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労働法の規制緩和と労働者の法主体性

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労働法の規制緩和と労働者の法主体性
論 説
労働法の規制緩和と労働者の法主体性
A.シュピオの所説から
矢 野 昌 浩
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 一八九
形式と内容は、その存在理由からして十分に正統化されうるのか。
有する意義はいかなるものか。労働法はそのような役割を実際に果たしえているのか。現に存在する労働法の規制
労働法の存在理由はなにか。それが労働者の保護と自由の確保にあるとすれば、そのことが法秩序全体のなかで
一 課題の設定
労働法の規整原理
労働法の存在理由
課題の設定
三 二 一
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶ 一九〇
これらの問題は、我が国の労働法学にはなじみぶかいものかもしれない。市民法と社会法という法類型論から両
者の連続性と断続性を間題にしたり、労働法の理念とされるものから判決あるいは立法を批判的に検討すること
は、労働法学の伝統な技法の一つである。近年の規制緩和のもとで、労働法の存在理由を問い直しながら、改正法
︵案︶を評価する作業がおこなわれているのも、その延長線上にあるだろう。さらに、労使関係と法の転換のなか
で、労働者の自己決定権を新たな基本理念として、戦後労働法学を再構成しながら現代労働法を展望する見解が広
︵1︶
範な議論をひきおこすに至っている。
ところで、一九八○年代以降、フランスは労働法の弾力化あるいは規制緩和を経験する。時代の雰囲気を象徴し
︵2︶
たのが、一九八六年にモンペリエで開かれたシンポジウムのタイトルである。それは、﹁労働法典を焼き払うべき
か?﹂であった。労働法に対する理論的な批判の主流は、新自由主義の立場からのものだった。労働法はそもそも
︵3︶
が、そのときどきの要求に応じて妥協の所産として生まれたテキストの歴史的堆積物である。フランスの労働法の
歴史では、この妥協は労使自治の枠内ではなく政治権力の介入を通じて実現されることが多かった。テキストも西
欧では唯一法典化され、国家介入主義的労働法としての体裁をもつ。自生的な市場秩序を撹乱する人為的な規制を
批判する英米起源の政治経済思想が、フランスにおいて意外にも普及したのは、このような特徴を労働法が実際に
︵4︶
備えていたことに理由を求めることができる。
このため、冒頭にあげた問題を検討することが、今日的な意義をもつことになった。G.リヨンーカーンもそれ
をおこなった一人である。しかし、徹底的な分析をおこなったのは、それよりも若い世代に属するA.シュピオで
︵5︶
あろう。﹁アナクサゴラスについてアリストテレスがいったように、酔っぱらいのなかでただ一人しらふなのがか
︵6︶
れである。﹂リョンーカーンがシュピオを評したこの言葉は、このような事情を物語るものといえる。かれの議論
に特徴的なのは、労働法の正統性を論じるために、その存在理由︵邑ω8α、①霞①︶を把握しようとするだけでなく、
これに準拠して労働法の現状を批判的に吟味したことである。
これらの考察を通して基底にあったのは、労働者が﹁法主体﹂︵ωεΦ&Φ警o達であるという観点であろう。以下
の叙述の都合上、ここで簡単にこの概念に触れておきたい。シュピオは法主体概念を、なによりも法的意味におい
て用いる。それは﹁法規範の法的効果を作用させる資格を実定法により付与された者﹂である。法的概念は社会関
係からの抽象化を経たものである。この抽象化による媒介は、法的概念と事実との間に﹁切断﹂︵8εξ①︶をもた
らす。法主体概念もそうである。それは具体的個人ではなく、私権の享有主体としての人という抽象的な意味でし
か理解されない。しかしまさにこのことから、﹁世界に属さないで世界に対する制約を構成する﹂という性格を法
主体概念はもつことになる。物︵客体︶として人間を扱うことはできないことを、それは意味する。法主体として
の資格を法が人間に与えるからである。社会関係に関する他の思考方法︵政治学、社会学等︶との関係で、法的思
考がもつ自律性はここに由来すると指摘される。
︵7︶
このような観点にもとづき、現代労働法の規整原理︵賓冒9冨身お旭謎Φ︶がいかに論じられたかを、この小稿で
一九一
は素描したい︵三︶。その前提として、労働法の存在理由に関するかれの議論を簡単に整理しておこう︵二︶。
労働法の規制 緩 和 と 労 働 者 の 法 主 体 性 ︵ 矢 野 ︶
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶
二 労働法の存在理由
1 発生論的説明
一九二
労働法の存在理由については、相対的に区別される少なくとも二つの視点から説明が可能であろう。労働法がな
