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北方史の枠組と歴史教育(前近代)−アイヌ民族と北方の交易
2006/3/11 おわりに 交易を切り口にしたアイヌ史の可能性と課題 第 4 回大阪大学歴史教育研究会 [史料] 北方史の枠組と歴史教育(前近代) −アイヌ民族と北方の交易 1.熊夢祥『析津志』 (北京図書館善本組『析津志輯佚』北京古籍出版社,1983 年)233 中村 和之(函館工業高等専門学校) 頁。 鼠狼之品 はじめに アイヌ史研究における交易の位置づけ (1) 奥山亮『アイヌ衰亡史』「また北東アジアの袋小路にうずくまるという地理的条 件は,文化の交流を緩慢にし,社会を停滞的にしていた。」 銀鼠〔和林朔北者爲精,産山石罅中,初生赤毛青,經雪則白。愈經年深而雪者愈 奇,遼東骨嵬多之。有野人於海上山藪中鋪設以易中國之物,彼此倶不相見,此風 俗也。此鼠大小長短不等,腹下微黄。…… 諸鼠惟銀鼠爲上,尾後尖上黒。〕 ぎ ん そ カラコルム さくほく もの こうきゅう し いわ われめ すんで うまれたばかり (2) 1980 年代の研究 … 海保嶺夫『中世の蝦夷地』と榎森進『アイヌの歴史』 銀鼠〔和 林と朔北の者を 精 と為,山の石の 罅 の中に 産 いる。初 (3) 1990 年代の研究 … 菊池勇夫『アイヌ民族と日本人−東アジアのなかの蝦夷地』 毛に 青 っているが,雪に経ると 則 ち 白 なる。 愈 も年を経て深も雪い者は 愈 (4) 2000 年代の研究状況 … 榎森進「アイヌ民族の去就(北奥からカラフトまで) に 奇 とされ,遼 東の骨嵬(のところ)に之が多い。野人が海 上の山や薮の中 あおみがか ふれ きちょう お りょうとう みせ もう そこ ク たちま しろく なんど イ これ わがくに の ぶっし こうえき へ や じ ん のである やじん とて 生には赤 しろ もの かいじょう クイ たがい ひじょう やぶ あいて あ な に於いて鋪を設け以で中国之 物 と 易 する 有 が, 彼 と此とは 倶 に 相 に見わ不 −周辺民族との「交易」の視点から」 これ ある こ だいしょう ちょうたん おなじ な かずか きいろ い,此が風俗なので也。此の鼠の大 小や長 短は 等 では不く,腹の下が 微 に 黄 1.『析津志』(14 世紀の北京の地誌)にみえる骨嵬(アイヌ)の沈黙交易 もろもろ こ じょうとう さ とがったさき い。…… 諸 の鼠では惟の銀鼠が 上 と為れ,尾の後の 尖 上が黒い。〕 (1) 沈黙交易とは。直接接触しない古代の交易の方法 (2) 日本の例,古代ギリシアの例 2.『日本書紀』斉明天皇6年(青森県史編さん古代部会編『青森県史』資料編古代 1,青森県,2001 年,14-15 頁)。 2.銀鼠(オコジョ)は,何のために交易されたか? ふないくさ みしはせ 三月に,阿倍臣〈名を闕く〉を遣わし,船 師二百艘を率いて,粛慎国を討たし ジ ス ン え み し (1) モンゴルの宮廷における,只孫宴と「白い宴」 ※只孫= Jisun(モンゴル語の「色」) む。阿倍臣,陸奥の蝦夷を以て,己が船に乗せて,大河の側に到る。是に渡嶋の (2) ユーラシア規模のオコジョの交易 蝦夷一千余,海の 畔 に屯聚し,河に向いて 営 す。営の中の二人,進みて急に叫 ほとり いおり びて曰く,「粛慎の船師,多く来りて我等を殺さんとするが故に,願わくば,河 3.野人と骨嵬とは,なぜ沈黙交易をしたのか? わた つ か おも め を済りて仕官えまつらんと欲う」と。阿倍臣,船を遣わして,両箇の蝦夷を喚し (1) 野人とはどんな人たちか? 至らしめて,賊の隠所と其の船数とを問う。両箇の蝦夷,便ち隠所を指して曰く, (2) モンゴル帝国・元朝のアムール川下流域・サハリンへの政策 「船廿余艘なり」と。即ち使を遺して喚す。而るに来ることを肯ぜす。阿倍臣, (3) 元朝と野人,野人とアイヌとの関係 乃ち綵 帛・兵・鉄等を海の畔に積みて,貪め嗜ましむ。