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セイ コーエプソン (株) の成長の軌跡
学会講演会 セイコーエプソン(株)の成長の軌跡 一時計工場からデジタル・イメージ・イノベーション・カンパニーへ一 一長野から世界へ一 木 村 登志男 私は横浜国立大学経済学部の出身で,マーケ 場として長野県では知られた存在でしたが,そ ティングの久保村先生のゼミの卒業生です.当 れだけのことで,セイコーグループの中でも諏 時は経済学部しかなかったものですから,経済 訪精工舎は一番席次の低い関係会社で,そこに 学部の中で経済誌・経営系と分かれておりまし 就職したわけですから,今日のような姿になる て,それで私は経営系ということで,ゼミを久 なんて夢にも思わずに会社生活を送ってきたわ 保村先生のマーケティングにいたしました.な けです. ぜ久保村先生かといいますと,当時電通が学生 従ってみなさんにお話しするとすれば,こう 広告論文という懸賞論文をやっておりまして, いう運のいい学生も横浜国大の卒業生の中にい 久保村ゼミの学生が毎年入賞しておりました. るというひとつの例かもしれないという程度の それで私も挑戦しようと思い久保村ゼミに入っ ことなのです.何はともあれお時間を頂戴しま たわけですが,3年生の時に書いた論文が佳作 したので,今日はセイコーエプソンの成長の軌 になり,また4年の時はおかげさまで2等にな 跡ということで,長野県の時計工場から今日グ りました.それからクラブ活動はソフトテニス ローバルに経営しているデジタルイメージング 部でした.人間が柔らかいものですから合って カンパニーにどのようにステップできたのか, いたのでしょう.学生時代に一画懸命やったこ あるいは長野県の本当にローカルな会社から世 とは軟式庭球と論文書きの二つです.ちょうど 界のエプソンというところまできたそのステッ 40年前,経済学部の4年生で,就職活動をどこ プについてご紹介したいと思っております. にしようかということで,私は東京生まれの東 京育ちだったものですから,東京で一流会社と それでは最初に今日のセイコーエプソンの姿 いうことでいくつかチャレンジしたのですけれ からご紹介申し上げます.セイコーエプソンは ども,うまくいきませんでした.それで当時の 経済学部の厚生係長の方が「お前,諏訪精工舎 2004年3月期,世界に110社の子会社がござい ますが,連結ベースで1兆4000億円強の売上に っていう会社にいってみないか?」と勧めてく なる会社です.今日では主力は時計ではなくて れて,そのお勧めに従っていきましたところ採 情報関連機器と電子デバイスで,情報関連機器 用してくれました.それで会社のことは実はよ については主力商品がカラーインクジェットプ く知らなかったのですが,精工舎っていうから リンタとかレーザープリンタというプリンタ類, ・には時計のセイコーだろうということは何とな あるいはスキャナーという入力機器です.これ くわかっていました.しかし当時時計の優良工 が会社全体の売上の50%以上を占めます.それ 2(110) 横浜経営研究 第25巻 第4号(2005) からもう一つは映像機器で,プロジェクターで では次に,今日このように大きくなったわけ す.これはプリンタの十分の一くらいの規模で ですが,どういうステップで大きくなったか, す.電子デバイスは,液晶ディスプレイと半導 その辺を順を追ってご説明させて頂きたいと思 体と水晶デバイスなのですが,液晶ディスプレ います.セイコーエプソンという社名が示しま イには二つありまして,ひとつは携帯電話に使 すとおり,私どもはセイコーグループの一員で われるような小さな液晶ディスプレイです.も あります.ただセイコーグループというのは親 うひとつはプロジェクターの心臓部の液晶装置, 会社が存在しておりません.服部時計店,第二 この二つでだいたい売上の20%くらいを占めて 精工舎,諏訪精工舎からなっておりました.そ います.それから半導体が,全体の10%くらい れで私どもの諏訪精工舎ですが,創業は1942年, の売上です.そして水晶振動子,これは携帯電 今から62年前に大和工業という,当時の第二精 話にもパソコンにも時計にもいろいろ使われま 工舎の下請け工場からスタートしています.