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被害者のトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援

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被害者のトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援
氏名(本籍)
古賀
章子(福岡県)
学位の種類
博士(心理学)
学位記番号
乙第 1 号
学位授与年月日 平成 25 年 10 月 31 日
学位授与の要件 久留米大学大学院学則第 14 条第 1 項第 2 号による
学位論文題目
被害者のトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援
論文審査委員会 主査 教授
津田
彰
副査
教授
園田 直子
副査
教授 稲谷ふみ枝
論文内容の要旨・要約
本研究の背景
「PTSD」
,
「トラウマ」といった言葉が日常的に用いられ,被害者の「心のケア」の必要
性が認知されるようになって久しいが,被害者への早期支援や心理教育に臨床心理士が介
入することによる有効性に関する臨床心理学的研究は未だあまり明確になされていない。
また,一言で被害者といっても各々の被害内容は異なる。1 度限りの事件や事故の被害者
もいれば,長期間に渡って繰り返し暴力を受け続けた DV や虐待の被害者もいる。DSM-Ⅳ-TR
の PTSD 診断基準は,事件や事故など,基本的には単回的な体験への反応を想定して作成さ
れたものであるため,DV や虐待などの慢性反復的に生じる後遺障害には適当でないとの指
摘は多い(廣幡ら,2002)。つまり,被害内容によって被害者の症状は異なるため,当然,
臨床心理士による治療的介入も異なることが推測される。しかし,一度限りの外傷体験後
と,繰り返し暴力を受け続けた後では各々が呈する症状に異なる点が多いにもかかわらず,
双方を区別した治療やケアについてほとんど言及されていないのが現状である。
本研究の目的
本研究では,1 度限りの事件や事故・災害等の単回性トラウマによる被害者と,繰り返し
暴力を受け続ける虐待や体罰・DV 等の反復性トラウマによる被害者を区別することで,
各々のトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援のガイドラインを提案することを目的と
する。
1)単回性トラウマと反復性トラウマに分けることの意義
Kessler ら(1995)の疫学研究によると,単回性トラウマによる被害は,なんら治療を受け
なくても半数以上が時間の経過に伴い自然治癒するとされている。一方,反復性トラウマ
の被害者が適切な治療を受けずにいると,身体症状障害,解離性障害などの併発症が高い
確率で発生し,人格障害同様の症状を呈するようになるともいわれている(Herman,1992,
van der Kolk ら, 1996 など)。つまり,単回性トラウマと反復性トラウマでは,被害の状
況や頻度・症状が異なることから,両者を区別して関わることが肝要である。
2)単回性トラウマと反復性トラウマに分けて支援することの重要性
DSM-Ⅳ(1994)の PTSD 診断基準は,事件や事故・災害など,基本的には単回性トラウマ体
験への反応,つまり単純性 PTSD(simple PTSD)を想定して作成されており,現在,トラウマ
による後遺障害全般が PTSD という言葉で流通している。ところが,虐待や体罰・DV 等によ
る後遺障害は,愛着の持ち方や人格形成など個人の成長に広範な影響が認められ,DSM-Ⅳ
(1994)に示されている PTSD とは異なることが明らかとなり問題視されている(Herman,1992,
van der Kolk ら,1996 など)。
そこで,包括的な PTSD の定義として DSM-Ⅳ-TR(2000)には「他に特定されない極度のス
トレス障害」(disorders of extreme stress not otherwise specified: 以下 DESNOS)とい
う診断名で検討され,
「関連特徴と障害」の項目に加えられている。
van der Kolk(2002)によれば,幼少期にトラウマを受けた人ほど DESNOS のカテゴリー全
ての面で問題を抱えやすく,被害者の年齢が高いほど,またトラウマを受けた期間が短い
ほど,PTSD の中核症状(再体験症状,回避・麻痺症状,覚醒亢進症状)のみに留まり,一方で,
トラウマを受けた期間が長く,与えられる保護が少ないほど,ダメージが深く浸透し,PTSD
症状の範囲を超える傾向があったことを報告している。つまり,単回性トラウマと反復性
トラウマ後に生じる病態は,異なる部分が多く,それぞれの症状に応じた治療的介入が必
要である。
今後の被害者支援において,被害者の被った外傷体験が単回か反復かを明確にし,被害
者の年齢も考慮しながら病態に応じた治療とケアのマニュアルを作成していくことが急務
である。
本研究の目的を以下に示す。
目的 1 単回性トラウマに対する治療とケアについて,通常の PTSD を呈した事例を通
して,
どのような臨床心理学的支援が必要で,且つ功を奏したのかを明らかにする。
目的 2 反復性トラウマに対する治療とケアについて,複雑性 PTSD を呈した事例を通
して,
どのような臨床心理学的支援が必要で,且つ功を奏したのかを明らかにする。
目的 3
単回性トラウマと反復性トラウマという各々のトラウマの特性に応じた臨床心
理学的支援のガイドラインを示す。
上記のように本研究では,単回性トラウマや反復性トラウマ後の症状に応じた適切な治
療とケアを提供し,症状の慢性化防止や早期回復を目指す等,外傷イベント発生時から解
