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『 豊かに実を結ぶ 』
知 多教 会説教 2015/ 05/ 03 復活後第4主日礼拝 知多教会 牧師:花城 裕一朗 8:26-40 使徒言行録 ヨハネの手紙 一 3:18-24 ヨハネによる福音書 15:1-10 『 豊かに実を結ぶ 』 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、皆さ んお一人お一人の上に豊かにありますように。 アーメーン。 (ヨハネ 15:4)「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがた につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自 分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつな がっていなければ、実を結ぶことができない。」私たちの主イエス・キ リストはこのように言われました。今日は、この言葉の意味する所を深 く掘り下げて、より良く理解したいと思うのです。ここでイエス様がおっ しゃっている「豊かに実を結ぶ」ということは、一体どういうことなの か? 今日ご一緒に、御言葉を通してこのことを考えて参りましょう。 「実を結ぶ」という言葉そのものは、私たちも良く、日常の会話の中で 使う言葉だと思います。例えば、「長年の地道な努力が実を結んだ」と かいうように、使われるでしょう。つまり、「長年の地道な努力が報われ て、良い結果を得られた。」そのような意味で「実を結ぶ」という言葉が 使われているのであります。 1 けれども、「実を結ぶ」という言葉をそのような意味で使うならば、「実 を結ぶ」結果をもたらしたのは、地道な努力をし続けた、その本人とい うことになります。そうなると、私たち人間が、自分の力で、自分だけの 努力で、実を結ぶことができるという、そういう考えになってしまいま す。これは、今日のイエス様の御言葉とは全く食い違っているのであ って、正反対、真反対の意味になってしまうでしょう。イエス様は次の ように仰っているからです。(ヨハネ15:4)「ぶどうの枝が、木につなが っていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたが たも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と、 このように仰っています。 こうした問題について、考えるヒントになる聖書箇所があります。(マ タイ 7:17-19)です。次のようにあります。 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が 悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」この ようにあります。つまりイエス様は、良い実を結ばないとしたら、それ は、その木が良い木ではないからだ、つまり、悪い木だからだと、こ のように言っておられます。ですから、良い実を結ぶためには、そも そも、良い木でなくてはならないということです。そして、そもそも、も 2 しもその木が悪い木であったとしたら、どんなにその悪い木が努力を したとしても、あるいは、その悪い木に、手間暇をかけて、どんなに世 話をしたとしても、悪い実しか実らないということになるのであります。 さて、ここで、最初のイエス様の言葉に戻ってみましょう。イエス様は 次のように仰っていました。「あなたがたも、わたしにつながっていな ければ、実を結ぶことができない。」「わたしを離れては、あなたがた は何もできないからである。」イエス様はそのように仰っていました。 私たちは、このイエス様の言葉を真剣に聴いて、真剣に受け取らなけ ればなりません。「わたしにつながっていなければ、あなたがたは何 もできない。実を結ぶことはできない。」と、イエス様はそのように仰っ ているのです。 この、イエス様の言葉は、通常の我々の意識、ものの考え方では、 不可解な言葉だと言えるでしょう。なぜなら、たいていの人間は、次の ように考えているからです。「そりゃあ、たいしたことは出来ないかもし れないけども、人間は、何か努力をすれば、何らかの実を結ぶことは、 そりゃあ、できるでしょうよ」と、たいていの人は、そのように思ってい るでしょう。また、「あなたがたは何もできない」と、イエス様はそう仰っ ているけども、「人間、努力して頑張れば、何か、ちょっとぐらいは、何 かができるでしょうよ」と、そんな風に通常、思っているからであります。 3 こういった、私たちの通常の意識、ものの考え方と、それと、今日の イエス様の言葉、「あなたがたは何もできない。実を結ぶことができな い。」という言葉とは、互いに相矛盾しているのであって、真っ向から 対立し、ぶつかってしまうのではないでしょうか? このような矛盾・対立を解決するためには、私たちは、イエス様の言 葉に含まれている、本当の意味を聴きとらなければならないと、その ように思います。イエス様は、「あなたがたは何もできない」と言われ ており、「あなたがたは実を結ぶことができない」と言われています。 この言葉を、イエス様は、通常の意味で言っているのではありません。 これはつまり、次のような意味だと言えるでしょう。即ち、「あなたがた は良い実を結ぶことができない」という意味であって、またこれを別の 言葉で言い換えるならば、即ち、「あなたがたは、まことの善い行いを するということについては、これは何も、することができない」と、イエ ス様はそういう意味で仰っているのだと、言えます。私たちはそのよう に、今日の御言葉を受け取り、聞くべきだと、言うことができるでしょう。 つまり、イエス様が期待している所の、「実り」というものは、「良い 実」のことを意味しているのであって、それは言い換えれば、≪まこと の善い行い≫のことなのだと言うことができるのです。 イエス様は仰いました。(ヨハネ 15:4)「わたしにつながっていなさ 4 い。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につな がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた がたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができな い。」これは言い換えると、次のようになるでしょう。即ち、「わたしにつ ながっていなさい。わたしにつながっていなければ、あなたがたは 決して、良い実を結ぶことはできないからである。」