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中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化に関する民族

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中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化に関する民族
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
中国新疆・ウイグル人の民間芸能をめぐる多様性と変化に関する民
族音楽学的研究
Author(s)
鷲尾, 惟子
Citation
奈良女子大学博士論文, 博士(学術), 甲第484号, 平成23年3月24日学
位授与
Issue Date
2011-03-24
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3557
Textversion
ETD
This document is downloaded at: 2017-03-29T01:14:02Z
http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
第 5章
民間芸能の創出と変化
ードラーン民間芸能のパフォーマンスを事例に−
第 1節
ドラーン人とドラーン・メシュラップ
本章では、ウイグル人の民間音楽の中で、特に中国の開発やグローパノレ化・ローカル化
の波及で押し寄せる観光化に伴い、ごく今日になり、外来者たちから注目を浴びているド
ラーン地区の民間パフォーマンス「ドラーン・メシュラップ」を事例とする。そのパフオ
)マンスや、それらをめぐる興行政策において、人びとの認識の様相がどのように変容し
ていったかについて言及する 特に本章の事例は、民間芸能の中で、民間舞踊にも触れる。
D
本事例によって、これまで挙げた民間音楽や民間歌曲の核に加え、それらと密接に関わる
ワイグノレ人の民間舞踊で、さらなる地域の独創性と核となる要素の考察が可能であろう。
また、筆者は前章にて民間歌曲の代表的地域を取り上げた。しかし、本章と次章におい
ては、サブ地域とするドラーン地区とホータン地区をあえて事例に挙げる。それには 2点
の理由がある。
1点目は、両地域は周辺的に扱われていた地域であり、その地域住民もその音楽に関し
でも、関心があまり向けられていなかったことである。しかし、「ドラーン・メシュラッ
プ」は 2000 年代になり、関心を集め始め、音楽媒体も増えた。ホータンの民間芸能も、
まだ量は少ないものの、この 10年ばかりで市場において見られるものである
D
これらが流布されることにより、ウイグル人たちの両地域に対する認識も、この僅かな
期間で変化をもたらしたという背景がある。
そこで、なぜ、今日になり、ウイグル社会や彼らの認識に変化が生じたか。その「ドラ
ーン・メシュラップ」浮上の経緯と変容過程を追い、ウイグル社会やウイグ、ル人の認識の
様相を探求したい
D
2 点目として、筆者が現地にて実際に参加し、体感したサイドから見ると、
ドラーン地
区とホータン地区の民間音楽は、対照的な志向性へ向けて配信されている。
「ドラーン・メシュラップ」の場合は、ウイグル(中国からすれば圏内)における文化
の地域的多様性として、外国へ向けて働きかけようという傾向が見られる。こうした民間
音楽は今日地方様式を保持しつつも、観光者向けにショーアップされている。しかし、「ド
ラーン・メシュラップ」の場合は、今日、主に観光客を対象として演じられているものの、
芸能そのものの原形は留めながら、周囲の装飾や踊りの編成の変化でアピールしていると
ころが特徴的な点である。これとは対照的に、ホータンの民間音楽は、原形をあえてカセ
ットテープや VCD、ポピュラー化へのアレンジによって再構築し、ウイグ、ル社会内部に
・1
1
5-
て流行曲として受け入れられた例である。その流行を経た後に、一部のウイグル人の中に
は、ポピュラー化される以前、元来のホータン民間音楽がどのようなもので、あったかに関
心を寄せる人びとも現れ、ホータンで語り伝えられてきた「語りもの」であるコシャツク
やダスタン、その他の民間音楽の VCD が後に発売される結果となったのであるロそのよ
うに筆者が本研究にて、 ドラーンとホータンの地域を具体的な事例として選んだ理由は、
今日、同じ「ウイグル人」とされながらも、オアシス地域による音楽スタイルの差異で、異
なる志向性を辿り、地元住民の認識に反映していることを明らかにするためである口
こうした、地域の民間音楽は、中国の政策によって推奨される文化資源となっていると
同時に、ウイグル社会内部においても、彼らの社会や地方認識に対するアイデンティティ
の拠り所として機能している。本章では、まず、「ドラーンの地域」の民間音楽を事例に、
挙げ、地元の人たちの認識と、現代に至るまでの変化を分析したい。
概して言えば、各地域のスタイルを保持しつつも、ポピュラー化や観光政策などと結び
つき、ウイグ、ル社会の内外へと拡大している。この拡大は各地域のスタイルや人びとの認
識の変化、販売戦略などにより、どの社会の大衆に向けて発信されているのか、その方向
性を異としている口
高橋は、ポピュラー音楽のスタイノレにおいて、沖縄のポピュラー音楽を例に一つの有効
な仮説を提示しているロ高橋は歌い手や音楽家が作品を大衆へ発信する方法として「自己
の音楽作品を白文化社会へ発信する『内向き』のスタイルと、他の文化社会へ発信する『外
8)ロこのスタイルに当て
向き』のスタイルがある」ことを示唆している(高橋, 2002:1
はめた場合、本稿で取り上げるホタン民間歌曲はウイグ、ルのポピュラー音楽と融合するこ
とで流行した「内向き Jの一例である。しかし、こうした「内向き」「外向き」への対応
の仕方は、地域の条件や歴史的経緯によって異なる可能性があるロ筆者はこの点をホータ
ンと同時期に注目されだしたドラーン地域の民間音楽と比較して第 6章にて後述する。こ
うした音楽スタイルの方向性を明らかにすることは、今日のグローパル化における音楽の
方向性を考察する上でも不可欠で、あると考える。
なお、本章の副題にある「パフォーマンス」という定義に関しては、高橋( 2005)やリ
チヤード( 1998)にも見られるように、演技や芸能のみならず、身体知や身体技法、人の
行為そのものなども含まれ、より多義的な意味となっているが、本研究では「音楽・歌舞
を伴ったもの」と限定する。中でも、試聴する側やプロデユースする側で、は見落としがち
な、「弾き手、歌い手、踊り手」たちの身体の動きや感覚的なリズムの微妙な「ズレ」の
-1
1
6-
上でも、変化がもたらせていることに注目し、言及したいロ
ドラーン人は、主にメキット、マラノレベシ、ヨプルガ(テリム村)、アクスのアワット
県、シャヤールなどタリム河流域の村々に居住し、・伝統的な生業として漁携や狩猟する人
。
)
びととされる( Svanberg, 1996:275・276;Rudelson1997:24;Svanberg1996:269
エスニツクグルーフ。としては、現在ではウイグ、ル人の中に含まれている。そのため、今
日の日常において現地のドラーン人とウイグル人とを区別することは容易ではない。ただ
し、その習慣としては、ウイグル人と異なる点もあるとされる。
ウイグルという民族呼称が成立にあたっては、本稿の第 2章にて述べたが、かっていく
