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一八六七年スラヴ人会議について

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一八六七年スラヴ人会議について
論 説
ヨーロッパ・スラヴ世界の台頭−−−序にかえて
一八六七年スラヴ人会議について
一
二 ロシアの汎スラヴ主義
スラヴ各地からの参加者たち
三 ﹁科学と文化の時代﹂ における博覧会
四
五 ペテルブルグ到着
高 田
70(4・81)863
六 モスクワの日々
七 総括と評価
和
夫
論 説
一
ヨーロッパ・スラヴ世界の台頭
−
序にかえて
一八四八年革命はスラヴ世界をも巻き込んで諸民族のナショナリズムを活性化したが、汎スラヴ主義という思想が具
とスロバキア人のシャファーリク
ノヽ
︵P﹂.Safa¶ik︶
たちのことであ
体的な社会運動化したことは注目に値するであろう。通例、そのための思想家はチェコとスロバキアが輩出したとされ
る。つまり、チェコ人のパラツキー︵F.Pa−ackや︶
る。その年の六月、ボヘミアの首都プラハでスラヴ諸民族が結集する最初のスラヴ人会議︵チェコ語ではS−○畠nSk竹
盟ezd、ドイツ語ではS−a眉eロKOngreSS、ロシア語ではc岳B曽C象c諾Ubであるからスラヴ人大会であるが、小論では通
が開催された。それは当時進行していたドイツとハンガリーとの接近、さらにはドイツ統一問題を掲
︵これにはロシアからの参加はない︶。それ以前からスラヴ諸民族の間に文化的な共通性を見出そうとする志向
︵Kare−Ha裏釘k︶
の四八年革命前夜の発言に起点をもち、右記二名によっ
︵一八六一年︶、つまりリソルジメント
︵﹁イタリア統こ︶
が成り、それは特
にポーランドとドイツを刺激した。一八六三年、ポーランドは一月蜂起に失敗したが、一八大六年、ドイツ統一をめ
独立、統一をめざすイタリア王国の成立
州列強により﹁東方問題﹂がフレ﹂ム・アップされ、その一部を構成した﹁バルカン問題﹂も出現した。さらに自由、
その後、ヨーロッパでスラヴ世界の運命を変えうる事態が大きく進展した。何よりもオスマン帝国の衰退に伴って欧
ヴ人会議は民族間の平等を訴える﹁ヨーロッパ民族への声明﹂を辛うじて採択して歴史に名を留めることになった。
て本格的な確立をみたとされる社会思想である。市民たちの対オーストリア蜂起によって日程の中断を強いられたスラ
チェコ社会評論家カレル・ハヴリーチェク
帝国を改編してそこに住まうスラヴ諸民族が民主的自治権をもつことを主張する穏健な連邦国家構想であった。これは
性は観察されたのであるが、ここで鮮明に打ち出されたいわゆる﹁オー
である
げたフランクフルト国民議会に対抗して、少なくともオーストリア帝国内のスラヴ諸民族の大同団結を図ろうとしたの
称 に 従 っておく︶
●●
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一八六七年スラヴ人会議について(高田)
ぐってプロイセンはオーストリアと会戦︵普填戦争︶
し、惨敗したオーストリアは﹁プラハの和約﹂で排除されてプロ
イセンを中心とした統一事業は大きく進捗することになった。そして、ヨーロッパは民族運動と軍拡に支配される時代
に突入した。これら中央ヨーロッパにおける地殻変動はスラヴ人たちに自己の民族意識を確かめる機会を提供したので
ある。
︵実質的には汎ロシア︶
を野望するロシアに近づきながらオーストリア政府へ
オーストリアとハンガリーのアウスグライヒによりスラヴ諸民族自治構想を却下されたチェコ人たちは、汎ゲルマン
主義の圧倒的力量に直面して、汎スラヴ
抵抗する道を探った。当時、チェコ人に限らずスラヴ世界は農奴解放など﹁大改革﹂を遂行しっつある帝政ロシアに対
して概して良い印象を抱いていた。このことはロシアをめぐるスラヴ国際関係を考察する時に無視できない要因である。
一八四八年革命時に独自な民族議会の開設をハンガリー政府に迫ったスロバキア人は一層のハンガリー化に対抗する手
段虻求めていた。すでに一八四〇年代に南スラヴ諸民族の統一を目指すイリユリア運動を指導したガーイ︵L.Gaj︶を
民族的英雄としたクロアティア人はやはりハンガリー政権と強く対決せざるをえない。オスマン帝国に対して蜂起して
一八二九年に自治を獲得し、この後、公国を設立したセルビア人は一八六〇年代ミハイロ公のもとで近代国家の本格的
︵F.Pre肌eren︶
のもとで露土戦争に参加
などの文学者たちが民族性を訴え、民族意
な形成途上にあり、ベオグラードからトルコ守備隊を撤退させるべく国際関係の力学の只中にあった。彼らはロシアに
軍拡のための借款を求めた。スロペニア人はプレシエレン
識の高揚に努めていた。独自な神権国家を形成したモンテネグロ人はニコラ一世︵NikO−aH︶
する準備を進めていた。ブルガリア人はギリシャによる文化的宗教的な支配に対抗してブルガリア語教育運動を展開し、
ブルガリア教会の独立を達成しようとしていた。ポーランド北部のバルト海沿岸に居住するカシューブ人は強烈なゲル
マン化に必死に耐えてポーランド語のカシューブ方言を守りながら独自な文化を維持しょうとしていた。
このようであったから、一八六七年モスクワで開催された二度目のスラヴ人会議が一八四八年の ﹁オーストリア・ス
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論 説
ラヴ主義﹂のような穏健で希望的な色調でもって飾り立てられるはずはなかった。この間、彼らはそれぞれが民族的自
二
︵二〇年ぶりのスラヴ人会議︶、ロシアの活用を図ること
︵それを表向きの理由にして︶
ロシアの汎スラヴ主義
︵そのモスクワ開催︶を思い付
スラヴ人会議が開催されたのである。この時期のロシア
︵1︶
を
クリミア戦争以前、ロシアにおけるスラヴ派の関心は国内問題に止まることを原則としていた。彼らが初めて国外の
︵A.C.ぎM宍○巴
モスクワからの親書︵KCep診きコOC計H宥㌢こきc宕b︻︶﹂において、彼らはオーストリアで教育を受けた官僚たちが推進
代表とする十人のスラヴ派︵そのいずれも後に触れるスラヴ慈善委員会の会員である︶が署名した﹁セルビア人たちへ。
スラヴ世界に具体的な関心を見せたのは、ようやく一八六〇年のことであったろう。ホミャコーフ
︵2︶
では、民族は国際関係における駆け引きの材料となるだけでなく、観察し観賞する対象になるまで進化したのである。
で、民族誌学博覧会と並行して
呼応して自らが﹁科学と文化の時代﹂を切り開こうとしていた。知的好奇心が公衆一般をとらえる社会的雰囲気のもと
形而上的関心といったものから唯物論、現実主義、科学・技術的関心へとその重心を移動しっつあり、ロシアもそれに
ます組み込まれていく契機のひとつともなった。確かに、この時代にヨーロッパ思想は理想主義、観念主義、宗教性、
格段の関心を払ったことはなかったのだから、結果として、このスラヴ人会議はロシアがヨーロッパの歴史過程にます
の意味合いは充分に検討されなくてはならない。以下に見るように、従来、ロシアは外部世界にいるスラヴ人に対して
いたのは、まずはそのためであろう。ロシアがスラヴ結集のために場を進んで提供したことも特徴的であった。これら
がスラヴ的共同性を再確認し
を強いられ、自らの民族としての存在感︵ナショナリズム︶をいたく試される事態に直面しっつあったのである。彼ら
覚を高めていたし、何よりもオーストリア帝国内のスラヴ諸民族は非スラヴのハンガリーに次ぐ低位置に甘んじること
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一八六七年スラヴ人会議について(高田)
本来の道に戻れ、と権威主義的に忠告した。ポーランド人の悲劇を繰り返してはならないとも述べた。この﹁親書﹂は、
しているセルビアの近代化にクレームをつけたのである。彼らは、あなた方よりも歴史がある我々の言うことに従って、
︵3︶
スラヴ派の人たちがセルビアに限らずスラヴ世界各地で近代化が具体的に進展していることを知って、出されたもので
あった。この時期になって、ロシアの汎スラヴ主義は単なる夢想的な社会思想の域を脱して、国際関係的な内実をも季
むようになったとみてよい。小論はその史的意味合いを吟味したいのである。
ロシアの大地と結びついた彼らスラヴ派にとり、﹁非ロシア的﹂で人工的な帝都ペテルブルグはいわば異界であり、
彼らがかろうじて政治的な関心をみせた国内改革をめぐって半ば不可避的にペテルブルグ官僚制と対立したのである
︵芦コ.計﹁O日吉︶
︵それと対照的にモスクワは彼らにとりロシア思想の実験室であったり、聖なる理想的な倫理的首都であったりした︶。
このように外部世界に関心を示さなかった彼らの中で、しかしながら、モスクワ大学教授ポゴージン
に読ませよ
は例外的に最も自覚的な国際政治的汎スラヴ主義者であった。彼は一八三五年以来クリミア開戦まで都合五回に渡り、
ヨーロッパのスラヴ世界を旅行した。その彼が一八三八年末に二〇歳の皇太子︵後のアレクサンドル二世︶
うとして﹁ロシア史に関する書簡﹂を執筆したが、この文書はロシア思想史研究において汎スラヴ主義を最初に定式化
したものと評価されることが多い。その触りの部分を要約して紹介すれば、次のようである。
ロシアは世界史において驚異的な現象であり、いかなる国もその力と比べようもない。六〇〇〇万の人口は年々一
〇〇万ずつ増加し、やがて一億にもなる勢いである。それに、コンスタンチノーポリからヴェニス、モレア︹ペロポ
ネソス︺半島からバルト海・北海にかけて散在している、わが兄弟‖スラヴ三〇〇〇万を加えよう。彼らは我々と同
れているにもかかわらず、血統と言語とにより我々と一つの精神的存在であるスラヴである。それ故、我々は隣接す
じ血が流れ、我々と同じ言語を話し、自然の法則により、我々と同じように感じるスラヴであり、地理的政治的に離
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論 説
るオーストリアやトルコ、さらにはヨーロッパのその他の人口から彼らを引き抜いて我々の数に加えるのである。
ロシアはあらゆる種類の土地と気候に富んだ国であるから、それだけで自足的であり独立した存在である。我々に
にして豪胆︵y短旨︶
であり、これに
の
