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鳥 居 龍 蘇 - 日本宗教学会

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鳥 居 龍 蘇 - 日本宗教学会
仰倍醐女の衆民代時各石本月
日本石器時代民衆の女癖信仰
鳥
居
龍
蘇
我が日本の石器時代︵アイヌ族︶民衆の信仰して屠つ咋宗教は、抑もどんな種類のものでぁ
ったであらう?、此の疑問に勤し津田敬武氏も﹃神道起原論﹄に於て、其最初の章の朗で之を
欝ti・
紀るし、また出口米吉氏︵東京人類撃雑誌等︶等も、彼等の残した石棒に裁て之を論じたこと
があ♭まし佗。私も今魔で彼等の宗致観の︼つ二つを記して見たい。
私ほ彼等の宗教思想を、其の遺物の上から考察すると、所謂比較宗致壁上で卦琴する
て見ようと息ふ。
した概論様のものは、何づれ之を他日に述べる事として、嘉には食も英知かなものに就て、昏
数旨︵Amini旨︶−岩temi芦も、勝たSh昌呂i旨なども存在して居る楼であるが、是等の紙話
−・ユ....__
浪六十鮮 卑四鰐 兼併敦轟
●●
H日本石器時代女帝の土偶
私が彼等の遣物に放て、兜づ第一に鼠の附くのほ、彼等の製作した土偶の多数にある弔であ
b︰ます。而して是等の土偶によく注意すると、男性︵茅−e︶よらも女性︵慧m已e︶の方が比較
的に多いっ否な殆んど女性のもの許わの朗もあゎます。私は是等の串驚から彼等の土
よむも寧ろ女性の方を多く作った串が推知せられます。這は箪に土偶のみならす、彼
土器の特有である前面把手の如きも殆んど重く女性であ王∵ます。加之、彼等の掩し
面に割せられたるSe拍の如き、叉殆んど絶てが女性であら旦㌔さうすると雷時の民衆は両
性を平面に刻する場合も、又立魁の人後−曾作る場合にも女性の方を表現するを、頗る好んで居
った串が知れませう。
の行はわ霊伸几小、斯く多数なる女形が、土偶や其他の物に表現せらるゝに
至った串と忍ばれます。
︵句。巨l巾diく㌻itユ
ゎ;ませう9・私は︼般未開人や其の他の例から推しまして、這は暫時彼等の問に盛に女帥信仰
彼等が斯くの如く男性の形よぅも、女性の形を作って居るのほ、抑もどんな理由に拉
・・・・・一− 2 ■・・−・
仰倍耐女¢舐艮代埠器石本IJ
私は之れの詮蝮として、嘉に賓際の女紳土偶を一つ二つ試に撃げ七見よう。餌ち左は陸奥団
あつて、腰部にサ
ルマタをはいて罵
るのみです。乳弥
の甚だしく大きh仏
工合から明かに女
性である罫を知れ
ませう。
︶
︵
次はHの土偶
で、出所は常陸凶
稲敷柑大須賀村、
之れも西南部と爾
手が訣損して無くなつて居ちますが太さは五寸あらます。其の乳部が甚しく突起し、腹部が又
ーーー こ㌢ ニニふ
西津軽郡館岡村から侶た土偶で、顔面部ほ駄現して無いが大さは約六寸六分あら、這は株櫨で
群
一
庫
故六十節 年四節 究耶故窺
頗る出張って居るのから見れば、之も明かに女性を示したものでせう。
斯くの如き材料
を醤げると中々多
いが、いづれも大
同小異であらます
から、嘉には単に
右二個の女紳士偶
の例を示しまし
。
彼等の土偶の中
には、問より子供
の玩具もあらませ
うが、其の多くは宗教上のもので、殊に以上の土偶の如きは、皆時の信仰上の醐像であト︰ませ
偶土見訪陛■ご;ミ’
う、這は殊更に乳部を甚しく突起さし、駁部を蹴る肥満せしめ、陰部さへも現はして居るの
4 −
−
第
二
陶
仰信紳女の衆蛇代時碁石本日
で、何物かのジムポルである事が知れます。そして期んな形状が、未開人や舌代の遺物の女紳
像にあるのでも、一層之を確かめる畢が出家ます。文化の駿達した人間から見ると土偶山如き
は玩具の枝に見えるが、東関人や原始人には其れは多く紳像になつて居ります。私は是等勅語
斯から之を紳像、殊に女帥像とするもの一で、彼等は常時之を信仰し、之を宜押し、従って紋等
︵C㌻y叶≧eエであ、ります。此の土盤は左の
ほ之に按で、何事をか所願したものであると存じます。
0日本石器時代女神の護符
土偶に次て彼等の製作品中、注意すべきは土盤
と云ふに、這は雷時彼等山意歴訪軍曾遊ける馬めの
ぅ、即ち士盤は土偶に於ける如く、一種の神像で、糾私威力のあると信じられて屠ったもので
を懐中するとか、或は藍や袋の中に入れて常に所持するとか、或は家の内に安置したものでせ
一種の護符であつて、其孔の開いて居る方は之に紐を通して胸に附け、又孔の無い方の物は之
此の土盤は何に使用し化ものである?
るものが多い、そしで表面には蔚而や衣服や其紋様などを刻して居わます。
囲の様なもので、物質は寄ら土製で其の形状は概ね長方形または小判形で、上に孔の闘いて居
∂ 二丁
薮六十終 年四節 究軒数琉
“ヽ
ーダ
ビ︻−暮しT:,
丁、、...
ぜβ
土
せうむ這︰.ェ﹂鵠で申少、ヱゥが他に石
もみ、nノ、叉木の其れもあつ克であら
、予∵ごごつ/
此の土偶に封せられて居る間桟を
見るに、抑々和賀なつたものがある
撥であ・?ますが、要するに、其損初
のら一=ほ人の⋮以南、基地∵示したも
ので、之︰h稚かに沌符い糾、基物を
盤・現はしたらのです。之が段々婁化し
て沌々に同化せられ、紋標化せられ、
畏彼の鐸形したものは、最初の榊像
と一見関係の無い様なものになつて
仕舞って屠らます。けれども此の点
初の抑揚の物と最後に拉端に違化し
・一−・・− β −.−
仰借耐女¢東民代時碁石本日
た物の中間物を遣いて見るとt全く連絡して仕簸ひますから、錘ち足寄が同一のものであると
云ふ串が知れます。斯くの如き誼祐の寝化は、今日の其れでも知る事が出凍まして、慢令ば守
札等に塞かれた間違や文字が、諾々に⋮咤形して居る串質に持ても知れませう。
以上の護符の家督に刻せられた人後をよく見ると、又殆んど隷て埼東沖でおります。今滋に
示しょした其れで見るも、女性を現はしてはる事が分・りませう。そして此り土ほ上に表現せら
れたものは、比較的オジデデルの護符の閲桟と思はれます。即ち這は頭に帽子或は王冠の様な
物を戴き、容貌は柔和なる女性であーりまして、其他は衣服や其紋様を示して屈むます.此の帽
子、王冠標の﹃山.出字形のものは他S土盤を見ると柘々に担形を毒して務ます。
diくi已ty︶
であります。果して然らば此り女
昔時の護符の紳像が女性であるのを見ると、どうしても又土偶の女性と闇係一官有する串が知
れますぐそして叉護符の紳は明かに女所︵若亡l已c
が出水ませ
紳は土偶の女神と同一の紳であつて、︼方は土偶として立憶に作り、一方は摘帯基地に根羽な
強めに、薄い長方形り続形に作つたもりであるか、這は哀・今の厨では′1−りとも咋lす挙
成嬰者は土偶と土嚢と登く同一のもので、其の車間の物がゐるから粂く連涼して止舞ふと申
んが、只だ土盤S護符糾が女紳であると云ふ事は確かであります。
ー 7’・−
披六十券 年四弟 先軒数余
ますが、私は之と反射で、土偶と土盤とは、もとから明かに別物で、土偶は紳俊英もので主と
して家の内またほ岩上、樹下、其他に安置したもので、土盤は、寄ら自身に携醸した\もので
すへlノまた使用▲S黙が互に異なつて居らきす。尤も両方とも人像意匠であるから、此の黒から云へ
ば、︼寸同じ物の楼でぁるが、這は単に人像園楼人の形であると云ふ上からの茹で、其土偶=紳
像、土盤=、携帯護符と琶別せられて居るから、其の目的に於て大に異なつて居る事が知れま
せう¢
①日本石器時代土暮に存在する顔面把手
次に厚手沃土器の土器の把手に節面︵或は人形︶を現はして居るものがあゎ=ます。這は餌ち
左のものが之れで、大さは擢七寸、境六寸八卦ばからで、擬見地は信濃国諏訪であります。
之れも明かに女性であつて、其結髪、装飾の工合でよく分かむませう。這は現に﹃顔面把
手﹄と申ますも、此の土器が破視せす完全でありますと、其山土器の胴部は衣服になつて居っ
て、即ち土器其物が︼繹の女性の立随一軍明かに示して居わノます。彼辛が土器に斯くの如く女性
の人像を示して居るのほ、之また紳私的な考から凍て居るもので、此の士舘は他の賢用品とし
ぎ ー・−・
ー
仰信紳女¢衆民代時給石本日
諒
四
因
てよらも、要用以上、何か紳私的Ill
某致上の色彩を有し、之を宗教上の
俵式の際などに使用したものである
まいか。斯くの如き例は他の未開人
把
宙
郡
施して居わます。私は厚手派土器の
の際の器具は特別な帥私的な彫刻を
ブタド、マングソなどの宗数的儀式
祭の際の器具、乃至はギリヤーク、
にもあト=まして、近くはアイヌの熊
事
顔面把手のある土器は斯くの如く見
︼ ヽ 0
ナ7、
し
兎に角之にも女性が現はされて居
るのは、彼の土偶や土盤の例と同じ
く、等しく此の女性ほ女紳と関係を
−・■・・タ.・・−■−●
胱六十弟 年四茹 先師政論
有するものらしく恩はれきす。
㈲女神信仰ほ種族的P
群族または家族的・民族的P
以上の如く女紳︵苧己諾肌︶の表現が、彼等の遺物の上に存在して居るのから考へますと、雷
時彼等の間に女輌信仰︵C−1“t。¶GC︵≡窪︶の行はれた串が推知せられます。けれども揖に注意
碕ほ一層貴い柁族︵学資︶の間
指た践家族や、戎氏族よりもモット景い
せねばならぬ事は、此の十和信仰に机串に或最られた家族︵勺⋮〓ユまたは、限られた或氏族
盲a。︶の様な、狭い間にのみわはれたものである?
大きな部族、部族︵㌘・⋮−ユの㍑なmに行はれたのである?
之は葦つ大に椚究して見ねばなゎません。
思ひます。しかし各群は.各々同じ氏族であります。
て居h=ます。そして這は又他のものにも各々特色があ、ワます︺忍ば此の三振は、群鉄山相違と
鹿づ彼等の土器の上か、と試ふと誓丁派某ポ、薄手沫兼帯、乃至は出奥派蓋小冊の三派は存在
此の閉篭を解繹するには、どうしても柁等の遺践造物の状態から推考せねばなりません。
之に放て考へねばならぬ郡は、常時紋章に部疲や群旗があつたか否やゥ・の問超であゎます。
に行はれセものである?
JO −・
ー
仰借押女の衆民代時さ右手持
第一土偶の存在分布の状態は如何?・と坤すと、土偶の卦布は三河以来、関東や甲州信州に及
び更に、奥羽北梅迫の闊部に及んで居らます。一方飛んで備中にあト︰ます。さうすると女紳の信
仰尊挿は決して成限られた家族や、或限られた氏族のものでなく、殆んと彼等種族の間に行はれ
光信仰の尊挿と見ぬば行7ク、ません、餌ち明かに女神信仰=奪揮は彼等の大きな∴Pib已re−igi−
Onであると申てよろしい。
次に女神護符の信仰笛域は、如何?・と申ますと、帥ち土庄存在分布の罷域は土偶の其れほど
虞大でなく、翠範飼は関東から奥羽であゎまして、関東でも武減、常陸が最も多く、他は出へu
い併もあh︰ます。又甲州信州は殆んど存在せず、三河、遠江等又之が一つもあ、りません。さう
すると此の土製護符の行はれた尾域は狭少であります。而かも之れが存在する場所は、主とし
て開東では、薄手沃土器の存在する所のみで、厚手沃土器の春泥する夙には殆んと無いと巾て
よろしい。奥羽には所々に之が存在して居ります。さうすると、此の女紳造符の行はれた範囲
グループ
は群族に限られたものであらう? 這は他日の研究を要する問題であるが、兎に角基分布ほ土
偶の女紳よぅも院域が狭い聾は明かでぁゎます。
更に顔面把手の女紳約色彩の術はれた霞城は、之れは全く厚手沃土器山群にのみ眠られ托も
■−−・・JJ一−−■−−
奴六十弟 年内夢 先軒数鏡
−
土怜T−よ琴南把手土器等を総括して考へますと、いづれの黙からしても、雷
ので、即ち信巌、甲斐、武顕或は岩代等であらますから、這は厚手択土器の紳恕的の物鰹であ
h︰ませう。
是辱の土偶
時彼等の間に、女紳信仰のあつた事ほ明かであゎ︰まして、之れと共に彼等の間には女権︵害○旨rl
ユgl丘、母系主義︵M旨r邑ki−1数p︶、婦長制度︵呂賢i⋮喜i・y︶等は、存在して居らなかった9・
這は典に研究の歩を進めねばなゎませぬ。
タイラー氏︵J¢︼声芦Tyler︰芦e欝wSぎeAgeiプぎrこ1e⋮El−岩冨−諾−︶は英語に
﹁女神の信仰は新石訴時代の特徴なら﹄と云はれまし光が、日本の石器時代の民衆も亦政信仰
があらます。
ヽl/
伍歓洲古石器時代の人形
バレチリシック
飲料の台石器時代の、主としてオクリナセアン期︵A象gnge21︶、打ち馴鹿時代には、石製ま
たは象牙製の人形が存在して居りますが、是等はいづれも女性であわまして、其の容貌、乳部の
突起や腹部の肥捕、さらに野郎の発達等の如きを示し、女性の特徴をよく現ほして居ト=ます。
●−・−_jg −
何倍紳女¢衆民代時碁石本日
弟
五
闘
形人位女代時器石甘州取
是等の人形は浣致上の物か、路穴︼
梓の意味なく作ったものか知れない
ネオリシック
が、是等の人形は、よく偶然にも我
が園新石器時代の土偶の女紳と、よ
く似て居hてます。そして互に女性を
作る事を好んだものもよく︼致して
掃わます。
㈲歓洲及びアナウ
の女神
今試みに育代欧罪巳及び西韮細正
方面に於ける女紳信仰の革質一軍毘に
一寸参考として番いて見よう。先づ
クレト㍍のミノアン時代遺物の中に
●・−■■・■■Jβ ■−−■
読六十ガi隼田節 先研政宗
女紳があゎ′ます。エジプトでは・訂i∽女糾と其仲間のC賢乱があ・ります。女郎の信仰は小訂
加重を通過して戯くゎはれました。仮令ばヂヰナ釦㌣bエフシャンスに放けるArぎi扶も之れ、
ァナトⅥノアでは、巴⋮:プット大女和も之れです。極充アクルタにも此の信仰が行はれ、吏に鎧
西揖トルキスタンのアナク
にも女糾信仰があらまし
た。此の後部は女榊像むむ
って、這はパムペリー氏が
Jムー
ー
・ソナで穏表せられまし∴。此
りアナウ・S女紳は、地中揖
方面の其れと注い闘係を有
するものであらます。此の
偶土打女りサブ・ア
エーゼアン殖民地等にかりて女紳の信仰が行はれて拭わました。
はあちませんか。相ほ極めて古き時代に、ダ三−ブ、バルカン、ツロアド等からブタギアの
ァナウの女紳は正に示す固が之であつて、這は日本着器時代の女神と、偶然によく似て居るで
闘 六 郎
仰信跡女り衆托代時券石本日
原始的の女紳倣及び之に件なつて、ギリシア式の彩色㌧た土器、撮旋形紋様の三串
く新石器時代に、東南欧雁巴の各地方に準﹂行はれ、ま托是等が芽女yee壷n及びぞceコe昌
両時代にかけて、地中海の束部沿岸に行はれて居った穣です。バットミル︵サラゼポ、ガスー︻
ァ附彗、七夕サルクックTpヰ︶の間に、以上の遺物が発見せられよした結果、藩に彼等地
方に其の常時、互に前ヘレニック人とケルト人との間に、交通の邁の開けて居った事
した。即女紳信仰も従って分布して居ったのです。
東部欧應巴小童油虫の或地方や、さてほエジプトでは新石器時代、文化の頗る強い色
中心黙であつたらしい。佃ほ締れには、北方のボヘミアや、ブタンジアに其痕跡があhソ▲ヱす。
ベラスジックア1アンでは、女神アテナは常に高い位攫に立って居わ、ヘラやベラスギでほ、大
イギリス及びデンマーク︼苛、郎ち考古撃上の所謂巨石通院︵だeg已夢iO察︶n音名且の存在
更にギリシアと地中海讐序との舌代の信仰に託て串ますと、俸蘭西の海芹を越え北方
まして、最初の信仰思想は消失しました。
嬰つセ括果、ま柁其宗致上の信仰は︼挺し、帥ち彼等の男紳ジュースは、土地の東沖
女紳となつて居わょした。彼れ征服者アケアン人の侵入と共に、彼等の食違共は土地
■− ヱざ ■・・−・・
四
の小像︵ヨgl已−戻︶や、基彫刻しゎh物が螢見せられます。此の女画布在の撃賢から、
する地帯は、殆んど嘗瞳︼民族の任皇つて居つた横です。そして此の地帯た於て女神︵句e巨巳e
せ‡︼liギ︶
是等の地方は立た地中海方面と連接せらる㌦ものであゎますノ。けれrしも束庸歓迎巴のダニユー
ブ渓谷の周園の地方︵クク一寸ノエ、デヤプラニカ等︶に女紳の小腹は極めで少ない。
以上に披て見ると、地中海を中心としてヤ京女右に古い督に女紳緩仰があつで、其シムポル
として女神像が作られ軍事は、殊に注意すべき畢であむませう。
㈲日本の女神と歓洲及びアナウの女神
我が日本の石器時代の民衆には叉女神の土偶︵或は右隅、木偶︶土盤等があゎます。斯の如
き新石盤時代に於ける普時に女神の神像︵よしんば玩具としても︶の存在する場所は、朝鮮、
砧洲、東部並地利鱒.支部等に於ける同時代の退物には之まで認見した串は無い。さうすると
地方︵互石造既存在地方︶の其れと最も類似して屠うます。加之、日本の石器時代の紋様に螺旋
仰及び女神像の存在は不可思議にも、中央由油壷のアナクから共以西の地中海及び欧維巴の或
是年女紳像︵男紳としても︶の存在は賓に我が日本の退路のみであわます。そして此の女糾信
Jβ −−
・−
節
年
節
卜
六
戟
究群=改宗
仰借醐女の衆民代時さ石本日
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
︵S冨已︶紋様や赤色に彩色した土器︵PP㌻ted
p。t誉ユ
がぁかょした。是等の革質及び状騒は
互によく似て居かます。欧洲の学者は.以上の地方で女神信仰の行はるゝ所には、必ず之に件
I、uつて螺旋紋様と、彩色せる土器とが存在し、此の三者は亙に経る可からぎる開係を有すると
申て居h︰ますが、日本にも此の三者が件なつて居らます。殊に日本石器時代、民衆の螺旋状紋
様は、日本附近の同時代民衆の紋様に無い。是等はいづれも幾何撃的紋様であゎノます。さうす
ると此の三熊の革質は、日本附近の語地方よらも反って、アナク及び其以西の欧麗巴地方に草
結
論
似黙を有って居b;ます、道は吾人の大に注目せねばならぬ所であゎます。
ヽl一一′
比
革までなし、男子は尊はら狩猟と敬啓にのみ.に従事する、ですから女子には土地や土地から生
教となるものであらます。そして原始人の敢骨では尊はら女子が地上の植物性収猿から日常の
で春陽が再び現はれ生る∼とか云ふ極めて幼稚な思想を形成するもので、之れやがて原始的宗
至は苧tiliギの翻靂の活動を食信するもので、慣令ば彼等は収獲を枕持するとか、秋冬が死ん
女神信仰の起るのは地母︵苧rt一︰コ互︸leユに閥係一官有します。餌ち這はg叶h−くege訂tiOn乃
・−・・・・J7.・・・・・._
蚊六十弟 年四霹 先折政兼
するものに最も深い流儀が出来るのみ㌍ら卒、之と共に子供密度み叉之む育つと云ふ滋しみも
ある諸熱から原始蔽裔では、どうしでも男子・エTリ=石女子に総ての番が抗しみがわります。殊に
彼女の紳詔的と土器作や常時の手仕事、手細工をする上から、遂に知らず減らやの上に、女性
は男性−㌣り偉いものと汀㌻り、之が以上の地上のこ切の天然物、出産、育児等と結び附き、さて
こそ女紳の信仰が出家たものであゎます。そして這は幼稚な果菜なるも¢が始めらるゝと、︼
盾其色彩が濃厚に弦つて務ます。
熱ヱ原始散骨を見ると、女子は今日よりも比較的高い位置に立つで居ります。即ち最初の大
斯くの如く原始人の女性は殆んどすべての職業をいたします。されば従って比較的機敏柱頭脂
もしますから又澄夫であゎこます。又牧猿物や器物などを交換するもまた彼女の務でゐむます。
性食物を取ります。また此の植物果貸を鵜ゑたゎ、木の棒の先で盛業をもしきす。之れが糾作
み、また之を養育します。彼女は男子り狩猟で動物性食物を捕ふるが如く、深林に這入って植物
ります。彼女は最初の本草聾者で、家内の昏着であります。巫人であります。彼女は子供を産
作者であゎます。彼女は最初の紡績着で、よた稀物師であらます。彼女は精巧な土器作りであ
概の発見者で又創作者ほ彼女であゎます。奴等の家内の技術や職業の東風着であつで、また創
・・−−・・・Jβ−■−■−
仰借紳女の衆民代時さ石本日
の所有者であゎます。
初歩農業の成立ほ、一層出ぎ已=莞呑erの信仰となつて務ます。そして這は土地の総ての果