つかのエスニックグループ。に区分されていた住民のうち、ドラーン人とロプ人は、他のテ
ユノレク系住民とは異なるエスニック・グループであると認識されていた(Rudelson,1997
。
)
ドラーン人の場合、例えば裸足で歩く習慣やムスリムでは食さないウロコのない魚を食す
こと、およびサトマと呼ばれる芦の小さな小屋に住むことなどから、他のウイグル人から
は貧しく原始的な人びとだと蔑視されていたことは、ル・コック( 1986:66・67)や、
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g(
1996:275・276)、佐口( 1
9
9
5:1
5
6・1
5
8)の論文からも窺える。
新援の各地区で区分されていた人び、との中でも、新義南西部に居住するドラーン人の歴
史は最も知られておらず、今日でも謎に包まれている。その歴史の謎ゆえに、一般的なウ
イグル人の歌舞と全く異なる彼らの特殊な音楽スタイルが、なおのこと中圏内に限らず、
海外でも注目されることになったと推測される。
ドラーン人の名称、は 20 世紀初めにあがるが、情報不足であり、その起源も天山北部地
0 世紀にトランソハニアからボグラハーン・ハールーン
域からの移住者(スタイン説)、 1
)
、 2、3 世紀前
によって強制移住させられ連れてこられた囚人の末育( Cap. Biddulph説
に定住したモンゴ、ル人の子孫(テニシェフ説)と、説が分かれる D いずれにせよ、サンプ
ノレが少なすぎ、るため、いかなる結論をも示唆することができないのが現状である。
は
、 ドラーン人が 1
7 世紀以来、ヤノレカンド河沿いに定住し
そのような中、佐口 (1995)
たオイラートの支配下で、彼らはカシュガルのホジャ家を支持し、清朝のタリム盆地征服
後、清の支配下の中、ヤルカンド河沿いにおける警護役として雇われた者もいたと説いた。
そして、佐口は沙漠地域の中の水辺の民であるドラーン人とロプ人との関わりについて言
及したが、この考察も確たる証拠がないまま、今日に至っている。
不透明な点が多々あるドラーン人であるが、彼らの種族や部落が、タリム河やヤルカン
ド河に沿って、いくつかの集落に分割されて居住していたことや、世紀初頭、マラノレベシ
・1
1
7-
地域において 6つのベグ制がありうち 1つは、その地域のドラーン人が頭首であったこと
が、探検家の報告などで、僅かながら窺える。
こうしたドラーン人が今日脚光を浴びるようになった契機は、彼らの聞で成されていた
「ドラーン・メシュラップ」においてであった。次節にてその音楽や形態について述べるロ
第 2節
ダンス・スタイルと楽器、音楽
上記のドラーン人の居住する地域を「ドラーン地域」と呼び 1)、この一帯で見られた歌
舞を「ドラーン・メシュラップ」と呼ぶ 2
。
)
「ドラーン・メシュラップ」は人びとが集まり
娯楽を交えながらも小さなコミュニテ
ィーをより強化するためのものであり、踊りや音楽に限定されたものではない。 ドラーン
の踊りもまた、「ドラーン・メシュラップ」においてパフォーマンスの中心となる一部の
舞踊形態として催されていた「ドラーン・ウスーリ」(u
s
u
lは踊りの意)と、その伴奏と
して演奏されるドラーン・ムカームが注目され、観光客らにも公開されるようになり、こ
れらが一人歩きして一気に広範に知られることとなった結果である 3
。
)
中国解放後、ウイグルの音楽も含め、ドラーンの歌舞に関して研究や録音で扱われたも
のは少なく、音楽分野研究ででも重視されていたとは言い難かったロ 1996年に『中国新
彊メキット県農民画集』、『ウイグル・ドラーン・ムカーム J等の書籍が出版され、『ウイ
グル・ドラーン・メシュラップ・ムカーム』テープが全面発行された程度である D しかし
1
9
9
8年、メキットが開放地区となって以降、その特有のダンス・スタイルと、叫ぶよう
な発声法が話題を呼び、今日現地ではドラーンに関する書籍は最多である。
以下に、 ドラーン・メシュラップにおける踊りの形態や、所作についての特徴を詳細に
挙げる。
1
)これが正式な地域名称ではないことは、第 1章の概要にて記述。
2)メシュラップは、「ドラ}ン・メシュラップ J のほかに、新彊各所に存在し、例えば他 にハミ
の「キョック・メシュラップ(青いメシュラップ)」や、クチャ・メシュラップ など、多くのメ
シュラップがある。
3)伴奏に使用される楽器もまた、通常のウイグ、ル人たちが使用する楽器とは異なる「ドラーン
・ラワープ」「ドラーン・ギジェック」などがある。
-1
1
8-
1
.ステップとリズム
今日のウイグノレ人がそうであるように、 ドラーン人もまた歌と踊りを愛好していた。 ド
ラーンの音楽がどのようなものかに関しては、僅れながら探検家の旅行記の記録からその
特徴を見て取れることができる
D
過去の探検記を見ると、ドラーン・メシュラップは観光政策以前から遠来の客をもてな
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9
6:2
7
7
)
0 「トグラック(ポプラ並木)の
す習慣として行われていたとされる(S
野外の大規模な火の周囲で、歌と踊りをすることなしに過ぎた日はほとんどない」として
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7;S
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)
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いる(G
以下の記述は第 1次大谷探検隊の主力メンバーで、ある渡辺哲信が、 1
9
0
2年からにかけ
9
0
4年の 5月帰国後に、東京朝日新聞に連載したも
てホータン、クチャなどを調査し、 1
のである D 記述されている回転方法から見て、渡辺が見たこの踊りはドラーンの踊りであ
ったと考えられる D
そ れ か ら 途 中 5f
Jに タ ヲ ッ ケ ル の 村 に 着 い た と こ ろ 、 村 の 人 が た い へ ん 歓 迎 し
てくれ、われわれへの御馳走に、村中の女たちを、嫁も娘もことごとく集めて揺
りを踊らせて見せてくれた。これは都栴製(ことうせい)の琵琶のような三絃の
楽器をひき、片面には板をはり、片面には皮を張つである異様な太鼓を両手で叩
き、踊り子は男女同数で列をっくり、手を振り足拍子をとって踊るので、ちょう
ど日本の盆踊りによくある回り踊りのようなもので、だいぶ風変わりでおもしろ
かった。
大谷探検隊( 1966),長沢和俊編『シルクロード探検』,西域探検紀行全集 9:34
一般的にウイグノレ人の民間で、踊られている踊りは「セネム」と呼ばれる 2拍子系のダン
ス・スタイルで、地域により若干の差はあれ基本的にリズムの変化を伴わず、即興的であ
る。こめセネムとは異なり、ドラーンの踊りのステップやリズムは、明確な 4つのダンス
・パターンに分けられており、集団による動作が固定されている。 ドラーンの 1曲あたり
の長さも、平均にして 6分から 9分程度と長くはない。以下が、ドラーン・ウスーリのダ
ンス・スタイノレで、ある(図 1。
)
-1
1
9
聞
(
2)4/4拍手
長さは基本的に6∼9分と決まっている。
(4)
(3)速い4/4拍子
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拍手
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.
