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韓国第一共和国憲法の制定前史に関する一考察
韓 国第 一 共 和 国 憲 法 の制 定 前 史 に関 す る一 考 察 解 放 か ら制 憲 国会 の構 成 に 至 る まで の 政 治 的 背 景 を 中心 と して ヲ}龍 1,は 澤 じめ に 1987年,即 ち 本 年 は,韓 国 の 地 に あ って は,後 世,「 憲 法 の年 」 と し て 記 録 され る こ と は 間 違 い な い で あ ろ う。 そ の 理 由 は,言 うま で も な く,一 時 挫 折 した か に み え た 改 憲 論 議 が 本 年6月29日 わ ゆ る 「盧 泰 愚 宣 言 」 に よ って 再 度 活 性 化 し,今 の,い 年 中 に は 韓 国 憲 法 史 上 は じめ て の 与 野 党 合 意 に よ る憲 法 改 正 が な され る こ と が ほ ぼ確 実 と な った か らで あ り,そ の 意 味 に お いて,今 と 0 い うこ と も で き よ う 。 回 の 憲 法 改 正 は,韓 こ の こ と を よ り 印 象 的 に 伝 え る 記 事 が,本 国憲 政 の第二 幕 の幕 開 け 年8月31日 の 日本 の 各 朝 刊 に掲 載 され た 。 そ れ は,韓 国 最 初 の 憲 法 で あ る,い わ ゆ る 「制 憲 憲 ② 法 」 の 生 み の親 と もい うべ きC<鎮 午 博 士 の 逝 去 を 報 じた も の で あ った 。 こ の 記 事 に 接 した と き,筆 得 な か った 。 ま さ に,愈 幕 を告 げ られ,あ 者 は 歴 史 の 巡 り合 せ の 如 き もの を 感 じ ざ る を 鎮 午 博 士 の 逝 去 に よ り,韓 と 数 カ 月 以 内 に は,韓 国 憲 政 の 第 一 幕 は終 国 憲 政 の 第 二 幕 が 開 け られ よ う と して い る の で あ る 。 従 って 韓 購 88 政史の幕 間にいるこの ときセ こ韓 国鰍 鋤 原点 となっ 韓 国第一共 和国憲法 の制 定前 史 に関 す る一考 察 た 第 一 共 和 国 憲 法 の 制 定 経 過 を 振 り返 る こ とは,意 が あ る よ うに 思 わ れ る 。け だ し,現 り,未 義 少 な か ら ざる もの 在 が過去 の上 に つ く ら れ て い る 限 来 も また 過 去 と現 在 の 上 に つ くられ る で あ ろ うか らで あ る 。 本 稿 は,韓 国第 一 共 和 国 憲 法 の 制 定 過 程 を 考 察 す る た め の 序 説 と し て,1945年8月15日 の 解 放 か ら1948年5月31の 至 る まで の 政 治 的 流 れ を概 観 し,も 制 憲 国会 の 開 会 に って 制 憲 過 程 に お け る政 治 勢 力 を 明 らか に しよ うと す る もの で あ る 。 注① 一昨 年来 の改 憲論議 の経 過 を,参 考 まで に年表 に して ま とめて お くことに す る。 1985年2月12日 第12回 国会 議 員選挙 。大統領 直i接選 挙制 を公 約 に 掲 げ た新 韓民 主党(新 民 党)が 野党第 一党 に進 出。 1986年1月17日 新 民 党汎国 民憲法 改正 闘争 の 一i環と して,一 千万人署 名の運動 開始 。 2月25日 全斗換 大統 領,三 党(民 正,新 民,国 民 党)代 表 会 談 で 1989年 改憲意 思表 明 。 3月11日 新民 党,ソ ウルで改 憲推進 委 員会 ソ ウル支 部結 成 。地方都 市 で も展 開 。 4月30日 全 大統領,「 与野党 が 合意 す れ ば 在 任 中に改憲 す る用意 が ある 」 と歩み 寄 る 。 6月24日 第130回 臨時 国会 本会 議で 憲法改 正特 別委 員会構 成決議 案 を議 決 。 7月30日 「国会 憲法 改 正特 別委 員会 」が初 会議 。 8月8日 新 民 党,国 民 党,「 大統領 中心 制,大 統領 直接選挙 制」を骨 子 とす る改 憲案 を国会 に提出 。 8月25日 民 正党 「責任 内閣制 」「国 会 で の大統 領 間接 選挙 制 」を骨 89 子 と す る改 憲 案 を 国 会 に 提 出 。 11月29日 新 民 党 の ソ ウ ル 改 憲 集 会,阻 12月24日 李 敏 雨 ・新 民 党 総 裁,与 止 され る 。 党 の 議 院 内 閣 制 改 憲 案 に歩 み 寄 り 発言。 ・・ 年1月12日 全大 統領 ,「 与 野 党 合 意 で き ね ば,重 4月13日 全大 統領,改 5月1日 新民 党分裂 。 金泳三,金 大 決 断 」と 警 告 。 憲棚上 げを宣言 。 大 中氏 ら統 一民主 党(民 主 党)を 結成。 5月27日 在野反 政 府 グル ープに よる 「民 主 憲法奪取 国民運 動本部 」 が結 成 。 6月10日 民 正党大会 で,盧 泰 愚代 表委 員 を次 期大統領 候補 に指名 。 反政 府 デモ激化 。 6月18日 ソウル,釜 山 な ど各 地で10万 人 デモ 。 6月24日 全大統 領 と金泳三 ・民 主 党総 裁の トップ会談 。改 憲論議 再 開を了承 。 6月25日 金大 中 氏 自宅軟禁 を解 除 。 6月26日 国民 運動本 部の 「国民平和 大 行進」 が政 府の厚 い警 備で 阻 止 。全 国 でデモ 拡大 。 6月29日 盧代表 委員,収 拾 案 と して 「国民 の大 団結 と偉大な 国家 へ の前進 の ための特 別宣言 」を発表 。 7月1日 全 大統 領 が,盧 代表 委 員の収拾 案 を全 面的 に受 げ入 れ る特 別談話 を発表 。 ② ここで,愈 鎮午 博士 の経歴 を簡単 に紹 介 して お きた い。 愈 博 士 は,1906 年5月13日,漢 城府(現 在の ソ ウル特別市)で 生 まれ,1929年3月 城 帝 国大学 法文学 部法学 科 を卒業 し,母 校 の助手 を経 て,普 (現在 の高麗大学)で 90 教授 と な った 。1948年 に京 成 専門 学 校 の政 府樹 立 当時,憲 法起 草 韓 国第 一共和 国憲 法 の制 定前 史に関す る一考察 専門委 員 と して 制憲 憲法案 を作成 し,52年9月 大学 総長,韓 か ら62年10、 月まで 高麗 日会 談 の大 韓民 国首席 代表(51年),学 国家 再建 国民 運動 本部 長(61年)等 術 院終 身会 員(54年), を歴 任 した 。 また,C博 士は,1966 年9月 には民 衆党 によ り大統 領候補 と して指 名 され政 界に迎 え入 れ られた が,67年 初 めに 「野 圏の 大統領 単 一候補 」 に対す る国民 の輿 望に従 いサ 譜 善 氏に大統 領候 補 の地位 を譲 り,自 らは統 一野党で あ る新民党 の初 代総 裁 に就任 した 。特 に朴正熈 大統領 の3選 改憲 への動 きに対 しては,「3選 改 憲 は民 主主義 の戻 って こな い橋 で あ る。一度越 えれば,平 和 的 に民 主主義 を と り戻す ことは永遠 に来 な い」 と宣言 して,反 対 闘争 を した ことは有名で あ る。 しか し,彼 の反対 闘争 に も拘 らず3選 改 憲は強行 され た 。 この3選 改 憲 の シ ョックは,彼 を病床 にふ させ,83年12月26日,こ 気 が再発 し,つ いに本年(1987年)8月30日 月の 闘病生 活 のす えに亡 くな られ た 。享年81歳 の ときの病 午 後2時40分,3年8カ で あ った。愈 博 士は また, 文学 の方面 で も良 く知 られ た人 で あ り,日 本 植民地時 代 に 書 か れ た 小 説 が,r朝 鮮短 篇小説 選(上 ・下)』(1984年,岩 波書店)に2本 収 録され て いる。 ③ 韓国憲法 史 に関 して は,拙 訳 ・金 哲沫 「韓国 憲法 の制 定 と改 正小 考 」(r創 大 ア ジア研究 』第5号(1984年)所 収),同 訳 ・朴 一慶 「韓 国 憲 政30年 の政 府形 態 の変遷」(『創大 ア ジア研 究』第4号(1983年)所 収),同 訳 ・韓 相範 「韓 国法 制40年 の問 題 と課題」(r言 語文 化 研究』 第7号(1986年) 所 収)等 を参 照 して 頂 きたい。 本稿は,こ れ らの翻 訳作業 を も とに した筆 者 の 韓国憲法 史の序 説で もある。 1.朝 鮮 を め ぐる 国 際 状 況 第二 次 世 界 大 戦 下,ヨ ー ロ ッパ 戦 線 で の 勝… 敗 の 帰趨 が 連 合 国 の 勝 利 に 91 大 き く傾 き か け た1943年11月27日,エ ジ プ トの カ イ ロで,米 国大 統 領 ル ーズ ベ ル ト,英 国 首 相 チ ャ ー 一チ ル,中 華 民 国 主 席 蒋 介 石 の 三 巨 頭 は 会 談 を行 0 い,い わ ゆ る 「カ イ ロ宣 言 」を 発 表 した 。