何が足りないというのか。ロシアはイギリスを恐れているとでもいうのか。ロシアには手の届く所に何でもあるのだ。
精神的資源に関しては、ロシア人の特質を指摘しょう。人びとは利発︵↓○岳︶
相当するヨーロッパの言葉は他にないであろう。精神的肉体的力量を備えたロシアの人民は一人の男︹ツァーリ︺
指示に従っている。つまり、人びとは地上の神であるツァーリに対して無限の献身をしている。こうした我々を誰と
比べようというのか。ロシアほどの力強さ、統一と調和を誇る所は他にないのだ。なるほど、英仏は強かったであろ
うが、それはもはや凋落傾向にあり、個人的自由は国家を政治的に弱体化させている。今やロシアのツァーリは
チャールズ五世やナポレオンなどよりも普遍的君主制の近くにいるのである。
将来は全くスラヴ民族のものであろう。歴史的にそれは着々と前進している。今や、スラヴ民族は人類に対してそ
の高貴な仕事を成し、・彼らの高度な能力を示す時である。それでは、スラヴ民族のうちどれが数、言語、資質におい
て全スラヴを代表するのか。どれが将来の偉大さを最もよく見通すのか。どれが高貴な目標に最も近いのか。私はこ
うした事を思うだけで心が打ち震える。ロシアよ、我が祖国よ。ロシアは人類発展を助けるのだ。それは新旧の文明
を調和させ、理性と感情を和解させ、真の正義と平和を構築し、教育、自由、富などよりも高貴な何かがあることを
証 明 するのだ。
この﹁書簡﹂は皇太子には届かず、間に入ったストロガーノフ公によってポゴージンに戻された。その後、一八五三
年、最後となったヨーロッパ旅行から戻ったポゴージンは、ロシアは西からの脅威に直面しており1 スラヴの兄弟に頼
るしかない。ロシア公衆の間にスラヴ諸民族に関する知識を普及する使命がある、と述べた。ツァーリはようやくクリ
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一八六七年スラヴ人会議について(高田)
ミア戦争の直前になってトルコのキリスト教徒ヘアピールを出し、正教の共同防衛を訴えた。ポゴージンは
立場を変えようとはしない。彼に限らず、スラヴ派の多くはクリミア敗戦をロシアがそれまでとってきた進
は彼を大いに励ましたであろう。
めるためのむしろ好機であるとみなしたのである。一八六〇年に同志たちが親書﹁セルビア人たちへ﹂を出
︵無論、彼も署名した︶
右に彼の﹁書簡﹂をかなりの紙幅をとって紹介したのは、ポゴージンがこれを三〇年後の一八六七年にス
の開催に向けて改めて出版したからである。その折に、彼はイヴァン・ツルゲーネフが同じ年に出した長編
に言及し、作家は人をハムレット型とドン・キホーテ型に二分したが、自分はいつも後者のカテゴリーに拘
﹁煙のような︹ハッキリとしない︺﹂絵をもってしては民族的な心情を高揚させることなど出来ないと硬く
今こそ、我々には別の物が必要なのである、と述べたのである。彼は朽ちていくヨーロッパに代わって世界
︵4︶ のはロシアを盟主とするスラヴであると信じて動じない。
さて、一八五四年、オデッサに所在したブルガリア人コロニーで帝政ロシアから支援を受けて祖国をトルコの抑圧か
ら解放したいとする運動が顕著になった。それはスラヴ世界の理想を追い求めただけでなく現実的利益にも関心を示す
︵A.芦﹁Op痘六〇B︶に請願し、一八五八年になってツァーリは
ものであったが、こうしたブルガリア人の動きにロシアの両首都の公衆が呼応して、スラヴ慈善委員会︵c岳莞象
︵5︶
∽岳r01BOP∃2きHb−訃KOM∃e↓︶ の結成を外相ゴルチャコーフ
その設立を認可したが、三一人から成る創設メンバーの過半はスラヴ派ではなかった。最初からこの委員会が専らスラ
ヴ派から成り立ったとするよく見られる議論は不正確で単なる思い込みでしかない。何よりも、この時期、﹁スラヴ﹂
に対する関心がロシア公衆全般を捉え始めたことに着目しなくてはならない。その初代代表には宮廷人事長官
︵且Me浮↓eP︶であり、モスクワ学区監督官であったパフメーテフ︵A.H.野望e↓e巴が就き、さらに名誉議長に科学ア
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論 説
カデミー総裁ブルードフ︵串H.∽壱竃︶公が座ったのであるから、当局はこれを半ば公的な組織にしようと考えてい
兄の
たふしがある。また、同時代に刊行された﹃ロシア伝記事典﹄などによれば、スラヴ慈善委員会はパフメーテフの
ンに従って創設されたことになっているのである。辛うじてスラヴ派はイヴァン・アクサーコフ︵芽aHA⋮KOB
り込むことに成功した。スラヴ慈善委員会が掲げた目的は南スラヴ諸民族の宗教、教育、ロシア︵モスクワ︶留学を支
コンスタンテンと区別するために以下もイヴァンを表記するが、単にイヴァンとすることもある︶を財務担当書記に送
︵6︶
教会と外務省アジア局︵念のために言えば、バルカン地方もアジア局の担当であった︶も目立たぬように参加した。イ
︵8︶
公衆の関心を高揚させ、その結果、ペテルブルグ支部の会員数だけをとっても当初、わずか六三人であったのが、
国外における南スラヴ人たちのトルコに対する反攻や国内におけるスラヴ人会議開催などはスラヴ世界に対するロ
委員会はロシア社会で目立つ存在ではなかった。開設以来、会員数は増加せず、むしろ減少する傾向さえあったの
確かに、イヴァン・アクサーコフが露土戦争に絡む政治的発言を敢えてして﹁外へ打って出る﹂一八七六年まで
民族を博覧会企画に加えるための正当な背景事情であった。
理的諸様相に対する関心が芽生えたばかりであり、外部のスラヴ世界はなおさら未知の空間であった。これはスラ
︵9︶ ﹁文献的汎スラヴ主義︵彗epa↓ypHb︻⋮aHC﹄Pロ=U≡︶﹂を展開した。当時のロシア公衆の間ではようやく帝国内部の人文地
といえなくもない。ペテルブルグ支部は特に文書による広報活動に熱心で、宣伝に力をいれ、スラヴ情報の普及を
人会議の歴史に照らせば、モスクワよりもペテルブルグのほうがヨーロッパ汎スラヴ主義の正統性を継承しょうと
の運営にはほとんどペテルブルグ大学教授たちがあたった。支部の方は特にチェコ人との関係を重視したから、ス
開催を契機に︵より直接的には参加者受入組織が元になって︶スラグ慈善委員会ペテルブルグ支部がつくられたが、そ
ヴァン・アクサーコフが関係を深めたモスクワ商人︵資本家︶たちがそれに資金援助を行った。やがて、スラヴ人会議
︵7︶
援するという非政治的で、文化的な課題であった。当初、この委員会はほとんどブルガリア人を支援した。これに
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︵12︶
ゴージンを除くと実質的にイヴァン・アクサーコフとサマーリン
︵声◎.CaMaP邑だけであった。サマーリンはこの時
がさしあたりイヴァンにとりスラヴ問題の解決目標となった。ここでは彼はロシアに積極的な行動を求めてはいない。
︵13︶ とも称された聖キリルとメトディウスの記念祭組織者となった。
一八六二年、イヴァンはポゴージンらとともに長い間忘れられてきた、スラヴ世界へ正教を普及し、﹁スラヴ人の使
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にたいする親近感を大切にすること、スラヴ民族が民族解放運動を展開して自らを異国人から解放すること、この二
イツ人かトルコ人によって躁踊されているというのがこの旅の総括的印象であった。スラヴ人民の間にあるロシア人
行して当該地に対する並々ならぬ関心をみせた。何処へ行ってもバルカンではスラヴの民族性︵ナロードナスチ︶はド
殺されていたから、人びとの耳目はイヴァン一人に集中することになった。その彼は一八六〇年にバルカンの一帯を
代の社会活動家として決定的とでもいえる欠陥として編集実務能力に欠け、しかも自らは農奴解放準備委員会活動に
︵11︶
待ったなしの対応を求めたからである。明らかに時代は新しい世代の登場を求めていたが、モスクワではスラヴ派は
この時期、ロシアのスラヴ派は大きな曲がり角にあった。近代化と西欧化の波は容赦なくスラヴ世界を洗い、彼ら
めかけた 。
ミャコーフの場合、ウィーンが最期の地となり、彼の葬儀にはハプスブルグ帝国内のスラヴ諸民族の代表たちが多数
一八六〇年にはホミャコーフとコンスタンテン・アクサーコフ︵KOHCTa∃さA只︹p只○出︶がそれぞれ他界したのである。ホ
ちが次々と姿を消した。一八五六年にはイヴァンとピョートルのキレーエフスキー兄弟︵芽aH\コe↓pK喜eeBC邑︶が、
し、いまだかってないほどにヨーロッパ化していく道を選んだ。こうした状況を横目で見ながら、スラヴ派の大立者
クリミア戦争期にロシアにたいして近代世界がますます大きく開かれたが、ロシアはヨーロッパ世界との融合を目
八六九年三二四人、一八七〇年二二八人、一八七左一八六人と入会者数を大きく増やしたのであ
一八六七年スラグ人会議について(高田)
論 説
︵無論、実父は﹃家族の記録﹄
の作家セルゲイである︶。それには旧世代のスラヴ派のうち、国
︵p.A.◎a焉e巴ら﹁新スラヴ派﹂を繋ぐ位置にいた。イヴァンは特にホミャコーフを父として扱い、終世、
系譜的に言えば、イヴァンは右に述べたホミャコーフたち旧世代とダニレーフスキー︵H.軍曹H喜e買K邑、ファ
ジエーエフ
尊敬の念を抱き続けた
外のスラヴ民族に関心を持ったのはほとんどホミャコーフのみであったことが大きく作用していると思われ、この点で
イヴァンは彼の後継者たらんとしたのであろう。・小論が対象とする一八六七年スラヴ人会議自体もすでに触れたような
運動へと進化させるために努力したところにあるであろう。晩年、彼が﹁戦闘的スラヴ主義者﹂と命名されたのは故な
意味で中間的な位置にあり、イヴァンはこの場でも活躍した。彼の主美る貢献は思想としての︵汎︶スラヴ主義を社会
︵14︶
し と し ないのである。
﹁私はいつもムジークと生活しなくてはならないのならば、気が狂ってしまう﹂。この人生観はイヴァンのスラヴ主義
︵15︶
の核心であり続けた。つまり、人民なしのスラヴ主義あるいはナロードナスチ観である。イヴァンがナロードニキにな
︵詩人の娘︶がスラヴ族とロシア人が嫌いであった
こと、なぜなら、彼らは誠意がなく不正直であると彼女が感じていたことが何らかの作用をしたかもしれない。それは
らなかつたことについては、彼が結婚したアンナ・チュッチェヴァ
︵16︶
ともかく、イヴァンは西欧リベラリズムの危険性、正教徒とカトリック系スラヴ族との分裂、ロシアの史的使命を強く
