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独り言 38 クロッシング H24.12.6 昨年のちょうど1年前に「クロッシング

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独り言 38 クロッシング H24.12.6 昨年のちょうど1年前に「クロッシング
独り言 38
クロッシング
H24.12.6
昨年のちょうど1年前に「クロッシング」という映画を観ました。この映画は、韓国で製作さ
れた北朝鮮からの脱北者の話です。内容は、次のとおりです。
北朝鮮の炭鉱の町に住む三人家族。炭鉱で働く元サッカー選手のヨンスは、妻・ヨンハと 11 歳の一人息
子のジュニとともに、貧しいけれど幸せに暮らしていた。しかし、ある日、ヨンハが肺結核で倒れてしまう。北
朝鮮では風邪薬を入手するのも難しく、ヨンスは薬を手に入れるため、危険を顧みず、中国に渡ることを決
意する。決死の覚悟で国境を越え、身を隠しながら、薬を得るために働くヨンス。脱北者は発見されれば容
赦なく強制送還され、それは死をも意味していた。その頃、北朝鮮では、夫の帰りを待ちわびていたヨンハ
がひっそりと息を引き取る。孤児となったジュニは、父との再会を信じ、国境の川を目指す。しかし、無残にも
強制収容所に入れられてしまう…。というシナリオです。
第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北に分断され、現在は韓国と北朝鮮という二つの国が存在す
る分断地域国家となりました。1990年代半ばから、北朝鮮の住民たちは飢餓による家族の死
を目の当たりにし、死線をさ迷いながら、国境を超え、脱北者となった人が多くいました。その
数は中国とその周辺国に約30万人に達すると分析され、韓国には約2万人がたどり着いたとい
われています。今なお、過酷な食糧難による脱北者となる人が後を絶ちません。
2002年、中国の瀋陽日本領事館に、脱北者の両親と幼い少女を含む子供5人が駆け込もう
とし、中国人警官によって引きずり出された事件がありましたが、この映画は、北京駐在スペイ
ン大使館進入事件(2002年3月、脱北者25名がスペイン大使館に駆け込んで韓国亡命に成
功した)を基に製作したものだそうです。日本では当たり前ですが、生きるだけでもたいへんな
国が近くにあると言うのは心が痛みます。
4日から10日までは、人権週間です。17項目の中に「北朝鮮当局による人権侵害問題に対
する認識を深めよう」がありますが、拉致問題、日本人妻帰国問題等の日本に関する問題がなか
なか解決できない現状です。行動は起こさなくてもまず関心を持つことが、私たちの責務ではな
いかと思います。
東海道五十三次シリーズその22 沼津
沼津市は、伊豆半島の北部を流れている狩野川の河口に位置します。狩野川というと私たちの
時代の者は「狩野川台風」が思い出されます。昭和33年に発生した狩野川台風は、最低気圧が
877hPa という猛烈な台風で、上陸時は小さくなっていたのですが、秋雨前線が刺激され、狩
野川が氾濫し、死者行方不明者が 1,269 名を出した台風です。矢作川より小さな川ですが、有名
な川となりました。沼津市は人口20万人以上の特例市にあたります。(30万人以上は豊田市
のような中核市)富士山からの伏流水で沼が多かったことからこの名が付けられたようです。
駿河湾に面したところに千本浜公園があります。私が訪れた日には富士山が見えませんでした
が、全国松原100選にも選ばれており、松原と富士山で絶景のようです。いわゆる防風林です
が、強い風によって松が斜めに成長しています。このシリーズでは、沼津市の東海道のこれとい
ったところはありませんが、この地方では、かなりの都市だったと思います。
独り言 38
2012年「今年の漢字」は何?