ぜ形成されたかという発生論的な説明と、労働法がいかなる役割を実際に果たしているかという機能論的な説明で
ある。前者については、シュピオは経済主義︵国88邑の導Φ︶と人文主義︵国ニヨき冨B①︶という両極を設定して、
従来の議論傾向を整理する。すなわち、既存の秩序維持を望む者もその転換を試みる者も、経済的力関係の反映と
して労働法をみるかぎり、経済主義的な理解にたっている。逆に、カトリシスムも社会主義的理想主義も、経済的
関係を道義的価値に従属させる手段として労働法をみるかぎりで、人文主義的な理解となっている。これらの見方
がいずれも成り立ちうることを確認しながらも、かれは労働法の存在理由を経済あるいは道義にではなく、法シス
︵8︶
テムそのものに求める。換言すれば、他の法分野、とりわけ民法との関係のなかにそれをみいだそうとする。
労働者が法主体であることは、肉体の非財産性︵Φ簿轟冨鼠ヨ8巨譲身。○きωどe巴づ︶と意思自治︵磐8ぎ昌Φ
8寅ぎ一窪邑の原則を導く。しかし、﹁債権法の領域に人間の肉体をとりいれること、意思が債務に従うだけでは
︵9︶
なく別の意思に従属するのを認めることにより、労働法はこれら二つの重要な法原則と対立する。﹂この問題意識
が、かれの労働法研究における重要な柱の一つとなっている。敷衛すればこうである。資本主義の生成のなかで、
経済思想は労働を抽象化し商品として扱うようになる。労働関係の契約的構成を可能にしたのは、このような経済
的フィクションである。しかし、労働は労働者という人間と実際には不可分である。労働契約において給付の対象
となる労働とは、結局は労働者の肉体そのものである︵法人が雇用されないのもこのためである︶。こうして、労働関
係の法的性質決定と内実との間に矛盾が生じる。前者を前提にすれば財産法、後者から出発すれば人格法として労
働法は構成される。他方、労働関係には、労働者の従属と意思自治との聞の矛盾も存在する。労働者の従属は、契
約上の債務に通常ともなう意思の制約とは異なる。労働義務の内容は、当事者の合意により明確に特定されえな
い。使用者の命令に対する従属が、労働義務の本質であるためである。そこでは労働者の自律的意思が放棄され、
使用者の自律的意思に従属している。
これらの矛盾は、労働法において裁判官の法的推論に振幅をもたらすとともに、その規範創造的役割を重要にす
る要因となる。より一般的には、労働法そのものを生み出した二つの原動力︵お器o誘︶である。古典的な雇用契
約︵フランスでは労務賃貸借︵一〇轟鳴号ωR託8ω︶︶概念が前提とする交換関係に、労働者の肉体、さらには人格と
︵10︶
いう非財産的価値を組み入れるための道具概念として、労働契約概念がこうして形成された。いずれにしても、労
働法も社会関係を市民化する︵。ヨ房豊こと、力関係を法的関係に転換することを、他の法分野と同様に存在理
由とする。しかし、債権法が自らの肉体と意思の主人としての法主体を対象とするのに対し、労働法が前提とする
のは肉体を客体化し意思を従属させた労働者である。企業におけるこのような私的権力関係は、債権法では制御で
一九三
きないものであった。このような労働者に保護と自由を確保し、それを法主体にするために労働法が形成されたの
であり、法システムにおけるその独自性もここにあると指摘される。
︵11︶
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶ 一九四
2 機能論的説明
それでは、今日において労働法の役割はどのように正当化されるか。シュピオは、経済成長期からの論点の変遷
を指摘する。すなわち、六〇年代には、労働法が労働者保護を目的とすることを誰も疑わなかった。しかし七〇年
代に入ると、労働法が使用者にも利益をもたらすことがあらためて主張され、両義性︵四ヨ玄く巴象8︶が強調され
るようになる︵機能論への移行︶。さらに八○年代には、均衡︵9邑ぎ這という見方がコンセンサスを得るように
なる。すなわち、経済的なるものと社会的なるもの、安全と自由、効率と衡平、個人的なるものと集団的なるもの
︵12︶
などの間に均衡をもたらしていることに、労働法の意義が求められるようになったというのである。経済的効率の
ために労働法の弾力化あるいは規制緩和を促す流れに対して、歯止めを用意するための議論であることは明らかで
あろう。
かれによれば、今日的状況における労働法の存在理由は、端的に、進行しつつある労使関係と法の転換を、労働
法が適確に分析し支配できるかによる︵テキストの科学︵ωq窪8︶と実務︵冥&ε①︶︶。この転換は経済学あるいは
社会学も分析の対象としている。しかし、労働法はまさに法であるがゆえに、その意味と射程を明確にすることが
できる︵3参照︶。その一方で、上述のような相対立するものの均衡を図りながら労働者の法主体性を確保するこ
とが、労働法にとって課題となるに至っている。雇用確保を代償にした集団的労働条件の切り下げ︵いわゆる相互
