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第 3 回 黙想は神との友情の交換

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第 3 回 黙想は神との友情の交換
祈りの手ほどき vol.03
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第 3 回 黙想は神との友情の交換
今回は黙想のやり方を少しずつ説明していきたい。
アヴィラのテレジアは念祷を次のように定義している。
「念祷とは、自分が神から愛されていると知りつつ、その神と二人だけでたびたび語り合う、友情
の親密な交換に他ならない」(自叙伝 8.5)。
念祷とは、mental prayer の日本語訳である。口祷(口で唱える祈り vocal prayer)と対比的に使
われる言葉だが、黙想や観想を含む広い言葉なので、ここでは黙想と同義として話を進めていく。
―神の愛に気づき、味わう
この定義からすると、黙想の中で、最初に心がけることは、自分が神から愛されていることに気づ
くことだと言えるだろう。
あなたは神から愛されていることを実感しているだろうか。
そんなことは全く信じられないことだろうか。あるいは、頭で分かっていても、実感したことがな
いかもしれない。
定義の中で、「愛されていると知りつつ」とあるが、これは単なる頭の理解を述べているのではな
く、本当に体験し、実際にそうだと確信しているという 意味である。
実感していようといまいと、あなたが黙想をしようと思い立つならば、神の愛を実際に体感するこ
とを願い求めてほしい。
神の愛を味わうためにこそ、黙想を始めてもらいたい。
では具体的にどうすればよいだろうか。
まずは、愛された体験を思い起こしてみよう。
神さまはいつでもどこでも人間を愛しているのは事実である。もし神さまが人間を愛さないとした
ら、この世界は一瞬にして崩れ去ってしまうだろう。し かしながら、神からの直接の愛に気づくの
は難しいのも事実である。
神さまはもちろん直接、私たちを愛しているが(もちろんこれを祈りの中で気づくことはできる。
祈りが深まるとこれははっきりと実感できるようになる が)、神さまは人や物事(つまり被造物)
を通しても、私たちを愛している。
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祈りの手ほどき vol.03
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これに気づくのは比較的やさしい。日頃の出来事や、人からの親切を通して、神さまからどのよう
に愛されていただろうか。それを黙想の中でじっくりと ふりかえってみよう。自分が大切にされた
体験、そのときの人の顔や態度、雰囲気などを具体的に思い出してみよう。
そのときはその人から大切にされたと思っただけであろう。黙想でふりかえるのは、その人を通し
て、神さまご自身があなたをどれほど大切にしておられ たか、どれほどあなたを愛しておられたか
をゆっくりと味わうのである。
多くの人はうれしいことがあっても、その瞬間だけちょっと喜んで後は忘れてしまう。それらはす
べて神からの恵みであるのだが、その恵みを味わっていないの だ。
黙想とは、まさにその恵みを恵みとしてじっくりと味わい直すことなのである。
5分くらいでああよかったと表面的にあっさりすませてしまうのではなく、1時間くらいかけてじ
っくりとその恵みを味わい直し、その恵みの奥におられ る神さまの心に触れていこうとするのだ。
だから黙想というのは、時間をかけることによって、その味わい深さが生まれてくるのである。
―神とただふたりだけで
神の愛が少しずつ実感できてきたら、やっと定義の後半に入ることができる。
つまり、「神との友情の親密な交換」である。ヨハネ福音書ではイエスははっきりと宣言されてい
る、
「私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨ
ハネ 15,15)と。
あなたはイエスの友になっているだろうか。友のように友情を交換しているだろうか。そして、友
として行動しているだろうか。
自分の親友とのかかわりを思い出してほしい。親しい友とどのようなかかわりをもっているだろう
か。
いろいろとおしゃべりをして情報交換し、自分の思いを伝え、相手の思いをよく聞くことだろう。
あるいはあまりおしゃべりする必要のない友情関係もあ るだろう。ただ一緒にいるだけで、心が和
み、落ち着くという友情もある。たった二人だけで過ごすことができる大きな喜びと安心感がある
ものだ。
親しい友と一緒にいるように、イエスと一緒にいることが黙想なのだ。しかもたった二人だけで。
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親しい友と一緒にいるとき、時間はあっという間に過ぎてしまう。またもっと一緒にいたいという
望みも生まれてくる。だから黙想のために、1時間や2 時間を費やすのは当然のことなのだ。愛す
る人と一緒にいることは苦痛ではなく、大きななぐさめなのだから。
神と一緒にいるとき、ただ沈黙で現存を味わうだけでもよい。あるいは、ことばを交わしてもかま
わない。
自分の心にある素直な思いを伝えてみたい。感謝や賛美のことば、苦しみを注ぎ出すような嘆きや
嘆願になるかもしれない。自分の思いがことばになら ず、単なるうめきやため息だけかもしれない。
それでも伝えようとする態度が肝要だ。
そしてできるならば、神の言葉やメッセージを聞いてみよう。
はっきりとした言葉でなくとも、神の思いのようなものが伝わってくるかもしれない。だんだんと
心が軽くなったり、安らぎが広がってくることもある。 そのような変化を通して、神が自分の心に
触れてくださることもある。神の前に自分の身をおき、心を傾けていることは、大きな友情のしる
しではないだろう か。
祈りが深まってくると、神との友情の交換という事実がはっきりと分かってくる。
神と自分がパーソナルにかかわることができるのだ。
神は単なる概念でもなく、スローガンでもなく、遠いところにおられるだけでなく、今のあなたと
直接につながっていて、心を通わせることができる方で ある。
神さまと友情をもつことができることが、黙想の実りであり、醍醐味なのだ。
参考文献:東京女子カルメル会訳『イエズスの聖テレジア自叙伝』中央出版社
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