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羯胡人

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羯胡人
羯胡人
石勒皇帝の末裔たち:1700年の口伝
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目 次
2
はしがき
第一章 奴隷から皇帝になった石勒
3
第二章 石勒のルーツはユダヤ人
8
11
第三章 石家の口伝
18
あとがき
1
はしがき
五胡十六国
後漢が滅び、三国志の時代が過ぎ、普の時代に入っても中原が安定を保たないのを見て、
周辺の民族が中原で我がもの顔で振る舞い始める。五胡十六国の戦乱の時代に入る。中国
では五胡乱華の時代と言う。
・・なかなか洒落た名前ですね。
五胡とは匈奴、鲜卑、羯胡、氐、羌をいう。また十六国とは前凉、后凉、南凉、西凉、
北凉、前趙、後趙、前秦、后秦、西秦、前燕、后燕、南燕、北燕、夏国、成漢をいう。実
際にはもっと多くの国が泡沫のように生まれては消えていった。冉魏、仇池、代国、北魏、
西燕、高句麗、盧水胡、吐谷浑、谯蜀および翟魏などの名前が挙げられる。
ここでは五胡の一つ、羯胡(けつこ)に注目する。羯胡の胡は漢民族からみた異民族の
呼称である。羯とは去勢した羊のこと。漢民族が周囲の異民族を呼ぶいつもの蔑称で
ある。
ではその羯の族、羯族人、羯胡人とは誰か? どんな異民族なのか?・・を知る前に、
羯胡人はどうやって後趙国を築いたのか? そしてどうやって滅亡していったのか?・・
この話題から入ろう。
この顛末をご存知の方は第二章からお読みください。
図 01 五胡十六国の地図
2
第一章 奴隷から皇帝になった石勒
石勒(せきろく)は羯族の部落小帥(小役人)
・石周曷朱の子として上党郡武郷(現山西
省長治市武郷県)に生まれる。父の代理を務め、部人から信頼されていた。当時の羯族は
経済的に困窮し、太安年間には并州の飢饉戦乱に遭って部落離散していた。石㔨(石勒の幼
名)も流浪の旅に出ざるを得なかった。その途中で晋の東嬴公司馬騰(しばとう:? - 307
年
中国西晋の皇族) に捕らえられる。山東の豪族の師懽に売られて奴隷とされた。師
懽に認められ、自由の身とされた後、汲桑の馬牧場で働いた。
汲桑は西晋清河貝丘人(今山東茌平西)の人。牧民の首领をしていた。20 歳を過ぎると
百鈞を担ぐ力があったと言う。
独り言:一鈞は15キロだから、百鈞は1500キロ、百鈞を担ぐとは白髪3000丈の
類である。が、ともかくすごい男であったようだ。その声は数里にわたって響き、人には
残忍で恩をも感じない。
・・こうでないとこの乱世、やってられないのだろう。 また、こ
の時期の石勒についてはいろいろな逸話が残っている。
八王の乱が起こると、その混乱に乗じて群盗となる。自由をえた石勒には絶好のチャン
スが待っていたのである。石勒は機に乗じ 18 人の暴れ者を集め、武装し、馬に乗った。十
八騎と称した。有体に言えば、群盗の首領となって略奪を繰り返し始めたのである。
永興 2 年(305 年)
、汲桑とともに成都王司馬穎配下の公師藩に合流。この時から石勒と
名乗る。光熙元年(306 年)
、公師藩が苟晞に討たれると汲桑とともに逃亡する。石勒は公
師藩の残余部隊を率いることになる。そしてかつての知り合いでもある匈奴や鮮卑の部族
長に従って活動した。石勒は犯罪人や流民をかり集め、武装集団を作り上げる。
・・日本にもこのような武装集団が居ましたね。
司馬穎が東海王司馬越・司馬騰らによって処刑される。すると汲桑は大将軍と称して司
馬穎の復仇を名目に兵を起こす。石勒は汲桑のもとで掃虜将軍・忠明亭侯となった。
永嘉元年(307 年)
、鄴に進軍して司馬騰を殺戮する。
・・・かつて奴隷として捕まえられ
た仇を取ったことになる。
しかし、苟晞に大敗し再び逃亡する。その後石勒は上党の部族長(胡人)を伴い、匈奴
の劉淵が興した漢に帰順する。輔漢将軍・平晋王とされた。劉淵の招致に応じなかった烏
丸(北方の遊牧民族)を帰順させると、督山東征討諸軍事の大役を任せられた。
石勒は当時の覇者漢の後裔・刘渊が并州で勢力を拡大すると、刘渊に帰順する。刘渊は
3
石勒を輔漢将軍・平晋王に封じる。石勒は刘渊の重用に応えるため、刘渊に反抗する勢力
