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美のイデアをめぐる手紙 - 哲学若手研究者フォーラム

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美のイデアをめぐる手紙 - 哲学若手研究者フォーラム
哲学 の探 求
第 32号
哲学若手研究者 フォー ラム 2005年 5月 (5‐ 15)
美 の イデアをめ ぐる手紙
田島 正樹
熙
先 の 手紙では、 た しか に七月のある会 に招 かれてセ ミナ ー ハ ウスで 話 を した
と書 きま したが、あな たか ら早速 その詳 しい話 を聞かせ よ とせが まれて も、今
とな ってはまるで議の 中に融 けるよ うに遠 くかすんで いて、 その輪郭 を提 える
の も私 には容易ではあ りませ ん。 もとよ り談話 はその場 その場 の感興 による即
興 の ものですか ら、 その まま再現できた と して も、後で読 み返す とたいて い 冗
長 で退屈で読 むに耐 えぬ もの にな って しまい ます。今回はそれ に加 えて、五月
以来 身 の周 りに起 こった ごた ごたや風邪の病後 を引 きず つてセ ミナ ー ハ ウ スに
行 つた ものですか ら、今 で は文字通 り熱 に浮か された夢 の 中の 出来事 の よ うに
しか思 えないのです。
い つ しょに招かれていた方が、高名な プラ トン学者で したか ら、私 は 日ごろ
感 じているプラ トンヘ の疑 間 を率直 にぶつ けてみ よ うと思 つてい ま した。 プラ
トンが 自分 の理想郷 か ら詩人 たちを追放 した ことに も現 れて い る、彼 の芸術 に
対 す る態度 を焦点 にす える ことによって、それは浮 き彫 りにで きるだ ろ うと思
われたのです
1。
それ とい うの も、最近私 はあ る酒席で、若 い方 と「理想 の 演奏 」
につ いて議論 した事 があ り、 その 事が頭 の 片隅 にあつたか らです。彼 は、 首尾
一 貫 したプラ トン主 義者 ら しい 口ぶ りで、おお よそ次の よ うな主張 を して い ま
した。
一― どんなレコー ドで も演奏会でも、実際に演奏には完壁 といえるものなどない。
どんなすばらしい もので も、どこか意に沿わぬところがあるものだ。そんなものを
聴 くくらいなら、スコアを目で追 う方が自分にはずつと満足がいく。なぜなら、そ
のとき自分はスコアか ら理想の演奏を自在に思い浮かべる事ができるからだ。一
2」
「 耳 に響 かぬ音楽
を讃 えるキー ツの詩 を思 わせ るこの言葉 を聴 い た とき、
私は少 しム ッと しま した。 私 自身、 スコア を見 るだ けでは、それほ ど完全 に音
楽 を思 い 浮か べ る能力が欠けてい る とい うこともあ ったか もしれ ませ んが、 ど
んな音感 の 持 ち主であって も、 スコア を見 るだ けの ほ うがいいなんて い う事が
本 当にあ る もので しょうか ?
