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スコッ トラン ド ・ ルネッサンス研究(ー)
z7 ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) 科学 革命へ の序走 AStudyontheScottishRenessance(1}AFormationofScientificRevolution 巳 A ㎞ 喩 政 ㎜ 北 会 派 教 会(Presbytery)と 1.は じ め (Episcopary)と 近 代 世 界 の 思 想 史 の 中 で,18世 紀 のス コッ トラ ン ド啓 蒙 主 義 が 近 代 ヨー ロ ッパ の 精 神 世 界 を主 導 して,ス 監 督 派 教 会 に コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス(ScottishRenaissance)と 呼 ば れ る時代 を創 出 し た こ と は 良 く知 ら れ る.(1)ま た, こ の ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス は,単 に 呼 ば れ る主教 派 教 会 との 抗 争 が 展 開 さ れ た が,イ ン グ ラ ン ドの 清 教 徒 革 命 と名 誉 革 命 の 影 響 を 受 け,1690年 に 「穏 健 派 」 と して の ス コ ッ トラ ン ド長 老 教 会 制 度 が 確 立 した.ま た 此 の 年 に イ ン グ ラ ン ドで 「ウ ェ ス トミンス ター 信 仰 告 白」 が 批 准 され た結 果,ス コ ッ トラ ン ド教 会 は 正 統 派 神 学 の 表 明 イ タ リア ・ル ネ ッ サ ン ス か らの 影 響 で は な く, を 明 記 し た 「信 仰 告 白 」 と 「 教 義 問 答 集」 む し ろ16世 紀 の ス コ ッ トラ ン ドで生 じ た 宗 教 (カ テ キ ズ ム)の2制 改 革 に よ る新 価 値 観 の 確 立 の 成 果 と し て,そ こ とに な っ た.ス の 独 自 の 歴 史 ・宗 教 ・文 化 的 背 景 を伴 い な が は,前 ら登 場 した と さ れ る.こ の 部 分 は,い 供 した.(3) つれ本 格 的 に ス コ ッ トラ ン ド宗 教 史 を究 明 す る 過 程 度 を全 面 的 に受 容 す る コ ッ トラ ン ド教 会 に と っ て 者 は 制 度 的,後 者 は 神 学 的 な 支 柱 を 提 そ し て18世 紀 に 至 り基 本 的 に 長 老 会 派 の ス で 明 らか とな る と思 うが,本 稿 ではス コッ ト コ ッ トラ ン ド教 会 と し て の 体 制 が 確 立 す る と, ラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス を,ス コ ッ トラ ン ド固 次 の 課 題 は 教 会 統 治 の 問 題 か ら神 学 上 の 論 争 有 文 化 の 近 代 科 学 革 命 へ の 結 実 ・発 露 と捉 え に 移 り,特 に 「自然 」 と 「 恩 寵」 の理 解 をめ る立 場 で,歴 ぐ り長 老 会 派 内 部 に あ っ て の 福 音 派(Evan- II.ル 史 的 実 像 に ア プ ロー チ し た い. ネ ッ サ ン ス 前 史 一 ス コ ッ トラ ン gelicals)と 穏 健 派(Moderates)と が 先 鋭 化 し た.(4)つ の対立 ま り正 統 派 の 神 学 で は ド教 会 穏 健 派 の 誕 生 神 へ の 絶 対 的 な 無 条 件 の 「依 存 」 が 「堕 落 し 16世 紀 中 葉,ジ た 自然 及 び 人 間 本 性 」(corruptnature)に ョ ン ・ ノ ッ ク ス(John Knox,1514-72)は,1559-60年,カ ル ヴ ィ 対 す る 神 の 「無 償 の 恩 寵 ・ 恵 み 」(free ニ ズ ム に も とつ く ス コ ッ ト ラ ン ド宗 教 改 革 を grace)の 実 践 し た.(2)そ 18世 紀 前 半 に は,ス の 後2世 教 会(ReformedChurch)と 紀 に わ た り,改 革 呼 ば れ る長 老 絶 対 的 優 位 が 確 認 さ れ て い た が, コ ッ トラ ン ド宗 教 界 は 従 来 の 厳 格 な正 統 派 教 義 へ の 固 執 を離 れ,当 時 18季 刊 の 新 しい 自 然 観,哲 け,人 創 価 学 ・道 徳 思 想 の 影 響 を受 間 本 性 の 向 上 や 現 世 の 道 徳 的 義 務 ・実 経 済 論 集Vo1.XXX,No.1 ば 「若 年 の 神 学 者 を 中 心 に,福 音 が 合 理 主義 に代 替 さ れ る 危 機 」 と主 張 した.マ ロー 主義 践 的 道 徳 を 強 調 す る 自 由 ・合 理 的 な 思 弁 を 許 に 立 つ 牧 師 は 「福 音 派 」 と呼 ば れ,の 容 し て ゆ く傾 向 が 見 ら れ た. 頭す る 「 穏 健 派 」 と しば しば 対 立 し た.(6) そ れ を 象 徴 し た事 件 が 起 こ る.1714年 ラ ス ゴ ウ 大 学 の シ ム ス ン(J.Simson)神 ち に台 にグ シ ム ス ン教 授 の 教 え 子 で ス ン ト ・ア ン ド リ 学 ュ ー ズ 大 学 の 神 学 ・教 会 史 の 教 授 と な っ た キ 教授は 「 神 学 講 義 で不 必 要 な 意 見 」 を 述 べ た ャ ン ベ ル(A.Campbel1)教 理 由 で教 会 法 廷 に 訴 え ら れ た が,1717年 には 『 使 徒 達 は 狂 信 家 で は な か っ た こ との 証 明 』 ス コ ッ トラ ン ド教 会 は 「異 端 性 は 認 め られ な を発 表 し,啓 示 思 想 に 反 対 す る理 神 論 者 へ の い が 不 快 な 表 現 を 使 わ な い 」 と の 警 告 を与 え 対 抗 を,彼 た.さ ち に 数 年 後 に 同 教 授 は 「自然 理 性 と堕 落 し た 自然 の 力 能 を過 大 に 評 価 す る仮 説 を 適 授 は,1730年 に らの 論 拠 を も と に 反 駁 を 試 み た. そ こ で 先 ず テ イ ン ダ ル(M.Tindal)の 『創 造 と と も に 古 い キ リ ス ト教 』 に お け る 基 応 し た ア ル ミニ ウ ス 主 義 者 」 との 理 由 で 再 び 本 的 命 題,つ 訴 え ら れ,教 間 精 神 の 不 滅 性 に つ い て の 我 々 の 知 識 は,超 会 法 廷 で 形 而 上 学 的 な 思 想 をめ ぐ る 活 発 な 論 議 の 上 で,1729年 に僅 差 の 評 決 で 「 停 職 処 分 」 を 受 け た.そ の理 由 と して まり 「 神 の 存 在 と完 全 性 及 び 人 自然 的 な支 持 に よ らず に獲 得 で きる」 か ら出 発 し て,人 類 史 の 客 観 的 研 究 の過 程 で 命 題 を 「理 性 と 自 然 の 地 位 を 不 当 に 向 上 さ せ る」 こ 証 明 で き る史 実 を 見 極 め る と し た.も とに あ っ た が,彼 れ が 不 可 能 で あ れ ば 「人 類 に は 超 自 然 的 な 教 の 思 想 自体 は 当 時 の グ ラ ス し,そ ゴ ウ 大 学 の 「自 由 な 弾 力 的 思 考 」 を 愛 好 す る 示 が な け れ ば 自 ら で は知 識 が 発 見 で きな い 」, 大 学 人 か ら絶 対 的 な 支 持 を受 け,次 そ れ 故 に 「人 類 に は 自 然 宗 教 で さ え も,超 の 「改 良 の 時 代 」 を 予 想 させ る も の で あ っ た.(5) 他 方,ス コ ッ トラ ン ド教 会 は,カ ル ヴ ィニ ズ ム の 徹 底 化 を 目指 し た 動 き に は,逆 に告 発 自 然 的 啓示 が不 可 欠 」 の結 論 が 引 き出 され る こ と に な る.(7)キ ャ ン ベ ル の 主 張 は,自 然宗 教 を犠 牲 に し て 啓 示 を 誇 張 す る こ と で は な く, に 回 っ た の で あ る.こ れ は1718年 に オ ク ス フ 啓 示 擁 護 の た め に 「人 類 史 に 関 す る合 理 的 な ォ ー ドの 神 学 者 フ ィ ッ シ ャ ー(EFisher) 自由 な研 究 」 を奨 励 す る こ とに あ っ た.そ が 『 近 代 神 学 の 精 髄 』 を 再 刊 し た 時 に,「 キ て 宗 教 に つ い て も,経 験 主 義 的 な 探 究 方 法 が, リス ト教 徒 と して の 心 の 確 信 」 を 強 調 しす ぎ 仮 説 設 定 に よ る推 論 へ の 対 応 よ り も遥 か に合 「信 仰 者 に 必 要 な 道 徳 性」 を 欠 落 し て い る と 理 的 判 断 で あ り,啓 示 さ れ た 事 物 の 判 断 基 準 の 理 由 か ら,ス も 自明 の 概 念 や 命 題 で あ る事 象 の 本 性,一 コ ッ トラ ン ド教 会 総 会 で 「精 し 般 髄 主 義 者 は 神 秘 主 義 と情 緒 主 義 に 流 れ す ぎ 的 格 言 や コ モ ン ・セ ン ス の 諸 原 理 の 中 に 見 出 る」 と判 断 し,2原 さ れ な くて は な ら な い と の 思 考 に 達 し た.(8) 則 の 「ウ ェ ス ト ミン ス タ ー 信仰 告 白」 と 「 教 義 問 答 集 」 に 反 す る 「無 キ ャ ンベ ル 教 授 は1736年 に,ス 律 法 主 義 」(antinomianism)と 教 会 の 総 会 で 尋 問 を受 け た が,彼 し た.し の 裁 決 を下 か し 『 精 髄 』 を支 持 す る マ ロ ー 主 義 者(Marrowmen)と 呼 ば れ た 人 々 か ら観 れ 決 は行 わ ず,聖 コ ッ トラ ン ド 自身へ の裁 職 者 ・教 師 一 般 へ の 「誤 解 を ま ね く疑 わ しい 表 明 や 命 題 を 用 い な い よ う に September2000北 政 巳: ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) と 」 の 警 告 に 終 っ た.こ の 判 断 こ そ,ス ト ラ ン ド教 会 総 体 の 中 に,判 義 」(dogma)か コッ 断基 準 に 「教 Ig ま た 当 時 の 大 学 で の 神 学 授 業 も シ ム ス ンや キ ャ ン ベ ル(A.Campbell)以 方 向 に 向 か っ た.ロ ら 「道 徳 性 」(morality) 降 は,新 バ ー トソ ン を 後 継 して 総 へ の 時 代 的 思 潮 が 見 ら れ,「 教 会 内 で 啓 蒙 的 会 議 長 に 就 い た ヒ ル(G.Hill)は,最 見 解 が 漸 増 しつ つ あ る こ と を表 して い た 」 の 粋 な カ ル ヴ ィ ン 主 義 者 と見 ら れ た が,ス で あ る.(9) しい も純 ン ト ・ア ン ド リュ ー ズ 大 学 の 神 学 講 義 に お い て, そ し て1760年 頃 に は ス コ ッ ト ラ ン ド教 会 内 で りベ ラ ル な 牧 師 群 が Party)と そ の 準 備 と して の 健 全 な論 理 学 を挙 げ,リ ー ド(T 「穏 健 派 」(Moderate し て 確 固 と し た 地 位 を 占 め た が, .Reid),ベ ー コ ン,ロ 学 習 を 奨 励 し た.こ ィ ッ ク等 の著 作 の ス コ ッ トラ ン ド論 理 学 そ の 象 徴 が ロ バ ー ト ソ ン(W.Robertson) は,独 が ス コ ッ ト ラ ン ド教 会 の 総 会 議 長(Modera- り,特 に 「 精 神 の 諸作 用 」 へ の 関心 を強 調 し tor)へ た.つ の 就 任 で あ っ た.(10)彼 主 張 は,教 ら穏 健 派 の 会 制 度 と社 会 制 度 の 双 方 を 同 等 に 重 視 を す る 特 徴 を も ち,基 本 的 に は1712年 牧 師 任 免 権 法(PatronageAct)を の 容 認 し, 急 進 的 な 牧 師 の 推 薦 権iが 会 衆(Congregation)に あ る と 主 張 す る 「人 民 派 」 ・「福 音 派 」 に も 反 対 し,彼 ら人 民 派 の 教 会 規 律 無 視 自 な 自然 哲 学 や 道 徳 哲 学 へ の 入 門 と な ま り ス コ ッ トラ ン ド道 徳 哲 学 は,こ の よ う な 内 省 的 な精 神 構 造 ・力 能 ・作 用 へ 注 目 す る方 法 と実 践 倫 理 学 へ の 関 心 の2要 素 が, 重 要 な 並 柱 と な っ た の で あ る.(13) 彼 ら穏 健 派 牧 師 の 説 教 は,当 時のス コ ッ ト ラ ン ド社 会 の 情 報 伝 達 中枢 をつ とめ,広 教 会 組 織 を通 じて,さ 範な ま ざ ま な 人 物 と思 想 の を 智 め な い 教 会 委 員 会 の 怠 慢 を 叱 責 し た.そ 交 流 の 仲 介 を 果 た し,種 々 な 文 芸 団 体 との 自 れ を1752年 由 な 議 論 ・討 論 を供 し,ス に,ロ (H.Blair)や バ ー トソ ン は 盟 友 ブ レ ア ヒ ュ ー ム(J.Hume)と 穏 健 派 宣 言 と言 われ る 語 り, コ ッ トラ ン ド啓 蒙 思 想 の 醸 成 に 貢 献 し た.(14) 『委 員 会 の 判 決 に 反 対 III.