.
.
図1
. ドラーン ・ウスーリのダンス ・スタイル 4パターンの変化を上部から見た図(筆者作成).
このドラーンの踊りにおける 4パターン変化を詳細に述べると以下のようになる。
、
・自由リズム一拍子を伴わない歌のみの箇所で、自由リズムのプロローグから始まり 4)
高らかで叫ぶような男性独りの序唱から始まる。
I
)6
/
4 で、この「チェキトメ」と呼ばれる箇所で一斉に楽師たちが歌い出し、悠々
とした拍子で、一対ーのペアとなった踊り手が、手を左右交互に振りながら六拍
子の踊りを始める
2
)
4
/
4に拍子が代わり、 2人 1組のグループはそれぞ、れ、 Sの字型を描くように、
相手の身体を縫うように、行き交いしながら踊る(図 2)
0
3)2よりも速い「セリケ J と呼ばれる 4
/
4の拍子となり、 2人 1組であった各グ、
ル
一プが一斉に 1つの円を成し、同方向に周って踊る 口途中で、中心人物が、回る
向きを変えると皆も一斉に向きを変える(図 3)
0
4
)人によっては冒頭部分も 1つの部分として 、5パタ ーンと言う人も いる。
-1
20-
4)最後の第 4段階「スィーリマ」で 5拍子に近いリズムとなり、今度は 1人 1人が
回転を行い、疲れて踊れなくなるまで回転を続ける
D
この回転速度は次第に速く
なり、回転数に限度はない。伴奏の終了は、.その回転が「もうこれ以上回れない」
といった程度まで続けられ、それが落ち着いた段階で終了する口したがって、そ
の時の踊り手の回転具合により、曲の終了加減も変化する。
図2
. ドラーンの踊り
の第 2ノ汐ーン目。
1対 1で輔られ、 Sの字
で交互に入れ替わる
D
(
2
0
0
9
.
9筆者撮影)
図 3. ドラーンの第 3
パターン目。
一同が一斉に円をっ
くりながら回る
リズムのテンポも次
第に速くなる口
中央の筆者以外は、
D
初心者の観光客で、
所作の核のみを教え
た上で全員が習得し
た
口
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.
9風 の 旅 行 社
担当者提供)
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an(1996)は、『のg
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r (ウイグノレ風俗習慣)』にて、 ドラーン・メシ
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ュラップは、「ウイグルの祖先が狩猟時代にあった労働過程を反映するものである」とし
ているロその真偽のほどは定かではないが、.これらの歌舞を具体的に見てみると、ドラー
ンの踊りの所作は音楽パフォーマンスを通じて、その共同体が他のオアシス住民たちと異
なっていることを意図している(Ra
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6:1
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2
。
)
通常現地で踊られている「セネム」の場合、そのステッフ。や編成パターンは即興的かっ
柔軟で、あり、例えば見知らぬ「よそ者」がそのダンスに気軽に参加することも可能である。
しかし、 ドラーン・ウスーリの場合、そのリズムが一定ではなく、それぞれの段階におい
て踊りの所作も決められているため、踊り手と演奏者が、互いの動作を認識していること
を前提としなければ踊ることができない。
したがって、一般的なウイグノレのダンス・スタイルとは異なり、外部の人間が「飛び入
り参加」でドラーン・ウスーリを踊ろうとしても、容易に踊ることはできない。おそらく
ある集団内ないしある地域内に限って踊られていたもの、あるいはステップを認識してい
た範囲内の人たちの中で踊られていたものだと推測される。つまり、その地域において踊
りのパターンが認識されるグ、ループ範囲内で、踊られていた一限られた部族や集団グループ
など一踊りであると考えられ、その点がセネムとは大きく異なる点である。
筆者は、このドラーンの踊りに関し、以下 6点を踊りの所作の核として、一般のウイグ
ル人の踊り「セネム」と比較しながら、観光客へレクチャーを試みたロ
1
)セネムの場合には、ショホ・リトワムを主体としている。日本人は腰や膝を曲げる習
十生があるため、最初の拍である太鼓の低音の際に、背伸びを心がける。腰はペリー・
ダンスのように揺らさず、固定させ、手を主体にして足のステップは意識しない口
2)セネムの場合は、なるべく身体全体を大きく広げるようにし、単純な 3つのバター
ンのみ指示し、その組み合わせで十分踊ることが可能と説明した。女性の場合は、指
先に神経を集中させ、「自分が最も世界で女性らしい」と思うように心がける。男性
の場合は、握り拳で手を左右交互に回し、時に両手を広げて指を鳴らす口女性と同様、
「世界で最も自分が男らしい」と思いながら、恥じずに踊る。あとはアイ・コンタク
トのみで他の地元の人びととコミュニケーションをはかるようにする。
3)ドラーンの踊りの場合には、男女ともに手を左右交互に回すのみで良い。留意点は、
セネムと異なり、リズムや所作が変わる 4パターンの変化点のみ指示する口
-1
2
2
醐
4)
第 2パターンが最も難しいが、 2人一組で踊る際、相手と背中同士を合わせながら、
Sの字に入れ替わる。入れ替わった段階で確認のため、両手でポーズをとる。
5
)歌詞は他のワイグル人で、もわからないが、最後に歌われる「ワイワイワーイ」の部分
のみ、顎を上げ、最大限の声量と地声、エネルギーで、もって叫ぶように歌う。この際、
音程などは意識せずとも良い。
6)なるべく地元の人びと一緒に踊るよう自ら接近していくよう心がけ、相手の所作を模
倣する。最初、女性はなるべく地元の女性とともに、男性も同様にし、後に慣れれば、
男女や 1人で踊ることが可能となる。インド舞踊のように首を左右に動かす所作もあ
るが、すぐに習得できないためこれは割愛した D それでも十分即興で通用する。
以上の 6点に留意してレクチャーを行った結果、踊りが初心者である参加者全員がセネ
ムとドラーンの踊りの双方を習得できた。もちろん、高度な技術に至るまでには、さらに
時聞が必要で、はあるが、ポイントのみわかれば、ウイグノレ人から見ても初心者とは思えな
い踊りぶりに見えたと、後にその場にいたウイグル人参加者らから聞かされた。
2
. 楽器と音階
使用楽器もまた、通常ウイグ、ノレ人が使用する楽器とは異なり、 ドラーン・ラワープ、ド
