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中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化

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中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化に関する民
族音楽学的研究
Author(s)
鷲尾, 惟子
Citation
奈良女子大学博士論文, 博士(学術), 甲第484号, 平成23年3月24日学
位授与
Issue Date
2011-03-24
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3557
Textversion
ETD
This document is downloaded at: 2017-03-30T02:04:56Z
http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
第 2章
新彊とウイグル人
および彼らの音楽の概観
第 1節
新彊の地域概要
本章では、まず、新彊という自治区がどのような複雑な歴史的背景をもち、地理的にも
多様であるか概況を述べ、次いで、当地に居住するワイグル人とその音楽のジャンルの概
況を述べる c
1
. 歴史的な背景
新彊は、中国の西北部に位置し、面積は約 1
6
6万 kd、中国国土全体の約 6分の l
、日
.
4倍を占める最大省区であり、その近隣は北東部のモンゴル、西部のロシアや、
本の約 4
カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンなどの中央アジア諸国、南西部のアフガニス
タン、パキスタン、南部のインドという、さまざまな複数の国々と国境が隣接している。
現在、当地域一帯は、歴史的・政治的に流動的な地域で、なおかつ地理的・地形的にも
3の民族が先住民族として居住し
複雑な位置にある。人口は約 2131万人で 1)、このうち 1
ている 2)。その大半はテュルク系諸語を使用し、イスラームを信仰している。とりわけ、
ウイグル人は新彊の総人口の半数近くを占め 3)、その多くはカシュガル、アクス、ホー
タンなど、主に南彊のオアシス地域に居住している。
歴史的には、新彊は古代においては「西域」と呼ばれ、「シルクロード」の名の下に知
られる東西交渉路の要衝としての役割を担ってきた。すなわち、漢代には屯田が設置され、
移住者が開墾したとともに、軍事にも関わり西域都護府が置かれた D その後、突蕨支配の
後、唐代には西州として北庭・安西都護府が設置されたが、当時の当地域には、干闇国(ホ
ータン)、高昌国(トルファン)、亀弦国(クチャ)、疎鞠国(カシュガル)という小国が
存在し、これら小国の音楽は「胡楽」として都長安にも持ち込まれたとされる(原田, 1970
0;活, 2000:94
。
)
:4・1
当地域は歴史的側面とともに、宗教的にも変動した地域である。 9 ∼ 1
0 世紀頃まで仏
1
)典拠:新彊娃吾匁自治区統計局( 2009)『新語統計年鑑 2009』,中国統計出版社: 6
9
.
2)主な少数民族としては、ワイグ、ル、カザフ 、回族、モンゴル、キルギス、シベ、タジク 、満族、タタ
ール、ウズベク 、ダホール、ロシア(オロス)族、漢族。
3
)
2
0
0
9年の新彊におけるウイグル人の人口は、約 9
8
3万人。典拠:新彊雄吾忽自治区統計局( 2
0
0
9)『新
彊統計年鑑 2009j,中国統計出版社: 8
4
.
-37-
教信仰の厚い地であり、新橿各所には仏教遺跡が多く見られる口今日イスラームを信仰す
るウイグル人もかつては仏教を信仰し、一時的にマニ教信仰もあったとされる(林, 2000
。
)
:84
8世紀頃、アラブ軍の勢力が活発化し、西突蕨滅亡後、中央アジアの草原地帯で移動し
ていたさまざまなテュノレク系遊牧民族もこれに従事していったことが契機に、当時の新彊
に値する地域でも 10 世紀頃よりイスラーム化・テュルク化が進行した(演田, 2000:
6
4)口このイスラーム化・テュルク化は、 9・1
0 世紀頃、現在の新彊西部地域から始
1
4
4・1
6世紀初頭に東部のトルファンやノ\ミへと伝わった。以降、東
まり、約 5世紀をかけて 1
部から仏教勢力が完全に駆逐されたことにより、この地域のイスラーム化は完成し、以来
。
)
当地域はテュルク化・イスラーム化の一途を辿ることとなった(演田, 2005:72・73
8 世紀に入ると、この地域は清朝の支配を受ける。遊牧ジュンガルを平定し
しかし、 1
た清の乾隆帝は、 1759年に天山山脈北のジュンガル盆地と南のタリム盆地一帯を統治し、
1
)。
当地域は清朝支配の下、「新しい領土」という意味で新彊と名付けられた(新免, 2003:5
1
9 世紀になると、ロシア帝国が東進し、新握は対ロシアの軍事拠点として重要視され
る。その後、清朝末期から中華民国時代にかけては、たびたび現地のテュルク系住民による
反乱や諸外国の侵入によって混乱を極め(新免, 2003:52)、以後、中華民国、そして今
日の中華人民共和国へと、新彊は中国の領土として引き継がれていくのである。
20 世紀初頭に入る清朝崩壊を契機に、当時の「新彊省」をめぐっては、ロシアの他、
イギリスなど、ヨーロッパ地域の国々による「グレートゲーム」が展開され、さらに中華
民国も混ざり、当地はさらに混乱を極めた。そして、中華人民共和国成立後、新彊は 「
新
彊ワイグル自治区」として中国の政権下で統治され、現在に至る。
このように、歴史的経緯や民族入れ替わりの流動性、宗教的・政治史的側面において、
この地に居住する人びとは、複雑な環境の一途と辿ることを余儀なくされた。また、こう
した歴史をめぐる混乱は、現代において民族問の衝突を招く一因となっている口
2
. 地理的概観と地形の位置関係
地理的にて、新彊は地形により 2 つの地域に大別される(図 1)0 新彊の周囲には高度
な山脈がそびえ、北部のアルタイ山脈、南部のコンロン山脈、その中央に天山山脈がほぼ
東西に貫いている D また、内部には沙漠地帯や盆地が存在する。北のジュンガル盆地には
草原地帯が広がり、主にカザフ族、蒙古族、シベ族などが居住する。
-38-
図 1.シルクロード・サテライトマップ(出典・・シルクロード学研究センター (1995)に筆者が地名を加筆.)
、
。3
げ
北彊では古くから遊牧文化が栄え、今日でも放牧を中心とした生活が見られるロ一方、
南には中央部にタクラマカン沙漠を含むタリム盆地があり、植生の少ない過酷な自然環境
である D このタリム盆地を縁取ってオアシネが点在し、そのオアシス聞は少なくとも 50km
ほど離れている。
また、気温の年較差、日較差が激しく、夏の日中には平均気温が 30°
Cを超え、冬場に
Cにまで下がる
は
・20°
4)。こうした環境のために当地は中国で「最も暑く、最も寒く、最
も乾燥し、最も風の強い地域」とされるロまた、周囲の山や険しい陸路は自然の要塞とな
る一方、かつて当地を調査した探検家たちに困難をもたらした。
3
. 新彊内の主要オアシス都市
新彊には沙漠の周囲に、大中小と規模の異なるオアシスがある。その中のオアシス都市
としては、主にウルムチ、カシュガル、クチャ、ホータン、トルファン、イリなどが挙げ
られる。
新義の歴史的・地理的背景に関して、 Rudelsonは、次のように述べている。
地理的背景が新彊の文化的多様性を理解するための鍵であり、その多様性はそこ
に居住するイスラーム徒の民族の中だけに緩らず、ウイグノレ人内部にも存在する。
その多様性は、歴史的にも相互のオアシスが離れていることによって育てられ、隣接
地域から特定の社会、文化、経済、そして宗教の影響へと繋がっている口
(
R
u
d
e
l
s
o
n
, 1997:2
4
)
これらのオアシス都市は共通項を持ちつつも、地域によって歴史的フ。ロセスや、生活習
慣などで独自性をもっo そうした地域独自の文化スタイルは、主なオアシス都市のみなら
ず、鎮や郷といったさらに中小のオアシス地域にも存在し、それらがあいまって多様性を
成している。
また、主要オアシスに関わらず、こうした中小オアシスによる文化的差異が顕著に表れ
ているのが民間芸能である。 RudeI
s
o
nの述べるように、民間芸能も文化と同様、歴史的経
緯とともにオアシス聞の隔絶性により、今日に至るまで文化を温存すると同時に、それぞ
4)典拠:新彊娃吾忽自治区統計局(2009)『新彊統計年鑑 2009~ ,中国統廿出版社: 2540
同
40
圃
れに隣接した異文化との接触で、より独自性をもっスタイノレをもたらしたと筆者は推測し
ている口
新彊には、東西南北各所で、大規模なさ「アシス都市で「市」や「県」を中心として、中
小のオアシスがある。このオアシスのまとまりを「地区」や「自治県」としているが、代
表的な地区としては、イリ地区、カシュガル地区、ホータン地区、トルファン地区などが
ある D
以下には、地区の中で、主要なオアシス都市の概要を記す(本稿官頭の新彊全図および
本章図 1のサテライト・マップを参照)ロ
1
) 西新彊〈以下、『西彊J
)ーカシュガル、アトシュ(アルトゥシュ)
西彊は歴史を通じて西方のイスラーム文化の影響を色濃く受けた地域である。カシュガ
ノレ地区の中心であるカシュガル市には、新彊最大のモスクであるエイティガーノレ・モスク