賓や、恐らくは絶ての生活︵A亡巳且、絶ての出産︵Birth︶を輿ふるものを考ふる串に打て?ま
謬rこ1圭Ot訂r
の信仰があ
す。這は女紳を生み、之れの信仰と行アク、此のシムポルとして土偶などが出家、何之れが護符
であゎ、女紳意匠ともなつたのであゎこませう。
此の革質から考へて凍ると、我が日本石器時代の民衆は、従って
ったものと思ふ、そして女子は今日に残して居る土器作りの主人公として、貸に絶大の技巧を
示して屑わます。そして彼の女紳の土偶を作む、女紳の土製護符を作つ化ものも彼女であらま
す。杏な恐らくは多くの製作品は彼女の手になつたであゎませう。彼等信仰の女輌を奉侍し、
且つシヤマン巫として従事しセのも彼女であらませう。
と共に、研究せねば,、仏らません、けれども這はいづれ他日、自分の考を
日本石器時代に於ける女所信仰は、何ほ他の之と附屈したもの︵女子の所有耗!融骨の階級
− 鰹絆上の位置等︶
凝表して見ようと思ひます。
・−ブタ ー▼
係闘わ排日るナこ見リ エ上ぬ故俳
高麗偶数と日本との関係
儒教史上より見たる冒鮮の関係
第五
手
嶋
し者畢こにして止らす。賓に支部係数との交渉は依然として親密を保った着である。又
を流し、或は大束紆巷を請楽して梓行し、元代に摘んでも、紋よゎ氷って焉挺偲を高麗
盛況を凍したと云って宜い。此の間、支那に在っては宋・元の盛事に雷♭或は入来求法
決して俄然地を掃ふの褒状を呈した謬ではない。否却て、件数的の事業に到っては基前
々、政治上の制限拘束さへ、頂門の一針として加へらるゝ様になつた串は前一言﹁孟が
盟朝凡そ四官五十年間の件数は、正に爛熟し終れる異質の漸く階敗に近かんとする勢
−・クユ−
披六十第 年四節 究軒数袋
に在ってほ平安朝・袋倉期から室町時代の初期に泊ぶ悶に相恩し、我が梯致界は今や漸く移入
漠故の陪代き草して日本たさ㌘∵ぐ・¥︻∵誉㌣学ご讐警£誓、㌫に賢し、汚誉異監・‖迂●祭酉●
良忽i猛然等多くの宗亀高徳を輩出し、︼見知何にも牛島備撃J姦交渉の如しと雄も、不思議
にも此の間、晴々の由係は絶たれなかつた。其の最も重要なる老は、備付彼此社務の記銀と、
庶朝未†でり起れる活版術の教則、及び便法が苧こ牛島とを結合しだ事情である。且つ、暗合と
しても不思議に恩はるゝ穏の日監同額偶数内部の粁似は、偽封建骨の三富中心に最も臣昌を密
せる串で、或は寺に事し、或は宮中偶曾を修し、大煎経を供養し、第撞堅調拝の頻繁に行はれ
ては、将塞・騨照・園海・毒牙・安心・普門・折原・浮業・菜食・宗同等その他放怒に退なき程
関係が著しく凝達して居た食め、牛島方面が自然閑却されたのであらう。我国の入宋沙門とし
る繹であらうか。恩之、我国の偶数が漸く我が物と行了りつゝあつた焉めと、︼は宋元怖数との
であり、且つ断片的の事件記蝕も此度は反封に、﹃高騰史﹄に却て多く残されて居るのは如何な
〓︶借て、日度肝の社家に放いて見るに、此の間に於ては、前代の何れよぅも交渉疎遠の形
らに昌降する裡から、棺桶的の票数改革者が現はる∼は督然である。
たる、質に此の時期ほど盛んな時はない。牛島は然らすと鐸も我国に於ては斯る形式方面の徒
β2 −
ー
係獅¢鮮日るナ:見リエ上皮敦伐
宋滑の我に凍朝せる者、道隆・紹仁晶口寧等伺ほ歩くある。又、入元求法沙門としては、固慧・
徳見・友梅・居中・印元工常習・本浄土善玖・宗然・元光・戚旨・可什・慧廣等の碩鵜飼ほ算に飴り元
の我に在りし者、慧日・如智。子曇・弘官等望父決して寡しとし祝い。此等は単に日支関係の親
密を表明した一例に過ぎないが、似て朝鮮牛島と我が偶数との交渉.㍍比絞的昧隔された所以を
知るべきである。
牛島の記録に撮ると、高麗文京の三十年︵酉、一〇七六年、白河帝り承保三年︶十月に、日本
の紆俗こ十五人が、高麗の雷光郡に到ら、﹃食祀国王蕃、離成彿像.請赴京以献﹄とて許を得、
︵﹃東園通鑑﹄十八。﹃束史曾
境帝建保四年︶二月には日本の肘、高麗に入って求法認修せる夢見え︵﹃高歴史蜜一十二︶後、後
綱﹄五。﹃束ぽ史略﹄六。﹃歴代朝鮮史暑曽一︶。越えて百三十年後、高宗の三年︵西、一二−六年、順
善を購集して、共に輿王寺い敢舟都監に於て悉く刊行したと云ふ
月、貯義天、宋より高鷹に蹄朝し澤典及ひ経書一千巷を献じ、又更に遼・宋・日本より四千巻の
に就香し化と停ふ︵﹃高度史﹄九︶。其の後七年宣宗の三年︵西、一〇八六年、白河帝の應徳三年︶六
日本の商客藤原其等も高腰に入わ、法螺三十枚、海藻三宮克を鼎王寺に喜捨し、以て王の食め
首都に赴いて偶像を麒じたと云ふ︵﹃高施史﹄九︶。同じく文宗の三十三年︵我が承暦三年︶十一月
ゑ∫ −
−
年四解 党群数涜
批六十節
深輩帝の軍治元年へ西二二四七年︶には、歴滑法明なる者、我が闇に賽現せる事が停へられて居
る︵﹃日本洞上潮橙録﹄一︶。更に凡そ二十年を経て、元素の閏年︵啓二二大三年、抱山辟弘隻二
年︶六月、我が国の大使如眞、並に入来求法倍等、道俗二百三十人が牛島に漂着したと記して居
るが︵﹃高圧史聖一十五︶、前述の順塞・静照・園海等、入来沙門は此の前後社家して居るから、慣
令此等ではないにしても、同じ目的を待った沙門や商八等が、昔時の入来航路たる揚子江口か
明州かをさして行く途中、風波に漂はれた者と見ゆる。降って歴覗末、事柄元年︵西、一三七五
年、義満牌軍の八年︶、既修輿紡なる者我国に入朝しゎ“が、翌年我が抄門良薬と共に本間に同
行遼辟したと云ふ事である。又翌々年には我が沙門信弘も入監求法を企てセと停ふ︵﹃高殿史﹄
育三十三。﹃東国文献備考﹄百六︶。然し、上家勢げ元彼此開国社家貯の停杯は殆んど卯でない。
窃聞、高度国王殿下、徳普天地、耶遮日月、進藤孔孟、自舌及今、匹東武囲、草木禽獣、露紘
騰照、所以輝聾萬方也、孔孟本仁而租義、研以教養萬俗也、若此三者、古今窄有贅其功者也、
其の要勲は、彼らに魔王の徳を頗讃した着で﹃天地崇高而博虎、所以接戦蹄物也、日月臆明而
本簡玄敢・造義。道本等四十鎗人高度に到つで方物一宮奉献し、臣と科して衷を白した串がある
伺ほ之に後る上一十除年、定朝未王恭譲の三年︵西、一三九一年、鼓清勝翠の二十四年︶十ぺ日
夕才一
一
係防の鮮日るナこ見リエ上皮敦悌
宵其大恩大澤、未有輿殿下牽其功者也、故瑞應有威、踏風量詳、郊薮和鳴、伏念玄敬遠屠日下
実地、空陸空爆、堪不荒股、伯温啓千秋竃歳萬々歳祓﹄などゝ記して居る。恐らく野心注い義
︵﹃高歴史﹄匹l十六︶。翌年歴朝終末の歳六月、我
満の底意を受けた着であらう。西山落日の恭譲王に頗徳Jで暑するは皮肉であれ、斯る不心付者
があるから日本の歴史に汚熱が書くことになる
が国の使者復た高腰に入って減軽を求めて居るが、︵﹃高腰史﹄四十六。﹃東国文献備考﹄官六。︶
十二月には、串良の国位滑鎚来朝し、倭璃の禁一ぞ乞ふたので、幕府は中津ぉして答啓を作成せ
しめ、且つ藩允を答踵鹿として高麗に造はしたと停ふ︵﹃後鑑﹄首︶。此の頃から債鬼の狽板なる
胱、想見するに足る。要之、以上は凝胡桃敦と本朝との交渉紀文の概要であるが、支部に引替
へ此方の■疎遠となれる関係は大暑、明となつたと思ふ。其の到底、前代の何れとも比較になら
ぬこと言・恕供花ぬ。
︵二︶倭罵は既朝中世、嵩宗の初年から李朝建国の初期まで、我が北條民時代の初めより足利
氏の初案に及び、︵四、︼二二五!∵四〇〇年頃迄︶凡そ二百年間、牛島り海流を使易した着で、
其の盛んなる時期に在っでは、垂羅や慶餌。忠清三一道海逸の諸州、悉く其の難に遭ひ、茸州、蛋
峯等の地には、倭兵の城砦を築いて陵守し、市睦呼應して拾民を蒐易した串さへぁる。時には
・−・・・・・・−一夕5・−
年四弟 究軒数采
放六十茅
希女を絹へ従へ、去るに及んで放還する著さへあむ。寧島南部の速戊、Ⅵ漸く影を経つに到る轟
惨禍を被ったので、人民法泉の苫を訴へられし腰朝は、倭怒に依って基の末路を一宿近づけら
れね有様である。倭篭の準備は高宗の十二年、我が後堀河帝嘉攣罪年︵西∴こ二五年︶四月に起
る。此の時、逸民の進んで牛島南挽を伎掠する者あら。又肥州松浦の某氏、封島り土民一竺訝駁
して戦艦を賭し、沙島に赴いて季へる串あゎ。金州熊洒の地∵偉観に躍ったので、高宗は朴寅
等ぉ目本に造し、修好を求め侵署を断たんを乞うた。是から以後、摺々と接湧を牛島に教搾す
る者相次ぎ、太宰少武藤原賓範や、北條泰時の水ポも殆んど効なく、数十年後、文永・弘安の元蒐
翌年京菜慶は自ら使を高取に致して答鯉し氾。
物を献じて冠侵を禁せられん事を乞うわ。詭給料軍我が南北陶郎紛乱あるに托して翻するや、
五二年︶の蒐掠に於ても、駐兵敗残の後恭客土ほ怖れて、十六年金逸事√我国に汲し、国吉方
ち、婦女嬰該を梨致し、惨事惜む無きに至った着である。其後、種村上帝の正平七年︵西、一三
教のため誘殺されんとし、避難迂遠してーてりは、鎮西の人士大に激高し、入籍しては城邑を屠
民の侵署するや、人物に危害を加へなかつ空か、藤原経光が衆と共に苗脛に投躇して後、金光
起って後は、我が逸民、亦、報復酬健の魂鷹を練って、牛島に進むに至ったのである。始め倭
■・・・−・クβ −
保菌¢鮮日るた見リ エ上史敦悌
然るに王師事鵬、使者を薄遇し佗ので我が遽民の怒を川見ひ、伎掠愈々甚だしくなつた。彼我
が後亀山帝天授元年には、前述の既修興砧及び座興儒等を日本に派し、海蒐の禁と修交の戟と
を求むる研があつたが、義満その野謀を疑憫し彼等を獄に繋いだ。時に前述の辟化貯良柔あ♭.
其の潔白を註し冤罪の繹放を乞うに及び、絡署名めに放免し、翌年良柔と共に土物を添へて脛
朝に邁へした。其後安富常・鄭夢周等も我邦に凍位し、竃肪の雛を切に訴ふる所があつたが、
九州探題今川了俊は、夢周の博識洪阻を愛し大に歓待し、去るに泊んで麓倖・声明・安退位等数
百人を刷還した串がある。了俊は又滑信弘に命じ、軍を率ゐて牛島に入わ、蒐膳の侵盈を防が
しめたが、殆んど無効に了つたこと前述の椋である。其後、脛賂朴居士等、防難に努めたが効
なく、漸く攫豊・李成桂の陸軍、郵地の海軍と相呼臆して最後の防戦を努むるに及び朴讃の封
馬暁星と金宗街の大軍蟄凍と粕待って、倭電漸く失勢するに至った。眈にして恭通モ降り李成
桂朝鮮を建つるに及び、京島主を介して大内義弘に通じ、修交を求めたので殆んど牛島沿岸の
難滑ゆるを得たのである。此等浩難の娘披は、我が適地に在、りしは云ふ迄もなく、又必らすし
族は、之が主動指揮者であつたらしい。而して短絡の目的が箪に物資徴収に在つ詑か、復習撥
も無親鳥合の衆でもない楼で、九州の於浦・浣・大村・島沖。及び四置¢龍島・村上・家島等の諸家
ニ g7 ∵
読六十第 隼田弟 先軒数浣
憤につたか.、頼れにせよ係数上に及ぼした影響も少くない様に恩はるも。巳に一言しに如く倭
蒐の食め在家した恰もあり、今日牛島の南寧に見ても、各地り寺誌滑博等む中に、之に関する
多くの烙設を持って居る。係数的造物に就ても、今日牛島よりも却∴こし我国に、多く昏睡の遺
物を停へて居るのは、大部分倭蒐の路凍ではなからうか。傍像宣経朱;備具。梵鐘等は少なから
す日本に停へて居る。宇佐八略や、播州尾上寺に在る窮郎鐘は、又頼る方法に依て冠兵の貰給
した背かも知れない。遠く金剛山蓮の僻像に就ても、もと、南方に有った者が債鬼の雛を避け
て、北に住持が荘撤した串を樽ふる者がある。倭冠も亦既朝係数衰魯の勢を助長した者と見て
としては驚くべく立派な着である。両軸の脱清なると、扶座の姿勢と重く前代の者に劣らす、
譲殿を見る必要がある。之は木造建築の最古の着で、中に安置する阿膠陀併坐像は此の期の者
兜専有塔及び願文の串は前に︼言したが、其の他では慶餌北濃頓輿に在る太白山洋右寺の無盈
終りに歴朝彿致の一端を怨ふ資料として、造物の牛島に現存せる二二古老に放て述んに、浮
ては李朝に入って設明する串としよう。
る夫れに先立つ三十飴年前であつた串は、文化史上髭くべき進歩と云はねばならぬが、之に放
よからう。伺ほ活字の俊明に放ては歴朝末、恭譲王の着であつ克と云ふが、少くも西洋に於け
夕β −
一
係馳の鮮臼るナこ見リ エ上鬼敦例
我が天平期の系統を引いて屠る。無畳霹殿は建築と彫刻とり最を博へる者として第一に指を屈
して宜からう。叉、卒壊の永明寺は日清役で有名な牡丹壷の中腹に在るが、七盈堪の叢中一偶
の八角石蕗を持って居る。高腰胡の彫刻に成る彿像が、塔の姦有に雄った着で、他の部分は破
壊され丁つ詑のである。卒域停車場前、笑子の井の傍に在る六角七暦の石塔と共に、多少元代
の戚化に成わ、偶像・蓬基等彫成の磨滅せざる以前は使物であつたらうと思はせる。繹王寺も
此期に創建された着であるが、今荷ほ宏大学る規模、雄厳なる殿堂¢普を拇還しめて居る。特
に注意すべきほ金剛山の妙音群であらう。妙署群は摺勒菩薩と膵へて屠るが、題朝来、憫劣悪
勒締師︵西、−三二〇−六大︶の登園に成ると云ふ。河に督し空足臓毎に、高さ六十除尺の浮刻坐
像で扶座の幅三十験尺に及ぶ。指大雄渾の気、人を呑むの杷、全く克大寺の本音に封する戚が
ガター
第大
李朝係数と日本との椙係
の後を受けで下ら坂にあつた串が忍はるゝ。
である︵﹃朝鮮舌段間譜﹄第六冊昏照︶。此等に見るも皆時の彿致が次第に形のL言於ても、前代
ぁる。面相せ衣裳。印字等梢々出であるけれども、前面の四角石燈篤と共に、古雅な頗朝の造物
ー
年四弟 発駅敦索
枕六十弗
李朝五百飴年の倍数は狙ほ燈の滅感に近づけるが如きか。偶々火花皆敬する事有るら、要之
最後の愈々近きを報ずるに過ぎぬ。此間支部に在っては明朝興起して中島を制威し、薙いて秀
音の文緑・慶長の遠征となゎ、措朝に及んでも朝鮮を併称せん勢を示したので日清の役となら
次には露国の侵略的野心に依って日露役の大我を誘致し、其都度中島は敬嗣の飴勢に招き込ま
れぎる串なく、管日の文化重く凍麟され了つ紀。更に著しきは、内部の怒放と内乱の頻撥とで
滑侶は政治に容嫁し俗事に親しみ積弊の・鴬する所、王をして遂に禁止に麓ぬるに禁止を以てし、
制限に重ぬるに制限を以てすべく験儀なくせしめた。此等内外の事情は粕待って牛島偶数を破
であると云って宜い。今其の内、主なる者を記すと太剋七年︵西、一三九八年︶、我が後小松静あ
的に、朝鮮に渡って蕨粒宮請求する者掠出するに至った。賓に室町時代の日鮮交渉ほ之が大部
の王多く之を印行する者出で、今や我が国の垂海措かざる的と成ったので、或は公的に或は私
の誇恋記事を注意すべきであらう。歴朝の中東、大減経の印刻成ってよら、牛島に於ては代々
︵一︶借て今、此の間に於ける日鮮交渉の状を要越せんに兜づ記すペきは、数回に亘る大蔵経
った者と云って宜い。
滅に導き、明治時代に入って本邦布教家の渡鮮関数あるまで、殆んど塞減の桓に陥没しっゝあ
−− βク ー
係臨の鮮目るアニ見リエ上史故彿
應永五年八月、足利義満は大内左京を派して朝鮮に向はしめ、大鹿経を求めんとしで告諭を出
し、﹃朝鮮園使者⋮・今牌韓国、⋮︰大蔵経版、⋮︰此方頃年刊之、孔難而未克全備、彼方現
刊者、暮刻棟持、食之不能無希求、以大允我所求︰.︰﹄と告ぐ。左京大夫は渡鮮減軽解凍の目
的を先づ達したらしい︵﹃善隣国賓記﹄中︶。後十除年、太宗の九年︵鱒二四〇九年︶即ち應永十六
年六月、足利義持は何周護・徳林を通して復た苑経を求めて居る。最中の撰に成る覆審中には
日く、﹃日本国管領源道格拝覆、⋮︰僕頃創構小利、⋮︰伏聞貴明一大蕨致、鋒蚊流布、償
憐隋邦之乏少、賜以七千軸全備之蕨、則其恩其姦何日而忘之、特浪周謹書記、徳林辣主、奪達
此意。﹄と。此の時も減攣ぞ選ったらしい︵﹃善隣問質記﹄中。同感鑑﹄官二十。﹃足利賓錬彗〓。又
十除年を経て應永廿九年︵西二田二二年︶五月に至り、足利義持、杏を世家に致して日く、﹃源義
r日本国濃詮、再審啓、⋮︰苺使同、朗需蕨経、輿同踵使同到、書簡可言草⋮今霊造詣位昏
るも明である。即ち翌應永三十年七月、我国の義詮、尊・齢二倍を法って更に要求して日ふ。
を以て見るも前代の求蕨皆満足せるを見るべく、叉此の時の請求も容れられしは翌年の串に見
方之入植頑於現嘗也、筍輿其善、頒以七千悠全備之典、則雄以利賀見甘、未足弟此焉。﹄と。之
持浮環、⋮︰党是需繹民放経、骨得如畠、無静銘僻之至、今後有不義之求、蚤請一蕨、欲位此
− βJ−・
年四霹 究軒数尭
披六十弟
知客、副使齢蔵主、別有靡陳、政事雄損得隅盟凝、要橋畔好、寧可都惜、放資国威経板非︼、
正要請︼蕨砿、安之此方、住僧心蟹任意印旛・︰﹄と。之は乱暴にも粒板哲笛求しセので、之
に勤してて位墓は肯んじなかったらしい。︵﹃寺院国賓記﹄中。餉感鑑百三十六。﹃足利賓録﹄二︶
即ち叉翌年應永井一年、世宗り晶簿知客と倍に同線使を放し、珍品と答啓を労したが、遭詮其
の求むる所に逮ふを怒ら、重ねて庶放を求めてやったのが八月である。其覆審には記す。﹃姦
簿知客、輿周波吏倍一軍︰・典雅意折節者.闘犬克之板也、其除珍貸、績如山岳又何用談、⋮︰
︵芸円陣国賓記﹂中︶。又その翌年世宗の七年︵西、︼四二五年︶、即ち
次終夜首位仲免酉堂、再論委曲、君寵俊夫波板流停我囲.何臓若此哉。﹄と、之は重ねて酉通し
て版木を乞ふたのである
備考首七︶、其の翌年、壮観の元年にも我圃からは、建仁寺造螢の薦め経巻を督す可く、使節
八月、琉球園の使臣、本朝の修道安、共に朝鮮に入って澱鮭を求め︵千国朝貿鑑﹄十。﹃来園文献
を求めた︵﹃後鑑﹄宵四十︶。越えて三十除年端宗の三年︵西、一四五五年︶後花園帝の鹿尊兄年
尤もな詣である︵﹃同前﹄︶。版木に望を断った我が国は、空位宗八年の春にも亦啓を法って赦陛
﹃所常大嶽匪故、只是一本、且予租宗朗停.不可従命、前古巳轟、推照察之。﹄と。如何にも
應永升二年鮮王李絢から審復啓が家たが、内容は再度の所望に臆する挙が出家ぬとある。日く
−∫乏・−・・・−
係闊¢鮮日る丁:見り エ上匁数俳
に去って居る︵﹃後塵﹂首八十九︶ご一年後の世親三年には、大東経ぉ印行して八造の名山に減せ
しめ、日本の使者にも漱粒を輿へたので、使伶は春蹄朝して経巻を建仁寺に納めた。︵﹃如是院
年代記﹄。﹃後鑑﹄官九十︼。︶
其の後二年にして、後花園帝の寛政元年︵西、一四大〇年︶三月に至り、世祖から雷㌘番った。
其の内容は、前年冬、宋威倹・李宗賓を過して大歳粒︼部・法撃義・金剛攣一部・金剛紀拾漆家
二部.概党攣一部・梼厳脛二部・心攣面。地放攣面・逓信諭二部・永嘉集二部・怒遺歌二件・剋蟹
士書記遣歌二部・高峯錨撃︼部・反謬名琴南・成造記l面等を蘭毒し詑が、我が国使努弼と倍に
︵西、∵四
八︼年︶即ち成嘉十二年に至ら、六月知恩院溜発弘が弟子発動・親密を渡鮎せしめて臓攣ぜ求め
彿儒経轟並に銅餞を求めた挙がある︵﹃後鑑﹄二百廿一︶。後土御門砕い文明十三年
備考﹄官六︶、其の十年後には足利義政が文明七年︵西二四七五年︶八月に、位憎を成宗に治し、
蝕﹄︶。また世親の十年︵西、一四六五年︶即ち寛正六年には、貯努蘭が入即して居わ︵﹃来園文献
生典三郎から報じて凍たに依て明となつた旨とを観めた着である︵芸臼隣国貿記﹄中。﹃蔭涼軒日
救護して欲しいと云ふ事と、贈呈の経巻、組物、皆紛失せる串は、無事蹄朝した我が国位の紅
日本に向ふ海上、不串原風に遭ひ位於或は沈没し、或は行衛不明となつたので、見つかったら
ー・・・・・・・・・・
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年四燐 発駅駿東
読六十弟
たが、二人は翌年七月陛を得て蹄醒、乃ち知恩院に麻したと云ふ萄知恩院縁起﹄ニ︶。二階緑園に
先立ち、五月成宗は別に使を我観に況して経巻を蓬敬して屈む︵﹃後鑑短言H北〓、その閑人月
には吾が薩州人、渡鮮して亦、大衆脛を乞ふたとある︵﹃囲朝常盤﹄十六、﹃東国文献備考官六︶。
叉四年を経たる文明十八年︵西、︼四八六年︶八月、義政は安国寺戴殿のため等整骨座等を成
宗に法って大赦七千巻を求めたが、其の昏には苧っ。﹃両国通好何代無之、海路盈阻、不覚以時
