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コミュニティの基盤としての社会的共通資本
特集/コミュニティ・コモンズ・コミュニタリアニズム コミュニティの基盤としての社会的共通資本 ―持続可能性という共通善の実現に向けて 千葉大学法経学部総合政策学科教授 倉阪 秀史1 1.持続可能性という新しい課題 1980 年代の後半になって、オゾン層の破壊や地球温暖化といった全地球規 模での環境問題が顕在化した。生態系が提供する不要物の処理機能に絶対的な 限界があることが明確になったのである。局地的に生態系の機能が不全を起こ すことは以前から経験されてきたが、局地的な機能不全であれば、貿易などに よって資源を持ち込んで補うか、移動してしまうかすれば、対処できた。全地 球的な機能不全にはそのような逃げ場はない。 ケネス・ボールディングは、1966 年の「来るべき宇宙船地球号の経済学」 と題する論文で、人々は、開かれた地球というイメージから、閉じられた地球 というイメージに転換していく大きな過程の中にいると述べた。コペルニクス 的な認識変化に、経済学をはじめとする社会科学はまだついて行っていない。 資源制約のない「カウボーイ経済」から資源制約がある「宇宙飛行士経済」に 将来的に移行しなければならない。彼は、このような認識に立って、来るべき 経済学のありかたを透視したのである2。 資源制約の顕在化という問題は、持続可能性の問題と言い換えることができ る。われわれは、将来にわたって人々が暮らし続けることができる資源基盤を [email protected] 本稿は、 『現代思想』青土社、2007 年 10 月号に掲載され た原稿( 「持続可能性を確保する社会思想」)の改訂版である。元の原稿は、2007 年 10 月 15 日に開催された COE セミナー「コミュニティ・コモンズ・コミュニタリア ニズム」で報告された。 1 7 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 どのように確保するかという課題に直面している。すでに地球規模の環境制約 が顕在化してしまっているにもかかわらず、未だに、社会科学は変わっていな いようにみえる。「個人の自由を尊重しつつ、社会の持続可能性を確保するよ うな社会システム」を構想し、実現することが喫緊の課題であろう。これから の社会科学はこの課題に対応することができるだろうか。 2.経済学と持続可能性 2-1 エコロジカル経済学 従来、主流派の新古典派経済学においては、資源配分の効率性、所得分配の 公平さという二つの政策目標が認識されてきた。1980 年代後半に、地球環境 問題の顕在化と軌を一にして立ち現れてきたエコロジカル経済学は、この二つ の目標に、持続可能な規模の確保という独立した政策目標を加えるべきと主張 している。 エコロジカル経済学の特徴は、人間の経済システムと生態系システムとの関 係を取り扱おうとするところにある3。エコロジカル経済学は、人間の経済シ ステムの「外側」に生態系システムを認識している経済学であるとも言える4。 Kenneth Boulding, The Economics of the Coming Spaceship Earth Environmental Quality in a Growing Economy, 1966, Resources for the Future, reprinted in Herman Daly and Kenneth Townsend eds, Valuing the Earth, The MIT press, 1993 3 1989 年に設立された国際エコロジカル経済学会の機関誌の第一号において、ロ バート・コスタンザは、「エコロジカル経済学は、生態系と経済システムの間の関 係をもっとも広い意味で取り扱う」(R. Costanza, What is Ecological Economics? Ecological Economics, 1, 1989, p. 1)と述べている。 4 ハーマン・デイリーとジョシュア・ファーレーは、「伝統的な経済学は、経済、つ まりマクロ経済の総体を、全体とみなしている。自然や環境が考慮される限りにおい て、それらは、林産地や、漁場や、牧草地や、鉱物や、井戸や、エコツーリズムの 場所など、マクロ経済の部分や部門として認識される。対して、エコロジカル経済 学は、マクロ経済は、それよりも大きく包容力があり持続可能な全体、つまり、地球、 その大気、その生態系の一部であるとみている」と述べている(Herman Daly and Joshua Farley, Ecological Economics: principles and applications, Island Press, Washington D.C., 2004, p. 15) 。 2 8 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) エコロジカル経済学では、人間の経済には望ましい規模、つまり「持続可能 な規模」があると考えている。生態系システムは、その内部では個体数変動や 集団の移動・遷移などの動きがあるが、総体としての規模は地球という物理的 な制約のもと安定的に推移している。そのような中で、人間の経済システムの 規模が無限に大きくなれるはずがない。一定の規模を超えると成長による便益 よりも、成長によるコストの方が大きくなるはずである。このように、人間の 経済の規模には、望ましい規模が存在し、その規模を確保するための政策目標 が新たに必要であると考えるのである。この点、新古典派経済学では、経済成 長はすべての市場の参加者に分け与えられるパイの大きさを大きくするものと して、基本的に望ましいものとして認識されている。 また、エコロジカル経済学においては、人間の経済活動といえども物理的法 則に従って営まれるはずであり、そのことを無視して経済学のモデルを作成す るべきではないという認識ももたれている。物理的法則の中でもとくに熱力学 第二法則(エントロピー法則)に注目したのが、ニコラス・ジョージェスク− レーゲンである。彼は、 『エントロピー法則と経済過程』 において、 エントロピー 法則に従う形で経済理論を再構築するべきであると主張した。一方、新古典派 経済学では、労働を投入すれば生産物が生産され、それを消費すれば効用が残 されるといった生産関数、効用関数が採用されてきた。そこでは、生産の過程 や消費の過程で生み出されるはずの不要物が明示的に取り扱われていない。 エコロジカル経済学の主張は、主流派経済学からは概して冷淡な反応しか得 られていない。ノーベル経済学者のロバート・ソローは、新古典派経済学の生 産関数がエントロピー法則に従った取扱いを行っていないことについて、次の ように述べている。「すべてのものがエントロピー法則に従っていることは疑 い得ないが、わずかな期間の宇宙の片隅で起こっているものについてモデル を作成する際に、エントロピー法則が直接かつ実際的に重要なものとは思わな い」5。しかし、人間の経済から排出される不要物が、人間の社会の持続可能性 を脅かしつつあるという状況がすでに現実のものとなっているのである。 9 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 2-2 エコロジカル経済学の課題 経済学の主流にインパクトを与えることができていない原因は、エコロジカ ル経済学の側にも存在する。これまでのエコロジカル経済学では、持続可能な 規模の範囲をどのように捉えるのかがかならずしも明確ではなく、誰がどのよ うにして持続可能な規模を判断し、どのような手続でそれを実現するのかとい う点についても、さまざまな議論が行われていた。 持続可能な規模の範囲に関しては、生態系の収容能力(carrying capacity) の範囲内に経済規模を抑えるべきという議論が行われていた。しかし、マルチ ネス=アリエは、収容能力は、 国外からエネルギーや資源を持ち込むことによっ て増加するものであり、収容能力や発展の持続性を基礎とした議論は、それが 選択的に適用されるために著しくイデオロギー的になると指摘している6。つ まり、政治単位が生態系の一部分を人工的に切り出したものとなっており、そ の切り出した部分のみの収容能力や持続可能性を語るのは、より広域的な持続 可能性に反する場合や、より広域的な分配の公正に抵触するおそれがある。 収容能力概念から脱して、持続可能な規模の確保という課題を具体的に捉え ようとする動きもある。パリングズは、 生態系には閾値が存在し、閾値を超えれ ばシステムの復元力(resilience)が失われる。