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「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考
「 村 井 誠 人 一 九 五 八 ―) に よ っ て そ の 一 年 前 に 同 誌 に 掲 載 さ れ Bo Lidegaard 」( 二 〇 〇 七 年 八 月 号 ) と 題 さ れ た 論 文 の 内 容 を Småstat い も の の、 三 頁 目 に ヒ ー ス の 原 野 に 立 つ ダ ル ガ ス の 肖 像 画 を 配 し、 もって始め、 そこでは具体的にその発言者をダルガスとは明記しな 問題視した。 リーゼゴーは本文をこのフレーズを最初に置くことを た「 小 国 ( 我が国におけるデンマーク紹介の常套句が固定的に使われることを考える 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 一 ( そ れ を 彼 は 言 わ な か っ た )」 の 見 出 し が、 Det sagde han ikke Samvirke キャプションに 「スリースヴィ戦争時の工兵士官。 ユトランド (ユ デ ン マ ー ク 最 大 発 行 部 数 を 誇 る 月 刊 誌『 サ ム ヴ ィ ア ケ (「 協 同 」 の 意 )』 の 二 〇 〇 八 年 十 月 号 の 一 〇 二 頁 に 掲 載 さ れ た こ と ) と 解 説 し た。 結 果 と し て 彼 が 文 頭 後 に 記 し た 「 一 s. 55 〝ヒ ー ス 開 墾 者〟 ダ ル ガ ス の 存 在 が〝常 識 的 に〟 デ ン マ ー ク 人 読 者 そ の 時 代 の 文 脈 を 表 現 す る も う 一 つ の も の 」( s. 52 )という文章に 八 六 七 年 以 来 の そ の 短 く て 簡 単 な 詩 は、 ど こ に 行 っ て も 耳 に 入 り、 と な る 」( ラン) のヒースの開墾のため一八六六年からヒース協会のリーダー )「外に失い s. 102 一 九 四 七 ―) で あ り、 デ ン マ ー ク に お い て 「学 校 の Kjeld Hansen に 注 目 す る。 そ の 筆 者 は 作 家・ ジ ャ ー ナ リ ス ト の ケ ル・ ハ ン セ ン ( そら Enrico Mylius 」 Hvad udad tabes, skal indad vindes 子 供 た ち が 何 世 代 に も わ た っ て 諳んじてきた」( し も の を、 内 に て 取 り 戻 さ ん の フ レ ー ズ を エ ン リ コ・ ミ ュ ー リ ウ ス・ ダ ル ガ ス( 雑誌編集者側の挿入文として、 リーゼゴーと、 彼が分担執筆してい に は 結 び 付 け ら れ て い く こ と に な る。 ハ ン セ ン の 手 記 の 最 後 に は、 る。 このフレーズが一八六四年の敗北ののち経済的に立ち上がって る二〇〇七年発行のサムヴィアケ社版『デンマーク史 一 八 二 八 ― 九 四 ) の も の と す る〝 常 識 〟 に 対 す る 反 論 で あ Dalgas いこうとするデンマークの復興を象徴的に語るものであることには グ ロ ー バ ル 化 ま で 九三 Danmarks historie ‒ fra gravhøj til globali- 墳墓から 異 論 を は さ む も の で は な い も の の、 ハ ン セ ン は 歴 史 家 リ ー ゼ ゴ ー 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 一九七 Rasmus Dahlberg 九四 しかし、 この問題は我が国にきわめて大きな影響を与える可能性 がある。 じつは、 筆者はケル・ハンセンのその指摘の二〇年以上前 ― 』 の 編 者 ラ ス ム ス・ ダ ル ベ ア( sering 七―) の両者がハンセンの指摘に従うことを受け入れ、 将来、 同書 に雑誌『歴史と地理』(山川出版社)三三九号で「『デンマルク国の ンマークのこの問題にかかわる報告をおこない、 一九八三年十一月 文化協会の月例会において 「デンマークとヨーロッパ」 と題してデ から、 この問題を同様に語っていた。 一九八一年四月二七日に北欧 )。 s. 103 が改訂される際、 リーゼゴーの章が書き改められることになると記 している( 実際、 その短い詩のフレーズはダルガスのものではなく、 一八七 二年の北欧産業芸術博覧会( 話』 と我が国のデンマーク像の変遷」 を論じ、 二〇〇一年デンマー Den Nordiske Industri og Kunstudstil- サイト掲載 web ) が コ ペ ン ハ ー ゲ ン で 開 か れ た 際、 記 念 メ ダ ル が ling i Kjøbenhavn Den danske helt i 1000 」 år 展の ク、 コリングフース城博物館の企画展 「デンマーク史一千年におけ る歴史的ヒーロー 発行され、 そのメダルの裏側の縁を囲むように首都周辺の工業化の 一八一一―九三) の H. P. Holst 論文、” Dalgas og Søn : Danske helte i Japan ” (「ダルガスと息子 掛け声ともいうべき作家ホルスト( 言 葉 が、「 い か な る 喪 失 も 再 び 代 償 は 得 ら れ、 外 に 失 わ れ し も の を、 日本におけるデンマークの英雄 」)を発表しており 『北 デ ン マ ー ク 独 特 の 〝 学 校 教 育 の 現 場 〟 に お い て、 第 二 次 ス リ ー ス 養人には知られていたことではあったが、 彼らとはいささか無縁の の 部 分 が そ れ で あ る。 そ の こ と 自 体 は 決 し て 〝秘 話〟 で も な く、 教 として、 我が国における内村鑑三 (一八六一―一九三〇) によるダ なく、 ホルストによるものであることを述べ、 そこから生じる問題 ものを、 内にて取り戻さん」 のフレーズがダルガスによるものでは 〇 四 年 ) に 全 文 再 録 、 そ れ ら の テ ー マ の な か で、「 外 に 失 い し ス = カ ン デ ィ ナ ヴ ィ ア 研 究 会、 二 〇 ヴィ戦争敗北後の 〝失われた領土〟 を、 戦わずして国内で補うかの ルガス紹介の特殊日本的な問題の所在を論じてきた。 また、 一九九 欧 史 研 究 』 第 二 一 号( バ ル ト For hvert et Tab igjen Erstatning findes ; Hvad 内にて取り戻さん 」 と 刻 印 さ れ、 そ の う ち の 後 半 udad tabtes, det maa indad vindes. ような目覚ましい復興を象徴するフレーズとして、 それは時間の経 六 年 に も、 一 般 読 者 を 対 象 と す る 百 瀬 宏・ 村 井 誠 人 監 修『( 読 ん で (1) 過とともに好んで用いられてきたのである。 そしてそれがダルガス 旅する)世界の歴史と文化 北欧』(新潮社、一九九六年)内の「祖 (2) 頁) でも、 明確にその点を論じており、 それらで言及したことが我 国 復 興 の 英 雄? ダ ル ガ ス の 実 像 と 日 本 で の 受 容 」( 六 九 ― 七 一 の口から出たフレーズとして語られていくことになる。 二 が国のデンマーク紹介者たちに大した影響を与えた形跡がなかっ た。 預言者イザヤの精神がありました」 と平和主義者ダルガスを紹介し て 薔 薇 花 咲 く 所 と な す を 得 べ し 』 と 」 語 ら し め、「 此 の 工 兵 士 官 に を得べし、 君等と余との生存中に我等はユットランドの 嚝野を化し 時に」「『然しながら我等は外に失ひし所のものを内に於いて取返す スに敗戦後直ちに 「彼の同僚が絶望に圧せられて其の故国に帰りし 世の事に就いてお話し」 した 〝聖書講話〟 を内村が行ない、 ダルガ 鎌 と な し 」( ミ カ 書 四 章 三 節 ) た「 信 仰 の 力 」 を 織 り な し て「 此 の ダルガスの伝記に 「其の剣を打かへて鋤となし、 其の槍を打かへて 一(明 治 四 四) 年 一 〇 月 二 二 日 に 東 京 柏 木 の 今 井 館 で〝実 在 し た〟 ク 国 の 話』 を 語 っ た の が 本 稿 に 関 わ る 問 題 の 始 ま り で あ る。 一 九 一 我 が 国 で は、 日 露 戦 争 に 非 戦 論 を 唱 え た 内 村 鑑 三 が、『 デ ン マ ル じつは、 むしろ、 そのことに意味がありそうである。 レーズを口にはできなかったであろう状況を確認しておきたい。 四年の敗戦直後にダルガスが平和主義的な意志の表明としてあのフ スコスホイの 『E・M・ダルガス』 等を参考にしながら、 一八六 を美文をもってなぞったばかりであった。 出 来 事 で も あ る。 御 園 は そ の 著 書 の 中 で は 内 村 鑑 三 の 〝 ダ ル ガ ス 〟 れていなかったことは、 我が国のデンマーク理解の道程に象徴的な を贈呈されたと記しながらも、 その内容がその著のどこにも反映さ 年 ) の 記 述 の 中 で、 ス コ ス ホ イ 自 ら に よ っ て 『 E・ M・ ダ ル ガ ス 』 え、 御 園 喜 博 が そ の 著『 デ ン マ ー ク 』( 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 七 〇 拠として、 ダルガスの実像を紹介してきたのである。 