譲歩交渉︵忌碧9畳き3目きマ3目きけ︶︶が実務に広がるなかで、労働契約に根拠をもつ労働条件の変更には、労
働者の明示的同意を要するとした近年の判例が、このような課題に応えた例としてあげられている。一九八六年に
経済的解雇に関する行政的許可制度が廃止されたのち、雇用調整計画︵筥きω8芭︶の審査が司法裁判所により厳
︵13︶
格にされるようになったことも、 それに付け加えることができるだろう。
3 小括と整理
こうして、労働者に保護と自由を確保することを通じてそれを法主体にすることに、労働法の存在理由は求めら
れることになる。この結論自体は目新しいものではないだろう。それでは、労働法のこのような存在理由から、現
代労働法はどのように評価されるのか。そこにおいて、労働者が法主体であるということは、いかなることを具体
的に含意するのか。法規範︵議哩08費oεと適正化規範︵議笹Φ8⇒曾日巴一の蝕o⇒︶、形式的平等と実質的平等とい
う二つの類型論から、シュピオはこれらの問題にアプローチすることになる。
ところで、かれの問題意識の底流には、法と社会との関係についての少なくとも二つの観点が存在したと考えら
れる。一つは、デュルケームから受け継いだものである。﹁その著作における中心的問題は、二律背反の形で定式
化できる。合理的で個人主義的で自由な思考にもとづく現代社会の構造は、歴史的展開の今日的成果である。しか
しながら、不可避的で多くの点で利益をもたらしたこの展開は、伝統的な連帯を掘り崩し、無秩序︵きo旨Φ︶と社
会的解体、そして組織化されていない無限に多数の個人からなる社会を、肥大化した国家が縛りつけ押さえつけよ
︵14︶
うとする社会学的奇形︵ヨ8畏琶ω鼠ω8巨○磯β器︶を萌芽としてもたらした。﹂これを解決する方法として、労働
裁判所︵8霧①房8℃蜜α、ぎヨヨ亀をモデルにした﹁規範設定権限をもつ労使同数代表の職業的機関﹂を、デュル
ケームは提示した。フランスにおける労働法の現代的展開、とりわけ立法による団体交渉の促進︵特例協定
︵88鼠念8恕8一8︶の容認による労働条件の弾力化にみられるような政策目的に対する労使自治の手段・従属化を含め
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 一九五
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て︶を分析するうえで、このことは有益な視座となるとシュピオは評価する。ここにみられるのは、国家法と集団
︵15︶
的自治との適切な役割分担をおこないながら、無秩序も国家活動の肥大化も避けることにより、個人の自由を保障
するという観点である。これは労働法の正統佳を分析する際にも基調となるであろう。
注目されるもう一つの観点は、規制対象である社会に対する法の自律性である。これは、ウエーバーの法的合理
性論からの影響である。ウエーバーは形式的合理性と実質的合理性とを区別する。形式的合理性は、法的思考が作
り出す抽象的概念の体系に適合していることである。これに対して、実質的合理性はこのような論理的抽象の形式
主義を壊し、倫理、実益あるいは政策に従うことを意味する。シュピオによれば、労働法は社会的事実を重視する
ことにより、法システムに実質的合理性を持ち込んだ。しかし法システムに組み込まれているかぎりは、概念を社
会的事実から抽象化し、法的推論に特有の形式性を備える︵たとえば、民法の﹁人﹂に対する労働法の﹁労働者﹂概
︵16︶
念︶。こうして、法的合理性は実質的なものであっても、社会との関係では自律的な合理性であることが強調さ
れる。最近では、法が語っているのは社会関係の実態ではなく、それがどうあるべきかについての社会の自己イメ
︵17︶
ージである、この理念像があることによって、法的分析は今日の転換に明確な意味と射程を与えるとともに、それ
を饗導する知的手段となるとする。このような観点は、法規範概念あるいは法主体概念の意義を理解するうえで鍵
とな る だ ろ う 。
三 労働法の規整原理
︵18︶
1 法規範と適 正 化 規 範
シュピオによれば、規制緩和論が流布した原因の一つは、法律の過剰︵鼠蛋一88巴o芭という現実の問題にあ
る。このことから、法律の介入基準を明らかにすることが課題となる。法規範と適正化規範の類型化からこの検討
は始まる。
シュピオの理解によれば、ウエーバーは﹁裁判﹂︵㎞ξ菖&8︶、﹁法﹂︵辞o騨o豆9焦︶と対立するものとして﹁統
治﹂︵ひqo瑳R8BΦ邑、﹁行政﹂︵匿巨三弩呂自︶を位置づけた。統治は﹁規則﹂︵議魁ΦヨΦ邑によりおこなわれるの
に対し、裁判は﹁権利﹂︵魯鼻霊豆9段︶を保障する。規則としての性格をもつ規範しかなく、権利を保障する法
が存在しない場合、統治または行政により追求される目的によって権利は解体されてしまう。このような行政の起
源は氏族内の権力︵8瑳o畔3ヨ霧且器︶にあるのに対し、法の起源は氏族間の仲裁にある。この権力に服する者
には権利は存在せず、法の客体であり主体ではない。このような類型論にもとづきながら、法規範を免れる﹁私的
