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第2部 変化の20世紀:大衆化と都市の複雑性の受け入れ、多様性の

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第2部 変化の20世紀:大衆化と都市の複雑性の受け入れ、多様性の
第2部
変化の20世紀:大衆化と都市の複雑性の受け入れ、多様性の制度化と解体
「記念的性格の欠落」というオランダの都市の特質が、記念的な都市空
間の獲得への熱意となり、その表現やその空間の在り方、さらには社会
におけるその空間の妥当性の議論を継続させた。この新たな都市の中心
に関する 20 世紀後半の議論は、当然のことながら都市の造形に関わる
人々が都市をどのように捉えようとしてきたか、ということも関係する。
20 世紀前半の近代建築の世界的主流を形づくろうとする方向性に限界が
見えてきた 1940 年代が近づいてくると、装飾や彫刻といったある意味非
合理な要素と建築の協働が、新しい記念性を作り出すための必要の問題
として公に議論されはじめる。またこの頃は、芸術と人間、社会との関
わりに関するさまざまな実験がおこなわれ、今日の現代美術の展示方法
が確立された時代でもある。さらにオランダ社会の価値観は、60 年代を
堺に大きく変容し、さらに都市化と大衆化が進んだ。社会の真の主役は
大衆であり、その個性と多様性が都市における文化であり創造力である
と宣言された。
第2部
第4章
都市とは何か?オランダの近代建築運動の状況と都市の複雑性への気づき
1.はじめに:20 世紀前半のオランダの近代建築運動の多元的な傾向
20 世紀初頭、アムステルダム市は増え続ける人口に対応するために、労働者向けの住宅建設や住環
境の質の管理に力をいれ、アムステルダム市周辺部の開発もすすめていた。ヨーロッパ全体は戦争に
向かっており、2 つの大戦中は、オランダは中立を保とうとした為に非常に困難な立場におかれ、経済
は衰退した1。第一次世界大戦では、連合軍とドイツとの間で中立を守ることは非常に困難であった。
また、戦争によって一部のものが巨額の富を得た反面、国民の多くは失業し、飢え、困窮していた。
比較的建設活動が継続されていたオランダではあったが、2 つの大戦中は、理想的社会の実現よりも、
実際の社会問題に対処する建設活動の方が優先された。この間ムゼウムプレインへの提案や議論も一
旦下火になる。この 20 世紀の前半は、ヨーロッパ中が顔をつきあわせて、建築の役割や都市の本質に
ついての議論をし、その理論化を盛んに行った時代でもある。建築にかかわるもの達は、建築をどん
な芸術よりも優れたものだと宣言し、証明しようとしていた。そしてこの時代の都市を捉えようとす
る努力や、様々に試された建築と人間の関係の理論化は戦後の大衆と都市との関わりに影響を与えて
いる。まずこの章ではオランダの建築運動の国内の動きを振り返ってみる。
第一次世界大戦の 4 年間は、多くのヨーロッパの建築家や芸術家の「物作り」の活動は中断された
ようなものであり、
「思索すること」の比重が増した。
『近代建築の歴史』の著者のヴェネヴォロは「戦
争は技術の進歩を早めたが、それらはもはや創造ではなく破壊の為に使われ、大義の為に技術本来の
意図と目的との間の距離はひらくばかりであった2」と書いている。先端技術の開発によってもたらさ
れたものは、輝かしい未来を示すものばかりではなく、かつてない残酷さや悲劇をももたらした。建
築家や芸術家達は、その活動とその作品が社会性を帯び、ある社会的目的や使命を持つ媒体となるこ
とを望むようになる。例えばシュレアリズムが政治や社会と密接にかかわり、芸術を通した発言で社
会そのものに働きかけることを一つの目的としたように、社会に対する提言こそが芸術家や建築家の
活動とする動きもあった。比較的都市の建設活動が継続していたオランダでも、建築の持つ社会性や
文化的関与に対する再考と議論の傾向が強まってくる。芸術家や建築家達は仕事を通して社会環境を
創造することに加え、社会問題定義や議論、理想的社会像を提示しようとしはじめた。
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第4章
オランダは、20 世紀に前衛芸術運動、近代建築運動や都市計画における先駆的、前衛的な存在でも
あり、理論面でオランダの果たした役割も大きい。デ・ステイルは、当時の前衛芸術活動の重要人物
や機関に接触した。例えば、エル・リシツキー、バウハウス、ル・コルビジェ、CIAM と積極的に交
流することで建築における合理主義、機能主義の理念を確立し、また近代建築運動が国際的指向性を
持つのに影響した。また、その活動は、近代建築運動が国際標準の模索へと進む道を切り開くための
初動的役割を果たしたという側面も認められるため、デ・ステイルは近代建築運動の大きな歴史の中
ではより重要に扱われている。1928 年のラ・サラでの第1回 CIAM3でおこなわれた唯一の講演は、ベ
ルラーヘによるものだった4。
ただし、オランダ国内の建築運動全体を俯瞰してみると、その実際は、ある主流的な考え方や形式
に、建築に関わるあらゆる運動を統合させていこうというよりは、様々な運動集団が、並列し、多元
的に存在し、集合・離散しつつ、互いに影響しあう状態を保ち続けていたと考えたほうが実情に近い。
実際オランダ国内での建設活動に関しては、デ・ステイルよりもアムステルダム派の方が多く、また
地理的条件から北欧モダニズムの影響や伝統主義、その他の近代建築作品もある程度の作品数を残し
ている。さらにオランダの各建築運動は時期が来ればあっさりと解体され、次世代の団体が形成され
るように、建築運動の新陳代謝も活発だった。例えばオランダにおけるパリに触発された 19 世紀的な
欧州近代都市を目指した首都建設を行おうとする機運の高まりは、18 世紀の経済的低迷を克服した
1860 年代後半からの約 30 年弱程のことである。そしてそこにはすでに 20 世紀近代建築の時代への架
け橋としてのカイペルスの活動もあった。ヴィオレ・ル・デュクと親交のあったカイペルスの仕事は
オランダの知性と認められ、偉大な芸術であった。彼は煉瓦という素材をオランダにおける本質的な
素材として選び、その可能性を示唆し、多くの美しい作品を残した。彼の権威は海外にまで利用され
ていたし5、彼のあとにつづくオランダ近現代建築発展の楔を打ち込んだ存在といってもよい。
19 世紀末にはベルラーヘを代表とするオランダ 20 世紀近代建築、都市建設活動が始動する。カイペ
ルスの精神はベルラーヘが歴史主義、折衷主義を取り除き、形を変えながらも引き継いだ。彼はアム
ステルダム市と協働して都市計画に関わったが、建築が都市空間の美を作り出す主体と設定し、総合
的な計画によって、建築が織りなすピクチャレスクな都市美を創造しようとした。人口は急速に増加
しており、また行政が集合住宅の建設や労働者向けの住環境整備に力を注いでいたこともあって、オ
