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(スコットラン ド社会経済発展倫理の形成) 北政巳
15 歴 史 と経 済 _Vl.ウ ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー (ス コ ッ トラ ン ド社 会 経 済 発 展 倫 理 の 形 成) TheTheoryofMaxWeber&Scotland 一FormationofScottishSocial&EconomicIdeaofDevelopmen七 一 北 政巳 MasamiKITA 1は 18・19世 じめ に 紀 の イ ギ リス 産 業 革 命 を 評 し て 、 別 名 「ス コ ッ トラ ン ド人 の 革 命 」1)と 言 わ れ る。 ま た 思 想 史 に お け る 「ス コ ッ トラ ン ド歴 史 学 派 」2)の 主 導 した 啓 蒙 主 義 は18世 紀 ヨ0 ロ ッパ 思 想 史 を リー ドし 、 ア ダ ム ・ス ミ ス 等 が 主 宰 した 「ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ サ ン ス 」3) 運 動 は 、 そ の 後 の イ ギ リス の 貴 族 文 化 啓 蒙 活 動 の 原 動 力 とな っ た こ と も事 実 で あ る。 こ の よ う に ス コ ッ トラ ン ドは 、 中 世 か ら近 ・現 代 へ の 移 行 を 、 い ち 早 く 主 体 的 に 完 成 さ せ 、 ヨー ロ ッパ 工 業 社 会 の 原 基 形 態 を 現 出 させ た 。 本 稿 で は 、 特 に 中 世 か ら近 世 へ の 社 会 変 容 の 中 で 、 近 代 ス コ ッ トラ ン ド経 済 倫 理 が ど の よ うに 形 成 され た か 、 ま た 本 来 の 宗 教 倫 理 が ど の よ うに 変 化 し て い っ た か を 取 り上 げ て み た い4)。 2マ ッ ク ス ・ウ エ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ トラ ン ド宗 教 倫 理 『プ ロテ ス タ ンテ ィズ ム と資 本 主 義 の 精 神 』(1905年 出版)を 著 述 した ウェー バ ー(M.Weber) は 、 ス コ ッ トラ ン ドの プ ロテ ス タ ンテ ィ ズ ム につ い て は 極 め て 消 極 的 な評 価 しか 与 え な か っ た が5)、 近 年 、 ス コ ッ トラ ン ドで 著 名 な2人 マ ウ ト(T.C.Smout)が の 経 済 史 学 者 キ ャ ン ベ ル(R.H.Campbell)と ス 、 ス コ ッ トラ ン ド社 会 を 事 例 と して 、 ス コ ッ トラ ン ドの プ ロテ ス タ ンテ ィズ ム と 同 地 域 の 資 本 主 義 の経 済 発 展 の 相 関性 を 追 求 した6)。 マ ー シ ャル(G.Marshall) は 『長 老 会 主 義 と利 潤 』 を 著 し、1560年 の 宗 教 復 古 を しな が ら も 、17世 紀 に は カ ル ビ ン 主 義 国 家 と な り社 会 発 展 し た 経 験 は 、 ウ ェ ー バ ー 仮 説 に と っ て 理 想 的 な 実 験 舞 台 な っ た と言 え る と 主 張 す る7)。 ウ ェ ー バ ー 仮 説 の プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム か ら 資 本 主 義 精 神 の 高 揚 を 導 季刊 創 16 価 経 済 論 集 Vol.XXVII,No.1・2 く倫 理 は 、 あ ま りに も 中 国 ・イ ン ド ・ユ ダ ヤ 主 義 の 宗 教 倫 理 を 詳 細 な デ0タ や 調 査 をす る こ と な く容 易 に 消 極 的 評 価 を 下 した とす る 意 見 も 大 き く な っ て い る 。 こ の 点 に つ い て は 、 マ ッ キ ン タ イ ヤ(A.Maclntyre)8)や レ ズ ノ ブ(M 近 の 研 究 が 挙 げ られ る。 さ ら に ベ ル ガ ー(S.D.Berger)は トラ ン ス(J.torrance)は .H.Lesnoff)9)等 の 最 プ ロ テ ス タ ン ト主 義 倫 理 を 強 調 し、 プ ロテ ス タ ン ト分 派 の 非 閉 鎖 性 が 社 会 的 階 梯 上 昇 へ の 活 力 に な っ た 点 を 挙 げ る10)。 ま た ウ ェ ー バ ー 歴 史 観 の 批 判 を 、 レイ ド(W.S.Reid)は カ ル ビン 自身 の 著 作 自体 か ら 引 用 して 展 開 し た11)。 前 掲 の マ ー シ ャ ル は 、 従 来 の 批 評 者 が ス コ ッ トラ ン ドの 歴 史 的 経 験 例 を ウ ェ ー バ ー 理 論 の 自 己 証 明 的 反 駁 例 で あ る 事 を看 過 して き た の で は な い か と問 題 提 起 す る12)。 そ こ で 先 ず 問 題 とな る の は 、 ウ ェ ー バ ー が ど の 程 度 ス コ ッ トラ ン ド社 会 の 宗 教 ・経 済 発 展 を 理 解 し て い た か で あ る。 ウ ェー バ ー が 『プ ロテ ス タ ン テ ィ ズ ム と 資 本 主 義 の 精 神 』 を 著 述 した 時 、 有 名 な 話 と し て ス コ ッ トラ ン ド系 ア メ リカ 人 フ ラ ン ク リ ン(B .Franklin)の 言 葉 を引 用 して 「 富 裕 を 希 望 す る者 へ の ア ドバ イ ス 」 と して 「時 間 の 無 駄 は 金 の 無 駄 とな る。 能 力 を 高 め 信 用 を増 し善 用 す る。 些 細 な 金 の使 い 方 を誤 る者 は 、 潜 在 的 な 未 来 の 幸 運 を 失 う。 借 金 の 支 払 い は 正 確 に す る 、 そ れ を継 続 的 に 続 け 、 他 人 の 財 布 の 主 人 に な る 。 注 意 深 く貸 借 対 照 表 を つ け る こ と 、 消 費 は 倹 約 的 に 臨 む こ と 」 等 を 挙 げ て お り、 ウ ェ ー バ ー が 世 俗 的 な 経 済 行 為 に 関 心 を持 っ て い た こ とが 分 か る13)。 彼 は 、 そ の 地 方 に お け る 古 代 ・中 世 の資 本 家 が 「 伝 統 的 な 利 益 観 を持 ち 、 無 尽 大 の 富 を 即 座 な借 多 生 活 に 向 け て い た 」 こ と を 対 比 的 に 把 握 し た14)。 ウ ェ ー バ ー 自身 、 自ず か ら の 仮 説 を 証 明 す る た め に 、 プ ロ テ ス タ ン ト教 義 の 諸 局 面 の 発 達 、 特 に 天 職(calling)概 エ テ ィ ス ト(Pietists 念 の発 展 に関 心 を もち 、ル ター か らカル ビンへ の変 遷 さ らに 、 ピ ,敬 虞 主 義)、 メ ソ デ ィ ス ト(Methodists,方 式 主 義 者)、 バ プ テ ィ ス ト (Baptisits,洗 礼 主 義 者)等 の 清 教 徒 主 義 の 禁 欲 的 な プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム へ と の 分 派 を 追 求 した 。 ピエ デ ィ ス トや メ ソデ ィ ス トは 若 干 弱 か っ た と さ れ て い る が 、諸 宗 教 は い ず れ も 清 教 徒 主 義 を 掲 げ 、 信 徒 に 対 して 「 質 素 倹 約 に 努 め 、 快 楽 に 身 を 委 ね る こ と な く、 全 体 観 に た ち 生 活 上 の 貸 借 対 照 表 を っ け 、 世 俗 の 仕 事 へ の 勤 労 を 奨 励 し」、最 大 利 潤 追 求 へ の 倫 理 規 範 を提 供 し た15)。 ウ ェ ー バ ー は 、 フ ラ ン ク リ ン 説 を用 い 、 西 欧 社 会 の 諸 プ ロ テ ス タ ン ト宗 教 と社 会 発 展 を研 究 し 『プ ロテ ス タ ン ト諸 派 と 資 本 主 義 の 精 神 』(1906年)を ウ ェー バ0の 分 析 に つ い て は 、 ラ ッフ ァル(Rachfah1)や 著 した 。 こ の フ ィッシ ャ ー(Fischer)等 の 「ウ ェー バ ー 説 は 歴 史 の 理 念 的 解 釈 学 に過 ぎ な い 」 と の 批 判 が あ る 。 資 本 主 義 の 起源 にっ い て ユ ダ ヤ 教 倫 理 と歴 史 的 実 践 の 立 場 か ら、 ゾ ン バ ル ト(W .Sombart)が 義 』(TheJε ω8andModernCapitalism,1911)、 Capitalism,1913)を 『ユ ダ ヤ 主 義 と近 代 資 本 主 『資 本 主 義 の 神 髄 』(The(quintessenceDf 著 作 した17)。 そ れ に 対 して ウ ェー バ ー は 『経 済 と社 会II部 andSociety,1910-14)を 』(Economy 著 し 、 自 ら の 学 説 を 擁i護 した 。 ウ ェ ー バ ー 学 説 の 批 判 に つ い て は 、 一 方 に プ ロ テ ス タ ン ト倫 理 に 関 す る 面 を 追 求 し た セ イ(H・See)・ ハ ドソ ン(W・S.Hudson)・ ヒル(C.Hill)、 ブ リ ィ ー ン(T ,HBreen)18)と の 資 本 主 義 精 神 を 追 求 した ボ ゥル ドウ イ ン(R .E.Baldwin)、 ン(N.M.Hansen)、 ア イ ゼ ン ス タ ッ ド(SN .Eisenstad)が ヒギ ン ス(B.Higgins)、 、他 方 ハ ンセ 挙 げ られ る19)。 しか し ウ ェ ー バ ー June1998北 の2局 政 巳:歴 史 と 経 済 一M.ウ 17 ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー 面 を 分 離 し 、 歴 史 上 の 、 熱 心 な プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム と 「未 発 展 経 済 」(undeveloped economy)の 一 致 し た17世 紀 ス コ ッ ト ラ ン ド社 会 の 状 況 が 、 ウ ェ ー バ ー 理 論 に 充 分 な 反 駁 を 与 え る と の 意 見 も あ る20)。 ま た ト ロ ー ル シ ュ(E.Troeltsh)は 、 ス コ ッ トラ ン ド教 会 の 社 会 化 に 注 目 し21)、 カニ ンガ ム は ゾ ン バ ル トの 主 張 す る 資 本 主 義 思 想 へ の ユ ダ ヤ 教 影 響 論 批 判 と し て 、 ウ ェ ー バ ー 擁 護 の 立 場 か ら 、 ス コ ッ トラ ン ドの プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム を 挙 げ る22)。 他 方 ゾ ン バ ル トは ウ ェ ー バ ー 批 判 と し て 、 ス コ ッ ト ラ ン ド改 革 教 会(ScottishReformedChurch)の 策 を 挙 げ る 。 