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第6章:文化のデモクラシー、遊びに満ちた創造的理想社会概念の普及 1

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第6章:文化のデモクラシー、遊びに満ちた創造的理想社会概念の普及 1
第6章:文化のデモクラシー、遊びに満ちた創造的理想社会概念の普及
1.変容する戦後オランダ社会
1980 年代に、ムゼウムプレインとなる場所の議論がより一般に拡大する前に、オランダ社会は劇的
な変化を遂げていた。近現代社会史学者のケネディーが、1970 年代までにオランダに対する非常に牧
歌的な表現はほとんど見られなくなった、と指摘するように1、60 年代を経たオランダは以前とはあま
りにも違った国に映った。
20 世紀前半までにオランダは、学術や政治の面では欧州のなかでも卓越した成果を挙げており、将
来の産業の飛躍に向けての準備を着々と進めていた。例えばハーグに国際司法裁判所が設置されたこ
とが示すように、オランダの法律家達の仕事の価値は、すでに国際的にも認められるものだったし2、
物理学、化学、生物学などの自然科学分野から絵画、思想、音楽といった学術、芸術の分野で傑出し
た人物を輩出していた。20 世紀の早い時期に男女ともに参政権が認められ、社会福祉や教育の分野で
も進んだ国だった。しかし、それでもなおオランダに対する一般的なイメージは非常に伝統的、保守
的で遅れた国であった3。例えば他の国に比べて工業化は遅れており、低賃金で比較的貧しく、女性が
外で働くことはあまりなく、宗教に対しても非常に誠実であった。しかし、1960 年代には都市化と大
衆化が一気に進む。その変化は外から見ても非常に激しい変化だった。例えば 1960 年代以降の家族計
画の公の議論やソフトドラッグの解禁、同性愛や性風俗への寛容さ、移民の大量受け入れ、安楽死の
合法化など一見並はずれた自由な社会とも見えることが許容されるようになる。
柱状化社会の崩壊は、40 年代から徐々に準備されていた。第 2 次世界大戦開戦直後、オランダはド
イツの占領下となり政党や労働組合は解散させられるが、そのことが抵抗運動や地下活動を起こし新
たな社会組織を編成した。自由オランダ紙(右派社会党)、パロール紙(カソリック系)、トラウ紙(プ
ロテスタント系)、ワールヘイド紙(共産党)などの地下新聞が定期発行され4、3 大労組と雇用者団体
は秘密裏に集まり、労使頂上団体の常設機関である労働協会が設立した5。各界の著名人や知識人が中
心に拘留されたスイント・ミヒールスヘテルの拘置所では戦後政治構想に関する議論が熱心に行われ、
党派や宗派を超えた政治改革を志向するようになった。これら「改革派」は戦間期までの政治体制を
突破し、柱状化社会に風穴を開けることを目論んだ6。ただし、戦後すぐに「改革派」による内閣が成
第2部
立したものの、1945 年後半には既存政党は復活し、雇用者団体や労働組合もほぼ復活した。1946 年の
選挙で「改革」を掲げた労働党は第 2 党に甘んじ、旧社会体制が崩れたわけではなかった7。
ところが 60 年代になると、経済は上向きになり、世俗化と都市化が急速に進行する。労組運動の他、
既存団体に組織されない学生運動、女性運動、反戦運動等も活性化し、
「柱」も解体の危機にさらされ、
宗教に基盤をおいていた政党もその宗教色を薄めてゆく。カソリックラジオ放送局やフォルクスクラ
ント紙は柱から離脱した8。伝統的に議論の国であり、比較的開かれたな政治体制を取っていたオラン
ダであるが、1960 年からは益々自由な発言を保証し、社会に関わるどのような問題も世論を介した議
論に拡大し、議論を重ねて政策に取り入れていく傾向にあった。また、既存の新聞、雑誌、ラジオ、
テレビは各々の柱から離れだし、宗教の精神に支えられてきた大学などの教育機関でも保守から前衛
主義や自由主義へとその態度を変えた9。また技術の飛躍は世界の人々に無限の夢を抱かせた。例えば、
テレビを介することで全世界が同じ体験を同時に共有する時代になる。1963 年にはジョン・F・ケネ
ディーの暗殺が全世界に放映され、1969 年にはニール・アームストロングの月面着陸は世界人口の約
4 分の 1 が目にしたと言われている。建築の分野でも、先端技術のその先の技術に支えられた近未来を
夢想した社会を描く分野が台頭した。
2.文化のデモクラシー:小規模多様化するメディアと総サブカルチャー化傾向
オランダの 60 年代は新聞、ラジオ、出版、テレビ、雑誌、自主出版、書店、カフェといった小規模
メディア
新規の媒体が多く出現した時代でもあった。柱状化社会は崩壊傾向にあり、メディアの消費の中心は
若者に移り、既存のメディアは各自でその支持者、つまり視聴者や購読者をつなぎ止めなくてはなら
ない状況が生まれていた。例えば 1929 年に設立された VPRO(自由主義的プロテスタント放送局) とい
う放送局は、穏健な抵抗運動を擁護してきた団体であったが、1960 年代にはその支持者達を失いつつ
あった10。VPRO は 1967 年に裸の女性の映像を放映したが、これはオランダのテレビ史上初めてのこ
とで、この事件は保守派と前衛主義者たちの恰好の議題となる。興味深いのは、当時の VPRO 取締役
のホウト(I.J. van Houte: 在任 1961-68)が、それをきっかけに VPRO という組織を自由思想と創造性
の自由を強く要求する公共性の高い組織というイメージを重ね合わせようとしたことである11。社会
問題の核心は、個人による問題発議と世論に開かれた議論の場の保証だったといえよう。
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第6章
1960 年代末までには批判的精神、自由奔放さ、総ての人間の行動が社会的であること、さらけ出す
ことに社会性を見出すこと、そしてそれらを受け止める寛容さは、アムステルダム、オランダの一種
プレゼンテーション
の文化であり個性として認識されるようになっていた。それに加えてその 表
現 が「遊戯性」に満
ちていたこともオランダの特徴でもあった。
オランダの当時の芸術家達は、少なからず政治色を帯びていた。60 年代にはフェミニズムが台頭し
て男女平等や平等の機会を主張した。芸術や文学の中で性や暴力の表現が行われ、そのような主題を
取り扱った作家であり、画家であり、彫刻家であるヤン・ワォルカース(Jan Henrik Wolkers 1925-2007)
の作品はベストセラーとなった。現代美術の分野でも芸術作品そのものに加え、その展示方法自体に
意味が見いだされるようになった。美術館は芸術を斬新な切り口でその新しさを見せ、社会との対話
メディア
を望んだ。またその批判的精神を表明するために、媒体を利用した。1969 年にジョン・レノンとオノ・
ヨーコがアムステルダム・ヒルトンの 902 号室で「平和のためのベッド・イン」を敢行し、悪童の無
邪気さを全面に出しながら、世界中に反戦のメッセージを発信したが、当時のアムステルダムは現代
コスモポリタン
芸術が政治・社会に影響力を持ち、国 際 的 で、どんな表現も受け入れる寛容と、自由・平等・平和を
象徴する空間というイメージの頂点にいた。オランダ近現代史家のケネディーは論文の中で、オラン
ダの場合、作家や詩人に比べ美術に関する芸術家たちの方がより政治色が強い傾向を示していたこと
を指摘しているが、それと同時に実際のオランダにおけるカウンターカルチャーは他の欧米諸国に比
べて政治色が弱かったことも指摘している。ドイツやフランスに比べて各組織の統制はそれほど強固
でなく、他の国と比べてその表現も遊戯性や楽しさ、自由を強く押しだす点も特徴だとのべている12。