聴問、匪慢也、抑大赦経、菩囲来待銀飯以行之、筍有朋欲必求之上国、盛賜不少、威荷々々、伍
奇書囲越後州、安阻寺、廼北方植庵之地也.以無兢殿為政典臭拳寺務者、慨然有求躍起殿之志、
修好也久美、⋮︰今迫梓正安首座、以奉使命︰︰我警巴比年多度、不退塾彪、彿字貯庭殆辟壊
て啓を作らしめ、朝鮮に修正安を送って又大麻を乞はしめた串がある。餌ち臼くF我邦輿貴園
二百五十五︶。此よゎ七年を経て明應八年︵西、一田丸九年︶正月に望む、牌軍義高は貯周麟をし
周鏡なる者遭朝鮮衷を制作したl云ふが、恐らく答絶と求辣との要件位であつたらう︵﹃後鑑L
月、王、我が国に大蕨を迭駁し、之に答へて居る︵﹃後鑑≒盲五十三︶。此の翌年八月にも、滑
載而蹄、善隣之賛美大於焉、﹄と︵﹃善隣国賓記﹄下︶。五年後成案二十二年︵西、一四九︼年︶十
可嘉故、今連荘使等整骨座等、造語其意、儒待頒七千歳、以如麒則所謂民度汝貿従減海出、梱
∫J・−−・・・・
ー
係蜘¢鮮日る丁;見りi上凰散悌
臭、郡長常有経衆之求、開店於索捜、且不求萬、方物財布、鹿允使者之請、京及退方徳之萱
也﹄と︵コ宰隣国箕外記短﹃本朝通鑑﹄。︶、王燕山君は之に封しては庶路を送らなかったらし
い。故に復花岡年十月義高改めで肝玉龍を放し、求叔の頗切なる所以を記し、似て應仁兵火
煉侠にかゝる政経を禰んと申し送った。文の要は郎も﹃凡我凝使修好必需丼経、是何謂也、
国伽定管安大赦、鰯利民安国之貿、以故曹者我先君常印妓常食幽、報昏日、経板只是一本、
衆所停、不獲従命、由是允以腸経馬借、社家久尭、警巴攣J亥乱、各寺某所安、十之八九散先
兵、国人慄然今遺正龍首座、以需之、督有所開設、発現堆阻海洋、造互舶通交易者⋮姦化之
然也。﹄と記してある。其の後凡そ九十年、後陽成帝の天正十大年︵西、一五八八年︶.に泊び、
専の多くは今‖まで残って居る横である。
度渡行したかも計ら難く、高麗版大麻は少なからす公私、我国に輸入停放された繹である。
の百年間、前後十五六回も寂経又は蕨板を朝鮮に求めて居るが、此の外隠れたる求蕨沙門が
月にも園位卒駒信と倍に汲鮮して居る。︵コ国朝貿鑑﹄三十。同ふ簿外史ヒ一。︶以上の如く足利氏
︵r国朝賢麗﹄二十九。﹃小輩外史≒。﹃東国文献備考﹄百六。︶、玄蘇は三年後、天正十九年間三
日本の囲使卒轟智、滑玄蘇等津鮮して宣剋に通商を乞ひ、翌年に至って蹄朝復命した串があ
・■−・・・・・・・・J5 −−
眈六十妨 年四解 究析敦盛
︵二︶朝鮮に於ける活字の凝明が鹿朝来恭講王の頃にあ㌔西洋の央れよら少くも三四十年先
んじて居る串は前述の楼であるが、其の後李朝太某三年︵西、一四〇二年︶に至り、王は園内に
音符の輝きを憂ひ、銅活を工夫して、内府の銅哲費出し李稜等に命じて、や範を古
に取らしめ、前後大卒間・ざ以て王の八年丁亥︵西、一四〇七年︶に竣功した。之を丁亥字と耕し
朝鮮銅活の喝矢をなす。次に牡完の二年、庚子︵西、︼四二〇年︶字援を改嫁し、小形正確一ピ食
ぶ、之を庚子字主玄ふ。同二十二年には、普隆偶の字を以て鋳改し∵康子字より多
鰹を得、﹃通鑑綱目﹄杯を試則した。又十二年を経て文京の二年に泊び、安中大君
字と名くる者を改成せしめた。次に瑞嘉の未年︵西、一四五五年︶、美希孟揖改鋳に依一〇乙亥早成
が、小字にして最も精麓即ち辛卯字之である。成宗の廿四年にも亦、支那の字櫨を
字と云ふ者を模刻した。此等数同の活字も、可惜壬辰乱後、或は日本に持ち去られ
に焼失し、散逸殆んど撃ぎ滅する有様となつた。之を補ふため木活の利用も起った
したらしい。又二十年後成宗の二年︵西、︼四七一年︶には、王刑公、駁陽公の字を以て改鋳しだ
ゎ、別に郵蘭宗に命じて、冨些兇経﹄印刷の活字を作らした事もぁる。之も乙亥字
ども、字鰭前者に劣る着である。仕組は盛んに大麻経を印行したので、鮭典印刷に
一−−・
β℃ −−
係踊の郎口るナ:見リエ上姐致傍
屁精緻を製み得ぬは言を待たぬ。最後に新京の九年︵西、〓ハ六八年︶、金佐明の力に扱って
銅餓清字成う、枚鞍館に置いて公私苦痛の印刷に充てたが、之は近代まで教科昏等に位川され
た着である。朝鮮活字には、泥活︵陶活︶、木活、銅括等があるが、壬辰役後始めで我閻に活字恕
見るに到わ一、基よb以後徳川時代末まで、西洋式活字の應用せらる∼迄は、寄ら此等に放つ㍍
着であるから、活版術も亦朝郎に負ふ朗大なるを愚はねばならぬ。此の術一皮樽はるや、彿富
を始め多くの箪朽木が続々と印行さるゝに至り聾
、者の倣と輿法隆致の企とは基だ黍易となつ
た脱がある。活字を始め此等の昏糟は今日多く珪って居る。近代の日郎閑係を見る上に、活字
を閑却する串は出家まい。
︵三︶朝鮮は五和二十六年︵西、一五九二年︶三月から三十二年の未迄、秀吉征鮮の大軍を受け
の肝兵立っ内、洒浜・巌英・監圭寧の館野大路たむ。霊宝の如きは七百除人と共に、七月種山に
ばし、義兵を立たしめて自ら七十三歳の郡組篤とh与ら、義将千五首を率ひて戦うた。全道五千
月、秀富の大軍各地を揉躇して京城惰るや、再出大師清虚は、老躯ぉ琴して全道叢林に撤を飛
頻出した。中には邁々渡海っ我国に和義の依命を負びて数回往復せる傑滑もある。文祓元年三
て、八追の天地承めに恩威する大乱を見たが、此の問、老僧共偲各地に起って国難に殉する者
−−−・・・・β7 −
披六十妨 年四焼 死研政宗
和軍を防いで悉く敬衣し柁。後英采四十八年、特に彼等選者を怒ったのも尤もである
︵﹃囲朝
賛鑑﹄六十七︶。かくて軍琴二十一年に望む、溶質即ち雁政於雲なる嘩鰐∵五登山に在って汚虚
師の寂を聞き、急ぎ選って閉外に奉旨待命し、日本に渡つで講和を計らんとす。八月、海を渡
って来朝、名古屋城に和を講じ、翌年五月還帆し、六月復命の後十月.師塔を辞しに在った。
捻雲の使節となるや、滑紳の詩を航して法る賓多く、我に在っても撰修の牽容を得た。慶長三
年十月、秀普は方鹿寺遽に耳環を築き、翌年六月島津忠恒は、高野山に碑を建て、朝鮮役の彼
我戦友者を追弔した。宣親三十七年三月三日、惟政市び京城を虚し日本に挙八、命を果して翌
︵四︶明治普代に入っては、日本各宗の貯渡解して布教停造に努めし者多く、之を詳述するは
亦我が数界を刺した串曙々ではあるが鮮くなからう。
はれしのみならす、戦士が公私陸得し跨れろ我利品中には係数に関する紡錘めて多いと開く。
的関係は起らなかった。要之壬辰役後、我が国に於ては活版循を学んで燐典類の印行盛んに行
性が、日本に任せんとして中途老病の故に止んだ串がある外、明治時代まで殆んど重要な俳数
数同社凍したらしい。其の後徳川時代に萱わては、家光の寛永十九年︵西、〓ハ四こ年︶、鮮貯党
年七月捕虜男女三千除人を具して朝鮮に遮った。其の翌年正月にも稔雲は凍朝して居るが彼は
ー・・一身∂ −−
係闊¢鮮日るナ:見りエ上放散彿
紙幅の許さぬ所である。明治十一年十月、東本願寺の曙光鞭を書けて釜山に別院を建て、漸次
に元山・仁川・木浦・京城・光州等に詭政所学校等を建てたが十四年、次で日蓮宗が釜山に滑を放
した。而して日清役前後から牛島に渡って布致する者蟹出し、以上の外、本派本殿寺・畢吉宗・
浄土宗・臨済宗妙心汲・曹洞宗等多く、京城や各造り主府に説致所を設くるに到わ、今や彿政道
輸入の姿は到る虞見る現象と猛つた。明治四十三年八月、日韓併合の後、朝鮮の滑侶も皇繹に
浴するに至り、翌年六月三日、寺別命の凝布を見、七月八日、三十本山を定められ、梅坪寺の
季晦光は内地に凍って日鮮彿致の連結に運動する朗があつた。其の後、大正l一年八月には、銀
器高貯達磨婆羅なる者、内地まわ朝鮮に入わ餐皇寺に彿舎利を献じ、同四年三月十五日からは
絶督府の企に依わ、小田省吾氏監督の下に、鮮人五十名を使役して海印寺歴版大歳経三部の印
刷を始め、八月竣功して一部を泉涌寺へ奉納して凍た。要之、内地から渡鮮した各宗布教家
も、主として内地人に布教して居るので、直接鮮人数化に資する所少きは暗むべき串である。
侍ほ李朝彿致を終るに臨んで、係数的遺物の二三を許する環むであるが、現存の寺院建築、例
之、金剛山長安寺・樺王寺等の二骨殿堂、其の他多くは此期の革建であるし、建染の近代的標
本は、南大門や東大門・勤政殿・鹿骨検事を見ても邦るから著する。閻畳寺跡の塞水石十三骨塔
∫ク ーー
−
枕六十節 年四鰐 究析政宗
は、元の囁帝が高宗に法った者だとも俸ふるが、賓は世親の十二年︵西、一四六七年︶四月に落
成した着で、壬辰役に倭軍持ち締らんと企てたとも云ほれて居るひ賢に毎優の仰像彫刻は鮮脛
結
論
緻密に出家て居る。以上は先づ李朝に於ける係数上の関係大要である。
第七
上衣の論究に放って、茫々ヒ下千田百年に亘る怖赦免上の日鮮関係を概説したと思ふが、我
が国の彿致が益々大乗の法光を放って居るに拘らす、牛島の併敢は前年漸く盛んに赴いで、後
牛如何に漸哀し凍ったか、而して遂に今や逆紋入の奇象を量するに至った所以一で想見する串が
出家よう。要之、帰敬史上のH鮮交渉は貯尼の衆徒通交を以て最とすべく、既に悌鱒初停の後、
数十年にして我が国俄に、係数囲となゎ得元るも牛島紆0臓物である。推古の朝支那との一交渉
開け、唐・末代多くの我が彿敦各宗は、かの地よら俸授されたとは云へ、牛島との交渉は決して
断えたるに非す。仮令、支那係数との交渉閃けたとて、之を容受する素養を作わ、係数の基礎
を固めて呉れたのほ、支部に非すして朝鮮である。足利時代、牛島との交通は十数回の大赦賂
殊に在ったが、社務の使節・公文審・外国使節の接待杯は、何れも怜侶に待ちし者多く、此の艶
ヰ0 −
−
岱陥¢鰐口るナこ取リエ上史敦俳
は彼此同じく、近くは栓雲大師が文緑、座長役後に於ける活動にも敬すペく、以て彿数的閑係
が、彼等政治関係に及ばせる戌化効力をも察すペきである。翻って仰散文化の源泉を箪ぬるに、
我が国が始めで外国文化を棒入したのは、三国時代の文明であるを忘れてはならぬ。凍朝の郎
滑は一両、文化の普及宣倦であつた。此と同時に牛島留撃の我が僧侶も、新文化の怜受者で弘
法の傍ら、文撃技塾を敢へ、一般文化の促進に資する朗大であつた。高句駿山品誘。百済の枇
勒。新羅の行蕾等、みな我が免租に侶典噌彩豊・紙葦の技・天文・地理。方絹・併本。易学等を始
停へ光恩人である。
指事乳質、行文冗長に失せるを謝し、大方真壁の叱正を乞うて拙く。
等は牛島文化の開発復活に十分努力して、昔日の思に酬封すべき焉を威せざるを待ぬ。終りに
の類、之れ亦、直接間接我が文化に寡h仏からぬ影響を投じて屠る。怯ひ凍って此に到らば、吾
のtニ韓征伐、近くは南北朝よりの傍題、文祓壬辰の役等に依つて取り舞った文化と僻数的追物
其の他多くの彿工晶胤工・寺匠。克工等も、朝鮮牛島から我偶に移入された。古くは紳功皇后
イブ −
−
理心 の ゆ 改 門 宗丹党切
切支丹宗門改め¢心理
妨
崎
正
治
何時の代でも、思想信仰の追啓には、複雑な敢骨的背景や政治的事情が錯赦してゐるが、そ
の直接の現象として著しいのは、迫聾する側と、せられる者との心理に、大きな隔克わと行
心β −
に於ける切支丹宗門改めの歴史は、箕にこの﹃迫審の心理﹄の好適例である。
は愈よ昂奮する。﹃迫富の心理﹄は曾て他に述べ化から、今︼々こ∼に繰返さh仏いが、徳川時代
に信仰を主張し固守する。此の相互不理解と行違との褒に、衝突ほ蒸す撃しく、壁方の鼠分
方では生命にもかへ難い大切な信仰であるから、それに射する魔迫があれば、あるだけ反抗
内容がどうも自分の心理と異なる焉に、うそ気味の悪い奴だといふ戚じを抱く。追啓せられ
のあるといふ事箕である。追啓する方から見れば、奇怪な信仰と冒ざす封事に勤して、その
一
款六十弟 年円解 党軒数浣
此から述∵品は、十七壮紀の役牛、師ち那鹿から究文、天和に雲ノての宗門改め
その耕言として、璧方心理の行違を説明する蒜を明治初年から取って鬼、よう。
三年にかけて、長崎郊外浦上に、邪宗門者が二百隼雄潜むで完ことが知れたが、
解の危機であつたので、長崎奉行は、大鰹そのまゝにして置いた。それから明治政
王政−新の御威光を示す焉に、長崎の組療由亨は邪宗門禁制を励行す立方に忘●還めたが、
昏局番の中にも、虎置の寛厳については多少の異論もあつた。そこで巌甲読者の手
と恩はれる、長崎市民の建日吉がある︵慶應四年閉画月︶。その望節に口く▼︼﹃罠m未だ深から
薪の心理状態、人民の心に遣入って見ない心持が、池職なく現れで居る○此の如
堅まつて屠る常に射して、﹃未凍は想像﹄だなどと門違ひの枇察をしてか∼る朗に、乗数者柚力
ざる中﹄になどいふ考で臨むのが根本の説謬であゎ、死ねば却て天園に生まれる
竺、ニ百年求、追宰に屈せすに信仰を買いて家た数千人の信者に封して、ヨ鱒洞
︵長崎同番館316︵11︿22
きつと、改心仕るべきやと思考位仮につきー警御英断、巌刑の抑璧誓︼同、伏て
、、、1、、1、11、−111−1ヽヽヽ
ざる中、主謀のもの柄三轄も死刑に起せら
れ侠へば、死は眼前にて、未衣は想像
ノ= −
ー
理 心 の め 改 門 窟 舟支 切
主張者は見音速ひの観察を基礎として、数千人を逮捕し流産に慶し柁が、全く失敗に締して明
治五年六年に描上の信者は﹃放﹄から故郷に掘るを循、今では日太二爪り政党を柑の中央に建て
て居る。
此の如くにして、晃永以衣厳しい宗門改めにも属せす、明治まで信仰を買いたのは、濁り浦
上だけでなく、外清一昔港外の島々、五島金部の外、九州の内地所々にあつたので、幕壁二百
年の禁令も、その綿密周到な瞼馨方法も、此の方面に於ては、完全には成功しへ仏かつたのであ
る。そこで、此から進んで、徳川幕府が如何なる方放で﹃宗門改﹄むしたかといふ事蹟と、そ
*
*
心ソ
十除所︶や、大船を作る歩む察するなど、水もおさ讐力策を講じたじ特に同十七年︵−G蓋︶六月、
恵Å邪宗門厳禁の歩を進め、致徒の捜索や、外成人注水の禁止や、貴国配見張番朗の設揖二
富永十五年︵−毘∽︶鳥原の薮乱がやつと卒ぐと共に、切支丹の頑張にはこら′∼した幕肘は一
*
あるが、こゝにはその末期に﹃残萬剃滅法﹄ともいふぺき政策を祈った時代を観察して見よう。
ら正徳、革保に亙って百年問の悲劇であら、その中で特に人目を惹い柁のは、寛永の島原乱で
の中に現はれた心理状態とについて観察して見たい。此の禁制追啓は、皇鰻としては、慶長か
■・−− メ5 −−・・−
班六十第 年四夢 先研数宗
丁†カい.
天川︵空㌻記己の黎︶触が長崎に家たので、大騒ぎむし、軒′㌧巾での琴で掟打して、乗組員の多数
を斬り束ててからは、一野鼠令を敷き、辣舵家井上筑後音数畢皆新に宗門放校に任命した。此
人は、大目附︵大名等の監視役︶の本職と共に宗門改役として、某後二十年間そり衛に皆盲、
邪教禁止の大功螢者となつた。彼が如何なる方琵を講じ平㍗は、段々に説かうが、同年九月長
崎表に簸てた制札には、懸賞方法で冒ポ門番蜃てうど今日警察では能管主義者を﹃生む者﹄と
呼ぶと同じ様に、切支丹宗門者とい、ふこと︶の拭螢を勉め、且つ裏切する賓には義軍で輿へた。
此は、目的の虜には手段を程ばない寄絹琴刀者のやゎ方を能く代表して居る。且つ又支部放で
も宗門者を載せて凍れば、船の者を悉く死罪にするといふ苛酷を行ひ、そ¢褒に支那轍の速惑
密告賞金の事に関しては、寛永十七年︵−雷ヱには、破天連︵㌢㌣eエを告擬した者には、銀
を哀った者も少なからすあつた。
バテレン
三首放又はこ官放とし、以下應分となつて︰吊るが、十八年後、薔治元年︵−宗∽︶には相和をし
てゐる。その′制札に日く
苦利支丹東門の事。累隼御難馴たりといへども、禰々以て斯紹なく急腔可和改之旨、析仰山慎也︶日払不審なる専有
之侯托ヾ可頼由−Ⅲ之.此以取持.件天運の訴人に鉦武官枚.イル†ンに官枚下さるると蝕も.自今以後ほ、
−− ㌧挿 −・・
地 心 の め 改 門 宗 丹 支 切
一件天連の訴人飯三宮杖
一イル†シ︵ロm岩︶¢訴人鋭武官枕
︼同宿︵C巳ecF訂tも並に宗門の訴人ほ銀五十杖、又托三十枚、品にエるべき也。
の制札には、伴天
︵奥利筋骨記第四記簸︶
此の制札は全国に建てたのであるが、その後五十除年、正徳元年︵−ごこ
︵初回の銀三宮枚
連の訴人に銀五百枚、イルマン山訴人に銀三宮放とし、且つ一般宗門着でも、﹃品によら銀五百
放下さるペし﹄とある。但し此は、賓でなく、訴人を釣る弟であつたらしい
兎に角、懸賞方法は、五人組連座の制、併に宗門者でも、自訴は免非といふ定めと相待って、
も同様と考へられる節がある︶。
可打アり有効に行はれたのである。然し、その虜にどれだけ勲等の民が苦められ、且つ範子兄如
47 −
︵契列斯督記第五記鰊︶には左の項がある。
一人にてもtBきもの︵重要琉門番.即ち熊宗門の類︶ね訴人致し焼か.叉ほ鶴きも¢にて無之伐とも.五人六人†人
て御預被成候啓
一、勒ほ一雨人訴人いたし俣へば御預哉戌侯、後にほ五人六人も数多く不申侯へは、先づ筑合歓仰附、輔々御穿竪¢上に
たと恩はれる﹃宗門穿整式﹄
政令的普請の範も推し計られるのである。現に薔清元年︵芸註︶井上筑後守が退職後に整へ記し
の間柄でも、時には互に猥疑心を以て相勤し欠かといふ黙を考へて見れば、その制度が流した
ー
披六十解 年四歩 先研敦宗
けかりも日放いたし挟へば御現被成鏡甚
︵第二十三項︶
一、親兄弟伯父伯母親赦ち訴人いh卜し俵へば.如穿竪の上.そ¢科にエリ御頸¢事
︵夢二十四項︶
御預け並に籠合といふのは、訴人哀督︶わこた者は、事件落着までは、被告に準じて扱はれる
ので飽食に入れるか、又は克典で保証者へ櫛預けになるのである。即ちこゝに現はれてゐる消
息は、︼人や二人の宗門を密告した者の中には、無責任者の者が往々あつた事を示し、その為
に、多人数な訴人して確貸のしるし牢示さない渚は、厳に取扱って獄に投じたのである。その
他罪人でも、浣門者の庭在を知って、それを密告すれば、自分の罪で斬非に誓心ことば免れる
*
とい、ふ︵同上節八項︶如きも、宗門老摘発の虜には法律の正義をも顧みなかつ克といふ重大な滑息
を示して居る。
*
その不都合の黙を指摘し、牛は説諭、牛は強腰になるのほ、自然の数であるが、穿豊式︵弟十大顎︶
とに守らが、その何れにも不道徳分享を混入する。允づ鞠間を加へるには、宗門の数社に
しては、威度して拷問︵又吸間︶するのは勿論、之に訝惑をも施す。此が謂はゆる恩威併ペわふこ
隠れて居る宗門者ほ、懸賞訴人、隠密穿整等の方法で之を摘凝する。而して捕へられた者
・−−・・・− ヰβ −
痩心 の め 改門 袋井支切
には冒ナプチ諭﹄をせね楼にといふ注意を加へてある。餌ち紳の存在とか、罪の
ふ問題については、議論すればどちらにでも議論の出凍る事柄であるから、之を
といふので、特に変位問題については、論議しない様にせよとある。但し他方、
自在の作者ぺ皇帝全能の造物主︶ならば、何故に世の中は皆デウ云の信者にならぬか、聴の中
に黒奴の櫻定憐れな人間が居るのは全智全能と矛盾する打てどいふ論難を出して
を合黙させうと勉めてある。︵爽利誓記弟十一及界十三記蝕︶
熱し、鞠間者の側では、﹃意志の自由﹄といふ数理を全く知らなかつたと見えて
黙には触れす、却て儒教風に﹃天然自然の道理﹄といふ租櫨で、デクスに関する
として居る。されば、宗門着から見れば、此も望見は﹃カナプチ論﹄であつて、
所には観れて居往いと考へたに達ひない。此にも、両者思想状態の行違ひが現は
得意になつて論破し克と考へた車も、宗門者にとつては、方角連の論議だと威す
と思はれる。
ヰク ー
っめんとして居る。︵里芋姦錬禁項︶
叉紳の仕弟に買春がましき依ら︵奇蹟︶のないのを指
特に而白いのは、デクスが萬物を造ったとしても、そのブタメお念這った者は誰
ー
獣六十節 年四解 党研敦宋
掬してゐるが、︵岡上第七空地方宗門者は、奇蹟を信じて進んで殉教もしたのであるから、此に
︵焉本︶
の中に切に
︵丸血留、宗−−亨−iC︶
も撃方の行違ひは甚しく、論議の効力は極めて少なかったと思はれる。釦ち他方、宗門若槻で
は慶長以後迫害が加はるに従って、信者をして、殉教即ち†ルチリオ