行政﹂︵器巨三弩豊2質一識①︶として、ウエーバーは企業を位置づけた。このように把握された法︵裁判、権利、法
主体問の対等関係︶と規則︵行政、権力、組織内における従属関係︶の対置に依拠しながら、シュピオは法規範と適正
化規範の区別をおこなう。しかし、ウエーバーの法的合理性論を借用した場合と同様に、かれの類型論では規範と
︵19︶
規律対象である社会との関係に視野が移動する。
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 一九七
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すなわち、法規範と適正化規範との区別は、社会的事実との関係のあり方における違いによる。法規範は社会的
事実との間に切断がある︵一および二3参照︶。このため、法的カテゴリーはそれが指示する事物とは完全には符号
しない。それは境界の画定しかおこなわない。法規範を遵守することは、この境界を超えないことである。その枠
内では自由に行為できる。このことから、法規範に対する適合性審査は事後的なものになる。要するに、法規範
︵法、法的合理性︶は﹁制限技術﹂︵貰富8巴首箒ω︶でしかない。これに対して、適正化規範においては、規範と事
実との間のいかなる切断も拒否される。適正化規範にとって重要なのは特定の行為を実際にさせることである。こ
のような規範の制定者は、法主体としての抽象性を壊して具体的な個人を把握しようとする。適正化規範に対する
適合性審査は、行為を事前に確定するために許可制によることになる。法主体としての抽象化を放棄することは規
︵20︶
範を多様化する。究極的にはこれは規範を解読不可能にすることによって、権力行使を恣意的なものにするおそれ
︵21︶
がある。シュピオは法規範の例として交通信号のルールを、適正化規範の例としてクオ:タ︵∈9器︶制度をあ
げる。
このように設定された二つの規範類型は、社会を組織する原理の点で対立する。しかし、実際には組み合わさっ
て相互補完関係を構成している。適正化規範により法規範を置き換えるという見解を批判することは、社会関係の
全面的な法化︵冒鼠象ω豊自︶という立場をとることを意味しない。このようなやり方そのものが適正化なのであ
り、制限技術としての法の本質を無視することになる。﹁制限技術である法的合理性そのものが、制限をもってい
︵22︶
る。﹂﹁法規範は境界を画定し、まさにそのことによって適正化規範が展開することができる空間を画定する。﹂二
つの規範類型の関係はこのように定式化できる。
労働法においてはこれはいかなる意味をもつのか。まず、労働者を客体とする適正化規範を企業内に展開する手
段が、債権法により使用者に与えられた。つぎに、労働法は、一定の法規範の効果を使用者に対して行使する資
格、すなわち法主体としての資格を労働者に復権︵おω葺&自︶させ、使用者の適正化規範による支配を制限した。
企業内労使関係の改革に関する近年の立法も、使用者の権限を制約し労働者を法主体として扱うものと評価できる
方で、雇用保障の領域では、労使双方を政策の単なる客体として扱う立法がみられるという。こうして、法規範と
︵企業における労働者の自由に関する一九八二年八月四日の法律、団体交渉に関する同年二月一三日の法律︶。しかし他
︵23︶
適正化規範という法類型論は、現代労働法の分析視角を提供するものとして位置づけられる。シュピオにとって、
労働法の規制緩和とは、法規範が後退することにより、国家あるいは使用者により制定された適正化規範が繁茂す
ること、すなわち法に対する権力の勝利を意味している。
︵24︶
2 形式的平等と実質的平等
しかしながら、それぞれの規範類型の役割分担を指摘するだけでは、当初の検討課題である法律の介入基準は示
されない。法規範の領域と適正化規範の領域を分ける基準はなにか。換言すれば、法的合理性それ自身の制限はど
のように画定されるのか。この問題にシュピオが直接取り組むのは、一九九〇年代に入ってからであった。道具概
︵25︶
念となったのは、形式的平等と実質的平等との対比である。敷衛しながら説明するとこうである。
ある事実を別の事実と類似するとして同じ法規範を適用するか、区別して異なる法規範を適用するかは解釈によ
って別れる。しかし、いずれにも平等原則が働いている。事実の多様性、可動性を前にして法規範の一般性、抽象
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性、持続性を重視するのは、形式的平等である。事実に対する法規範の適合性を優先するのは、実質的平等であ
る。いずれかに傾きすぎると、法的関係は力関係に戻ってしまう。事実上の不平等を考慮しないことは、力関係を
全面的に機能させることであり、法主体となるための法規範を提供しないことである。その一方で、微細な不平等
まで考慮するのは、社会関係の適正化をおこなうことであり、ここでも法規範と法主体は消失することになるから