この 宣 言 は,日 本 に 対 す る戦 後 処 理 問 題 を 明 ら か に した も の で あ る が,そ れ は ま た,朝 鮮の解 放 に つ い て の 最 初 の 連 合 国 側 の 宣 言 で もあ った 。 即 ち,「 前 記 三 大 国 ハ 朝 鮮 ノ人 民 ノ奴 隷 状 態 二 留 意 シ臆 テ朝 鮮 ヲ 自 由 且独 立 ノモ ノ タ ラ シ ム ル ② ノ決 意 を 有 ス 」 と 表 明 した 。 これ は,1945年7月26日 の ポ ツ ダ ム宣 言 第8項 に 「『カ イ ロ』 宣 言 ノ条 項 ハ 履 行 セ ラ ル ベ ク又 日本 国 ノ 主 権 ハ 本 州,北 海 道,九 州 及 四 国並 二 吾 等 ノ決 定 ス ル 諸 小 島 二 局 限 セ ラ ル ベ シ 」 と 宣 言 され る こ とで,再 確 認 され た 。 同 年8月8日 に は,ソ 連 が, 対 日宣 戦 布 告 と 同 時 に これ に 同 調 した 。 1945年8月15日,天 皇 は 無 条件 降 伏 す る 旨 の 終 戦 の 詔 勅 を 放 送 し た 。 こ こ に,36年 間 に わ た る 日本 の 朝 鮮 支 配 は そ の 終 末 を 告 げ,朝 は 自主 独 立 の 国 と な る は ず で あ った が,日 の 理 由で,38度 線 以 北 を ソ連 軍 が,以 の で あ っ た.o従 って,カ course)と は,韓 鮮 本 軍 の武装 解 除 に 当 るた め と 南 を 米 軍 が,そ れ ぞ れ 占領 した イ ロ宣 言 に お い て 言 及 され た 「臆 テ 」(indue 国 民 衆 が 当 時 信 じて い た 「直 ち に 」 で は な か った0 で は,「 臆 テ 」 と は 何 時 か 。 そ の 答 え は,12月27日 の 米 英 ソ三 国 モ ス ⑤ ク ワ協 定 で 得 られ た 。即 ち そ の 宣 言 は,① 独 立 国 と して の民 主 的 朝 鮮 の 再 建 の た め の 民 主 主 義 臨 時 朝 鮮 政 府 の 樹 立,② 米 ソ合 同 委 員 会 の 設 置 と,朝 鮮 の 民 主 的 諸 党 お よ び社 会 的 諸 団 体 との 協 議,③ の5年 以 内 の 期 間 の 朝 鮮 信 託 統 治,④ 米 英 ソ中 の 四 国 米 ソ両 軍 の 代 表 者 会 議 の 招 集,を 内容 と す る も の で あ った 。 「臆 テ 」 と は,今 や 「な る べ く早 い 時 期 」 で さえ な い こ と が 明 白 と な った 。 この 報 に接 す る や,南 朝 鮮 に は,保 守 陣 営 を 中心 と す る激 しい 信 託 反 対 運 動 が 全 国 的 に 展 開 され た 。 これ に 反 して 左 翼 及 び 朝 鮮 共 産 党 92 韓 国第一 共和 国憲法 の制 定前 史 に関 す る一 考察 は,初 め は信 託 に反 対 す る姿勢 を 見せ て い た が,1946年1月2日 に至 って 朝 鮮人 民 共和 国 中 央委員 会 及 び朝 鮮 共産 党 は 突然,信 託統 治案 を 支 持す る立 場 に変 っ捜 日本 植民 地 時 代 の民族 解 放運 動 の過 程 です で に 左 右 に分 裂 して いた 政治 勢 力の対 立1脅 ここに至 って 極度 に達 し,民 衆 も 信 託 支持 派 と反 対 派 に分 れ て 連 日デモ を行 い,互 いに衝 突 して は流血 の 事 態 まで引 き起 す よ うに な って しま った。 この信託 統 治 をめ ぐる政 治対立 は,結 局,「 左 派 勢 力 は,託 治 を支 持 す る こ とに よ って 国民 の民 族主 義 の意識 に即 応 す る こと がで きず,解 放 直後 か ら彼 らの勢 力を 拡張 して きた 優勢 な支 持基 盤 を決定 的 に 喪失 す る よ うに な った 。逆 に右 派 勢 力は,反 託治 の民 族主 義的側 面 よ りもそ の反 共 イデ オ ロギ ーと して の シ ソボル 的効 果 を意 識的 に利用 す る こ とに よ っ て反 共 右 翼勢 力を大 き く拡 張す るこ とが で き調 とい う状 況 を現 出す る こ と に な った の で あ る 。 しか し,こ の よ うな 朝 鮮 民 衆 の 選 択 とは 関 係 な く,朝 に対 す る 国 際 的 努 力 は,結 て い った 。1946年1月16日 局,モ か れ,続 ス ク ワ協 定 を 実 践 す る方 向 で 展 開 され に,ソ い て 同年3月20日 催 され た 。 そ の 会 議 で は,臨 鮮 の 独 立 と統 一 ウル で 米 ソ合 同 委 員 会 予 備 会 談 が開 に は,ソ ウ ル で 第 一 次 米 ソ合 同 委 員 会 が 開 時 朝 鮮 政 府 樹立 に 関 して,い か な る政 党 及 び社 会 団 体 を協 議 対 象 とす る か に つ いて 米 ソの 意 見 が 完 全 に 対 立 した 。 い う まで もな く,ソ 連 側 は 信 託 反 対 を 宣 言 して い る政 党 及 び 団 体 を 協 議 対 象 か ら 除 外 し よ う と 主 張 し,こ れ に 対 して,ア メ リ カ側 は 言 論 の 自 由 の 保 障 が あ って こ そ 民 主 主 義 で あ る と して 信 託 反 対 の 団 体 を も協 議 対 象 に 加 え る こ と を 主 張 した の で あ る 。 こ の よ うな対 立 の 中 で 米 ソは 遂 に 妥 協 す る こ と が で きず,結 合 同委 員 会 は5月6日 無 期 休 会 に 入 り,5月8日 は 決 裂 す るに 至 った 。 翌47年5月21日,ア 局,米 ソ 第 一 次 米 ソ 合 同委 員 会 メ リ カ の 提 案 に よ って 合 同 93 委 員 会が ソ ウルで 再 開 され た が,そ こで も協 議 対象 と な る政 党及 び社 会 団体 の範 囲 に つ いて依 然 と して 意 見が一 致せ ず,暗 礁 に乗 り上 げて しま った 。 同年8月28日,ア メ リ カ 政 府 は,膠 着状 態 に 陥 って い る統一 臨時 朝 鮮 政 府 樹立 問題 の解決 を促 進 す るた め,米 ・ソ ・英 ・中 の四 大 国が9月 8日 ワシ ン トンで 会談 を開 くこ とを提 唱す る と同時 に,普 通 選 挙法 に基 づ く選挙 に よ って 南北 を各 々代表 す る立 法 機 関 を設 置 し,こ の 機関 の 代 表 に よ って 臨時 統 一政 府 を構築 した 後 に,こ の 臨時政 府 と四大 国 の間 で 占領 軍 の 撤 退 と朝鮮 の 完 全独 立 問 題 を 協議 す る とい う案 を,モ ス クワ協 定 の 代 案 と して 提 案 し醜 しか し,ソ 連 は,9月4日 に 「米 ソ 合 同 委 員 会 が相 互 合意 の 下 で 妥 当な る提 案 が準備 され る とい う可 能 性 が消 滅 しな い限 り,ソ 連政 府 は朝 鮮 臨 時政 府 樹立 問題 を 四大 国に よ る協 議 に附 す る とい うア メ リカの提案 を不 適 当 と考 え る。 同時 に,南 北 朝 鮮 に 各h別 の 臨時立 法議 会 を設 置す る とい うア メ リカの 提 案 も南北 朝 鮮 の分 裂 を助 長 す る恐れ が あ る故 に,こ れ に反 対 す る」 と して 拒否 し2当 トソ の 政 界 で は,も は,朝 シン し ア メ リカ の新 しい 提 案 が 受 け 入れ られ な い と き に 鮮 問 題 は 国 連 に 上 程 され るで あ ろ うと の 噂 が 広 が って い た と の こ とで あ るが11果 17日 時,ワ して,ソ に 開 か れ た 第2回 連 の 拒 否 に あ う や,ア メ リ カ は,1947年9月 国連 総 会 の 二 日 目に,朝 て総会 に上 程 した ので あ 調 そ して,漣 鮮 問題 を正 式議 題 と し 及 び共産 主 義 陣 営 の反 対 に も 拘 らず,「 国 連 監 視 下 に 南 北 朝 鮮 総 選 挙 を 実 施 す る と共 に,国 会 に よ る 政 府 樹 立 を 監 視 す る 国 連 臨 時 朝 鮮 委 員 団(UNTCOK;UnitedNations TemporaryCommissiononKorea)を ア メ リカ 案 が11月14日 に 可 決 され た の で あ る 。