ス す る 諸 理 由 』 を 総 会 で 公 表 し,彼 らの 基 本 原 コ ッ トラ ン ド文 芸 諸 団 体 の 成 立 理 で あ る 「社 会 的 人 間 」 ・「社 会 的 秩 序 」 ・「法 へ の 服 従Jを 明 示 した . そ の 結 果,ロ 18世 紀 の 後 半 に,ス バ ー トソ ン達 は 総 会 で の 委 員 会 判 決 の 破 棄 を 勝 ち 取 り,そ 主 流 と な っ て ゆ く.ロ の 後,穏 健派が バ ー ト ソ ン は,1766- コ ッ トラ ン ドに 数 多 く の 文 芸 機 関 が 設 立 さ れ 文 化 運 動 を展 開 し た こ と か ち,こ の 時 代 が 「改 良 の 時 代 」(Ageof Improvement)と 呼 ば れ る.(15)つ ま り此 80年 ま で ス コ ッ ト ラ ン ド教 会 総 会 議 長 を,ま の 時 代 の ス コ ッ トラ ン ドの 知 識 人 は,会 た1762-93年 議 論 を 好 む 極 め て 社 交 的 な 人 々 で あ っ た.そ と め た.(11)彼 第 に まで エ デ ィ ン バ ラ大 学 学 長 をつ ら 穏 健 派 の 主 張 の 力 点 は,次 「予 定 ・永 罰 ・義 認 」 か ら 「良 き 生 活 を 達 成 す る た め の 技 術 」 へ と移 行,ア ダ ム ・ス 話 ・ こ に は 専 門 的 な知 的 職 業 と 言 わ れ る ス コ ッ ト ラ ン ドの 大 学 教 授,聖 職 者,弁 護 士 達 が 一般 大 衆 に,積 極 的 に 説 得 的 に 働 きか け る動 き が ミス の 道 徳 哲 学 の 倫 理 的 背 景 の 形 成 に つ な が み られ た.こ の 知 的 連 環 か ら,ス っ た.(12) ド伝 統 の4大 学 と教 会 と法 律 を基 盤 とす る文 コ ッ トラ ン 20季 刊 創 価 済 論 集VoLXXX,No.1 た. 芸 諸 団 体 が 登 場 し た. 先 ず1716-74年 経 の 間,エ デ ィ ンバ ラ で 発 起 次 い で,ス コ ッ ト ラ ン ド文 芸 運 動 の 社 会 的 さ れ た 哲 学 団 体 の ラ ン ケ ニ ア ン ・ク ラ ブ 改 良 ・拡 大 に 貢 献 し た エ デ ィ ン バ ラ 哲 学 協 会 (RankenianClub)が (PhilosophicalSocietyofEdinburgh)が 挙 げ ら れ る.(16)ラ ケ ニ ア ン ・ ク ラ ブ は,エ ン デ ィ ン バ ラ大 学 の 論 げ ら れ る.同 協 会 は,エ 挙 デ ィ ンバ ラ 大 学 解 剖 理 学 教 授 ス テ ィ ー一ブ ン ス ン(G.Stevenson), 学 初 代 教 授 の マ ン ロ ー(A.Munro)が 数 学 教 授 マ ク ロ ー リ ン(C.Maclaurin),歴 知 識 の 改 良 ・普 及 の た め の 組 織 に 端 を 発 し て 史 学 教 授 マ ッ キ ー(C.Mackay)道 い た が,そ 授,プ 徳 哲 学教 リ イ ン グ ル(J.Pringle)卿 ・教 授, れ に1737年 医学 に同 大学 数 学 教 授 の マ ッ ケ ル ロ イ(C.McElroy)が 関 心 を 自然 哲 ア バ デ ィ ー ン 大 学 マ ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ の 道 学 の 全 領 域 に 拡 大 す る よ う に 提 案,そ 徳 哲 学 教 授 タ ー ン ブ ル(G.Turnbul1)を 理 さ れ て 自 然 ・哲 学 知 識 改 良 協 会(Society 心 に 大 学 教 授6名,聖 士 の 法 律 家7名 職 者7名,判 中 事 と弁 護 を中心 に エ デ ィンバ ラ市 の新 進 気 鋭 の 有 能 な 紳 士 達 か ら 構 成 さ れ た.(17) こ の ク ラ ブ の 目的 は 「会 員 間 に お け る 自 由 れが受 forImprovingNaturalKnowledge)と 活 動 し た.そ して 「哲 学 協 会 」 の 端 緒 と な っ の 第2次 ジ ャ コ バ イ トの 乱 の 影 響 た.1745年 れが を 受 け 数 年 間 は 活 動 の 停 止 を 余 儀 な く さ れ, な 談 論 と合 理 的 精 神 に も と ず く相 互 啓 発 」 に マ ッ ケ ル ロ イ の 企 画 し た 機 関 紙 発 行 も容 易 に あ り,バ は 実 現 し な か っ た.(21)1752年 ー ク リ ィ ー(G.Berkeley)と も熱 に,協 心 な 書 簡 交 換 し た こ と で も 有 名 で あ る.(18) 編 成 さ れ ケ イ ム ズ 卿(H.Home,Lord こ の ク ラ ブ に つ い て,ウ Kames)を 1ace)は,「 ォ ー レ ス(G.Wal- ラ ン ケ ン ・ク ラ ブ の メ ン バ ー は, 副 会 長,ヒ 会 は再 ュ ー ム(D.Hume) と マ ン ロ ー を 書 記 と し て 活 動 を 展 開 し,1771 自 由 な 思 想 ・積 極 的 な 探 究 ・寛 大 な 感 情 ・論 年 ま で に4冊 理 的 な 推 論 ・合 理 的 な 趣 味 の 追 求 ・文 章 表 現 考 察 』(EssaysandObservations,Physical の 推 進 等 を ス コ ッ ト ラ ン ド地 域 内 に 普 及 さ せ andLiterary)を る の に 貢 献 し,特 国 王 か ら 王 立 特 許 状 を 得 て,「 エ デ ィ ン バ ラ に 現 在 の ス コ ッ ト ラ ン ド文 芸 界 の 高 い 評 価 は,こ の グルー プ の推 進 す る の機 関 紙 『物 理 ・文 芸 的 論 文 と 刊 行 し た.ま 王 立 協 会 」 に 発 展 し た.そ た1783年 には の機 関 紙 冒頭 に 方 式 と精 神 に よ る と こ ろ が 大 き い 」 と 述 べ 「自 然 哲 学 と 文 学 」 の 奨 励 が 掲 げ ら れ た が , る.(19)つ この協 会 の主要 役 職 は前 述 の ラ ンケ ニ ア ン ・ ま り ラ ン ケ ニ ア ン ・ク ラ ブ は,親 イ ン グ ラ ン ドの ス コ ッ ト ラ ン ド名 士 達 の,当 ク ラ ブ ・メ ン バ ー が 占 め て お り,そ 時 イ ン グ ラ ン ドで 使 わ れ た 英 語 が ス コ ッ ト ラ 文 学 よ り も 圧 倒 的 に 自 然 哲 学 に 力 点 が 置 か れ, ン ドに お い て も 日 常 語 と な っ て ゆ く歴 史 的 運 事 実 と 観 察 結 果 の 収 集 が 強 調 さ れ た.(22) 動 を 推 進 し,し か も 質 的 に も ギ リ シ ャ ・ロ ー マ の 優 れ た 作 品 に 匹 敵 し,英 語 が 思想 の表 ま た1752年 に,グ gow)が こ と に 多 大 に 貢 献 し た.(20)そ よ っ て 創 立 さ れ た.当 ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス の 核 と な る 団 体 と な っ 「グ ラ ス ゴ ウ 文 芸 協 会 」(LiteraturySocietyofGlas- 現 ・伝 達 の 最 良 の 道 具 ・手 段 と し て 完 成 す る して ス コ ッ ト ラス ゴ ウ で の 結 果, は13講 同 大 学 教 授9人 座 が あ っ た が,文 を 含 む12名 の名士 に 時 の グ ラ ス ゴウ大 学 に 芸 課 程 の 人 文 学 ・ラ September2000北 政 巳:ス テ ン 語 教 授 ロ ス(G.Ross),ギ ム ー ア(J.Moor),論 Clow),道 21 コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(ユ) リシ ア 語 教 授 理 学 教 授 ク ロ ウ(J. 徳 哲 学 教 授 ス ミ ス(A.Smith), 続 い て1754年 に エ デ ィ ン バ ラ に,画 ゼ イ(A.Ramsay)が 相 談 して ヒュ ー ム と ス ミス に 「エ デ ィ ン バ ラ 選 良 協 会 」(Select SocietyofEdinburgh)を 自 然 哲 学 教 授 デ ィ ッ ク(R.Dick)の5人, 設 立 し,そ 専 門 課 程 の 神 学 教 授 リ ー チ マ ン(W.Leech- 設 立 集会 で man),法 の 向 上 ・改 良 」 を 目 的 と し た.こ 学 教 授 リ ン ゼ イ(H.Lindesay), 医 学 教 授 カ レ ン(W.Cullen),解 剖 学 ・植 物 学 教 授 ハ ミ ル ト ン(R.Hamilton)の4人 参 加 し た.(23)当 が 時 の グ ラ ス ゴ ウ に は1743年 に 市 長 の コ ク ラ ン(A.Cochrane)が た 創立 し 「政 治 経 済 学 ク ラ ブ 」(PoliticalEcor卜 omyClub)が あ り,1751年 には 的 自 由 」 に 関 す る 講 義 を 行 っ た.グ 文 芸 協 会 も,設 伸 ば し,哲 立2年 後 に は23名 「自 然 ラス ゴウ に会 貝 数 を 学 者 ヒ ュ ー ム(D.Hume)の 他, グ ラ ス ゴ ウ 文 芸 協 会 の 例 会 は,1752年2月 ヒュー ムの (Loughborough)卿 の ロ ッ ク ス バ ラ で ロ ス リ ン(Rosslyn) 伯 爵 と な る ウ ェ ダ バ ー ン(A.Wedderburn), 後 の モ ン ボ ド(Monboddo)卿 と な るバ ー ネ 著 名 な思 想 家 カー ライ ル(T.Carlisle)等 の12名 で 結 成 さ れ た.で き る か ぎ り選 良 な 会 員 を 維 持 し て ゆ く 基 本 方 針 に も か か わ ら ず,会 員 数 は 翌 年 に は83名, さ ら に 数 年 を 経 て 青 年 貴 族 ・開 名 的 な 地 主 達 の 追 加 加 入 に よ り130名 ま で 膨 れ 上 が っ た が, 代 の 大 半 の 著 名 人 が 包 合 さ れ る こ と に な り, 「歴 史 著 作 の 文 章 構 成 に つ い て 」 か ら 開 始 さ れ た が,1月 以 外 に,後 の 会 に は発 こ の 協 会 に ス コ ッ ト ラ ン ドが 生 み 出 し た 同 時 同 市 の 指 導 的 な 商 人 も 参 加 し た.(24) の ムー ア の発 起 「哲 学 研 究 の 遂 行 」 と 「会 員 話 術 ッ ト(J.Barnet)や に同 メンバー と な っ た ア ダ ム ・ス ミ ス が,1755年 起 の3名 家 ラム に 準 備 会 で は ス ミス が 『商 業 論 』 を 紹 介 し た.ま た彼 は 所謂 「雄 弁 の た め の 素 晴 ら し い 学 校 」 が 形 成 さ れ た.(27) そ し て エ デ ィ ン バ ラ選 良 協 会 の 活 動 と メ ジ 例 会 で 自 ら の 構 想 す る 『道 徳 感 情 論 』 の 一 部 バ ー を 基 盤 に,18世 を 述 べ た 記 録 が あ る.グ を代 表 し社 会 発 展 に 尽 力 す る親 イ ン グ ラ ン ド は ラ ス ゴ ウ文 芸 協 会 で 「才 気 縦 横 の 活 発 な 論 議 」 が 特 徴 と さ れ, 紀 後 半 の ス コ ッ トラ ン ド の 二 つ の 実 践 団 体 が 発 起 さ れ た.先 ず1723年 熱 弁 で 有 名 な ス ミス の 愛 弟 子 ミ ラ ー 教 授 と に ス コ ッ ト ラ ン ド地 域 経 済 の 発 展 を 志 向 し て 1764年 「ス コ ッ ト ラ ン ド農 業 知 識 改 良 者 協 会 」(The 判 した に ア バ デ ィ ー ン か ら到 来 し ス ミス を 批 「常 識 哲 学 の 父 」 と 言 わ れ る リ ー ド (T.Reid)間 の論 争 は 「ミ ラ ー=リ ー 争 」 と 呼 ば れ 社 会 的 注 目 を 集 め,18世 ッ ト ラ ン ドの ric)へ ド論 紀 スコ 「雄 弁 」(Eloquence=Rheto- の 関 心 を 象 徴 し て い た.(25)し ア メ リ カ 独 立 戦 争 の 勃 発 し た1776年 SocietyofImproversintheKnowledgeof AgricultureinScotland)が の 目 的 は,1755年 に エ デ ィンバ ラ選 良協 会 の 下 部 組 織 と して 発 起 さ れ た か し 頃 か ら, 設 立 さ れ た.こ 術 ・科 学 ・製 造 業 ・ 農 業 「エ デ ィ ン バ ラ 技 奨 励 協 会 」(The EdinburghSocietyforEncouragingArts, 内 部 規 律 が 乱 れ て 会 則 が 守 ら れ な く な り,出 Sciences,Manufacutures,Agriculturein 席 者 も減 り,1780年 Scotland)に 頃 に は,そ を 終 え て 閉 会 し た.(26) の歴 史 的役 割 も 継 承 さ れ た.同 協 会 は,産 業 技 術 の 発 展 の 貢 献 し た 科 学 者 ・実 業 家 に 賞 22季 刊 金 や 各 種 の 賞 を 提 供 し た.(28)そ 創 価 して 同 協 会 の 下 部 組 織 と し て,1761年6月 にア イル ラ ン ド 人 シ ェ リ ダ ン(T.Sheridan)が 経 済 論 集VoLXXX,No.1 ル ・カ レ ッ ジ の 学 長 と な っ た キ ャ ン ベ ル(G. Campbell),医 師 で 同 カ レ ッ ジの学 部 長 の デ エ デ ィ ン ィ ビ ッ ド ・ ス キ ィ ー ン(D.Skene),同 数 学 バ ラ で 行 っ た 連 続 公 開 講 座 に 端 を 発 し た 「ス 教 授 の ス チ ュ ア ー ト(J.Stewart),牧 師 の コ ッ ト ラ ン ド に お い て イ ン グ ラ ン ド語 の 読 ト レ イ ル(R.Trai1)に 書 ・会 話 を 促 進 さ せ る 協 会 」(TheSociety 1761年 forPromotingtheReadingandSpeaking 授 の ジ ェ ラ ー ド(A.Gerald),同 る.