また、オランダの劇的な変化に対する反応は、国内から全く抵抗はなかったとはいわないが、意外と
すんなりと受けいれられた。旧勢力からのそれほど強い抵抗はなく、公に開かれた議論にすることと
で理解を示そうとした。
ケネディーは柱状化のリーダーたちが、1960 年代に到るまで依然としてオランダを統治しており、
またその後もその姿を変えながら国を支配し続けたことにふれ、オランダに非常に大きな文化的変化
が起こった 60 年代の展開に、既存政党、新聞、組合、教会の代表といった、オランダの伝統的なエリ
ート達が現状の維持も訴えず、また積極的な対応を見せなかったという事実が、このわずかな期間に
起こったことを理解する上で、きわめて重要であると指摘する13。さらに、オランダのエリート達が
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第2部
市民の行動を手に負えないものとして野放しにしたわけではなく、
「逆説的だが、オランダの寛大で進
歩的な気風はむしろ、様々なメンバーからなる、用心深い指導者層のおかげで生まれた。彼らは物事
の進展を自分たちのコントロール下に置くことに執心するあまり、よそではまず許されないような性
質の行為まで許可し、あるいは促進さえしてしまったのである。
」14と述べる。政治学者達がこのエリ
ートの弱さの要因について、例えば抗議集団を軽視するより多元的共存の精神に則ってそれを制度と
して組み込んだことから「調停政治」そのものに要因があるとか、また古い政治体制は新たな社会経
済的状況にそぐわず崩れてしまうものだとする近代主義的解釈をとる学者も多かったことを指摘しな
がら次のような意見を述べている15。
「近代的」社会が、「近代的」政治システムを必要とするとか、「近代」が何らかの決
定的な意味を持っていると言わんばかりである。しかし、スイスは技術的に進んだ国
だが、
「近代的」国家ならとうの昔に済ませておかなければならないようなこと、例え
ば女性への選挙権付与を長らく放置してきた。ナチズムもまた「近代的」現象である。
もっとも、この仮説は興味深い問題を提示してくれる。すなわち、
「近代」の到来を信
じることは、
「近代」の実現をどの程度早めるのか、という問いである。実際、近代が
抗いがたい時勢の流れであるとの信念が広く行き渡っていたことは、60 年代オランダ
のエリート層にみられる、もっとも興味深い特徴のひとつである。彼ら自身、変化は
不可避のものであり、避けがたい事態を有効に活用することが、唯一賢明な対応であ
るとしばしば信じ込んでいた。16
さらにケネディーは、オランダの政治エリートの大半に、
「反動のレトリック」がほとんど完全に欠
如していた点こそ、オランダ政治文化のイデオロギーの核心をつくものではなかろうか、とその特徴
を求めている17。政治エリート達が、変化することや全くの表現の自由の保証は社会の発展にとって
自然なことであり、あらがうべきではなく、またそれを議論という舞台に引き上げ、許容する枠組み
を整備することの方が結局のところ社会の健全な発展に寄与するのだというる態度が、この 10 年の社
会の激変を促したのであり、さたに「オランダの寛容」がこの国の 1 つの個性と認識されるに至った
のだと分析している。
伝統的に異文化や異宗教の人々を受け入れることで繁栄してきたオランダだが、20 世紀になると旧
オランダ領のインドネシアやスリナムからの移民を受け入れ、また 1960 年代から 70 年代には労働者
不足に対応するためにトルコやモロッコなどからの移民を受け入れた。1960 年代半ばには、当時台頭
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第6章
していた政治家達もその政治的声明に「文化におけるデモクラシー」を強調しはじめ、官僚的世界か
ら軽んじて扱われている一般の人々が、自らの創造力を自由に表現することのできる社会の創造を訴
コ ス モ ポ リ タ ン
えた18。1960 年代も後半になるとアムステルダムは極めて自由で国際的な場所で、新しさやカウンタ
ーカルチャー19、サブカルチャー20に寛容な空間という印象を持った空間になった。オランダは芸術
家天国と表現されることがあるが21、前衛芸術は一般に普及し中流階級の主流文化となる。創造的で
あること、国際的であること、そして平等で開かれていることは、先進国における重要な社会的資質
となるが、当時ヨーロッパではオランダがこの意味でその頂点にあったといっても過言ではない。
プレゼンテーション
メディア
3.遊戯性に満ちた芸術の展 示 方 法 の発展:社会性を帯びた媒体としての美術館
1960 年代にオランダが経験した社会変容が、これほどまでに劇的に映った原因のひとつは、アムス
テルダムでの新しい芸術と都市・社会の関係に関する実験も影響している。この時代は同時代の芸術
の展示、つまり今日の現代芸術の展示理念と手法が発達し、確立された時代でもある。サブカルチャ
コ ス モ ポ リ タ ン
ーの隆盛と真の国際的な場所という印象がアムステルダムに定着したのは、芸術作品そのもの以上に、
芸術の分野での新しい動き、つまり現代芸術の見せ方の分野で、1940 年代から 1950 年代にかけて次々
におこなわれた試みから得たものもその要因の一つである。芸術の領域は拡大され、芸術と他の分野
の境界は曖昧にされ、失われようと試みられた。展示される芸術作品その物以上に、斬新な切り口で
作品の新たな側面を見せたり、観客を巻き込んだ企画で驚きと楽しさを提供した。また、コミュニテ
ィーを巻き込むだプログラムの開催などによって、芸術はより一般的な娯楽となり、創造性の社会的
価値や芸術と美術館の社会的存在意義が見いだされるようになった。
アムステルダムが制限のない自由な表現の実験場となり、希望としての象徴的空間となるには、サ
ンドベルグ(Willem Sandberg 1897-1984)22がステイデリック・ムゼウムを運営したことも大きい。
サンドベルグは独学でグラフィックデザイナーとなり、雑誌『NU(今)』のデザインをはじめ数多く
のカタログのデザインや編集を手がけた、戦後オランダのグラフックデザイン史を語る上で欠かせな
い人物である。また彼は、後にパリのポンピドーセンターの競技設計時に、美術館の運営方針や概念
の策定に参加し、またコンペティションの審査やその後の設計変更にも深く関与した人物でもあるが、
今日の現代美術館の展示・運営方法を確立した人物の一人といわれ、現在芸術の保護者としても重要
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第2部
人物だった。ムゼウムプレインの南西隅にあるステイデリック・ムゼウムは直訳すると市立美術館で
あるが、この美術館はサンドベルグの運営によってその名を超えた存在になった。
サンドベルグは 1938 年にステイデリック・ムゼウムに学芸員として入り、1945 年には館長に就任し
た。これにより、この美術館は世界的な現代美術館に成長し、新しい芸術形を先導し発信する基地と
認識される存在になったが、それは彼の広範な興味と鋭い視点や、芸術を手段として美術館という場
所を使い、大衆と都市の関係により親密で、積極的な関係を築くためのユニークな発想による芸術の
展示方法によって、物事の新しい視点、見方、接し方を提示したことが大きく貢献している。また彼
の国際的コネクションと影響力によって、ステイデリック・ムゼウムの名声を高めた。彼は美術館を
去るまでの 1962 年までの間に約 300 の展覧会を行い、彼自身も多くのカタログの表紙のデザインや編
集を行っている23。時代の芸術をより多く美術館で展示、発信し、若手の芸術家達に発表や協働の機
会をあたえるなど重要なプロデューサーでもあった。
