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現代コミュニタリアニズム入門

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現代コミュニタリアニズム入門
特集 2 /コミュニタリアニズムの可能性
現代コミュニタリアニズム入門
―共通善の政治学・政策科学
三重中京大学大学院教授
菊池 理夫
1.はじめに
菊池です。よろしくお願いします。コミュニタリアニズムに関してここ数年
研究していまして、研究会でもいろいろ発表したのですが、基本的に敵対的な
人たちが結構いまして、
批判されることが多いのです。
何年か前に、
「私はコミュ
ニタリアンです」と言ったら失笑がもれたように、コミュニタリアンというの
がもっぱらネガティブに思われていたことがありました。そういう点で今回は
おそらくかなりコミュニタリアンに好意的に思っている人たちの集まりではな
いかと思います。もちろん批判的に思っている人も結構ですが、できるだけ私
はコミュニタリアンに対して肯定的に語っていきたいと思います。
基本的に以下のような誤解があると思っています。まず、現代コミュニタリ
アニズムに対する無理解や誤解の傾向。これは全般的な話ですが、コミュニタ
リアニズムというものが、保守的なものとか権威主義的なものとか、そういう
批判がずっとあるわけです。それが第一点です。これは後でもお話しますが、
そもそもコミュニティという言葉を共同体と訳すことが正しいのかどうかとい
う問題が実は大きくありまして、いずれにせよ伝統的なコミュニティ、共同体
というものが、日本の場合もそうですけれども、基本的に権威主義的なもので
あるとか、個人の権利とか自由を無視するようなものである、というような理
解が多いわけです。
第二に、現代コミュニタリアニズムの中心的概念である「共通善」ですね。
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どうもこれもかなり誤解されている。権威主義的・全体主義的な概念として否
定的に評価される傾向がある。あるいはほとんど無視されている。戦後の日本
の社会科学の中では、特定の思想家を除けば、まともに語られていない、とい
うことです。とにかく私は、この共通善という概念を中心的なものとして評価
しようと頑張って、最近いろいろ書いております。
最後に、現代コミュニタリアニズムがさまざまな政治理論やとりわけ政策に
与えている影響力の無視ないし軽視ですね。基本的には『現代コミュニタリア
ンと第三の道』(風行社、2004 年)で書いた「第三の道」ということです。特
にイギリスの、新労働党(ニューレイバー)に与えた影響を中心に書いたわけ
ですが、そういう意味での政策にかなりの影響を与えているということです。
それからもう一つ、政策科学の中で、ラスウェルはコミュニタリアンというわ
けではありませんが、共通善の政策科学を考えているようなところがあります。
それを今論文にして、まだ書き直すところもあると思っているのですが、そう
いった政策科学も、ある意味では共通善の研究であり、この点からラスウェル
を研究しています。以上のような誤解があり、それを解くということが、私の
大きなモチーフです。
今日の話は、『日本を甦らせる政治思想』
(講談社現代新書、2007 年)の概
要ですが、新書以外の私の論文の内容を付け加えて、基本的に私が考えている、
コミュニタリアニズムとは何か、そしてそれがとりわけ共通善の政治学・政策
科学であることを語っていきたいと思っています。
2.コミュニタリアニズムとコミュニティ
現代コミュニタリアンとは何か
現代コミュニタリアンとは何か、ということですが、1980 年代からの北米
の政治思想、公共哲学の一つの傾向を現代コミュニタリズム、と私は呼ぶわけ
です。それは哲学的にいいますと、私の簡単な理解ですけれども、原子論的な
リベラリズムを批判し、共同存在としての人間による政治社会の構成を考える、
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現代コミュニタリアニズム入門
という立場です。代表的な論者は、本人が必ずしも自分はコミュニタリアンで
はないと言っている人もいるのですが、一般的にはマッキンタイア、テイラー、