ト ウ ニ ー(R.H.Tawney)は 保 守 的 な経 済 政 、 個 人 よ り も ス コ ッ ト ラ ン ド教 会 の 貧 者 救 済 の 歴 史 的 役 割 を 挙 げ る24)。 ス コ ッ トラ ン ドを 代 表 す る 経 済 史 家 マ ー ウ ィ ッ ク(W.H.Marwick)は ル シ ュ=レ ビ ィ(Levy)=ト 、 ウ ェ ー バ ー=ト ウ ニ ー 理 論 を 偽 科 学 的 と し て 扱 い 、 ハ イ マ(A.Hyma)は ラー 「ス コ ッ ト ラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム の 歴 史 は ウ ェ ー バ ー 理 論 に 専 ら 否 定 的 で あ る 」 と 述 べ 、 ま た ベ ッ カ ー (H.Becker)、 バ ー ン ズ(H,E.Barnes)、 フ ィ シ ヨ フ(E.Fischolf)も 同 意 見 の 立 場 を と っ た25)。 現 代 ス コ ッ トラ ン ド経 済 史 を 研 究 す る 学 者 の 多 く 、 ヘ ン ダ ー ソ ン(G.D.Henderson)、 (S.G.E.Lythe)、 Roper)、 バ レ ル(S.ABurrell)、 レ イ ド(W.S.Reid)、 ア ン デ ル ス キ(S.Anderski)、 ライ ス ト レ バ ロ ウ バ ー(H.R.Trevor- ク ラ ー ク ソ ン(L.A.Clarkson)、 ス マ ウ ト(T℃.Smout) 達 も 同 じ く ウ ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ド例 の 分 離 を 主 張 す る 立 場 を 踏 襲 す る26)。 し か し ロ バ ー ト ソ ン(H.M.Robertson)は ズ ム は 、17世 ウ ェ バ ー 理 論 を 支 持 し 、 「ス コ ッ ト ラ ン ドの カ ル ビ ニ 紀 以 来 む し ろ 経 済 活 動 へ の 阻 止 要 因 で あ っ た が 、 そ れ が19世 に っ な が る 結 果 を 生 む 」27)と 紀 の 経 済発 展 して 結 果 を 肯 定 した 。 ま た キ ャ ン ベ ル(R.H.Campbell)は ウ ェ ー バ ー 理 論 へ の 反 駁 と し て 、 デ ー一タ を 用 い て 「18 世 紀 の 経 済 変 化 と宗 教 生 活 の 関係 性 の 調 査 に よ り、 ビ ジ ネ ス 活 動 に 向 け て の 近 代 資 本 家 の 倫 理 は 、 直 接 に は 宗 教 と は 関 係 な く 確 立 さ れ た 」 と 述 べ た28)。 そ こ で カ ル ビ ニ ズ ム が ど の よ う に し て ス コ ッ トラ ン ドに 根 付 い た か を 研 究 す る 必 要 が あ り、 以 下 に 歴 史 的 淵 源 を た ど っ てみ たい 。 3ス !560年 コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム 倫 理 に 始 ま る ス コ ッ トラ ン ド宗 教 改 革 の 結 果 、 ロー マ 教 会 は 廃 絶 され 、 カ ル ビ ン 主 義 信 仰 告 白 を 採 択 しス コ ッ トラ ン ド教 会 は 再 編 され た が29)、 封 建 的 な 中 産 階 級 に よ る 政 治 的 な 支 援 を 受 け た 性 格 が 強 か っ た と され る。 マ ー シ ャ ル は 、 特 に1560年 か ら1707年 のイ ン グ ラ ン ド と ス コ ッ トラ ン ドの 『合 併 』30)に 至 る期 間 を 、 教 会 組 織 発 展 の 時 代 と把 握 し、 ま た16世 紀 と17世 紀 の カ ル ビ ニ ズ ム の 差 異 を 指 摘 す る31)。 こ の 間 ス コ ッ トラ ン ド教 会 内 部 の 紛 糾 、 つ ま り長 老 会 派(Presbytery)と か っ た 。1610-1620年 間 と1638-1660年 約 者(Covenanters、1638年 教(Bishop)選 高 位 聖 職 者(Prelacy)の 衝 突 は、 教 義 問 題 で は な 間 、 高 位 聖 職 者 会 議iが廃 止 され て い た が 、 国 民 契 に ス コ ッ トラ ン ドで 長 老 会 派 擁 護 の た め に 結 ん だ 盟 約)は 、 主 抜 選 挙 に 反 対 し 、 教 会 自治 内 部 で の 長 老 会 の 再 建 を 目指 し た 。 教 会 分 離 の 最 季刊 創 18 価 経 済 論 集 Vol.XXVII,No.1・2 初 の 動 き は 名 誉 革 命 が 決 着 した1690年 頃 か らで あ り、 ス コ ッ トラ ン ド教 会 内 部 で は 、 一 方 に 監 督(主 教)主 義 者(Episcopalian)、 他 方 に 改 革 主 義 者(Cameronian)が し か し1560年 か ら1707年 活 動 を始 めた・ ま で の 間 は 、 ス コ ッ トラ ン ド教 会 は 、 内 部 で は 各 派 の 特 性 を 主 張 ・反 目 し な が ら も 、 外 か ら み れ ば 単 一 と 見 な され る 状 況 に あ っ た32)。 ス コ ッ トラ ン ドで は 、唯 一 の神 の み を受 容 す る 『信 仰 告 白』(ConfessionofFaith)が1560 年 に 批 准 され 、1647年 に 『ウェ ス トミ ン ス ター 信 仰 告 白』(WestminsterConfessionofFaith) に よ っ て 更 送 され た 。 そ の 間 、 教 会 で は1561年 に 『訓 戒 書 』(BookofDiscipline)、1581 年 に 『第 二 訓 戒 書 』(SecondBookofDiscipline)を こ の 時 代 を リー ド した ス コ ッ トラ ン ド教 会 の3人 採 用 した 。 の 牧 師 の 主 張 を紹 介 し て お き た い 。 エ デ ィ ン バ ラ の セ ン ト ・ギ ル ズ 高 等 教 会 の ホ リ ロ ッ ド(Holyrood)の グ(JohnCraig,1512-1600)は 、救 世 主(Redeemer)に 教 区 牧 師 ジ ョ ン ・ク レイ 対 して 、 四 つ の 方 法 、 誓 約 ・従 順 ・祈 願 ・感 謝 で讃 え る信 仰 を 奨 励 した 。 彼 は 敬 神 の 社 会 生 活 を 説 き 、仕 事 で の 成 功 が 信 仰 の 実 証 に っ な が る と述 べ た33)。 リバ ー トン(Liberton)の ン ト ・レ オ ナ ル ド ・カ レ ッ ジ(St.Leonard'sCollege)の ソ ン(JohnDavidson,1549-1603)は 教 区 牧 師 で ス ン ト ・ア ン ド リ ュ0ス の セ 学 生 監 で あ っ た ジ ョ ン ・デ ィ ビ イ ド 「 神 は 人 間 を 造 り賜 も うた が 、 国 家 が 人 間 を 欺 き神 の 法 に 背 かせ る」 と述 べ 、個 人 の 純 粋 な信 仰 の み が 神 へ の 恩 寵 に 預 か る 道 で あ り、 自 己 の 信 仰 を 確 立 し た 者 が 社 会 指 導 者 と して 善 政 を 導 く べ き で あ る と主 張 した34)。 エ デ ィ ン バ ラ の 教 区 牧 師 で 、 ジ ェ0ム ス(James)IV世 の 監 督 教 会 主 義 政 策 に 反 対 して イ ン バ ネ ス(lnverness) に 左 遷 され た ロバ ー ト ・ブ ル ー ス(RobertBruce,1554-1631)は 、 「心 の 中 の 天 の 声(inward calling)に 基 づ く腰 い の 行 動 に よ り救 済 さ れ る 」 と して 、信 仰 実 践 の 意 義 を 訴 え 、 ス コ ッ ト ラ ン ド初 期 カ ル ビ ニ ズ ム を 展 開 した35)。 ス コ ッ トラ ン ドで ジ ョン ・ノ ッ ク ス(JohnKnox)が 36) 宗 教 改 革 を 意 図 して 行 動 を 開 始 した 時 、一 方 で は ロー マ ・カ ト リ ッ ク教 会 の 教 義 に反 駁 し な が ら、他 方 で は プ ロ テ ス タ ンテ ィ ズ ム の 世 俗 主 義 に も反 対 した37)。 しか し 当 時 の 日々 の 生 活 に つ い て 、 トロー ル シ ュ は カ ル ビ ニ ズ ム を 分 析 して 「 救 済 の 仲 介 者 と して の 教 会 の役 害1」 、神 へ の恩 寵 と して の 秘 跡(sacraments) の 強 意 、神 と教 会 の 明 白 な 識 別 を 失 う こ と な く統 合 す る 、 世 俗 生 活 を 受 け 入 れ つ つ 宗 教 上 天 職 観 を も つ 予 定 説 や 神 の 奇 跡 を 信 じ る 、 人 間 の 罪 の 平 等1生と他 の 人 間 関 係 に お け る不 平 等 性 を 敬 神 か ら許 容 す る」 等 を挙 げ 、 ス コ ッ トラ ン ド初 期 宗 教 改 革 者 の 神 学 観 は カ ル ビ ン主 義 に 源 流 に あ っ た こ と は 明 白 で あ る と し、 「 初 期 カ ル ビニ ズ ム は ル タ ー 主 義 の 娘 で あ る 」 と 評 価 した38)。 数 人 の 学 者 が 、 特 に初 期 ス コ ッ トラ ン ド ・カ ル ビ ニ ズ ム の 福 音 主 義 に ル タ ー 主 義 の 雰 囲 気 が あ る と評 した39)。 ま た 事 実 、 ノ ック ス を 含 め て ス コ ッ トラ ン ドの 宗 教 改 革 者 達 が 、 カ ル ビ ン 主 義 の 影 響 を 受 け る 前 に ル タ0主 義 の 諸 要 素 「内 的 な 精 神 性 の 追 求 、 個 人 救 済 、 救 済 信 仰 と恩 寵 の 知 識 の 予 定 調 和 に よ る満 足 」 等 が 挙 げ た が41)、 そ れ は ノ ッ ク ス の 神 学 体 系 に も 明 白 で あ り、 先 述 の ク レイ グ、デ ィ ビ イ ドソ ン、 ブ ル ー ス 等 の 牧 師 達 も 、 そ の 基 本 思 想 を 継 承 して い た 。 簡 潔 な 表 現 をす れ ば 「 共 通 の思 想 は、 神 へ の 恩 寵 は禁欲 に あ り、 キ リス ト教 普 遍 の 愛 ・慈 善 ・正 義 ・前 進 を 含 む 」 に あ っ た42)。 マ ー シ ャル は 小 括 と して 「ウ ェ0バ Calvinists)に は 、 彼 自身 が17世 紀 の 新 カ ル ビ ン 主 義 者 達(Neo. よ っ て 詳 述 され た 禁 欲 プ ロテ ス タ ンテ ィ ズ ム(他 の 方 向 で は 再 洗 礼 派)の 心 理 June1998北 政 巳:歴 史 と 経 済 一M.ウ ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー 19 的 諸 結 果 や 現 実 的 意 味 づ け に 関 心 を も っ た が 、 カ ル ビ ン か ら派 生 し た カ ル ビ ン 主 義 に は 興 味 を 持 た な か っ た 」 と し、 さ ら に 「16世 紀 の ス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム は 前 者 とい う よ りは 後 者 に 該 当 す る 」 と述 べ43)、 ウ ェ ー バ ー が ス コ ッ トラ ン ドに っ い て 知 識 と 関 心 が 薄 い こ と を 指 摘 し て い る。 