1950 年代以前のオランダの芸術界は、幾つかの例外を除いて伝統を重んじる傾向が強く、とりわけ
美術館のような公の文化施設では抽象画や実験芸術が展示されることは殆ど無かった24。学芸員に就
任したばかりのサンドベルグが最初に企画した展覧会は、抽象画を主題としたもので、アルプ(Jean
Arp)、エル・リシツキー(El Lissitzky)、モンドリアン(Mondrian)等 22 人の芸術家の 70 点あまりの
作品を集めたものだった。これほどの大規模な抽象画の展覧会が行われることは当時のヨーロッパで
は初めてのことだった25。そして彼はステイデリック・ムゼウムを現代美術に特化した美術館と転換
させる事を決定し26、ステイデリック・ムゼウムの姿勢を「反美術館」と呼び、新進の芸術家達も展
示の機会を与えた。展示空間、環境そのものを芸術家や作品に合わせて一から作り上げることもあっ
た。展覧会の主題は様々で、欧米の芸術に限るものでもなかった。彼はバウハウスやデ・ステイルを
研究し、展示される芸術の範囲も絵画や彫刻の他に、建築、インダストリアルデザイン、映像、写真、
音楽などの分野に拡大した。また彼はモンドリアンをはじめとした抽象画やデ・ステイルに強い関心
と影響を受けており、自国の近代芸術をいち早く取り上げ、その価値を再提示して展示を行うことも
多かった。
さらにサンドベルグは社会における美術館の存在意義を拡大した。美術館を閉じられた箱から解放
し、芸術を日常化し、都市・人・生活との関係を、新しい発見に満ちたものにしようとした。美術館
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第6章
は美術を鑑賞する場所を超えて、芸術を通して、新しい切り口の空間体験を観客が主役となって安心
して得られる場所になった。生活や教育を取り込んだ美術館活動をおこない、訪問者、地域社会を巻
き込んだ企画は、芸術による創造性の社会的意義と価値を認めさせ、当時のステイデリック・ムゼウ
ムを現代社会と同期する遊びに満ちた表現の実験と発見の空間として、またその現象を牽引する国際
的なプレーヤーに成長させた。美術館をとおして、芸術体験のハードルを下げ、芸術と都市との関係
が社会の創造性に与える未知数の可能性を示したが、彼にとって芸術やその展示は境界を超える手段
であり、美術館は都市そのものであり、社会であった。
サンドベルグは 1954 年にステイデリック・ムゼウムの敷地内に新棟を建設した(Fig.6.3.1)。この新
棟の外観は、単なるプレハブのように簡素なものだが、サンドベルグの美術館に対する理想的な考え
方を実現しようとしたものだった。長さ 40 メートル、奥行き 15 メートル、高さ 8 メートルの長方形
の箱で、南側の道路に面した長手方向には天井までの大きなクリアーガラスがはめられている。現在
の美術館では当たり前のようになっているが、展示室の内装は真っ白な無垢な空間、いわゆる「ホワ
イトキューブ」とした。展示室を無垢な状態にし、展示される作品によっては空間自体を作り替えた。
内側からは外界が、道行く人々は美術館内部を垣間見ることができた。サンドベルグは新館の空間を
あらゆる人々の自由のアトリエとしたかった。彼はこの展示室に関して「この1つの大きな空間は可
動式間仕切りや可動式パネルで柔軟に仕切って使うことができ、天窓はないけれども、片面のみの大
窓は芸術家達が作品を製作するアトリエと同様の質をもたらしている27。」と述べている。
Fig 6.3.1 ステイデリック・ムゼウムの新棟(左:本館に接続した右奥の低い建築物)とその展示室内観(右)
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第2部
美術館は閉じられた聖域であるべきではなく、芸術は日常生活の中心にあるべきものだというサン
ドベルグの考え方を反映して28、新棟の展示室には大型植物が持ち込まれ、時にはレストランとして
も活用した。さらに小学校向けの美術館プログラムも展開した。これらのことは現在では多くの美術
館で当たり前のように行われていることだが、当時はかなり珍しかった。これら総てが彼によって新
しく打ち出されたものとはいえないまでも、彼はこのような考え方を現実にした初期の人物である29。
この新館は世界中の美術館関係者や芸術家、新聞記者などが見学に訪れ高い評価を受けた。しかし、
オランダの新聞は開館当初この新棟を「創造力の貧困さの倉庫」
(アルヘーメン・ダグブラッド紙)と
か「水槽」とか「煉瓦とガラスの鶏小屋」(テレグラフ紙)などと揶揄していた30。
サンドベルグがキュレーションした 1949 年のコブラ派(CoBrA)31の展覧会は美術界にとっても、
オランダ建築史上においても歴史的な転機となる展覧会である。この展覧会は、コブラ派結成の翌年
に行われたが、彼らが行った 2 つの主要な展覧会のうち、最初のものであった。展示設計は、ファン・
アイクに依頼された。ファン・アイクは、原始の文化や都市の時間をこえたカオスに関心を抱いてお
り、そのような共通点からコブラ派に強い関心を示していた。コブラ派は 1948 年に結成され 1951 年
に解散した国際的芸術団体であり、その特徴の1つは、明るい色彩と、子供のような伸びやかさ、思
いのままの大胆な筆使い、あたかも計算されず人間の内側から出てきたものを、ただ自由にカンバス
にぶつけたような作風であろう。動物をモチーフにした物が多く、部屋の壁や扉いっぱいに描かれた
作品や、まるで子供の落書きに詩を書き添えただけのような作品もある(Fig.6.3.2)。
Fig 6.3.2 コブラ派の作品例
130
第6章
コブラ派のそれまでの作品は小品が多かったため、サンドベルグは美術館に見合う、より大きな作
品を作成させるために事前に資金援助をして新たな作品を作らせた。それにより壁面一杯にひろがる
作品や、詩が作品や作品の間に配置されるなど、それまでの展覧会ではあまり見られなかった展示方
法が試みられた。さらにファン・アイクは、様々な大きさの作品を、色々な高さに掛けたり、床に飛
び石のようにおかれた低い展示台に作品を点在させた(Fig.6.3.3)32。アフリカのドラムロールを環境
音楽とし、展示空間一杯に拡大されたこのコブラ展はそれまでの展覧会の常識を逸脱したものだった
という33。この体験はコブラ派のアーティスト達にも影響する。この後コブラ派の作品はカンバスを
はみ出し空間中を埋め尽くすことに熱心になり、1949 年代には一軒家を借り切ってその空間内外に描
きまくるなど、屋内から屋外にも食指を広げた(Fig.6.3.2)34。1951 年にフランスでコブラ派の最終
展覧会が行われたときには、その規模はさらに拡大していた。
サンドベルグのやり方は徐々に受け入れられることになるが、1960 年代初頭までは様々に批判され
ていたこともたしかである35。例えば、彼が新進の芸術家を起用して行った展示企画の内で重要なも
のである、1961 年の「動く・動き(Bewogen Beweging)展」は、さびた自転車の部品や何かの歯車、
ぐるぐる回るモビール、おかしな動きを続ける錆びた機械など、美術館で発表されることがなかった
ような、芸術とは認識されてこなかったような作品を展示室中に配置した展覧会だった。展覧会に訪
れた人々はそれまでの芸術作品には不釣り合いな日常的な素材によるダイナミックな造形や、なんと
も目を離せないコミカルな動き、そこから発せられる音や会場の熱気に興奮している36。また 1962 年
Fig 6.3.3
1949年にステイデリック・ムゼウムで行われたコブラ派の展覧会
キュレーションはサンドベルグ、展示計画はファン・アイクが行った
131
第2部
の「ダイラビー(Dylaby)
」は映像やインスタレーションアートを織り交ぜた展覧会で、展示された芸