ち すが,これが3%弱でしょうか,それで元々の 時計はもう5%以下くらいと,非常に小さなウ エイトになっております.こういう事業を,グ ょうど太平洋戦争が激しくなった頃に,第二精 工舎があちこちに疎開工場を作りまして,その ローバルな事業展開でやっております. た.戦後第二精工舎の諏訪工場と木和工業が 私どもの販売拠点に関しては,全世界に広が 1959年に合併して諏訪精工舎という会社ができ っております.また生産子会社はアジアにかた ました.これが諏訪精工舎としてのスタートで まっております.それからR&D拠点について はやはり先進のアメリカ,ヨーロッパが中心に す.私は1965年にこの諏訪精工舎という会社に 入りまして,それから1972年にその子会社の信 なります.売上は全世界でバランスがよくて, 州精器というところに出向しました.その会社 日本が35%くらい,ヨーロッパが25%くらいで, が後にエプソンとなり,合併してこういう形に アジアが22%,アメリカが17.8%です.ただ作 なったわけですが,こうした62年の歴史の中で る方になりますと,圧倒的にアジアと日本が多 今日のセイコーエプソンができあがっておりま くて,アジアが64.5%,日本が25%,欧米は す. 一つに第二精工舎諏訪工場というのがありまし 10%ちょっというバランスになっています. 諏訪精工舎になる前後は,やはり時計といえ しかし元々長野県の会社ですから,我々の日 ば当時まだスイスだったのです.私が入る以前 本の事業拠点というのは長野県に集中していま の諏訪精工舎というのは,とにかく世界の時計 す.本社は上諏訪というところにございまして, セイコーを目指すところだったのです.ですか 諏訪市,あるいは峠を越えた塩尻,松本,この らスイスに追いつけ追い越せということで一生 界隈に事業所がたくさんあります.このあたり 懸命やっていました.そして1956年にマーベル に事業所が集中しているものですから,非常に という国産時計としてはすばらしい精度の時計 行動が迅速に行える,いろいろな事業の問で, ができました.この頃がいよいよスイスを追撃 人も情報も交流してシナジー効果を生み出すよ する体勢が整った時で,以降精度の高いスイス うな関係になっています.そうした人的交流が, の時計に負けないようなメカ時計ができるよう 経営判断の早さにも繋がっていますし,事業部 になったわけです. 間の連携の良さにも繋がっているということで, もう一方で大きな転機がありましたのは,東 長野県に本拠をおいてグローバルに展開してい 京オリンピックの時に,セイコーがグループを ることが,一つの成功の要因だったのかなと思 挙げて掲示を担当したことです.諏訪精工舎は, っております. いくつかの掲示装置の開発を担当したのですが, その中に二つ非常に重要な発明がありました. セイコーエプソン(株)の成長の軌跡(木村登志男) (111)3 ひとつは卓上型のクリスタルクロノメーターと 長を遂げることができました.そして電子デバ いいまして,単一の電池二つで動く非常に精度 イスも成長してまいりまして,1980年になりま の高い水晶クロックです.それからもうひとつ すと,売上が1200億円くらいになってきました. 重要な発明が,プリンティングタイマーといっ 1980年代はウォッチはそろそろ成熟化してパソ・ て,時間を計測するとともにその結果を紙に打 コン用のプリンタで情報機器が急成長して参り ち出す,例えば100m競争でしたら,ゼッケン ます.電子デバイスも確実に成長し,ハンドヘ 番号何番の選手が何秒で走ったから順位何番だ ルドコンピュータ,あるいはパソコンなどにも とか,というところを紙に打ち出す装置を作っ 参入する時代でした.1990年には売上高が たのです.この印字機構の部分が,実は世の中 4,600億円になり,ウォッチのウエイトも15% に存在していなかったため,自分で開発せざる くらいに下がっていきます.そして情報関連機 を得なかったのですが,このメカの開発にはか 器が50%くらいを占めるようになりました.そ なりエネルギーを使いました. して90年代,インクジェットプリンタやレーザ このクリスタルクロノメーターから5年後に, ープリンタ,あるいはプロジェクター等の情報 世界で初めてのクォーツウォッチ,水晶腕時計 関連機器が会社の主力事業になってまいります. ができました.