H24.12.10
師走に入り、衆議院議員選挙運動の真っただ中、まさしく、議員の先生方は、街中を駆け回っ
ていることでしょう。さて、みなさんの2012年は、どのような年でしたでしょうか。日本漢
字能力検定協会が募集した「今年の漢字」は何が選ばれるでしょうか。昨年の1位は「絆」でし
た。あるHPの予想を見てみると「領」「島」「国」「争」「尖」「抗」「脱」「税」「悲」「空」
などです。尖閣列島領土問題があったので、何か暗いイメージの漢字が多いのではないかと思い
ます。でも、ここの予想は3年間連続して外れていますので、それ以外かもしれません。で、私
も考えてみました。国民の応募の多かった漢字ですので、私は、こういうときこそぬくもりのあ
るものが多いのではないかと思います。たとえば「愛」「笑」「支」「助」「天」「空」などで
す。東京スカイツリー、金環日食など、話題の多かった「天」や「空」になるといいなあと思っ
ていますが。東北地方の復興もあり、国民に笑顔が戻ってきたので「笑」とか、助け合いの大切
さから「助」でもいいのではと思っています。発表は12月12日(水)の漢字の日に、京都・
清水寺の森清範貫主が書かれます。
東海道五十三次シリーズその23 川崎宿
横浜から江戸へ行くには、多摩川を渡らなければなりません。今では六郷橋がかかっているの
で、すぐに行けるわけですが、昔は橋がなく、代わりに「渡し」があったそうです。渡しですと
効率が悪いので、家康の命令によって橋がかかりました。しかし、元禄元年の大洪水で橋が流さ
れてしまいました。洪水に耐えられる橋というのは、当時の技術では困難であったことから、以
後、明治に入るまで船渡しとなりました。渡船は宝永6年から川崎宿が請け負うことになり、こ
の渡船収入が宿の財政を大きく変えたようです。
ところで、昔は、多摩川の下流を「六郷川」と呼んでいました。今の東海道本線の橋より南の
部分をそう呼んでいたようですが、なぜでしょうか。
「郷」というのは、村とか集落を指しており、6つの郷があったと考えられます。永富・大森・
蒲 田・堤 方・原・八 幡 塚 が そ れ に あ た る の で は な い か と い う こ と で す 。
左の写真は、六郷川にかかっていた昔の東海道線の六郷橋です。え、まだあるの?と思われが
ちですが、実はあるのです。犬山市の明治村に保存されています。蒸気機関車が通る現役?の橋
です。
独り言 39
Facebook
H24.12.17
最近の情報社会の変化は、すごいものがあります。私などはずいぶん乗り遅れているのではな
いかと思います。この30年前を考えてみると、情報は電話か紙文書だけでした。紙文書も、私
が新任の頃(35年前)は、「ガリ版」でした。鉄筆でロウ原紙をカリカリと削るやつです。そ
の次は、FAXです。今のような光学式のものではなく針で濃淡を読みとる方式でした。ですか
らあまりきれいではありませんでした。それにともなって出てきたのが、和文タイプライターで
す。これは、ひらがな、カタカナ、漢字の一文字ずつが鉛でできた活字をパチンパチンとカーボ
ン紙で叩いていくものです。その次に出てきたのがワードプロセッサです。20年前のワープロ
は、パソコンではなく、「キャノワード」というような商品名のように、メーカー専用の形式で、
互換性がありませんでした。しばらくすると、PCのワープロソフトが開発され、『一太郎』の
時代がやってくるのです。今でこそ[word]で、office2010 のような統合ソフトで便利になりまし
たが、ここにいたるまでけっこうあれこれいろいろなことをやっていたと思います。
PCですが、25年前ごろから学校にも入ってきました。私がはじめて買ったのが富士通「マ
イクロ8」でした。当時20万円ほどしたと思います。ボーナスぐらいだったと思います。まだ
8bit で、今のようにソフトがなく、Basic という言語でプログラムを組んで行うというものでし