認識し、これらの改善あるいは実現を模索した。彼にとりスラヴの民族意識を促進することはそれらとロシアとの精神
的結合を強化することを意味した。国外のスラヴ民族を支援することはロシア国内の再生に繋がると彼は見通した。戦
争や正教背教者といった共通の敵と渡り合う場においてスラヴ世界との間に精神的な一体性が確保されていれば、ロシ
︵17︶
アはより確固とした立場を維持できると考えたのである。イヴァンによってスラヴとロシアの国際関係は精神的な相互
依存においてまずは捉えられたのである。彼らにとり精神生活は宗教生活であり、社会のあり方は何よりも宗教的に把
握されるべきであった。スラヴ主義の創始者イヴァン・キレーエフスキーにとり宗教は当該民族の精神的合意そのもの
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一八六七年スラヴ人会議について(高田)
であり、ホミャコーフにとっては生活の全て、つまり歴史は宗教の発展過程であった。その結果、ナショナリズムは宗
教と分離されることはなく、したがって、宗教自体がナショナリズムの内実とみなされた。この限りで、汎スラヴ主義
へほ︶
は 正 教 を意味することになった 。
しかし、イヴァンにとり問題はスラヴ族の間に調和がないことであった。そのために彼はスラヴ諸民族にロシア文化
を吸収することを求める変則的なロシア‖スラヴ世界相互依存論を主張することになった。彼は宗教に従ってスラヴ族
を四分類した。つまり、①ロシア︵あらゆるスラヴにとり精神的なメッカ︶、②正教スラヴ、③カトリック・スラヴ
︹具体的にはチェコ人、クロアチア人をさす︺、④ポーランド人︵カトリシズムによりスラヴではなくなったとみなす︶
である。宗教的に彼らは正教とカトリシズムとに分けられ、言語的に彼らは異なる言葉を話すグループに属し、政治的
には彼らの精神には不釣合いな制度に従えられている。スラヴ族が調和あるひとつのシステムを望むならば、彼らはス
ラヴ世界の精神的なメッカであるロシアの周りに結集しなくてはならない。ロシアは全スラヴ世界にとり魅力ある自然
︵19︶
で真正な中心である。つまり、イヴァンはスラヴの諸民族をロシアが自由に書き込める白紙とみなしたのである。ロシ
︵20︶ アとの精神的結びつきなしにはスラヴ世界は考えられないと彼は繰り返し主張したのである。
これはいわば大国の側がする汎スラヴ主義であり、それはヨーロッパ東部の小国が唱える汎スラヴ主義とはおのずか
ら性格を違えるものであった。マサリクは、パラツキーとハヴリーチェクが曖昧なコスモポリタニズムとしての汎スラ
ヴ主義から離れ、充分に自覚的な﹁小さな﹂汎スラヴ主義を主張したというのである。自分たちが政治的、文化的に弱
く小さな存在であることから、その民族復興運動が当初から汎スラグ主義的綱領を持つものになったということは、彼
らが国際関係における﹁弱小性﹂を補うために団結して大国に対し共闘しなければならない事情が作用していたと見な
︵21︶ くてはならないであろう。
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論 説
三
﹁科学と文化の時代﹂
における博覧会
ロシアの﹁大改革﹂期は﹁科学と文化の時代﹂であった。学術団体がロシアに本格的に登場したのはこの時代の特徴
︵22︶
のひとつである。一八六四年初頭、モスクワ大学に﹁自然科学愛好者協会︵○ぎec↓BO日石ぎ↓e岳裟Ec↓eC↓BOuHaH喜︶﹂が創
設された。その年の暮れの会議で、公衆の間に人類学の基本知識を普及する提案がなされ、そのためにモスクワで博覧
SydeロhamCr
会を開催t、それは人類学と民族誌学の二部門制を採用するのが望ましいことが確認されたが、明らかにこれはロンド
︵A.コ.謬﹁短HOB︶
は早くから博覧会の企画を考え、ロシアの主要な住民の展示構成にとり特に大きな
E軋bitiOロ︶﹂をモデルにしていた。この企ての発起人にはモスクワ大学教授たちが顔を並べていたが、なかでも人類学
ンで開催された﹁シドナム水晶宮博覧会人類学部門︵theanthrOpO−Ogica−sectiOnOfthe
︵23︶
者ボグダーノフ
障害とならないかぎり、 スラヴ部門を設置することも目指していた。彼にあったのは純粋に学問的な関心だけであった
ここで大切な点は、ボグダーノフら自然科学者が考えたこの博覧会構想に乗るようにスラヴ人会議の開催が計画され
術家の参加が望まれ、﹁写廣委員会﹂も活動した。出品作から最優秀を選んで、パリ万博に出展することが考えられた。
る統計的な図を示し、人間的性向︵宛らOBe完CKa追HpaBC↓BeHHOC↓b︶をも紹介しようとした。全体を通して、多方面から芸
たものであった。スラヴ族には二二の舞台装置が与えられ、合計六二のマネキン人形で飾られた。それらの現状に関わ
君主権力のもとでの諸民族の統〓を遍く示すことにあった。展示プログラムは国民教育相の報告をツァーリが承認し
ロに住むスラヴ族の伝統文化を展示した。その目的は﹁ロシア帝国の広がりの偉大さ、力強さ、広大さ、ロシアの専制
博覧会はロシア帝国内の諸民族だけでなく、オーストリア、プロイセン、サクソニア、トルコ、セルビア、モンテネグ
︵24︶
二〇〇〇年にべテルブルグで美しいカラー印刷でこの博覧会のパンフレットが久しぶりに再版された。それによれば、
ろう。
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一八六七年スラヴ人会議について(高田)
たことである。全体を顧みると、博覧会が表向きの話で会議が裏向き・内実ということになろう。そのままでは政治的
な意味合いを持ちえて開催するに困難な会議にとり世間的に流行している博覧会がいわば隠れ蓑的役割を果たしたであ
ろう。この妙案を誰が思い付いたか、従来から不明のままであるが、筆者の見るところ、モスクワ大学史学教授ポポフ
︵25︶ ︵H・A.コ○コOB︶がかなりな役割を果たしたようである。彼は一八六三、四年にヨーロッパ東部のスラヴ各地を旅行し、
の二人を準備に誘ったことから、話は拡張し始めた。
共感し︵彼とボグダーノフとの関係は詳らかではない︶、ポポフにそのための準備方を依頼した。彼がラエーフスキー
それを踏まえて、一八六五年二月、﹁自然科学愛好者協会﹂で民族誌学的展覧会の話をしたのである。協会はそれに
︵26︶
︵芦◎.PaeBC宴已とラマンスキー︵∞.芦PaMaHC望已
在ウィーン・ロシア大使館付司祭ラエーフスキーは大切な役割を果たした。当時のウィーンには多数のスラヴ人青年
が学生としており、こうした企画の宣伝にとり恰好の場であった。彼はそのために﹁ロシアの基盤︵pycc穴P出OcHOBa︶﹂
︵27︶
と称する結社を作った。彼はポポフのいわば在外協力者となり、パンフレットを作成し、各地にある研究機関に協力を
頼むなどした。
−
南方、西方のスラヴの兄弟がアジア人︹トルコ人︺とドイツ人との抑圧から解放され立ち直ること、
もう一人のラマンスキーはペテルブルグ大学教授でロシア地理学会民族誌学部門代表者であった。彼は博覧会が始ま
るとこう述べた
さらにはロシアの人民的な自覚を呼び起こすこと、これらはロシア科学の働き手が促進するよう目指したことである。
今回の︹スラグ人︺会議は、ロシアとスラヴの地と欄相互交流を発展させ、スラヴ世界史における新しい時代を切り開
く転換点となるであろう。知識に対する純粋な関心と科学はモスクワに様々なスラヴの代表者を招集したのである。科
学があるところでは、﹁信念の自由﹂﹁思想と言論の自由﹂がある。科学の名においてスラヴの代表者を集めるモスクワ
は精神的権威性とすべての同種族の人たちに対する強力な影響を行使しうるのである。ロシアに科学と教養︵○官等
は自由の旗の下にスラヴを集合するということである。こうした雰囲気で、スラヴの人民の中で最強であるロシア人民
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論 説
︵28︶
BaHHOC↓b︶を普及すること、スラヴの自覚を発展させ、ロシア語をスラヴ共通語とすることが肝心である。
このラマンスキーの発言に特徴的なのは、科学と教養の強調、それらをスラグ世界へ普及させようとするロシアの文
化主義的拡張主義であろう。彼の議論はこの時代に特徴的なロシア的汎スラヴ主義に忠実であろう。スラヴ慈善委員会
は組織としてこの企画に参画しなかったが、会員たちは自由に参加した。モスクワよりペテルブルグの会員の方が熱心
で あ る 傾向が観察された。
イヴァン・アクサーコフはこの会議を前にしてその非政治性を意図的に強調して、こう述べ打−−︹前回のプラハで
のスラヴ人会議と異なり、今度はロシアが参加しているが︺ロシアは王位纂奪する意図は持たず、政治的支配をしよう
というのではない。ただ、ロシアは精神生活の自由をスラヴ諸民族のために求めるものである。大会の課題は︹スラヴ
諸民族の︺政治的統一にあるのではない。その目的はスラヴ人に自己のスラヴ的統一を自覚させ、ロシアとの精神的か
つ道徳的な結びつきを確かめさせることにある。ロシアはいまだスラヴ問題を解決する力を持たないのである。その政
策は全く民族的︵Ha∈さHa巨a巴ではないのだ。自らのスラヴ出自を自覚することなしには、ロシア人の民族的自覚
︵29︶
︵HapO琶eCaMOCO冨H完︶は完全になることはできない。この点でロシアはドイツに遅れている。ロシアの義務は全ての
スラヴ種族をスラヴ世界の独自な生活へ参加するように召集する︵コp喜aTb︶ことにある。少なくとも表面的にはイ
四
スラヴ各地からの参加者たち
ヴァンのこうした主張に沿う形で会議のあり方が決まった。
︵30︶
ジンは個人的にパラツキーに招請状を書いたといわれる。結局、スラヴ世界からの参加者は八一人になった。その内訳
ラマンスキーやポゴージンの知己関係を活用して、スラヴ人会議招待状が各地に三百通出された。
70(4・94)876
は、オーストリア・チェコ人二七人、オーストリア・セルビア人一六人、公国セルビア人二一人、クロアチ
ウクライナ人四人、スロヴァキア人三人、スロヴエニア人三人、モンテネグロ人二人、セルビア・ラウジツ
ブルガリア人﹂人、カシューブ人一人であり、オーストリア‖ハンガリー帝国からの参加者が六三名と圧倒
こと、チェコ人とセルビア人が二大勢力であったこと、そしてポーランド人が参加しなかったこと︵その理由はいまだ