越 え て48年1月8日, 国 連 臨 時 朝 鮮 委 員 団 一 行 は 南 朝 鮮 に 到 着,同 入 を 要 求 した が,ソ 94 朝鮮 に派 遣 す る 」 とい う 月12日 に は北朝 鮮 へ の 立 連 軍 司 令 官 に 入 北 を 拒 否 され た 。 国 連 臨 時 朝 鮮 委 員 韓 国第 一共 和国憲 法 の制 定前 史 に関 す る一 考察 団 議 長 メ ノ ソ(K.P.S.Menon)は 同年2月20日,国 南 北 朝 鮮 の 状 況 を報 告 した 。 同 月26日,国 連 小 総 会 に 出席, 連 小 総 会 で は,国 連 臨時 朝 鮮 委 員 団 が任 務 を 遂 行 す る こ と が 可 能 な地 域 だ け で 総 選 挙 を 実 施 す べ き で あ る とす る ア メ リカ案 が可 決 さ讃 局 との 合意 の下,同 年5月10日 その後 同委 員 団 は アメリカ軍政 当 に選 挙可能 地 域 で あ る 南朝 鮮 だけ で の 総 選挙 を実 施す ると い う宣 言文 を発 表す る に お よ び,こ 5・10選 こ に 歴史 的 な 挙 が実 施 され るこ とに な った ので あ る 。 注 ① 連 合 国 間 で 初 め て 朝 鮮 問 題 が 論 議 さ れ た の は,1943年3月,ワ 開 か れ た,米 国 の ル ーズベ ル ト大 統 領 お よ び ハ ル 国 務 長 官,そ デ ン 外 相 に よ る 会 談 が 最 初 で あ り,そ の 席 で,後 して 英 国 の イ に 大 き く問 題 と な る 朝 鮮 の 信 託 統 治 が提 案 され た と の こ とで あ る 。 ヂ 景徹 (木 鐸 社,1986年)21頁 シ ソ トソで 『 分 断後 の 韓 国 政 治 』 。 ② 原 文 は 以 下 の 通 りで あ る 。 即 ち,``Theaforesaidthreegreatpowers,mindfuloftheenslavementofthepeopleofKorea,are determindthatinduecourseKoreashallbecomefreeand independent."カ イ ロ 宣 言 と ポ ツ ダ ム 宣 言 の 全 文 は,田 駿,石 著 『韓 国 ・北 朝 鮮 統 一 問 題 資 料 集 』(自 由 社,1979年)20∼21頁 原 一N-一 記編 に収録 さ れて いる 。 ③38度 線 の 設 定 の 経 緯 に つ い て は,宋 圃 音,成 景 徹,前 文 閣,1980年)88∼100頁 掲 書,28∼32頁 南 憲 『韓 国 現 代 史 第1巻(建 が,ま 国 前 夜)』 た 邦 文 の も の と して は,サ が 詳 しい 。 サ 景 徹 氏 は そ の 箇 所 で,「 要 す る に 38度 線 を 提 案 し た の も ア メ リ カ で あ りtま た 後 日朝 鮮 内 に 深 刻 な 論 争 を 引 き 起 し た 信 託 統 治 案 を 先 に 提 案 し た の も ア メ リ カ で あ り,ソ 連 は この ア メ リ カ の 提 案 を た だ 受 け 入 れ た に 過 ぎ な か った の で あ る 。 朝 鮮 民 族 の 運 命 と 直 接 つ ら な る こ の 重 大 な 問 題 が 何 等 政 治 的 に 深 い 思 慮 も な く単 に 軍 時 的 95 便 宜 と い う理 由 で 若 い 二 人 の 軍 人(デ ボ ソ ス テ ィル 大 佐 … … 筆 者)に 考 え る 時,我 々 韓 国 人 は,朝 ィ ー ン ・ラ ス ク 大 佐 と チ ャ ー ル ズ ・ よ って 考 案 さ れ,決 定 さ れ た と い う事 実 を 鮮 に 対 す る ア メ リカ の 軽 率 な 措 置 に 只 々 呆 然 と す る の み で あ る 」(同 書,32頁)と の 言 葉 は,1946年 の5月 か ら6月 に か け て 北 朝 鮮 を 視 察 し た ア メ リカ の ポ ー レ ー 特 使 が トル ー マ ン大 統 領 あ て の 報 告 の 中 で,「 北 朝 鮮 に お け る 共 産 主 義 は,実 際,世 界の いず れ の地 域 よ り さ い さ きの よ い ス タ ー トを 切 る こ と が で き た 」 と 述 べ た 言 葉(こ ポ ー レ ー報 告 の 全 文 は 神 谷 不 二 編 『朝 鮮 問 題 戦 後 資 料(第1巻)』(日 際 問 題 研 究 所,1976年)194∼197頁 き,よ 本国 比較 す る と り一 層 そ の 真 実 味 を 我 々 に 訴 え る よ うに 思 わ れ る 。 尚,38度 後,日 に 収 録 さ れ て い る)と の 線 に つ い て は,「38度 本 の 大 本 営 が5月28日 線 は,も と も と5月8日 に 発 した 朝 鮮 軍 と関 東 軍 の 分 担 区 域 指 定 の 境 界 線 で も あ った 。 対 日参 戦 し た ソ 連 軍 は,当 の こ と を 考 え れ ば,38度 の ドイ ツ降 伏 然 関 東 軍 と先 ず 戦 っ た 。 こ 線 以 北 の 日本 軍 が ソ連 極 東 司 令 官 に 降 伏 す る の は 当 然 で あ っ た 。」(関 寛 治 「朝 鮮 半 島 と 国 際 関 係 」 関 寛 治 ・高 瀬 浄 編 鮮 半 島 と 国 際 関 係 』(晃 洋 書 房,1982年)所 収,3頁)と 「朝 い う こ と を,理 由 の 一 つ に 挙 げ る こ と もで き よ う 。 ④"induecourse"と い う言 葉 は,朝 鮮 の 人 民 に と っ て は 「直 ち に 」, 或 は 少 な く と も 「な る べ く早 い 時 期 に 」 と 理 解 さ れ た し,ま の 臨 時 政 府 は,カ し,1944年 の翻 訳 の コ ピ ー が 何 千部 もひ そ か に 朝 鮮 に 持 ち こ ま れ た 。 宮 崎 繁 樹 「国 連 と 朝 鮮 問 題 」 関 寛 治 ・高 瀬 浄 編r朝 際 関 係 』(晃 洋 書 房,1982年)所 著 ・鈴 木 沙 雄 ・大 塚 喬 重 訳 収,39頁 鮮半 島 と国 。 グ レ ゴ リ ー ・ヘ ソ ダ ー ソ ソ 『朝 鮮 の 政 治 社 会 』(サ イ マ ル 出 版 会)131頁 ⑤ 米 英 ソ三 国 モ ス ク ワ協 定 に つ い て は 抜 粋 で あ る が,田 96 慶 イ ロ 宣 言 が 発 表 さ れ る と す ぐに そ の よ う に 朝 鮮 語 に 翻 訳 初 頭 に は,こ 書,22∼23頁,お た 事 実,重 よ び 神 谷 不 二 編,前 掲 書,250頁 駿 ・石 原 繭 記,前 。 掲 に収 録 され て い る 。 韓 国第一 共和国憲 法 の制 定前 史に関 す る一考察 ⑥左翼 陣営 に よる信託 統 治賛 成 の宣言文書 は,神 谷不 二編,前 51∼56頁 掲書,48頁, に3つ 収録 され て いる 。 ⑦ 民 族解放運動 の種 々の主体者 乃至は 団体 を,如 何 ほ どに評価 す るか とい う ことは,朝 鮮 近代史 の最 も困難 な問 題で あ り,ま た南北 の歴史学 が鋭 く対 立 してい る点で もある 。韓 国 憲法 史 とい う観点 に限 る と,上 海 に誕生 した 大韓 民国 臨時 政府 を,民 族解 放運 動 の主体者 と して第一 に挙げ て もさほ ど 異論 は な いと思 われ るが,そ の上海 臨時政 府 内に おいてで さえ,親 米的 な大 統領 ・李承 晩 と親 ソ的 な国務総理 ・李東輝 を両極 とするイデオロギー対 立が あ ったので ある。拙稿 「憲法的 文 書を中心 と して 見た 韓国憲法 前史一 国か ら上 海の大韓 民 国臨時 政 府 の樹立 まで(下)」r言 3号(1984年)所 収,34頁 開 語文 化研究 』第 。 ⑧ 環太 平洋 問題研 究所編 『韓 国 ・北朝 鮮総 覧1987』(原 書房,1986年)47 頁。 ⑨ これは ロベ ッ ト国務 次官 のモ ロ トフ外相 あて 書簡 で提 案 され たが,こ の全 文 は,神 谷不二 編,前 掲 書,210∼213頁,に ⑩ 宋南 憲,前 掲 書,407頁 ⑪サ 景徹t前 掲書,77頁 収録 されて い る。 。 。 ⑫ アメ リカが朝鮮 問題 を国 連の場に もち出 した理 由を,林 建 彦教 授 は次の よ うに推察 され て いる 。即 ち,「 …… さ して 戦略価 値 の ない(米 国は朝鮮戦 争 までそ の よ うにみて いた)半 島にいつ まで も踏み とど まって,米 ソの対 立論議 に うつつ をぬかす こ とは,国 家 財政 の 上か らも"割 の合 わな い"こ とだ と考}ら れ は じめて いた 。 