これが1970年代に世界の時計セ また液晶ディスプレイや半導体,水晶デバイス イコーの発展の原動力になっていくわけですが, などの電子デバイスも急成長して,2000年には 心臓部のICや水晶振動子がなかったのです.そ 1兆3,400億円くらいの売上になりました.こ うしたことが結果として幸いして私ども自分で のときウォッチは5%くらいで,情報関連機器 半導体の開発に着手したり,あるいは後日デジ が60%を超える,ということです. タル式の時計のディスプレイや水晶振動子を自 それではまた少し逆戻りしまして,私どもス ら開発したりということで,今日の電子デバイ イスの高級時計に劣らない機械式の時計も作れ ス事業の原点は,このクォーツウォッチの部品 るようになり,スイスに先駆けてクォーツウォ からスタートしているわけです.一方プリンテ ッチも商品化することができ,1970年代には時 ィングタイマーの印字機構の部分,これを改良 計の黄金時代を迎えたわけですが,時計のマー したものが,当時成長が始まった電卓用の印字 ケティングセールスは今のセイコーが握ってい 装置として世界的な反響を呼んで一気に成長す たので,どんなに私どもが努力しても,セイコ る,ということで情報機器の原点になったわけ ーグループの工場という位置づけから抜けられ です. ませんでした.時計だけやっていたら,確かに それでは私の入社した頃から今日に至るステ セイコーグループの中では一番秀でた工場にな ップをご説明したいと思います.私が入社した れたかもしれませんが,所詮そこまでだと.工 頃は,売上高が100億円いくかいかない,ウォ 場ではなく企業になれたのは,やはり情報関連 ッチが100%の会社でした.それが1968年にミ 機器のおかげだと私は思います.つまりこの電 ニプリンタを商品化して,1970年にはその売上 卓用の印字装置にうってつけのプリンティング が全体の10%くらいになりました.70年代は, メカニズムは半完成品でしたから,時計のよう メカ時計でも機械式の時計でもスイスに追いつ なかっこいい商品を扱う服部時計店にとっては く水準に達していました.それからクォーツウ ちょっと扱いにくいことも幸いして,工場の方 ォッチを得ました.ということでこの時代は, で売ってよろしいといわれたのです.しかもま 我々セイコーにとってまさに世界の時計セイコ とめ買いをしてもらえる中間製品ですから,電 ーを実現する黄金時代であったわけです.それ 卓メーカーさんや,ECR,電子式のキャッシュ と同時に情報機器もミニプリンタを核にして成 レジスターメーカーさんに持ち込んで買っても 4(112) 横浜経営研究 第25巻 第4号(2005) らえばいい.ですからセールスマンがお人様の ました.そして1980年にパソコン用ドットプリ 設計部門に行き,商品を説明し評価していただ ンタの名器,MP80というモデルが,世界的な き,そして品質・値段・納期がよければ買って ヒット商品になりました.当時は一年間で10万 頂くと,こういう商売なものですから,工場で 台売れますと大変なヒット商品だったわけです もできるということで,国内は直販いたしまし が,全世界でなんと20万台近く売れました.そ た.ただ残念ながら海外の市場は自分たちでは れがエプソンの成長の大きな糸口になって,ア できないということで,伊藤忠さんにお願いい メリカ,イギリス,ドイツ以外にも,フランス, たしました.1970年代は,’ミニプリンタ事業が イタリア,スペイン,あるいはオーストラリア, 順調に成長しまして,ピーク時には時計の40% 日本などにも販売会社ができまして,1980年代 にまで達しました. 半ばくらいまでには現在のエプソンの世界販売 ここまでですとまだ中間財の国内だけのメー 網の原型ができました.こういう風に販売のネ カーに留まり,海外は商社に依存というところ ットワークができますと,プリンタ以外にもパ なのですが,やはり自立した企業になるには海 ソコンやその他の商品も売ることができます. 