準備をさせる盛に繹々の用音を整へたのである。此等の拳は、耶客数叢雷
現れて居るが、最後に述べる。
の
︵ge註0︶即ち異教着たる君父に封する問題で、要するに、宗門の敦
牛は教理、牛は政治関越として、宗門改役が特にカを籠めて詰問し、且つ宗門者の罪状とし
て畢げたのは、センチヨ
では、君父でも異数者ならば殺してもよいと敢へるから、準叛逆非だといふにある。此黙は、始
終鞠間に現れて居るが、特に奥利斯督記︵妨十二記録集二項︶に岡本三右街門の誓詞を赦せてある。
その節に日く、
デサスの掟に、センナ勾にて作者︵造物主︶へ汲みな†ものほ.主にても執にても、殺し候ても科にに槌りならす銭上、上失
︵集宗︶
をし盤伴天連等の口供をとつて、それで宗門者一般の詐欺に拒律を試み火のである。
右の三右衛門や藩巷や市左街門については、績て経歴を物語らうが、兎に角コロビ
軸々右の通リデサス掟にて候やと御尋ねなされ候︶右閑人中上候通に御座候J珪英知此侯以上。︵明暦四年五月十二日︶
いたし候功徳に罷成候と作者の言葉に有之由、伴天連春希、マルチイノ市左砺門中上候旨御意成され候。夫に就て、私にも
__−− 5Ⅵ・・・・・−・
理心 ¢ め 改 円崇丹支切
その他、.ニ
︵P−・互即ち致皇に封する忠咽の拳、宗門に托して人の囚恕窓ふ串、符々の威
菅
菅
碁
鋳で人をつる事号ど、諾々の詰問や諭告があるが、それは他日別に述べることにしで、此か
拷問と誘惑とについて少しく述べよう。
*
右に述べた如き鞠間に屈しない者は、拷問方法で強迫する。拷問方法は一々述べないが、畠
も初歩のは、﹃木馬しで、木馬の上に長い間載せておくのである。最も多く行ったの−は冒ルシ﹄
で頭を上に又は下にして身腔をつるし、或は穴の中でつるしたのもある。つるしの苦みで白状
した者も︵コロビを含む︶あるが、叉そのまゝ死んだものもあ㌔つるしできかぬ時は終に斬
通に白状して棄宗を誓ふ者はよし、然らざる者は死に到らしめるまで拷開するのであるから、
む、権力者の側では、冒前門者の罪状はかうだ﹄と腹で㌢めてかゝつて居るのでぁるから、その
及十人項︶には誉めてあるが、事賓は中々多く之を用ひ、斬非も可なこソ雰かつたのである。つま
とは箭取れない。拷問を除♭に多く用ひ、又は故に張くするのはよくないと﹃穿整式〓第十七
もないのであるから、前に畢げに誓詞の如きも、牛以上は拷問の結果であつて、異心から出た
罪に虞する。記故に現はれた結果を見ると、つるしでなしにん日放又ほコロビを途げ毘者は一人
・・・−− 5J・−−−
哉六十弟 年四弟 究軒数乗
冤戯宜しき暫得よといふ心得の如きも、ほんの途行の問題で、呂的は軍馬琴甘にあつ托のであ
る0
右の如く駐罵を目的としながら、段々に緩和方法を執㌔終には誘警十段でコニせる様に
したのは、長い間の鰹駈の結果で、つヰ㌣り死を恐れない者に勤して死で威嚇するの恩を悟り、
そこで拷問もぢゎ、く壷にし、而してそれと共に誘惑方をも併せ用ひたのである。﹃宗門穿竪
心持﹄︵爽利斯督記第七記録︶筋六項にその滑息を示してある。
っるし穀、叉ほ斬罪、火ちぷりに仰付けられ候内ほ︵錯ち慶長克永年間のやり方︶、件大建切々︵歴々︶淀し中山、其痙
称、えけぜ.日本の望臼に成され、小日向︵即ち井上?屋敷で.所謂る切支丹屋敷︶にさトおかれ、女鼻み下され・伸
天速にほ†人扶持に銀子妄下され、切々色々り儀御尋ねき見べそれでも︶申上げす候埠ほ・吸問仰せつけられ僕抜
に速けされ候てエリ、浣門の老少く惰りなり侯由。
☆
㌔
*
キ
がそり中で最も日ざされたのは仙轟諾で、政宗か骨て宗門着であつた︵但し彼ほ故に盛衰十
寛永十五年春、島原乱が卒ぐと共に、藩府は直に諸大名に命じて、邪宗琴勘な拭行せ
菅
する秀に︼二の事故を語らう。︵材料は主として、喪利斯督記第十記銘からとる︶。
此の如き方汝噂換は、井上筑後守の脛濠と方寸とから出たことであるから、彼の改発を明に
ー・−・− £g −
:吐 心 の め 改 門 宗 丹支切
二年−芸ご絵島瑞巌寺哲建立してゐるが︶と共に、政治上にも嫌疑がある。そこで仙壷漆も、忠
順のしるしとして特に禁制を麟行したらしい。その患初の犠撃三仏つたのは四人
その名は
ン′ア
シ′ン′
首聖人
7テスタ ︵l≡−−㌢l︶訂tエ
コ ︵字書︵計cO︶孫右桁門
.スノ丁
詔一㍍。訴㍑㍍︶市左街門︸芸人
フ∴ユ
評定所へ召び出されて、吟味ぉ受けたが、事態決着を得ない。そこで時の大老酒井讃岐守が、
彼等ほ捕へられ、その年十二月、江戸へ送られ、ヤルチノ以外の三人は、特別裁判の意味で
フジ
ち寛永十七年六月であるが、後れの後年生は、此の一件に端緒を敬して晩年までその局に雷つ
で力量を示した結果であつて、紋が正式任命を受けて六千石の加増か絹㍍りは一年寧の後、即
預けられて、その吟味を受けた。筑後守が宗門改の轟に雷る樗になつ花のは、つまり此の一件
轟く不明であるが、結果はやはり要領を得なかつ.花らしく、二三目撃㌧三人は井上筑後守に
骨見し花のは、如何にその事件を重大親したかを語るに足る。勿論、如何に何事を語ったかは
者として有名ぢ澤奄や但馬守を列席せしめるのみならす、大老自らが下屋敷三二人の伴天連と
自卦の下屋敷へこ天を招き、澤奄初荷と柳生但馬窃と同座で、色々尋問又は懇談した。常時い智
_ 5∫ −
.戟六十節 年賀第 究軒数宗
たのであるC
筑後守は、十日間色々問答穿整して見たが、将があかないから、到頭語合に入れ且つ拷問を
に置いて、比較
︵詰寄
︵そりゃには蓋し仙毒播の串も含む
もした。蓋しりでこまで絶食らせず、自分の屋敷︵後に有名になる小日向屋敷︶
的優待をしたのは、宗門を棄てさせると共に、一切−り秘密
で︶を吐かせうとの腹があつての事と想像される。それから拷問に懸かつて、ジュアン
とも啓くが、後に出る語奄と琶別を要する︶とマルチノと二人はころむだが、ペートロは頑張
に屈しないので、つるし殺しにされた。菓宗し托二人は椅ほ︼二年産存して後病死したの先に
出した三右街門の誓詞にある藷奄と市左街門と二人は、即ち此の二人で、続写ら亦ゼソチヨの
事に関して薄面の琵言を筑後守に差出したのである。
右三人はジュスイトであつたが、三人と別に扱はれたフランシヌコ孫右街門はフラテ︵誓⊇訂︶
即ちフランシスカソであつて、同じ頃に山形でつかまつた同楓鰹の南野伴天連ベルナルドク
︵謬r・彗d。︶市左街門と二人一緒に、芝で火あぶりにされて殉教者になつた。此の二人がどう
㌔
㌔
して日本名を帯びて属たか、理由不明である。
*
*
ー・・−・・・・−
β4 −
理 心 ¢ め 改 門 采 丹 玄 切
次の話は寛永十九年︵−芝沌︶
︵Al⋮旨︶、
の事であるっ筑前大島浦へ十人の切支丹が忍び込むだ。その中
︵字書OぎC︶、アロンゾ
︵P2d旨︶、フランシスコ
四人は南撃砕天連で、名誉ベイトp
︵名は書巻︶
とであった。捕へられて、長崎から江声へ去られ、筑後守が手段を鼓
と、他五人は日本人と支部
ジョセフ ︵−OS2Plこといひ、一人は日本人のイルマン
人の同宿︵カテキスト︶
したと見えで、何れも皆ころんだ。但しその中で、アロノブは、﹃立ち上った﹄︵元の宗に韓る︶
ので、率へ入れておいたが、二十日ばか、り断食しで死んでしまつた。その他は皆無単に生存し
たが、そのころぴには女が関係して居る。蜘ちフランシスコは︼人のみ女囚の居る女液に入れ
られ、遂にその女と銀仙意になつた。記録︵欝†り夢五讐にその事一ぞ記して白く、
丑ほ籠座にて女と心侯て、両人とも白秋い㍗し供につき、後中の者に見ぜ侯て.件天速¢祝言めづらしく恢問.且侯へ
¢由申しっけ.夫婦益ふ取りかほさせ.筑後守屋舗へ召寄せ云々
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
その後間もなく、フランシスコは病死した。ぺートロは常時六十五六歳であつたので.女房
は特化なかったらしいが、十数年後に病死した。ジョセフは女房を娼はら、岡本三右循門とい
ふ日本名で通り、点享二年︵−霊ひ︶に死ぬまで、八人乃至十人扶持を蓋って、様々筑後守の御用
ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽ 哲勤めた。その他パル二∴エ毒素の外に、出庭不明のこ↓亡び倖天蓮二宮、卜意、南宙等も同株、
−・・・・・・・
5ニ ー
♯六十第 年四第 衆新教余
女房を持ち、扶持を貰って居た︵爽利斯督記第十二記録彗義.査妖慈鋒参摘⋮︺。即ち此い連中が小石川無
量院切支丹墓の連中である。︵戒名等略す、墓碑は今社司ケ谷に移してある︶。彼等が下女下男
を使ひ、裕に︼生を蓬つたのは、ころびの外に、宗門改めに関して抒々御用を勤め、或は外国
㌔
㌔
瀞
*
の事情について報告し、或は宗門の﹃秘密﹄をも打ち明けて、筑後守に事へた食である。
瀞
*
一般に宗門改や教徒刑罰の状態について見るに、始終不断に庶行した筈ではあるが、賓際は
明暦四年︵−雷00︶筑後守退職前に登園に五って綽尾の大検馨を行ったにある。此の橡単調は奥
そう行かないのが警察政治の常であつて、時々に腐行の泣を打って居る。その中若しいのは、
ヽヽヽヽヽ
利斯督記︵弟九記鮭︶に載せてあるが、各藩に別けて、宗門者の出た有捺を列馨し.それが出なか
ったのは、大隅、日向等八ケ圃で、最も多いのは、近畿地方と東北とである。そり紙数は三千
人を下らなかったと測られる。その中には日本人で能宗門︵教師格︶の者もある。而して、そ
の場朗を見ると、長崎や大村の如き、骨て切支丹の最も盛であつた場所には一人もなく、而し
て遠江や但馬など意外な方面にも出て居る。後年の結果で見れば、長崎附近や肥前五蒜誓豊後
大身郡には中々采門が多く萄って居たのであるが、此の表には表れて居ない。此の一事は、加
ββ・・・−
ー
理 心 の め 改門森井文句
何に厳しい穿婁にも漏れのあつた事を示すもので、それから五十年後の正徳年間に訴人の黄金
を増して居るのも、まだ′1残らの多かったことを示して居る。
そこで、その後の槍拳について見るに、長崎奉行が九州鼻腔の穿里香管轄し、常に宗門者と
その親類縁者の記録を整へ、而してそれに基いて諸大名や代官に通牒して調べさせ、又逮捕せ
しめたのである。今、元奉行所から輯じて今は長崎蘭書館−こ戎ウて居る啓類の中に、豊後囲の
一部卦があるから、それについて少しく述べる。
熊本港の領地が豊後園︵主として大分郡︶に十数ケ柑あつたが、長崎奉行から前年凍の嗣に
基いて、男女七十九人の取調且つ逮捕を照骨した。そこで寛琴八年︵︼票00︶熊本港からの回答
︵鱒春雲盈[一65︶を見ると、病死、他国在住等の事故で逮摘出凍ない者が十五人、残土ハ十四人
︵男二十五人、女三十九人︶を召捕つで、熊本の籠合に入れたと報告してある。その後︵年月
不明︶長崎奉行の附箋で見ると十人が牢死して居る。
次に同十三年︵−彗∽︶、同様二十二人の取調音を法ったに対して、二人は病死、残りの二十人
︵男十二人、女八人︶を熊本の卒に入れたと報告してある。つ皇む右二同の合併八十四人が十
敷箇村から瞼畢せられたのである。
ー57・−
読六十歩 年四第 究研政宗
*
*
*
*
場
*
*
次に重要なのは、貞孝三年︵−宗の︶、大分郡島木村以下十玉村と玖珠郡二村との卦で、此等諸
相は前にも後にも幕領であるが、この間四年間だけが豊後永山の城主松平大和守の積分となト1
報告は大和守から長崎奉行へ送ったものである。︵芸霊宝駄賃[︰壷、大草宕窒係簑十〓
哲此の卦は逮捕せられた宗門老練計二百二十人︵男育三十一人、女人十九人︶について、各々
に死刑にh仏つた者十九人り身分と、その外に他
三
その他藷村
五九
五七
計
九
下光永村
村 眞
萱 村
一四
三七
合
一八
九
七
六七
E
二七
一二
一一
一︼
村 門
二四
一〇
五
が首十六人、退学政一で占め、お助け︵即ち冤罪又は素数で
放免︶が三分︼顔である。その中で、槍畢の月日や死刑執行の月日も轟く明にし得るから、そ
ー ββ−
親類縁者の詳しい調べがあり、それによつて彼等相互の親族関係が分明するのみならす、又彼
木
九
一九
九十五人の運命一好も知ることが出家る∵先づ故事から奉げると、
等の父弧等で寛永十四年及十五年︵−琵7諾︶
葛
三二
領分の者︵皆豊後園内で︶
助 籠 死 罪
帥ち殉教者︵致骨の側から見て︶
お 在 鹿 死
理 心 ¢ め 改 門弟 丹文 切
れによつて、追啓の汲が如何に此串巣材に押寄せ化かといふことを知り得るが、それ等は︼々
列摩しない。而して右記故によつて﹃殉教者如の親類関係が分かるから、それを組み立でて見
て、一家壮烈の最後を造げゐ者二三の例を渇けで見よう。
門
六こ死罪−
三八死罪−
1+大次郎
二〇生、三入死罪
〓ハ生、三八死罪
1+長
−庄左街門女房
千俵村
二四生.七三お劇
助
︵詔那那㌶濃那西竺六。。年代の年故︶
房
㊨苫左櫛門女房一〇生、入四牢死
∵
+同女房
第二例 右同村権之丞一家︵兄妹五人壷く死罪︶
︵第二例再出︶
ーー■ 古タ.・−−
鮮︼例 苺木村十三郎一家
街
女
・一左
右街門女房 三入死罪
十三郎 三二生、六〇死罪
戴 〇五生、三入1
死+罪
少:光岡 九
∵
女房 病死
同 + + + +
「
♯六十鉾 年四夢 先軒数宗
一
孟宗汀了Tr
 ̄
 ̄
十
七
_ 一
−
▲
七
_一−●
六
四 ○
死 死
罪 抑
−・d¢.・−__
∵
親 心 ¢ め 改門 来 丹支.切
特村
−
㊥鬼捻四七生.七入牢死
+おし四四生.六八死罪
+︵右に初出︶四郎兵衛女房m〓鱒二ハ八死罪
子女七人骨在牢
〓ハ〇丸盆、六八死罪
︵モの他同胞略す︶
一九盆﹂ハ入死罪
門
兵衛女房長峰在牢
m 善
右
︵両親共死罪︶
街
娘二人とは、同八年︵︼票∞︶八日十二日に同時に死刑に威せられて居る。夫婦親子同胞一時に
ニ日に、琴二例にある庄兵衛と弟三人とは、同五年︵−票ヱ一月廿七日に、作右衡門と後妻と
右はほんの︼端であるが、第二例にある十三郎女房と妹三人とは、寛文二年︵︼霊め︶七月サ
+後婁
+
んだ方がよいといふ心持になるのは自然の勢であか、特に﹃殉敬老﹄として共に天国に生まれ
兎に角追奪を受ける側から見れば、一族此の如くなる以上、碗年生き残らんよゎは、寧ろ死
勲も表ほれ、小説家の手腕次茹で随分哀史を作るに足るものもある。
此等の黙についで種々の表も作って見たが、その中には﹃殉故老﹄の心情を想像するに足る
せす、別々に牢死した者も少往からす、その心情は一骨憐むペきものでぁる。
逮捕せられて、同時に死刑に虞せられた者は、まだしも事であるが、牢合の中で互に滑息も通
・−− βユ ー・
作
披六十終 年四霹 究軒数宗
るといふ信仰希望を抱く者にとつては、その心で信仰を貰∼、は雷然である。権力者の側からは
龍
揚
器
場
*
*
*
*
死を以て威嚇して居るのが、迫審を受ける側からは、葡て歓迎すべき死と謀るのである。
*
*
そこで、その他観察すべき諸種の黙は略して、此等﹃殉教者﹄■曾敢撤した﹃マルチリオの手
引﹄といふペき︼書について少し述べよう。此は前に述べた﹃耶蘇改進暫﹄宗教邸研究王政鴬本︶の
中に牧めた無名の一等である。此の叢寄といふのは、寛政二年︵−諾ご、或はそれに次で長崎浦
上の桑門者を瞼馨した時に没収した昏茹らしいが、その中に殉教の意義↓暫説明し、その心得を
詮いたのは、、多分慶長頃の迫害に際して信者を激励する濱に出家たもりで、その沓頻が普及し
なかったとしても、その心持、殉教の覚悟といふことは、追啓と共に信者の間に琉がって威化
を及ほしたに蓮ひない。その初にキクスト受難の意義を述べ、宗徒の上に妨げあら、ヘルセギ
︵即ち追啓払受如何に⊥つて信者の貞借み分別
サン ︵Persegui習○︶追啓ある所以五黙を峯げてある。日く︵好雄や鰹誓忘常字に改めて引用†る︶
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
一にほ、虞貨のキりシタシと係りわだかよるキ,yタソの厭ほる¢悠也U
†るとの意︶
二にほ.御身のカの程を瀕l‡した皇ほん各に、妨げぁる故に計らひたまふもの也。︵即ち故に堰へ皇祁軟で如わて瓜のカ
ーー・ βg −
三陸 心 の め 改 門 采 丹 支 切
といひ得るからとの意︶。
ヽヽヽヽヽヽ
穀、殊更若年の物窮き善女人達・菜門に封して︵の悠に︶故郷ね†て・親裁知普わ離れ.財賛成智慧捨て、人々郷な拾
コと
ふほど、その心中のこしーテス︵ヨ倉訪信仰︶ほ示ごは弘くなり玉ふ也。御掟の追、長の教官すんば、いかでか語の丸細線
†ルチレ
ヽヽ、ヽ、ヽヽ†ルチレス 三には・キ豊夕芸致ほ艮貸セリといふ=とな斯ほしモーほんが珪ご︰・首の丸血組子︵声音且ほ呵贅ね受けたま
誓て
ス
て食わ禁卜したよふ=とほー以後其¢︵数字快く︶鋒りなき果報なりとりト=−デスなくんば、何れ・にか三不迫︵こと
はセリ王ふべきや。
ヽヽヽヽ
四にil二切のキーンさノ、≡スの御恩み見知り寧bざるが故に科せつかんとして、ヘルセギサンぁる様に計らひ玉ふ
也。
ダラサー丁置Oriもの壷に至らぜたまほん焦に・︿ルセギサンぁる掟に計らび玉ふ也。
五には・キJ,ソニダリ︵二軍不明︶にぜられ一致々の粗放わ以て、⋮スり御行跡な単び、その道エリ;イソ︵ニ⋮i且¢
5て払
それから迫富者の蒙る罰、キリストに背く罪とそれから生する災、迫省を受ける者が﹃天狗﹄
︵即ちサクソ︶の誘惑で迫害に屈する恐ろしさなどを詳細に説き、之に反して信仰を貫く嚢さ
や、殉教者になる光発、経いで殉致の螢悟と卒素の修練とを致へてある。最後、迫害の風荒れ
る時、之に虞する心持を勧説し三尊は、特に信者の餐轡ぎ固めさせた力があつたと思ほれる、
その大路に云く、
、..._・_・〟∫.−
披六十弗 年頭夢 先軒数桑
ヽヽヽヽヽヽ、
とだ
さればキサンタンの宗門禁制の樽、其心持な艶へらる1パテレゾーイル†ノ無ナ∼虚にてほ、斜にセらざる間作ねも訳りか
ととがヰ.叉科になるべきことみもー斜なるまじさやと思ひ迷ふ蟹.足れ多し■U故に此儀存明む.、き珪に.今比凄恥わみ
立つるもの也
第lにほ、諸のキサツタソ、ヒーデスみ堅固に保つべき=と也といふこと。
夢二に托、ヒ!デスわ背く斜となろ所作托何れぞといふ=と、並に斜にエリ、ヒーデスみ失ふぞといふこと。
弟三には、ヒーデスみ背かすてセ†=とかなふ所作¢こと。
†ルチール
第四にほ、丸血留lこなるほどの儀、出て束ん御にほ、何と覚悟み†べきぞといふ=と、足れ也。
此s第四項が最も茎要でぁるが、それを十四項に分けである。その中欺項をこゝに出さう。
一、⋮人エリ革せらるるを心髄く堪忍する=とーたとび又官管千姓わ凌ぐといへども紡が㌢い即が射が附いががいγ。
死†るといふけ、頸を切られ、靡き=ろし、ほ右h物に上げて設†ばかりにあらす。たとへば、食物み輿へすして働死に
及ば†ろか.沈弗に行ほるゝ内に死し.叉ほ籠合の笹儀な堪へかねて死したり、その外.何れにてもわれ、辛労難儀¢
漣エリ死し㍗るに於て托丸血留也。
食わ失ほざる間は丸血留¢位には彗るべからす。︰︰叉キサツタシセリとて峻放すべ1た︵捕へらるるに雷つて︶ふせ
四、⋮・キⅥ∴γタシ故に相好み失ひ.恥辱み受け.苛安打絡み受くるに於てけ、その功徳誠に甚だ探し。さりながら一身
ヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ぎ職ふことほ叶ほざること也。若し彼の者.防ぎ取ふといへども.終にか甘はゃして打㍗るるに於ては・丸血留にて持
ちるべからナ。其故はl汐エスに封し奉りて心髄く死ぜざるにエリて也.
βJ−−
ー
凛 心 ¢ め 改 円 索丹笈切
︵grp苛恩琉︶み以て.今エリ後モルタ
︵gnか塩き慨悔︶たるべし。其の儀叶
†三.キⅥyタン成敗¢時.他所へ落ちつき障れ忍ぶこと苦しからすとほいへども、人ぁつて、丸血留の望にもへ立ち.