た。保存はカセットレコーダーでした。これがけっこうたいへんでしたが、ラベル印刷をしたり、
アマチュア無線のQSLカードを作成したりしていました。当時は、PCのことをマイコンピュ
ータと呼んでいましたが、間もなくしてパーソナルコンピュータという呼び方になりました。そ
のうち、MS-DOS(マイクロソフト-ディスクオペレーティングシステム)が出て、画期的に便利になり、windows の時
代がやってきます。このころから 16bit→32bit というようにどんどん大容量、高速化の時代にな
り、今では 64bit の時代になりました。
インターネットは15年ほど前から出始めました。はじめは、html 文書が分からずに、北中の
HPをたちあげるのに本を見ながら手探りで、UP するまで2週間かかりました。今では、HPビ
ルダーで簡単にでき、楽になりました。
これからは、情報をいかに活用するかで、生活が豊かになると思います。時間の節約、行動の
広範囲化等、本当に便利になっていると思います。今、私がやってみたいと思うのは、スマホを
買って、お金をかけずに Wifi を利用するというもの。あと、情報交換の場として Facebook やア
メブロ、ブログなどの活用です。でも、気を付けないと自分の情報が無制限に一人立ちして広が
っていく心配がありますので、
掲載する内容の吟味と閲覧の制限などを考慮する必要があります。
メールやアメブロについては、
一部の子どもたちがやっているようですが、
問題も多いようです。
不適切な使用をすることも考えられますので、
正しい情報モラルのもとで使用させたいものです。
東海道五十三次シリーズその24 京橋
日本橋の近くに京橋があります。これは、京橋川にかかる橋で、現在は、川は埋め立てられて
いて、川の上には高速道路が通っています。写真の親柱は、1922 年のもので、これしか残ってい
ないので、川があったことは、わかりません。
独り言 40
ゆく年くる年
H24.12.21
もう1年という時間が過ぎてしまいました。私は、正月を60回経験していることになります
が、本当に歳月が過ぎるのが早く感じられます。「Time and tide wait for no man」-歳月人を
待たず-と言いますが、目的を持って計画的に過ごさないと、時間の浪費になってしまいます。
さて、みなさんにとって今年はどんな年になったのでしょうか。以前書いた「今年の漢字」は
「金」になったそうですが、オリンピックの金メダル、金環日食、東京スカイツリーや山中教授
のノーベル賞受賞など、多くの金字塔を打ちたてられたのがその理由だそうです。でも、金(き
ん)ではなくて金(かね)と読めば、私たちにとっては経済的に苦しい年だったなあと思います。
来年は巳年です。漢書・律歴志では、「巳」は「止む」の意味で、草木の生長が極限に達して
次の生命が作られ始める時期と解釈しているそうです。植物は、春になると新芽が出て、別の枝
を出したりしますが、政治の世界では3年半前に自民党が民主党に大敗して、今度は民主党が大
敗。理屈だけでは政治ができないし、将来構想もしっかり考えておかないと大変なことになりま
す。私たちは政治家ではないので、世の中全体をリードするわけではありませんが、将来を見据
えて子どもたちに夢と希望を与え、自らの力で自分の人生を切り拓いていくような活力のある人
づくりをしたいものです。子どもたちの30年、40年の将来を考え、緑丘小の教育を充実させ
ましょう。来年も希望の持てる新しい年になりそうです。
東海道五十三次シリーズその25 日本橋
9月8日(土)に横浜から日本橋まで走りました。これで東コースは、一応ゴールしたことに
なります。こんなことやっていると、旅費がかかってしょうがないのでは?と思われるかもしれ
ませんが、そこはちゃんと節約しています。前日に豊橋まで行き、翌日午前0時5分発の「ムー
ンライトながら」に乗ります。青春18切符は、当日乗り放題ですので、帰りもその切符が使え
