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伝統とモダンの融合 「遠州の小江戸」掛塚の文化遺産 平成 26 年(2014)11 月、磐田市掛塚の 旧回船問屋「津倉家」の土地約 1500 平方メ ートルと建物などが磐田市に寄付されまし た。津倉家は、江戸から明治時代にかけて 繁栄し、 「遠州の小江戸」とも呼ばれた掛塚 湊「津」の歴史を今に伝える、 「倉」のある 貴重な建物です。 明治 22 年(1889)の建築とされる母屋は寄棟造木造 2 階建て(延べ床面 積約 350 平方メートル)。渡辺崋山門下の画家平井顕斎(牧之原市出身)と 福田半香(磐田市見付出身)が描いた奥座敷の襖絵は磐田市指定文化財。昭 和 10 年(1935)に増築したという洋室には、画家中村不折から贈られた書 が飾られ、皇族のために製作したと伝わる応接セットも、当時のまま置かれ ています。 この冊子『津倉家を訪ねて』は、津倉家を見学に訪れる人たちの参考にな ればとの思いから作りました。材木商らしく良材にこだわり、地元の木挽き たちが材を伐り出し、名工・曽布川藤次郎が建てた家。伝統的な日本家屋で ありながら、当時はまだ高級だったガラス障子戸やガス灯など最先端のモダ ン建具や機器・調度なども取り入れられ、いたるところに見どころがありま す。 津倉家を訪れる機会には単なる見学に終わらず、津倉家を鑑賞するつもり でお訪ねいただけることを願っています。では、ページを開くレトロなスイ ッチを押して、魅力的な津倉家にお入りください! ●欅の大黒柱 玄関をくぐり、先ずは目に付く欅(ケ ヤキ)の大黒柱に注目してください。 大黒柱とは、建物の中央に立てる主柱。 家を支える役割はもちろんですが、来客 の目に真っ先に触れますので、見栄えに こだわり、家格を上げる役を担っている 大切な柱です。 杉の天井 檜の廊下 欅の廊下 楢の広縁 幅 1 尺 1 寸(33.3333333 センチ)と太さも十分ですが、柱を挟むように嵌 め込まれた細かい格子戸が、おおらかで美しいケヤキの木目を引き立ててい ます。 ●杉の天井、檜、欅、楢の廊下 津倉家は、材木商でもありましたので、良材を手に入れるのは比較的容易。 天井に張られている杉板にしても、柾目の美しい最上級品。水窪の山住から 伐り出した杉が使われています。 座敷の 3 面を取り巻くように廊下が設けられていますが、南側は檜(ヒノ キ) 、西側は欅(ケヤキ)、北側は楢(ナラ)と、材木商らしく良材の見本展 ●杢の玄関外壁と軒天板 示のように使い分けられています。 外壁と軒天井に使われている板目模様 特に、北側の広縁とも言える廊下に使われている楢の柾目には、虎斑(と の板は、複雑な模様が浮き出た杢(もく) らふ)と呼ばれる独特な味わいのある木目が現れるそうです。津倉家の楢は と呼ばれる美しい板です。 板目ですが、ブナ科の楢の最大の特徴は、材の硬さ。そのため、虎斑の美し 板目の模様は、木の種類は同じでも、育 さを生かしたくても、その硬さのため加工は大変難しく、良材を手に入れる った環境や樹齢などから決して同じ模様 財力と同時に、腕の良い大工がいなくては板に挽くこともできず、建築材と は現れません。木が捻じれたり、曲がった して使うことなどできなかったのです。 り、枝が生えたりすれば、そこには天然木 ならではの模様が現れます。 その杢目を出させるのには、木を選ぶのはもちろんですが、どの部分をど の角度で挽いたら装飾的な模様が現れるかを知り抜いた目が必要。そんな目 を持ち、板に挽く職人が、掛塚にはいたのです。 ●本桜の敷居 ●鏡板 敷居は築 130 年に近いというのに、未だ 旧津倉家の奥座敷―床の間の右手、隣室とを仕 に光沢があり、障子の開け閉てによる擦り 切るには土壁ではなく板壁が設えてあります。た 減りが見当たりません。 