進み出でて宰ぜらるるは.足れ即ちすぐれ㍗ろ丸血留也0
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
十四にほ、丸血留の近づくと食えん時.な†べ与党悟といふほ、先づコノヒサン
はすば、後悔す.へし、其虎に犯ぜし科わ思ひ出†べし。次にほデウスのガラサ
︵訂已C︶.天上エリ親が賎み御見物なされ.婁如ほ冠在韓け.我が
︵︼芦訂賢こ箪猥︶かR別に椒ずべしージュス
ヽヽヽヽヽヽヽ
ル ︵ロ○ヨFこ斜に落ちよじくと思ひ定め、御免わ乞ひ奉るべし。叉丸血皆の菅患わ受くべきがヲサと勇猛精進の心わ輿
︵アl
へたまへと漑み奉るべし。︰︰︰︰苛安み受くる問ほ.ジュスの榊︵ジョン
アンジョ
を初め奉り、サンタ一=,7.語¢安如︵al告︶
アニマ︵琶imp魂︶の出づるみ待ちかねたまふと現すべし。比和に及んでは.刷レエスエリ格別の桝合力むろ.︵−ければ.探
き強もしき心な持つべし。
その他、此の一書について種々研究すべき鮎⋮はあるが、今は略して、兎に角此の如き覚悟と修
練との教養を重ねて凍たのであるから、殉教者となるのは、宗門者にとつては北条の一理であ
る。それに勤して権力者は、全く自分の心持を基礎にし、成魔を以て彼等に封したのであるか
ら、心理状態の距離が全く方角達ひの故を生み出したのも常然である。勿論宗門蔚山中には、
ころぶ者も出花のであるが、堅い信者から見れば、それは信仰聖畢鱒ぎ甲咋−!U紳の御恩藁だ
といふことになるのであるから、それも他方には一層殉教の覚悟を定め−させるカを卑したので
−・β5・−−
♯六十弟 年回欝 兼併教余
ある。
その後の経過については、今述べないが、幕府は切支丹を塊絶したと考へて居たが、その賓
は中々楼超して居なかつたので、問題はやはら明治の新時代まで持ち越しになつた。且つや宗
門改めの為に稀々の審毒を流したこと︵それは、他日別に述べる︶を恩へば、切支丹成敗の串
ほ、権力階級の思ひ違を嵐露した︼つの失敗の歴史に外ならぬと断じてよろしか一らう。
■・− ββ −
救 故 余 の 申 語物 氏霹
源氏物語中¢宗教観
−平安朝の文化状態
秋
庭
萩
江
平安朝後期に至りて、眈王其の色調が浪だと
なつた。奈良胡より平安朝に入わて∵博した
る景仰の念高まる。従って益々深く抑へても
蓮し、撥逢すると共に会1文化の本源に射す
抑も日本上代文化は卒安秋期に於て最も螢
して事実の文運も極り、平安の美しい色を後
力は望月の歓くるなき絶甫に達し佗。斯様に
文化を経て遂に道長に至る。此所に藤氏の勢
漸く頭をもたげて仁明前後の文化起り延喜の
新しい文化は藤氏と共に終始して進む。冬嗣
抽へられない人間の向上心、美しいもの、善
世に留めた時代が即ち此の期である。
と貴族生活
いものに向って進まうとする内的要求は此の
ー・■・−・・打7 −
枕六十静 年凹弟 究研教義
宮廷は天上の染圃とた7り、后宮は文化の粋
主義であゎノながら、却って其の素面には偶々
を寧ひ、而して后妃は牽かに美しい。然も才のしい悲哀寂塞が絶望的に浮び出して居たのは
閃きは、常に其の澄んだ終に法ってゐる。詩歌此の時代の特色であると思ふし奈良朝人は罫
管絃に秀でた若い月卿雲客も、春光始めて脛 純なる小鬼らしい態度で、自然の美しい色と
かに、桃李妨を競ふ此の華囲に出没悠渡して、馨とを愛し或は自然を我が気分に融合させ化
爛れるが如き生活に心酔し、或は覇の妙音に のであつた。然るに平安朝の丸民族は、花も鳥
耽溺して、我も人も共に世の泰平を謳歌す。此も彼等に翫弄される蕾めに吹きもし、囁きも
の有嘩の中に培養せられた貴族文餐及び生活 しなければならないのであら、花も月も人の
は去れよといひ、倣燥なる態度で翫弄し横と
を散らす風には吹くh仏と命じ、月を隠す雲に
は、精錬を極め艶麗を姦して遼に威熟の極に 見る食め、或は畳の仲立ちと決めて遣いて花
達した。
か∼る紛々たる基嵐の中に呼吸して居る彼
等貴族が、花鳥風月に射する威僻も、やがて彼した。又翫弄せられたるものは常に少さいも
等の周囲の人々に要求する態度の其の一つで の、美しいものでなければならなかつた。特に
あつ克。表面は何れにも、のんびりした敵襲 狭除で優美で且つ小規模である平安の山水を
ββ一−・
ー
執 政 束 の 中 語 物 氏溶
に其門地として紫式部を常時の梢威㍍らしめ
掃少納言は其の静々たるものであつたが、殊
天地としでゐる常時の都人には、それが一履 源氏物語、枕の草紙がものせられ化。紫式部、
甚しかつた。
彿像を立とした其の彫刻も慈悲園浦にし
て、憤怒の譜天も随竃の相にその怒気を印ら たのでぁる。
げ、法性寺は京に、鳳凰堂は宇治河畔に、その かうした春の野の花が、一時に吹きさかる
柔かなる線を軽く偉業な気分を以て表された 美しさの中に坐し∵常に倣笑な洩して居った
る人物であゎ、讃放するに足る人物であつた。
のである。かくで技巧的に教達した漢詩文よ のは道長である。兎に角道長は常時の偉大な
り︼特して和歌と散文とが産出した。芳一l歌に
文畢の本質よち去へば或は唸
して、基の用例にからまろ物と人とによりて
は常葉古今ぉ受けて常時大宮人の間に盛んに 皆時の文化の絶ては、此の偉人道政一ざ中心と
行はれた。 −
後撰、拾遺等は此
は窟愛と魔制とであり、二つには宗教思想、
此中に於て文化S主要なる大勢は、一つに
落したものと云ってもよいかも知れない。寧 織ら総されてゐたのであつた。
−
ろ文嬰其のものとしでよらも、交際社曾の方
便としたものが多い。
時代の最後の収穫である。散文にては発寒、 三つには外務思想殊に儒教の思想等が其の主
・・・・・・−− 〃ジ ーー・・一−・
獣六十弗 年四誇 究軒数余
追求者と捏7り、又〓田にそれ等が極端なる厭
に這入って、我も人も梅酢なる享欒の嘆美者
との絶てに関係しないものはない。寧ろ絶て
昔時の外務思想とが、彼等人生の歓欒と発輩
なるものである。事変と懸制と、宗教思想と
の輿ゆると共に旺盛を極めるに至ったのであ
家なかった。かくて天台異言の二敢は寧安別
せられて、多くの国民は之れに浴する串は出
知識階級即ち、時の貴族融骨の間にのみ理解
この二宗は何れも撃克く旨抹き食め、僅かに
奥を探り、六大四鼻三鑑の幽玄を説かれた。
とひて政を賠き給ひ、又音家たる藤原氏も烹
普時天皇は簡致の■信仰深く御身に法衣をま
る0
世思想売らしめたのである。
〓 平安朝の偶数の状態
彿を家風とす。而して年中行事のそれも、加
持新路法骨供茸等によりて行はる。汝骨の一最
奈良胡は早くよゎ、樗々の宗聾俸はゎで、
恰も蘭菊S美を呈したが、平安朝に入入りて
も多く行ほれたるは法華八試である。即ち
うとし、日々に供養せられ給ふ、御鮭エリ托しめ玉の馳
十二月十僚日ばかり、中宮の御八講なり、いみじう㍗
の彿敦は、大いに日本的色彩を帯びて凍た。
件数大師は天台宗を開き、法華の妙理によ少
︼些二軌の深旨を顕し、弘汝大師は眞言の秘
7−♂−
ー
隈 数 鏡 の 中 静物 氏 清
繹の表耗晩餐のかゼリL.世にセきさまに杢へ一dぜ紛ヘ
リ。さらね串の清らかに、尋常ならすおはしまぜば.よ
して道理なリI俳の御荘腰花札のおほひセどょで.よこ
と¢趣乗忍びやらる。初め日ほ先帝の御れぅ、次あ日托
母君の御銭巾、叉の日は院の御れう.五巷の日なれげ.
上達部七ども世のつ←ょしさを∵乙も悍かり給ほで.い∼
多数参り給ヘリ。今日の請細江、心殊にえらぜ給へげ.
薪=る程⊥りうち初め、同じうー警か官¢革も.いみとう
たうとし。
ー
けての日ほ我革み倍
軸ふたちも.株々の捧物捧げてめぐり給ふにー大抒殿
の御用意など鎗似たるものなし
︵資本︶
親して世みそむさ給ふエし、備に申さぜ給ふに皆人は語
き給びわ。
叉四十、五十、六十、の賀塩にも、また僻事
を修めて長寿巽南を斬る習ひとした。即ち
神無月にー封のうへ、院の御賀に、嵯峨野?御堂にて藁
師悌供養し奉り給ふ︰︰御託睦も.我も我もと御方々い
かめしくぜさせ給ふ。
︵若幸︶
又交際政曾の名を知られたる殿ばらは、日
夜昔々として経文を畢び、或は寓経などをし
た。かく備致の構成が総ての事物に影響した
る結果、或は踪合美術と行7り、建築・掩蓋・彫
刻となりて著るしく撥達す。これらと同時に
沸教の故事、文化に大なる影智を及ばしてゐ
る。而しこれは後日述べる畢にしよう。
以上の如く、係数は非常なる勢をもつて、
流布されしにもか、ゝはらす、昔時の萬族敵曾
の人々は萬有に封する自己の踊係も思はす、
自慢の念もなく、あくまで天カに屈服し、著
しカ及ばぎる時は、たゞちに加持所蒋により
て己が心身の安危を防がんとした。其の結果
7j 岬
ー
読六十第 年凶夢 究軒数采
は堕落した。其結果現質的な心持ちにすさん
陀のであつた。かくの如くにして暫時の政曾
人間力も致海の盛には抒禰を加へられなかつ
へゃしで、たゞ宿命の説に愈々天カは倍加し。
卒安朝の態骨ば、係数の覚醒と信仰と曽あだ
て、上兼門院に仕へられ︷止る﹄と見ゆ。之れ
の間に作られ、又苗畜二年の比まで在生に
ゎ七光門院へ宮仕し、物語はごあやもめずみ
ばかゎ、やもめすみ、して†覚弘二三年の羞よ
ゎ、宣孝長保三年閏月卒られしかば、西友年
紫家七論によれば、﹃式部婦徳おしはかられ倖
る物語り﹄を書き綴ったといふのが苑饗であ
﹃やもめ任にて里に侍りけるつれぐに、さ
等を合せ考ふるに、上述の頃の作で式部が、
で行った。
三 紫式部の人生戟
ねれば、長保三年四月二十五日、﹃宣孝卒から
の始めの作であると恩ふ。之を式部月記に尋
たへて、風光明媚、詩聖油然として沸き遂に備
﹃江山南くして湖水練なる新月は、銀波哲た
とのべ倖へられて居ろ。即ち
ると思ふ。又作者の本意について、いろ′1
せて、後三田五年ばから、やもめすみして寛
前の料紙をと転て、織ら㌧す〓掃の飽繍は餌
大鰹、此の物語は凡そ長保の未よゎ、寛弘
弘二三年頃宮仕に出てたち侍ると﹄あら。又
−−−・7ク ー・−−
叡 敦 余 ¢ 中 記 物 氏源
理を悟らしめて、出世の善根を成就すべきと
義五常S道に引きいれ、終には中道賃相の妙
建立したりと雄も、作者の本意は人をして仁
びて褒庇したりと解し、或は好色妖艶を以て
は荘子の寓言に基け∵りといひ、或は左停を寧
ち源氏物語な♭﹄と誤ら俸へられてよゎ、或
しての技量に及びたいのである。
ペ、次で、窟愛軌、宗教観、さて後に小説家と
そこで私はこれより式部が人生睨の如何をの
蓋うて事足ると、私は此語を疑ふのである。
地の底におとすのである。古人の言東に棺を
むるものは九天の上にあげ、庇なすものは九
た。さなくば、唯その術の側よら見て、其の理
物の所作行動哲以て直に一部の眼目と判断し
あゎて評論の筆を収られたが、多くは仰の人
至るまで、家々停而して、此の間幾多の託繹家
といふなど、上は頓徳院の晋より下は今日に
於て其の人生睨の大に興るを見る。されば之
が源語を作しっゝあらし間と、宮仕以後とに
は足れやがて彼女の人生軌である。即ち彼女
の見方と知卜給ひぬ﹄。式部が心の道化の跡
へつべう思ほゆる人もあらめど、此れは今様
ろ′1しきものゝ一つとして、枕の草紙に加
然らば紫式部が人生観とは﹃Jのなかまおど
想のあらはれたるをも作らんとするものであ
よゎ斬か物語に現はれたる人物に骨て観察哲
云ひ、或は物語は物のあほれを知るもの行アり
るなちと、紛々擾々衆口金を熔すが如く、盛
−−−・7づ −・−
披六十節 年四夢 先研敦宋
下して見たいと患ふ。
拍も式部が老後の人生観、有頂天の現にも
致を撃び、叉信仰して最も其の心情一で戚鋭に
したのほ、因果應報の理であ,り、因縁であら、
う。然し源語製作時代に於ては、時代の思潮
愚嘉品仙豊口凶。桐編の別ある串に眼を止めた。
何であらうか。人の世にある貧富。亀賊・賢
をも得たであら宿放であら宿命である。然らば其の宿命とは
に沈冷して、同じく彼女も厭世の詩人であつ
即ち行ひヘサブして忠きあり、行ひお守bで娼
入らんとし、gr買e詔re=iギ
た。而も其厭世威ほバイロン的ならすして係
して貧あら。或は有徳なるも衷へ、鮎⋮遣なる
C011く冨tiOn註smしで
きあゎ。無徳にして富めるあれば、有徳に
はない。其の最愛の夫に死別し、中開自派の
も興る。古今典故の跡を尋ね、人間存亡の所
数的であつたが、然し
悲劇にあはれを覚え乗ねて、式部の信仰しで
戚じ、廟徳の児満訓和は不完全なる現在に求
以を探ぐれば、誰か天道付目近か非かを咲かな
孤焉夢冷かにして客間を守る時、人生の無
むべからぎる畢を覚えたのである。此の世の
居た日本天台の教理に影響せられたるによ
情は如何にさゝやかなる心を舐ら、女々しき
絶てを、はか㌍くあはれ打ごりと威じたるは彿
いであらうか︹一式部も、こゝに人生の淋しさを
熟腸を溶かしたであらうか。此所に式部が彿
る○
一仙− :1 −
粧 敦 窺 ¢ 中 語 物 氏 源
軟にして、其の現象の真に進化の理想を認め 外、常任の本腰なし。然れども人間の理性は
た。此所に彿致の椙命説が次第に根ぶかくな 此に満足せす、生滅起伏の現象界裡に一迫の
彿陀は因果の法を覚りて、其の根本数理と
ゝげんとす。
ってきたのである。然らば宿命詮とは如何な 連絡を俊見し、因むで以て懲悪勧善の用にさ
るものなるか。
彿陀の、諸行は無常にして、語法は無我と
覚るや、昨日の我は今日の我にあらす、今の し、而して諸法を以って因果所産としたので
我は、また乗務の我にあらすとせば、遂に道徳ある。斯様号れば人間ほ輪抱輪生するも、之
の立脚地を失す。されば彿陀は此の困難を排 れ因縁によゎ七連績し、永劫止む往き人間の
せんとして輪抱説を耽らて凍た。此所に、無 動作師ち鈍磨でぁる。彿陀は触⋮我諭を唱へて
して道徳的政曾的人格を立てるに至ったので
我静と輪抱説とが如何に調和せられしかを見 個人的人格を否定し、其の道徳上の必要よ¢
なければならないのである。
生死は愈々刺郵に連績して、生死の大海に ある。而して掲磨に1㌻りて輪廻するものは、
起伏する現象即ち語法にすぎすとせば、現世 重魂の輪廻にあらゃして、掲磨善悪の性格が
は過去の連綬にして、兼務は現在の連績たる 韓生韓死するのである。タ・スデーガリズも、悌
・− 7∫ −
獣六十弟 年内第 究軒数乗
敢の特租設ほ性格山稗移であると云って居
る。斯の如く掲磨の應報は必至的にして人間
も無理ならぎる事である。
叉皆時の窟愛は隣る公然たるものであつ
のである。即ち一度、籠門に登らては宿世と喜
きを威じたるも、全く此の思想の流を汲んだ
我が平安朝の貴公子才媛が、すくせの晃な
士猿寄の世でなかつた事が、かなら影響して
理由もあると云ふ革と、取囲を通った所の武
暫時男子よかも女子に才媛が多かつたと云ふ
のではあるまいかと患ふ。叉あつたとしでも
て、決して元祓時代の如く密事の性を持たh仏
び、冠を懸けては、我が身知らるゝとなげき、
居る。蓋し優逝閑雅たる貴公子と、沈魚落雁
の運命を支配するのである。或は因縁と云ひ、
得意にして揚々光るも、零落して弊々たるも、
的美人との間には、厨の前に最早や何物の想
かつね。是れ一つに男女の上に、徳川時代の
おしなべてさきの知らるゝと嘆き、蓬には敢
念もないのであつたらう。即ち督時の人々は、
或は宿世と云ふのもこれであらう。如何に深
骨と自己との不完全をも畢げて宿世と厳にた
気宇狭少にして抄たる島国内に熱愛すると、
如く男倉女卑の覿念が殆んど念頭になかった
のである。故に道ならぬ窟をなしつゝも、な
改植を邸ふとのみ。高度。唐の使者は凍朝せ
山穴洞と壁も、亦定業は免れがたい。
ほ前の世の奥としてそれに甘んじて居ったの
7β −
ー
取 軌 条 の 申 喬・物 氏 清
べきなど云ふ町人の籍殊忘れざる併にして、
日は我ゆふ下紐を、何れの世にかとけて見る
しっぼら蓬ふ夜の睦言を富じ、泣く′1も今
変なるものは、竃も高伺なる道徳なく、解けて
になす事がなかったのである。されば其の事
したのである。寧ろ昔時の人々はそれより他
ふペき月卿雲客は、こぞらて窟に浮身をやつ
坂こえぬ権中納言の如き、多く時の紳士と云
き風流士である。花楼折る少牌ならゃば、逢
らぬと歌ふの昔男にあらすは、交野少牌の如
等の夢想にだに及ばざる所であつた。月やあ
式部が寓せし本家の人間を論じて鬼石兄いと恩
ども、全く其る所である。然らば此所には、
の人生観は、式部の人鐘甑に似にる如くなれ
﹃世之助﹄は陰る光源氏に頻したるも、酉鵜
は、彼女が理性的馬賓の嵐である。彼の西鶴の
皆時の物語作者に比して式部省いみじとする
を見て沫く心に釘鈴したのである。われらが、
突に至るべきを知一り酔生夢死郷に永劫の人間
知となるのも督然である。式部は其の遂に衝
て貞操の観念も薄く、今日の知己智明日は不
るがま∼に動いて、少しも凝る朗なく、従っ
平等に奔せて差別の観念往く、即ち煩欄の超
かゝる有様であつ化から、人々は、只撤愛の
紅酒練燈の裡、肉慾煩悩の欺奨郷に酔生夢死
ふ。
す、商業は日々に衰ふるも、封外策などは、彼
するのみであつセ。
−・−・・
77 −−・一
♯六十筋 年四夢 先軒数宋
︼、茎蜂清箪疎荘下、干時除宕篤、璧不着賞
夜家人故、他項衣誤訴求鐸は、す凍琶祭琵と
併解せられて済語中の貞女といはるゝも、L
かも、正にして娩貞、優にして清操戯節、終
始一の如くならす。
源氏茄、一〓.紀の守につかふよつろ人¢−1j、河のわ
たリセる家なん.此此水ぜき入れて涼しきかげに狩ると
陶ゆれほ、御方泣へにと.わたり於へるに、伊攻守の顆ほ
の家に恨む事符りて、女鼻先ん鴇り得りけろ一セリなれば、
無雄互るや侍らんとて、下にて雪げきしも.源氏君.ひそ
かに事びて.〃下氷人の労な謝し、女泣き施療ほ物恐ろ
しさ心地†.へ与−を.只其の几帳にと¢給ひっれr㍉ ⋮る
費人のおましなれば.主人は東奔西発して.摺希わ用意
し.こゆるぎのいそざわリLが、君けかの申の品常るも
のあらんと思び.乗用け人幹冤る時、忍びて鬼抑も.
荒りまじくもてセL、達に創世の宿縁にかこつけて、さ
ユ.へさ∴や∴−∵、・n㌔、・ト
、・∴∵完∵担−;に†l、ぐ㌣、・一﹁丸い
ユを⋮ご∴−1−イ∵\ゝに二ごて↓卜こ▲.悪い、きヰでu何に∵・べ
き。心の諦ヰ針孔持そしぃ∴∴∵ふ竹り心通ぜる九−、史へ︰封も、流
石に中りが㍗︵喧・†∼左・や揉な▼ハニそ祝わろといほわと
て.唯一の武器なろ宿世睨な以て宵〃かいくどき拍。此
の時.空蝉官紀耕す.へ与む.朗甑り架に托赦しが古hく、い
とかく浮さ身の程り定らわわりし存がらの身にて、も.か
︵尊木控略︶
ゝる糎心ばへを鬼ましみるましき我拡にて見正し給ふ後
もや
と思ひし,.仏ち。−㌻し、今は見きとhしかけそ
とて物思へる標、賓にいと造理である。斯様に
して彼女はなよ竹のすぐきも遂には折られ
た。一時の慣熟の談わ′とはいへ、そも′・、−亦
宿世説にカがあつたからである。これ峯蝉が
清規勘節終始一如と云はれぎる所以である。
既に相見たる後は
ー・アβ・・・・・・−
裁 数 乗 ¢ 中 語物 氏 藤
一骨はいと†く′1しく、心つきなし阜取ひちなづり王
る伊激の方のみ、忍びやられて夢にや見やらんと、そら
恐ろしくつゝよし㌔夫君に射して恥ゞぎるみえす。され
ば再び源氏の渡りたまひし時も、﹃いとかく品定まり泊る
身¢おばえならで、すぎにし覿の御けほひとまれる故郷
ながら、たよさかにし待ちつけ奉らば、おかしうもやわ
ら重し。強ひて息ひ知らね軌にも見.滑えもいかにほど
Lらねやうに息†らん﹄と、心互がらも陶いたく、沈石に
忍び乱れしが、とてもかくても今ほいふかひなき宿世と
︵空蝉︶
なりければ.無心に心づくきなく止みセむと思はれてけ
り。
宿命は賓に絶腰的威力を以て人生のすペて
そなど云はしめたるも、一度源氏に見てよ♭
安心の地なく、後には行くと凍ると歌はぎる
を得す。叉常陸守にも別れては、河内守あさ
ましき心の見えければ、⋮・﹃うき宿鮭あ去
身にて、かく生きとまむて、ほて′1は、珍
しき事どもを聞きさうかな﹄とて人しれす尼
となゎて世を遮れ化。此れ紫女が人生観の由
影にて、迷の雷把眞如なるを示すもの、され
ども姦蝉の苦節は大行アクと云ふ串が出家ない
と思ふ。
め、遭に煩傭の雲を排ひて、再び良心の明月
の河漸の鬼とならんとせる人こそあはれ㌍
き氾と君に樽へよ崇拝舟︶
二、浮舟。身を浮舟り恩をなして﹃我が代つ
を見る客嘩のもぬけのからは、世事意の如く
れ。思ふに浮舟巻は宇治十帖中の白眉にして、
と云ひやゎて宇治
なる源氏の君をして、伊汲介に劣らける身こ
を支配した。赤縄結びがたきも宿世とあきら
−−・ ブタ ー叫
秋六十茅 年四弟 究軒数余
た。彼女は浮舟をして垂蝉と同じく遥鱒せし
部は浮舟ぉして宇治河畔の鬼たらしめなかっ
せるは最も見るべき所であるが、女性なる式
々歩武をすゝめて、最後に大破裂に至らんと
最も式部が職熟の境であらう。其の悲哀の管
風せしめて日く
んとして居るのである。式部は浮舟一でして追
る運命の劫鎖を破ら、死して自由の現に至ら
として居るからである。横む批き前世の契な
んと決心せるほ何故ぞ、宿世の環粋を股せむ
とを土塊成して、心と世を恨み、いかで死な
めり。知らわ析にすゑ置きて、此男は滑えうせねと点し
聞えL人の.L給ふと見えL程なり。心地音ひにけろ七ん
いざたまへ、おがもとへといひて抱く心地のせ︰ね宮と
いひつ′、Iル1、と居たりしみ.いと紡げなる舅のェリ衆て、
て、人に見つけられんエリけ.鬼も何も食ひ失ひてエと
心温く此の世にうぜなんと恩ひ立ちし﹂小.鳴萬がましう
ら、行くべき方も惑ほれて、かヘリ入らんも申壁にと.
束し方行く先も見えで.隻手¢端に足わさしおろしなが
しう、川汲も完う問えし、も.
一人物恐ろしかりしかげ.