るのです。つまり、4,000円ちょっとで自宅と往復ができるのです!東京-岡崎間を普通電車
でというのは、時間がかかるのでたいへんと思うかもしれませんが、慣れてしまえば気になりま
せん。でも、日本橋まで到着したお祝いに、この日ばかりは東京-熱海間は、普通電車のグリー
ン車に乗ってしまいました。500円ぐらいだったと思います。また、この日はちょっとリッチ
に熱海-浜松間を新幹線でワープしてしまいました。(新幹線は青春18きっぷが使えません。
高くつきますが・・・)
しかし、昔の人はこんな道をよく歩いて旅をしていたなあと感心します。今でこそ新幹線で東
京までは1時間30分ほどで行くことができますが、自分の足を使うと、つくづく現代の生活っ
てすごいなあと思います。
東海道五十三次シリーズその26 小田原
「エッサエッサ エッサホイ サッサ お猿のかごやだホイサッサ 日暮れの山道 細い道小
田原提灯 ぶら下げて・・・」の歌詞にある小田原提灯の言うのは、どんな形をしているのでし
ょう。小田原提灯の形状の利点は、
・同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。
・通常の提灯と異なり中骨が平たく、
紙との糊代面積が大きいために剥がれにくく雨や霧に強い。
・作業工程が簡単なため、安価であった。
・大雄山の神木を一部材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。
だそうです。
箱根駅伝では、小田原から箱根まで上り坂が続くわけですが、小田原駅から箱根登山鉄道が走
っています。また、箱根湯本までは小田急ロマンスカーが乗り入れており、一度は乗ってみたい
電車です。
独り言 41
ベトナムにてテクタイトを買ってきました
H25.1.21
年末にベトナムに行きましたが、ここで「テクタイト」という隕石を買ってきました。この隕
石は、ガラス質で日本ではほとんど見つかっていません。どういうわけか赤道近くの低緯度地帯
にしか出てきません。それも見つかる場所が限定的で、その理由はまだ分かっていません。月の
火山説、月に隕石が当たってできた説、地球に隕石が当たってできた説などがありますがどれも
有力というところまでは至ってないようです。
テクタイトという名前は、ギリシャ語で「融解した」という意味の単語に由来しています。パ
ワーストーンとして知る人ぞ知るテクタイトなのですが、宇宙的な意識との繋がりを強め、本来
歩むべき人生に近づけるための道しるべとなる石だそうです。潜在的な問題を顕在化させ、カル
マを浄化する助けとなるそうです。うーん、なんだかよく分かりませんが、信じる人には持って
いてよいかも。
東海道五十三次シリーズその27 吉田宿
豊橋市に入ると、西と東に写真のような小さめの門があります。これはレプリカですが、惣門
といって東海道の西と東の入口に立てられていました。当時は、現在のように昼夜関係なく往来
してもよかったわけでなく、午前4時から午後10時までしか通行できませんでした。当時は夜
歩きまわるのは盗人ぐらいかもしれません。また、豊川に架かる「豊橋」は明治になって改称さ
れましたが、鎌倉時代には「今橋」、江戸時代には「吉田橋」という名称だったそうです。
独り言42
頭寒足熱とヒートテック
H25.1.28
毎日寒い日が続きます。27日(日)午前7時の豊田のアメダスは-5.4℃でした。でも、今年
は雪合戦ができそうな雪が積もりませんので、年に一度ぐらいはドカッと積もってほしいなあと
願っています。これだけ寒い日が続くと、「今朝は-3℃か、普通だなあ」なんて思ってしまい
ます。慣れと言うのはこんなもんです。でも、霜焼けは別です。私は、足の指やかかとによくで
きますので、その対策として、①靴下を二重に履いている、②靴下と靴下の間にホッカイロを入
れている、③寝る時は靴下を履いてこたつにもぐっている の3点でほとんどOKです。