しれない。これは、今後、究明すべきであろう︶が大きな特徴であった。参加者の主たる顔触れを見ると、最大集団で
不明であるが、注2に書いた事情、それと関連するイヴァンが示したポーランド人観といったものが作用しているかも
︵31︶
あったオーストリア・チェコ人の代表格はパラツキーであった。彼は二〇年ぶりの会議に勇んで乗り込んで
に彼は﹁チェコ人の父﹂と称されるほどに一九世紀チェコ民族主義の自他ともに認める体現者となっていた
であったリーゲル︵F・L・Rieger︶が補佐役に回った。彼はチェコ語で新聞を出し、プラハ大学でチェコ語をドイツ語
と対等に扱うことを主張するなど言語間題に強い関心を持つ人であった。オーストリア・セルビア人の代表
ト、ヴカシノヴィチ、スポーチチの三人であり、いずれも帝国議会に選出されていた。ポリトは法学博士で
シノヴィチは博覧会でセルビア民族展示を担当し、スポーチチはローマ法を教える大学教授であったが、そ
転じて、副首相に就任していた。セルビア公国政府は正式の代表として法務次官ベトロニヴィチを送り込ん
ヴ諸族の大同団結を唱えるイリユリア運動の指導者であったガーイがクロアチア人を代表していた。この人
関する著作があるほどにやはり言語間題には一家言を持っていた。
このように参加者のなかには民族運動活動家が目立ち、この機会にロシア側に働きかけて自民族の運命の
たいと考える人たちが多かったと思われる。しかしながら、ロシア側が政治的に禁欲的であることが徐々に
っれ、期待はずれの失望感が彼らを覆ったのである。プラハの青年チェコ党機関紙は将来の民族的な発展に
70(4・95)877
なりうるものと対抗するためにスラヴはモスクワに結集するのだと書いていたし、軍事費に関してロシアと
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
論 説
︵32︶
入ったばかりのセルビア政府はこれをそのための良い機会に活用すべく、代表団に公的な性格をもたせようとしたので
あ る 。 モンテネグロの場合も同様 で あ っ た
一行はひとまずワルシャワに集結したが、パラツキーとリーゲルの二人はパリ経由で遅れて到着した。彼らはパリで
ポーランド人活動家と会談してきたのである。後にモスクワでリーグルはポーランド人がウクライナの権利を認めたな
らば、ロシアはポーランド人のナショナリティを尊重すべきであると言って、ロシア側の反発を買った︵おそらく、パ
−
スラヴの地を見渡してみて改めて気付くのであるが、ロシアのみが立派な独立国
リではそうした話があったのであろう。ポーランド問題は微妙な位置にあった︶。それはともかくここではリーゲルは
ロ シ ア の立場に触れてこう話し た
である。この事実は他のスラヴ人民のすべてをロシアに引き付ける要因となっている。スラヴ世界が自らの権利と力と
︵33︶
を自覚できるためには、スラヴにとりロシアを親しく知ることが必要である。明らかに、スラヴ世界からの客人たちは
ペテルブルグ到着
ロシアに対して何らかの期待をもっていたのである。
五
全ロシア民族誌学博覧会はモスクワの馬術練習場︵マネージ︶をつかって、一八六七年四月二三日に開催され、六月
一九日まで続いた。第一日目に主催団体の﹁自然科学愛好者協会﹂に﹁帝室︵蔓コepa↓OpC≡鼓︶﹂の冠称がつくことにな
て、これが﹁科学と文化の時代﹂︵高田の用語︶
にふさわしい企画であることを強調した。さらに、博覧会開設委員会
E.EypOBC象︶は﹁ロシア研究﹂への関心の高まりは新しい現象であり、この企画は人民教育に資するであろうと述べ
開会式には学術団体から代表者たちが列席した。本会会長であるモスクワ大学教授・医学博士シチュローフスキー︵﹁・
り、名誉会長には大公ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチが就任した。この事業に国家的意義が付与されたので
70(4・96)878
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
の自然的歴史的あるいは人類的な知識を普及することにある。スラヴ
委員長ダシコフ︵B・A・旨EK。B︶はまず皇室の協力に感謝し、この目的はロシア公衆にロシア値民の人類学的民族誌学
的知見を周知すること、さらに、種族︵コ岳M巴
研究なしのロシア研究は無意味である。この企画にはスラヴ部門を加える必要があった。スラヴ地域からの参加も必
である。︹非スラヴの︺外国雑誌は︹その政治性を指摘して︺信用していないようだが、この企ては純粋に科学的な
のである。科学、とりわけロシア科学がこの目的のために動員される。それらの研究成果を公衆の間に流布すること
︵34︶ 肝要であると、シチュローフスキーに同調する話をした。翌日、ツァーリは親しく見学した。
特徴的であったことは博覧会開催期間を通して頻繁に関係者の間で意見交換がなされたことであり、この意見交換
こそがスラヴ人会議そのものであったとみなしてよいであろう。意見のやり取りをポポフは実に丁寧に記録した。改
て述べるまでもなく、小論は博覧会ではなく、スラヴ人会議に主たる関心があり、そこでのやり取りを分析すること
通して、この時期の汎スラヴ主義の性格の一端を明らかにしたいのである。
スラヴの客一行はすでに博覧会が始まっているモスクワを後回しにして、ワルシャワ鉄道経由でまずペテルブルグ
入った。駅頭に降り立ったのは五月八日であり、出迎え歓迎の約二〇〇〇人で大混雑を呈した。この行動パターンか
も明らかなように、客側にとっても博覧会は表向きの話であった。翌日から見学・訪問と会食の強行軍が開始され、
本的にそれらは帰国するまで各地で繰り返されたが、ここではそれらを逐一、紹介することはしない。私たちにとり
心があるのは数多く行われた挨拶や発言の主たる内容であり、傾向である。ポポフの記録を読みえた限りで、それら
整理しな が ら 進 ん で み た い 。
ペテルブルグではます国民教育相トルストーイ︵臼.A仁↓○弓○告が挨拶し、次のように﹁科学﹂を強調した。人間の
本性に照らして最も有益である自然な結びつきは﹁科学による精神の統一︵e竃CTBO壱髭HayKO已﹂である。科学が異
70(4・97)879
論 説
−
実際、この点にヨー
我々とあなた方︹スラヴ︺との間に強力な科学的結合が非常に必要なのである。我々はあ
なる種族の人たちを接近させ、種々の性格を有する民族︵Ha宝巴をまとめるのであるならば
ロ ッ パ 文明の名誉がある・−
−
この用語は方言・非標準語といったニュアンスがある
なた方なしに自己を完全に理解することはできず、あなた方は我々なしには同様にそれは出来ないであろう。あなた方
はロシア語とロシア史を学ばずにはあなた方の言葉︹Hap3完
ことに注意︺と歴史を完全に会得することなどはできないバあなた方と我々とを結び付けているつながりは身体的であ
︵35︶
ス
り、血であるが、それとともに精神的、知的なものなのである。これらのつながりを不断に強化すること、科学が訂す
︵それほどまでに﹁科学﹂が流行していたことに注意すべきである︶
ます私たちを結合するよう努めなくてはならない。
このようなトルストーイの科学に名を借りた
ラヴ=ロシア結合論に引き続いて、チエツチェフの詩が読み上げられた。この企画全体を通して、チュッチェフの作品
は要所要所に登場して、雰囲気づくりに多大な貢献をしたことも見過ごしに出来ない事である。チュッチェフという詩
︵36︶
人は長年に渡り外交官生活をした結果、西欧に幻滅してロシアに過大な期待をかけるようになった人であり、﹁スラヴ
士
︵セルビア︶
は返礼の中でこう述べた
我々セルビア人にはロシアの兄弟にたいして生まれて以来の愛情がある。
しかし、このような一方的な話はロシア側だけのものではなかった点に注目しなくてはならない。例えば、ポリト博
cO莞︶ を成長させ、強化する。
︵37︶
宴である。わがスラヴの自覚と、ロシア人民とそのスラヴ兄弟との相互交流はスラヴ‖ロシア同盟︵c岳B碧?pyCC≡節
をめぐる懸案はスラヴの間だけではじめて解決しうるものである。したがって、このスラヴ人会議は信頼と兄弟愛の祝
スラヴ間の相互協力の考えは苦から言われたことであるが、それは遅々として進まなかった。だが、これまでのスラヴ
次に民族誌学者ラマンスキーは極めて単純なスラヴ兄弟論、スラヴ‖ロシア同盟論を展開した。彼によれば、確かに
主義の外相﹂ともいわれた。
70(4・98)880
一八大七年スラヴ人会議について(高田)
にもある。ヨーロッパ東部を解放することはその偉大な課題なので
我々の母親は自分の子どもたちに聖なるルーシ、我が正教の兄弟のことを話してきた。ロシアの創造的な課題はアジア
だけでなく、ヨーロッパ東部︵eBpOコe浮K象BOC↓○已
ある。ゲルマン世界はスラヴ世界とは別である。スラヴの運命は自らの手で決するほかない。その際、第一番の役割は
ロシアにある。ロシアはただ単にロシアであるだけでなく、スラヴであり、全スラヴの強国︵BCeC岳B喜C琵出計p宍aBa︶
の解決である。
︵38︶
ー 我々を遠く西か
である。スラヴ・ロシアは文明を脅かそうとするのではない。それはヨ一口ッ・パにおいてスラヴ家族の兄弟愛を準備し
ようとするだけである。それに至る第一歩は﹁東方問題﹂
さらに、チェコ国民経済論の権威で、パラツキー派であるブラウナ一博士は次のように挨拶した
ら南からロシアに集めた力はナロードナスチと教育であり、これこそ真に文化的な力である。スラヴ諸民族の相互性に
︹﹁大改革﹂期の︺
ロシア民族の進歩を見よ。一八六一年二月
と一八六四年一一月二〇日︹司法制度改革︺を見よ。二﹂こで、聖ルーシの精神的な進歩に乾杯しょ
によってのみ実現できる。この間の
Uaコa焉︶、それはスラヴ諸民族を異分子から救う必要から始めたのである。精神的相互性の偉大な思想は偉大な民族
関する思想は我々の間で発生したが、我がチェコ文学が初めてこの思想を発展させたのである。我々西側では ︵y HaC
Ha
︵つまりロシア民族︶
︵39︶
一九日︹農奴解放︺
>れノー・
リトゲルが、我々はわが民族に属する教育指導者を持たない。ロシア人民だけがそうすることが出来るとまで述べた
︵40︶
とポポフの記録は示すのであるが、恐らくそれも事実であろう。スラヴの客の側からそうした﹁卑屈な﹂発言がなされ
は次のようなことまで言ってのけた
我々はすべて一つ
◎.