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第2部
ランダの近代建築運動では、建築が公共性をもつことは、個人的な建築物をつくることよりも重要な
テーマであり続けた。
それにつづくオランダ近代建築運動の代表的なものにはデ・ステイルの他、それ以前に活躍を始め
ていたアムステルダム派がいるし、機能主義や、機能主義から展開したダッチ・ファンクショナリズ
ムとも言われるニュー・ボウエン(het Nieuwe Bouwen:新建築)運動を推し進めたオップバウ(Opbouw)
がある。彼等の実践を伴う建築や都市計画には国際的な注目があつまった。ただしそれら内部での集
合離散は激しく、これらの活動は国内ではどれも 1930 年代には解散したり、縮小する。
例えば 1917 年にライデンで発行された雑誌名にちなむデ・ステイルは、1913 年から 1917 年の間に
モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)によって練り上げられた考え方を、ファン・ドゥーズブルフ
(T. van Doesburg 1983-1931)らが理論化して広めた。しかしデ・ステイルの内部の人物の関係図式は
複雑であった。デ・ステイルの代表であるファン・ドゥーズブルフは、グロピウス(W.A.G. Gropius
1883-1969)、ミース・ファン・デル・ローエ(L.M. van der Rohe1886-1969)、エル・リツシキー(El Lissitzky ,
1890-1941)といった人物と協働して展覧会などを行うことで、デ・ステイル活動を国際的なものにし
た。1923 年には後に CIAM 議長になるファン・エーステレン(C. van Eesteren 1897-1988)が加入し
デ・ステイルの活動を支えていく。しかし、1920 年代初期にはファン・ドゥーズブルフはグロピウス
と不仲になり 1921 年にバウハウスを去った。オランダ国内組の離反はもっと深刻で、1926 年にはモン
ドリアンとドファン・ドゥーズブルフは意を違え離れ、アウト、ウィルス(Jan Wils; 1891 -1972)らの
デ・ステイル創設に関わる人物らも去った6。後期にはリートフェルト(G.T. Rietved 1888-1964)とフ
ァン・エーステレンもデ・ステイルと決別し、彼等は機能主義へと傾倒していく7。1931 年のドゥース
ブルフの死を持ってこの活動は終焉する。
デ・ステイルの活動の中心的人物で、多くの論文を発表し、発言を行ったアウトは、オランダの建
築運動の中でも、とりわけ自律し、自由に行動した存在だったと表現できるだろう。彼は、初期はデ・
ステイルの考え方を自身の活動の中心に据えていたが、1918 年のデ・ステイル宣言には著名していな
い。さらに様々な建築グループの活動に出入りし、常に自身の建築の作風を変化させた。最も親密な
関係にあったデ・ステイルとも実は最初から距離をもっており、独立した精神で活動することで、同
時代への客観性と批判的姿勢を保ちつつけていたと考えられる。彼の作品の変化は、彼の活動が理想
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第4章
の理論化や絶対的理想形の実現にこだわるよりも、理論化されたものを解体し、その精神を世間の求
める、理解可能な形にして建築に置き換えていくことに重きをおいていたようにみえる。
1920 年には既に次の波が来ていた。1920 年にクロムホウト(W. Kromhout 1864-1904)とブリンクマ
ン(J.A. Brinkman 1873-1972)は、建築家や芸術家が意見交換をするためのクラブ、オップバウを作
った。そこはアウトやエーステレンらも参加し、後にはマルト・スタムが参加することでニュー・ボ
ウエン運動の中核となっていく。さらに、アウトは独立した一人の建築家として、前衛芸術雑誌『I
10』の編集にも参加した。1927 年にはアムステルダムを中心にしたダッチ・ファンクショナリズムと
もいわれるデ・アフト(De8)がメルケルバッハ(B. Merkelback 1901-1961)の先導で結成された。デ・
アフトは「美的、物語性、感情、キュビズムのどれでもない」と自らを表現したが、デ・ステイルも
アムステルダム派の建築もベルラーヘの様式に対する姿勢も否定的し、様式よりも科学的根拠に基づ
くことをよしとした8。
1932 年には、オップバウとデ・アフトは協働した活動を始めている。この活動に加わった新メンバ
ー達は自分たちをグループ 32(Groep’ 32)と呼び活発に議論を行ったために、オランダの機能主義は
力を持ち、益々隆盛するように見えた9。デ・アフト自体はファン・エーステレンやリートフェルト、
ファン・アイク等などが加わっており、CIAM オランダ事務局としての活動も続けていた。特にアム
ステルダムの都市計画に関しては、1929 年にファン・エーステレンがアムステルダム市に新設された
公共事業局都市計画部の長に就任したこともあり、オランダの都市計画に対する機能主義の考え方は
一定の力を持っていた。しかし、1928 年にはオップバウの中核だったスタムがソビエトに行き、ブリ
ンクマンは大きな仕事に取りかかっており、運動の前衛的性格には陰りが差していた。
『20 世紀のオラ
ンダ建築』の著者ファン・ダイクは、グループ 32 がコルビジェの言説や古代建築に魅せられ、美に重
きを置く傾向に後戻りしていたことを指摘している10。1938 年にグループ 32 のほとんどが、オップ
バウとデ・アフトから去った。その原因はダッチ・ファンクショナリズムに追従した後に、イタリア
バロックに魅せられたラフェステイン(Sybold van Ravesteyn 1889 - 1983)11との間でかわされた議論だ
ったという12。彼の作品には、ダッチ・ファンクショナリズムからの離脱と疑問と反抗の意思表示が
はっきりと表されている(Fig.4.1.1)。つづく 40 年代初期には建築の前衛批判も目立ち始め、チーム X
に参加したバケマ(J.B. Bakema 1914-1981)やファン・アイクといった若い世代が新たな動きを起こしは
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第2部
じめていた。
また、オランダではこのような集団に属さず、流動的に動いたり、独立して活動するものも、多く
の重要な建築・都市建設活動を行う機会を得ていた。例えば、極度な軽量感・透明感そして可動的建
築の金字塔であるファン・ネル工場(Fig.4.1.2)の設計者の一人であるファン・デル・フルークト(L.C. van
der Vlugt 1894-1936)13、ヒルバーサムのサナトリウム(1928)で知られるヨハネス・ダイケル(Johannes
Duiker1890-1953)がいる。また、ベルラーヘとアムステルダム派の両方の流れをくむスタール(J.F.