皆人の痘たりしに、婆戸を放ちて出て㍗りしに.風烈
めたのである。
即ち浮舟は桂川の伶と尼君とに救はれた。
然れども最早不用の人である。﹃人に見せで、
夜、この河に落しっれ給ひてよ﹄︵手習︶、よし
今や、不用行7りとするも、あらし晋ほ蝶を呼
び、蜂をよぴし花でないか。叉自分も宮の書
き給ひし細を取ら出して時々見て泣かれた。
限らと思ふ命をも知らで、昏き迭わし観を
も捨て、夜毎に漉否し険を排ひ、希望と掛安
■−・β〃 −
取 政 宗 ¢ 中 際 物 氏 辞
何か惜しかるべき﹄︵手習︶と云ひし浮舟の此
ちを得すして悲哀的となつた。﹃ながらえば必
彼が迷の督憶眞如なるを示さんが褒めである
の一大悲劇を去りし後は、出家の心、愈々切に
ね、途にかく不意の︰ともぜ†なり︵わ
。
手習
︶
と恩ふ。拘も彿敦の遺徳にて、其の宗教的動
して常なき世に生ひ出でゝ、世間の祭花に願
ず必ずうき拳見えぬペき身の、なくならむは
機なる掲磨の鷹報は、自己の作わし所以一ぞ知
ひまつはるよらは、林の中に行ひ勤むるに若
式部が浮舟をして、緑汲に殺せしめぎるは、
ら、我自制栽を加ふるのであるが故に、其の
かす、人生は組みがたし、木の葉の薄きが如し
をかへた法師だにあやしき心は失せぬものあ
道徳は自律的である。無明一ピ打ち破るペき知
此れ堂、ショベンハクエルが智を似て意志
ゎ。ユまして女の御身はいかゞあらんと云はれ
と観じ、尼とならたるを、三界の煩悩を断じた
に使役せらるる者と云って居るのと同じであ
ても、頑としてきかなかったが、薫が手紙に
力を以て、四諦の理を覚ら、以て潟愛の故本
ると恩ふ。彿致静人たる式部も、亦此思想によ
は、流石に藻を流された、、而して狙摘む思ひ
る後の浮舟は、叉前日の浮舟にあらす、髪克
ゎ、搾舟をして迷を輯じて畳を悟らせんとし
たえざるは親のみであつた。共の窟変り牌h仏
を絶たなければへ仏らない。
たのである。是に於て宇治十帖は悲劇的をわ
・一一・、・・βノ ー
読六十終 年四筋 究析軌条
あらす、輩端に情あゎ夜あら句々として泣
る。猫わ世俗と同じく、浮舟をばかなしむに
かすとも、式部が輩には肝に一箇の信念があ
も亦、スカーレットレターの牧師が苦闘に若
牧師に導かれ、良心の光明を見るに及ばすと
い。よしや、ジャンパルシャンの棉紳が︼皮
霊を排いわ“る良心の強を思はなければなら住
も、我等は宿世の運命の触蹄を枝ちて煩熔の
一物なく心頭を滅却すい︰ば自ら涼しといへる
と云はしむるに至った。此の朗に於て、心外
き人をして流石に﹃むくつけき御心にこそ﹄
を、蘇なしと聞えてさやうならん人をこそ見
もえしたまはす、心の中には唯赦缶の脚有様
時既に、﹃上の局に召しまつはせば心安く里桂
令にて、源氏君十二才にて元服し給ひしが昔
が、何時しか眞S′箇とh仏つ陀のでぁる。杓法
ぶの殴ら、母に似たる人に同情をよせたの
衣に似たるを縁として、源氏君も亦母をしの
ければならh仏い。如ち其の花痴柳腰の桐衷更
所ぉ尋ねると、此れ亦宿世の罪打ア勺と云はな
き串である。抑々藤森女御の過の因って凍る
ぬ過よら尼となられる撥になつたのは悲むペ
れしは、げに﹃世之介笑西鶴︶も及ぶまじく、
ね、似るものなくもおはしけるなるしと恩は
勝番宮は其の位置を間へば女御にして後に
此心.以前よち、きぎせるをもて、凡才の倉
′ヽ○
は女院ともならるゝ方であつた。然るに恩は
占‘l一・
ーー
畿 救 寮 ¢ 中 語 物 氏 辞
中にも、﹃君には、人一人の御有楼を心の中に
君は、あゎし両夜の品定めの面白をかしきが
野の少旛に笑はれんほど、まめだち給ふ源氏
に﹁物のょぎれ﹂の出でゝきたのである。交
と云ふペし。此れよち籍木にいたる三年の何
づペきにか。﹄
に庇を求ひる世に、いかなる名のつひ漏トい
人の息ひ智めじやは、さらぬはかなき串をだ
参るも怪しかりつる轟のあやまちを、まさに
す。﹃宮の御心の鬼に、いと苦るしう、人の見
疑心暗鬼ぉ産じで、少しも安らかなるをえ
︵鉱業貿︶
恩びで、いとゞ胸駄わ給へり﹄。官立た、﹃いか
御宿世の範心うし﹄︵若紫︶と畳された。され
しき焉にて、人々見奉ら脊むるに、あさましき
ぅく、いかならんとのみ発し乱れて、いと苦る
白斑するや、抹氏君は百方方使をつくすも近
こともまた多い。されば、一旦其の兆なるを
る。其の身高貴なれば、従って苦痛一ぞ成する
しの夢にも、握蹄しなければならないのであ
と天は高く地は成しと維も、かゝるはしは
ども倒潤枚しがたく、叉如何ともしがたし。
づきがたく﹃まねぶペきやう﹄もへ甘く、
如何
なるにかと、人知れず思す革もあも・ければ、心
三思加へぎ汗ば、千悔するも及ぶぺからす
に摺舌を振ひ給ふも、
宮.いとこエ光くもてほなれ開た拾びて.ほてール\て
し。其上に源氏君しば′1相見んことを望む
も、傭天︼度傾けば五色の石も斬ひがたし。
g♂ −−・
ー
披六十弟 年四解 党研敦索
︵児木︶
靭陶を痛ふ倦み給へば.近う持ひつる命鯨桝など、あさ
よLう見寮りぁつかふ。
知られていみしとおばしたり。︵児木︶
絶封絶命の御有様であつた。あはれ、﹃物の
入れられて、次で源氏君も、其の戸の細目に
事を泣いても恨みても、さめ光る心を如何ん
に自覚した。源氏君が多年の才撃を以て、鰐
まぎれ﹄蟻の穴あり、堤防も破れしも、良心既
開き詑るを、やおらをしあけて、御屏風の問を
ともするペき革も出家ない。
ばかむであつた。かく藤藷宮、塗籠に押し
樽ひ入ら給ひぬれば、宮はいとうき世の中を
﹃誠に心づきなしとおばして、御答も聞え給
わけ行く。
︵原木︶
るれば、怯しきものから.いとエうの紛か漁れて、今棺も
あらざりL串にほわらねど、改めていと口惜しう思さ
ふも理である。
の苦心そも幾何ぞや。道心を超し尼と打了り給
はす﹄。賓に沈獣は雄持である。藤壷宮が蕾時
息ひ憎める鼠色であつたが、源氏の君の御衣
の樽を引き与らし給ふけはひし、ごくさと香
ひたるに、あさましく思ひて、見向きもせす、
ひれふし給ふ源氏君哀訴して、見だに向き給
へかしと、心やましうくらくて、引きよせ給
へるに、
御衣.†べL置きて、睦行退き紛ふに、心にもわらす.
御髪ぁとりそへられければ、いと心薫く、宿世の程思情
ひあり理あむ、身を此の間に威して、如何
βヰー
ー
粧 敢 余 ¢ 中 野 物 氏 淋
ないものである。内に源氏君のつれなきあゎ、
の決心ほ、憬厳絡直なるものでなければ出家
なる事の起らんとも過を再びしないと云ふ串
とてしも畏髭はなでられぎわけんかし。
みくしおろさせ給ひて、あはれ父母はかゝれ
ば、以て此の場合に威し敷きを。眈にして、
ち知る、出家遁世し浮倣を拾つるにあらす
る時、﹃御宿世の妾を思すに、浅くは思されぎ
息ふに昔掠氏署、配所の月をながめんとす
外に大后の妬みあり、此の間にあゎて勝たむ
とするには、彼女の理性は如何なる血路を閃
いたのであらうか。
子の国母となゎ給ひしかば、審は南殿の桜に
しい戟。身は兜帝の四ツ宮におはしまし、太
え入わ給ひぬ﹄とは、異なしともほかなし。悲
し﹄を、遂に薄窒巻にて、﹁燈火などのやうに沿
かゝる事絶えずほ、いとゞしき他に、うな名さへもりゎしかど、人の攣曾忽びて、哀にごらせられ
出でなん。大厄のあるまじき=とに、の給ふなる倣をも
去りなんと、やう′1おばしたる院のおばし給ほぜし珠
のなのめならぎりLみ、思し出でるにも、夢の串あるも
あらす。墾り行く世に=そあらんわれ。戌夷人の見けん
も¢やうにこそわらすとも、必す人莫ひ光ろ串ほあリn
心長閑に、秋は雲井に照る月を.鈍ら眺める
箕に臆々として安んゃぎる状態である。郎
と、某に思さるれば.忍びやかにて参り給へり。︵薄雪︶
とさゝやかなる物のまぎれよゎ′、柴引き結ぶ
串哲許されぎらしも、祭輩を極めし御身が、い
背きセん革を思し取るほ春宮見怒らでおもか圧リセむこ
べさ身にこそちらんめれなど.疎ましう祖し耗う忠†る
βJ−
−
飾
四
年
節
十
六
戟
を打破し執着を離れ、掲磨生死の汲も洗はね
ては、︼切世界の運行を以て沌磨に蹄し、無明
する畢を得ると云ふ考である。抑も偶数に於
浮世の紛先に遠ざかれば、しば′1絹臓を脱
ば遁能的である。山静まらて太古の如き虜、
を演じて後厄となつたものとなる。別言すれ
なき鑑念を起して何となるにあらすば、悲劇
の中︼人もなし。式部が、ものせる人物は異
良心の苦闘の窮めに討死する人は、五十四帖
した雨後の月を観る思がする。されば宿世封
のを示したのである。鼓に我等は煩悩を洗推
ある。此れ因果の功鎖の逃れるべからぎるも
消え給ひしは、人をして袖をしぼらしたので
草の庵に竃終三昧に鎗念なく、迭に、はかなく
人はククストの、
に悲劇的最後を見る。叉彼の作を章一び毎に吾
するのである。吾人は娘林子の作に於て眞偶
たる樺三も、死して浮世のほだしを股せんと
くわたる小春治兵衛も、﹃作法斗り﹄と故合ひ
迄残る死顔に泣顔痍すな。埠さじと笑顔﹄つ
心中流行し花かは今私の問ふ朗ではない。﹃跡
て近松の世話物出でしか、は克世話物出でゝ
を見る様になつたと云ふが、然し心中流行し
彼の典林子の世話物出でて故に心中の流行
て善心に躇らうとする革命ではあるまいか。
とする触∵心的状態、即ち藩串を恕畢と心づき
せし人物は、帥ち此淀紫寂静の現にいたらん
彼岸に到達すると云ふのにある。式部が棺寓
βグ ー−
−
究新改宋
♯ 敦 桑 の 申 語 物 氏 滞
;訂享○弓○ユd3一︼阜≡enきT山中穿呈Onごb已二訂
取である。
四
式部の女性観
人間の一年をなす女性にしてそも如何なる
○へg吉良臣e巧−yOuF買わtr㌻mp訂dO孟ユ訂毒Or−d㌧.
といへるを恩はしむ。此れに反して、式部の
作は常時、他力的宗教流行して居つ柁にもか
かはらず、悲劇的最後をとぐる人物もなし。
破して備控に至らんとするを見るのーである。
切の運行を以て掲麿帥宿世に蹄し、無明を打
以上式部の人物は、悲劇的をはち無く、l
換ふれば迷ぃ普鰹眞如と観じたる事である。
数的詩人、寧ろ日本天台の信者ならし事。言を
之れに関して一説あゎ。一は即ち式部ハ彿
は如何にすべき。これ式部が胸中にむだかま
て、家内の和栗を保たむんとせば、家政の法
妃しめらるゝ宿世ある.也もの、此の間にゐト
るにでも、﹃女は心よら前にあほ′1しく人に
ば、﹃百年苫栗依他人﹄ならぎるべからすノさ
ば即ちやむと。既に生れて婦人の身となれ
か。天に斬り地に額ひて、生れて男子托るを得
因縁あつてか、﹃人達英諸姉人身﹄と歌はれし
想ふにH奉天台に私淑せろ放であらうっ而し
らし壁間ならしならむ。彼は両夜の品定めに
此は抑々如何掟る放であらうか。
裁もよく式部が理性を現はし詑るは箕の女性
g7・−・
ー
披六十第 年四茅 究軒数索
於て、此虔に答へて云ふ。それ生れながらに
して杢智全能ならざるかぎわ、男女各一長一
短あるを免れす、されば、
かる中にも、え克む忍び足むまじかりける男の官に仕う
︵雑木︶
奉り、ほかふ∼しさ世eか㍗め叱るべ与まり、餌?っつけ∵も
のとなる.へきな取り出さんにほ放かるべL。﹄
とて謙譲主義をとなへ、中庸圃満を期したの
にかなほねど.見初めつる奥ばかり一せすてが㍗く忍びと
そ・わつる人の、定りが主ょエ几るべし。必ずしも我が思ふ
しひさつくらうべき析王く、心にかゎふやうもやと弼り
べきエるべとすけかりに、同し・∼ば我がカいりねしー改
人の有様む数多見合ぜむの好みならnど.偏にm心ひ定む
もわりわべ与−人の少きね.すさ′∼しき心¢すさびにて、
かるとわれほ.かゝりわふさきるさにて.なのわにさて
めぐらすに、たらほでちLかるベa=となむ.か㍗/\多
叩サらふらむ。狭主家の中に主人とすべき人一人み思ひ
ならねば.上ほ下に助けられ、下ほ上に靡きて串臍与た
されど度しとて、一人二人世¢中わ政りごち知るべ皐
必ず我が忍びにかなはねど、見そめつ声契ほ、すて
でが
ある。
だく思ひとよる人ほ.物まめやかなりと見て、さてトトも
たるゝ女の悠も心にくく推し食らる1。︵祭木︶
ものなれば、世に従ひて相依ら相助けなけ
ればならない。思ふに一家はなほ一国の如し、
山国一人を以て興るも、被治者に属僚なくん
ば治国の策は樹てが托し。−家も又左様であ
る。夫婦相和し相譲るにあらすは家内の和欒
は保ち難し。
︵終末︶
まる人ほ、物まめやかなりと見え、さてたとたるる女の
けて見るド虚元皐己、我物とうち顔むべ与ふ胡ばむに、
多も.心にく1おしほかるなり。
箆ゆ
rさぇみーの人の上どもみ訟り合ぜつゝ、大方の他につ
._8g._
覿 敦 歳 ¢ 申 語 物 氏 源
とで、此鷹にも赤福世詭を主張するを見る。即
である。
にすべき。若葉巻によく心懸をのべて居るの
凱の孟∵ご三かな如しむろ㍗ぐび多く闘呼る、いびもて岬
れ一っ錘の†1てLの′ど﹀h・に、なほたちんぎむかれて、なさ
わがめられかしつかれし人の一、今‖ほなほ′く1しく.下
ことも.覿にふれてさ︰ゅめりかし。昨日よで高皐象に
らぴたりけんビ今り世にほ.†き′1しく乳りがほしき
て.惟に許さるえじき程の=とみげ思ひ及ばnLのとな
ま心な立て1.世の中に過ぎん革も、背ほ人の心平らかに
叉さるべき人に立ちおくれて、弼むかげどLに別れゐる
まじろものなんめれど.かつほ心管しく思ひ軋るゝわ、
くやしげ在ろ革も.めざましき思ひもおのづから、うち
又高き際といへども、女け男に見ゆるにつけて=そ、
ち男子の方面よも見て、﹃女の此れはしもと難
づくまじきは難くもあれば、中の品のけしう
はあら申﹄をえう出で、
今托只種性にもエらじ、容貌をば常にも云ほじ。いと
口惜し。ねぢけが皇しさおばえだになくば、唯物まめや
かに節かセる心¢おもむさ元らんよるべみぞ.終0観み
所にほ忍びおくべかりけるぁまりのゆゑ.エし心ばえう
ち添へたこんみに.エろ=ぴに忍び.少し後れヰ、トろ方わ
らむをし.あセがちに求め加へし。後安く¢どけさ伊退
くば、うほべの倍ほおのづからもてつけつ.へさわざみ
や。
て千坂の女をすてざる如くするのである。さ
痴漢をのせて走せ、名家をはづかしめるもの
普時鼠俗浮葦の世、やゝともすわば、駿馬
7一㌧仙骨同∵事互り。
ほ云へ物まめやかに、静かなる心のあ・Uを望
あわて、黄賎の別克く宿世は計りがたきもの
その煎餅を似て長所をすてす。二田の政一で以
みしなゎ。然らば女子は男子に勤しては如何
_ ββ _・_・−・・・
披六十筋 年四筋 究研敦完
衰ふることあゎとも、自らの過とはならすと
念して螢枯と共に盛褒を同うすべし。かくて
ば決して他人に見ゆペからす。之れ宿世と観
る所は知りがたし。されば一度其の夫に簸せ
としてぁつ柁。意馬仰いて白目暗く運命の至
致にうる断ゎりL一ぜ以て㍍らん。彼は若妻巷
を悼まん。其の性総によるとはいへ、儒怖二
くー熱度を甘囲めしものを断乎として斥け捏る
ゎ、何ぞ道長が格安り、六盈妬に渡りて、いよ
考へたのである。式部は眈に普時此の決心あ
ら、婦とならでは二夫に見えぎるにあらと
自らり心エリ離れてわろ.へさにわらわな、思ふ心エ
しく.身のもてセしなりさまおしほからるゝとセるを云
リ前に人に、も見え.宿世の程兄やbれむーいとかびふ\
りし
い人山セがらひにてだに、わほつりく心づさてさ︰とな
身にほま†=となきま†と壁l少るわぎなる、おーiしさた
人トム粧さこ〃にこ、心づからの忍びわぎし出ヾ㍗ろなむ、女¢
lこ、ふと打ち抑さつけ㍗る租ほ軌に知られす.さろべ皐
ほ、かくてもわしからざりけりと見ゆれど.七た㍗中∵まら
﹃わリリて.=エ七き*鋸わり。めや†皐︰と巾︺るわり
に前文を績けて∵ふ。
て経き宿世訣よ人ソいでたる貞操を主張した。
日く。
﹃粒々につけて宿聖など云ほるゝ事ほ如りか㍗きわざな
れば、萬にうしろわ㍗くなん.すべて慧くも築くLさるべ
き人¢心に、ゅるしおき㍗る倦にて、世の中わ†ご†ほ都
債にて、後の柵に襲わろ時tl自ら¢わやまりにわちす。﹄
而して此の宿世にそむさ、︼且の備にほだ
されて覿に知られす、さるべき人もゆるさぬ
をもきかで、弘びあふは式部の最も背徳と知
−允る併、女子辞−の翻艶は魔女の帥染を守
…ン0−−
級 数 宗 の 申 語 物 氏 涯
ふ。
︵若葉︶
尭・乙侍るかし。
︵林木︶
なけれ﹄ば自由の中に制限して、以て中庸を
にて﹃繋がぬ舟も浮きたる例も、賓にあや
るを見る。一に白く宿僅、二に日′、謙譲、三に
保つぺしとの考をも知るお得ペし。かくして
吾人は式部が女性観中三つの重なる思想あ
日く中庸。此等は皆其の根本主去より出づる
初めてあだしきと、しふねきと、さがなきと
の両様を執・りて用ゆるもの、.卿見なくしてな
此の主義を姦捕し軍。されど中なるものは其
卦に現はれ、世々つたへて子思に至♭、大に
て支部にあゎては、中なる思想は水火既済の
てそれをば、中をうるにあらとなしだ。而し
以て吾人の職分を各うしたる働となし、而し
やすきものなら。アリストブレースの車両を
妾するに、中庸なる思想は、人の心に浮び
を脱し得ぺし。
ものである。何となれば夫婦の遣は見そめつ
る契を宿世とあきらめ。
少し後れたる方ぁらむも、あセがちに求め如へじ。投
︵葦木︶
やすくのどけき餅だに強くば.上べの惜は白からもてつ
けつけ与、わざ.
捏了りとの思想ト・盲、英訳譲にして相互依臨す
べきものと考へ知るべし。
すべて筏寄なだらかに.怨すべ与わは見知れる故にほ
¢めかし.恨むべからんふしをもにくからずかすめなさ
から治りもすべし.ぁまりにうちゆろべ
ば、それにつけて京も射さりわべし・多くほ我心︵男の︶
も見ろ人︵女︶
見放たるも心安くらうたさやうセれば.出ち陛き方にぞ
・・一一 夕J−
節
第
十
六
披
年
四
究軒数余
うすべく、鬱線節すペく自発転むペきも、中
し得るものにあらす。謂ふ所、天下国家は均し
具の性質なる訳読の徳よら出でし光ならん。
中庸主義ほ何れよ・り凍りしか、第︼は其の本
の法華罠わ訂しならん。果しで然らば式部が
彼が人となり、焼場にして淑徳なる、轟も
庸は龍はぎるものなゎ。
さもあれ、﹃上は下に助けられて、下は上に
福なる生活を法るは、彼が理想となせし朗な
其意を現はせゎ。斯の如く相依り相助けて幸
とは云はぎるも、其の行文の閏に彷彿として
ならぬ式部は、中に知見の件はぎるペからす
物まめやかにて互に和栗を得べし短倫理学者
つる契わばからを捨てがたく忠ひ止る人ほ、
すのみ侍るめるよと、やうやう人の開きめて
にぎえがりぬる人は如何ぞや。はなやかなら
紀7りしかば、名草やゝ籍甚たりしほど、﹃男だ
やしき皇でさとかゎしほど、勉別にして猫記
頗る頓にrりしも、策女は其の傍にふ∵りて、あ
部の兄、式部丞恨規が史記を習ひし時、㍊憶
ゎしは、夙に其の幼少の時に現はれた♭。式
靡きて﹄あれば、天下ほ泰卒なるべく、﹃見初め 長所を於るの心なく、身を持すること猫飾な
h︰ぎ。常時畔薄の世の婦人は、あだぐしくさ
彼は、︼といふ文字だに、かきわたし侍らす、
いとてつつぁさましく樽さ。J︵日職︶
がなく、しふねきもの多きを以で、蚊邸を戒
め、あゎし爾彼の晶足は、紋頓に耽りて梯変
ー・・ 夕空 −
斯 敬 宋 の 申 語 物 氏 源
といひて謙遜するにいたれゎ。似て式部が内
省的の内気なる性格行γりしを知るに足る。又
ならひもてなし持去。b
へ日記︶
似て其の用意深きを知る枇又日く、
﹃†一へて、人ねもどく方ほ易く.我心を用ひん=とほ払
かんめるわぎか、芸ほm心ほて、まづ我がさがしらに.人
み互与にし.恨みそしる拉に.心の趣のみこそ見え侍る
源氏物語を作らし時、或ほ敏捷艶妖、誇母性
卒、才詞換螢、男子を愚弄して障る朗なく、
めり。﹄
くき人物とすら思はれたり。而も其の温容に
式部の才佳兼備一軍賞揚したるを怪まうか。式
之を以って駁すれば、誰か七諭の著者が、
︵同上︶
白眼女子を冷笑して忌む朗なく、隣る交りに
接するもの、等しく式部が眼青にあうて、始
部が中庸主義を以で、糀り其の性格に蹄すべ
釦ちれ日本天台の減数であると恩ふ。
であるが、而しもとの経となつ克ものは、是
きであらうが、此れが因とh仏つたのは元よゎ
めて其の人と打アりの温順なるに驚きしと。式
部世評を記して、
﹃いとえんに恥しく.人に見えにくげにそば′1し与も
まして物語好み.エしめ与・歌が先に、人な人とも恩ほす.
如きも法身、般若、解脱の三徳を以て之を説
大師俳限を以て儒教を解し、大撃の三綱領の
ねね㌣げに見おとさんも¢と先ん一骨人々いび忍びつゝ 今を去る啓二官験年前、支部の僧籍、益1
慈みしみ、点ろにほ怪しさまで老いらかに.他人かとな
と見おとされにけるとほ思ひ侍れど、圭ゞ=れぞ親心と、
ん畳ゆるとぞ皆いひ得るに恥しく.人にかう碧いそけ物
■・・・・・・− 9β・..−・・−
戟六十終 年匹解 党軒数宗
本天台にして、間接にはゃ府の〝助曽受けて居
諦に至れ・りと云は乙ゝ、式部の正接影啓は日
にーーl造である。果して然らばー∵聖二租の妙
ある。かゝれば大壁は、ふハ党にして中庸は賃
き、︼環三詠一心三鋭の妙理と契合し化ので
始や、厭−建的打7りしも、基の彼や日本天台の
ある。紫式紡が人藍親を以って見るに、其の
もなく打ア0・﹄とで、椚邦天り暁に到わしもので
さ克すぎて後は、﹃肘這厭はしきこと露はかむ
へ、水鳥の安き心は叛かゎしが、年もねび桁き
作わたのでぁる。幾五たくして上東門院に仕
信仰に聖天的となつたのである。
るは、ほぼ耶か㍍事である。
之を要するに、最愛の夫に死別せると、中
開自派の悲劇とによゎて構成せられし最初り
厭世忠恕によもて、浮壮をば、かぢしみ陀か
とするも、閻致の思想に威化せらるゝや、
迷の瞥捜異如と観念せるものではあるまい
か。而して況語は、方に此の過度時代一ざ示す
もの、これを以て式部は一面客数的人物を描
為し、他面において、悲劇的取風なきものを
ーβ才一
鶉
畢界彙報
地蔵・金剛手︵現貰救済敦︶
の六大菩薩に轟牧
し得ペきものとし、大乗経典は此の傾向に低
粂ねて兜京帝閻大串に於て印度哲夢科の詩仙として盛かて其の特色を撥揮し凍りたるものなれば、
本論文は、序論に於てば、菩薩大乗の意義及
︼著歩として本論文を起聾したむ。
之を攻究するを大桑経典史とし、其の大成の
名わ畑し骨盤大長氏、同字非伯詩氏に眈に夫々論文わ投
出して文革博士の革位心持られたるほ畢界の知る所な
り。今や少しく遅延ぜるわ遺憾と†れども.左に両氏の
論文審査報骨み鵜げて令息に報道守ろ餅ぁるべしJ
成立を論じ、本論に於ては、菩薩系偶数の特色
を攻究せんが負、其の成立山系統に従ひ本社
文撃、彿俸文撃、般若系、法華系寄の諸種典
著者は大系僻致を活躍せしひる動力は、菩
論述する所J明り。別諭に於ては、自ら見て以
不二租等俳政教埋の重婁聞損を顧慮して詳細
︵序論.本論、
常盤博士撃位論文審査の要旨
大乗経典史
薩の現念にあゎとし、大衆菩薩縦の蔵版史は
て大乗経典史上、最後の光彩たらとする梼巌
を捕へて分解詐砥し、終始帆身観、縁起廠、
帥ち大桑偶数の澄展史石仏りとし.共生系哲滞
粒の特別研究な鰯したら。
別論︶三者
勒■取普︵往生渾士致︶、文殊・普覚︵現生彿敢︶、
夕.;._.・...・・..