たのは単なるリップ・サーヴィスとしてはありえなかったはずである。そこには彼らの望み、つまり、国際関係の場で
ロシアを彼らのために働かそうとする意向が働いていたはずである。
︵リヴオフ大学の元ロシア語ロシア文学教授︶
こうした雰囲気に励まされてであろうか、オーストリアの東ガリチアから来たロシア人ゴロヴアーツキー︵寧
﹁○旨Ba実墓︶
70(4・99)881
論 説
の偉大なロシアのナロードである。血と種族、宗教、言語、慣習、法と権力、これらはみな同じ一つである。我々は血
の繋がった兄弟であり、同じ母国の家族たちである。しかし、残念なことに、我々は外国の、異族の支配下に置かれた
あった。
五月一〇日に一行の一部は外相ゴルチャコーフと駐露オーストリア大使レヴァーテル
と断った。ゴルチャコーフはこの年に外務省勤務五〇年を迎え、長年に渡るその外交活動を表彰して六月には最高文官
ンスの再現に最大限の関心と努力を払っていた。現実の国際関係に携わる者にとってロシア‖スラヴ同盟論などは極め
学者協会の代表として参加したセルビアの作家ミリチェヴィチ︵三さ∃完B邑が一八八五年になって出版したが︵この
一四日に、客人は列車でツァールスコエ・セローへ出かけ、ツァーリと面会した。このときの様子は、ベオグラード
て慎重な検討と準備を要する事項であった。
︵43︶
ヨーロッパ国際政治の場裏におけるロシアの地位回復とともに、諸列強間の﹁ヨーロッパ協調﹂に存した伝統的なバラ
た彼は西欧国家体系のあり方に習熟し、帝政ロシアをそれに順応させようと務めてきたのであった。クリミア敗戦後は、
︵言y毒C↓BeH宇島只aH∈eP︶の称号が授けられることになっていた。正しく一九世紀ロシア外交の生き字引的存在であっ
︵42︶
中でも外相は、ロシア政府は﹁モスクワの汎スラヴ主義者のユートピア﹂などに関与することは一切しないときっぱり
︵Re完rter︶を訪問したが、
これは科学に名を借りた似非優生学的な話であるが、こうした誇大妄想が堂々とまかり通る所にこの企画の危うさが
︵歪C↓b︶ である。
︵41︶
ロシアは同じ種族性︵e竃HOコ岳MeHHOC↓b︶、氏族︵pOヒ、種族︵コ完M已、信仰︵Bepa︶、言語︵記b︼K︶、血縁︵KpOBb︶、出自
私たちは昔から一つの歴史、一つの言語、一つのロシアのナロードナスチであったことを想起している。我がスラヴ‖
族性︵○計○コ完MeHHOC↓b︶を発見した。我々ロシア人は、われわれがあなたがたすべてと同じ種族であると感じている。
ことがある。だが、今や﹁科学と教育の太陽﹂が輝く時代となった。科学はスラヴ人の間に古代からの類似性と同一種
70(4・100)882
一八六七年スラグ人会議について(高田)
人はイヴァン・アクサーコフが主宰した雑誌﹃ロシア談話︵pyccKa昌ece短︶﹄の通信員をしていた︶、その触りを同年の
ロシア史学雑誌が紹介している。それによれば、ツァーリは特にセルビアの人民に寄せる思いに触れ、それ
︵45︶
︵44︶
共通する単一のアルファベットと正字法がないのは残念であると、しかもドイツ語で語ったという詰もある。いずれに
ヴの大地にいることを見て嬉しいと歓迎の辞を述べたと記録している。さらに、同席した皇后はすべてのスラヴ民族に
について話すなど通り一遍の挨拶をしただけなのであるが、ポポフはツァーリがスラヴの兄弟たちが血の繋がったスラ
人的な感情などでは決してないと述べたことが目立つ。後は、ツァーリはパラツキーと﹁黄金のプラハ﹂の
︵46︶
モスクワの日々
せよ、ツァーリ一家がパリ万博へ旅立つ間際にわざわざ時間を割いてスラヴの客人をもてなしたこと自体は
であろう。
六
五月一六日、一行はようやくモスクワへ移動した。市を挙げての歓迎となり、市長シチュルバートフ︵A.A.屠pぎ.
︵47︶
〇B︶が﹁パンと塩﹂の出迎えをした。最初に下車したのはパラツキーとゴゴヴアーツキーの二人であり、駅周辺を五〇
00人の群集が取り巻いた。
︵48︶
駅頭でポゴーゾンが挨拶し、ロシアはモスクワから成長した。そのモスクワでスラヴはひとつの考えが生まれ、それ
はしっかりと成長したと述べた。さらに、モスクワ大学学長バールシェフ︵c.〓.∽apEeB︶は我々の精神的な結びつき
結びつきを図り、共通の事業のために友好的で気持ちを合わせた行動を取ろうと﹁科学﹂を振回して呼びかけた。その
は科学にとり有用であり、それは共通したスラヴの事業にとっても有益であると述べ、血、種族、精神、そして科学の
︵49︶
後に、イヴァン・アクサーコフが立って、こうした集まりがもてたことを率直に喜びたい。キレーエフスキー︹兄弟︺、
70(4・101)883
論 説
ホミャコーフ、コンスタンテン・アクサーコフたち︹初期スラヴ派︺の願いがようやくここ宜実現したのだ。彼らこそ
がスラヴの真理と真実を証明した。ロシアの詩人︹チエッチェフ︺の言葉を借りれば、これは全スラヴ性
︵BCeC岳莞TBO︶の最初の祝日だと高まる気持ちを抑えつつ述べた。彼らによれば、スラヴ世界の盟主を自認するモス
挙すると、自然科学愛好者協会、宗教教育愛好者協会、自然実験者協会、数学会、物理医療学会、ロシア医師会、ロシ
一遍の挨拶の数々を逐一示す必要は認められない。ただ、登場した団体名︵的確な訳からは遠いものがあろうが︶を列
大学のレセプションでは学術団体からの挨拶が次々と行われた。その内容をポポフは辛抱儀く記録しているが、通り
えば、ロシアの﹁大改革﹂期に﹁科学と文化の時代﹂という規定を適用しょうとする理由のひとつでもある。
らない︵筆者は旧来の研究が全体にこの側面にあま㌢関心を払ってこなかった印象を抱いている︶。これはより広く言
V粗爪
﹁科学﹂が汎スラヴ主義の発展のためにこのように活用されたことはこの時代の一大特徴として明記されなくてはな
c旨Ba︶ である。これこそ最強の統一だ。
︵52︶
る。我々はそうした科学的結合を促進するために、ロシア語をますます利用しょう。つまり、言語の統一︵e竃C↓B。
をさらに相互に引き付け合わせる。より高度な精神的関心のために、科学はあらゆる地方的生活的な特殊性を忘却させ
する関心は我々の時代にますます強くなった。科学は血が通った親類の感情を解明し、そうすることで同一種族者たち
なくてはならない。そうでなくても同じ母を持つからすでに我々は相互に引き付けられている。ナロードナスチにたい
団体の愛国的思想について触れたあと、次のように挨拶した−科学は相互の関係をむすぶ。それは同一種族を結合し
翌一七日、一行はクレムリンを見学し、一八日にはモスクワ大学を訪問した。そこで改めて学長バールシェフは主催
︵51︶
人にも全スラヴ人にももたらすことを知っている、とホスト側をくすぐるような話をした。
リーグルは、モスラヮはスラヴのイデア、スラヴの友情、全スラヴ的な相互関係、これらの進展が偉大な将来をロシア
クワの街ではスラヴとスラヴ‖ロシアは一族であることがことのほか認識されなくてはならなかった。返礼に立った
︵50︶
70(4・102)884
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
ア園芸愛好者協会、動植物気候順応協会、商業知識愛好者協会、法学会、ロシア古代史学会、古口シア芸術協会、考古
学会、ロシア文学愛好者協会、芸術愛好者協会、ロシア音楽会、農学会の計一八である。これら学会関係者の話に関連
べてのスラヴ人が科学においてひとつに統一されるという思想である、と語った。ここにはスラヴ世界に共通する科学
して、ゴロヴアーツキーは、このように様々な専門性があるにも拘らず、彼らは一つの焦点で結ばれている。それはす
︵54︶
という考えが出ている。この話を引き取って、パラツキーは苦から﹁スラヴ科学﹂の実現ために努力した人たちについ
︵55︶
て触れた。ポリトは、モスクワにこだわり、それは単にルーシの母ではなく、セルビアにとっても母である。モスクワ
は全スラヴの母だ。モスクワはスラヴ世界の中核だ。さらに、科学は国家生活という条件下でのみ繁栄できる。偉大な
セルビア国家はそのために、全スラヴの教育のために成長する。この希望において、私はスラヴとロシアとの兄弟に挨
︵56︶ 拶する、と述べた。
大学ホールで二〇〇人ほどの大会食になった。そこで、シチュロフスキー教授は、全スラヴ的科学の成功のために、
東・西・南のスラヴ人の間に密接なつながりが必要である。そうした科学的接近は、疑いもなく、あれこれの科学の主
学博物館﹂構想や﹁スラヴ時評︵c岳B曽CKOeOぎupeH軋﹂刊行計画にも触れた。著名な医師であったガメルニク博士は
要な活動家たちの間で個人的で友好的な対話によって果たされるであろうと述べた。さらに、同教授は﹁ロシア民族誌
︵57︶
てきている、と指摘した。聖職者イヴァンツォフ‖プラトーノフはスラヴの統一、スラヴ科学、スラヴの将来の自律的
専門分野ごとにスラヴ大会を開催しょう。スラヴのいろいろの国では、友好的自覚、スラヴ科学、スラヴ教育が拡充し
︵58︶
︵59︶
発展という三大課題に触れた。このように、場所柄もあってモスクワ大学での集いでは﹁科学﹂を中心とする発言が相
︵A.A.吉a穿OB︶は、スラヴ関係講座は人民の問における新しい﹁教育的なスチ
次いだのである。二〇日にはロシア文学愛好者協会の集まりがやはり大学で開かれたが、そこでモスクワ大学教授でス
ラヴ慈善委員会会員であるマーイコフ
︵60︶ ヒーヤ ︵○曾auOBaTe旨Ha追C↓宗邑﹂として﹁スラヴ科学︵c岳B当C琵治Hay邑﹂を普及しなくはならないと語った。この場
70(4・103)885
説
論
合、﹁スチヒーヤ﹂を敢えて訳せば、不可抗力とでもいったものであろう。
︵ロOrOpOB︶
︵61︶
︵この人は医学博士だが、地理教科書をブルガリア語で書い
﹁科学﹂論とともに流行したのは﹁言語﹂論であり、スラヴ共通言語としてのロシア語論であった。右のモスクワ大
学集会でトルコから来たブルガリア人ボゴロフ
記b︻六︶﹂を維持しうる、その他の言語は個別言語︵○↓焉旨Hb−e
にすぎない。スラヴには﹁共通の標準語︵○ぎa笥﹄∃epa↓ypa︶﹂があるべきで、それにはロシア語しかないと
ている︶は、ロシア語だけが﹁祖先の言葉︵コPa旨宅BC已姦
詮blK已
語った。ポゴージンは﹁言語秩序︵記b︼KOBO節コOP責○已﹂という命題のもとに、大会の全期間を通してスラヴが単〓亭語
スラヴ種族にとり同じ文字
︵62︶
とアルファベットを採用するよう主張した。たとえば、五月二七日、彼はこう述べた −