ラーン・ギジェック、カルーンなどを使用する。
これらの楽器は、今日ウイグル人が一般に使用している楽器よりも、古いタイプの企画
であり、フレットや弦楽器の胴体の皮質も異なっている。
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s によれば
新彊の音楽学者は、こうしたドラーン音楽の様式や発声の複雑さにつ
いて、「ウイグル人のムカームがクラシック音楽とするならば、 ドラーン音楽はウイグノレ
のジャズだと例えることが好きだ」と述べている 5)。なぜならば、伴奏は主に「ドラーン
.ムカーム」の音楽を演奏するが、時にはドラーン地区の民間歌曲を演奏することもある。
また、歌および、楽器が同音をユニゾンで斉唱する一般のウイグルの民間歌曲とは異なり、
歌と各楽器の旋律は別途で多声的であるためである D
また、ドラーンの踊りにおいて特徴的なのは、いくつかの弦楽器とともに複数の太鼓(ダ
ップ)を一斉に叩きながら、地声を使用して歌われることである。この発声法は音域が高
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2
3-
く、叫び声を挙げるかのように聞こえる。したがって、旋律や音程が明確に聞き取れるも
のではなく、声量と発声、リズムの変化によって、人びとを引きつける形態となっている。
一方、音階においては、第 4章の音階分析の結果のように、これらのドラーンの音階に
は主に 6音音階が使用される。 6音音階で構成された楽曲は、新彊の中でも特に中部に当
たるクチャやアクスなどで見られるほか、カシュガルのメキット県において採集された民
間歌曲においては、全てが 6音音階で、あった。また、同じ構成の 6音音階は、 トルファン
や、ロプ地域であるチェルチェン、コルラのユィリ地域でも散見されている
0
6 音音階で
もその音の構成音は幾種かあるが、ロプ地域の楽曲とドラーン地区の楽曲の 6音は、借用
音などを一時的に使用しているものの、ほぼ同系列と考えられ、このような系列のものは、
新彊の西部カシュガノレや南部ホータンなどでは見当たらなかった口
したがって、音階の系列のみでロプ人とドラーン人の関連性を安易に直結させるという
のは極論であるが、佐口が説いたドラーン人とロプ人の関連性は、音楽分析から言えば、
新彊の他地域では見られない共通項が微細ながら窺い知ることができる。
第 3節
ドラーン・メシュラップ浮上の経緯
新襲の観光状況が動的な時期、これと並行して 1999年頃よりカシュガル地区メキット
県の農民たちによる民間パフォーマンス「ドラーン・メシュラップ」が浮上してきた。こ
の踊り手や歌い手は、当県に住むウイグル人の農民で、あり、プロの歌舞団や演奏家ではな
い。そうした一般性がむしろ外来からの客に注目され始めた時期である。
では、そのパフォーマンスが、観光客にとって、そして地元ウイグル人たちにとって、
どのような変容をもたらしたのかを次に順を追って述べていきたい口
実は、ドラーン・メシュラップは、当時より地元新彊の人びとの間で広く見知られてい
たわけで、はなかった。メキット県が属するカシュガル地区の人びとでさえ、その存在を実
際に知り、踊りを目の当たりにしたのは、 90年代に入ってからであったという D 今日の
ようにドラーン・メシュラップが浮上してきたプロセスとしては、大きく分けて 2つの転
機があったと考えられる。第 1期としては 1980年代から 1996年にかけてであり、他のウ
イグル伝統音楽と同様、政府の推進で、未だ知られていない中小オアシスに存在する伝統
芸能の調査が行われ、一般ウイグル人らの間で知られていった段階である D 第 2期はそれ
以降から 2004年をピークとしての時期で、芸能の観光化と並行し、農民レベルの楽師が
-1
2
4-
初めて中国外で、海外公演を行った時期である。そのプロセスの詳細を次に追ってみたい。
1
. 第1
期( 1
9
9
6年まで)
カシュガル市出身のガイド T 氏と Y 氏によれば、初めてドラー ン・メシュラップを見
l
たのは次のような経緯であったという。
そうした祷りがあることは前から開いていたが、実際にどのような踊りかは知らなか
った。カシュガノレ市で働いていた友人がいて、彼はもともとメキット出身で、 1992
年に彼がメキットで結婚する特に、初めてドラーンの踊りを見た。初めはその声の大
きさにび、っくりしてね。競りも我々(ウイグル)のものと違うし、(一緒に踊ろうと
しても)簡単に踊れない。友人は子供の頃から結婚式や人が集まるといつもそのよう
に踊っていたと言う
6
)0
ドラーンはある時期まで、一部の地域のみで知られていたに過ぎなかった。 1986年
、
新彊広播電台の芸術人員がメキットを訪れ、ドラーン・ムカームを考察し、初歩的な調査
を行っている(麦差提県多郎木一同母研究会・麦差提県人民政府文化局編, 1996:6)。その
折、彼らはドラーンの音楽に関する意見交換を行い、ドラーン・ムカームの採譜や歌詞の
整理、歌舞団員による録音を行い、これら整理されたものは新彊広播電台によって出版さ
) しかし、 1
9
8
6年
れた(麦差提県多郎木一同母研究会・麦差提県人民政府文化局編 1996:6
0
といえば、新彊でカセットテープが出回り始めた頃であり 7)、まだ一般のウイグル人の多
くが、手軽に入手しているわけで、はなかった。また、ローカルな伝統音楽に関する関心も
一般的なものではなく研究者を主体とし 8)、それは中国内外においても同様であった口
海外でいち早くドラーン・メシュラップに注目したのはフランスの音楽研究者で、 1991
年 に 官1
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naumuqam OuYgour
”を著した Duringらが、 1988から 1989年にかけて新
彊各地にある音楽を収集した。彼らが収集し、 1990年にフランスで発売された 2枚組の CD
6
)聞き取り実施: 2
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0
7
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9∼ 2
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0 および同年 1
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2
7∼ 2
0
0
8
.