である。換言すれば、法の無秩序によっても過秩序︵ξ需ヨo巨①︶によっても、法主体は脅威にさらされている。
このことから、平等原則の二つの側面を組み合わせることは、法的合理性の本質そのものであるといえる。
フランス労働法の歴史がそのことを示す。近代において労働関係は、個人主義の見地から対等当事者の契約関係
として構成された。ドイツ労働法はこの見地を批判するのに、人格的、共同体的、位階制的関係を復権させるとい
う見地を用いた。しかし、フランス労働法による批判は、契約における平等概念を深化させるという見地からのも
のだった。こうして、フランス労働法の構築は、形式的平等原則により支配された法的枠組みに、実質的平等原則
を包含する試みであった。この実質的平等原則は、労働者の地位規範︵馨簿琶という観念にもとづき、労使の不
平等関係を修正する。労働関係の契約的構成が維持できたのは、契約と相反する地位規範という観念を化体するこ
とによってであった︵二1参照︶。今日重視されるようになった均衡概念も、平等概念にその根拠を求めることが
︵26︶
できる。それは、位階制的モデルにもとづいて労働関係を構築することを妨げている︵二2参照︶。
このような観点から近年における労働法の動向に目を向けたとき、労使間よりも直接的には労働者間の平等関係
に焦点があてられることになる。実質的平等にかたよる傾向のある例として、﹁失業の社会的治療﹂︵寓葺①ヨ①葺
ω8蛋含03ヨ謎①︶といわれる雇用施策があげられる。優遇を受ける対象を狭く設定すること︵﹁ターゲット設定﹂
︵o琶甜o︶とよばれる︶、失業に関する統計的観察から演繹されるカテゴリーをこのような対象とすることに特徴が
ある。長期の失業状態にある若者、母子家庭の母親等がその対象となっている。その反面で、外国人の母国への帰
還、高齢者の早期引退が促される。しかし、このような施策も高度の職業資格をもつ者に恩典を与える結果とな
り、対象とされたカテゴリi内部での不平等を拡大してしまった。そこでさらに、﹁再就職を特に困難とする社会
的特徴を有する者﹂︵労働法典L・三二一−一−一条︶といったカテゴリーが登場する。このような統計的カテゴリ
︵27︶
i、さらには社会心理学的カテゴリーの法化のたどりつくところは、社会的扶助の全面的な個別化であり法からの
︵28︶
逸脱であろう。つぎに、形式的平等に偏重した例として、フランスの工業分野における女子夜業禁止原則を、雇用
平等に反するとしたEC裁判所判決があげられる。かれにとって問題なのはこの結論自体ではなく、女性労働者に
対する具体的考慮を、妊娠と出産を除いて﹁当該指令の目的とは無関係である﹂として判旨が排除してしまったこ
とである。この両極を避けながら法主体間の形式的平等の枠内で実質的平等を追求することが、労働関係に対する
︵29︶
労働法の規制原理であり、労働法自身の制約原理として位置づけられる。
3 小括と検討
労働法の規整原理に関する考察の最後に、シュピオはつぎのような比喩を使う。﹁地面に線を引いて子供がする
遊びのような境界が、法にはある。地面に線がなければ遊びができない。それは無秩序であり混乱と強者による支
配となる。しかし、場所がなくなるほど線が引かれているときも遊びはできない。こちらは過秩序であるが、混乱
と強者による支配とになるのは同じである。まさにあるべき線があるときに、線を引いた者を忘れ、そこで一か八
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 二〇一
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶ 二〇二
︵30︶
かやってみることができる。いかさまさえもできる。自分の全責任でそうするのだ。これが自由と呼ばれるもので
ある。﹂
私的権力組織である企業組織において、労働者の法主体性を復権させるために、このような線引きの尺度となる
のが平等概念の二重性という視点であった。この制約原理にしたがった企業組織の間切りにより、使用者の権限が
適切に枠づけられる。こうして、労働者の法主体性、社会関係に対する法の自律性という一貰した観点から、労働
法の規整原理︵形式的平等と実質的平等︶と規律モデル︵法規範と適正化規範︶が摘示された。この理論は直接的に
は、一九八○年代以降におけるフランスの労使関係と法の転換を分析するための道具である。しかし、法とは何
か、法と社会との関係はいかにあるべきかという問いを起点にしていること、法主体の自由、法主体間の平等とい
う近代法の大原則を分析視角にしていることが、理論の応用力を高いものとしている。
以上に素描してきた内容に関して、フランスのような介入主義的性格を労働法がもたない国への転用可能性を視
野に入れながら、基本的な概念装置を二点につき簡単に検討する。一つは、労働法における﹁法規範﹂概念の内容
にかかわる。シュピオは﹁法律﹂の過剰を出発点にしながら、﹁法﹂の役割を論じている。そこでは、国家法と労