そして、 「システムの復元力が 維持できれば、システムの持続可能性は同時に保証される」と指摘する7。し たがって、重要な生態系サービスの持続可能性を保証するためには、 その生態系 サービスを生み出す自然資本の復元力を維持する必要があるということになる。 持続可能な規模を確保するために、市場における個人の主観的な判断には依 存することが出来ないという認識はエコロジカル経済学者の中で共有されて Herman Daly, Reply to Solow/Stiglitz , Ecological Economics, Vol.22, No.3, 1997, p.273 6 ホワン・マルチネス=アリエ『増補改訂新版 エコロジー経済学 もうひとつの 経済学の歴史』工藤秀明訳、新評論、1999、pp.xxii-xxv 7 Charles Perrings, Economics of Ecological Resources, Edward Elgar Publishing, 1997, p. 238 5 10 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) いるものと考えられる。この点は、政策の優先順位という考え方に現れてい る。ハーマン・デイリーは、排出権取引の考え方が最も秀でていると述べる8。 つまり、持続可能な規模を政府が決定した後に、公平な所得分配が実現する ように排出権を配分し、最後に、排出権市場が機能することによって効率的に 資源配分が達成されるという考え方である。また、ローンは、 「価格決定の結 果」 (price-determined outcome)と「価格に影響する判断」 (price-influencing decision)を峻別すべきと主張する。価格決定の結果とは、市場によって実現 する資源配分のことを指す。価格に影響する判断とは、市場を機能させるため のルールを決定する判断である。そして、持続可能な規模を確保するという課 題は、価格決定の結果によって解決されるものではなく、価格に影響する判断 の中で確保すべきとする9。 しかし、市場における個人の主観的な評価に変わる評価方法の模索方向は二 つに分かれている。第一に、自然科学的な客観評価法を見いだそうとする方向 である。この模索方向では、価格にかわる評価単位として、エネルギー使用量 などの物理的な単位を開発しようとする。第二に、何らかの集団的な意思決定 によって評価しようという方向である。仮に、自然科学的な評価単位が見いだ せたとしても、それを誰がどのようにして使うのかという問題はついてまわる はずである。このことから、集団的な意思決定のあり方について検討しないと エコロジカル経済学は完結しないということになろう。ただ、この分野に至る ともはや経済学ではない。政治哲学の分野に踏み込まざるを得ない。 3.政治哲学と持続可能性 3-1 リベラリズムの限界 新古典派経済学が主流派の地位を占めることができたのは、その理論体系が Herman Daly, Allocation, distribution, and scale: towards an economics that is efficient, just, and sustainable , Ecological Economics, 6, 1992 9 Lawn, P. A. Toward Sustainable Development: an Ecological Economics Approach, CRC Press LLC, Florida, 2001, pp. 110-111 8 11 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 リベラリズムと整合的であったからであろう。市場においては、個々の経済主 体は、社会全体の善や他人の暮らし向きを考慮することなく、自らの利潤や効 用を最大化するように振る舞う。そして、その結果、社会的にももっとも効率 的な資源配分が実現する。このような新古典派経済学の考え方は、個人の自由 に基本的な価値をおくリベラリズムの考え方に適合するとともに、他人や社会 の支えがなくても生きていくために必要な財は市場から購入できるという資源 配分機構をリベラリズムに提供することによって、リベラリズムの考え方を完 結させる働きをもっていた。 リベラリズムと呼ばれる考え方にもさまざまなスタンスの違いがある。古典 的なリベラリズムは、 「国家の唯一の役割は、市民の側の一定の権利、特に人 10 身の自由と私的財産、を保護することにある」 とするものである。たとえば、 J・S・ミルの『自由論』では、次のように述べられている。「人類がその成員 のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、 むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection) であるということにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意 思に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及 ぶ害の防止にあるというにある」11。 現代的リベラリズムは、 「国家は、たとえ自由権と財産権を多少犠牲にして も、貧困、住宅不足、健康問題、教育問題等のイシューに対して、関心を持 12 つべきだ」 という考え方である。佐伯は、 「現代リベラリズムの基本的な柱は、 ⑴価値についての主観主義、⑵中立的な国家、⑶自発的な交換である」と述べ、 それを以下の四つに分類している13。第一に、市場における競争の結果がいか なる格差を生もうとも受け入れるべきとする「市場中心主義」である。第二 10 チャンドラン・クサカス、フィリップ・ペティット『ロールズ「正義論」とその 批判者たち』 、山田八千子、嶋津格訳、勁草書房、1996、111 頁 11 J・S・ミル『自由論』塩尻公明、木村健康訳、岩波文庫、1971、24 頁 12 クサカス=ペティット、前掲書、111 頁 13 佐伯啓思『自由とは何か』講談社現代新書、2004、186 ∼ 194 頁 12 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) に、個人の能力が反映されている範囲で市場競争の結果を受け入れるべきとす る「能力主義」である。第三に、市場経済における敗者にも福祉給付や所得再 配分を行うべきとする「福祉主義」である。第四に、雇用や教育の機会均等の ための施策を行い市場競争の出発点を揃えるべきと考える「是正主義」である。 リベラリズムのスタンスの違いは、主に、公平な所得分配とはどのように実 現されるべきかという点にかかっている。そして、ロールズ、セン、ドウォー キンといった論者が古典的なリベラリズム以上に国家の介入を認めると言って も、佐伯が指摘するように、 「個人の権利を保障するための平等化政策」14 とし ての介入にすぎない。 では、持続可能性は個人の主観的な判断によって確保することができるのだ ろうか。よく主張される考え方として、必要な資源が持続しなくなる場合には、 その資源価格が上昇して、使用が抑制されるとともに、代替的な資源が開発さ れるため、資源の持続可能性は確保されるというものがある。 しかし、価格上昇は資源の持続可能性を保証しない。市場価格の上昇が資源 の持続可能性を保証しなかった例として、 リョコウバトの例が挙げられる。 リョ コウバトは、16 世紀には北米に 50 億羽生息していたといわれ、人類よりも個 体数が大きい世界最大の鳥類であった。集団で移動するこのハトは、捕獲しや すい上、味がよく、アメリカ合衆国の建国以来、食用として乱獲されることと なった。1805 年には 1 羽 1 セントで取り引きされていたが、個体数が減るに つれて、数年後には 12 羽 1 ドル(1 羽 80 セント強)に価格が上昇した。こ の価格上昇はリョコウバトの大量捕獲を招き、1860 年から 1870 年代にかけて、 各州でリョコウバトの保護法案が制定されたときには、すでに手遅れであった。 1900 年に野生のものがいなくなり、マーサと名付けられた最後の一羽は 1914 年に死亡し、リョコウバトは絶滅した15。資源の価格は、一般的に資源の入手 費用と資源需要によって定められる。資源が少なくなればその入手費用は上昇 14 15 前掲書、194 頁 プロジェクトチーム編『失われた動物たち』広葉書林、1996 13 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 するが、「最後の一羽を捕獲する」費用が無限大に上昇するわけではない。 「最 後の一羽を捕獲する」費用を支払ってもよいとする需要者がいれば、この資源 は枯渇することとなる16。 