417世 紀 ス コ ッ トラ ン ド ・カ ル ビニ ズ ム 世 紀 が 変 わ っ た17世 紀 に は 、 ス コ ッ トラ ン ドで は6人 ク ー バ ー(W.Cowper)、 ソ ン(D.Dickson)、 ア ベ ル ネ ッ テ ィ(J.Abernethy)、 ダ ー ハ ム(J.Durham)が の 神 学 者 、 ロ ロ ッ ク(R.Rollock)、 ス トラ ザ ー(W.Struther)、 デ ィク 活 躍 した 。 彼 らに 共 通 す る 特 徴 は 、敬 神 の 生 活 と心 理 的 救 済 を 積 極 的 に 展 開 した 点 に あ る。 そ こ で 具 体 的 に 評 価 を 試 み た い 。 ロ バ ー ド ・ロ ロ ッ ク(1555-99)は 、1583年 か ら1587年 に エ デ ィ ンバ ラ 大 学 の 神 学 教 授 さ ら に 初 代 学 長 を 務 め た44)、 彼 は 、 心 の 中 の 誓 い に 基 づ く 敬 神 と 恩 寵 の 実 践 を 訴 え45)、 ウ ェ ー バ 理 論 に 合 致 す る 方 向 で の 、 新 カ ル ビ ニ ス トの 草 創 期 の 教 義 を 代 弁 し た と 云 わ れ る 。 ウ ィ リ ア ム ・ク ー バ ー(1568-1619)は 区 牧 師 、 さ ら に1612年 、 ボ ス ケ ン ナ(Bothkenner)と に ギ ャ ロ ウ ヱ イ(Galloway)の 主教 とな っ た。 彼 は し 、信 仰 に お け る 正 当性 の 評 価 と敬 神 生 活 の 内 容 に 関 心 を 持 ち chainofoursalvation)を パ ー ス(Perth)の 教 「天 職 」 を 強 調 「救 済 の 金 の 鎖 り 」(golden 説 い た46)。 彼 は 全 般 的 召 命(generalcalling)と 特 定 の 召 命(天 職) を 識 別 し、 自 己 正 当化 を 社 会 生 活 に お け る信 仰 の 実 証 に 求 め た 。 ア ベ ル ネ ッ テ ィ は ジ ェ ドバ ラ(Jedburgh)教 区 牧 師 か ら1616-1638年 教 を 務 め 、 「カ ル ビ ニ ズ ム の 予 定 論(predestinarianism)は の間 ケ イ スネ スの 主 決 して 宿 命 受 容 論 で は な い 」 と 主 張 し た47)。 ア ベ ル ネ ッ テ ィ は 、 あ ま り に も 現 世 主 義 と し て 教 会 を 追 放 さ れ た が 、 ス コ ッ ト ラ ン ド ・カ ル ビ ニ ズ ム の 典 型 と さ れ 「各 自 は 自 身 を 宗 教 的 に 厳 格 に 把 握 し 、 生 活 各 所 で の信 仰 姿 勢 を 点 検 し、 罪 を 順 う行 為 を 予 定 論 に 展 開 しゆ く 、 しか し職 業 自体 は 真 実 の 信 仰 で は な く 、 自 己 満 足 や 利 己 的 な 価 値 は 虚 偽 の 信 仰 で あ る 」48)と 述 べ た 。 ス ト ラ ザ ー(1578-!633)は inti110ch)、 が 、彼 は 最 終 的 に1614年 、1618年 に グ ラ ス ゴ ウ 教 区 牧 師 、 っ い で カ ー キ ン テ ラ(Kirk- に エ デ ィ ン バ ラ の セ ン ト ・ギ ル ズ(St.Giles)教 会 牧 師 を務 めた 「よ り 良 い 生 活 は 神 の 栄 光 の た め に 使 わ れ る 財 産 で あ り 、 罪 の 濫 用 で は な い 」49) と 、 経 済 活 動 を 通 じ て の 富 の 蓄 積 を 積 極 的 に 肯 定 し た 。 つ ま り彼 の 主 張 は ド ・カ ル ビ ニ ズ ム は 致 富 に 反 対 す る の で は な く 富 の 濫 用 に 反 対 し た 」50)の デ ィ ク ソ ン(1583-1663)は 、1618-41年 の 間 ア ー バ イ ン(lrvine)教 「ス コ ッ ト ラ ン で あ る。 区 牧師 を務 めた後 、 グ ラ ス ゴ ウ大 学 神 学 教 授 、 次 い で エ デ ィ ンバ ラ 大 学 神 学 教 授 と な っ た 。彼 は 王 政 復 古 時 の 宣 誓 を 拒 否 し て 、1661年 に 罷 免 さ れ た51)。 彼 に は 『誤 謬 に 対 す る 真 実 の 勝 利 』(Troth'sVictory overError,1684)、 『イ エ ス ・キ リ ス トの 福 音 の 簡 略 な 明 示 』(ABriefExpositionofthe .EvangelofJesusChrist,1647)の 著 述 が あ るが 、教 会 の 救 済 に お け る限界 を挙 げ、 典型 的 な 牧 会 神 学(pastoraltheology)を 展 開 した 。 そ の 結 果 「 敬 度 な カル ビン主 義 の ビ ジネ ス マ ン は 、 天 職 に 勤 勉 に 働 い て 自 ら を 証 明 す る こ と を 志 し 、 天 賦 の 才 能 を発 揮 して 神 の 栄 光 に 季刊 20 創 価 経 済 論 集 Vol.XXVII,No.1・2 用 い 、 禁 欲 主 義 に 徹 す る た め に儲 け た 利 潤 は合 法 的 方 法(企 業 へ の 再 投 資)に 向 け 、 そ れ が 一 層 の 利 潤 拡 大 を 生 ん だ 」 の で あ る52)。 ダ ー ハ ム(1622-58)は1647-50年 間 グ ラ ス ゴ ウ で 教 区 牧 師 、1650年 学 教 授 と な り、 一 時 的 に は 国 王 司 祭(King'sGhaplain)で に グ ラ ス ゴ ウ大 学 神 あ っ た53)。 彼 に よ る と 「 神 は個 人 の信 仰 を試 す 指 標 を 明 示 さ れ 、 人 は 救 済 へ の 熱 意 を 敬 神 の 行 動 で 表 す 」54)と し た 。 ま た 彼 は1685年 に 著 作 『地 上 の 天 国 』(HeavenUponEarthの 中で 「 敬 神 の行 為 を、 良心 に 内 在 す る 規 範 に 照 ら し、 最 大 の 能 力 発 揮 を 召 命 に 向 け て 、 行 動 す る 」 こ と を 訴 え た55)。 マ ー シ ャ ル は 「ダ ー ハ ム の 表 明 し た8つ の 戒 律 は ス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ン 主 義 者 の 牧 父 哲 学 の 倫 理 と近 代 西 欧 資 本 主 義 の 一 貫 性 の 決 定 的 証 拠 を 供 して い る 」 と述 べ た56)。 ま た ウ ェ ー バ ー 理 論 か ら見 れ ば 、17世 紀 の ス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム と イ ン グ ラ ン ドの ピ ュ ー リ タ ニ ズ ム(EnglishPuritanism)の 牧 父 神 学 は 一 致 し て い た の で あ る。 そ の 結 果 、 両 グル ー プ と も 体 系 的 教 義 の 公 式 化 に つ い て 共 通 の 充 分 な 関 心 を 分 ち持 っ て お り、 ウ ェ ス ト ミ ン ス タ ー 神 学 会 議(WestminsterAssemblyofDivers)発 行 の 教 科 書 に も 沿 い な が ら、 ス コ ッ トラ ン ドの 長 老 会 派 や 組 合 教 会 主 義 者(Gongregationalists)の 双 方 に よ って 、共 通 の信 条 や信 仰 様 式 を立 証 す る に至 っ た。 マ ー シ ャ ル は 「ウ ェー バ ー に よ る と、 非 カ ル ビ ニ ス トの 教 え の2局 の 精 神 創 出 に役 立 っ た と し、 第1に 第2に 面が近代資本主義者 諸 個 人 の 天 職 で の 勤 勉 を 奨 励 す る 日々 の 行 動 へ の 指 針 、 信 仰 者 に カ ル ビ ン 教 典 に 合 致 す る 心 理 的 救 済 を 含 む 予 定 説 を 挙 げ る が 、17世 紀ス コ ッ トラ ン ドの 牧 師 達 は 、 こ れ ら両 局 面 を 含 み 、 充 分 に ウ ェ ー バ ー 理 論 に も 妥 当 な 方 式 で 説 い て い た 」 こ とで あ り、 ま た 「16世 紀 第2半 期 の 原 初 的 な ス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム と対 照 的 な 新 カ ル ビニ ス トの 牧 父 神 学 の 時 代 」 と要 約 す る57)。 5ス コ ッ トラ ン ド資 本 主 義 の 興 隆 ウ ェ ー バ ー は 、 経 済 活 動 の伝 統 主 義(traditionalism)と して 、一 方 に お け る大 陸 の 前 貸 問 屋 制 に よ る 豪 借 な 経 済 活 動 と 、他 方 に お け る シ レ ジ ア 人 の 農 業 者 を 挙 げ る58)。 そ して ヨー ロ ッパ 中 世 を 象 徴 した フ ッ ガ ー(J.Fugger)の よ う な 商 人 か ら、 近 代 西 欧 社 会 の 経 済 活 動 を 例 証 した ス コ ッ トラ ン ド系 ア メ リカ 人 フ ラ ン ク リ ン(BFranklin)の 掲 げ る 近 代 ビ ジネ ス マ ン 像 へ の 転 換 を 述 べ る。 そ し て貧 民 か ら金 満 家 に 昇 りつ め た ダ テ ィ ニ(Prato,Francesco Datini,1335-1410)が 自 己 の 欲 望 の お もむ く ま ま に 金 を貯 め 、 人 生 の 決 算 と し て 賠 い の た め に 教 会 に 全 世 俗 財 産 を 寄 与 した 行 為 を 挙 げ 、 そ の 対 比 と し て カ ル ビ ニ ズ ム の 資 本 家 は 、 日々 の 生 活 の 中 で 禁 欲 主 義 を も と に 勤 勉 ・倹 約 に よ る 社 会 法 規 に 合 致 す る 経 済 活 動 を 展 開 し、 近 代 的 西 欧 資 本 主 義 を リー ドし た とす る。 ス コ ッ トラ ン ドで の 前 王 政 復 古(Pre-Refromation)時 ド(W.StanfordReid)は 代 の 典 型 的 近 代 商 人 と し て 、 レイ 、 レイ ス 出 身 の 小 船 長 バ ー トン(RobertBart。n)が ウ ェ0バ 主義 の 近 代 プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム に 該 当す る 例 とす る59)。 バ ー トン は 、 私 船 長(privateer)か ら出発 し、 冒険 商人 、徴 税 請 負 人 、 農 園 経 営 者 、 不 動 産 所有 者 、 国王 の代 理 経 営 者 、外 交 June1998北 政 巳:歴 史 と 経 済 一M.