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カントの法理論に関する覚書

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カントの法理論に関する覚書
カントの法理論に関する覚書
─道徳理論との関係についての一試論
長谷部恭男*
ある。さらに,その理由が普遍的に妥当してい
0.はじめに
ることをみんなが理解していると仮定した場合
にも妥当な理由でありうることも必要とされて
3
カントの法理論については,道徳理論との関
いる 。
係をどう考えるかが一つの論点である。今日は,
そこから先が問題だが,何かをポジティヴに
彼の法理論と道徳理論との関係について報告を
命ずる,すなわち,○○という規範が普遍的に
1
行う 。
妥当するということを積極的に定めようとして,
カントがこのような議論をしているわけではな
1.カントの道徳理論について─薄味の
理解
く,何がそれではありえないか,つまり,何が
排除できるかという観点から,こうしたことを
述べているように思われる。カントは,
『道徳形
レジュメで,道徳理論についての「薄味の理
而上学の基礎づけ』あるいは『実践理性批判』
解」と書いたが,これはカントが─とりわけ
の中でいくつかの具体的な事例を出している。
『道徳形而上学の基礎づけ』
の中で─言ってい
「自分にとって都合がよければうそをつくべし」
ることを,額面どおりに受け止めると筋の通ら
や,
「誰にも気づかれないのであれば預かったお
ない,おかしな結論になることが多いため,控
金を横領してもかまわない」,そして「苦痛を避
えめに受け取ったほうが良いのではないのか,
けるためならば自殺をするのがよい」等である
という趣旨である。まず彼は,周知のように,
が,そういったものが普遍的に妥当することを
2
『道徳形而上学の基礎づけ』の冒頭において ,
みんなが承知しているという前提の下でなお,
「義務に基づく行為」
のみが善いということを述
それらが「妥当な理由」たり得るのかをカント
べている。分かりやすく言えば,妥当な理由に
は問うた上で,
「妥当な理由」ではありえないと
基づく行為のみが善いのだという,常識的なこ
述べ,排除されるべきだとする。
とを改めて述べていることになるだろう。とな
「自分にとって都合がよければうそをつくべ
れば,そこでいう「妥当な理由」とは何かが問
し」という法則が普遍的に妥当することをすべ
題となる。
カントが『道徳形而上学の基礎づけ』
ての人が承知しているとすると,うそをつくこ
の中で終始一貫してとっている立場は,普遍的
とで得ようとした便宜を得ることはできないは
に妥当する理由が,すなわち,同じような状況
ずである。また,
「誰にも気付かれないのであれ
にあれば誰にでも当てはまる理由として措定可
ば預かったお金を横領しても構わない」という
能な理由こそが「妥当な理由」だというもので
法則が普遍的に妥当することをすべての人が承
* 東京大学法学部教授
3
知していたとすると,誰も人にお金を預けよう
考えて,われわれがたまたま抱いている目的や
とはしないはずである。こうした法則は,法則
欲望に依存しない普遍的に妥当する格率と考え
として普遍的に妥当しているとすると,自己破
られるかどうかを,カントは問題にしている。
壊的となり,結局,普遍的法則としては妥当し
今までの議論をまとめると,誰にでも普遍的
えない。
に妥当する理由,しかも,そのことを誰もが知っ
報告者はカントの実践哲学を読みつくしたわ
ている理由に基づいて行動すべきだ,それが善
けではないので,カントが道徳法則が斯く斯く
いことである,ということになる。しかし,こ
に一義的に定まると言っていないという立証は
の問いを通じて,誰にでも普遍的に妥当する理
出来ないが,少なくとも典型的な事例としてカ
由がポジティヴに決まるわけではない。むしろ,
ントが提出しているものからすれば,このよう
普遍的に妥当すると万人が承知しているとする
に,自己撞着を起こすために道徳法則となるの
と自己破壊的となるため,普遍的に妥当する道
は無理だという理由で排除するために,
「本当に
徳法則にはなりえないものが何かを判定するた
普遍的に妥当しますか」という問いを立ててい
めの物差しとして,こうした問いは立てられる。