を殲滅し始める。まず伏利度を投降させ、伏利度の兵力を刘渊に献上する。刘渊は大喜び、
石勒を督山东征の長に抜擢し、伏利度の兵力の管理を任せた。
・・刘渊に気に入られ大出世を果たしたのである。こうして奴隷、盗賊から、一国の将
軍になったのである。
この後は自然と国盗り合戦に参加することになる。そして、22 年の歳月が過ぎ、石勒は
330 年後趙国の皇帝に就く。後趙国は中原の真ん中に位置し、最大の勢力を持つ実力国とな
る。この勢力の前に、高句麗や鮮卑宇文部、前涼などは朝貢して臣従を誓った。後趙は華
北の覇者として君臨したことになる。図 01 を参照ください。
図 02 石勒皇帝:中国皇帝伝より
石勒晩年の逸話:
石勒は年を取ると群臣を招いて酒を飲みかわすのが楽しみであった。紀元 332 年、石勒
は何時ものように群臣を招いて大宴を開いた。酒も進み佳境に入ると、大臣たちに尋ねた。
「わしの功績は前代のどの皇帝に等しいかね?」
多くの群臣の中から口の上手いのが進み出て答える。
「陛下の功績は漢の高祖劉邦と同じです。
」
石勒は大変喜んだが、笑いながら言う。
「人は自らを正しく知る目を持っているものだ。君の言うのは度が過ぎるよ。もしわしが
漢の高祖に出会ったら、きっと「私はあなたの臣だ」と言うだろう。
」
4
「一人前の男は心に曇りがないようにすべきで、曹丕や司馬炎のように父を亡くした母
子をいじめて天下を奪い取るようなことはしない。
」
大臣たちは聞き終わると、一斉に立ち上がり、
「陛下万歳!!」
と叫ぶ。しばし歓声と拍手が止まなかった。
紀元 333 年 7 月、石勒は病で他界した。享年61歳。
独り言:・・本当かなあ?
劉邦(前 256~前 195 年)も享年61歳であった。上の話とあ
まりにも上手く付合している。
さて、次は後趙国がどのようにして、滅んでいったかである。
石虎の時代
石勒の死後、皇位は次男の石弘が継いで即位し、目出度し目出度しと見えたのだが。石
勒の下で華北平定に大活躍した石虎が浮かばれない。それを察した石弘は王位を譲渡しよ
うとしたが、石虎も素直に受け取れない。丞相・魏王・大単于となり次第に石弘の実権を
奪い取り、最後には 334 年 11 月に石弘を暗殺する。そして皇位を奪い取る。やがて石虎は
335 年 9 月に鄴(今河北临漳县)に遷都して自らの都を築く。
石虎は勢力拡大策を取る。まず北方の鮮卑に対して攻撃、338 年 12 月に鮮卑段部の部族
長段遼を敗走させて滅ぼす。次に前燕を攻撃したが、敗北する。340 年 10 月には前燕に侵
攻されて高陽まで落ち延びる。そして、段部の旧領や中原の一部をも失う。西では前涼を
343 年と 347 年に攻撃、南方では東晋と対峙する。しかし、大きな成果は得られず、国力
を消耗しただけであった。
一方、石虎は宮殿・都城造営を繰り返し、また女色に溺れるなど、次第に国を傾かせた。
石虎の晩年になり石虎の実力に陰りが見えると、皇族間の権力闘争が激化し、暗殺が繰り
返される。348 年 4 月に石虎の太子石宣が弟の石韜を殺害する。激怒した石虎は石宣を殺し
て石世を太子とするが、石世も暗殺される。349 年 1 月に石虎は皇帝に即位したが、名目だ
けの皇帝であった。持病が悪化して 4 月に死去した。もちろん暗殺説のほうが有力なのだ
が、
・・真相は闇の中。
石虎の死後、後趙は分裂状態となった。この混乱の中で、五胡の虐殺が起きる。冉閔・
李農らは石氏一族の分裂状態に乗じて、後趙内における漢族に呼びかけて 20 万人に及ぶ五
胡の虐殺を決行する。
350 年閏 2 月には石鑒と石虎の孫 38 名を含む石氏一族も虐殺される。
石鑒の死去を知った石祗は、350 年 3 月に皇帝に即位し、
351 年 2 月には趙王と改号する。
そして冉閔と抗争する。だが 4 月に冉閔に通じた部下の劉顕が石祗を殺害する。
5
皇位は石遵、石鑒、石祗へと変更と同時に、暗殺が繰り返され、石虎が死去してからわ
ずか 2 年にして後趙は滅びた。
後趙王の系譜
参考にしてください。
図 03 後趙国皇帝系図
囲い数字は後趙皇帝の代数
① 石勒 皇帝 高祖明帝:
(在位:330 年 - 333 年)
② 石弘 廃帝海陽王:
(在位:333 年 - 334 年)
③ 石虎 太祖武帝:
(在位:334 年 - 349 年)
