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チェコ人形劇 - 国際文化学研究科・国際文化学部
チェコ人形劇 —チェコ民族形成と支配の歴史と共に— 田上 早利恵 神戸大学国際文化学部 卒業論文 目次 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 第一章 チェコ、支配の歴史—小民族の運命— 1)滅びかけた小民族・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 2)民族再生運動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 3)独立、そして暗黒時代へ 〜ナチスによる再支配から共産主義〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・7 第二章 チェコ人形劇について 1)チェコ人形劇の成立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 2)チェコ人形劇の発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 3)第二次世界大戦からのチェコ人形劇・・・・・・・・・・・・・・・・・16 4)S+H 劇場 ヨゼフ・スクパとスペイブル・フルビーネク親子・・・・・・19 第三章 人形が表すもの、創造するもの 1)人形劇の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21 2)道化カシュパーレクとグロテスク・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 3)ヨゼフ・クロフタの試み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 参考年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37 参考資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39 参考文献表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 はじめに 現在、チェコ共和国(Česká Republika)は中欧の町並みが美しい国、そして音楽や芸術が盛ん な国として、観光などで非常に人気を博している。その街々を散策していると、美しい街並みや建 築物に見とれてしまうと同時に、あることに気がつく。観光客向けの店にマリオネットや人形劇をモ チーフにした簡単な人形が多く売られているのである(図 1 参照)。また、街を歩くだけでも多くの人 形劇場を目にするし、人形劇を自ら演じる観光客向けの路上のパフォーマーさえいる。そして、劇 場の近くでは、人形劇を楽しんだであろう人々、これから楽しむであろうチェコ人たちが親子連れ、 カップル、多く出入りしている。それは今でも観光客向けだけではなく、チェコ国民がおのおのの目 的で楽しむ文化的空間、娯楽、そして教育施設なのである。チェコでは人形劇はきわめてポピュラ ーで、人口約 1 千万のチェコには、およそ 3 千の人形劇団があると言われている1。 その価値は国 外でも評価されており、チェコ人のアイデンティティの一部であると言っても過言ではないであろう。 チェコは、絵本やアニメーション、雑貨、サッカーやホッケーなどでも有名で非常に個性溢れる 国である。地理的には大民族に隣り合わせてヨーロッパの中央に存在し、人口は 980 万人程度で、 隣国ドイツ人の人口と比べてみると、ドイツ人は 9 倍近く、また旧ソ連のロシア人は 16 倍近くおり、 相対的に見て、小国である(図 2 参照)2。 この地理・民族の性格上か、実はこのチェコ共和国の歴 史は一言で言うと「支配の歴史」とも言えるほどで、チェコは長い間他民族や大国に支配され、滅 亡の危機にさらされてきたのである。1526 年にハプスブルク家の統治下に入り(実質的には 1620 年白山の戦い以後に「支配」は始まる)、1918 年に遂にチェコスロヴァキア共和国として独立を果た したかと思いきや、ナチス支配下に入り、その後は 1989 年の革命まで事実的にソ連の衛星国と続 く。今でこそ独立を保ち、EU にも加盟を果たし国際社会においても一定の役割を演じているチェコ であるが、この小国チェコ、またその多くの人が憧れるような美しい街並みや個性豊かな文化が在 るのは、チェコ人自身が、チェコ人として生きることを選択し、過去の滅亡の危機や支配を乗り越え ようとしてアイデンティティの模索・維持・創造を続けてきた努力の結果なのである。またその際には 様々な文化活動がチェコ人たるアイデンティティの模索・維持・創造に役立った。その中で、人形 劇は、おのおのの時代でチェコ人と深く結びつき、チェコ人のアイデンティティの一部、自らの表現 方法として重要な役割を果たし、発展してきたのである。それゆえ、現在でもチェコといえば人形劇、 人形劇といえばチェコといわれるほど、チェコ人形劇は愛されている。 しかしここで、 1 1)人形劇は複雑な歴史を持つチェコにおいて、その歴史とどのような関係性があり、どの要因で 発展してきて、どのような役割を果たしたのか? 2) なぜ、チェコ人にとってその手段とは人形劇だったのか? 他の文化手段ではなく人形劇だ からこそ達成し得たものとは何か? という疑問が生じる。そこで、この論文では、チェコがハプスブルク帝国の支配から抜け出そうとした 民族再生運動期から、共産主義時代(〜1989)までに議論を絞り、民衆文化とアイデンティティの つながりや、民族多様性の維持における文化の重要性や可能性についても言及しながら、日本で はあまり資料がないチェコ人形劇に対するよりいっそうの理解、それを通じたチェコの歴史・文化理 解のために、上記二点の問いを考えていきたい。 まず、第一章ではチェコにおける発展と支配の歴史を民族再生運動期〜共産主義時代を中心 に述べ、チェコの人形劇の発展基盤である歴史とその関係性を確認する(参考資料である年表も 参考にされたい)。特に、チェコ民族性喪失の一番の危機であった民族再生運動について詳しく 述べる。 そして、第二章では、チェコ人形劇そのものについて、歴史的観点から時代背景要因など詳しく 考察していく。まず、チェコ人形劇がどのようなルーツで成立し、また発展していったかについて、 その時代における特徴や転換期の要因を述べ、そしてそれが歴史上のどのような出来事と密接に 結びついているかを検証する。第二章第 4 節では、「人形劇の父」とも呼ばれるヨゼフ・スクパ(Josef Skupa)3 について詳しく考察する。彼は、チェコにおいて初のプロ人形劇場(S+H 劇場)を設立し、 ナチス支配下、迫害されながらも人形劇上演を続けるなど、チェコ人形劇史において重要な役割 を果たした。今もその劇場はプラハにあり、定期的に上演が行われている。彼が生んだ二人のキャ ラクター、スペイブル&フルビーネク親子は絶大な人気を誇り、彼らは第三章で詳しく述べるカシュ パーレクの喜劇的風刺的性格を受け継いだ、現代のチェコ人の典型と言われる人形たちである4。 スクパ自身やこれらの劇場について考察していく中で、重要なチェコ人形劇発展要因の一つであ るチェコ人形劇人たちの想いやチェコ人形劇の特徴、チェコ人と人形劇の関係性を紐解いていく。 第三章では、まず「人形」自身に焦点をあて、人形が表現し得たものとはなにかということについ て様々な研究者、人形劇人の研究や意見を用い議論していく。人形劇の特徴や性格がチェコの 歴史においてどのような関係性があったのかを述べる。そこで次に議論の中心として用いたいのが 道化人形のカシュパーレクというチェコにおける国民的キャラクターである。彼は民族再生運動期 から現在まで多少役割や外見を変化させながら、チェコ人形劇において重要な役割を演じ、生き 延びてきた。彼について分析していくことで、人形や人形劇に映し出されるもの、それらが語りかけ てくることを考察し、チェコ人形劇が表現しているものや役割が明確になってくると考える。そして、 チェコ人について考える際に重要な概念となってくるのがグロテスクというものである。このように人 形劇とグロテスクの結びつきについても言及し、人形劇とチェコ人の関係について考察していきた い。 最後には 1958 年に設立された劇団 DRAK で主に活躍した、ヨゼフ・クロフタの仕事について述 べる。劇団 DRAK は、20 世紀の人形劇を形作り、チェコだけでなくヨーロッパ全体にも影響を与え 2 たと言われる。コメディーのチェコの伝統を、モダンな演出と融合させ、革新的な演出方法や創造 的な作品を次々と生み出していった5。 そこで活躍したのが人形劇作家・監督のヨゼフ・クロフタで あるが、彼も特別な思いを持ってチェコ人形劇を発展させた。これらを考察することにより、戦後新 世代と呼ばれるチェコ人形劇の特徴や、社会主義政権と人形劇の関係を明らかにできると考える。 以上三章からチェコにおける人形劇の複雑な発達要因と役割について様々な角度から迫ってい き、最後にその問いに対して答え、その結論を述べる。 3 第一章 チェコ、支配の歴史—小民族の運命— 1)滅びかけた小民族 チェコにおける「黄金時代」はチェコ史上最も偉大とも言える王、カレル一世(位 1346-78)の時 代である。カレル一世は、神聖ローマ皇帝の座をも獲得し(カール四世)、プラハを大司教区に昇 格させ、1348 年には中央ヨーロッパ最古のプラハ大学(カレル大学)を設立した。神聖ローマ帝国 という、キリスト教世界を代表する帝国の首都にプラハがなったことはチェコに繁栄をもたらしたが、 同時にそれはチェコを腐敗したローマ教会の影響に直接さらすことになった。 そこで現れたのはヤン・フス(Jan Hus 1370 頃―1415)である。フスは最終的にコンスタンツの公 会議で火刑に処されたが、ヤン・フスに始まり、チェコ人は、14 世紀末から他のヨーロッパ諸国に先 駆けて民族的規模で行ったこの宗教改革の際にチェコ語とチェコ文化を高め、民族のアイデンティ ティを確立した。しかし、この隆盛はいつまでも続くものではなかった。1618 年にプラハから 30 年戦 争が勃発し、1620 年には「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」でチェコのプロテスタントが大敗北し、チェ コはカトリック派のハプスブルク家によって独立を奪われ、暴力的に反宗教改革とドイツ化を強要さ れ、多くのチェコ人は亡命を余儀なくされて、チェコ民族は存亡の危機に瀕した。支配の歴史の始 まりである。これ以後、チェコは第一次世界大戦が終わり、1918 年にチェコスロヴァキア共和国とし て独立を達成するまで支配される歴史が続く。1627 年、28 年には熱烈なカトリックであるフェルディ ナンド二世(位 1619-1637)が「改定領邦条例」を発布し、1609 年に発布されていたルドルフ二世 (位 1576―1611)による個人のレベルで信仰の自由が認められる「信教の自由に対する勅許状」を 廃止し、プロテスタントの信仰の完全な禁止、ドイツ語の公用語化を遂行した。チェコ語は文章語と しては滅びて、もっぱら農民と下層町民の話し言葉にすぎなくなった(彼らの大部分は非識字であ った)。そして、外国人のイニシアティブで、ドイツ語で出された法律や社会生活上の実践によって、 例えば裁判の際にチェコ人もドイツ語の使用を強制されるなど、チェコ語は実質的にも公用語の地 位を奪われていき、なお悪いことに、そのような状況の中で、チェコ人自身がチェコ語とチェコの風 習を軽蔑し恥じるようになってしまい、それが急激にチェコ語とチェコ文化を没落させる原因となっ たのである6。 民族規模で推進されたチェコの宗教改革は恥ずべき過ちとして否定され、その記念 物と記憶は極力抹消された。チェコの歴史家ボフスラフ・バルビーンの『チェコ語の擁護(1672-73 年頃)』などでの証言からでもよく分かるように、大言語と共存ないし隣接している小言語において は、このような言語的・民族的な自己卑下こそが、その衰退・消滅の危機を招く、極めて大きな原因 なのである7。 チェコ民族は消滅へと確実に進んでいた。歴史家ミロスラフ・フロフによると、19 世紀 初頭において国家と都市の行政にはもっぱらドイツ語しか用いられておらず、この領域におけるド イツ語の独占性については誰も疑うものはなかった8。 4 2)民族再生運動 そこでようやく 18 世紀後半以降にハプスブルク帝国にも生じた啓蒙主義と後にはロマン主義の 影響の下に、後に「ブヂテル」と呼ばれるようになる覚醒者たちが、ほとんど忘れられて農民と下層 町民の中にかろうじて生き長らえていたチェコ語とチェコ文化に目を向けてそれを記述し復興しよう とする、いわゆる民族再生運動9 を開始した。 その時代は、ハプスブルク帝国ではマリア・テレジア(位 1740-80)、後にその息子ヨーゼフ二世 (位 1765-90)が王位についていた。この二人は中央集権主義的啓蒙専制君主として、合理化・ 近代化、またドイツ化政策を推し進めたことで有名であるが、まず、マリア・テレジアは反宗教改革 的なカトリシズムの精神を身につけていたものの、統治者として改革を迫られていた。マリア・テレジ アが即位した頃からハプスブルク帝国にも啓蒙主義が徐々に広まり、73 年には、チェコの反宗教 改革に決定的な役割を果たしたイエズス会が、教皇の命令で解散した。そしてヨーゼフ 2 世はその 後、啓蒙主義的改革として、1781 年 10 月に寛容令を発布し、三つの非カトリック信仰(ルター派、 カルヴァン派、ギリシャ正教)のミサの一定の自由と彼らの市民的同権を宣言した10。 実際は、寛 容令発布の主な動機は、住民の国外移住に歯止めをかけたり、宗派を異にする外国の専門家を 招き入れるなど、絶対主義国家の経済的・政治的関心であった。また、国内の非カトリック系住民 の反抗を宥める狙いもあった。しかし結果的に 1773 年のイエズス会の解散と、この 1781 年の寛容 令によってチェコにおける「白山の戦い」の後の厳しい宗教的圧迫とカトリック教会の専制が緩めら れ、チェコ民族再生運動にとっての障害が弱められた。さらにヨーゼフは同年 11 月にチェコにおけ る農奴制を緩和し、これによって、農民の子供などが学校に入って教育を受けたり、農民層が都市 へ流入して都市におけるチェコ人の人口を増加させることが可能になり、近代的なチェコ民族の形 成にとって好ましい条件が作られることになった。 このような啓蒙主義的な時代的背景は、チェコ語をかろうじて話していた農民層までを巻き込む チェコにおける民族再生運動において非常に重要な基礎,土台となった。一方では、チェコ語文 化が残っていた農民層までドイツ文化圏を浸透させてしまうという逆説的な危険も孕んでいたもの の、法律的な規制緩和、表現の自由、そして農民の解放、啓蒙化は民族規模の再生運動には不 可欠なものであったと言えるだろう。その危険性に対しては、自立的なチェコ語・チェコ文化の世界 の(再)創造が実現した前提として次の 4 点が挙げられるだろう。 1)都市住民の大半はドイツ語を用いていたが、農村にはチェコ語しかできないチェコ人がかなり 多く残っていた。 2)チェコ語しかできないチェコ人農民には初めのうち非識字が多かったが、このためにドイツ語 を習得することが難しかった。 3)近代化・産業化に伴って農村のチェコ人住民が都市に流入した際、流入の量が多く速度が速 かったために、都市に流入したチェコ人は簡単にはドイツ化されず、逆に都市のドイツ語話 5 者の割合を減少させてチェコ語話者の割合を拡大させた。 4)啓蒙主義的改革によってハプスブルク帝国の学校制度が整備され、チェコ語で授業を行う小 学校が作られ、これがチェコ人民集の教育レベルを高めた11。