ウォルツアー、サンデルという人たちですね。その他にバーバーもコミュニタ
リアンと思っているのですが。基本的にはやはりサンデルです。サンデルから
「リベラル・コミュニタリアン論争」というものが始まる。これが政治学、思
想・哲学、倫理学、あるいは法学に関するいろいろな雑誌の中で、かなり取り
上げられました。そしてその中で、1990 年代からエツィオーニが主導とする
responsible communitarian という運動も始まっていきます。それがブレアの
新しい労働党の「第三の道」
、中道左派路線に影響を与えていく。政治的にい
えば現代コミュニタリアンというのは、基本的には中道左派ではないかという
のが私の理解です。政治的には保守的なところもあるが、政策的には中道左派
である、というのが私の見方です。実はアメリカのコミュニタリアンは、政策
的にはむしろリベラルに近い、そういう意味では私はリベラル・コミュニタリ
アンと呼べると思います。とりわけテイラーという人はまさしくリベラル・コ
ミュニタリアンと呼べると思っているわけです。
ですから、基本的には現代コミュニタリアンが批判しているのは、アメリカ
のリベラルよりも、極端な個人主義に立つ、リバタリアンやネオリベラルです
ね、市場主義なリベラル、そういったリベラルを批判していると私は理解して
いるわけです。そういったリバタリアンや、ネオリベラルが強まるために、ア
メリカにおいて、政治参加への無関心、貧富の差の拡大、犯罪の増大という傾
向が起き、こういったことへの批判の中で、政治的に言えばコミュニタリアン
というものが出てくるわけです。そのために、現代コミュニタリアニズムとい
うのは、共通善を追及する自治的・民主的コミュニティというものを重視する
政治的な立場を主張しているわけです。
コミュニティの意味と価値
次にコミュニティの意味なのですが、英語の community は、ドイツ語の
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gemeinschaft と異なる意味があります。エツィオーニは、コミュニティは、
ドイツ語のゲマインシャフトでもゲゼルシャフトでもないのだという言い方を
しています。あるいは両方である、という言い方もしています。とにかく、日
本語の「共同体」と訳すとき、やはりちょっと違うのではないかという気がし
ます。それからこれも最近、マルクス主義でも、マルクスはアソシエーション
ニストじゃないかという議論も出てきていますが、その場合コミュニティとい
う言葉とアソシエーションという言葉は対比されています。コミュニティとア
ソシエーションでは、むしろアソシエーションを重視するという立場があるの
ですが、いわゆるコミュニタリアンは、基本的にはコミュニティとアソシエー
ションを区別せず、むしろアソシエーションもコミュニティのひとつだ、と
いう見方をとることが多いと思います。これは現代コミュニタリアンだけでは
なくて、英語の使い方では、一般的に言っても、近代化によって失われるもの、
失われるべきものである、というようなネガティブな意味でのコミュニティと
いう使い方をする人は、英米に限定して言えば、あまりいない、と考えられま
す。そういう意味で、伝統的、前近代的なものがコミュニティである、という
言い方は、ほとんど英米の議論の中ではないと思っています。
コミュニティの価値ですが、例えば参加性、参加、連帯、相互扶助、友愛、
こういったものがコミュニティの価値です。こういった価値を実現していくこ
とが、コミュニタリアンなわけです。次に「共通善」に関して、現代コミュニ
タリアニズムとは、基本的にはアリストテレス哲学に由来する、
「共通善の政
治学」であると、サンデルがはっきり言っているわけです。彼がある意味では
コミュニタリアニズム宣言、政治的な意味のコミュニタリアニズム宣言をした
論文のなかで、コミュニタリアニズムというのは、要するに共通善の政治学、
しかもアリストテレス哲学に基づくものだとはっきり言っているわけです。そ
れからもう一つ、現代コミュニタリアンも必ずしも区別していませんが、私は
「公共善」と「共通善」は区別できると考えております。これはしたほうがい
いという願望もあります。また後でお話しします。
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現代コミュニタリアニズム入門
3.