④ 石遵 廃帝彭城王:
(在位:349 年)
⑤ 石鑒 廃帝義陽王:
(在位:349 年 - 350 年)
⑥ 石祗 新興王:
(在位:350 年 - 351 年)
後趙の二面性
石勒・石虎は独自の官僚機構を整備して官吏任用法も制定したという。効果は絶大であ
ったようだ。都城建設を推進して人口は 600 万に達した。また多くの漢人知識人を任用し、
八王の乱以来混乱していた世を安定させた。積極的な移住政策を展開して華北の農業生産
力も回復させた。
一方負の業績も多い。石虎は都城建設と後宮の拡張を繰り返して国力の疲弊を招いた。
そして石虎の死後、皇室内部の対立を招いて3人の皇帝が擁立されたが、相互に暗殺が繰
り返された。そして五胡と漢族の間の紛争が起こってこれに対抗しきれず、後趙は崩壊し
6
た。
後趙国は 6 代 32 年で終わった。何時でも何処にでもある組織滅亡の第一方程式を絵に描
いたような、泡沫の国であった。と言っても、秦が 19 年、新が 17 年の寿命であったから、
それなりの国だったのでしょう。
奴隷の身から皇帝に上った石勒、中国の明、清の時代には大いに持てはやされたようだ。
多くの逸話が創作され、絵画に描かれ、市民の生活を彩った。三国志の時代よりさらに興
亡が激しかっただけに、短時間とはいえ天下を取った石勒は英雄として映るのであろう。
現在においてもその気風は変わらず、映画を始め多くのマスコミの中で石勒は生きており、
増殖を繰り返している。
・・歴史は後から創られる、とは言い当てている。
7
第二章 石勒のルーツはユダヤ人
羯族のルーツ
石勒の出身で五胡のひとつとされる羯(けつ)族とは南の一種であり、『魏書』列伝第八
十三では「その先は匈奴の別部で、分散して上党武郷の羯室に住んだので、羯胡と号した。
」
とある。また『晋書』載記第四(石勒載記上)では「その先は匈奴の別部羌渠の胄(ちゅ
う:子孫)である。
」とある。かつて南匈奴に属した羌渠種の子孫が上党郡武郷県の羯室地
区に移住したため、この名がついたとされている。
羯族は南匈奴を構成する一部族であったのだが、ではその一部族である羯族のルーツ
は? 中国の史書からはこれ以上の情報は見当たらない。
ところが、トンデモナイ家族が名を挙げたのである。その人物は石家の石旭昊氏である。
「我が家は石勒皇帝の第69代直系の子孫で、多くの口伝を伝えて来ている」
というのである。そして一冊の書物を世に出した。
「石勒皇帝与羯胡人之謎」 中国社会出版社 2011 年 8 月出版
図版ともに 468 ページに及ぶ大著である。単なる趣味興味で著せる書物ではない。しか
も羯胡人は特有の言葉を話しており、本人たちはヘブライ語であると言う。さらにカナン
の地から、東へ歩いた道筋に多くのヘブライ語の地名を残して来た。後から来る者への道
標であった、と言う。すなわち、羯胡人のルーツはユダヤ人だというのである。
上記の記載の検証をしよう。先ず、時間的に四散したユダヤ人が南匈奴に編入する可能
性があるのかを検討しよう。
匈奴の歴史:東西に分裂
前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、匈奴の全盛期を迎えたが、前1世紀には
漢の武帝の討伐を受けて次第に衰退し、東西に分裂した。東匈奴は内モンゴルに残り、は
じめ漢と同盟して西匈奴を滅ぼした。西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、
前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。
南北に分裂
東匈奴はさらに48年に南北に分裂する。北匈奴は、後漢に討たれて西方に逃れ、彼ら
がヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力である。また南匈奴は後漢に服属
して以来、中国の北辺に定住し、五胡の一つとなった。晋の八王の乱(290~306年)
8
に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮
卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。
図 04 南匈奴の時代:中央の黄色の範囲が羯族