働協約とが明確には分けられていない。背景にある事情は、かれの言葉によるとこうである。﹁フランスの法文化
においては、公的なるものと集団的なるものとは密接に結びついている。集団的自治が発展したのは、他律に対抗
しながらでも他律の外にでもなく、まさにその反対に国家による保護領域においてである。﹂有利原則の承認によ
︵31︶
る公序概念の転換、社会的公序︵○益お要菖。ω8芭︶概念の形成によりこのことは可能となった。国家法と労使自
治規範が、こうして相まって労働者の地位規範を構成している。
しかしながら、新自由主義により批判されたのは、国家法としての労働法とともに、伝統的な労使自治規範であ
る産業別協約、さらには労働組合それ自体であった。また他方で、フランスにおいても、労働条件の弾力化あるい
︵32︶
は雇用確保のための施策を実現する手段として、立法者は企業交渉を優先的に位置づけるようになっている。これ
により、一九八二年のオルー法改革が目指したような法規範の系統的な﹁分権化﹂︵翫8暮轟房呂9︶ではなく、
割拠的な﹁封建化﹂︵欲o号房呂9︶がもたらされるとの指摘さえある。デュルケームからシュピオが受け継いだ問
︵33︶
題意識からしても、国家法と労働協約、産業別協約と企業別協約の役割分担、労働協約そのものの正統性という視
︵34︶
点が、企業組織の規範的空間設計に求められることになってくるだろう。
︵35︶
もう一つは、労働関係における﹁個別的次元﹂の理解にかかわる。﹁労働者は、個別的次元では奪われている自
律を集団的次元で回復する。﹂これがシュピオの見方である。労働者は使用者に対し従属労働をおこなっている。
この従属労働には手をつけず、しかしまさにそのことによって労働者に自由が集団的次元で認められた。労働者の
集団的自由はその個別的従属の代償であり、両者は労働関係において不可分である。団結権等の集団的自由が﹁集
団的に行動する個別的自由﹂として構成されるのも、このためである。こうしてかれによれば、労働関係における
個別的次元は、使用者の指揮命令に労働者が服している関係と同一視される。このことは、フランスには民法典に
雇用に関する規定が現行ニカ条しかなく、労働関係の規律において国家法︵集団的他律︶、労働協約︵集団的自律︶
などの集団的地位規範が果たす役割が大きいという事情によるのかもしれない。
しかしながら、近年になりフランスでも、労働契約の労働条件規制機能が強化されつつある。まず、一九九一年
のEC指令第五三三号と国内関連法規の適合解釈により、労働の内容・場所、報酬、労働時間等の基本的な労働条
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 二〇三
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶ 二〇四
件を、採用時に書面で明示することが使用者に課された。さらに、一九九三年には労働法典L二壬二1一ー二条
が判例︵二2参照︶を踏まえて新設され、労働契約の変更には労働者の同意が必要であることが原則として確認さ
れた。その一方で、変更が問題となっている労働条件について、その根拠が労働契約自体にあるのか、労働協約等
の集団的地位規範にあるのかを、判例は明確に分別するようになっている。慣習︵顔超①︶および使用者の一方的
債務負担︵Φ轟譜ΦBΦ暮§一巨誌蚕一8一、①ヨ覧o笥ξ︶の契約化体を最終的に否定したことが、その端的な現れである
︵唯一の例外は、労働法典L・二二二−八条六項を根拠とする協約破棄後における個別的既得利益の契約化体である︶。それ
とともに、慣習と使用者の一方的債務負担の破棄については判例、労働協約の改定については立法︵当時の判例を
変更するために同L・一三二ー七条を修正した一九九二年一二月三一日の法律︶が柔軟な手続を用意するに至っている。
こうした動向を背景に、労働契約は、民法典二三四条に規定された﹁当事者の法律﹂、あるいは﹁労働者の最低
限の地位規範のようなもの﹂となっているとの評価もされている為これらのことからしても、使用者の一方的決定
︵36︶
権限︵個別的他律︶が展開する領域を限定するうえで、当事者の合意︵個別的自律︶の機能領域を明確にする必要が
あるだろう。
このようなシュピオ理論を下敷きにすることにより、日本の労使関係と法はいかに分析されるのであろうか。ま
た、日本の労働法理論、とりわけ自己決定権を基本理念として現代労働法を展望する理論と、どのように響きあう
︵37︶
ことになるのか。これらの検討については他日を期したい。
︵一九九九年一一月三〇日脱稿︶
﹁労働者と自己決定﹂法の科学二八号︵一九九九年︶八六頁以下参照。
︵1︶ 西谷敏﹃労働法における個人と集団﹄ ︵有斐閣、一九九二年︶参照。学説の議論状況を整理・検討する文献として、武井寛
︵2﹀ このシンポジウムの特集として、U8評ω09巴︵U。ω●︶口。。