決期までの時系列的変化に応じた臨床心理学的支援のガイドラインを提示することを目的
とする。
以上のことから,本論文は臨床心理学や被害者支援学にとって大きな意義があると考え
る。
本研究の構成
第 1 章では,被害者支援の実状や被害体験がもたらす影響について,トラウマ性イベン
ト後に生じるさまざまな問題や症状など本研究の背景について述べた。
第 2 章では,トラウマの分類や特性について明確な区別がなされていないという問題を
提起した。
第 3 章では,トラウマの特性に応じた臨床心理学的支援のガイドラインを示すという本
研究の目的を提示した。
第 4 章では,単回性トラウマの事例を提示し,被害後にみられる特徴的な症状や,その
症状に応じた治療とケアについて考察した。
第 5 章では,反復性トラウマの事例を提示し,被害後にみられる特徴的な症状や,その
症状に応じた治療とケアについて考察した。
第 6 章では,第 4 章の単回性トラウマの事例から共通してみられる特徴的な症状や,そ
の症状に応じた共通の治療とケアを提案し,本研究における単回性トラウマの事例に通じ
る特徴的な症状や心理的援助内容について明示した。
第 7 章では,第 5 章の反復性トラウマの事例から共通してみられる特徴的な症状や,そ
の症状に応じた共通の治療とケアを提案し,本研究における反復性トラウマの事例に通じ
る特徴的な症状や心理的援助内容について明示した。
第 8 章では,総合考察として本事例研究の結果から,単回性トラウマと反復性トラウマ
を分けて支援することの意義について考察した。さらに,本研究の課題と展望を述べ,ト
ラウマケアにおける臨床心理学的支援の要点について言及した。
本研究の結果
本研究の結果を以下に提示する。
第 4 章では,単回性トラウマによる 4 つの事例を提示した。
第 1 研究は,実習船舶沈没事故後の生還生徒と乗組員を対象とした事例である。事故後,
すべての生徒が PTSD 症状を表出したが,乗組員に関しては,誰一人 PTSD 症状を呈するこ
とはなかった。同じ事故に遭いながらも,生徒と乗組員とではその後の状態に大きな違い
が見られた。また,本事例は船の引き揚げが終了するまで喪の作業が進められず,その間,
生徒達は友人や指導者の死を受け容れられずに否認し,さらに抑うつや PTSD の症状を呈す
るなど,治療は困難をきたした。事故発生から 8 ヵ月後に沈没船が引き揚げられ,その後,
喪の儀式が執り行われたことを契機に,生徒達は徐々に睡眠リズムも正常になり,精神状
態は急速な改善傾向を示し,最終的に生徒全員が回復に至った。
第 2 研究は小学校での事故後の生徒を対象とした事例である。第 1 研究の船舶事故と同
様,第 2 研究の学校の事故においても友人に死亡者が発生した。慰霊祭の開催時期につい
ては度重なる検討の末,実施に至ったが,それは事故から 1 年後であった。その間,慰霊
祭を行うまでは,様々な噂が広まり,生徒達の症状は悪化の一途を辿り,回復までには程
遠い状態が続いていた。その後,慰霊祭という喪の儀式を執り行うことによって,友人の
死という事実を受け容れることができ,症状は回復へと向かっていった。
第 3 研究は工場災害の工員を対象とした事例である。面接調査において,ある壮年の被
害者は自身が火傷を負っているにもかかわらず,自身のこと以上に部下のことを気遣い,
「仕事への意欲は失せることがない」と語り,PTSD 症状は全くみられなかった。一方,ある
若年の被害者は,自身は身体に外傷を負うことはなかったが,顕著な PTSD 症状を呈し,「現
場には絶対復帰したくない」と訴えた。
第 4 研究の航空機事故後の追跡調査結果では,事故から 10 年経った今でも多くの被害者
が精神的影響を受けている姿が明らかとなった。調査の中で今後の支援のあり方を考える
ための項目として『心の問題』について問うた質問に対して,「精神科医や心療内科医がい
る病院でのケアを希望する」という回答が最も多かった。今回の結果では精神的影響につい
て「専門の医療機関を受診したい」というニーズが高いことが明示された。
第 5 章では,反復性トラウマによる 5 つの事例を提示した。
第 5 研究のドメスティック・バイオレンスの被害者を対象とした事例の場合,トラウマ
を受けた期間も長く,保護してもらう環境にもなく,深刻な損傷を受けていた。
第 6 研究の性暴力被害者を対象とした事例の場合も,1 回のレイプだけでも重篤なトラウ
マ反応を呈することが先行研究でも示されているが(Kessler, et al, 1995; 前田, 2012 な
ど),本事例はその被害を数回受けており,期間こそ年単位ではないにしても,その間,保
護を受けることもなく,深い損傷を被ることになった。
また,第 7 研究は教師からの体罰事例,第 8 研究は親からの虐待事例,第 9 研究は近隣
者からの嫌がらせ事例と,3 研究は全て長期間虐待や暴力を受け続けてきた子どもの事例で
ある。全ての事例の加害者は本来自分を守ってくれるはずの親や教師,近所の大人であっ
た。第 9 研究は加害者が近隣者ということで,被害児は自分の受けた被害を家族に訴える
ことができたため,他事例よりも早期介入が可能となり,早期回復に至った。しかし,他 2
研究の被害生徒は,本来相談すべき親や教師が虐待者でもあることから,虐待や暴力を受
けていることを誰にも相談できず,事件が発覚した頃にはすでに慢性的トラウマ症状を呈
した状態であった。
以上の結果を踏まえ,第 6 章では,第 4 章で報告した様々な単回性トラウマ事例の特性
に応じた臨床心理学的支援について,①事故後,被害者に生じる特徴的なトラウマ反応や
症状を提示し,②その特徴的な症状への治療法,③被害者が回復していくために必要なケ
アについて提案することで,今後の単回性トラウマ臨床に僅かながら役立てられることを
目指した。
第 7 章では,第 5 章で報告した様々な反復性トラウマ事例の特性に応じた臨床心理学的
