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2011年4月~2014年3月
るように﹂と話した。 会、お よ び プ に従って生きる奉献であ ロテスタント 願う﹂と励ましの言葉を 終生誓願を宣立した姉 カトリック・神道・仏 教などによる合同使節団 妹 の 1 人 は、﹁ こ れ か ら 諸派は1月 送った。 神さまの愛を伝えるため 日、キ リ ス ト 父、教 区 の 同 委 員 を 務 め 一 員 と し て 現 地 を 訪 れ、 記された銘板の前で祈る 目を迎えた。 るハワイ州オアフ島真 珠 追悼式典に参列した。 1941年 月8 日 ︵現地時間︶日本軍によ 長崎のカト リックと聖公 に、自 ら を 神 さ ま と 人 々 教一致祈祷週 真珠湾攻撃から 年︱ 戦没犠牲者のための祈り さまのように仕えていき に さ さ げ な が ら、マ リ ア 日本の平和使節団、現地を訪問 る長谷 功神父は、日本か 間︵1月 日 の現地訪問は今回で 回 らの平和使節団 人余の ︵ 写 真 は 戦 没 者 の 名 前 が たい﹂と決意を述べた。 湾︵パールハーバー︶ 攻 一 行 は 月7 日、真 珠 湾洋上のアリゾナ記念館 ンシスコ中川師︶ 谷師、野下師、現地のフラ 使節団。前列手前から長 撃から 年を迎えた昨 年 委員会の副会長で教区 エ において地元のカトリッ わ せ て、活 水 ∼ 日︶に合 学院東山手 大チャペル キャンパス テレジア 大水奈都美︵西木場︶ 初誓願宣立者 で﹁長崎キリ すの一致を訴えた。 リックとプロテスタン 昨年 月 日午後7時 分、胆 管 が ん の た め 入 そ れ ら を 正 し、共 解や偏見があれば ﹁相手に対する誤 拝﹄を浦上教会で行う 生を願う合同祈祷礼 に あ た り、 ﹃追悼と再 東日本大震災から1年 井や本河内、 東京で、 主に 期 誓 願 宣 立。 以 後、小 長 南松浦郡新上五島町船 隠出身。1963年に有 年パラグアイに派 遣さ 年 月 日 司 祭 叙 階。 れ宣教活動に従事。 年 に 帰 国 し、南 山 教 会 に 赴 特に1973年から 年 ま で は、聖 母 の 騎 士 学 教育の現場でよき指導者 力なくしては教区は成り 園 寮 の 舎 監 を 務 め、多 感 として活躍した。 立たないといっても過言 な時期の小神学生や一般 続けた。 あたって﹂のテーマで講 だろう。 を目にした方もおられる 葬儀・告別式は 月9 日、本 河 内 教 会 で 同 修 道 会日本管区長の﨑濵宏美 神父司式により執り行わ れた。 て、各 教 区 で の 記 念 行 事 予 定 や、禁 教 時 代 か ら 近 代までのカトリックの歴 史 を 交 え て 話 し、信 徒 発 見から150年経とうと し て い る 今、わ た し た ち の信仰の熱意が問われて いると語った。 最後にミサを行い、 思い を 新たにして閉会した。 小冊子 任。 年名古屋南山高等・ 中 学 校 校 長、 年 半 田 教 短期大学学長、 年からは 会 主任、2002年 南 山 宣教司牧にあたっていた。 再び半田教会主任として 841︱7731︶ まで。 養成委員会︵℡095︱ 別︶ 。問い合わせは、 生涯 る。1冊200円︵送料 申し込みも受け付けてい 小教区ごとの注文受付 は 終 了 し た が、個 人 で の める形式のもの。 の日1日の決意を書き留 と、 気付いたこと、 またそ 神 と 向 き 合 い、感 じ た こ る 福 音 を 通 し て、各 自 が こ の 冊 子 は、四 旬 節 中 の毎日のミサで朗読され る。 し、利 用 を 呼 び 掛 け て い ごすための冊子を作成 徒が四旬節を有意義に過 父の御許へと旅立った。 