一
戟六十節 年四解 党研敦宋
問題経典の系統を類別組織するに雷わて薯眼
討究し、重要の諸問題を判定する鰯に、諸種の
き所なきに非すと維、大乗係数螢罷の系統を
として提出せるも、共立論文と相関翻し若く
せゎ。此両論文は今之を参考論文
陀並に車常任論との関係﹂と題せる一編を出
八年﹁宗教研究﹂に於て﹁詳論正埋嗣撃派と吠
︵膵論哲学︶と唱せる一冊を公にし、次で大正
の瑞創的捻る者少しとせや。其の論断亦率ね
は相補足する所多く、賓際に於て分離すべか
本論文中、放棄の異に於ては、異議を挟むペ
正鵠を得たゎ。仇て著者は其撃椙及識見に於
らぎるもの禿て㌔
派の成立、何勝論髭の製作を論じ、之を紀元
勝諭哲学思想の起原、拘其の成形、勒膵論学
岐せる所以を述べ、︵二︶本論に於ては先.つ判
代印度思想が、正統、非正統派の二潮流に分
本論文に於て、著者は、︵一︶序論に於て古
二、二、︶
て文準備士を授くるに通常なるものと鵠む。
︵大正一〇、九、二二.官報抄録︶
宇井博士単位詩文審査の要旨
膵諭哲学派の匙原
及其の論理説
勝治尊顔に関しては著者は、大正七年、寵勧前宵五十年頃−チり紀元宵五十年頃に至る期間
に於で、﹁ゼ・ゲイセーシカ・フィロソフィーの
﹂活動となし、次で起れる阿藤諭の組織的研
9β・−・・・−
−
界
報
究、何勝諭常襲の獲化を紀元首五十年頃よら 想、研究各方面に亙らて本番の如く詳説せる
千丸首年に至る各時代に就き詳述し、我国の ものは他に其の額なく、本論文提出後に於て
之に此すべきのみ。殊に膵諭十句義歯の解詮
みに存せし膵宗十句義諭を膵論定盈中、正常 公にせられ陀る和蘭ファデブン氏 の著昏は棺
の地位に配せゎ。最後にm膵論に於ける論理
*
*
大正十妄こ
めるものてぁつ㍗。速くなく.近くなく、賀用¢飽り嵩ま
串になつてゐて、その場所の邁定ほ少からす幹事の痛み痛
み開いた。従衆竣餞骨にほ放行とか見革とかわ食ハて開く
月廿六口.本年終掟すべき八名の本巣止諸兄のため澱餓食
東京印鑑票教笹合〓月浄餞大倉
*
なる畢カあらと組む。︵大正十ニ∵︼五・官報抄録︶
て著者は文学博士の撃位を授けらる1に十卦
評論精確、其の諭旨大に見るべきものぁゎ。防
之を要するに、此の論文は、金綿考音該博、
設を解改し、現畳、此畳、誤謬諭、知散の卦 に於ては他人の曾て指を染めざりし所たゎ。
頬等に就き膠論哲畢の艶議論的大要を馨げ精
細に之を評論せゎ。
其の参考論文中、︵一︶に於ては勝諭十旬義
論の著者の年代、及之に関連せる牽派語租及
件数漁師の新改に耽て詳論し、殊に十句義諭
の本券を詳述し、其の詳解を加へたら。︵ニーに
於ては非正統顕の代表たる膀論立坪両派と、
正統派の主脳たる吠陀諭殊に登諭背撃との関
係払論究せむ。膵諭哲撃に開し其の歴史、息
・−・・・タ㌢._・
披六十節 年四夢 死軒数乗
御殿並に所裁の数多き英衡=抑小暗に本朝悌婁俳橡等わ符見
紹介にェつて柿沼本牧三荘園、原富夫都民に乞ひ∵鱒邸続出
ほ比較的容易に鮭紆の地わ柑・わ事が出来た。黒枚数授の毎
ない糀に計窒†ろ事ほ算瞭に容易¢串でほぉ∴㌔
大熊.芸ほ、小野島.中野、宮本.比屋根.小出.大友氏
藤本、常原.濱田.宮坂、蕗招.金山、石川、金倉.三輪
如輯.石原、菅生.長井
如し〇
せて四十二名来脅し盛骨なりきぐ
故大草赴任造別せみ簸れイ、開催す。先生.先鞭、畢生.合
今岡.矢吹、和田、拾木、千温
苦日生光る出席者け左り
する挙が出衆た。場桝としてほ泣くなく.又近きに央ゼナ、
箪四十二名じ
併し今年
何かも景色の膠れ㍗山と溢と在拉へ小二二渓園に牛じり措遊
の在りし昔を今に偲ぷ事の出蘇ろ螢公常時そ¢まゝわ庶民
わ得たのほ貿に感謝り外はない。人L知ろ桃山御殿ほ世乱公
副群部数授オ・ヅトー・ハノ︰−氏み招し、二十四〓︵水︶午
五月例倉
蓮の下に.か閲読坑骨︵英語︶を催し㍗リ。筋目の衆甘栗ド、
後四時エり法撃部第三十こ番歓室にて﹁死後り史企し王ろ硫
敷近東靭され‡。楓逸、三!ビングン大草
い名覧などの陳列されたのは、如何にも抑臆しく、一つ一
が自邸内に移し建てた∵bのでぁる。此¢由緒みる御殿に古
つ記鞘深く感じられた。
笛日参椒ぜるLの約八十名.その土なるーbのほ村上博士
鷹谷.原〓.小出.其¢他車業也及び一箪抵粟官八
貼時政投、石橋助教授.失吠訊価、長井訊帥、損木、金山
九十名也。
江上
高棉怜士、姉略博士l佐々木博士.和田博士、藤岡位士.
原氏ほ令息一同に封し殊に塾生祐川志して下†つ㍗。三洪
近く
踪斬ぜられナ∵0木村泰黒松士の歓迎骨及び新に文塾禅十と
大月例魯衰木村・補永・両博士歓迎祝賀禽
於村博士、字井岬士、島地大牢氏、矢吹駐韓氏等でちつトト.
園の童恵右前にして食卓な間み感謝の′念禁じ柑なかつ㌣。
互れろ本曾員.郁永茂助氏の祝賀毎食H、不Jj例合わ八日
仰ほ橡餞食味鼻骨ほ大歳海梓松漣本店に開き、東食者ほ
村上.高柿,如略の語数授を始め筒先難墜生約三十名で甚
同四月例倉 田月廿六日︵火︶牛後七時エリ山上御殿に
粧.矢吹.萩原.佐野専蹄先生及抑永.和川∵鈴木︹宋︶.均
者罰光るものほ高鵜.村上、木村.石橋、字非.松村.甘
︵木︶牛後六時エリ山⊥桝殿に於いて開催セリ。骨⋮日り衆智
だ威令でちつた。
於いて新入生欺鱒官.佐野詩師新任紀袈i和Ⅲ副手京都併
−クg −−−
新
わ
介
約一時間に亘ろ外迎談ぁり九特牛散骨。
坂本氏泰盛産十一名.合計四十九名。
好.山田.山本.宮本.小出.藤由氏等諸冬発生。上野.
宮、乗.石川、金山.野原∵二輪.大熊.金倉、芦澤.三
中︵鶴︶.植木.栗原.吉昭︹尭︶.干潟.濃連、阿部.脊原.二
又ほ紳秘な立とLないで、敢骨的に又科挙的に袈際の感化
類文明の賄衆わ指導†ろに足るといふ宗致ほ、紳寧や数理
足る好著作でわる。而して著者が、比の一時勢に適地L、人
完敗m由との闇頓について考へる人々の一改ん二嬰求†るに
晰の笛減Tほ、比の一番にも追憶互ノ、現ほれ、拙骨問題と
る宗教の佳麗定︼々詳述してある.著者の種健な畢凰と明
もだといふ考を粘くであらうが、さて逃しで.現代配合ね摘
ものならば.大抵何人も、本意の所論についてほ.確に尤
る。﹂て=で本革み祖む汀人で.宗教について訊い考を抱く
敢骨の共同生活わ村塾†ろに足ろもの上るべしといふにぁ
救済を輿へるに足ろもので.その大本ほ沈く人朗の和親.
曾暗中.柿永棚士の拶挨及び感想談わり、木村惜士の食後
′至−ノー11′l−−ノ・l−1ノヽ−/l−ノ,/く︵lノぐ・圭l
新刊紹サ
エルクード薯﹁京敬の改造﹂
骨の評更に臆すべ与ふ不敬ほ如何守る宗教たるべきかといふ
られて屠るエかサード教授の新著︵本年四月出版︶、現代赦
﹁敵食間圏の改造的解梓﹂や、﹁杜骨心理畢﹂で訊く日本に知
いてほ解答右輿へす、又僚りに注意が不足でわるといふこ
蘇たか。比剋の旅叩か綿々生じ、而して本音代、それにつ
れ以上に敢曾㍍発根し.帯新†ろ原動力托どこから生じて
める根本ほど=にぁろか。祀愈に適地すろと共に、久ほそ
足りるや否や。宗教それ自身りカ、.人血み感化し感激ぜし
音C・A・寧wO箪
見地から、㍍数の改造わ連べた連作でぁる。努現、先づ宗教
てほ.本番の所論ほ.穏髄で且つ並沙的て.且つ用意周知
乾する方而が多く.それ以上に憲政がそれ箪などう動かし
全線として、宗教が政令挙措や科挙の眞故に組
とわ発見†ろでわらう。赦骨単上の見地から見㍗ものとし
に封す
であるがき
に於ける鏡数の意義。大砲を現にし、現代文研が非宗教的
の諦方両︵特に家族.経済.政治.娯楽に閲して︶
特に非キYスト主鶉でもる事﹁付痛論し.それ巾〟ら統合生酒
が火改造叉ほ革命わ要すべ、子︰−から出敬して.祉骨盤活
SO軋010gie已5e字
し、又文化の損綻を救ふ使命わ帯びた浣欽が、単に﹁配合
つhe ReeOnSぎ註OP島Relig⋮On︶ 草p
に邁漉し﹂、﹁科畢に準佃しし、﹁人生を脚薄に†るし だりで
−・・一 夕ク ー
批六十筋 年四夢 先研敦森
て行くか、叉行くべきかといふ方蕗の見地が炊けて罵る。
に沃抗して愕挿ハに.ヤまれ、悍甘的∵、サラマンカ大串り粗長
なつて.その信仰を魂とL魚たしつつヒ
圭封劣り人格そのもりが︰縮合と守って現ほれて杭情る︶
著者
ほ哲単著でほむいが、モり信仰か・ト出︷ト人生乱ほ、詔にl少
る﹁字盾の意識﹂たる個人魂り中に紳わ費且し.鴇瞼てる
l
で清ながら、故冶上?︰日出に*ぺノr㌔唱へてべ、恐に拉ゼられ
汚かも放骨¢数聴
本啓ほ、近い申に円本語に課出ぜられる等で.そ、れにほ本
邦学者り評論詣も辟ぜて出版亨bれう。
クナムノ茅﹁人達の悲壮感﹂
原著 イスパニア語
比等の忠恕
初に、鰯膏停泣が巳に蛮約・新約両黒番に見える革み、
︼昔J・−賢ごer・
出⊇n駕−ise訂買ssぎlSkll已e●
リヒテル芽﹁申昔相違に関して﹂
叫びでぁろ。
感慨.感揖.性放ね鯨トトh¢が本書でわつて、云ほヾ魂り
故へるが如き廃止的不滅¢ぁる現に反抗∵るし
紳と人と¢不蹄の創作成長にわ一心ね主張して、iE托舘☆¢
滅黎求な生ぬとし煩腿としつつ、他方でに叉..Iト㌧肯不滅に
ら出るといふ軌小結み歌ひ用†。若者il、一方l︰用人魂の不
変ほ却て摘み¢中に牢じ、人生の員他に悲捨悲批り饉脇か
て居る。斉老ほま㍗同時∴詩人としイ、人生の愛㌔し昧ふが、
中に、抑圧叉.舐れを念じ粥れも作り脹ふ﹂との桟鋸と五つ
系の宇宙耽となつて唐芸。﹁若し紳が楽在ぜすば.我が魂ほ
英繹 彗完ゴ品訂Ⅷe慧化︵−﹃㌣⋮芦
彿謬−あ茸己−莞n什t︻・還i︵−喜計㌻5.eO 餅一▲せ別件ゼんと甲憲筑込に.又﹁我れ紳キ念じ如ふ作る心の
出Y l︶富民⋮g篤〓訂已mコ岩n〇●
﹃人生の亭鹿で.偶人各日が抱く魂の負燵ほど稚かセ輩異
はなく.而して如何なろ個人てら.その生の永久不朽なろ
ことわ望まセい者ほセく.此が人生¢滑了べからざろカで
ある。然るに、人生にほ極々悲惨軍のあるのみならす.理
性︵特に科挙︶ほ不滅な否定ぜうとすろ。比が人生の最大牢
内でぁる.叉悲劇でぁる。何かも、人間ほ此の悲劇り申に
却て力み符、理性が香定†れば†ろほど.そ.ルに反抗Lて
不城ね主糞し、不滅に封†る信仰しし希望とで活ふ=る。比に
大隠の趣意ほ此の如くでぁろが、本啓の特色ほ、その論
人並の抱本革貿と宗数倍仰の源泉とがぁる。﹄
旨エリも.著者の熱血が全蕾に罷って居るにあサ。バスク
撞①イスパニア人として.ロマ公敢¢信仰が血と叱り肉と
J¢〇−・
ーー
新
介
日本駐在英図大使なる氏豆.彿敦研究家としてL澱て合
間のあろ篤撃の主であるが.一九ニー年、ロンドンで出版し
捜官尊.詩筒、キサスt、が一口等み引証して詮接立て、
次いで鱒琴望監禁蒜忘的に記明し、更に失な封蔚、方法
のによろと、既に一九〇七年に、比の著に取掛つ上ので、世
上のが此の著作でぁろ。﹂ノレアエースに若者が云って居ろ
界大戦の起った年にほ、略ば完成して居つたらしいが、倣
原始民放の宗教から詣印鑑思想.沸教、何故箪の東方の宗
改み研究し.宗教り拓也が蒐にキ,ス一致に在る導か立脱
地九㌧麓行し.北部支那.モ︶∴ユやヤ韓をし観察し、文献り
儀ない事情の盗めに∼七駁が迎れたと云ふ。氏ほ煙け印度内
撫好時に分析し.それからキ乳ス一致以外の宗故について、
キりスト敢闘を姐設しうとの考が、新改の勃興に刺戟され
して、似て愕迫の現川としてゐ一石。斯くして取捌以外の地に
衆そ¢用語に国雄な感する麗でぁろが、氏ほ英語に基準な
外一卜舞地踏査に依って研究み怨めて㍑ろ。印庇研究にけ由
置いて.モれわ狐泡語.彿甜語等に併て萩め、英語の淡者に
た蕾欽申に起り、比に稲守倖遺の火益わ切り.その頃から
み流れて東方印姥に東リ、支部.日本.朝鮮に及び、更に
菟増して衆た航海術に乗じて四部アフりカから迂祖に迂弛
藻洲.又一方柴犬既に及んだ串わ辞退してゐる。
若者の停放の然らしむろ所として止むを給ゎ串と思ふ。専
め∵特色でわらう。采軟伊踵馳をキリスト教においたのほ、
で.之ね三谷に分ち、第l巷三四五京.第二巷ニ〓一二束、
の可及的結果み辣恕†るものでもない。仝貢敏一〇七九貢
の一般的許慣ゎ奥へるのでもなければ、=れ等宗教の現勢
それらの放題の主に跡づけろ払わで
著書の口約ほ、印度其触り琉歌む歴史並に塗近か、娩出の
・・“り一語の文学に韮く琵にL.飴粗悪か川ゐて居る。此り
誤謬み少くする方法み探って居る。叉サンスタサッーや、バ
大硯公平の立塩に節を起し.殊に許鮒の印鑑〓仙想.更に
門的新盆啓しししての慣櫨に椙してほ相常に談論もちらう
第三巻凹六二貢とし、第三巻の於り五〇京はインデックス
支那忠恕に射しても.綱常の窮死ね提表してゐるのに本番
が、キース一致の停近事共に繭して、参考上†・個に好適の物
節隋。第二窮
田.巴別語に於ける除数。
第一窮
色二二筍
印度原始宗政一般的考寮。箪三
わ附記してあろ。陣容の概略か衰†と次の加島ゝもりでぁる
た易革ほ倍じて凝ほカ所でぁる。
ユタオット著﹁印度致と怖教﹂
−Hindui払m巴l一班ロdd≡sm.
出︸S首C−rarl監ヨie㌣
ーーー・・・・−ユOユー
故六十弗 年四夢 先研改宗
筋四編 大衆致。第五囁
弟こ怨
第三巻
印度に就いて。
静六前 印圧以外り地に於ける怖故。節七撮解禁空間洋
〇〇︹L
ヨく
僻持論に於てほ、二十五項目を費Lて諦適し、其他¢商
票数の相互影響に就いて。
︵鐸一協骨由︶
わ各軸別して熱心なる研究中更衣して居る。
エルクード著﹁政曾心理撃﹂
An IntrOduc訂−−tO SOe㌻l憎肪yごーーOl品y.
本尊は東京帝関大串訴輔文革士佐野勝也氏が釈許し、妨
内容の概略わ遭ぶるならばl
先づ其の節一発に於いて.
軋骨科挙の作質み述べ敢骨心理と、軋骨撃との陥係を述べ
東リ∵鱒曾鑓清は本質上心鱒撃的でちろと論断し、祀曾心比
じ.弟こ串にて人間虻甘¢起源埠に就いて詳論し、第三や
率の方法に論及し、批曾心配と他の紡科撃との願燥み講
に於いて人間り天性に園丁ろ誤れる見附わ正L.配骨に於
ける本借.習慣感情.如カり役じを述べ、個人人心の鮎骨
的性質、取結にこ於けろ儲鋤的諸原因に放いて設明してる.
第四章ほ.敢骨膜園の紋一文ほ∴楕合の心理的性質み運ぶる
に姶り、赦骨協訊な説いて其の由りみ正してる。節玉串に
C︸l弓︼誌A.舞〓w
してる。節六事ほ.鉦令揖班ほ.紐〓時間に於けろ祀曾統
於いてけ、吏らに推骨払訓告票掴し即結のノ形式にまで論及
一でぁると述.へ、楓督.倖承.れ曾心.模倣等わ詐適し、
解約絶食及び文例に就いてほ.ロブス教授のアメリカ配合
開討訊の作用.輿論の穐成及び作用、祀母指暮の作用時の
に亙つて.軋骨問題や其の哲釦に用倒なる注意ね排つて居
略博士が修正み加へられ㍗ものでわる。原譜宕ほ扱く世界
照隙間捷に論及し.膵史上り危期.及び建設期わも視き、
詩的批骨変化の形式エリ.意諷的旺曾星化箪ふ説いて、公
†る防の様に思代れる。そして此れやがて、同落着の﹃虻
取らに動的配育と文明な諭し、動的文明ほ軋骨生餌と努化
盆括の五大特徴等ね蓼げて設別してろ。第七事にてほ無感
骨開運の改造的竹澤﹄の基碇久ほ背放として鵬戒礎の一に加
る人だけに、其の諭する虎ほ常に貿隙間題に搾絹して居る。
へられたと飼者の序に云るてぁる。此の漕の目的とすス廃
八現にてに純分の不動柁LJ其の要件湘に親犬な論じ.斑逆
し行く問に平衡状態左確立すろ歩でぁると結んで居る。第
嬰縮約侶値ほ勿論でぁるが特に此の鮎が比の番の慣伍の′存
ほ原著の序文にも云ふてぁろ如く、人間の虻骨生活み、心理
の心理み巧みに設明し、迄に文明り逆栢ね斡じて、所作紙
的捗光として研究L.祉骨の措妙と人心の拾餌との間に存
する班接七櫛絡み別に†るに在る。
−−・・・・・・−・・ヱクβ■・・・−・・−
新
転
介
困民に俺醜を促してる。第九章にて托.本偶に随†ろ研究
を或は歴史的に.或ほ心理的に論じ.本篤と文明との関係
㍍㌣㌍ソl原著﹁少年裁判及監視制度﹂
現代祀曾の法徳に鼠づいたものの、姶んど癖疾の如く老
︵蹄一協骨繹︶
︰れね見.其の上、文明上の関係、知力的指導の役目を論
を特に詳論し、更らに知能に闊してほ、融合的動因として
Lない=とな悟り.戯に方向わ軸じて.ヒリヒリ少わ匙めて
年批年の誠に=ぴりついて.到底これな治癒改造し得べく
行かうとすろのが硯人−の批骨串業、如曾政策り火勢ヾぁろ。
じ.知力ほ敢骨的遊歩に軟く可らざる所以な述べてる。節
との瀾絡み明し、嗜元の心理に論及し、模倣ほ赦骨秩序.遊
十華にてほ.棉倣の心理.桔放と暗示及び其の他の心的過程
産問題中で、更に絃心とーⅤつてゐるのほ労働妃放と不良見
立とである。在郷不良少年り取扱▲L関しては.漸く進んだ鹿
放つて自ら論議や強行の中心鮎ほ見栄関越でんろ。その兇
で乳化ろ隔離主義でわり、多くの一人は盟に=れか瞼慈し侮
歩の︼嬰粟なりと見てる。節†一章に於いては.同情の心
及び進歩の動因として之れを見.叉同情と種族意識との聴
和上り敢骨み同情として見る嬰誼み峯げ.政令の秩序維持
絡み仔細に執務して居る。弟十二尊にてほ敢骨的秩序の抜
て裁判こ於てj㍉不良成人に封†と同株㌔取扱びわなし、眞
蔑し所謂腱教主義的写冷上さな以て射し㍗のでぁろ。従つ
に各個の一対象見強ち考へてやるもがなく、圭ゞ前懲治定の
本問題な論じ.祉骨制御手段としての政治.法律.票数.
弟十三牽に於いて托社食進歩の問題み蓼げ、敵曾遊歩の放
々冷酷互らLめ大股互らLめ、悪辣王らしめてi−たのが甘
裡に憫伏ぜしめるのみ以て麓としてゐた。かくて見食み愈
道徳.敢育等み箭じ.最後に術突と穀倉秩序に就いて述べ、
念み述べ、更らに進歩と人類単.地推挙.生物畢、紙済螢.
ものであった。
である。=の関越ほ早晩浪費から深く論法さ左べき惟質の
心理嬰.統合.1革等の各方簡エリ取察して.最後第十四葦に
人、銀閣.敢骨の隅係粗筋じて賂りを骨げてる。
於いて.社食契約詮、有機設.融合心理記等ふ列笹し.個
て.研究者の伐に供して居る。全文極めて嵯快に課出ぜら
如何に連用すべ■きか.ま㍗少年裁判所にて取扱ふ見丑.特
イ︶▼は=こに見ろ虚がみつて本番な蕃ほL.少年求刑伊豆
バーナード・フレキスナー.ロサケヤー・エヌ・射−かドッ
れ、評者の手腕と努力な思はLぁる。仰斯の如き売笑ぜる
に感化院に行かぎろ見墟み保護†る㍗めに.監税制度み知
金賞国有凹十八じ最後に各帝毎に一々参照附託み附し
内容を持てる良皆の出版を感謝しなければ元ら乃。
■・・・−J¢∫−
餅六十肪 年四解 党軒数轟
何に確立†ヾさかを知らしめエうとしたのてちる。
要素︺せ取扱ふ親しい個人的∵用係心拍†∼、¢なのである。
而して監親とほ見蛍の生活り仝婁素.特に見並の款匿¢金
其主㍗る職分もー良好∵彩管拭刷化り鱒で兇虫な取囲む=と
まづ少年裁判汲の根本惜紳み論じ.見立ほ見藷自ら作ら
ない事倍の群発として裁邦併に出頭†ろものでぁることみ
で、しかも見登の生防.家族り間組.地方の一虹骨的放態、祀骨
カの利用穿に通す.へき先のでわる。監就の泉既約方面に現
を解するのでぁる。従って監租甘ほ品性、人格.資力わる人
救代る.へよもりなる=とみ認めねげ元らす。捉て国家に詑
しては、琵甜串捗り飢持.既成方法り二幸に於て斬る辞郁に
エく僻が呑み込み、見渡ほ拭家に対して通常なろ色々の請
関所な通じて見生り邁欝な訓練.教育.矯正に父として
琵いてわろ。附鯨にほ特に摸航的少年裁判所法案、犯霹或
求撚を布†ろこと.国家から鹿罰されるので克く、むしろ
行動†べきものでぁると喝破してゐる。而して一簡の不良
具蹄集み例示してわちJ
ほ放任の助成に対する法案、何UJ武闘、管理裁邦餅規則等¢
革に常田の犯罪方田のみ
の牲臼虚位を以て足れりとしてはなら乃。耗砂軟骨労働.