るように思われる。しかも,そのような結論を
そして「何が普遍的に妥当する理由」かは自分
下す際にカントは,こんなことは一般人が常識
で判断すべきであり,そうするのが,自律的に
的な思考を働かせれば直ぐにわかることだ,と
行動する人格である。妥当な理由が何かを自分
述べる。逆に,カントは,哲学者の言うことは
で判断し,それに基づいて行動するからこそ人
4
あまり信用するなと言う 。哲学者はハード・
間は自由だと言いうる。ここまでは,分かりや
ケースばかり考えたがるが,ハード・ケースば
すい議論である。
かり考えていると,むしろ議論が混乱する。一
ただカントは,「道徳的に自律的であること」
般人が直観的に理解できる標準的な事例を出発
に対して,別のより強い意味を与えている。こ
点とすべきだというわけである。
れはカントの構成主義(constructivism)と呼
今述べた,普遍的に妥当する理由になりうる
ばれる側面である。カントが『道徳形而上学の
かどうかという論点を,カントは,定言命法
基礎づけ』の中で述べているところでは,外在
(kategorische Imperativ)の要請に適うかとい
的に与えられた理由ではなく,自ら普遍的に妥
5
う独特の言い回しで表現する 。人は定言命法の
当すべきものとして構成した理由のみが真の理
要請に適う格率を自律的に定立し,それに従っ
由となる9。そうした理由に基づいて行動するこ
て生きるべきである6。
とこそが自律である。外在的に与えられた理由
定言命法は仮言命法と対比される。仮言命法
に基づいて行動すれば,他律となる。例えば,自
は,
「もしお茶を飲みたければお湯を沸かすべ
分の好みとか傾向性は,外在的に与えられてい
し」とか,
「日本で生活する以上は,
裁判員とし
るものであって,それに基づいて行動するのは,
ての義務を果たすべきだ」というように,条件
他律である。そうしたものを離れて,
「これは万
7
がついていることが特徴である 。
「日本で生活
人に当てはまる普遍的な理由だ」と自分で判断
する」必要がないのであれば,
「裁判員としての
し,自ら立法し,それを普遍的に当てはめた末
義務」を果たす必要はないし,
「お茶を飲みた
の行動こそ自律的である。
い」と思わなければ,
「お湯を沸かす」必要もな
構成主義は,一体何を意味しているか。最低
い。ただ,レジュメに「定式化の如何にはよら
限意図されているのは,moral realismの否定で
ない」と書いておいたように,
どんな命法も,
条
あろう。moral realismというのは,何が道徳的
件を付けた形で定式化しようと思えばできる以
に正しいのかは,客観的に決まっているという
上,条件を付けない形で定式化が可能かという
考えであり,後はそれを発見するだけというも
8
ことにカントの重点はない 。ここでも常識的に
のである。構成主義はそうは考えない。客観的
4
に存在する答えを発見し,その答えによってい
説明できる。とはいえ,人々が常に正しく認識
かに生きるべきかが決まるということになれば,
するという保証があるわけではないであろうが。
それは他律になってしまう。普遍的な道徳法則
いや,
「構成主義を支えているのはそういう推
は自分で構成し作り上げていくことが出来なけ
論ではない」という反論があり得る。では,カ
ればならない。
ントがなぜこのようなことを言っているのか。
ここで生じる問題は,なぜ構成主義を採らな
それは,自分が抱いている価値観や世界観とは
ければならないかである。結論を先に述べれば
異なる価値観・世界観を抱いている人は世の中
構成主義をとる必然性はないと考えられる。
『道
にたくさん存在するが,そのような人にも自分
徳形而上学の基礎づけ』の中におけるカントの
の道徳的判断を納得してもらおうとすると,自
主張は,分析的に言うと,人間はそういう存在
分がたまたま持っているそのような価値観・世
として想定せざるを得ない,というものと思わ
界観は,理由にならない。そうなると,どんな
れる。
「分析的に」
というのはどういうことかと
価値観・世界観を抱いている人でも承認するで
言うと,カントの出発点は,人間は,ごく普通
あろうような普遍的な道徳法則に訴えていかざ
の人間であっても,何が正しい行為なのか,何
るを得ないのではないか。このような形で,自
が正しくない行為かは判断できるというもので,