この例については、リョコウバトは絶滅すべくして絶滅したのだという反論 が想定される。持続させるだけの価値がなかったから、最後まで取り尽くされ たのだという反論である。それでは、なぜ、保護法案が制定されたのだろうか。 民主主義的な手続によって一方では保護すべきという決定が行われているのは なぜだろうか。また、最後の一羽のみでは、リョコウバトはその種を維持する ことができない。どこかに、種としての存続が図られうる最小の個体数があっ たはずである。価格の上昇は、このような閾値を認識していたのだろうか。こ れ以上個体数が減った場合、種としての存続が図られなくなる可能性があると いう認識のもとで、「その一羽」を捕獲したとは思えない。そのような知識が 市場への参加者によって共有されていたという事実はない。さらに、持続させ るだけの価値がないということを、なぜ、その時代の人々だけで決定すること ができるのだろうか。リョコウバトの遺伝子資源は永遠に失われている。今の 世代、将来の世代は、このハトを賞味することはできない。 これらの論点は、持続可能性の確保という課題についてのリベラリズムの限 界を端的に示している。第一に、自由にアクセスできる資源の場合、その資源 を他の者が保護すべきと考えたとしても、誰かが「最後の一羽」を捕獲してし まえば、その資源は持続しない。第二に、資源の持続可能性に関する個人の知 見には限界があり、個人の主観的な判断だけでは持続可能性を確保できない。 第三に、持続可能性に関する将来世代の判断を勘案することができない。 このうち、第一の点は「他の成員に及ぶ害の防止」として認識できるかも知 れない。しかし、この事例において、リョコウバトは、無主物であり他の成員 16 この点、パリングズは、「経済政策の問題点は、システムの復元力の限界に近づ いているかどうかを市場価格が検知できないという事実に潜んでいる」と指摘する (Perrings 前掲書、p. 238)。 14 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) の私有財産ではない。他の成員が、自らへの危害の防止を主張できる根拠が薄 弱である。それなら、リョコウバトは私有させるべきであったという主張があ ろう。しかし、実際にどうやって私有させるのだろうか。 第二の点に関しては、生態系の不確実性と不可逆性に起因する問題である。 生態系は、人の意図とは自律的に挙動するという特徴を有する。生態系の挙動 を解明しようとして自然科学が発達してきたが、自然科学によってすべての挙 動が解明されているわけではない。また、初期設定の微細な相違が大きな帰結 の違いをもたらすというカオス的な振る舞いが見られる場合もある。このため、 人の活動の環境影響の帰結を完全に予測することは困難である。一方で、生態 系サービスは、不可逆的な性質をもっている。人間による攪乱が一定の閾値を 超えてしまうと、生態系の自律的機能が不可逆的に損なわれてしまい、その 生態系サービスが得られなくなってしまう。実は、生態系のこの二つの特徴が、 環境問題を生み出しているとも言える。市場の参加者が、生態系の不可逆性に ついての完全な知見をもっている世界では、そもそも環境問題は生じ得ない。 第三の点について、将来世代の自由を侵害しないという考え方を導入しよう とする論者がいる。日本の代表的リバタリアンである森村進は、 「リバタリア ンが説得力を持つためには、将来の世代の人々に対しても、感覚を持つ動物に 対しても、十分な理由なしに害を加えることを差し控えるべき義務を認めるべ きだろう。自己所有権の内容を具体化しやすい現実の諸個人と違って、これら の存在が人々の行動にいかなる制約を課するのかは特定しにくいが、それはや むをえないことである」と述べる17。個人の自由が制約される場合として、今 を生きる他人の自由のみならず、将来世代の自由(それから感覚を有する動物 の自由)をも考慮しようとするという考え方であろう。また、アマルティア・ センは、「「未来世代」が現在と同等あるいはそれ以上の自由を手にできる「能 力を損なうことなく」、現在世代の人びとの実質的な自由を守り、可能であれ 17 森村進『自由はどこまで可能か』講談社現代新書、2001、201 ∼ 207 頁 15 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 ばそれを拡充することに、私たちは関心をいだくべき」と述べ、 「持続可能な 自由」という概念に注目している18。しかし、将来世代は現代世代に対して自 由の侵害を訴えることはできない。誰かが代弁しなければならないはずである が、その代弁者の正統性はどのようにして与えられるのだろうか。 以上のように、個人の自由に立脚するリベラリズムは、共通の資源の存在、 個人の知見の限界、将来世代の考慮といった点で、持続可能性を確保するとい う政策課題に十分に対応できないのである。 3-2 コミュニタリアニズムの可能性 エコロジカル経済学において、集団的意思決定のあり方について、比較的具 体的に検討されているのが、デイリー=コブの『共通善のために』である。彼 らは、「真の経済学はコミュニティ全体の長期的な福祉に関心をもつ」もので あるとし、自己の利害のみに関心のある個人としての経済人のイメージを「コ ミュニティの中の人」のイメージに置き換えるべきと述べた。彼らは「人間は 根本的に社会的な存在であり、経済学はこの現実認識に沿って組み立て直され なければならない」と主張するのである19。 彼らの主張は、コミュニタリアンの主張に似通っている。コミュニタリアニ ズムの代表的な論者としては、アラスディア・マッキンタイア、マイケル・サ ンデル、マイケル・ウォルツァー、チャールズ・テイラーらが挙げられる20。 コミュニタリアニズムは、アリストテレスにその源流を求める。アリストテ レスは、『政治学』の中で、 「家は一人の人間よりも自足的であり、国は家より も自足的であり、そして多数のものの共同体が自足的であるようになる時に、 18 アマルティア・セン「持続可能な発展−未来世代のために」『人間の安全保障』東 郷えりか訳、集英社新書、2006 19 Herman E. Daly, John B. Cobb, Jr. For the Common Good, Beacon Press Boston, 1989 20 菊池理夫『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』、講談社現 代新書、2007 16 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 初めて国は成立するのを望むものである」と述べている21。彼は、個人はそれ 自体では自足するものではなく、他の人の手助けがないと生きていけない存在 であると見ていた。 「共同することの出来ない者か、或いは自足しているので 共同することを少しも必要としない者は決して国の部分ではない、従って野獣 であるか、さもなければ神である」と述べ、完全に自足した個人は国の部分で はなく神であると述べる22。 コミュニタリアニズムは、自立せず他人の助けを必要とするアリストテレス 的な個人観のもと、人々はコミュニティによって育まれ、コミュニティの社会 的関係の中でコミュニティの「共通善」を実現していくという考え方といえる。 コミュニタリアニズムには、その批判も多い。第一に、 「コミュニティ」と いう用語の不明確さである。デランティは、 「コミュニティに関する多くの書 物や議論の中で、この言葉[コミュニティ]は決して定義されることがなく、 その結果、誰が「コミュニタリアン」なのか正確に指摘するのは困難である」 と述べる23。また、ギデンズは、 「 「コミュニティ」という用語は、コミュニタ リアンの理論においてあまりにも多義的である」と指摘する24。 第二に、 「アイデンティティの政治」への危惧である。この危惧は、コミュ ニティ内部での多様性を喪失するのではないかという危惧と、コミュニティに 属する個人の主体性を喪失するのではないかという危惧の双方がある。前者に ついて、たとえば、ギデンズは、 「アイデンティティの政治は排他主義的にな る傾向があり、現実の市民社会が依拠している寛容や多様性の原理との融和を 困難にする傾向がある」と指摘する25。