そしてそれゆ 我が国のデンマーク像の変遷」 の中で、 まさに同じように同書を根 ( 一 九 六 六 )の記述にあるのだが、筆者も「『デンマルク国の話』と 一 九 〇 三 ― 八 九 ) の 著 し た 伝 記『 E・ M・ ダ ル ガ ス ダルガスと息子 「フレデリック」 とのきわめて特徴的な 〝父子〟 に 職:一八六六―九四) になったことなどについて触れることはなく、 マーク語が語られている地域のデンマーク 「復帰」 の可能性を求め 争 ( 一 八 七 〇 ― 七 一 ) に 際 し て、 失 わ れ た ス リ ー ス ヴ ィ 内 の デ ン イツ統一を目指したプロイセンによるフランスを相手とする普仏戦 』 E. M. Dalgas ている。 そして、 内村はその 『デンマルク国の話』 の中で、 一言た 敗北後、 デンマーク政府を始め、 首都の人々の多くは、 戦勝国同 よ る ヒ ー ス 地 帯 で の モ ミ の 植 林 に 関 わ る 苦 労 話 で 終 始 し た。 で は て、「 参 戦 」 の 機 会 を 模 索 し た の で あ る。 デ ン マ ー ク に 立 憲 君 主 制 (4) り と も ダ ル ガ ス が 友 人 た ち と 一 八 六 六 年 に 組 織 し た「デ ン マ ー ク・ 士 が 争 う こ と に な る 普 墺 戦 争( 一 八 六 六 )、 オ ー ス ト リ ア を 退 け ド 〝実在した〟 ダルガスの実際の在り様はどうであろうか。 (一 八 四 八) と 自 由 主 義 憲 法(一 八 四 九) を も た ら し た 市 民 層 を 代 (3) 」 の存在、 自らがその会長 (在 Det danske Hedeselskab 上記ケル・ハンセンが記しているように、ダルガスがいかにその有 表 す る 政 党「ナ シ ョ ナ ル リ ベ ラ ル ヒース協会 名なフレーズに関係がないかという根拠は、一世代以上にわたって 家の指導的地位に就いていたが、 前者の戦争では、 海軍力に弱点の 九五 」が戦後も国 de Nationalliberale ヒース協会の機関誌の編集人であったスコスホイ( Harry Skodshøj 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 九六 ク を 紹 介 し て い る。 さ ら に、 ス コ ス ホ イ は ダ ル ガ ス が 一 八 七 〇 年 代 (6) あ る プ ロ イ セ ン に 加 勢 し、「 恩 を 売 る 」 こ と を も く ろ み、 後 者 の 戦 J. B. S. Estrup 「 ヒ ー ス 問 題 へ の 関 心 の ほ か に は、 国 防 問 題 に 大 き な 関 心 を も っ て )、 特 に 右 翼 党 の エ ス ト ロ プ( s. 192 争では北部スリースヴィのデンマーク復帰をほのめかすナポレオン い た 」 と 記 し( 一八二五―一九一三) 政権による国防政策に共感をもっていたとも 一 八 〇 八 ― 七 三) へ の 加 担 を も く ろ み、 外 交 交 Napoleon III 渉寸前まで歩を進めた。 どちらの戦争でも現実にはデンマークは動 記している( 三世( かず、 特に後者では予想以上に早く戦局が動き、 一八七〇年九月ナ また、 ケル・ハンセンは、 スコスホイの著作によって 「既に一九 ) とし、 自らの主張の補完として 『E・M・ダルガス』 内の s. 103 )。 s. 193-194 ポレオン三世自身がプロイセン軍に捕らえられるというセダン (ス ( 六六年にデンマークの景観に関わる二つの大きな神話が崩壊した」 (5) 一八四二―一九二七) が彼らを揶 Georg Brandes ダン) の戦いの報で、 デンマーク政府も首都の人々も落胆し、 同時 代人ブランデス( )。 ま さ に、 そ れ は「 セ ダ ン の 人 々」 の 感 覚 そ の も s. 82 国内の嘆きは一八六四年に我々自身が敗れた時よりも大きかったと 我 等 の 希 望 が 高 ま っ た が、 フ ラ ン ス の 大 敗 で そ の 希 望 は 再 び 沈 み、 の一八七〇年、 短時間であったが失われた領土を取り戻そうという 九 一 年 の ダ ル ガ ス の 発 言 を 次 の よ う に 紹 介 し て い る。「 普 仏 戦 争 時 範囲にもナショナルリベラルの国会議員もおり、 スコスホイは一八 した 「スカンディナヴィア学生運動」 から大きな影響を受け、 交友 風潮の中におり、 兵学校入学の前後にナショナルリベラルを中心と けた傷を癒しうるだろうという確信をダルガスに与えた、 とする意 国土をより大きくすることを可能とし、 幾分かでも敗戦によって受 ジョンとして、ユトランド(ユラン)のヒース原野が国内において ン マ ー ク の 屈 辱 に 対 す る ダ ル ガ ス の 大 い な る 苦 悩 が、 ひ と つ の ビ 登場させたのは一八六四年の敗戦と南ユトランドの喪失であり、 デ 「 さ ま ざ ま な ダ ル ガ ス に 関 す る 伝 記 の 中 で、 ダ ル ガ ス を 表 舞 台 に きわめて有効であるからここに引用しておこう。 二 つ の 神 話 に 引 導 を 渡 す も の と し て そ の ま ま 引 用 し た。 本 稿 で も、 しまうとき」と題した (7) 第三章の書き出しを、「(慣用的な)良き叙述が歴史家の頭を歪めて のである。 また、 その復讐心と国防の意欲にあふれた首都の雰囲気 見を私たちは目にする。 しかし、 そういったものは存在しない。 確 」 と呼んだ。 ダルガスもその時代 Sedanfolk は、 一八七三年四月にデンマークを訪れていた岩倉具視 (一八二五 認 で き る 限 り の 書 簡 に お い て も、 ま た そ う い っ た 主 題 を 意 図 的 に 揄 し て「 セ ダ ン の 人 々 ― 八 三 ) 率 い る 新 生 日 本 の 遣 欧 使 節 団 が 目 に す る も の で も あ っ た。 扱って表現された当時の彼の論説においても、 存在しないのである。 上 の 評 論の中でリーゼゴーの提起した web その際、 随行員久米邦武 (一八三九―一九三一) は、 我が国のデン いかに美しくかつ愛国的なものであろうと、 またいかに彼の心を動 思 う 」 と( マーク紹介の文章のなかではきわめて例外的な 〝好戦的〟 デンマー か し た で あ ろ う と し て 感 情 的 に ふ さ わ し い も の で あ っ た と し て も、 そういった考えを彼の存在のうえに重ね合わせるのは非論理的であ 三 彼 の 息 子 の う ち、 成 人 し た の は 三 人 で、 長 男 の ク レ ス チ ャ ン り、 全く別の意味でダルガスはユトランドのヒース地帯の改善がす でに大幅に進んでいたことを認識していた。 ご存じのように、 デン ( )。 ま E. M. Dalgas, s. 83 に至るまでは紛糾したものの二代目のヒース協会の会長となり、 フ であり、 クレスチャン (クリスチャン) は父エンリコの死後、 就任 一八七一―九九) Ernesto た、 当時、 仏・蘭・独およびスコットランド等、 全欧州的スケール レ ズ レ ク は コ ペ ン ハ ー ゲ ン に 出 て「 王 立 陶 器 工 場 」( 我 が 国 で は、 八六六―一九三四)、 五男のエアネスト( 一 八 六 二 ― 一 九 三 九 )、 三 男 の フ レ ズ レ ク( Frederik 一 Christian マークにおけるヒースの大規模な開墾作業は、 一八六四年以前に行 なわれていたことを思い起こしていただきたいし、 それは一八三五 でヒースの開墾が行なわれていて、 それが決してデンマーク固有の 「 ロ イ ヤ ル・ コ ペ ン ハ ー ゲ ン 」 と し て 知 ら れ る ) の 社 長 と な り、 エ 年 か ら 一 八 六 〇 年 の 間 の 時 期 で あ っ た 」( )。 そ れ ゆ え、 ヒ ー ス 地 帯 に 植 林 の s. 83 現 象 で は あ り え な か っ た( 0 アネストは作家となっている。 この 「ダルガス父子」 関係の記述に、 0 不可解な 特殊日本的 現象が現れる。 0 経 験 が あ る 司 法 官 モ ア ヴ ィ レ( Georg Morville 一八一七―一九〇 0 四) らと工兵士官・幹線道路敷設の専門家として職業柄ユトランド デンマークと日本人の関わりを論じた最近の雑誌記事、 松前紀男 0 の 地 質 を 熟 知 し た ダ ル ガ ス と が 一 八 六 六 年 に 組 織 し た「 デ ン マ ー 「デンマークに魅せられた日本人」(『 第 四 号、 デ ン マ ー ク 大 使 館、 二 〇 〇 八 年( 日 本 語 誌 )) を 見 て も、 』 Excellent DENMARK Loving ク・ヒース協会」 が、 平和主義の賜である必要はなかった。 幹線道 路敷設の管轄が陸軍を離れたとき、 ダルガスは 「軍籍」 を維持しな その書き出しは 「一八六四年、 デンマークはドイツ (正確にはプロ 0 が ら 北 部 ユ ト ラ ン ド の 道 路 敷 設 の 道 路 監 督 官 と な り( 一 八 五 九 )、 0 イセンとすべき(筆者))・オーストリアの二強国と戦って敗れ、南 0 ヒース協会でも会長となったものの 無給のまま であり、 給料はつね 部 の 肥 沃 な 二 州( 数 で 言 う な ら ば 三( 筆 者 )) を 割 譲 し た 為 に 国 力 0 に軍から支給され続け、 最終的には 「中佐」 まで昇格している。 彼 を失い、 国は悲境に陥りました。 その時、 エンリコ・ムリウス・ダ は、 農 民 た ち か ら「 大 尉 0 」と常に呼ばれ、その指導力・ Kapitainen ルガス (一八二八―一八九四) が、 植林によって荒野を肥沃な地に カピタイネン 行動力・知識をもって精力的に初代会長の職をその死まで務め、 そ 変え、 ニコライ・フレデリック・ゼベリン・グルントヴィー (一七 (8) 九七 八三―一八七二) は、 各地の農村にフォルケホイスコーレ (国民高 の意欲的な激務が彼の健康を蝕み、 六五 歳 で世を去っている。 