だ、枠の中に薄い板を張っただけの仕切りを、鏡 敷居は、日に何度も障子や襖を開け閉め 板と呼びます。 する所。木目が緻密で堅く、溝の擦り減り 指先で軽く弾くと、コンコンと板の薄さが分か や割れが起きにくく、色も美しい「本桜」 ります。津倉家ともあろうものが、賓客を招き入 が適材と言われています。 れる奥座敷の仕切りに、こんな薄い鏡板を使うな 「本桜」とは山桜のこと。だったら、どこの家でも山桜を使えば良いはず んて、どうしたことでしょう? ですが、良材は決して多くはなく、硬い木を挽き、建具に加工するには職人 の腕が求められます。 しかし、考えてみてください。この薄くて幅広 の板を、誰がどうやって挽いたのでしょうか? 現在では、帯鋸を使った機械で製材することも可能でしょうけど、北遠の ●芯去り柱 良材が集積したかつての掛塚には、腕の良い木挽きたちがおおぜいいたので 旧津倉家に使われている柱を見てください!驚 くことに、ほとんどの柱に割れ目どころか、背割 りすら一切見られないのです。 芯持ち材の柱が経年で乾燥すると、ひび割れが す。この鏡板こそは、そんな掛塚の匠たちの腕を賓客に見せつけるもの。 大きくて重い掛塚で造られた製材用の縦挽き鋸、大鋸(おおが)を使って 挽かれた板の表面は、機械製材の仕上がりと違い、鉋(かんな)で仕上げら れたような美しさです。 生じるのは当たり前。実は、津倉家の柱に使われ ているのは芯持ち材ではなくて、芯去り材と呼ば れるものなのです。 芯去り材は図のような材の取り方をしますので、 先ずは太さが必要。ところが、柱材に使われる杉や ヒノキ材は真っ直ぐに育てるため、やや過密気味に 植えられた人工林で育てられますので、太い材を得 るのは難しく、もちろん高価になります。 乾燥してもひびが入らない、高価ですが強度があ る芯去り柱が使われているのが、製材業・材木商で もあった旧津倉家の見所の 1 つです。 ●提灯箱 かつての叩き土間に増築された部屋の 長押には、 家紋入りの提灯箱が並んでいま す。 夜間の外出時には提灯に描かれた桔梗 紋が浮き上がり、遠目にも津倉家の者と知 れる大切な灯り。いざ、夜の災害発生の時 にもすぐに飛び出せるよう、 玄関近くに常 備されていました。 ●曽布川藤次郎の彫刻 今は掛塚の字になっています。つまり、ここは、藤次郎の地元。 座敷の神棚の上部に施された欄間彫刻は、松の枝に止まる鳥の図柄。鳥の 王子製紙気田工場跡に残る通称「赤レンガ」、旧王子製紙事務室などの洋 種類までは分かりませんが、注目していただきたいのは、特徴のある松の葉 風建築も手掛けた藤次郎は、元々は腕の良い宮大工。その藤次郎が地元に建 の形です。 てた商家が津倉家です。 ●座敷の襖絵 南側の座敷と奥座敷とを仕切る 4 枚の襖には、正面側に福田半香(ふくだ はんこう:1804~64)、背面には平井顕斎(ひらいけんさい:1802~56)が描 いた山水画が使われています。 水窪山住神社(明治 16 年) 高木常夜燈(明治元年) 福田半香の襖絵 平井顕斎の襖絵 福田半香と平井顕斎は、ともに渡辺崋 春野清水神社(明治 15 年) 津倉家(明治 22 年) 写真を比較していただければ分かるよ うに、曽布川藤次郎が棟梁として建てた浜 山の門弟で「崋山十哲」と呼ばれる画家。 半香は現在の磐田市見付、顕斎は現在の 牧之原市に生まれた地元の画家です。 10 畳の座敷の長い側に 4 枚立の襖です 松市天竜区水窪町の山住神社「紫宸殿の鵺 から、1 枚の幅は三尺七寸五分 退治」や磐田市高木の秋葉山常夜燈、天竜 (1.13636364 メートル)。鴨居の上には 区春野町勝坂の清水神社本殿で見られる スッキリとした胡麻柄(ごまがら)の組子(木)欄間から隣室の光が漏れて ものと同じ団扇(うちわ)形。藤次郎が得 来ます。いずれも、磐田市指定の文化財。 意とした、当時流行の松の意匠です。 曽布川藤次郎は、長上郡十郎島の住人。