後者については、ハーバーマスが、 「文 化的伝統やそこで表現される生の形式は通常、それらが形成する人格構造を備 21 アリストテレス『政治学』山本光雄訳、岩波文庫、1961、70 頁 前掲書 36 頁 23 ジェラード・デランティ『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』山之 内靖、伊藤茂訳、NTT 出版、2006、102 頁 24 アンソニー・ギデンズ『第三の道とその批判』今枝法之、千川剛史訳、晃洋書房、 2003、73 頁 25 前掲書 73 頁 22 17 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 えた人々を確信させることによって、すなわち、伝統を生産的に所有して継続 させるよう動機づけることによって再生産される」ものであり、その「存続を 保証することは必然的にその構成員から、彼らが自分たちの文化的伝統を所 有および保存するのであれば必要とされるところの諾否を表明する自由を奪い 去ってしまう」と述べている26。また、センも、 「社会的アイデンティティは 重要であるが、アイデンティティの選択に際して合理的判断が重要な役割を果 たしている」と指摘する27。 第一の批判に対しては、 「共通善」が保有される範囲をコミュニティである と考えることもできるかもしれない。しかし、今度は「共通善」とは何かが不 明確なまま残されてしまう。たとえば、個人の自由を尊重することという「共 通善」が地球という「コミュニティ」で保持されているというような言い方を 許容するのかどうか。許容されないとすればそれはなぜなのか。このあたりが わからない。 コミュニティの範囲は、 ひとびとの意識次第であるという考え方もある。 コー エンは、「コミュニティの、それゆえその境界のリアリティは同様に心の中に、 人びとがコミュニティやその境界に付与する意味にあるのであって、それらの 構造的形態にあるのではない」と述べる28。つまり、コミュニティは構成員で ある人々にコミュニティ意識があるかどうかによって成立し、人々の意識か ら離れた実体として存在するものではないという考え方である。意識の側面か らコミュニティを捉えようとする方向性はコミュニティ心理学29 にもみられる。 この心理学では、構成員の帰属意識、構成員が他の構成員に重要な役割を果た しているという感覚の共有、構成員のニーズを集団的に満たすことが出来ると 26 ユルゲン・ハーバーマス「民主的立憲国家における承認への闘争」エイミー・ガッ トマン編『マルチカルチュラリズム』佐々木毅他訳、岩波書店、1996、184 ∼ 185 頁 27 アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』細見和志訳、関西学院 大学出版会、2003、47 頁 28 A・P・コーエン『コミュニティは創られる』吉瀬雄一訳、八千代出版、149 頁 18 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) いう信念の共有、構成員同士の情緒的なつながりの共有の四つの要素からなる 「コミュニティ感覚」という概念が成立しており30、アンケート調査などでこ れらを把握するという手法がとられている。では、このようなコミュニティ意 識・コミュニティ感覚を生み出すものは何なのだろうか。この点は後に検討し よう。 第二の批判点であるコミュニティ内の多様性と主体性の確保については、コ ミュニティでの決定に当たっての討議民主主義の導入という形で解決してい こうという方向性が見られる。デランティは、 「帰属としてのコミュニティは、 制度的な構造、空間、ましてや象徴的な意味形態などではなく、対話的なプロ セスの中で構築されるものである」 と述べ、 コミュニティにおけるコミュニケー ション的側面に注目する31。菊池理夫は、人間を「言語、歴史、伝統、コミュ ニティ、倫理(善悪)などの「負荷」が共通に与えられた存在」として、 「そ のような負荷から、自己と他者の「関係性」や「共通性」を意識して、自分が 帰属するコミュニティをともに形成し、 「共通善」の実現をめざして、コミュ ニティに対する責任を果たしていく政治的存在」と考える32。 デイリー=コブでは、ある社会が「コミュニティ」であるかどうかの判断基 準として、次の四つが挙げられている。第一に、その社会の構成員となること によって個人が個別に認知されることにつながること、第二に、社会の意思決 定に構成員が参加すること、第三に、その社会のために行動する者が構成員の 暮らし向きに関心を抱いていること、第四に、社会の構成員は個人的な特殊性 29 「コミュニティ心理学とは、様々な異なる身体的心理的社会的文化的条件をもつ 人々が、だれもが切り捨てられることなく共に生きることを模索する中で、人と環 境の適合性を最大にするための基礎知識と方略に関して、実際におこる様々な心理 的社会的問題の解決に具体的に参加しながら研究を進める心理学である」(山本和郎 『コミュニティ心理学』東京大学出版会、1986、42 頁)。 30 Chavis, D., McMillan, D. Sense of Community: Definition and theory , Journal of Community Psychology, 14, 1986。J・ダルトン、M・イライアス、A・ウォンダー スマン『コミュニティ心理学』笹尾敏明訳、トムソンラーニング、2007、244∼245 頁。 31 デランティ前掲書、261 頁 32 菊池前掲書、50 頁 19 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 や多様性を尊重されていること。以上の四つである33。 このような討議民主主義が導入できる空間的な範囲は、自ら限定されてしま うであろう。この点について、デイリー=コブは、顔がみえる関係を超えた より広い社会について、「コミュニティのコミュニティ」という考え方を示し、 多層的なコミュニティによって社会を構成する方向が提起されている34。 さて、以上のようなコミュニタリアニズムは、持続可能性の確保にどのよう に貢献できるのだろうか。まず、共通の資源の管理については、コミュニタリ アニズムにおいては、その資源に関係する人々( 「コミュニティ」の構成員) の間で、資源の持続可能性の確保という「共通善」の実現をめざして、資源管 理の方法を設定するというストーリーを想定することが出来る。第二に、個人 の知見の限界については、この「共通善」の実現のために個人の知見を持ち寄っ て検討することによって、各人がばらばらに検討するよりもより包括的な検討 が出来ることになろう。第三に、将来の世代の考慮については、コミュニタリ アニズム的な見方では、今の世代と未来の世代が遺伝子と文化を共有する通時 的なコミュニティに属すると考えることになる。たとえば、ボールディングは、 宇宙船地球号論文において、なぜわれわれは子孫の犠牲のもとに今の世代の福 祉を最大にしないのかという問に対して、 「個人の福祉は自身を他人と結びつ けられる程度に依存し、最も満足のいく個人のアイデンティティは自身を空間 的なコミュニティに結びつけるのみならず、過去から未来にかけて広がるコ ミュニティにも結びつけるものである」と指摘している35。この見方において も、なお、将来世代を代弁する誰かが必要となるが、将来世代にわたって「持 続可能な自由」を確保すべきというリベラリズム的な解釈よりも、意思表示が できない構成員(将来世代)のことを考慮してその構成員のために行動すると いうコミュニタリアニズム的な解釈の方が適合的であろう。 33 34 35 20 Daly=Cobb 前掲書、p.202 前掲書 p.177 Boulding 前掲論文、p.306 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 表1 社会科学の二系統の世界観 個人と個人の関係 リベラリズム コミュニタリアニズム =新古典派経済学的世界 =エコロジカル経済学的世界 個人は他人から自立している。 個人は他人によって支えられ ている。 個人の「営み」によって「社 個人の「営み」によって供給 個 人 と 資源の 会を支える資源」の供給が可 できない重要な「社会を支え 「 社 会 を 供給 能である。 る資源」がある。 支える資 「社会を支える資源」は個人 「社会を支える資源」はすべ 源」の関 資源の によって所有されている。 て個人に所有されているわけ 係 所有 ではない。 (出典)筆者作成 4.持続可能性を支える共通の資源 4-1 社会科学の二系統の世界観 これまでの議論を振り返ると、社会科学には、リベラリズム=新古典派経済 学の系統と、コミュニタリアニズム=エコロジカル経済学の系統の二種類の系 統が認められると考えられる。この二種類の系統には、個人と個人の関係、個 人と「社会を支える資源」の関係に関して、表1のような基本的な違いが認め られる。 リベラリズム=新古典派経済学は、次のような世界を基本的世界としている。 