シ ェ リ ン グ は,ブ ー ド ン(T リ テ ン 島 に お け る共 通 Farquar),貴 言 語 と し て の イ ン グ ラ ン ド語(英 語)の が 教 育 水 準 の 向 上 に 貢 献 し,そ 読 法(elocution)と 普及 の ため に は朗 レ ト リ ッ ク が 有 効 と信 じ て 活 動 を 展 開 し,彼 頃 に は 同 カ レ ッ ジ の 道 徳 哲 学 ・神 学 教 あ oftheEnglishLanguageinScotland)で は300人 の 名 士 を集 め よ っ て 結 成 さ れ, Ross)が .Gordon),牧 神 学教 授 ゴ 師 フ ァ ー カ ー(J. 族 御 抱 え 家 庭 教 師 の ロ ス(J. 追 加 参 入,さ ら に6名 マ ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ の 自 然 哲 学 教 授 の ジ ョ ー ジ ・ス キ ー ン(G.Skene),キ ン グ ス ・カ レ ッ ジ の 元 校 長 の オ グ ル ヴ ィ(W.Ogilvie)や ダ ンバ て エ デ ィ ン バ ラ の セ ン トポ ー ル 教 会 で 英 語 普 ー(J 及 の 意 義 と 朗 読 法 に つ い て 各8回 マ ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ の 道 徳 哲 学 教 授 ビ ー デ の連 続講 義 を 行 っ た こ と で も 有 名 で あ る.(29) 1761年 の シ ェ リン グ の 夏 季 講 義 に 参 加 し た .Dunbar),牧 師 ト レ イ ル(W.Trai1), ィ(J.Beattie),牧 師 ト レ イ ル(J.Trail) が 参 加 し た.(31)同 協 会 は,毎 月 第2・ 第4 ス コ ッ ト ラ ン ド教 会 穏 健 派 の サ マ ヴ ィ ル 水 曜 日 に 開 催 さ れ,会 (T.Sommerville)は,講 題 の 中 か ら 告 示 さ れ た テ ー マ を め ぐ り,「 論 の間 に 義 を受 講 し た 人 々 「英 語 朗 読 法 が ス コ ッ ト ラ ン ドの 学 問 研 究 者 に 新 し い 方 向 性 を 与 え,正 確 な発 音 と 則 に示 され た哲 学 的 主 文 」 報 告 と 「質 疑 」 が 行 わ れ た.特 ャ ン ベ ル は,13年 にG・ キ 間 に わ た り雄 弁 に 関 す る 論 優雅 な読 み 方 が上 流 階級 の 人々 に とって公 で 理 学 ・文 法 ・字 句 用 語 ・文 章 連 結 技 術 を 発 表 の 演 説 の 不 可 欠 な 条 件 とな っ た」 と記 録 し し,1776年 た.(30) し た.(32) そ し て 地 方 都 市 の ア バ デ ィ ー ン で,1758年 に別 名 「賢 人 ク ラ ブ 」(WiseClub)と 呼 ば には こ れ ら ス コ ッ ト ラ ン ド文 芸 諸 団 体 が 特 に 英 語 に 関 心 を も っ た 点 に 注 目 さ れ る.つ れ るグ ラ ス ゴウ文 学 協会 の アバ デ ィー ン版 と 1707年 し て,ア が 強 ま り,特 バ デ ィ ー ン 大 学 の マ ー シ ャ ル ・キ ン グ ズ 両 カ レ ッ ジ の 教 授 に よ り,従 ク ラ ブ 」 を 基 に,ア 来 の 「神 学 バ デ ィー ン哲 学 協 会 『レ ト リ ッ ク の 哲 学 』 を 出 版 ま り の 合 併 以 後 に 親 イ ン グ ラ ン ド派 の 勢 力 に1715,1745年 の2度 王 党 主 義 者 の 反 乱 鎮 圧 に よ り,さ ラ ン ド と の 経 済 協 力 は 増 加 し た.そ にわたる らに イ ン グ こで は ス (ThePhilosophicalSocietyofAberdeen) コ ッ ト ラ ン ド 人 側 で の 標 準 英 語(Standard が 設 立 さ れ た.当 初 は キ ン グ ス ・カ レ ッ ジ の English)の 校 長(regent)リ ー一 ド(T.Reid),彼 の 効 果 的 な伝 達 や 説 得 的 な 表 現 能 力 の 行 使 が の 又従 習 得 と 向 上 が 必 須 と さ れ,知 兄 弟 の 同 カ レ ッ ジ 医 学 部 教 授 の グ レ ゴ リィ 求 め ら れ た.特 (J,Gregory),牧 ら イ ン グ ラ ン ド,ロ 師 で1759年 よ りマ ー シ ャ 識 に 合 併 後 に ス コ ッ トラ ン ドか ン ドン に 出 て 議 会 で 発 言 September2000北 政 巳:ス す る議 員 に と っ て,正 z3 コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(D し い 英 語 の 習 得 は極 め た.(35) て 大 事 な 緊 急 課 題 で あ っ た.(33)ま た 他 方 で IV.ス は,ス 導 入 さ れ,英 語 を教 え る 資 格 教 師 へ の社 会 的 需 要 が 増 大 し た.(34)特 「 選 良 協 会 」 の 第2の に 後 者 に つ い て は, 下 部 組 織 を構 成 し て い こ の ス コ ッ トラ ン ド哲 学 運 動 の 背 景 に は, 18世 紀 の ス コ ッ トラ ン ドの4つ が 指 摘 さ れ る.イ の大 学 の役 割 ン グ ラ ン ドの オ ク ス フ ォ ー ドと ケ ン ブ リ ッ ジ両 大 学 が 伝 統 的 な 貴 族 教 育 の み に あ っ た 時 代 に,ス ス コ ッ ト ラ ン ドが ル ネ ッ サ ン ス の 時 代 か ら 20世 紀 に 至 る ま で に,特 で,大 ス著 た 「 促 進 協 会 」 の 活 動 が 評 価 さ れ た. は,一 コ ッ トラ ン ド科 学 教 育 の 結 実 コ ッ トラ ン ド初 等 教 育 に も標 準 英 語 が コ ッ トラ ン ド4大 学 に 科 学 と軍 事 の 分 野 き く人 類 社 会 に 貢 献 し た こ と は,エ 『英 国 の 天 才 達 』(H.Ellis,Studyof BritishGenius)に 紹 介 さ れ て お り,イ ラ ン ドが 逆 に 数 多 く の 人 材 を 輩 出 し,し コ ッ ト ラ ン ド人 の 貢 献 分 野 の 科 学 と し て,特 粋 ・応 用 物 理 学,数 の 波 及 と他 方 で の 実 利 ・実 学 教 育 の 伝 統 を背 気 象 学,生 物 学,動 景 に,さ か ら 医 学,機 紀 は じ め に カ ー ス タ ア ズ(W.Carstares)達 の 尽 力 で 改 革 さ れ,従 (professionalsystem)に ら教 授 制 度 移 行 さ せ,教 育科 目の 専 門 化 と世 俗 化(医 学 か らの 化 学,地 学,植 計 られ,多 物 学 へ の 分 離)が 座 が 開 設 さ れ た.つ ト制 度 」 で は,チ 質 くの 新 講 ま り従 来 の 「リー ジ ェ ン ュ ー タ ー の よ うな 役 割 を果 た す リー ジ ェ ン トが 入 学 も し くは2年 社 会 学,心 次か ら 1707年 Papin)が 成 功,1783年 deJouffroy)が て い た 技 師 ワ ッ ト(J.Watt)が 縮 器 を 発 明 し て,蒸 を 導 く.ア 学 と共 に 発 展 し た 諸 門 的 ・実 用 的 な バ デ ィー ン大 学 は ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ が1753 ン グ ス ・カ レ ッ ジ が1800年 に 移 行 し swinton)湖 コ ッ ト ラ ン ドで は1788 ラ ー(P.Millar),タ 達 が 模 型 を 作 り,ダ ス ン ト ・ア ン ド リュ ー ズ 大 学 が に ラ ム ゼ イ に フ ィ ッ チ(L. に は 至 っ て い な い.ス 年 に,ミ 分 離蒸 気 圧 蒸 気 推 力 の船 を構 想 した が 実 用 化 年 に エ デ ィ ン バ ラ大 学,1727年 に グ ラス ゴウ に 気 力 の 実 際 ・商 業 的 成 功 メ リ カ で は1786年 Taylor),サ 年 に,キ 済 学 に 及 ぶ と 述 べ る.(36) には グ ラス ゴウ大 学 の科 学 器具 製 作 に 携 わ っ 科 目重 視 の 「 教 授 制 度 」 へ と移 行 し た.1708 最 も遅 れ た が,マ ら に 人 類 学, 蒸 気 船 を 建 造 し た.1765年 Firch)が 徳 哲 学 等 の 複 数科 目の 講 義 を教 「 教 授 制 度 」 に移 行 し ,ア 学 に は ジ ョ フ ロ イ 侯 爵(Marquis 自 然 哲 学,道 大 学,1747年 理 学,薬 蒸 気 エ ン ジ ン の 船 の 建 造 と試 走 に (A.Ramsey)や1790年 学 問 へ の 需 要 に 合 わ せ て,専 学,さ 文 学, に ス コ ッ ト ラ ン ド 人 の パ ピ ン(D. 卒 業 時 ま で 同 ク ラ ス の 学 生 を 対 象 に 論 理 学, え る方 法 で あ っ た が,神 ・植 物 学,地 械 工 学,農 理 学,経 学7天 例 え ば 蒸 気 船 誕 生 の 歴 史 を み て も,既 来 の ラ テ ン 式 の リー ジ ェ ン ト制 度(regentsystem)か か も 世 界 を 舞 台 に 活 躍 し た こ と が 知 ら れ る が,ス に 化 学,純 そ し て ス コ ッ トラ ン ド大 学 制 度 も,18世 ング ラ ン ドに 比 し て 遥 か に 人 口 が 少 な い ス コ ッ ト 方 で は ノ ッ ク ス に 始 ま る義 務 教 育 制 度 ら に 時 世 に 敏 速 に 対 応 し た. リ イ ラ ー(T. イ ミ ン ト ン(W.Symington) ル ス ウ ィ ン ト ン(Dal- で 成 功,そ ン(R.Fulton)が1802年 れ に基 づ い て フ ル ト に は 「シ ャ ー 『 ロ ッ ト ・ ダ ン ダ ス 号 」(CharlotteDundas)を 造 し て フ ォ ー ス=ク 建 ラ イ ド運 河 航 行 に 成 功, 24季 1807年 刊 に は最初 の商 業蒸 気 船 号 」(Clermont)が ク=ア 「ク レ メ ン ト の定期 航 行 に ー ロ ッ パ で は,1812年 Bell)が 価 ア メ リカ のニ ュー ヨー ル バ ニ イ(Albany)間 至 る.ヨ 創 に ベ ル(H. ま り蒸 気 力 を 船 舶 推 力 に 応 用 す る 考 え 方 は,ギ ま れ た が,実 済 論 集Vo1.XXX,No.1 Fulton),刈 リシア で生 用 化 に 成 功 し た の は ス コ ッ トラ ン ドで あ っ た.(37) McCormick)が も1874年 始 者 と して の ス コ ッ ト ラ ン ド人 を 調 べ て み る と,地 フ ォ ー 興 理 学(experimentalgeology)の 地地 父 ホー ル 質 科 学(colloidscience)の グ レ ア ム(T.Graham),近 リ ー(W.Smellie),英 ド(E.Rutherford)卿 味 深 い の Newton)卿 は,ニ は,彼 が で る.(40) ュ ー ト ン(lssac 自 らエ デ ィ ンバ ラ 大 学 の グ レ ゴ リ ー(J.Gregory)教 授 に ス コ ッ トラ だ ス コ ッ トラ ン ド 人 の 項 目 に 入 れ ら れ て は い な い.(41) コ ッ トラ ン ド科 学 技 術 の 発 展 史 一17世 紀 ま で一 人 類 史 に お い て,科 畜 衛 生 学(veterinary ェ リ ェ(D.Ferrier),英 ニ ュ ー ジ ー ラ ン ドで も ラ ザ 洋 学 の 父 トム ソ ン 父 ク ラ ー ク(J.Clark),実 (J.Ha11),膠 ド 震 学 の父 代 軍事 医学 の 父 プ リ ン グ ル(J.Pringle),海 た カナ ダ で に真 空 計 を発 明 した マ ク ロ ウ V.ス ミ ル ン(J.Milne),近 hygiene)の 登 場 し た.(39)ま ン ド家 系 と 発 言 し た が,未 そ の 後 の 科 学 の 世 界 で,創 (C.W.Thomson),家 取 機 の マ ッ コ ー ミ ッ ク(C.H. (A.McLeod)や 「コ メ ッ ト号 」 を ク ラ イ ド河 航 行 に 使 用 し た の が 最 初 と な っ た.つ 経 父 代神 経学 の 父 フ 国産 婆術 の父 ス メ 国ff工 学 の 父 と讃 学 が 確 立 さ れ る の は17 世 紀 で あ る.こ の 科 学 思 考 は,ギ リ シ ャ ・ロ ー マ で 科 学 知 識 の 応 用 と し て 芽 生 え た が ,ロ ー マ 帝 国 の 衰 亡 共 に衰 微 し ,8-11世 紀の 問 地 中 海 地 方 を 占め た ア ラ ブ 文 明 の 著 述 家 の 間 で 翻 訳 ・通 訳 さ れ て,僅 過 ぎ な か っ た.