た信徒たちに見送られ、 御 かも父親のように慕ってい 司牧であったという。あた いたのは小 教 区での宣 教 あるが、 本人が最も望んで 活躍は目を見 張るものが 長 距 離 走 が 得 意 で、 海外宣教、 学校運営、 小 さっそうと駆け抜ける姿 教区司牧と多 方面に及ぶ 演を行った。2015年 の信徒発見150周年ま 身。 年神言修道会入会。 通した目的のため 予定。 歳。 昨 年 月 8 日、無 原 罪 院先の名古屋第二日赤病 の 御 宿 り の 祭 日 に 帰 天。 院で帰天。 歳。 アダム ルカス 宗 教 委 員 会 委 員 精神で関わり合うよう 阿野勝見修道士 谷川義美神父 長野下千 年 師︵カ 努力する必要がありま ︵神言修道会︶ ︵コンベンツアル トリックセンター︶ す ﹂ と 語 っ て、ま す ま 聖フランシスコ 修道会︶ によると、 神父や牧 師など教会指導者 参加したプロテスタ ン ト の 信 徒 は﹁ カ ト 人 余、各 団 体 か らの信 徒 約450 トの先生方が勢ぞろい しました﹂と感想を して祝福する姿に感動 語った。 行われた大規模な 一致祈祷集会は今 人 が一同 に 会 して 回が初めて。 髙見三明大司教 ま た、両 教 会 は 3 月 が 説 教 を 担 当 し、 日︵日︶ 時半から、 1940年 月 日、 長 崎市生まれ、 三ツ山教会出 にキリストの愛の 24 月、世 界 連 邦 日 本 宗 教 キュメニズム・諸宗教 委 お告げのマリア修道会 スト教一致礼 12 10 62 ク信者らと共に戦没者の カタリナ 終生誓願宣立者 拝﹂を行った。 教 区エキュ メニ ズ ム・ 諸 るなら修道会は横糸。互 で は な い ﹂ と、日 頃 の 協 に よ っ て、信 者 の 物 心 両 18 誓願式 修道会本部聖堂で初誓 い に 協 力 し 合 い、助 け 合 力に対して感謝の意を表 て 信 仰 を 守 り、子 孫 に 伝 面の熱心な奉仕の下に現 91 慰霊と平和のために 願・終生誓願式のミサが 18 70 69 祈り、翌8日は各宗教 シルヴァ司教を表敬 いながら歩んできた﹂と 大水 友美︵西木場︶ 岩崎亜由美︵西木場︶ マリア えていった。これが山野 であと3年。これを機に ︱教区生涯養成委 を作成 ヨ ハ ネ に さ さ げ ら れ た。 2014年に開催する教 ﹃四旬節の黙想﹄ 区代表者会議︵教区シノ 今年の日本 聖人列聖 教区生涯養成委員会 150周年記念に関連し ︵ 中 濱 敬 司 委 員 長 ︶ は 信 に向けての準備と、 あ ゆ み﹃ 信 仰 の あ か し ﹄ ドス︶ ︵宝亀小教区100 年の から抜粋︶ ︵宝亀教会主 任・大水文隆︶ 81 1 月 9 日、長 崎 市 小 江 野下 絵美︵浦 上︶ の代表者らを伴いホ ノルル教区のラリー・ 原にあるお告げのマリア マリア 訪問した。司教は、﹁世 の、あ る カ ト リ ッ ク 誌 の が参加した。 指導司祭の三村誠一神 父 は あ い さ つ の 中 で、昨 した。 教区修道女連盟 新年の集い 年は﹁絆﹂ ﹁連帯﹂ ﹁助け 記事を紹介。﹁長崎教区も 谷脇 千尋︵大 崎︶ リドヴィナ 界平和への夢を分か 行われた。髙見三明大司 平本 茜︵紐 差︶ マリア 合い﹂を多くの人が意識 教 が 司 式 し、多 く の 司 祭 し、実 践 し た 年 だ っ た と 続いて髙見三明大司教 シスターたちに助けら が﹁信仰について・日本 ち合い、対話運動への 触 れ、 ﹁教区を縦糸とす 眞倉まゆみ︵仲 知︶ マリア カトリックセンターで行 長崎教区修道女連盟は 1 月 7 日、新 年 の 集 い を ている。