1
.
1
0。
7)ワルムチの VCD制作会社「千路文化公司( Ming Y
o
l
i)のアニワル・サマット氏によれば、
、 VCDが 1995年 ∼ 1996年であった。
新彊カセットテープの普及は 1986∼ 1987年
8
)新彊出身で音楽研究者である周吉はウイグル語にも精通し、民間音楽に関する採集や採譜に深く
携わり、ドラーン・メシュラップに関する記述も彼が著した書籍が多い。
-1
2
5-
には、ドラーン・ムカームの一部も収録されている。しかし
これよりドラーンの楽師た
0年以上の年月が必要
ちが海外的にも注目され、フランス公演を果たすまでには、まだ 1
であった。
1
9
9
3 年になり、文化局が開催した「ドラーン・ムカームに関する検討会」に、芸人代
表が参加し、翌年には新彊の「ドラーン理論研究会」がメキット県で発足した(麦差提県
多郎木一同母研究会・麦差提県人民政府文化局編, 1996:6)。こうした背景にも、前述のテ
ィムル・ダワメティの保存提唱政策が窺える。彼はドラーン・メシュラップの視察で「ド
2ムカームの重要な構成部であり、研究的に 1
2ムカームが創造され
ラーン・ムカームは 1
る条件を満たしている」と述べている(麦差提県多郎木一幹婿研究会・麦差提県人民政府文
化局編, 1996:まえがき頁番号なし)。
2 ムカーム J のノレー
これにより、 ドラーン・メシュラップやドラーン・ムカームが、「 1
ツであるといった話がウイグノレの間で、沸きだした
D
メキット県は「ムカームの故郷 J とさ
2 ムカームを集成したとされるアマニサハンの生誕地が、メキット県のカラス郷シ
れ
、 1
0月にはメキット県で少女時代のア
ャプトルク村であったいうエピソードから、 1994年 1
マニサハンの塑像が掲幕された。また、 1996年には新轟音像出版社がメキット県多郎歌
舞団演唱者の録音を行い、これらはカセットテープとして発売された(維吾知多郎木ー同母
編集委員編, 1996:6)。しかし、この段階でもドラーン・メシュラップは観光向けという
形では浮上していなかった。
2
.1
9
9
8年∼ 2
0
0
4
年商品化と観光化への導入
1
9
9
8年にメキットが外国人に開放された。当初はまだ正式の開放ではなく、旅行許可
書なしで入郷可能といった程度であるロ当時、メキットでの宿泊は許可されなかったが 9
、
)
この頃から 2000年代にかけて、「研究者」ではなく、外国人のグループ。や少人数の旅行者
たちが、メキットへ来始める。当時はドラーン・メシュラップに関する情報も外国人の間
では漢としたものであり、旅行社もまたそうした手配手段を知らなかった口カシュガルや
ウルムチで日本人や欧米人を対象とする旅行社では、 2000年頃より外国人観光客の聞か
ら、「ドラーン・メシュラップを見るにはどのように手続きをとれば良いのか」といった
9
)正式に外国人に開放され、宿泊が可能となったのは 2003年 5月である。
-1
2
6-
問い合わせが入ってきたという
1
0)。つまり、中国国内よりも先に外国人旅行者を中心に
写真の印象と「クチコミ」でドラーン ・メシュラップは広がっていった
。
1
1
)
メキットが開放される以前にもドラーンのカセット類はあったものの、そのパッケージ
や録音方法としては、貧祖なものであった
1
2
)0
当初、現地で販売されていたカセットテ
ープや VCD のジャケットの画像は、美しい衣裳をまとった女性舞踊家がポーズをとるな
どの画像が主流であり、農民などが平素な服を着た姿が表立つてジャケットになることは
稀であった。しかし、 1998 年、外国人にメキット県が開放されて以降、ガイドブックや
新彊案内の冊子やポスターには、大勢の農民たちが一斉にダップ(タンバリン型の太鼓)
)
を叩きながら、叫ぶように歌う印象的な写真が目に付くようになる(図 4)13。
図 4.
叫ぶような発声法で
歌われるドラーンの
歌と踊り。( 2
0
1
0
.
9
筆者撮影)
また、そうした写真を表紙にした書籍も、新華書店で見かけるようになると同時に、当
時カセットテープに代わって出回り始めた VCD のメーカー PR用サウンドには、ドラー
1
0)ガイド Y氏とキャラパン・ツアーズの Z氏の話による。(聞き取り実施: 2
0
0
2
.
9
.
1
1:2
0
0
7
.
8
.