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︽。ぎ器昌αきω一、窪幕冥一のΦ︾ヒΦ貴ω凶α。一①ωα①R。一こ⊆賃麩四一ど狸三8ω9&酵①ρ一8。。も●ま㎝9
︵3︶ これとの対比で、一九八二年の労働法改革を導いたオルー報告書の独自性を指摘するものとして、︸ωd国○θ︾90霧83
︵4︶ く。ρr顧OZ−○>国!9三2Φα.琶ΦR獣2Φ自置∈ρ算ω●一〇逡︾写89これはシュピオ・後掲書注︵7︶の書評である。
︵5︶ G.リヨンーカーン﹁組合活動とその正当性﹂︵中山和久・矢野昌浩訳︶比較法学二二巻一号︵一九八入年︶二三九頁以下、
同﹁労働法の二面性﹂︵大内伸哉訳︶北村一郎編﹃現代ヨーロッパ法の展望﹄︵東京大学出版会、一九九八年︶三四一頁以下参照。
︵6︶ O●ゼ顧OZ−○︾国Z﹂獣身
展望﹂国家学会雑誌一〇九巻七”八号︵一九九六年︶一七五頁以下参照。
︵7︶ >。ωd固○θ9三∈①費身○詳費け量黄芦℃dヌお濾︶箸﹄ま−話o。。同書の簡潔にして要を得た書評として、大内伸哉﹁学会
︵8︶ ︾。ωd国○θ℃2お仁o凶仁昌融○津α仁ぼ曽く鉱一りU。ω﹂8ρ暑﹂o。0−①●
ωご℃一︵︾↓℃]﹁Φ甘﹄閃①①け一Φ住﹃O一けα仁け﹃餌く餌一一︶一︾。ω●一■OO
QO一ω℃㎝O。
︵9︶ ︸ωd霞089甘鴨98身o詳身q巽毘唇冨ωρωo巳8艮山﹂鶏PPω。・構成・筋立てを正確に再録した要約として、>・
ンス労働契約理論の現代的展開︵一ー五・完︶﹂広島法学一四巻二号︵一九九〇年︶二九頁、三号︵一九九一年︶三七頁、四号
︵10︶ ︾ωd匹○θO葺5奉身α肘o評3賃零毘もワ㌣器。契約と身分という労働契約の構造的二重性については、三井正信﹁フラ
一郎編・前掲書注︵5︶二七五頁参照。
︵同︶三五五頁、一五巻三号︵一九九二年︶六九頁、一六巻二号︵同︶五五頁、大村敦史﹁フランス法における契約と制度﹂北村
。叩①●このような均衡が保たれていることが、労働法にシステムとしての安定性を逆にもたらしているという。︾’
︵12︶ 一び幽負署﹂。
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︵n︶︾ω亀δ↓㌔。基登琶α邑&仁冨邑=℃℃﹂。 。刈−。
ωq国○θO酵甜一〇B①簿簿一自亀窃お一鋤臨o霧8霞薯巴一9帥旨oみ唯①ヨΦ旨曽岳8血①一、①旨話箕一ωρU.ω﹂Oo。P℃﹄宝。
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶ 二〇五
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶
二〇六
︵13︶ >あd国○θ℃○貫29琶魯o辞身q薯匙り唇﹂。。。よ。Pまた、A.シュピオ﹁フランス労働法における弾力化﹂︵川口美貴
雑誌四六四号︵一九九九年︶八五頁以下参照。これらの判例の検討については、野田進﹃労働契約の変更と解雇﹄︵信山社、一九
訳︶日本労働研究雑誌四四〇号︵一九九六年︶六〇頁以下、同﹁九〇年代におけるフランス労働法の動向﹂︵拙訳︶日本労働研究
九七年︶参照。フランス労働法の現代的変容を解読する主要概念として均衡概念を位置づけるものとして、三井正信・前掲論文注
︵10︶参照。
︵15︶ 一げ一α4暑﹂遷−一〇〇の
︵14︶ ︾●ωd国○θ>09巴一鼠α①U貫ぎ一βU8津9ω8一騨①﹂Oo。。︸℃■一お◎
。ト薯●Nま600。この論文は後掲論文注︵25︶ととも
︵16︶ >。ωO国OθU色猪巴一ω簿一〇P8﹃日﹄ω緯一89警o詫αq賃薯鉱一℃∪。ψ一〇〇
に、前掲書注︵7︶の第五章として加筆のうえ再録される。リョンーカーンはこの章を同書の核心として位置づける。ρい畷OZ−
︵17︶>。ωO国○↓矯い9蚕く毘窪℃。お℃Φ&<Φω”§①凶導8身魯OP言い①霞四く包雲冨お冨。叶一<①ω︶び09﹂。。。。も’F
O>図Z﹂画血●
︵18︶ シュピオは、新自由主義とならんで、々ルクス主義法理論における法の死滅テーゼを労働法批判論として位置づけ、それぞれ
の内容を分析する。ハイエッタは労働法の実質的合理性︵社会的正義︶を、パシュカーニスはその形式的合理性︵法的イデアリズ
ム︶を批判しているという基本構図が描かれている。労働法も法であるとして階級消滅によるその止揚を予示する後者を、シュピ
オは社会関係に対する法の自律性を無視するものであり、新自由主義とともに裸の暴力を隠蔽するユートピアとして批判する。こ
>●ωd霞OθU鰹ひ閃巴凶ω簿一〇P昌o﹃ヨ巴一ω碧一〇口9Ro津α二q¢く巴ピ℃Pω8−ω宝●
の批判は、結局のところ法の本質をどこにみるかの違いに帰するであろう。シュピオの見方はウエーバi理論の影響下にある。
︵19︶ また、このような二類型論に関するアリストテレスからフーコにまで及ぶ西洋法思想史が踏まえられる。︾ ωO酉○θ ρ一−
ρま血二辞○詳α二耳9<巴一︸唱P曽ω−①●
であり﹁治療﹂を要するものとして扱われるようになる。シュピオはその例としてパシュカーニスの主張を引用する。一玄負暑巳