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 うとしている内村の 〝ダルガス像〟 を再現しようとするものである。 記が作成された痕跡もなく、 我が国への紹介以来百年の時を迎えよ た。 そこでは、 デンマーク語で記された人名事典などにあたって註 にまで言及し、 それをエンリコの人物解説註に持ち込む結果となっ マ ル ク 国 の 話 』 の 採 録 で あ り、 実 在 し な い 「 長 男 の フ レ デ リ ッ ク 」 いうデフォルメが見られるものの、 あとは語彙も含め内村の 『デン フレーズを一八六四年という八年も前にダルガスが借用していたと しました」(六五頁)。そこには、ホルストが一八七二年に公表した 新事実の発見、 デンマークのユトランドの荒地挽回の難問題を解決 デ リ ッ ク・ ダ ル ガ ス は、 植 物 学 者 で し た。 彼 は 樅 の 生 長 に つ い て、 をもって取り返そうとしました。 この事業を受け継いだ長男のフレ ころとなすを得べし』 と、 デンマークが剣をもって失ったものを鋤 しものを内にて取り返すべく、 ユトランドの 嚝野を薔薇の花咲くと を 立 て、 ピ ー タ ー ホ ル ス ト が 作 っ た 詩 の 一 節 を 借 り て、『 外 に 失 い )の荒野を沃野に変える大計画 Jutland を 再 録 す る と 以 下 の よ う に な る。「 フ ラ ン ス 系 の デ ン マ ー ク 人 で 工 で始まり、 この記事の中でダルガスには人物解説の註がつく。 それ デ ン マ ー ク 再 建 へ の 努 力 は、 世 界 の 注 目 を 集 め ま し た。」( 六 〇 頁 ) 言えるのか疑問(筆者))、教育による国の再生を訴えました。この 等学校)を創設して(「その時」、グロントヴィがそうしたと単純に た 『聖書之研究』 の十一月号には 『デンマルク三景』 という写真が ということを一所懸命に読んで考えたのです。 …ただいま申しまし 治四十四年の十一月です。 なぜ先生がこういうものを書かれたのか ンマルク国の話』 を 『聖書之研究』 に載せられたのが一九一一年明 受けて、 医師の湯沢健が 「これは私の想像ですが、 先生はこの 『デ ち や つ た の じ や な い で し よ う か 」 と 答 え( 一 八 頁 )、 さ ら に そ れ を をお読みになつて、その精神を取つて、『大モミ』『小モミ』とやつ す。 先生のことだから、 本をよくお読みになつたから、 雑誌なんか に答えて植物学者の大賀一郎が 「私も何であつたかわからないので る こ と が で き な い の で す。 何 か ご 存 知 で し よ う か。」 と 尋 ね、 そ れ たものか、 これまでいろいろ注意しているのですが、 どうも発見す 「 な お、 内 村 先 生 は こ の 『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 を 何 に よ つ て 書 か れ 座談会だけに、 その内容は貴重である。 その中で司会の鈴木俊郎が 一端を伝えていた。 内村の生前を熟知する無教会信徒十二名による 『独 立』 十 四 号(一 九 五 〇 年) 誌 上 の 掲 載 記 事 が 謎 で あ っ た 状 況 の と 樹 木 と を 以 て 国 を 救 ひ し 話 』 の 「 研 究 座 談 会 」 と 銘 打 っ た 社会問題研究会の月例会の場における 『デンマルク国の話 信仰 謎に包まれていた。 内村の無教会主義を継承する人々の基督教政治 内村鑑三がいかにしてこの物語の資料を入手し、 書き上げたかは、 うか。 していたとするならば、 我々はそれをどのように考えるべきであろ 九八 デンマークにおけるダルガスに関わる 〝神話〟 に、 長男クレスチャ 載つていて、『ハウ・アイ・ビケーム・エ・クリスチヤン』(余は如 兵 隊 の 軍 人。 ユ ト ラ ン ド ( ンをさておき、 フレズレクの名を用いての 「父子物語」 がもし成立 『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 の 文 中 に お い て 内 村 が ダ ル ガ ス の 混 植 法 を としての立場が明確に規定されていて興味深い。 著 作 を 翻 訳 し な い 」( 三 六 八 頁 ) と い う も の も、 内 村 の〝 物 書 き 〟 郎 の 雑 誌『 雄 弁 』 に お け る 文 章 の 中 で、「 又 彼( 内 村 ) は 西 洋 人 の (『 福 音 と 歴 史 』 八 号 )、また、彼が引用した一九一九年の沖野岩三 あ る が、 今 の と こ ろ 入 手 で き な い 」 と 一 九 七 九 年 に 述 べ て お り (ハガード著) などに一つの手掛りがあるまいかと探しているので 十 二、 三 年 ご ろ に 刊 行 さ れ た 内 務 省 地 方 局 訳 『 丁 抹 の 田 園 生 活 』 かにする途をもちません』 といわれる。 そこに興味をもち、 明治四 「岩 波 版 の 解 説 で 鈴 木 俊 郎 氏 は『用 い ら れ た 資 料 等 に つ い て は … 詳 無 教 会 主 義 の 信 徒 の 立 場 か ら 高 木 謙 次 が、『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 の 私 は 想 像 す る の で す。」 と、 証 言 し て い る( 一 八 ― 一 九 頁 )。 ま た、 お そ ら く こ の 人 か ら 何 か の 材 料 を 先 生 が 得 ら れ た の じ や な い か と、 のマリア・ウルフ女史という女性の写真もそのなかにあるのですが、 何にして基督信徒になりし乎) をデンマルク語に訳したデンマーク であるが、 これは林業的に見れば 『間伐』 の問題であって、 …植え … 最 後 に、『 小 も み 』 を 切 っ て『 大 も み 』 の 生 長 を 助 け た と い う 点 な い。 た だ 自 分 の 専 門 と す る 林 業 の 立 場 か ら 考 え て み た の で あ る。 れによって、 決してダルガスの事業を低く評価しようというのでは れを取り入れ強力に推し進めて行ったのではないだろうか。 私はこ ガスが発見・観察し、 これがダルガスの頭に天恵として閃めき、 そ たように、 デンマークの何処かで小面積に実行されているのをダル ちょうど千葉の片隅に松と杉の混植法がいつとはなしに行われて来 樹を林業上 『肥料木』 と言っている。 さらに憶測を許されるならば、 発見とは思われない。 重要樹種の生長を助けるために混植せられる とドイツ・トウヒの混植は、 極くありふれた組み合せであり特別な そ し て、 中 山 が 言 う よ う に、「 こ う 考 え て く れ ば、 此 の ヤ マ マ ツ 資 料 と し て い た と い う 証 拠 を 見 出 し て い る。 の内村の書簡 (ヴォルフによる筆写) から内村がアメリカの雑誌を 勇が 「デンマーク国立事業資料館」 保管のマーリア・ヴォルフ宛て 〝 種 本 〟 は、 英 語 で 書 か れ た も の で あ る こ と が わ か り、 実 際、 坂 本 ( 説 明 す る 際、「 大 モ ミ 」 を「 ノ ル ウ ェ ー 産 の 樅 」 と し て い る 点 か ら た 時 の ま ま の 本 数 を そ の ま ま に し て お け ば、 根 や 樹 冠 が 互 に ふ れ ( 一つの推理が浮かんでくる。 すなわち、 林学の専門家である元宇都 合って、 拡る余地がないが、 之を間引いてやれば、 残った樹木は生 (9) 宮 高 等 農 林 学 校 教 授、 中 山 博 一 の 調 査 に よ り、 デ ン マ ー ク 語 で は 切るのは 『小もみ』 だけでなく、 或る程度になれば 『大もみ』 も切 長範囲が広くなって、 養分を余計に取り、 太りが早くなるのである。 であるとされ(『独立』一八号(一九五〇年)三六頁)、内村はそれ ら な け れ ば な ら な い。 …( 内 村 ) 先 生 の 書 か れ た の を 読 む と、『 小 ) picea excelsa Tink を 表 現 す る の に 「 ノ ル ウ ェ ー 産 の 樅 」 と し て い る が、 英 語 で は 九九 もみ』 の伐採が 『大もみ』 の生長に不思議な現象を起こしたように 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 と 記 さ れ る こ と か ら、 内 村 が 参 考 と し て い た Norwegian spruce と さ れ る「 大 モ ミ 」 は ド イ ツ・ ト ウ ヒ( gran (( 八頁)。 評 に も 超 然 と し て、 い つ ま で も 生 き て 日 本 人 に 迫 る で あ ろ う 」( 三 かれたところに先生の異なる着眼点があったのである。 如何なる批 たようなことはお気付きのことであったと思う。 併し、 敢てかく書 ク国の話』 は科学書ではない。 植物学を学ばれた先生は多分上述し て、 生長が旺盛になったのであろうと思われる。 …此の 『デンマル 長がおとろえたのが、 間伐をしたために、 残っていた樹木が勢を得 見えるが、 多分奇現象を現わしたのではなく、 本数過密のために生 「国家の大危険にして信仰を嘲り之を無用視するが如き事はありま 語った者は矢張り旧い聖書であります」 ということであり、 最後に、 は軍隊ではありません、 …信仰であります、 此の事に関して真理を と し た こ と の ひ と つ は、「 第 三 に 信 仰 の 実 力 を 示 し ま す、 国 の 実 力 大団円を迎えることになる。 