故永井隆博 と誓願宣立者の家族や関 い、約 1 2 0 人 の 修 道 女 士直筆の十字架の道 係 者、先 輩 シ ス タ ー や 志 ︶木ヶ 行の絵も飾られてお 理 解 を 広 げ た い︵ 野 て、 年︵ 昭 和 に 伴 い、こ れ を 払 い 下 げ り、巡 礼 の 人 た ち に 下神父談︶ ﹂との一行 けていかなければならな 津教会として献堂され 海地方に住んでいた。過 の 信 者 の 始 ま り で あ る。 在 の 教 会 が 新 設 さ れ た。 学生たちを温かく見守り い。 し か し、こ の 教 会 を た。普段見ることはでき 酷 な 弾 圧 の 下 で、先 祖 は 人の信者に 聖人列聖150周年に 建立した当時 戸だった ぐり 年となる。︵木ヶ津教 ⅛ よ っ て 建 て ら れ た。 ボ れ、支 え ら れ て い る。 協 信者戸数が現在では 戸 は大いに喜ばれてい ス小屋組は珍しい。 の 中 の、こ の 質 素 な 会・佐々木道夫︶ 教会も来年は献堂 な が ら、シ ス タ ー な ど 聖 ⅰⅫ 宝 亀 小 教 区 五島へ逃れた後 平戸へ渡った 職者の創出は現在も続い 入植当時から少ない信 徒数︵現在 戸︶であり る。緑あふれる自然 と 徐 々 に 減 少 し て お り、 な い が、巨 大 な 木 造 ト ラ の 思 い に 共 感 を 示 し 、 願者らが参列した。 め 12 将来の教会の維持管理が 大きな課題となってきて い る。︵ 大 佐 志 教 会 評 議 員・山野寛一︶ 緑あふれる 自然の中の教会 ५ ġޗġٛġ ア師の代に新たな教会 信仰を守り抜くために住 天保︶ではなかったかと 18 20 年 前 後︵ 文 政・ 祝別は8月 日で洗礼者 わ た し ど も の 先 祖 は、 合 い 励 ま し 合 い な が ら、 建 設 の 準 備 が 進 め ら れ、 か つ て 大 村 藩 に 属 し、外 苦しい生活条件を克服し 1 9 2 4 年 7 月、ボ ネ 師 み 慣 れ た 土 地 を 離 れ、す 推定している。 尽力の下に 12 大司教は説教の中で受 ﹁運動が今後ますます 式 者 に、﹁ 神 さ ま の 望 み 教 会 70 30 べてを捨て五島へ逃れ た。しかし落ち着く所な 戸、姓 も 皆、山 野 最初の教会は1887 く、平 戸 へ 渡 っ た。 戸 数 年︵明治 ︶ 、 ラゲ師のご は約 13 71 11 96 08 長崎キリスト教一致礼拝 を 名 乗 り、お 互 い に 助 け 26 87 カトリック・プロテスタント合同 まにささげられた教会と 下、西 彼 方 面 か ら 現 30 広がっていくことを 回 14 21 18 して今年 年目の歴史を 在の平戸市木ヶ津4 50 員会委員長の野下千年 神 巡 紐 差 小 教 区 れまでより開けた場 地区に入植が開始さ ⅅ ⅑ 所に移転することを れた。村の中心に稽 ⅄ 刻んでいる。 ℺ 決 め、約 2 ㎞ ほ ど 離 れ 古 部 屋 が 建 て ら れ、 ℸℸ 今年 年目の教会 信者の減少が課題 11 25 30 これからも信仰と生活 の礎として大切に守り続 ℻ ࿐⁑ೋޗٛ た津吉地区の市街地 要理教育や年に数回 ఱऎޗٛ 拡張工事などを行う も の の、次 第 に 老 朽 化 が 進 み、平 成 の 時 代 に 入 り、建 て 替 え を 検 討 に近い場所を建設地 のミサ聖祭がささげ した。その中で建設地 明 治 の 初 め、ド・ ロ神父さまの指導の 平野 勇主任司祭の指導 に選んだ。そして当時の られていた。 の場所についてもこ この地に信者がいつ の 頃から住み着いたのか 定 のもと1994年︵平成 1961年︵昭和 6 年︶ ︶、市内の県立高校 日、島本 要 か で は な い が、以 前 の 教 の体育館の建て替え 26 月 会は大正初期に建てら れ 大司教さまによって献堂 さ れ、無 原 罪 の マ リ ア さ 20 39 12 戸余の信者で何度か の 36 29 12 20 38 70 18 12 ⑫ 70 たと聞いている。