外も自分たちで手がけたいということで,商社 そして再び世界初の商品開発ということで, から非常に有能な方をスカウトして,我が社の プリンタに続いて液晶腕テレビを開発したこと 営業課長にきていただき,その方をアメリカに もあります.それからハンドヘルドコンピュー 派遣して,エプソンアメリカという会社を作っ たわけです.当初はミニプリンタを伊藤忠さん タHC20を開発し,これをドットプリンタで築 いた世界的な販売網にのせて販売し,後日デス にお願いしていますから,ミニプリンタについ クトップのパソコンも作りました.それ以降ど ては商社のサポートをするような仕事から始ま のようにエプソンブランドを確立してきたかと って,ミニプリンタ以外の新しいジャンルの商 いうことを日本市場でご説明しますと,1983年 品はこのエプソンアメリカで売るということを に国内の販売会社,エプソン販売ができました. はじめたわけです.そして小さな商品をいくつ パソコン用のドットプリンタや,会計事務所向 か手がける中で,1979年にパソコンがでてきた けの専用コンピュータ,ビジコン,このような のですが,なかなかパソコン用のいいプリンタ ものを売ったわけですが,1985年の暮れにパー がないということで,安くてそれなりの性能の ソナルワープロ,エプソンワードバンクという プリンタを求めていたときに,私どもEP80と いう商品を作りました.これを当初はコモドー のを商品化いたしました.このころエプソンの ルという会社に,これもOEMという形で売っ が,これがそれなりのヒット商品になり,もう てもらっていたのですが,それでは将来の発展 少しブランドイメージがあがるということにな がないということで,エプソンブランドで一個 ったわけです.その二年後の1987年にNECの 一個売るというディストリビューション販売を 98パソコンの互換パソコンを作りました.これ 開始したわけです.これが今考えますと,私ど が発売した途端にNECさんから著作権侵害で もセイコーエプソンにとって非常に大ぎな転機 訴えられまして,これでエプソンはかなり有名 だったと思います.アメリカでこのディストリ になりました.裁判は結局,私どもの主張が認 ビューション販売を始めた頃,ヨーロッパにも められて六ヶ月後に和解いたしまして,98互換 展開しようということで,1979年末にドイツと のパソコンは市民権を得ました. イギリスに販売会社を作りました.1980年代に パーソナルワープロがホップで,NECの98 入ってからは,ヨーロッパにおいてもエプソン 互換機がステップだとしますとジャンプは1994 ブランドでディストリビューション販売を始め 年だろうと思います.今日の写真並み高画質の ブランド知名度はあまり高くありませんでした セイコーエプソン(株)の成長の軌跡(木村登志男) (U3)5 カラーインクジェットプリンタ,MJ700V2Cを 商品化しました.それからもう一つ,液晶三板 せて1985年にアメリカのオレゴン州のポートラ 式のデータプロジェクターも商品化しました. ンドに生産会社を作り,その二年後にイギリス つまり今日の主力商品が1994年に商品化されて のテルフォードに生産会社を作りました.しか いるわけです.カラーインクジェットプリンタ し結局現地生産の流れもその後少し変わりまし に関連していうと,.初代のコマーシャルキャラ て,海外で作るということがアメリカやヨーロ クターは内田有紀さんでした.いろいろな候補 ッパでも復活してきて,アジアでも生産が増え がいて,私はあるタレントを推していたのです たわけです.低コストということを考えますと, が,若い人が是非,内田有紀さんというこ・とで アジアの方が今でもアドバンテージがあります. 決まりました.取締役会の時に会長にいきさつ 90年代に入りますと,プリンタもメカ式のプリ をお話しして,そのとき私はまだ最年少で役員 ンタからインクジェットプリンタ等に変わって だったわけですが,「一番若い私でもその判断 きていましたので,こういう工場を作り開発生 能力がないのだから,ここにいるみなさんは絶 産をして今日に至っているわけです.今までの 対に判断能力はありません.以降エプソン販売 話をちょっと整理しますと,ものづくりという が決めるコマーシャルキャラクターには一切口 観点で機械式の時計がスタートになっているわ 出ししないでください,一線の担当者,課長あ けですが,ウォッチの精密加工技術がいろいろ るいはせいぜい部長までのところで決めないと な形で生かされています.