ウ ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ トラ ン ドー 21 文 書 伝 達 者 、 金 貸 業 、 銀 行 家 、 王 室 会 計 監 査 官 、 エ デ ィ ンバ ラ 市 監 督 官 を 歴 任 し た 人 物 で あ る60)。 フ ラ ン ク リ ン は 、 海 賊 行 為(piracy)や して 正 当 と した 。 さ ら に1153年 税 金 取 り立 て 行 為(tax-fazming)を 職業 と に は じ ま る ス コ ッ トラ ン ドの 貴 金 属 採 掘 業 も 、1424年 に 国 王 か らの 金 ・銀 の 鉱 山採 掘 権 許 可 と な る が 、 ハ ミル トン侯 爵 等 の 地 主 は ドイ ツ ・フ ラ ン ス ・オ ラ ン ダ ・イ ン グ ラ ン ドの 外 国 人 と共 に 鉱 山 経 営 に 着 手 した 。 彼 は 、 士 地 借 地 権 と費 用 コ ス ト算 出 に 精 通 す る こ とが 必 要 で あ り、 そ こ か ら ウ ェ ー バ ー 主 義 の 価 値 観 に 類 似 し た ス コ ッ トラ ン ド ・カ ル ビ ニ ズ ム を 奉 じ た の で あ る61)。 時 代 が 移 りマ ニ ュ フ ァ ク ト リー(Manufactory,工 場 制 手 工 業)の 時 代 を 迎 え る。16世 紀 末 で は 、 ス コ ッ トラ ン ドの 貿 易 は 製 造 完 成 製 品 の 輸 入 と原 材 料 の 輸 入 に 依 存 し た ま ま で あ り、 そ の 欠 陥 を 補 正 す る経 済 政 策 が 求 め られ 就 中 オ ラ ン ダ の 漁 業 と イ ン グ ラ ン ドの 織 布 貿 易 に 対 抗 で き る こ とが 必 要 で あ っ た し、17世 紀 の ス コ ッ トラ ン ド経 済 思 想 に も 、 そ れ が 反 映 され て い た 。 当 時 の ス コ ッ トラ ン ド社 会 の 意 思 決 定 に は 、 ス コ ッ トラ ン ド議 会(ScottishParliament)、 ス コ ッ トラ ン ド枢 密 院(ScottishPrivyCouncil)、 ventionofRoyalBurghs)力 定 し た。 例 え ば1581年 弐あ っ た が 、 前2者 ス コ ッ トラ ン ド王 立 都 市 連 合 会 議(Conは 工 業 分 野 拡 大 の 政 策 を と り、 諸 法 律 を 制 法 に よ り、 つ い で1597年 に 再 批 准 され た が 、 貧 民 に よ り 良 き 雇 用 機 会 を 与 え る た め に 羊 毛 の 輸 出 を禁 じた62)。16世 紀 末 に は 、 諸 団 体 が 熟 練 労 働 者 不 足 を 補 う た め に 外 国 人 織 布 技 師 招 聴 を 支 援 した 。1633年 に ピー プ ル 市 会 議 員 達 が 紡 績 技 術 向 上 の た め に 、 女 教 師 を雇 い 教 区徒 弟 教 育 に あ た っ た 。1625年 、1633年 市 に マ ニ ュ フ ァ ク ト リを 設 置 す る 法 律 も施 行 され た 。1641年 に は 、国 王 に よ り主 要 都 に は 、 ス コ ッ トラ ン ド製 造 企 業 に 構 造 的 な 欠 陥 と され た 諸 問 題 、 資 本 ・高 品 質 の 原 材 料 調 達 ・熟 練 労働 力 等 の 不 足 、 海 外 諸 国 の 優 越 競 争 力 に つ い て 、 体 系 的 な 解 決 策 が 採 られ 始 め た 。1645年 熟 練 技 師 に は 徴 兵 義 務 免 除 や 税 金 免 除 の 特 権 を 附 与 した 。 そ し て1661年 には 工場 経 営 者 や 、1681年 法 の全 面 的 な重 商 主 義 的 保護 政 策 へ と導 い た。 ス コ ッ トラ ン ド資 本 主 義 成 立 史 に と っ て 、 一 時 代 を 画 す 会 社 が 、 ス タ ン ス フ ィ ー ル ド (J.Stansfield)卿 や ブ ラ ッ ク ウ ッ ド(R.Blackwood)を て5000ポ ン ド(6万 含 む23人 の エ デ ィ ンバ ラ 商 人 に よ っ ス コ ッ ト ・ポ ン ド)を 集 め て ニ ュー ミル ズ(Newmills)の 地 に 、20部 屋 の 織 機 部 屋 と233人 の 労働 者 を 雇 用 して 発 起 され 、 粗 布 か ら繊 細 な 織 物 ま で を 生 産 した 63) 。 工 場 の 成 功 と と も に 、 水 力 利 用 の 動 力 源 設 備 拡 充 、 工 場 と エ デ ィ ンバ ラ 問 の 交 通 手 段 の 改 良 、 レイ ス に 原 材 料 輸 入 用 の 地 下 室 倉 庫 ・エ デ ィ ン バ ラ に 完 成 品 収 蔵 倉 庫 の 他 、 紡 績 工 ・織 布 工 の た め の 施 設 を つ く っ た64)。1681年6月22日 にエ デ ィ ンバ ラで最 初 の新 経 営 者(近 代 的 な 意 味 で は 理 事 会)の 公 式 会 議 が 開 か れ た。 一 番 の 問 題 は 熟 練 技 術 の 獲 得 で あ り、 イ ン グ ラ ン ドか ら8月 に 技 師2名 、10月 を 製 造 した 。 工 場 の 拡 大 は 、1682年3月 に2織 機 器 具 を 導 入 し た。 翌 年 か ら、 絹 装 飾 製 品 に 力 織 機8台 、 同10月 に14台 と拡 大 した 。 同 社 の 完 成 品 は 、 株 主 と エ デ ィ ン バ ラ 商 人 会 社(MerchantCompanyofEdinburgh)に 売却す る 原 則 で あ っ た 。 同 社 の 形 態 は 、 工 場 制 手 工 業 か ら株 式 会 社 へ の 過 渡 期 と云 え る65)。 同 社 は1693年6月14日 法 で21年 間 の 免 税 特 権 を 賦 与 され 、 諸 特 権 を 持 つ 工 場 制 会 社 「 ハ デ ィ ン グ トン州 ニ ュー ミル ン ズ の 羊 毛 マ ニ ュ フ ァ ク トリ株 式 会 社 」(Incorporationofthe 季刊 22 創 価 経 済 論 集 Vol.XXVII,No.1・2 Woolen-manufactoryatNew-MimsintheshireofHaddington)と して 成 立 した 。 しか し 会 社 状 況 は 、 政 治 的 に 不 安 定 な 時 期 か ら保 護 主 義 政 策 の 紡 糸 輸 出 の 禁 止 ・外 国 産 織 布 の 輸 入 禁 止 等 も守 られ ず 、 ま た 土 地 借 地 権 も期 限 切 れ とな り、 ま た ス タ ン フ ィ ー ル ドが1687年 に 逝 去 し彼 自身 の 事 業 が 最 終 的 に は1703年 ラ ック ウ ッ ド(W.Blackwood)や ア ー ト(J.Stewart)卿 に 破 産 に 至 り、 危 機 に 瀕 した 。1695年 マ ク ス ウ ェル(D.Maxwell)が 頃、ブ エ デ ィンバ ラで 、ま たス チ ュ 等 が ロ ン ドン で パ ー トナ ー を 募 り、 資 金 調 達 を 図 っ た。 協 力 した 応 募 者 の 多 く は 、 ロ ン ドン 在 住 の ス コ ッ トラ ン ド人 商 人(徴 税 請 負 人 ・国 家 業 務 代 理 人 ・戦 費 調 達 家 ・植 民 地 貿 易 商 人 達)が 多 か っ た66)。 彼 ら の 動 機 は 、 決 し て 慈 善 家 と し て で は な く、 勘 定 計 算 に た け 合 理 的 判 断 が 下 せ る近 代 資 本 家 と して の 参 画 で あ っ た 。 最 終 的 に は!711年 に 全 パ ー トナ ー が 同 意 し会 社 を 清 算 す る こ と を 決 め 、1713年2-3月 の 間 、 同 社 の 土 地 ・機 械 ・家 屋 ・設 備 等 が 競 売 に か け られ た 。 問 題 は 彼 らの 商 業 活 動 が ウ ェ ー バ ー の 云 う新 カ ル ビ ニ ス トの 概 念 に 包 合 出 来 る か ど うか で あ っ た 。 こ の 点 で 最 も論 議 を 呼 ぶ の が 、!695-1707年 の ダ リエ ン会 社(DarienCompany)で あ る。 同 社 を 初 め 、 こ の 時 代 の ス コ ッ トラ ン ド商 人 達 に は 、 イ ン グ ラ ン ド商 人 の 重 商 主 義 的 商 業 活 動 に 刺 激 さ れ て の 、海 外 進 出 活 動 が あ っ た 。 メ イ ソ ン大 尉(CaptainJ.Mason)の1617-1620 年 間 の ニ ュー フ ァ ン ドラ ン ド(Newfoundland)植 の1621年 の ノバ ・ス コ シ ア(NovaScotia)植 卿 の ブ レ トン岬(CapeBreton)の リ(Urie)の バ ー ク レイ(RBarclay)設 民 活 動 、ア レ ク サ ン ダ ー(WAIexander)卿 民計 画 、1621-1625年 ロ ッチ ン バ ー(Lochinvar)植 民 企 画 、1684年 開始 の ユ ー 立 の 東 ニ ュ ー ジ ャ ー ジ(EastNewJersey)で の クエ イ カ ー 教 徒 植 民 地(の ち 王 室 植 民 地)、1684年 チ ュ ア ー ト町(1686年 間 の ゴー ドン(R.Gordon) の 白発 的 に 亡 命 し た 南 カ ル フ ォ ル ニ ア の ス に 対 ス ペ イ ン戦 争 で 破 壊 され た)等 が 挙 げ られ る67)。 ス ペ イ ン や ポ ル トガ ル が 、 「 不 信 仰 な 活 動 」 に よ っ て 海 外 侵 略 を 通 じ 巨額 な 富 を 蓄 積 した の に 対 して 、 ス コ ッ トラ ン ドは 無 精 と無 知 か ら極 貧 の ま ま で あ っ た 。 しか し信 心 篤 い ス コ ッ トラ ン ド人 は 、全 般 的 な 時 代 の 到 来 と と も に 、 プ ロテ ス タ ン テ ィズ ム 、 カ ル ビニ ズ ム に 則 っ て 海 外 活 動 を 開 始 した と 言 え よ う。1707年 の 「 合 併 」 と と も に 消 滅 した ダ リエ ン会 社 は 、 そ の 最 も 典 型 例 で あ る。 ダ リエ ン 会 社 の 正 式 名 称 は 「ス コ ッ トラ ン ドの ア フ リカ ・イ ン ド 諸 島 との 交 易 会 社 」(CompanyofScotland'FadingtoAfricanandtheIndies)と イ ン グ ラ ン ドの 東 イ ン ド会 社(EastIndiaCompany)の 呼 ばれ 、 成 功 に 対 抗 し 、 ス コ ッ トラ ン ド民 族 の 誇 り を 持 っ て エ デ ィ ン バ ラ と ロ ン ドン で 資 本 を集 め て 株 式 会 社 を 作 っ た68)。 興 味 深 い の は 、 同 社 設 立 に 関 与 した エ デ ィ ン バ ラ 商 人 に は 、 ブ ラ ック ウ ッ ド(R.Blackwood)や フ ォ(J.Balfour)の バル よ うに ニ ュ ー ミル ズ 織 布 工 場 の パ ー トナ ー 達 が 多 か っ た69)。 