9
。
)
1
1)ガイド Y氏と T氏のインタピ、ューより(聞き取り実施: 2
0
0
8
.
1
)
1
2
)
H
a
r
r
i
sは「低品質なカセットとその音響システムがワイグルポップの特徴」であり、その
「カセットの雑音が重要な要素とも言える。」と述べている( H
a
r
r
i
s
, 1998:5
9
。
)
1
3)例えば、日本人に身近なところでは、『地球の歩き方ー西安とシルクロード− ~ (1
9
9
8 年ダ
イアモンドグラフィック社)の 1999・2000版には、冒頭の方のページで、
ップの写真が初めて掲載されている。
-1
2
7-
ドラーン・メシュラ
ン・ムカームの音楽で印象的な「waywaywa
y!
」 とい うかけ声がカヴァーされていた。農
民たちが一斉にダップを叩く様子は、それまであった新彊案内の冊子やカセットのジャケ
ットでは見られな い手法であった。
同時に、叫ぶような発声法であるゆえに、ドラーンの歌い手の顔や表情は自然と 、顎が
上向きになり
)
、音や声なしでもその音や迫力が画面から想像できるような映像であっ
1
4
たのである D 画像のみでその音楽がどのようなものかを特定することは容易ではないが、
人間の身体の微妙な動きや、映像から見てもわかる姿勢やかまえなどで、おおよそ身体の
どの部位を利用、どのような音を発しているかを想像することは、人間にとって想像する
に難くはないのである
D
その音楽をどこへ行けば聴けるのか、ごく少数のバックパッカーや個人旅行者たちは、
現地の旅行社を通じて、メキットへ行く手段を探したという 。 しかし、旅行社は、その申
請方法も、農民楽師たちとどのようにコンタクトを取れば良いかさえわからず、鑑賞に当
たってのシステムが徹底されていなかったことが窺える。最終的にはメキット文化局の代
表者を通じて 、旅行社から文化局、そして文化局から農民楽師へと連絡をとり、村の集会
所で演奏を披露するといった臨時的なシステムがこの頃でき上がった。そして、 2000年
代初頭、いくつかのグループ客がこうした方法をとった。
この頃は新彊では観光開発やインフラ整備が本格化した年でもあった口前述のように、
カシュガルではホテルのショー施設の代わりに客室の新設・増設が成され、 トルファンで
は、遺跡やカレーズの周囲にテーマパークのような施設ができ上がり、孫悟空のモニュメ
ントができ上がっていた。 2002年にはウルムチの二道橋市場の解体工事が開始され、翌
国際大バザーノレ」ができ上がる D また、 2003 年よりカシュガルの
年 6 月には大規模な 「
エイティガールモスク周辺も大規模に修理や工事が行われ、周辺にあった店も立ち退きと
なった。さらに 2005 年、それまでは無料で自由に観光が可能であったカシュガルのイス
ラム旧市街やカラクリ湖観光も有料化となった
D
このように新彊の各オアシス都市では、外国人からすれば 「
過度な」整備が施され、こ
の頃より増加傾向にあった中国国内旅行者の一部には人気があったものの、外国人旅行客
たちにとっては落胆させるものであった。もはや都市部で素朴で飾り気のないものは見る
1
4)ベルカント唱法や声楽の訓練を受けた歌手などは、高音域を歌う場合、顎を下 げ、腹筋や鼻腔 、
声帯をコントロールして歌う 。 しかし 、地声やハスキーな声で高音を歌う場合や 、 自然にヒト が叫
ぶ場合には自ずと顎は上がる 。
-1
2
8-
ことができず、そのような状況の中、開放されて間もない農村で農民たちによる伝統音楽
を鑑賞することは、おそらく都市部の観光地に落胆した外国人たちにとって、魅力に映っ
たに違いないc 僅かずつながらメキットを訪問する外国人旅行者たちは、増えていった。
3
. ポピュラー化と海外公演
2004 年は、
ドラーン・メシュラップがウイグル人の問でも、そして中圏内や海外でも
取り沙汰された時期であったロウイグル・ポップス界の重鎮でドラーン地域であるマラル
ベシ出身の歌手アブドッラー・アブドレイムは、かねてより伝統的なものとグローバルな
流れを織り交ぜることにより、ウイグル人の幅広い世代から人気を得ていた。彼は 2000
年のアルバム「 T
u
n
j
iSUyghuJ で「 DolanY
i
g
i
t
i」をリリースした
1
5
)0
この時期はちょうど
アブドッラー自身が、それまでの作品から離脱・融合への模索が窺えた時期であり、様々
、ドラーンの音楽もそうした一環であったと考えられるロ
なタイプの曲が見られ 16)
しかし、この歌はドラーン・メ、ンュラップのリズムとは異なり、むしろカシュガルのイ
スラム行事で男性障が踊る「サマ・ウスーリ 」のリズムに近かった。また、もともと旋律
とは言い難い複雑かっ叫ぶように歌うドラーン・ムカームを、メロディックに歌うことに
は無理があった。しかし、ここでアブドッラーがドラーンの浮上にいち早く注目し、ポピ
ュラー化しようと認識していたことは窺い知ることができる
D
アブドッラーの歌でむしろドラーンのリズムが顕著に表れたのは、 2004 年にリリース
された「メシュラップ」と題する曲である。しかし、この曲のリズムはドラーンのリズム
と類似しているものの、歌い回しは本来のドラーンの発声とも異なっていた。また、単に
叫び声のように聞こえ、採譜化が困難なドラーン・ムカームの歌に、あえて旋律的に聴き
ばえするようにアレンジされたことで、逆にドラーン・メシュラップの持ち味が半減され
てしまい、 ドラーンの歌にある要素の域を超えるもので、はなかった。 2009年 4 月のイン
タビューで、彼自身がポピュラー化においての葛藤を以下のように吐露している。
1
7
)
1
5)アブッドラーが初めてドラーンの歌を歌ったのは、 1995 年 マ ラ ル パ シ 県 と ペ ィ ザ ワ ッ ト 県
において地震が発生した翌年、被災者救援のために、「紅柳」と呼ばれる当時新語でも有数の
ノミーティー・レストランの後援により開催されたチャリティーコンサート「 Rak Muqam」に
おいてである。
1
6)彼のアルバムにはウイグル的なリズムと歌とともに、ある時期にはフランス・ワールドカッ
プのテーマソングがウイグル語でカバーされている 。
1
7)聞き取り実施: 2
0
0
9
.