時計では心臓部の部 選択を間違えます」という話をしまして,それ 品が今日の電子デバイス事業の原点になってき がエプソンの伝統になりました. ました.液晶は,最初は電卓用の表示などに使 それから情報関連機器を自分で販売するとい われ,現在はプロジェクターの心臓部もそうで うことで,時計の部品としてスタートした半導 すし,携帯電話用の表示にも使われています. 体,あるいは液晶ディスプレイ,水晶振動溶こ これからはプロジェクションテレビなどにも使 ういった半完成品,部品を自分で商売し始めま われるようになると思います.それからプリン した.今日半導体事業,液晶ディスプレイ事業 ティングタイマーからできた情報機器,プリン それから水晶振動子事業はエナジーセイビング タが形を変えて今日のインクジェットプリンタ ということで私どもは低電圧駆動,低周期電力 になってきています. の動きが随分強くなりました.その動きに合わ を共通項にしておりますが,その功績が認めら れて二年前の六月にIEEE(アメリカの電気電 それでは三番目のパートに移りまして,セイ 子技術者協会)から革新企業賞を受賞すること コーエプソンがどういう文化的な背景をもって ができました。もう一つ国際化の話をします. いるか,あるいは経営理念をもっているかとい 私ども工場を海外にもっていくという動きは結 うことについて説明させて頂きます.私どもの 構古くて,私が入社した三年後,1968年にシン ガポールに時計のケース工場を作りました.そ 経営のバックボーンは信頼経営ということです. 信頼経営というのは,全てのステークホルダー れと同時に香港に外装取付の工場を作りまして, と良好な信頼関係を確立していく,ということ 日本からムーブメントという時計の心臓部,シ によって企業成長をはかっていくということで ンガポールで作ったケースと香港で調達した文 す.信頼経営とは具体的にどういうふうに実現 字盤,これを組み合わせて時計にしたというの するのかというと,企業ですから高い利潤を創 が始まりです.それから情報関連機器では1976 出することが信頼の土台になる.儲からない会 年にミニプリンタの生産拠点を香港に作ったの 社というのは従業員に十分な給料も出せません が初めです.1980年代になりますと消費地生産 し,株主様に配当もできませんし,税金もろく 6(114) 横浜経営研究 第25巻 第4号(2005) すっぽ払えなければ社会に役立つこともできま ミュニケーションをとるような仕組み,という せん.次に約束を守る.嘘をつかない,ごまか のがあります.一例をグローバルコミュニケー さない.製造業ですから,それをどのように実 ションでとりますと,関係会社の社長さんを一 現するかというと,一番大事なことは技術をベ 度に集めて,親会社のセイコーエプソンの社長 ースにしてよい商品をタイミングよく提供し続 とフリーディスカッションをする機会がござい けるということです.そしてそれをよい品質で ます.これはSEEDフォーラムというのですが, 安く作っていくという,強い企業体質です.そ 年に2,3回開催されまして,そういう中で関 れから企業としての責任をいろいろ果たしてい 係会社の社長間のコミュニケーションをとって く,つまり国,地域に対してはまず税金を払う いますが,今まで10年間に30回くらいやってい という基本的な責任がありますし,それから環 ます.そういう過程で生産会社の社長さん,販 境を維持,守るという責任もございます.こう 売会社の社長さんが非常に親しくなれて,従っ したことを通じて信頼経営を具体化しようと思 てアメリカとアジアに場所が離れていてもスム っております.どうやって実現させるかという ーズに情報連絡,あるいはディスカッションが ことですが,経営戦略とか経営体系にいく前に, できるという関係が築けています. やはり一番大事なのは企業の文化じゃないかと 図1 思います.私どもの企業文化はいくつかキーワ εPSC胴 ードがあるのですが,ひとつは「創造と挑戦」 という企業文化です.