らの信念や世界観を一旦括弧に入れた形で,普
なぜそうしたことが可能なのか,それが可能だ
遍的な道徳法則を自ら構成していかざるを得な
とすると,妥当な道徳法則たりうるのはどうい
いのではないか,という理屈の筋である。しか
うものかを引き出してくることが出来るはずだ,
し,この理屈も構成主義をとるべき説明として
という考え方の筋道のことである10。その議論
は成功していないのではないか。というのも,こ
を突き詰めれば,カントが言っているのは,人
こでも問題となるのは,普遍的に妥当する道徳
間は自由な意思に基づき普遍的道徳法則を自ら
が成立しているか否かであって,それを自分が
立法できる存在であると想定しないと,常識人
構成したか否かは関係がないと思われるからで
が普通に持ち合わせている直感的な道徳判断の
ある。
能力が説明できない,ということのように思わ
この点については,デイヴィッド・ヴェルマ
れる。
ンの論文が参考になる12。彼が述べているのは,
しかし,この議論は十分に説得的とは思えな
なぜ構成主義をカントが採用しているかという
い。一般人が普通にどういうことを考えている
と,人間というものは自由な意思を持つ,因果
かを所与として,それが成立するためにはいか
関係では決定されていない存在であると想定せ
なる前提がなければならないかを問うという思
ざるを得ない,とカントが考えていたからであ
考方法は,
「実定法には従うべきだ」という法実
る,ということである 。確かに,カントはそ
証主義的な一般人の想定を説明しようとすると,
う考えていたであろう14。しかし,このような
13
「歴史的に最初の憲法に従うべきだ」という
意味での自由な意思を措定しないと道徳という
Grundnormをみんなが思考の上で前提してい
ものが考えられないとか,実践理性などありえ
ると考えざるを得ないというケルゼンの議論
ないということはないであろう。また,人間の
11
と ,同じタイプの推論である。しかし,カン
行動について因果関係による説明が可能である
トが所与とする想定を説明するために,彼の言
ことと,人間の意思決定が自律的であることと
うような構成主義的な自律的人間像を前提とす
が衝突すると考えるべき必然的理由もない15。
る必要はないと思われる。何が妥当な道徳原則
結局のところ,構成主義を採るべき理由は明ら
なのかがあらかじめ客観的に決まっているとの
かではない。
想定の下で,人々は常識的にそれを認識できる
さらに注意すべき点は,カントは定言命法の
と考えても,カントが所与とする想定は十分に
要請に沿って各人の定立する格率が,厳密に普
5
遍的に妥当すべきものだとは考えていないこと
ここでカントが言っているのは,人間は,何
16
である 。つまり,数理論理学でいう普遍命題
かを実現するための「手段」として価値がある
のように,
「すべてのXはYである」となれば,
のではなく,それ自体として内在的に価値があ
Xである以上,必ずYでなければならない,と
る者として取り扱え,という話であろう 。こ
いうわけではない。彼の想定するところの「普
の議論は,カントの法理論の中でも再び現れる。
20
遍的妥当性」なるものは,標準的な場面を想定
2.カントの法理論について
すると,一般的にいえばそうすべきだ,という
程度の話である。これは,カントが『人倫の形
而上学』の『徳論』の中で,定言命法の要請に
カントは,『人倫の形而上学』の中の『法論』
基づいて,たとえば「自殺をすべきではない」
の序論において,重要な点を3つ述べている。
という結論を導いておいて,その上で,カズイ
まず,法とは何かということについて,「法と
スティックな問題(Kasuistische Fragen)とい
は,ある人の選択意思が他人のそれと自由の普
う項目を立て,戦場で捕虜になる危険に備えて
遍的法則に従って調和させられうるための諸条
毒薬を常備していたフリードリヒ大王の事例を
件の総体である」と述べている。次に,これは
17
改めて検討していることからも分かる 。標準
同じ事をより分かりやすく述べているのだが,
的な場合にあてはまる議論が,しかも,一般人
「いかなる行為も……各人の選択意思の自由が
でも常識を使えば分かるという議論が,
100パー
何人の自由とも普遍的法則に従って両立しうる
セント常に当てはまると考えていたわけではな