支援について,①被害後,被害者に生じる特徴的なトラウマ反応や症状を提示し,②その
特徴的な症状への治療法,③被害者が回復していくために必要なケアについて提案するこ
とで,今後の反復性トラウマ臨床に僅かながら役立てられることを目指した。
本研究の考察
1)単回性トラウマと反復性トラウマ後に生じる特徴的症状
単回性トラウマによる被害において自然回復に至らず PTSD 症状出現の契機となるものは
被害体験内容の衝撃度,つまり外傷体験の惨事の程度による。被害体験の衝撃度が大きけ
れば大きいほど,PTSD に罹患しやすくなり,また重症化する可能性は高くなる。Kessler
ら(1995)や廣幡ら(2002),前田(2009)の先行研究では,自然災害より,人為災害の方が,
そして人為災害より,性暴力被害の方が,PTSD 罹患率が高いことが示されている。
本研究で提示した単回性トラウマ事例は全て人為災害だったため,被害者の中には PTSD
を発症する人もいた。本研究の結果,第 1 研究と第 2 研究のような死亡者が出る事故にお
いては,PTSD 罹患者が増えることが示唆された。特徴的なトラウマ反応としては,PTSD の
中核症状だけに留まらず,抑うつ状態,パニック発作,解離症状,希死念慮,否認,悲嘆
などの複数の症状を呈した。
van der Kolk ら(1996)は,被害者の年齢が高いほど,また,トラウマを受けた時間が短
いほど,PTSD の中核症状のみに留まる傾向があると示唆している。一方で,トラウマを受
けた期間が長く,与えられる保護が少ないほど,ダメージが深く浸透し,PTSD の症状の範
囲を越える傾向があったことを説示している。第 1 研究,第 2 研究ともに重篤な症状を示
したのは未成年であった。第 1 研究と第 3 研究に関しては同じ事故に遭いながらも,壮年
者には PTSD 症状もその他のトラウマ反応もみられなかった。若年者と壮年者では,危機的
状況に対する予測性,備えである準備性,過去の経験値が大きく異なるため,事故後の心
的外傷の程度についても重症度に大きく差が出たものと考察した。つまり,壮年者と比べ
て若年者は,予測する能力と対処策としての準備や経験値が未熟なため,事故や事件にお
いてトラウマを被りやすいことが推察された。
単回性トラウマによる被害者は,外傷的出来事において死亡者が出たり,被害者が若年
者である場合,事故後に呈する反応は,PTSD 中核症状のみに留まらず,複数の症状を呈し,
回復に至るまでに時間を要することが本研究から明示された。
また,第 4 研究において,災害直後のスクリーニング調査で症状が示されていなくても,
潜伏期間を経て発症する場合も考慮し,全ての調査対象者に専門の相談機関(ホットライン,
相談窓口)を紹介することの必要性が課題として提示された。
とはいえども,一度限りの事件や事故の単回性トラウマによる被害の多くは,PTSD を発
症することなく自然に回復し,また PTSD を発症した場合でも,過半数には自然回復が見込
まれる(金ら, 2001; Foa, 1997)。したがって,単回性トラウマの場合は,まず自然回復の
ための条件を整備し,二次的なトラウマを与えないよう心がけることが肝要である。関与
する要因は,現実生活上の不安の軽減,生活環境の変化に対する支援,経済的被害への補
償,必要な時に相談できる人や場所の確保などが考えられる。しかし,本研究のように一
時的に重篤な症状を呈する場合もあることを念頭におきながら,被害者の状態に応じた治
療とケアを提供する必要がある。
一方,反復性トラウマの場合は,繰り返し長期間暴力を受け続けている状態であるため,
被害者は何らかの症状を呈している場合がほとんどである。
本研究の反復性トラウマ事例は全て通常の PTSD 症状の範囲を越えており,複雑性 PTSD
様の症状を呈していた。特徴的な症状としては,PTSD の中核症状以上に,解離症状や抑う
つ症状,身体化症状が顕著で,さらに対人関係には支障をきたしており,希死念慮も強く,
感情制御困難,自尊感情の低下,無力感,社会からの引きこもり,子どもの場合は学習の
障害など,多彩な症状がみられた。
また,単回性トラウマの場合,第 1 研究と第 2 研究の被害者においては,友人や指導者
に死亡者が発生したことで生徒達は一時的に重篤な症状を呈した。慰霊祭を行うまでは,
様々な噂が広まり,生徒達の症状は悪化の一途を辿り,回復までには程遠い状態が続いて
いた。しかし,慰霊祭という喪の儀式を執り行うことによって,友人や指導者の死という
事実を受け容れることができ,両事例ともに症状は回復へと向かっていった。つまり,生
徒の呈する反応は,友人や指導者の死を受け容れられない否認と受け容れる作業における
悲嘆が抑うつ症状を伴い,一時的に症状が悪化する形となった。しかし,喪の作業により
死を受け容れることができれば,症状は急速に回復していった。
一方,反復性トラウマの場合は,1 つのことが解消されれば,回復するというようなこと
はない。たとえば,DV や虐待に関しては,暴力を振るわれ続ける毎日が続き,次第に力を
持った側と支配される側の無力化の構造が構築され,被害者は学習性無力的傾向に陥る。
つまり,逃げることも抵抗することもできない状態となる。そのような複雑な関係の中に
長期間居続けることにより,被害者の心理状態は破壊されてしまう。
また,本来自分を守ってくれるはずの,最も信頼すべき親や教師,配偶者から暴力を受
け続けるという出来事を経験しているため,当然,人や世間を信頼することはできなくな
る。したがって,対人関係に支障をきたし,社会生活への適応が困難となる。反復性トラ
ウマによる被害者に共通していえることは,多くは信頼できるはずの人から暴力を受ける
ことで,まず他人を信頼して人間関係を維持することができなくなる。反復性トラウマは,