ア メ リカの 負担 と責任 を軽減 す る道 は,圧 倒的 に米 国支持 の勢 力で 固め られて いる国連 に朝鮮 問題 を もちだ し,そ の 処理 をゆ だね る こ とで あ った。 …… アメ リカは,表 向きは統 一朝 鮮 とい う 野心 的 な長 期 目標を強調 し,こ の問 題を国 連 に もち出 す こ とに よ って,じ っさいには同 国の安全保 障上 重要性 が少 な い と判 断 され た南 朝 鮮 におけ る 97 軍 事 的 関 与 削 減 計 画 を カ バ ー し よ う と した 」 と 。 林 建 彦 (至 認 堂,1976年)66頁 書,251∼252頁,に ⑬ こ の 決 議 文 は,神 。 尚,第2回 『韓 国 現 代 史 』 国 連 総 会 決 議 は,神 谷 不 二 編,前 掲 収 録 され て い る 。 谷 不 二 編,前 掲 書,253頁,に 収 録 され て い る 。 皿.南 朝鮮地 域 での 民 衆 闘争 1945年8月15日,民 族主 義 者 で あ り中 道 左派 に 属す る呂運 亨 と,右 派 民 族主 義 者 で あ る安在 鴻 は,い ち はや く朝鮮 建 国準 備 委 員 会 を設 立 し ℃ は 全国的 に組織 を拡大 してい っ2そ ,8月 末 まで に全 国 に145カ こ の よ うな 国 内状 勢 の中,北 山 に上陸 し,8月24日 南朝 鮮 地 域で は,9月6日 し,9月9日 の糸 課 こ の建 畔 備委員 会 ② 所 の地方 支部 を設立 す る に至 った 。 朝鮮 地 域 で は,8月20日 に ソ連軍 が元 には 平壌 を 占領 して 司令部 の開 設 をみ た 。一 方, に米 軍 の 代 表 が ソウル の 金 浦 飛 行 場 に 飛 来 に主 力部 隊 が仁川 に上 陸,同 日午 後3時45分,ソ ウル の 朝 鮮総 督 府第 一 一会議 室 で,日 米 両 軍 代 表に よ る降伏 文 書 調 印式 が行 われ た③ 。 と ころで,汎 国民 的組 織 と して拡 大 す るか にみ えた建 国 準備 委 員 会 で あ った が,組 織 の拡 大 と と もに,委 員 会 内 部で の左 右 両派 の分 裂 ・暗 闘 が現 われ は じめ た 。 もと もと建 国準備 委員 会 の勢 力は大 き く四 つに分 か れ て いた 。即 ち,一 つ は,呂 運亨 の建 国 同盟 を 中 心 と す る 中 道 左 派 勢 力,二 つ は,安 在 鴻 を 中心 とす る右派 民族 主 義 勢 力,三 つは,李 英,崔 益翰,鄭 柏等 を 中心 とす る長 安派共 産 主 義 勢 力,そ して 四 つ は,朴 憲 永,李 康 国,崔 容達 等 を 中心 とす る再 建 派共 産 主 義 勢 力で あ った 。準備 委 員会 は 漸 次左 派 勢 力が強 大 とな って い き,右 派民 族 主 義 の代 表で あ っ た安 在鴻 が 副 委員 長 を辞任 し,許 憲 が副 委員 長に 補選 され るに及 ん で, 98 韓 国第 一共和 国憲法 の制定 前 史に関 す る一考察 つ いに,保 守 陣営 と正面衝 突 す る こ とに な った 。9月7日 には,建 国準 備 委員 会 は右 派 勢 力 を除外 した形 で,「 朝 鮮 人 民 共 和 国 」(主 席=李 晩,副 主 席;呂 承 運亨)の 樹立 を宣 言 し,こ こに,準 備委 員 会 は 発足 後20 日余 りで 早 く も実 質 的 に瓦 解す るに至 っ捜 この よ うな建 国準 備 委員 会 の 左 傾化 の動 きに対 抗 して,宋 鎮 禺,金 性 殊 らの保 守 民 族主 義者 は,9月7日,国 民大 会 準 備 委員 会 を結 成 し,そ の趣 意 書 にお い て,重 慶 に あ る 「大 韓 民 国臨 時政 府 」(臨 政)の 支持 を鮮 明 に し捜 この 国民 大 会準 備 委員 会 の中心 人物 達 は,そ の 後,9月16 日に結 成 され た韓 国民 主党(韓 民党)の 中核 勢 力 とな る0同 党 は,後 日, 米 軍政 に 積極的 に協 力 し,ま た左 派 との 関 係 に お いて 臨政派 と して一 括 され て い た李承 晩 と金 九 ・金 奎 植 との問 の路 線 対 立 が 表 面 化 す る に 伴 い,李 承 晩支持 の態 度 を と るに至 った が,そ れ は,「 韓 国民 主 党(KDP) は か な りよい地 盤 と支 持 層 を持 って い た が,李 ほ ど の人 物 と資 格 を そな えた 指 導者 を欠 いて いた 。親 日派 に は前 面 に押 し立 て る こ との で き る指 導 者 が い なか った 。親 日派韓 国民 主 党 は,李 が持 って い るよ うな米 国 と 話 の で き る能 力を 必要 と した が,そ れ と 同 じ くらい李 の よ うな独 立 運動 の記 録 を 必要 と して いた の で あ る 。一方 李 の 方 も 自分 の地 盤 を持 ってい な か った ので,彼 らの地 盤 を必 要 と して い逡 と もあれ,日 本 の 敗戦 で,祖 こ こに,米 とい うこ とで あ ろ う。 国の 光復 が訪 れ る と信 じて いた 民衆 は, ソの分 割 占領 と左 右 の政 治的 対立 とい う現 実 を 目の 前 に す る こ とにな っ捜 更 に,米 軍政 が,入 民共 和 国 と 臨政 の いず れ も政 府 とは い え ず 政 党 に す ぎ な い と して,米 軍 政 の み が 南 朝 鮮 に お け る唯 一 合法 的 政 府 で あ る と宣 言 す る こ と に よ って,南 朝 鮮 の 政 治 状 況 は か え って 混 迷 の 度 を加 え る に 至 った 。 こ の よ うな 時 期 に,そ の 後 の韓 国 の 運 命 を決 定 す る民 族 指 導者 三 人 が 海 外 か ら帰 国 して きた の で あ る 。 まず,10月16 日に,ア メ リ カか ら李 承 晩 が,続 い て,11月23日 に,重 慶 か ら韓 国 臨 99 時 政 府 の金 九 主席 と金 奎 植 副主席 が,解 放 され た祖 国の土 を踏 ん だ ので あ魂 前 述 した モ ス クワ三 国外 相会 議 で韓 国 に対 す る5年 信託 統治 案 が 発表 され るや(12月27日),こ 2月8日,臨 れ に一 斉 に反 対 した民 族 陣 営 は,翌1946年 時 政 府系 の信 託 統 治反 対 国民 総 動 員委 員 会 と李承 晩系 の独 立 促成 中央 協議会 は合 同 して 大韓独 立促 成 国民 会(総 裁=李 承 晩,副 総 裁=金 九)を 結 成 し,ま た行 動 団体 と して は全 国愛 国団体 連 合 会 を組 織 して,広 範 囲な反託運動 を積極的 に展開 し融 しか しな が ら,信 託 統 治 を め ぐって 左 右 が激 突 す る政 治 的混 乱 の 中で 開 催 され た 第 一 次米 ソ合同委 員 会 が,協 議 対 象 の団 体 の範 囲 さえ も決 め られ ぬ ま ま,1946年5月6日 無 期休 会 に 入 って 決裂 す る に 至 るや,反 信 託 で結 束 して い た民 族 派 陣 営 に も,足 並 み に 乱れ が生 じるよ うに な っ た 。それ は,同 年6月3日 の李 承 晩の 演 説 か ら は じ ま っ た 。即 ちJ彼 は,「 もは や 無 期休会 に な っ た 合 同委 員 が再 開 され る気配 もみ えず,統 一政 府 を 待 ち 望 んで も意 の ご と くな らな い ので ,わ れ わ れ は南方 だ けで も臨 時政 府 あ るいは委 員会 の よ うな もの を組 織 し,38度 線以 北 か ら ソ 連 が撤 退 す る よ う世 界公 論 に呼 訴 しなけれ ば な らない ので,み な さん も 決心 しなけれ ば な らない はず で ある 。そ して,民 族統 一 機 関設 置 に 対 し て 今 まで 努 力 して きた が,今 度 は わ が民 族 の 代表的 統 一 機 関 を帰 京 後, 即 時設 置 す る こ とにな った ので,各 地 方に あ って も中 央 の指 示 に順 応 し て繍 的 に翻 して くれ る こ とを望11と 主 張 した 。 この李 承 晩の 単独 政 府 樹立 の主 張 の 背 景 に は,「 単 独 政 府 樹立 を 見合 わせ て も,明 るい 見通 しは な く,軍 の増 強 をはか って い る北朝 鮮 に対 す る焦 縣 が あ った とい え るだ ろ う 亀 との弁 も一 理 あ るで あ ろ うが,本 質 的 には彼 が徹 底 した反 共 主義 者 で あ った ことに起 因す ると 思われ る。 