また、より上級の学校はドイツ 語を教育語としていたものの、下層階級出身のチェコ人がそこで教養を身につけて、民族意 識に目覚めた多くのチェコ人教師が出てくることとなった。そして、彼らが学校で自分の生徒 たちに民族意識を吹き込んだ。それと共に、チェコ民族再生運動全般の活発化によって、今 まで民族的に無自覚であった人々の間にチェコ人意識が広がっていった12。 以上のような状況から、ドイツ化を免れたといえる。また、ここで明らかにされるのは、チェコ民族 再生運動の主たる担い手はもちろんドイツ化した貴族や上層市民ではなかったが、チェコ語しか出 来なかった農民や下層市民でもなく、チェコ語とドイツ語の両方ができたバイリンガルの知識人と中 間層—特に都市の職人層出身の教養人と農村出身の聖職者だった(図3参照)。その中で、当初 まだアイデンティティの芽生えがなかった下位層の農民たちは、改めてチェコ民族再生運動にとり こまれようとされる存在では当初はなかったものの、このチェコ民族再生運動において、本人たち は意識しておらずとも、ドイツ化促進を阻んだきわめて重要な存在であったということがわかる。また、 民族再生運動は、第一世代、第二世代、第三世代と分けられるが、主としてドイツ語を用いた啓蒙 主義的な第一世代とは異なり、プレ・ロマン主義的ないしロマン主義的な第二世代の代表者である ヨゼフ・ユングマン(1773-1847)は、チェコ語の完全な再生をチェコ民族の存立の基本的条件と見 なし、近代的な文化言語としてのチェコ語の再生を通してのチェコ民族再生という綱領を掲げた。 ユングマンにとって、言語は単なるコミュニケーションの手段ではなくて民族の魂であり、民族の過 去のあらゆる経験、あらゆる文化的成果が蓄積されている最も重要な宝庫であり、チェコ民族の主 たる代表者はチェコ語を保持してきた農村の民衆なのであった13。 そして、民族再生運動期には、ブジテルたちの活動とともに、文化再生がなされ、活発化した。チ ェコ民族再生運動発生当初の問題は、チェコ文化にその多様性が欠けていて、チェコ文化が(農 村の農民や都市の下層市民向けの)「民衆」的ないし「平民」的なものにほとんど限られていたとい うことである。その最大の原因はもちろん、「ビーラー・ホラの戦い」後の政治的・社会的状況によっ てチェコ語を用いる知識階層がほとんど皆無になり、高度な文化はラテン語かドイツ語―場合によ ってはフランス語やイタリア語―によって担われるようになったことである。たとえば文学ならば、チ ェコ民族再生運動発生当初、チェコ語文学は民衆向けの宗教的、教訓的、フォークロア的な文学 にほとんど限られていて、より「高い」、芸術的なチェコ語文学は存在しなかったのである。つまり、 当時のチェコ語とチェコ文学は、社会全体にとって創造され享受される十全な文化ではなくて、民 衆ののみに限定された「下位文化(サブ・カルチャー)」ないし部分的な文化だったということである。 そして、チェコ民族再生運動初期のチェコ文化の課題は、まさにこの「下位文化」ないし部分的な 文化を十全な文化にすること、つまり創造者と受容者の双方にとって、より高度なチェコ文化―言 語についていえば高度なチェコ文語、文学について言えばより「高く」て芸術的なチェコ文学―を 創り出すことであった(図 4 参照)14。 その上で文化活動はチェコ語・チェコ文化の存続・発展に非 6 常に重要な役割を果たしたのである。 その中で、教養の低い階層も含めた広い階層への文化の伝播において,重要な役割を果たした のが、チェコ語劇場であった。啓蒙主義時代には、劇場は大学と並ぶほどの教育機関とみなされ ていたという。演劇は民衆に人気のある娯楽であったが、ヨーゼフ2世は劇場を国家イデオロギー の意味で大衆を教化することのできる場と捉え、劇場を凡俗で即興的な娯楽の場から啓蒙主義的 な「道徳教育」の施設にかえようとした15。 また、演劇人をはじめとする知識人たちはヨーゼフ2世 の施政を支持していたので、ヨーゼフ2世は劇場建設に好意的で、次々と許可を与えたのである。 しかし、このような啓蒙主義的な劇場は、もともとチェコ語やチェコ語文化を隆盛させようとしてつく られたものではなかったので、もっぱらドイツ語でしか上演はされなかった。チェコ語での上演を求 めるように努力したのは、民族再生運動初期、主として市民階級出身のチェコ語話者の演劇人で あった。このようなチェコ人のチェコ語演劇上演を求める努力の結果、1786 年にプラハで正式にド イツ語とチェコ語で上演を交互に行うことが許され、「新市街馬市場の愛郷劇場(Vlastenecké divadlo v Novém Měště na Koňském trhu)」(通称「ボウダ(Bouda)」)16 が建設された。演劇は、次 第にチェコの愛郷主義的な生活の中心になっていた。演劇は、思想や経験を表現するのに最も優 れたものの一つであり、観客と同じ空間を共有することによって、一体感を生み出すこともできた。 また、舞台の上で俳優たちが「正しい/きれいな」チェコ語を話し、演技することによって、チェコ人 のチェコ語に対する自信や素晴らしさへの気づきをもたらしもした。その後の 1881 年に、完全にチ ェコ語のみで上演が行われる「チェコ語によるチェコ人の舞台を」というテーマが掲げられた国民劇 場(Národní Divadlo)が完成する。この建設費はチェコ人民衆の寄付で集められた。この国民劇場 は現在もチェコ人の誇りとして存在しており、たくさんのオペラや演劇が上演されている。 ここで登場するのが人形劇である。農村では、このようにプラハで上演された演目が人形劇(マリ オネット)で広まったのである。ここでは、巡回人形師たちの活躍があり、彼らは農村部で活発に講 演していた。しかし、この民族再生運動期における人形劇の役割や重要性については、民族再生 運動の高度な文化の創造が目的であるという特徴ゆえに、非常に複雑なものとしてとらえられる。 人形劇についての本題としては詳しくは第二章に続いて述べていきたい。 3)独立、そして暗黒時代へ 〜ナチスによる再支配から共産主義〜 このように啓蒙主義的な時代の流れ、そして民族的伝統や民謡を強調するドイツ=ロマン主義や ヘルダーの仕事の影響が、後進諸民族の間に強く及び、これが、知識階級に民族意識の覚醒を 促していた17中でのブジテルたちの活躍が目を引く中、1848 年2月にパリで革命が起こって王政が 打倒されると、自由主義革命の動きが広まり、チェコでもプラハで3月にはウィーン政府に対する要 求がまとめられた。その結果4月にはチェコ王国議会の選挙の実施と、ドイツ語とチェコ語が同等に 扱われる事が認められた。1866 年には普墺戦争でオーストリアは大敗し、翌年オーストリア=ハン 7 ガリー二重帝国を設立。オーストリア政府は各民族の要求を可能な限り受け入れつつ、体制の安 定を図ろうと腐心した。民族運動にゆれうごく 19 世紀後半は、多くのチェコ人芸術家たちが民族再 生運動の中心として才能を発揮した時代である。音楽ではベドジフ・スメタナ(『我が祖国』)やアン トニーン・ドヴォジャーク(『新世界』交響国)らがすばらしい作品を生み出し、作家ボジェナ・ニェム ツォヴァー、画家ミコラーシュ・アレシュ(図 7 参照)など多くのチェコ人芸術家が活動した。そして 1881 年には上記でも述べたように、完全にチェコ語のみで上演が行われる「チェコ語によるチェコ 人の舞台を」というテーマが掲げられた国民劇場(Národní Divadlo)が完成した。民族再生運動に おける第二世代と呼ばれる時期である。 そしてついに 1914 年第一次世界大戦が始まる。西欧へ亡命して反ハプスブルク運動を展開する 人々の中心人物であったのが、後のチェコスロヴァキア共和国大統領のトマーシュ・ガリク・マサリク である。彼は 1916 年 2 月にパリでチェコスロヴァキア国民評議会を結成した。1918 年 5 月にはアメ リカでチェコ系及びスロヴァキア系移民組織がピッツバーグ協定に調印して共同国家形成を取り決 め、10 月 18 日、マサリクはアメリカでチェコスロヴァキア独立を宣言した。こうして、新国家チェコス ロヴァキアは産声をあげたのである18。 今日ではこれは「第一共和国」と呼ばれる。これは、チェコ 人にとっては、白山の戦いで自由を失ってから約 300 年ぶりのことであり、スロヴァキア人にとって は、ハンガリーの支配下に入ってから約 900 年ぶりのことであった。このことにより、国家的にも独立 を果たしたチェコにおける民族再生運動は誰から見てもひとまず成功した、ということが出来るだろ う。 しかし、第一共和国の平和な時代は長くは続かず、1930 年代には世界恐慌の影響が及び、1938 年 10 月にはミュンヘン条約の受諾、ヒトラー率いるドイツ軍がズテーテン地方に侵攻した。さらに 11 月にはスロヴァキアとポトカルパツカー・ルスが自治を獲得した。こうして生まれた新しい体制のチェ コスロヴァキアを「第二共和国」と呼ぶが、これはわずか数ヶ月しか続かず、1939 年にはスロヴァキ アはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれた。こうしてチェコスロヴ ァキア共和国は消滅し、占領下のチェコではいっさいの政治的自由は奪われ、国民の間には不満 が高まった。1941 年にはハイドリヒが総督代理となって強圧的な支配体制で臨み、多くの抵抗運動 家たちを逮捕・処刑した19。 国外に亡命した人々は、ロンドンで臨時政府をつくり、共和国の復活 をめざして各国政府と交渉していた。1945 年 4 月には、コシツェで臨時政府が樹立され、以後ほぼ 一ヶ月の間に、ドイツ軍はソ連を始めとする連合軍によって撃退されていった。そして 5 月 5 日、プ ラハでも蜂起が起こり、9 日に首都はソ連軍の手によって解放されたのであった。こうしてチェコスロ ヴァキア共和国は復活した。しかし、復活したとはいっても、それは新たな支配の始まりであった。 1946 年に総選挙が行われて、共産党が第一党となった。ゴットヴァルトが大統領となった 1948 年 以降共産党による一党独裁体制が急速に形成され、チェコスロヴァキアは事実上社会主義共和国 となった。東西の冷戦が緊張を増す中、ソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われた。 政治的な自由は極度に制限され、体制への批判は一切許されず、いったん秘密警察ににらまれ れば、直ちに職や財産を失うばかりか、場合によっては生命の危機さえ覚悟しなければならなかっ 8 たのである20。 秘密警察が存在していたプラハの通りは、建物もそのまま残っており、使われてい ない廃墟は今でも暗い面影を残している。著者のチェコ人の友人によると、共産主義時代生活して いた人々は今でもそこに近づくと気分が悪くなるので近づけない人が多いのだそうだ。また、現在 も警察に対していい想いを抱いていないチェコ人が多い。1953 年にスターリンが死去し、その路線 が批判される動きが出始め、チェコでは 1968 年にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命 されたときから、改革の動きが急速に進み、「人間の顔をした社会主義」のスローガンのもとで、検 閲の廃止、旅行の規制緩和などが実現し、経済的には市場原理導入の方針が決められた。国民 もこの動きを歓迎し、政府と対話しつつ、より良い社会を目指そうとする動きが広まった。いわゆる 「プラハの春」である。しかしソ連政府は、この動きを脅威とみなし、チェコスロヴァキアが東側陣営 から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切った。こうして大胆な試みは挫折し、 1969 年にはグスタフ・フサークが第一書記(75 年からは大統領)となって、「正常化」体制に着手し た。経済的には停滞が目立ち、政治的・社会的な自由も制限された重苦しい時代ではあったが、 政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていたことは事実である 21 。 しかし、ソ連で始まったペレストロイカ政策、1977 年の「憲章 77」で人権擁護を訴えた哲学者ヤ ン・パトチカ、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル(のちの大統領)など反体制派の活動も、次第に話題に のぼるようになり、1989 年 11 月 17 日に行われた学生のデモをきっかけに「ビロード革命」が成功。 こうして、チェコは第二次世界大戦後からに及ぶ共産主義支配から抜け出し、遂に真の意味での 独立を達成したのである。 今まで見てきたように、チェコ共和国は激動の歴史の中で、民族の存在の意義を問われ、支配者 と戦いながら国家、民族を確立していったことがわかる。チェコにおける人形劇の発展にも、この歴 史的背景が大きく関係していると言えるのではないか。第二章で詳しく考察する。 9 第二章 チェコ人形劇について 1)チェコ人形劇の成立 では、チェコ人形劇の歴史を詳しく考察していこう。 ヨーロッパの人形劇は、ヨーロッパの土地のオリジナルな産物ではない。それは衰退した東洋の 原型、抽出物ないし派生物としてヨーロッパに到来した。一般的にいって 19 世紀末までは系統的 な注意を払われる事がなかった。ヨーロッパにおける人形劇の始まりはきわめて貧弱なもので、い わばこの上なく民衆的なものであった。チェコにおける人形劇運動の最高指導者であったヤン・マ リーク(Jan Malik 1904-1980)はこう述べる。「このことは、人形劇が職業的な俳優の演劇よりも、偏 見の重荷に圧倒される事が大きかったという事実を証明する22。」このようにチェコにおいても人形 劇はまず、芸術としてではなくどちらかというと低俗なものとしてみなされていた。もともと、チェコ人 形劇最初のルーツは中世までさかのぼる。その時期から、異端者の習慣や伝統、そして宗教的な 儀式や娯楽として存在していたが、その後、外国の劇団がチェコ国内をツアーするなどし、その影 響も受けながらチェコの人形劇は発展してきたようである。(残念ながら、詳しい資料は現存してい ない。)当時人形芝居をしていた人々は、主として喜劇一座のごく平凡な、それも無学非識字であ る場合の多い、典型的な旅役者(図 5 参照)であった。観客たちも多数は同様であったであろう。 われわれが多少とも人形劇の足跡を散見するのは、17 世紀の初めになってからである。当時人 気の中心はマリオネットであった。その人気は外国、特にイギリス、後にはドイツ及びイタリアの劇団 によって助長されたものである。これらの劇団は主として地方廻りの劇団で、役者と人形のレパート リーをこもごも演じたのだが、中には人形劇専門の劇団もあった。マリオネット劇は評判が良かった が、それは何よりもまず入場料が安かったからである。マリオネット劇は特に中流及び下層階級の 間に人気のある演芸になり、比較的短い期間にマリオネット劇を演ずるチェコ人がチェコの各地方 に現れた。18 世紀の中ごろにはチェコ語で公演を行う人形劇専門の劇団が主流になっており、そ の際には完全に人間が演じる「演劇」とは違うジャンルとして人形劇は確立された。社会的地位か ら言うと、チェコの人形遣いたちは支持を与えられるというよりは、大目に見られる旅役者の階級に 属していた。彼らは家族代々で劇団を構成する家族人形劇団が主流だったが、その伝統は、彼ら は当時社会的階級が低く、人形劇関係者同士で結婚するしかなかったので、伝統的に家族代々 人形劇劇団が形成されていった23。 そのレパートリーはどうかというと、最初は「ファウスト」「ジュネ ヴィエーヴ」「ドン・ファン」のような国際的な題材及び聖書からとった二、三のテーマが代表的であ った。また、マリオネット劇団はしばしばオペラの台本を利用した。主に、ドイツの人形劇の影響を 受けながら、小さな田舎の村々や共同体を旅し、人形劇をチェコ語で公演した。しかし、それは最 初の段階ではすべて俳優の舞台の模倣であった。 