イ ン シ ャ ー (G.P.lnsh)は 、 ダ リエ ン会 社 設 立 の 意 義 を3点 、 ス コ ッ トラ ン ドか ら観 た 新 市 場 、 特 に ス コ ッ トラ ン ド毛 織 物 輸 出 市 場 を 求 め た 点 、 っ い で 東 イ ン ド会 社 の 独 占貿 易 打 破 の た め に ロ ン ドン で 私 商 人 が グル ー プ と して 行 動 し た 点 、 さ らに エ デ ィ ン バ ラ 商 人 達 が ア フ リ カ 貿 易 を確 立 した 点 を 指 摘 す る70)。 そ れ は ス コ ッ トラ ン ド議 会 の1641年 1681年 法 で 規 定 され 、 さ ら に 法 で 強 調 され た 、 外 国 産 マ ニ ュ フ ァ ク チ ャ製 品 の 輸 入 禁 止 等 の ス コ ッ トラ ン ド保 護 主 義 を 象 徴 して い た 。 と 同 時 に 外 国 か らの 原 材 料 輸 入 も禁 止 し た た め 、 ス コ ッ トラ ン ド内 で の 原 料 供 給 体 制 の 確 立 が 求 め られ た 。 Ju刀e1998北 政 巳:歴 資 本 面 で は1695年 ofScotland)が て は 、1579年 史 と 経 済 一M.ウ 23 ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー に 、 ス コ ッ トラ ン ドの 財 政 確 立 を 目的 に 、 ス コ ッ トラ ン ド銀 行(Bank イ ン グ ラ ン ド人 ホ ラ ン ド(J.Holland)に と1597年 の 貧 民 法 、1606年 、1641年 よ っ て 設 立 され た71)。 労 働 面 に つ い さ ら に1661年 の 徒 弟 法 、1672年 修正 法 に よ り、 安 定 的 な 労 働 力 調 達 を 図 っ た 。 しか し怠 惰 な 労 働 者 に は 厳 しい 罰 金 条 件 、 ク リ ス マ ス 等 の 安 息 日 ・休 息 日は な く長 時 間 労 働 の 経 済 外 的 強 制 に よ る 重 商 主 義 的 政 策 で あ っ た。 この 労働 力 は 「 社 会 的 遊 休 労 働 者 」 か ら調 達 した た め ス コ ッ トラ ン ド教 会 か ら干 渉 を 受 け る こ と は な か っ た72)。 6ウ ェー バ0理 前 述 の16・17世 論 の検 証 紀 の ス コ ッ トラ ン ド ・カ ル ビニ ズ ム に 明 らか な よ うに 、 ス コ ッ トラ ン ド 牧 父 神 学 が 、 商 人 達 に 、 禁 欲 主 義 に よ り時 間 を 守 り勤 勉 に 励 み 、 精 神 的 救 済 を 求 め 、 社 会 的 職 業 に 召 命 す る行 動 規 範 を 与 え た こ と に な る。 しか しス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ズ ム は 、 2つ の 点 で ウ ェ ー バ ー の 論 点 を 越 え て い た 。 先 ず 「ス コ ッ トラ ン ド資 本 主 義 の 精 神 」 と して 歴 史 的 に 考 察 で き た ス コ ッ トラ ン ド人 企 業 者 の 行 動 ・価 値 観 は 、経 験 的 に 形 成 され 、 ウ ェー バ ー仮 説 が掲 げ る西欧 社 会 の経 済 行 為 の性 質 と は対 照 的 で あ る。 っ ま り ウェー バ ー の企 業 者 理 念 が あ っ て 経 済 発 展 した の で は な く、 ス コ ッ トラ ン ド人 の 歴 史 的 経 済 活 動 が ウ ェー バ ー 哲 学 に 結 果 的 に 合 致 し て い た の で あ る 。 第2に ス コ ッ トラ ン ドの 社 会 経 済 史 は 、 そ の 調 査 結 果 と して 、 資 本 家 の 経 済 行 為 の 世 俗 的 倫 理 とカ ル ビ ニ ス ト神 学 の 宗 教 倫 理 観 に 関 連 性 が 見 られ 、17世 紀 に は 双 方 と も並 行 的 に 進 展 した こ と を 例 証 して い る。 そ こ で ス コ ッ トラ ン ドの カ ル ビ ニ ス トの 主 張 を 考 察 して お き た い 。17世 ドで 近 代 資 本 主 義 の 精 神 興 隆 に 熱 心 で あ っ た2入 と マ ッキ ュ ー ン(JohnMacQueen)が 紀 ス コ ッ トラ ン の 牧 師 カ ル ス テ ィ ア ズ(JohnCarstairs) 挙 げ ら れ る73)。 カ ル ス テ ィ ア ズ は 、1647-1662年 の 間 、 グ ラス ゴ ウ市 内の 多 くの教 会 教 区牧 師 を務 めた が 「 忠 誠 の 誓 い 」(OathofAllegiance) を 拒 否 して 牢 獄 に 入 れ られ た 。1666年 の 蜂 起 に参 加 し失 敗 後 、 オ ラ ン ダ に 亡命 、 帰 国 後 エ デ ィ ン バ ラ で 静 か に暮 ら した。 彼 が ダ ー ハ ム の 『敬 神 に お け る 大 き な 利 得 』(GreatGainof Contenting)の 序 に 、 同 書 の 論 点 を補 正 す る 形 で 幾 っ か の 具 体 的 な 経 済 行 動 と信 仰 観 を 明 示 し、 神 へ の 戒 律 に お い て カ ル ビニ ス トの 倫 理 を 擁i護 した 話 は 有 名 で あ る。 ま た マ ッ キ ュ ー ン は 、1666-1688年 ジ ェ イ ム スVII世 間 、 エ デ ィ ンバ ラ の 教 区 牧 師 を 務 め 、 王 立 教 会 副 部 長 と な っ た 。 彼 は へ の 対 抗 宣 言 書 を読 む こ とや 、 ま た ウ ィ リア ム と メ ア リー の た め に 祈 る の を 拒 否 し 、 土 地 委 員 会 か ら権 利 を 剥 奪 さ れ た 。 し か し最 終 的 に は1698年 (Dover)の に は ドー バ ー セ ン ト ・メ ア リー 教 会 牧 師 に 任 命 され た 。 彼 が ス コ ッ トラ ン ド王 立 都 市 会 議 委 員 会(CommissionersoftheRoyalBurghsofScotland)に レイ フ ラ イ ア ズ(Greyfriars)教 対 して の 演 説 や エ デ ィ ン バ ラ の グ 会 の 組 合 員 に 対 して の 聖 簡 の 中 で 、32名 の 名 を 挙 げ 、 敬 神 を 掲 げ 国 富 増 進 に 貢 献 す る 信 仰 心 篤 き 実 業 家 の 実 践 を讃 え た 。 これ は 神 の 基 に 平 等 とす る 世 俗 人 に 対 して 、 社 会 的 偉 業 を 讃 え る こ とで は 画 期 的 な 教 会 価 値 観 の 変 革 で あ っ た74)。 こ の 点 で は サ ル トン(Saltoun)の ヘ ン リ ィ ・フ レ ッチ ャ ー(HenryFletcher)と 彼 の妻 マ ー ガ 季刊 創 24 価 経 レ ッ ト ・カ ー ネ ギ ー(MargaretCarnegie)の ド特 有 の レア ー ド(Laird)と 済 論 集 Vol.XXVIT,No.1・2 活 動 と信 仰 が 注 目 さ れ る。 彼 は ス コ ッ トラ ン 呼 ば れ た 地 主 フ レ ッ チ ャ ー 卿 の 次 男 で 、 サ ル トン の 土 地 を 兄 か ら借 り大 麦 製 粉 工 場 を 経 営 、 近 代 技 術 を 導 入 した 。 妻 マ ー ガ レ ッ トは 、 オ ラ ン ダ ま で 出 か け熟 練 労 働 者 を偽 装 させ て 連 れ 帰 り、 オ ラ ン ダ 最 新 工 場 に 類 似 し た機 械 を 製 造 させ 、 同 工 場 に 設 置 し た 。 そ して 企 業 の 成 功 と 共 に 、 彼 女 の 名 声 は 高 ま り、 彼 女 は さ らに1715年 頃 に 再 び オ ラ ン ダ に 行 き 、 水 車 大 工 や 織 布 工 を 輸 入 し、 本 場 オ ラ ン ダ を 凌 ぐ木 綿 工 場 を 目 指 し、彼 らの 長 男 ア ン ド リ ュー(Andrew)を た 。1716年 オ ラ ン ダ の ラ イ デ ン(Leyden)大 学 に留 学 させ に未 婚 の 兄 の 逝 去 に よ り、 ヘ ン リ ィ が 家 督 を相 続 し た 。 そ こ で 亜 麻(Linen)製 造 分 野 を 業 務 に 入 れ 、 マ ス タ0ソ ン(HenryMasterson)を 助 言 者 に 迎 え た75)。 最 も 典 型 的 な 熱 心 な カ ル ビ ニ ス ト と し て 、 ミ ド ロ シ ア ン(Midlothian)の (Penicuik)の 地 所 を 相 続 し た ク ラ ー ク(JohnClerk,1649-1722)卿 貿 易 を 営 ん で 成 功 し て 地 主 に 転 化 、1679年 彼 が1676-1722年 に 自 ら著 述 した 手 帳 に は ペ ニ ィクイ ック が い る。 彼 の 父 は パ リで に チ ャ ー一ル ズII世 か ら 男 爵 位 を 授 け ら れ た76)。 「我 が 敬 神 の キ リ ス ト と の 全 人 的 約 束 、 そ れ が 聖 な る 精 神 の 援 助 を 投 げ か け る 」(RegisterofAllmypersonalConvenantswithmyGod inChrist,throwTheassistanceoftheHolySpilit)が 年3月3日 の 間 に109以 あ り 、1692年6月26日 か ら1722 上 の 『神 へ の 約 束 』 が 記 録 さ れ て い る77)。 マ ー シ ャ ル は 「ク ラ ー ク 卿 の カ ル ビ ニ ズ ム の 原 理 は 平 等 主 義 政 策 の 源 で あ る 」 と評 し て い る78)。 ま た ク ラ ー ク の ロ ー ン ヘ ッ ド(Loanhead)炭 坑 で の 利 潤 極 大 化 の 試 み は 、彼 の時 間 厳 守 の価 値 観 と関連 し た か ら と され る。 っ ま り ク ラ ー ク卿 は 、 同 炭 坑 で 、 配 下 労働 者 に よ る 最 大 生 産 性 の 追 求 こ そ 、 換 言 す れ ば 、 彼 の 利 潤 極 大 化 の 達 成 に 通 じ る と考 え て い た 。 ス コ ッ トラ ン ドの 宗 教 史 か ら観 れ ば 、1560年 か ら宗 教 改 革 を 経 験 し、1600-1700年 間に は 、 次 第 に 成 熟 した ネ オ(新 、neo)・ カ ル ビニ ズ ム が ス コ ッ トラ ン ド教 会 で の 支 配 的 な神 学 的 立 場 と な っ た が 、 そ れ が 近 代 資 本 主 義 の 倫 理 と一 貫 性 を も つ に 至 っ た 。 こ の ネ オ ・カ ル ビ ニ ズ ム が 、17世 紀 中 頃 以 降 の 世 俗 主 義 的 な ス コ ッ トラ ン ド経 済 活 動 の 中 で 確 立 さ れ 、 近 代 資 本 主 義 精 神 と して 歴 史 的 評 価 を得 た の で あ る。 しか しマ ー シ ャ ル は 、 ス コ ッ トラ ン ドの ネ オ ・カ ル ビ ニ ズ ム と ウ ェ ー バ ー 主 義 と の 不 一 致 は 、 労働 者 全 般 に 波 及 し な か っ た 点 を 挙 げ る。 