も っと も彼 の反 共 が,「 李承 晩 の い う共産 主 義 者 とは,し ば しば 自分 の計 画 100 韓 国第 一 共和国憲法 の制 定前 史 に関 す る一考 察 を支 持 しな い者 を意 味 す 轟 と い うこ とを忘れ て は いけ な いで あろ う。 李承 晩 の主 張 に も拘 らず,金 九 は これ に同意 しな か った 。彼 は そ の年 の1月4日 に出 した 「… …信 託 統 治 を 防止 す る唯 一 の方法 は 同 じ く全民 族 の統一一 団結 にあ る と確心 して,今 日で も共産 党 と人 民党 の領 袖 た ちか ら一 致 点 を 求め るた め に継 続努 力 して お り,そ の 他各方 面で 努 力中で あ る。将来 もこれ が成 功 す る まで さらに努 力す る つ も りで あ 潟 との立 場 を堅 持 して,信 託 に反 対 しつ つ 南北 統一 政 府 樹立 を 求め つ づけ た 。 更 に も う一人 の民 族 派 の指導 者 ・金奎 植 は,「 極右,極 左 の偏 向路 線 」 を排 除 して 中間 派 を結 集 す べ く左 右 合作 運 動 を展 開 しつつ,米 員 会 の 再 開 を 主 張 し捜 こ の 左 右 合 作 運 動 は,1946年10月7日,金 植 と呂運 亨 の 間 に 合作7原 ソ合 同委 奎 則 が 合意 され,左 右 合作 委 員 会 の 結成 を 見 る に至 るが16左 右 両 陣営 の強 力 な中心 勢 力で あ った朝 鮮 共産 党 と韓 民 党が この7原 則 に反 対 した た め に,中 間勢 力だ け を 代表 す る結 果 とな り,米 ソ合同委 員会 再 開 の促 進 とい う当 初 の設立 目標 に関 しては さほ どの成 果 を挙 げ る ことがで きなか った 。 も っと も この 左右 合作 運動 に対 して,前 述 した金 九 は,次 の よ うな声 明 に よ って李 承 晩 との立 場 の違 い を 明確 に した 。即 ち,「 私 は左 右 合作 とい うものを 全民 族的 統一 と い い た い 。 こ の統 一 な くして,そ れ 以 上 良 い独立 促 成 の 道 を 見い 出す こ とは で きな い で あ ろ う。そ れ ゆ}失 敗 を重 ね て も成 功す る まで 努 力す るの が当 然 な こ とで あ る 。我われ の解 放者 た ちが ヤル タで過 誤 を犯 した せ いで,解 放 され た と い うわ が 国が二 つ に分 かれ た が,こ な りえ なけれ ば,そ の 前途 は,考 こで 我 われ の 姿勢 が統一 と え るだ け で も恐 しい くらい 危 険 な もの で あ る。世 間 で は,金 奎植 博 士 を 指 して左 派 だ とか信 託 統 治 賛成 者 だ と か 中傷 す る者 もい な いわけ で は な い よ うだ 。 また,聞 けば,今 回の い く つか の地 方の 騒擾事 件 の 責任 を左 右 合作 委員 会 に転 嫁 しよ うとす る流 言 を放 つ こ と もあ る とい うが,こ れ はす べて統 一 を破 壊 しよ うとす る輩 の 101 険 悪 な謀 略 で あ る 。 とにか く金 ・呂両 氏 に対 して 期待 が大 きけ れ ば大 き い ほ ど,我 われ は,彼 らを激励 して,彼 とに努 力す るのみ で あ 埆 らを して有 終 の 美 あ ら しめ る こ と断 言 した 。 金 奎植 と 呂運亨 の この左右 合 作運 動 は,金 九 の これ に対す る理 解 に も 拘 らずsそ れ が成 就す るに は遅 きに過 ぎて いた 。何 故 な ら,既 に 「問 題 は ソ ウルす なわ ち西 側 だ け の左右 合 作 な どは む しろ些 細 な ことで あ り, 基 本 的 な ことは南 と北 す なわ ち権 力 をすで に備 えて い る当事 者同士 の 問 18 題 で あ った か らで あ る 」。 はた して,そ 9月17日 の後 の政職 禦 に,ア 前 章 で 見 た米 ソの応 酬 の す え,1947年 メ リ カが朝 鮮 問題 を 国 連 に上 程 し,11月14日 朝 鮮 で 国 連監 視下 の総 選 挙 を 行 う との 案 が,ソ の反 対 に も拘 らず 可 決 され る こ とで,大 に は, 連 お よび共産 主 義 陣 営 き く変 化 して い った 。即 ち,こ の案 は,当 時 の 米 ソお よび南 北 朝 鮮 の状 況 か ら して,南 朝 鮮 だ け の単独 選挙 とな るほか な く,従 って,そ れ は また,南 朝 鮮 だ け の単 独 政府 樹立 を意 味 す る こ と に ほ か な ら な か った 。 この よ うな 国際 的潮 流 を前 に し て,李 承 晩の 単独 政 府 樹立 運 動 は 国際的 追 い風 に よ り一 層拍 車 が か け ら れ る とと もに,祖 国 と民族 の 永久 分 断を 恐れ た金 九 と金 奎 植 は,南 北 代 表に よ る政 治会 談 を企 図す る ことで 一致 したの で あ る。か く して,李 承 晩 と金 九 ・金 奎 植 の二 つ の路 線 を め ぐって,南 朝 鮮 の政 局 は推 移 す る こ とに な るの で あ る。 一 方 ,従 来 モ ス クワ協定 に立 脚 して 朝 鮮 統一 臨時 政 府 を 樹立 す べ く, 左 右 合作 翻 を積 極的 に支 持 して きた輝 トリソが発 表 され,米 政 当局1遭 トル ーマ ソ.ド ク 国の対 ソ政 策 が 強硬 路 線 に転 換 す るに と もな い, 1947年12月17日 に は南朝 鮮 民衆 に対 して 共産 主 義 の 脅威 に対 す る警 ⑳ 告声 明を発 表 し,単 独 政 府 樹立 を主 張す る李 承 晩 に援 助 と支援 を与 え る よ うに な って い った 。 この よ うに な るや,そ XO2 の間,「 韓 民 党 を 中 心 と す 韓 国第 一共和 国憲法 の制 定 前史 に関す る一考察 る右 翼勢 力は,そ の社 会 的 基 盤 が当時 の社 会 的 状 況 と して は,き わ め て 制限 され て いた し,正 統 性 の 問題 にお いて も脆弱 だ った 。 した が って, これ ら右 翼勢 力の うちで も,と くに韓 民 党 は大衆 の広 範 な支 持 勢 力の確 保 を 放棄 して,米 軍 政 に接 近 して 軍 政 官吏 に治 安 関 係職 務 に協 調す る こ 22 とに よ り,行 政 権 力を優 先的 に 掌握 しよ うと企 図 した」 韓民 党 は,当 然 の 如 く彼 らの領 導者 と して 李 承 晩を戴 き,こ こに 民族 陣 営 は,臨 時 政 府 派 対 韓民 党,即 ち,国 外勢 力 と 国内勢 力の 対決 とい う様 相 を示 す こ とに な った 。 1948年2月26日 の 国連 小総 会 で は 「国連 朝 鮮 臨 時委 員 団 が接 近可 能 な地 域 」で のみ総 選 挙 を行 うこ とを 決議 し,既 に 単独 政府 樹立 へ と大 き く流 れ は ー じめた 渦 中 に あって,同 年4月19日 には金 奎 植 が,祖 に金 九 が,そ して4月21日 国の統 一独立 のた め にそ の 全生 涯 を捧 げ るとの悲 愴 な 決意 で 平 壌 に 向け 出発 し詫 しか し,霧 がはれ るやそ の越 え がた き高 さ の全貌 を 見せ は じめ た38度 線 の壁 を前 に して は,す で に二人 の この行 動 も時機 を失 した との 感 をい な め な い 。はた して,予 想 され た 通 り,南 北政治会談は何 らの具体的成果 も鞘 この 南 北 政 治 会 談 の 失 敗 は,金 して 来 る5・10総 そ れ は ま た,政 尋る こ とな く終 って しま っ魂 奎 植 を して 政 界 か ら引 退 せ しめ,金 九 を 選 挙 の 不 参 加 を 表 明せ しめ る こ とに な った 。 そ して, 府 樹 立 以 後 の 政 界 の 主 役 を,李 果 に も な った の で あ る 。 「も し,こ 承 晩 と韓 民 党 に 与 え る結 の と き に 金 九,金 なけ れ ば 」 と の 問 い を 投 げ か け る こ と は,彼 に な るで あ ろ うが,「 も し,5・10総 奎 植 が平 壌 に行 か らの 憂 国 の 情 に 対 す る 冒 濱 選 挙 に参加 して お れ ば 」との 問 い か け は 許 され る の で は な か ろ うか 。 と もあ れ,こ が,朝 こ に,1948年5月10日,南 だけ の単 独選 挙で は あ った 鮮 の 地 に あ って は じめ て の 総 選 挙 が 行 わ れ る こ と に な っ た の で あ る 。 