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アーサー王物語―ガウェイン最初の冒険

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アーサー王物語―ガウェイン最初の冒険
アーサー王物語―ガウェイン最初の冒険―
日守文乃
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
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囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
アーサー王物語︱ガウェイン最初の冒険︱
︻Nコード︼
N4579O
︻作者名︼
日守文乃
︻あらすじ︼
アーサー王の甥にして、円卓の騎士の一人、ガウェインの最初の
冒険。
逃げた白鹿を捕らえるという一見簡単そうな命であったが、その冒
険はガウェインにまざまざと騎士の宿命というものを
思い知らせるのであった⋮⋮
1
プロローグ︱︱闇色の黎明︱︱
︱︱蹄の音が静かに響く。
月は厚い雲に覆われ、星は一つもないような⋮⋮そんな暗澹とし
た夜だった。
暗い暗い森の中の、あるかないかの細い小道を、二つの影が粛々
と進む。
俯き悲しげな二つの顔︱︱
彼らはひどく打ちひしがれている。
彼らの俯いたその顔はどう見ても未だ幼く、少年と呼ぶに相応し
い年頃だった。
しかし彼らの身なりはどう見ても、騎士とその従者という風にし
か見えなくて、
その上彼らの格好ときたら、それはもう酷いものだった。
彼らの身体も身につけた甲冑も、薄汚れ傷だらけで⋮⋮所々で血
が滲んでいたり、
こびり付いていたりと、見るも痛ましい有り様だ。
そして何よりその顔︱︱
まるでこの世の終わりとでも言うように⋮⋮沈痛な面持ちで死人
2
のように青ざめている。
︱︱騎士が首にかけている女の生首と同じように︱︱
鞍の前には首のない女の身体︱︱
それは首にかけられた女の肉体︱︱
この女を殺したのは騎士だった。首を切ったのもこの騎士だ。
しかしそれは彼にとっては非常に不本意なことだった。何よりそ
れは︱︱悪夢だった。 殺した瞬間の、女の表情が頭から離れない。 首を叩き切った刹那
の感触に︱︱噴出する血液の赤黒さ︱︱
悪夢は違うことなく現実なのだと示すように、首には女のごわつ
いた長い髪が纏わりつき︱︱
生前はさぞ美しかったであろう女の顔が垂れ下がる。
鼻につく︱︱血の匂いと︱︱腐臭︱︱
血の匂いは女のものと自分のと、それから近くにいる従者で弟で
あるガヘリスのものも
混じっているかもしれない。
噎せ返るほど濃密で濃厚な︱︱生々しい嫌な匂いに︱︱鼻を突く
腐臭︱︱
身体中を満たす⋮⋮倦怠感と深い後悔の念。悲しみと己への不甲
3
斐なさがジクジクと傷を疼かせる。
かつての彼は知らなかった。
こんなに辛くて、苦しくて、哀しくて痛くて、悔恨と自己嫌悪に
苛まれる日が来るなんて︱︱
数日前までは︱︱否、ほんの数時間前、この冒険に出る時も、予
想すらしなかった。
格好良く立派で、憧れと崇拝の対象であった彼らの栄誉と栄光の
陰に、
どれほどの闇が内包されていたのか︱︱栄達と誉れの傍らで、どれ
ほどの痛みや悲しみ、
苦しみを受けねばならないのか︱︱
かつての彼は知らなかったのだ︱︱
4
若き騎士ガウェイン
それは輝かしい栄光の始まり︱︱
若き王アーサーのこうべには王の証たるクラウン、そして隣に立
つ美しき王妃の額には煌くティアラ︱︱
今、この国に新たな王が誕生し、さらにはその王に血筋正しい王
女が嫁いできたのだ。
誰もが歓声を上げ、新たな王と王妃、そして新たな王国の誕生を
言祝いだ。1誰もが若く美しい王と王
妃を通し、この国の未来に光を見出したのだ。
それは少し離れたところから祝いの中心地︱つまりは王と王妃︱
を眺めるガウェインも同じ心境だっ
た。
誇らしいような、少し寂しいような、言葉では言い表せないよう
な何とも感慨深い気持ちになりなが
らも、しかしアーサーの新たな門出を祝う喜ばしい気持ちで彼の胸
は満たされていた。
そしてそれと同時に騎士として彼に仕え、王国の繁栄と未来を担
う重大な使命を心に描き、身の引き
締まるような緊張と心躍るような高揚感とで若きガウェインの胸は
一杯だった。
5
ガウェインは思ったのだ。
これは王アーサーのみならず、自分にとっても新たな始まりなの
だ︱︱と。
この時、光に満ちた未来の到来を年若いガウェインは信じて疑わ
なかった。
否、信じる信じないの余地は少しもなく、今、彼の目の前には確
かに光り輝く未来が開けていたの
だ。︱︱ただしそれは若者特有の熱情と疑うことを知らない頑なな
心の見せた陽炎の如き未来なのだが⋮⋮
彼は知らない。
騎士というものが一体如何なるものであるのかを︱︱
彼にはまだ分からない。
騎士が如何に残酷な運命に晒されているのか︱︱
輝かしい反面、血生臭さと重圧、時に深い哀切と痛苦を孕んでい
ることを︱︱
彼はまだ知らない。
6
しかしすぐにそれを思い知ることとなる︱︱
++++++++++++++++++++++++++++++