ま た そ の 理 由 に 、 ウ ェ ー バ ー は ネ オ ・カ ル ビニ ズ ム が 国 家 教 会 と して 社 会 体 制 を 支 え 、 そ の 教 会 か ら の 行 動 規 範 が 禁 欲 的 な 資 本 主 義 を 醸 成 し た とす る が 、 ス コ ッ トラ ン ドで は こ の 運 動 を 推 進 す る 自発 的 な セ ク トも 弱 小 で あ っ た 。 そ れ は 全 体 観 か らみ て 、 労 働 者 階 層 全 般 が 少 な く と も 実 践 的 な カ ル ビ ン 主 義 者 で は な か っ た 点 で あ る。 例 え ば ニ ュ ー ミル ズ 工 場 の 場 合 、 熟 練 労 働 者 は 外 国 若 し く は 土 着 で は な い カ ル ビ ニ ス トか ら、 不 熟 練 労 働 者 は 局 地 的 に 調 達 され た 。 後 者 に は 自 己 利 益 が 主 た る 労 働 理 由 で あ り、 自 ら が 教 会 明 示 の 諸 規 範 に順 ず る と 自認 す る人 は い な か っ た と 云 え よ う79)。 バ ン ・デ ル ・ス プ レ ン ケ ル(vanderSprenkel)は 、 ウ ェ ー バ ー を 批 判 して 、 彼 の 中 国 仏 教 ・社 会 や ユ ダ ヤ 主 義 ・社 会 の 理 解 不 充 分 さ を 挙 げ る。 さ ら に ス コ ッ トラ ン ドの 経 済 的 「 離 陸 」(takeoff)は こ と を 挙 げ る80)。 、1560年 の 宗 教 改 革 で は な く1707年 の 『合 併 』 を 契 機 に 、 生 じ た June1998北 1結 政 巳:歴 史 と 経 済 一M.ウ ェ ー バ0理 25 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー び に か え て 一ス コ ッ トラ ン ド経 済 発 展 と宗 教 倫 理 一 ス コ ッ トラ ン ドの 本 格 的 な 社 会 経 済 発 展 は 、 イ ン グ ラ ン ドとの 合 併 を 通 じて 獲 得 した 一 層 の 経 済 機 会 か ら 、 発 展 した 。 そ れ 以 前 の17世 紀 は 、封 建 社 会 の延 長 上 に あ る、複 雑 な地 理 に よる貧 弱 な国 内 通 信網 ・ 厳 しい 天 候 と頻 発 す る 飢 餓 ・僅 少 な 剰 余 農 産 物 の 国 で あ っ た 。 し か し非 経 済 的 分 野 に お い て は 、 既 に ス コ ッ トラ ン ド資 本 家 が 活 躍 して い た 。 そ して ス コ ッ トラ ン ド商 人 は 、 オ ラ ン ダ の諸 商 港 で の 貿易 拡 大 や 王 立都 市 の 諸 商 人 の地位 向 上 を図 っ た。 1603年 に イ ン グ ラ ン ドと ス コ ッ トラ ン ド間 の 「王 冠 の 結 合 」 が あ り、 そ の 結 果 、 ス コ ッ トラ ン ド=フ ラ ン ス 間 の 貿 易 が 減 少 し、 ま た ロ ッテ ル ダ ム 経 由 の 貿 易 も減 少 し 、 ア メ リ カ 大 陸 や 西 イ ン ド諸 島 との 貿 易 が 増 大 し た81)。 当 時 の ス コ ッ トラ ン ドは 、 未 だ 新 しい 製 造 工 業 を 開 始 す る に 必 要 な 熟 練 労 働 力 も 不 足 し て お り、 原 料 と し て の 羊 毛 や 半 製 品 を 輸 出 し 、 工 業 製 品 や 借 多 品 を輸 入 す る 国 で あ り、 国 内 資 本 不 足 も顕 著 な 状 態 に あ っ た 。 ウ ェ ー バ ー が 例 証 す る よ う な 宗 教 的 寛 容 性 が 近 代 資 本 家 の 倫 理 の 源 で は な く 、17世 紀 ス コ ッ トラ ン ドに 生 じ た よ うな 宗 教 紛 争 が 、 社 会 的 波 乱 や 戦 争 を 巻 き込 み 経 済 発 展 を 阻 害 し、 イ ン グ ラ ン ド軍 隊 の ス コ ッ トラ ン ド占領 期 間 、経 済 活 動 の 全 領 域 が 沈 滞 した 。1660年 1663年 、 の イ ン グ ラ ン ド航 海 法 に よ り、 ス コ ッ トラ ン ド船 舶 は イ ギ リス植 民 地 や ロ ン ドンや イ ン グ ラ ン ド諸 港 に は 直 接 入 港 は で きず 、 そ の た め ス コ ッ トラ ン ド商 人 は 密 輸 出 入 を 手 が け る こ と が 多 か っ た 。 事 実 、18世 紀 末 の ア ダ ム ・ス ミ ス に 代 表 さ れ る 「自 由 貿 易 論 ・夜 警 国 家 論 ・重 商 主 義 撤 廃 」 の 背 景 を 形 成 した82)。 しか し現 実 的 に は 、 全 くイ ン グ ラ ン ド比 し て 競 争 力 の 弱 い ス コ ッ トラ ン ドの 羊 産 業 保 護 政 策 や 、 厳 しい 財 政 金 融 政 策 を と っ た り、 間 違 った 政 治 状 況 に あ った。 こ れ ら の 状 況 打 破 の た め 、 ダ リエ ン計 画 に よ る西 イ ン ド植 民 地 拡 張 政 策 、 ま た ス コ ッ ト ラ ン ド銀 行 創 設 等 、イ ン グ ラ ン ドへ の 対 抗 策 を 進 め る が い ず れ も挫 折 、 結 果 的 に は1707年 の 「 合 併 」 に よ り、 ス コ ッ トラ ン ド商 人 に 対 し て イ ン グ ラ ン ド商 人 と 同 等 の 諸 特 権 が 付 与 され る恩 典 を 得 て 、 初 め て 工 業 化 を 開 始 で き え た の で あ る。 そ こ で 再 度 、 当 時 の ス コ ッ トラ ン ドの 宗 教 と 国 家 の 関 係 に 目 を 向 け る と、 ス コ ッ トラ ン ド宗 教 改 革 の 父 ノ ッ ク ス が 死 去 した 後 の 約120年 間 、 大衆 は長 老 会 派 、国 王 は監 督 会 派 支 持 の 教 会 闘 争 を 展 開 した が 、 最 終 的 に は 後 者 の 勝 利 で 決 着 し た 。 ス チ ュア ー ト朝 は イ ン グ ラ ン ド ・ス コ ッ トラ ン ド両 国 の 王 冠 か ら外 れ 、 オ レ ン ジ 公 ウ ィ リア ム が プ ロテ ス タ ンテ ィ ズ ム の チ ャ ン ピ オ ン と して 就 任 、 ス コ ッ トラ ン ドの 宗 教 組 織 も1690年 的 平 穏 の 到 来 と と も に 、 安 定 し た 。 マ コ ウ レイ(T.BMacaulay)候 1920人 頃 に は 、 政 治 ・宗 教 は 「ス コ ッ トラ ン ドの 以 上 の 牧 師 が 長 老 会 派 で あ り、20人 に 一 人 も 監 督 会 派 に 関 心 を 持 っ て い な い 」 と述 べ た 。 そ し て 長 老 会 派 牧 師 達 は 、30年 間 の 王 政 復 古 か ら監 督 会 派 支 配 の 時 代 に 辛 酸 を な め な が ら も 、 宗 教 的 報 復 と か 復 讐 は な く寛 容 を 持 っ て 臨 ん だ 結 果 、200人 の監督会派牧師 も 新 しい 社 会 体 制 に 恭 順 し 、 カ トリ ッ ク 的 な 風 土 で あ る遠 隔 地 諸 島 や 外 国 移 住 に 活 路 を 求 め 移 住 した 。 1680年 に 「 協 会 」(Societies)を 設 立 し構 成 員 自 ら 「 協 会 員 」(SocietyMen)と 称 し、1706 季刊 創 26 価 経 済 論 集 Vol.XXVII,No.1・2 年 ま で は 牧 師 メ ン バ ー は い な か っ た が 、 聖 ジ ョ ン ・ミ ラ ン(Rev.JohnM'Millan)牧 教 会 か ら追 放 され 、 「カ メ ロニ ア ン 」(Cameronian)と Presbyterians)を 師 が国 呼 ばれ る 「 改 革 長 老 会 派 」(Reformed 作 り、 最 初 の 説 教 者 と な っ た 。 他 方 、 不 思 議 な こ と に 、 新 国 王 の 寛 容 の 精 神 が 時 代 精 神 とな り、 監 督 会 派 牧 師 に も 教 区 牧 師 説 教 壇 が 許 され 、 英 国 国 教 会 の 恩 恵 を 受 け た83)。 ま た1697年 の 障 害 法(BarrierAct)は 、 急 激 な 変 革 は な か っ た が 、 多 くの 長 老 会 派 が 同 意 した 。 1707年 に ス コ ッ トラ ン ドは イ ン グ ラ ン ドに 「 合 併 」 さ れ た が 、 ス コ ッ トラ ン ド教 会 の 自 立 性 は 確 約 され た 。 そ し て1711年 Patronage)が に は 聖 職 授 与 権 復 活 法(ActoftheRestorationof 議 会 で 可 決 され 、1712年5月 か ら実 施 され た が 、 先 述 の マ コ ウ レイ は 「同 法 が 合 併 条 件 を 侵 害 し、 ス コ ッ トラ ン ド教 会 会 議(GeneralAssemblyofChurchofScotland) は 毎 年 反 対 し訴 え た が 、 結 局 同 法 に よ り 同 教 会 か ら の 分 離(secession)・ 始 ま っ た 」 の で あ る84)。 ま た1649.1650年 分 裂(schism)が の 英 国 共 和 政 治 時 代 に イ ン グ ラ ン ドで 出 版 され た 「 敬 神 に よ る 教 義 正 当 化 」 を 訴 え る 『近 代 神 学 の 骨 髄 』(MarrowofModernDivinity) が ス コ ッ トラ ン ド教 会 か ら 弾 劾 され た が 、 ス コ ッ トラ ン ド社 会 に 影 響 を 与 え 、 ア ー ス キ ン (EbenezerandRalfErskine)兄 弟 や ボ ス トン(TBoston)の 様に 「 マ ロ ウ メ ン 」 と呼 ば れ る 新 グル ー プ 牧 師 を 生 ん だ 。 か っ て 聖 職 授 与 権 を 持 っ て い た パ トロ ン は 、 地 主(landedgen七ry) で 主 と して 監 督 会 派 や 旧 教 派 で あ っ た が 、 次 第 に 変 化 し て行 く。1732年 職 授 与 権 の 相 続 権 を 選 挙 で補 う法 案 を 可 決 した 。 同 法 は1712年 に、教 会 会 議 が 聖 法 と は 異 な り、 国 家 制 度 と して 導 入 され た の で は な く、 自発 的 に 教 会 内 で 採 択 され た。 エ ブ ナ ー ・ア ー ス キ ン牧 師 は 、1732年10 果 、1733年 .月の ス タ ー リ ン で の 説 教 で 同 法 を 非 難 した 結 の 同 教 会 会 議 で 叱 責 され 、 彼 を 含 む4人 の 牧 師 が反 対 した が 罷 免 され る に 至 っ た ・ そ こ で 同 年12.月 に ア ー ス キ ン を 調 停 者(Moderator)と Presbytery)を 発 起 し、 独 立 の 組 織 を 宣 言 した 。1740年 参 加 した 。 次 い で1745年 頃 か ら、 同 組 織 が 「国 家 観 」 「 反 自 治 都 市 派 」(Antiburghers)に 別 れ た。 