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人間の内発的能力とは?-ハンナ・アレントの Vita Activa

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人間の内発的能力とは?-ハンナ・アレントの Vita Activa
国際協力専門員便り No.279 (2008.9)
鶏ノート
人間の内発的能力とは?-ハンナ・アレントの Vita Activa
鶏ノート(その 12)
国際協力専門員
吉田 充夫
地球が人間の生活にとって不可欠の場であり、そ
れなくして人間存在が考えられないように、人間と
は諸々の環境(自然も人為的なものも含む)によっ
て条件付けられた存在である。では、現代における
人間の条件とは何か?こうして条件付けられた人間
が持っている基本的な活動力、すなわち内発的な能
力1は、どのようなものか?
ユダヤ系ドイツ人としてナチスの迫害を受け、フ
ランスそして米国に亡命しながらも哲学研究を続け、
政治哲学に不朽の業績を残したハンナ・アレント
(Hannah Arendt; 1906-1975)は、その主著のひとつ
「人間の条件」
(The Human Condition(1958); 筑摩
学芸文庫・志水速雄訳)で、自らにこのように問い
かける。
この問いに答えることは“私たちが行っているこ
と”を考えること以外の何ものではない、としつつ、
条件付けられた人間の内発的能力を、ヴィタ・アク
ティヴァ(活動的生活)という用語を用いて、次の
Penguin Books の Viking Portable Library 表紙
ように概念化する。
人間の内発的な能力は三つの要素に分けられる
「ヴィタ・アクティヴァ(活動的生活;vita activa)という用語によって、私は、三つの基本的
な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味するものとしたいと思う。この三つの活動力
が基本的だというのは、人間が地上の生命を得た際の根本的な条件に、それぞれが対応しているか
らである。
」
日常私たちが使うごく平易な言葉である「労働」
、
「仕事」
、
「活動」
。これらの語に、アレントは独
特の意味を与え、これらを人間の基本的な三つの活動力、すなわち、人間を取り巻く環境に対して
働きかける内発的な能力である、と分析する。
1
「活動力(activities)」という言葉について、翻訳者の志水速雄氏は「条件付けられた人間が環境に働きかける内発
的な能力」と、絶妙の読みかえをしている。以下これに従う。
国際協力専門員便り No.279 (2008.9)
「労働(labor)とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成
長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で
生み出され消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体
である。
」つまり、人間が生物(生命体)であるという条件に対応し、生きていくための内発的能力
として、アレントの云う「労働」が定義される。
「労働」は消費と結びついているものであり、たと
えば食料の生産など、人間の生命の維持にかかわる消費物の生産の活動ということになる。
「仕事(work)とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く
生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循
環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異
なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住
の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するように
できている。そこで、仕事の人間的条件は世界性(worldliness)である。
」つまり、人間が「世界」
という「非自然」に在るという条件に対応し、その中で個々人の生命を超えて永く使用されるもの
を作る内発的能力として、アレントの云う「仕事」が定義される。
「仕事」は、単なる消費物ではな
く、建築物や道具、芸術・工芸品など、個々の人間の生命を超えて存続するよう作った「工作物(human
artifice)」を生み出す。労働と仕事はほとんど区別せずに使われる語であるが、アレントにあって
は、峻別される。
「活動(action)とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力で
あり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上
に生き世界に住むのが一人の人間(man)ではなく、多
数 の 人 間 (men) で あ る と い う 事 実 に 対 応 し て い
る。
・・・この多数性こそ、全政治生活の条件であり
その必要条件であるばかりか、最大の条件である。
」
つまり、アレントの云う「活動」とは、人間が世界
のなかで多数存在するという条件(多数性)のもと、
物を介さずに直接人間と人間との間で交わされる対
話や政治や社会参加といったことを行う内発的能力
として定義される。
なお、アレントは以上の三つの活動力(内発的な
能力)に加えて、
「思考(thought)」を「人間がもっ
ている最高の、そしておそらくは最も純粋な活動力」
としている(つまり厳密には四つの活動力というこ
とになる)
。ただし、
「思考」については、
“私たちが
行っていること”を考えるという本書のテーマの故
に、
「人間の条件」では考察の対象としていない。
ちくま学芸文庫版「人間の条件」の表紙。
故志水速雄氏の達意の名訳として名高い。
三つの内発的能力のヒエラルキー
アレントは、本書のなかで、これら三つの内発的能力の西欧世界における優位性(ヒエラルキー)
国際協力専門員便り No.279 (2008.9)
の歴史的変化を考察し、古代ギリシャの都市国家(ポリス)の時代以降「活動」の地位が大きく後
退し、まず「仕事」が勃興し、そして近代以降には、アダム・スミスからカール・マルクスの経済
学の時代に代表されるように、人間の内発的能力のなかで「労働」が最も高く位置づけられるよう