被害者に上記のような多彩な症状を引き起こさせ,社会適応が困難となるような将来的に
も精神的にも重大な損傷を与える。つまり,反復性トラウマにより,個人の価値,存在は
否定され,安全感,安心感,信頼感,感情を粉砕されてしまう。症状が回復したかと思え
ば,また抑うつ状態に陥るということを繰り返す。
さらに反復性トラウマは,単回性トラウマと比べて,外傷体験が DV・体罰・虐待のトラ
ウマというように,被害者本人が口外しなければ分かりにくいものばかりである。また,
本来最も信頼できるはずの相手が加害者であることも起因して,被害者は誰にも相談する
ことができず,発覚が遅延し,事態が重症化しやすいという特徴がある。
また,トラウマの内容も単回性トラウマの場合,事件や事故・災害など,目に見えて分
かる出来事のため,すぐに救援してもらえるが,DV・虐待・体罰に関しては,被害体験が
家庭内や二者関係で行われていることから,目に見えて分かり辛いために救援されにくい
という特徴がある。
以上の点からも,単回性トラウマと比べて反復性トラウマは,被害の発見に至るまでに
時間がかかり,事態が発覚した際には,すでに症状は慢性化しており,回復までに時間を
要する傾向にあることが示唆された。
2)単回性トラウマと反復性トラウマ後に生じる特徴的症状への治療的介入
本研究の単回性トラウマと反復性トラウマの治療について回復に至るための共通の支持
的心理療法における治療プロセスは以下の通りである。
a. 安全感・安心感・信頼感の再獲得
周囲の環境や人,物が安全で安心できる対象であるとの思いを再獲得できることを目指
す。周囲が危険で信頼できない状態のままでは回復は望めない。
b. 外傷記憶の想起とそれによる反応の軽減
解離症状を起こさずに外傷記憶を想起することができるようになり,さらに,想起して
もパニック発作を起こさず,過去の出来事として自身の中で気持ちの整理をすることがで
きることを目指す。
c. 日常生活の再建
トラウマ以前の生活が送れるようになり,昼夜逆転することなく,子どもの場合は,学
校に登校することが可能となり,大人の場合は,職場復帰が可能になるなど,少しずつ社
会に適応できるようになることを援助する。
d. 自己統御の回復
トラウマは被害者から力と自己統御の感覚を奪う(Herman, 1992)。生々しい感情と世の
中が常に危険に満ちているような感覚のために過去の出来事として整理されないままに残
っているトラウマ性の記憶を普通の記憶として再構築すること,そして,その中で被害者
に再び生きる力をもってもらうことが大切である。被害者の心理的援助とは,被害者が自
分の身体と心を自分自身で「コントロールしていける」という感覚を獲得し,被害を乗り
越ええて「もう一度生きていこう」という感覚を取り戻させることを目的としている。
e. 現在や将来への意味を見出す
外傷体験を過去の出来事と位置づけることができたら,現在,興味・関心のあると思える
ことを見つけ,楽しめそうなことから少しずつ行動を始めてもらい,現在が被害者にとっ
て生きる価値があると思える状態へ至るよう援助していく。そして,将来は必ずしも悲観
的なものばかりではなく,楽しみと思えるような状態に達することを目標とする。
治療上ともに留意すべき点として,抑うつ状態による自殺の危険があげられる。本研究
における単回性トラウマ事例では,事故という外傷体験を被っていたため,PTSD 症状につ
いて留意する必要があった。しかし,実際のところ PTSD はもちろんだが,うつ状態を呈
している被害者が多くみられた。なかでも,罪責感情に至っては,なかなか解消されず,
その感情から,希死念慮を抱く者も多くみられ,自殺に関しては細心の注意を払うことが
必要な時期もあった。反復性トラウマ事例においても,DV やレイプ・体罰・虐待の被害者
であるにもかかわらず,
「自分が悪いから殴られる」等,どの事例も罪責感が語られ,希死
念慮を抱いていた。
本研究において,単回性トラウマ後に生じると予想される一連の経緯については,『事故
→外傷体験→PTSD』という流れだけではなく,『罪責感情→うつ病→自殺の危険』につい
ても留意する必要があることが示唆された。
また,反復性トラウマ事例においては,繰り返し暴力を被ることにより被害者は周囲の
信じていた人や世界が信用できない,安心できないものになってしまい,それに対して抵
抗することさえもできなくなってしまうことが本研究から明示された。反復性トラウマの
被害者への治療には,認知行動療法や呼吸法,リラクセーション法,子どもの場合はプレ
イセラピーが有効であった。さらに,回復に至るためには上記に加え,以下のような治療
プロセスが考えられる。
f. 感情制御
外傷体験の再燃により,周囲の者が加害者と同じように感じ,不信感や疑念から,感情
が抑えられずに罵倒したり,暴言を吐いたり,攻撃したりしてしまう状態から,過去の外
傷体験と現実とを区別して生活できるよう認知行動療法にて治療していく。
g. 対人関係スキルの再確立と日常生活の再建
対人関係に支障をきたすことがなくなり,子どもの場合は,学校に登校することが可能
となり,大人の場合は,職場復帰が可能になるなど,少しずつ社会に適応できるようにな
ることを援助する。
反復性トラウマの場合,本来は最も信頼すべき相手が加害者であることから,人を信用
することができず,対人関係に支障をきたし,社会適応が困難になるケースが多い。
回復の諸段階としてよく提示されるものに,Herman(1992)の「安全・想起・再結合」があ
る。回復の第一段階の中心課題は安全の確立であるが,反復性トラウマによる被害者は,
基本的信頼感や安全感のなさから,不信感を抱きやすく,対人関係に支障をきたすことで
「安全」が与えられずにいる。
回復の第二段階の中心課題は想起で,被害者が外傷のストーリーを語る段階である。し
かし,反復性トラウマによる被害者は,重篤な解離症状により,外傷体験を想起すること