頃 に な っ て も牧 師 の 聖 職 授 与 権 は 大 衆 の 意 向 と は 関 係 な く 決 め られ て い た の で 、 ロ バ ー トソ ン(W.Robertson)博 (Carnock)の に ラル フ ・ア ー ス キ ン も 同 組 織 に の ジ ャ コ バ イ トの 叛 乱85)後 、1747年 の 是 非 か ら 、 「自治 都 市 派 」(Burghers)と しか し1750年 する 「 長 老 会 教 会 」(Associate ジ レス ピ(T.Gillespie)が 会 」(ReliefGhurch)を 士 の 影 響 を 受 け て 、 これ に反 対 し た カ ル ノ ッ ク 同 教 会 か ら追 放 され 、 第 二 の 分 離 と して の 「 救済教 設 立 した 。 彼 ら 「分 離 派 」 は 、 自 由 な 良 心 に 基 く説 教 を 背 景 に 、 よ り厳 しい 道 徳 性 と社 会 活 動 を 訴 え 、 権 威 主 義 的 な 教 会 ・旧社 会 体 制 を 非 難 し て新 しい 時 代 を 願 望 した 。 こ こ に レ イ ド(J・Glass)、 ブ レ ア(H.Blair)、 (R.Haldane)等 グ ラ ス(J.Glass)や ハル デ ィン の 新 しい 時 代 精 神 を 吸 収 し て 社 会 大 衆 を 指 導 す る リー ダ ー が 誕 生 した 。 そ して ヨー ロ ッパ 史 に お い て 、 フ ラ ン ス の 市 民 革 命 に 匹 敵 す る歴 史 的 意 義 を 有 す る イ ギ リス 産 業 革 命 思 想 を リー ドす る ス コ ッ トラ ン ド歴 史 学 派 が 醸 成 され 、 エ デ ィ ンバ ラ ・グ ラ ス ゴ ウ の 地 か ら 工 業 化 を願 い 世 界 各 地 に 拡 散 され る の で あ る87)。 っ ま り ス コ ッ トラ ン ド教 会 ま た カ ル ビ ン 主 義 の 歴 史 は 、源 に お い て は ウ ェー バ ー 学 説 に 合 致 した も の で は な か っ た が 、 歴 史 過 程 の 中 で カ ル ビ ン 主 義 の 分 派 ・分 裂 を 生 み 、 結 果 と し て は ス コ ッ トラ ン ド資 本 主 義 思 想 の 誕 生 を 通 じて 、 ウ ェ0バ ー 歴 史 観 の 傍 証 の ひ とっ と June1998北 政 巳:歴 史 と 経 済 一M.ウ 27 ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ トラ ン ドー 評 価 しえ る に 至 っ た と 云 え よ う。 注) 1)拙 著 『近 代 ス コ ッ トラ ン ド社 会 経 済 史 研 究 』(同 文 舘 昭 和60年)46頁 、拙 稿 「ス コ ッ トラ ン ドとイ ギ リス 産 業 革 命 」(講 座 西 洋 経 済 史II『 産 業 革 命 の 時 代 』 同 文 舘1979年 所 収)254-230頁 2)水 、 天 川 潤 次 郎 『デ フ オ ー 研 究 』(未 来 社1966年)229-230頁 田 洋 『ア ダ ム ・ス ミ ス 研 究 』(未 来 社1968年)238-247頁 ス の 思 想 像 』(新 評 論1976年)・ 。 、 星 野 彰 男 『ア ダ ム ・ス ミ 頁 、 高 島 善 哉 他 『ア ダ ム ・ス ミス と 現 代 』(同 文 舘 昭 和52年)71-73頁 3)G.W.S.Barrow,TheScottishTradition,EssaystinhonourofRonaldGordonCant, ScottishAcademicPress,Edinburgh,1974,178-190.:Plantagent&FionaSomerset Fry,TheHistoryofScotland,Routledge&KeganPaul,London,1.982.pp.182-199. 4)本 論 文 は 、GordonMarshall,PresbyteriesandProfits,Calvinismandthe、DevelopmentofCapitalisminScotland11560-1707,ClarendonPress,Oxford,1980を 参 考 に 、 ス コ ッ ト ラ ン ド宗 教 史 と 経 済 倫 理 、 経 済 発 展 を 究 明 し た 。 校 正 中 に 訳 書 ス タ ン テ ィ ズ ム の 倫 理 と 資 本 主 義 の 精 神 』(大 西 晴 樹 訳 す ぐ 書 房)が 『プ ロ テ 発 行 さ れ た 。 5)MaxWeber,TheProtestantEthicsandtheSpilitofCapitalism,London1971,pp.41, 45,219,222.彼 は1895年 に ス コ ッ トラ ン ドに 旅 行 し 、 彼 の 母 に 長 文 の 手 紙 を 送 り 、 ス コ ッ ト ラ ン ドの 印 象 を 書 い て い る 。MarinaWeber ,MaxWeber:ABiography,London, 1975.pp.207-214. 6)R.H.Campbell,`TheIndustrialRevolution:ARevisionArticle',inScottishHistrical Review,Vol.46,1967p.50.:T.C.Smout,A.HistryoftゐeScottish.Peoples,1560-1830, London,1973.p.491. 7)Marsahll,op.cit.,pp.14-20.:R.H.Tawney,ReligionandtheRiseofCapitalism,Harmondsworth,repin1972が 、 こ の テ ー マ で の 英 国 で の 原 典 で あ り 、H.M.Robertson, AspectsoftheRaseofEconomiclndividualism:ACriticismofMawWeberand hisSchool,Cambridge,1933,A.Hyma,0ん 短5如 η吻,σ αμ α♂乞5mandCommunism, Michigan,1937,P.C.G.Walker,`CapitalismandtheReformation'inEconomicHistort'Review,Vol.8,1937で 扱 わ れ 、 以 後 、 諸 論 争 が 展 開 さ れ て き て い る。 8)A.Maclntyre,`AMistakeAboutCasualityinSocialScience',inP.Laslett& W.G.Runcimaned,Philosophy,PoliticsandSociety,2ndseries,Oxford,1962,ppe54‐ 56. *U 28 A11 fi Vol. XXVII,No.1.2 9) M.H.Lessnoif, The Structure of Social Science, London, 1974. pp.103 f. 0fth, (B.S.Turner), 'Islam, Capitalism and the Weber Theses', in British Journal of Sociology,Vol.25, 1974 Affi 10) J.Torrance, `Max Weber, Methods and the Man', in Archives Europeennes DesociologieWT A.E.S.), Vol.15(1974), pp.127-165. 11) W.S.Reid, W.S.Reid, Skipper Skipper from from Leith Leith : The History of Robert Bartons of Over Barnton, Philadephia, 1962.p.9. 12) Marshall, op.cit., p.31. 13) Weber, op.cit., pp.48-50, 56-59. 14) Ibid., pp.66-69. 15) Ibid., pp.155 ff. 16) F.Raphael, `Max Weber et le j F.J.Fisher, `The Sixteenth Economoc History?', 17) W.Sombart, The Jews and Mo Quinteessence of Capitalism 18) H.See, 'Dans quell capitalisme moderr 'Puritanism and the (1949). pp.3-17.; C ed., Essays in the Economic an Honour of R.H. Ta Controversy: Puritan C.H.Vol.35 (1966), I-it, (D.Little), `v 19) G.M.Meier & R.E.Baldwi York, 1957.; B.Higgins, Econom London, 1959,; N.M.Hans Economic Development', in Can Vol.29(1964), pp.445-455. lytical tion, and New Comparative York, (R.S.Warner) 1968.pp `~o June1998 北 政巳 29 歴 史 と経 済 一M.ウ ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ トラ ン ド 20)K.Samuelsson,ReligionandEconorraicAction,London,1961.;H.M.Robertson,The Ri・e・ μ ・・η ・禰 ・lndividu・ ♂蹴ACriticism・ ∫M・ 欝W・6・ ・ α η痂 ・5・ ん・・♂,Cam- bridge,1933.;A.Fanfani,Catholicism,ProtestantismandCapitalism,London,1935. 21)E.Troeltsch,TheSocialTeachingoftheChristianChurches,London,1931.pp.580一 617. 22)W.Cunningham,ChristianityandEconomicScience,London,!914.pp.69f. 23)Sombart,opcit(Quintessence.,pp.231f,255. 24)R.H.Tawney,ReligionandtheRiseofCapitalism,Harmondsworth,1972.pp.134f 25) W.H.Marwick,`EconomicandtheReformationinScotland',inScottishMagazine, NewSeries,Vo1.15(1931).pp.368f.,371.;Hyma,op.cit.,p.138,;H.Beckerand H.E.Barnes,SocialThoughtfromLoretoScience,NewYork,1961.;E.Fischoff,`The ProtestantEthicandtheSpiritofCapitalism-theHistoryofaControversy',in Socialresearch,Vol11(1944).pp.53-77、 26) G。