ような行為であるならば,正しい(recht)
」。
21
い。この点でも,カントの議論は「薄味」で理
「正しい(recht)」と言っても,カントはこのよ
解する必要がある。カテゴリカルに排除できる
うな意味で「正しい(recht)」ということばを
はずの行為についても,具体的状況に即した主
使う,という立法的な定義として受け取らざる
観的判断を迫られる可能性がある。その他の多
を得ないものであって,これは日本語の普通の
くの場合に各人が主観的に定立する格率につい
語感の「正しい」とは,全く異なることに注意
ては,そもそも相互に衝突する多様な格率の存
が必要である。
立が予想されるし,その具体的状況への適用に
ここから何が引き出されうるか。
「自由の一定
ついては,さらに判断が分かれうる。
の行使が普遍的法則に従っての自由の妨害(不
最後に,
カントの法理論へのつなぎとして,
次
法)である場合には,この妨害に対して加えら
のことを述べておきたい。最近報告者がいわゆ
れる強制は,自由の妨害の排除として,普遍的
る天皇会見問題で応用が可能だと指摘したこと
法則に従う自由と調和する。つまり,正しい
18
22
だが ,
『道徳形而上学の基礎づけ』の中でカン
(recht)
」 。法は,強制秩序であって,人がど
トは,
理性的存在者(人)は,
「自己も他人も手
う行為するかのみを問題としている。このよう
段としてのみではなく,同時に目的として扱う
な形での妨害の排除としての強制がrechtであ
19
べきである」と述べる 。目的として扱われた
るということが,先ほどの,
「何がRechtなのか」
ときには尊厳が与えられ,手段として扱われた
ということのコロラリーとして出てくる。要す
ときには値段がつく。ここでいう「目的として
るに,法は人々の自由の(普遍的法則に従った)
扱う」は謎の言葉である。人間を「目的として
両立を目指す。他者の自由を妨害する行為は法
扱う」というのは,日本語としては理解不能で
の強制によって排除される。ここで言うところ
ある。目的・手段というときの「目的」ではな
の他者の自由も,普遍的法則に従った自由であ
い。何かを目指す,あるいは実現すべき,とい
る。
う意味であるとすれば,人間は「目的」ではあ
問題は,少なくとも日本語の一般的な語感か
りえない。
ら相当に距離のあるrechtを,なぜカントが観念
6
せざるを得なかったのか,である。その理由に
解しなければならない。日本語の一般的な語感
なり得るのが,自然状態から市民状態つまり法
で言うところの「正しく生きよ」とは全く異な
状態に,なぜ人間は入らざるを得ないかを説明
る。あるいは,honeste viveは,むしろ「名誉
23
する部分に存在する 。そこでカントが述べる
をもって生きよ」と訳すのが適切かもしれない。
のは,自然状態において,各人が自分にとって
honesteは英語で言うところのhonestにも対応
正しく,かつ,善いと思われることをなし,こ
するし,honorにも対応する。ウルピアヌスの
の点について他者の意見に少しも頼ることがな
通常の訳し方としては,名誉をもって生きよと
いとしても,つまり,意思の自由に基づいて何
訳すほうが一般的であろうかと思われるが,専
が正しい行為なのかを自律的に誠実に判断する
門家ではないので間違っているかもしれない。
ということを全ての人が行ったとしても,自然
なぜそのように考えるのかというと,その一つ
状態においては,各人・各民族・各国は相互的
の手がかりは,カントがそれに続けて言ってい
暴力から決して安全ではありえない,というこ
ることである。つまり,
「正しく生きよ」の中身
とである。
は何かというとそれは,
「他人との関係において
このことが暗黙のうちに含意しているのは,
自己の価値において一個の人間の価値として主
定言命法に何が当たるか当たらないかというこ
張せよ」。すなわち「他人に対して自分を単なる
とを,人々は自律的に各人が判断する。そして,
手段とすることなく,同時に目的でもあれ」。こ
それぞれの人が良心的な判断をしたとしても,
れは,先ほどの目的と手段の議論を受けた議論
それら判断は,必ずしも両立しない。善いこと
である。自分が目的として扱われることを目指
を行おうとして,人々がそれぞれ,それぞれに
せ,いかに行動すべきかは自分が自由に判断す