個人は他人から基本的に自立しており、個人が生きていくために必要なもの であってその個人が生み出すことができないものについては、その個人が働い て得たお金をもって市場から購入することによって確保できる。市場で購入で きるものは、他人が生み出している。つまり、個人の「営み」によって、 「社 会を支える資源」の供給ができる。そして、個人が何かを生み出すために必要 な資源は、その個人か他人が私的に所有している。もっとも、リベラリズム= 新古典派経済学は、世界がこのような状況下にのみあるということは考えてい 21 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 ない。しかし、他人への直接的依存、所有されない財や資源の存在という状況 は例外的なものであるという取扱いを受け、しばしば相互依存や非所有の状態 を排除する方向での解決策が検討される。 一方、コミュニタリアニズム=エコロジカル経済学は、次のような世界を基 本的世界としている。個人は他人によって支えられており、自然資本のように、 個人の「営み」によって供給できない重要な資源によってわれわれの社会は支 えられている。また、 「社会を支える資源」のすべてが個人によって所有され ているわけではなく、個人の所有の対象となっていない重要な資源がある。こ れらの世界観の中で、個人と個人の関係については主にコミュニタリアニズム に属するものであり、個人と「社会を支える資源」との関係については主にエ コロジカル経済学に属するものである。これらを組み合わせることに違和感を 受ける論者もいるかもしれない。ただ、相互に親和性があることはすでに述べ たとおりであり、リベラリズム=新古典派経済学的な世界観へのアンチテーゼ として、双方の世界観を組み合わせた世界観を提示することは意味のあること であろう。 では、 「社会を支える資源」とはどのようなものがあるのだろうか、また、 それを作り出す個人の「営み」とはどのようなものがあるのだろうか、次項以 降でもう少し詳しく検討することにしよう。 4-2 二種類の資源 ジョージェスク−レーゲンは、 『エントロピー法則と経済過程』(1971)の 中で、ストック概念とファンド概念を次のように区別した。 「ある箱の中を数 えたら 20 個の飴があったとしよう。この場合、今または明日に 20 人の子ど もたちを一度に喜ばせることもできるし、そのうち何人かを今日喜ばせて残り の何人かを明日喜ばせることもできる。 (中略)他方もし、ある技術者がある ホテルの一室が多分あと千日もつだろうと言ったとすると、この場合には、千 人の宿無し旅行者を、いま喜ばせることはできない。できるのは、今日一人を 22 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 喜ばせ明日また別の一人を喜ばせというように、その部屋が完全にだめになる まで続けることだけである」36。ここで、飴はストックであり、ホテルの一室 はファンドである。 デイリー=ファーレーは、ジョージェスク−レーゲンの議論にしたがい、 「生 産されるものに物質的に変形される資源」である「ストック−フロー資源」と、 「生産によって消耗し劣化するものの、生産物の一部分となることはない」資 源である「ファンド−サービス資源」の二つを区分することを提唱している。 たとえば、レストランで使用される食材はストック−フロー資源であり、レス トランのコックはファンド−サービス資源である37。 このうち、ファンド−サービス資源が、人間生活の持続可能性を支える「能 力」を示すものといえる。J・S・ミルが『経済学原理』 (1848)において指摘 するように、 「われわれは物質に各種の性質を与えて、われわれにとって無益 であったものを有用なものとすることはできる」が、 「世界中のすべての人間 のいっさいの労働をもってしても、物質の一微分子をも生産しうるものではな 38 い」 。つまり、ストック−フロー資源は、 ファンド−サービス資源の機能によっ て人間にとって有用な性質が与えられた物とみることができる。よって、持続 可能性の源泉は、ファンド−サービス資源の方にある。 4-3 四種類の「資本」 ファンド−サービス資源は「資本」と呼ばれることがある。この用語の使い 方について、経済学者の中には異論を述べる者もいるが、 慣例にしたがって「資 本」という言葉を用いることとする。 「資本」の種類を示す前に、予備的に、われわれの世界の構成要素を検討し 36 ニコラス・ジョージェスク−レーゲン『エントロピー法則と経済過程』高橋正立 他訳、みすず書房、1993 年、298 頁 37 Daly=Farley 前掲書、pp. 70-72 38 J・S・ミル『経済学原理』末永茂喜訳、岩波文庫、1959、訳書第一巻、100 ∼ 101 頁 23 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 ておこう。われわれの世界は、まず、物理的法則が適用される世界(物理的な 世界)と、物理的法則が適用されない世界(精神的な世界)に分類される。前 者は、生物体としての「人間」 、人間によって設計され作られた「人工物」 、人 間をとりまく物理的存在であって人間によって設計されていない 「物理的環境」 の三つから成る。後者は、物理的な世界に与えられた「意味の体系」として把 握することができる。 このうち、「物理的環境」は、人間が介入することなくそれ自身で機能する 点に特徴がある。人間が介入することなく太陽は輝き、月は動き、風は吹き、 海流は流れ、木は生長する。このような「物理的環境」を機能させるシステム を「生態系」と呼ぶ。 また、「意味の体系」は、公共哲学や社会学における「制度」と読み替える ことができる。ベラー他は、 「社会学および公共哲学における制度」と題する 論文において、制度的な文脈なしに誰かと会うことは不安なことであり、われ われは他者と最初に何か共通の基盤を見つけることを試み、共通基盤が見つか れば、互いに次々と予想することができると述べる。そして、 この「互いに次々 と予想していくこと」が「制度」の始まりとする39。このように、ベラー他に おいては、複数の個人によって相互に共有された認識基盤を「制度」と認識し ているのである。 さて、ファンド−サービス資源たる「資本」は、「人間」 、 「人工物」、 「生態 系」、「意味の体系=制度」のそれぞれに応じて、次の四つの種類を想定するこ とができる40。第一に、 「人的資本」 である。 「人的資本」 は、他の人間に有用性 (人 的サービス)を与えることができる人間自身の能力として定義できる。第二に、 「人工資本」である。これは、人間に有用性(人工物サービス)を提供する人 工物の機能と定義できる。第三に、 「自然資本」である。これは、人間に有用 39 ロバート・N・ベラー他『善い社会』中村圭志訳、みすず書房、2000 年、302 頁 OECD の The well-being of Nations(2001)では、人間の暮らし向きを向上させ るものとして、人工資本、自然資本に加えて、人的資本と社会関係資本からなる「人 間的・社会的対処能力」に注目すべきであると述べられている。 40 24 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 性(生態系サービス)を提供する生態系の機能と定義できる。第四に、 「社会 関係資本」である。これは、人々に共有された規範・価値・認識であって人々 の協力関係を促進させるもの(=有用な制度)と定義できる。 そして、以上の四つの資本(=ファンド−サービス資源)の社会的な賦存量 が維持されることが持続可能性の条件ということになる。このとき、それぞれ の資本、とくに自然資本と人工資本が代替的なものか補完的なものかについて は、議論が分かれる。エコロジカル経済学では、自然資本と人工資本は補完的 な存在であると概ね認識されている41。ただ、この点については、本稿では深 く立ち入らない。 4-4 資本を維持する人間の活動力( 「営み」 ) 四つの資本のそれぞれに対して、それらを量的・質的に維持・向上させるた めの人間の活動力(「営み」 )を想定することが出来る。 アーレントの『人間の条件』 (1958)においては、このうち三つの資本に関 する人間の活動力が取り上げられている42。 まず、「人的資本」に関連する「労働」 (labor)である。アーレントは、「労 働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自 然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労 働によって生み出され消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労 働の人間的条件は生命それ自体である」と述べる。 