4
.
2。
-1
2
9
雌
皆がドラーンの踊りを踊れなくとも、流行曲にして私が歌えば、皆が口ずさみ、
踊ろうと試みる。それが私の自標だ。
しかし、その一方で、やはりポピュラー化
してしまうと、どうしてもドラーン持ち前の良さから遠のいてしまい、要(かな
め)となる部分が損なわれてしまうのだ。私自身もその中で葛藤をしている。
また、ヤルカンド地域では地元の民間歌曲のリズムを変奏し、それでドラーンの踊りを
踊る様子が見られるものの、一般のウイグル人の間で、ドラーンの歌や踊りが流行的に歌わ
れたり、踊られるような傾向も見られなかった。アブドッラーもそれ以降、今日に至るま
で、「ドラーン的」な新曲は出していない
D
ポピュラー音楽において「ドラーン様式」を
表現するのは、一般のウイグル民間歌曲をポピュラー化する以上に困難である。
ウイグル・ポピュラー音楽の中で、 ドラーンの音楽がアレンジされたケースは減り、代
わってホータン地区の民間歌曲のアレンジ版が目立つようになった。ただし、ドラーンの
音楽のポピュラー化が見られなくなったものの、ウイグルの人気歌手によってドラーンの
音楽が歌われたという試みと、当時のドラーンに対する関心の強さにより、ウイグル人の
ドラーンに対する「認識」は定着した。
同年、中国でも「ドラーン」の名称が浮上する口四川省出身で元音楽プロデ、ューサーの
i
n
)が新彊で仕事をすることを機に、芸名を「刀郎( DaoL
a
n
g
)J と変え、「ウ
羅林(LuoL
イグル風」「新彊風」の作品を制作して歌った。万郎の歌はネットを通じて中国人の問で
一躍スターになった口 2004年にリリースされ、中国で大ヒットした「 2002年的第一場雪」
は、ネットの音楽配信で人気を得た一例である。彼の歌に「ドラーン的な」要素を見つけ
ることはできないが、ウイグルの民間歌曲で、よく聴かれる、弦楽器ラワープを模倣した奏
法や、エキゾティックで躍動感あるリズムなどは、多用していた口この刀郎の名が中国で
知られるようになったと同時に、その芸名「ダオラン(ドラーン)」の意味を探るリスナ
ーも増え、 ドラーン人に対する関心が中国本土内でも高まった時期で、あったロ国内旅行者
が新彊を訪問する際には、刀郎の音楽をパスの中で鳴らす旅行社もあった。
さらに、この時期、農民楽師たちが歌舞団たちとともに海外公演を果たすというニュー
スが新彊で話題を呼んだ口 2004年にはフランス、 2005年には日本、そして 2007年にはフ
ィンランドでドラーン・メシュラップが演奏された口また、 2005 年に、ウイグルのムカ
ームがユネスコの世界無形文化遺産に認定されたことにより、ドラーン・ムカームの人気
-1
3
0-
も急上昇した 18
。
)
観光業においては、解放地域となった直後は、メキット県で農民たちのドラーン音楽試
聴は、 2005 年から有料化された。さらに、日本や中国内の旅行社の中には、これまでの
パックツアーに加え、メキット県でドラーンの踊りを鑑賞する企画が含まれているケース
が窺えるほか
1
9)、南彊のドラーン・メシュラップを、東彊のトルファンで披露するとい
った企画もなされるようになっており
2
0)
、新彊政府から日本の旅行社へメキット県を積
極的にツアーコースに入れる働きかけなども行われていた口
この 2004年から 2006年頃におけるドラーンの状況は、一時期「ムカーム・ブランド」
という、ムカームの音楽であれば何でも高尚で価値がある音楽とされていたのと同様、今
日のドラーン音楽は単に「田舎の音楽 J とは見なされず、「我々(ウイグル)の中で、ム
カームより古い音楽である J という認識が地元住民の聞では生じており、こうした、「ド
ラーン・ブーム」「ドラーン・ブランド」とも言える状況が新彊のみならず中国内でも起
こっていることが興味深い
2
1
)0
メキット県も演出産業優勢の形成と発展のため、社会環
境を提供するために「ドラーン文化精神の発揚、 ドラーン文化の伝承、ドラーン文化ブラ
ンドの生産」の戦略目標の確立を打ち出している(阿布都沙位木編, 2007:246)
0
第 4節
ウイグル社会外部へ発信されるドラーンの芸能
それでは、上記のような政策や動向で、
ドラーン・メシュラップは実際にパフォーマン
ス空間としては、どのように変わったのであろうか。次に考察してみたい
D
メキットの農民楽師 H 氏と Y 氏は、「観光客であれ何であれ、そうしたことでスタイル
を変えたりはしない口観光客が来るさらに以前から同様に集い同様に踊っていた。」と断
言する
D
ディヴィッドは、パフォーマンスが「その性質とそれを取り巻くコンテクストに
1
8)旅行社やガイドブックでは、 ド ラ ー ン の ム カ ー ム や 踊 り の み が 、 無 形 文 化 遺 産 に 認 定 さ れ た
2ムカームを含める
かのように認識している例が多々ある。しかし、これは誤りで、正式には 1
新彊地域各所にあるムカーム全てが認定されたことを意味する。
1
9)たとえば 、 日中平和観光株式会社「ウイグ、ル民族風情の旅(最少催行人員 2名)」など。
2
0)トルファンの旅行業者とドラーンの演奏家との間で l年契約が成され、 トノレファンで演奏された。
2
1)メキット県の行政はドラーン文化の精神を発揮し、ドラーン文化を伝承し、ドラーン文化ブラン
ドをつくるために、 2006年 1
0月 25∼ 1
0月 30 日に「ドラーン人に焦点を当てる」をテーマにした
第一回ドラーン文化週間活動を行っている。
・1
3
1-
よって、一見、同じように見受けられる儀式の「意味」が、根本的に変容することもあり
6
9)。そして、観察と聞き取りを繰り返していくう
うる」とする(ディヴィッド, 1992:1
ちに、以下のような変化が明らかとなったロ ・