Staal1879-1940)も重要な建築家であった。さらに当時の前衛建築運動の示す概念を敏感に汲み取り
ながらも、一線を画すことで、それらが取り落とした要素を温存し、地域に根ざした建築の要素を新
技術や前衛的と折衷し、さらに表現主義や新造形主義、構成主義など調和させた建築を生み出したデ
ュドック(W.M. Dudok 1884-1974)もオランダの都市計画にとっての重要な足跡を残している。彼は軍
隊の土木技師を 30 歳の時に退役し、ライデンの土木技師を経て、1915 年にアムステルダム近郊の急速
に発展しつつあったヒルフェルスムの土木技師に就任した。1918 年にヒルフェルスム都市計画を担当
すると、その後同地区の労働者住宅から学校や市役所といった公共建築を設計し、都市計画と建築を
Fig.4.1.1 S. van Ravesteyn p91
‘Holland van 1859’ 事務所棟 1937-39 (右) クンストミン劇場 1938-39. 平面図及び内観(左)
Fig.4.1.2
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W.M. Dudok
Brinkman & Van der Vlugt
Fig. 4.1.3
ファン・ネレ工場 1927-1931
バイエンコルフ百貨店 1930
第4章
全体として適合させる都市計画を行った(Fig.4.1.3)。また、トラディショナリズムは特に第二次世界大
戦後の都市の復興を機に、その必要性が社会的に肯定され、存在感が増した。
またファン・アイクの位置は、近代建築運動の中心と常に接触をしながらも、批判的で、結局その
行動は独立して個人的行動をとり続けており、時代は前後するがアウトと重ね合わせて見ることがで
きる。この 2 人は次章で取り扱う 20 世紀を通しての、都市の記念性に関する試行錯誤と議論における
重要な語り手でもあるが、ファン・アイクはアウトに比べ建築の存在自体に対して否定的もしくは悲
観的な態度示す点で異なっている。彼等はオランダの 20 世紀建築運動のなかでも特に雄弁な人物で、
多くの論文を発表し、影響力があった。2 人とも都市計画に関与し、ある建築運動グループの中核にい
るように見えて、その実常に内部批判的であった。ファン・アイクは一度オップバウとデ・アフトに
加入するもすぐに疑問を持ち、CIAM を終焉に導くチームXを結成するがそれとも異なる行動を示し
た。このように様々な建築グループとも関係しながらも、集合的な運動からある程度の距離と批判的
精神を保つ独立した個人が時代を通して存在し、建築と都市の創造に重要な役割を担ってきたことも
オランダの 20 世紀の近代建築運動を特殊なものにした要因である。
さらにオランダでは 1920 年代半ばからは、伝統美を重んじるトラディショナリズムの建築家達もい
くつもの重要な仕事をしている(Fig.4.1.4)。クロップホレル(A.J. Kropholler1822-1973)は、市役所や学
校などの公共施設を建設した。デルフト派がダッチトラディショナリズム同義で語られることがある
が、それはグランプレ・モリエール(M.J. Granpré Molière1882-1973)が 1924 年からデルフト工科大学
の前身である工業高等学校で教授していたことに因っている14。1930 年代には、彼の弟子達も活躍し
A.J. Kropholler ヴァルヴァイク市役所 1929-31
M.J. Granpré Molière 教会(ブレダ)1951-1953
Fig.4.1.4 トラディショナリズム建築の例
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第2部
始めていた。また第二次世界大戦の戦後復興においてグランプレ・モリエールとデルフト派が強い影
響力を持ち15、トラディショナリズムはニュー・ボウエン派にも影響をおよぼしていた。グランプレ・
モリエールの最も重要な作品は第2次世界大戦後だが、洗練された美しい佇まいのブレダにある教会
やオースタービークの市役所を残している。その他のトラディショナリズムの建築例としては、1930
年代には北欧トラディショナリズムの影響の見られるボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館やエ
ンスケーデの市役所などの公共施設も建設されている。
このように、当時のオランダの建築運動は、ある流派の継続や、国際的な基準、建築のありかたの
主流となる方向性を確立しようとして、次世代に伝える組織化をはかり、その地位を社会的に確実な
ものとするよりも、興味の赴くままに新しい考えに触れあうことや、意見が違えば決裂し、新たな考
えに沿った新規のサークルを形成しながら実際の都市にその考え方を映していこうとする傾向があっ
た。それぞれの活動が影響を与え合うことで、自己の感覚に正直に、建築に対する姿勢を修正し、客
観性を受け入れて変化していくことは建築を進化する上で望ましい、もしくは避けて通れない過程と
いう認識がそこにはあったと言えるのではないだろうか。例えばオランダでは、バウハウスのように
近代建築やデザインの理念を発展させるために為に同時代の近代建築の理念を発展させ、次の世代に
受け継がせようとする確固たる権威的機関を発展させるような行動はほとんどみられない16。オラン
ダの近代建築運動は、1つの大きな運動に向かって行動したり、主流的なオランダ建築文化を創ろう
とする方向性は弱く、それよりも様々な考え方が存在することをみとめ、集合離散を繰り返しながら、
次の新たな運動を形成していく傾向がある。多様な考え方を反映した建築が同時代に共存し、その新