ユダヤ人の動静:ユダヤ戦争:66 年と 132 年
さて、この頃のユダヤ人の動静を見てみよう。宗教や習俗の理解不足が発端となり、ユ
ダヤ人は紀元 66 年からローマ帝国に対し反乱を起こす。戦力ではローマ帝国に太刀打ちで
きるものではなかった。第一次ユダヤ戦争と呼ばれている。鎮圧されてユダヤ人による自
治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。
時は過ぎたが、反乱の気運は治まらない。最高法院が反乱の計画を練る。第一次ユダヤ
戦争の問題点を徹底的に研究、バル・コクバをリーダーとして対ローマ反乱に踏み切る。
こうして、132 年、バル・コクバの乱(第 2 次ユダヤ戦争)が起こったが、結果は無残な
ものであった。鎮圧され、弾圧はさらに厳しくなった。ユダヤ人の自称「イスラエル」の
使用禁止、ユダヤ属州も廃し、
「パレスチナ」という地名があえて復活された。ペリシテ人
の地という意味である。
エルサレムが消滅してしまったユダヤ人は住む土地もなく、自称「イスラエル」も許さ
れず世界各地に四散する以外に生きるすべを無くしてしまった。ユダヤ人流浪の始まりで
ある。
以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、世界各地への定着が進む。その後もパレ
スチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラ
ブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと
考えられている。
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ユダヤ人たちはこのユダヤ戦争のあと四散した。そして一部が東に移動し、南匈奴の一
部に組み込まれたとすると、時間的な可能性は十分にある。
では匈奴とはどのような民族であったのだろうか?
言わばよそ者であるユダヤ人・羯
族を難なく組み入れたのであろうか?
匈奴の社会
匈奴は夏王国が商王国に滅ぼされた時、西に移動した夏後氏の後裔である。夏は遊牧民
族であった。遊牧民族の社会は緩やかな連合体であったとされている。家族が血縁で集ま
り氏族集団を作り、氏族が複数集まり部族集団を作る。その部族集団の複数が集まる時、
緩やかな連合を組んだという。お互いに不可侵ではあるが、意に染まぬ行動には参加しな
い、場合には離散するといった連合を組んでいた。
当時南匈奴は 19 の種族にて成されていた。
『晋書』や『後漢書』では羌渠種が後
の羯族、羯胡人とされている。種族の下には部族があり、さらにその下には氏族と
いう単位がある。それぞれ雑じりあうことが無かったという。後の羯胡人がどの族
であったかは不明である。
このような連合体には参入しやすく、離散しやすいのが特徴である。匈奴にユダヤ人部
族が参入する可能性は大きかったと言えよう。
独り言:夏のユダヤ人説があちこちで聞かれるのだが、ひょっとすると、匈奴と羯胡人は
同じ言葉で意思の疎通ができたかもしれない。
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第三章 石家の口伝
「石勒皇帝与羯胡人之謎」より
石勒の名の由来
羯胡人が最初に住み着いた羯室とはエルサレム(耶路撒冷、Jerusalem)の古称である。
羯室—碣石—赭石—柘什—珈师
これらの地名はジェブス(耶布斯 Jebus)であり、エルサレ
ムの旧称である。ヘブライ語で“YVUS”と記す。
独り言:ヘブライ語の特徴は子音を主に記し、母音を省略することが多い。羯室—碣石—赭
石—柘什—珈师の発音を子音を主に表記するとすべて同じ表記となり、ピンインで JS、ヘブ
ライ語で表記すると YS であり、
“YVUS”と同等となる。
この一連の地名はユダヤ人が東へ移動した足跡であり、“羯室”は羯胡人専属の地名で、
《魏书》にも記載があり、石勒が出生した山西上党武郷を指す。
独り言:碣石、赭石、柘什、珈师の地を探した。碣石は複数個あるが、次の二か所が「東
へ移動した足跡」に当たるのではないかと思われる。
广东省汕尾市陆丰市碣石鎮
安徽省黄山市徽州区富溪乡碣石村
赭石と柘什の地は良く分からない。現在の地名や表記漢字が変更されている可能性がある。