術作品や展示方法の目新しさ以上に、観客の反応こそが展示の一部として重要な要素とされた企画展
だった。この「ダイラビー(Dylaby)」という言葉は、
「ダイナミック」と「迷宮(ラビリンス)」とい
う二つの言葉の造語である。展覧会にはジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely)、ニキ・ド・サンファ
ル(Niki de Saint Phalle)、ダニエル・スペーリ(Daniel Spoerri)、マルシャル・レイス(Martial Raysse)、
ロバート ラウシェンバーグ (Robert Rauschenberg)
、パー・オロフ・ウルトヴェット(Per Olof Ultvedt)
といった芸術家が参加した。彼等は彼等の作品の展示方針に関しては全くの自由が与えられた37。ス
ペーリの展示室では、訪問者達は作品が 90 度、180 度傾いた迷宮の中を歩き回ることになった
(Fig.6.3.4)。これらの常識を逸脱した展覧会に関して、新聞は批判的に「ファン・フェアー(移動式
Fig 6.3.4 ステイデリック・ムゼウムでの
展示風景
(左)ダイラビー 1962
(右列上)展覧会「あたらしい絵画」会場
構成:Joseph Onganae 及び Andre
Volten 壁画:Constant Nieuwenhuis、家
具:Charles Eames 1955、
(右列下)工業デザイン展 1958
132
第6章
遊園地)」と呼んだが、多くの来場者がつめかけた38。
サンドベルグは 1962 年にステイデリック・ムゼウムを去っている。そのころにはステイデリック・
ムゼウムの存在は、アムステルダムにとってもオランダにとっても、文化を象徴する重要な機関の1
つになっていた。サンドベルグ以降もこの美術館は先鋭的な美術展示の路線を引き継ぎ、1964 年には
「ヨーロッパ・ポップアート展」を行った39。もはやステイデリック・ムゼウムは、現代芸術のため
の牙城ではなく、当時のアムステルダム自身のイメージに重ね合わされるものになっていた40。
このことについてケネディーは「芸術は民主化された」と表現している。実際、芸術は特別なもの
から大衆の日常へ侵入し、芸術鑑賞やアート作品の購入、制作は新規の「趣味」として大きなブーム
となりつつあった41。美術館の都市化と社会的役割の増大は、創造性の社会的価値を高めつつあり、
最新の芸術はその社会の文化と文明の進化を現す表象と認識され始める。オランダの学芸員や芸術家
達は国内外の最新の芸術をいち早く発見することに熱心になった42。
4.コンスタントの新バビロン:大衆のための遊びに満ちた創造的理想社会概念の波及
大衆化は芸術のみならず、都市創造や理想都市の議論にも影響を与えた。しかしそれがオランダで
一般的になるにはある熱狂があった。1960 年代に芸術家、コンスタント(Constant Nieuwenhuys)によ
る理想社会概念に関する一連の作品「新バビロン」43が社会的流行を引き起こした。コンスタントは
コブラ派の創設者の一人であり、1949 年のステイデリック・ムゼウムでの展覧会を通してファン・ア
イクと出会ったが44、彼はファン・アイクの誘いで CIAM のオランダ事務局として活動していたデ・
アフトの会合に参加したり、さらには 1952 年にはファン・アイクと協働で CIAM の「人間と住居」と
題する展示計画を行うなど45、建築関係者と交流をもつようになった。ただし彼は、新バビロンの作
成を始める頃までにはデ・アフトの会合に参加するのをやめている。コンスタントは 1988 年のウィグ
リーとのインタビューで、
「私は彼等から学びたかったのだが、私は彼等との間に相当な距離感を感じ
ていたのです。彼等は現状について考えていたけれども、私は未来を夢見たかった」46と答えている。
彼は、1957 から 72 年にかけて芸術と政治の統一的実践を目指してヨーロッパを中心に活動した国際
団体シチュアショニスト・インターナショナル(SI)の創設者の一人でもあった47。シチュアショニ
スト・インターナショナルは、都市に大いに興味を示しており、その都市への取り組みは地図から始
133
第2部
まった。彼らは「漂流」や「ずらし」という言葉を多用し、人が場所や移動によって感じ取る都市へ
の感覚や雰囲気を記述しようと、切り取られた地図の断片を再構成した「心理地理学」
(Fig. 6.4.1)等
を試みている48。コンスタントは、遊び、柔軟性、漂流に問題の中心を据えて49シチュアショニスト
の都市へのアプローチを新バビロンという近未来理想都市・社会概念の一連の作品に発展させた。1960
年代までにシチュアショニスト・インターナショナルは、フランスのギー・ドゥボール(Guy Debord 1931
~1994)の考えに特徴付けられる存在になっていたが、コンスタントがシチュアショニストの理想都市
に関する活動の中で際だった存在であったことにはちがいない。コンスタントは 1958 年までに既に幾
つかの新バビロンに関する作品を完成させており、同年に彼単独の展覧会をステイデリック・ムゼウ
ムでおこなっていた。また翌年の 1959 年に、シチュアショニスト・インターナショナルがその理想都
市の考え方を大々的に示すために、ステイデリック・ムゼウムでの大展覧会と、それにあわせた出版
を検討していた。しかしギー・ドゥボールが建築に希望したこと、もしくは建築という形で彼の都市
や社会への考えを示すことは彼の政治的使命を全うするための上位の手段ではなかったし、つまりそ
れは彼の意図することを表現する1つの道具に過ぎなかったといえる。そのため、展覧会の展示や空
間の方針やパンフレットに掲載する論文、また展示と出版物の比重についてコンスタントと対立する
ことになった50。コンスタントは美術館の屋外に3つの異なる状態の場所を作り、小さな機械が観客
を美術館内部につくられた迷宮に誘導するという体験を提案したが、ドゥボールは 1 つの概念を指し
示す唯一の巨大な構造物の完成を望んだ。ドゥボールは、コンスタントの考えについて素晴らしいが
それは本物の統一的都市ではないし、本物は次の機会に示すことができるのかもしれない、と言う手
紙を書き送った51。この展覧会の準備期間に、2 人の考え方の差違が露呈し、関係に亀裂が生じたよ
Fig 6.4.1
134
パリの心理地理ガイド表紙 1956
第6章
うである。未出版の論文には、ドゥボールがコンスタンの新バビロンについて「ブルジョア芸術の自
由」と非難する文章が残されている52。最終的にはサンドベルグがステイデリック・ムゼウムでのシ
チュアショニスト・インターナショナルの展覧会を中止する決定をとった53。コンスタントは、ギー・
ドゥボールの幾度のも引き留めに応じず、1960 年にシチュアショニスト・インターナショナルを脱退
する54。1960 年にドゥボールがコンスタントに送った手紙には「本当の統一的都市の発展のためには
世界解放のための研究が最も重要で、決して構造物や、ましてや巨大な構造物によるものではない」
と書かれていた55。さらにシチュアショニスト・インターナショナルはコンスタンの新バビロンにつ
いて「理解もしていないのに、幾つかのシチュアショニストの考え方を盗用しているだけだ」56と非
難した。しかし、コンスタントは、その後も引き続き独自に新バビロンを示す作品をつくりつづけた。
コンスタントの新バビロンは、あらゆるものから開放されて自律した、新しい「ホモ・ルーデンス
(遊ぶ人)」の為の近未来都市として想定されていた。『ホモ・ルーデンス』とはオランダの文化史家
のホイジンガの論考で、
「遊ぶ人」を示す造語である。ホイジンガは、遊びは文化よりも古い、つまり
「ホモ・ルーデンス」は「ホモ・ファーベル(作る人)」よりも先に存在するという前提のもと、遊び