天竜川の中州にあった十郎島は、 半香の襖絵の脇などには、浜松市出身の山下青厓(やましたせいがい:1858 ~1942)が描いた、水墨画が襖を飾っているほか、2 階には短冊や扇面など 思います。 を貼った貼交(はりまぜ)の襖もあり、これらの襖絵からは、当時の遠州画 壇のレベルの高さと津倉家当主・津倉勘六氏の交友の広さを窺い知ることが ●白山人の襖絵 できます。 2 階には、山下青厓が描いた 4 枚の襖 絵のほか、「白山人」の画号の襖絵があ ります。「白山人」とは、京都生の浅井 柳塘(あさいりゅうとう:1841~1907)。 絵が描かれた年として「己丑」とある ところから、明治 22 年(1889)。つまり、 津倉邸が建てられた年。これは偶然では なく、津倉勘六が浅井柳塘の絵を所望し、描いてもらったものと考えて間違 いないと思います。 ●蜀山人の狂歌 ●青厓が描いた菊と蟹 座敷にある山下青厓の襖絵の 1 枚には、 「菊と蟹」とが描かれています。風景が描 かれている他の絵とは違い唐突とも思わ 2 階の座敷の襖に貼られた条幅紙には、蜀山 人(しょくさんじん:1749~1823)の狂歌がした ためられています。 「傾城傾国ハ古(いにしえ)よりのいましめふ れる取り合わせですが、「菊と蟹」の絵柄 けれとかゝるもの世になからましかは東家の娘 には還暦を祝う意味が含まれているので の袖を引き小夜衣(さよごろも)のかさね着たえ す。 さるへし」と、これが歌の序。 菊は「華」、蟹は「甲羅」ですから、合 「人の城人の國をも可(か)多(た)むけて子 せて「華甲」。華甲の「華」を分解すると、6 つの「十」と 1 つの「一」に 孫を多(た)や須(す)ものそ恋し幾(き)」が なり、合計すれば数えで 61 歳を表す「61」になります。 狂歌です。 「甲」は「甲子(きのえね)」で、干支(十干十二支)の一番目。やはり、 「昔から美人は気をつけろとは言われているけれど、そ 還暦と同じく数え年で 61 歳を表すため「華甲」とは、還暦の吉祥を示す縁 んなことを言ったら、遊女と遊ぶこともできなくなってし 起の良い絵柄となるのです。 まう。例え家が潰れたって国が潰れたって、美人が恋しい 青厓の家、笠井町の山下家は津倉家の親戚に当るとのことですから、おそ らく、津倉家の当主、勘六の還暦祝いに贈った絵を襖絵として残したのだと ものである」の意味でしょうか? 蜀山人は、江戸時代の天明期を代表する文人・大田南畝 のこと。五・七・五・七・七の短歌形式に社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込む ●満月に兎 狂歌を得意としていました。 北西角にはみ出すように造られた茶室 ●長谷川貞雄の短冊 にも、伝統とモダンが融合した独特な風情 2 階の襖に貼られた 1 枚の短冊。「憲法」の文字が目に飛び が漂っています。 込んで来ます。 先ずは、廊下側の壁に造られた丸窓。窓 この短冊は、現在の浜松市西区雄踏町宇布見の名門中村家に にはガラスが嵌め込まれ、そのガラスには 生まれ、現在の磐田市川袋の長谷川家の養子となった長谷川貞 磨りガラスの手法で 1 匹のウサギが浮き 雄(1845~1905)の短歌がしたためられています。 出るように描かれています。つまり、この 丸窓は満月の形。満月にウサギの絵柄ということです。 憲法 き 君と臣の道も たゞしきみのりふみ ふみたがゆべ 人はあらしな 貞雄 長谷川貞雄は、川袋にある八雲神社の宮司を務め、明治維新 時には見付の大久保春野らと遠州報国隊に参加。その後、明治 政府の要員として海軍省に迎えられ、海軍主計総監、海軍省第 三局長に昇進、貴族院議員なども務めました。 そんな長谷川貞雄が関わった近代立憲主義に基づく大日本帝国憲法(明治 憲法)が公布されたのが、奇しくも津倉家が建てられたまさにその年、明治 22 年(1889)です。