また珈师は漢字が伽师と変更されて現在の喀什市の東に隣接する町で別名ファイザバー
ドと呼ばれている。
カシュガル地方は多くの異民族が集まっている地域であり、ユダヤ人が移動の途中で腰
を下ろした地として納得がゆく。
図 05 襄垣县城底村石勒城遗址
11
ユダヤ人は郷土(カナンの地)を離れ、エルサレムを永遠に忘れないため、中原に入っ
て首領・石勒の居住地を“Jebus”羯室と呼んだ。すなわちこの地は中国のエルサレム・羯
室である。山西武郷の石勒城であり、石勒寨である。
・・・また地形もよく似ているという。
一方、エルサレムの都市はユダヤ人の最初の首都であり、“Shiloh”とよんだ。発音を漢
字に直すと石勒(ピンインで shile)であり、石勒の名の由来である。
「武郷县志」によると、石勒城は武郷の北原山上の近くに存在する。晋永嘉の末年石勒
はここに駐屯した。現在、文廟が建っている。石勒城は当然ながら石勒自らの命名である。
他の遺跡や地名として、襄垣县石勒城遗址、绵山石勒寨および顺石勒村がある。
この本を書いた経緯
この本を書き始めてから最終原稿が書きあがるまで既に 30 年が過ぎた。この期間中わた
しは常に祖父と話した北辛羯胡石姓家族の故事を忘れなかった。
ほとんど毎日考えた。どのように書くか、何を書くか? 資料を読み、史料をあさった。
出張や、旅行、参観、訪問の時、私の目的ははっきりしていた。小さな歴史の痕跡を求め、
口伝の家族故事の可能性と真実性を追求した。現在まで、書名が確定するまで 24 年を費や
し、稿をまとめたのは 1996 年であった。そして最終原稿に取り掛かかった。
祖父の話す第一句を鮮明に覚えている。
「わしらの石家の始祖は趙国の君主、高祖石勒皇帝である。わしらは子子孫孫に伝えて来
たのだ。お前で第 69 代の直系の子孫になる。お前のもう一つの名は石匐勒と呼ぶのだ。わ
れらの祖先は大西海(地中海)に面した土地からやってきた羯胡人なのだ。
・・いろいろ苦
労をし、生き抜くために、神はわれらの祖先に指示したのだ。
「太陽が昇る東の地へ行け・・」
と。
」
1981 年の初秋、祖父石怀仁は内蒙から北京に帰って来て、我が家にやって来た。祖父は
かつて教师や中医をやっていた。
1927 年共産党に加入した。党の指示で石家庄正定县の石家の商号“傑德昌”を継いだ。
彼は共産党の地下連絡拠点となった。党政軍の者と接し、日中戦争の時と解放戦争の時は
大活躍した。
後に甘肃高等法院监察厅や、铁路局、で革命同志として働いた。解放後、姬姓の軍代表
がやって来て祖父や祖祖父に謝意を表した。軍代表は姬鹏飞同志(後の国務院副総理)で
あった。
文革時代に入って、祖父は反革命分子とされ、……。
12
独り言:内蒙から北京に帰ってきたことからみると、内蒙に下放されていたのであろう。
多くのインテリが下放され、辛い体験をしている。
図 06 前列左より祖母,堂妹,祖父、後列左より婶,叔,母,著者
私はよく覚えている。祖父は正眼で私を見つめた。祖父は淡い青色の瞳で浅黄の瞳孔を
していて、真面目に私を見つめ、始めてわたしと正式に話をした。
「お前の父は早く死んだ。我々石家の事だが、お前の父はお前に話す機会がなかったと思
う。石家の事を・・・今お前に話そう。
」
図 07 1968 年北京にて、父と家族全員の最後の写真
前列左より、妹、著者、後列左より、姉、母、父
私の父は 1927 年生まれで、石宝洞と名乗った。学生時代祖父を助け党の地下工作に動い
た。工学院を卒業後北京で軍工保密单位に入り、英,德,俄,日語に通じ、国防工業の業
13
界で大きな貢献をした。さらに科学会堂で中央首長たちに講義したこともある。文革中は
牛棚に送られ、全家族は劳动改造に加えられ、二年後父は病になり、河北石家庄正定县北
辛庄で他界した。この時のことをわたしははっきり覚えている。1971 年、44 歳であった。
現在、石家庄市正定县新城铺镇北辛庄村(石家庄市正定国際飛行場の南)に位置する。
祖父は語る
「昔々、地中海に面したイスラエルの民族は外敵に襲われ、家族、部族は四散した。太
陽が昇る地に向かって移動し、中原に来た。当時 70 の大家族だった。姓は石,高,赵,张,
周,李,王など、その他崔,郭,刘,杨,魏,程,田,杜,路など婚姻で多くなった。」
独り言:家族をどの範囲までいうのか?