見蛍な眞に生かしむる㌣めにほ
その伸.報告と統計の′族例作ほ等ち記述してちろ。とにか
よ圭新しい考の上に築、き上けられ㍗Lのてぁろだけに、柁
く本番ほ此のノ方面に於l︸ろ敢も拡ったLりの一つでわり、
放任近情みも綿査†べく、故にこ少年裁邦餅ほ義砂教育法、
有†るまてに梯限を城東ぜilばならnと云ふのでぁる。
松
闘
訪
韓捕
の研究に抱く=とほ、興味わり、且つ鞋渠†べき=とてわ
久しい:とでぁるか、近衆拡地の窺稟.思想家が競って、︰
係数が撤洲人の手にェつて研究されて㍍る︰とに比に紺
友
工ルソニスト・ホフ†ソ原著
摘餌紬硝偶数の根本思想
著作でわろ.誇ら手に入ったものて振る別似でわる。
々の翫に放て開くペきもの多く.疎かに怨みご㍗へのぁる
少年労働法 見立放任の成人虎現法を強制執行写ろ鵜嵩み
進んで粛l紐及訴訟手技の縞下に於て、誰裁列の真髄問題
な取扱つてゐる。裁判官ほ決して躇繁に立番ふべからざる
に少女の一串件にほ介人助手み川ふる=との有利なろね主張
ものなると共に、淑門的.よた摺任なるべきとわ痛論し.特
してゐろ。その外投卯研に引致†る方法や.見灘に偶する
諸方面の嗣丑の仕方.法廷及び裁判の手緩について持運し
蜜蝋制度に皿しても●著者ほ明瞭lニかの解放宣暫ゎなぜ
檜厳してゐる。
るものと.モロ感化放牧秤見放との取替の榊捷な締じてゐる。
−−・−ヱ0ヰー
刊
ね
介
認敢み徹底せしむろ=とにェつてでぁろ。因果件ほ同時に
1に唐人に封して未知のせ非を蜂嘉ぜんと†ろ。即ち縦棒
井白身Lの如き紳秘り他界まで#入せんと†ろ。仰敢ほ=
的傾向は票数に封†る合理的批舛を嬰来し.虎ゎに人格的
意志の不自由なろ=とわ壊定でるも¢でぁるが、因果律と
とは云へ、カンナがそ¢不可解に断念した﹁薦¢弁在﹂﹁物
創造紳は蓬に人み救ふの紳にわらざる=とみ叫ばしむるに
雷ふものは亡び行くもり、襲催すろもの、班帝しっゝわ占
る。大域後に於ける各園の宗教的要求ほ、西も東も愈工幾
重つた。ホフマン氏が此の一文を窮し右h動機は栗に嘉に存
烈にセリづゝちろやに見受けられる。取洲に於ける民放曾
するので、沸教に於ける研放又ほ捏奥の妙諦詣.疎放せん
い。従って吾人の炭り存在たる漫然の▼状態.臼机意志の甑
有耗他界にあるもの、カち批等¢現象外の法則に過ぎな
界ほ決してか⊥ろ祖先秤にほ支配されないのでぁる。故に
と†るに五つた彼の宗数的翠撃な晩飯した¢が本音でぁ
陀の強ふ虎でぁると陳じ、偶数の根本忠恕に就いては人間
彿政情界取り聞相的説明ほ一族衆悌教卓者¢遠く及げrる
因果律からの解除ほ可能でぁると蝕んで罵る。一元証的む
る。初わに某督敦の紳准に就いて配列批列L、垢ろ紳ほ俳
苛も出数恕として、簡捷的解除り方法論に及び、物質主義
在来.偶数の詫数的郭びに哲墜的誼卯が放らに繋弛み趣
語愁で、経めて微細に.極めて巧みに恕碑されて躍ると思
め、容易に牲鮪オろ=との出来n験鮎ふ.、本笹け充分に捕う
重朱†る悌陀の大輔紳な高嶋し.生命と苦悩との連鎖、世
む温けて無我詠み提唱し.認識の抽限ほ無我9〝てあると
粒食との比較を挙げ、トルストイの紳謳が怖致のそれに担
て屠る。斯くして近代の■革術的許明ほ件数の雛祝に.最も怨
ふひ
わて近似したろ=とを違.へ、一全存寂の締約根深としての淫
み華寸云もりでわろ。稲澤老友松氏ほ亦巷誠に序わ㍑し.本
界論.解除に至るの路、蔑熊笹に論及し.係数の思想と紳の
せ昇級上しての偶数な投与.ナウー1の﹁眞に存在する﹂
桑ね取引して.飴局捏熊の某夜怯も決定し、叔後に一元的
与板披、自拡科翠の﹀根拉についての新し古見方.衝怒り更
に進む.へ島−方向.基督敢の祈らしき組紐、新しき現代人の
番が現代人に控証言−三甲問題として.倫理飽に故習り新し
票数に就いての五つみ解けt
額城、帥ち彼のイデーの閉域を認知すろ=とも.カノーの掟
して居る虎のもり﹁物某日身しも.これら究在の夙に及び絹
本忠恕エリ見たろ現下の′〓本係数﹂在綜して今や‖本仇敵
執する=との出猟ない絶対的の、b¢、すべて¢損搾に存在
与認識閑カの不足九嘆ぜしy・.小・︰が、偶数ほ=︰に故に招か
巻尾に校文として﹁冊数り根
るべ古格を知って居る。彿致ほ、エし異形式が異つて罵る
−J〃5・・・・−・・・
読六十弗 年四妨 究軒数歳
li、その原始的意義に立ち戻り、再びその庶始的生命にエ
ちらう。漢字み以て成れろ今り四阿含経の如きほ、其の原
専
掃氏
ものでないといほればならわ。阿含控既に然り況や彼り阿
して然らば阿合鍵¢如、でほ.決して原鮨係数其倦み倦へた
のとして之み考へても.彿減数世紀後の成文でわら、つ。果
と見徹さざるを待わのでぁる。エし其れェりも前に成るも
し之み殆んど同時代のものと†れげ、西洋紀元前後のもの
成れる南方所侍りものと.培んご何時代でほぁるまいか。若
擦†るに彼の巴別語み以て
典成立の年代ほ不明であるバ∴
‡−†●†AU〇・・Ⅴ†¢慕mm叩▲8nVふ†i
って復路†べきであると立って居る。
上
木村博士著﹁原始偶数思想論﹂に封
村
する諸氏の批評と所感
文革憶士
叉非彿記でぁろ。他の問に於て.仰詑非彿詑論﹂旬なさんと
枇塙山腹の耕に於てわや。見な以て大難非併設と同時に小乗
○
﹁譲敦研究﹂の騎婦長諸君エリして、木村博士の新者なる
サニるが如きほ.所謂五十歩百歩の執誅に椰机㍗りといほれ
r原始彿敦思想給﹂に就き、批評や裔け、批評でなくば感想で
も脊く椋にと¢証文み受け㍗。然るに普等ほ其の新著わ貨
ばなるまい。
飛び飛びに之み粗讃し、少しく所感を述ぶろ=とにし・㍗の
い。どうでもといふ=とでぁるから、蛮に中日の関ゎ柑て、
兄いと謂つて晰つた。始るに右柄杓農諸君ほ之ね許され互
が山衆ろなら、どこまでが其原齢件数にして.どこからが開
思想冷なろものも.黎幣之]せ諌んで若し之毎分粧す云︰と
そ︰で今.木村博士の新著として公刊せられたろ原始仰致
輿寛恕條に過ぎない︰∼でれる。推定lこ止まろことてちる。
何人と駈む、容易に狂得†.へからぎろ糀開成であ云と恩ふ。
かくり如さ謂でわろから▼.今や原始餓敢其の者の節制ほ、
ひながら多忙のため、未だ之わ関讃すろ:とも瓜Lて居な
でぁるが.先づ以て原始彿改互るものに封†る青竹り所思
いやうな=とであるから.批評ほ固エリのこと、感想も省け
を︼官してかゝることにL㍗。
之み要すろに本
展彿致でぁるか。叉比り中にて.どれだけが著者の想廠的考
番丹原鹿係数思想諒といほん′▲りも.謡ろ原始俳敦と開展
奏でぁるかみ知り㍗いと忠ふ㍗能でぁるじ
原始偶数lニ封†る瞥撃の所m肋といふほ外でない。今人に
して原始偶数なるものがl弗して解ろでわららか.十分に
的大乗侠敦との間に於ける思想上?迎級的系放線か敬称せ
併発†る=とが可偶でわらうか。免れ哲氾の耗問でわる︼
之み研究せんと1告と=ろで其の材料み柑ることが困稚で
.._−JOβ.・・■−
刊
細
介
所感でぁる。像りに赤裸々に感恕み統べたから、著者に封L
余が前に官へるが如く.飛びくに本育み改む時に起れろ
んと†ると=ろに注慰して成れるもり1如く想うた。是れ
﹁古児の跡﹂に倣ひ.叉詰先生誇免租等の合評が列掲され
所究で、恰も前戟に自分らが主唱L一\轟カLた常盤怜士の
平に御節追わ申出で1泣い㍗所でぁる。釣る折、虫近宗政
いて見エとの御託でちつたが.そ¢柄でもないと自信して
る0
︵〓︶
戌摘に附Lて謹言み蔑にさぜて
いトトヾく事にし主課でぁ
るとか決闘†ろ研がぁつ㍗ので.序ならばといふ窓疎から、
ては、多少不琵頒な言語が凍つて恰ろかも知れね。されど其
終りに付ほ二言附Lたい?隼.吾人が今エリ約廿年前に
¢連ほ寓容七態度み以.て克て貰ひ㍗い。
でぁる。此の圃脊ほ晋作の足代が既に二†有倍率を隔つて
蕃ほしたる件数統一倫第一飼犬細論と本省との比校的感想
允づ御推賞御貰讃ほ、盛に他の一語君子が競って籾並べに
ると思ふ不遠の首から、初める=とに致し㍗い。
なる︰とゝ忠ふ故、私ほ順み辿にして、恐らく私一人に止
居る。雨もーほ老朽の飛蟹の著作にLて.一任銃乾勃々た
る壮年時代の木村博士の常作でぁる。提つて研究上批判的
原始俳致の中心資料で克くてにならないかが丸で放定の問
ども、同恵にほ.何故に阿含鮭等が沸教最根本の壷輿、総て
歩lに、巷説に幾分師り沓・きもしてわる析ではぁるけれ
材料の貧欝に於けろ相違といひ、叉粗放上、詑明的言論の巧
拙に於ける不同といひ都.へて同日に語る.へきものでない=
題とな●eれてゐる。之は断つてもみる問題だから.必ずしも
とは固エリ冨を待たわ次第でぁる。Lかしながら彼此舛蹄
の蹄潜7ろところに於て大なる相淳てきのみならす、却て
ほ.今此で繰り返7までもない餅だが.それが近時になつ.て
てほ泰西準省間でも.随分と、論議のぁつトト関越で.=れら
考へて点ろと此件数聖典諭=原始悌放資料諒¢問題ほ曾
毘ほやって見て頂きたかつた、と、望弧の凪が互いでほない。
者でぁるとして兄弟ば少くも教官ほ其鮎に栗して裁分の幹
一致†ると=ろぁるみ見て、自ら愉快に感じ圭こともぁる。
雑
本音り如く円本革者の常辿でみり、殊に博士り如き方の著
枝
本番に於いて遼檎の鮎とほ言へない餅でほちるけれども、
連
余が、売り苦みにした時の感想−概していへば=んな、もので
淀
わるじ
○
︵−︶
栗ほ著者発生の榊蹄靭早々.門下生、校正者.専門研究者
の三蕊の烹で.哲碗雑誌にでも.何か大に速凍り無い併み音
ヱ¢7−−−・
−
♯六十終 年四辞 究軒改鋳
私の従衆から潰熔セキ−み柑なかつた所でぁる。のみならず.
愈々放怒り研究となると忽鮨とLてモの前官ほ志れ班に、
東西共に畢者り.=れに何らの措辞み設けるものの互きは、
ほJ曾て失を聞かないと私ほ鱒じ乙有様なので、弼々其思ほ
勝手の材料な勝手に1甲\只自分¢理詣に布令のいゝも
克放し㍗砕樽性み大講ほ組めてゐろに拘らナ.み文に入て
痛切であろものがぁる課だが、成媒一房から考へれば、それ
ては、阿含の合扶不純空再び−資料諒としては河合ほ悉く併
の払のみ文筆して来るが常で、換言すれば、之ほ詑典訟とし
っで和算したくてならなかつ㌔宝鑑耗の随分と故多い原
始悌批の研究ほ組じていへば、何れも阿含経の食紅的畑餌、
ほ畢克じて首へば.沈親的事寅的に決定の問題と宿しても.
泰西謝単著も∵あ鮎に駐日してほ、村長裸の決定右奥へた者
弟問ないかも知れね。払し其発意じてと首ふほ、客規約り何
いふ意セのほ亦 記の資料なりとな†研互−¢原始偶数軒先に於け竺完的鮫
ルデノベル㌢、9スデビクタ犬輩てども、苧ての他.殆ど︼
皮といふべさ析でぁる。而してこの鮎ほ私恩ふに、彼¢ナ
も、少くも現今の畢界でけ、栄治紅の間組と
富み要しない妨で、之み我が同視長の件数串界に於て首ふ
切の畢肴の陥■エサみ免れてゐ互い併でぁろが.兎に角−河
加古ほ.決して決定的断定的の問題でほ養もない。故に此む
で、外人ほ外人として、彼らとしての鞘應の紡があつた接合
Lも十分の問題とぜられなかつた本研究でけ.又この鮎り
合の原始梯政教料としての洗剤力至論由といふ鮎か必ず
弊ね全然免れる=とが掲拡てゐるでわらうか膏か。私ほ一
にも、かゝる我が串界であり、久井人とは特に簡別され王由
笛の論訟、延てほ.それら外人の鮮紅ねも安保†べき主股が
線的亭恰もある激が鼻界だから.その我が輩肴としての揮
雷然ぁつていゝ併と致ふ。よして此鮎ほ外人できへ如上其
異に粗末周到な投紡が甲方に及ば・■れてゐるに釣らす、一度
叉わの十二囚綾等に閏Lてほ、ヨicke鼓♭tといふ鮎で.
ぜざるか柑乃ものでぁる。此の郡ほ.戎け甲奴の所懐を偶々
も其の悌説か密かの鮎ほ立入て研究され‡、とが克く.カ
寸一考わ射する析と自信†るものでわる。私はこり鮎で、
見て博士の御君常に被らせるに過ぎないかも知れないが、
といふ鋸に於いて非常にエく行与とヾいてむぁが、そして
妨三.前項のやゝ序に、前使の如く.本番ほ膣ぬ酌見抜
鬼も狗も、私の夢一に述べて申上げ庇く思つた翫でわる=と
駄棄科として¢河合拙の解剖=少くとも批判がもつと立入
節二に、私ほ飲み放ねて、かくしての阿含経論=原始併
を白〓口したい。
玉八正道其他についても同放でちつたりほ、私い千筏の惚
と感ぜざるな相互い所でぁる。
恰証がないに重ては恋々それほ我が畢人の茸任と私ほ痛感
■−・・ヱ0β・・・・−−
が.同時にかく緒の場合に、その間題の個々歴ぬ的背凍み
私ほ或は間然する析み知らねと育ても可いかとも信じる
み骨子とすろ審匹辟者らと輩通の所鮒⋮原始代数て.訳して
といふ革、鞘克Cて培土ほ.=の所謂四諦十二田線八正追啓
も名詳の存在に佼りに容易に妥協せられた気味も射せわか
l世界各国に適通して.院牙と数多くぁろその中で.ヤスデビ
に蟹ね蝉じて行く叱れば、私ほ本番け貿に比の一種¢研究が、
にとYめて、次に他の一面の批列を久正直に表白すること
な得ない着みるが、遠慮のキい私の一面の析恨な大雄以上
じらる1か否や、それらに別しても、私に自ら右詐もなき
扱が記し、又如何にもさうでぁつたかと一部の拉ほ彷彿恕
見ぜしめてゐるあれだけの影響が俳陀にわり相中︰と自ら信
零れて、その個々問題み理解し.少くも理鮒に費ぜんなどす
スほ、殊に、傭陀の如皐恐らく大天オの哲壁間地研究の場
もあのカールI ノイマン氏が∴俳陀の如き天オ¢数記でほ
合に果して十全に安富なろべき事柄てちらうか香か。少く
その天オといふ事が、非常に我々の考察申に入れらるべき
もので、それほ日払人生に開†る、賛に立入つ㌣所謂如其の
駁察として.何ら必ずしも陛史的叱るみ要しないほ恰も話
ップ夫人のぎd︵ll−叫s≡が小さい克がら.一輝勝則け考へ方み
術家−︼塑像家の作品が.モの先生な人間の理解に基く取
輿へるが′〃\
せ.鰹界の四大著と碑Ltlへるに.拓賭せざらんと†る
み叙説描出ぜしめ持てゐる郡に偉大なろ卓越さが組わられ、
然り而して最後に粗略培土り松本仰数が、あ¢碑軌な阿含
研究に試て、以上諸研究み弘大成ぜる佗がわる・イどと合
角も.セナール、クルY氏らに反対して、蟹地¢拡ぬ的俳陀
又かのすかナンベル㌢氏の︻俳陀﹂が、兎も
合の表現として、自必ずしも歴史的ならねはセらn必群が
る﹄ 云々と科したのに.甚だ反省の溌むべき革怖が存†一¢
なく、串時と塵とから猫立して理解ぜらるゝを笛然とす
約束の期間にさし迫つて甚だ倉皇の蟹な呵し㍗ので.小
事ほぁる皇いかい
額七い渡首をした族がちり、又平生泰西静研究について懐
ものでぁる。香.時が次終に蓬り、モれに伴う稚々の二次
いてゐ圭排気.そのま1あてl‡めて衆㍗気痍も大にたさに
的事情が.他のモれら¢時代と隔絶ぜるもりあるだけに.
本番が唯一つ、他の諸事に比しても亦更に捗るものがあつ
て、そり方面り研究の第一著と科するも、亦弧に不省とは
叉感じた賓際の党風の串箕であつたと挿し上げて貯てざ㌣い
しないかもしれないと私l三倍じ烏ものてある。
非すで托ぁるが、先づ以上が私の博士の御高著わ弊説Lて
たこと.カ重曹食前に於て有無南佼浬嬰祝の放女†−少く
ぎ互いもの左可成重商冒に新しく打込んで詮か人とぜられ
そして、この外.あの架設など形両上嘩的の盟なろ侶定に過
JOクー・・−
−
新
刊
介
餅六十歩 年四節 究餅政豪
︵三︶
取ると、私ほ本番り原案であつた太jL五年常時¢.怖士の
詐義み遮諭した一人で.その鮎から又.反駁して、方に隋
ないといつ㍗=とがぁろが、氏¢首がどこよて重かは私の
此に列転義下す限l−でもないが.木村博士の壌合だけは私.
塞防人にわへに人み朝り.耳にわへけ革わ切るとlて博士
亦、㌍身之み嶋ぜんと欲†力餅でわるじ
の革で.その快刀乱麻の集踪に登る断熱な輿へ、盆命な瓜興
せの覿あろ御高作であろと辞すことも、はヾからねもので
ぁるけれども、今その特徴ちり、秀逸卓避なる封として試
し.改む人ねして何物か狩る餅が冤くしてほやまぜ乃努が
き鮎で、或ほ失穏かも知らねが、敦捜の根本件数ほ麗術的拙
るに足りると思ふ帥略取故の粗本体故に大に封比ぜらるべ
ちる。此鮎ほ同じく恥辱界の高著にして、外人に優に諦京†
に枚鬱すべきむ¢み教ふろなら.
﹁叔耽の文串の平明易鮒。比の翫−1敢て蟄嘗り聾もぁ
こ.掃裁・机故・把系の整鵬じ
る主∴㌧
文的で.一首で掩ふとお上品的に書かれたるがその特徴で
わるに封して木村博士の本番ほ一面で砲分、乍集紐、†ら月
三.ぁの析現ゎ阿含.律の内容をかくも僻く噂みくだい
間題で料漏の鮎がわり、その鮎の無理も釣り得べ皐に拘ら
て.スコラスライック、ペグンライックでセい既に記ぜら
れた=上。殊に八正道.入解脱、四諒1一足、四締−四無色定.
す、内在的乗数的i−カほ必ず野性み仲ふものかも知れな
らか人に努†紡がなけられけやまね。私に彿教が久しく訓
いが、−稀野性わみぴつゝカがわり.侮しl\そり郎で常に回
その他有名七朗ほしい舐の項目ね、箕に手隙エく.何も見超
さナ、列記してゐられろことり
諭り一面に¢み蛙して、兎角に群数り本義み忘れ︹後,ご望
その他.敢へ鮮げたら鎗無数てわら・1が、かゝる申、私ほ
特に掲げ㍗い一昨微として先の一項年特笹大書して此の栴
lTて、本番わか1ろもりとして出㍗窓塾ほ、果してどれ稗大
も列ら互い。!少くとも博士に於て圧岡地でないが亭箕
他の如きは、卒之を口に†る方が嵐なりと柿すべさものか
わ以て首ふならば、如上本番たこ散在†ろ区々たろ帝談そ¢
でわらうかを思ほざろわ得ないものてぁるが.餌際此一む
の費み経りたいものと思ふ。
蓋し.本番ほ恍く印度串者が軟くなして、大に柑意でわる
努刀と糊との産物でないことそれでぁろ。
㌣、閉民文蹄主.約同氏が今の仇敵由鬼で偶数か屁に生かし
であらう。殊にどしどし勇敢一トモの御研究み敦哀して.少
甘てぁの問罪火孜紳倶令論評の御事体わした時でぁつ
て書く人ほ、木村悌士︵常時け輯士でほなかったが︶の外に
■・−JJO.....−●
超
介
くも轍鮒我が印鑑哲畢の/完く新なろ研究に、各その筋一階
わ得ない虎でぁる。
段む築i由して下され㍗ことと共に、大に推駁推焚せぎる
何此らについて記せれけなら乃事ほ.比の外.蔑多存する
る=と1考へるから、特に右一項を私の最も多く感じた一
ことでわらうと考へるが.他の譜先生専も亦各物語群があ
思ふ。が.最後に私ほ茂ら倉真の駈なりとほ雷へ、多く恐
事として高調力改して本稿の吋輩な節すろ=とにしたいと
か帝ふる=とななすこともなく.甚だ鮭にこ冨ね致ぜるの嫁
いが、之れ単発先生平生の恩寵に甘へ乙心怒り敦†餅.只
が砂くほない串ね日和仙して放て拝謝する節な、き課に行かな
る門下生の一人としての、少くも︼且の感餉光るにほ違ひ
管恐梅に墟へない餅でぁろ。両L同時に亦光政に弦ほれた
としてぁり狩ろものであろとの見にエつて.以上こゝに比
セく、その鮎.善意こつながら一之らも亦少くも︼途の感
最後に附記するが、私lて本渡始沸教り校正者の一人でち
の言わなす所以であろ串をっけたして申上げて置き㍗い。
恐らく
った。丙も私の不明叉不敏セぁ、到底先生御殊遇の横板に
和田氏亦その感が同じ与ものわろ所七らんと察すろが、果
葬らナして、ぁの多数の過猥ぁる=とみ詔来しト㌧
に苦しまぎるみ柑ないものである︶
串に舵機曾な利用して
して何の鮮わ以て私らはぇ詣謝†べきか、反顕して、その昔
︵〓、七.十四日締切のB︶
諺な記して、罪みカ生飽に江湖諸君に持つことに敦L㍗い
と思ふ。
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大正十一年十一月五日
印
行
刷
編
者
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印刷者
印刷所
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綿加齢=景“
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東京市日本橋証本石町三丁日十大番地
瑚眠博
文
右芸書芸霊 大 穂 進
吉
東京市小石川富久駐町首〇八覆地
輔脚博文舘印刷所
文
館
東京市小石川厚久堅町官〇九著艶
軸詐釦坤軸禁講碍朝餉蹄博
蒙
併
大正十一年十一月八日
専 行
正羊===
【餞五輪∧金屑
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