︵アズプーカ︶をもつ一つの言語が必要である。中世ヨーロッパの諸関係にとりラテン語が有した意味合いを今はフラ
︵63︶
ンス語が持っているのである。すべてのヨーロッパ諸民族のなかでロシア人にとり自然な一番の友はスラヴ人である。
このことはスラヴ人側にも同様にいえるであろう。われわれはあなた方から愛以外何も求めようとはしないのである。
彼らのほかにも何人かが全スラヴ共通語構想に賛同した。
−
リーゲルは大学での会食の折、スラヴ統一は精神的調和における
しかし、こうしたロシア語優位論に対して反論が加えられたことも確かである。セルビア公国出身のウィーン大学生
であるゲオルギエヴィチ︵﹁eOp⊇eB邑は述べた
ものでなくてはならないと言明したが、その調和はまったく様々でなくてはならない。ロシア語を共通の書き言葉にし
たとしても実際的な効用は何ももたらされないであろうと私には思われる。スラヴ人に共通な、それも厳しく科学的な
言語が必要であるという者もいるが、そもそも科学には民族性︵ナロー下ナスチ︶などはなく︹したがって、﹁スラヴ
科学﹂などはナンセンスである︺、それは民族間の差異を超えて普遍的である。歴史的に見ても、共通言語としてのラ
テン語から解放されることによって科学はむしろ発展しえたのではないのか。すべてのスラヴ民族は出来るだけ多くの
70(4・104)886
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
スラヴ語︵Hape貞e︶
︵64︶
を学ぶことが肝要であろう
︵65︶
件のパラツキーは、全スラヴ共通語は役に立たない、それは夢物語に過ぎないと一蹴した。同僚のリーゲルは敢えて
ポーランド問題を持ち出し、ポーランド人はロシア人とは言語、歴史において異なる西スラヴ族のひとつとして彼ら自
︵66︶
身の民族的存在に対し権利があると述べた。彼はスラヴ相互間に支援の必要を認めたが、そのために身も心もー緒にす
︵67︶ るような政治的文化的統一の必要性をはっきりと否定した。
すでに触れたように、スラヴの客の多くはロシアが﹁東方問題﹂ないし﹁バルカン問題﹂の解決に何らかの具体的な
︵c巨岩HC≡鼓POCC毒︶﹂はたとえひとつたりともスラヴ種族を敵に回すことはできない。それは
︵68︶
貢献をすることを求めていたと思われる。つまり、ロシアにスラヴ解放を支援する役割を求めていた。たとえば、ポリ
トは、﹁スラヴ・ロシア
﹁東方問題﹂
−
我がスラヴは東方
︵BOC↓○只︶
との絶えざる
の決着である。この間題の発端はセルビアとセルビア人にあると述べた。あるい
︵69︶
すべてのスラヴ種族を抱擁するが、絞め殺してはならない。﹁スラヴ・ロシア﹂はスラヴ問題を解決しなくてはならな
い。そのための第一歩が
は、リーゲルはロシアを先頭にした精神活動に触れながらこう挨拶した
闘争のために、︹西欧に対し︺後塵を拝してきた。しかし、今やスラヴは﹁教育の時代﹂になった。スラヴ人たちは喜
びを持って、我々は数的だけではなく精神と教育においても﹁偉大な民族︵〓apObBe岳登巴﹂であるということが出来
︵70︶
る。しかし、このためには強化された精神活動が求められ、ロシアがそれに第一番の役割を果たさなければならない。
ロシアは攻勢的に闘争することを求められており、南スラヴを解放する義務を負っている。ロシアに栄光あれ。
もっとも、こうしたことは彼らにとり一般論であり、総論であった。具体的な各論に立ち入れば、それほど単純な話
では済まないことは明らかであった。右に見たような﹁科学﹂論は許容されたとしても、﹁言語﹂論は到底、認められ
ないのであった。イタリアはすでに統一し、ドイツも統一しっつある。我々も強固に相互関係を固めなくてはならない。
しかし、歴史は繰り返さない。我々の統一は別の道を通って達成されるであろう。全ス.ラヴをひとつの巨大なものにす
70(4・105)887
論 説
e≧昌eHも﹂だけはできるかもしれない。政治の世界では統一︵e竜HC↓BO︶
ではなく、共感
るという考え方があるが、これはいただけない。現実の条件を考え、実現可能なことをしなくてはならない。我々にと
り﹁精神的な統一︵壱営BHOe
︵cO‘y買↓宴e︶が求められている。それを足場にして強固な同盟をつくろう。肉体の兄弟は精神の兄弟になり、肉体と精
︵71︶
神共に兄弟は互いに助け合うようになる、といった議論は見過ごせないのであり、帝政ロシアとの関わりはあくまで精
神論に止まるというのが、そフヴの客人たち大方の考えであったと思われる。オーストリア‖ハンガリーやトルコに
ょって抑圧的生活を強いられているかれらスラヴの面々がそれらに代わってロシアから同様な仕打ちを加えられること
はますますもって望むべくもない話であった。
スラヴの客はモスクワ滞在中にザゴルスク見学に行き、市内でコンサートを楽しんだりしたが、五月二八日までに全
︵無料入場者を加えれば、九万を超えるであろうといわれた︶。四万三〇〇〇ルーブリ余りを売上げ、四六
︵72︶
貞がモスクワを離れ、その多くが今一度ペテルブルグヘ立ち寄った。肝心の博覧会の方は閉会までに入場者数八万余り
を 記 録 した
︵73︶
00ルーブリの黒字を出したとされるから、興行的には成功の部類に入るのであろう。ロシア社会に民族誌学的知識が
ム﹁回の企画は科学的見地から見て重要である。相互に知り合うこと、とくに科学分野におい
を収録している。
普及することはロシア帝国を﹁国民国家化﹂するのに幾許かの貢献をしたはずであるが、ここではこの方面の話に立ち
入 る こ とは差し控えたい。
−
ポポフはスラヴの客人たちがペテルブルグから全ロシアに向けて発した別れの言葉︵六月二日付︶
それは次のように言う
て成功を図ることは大切である。この度、我々はルーシを知り、その人びと、人民と近づきになった。我々は純粋にス
ラヴ的なナロードを知った。ロシアのナロードは数的に多いだけでなく、教育の程度においても秀でている。今後はス
ラヴ
70(4・106)888
ー八六七年スラヴ人会議について(高田)
には毛ほどの政治的目論見もない。これは他の民族を脅かすようなことはないのである。︹それが求めるものは︺﹁自由、
ない。他には何よりも愛と寛容で対応するであろう。
人間性、教育︵cBOぎ挙宛らOBe貞OC↓b﹀コPOC胃EeHも﹂である。他の民族について、スラグ人はそれを定めようとは思わ
︵74︶
− スラヴ人会議ではお客たちは自由で尊敬さ
この穏健で非政治的な声明がようやくロシアを知る機会に恵まれたことを何よりも率直に述べるのは印象的であろう。
これに対してロシア側からラマンスキーが次のようなコメントを加えた
れるべきパートナーとしてヨーロッパ文明に参加する彼らの権利を認めるよう主張し、ロシアの汎スラヴ主義者は西欧
︵75︶
から自らを切り離すことによってのみスラヴ民族は自由と尊厳をうることが出来ると主張したのである。ここにはロシ
アの汎スラヴ主義者としての真骨頂が発揮されているであろう。
ニキーテンは最終局面で会議組織委貞会が開催されたとしてその参加者名を列挙している。つまり、 ロシア側はポ
ゴージン、アクサーコフ、カトコフ、ポポフたちであり、スラヴ側はパラツキー、リーグル、ゴロヴアーツキー、ス
ポーチチ、ポリトたちである。徹らはこのスラヴ人会議で中心的な役割を果たした人たちである。ここで保守派ジャー
ナリズムの重鎮カトコフ ︵芦コ.Ka↓KOB︶などは全スラヴ的組織︵﹁全スラヴな梁受け︹Bcec岳B曽C琵迫Ma↓貞a︺﹂︶創設を
︵76︶
主張したが、これにはチェコやセルビア側が賛成しなかった。そこで今後のあり方が次のように定められた。少なくも
C賢頁eH邑を議論する。これら
で予め検討する。全スラヴ人会議の開催は八月とする。
二年に一回は開催し、スラヴ人たちの科学、文学、芸術、道徳的な接近︵HpaBC↓BeHHOe
総括と評価
︵77︶ の問題などはスラヴ地方大会 ︵MeCmb︻pC琵邑
七
全ロシア民族誌学博覧会とスラヴ人会議に対して、各方面から多大な関心が寄せられた。小論の最後にそのいくつか
70(4・107)889
論 説
に触れてみたい。﹃オデッサ報知
︵○焉CCK完Be宅MOC↓已﹄紙編集者ソカリスキーは次のようにコメントした
ー
ドイツ、
イタリアが統一したが、スラヴだけが取り残されている。スラヴの動きに対し障害となっているのはドイツ種族、より
正確にはドイツの政策︹汎ゲルマン主義︺である。さらに的確にいえば、スラヴ族間の接近にたいする敵対勢力は、全
ヨーロッパである。それは均衡政策にこだわっており、全ヨーロッパがスラヴ人の精神的な統一に反対して同盟してい
る。︹にもかかわらず︺今回の会議ではあらゆる政治的意義は奪われ、ただ科学の名のもとに八〇〇〇万の︹ロシア帝
に立ち向かうことにこの会議の成功を辛うじて見出すのである。私はヨーロッパの政治的再
国内外スラヴ人の︺精神的交流だけが言われたのである。私は西スラヴ族が自治を志向し独立することに、さらには強
力 な ロ シアが﹁東方問題﹂
編は望まないし、ある民族のために他の民族を犠牲にする抑圧も望まない。望むことはただ今のロシア︹のみ︺が享受
︵78︶
しているような民族的発展の可能性、自由、権利を我が︹スラヴの︺兄弟たちも享受することである。これはスラヴ諸
民族の独立・自立のためにロシアに力を貸すことだけを求めるロシア‖スラヴ協力論である。一八六〇年代帝政ロシア
はロシア地理学協会を代表してこ
そうではないだろう。国家の力、知的な優位性、
︵K.〓.評c↓y莞B・P季書盲︶
でこうした議論があったとと自体が注目に値しょうが、そのためにオデッサという土地柄がどの程度、作用したか、筆
者 に は にわかには計り難い問題 で あ る 。
ペテルブルグ大学教授のベストウージェフ‖リユーミン
の 企 画 に熱心に参加したひとり
シアはオーストリアやトルコのように種種雑多な国家であるのか∼
それ自体の大集団性、こうしたことが他を抜く一つの種族がロシアである。それは全ロシアを統一するという課題を
︵79︶
負っている。さらに、将来的にはスラヴ世界全体を統一するというより高度な課題に取り組まなくてはならない。彼は
このように﹁ロシア﹂なるものを少なくともスラヴ世界にまで拡張することを言って慣らない帝国主義者であった。彼
にとり、スラヴ人会議はそうした宣伝のためにあった。
70(4・108)890
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
イヴァン・アクサーコフは彼の
﹃モスクワ﹄紙