陳代謝も速い。そしてアムステルダムはその影響を直に受けてきた都市でもある。
2.伝統としての多様性:都市の複雑性の受け入れ
ベルラーヘの公理は「多様性の中の統一」17だったが、現在でもオランダの集合住宅地区開発を見
たとき受ける質は統一感の中の多様な要素のせめぎ合いである。しかし、これは 20 世紀の社会民主主
義的思想に支えられた発想というよりは、個性の表出を許すと同時に、社会を円滑に運営するために
用いられてきた、オランダの都市や景観に対する伝統的な対処の方法であるといえる。例えばアムス
テルダムの運河に沿って立ち並ぶ 16 世紀から 17 世紀の住宅群は、個人の名声、品格、富、成功の象
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第4章
徴であり、競いあうように様々に装飾されている。しかしそれらは、一定した建築規模、形式、互い
に近似した素材、グラデーションがかった煉瓦の色彩る統一感の中に、多様な個人性という「揺らぎ」
がせめぎあうことで、アムステルダムという街に心地よいリズムを与え、ユーモアと美しさ、なおか
つユニークなものにしている(Fig.4.2.1)。
都市が時代の先端を纏い、権威を証明することが課せられた 19 世紀末には、17 世紀オランダ・ルネ
サンスやゴシックが国家を象徴する様式として採用された。カイペルスの活動は、レンガをオランダ
建築における基本的な素材と認め、その素材の可能性を引きだすための設計と、彼の卓越した個性に
よって 20 世紀オランダ近代建築への架け橋となる変化をもたらした。アウトは、カイペルスの建築が
構造の合理主義に先陣をつけたことに加え、様式建築の主観的な解釈の域を出ることはなかったが、
様式建築の特性とも言える客観性のみの建築、つまり感情に乏しい伝統建築の応用に陥ることなく、
そこに主観を対置することによって「活きた」要素を持ち込んだと評価している18。それに加え、そ
の他の様々な様式が街並みに馴染ませられながら展開したことで街には活気が与えられていた。例え
ば、カイペルスと同時代に活躍したアムステルダムの最も多産な建築家であるヘントは、多彩な作風
でしられる。彼の作品は、様々な古典を引用した折衷様式の建物からダッチ・ユーゲントステイルま
で、建物によってさまざまな建築様式を採用しているが、ヘントの個性である軽快さと洗練によって、
それぞれを既存の街並みに難なく順応させ、街に洒落た表情を与えるのに貢献している(Fig.4.2.2)。
それに対してベルラーヘの創造の特性は、アウトの表現をかりれば「ほとんど禁欲的」で「著しい
控えめな傾向の点」19であり、
「個人の自由がほとんど解放されないまま、またしても合法則的なより
Fig.4.2.1 マックの『アムステルダム』の表紙。
運河沿いに立ち並ぶ家々が各々の色・形をもってカラ
Fig. 4.2.2
ラドハウシュ通りの商店街
1896-99
A.L. van Gendt
フルに描かれる。
89
第2部
高次の美的解釈の方が優先される」20と表現される。ベルラーヘのアムステルダム南地区の都市計画
は、1902 年の契約時から 1917 年までの間に幾度も変更された。初期は労働者の為の町の計画だったが、
最終的な計画では、とくにアムステルダムに近い地区ほど高級住宅地が計画されている。初期の提案
では、ジッテが示したような都市計画や田園都市の影響も見られたが、後期にはオスマンのパリを彷
彿させるような都市軸を何本も組み込んだ都市計画へと変化する。その理由として、1 つには田園都市
的な都市計画は、大通りで都市を分割する直線的、街区の区別の明瞭な計画に比べて、その計画の実
行にお金がかかること、またベルラーヘも最終的に首都には記念性を表現する景観を持った場所があ
るべきだという結論に帰った、などといわれている。アムステルダム南地区の魅力はベルラーヘの禁
欲的な抑制の姿勢によるマスタープラン、材料の統一、街区規模の規定に対して、慎重な建築家の選
択とその建築家達の多様で、個性的で伸び伸びとしたモチーフをもった建築がもたらす、楽しさとの
絶妙の掛け合いにあり、おそらくベルラーヘが計画した以上の豊かさが生まれたことによってその評
価が上がったともいえる。とくに戦後の実施を受け持ったデ・クレルク(M. de Klerk1884-1923)、クラ
メル(P.L. Kramer 1881-1961)、ヴィデフェルト(H.T. Wijdeveld 1885-1987)というアムステルダム派
の個性的な面々の参加は、あまりにも規定された不自由さや、人為的で非人間的な統一を回避した。
ベルラーヘが生み出した統一は、個性を無秩序や暴力にせず、平和的で遊戯的な都市空間へと導いた。
両者の関係によって計画以上の空間の豊かさを得たとも言える。
20 世紀初期の近代建築運動を大きく捉えれば、生活を取り巻く総ての構成要素を、論理的に説明で
きるある統一された理想的環境に作り替えていこうという目的も持っていた。しかし、近代建築運動
の中心的役割を担ったオランダの建築家たちは、理論を実際の都市に応用する中で、多様な要素の共
存が都市にとっての自然であり、人間的な環境であることも、比較的早い段階で容認していったよう
にみえる。アウトはオランダの建築や都市の状況を鋭く分析したが、近代建築運動のもたらしたもの
について次のように述べていた。
ベルラーヘ的な考え方が確立した後、ネザーランド建築におきたどんな注目すべき改
革でさえもどちらかといえば心理的には理解できても、論理的には説明できないもの
である。21
90
第4章
デ・ステイルは、2 次元から出発したが、単に絵や彫刻や単体としての建築の枠をこえて、人間を取