になったと指摘する。図式的に云うならば、労働>仕事>活動というヒエラルキーの成立である。
アレントは三つの内発的能力のうち、
「労働」を「労働する動物(animal laborans)」
、
「仕事」を
「工作人(homo faber)」という言葉で人格化しているが、まず「工作人」が製作の活動力をもって
勝利した(第 6 章 42 節)
、とする。
「われに物質を与えよ、それによって世界を作るであろう。すな
わち、われに物質を与えよ、それによって世界がいかに発展したか示すであろう」というカントの
言葉を引用して、ものを製作するという「仕事」の高い位置づけを示す。
しかし近代から現代にかけて、
「仕事」よりも「労働」が前面に出るようになり、人間は「労働す
る動物」として、ひたすら消費することが至上のものとなってしまったと指摘される。そして、こ
のような現代においては、本来消費とは相容れないはずの「仕事」も、
「労働」と消費の観点から評
価されるようになってしまっている、と断じる。
こうして、志水速雄氏の言葉を借りるならば、
「ア
レントの眼からは、現代世界は、
「社会化された人
間」がその巨大な胃袋を満たすためにすべてを消
費する過程のように見えるのである」
。
本書において、アレントは、内発的能力のヒエ
ラルキーがどうなるべきか、といった形の問題設
定をしているわけではない。ただ、現代の専ら「労
働」を重視し、
「労働する動物」として立ち現れる
人間の捉え方やあり方に評価を与えないだけであ
る。本書の随所からは、人間の生存のための「労
働」のみならず、世界性という条件のもとでの「仕
事」、そして人間の多数性という条件のもとでの
「活動」
、これらの内発的能力のあるべき復権への
期待が伝わってくる。つまり、内発的能力の三つ
の要素を改めて原点に返って見直すべきであるこ
とを、主張している。
The Human Condition(英語版)の表紙。
複数性と他者性、そして対話
アレントは、これら三つの内発的能力のうち、物ないし事柄の介入なしに行われる人間の間の直
接の「活動」に、特別の照明を当てている。なぜならば、
「この世界に住み、活動する多数者として
の人間が、経験を有意味なものとすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味
づけているにほかならないからである。
」つまり、対話こそが人間を人間として特徴づけるものであ
り、
「活動」と呼んだ内発的能力に特有のものであるからである。
では、対話とはどのような性格をもち、どのような条件で成立するのか?
多種多様な人がいるという人間の複数性(plurality)は、活動と言論がともに成り立つ基本的条
件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている、とアレントは指摘する。もし人間が互い
国際協力専門員便り No.279 (2008.9)
に等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、まして、世代を超えて過去に学び未来を予見
することはできないだろう。しかし他方、もし各人が互いに異なっていなければ、自分たちを他者
に理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要もないだろう。
「この差異を表明し、他
と自分を区別することができるのは人間だけである。そして人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、
恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。2」
人間の行う言論と活動こそが、人間のユニークな差異性を明らかにする、とアレントは主張する。
そして「言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式で
ある。この現われは、単なる肉体的存在と違い、人間が言論と活動によって示すイニシアティブ
(initiative)にかかっている。しかも人間である以上止めることができないのが、このイニシア
ティブであり、人間を人間たらしめるのも、このイニシアティブである。
」
イニシアティブ――言論と活動にもとづき自らの意思で何かを新しく始めること、ここにこそ人
間の比類ない本質がある。このような「活動」の働きは、ヴィタ・アクティヴァにおける他の内発
的能力には認められない独自の性格である。だから、言論なき生活、イニシアティブなき生活、
「活
動」なき生活というのは、世界から見れば文字通り存在しないことと同じことになる。
ハンナ・アレントが開発協力に問いかけるもの
1980 年代後半から 1990 年代前半にかけての冷戦崩壊期に、世界各国でハンナ・アレントの思想
が再評価され多くの出版物が刊行された時期があり、
“アレント・ルネッサンス”とも呼ばれたよう
だ。開発協力の世界における「参加(participation)」の強調、
「内発性」の強調、そして Capacity
Development の考え方も、まさにこの思潮と軌を一にして幅広く主張されるようになった。開発協
力の思潮は、少なくない思想的影響を受けたものと考えら
れる。つまりハンナ・アレントに学ぶことは、今日の開発
協力の基本的考え方の源流を探る意味を持つのではないか。
アレントは本書の第 5 章「活動」の扉で、
「どんな悲しみ
でも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪
えられる。
」というイサク・ディネセンの言葉を引用してい
るが、全体主義の暗い時代のもとナチスの迫害に遭遇し、
国を追われ、国籍を失い、冷戦下の米国に亡命し、いわば
引き裂かれた過去を持つ哲学者である。それでもなお、人
と人の間の「活動」や対話の可能性を信じた姿勢は、胸を
うつ。
人間の「活動」という内発的能力を分析したハンナ・ア
レントの思索。では「活動」の場とは空間とは何か?ハン
ナ・アレントは「公共性」
、
「公共的空間」という概念を提
出して、新しい地平を切り開いていく。
(この稿続く)
Condition de l’homme moderne 表紙
仏語版では“現代の”(moderne)が加わる。
2
私は、対話の限りない可能性を展望するこの一節が好きだ。
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