みが追求されることになる。これが社会関係の﹁科学的認識﹂という主張と結びつくと、適正化規範に違反することは、﹁病気﹂
合性︶の二つの緊張関係のなかで議論される。しかし、適正化規範はこのような二元性をもたない。社会的事実に対する適合性の
︵20︶ さらに、法規範は規律対象である社会関係に対して自律性をもつために、形式的論理性︵法適合性︶と実質的妥当性︵社会適
焦
曽OIO●
︵21︶ ︾・ωd国OθU蝕猪呂の簿一〇P8﹃B餌房魯一89魯o評3賃髪匙もPωS−80.最近のEC裁判所の判例によれぱ、雇用、昇進
等に関する優先権が﹁絶対的で無条件の性格﹂︵8声9酵o筈ω○ピ9ぎ8且崔○暮9をもつ場合には、一九七六年二月九日の指
令第二〇七号︵いわゆる雇用平等指令︶第二条パラグラフ四で容認された差別是正措置にあたらず、性差別であるとされるに至
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る。く,ω。<︾2閃>国℃国Zωdω○戸国αq巴律ひ8貸巴措ヨΦ葺魯嘗Φ﹃○導ヨ霧9♂ヨヨ①ρ国Φ<奉8冒吋広冥βα窪8ωOO一巴Φ︵肉旨ωγ
︵22︶ >のq電○θρ鑑2Φ身α吋o律身寓麩巴一℃唇■曽㌣NO,
︵23︶ ここで念頭に置かれているのは、経済的理由による解雇に関する一九七五年一月三日の法律である。同法による行政許可制度
をうまく利用しているという指摘とともに、今日におけるフランスの雇用法の展開を分析・評価するうえで留意すべきものであろ
は一九八六年に廃止された。しかし、本文にあげた視点は、﹁解雇法のラビリンス﹂のなかで労働者は道に迷い、使用者は抜け道
う。>あ¢国○θO勉甜巴一ω呂o戸8噌ヨ筈ω蝕89窪9山暮轟く毘もる。Sく。一−O﹂><Fい臼勾Z興ヨ﹄鋸什一83浮象9①ヨ①導
①什ωきくの鵯巳Φ儀①ω℃o薯o富α自o冨眺α、魯嘗Φ榎凶ωρ卑&①ω卿○、国。O卜匡国勾い楓Z囚口So。も﹂。一。
︵24︶ >●ωO国○θ一玄α●
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︵25︶ ︾ωO国○θ即ぎo言Φα、甜鋤一鼠①こ一巨鼠ω身饗o詫身霞鋤く巴一堕qω﹂。。Nもマωo。Nふ馴O﹃一鉱∈Φ290詳身霞麩四鴎一もP旨N
︵26︶ 一び一α“薯﹂ωωふ。
︵27︶ 労働者の集団的帰属意識の衰弱も、その社会的効果として指摘される。同獣皇薯る命S
︵28︶ ΩO閃謡甘ヨ9おOど駄闘る臨\o
。曾閃9器出号ω巽﹃弾ω号冨○○瑛8冒ω自8α窃○戸7きミ●この判決が前掲指令・注︵21︶
第五条に反するとしたL・二二二ー一条は、労働法典からまだ削除されていない。死文化しているがシンボリックな意味をもつた
め、困難な立法改革が続くなかで紛争の火種を避けたいとの事情からである。9冒o包Φ﹂①認麩三お。P℃ピ。
二〇七
定的作用をどう制約するかが、そこでの問題意識である。︾ωd匹OθO簿δ垢含血﹃o評倉霞巽毘も﹄卜。。。。同・前掲第二翻訳論
︵29︶ より最近では、法的合理性の制約は平等原則によるだけではないことが指摘される。構成国の社会法に対するEC競争法の否
文注︵13︶参照。
労働法の規制緩和と労働者の法主体性︵矢野︶
早法七五巻三号︵二〇〇〇︶
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<9>ーωd霞○日︾98ω一Φ身.、oぎ冨β量塁一、g嘗①蜜一ω①、、も。鴇。。
リョンーカーン・前掲第一翻訳論文注︵5︶参照。
二〇八
大内伸哉・前掲書評注︵7︶一入○頁参照。シュピオは前掲論文注︵12︶でこの検討をおこなっているが、最終的な結論とし
>の¢固Oθ〇二寓2の倉α異○濤α二需蝉く鉱㌍唱﹂ωO。
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個別契約に関する変更制度の厳格化と集団的
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︵36︶
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︵37︶
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拙稿﹁企業内労使関係と﹁非典型協定﹂︵88三ω四蔓鳳28︶﹂日本労働法学会誌九二号︵一九九八年︶一六七頁以下参照。
前掲書
注
︵13︶、シュピオ・前掲第一翻訳論文注︵13︶、同・前掲第二翻訳論文注︵13︶参照。さらにアプローチの仕方は異なる
る
こ
と
が
指
摘
さ
れ
て
い
る
。
判例と立法の動向に関する邦語文献として、三井正信・前掲論文注︵10︶、野田進・
れぞ れ 対 応 し てい
に
関
す
る
同
制
度 地位 規範
の 柔 軟 化 と は 、政策的な観点からは、労働者の雇用保障と市場に対する企業の適応力確保という要請にそ
一
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