10 その後、チェコのアマチュア演劇はヨゼフ・カイェタン・ティル(Josef Kajetan Tyl 1808-1858)によ って初めて発展が促進された。そのときまでは人形遣いがチェコの田舎と都会の演劇界を結ぶ唯 一の環であった24。 その頃から、国際的な題材や聖書からとったもののみならず、そのようなチェ コ演劇の題目を人形劇師たちはチェコ語で演じるようになった。そして 1820 年代頃には人形劇の ために直接書かれた劇も現れ始めた25。非識字のチェコ農民たちもこの人形劇ならチェコ語で聞き、 都市で行われている演目も娯楽として楽しむことができた。この人形劇がなければ農村部の民衆 が文化的なものに触れる機会というものはなかったであろう。またただ単にそれは娯楽としての役 割のみではなく、都市部の文化人たちの思想や考えを農村部の人々にまで伝えることができる、啓 蒙主義、民族意識昂揚の最良の手段であった。これらのことから、人形劇が演劇では成し遂げられ なかった農村部までにも普遍的な役割を果たし、啓蒙主義時代にバロック的な精神が根付いてい た農村部にも啓蒙活動を広げる、教育的な重要な役割を果たしていたことがわかる。また、1790 年 以降はカシュパーレクという道化の人形が、支配者層を小ばかにして批判し、民衆の鬱憤を晴らし、 支配に反抗する重要な役割を果たしながら活躍した。詳しくは、第三章の第 2 節で、カシュパーレ クが果たした役割を考察し、それを通じてチェコ人形劇の特徴を読み解いていく。 今現在の研究で明らかにされていることに、「民族再生運動」においてチェコ人形劇はそれほど 大きな役割を果たした訳ではないと言われている。それは第一章でも少し述べたように、チェコ民 族再生運動の主たる課題が「高い」ジャンルの文化の創造であったのに対して、人形劇はやはり民 衆と子ども向けジャンルの文化という性格を色濃く持ち続けたからである。しかも、そこで用いられる チェコ語は、標準チェコ語の規範が分解していた当時のチェコ口語の状態を反映していた。そのた めに特に 19 世紀後半以降、その言語的な「不正確さ」が、標準チェコ文語の確立を目指していた 人々から批判されることにもなったのである26。 第一章でも述べたように、チェコ民族再生運動の 主たる担い手はもちろんドイツ化した貴族や上層市民ではなかったが、他方チェコ語しか出来なか った農民や下層市民でもなかった。それは、チェコ語とドイツ語の両方ができたバイリンガルの知識 人と中間層—特に都市の職人層出身の教養人と農村出身の聖職者であった27。このように、この 時代にはブヂテルたちが進めた「チェコ民族再生運動」の目的にかなう大きな役割を、民族再生運 動の「外」であった農村部を中心に行われていた人形劇は必ずしも果たしたものではないにしても、 チェコ民族再生運動の対象者ではなかった農村の観客のためにチェコ語で演じられた人形劇は、 ブヂテルやその時代のチェコ人形劇人たちが意識していなかったとはいえ、本来は民族再生運動 に関与することのなかった下層階級や農村部の人々にある一定の啓蒙主義、民族高揚の効果や 効力を発揮したという点での仕事は評価されるに値すると私は考える。いわば、民族再生を下支え する豊富な地下水脈としての役割を果たしていたのである。そして、彼らは第一章に述べたように 民族再生運動において、「チェコ的」な、フォークロアなものを守り続けていた、実は重要な存在で あった。このように下層市民や農村部の人々と密接に結びついていた人形劇について考えること は、チェコ民族再生運動のある意味で根幹となっていた農民層の生活文化、思考や動きについて 明らかにしていくと言う点でも有益なものとなる。 このようにチェコ人形劇は、人形劇がチェコ語で演じられることによってチェコ語を守り、チェコ民 11 族再生運動において重要な役割を果たしたというのはたとえ正確な認識ではないにしても、「高 い」ジャンルの文化を創造しようとしたチェコ民族再生運動全体の上昇運動の中に人形劇も巻き込 まれ、チェコの人形劇は以下で述べるように単なる民衆的な娯楽以上の芸術性を獲得していった という方が正確な認識であろう。しかし、まさしくサブ・カルチャーと呼ぶことのできるこの人形劇は、 「民族再生運動」にはそれほどの役割を果たさなかったという説があるにしても、それ自体が民衆に 寄り添って力を得、エネルギーを蓄えたものであるという点で、「チェコ民族意識形成」などに果たし た役割は非常に大きなものではないか。また民族再生運動後期には、以下で考察していくように他 の芸術手段に劣らずチェコ語やチェコ文化を高める重要な役割をそれぞれで果たし、近代的なチ ェコ市民社会を作る上でも活躍していたと考えることはできないか。 今現在認知されている中で、最も古いチェコの人形劇師はヤン・イジー・ブラット(Jan Jiří Brat, 1724-1805)である。彼は、ドイツとオーストリアの人形劇師のアシスタント、弟子として、プロとして経 験を積み、独立したのちに、ボヘミアで人形劇の人気を広め、チェコの農村で働く他の人形劇師の ためにも人形劇の基礎を確立した。彼は、家族人形劇団(Puppeteer family)の初の創設者でもあ った。ヤンの二人の息子、妻らが彼の人形劇のスタイルを受け継ぎ、1870 年まで活動を続けてい た28。 また、マチェイ・コペツキー(Matěj Kopecký,1775-1847) は、民族再生運動時代を代表する、 最も有名かつ、伝説に残るチェコ人形劇師である(図 6, 7 参照)。当時のレパートリーを民族再生 、、、、、、、、、 運動の目的にかなうように改作しつつ人形遣いは、田舎の人々にとってその目覚めの最も効果的 な促進者の一人であった。彼が有名になったのは、この時代風潮と彼のずば抜けた才能によるも のであった。彼は、農村部を旅した巡回人形劇師の息子として生まれ、人形劇師としての活躍は、 民族再生運動の絶頂期と重なる。彼の名は多くの神話や伝説に出てくるので、チェコ人形劇の象 徴とされ、民族再生運動時代の人形劇の役割の重要性と結び付けられる。19 世紀末には、このよ うな旅役者の一座はおよそ 80 家族いた29。 今でもプラハに「マチェイ・コペツキー通り」が存在して おり、チェコ人は小学校で彼の歴史を学ぶそうである。 そしてブヂテルたちにチェコ語の「不正確さ」を批判された人形劇においても、コペツキーの後 の世代の代表的な人形劇師であり、熱烈なチェコの愛郷者でもあったヤン・ネポムク・ラシュチョフ カ(1824-77)のように、意識的に標準チェコ語を用いてそのチェコ語の「正しさ」を賞賛される人形 劇師たちも出てきた。また彼は『ジシュカの死』、『ラービー城のヤン・ジシュカ』、『ポヂェブラディの イジー』などチェコ史(フス運動)に題材をとった新しい作品を加えるなどして、「チェコ的」な作品も レパートリーの一部になった30。 2)チェコ人形劇の発展 12 19 世紀に華やかな活動をし、民衆の心を捉えていた世界各地の民族的人形劇は、20 世紀に入 ると急速に衰退し、いたるところで敗北を繰り返すことになる。映画が人形劇にとってかわったとも いわれる。だがなによりも、人形たちが生きていた民衆的共同体が失われてゆくその時期、人形遣 いたちが、技術の進歩と名人芸のみを追い、人間の演劇の模倣を繰り返していたことが敗北の大 きな要因だった。ほとんど全世界的に、人形劇が衰退に向かいつつあったそのとき、チェコではむ しろ意図的に、それがチェコ人の文化と認識され、広まった31。 これは、前章で述べたように、チェ コにおいてはチェコ民族再生運動の流れの中で、チェコ人としての民族意識、誇りを取り戻すため には「高い芸術」が求められていた。その中でチェコ人形劇はその流れに組み込まれ、情熱を持っ たチェコ人形劇人たちは、チェコ人形劇の高い芸術性を創造し、証明し始めたのである。1887 年 には人形劇の最初の判本があらわれ、1889 年には人形劇に関する最初の実際的なハンドブック が出版された。1903 年にはプラハで最初の人形劇大会が開催された。マリオネット劇は文学・文学 史家や専門家の劇評家の興味ばかりでなく、画家たち、製図家、彫刻家等の興味を呼び起こし始 めていた32。このような出版、人形劇大会の仕事などによって、人形劇に人々が注目する機会を増 やし、他の芸術家たちの人形劇に対する興味を引き起こし(=芸術としての人形劇のあらゆる可能 性を認めた)、そのときまで市の貧弱な小屋にかろうじて生存していた手使い人形が、ようやく作家 と画家の若い世代によって注目され、経験ある芸術家たちによっても取り扱われ始めた33のはチェ コ人形劇の大きな発展要素の一つといえる。1917 年にはプラハの国民劇場の俳優の一団は、チェ コの小説家で劇作家のアロイス・イラシェク(1851-1930)が人形劇のために書いた寓意劇「パン・ヨ ハネス」を初めて上演した。これは明らかな文学的傾向を持った最初のチェコ人形劇であった34。 しかも非常に興味深いことに、それまでは大人のための演劇、あるいはおとなにまじって、子供も 見るものであった人形劇に、素朴な家庭の娯楽という考えが取り入れられるようになった35。 「文化 が民族自立の願望と結びつくとき、それは必然的に未来の大人、次代を担う子供たちを含みこむと いうことなのか。」加藤暁子はこう述べている36。 確かに、民族自立の願望が強かったこの時代に、 民族的な郷愁や愛郷心を次世代の子どもに育もうとした動きは当然の流れである。この民族の未 来を次世代にも託すための教育手段としての側面と、人形劇ならではの娯楽としての側面が効果 的に結びつき、また重要なきっかけとして同時に大量印刷・生産技術の発展や広がりが家庭での 人形劇を身近なものにし、可能にしたと考える。19 世紀中ごろから、この家庭の小さいステージで 人形劇を楽しむ、Family theatres 37 は広がりをみせる(図 8,9 参照)。多くの人形劇アーティストが、 子供や友人を楽しませるために、家用のステージや人形を制作した。これが 19 世紀後半からの、 アマチュア人形劇師の公的な場での活発なパフォーマンスの基礎となった。プラハ国民劇場の舞 台装置家カレル・シュタプヘルが家庭で演じる人形劇の舞台装置を印刷して世に出したのは 1894 年のことであった。 小学校や幼稚園の教師たちが子供たちに人形劇を見せる仕事を始めたのも、またこのころであ る。1903 年にはプルゼン・ドウドレヴチェの小学校は小さな人形劇場を設立した。上級学校につい ても同じであった。学校という公共の教育施設においても人形劇が正式に行われるようになった。 アマチュアの人形劇師たちは、学校、ソコル(Sokol)38、パブなどで主に公演を行っていった。チ 13 ェコ人形劇のアマチュアの伝統を考える上で、ソコルについて触れないわけにはいかない(図 10 参照)。1860 年代以降、1861 年創設の合唱団「フラホル」やこのソコルを始めとする様々な結社・協 会・クラブの活動、さまざまな民族的祭典や行事などによって、チェコ人の市民社会と近代的な民 族=ネーションが成長していくことになる39。 ソコルは、「チェコ人は皆ソコル!」というスローガンの 下、広範な層の人間を運動の中に取り込んでいった40。 この「広範な層」というのがポイントで、ソ コルの活動は、市民層によって形成される市民的公共圏を下方に拡大しようとする試みであった。 体育館は、市民層と下層民が出会い、いわば「国民的公共圏」が創出される場として位置づけられ ていたのである。そのソコルの目的を達成するものの中に、もちろん下層民、農民層に昔から広く 受け入れられ、広まっていた人形劇が必然的に含まれたのであろう。1912 年においては、ソコルは 1156 支部、16 万 8260 名(18 歳未満の青年・児童会員を含む)のメンバーを擁する団体となってお り、全体では 720 回の公開体操、3318 回の遠征、741 回の歴史散歩、3587 回の講演会が行われ たと記録されている。また、ソコル独自の図書室は 757、閲覧室は 264 であり、合計で 5 万 4424 冊 の専門書、18 万 7077 冊の教養書・娯楽書を持っていると報告された41。 このようにチェコ全国土 において広範に活動していたソコル(図 11 参照)において、アマチュア人形劇師が人形劇を演じる 場を確保できたことは、チェコ人形劇がさらにチェコ全国土に広まる土台となったと言える。また、 「高い」芸術として人形劇は認められつつあったものの、伝統的に下位層を中心に人気があった人 形劇を、様々な階層が集合するソコルで上演することにより、上位層も人形劇にふれることが出来、 その芸術性や可能性の高さを知らしめるために重要な役割を果たしたのではないか。 子供も大人も含めた市民のスポーツ文化の交流の場であったソコルの人形劇は、その成立の民 族的な性格から見ても、子供のためだけの劇場ではなかった。多くが子供のための品位のある娯 楽、また、教育のためのものであったが、記録によれば、風刺劇、詩劇、人形レビューなど、プロレ タリア文学運動などとも密接に結びついていたものだったと言われる。スポーツや体育が、国威発 揚の道具としてではなく、民衆の自発的組織によって普及され、しかもその組織が人形劇場をあわ せもって発展していったところがいかにもチェコらしい42。 ソコルというチェコ人によるチェコ人の市 民社会形成のための特別な組織と人形劇は一体になることによって、人形劇は確実にチェコ人民 族意識と深く結び付き、チェコ民族独立や発展の意識のもとに、チェコ人形劇はさらに発展を遂げ ていったのである。 1911 年にはチェコ人形劇人組織(Český svaz přátel loutkového divadla)という組織が、両親や師 匠から独立したアマチュアアーティストたちによって結成された。彼らは人形劇概念の真の価値を 重要視し、人形劇を芸術ジャンルとして確立しようとした。 また、第一次世界大戦中チェコの人形劇は戦線で、野戦病院で、軍事病院で、捕虜収容所で、 ロシア戦線及びイタリア戦線に従軍中のチェコスロヴァキア「軍団」によって重宝された。 1918 年以降、人形劇発展の動きはより活発になっていった。1920 年には、ロウニー(Louný)とい う町にチェコ国内で始めての独立した人形劇場が完成され、それ以降様々な町に劇場が設立され ていき、人形劇師は人形劇を上演する安定した場所を得ることが出来た。ちなみにロウニーの人形 劇場は現存し、人形劇が公演されている。当時チェコスロヴァキア国内で、2 千以上の子供向けの 14 劇が定期的に上演され、千の民衆人形劇団、2 千の教育施設付属の人形劇団、さらには無数の家 庭人形劇グループが存在するなど、人形劇は文化の中で大きな比重を占めていた43。 1921 年に 人形劇はプラハの地方学校委員会の告示の中で言及された。ついで同様の告示がブルノの地方 学校委員会によって発せられ、さらに文部省及び保健省も人形劇の教授上、教育及び宣伝上の 効果に注意を喚起してその例に倣った44。 このことにより、この時期には公的にも人形劇が認めら れ、教育や宣伝上重要なものとされていたことがわかる。また、プラハのマサリク成人教育研究所の 付属「人形劇センター」の形で、チェコの人形劇は 1923 年 10 月 21 日に職業的本部を持つに至っ たが、これはこの種のものとしてはヨーロッパばかりでなく、世界でも最初のものであった。人形劇の 学校と学級の創立の伝統は、1928 年にこのマサリク成人教育研究所による講習会をもって始まっ た。やがてこれに続いてチェコの幼稚園保母たちのための講習会がスロヴァキアのシュトピニァニス ケ・テプリツェで行われた。人形劇の講習会はチェコではおなじみのものとなり(1950 年頃)、中央 で行われる講習会の他に、地方的規模で行われる講習会がたくさんあり、この点ですぐれた伝統を 作り上げたのは上にも述べたソコルである45。 プラハ 8 区にあった 1923 年創立のソコル劇場は、 ヤン・マリーク博士の主催の下に成長し、マリーク博士はここで巻き取り式背景画と三つの高いブリ ッヂを持つ新しい仕組みの舞台(その後いくつかの劇場によって採用された)を発展させ、その演 出によっても多くの弟子と模倣者を得た。