++++++++++++++++++++
婚礼と戴冠式を終えると、後は祝宴だった。
目出度い祝いの席特有の、無礼講めいた喧騒、賑わい︱︱
誰もが浮かれたように喜び、飲み食いし、声高に話したり語っ
酒食の力も借りてか、今は昼間以上の騒々しさだった。
たり、さらには歌う者までいる。
沢山の招待客に合わせて大広間には幾つもテーブルがあったが、
中央に一際大きなテーブルがあった。
それはグウィネヴィアの父ロデグランス王が婚礼の祝いとして
娘に持たせた品であった。
丸いその円卓は何百人もの人間が座れるほど大きなもので、サイ
ズとその美しさ、風格はさることながら、特別な魔法の力が備わっ
ていた。
円卓の座席の背に名が浮かび上がるのだ。つまり座るべき者の名
が記される。万が一、そこに記された者以外が席につくと、その者
は即座に死ぬ。資格なき者の着席を決して許さない。
7
宴の始めにマーリンという魔術師がそう言ったのだ。
そして彼は自ら座席の背を一つ一つ確認し、円卓に座るべき者を
一人一人名指しして、座るべき席へと導いた。
その中にはガウェインの名も含まれていた。
そのことをガウェインは誇らしく思うと同時に無意識の内に当然
だとも思っていた。
それは彼はオークニーのロト王の長子でさらにはアーサーの甥と
いう非常に高貴で貴ばれるべき血統だったからだ。
少なくとも周囲はそのように扱ったし、そうなれば自然、そう扱
われるガウェインにもそのような矜持や心構えが備わってくる。そ
れはまるで血肉のようにごく自然に、彼の身に染み込んでいるのだ
夜が更け、そろそろ日付も変わろうかという時刻になった。
宴もたけなわではあったが、時間も時間であったため、宴もお開
歓談の声に混じって、犬の恐ろしげな吠え
きになろうとしていた。
その時だった︱︱
声︱︱
直後、白い鹿が大広間の中へ駆け込んでくる。
それは真っ白な、清らかな鹿だった。
染み一つない、白雪そのもののような綺麗な鹿で、ピョンピョン
8
飛びながら軽やかな足取りで大広間の人ごみを掻き分け、円卓へと
駆け寄ってくる。
また扉から何かが駆け込んでくる。
犬だ。
鹿に劣らぬほど綺麗な雌犬で、ミルクのように滑らかな白さの美
しい犬である。
犬も鹿の後を追い、円卓へと近づいてくる。
そしてまた、闖入者が訪れた︱︱
今度は黒い猟犬だった。
但しこれは一頭ではなく、数え切れないほど沢山だった。ざっと
五十頭ほどはいる。
その猟犬の大群は鹿と雌犬の後を追い、円卓へ︱︱
鹿が円卓をぐるりと廻ると、雌犬もそれを追い、黒い猟犬の大群
も吠え声を上げながら、それを追いかける。
円卓を一周し終えた鹿は、ピョンと大きく一跳ねした。
そしてそれに驚いたアベレウスという若い騎士が派手に引っくり
返った。
皆の前でみっともなく、しかも仰向けに引っくり返ってしまった
9
彼はひどく気恥ずかしい思いをし、故にひどく腹を立てた。
鹿はすでに大広間から出て行った後だった。 彼はまるで腹いせをするように、次に来た白い雌犬を捕まえ、大
広間から去っていった。
大広間にいた皆と同様、目の前で起こった不可解な出来事を訳も
分からず黙って見ていたガウェインが窓から外を見てみると、雌犬
の首根っこを掴んだまま、アベレウスが馬に乗るところだった。
そしてアベレウスは去っていった。前方に白い鹿、後方に黒い猟
犬の大群を従えて⋮⋮
未だ猟犬達の吠え声の残響が響く中、今度は乙女が現れた。
金髪に澄んだ蒼い瞳の美しい乙女は物怖じすることもなく、つか
つかと大広間の奥の、王座に座したアーサー目掛けて進み寄り、目
の前に立つと、こう言った。
﹁王様、あの犬は私のものです。あの白い雌犬は私のものなのです。
どうか取り返して下さい。大王様の御名にかけて﹂
乙女は真っ直ぐアーサーを見つめていた。
彼女の綺麗な蒼い瞳は怒りに燃えていた。
だからアーサーは諾と答えようとした。
乙女はまさしく貴婦人以外の何者にも見えなかったし、またその
10
怒りようから連れ去られた雌犬が彼女にとって余程大事なものだと
感じられたからである。
しかしアーサーが答えようとしたまさにその時︱︱
けたたましい蹄の音︱︱そしてすぐに︱︱
バアンッ!!
引き裂くように鳴る扉が開く音︱︱
入ってきたのは山のようにガッシリとした体格の騎士だった。
騎士は馬に乗ったまま、カツカツと歩を進め、アーサーの前へ︱
︱いや、乙女へと近寄り︱︱
﹁っ!?﹂
掬い上げるようにひょいと乙女を抱き上げると、瞬く間に大広間
から去っていった。
それは止める暇もないほど︱︱あっという間の出来事だった。
大広間はシンと静まり返る。
誰もが凍りついたように動かず、喋らなかった。
立て続けに起きた幾つもの珍事に誰もが声を失い、唖然としてい
たからだ。
11
パンッ!!
誰かが手を打つ。
その乾いた音は静寂の中、滲みるようによく響き、誰もが夢から
覚めたような心地を味わった。それはガウェインも同じだった。い
や、若く経験が浅い故にそれは他の誰よりもひとしおだったかもし
れない。
誰もが音源を辿る。
皆の視線の先にはマーリンがいた。マーリンが手を打ったのだ。
﹁皆、何という体たらくなのだ。目の前で乙女が連れ去られたとい
うのに、立ち上がって乙女を救おうという者は誰一人いないのか?