「共通善」の思想史
アリストテレスの「共通の利益」
それで、まず思想史として研究をはじめ、これは新書の方にも書きましたけ
れども、慶應大学の『法学研究』という雑誌の論文に、古代から現代までの共
通善の概念の歴史を書いたのですが、そのなかで主なものからいってみますと、
まずはアリストテレスです。先ほど言いましたように、
「共通善の政治学」は
アリストテレス哲学から由来するわけですので、これは有名ですが、人間は本
来自然に政治的、あるいはポリス的、ゾーンポリティコンですね。ある意味で
ポリスというのは、コミュニティと言うこともできるわけでして、
「共通のもの」
であるという意味です。つまり、最大のコミュニティがポリスである、という
ことをアリストテレスが言っているわけです。その本来、自然に政治的動物で
あるということは、基本的に共通の言語をもち、善悪、正・不正を区別し、そ
のような知識を人々が共有しているという考え方です。だから人間は本来政治
的な動物である、という言い方をするわけです。それから、
「最善の国制」は
自由で平等な市民が「共通の利益」ですね、まあこれも共通善となるのですが、
「共通の利益」を目指すものであり、最悪の国制、僭主制というのは、個人的
な利益、「特殊な利益」を目指すものである、というふうに区別するわけです。
そして奴隷制というものも、主人の利益だけを考えるものであり、そういう意
味では決して、主人と奴隷の間には共通善はないのです。時々アリストテレス
が批判されるとき、彼は奴隷支配も共通善で正当化していると言われます。し
かし私が見た限り、共通善はないのです。やはり主人と奴隷の関係には、そう
いう共通のものはない。あくまでもそれは主人のための支配である、とアリス
トテレスは言うのです。
トマス・アクイナスの「共通善」
次にトマス・アクイナスです。
「共通善」という言葉は、実はアリストテレ
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スはあまり使ってないのです。
「共通の利益」という言葉は結構使っているの
ですが。そういう意味では、共通善という言葉をもっと広く使って、神学や社
会哲学の中心的な概念として一般化していったのは、トマス・アクイナスです。
注目すべきは、彼が共通善とは「大衆の善」であると言っていることです。普
通の人々が皆持っている善、共通して持っている善、とそういうことをはっき
り言うわけです。ある意味そういうことが背景となると思うのですが、
「共通善」
は「共同の目的ないし福祉」ということで、政治社会、コミュニティの目的で
あるということ、あるいは福祉である、ということです。福祉の正当化のため
にも、物質的な、とりわけ民衆の経済的な繁栄のようなものを、共通善と考え
ているようです。ですから、精神的な徳や、道徳的な善というより、まさに物
質的な利益ですね。しかもそれは単に特定の利益だけではなくて、共通の利益
であるという理解もしているわけです。
ジャック・マリタンの「公共善」と「共通善」
それから「自然法」の中心概念になったということです。自然法は、20 世
紀になっても現代でもあるわけですが、その代表的な人物が、ジャック・マリ
タンという人です。この 20 世紀のトミスト、マリタンは「共通善」によって
全体主義を否定し、民主主義や個人の人格の権利を正当化しています。彼は社
会生活をする動物にもある、
「公共善」と人間のコミュニケーションによる「共
通善」ということを区別するわけです。私が読んだ中ではっきりと「公共善」
と「共通善」を区別しているのがマリタンでした。要するにコミュニケーショ
ン能力ですね、しかも人間の言語能力、そういうものだけに「共通善」はある、
人間だけにある、とそういうことです。それに対して、アリとかミツバチとか、
こういうものは支配があって、命令するときに「公共善」というのはあるかも
しれないけれども、基本的にはお互いがコミュニケーションすることがまさに
「共通善」であるというわけです。それは全体のために部分を犠牲にするもの
ではなく、「基本的人権の承認」を含むものです。マリタンは、アリストテレ
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スの考えの中には、そういう人権という考えはないかもしれないけれども、現
代では基本的人権も共通善であると言うわけです。またそれは、個人主義的及