た とえばモ ー ツ ァル トの ような人は、 もち ろん
ス コアか ら音楽 を思 い浮かべ る ことな どわけはなか ったで しょうし、 当時 の演
奏技術 が (モ ー ツ ァル ト自身のそれ も合めて )現 代 のそれ と比べ て、 少な くと
も技術 的 には一段 と「不完全 」な ものだつたで しょ うが、そんな不 完 全な演奏
で も、実際 の演奏 が楽 しまれ た とい うことは、私 には 自明のよ うに思 われ るの
です。 ヴ ィヴ ァルデ ィの合奏 曲の 多 くは、彼 の指 導 す る女学生のため に書かれ
た といわれて いますが、生徒 の 不完全な演奏 で も、彼 は実際に演奏 させ たが っ
たに違 い あ りません。
楽譜 が、演奏上 ご く限 られた情報 しか与 えて くれな い ことは よ く知 られて い
ます。同 じ ppで も、音の大 き さだけには還元で きな いニ ュアンスの差 が あ りま
す し、 リタ ル ダン ドとか フェル マー タをは じめテ ム ポの とり方に も楽譜 には表
現で きな い細 かな 自由度があ ります。
一 見 もつ とも客観的 。一 義的 に決まってい るか に思 われる音程です ら、決 し
てそ うい つた ものではあ りませ ん。合唱や弦楽 四重奏では、一般 に平均 律 で演
奏す るわ けには い きません。 自然 音階 とか純正 調 と呼ばれる音程 にそ のつ ど自
然 に修 正 しつつ演奏 しない と、美 しい和音が得 られ な いか らです。 これが、基
本的 には ピタ ゴラス以来知 られている音階です が、 平均律 に調律 した ピア ノの
音階 とは微妙 にずれてい るのです。(た とえば、純 正 調 のラの音 の波長 は、下の
ドの音 を 1と した とき、3/5で すが、平均律で は(1/2)912=(1/2)3た とな り、少 し
高 くな ります。)
問題 は転調が起 こる場合です 。平均律の調律が普 及 したのは、 自由 自在 に転
調可能 にす るためです。 しか し熟練 した演奏家 は、転調において もそれ ぞれの
調で純 正調 を確保 しよ うとす るで しょう。た とえば属調 に転調す る場 合 (ハ 長
調か ら 卜長 調 へ 、 卜長調か ら二 長調へ な ど)、 前 の 調 での属音 (ソ )が 後 の 調 の
主音 (ド )に な ります。 この時 た とえばハ長調 か ら 卜長調への転調 だ と、Aの
音 (ハ 長 調 の ラ )は 卜長調 の レに あた りますが、前 の調 の属音 (こ の 場 合 G)
6
美のイデアをめぐる手紙
を固定 して 卜長調の純正調の音階をとったとき、Aの 音は厳密に同じ音程 のま
までいる事ができません。前の調の主音 (こ の場合 C)の 波長を 1と したとき、
(ソ )は 2/3で すが、ラ (A)は 3/5と なるのに、 卜長調に転調 した と
の
レ
きそ
(A)の 波長は 2/3× 8/9=16/27に なるはずです。つま り、同じAで も
その属音
後者は前者より少 し波長 が短い、つま り少 し高いわけです。
さて問題は、転調がいつ どこで起こるかとい うことです。それがはっきりし
ていれば、その時点で採用すべ き純正調の音階を切 り替えれば「理想的」だと
い うことになるで しょう。 しか し、こんなことははっき りできないのです。た
とえばモーツァル トの G durの ヴァイオ リン・ コンチェル ト3番 の初めの部分
を見て ください。
主題 は颯爽 と G
dur(卜 長調 )で 始 ま りますが、す ぐに D dur(二 長調 )の 気
配が して きます。引用 した楽譜 51小 節 目か ら 63小 節 目までの間 に G durか ら
D
durに 転調 しますが、 どこで転 調 したか厳 密 に決定で きるで しょ うか ? 52川 ヽ
節 目には もう D durを ほの めかす C#が 現れ ますが、 54小 節 目は明 らかにまだ
G durで す
(ソ シ ミレ ド ドとい うこの フ レーズはモー ツ ァル トの 好みのモ テ ィ
ー フ らしく、それは この 曲の第二楽章のテ ーマ の 中に姿 を変 えて登場 します )。
Adagio
Tutti
つま り51小 節 目か ら63小 節目までに、
行 つた り来た りため らいを見せなが ら、
結局 は五度上の属調に転調す るのです。このよ うに転調 では、ある両義性を帯
びた時間が存在するのであ り、 この事が転調の本質的な味なのです。すると、
ここで理想の音程を定めること自体、 ノンセンスとい うことになるのではない
で しょうか ?