例 か に 存 続 して い た に え ば 物 理 学 ・化 学 で の レ イ え ら れ る フ エ ア バ ン(W.Fairbairn),2人 ジ ズ(Rhazes,866-925)や の ス テ ー イ ブ ン ス ン(George&RobertSte- (Avicenna,980-1036)の phenson),ウ の 東 洋 と西 洋 の 接 点 で あ っ た スペ イ ン を経 由 th)卿,ま ィ ッ ツ ワ ー ス(J.Whitworた 冷 蔵 技 術 の 父 レ ス リ ー(J.Les- して,し ア ヴ ィ セ ナ 著 作 は,暗 か も修 道 院 僧 を介 して,北 黒 中世 ヨー ロ ッ パ へ 伝 播 さ れ た も の で あ る.(42) lie)卿 と聖 ス タ ー リ ン グ(Rev.R.Stir- 1ing)博 士 が 挙 げ ら れ る.い つ れ も両 親 が ス コ ッ ト ラ ン ド人 で あ る か,す くな く と も父 が こ の ア ヴ ィ セ ナ の 著 作 を,ス コ ッ トラ ン ド 人 マ イ ケ ル(現 在 で はMichaelScotも しく ス コ ッ ト ラ ン ド 人 で あ っ た 人 達 で あ る.(38) はScott)が,オ 次 世 代 で ス コ ッ ト ラ ン ド人 の 移 民 運 動 が 本 格 だ 後 ト レ ド(Toledo)で 化 す る と,イ 語 と文 化 を習 得 し,西 欧 人 が ギ リ シ ャ 学 術 遺 ン ドで 有 名 と な る イ ン グ ラ ン ド 人 の 母 を も つ ロ ス(RRoss)卿 や,新 大 陸 ク ス フ ォ ー ド ・パ リで 学 ん 勉 学 し,ア 産 を再 発 見 す る 契 機 を供 し た.彼 ラ ビア はア イル ラ の ア メ リ カ 建 国 で 貢 献 し た 電 気 学 の ヘ ン リー ン ドの 大 僧 正 職 を 断 り フ レ デ リ ッ クII世 の 公 (J.Henry)や 式 占星 学 者 と な っ た.彼 エ デ ィ ソ ン(T.AEdison), 電 信 学 の モ ー ル ス(S.F.B.Morse),電 の ベ ル(A.G.Bell),蒸 気 船 の フ ル ト ン(R. 話 の論 理 的 な説得 展 開 の 錬 丹 術 は 名 声 を 集 め,ダ ン テ,ボ ッカ チ オ の 著 作 に 登 場 す る魔 法 の 知 恵 者 に な ぞ ら え て September2000北 政 巳:ス 「ヨ ー ロ ッ パ の 鬼 才(wizard)」 た.(43)例 て は,唯 25 コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス 研 究(1) と 呼 ば れ え ば ア リス トテ レ ス の 著 作 に つ い 一 入 手 可 能 で あ っ た ア ラ ビア 語 版 か た.(46)ま た ダ ヴ ィ ン チ に は,イ 友 人 で,歴 史 上 で は 偶 像 破 壊 主 義 者(icono- clast)と して知 ら れ る薬 学 者 パ ラ ケ ル ス ス ら マ イ ケ ル に よ っ て 翻 訳 さ れ,ヨ ー ロ ッパ に (P.AParacelsus,1493-1541)が 紹 介 さ れ た の で あ る.彼 に フ レデ リ ケ ル ス ス は,ダ が1230年 い た.パ (N.Copernicus),ガ 諸 大 学 を 訪 れ ア リ ス トテ レ ス 思 想 を 伝 え た こ よ り も 急 進 的 な 立 場 を 取 り,権 と は 有 名 で あ る.(44) ン(C.Galen)の 術 は ヨ ー ロ ッ パ で 流 行 す る が,そ 金 ・錬 丹 こに は世 界 リ レ オ(G.Galileo) 威学説の ガ レ 書 籍 を 公 然 で 燃 や し,当 時 の ヨ ー ロ ッ パ 共 通 語 の ラ テ ン 語 を 用 い,諸 大 学 で 自 説 を 講 演 ・出 版 し た.彼 は ア ラブ 人 医 同 胞 主 義 で 知 ら れ る セ ト ン(A.Seton)を 初 学 者 流 の 治 療 法 で は な く,単 め 数 人 の ス コ ッ ト ラ ン ド人 が 活 躍 し た.彼 ら を 用 い た 薬 物 治 療 を 展 開 し た が,人 の 努 力 を 下 地 に,東 洋 と の 貿 易 で 経 済 力 をつ け た イ タ リ ア 諸 都 市 か ら ヨmッ サ ン ス 運 動 が 生 じ て く る.当 パ ・ル ネ ッ 時 の ス コ ッ トラ ン ドで は 生 活 ・生 存 闘 争 に 追 わ れ,大 学 も創 純 な鉱 物 と薬 物 間の病気 治 癒 力 を信 じ た ギ リ シ ャ 人 医 者 ヒ ポ ク タ テ ス (Hippocrates)の こ の1530年 思 想 に 基 づ い て い た.(47) 頃 の ス コ ッ ト ラ ン ド で は,医 学 ・薬 学 は パ ラ ケ ル ス ス 時 代 前 の 未 だ ジ ェ ー 立 さ れ た ば か りで 教 育 は 未 だ 文 法 学 校 が 中 心 ム ズIV世(1488-1513)の で あ り,ル で あ っ た.当 時 の 学 校 で は,ロ (1371-90)の 貴 族 で ア イ ラ(Islay)島 ネ ッサ ン ス 運 動 か ら ス コ ッ トラ ン ド へ の 恩 恵 は,ほ とん ど現 わ れ て なか っ た.(45) 王室 内のみ の発 展 の 医 者 ビ ー ト ン(J.Beaton)が し か し イ タ リア に は 既 に ス コ ッ ト ラ ン ド人 が 定 着 ・活 躍 し て い た.特 に イ タ リア の ル ネ ラ ヴ ィ ンチ や コペ ル ニ クス ッ ク 王 に 随 行 し て ヨー ロ ッ パ 諸 国 を 訪 問 し, 彼 の 死 後 か ら16世 紀 初 め ま で,錬 タ リア 人 の ス トテ レ ス,ア バ ー トII世 出 身 行 った ア リ ヴ ィ セナ 等 の著 作 か らの ゲー リ ッ ク(Gaelic)語 翻 訳 の テ キ ス トで あ っ た. ッ サ ン ス 期 を 代 表 す る レ オ ナ ル ド ・ダ ヴ ィ ン しか しパ ラ ケ ル ス ス の 革 新 的 な 学 問 観 は 急 速 チ(LeonardodaVinnci,1452-1519)は に ヨ ー ロ ッ パ 各 地 に 伝 達 さ れ,長 既 く保 守 的 で に 近 代 諸 科 学 の 全 般 的 に 精 通 して い た こ と は 低 迷 し て い た 薬 学 ・解 剖 学 ・生 理 学 の 分 野 で 良 く知 ら れ る が,そ 革 新 が 開 始 さ れ た.ベ こ に は 彼 に 象 徴 さ れ る科 学 探 究 の 人 材 群 が あ れ ば こ そ,そ の 上,彼 れ らの蓄 積 独 自の 天 才 的 な 新 た な展 開 が 可 能 で あ っ た こ と に な る.実 は ダ ヴ ィ ン チ に は,フ ル ギー 入 のべ サ リウ ス (A.Vesalius,1515-64)は,ダ ヴ ィ ン チ と同 様 に 人 体 観 察 を 続 け て,1543年 に 図 』(FabriciHumaniCorporis)を ェ ラ ー ラ(Ferrara)近 く に 住 む ス コ ッ トラ フ ァ ロ ウ ピ ア ス(Fallopius,1523-62)も ン ド人 の 友 人 が い た.名 前 を ベ イ リー(Wil- 様 の 研 究 を 進 め た.ま 1iamBaillie)と 言 い フ ェ レー ラ芸 術 学 院 院 長 と し て,1486-87年 を 教 え た が,彼 に 同 学 院 で 医 学 ・薬 学 に は 本 国 ス コ ッ ト ラ ン ドで 医 学 に 関 す る 大 変 に 評 価 を 高 め た2論 文 があっ 90)は,パ 公 刊 し, 同 た パ レ(Pare,1509- ル ケ ル ス ス に よ っ て 始 め られ た外 科 手 術 を 実 行 し た.セ vetus)は,ダ 『人 体 解 剖 ル ベ ト ゥ ス(M.Ser- ヴ ィ ン チ の 仮 説 を も と に,肺 臓 を 通 っ て 血 液 が 循 環 す る こ と を発 見 し 26季 刊 創 価 た.(48) ラ ケ ル ス ス や ア グ リカ ラ (Agricola,1509-1555)の 影 響 下 で 進 歩 した 者 は 多 くの 病 気 治 療 法 を考 案 し客 観 的 記 述 に よ る 説 明 方 法 を考 案 し た 他 に ガ ス の 存 在 を 認 識 し,ま た ベ ル ギ ー 人 科 学 者 バ ン ・ヘ ル モ ン ト(J.B.vanHelmont)以 沌 」(chaos)と は,今 前 に,「 混 い う 用 語 を 確 立 し た.後 者 日の 技 術 学 校 の 教 師 の 先 駆 者 と も言 え る 人 物 で,鉱 山 労 働 者 の 病 気 を 調 査 し 『冶 金 学 』(Metallurgy)の 研 究 で は,明 本 を 出 版 し た.天 文 学 らか に ダ ヴ ィ ン チ は 地 球 を 惑 星 と 考 え て い た が,そ の 歴 史 的 証 明 は コペ ル ニ ク ス(N.Copernics,1473-1543)に れ,さ ら に ケ プ ラ ー,ブ 委 ね ら ラ ー ハ(T.Brahe), ガ リ レ イ(G.Galileo,1564-1642)等 論 集VoLXXX,No.1 こ の 時 代 に,ス の科 学 に は グ ラ ス ゴ ウ に 住 み,枢 の 間 に発 起 され に グ ラ ス ゴ ウ 大 学 は,mマ 内 科 医 学 校 を 設 立 し た. 次 い で17世 紀 に な る と,国 際 的 に 有 名 な2 人 の ス コ ッ ト ラ ン ド人 が 登 場 し た.先 は,ル ず数 学 ネ ッサ ン ス 時 代 で は ヴ ァ ィ ー タ (Vieta,1540-1603)が1590年 に代 数 学 を紹 介 す る ま で 沈 滞 し て い た.1614年 に スン ト・ ア ン ド リュ ー ズ 大 学 に 学 ん だ メ ル チ ス ト ン (Merchiston)出 身 の ジ ョ ン ・ ネ イ ピ ア(J. Napier,1550-1617)が 数学 界の革新 的 な対 数(logarithm)概 念 を 発 表 し,現 法 の 基 礎 を 築 き,ヨmッ 機 を 発 明 し た.ま 在 の10進 パ 数 学 ・科 学 界 に た 彼 は1615年 た 彼 は,自 法 王 の認 た 他,当 に計 算 所 領 で ス ク リュ 時 深 刻 化 し て い た 宗 教 論 争 に も参 画 し た.(51)も う ひ と りの 傑 出 し た ス コ ッ トラ ン ド人 数 学 者 は ア ン ダ ー ソ ン(A.Anderson, 1582-1619)で,ヴ さ れ た.ス 伝 い つ つ 数 学 を 究 め,三 コ ッ トラ ン ド宗 教 改 革 と 伝 統 風 土 し い ル ネ ッサ ン ス の 動 き に も敏 感 に 反 応 し て 科 学 技 術 教 育 を 受 け 入 れ た.(50) ス コ ッ ト ラ ン ド出 身 の 国 際 的 科 学 者 と し て 先 ァ ィー タの著 作 発 刊 を手 角 法(trigometry) を は じめ 数 多 く の 数 学 上 の 発 見 を な し た こ と で 有 名 で あ る. 同 時 期 の ヨmッ パ 大 陸 で は フ ラ ンス 人 デ ず ア バ デ イ ー ン 人 リ デ ル(D.Ridde1,1561- カ ル ト(R.Descartes,1596-1650)が 1613)が ユ ー ク リ ッ ド(Euclid)幾 挙 げ ら れ る.ア 密 院 の認 可 を得 て 薬 学 治 療 を規 定 し た グ ラ ス ゴ ウ 外 科 ・ 可 に よ り 「ボ ロ ー ニ ア 大 学 の 娘 」 と し て 設 立 を 背 景 に,新 は ー 推 力 に よ る 水 上 航 行 や 装 甲 車 の 実 験 を行 っ コ ッ ト ラ ン ド諸 大 学 が 高 等 教 育 機 関 と し て1414-1538年 1599年 大 き な 影 響 を 与 え た.ま 者 が 次 々 と 誕 生 ・活 躍 し た.(49) る.特 済 の ス コ ッ ト ラ ン ド で 教 科 書 と な っ た.彼 化 学 研 究 は,パ が,前 経 バ デ ィ ー ン大 学 を卒 活 躍 し, 何 学 と決 別 し た 近 業 し て ド イ ツ の フ ラ ン ク フ ル トで 教 育 を 受 け, 代 代 数 学 の 基 と な っ た 代 数 幾 何 学 を 確 立 し た. 30歳 で ヘ ル ム ス タ ッ ド(Helmstadt)で ス コ ッ ト ラ ン ド で は,同 教 授 と な り12年 間 教 え た.ま 数学 た 彼 は コペ ル ニ 学 ・物 理 学 の 論 文 も発 表 し た.同 州 の エ ロ ル(Errol)出 75)が 様 にパ ー ス 年の 1550-1612)で 身 の ロ ウ(P.Lowe, パ リ で 医 学 を 勉 強 し,1597年 に は 治 療 術 書 の 出 版 を 行 っ た が,そ れが当時 目の 数 学 者 と 讃iえ ら れ る グ レ ゴ り一(J.Gregory,1638- らに 医 ク ス 理 論 の 信 奉 者 と し て 知 ら れ,さ 世 紀2番 数 多 くの 数 学 論 文 を 発 表 し た が,1667 『円 周 と 双 曲 線 計 算 』(VegaCirculiet HyperbolaeQuadratura)は 特 に 有 名 で あ る. 彼 は ニ ュ ー ト ン や ド イ ツ 人 ラ イ プ ニ ッ ツ(G. W.Reibnitz,1646-1715)と 並 ん で微積 分 計 September2000北 政 巳: 算 法 の 共 同 発 明 者 と さ れ る.彼 1661年 は 僅 か23歳 の に 反 射 望 遠 鏡 を提 唱 した こ とで も有 名 で あ る.