とって「善いこと」を行うようになれば,ホッ
る,そういう存在して他人から扱われるような,
ブズ的な戦争状態に至ってしまう。そうした状
そんな人間であれということを言っていること
態を解消しようとするならば,カントによると,
になる。先ほどの議論と何処が違うかといえば,
「各人が一切の法概念を廃棄しようと欲せぬ限
強制される普遍的な法則,つまり法の枠内にお
りは,彼がまず決定すべき第一のことは,各人
いて自律的に判断する主体として扱われること
が思うがままに振舞う自然状態を脱して,すべ
を 要 求 し な け れ ば な ら な い こ と を,honeste
ての他者とともに,ある公的法則による外的強
viveという言葉に込めている。
制のもとに服することを目指して結合し,……
そして,そのように要求することは,他者に
各人に対して彼のものとして承認されるべきも
対 し て は そ れ を 逆 転 さ せ れ ば, ②neminem
のが法律によって規制され,充分な外的力〔強
laede(何人をも害することなかれ)ということ
制権限〕によってそれが配分されるような状態
になる。それから,さらによく知られた③suum
に入り込まなければならない」つまり「市民状
cuique tribue(各人に彼のものを与えよ)を,カ
態に入るべき」である。各人にとって何が自由
ントは,
「各人に彼のものが確保されるような社
なのかということが,強制的な権限によって配
会へ,他者とともに入れ」という意味に理解し
分されているような法状態に入り込まないと,
ている。文字通り,「各人に彼のものを与えよ」
各人の安全が保障されない。
と理解すると,この格言は不条理で理解不能と
そしてこのことが,法義務の区分に反映す
24
なる。すでに「彼のもの」であるものを再び「彼
25
る 。ここで,ウルピアヌスの3つの格言 を,
に与える」ことはできないはずである。したがっ
カントは相当程度読み替えている。まず,①
て,この格言は,「各人に彼のものが確保される
honeste vive(正しき人であれ:��������������
Sei ein recht�
ような社会へ,他者とともに入れ」という意味
licher Mensch)ここでいうrechtlichは,先ほど
に,つまり,強制的な権限によって(国家権力
の特殊カント的定義に則したrechtの意味で理
によって)何が自分の自由であるかが適切に配
7
分されている法状態のもとで生きなさい,とい
無限にさかのぼって誰が真の持ち主なのかと
う意味で理解される必要がある。
いうことを議論しても仕方ないということは,
①②③は,このように意味を読み込めば,一
実は国家の支配権の起源についても妥当すると,
つの整合的なセットとなり,結局のところ,国
カントは明確に述べている。国家の最高権力の
家の強制権限のもとで,何が各人の自由なのか
起源について無用な詮索をすることは止めよ。
が明確に確定された,そういう状態のもとで生
とにかく今,眼前にある実定法秩序に従え。さ
きよ,ということになる。およそ法概念なるも
もなくば,自分の自由が一体どのようなものか
のを廃棄しようとせぬ限りは,そうせざるを得
が,永遠に決まらないことになる,というわけ
ないのであって,これが,そのような意味にお
である。このように見れば,一見,抵抗権は否
いて普遍的な,道徳上の義務となる。法が定め
定される。ただし,この議論については射程に
ているから義務となるのではなくて,これは道
限界がありうること,つまり抵抗権が否定され
徳レヴェルの義務である。
るのは,当該法秩序が,何が誰のものであるか
今までの議論を要約すれば,自然状態を脱し
を確定する,自律的な判断と行動を可能とする
て市民状態に入ること,つまり国家の下で法に
ような法の支配を提供している場合に限られる
従って生きることは,人にとって第一の義務で
との解釈の余地があることは,
『法学教室』掲載
ある。ただ,どの国家の法に従うか,どのよう
の拙稿において示したとおりである27。
な内容の法に従うかは,それらの法秩序が当該
3.むすび
法秩序の下で生きるすべての人に同一の自由を
保障する限りでは,一義的には決まらない。繰
り返しになるが,定言命法を物差しとするだけ
カントの道徳理論は,人がいかに生きるべき
では,何が正しい行為なのか,何が正しい義務