があり、歴史的にも民族と交易の十字路で、あった口当地は「カシュガルに来なければ、新
覆に来たことにはならなしリと地元住民が言うように、ウイグノレ人の最も中心的なオアシ
ス都市である。歴史を通じては、西方にまたがる文化においてコーカンド・ハン、ボグラ、
ブハラ、サマルカンドといった都市から西方のイスラーム文化の影響を色濃く受けた。こ
とに、コーカンド・ハン国は、ヤノレカンドとカシュガルに強い宗教的影響を及ぼした。
0
0
9
・ 年以降、ウイグル入居住区の旧市街や
今日のカシュガルは開発のただ中にあり、 2
路地裏の民家は取り壊され、現在進行形で街並みの変貌が見られる。一方で、、都市部周辺
では、近郊農業も見られ、毎週行われるカシュガルの日曜バザールでは、カシュガル地区
近郊の小オアシスから、さまざまな作物や品が運ばれると同時に家畜市も行われ、人の活
気で溢れかえる。
また、カシュガルから北へ 40kmほど離れたアトシュは、行政的にはキジノレス・クノレグ
ズ自治州、|に属するが、カシュガノレとの往来が頻繁に成された地域である。両都市は近接し、
相互に影響しあいながらも、それぞれのオアシスで地形や文化の上で、異なったスタイノレ
をもっている。
今日ではカシュガノレから近郊となったアトシュであるが、実際の道中はカシュガルを越
え、アトシュに差しかかると、地肌が剥き出しになった山々がそびえ立つ光景となる。そ
うした切り立った山々に固まれたオアシスがアトシュであるが、厳密には「上アトシュ」
と「下アトシュ」で、人びとの生活も周囲の地形も異なる。現在市街地である下アトシュ
園
4
1-
は、キルギスへの国境へのノレートにも繋がっており、ウイグル人の他にキルギス人も見か
け、商人が主体のエリアである。一方、上アトシュは山々に固まれ、開墾された畑を中心
に農業で生計を立てているウイグノレ人が主体.に居住している。
2
)東新彊(以下、 r
東彊J
)ートルファン、コムル(ハミ)
東彊のトルファン地区とコムル(ハミ地区)は、歴史上で、かつて 9世紀半ばに成立した
西ウイグノレ王国の中心であったオアシス都市である。当地は 1
5 世紀頃のイスラーム化・
テュルク化が進展するまで、マニ教やゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教ととも
に、主に仏教の信奉の厚い地域で、あった D
東覆にイスラーム化・テュルク化が浸透するまでには、西部のカシュガルなどがイスラ
ーム化された時期から約 5世紀もの時間を要した口この時間差により、イスラームに対す
る習慣も西部カシュガルと東のトルファンやハミでは、イスラーム信仰の寛容さや、「ウ
イグ、ノレ人」の歴史や文化に対する認識、ウイグル語の使い回しなど、異なる点が多々ある。
また、 トルファンやコムルは、現在の中国領域と隣接し、地理的・歴史的背景から唐代
より、当地より東部の影響を受けやすく、今日でもイスラームの風習とともに現中国内の
文化も吸収している。その典型的な例は彼らの容貌であり、ウイグル人の中でもトルファ
ン人やコムル人は漢族の容貌に最も近いとされる(Rudelson, 1997:25
。
)
また、 トノレファンは海抜下の盆地があり、炎暑と乾燥の地で夏場には摂氏 50°Cを超え
る日もある。当地では、カレーズと呼ばれる地下水路によって水を供給している(新免, 2005
:6)。このカレーズに関しては、旅行者用のガイドブックなどで、万里の長城などと並べ、
「古代中国における 3大事業」の 1っとして挙げているが、その起源に関しては、歴史学
者と地理学者との間で意見の見解がある(堀, 2008:36)。しかし、トルファンのカレー
ズにおいては、今日の開発により、大きく衰退しているという現状は否めない。
3
)南彊ーホータン
南彊のホータンは、歴史上シルクロードの要衝とされた時代、インドやチベットを繋ぐ
/レートの中心であるオアシス都市であり、仏教伝来のルートでもあった口しかし、ホータ
ンはタクラマカン沙漠によって他の主要オアシス都市から孤立した位置にあり、かつては
インドとの関係が比較的深かったとされる(新免, 2005:6)。現代、都市化・経済発展で
後れをとっているホータンであるが、絹織物や玉、繊毛色などの名産物で名が通っている。
-42-
ホータンは、交通手段が限定され、大都市ウルムチとの物資の流通には不便な都市であ
った。また、新彊の中で、貧困層の最も多い地域とされる口しかし、 2000年代に入つて
2月にカシュガルからホータンにかけて鉄道が開通したこと
の空港の新改築や、 2010年 1
から今後は物資の流通が安易となり、芸能に関しても、その媒体や調査においても、行き
交いが容易くなる可能性があると思われる。
4
)北麺ーイリ(グルジャ)
北彊の代表都市イリは、カザフスタンとの国境に接し、豊かな遊牧の中心地である。ま
た、伝統的に農業、家畜類と取り引きの中心地でもあった。自然環境は豊かで、、年間降水
量約は 170mm、流量が 193 n
fS)あるイリ川を通じて西方のカザフスタンに向かつて開か
れている
D
また、 1
8
7
1年以降、イリは歴史的にロシア、 1
9
1
8年後のソ連からの影響を受けている口
そのため、南彊と比較して自然環境や、教育、経済上で恵まれている。また、この地域に
8 世紀初頭、清朝がジュンガルを征服後、カシュガリアに進駐
居住するウイグル人は、 1
しはじめた時期、南彊から屯田のため強制移住させられテュルク系の人びと「タランチ(本
来の意味は「耕作者」)」の末育である(佐口, 1986:241)。タランチは、 1949年まで別
のエスニック・グループ。とされていたが、今日ではウイグル人とみなされている(大石,
2003:5
1;ラティモア, 1
9
5
1:1
6
8
)
0
5
)その他の地域ークチャ、ドラーン、ロプ地域
その他の各オアシス都市に関して、断片的に触れる。
まず、南彊北部に位置し、アクス地区の 1県であるクチャは、唐代に亀蕊王国の栄え
た地である口この地で栄えた音楽(亀葱楽)は唐朝にも影響を与えた。日本においては、
一部の音楽学者や考古学者らにより、この亀葱楽と雅楽との関連性を言及する傾向も見ら
れる 6)。また、クチャの仏教遺跡の壁画には、当時使用された楽器が描かれているロ
一方、 ドラーンとロプは、本論文で「地区」と記しているが、これは行政的な地域名称
5
)典拠:新彊雄吾忽自治区統廿局(2009)『新彊統計年鑑 2009』,中国統廿出版社: 255・2
5
7
0
6)楽器で話題となったのは、 1980 年に NHK の「シルクロード」で放映されたキジル千仏洞壁画の
五弦琵琶と奈良・正倉院の五弦琵琶の関連性が、当時のシルクロード・ファンたちに衝撃を与える
契機となった。
同
4
3”
ではない。前者はカシュガル東部のメキット県からマラノレベシ県、アクス地区のアワット
県など、ヤルカンド河からタリム河流域にかけて「ドラーン人」が居住した地域である。
このドラーン人に関しては、第 5章の事例にて詳細を述べる口
後者のロプも、かつてのロプノール近郊に居住するロプ人の名称を地名として呼んだも
ので、ドラーン人と同様、漁業集団で、あった。出自について、 ドラーン人とロプ人は同じ
モンゴノレ系の人びとの関連性が指摘されていたが 7)、両地域の人びとに関する歴史的経
緯や資料は少なく、未だ謎の集団である。
上記のように、かつては別のエスニック・グループ。とされ、オアシスの歴史的・地理的
背景、文化や習慣に差異がある人びとも、今日ではウイグル人に属している。それゆえに、
オアシスのより内部に足を踏み入れると、さらに多様な文化様相が見ることができる。
第 2節
『ウイグル人j という民族名称
現在のウイグル人は、新彊ウイグル自治区では、漢語(普通語)と新ウイグル語(現代
ウイグル語)を公用語とし、その大半は現代ウイグル語を使用している口その文字はアラ
。
)
ビア文字を改良したものである 8
もともとウイグル人の先祖は、かつてモンゴル高原を拠点としていた遊牧集団の勢力だ
)。この勢力が 9 世紀ごろから西方へ移動し、現在の新彊トルフ
とされる(新免, 2005:5
ァン盆地を中心とする地域へ留まり、やがて定住して農業を営む一派が古代ウイグル人で、
3)。こうした
さらに西方へ移動したテュルク系民族がトルコ人だとされる(演田, 2005:7
移動により、それまで主にインド・ヨーロッパ系の人種を住民とした新襲の地は、テュル
。
)
ク系と交わっていくこととなる(新免, 2005:5
しかし、今日「ウイグル人」と呼ばれている人びとはテュルク系で、新彊の半数以上を
占めている。この「ウイグル」という民族呼称が成立した自身、歴史的にはさほど古くは
7)ル・コックは他のトルコ系民族からは別の人種として見られていたとする一方( 1986:66)、旧ソ
連の民族学者はドラーン人とロプ人を準エスニック・グループとして一緒にしている(R
u
d
e
l
s
o
n
,
9
9
5)はドラーン人が 1
7 世紀以来ヤノレカンド河沿いに定住しているとし、ロプ
1997:24)。佐口( 1
人とドラーン人との関連性について言及している。
8
)近年では中国政府の漢化政策により、授業でのウイグル語使用の禁止や小学校より漢語教育が徹
底されている。これは、後の就職にも影響し、漢語を理解できないウイグル人の就職は今日厳しい
状況にある。
-44-
なく、当地域に住むテュノレク系の民族で同じ言語・習慣・宗教などを持つ民族を寄せ集め