さて、昔から「頭寒足熱」といいますが、足が温かいと上は薄着でもけっこう過ごすことがで
きます。私は、上記以外にタイツを履いています。これがよくて、保温でばっちりです。みなさ
んの話を聞くと、ユニクロにヒートテックなる商品があり、愛用しているとのこと。私はまだそ
の効果を知りませんが、みんながよいというものなら間違いありません。なぜヒートテックが温
かいかについて載っていましたので、紹介します。
私たちの体からはいつも汗が出ているそうですが、とりわけ普通の肌着の上に衣服を重ねて、野外での仕
事を懸命にやると、汗がその肌着に一杯纏わり付き、小休止した時ひんやりと感じます。それが風邪の原因
となります。汗が水蒸気となって肌着の繊維とぶつかる時、熱が発生するそうですが、ヒートテック肌着は
2種類の繊維が組み合わさっており、最初に水蒸気が衝突するのはレーヨンで出来た層で、それが効率的な
発熱を可能にしています。次の層はこの熱を肌着の内部に閉じ込める事の出来る、非情に細い繊維が集まっ
て出来ており、
素材はマイクロアクリルです。
この断面は隙間だらけで、
そこに熱を閉じ込める効果があり、
断熱層を形成しています。ですから温かさが持続するのだそうです。
東海道五十三次シリーズその28 岡崎宿
岡崎市内の東海道は、曲がり角がとても多いです。これを二十七曲と呼んでいます。現在は、
標識や道標があるので、わりとすんなり行けますが、よくもこれだけ曲がり道にしたなあという
感じです。これは防衛のためなのだそうですが、いつもは何気なく通っている道に、こんなとこ
ろが東海道だったのかと、改めて見直しました。
矢矧(矢作)橋は、東海道で一番長い橋で、長さが374m あったそうです。また、橋の南
側には、八丁味噌を製造する工場があります。「角九」と「まるや」が隣り合わせにあります。
○と□で、
カクキューのほうが今は有名ですが、
まるやの方が創業は300年ほど早いようです。
さすがに家康生誕の地とあって、岡崎城は、いつも賑わっていますが、公園南の藤棚は立派で
す。4月後半からゴールデンウイークあたりが見頃です。
独り言 43
ポートフォリオ的蓄積
H25.1.31
教室の背面黒板に、透明な袋に一人一人の作品や目標、感想文などが入れてあります。私はそ
れを見るのが楽しみで、教室を訪問する際に見ています。この長所は、その子の学習や考えが順
番に分かるし、過去にどんなことを勉強したかなど振り返ってみることができます。このような
積み重ねが分かるものをポートフォリオと言っています。ポートフォリオとは、もともとは「紙
ばさみ」のことです。画家や写真家が自分の作品を持ち歩くとき紙ばさみに入れたことから「個
人の画集や作品集」を表すようになり、さらにモデルが「自分のセールスポイントや仕事の経歴
を示すような写真や切り抜きなどまとめたもの」をいうようになったようです。教育現場では、
総合的な学習が行われるようになったごろから使われていますが、ファイル的な性格なものと考
えてもよいかと思います。
東海道五十三次シリーズその29 赤坂宿
吉田宿から西に向かうと、国府を経て五湯の松並木を通り、赤坂宿に到着します。ここには、
83軒の旅籠(はたご)があったそうです。旅籠とは、下級武士や庶民の宿泊所で、今でいうビ
ジネスホテルみたいな宿泊施設でしょう。今ではすっかり無くなってしまったものの、現在でも
格子戸の家が並んでおり、江戸時代にタイムスリップさせてくれます。その中で、今も旅籠を営
んでいる「大橋屋」があります。いつ壊れても不思議ではないぼろぼろの家屋ですが、これがよ
くて、宿泊者が絶えないそうです。中も江戸時代のままで、一度は泊まりたい宿です。
東海道五十三次シリーズその30 見付宿
見付宿とは、今の磐田市のことです。京都から東に向かうと、初めに富士山が見えることで見
付という名称になったようです。磐田市の駅を北進した場所に、見付学校という現存する日本最
古の木造擬洋風の小学校校舎がありました。国の史跡に指定されています。館内には、教育資料