その 頃 20 17 18 12 60 63 10 60 992 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 よ き お と ず れ 2 月1日(毎月1日発行) (3)2012 年(平成24 年) インターネット支援活動 昨年7月からサービス開始 ︵聖母の騎士社︶ おけるIT環 話などで確認 境や要望を電 況について説明を受けな 一行は各 教 会の歴史と現 生きることを使命とす や 悲 し み を 共 有 し、共 に 活動を通して人々と喜び ン テ ィ ア は、さ ま ざ ま な えた。 生き方に対する迷いが消 感 す る こ と が で き、こ の 召命を生きている﹂と実 との関わりを生みだす懸 ゴルと日本の教会の方々 会 を 結 び 付 け、ま た モ ン モンゴルの地域社会と教 そんな中、 ﹁わたしは今、 教者がその働きを通して う ﹂ と 決 め て 過 ご し た。 援を求めている。﹁信徒宣 す︵J LMM事務局︶ ﹂ 。 け橋になれればと思いま る。以前から海外派遣に モ ン ゴ ル はJ L M M 明会で ﹁草の根的な活動﹂ に と っ て 初 め て の 派 遣 一昨年、 長崎 日本カトリック信徒宣 関心があり、 教者会︵J LMM、 東京︶ で行われたJ LMMの説 か ら の 派 遣 者 と し て、こ だと感じ、 申し込んだ。 と﹂ ﹁ありのままの自分 しあしを決めつけないこ い る こ と は、 ﹁物事の良 松本さん。常々心掛けて 先。1992年の民主化 取 材 中、素 直 な 言 葉 で 以降、 貧富の格差が拡大。 自分の考えを静かに語る の3 月にモンゴルへ発 昨 年 4 月、派 遣 前 に 実 つ。現地では6カ月間の 施される6カ月の研修に 語 学 研 修 を 受 け、そ の 後 ⅁⅛↸⇅↋↾Ⅵ෩ࡍ を受け入れること﹂ 。モ ンゴルに派遣される〝宣 小ケ倉教会所属。 歳。 教者〟 の活躍を祈りたい。 アジア・太平洋地域に ボランティアを派遣して に〟その時その時を楽し る 現 実 に 留 ま ろ う。〝 共 い る 時 間、目 の 前 の 今 い は、 ﹁とにかく、 今ここに 国 外 の 教 会、特 に 信 徒 宣 化している。モンゴルの る。︵2011年6月デー た 課 題 に 取 り 組 む た め、 団体の 人が活動してい カトリック教会はこうし タ︶ 宣教者ら、 世界 司 教、司 祭、修 道 者、信 徒 AMACHIセント・ポー また、 これに先立ちNAK 岩本潤一訳 教皇庁国際神学委員会 ことでありましょう。 閉 鎖 す る こ と に 決 め た。 自然法の新たな展望 時半 の 概 観 か ら 始 め、人 間 の 経験から発して定式化さ れた自然法のおきてを規 範的原理として示した上 で、 その哲学的、 形而上学 的、 宗教的基盤を考察。 さ ら に、政 治 生 活 に お ける自然法の規制として の役割を説明することで その一貫性と妥当性を明 示 し、救 い の 歴 史 に お い てこそ自然法は完全な意 味 を 持 ち、イ エ ス・ キ リ ストこそすべての法の完 成であることを明らかに 想が寄せられている。 問 い 合 わ せ は、聖 母 の騎士社IT事業部 ℡095︱824︱ 2080まで。 平戸の3教会を巡る 馬小屋さるく 巡礼馬小屋さるく﹂が行 料 ホームペー 昨 年 月 日、平 戸 の 3 つの教会を巡る﹁教会 ︵ 無 料 ︶② 無 われた。