たいわば「民族総称」である。この呼称、は 1921 年ソヴィエト政権樹立後、中央アジアで
決定され、 1935 年以降に新彊で公式採用された(新免, 2005:7;大石, 2003:50)。その
後、中国民族政策下により異なる言語などを使用していた彼らの間にも「我々 b
i
z
」とい
う認識が定着し、今日では一体化した民族意識を持っている。それは、今日のウイグル人
が他民族や他国の人びとを相手に語る場合、「我々ウイグノレ人 J という民族的なアイデン
ティティにのっとった言葉が真っ先に出てくることからも窺える D
こうした民族意識の強さは広域的な分布にもかかわらず、現代において他民族や隣人で
ある漢族と自己との違いを強調するものであり、時として中国の政治体制を脅かし、漢族
との対立をより深刻化させる一因となっている
D
その一方で、ウイグル人の社会内部は、中国の政策下で均一化されつつある今日におい
ても、オアシス地域の単位では、出身者・居住者共同体としての帰属意識が強い(新免, 2005
:5
)。実際のところ「ウイグノレ」という民族意識が定着する以前の数世紀の間にその呼
称が使用された形跡はなく、それ以前の人種区分としては、「カシュガル人」「トルファ
ン人」など、オアシスの地域名称をそのまま呼称として使用していたに過ぎなかった(新
免
, 2005:7)。また、「ワイグル」と呼ばれるようになる以前、当地に居住するテュノレク
a
l
t
系住民らは、外国人たちから「ムスリム」「トノレコ人んあるいは蔑称とされる「サルト s
(チャントワ=ターバンをかぶったムスリムたち)」などと一括して呼ばれ、今日のよう
なまとまったアイデンティティはなかった。
当時のウイグル人の民族名として、 Rudelsonは、カシュガル人、東部ウイグル人、ケリ
u
d
e
l
s
o
n
,
ヤ人、タランチ、そしてアブダール、ロプ人、ドラーン人の 7つに区分している(R
1
9
9
7:2
4
)
9)。中でもドラーン人とロプ人は他のテユノレク系の住民からは、習慣の違いか
v
a
n
b
e
r
g
, 1
9
9
6:275276;S
v
a
n
b
e
r
g
, 1
9
9
6:269;
ら別のエスニック・グループとされ( S
圃
R
u
d
e
l
s
o
n
, 1
9
9
7:24)、蔑視されることもしばしばであった。こうした各オアシスにおけ
る住民たちの共同体が 1930年以降、一つの民族という共同体として包括され、今日の「ウ
u
d
e
l
s
o
n
, 1
9
9
7:24;S
v
a
n
b
e
r
g, 1996:269
。
)
イグノレ人」という総称となっている(R
以上、述べたように、「ウイグル人Jということに関して、現在の「ウイグル」と呼ばれ
9
)民族区分について諸説はあるが、ラティモア (
1
9
5
1)はドラーン人、ロプ人、アブダール(今日では
蔑称)、タランチ、その他は地名からの名称と区分している(ラティモア, 1
9
5
1:1
6
3・1
7
0
。
)
-45-
る人びとと、古代ウイグル王国にいた人びととの関連性については、現在の学術上でも極
)。しかし、オアシス地域による帰属意識
めて複雑かっ唆昧なところがある(岡, 2005:1
は、日常や習慣の中に名残を見せており、今日ではさらに細部化されたオアシス地域のア
イデンティティへと繋がっている。こうした経緯は言うまでもなく、民間芸能のスタイル
や多様性、今日における変化と無縁ではない。
第 3節
ウイグル民間芸能の特徴
ウイグル人の日常で欠かせないものが音楽、中でも歌と踊りである。現地では「ウイグ
ノレ人の赤ん坊が声を発した時には歌い出し、歩き出した時には踊り出す」という諺があり、
歌や踊りに対する愛着ぶりはいずこのオアシスでも共通する。彼らにとって歌と踊りは日
常的なものであり、大半の子どもは幼い頃より大人たちの踊りを、パフォーマンスの集い
の場である「メシュラップ mashrap」において見様見真似で覚える口そうした中で、歌や
踊りが熟練した若手のウイグル人は、後にプロを目指し、都市部の歌舞団へと入団するこ
ともしばしばある。
ウイグル人の歌や踊りが、どの程度目常的なものか一例を挙げれば、それは「鼻唄」で
ある。一般のウイグノレ人が 1人で街頭を歩いている際でも、他者を意識することなく、不
意に鼻唄を歌い出す。誰に聴かせるわけでもなく、自身が歌いたい時に口ずさむ。その鼻
唄は、流行歌や即興で、思いついたままを歌ったり、複数の歌のメドレーなど柔軟な鼻唄で
ある。ウイグル人はそうした行為に差恥心や体裁がなく、非現実的な自分の世界へ語るよ
うに歌う。こうした鼻唄は場や職業、年齢、性別に関係なく、バザーノレや長距離ノ〈スの中、
物乞いでさえも鼻唄を口ずさみ、 1 日で鼻唄を聴かない日はないロこうした鼻唄社会が、
ウイグル社会にとって、現実かっ日常のあり方である。
現地のウイグル人の音楽としては、どのようなジャンノレがあるのだろうか口前述したム
カームを筆頭に、ウイグノレ音楽には民間音楽、器楽曲、舞踊曲、語り物であるコシャツク
やダスタン、シャーマニズムやスーフィーの音楽を含んだ宗教的楽曲のほか、現代歌謡曲
がある。この区分は厳密で、はないが、ラティモアはタランチの歌謡を別に扱っている(ラ
-46-
ティモア, 1
9
5
1:1
6
7
)
0 また、風間は 6つのジャンルに分けている(風間, 2003:1
3
5
) lO)o
下記にそれぞれのジャンノレを挙げる口
1
.ムカーム
既述したが、ウイグノレの代表的音楽としては古典伝統音楽「ムカーム」が筆頭に挙げら
れる。これは、さしあたって日本で言えば、歌舞伎や能に値する伝統芸能であろう。
ウイグノレのムカームは 1
6 世紀頃、民間に存在した歌舞音曲を宮廷の要請で体系化させ
た楽曲群で、ウイグノレのシンボルとされている古典音楽である。ウイグルのムカームは、
本来、アラブの「マカーム m
a
k
a
m
.
J を起源とし、これらの様式や楽曲の名称に類似した
芸能は、西アジアから中東、中央アジアなど、他のイスラーム文化圏でも散見される D た
とえば、アラビアやトルコの「マカーム J をはじめ、イランの「ダストガー」、アゼルパ
イジャンの「ムガームハウズベキスタンの「マコム」なども、ウイグルのムカームと同
系統のものである(Ha
凶S
, 2
008:95・97;柘植, 2005:1
1
0;東田, 2003:1
2
2・1
2
4
ロ
)
「マカーム」という名称は多義的で、広義には規則正しい音の配列を示す「旋法」ない
し「形式」を意味し、狭義には音楽体系そのものを示す(柘植, 2005:1
1
0)。ウイグルの
ムカ}ムは、アラブのマカームのように、厳密な旋法や音階によって定められていなし 1点
が特徴的で、柔軟性を持ち、音楽体系としての意味合いとして演奏されている。
このウイグルのムカームも単一のものではない。最も代表的なものとしては、「 1
2 ムカ
ーム」と呼ばれるもので、 1
2種のムカームから成る。この 1
2ムカームは、ある時期に一
括して作られたわけで、はなく、長い年月と人びとの手直しを経た後、今日の様式へと形成
されたとされる(鈴木, 1999:98)。それらの経緯については、 1
6世紀のヤルカンド・ハン
国に遡り、その第 2君主であるラシードーハンの妻、アマニサハンによって整理されたと
いうエピソードがある(H
a
r
r
i
s
, 2008:40・4
1;L
i
g
h
t
, 2008:1
1;柘植, 2005:1
1
0;風間,
2
0
0
3
,1
3
6;鈴木, 1
9
9
9:8
8・99
。
)
文革期にウイグノレのムカームは、厳しい弾圧のため継承も危ぶまれた。しかしその後、
楽師であるトルディ・アホンが詠い継いで、きたカシュガル・ムカームを基盤に録音や採集
が成され、さらに改訂が成され今日の形態となっている口現在、音楽媒体で聴くことので
1
0)風間(2003)は、現代歌謡曲をジャンルに入れず、「ムカーム」「ナフシャ(民謡)」、「器
楽れ「舞踊楽」「語り物」「宗教音楽」の 6ジャンルとしている(風間, 2003:1
35。
)
-47-
きる 12ムカームの構成は 3つのパートから成り
1
1
、
)
1ムカームのみ完奏した場合でも 2
時間を要す。つまり、全ムカームで約 24時間という長大な楽曲群である
1
2
)。楽曲構成は、
一般に自由リズムで膜想的な独唱「ムカディ.メ」で始まり、続いて「ダスタン」、そして
最終部の「メシュラップJでは 13)、より速いテンポとなる。
一方、新彊には地域独自の様式をもっムカームもある。このうち第 5章にて事例とした
汀i
s
, 2008:1
0
5・1
0
6
。
)
「ドラーン・ムカーム」は、 12ムカームよりも古い様式とされる(Ha
その真偽は未だ解明されてはいないが、ドラーン・ムカームが演奏される地域メキットが
解放された際のキャッチフレーズは、「メキット 12ムカームの故郷J で、あった。
かつてのムカームがどのような形態であったかは知る由もない。しかし、いずれにせよ、
今日のウイグル人にとって「ムカーム・ブランド」とも呼べるその価値は絶大で、今日、
中国の国家レベルでも奨励され、 2005 年にはユネスコの無形文化遺産に認定された口そ
の反面、格調の高さのせいか、一般のウイグル人が容易く歌うことは困難である。また、
歌詞には現代ウイグノレ語より古いチャガタイ語も含まれ、メロディーは知っていても歌う
ことが不可能なウイグル人も多いため、今後の伝承方法においては問題がある口
2
.民間芸能(民間歌曲目民間舞踊)