1931 年以来は、この小劇場はすべての人形劇学校の本 拠となり、外国からも多くの人々が見学にやってきた46。 また、同年設立されたチェコスロヴァキアのラジオは、ヴァーツラフ・ソイカ・ソコロフの人形劇朗読 グループを 1925 年 5 月 23 日に初めて放送させた。チェコスロヴァキアの人形劇は外国の放送局 によっても放送された。最初は 1927 年エッフェル塔のラジオ・パリからで、ここでカレル・ドリムル博 士は医学会議に出席した機会に、チェコスロヴァキアにおける公衆衛生に関する人形劇の宣伝的 使命について講演を行ったのである47。 このようにチェコ人形劇は国際的にもその人気や効果を アピールしつつ、人形劇そのものの質を発展させ、世界の模範者として発展していった。 1929 年には、世界恐慌の不安がきっかけとなり、UNIMA が結成される(図 12 参照)。UNIMA は、 プラハで結成された人形劇の国際的組織で、政治体制や芸術傾向の違いを超え、すべての人形 劇、人形劇映画に関わる実践家、理論家、評論家、愛好家にひらかれている組織である。現在で も活動は続いており、90 カ国から 1 万人以上が参加している48。 この UNIMA の設立において重 要な役割を果たしたのが、インドジーフ・ベセリー(Jindřich Veselý, 1885-1939)である。彼は人形 劇研究家で、UNIMA の設立の他にも、上に述べた人形劇センターの初代会長、人形劇回顧展の 開催や、人形劇の最初の定期刊行雑誌「ロウトカーシュ(Loutkář, 1912 から現在まで)」発行、新し い劇場の設立、海外とのネットワークの確立など、様々な面からチェコ人形劇師の活動をサポート した、20 世紀のチェコ人形劇を発展させた重要人物である。このロウトカーシュでは、チェコスロヴ ァキアが独立後、その新たな民主国を賞賛し加速させる多くの劇を発行した。このような愛国的な 劇は、プロのジャーナリスト、詩人、そしてアマチュアたちによって書かれ、共和国中で職業、アマ チュア人形劇人たちどちらからも演じられた。 このように、民族再生運動時代の巡回人形劇師、家族人形劇団、アマチュア人形劇師たちの活 15 躍によって、人形劇はチェコ民族の教養、娯楽、批判の手段、あらゆる場面で重要な役割を果たし ながら広範囲なチェコ民族の生活に入り込み密着しながら発展した。その中で、チェコ民族再生運 動に巻き込まれる形で、その表現範囲の広さや視覚的、演出的な可能性ゆえに、さまざまな文化 人たちに注目され(それに至るには下記にも述べるチェコ人形劇人の熱意による努力と苦労があっ た)、それまで民衆文化のひとつであった人形劇が、一芸術ジャンルとして確立されようとするまで に至ったのである。初期のころにはブヂテルたちからも低俗なものとみなされていたチェコ人形劇 の可能性を見出しながら、それを芸術として高め確立させようとし、上に述べたような仕事を果たし て人形劇をチェコ民族の「文化」として意識させるまでに高めたチェコ人形劇人の努力は評価に値 するだろう。しかし、もう一つ言及しておかなければならないのは、オーストリア政府は、人形劇をた だの子ども向け、低俗な娯楽としてみなしており、脅威としてみなしていなかったので、出版物と違 い検閲を免れたのも、チェコ人形劇発展の大きな要因であるといえよう49。 そしてさらに、人形劇の組織化やネットワーク化、研究、そして政府のサポート(公の承認)が、チ ェコ人形劇が高次芸術の一ジャンルとしての仲間入りを果たす発展の礎となり、促進剤ともなるとと もに、国際的にもチェコ人形劇が発展していく要因ともなった。 1930 年代には、新しい世代の人形劇演出家たち(ヤン・マリーク、エリク・コラーシュ、ヴラヂミー ル・マトウセク[Jan Malík, Elik Kolář, Vladimír Matousek]ら)が、劇アヴァンギャルトに影響を受け、 チェコ人形劇のスタイルを変えていった。これまで以上に人形のメタフォリックでシンボリックな可能 性を追求し、演出家と舞台デザイナーの協力を重視し、人形劇にしか表現できないものを演じるス タイルである。チェコ人形劇の新たな可能性を見出そうとする運動が活発になっていた。 3)第二次世界大戦からのチェコ人形劇 しかし、このような約束された発展を遮るように、ナチスドイツの侵略、第二次世界大戦が始まる。 人形劇に対するその影響は避けられず、1938 年 9 月のミュンヘン協定はチェコスロヴァキアの人形 劇に重大な損失を与えた。ナチスドイツは、人形劇の脅威を見くびっていたオーストリア政府と違い、 危機的な状況から人々を助け出し、それを突破することが出来る伝統的な文化の力を理解してい た。ドイツによって併合された地域においては、チェコ文化の哨兵であり、前進してくるナチズムに 対して英雄的闘争を行っていた幾百の小劇団が姿を消した。国境の外に姿を消したものの中には リベレツの人形劇団もあったが、その建物は戦後帰ってきたときにはひどい状態になっていて、復 興は問題外であった。南モラヴィアの併合によってブジェツラフの有望な人形劇団等も失われた。 人形劇団の数は 1938 年に 25%減り、公演日数は 50%減った50。 1941 年 4 月にはソコルの活動 が禁止され、10 月にはソコル本部が無惨にも閉鎖された。この瞬間から幾百というソコルの人形劇 団が存在をやめ、その財産は多くの場合没収または破壊された。こういう状況の下において行わ れた 1940 年の人形劇第 7 回大会は既に大胆なデモンストレーションであった。この状況下でも人 16 形劇大会が行われるということから、チェコ人形劇人の人形劇に対する熱い思いが感じられる。 1942 年すべての文化活動は長らく禁止され、人形劇中、「最後には正義が勝つのだ」という信念を 少しでも強めそうな箇所は躊躇なく削除された。しかしながら、このように困難な時代でも、チェコ人 形劇人たちは、人形劇に対する熱意を忘れなかったのである。多くの人形劇人が迫害され、収容 所に送られた51 が、人形劇が途絶えることはなく、その時代の問題を反映したものが上演された。 また、テレジンのユダヤ人収容所や、ラヴェンスブリュツクの強制収容所におけるような恐ろしい条 件下でもなおチェコの人形劇が行われた。ラヴェンスブリュツクの強制収容所では、チェコの婦人 たちはありあわせの原始的な材料を使って人形劇をやり、大人や子どもの囚人たちに喜びと慰安 を与えた52。 非常にこの事実は興味深いことで、収容所においてまでも人形劇はチェコ人の希望 と誇りであったといえるだろう。チェコで今でも愛される、国民的ヒーローであるスペイブルとフルビ ー ネ ク ( Spejbl a Hurvínek ) 53 と い う キ ャ ラク タ ー を 生 み 出 した ヨ ゼ フ ・ ス ク パ ( Josef Skupa, 1892-1957)もナチスドイツにより、収容所へ送られた人形劇人の 1 人である。なぜ、ここまでして彼 らは上演を続けたのか?この点については、次節においてスクパの活躍を通して、ナチス支配下、 共産主義支配下のチェコ人形劇の置かれていた状況や、その精神とはどのようなものであったの かということ、またこの時代の人形劇の役割を考察する。 社会主義支配下での人形劇の発展をもう少し詳しく考察してみる。第二次世界大戦後解放され た国境地方においては、人形劇は再び文化的、教育的、政治的開拓者としての役割を受け持つ ようになったが、多くの土地では唯一の文化団体であり、それだけに、より大きな熱情をもって活動 を行っている。人口 300 人に満たぬ村落においてさえ立派な設備を持った人形劇場が建設されて いる事実は、ただこの創造的熱情によってのみ証明されうるものである、とマリーク博士は述べる54。 この「唯一の」文化団体であったと言う事実が、国土まんべんなくチェコの人形劇が発展する土壌 があり、チェコ人にとって、生活に欠かすことのできない大切なものとなっていったゆえんである。チ ェコスロヴァキアには戦後の 1946 年末再び 800 以上の人形劇場があり、1947 年末には 1200 もの 人形劇場があった。このうち最も多いのはソコルの人形劇場(1947 年には約 700)で、ほかにはカト リックの「オレル」教会の運営する人形劇場が著しく増えている。さらに学校の人形劇舞台も戦前に 比較して増えており父兄会やチェコ青年同盟の運営する劇場も増えつつある。その他のものは少 年団、経営、政党、教会等に属している。自治体の人形劇あるいは地方の文化協議会によって運 営されている人形劇場も例外ではない。創造活動が盛んになっている明らかな証拠は、人形劇の 学級と講習会が増えている事である。例えば 1947 年には、40 以上の講習会が開かれ、2 千人以上 の実践的人形劇人が訓練を受けた55。 チェコが社会主義国になったのは 1948 年、その年にいわゆる「演劇法」が制定されて、人形劇は 他の劇場芸術と同等の地位が法的に保証された。各地に職業劇場(プロ)の設立が急がれた。演 劇法ができたときには、すでに実質的に職業化の素地がチェコ各地に出来上がっていたのだが、 チェコの人形劇は S+H 劇場を除いて、それまでずっとアマチュアのものだった。その際設立された 職業劇場は 9 個56 であるが、そのうちの一つである中央人形劇場(Central Puppet Theatre, 1949) は、モスクワのセルゲイ・オブラツォーフ(Sergei Vladimirovich Obraztsov)によって率いられたモス 17 クワ人形劇場(Moskow Puppet Theatre)がインスピレーションとなって設立された。この中央人形劇 場は、新しい表現方法を模索し、主に社会主義リアリズム劇を促進する目的で期待されていた。こ この指揮をとっていたのは有能であったヤン・マリークであるが、彼は、ハイレベルな視覚的美術と 詩的な語り口を使って、子どもたちに基礎的な道徳価値の知識を伝えようとした。また、1952 年に は、プラハに世界初の国立芸術大学の中に、人形劇学科 AMU57 が設立される。ここでは有名な チェコ人形劇人等を教授として招き入れ、若い人形劇人たちは、専門的、学術的に人形劇を学び、 それを発展していける最良の場所・機会が与えられたのである。多くのチェコ、そしてまた海外で現 在活躍する人形劇の専門家たちはここを卒業している。 1960 年代に入ると、どんどん新しい劇のスタイルが生み出されていく中、伝統的な人形劇のル ーツを省みる動きが現れた。また、その一方、リアリズムを求めるのではなく、あくまでも「劇的な」創 造劇を目指し、演出にこだわることが重視された58。このように 20 世紀後半の人形劇に影響を与え たのは、劇団 DRAK (Divadlo DRAK,1958), 人形劇場(Divadlo Loutek,1953), 子どものためのア ルファ劇場(Divadlo dětí Alfa 1963)である。特に、劇団 DRAK は、コメディーのチェコの伝統を、モ ダンな演出と融合させ、革新的な演出方法や創造的な作品を次々と生み出していった。20 世紀の 人形劇を形作り、チェコだけでなくヨーロッパ全体にも影響を与えた。劇団 DRAK についても、第三 章三節で述べることにより 1950 年以降のチェコ人形劇についてより詳しく分析する。 また、イジー・ヤロシュ(Jiří Jaroš)によってもたらされた新しいスタイルの人形劇、ブラック・シアタ ー(Black Theatre)が現れた。1964 年にイジー・スルネッツ(Jiři Srnec)が、このブラック・シアターの 劇団を設立し、その視覚的メタファー、幻想的な動き、ユーモアで夢の世界を描き出す、ノンバー バルで楽しめるこのスタイルは、現在でもナイトクラブやミュージックホールで上演され、世界的人 気を誇る。 そしてビロード革命(1989 年)の前にも、いくつかの反政府的な人形劇が存在していた。1976 年 には、子どもたちに、社会主義政府へ立ち向かう人々を守るように促す劇がプラハで演じられてい た。この劇では、その反社会主義者が秘密警察に追われている内容であった。そして子どもたちは 「私たちは打ち勝つだろう(We shall overcome)」という内容の抵抗の歌を歌い、この劇の内容は周 りの人々には隠すように言われていた。この劇をプラハで観たというアメリカの人形劇師 Margo Lovelace は、「この小さな劇場に座っていた子どもたちが、1989 年の革命の際、通りを行進してい たのだろうか」と述べる59。 このことから、反政府的な人形劇がチェコでは行われており、未来を担 う子どもたちに少なくとも影響を与え、支配に打ち勝つ原動力として重要な役割を果たしたことが言 える。また、ビロード革命の前日に、Jan Getting というアメリカの人形劇師がプラハの路上で、大人 向けに上演されているあからさまに政治的な人形劇を目撃している。 このように社会主義時代には、ナチス支配下において強制的に下火にさせられた人形劇は、人 形劇人、そしてチェコ民衆の手によって文化的、政治的、教育的に生活に基づくものとして復活・ 発展させられ、その上に演劇法の制定によって、法的にもその芸術性や価値が認められた。人形 劇はプロとして安定的に活躍する舞台を準備され、芸術としての地位を公的に確立した。優れた演 出家や劇作家、人形劇師たちが様々な試みを行い、人形劇の可能性を見出していった。しかし、 18 興味深い点としてチェコ人形劇は、もちろん芸術として認められてはいたが、正常な教育ないし文 化団体だけでなく、リクリエーション、街中や休暇の露営地、運動場、特異児童のホーム、病院、そ して刑務所においてさえ盛んになっていた60。 あらゆるところでチェコ人の生活の一部として民衆 的な性格も持ち合わせながら芸術的地位も確立していったところにチェコ人形劇の特徴があるの ではないか。また、その中でも政治的な役割は失われること無く、社会主義支配からの独立を目指 すチェコ人の心の声を主張し、民衆に呼びかける手段として人形劇は活躍し、勢力に反抗する手 段としても用いられていたのである。 4)S+H 劇場 ヨゼフ・スクパとスペイブル・フルビーネク親子 では、ここでチェコ人形劇の父とも呼ばれるヨゼフ・スクパ(Josef Skupa, 1892-1957)について考 察してゆくと同時に、チェコにおける人形劇を、ハイ・カルチャーとして成立させつつ、チェコ人の心 をつかみ続けたチェコ人形劇人の精神を彼の中から読み取る(図 13 参照)。スクパは、第一次世 界大戦後半から、プラハ南西部に位置するプルゼニ(Plzeň)という町で、オーストリア支配へ反感を 示す政治的な劇をキャバレーで上演していた。1904 年にチェコ人形劇活動家第二回大会の開催 地であり(この大会は大成功であった)、この大会の三年前に開かれた休暇遊園地の小劇場は、幾 度か中絶したのち、1913 年 1 月 12 日に再開されて、1917 年の秋にスクパはその舞台裏に姿を現 す。その際に、民衆の興味を惹くような、コミカルなキャラクターの重要性に気付き、新しいキャラク ターを生み出すことに注力した。そこで 1920 年にスペイブル(Spejbl)とフルビーネク(Hurvínek)と いうキャラクターを生み出した(図 14 参照)。その後彼らはスクパの人形劇の中心となっていった。 1930 年には、チェコで初となる、プロの人形劇団をプルゼニで結成した。ファシズムが横行する 中、人形を使い、比較的目立たない人形劇場を使用し、何百ものユーモアな大人向け風刺劇を全 国、時には国外で上演し続けた。そのプロフラムは検閲に引っかからないような寓意的なものであ った。彼は「息を潜め、情熱も潜めながら61」活動していた。これは、反ナチス的なものは全て否定 され、処刑されていた当時としては非常に勇気ある行動であったと言えるだろう。やはりその人形た ちの風刺とユーモアのゆえ、1944 年にドイツの秘密警察ゲシュタポに逮捕され、人形は押収されて、 ドレスデンの収容所へ送られた。