を解きほぐし理論化することで文化を説明できるのではないか、という考えにもとづいた試論であっ
た57。ただしコンスタントの場合は、ホイジンカのように遊びと生活を分けておらず、遊びを生活そ
のものだとした点でことなる58。つまりコンスタントのいう「ホモ・ルーデンス」とは、ホイジンガ
Fig.6.4.2-α コンスタントの新バビロンの作品例
コンストラクションセクター
135
第2部
以降に文化進化論的に発展した遊びの考え方に基づくものとみられる。当時は文化人類学者のフラン
スのレヴィ・ストロース(Claude Gustave Lévi-Strauss, 1908-)や社会学者でもあり文化人類学にも影響
をうけていたロジェ・カイヨワ(Roger Caillois,1913 - 1978)などか活躍していたが、ロジェ・カイヨ
ワは、ホイジンカの『ホモ・ルーデンス』に影響されて『遊びと人間』を記している。さらにコンス
タントの思想の背景にはドゥボールの批判的社会理論やアンリ・ルフェーブル(Henri Lefebvre
1901-1991)の『日常生活批判』
、『都市への権利』の影響がある59。
コンスタントの新バビロンは、人間の行動を規定するものは何もなく、柔軟な機能を持った多様な
空間が連携した人間主体の全く自由な社会とされる60。新バビロンは先端技術によって成立し、普遍
的で、遊びに満ちた都市であり、人々の創造力を刺激する、新たな大衆のための創造的社会である。
コンスタントの新バビロンには、コンストラクションセクターやノマド・キャンプ等と呼ばれる立体
作品や絵画、写真、コラージュ等の平面作品と文章などがある。チタン、ナイロン、針金、アクリル
等、様々な素材を組みあわせ、移動、交換、解体可能で柔軟な空間性を持つ構築物の連続による都市
が考えられた(Fig. 6.4.2 α~γ)。コンスタントは前衛芸術や機能主義的設計や建築を「大衆」から活動
性や創造性を奪うエリート主義の試みだとして批判していたが、それも次第に人々の関心を捉えてい
った61。1958 年のステイデリック・ムゼウムでのコンスタントの展覧会は大きな反響を呼び、翌年
Fig. 6.4.2-β
コンスタントの新バビロンの
作品例
イエローセクター
(模型)
136
第6章
12 月のコンスタントによる「統一的都市」の講演には多くの人が詰めかけた。彼の展覧会はヨーロッ
パ中をめぐり、テレビにも放映され62、1965 年のハーグ市立博物館での新バビロンを中心としたコン
スタントの大規模な展覧会はさらに大きな成功を収めた。
新バビロンの影響は大きかった。直接的なものとしては建築分野への反響みられる。コンスタント
は誘われて GEAM(動く建築研究会)に参加したり、またコンスタントの講演に出席したアーキグラム
は、彼に機関誌『アーキグラム第 5 号』の特集「メトロポリス」への寄稿を依頼した63。コンスタン
トの新バビロンの造形は、断片的で、迷宮性や解放の雰囲気を合わせ持ち、永久、連続、関係、普遍
を示す状況や状態を示す模型だったが、建築家達は「新バビロン」からインスピレーションをうけ、
実現・非実現に関係なく新しい空間や都市を夢想して、様々な絵や模型を作り、それらを「建築」と
いう名前で呼んだ。例えば、アーキグラムの先端技術によって可能とされる空中都市、動く都市の研
A: 巨大黄色のセクター(模型) B:可動はしごの迷宮(左:ドローイング 右:ドローイング及び模型)
C: 新バビロン北の地図
D:セクターの集合 (模型)
(ドローイング及びコラージュ)
Fig. 6.4.2-γ コンスタントの新バビロンの作品例
137
第2部
メガ・ハイパーアーキテクチャー
究や、 巨 大 ・ 超 建 築 へと進む傾向が見られる64。それらはもちろん理想社会、理想都市に対する、
ある考え方に基づく物だが、現実世界の問題を直視し、改善するという目的よりも、個人の想像力の
拡がるかぎりの世界を夢想し、面白く強烈な印象もったまだ見ぬ空間性を絵画や彫刻として表現しよ
うとする物も少なくない。
「都市」や「建築」という言葉や形はそれらが現実世界と繋がっていること
を示すための鍵だったとえよう。これらの「都市」、「建築」と呼ばれる作品群の表現はより現代芸術
の表現に近づこうとするように見えるが、それは純粋芸術の持つ自由さと柔軟さの獲得という願望を
強烈に発信しているともいえる。しかし、コンスタント自身は 60 年代の終わりに「知識人の間で新た
な理想主義が起こることに危機感を覚える」と述べ、この都市が今の社会で実際に建設されることの
不可能さを告白し、1974 年に最終展覧会を行った。
ところが新バビロンの考え方は、オランダの一般社会の中ではむしろ形にとらわれず存続してゆ
くことになる。コンスタントの新バビロンは、都市の使用者である大衆が、都市創造に関わる主体で
あり、権利を持つことを印象的に提示するもので、人々に強烈な残像となった。そして最初は視覚的
に印象づけられて記憶された新バビロンが、今度はその理想社会概念が様々な機関や媒体を通して利
用された。新バビロンの創造力を刺激する、新たな大衆のための創造的社会を理想とするという考え
方は人々の心を捉え、社会の中に浸透した。ある新聞は 1965 年を「コンスタント年」と呼んだし、ま
た新バビロンの考え方は当時台頭していた新左派社会主義者の 1967 年宣言等にも影響している65。オ
ランダの政治は 1960 年代に左傾向化するが、新左派社会主義者はその主張の1つに「文化のデモクラ
シー」がある。どのような文化も平等に取り扱われるべきだと主張し、そのことが生活の質の向上に
つながることを強調しながら、急進的な党としての成長を模索していた66。ケネディーも、コンスタ
ントの個人的な影響力は時と共に衰えたが「遊びに満ちた」自由な文化は 1960 年代後半のオランダで
発展する一方だったと指摘している67。
5.アフォーダンスの空間:ファン・アイクの「関係」のための都市への介入
コンスタントが新バビロンに集中している間、ファン・アイクはコンスタントの新バビロン概念を
認めながらも、そのことからは距離をおいていた。2 人の間でこの議論は行われていなかったようであ
る。ファン・アイクは次のように述べている。
138
第6章
彼はユートピアを夢想した。私は違う。私は新バビロンを信じているし、それがど
のように見えるのか知っていた。彼は(そのような社会を表現する)知性と想像力を
併せ持っていた。それは総合的な概念だった。私は一度得も統合された概念というも
のを持ったことがない。だからこそ新バビロンにたいして敬意の念をもっている。し
かしそれは議論できるものではない。68
しかし2人が距離を置いていたといっても、コンスタントの新バビロンが示す空間も、ファン・
アイクがアムステルダム市の都市開発部の一員としてはじめた、アムステルダム中の小さな空き地に
展開していた子供のための「遊び場」プロジェクト69、
「スペール・プラーツ」にも共通した考え方を
見ることができる。
(Fig. 6.4.3, 6.4.4)新バビロンは、コンスタントの息子ビクターのよって撮影された
作品が多いが、その場合作品の全貌を見せるというよりも、作品の空間の内部に入り込み、その複雑
ダイクストラートの遊
び空間
コンスタント 遊びの雰囲気 1956
1957(左)1958(右)
コンスタント 遊具 1955
ファン・アイク 山登り(遊具)1950-51
Fig 6.4.3 ファン・アイク (左列)とコンスタントの遊びの為のデザイン(右列)
139
第2部
さや、多様な素材で構成される空間、それらが隣接しながら延々と連なり拡がっていく様子を拡大し
た物が多い。またファン・アイクが行った都市空間への介入は、むしろ構築物の存在感を消すように
控えめで、手の届くデザインであるが、それらが人間のある行動を誘発し、心理的作用や人間の関係