それでもお前達は騎士なのか? アーサー王の宮廷で、それも多
くの名立たる騎士達の目の前で、あのような暴挙が許されるとは何
たる屈辱。このまま指を銜えて見ていれば後の世までの恥辱となり
ましょう。王よ、すぐにでも人を遣わし、後を追わせるのです。王
の宮廷の名誉において、このままにしておいてはなりません。然る
べき者に命令をお与えなさい﹂
マーリンの、静かでありながらも厳しい叱責に、アーサーはハッ
としたような顔をしながらも、
﹁マーリン、一体誰が乙女を救うべきなのだろう? ここには沢山
の優れた騎士がいる。一体誰に私は命令を下すべきなのだ?﹂
と、アーサーはマーリンへ助言を請う。
12
﹁まずは雌犬とアベレウスをラモラクに追わせ、白い鹿はガウェイ
ンに、乙女はぺリノア王に救わせるが良いでしょう﹂
淀みなく、すらすらと簡潔にマーリンはアーサーの問いに答える。
﹁ではその通りにしよう。ラモラク、ガウェイン、ぺリノア、すぐ
に支度をし、出立するのだ。皆が与えられた冒険を無事に果たすこ
とが出来るよう、祈っているぞ﹂
アーサーは三人へ命を下した。
それはガウェインが生まれて初めて受けた王の命令、騎士に任じ
られて初めて立ち向かう︱︱冒険の始まりなのだった。
13
血潮︱狂気︱絶望
アーサーの命を受けた後、ガウェイン、ラモラク、ぺリノアの三
人はそれぞれ出立の支度を済ませ、城を出た。
ガウェインも弟で従者でもあるガヘリスに手伝われながら、
未だ片手で数えるほどしか着たことのない自分の真新しい甲冑を身
に纏い、
闇のように漆黒の愛馬に跨って︱︱ついにガウェインは冒険の第一
歩を踏み出した。
彼の後ろには白と灰の斑の駿馬に乗ったガヘリスが従者として付き
従う。
彼らは吠え声を頼りに馬を走らせ、そして幸いにもすぐに猟犬の
群れが見つかった。
その先には、目当てである鹿の姿も確認できた。
闇夜にチラチラ閃く白い影は、まるで瞬く星のようにガウェイン
達を先導した。
その微かな白い影を見失わないよう、注意しながら馬を走らせ、
何とか猟犬の群れに︱
そしてその先の白い鹿へ︱近づこうとガウェイン達は必死だった。
橋を駆け抜け、街を過ぎ、森を突っ切ると︱︱目の前には大きな
城があった。
もう夜中だというのになぜか城の門扉は開いたままで、
14
そこから鹿が逃げ込むように中へと入っていく。そして猟犬達も後
を追い、
続々と城の中へ駆け込んでいく。当然ガウェインとガヘリスもその
後を追う。すると︱︱
キャインッ!!
今までの凶悪な鳴き声とは明らかに違う、甲高い鳴き声が闇夜に
響く。
弱弱しい、恐怖を含んだ哀れなその鳴き声︱︱
闇を透かし、音のほうに目を凝らすと一瞬、鈍く閃く光の筋らし
きものが見えた気がした。
それから何か黒いものが宙に跳ね上がり︱︱再び鈍い光が閃いて、
また黒い何かが高く宙に舞い︱︱
哀れな鳴き声も数を増す。
黒い何かは猟犬だった。
そして閃く鈍い光は︱︱誰かが振るう剣の軌道だ。誰かが剣を振
るっている。
払い落とすように猟犬を︱︱剣で打って掃っているのだ。
辺りには濃い血潮の匂い︱︱
猟犬達の血の匂いだ︱︱ガウェインがそう思い、哀れに切り殺さ
れていく猟犬達の姿に
沸々と怒りが込み上げてくるのと︱︱ほぼ同時だった。
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猟犬の群れに覆われるようになっていた白い鹿の喉笛へ、終に一
頭の猟犬が食らいついたのだ。
すでに身体中噛み傷だらけだったが、首へのそれが致命傷となっ
た。
未だ猟犬に喉笛を押さえつけられたまま、白鹿はヒクヒクと痙攣
を繰り返す。
そして白鹿の目から光は失われ、見るも無残な骸となった。
﹁おのれっ!! この駄犬どもめっ!! この白鹿は我が奥方から私への大切な贈り物であったというのに⋮
⋮っ!!﹂
忌々しげな罵声が響き、一層に剣の閃きは数を増す。
猟犬達の許しを請うような哀れな鳴き声も引っ切り無しに聞こえる
ようになる。
よくよく目を凝らすと、鹿の死骸の傍らに闇色の甲冑を纏った男
が仁王立ちとなって、
群がる猟犬達を切り殺していた。
哀れな断末魔を上げながら、成す術もなく切り殺されていく猟犬
達に
ガウェインは哀れみを感じると共に、猟犬達を無残に切り殺してい
る甲冑の男に
どうしようもないほど深い憎しみと怒りを感じずにはいられなかっ
た。
16
彼はこよなく馬を︱それも特に己の愛馬グリンガレットを︱愛し
ていたが、
それ以外にもアーサーの愛犬ガバルのことも可愛がっていた。
だから馬と同様に犬に対しても、ガウェインには深い思い入れの
ようなものがあった。
その犬が目の前で血飛沫を上げて切り殺されている。
確かに鹿を噛み殺した猟犬達が悪いのかもしれない。
大切な鹿を殺した猟犬達に怒りを感じるのも仕方がないのかもしれ
ない。だがしかし⋮⋮
相手は犬なのだ。彼らに善と悪の見分けなどつくはずもないし、
今剣を振りかざす男にとって殺された鹿がいかに大切なものであろ
うとも、
彼らにしてみれば鹿は獲物にしか過ぎないわけで、つまり彼らは彼
らがもつ、己の性に従って