しかし、ドレスデン大空襲の際に奇跡的に脱出に成功し、地下壕 に隠れ潜み、プラハへと帰郷した。この奇跡的な脱出の成功がなかったら、スペイブルとフルビー ネクの親子が、今のように活躍していたかどうか。もしかしたら過去の資料として、博物館におさめら れていることになったかもしれない62。 1945 年、第二次世界大戦が終結し、スクパは S+H 劇場 (Divadlo S+H)をプラハに設立する(図 15 参照)。この S+H の意味は、もちろん主人公のスペイブルとフルビーネクの S と H の頭文字を取 ったもの、と言う意味もあるが、主にはチェコ語でサチールとフモル(Satír a Humor)、皮肉とユーモ アという意味の単語の頭文字 S と H をとり、命名されたものである。まさしくスクパの劇風を表してい 19 る劇場名といえるだろう。 ここで、図 16 に注目していただきたい。この写真は、S+H 劇場の劇の一団が、専用のバスの前で 写真をとったものであるが、バスの上には、「Plzeňské loutkové divadélko – prof.Skupa(プルゼン人 形劇場―スクパ教授)」と書かれてある。本来、この「スクパ教授」と入れられている部分の余白を埋 、、 めるためには、「プルゼン芸術劇場」とするのが普通であると考えられたが、スクパは「Prof.(教授)」 とわざわざ入れたのである。それは、彼がアカデミックなこのような称号は、彼の人形劇に質と信用 性を付与するものだと分かっていたからである63。チェコでは現在も、このような称号を非常に大切 にする傾向が残っている(手紙やメールなどでも必ず称号をつけるし、称号で呼び合うことは尊敬 を意図するという)。このようにしてスクパは、効果的な方法を模索し用いつつ、人形劇の芸術的な 地位向上への認識形成も積極的に図っていたという事実がわかる。また、この時代は、ヨーロッパ 各地域で人形劇場がアカデミックな称号を持った人々によって構成されることが好まれる傾向にあ った。例えば教授、エンジニア(技師)、そして建築家などであった。 しかし、戦後にはナチスドイツの支配が終わったかと思えば、チェコではソ連の支配が始まる。こ のような社会情勢の中、自分のスタイルの人形劇を上演し続けることはとても簡単なものではなかっ た。1948 年には、スクパは政府より名誉あるアーティスト賞を授与される。しかし、その政府の真の 目的は、民衆に愛され、海外でも名声があり、技術的にも優れていたスクパの劇を政治利用するた めであった。民族再生運動時代初期には、低俗なものとみなされていた人形劇が、一国家勢力が 政治利用するまでになっているという点でも、非常に興味深い。これらにより、スクパはこの政治的 利用を避けるために、S+H 劇場の劇は心温まるストーリーの子供向けのものにスタイルが変化して いったものの、彼は批判の中でも大人向けの風詩劇を上演し続けたのである。また、政治的緊張 が緩まった 1950 年代中旬には、社会的なテーマに回帰した。例えば、「ビーナスの上のスペイブ ル(Spejbl na Venuši)」では、風刺的にスターリン主義による悪化した生活を比べるというものであっ た64。 1957 年のスクパの死後は、ミロシュ・キルスフナー(Miloš Kirschner)が劇場を引き継ぎ、現 在はマルティン・クラセック(Martin Klasek)がその意志を引き継いで S+H 劇場の指揮をとっている。 1970 年代以降、そのレパートリーは政治的な状況ゆえにより児童向けになっていった。現在、子供 向けの劇は 18 カ国で上演されたことがあるが、大人向けの劇はチェコ語で、チェコでしか上演され たことはない。それは、昔からのチェコ人特有なものとして、そしてチェコ人のためのユーモア風刺 劇の特徴を今でも引き継いでいるからであろう。現在も、2010 年に S+H 劇場のリニューアルが完 成し、一ヶ月に二回ほど、プラハで大人向けの公演が定期的に開催されている(子ども向けの公演 は週5回ほど、随時)。チケットはすぐに売り切れてしまうほど人気である。 このように、スクパは、人形に自分の思いを託し、いつの時代でも自らの身の危険を省みず、ユ ーモアを用いて社会矛盾を批判し続けると同時に、チェコ人形劇の芸術的地位を高めた。この思 いを引き継いだキルスフナー、クラセックの努力もあり、現在でもスペイブルとフルビーネクはチェコ の国民的ヒーロー、アイデンティティの一部として活躍し続けている。このような熱い思いを持った 人形劇人たちが、支配の中においても、チェコ人形劇を伝承し、彼らのおかげでチェコ人形劇は 幾度もの危機を乗り越えて発展し続けたのである。 20 第三章 人形が表すもの、創造するもの 1)人形劇の特徴 今まで見てきたように、チェコにおいて人形劇は様々な歴史的要因が絡まり合って発展してきた 事が分かった。しかし、その発展要因は歴史的なものだけなのだろうか? 人形劇の表現の可能性 や特徴とは、いかなるものなのだろうか? 他の芸術手段ではなく、人間には表せなかった何かが 人形の特性にはあり、それがチェコ人にとって相性がよかったゆえに、発展してきた要因もあるので はないか? そこで、この章では、人形劇そのものの特徴について考察し、その歴史的背景と人形 の効果がどのように合致しチェコ民衆に人形劇が愛されるようになったのかを述べていきたい。 「いかなる芸術流派がチェコ人形劇に見られるか」と言う点に関してロシア出身でチェコでも活動 した民衆文化の記号学者ボガトゥイリョフは、それには二つの流派があり、ひとつは、 自然主義的な潮流であり、・・・・自分たちの前にあるのが木の人形であって生身の人間では ないという事を観客が忘れるようにする事を、主なる課題としている65。 この流派の名人たちなかには、第二章で述べたマチェイ・コペツキーがおり、コペツキーがオース トリア政府から劇をドイツ語でやるよう強要された際に、私はドイツ語をしゃべれますが、人形のや つがドイツ語を知らないのですよ、と抜け目無く応えたと言う。また他にも舞台での政治的発言のた めに裁判所に呼ばれたある人形使いは、しゃべったのは自分じゃなくみんなこのカシュパーレクが 悪いのです、と述べ立てたという。このように自らも人形が生きていると半ば信じている者もいた66。 このように 17世紀以前から 19 世紀初頭頃までは、人間の演じる戯曲をまねした作品が多く、ボガト ゥイリョフが言うように人間の模倣としての人形の役割が強かったと言えるだろう。しかし、マチェイ・ コペツキーやその他の民族再生運動のころの人形劇師たちは、この自然主義的潮流も引き継いで いるが、もう一つの流派にも当てはまっているのではないか。 そのもう一つの流派については、 人形は様式化されており、その顔や姿は様式化されたものになっている。・・・・人形を操る際 には人形の動きがその人形的性格を失わず、また、その角張り様式化された動きによって最 大限の表現力を獲得するようにつとめる。この表現力は、ときには、生身の俳優にとっては手 に入れられないほどのものでもある。おそらく、この新しい潮流は自然主義的潮流に勝利する であろう67。 21 ボガトゥイリョフはこれを 1923 年発行の『チェコ人形劇とロシア人形劇』で述べている。また、これ はボガトゥイリョフによるメイエルホリドの引用に裏付けられる。 [・・・]人形は、人間そっくりである事を望まなかった。なぜなら、人形が描く世界は架空のおと ぎの国であり、人形が演じてみせる人間は作りものの人間であり、人形が動いていく舞台は人 形の技芸という弦が張り巡らされた共鳴板であるからである。人形劇の舞台がかくのごとくであ ってそれ以外でないのは、それが自然だからではない。人形がそのように望んでいるからなの だ。人形が望んでいるのは、まねる事ではなく、創造することなのである68。 観客は劇場に人間の芸術を見にやってくるというのに、一体いかなる芸術が舞台を闊歩して いることであろうか! 観客は作り事や演技や熟練を期待しているのだ。だが、与えられている のは生活か、さもなくば生活の奴隷的模倣である。舞台上での人間の芸術は、周囲の環境の ベールを脱ぎ捨て、仮面を選び、装飾的な衣装をまとい、観客の前で技術のきらめきをひけら かしうる事にあるのではなかろうか―69。 このようにもう一つの流派は、ただ単に人間の模倣をするだけではなく、人形が人間を超えて、自 らの世界を作り上げていく、反自然主義的な流派である。ボガトゥイリョフも予想しているように、この 流派の方が今現在の人形劇界では勝利を収めている。もちろんチェコにおいても、19 世紀後半ご ろからこのように人形劇独自の芸術表現法を模索し、それが成功にいたったからこそ人形劇が高 い芸術として認められるまでになったのである。しかし、先程も述べたように、民族再生運動期の人 形劇師たちも、マチェイ・コペツキーの時代ともなってくると、ある意味でこちらの流派の特徴の方を 多く持っていて、彼らの時代からこの流派は現れていたのではないか。なぜならば、彼らは、すで に人間の演じた戯曲を模倣するだけではなく、主にカシュパーレクという様式化された道化の人形 を使って、オーストリアの支配者を批判し、つまりチェコ人にとっては現実には言えない不満や、理 想的な社会を人形に託して演じていた(第二章第1節からもわかるように、人形劇のために書かれ た戯曲が出てくるのは 1820 年頃)。人形がチェコ人の理想の世界をつくりあげていったといえるだ ろう。この人形の表現力や特徴を使用して新たな世界を創造しているという点では自然主義的なも のではない。「私はドイツ語をしゃべれますが、人形のやつがドイツ語を知らないのですよ」というコ ペツキーの発言は、人形を生身の人間として見ているのではなく、「生きた人形」として見ていての 発言ではないか。カシュパーレクについては第三章第 2 節でさらに詳しく述べ,彼がどうやって、ど んな世界を創造したのかを詳しく考察する。また、有名な舞踊家ウラジミール・ソコローフは、 自己の創造意志の芸術的自由をめざして、人間は人形劇を発明した。人間は自分のために 自分自身の世界を創り、自分に従属する人物を使って自分の意志、自分の論理、自分の美 学を強化したのだから、この発明によって人間は運命の不可避性を信じる事から解放された 70 。 22 と述べている。確かに人間は人形を自分の好きなように操ることができる。そこから人間と人形は一 体化し、人間のみでは作り上げられなかった世界を人形に託して表現し、創りあげていくのである。 人形は人間を解放し、世の閉塞感を打ち破った。このような特徴を持つ人形は、その当時のチェコ 民族(特に被支配者層)の閉塞感を打ち破り、支配されていたチェコの現状を救い、新たな世界を 体現し、精神的なところでそれを皆で創りあげていく基礎としての役割を果たしたといえるであろう。 また、人形の独自性、創造に関連し、人形のカリカチュアについてだが、フリードリヒ・デュレンマッ トはこう述べる。 人形のカリカチュアは、グロテスクな性格をおびており、文学やフォークロアにおける比喩に似 た手法―誇張法や曲言法―を利用している。カリカチュア化された人形の体の部分部分や、 とりわけ顔の個々の部分が、過大化されたり、過小化されたりしている71。 これは、第二章で述べたスペイブル,フルビーネクもそのままこの特徴に当てはまる。様式化さ れているからこそ、人形の種々の体験を反映している仮面となり、様々な状況に加わりうる。この点 ではカシュパーレクも同じである。 このカリカチュア―人形の皮肉的喜劇性―という特徴があり、皮肉や批判を言う役割を持ってい たチェコの人形劇は、ブラック・ユーモア、グロテスクな特徴を持つ人形を主役として、人間では表 せない喜劇性やグロテスクな笑いを生み出す点で、理にかなっていたといえよう。 2)道化カシュパーレクとグロテスク ここでは、チェコの喜劇タイプのパペットであるチェコ国民のヒーロー、カシュパーレク (Kašpárek)をとりあげてチェコ人形劇を詳しく考察してみる。カシュパーレクは王様に仕えた道化72 の人形であり、スラップスティックコメディー73 の間に支配者層の皮肉・ブラック・ユーモアを言う役 を引き受けていた(図 17 参照74)。もともとのカシュパーレクの祖先は、イタリアのプルチネルラと呼 ばれる狡猾で鉄面皮、毒舌を吐き、下品で粗暴な道化である。戯曲が沢山書かれ、ヨーロッパ中 に広まり、フランス、イギリス、スペイン、ポーランド、ドイツ、ロシアなどでプルチネルラはそれぞれの 土地特有の名前で呼ばれるようになった。プルチネルラは、大衆人形劇に多用され、それゆえにヨ ーロッパ各地で受け入れられ、またその土地の人形に取って代わられもした75。 チェコでは、それ がカシュパーレクとなって 1790 年に表れ、プルチネルラの血を引く先輩格の道化ピムペルレ(ピム ペルレはドイツから広まったといわれている)と主役の座を交代した。その後カシュパーレクはチェ コの国民的英雄となり活躍し、今でもチェコ国民に愛されている。その祖先の中でもカシュパーレク ほど政治的な性格を持っていたものはいない76。 民族運動の象徴となったカシュパーレクは、普 通マリオネット人形で、大道でも屋内でも喜劇を演じ、この時代のカシュパーレクは、外観は非常に 23 リアルで背の低い老人と決まっていた。この姿は滑稽な道化をよくあらわし、それに皮肉られる支配 者層をいっそう小馬鹿にする趣旨で使われていたのだろうと思われる。ゆえに、このカシュパーレク は民衆の鬱憤を晴らす役割を果たしていたと言えよう。特にドイツ語が公用語とされた(1627 年以 降)ハプスブルク帝国の支配時代に彼は地方の町や村で、見物人とチェコ語で喋り、民衆は、チェ コ語で「ハプスブルク帝国」を笑う新しいヒーローを歓喜して迎えた。台本を書いたのは、地方の物 書きや知識人である。彼らは都市で人気の芝居をチェコ語に直してカシュパーレクに演じさせた。 どの村でもカシュパーレクが活躍して、オーストリアの圧制にたいする批判を、カムフラージ ュしながらも遠慮なく投げつけるのだった。こうしてウィーンの権力者たちが知らない間に、 全土にわたる真の解放運動が進められていたのである77。 という引用がある。また、プルゼンの公会堂にカシュパーレクに捧げられた記念碑があり、碑銘に は、「いかにしてカシュパーレクは、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊を助けたか」と刻まれている。 これらからも分かるように、カシュパーレクは民衆の思い、また同時に覚醒者たちの思いを引き継ぎ、 代表者としてしたたかに広めつつ、チェコ全土広範囲に渡り民族再生運動、独立運動の影の立役 者として活躍した。チェコ民族再生の成功要因の一つは、このような事実から民衆と寄り添って支 配と戦ったカシュパーレクのおかげであるとも言えるだろう。第一次世界大戦中にもカシュパーレク は政治的な役割を持っていたことが、ある 1 人の作家のこの言葉からも分かる。「彼(カシュパーレ ク)は、政治家さえ言う勇気がない言葉も発言することができる78。」では、このチェコ民族再生・独 立を助け、民衆の鬱憤を晴らすことの出来たカシュパーレクの笑いの特徴とは何なのか。ブラスタ・ チハーコヴァーは東西の権力闘争に翻弄され続けたチェコ文化の特徴を、道化とグロテスクという キーワードで説明している。 道化師はどのような状況においても、王の過酷な命令に応えなければならなかった。したが って道化師は、多彩な能力と強い精神、強烈なキャラクターの持ち主でなければならない。 しかもそれを表面に出す事なく、むしろ人々の前では笑い者として、絶大なサービスに徹し なければならないという厳しい任務を負っている。おそらく、ブラック・ユーモアというものも、 この道化の伝統を抜きにしては考えられないものだろう。コミカルであると同時に正義感を 持ち、必要に応じて自らヒーローにもなる道化師は、常にグロテスクなブラック・ユーモアへ の果敢な挑戦者なのである。