が困難であり,身体化症状においては,外傷性記憶と関連付けやすいものではないために
トラウマ被害を受けたことが表面化せず,また,感情制御の困難さから問題行動として周
囲からは認知されたりするために,なかなか外傷記憶の「想起」にまで至らないことが多
い。つまり,トラウマ臨床に繋がるまでに時間を要する。
第三段階の中心課題は通常生活との再結合であるが,反復性トラウマ被害により,対人
関係パターンが歪曲されているため,他者との対人関係に支障をきたしており,また,加
害者が家庭内,近隣にいることがあるため「再結合」が困難であることも多い。
反復性トラウマによる被害者の治療には困難をきたす場合が多い。
以上の点に十分留意しながら,臨床にあたる必要がある。
さらに,治療における二者関係が被害者にとって,トラウマ被害の再燃になる可能性も
ある。たとえば,被害者は,加害者に示してきたような服従的な行動パターンを治療の場
で再演したり,また,加害者への怒りを治療者へぶつけることも多々ある。したがって,
トラウマ臨床においても転移・逆転移の状態には留意する必要がある。そこを怠ると治療の
大前提である「安全」を損なうことになる。このような二者関係によるトラウマ被害の再
燃や転移・逆転移を防止するためには,スーパーヴィジョン(supervision: 以下 SV)を受け
たり,定期的に事例検討の場を設け,同業者にアドバイスをもらうなどすることで,治療
への支障を防ぐことができる。
3)単回性トラウマと反復性トラウマ後に生じる特徴的症状へのケア
本研究における単回性トラウマと反復性トラウマによる被害者へのケアの共通点につい
ては,①基本的生活の保全,安全感の確保,②心理教育,③日常生活の再建があげられる。
①基本的生活の保全,安全感の確保については,周囲の物理的・心理的環境(家庭,学校,
職場)が信頼できるものであるかということである。また,被害者のことを周囲が理解し,
安心できる環境を提供してくれているかということである。この安全感・安心感がなくし
て被害回復には至らない。
②心理教育については,単回性トラウマと反復性トラウマによる被害者に行う内容は,
症状が異なるために当然異なるが,ともに心理教育はトラウマケアには必要である。
③日常生活の再建は,支えになる人との結びつきを取り戻させることである。安全な社
会的関係,および個人と対人間の効力感を再建することが必要である。
つまり,次にどんな危険が来るか分からず,たえず警戒して,怯えている状態から,物
事や人を信頼でき,安全感を取り戻し,被害に遭った出来事については,解離された外傷
から,認知された記憶へと変容し,スティグマを帯びて孤立している状態から,社会的結
合が取り戻された状態へという段階的移行により回復していくことが大切である。
一方,本研究における単回性トラウマ臨床と反復性トラウマ臨床のケアの相違点におい
ては,単回性トラウマ臨床の場合,特に本研究においては全て集団災害だったため,チー
ムによる介入支援を行った。その点で,反復性トラウマ臨床と異なり,①危機介入的ケア
チームによる介入支援,②被害者の所属する学校関係者や会社関係者,地域保健所との協
働による支援,③保健師による保健所での面接や訪問サービス,④罪責感,悲嘆へのケア,
さらに,第 1 研究と第 2 研究は被害者が生徒だったために,⑤教育上の支援についても検
討された。
単回性トラウマでは,事件や事故など対象者の多い災害の場合,個人や少人数で支援す
ることは困難をきたす。被害者を救援する役割の支援者がバーンアウトしかねない。集団
を対象にする場合は,①の危機介入的ケアチームを発足し,介入支援を依頼することが円
滑な支援活動を進めるためには有効であることが本研究から示唆された。
上記の共通するケアのところでも論じたが,被害者が被害回復していくにあたって重要
なことは,安全感・安心感・信頼感の回復である。まず,周囲の環境が安心できるもので
あり,信頼できるものであるかということである。つまり,被害者のことを周囲がいかに
理解していて,安心できる環境を提供してくれるかということである。その点で②の被害
者の所属する学校関係者や会社関係者,地域保健所による理解と支援なくして回復は困難
であると考える。
また,社会復帰することが難しい被害者へは③の保健師による面接や訪問サービスによ
る支援が大事である。保健師による面接や訪問は,孤立した被害者と世間を繋ぐ唯一の役
割を果たす。第1研究や第4研究のように保健師の支援により被害者が回復したケースは
多い。その意味でも③の保健師による対応は被害者支援を考える上で必要不可欠である。
事件・事故で死者が出た場合に,生還被害者や近親者に罪責感や悲嘆反応は多くみられ
る。思い詰めるあまり自身を責め,次第に抑うつ状態へと移行し,最終的には死者を思う
あまり後追い自殺を招きかねない。そのような事態に至らないためにも④の罪責感と悲嘆
反応へのケアは重要である。
最後に,被害者が子どもの場合,外傷体験後,トラウマ反応により登校できなくなるケ
ースが多い。また,出来事が起こった場所が,学校であればなおのことである。被害者本
人も保護者も学校を休んだことで症状が落ち着くため一旦は安堵するが,次に学習が遅れ
ることに対して不安が募ってくるケースが多い。学校関係者と協議して,⑤の教育上の支
援ができるような取り組みを検討することも子どもの被害者ケアでは有用である。
一方,本研究における反復性トラウマ臨床による特徴的なケアは,⑥想起の理解,⑦恐
怖感の理解,⑧PTSD 以外のトラウマ反応の把握とケアの 3 つがあげられる。
まず⑥想起の理解においては,被害者は度々外傷記憶を突然予期せぬ場で想起し,パニ
ック状態に陥ることがある。一方,想起しようとしてもなかなか思い出すことのできない
被害者もいる。外傷体験を語ることは被害回復に繋がるといわれているが(Herman, 1992),