の展示や授業風景が再現されています。木造の机は、私も小学校時代に使っていましたので、と
ても懐かしく思いました。
ノートはなく、書いては消せる黒板ボードみたいなものを使っていたようです。鉛筆、ノート
などは高価で買えなかったのでしょう。棒のようなもので圧力をかけると後が残るボードに漢字
の勉強などをしていたのでしょうか。さすがに私たちは使っていませんでしたが、今でもダイソ
ーで備忘録黒板として販売している物とよく似ています。
市内には、有名な予備校がありました。昔風の建物で、看板にも屋根が付いていて、東海道の
景観らしき建物で感心しました。昔の街並を残すことも大切ではありますが、昔の風情を残しつ
つ、現在の文化をマッチングさせるというのも昔の文化の保存としてよい手立てだと思います。
独り言 44
シュミレーション or シミュレーション
H25.2.7
みなさんは、どちらを使っていますか。私は以前は前者を使っていたのですが、word で書くと
緑の波線が付いてしまいます。後者ではつきません。ということは、シミュレーションが正解と
いうことになります。ちなみに英語では、simulation と書きますので、シミュレーションとなる
わけです。しかし、シュミレーションがいけないかというと、そうでもなさそうなのです。
本来は、シミュかもしれませんが、ミュが言いづらいので、だんだんとシュミに変化したらし
いのです。「山茶花」は昔は「サンザカ」今は「サザンカ」。「新しい」も昔は「あらたしい」
→「あたらしい」です。イギリス英語では「centre」だったのがアメリカ英語では[center]
話しづらい言葉がだんだんと変化することを「音位転倒」などと言うそうですが、このシミュレ
ーションなどはいずれはシュミレーションになるかもしれません。
こういうのは、地名などでよくあるかと思います。「愛知」の語源は「あゆち」→「あいち」、
屈斜路はアイヌ語の「クッチャロ」(喉口の意味)→「クッシャロ」、近江は「あわうみ(淡い
海」→「おうみ」などと変化してきているようです。ちょっと話はずれますが、地名の漢字など
は、けっこう当て字を使っています。莇生は薊野から、福谷(うきがい)は浮谷(うきがや)か
ら、豊田市の幸海(こうかい)町は、幸せの海があったのではと思いきや、シャチノミ→(酒呑
「さけのみ」)→さちのうみ→幸海らしいです。酒呑もまた当て字かもしれませんが、もしかし
て酒呑み百姓がたくさんいた?のかもしれません。それが幸せな海というなんとも上品な名称に
なっているのは、面白いです。詳しくは、教頭先生に聞いてください。
また、これってなんでこう読むの?というのもあります。たとえば七夕(たなばた)ですが、
どうみても「たなばた」とは読めません。これは棚機津女(たなばたつめ)伝説からきているよ
うです。
このように、語源を知ると、なるほど、と思われる語がけっこうあります。
東海道五十三次シリーズその31 袋井宿
袋井宿は、江戸と京都のだいたいまんなかですので、なんでも「まんなか」を付けています。
袋井市立袋井校東小学校には、「どまん中東小学校」という木製の大看板が校門に取り付けられ
ています。西小学校も同じように付いていました。
袋井市役所の前には、昔から伝わっている茶店があり、ここは「どまん中茶屋」という名前です。
こういう街起こしも面白いものです。
1月26日はちょうど「たまごふわふわ祭り」を行っていたので、立ち寄ってみることにしま
した。これは、江戸時代からの名物料理だそうで、今でも市街の食堂で食べられるようです。
私もさっそく味見をしてみました。とても寒い日だったので、熱々の物を食べることができ、
とてもおいしかったです。(舌をやけどしてしまいました)生卵を泡だて器で立てながらスープ
状にしたもので、私が食べた物は、鶏の肉も細切れに入っていました。
東海道五十三次シリーズその32 掛川宿
掛川では、山内一豊と内助の功として有名な千代の絵を見ることができます。一豊は、城の修