この 1 葉の短冊「憲法」には、そんな歴史が込められて いるのです。 ●茶室の趣 四畳半の茶室の天井板は、木目に味わいがある杉の板目。天井板を抑える 桟木は山桜の枝にように見えますが、実際には、細い丸太に山桜の樹皮を巻 いて、枝のように見せたものです。 ●大黒柱の大黒様 廊下寄りには、杉板を矢羽に編んだ網代天井。柱にはヒノキの磨き丸太が 2 階の見所の 1 つ、欅の通しの大黒柱の 節穴を巧みに使い、中に納められた大黒様 の像です。 津倉家は廻船問屋であり、材木商であり、 両替商でもあった家。商売繁盛の守り神と して大黒天を祀れば、節穴だって気になら なくなります 使われたりして、趣たっぷりの茶室です。 ●障子枠の筋交い この障子を見てください。1 枠だけ斜め に筋交いのようなものが嵌められていま す。一体、これは何のために嵌められてい るのでしょう? 一般的な障子の格子の作り方は、縦桟と 横桟との交差する場所にホゾを刻み、菓子 箱の間仕切りのように嵌め込んで組み立 ●ガラス障子戸の塵返しと面取り障子 座敷と座敷の仕切りは襖ですが、座敷と 廊下との境には障子戸の真ん中にガラス てます。ところが、津倉家の障子格子は、面取りをした桟を使っているため、 2 コマ分ずつを組子の要領で組み上げてあります。 そのため、見た目がほっそりとし繊細な仕上がりとはなりますが、歪みが が嵌め込まれたガラス障子戸があります。 出やすいという問題が発生します。その歪みを矯正し、枠の形と障子全体の 普通によく見る障子の格子と言えば、細 平面を保つために嵌められたのが、この筋交い。筋交いが嵌められていると 長い長方体の桟(組子)を縦と横に直角に いうことが、この障子の桟が組子の技法で作られているという証でもあった 組んだもの。横桟も水平に組まれているの のです。 が一般的です。 理由を知ってさえいれば、筋交いは決して野暮なものではありません。む ところが、この障子では、桟の一部が手前に傾斜しています。中には、す しろ、組子であることを知る趣向の 1 つとして鑑賞しましょう。 べての桟が傾斜しているものもあり、指先でそっと触れてみると、その傾斜 がよく分かります。 この桟は、塵返しと言われる細工。横方 ●竿縁天井 津倉家の主屋(母屋)は寄棟屋根の 向の組子に勾配を付けることで、塵(埃) 妻入り。これは、津倉家を描いた銅版 を落としやすくするという技法。 画を見ればよく分かります。そして、 そして、もう 1 つは、すべての格子の手 前側が面取りされている障子戸。菓子箱の 中仕切りのように組んでから面取りしよ 1 階の間取りは資料の通り。 銅版画で見ると総 2 階建てのよう に見えるのですが、実際には座敷 2 うとしても、こうは行きません。これを作るには、縦と横の桟を通しで作ら 間は、西側に張り出した部屋。2 階に ず、1 ブロックごとに組むしかありません。 は部屋はありません。 いずれも、腕の良い職人の手による建具の傑作です。 また、寝間や居室として使われたと思われる中央奥部屋の天井が高く、や はり 2 階には部屋なし。 その理由の 1 つとしては、 であり、書家でもある人。 「無我愛」とは、 座敷や寝間の上に人が入れ 我欲のない真の愛情の意味であり、 「昭和 る部屋があれば、2 階から覗 己卯 為津倉氏」と書かれていますので、 かれる恐れもあり、危険で おそらく昭和 14 年(1939)に書かれたも もあります。津倉家の場合 の。達筆とは違うこの味わいのある書風が でも、おそらく土間として 不折の魅力です。 造られていた部分は吹き抜 洋間は、現在の竹下一級建築士事務所創 けとなり、天井は張られて 業者である竹下利夫と浜松工業学校(現・浜松工業高等学校)の教諭であっ いなかったはず。 た山内泉の共同設計。 2 階に部屋や屋根裏収納 を乗せる時には、天井裏の また、模造暖炉のある洋間の中央に置かれた応接セットは、皇族のために 製作されたものです。 