り巻く環境全てに目を向けていた。全体である環境はある一つの概念で統一されるべき22だと考えら
れた。また、芸術・経済・技術を形態に統合し、社会を覆う都市景観が普遍性を持った要素の構成、
対比、配置、緊張によって作られるべきだと考えていた。しかし、この理念に従って完成された環境
はほとんどなく、また試されても、継続されなかった。例えばシュローダー邸以降のリートフェルト
はデ・ステイルの概念を追求することをやめている。またアウトはファン・ドゥーズブルグのやり方
は純粋すぎて、厳しすぎ、そのようなものを突き詰めたところで現実的な社会的建築は生み出せない
と考えていた23。
アウトは 1923 年 8 月のバウハウス週間で「オランダの近代建築」と題された講演をおこなった。そ
の中でデ・ステイルの考え方は、彼の求める建築的価値の中核ではあるが、その言葉の端々に都市と
は多様性の集合だ、ということを肯定していた節が読み取れる。彼は「オランダの近代建築」の中で
都市景観や実際に都市の中に繰り広げられる建設活動の非理論性と都市景観における複雑性について
触れており、その言葉の端々に都市景観は非論理的で多様な考え方に基づいた建設活動が積み重なっ
て形成されていくもの、ということを示唆している。この講演の基本的な内容はデ・ステイルの建築
運動を賞賛したものであり、彼が普遍的な様式や全体性というものを追求していたことを考えると矛
盾しているように聞こえるかもしれない。しかし、彼自身が本質的に批判的で、近代主義や近代建築
運動の団体化に疑問を持ち、距離を置く立場にいた。またあまりにも明確に説明されようとする単純
化したシステムの提示や、近代建築運動の主流を作ろうとする傾向に疑問感じていたようである24。
ファン・ドゥーズブルフは、論理に忠実な建築、都市環境の創造を望んだが、アウトは伝統的な建築
形態を受け入れることに関して抵抗はなかった25。むしろ新しい概念を、より親しんだ形態、リズム、
素材を用いながら新たな精神を完成させることの方が「健康で、幅広く、普遍的な社会的建築」26を
生み出すことができると考えていた。彼の作風は時代に対応して変化していく。彼は、建築の中で起
こっている当時の動きを「近代的なもの」と「新しいもの」に分けて次のように述べた。
「近代的なもの」と「新しいもの」とを、個別的に生成するものと集団的に生
成するものというふうに定義づけた場合、ここから直ちに最初に述べた事実が
発生する。つまり「近代的なもの」あるいは「新しいもの」の始まりについては話
91
第2部
題にできないということである。原因と結果とは密接不離にむすびついたもの
であり、それは絶えず事象の進展の中で相ついで起きるものである。始まりも
なければ終わりもない。あるのはただ動きだけということになる。27
デ・ステイルを始めた頃のアウトは、建築の個人性を否定し、建築の標準化に熱心に取り組んでいた
(Fig.4.2.3)。彼は 1918 年にロッテルダムの主任都市計画家に就任し、ベルラーヘの理論を手本とした都
市計画をすすめた。アウトはアムステルダム派の中に、異質さと奇抜さ、極端に推し進められた非合
理性をみていた。ところが、1920 年代に入ると彼が非合理とした幾つかの作品をとりあげて、まちま
ちな形態の集合にもかかわらず、適度な緊張感があり街路の景観に独創的でダイナミックな感動的な
リズムを醸し出していると評価した。彼はこのような建築は個人的で、わがままで勝手な自己実現欲
や建築家固有の建築感による名人芸的な建築と述べたが28、同時にそのようなものがもたらす生命力
や躍動感は都市に生命力を与えることも認めていた。アウトの作風は時代によって変化し、後にはニ
ュー・ボウエンやモニュメンタリズム的ともいえる作品もある(Fig.4.2.4)。彼の中で、個人的で主観的
なものも、客観的で普遍性を目指すものも建築文化の発展の歴史の中で避けられない必然であり、都
市を活きたものとするうえで双方は不可欠な要素だという認識に変化したことが読み取れる。彼の非
常に客観的な態度や同時代の建築運動に対する批判的精神は、都市の複雑さや彼自身の美的嗜好とは
相反する、もしくは制御できない傾向をも含む多様な表現の集合体であることを、都市の自明として
受け入れていたからだといえるだろう。
Fig.4.2.3 J.J.P Out
海岸通り素意の連続住宅の為の設計 1917
Fig.4.2.4 J.J.P Out
Bioサナトリム 1952-60(上・左下鳥瞰写真)
IBMビルディング エントランス1938-46(右下)
92
第4章
1938 年の CIAM の刊行物でギーデオンは、CIAM には二つの対立する潮流が存在すると述べていた。
「高所から出来事に直面し、新しさに対する包括的な概念を選択することを好む」フランス、スペイ
ン、ポーランドと、それに対立する全ての事象を科学的に「分析」しようとするドイツやスイスのグ
ループである29。近代建築運動の主流を占める一派は、建築による都市構造によって、都市をある包
括的概念で統一し整理し、純粋化しようとしていた。それに対して、もう一派は都市の複雑性や非合
理性を都市の自明的性質として受け止め、それに対してどのように問題を解決できるかというアプロ
ーチであるが、オランダは後者に入れられている。国土全体の都市化と社会の大衆化は時代と共に進
行し、都市の把握はますます複雑になる一方であったが、このように分析的グループに入れられてい
るオランダは、意識的でなかったにせよ 20 世紀の初期から都市は複雑で多様なものを含んでいること
を自明のことと受け入れていたようである。機能主義的都市を推し進めたファン・エーステレンも、
現実主義者であった。彼の都市の理想像を提示は、調査や統計による科学的根拠に基づく現実都市の