本研究の主な対象であるジャンルがこの民間音楽である。現代のウイグル人にとって象
徴的な音楽が上記のムカームとすれば、「民間芸能」は新彊に点在するオアシス地域の特
有性と日常性を象徴する芸能、と言って良いであろう。新襲のテレビ番組も、そうした各
地域の民間芸能を紹介した内容によって占められている
)。つまり、ムカームがワイグ
ノレ人全体としてのアイデンティティを強調するために意識化された音楽であるとするなら
u
d
e
l
s
o
nの言う「オアシ
ば、彼らの民間芸能はオアシス地域の独自性が顕著であるため、 R
ス・アイデンティティ」の表象と例えることができるであろう。
1
1)自由リズムの独唱「ムカディメ( Mukaddima)J、「チョン・ナグマ部( Chong Naghma
)」、「ダ
スタン部(Dastan)」、「メシュラップ部(Mashrap)」の 3 部から成る。研究者によっては「チョン
・ナグマ部」も 1パートとして全部で 4部と主張する者もいる。
1
2
)通常はあるムカームを断片的に演奏することが大半である。
1
3)後述するが、メシュラップという名称は多義的である。ここで言うメシュラップとは、 1
2 ムカ
ームの最終楽曲部の名称を意味する。
1
4)新彊テレビの女性アナウンサー M 氏からの聞き取り(インタビュー実施: 2
0
0
4年 2月 3日)。これ
に対する意識やテレピ事情に関するデータは横井・沙吾提( 2006)を参照。
・4
8-
民間芸能はその名の通り
一般の民衆によって、踊りや歌とともに演奏されるジャンル
である。これは下記のように「民間歌曲 J と「民間舞踊 J の 2つに大別される
D
まず、民間歌曲においては、専門知識のないウイグル人が聴いてどの地域のものか認識
ができると序章で前述したが、地域によって音楽スタイルやレパ}トリーが異なり、それ
ぞれ地域の名称から、「イリ民間歌曲」「アトシュ民間歌曲」「カシュガノレ民間舞踊 J など
と呼ばれる。
1
9
9
9
)
新彊の音楽内情に明るく、「ウイグル民間歌曲集成」を編集した 1人でもある周 (
は、民間歌曲の形式を「叙情性民歌(叙請性民歌)」と「歌舞性民歌」の 2種に分け
1
5
)、前
者は歌い手の感情を吐露するもの、後者は感情表現以外に踊りを伴ったものとしている白
歌詞内容として最も多いのは「恋愛歌」で、花や果物を比輸として恋人を賛美する場合
が多い。次いで山や月、水、空など自然を題材に歌ったものや、家族への愛情を含めた内
容、また労働歌、童謡、子守唄などがよく聴かれる
D
その他、新中国成立以後は故郷や祖
国のほか、党や指導者の恩情を賛美した歌、今日になって創られた「新民謡」もあり、当
6;H
a
r
r
i
s
,1
9
9
8
時のスローガンが見え隠れする(中国民族民間歌曲集成編集委員会, 1999:1
)。また、基本的に歌詞はフレーズの中途や最後に音韻を踏み、その手法は近隣の中
:37
h
e
h
i
r
)にも通ずる。
央アジアにある詩(シェイル s
また、ウイグノレの民間歌曲は 2種に大別される。 1種は一定のリズムで歌と踊りを伴い、
短い旋律で歌詞を何番も変えて歌う「異歌詞・同旋律型」で、もう一方は繰り返しを伴わ
ず、歌詞の一節を引き延ばし、長い旋律で歌われる「同歌詞・異旋律型」である(周, 1999
:20)。これもヴアリアントの一例と言って良い。
他方、拍子やリズムにおいては、西洋音楽にも聞かれる 2、3、 4、6拍子系などの拍子
とともに、 5拍子や 7拍子がある口ムカームで演奏される全ての音を採譜することは不可
能であるが、それらを強引に採譜化した民歌集成も見られる。しかし、中には西洋音楽理
論上で到底測り得ない拍子記号が記されており、むしろそのような譜面を元に演奏する方
が困難と言えよう
D
多様な拍子がウイグルの音楽に存在する。中でもウイグル人の踊りで最も典型的なリズ
ムとされるのは「ショホ・ムジカ shokh muzika」「ショホ・リズム shokh rythm」と呼ば
れる 2拍子系のリズムである D このリズムはオフ・ビートで刻まれ、軽快で、躍動感がある。
u
1
5
)中国民族民間歌曲集成編集委員会( 1999
):『中国民族民間歌曲集成・新襲巻(上 ,中国 ISBN中心出版: 1
5
.
-49-
。
)
そのため、踊りを伴う 「歌舞性民歌j で多用される 16
ショホ・リトゥムは、基本的にシンコペーションを使用したリズムであるが、基本的な
リズム・パターンにもヴアリアントがある。以下(図 2)に典型的なショホ・リトゥムの
以
ー
リズム・パターンを示す。
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~:
I
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あるいは
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図2
. ショホ・リトワムのパターン
ショホ・リトゥムは、いずれのオアシスでも浸透しているリズムであるロまた、 このリ
ズムはウイグルを代表する古典芸能「ムカーム」にも含まれている上、ポピュラー化され
た「ウイグノレ・ポップス」 でも、 このリズムで構成される歌が大半を占める。また、 日常
で地元住民たちが赤ん坊をあやす際には、 このショホ・リトゥムをオノマトペで「ドゥタ
ンタ・ドゥンタ」 と歌うと、赤ん坊は両手を上げて踊る真似をしようとする。
また、締りを伴わず、朗々と歌い上げる「叙情性民歌」 は、今日では「リリック」 と呼
口
)
ばれる 17
一方、民間舞踊は、たとえば日本の「阿波踊り」 のように、ある特定の地域で特有の世
様式をもっている。その踊りのスタイルは多様で、即興もしばしば含む。民間舞踊は、ウ
イグル人にとってコミュニケーションの手段であり、観客への「見せもの」 のみならず、
客へのもてなし、同じ共同体内での娯楽といった趣がある。また、かつてのドラーン地域
では、 よい価格で商品を手にいれるために商人を宥める商談の場で、踊りや歌を披露する
S
v
a
n
b
e
r
g
, 1996:277
こともあったという (
。
)
一般的にウイグル女性による踊りの所作は手と頭に集中し、指先と腕でしなやかに曲線
を描くほか、旋回、西南アジアの舞踊にも見られる首の水平運動がある。 また、男性の踊
りは、力強い足のステップと、身体を反らせて肩を震わせる所作、両手を広く高く上げ指
を鳴らす所作が見られる。いずれも踊りのスタイノレはきわめて単純なものである。
こうした踊りの場は基本的に老若男女を問わず、形式や場所、人数にも制限はない。中
1
6
)
s
h
o
池はウイグ、ノレ語で「悪戯な J を意味するが、音楽上では「賑やかな」を意味する。
1
7
)リリックは外来語と推測される。ウイグノレの場合、西洋クラッシックの声楽で、芦の質をいう「リリ
ック・テナー」「ドラマティック・テナー」との関係を意識して付けられた名称ではなさそうだ。
-50-
でも 、 ウイグル人全般において最も踊られるスタイノレは「セネム j と呼ばれ
)
、聴衆参
1
8
加型の踊りである口
地域性のある踊りとしては、主にカシュガルの祭典や集会、規模の大きな場で踊られる
集団舞踊の「シャディヤーネ 」、 トルファンやコムル(ハミ)で、元来、社会風刺のため
に踊られたとされるユーモラスな踊り「ナズルコム」、イスラームの 2 大祝祭行事である
ローズ ・ヘイツト(断食明けの祭)やクルパン ・へイツト(犠牲祭)の際、カシュガルの
)
エィティガール ・モスク前の広場で厳粛に踊られる男性のみの踊り「サマ 」 (
図 3) 19、
また、本研究の事例にも挙げているドラーン地区の 「ドラーン ・ウスーリ 」などがある 。
そのほかに、茶碗やサモワールと呼ばれる水差しを頭上に乗せて踊るものや(図 4)
、
) 2 つの石を片手で挟み、カスタネットのように鳴らしながら踊る「タシュ ・ウ
(
図 5、
スーリ」、匙や皿など日常用品を楽器として用い、叩きながら踊られるもの、男女 2 人の
かけあい交えた「ラパ」(図 6)、シャーマニズムの系統を汲んだ、パクシー
20) (
ヒ。
ルー
p
i
r
u
)
と呼ばれる祈祷の踊りなども存在する(図 7)、(図 8)
。
。
図 3. カシュガノレ、エィティガール・モスク前で踊られる男性のみの踊り「サマ」.
0
0
4年 2
.
3筆者撮影)
1
8)厳密に言えば、このセネムも「クチャ ・セネム」「カシュガル・セネム」「イリ・セネム」など、地域
によって多少の差異がある 。ただ、外来人から見た場合、セネムにおける地域の差異は区別しづらい。
1
9)このサマ・ウスーリは、スーフィーある いはシャーマニズム儀礼に則っていたとされる(R紘 hman,1
9
9
6
:1
9
4
・1
9
5;風間, 2003:1
3
6
。
)
20
)最近は、パ クシーも迷信撲滅のために演じることを禁じられ、ワイグル人からも、信仰するイスラー
ムとは異なる習慣という理由で忌避され、見る機会は減っている 。
・5
1-
図 4. 茶碗の踊り.
図5
. サモワールを頭上にのせる踊り .
(出典:中国民族民間舞踊編集部(編) (
1
9
9
8)『中国民族民間舞踊集成新彊巻』,中国 ISBN出版: 1
7
9;1
8
9
.
)
図 6.
男女ベアのかけ合いで踊られる「ラパ」
(
2
0
0
5
.
8
.
1
4筆者撮影)
図 7.シャーマニズムの系統を汲むパクシー。 図 8.