内村がこのストーリーにおいて言わん 上の事実が、 ダルガス父子によつて発見せられたのであります」 と 「 大 も み 」 の 生 長 を 実 現 す る ス ト ー リ ー を 展 開、「 奇 態 な る 植 物 学 る。 小 ダ ル ガ ス が、 そ こ で 「 小 も み 」 を 間 伐 す べ き こ と を 告 げ、 彼の長男をフレデリック・ダルガスと 称ひました」 と、 表現してい き 給 ひ ま し た、 黙 示 は 今 度 は 彼 に 臨 ま ず し て 彼 の 子 に 臨 み ま し た、 一〇〇 上記の中山博一の指摘は極めて重要である。 すなわち、 デンマー い ク・ ヒ ー ス 協 会 の 行 な っ た 植 林 に お い て 風 の 強 い ユ ト ラ ン ド で 防 デンマークで出版された書物などで我々は簡単に目にすることがで いる。 すなわち、 並植法に関する 「奇態なる発見」 を紹介、 旧約聖 する事柄は大に軽佻浮薄の経世家を 警むべきであります」 と結んで いまし せん、 私が今日茲にお話し致しましたデンマルクとダルガスとに関 き る。 現 在 ま で の と こ ろ 内 村 が 『デ ン マ ル ク 国 の 話』 の 主 題 と し て 書 に あ る「 イ ザ ヤ 書 」、「 ミ カ 書 」、 モ ー セ の「 出 エ ジ プ ト 」 の 逸 話、 砂・ 防 風 林 と し て の ヤ マ マ ツ 描いたようなダルガス父子二代にわたる苦労話の根拠を筆者は資料 「 ヨ ブ 記 」、 新 約 聖 書 の「 マ タ イ 伝 」、「 ヨ ハ ネ 第 一 書 」 か ら の 聖 句 の 並 植 法 は、 gran として見出してはいないが、 中山が記すようにその並植法自体が何 を ち り ば め な が ら、〝 実 在 〟 し た ダ ル ガ ス の〝 現 実 め い た お 話 〟 を とトウヒ bjergfyr ら林学的に特殊なものではなく、 その 「発見」 自体がダルガス父子 することで聖書の講話を行なう、 そこに内村の意図が存在していた ( に特別に降り立った神の恩寵ではないのであるから、 内村にそれを ようだ。 ( わざわざ書かせた根拠は何なのであろうか。 あるいは、 完全な内村 」 と し て 認 知 さ れ て は い た も の、 長 年、 kronprins 」の項の解説に興味深い記述が存在することを ク 「レ た だ し、 デ ン マ ー ク 最 大 の 人 名 事典 には、 エンリコの長男 ( の 創 作 な の か。 内 村 は こ の 並 植 法 を め ぐ る 「 デ ン マ ー ク の 農 夫 ら 」 スチャン・ダルガス ( とダルガスのやり取りを 「恰もエジプトより 遁 出 でしイスラエルの 筆者は見出している。 クレスチャンは一八九四年の父の死によって のがれ い 民が一部の失敗の故を以てモーセを責めたと同然でありました、 然 さけび 「息子である後継者 ねがひ し神はモーセの祈願を聴き給ひしが如くにダルガスの心の叫をも聴 (( (( enedirektør」としてのタイトルを飾ることができ 会長職をめぐって争った後、 四八歳にして、 すなわち一九一〇年に、 た 「 だ一人の会長 た と 記 さ れ、 そ の 後 の 記 述 に、「 林 業 人 と し て 父 の 路 線 を 引 き 継 い 四 こ の 内 村 鑑 三 の 『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 が、 な ぜ 私 た ち の も と に、 ( だが、 ヤママツの扱いではそれを 〝切り倒す〟 ことを実施し、 主役 〝 本 物 の 〟 デ ン マ ー ク の 歴 史 事 象として伝わってしまったのであろ ) と 片 づ け る と い う わ け に は い か な い よ う で、 上 記 の 状 況 は 彼 談 〟 が ま っ た く の 内 村 の 創 作 で あ る ( か つ て の 筆 者 の 見 解 る。 し か し、 こ う し た 状 況 か ら 判 断 す る と 〝 父 子 二 代 に わ た る 美 時間も背景も全く異なる状況のなかで展開していたことは確かであ る の だ が ) の デ ン マ ー ク を 救 う こ と に な る 「 大 発 見 」 な る も の が、 教 科 書 の 中 で、 挿 絵 つ き で 「 一 八 歳 の フ レ デ リ ッ ク 」 少 年 と な 次世界大戦後の少年少女向けの書物の中では――さらに中学生用の ダ ル ガ ス 」( そ れ も、 後 述 す る よ う に、 内 村 の そ れ を 再 話 し た 第 二 ティヴをとったという事実はありえたのであり、 内村が言う 「若き 「 ダ ル ガ ス の 長 男 」 が、 父 の 死 後、「 ヤ マ マ ツ 」 の 伐 採 に イ ニ シ ア と な ど が 記 さ れ て い る。 す な わ ち、 時 に 関 す る 記 述 が な い も の の、 らがヒース協会をデンマーク林業界から孤立させる原因となったこ 木を原料とする産品の工業的利用も彼の業務計画」 にあって、 それ な 一 面 を 語 る も の で あ り、「( タ ー ル・ 木 炭・ 木 精・ 樹 脂 と い っ た ) 進 ん だ。」 と 記 さ れ て い る。 文 脈 上 は、 ク レ ス チ ャ ン の 商 業 主 義 的 頁) と発言した。 戦後教育は戦前の教育を担った人々をいわば排除 ら れ た 先 生 の 御 遺 言 だ と い う ふ う に 感 じ た わ け で す 」( 一 一 ― 一 二 こそほんとうに敗戦日本の国民のために遥か前途を見透して預言せ を切らずにおつたのじやないか、 という感じがいたしました。 これ に遺言しておいてくださつたものじやないか、 それを我々はただ封 先生は明治四十四年にお書きになつたのだが、 敗戦後の日本の国民 に滲みわたつたような気持ちがいたしました。 これこそほんとうに、 ました。 ところが前に読みました時と違いましてこれこそ本当に腸 「早 速 こ の 先 生 の『デ ン マ ル ク 国 の 話』 を 引 っ 張 り 出 し て 読 ん で み で、 七 年 間 の 上 海 生 活 の の ち、 敗 戦 の 翌 年 一 九 四 六 年 に 帰 国 し て、 ただ漠然とデンマークを見て通り過ぎただけだったと述懐したうえ れ、 それ以前に 『デンマルク国の話』 を読んでいたにもかかわらず、 況を見事に物語っている。 彼は一九三一年に視察でデンマークを訪 ある。 前述の研究座談会で、 食糧公団総務局長渡辺五六の言葉が状 が、 此岸の我が国に一九四五年に 〝現実〟 となって生起したからで う か。 そ れ は、 彼 岸 に 存 在 し た デ ン マ ー ク の 一 八 六 四 年 の 〝 敗 戦 〟 ( で あ る ト ウ ヒ の 枝 の 成 長 を 維 持 さ せ て 〝 樹 冠 〟 を 整 え さ せ よ う と、 が参考にした資料の内容がいかなるものであったかを考える必要が 一〇一 し た 形 で 再 出 発 し、 平 和 主 義 の モ デ ル と し て 『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 ありそうだ。 (( 一七八三―一八七二) のことを内村自 N. F. S. Grundtvig が国の 「デンマーク論」 において欠かすことができなくなるグロン それは内村鑑三が 『デンマルク国の話』 を著した当時、 その後の我 さ ら に も う 一 つ 上 記 研 究 座 談 会 に お い て 確 認 さ れ た こ と が あ る。 ことに気付くのである。 クのイメージに 「ダルガス父子」 の物語が原点として存在している の洗礼を受けた者たちが、 おとなに成長後、 自ら作り出すデンマー にわたる実話然とした偉人伝〟 となり、 その時代にそのストーリー を契機に平和裏に植林によって国家を復興させようとした父子二代 す な わ ち、 内 村 の「 信 仰 の 実 力 」 を 示 す た め の 聖 書 講 話 が、〝 敗 戦 読む子供たちに、 実際の歴史物語、 偉人伝として届く結果となった。 験に譬えた神の恩寵のもとでのダルガス父子の植林物語が、 それを げ た の で あ る。 し た が っ て、 内 村 が 出 エ ジ プ ト の モ ー セ の 辛 苦 の 体 し た〝 事 実 ら し い 〟「 ダ ル ガ ス 父 子 」 の ス ト ー リ ー を さ ら に 創 り 上 文から、 徹底的にキリスト教的信仰の色合いを抜き去り、 換骨奪胎 の国語教科書の掲載を前にして行なったように、 内村の創作した本 たようだ。 その際、 特にドイツ文学者の高橋健二が小学校六年生用 が将来の平和国家を担う子供たちに伝えられるべきものと考えられ ク国の話』 などによって知ったグルントヴィの人間教育、 精神教育 えたのが人道主義に満ちた内村の講話であり、 その著書 『デンマル いかに生きるべきか、 という問題に直面していた。 ここに解答を与 だった松前総長は、 昭和恐慌を背景とした不安定な社会の中で人生 接 し、 神 の 啓 示 に も 似 た 強 い 衝 撃 を 受 け る。 当 時、 逓 信 省 の 役 人 は青年時代、 内村鑑三の主宰する聖書研究会に参加、 内村の講義に 長・内村鑑三・グロントヴィの名を挙げ、 その解説文に 「松前総長 ド…東海大学の歴史と精神」 と題し、 キーワードとして松前重義総 の で あ る。 新 入 生 に 対 し、「 こ れ だ け は 知 っ て お き た い … キ ー ワ ー 海』 の新入生歓迎号に掲載された以下のような記述は、 驚くべきも 四七周年を迎えた年 (一九八九年) の東海大学学内の後援会誌 『東 ントヴィを知らなかったことは重要な証言であり、 したがって創立 頁 ) と あ る。