鹿を追い、噛み殺したに過ぎないのだ。
ガウェインから見ればそれは仕方がないとしか言いようのない事態
だ。
なのにそれをこうも執拗に責め、無慈悲にも次々と猟犬達を殺し
ていく男に︱︱
ガウェインは言いようもないほどの激しい怒りを感じた。
﹁おいっ! 止めろっ!! これ以上この猟犬達を殺すんじゃない
っ!!﹂
17
我知らず、ガウェインは叫んでいた。
そしてやっと、男の元へと馬を走らせ、猟犬達を庇うような位置
で馬の手綱を引き絞ぼり、
男の前に立ちはだかる。
近くで見ても黒々とした甲冑のその男は、忌々しげにガウェイン
を見、
暗い炎のような瞳をカッと燃え上がらせ︱︱
﹁小僧! この犬どもと同じようになりたくなければ、引っ込んで
いろっ!! こいつらは我が妻からの大切な贈り物を、我が奥方から私への愛の
証でもある大事な白鹿を
無残に噛み殺したのだ。その罪は奴らの薄汚い身を切り刻んだとて
償い切れるものではない。
しかし命以外で償うことなど出来ないから、仕方なくこうしている
のだ。邪魔をするなっ!!﹂
と、ガウェインを恫喝した。
その恫喝は野太く、いかにも恐ろしげなものであったが、それに
ガウェインが怯むことはなかった。
﹁そんなことをしたって、お前の白い鹿が戻ってくるわけじゃない。
善悪の区別もつかぬものは裁きようがないじゃないかっ! この行為はお前の感情のままの殺戮以外の何ものでもないっ!!﹂
ガウェインは堂々と真正面から男を見据え、はっきりとそう言い
18
切った。
﹁⋮⋮小僧、黙って大人しく退くのなら、その暴言は若さゆえの誤
りとして見逃してやろう。
だがそれでも退かぬというのなら︱︱お前もこの駄犬共と同じく我
が剣の錆としてくれよう﹂
怒りで血走った目がガウェインを捕らえている。
ガウェインはその怒りに滾った視線を全身で受け止めながら、や
はり臆することなく︱︱答えるのだ。
﹁お前が猟犬達に慈悲をかけ、ここを立ち去るというのなら、それ
を見届けた後、
私もお前の言うとおりここを退こう。しかしそうではなく、まだこ
の猟犬達を
切り殺し続けると言うのなら、救ってくれる者もない哀れなこの猟
犬達に代わり、私がお前と戦おう﹂
と︱︱
﹁小癪な小僧め。そんなに早死したいのか。では望み通り、畜生共
と同じ運命を辿るがいい。
泣いて救いを求めても、後の祭りだ。犬共と同じく、無残な末路を
辿るがいい!﹂
憎憎しげにそう言うや否や、男は馬の脇腹を荒々しく蹴り、ガウ
ェイン目掛けて突撃してくる。
手綱を引き、全身でガウェインに向かってくる男を避けた後、ガ
19
ウェインも剣を抜き、
男へ振り下ろす。
ガイイィィィンっ!!
剣と剣のぶつかる鈍い音が、ガウェインの腕と鼓膜を震わせ、故
に反応が少し遅れた。
男は素早く剣を引き、再度ガウェインの頭目掛けて剣を振り下ろ
す。
﹁っ!?﹂
身体を捻り、辛うじて頭から真っ二つの運命からは逃れられたも
のの、
左肩に深々と剣が食い込んだ。
血潮の噴き出す音と臓の鼓動が、ガウェインの身体を駆け巡る。
ドクッドクッと響く忙しない音は、ガウェインに死の恐怖を自覚
させる。
それは生まれて初めて感じる感情だった。
死ぬかもしれないという恐怖、死にたくはないという渇望、自分
から流れ出ていく血潮、焼け付くような痛み︱︱
動揺、混乱、恐怖︱︱それらは熱い血潮のようにガウェインの身
体中を駆け巡り、そして︱︱ガウェインを狂わせた。
20
目の奥がカッと燃えるように熱くなる。
絶叫のような咆哮のような、人間離れした声を上げるやいなや、
闇雲にガウェインは剣を振り回し、ただ目の前へと叩きつける。
それはタガの外れた︱︱狂気の沙汰としか思えない形相だった。
目は血走り、カッと見開いて、ただただ男を切り殺そうと︱︱否、
己を恐れさせる何かを取り払おうと︱︱半狂乱になっている。
ガンッ、ガンッ、ガツンッッ!!
剣と剣がこれ以上はないほどに激しくぶつかり合う。
これまで学んだ技巧も戦術も心得までも投げ捨てて、ガウェイン
は狂気に駆られて剣を振るう。
今、ガウェインの頭には︱︱何もない。
だた叩きつける︱︱ただ︱︱振るう。ただ︱︱何かがガウェイン
を突き動かす。
それは死の恐怖か、生への渇望か、それとも生まれて初めて経験
する命を懸けた実戦故の高揚感か︱︱
一心不乱に振り上げる。そして我武者羅に振り下ろし︱︱
防御も護身もない︱︱それはまさしく捨て身としか言いようのな
い有様だった。
21
ガウェインの、その尋常ではない、鬼気迫る形相に、彼は微かに
︱︱怯んだ。
だがそれでも男は、その威風堂々とした外観に見合う熟練した剣
さばきでもって、ガウェインの凶刃を
薙ぎ払い、或いはいなし、一太刀とてその身に喰らうことはなかっ
た。
しかし如何せん︱︱動作の素早さははるかにガウェインの方が勝
っていた。
恐怖と狂気に駆られ、ガウェインの剣は常とはまるで比べ物にな
らない、信じられないほどのスピードと強さで︱︱目の前の敵を切
り刻もうとする。
懸命にガウェインの刃を避けながら、男は完全にその狂気に︱︱
呑まれていた。
恐らくそれが決定的に勝敗を決したのだろう⋮⋮
ガンッッッッッ!!