(柱に榊のようなものを飾り、縄を持ちながら祈祷の踊りを行う) (2005.8.13 筆者撮影)
-52・
こうした民間舞踊も音楽媒体の普及により、広範で、知られるようになった。今日では、
地区や地域単位でなく、郷や鎮の単位で成されている固有の民間芸能も存在することがわ
かり、 2008年に DVD『中国維晋勿麦西菜甫.(中国ウイグルメシュラップ)』として媒体
1ヶ所にものぼるよりローカルな芸能が挙げられている 21。
)
化された。この中には 3
3
置語り物
語り物はその名の通り、単独楽器を用いながら語り調で歌うジャンノレである。語り物に
は、主に散文詩や叙事詩・恋愛物語・英雄物語を語った「ダスタン」や、風刺や漫談的な
内容を歌った「コシャツク」
)、「マツダー」といったジャンルがある口
22
基本的には、楽師が 1人で演奏しながら歌い語るという「弾き語り式」であり、物語を
会話調で語り、楽器を効果音や物語の話題の転換部として挿入する。楽器は主に現在使用
されているものより古い規格のラワープやダップが主である。
語り物を専門とする楽師は、日本で例えれば、琵琶法師のように弦楽器をつま弾きなが
ら物語や詩を語り、ある地から他の地へと放浪しながら演奏を糧にしている職業である。
その語る場も、民家やバザールなどで人を集めて演奏を行い、報酬を得る。
語り物の中でも代表的なのは「ダスタン J と呼ばれる叙事詩を主体とした語りである。
代表題目としては、北彊では清朝支配に反抗して戦ったイリの英雄サデイル( 1788∼ 1
8
7
1
)
の物語
23)、一方、南彊ではホータンの争乱の時代、勇敢に戦ったアブドラフマンの物語
が有名である
24
)。ただし、これらは近現代史における物語であるがゆえ、容易く歌うこ
2
1)ハミーオノレダ、ハミーキョク、ピチャン、 トノレファン、 トクスン、ホ}タン、グマ、ヤルカンド、メキットーナ
マクルク、メキットーオウチ、サガディ、イェンギサル、ユプルガ、カシュガノレーキタヒ。ハナ、カシュガルーチャ
イハナ、アトシュ、アクト、ケルビン、ウチトルパン、アクス、アワット、クチャ、ロプノーノレ、チャルクリク、
チェルチェン、モリ、ウルムチ、イリ、ボルタラ、チュチェン、アノレタイ。
22)風間の概説には、「コシャツク J と「エイティッシュ」を J
j
f
jの種類として分けているが(風間, 2
0
0
3
:1
3
6)、ウイグノレの音楽ジャンルの中に「エイティシッシュ」と呼ばれるものは存在しない。この言葉
は、ウイグル語で「話す、語ること」を意味することから、語り物であるコシャツクの説明をウイグル
語から通訳を介して聞き取った際に、説明内容をジャンルの名称と捉えた可能性が高い。
2
3)胡(西脇隆夫訳) (
2
0
0
4)「イリ地方ウイグル歌謡選」『名古屋学院大学論集』 1
5
(
1・
2
)
:72・7
5
. に
、
サディルを讃えた歌詞訳と、彼の紹介が記述されている。なお、サディルに関するダスタンは他に
も多々伝承されている。
24
)アブドウラフマン叙事詩歌謡に関する詳細は、菅原純( 2
0
0
1
) 「殉教者の国ホタン」『東京外国語大学
通信』 1
0
1:1
0・1
7
. を参照。
-5
3-
とは禁じられている 。 あるいは、歌詞を変えて歌われ、官頭か最後には、党を賞賛する歌
を歌うことが、今日通例となっているロ語り物は、聴いて楽しめる曲も多分にある一方、
過去の歴史を演奏とともに伝え、人びとの心情に訴える役割も果たしている 。その内容に
は、今日の中国の政治上、演奏することを禁じられているものもある D そのため、語り物
を研究対象として扱うには、十全な配慮が必要である ロ
4
.器楽曲
こうした沙漠地域では、主に打楽器や弦楽器を中心とした楽器が多用される 口 これらの
楽器は獣の皮や腸とともに、水分を吸収しやすい木材を原材料として作られている。
ウイグル人の代表的な楽器としては弦楽器が主体で、代表的なものとしては、機弦楽器
のラワープやドタール、タンブール、機弦楽器のサタールやゲ、ジェック、ホシュタールな
どがある(図 9)、(図 10) 25
。
)
図 9. (
左側)
ウイグル人が通常使用し
ているゲ、ジェック.
(筆者撮影)
図 10. (右側)
ドラーン ・メシュラップ
で使用するドラーン ・ゲ
2
0
0
2
.
9筆者撮影)
ジェック.(
打楽器ではタンバリン型のダップや、ティンパニー型のナグラが使用される
D
前者は、
通常フレーム ・ドラムの一種で、フレームの片側に皮が張られ、その内側や枠に金属製の
リングが付いている。基本的にダップは、「大」「中」「小 J と 3種類がある
D
後者のナグ
ラは、主にチャルメラ型の「スナイ」と呼ばれるリード楽器とともに演奏され、野外向け
2
5)メキットやマラルパシなどでは、ウイグ、
ル人が通常使用する弦楽器の規格とは異なる「ドラーン ・ゲジェ
ック」「ドラーン ・ラワープ」がある 。
-5
4-
の太鼓である D この太鼓は結婚式や店の客寄せ(図 11)、イスラームの行事などで使用さ
れる。婚礼時には、これらの奏者を荷台に乗せたトラックが、花嫁 ・花婿の乗った車の後
方へっき、賑やかに演奏しながら街頭を走る光景がしばしば見られる
D
図 11. 商店の客引きのために演奏されるナグラとスナイ( 2002.9筆者撮影)
基本的には、ダップよりナグラの方がより遠くにまで響く構造のため、スナイとともに、
雑踏の多い街頭では、ナグラを使用する
D
新彊を訪れると、日々ナグラのリズムを至る所
で耳にする口このリズムもまた「ショホ ・リトワム j が多用され、この低音リズムの効果
が人びとに曲の印象を与える。
その他、横笛のネイや楊琴類のカルーン、その他現地ではまだ偏見が残っているため音
楽や芸能と見なしてはいない人びとが多いが、「カランダール池町angdar =物乞しリがよ
く使用する肩で叩いて奏するサパイと呼ばれる金具の輪のついた棒状の楽器などもある
D
また、ロシア経由で流入したヴァイオリン(スクルプカ)、アコーデイオン、ギターや
電子楽器と、従来使用されていたウイグルの民族楽器の混同した編成なども見られる。
これらの楽器は、各所により編成が変わり限定されない。東田( 1999)によれば、カザ
フスタンでは、今日、民族楽器の改良が進み、編成や楽器のサイズもオーケストラ的に規
模が大きくなりつつある。こうした状況は新彊の民族楽器にも同様の傾向が見られる D
これは、西洋音楽の系統を汲んだ旧ソ連の影響が解体後も民族楽器に反映し、今日に
至ってロシア経由でイリから新垣へともたらされたことが要因であり、そこに新彊の
-5
5-
グローパル化の波を窺い知ることができる口
以上、ウイグノレ音楽のジャンルに関し、詳細を挙げたが、これらのジャンルは単独で、成
り立っておらず、常に相互に影響しあい、各ジャンルが他のジャンノレと関連している。
その関連を筆者がまとめたものが(図 12) 26)である。
語り物
独奏曲
図 12. ウイグル音楽、ジャンルの関連図(筆者作成)
第 4節
民間芸能を行う場所とその機能
1
.ウイグルの『メシュラップj
次に、民間芸能がどのような場で成され、その場を通じてウイグル社会で、どのように機
能しているかを明らかにする。この民間芸能の場や機能には、日常性や季節性、定期性が
見られるとともに、年齢層や職業層、その時点の事象により差異がもたらされる。
26)たとえば、器楽曲や民間歌曲の中にムカームの 1節が借用される場合や、語り物が歌曲とともに
交互に歌われるなど柔軟性をもっ。また、「民間音楽」は「民間歌曲」「民間舞踊」と相互に関わっ
ている。たとえば、トルファンの踊り「ナズルコム」は「民間舞踊 J であると同時に歌は「民間歌
曲」に部類する。
帽
56-
ワイグル社会で、電子楽器を使用しないアコースティックな民族楽器や、地元住民の踊
りを最も自の辺りにする代表的な場所は「メシュラップ」である。メシュラップはウイグ
ル社会に限らず、イスラーム文化圏においても、古くから行われていた慣習であり、千夜
一夜物語にも登場する。
このウイグルのメシュラップという名称は多義的であり、ウイグノレ人たちゃウイグル関
係の研究者らも、正確に定義することが容易で、はない。メシュラップとは、大小さまざま
なあるコミュニティ構成員で集い、芸能ないし歌舞音曲や食事とともに、そのコミュニテ
ィ構成員の相互関係を高める場を意味する。この中には歌や踊りのほか、手品やチャクチ
ヤク(漫才)、ゲームやコント、相撲、民衆に対する歴史をテーマとした叙事詩の語りな
どが盛り込まれる口あるいは、観客自ら飛び入りで歌や踊りに興じ、前述のムカームのほ
かに、地域に馴染み深い民間歌曲や、聴衆からの合いの手やそれぞれ演者にかける「つっ
こみ」の声も全て含まれる。つまり、メシュラップは場そのものや、歌舞・芸能、慣習や
機能のみならず、参加者全体がその場で作り上げる雰囲気そのものなのである。それは、
それぞれのウイグル人らから聞き取った、唆昧な説明を総括すると、そのような概念に捉
えていることがようやく理解できる。
また、藤山(2005)は、こうしたメシュラップが歌や踊りの娯楽的空間であるとともに、
地元住民にとって、「集会」という別の機能的役割を果たし、組織的分担や規約なども担
っているとする(藤山, 2005:2)。そのため、地域によってはそのコミュニティ構成員内
。
)
にある決まりごとを教え、子どもらに対する教訓的なゲームも行われる(藤山 2005:2
また、 Rakhmanは「パフォーマンスの場の総称」を意味するとする(Ra
財n
n
a
n
,1
9
9
6:1
9
2
。
)
ただし、メ、ンュラップという名称は、 1
2 ムカームの最終楽曲部の名称でもあり、さら
にウイグル人の聞で、英雄的詩人の名称を意味する場合もある。本節で挙げるメシュラップ
を筆者が定義した場合、以下のようなものである。
つまり、メシュラップは、音楽とともに「見る」「聴く(聞く)」「食べる Jに限らず、
「演者・聴衆ともどもが行う」「教え、教えられる」「発言する Jなどの要素も含まれ、