被害者が抵抗を示している段階では無理に開示させることをせず,時期を待つことが必要
である。無理に想起させることは,外傷体験の再燃になる。
⑦恐怖感の理解においては,被害者が外傷体験中,どれほど恐怖を抱いてきたかという
ことを臨床場面で十分理解しながら関わる必要がある。
⑧PTSD 以外のトラウマ反応の把握とケアとは,反復性トラウマの被害者の場合,PTSD 症
状は勿論のことそれ以外の抑うつ症状,解離症状,身体化症状,感情制御困難,学習性無
力感などの方が重篤な場合もある。特に抑うつ症状は,希死念慮を抱いていることも多く
自殺の危険もあるため留意する必要がある。
本事例研究の結果から,単回性トラウマと反復性トラウマによる各々の特徴的症状,ま
た,症状への治療とケアを提示し,トラウマの特性に応じた臨床心理学的支援のガイドラ
インを提案した。
本研究の課題
本論文は医療現場や学校,支援現場で面接する被害者を対象とした事例研究であるため,
単回性トラウマは 4 研究,反復性トラウマは 5 研究と事例の数が少なく,本研究から提案
された臨床心理学的支援が他のトラウマの事例にも全て共通するとまではいえない。しか
し,先行研究と本研究の共通点も多く,比較的効果が期待される臨床心理学的な被害者支
援を提供できているものと推察する。
また,本研究の場合,単回性トラウマの事例が人為災害のみに限られ,事例に偏りがあ
ることが問題としてあげられる。単回性トラウマの場合でも,性暴力被害の場合には,治
療において認知行動療法が必要になる可能性がある(Foa & Rothbaum, 1998 など)。今後の
研究では,自然災害・人為災害・性暴力被害と,単回性トラウマの事例においても被害の
内容により治療とケアが異なるのか否かについて比較検討していく必要がある。
一方,反復性トラウマの場合,対人からの長期間暴力という点で一貫性はあるが,発覚
までに時間を要することから症状が慢性化し,回復に時間がかかる傾向にある。被害者の
負担の軽減と治療期間を短縮できる技法の開発についても今後研究していきたい。
論文審査の要旨
ストレスの研究は歴史的に見ても、Freudの心的外傷論や強制収容所の精神病理的報告な
どから明らかなように、臨床心理学における主要な学問的テーマであった。さらに近年、
災害やテロ、事故、犯罪、虐待などに遭遇したり、目撃したりするといった突発的な重大
事件による外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder, PTSD)が多発するよ
うになり、ストレス障害と結びついたトラウマの様相は多様化し始めている。
とくにわが国では、東日本大震災と福島第一原発事故による放射能汚染を同時に体験した
ことによって、また全国各地で虐待やストーカー、いじめ・体罰などの事件の増加のため
に、トラウマによるPTSDの発症がきわめて重大な社会問題となっている。とりわけ、震災
で起こった津波と放射能汚染のために大切な人を失ったり、住居や財産、職、故郷を失い、
ストレスフルな避難所暮らしを余儀なくされたりしている数十万人の被害者、被災者のメ
ンタルヘルス対策が国レベルで急務となっている。
そのために、PTSDに由来する種々の問題は、医学的ならびに学問的テーマとして、また社
会的に解決が求められる実際的な問題として、ますます注目されている。これら拡大する
PTSD問題に対するニーズに対応するために、そして実証性と実践性の統合化を担う学問と
しての説明責任を果たすために、今日の臨床心理学に課せられた期待は非常に大きい。
欧 米の臨 床心 理学は 、医 学の領 域で 起こっ たエ ビデン ス・ ベース ト・ メディ スン
(Evidenced-Based Medicine, EBM)の影響を受けて、PTSDに対する心理療法や心理教育的
介入に関する正しい情報と技法を選別し、それらの知見をデータベース化し、それを必要
とする人達がそれらを活用できるシステムづくりに取り組んでいる。
残念ながら、わが国の臨床心理学には、被災者や被害者が被ったトラウマとPTSDに対して、
EBMを志向した個別最適化介入と支援を行うといった考え方や試みはまだほとんど浸透し
ていない。エキスパートの経験や直感に依存した意見によって、また徒弟的な心理療法の
研修を通じて学んだ技法によって、アート的な側面を強調するPTSDの臨床心理学的技法が
主流のように思われる。
このような背景を踏まえて、古賀章子氏の申請論文「被害者のトラウマの特性に応じた臨
床心理学的支援」は、今まさに、我が国が抱えている社会問題の1つであるPTSDからの回復
に向けた研究と実践に関連する臨床心理学的研究に真正面から取り組んだ時宜を得た喫緊
な研究論文といえる。
トラウマとひとくちに言っても、そのイベントは1回限りのものであったり、何度も繰り
返されるものであったりする。また、トラウマ反応も急性的なものであったり、慢性的な
ものであったり、単純性のものか複雑性のものかでも異なる。トラウマの特性の違いは、
とうぜん、その臨床心理学的支援のあり方にも反映されることは想像に難くない。
本論文はまさに、トラウマの特性に応じた臨床心理学的支援とはどのようなものなのか、
そしてそれはどのように評価することができるのか、またそれらに影響を及ぼしたりする
関連要因は何か、さらにはどのような支援や介入が有用な治療的効果を持つこととなるの
か、申請者の臨床心理士としての日々の臨床実践の中で体験した数々の事例を通して、多
面的かつ包括的に検討を加えたものである。
具体的には、心理臨床場面におけるPTSD問題への心理療法と心理教育の実践について、
トラウマの特性の違いを念頭においた臨床心理学的支援を、わが国に普及させるために、
その考え方と概念的枠組みを実際の自験事例を丹念に分析、考察しながら提示している。
臨床心理学的支援という切り口から、世界におけるPTSD研究と治療のレベルを踏まえて、