これ に先 立 ち,1948年3月17日,米 軍 政 法 令 第175号 と して iO3 全文57条 の 国会 議員 選 挙 法が公 布 され た ⑳ 。 この選 挙 法の 主 要 内 容 は, ①選 挙権 者 は満21歳 以 上 の者,被 選 挙 権 者 は満25歳 植民 地 時 代 に爵位 を受 けた者,議 以上 の者,② 日本 会 議員 で あ った者,判 任 官 以上 の警 察 官,憲 兵 ・憲兵 補,高 等 警 察 の職 に あ っ た 者 お よ び 密偵 行為 を した者 は,選 挙 権,被 選 挙権 が な く,③1選 挙区1人 選 出の 小 選 挙区 制で あ っ て,④ 選 挙人 の 名簿作 成 は選挙 人 の 自進 登 録 に よ り,⑤ 立 候 補 者 は選 挙 人 名簿 に 登録 され た選 挙 権者200名 以上 の 推薦 を受 け た者 で なけれ ば な らず,⑥ とす る,な どで あ っ控 制 憲 国会 議 員 の任 期 は2年 こ の選 挙 法 に 基iつい て 実 施 され た5・10j総 選 挙 は,民 族分 断の恒 久 化 を 阻 止 しな け れ ば な ら な い と の 主 張 の 下 に,一 一方 で は 共 産 党 系 を は じめ と した左 翼陣営の激 しい選挙妨害工 作があ り 曾 また他方では南北協 商を 推 進 し た 金 九,金 8,132,517名 奎 植 な ど の 不 参 加 が あ っ た に も 拘 ら ず,総 の96.4°oに あ た る7,846,871名 た 有 権 者 の95.5%の7,487,649名 員 定 数200に 対 し一 亀 候 補者 数948名 で,李 承 晩.申 の他 諸派11名 録 し 翼煕 を領 導者 とす 性 株 を 中 心 とす る韓 民 党 が 青天 が引 きい る大 同青 年 団12名,李 族 青年 団6名,そ が 自 進 登 録 し,登 が 投 票 に 参 加 し た 。 選 挙 結 果 は,議 る大 韓独 立 促 成 国民 会(独 促)が55名,金 29名,李 有権 者 数 範 爽 が党 首で あ る朝 鮮 民 で,無 所 属 が85名 で あ っ た0も っと も,独 促 や 韓民 党 に属 して いな が ら無所 属 と して 立 候 補 し た 者 も い た し,ま た特 に独 促 に属 す る者 の 相 当 数が,当 時,民 族 独立 の英 雄 と され て いた李 承 晩の 後光 を得 よ うとの単 な る手 段 と して入 党 して いた か ら, この 数字 のみ で,制 な い 。た だ,こ 憲 国会 の 勢 力状 況 を把 握 しよ うとす るのは 正確 で は の選 挙 は,「 参 与 した政 党 間 の権 力闘争 の契 機 と な っ た と 見る よ り,む しろ独 立 政 府樹立 運 動の性 格 を滞 び た もので あ って,少 な くとも民 族主 義 乃至 は反 共 主 義的 政治勢 力間に は超 党 的立 場 が と られ た こ とは 事 実 で あ るが,諸 政 党 や 団体 が 執権 可 能 性 が大 きい個 人や又 は 104 韓 国第一共 和国憲 法 の制 定前 史に関 す る一 考察 そ の団 体 を中 心 と して 集結 した とい う点 で,韓 物 中心 主 義的 特性 を発 見す る こ とがで き 網 と もあれ,こ ー ト達 が38度 の5・10選 国政党 の発 展過 程 で の人 と言 うこ とはで きよ う。 挙 の意 義 と して は,「 ① 民 族 陣 営 の政 治 エ リ 線 以 北 の ソ連 占領下 に あ る地 域 を分 離 した ま ま 南朝 鮮人 民 に単 独 政 府 を 樹立 す るのに 対 す る賛 否 を問 うた とい う点,② 韓 国 政 治 史上 は じめ て 人民 が主 権者 と な って政 治 に参 与 す るよ うに な った 点,③ 同選 挙 に よ り民 主 共 和 国の 憲 法 を制 定 し公 布(1948.7.17)し て,大 31 韓 民 国 の 独 立(1948.8.15)を で き る 。 そ して,こ 国 内 外 に 宣 布 した 点 」 を 挙 げ る こ と が の5・10選 韓 国 で は じめ て の 国会(制 挙 に よ っ て 選 出 され た 議 員 達 に よ って, 憲 国 会)が,1948年5月31日 に 構 成 され た ので あ る。 注 ① 朝 鮮 総 督 府 の 幹 部 が 日本 の 無 条 件 降 伏 が 近 い こ と を は っき りつ か ん だ の は,8月10ご ろ で あ った 。 しか し,そ もな か っ た 総 督 府 は,朝 め に,総 鮮 に い た80万 の こ と に つ い て 東 京 か ら何 の 連 絡 人 の 日本 人 の 生 命 財 産 の 保 護iの た 督 府 権 力 の 主 要 部 を 総 動 員 して 独 立 準 備 を 支 援 す る 代 りに,日 人 の 生 命 財 産 を 保 障 す る よ う,宋 鎮 禺,呂 これ に 対 し て,宋 う 。 宋 南 憲,前 ーソ ン 運 亨 の 両 氏 と個 別 に 依 頼 し た 。 鎮 禺 は 即 座 に 断 っ た が,呂 掲 書,32∼41頁 ,前 掲 書,118∼126頁 れ た い 。 た だ,こ 本 運 亨 は これ を 了 承 した と い 。 弄 景 徹,前 。 林 建 彦,前 掲 書,21∼25頁 掲 書,10∼14頁 。 ヘ ソダ 。 を参 照 さ の 会 談 に つ い て は 細 か い 点 で 不 明 な と こ ろ が 多 く,朝 鮮 総 督 府 が 直 接 交 渉 し た の は 呂 運 亨 だ け で あ る と い う人 も い る 。 ② 宋 南 憲,前 編,前 掲 書,71頁 。 朝 鮮 建 国 準 備 委 員 会 の 宣 言 と 綱 領 は,神 掲 書,6∼7頁 ③ 同 書,104∼106頁 ④ 同 書,75∼76頁 谷 不二 に 収 録 され て い る 。 。 。 サ 景 徹,前 掲 書,23∼24頁 。 尚,主 席 に選 ば れ た 李 105 承晩は,同 年11月7日 書,192∼193頁 に就任 を拒否 して い る 。詳 しくは,宋 南 憲,前 掲 。9月14日 には 「朝 鮮人 民 共 和 国 」 中 央 人 民 委 員 会 の宣言,政 綱 お よび施政 方針 が発表 され たが,こ の全 文は,神 谷不二編, 前 掲書,12∼13頁,に 収録 されて いる。 ⑤ 国民大会 準備委 員会 趣意 書 の全文 は,神 谷 不二 編,前 掲 書,10∼11頁, に収録 され て いる。 尚,臨 政 につ いては,拙 稿,前 掲論 文 を参考 され た い 。 ⑥ 「韓民党 は,形 式的 に は反建 準路線 の民族 陣営 の知識 人 と国内外の抗 日闘 争勢 力 お よび穏健な民 族主義 的民 主社会 主義者 で構成 され て いたが,そ の 底辺 には,建 準 の急 激な社 会改革 と,特 に親 日分子 に対 する粛清公 言 に脅 威 を感 じた ブル ジュア的 親 日勢力 が大 挙 して 合流 したが,こ れ が韓民 党 の 脆 弱性で あ った」(金 紋河r韓 49頁)と 国政 党政 治論 』(刈 音,大 旺社,1983年) い うことがで きる。 ⑦ ヘ ンダ ーソソ,前 掲 書,ユ59頁 。 ⑧韓 相範教 授 は,「 日本帝 国主 義が敗退 した1945年 『解 放』 と言 うが,そ れ は,米 を,我 々はr光 復』又 は ・ソ両 国の軍 隊に よ る 軍 政 の 始 ま りで あ り,分 断の端初 とな り,民 族分裂 と葛藤 お よび民族 相争 う悲劇 の始 発 を意 味す る結果 とな った。そ れは解 放が我 々 自 らが闘 って得 た 「解 放』 で なか った ため に直面 す るよ うにな る代価で あ った し,ま た 我 々 が8・15を 接 に対処 し得 なか った とい う8・15以 直 後 の状況 で の 我 々 自体 の限界 に 由 来 す るもので あ るため にz誰 かを恨 む余地 もない 。今,我 々 と して は過 ぎ た歴 史的時 期を冷 静に顧 みて,将 来 の こ とを構 想 して対 処す るほか ない。」 (拙 訳 ・韓 相範,前 掲 論文,130∼131頁)と 述べ られ るが,海 を隔てた 日本 の地 で生 まれた筆 者には,共 感す る ことよ りも先 に,こ こまで 自己に 厳 しき歴史 観 に立 って お られ る韓教 授 の 態度 に深 く胸打 たれ る ので ある 。 ⑨金 九 と李 承晩の二人 について,そ の人 柄,祖 国の独 立 と統一 への考aな ど を比 較 しつつ,当 時 の韓 国 の進 路 の分 かれ を と りあけ た もの として,宋 建 cos 韓 国第一 共和 国憲法 の制 定前 史に関す る一考察 鏑 「李 承 晩 と 金 九 の 民 族 路 線 」 和 田 春 樹 ・高 崎 宗 司 編 訳r分 文 化 』(社 会 思 想 社,1979年)所 第 一 声 は,神 ⑩文 鍾旭 谷 不 二 編,前 宣 言 書 は,神 ⑪ こ の 李 承 晩 の 発 言 は,神 ⑫ 田駿 ・石 原 繭 記,前 承 晩 と金 九 の 帰 国 収 録 され て い る 。 ユ 認 識 」 『忠 南 大 学 校 法 律 行 政 研 究 所 論 文 集 』 収,403頁 谷 不 二 編,前 あ る 。 ま た,李 掲 書,30∼32頁,39頁,に 「第 一 共 和 国 憲 政 斗 第14巻(1986年)所 収,が 断時 代 の 民 族 。 尚,民 族 派 陣 営 に よ る信 託 統 治 反 対 の 掲 書,42∼45頁,47頁,に 谷 不 二 編,前 掲 書,17頁 掲 書,64頁,に 収録 され て い る。 収 録 され て い る 。 。 ⑬Richard.E.Lauterbach,DangerfyomtheEast,1946,P.239. こ こ で は,宋 建 鏑,前 掲 論 文,162頁 か ら引 用 。 ⑭ こ の 金 九 の 声 明 は,神 谷 不 二 編,前 掲 書,49∼50頁,に ⑮ 尚,米 軍 政 は,左 右 合 作 運 動 の 勢 力 を 背 景 と して,ユ946年8月24日 朝 鮮 過 渡 立 法 議 院 の 設 立 を 発 表 し,同 奎 植 を 議 長 に 選 出 し,同 法 議 院 は1年 収 録 され て い る 。 月12日 年12月1日,予 に南 備 会議を 開 い て 金 に は 開 会 式 を 行 う に 至 っ た が,こ 半 後 の 正 式 国 会 の 発 足 と 同 時 に 解 散 す る まで に,12件 律 を 生 み だ し た だ げ で そ の 任 務 を 終 え て し ま っ た の で3本 け る こ と に し た 。 詳 し くは,宋 南 憲,前 の立 の 法 稿で は言 及を避 掲 書,317∼335頁,を 参 照 され たい。 ⑯ 合 作7原 則 に つ い て は,神 谷 不 二 編,前 掲 書,86∼87頁,に 収 録 され て い る。 ⑰ 白 凡 思 想 研 究 所 編r白 凡 語 録 』98頁 。 こ こ で は,宋 建 鏑,前 掲 書,166 頁 か ら引用 。 ⑱ 田 駿 ・石 原 繭 記,前 掲 書,17頁 。 ⑲ そ れ 以 前 の 政 治 状 況 を 林 建 彦 教 授 は4つ の路 線 闘 争 と して簡 潔 に 整 理 され て い る 。 即 ち(1)南 だ け で 単 独 政 府 を た だ ち に 樹 立 す る(李 承 晩),② を 固 守 しな が ら あ く ま で 南 北 統 一 政 権 の 樹 立 を め ざ す(金 九),(3)米 反信託 ソ合 同 107 委 員 会の再 開 を求 めな が ら中間 ・左 ・右両派 の 合作 を推 め る(金 奎植 ・呂運 亨),(4)米 ソ共同委員会 の再開 を 求 め つ つ反 米 闘争 を激 化す る(朴 憲 永 ・ 許 憲)で あ る(前 掲 書,44頁)。 しか し,第4の 路 線 は,ア し,か つ 国際的 に も米 ソが対立 した 当時 と して は,ほ もの で あ った と思 わ れ る し,ま た,本 メ リカが占領 とん ど可能性 のな い 稿 の主題 で ある制憲過程 を考 察 す る にお いては さほ ど重要 と思われ な いので,こ こで は言及 しなか った。 ⑳ この左 右合作 運動 に対 す る米軍 の支 持 を宣言 した も の と して,1946年6 月30日 の 「左右合作 会 議 に関 す る米軍 司令官 の声 明」 が あ る(神 谷 不二 編,前 掲 書,198頁,に 収 録)。 ⑳ この全文 は,神 谷不二 編,前 掲書,234∼236頁,に ⑫ 環太 平洋問 題研 究所 編,前 掲 書,46∼47頁 収 録 され てい る。 。事 実,韓 民 党は,米 軍政 が 始 まった とき,同 党の主要 幹部 の7人 が 米軍 政 庁顧問 に任 命 され,ま た軍 政庁部 長 ク ラスに趙嫡 玉(警 務 部長),愈 億兼(学 務 部 長)等 の党幹部 が起 用 された 伊 景徹,前 掲 書,43頁)。 ㊧ この ときの金奎 植 と金 九 には,次 のよ うな話 しがあ る。金奎植 に対 して, 米軍政 顧 問バ ーチ中尉 が 「会談 が うま くい くときはほ かの人 た ちだけで も うま くい く。成功 した らあな たの持論 どお り統 一政 府 を つ くれ ば い い の だ 。 しか し失敗 した らた だ ちに国連決 議に よ る((可 能 地 域の総選 挙"を 行 な って合 法政 権 を樹立 しなければ な らない 。そ の ときはぜ ひ ともあな たに 大統領 を ひ き うけて も らいた いのだ 。あな たは あ なた一人 の あなたでは な い ……」 と翻意 を迫 った が,金 奎 植は,「 私 が念 願 し,ま た民 族 が 心 か ら 念 願す る統一 政府樹立 に失敗 したな ら,私 は永 久 に政 界か ら身 をひ くつ も りで ある」 とい って ゆず らなか った し(林 建彦,前 掲 書,84頁),ま た金 九 の場合 も,側 近や支 持者が 平壌へ の 出発の 日なん とか これ を阻止 しよ う と して人垣 を作 った のに対 して,「 私は 独立運 動 を して 齢70有 余 とな っ た。 これ 以上生 きる と して も,ど れ だけ生 き られ よ うか。諸君 は私 に最後 108 韓 国第 一共和 国憲法 の制 定前 史 に関 す る一考 察 の 独 立 運 動 を 許 して い た だ き た い 。 この ま ま い け ば,韓 い に 血 を 流 す こ と に な る だ ろ う」 と訴 え て,裏 発 し た と い う(宋 建 鏑,前 掲 論 文,172頁)。 国 は 分 断 さ れ,互 口 か ら垣 根 を の り こ え て 出 こ の 二 つ の 話 し は,金 奎植 と 金 九 の 祖 国 に 対 す る 熱 き 思 い と そ れ に 向 う悲 愴 な 決 意 を 我 々 に 強 く教 え る も の で あ る 。 南 北 協 商 会 議 に つ い て は,詳 89頁 。 宋 南 憲,前 掲 書,441∼473頁 ⑳ 南 北 協 商 会 議 か ら 帰 っ た 金 九,金 神 谷 不 二i編,前 修 正 を 加 え,国 建 彦,前 掲 書,81∼ 。参 照 。 奎 植 の 共 同 声 明(1948年5月6日)が, 掲 書,151∼152頁,に ⑳ こ の 選 挙 法 は,本 し くは,林 収 録 され て い る 。 章 注 ⑮ で 述 べ た 南 朝 鮮 過 渡 立 法 議 院 で 制 定 され た もの に 連 朝 鮮 委 員 会 の 承 認 を経 た も の で あ る 。 鵜 飼 信 成 「大 韓 民 国 憲 法(1948年)」r公 法 研 究 』 第2号(1950年)所 収,78頁 。 ⑳ 柳 隊 鉱 「第 一 共 和 国 憲 法 制 定 過 程 」 韓 国 精 神 文 化 研 究 院 『韓 国 潮 文 化 』(1986年)所 ⑳ 済 州 島 の3つ 収,181∼182頁 の 選 挙 区 の 中,2つ 後 の1949年5月10日 月3日 ・ の 選 挙 区 が 治 安 の 維 持 が で きず に,1年 に 選 挙 を 実 施 した 。 従 って,5・10選 国 会 議 員 定 数200名 の う ち198名 万 人 の 島 民 を ま き 添 え に し て,じ い う事 実 を し る す だ げ で,そ 挙 に おいては が 選 出 さ れ る に と ど ま っ た 。1948年4 未 明 か ら済 州 島 に 勃 発 し た 暴 動 事 件 に つ い て,林 の 騒 乱 は,30余 建 彦 教 授 は,「 こ つ に6万 人 が 死 んだ と の 言 語 に 絶 し た す さ ま じ さ が うか が え よ う 。 こ れ は さ な が ら2年 後 に こ の 民 族 の 上 に お そ い か か っ た,同 鮮 戦 争 の 前 ぶ れ で も あ った 」(前 掲 書,93頁)と ⑳ 他 に100名 ⑳ 金 蚊 河,前 掲 書,69頁 選 者 数 合 計 は注 ⑳ と な って い る 。 ⑳ 制 憲 国 会 議 員 選 挙 の 結 果 に つ い て は,金 榮 培 編r国 発01-'7実 際 』(刈 音,育 胞 あ い 争 う朝 述 べて い る。 が 北 朝 鮮 の た め に 留 保 さ れ て い た 。 