これは﹁アジェ ジサービスも しくは有料 ン ダ N O V A な が さ き ﹂ トリックセンター︶の 案 が ら、野 下 千 年 神 父︵ カ バーの利 用 な レン タ ル サ ー 入 っ た 時、東 日 本 大 震 災 砂漠化の影響などで人々 ″രޗ৪〟 ġઐུၖक⅃ⅼ 2 年 間、活 動 を 行 う。﹁ ど 後 で も あ り、海 外 に 行 く 内で、 それぞれに特徴のあ の素晴らしさに見入って ん な 協 力 が で き る か、実 る馬小屋飾りと教会建築 会の担当者が指導を受け アーとして企画したもの いた。当日は全国的にク が長崎の教会や修道会の ながらホームページを 作 で、2006年から毎年 馬小屋飾りを見学するツ ﹁教会のホー ムページを立ち上げた い 成。または基 本 的なペー の 生 活 が 貧 窮 し、都 市 で いるJ LMM。〝信徒宣教 教者の活動への参加や支 守っていくのにわたした 神 学 校 に 入 る ま で は、子 も多くの信徒や修道者た かなえビル1階 ℡ 095 ︵847︶ 5134 時半∼ 電話受付時間 095 ︵847︶ 5144 ファックスでも可。 している。 中央協議会、1050 円。 どの決定 ③教 け れ ど、ど う し た ら い い も ア ル コ ー ル 依 存、人 身 モンゴルのカトリック教会 ことが何か﹃浮き足だっ 教 会 の 歴 史 は 年 目。 全 国 で 信 徒 約 7 0 0 人。 ている﹄ような気がして 日中も厳しい冷え込みが 売 買、ス ト リ ー ト チ ル ド ん ざ い を い た だ き、冷 え 者︵ レ イ・ ミ ッ シ ョ ナ んだり苦しんだりしよ ちにも何かできることを カ国、 切った体を温めていた。 リ ー︶〟 と 呼 ば れ る ボ ラ 本当にうれしく思いま らしい教会があることを す。わたしはカトリック 日 人類の偉大な知恵に共 に閉鎖することになった。 通する多くの要素を含む 月 聖 パウロ女 子 修 道 会 ました﹂ と感想を語った。 は、会 員 の 減 少 と 高 齢 化 自 然 法 に つ い て、諸 宗 教 ルを2012年 先人が残したこの財産を やむなく2013 し の 弟 子 だ と い う 理 由 ﹂ のため、 2013年に修道院閉鎖 時代の司祭たちが多くの 信 者 で は あ り ま せ ん が、 協力していきたいと思い 周りでよく魚釣りもしま 年3月 供たちの﹁遊び場﹂でし 月ま や諸哲学が内包する遺産 修道院︵長崎市中町︶を 日をもって長崎 か ら、で す。﹁ 雨 あ ら れ の は く す ん で い て、古 老 た かなかったのかもしれま ★普遍的倫理の探求 ごとく﹂とはまさにこの 由 で、こ の 小 さ な 者 の 一 ちから﹁殉教者たちが流 ル会議室2︶ 研修場所 長崎市立図 書館︵新興善メモリア した血で染まっているの 声の奉仕会・マリア文庫 人 に、冷 た い 水 一 杯 で も と心痛くなることがあり 年度受講生募集 申し込み・問い合わせ 平成 ∼目の不自由な方のた ま す。 し か し、ど う あ が 結局、 この世でお ぎ で は あ り ま せ ん。 いても、 いのでした。ただ、 ただ、 ておられる方∼ 長崎市橋口町5︱ 皆 さ ん に﹁ あ り が と う ﹂ 声の奉仕会・マリア文庫 司祭の車はたちまち と心の中で手を合わせる めに音訳奉仕を通して 旬の野菜や穀物そし お役に立ちたいと志し て果物や新鮮な魚な の み で す。 そ し て、心 か 4 月∼ 講生を募集します。 音 声 訳︵ 朗 読 ︶ ・校 正 奉仕者の養成講座の受 ら﹁ごめんなさい﹂と胸 を打つのみです。 どなどでいっぱいに はさらに⋮。たくさんの なりました。