び価値中立的なブルジョア社会ではなく、人格主義的な、これについては説明
を省きますが、多元主義的な民主主義において実現されるものであるという見
方をするわけです。さらに、国家の共通善を超えてグローバルな文明化された
コミュニティの共通善という目的へと発展するものであるとも言います。これ
はもともとカトリックの場合は教会自体が国家を超えるわけですからね、そう
いった意味では当然ですけれども、ただ彼が言っているのは、単にカトリック
だけではなくて、カトリック以外の考え方も、やはり共通善として出てくると
いうことを考えているようです。最終的なところとしてはですね。そして、こ
のマリタンというのは「世界人権宣言」に影響を与えているということです。
こういうマリタンの立場は、
「コミュニタリアン・リベラル」ないしは「リベ
ラル・コミュニタリアン」
ということもできるだろうと私は考えているわけです。
イギリスの伝統における「共通善」
次は、イギリスの伝統ですが、イギリスでは中世以来、
「共通善」は立憲君
主制や議会政治の正当化に用いられていて、絶対君主の正当化に用いられるこ
とはない。少なくとも私は読んだ本の中ではないわけです。そもそもイギリス
では絶対主義というものはなかったという説もあるのです。一般的に絶対主義
的な主張をすると言われる人たちの本を読んでみましたが、
彼らはコモン・グッ
ドという概念を使って、絶対主義を主張していることはないのです。逆にイギ
リス国教会の神学を体系化したリチャード・フッカーという人は、アリストテ
レス、アクイナスの影響を受けて、
「同意」に基づく政治を共通善という言葉
を使って、正当化するわけですね。そしてホッブズはこのようなイギリスの伝
統を否定しますが、ロックはフッカーに度々言及し、引用して、立法権は同意
に基づく「共通善」
、彼の場合は「公共善」という言葉や、他にも類似した言
葉を使って、以外に拡大されないと主張しています。
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次に、T.H. グリーンです。イギリスで 19 世紀に、共通善というものは、あ
まり重視されてなくなるのですが、彼の倫理学、哲学、政治学、政治哲学の中
で、共通善が中心となる思想家であるわけです。善を自分のものとして理解し
て、他者の善と関連させる。そういう「道徳的人格」を発展させることが、
「生
来の権利」であるとともに、
「生来の義務」でもあるといいます。それで、政
府が「共通善」を代表する限り、主権者としての国民はそれに服従する義務が
あるというわけです。ただし「公共の精神」を破壊する「最悪の政府」に対し
ては抵抗する義務もある。そういう意味では「共通善」によって、政府への抵
抗権を認めるようなことを彼は言うわけです。そして、
「共通善」は国家を超
えた「普遍的な人類の親交」や「人類愛」へと向うものであるのです。
「ニュー・
リベラル」と呼ばれる、このグリーンたちは、いわゆる現代のネオリベラルと
全く違うものですが、そういうグリーンや彼の影響を受けたホブハウスなども
「コミュニタン・リベラル」と呼ぶことも可能であると思います。
共通善の二つの性格
ざっと思想史の話をしたのですが、最後に現代コミュニタリアンの共通善の
まとめをします。まず二つのことを区別したほうがいいと思います。一つは、
前提としての共通善ですね、これは基本的には個人に所与のものです。これは
私がどのようなところに生まれるかという、あるいはどういう家族のもとに生
まれるかという、私が決定するわけではない、私に与えられたものです。その
中での、例えば言語もそうですね、日本語を与えられていく。そういう意味で
の道徳のようなものは基本的には最初に与えられているものであると、そう
いう意味での共通善です。サンデルのいう「負荷ある自我」ですね、共通の文
化・伝統・言語など、こういったものが共通のものとして個人に与えられてい
るのです。それと同時に、共通善はコミュニティの成員全員が原則として目指
す目的でもあるということです。共通善に対して、皆同じ目的を目指すという、
あるいは強制するのではないかというリベラルからの批判があるのですが、現
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代のコミュニタリアンたちは、基本的に多元主義的な社会を認め、マッキンタ
イアはやや否定的ではあり、現在の価値が多様化していることを批判するわけ