グ a7 ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) レ ゴ リー の 考 案 を 実 現 さ せ た の は トが1637年 た が,そ に,光 線 に つ い て の 論 文 を発 表 し れ は1621年 に ラ イ デ ン(Leyden) で ス コ ッ トラ ン ド 人 ス ネ ル(W.vanR. 放 物 形 の鏡 を 完 成 させ た こ とで も有 名 な エ デ Snell,1546-1613)が ィ ン バ ラ の シ ョ ー ト(J.Short)で に 近 代 的 な 解 釈 を 与 え た.ス そ の 後 グ レ ゴ リ ー 家 は,3世 あ っ た. 代 に わ た り16人 の 数 学 ・医 学 者 を 輩 出 す る 名 家 と な っ た. こ の よ う な ス コ ッ ト ラ ン ドで の 科 学 研 究 の 進 展 は,イ 1660年 ギ リ ス 科 学 全 体 の 興 隆 を 生 み, に ロ ン ド ン 王 立 学 士 院(RoyalSoci- etyofLondon)が 設 立 さ れ,1645年 発 見 し た 光 り屈 折 論 理 ネ ル は,光 ペ ク ト ラ ム と合 成 の 法 則 を 発 見 し,ド イツの ハ ィ ゲ ン ズ(Huyghens,1629-95)の 言 うよ う な 波 で は な い と論 証 し た. 化 学 で は,当 時 ヨmッ パ最 先端 に あ った オ ラ ン ダ 地 域 に 注 目 さ れ る.バ 以降の のス ン ・ヘ ル モ ン ト(VanHelmont,1577-1644)は 化学 史に 新 哲 学 ・実 験 哲 学 と 呼 ば れ た 自 然 物 理 学 を 容 お け る 偉 大 な 功 労 者 で,気 認 ・養 護 す る に 至 っ た.初 代 書 記 には モ レ イ を 開 い た.ガ ス と い う名 前 も彼 が 命 名 し た も (R.Moray)卿 在 に 至 る まで ス ン の で あ り,圧 縮 真 空 の概 念や 気体 識別 方 法 を が っ き,現 ト ・ア ン ド リ ュ ー ズ 記 念 日 に 集 ま る伝 統 を 続 行 っ た.そ け て い る.(52)チ Boyle,1629-91)は,ボ リ ー は,ジ ャ ー ル ズII世 ェ イ ム ズ1・II世 と 同 様 に,社 治下 の グレゴ 治 下 のネ イ ピア 会 全 体 が 宗 教 論 争 と市 民 革 命 の 喧 騒 と し た 時 代 に,静 か に 研 究 で き る環 境 に 数 学 か ら 分 岐 し 天 文 学 ・物 理 学 も 発 展 し た. ギ ル バ ー ト(W.Gilbert,1542-1603)は Magnete)を 出 版 し,地 磁 極 の 存 在 を 論 じ,ま 及 し た.こ イン に 『磁 石 』(De 球 の 地 軸 とは 異 な る た 電 気 力 に つ い て も言 れ は コペ ル ニ ク ス 理 論 が 公 表 さ れ た か ら 僅 か57年 後,ガ リレオ の天 球 観 公 表 に 先 立 つ こ と30年 前 の こ と で あ っ た.物 は,17世 理学 で 紀 は イ ン グ ラ ン ドに ニ ュ ー ト ン(1. Newton,1642-1727)が し て ス コ ッ ト ラ ン ド人 ボ イ ル(R. イル の 法 則 で 有名 な エ ネ ル ギ ー 不 滅 の 原 理 を 公 表 し,真 の 開 発 の 他,ガ さ せ た.ア 登 場 し,重 ス を め ぐる 多 くの 研 究 を 成 功 バ デ ィ ー ン 出 身 で1617年 同大 学 マ 力 の発 見 (W.DavidsonorDavison,1593-1669)は, 1647年 に パ りで 化 学 教 授 に 任 命 さ れ た が,彼 は パ ル ケ ル ス ス の 弟 子 で 医 療 化 学 を 学 び,ヨ ー ロ ッ パ 世 界 最 初 の 化 学 教 授 講 座3席 者 の1人 と な っ た.彼 書 を 書 い た 他,特 が,1851年 は世 界最 初 の化 学教 科 に結 晶 学 の分 野 で 貢献 した ス コ ッ ト ラ ン ドで は,シ clair)が ン ク レ ア(G.Sin- グ ラ ス ゴ ウ 大 学 哲 学(1689-91)・ に し た,同 授 を つ と め1696年 『石 炭 の 概 説 史 』( 、ShortHistoryOfCoal) ralPhilosophy)を を 出 版,鉱 樹 立 の 最 大 功 労 者 と 讃 え ら れ た.(53)デ カル に死 去 時 に 鉱 山 業 に も 関 心 を も ち1672年 cipia,theMathematicalPrinciplesofNatu代 世 界 の科 学 ー ラ ン ド国 王 の 侍 医 と な っ た.(54) 数 学(1691-96)教 『自 然 物 理 に お け る 数 学 的 原 理 』(Prin- の獲 得 に 宗 教 上 の 理 由 か ら 辞 職 し,ポ に 続 き 多 く の 物 理 学 上 の 発 見 も な し,1687年 発 表 し,近 空 ポ ンプ ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ 卒 業 生 の デ ィ ヴ ィ ソ ン 恵 ま れ た 幸 運 も 存 在 し た. グ ラ ン ド で 活 躍 し,1600年 体 の 定 量分 析 に 道 に 脈 の 深 度 や 鉱 山 の 高 度 測 定 法 を教 え た が,1673-74年 に は エ デ ィ ンバ ラ 市 の上 28季 刊 創 価 水 道 敷 設 工 事 を 指 揮 ・完 成 さ せ た.(55) 医 学 分 野 で は,17世 済 論 集VoLXXX,No.1 植 物 史 』(Historic、'ZantarumOxoniiensis) 紀 で 最 も特 筆 さ れ るべ き ス コ ッ ト ラ ン ド人 は,1628年 経 の体 内 血液 の を 出 版 し,植 表 し た.彼 物 の 家 系 ・分 類 ・種 の 分 析 を 公 は,1660年 に イ ギ リス で最 初 の 植 循 環 を 発 見 し た ハ ー ヴ ィ ズ(W.Harvey's, 物 学 教 授 に 任 命 さ れ た.彼 1578-1657)で で 活 躍 し た イ ン グ ラ ン ド人 に は,結 あ る.彼 は ダ ヴ ィ ン チ の 予 想, と同 時 代 に 植 物 学 花植 物 の また セ ヴ ィ タス の肺 血 液 循 環 解 明に支 え られ 中 で の 単 子 葉 植 物 と双 子 葉 植 物 の 区別 や 植 物 て 研 究 を 進 め,心 の 識 別 法 を 発 見 し た レ イ(J。Ray,1627- 臓 を経 由 し て 血 液 が 循 環 す る こ と を 証 明 し た.そ して エ デ ィ ンバ ラ医 学 1705)が い た.他 に 植 物 学 で は2人 パ で も大 変 有 名 な 医 学 専 門 校 ス コ ッ ト ラ ン ド人 が お り,エ ー ヴ ィ ズ と一 緒 に 同 校 設 立 に バ ル ド(R 校 は,ヨmッ と な っ た が,ハ デ ィ ンバ ラの シ .Sibbald,1641-1722)卿 とバ ル フ 尽 力 し た ピ ト カ ー ン(A.Pitcairne,1652- ォ ァ(A.Balfour)卿 1713)が ィ ン バ ラ に 王 立 植 物 園 が 作 ら れ,の い た.彼 は エ デ ィ ンバ ラ商 人 の 息 子 に 生 れ 同 大 学 で 法 学 を 学 ん だ 後 に,医 向 し,医 者 と し て 名 声 を 得 た.次 学 に転 い で1692年 で,2人 ィ ンバ ラ大 学 や 市 の 医 療 隆 の 端 緒 と な っ た.シ の重要な の尽 力 で エ デ ちの エ デ ・薬 学 ビ ジ ネ ス の 興 バ ル ドは,1685年 にエ に は ラ イ デ ン 大 学 に 招 か れ 薬 学 教 授 に つ き, デ ィ ン バ ラ 大 学 の 初 代 医 学 教 授 と な り,ま そ こ で18世 王 立 エ デ ィ ン バ ラ 医 学 者 カ レ ッ ジ(Royal 紀 の 化 学 史 に 大 き な 貢 献 を残 す ブ ァ ハ ー ヴ ァ(H。Boerhaave)を は 有 名 で あ り,彼 教 え た こ と は 帰 国 し て エ デ ィ ン バ ラ大 学 の 化 学 教 授 と な っ た.彼 は,ま た 王 立 医学 者 学 院(RoyalCollegeofPhysicians)の 立 に も尽 力 し た.彼 創 の 同 僚 に は,ア バ デ ィー CollegeofPhysiciansofEdinburgh)設 に も 貢 献 し た.彼 た 立 は1662-68年 の 間,王 立 ス コ ッ ト ラ ン ド地 理 学 者 協 会 の 中 枢 メ ン バ ー で も あ っ た.(57) 応 用 科 学 の 分 野 で は,17世 紀 末 に至 る まで ン 出 身 で エ デ ィ ンバ ラ 在 の 弁 護 士 の 息 子 で ス は,ボ ウ ス ウ ィ ッ ク(RBorthwick)が お コ ッ ト ラ ン ドの チ ャ ー ル ズII世 り,彼 は 天 才 と 讃 え ら れ,ジ の や ア ン女 王 の ェ ー ム ズIV世 侍 医 に も な っ た バ ー ネ ッ ト(T.Burnet)卿 冶 金 師 を つ と め1511年 が い た.彼 設 立 し た 鉄 砲 鋳 造 所 を 管 轄 し た.つ が1673年 に発 表 した (TresurusMedicine)は,ヨ 『宝 の 医 学 』 ー ロ ッパ 中 で 医 事 教 科 書 と し て 用 い ら れ た 程 で あ る.(56) 植 物 学 で は,数 ら れ た り,ま 多 くの ハ ー ブ ・薬 草 園 が 作 た 植 物 の 識 別 ・分 類 方 法 の 萌 芽 が 見 ら れ た が,ル ネ ッサ ン ス期 に は 顕 著 な 発 達 は 見 ら れ な か っ た.ア バ デ ィー ン出 身 で 同 イ ブ(Fife)出 Wymyss)が に エ デ ィ ン バ ラ城 内 に 身 の ウ め た.特 ィ ー一 ミ ズ(J. 同 職 を 継 承 し,さ ン ドに 下 りチ ャ ー ル ズ1世 いでファ らに イ ン グ ラ の 銃 製 造 長 をつ と に 彼 の 叔 父 ス コ ッ ト大 尉(Colonel R.Scott)が 発 明 し た 革 製 銃 の 登 用 を 初 め, 武 器 の 改 良 で 大 き く 貢 献 し た.さ らに アバ デ 大 学 に 学 ん だ モ リ ソ ン(R.Morison,1620- ィ ー ン 出 身 の 農 夫 で あ る が,反 83)は 者 の 兄 に あ た る グ レ ゴ リ ー(D.Gregory, フ ラ ン ス の パ リ ・ア ン デ ィ ユ ー 地 方 の 大 学 で 学 問 を 積 み,1669年 (PraeludiaBotanica),1680年 に 『植 物 図 鑑 』 に 『イ ギIJス 1627-1720)が,大 し た. 射望遠鏡発 明 砲 の 改 良 で 大 きな 貢 献 を September2000北 政 巳: 29 ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) ス コ ッ ト ラ ン ド科 学 史 を 研 究 ・精 査 し た ク を 建 造 し た が,1745年 の 第2次 ジ ャ コバ イ ト レ メ ン ツ ・ ロ バ ー ト ソ ン 両 博 士 に よ れ ば,上 の 反乱 の 時 に政 府 軍 に 有効 に使 われ たに過 ぎ 述 し た よ う に ス コ ッ ト ラ ン ドは 数 学,物 な か っ た.そ 次 い で 植 物 学 の 分 野 で は18世 理学 紀 以 前 で も近 代 ヨー ロ ッパ に つ な が る若 干 の 貢 献 は 見 られ た も の の,や 学 ・科 学 の 発 展 も,低 地 地 方 に 限定 さ れ た か た ち で 発 展 し た. 18世 紀 の 前 半 の ス コ ッ ト ラ ン ド人 科 学 者 は, は り科 学 全 般 の 発 展 は 未 だ ヨ ー ロ ッ パ に あ っ た と 指 摘 す る.(58) し て ス コ ッ ト ラ ン ドの 新 し い 哲 低 地 地 方 の 境 に あ る ア ー ガ イ ル(Argyl1)地 方 の カ ウ エ ル(Cowa1)の VI.18世 キ ル モ ウ ダ ン 紀 前 半 の ス コ ッ トラ ン ド科 (Kilmodan)教 学一 数 学 の 発 展 18世 紀 の は じめ,ス 区 牧 師 の3男 のマ ク ロ ウ リ ン(C.Maclaurin,1698-1746)で コ ッ トラ ン ドで は2度 に わ た る ジ ャ コバ イ ト(Jacobite,廃 位 され 「18世 紀 を 代 表 す る 英 国 人 数 学 者 」 と 讃 え ら れ た.彼 は 幼 少 に し て 両 親 を 亡 し た が,11歳 で グ ラス た ジ ェ ー ム ズII世 を支 持 す る王 党 主 義 者)の ゴ ウ 大 学 に 入 り,19歳 反 乱 勃 発 に もか か わ ら ず,全 ー シ ャ ル ・カ レ ッ ジ の 数 学 教 授 と な り 時 代 を迎 え,中 般 的 に は平和 な 流 階 級 の生 活水 準 や社 会全 体 の 教 育 水 準 は,着 実 に 向 上 し た.合 併前の で ア バ デ ィー ン大 学 マ ,の エ デ ィ ン バ ラ に 移 っ た.彼 年 に 『有 機 幾 何 学,普 は2冊 (GeometricaOrganica,siveDescriptio た教 育 法 は,自 LinearumCurvaruynUniversalis),1742年 学 校 重 視 に あ っ た が,そ れ が社会 全体 の科 に 『微 積 分 流 率 論 』(TreatiseonFluxions) 学 ・芸 術 の 発 展 に 重 要 な 役 割 を 果 た した と言 を 著 作 し,ニ わ れ る.(59) を 得 た こ と で も 有 名 で あ る.