コンサートやライブハウスとは異なり、人としての身体的動作、すなわち「パフォーマン
スの雰囲気の場」の総称と捉えた方が良いであろう。
ウイグル社会に存在するメシュラップは、今日規模的に 3つに大別される。以下には、
筆者が 2005年から 2008年にかけ、新彊の随所で参与観察や聞き取りで得たメシュラップ
の形態とその特徴を挙げる白
-57-
1
)小規模なメシュラップ
メシュラップのコミュニティは大小さまざまである。このコミュニティとは、ウイグル
人間の間で暗黙の了解で認識されているため、規模も形態も若干の異なりを見せる。
小規模の場合、マハッラ
2
7)と呼ばれる日本の「結(ゆい)」に近く、村単位など近郊の
家族聞のコミュニティ内で形成されている。この場合、収穫や種蒔きを祝う際の祝事とし
てとりおこなわれる場合が多い。その背景には農村の小コミュニティにおける、集団作業
や季節性が窺える。
この小規模のメシュラップは、葡萄棚や果実園の日陰で、歌舞やそのコミュニティ内の
みで通じる「世間話」が主体である
D
それらに参加する子供たちも、自ずとその場で歌舞
や、コミュニティ内での決まりごと、農業に因んだ知識などを得る。また、大人にとって
も育児に苦労することなく、メシュラップへ参加すれば他の子供らとともに遊ばせ、他の
同コミュニティの人に面倒を頼めるということが可能である。
さらに、老人の演者が歴史的な叙事詩の弾き語りをしたり、即興の詩を詠むなどして、
歴史的な教訓や過去を若人たちに伝える場でもある。聴衆はそれに耳を傾けては領き、時
には笑い、泣き、それで lつのコミュニティにおける共同行為や葬儀時の助け合いなどが
潤滑に進めることができ、共感性が生まれるという機能を果たしている口その小コミュニ
ティの決まりごとを守れなかった場合には罰ゲームが行われ、戒めを娯楽でもって理解さ
せるという役割も果たしている D
今日では、こうした小規模のメシュラップは、観光向けに一定の場所で行われているの
が大半である。しかし、鎮や郷では、まだこうした知られざる小規模のメシュラップが存
在し、それぞれ異なるスタイルをもっている。しかし、基本的に娯楽と教訓、歌舞を伴う
場という点では同様である。
2
)中規模なメシュラップ
一方、中規模のメシュラップは、定期的に行われるバザールの日に、人の多い場で行わ
れる。バザーノレ時には、都市近郊の村々から商品をロパ車で運び、それで収入を得る。そ
27)マハッラは、アラビア語で「場所を占める、住む J の意で、中央味に通ずる概念であり、「街
区」と訳される場合が多い(帯谷, 2003:160)。ただし、新彊では村落単位の概念として使用される
場合が大半である。
-58
圃
のような場でのメシュラップは人びとがより多く集まる場であり、買い物をする人びとや
売り手、見物人などを対象に、バザールから近い公園や特別に設置された野外の場で行わ
れる口
この中規模のメシュラップの場合、バザールを目当てに来る人びとに、どの場でメシュ
ラップが行われているかわかるよう、演奏や歌はマイクが使われ、その音響効果で、寄って
くる聴衆も多い。基本的に楽器演奏者は決められているが、コントや歌、演奏の伴奏とな
る複数の太鼓演者、「ラパ」と呼ばれる男女の歌のかけ合いなどは、同一の人聞がロ}テ
ーションで誇け負うことがしばしばある。
また、聴衆も観光客も参加し、有料制のところもあるが、安価で見て参加することがで
きる。曲目は、小規模なメシュラップとは若干異なり、ムカームをはじめ、各地の民間歌
曲・民間舞踊を複数続けて演奏する。また、時には各地域の民間歌曲や舞踊を続けて演じ
る場合もある。
この中規模のメシュラップの場合、踊りは誰でも参加自由であるが、歌に関してはウイ
グル・レストランや小規模なメシュラップのような外来人の飛び入りは、暗黙の了解で許
されない。あくまで、演者たちの中ではプログラムが決められており、平均 3∼ 4時間ほ
ど、飽きのない題目を演出する。また、小規模のメシュラップのように村単位ではないた
を説いたり、そのための罰ゲームなどは行われず、歌舞と娯楽
め、村内で決められた教訓i
が主体である口
つまり、中規模なメシュラップは、バザールを目当てに来た各方面からの人びとにとっ
て余興の場として役割を果たしている。代表的な中規模なメシュラップとしては、ヤノレカ
ンドの日曜バザールで、行われるもので、筆者は数回足を運んだが、行く度に場所や内容も
変わるものの、都市を中心にバザーノレに来る各村人や時に来る観光客とのコミュニケーシ
ョンを楽しみながらはかり、解放の場として機能している。
そのような娯楽の場であるものの、今日は「人が集まる」ということを警戒する公安ら
によって、中規模ノ〈ザールも年によって禁止になり、縮小されつつある。しかし、公認で
行われている中規模のメシュラップでは、 70歳代の「アック・サカール(白髭の老人)」
から、若人、子供や観光客に至るまで、広範な参加者が一同に参加し、見知らぬ者同士が
コミュニケーションをはかることが可能な場として機能している。ただし、食事はふるま
われず、バザーノレの屋台や売り子たちから買い、それらを食べながら参加に応じている。
ウイグル人の蹄りの参加には基本的なマナーがある。自主的に踊りの場へ参加する個人
-59-
が
、 l人自由気ままに踊ることもあれば、聴衆の中から、ともに踊りたい相手を選び、そ
の相手の前で身振り手振りで踊りへと誘う。基本的に相手は踊りに応じ、同じく踊り場へ
と出向く。時には断る相手もいるが、これはウイグル人の間で、はマナーとして良策ではな
い。たとえ、踊りが巧みでなくとも踊り場を立って歩き回るだけで、誘った側はコミュニ
ケーションをはかったと理解し、共感を得る D 特に外国人観光客の場合は、誘われるター
ゲットにされがちである。これも、歓迎の意とコミュニケーションをはかるきっかけとし
て、踊りに誘われる。このマナーが顕著に出る場が中規模なメシュラップにおいてである D
この中規模なメシュラップは、遠方から来た観光客をもてなし、歓迎と共感を求めるた
めに行われるため、踊り手と聴衆の間にはホスト(担い手)とゲスト(外来者)の相互関
係が成り立つ D
3
)大規模なメシュラップ
さらに、今日では、行政主催の歌舞音曲を伴う大規模な祝典などもメシュラップと呼ば
れ、新彊内のテレビで大々的に放映される。この場合、大勢の地元住民のほか、行政関係
者や漢族なども参加する。小規模、中規模のメシュラップと異なる点は、地元の特産や造
花で装飾され、衣裳も着飾り、ステージの歌い手も聴衆で選ばれた人か、歌舞団や芸能人、
地元で民間歌舞を古くから歌っていた老楽師などが主体で、飛び入り参加はまず皆無であ
る。プログラムも司会者が進行役を務め、いわばコンサート形式で、食事はともなわない。
その企画のためのリハーサルや演出、綿密な打ち合わせも前もって行われる。
また、聴衆もその地域に因んだ衣裳を着て参加し、演者も聴衆も地域色を全面的に出し、
アピーノレする D この場合、行政が主催であるものの、地方の民政局や文化局、村長などは、
ホストである主催者にとってゲストとなり、司会者もプログラムの聞にそうした役人にコ
メントを求め、彼らの「顔を立てる」役目に徹している。演者もまたゲストではあるが、
「選ばれた人 Jが主体で、一般聴衆はホストでもゲストでもなく、好奇心で集まってきた
人びとや、前もって衣裳を揃えて参加するよう動員された民間人らが主体である。
ただし、行政が主催であれ、あくまで内容は歌舞が主体である D ただし、食事や屋台な
どはなく、聴衆らは元より「野次馬的」に好奇心から参加してくる。政府主催の規模で行
われる歌舞は、都市部から離れた住民は滅多に見られないという理由もある。また、大規
模なメシュラップに関しては、伝統的なものがショーアップや再構築されたり、過度な演
出であったとしても、参加者から終演後の悪評はほとんど聞いたことがない
-60-
D
その点は、
中国のショーアップと共通している部分がある。
上記のようにメシュラップの場や機能、そしてその規模や内容はさまざまであるが、い
ずれのメシュラップにせよ、音楽とともに歌と踊りが行われることが通常である。こうし
た娯楽的な場が日常生活が単調な人びとに彩りを添え、交流の機会であることに変わりは
ない。
2
.時期臨時間・場所性
上記のメシュラップのような民間芸能が、どのような時間と場で行われているのかを、
次に挙げたい。
これらは大別して、①日常的なもの、②定期的・季節的に聴かれるもの、そして③不
定期的に成されるもの、その他に分けられる。その中から特に典型的な例を次に示すD
1
) 日常の場所ー街頭
街頭は音楽を聴く上で、最も日常的で、最も定着しやすく、費用を危倶することなく身
近に視聴できる場である口
音楽媒体が街頭で流される風潮は、ラジオやスピーカーの時代から、 1987年頃より普
及したカセットテープ(アブドラフマン, 2008:4・5)や VCD、さらには DVD に取って
代わった D しかし、現代に至っても変わらないのは、人びとが日常で街頭を歩く際でも、
多種多量の音楽を試聴できる点である。音楽媒体を販売する店からは、連日、各所で音楽
が大音響で流され、今日では動画付きの VCDや DVDが絶え間なく流されている。街行
く人びとは、時折その店頭で足を止め、テレビのモニターを食い入って眺め、その様は日
本で言えば、さながら古き「紙芝居」に食い入る子供たちを初練とさせる(図 13、
)
(
図 14。
)
そうした街頭で流れされている音楽を日々聴くことにより、人びとは自然にその歌や音
楽を自らの記憶の中に留めることができる。これは、今日において、新たなアルバムが店
頭に出た際の販売戦略としても活用されている。しかし、一方で、そうした音楽媒体の中に
もアコースティックな楽器による音楽が時に聞こえてくる。このように街頭では、騒々し
い車や物売りの声とともに、 VCD ショップや、結婚式の路上披露、店の客引きを目的と
して、毎日のように太鼓の音、特にショホ・リトゥムの音が絶えることはない。
-6
1-
図 13
. ホータンの VCD店のモニターを見入る人びと( 2
0
0
7
.
