても)の重要性を期せずして証明したのではなかったのだろうか。この問題は,じつ は第1章の後半部分で論じた演劇における演出行為の問題である。しかし,この問題について は第IV章でふたたび論じることにしよう。つぎの章においては,マキャヴェリアンの遺産とし て注目したい第二の問題,知の再生産について論じたいと思う。 (以下次号) 78頁。 - 44)モスカ,前掲書, 79−