ですけれども、所与の、単一の価値だけではなく、コミュニケーション、熟議
(deliberation)によって、つまり熟慮して議論することによって同意へと向
うものであると主張しています。政治家によって与えられる「公共善」ではな
く、民衆に内在し、ともに実現していく、そういう意味で「共通善」というふ
うに私は考えています。
4.コミュニタリアニズムの可能性
さまざまな政治理論との関係
ここからは、現代のさまざまな政治理論との関係と影響力ということをお話
ししたいわけですが、
まず多文化主義です。フランスでは、
多文化主義とコミュ
ニタリアニズムとが同一視され、批判される傾向があります。フランスはまさ
に普遍主義という考えだ、ということで、コミュニタリアニズム=多文化主義
は批判される傾向があるようです。ただ、分離・抗争を主張するラディカルな
多文化主義と違って、コミュニタリアニズムの多文化主義は、多様性を認める
上での統一性の必要性を説くわけです。
次はフェミニズムです。とりわけ現在のフェミニズムからは、コミュニタリ
アニズムが一夫一婦制の伝統的な家族を擁護するものとして批判される傾向が
あります。とりわけその批判の対象となるのがサンデルですが、逆にラディカ
ル・フェミニズムが家族やコミュニティを崩壊させるものとして批判する、そ
ういうコミュニタリアン的なフェミニズムも存在しています。
それから環境主義です。環境主義にはいろいろな政治思想からの影響はある
のですが、コミュニタリアニズムの影響もあります。つまり「関係的自我」と
しての人間からなる小規模で民主的なコミュニティにおいて、環境問題の解決
を図るという、現代のコミュニタリアニズムの影響を受けた環境主義も登場し
てきています。基本的に「善き環境」というのは、国家を超えた「共通善」で
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あると考えることができると思います。
次に熟議民主主義ですが、より参加型の民主主義を求めるラディカル・デモ
クラシーの中で、コミュニタリアンといってよいバーバーは「共通の目的と相
互の行動が可能となる市民による自己統治のコミュニティ」
、
これを熟議によっ
て実現しようとするわけです。具体的には「電子タウン・ミーティング」や、
あるいは「二回投票制」や「多選択肢投票制」ということを提案しているわけ
です。
さらに、シヴィック・ジャーナリズム。これは傍観者による一方的な客観的
な報道を行うのではなく、コミュニティの善き市民の一員としてのジャーナリ
スト、このジャーナリストがコミュニティの一員であるという主張です。
コミュ
ニティのための「双方向性」に特化した、双方向性の報道を行うこと、それが
シヴィック・ジャーナリズムという立場の中で言われていることです。その論
者の一人がはっきり書いていますが、集団主義と個人主義を総合する「コミュ
ニタリアン民主主義」としての「共通善の政治学」によるシヴィック・ジャー
ナリズムを主張しています。またこれに対して、
リベラルからの批判も出て、
「リ
ベラル・コミュニタリアン論争」も起きています。
それから国際関係論です。国家を超えた「共通善」の必要性からグローバル・
コミュニティを考えていこうとする、コミュニタリアン国際関係論も最近登場
しています。
次にコミュニタリアニズムと共和主義の関係なのですが、現在、西洋の政治
的伝統として共和主義の再評価があり、これはもうご存じだと思いますが、サ
ンデルもアメリカの共和主義を価値中立的なリベラリズムと比較して評価する
わけです。ただ、リベラルな共和主義、共和主義はリベラルかという話も出て、
そのためサンデルも批判されるわけですけれども、そういう批判に応えてサン
デルが言っているのは、共和主義というのは、むしろアリストテレス的な民主
的なバージョンだということです。この辺は小林先生があとでおっしゃられる
かと思うのですが、そういう区別をしているわけです。
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それからソーシャル・キャピタル論です。ロバート・パットナムという人が
提出したソーシャル・キャピタル論。これはいろいろなかたちで社会科学のな
かで議論されていますが、彼はコミュニタリアンなのではないかという見方も
あります。彼は実証的な研究もしていますが、規範的な意味での価値論として
は、
トクヴィルからの影響が語られています。