粛憤,乃ち船師を陳ね, しみのきぬ ほし か つの ととの とま 羽を木に繋けて,挙げて旗と為す。棹を 斉 え近づき来て,浅き処に停りぬ。一 4.明朝の進出と朝貢交易 イ シ 船の裏より二の老翁を出して,廻り行かしめ,積むところの綵帛等の物を熟視せ ハ ひとえきぬ か き か え しばら (1) 亦失哈と鄭和の遠征 しむ。便ち単 衫に換へ著て,各布一端を提げて,船に乗りて還去りぬ。 俄 くし (2) 明朝の後退とその影響 て老翁更た来りて,換衫を脱ぎ置き,并せて 提 ぐる布を置きて,船に乗りて退 かえきぬ ひきさ まか へ ろ べ の し ま さんたん かえ りぬ。阿倍臣,数船を遣わして喚さしむ。来ることを肯ぜずして,弊賂弁嶋に復 しばらく 5.その後の北方地域での交易−清朝の進出と山丹交易 る。食頃ありて和を乞う。遂に聴し肯ぜず〈弊賂弁は,度嶋の別なり〉。己が柵 (1) 黒貂の毛皮生産の比重が増大−強制された狩猟 に拠りて戦う。時に,能登臣馬身龍,敵の為に殺されぬ。猶,戦いて倦まざる間 (2) 蝦夷錦と文字史料 に,賊破れて己が妻子を殺す。 -1- ま む た つ う -2- 3.ヘロドトス『歴史』巻4,196 節(松川千秋訳『歴史』中,岩波書店,1972 年,110 庶がこれを祝う模様を次に述べよう。 頁)。 元旦には,カーンより以下その国人のすべてが,余裕のない者は別として,老幼 カルタゴ人の話には次のようなこともある。「ヘラクレスの柱」以遠の地に,あ 男女を問わず白い衣装をつけるのが習慣となっている。それというのも,白い衣 るリビア人の住む国があり,カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと,これ 装は佳良なるもの,吉兆のものと見なされているからである。その一年間が彼ら の ろ し を波打際に並べて船に帰り,狼煙をあげる。土地の住民は煙を見ると海岸へきて, にとって幸福であり幸運に恵まれるようにとの思いから,新年には彼らは白い衣 商品の代金として黄金を置き,それから商品の並べてある場所から遠くへさがる。 装をつけるのである。元日にはカーンに臣属するあらゆる人々,また各地方,各 するとカルタゴ人は下船してそれを調べ,黄金の額が商品の価値に釣合うと見れ 王国から金銀・真珠・宝石そのほかすこぶるりっぱな白布の類がカーンヘの莫大 ば,黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には,再び乗船して待機していると,住 な贈り物として献上される。つまりこれは,この一年間を通じて彼らの主君たる 民が寄ってきて黄金を追加し,カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。 カーンが財宝を豊富に持ち,機嫌うるわしくかつ幸福であり続けるようにとして 双方とも相手に不正なことは決して行なわず,カルタゴ人は黄金の額が商品の価 行われるものなのである。更にまたこの日には,重臣・武将そのほかあらゆる人 値に等しくなるまでは,黄金に手を触れず,住民もカルタゴ人が黄金を取るまで 々の間でも,白色の品を贈与し合い,互いに抱き合って挨拶を交し喜び睦み合う。 は,商品に手をつけない,という。 7.『元史』卷9,世祖本紀6,至元 13 年 12 月庚寅, ア ジ ュ ら 4.新井白石『蝦夷志』1720(享保5)年 ご け ん か き ら しへい ぜに きぬ おのおの 阿朮等の戰功を賞し,及び降臣の呉堅・夏貴等に賜った銀・ 鈔 ・幣・帛には 各 ランク あ バ ヤ ン ア ジ ュ ら せ い そ ぎ ん そ こうゆう ジ ス ン い そのほか 東海の諸島は,…… 夷中は総称して「クルミセ」と曰う。夷人の通ずる所は即ち に 差 が有る。伯顏・阿朮等に賜った青鼠・銀鼠・黄鼬の只孫衣, 餘 の功臣に 「キイタップ」なり。嘗て聞く其の互市の例は極めて奇なり。毎歳夷人,船貨を 賜った 豹 の 裘 ・獐の 裘 ,及び皮の 衣 と 帽 には 各 に 差 が有る。 