『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 を 書 き あ げ た 際 に、 内 村 が グ ロ き に な る と 思 わ れ る 人 で す が、 な に も あ り ま せ ん か ら ね。」( 二 二 受けて 「先生は御存じなかつたろうと思うのです。 あれば必ずお書 知 つ て お ら れ な か つ た ろ う と 思 う の で す。」 と 発 言、 大 賀 が そ れ を 「 し か し、 先 ほ ど も 話 が 出 た よ う に、 グ ル ン ド ウ イ の こ と は 先 生 は ……。」 と 答 え( 二 一 頁 )、 さ ら に し ば ら く し て ま た 司 会 の 鈴 木 が か。」と言うと、『聖書之言』主筆の石原兵永が「これは疑問ですが 一〇二 身が知らなかったことである。 これは重要なことである。 座談会で の 運 動 で あ っ た。」( 二 三 頁 ) と あ る。 し か し『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 ( は、 司会者が 「ところで内村先生が 『デンマルク自生の自由信仰あ の中には、 当然、 グロントヴィは登場しようもないのである。 ( りて』 と言われている場合、 新生デンマークの精神的指導者と言わ また、 松前紀男の 「デンマークに魅せられた日本人」 内に掲載さ ト ヴ ィ( れるグルンドウイの信仰のことを先生は知つておられたかどう (( が 丁 抹 に 残 る が 如 く、 わ が 日 本 に 残 し た い と の 希 望 を 述 べ 」( 第 三 したい」 という志をそこで記し、 彼の名を 「グルントウィッヒの名 死に接し、 渡瀬の 「丁抹流の、 基督教の基礎に立てる農学校を起こ 推定) と題した一文を見出すのみであり、 それも旧友渡瀬寅次郎の の 名 を 冠 し た も の は 唯 一「 グ ル ン ト ウ ィ ッ ヒ の 如 く 」( 一 九 二 六 年 著作に関してはその状況を示すものを見出しにくい。 グロントヴィ 『 内 村 鑑 三 全 集 』( 新 版、 岩 波 書 店、 一 九 八 二 年 ) に 目 を 注 い で も、 介 に 内 村 が 関 わ っ て い っ た の だ ろ う と 想 像 せ ざ る を 得 な い の だ が、 であるから、 その内容はその後の時代に、 相当にグロントヴィの紹 ンマルク国の話』 を著した時点ではグロントヴィを知らなかったの に紹介、多くの人に感銘を与えた。」(六〇頁)とあり、内村が『デ ンマークの二人の偉人 (グルントヴィーとダルガス) の活動を日本 れ た 内 村 の 写 真 の キ ャ プ シ ョ ン に は、「 内 村 鑑 三( 写 真 左 ) は、 デ ことを認識すべきことが必要だと考えている。 と考え、 ある種の時代状況からそうした 〝言われ方〟 が生じてきた 校思想とを、 時間的推移を捨象して安易に結びつけるべきではない い る の だ が 、 筆 者 は 内 村 と グ ロ ン ト ヴ ィ、 あ る い は 国 民 高 等 学 ているわけではなく この点は、 まったくの事実として認識して 設立・運営に携わって多大な貢献を我が国でしてきたことを否定し 者 と す る「 フ ォ ル ケ ホ イ ス コ ー レ( 国 民 高 等 学 校 )」 に 関 わ る 学 校 本人、 内村の弟子、 および彼らの周辺のものがグロントヴィを発想 裏付けられている。 もちろん、 久連の興農学園の設立前後から内村 記したときに、 やはりグロントヴィを知らなかったことがここでも たのは一九二四年なのであるから、 内村が 『デンマルク国の話』 を す 」( 六 五 頁 ) と 表 現 し、 平 林 自 身 が デ ン マ ー ク 滞 在 か ら 帰 っ て き けるグルントヴィーの重要性を教えたのも平林広人と言われていま とき(六四頁)、その平林の註解説に、「内村鑑三にデンマークにお 一九四二―) が 「有名な思想家、 Ove Korsgaard ( 二 頁 ) で 述 べ て い る が、 その論拠はなにも示されていない。 渡瀬 る国を紹介することは、 第二次世界大戦後のわが国の特有な現象で 実はダルガスとグロントヴィとを並べたうえで 〝デンマーク〟 な 五 〇 巻、 一 八 三 ― 一 八 五 頁 ) よ う と し た 追 悼 文 で あ る。 ま た、 オ ー ヴェ・コースゴー( 内 村 鑑 三 に よ っ て、 デ ン マ ー ク と グ ル ン ト ヴ ィ は 今 世 紀 初 頭 以 来、 日本でも知られるようになりました」 と一九九三年の共編本の序文 ( 寅 次 郎 の 遺 言 に 従 っ て 伊 豆 の 久 連 にデンマーク式の 「国民高等学 ある。 なぜ、 そうなったのかということを、 一応押さえておきたい。 ( 校」 が設立され、 運営に内村鑑三、 新渡戸稲造 (一八六二―一九三 グロントヴィが我が国に紹介されていく文脈は、 本来、 まったく く づら 三) らが協力し、 その中心に平林廣人 (一八八六―一九八八) がい ダルガスとは無縁であった。 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 一〇三 た、 と松前紀男が 「デンマークに魅せられた日本人」 のなかで記す (( 一〇四 ましてや一般に対してはほとんど影響力をおよぼさなかった。 一方、 行 つ て い な が ら 想 い 起 す こ と も な 」 い ほ ど で あ っ た の に( 一 〇 頁 )、 『デ ン マ ル ク 国 の 話』 は 内 村 の 弟 子 で あ っ て も 彼 が「デ ン マ ー ク に 教育施設〟 に俄然求め、 その思想的創始者グロントヴィと実践者ク る た め に )〝 農 村 青 年 を 対 象 と し た 寄 宿 制 の 農 閑 期 を 利 用 し た 短 期 般庶民を対象としたが、 結果としてその八〇パーセントは農民であ 校」と邦訳されたフォルケホイスコーレ されていくことになる。 農業立国デンマークの基盤を 「国民高等学 前 述 の 坂 本 勇 に よ れ ば、「 日 本 と グ ル ン ト ウ ィ あ る い は 国 民 高 等 学 レ ス テ ン・ コ ル( 」中 に 渡 辺 五 六 が 吐 露 し た よ う に 第 二 次 世 界 大 戦 前 は 校 と の 付 き 合 い は、 明 治 三 十 七 ( 一 九 〇 四 ) 年 頃 に さ か の ぼ 」 り、 その功績を象徴化させ、 農業の技術的・実際的要求が精神論や因果 「 談会 座 「 当 時、 世 界 の 新 聞 と い わ れ て い た ロ ン ド ン・ タ イ ム ズ、 モ ン ト リ 律の単純な偉人伝に転嫁させることで集約されていった。 すなわち、 一八一六―七〇 の Christen Kold ) 二人の偉人に と い う( 一 folkehøjskole オール・ウィットナスなどに、 しばしばデンマークの農村教育のこ 我々、 日本人には、 歴史事象を単純化させて、 特定の人物に時代状 記述では、 北海道の出納陽一が 「一八四八年独逸と事を構」 えた後、 「 グ ル ン ト ビ ー の 丁 抹 協 会 が 盛 大 と な る に 連 れ、 各 地 に 普 及 散 在 せ る会員によりて漸次国民高等学校思想が了解せられ一八六四年独墺 との戦後、 愛国心の激発と相俟ってこれが創立熱勃然として起こる に 至 り ま し た 」( 三 八 七 頁 ) と 記 し、 結 び に「 今 日 燦 然 た る 丁 抹 の 農民文化、 崇高なる農業精神は実に彼の人格の顕現其物であらねば ( ( なりません、 彼は実に丁抹の偉人でありました、 否世界の偉人であ りました」 三 ( 九〇頁 と ) し た(『 丁 抹 の 農 業 』 一 九 二 五 年 )。一九 ( と が 紹 介 さ れ … 日 本 の 一 部 の 人 々 の 目 に と ま っ て い た。」 の で あ る。 況を象徴化させてしまう傾向がある。 特にグロントヴィに関しての ( 大 正 時 代・ 昭 和 前 期 に か け て 我 が 国 で は 農 村 の 文 化 的 向 上・ 改 善・ 新しい農業技術の導入といった 「農村の近代化」 が議論されていく なかで、 一八六四年の敗北から立ち上がって 〝世界の工場〟 英国の 朝 食 を 賄 う ま で に 至 っ た デ ン マ ー ク の 農 業 の 発 展 を 話 題 に し、〝 豊 かな農業立国デンマーク〟の成立に学ぼうという機運が高まって いった。 そこでは、 英・独などで現れた 「デンマーク農業の繁栄ぶ A. H. Hollmann一 八 七 六 ― 一 九 三 六 ) の『 デ ン りへの関心」 からデンマークの農業協同組合活動が注目され、 ドイ ツ 人 ホ ル マ ン( Die マーク国民高等学校とそのデンマーク民族文化に対する意味 民を激励し、 緩急事に応ずるの意気を祖国興復の一点に集注し、 其 危機に際会するや、 猛然たるグルントウィッヒの獅子吼、 忽ち全国 村 の 更 生 と 教 育 』 で は、「 今 を 距 る 八 十 年 前、 丁 抹 国 民 が 未 曽 有 の 二六 (大正一五) 年の財団法人 「協調会」 発行の 『丁抹に於ける農 訳されたことに発する、 わが国独特のデンマーク・イメージが形成 等学校と農民文化』(那須皓訳、同志社 一九一三年)と銘打って翻 』(一九〇九)が単に『国民高 einer völkischen Kultur in Dänemark dänische Volkshochschule und ihre Bedeutung für die Entwicklung (( (( 然国民一旦の奮起は、 遂によく此の難関を突破し、 物質的繁栄及精 つ能はず。 殆ど悲惨なる運命の波のまにまに翻弄されて居つた。 