彼 ス コ ッ トラ ン ド人 の 多 く は 長 老 会 派 (Presbyterian)で あ り,前 世 紀 を 通 じ て 特 ュ ー トン か ら も 強 い 支 持 の 手 紙 の 学 説 は,現 在 の 学 校 教 育 で も彼 の 名 前 を冠 し て 教 え ら れ て い る.(61) マ ク ロ ウ リ ン の 同 世 代 に は,ユ に 教 会 行 政 で は 監 督 教 会 派(Episcopalian) 制 度 の 信 仰 を 強 い ら れ 違 反 者 に は数 々 の 罰 則 (Euler,1707-83)と が 適 用 さ れ た が,オ li)家 レ ン ジ 公 ウ ィ リア ム の 即 の ジ ャ ッ ク ス(Jacques,1654-1705) と ジ ー ン(Jean,1667-1748)兄 認 を受 け,そ た.ベ の エ ネ ル ギ ー が 創 造 的 な 目標 に の方向は グラス ー ラ ベ ル ノ ウ リ(Bernoul- 位 に よ り長 老 会 派 は 公 認 宗 教 と し て の 法 的 容 向 け ら れ る に至 っ た.(60)こ の 本,1720 遍 的 線 形 記 述』 1696年 に ス コ ッ トラ ン ド議 会 が 最 後 に 可 決 し 治 都 市 学 校 に 対 抗 して の 教 区 ル ノ ウ リ家 は,先 弟が 活 躍 し 述 の グ レ ゴ リー 家 に 次 ぐス コ ッ トラ ン ド を 代 表 す る 科 学 者 一 家 で, ゴ ウ や エ デ ィ ン バ ラ の あ る低 地 地 方(Low- 3世 代 で7入 1ands)で ら は ニ ュ ー ト ン の 科 学 革 命 を 支 持 し て,ス は 顕 著 で あ っ た が,北 部 の封建 制 ち の 大 学 講 座 教 授 を 輩 出 し た.彼 コ 度 を 強 く残 し族 閥 主 義 の 高 地 地 方(High- ッ ト ラ ン ド全 体 の 数 学 ・科 学 教 育 の 向 上 に 貢 lands)で 献 し た.マ は 未 だ 難 しか っ た. 18世 紀 初 頭 に,ウ ェ イ ド(G。Wade)将 軍 が ス コ ッ トラ ン ド高 地 地 方 を 開 け る近 代 道 路 ク ロ ウ リ ン は,1745年 イ トの 反 乱 に 際 し て,数 の ジ ャ コバ 学 知 識 を 生 か して チ ャー ル ズ皇 太 子 軍 の エ デ ィ ンバ ラ城 攻撃 を受 30季 刊 創 け 止 め た が チ ャ ー ル ズ の 策 略 に 敗 北,し 翌 年 の ク『 ロ ー デ ン(Culloden)城 は 見 事 に 勝 利 し た.ま 価 か し の戦 い で た体 制 的 に はマ クロ ウ リ ン の 敵 と な っ た が,優 れ た 数 学 者 と讃 え ら 経 済 論 は,最 集Vol.XXX,No.1 初 に 血 圧 測 定 法 を実 施 した こ と で 有 名 で あ る.さ ら に2人 の ス コ ッ ト ラ ン ド人,ダ グ ラ ス(J.Douglas,1675-1742)と (W.Smellie,1697-1763)が ス メ リー 挙 げ ら れ る.ダ れ た ス タ ー リ ン グ 州 ガ ー デ ン(Garden)生 グ ラス は ま れ の 農 夫 の 息 子 ス タ ー リ ン グ(J.Stirling, 細 な 観 察 」 の 出 来 る 学 者 と 讃 え ら れ た.ス メ 1692-1770)が リ ー は 出 産 に つ い て の 実 験 研 究 を 進 め,産 婆 1715年 挙 げ ら れ る.ス の 第1次 た 結 果,オ タ ー リ ン グ は, ジ ャ コ バ イ トの 反 乱 に 同 調 し ク ス フ ォ ー ド を 追 わ れ て,イ ア の ベ ニ ス へ 行 き10年 滞 在 し,彼 Differentials)を リ ィ リ ー ア ス は,植 に は リ ス コ ッ トラ ン ド た グ ラ ス ゴ ウ か ら海 に 通 じ る ク ラ イ ド(Clyde)河 の拡 張 目的 で の 測 量 を 実 施 し た.(62) 紀 に は,際 イ ル以 降の 顕 著 な発 ー ロ ッ パ 大 陸 で は,ビ ャ(Becher,1635-82)や 1660-1734)が ton)理 ーチ ス タ ー ル(Stahl, フ ロ ジ ス ト ン(燃 論 を 展 開 し,物 素,phlogis- 体 燃 焼 の 因 果 関係 の 解 明 に 関 心 が 向 け ら れ た.ス は,ブ 立 っ た発 展 デ ィ ン バ ラ 大 学 に は化 学 講 座 が 設 置 さ れ た が,ボ 見 は な か っ た.ヨ コ ッ ト ラ ン ドで ー ア ハ ー ブ(Boerhaave,1668-1738) が,1732年 注 目 に 値 す る. 物 の 性 別 を認 識 し た 上 で 植 物 分 類 と命 名 を体 系 的 に 行 い,そ 天 文 学 で は,16,17世 紀 の 連 続 ・革 命 的 な 発 見 後 は 若 干 落 ち 着 い た 時 期 と な っ た が, 1725年 に 自 らの死 後 に 『イ ギ リ ス の 夜 空 の 歴 出版 さ れ た フ ラ ム ス テ ィ ッ ド(Flarnsteed)が ら れ る.彼 には 3000の 挙 げ 「国 王 勅 許 の 天 文 学 者 」 の 称 号 が 与 え ら れ た.彼 は イ ギ リス で 見 ら れ る 星 を カ タ ロ グ 化 し た.さ らに天 才 的 な 技 法 で 天 文 観 察 器 具 を 製 作 した バ ン フ 州 ロ ー ジ メ イ(Rothiemay)の 農 夫 の 息 子 フ ァー ガ ソ ン(J.Ferguson,1710-76)が る が,彼 は1742年 し,1754年 に 当 時 の 化 学 研 究 を 包 括 ・結 晶 化 の 後 の植 物 学 研 究 の 基 礎 を築 い た. 史 』(HistoryoftheBritishSky)が 化 学 分 野 で は,18世 は 示 さ な か っ た.エ の 時 代 で は 唯 一 リ ィ リー ア は1730年 発 表 し た 他,1735年 鉱 山 会 社 の 経 営,ま 植 物 学 で は,こ ス(Linnaeus,1707-78)が り 『微 分 法 』(Methodus イ ド ヒ ル ズ(Leadhills)の 術 の 権 威 と な っ た.(64) の地 で有 名 な ガ ラ ス 製 法 の 秘 密 を 習 得 し た.彼 に イ ギ リ ス に 戻 タ リ 「当 時 の 解 剖 学 の 最 も 洗 練 さ れ た 詳 挙 げ られ に 自 つ か ら 太 陽 系 儀iを 考 案 に は 潮 の 干 満 ・日 月 食 の 変 化 図 を 発 表 し た.1763年 に は,翌 年 に起 こ る 日食 投 し た 論 文 を発 表 し諸 大 学 で 教 科 書 と し て 使 わ 影 図 を 完 成 さ せ,王 れ,特 た 前 項 で グ レ ゴ リー 式 望 遠 鏡 に 関 連 して 紹 介 に ス コ ッ ト ラ ン ド人 の 非 国 教 徒 の 学 生 に 大 き な 影 響 を 与 え た.(63)彼 に,牧 1761)が の教 え子 の 中 師 で あ っ た ヘ イ ル ズ(S.Hales,1677お り,彼 し た シ ョ ー ツ(J.Short,1710-68)が,18世 紀 前 半 で の 最 も著 名 で 成 功 し た 光 学 器 械 製 作 は ボ イ ル と 同 じ く硝 石 か ら 者 と な っ た.彼 は エ デ ィ ンバ ラの 建 具 屋 の 息 ら精 巧 な 望 遠 鏡 鏡 を 制 作 し た 酸 素 を 取 り 出 す こ と に 成 功 し た が,そ れ を大 子 に 生 ま れ,自 気 と 区 別 す る こ と に 失 敗 し た た め,酸 素 の第 他,イ 一 発 見 者 に は な れ な か っ た .し 立 学 士 院 へ 贈 呈 し た.ま か しヘ イ ル ズ ギ リス の グ リニ ッ チ 天 文 台 とパ リ間 の 正 確 な 距 離 測 定 に も 成 功 し た.(65)ま た医者 September2000北 政 巳: ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) 31 ダ イ ビ ッ ド・グ レ ゴ リー の 同 名 の 息 子 向 か っ た.し (DavidGregory,1661-1710)は,バ き の ス コ ッ トラ ン ド人 ツ ロ ッ ク(A.Tilloch, ン フ州 の キ ナ ル デ ィ(Kinnairdie)出 に22歳 1759-1825)に 身 で,1683年 で エ デ ィ ン バ ラ 大 学 数 学 教 授 と な っ た. 継 承 さ れ,さ らに発 明好 ら な る改 良 を経 て1784年 に は 最 終 的 に社 会 的 容 認 を受 け た. に オ ク ス フ ォ ー ド大 学 天 文 学 こ れ が エ デ ィ ン バ ラ が 近 代 ヨー ロ ッパ を リー ら に 彼 は 改 良 型 大 砲 を発 明 ドす る 製 紙 業 を栄 え させ る 遠 因 と な り,ま た 自身 は 反 射 望 遠 鏡 の 発 明 者 ジ ェ イ 印刷 文 化 を誇 る文 芸 都 市 へ と成 長 させ た の で ま た 彼 は1691年 教 授 に つ い た.さ し た が,彼 か し彼 の 考 案 は,さ ム ズ ・グLゴ リー の 甥 に あ た る.彼 ト ン の 弟 子 と し て,1702年 は ニ ュー に重 力 の 法 則 に 基 づ く最 初 の 物 理 学 教 科 書 を 出 版 し た 他,気 圧 あ る.(68) 18世 紀 前 半 の ス コ ッ トラ ン ドは,以 上 の考 察 か ら,将 来 が 期 待 で き る 時 代(periodof 計 を 発 明 ・実 用 化 し て 最 初 の 天 気 予 報 を し た promise)と こ と で も 有 名 で あ る.(66)18世 コ に 発 達 し,人 々 は 次 第 に 高 等 教 育 を受 け て 啓 「合 併 」 を 通 じ て 新 し い 時 代 を 蒙 的 と な り,学 識 を求 め る こ と が 中 流 階 級 の 外 で は イ ギ リス 航 海 条 例 で イ ン グ ラ 流 行 と な り,農 業 改 良 と発 展 が 生 活 水 準 の 向 ッ ト ラ ン ドは 迎 え,海 紀 に は,ス 言 え よ う.つ ま り諸 科 学 は 次 第 ン ド船 舶 と 同 じ 庇 護 を 受 け る こ と が で き大 き 上 に 貢 献 し,数 く 市 場 を 拡 大 し た.ま るべ き 時 代 を 予 期 さ せ た.(69)ま た ス コ ッ ト 内 で も,優 に,土 た ス コ ッ ト ラ ン ド地 域 勢 な イ ン グ ラ ン ド経 済 力 の 影 響 下 着 の亜 麻 や 羊 毛工 業 の著 しい発 展 が 見 多 くの 工 学 的 機 械 発 明 の 来 た ラ ン ド独 自の 教 区 学 校 制 度 は,そ げ よ う と して い た.未 そ し て 農 業 面 で も,1701年 に ド リル 式 種 ま れ て い た.(70) き 器 械 を 発 明 し た イ ン グ ラ ン ドの 郷 士 農 業 家 び VII.結 (gentlemanfarmer)の タ ル(J.Tull,1676- 学 ん だ ス コ ッ ト ラ ン ド人 鍛 冶 工 マ ン ジ ー(M。Menzie,P-1766)が1732年 頃 に最 初 の 脱 穀 機 を 発 明 し た が,実 か っ た.次 用 化 に は至 らな い で レ ッ キ ー(Leckie)と 呼 ば れ る ス コ ッ ト ラ ン ド人 技 師 が 改 良 器 械 を 制 作, さ ら に,も 来 へ の 期 待 と楽 観 主 義 ま た 社 会 発 展 を漂 わ す 時 代 的 雰 囲 気 が 醸 成 さ ら れ た.(67) 1741)に の成 果 をあ う ひ と りの 無 名 の ス コ ッ ト ラ ン ド 人 が 同 世 紀 の 後 半 に 出 て,近 い 型 を 作 り あ げ た.ス 代 的収 穫器 に近 テ ロ(鉛 版)印 刷の考 先 ず イ タ リア か ら ス コ ッ トラ ン ドへ の ル ネ ッサ ン ス の 影 響 は,直 接 的 な 形 で は な く,数 多 くの ス コ ッ トラ ン ド人 の ヨー ロ ッパ 遊 学 を 通 じ て,各 地 で イ タ リア ・ル ネ ッサ ン ス の 影 響 を受 け て 伝 わ っ た こ とに 注 目 さ れ る. 次 い で15世 紀 の ヨー ロ ッパ 世 界 に は,宗 的 な 地 域 分 布 は 存 在 して も,ま 教 た諸 都 市 の社 会 ・経 済 ・文 化 圏 は 形 成 さ れ つ つ あ っ た が 未 案 は オ ラ ン ダ 人 の バ ン ・ デ ル ・ メ イ(van だ 国 家 概 念 は 充 分 に 発 展 し て お ら ず,む derMey)が 当 時 の 共 通 語 で あ っ た ラ テ ン語 で 各 地 を 往 来 な し た が,そ の 実 用 化 は1725年 に エ デ ィ ン バ ラ の ゲ ッ ド(W.Ged,16901749)に よ っ て 果 た さ れ た.彼 は 中世 的 な ギ ル ドや 組 合 か ら の 反 発 に 遭 遇 し,ロ ン ドン へ しろ で き た こ とで あ る. そ の 結 果,数 多 くの ス コ ッ トラ ン ド人 有 識 者 が 「グ ラ ン ド ・ツ ア ー 」(grandtour)で 季刊 32 創 価 経 済'論 オ ラ ン ダの ア ム ステ ル ダ ムや フ ラ ン スの パ リ に 留 学 し た り,さ 集VoLXXX,No.l ScottishRenaissance'inI.B.Cowan&D. Shawed.,TheRenaissanceandReformation ら に イ タ リ ア 諸 都 市 に 学 び, inScotland,ScottishAcademicPress,1983. そ し て イ タ リ ア ・ル ネ ッ サ ン ス の 所 産 を 母 国 に 持 ち 帰 る 人 も 頻 繁 化 し た.