それから加点主義,つま り失敗は許される,研究開発のみなさんあるい は設計のみなさんが,適切と思われるプロセス 嬬叢 を踏んだにもかかわらずうまくいかなくても減 点されることはありません.失敗して一時例え ば昇進がとまったとしても,また成功すれば追 いつける.うちはそういう意味で敗者復活の連 続です.それから判断できる人に判断を任せる, 権限が適切に委譲されているという文化もある 誌2 と思います.それからS&Aということを私ど 叢PS◎直 もはいっております.みんなで力を合わせよう と,一体になってやろうよと.そういう企業文 化の中で経営戦略を立てて,それを経営計画, そして事業部ごとの年度計画でやっているわけ です. それから諸制度としていろいろあるのですが, 大事な順番からいえば人材の育成と能力発揮が 一番大事だと思うのです.やはり世界に子会社 を展開しておりますのでグローバルマネジメン 撃 ト,つまり世界の人々が経営理念の下に結集し 信頼経営というバックボーンを形にしたのは て,力を合わせて同じ方向に行けるようなそう この経営理念です(図1).これは1989年に制 したマネジメントをする仕組みがございます. 定されました.ここでは「創造と挑戦」という 迅速な意思決定を支援できるような仕組み,コ のがひとつのキーワードです.それから開かれ セイコーエプソン(株)の成長の軌跡(木村登志男) (115)7 た会社,ガラス張りの会社,説明責任を果たす 会の一市民として社会から共感を得られる様々 会社,社会貢献,社会と共に発展する会社,そ な支援活動をしましようと,いうことで決めて んなことがいわれています.この経営理念をサ おります.これは実は長野県という地域の特性 ポートする理念がふたつありまして,ひとつは もあるのですが,セイコーエプソンは長野県の 環境理念というのがあります(図2).実は環 中では際だって大きな会社になっています.社 境問題には私ども1980年代後半から取り組んで 外から共感を得られるようないろいろな地域活 いまして,それはフロンの全廃活動からスター 動をやりましょう.従業員もそういうことを一 トしました。フロンという洗浄剤が実はオゾン 生懸命やろうということを奨励しております. 層を破壊しているということがわかりまして, それから管理監督者の行動規範がありまして, いち早くフロンの全廃活動に取り組みました. 『価値あるリーダーの行動』ということで定め 1988年にスタートして4年間でフロンを全廃し ております.セイコーエプソングループのリー ましたが,フロンを全部やめてみますと,アメ ダーは誠実で信頼され,高い目標をスピードを リカの環境保護庁が大変評価してくれまして, もってやり遂げる,というのが趣旨ですが,そ 何年か連続で表彰を受けたことがあります.い のための行動の視点として五つほど挙げており ずれにしましても,地球環境は大事にしなくて ます.ビジョンを作る,人を巻き込む,自分を はいけません.ですから企業活動と地球環境の 磨き人を育てる,決断と実行でやり遂げる,本 調和は,今日では万全の配慮をするということ 質真実を見極める,です.こういうようなこと でこのような環境理念を決めております.もう を考えながら誠実で信頼され,高い目標をスピ ひとつ大事なのは品質理念です.やはり品質と ードをもってやり遂げるリーダーになろう,最 いうのは製造業である限り商品・サービスの品 近覚えられるモットーを作ろうということで, 質はいうまでもなく,社員1人1人の心の質ま で品質第一に徹するということで,この品質理 『信迅雲育』というんですけれども,信頼,迅 速,協働,育成の頭文字をとって『信観心育』 念も重視しております.ですから信頼経営を実 と,こんなモットーを作っています. 現するために私たちは経営理念があり,それを 支えるサポーティングの理念として環境理念と いよいよ最後のパートにいきたいと思います. 品質理念があります. 今申し上げましたようなバックグラウンドを持 図3 ちながら,セイコーエプソンは成長を遂げてき ているわけですが,今後どういうふうにするか. 酔S◎競 社会貢献理念 ひとつは3つのiの事業への経営資源の集中, これは後ほど説明しますが,これが成長戦略と して非常に重要だと考えております.