築や城下町づくりを行ったり、大井川の洪水対策で堤防を築いたとされています。掛川城はこじ
んまりとしていますが、城らしい城です。特に門から天守に登る階段は立派ですし、天守閣から
は町並が一望できます。1854 年に安政東海地震で天守は倒壊して以後、そのままになっていまし
たが、平成6年に木造として復元されたそうです。
東海道五十三次シリーズその33 草津宿
このシリーズもあとわずかになってきました。今日は、中山道と東海道が合流する草津宿の紹
介です。草津市駅の南側に草津宿があります。写真は東海道と中山道の合流道で、右折すると東
海道、まっすぐ行くと中山道になります。中山道の方はトンネルがあるのですが、上は道路では
なく草津川です。このあたりも天井川になっています。江戸時代の時は、どうやら普通の川だっ
たようです。それがどうして天井川になってしまったのか疑問でしたので調べてみると、次のよ
うなことが書かれていました。「約 200 年前までは天井川であったことを確認できず、河底に国道の
トンネルを開通させた約 110 年前の明治 19 年までの間に、多量の土砂流出と堤防の積み上げにより
短い期間に一気に形成されたものと考えられている。天井川が形成されて以降は、増水のたびに河川
の氾濫を繰り返すようになったことが、記録に多く残されており、・・・」以下略。10年前の2002年
に川の西側に放水路ができたので、天井川には水が流れていません。それにしても不思議な
光景です。
東海道五十三次シリーズその34 瀬田の唐橋
琵琶湖の水は、最南の瀬田川から流れ出ます。その出口付近にかかるのが「瀬田の唐橋」です。
古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われ、要所であった橋です。近江八景「瀬田の夕
照」として有名ですが、日本三名橋の一つとも言われているようです。でも、日本橋(東京)、
錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)が三代名橋という説もありますので、なんともいえません。
東海道五十三次シリーズその35 丸子 丁子屋
安藤広重の丁子屋の絵と現在の丁子屋と比べてみると、ほとんど同じように見えます。現在の
建物は、観光客がたくさん訪れますので、奥に長く伸びていますが、当時は絵のような小さな建
物だと思われます。丁子屋は、とろろ汁が有名で、慶長元年(1596年)創業という老舗です。
私は校長会旅行で一度食べましたが、時代を超えた食べ物というか、江戸時代にタイムスリップ
した感じがします。「梅わかな 万子の宿に とろろ汁」という松尾芭蕉の句がありますが、当
時から自然薯のとれた丸子では、名物だったようです。「丸子定食」が1397円とお値打ちで
すので、ぜひ訪れたい場所の一つです。
独り言44
パーンスターズ彗星
H25.3.15
今、パーンスターズ彗星が宵の空に見られます。といっても話題にならないのは、太陽に近く
夕空の中であることと、名古屋市の明かりで見ることができないというのが現実です。でも、3
月25日以後は、明け方の東の空で見ることができるようです。でも、今度は彗星自体が暗くな
っていくために、こちらもなんとも言えないということです。私は、視力が悪くて肉眼ではかな
り苦しいので、写真で探したいなあと思っています。
ところで、彗星を初めて写真に撮ったのがハレー彗星です。記録を見ると、1986年3月4
日とありますので、かれこれ27年前ということになります。ハレー彗星は、76年周期で太陽
を回っていますので、その前は1910年(明治43年)に見られました。その時は、地球に最
接近し、彗星の尾の中を地球が通過したそうです。ですから、東の空に彗星の核があると西の空
まで尾を引いていたそうです。これは私の祖母からも聞いたことがあります。当時は彗星の尾に
毒ガスが含まれていてこの世の終わりだと言う風評が立ったそうです。