次に、 「人工資本」を生み出す「仕事」 (work)である。アーレントは、 仕事を「人 間存在の非自然性に対応する活動力」と位置づけ、 「仕事は、すべての自然の 41 従来のエコロジカル経済学では、社会関係資本についての認識が不十分である。 たとえば、Daly=Farley 前掲書においても社会関係資本に関する記述がみられない。 しかし、一方で、Daly=Farley は、持続可能な規模を確保するために「政策」が必 要であると述べている。「政策」を「制度」を変更するための提案と捉えるならば、 エコロジカル経済学は、その世界観の中に「制度」を位置づけておく必要がある。 42 ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994、20 頁 25 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す」と述べる。 第三に、 「社会関係資本」 (=有用な制度)を形成する「活動」 (action)である。 アーレントは、「活動とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で 行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に 生き世界に住むのが一人の人間ではなく、多数の人間であるという事実に対応 している」と説明している。 このとき、アーレントの議論に欠落している人間の活動力が「自然資本」の 維持・向上のための活動力である。人間は、他の生態系よりもより多くの生態 系サービスを生み出しうる生態系を選び出し、再配置し、育成することができ る。また、選ばれた生態系の障害となりうる他の生態系を排除することがで きる。このようにして、人間は、 「自然資本」を維持・向上させることにより、 生態系サービスの総量を増加させるように努力してきた。このような人間の活 動力を「自然の手入れ」 (nature maintenance)と呼ぶこととしたい。 また、「人的資本」の維持向上のための活動としては、その人間自身によっ て行われる「労働」活動のみならず、社会的に行われる「教育」と「医療」も 欠かすことができないであろう。これらが「社会関係資本」の中に存在するこ とが必要であることに留意しておくべきである。 以上の関係は、表2のようにまとめることができる。 4-5 複数の人間に共通する資本 さて、以上の資本の中には複数の人間の利用に開かれたものがある。 まず、「社会関係資本」は、その定義から複数の人間のあいだでの何らかの 共通認識が生まれないと成立しない。このため、すべての社会関係資本は複数 の人間に開かれた存在といえる。 また、 「自然資本」は、多くの場合、私的に利用されるものではなく、複数 の人間によって共同で利用されるものであった。とくに、従来から、共同で管 理される自然資本は「コモンズ」と呼ばれてきた。たとえば、井上真は、コモ 26 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 表2 人間社会の持続可能性を支える四つの資本 物理的存在 場所の構成要素 人工物 物理的環境 個体としての 人間 人間によって 設計され生産 された物 人間をとりま く物理的存在 であって人間 によって設計 されていない もの 物理的存在に 与えられた意 味の体系 人的資本 人工資本 自然資本 社会関係資本 他の人間に有 人間に有用性 用性(人的サー (人工物サービ フ ァ ン ド ― ビス)を与え ス)を提供す ることができ る人工物の機 サービス資源 る人間自身の 能 能力 資本概念 労 働 (labor) 人間の活動 意味の体系 人 仕 事 (work) 人間の肉体の 人間存在の非 生物学的過程 自然性に対応 に対応する活 す る 活 動 力 動 力( ア ー レ (アーレント) ント) 人間に生態系 人々に共有さ サ ー ビ ス を 直 れ た 規 範・ 価 接 ま た は 間 接 値・ 認 識 で、 に提供する物 人々の協力関 理的環境の機 係を促進させ 能 るもの 自然の手入れ (nature maintenance) 自然資本を選 択的に育成す ることによっ て生態系サー ビスの総量を 増加させよう とする活動力 活 動 (action) 物あるいは事 柄の介入なし に直接人と人 との間で行わ れる唯一の活 動 力( ア ー レ ント) (出典)筆者作成 27 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 ンズを「自然資源の共同管理制度、 および共同管理の対象である資源そのもの」 と定義している43。井上は、資源の所有にはこだわらず、実質的な管理(利用 を含む)が共同で行われることをコモンズである条件とし、本稿の分類では社 会関係資本に含められる管理制度自体もコモンズと呼んでいる。 さらに、「人工資本」にも、共同で利用されるものがある。経済学では、非 排除性(制度的に他者の利用を排除できない)と非競合性(事物の性質として 複数の者の利用が競合しない)が成立する財を「公共財」と呼んできた。この ような財は、複数の人間に開かれた人工資本と言える。 このように考えると、表1に示した、社会科学の二系統のうち、コミュニタ リアニズム=エコロジカル経済学的世界観の方が、現実世界を的確に認識して いるのではないかと考えられる。 こ の 点 に 関 連 し て、 宇 沢 弘 文 が、 「 社 会 的 共 通 資 本 」(social common capital)の考え方を提示し、複数の人間に共通する社会的装置の存在に積極 的な意味を付与していることに注目したい44。宇沢によると、「社会的共通資 本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活 を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力のある社会を持続的、安定的に 維持することを可能にするような社会的装置を意味」し、 「社会的共通資本は、 たとえ私有ないしは私的管理が認められているような希少資源から構成されて いたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがっ て管理・運営される」べきであると主張する。そして、このような社会的共通 資本の範疇として、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三 つを挙げている。これらは、それぞれ本稿の「自然資本」 、「人工資本」 、「社会 関係資本」に対応するものである。さらに、宇沢は、「制度資本のなかでとく に大切なのは教育と医療である」と述べ、 「どちらも、一人一人の市民が、人 43 井上真「自然資源の共同管理制度としてのコモンズ」井上真・宮内泰介編『コモ ンズの社会学』新曜社、2001、11 頁 44 宇 沢 弘 文『 社 会 的 共 通 資 本 』 岩 波 新 書、2000。Hirofumi Uzawa, Economic Analysis of Social Common Capital, Cambridge, University Press, 2005 28 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 間的尊厳を保ち、市民的自由を最大限に享受できるような社会を安定的に維持 するために必要不可欠なもの」と説明している45。 宇沢は、リベラリズム=新古典派経済学的世界の不安定性を指摘し、「社会 的共通資本」こそが社会の安定性や持続可能性を確保するものであると主張す る。宇沢の考え方を敷衍すれば、複数の人間に開かれた資本は例外的な取扱い を受けるべきではなく、その資本に関連して相互依存や非所有の状態が存在す ることを前提として、その管理制度を検討すべきであるということとなろう。 5.社会的共通資本の管理制度 5-1 職業的専門家による管理 社会的共通資本の管理制度について、宇沢は、職業的専門家による管理とい う考え方を示している。たとえば、宇沢は、社会的共通資本は、 「それぞれの 分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にし たがって管理、運営されるもの」と考える。そして、「社会的共通資本の管理 を委ねられた機構は、あくまでも独立で自律的な立場に立って、専門的知見に 基づき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負 うものでなければならない」と主張するのである46。 