梁の上に根太を張り、その上に 2 階の床が造られます。 ●洋間のボヘミアガラス 津倉家の洋間増築のテーマとなった のは、当時のヨーロッパで流行った中国 趣味(シノワズリ)だったとのことです ので、ずいぶんと屈折した洋間だという ことになります。 正面には形だけ を模した模造暖炉 を配し、大きなガラス戸は、「ボヘミアガラス」とも呼 座敷に張られた天井板は、薄く軽く製材した杉板。しかも、奥座敷の杉板 ばれたチョコスロバキア製の板ガラスが嵌め込まれて には水窪の山住杉を使い、これ以上ないほどの幅の広さです。 います。明治 22 年(1889)に建築された母屋の部屋の ガラスが、当時のままであるかどうかは不明ですが、洋 ●洋間を飾る中村不折の書 間のガラスには国産ガラスの表面にあった歪みが全く 昭和 10 年(1935)に増築された洋間に は、中村不折(なかむらふせつ:1866~1943) の書「無我愛」 が額として飾られています。 中村不折は、夏目漱石作『吾輩は猫であ る』の挿絵を描いたことでも知られる画家 ありません。 ●ガス灯の痕跡 ました。これは、おそらく侘・寂が伝統的とされて来た和の美意識が、西洋 明治 22 年(1889)築の津倉家には、電気 文明と触れ合う中で、洋風の身なりや生活様式を「high collar=ハイカラ」 の灯りが導入される前に利用されたガス灯 として受け入れ、徐々に変質するようになったのと同じ傾向だと思います。 が設置されていました。 我が国でも江戸 部屋の灯りとしてガス灯を引き込み、洋室を増築するほどのモダン趣味の 時代から天然ガスなどを灯火として利用し 津倉家。そんな流行の先端の和室建具が、ガス灯に浮き上がる向日葵の引手 た例があったようですが、西洋式ガス灯の だったのではないでしょうか? 照明器具 が導入さ ●大理石の洗面台 れたのは明治以降。横浜や銀座にガス灯が 津倉家のトイレは奥座敷の奥、北西角に 点った話は聞いたことがありましたが、津 設けられています。そして、トイレそばの 倉家は個人宅です。 廊下の突き当たりには、手洗いのための洗 面所が設置され、レトロな蛇口が取り付け 階段にも、部屋の天井にも、ガス灯が点 られている洗面台は陶器製ではなく、真っ されていたと思われる真鍮製の器具が残 白な大理石。何という贅沢でしょう。 り、おそらくここにガラスの火屋(ほや)が付けられていたのだと思います。 では、燃料となるガスはどうやって発生させていたのでしょう? おそらく、屋敷のどこかに石炭か重油を加熱する装置があり、発生したガ スを、配管を通して供給し、部屋を明るく照らしたのです。 ●向日葵の引手 ●結霜ガラス 明治 22 年(1889)築の旧津倉家住宅で は、当時まだ一般的ではなかった板ガラ スが各所に使われています。多くは、透 2 階の押し入れの上の小襖の引手を見 明ガラスやすりガラスですが、数ヵ所に ると、向日葵(ヒマワリ)のような花の 結霜ガラスと呼ばれる霜のような模様が 柄が浮き上がっています。 浮き上がったレトロなガラスが使われて 北米原産の「sunflower」は、コロンブ スの大陸発見後ヨーロッパに持ち込まれ、 います。 この不思議な模様は、粗く加工したガラス表面に膠(にかわ)などを塗っ 中国を経由して日本に入って来たのは 17 て乾燥させ、その収縮力でガラス表面を剥ぎ取ることによって模様を作り出 世紀とのこと。津倉家住宅が建てられた明治 22 年(1889)には、かなり一 されます。それだけか、と言われれば、それだけですが、その工程を経るこ 般的な花になっていたはず。 とで、ガラスの表面に霜のような美しい模様が浮かび上がって来るのだそう 俳句などの江戸時代の文学には登場していない向日葵は、明治時代になる と現代のように「夏を代表する花」として多くの文学に登場するようになり です。 