1
2筆者撮影).
冬場にも関わらず、店内で流されている VCDに食い入るように見入る人びと 。
店の外には何が放映されているかをわからせるための、スビーカーが設置されている 。
図 14. VCD店内の中(向上).
多数の VCDやカセットテープとともに、中央には VCD再生用のモニターが設置され、
店内にもスピーカーが置かれ、大音響で流されている。
-62・
その聞こえてくる太鼓の低音は、街頭を往来する人びとにとって、あまりに日常的であ
るがゆえに、特別なこととは感じていない口しかし、この無意識な低音のサウンドが、街
頭を歩く人びとにとって感覚的に音を耳に植えつけさせ、記憶となる
D
また、その時期に
何(誰)の歌が流行しているかも、店頭から流れてくる曲の頻度で認識することができ、
人びとは街頭を歩いていきながら、知らずの聞にその時期の流行を知り、口ずさんでいる。
こうした、街頭へのサウンドの配信は時間を経た後に、その時点における公私の事象とと
もに、個々の記憶や、その音楽を思い起こさせる役割を果たしている。
2
)定期的・季節的な場所バザールとマザール
メシュラップについて前述したが、定期市である「バザール」とメシュラップは密接に
関わっている。新彊の各オアシスで、音楽のみならず、騒音や人声、物売りの声など、も
っとも音を多く耳にするのは、このバザールの日である。バザールは週に 1度行われ、他
の鎮や郷からも買い手・売り手がやってくるため、大勢の人びとで混雑する。その頻度や
人数の多さからすれば、バザールも定期的かっ日常的な場と換言しでも良い。
バザールと並行して、人の集まる場として、次に定期的に地域各所にあるイスラームに
まつわる聖人の墓「マザール maz訂」が挙げられる
28)口マザールは、集団で礼拝する行
為であり、この際にも遠方からロバ車に乗り、訪れる人びとが集まる口この場合には、バ
ザールのメシュラップなどで聴かれる陽気な歌舞とは異なり、歴史的叙事詩の聖戦などの
語り物「ダスタン」や「マツダー」などが単独の演者によって詠われる。
哀( 2000)は、ワイグルの民間芸能について、これらを歌うためにふさわしい時間と場
所とは、「人びとが定期的に集まることができ、生活の需要を満たし、かっ交易の場であ
る市「バザール|と、季節的に遠出をして祈る場「マザーノレ」である」とする。(哀, 2000
:90
。
)
いずれにせよ、バザールとマザールは、ある時期に人が集う場であり、音楽においても
披露の機会を得る場である。また、著作権の管理が未だ行き届いていない中国では、バザ、
ール時に他の品物とともに、 VCD やカセットテープの海賊版の露店が並び、叩き売りの
ように販売されている。 VCD ショップで、パッケージ化された音楽媒体よりも低価で購入
28)マザールは新彊各所にあり、本来はイスラームにまつわる「聖人の墓J を指す(西脇, 2000:9
1
。
)
, 6、8、9月にマザール礼拝として聖人の墓参りをする習慣である。
例年 5
-6
3-
できるため、地元の住民たちは海賊版を購入する場合が多い。その購入が多いため、広範
にわたり多様な音楽が地元の住民たちの耳に届く。しかし、実際には元の VCD販売会社
や歌手、音楽媒体化に携わる職種の人たちにとっては、収入源を得られず深刻な問題でも
ある。
3
)儀礼的な場所一結婚式・割礼式・宗教行事
メシュラップが行われる場であるバザールやマザールの他に、定期的に生の音楽が聴け
る主な機会に、結婚式や割礼式などがあるロこれらは、個々の家庭や親族によって成され
るものであるため、「定期的」とは言いきれないが、ウイグル人の間でこうした冠婚葬祭
は、イスラームの戒律に基づき、ある一定の時期に集中するため、「定期的」なものと捉
えた方が適切で、あろう。また、婚礼時に行われる歌や踊りは、それ単独ではなく、ワラマ
ーと呼ばれるイスラーム諸学を習得した知識人による祈りから、新郎新婦それぞれの家庭
での儀礼、そして披露宴というある手順の一環に則って行われるため、そのような手順を
踏まずに集う前述のメシュラップでの歌舞とは、根本的に形態やプロセスが異なる。した
がって、ウイグ、ル入社会で、婚礼披露時の踊りや歌をメシュラップと呼ぶ人間はおらず、そ
のようには認識されていない口
婚礼時の戒律を下に定期的とウイグル人が認識するのは、ワイグル人の結婚式や割礼式
は断食の月であるラマダンの最中には行うことができないことである。したがって、ラマ
ダン前にそうした冠婚葬祭が集中するロ曜日も同じく、金曜日が週に 1度の集団礼拝日で
あるため、この曜日の祝事は避けられる D また、日本や他国でも見られるが、平日は仕事
に、逆に連休は遠方へ出かける時間にあてられたり、帰省する人びともいたりするため、
集客は期待されない。したがって、土・日曜に祝事が集中する傾向がある。
ウイグルの婚礼や割礼式などの祝時の際には、自宅にプロの奏者を呼び宴を催す口この
際の音楽は、ムカームやウイグ、ルの古い叙事詩などを題材とした歌が歌われ、比較的小規
模な演奏である。それらが終了後、夜はウイグ、ノレ・レストランや宴会の席で、客は多量の
料理を食し、踊りや歌に興じる。
かつては、こうした夜の披露宴も民家で行われ、その際にはプロの音楽家たちが雇われ、
2 ムカームなどがアコースティックな民族楽器で演奏され、深夜まで踊り明
民間芸能や 1
かされたロしかし、今日の宴会は基本的にウイグル・レストランで行われ、演出や曲の題
自にも変化が見られる。
自
64-
4
)季節的な場所一収穫期
メシュラップは、本来、農耕における種まきの時期や収穫期などに、それを祝うものと
して行われていた。こうした、農業をめぐってのメシュラップや歌に出てくる場は、最も
身近な地方が出てくる一方、その小オアシス周辺を通り越して、逢か遠方のオアシス都市
の地名が登場する場合もある。
哀はそういった場を「芸能の上演で生まれた芸術的な魅力によって、日常生活の単調
な村人は思わず作品の境地に浸ってしまい、一時的にあの広くて限りない時空を自由に飛
び回り、そこから思考を獲得し、慰みを得て、伝統文化の薫陶を受け、人生に対する勇気
を手に入れ、満足感を得ることになる。(西脇, 2000:93)」と、やや誇張した表現ではあ
るが、ウイグノレ人の芸能にある奔放さや快活さを的確に表現していると考えられる。
それは遠距離や交通の不便さのため他のオアシスへ行きづらい地域における人びとの想
像や願望が民間歌曲の歌詞中で出てきた結果であると筆者は推測している。
3
. 不定期に機能している場所
1
)ウイグル・レストラン
現代において不定期に催される場で、最も音楽ジャンルが多く、最も現代的な新襲の音
楽事情を見たいならば、ウイグル・レストランへ行くのが最善である。なおかつ、そうし
た場は野外ではなく、周囲を壁で覆われた建物、いわゆる「箱形」で演じられるため、参
加する人びとの中にワイグノレ社会内部の有象無象も垣間見られる。ワイグル・レストラン
は、上記の結婚式などのほか、客のもてなし、遠方から戻ってきた知人をねぎらう場、知
人の誕生日祝いなどで使用される。ゆえに不定期的な時期・場とした。
厳密に言えば、現在において「ワイグル・レストラン」という響きは、多義化してきて
いるロバザーノレや露店で、昼間に食事をとる場も「食堂」とは呼ばずにレストランというこ
とになれば、さらに種類は増えるであろう口また、今日では昼夜関わらず、都市部では
ウイグノレ料理をふるまう酒落たレストランが増え、広い年齢層のウイグノレ人や旅行者たち
の聞で人気が高まっている。こうした新式の店は、店内の装飾から店員の服、その対応や
メニュー、音楽に至るまで、イスラームの教えにのっとった禁酒・禁煙、服装規定に基づ
いた「ウイグノレ風」を強調するサービスが徹底されている。
これに対し、本項でいうワイグル・レストランとは、上記のような食事やお喋りを主体
・6
5-
にした店ではなく、主に 1980 年代から急増したパーティーや、ダンス ・ホール的な場を
意味する。 このウイグル ・レストランは、中国で改革 ・解放運動より以降、急増し、流行
i
v
a
」 を模倣.したもので、食事を取りながら踊りがあるダン
から定着への路線を辿った「 d
i
v
aは中国の主要都市より遅れ、新彊にも波及した 29
。
)
スホールが基盤で、ある口 d
今日の日本で言えば、ディスコ ・ハウスかハウス ・ミュージックとされる「クラブ」に値
する場であろう 。
レストランの構造としては、円卓の中心に客が踊れるスペースがある (
図 15)。会場
の前方には演奏者のためのステージが設けられている 。 ステージには、造花が並べ立てら
れ、背後には新彊とは思えない自然豊かな絵が原色主体で描き連ねられている。 この装飾
は外国人観光客には好印象を与えないが、沙漠に固まれたウイグル人たちにとっては、そ
。
。
の場でも疑似体験できる風景画なのである D
ウイグル ・レストランのような構造は一般的であり、食事の最中でも踊りたい時には各
。 。。
図 17。
)
図 16、
) (
自が自由に中央に出て踊ることができる (
ステ!ジ
。
。
。 。 。。
図15.ウイグ〉レ ・レストランの内剖首荷量例ホータンの 1レストランをモデ〉同こ筆者がスケッチしたもの)
29
)トルファン出身の H.A.は、ちょうどこの d
i
v
aが出始めた頃に大学生であり、「踊り好きのウイグル人
ならば当然、好きならば毎晩のように通い詰めた」という 。彼自身もお金ができれば毎晩で も通ったと
0
0
9
.