断末魔のような音を立て、一振りの剣が宙を舞う。
それは︱︱使い込まれた古びた剣︱︱
剣は、狂気に染まったガウェインの攻撃を防ぎ切れなくなった︱
︱男のものだった。
剣を失った男はその場にへたりこむ。
22
勝機を完全に失い、気力も力も尽きたのだろう。生気の失せた目
がどこを見るでもなくただ虚ろに、中空を彷徨っていた。
﹁⋮⋮﹂
それを、もはや何の感慨もなく、ガウェインは眺めていた。
勝負が完全に決しようと、目の前の存在がもはや脅威でなかろう
と、一度取り憑いた狂気は︱︱簡単には抜け落ちようとしない。
ガウェインの目前には未だ狂気の濃霧が立ち込めている︱︱
﹁⋮⋮慈悲を⋮⋮﹂
男の唇が乞う。
﹁若き騎士よ。どうか慈悲を⋮⋮私はもはや戦えない。降参するか
らどうか命だけは助けてくれ﹂
小さな、しかし切実な声。
抵抗する気力もなく、膝を屈して命乞いする彼の姿は惨めを通り
越して、もはや︱︱哀れでしかなかっ
た。
彼の矜持も栄光も、プライドすらもこの瞬間に︱︱砕け散ったの
だ。
﹁⋮⋮﹂
23
ガウェインは微動だにしなかった。
ただ見えているのかいないのか、よく分からない濁った目が︱︱
男の頭上辺りを彷徨って︱︱
鼻先をかすめる︱︱血の匂い︱︱
狂気︱︱恐怖︱︱
未だ埋み火の如く燻る︱︱得体の知れない︱︱激しい怒り︱︱
殺される︱︱死ぬ︱︱
恐怖︱︱
生じる︱︱狂気︱︱
狂気は激しい衝動を︱︱
﹁っ⋮⋮﹂
グッと剣を持つ手に力が入る。
止まらない︱︱
止められない︱︱
振り上がる︱︱
24
鈍い光を帯び、今まさに振り下ろされんとする︱︱凶器︱︱
それを見て、男は覚悟を決めたかのようにそっと目を閉じた。
そして振り下ろされる︱︱
その刹那︱︱
﹁※※※※ッ!!﹂
誰かが叫んだ。それは名前︱︱
絹を裂くような甲高い悲鳴で︱︱
﹁っ!!!﹂
はっとしたように男は顔を上げ、目を開く。
近寄る足音に︱︱
﹁来るなっ!! 来るんじゃないっ!!﹂
悲痛な絶叫。
落ちる︱︱刃︱︱
噴き出す血︱︱
﹁ああ⋮⋮﹂
25
絶望に満ちた︱︱落胆の吐息。
男の腕の中には女。
首のない、婦人の身体。
ガウェインの振り下ろした剣の下にはなぜか、男ではなく女が居
た。
気づいた時には全てがもう︱︱遅かった。
婦人の姿を認めた時にはもう⋮⋮首が飛んだ後だった。
狂気で勢いづいた剣は振り下ろしたガウェイン自身にも制するこ
とが出来なかったのだ。
生々しい⋮⋮肉を裁つ感触に︱︱骨を叩き切る感触⋮⋮
一瞬、中空を舞い自分を見下ろした生首が︱︱自分を蔑んだよう
な⋮⋮
ボトッ
呆気ないほど軽い音がして⋮⋮生首は落ち、暫くゴロゴロと地面
を転がった。
後には絶望に咽び泣く男の泣き声だけが静かに響く。
﹁⋮⋮﹂
26
ガウェインは唖然とその場に立ち尽くしていた。
まさしく悪夢から覚めた心地だった。
自分が何をしたのか、信じられない思いだった。
目の前の現実が︱︱無残な姿の婦人の死骸が︱︱ガウェインをよ
うやく狂気から解放する。
しかしガウェインに残ったのはやり切れない虚脱感と、行き場も
ないほどの深い嘆きに︱︱どうしようもないほどの自己嫌悪のみだ
った。
ガウェインは激しく絶望した。自分自身に︱︱
ただ自分が行った残虐無慈悲な行為を嫌悪すると共に、如何とも
しがたい無力感と深い悔恨がガウェインの心と身体に重く圧し掛か
る。
目の前の光景は︱︱若き騎士には悲愴過ぎる現実だったのだ。
﹁⋮⋮殺してくれ﹂
吐き捨てるように、男がつぶやいた。暗く淀んだ︱︱死人のよう
な目がガウェインを見上げる。
﹁殺す気だったんだろう⋮⋮殺してくれ。もう生きたいとは思わな
い。そう思う理由がなくなってしまった⋮⋮﹂
言いながら、その覇気のない目は腕の中、首のない女へ向けられ
27
る。
﹁⋮⋮﹂
ガウェインはただうな垂れた。もうどうして良いか、分からなか
った。
気力という気力が全て身体中から抜け落ちてしまったみたいだっ
た。
億劫だった。もはや彼を殺す為に腕を上げる力すらない。いや、
それ以前に彼を殺すだけの気概が︱︱今のガウェインには残ってい
ない。
﹁⋮⋮無理だ。もう殺せない。俺は⋮⋮何の罪のない人を殺してし
まった⋮⋮俺の剣が未熟だったばっかりに⋮⋮いや、未熟なのは俺
の精神、俺自身だ。どうしてあの時もっと冷静になれなかったんだ
⋮⋮どうして俺はあんなにも自分を制御出来なかったんだ⋮⋮どう
してああも︱︱怒り狂ってカッカしてしまったんだ。もっと俺が立
派な騎士だったら⋮⋮もっとしっかりしていたら⋮⋮この人もこう
はならなかったのに⋮⋮﹂
ガウェインの声は今にも泣き出しそうなほど弱弱しいものだった。
﹁⋮私はどうすればいい? お前は私を殺せないと言う。しかし私
はもう生きてはいられない。生きていく甲斐もないのだ。どうかも
う少し力を揮って私を殺してくれ。それがお前に出来る唯一の罪滅
ぼしだ。私と奥方を引き離さず、どうか一緒にいられるよう、力を
尽くしてくれ﹂
28
お願いだ、慈悲だ︱︱そんなことを言いながら男は懸命にガウェ
インに取り縋ろうとする。しかし⋮⋮
﹁いや、駄目だ。そんなことはもう出来ない。俺の目はやっと覚め
たんだ。もう殺してはならない。一度でも慈悲を乞われたなら、そ
の者は決して殺してはならない。そう教わったというのに⋮⋮あの
時俺は理性の欠片もなく、剣を振り上げてしまったんだ⋮⋮﹂
声にはどこまでも深い後悔の念が滲んでいる。しかし崩れ落ちそ