しか し以上の議論は、演奏が作曲に劣らず創造的な行為である こと、それゆ
え我々は実際の演奏か ら、楽譜か らと同様に多 く教 えられ、はつとするような
発見があ りうるとい うことは示 しているとして も、それでもそのような創造的
演奏 によつて始めて発見され るか もしれない「理想 の演奏」が、イデア的に実
「創造的」演奏がどれ
在 していることを否定するものではないか も知れません。
も優劣つ けがたい ものであるわけではな く、やは り歴然 とした一義的尺度があ
るはずだ とい う主張一一その意味で演奏のイデアの存在主張は可能か もしれま
せん。それ とも、 ここで もやは り「いまだ光を放 たざるいとあまたの曙光」が
あるとすべ きで しようか ? 多 くのものが拙劣な演奏 として否定できるとして
も、なお多 くの異なる創造の余地を、ここで も否定できないとい うべ きではな
いで しょうか ?
理想の演奏 とか美のイデアとい うのは、根本的な (そ れも理由のある)幻 想
であろ うと私は考えています。 この点を考えるために、バ ッハの有名な無伴奏
曲を例 にとつてみましょう。無伴奏パルティー タの和声は、 もちろんいかにも
不十分で しようが、その点を他の楽器 (ヴ イオラとかチ エロ)を 付け加えるこ
とで補 うような事が考えられるで しょうか ?
和声理論上の完全さを狙 つた結
果、まった くのキッチ ュを手にすることになって しま うで しょう。作曲家は、
無伴奏 とい ういかにも不 自由な制限を自らに課 した とき、どうして も完全には
実現できな い和声を意識 していたに違いあ りません し、我々聴取者 は本来ある
べ くしてそ こにないいろんな響きを補 つて聴か ざるを得ないのです。ち ようど
虫食い算を解きなが ら聴 くような ものとな ります。せ つか く作曲家が工夫 し、
聴取者が 自らそ こに補 いつつあるときに、そ して とりわけこの不在に対 して注
意が高まるときに、実際の楽器で補われた音が混 じるのは、作品にとつて取 り
3。
返 しのつかぬ打撃を与えることになるのです
8
美のイデアをめ ぐる手紙
ここには「美 の理想 」の幻想に とらわれ た人が 見逃 している ものが あ ります。
何 度 もテイ クを重ね て「完全な演奏 」 を 目指す レコー ド業界 は、 演奏技術上 の
困難 を強 く意識 す る結果、すべ ての これ らの不完全性 が払拭 されれば「完全」
が得 られ る とい うよ うな幻想 を抱 きが ちです 。 しか しかか る幻 想 を上 演 す る
様 々 のか らくりは、 実 は古 くか らよ く知 られて いたので す。能楽では「老 いの
花」とい う事が強調 されることがあ ります。
『 関寺小町』とい う秘曲では、百歳
にも手が届 く小野小町が、美 しい少年 の舞 いにつ られてよろよろと舞 い始める
ところがあ ります。なぜ、すっか り容色の衰えた老女にわざわざ舞わせる必要
があるので しょう?
明 らかに世阿弥 は、少年の初 々 しい舞姿と老女のおほつ
かない舞姿を重ねる ことによつて、そのはざまに、昔の小町の舞姿の不在 の美
がたち現れることをね らつているのです。若い盛 りの小町の舞を直接舞台に乗
せ ようとしたら、必ずや、想定された小町の完全な舞 としては不十分だとい う
印象を、かえって与 えて しまうで しょう。 この事は、 いわゆるオーディオ・ マ
ニ アが陥る窮状に対応 しています。彼 らは、
「完全な再生装置」を目指せば目指
すほど、それで も残るノイズに意識を集中せ ざるを得ません。その結果、彼 ら
が 自分のオーデ ィオ装置によつて意識を集中 して聞き取るのは、常にノイ ズだ
けとい うことになって しまうのです。
昔、ギ リシア人の間で画家として名高かつたゼウクシスとパ ッラシオ スが競
い合 つた事があ つた といいます。その とき、ゼウクシスは葡萄を描いたのです
が、その絵は小鳥がその実をついばみにや つてきたほどの出来ぼえだったので
す。対 して、パ ッラシオスの描いた絵には布がかけられて覆われていたので、
ゼ ウクシスは「覆 い を取つて君の絵を見せて くれ」と言 いました。 しか し、パ