を生み出そうとするものだった。どちらも、コミカルでありながら洗練された抽象的な形を選択し、
自由で柔軟な空間性の獲得を試みている。また、空間が人間の無自覚で自発的な行動を誘発し、その
空間の中に体験を通して取り込まれることで、何か新しい行動や関係の発見と生成に繋がることを目
論んだ。それは、コンスタントの場合は創造力を誘発し新たな文化を形成する空間性であり、ファン・
アイクの場合はコミュニティーや、人間同士や場所との豊かな関係を生み出す空間というように説明
される。彼らが友人関係にあった点を考えれば、ファン・アイクの「スペール・プラーツ」もコンス
タントの「新バビロン」も二人の相互関係の中でその考え方や提示方法が発展したといえるだろう。
コンスタントと直接の議論を行わなかった間、ファン・アイクは実際の都市を相手に、現実的な
範囲での創造的環境や状況を生み出す仕組みを開発し、都市環境に挿入しようとしていた。スペース
プラーツのプロジェクトは、都市の日常空間の数多くの空き地空間に、遊具をとおして抽象的造形を
設置する。都市空間への最小限の介入とその積み重ねによって、人間の潜在的な行動の可能性を引き
出すことに執着していた。建築や建築という名前で表現される障害物をつかっての空間への関与が、
人間の行動や感情へ無自覚に作用することで、人間の予期せぬ行動や、人間同士の交流の可能性を拡
げようと試みた。彼はできるだけ新しい挿入物が何らかの意味を読み取れる強い印象を与えたり、人
間の集中力がデザインその物に向かってしまうことを避けた。新しい挿入物の姿・形を消そうとする
Fig 6.4.4
復興のためのモニュメント
ロッテルダム 1955
(左)コンスタント
(右)ファン・アイク
140
第6章
彼のやり方は、建築自体を否定していたかのようにも見える(Fig. 6.4.5)。彼が作ろうとする建築、も
しくは空間は、その内に多様な概念を内包する混合物であり、恣意的な形は消そうとされ、人間の何
らかの行動を誘発するためだけに状況を設定しようと試みられる。つまり、それ自体には意味を見い
だせない抽象的な形、曲線、カット、プロポーション、そしてそれらの対比があり、その中での身体
的経験や人間の関係が重視される。1960 年代に空間と生体の間の相互の関係が人間のある行動を誘発
する「アフォーダンス」と言う言葉が作られたが、ファン・アイクの代表的な作品は、むしろ建築を
作ることではなく、場と状況の関係と、それによって生み出される人間の感情への影響であった。抽
象的な構築物の挿入などの都市への最小限の介入によって、空間がある行動を誘発し、それによって
コミュニティーを再生することで、都市を人間的な空間とし、またその場所の文化をつくりだし、そ
の空間に文化的固有性を発生させようとするものだった。
このような空間性を得ようとする行為は、今日では多くの建築計画の中心的概念に据えられること
でもある。議論の国オランダの建築や都市計画推進には、総合的計画概念や理念が示されることが不
可欠であるが、建築の設計においても、新たな都市文脈を既存都市の文脈に交錯させ、人間の行動と
体験に何らかの影響をあたえようという設計概念を打ち出すという意味でも目立った存在である。
Fig. 6.4.5
A. Van Eyck フベルトゥス 配置図(左)、外観写真(右)1973-78
片親家庭の為の支援住宅:既存建築物の再利用および、街区への新デザインを挿入した計画
141
第2部
1980 年代頃から 90 年代のオランダ建築や都市デザインにおいては、伝統的環境は否定せず、なおかつ
多少日常から逸脱した空間性、もしくは伝統的な都市環境が与えることのできない新しい身体的空間
経験を持ち込む傾向が強まっていたことは指摘できるだろう。例えば床という、建築の地面の不規則
な傾斜や不陸や不規則な窓枠によって、日常空間の歪みを故意に経験させ、視覚や身体を通した特異
な経験として、感覚を通しての人間の記憶や、日常に対する新たな視点の発見うながす環境だと説明
したりというように、人間の身体や心理に働きかける影響や、人間環境に多様な選択肢を実現しよう
とするものも目立つ。
コンスタントの示唆した遊びに満ちた人間の活動力と創造性を喚起する社会概念は、ファン・アイ
クが示したような既存環境への断片的で限定的な介入と、そこに遊戯的な芸術的要素を絡めることに
よって、ある人間の行動やコミュニケーションを誘発し、創造的文化の可能性を引き出す実際の空間
の実現に、ひとつの回答方法を見いだしたともいえる。これは 1980 年代から 90 年代にオランダで活
躍する建築家達の作品にみられる傾向でもある(Fig. 6.4.6-1,2)70。
さらに、1980 年代以降、90 年代のオランダの建築の表現、概念の表現における目立った行動に出版
がある。Nai(オランダ建築協会)や建築に関わる新雑誌、出版社などの旺盛な出版活動に加え、OMA や
MVRDV 書籍や雑誌という形の建築表現を建築と同等に有効な表現手段と捉え、設計事務所が主体と
なって、複雑多様な都市の文化人類学的な調査・研究をグラフィックで、感覚的に提示する。これら
はさまざま現状分析、例えば社会、都市、国土が、比較的センセーショナルで多量の視覚的資料の集
A: オランダ建築協会(ロッテルダム)
J.M.J. Coenen, 1988-1993
Fig. 6.4.6-1
142
B: スホウブルグプレイン(ロッテルダム)
A.H. Geuze (West 8) 1993
第6章
積とテキストによって編集される。この「出版」という行動からも、既存の空間の文脈の分析を通し
て、建築の新たな文脈やプログラムを示すことが、より重要視されていることを示している。またこ
れらのことは、建築単体の示す形態や意味よりも、その場所と時代どのように捉えて解釈するかと言
うことの方が重要になっていることの表出でもある。今日のオランダの都市景観では、建築単体は個
性を演出しているようにみえて、実際はその存在を強く制御されている。
小結:
1960 年代にオランダは劇的な社会の変容を経験したといわれる。柱状化社会は崩壊に向かい、政党
もその宗教色を薄めた。1960 年代はメディアに小規模の新規のチャンネルが多く開拓された時期でも
ある。問題の核心は、個人による問題発議と世論に開かれた議論の場の保証だった。1960 年代末まで
には、批判的精神、自由奔放さ、さらけ出すことに社会性を見出し、社会性に非常に敏感なこと、そ
してそれらを受け止める寛容さが、アムステルダム、オランダの個性として認識されるようになった。
プレゼンテーション
それに加えてその 表
現 が「遊戯性」に満ちていたことがオランダの特徴でもある。そしてそのオ
ランダの寛大で進歩的な気風は、この大きな社会的変化に対抗するのではなく、制御する枠組みを整
備することが社会の健全な発展に寄与するという指導者層の態度によって推し進められた側面がある。
階級差や信条の別による境界線は薄められ、またそれを超えて議論される事に重きがおかれた。
「自由」
と「オランダの寛容」はオランダの 1 つの個性と認識されるに至った。
C:クンストハル(ロッテルダム)
OMA, 1988‐1992
D: オランダパビリオン ハノーバー博覧会
MVRDV 2000
Fig. 6.4.6-2
143
第2部
この 1960 年代の社会の激変のなかで起こったことが、オランダの1つのアイデンティティーとまで
認識されるようになるには、現代芸術の展示に関して様々に行われた芸術の提示に関する実験によっ
て、美術館が社会性を帯びたメディアへと発展したことが大きい。これはステイデリック・ムゼウム
の運営に関わった、サンドベルグの功績があげられる。彼は同時代の芸術の新しい体験方法を様々に
示し、美術館は観客が主役となって芸術を通した新たな体験を得る場所になった。また、サンドベル
グがステイデリック・ムゼウムの新棟で行った展示空間は、空間の可変性、柔軟性、非固定性を最大