かについて,一定範囲の考慮・行動を自己撞着
なのかは一義的に決まらない。一義的に決まら
をおかすもの,あるいは人を単に手段として扱
ない判断を個々に自律的に行う人々が,相互に
うものとして排除する。その道具となるのは,定
安全に暮らしてゆこうとすると,何か強制権限
言命法の要請である。しかし,定言命法の物差
による自由の配分が必要となってくるはずであ
しだけでは,人が従うべき道徳法則が一義的に
るが,その自由の配分の仕方も一義的には決ま
は決まらないため,人々の自由な行動を両立可
らない。ただ,それでも,いずれかの法秩序に
能なものとして保障し得ない。
従って生きる必要がある。そうしなければ,何
そのため,人々は,法則的な(法の支配に従
が誰のものであるかは,確定しない。
う)外的強制の下で共に暮らすことが必要とな
そのことにつきカントは具体例を挙げている。
る。そこでは,法の支配が成立している限りに
26
それは,
『法学教室』の論稿でも触れた ,公設
おいては,個別の法の内容について異議を唱え
市場での馬の売買による善意取得の例である。
ることには意味がないため(それ以外の法があ
日本の民法でも,動産は取引を通じて善意取得
り得るという主張には意味がない),とにかく実
されるが,なぜこういう制度があるのかという
定法に従え,という実践上の法実証主義が妥当
と,カントの説明によれば,もし善意取得があ
する。
りえないとすると,一体真の持ち主は誰なのか
今,現にそこにある法秩序に従うことで,は
を,無限にさかのぼっていかなければならなく
じめて各人にはそれぞれのものが配分され,保
なる。無限にさかのぼっていかなければならな
障される。何が正しく(recht),何が不法であ
いとなれば,一体何が誰のものなのかは,永遠
るかが定まる。
に確定しない。そのような事態になれば,物騒
で仕方なくなってしまう,ということである。
8
University Press, 2006), pp. 32-35.
13 裏側から言うと,
カントは当時流行していた,
人間は生まれながらの傾向性によって何を目指
すべきかが決められているという思想からの訣
別を目指していた(Jeffrie Murphy, Kant: The
Philosophy of Right (Macmillan, 1970), pp. 3839)
。
生まれながらの傾向性があるべき道徳を決
めるという立場の典型は功利主義である。ジェ
レミー・ベンサムによると,人間は快楽と苦痛
の差,つまり幸福の最大化を目指すべく定めら
れた存在であり,社会全体として幸福の量を最
大化することが唯一の道徳原理である(Jeremy
Bentham, An Introduction to the Principles of
Morals and Legislation, eds. J. H. Burns and
H.L.A. Hart (Clarendon Press, 1996), p. 11)
。
14 『人倫の形而上学』
[A215-216]での,道徳を
経験的な幸福論に還元する議論への反駁を参
照。
15 ヴェルマンの表現を借りるならば,人間は因
果関係から自由でなくとも自律的でありうる
(Velleman, supra note 12, pp. 34-35)
。
16 これは,
Albert Jonsen and Stephen Toulmin,
The Abuse of Casuistry: A History of Moral
Reasoning (University of California Press,
1988), pp. 186-87 が強調する点である。
17 『人倫の形而上学』
[A423]
。
18 長谷部恭男「天皇の公的行為」法学教室354号
(2010年3月号)39-40頁。
19 『人倫の形而上学の基礎づけ』
[A429]
。
20 この議論は,功利主義批判としての側面を持
つ(cf. Murphy, supra note 13, p. 39)
。功利主
義において,各個人は自律的な判断主体として
ではなく,社会全体の幸福の量を集計する際の
一単位として扱われる。つまり,目的としてで
はなく,社会全体の幸福の量を最大化するため
の一手段として扱われていることになる。
21 『人倫の形而上学』
[A230]
。