ッラシオスの描 いたのはこの覆いだつたのです。そこで、鳥の目を欺 いたゼ ウ
クシス よりも、人の 目を欺 くことので きたパ ッラシオスのほ うが上だとい うこ
とにな りました。パ ッラシオスのやつたことは、世阿弥にも無伴奏パ ルテ ィー
タのバ ッハ にも共通するものである事がわかるで しょう。いずれにおいて も、
不在の完全性の幻想 (実 在の完全性 が、何物かによって覆われているために、
我 々か ら隔て られているのだとい う幻想 )を 生み出すために、作品自体の不完
全性が使われるのです。それによって作品は、不在 のイデアを秘め隠 している
覆 いとい う見せかけ―一つまり見せかけの 見せかけ、隠蔽の隠蔽になるのです。
ついでに能 か らも う一つ 面 白い例 を引いてみ ま しょ う。
『 紅葉狩 り』 とい う
有名な作品です。平維 茂 が秋の 山に迷 い込む と、そ こは紅 葉真 つ盛 りです。景
色に目を奪わ れなが ら行 くと、着飾 つた上臓 たちが紅 葉狩 りの宴 をは って いま
す。山里はなれた趣 き深 い風景 の 中に、 いかに も身分の 高そ うな美 しい女性 た
ちが配 され るのですか ら、若 い公 達が心惹 かれるの も当然です。彼 は誘 われる
あたた
た
「林間 に酒 を 援 めて、紅葉 を焼 く」 とい う白楽天 の 詩
ままに酒盃 を重ね ます。
が思い出され る風情 です。や がて 維茂 は眠 りに落ち ますが、そ こで音楽 の 調子
が急変 し、空 は にわかに掻 き曇 るか と見る間に、揚幕 が さつと上が って、 被 り
橋掛 か りをす べ るよ うに現 れ ます。舞台の 少 し手前、
物 に顔 を隠 した後 ジテが、
一の松のあた りです つ と止 まる と、布 をとって顔 を真正面 に向ける。優雅 な上
臓姿の前 ジテ が後 ジテに変身 した般若 面 が、そ こに現 れ ます。 この能全体 を通
して最 も美 しい、思わず息 をの む瞬間です。
上臓たちが紅葉 の精 の よ うに風 景 の中に現れるの は、 よ く理解で きます。 し
か し、その本性 が何か とてつ もな く恐 ろ しい もの を秘 めていること、 あ るいは
そのぞ つとす るよ うな ものが 現 れ るその瞬間 こそ、美 の 絶頂である ことが 示 さ
れるのです。紅葉 の美 か ら上臓 たちの雅びへ、そ して さ らに死 の恐怖 へ と二度
にわたる変容が、 この ドラマ の主 題です。美 しい風 景 を ズームア ップ して い く
ことによつて、 そ の本質 へ とよ り深 く観入する こ とに よつて、我 々 は この 変身
に立ち会 うので す。
最初 の変 身で我 々が得 る もの、 それは凝縮 とい う効 果です。紅葉 の 風景 の 中
に分け入 る とき、そ こに繰 り広 げ られた綾錦に我 々 は眼 を奪われ ますが、すべ
てを同時に体験 す る ことはで きな いので、 日は風景 の 中 をさまよ うで しょう。
そ こに一種 め まいの よ うな感覚 が生 じます。 自然 を体験 す る時の このあふれ る
よ うな豊 か さは、それを写真 に収 め よ うとするとた いて いはたちまち失われる
ものではな いで しょうか ?
それ に対 して、紅葉 の 美 を一 身に体現 した女 は、
我 々の眼をそれ に集 中す る事がで き、 これによって 目の 安定 した享受 を可能 に
して くれるの です。 巨大な建築や船舶 な どの模型 を見 る ときの我 々の満 足は、
それ らが、 さ もな くば直観で きな い 巨大 さの印象 を、 一 瞥でその全 貌 をつかむ
縮約 によつて可能 に して くれ る ところか ら来 るので し ょう。 レヴィ=ス トロー
スは、 この よ うな縮約 こそ芸術 の 本質 と考 えま した
10
(『
野 生の思考』参照 )。 カ
美のイデアをめぐる手紙
ン トが言 うように、対象の大きさを直観する事ができるためには、それを縮約
する必要があるのです。アクシ ョン映画で激 しい動きを感 じさせるために、か
えってスローモーシ ョンに訴えるような ものです。
さて、それでは上臓の鬼への変身の方 は何なのか ?