︵一八大七年七月一日付︶
にこの会議によってスラヴ問題がロシア公
衆の気持ちと意識七に入り込んだ。それは抽象性から生々しい現実となり、本の領域から生命のそれへと移った。.スラ
︵80︶
ヴの利害はロシア人一人ひとりの身近なそれになった、と書いた。全体として、イヴァンはようやくロシア社会はスラ
ヴ問題を意識し始めたと総括したのである。それほど、近代ロシアにとって﹁スラヴ﹂は遠い所にあった。二﹂のことは
﹃モスクワ報知﹄
にこう書いた−1−この会議は単なるエンタテイメントではなかった。
その道り濫見なくてはならないであろう。ロシアとスラヴはそれほど容易に重なる訳ではなかったのである。
カトコフはその年の内に彼の
家族的な再結合の暖かさを確かめ合った。スラヴ統一の考えはついに暗い闇からその姿を現し、汎スラヴ主義は何も危
︵81︶
険なことを隠してはいないことを今やロシアは理解したのだ。それは何にも増して望ましく博愛的であるということを。
少なくともこの限りで言ゝスば、カトコフもロシアの公衆にとりスラヴ問題が初めて身近なものになったと認識tた。
で結ばれている、スラヴ世界の精神的活動を統
ペテルブルグでリベラルと評されることが多かった﹃声︵﹁○﹄OC︶﹄紙は汎スラヴ性を議論した。汎スラヴ主義には①
政治的統一︵一国か連邦制か︶、②文学的統一︵全スラヴ言語︵単数︺
の三タイプがあるとした上で、スラヴ人会議は②を選ん
﹃声﹄
はロシア外部でならば、政治的
︵因みに、カ斗コフの﹃モスクワ報知﹄も政治的汎スラヴ主義である①は不可能であるとみていた。彼は非ロシア的
一︶、③精神的統一︵汎スラヴ主義を精神的な共通性とする︶
だ
要素をロシアが取り込むことには不都合があると考えていた︶。しかし、同時に
︵82︶
汎スラヴ主義は可能であるとみた。つまり、この﹁リベラル﹂紙は、他方で中央アジア侵略を肯定したように、ここで
も殊のほかに拡張主義的であったのである。
ロシア帝国の中でもスラヴ人会議の政治性を指摘する声は聞かれた。ポポフはその事例としてウクライナのリヴオフ
という嘘をついていると手厳しく指弾した。このポー
で出されていた﹃ポーランド新聞︵DziennikPO−Ski︶﹄を取り上げている。それはこの会議の﹁純粋に政治的な目的﹂
を指摘した。それも﹁ロシアの保護のもとでのスラヴ族の連帯﹂
70(4・109)891
論 説
︵83︶
ランド人たちはトルコ系スラヴ人でさえロシアに従おうとしていないではないかと鋭く追及したのである。
これらロシア帝国内の議論に比べて、すでに触れたように、外の非スラヴ・ヨーロッパ圏では今回の企画について最
A〓gemeine
Neitung︶﹄の記事を参照しよう。この新聞は会議開催中に、この企
初から一致して政治的とみて神経を高ぶらせていた。それらの中からひとつだけ、ポポフが収録したプロイセンの﹃北
ドイツ公共新聞︵NOrdde亡tSChe
純粋に科学的な性格を有するといわれながら、ロシアの民族感情はロシアの地にすべてのスラヴ族の代表を初めて集め
︵鋸︶
たことに満足している。パラツキーとリーグルたちの発言から明らかなように、ロシアの外に住むスラヴ人たちはロシ
ー
モスタワ会議︹スラヴ人会議を指す︺が政治目的を持たないこと、そしてドイツが特にスラヴ主義運
アにその唯一打支柱を見出しているのである、と述べていたが、会議が終了するとそれは次のように﹁総括的な﹂コメ
ン ト を 出した
動を強化するために引き合いに出されることはないこと、これらは全く信じがたいのである。たしかに、汎スラヴ主義
運動はそうした形では不可能であるかもしれない。スラヴ人たちは相互の精神的な帰属性の感情においても自己の民族
性の旗を高く掲げ、民族的基盤においてスラヴ文化をさらに発展させようとしているが、このこと自体には他の民族に
たいする如何なる脅威烏合まれてはいないであろう。しかしながら、ドイツ文化が普遍的であり、真のドイツ民族精神
の発展が必要であると論じるドイツ人の側からすれば、他の民族のところから始まった民族的感情の波動は眉己にとり
危険なものとして映るであろう。あらゆる民族のところで民族生活が発展すればするほど、それぞれの愛国者はその民
族の統一や外側からの危険性に対する防御手段を考えざるを得ない。あらゆる方策を使って統一や防御を促進すること
︵85︶
が目指されるであろう。これは汎ゲルマン主義側が汎スラヴ主義にたいして抱いた感想であり、ドイツ人たちがロシア
とスラヴの動きに対して漠とした脅威を感じていることを表明したものである。ドイツ側がする典型的なスラヴ脅威論
以外の何ものでもなく、将来のヨーロッパはスラヴとゲルマンに二分されることになるのだろうかと
は、いわゆる﹁民族原理﹂を行使してロシアは全スラヴの統一を煽動しようとしている。それはモスクワの野蛮主義
︵バーバリズム︶
70(4・110)892
︵86︶
翌夏八年五月、プラハでスラヴ人の秘密会議が開催された。この存在を明るみに出した功績はソヴイエトの歴史 家ニキーテンに属する。彼によれば、それにはラマンスキーなどスラグ慈善委貞会代表団が参加した︵ア子コフは
ろう。
会︵MeC↓Hb喜eヨ︶の必要性は認められ㌘れはロシア汎スラグ主義の第二の敗北を意味したが、スラグ人会議
いであろう。
ざ蚤要望○夏じ畳ypress壷が優れており、ロシア側で
の開催はロシア賢ラヴ葦委塁が本格的な汎スラグ組織として変容するための契機を提供したとみなくてはならな
賢雪雲Y・謹また、ロシア汎スラヴ主義に関しては、依然として、M・冨皇ぎざ豊ぎ
P。CC芸∞亭○豊−票関連して是非と嘉されるべきである。これ
〇二年、完九、二四二、二四五頁。
また、スラグ主義という用語は元来、スラグの文学に対する愛を示し、スラグ人や
邑昏雪ni喜OfNO−r2Dam2Pr2S︰誓﹂の分野の寧の仕事として挙ることが出来ないであろう。汎スラヴ 主義に関する研究史においては概してこれらかなり以前の業蹟が今でも目立つであ
の汎スラヴ主義はカトリックのスラグ人との結合・は考えない︶、それ故に国内には汎スラグ主義のための土壌は存菅なかった。
︵5︶H・コ○コ○ぎ書芸
たという事情もあろう。これらの議論の詳細は次を参照せよ。マサリク︵石川達夫訳︶﹃ロシアとヨーロッパⅠ﹄成文社、二〇
︵2︶その幾つかの理由に触れれば、ロシアにいるスラヴ民族が事実←、ポーランド人であ⋮れとの関係は特殊であ芸シア
スラグ世界そのものへの愛を示すもの薫っ
︵3︶ M・B・P2trOまchも.cヂ苧芦
︵4︶ポゴージンについては、さしあたり次ぎを参照。H・KOhn去c言書芸
aB書ぎ琶e裏革21墓c葺享∞ぎb圭−∞宣八五六年か
70(4・111)893
ら以外に、H・KOhn套ぎ芸ぎ
は、c・A妻⋮a宰六書Te↓b−切
︵1︶この節に関する参考文献としては、次を挙げるに留める。この時期全般については、R・C・空音衰星昏諷
不参加であった︶。そこで、ロシア側は全スラヴ的組織創設を提案したが、中央委員会的富のは拒否され、地方委貞
いったものであったろう。
ー八六七年スラグ人会議について(高田)
ら六七年を扱う際の基本資料と
ner恵ye皇。nStan−in旦e膏−芝草嘗害葛竿望pr・壷琴≡On。u盲
ヴァン・7クサ与の関係を過度に強調する立場にあり、そうするナ支ラヴ派の﹁ブルジョア的反動性﹂を指摘できると
人物が就任養この時期、=最も活動的であったのは、イブナチエフ︵H・コ・冨eB︶であろう。彼については、B・H・S与
︵6︶を慈善委員会の創設過程は次が詳しい。c・H雪盲毒e富邑aB琶KOM邑○コpOCbl喜室
嘗邑喜青首芸蟄芸毒盲biaU喜y雪盲・アジア局長には代々、特徴的な
つかしい。 C ・ A ・ エ 弓 き y 膏 C 〇 ヂ 二 三 N 毎 N ご ー ・
嵩∞﹀gよ∽・
膏irsO旨n−言a−y2盲Q聖㌻挙蔓琴芝どを参照。 ︵8︶H.妄a2モA蔓○富H芸H亘pMeHHO書事−悪・この著者の議論は資本家とスラヴ派︵イ
︵7︶この時期の外誓アジア局の藍要については、次の博士論文でとりあえず知ることができる。G・B・Ri−chie︸誉叫註c
70(4・112)894
︵9︶﹁文徹的汎スラヴ主義﹂とした用語は、例えば、次で採用養いる。B・H・嘗r盲言dPans−a旨inthe
て茸イデア警中心としたためであろうか、評伝部分は物足りない︵あるいはその理撃の関係が必ずしも明らかではな
Eighteen誓−i2S盲賢ミ蔓毒註S蔓毒es去−豊C・A・H弓喜・CO睾警Nべ・
派四人について四冊の本を出した。その努力と力量を認めることに書かではないが、それぞれ評伝篇と理論篇の二部構成を採用し
私は知識に対する関心竜がこの時期のロシア社会において特に誓になったことに格段の配慮をすべきとする立場にある。そ
︵≡ヴァンは、国際関係においてオーストリア、ト∼コなどロシアの敵対勢力は相互に関係しており、従って、﹁スラヴ問題
い︶婁免れえない。Pe−畏Cris−Off盲吉富旨・蚕§琶喜家註竜sミ蔓註亨﹀
press忘00N︶忘㌢F・Sama阜Wes−爵wPress盲−︶・
作集第一巻に相当する。以下、cO毒芸C・A宍a毒と表記する︺
はひとつである与る立場をとった。冨eきC・A蔓C岳B蔓草筆雲睾声︹これはアクサーコフ著
A.S.富kO看−On買至⋮⋮→ee垂MOu−On買−学芸S・AksakO書cetOロUni蔓
︵11︶この部分のホミャコーフとサマーリンについては、差し当たり、次のフリストフを参照。知られるように、彼は一人でスラヴ ︵10︶c.A・H宗⋮H盲au・COヂ忘意︸芦
考えるのであろう。 こ れ は 過 去 の ソ ヴ ィ エ ト 史 学 に 特 徴 的 な 視 角 で あ る 。
うした事情がスラヴ派にたいし
論 説
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
︵13︶
StephenLukashe5.Ch﹀旨§ゝ訂乳Qeh斡†h詮斡≡訂き叫吉和§叫§賢慮首叫§軋官∼叫≠叫声HarくardUni詔rSityPres
−N∽−︻NP
︵14︶一八六七年三月二八日付の﹃モスクワ﹄紙で、イヴァンは近づいたスラヴ人会議に出席するスラヴ人たちの訪露に関して、そ
彼は明らかにこの企画が帯びた政治性を認識しており、彼はこれを社会運動と見
れは純粋に科学的な事業であるが、それ自体が自ずから政治的意味合いを帯びることになったとしても我々は責を負うべき立場に
はないと述べた。cO童eH完芦C.AKCa喜a﹂芦
なしていたと考えなくてはならない。
旨叫軋J↓A.