うなほど弱弱しい声を懸命に奮い立たせ、毅然とガウェインは言う。
﹁キャメロットへ︱︱アーサー王の宮廷へ行き、そこですべてを話
すのだ。私はガウェイン。白い鹿の冒険へ出た者がここへ行けと言
ったと言えば通してくれるはずだ﹂
﹁⋮⋮﹂
もはやガウェインが自分の望みを叶えてはくれないということを
悟ったのか、そうするより他にないと理解したのか、男は暗い鬱々
とした表情のまま、ガウェインに背を向け、フラフラとどこかへ歩
き去って行く。
そしてその背を、召使いらしき男が追いかけた。きっと急いで用
意したであろう馬を引き、主人に手渡す。その光景を見るともなし
に眺めながら、忠義な召使いだとガウェインは思う。
馬がガウェインの真横を駆けた。
ガウェインを通り抜けた際の、男の目は相変わらず虚ろでありな
がらも、どこか哀しげでそして恨めしげで︱︱それがガウェインに
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は堪らなく痛かった。
﹁⋮⋮ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう⋮⋮俺
は俺を許せない。どうして俺はこうも短慮なのだ? 易々と怒りの
ままに我を失って、見境なしに自分でも信じられないほど残酷な行
いをしてしまった。こんなに無思慮で横暴な上に残虐で、しかもこ
んなに見っとも無くて︱︱なのにそんな奴が騎士に任じられて良か
ったのか? 今からでも騎士の位を返上すべきではないのか? あ
あ、俺は一体どうすべきなのだ⋮⋮?﹂
ガウェインの嘆きは深く、そして何より彼はどうしようもないほ
どに混乱していた。
それほどガウェインは己の犯した過ちと罪とを後悔し、強く憎ん
でいるのだ。
﹁⋮兄さん、今はそんなこと言ってる場合じゃないよ。周りを見て。
僕達囲まれてしまったよ⋮⋮﹂
今まで事態を静観するしかなかったガヘリスが痛ましげな眼差し
を兄に遣しながらも、周囲へ警戒した視線を廻らせる。
ガヘリスの言うとおり、前後左右の四方向にそれぞれ一人ずつ、
四人の騎士が配置されている。
彼らはじりじりと輪を縮めながら、ガウェインとガヘリスに近づ
いてくる。
抜き身の剣、放たれる怒りと殺気︱︱
30
それらがただでは済まさないと物語る。
そしてついに彼らのうち一人がガウェインに飛びかかった。
﹁っ!?﹂
咄嗟にガウェインは剣を抜き、その刃を受け止める。キィィィン
と腕に痺れが走り、それは脳天にまで駆け抜ける。
﹁お前達は一体何者だっ!!﹂
ガウェインの代わりにガヘリスが誰何する。
﹁我らはこの城の主に養われていた騎士だ。主人の奥方を殺されて、
黙っているわけにはいかない。しかもそれが無慈悲で残忍な騎士に
よるものであれば尚更だっ!!﹂
そう言うなり、騎士は再度激しく剣をガウェインへ打ちつける。
﹁⋮っ﹂
その剣はガウェインの右腕を傷つけた。深くはないが、しかしか
すり傷と呼べるほど浅いものでもな
い。
﹁慈悲なき騎士よ。思い知れっ!!﹂
﹁正義の剣を受けるがいい!!﹂
﹁残忍な者は騎士にあらずっ!!﹂
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﹁奥方の仇だっ!!﹂
叫びながら彼らは一斉に切りかかってくる。
一つ、また一つとガウェインの身に傷が増えていく。
ほぼ血みどろになりながら、懸命にガウェインは応戦した。ガヘ
リスも奮戦してはいるものの、彼らの圧倒的不利は変わりない。
肝心のガウェインは肉体的疲労と精神的磨耗とでボロボロの状態
だったし、助太刀するガヘリスはガウェイン以上に幼く、故に未熟
な為、戦況を覆すほどの活躍は望むべくもない。
そして終にガウェインは地に倒れ付し、すぐにガヘリスも膝を屈
した。
﹁さぁ、覚悟しろっ!﹂
高々とかかげられる︱︱刃。
振り下ろされれば︱︱首は飛び、命を失うのだろう⋮⋮自分が殺
したあの女のように⋮⋮
︵⋮⋮︶
そう思うと、すぐ側で苦しそうに息をするガヘリスが目に入る。
彼のことだけが気がかりで︱︱無念だった。
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自分はともかくとして、弟までもがこの凶刃で倒れるのは余りに
遣り切れない。
自分のせいで、自分より幼く自分以上に未来も将来もある弟まで
もが死なねばならないという現実がガウェインの胸を締めつける。
せめて彼の命乞いだけでも︱無慈悲に彼らの主人を殺した自分の
嘆願が彼らに聞き届けられる可能性は限りなくゼロに近いであろう
が︱しようと、ガウェインが口を開こうとした時︱︱
パタパタパタ︱︱
幾つかの軽やかな足音がこちらへ向かって近づいてくる。
やって来たのは女達だった。
若い者から老いた者まで、五、六人の女達が刃を掲げた騎士を囲
み、口々に︱︱ガウェイン達を取り成し始める。
﹁この者達を良くご覧下さい。まだ子供じゃないですか⋮⋮﹂
﹁いくら許されないことをしたからと言って、こんなに若い、子供
同然の子達を殺すだなんて⋮⋮﹂
﹁まだまだ道理も分別もつかない、騎士になったばかりの若者です。
鎧と剣を帯びてはいても、子供とそう変わりありません﹂
﹁こちらの従者の子をご覧なさい。この子は間違いなくまだ子供で
す。殺すだなんてあんまりに可哀想じゃありませんか⋮⋮﹂