一家族の人数を例えば25人とすると、70家
族で 1750 人となる。これだけの人数の一族郎党、老若男女が移動するのは大変なことであ
っただろう。
北米インディアンの口伝:「一万年の旅路」を読むと、移動する団体家族は30~40人
としている。さらに人数は増えそうだ。
祖父は強調する。
「しかし、我々は早く漢族と融合した。まともな中国人であり、中原に根を下ろし、中
国を守らねばならない。
」
「我々が現在話しているのは羯胡老話(羯胡人が古くから使う言葉:ヘブライ語)である。
」
「我々の祖先は太陽の神を信仰し、老祖宗のモーゼ(穆鳃鳃、摩西)を信じるとともに、
佛教、道教,その他の神を信じている。
」
「
“清光怀宝,旭祥庆昌,福惠振宇,景升蔚秀”この十六字は家譜を記載した羯胡人と石勒
の歴史だ。子孫は万代に渡って必ず暗誦し、永遠に記憶しなければならない。男が生まれ
たら、大小二つの名前を付け、大の名は家譜に従って文字を取り、一字一代とせよ。
」
独り言:著者である石匐勒は石旭昊、父は石宝洞、祖父は石怀仁のように、16文字を
順に取り入れて大の名を付けている。またこの 16 文字の来歴が分かれば面白いのだが、詳
細は不明である。
兄弟の分業:
兄弟は次の職業に就け。
長男は祖業を継ぎ、教諭を主とし、祭祀を行い、医者になれ。
14
次男は農業と養蚕を主とせよ。
三男は商業を主とせよ。石家の商号は“傑德昌”とせよ。
石家男子の成すべきこと:毛筆を学び、春節には春联を書き、春联を門に貼れ。
石家男子の学ぶことは:商業を学び貿易を行え。
羯胡人は農業と養蚕および貿易を重視している。品物を売買し、商業を営むことに天賦
の才能がある。
《晋書》に記載がある。
「石勒は年 14 にして、洛阳に出かけ、自家産の细麻布,麻袋,绳索,羊毛毯,山货を売
っている。客の気持ちを引き付けるのがうまかった。」
独り言:石勒の時代から受け継いでいることが判る。ユダヤ人にも商業で名を成した人が
多い。
羯胡人の伝統衣装
当初庶民の衣服は麻布、白细麻布であり、布,种麻、纺布などと呼び、家庭ごとに生産
した。后赵国の羯胡軍兵士が各地に駐屯し、明朝以来、移動が増えると、移動先で种麻を
生産した。どの村にも沤麻池があった。后赵の時、織機の梭(ひ)を発明した。布を織る
効率も品質も、そして収入も飛躍的に上がり、
“勒福”と呼ばれた。
工芸の進歩に従い、布料は精细になり、棉とシルクが出現し、庶民の服装は変わった。
かつて羯胡の庶民が頭を包んだ長い布は 1 尺 2 寸幅の白布短巾に代わり、簡単に頭を包む
ようになった。河北,山西,河南,山东,陕西,甘肃,四川北部,江苏,安徽,湖北の多
くの農村の庶民が頭を縛る白頭巾の習慣はずっと20世紀末まで続いた。どの王朝もこの
習俗を改変することはできなかった。これは大奇跡なのだ。
図 08 羯胡人の伝統衣装:白頭巾のジイサン
独り言:白頭巾をかぶる民族は多数いるが、上図のようにまるで白いタオルを頭に巻く
15
のは少ない。日本人にもよく似た習俗があった、いや現在もあることは面白い。陶工や雲
水が作務の時この種の白頭巾を頭にかぶることが多い。
この白頭巾、石勒皇帝も愛用していたのである。下図をご覧ください。そしてこれによ
く似た頭巾を被っているオジイサンがいますねえ。そうジンギスハーンです。この図を下
に並べてみよう。
図 09 石勒皇帝とジンギスハーンの頭巾
石勒皇帝の頭巾はカラーの模様入り。庶民の白頭巾よりずっと高価でしょうし、カッコ