(71)そ の 際,本 p.140. 2)浜 林 正 夫 『イ ギ リ ス 宗 教 史 』(大 年)127-132頁.ス 稿 で 述 べ た ベ イ リー の よ う に 異 国 に 定 住 し, コ ッ ト ラ ン ド教 会 の 分 裂 統 合 に つ い て は,拙 そ こ で 教 壇 に 立 つ ス コ ッ ト ラ ン ド人 学 者 が 数 著 会 経 済 史 研 究 』(同 照.ま 多 く輩 出 さ れ た こ と も 特 筆 さ れ る.(7a) た 当 時 の0・ 文 舘1985年)11頁 図 表 参 ク ロ ム ウ ェル とス コ ッ トラ 村 秀 夫 編 著 ロ ム ウ ェ ル と イ ギ リ ス 革 命 』(聖 ン グ ラ ン ドや ヨ ー ロ ッ パ 社 会 の 変 化 に 影 響 を 受 け て,17世 紀 以 降 ス コ ッ トラ ン ドは 急 速 に イ ン グ ラ ン ドに 接 近 し て ゆ く.1603年 の 「王 「合 併 」 を 経 て,連 合 ・ 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド社 ン ド教 会 の 関 係 に つ い て は,田 ま た ス コ ッ ト ラ ン ド地 域 内 に お い て も,イ 月 書 店1987 会1999年)199-220頁 『ク 学 院 大 学 出 版 。 3)J.K.Cameron,`TheChurchofScotlandin theAgeofReason'inStudiesonVoltairre andEighteenthCentury,LVIII,1967.p.1939. 冠 の 結 合 」 と1707年 の 4)W.Ferguson,Scotland:」.689tothepresent, Edinburgh,1968.pp.113,115--6.:F.Goldie,A 王 国 と し て の 英 国 が 形 成 さ れ て ゆ く. こ の 経 済 的 発 展 を 背 景 に,ス Shop-tHistoryoftheEpiscopalChuYChin コ ッ トラ ン ド Scotland,St.AnderwPress,Edinburgh,1976. 固 有 文 化 の 宗 教 ・慣 習 が 対 応 し,16世 紀の ノ ッ ク ス の 宗 教 改 革 の 成 果 に も とつ く効 率 的 な 教 育 制 度 が 役 立 ち,18世 紀 に は,ヨ pp.26-30. 5)J.H.S.Burleigh,AChurchHisotryofScotland,OxfordUniversityPress,London, ー ロ ッパ 1961.pp.286-8,290-5.な 全 体 か ら 注 目 を 集 め る ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス を 開 花 さ せ る に 至 る.ヨ 地 が,イ シ ム ソ ン の 論 争 に つ い て は,山 の 次 の 近 代 ル ネ ッサ ン ス 科 学 技 術 文 化 の 創 造 に あ っ た.本 に 『イ ギ リ 学 院 大 学 出 版 会1997年)7,43,98頁. 6)篠 を 実 現 し た の が ス コ ッ トラ ン ドで あ り,特 田 園子 ス 革 命 と ア ル ミ ニ ウ ス 主 義 』(聖 ー ロ ッパ 各 タ リ ア ・ル ネ ッ サ ン ス の 所 産 ・影 響 を 受 け な が ら も,そ お最 近 の 研 究 と して 原 久 『ア ダ ム ・ス ミ ス と 常 識 哲 学 』(有 斐 閣 昭 和61年)5,12頁. 7)J.Buchan&G.A.Smith,TheKiykinScotland,1560-1929,Hodder&Stoughton,1930. 稿 で は, pp.12-15,4fi-57. 特 に18世 紀 中 葉 以 降19世 紀 後 半 に 至 る 時 代 の, ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス の 「科 学 技 術 文 化 の 繁 栄 の 時 期 」 を 作 り上 げ る 淵 源 と,そ 8)篠 原 前 掲 書13頁. 9)J.H.S.BurZeigh,op.cit.,pp.290-292. 10)J.Robertson,TheScottishEnlightenment andtheMilitiaIssue,Edinburgh,1985.p.75.: の 時 代 の 草 創 期 を 述 べ た も の で あ る.(73) A.C.Chitnis,TheScottishEnlightenment:A 注 SocialHistoxy,London.1976.p.43. 1)イ タ リア ・ル ネ ッサ ン ス 以 前 に は,9世 紀の 11)J.J.Cater,`TheMakingofPrincipalRober- フ ラ ン ス ・シ ャ ル ル マ ー ニ ュ 地 方 で の カ ロ リン tsonin1762:PoliticsandtheUniversityof グ ・ル ネ ッサ ン ス,ま た10世 紀 の ザ ク セ ン朝 時 EdinburghintheSecondhalfoftheEigh- 代 の オ ッ トー 皇 帝 時代 を オ ッ トー ・ル ネ ッサ ン teenthCentury',inScottishHistoYical Review,XLIX,No.X47,].970.p.80. ス と呼 ぶ こ とが あ る.別 宮 ・朝倉 訳 『十 二世 紀 ル ネ サ ン ス 』(C・H・ 房)7,14頁.ス は,ス ハ ス キ ン ズ,み す ず書 12)当 コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス 済 ・文 化 状 況 に つ い て は,水 ミ ス 研 究 』(未 コ ッ トラ ン ド宗 教 改 革 の結 果 生 じて くる. E.J.Cowan,`TheDurkerVisionofthe 時 の グ ラ ス ゴ ウ と エ デ ィ ン バ ラ の 社 会 経 13)大 田 可 夫 田洋 『ア ダ ム ・ス 来 社1968年)64-130頁. 『イ ギ リ ス 社 会 哲 学 の 成 立 と 展 開 』 September2440 北 (社 会 思 想 社 14) 政 巳 ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 研 究(1) 28)R.Porter&M.Teiched.,TheEnlighten- 昭 和46年)420-3,465-67頁 A.Law,EducationinEdinburghinthe meetinNationalContext,Cambridge,1981. EighteenthCentury,London,1965.pp.195- p.32.:W.C。Lehman,JohnMillar(ゾGlas. 215.:H.MKnox,TwoHundredandFifty gow1735-1801,Cambridge,1960.pp.43-4. YearsofScottishEducation,1696-1940,1952. 29)W.S.Howell,Eighteenth-centuryBritish LogicandRhetoric,PrincetonUniv.,Press, p.12. 15) N.T.Phillipson&R.Mitchisoned.,Scot- 1971.pp.233-4. landintheAgeofImprovement,Essaysin 30)T,Somerville,吻OwnLifeandTimes, ScottishHistoryintheEighteenthCentury, 1741-1814,pp.56-7. EdinburghUniv.,Press,1970.pp.1-3. 16) 31)D.C.McEroy,op.cit.,44.:F.Maclean,A G.Wallace,`MemoriesofDr.Wallaceof ConciseHistoryofScotland,Thames&Hud- Edinburgh',inScotsMagazine,XXXIII,1771. son,Norwich,1981.pp.155--60. 32)Ibid.,p.46.:G.Donaldson,ScottishHistori- p.340.:D.C.McElroy,Scotland'sAgeof Improvement:ASurveyofEightteenCen- calDocuments,ScottishAcademicPress, turyLiteraryClubsandSocieties,Washin- Edinburgh,].970.pp.263-77. 33)W.R.Scott,ScottishEconomicLiteratureto gton,1969.pp.23-26. 17) D.Daiches,TheParadoxofScottishCulture, 1800,A.M.Kelly,NewYork,1971.3-4,43-4. theEighteenthCenturyExperience,Oxford 34)1.R.Fzndlay,EducationinScotland, Univ.,Press,1964.pp.68-97.エ 当 時 18) 33 「北 方 の ア デ ィ ン バ ラ は, テ ネ 」 と 讃 え David&Charles,Newton&Abbot,1973.p. 10:M.Gray,TheHighlandEconomy1750- ら れ た.M。 Joyce,Edinburgh,theGoldenAge1769-1832, 1850,GreenwoodPress,Connecticut,1976. LongmansGreen,London,1975.p.124. pp.41,141,171. G.Bryson,ManandSociety,TheScottish 35)大 学 制 度 導 入 に 至 っ て は,ス ュ ー ズ大 学 とアバ デ ィー ン大 学 が パ NewYork,196$.pp.122-23,130. グ ラ ス ゴ ウ大 学 が ボ ロー ニ ア 大 学 をモ デ ル と し 19) G.Wallace,op.cit,p.340-1. た.田 2Q) D.C.McElroy,op.cit.,p.26. ド と ア イ ル ラ ン ド 』(文 21) Ibid.,p.29,30.. 22) 星 野 彰 男 口仁 久 『イ ギ リ ス 教 育 史 『ア ダ ム ・ス ミ ス の 思 想 像 』(新 評 論 BibliographicalDictionaryofEminentScotsmen,withsupplementalvolumebyT_ 1969.pp.377-8,482-4. Thomson,infivevolumes,Blackie1855:J. 24)W.R.Scott,AdarnSmithasStudentand G.Kellas,ModernScotland,TheNation Professor,Kelly,NewYork,repin1965,pp. 49-50.:J.Rae,TheLifeofAdamSmith, since1870,p.76. 37)ス London&NewYork,repin1965.p.91. 25) J.Rae,Ibid.,p.96.篠 26) D.C.McElroy,砂.CZt.,42-3.な 果 」(前 トラ ン Constable,1927.p.3-4.:R.Chambersed.,A 1560-1830,C.Scribner'sSons,NewYork, 研 究 』 第1章 ス コ ッ 化 書 房 博 文 社1993年) 36)H.且.Ellis,AStudyofBYitishGenius, 23)T.C.Smout,AHistoryoftheScottishPeoples, 状 況 は,拙 リ 大 学 を, 20頁. 1976年)56-7頁. 27) ン ト ・ア ン ド リ InquiryoftheEighteenthCentury,A.Kelly, 著 お 当 時 の 経 済 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド社 会 経 済 史 ・海 運 業 に ・海 グ ラ ス ゴ ウ ー 』 38)A:G.Clements&R.H.S.Robertson,Scot- ドの 合 併 と そ の 結 land'sScientificHeritage,Oliver&Boyd, Edinburgh,1961.p.123.拙 掲 書)39-53頁. 稿 「産 業 革 命 期 ス コ ッ ト ラ ン ド の 教 育 組 織 に 関 す る 一 考 察 」(『 創 hidDay,Oxford,1972.p.177.:R.D.S.Jack, EdinburghUniv.,Press,1972.pp.7-9,145-6. の 後 の 造 船 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド鉄 道 (御 茶 の 水 書 房1999年)13,68-75頁. 1.S.Ross,LoydKarnesandtheScotlandof TheItalianInfluenceonScottishLiterature, 著 運 業 史 一 大 英 帝 国 の 機 械 の 都 原 前 掲 書21頁. 「ス コ ッ ト ラ ン コ ッ ト ラ ン ド の,そ つ い て は,拙 価 経 済 論 集 』 第4巻 39)拙 著 第1号1974年)49-50頁. 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド移 民 史 研 究 』(御 の 水 書 房1998年)40-6,309-12頁. 