自らの敗北を深く自覚して、そこから生活の新たな知恵を見 いだし、日常のつまらなさを永遠の楽しさに転換していくブラック・ユーモアの体現者なので ある79。 ちなみに、ブラック・ユーモアとグロテスクは似通ったもので、ここでいうグロテスクとはネガティブ なものではなく、チェコ語で「グロテスカ(Groteska)」といえば喜劇のことで、恐怖と笑いが共存する 緊迫した状態を言う。何か得体の知れないそら恐ろしい力、闇の力を前にして、なすすべもない、 24 この呪縛を解くには笑いしかない、そういう感覚をさしている。そのように、いわば闇が開く光を表現 することこそ、道化の真骨頂なのである80。 チハーコヴァーは、的確にカシュパーレクの性格を説明している。このようにカシュパーレクは、ま さしく支配の歴史とともに生活してきたチェコ人を体現するような性格なのである。第一章で述べた ように、長く支配されてきたチェコ人であるが、自ら暴力的に、あからさまに戦いの旗を揚げる事は 少なかった。しかし、このカシュパーレクのように、支配された状況の中でも、多彩な能力と知恵を いかしながら、水面下で着々と民族再生の意識を高めた。その時々の暗い状況を、はっきり否定す ることも肯定することも無く、うまくそれらを活かし切り抜けてきたのである。支配者に気づかれない ようブラック・ユーモアで緊迫した状況,暗い世の中をも笑い飛ばし批判しながら、支配の中から新 しい世界を例えば人形劇を通じてチェコ人に提示してきた。機知に富んで、ブラック・ユーモアにあ ふれ闇から光を見いだす正義感あるカシュパーレクは、チェコ人の代表者、体現者であると同時に、 チェコ人の身近な英雄、ヒーローであったのである。 例えば、劇場のカシュパーレクは『ファウスト』や『ドン・ファン』に道化役として登場した。チェコの シュルレアリストであるアニメーション作家ヤン・シュヴァンクマイエルの『ドン・ファン』(1970)と『ファウ スト』(1992)にもカシュパーレクが登場する。この二作品でもカシュパーレクの役割を分析してみると、 『ドン・ファン』では、マリオネット人形を模した着ぐるみのカシュパーレクが、ドン・ファンの従者役と して登場しており、滑稽なカシュパーレクの、機知に富んだしたたかな笑いが、ごう慢で残忍なドン・ ファンの哀れさを際立たせている。この作品でも、ごう慢で偉そうなふるまいのドン・ファン=支配者、 カシュパーレク=従者、民衆の構図を簡単に想起することが出来、カシュパーレクのブラック・ユー モアが効いた作品となっている。田中正子は、「この映画の他者に対する態度に示されているよう に、カシュパーレクと下界との関係には、皮肉と笑いに満ちた自由が感じられる。」81と言う。また、 『ファウスト』では着ぐるみだけでなく人形も登場し、ここでも追従と不羈奔放という二面性を滑稽な 立ち回りで表している。 また、1932 年にフランチシェク・ランゲル(František Langer)によって書き下ろされている『探偵カ シュパーレク(KAŠPÁLEK JAKO DETEKTIV)』という子ども向けの人形劇では、カシュパーレクが 強盗にさらわれた王妃を見つけ出すために王に探偵として呼び出され、正義感溢れる滑稽な姿で 機知に富んだユーモアを多用しつつ、王妃を助けるとともに、最終的には王、そして強盗をうまくや りこめるヒーローとして描かれている。例えば、このようなシーンがある。 王: 地面の何を探しているのだ、カシュパーレクよ。 カシュパーレク: 王様、きっと強盗たちは足跡を残しているはずです。私はその足跡を見つけた いのです。右、左、右、左。もし私がそれを見つけられたら、強盗たちを取っ捕まえられるはず です。 王:何か足跡はあるか? カシュパーレク:残念ながらありません。それでもですね、分かりますか、私たち探偵は王妃を見 つけるため足跡(チェコ語でストパ、Stopa)を見つけなければなりません。しかしそれがないとき 25 でも、私たちはどうにかすることができます。私は今から探しますから、あなた様は私に道中百 回(チェコ 語でスト、Sto)「パパパ(Pa, pa, pa)」と言ってもらえますか? 王: カシュパーレクよ、一体何故言わねばならんのだ。 カシュパーレク: はい、王様が百回(Sto)「パ(Pa)」というと、ストパ(Stopa)となります。ね、ストパ。 ほら、ストパ(足跡)です!わかったでしょう、これで私たちは足跡を見つける事が出来ます。王 様は百回パを言う、そして私は王妃を見つけ出します。ではお願いします、百回パ! 王: パ、パ、パ・・・・ カシュパーレク: 私はもう行きます82。 このシーンでは、カシュパーレクの正義感溢れる姿と共に機知にとんだユーモアで、偉そうに命令 を下す王をやりこめるカシュパーレクとの対比で遠回しに支配者を小馬鹿にしている。 また、次のシーンでも、皮肉を織り交ぜたカシュパーレクと王とのやりとりがある。 (カシュパーレクが王妃を助け、王に引き渡した後。) カシュパーレク: 偉大なる王様、まず最初に請求書をお送りいたします。 王: すぐにでも払うほうが都合が良い。 カシュパーレク: 全部を勘定しますと、20 コルナいただければ、取引は成立します。 王: 20 コルナ?今それはもっていない。1 コルナしか持っておらぬ。一晩一日すれば、用意でき ると思うが。 カシュパーレク: なぜそんなに悪い状況なのですか。 王: 今王政は、財政難なのじゃ。 カシュパーレク: では、私がアドバイスしましょう。この王宮をすべてホストのために滝が流れる部 屋をもつホテルにして貸し出しましょう。きっと王宮よりよい住み場所になるでしょう。私は料理人 をやります。王妃は私を手伝って、立派なひげを持つあなたはお客様の立派な門番になれる でしょう。その仕事は何もしなくてもお客さんからチップをもらう仕事です。 王: それならできるだろう。 カシュパーレク: では話はついた83! ここでも、王政は財政難で、しかも何も出来ない王を「何もしなくても、立っているだけでチップが もらえる門番」にしたてあげてしまうカシュパーレクを通じ、1932 年はすでにチェコが独立を果たし ていた時期であるが、過去の貴族支配への皮肉・批判を織り交ぜたブラック・ユーモアが効いたエ ンディングとなっている。この「探偵カシュパーレク」は子供向けの劇であるが、このように大人でも 楽しめるようなものとなっているのは随所にカシュパーレクの機知にとんだグロテスクな笑いが盛り 込まれているからであろう。 このようにチェコ人民衆は人形に自らの思いを託して表現し、直接は言えないような批判や心の 26 うちをカシュパーレク、ブラック・ユーモアに託しながら、社会を批判し、人々を諭したのである。今 でもこの性格を引き継ぐ人形劇はチェコ内で多数あり、グロテスクで、ブラック・ユーモアがピリっとき いているのが特徴である。特にカシュパーレク的な性格を受け継いでいるものとして第二章でも述 べたスペイブルとフルビーネクがいる。 ハプスブルク帝国やナチスを相手にまわし、グロテスクな笑いで戦ったカシュパーレクにはチェ コの人々の夢と現実が溶け合っているように思う。カシュパーレク、またはカシュパーレクに言える だけではなく、「人形」というものは、ただ単に人間のまねをするだけではなく、自ら世界を創造して ゆくことができるゆえに、民衆と人形は一体化し、チェコにおいてはカシュパーレクにチェコ民族の 知恵や精神が体現されているといえるであろう。カシュパーレクがあったからこそ権力に対して弱い 立場にあった下層階級の人々も、権力や支配、社会矛盾に向き合い抵抗することができ、チェコ民 族らしさ、またチェコ人としての誇りを、カシュパーレクを通じて形成していったのではないかと考え る。また、カシュパーレクは公衆衛生的な性格も持ち、「みんなの」カシュパーレクとしての性格をチ ェコ近代市民形成の際に共に持つようになったのである84。 3)ヨゼフ・クロフタの試み 現代チェコ人形劇人の権威者の一人にヨゼフ・クロフタ(Josef Krofta, 1943-)という人形劇演出家 がいる(図 18 参照)。彼は DAMU を 1966 年に卒業後、ブラチスラヴァ、チェスケー・ブデヨビッツェ の劇場で働いた後、フラデッツ・クラーロヴェーにある劇団 DRAK に 1971 年に入団し,それ以後現 在までその演出、アートマネージャー、そして視覚演出のリーダーとして多彩な才能を発揮し新し い表現方法を見いだし、チェコ人形劇、また世界の人形劇発展に大きく貢献してきた。それのみで はなく、S+H 劇場でも働いた経験を持ち、DAMU の教授としてもチェコ人形劇をリードしてきている。 彼のスタイルは、物質とアクター(俳優)、物質と空間の関係性と意味を新たに見いだし、芸術の一 要素としての人形とその意味を作品中の幻想の基礎的な特徴として扱っていることである。そのハ イクオリティな舞台デザインは、生の俳優と人形の同時競演の基礎となり、そのダイナミックな関係 性、相互性、透過性からクロフタが意味とメッセージを構成し発信している85。 彼が DAMU で勉強を始めた時代には、もちろん社会主義という一つの世界観しか許されておら ず、それは強制的に強いられていた。さらには人形劇の概念にも優先されるべきものがあり、それ は法律で例外無く定められていた。 芸術の言語はメタファーの言語でもあり、それは芸術家の特権でもあった。この全体検閲との戦 いの中で、チェコでは秘密の言語が使用されていた。笑み、また意味ありげな表現、ふと耳にした 秘話への引喩によって理解がなされていった。大衆の意見はずる賢いカモフラージュの中にいつ もあったのである86。 そんな中、幸運なことに、クロフタはその権威から逃れるため、チェコ民族再生運動者たちのレ 27 パートリー(童話,寓話、神話やヒーローたち)と共にプラハから北東に車で 2 時間ほど離れたフラ デッツ・クラーロヴェーにある DRAK に入団した。しかしそれらのレパートリーはもちろん当時の社会 主義体制では許されるものではなかった。DRAK は「避難場所」であったのである。許容された芸 術の主張の制限を超えない限り、比較的そこは安全な場所であった。今や世界の人形劇をリード する劇団 DRAK が首都プラハではなく、フラデッツにある理由は少なくとも社会主義権威者の目を 免れるためであったのであろう。しかし彼らは、その制限を乗り越えようとした。それゆえ並大抵では ない外交力とそのメッセージの隠喩化(metaphorization)がきわめて重要なものであった。 クロフタの作品の一つに『UNICUM-今日が最後(UNICUM – Dnes naposled! , 1978)』があるが (図 19 参照)、実はこれは 1977 年の十月社会主義大革命の祝典の際の演劇部門の公式な需要の ために制作されたものである。これは明らかにその社会主義体制が要求されているにもかかわらず、 いかにして DRAK がその性格を失わず、また深い人間主義的な作品をどうにかして作り上げてきた かということが顕著に表れている。この作品は、人間の圧制、虐待と自由をもたらしたその革命につ いての昔のお話を繰り返したものであった。アレンジされたものはサーカスの一団の庶民の話であ った。その作品では、俳優と人形のパフォーマンスを発展させ、同時に「ホープ(Hope、希望)」と名 のつけられた人形のマネキンを使いそのプロットを拡大させた。ホープは接合部の動きが制限され ている人形で、それは象徴、というよりも偶像であった。そのサーカスにおける無産階級の一員は、 それを頼り委ね、信仰する。クロフタはここで人形とその人形使いの間の新しい関係性を実行した。 実際にはホープについての人形操作、特徴付けについて話すのは難しいであろう。それはむしろ、 その生活のなかで取り巻く集合的な信念によるものによってなされたものであった。クロフタはこう 言う。 ”animate” というのは、動かすことを意味するのではなく、魂を吹き込むことを言う。ものに魂を 吹き込むのは、完全な何かのまね、コピーと同じではない。よいアニメーターというのは、人形 にフォークでスパゲッティをすくわせ、何度かあげさげすることが出来る人ではない。それは能 力、スキルである。そうではなくて、彼が触るすべてのものに生命が宿っているように我々に思 わせることができ、本当に魂があるかのように魂を授けることができるような人である87。 彼は、今まで述べたように人形劇の芸術的表現方法についても人形劇を高めた人形劇人であり つつ、社会主義体制へ人形劇を使って、密かに対抗した人物の一人であった。人形劇という民衆 文化的な特徴を持った手段を通じて、チェコ民衆と共に暗喩、ブラック・ユーモア、「秘密の言語」 を使用し、自由を求めたのである。このように彼の仕事を通じて、社会主義支配下における人形劇 の様相や、支配と人形劇の関係が浮き彫りになるのではないかと考える。社会主義時代にも、チェ コ独立や支配への批判、抵抗手段として人形劇独自の表現方法を追い求め、クロフタのような人 形劇人が活躍したのである。このようにチェコ人形劇において芸術的言語が発達したのは、支配か らの脱却、抵抗という一面、端的に言うと「支配者」の存在があったからであるという一要因も考えら れよう。 28 おわりに さて、この論文ではチェコ人形劇について、様々な視点から論じてきた。チェコの人形劇がチェ コのアイデンティティ模索・確立の歴史に深く関わりながら危機を乗り越えつつ共に発展し、それぞ れでチェコ民衆にとって重要な役割を果たしてきたことがわかった。 なぜ人形劇がチェコ民族において重要な存在となり、どんな役割を果たし、発展したのかを考え ると、大きく分けて歴史的要因と人形(劇)の特性、が挙げられる。 まず、歴史的要因であるが、民族再生運動期において、人形劇は初期においては低俗なものと みなされ、再生運動の担い手たちにとっては巻き込む必要のないと思われた最下位層を中心に広 まっていたゆえ、ブヂテル達に批判されるという特徴があったものの、後々「高度な」チェコ文化そ のものは、宗教革命期、ルネサンス期、バロック初期のビーラー・ホラの戦い以前のチェコ語・チェ コ文化から豊かな養分を汲み取り、またその農民生活に留まっていたものやフォークロア的なもの を基盤として再生(もしくは創造)されていった。そう考えると、チェコ文化においてもともとの下位・ 農民層は、その基盤となるものの一つであり、その特徴の起源である。その層に根強く愛され、生 活にとけこんでいた人形劇は、のちのチェコ民族を文化的にも政治的にも形成していく際に、チェ コ人の心の拠り所、そして今まで述べてきた批判・教育などの手段、娯楽として、芸術的価値が高 められ世界に認められた後にも愛され続けた(そしてそれゆえ時にはチェコ民族をまとめるために 利用された)のは不思議ではない88。 その人形劇がまず下位・農民層全体、そして時代の流れと共にチェコ民族全体に広まっていった 理由としては、まず一つ目に人形劇は劇に比べて料金が安く、比較的下位層でも気軽に観劇する ことができた。これは、民族再生運動期のみに限らず、現在まで人形劇の観劇料金は(観光客向 けを除いて)良心的なもので、誰にでも気軽に観られるものとなっている。二つ目には、上の理由と も関係するであろうが、人形劇は劇に比べると人件費もかからず、移動にも非常に便利であった。 その結果、巡回人形劇人の活躍によりチェコ全土の様々な地域に人形劇は普及していった。三つ 目に、もともと外国のものであった人形劇をチェコ語で上演する巡回人形劇人が増え、そのレパー トリーもチェコ的なものに発展し、人形劇は文字の読めない人々、チェコ語しか分からない人にも分 かりやすい文化手段・娯楽であり、都市の演劇と農村を結ぶ、文化・啓蒙の架け橋となっていた。 四つ目には、オーストリア政府からチェコ人形劇は低俗なものと見なされていたゆえ、政治的な拘 束や検閲を免れたということである89。 そして五つ目には、ソコルなどの結社と結びつき、芸術的 価値が高められようとしていた時期にも、チェコ全土にまんべんなく広まり、チェコでは民衆レベル でも生活のあらゆるシーンで人形劇が存在していたことである。