結霜ガラスは、明治後期から昭和初期にかけて特に人気のあった装飾ガラ 庭に据えられた 3 基の春日燈籠は、すべてデザインが違ってはいますが、 ス。ガラス 1 枚をとっても、津倉家には当時の最先端のものが使われたとい 伊豆石製であるのは分かります。伊豆石製の蔵や塀などの建造物は掛塚では うわけです。 たくさん見かけますが、大変珍しい伊豆石製の燈籠です。 ●伊豆石の蔵と燈籠 ●伊豆石の塀と離れ家 北西の隅には、掛塚の町でよく 明治時代の津倉家を 見かける伊豆石の蔵があります。 描いた銅版画の中で、現 銅版画には 2 棟の蔵が描かれて 在の津倉家とは少し違 いますが、現在も残るのは赤い丸 っているところがあり で囲った 1 棟だけ。 ます。1 つは屋敷を囲う 石塀。そして、もう 1 石蔵は、実際には木造 2 階建て つは北東の位置に立つ の伊豆石張り。 離れ家です。他にも、蔵 この伊豆石が掛塚に多く見られるのは、 もちろん江戸に木材を運んだ帰り船のバ の数とか洋室の増設と ランスを保つためのバラストとして伊豆 かの違いはありますが、 の下田付近で積み込まれたため。湊町で栄 ここでは、石塀と離れ家について触れた えた証とも言えるのが、伊豆石です。 いと思います。 掛塚の各所に見られる伊豆石の利用例 は、石蔵や石塀ですが、津倉家では石燈籠 まで伊豆石で造られていました。 石塀は、掛塚の廻船問屋ではよく見か ける伊豆石を使ったものでした。屋敷の 玄関先である南の道路を拡幅する時に取 り壊されたとのことですが、その津倉家 の伊豆石を使って造られた石塀が、元竜 洋町長・池田藤平氏宅にあります。 もう 1 つの離れ家は、現在、道を隔てた 南側に立つ「つたや」さんの主屋がそれ。 元々、養子を迎えた津倉家の離れ家として 建てられた家でしたが、その後、建物をそ のまま曳家(ひきや)して、現在の位置に移動したのだそうです。 ●掛塚町長・津倉貞三氏 部屋の隅に置かれた YAMAHA のアップライトピア ●鬼門の井戸 ノの上には、「町長津倉貞三氏」と書かれた肖像写 津倉家の井戸は、母屋の外側、北東に当 真があります。「自昭和十三年十一月八日 至昭和 たる位置にあります。 十六年九月十八日」で、当時は磐田郡掛塚町の時代。 家の中心から見て北東の方角は鬼門の 掛塚町が十束村・袖浦村と合併して竜洋町が発足し はず。その鬼門の方角に井戸があるのは、 たのは、昭和 30 年(1955)。今から 60 年前のこと 家相上は大凶。「男子には大怪我、女子に です。 は水難の暗示あり」と聞けば、ちょっと気 になります。 銅版画に描かれた津倉家では、南西角に井戸らしいものが見えます。 井戸を覗き込んで見ると、埋め戻されてはいません。井戸の底からは、今 でも天竜川の伏流水がコンコンと湧き出ています。 ●2 本のナギの木 天竜川河口に位置し、湊町で栄えた掛 塚では、今でも、ナギの木の庭木をよく 見かけます。「ナギ」が「凪(なぎ)」 に通じ、特に廻船業を営んでいた家では ●船名船主船長名帳に見る津倉家の船 写真は、貴船神社社務所所蔵の文書の一部。「明 治弐拾六年」の「船名船主船長名帳」には、5 艘の 船が津倉勘六の名で登場しています。 船名は袖ヶ浦丸、津吉丸、寿丸、盛慶丸、宝生丸。 磐田市竜洋郷土資料館には、袖ヶ浦丸の模型が展示 されています。(蟹町・原兵蔵氏作) 海の安全航行を祈り、縁起を担いでナギ の木を植えました。 津倉家のナギの木は 2 本。明治 22 年(1889)の建築時に植えられたとす れば、少なくとも 120 年以上は経ってい ます。 また、ナギは針葉樹でありながら、幅 の広い葉を持つ不思議な木。縦に細い平 行脈があり、引き千切ることが難しいた め、男 女の 縁が切れないようにと、女性がナギの葉 を鏡の裏に入れる習俗もあったそうです。 海難除けを願い、掛塚の廻船問屋たち からの信仰を集めた貴船神社境内にも、5 本のナギの木が植えられています。 