わが国の臨床心理学のPTSD治療と支援の最前線を紹介し、今日的里程標を示すことに成功
している。トラウマの特性に応じたきめ細かな個別的な臨床心理学的支援のガイドライン
を仮説提起するとともに、その成果検証をpost-poc的に行うことで、この分野における新
たな地平線を切り開いたものと考える。
論文全体は、緒言と結論を含めた8章からなっており、その中心は、PTSDにおける単回性
トラウマの事例研究と反復性トラウマの事例研究を通して導かれたトラウマの特性に応じ
た個別的な臨床心理学的支援の有効性をとりまとめている。また、これらの研究と実践を
通して得られた貴重な数々の知見を踏まえて、PTSDへの臨床心理学的治療と支援を包括す
るケアの取り組みに掘り下げた今後の研究と実践の新たな方向性を示唆している。
以下、本論文の構成に従い、審査内容を報告する。
第 1 章では、本研究の背景として、PTSD の精神医学的問題と臨床心理学的問題について
広範なレビューを行っている。PTSD 被害者支援の現状とトラウマ性イベント後に生じるさ
まざまな心理社会的問題と症状などについて、詳細に解説を加えながら、PTSD 支援におけ
る「心のケア」の必要性と課題を明示している。とくに、PTSD 被害者が抱える全人的な問
題に対する臨床心理士による被害者支援の問題を整理することで、その枠組みと方向性を
明確にして、被害者の個別性を重視しながら行う支援の重要性を問題提起している点は高
く評価できる。
第 2 章では、これまで PTSD 対策の必要性が叫ばれていても、efficacy と effectiveness
を有する支援が確立されていない我が国の現状を丁寧に概説している。その後の章で取り
扱われるトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援のための戦略についての重要な概念が、
国内外の研究を踏まえ、申請者の視点から詳述されている。
最初に、トラウマの分類、すなわち、単回性トラウマと反復性トラウマとの間に明確な
区別がきちんとなされることなく、画一的な PTSD の治療と支援がこれまで行われてきたと
いう問題提起に至る背景について、国内外の動向を先行研究から丁寧に論評しながら、こ
の領域における課題や問題点を整理し、本論文で取り扱われる研究テーマへの橋渡しをし
ている。
すなわち、その後、第 4 章で取り扱われる単回性トラウマの事例研究と第 5 章で取り上
げられる反復性トラウマの事例研究を目指す出発点となっている。なぜ、トラウマの特性
に応じた支援を行う必要があるのかを 9 つの個々の事例に落とし込むことにより、その有
効性を帰納法的に検証するという第 6 章と第 7 章で論述される成果につなげている。
第 3 章では、前の 2 つの章の展望を受けて、本研究で取り扱うべき問題点と課題を提起
している。すなわち、トラウマの特性に応じた効果的で有効性の高い臨床心理学的支援を
明らかにするという本研究の目的とアプローチを提示するとともに、研究の意義を論じて
いる。欧米では、単回性トラウマと反復性トラウマに応じて治療を試みた報告が最近散見
されるようになったが、わが国では、このような視点から PTSD の臨床心理学的支援に取り
組んだ研究は皆無に近い。
この意味で、トラウマの特性に即した個別的な支援のあり方を明示しょうと試みた本研
究は貴重であり、独創性に富んでいる。さらに、この問題提起を受けて、本研究における
概念的枠組みを明確にするとともに、申請者のこれまでの数々の PTSD の心理臨床実践例を
選定し直し、的確な事例検討の手続きを駆使して、研究目的を達成しようとしている点は
評価できる。
第 4 章では、具体的に単回性トラウマの 4 つの事例研究(えひめ丸沈没事故後の生還生
徒と乗組員を対象とした第 1 研究、小学校体育事故後の生徒を対象とした第 2 研究、工場
災害後の工員を対象とした第 3 研究、ガルーダ航空機事故後の被害者を対象とした第 4 研
究)を丁寧に論述している。いずれも当時、その事件の大きさから大々的にマスコミ報道
されたケースである。これらの研究において、被害者のメンタルヘルスの経過を質問紙と
面接調査などの結果に基づいて、単回性トラウマ後の単純性 PTSD の症状とケアに特徴的な
知見を明示できており、その成果がわかりやすく論述されている。
単回性トラウマ後の特徴的な症状に着目したケアの実践の知見はまだ十分に体系化がな
されていない現況において、トラウマの特性に応じた臨床心理学的支援の重要性を指摘し
た申請者の斬新な着眼点には見るべきものが多く、第 6 章で詳述される単回性トラウマの
特性に応じた単純性 PTSD ケアの提案につなげている点で大いに評価できる。
第 5 章では、具体的に反復性トラウマの 5 つの事例研究(ドメスティック・バイオレン
スの被害者を対象とした第 5 研究、性暴力被害者を対象とした第 6 研究、教師からの体罰
被害を受けた児童生徒を対象とした第 7 研究、親から虐待を受けた児童を対象とした第 8
研究、近隣者からの嫌がらせを被った被害児童を対象とした第 9 研究)を丁寧に論述して
いる。これらの研究では、病院と学校場面において臨床心理士としてかかわった申請者の
専門活動の過程を詳述しながら、治療とケアの有効性を明示できている。さらには、反復
性トラウマ後の複雑性 PTSD の症状を呈した事例における臨床心理士の役割がわかりやすく
論述されている。
単回性トラウマの場合と同様に、反復性トラウマ後の特徴的な複雑性 PTSD 症状に着目し
たケアの実践の知見は、まだ十分に体系化がなされていないことより、申請者の斬新な着
眼点は高く評価できる。そして、第 7 章で詳述される反復性トラウマ後の複雑性 PTSD 症状
に対する臨床心理学的支援の提案につなげている点は見るべきものがある。