D.Henderson,TheBurningBush:StudiesinScottisん0ん 解chHistory,Edinburgh, 1957.p.36.;S.G.E.Lythe,TheEconomyofScotlandinitsEuropeanSetting,1550165,Edinburgh,X960.pp.27f.;S.A.Burrrell,`Calvinism,Capitalism,andtheMiddleClasses:someAfterthoughtsonanOldProblem'JournalofModernHistory, Vo1.32(1960).pp.129-144.;Reid,op.cit.,pp.20-24;H.R.Trevor-Roper,`Religion,the Reformation,andSocialChange,inHistricalStudies4,London,1963pp.21.26f.; S.Andreski,`MethodandSubstantiveTheoryinMaxWeber',inBritishJournalof Sociology,Vol.15(1964).p.11;L.A.Clarkson,ThePre-IndustrialEconomyinEngland,1500-1750,London,1972.p.42,;T.C.Smout,.4研5吻o∫ 抗e5co孟 亡ishPeoμ ε8, 1560-1880,London,1973.pp.88f. 27)Robertson,.op.cit(RiseofEconomicIndividualism.,pp.88-100. 28}R.H.Campbell,ScotlandSince1707:TheRiseofanlndustrialSociety,Oxford, 1965.pp.Xl,XII,;ditto,TheRiseandFallofScottishIndustry,1707--1939,Edinburgh,1990.pp.6-9.;H.Hamilton,AnEconomicHistoryofScotlandintheEighteenth Centicry,Oxfbrd,1963.pp.249-254. 29)J.H.S.Burleigh,AChurchHistryofScotland,Oxford,1960・PP・28-35,拙 代 ス コ ッ ト ラ ン ド社 会 経 済 史 研 究 』942頁 、浜 林 正 夫 著前掲 『近 『イ ギ リ ス 宗 教 史 』(大 月 書 店 1987年)、127-132頁 30)1707年 の イ ン グ ラ ン ド と ス コ ッ トラ ン ドの 「合 併 」 に つ い て は 、拙 稿 「18世 紀 ス コ ッ ト ラ ン ドの 経 済 発 展 に 関 す る一 考 察 」.(『 創 大 開 学 記 念 論 文 集 』1971年)18頁;D.Daiches, 30 T11 Ail 1RE 1fVol. XXVII, No.1 • 2 Scotland and the Union, London, 1977.pp.V II, VIII.; T.I.Rae, The Union of 1707, Its Impact on Scotland, Edinburgh, 1974.pp.1-29. 31) Marshall, op. cit., p.65.; G.Bryson, Man and Society: The Scottish Inquiry of the Eighteenth Century, New York, 1968.pp.8-11.; J.G.Kellas, Modern Scotland, The Nation since 1870, London, 1968.pp.6-10. 32) T.Dickson ed., Scottish Capitalism, Class, State and Nation, from before the Union to Present, London, 1980.pp.63-78. 33) J.Craig, A Short Summe of the Whole Catechism, London, 1583.pp.6-13.cit., from Marshall, op.cit., 1760. p.50. X f* pp.49-50, CUMr 333.; ±J E.Gibbon, Autobiography, (G.M. I v Everyman 9 7/ , London, ) 1174 265 I 34) J.Davidson, Some Helps for YoungScholars in Christianity, as they are in use and taught, Edinburgh in 1602, rep in C.Rogers ed., Three Scottish Reformers, London , 1874.pp.137-144. 35) W.Cunningham ed., Sermons by Rev.Robert Bruce, Minister of Edinburgh , Edinbergh, 1843.p.120. 36) E.Muir, John Knox: Portrait of a Calvinist, London, 1929.pp.4-15.; W .C.Dickindon, Andrew Lang, Knox and Scottish Presbyterianism, A.L.Drummond and J.Bulloch 1973.pp.1-15.; W.R.Foster, The Scottish Edinburgh , 1951.pp.45-49.; Church , 1688-1848, Edinburgh, The Church Before the Convenants: The Church of Scot- land, 1596-1638, Edinburgh, 1975.pp.4-6, 13.20. 37) J.D.Mackie, John Knox, London, 1951.pp.23f.; E.Muir, John Knox: Portrait of a Calvinist, London, 1929.pp.307-309. 38) Troeltsch, op.cit(SocialTeachingof Christian Churches)., pp.580-617. 39) J.S.McEwan, The Faith of John Knox, London, 1961.pp.21f, 113f. 40) M.Taylor,`The ConflictingDoctrines of the Scottish Reformation', in E.McRoberts ed., Essays on the ScottishReformation,London, 1962.pp.45-48 . 41) S.A.Burrell,`Calvinism,Capitalism, and the Middle classes: some Afterthoughts on an Old Problem', in Journal of ModernHistory, Vol.32(1960),pp.129-141. 42) J.McEwan, The Faith of John Knox, London,1961.pp.110-112. 43) Marshall, op.cit., p.64. June1998 44)ロ 北 政 巳:歴 史 と 経 済 一M,ウ 31 ェ ー バ ー 理 論 と ス コ ッ ト ラ ン ドー ロ ッ ク は 多 く の 説 教 論 文 を 残 し 、RRollock,FiveandTwentielectures,Edinburgh, 1619に 収 録 さ れ て い る 。 ま た エ デ ィ ン バ ラ 大 学 は 、 ス コ ッ ト ラ ン ドで 歴 史 的 に は ス ン ト ・ア ン ド リ ュ ー 、 ア バ デ ィ ー ン 、 グ ラ ス ゴ ウ 次 ぐ 名 門 大 学 で あ り、18世 紀 に は近 代 ヨ ー ロ ッ パ 社 会 を 先 駆 す る ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ サ ン ス を 主 導 す る 。 ス コ ッ トラ ン ド の 宗 教 と 教 育 制 度 の 関係 に っ い て は 、 拙 稿 「産 業 革 命 期 ス コ ッ ト ラ ン ドの 教 育 組 織 に 関 す る 一 考 察 」(『 創 価 経 済 論 集 』 第4巻1号1974年)49-80頁 。 45)R.Rollock,Lectures,UpontheHistoryofthePassion,Resurrection,andAscension ofourLordsJesusChrist,Edinburgh,1658.pp.6-11. 46)W.Cooper,TheTriumpho∫ 1608-1608,in αChristian:TheOoηd縦o∫Comforち Worker,p.245.;cif.fromMarshall,op.cit.,p.339. 47)J.Abernethy,AChristianandHeavenlyTreatise,London,1630.pp.14-18,38-40, 48)工Abernethy,TheDignityand」 ワutyofaChristiQn,London,1620.p.60. 49)W.Struther,ScotlandsWarning,OraTreatiseofFasting,Edinbugh,1628.p.34., ditto,ChristianObservationsandResolutions,1,Centurie,Edinburgh,1628.pp.6167. 50)Marshall,op.cit.,p.87. 51)G.Sinclair,SatansInvisibleWorldDiscovered,Edinburgh,1685.p.42. 52)D.Dickson,Troth'sVictoryoverError,Kilmarnock,1787.pp.45-49.ditto,A BriefExpositionoftheEvangelofJesusChrist,AccordingtoMatthew,London, 1647.p.154.;D.DicksonandJ.Durham,TheSumofSavingκ ηoωZe吻 ε,Edinburgh, 1871.pp.26-28. 53)Marshall,op.cit.,p.95. 54)J.Durham,ChristO剛o吻,4,Edinburgh1683,London1723.pp.60,64f. 55)J.Durham,HeavenuponEarth,Edinburgh,1685.pp.246-251. 56)D.Lang,VariousPiecesofFugitiveScottishPoetry:PrincipallyoftheSeventeenth Century,2ndSeries,Edinburgh,1853.p.6.;Marshall,op.cit.,p.101. 57)Marshall,op.cit.,p107. 58)D.Forbes,AnEssaysontheHistoryofCivilSociety,Edinburgh,1767.pp.92f.; 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