同 じ者が一方では魅惑
的な上臓 として現れ (前 ジテ )、 他方ではぞっとする悪鬼として現れる (後 ジテ )
とい うことは、その対象に対する感情的アンピヴァレンスを現 しています。ア
ンピヴァレン トな価値を体現するのは、主体にとつて特別に身近な存在ではな
いで しょうか ?
メラニー・ クラインによれば、幼児にとって母親
(ま
たはその乳房 )は この
ようなアンピヴァレン トな対象 とな ります。
幼児は鏡像のような母親に対 して、
しば しば激 しい攻撃性をいだ きますが、その攻撃性は幼児にとっては母親か ら
の攻撃性 として意識されるのです。こうして彼にとって母親像は「よい母親」
と「悪い母親」に分裂するわけで、後者は古 い童話や昔話の 中で「魔女」とか
「意地悪な継母」などの形で象徴的に表現 されるものです。
主体にとりつき主体を呑み込んで しまう悪 しき母親への恐怖 が、鬼とい う姿
をとる。そこか ら、上臓の魅惑は実は主体の近親相姦的欲望の投影だ とい う事
がわか ります。上臓は「よい母親」を表現 している ものなのに、その点は隠蔽
されてお り、悪鬼が「悪 しき母」であることか ら、遡及的に理解 されるのです。
こんな理解は少々図式的すぎるか もしれませんが、いずれにせ よ
『 紅葉狩 り』
で も『 関寺小町』でも、何か別の ものによって当の ものを表現する象徴化が働
いている点では共通 しています。象徴化や代理表現を促す ものが、フロイ ト的
な抑圧作用によるものなのか、それともそ もそ もシニ フィアンとい うものは、
それが成立するや否や自律的に運動 してゆき、その効果 として記 号の変換 (置
き換え)を 促す ものなのか、レヽ
ずれとも言えるで しょう。また置き換えによっ
て記号が生まれるのか、記号が存在するところか ら置き換えの衝動が生まれる
のか、いずれ とも言えるで しょう。 しか しともあれ、 このよ うなシニ フィアン
の生起 とともに、単に部分で しかない一瞬一瞬 とともに流れてゆ くのではな く、
代理表現を通 して生全体を直観することも可能 となったのであ り、部分であ り
なが ら全体を見透そ うとい う野心 も生 じたのではないで しょうか ?
ひ よつとした らそれは、死者の名か ら始まったのか もしれません。我々人類
の口蓋の構造は、
発声の多様性を可能 にして くれます。おそ らく我 々の祖先は、
言語を発明するずっと前か ら、多様な音韻の区別を習得 していて、その実に多
様な組み合わせを楽 しんでいたで しょう。未開の彼 らが、食べ る必要に迫 られ
てそのことばか りが彼 らの関心を占めていたと考えるのは、彼 らの遊び心を見
くびるもので しよう。彼 らは数千年の有 り余る暇を この音韻遊び に興 じていた
で しょう。それは我 々の音楽 にも匹敵する高度で複雑な音列を開発 していたは
ずです。より複雑な発声 を模倣 した り発明 した りするゲームがあったわけです。
ち ょうど綾取 りのように、何か他 の目的のための手段 としてではな く、それ自
体を楽 しむためです。
その うち、誰か重要な役割を演 じていた者で、かつ誰にもまねの しに くい音
列を発声 していた者が死んだあと、その音列を正確に模倣できる者が現れる。
その発声は、それをたまたま口に した者 にとつてさえ驚 くべ きことに、亡き人