しかし、この考え方については異論がある。 まず、最近では、専門家が旨とする科学的合理性と、社会的な合意形成のた めに求められる社会的合理性の間に乖離が見られることが指摘されている。た とえば、藤垣(2003)では、科学的合理性が確認されるまで調査を継続する ことによって政策の実施が遅れてしまう場合や、薬の副作用など科学的には許 容されるべきとされた副作用の程度が社会的には受容されない場合などが指摘 されている47。科学的合理性が社会的合理性を包含しているという関係にある 45 46 47 宇沢前掲和書、4 ∼ 6 頁 宇沢前掲和書、22 ∼ 23 頁 藤垣裕子『専門知と公共性』東京大学出版会、2003 29 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 のではなく、科学的に合理的であっても社会的には合理的ではないというケー スがあるのである。つまり、専門家の判断が市民的な合理性とは相いれない場 合があるため、専門家に社会的共通資本の管理を委ねれば良いということは言 えないのである。 また、個人は周りの人や場所によって育まれる存在である。たとえば、レル フは、場所の感覚がアイデンティティの源泉であり人間存在の根源であると指 摘している。彼は、 「場所は抽象的な物や概念ではなく、生きられる世界の直 接に経験された現象であり、それゆえ意味やリアルな物体や進行しつつある 活動で満たされている。それらは個人的なまたは社会的に共有されたアイデン ティティの重要な源泉であり、多くの場合、人々が深く感情的かつ心理的に結 びついている人間存在の根源である。」としている48。また、桑子は、 「空間の 歴史性、すなわち空間の履歴が空間の豊かさをつくりだす。したがって、豊か な履歴をもつ空間こそ、 人間の存在にとって本質的な意味を持つ。 」として、 「空 間の履歴のものでわたしは自己の履歴を形成する。その履歴の全体を 「わたし」 と称する。」と述べている49。このとき、地域社会の象徴となっている自然資 本など、地域のアイデンティティを形成する社会的共通資本については、その 地域に居住する人の判断と職業的専門家の判断が分かれてしまう場合があろう。 このとき、その場所に生きていない職業的専門家の判断に委ねることは適切で はないだろう。 5-2 「そこに生きる人々」による管理 職業的専門家のみによる管理あるいは職業的専門家に委ねた管理は、前項の ように適切ではない。では、社会的共通資本はだれによって管理されるべきな のだろうか。前項の議論を敷衍すれば、 「そこに生きる人々」による管理とい 48 エドワード・レルフ(1976)『場所の現象学』高野岳彦、阿部隆、石山美也子訳、 ちくま学芸文庫、1999、294 頁 49 桑子敏雄『環境の哲学』講談社学術文庫、1999、31 ∼ 32 頁 30 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) う考え方が立ち現れてくる。この管理形態は妥当だろうか。 「そこに生きる人々」による管理という考え方は、次のような問題点を孕ん でいる。 まず、「そこに生きる人々」の場所の感覚を活かせることになる一方で、学 術的広域的価値が軽視される可能性がある。そこにしかない生物で学術的に貴 重であったり、渡り鳥の飛来地で広域的に価値があったりするが、地元民には 価値が認められていないものがあった場合、適切に管理されないかもしれな い。たとえば、名古屋市の藤前干潟は、日本最大級の渡り鳥の飛来地であった が、地元の廃棄物最終処分場の建設のためにつぶされようとしていた50。 また、地元で価値が認められ保全しようと考えていたとしても、技術的知見 が積み重なれていないと、保全に失敗するかもしれない。たとえば、千葉県の 三番瀬では、漁業者が漁場改善のために覆砂をしようとしたが、持ち込もうと した砂の中にアサリに被害を与える外来種の貝が混入している可能性があると いう専門家の助言によって覆砂が中止になったことがある51。専門家の助言が なければ覆砂は実行に移されていたであろう。 このように、広域的な価値を反映させるための仕組みや、職業的専門家の助 言が全くない形で、社会的共通資本の管理を「そこに生きる人々」に委ねると いう考え方も妥当ではなかろう。 5-3 社会的共通資本の管理原則としての補完性原理 では、どのような管理形態が望ましいのだろうか。ここで、管理のモチベー ションと管理のノウハウの二つの側面から検討しなおしてみよう。 管理のモチベーションという観点からは、 「そこに生きる人々」 、つまりその 50 周知の通り、藤前干潟は、埋め立ての代償措置に対する環境庁からの反対意見を きっかけとして保全され、最終的にはラムサール条約の登録湿地となった。 51 2002 年に三番瀬円卓会議が立ち上がってすぐにこの問題が起こった。なお、この 件が、漁業者にうまく理解されず、漁業者を円卓会議から遠ざける一因となったこ とは、残念である。 31 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 社会的共通資本によって育まれている人は、特別のモチベーションを保有して いると言えるのではないか。また同時に、当該社会的共通資本がもたらすサー ビスが広い範囲に及ぶ場合には、 「そこに生きる人々」によってはそのサービ スが確保できなくなる可能性があると言えるのではないか。 この点について、オルソンは、集団が大きくなれば集団としての利益を維持 するための自律的な意思決定が難しくなるとして、その要因を三つ挙げてい る52。第一に、集団が大きくなればなるほど、集団利益に適うように行為する 個人の受け取る全集団利益中の割当てはより小さくなるため、集合財の供給の ために十分な費用が総額として集まらないことである。第二に、集団が大きく なればなるほど、当該集団のどの小さな部分単位・個人も、その費用負担に見 合うほどの便益を集合財の獲得から得られる見込みが乏しくなり、集合財供給 への十分なインセンティブが構成員に与えられなくなることである。第三に、 集団の成員数が多くなればなるほど、組織化のための費用は高くなることであ る。つまり、ある社会的共通資本が提供するサービスを享受する人数が増えれ ば増えるほど、その社会的共通資本が人々の自律的な営みによって維持できな くなる可能性があるのである。 このように管理のモチベーションの面から、 「そこに生きる人々」のモチベー ションをベースとする一方、広域的な価値を保全するモチベーションについて 何らかの形で補完するという方向性が見出せるのではないか。 つぎに、管理のノウハウの面はどうだろうか。 「そこに生きる人々」は、当 該社会的共通資本に育まれている存在として、その状況についてよく知る存在 であろう。しかしながら、社会的共通資本の管理にあたっては、人工資本の場 合はその人工物についての工学的技術的知見、自然資本の場合はその生態系に ついての自然科学的知見、社会関係資本の場合はその制度についての社会科学 的知見を、それぞれ多かれ少なかれ必要とする。このような知見が、「そこに 52 マンサー・オルソン(1965)『集合行為論』依田博、森脇俊雅訳、ミネルヴァ書房、 1983、41-42 頁 32 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) 生きる人々」によって保有されている場合はまれである。このことから、管理 のノウハウという面からも、 「そこに生きる人々」の知見を補う必要がある。 社会的共通資本を管理するためには、モチベーションとノウハウの両面から 「そこに生きる人々」の自律的な取り組みを広域的に補完する必要がある。こ の点で、注目すべき考え方が補完性原理(subsidiarity principle)である。補 完性原理とは、基礎的な行政単位で処理できる事柄はその行政単位に任せ、そ うでない事柄に限って、より広域的な行政単位が処理することとすべきという 考え方である。また、この原則は、個人で処理できる事柄は個人に任せ、そう でない事柄に限って政府が処理すべきという、官民の役割分担原則として解釈 することもできる。 1931 年に法王ピオ 11 世が回勅『クアドラゼジモ・アンノ』において示し た考え方が、補完性原則の端緒と言われている。この回勅では、 「個々の人間 が自分の努力と創意によって成し遂げられることを彼らから奪い取って共同体 に委託することが許されないのと同様に、より小さく、より下位の諸共同体が 実施、遂行できることを、より大きい、より高次の社会に委譲するのは不正で あると同時に、正しい社会秩序に対する重大損害かつ混乱行為である53。 」と 述べられている。