ひょう かわごろも のろ かわごろも ころも ぼうし おのおの ランク あ 装載して以て行し,岸を去ること里計りにして止まる。島人候望して乃ち其の聚 落を去り,之れを山上に避く。夷人其の貨を運搬し海口に陳列して去り,而して 8.「ポーランド人ベネディクト修道士の口述」1247 年 止まること初の如し。既にして島人方物を負担し絡繹夾会して,各々自ら欲する この同じポーランド人ベネディクト修道士がわたしどもに口ずから語ってくれた 所の物を易取し,其の余及び厥の産を閣置して去る。夷人又た至って之れを収蔵 のによると,修道士たちは,五〇〇〇人ほどの諸侯と要人たちとを見たのですが, して還る。若し其の方物過多なれば,即ち或は其の余を留め,或は船貨を置きて これらの人々は,かれらがその王の選任に集まった一日目には,ひとり残らず, 去る。方物は皆な獣皮なり,船貨は則ち米塩酒煙及び綿布の屬なりという。 黄金色の衣服を着ていました。しかし,その当日にも,またそのあくる日−こ の日には人々は白い金糸混織絹布の衣服をまといました−にも,意見の一致を 5.津村淙庵『譚海』巻5「奥州津輕より松前へ渡り并蝦夷風俗の事」(『日本庶民生 活史料集成』第8巻,三一書房,1969 年,86 頁)。 見ませんでした。しかし三日目−この日には人々は赤い金糸混織絹布を着まし た−に,相談がまとまって,選任が行われました。 …… 蝦夷人は刄物を作る事をしらず,又たばこも彼地になし,皆此邦より持渡 りて交易する也。交易する所より奥へは此邦の人ゆく事ならぬゆゑ,交易のもの を持はこびて,其所にならべ置けば,ゑぞ人来りて彼の方の産物に取かへもてゆ 9.イブン・バットゥータ『大旅行記』 (家島彦一訳注『大旅行記』4,平凡社,1999 年)47-48 頁。 く也。昔は斧・まさかり・庖丁・小刀の類,いくらもなまくら物を持行て交易せ 旅行者たちはこうした水なき広漠な土地をたっぷり四〇日行程を費やして踏破す しが,今はゑぞ人かしこく成て,刄物をならべ置所へ石を抱き来り,刄物を其石 ると,暗黒のところで車を降りる。そして彼らは各自で持ってきた商品をそこに にうちあてゝ試る,刄こぼれ又はまがりなどすれば,打やりてりて返りみず,刄 置き去りにして,彼らのいつもの定めの停泊地に引き返す。翌日になって,彼ら よきものをゑりてかふる事に成たり。 の商品を調べに戻ると,その商品の前に貂,灰色栗鼠とアーミン[の皮革など] てん り す が置いてあるのを見つける。その商品の持主が自分の商品の前にあるものに満足 6.マルコ・ポーロ『東方見聞録』第3章「カーンが挙行する元旦節の盛大な祝典」 (愛宕松男訳注『東方見聞録』1,平凡社,1970 年,226-227 頁)。 タルタール人の新年は,われわれの太陽暦では二月に当たる。カーン及び百官衆 -3- すれば,そこに置かれたものを取る。もしそれに満足しなければ,そのままにそ れを放置する。するとそこの人々,つまり暗黒[の土地]の住民はその毛皮類を 増しておくこともあるが,時には彼らの[毛皮類の]品物を引き上げてしまい, -4- ちょくしゅうヌルカンえいねいじき 商人たちの商品をそのまま残す場合もある。…… なお,アーミンこそは毛皮類の 14.「勅修奴児干永寧寺記」(1413 年) た ヌ ル カ ン ギ レ ミ や じ ん い ここ なかでも最良のもので,インド地方ではその毛皮[の外套]が一,〇〇〇ディー 惟だ東北の奴児干国は,…… 其の民は吉列迷及び諸種の野人と曰い,焉に雑居 ナールにもなる。それをわれわれの金貨に換算すると二五〇[ディーナール]に している。皆(中華の)風を聞き 化 を慕っているが,未だ 自 で 至 ることが能 なる。それは小型動物の皮革であり,純白色で,その長さは一シブル,その尻尾 ない。 況 其の地は五穀が 生 不ず,布帛を 産 不ず,畜 養のは惟だ狗だけであ は長いので,人はそのままの状態で毛皮にする。貂は,それと比べると価値は劣 る。或は野人が□を養い,□を運び 諸 な物を用っている。