限に有効にしようとした結果である。さらに、美術館活動を日常生活や教育に拡げることで美術館の
社会存在意義を高めた。芸術は境界を超える手段であり、美術館は都市であり、社会であった。前衛
コスモポリタン
芸術は中流階級の一般的な娯楽となり、アムステルダムは国 際 的 で、どんな表現も受け入れる寛容と、
自由・平等・平和を象徴する創造的な空間というイメージがその文化と重ね合わされるようになった。
1970 年代のオランダは新しい芸術家を保護し、住みやすい国というイメージを得ていた。
サンドベルグによって引き合わされたファン・アイクとコンスタントは、20 世紀後期のオランダ社
会、都市、建築の概念の展開に大きな影響を与える人物となる。2 人は人間の内なる自然や超時間制に
興味を持ち、都市の持つ迷宮性、漂流的感覚が人間の心理や行動に与える影響に注目していた。コン
スタントは、遊びに満ちた人間の活動力と、創造性を喚起する全く解放された創造的社会・都市を新
バビロンという作品に託して発表した。コンスタント個人の直接的な影響力は弱まっていくものの、
その作品の芸術的完成度が与えた印象は強烈で、その理想社会概念は一般に普及した。当時台頭して
いた新左派社会主義者はその主張の1つに「文化のデモクラシー」を訴え、
「遊びに満ちた」自由な文
化は 1960 年代後半のオランダで発展する一方だった。その間にファン・アイクの興味は形をもった建
築物を作ることよりも、現実の都市空間にむしろ形を形として意識させない抽象的な構築物の挿入や
対比といった方法で、都市空間に介入し、人間の行動や心理に訴える状況や環境を設定する事に向け
られていた。とくに彼はコミュニティーや場所の固有性の喪失を危惧しており、それらを再生させる
環境を提供しようとした。コンスタントの示唆した遊びに満ちた人間の活動力と創造性を喚起する創
造的社会の環境にも、現実的解決方法としてファン・アイクが示したような既存都市空間に人間のあ
る行動や心理的影響を与える状況を挿入する方法も、都市の日常空間を創造的文化の可能性を引き出
す環境に変換するという共通の目的をもっている。またその方法は、現代芸術の新たな展示概念や方
144
第6章
法の発展と同期して発達した点で共通している。このような、現代芸術の展示が提示した芸術と社会
の対話の方法や人間の行動を引き出す遊戯性を持った都市空間が、創造的社会を作っていくという考
え方は、その後のオランダ建築の設計概念にも影響をあたえている。
1
Ibid., p5
2
M.ブロール, 西村六郎訳,『オランダ史』, 白水社, 東京, 1994, p. 53-54, p.119.
3
50 年代末まで外国人は総じて、オランダを前時代の伝統と慣習に浸った、古風で「時代遅れ」の社会だと見な
していた。アメリカ人人社会学者のロナルド・イングルハートは 60 年代初頭のライデンにいた頃を振り返って、
オランダが合衆国にくらべて「非常に伝統的」だったと述べた。ハインリッヒ・ハイネが口にしたとされる格言(時
にボルテールの作と見なされることもある)に「世界の終末がやってきたら、私はオランダに行くことにしよう。
あそこは何でも 50 年遅れだから」という台詞があって、当時ひょうきん者が好んで引用した。仮に「近代的」社
会が、工業化社会や世俗化社会(公的な場における宗教の影響が小さい社会)を意味するのだとすれば、こうし
たオランダ観は当を得たものであったといえよう。オランダ経済は、ドイツやベルギーといった周辺地域に比べ
て工業化が遅れた。歴史家たちが 1890 年代に経済的「離陸」を見いだしたといっても、工業生産の増加は、1945
年以後まで見られない。50 年代までオランダは比較的貧しい国であった。ストライキはまれで、外で働く女性は
ほとんどおらず、60 年代半ばまで賃金は比較的低かった。大規模かつ強力なカトリックやプロテスタントの下位
文化に支えられて、教会の出席者数や出生率はいずれも高く、オランダは統計学上、北ヨーロッパで特異な存在
となっていた。J.C. Kennedy, Building New BABYLON: Cultural Change in the Netherlands During the 1960s, 1995 年アイ
オワ大学博士論文 p.4-5。第1章和訳、大西吉之。
4
ed. J.C.H. Blom & E. Lamberts, History of Low Countries, Berghahn Books, 1999, p. 438.
5
水島治郎,『戦後オランダの政治構造 ネオコーポラティズムと所得政策』, 東京大学出版会, 2001, p. 81.
6
Ibid., p. 84.
7
Ibid., pp. 87-92.
8
ed. J.C.H. Blom & E. Lamberts, History of Low Countries, Berghahn Books, 1999, pp. 242-243. フォルクスクラント、
トラウ、NRC、パロール等の各紙は元々「柱」に属した新聞だったが現在では各柱を離れている。
9
J.C. Kennedy, op.sit., pp.179. 例えばナイメーヘン・カトリック大学や、ネオ・カルバニスト自由大学げ例に挙が
られている。
10
Vrijzinnig Protestants Radio Omroep:
11
J.C. Kennedy, op.sit., pp.180-185.VPROをはじめ当時のメディアやその他柱に属してきた大学等の組織の独立、
オランダの宗教団体が以前ほど柱の運営に熱心ではなくなっていくことについて言及している。また、出生率の
低下や離婚の増加、モラルというものが社会の中での行動の規範の中心ではなくなったことについて言及してい
る。
12
J.C. Kennedy, op.cit., p.218.
13
Ibid.,
p.12.
14
Ibid.,
p.12.
145
第2部
15
Ibid., p.12.
16
Ibid., pp. 12-13.
17
Ibid., p.13.
18
Ibid., p.13.
19
支配的な文化に対抗するもうひとつの文化。岩波書店、『広辞苑第5版』
20
一般的に言われている、
「正統的・支配的な文化ではなく、その社会内で価値基準を異にする一部の集団を担い
手とする文化」(岩波書店、『広辞苑第5版』)に加え、この場合、「社会の支配的な文化から逸脱した文化事象を
指す。ハイカルチャーと大衆文化の両方を横断するもの」(フリー百科事典『ウィキペディア』)も含む。
21
Gijs van Tuyl, Holland, an artists’ paradise?, Dutch Art + Architecture Today, 6, 1979, p.36.のタイトルに見られるよう
に 1970 年代のオランダの印象は芸術家が保護され、寛容で、住みやすい国というイメージが広まっていた。
22
Willem Sandberg(1897-1984)オランダを代表するデザイナーであり、現在の現代美術館の展示や運営方法を
確立したといわれている。1938 年から学芸員としてステイデリック・ムゼウムで働き始め、1945-1962 に館長に就
任した。その後もイスラエル美術館(エルサレム)の館長をつとめたり、またパリのポンピドューセンターの競
技設計のコンセプトの作成や審査、設計変更等にも関わった。
23
Caroline Roodenburg-Schadd, Sandberd and Stadelijk: The museum Moderniser as Collector, Stedelijk Museum
BULLRTIN 4, 2004, p. 61.
24
25
J.C. Kennedy, op.cit., p.225.