1986年の時は、地球に接近しなかったので、明るくなりませんでした。たしか4等級だっ
たと思います。肉眼でも確認はむずかしいぐらいでした。当時はデジカメではなかったので、写
真に写っているかどうかは現像してからしか確認できませんでした。しかし、一生に一度しか見
られないハレー彗星です。天気の良い時には、上豊田駅の近くに行って写真を撮ったものです。
次回は2062年に接近します。49年後ですので、残念ながら私はもう見ることはできないで
しょう。20~30代の人はおじいちゃん、おばあちゃんになっているかもしれませんが、冥土
の土産話としてぜひ見てほしいものです。
東海道五十三次シリーズその36 京阪電鉄京津線
浜大津付近には、道路の真ん中に電車が走っています。京都と大阪を結ぶ京阪電気鉄道の京都
と大津を結ぶ京津線です。右の写真は、国道1号線の様子です。車が横を走りますので、20km/h
ぐらいでしょうか。のろのろと走っています。現在は、京都市営地下鉄に乗り入れていますので、
京都市内に出るには、とても便利です。浜大津付近で宿泊し、京都観光をするのは、安上がりで
す。また、名神高速道路、国道1号線に沿って曲がりくねった線路を電車が走る姿は、鉄道ファ
ンにとって、とても魅力的な場所です。
東海道五十三次シリーズその37 逢坂の関
大津から山科に向かう峠に「逢坂の関」があります。百人一首で有名な蝉丸の「これやこの 行
くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の歌の地です。この歌の意味は、「これが
まさにあの、東国へ旅立つ人も、その人を見送って引き返す人も、ここで別れを繰り返す一方、
知っている同士も、知らぬ同士も、ここで出逢いを繰り返すという、逢坂の関なのだなあ。」と
いうことです。逢坂の関の址は、峠の一番上にありますが、その100m西に蝉丸神社がありま
す。蝉丸は、伝不詳で後撰集の詞書によれば、逢坂の関のあたりに庵室を営んでいた隠者で、盲
目の琵琶の名手で、源博雅(918~980)に秘伝の曲を伝授したそうです。後世、音曲・芸能の神と
して祀られています。蝉丸神社のすぐ西には、大谷茶屋があります。このあたりは、ウナギが有
名なのか、かば焼きのにおいがしてきます。面白いのは、「うなぎ注意」という道路標識に似た
ものが立っていて、お客を呼び込んでいます。
東海道五十三次シリーズその38 京都三条(最終回)
とうとうやってきました。東海道53次の江戸日本橋から京都までつながりました。約500
km の道のりでした。20日間かけましたので、平均25kmを走った(歩いた)ことになります。
私は1馬力の身ですので、なるべくお金をかけないことをモットーにしました。宿泊無しで、原
則日帰り。東京、横浜あたりは、行きは夜行バス、帰りは普通電車で乗り継ぎ、夏休みは青春1
8切符も使いました。新幹線は、帰りに2回だけ使いました。時間と交通費を節約するために、
高速道路の上手な使い方もしました。午前3時に家を出て、東静岡駅を5時35分の普通電車に
乗って移動することもしました。旧東海道なので、見るところが多く、本当はゆっくりしていき
たかったのですが、
時間の制約もあり、
今度訪れる時の楽しみとして取っておきたいと思います。
昔の人は、どんな思いをして旅をしていたのだろう。そんなことを思って史跡を巡りながら、心
は江戸時代の人の気持ちになって走っていました。4月からは中山道にチャレンジです。でも、
現在足の故障中です。中山道シリーズを紹介する時期は未定ですが、そのときまで楽しみにして
おいてください。ところで京都へは山科から東山にかけて峠があります。それを過ぎると、蹴上
のインクラインがあります。坂を下ると、右手に南禅寺、左手に都ホテルがあります。鴨川に架
かる三条大橋までは、あとわずかです。
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