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フライト型オランダ帆船について
Kobe University Repository : Kernel Title フライト型オランダ帆船について(On the Fluyt Type Dutch Sailing Ship) Author(s) 杉浦, 昭典 Citation 海事資料館年報,9:13-14 Issue date 1981 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005894 Create Date: 2017-03-30 フライト型オランダ帆船について 杉 浦 昭 典 コロンブスの記録によれば, 1 492 年の第 1次 ( f l u y t )と称するオランダ独特の軽快な帆船が 航海における帆船 3隻の船型について,くサン 活躍していた。 1 5 8 1 年に独立宣言をしてスペイ nao),くピンタ>とくニ タ・マリア〉はナオ ( ンの圧政から離脱したオランダ共和国はノミルト ーニャ〉はカラベラ ( c a r a b e l a ) すなわちキャ 海と北海だけでなく地中海へも進出してオスマ ラベル ( c a r a v e l ) であるとされている。 ン帝国との通商にも成功した。 当時,ボルトカツレやスペインの帆船はキャラ 1 7 世紀初頭,オランダ、の商船保有量は大小取 ベル型が最く多く,くサンタ・マリア〉もキャ りまぜ約 1万隻だったが,当時,バルト海と北 ラベル型だったと考えられていた時期があっ 海を結ぶエレソン海峡のへルシンゲ‘ルにあった た。しかし,コロンブスがナオとカラベラを明 デンマークの税闘を通過する全船舶の 55%がオ 確に区別していることから,現在ではくサンタ ランダ船だったとし、う。デンマークの課した通 .マリア〉と他の 2隻の船型が異なっていたこ 航税は船体中央部の大きさを基準として算出さ とを疑うものはなくなった。 れるトン数によって定められた。フライトはフ ナオはシップ ( s h i p ) に相当するが,くサン f l u t巴s h i p ) とも呼ばれるよう ルート・シップ ( c a r r a c k )型だと見 タ・マリア〉をキャラック ( に船体中央部を細長くして最底の税率で済むよ る人もある。キャラックは北海沿岸で発達した うに設計されたものだった。 c o g ) と地中海のキャラベルが合体して コグ ( フライトは,よく似た蟻装と大きさの同時代 出現したものであるというのが通説になってい のギャリオンが平型船尾であったのに対し,独 る。当然,キャラックにはキャラベルの長所が 特の丸型船尾を持ち.平べったく幅の広い船底 取り入れられていなければならない。 と極端に内側に傾斜した舷側が特徴だった。中 だが,コロンプスはくサンタ・マリア〉の帆 走性能を他の 2隻より劣ると明言している。し 央部の乾舷が一番低く,また浅瀬の多いオラン ダ水域に合うよう喫水も浅く造られていた。 かも,大西洋横断に先立つて 2隻のキャラベル 1590 年代にアイセル湖沿岸都市ホールンで初め の帆走装置をくサシタ・マリア〉と同じように て造られ,そこでフライトと L、う名称が生まれ 改装していたので、あるから,コロンブ、スのいう たというが,もともとこの地方で使われていた ナオはキャラックと異なるものであったと考え 軽快な小帆船フライボート るべきであろう。 で,フライト型帆船はこの時点に忽然として出 一方,地中海では軍船としてオールで、漕ぐギ ( f l y b o a t ) が原型 現したわけではなかった。 ャリー ( gal 1ey)がよく使われていたが,それを たとえばブリューゲル ( P i e t e rBrueghel) の gal 1e a s ) 帆船に接近させたものがギャリアス ( 描いた帆船の中にもその面影を見ることができ であり,オールを全廃して純帆船になったのが 565 年と船尾に刻まれ る。画面からは制作年の 1 ギャリオン ( gal 1eon)である。 