茶 季刊 34 40)拙 著 前 掲 の 第4章 創 価 経 済 論 Vol.XXX,No.1 「ス コ ッ ト ラ ン ド出 移 民 ・ A.Lang,AHistoryofScotlandfromthe カ ナ ダ へ 」,第6章 「ス コ ッ ト ラ ン ド出 移 民 ・ Romanoccupation,Vo1.1,AMS.Press,1970. オ ー ス トラ リア&ニ ニL一 ジ ー ラ ン ド」87-113, pp.484-6. 161-183頁 48)ジ 41)A.G.Clement&R.H.S.Robertson,op.cit., p.10.ニ れ 以 外,彼 ド出 身 と 認 め て い な い.例 ェ ー ム ズIV世 関 心 が あ り.ア J・ ュ ー トン は 家 系 ・出 世 地 も ス コ ッ ト ラ ン ド と述 べ た が,そ を ス コ ッ トラ ン リシ ア も 有 名 名 な 歴 史 家T・ で あ demicPress,Edinburgh.1973.p.65.そ Anderson&Ferrier,Edinburgh&London, ス コ ッ 190に son,TheScientificRevolutioninVictorian 触 は,紀 元 前3世 紀 に ケ ル ト人 が 侵 略,ま ス コ ッ ト ラ ン ドに 伝 え た.森 僧 の 島 』(T・ -2 カ ヒル著 夏樹訳 pp.1-」.5. 『 聖 者 と学 p.12.1530年 青 土 社1997年)110 R・ 『ル ネ ッ サ ン ス の イ タ リア 』(E・ ラ バ ン ト著 拙稿 に 支 え ら れ,ス 第18巻2001 (S・ 44)G.W.S,Barrow,TheScottishTradition, 平 凡 社1970年)268-272 theUniversityofGlasgow,ユ451-1951,Glas- たス コ ッ ト ラ ン ド と も に 多 く の 領 主 が 国 王 を 名 の り, 歴 史 』(D・ ド レ ス デ ン著 『ル ネ サ ン ス 精 神 史 』 50)R.Ianed.,TheFive-HundredYearBookof ン グ ラ ン ド,ま 権 力 闘 争 を 繰 り返 し た.大 田 勇 訳 頁. ScottishAcademicPress,Edinburgh,1974. の 時 代 は,イ 澤謙一 マ ク ドウ ウ ェ ル 著 gowUniv.,Press,pp.40-5.ス 『イ ギ リ ス の 大 学 の 中 で,牧 東 海大 学 出版 コ ッ トラ ン 師 職 の 創 出 を み て も,17世 ド4 紀 当 初 で は ス ン ト ・ ア ン ド リ ュ ー ズ 大 学 が4割,し か し18世 会1997年)38-9頁. 45)J.Clive,`TheSocialBackgroundofthe 紀 で は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 が3割 で 首位 を 占 め る.RN.Smart,`Someobservationson ScottishRenaissance',inN.T.Phillipson& theprovincesoftheScottishuniversities R.Mitchisoned.,ScotlandintheAgeof 1560-1850'inG.W.S.Barrowed.,op.cit.,p. Improvement,EdinburghUniv.,Press,1970. 94. 51)A.G.Cement&R.H.S.Robertson,op.cit., pp.225-7. 46)A.G.Clement&,R.H.S.Robertson,op. CZt.,p.9。 ダヴ ィンチは で あ り,建 で あ り,音 p.!2:R.Michison,AHistoryofScotland, 「画 家 で あ り,彫 刻家 築 家 で あ り,発 明 家 で あ り,数 学 者 楽 家 で あ り,物 理 学 者 で あ り,天 家 で あ り,そ 青 弓 社1992年129頁)と 52)Zbid,p.15.:B.Lenhman,Intergration, Enlightenynent,andIndustrialization,Scot- 文 land1746-1832,EdwardArnold,London, 1981.pp.94-6. 『ル ネ サ ン ス の 肖 像 』 い わ れ る が,ダ ィ ン チ は 天 才 的 な 情 報 収 集 能 力 を 持 ち,ま ヴ た多 く の 革 新 的 な 科 学 者 と親 交 が あ っ た に 違 い な い. 鉱,p.10.こ Methuen&Co,London,1979.pp.152-4. して何 よ り も まず 透 徹 した 人 間精 神 の 洞 察 者 」(中 田 耕 治 り,結 世 とス コ コ ッ ト ラ ン ドに も 新 し い 価 値 観 が 流 入 す る.高 定. pp.38-40.こ し て 宗 教 改 革 と ユ マ ニ ズ ム(中 つ け る こ と に よ り 人 間 精 神 の 高 揚 を 図 る 運 動) 「ス コ ッ トラ ン ド と イ タ リア ・ル ネ ッサ ン 年 春)予 テ ン ラ哲 学 を越 えて 近 代 的教 養 と古代 的 教 養 を結 び み す ず 書 房1998年)234頁. ス 」(『 比 較 文 化 研 究 』 創 価 大 学 代 ま で の ヨ ー ロ ッ パ に は,ラ 語 を共 通 とす る文 学 共 和 国 が 概 念 と して 存在 し た.そ 高順 雄訳 の 後 の ド 医 学 の 発 展 は,A.J.Young- 49)A.G.Clement&R.H.S.Robertson,op.cit., ,260-1頁. 43)大 トラ ン Medicine,Billing&Sons,Guildford,1979. た6 世 紀 に は ケ ル ト僧 が 留 学 か ら 戻 り キ リス ト教 を イ ネ ス との親 交 で る.M.0.Anderson,Kings& land'sWorkandWorth,1&II,Oliphant, ル ト人 と ギ』リ シ ヤ と の 最 初 の 接 リシ ャ 語 デ ィ ンバ ラ大 学 に 招 KingshipinEarlyScotland,ScottishAca- も 掲 載 さ れ て い な い. ・ロー マ 文 化 に バ デ ィ ー ン 大 学 の ギ ケ ア 教 授 を 登 用 し,エ 請 し た 他,有 え ば ス コ ッ トラ ン ド は,ギ 名 士 を 網 羅 し た 大 著,C。W.Thomson,Scot- 42)Ibid.,p.7.ケ 47)乃 集 の 時 代 は封 建 諸 戦 争 の 時 代 で あ 果 と し て 医 学 ・薬 学 の 発 達 を 促 し た. 53)ス コ ッ トラ ン ド 人 思 想 家D・ .s..‐ ト ン の 方 法 を 人 間 を 試 み て,処 田 中秀 夫 女 作 ヒ ュ ー ム は,二 ・社 会 へ の 野 心 的 な 適 用 『人 間 本 性 論 』 を 発 表 し た. 『文 明 社 会 と 公 共 精 神 一 ス コ ッ ト ラ ン ド啓 蒙 の 地 層 一 』(昭 和 堂1996年)14頁.ま September2000 北 政巳 ス コ ッ ト ラ ン ド ・ル ネ ッサ ン ス 研 究(1) 35 た ヒ ュ ー ム と ス ミ ス の 友 情 は 有 名 で あ る.W. れ て い た.J.F.Riddel1,ClydeNavigation,A K.Ritchie,EdinburghinitsGoldenAge, HistoryoftheDevelopmentandDeepning Then&ThereSeries,Longman,London, oftheRiverClyde,JohnDonaldPublishers, 」.967.pp.60-4. 54)ボ Edinburgh,1970.pp.18-20. イ ル は 地 中 海 か ら採 集 し た コ ケ か ら 抽 出 染 め た 青 色 リ ト マ ス 紙 が,酸 る こ と を発 見 し た.岩 ・ 63)G.Bryson,op.cit.,p.7.:A&NCIow,The に 反 応 して 赤 化 す 波 書 店 CheynicalRevolution,BatchworthPress, 『科 学 の 事 典 』 1952.p.36. 64)P.Lenard,GyeatMenofScience,G.Bell (第3版)1985年,296,448,1011頁. 54)A.&N_Chow,TheChemicalRevolution, andSons,].950.p.62. BatchworthPress,1952.p.65. 65)W.W.Bryant,AHistoryofAstronomy, 55)P.Lenard,GreatMenofScience,G.Sell& Methuen,190'7.p.13-6.:H.T.Pledge,Science Sons,1950.PP.34-5. since1500,H.M.S.0.1939.p.57. 56)F.Danneman&A.Armitage,AHistoryof G6)J.G.Crowther,DiscoveriesandInventions Science,TechnologyandPhilosophyinthe16 oftheTwentiethCentury,Routledgeand thand17thCenturies,Allen&Unwin,1950. Keganpawl,1955.p.2. 67)拙 P.87. 57)T.C.Smout,AHistoryofScottishPeoples, 著 前 掲 究 』 第2章 1560-1830,CharlesScribner'sSons,New 節 York,1969.155-$,187-8. 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド社 会 経 済 史 研 第1節 ・毛 織 物 工 業 」 と 第2 「亜 麻 工 業 」55-77頁. 68)M.Joyce,E4伽 58)A.G.Clement&R.T.H.Robertson,op.cit., 「羊 毛 伽 ㎎h,theGoldenAge1769- 1832,LongmansGreen&Co.London,1951 p.21:H.Hamilton,AnEconomicHistoryof pp.8,14. Scotland,intheEighteenthCentury,Claren- 69)H.Hamilton,TheIndustrialRevolutionin donPress,Oxford,1963.pp.159-62. Scotland,FrankCass&Son,1966.p.2 59)G.S.Osborne,ScottishandEnglishSchools, 70)1.Findlay,EducationinScotland,David& Longmans,1966.pp.3-5.:R.A.Masoned., Charles,Hamden,1973.p.10.:J.G:Kellas, ScotlandandEngland1286-1815,John ModernScotland,theNationsinceI870,Pall DonaldPublishers,Edinburgh,1987.pp.203- MallPress,London.1968.pp.4-L1. 5. 60)ス 71)拙 コ ッ ト ラ ン ド 人 は 当 初,ク ロム ウ ェ ル の 考 家 入 訳 『ス コ ッ ト ラ ン 性 』(R・ ミチ ス ン 著 ド 史,そ の 意 義 田 ・ と可 能 未 来 社1998年)115-6, 142. 72)ス コ ッ ト ラ ン ド 人 が 出 稼 ぎ ・移 民 運 動 を 通 て,早 た.拙 じ くか ら ヨ ー ロ ッ パ 大 陸 各 地 に 浸 透 し て い 著 『近 代 ス コ ッ ト ラ ン ド移 民 史 研 究 』 (御 茶 の 水 書 房1998年)68,311頁. 61)F.Cajori,AHistoryofMathematics,Mac- 73)L.Schneidered.,TheScottishMoralistson millan,London,1894.p.52.:D.Thompson, `FiftyYearsAgointheRoyalSocietyof HumanNatureandSociety,ChicagoUniv., Press,1967.pp.xi-xvi.建 築 史 で は,16-18世 Edinburgh'inProceedingofRoyalSocietyof 紀 を ス コ ッ トラ ン ド ・ル ネ ッ サ ン ス 期 Edinburgh,Vol.54,1934.pp.112,145-57. 握 し,リ の 当 時,グ に ク ラ イ ド河 の 拡 張 ン リ ス ゴ ウ 宮 殿 や エ ゼ ル 城,エ と し て 把 デ ィ ン バ ラ の 議 会 ホー ル 等 を 同 時期 の 典 型 的 建 築 62)A.G.Clement&R.T.H.Robertaon,op. CZt.,p.24.こ ・ル ネ Paul,London,1982.p.113. 果 と し て ス コ ッ ト ラ ン ドの 発 展 に つ な が る こ と 村 秀 夫 編 前 掲 書411-3頁.富 「ス コ ッ ト ラ ン ド と イ タ リ ア HistoryofScotland,Routledge&Kegan え 方 を イ ン ン グ ラ ン ド支 配 と し て 嫌 っ た が,結 に な る.田 稿 前 掲 ッ サ ン ス 」 参 照.P.F.SomersetFry,The ラ ス ゴ ウの 発 展 を背 景 ・深 化 工 事 は 深 刻 に 討 議 さ る.G.Hay,ArchitectureofScotland,Oriel Press,1977.pp.62-69. とす