或は魚を捕える以を どうか まして そ せいいく せ した ぬ じぶん の せいさん せ いろいろ せいぎょう るが,それで作った毛皮の外套は四〇〇ディーナール前後である。こうした毛皮 しらみ し さら かっている た でき いぬ つか こと き の こんなん ことば 業 と爲て,肉を食べ而に皮を衣ており,弓矢を好む。諸般の衣食之 艱 は,言 する 類の特殊な性質の一つとして,それには 虱 が付かないので,シナのアミールた やってくる でき ない (1411) ないかん イ シ ハ はけん に爲ことが勝不ほ1どである。…… 永楽九 年春,特に内官の亦失哈等を 遣 し, えり ひき ま そ ヌ ル カ ン と し ちやそこの高位高官たちは,その一枚皮を彼らの毛皮の外套の襟の部分に付けて 官軍一千余人を率い,巨船二十五艘で,復た其の国に至り,奴児干都司を開設し いる。同じように,ファールスや両イラクの商人たちも使っている。 た。…… 十年 冬,天子は復た内官の亦失哈に命じて其の国に載至らせた。海西自 (1412) ま いた い ク イ だんじょ た かいせい よ たま り奴児干に抵り,海の外の苦夷の諸民に及ぶまで,男婦に賜うに衣服・器用を以 10.ペゴロッティ『商業指南』(田中英道・田中俊子「ペゴロッティ『商業指南』・訳 あた こくまい さ か ら 注」『イタリア学会誌』33 号,1984 年,159 頁)。 もてな さかな おどりあがっ よ ろ こ てし,給えるに穀米を以てし, 宴 すに酒 饌 を以てしたところ,皆踊 躍て懽忻 したが ない もの な おかみ ま とち えら び,一人も梗化って 率 わ不者は無かった。 上 は復た金銀等の物を以て地を擇ん さ そ きょうか (1413) まんけい えき リスの毛皮は千枚で売る。千二十枚が千枚分となる。 で寺を建て爲せ,斯の民を柔化し,…… 十一 年秋,奴児干の西に,満涇という站 アーミンは千枚で。千枚は千枚。 が有のを卜んだ。站之左は,山が高く而に秀麗であった。是より先,己に観音堂 狐,黒テン,においねこ,テン,狼皮,鹿皮,そして絹または金の着物,一枚ず が其の上に建てられていたが,今寺を造り 佛 を塑ったところ,形勢は優雅で,燦然 つ。 として観る可ものがあった。 国 之 老 も 幼 も,遠きも近きも濟々争って …… ある えら えき の さら そ つく み べき すで ほとけ くにじゅう の ろうじん つく す が た おさなご さんぜん たくさん ふつうの布やすべての種類の麻布はピッコを単位に売られる。 15.『明実録』景泰4(1453)年正月壬午, 11.『元史』巻 103,刑法志 2,職制下, およ しゅうと る け い ら みことのりをくだ 弗提等の衛の都督の常安奴と大小の頭目等に た ほか み 諸そ囚徒を流遠にするとき,惟だ女直・高麗の二族のみは湖広に流し,余は並な かいせい ほくりょ しんりゃく そそのか ( 1 4 4 9 ) なんじら した。正統十四年に尓等は た み つ れ さ ( 1 4 5 0 ) 北虜が我が遼東の辺境を 犯 したのに誘引されて,人口を掠去った。景泰元年に なんじら 奴児干及び海青を取る地に流す。 勅 また やってき い た も尓等は又開原等の処の辺境に 来 て,山東一帯から遼陽等の処に直抵るまでの だんじょ とら つれさ なんじら もと ゆ る むずか ただ 男婦を虜えて 去 った。尓等の罪を論じれば,本より容恕すことは 難 しい。但し どりょう 12.陶宗儀『南村輟耕録』巻 8,狗站, こうらい ピシュバリク ちゅうごくご れんごじょう 高麗以北(の地)は,別十八というが,華 言では連五城のことである。罪人の ヌ ル カ ン ここ けいゆ そ しめ あえ すで みことのり くだ なんじら 朝廷は天地の 量 を弘して,置て不問とし,已に 勅 を降して尓等の罪を赦免す きわ また こお ることとした。…… 奴児干に流される者は,必ず此を 経 する。其の地は極めて寒く,海も亦冰る。 たちま けっぴょう はじめ とけ そ すすむ 八月になれば 即 ち 合 し,明年の四,五月に 方 て解る。