把握と分析を前提として成り立つ都市計画であった。
・
・
・
オランダの建築運動は、CIAM 等の欧米全土的に建築に関する論理的に正しい統一的な、共通見解
を導こうという近代建築運動の方向性作り出すきっかけを与えた出来事の 1 つでもあったといえる。
また、オランダは都市建設に関与する機会に恵まれていたこともあり、特に CIAM の都市に関する部
門で重要な役回りを演じていた。しかし、実際の都市の建設においては、現実社会や現実の人間と向
き合わなくてはならず、結果として多様性と複雑性が都市の持つ自然であり、生命力の表象となるこ
とを追認させられる結果となった。つまり理論が都市へ展開される時には、社会の現実に耐え、受け
入れられるように解体される必要があった。また 1940 年代頃からは 20 世紀前半の近代建築運動に対
する批判の一つは、理想主義的な都市の4つの機能主義の分類、住居、労働、レクリエーション、交
通というあまりに単純化された分類への反発でもあった。オランダの建築家たちが無自覚であったと
しても、20 世紀の初期からアウトなども都市の複雑性について触れており、オランダの都市計画の実
行過程でその複雑性はある程度自明のこととして受けいれていっていたことがわかる。
93
第2部
3.20 世紀前半の都市計画技術の発展と展開
19 世紀までは都市は壁によって定義されていた。しかし壁が意味を失い、取り払われたことで都市
を捉えることがこれほどまで困難になるとは誰が予想しただろうか。19 世紀後半には欧州の多くの都
市の人口は急増する。労働者達が流入し、都市はより多様な階級の人々の存在を許容せざるをえず、
また許容範囲を超えてあふれ出した。社会主義的精神の台頭は、その社会に属する全ての人を平等に
市民化する方向へと向かう。そして依然としてそこに階級差はあったとしても、その格差を取り払い
徐々に不明瞭にしようという方向に向かった。それ以前の階級格差は、都市景観の中でも意味を失わ
され不鮮明なものにされようとされていく。20 世紀前半には、急速に拡大する人口と、複雑化する社
会、拡散する都市をどう捉えて制御するべきなのかが都市にかかわるものの課題になった。その為、
行政は様々な方策を立てて、都市を制御しながら発展させるべきかに心を砕き、都市計画の制度化を
押しし進めた。
1902 年の住宅法の施行は、自治体への土地買い上げ権と収用権を付与し、低質な投機目的の住宅供
給を防ぐための優遇金利政策や、自治体による計画的な都市開発指針の作成や見直しの義務など、自
治体が都市計画に主体的に関われるような制度化を進めた30。1900 年にアムステルダム市に助言を求
められたベルラーヘはアムステルダム南の拡張計画に携わり、一建築家と市の公共事業局(Publieke
Werken)が協働する都市計画が始まった。オランダの近代建築運動は既存権力への対抗や過去への反動
という構図ではなく、都市の創造においてむしろ行政と建築家が一体となってその変化を進めてきた
点が他の国との大きな違いである。
1930 年代から 50 年代頃迄はファン・エーステレンを代表する機能主義の考え方が力を持っていた。
彼はパリ、ソルボンヌで都市計画を学び、1929 年にアムステルダム市に新たに新設された公共事業局
都市開発部の初代主任であり、その部長に就任したが、これは市の内部に都市計画を担う部署が初め
て正式に組織されたことも意味している。彼は、CIAM の都市に関する活動にも積極的に関わり、1931
年から 47 年にかけて議長に就任した31。彼が率いる都市開発部は、1934 年にアムステルダム総合都
市計画(AUP)32を作成した。
ベルラーヘとファン・エーステレンはともに一歩先のアムステルダムの都市の有り様を描き、都
市計画を実行してきた。両者ともにオランダの都市計画における偉大な教科書であり、それ以降のオ
94
第4章
ランダの国土と都市への取り組みへの示唆や方法論を示した。しかし、ベルラーヘをアーバン・デザ
イナー的、ファン・エーステレンのアプローチをアーバン・プランナー的と表現することもあるよう
に、彼等の都市計画の拠所は違う。ベルラーヘは、街区、街路、広場などに注目し建築を延長して都
市デザインに組み入れ、都市美を最大の基準として地域全体の総合計画を練り、現実的な問題に取り
組みながら、地に足のついた理想的都市の創造を試みた。第2章でも述べたが、ベルラーへの最も評
価されている都市計画、アムステルダム南地区の空間的な豊かさは、ベルラーヘの禁欲的な抑制の姿
勢によるマスタープランに対し、実施をになう面々はベルラーヘの考え方を理解しながらも、一見ベ
ルラーヘの性格からかけ離れたような、有機的で自由な造形を模索し、彼にない個性を持った建築家
達を慎重に選択したことによって生み出されている。
次に行政の内部からアムステルダムの都市計画に深く関与したファン・エーステレンは、都市の
成長を予想し、地域のゾーニングや交通網といった都市の構造の大枠を決定する「構造計画」と呼ば
れる計画手法を残している。この構造計画は、現在のオランダ国土空間計画の基礎でもある。彼は現
実の都市の状況を読み、状況を分析することで現実の問題に対処し、解決しながらアムステルダムと
いう都市の展望を描いた。都市を構成する要素(工場、住宅地、交通網、スポーツ施設等)を分析抽
出し、それらの集合した構造体として都市を捉え、美以上に、調査や統計に根拠を求めた都市計画を
行った33。構成要素の最適な分布と配列によって都市を機能させるという、科学的な都市計画研究と
手法を実践し始めた。この流れは、現代オランダの社会経済・社会地理的な調査に基づく国土空間計
画に繋がっている。彼は、アムステルダムの都市計画に機能主義を全面的に採用し、住宅、職場、レ