を皆にあ りあ りと思 い出させることになったで しょう。 この死者は、フロイ ト
が『 トーテムとタプー』の 中で描 いた原父のような人物であ つたか も知れず、
そ うならいつそ うこの想起はある種の恐ろしさを帯びて いたで しよう。 この音
韻列 こそ、この死者の名であ り、人類最初の言語なのです。
いったんこのような死者の名が成立すれば、 この死者 と近親関係 にある者や
物事が、その名とその名の小さな語尾変化 によつて写像 されることは容易です。
重要なことは、最初の言語が、生活上の必要か ら生まれたので も、実在 の描写
のために生まれたので もな く、不在の ものを現前させる形而上学的な飛躍によ
るとい うことです。言語 は実生活の関心の中にうま くその場を得るような便利
な道具などではもとよ りな く、は じめか ら根本的な幻想を生み出す尋常な らざ
る過剰 として、言 い換えればひ とつの奇跡 として生 じたに違いあ りません。
当初の言語は死者の名一つ にして もきわめて複雑な ものであ り、それが次第
に単純化 と合理化をこうむ り、単純な ものの組み合わせによる構造化が進んで
いったので しよう。 しか し構造化 とそれによる事態の表現 とい う根本方向は、
死者 とその近親者の関係 を、名 とその語尾変化で表現する ことの うちに胚胎 し
ていたわけです。
いったん死者の名を手 にした連中は、そ うでない者に対する圧倒的な優位を、
それも軍事的優位を手 に入れたことで しょう。戦闘の際に死者を呼び出 して助
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美のイデアをめぐる手紙
力を求めた り、死者の恐れによる呪縛によつて、それ以前になか った強固な連
帯や掟への忠誠 が可能になった りしたからです。か くて この死者は、最初の神
になったのです。
いささか空想に走 りす ぎたか もしれません。 シニ フィアンの動物 としての
我 々 とい う話に立ち返 りま しょう。
ライプニ ッツのモナ ドは、全宇宙を映 し出す生 きた鏡だ とされています。
我 々は普通、人生の只中でそれぞれの瞬間が実現 しつつある意味に気 づかずに、
それ らの瞬間を経験 してゆ くけれ ど、時にはある特別な一瞬にお いて、人生に
結晶 した意味を洞察 した と思 えるような事があるで しょう。プルース トはその
ような瞬間を、自分の作品創造 の鍵 としています。有名な、紅茶に浸 したマ ド
レーヌのエピソー ドな どがそれです。ライプニ ッツのモナ ド論は、プルース ト
にとつて特権的な瞬間を、世界のいたるところに見出す もの といえま しょう。
しか し、芸術作品がモナ ドのよ うに宇宙の細部のすべてを凝縮 しているかのよ
うに感 じるのは、これまた作品が与える幻想なのです。
以前、 フェルメールの『 レースを編む女』の写真を目にしたとき、クッショ
ンか らこぼれ落ちる赤や 自の糸の絶妙な印象の謎を探 ろうとして得 られない も
どか しさか ら、ルー ヴルの本物を見たいと、切に思 つたもので した。そこに無
限の合蓄を感 じさせ るような細部一一思 うに、フェルメール こそ、部分に全体
が映現 しているとい うライプニ ッツのモナ ドロジー を例証するのに、 もっとも
ふ さわ しい画家ではないで しょうか ?
