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「青い目の人形」の、もう一つの物語

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「青い目の人形」の、もう一つの物語
平成28年2月29日
Nishimae Elementary School News Letter
横浜市立西前小学校
Web:http//www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nishimae/
「青い目の人形」の、もう一つの物語
校
長
末松
隆一郎
冷たい風が行き過ぎた後、沈丁花の香、ほのかに漂う頃となりました。春の到来に心ときめ
き、躍動の季節を迎えようとしています。
ーこれからも、平和の使いであり、わたしたち西前っ子の大切な家族「ポーリン・マーリン」
とともに、仲間と家族のように仲よくできる西前小にしていきたいです。ー
この言葉は、2月15日に行われた西前小学校第106回創立記念式の中で、
6年生の子どもたちが発表した「わたしたちの家族 ポーリン・マーリン」の
結びの言葉です。西前小学校では毎年、創立記念式の中で、リーダーズ委員会
の6年生児童が、ポーリン・マーリンについて、その歴史や生い立ち、そして
平和について発表しています。勿論、普段校長室にいるポーリンとマーリンも、
この日は体育館にきています。西前小学校の創立記念式は、学校の誕生日を祝うと共に、あら
ためて大切な家族であるポーリン・マーリンについて知り、平和の尊さについて考える日でも
あります。また今年は、5年生の子どもたちが番組作りの授業の一環でポーリン・マーリンに
ついて調べていました。その取材に答えるべくあらためて資料を見ているうちに、私は一つの
認識違いに気がついてしまいました。それは、童謡「青い目のお人形」との関係でした。
誰もが口ずさんだことがある名曲「青い目のお人形」。私は、てっきり青い目の人形たちが贈
青い目のお人形
られてきたときにこの歌ができたと思いこんでい
作詞 野口雨情
ました。ところが調べてみると、青い目の人形、
作曲 本居長世
ポーリン・マーリンたちが日本の子どもたちに贈
青い目をした お人形は
られたのは、1927年(昭和2年)のこと。そ
アメリカ生まれのセルロイド
して、野口雨情が「青い目のお人形」を発表した
日本の港へ ついたとき
のは雑誌「金の船」1921年(大正10年)1
一杯涙をうかべてた
2月号だったのです。しかし、この歌が、実はポ
「わたしは言葉がわからない
ーリン・マーリンたちを含め約13000体にも
迷子になったら なんとせう」
およぶ「青い目の人形」が日本にくるきっかけと
やさしい日本の 嬢ちゃんよ
なっていたのでした。
仲よく遊んで やっとくれ
この歌は日本国内だけでなく、アメリカでも歌われたそうです。そのきっかけとなったのが、
歌ができて2年後に起きた関東大震災でした。当時も世界中が救援のために募金を行ったそう
です。中でもアメリカからの金額が一番多かったのですが、その募金を呼びかける際に歌われ
たのが「青い目のお人形」だったそうです。歌詞がアメリカ生まれのセルロイド人形を主題に
した関係もあり、「ブルーアイドダル」と訳され、各地で割れるようなアンコールを常に繰り返
していたそうです。
しかしその後、日米の関係は次第に悪化していきます 。「このままではいけな
い」。そう考えていたある人物の耳に、この歌が聞こえてきました。シドニー・
ルイス・ギューリック博士です。ギューリック博士はこの歌を聞き、子どもの頃
から友好の心をもっていれば、大人になっても仲よくすることができるのではと
考え、題名となっている「青い目をした人形」を、日本の子どもたちに贈ること
にしたのです。そして、平和の架け橋としてやったきた人形たち。その後の時代
の流れと運命についてはご存じかと思いますが、実は、「青い目のお人形」の歌も、
「赤い靴」などとともに歌唱禁止になってしまったそうです。
この歌は、「国境なき愛の教育」が叫ばれ始めたこの時代、「国際愛」を歌った童謡が無いと言うこ
とからいろいろ考えた末にできた歌であると、作曲者である本居長世も、その回想記の中で述べてい
ます。青い目の人形たちやこの歌に込められている平和へのメッセージ、これからも子どもたちに語
り継ぎ、歌い継いでいかなければという思いを、青い目の人形の、もう一つの物語を知り、今、あら
ためて感じています。
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