クリエーション、交通の 4 機能分離の考え方を反映させた34。
ところが、アムステルダム市の公共事業局都市計画部の内部をのぞいてみると、ファン・エーステレ
ンと意見を異にする個性的な面々が共同して仕事を行っていたことがわかる。ファン・エーステレン
率いる都市計画部の設立の翌年には女性建築家ヤコバ・ムルダー(Jacoba Mulder, 1900-1988)が副建築
家として迎え入れられている。彼女はデルフト工科大学を卒業し、デルフトの都市計画に関わってい
た人物である。実質この都市計画部は、主任建築家であり部長のファン・エーステレンが計画の大枠
をつくり、ムルダーはそれらのプロジェクトの詳細を検討して具体的な計画案にすることを担当して
いたが35、彼女は反 CIAM であった36。彼女は 1952 年には主任建築家に昇格し、1958 年のファン・
95
第2部
エーステレンの退職にともない部長に就任している。
またファン・アイクも 1946 年から 50 年までアムステルダム市の都市開発部の一員として働いていた。
彼はフランスの文化人類学、文化進化論に影響されており、彼の態度は当時のオランダの建築家達の
なかでも独特路線を進んでいた。彼は人間の自発性や都市の迷宮性、時間の観念に着目して、都市空
間にもアプローチした。総合的な都市の全体像を見せるよりも、都市の部分の変化の積み重ねによっ
て全体的な変化をもたらそうとする傾向がある。そのためか、建築や街区そのものをまるっきり新し
く作り変えたり、視覚的に芸術的な統一感を実現したりすることには興味を持っていなかった。日常
空間へ、抽象的なオブジェや遊具などの設置し、最小限の干渉が都市環境や人間の行動様式に最大限
に作用する状況、仕掛けを作ることに興味を持った。ファン・アイクが市役所を退職した後も、ムル
ダーは反対がありながらも、アムステルダムの町中に改革された 700 近くの「スペールプラーツ(子
供の遊び場)
」計画を彼に委託しつづけた37。このように、国際的影響力をもち国内でも敬意をはらわ
れていたファン・エーステレンが主任でありながら、それと同等に個性が強く、意見を異にする人物
達が同じ組織で都市計画を協働で行っていた。これは、オランダやアムステルダムが持つ都市空間に
おけるユニークさ、多様性と統一感の均衡、またそれを個性として保ち続けられた根拠の一つと考え
ることもできるだろう。
20 世紀初頭から半ばにかけてベルラーヘの都市美に基づく総合計画、ファン・エーステレンの構
造計画が示したことは、現在のオランダの都市、建築計画を推進する時に示されるべき基本的条件で
ある。また第1部で述べてきたようにオランダ社会の伝統的な特徴として、異質な物に対してのある
程度の寛容、もしくは互いの利害に侵攻しない限りの無関心・不干渉がある。ベルラーヘ、ファン・
エーステレン双方の根拠は違っても、これらの都市計画技術は、都市に1つの概念で統一された景観
を与える為ではなく、むしろ雑多で多様な個性の存在する都市の自明を受け止め、またそのような都
市をある統一感をもって成立させるための基盤を設定し、有効にするために発展してきたともいえる
だろう。
96
第4章
小結
オランダ国内の 20 世紀の建築運動の特徴の 1 つは、多元性と多様性、多発性である。そしてさまざ
まな運動の一本化を図ることや統一的見解をつくりだすことへの興味の希薄さである。建築運動の中
心もアムステルダムに集中せず、次々に新たな団体が立ち上がり、また互いに影響しながら運動を展
開していった。さらに近代建築運動とは一線を画していた建築家達も重要な建築や都市計画の機会が
あった。オランダ国内における建築運動の実際は一つの特徴を見出せるような強い方向性を持つより
も、多様な意見を並列に共存させていたというほうがオランダの実情に近い。
2 つの大戦をまたいだ時期も、比較的建設活動が続けられていたオランダでは、建築運動によって培
われた理論を実際の都市や建築に応用する機会も与えられていた。それは都市の複雑性と多様性を都
市の自明として受け入れていたという傾向を示している。20 世紀前半のオランダ近代建築運動におけ
るオピニオンリーダー的存在のアウトは、論理の純粋性よりも、都市と社会状況や都市多様性と複雑
性に対応する為に、現実に即した理論の解体に意味を見いだしていった。アムステルダム市の都市計
画部もファン・エーステレンが機能主義的な都市計画の枠組みを進めながらも、彼と意を異にする人
物が都市計画の実地に重要な役回りを担っていた。都市計画、都市デザインのディテールの制御には
それほどこだわらず、違う個性に任せていた点で興味深い。
オランダ社会、つまり柱状化社会は、異なる信念を 1 つの方向に矯正する労力のかわりに、互いの
個性を尊重して、利害関係を生み出さないよう配慮する合意点を見つけ出す傾向がある。アムステル
ダムの都市計画技術の発展も、複雑さを増す都市を把握する方法の開発を進めるとともに、高みから
指し示された 1 つの概念によって規定される全体をめざすのではなく、多様な個性を共存させ、1 つの
普遍的共通性をもった社会を示すための枠組みと方法を組み立てる技術の発展を模索し、重視する傾
向を指摘できる。
97
第2部
1
第一次世界大戦においてオランダは中立の立場を取っていたが、1914 年に戦争が始まる何年も前から防備のた
めの準備にかかっていた。また戦争中は連合軍からの輸入制限や、潜水艦隊による海上通商の麻痺、動員された
軍隊の維持費用の負担はおもかった。国内は食糧難に陥ったし、また工業や産業は麻痺し多数の失業者を出して
いた。M・ブロール, 西村六郎訳、『オランダ史』, 白水社、東京, 1994, pp.121-123.