18 頁にも述べたように、第二次世 界大戦後にはチェコの多くの土地で人形劇場が唯一の文化手段であり、正常な教育ないし文化 団体だけでなく、リクリエーション、街中や休暇の露営地、運動場、特異児童のホーム、病院、そし て刑務所においてさえ盛んであった人形劇は、もちろん家庭用人形劇(Family Theatre)としても広 29 まっており、人形劇の普及率の高さが伺える。 このような理由からチェコ人形劇は民衆に広く広まり、民衆的なものの性格を持ち続けることがで き、いつでも身近なものとして様々な手段に使用されたのである。そして、その手段の目的であっ た教育や道徳、批判とは、支配への抵抗や、独立や故郷への想いを強めたり、チェコ民族性を探 し求めその理想的な形を形成する過程で非常に関わり深いものである。このような関わりの中でチ ェコ人形劇は、歴史的な特徴のゆえ不確実なアイデンティティを探し求めたチェコ民族の精神的な 部分と非常に深いつながりを形成していったのではないかと思われる。特にオーストリア支配、ナ チス、そして社会主義時代に行われていた政治的な劇から、チェコ人形劇は単なる玩具ではある が、ポジティブな政治的手段として使用される文化的な重要性をも得た。危機的な状況下では、チ ェコ人は武器、そしてこの人形たちを使ったのである90。 そして、こうしたサブ・カルチャーとしての民衆的な特徴は維持しつつ、他国では人形劇が衰退 した時期に、チェコにおいて人形劇は芸術に認められるまでに高められて万人に認められ、民族 再生運動期に目的だった「高い文化の創造」からチェコ性、その正当性を高めることを人形劇も達 成することができ、対外的にもチェコ人の誇りとなることができた(それゆえチェコ人のアイデンティ ティ形成に役立った)ことも、チェコ人形劇がチェコ人と深い関わり持つゆえんであるし、信頼できる 教育手段などともなり得たゆえんでもある。 では、人形劇が芸術的な地位も確立した要因はなんだったのか。なんといっても一つ目に、人 形劇の可能性に気づき、それを信じた人形劇人たちの情熱から来る努力とその仕事の結果である。 第二章の 2,3,4 節で詳しく述べたが、ここでもう一度まとめると、ヤン・マリークやインドジーフ・ベセリ ーなどの人形劇研究家たちの人形劇研究、国際組織や人形劇人組織の形成、出版、人形劇大会、 そしてそれだけではなく、あらゆる人形劇人がチェコ人形劇芸術性向上を計り試行錯誤しながら上 演するなどの仕事によって、人形劇に人々が注目する機会を増やして他の芸術家たちの人形劇 に対する興味を引き起こし、新たな表現方法を試み確立していくことができた。そうしてチェコ人形 劇の地位を高めることができたのである。そして、その人形劇に対する情熱はヨゼフ・スクパのよう に多くの人形劇人が主にナチス時代、政治的に危険な立場におかれて、自らに危険が及ぼうとも 政治的な人形劇公演を続けたというところからも読み取れるものである。そして、芸術的地位も高め つつ、民衆に愛されるサブ・カルチャーとしての性格を維持できたのも、この人形劇人たちが原点 の民衆性を忘れずに、それによりそった題目を演じてきたからではないか。そして、この芸術的可 能性を証明できたことにより、二つの世界大戦以降には政府の公的な支援金を得ることもでき、こ のことも戦後のチェコ人形劇が芸術性の点で発展してきた一因とも言えよう。オーストリアからの支 配の際には低俗なものとみなされていたチェコ人形劇が、すでに政府の外貨獲得手段にまでなっ たのである。しかしそれはまた、皮肉なことに、人形劇が、芸術的可能性が証明されたゆえに、ソ連 から社会主義リアリズムに利用される目的であったことは忘れてはならない。しかしその際にも、スク パやヨゼフ・クロフタのように、社会主義勢力にわからないように民衆に寄り添って、支配に反対す る人形劇が続いていたのである。そして二つ目は以下に述べる人形劇の特性と関わってくるもので あるが、もちろん人形劇そのものに芸術的表現方法の可能性が秘められており、人形劇人によっ 30 てその可能性が開花されたことが、人形劇の高い芸術性獲得の要因でもある。 以上がチェコ人形劇発展の歴史的要因である。ではもう一つの要因、第三章で述べた人形(劇) の特性をまとめると、まず一つ目に、人形、人形劇が人間と違った新たな世界を創造していくことが できることである。そして二つ目に、一つ目のそれを可能にするのは、人形が常に人間に「操られ る」こと、そして人形の人間にはない表現力(カリカチュア、ブラック・ユーモア、グロテスクさ)である。 第三章 1 で述べたウラジミール・ソコローフの発言が一番これを表現していると考えるのだが、もう 一度引用すると、 自己の創造意思の芸術的自由を目指して、人間は人形劇を発明した。人間は自分のため に自分自身の世界を創り、自分に従属する人物を使って自分の意志、自分の論理、自分 の美学を強化したのだから、この発明によって人間は運命の不可避性を信じる事から解放 された。 チェコにおいては、特に 20 世紀初頭からの人形劇独自の表現を求める反自然主義的な潮流に おいて、民族再生運動の高い芸術を求める流れと、人形劇人が人形劇の価値を高めようとしたそ れが一致し、人形劇の創造性や表現性が高められ、レパートリーも増えたこともチェコ人形劇人が 新たなチェコ人の理想の世界を表現していくのに役に立った。そしてその自らの理想の世界をある 価値観しか許されない社会体制の中で表現したり、支配者層を批判したりするためには、上にも述 べた、皮肉,ブラック・ユーモア、グロテスク性(喜劇性)を持ち合わせた人形劇が非常にチェコ人 にとっても扱いやすかったのではないかと考える。チェコにおいて支配された歴史、不満がある生 活、自らのアイデンティティを探し求める中での表現方法で、最も有用な表現手段のひとつであっ たのである。このブラック・ユーモア、グロテスク性(喜劇性)については、カシュパーレクについて述 べることで、確認することができた。そしてこの歴史的な様相により、人形であるカシュパーレクがど この国のカシュパーレクの祖先よりも政治的な特徴を持ち、人形がチェコ人のヒーロー的存在とし て、チェコ人の精神的な部分と強いつながりを形成したのである。 さて、このように、チェコ人形劇の役割と発展経緯については、複雑なチェコの歴史を反映してい ることがわかった。人形劇は、チェコにおいて、その人形劇独自の特徴と、自らのアイデンティティ 確立や支配からの自由を求める経緯が合致しながら、また近代的なチェコ市民を形成する過程と 一致しながら、チェコ人の身近な文化かつ、世界に誇れる芸術文化としての両面性の花を咲かせ たのである。 このチェコ人形劇における考察を通じて、考えられることが以下三点あるのではないか。 まず一つ目には、チェコ人形劇から見えるチェコの歴史・文化、チェコ民族性への理解である。 普段何気なく見ていて、そこに在る、しかも日本ではどちらかというと「遊び」や「娯楽」としてのイメ ージが強いマリオネットとしての「人形劇」という文化一つに注目し、調べていくだけで、複雑なその チェコの歴史や文化の在り方、そしてそこからチェコ人の民族性がまざまざと見えてくる。それだけ 31 でも、ある国の一つの文化には、その国の深い歴史から来る特徴が反映されていて、異文化を理 解するきっかけ、もしくは重要なソースとなり得るのである。ここに芸術文化、民衆文化の面白さや 可能性がある。このことから、文化自身の尊さ、そして、それぞれの国の文化に興味を持ち、立ち止 まって理解しようとすることの大切さが分かるのではないか。日本ではまだ資料も少なく、触れること も少ないであろうこのチェコ人形劇における考察が、チェコ人形劇の理解を深め、チェコという日本 人にはなじみがまだ薄い国への理解や興味を引き起こし、そしてチェコが経験した歴史から今後 の世界や芸術の在り方を考えていくきっかけとなれば、と考える。 二つ目には、多様性維持のための文化の重要性、つながりについてである。チェコ人形劇は、 チェコ形成、特に民族再生運動という「チェコ人とは何か」を模索、創造、確立していく運動や近代 チェコ市民形成と密接に関係し、それぞれにおいて重要な役割を果たしながら発展し、チェコ人の アイデンティティの一部となりチェコ人の想いや、その価値をも表現してきた。一度滅びかけた相対 的に小さな言語や民族が、その危機を乗り越えられた要因として、少なくとも文化そのものの力は 否めないのである。民族の存在、とりわけ小民族の存在とは、端的に言えば世界の多様性の一つ の表れであり、同時に世界の文化的多様性を維持し富ませるという役割を果たし、ひいては人間の 個性とかけがえのなさを認知し感得しうる世界を形成し維持するという意味を持ちうるであろう。この ようにかけがえのない多様性としての価値を支える小民族を守るための一つの強力な手段として、 自らの言語や文化の「かけがえのなさ」に由来する価値に賭けなければ、閉鎖的なナショナリズム へと繋がっていく可能性が高い91。このように、チェコ人形劇も例外ではなく、その多様性維持にお ける文化の重要性をその視点から述べることができたのではないか。 三つ目には、チェコ人形劇、ひいては民衆文化(サブ・カルチャー)の秘める可能性である。この チェコ人形劇は、現代も注目を集めているサブ・カルチャーとしての特長を多く持っていた。サブ・ カルチャーというのは、注目されづらく、しばしば批判的な目で見られることも多いものである。しか し、それは、多くの人の心を掴み、その拠り所や信条ともなり得、時には政治的な性格を持ち得る。 この民衆的性格を持ったサブ・カルチャーが、芸術的な評価や対外的な評価を得ることが出来ると さらにその力を強めることができる。例えば、これがチェコにおいてはチェコ民族形成や支配への 抵抗にも役割を果たしたし、チェコ人と密接な関係性を構築してきたことがわかった。そして今、日 本においてはマンガ文化などが注目されているが、チェコ人形劇についての考察は、このように今 後日本においても日本文化の代表として台頭してくるであろうサブ・カルチャーについてのあらゆる 可能性と、それについてどのように考え、どのように保存しながら発展させるべきかを提唱していけ る一事例となるのではないか。 1989 年、ビロード革命が起こり、長年にわたるソ連からの実質的な支配から脱却したチェコ。 1990 年以降、人形劇においては新しく 6 つの劇団が結成され、さらに、アマチュアの活動も活発に なっていった。今では政治的な規制ももちろんなくなり、国際的な交流も活発となり、その中で様々 なスタイルが模索されつつ、発展、そして伝統を守り抜いているチェコ人形劇。独立を果たした今 でも、チェコの人形劇が守り続けて行くべきものはチェコ人の心である事は変わらないだろう。これ からもチェコ人形劇がチェコの歴史においてどのような役割を果たしていくのか、目が離せない。 32 注 1 近藤昌夫「人形劇と東西スラヴ世界」『イメージのポルカ——スラヴの視覚芸術』(成文社、 2008 年)所収 195 頁。 2 石川達夫『マサリクとチェコの精神 アイデンティティと自律性を求めて』(成文社、2004 年) 252 頁。 3 近藤、前掲書「人形劇と東西スラヴ世界」 195 頁。 4 加藤暁子『人形の国のガリバーさん―チェコの人形劇に学んで―』(中公新書、1978 年)99 頁。 5 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova. Czech Puppet Theatre yesterday and today, Theatre Institute Prague, 2006, p.36. 石川達夫『チェコ民族再生運動―多様性の擁護、あるいは小民族の存在論』(岩波書店、 2010 年)12 頁。 7 同上書 90 頁。 8 同上書 138 頁。 9 石川、前掲書『マサリクとチェコの精神』 14-15 頁。 10 同上書 109 頁。 「また、この寛容令は、カトリック教会の従来の特権的地位を確保するための様々な制限が付け られていたものの、大きな変化を引き起こす契機となった。」 11 「1882 年にはついにプラハ大学がドイツ系大学とチェコ系大学に分割されて、独立したチ ェコ系大学が設置されるに至った。」(石川、前掲書『チェコ民族再生運動』 151 頁。) 12 同上書 141-142 頁。 13 同上書 168 頁。 14 同上書 230-231 頁 15 石川、前掲書『マサリクとチェコの精神』 125 頁。 16 石川、前掲書『チェコ民族再生運動』 205 頁。 17 矢田俊隆『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』(山川出版社、1978 年)54 頁。 18 同上書 102 頁。 19 同上書 108-109 頁。 20 同上書 112 頁。 21 同上書 114 頁。 22 ヤン・マリーク;栗栖継訳「抵抗の武器としての人形劇」 新日本文学会『新日本文学』 第 8 巻 (1953 年 3 月号)所収 117 頁。 23 Nina Malikova, Alena Exnarova. THE WORLD OF PUPPETS YESTERDAY AND TODAY. 6 Museum of Puppetry in Chrudim, Czech Repubric, 1997, p.12. 24 ヤン・マリーク、前掲書 119-120 頁。 25 「それらの人形劇向け劇は、先生であったプロコプ・コノパーセク(Prokop Konopásek, 1785-1828)によって書かれたようである。」(Nina Malikova, Alena Exnarova, op.cit.,p.13.) この時期は、啓蒙化が進み、チェコ人のアイデンティティを自覚したチェコ農民層や下位層出 身の先生が現れていたので、彼らによって人形劇の題目が書かれたのではないか。その題目 の詳しい資料が現存していないのは大変残念である。 33 26 石川、前掲書『チェコ民族再生運動』 210 頁。 27 同上書 211 頁。 また、図 3 も今一度参照にされたい。 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit.,p.7. 28 29 Ibid. p.8. 30 石川、前掲書 211-212 頁。 加藤、前掲書 92 頁。 ヤン・マリーク、前掲書 121 頁。 「例えば、メダル彫刻家ヨゼフ・シエイノスト(1878-1974)が 1904 年に人形を手がけた。それを皮 切りに優れた演出家カレル・シュペイタブル(1863-1930)が芸術舞台の保護者、演出を担当す るなどした。」(同上書 122 頁。) 同上書 123 頁。 加藤、 前掲書 92-93 頁。 同上書 93 頁。 31 32 33 34 35 36 37 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit., p.10. 38 ソコル(SOKOL)・・・「1862 年に結成された全国的規模のスポーツの民間組織。スポーツ文化運 動を通じて、オーストリア・ハンガリー帝国からの独立の達成を目指したものであった。あちこちの 市町村に集会所を持ち、そこにやがて付属の人形劇場がつくられてゆくようになった。」(加藤、 前掲書 176 頁。) 39 石川、前掲書 173 頁。 40 福田宏『身体の国民化 : 多極化するチェコ社会と体操運動』(北海道大学出版会、2006 年) 6 頁。 41 福田、前掲書 7 頁。 42 加藤、前掲書 177 頁。 ボガトゥイリョフ、桑野隆『民衆文化の記号学 先覚者ボガトゥイリョフの仕事』(東海大学出版 会、1981 年) 58 頁。 ヤン・マリーク、前掲書 126 頁。 同上書 128 頁。 43 44 45 46 ヤン・マリーク;栗栖継訳「抵抗の武器としての人形劇(続)」新日本文学会『新日本文学』第 8 巻 (1953 年 4 月号)所収 130 頁。 47 48 49 50 51 52 53 ヤン・マリーク、前掲書(『新日本文学』 1953 年 3 月号) 126-127 頁。 