補完性原理にしたがえば、 「そこに生きる人々」による自律 的な管理を奪い取ることなく、その管理で不十分な点(モチベーションとノウ ハウ)を広域的な立場から補完するということになる。 この点、ベラー他は、 「社会協力を推し進め、権力の脱集権化を図るために は、サビシディアリティの原理を生かす必要がある。この原理は、政府の役割 を、共同体における人間の繁栄を補助するものと考える54」と述べ、補完性原 理に立脚して政府を共同体の補助者と位置づけるべきだと指摘している。まさ に、同様の考え方である。 53 澤田昭夫「補完性原理 The Principle of Subsidiarity: 分権主義的原理か集権主義 的原理か」 『日本EC学会年報』第 12 号、1992、37-38 頁 54 ベラー他前掲書 297 頁 33 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 また、オストロムは、長期間持続する「コモンプール資源」の管理制度の設 計原則を検討しているが、 「より大きなシステム一部分としてのコモンプール 資源」については、ローカルな管理原則を実施するための複層的な組織によっ て管理されるべきとしている55。 さらに、先にふれたようにデイリー=コブは、顔がみえる関係を超えたより 広い社会について、「コミュニティのコミュニティ」という考え方を示し、多 層的なコミュニティによって社会を構成する方向を示している。 これらの論者に共通するものは、コミュニティを基礎としながら複層的にガ バナンスを積み重ねていくというイメージである。社会的共通資本の管理は、 「そこに生きる人々」による自律的管理を旨としつつ、そのモチベーションと ノウハウの限界を広域的な視点で補完する形で行われる必要があろう。その結 果、社会的共通資本のガバナンスは複層的に積み重なることになる。そしてこ のようなガバナンスは、補完性原理を基軸として組み立てられることとなろう。 6. 「コミュニティ」を存立させるもの 6-1 コミュニティ感覚を生み出すものは何か 先に述べたように、コミュニタリアニズムには、 「コミュニティ」とは何か、 あるいは「共通善」とは何かという、その根幹となる概念の定義が不十分であ り、さまざまな解釈を許してしまうという問題点があった。 Elinor Ostrom, Governing the Commons, Cambridge University Press, 1990。オ ストロムのローカルなコモンプール資源の管理原則は①明確に定義された境界、② 利用と提供のルールと地域の条件との調和、③集団的な選択ルールの取りきめ、④ モニタリング、⑤比例的な制裁、⑥紛争解決メカニズム、⑦組織化のための最小限 の権利の認識である。なお、オストロムは、「コモンプール資源」を、「十分に大き な自然あるいは人工の資源システムであって、その利用によって得られる便益の潜 在的受益者を排除することが(不可能ではないが)費用がかかるもの」と定義し、 「資 源システム」とは、「ストック変数であって、適切な条件下にあれば、そのストック や資源システム自体を損なうことなく、最大量のフロー変数を生み出すことができ るもの」と考えている。つまり、「コモンプール資源」は、本稿の用語では、「共同 で利用されるファンド−サービス資源」に相当するものである。 55 34 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) なぜ、コミュニティ感覚・コミュニティ意識が育まれるのだろうかという先 の問いかけに対する現時点での回答は、構成員の間でなにがしかを共有してい ること、つまり社会的共通資本の存在そのものがコミュニティ感覚を生み出し ているのではないかというものである。 社会的共通資本には、公共財としての人工資本、自然資本、社会関係資本が ある。同じ物理的なセッティング(人工資本、自然資本)の中で、同じ社会関 係資本(ふるさとの言葉、祭りなどの地域的な慣習・ルールなど)を理解しな がら、育まれ、生活していることが、帰属意識、相互に重要な役割を果たして いるという感覚、構成員のニーズを集団的に満たすことが出来るという信念、 構成員同士の情緒的なつながりからなるコミュニティ感覚を生み出す要因では ないか。 まず、まったく社会的共通資本を共通にしていない人々の間にコミュニティ 感覚は生み出されない。互いに見も知らない物理的セッティングの中におり、 互いにコミュニケーションを図る手段がない人々は、コミュニティを構成しえ ない。 では、地球の熱交換機構という自然資本を共通にしている人々の間にコミュ ニティ感覚は生み出されるだろうか。 地球の熱交換機構に異常が発生せず、 人々 がその存在に全く関心を抱いていないのであるならば、この自然資本はコミュ ニティを生み出す要因にはならないであろう。つまり、社会的共通資本を共通 にしていても、その社会的共通資本に人々が関心を抱いていない場合には、そ の資本はコミュニティを生み出さない。一方、今日のように、地球の温暖化が 人々の関心の対象となる状況下においては、地球の熱交換機構を共有する人々 の間でのコミュニティ感覚が発生する可能性がある。 また、 まったく居住する空間は異なっているが、 インターネットなどでコミュ ニケーションのみ成立している場合はどうだろうか。この場合、人工資本、自 然資本については、ほぼ共有していない。ただし、インターネットのソーシャ ル・ネットワーク・サービス上のコミュニティのように、共通の関心事につい 35 コミュニティの基盤としての社会的共通資本 て情報交換を行う者の間でコミュニティ感覚が生み出される可能性がある。こ の場合、ソーシャル・ネットワーク・サービスや、その中で立ち上げられたバー チャルな情報交換システムが、コミュニティを生み出す社会的共通資本となる。 この社会的共通資本は、社会関係資本に属するものである。 さらに、社会的共通資本ではなく、災害や敵などを共通にする者同士にもコ ミュニティ感覚が生み出されるのではないかとの指摘がある56。このとき、災 害や敵は、なんらかの社会的共通資本の持続可能性を脅かすという形で、ある いは、なんらかの社会的共通資本を必要とするという形で、社会的共通資本の 存在に関心を抱かせ、コミュニティ感覚を発生させるのではなかろうか。たと えば、人々に共通の病気であったとしても、それが、疫病の場合と生活習慣病 の場合では、コミュニティ感覚の形成に与える影響が異なる。疫病の場合には、 組織的に対応する必要があり、その協力関係=社会的共通資本の存在に関心を 抱かせることとなる。この結果、コミュニティ感覚を形成する。一方、生活習 慣病の場合には、問題事象は共通するものの基本的に組織的な対応は必要とせ ず、コミュニティ感覚の醸成には寄与しない。 6-2 「コミュニティ」と「共通善」 社会的共通資本の存在に人々が関心を抱いた場合に、コミュニティ感覚が生 み出されるとするならば、 「コミュニティ」は本来多層的なものとなる。ロー カルな場所において、 「コミュニティ」が成立しやすいというのは、ローカル な場所において、社会的共通資本の重なりがもっとも濃くなるということであ る。 コミュニタリアニズムのもうひとつの基本的概念として「共通善」があるが、 社会的共通資本をベースとしてコミュニティを把握する場合、 「共通善」とは 当該社会的共通資本がもたらす有用性として定義することができる。そして、 56 この指摘は、COE セミナー「コミュニティ・コモンズ・コミュニタリアニズム」 において、千葉大学准教授岡部明子先生からいただいた。 36 千葉大学 公共研究 第5巻第3号(2008 年 12 月) その有用性が持続すること、つまり社会的共通資本の持続可能性が「共通善」 のコアをなすのではないだろうか。 以上のように考えれば、「コミュニティ」とは何か、 「共通善」とは何かがよ りリアルに立ち現れてくることになろう。 7.持続可能性を確保するために 個人の自由に立脚するリベラリズムは、複数の個人に共通する資本の管理に 十分に対応できない。科学的な知見が不十分で、かつ将来世代とも分かち合わ なければならない自然資本については、とくに有効ではない。本稿では、社会 的共通資本ごとにコミュニティ感覚が生み出され「コミュニティ」が成立し、 当該社会的共通資本の管理を、コミュニティを基礎としながら、補完性原理に 基づき複層的にガバナンスを積み重ねていくことによって行っていくという方 向が示された。この場合、当該社会的共通資本がもたらす有用性、あるいはそ の持続可能性が、このコミュニティにおける「共通善」となる。このように考 えることによって、「コミュニティ」とは何か、 「共通善」とは何かが必ずしも 明確ではないというコミュニタリアニズムの課題にも対応することができるの である。 37