いいねえ。ハーンの頭巾は無垢の白。衣服の白色と、髭、黒い目がキマッテいます。時代
は随分離れているが、布頭巾の習慣は現代にも生きる遊牧民のコスチュームなのであろう。
コスプレという言葉が生まれるずっとズット以前の話です。
第七日目祖父は我が家を離れるとき言った。
「わしはもう行かねばならん。わしが去っても何処へ行ったか探すでない。わしはしか
るべき所で余生を送るのだ。
」
その後知ったのだが、祖父は我が家を離れてもそう遠くへは行かず、北京石景山の北辛
庄で気楽に過ごしている。
“回想録”を書きながら……。
独り言:北京石景山北辛庄は現在の北京市海淀区北辛庄であり、北京の西郊外 20 キロの位
置である。名所香山公園に近く、古い歴史を持つ里である。
母は当初この書物を書くのに反対した。
16
「石家に嫁いでから、良い日はなかった。お前の父は文革の前に書いていた。書いた書
類は文革時、水の入らない紙に包んで6包みを水の中に隠した。堪らなくなって乾かして
家に持ち帰った。……」
1971 年父が病死し後、母はその紙袋を全部燃やしてしまった。母は“盆献”だと言って
いる。
独り言:盆献とは死者を供養するのに灯す聖火のこと。オリンピック開催時、聖火リレー
の火をともすことを聖火盆献と言う。
著者石旭昊氏
1958 年 12 月 26 日、陜西省西安市生まれ
研究生を経て、高級技術者、アメリカ機械行程師協会高級会員
母親の願いでアメリカの優越した職業と生活を捨て帰国。
現在、一大型外企集团中国公司国际部总经理。
家族の口伝を伝えるため,30 年の時間を費やし、欧米、中亚,西亚など 17 个国家を訪ね
る。语言,人名,地名,民族移動线路,风俗,信仰,および後趙国の都市,村落建筑,经
济,疆域など多方面の考察,探访,论证,を加え、石家口伝の真実性を実証している。
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あとがき
上の記載は石家の家訓であり、口伝口承のほんの一部である。しかし、よく見るとユダ
ヤ人社会一般に通用する、あるいは共通の内容を含んでいるように思える。
石勒が少年のころ貧しさから洛陽へ行商に行っていたが、本当は貧しさからではなく、
上記のような家訓が伝わっており、それに従った面も大きいと推定される。また、ユダヤ
人は商業に秀でているのもこのような家訓をみんなが共有し、実行しているからであろう。
石旭昊の口伝の書物、
「石勒皇帝与羯胡人之謎」のテーマは石家に関する内容ばかりでは
ない。その範囲はユダヤ人の流浪の始まりから、建国、習慣。さらに関連する鮮卑族、烏
桓(ウガン=烏丸)族のルーツにまでに及ぶ。そしてその口伝を実証するため著者は世界
に広がる現地をくまなく訪問している。30 年の時間が必要だったことが良く分かる。
ご興味のある方は是非ご覧ください。ただし、まだ日本語版は出ていないのではないか
なあ、
・・。
祖父は石家の事と称して、大変な内容を話している。そして「石勒皇帝与羯胡人之謎」
を読むとさらに大変だ。現在、歴史家たちに了解された部分はほとんどと言っていいほど
無いのだ。この書の評価が決まるには今後さらに長い時間が必要であろう。だが、決して
想像や推測だけで書ける内容では無い。この石家1700年の口伝をどう理解するかは読
む人の感性によるところ大であろう。
完
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