社であった「東京火災」では消防部を設け、いざ、火災となった時には、消 火に駆け付けていたのだそうです。 ●出桁造り そして、「I」は「insurance(インシュアランス)=保険」の頭文字。ま 廻船問屋・津倉家の軒先は、軒下を前 た、交差した鳶口と合せて「水」の字に見立てたとのことです。 に長く張り出させるため、梁を外にまで 突出して、その先に桁を乗せた構造。掛 ●2 階の格子窓 塚では、ごく当たり前に見かける風景で 道路から見上げる 2 階の窓の格子は、一 す。 見すると、ごく普通の縦の目が細かい千本 これは「出桁(でげた・だしげた)造 格子ですが、格子の横桟(貫)は縦桟の穴 り」と呼ばれ、特に江戸町家の影響を受けた地方で見られる建築法。この軒 を通すように組まれています。しかし、縦 下でなら、ちょっとした作業をしたり、一服することもできます。 桟と縦桟の間に見える横桟の中央部は組 み込まれたほぞ穴よりも厚いことが分か ●忍び返し 塀を乗り越えて泥棒が侵入するのを防 ぐため、塀などの上に先端のとがった竹・ 木・鉄棒などを並べて立てたものを「忍び 返し」と呼びます。津倉家の主屋と庭との 間には、鋭く尖った鉄棒が並んでいます。 ります。 あの格子は、どうやって組まれている のでしょう? 横桟は縦桟のほぞの中ですべて切り取 られ、左右から差し込まれているとすれ ば、出来ない構造ではありません。つま り、この千本格子は組子なのです。 ●東京火災マーク ●伽藍石 庭にある円形の石は伽藍石(がらんせ 玄関の上に張られた銅製と思われる四 角いプレート。鳶口を「X」の字に交差 き・がらんいし)と呼ばれるもの。もとも させ、その上にアルファベットの大文字 とは寺社建築の柱の礎石ですが、廃寺・廃 「I」がデザインされています。 社となった建物の礎石を庭園のお飛び石 に転用したもののようです。 この鳶口は材木を扱う時の鳶口ではな く、消防隊が使った鳶口。このプレート その多くは、踏分石とか追分石として飛 は、「東京火災」が契約者の印として玄 び石の分岐に用いられたとのことですが、津倉家の場合もまさにこれに当た 関に掲出するように配布したもの。安田火災の前身で日本最初の火災保険会 ります。 ●根府川石 庭園に配置された飛び石と乱張り石に使 われている薄い石は、小田原市根府川付近 で産出する複輝石安山岩、根府川石(ねぶ かいし・ねぶかわいし) 。板状節理が発達し ているため、板状に剥がれやすく、飛び石 や乱張り石に利用するには最適な石です。 旧津倉家は江戸屋を名乗り、廻船問屋を営んでいた家。天竜材を積み込み 掛塚湊を出た船は、江戸、東京からの帰りには、船を安定させるバラストを 兼ねて伊豆石を運んで来ていたことは、掛塚に多く残る石蔵や石塀が証明し ています。 さらに、バラストとして運んだ石には、伊豆石だけでなく根府川石も含ま 弘化三年 れていたことが、旧津倉家の庭から明らかになりました。 ●古い山林絵図 津倉家には古い佐久間の山林絵図が残されています。1 枚は「弘化三丙午」 でしたので、西暦 1846 年、もう 1 枚は「安政三年」ですから 1856 年。山は ホウジ峠から北に向かう林道沿い。作業道のほか、 「黒木但シカナギ」 「杦(す ぎ)ノ木」「唐松」「モミノ木」 「檜(ひのき) 」「松」「槻(けやき) 」など山 に植えられた樹種が事細かに記され、「西者(は)天竜川境」と現在、佐久 間ダム湖に沈んだ場所まですべてが所有林だったことが窺われます。 ともに「松嶌屋半五郎持山」とされていますが、この広大な山林が江戸末 期に「津倉勘六」の手に渡り(譲請)、現在まで津倉家の所有となっている のです。 廻船問屋であり、製材業、木材商であった津倉家は、山林主でもあったの ですから、旧津倉家住宅に使われている木材の多くは、自家所有の山林から 伐り出された木であったことが推測されます。 安政三年 津倉家