しか し実際に画布に鼻づ らを近 づけて
よく見ると、あれほ ど精妙 に我 々を魅惑 していたあの無造作に垂れ下がる糸の
滝が、い くつかの単純な絵 の具のシ ミで しかない事を発見 して愕然 とするので
す。
プルース トは、自らの作品の中で、フェルメール に造詣の深い作家ベ ルゴッ
トの晩年を描いています。どこかで批評家が フェルメールの『 デ ルフ トの風景』
の中の「黄色い壁」に言及 しているのに、ベルゴ ッ トはこれまでに何度 も見て
いるはずのあの絵 の その細部 が思い出せないので、最後 にもう一度その絵 に足
を運ほ うとします。 この気持ちは、我々にもよくわか ります。デルフ トの絵に
魅了された我 々の眼は、そ こにもはや黄色い絵の具を見ていないか ら、それが
黄色い絵の具で しかないと指摘 されると、どうして も自分の日で確かめた くな
つて しま うので す。それはち ょうど、少女の黒 い 目にあま りに も魅惑 されて し
まった ため に、それ をす っか り青 い 目だ と思 い こんで しまい、その 瞳 を思 い 出
そ うとす るたび に、必ず青 い 目を思 い 出 して しま うプルース トの主人 公の よ う
な ものです。
おそ らく彼女があれほど黒い目をしていなかった ら一―その黒い目が実は初めて彼
女を見る者を強く打ったのだが一―私は彼女の中で、特にその青い目に、あんなこと
になるほど恋焦がれはしなかったであろう。(『 スワン家のほうへ』
)
意識 の 原 因 (黒 い 目)と 意識 の対 象 (青 い 目)と がずれているので、 我 々の
意識 には何 か理 由の知れない不思議な魅惑 とい った 印象が生 じるので す。近親
相 姦的 な欲望 が抑圧 され るため に、
理 由のわか らない魅惑 を帯びて現われ る
『紅
葉狩 り』の上臓の よ うな ものです。
さて、 散漫 なお しゃべ りもそ ろそ ろ切 り上 げね ばな りませんが、 その前 にラ
ス コー の太 古 の壁 画 についてひ とこと言わせて くだ さい。太古の人 に とって、
それが いか な る宗教的 0社 会的意味 を持 っていた に して も、それ らのす べ てが
時 とと もに こ とごとく剥落 して しまった中に、彼 らの心 をも動か して いた に違
いな い あ る感動 だけは、決 して風化せずに我 々 の心 を打ちます。それ は、野 獣
の群 れの持 つ 荒 々 しい躍動感です。 これを描 いた人 たちは もちろん、描 かれた
野獣 の 中には絶滅 した種 さえあ るか も しれ ませ ん。 しか し、 この野獣 の 動 き と
の出 会 いが、 太古の画家たちの心 を激 しく揺 り動 か したのは疑いあ りませ ん。
す べ てが時 とともに流れ去 ったの に、 この もつ と も流れ去 りやす い動 き だけが、
流 れ去 らず にそ こにあるのです。彼 らは、躍動 す る野獣の群れ とともに流 れて
行 く、 自 らの生の移 ろいやす さを感 じていたか らこそ、運動その もの、移 ろい
その もの を定着 しよ うとい う途方 もな い情熱 を抱 いたの ではないで しょ うか ?
ギ リシアの吟遊詩人は、勝者 の栄光 に劣 らず敗 者 の 光彩 をも、彼 らの 歌 に残
しま した。その結果、虚 しく倒 されたヘ ク トール や 炎上 した トロイア に も、永
遠 の生 命 が与 え られたのです。
乏 しい どん ぐりを腹 に入れて長 い冬眠 に備 えね ばな らない熊 さなが らに、 と
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美のイデアをめぐる手紙
もし火 もな く暗 く長い時代 を耐え忍ぶ者にとつて、この世の幸・ 不幸、成否勝
敗を超 えた視点から我 々の生死 を見つめ、驚嘆すべ きこととの出会いを語 り、
かけがえなき者 との別離 さえ言祝 ぐ路があるのだとい うことに、いまは慰めを
見出す事 ができるで しょ う。
取 り急 ぎ、 ご返 事 に代 えて
敬具
註
「詩人の追放」は、イデア論にとつて周辺的な意味 しかないよ うに思われるか もしれま
せんが、後に見るように実に本質的な重要性 を持つのです。詩人 とプラ トンは、同 じ現
象をめ ぐって交差 しなが ら、対極的な位置に立っているか らです。
cf Kcats,Oag′ οαG″cim Urn
同性愛者 と異性愛者の間の友情を描いた映画『 クライングゲーム』の中で、女性だ と思
つていた相手が男だとわか つて主人公が愕 然 とする場面があ ります。 これが逆の場合
(た とえば『 ベルサイユのバ ラ』のオスカル)と 比べて一段 とスキャンダラスに感 じら
れるのはなぜか ? 男たちは女の スカー トの 中に、いつ も母の不在のファルスを探 し続
けているのに、単なる腸詰に似たペニスをそこに見出すことは耐え難いか らではないで
しょうか ?
(た じま
まさき/東 北芸術 工 科大学 )
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