7)
。
言 う (電話での聞き取り実施: 2
-6
6-
図 16
. ウイグル・レストランでの踊りの風五電子楽寝の伴奏で一般に踊られるウイグルの踊り 。
踊りのスタイルは、現代的なレストランにある電子音楽で民間音楽が演奏されていて
2
0
0
9
.
9筆者撮影)
も、ウイグル人の中で一般的な踊り「セネム」である 。 (
図 17
. ウイグノレ ・レストランで踊られるチーク D
女性同べアで踊るのも可能。 中央は、ウイグル人の踊り手たちとともにチークを踊る筆者口
(
2
0
0
5
.
9写真提供:古津文)
-67-
曲のフ。ログラムには、伝統的でアコースティックな楽器演奏やムカームなどは少ないが、
さまざまな年齢層を考慮して、数曲は必ず入れられる。アコースティックな楽器演奏の後、
ポピュラー化された民間音楽を主体として、人気あるウイグノレ人歌手の新曲やウズベクや
タタールなど他民族の音楽、外国曲などが歌われる。また、メシュラップと異なり、ウイ
グルの踊りに限らず、チークやディスコ、ワノレツや社交ダンスなどが踊られる。
また、客から歌の飛び入り参加や、ある客が他の親しい客へ捧げるため、ステージの歌
手に特定の歌をリクエストすることも可能である。客は次々に演奏される曲目を聴き、そ
の曲がウイグル・スタイルの踊りか、ワルツ・スタイルで踊られる曲か、チークで踊られ
るものか、あるいは踊らずに黙って聴き入る曲かを随時察知し、その都度説明も受けずに
身体で反応する。
演奏のプログラムは 1時間ほど演奏されたところで、演奏者や踊り手に 30分程度の休
息を与え、その間は各自食事と伴いながら、知人同士で語り合う時間となり、バランスを
とっている。また、日常において街頭で慣らされている VCD と同様、こうしたレストラ
ンで演奏される際も大音響で慣らされ、その割れんばかりの音響もウイグル・レストラン
の特徴と言えよう。
ウイグル・レストランが中国人の使用する diva と大きく異なる点は、ディスコや他民
族の音楽の聞に、あくまで民族音楽をプログラム中に多数入れ、シンセサイザーとともに、
ラワープやダップなどの民族芸能とのコラボレーションが多く見られる点である D また、
電子ピアノにウイグル音楽特有の中立音が出せるレバー装置が付いており、演奏者は単純
なベースを操作してコ}ドを変えながら、巧みにそのレバーにて、メロディーに細やかな
「うねり」を添えるよう駆使している。
こうしたウイグ、ル・レストランで催される歌や踊りのスタイルに対し、伝統的なものが
破壊され、騒々しいと批判的にとる年齢層もいるが
)、おそらく、現代のウイグル社会
30
における最も凝縮された場がこのウイグル・レストランであろう
3
1)。客層の主体はさま
30)アコースティックによる音楽を好んできた人びとにとって、ウイグル・レストランの大音響は、
会話を妨げ「ベック・ワランチュルン!
(非常に騒々しい)」と批判する。しかし、これは年齢層
とは関係ない。年輩で参加して楽しんでいる人を見かける一方、若者によっては、こういった騒々
しい場を避ける人びともいる。
3
1)最近できた新式レストランと異なり、ウイグル・レストランにおいては、飲酒もできるため、酒
に酔った勢いでその賑やかさは最高潮に達し、日頃心中に留めである心中も聞かれるため、ワイグ
ル社会を反映し、「発散する J場として、今日では不可欠の場でもある。
-68-
ざまであるが、ワイグル人の若手から 40歳代までが目立つ D 結婚式や割礼式の披露宴に
も使用されるため、この場合、老若男女間わないウイグノレ人たちが興ずる光景が見られる。
しかし、ウイグル・レストランにおいても、.今日、変化が見られる。複雑な地域である
1 日のアメリカ同時多発テロや、 2009年 7月の暴動後に観光客が減少
ゆえ、 2001年 9月 1
した時期と、内陸部より移住者や労働者が新華へ流入し、地元ウイグノレ人たちの仕事が減
少した折には、ウイグル・レストランのウイグル人の客層は増えるという現象が見られる。
失業したウイグル人が増える度に、レストランで溜と踊りに明け暮れるウイグル青年が増
加する。
ウイグノレ・レストランを使用するウイグル人の客層も 2種あると言ってよい。 1つは、
単に結婚式や仲間内の娯楽の集いとして使用し、ある意味、彼らの陽気さや楽天性を表出
する客層である。 2 つめは、上記のような複雑な背景から一時的に現実逃避し、踊って酒
をあおり、日常の嫌なことや、やりきれない想いや怒り、悲しみを、その日のうちに踊り
によって発散させる客層である。こうした娯楽の場でも、裏では政治性が働いていること
は明らかである口
しかし、その背景下においても、いずれの客層も笑顔で踊り、日常の苦難は踊りの最中
には忘れているのが現状である。筆者が実際に見て感じたのは、彼らは自らの感情を素直
に出し、笑いたい時には腹の底から笑い、泣きたい時には辺りかまわず泣き、心の中に溜
め込むということをせず、苦しければ踊り、歌い、その日のうちに苦しさを忘れる術を知
っている。その辺りは、ウイグノレ人は日本人よりもよほど還しい口
実際、日常会話で彼らと個人間でトラブルがあっても、よく出てくる言葉は「忘れて下
さい」という言葉である。また、留学で来たウイグル人たちは、日本に来て初めて「スト
レス」という言葉を知る。ウイグル語にこの語棄に値する単語は見当たらない。
筆者からすれば、嫌なことがあるとすぐに忘れるというのが、ウイグル人の長所でも
あり短所でもあるが、生活の上、特にウイグル・レストランにおいては長所に働いている。
勿論、毎夜このように楽しんで、いるわけにはいかないが、ワイグル・レストランに参加す
るワイグル人たちは、現代の風潮に沿った現地の音楽スタイルや実生活の現状を受け入れ
ながら、明日のことを考えているように見える。
ワイグノレ・レストランは、グローパル化とローカル化、非現実と現実、そこからの逃避、
儀礼と娯楽、伝統の保持と再構築など、対照的な側面が同時に窺え、人やジャンルを選ば
ない。そうした意味では、現代のウイグノレ社会を集約する場で、あると筆者は感じている。
-69
聞
2
)長距離パス圃乗り合いタクシー
その他、不定期な場としては、今日長距離〆スや、相乗りタクシーも挙げられるだろう
D
一般のウイグル人はコストの高い空路を使用せず、またそうした空路がない地域もあるた
め、大半はパスや相乗りのタクシーで、行き先によっては数時間、あるいは数日かけて目
的地へと移動する。その際、道中の大半は沙漠が続く退屈な景色のみである。
こうしたことを考慮し、長距離用のパスやタクシーには、 VCD を再生できるテレビモ
ニターが設置されており、映画や歌謡番組を見ながら、道中を楽しむ D こうした現象は、
今日になってからであるが、こうした乗り物へのモニター設置により、外国音楽や民間芸
能に触れる機会が増えたという実情もある。
第 5節 小 括
以上、新彊およびワイグル人、その音楽の概況を、新彊という自治区全体から地域へ、
音楽から人へと、広範な視点から詳密な視点へと焦点を絞り込んで述べてきた。これらの
状況が後の章の分析や事例において重要な意味をもっ。
新彊の歴史的・地理的、そして音楽的にみる多様性は、行政の力や地域の隔絶性やそれ
ぞれの立場、規模、種類という多様性と複雑に合い混じりながら、内部の音楽や人を形成
し、機能している。これらの状況が定着化するまでは、決して短い時間で即座に受容され
たわけではない。しかし、大規模なメシュラップや音楽の媒体化やウイグル・レストラン
に見る現代の諸相は他諸国と比べて、ここ数十年で急速に進行し、歴史的には浅い。
この長い時間と急速化の連続性に加え、在地条件、人種の混合などが、文化においても、
より多様性をもたらし、その重層性によって今日の民間芸能も支えられている。
これらをとりまくダイナミズムによって、民間芸能とともに、今日、現地の人びとの概
念や相互関係も変化段階にあると筆者は考えている。
そこで、筆者は次章にて、本章を踏まえた上で、ウイグル音楽が今日に至るまでの経緯
について述べる。
-70-
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