果 遂に南方シュレスウィヒ、 ホルスタインの二州を奪はれて、 再び起 効なくして、 意気全く沮喪し、 殊に当時又プロシャと戦って大敗し、 北欧ナポレオン戦争の敗北を恢復せんとする、 多年臥薪嘗胆の苦心 は是等の地方の人々は、 大部分旧慣を墨守する百姓であって、 先是 民 高 等 学 校 教 育 の 賜 に 外 な ら な い 」( 凡 例、 一 頁 )、「 六 十 年 以 前 に を発揮して、 今日の盛運を開くに至れるは、 実に其の提唱に係る国 由創造と農業改善の途に精進せしめ、 遂に燦然たる北欧文化の光輝 の実現は国民の聡明を進め精神の態度を確立するに在りとして、 自 立 国 の 礎 を す ゑ た。 其 の 弟 子 ク リ ス テ ン・ コ ー ル、 ル ー ド ウ ヰ ッ スト教の信仰に基いて、 今日の国民高等学校を提唱して平和的農業 いで グルントウヰ出で、 其のルーテルの流れを汲む福音主義的キリ たる植林事業と湿地埋立事業を起し、 其の国民的運動を興した。 次 ん』 がために、 北部ユランの地に人力を以てしては不可能とせられ 示 し 給 ふ た。 工 兵 士 官 ダ ル ガ ス 大 佐 は、『 外 に 失 ひ し も の を 内 に 得 当り、 此の地に多くの愛国の戦士を送って、 此の国の進むべき道を く。「 併 し 乍 ら 神 は デ ン マ ー ク を 捨 て 給 は な か っ た。 神 は こ の 秋 に ふが戦敗に勝る艱難はない」 の文脈であった。 したがって文章は続 意図的な事実誤認があったものの、 欲しいのは 「国家艱難の 秋と言 奪 は れ た 」( 四 頁 ) と は、 ま っ た く あ り え な い 戦 争 の 存 在 と い っ た を奪はれ、 一八四八―五〇年の戦に於いて尚又シュレスリッヒ州を 0 神的文化に於ける異常なる長足の進歩を遂げて、 現時の隆昌を見る ヒ・スクレーダー等は、 彼の教によって勇敢にも辛苦艱難国民高等 0 に 至 」( 四 頁 ) る と 続 き、 さ ら に「 国 家 興 隆 の 秘 鍵 」 と し て「 結 局 学校を興して、 今日の世界に冠たる農村の捨石となった (傍点=筆 0 『そは国民高等学校の栄誉ある効績に帰すべきものである』 の一語 者)」(四―五頁)と。別の箇所で「彼等は剣を以て外と戦はずして 0 に尽される」(六頁)とした。 鋤を以て内を耕した。 キリスト教の信仰と教育を礎として、 ダルガ 0 そういう状況下に戦後のわが国の特徴的 「デンマーク論」 に先行 スの植林開墾事業、 グルントウヰの精神的開墾業に始るデンマーク とき す る 形 で 注 目 す べ き 人 物 は、「 恩 師 内 村 鑑 三 先 生 を 通 じ て 彼 地 0 の教育と文化とに少なからざる関心を持って」 デンマークを訪れた の復興事業は着々其の緒についた。 而て今や玆に美はしの地が生ま 0 松前重義 (一九〇一―九一) であり、 彼は一九三六年に 『デンマー れた」(二八頁)と松前は記してもいる。 0 クの文化を探る』(向山堂書房)を著した。すなわち、「敗戦後」と ところが、 実際には、 グロントヴィがダルガスよりはるかに年長 0 いう共通の時代状況のなかでグロントヴィと 〝内村のダルガス〟 と であり、 第二次世界大戦後に我が国の敗戦を経験して、 内村の系譜 0 を、 同 じ 土 俵 に 並 べ た の で あ る。 そ の 論 法 は 以 下 の よ う で あ る。 をひく人々が教育界に影響をもってくるとき、 内村の 「遺言」 ある 一〇五 「 一 八 〇 七 年 の 丁 独 戦 争 に よ り、 デ ン マ ー ク は 此 の ホ ル ス タ イ ン 州 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 がようやく勃然として国民の胸に訴へるやうになつたのもこの時で ウィッヒ・ホルスタインを失うことになつた」、「グルントウィ精神 ン マ ー ク 』( 弘 文 堂、 一 九 四 八 年 ) の な か で「 豊 穣 な 土 地、 シ レ ス らなくなっていくのであった。 たとえば、 大谷英一は 『平和の国デ ヴィ・国民高等学校との並立、 及びその時間的整合性を図らねばな そ こ で は〝 内 村 の ダ ル ガ ス 〟 と 既 に〝 知 ら れ て い る 〟 グ ロ ン ト いは 「預言」 として 『デンマルク国の話』 の再話を積極的に行ない、 デンマーク」 を再話し、 その前に 「ダルガスが植林事業をはじめる が内村の 『デンマルク国の話』 を換骨奪胎したストーリーの 「緑の ウ ィ ー と ダ ル ガ ス 」( 七 二 ― 九 一 頁 ) を 書 き、 中 身 は 前 述 の 彼 自 身 ( 新 潮 社、 一 九 五 六 年 ) 内 に 「 デ ン マ ー ク の 二 本 の 柱 グ ル ン ト 高 橋 健 二 が、 今 度 は 吉 田 甲 子 太 郎 編 『 新 編・ 日 本 少 国 民 文 庫 五 』 にしたストーリーの小・中学生用の教科書への掲載である。 前述の フォルメした少年少女向けの伝記物語の存在であり、 それらを根底 人 々 の 脳 裏 に 定 着 し て し ま っ た 理 由 は、『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 を デ 一〇六 ある」、「故内村鑑三先生を感動せしめたダルガスが、 グルントウィ 前 に、 人 を 植 え る 大 事 業 を こ つ こ つ や っ て い た 大 学 者 グ ル ン ト 0 0 の精神に感じて 立ち上がつたのもこの時であつた。 彼は復員の軍人、 ウィーがいなかったら、 ダルガスの事業はけっして芽をふくことさ 0 0 工兵大佐であつた(傍点=筆者)」(四九頁)とした。また、大正期 え、できなかったでしょう」(七三頁)とし、「グルントウィーの精 0 にダルガスとは無関係にグロントヴィを紹介していた前述の出納陽 神的な下ごしらえがなかったなら、 ダルガスの大がかりな土木事業 0 一 で さ え、「 戦 後 」の 状 況 下 で、 グ ロ ン ト ヴ ィ と ダ ル ガ ス 関 係 の はなしとげられなかったでしょうし、 ダルガスの国土改良がおこな 0 〝 独 自 の 〟「 辻 褄 合 わ せ 」 を 行 な っ て い る(『 デ ン マ ー ク 復 興 の 父 われず、 農業がさかんにならなかったら、 グルントウィーの精神も 0 グ ル ン ト ウ ィ 伝 』 日 本 基 督 教 団、 一 九 五 三 年 )。「 一 八 六 四 年 プ ロ 栄えるわけにいかなかったでしょう。」(七四―七五頁)などと語っ 0 シ ャ、 オ ー ス ト リ ア 連 合 軍 と の 戦 は デ ン マ ー ク の 敗 戦 に 終 わ つ て、 ている。 これが、 土岐善麿編『中学国語 一年上』(中教出版株式会 0 豊かなシュレスウィ地方を割譲するの余儀なきに至つたが、 翁 (グ 社、 一 九 五 八 年 ) に 掲 載 さ れ た( 一 一 八 ― 一 三 七 頁 )。 ま た、 小 林 ロントヴィ 0 筆 = 者) は な お も 国 民 を 激 ま し て、『外 に 失 つ た 所 を 内 勝 の「 木 を 植 え て 国 を 救 っ た エ ン リ コ・ ダ ル ガ ス 」 が『 光 を 掲 げ 0 に 得 よ。』『 青 年 た ち の 脳 裏 開 拓 の 余 地 が 広 い。』 と 説 い て、 ま す ま た 人 々』( 日 本 放 送 協 会、 第 五 巻 ヨ ー ロ ッ パ 編 二 一 九 五 四 年 ) に 0 す国民高等学校運動を強調した」(二一〇―二一一頁)、「『外に失つ 掲載され、 そこではダルガスとほかの登場人物とが 〝本物のような 0 た所を内に得よ』 の標語を具体化したものに、 有名なダルガスの植 会話〟 をして、 さらに真実味をもったストーリーが展開される。 モ 0 林事業やユーランド泥炭地開発事業がある」(二一二頁)とした。 アヴィレが ありえないのだが かつてコペンハーゲンの士官 そして、 それらが全く揺るがないイメージ、 あるいは文脈として ま し た。 フ レ デ リ ッ ク は、 一 本 の 枝 を 父 の 前 に つ き つ け ま し た。 」 び な い か と い う こ と で す よ 』『 な に!』 ダ ル ガ ス は、 は つ と 緊 張 し わかつた』『何がわかつたのかい、フレデリック』『とうひがなぜ伸 レ デ リ ッ ク が、 顔 色 を 変 え て、 飛 ん で 帰 つ て き ま し た。『 お 父 さ ん、 か」と呼び掛けさせ(一四九頁)、また、 十 「 八才になつた息子のフ で 出 逢 っ た ダ ル ガ ス に 「 あ な た は、 モ ア ビ ル 先 生 で は あ り ま せ ん 学校時代のダルガスの恩師として登場し、 敗戦後間もない時期に道 最後に紙幅の関係上、 舌足らずとなりそうだが、 可能性のありそ したとしたら、 どうであろうか。 はともかくとして、 それらにデンマークに何らかの 〝種本〟 が存在 かもしれません。」(一四八頁)と書いている。しかし、完全な誤記 ないことは残念なことです。 或いはこれが、 一番詳しい紹介になる 「 そ れ に し て も、 ダ ル ガ ス の 立 派 な 伝 記 が、 ま だ 日 本 で 書 か れ て い く事実に反することを記し、 一方、 会話等の場面を増やした小林は だ ず っ と 雨 の 多 い デ ン マ ー ク の こ と と て、 …」( 九 〇 頁 ) と ま っ た ぎ と 掲 載 さ れ、 当 時 は そ れ ら の 内 容 を 猜 疑 心 を も っ て 見 つ め る 教 師 谷のデンマーク関連の文章が中学低学年用の国語教科書等につぎつ は 「あのダルガスが言った…」 と続くのであるが、 使われ方は 〝軽 は明らかに巷間で生きており、 それを口にした途端に中年世代以上 デンマークで 「外に失いしものを内にて取り戻さん」 のフレーズ 六 うなところを論じておきたい。 (一 六 〇 頁) と 会 話 が 進 む。 