と。 このイエス様の言葉が意味していることは何でしょうか?それは即 ち、「あなたがたはそもそも、悪い木であって、良い木ではない。」と いうことです。そして、「だからあなたがたは、どんなに努力をしても、 そのままでは、決して、良い実を結ぶことはできない。あなたがたは、 自分ひとりだけでは、悪い実しか結ぶことができないのだ」と、そのよ うにイエス様は仰っているのであります。 だとしたら、私たちはどうしたら良いのでしょうか? そうです。接ぎ 木をされればいいのです。接ぎ木をされるしか、ないのです。私たち は、そのままでは、良い実を実らせるという能力が、そもそも、無いの です。だからこそ私たちは、イエス様という、まことのぶどうの木につ ながって、そこから栄養を頂いて、それによってしか良い実を結ぶこ とができないということなのです。 聖書の原点に戻ってみましょう。人間について、聖書は何と言って 5 いるのか? 「人間はみな、罪人である」と、聖書は言っています。つ まり、すべての人間は、アダムとエバの犯した最初の罪、即ち、≪原 罪≫を引き継いでしまっているのであって、そのような意味で、生ま れながらに人間は、「罪人」として、生まれて来るのだということです。 これが、私たちがみんな、そのままでは「悪い木」であるということの 意味です。悪い木であるなら、悪い実しか生りません。これは、そのま まの自分では、私たちは決して、まことの意味で神を知ることはできな い、神を愛することはできないと、いうことであります。また、その結果、 まことの意味で、隣人を愛し、人を愛するということもできないというこ となのであります。そういう訳ですから人間は、そのままの、罪人とし ての自分の力、だけでは、≪まことの善い行い≫をすることが、でき ないということなのです。 人間は、この世的な意味であるならば、自分ひとりの力だけでも「実 を結ぶ」ということは出来るかもしれません。しかし、この世的な意味 で「実を結ぶ」こと、表面上、どんなに「良い実」と見えるものを実らせ たとしても、人間はそれによって、自分を誇ったり、優越感を抱いたり するということにつながったりします。あるいはまた、他人を見下した り、他人を裁いたりするということにつながって行ってしまいます。そ のようになってしまうならば、それがどんなに「良い実」を結んでいる ように見えようとも、それは神様とイエス様の目から見るならば、決して 6 「良い実」ではなくて、「悪い実」を結んでいることになってしまうので あります。それが、私たち人間の、罪人としての限界であり、罪人とし ての哀れさ、悲しさでもあるのであります。私たち人間は、罪人である というこの自分自身のどうしようもなさ、哀れさを、十二分によくよく、理 解し、へりくだらなければならないと思うのです。 イエス・キリストという御方は、この、悪い木として生まれて来た私た ちを、良い木に変えるために、来てくださったのです。私たちがイエ ス様を信じ、イエス様につながるならば、私たちの悪い木としての根 っこの部分は、根絶やしにされます。そして、まことのぶどうの木であ るイエス様に、接ぎ木をされて、つながることになるのです。こうして 私たちは、イエス様から養分を頂いて、イエス様の力によって、良い 実を結ぶことができるようになるのであります。つまり、まことの意味で、 神の愛を知ること、まことの意味で、神を愛することができるようになり ます。そして、まことの意味で、隣人を愛することができるように、変え られて行くのであります。 イエス様につながっていなければ、私たちは何もできない。良い実 を結ぶことができず、悪い実しか実らせることができない。しかし、イ エス様につながることによって、良い実を実らせることが、出来る。そ れは即ち、≪まことの善い行い≫をすることができるということです。 つまり、まことの意味で、神を愛し、隣人を愛することができるようにな 7 る、変えられて行くと、いうことなのです。 人間は、イエス・キリストを信じて、キリストにつながることにより、そ の根本が変えられ、根っこが変わらなければ、まことの意味での善い 行いを行うということは、これは決して出来ない。このことを、歴史上、 誰よりも強く意識して、世の中に訴えかけた人の一人は、マルティン・ ルターでした。「人間は、善い行いをすることができるのか?」この問 題について、ルターは、とことん、徹底的に、考え抜いた人でした。ル ターは、聖書の御言葉を説き明かすことによって、この問題を論じまし た。そして、次のように結論付けたのです。 人はまず第一に、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽く して、神を愛すべきである。そして、その神への愛が、すべてのこと の土台でなくてはならない。この神への愛に基づいて、人間は、隣人 への愛を実行すべきである、と。 私たちの主、イエス・キリストも言われました。「わたしがあなたがた を愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい。」と。これは、 イエス様の愛を知って、つまり、神の愛を知って、その神の愛に活か されるようになって、その結果、自分も神を愛し、神に感謝するという 意味で、隣人を愛するということです。このようにして、神への愛と、神 への感謝に基づいてなされる所の≪愛の行い≫こそが、≪まことの 8 善い行い≫であって、≪良い実を結ぶ≫ということになります。イエ ス様につながって、≪豊かに実を結ぶ≫ということであります。 最後にイエス様の言葉をお読みして終わりたいと思います。 (ヨハネ 15:4-5)「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたが たにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、 自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつ ながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、 あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしも その人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離 れては、あなたがたは何もできないからである。」 私たちが、まことのぶどうの木であるイエス様につながって、悪い木 である、私たちの根っこの部分を根絶やしにしてくださり、自分では為 すことのできない、良い実を実らせることができますように、ご一緒に お祈りを致しましょう。 祈りましょう。 9