15世紀における 564 年の年号が読み取れるので,まだフライ た1 初期の探険航海には軽武装のキャラベルやキャ 司のなかった頃の帆船で、あることは トと L、う名 1 ラックで間に合ったが,他国船との交戦を避け わかる。それでも,丸型船尾の上方は,上に行 られなくなった 1 6 世紀には重武装のギャリオン くほど狭く高くなっており,外観はフライトに に頼らざるを得なくなった。 2門,船尾 酷似している。画面に見える大砲は 1 ギャリオンが地球上のあらゆる方面へ足をの ばし始めた頃, ヨーロッパ海域ではフライト の砲門には大砲でなく,ロープを結んだ手桶で 海水を汲む水夫の姿があり,メイン・トップに - 1 3ー も人影がある。オランダ船はイギリス船より高 され,造船所では大きな材木を動かすのにクレ いマストを使ったので帆の幅が狭かったという ーンを利用し,製材には風車による動力が用い が,この絵ではかなり広い幅の帆に描かれてい られた。フライトが一番多く造られたのはスペ る 。 インと休戦した 1 6 0 9 年から 1 6 2 1年までの 1 2 年間 プリューゲ、ノしの帆船は水線上の長さ 24m,幅 だった。この間,木材のような特殊貨物輸送に 8m,深さ 4 mぐらいの大きさだろうと推定さ 適合するよう改良され,オランダに北ヨーロッ れている。フライトもほぼこの程度か,もう少 パ海域での木材輸送を独占させた。他のヨーロ し大きかったようである。ただし,船体中央部 ッパ諸国も自国内で商船を造るよりオラン夕、、か と上甲板における幅は長さの 4分の lないし 5 らフライトを買う方が安上がりだと知るように 分の 1で狭かった。ホールンでは 1 5 9 5 年から 8 なった。 年間に 80隻のフライトが造られたというが,ザ しかし,フライトの特徴が有名になると,デ ーシ川沿岸やアムステノレ夕、、ムでも同型船がどん ンマークもエレソン海峡通航税の計算法を改め 世紀にはオランダ どん造られるようになり, 17 6 6 9 年にフライトの内側に る必要性に気付き, 1 商船の主流となり,海洋国オラシダのシンボノレ 傾斜させた舷側が無意味になるような計算法を でもあった。 考案し翌年から実施した。その結果,フライト フライトの定型化によって,それまでほとん の建造は停止され,やがて老朽と戦争や海賊に ど区別のなかった軍船と商船の機能上の差異が よる被害でフライトの姿は 17 世紀とし、う時代と 明確になった。フライトは大量の貨物を積載す ともに消え去った。幻の帆船と伝えられる所以 るのが第一目的であるから,船倉はあくまで大 でもある。フライトは帆走中の傾斜が大きく不 きし下部になるほど幅の広い船底によってそ 安定だったため,オランダ人の優れた操船技術 の目的を果たした。主船倉を大きく保つため, によって安全運航が確保されていたのだとい マストの間隔もできるだけ広く設計された。軍 う。ベルサイユ宮般の大理石はイタリア産であ 船ではないので大砲の数は自衛上必要最小限に るが,買い入れたのはイタリアからではなくア 止めるか,全く装備しない場合もあった。それ ムステルダムからだった。フライト商法の成果 だけでも貨物積載量を増大することができたか を示す顕著な 1例である。 らである。また,帆走設備の蟻装もできるだけ 単純化し,ウインチやテークルの活用によって 乗組員数を大幅に節減した。たとえば, 同じ 2 0 0トンの帆船でも,イギリスのギャリオンが 30 人を必要としたのに対し,オラン夕、、のフライ 0 人て、動かせたということであ トは 3分の 1の1 る 。 加えてオランダ の諸国にくらベてはるカか込に安くし,また船内食糧 も簡素でで、運航経費は比較にならないほど低カか為つ L、われる。それが事実だつたとすれば, 17 たと い 世紀における海のライバノレ,イギリスに対して オランダの商船運賃が 2分の lから 3分の 1だ ったというのも無理からぬことである。 オラン夕、、海運は隆盛の一途をたどり,本格的 な貨物船フライトの出現もさることながら,フ ライトの大量生産にもめざましいものがあっ た。当時としては画期的な造船の規格化が実行 - 1 4ー プリューゲルの措いた帆船