パットナムは民主主義的なコミュ
ニティの回復も主張するわけです。そういった意味でコミュニタリアンに近い
議論もしています。
政策科学との関係
次は政策科学です。先ほども言いましたけれども、政策科学の創始者ハロル
ド・D・ラスウェルは、実証主義的政治学やエリート論者として、わが国では
まだ一般に見なされる傾向があるのですが、1980 年代から「民主主義の政策
科学」を唱えた「ポスト実証主義」の学者として評価される傾向も出てきてい
ます。この背景には、当時の政策科学がテクノクラシー化し、
「民主主義の危機」
という状況があります。現代コミュニタリアニズムが登場するのもこの時期に
あたります。つまり 1980 年代になってから、アメリカの中では民主主義の危
機が語られている状況があるわけです。
政策を作成し、
実施するテクノクラシー
ですね、あるいはエリート支配、そういったものにアメリカはなってしまって
いる。そこで民主主義の再建みたいなことが、政策科学のなかでも出てくるわ
けです。熟議民主主義とか、あるいは民主主義的な共和主義も、1980 年代に
出てくるという同時代性があるのです。ラスウェルは近年活字化された政策科
学の最初の構想のメモにおいて、科学と政策というものは、
「人間の尊厳」と
いう「道徳目的」にとっての「手段」でしかなく、そのため「共通善」が必要
であると主張しています。私はこのラスウェルについて、共通善の政策科学と
いう形で考えているところです。
ラスウェルは政策科学に必要な哲学者の一人として、マリタンの名前をあげ
ています。また「政策科学」における「共通の利益」
、「人間の尊厳」の例とし
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て、
「世界人権宣言」を挙げています。どの程度マリタンの影響があるのかと
いう問題はありますが。ラスウェルは、政策科学に関する公刊された著作では、
「共通善」という言葉はあまり使わなくなるのですが、
「人間の尊厳」の実現を
共通の目的や利益とする主張は繰り返され、
「民主主義の政策科学」の実現を
主張するようになります。また、
「人間の尊厳」というのは、西洋では近代以
前の古代ギリシアから主張されたものとして、政策科学はそのような価値を実
現するアリストテレス以来の、まさに実践哲学であるという主張もするわけで
す。ラスウェルはコミュニタリアンだと主張したいわけではありませんが、コ
ミュニタリアンとある程度、似通っていくという部分があります。
さまざまなコミュニティと政策
さまざまなコミュニティと政策というところは、簡単に話します。具体的な
政策、個別の政策ではいろいろな議論があると思うので、基本的なことだけお
話しします。
まず学校と教育ですが、少なくとも子どもにとって、家族は所与のコミュニ
ティの典型です。応答するコミュニタリアン綱領の中では、親や学校による共
通善としての道徳教育を主張しています。とりわけ現在の日本では民主主義の
ための政治教育が必要であると私は考えています。そのための「愛郷心」、パ
トリオティズムですね、国を愛す心が教育基本法に適用されましたけれども、
民主主義の教育という意味では、私は賛成したいと思います。国を愛する心と
いうのは、民主主義のための政治教育という意味であるべきです。
次は地域社会ということですが、基本的に現代人は生まれた地域でずっと一
生を送ることは少ない。私自身もそうですけれども。ただ一定の期間はある地
域で、住まざるを得ないということがあります。とりわけマッキンタイアは
「ローカル・コミュニティ」における共通善を目指す普通の人々の自治を評価
するわけですが、近代以前からずっと人々が作ってきた、普通の人々が作って
きている、そういうコミュニティ、そういう中での政治を私は評価したい。私
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現代コミュニタリアニズム入門
はそれを日本に置き換えまして、明治以後の町内会・自治会を、民衆の自治的
組織として評価したいということで、一応二次的な資料を使って跡づけたわけ
です。その延長上で、1970 年代の「地域主義」の運動も、地域の伝統を評価し、
「住民自治」や「内発的発展」を目指すものとして評価しました。この運動は「バ
ブル」によって衰退したものの、現代の「まちづくり」やあるいは「コミュニ
ティ・ビジネス」として現在も継続されています。そういうものして評価して