そ の 場 面 は 金 田 一 京 助 編 『中 等 国 語 一 下』(四訂版)(三省堂、一九五六年)の十章「すぐれた人々 二 国を興したダルガス」 内に、 フレデリック少年が小枝を掲げて、 学 者然としたダルガスの書斎に走り込んでくる挿絵 (一二二頁) とと も生徒もいなかったであろう。 まさにそれらは、 国の検定を経た教 妙な常套句〟 といった類いであり、 そこには我が国でデンマークの もに掲載されているのである。 この時期、 それらとともに内村、 大 科書に載っている 〝真実の話〟 として、 一般の人々が受け止めるこ 過去を紹介しようとする際にイメージされる国家存亡にかかわる ( のカナ表記 Schrøder 〝 運 命 的 重 さ 〟 は な い と 言 っ て よ い だ ろ う。 た と え ば、 イ ン タ ー と に な っ て 当 然 で あ る。 そ し て そ れ ら で は、 ( を「 ス ク レ ー ダ ー( 本 稿 で は、 ス ク レ ザ )」 と 記 し て お り、 現 実 に ネットで探しただけでも多くのヒットがあり、 たとえば、 北シェラ ( デンマーク帰りの平林や大谷らが、 かなりの情報を伝えてお り、 我 ン で は ス ウ ェ ー デ ン か ら の 観 光 客 が 減 っ た こ と に 対 し、〝 あ の ダ ル ( が国におけるデンマークに関する知識は増えたものの、 逆に彼らが ( ガスの 『外に失いしものを…』 のように、 国内の日帰り観光客を増 ( 持ち帰った情報を吟味する必要があろう。 たとえば、 例として単純 や そ う〟 と い っ た も の で あ っ た り、 北 ユ ト ラ ン ド に あ る デ ン マ ー ク 一〇七 な誤りを指摘するならば、 高橋は 「その上、 雨の多い日本よりもま 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 (( (( (( 陸 軍 の ス キ ー ヴ ェ 駐 屯 地 発 行 の 雑 誌『先 遣 工 兵 隊 一〇八 ユトランドに位置するホイスコーレでは、 敗戦、 喪失した国土 「南 ユ ト ラ ン ド( 南 ユ ラ ン ) の 地 」、 喪 失 し た 地 に す む 同 胞、 ダ ル ガ ス、 』 に は、 Pioneren ヒース開墾等が、 ユトランドという 〝ご当地的話題のテーマ〟 とし 0 その兵営にかつてあの有名なダルガスが工兵として勤務していたと て相当積極的に語られていったのであろう。 そしてユトランドのホ 0 い う こ と を 記 す 際 に、 見 出 し に は 「 外 に 失 い し も の を …」 と 記 し、 イスコーレの側が積極的に 「ヒース協会」 を絡めて語っていった状 0 記事そのものは新たにダルガスを論じようとするものではなかった 況が、 スクレザを通じて作られていったと考える。 人々への影響力 0 (二〇〇九年二月)。 の 強 い ス ク レ ザ は、 そ の 後 半 生、 ヒ ー ス 協 会 に 積 極 的 に か か わ り、 0 こうしたダルガスへの関心・言及が、 それではなぜデンマークの マ ー ク 最 初 の ホ イ ス コ ー レ で あ る レ ズ ィ ン グ・ ホ イ ス コ ー レ 校 思 想 を 実 践 す る 形 で ホ イ ス コ ー レ に 関 わ り、 一 八 六 一 年 に デ ン トヴィの思想の影響を受け、 グロントヴィ主義者と交流、 コルの学 一 八 三 六 ― 一 九 〇 八) の 存 在 に 注 目 し て い る。 彼 は 若 く し て グ ロ ン ク レ ザ の 三 つ の 作 品 を 資 料 と し て 利 用 す る。 す な わ ち、『 デ ン マ ー ヒースに関わるテーマや、 それに関わる人物を話題とするとき、 ス コーレの教員たちが自身のホイスコーレで、 あるいは校外の集会で 〝 資 格 〟 の あ る も の と 言 わ ば 万 人 が 認 め る 人 物 で あ っ た。「 ホ イ ス い る。 要 す る に 彼 は ヒ ー ス 協 会 の 当 事 者 で あ り、 ダ ル ガ ス を 語 る ガスの死後に協会の最高決定機関 「三人理事会」 の理事に昇格して 一八九〇年に協会の 「代表委員」 のひとりとなり、 一八九四年ダル の 教 員( 代 用 教 員 )、 後 に 校 長 に 採 用 さ れ、 六 四 Rødding Højskole Ludvig Schrøder 社会に存在してきたのであろうか。 筆者は、 アスコウ・ホイスコー の 創 設 者 ル ズ ヴ ィ・ ス ク レ ザ( Askov Højskole 年の敗戦によってその地がデンマークから分離されたのち、 六五年 ク・ヒース協会 一八六六―一八九一 一つの試み 』『エンリ レ ( 新国境に接したアスコウの地に 「コルに倣って」 ホイスコーレを創 コ・ ミ ュ ー リ ウ ス・ ダ ル ガ ス 伝 記 物 語 ( 設、 校 長 の「 講 話( 講 演 )」 が 多 大 に 生 徒 に 影 響 を 与 え る シ ス テ ム 動とその農業への影響』 であり、 一九〇七年の (現オスロの) クリ る こ と に な る。 そ こ で は、 校 長 の 興 味 に 則 っ た 恣 意 的 な テ ー マ が ント』 として書面に残らない 〝口頭による伝達〟 の形式で実現され 読 む 機 会 を 得 て い な い が、 後 日、 そ れ ら を 確 認 す る つ も り で あ る。 イ ス コ ー レ」 に 関 す る 書 物 内 で 記 し て お り、 筆 者 は 現 段 階 で は ま だ ある」とクレステンセン 』『 ヒ ー ス 協 会 の 活 を実践した。 日々行なわれる講話の実践という形でこのアスコウ式 スチャニアで開かれた第三回北欧農業会議用に彼が準備した論文も 日々選択され、 まずは彼らの絶対的関心の所在であるグロントヴィ、 た だ、 ク レ ス テ ン セ ン ( (( ラ = ナスがダルガスとホイスコーレの関係 ( ラ = ナ ス が 一 九 一 六 年 に 発 行 さ れ た「 ホ 祖国、 その祖国の今日的話題が語られ、 特にアスコウを初めとした の校長 生 = 徒 関 係 が、 そ の 口 述 等 が 書 物 等 の い わ ゆ る 『 ド キ ュ メ (( 結婚式の日) まではダルガスが 「反ホイスコーレの立場」 をとって かに一八八九年四月二三日 (ダルガスの妻の甥がスクレザの娘との を肯定的に記す記述を載せているにもかかわらず、 そこでは、 明ら 史〟 が小・中学校で子供たちに伝えられてきたこと、 そして、 そこ る 〟 歴 史 ス ト ー リ ー を〝 物 語 る 〟 こ と を も っ て デ ン マ ー ク の〝 国 人の誰もが学んでいて、 いわば 〝デンマーク人なら誰でも知ってい 上のことなどが、 本稿の問題と関わっていると言えよう。 いわゆる で使われる教科書も、 専門的歴史学研究者の著作ではなかった。 以 その理由はダルガスが前述のエストロプの国防政策を支持し、 その 「学 問」 と し て の 歴 史 と 一 般 大 衆 が 常 識 的 に 考 え る「歴 史」 と の 間 ) こ と は 重 要 で あ る。 筆 者 の 推 測 で は、 s. 147 「 緊 急 予 算 法 」 の 執 行 を 肯 定 し て い た の に 対 し、 ホ イ ス コ ー レ の 教 にかなり大きな乖離があったのである。 その現象のひとつが、 ここ い た と 記 し て い る( エス で論じてきた 「ダルガスの神話現象」 であり、 そうした背景がある ( 師たちは また若き農民である生徒たちはその影響下で ト ロ プ に 反 対 す る、〝 急 進 的 傾 向 を も つ 〟 左 翼 党 の 支 持 者 で あ っ た なかで、 我が国の 「ダルガス論」 が存在しているのであると、 言え ( 〝 歴 史 〟 を 人 間 形 成 の 指 針 を 示 す べ き も の と と ら え て い た こ と、 ) (「 対 話 」 形 式 を ス ク レ ザ oplysning 「講 話」 を 教 育 の 手 段 と し て 積 極 的 に 持 ち 込 む 教 師(校 長) か ら 生 ( 徒 に 向 け ら れ た 知 識 伝 達( ( 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 一〇九 (3) 坂本勇は、一九八六年、興味深い事実を紹介している。 明 「 治四十年代 一九八三年、二九頁。) 「デンマーク農村文化の日本への影響 ―酪農・教育・キリスト教― 7 内 村 鑑 三 の『 デ ン マ ル ク 国 の 話 』 と ダ ル ガ ス の 教 訓 」『 松 前 文 庫 』 No.33. そのモットーをダルガスが言ったものとは記さなかったものの、 内「村の 」 ダ ル ガ ス 論 か ら 生 じ る 問 題 点 に つ い て は 何 ら 論 じ て い な い。( 薬 師 寺 朔 の運動と結びついて、当時のナショナル・スローガンとなった」と記し、 参加した経験から作った数多くの詩の一節であるが、この詩句はダルガス あったハンス・ピーター・ホルスト(一八一一~九三)が、彼自身戦争に 144. 記念メダル(表・裏)写真掲載。 (2) 薬 「『外で失ったものを内で獲得しよう』という 師寺朔は、一九八三年、 モ ッ ト ー は、 詩 人 で あ り、 当 時 の デ ン マ ー ク の 王 立 劇 場 の 舞 台 監 督 で も 註 (1) Knud Andersen, Vor egen historie 3, P. Haase og Søns Forlag 1985. s. なくはないであろうか。 こ と と 関 係 し て い る と 見 る。 