それから 二番目としてさらにその先,3年よりもっと先, 5年,10年先,これはやはり研究開発だと思い ます.開発・設計・技術への継続投資による競 争力強化ということで,企業はやはりエンドレ スに成長を続けなければなりませんから,そう いう技術への投資,これを重視していこケと. それから最近,社会貢献理念を作りましたが それ以外にも高い品質,顧客満足の向上,ある (図3),やはり私たちは良き企業市民として, いは生産効率の追求,それから企業価値を向上 社会と共生する.そしてグループ社員も地域社 させる環境経営,こんなことを定めております. 8(116) 横浜経営研究 第25巻 第4号(2005) るようなところまできているわけです.私ども 図4 はエプソン=フォトだということで銀塩写真文 化の会社をむしろ競争相手と見ております. それからi2の方はプロジェクター,このニ ッチからマスへというのは,元々プロジェクタ ーというのはパソコンの画面を拡大して投影す るというようなデータプロジェクターから発展 してきているわけです.ホームプロジェクター といってDVDを繋いで家庭で映画を見る,120 インチとか150インチに拡大してみようという 時代にもなっていますし,また50インチ,60イ ンチサイズの固定テレビ式リアプロジェクショ 図5 ンタイプのテレビもできるようになっておりま す. それから三つ目のlmaging on glass,ディス プレイです.これはみなさんの携帯電話のディ スプレイなどもカラー化でさらに進歩させてい く,とこんなことを考えております. それでは次にi1から説明しますと,プリン i311maglng on glas5 カラー化で躍進 導 タの場合にパーソナルからパブリックまでいろ いろなコンテンツがありまずけれども,私ども はどちらかというとホームDP,おうちで写真 2007年に向けたエプソンの企業ビジョンです をプリントアウトしていただこう,というよう けども,三つのiです(図4).i1はプリン タ,i2がプロジェクター,そしてi3がディ なことが一番いいんじゃないかと.デジカメも 普及し,携帯電話もカメラ付きが普及してきた となりますと,それと直結してパソコンを使わ スプレイと,この三つに経営資源を集中する (図5).そしてioはその他の事業はコアデバ ずにどんどん写真を印刷する文化を創っていく. イスとして三つのiを支えていくと,こういう それでお店に行きますともっと大型のプリント ような形になっております. ができる,というようなことを考えております. それでは三つのiをそれぞれ説明します.最 それ以外にもオフィスではレーザープリンタを 初のi1ですが, Imaging on paperのプリンタ 売っていますが,このような商品をそろえるこ ですけれども,エプソンが狙っているプリンタ とで家庭からオフィスまであるいはパーソナル 戦略というのは,実はフォト戦略です.プリン 写真からパブリックの印刷まで,ということを タというのはもともとパソコンの周辺機器で, 目指してやっています. 最初は文字を打つということで使われていたわ 次にプロジェクターですが,家庭が映画館に けですが,カラーインクジェットプリンタが進 変身ということでホームプロジェクダーを今一 化してから必ずしもパソコンの周辺機器という 生懸命プロモートし始めています.今一番親し ことではなくて,コンピュータ技術の進化によ みやすいものは焦点距離が1.5mくらいで120イ ってプリンタにもコンピュータ機能を持たせる ンチに拡大できます.セールスポイントとして ことによって,プリンタだけで写真が印刷でき は6畳間で120インチの大画面というどころで セイコーエプソン(株)の成長の軌跡(木村登志男) (I17)9 す.また大画面の液晶リアプロジェクションテ 初の頃はスイスに追いつけ追い越せ,世界の時 レビは,50インチサイズのテレビですが,ブラ 計セイコーになりたいというところがらスター ウン管のテレビと違って厚みがせいぜい40cmく トし,国産初の自社設計の腕時計の製造から始、 らいです.タンスくらいの厚みですから壁にべ めているわけです.そして精度をあげてスイス たんとつけられますので,場所もあまりとりま に追いつこうとして,精度を競うコンクールに せんし,大きくてきれいな画面が見られます. 