また、1938 年にサンドベルグが最初に行った展覧会は、抽象画を主題としたアルプ(Jean Arp)、エル・リシツ
キー(El Lissitzky)、モンドリアン(Mondrian)等 22 人の芸術家から 70 点あまりの作品を集めたものだったが、
これほどの規模で抽象画の展覧会が行われることは欧州では初めてのことであり、大きな反響を呼んだ
26
Nico Laan, The making of Modern Art , Institution & Innovation,ed. Klaus Beekman,Rodopi B.V., 1994, p 27
27
Caroline Roodenburg-Schadd, op.cit., p. 61.
28
Ibid.
29
Ibid.
30
Ibid., p.28.
31
CoBrA.1948 年に結成された芸術グループ。創立メンバーの出身地コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステ
ルダムの頭文字を取って CoBrA と名付けられた。
32
Willemijn Stokvis, cobra, De Bezige Bij, Amsterdam 1973, p.116-117 ステイデリックムゼウムでの CoBrA の展覧
会に関する解説は、本書による。
33
Caroline Roodenburg-Schadd, op.cit., p. 61.
34
Willemijn Stokvis, op.cit., p.135
35
Nico Laan, op.cit., p.27.
36
「Dylaby」はダイナミックと、ラビリンス(迷宮)を掛け合わせた造語。ステイデリック・ムゼウムでは 2004
年にサンドベルグの回顧展を行ったが、この2つの展覧会の記録映像が上映された。かなり評判を呼んだ展覧会
だったようで、来場者が美術館の外まで行列をなし、また展示室では訪問者達が作品に対してかなり楽しみなが
ら観覧しているようすが収録されている。
37
ed. Emma Barker, Contemporary Culture of Display, Yele University press,1999, p. 39
38
Caroline Roodenburg-Schadd, op.cit.,p. 61.
39
J.C. Kennedy, op.cit., p.226.
40
Ibid.
41
Ibid.
146
第6章
42
Ibid.
43
コンスタントは姓でなく、名で呼ばれることを好み、一般に名で表記されるため、本論文でも倣う。
「新バビ
ロン」は 1940-50 年代に構想され製作され始めた。写真作品は全体を俯瞰するものは少なく、内部に入り込み多様
で異質なものが関係する空間の連続を強調する。コンスタントの新バビロンや SI の都市に関しては、Simon Sadler,
The Situationist City, The MIT Press, 2000 や Mark Wigley, Constant's New Babylon- The Hyper Architecture Desire, 010
Publishers, 1998.に詳しい。
44
ファン・アイクは展示計画を担当した。
45
Mark Wigley, op.cit., p.20.
46
Ibid., p.21
47
Ibid., p. 12.
48
Simon Sadler, op.cit., p. 182.
49
Ibid., p. 123.
50
Mark Wigley, op.cit., p. 34-36.
51
Ibid., p. 35.
52
Ibid., p. 35.
53
Ibid., p. 36.
54
Simon Sadler, op.cit., p. 122.
55
Mark Wigley, op.cit., p. 38. 1960 年 6 月 21 日付けのドゥボールからコンスタントへの手紙より。
56
Guy-Ernest Debord, Attia Kotanyi & Jorgen Nash, Critque de l’urbanism, Internationale situationniste, no. 6, pp.5-11.
Simon Sadler, op.cit., p. 122.の引用
57
『ホモ・ルーデンス』は J.Huizinga の「遊び」の理論化に関する著作で、1938 年が初版である。等から考える
と、コンスタントのいう「ホモ・ルーデンス」とは 1950 年で、コンスタントの思想背景は Guy Debord の批判的
社会理論や Henri Lefebvre の『日常生活批判』、『都市への権利』に影響されている、と指摘している。
58
J.C.Kennedy, op.cit., p. 2
59
南後由和、
「コンスタントのニューバビロンと 1960 年代の建築界との相互関係」日本建築学会大会講演梗概集
(北海道)、2004 年 8 月、p. 591.
60
新バビロンには「宗教も、道徳も、法も、芸術も、家族もなく、また都市も、住まいも、通りも、運動場もな
い(*1)」のである。コンスタントの意図するところによれば、新バビロンとは「完全なる全体芸術 であり、人類
のあらゆる活動を統合したもの(*2)」であった。
「(*1)」は J.L.Locher, New Babylon, Gemeentemuseum den Haag, 1974,
p. 12.「(*2)」は Constant, Randstad 2, 1962, p. 134.の引用。J.C.Kennedy, op.cit., pp. 2-3 で英訳されたものを使用。
61
J.C.Kennedy, op.cit., p. 1.
62
Mark Wigley, op.cit., pp. 9, 52.
63
Simon Sadler, op.cit., p. 133.
147
第2部
64
Ibid., pp. 152-155.
65
J.C.Kennedy, op.cit., p. 3
66
Ibid., p. 383.
67
Ibid., p. 3.
68
Mark Wigley, op.cit., p. 21.1998 年に行われたウィグリーによるファン・アイクへのインタビューより。
69
ファン・アイクの計画した「遊び場」は 700 以上をこえると言われている。しいかし、資料の残されているも
のは 100 以下である。Liane Lefaivre and Alexander Tzonis, Aldo van Eyck Humanist Rebel, 010 Publishers, 1999, p 17-18.
70
アレツ(W. M.J. Arets 1955-)ヨー・クネン(J.M.J. Coenen 1949-)、クールハース(R. Koolhaas)、ファン・ベル
ケル(B.van Berkel 1957-)メカノー( Mecanoo)、ウエスト・アフト(West8)、MDRDV 等国内外で活躍する建築家
を含め、多くの建築家の作品にいえることである。ただし、1990 年代以降からはこのような傾向に加え、より恣
意的な形の採用や、ニュー・モニュメンタリズムのような作品もオランダ国内では増えてくる。しかしその後も、
建築造形やランドスケープの重視は保たれており、またそれらによる景観への「遊び」の展開という文脈から発
展したものとも言うことができる。
図版出典
6.3.1 (右)Gemeente Archief Amsterdam BEELDBANK
(左)Caroline Roodenburg-Schadd, Sandberd and Stadelijk: The museum Moderniser as Collector, Stedelijk Museum
BULLRTIN 4, 2004, p. 26
6.3.2 左から Willemijn Stokvis, cobra, De Bezige Bij, Amsterdam 1973, pp. 60, 136, 140
6.3.3 Mark Wigley, op.cit., pp. 12, 20.
6.3.4 (左) ed. Emma Barker, Contemporary Culture of Display, Yele University press,1999, p.39
(右列) Gemeente Archief Amsterdam BEELDBANK
6.4.1 Simon Sadler, op.cit., p. 21.
6.4.2-α Mark Wigley, op.cit., pp. 109-110
6.4.2-β Mark Wigley, op.cit., p. 88
6.4.2-γ A: Mark Wigley, op.cit., pp. 180, B: Mark Wigley, op.cit., pp. 186-187, C: Simon Sadler, op.cit., p. 31, Mark
Wigley, op.cit., p. 189
6.4.3. (左列 上
(左列
下)
スペールプラーツ)
Gemeente Archief Amsterdam
Liane Lefaivre and Alexander Tzonis, Aldo van Eyck Humanist Rebel, 010 Publishers, 1999, pp.41, 78.
(右列)Mark Wigley, op.cit., pp. 26(上), 76(下)
6.4.4 (左)Mark Wigley, op.cit., p. 25, (右)Liane Lefaivre and Alexander Tzonis, op.cit., p. 78.
6.4.5 Liane Lefaivre and Alexander Tzonis, op.cit., p. 116.
6.4.6 総て Hans van Dijk, Twentieth-Century Architecture in The Netherlands, 010 publishers, 1999, A: p. 157, B: p. 180, C:
p. 175, D: p. 186
148
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