︵15︶ StephenLukasheまch︶尽.c叫㌻N∽.
︵16︶
マサリク、前掲書、一八七、一九〇、二〇二貢。
︵17︶ 恕叫㌣−NA.
︵18︶
︵19︶StephenLukashe5.Ch−亀.c叫㌻−N↓L︺−.
︵20︶ cO貞HeH苓二声C.AKCaKOBa㌧誓−サ
︵21︶ マサリク、前掲書、二三一、二三三貢。なお、汎スラヴ主義を二分する論点を早い段階で明示したもののひとつに次がある。
A・H・コbヨきコaHC岳望BコP2岳き==牒30岩2M∴PM・=∞詔琶・r2pri阜W筈2burg﹂讐箪⊆∽⋮旨
︵望 ﹁科学虻文化の時代﹂という規定に関しては、高田和夫﹃近代ロシア社会史研究﹄山川出版社、近刊予定、とくに第二章を参
照してほしい。
︵23︶ M.B.PetrOまchこ尽.c叫㌻−遥.
︵24︶ c岳BヨCK島M卓U↓HOrpa官完C只Pコ一躍ECTaB打a−∞笥﹁○挙CコヂN宍戸
︵空 イヴァンは簡単ではあるが、博覧会の準備に触れている。それによれば、最初は厳密に人類学的なものを構想したが、それが
民族誌学に広がり、一八六五年末にはポポフの提案でスラヴ部門を加えることになった。c3≡eH喜草C・A宍aKOBa﹂−リ
︵26︶ c.A.H買∃毒﹀y琵u.COデー芸.
BcepOCC善臣泊U↓HOrPa曾完崇蛮BblC↓aBKa=C岳岳彗完熟C諾ぃbBMae−篭ごOba声−∞芦∞A.これはスラヴ人会議関係で唯一といっ
︵27︶ ↓aM挙川﹂N∞.
︵讐
てよい基本文書であり、本文で触れたポポフにより編集された。以下、BcepOCC蔓宗呂U↓HOrpa官焉崇蜜Bb︼C↓aBKaと略記する。
︵29︶ cO≦HeH吉こ声C.A宍aKOBa∵−金一
︵30︶ BcepOCC島c歪治U↓HOrpa曾薦CK呂Bb︻C↓aB計器・
70(4・113)895
論 説
)
ヽ J
)
ヽ、_′
)
)
/一、
(
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′ ̄、
参加者リストは、BcepOCC昏只告U↓HOrpa官‘eC喜Bb︼C↓aBき2≡旨
M●B.P敦r05.Ch−尽.c叫㌻NO∽、N−P
BcepOCCH浮歪道営HOrpa官宛C只員Bb︻C↓a冥a﹂巴﹂雪.
↓aM宍e∴㌫∴岩∵遥r芸.
↓aM※eY−憲.
チユツチェフはスラヴ人会議開催中の五月三日、サマーリン宛ての書簡で、すべては彼ら︹スラヴの客人たち︺がロシアと
70(4・114)896
︵37︶ BcepOCC賢Ka迫U↓HOrpa宮元C只覧Bb−C↓a冥a、NO?N声
︵38︶ ↓aM莞﹀NO甲
︵39︶ ↓aM莞、NO?N−−.
︵40︶ ↓aM莞﹀N∽u.
︵41︶ ↓aM莞﹀N−TN−∽.
○眉至弓OpさM≡C↓epC↓琵喜CTpaHHb−≡eSPOCC宣二.い妄.−N害∽﹂−ごc声
︵望 M.B.PetrO寸ich−阜cデN−N﹀N−∽.
︵43︶
︵44︶ C岳莞K完rOC↓=ypyCC苔﹁○︻忘う旦Pycc象Ap喜﹂00∞∽−≧こ﹁や岩.
M.B一PetrO≦.Ch−阜cぎN挙
︵彗 BcepOCC象c琵治UTHOrPa官房C只EBb−C↓aB六a﹀N︺N.
︵46︶
︵47︶ BcepOCC〓浮六覧UTHOrpa官‘eC只琵Bb︼CTaBKa−N串
TaM挙用−N∽〇.
︵48︶ TaM萎川㍍怠.
︵49︶
↓aM挙川﹀N∽∽.
︵50︶ ↓aM莞−N巴・NひN.
︵51︶
︵52︶ ↓aM挙用︸N∽∞1N∽P
︵聖 イヴァン・アクサーコフはこの点に関連してスラヴ︹慈善︺委員会を科学に引き付けながらこう述べた
委員会はトルコに抑圧されているスラグ人たちに科学の言葉によって﹁精神的な飢え︵雲OBHb︼:羞︶﹂を癒し、教育する手段を
モスクワのスラヴ
◎・芦↓∃‘e≡コPOぎM巳罵∈He≡。≒⋮忘pC邑POCCき旨↓epa↓ypHOeHac曇CTBOニ﹂ミN−﹀M.L器∽−N声
の関係をどう思っているかだ。彼らがロシアと有機的に蒜であることを理解すれば、目的は達せられる、などと書く人でぁる。
36 35 34 33 32 31
一八六七年スラヴ人会議について(高田)
BcepOCC罠す盃5⋮ざHOrPa官房袋岳BblC↓aBきN賢
もたらす目的でつくられたのである。cO貞HeH≡︼〓.C.A宍a宕Ba∵石.
︵聖
︵55︶ TaM︶完−N∞P
︵56︶ ↓aM挙用−N∞P
︵58︶
↓aM宍e−︺○↓.
↓a三︰宍e﹀︺○∽.
︵57︶ ↓aM莞﹀NりN・N器.
︵59︶
︵60︶ ↓aM芳川㍍−P
︵61︶ 博覧会開催を意識して、﹃国民教育省雑誌﹄はスラグ世界にロシア語を普及しようという、特にチェコ雑誌の記事を紹介して
BcepOCC邑c臣追U↓HOrpa官‘eC只a治BblCTaB声N∞バ
イヴァン・アクサーコフもロシア語のスラヴ共通語化に熱心であったが、その
いる。B・きPacコpOC→PaH2H完pyCCKOrO記b−裏yUaコabHb︼舛C岳B塑∴宍ypHaら旨喜↓epC↓監〓apObHOrOコpOCBe蔦Hき喜Hb−∞票﹁.
︵62︶
際、彼はオーストリアのスラヴ諸民族の間でドイツ語が共通語化していることを併せて問題とした。cO貞He≡忘︼声C.A宍aKOBa∵忘−
腐心.
︵63︶ c.A.H冥∃きy宍aU.C声−N︺P
BcepOCC島cK監U∃Orpa官房C歪追BblCTaBき∽宗ム芦
↓aM宍e−N−−.
︵64︶
︵65︶
)
ヽ__/
)
)
)
)
ヽヽノ
)
↓a≡‖宍e∵N霊﹀∽諾.
↓a≡︰宍e﹀∽諾.
↓aM宍e−︺00∽.
↓aM宍e−会−.
↓aM宍e﹀缶や
↓aM宍e−芦P彗−.
↓aM宍e︸会Nム澄.
M.B.PetrO≦.Ch、亀.c叫㌻N︺A.
70(4・115)897
︵66︶ ↓aM宍e−︺畠・︺怠.
75 74 73 72 7170 69 68
︵67︶ ↓aM冥eL∞○﹀NON.
((((((((
論 説
((((((((((((
87 86 85 84 83 82 8180 79 78 77 76
)
)
)
)
)
ヽ、_一′
ヽ、_./
ヽ・、_′
ヽヽ.._′
)
)
)
C.A.〓宗弓≡﹀y琵Ur COヂN∽?N︺−.
BcepOCC象c歪追U↓HOrpa官房C琵迫Bb︼C↓aBききP
↓a≡︰宍e、缶N−たA.
↓aM宍eY缶?畠A.
CO貞HeH喜芦C.A宍aKOBa−−∽︻.
M.B.PetrOまch﹀亀.c叫㌣N︺†P
C.A一〓宗∃きy六aU.COヂ﹀NN†NNP
BcepOCC急告蜜∴¥HOrpa曾克C琵迫BblC↓aB只a﹂≡・
↓a㌢※e−N怠.
↓a≡︰宍e−会?会−.
↓aM※e﹀−○∞.
C.A∵H宍∃計﹀y琵u.COヂ﹀N︺∽〓C声
70(4・116)898
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