ま た,当 で 述 べ た 理 由 に よ っ て,198名 社会外 法 社,1982年)31∼32頁,参 民意識 斗 選挙 ・ 常時 啓 照。 。 109 @同 書,同 W.結 頁 。 びにか えて か く して,1948年5月31日 に 開 か れ た 制 憲 国 会 は,開 李 承 晩 を 議 長 に 選 出 し,6月3日 か らは,そ の本 来 の使 命で あ る憲法 制 定 の 作 業 に 着 手 した の で あ る 。 即 ち,6月3日,憲 専 門 委 員10名 即 時,憲 を 委 嘱 し,憲 に 起 草 を 完 了 した 。 翌23日 法 草 案 が 国会 本 会 議 に 上 程 され,6月30日 会 を,つ い で7月12日 す る に 至 っ た 。 そ して,7月 韓 民 国憲 鴻 法 起 草 委 員30名 と 法 起 草 委 員 会 を 構 成 した 。 こ の 委 員 会 は, 法 起 草 に か か り,6月22日 に は 第2読 会 日の 当 日に に は 第1読 に は 第3読 には 憲 会 を,7月1ユ 日 会 を 終 え て,国 会 を通 過 工7日 に 国 会 議 長 が 署 名 し て,こ こ に 「大 が公 布 され た の で ある 。 と ころで,実 は,憲 法 起 草 委員 会 で起 草作 業 が は じ まる以 前 に,す で に 数ケ所 に お いて 憲法 の 草 案作 成 が準備 され てい た ので あ るが,こ の経 過 は後 日またの 機 会 に,国 会 の起 草 委員 会 お よび本 会 議 で の審 議経 過 と と もに詳 し く考 察す る ことに した魂 本 会 議 の審 議 に お いて,最 起 草 委員30名 中14名 しカ、し この離 起 草お よび国 会 も大 き な影 響 力を 与 え た団 体 が韓 民 党(憲 法 が 同党 所属)で あ り,そ して 個人 と して は 李承 晩 で あ った こ とだけ は指 摘 して お きた 魂 本 稿 の 目的 の 一 つ が 渓 は,制 憲 国会 に おい て,何 故,韓 民 党 と李承 晩 が大 きな影響… 力を行 使す る に至 った のか を,明 と もあれ,こ らか にす るこ とに あ った か らで あ る。 の二 つ の勢 力は,制 憲 過 程 に お いて,政 治体 制 をめ ぐ っ て鏑 を 削 る こ とに な る 。即 ち,李 承 晩 は,大 統 領 に実質 的 権 力を付 与 す る大 統領 制 を主 張 し,韓 民 党 は,大 統 領 を象 徴 とす る議院 内閣制 を主 張 したので ある 。 この争 いは,制 iiO 憲過程 に お いて,そ の 草案 が議 院 内閣制 韓 国第 一共和 国憲法 の制 定 前史に関す る一考察 か ら原 則 的な大 統 領 制 に修 正 され た ことで,韓 民 党 に対 す る李承 晩 の優 位 とい う結 果 を も って 一応 の結 着 を 見 る こ と に な った 。政 治体 制 と し て,大 統 領 制 と議 院 内 閣制 の ど ち らが望 ま しい のか に つ いて は,一 概 に 言 え る もので は な い 力曾 当時 の世 論 か らみ て 明 らか に大勢 を 占め て いた 議 院内 閣 制案 が,李 承 晩の 「内 閣制 の下 で は 如 何な る地位 も引 き受 け な い 」 との一 言 で,大 統 領制 案 に か わ った こ とは,そ の 後 の 韓 国 憲政 史 に 大 き鵬 雲 を投 げ か け る もの とな った とい え よ 兜 事 実,1948年 の第 一共 和 国 憲法 の制 定以 来 ,現 在 の第 五共 和 国憲 法 に 至 る まで8次 の改 正 が な され た が,そ の間 の 憲政 史 は,常 に 「あ る人 格 」 と密接 な関 係 を有 し続 け て きたの で あ る 。今度 の第9次 憲 法 改正 か ら始 ま るで あ ろ う韓 国 憲 政 の第 二幕 が,こ の 「あ る人 格 」 との 関 係 を断 ち,韓 国民衆 と結 び つ くこ とを テ ーマ とす る もの で あ る ことを期 待 したい 。 注 ① こ の 憲 法 の 内 容 に つ い て は,鵜 れ た い 。 ま た,第 』(敬 文 堂,1969年)241頁 信 「韓 国 憲 法 変 遷 史(一)」r富 所 収,7∼15頁,に 勝 鉱,前 法 学 』(スi音,法 改 憲 か,が,論 ⑤LQ-0「 『韓 国 の 憲 法 ∼30ユ 頁,お よ び新 田隆 山 大 学 日本 海 経 済 研 究 所 研 究 年 報 』第3号 掲 論 文,が 詳細で ある 。 文 社,1978年)37∼38頁 半 期 の 韓 国 は,大 。 統 領 直 接 選 挙 制 改 憲 か,議 争 の 焦 点 で あ っ た が,こ 訳 ・金 道 艇 「韓 国 第2共 第8号(1987年)所 煕鎮 参照 さ そ れ ぞ れ収 録 され て い る 。 ② こ れ に つ い て は,柳 ④ 本 年(1987年)上 掲 論 文,78∼81頁,を 一 共 和 国 憲 法 の 邦 訳 と して は,金 そ の 成 立 と展 開 ③ 韓 泰 淵r憲 飼 信 成,前 院 内閣制 れ に つ い て の 筆 者 の 考 え は,拙 和 国 憲 法 に 対 す る 解 説 と 批 判 」 『言 語 文 化 研 究 』 収,の 「訳 者 ま え が き 」 で 若 干 述 べ て お い た 。 韓 国 憲 法 改 正 史 』(刈 音,集 文 堂,1980年)23頁 。 (1987年9月15日 脱 稿) 111 〈 附記 〉 本 稿 脱 稿 後 の9月21日,新 来 る10月27日 しい 憲 法 案 が 公 告 さ れ た 。この 憲 法 案 は, に 国民 投 票 に 付 さ れ,新 憲 法 と して 成 立 さ れ る見 込 み で ある。 筆 者 は,こ の 憲 法 案 が公 告 さ れ た 直 後 の,9月29日 か ら10月5日 ま で ・陳 荊 和 ・創 価 大 学 ア ジ ア研 究 所 長 を 団 長 とす る 「創 価 大 学 ア ジ ア研 究 所 韓 国 学 術 研 修 訪 問 団 」 の 一員 と して,韓 と がで き た 。9月 の 末 と い うの に,例 国 を訪 れ る 機 会 を 得 る こ 年 に な く暖 か い 日が続 き,ま るで 初 夏 を 思 わ せ る よ うで あ っ た 。 ソ ウ ル を は じめ 訪 れ た 町 々 の 通 り に は,憲 法 案 の 公 告 が 張 り出 され,今,韓 て い る こ と を 肌 で 知 った が,筆 来 る大 統 領 選 挙 と,そ 国 の 地 が 「憲 法 の 季 節 」 を 迎 え 者 に は,季 節 は ず れ の 暖 か い 日差 しが, れ を 契 機 と した 先 進 祖 国 創 造 へ の 民 衆 の 熱 き思 い の よ うに も感 じ ら れ た 。 この 訪 韓 の 折 り,以 前 か ら御 指 導 頂 い て い る韓 相 範 ・東 國 大 學 教 授 ,鄭 萬 喜 ・東 亜 大 學 教 授 と お 会 い で き,今 回 の憲 法 案 に つ いて の貴 重 な意 見 を お 聞 きす る こ と が で き た 。 また,こ の 訪 韓 と 前 後 して,8月 金 哲 深 ・ソ ウル 大 學 教 授 と,10月10日 金 道 艇 ・漢 陽 大 學 教 授,葛 授,安 ・11日 の 日本 公 法 学 会 で は, 奉 根 ・東 亜 大 學 教 授,徐 溶 教 ・建 國 大 學 教 授,に もお 会 い で き,韓 元 宇 ・ソ ウル 大 學 教 國 の公 法 制度 に ついて の 多 くの 示 唆 を 得 る こ と が で き た 。 こ の場 を お か り して,厚 上 げ る と と もに,今 末 に は, 後 の 韓 國 公 法 制 度 研 究 に お い て,こ く感 謝 申 し れ らの 先 生 方 の 激 励 に 副 う よ う一 層 努 力 して い きた い と思 い ます 。 更 に,今 回 の 訪 韓 に 際 して も,常 奨 赫 ・韓 國 教 員 大 學 紹 長 は じめ,韓 に 変 らぬ 御 厚 情 を 賜 わ り ま した,灌 大 學 教 授 ・劉 仁 善 ・高麗 大 學 教 授,崔 奉 煕 ・東 國 大 學 教 授,崔 元 詰 ・濟 州 大 學 教 授,ま 訪 問 団 の 一 員 と して 訪 問 さ せ て 戴 き ま し た,高 112 利 権 ・三 育 た,今 回, 麗 大學 亜細 亜問題 研 究 韓国第一 一共和国憲法の制定前史に関す る一考察 所,東 國 大 學 日本學 研 究所,漢 陽 大 學 中蘇 研 究所,扶 員 大 學,濟 州 大學(訪 問順)の 鯨博 物 館,韓 國 教 関 係 の先 生 方 に衷 心 よ り厚 くお礼 申 し上 げ ます 。 113