いるわけです。それから地域の問題でいうと、これはサンデルも評価している
のですが、徒歩や自転車で移動できるアメリカの「新しいアーバニズム」です
ね、これも 1990 年代からの「地域主義商業運動」の一つでして、日本でも「コ
ンパクトシティ」とか、大型店の規制のように、地域の再生みたいなものに繋
がっていくと思っているわけです。
国家と国際社会
最後に、国家と国際社会ということです。国家もコミュニティとして捉えて
いいのかということなのですが、私は基本的には捉えることができると思って
いるわけです。その中での政治なのですが、基本的に、現代コミュニタリアン
は、すでに述べたように、マッキンタイアの言葉を使えばローカル・コミュニ
ティにおいて、直接民主的な政治参加、政治的な共通善の実現に向かう、そう
いうものを評価します。ただ国家としての政治としては、やはり議会制民主主
義を評価します。マッキンタイアは否定的ですけれども、基本的にはテイラー、
というのは彼もカナダの政党政治家でもあるわけですし、それから応答するコ
ミュニタリアンも、政党制政治家へ訴えるわけで、基本的には議会制民主主義
も肯定していると私は考えています。今のところこれに代わる国家の制度はた
ぶんないだろうというのが、私の結論です。しかしそういうネガティブな答え
だけではなくて、政権交代のルールがはっきりしている点で評価します。
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5.日本国憲法 12 条と「共通善」
最後に、今一番言おうと思っている点でもあるのですが、日本国憲法 12 条
の「公共の福祉」ですね。これは「共通善」であり、そのための個人の権利
や自由ということです。マッカーサー憲法草案の中では 11 条、今は 12 条に
なっているわけですが、ほぼ原文通りなのです。その中で「公共の福祉」は、
common good なのです。あと「公共の福祉」という言葉は 3 つくらい出てき
ますが、英語の草案では welfare とか別の言葉になっているのですが、ただ総
括的な権利を主張しているところで使われる言葉は、common good なのです。
しかも戦後は保守的な裁判官による裁判で、結局個人の権利を制圧するために
「公共の福祉」が使われ、それに対してベラルからの批判ということで、やは
り「公共の福祉」はあってもなくてもいい、あまり重視しない、せいぜい個人
の権利が欠落するときにそれを調整する権利とか、そういう基本的にネガティ
ブな主張しかされていなかったわけです。とにかくリベラルではもっぱら個人
の自由や権利というものだけを大切なものと見なしていたわけですが、改めて
「公共の福祉」を common good として読み直してみると、驚くべきことが分
かります。12 条では「公共の福祉」と個人の権利・自由とは対立するとは書
いてないのです。権利の濫用とは対立するとは書いてありますが。しかも、
もっ
と驚くべきことは、個人の自由や権利は common good のために用いる必要が
あると、用いなさいとはっきり書いてあるのです。これは私の言葉で言うと、
要するに個人の権利や自由というのは、みんなのために使いなさいと、使うべ
きであるということです。そういう意味で公共の福祉は積極性をもっているわ
けです。これはほとんどリベラルが議論しない、一般の憲法学者も議論しない、
非常に驚くべきことだと思って、私は盛んに言おうとしている、今日一番言い
たい事の一つでもあるわけです。ちなみに自民党が「公益」のために権利や自
由を制約するというかたちで憲法改正をするというのは、とんでもない話です。
これは別に制約の話ではなく、あくまで公共の福祉、common good のために
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使いなさいという、そういう議論なのです。
いずれにしても最終的には、国際社会、グローバル・コミュニティのために
も、
「共通善」というものは必要となってきます。東アジア共同体とか、最近
非常に出てきていますが、やはり共通善は何なのか、という問題ですね。これ
がはっきりしない限りはできないだろうということです。最終的にはグローバ
ル・コミュニティということもそうです。以上で報告を終わりたいと思います。
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