霊的に 病 人 回 り を す れ ば、 返しできるものは何もな 物的にも﹁冷たい 水一杯﹂どころの騒 ています。 飲 ま せ て く れ る 人 は、必 節︶ ず そ の 報 い を 受 け る。﹂ ︵マタイ 章 カット・赤尾祐理香さん ︵城山教会、中3︶ せん。 ◎ ほ か に 車 の 運 転・館 講習期間 で毎週水曜日 時∼ 方も募集しています。 内活動をしてくださる 受付期間 3月1日㈭ ∼ 日㈭ 時 18 生 ま れ 故 郷 の 地、す ぐ 目の前の海には、その昔、 オランダ人から﹁伴天 連 の山﹂という意味で呼ば れた島・鷹鉾島があり ま す。 1617年6月1日、 だ ﹂ と 聞 か さ れ、育 ち ま 大村湾の鷹島で殉教さ れ 28 聖パウロ女子修道会 ツアーに参加した女性 は﹁長崎にこんなに素晴 意してくれた手作りのぜ レンといった問題が深刻 らない。氷点下 度にも ついてのコメント欄を更 迷いが生じた。しかし8 行 い、今 回 は 山 田、紐 差、 リ ス マ ス 寒 波 の 影 響 で、 際に行ってみないと分か 新できるようになりまし 月のフィリピン研修で 田平の各教会を訪れた。 ページを活用した広報 活 た。ワードと同じ感覚で な る、と て も 寒 い と こ ろ 更 新や 新しいページの作 動や布教活動の普及推 進 入 力 し、ホ ー ム ペ ー ジ の と聞いています﹂ ジの作 成を代 行 ④ページ を図るために﹁誰でも 簡 更新ができるのでとても 続 い た が、紐 差 教 会 で は か分からない﹂といっ た 単 に 作 成・ 更 新 で き る 便利﹂ ﹁分かりやすく見 地元の信徒の方たちが用 声が聞かれることはな い ホームページ﹂づくり を やすいページ。閲覧者か 約 人の参加者のうち 成など、 内容によってフォ だろうか。 聖母の騎士社︵赤尾満 ローする︱︱という流れ。 カトリック信者は 人程。 利 用 者 か ら は﹁ 教 会 治 代 表、長 崎 市 本 河 内 ︶ ホ ー ム ペ ー ジ の、福 音 に 支援しようと昨年7月か らも好評です﹂などの感 20 説明に聴き入る参加者 いたように、今、この司祭 12 I T 事 業 部 で は、ホ ー ム 基本的には、 ①各教会に らサービスを開始した 。 山田教会の馬小屋 した。殉教者の尊い島も、 信徒たちから支えられて 10 29 25 かの日、 主ご自身が ﹁必 ナンド神父さまの宿主 で し た 。 さ て、山 学 校 に 海 学 校 霊的花束をいただき続け ずその報いを﹂彼らに与 しかし、幼いころは、こ に 明 け 暮 れ て い た 子 供 てきました。 あったガスパル上田彦 次 我が主のお言葉をお借 えてくださると信じつつ 郎とアンドレア吉田が殉 の 島 で ワ カ メ 取 り を し、 は、その後、司祭とならせ り す れ ば、司 祭 が﹁ わ た ⋮。 15 12 20 12 たナワロ神父さまとエ ル 岩崎康彦神父 ていただきました。迫害 10 FAX (福岡県・今村教会) 兄 と 櫓 を こ い で は、島 の 12 11 Ĺij ͙̭͂͊ͅ͏ͦ̀ 教した島です。最初の 宿 10 42 23 自分たちで作成・更新できたら… ﹁どうやって、 ご恩返し ち か ら、支 え ら れ て 生 き をしたらよいのだろう﹂ 31 24 15 10 72 țȸȠȚȸǸǛڼNJƯLjLJƤǜƔᲹ ﹁はっきり言っておく 。 主 の 殉 教 な の だ そ う で わたしの弟子だという 理 す 。 断 崖 絶 壁 右 端 の 岩 肌 60 2 月1日(毎月1日発行) (4) 2012 年(平成24 年) よ き お と ず れ 992 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第