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﹁まだまだいとけない、半人前とすら呼べない若い子達に大人と同
じ責を負わせるだなんて⋮⋮余りに過酷ではありませんか⋮⋮﹂
﹁どうかお慈悲を。こんなに若くして命を落としては、この子達の
親の嘆きと悲しみはどんなに深いことでしょう﹂
﹁どんなに酷いことをしたとしても、子供の過ちです。どうか許し
て差しあげて下さい﹂
﹁どうか哀れんでやって下さいまし。私達とこの子達の親とに免じ
て﹂
女達は口々にガウェインとガヘリスを庇いたて、懸命にその命乞
いをする。
騎士達は皆黙っている。しかしいつの間にか、ガウェインを討た
んと掲げられていた剣は下を向いてい
た。
﹁⋮いいだろう。しかしこのまま黙って帰すわけにはいかん。ひと
まずは地下牢にでも放りこんでおけ﹂
カシャンと軽やかな音をたて、剣は鞘へと戻された。
女達は献身的に二人の身体を支えながら、真っ暗な闇夜に聳え立
つ城の中へと運び込むのだった。
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虚脱と失望︱︱鈍い闇
暗く、冷たい、しかもじめじめとする地下牢に入れられて一体ど
れぐらい経ったのか⋮⋮
一見大造りのようでありながら、しかし意外と緻密に造られたそ
こは一筋の光すら漏れないものだから、本当に真っ暗闇だ。
すぐ近くにいるはずのガヘリスはおろか、自分の手すら見えない
ほどの暗闇である。まだ表の方が余程明るい。
岩のようにゴツゴツとした手触りの、冷たい床と壁がじわじわと
ガウェインの体温を奪っていく。弱った身にはまるで追い打ち。
すでに意識は朦朧としつつある。
外界から完全に遮断されたその空間ではガウェインとガヘリスの
呻くように荒い呼吸音だけが響いている。
身体は泥のように重かったが、身体中を苛む鋭い痛みが意識を現
実へと引き止めている。
コツコツコツ⋮⋮
微かな足音。
音とともに薄ぼんやりとしたオレンジの柔らかな光も近づいてく
る。
35
それは明かりを灯したランタンの光だった。
地上に繋がる階段から、一人の婦人が降りてきたのだ。
年配の、落ち着いた雰囲気をしたその婦人は銀の盆を持っていた。
その上には傷の手当てをする為の薬や包帯などの用具が一通り乗
っていて、他に水差しとコップも乗せられている。
婦人はガウェインとガヘリスの目の前に、牢の柵のすぐ側まで来
ると、いたわしげに問いかけた。
﹁騎士様、お加減は如何ですか﹂
︱︱と。
﹁⋮良くはありませんが、大丈夫です﹂
ガウェインは感じたまま、思ったとおりのことを口にした。
これまで感じたことがないほど痛くて苦しくて辛くはあったが、
このままでは死んでしまうと思うほどの危機感は感じない。
だがこれまでの人生で、死ぬかもしれないほどの大怪我というも
のを受けたことがないガウェインには、どれほどの深手で死に直面
するのかが正直良く分からない。
首や心臓への一撃が致命傷になることぐらいは分かるのだが、そ
れではどれぐらい傷つけば命が危うくなるのか、どれほど出血して
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しまうと生命に支障をきたしてしまうのかとか、そういう細かなと
ころがよく分
からない。
何だか身体が重たくて、意識がぼんやりしているように感じるの
だが、それが生命の危機に関してのことなのか、それともただ単に
肉体が疲労して休息を欲しているだけのことなのか、その見極めが
今の自分ではつけられない。
もっともっと経験を積んで、沢山の死地を潜り抜ければ︱︱そう
いうことも理解出来るようになるのだろうか⋮⋮
それはまるで⋮⋮己を知ることに似ているような気がする⋮⋮
と、よくは働かない頭でガウェインはぼんやりとそんなことを思
う。
﹁傷の手当てを致しましょう。随分と深い傷のようですから、消毒
液がひどく痛むかと思いますが、どうぞ我慢して下さいましね﹂
幼子に言い聞かせるような優しい口調でそう言って、婦人は牢の
鍵を開け、牢の中へと入ってきた。
婦人はまずはガウェインの傷の手当てをし始めた。
白い清潔な布にたっぷりと消毒液を滲み込ませ、それをガウェイ
ンの左肩の、一番大きくて深い傷へそっと当てる。
﹁⋮っ﹂
瞬間激痛が走り抜けた。
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斬りつけられた時と同じぐらいの、激しい痛みだ。あの時は感覚
が麻痺していたから、痛みもろくすっぽ感じていなかったように思
うのだが、今はとんでもなく痛覚が刺激される。
﹁ああ、さぞかし痛いでしょうね。もう少し我慢して下さいましね。
もう少しですよ。あと少し⋮⋮﹂
言いながら、婦人は傷口を拭い、新しい布にまた消毒液を滲み込
ませ、また拭い、そして止血して当て布で傷口を覆って、手早く包
帯を巻いていく。
それは非常に手早くて、老いた婦人の外観からは想像できないほ
ど素早い処置だった。
﹁ところであなた方はどのような身分の方々なのですか? お見受
けしましたところ、随分尊い方達のようにみえますけれど﹂
ガウェインの身体中についた傷を手当てしながら、婦人は世間話
のような口ぶりでこう尋ねてくる。
﹁ガウェインと申します。オークニーのロト王の長子で、今はアー