そ う い っ た 事 情 の 理 由 は、 ホ イ ス コ ー ラ = ナスは次 s. 146- ( (( で の 教 師 ら は 史 料 批 判 を 前 提 に 歴 史 学 を 学 ん で は い な か っ た こ と、 ( 人 に な っ て か ら 庶 民 が 農 閑 期 に 通 う 国 民 高 等 学 校 の 存 在 、 そ こ すなわち、 デンマークの独特な教育システム 十八歳を過ぎ大 ) 147 に 奪 わ れ た も の に 内 に お け る 代 償 を 探 す べ き で あ る と。」( すことが肝要であると。 そして彼はさらに表現したはずである、 外 ボーの集会に出席した。 ここで彼は言った。 意志と感情を実行に移 の よ う な 微 妙 な 表 現 を 残 し て い る。「 一 八 六 五 年 ダ ル ガ ス は シ ル ケ レ 側 の 立 場 か ら は 論 ぜ ら れ ず、 ま た ク レ ス テ ン セ ン (( は 採 ら な か っ た) といった状況、 さらに一世代前のデンマーク (( となると各地の農村経営講習会などでデンマークの農業や産業組合につい »The Organization of Agriculture« by Edwin A. ての翻訳が雑誌だけでなく単行本としてもでてくるのであった。 」明 「治四 十五(一九一二)年四月十五日、有斐閣書房発行の佐藤寛次補訳『農業振 興と産業組合』 (原書 )について述べたい。この本は訳者の『序』にあるように…『中央 Pratt 農事報』 (明治三八年三月 六十号から同年十二月六十九号)に連載した 一一〇 ” , s. 94. (Hans Hertel og Sven Brandes og forfatningskampen i 80ʼerne Møller Kristensen, red., Den politiske Georg Brandes, Hans Reitzel 1973.) (6) 久 米邦武編修『特命全権大使米欧回覧実記』第六七巻(博聞堂、一八七 九年)。 「「 シュレースワイヒ「ポールスタイン」ヲ普国ニ附与スルコトニナ レリ、此戦ニ於テ嗹馬ハ小ヲ以テ大ニ抗シ、衆寡歒セサルニヨリ、陸 軍ハ力ヤヤ屈シタレドモ、海軍ハ未ダ萎ヘス、各国ノ仲裁ニヨリテ、 励業ヲ勉メ、屈強自奮ノ精神甚ダ旺ナリ、独逸人ヲ恨ミ、九世必報ノ ノ名誉ハ益欧洲ニ顕レタリ、「ダニース人種ノ居住スル地ハ、今ニ粋 和睦トナリタルモ、嗹馬人ハ敢テ敗挫セリトハセス、是ニ於テ其強兵 丁「抹(国)農業事情 (」上・下)があり、単行本(二十四~四十頁)の内 容とほぼ同じである。ここには国民高等学校についての記述はないが、ダ 志慨ヲ存シ、人人ミナイフ我子孫ノ末ニ至ルトモ、敢テ独逸語ヲ操ラ 」を骨子としたものであった。その六十三、六十四号に ルガスらのヒース協会についての紹介が出ている。内村鑑三の『デンマル 英 「 国農業組織論 ク国の話』に先立つもので、引用しておく。『(略)…戦争あった翌年、此 シメスト、其自主ノ気慨ハ如此シ」(第六十七巻、一三九―一四〇頁)。 ( ) 坂本勇「内村鑑三の書簡」 『松前文庫』 No. 42. 一九八五年、三〇頁。ま た、坂本は同書内で(三一頁) 、「内村の著した『デンマルク国の話』につ (9)『 高木謙次選集』第四巻「無教会史研究」、キリスト教図書出版社二〇〇 六年、三六八―三六九頁。 八年七月一六日―一八九四年四月一六日) (8) 我が国のほとんどの書では、生没年の単純引き算で、享年六六歳として いるが、没年の誕生日以前に他界しているため、六五歳である。(一八二 online.dk/special/kommentar/ kh_kommentar_ samvirke.htm, d.20.5.2010) (7) Dansk Historisk Fællesråd, Historie-online.dk kommentar “ Når den ” (http://www. historiegode fortælling fordrejer hovedet på historikeren 等不毛地開拓問題を解釋する目的で、當時の一大愛国者大佐ダルガス氏は、 丁抹荒地整理協会を設立して、初めて其の地方に道路を設け、灌漑の計画 を立て、内地殖民地を設定し、鉄道を敷設し、植樹を整理したのである。 …(略) 』 」と(坂本勇 「明治期のデンマーク文献(邦文)―農村事情・ 協同組合・国民高等学校―」 『松前文庫』 No.47. 一九八六年、三八―三九 頁。 ) 。内村の『デンマルク国の話』よりも六年も前に、我が国に上記のよ うに紹介されていたことを坂本は述べているが、そのこと自体が示すこと は、内村自身によるダルガスに関わるストーリーの脚色性がより明確に表 れていることであり、本稿において内村の作品が「始まりである」という 所以でもある。また、多くの我が国のヒース協会を紹介する(邦訳)文献 を「内地殖民地」と表現してきたものを散見するが、 plantation それらは語義どおりの「植林地」である。 において、 (4) Har. Skodshøj, E. M. Dalgas, Udgivet af Det danske Hedeselskab i まえがきによると一九四三年にスコスホイはこの書を出版していた 1966. が、デンマーク・ヒース協会創立百周年を記念してダルガスに関する家族 関係文書・書簡を用いたうえで同協会より新たに出版。 (5) Carl Erik Bay, “ Mellem kultur og politik, mellem magt og ret. Georg とも正しく記している。 ( ) 例として八年生対象のデンマーク史教科書の記述 ( cit., s. 145.) ) Sv. Cedergreen Bech, red., Dansk biografisk leksikon, Tredie udgave, (Knud Andersen, op. 『長男クリスチャン』が正しいことのみ指摘しておきます)内村鑑三は…」 い て は 説 明 を 要 し な い と 思 い ま す が、( 本 書 内『 長 男 フ レ デ リ ッ ク 』 は 10 11 12 ( ( また、前掲 座 「談会 」の発言者らはグロントヴィに関わる情報は平林によ ることを語っている。 Nordvestsjælland / Nyheder/Odsherred/2010/04.09/141110) ) A. Oppermann, Dalgas : Hedesagens Forekæmper, Det schubotheske Forlag, 1895.学 「生協会 」が発行した 人 「気小書 」シリーズの一冊で、〝煽 情的〟装丁の本書はダルガスの死の翌年に発行されたものの、ダルガスは 冷静に語られ、ダルガスの〝神話化〟はまだ起きていない。〝神話化現象〟 はこの後であり、ダルガスの死によってヒース協会の中枢に入って行った 「外に失いしものを、内にて取り戻さん」考 スクレザはまさに状況から見て、そのキーパーソンとなる可能性が存在す る。 brugsskoler, 1916) s. 147-148. folkehøjskole : En bog til fangelejrene (Udgivet for Højskoler og land- ( ) J. P. Kristensen-Randers, “ Højskolen og Hedesagen ” i Den danske ( ) Se Schrøder, Ludvig i Dansk biografisk leksikon, Bd.13. s. 220. ) “ ” Alfred Povlsen, Historieundervisningen i Den danske folkehøjskole : “ Professorforedraget, En bog til fangelejrene (1916), s. 27. Heri står der, som har sin plads på universitetet, hører absolut ikke hjemme på s. 219. 一一一 ” højskolen. ( ) Schrøder, Ludvig (af Roar Skovmand) i Dansk biografisk leksikon, Bd.13. ( 22 “ Dalgas, Christian (af Erik Helmer Pedersen) ”. 1979-1984, Bd.3. s. 541-542. ) 例 一九八二年の朝日新聞紙上の特集記事 森 えば、 「を破壊したとき文明は 死んだ 」のリード文内の記述(論説委員辰濃和男による)。 国 「 が戦に破れ たとき、デンマークにもしひとりのダルガスがいなかったら、こんにちの 豊 か な デ ン マ ー ク は あ り え な か っ た。 」と す る 文 章。(『 朝 日 新 聞 』 朝 刊 第 二部 一九八二年七月二九日) ) 高 橋健二 緑「のデンマーク 『」六年生の国語 下巻』学校図書株式会社 一 九五一年検定。 ( ) オ ヴェ・コースゴール・清水満編『デンマークに生まれたフリースクール 『フォルケホイスコーレ』の世界 グルントヴィと民衆の大学』新評論 一九九三年、序文。 ( ) 坂 『松前 本勇「グルントウィ精神の再興を 生誕二〇〇年を迎えて」 文庫』 No.35. 一九八三年、二四頁。 ) 平 林広人『農民の国デンマルク』文化書房、一九二四年など参照せよ。 れている。 注( )参照。驚くべき数の教科書掲載文章が存在していたことが紹介さ ( ) 北 海道畜牛研究会編纂『丁抹の農業』一九二五年。 ( ) 吉 武信彦 日「本・北欧政治関係の史的展開 日本からみた北欧 」 『地域政策研究』 (高崎経済大学地域政策学会)第三巻第一号、二〇〇〇年、 ( ( ) “ På jagt efter sjællandske turister”– (http:// www.dr.dk /Regioner/ ( 26 24 23 25 13 14 15 16 18 17 19 20 21