第 6 章では、第 4 章の単回性トラウマの 4 つの事例研究から明らかになった単純性 PTSD
症状の特徴に応じた個別的治療とケアのガイドラインを提案するとともに、臨床心理士の
役割について明示している。わが国では、トラウマの特性に応じた標準的治療とケアは確
立されておらず、単回性トラウマの事例研究から帰納法的に明らかになった知見の提案は
貴重なものといえる。単回性トラウマと単純性 PTSD 症状の関係とそのケアの実際、臨床心
理士としての効果的な役割が仮説提起されたことは、質の高い PTSD の臨床心理学的支援の
実践とその後の評価研究につながる示唆が得られたと位置づけられる。
第 7 章では、第 5 章の反復性トラウマの 5 つの事例研究から明らかになった複雑性 PTSD
症状の特徴に応じた個別的治療とケアのガイドラインを提案するとともに、単回性トラウ
マに対する単純性 PTSD のケアとは異なる臨床心理士の役割が比較分析されている。精神病
理の根深さや適応障害の大きさと重篤性は、単回性トラウマと比較して、反復性トラウマ
の方がより大きいことより、反復性トラウマの事例研究を通じて構造化された臨床心理学
的治療とケアの提案は大いに注目すべきものとなっている。反復性トラウマと複雑性 PTSD
症状の関係、複雑性 PTSD 症状へのケア、ならびにそこでの臨床心理士の役割が仮説提起さ
れたことは、科学的根拠のある PTSD の臨床心理学的支援の実践とその後の評価研究への展
開について重要な示唆が得られたと考える。
第 8 章では、9 つの PTSD 事例を通して明らかになった単回性トラウマ後の単純性トラウ
マ症状と反復性トラウマ後の複雑性トラウマ症状との間の比較分析の結果に基づいて、深
みと広がりを持った総合考察が展開されている。これらの事例研究で得られた数多くの知
見を整理しながら、臨床心理学的支援を行うための包括ケアのガイドラインの有用性と意
義について、現時点でもっとも妥当と思しき考察を様々な角度から加え、的確に解釈して
いる。それらの論述を通して、本研究の特色と意義がきわめて明快に伝わってきている。
また同時に、申請者は自らの研究の限界を明らかにするとともに、今後の課題についても
数多く言及している。
これらの成果は、未曾有の大震災による PTSD 被害に対して、国レベルで取り組んでいる
復興支援の中で、また虐待や自己愛的なストーカー、いじめ・体罰事件が頻発する現代社
会においては、大いに注目されるに違いない。医学的ニーズのみならず、心理的ニーズ、
社会的ニーズに応えた支援を実践する上で、単回性トラウマによる単純性 PTSD と反復性ト
ラウマによる複雑性 PTSD の特徴に対応した臨床心理学的支援のガイドラインを作成できた
点で見るべきものがある。ここで提案され、post-hoc 的に有効性が明らかにされた治療と
ケアの方略は、系統的心理療法の選択の指針として今後大いに引用されるに違いない。
わが国では、この種の取り組みがほとんど皆無に近い現況にあって、本研究はきわめて
貴重と考える。また、トラウマの特性に応じた臨床心理学的支援の有効性を種々異なる事
例研究から帰納法的に証明することができた点でも先駆的といえる。被害者のトラウマケ
アにおいて、臨床心理士は中心的な役割を担うことが期待されている。こうした状況の中
で、本研究で明らかにされた数々の知見は特筆に値する。申請者の卓越した臨床家ならび
に研究者としてのスキルが如実に示されたものと考える。
以上、本論文に関する要旨からもじゅうぶん推察されるように、これまで本邦では系統だ
って検討されてこなかったトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援の理論と実践に関す
る申請者の研究視点は、きわめてユニークかつ独創的であり、この領域における他の研究
者を凌駕するものとなっている。
上述したように、本論文は学位論文としての条件を十二分に備えており、申し分ない。し
かしながら、その上で、あえて若干の意見を付しておく。
本論文の知見は、そのほとんど多くが事例研究による結果にもとづいている。申請者が
仮説提起した単回性トラウマと反復性トラウマに応じた臨床心理学的支援のガイドライン
の効果性と有効性は、ランダム化比較対照試験(RCT)による評価研究によって証明されな
いと十分とはいえない。研究方法に内在する問題点を意識し、本論文が明らかにした知見
の適応範囲と禁忌例についてもまた、具体的に明らかにする必要がある。
たとえば、トラウマの特性に関連する要因として、被害者側の属性的要因、臨床心理学
的支援それ自体が持つ要因などが挙げられる。そこで、これらの内のどのような要因がど
のような段階でどのように転帰を左右するのかなど、実践研究の積み重ねが必要である。
これに加えて、システマティック・レビューに耐えうる多施設での RCT にもとづく評価研
究のさらなる検討も今後求められなければならない。
最後にまた、単回性トラウマと反復性トラウマの共通性と特異性、単純性PTSD症状と複雑
性PTSD症状の共通性と特異性に応じた臨床心理学的支援の必要性が提案されたとしても、
なぜそのような支援でなければいけないのかなどについて、より深い分析と論理的説明が
求められる。現時点では、申請者の推測の域を越えていない解釈が多々認められる。被害
者のトラウマの特性に応じた臨床心理学的支援の普遍性と個別性による効果発現の構造に
かかわる要因をより詳細に解明する意味でも事例研究をこえた実証的な証明が今後必要で
あることを付記しておく。
しかしながら、上記の指摘は、いずれも本論文の価値を大きく低めるものではない。本論
文の完成度を認めた上での、さらなる要望と理解すべきである。よって、論文審査の結果
を表記の通りとした。
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