出て,最後にはスイスの時計に勝つことができ 液晶やプラズマよりも大きくなればなるほど割 ました.それから量産品でも1960年代から70年 安になります.これもアメリカあたりでは随分 代のグランドセイコーとかキングセイコーとい 普及し始めておりますので,やがて日本でも導 うのは精度的にはスイスの時計より優iれていた 入されるのではないかと思います. と思います.そのあとにクォーツがきましたか また有機Eしってご存じでしょうか.非常に ら,精度的には圧倒的に機械式よりいいのです きれいな画像が得られるのですが,これは試作 が,その後1980年代後半になりますと,私ども 段階で,40インチの大きさにすることができま は機械時計の技術を全部捨てて,先端の情報関 した.たぶん小さいものから商品化されると思 連機器に切り替えたわけです.最初は電卓用の うのですが,私どもはインクジェットプリンタ プリンタをやってデジタル用になって,そして の技術で大きなガラス基盤の上に素子を印刷し パソコン用になって,それで今はパソコンを脱 ていく,そういうような方式によって大きな設 して自らプリンタにコンピュータ機能を盛り込 備を使わずに,大型の有機Eしができないかと んで,プリンタだけで写真の印刷ができるよう いうことにチャレンジしています.今の問題点 になるところまできました.そういうステップ は寿命が2,000時間くちいしかないということ はプリンタを始めた頃は想像もできなかったわ です.商品にするにはミニマム1万時問いるし, けです.けれども,電卓用のプリンタから初め 2万時間くらいの寿命がいるということで,寿 てパソコンが出てきたらパソコンにチャレンジ 命のある素材の開発がカギになっています.そ して,それでメカ式が古くなったらインクジェ れから元々時計屋だったので世界最小のフライ ットにチャレンジして,それでインクジェット ングロボットというのを作りました.重さがわ の画質があがったら今度は写真にチャレンジし ずか23グラムくらいです.それで小さいモータ て写真以上のプリントができるようになりまし ーの開発が難しかったのですが,先般公開しま た.そして今度は最初のものは画質は良かった して見事に飛びました.ではいったい何に使う のですが,すぐに色あせてしまいましたので, のかというのはこれからです.人が潜れないよ それを改良して30年くらい保管しても色あせな うなところに,細い隙間にとばしてなんかやる いようなものを作りました.それはやはり全て とか,そんなようなことはいろいろ考えられる 何歩か先は見ている,現実には半歩先,一歩先 のですが,まだ用途が決まらないままこういう を見つめながら一生懸命やってきて振り返って 開発をしてきております. みたら今日の姿になっていた,というようなこ 以上,駆け足だったのですがセイコーエプソ とです.従いましてその時々の経営判断という ンの成長の軌跡をたどってみました.私どもが のはいろいろあったかと思うのですが,そうし なぜこうなれたのか,多くの幸運に恵まれてこ たことの積み:重ねで今日にきていると思います. ういう風になってきていますが,私自身の人生 先ほども申し上げましたけれども,時計だけで と同じように会社も遠大な計画,十年先の見通 一生懸命やっていたらセイコーグループの中で しがあってこういう風にしてきたわけではあり 一番優良な会社にはなれたかもしれませんが, ません.もちろん夢はありました.ですから最 今日のように自分で企画からマーケティング, 10(118) 横浜経営研究 第25巻 第4号(2005) セールスまでできる会社にはなっていなかった スカウトし,その人を核にして海外の営業まで わけです.それはあくまでミニプリンタという できるような会社に育てていった.そういうよ 商品を手にした時に,自分で売ろうという意思 うなことの積み重ねのような気がいたします. 決定をして,そしてやがて商社のなさっている 私のお話はこれで終わらせていただきます.ご ことを見れば同じ人間がやっていることですか 静聴ありがとうございました. ら私たちにもできるのではないかと思って人を 〔きむら としお セイコーエプソン株式会社代表取締役副社長〕 この講演は2004年10月27日に行われました.