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit., p.67. Vit Horejs. Czechoslovak-American Puppetry, GOH Productions, 1994, P.59. ヤン・マリーク、 前掲書(『新日本文学』 1953 年 4 月号) 32 頁。 「ナチズムに対し民主主義のために戦って殉難者の死を遂げた百人以上の人形劇人のリストの 中から最も著名な名のみをあげると、人形劇作家であり、ラジオ記者であったフランチシェク・ コツオレク(1902-42)、リベレツの人形劇団の創立者でありその中心であったヤン・ドウリッヒ (1859-1943)、芸術教育協会の舞台装置家であった B・ブデシンスキー、人形劇における近 代的照明技術の開拓者であったアントニーン・スルネツ(1902-45)」(同上書 133 頁。) 同上書 133 頁。 Spejbl and Hurvínek・・・スクパによって生み出された人形劇のキャラクター。 「カシュパーレクの喜劇的風刺的性格を受け継いでいる。」(加藤、前掲書 99 頁。) 現在でもチェコで一番有名なキャラクター、人形劇である(現在もプラハの S+H 劇場で定期的 に上演されている)。(Divadlo S+H http://www.spejbl-hurvinek.cz/参照。) 34 54 同上書 134 頁。 同上書 165 頁。 56 The Spejbl and Hurvinek Theatre, Central Puppet theatre, Severočeské loutkové divadlo(North Bohemian Puppet Theatre), Západočeské loutkové divadlo(South Bohemian Puppet Theatre), Jihočeské loutokové divadlo(West Bohemian Puppet Theatre), Divadlo loutek Ostrava (Theatre of Puppets in Ostrava), Radost Theatre, Východočeské divadlo (East Bohemian Teatre),Divadlo rozmanitostí(Rozmanitost Theatre) in Most. (Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit., p.27.) 57 Akademie muzických umění(Academy of performing Arts)の略。1990 年に名称は変更され、 DAMU(Katedra alternativního a loutkového divadla, Department of Alternative and Puppet Theatre)となった。(Ibid. p.64.) 58 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit., p.27. 59 Vit Horejs, op.cit., p.66. 60 ヤン・マリーク、前掲書(『新日本文学』 1953 年 4 月号) 137 頁。 55 61 Vit Horejs, op.cit., p.65. 62 加藤、前掲書 102 頁。 63 J.V. Dvořák, Matěj, Máča, Matýsek aneb Šestá generace rodu Kopeckých, GARAMON, Hradec Králové, 2005, p.42. 64 65 66 67 68 69 70 71 72 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, op.cit., p28. 桑野隆『民衆文化の記号学 先覚者ボガトゥイリョフの仕事』(東海大学出版会、1981 年)61 頁。 桑野隆『民衆文化の記号学 先覚者ボガトゥイリョフの仕事』(東海大学出版会、1981 年)61 頁。 同上書 61-62 頁。 同上書 18 頁。 同上書 19 頁。 ヘンリク・ユルコフスキ「人形劇観の歴史から」 S.オブラスツォーフ他;大井数雄訳,『人形劇 とはどういうものか』(晩成書房、1981 年)所収 72 頁。 桑野、前掲書 20 頁。 王様が勝手身の回りで遊ばせていた芸人。どこにいるときも無礼講で、王様と庶民の緊張を緩 和する役割をしていた。 (チェコ人形劇物語 http://www.eonet.ne.jp/~snake/zemi/2003/czech/czech.html .) 73 「複数の登場人物が出てくる劇中で、相手の人形に暴力を振るう下品なコメディー形態。人形が 相手をたたくために持っている棒をスラップスティックと呼ぶことから命名された。」(同上サイト。) 74 また、図 7 右下、図 8 の左側に居る人形もカシュパーレクである。 75 例えばフランスではギニョール、スペインではドン・クリストバル、オランダではヤン・クラーセン、 ドイツではカスペレにその座を譲った。(近藤、前掲書 216 頁。) 76 77 78 Vit Horejs, op.cit., p.58. 近藤、前掲書 226 頁。 Vit Horejs, op.cit., p.58. 79 ヴラスタ・チハーコヴァー『プラハ幻景』(新宿書房、1993 年)182 頁。 80 近藤、前掲書 228 頁。 81 田中正子「パタフィジックの土壌から生まれたカシュパーレク」『夜想 35 チェコの魔術的芸術』 (ペヨトル工房、1999 年)所収 122-133 頁。 35 82 František Langer, KAŠPÁLEK JAKO DETEKTIV, Loutkové hry malého čtenáře, JOS.R. Vilímka, Praha, 1932, p.7-8. 筆者日本語訳。 83 Ibid. p.5-16. 筆者日本語訳。 84 「カシュパーレクの大衆的で元気な小さな姿は、1928 年に公衆衛生映画に持ち込まれた。この 映画のシナリオを書き、演出したのは公衆衛生に関する多くの人形劇の作者であるカレル・ドリ ムル博士(1891-1929)であった。ドリムル博士の作品は世界のすべての主要な言葉に約されて いるが、日本語にも訳された。後年スクリーンに現れた人形としては、スクパの古典的人形スペイ ブルとフルビーネク(1931 年につくられた「シュペイブルの酩酊」)のほかに、劇映画中ある気分 を醸し出す手段として使われた人気のある人形たちがある。例えば 1935 年のウーフア映画「喜 劇役者の王女」がこの種の映画であった。人形カシュパーレクは生きた俳優たちによって演ぜら れる児童劇にも進出した。もっともそのことは 2, 3 の無責任な劇場支配人の商業的なやり方と俳 優たちの教育者としての資格の不十分さのために教育界の抗議をたびたび呼び起こしたが。」 (ヤン・マリーク、前掲書(『新日本文学』 1953 年 3 月号) 128 頁。) 85 Jan Dvorak. JOSEF KROFTA- Babylonska Vez / The Tower of Babel / La Tour de Babel, DRAK Hradec Krarove, HELMA Prague, 1993, p.18. 86 Ibid. p.28. 87 Ibid. p.31. 88 石川、前掲書 176 頁。 「また、チェコ民族再生運動の特徴として第一に、同じ中欧のポーランド人やハンガリー人な どの場合とも異なり、「ビーラー・ホラの戦い」以後、高度な文化の担い手であるはずの貴族や上 層市民の多くが国外に追放されて外国出身者が彼らと交替し、国内に残った者たちも民族語と 民族文化から遠ざかってしまい、それを高度なレベルで維持し守る主体がいなくなり、民族と国 家性の代表者が激減してしまっていたことである。チェコではそもそも人口に占める貴族の割合 自体が極端に少なくなっており、18 世紀末から 19 世紀初頭においてポーランドでは 10 人に 1 人、ハンガリーでは 8 人に 1 人が貴族身分であったのに対して、チェコでは僅か 828 人に 1 人で あり、この数はヨーロッパ全体で見ても例外的に少なかったと言われる。」(同上書 175 頁。) ゆえに、「近代的な民族文化は、利用できる国家的資産も限られた中で、下から、すなわち「平 民」の中から形成されねばならなかった。」(同上書 422 頁。) 89 しかしこれは、ナチス支配下では第二章に述べたように人形劇は徹底的に検閲され破壊の対 象にされた。これは裏を返せばナチスが人形劇の力を恐れていたということであり、人形劇の底 知れぬパワーを証明するものでもある。 90 Vit Horejs, op.cit., p.66. 91 石川、同上書 431 頁。 36 チェコ主要年表 833 頃 大モラヴィア帝国 9-10c プシェミスル朝ボヘミア成立 1212 神聖ローマ帝国から特許状→王国となる 1346 カレル4世即位 1419-34 フス戦争 1526 フェルディナンド 1 世即位 1576 ルドルフ2世即位 1609 信仰の自由の勅令 1617 フェルディナンド2世即位 1618 30 年戦争勃発 1620 白山の戦い(プロテスタント敗北) 1627 信仰の自由の勅令廃止(プロテスタント信仰の完全な禁止、ドイツ語の公用語化) 1740 マリア・テレジア即位 1765 ヨーゼフ2世即位 チェコ文化の興隆 宗教改革 ハプスブルク帝国統治下に(1918 まで) 民族再生運動期 1773 チェコ、ハンガリーのイエズス会解散 1781 ヨーゼフ2世の寛容令(信仰の自由の保証) 。農奴制廃止令 1785 初めてドイツ演劇のチェコ語訳での上演 1792 ヨゼフ・ドブロフスキー『チェコの言語と文学の歴史』 1834 ヨゼフ・ユングマン『チェコ語・ドイツ語辞典』 1848 パリで二月革命 1862 チェコで Sokol(ソコル)創立 1866 普墺戦争 1867 ハプスブルク帝国、オーストリアとハンガリーの「二重君主国」となる 19c 中頃 人形劇;Family theatres の活躍 19c 後半 アマチュア人形劇団の活動がボヘミアで活発 1881 プラハに国民劇場完成(同年焼失、1883 年再建) 1911 Czech Association of Puppet theatre Friends 結成 1914 第一次世界大戦(〜1918) 1918 チェコスロヴァキア共和国成立(第一共和国) 37 1920 初めて独立した人形劇場完成(Louny) 1923 Puppet Concentration 結成 1929 UNIMA 結成 1930 チェコで初のプロ人形劇団を Josef Skupa が Pilsen で設立 1938 ミュンヘン協定 1939 ドイツがチェコスロヴァキアを解体。第二次世界大戦開戦 1945 第二次世界大戦終結 世界恐慌 ナチスドイツによる支配 ソ連の支配 スクパ, Spejbl and Hurvínek theatre(Divadlo S+H)をプラハに設立 1946 総選挙で共産党が第一党となる 1948 二月事件。共産党が権力掌握。大統領ゴットヴァルト選出(~1948) 演劇法制定 1949 Central Puppet Theatre, Radost Theatre 設立 1952 世界初の国立大学人形劇学科 AMU 設立(1990 年に名称変更;DAMU) 1958 DRAK Theatre 設立 1964 イジー・スルネツ(Jiří Srnec)が Black Theatre の劇団を設立 1968 プラハの春 ワルシャワ条約機構軍、チェコスロヴァキアに侵攻、正常化 1977 反体制派が「憲章 77」を発表。 1989 ビロード革命 ソ連のペレストロイカ開始。 支配からの解放、独立 大統領にハヴェル選出 1993 チェコスロヴァキアがチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離 1999 NATO 加盟 2004 EU 加盟 ●参考文献 Alice Dubska, Jan Novak, Nina Milikova, Marie Zdenkova, Czech Puppet Theatre yesterday and today, Theatre I nstitute Prague, 2006. 加藤暁子『人形の国のガリバーさん―チェコの人形劇に学んで―』中公新書、1978 年 薩摩秀登『図説 チェコとスロヴァキア』河出書房新社、2006 年 石川達夫『チェコ民族再生運動―多様性の擁護、あるいは小民族の存在論』岩波書店、2010 年 38 <参考資料> 図1 旧市街地のある人形店(プラハ、2010-08-06 撮影) 図2 チェコの位置 (世界の国々 最終閲覧 2010-09-24) (http://www.ncm-center.co.jp/sekai/kuniguni.htm) 図3 図4 近代におけるチェコ文化の再創造 (石川達夫『チェコ民族再生運動―多様性の擁護、あるいは小民族の存在論』岩波書店、2010 年 図5 14 頁、231 頁) 図6 巡回人形劇人の旅(Nina Malikova, Alena Exnarova. マチェイ・コペツキー(Ibid. p.36) THE WORLD OF PUPPETS YESTERDAY AND TODAY, Museum of Puppetry in Chrudim, Czech Repubric, 1997, p.11) 39 図7 図8 (加藤暁子『人形の国のガリバーさん―チェコの人形劇に学んで―』 中公新書、1978 年 91 頁) 家庭用人形劇装置(1918) (Nina Malikova, Alena Exnarova,op.cit., p.21) 図9 家庭用人形劇を楽しむ人々 図 10 (Museum of puppetry in Chrudim, 2010-08-29 撮影) 第 10 回ソコル祭典(1938 年)3 万 2 千名男子による徒手体操 (福田宏『身体の国民化:多極化するチェコ社会と体操運動』北海道大学出版会、2006 年 40 220 頁) 図 11 (前掲書 p115) 図 12 図 13 UNIMA 本部(プラハ、2010-07-30 撮影) ヨゼフ・スクパとスペイブル・フルビーネク (Denisa Kirschnerová, SPEJBL a HURVÍNEK... na nitkách osudu, Computer Press, Brno, 2010, p.26) 図 14 図 15 左:フルビーネク 右:スペイブル プラハの S+H 劇場 (Jarosrav Blecha, Pavel Jirásek. Česká loutka, (プラハ KANT, Praha, 2008, p.217) 41 Dejvická、2010-08-23 撮影) 図 16 図 17 S+H 劇団のバスとその一団(ブジェツラフにて) カシュパーレク (J.V. Dvořák, Matěj, Máča, Matýsek aneb Šestá generace rodu Kopeckých, GARAMON, Hradec Králové, 2005,p.42) (Museum of puppetry in Chrudim, 2010-08-29 撮影) 図 18 図 19 UNICUM-今日が最後(UNICUM – Dnes naposled! , 1978) ヨゼフ・クロフタ (Jan Dvorak. JOSEF KROFTA- Babylonska Vez / The Tower of Babel / La Tour de Babel, DRAK Hradec Krarove, HELMA Prague, 1993,p.45) 42 (Ibid. p.5)