人が其の上を 行 と, ふ よう せいとうこうしょう まいとし やくにん 平地を履む如である。征 東 行 省は毎歳 しょくりょう の 糧 しきゅう 官 すべ にんめい ヌ ル カ ン しゅうじん を 委 して奴児干に至らせ, 囚 そ り そりごと いぬ これ を給散しているが, (それには)須て站車を用いる。車毎に四匹の狗で之 ひ いぬ すべ こころ 16.『新羅之記録』上巻, なかごろ ウ ス ケ シ シ ノ リ 中此内海の宇須岸夷賊に攻め破られし事,志濃里の鍛冶屋村に家数百有り,康正 オツカイ マ キ リ 二年春乙孩来て鍛冶に劘刀を打たしめし処,乙孩と劘刀の善悪価を論じて,鍛冶 そらん (1456) を挽かせるが,狗は悉て人の 性 を 諳 じている。 (1525) 劘刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して,康正二年夏より大永五 いた シ ャ モ 年春に迪るまで,東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り,者某を殺す事, 13.「敦武校尉管軍上百戸張成墓碑」 さず 元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。 (至元)二十二(1284)年十二月,君(張成)に敦武校尉管軍上百戸を授ける みことのり しへい びん たま という 勅 があった。白金を五十両, 鈔 を二千五百緡,幣帛を二つ賜うという みことのり すべ ひきい さ い し ざいさん たずさ がくこう したが 詔 があり,部る所の軍を 統 て,妻孥と軽重を 携 え,千戸の岳公に 随 い,宣 ア パ チ したが すいたつたつ ち ほ う おもむ の いた ここ とんでん うという。その数の多いこと,いったい何人ぐらいになるのか分からなかった。 けいえい れた。明年(1285)の三月,黒龍江之東北の極辺に至って焉に 屯 を 営 した。 -5- 翌日。その土地の人々がそれぞれに毛皮の服をもってきて,我々の服と交換しよ ちんじゅ 慰使都元帥の阿八赤に 隷 って,水達達の地面に 往 いて屯田し鎮守せよと命じら よくとし 17.李志恒『漂舟録』 船員たちのなかには,(器と毛皮の服とを)交換した者もいる。私はさらにもっ -6- てきた服をことごとく毛皮の服と交換し,貂皮の服九枚を得た。水晶をつないだ 数珠をひとつひとつ交換しようと請うので,私は水晶玉二つにつき貂皮の服二∼ 22.『福山秘府』巻9,公用之部(『新撰北海道史』第5巻,北海道庁,1936 年)101 頁。 三枚と交換したところ,得た服の数は六十枚ほどになった。また(彼らは)腰に 享保二丁酉年七月二日松前伊豆守嘉廣江府御城江被差出候書付之控。 提げた玉を指して赤い皮七枚と交換するよう謂い,さらに狐皮十五枚をもってき 蝦夷地之書付 て衣服と交換したいと謂う。その皮は大きすぎて厚みがあり,北皮〔鏡北道地方 一 で産出される毛皮〕とよく似ていた。 無御座ト相見江,漢文字之織付候杯御座候。カラフト島遠路ニテ渡海モ六ヶ敷御 唐織之様成織物出申候者カラフト嶋ト申嶋ニテ御座候。其所ニ而織候物ニ者 座候ト申候。カラフト嶋之者,ソウヤト申蝦夷地迄參,青玉・眞羽・皮類賣買仕 18.松前廣長『福山秘府』巻之三十「朝鮮漂人部上」 (『新撰北海道史 第五巻 史料一』 候。此方江求候品,金銀錢之通用者不仕,皆替物ニ仕候。 北海道庁,1936 年)272 頁。 23.津村淙庵『譚海』巻2「阿蘭陀蟲めがね事」(『日本庶民生活史料集成』第8巻, 李先達道具覚 三一書房,1969 年,53 頁)。 一羊皮衣 一 一衣裳 一 地龍紋茶色 ○此此おらんだの蟲めがねをみたる人の語りしは,微眇の類甚分明にみゆる事奇 一同 一 紗綾 妙なること也。蝿の背には總身に小蟲取つきてあり。つらかまちはゑぞ錦の如く 一同 一 布萌黄 うつくしきもの也。