サー王の宮廷に所属しております。こちらはガヘリス、私の弟で今
は私の従者をしています﹂
滲みる消毒液に少しばかり顔を顰めながらも、ガウェインは整然
と問いに答える。
﹁⋮⋮では、あなた様は最近即位なさったブリテン大王の甥子様な
のですね⋮⋮?﹂
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婦人の目が驚きで見開かれる。自分が思っていた以上にガウェイ
ン達の身分が尊かったことが彼女を驚かせているのだろう⋮⋮
﹁⋮ええ、確かにその通りです﹂
言いながらふと唐突に、ガウェインはアーサーに対し、申し訳な
く思った。
華々しく栄光に満ちたアーサーの姿が、脳裏を過ぎっていく。
少し前なら誇らしかった自分の血統が、今ではあまりに重過ぎた。
愚かで粗野で、その上非人道的な行いをした自分にはその尊い血
筋が相応しくない。
アーサーの甥でロト王の嫡子︱︱
その高貴な血が、内側から不甲斐ないガウェインを非難している
ようだった。
立派な血統に劣等感や引け目、苦痛や悲しみを感じたのは︱︱初
めてだった。
今、ガウェインは現実の自分というものをまざまざと見せ付けら
れていた。
そしてそれと同時に︱︱理想の自分とでもいうのか⋮⋮﹃かくあ
らねばならぬ自分﹄というものと、今明らかになった﹃真実の自分﹄
との間の、深すぎる落差にガウェインは愕然としていた。
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消え入りたいほどの恥ずかしさと、絶望的なまでの不甲斐なさに、
ガウェインは完膚なきまでに打ちのめされていた。
﹁⋮分かりました。私から城の騎士達にとりなしてみます。あなた
達をアーサー王のもとに帰すように、と。きっとここから出られま
す。気を確かにもってもう暫く、お待ちになって下さい﹂
最後はもう、慰めるようにこう言って、後はただひたすらガヘリ
スの傷の手当てをすると、婦人は去っていった。
﹁⋮僕達、何とか助かりそうだね⋮⋮﹂
ガヘリスの小さな呟きが、暗い地下牢によく響いた。
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エピローグ︱︱紅き胚胎︱︱
数時間後、果たして婦人の言った通り、ガウェインとガヘリスは
暗い地下牢から外へと、追い立てるように引き出されていた。
まるでこれからの暗い道行を示すかのように空はただ暗澹とし、
月の姿も星の欠片も見出せない。
城の外を出ると、彼らの馬が曳きたてられ、それぞれの馬が二人
へと引き渡される。
だがこれでおしまいというわけでは決してない。
これからガウェインには、一つの過酷な試練が待ち受けていた。
城の騎士達がガウェイン達を解放するにあたり、出したたった一
つの条件︱︱
それはこれから帰る道すがら、アーサー王の宮廷に辿り着くまで、
あるものを首に下げ続けること︱︱
﹁さぁ、己の罪をその首に下げ、世間に知らしめるがいい︱︱﹂
そう言って、城の騎士がガウェインの首にかけたもの︱︱
ガヘリスは顔を背け、見送りに出た城の婦人達は痛ましげに目を
覆い︱︱
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﹁⋮⋮﹂
ガウェインは沈痛な面持ちで、ただそれを受け入れた。
生首︱︱
長い髪を輪にし、まるで首飾りのようにされたそれ︱︱
生前はさぞ美しかったであろうその顔も、今や青ざめ、目は落ち
窪み︱︱もう見る影もない。
命が失せた時そのままに、その目は衝撃で見開かれ、苦痛と恐怖
でその顔は引き攣ったまま︱ガウェインがその首を叩き落したその
時のままに︱ただそこに、ガウェインの胸元に︱︱彼女はある。
死の衝撃と無念がそこに詰まっているかのように、彼女はグロテ
スクに、且つ生々しく変容し︱︱歪んでしまった。
そしてさらに騎士がガウェインの鞍の前に、何かを載せる。
それは首のない、身体。
それはガウェインが首に下げた、彼女の肉体。
生臭い匂い、腐った匂い、饐えて澱んだ血の匂い︱︱
それは死の匂いであると同時に、それがかつては生きていたと証
する匂いでもあった。
その鼻が曲がりそうなほどの悪臭を、ガウェインは甘んじて受け
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入れた。
﹁⋮神に祈ろう。お前が公正な裁きの場に立つことを⋮⋮﹂
生首を下げ、首のない肉体を載せ、馬が独りでに歩き出したとき、
城の騎士がそう呟いた。
闇の中を、ガウェインは進んでいく。
月もなく、星もないタールのような空の下を、それでもガウェイ
ンは城を目指して、真っ直ぐ馬を進ませる。
森を出、街を通り過ぎ、橋を渡って暫くすると、高々と壮麗に聳
え立つ王城の姿︱︱
ガウェイン達がようやく城に辿り着いたとき、空はタールから真
紅のバラよりも尚紅い艶やかな夜明けへと変化していたのだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4579o/
アーサー王物語―ガウェイン最初の冒険―
2016年8月6日10時04分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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