22 『人倫の形而上学』
[A231]
。
23 『人倫の形而上学』
「法論」41-44節[A306-313]
。
こ の 部 分 の 重 要 性 を 指 摘 す る 文 献 と し て,
Murphy, supra note 13, pp. 124-25; Jeremy
W a l d r o n , T h e D i g n i t y o f L eg i s l a t i o n
(Cambridge University Press, 1999), Ch. 3;
Richard Tuck, The Rights of War and Peace:
Political Thought and the International Order
from Grotius to Kant (Oxford University
Press, 1999), pp. 207 ff. がある。
24 『人倫の形而上学』
[A236-237]
。
注
1 本稿は,2010年1月10日に開催された早稲田
大学GCOE「憲法と経済秩序」研究会での筆者
の報告を必要な修正と最小限の注を加えた上で
再現したものである。なお,本報告と関連する
拙稿として「カントの法理論に関する覚書」立
教法学83号(2011)がある。詳細な参照文献等
については,同稿をご参照いただきたい。
2 『人倫の形而上学の基礎づけ』平田俊博訳,岩
波書店カント全集7(2000)22-27節。
3 後掲注5で示した定言命法の要請を参照。カ
ントは,自分の利益や幸福の実現を求める怜悧
あるいは賢慮(Klugheit)は,行動に関する確
実な指針を与えることができないと考えてい
た。『人倫の形而上学の基礎づけ』
[A417-A419]
参照。
4 『人倫の形而上学の基礎づけ』
[A391, A404]。
5 典型的な定言命法の要請は,
「自己の格率が同
時に普遍的(道徳)法則となることを,自身が
意欲しうるような格率に従ってのみ行動せよ」
として定式化される『人倫の形而上学の基礎づ
け』[A402, 421],『実践理性批判』坂部恵・伊
古田理訳,岩波書店カント全集7[A44]参照。
6 「格率 Maxime」は,行為の主観的原理,つま
り主体自らが定立する原理であり,それが客観
的にも妥当しうる場合にのみ「普遍的法則 all�
gemeines Gesetz」となる(『人倫の形而上学』
樽井正義・池尾恭一訳,岩波書店カント全集11
(2002)[A225]。言い換えれば,各人の定立す
る格率は直ちに普遍的道徳法則として客観的に
妥当するわけではない。
7 『人倫の形而上学』
[A221]。
8 「約束をしたのであれば,それを遵守すべし」
をカントは定言命法だと考えたはずである。
9 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A398]。
10 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A392, A404]
参照。[A392]でカントは,同書でとった方法
について,
「普通の認識から出発して認識の最上
原理を決定するまで,分析的に進行」し,「それ
から再び道を引き返して,その原理の吟味と原
理の源泉から,その原理が用いられている普通
の認識まで,総合的に戻る」のだと述べている。
11 Hans Kelsen, Reine Rechtslehre, 2nd ed.
(Franz Deuticke, 1960), pp. 200-209.
12 David Velleman, ‘A Brief Introduction to
Kantian Ethics’, in his Self to Self (Cambridge
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25 『学説彙纂』[1.1.10]。
26 長谷部恭男「カントの法理論」法学教室352号
(2010年1月号)29頁以下。
27 前掲注26)拙稿「カントの法理論」33頁。と
はいえ,カントの第一次的な目的が,正義に関
する暴力的対立を排除する社会秩序の樹立に
あったことは疑いがない。
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