又あぶは殊におそろしきよし,上下の齒くひちがひて牙白く るいもう 生ひて,口のあたりすべて螺毛有,鼻上より尾に至るまで紫の筋一すぢ通りてあ 〔略〕 一貂皮 大小四十枚 是 レ於ソウヤ古衣類ヲ以買取由 り,形の色は殘らずすゞ竹に鼠色也。 19.『モンゴル秘史』巻2 24.三角生「『あいぬ』の龍」(『氷川学報(國學院大学新聞)』1928 年1月1日)。 オン・カンのもとに,テムジンはたどりついて申すよう,「昔〔あなたは〕わが 「龍は體,大蛇に似て四足あり足毎に三本の指を具へ,鷹の爪如き鋭き爪あり, 父とアンダ〔の誓い〕を言い交されましたね。〔それで,亡き〕父も同然〔のお 頭には二本の角ありて,面長く,口邊に鬚あり,風雲を起し,雨を降らせ又天に 方〕だと思いまして,妻に取り降ろさせて,引出物の衣装をあなた様に持って上 上り,地に潜み,神霊あるもの」であるそうだ, がりました」とて,黒貂の皮衣をやった。オン・カンはいたく喜んで申すよう, カラ・ブルガン 「黒 處が,是は,支那,日本の龍で,蝦夷(あいぬ)の龍は,五つの爪があるそう ウ ル ス 貂の皮衣の返礼に,離れ離れになりたる汝が国民をば,集めてやらん。 な,古川柳に,「五爪をも御ふだんめしに,おきくるみ」と云ふのがある,西原 貂 の皮衣の返礼に,散り散りになりたる汝が国民をば,纏め合わせてやらん。 柳雨氏の解をかゝげる,「おきくるみは蝦夷の神の名又蝦夷にて,源義經のこと ブルガン 腎臓は腰に,秘密は胸にあれ。」 を云ふと俚言集覧にある五爪とは,五つの爪のある龍(普通は三爪なり)で,其 の模様のあるは,蝦夷錦に限つたもの,類句に,「義経のしとねは五爪の龍で出 20.新井白石『五事略』外國通信事略,附中華并外國土宜(今泉定介編『新井白石全 集』第3,吉川半七,1906 年,645 頁)。 遼東〔或曰北邊韃靼之堺北京之附屬也〕 来」(文化)などある,(變態知識,大正十三年,第十一號)「道成寺,鱗が肌の ぬぎしまひ」これは,大蛇,尤も龍の川柳は容易にお日にかゝれない。迂生最近 土宜 … 貂鼠 銀鼠 の佳作を左に,「雄龍は小町のお友達」「動物園にも,龍はゐない」雨が降ると困 るから,呵々 21.最上徳内『蝦夷草紙』上巻(吉田常吉編『蝦夷草紙』時事通信社,1965 年,104 頁)。 銀鼠 〔参考文献〕 東蝦夷に諸所にあり。いたちより少し小なるものにて,潔白なり。稀二赤 もあり。 1.奥山亮『アイヌ衰亡史』(みやま書房,1966 年)。 2.菊池勇夫『アイヌ民族と日本人−東アジアのなかの蝦夷地』(朝日新聞社,1994 年)。 3.榎森進『アイヌの歴史』(三省堂,1987 年)。 -7- -8- 4.海保嶺夫『中世の蝦夷地』(吉川弘文館,1987 年)。 5.榎森進「アイヌ民族の去就(北奥からカラフトまで)−周辺民族との「交易」の 視点から」(網野義彦・石井進編『北から見直す日本史』大和書房,2001 年)。 6.池内敏『大君外交と「武威」』(名古屋大学出版会,2006 年)。 ∼∼ Coffee Break ∼∼ 往年の大女優オードリー・ヘップバーンの代表作といえば, 「ローマの休日」か「昼 下がりの情事」をあげる人が多いと思います。 「昼下がりの情事」にはオコジョ(アーミン)が重要な小道具として出てきます。 ヘップバーン演じる音大生のアリアーヌ・シャヴァックスが,ゲイリー・クーパー演 じる大富豪フランク・フラナガンのスイートルームに,真っ白な毛皮のコートを身に 纏って現れます。そこでひと言。 Siberian ermine, you know? Quite expensive. シベリアのアーミンよ。知ってる?とっても高いのよ。 実はアリアーヌの父親のクロード・シャヴァックスは私立探偵をしていて,父親の 預かり物のコートを無断で着てきたのですが,こんな小娘が持っているはずもない高 価なコートを見て,フラナガンはびっくり。きっと大金持ちの恋人がいるのだろうと, 私立探偵に身元調査を依頼します。それが彼女の父親だったので,それから …… と いうラブコメディーです。 ちなみに,監督は名匠ビリー・ワイルダー,父親役はフランスの名優モーリス・シ ュヴァリエです。 -9- - 10 -