2
レオナルド・ヴェネヴォロ著, 武藤章訳, 『近代建築の歴史(下)』, 鹿島出版会, 1979, p. 35
3
Congrès Internationaux d'Architecture Moderne 近代建築国際会議
4
Eric Munford, The CIAM Discourse on Urbanism 1928-1960, MIT Press, 2000, p. 18.
5
Ibid.
6
北村隆夫, 『近代建築のコンテクスト
7
Hans van Dijk, Twentieth-Century Architecture in The Netherlands, 010 publishers, 1999, p 66.
8
Ibid., p 66.
9
Ibid., p 66.
Ibid., p 66.
いま、モダニズムの回帰の時』, 彰国社, 1999, p.144
10
11
ロッテルダム生まれ。デ・アフトに参加し、ダッチ・ファンクショナリズムの建築に傾倒したが、後にイタリ
アン・バロックに魅せられ、アールデコ風の作品や機能主義とバロック的装飾を組み合わせたような建築作品も
残している。1930年代から60年代までに多くのオランダの国鉄駅の設計を行っている。
12
Hans van Dijk, op.cit., p 79.
13
ファン・ネル工場の設計者はブリンクマン(J.A. Brinkman1902-47)とファン・デル・フルークトの他、マルト・
スタム(Mart Stam)やヴェーンベンハらが参加している。
14
Hans van Dijk, op.cit., p 92
15
Ibid., p 101
16
現在オランダにはベルラーヘアカデミー、リートフェルトアカデミーやサンドベルグインスティチュートの
ように、オランダ近代の偉大な芸術家の名前を冠した教育機関はある。しかし、それらはかれらが活躍していた
ときに設立されたのではなく、後になって成立したものである。
17
ドナルド I. グリンバーグ著 矢代真己訳, 『オランダの都市と集住』, 住まいの図書館出版局, 1999
18
J.J.P Out, 貞包博幸訳, オランダの建築
バウハウス叢書 10, 中央公論美術出版, 東京,1994, p.13
原書:Holländische Architecture, Bauhausbücher, 1926,
19
J.J.P Out, op.cit., p. 26
20
Ibid., p. 27
21
Ibid., p. 25
22
レオナルド・ヴェネヴォロ著, op.cit., p. 37
23
Ibid., pp . 42-43
24
現代では近代性について多々語られている。多過すぎるといってもよい。私はこのことについて必ずしも賛
同できない。J.J.P Out, op.cit., p.9
25
レオナルド・ヴェネヴォロ著 op.cit., p. 42
26
Ibid., p. 43
27
J.J.P Out, op.cit., p.12
28
Ibid., p.27
29
渡辺研司, 「1947 年 CIAM 第6回会議に関する言説を通して見られる MARS(Modern Architecturel Reserch) グ
ループの戦後 CIAM 活動への役割について
究
98
-イギリス近代建築運動における MARS グループの活動に関する研
1933 年から 1957 年までを中心に」,『日本建築学会計画系論文集』第 515 号, 1999 年 7 月, p.262 に掲載の CIAM
第4章
Logis et Loisirs, CIAM Paris, 1938 からの引用を参照。
30
自治体への土地買い上げ権と収用権を付与し、低賃貸住宅を投機市場から一掃する為に自治体や非営利の住宅
協同組合を対象にした長期低利融資を可能にし、人口1万人以上もしくは過去 5 年に 20%以上の人口増加を見た
自治体は都市拡張計画の策定と 10 年ごとの見直しを義務づけられた。ドナルド I. グリンバーグ著 矢代真己訳、
『オランダの都市と集住』、住まいの図書館出版局、1999、pp. 64-70.
31
Eric Munford, op.cit., p. 276.
32
AUP: Algemeen Uitbreidingsplan van Amsterdam
33
ed.Allard Jolles, Erik Klusman & Ben Teunissen, Planning Amsterdam: Scenarios for Urban Development 1928-2003,
Nai Uitgevers Pub, 2004, pp. 52-53.
34
集
角橋徹也, 塩崎賢明,「20 世紀アムステルダムの計画綱領と政調管理に関する研究」, 日本建築学会計画系論文
第 555 号, 2002 年 5 月, pp. 233-235.
35
Ibid.
36
久我真理子, 石田壽一, 井上宗則, 大下真希子, 「アルド・ファン・アイク設計におけるスペールプラーツの作
品研究(その4) 二〇世紀オランダ後期近代建築運動及び作品研究」
『日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)』,
2005 年 9 月, p.784
37
Ibid.アムステルダム市アーカイブの職員との対談による。
図版出典
4.1.1 Hans van Dijk, op.cit., p 91.
4.1.2 Ibid., p 73.
4.1.3 Ibid., p 65.
4.1.4 左から Hans van Dijk, Twentieth-Century Architecture in The Netherlands, 010 publishers,1999, p 94, 95, もう一枚
4.2.1 Geert Mak, Amsterdam, op.cit.,表紙
4.2.2 Bureau Monumenten & Archeologie van de gemeente Amsterdam
4.2.3 J.J.P Out, op.cit., p. 40
4.2.4 Hans van Dijk, op.cit.,
p 106.
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