最も明確に現れたのは、現代におけるウイグル人の「ドラーン人」に対する認識の変化
である。聞き取り調査で農民楽師は「ワシらは、 ドラーン人の末育だ」とまことしやかに
語り、かつて蔑視されていたドラーン人に誇りを抱いている口ぶりであった口また、マラ
ルパシ出身で、ウルムチ在住のウイグル青年は「自分の祖父はドラーン人だ」と語る。現在
のところウイグル人の中にどの程度ドラーン人が残存しているか、詳細な統計は見当たら
ないが、ガイドの T氏に問うと「メキット県にいるウイグル人はもともと皆ドラーン人だ
った」と戸惑いなく返事が返ってくる。こうした彼らの言動を聞いていると、根拠がない
にしろ、 ドラーン・メシュラップの注目に連れ、「ドラーン人」への評価が上昇した印象
を受ける。
他方、もともとドラーン・メシュラップは集落単位で収穫時や結婚式など、季節性・行
事性をもったもので、あったものが、踊りや音楽の面のみが突出し、観光向けになったこと
で、パフォーマンスの時期が不定期となるなど、変化が生じている。そのため、本来演奏
を本業としていない農民楽師たちは農作業で多忙な時期に、観光客や政府の要請により、
地元から離れなければならなくなった。ここに、農業と芸能の両立における困難性が見ら
れる。農民楽師たちが都市部や海外に招聴され、地元に不在の場合もあり、そうした時期
に観光客がメキットを訪れ、パフォーマンスが人数不足のために盛り上がらない場合もあ
った
22
。
)
また、毎年春に行われていたウイグルの伝統祭「ノルズ祭」には、カシュガルでドラー
ン・メシュラップが披露されていたが、 2007年より政府によって日を定められ、漢族の
「春節」の後に規模を拡大して政府の祝典行事として開催されることとなった。そしてそ
の祭事にドラーン・メシュラップは「中国国家としても伝統芸能の一部」という名のもと
で演じられることとなったロ本来、メキット県の各民族人民たちの文化活動は主に余暇に
行われていた。しかし、 ドラーンが注目されればされるほど、楽師や踊り手の不在時の対
応や、祝典時での踊り手の増強をはかるため、臨時の踊り手が要請された。都市部でイベ
ント時には、一般の公務員など、それまでドラーンの踊りを全く踊ったことのない人びと
22)メキット文化局長 M 氏によるインタピ、ュー(聞き取り実施: 2
0
0
5
.
8;2
0
0
7
.
8;2
0
0
8
.
1
)
-1
3
2・
までがかり出され、一週間ほどの練習を行った後、演奏披露を行うといった状況となった
3
)0
このように、 ドラーンに対する良好的な認識はウイグル人の間で、定着しつつも、その
パフォーマンスの実践に向けての問題が生じている
第 5節
D
・
ウイグル人の「専門家』に対する認識の変化
1
. 演出方法
H
a
r
r
i
s は、新彊でのプロ音楽興行は顕著に 3 点に分けられると述べている(H
a
r
r
i
s
,1
9
9
8
:8
) 第 1に歌舞団による公式な公演、第 2に中国人を対象に営利目的とした少数民族音
0
a
r
r
i
sが記
楽紹介としての公演、そして、第 3に地元消費者向けの民営音楽産業である。 H
述した時期、外国からの観光客がどの程度ワイグルの音楽に関心があったか、外国人観光
客が上記 3つのうちのいずれに含まれるかに関しては言及されていなし、。
しかし、彼女が上記の内容を記述した時と、その後、 ドラーンの音楽が浮上し、外国人
たちがメキットを訪れるようになった状況とでは、新彊の音楽事情においても相当の変化
a
r
r
i
sが言及していない観光客というのも、上記の 3点の興
が生じている。したがって、 H
行にある程度貢献していると考える口この場合、外国人観光客は第 2に挙げられた「中国
人対象に営利目的とした少数民族音楽紹介」に相当するであろう。
ドラーンの音楽は、地元消費者向けの産業にある程度は貢献したかもしれないが、ポピ
ュラー化・商品化され、若手ウイグル人の聞にまで浸透するまでには至らなかった。しか
し、前述のように、海外にまで注目されるに至ったという点では、地元ウイグル人たちも、
ドラーンの音楽に理解を示すようにはなっている D
伝統音楽を生かし、それらを外来人に受け入れてもらおうと思う場合、いくつかの方法
がある。 1つは、ドラーンのように原形はそのままで加工せず、その代わり演奏や踊りを
取り巻く空間を変化させ、受け入れさせる手法である。ポピュラー化作成の上で、ミキシ
ングやアレンジャーがその腕を発揮するのと同様、周囲の空間を変化させ受け入れさせよ
うと駆使する役割はプロデ、ューサーがものを言う。
ドラーンの場合、原形や楽師の演奏は
そのままに留め、演奏側には変化を求めなかった。その代わりに演奏する会場を葡萄棚に
してみたり、公的な祭典の場合には周囲に大袈裟なまでの装飾を施した。そして、さらに
2
3)ガイド Y 氏の妻 A 女史は公務員であったが、その時期ドラーンの踊りにかり出され、 1 週
間ほど踊りの訓練を受けてステージに立ったと言う(聞き取り実施::2
0
0
8
.
1
.
2
。
)
-1
3
3-
元々から演奏していた楽師とともに、華やかな衣裳を着せた歌舞団の舞踊家を一緒に踊ら
せ 24)、楽師をとりまく周囲を変化させるよう努めた。
これは、 ドラーンの農民らが演じる踊りを原形のままに留めながら、外国人観光客に向
けて発信しようという試みであった D しかし、そのような踊りの編成や演出で、外国人観
光客らが満足したか否かは疑問である
D
筆者が初めて 2002 年に行った際には、小さな集会所で農民たちが踊りを演じていた。
この時期は、まだその日その時に来ることが可能な農民たちを寄せ集め、演じるといった
投げ銭」的に、各自農民たちに観客が思う
形態であった D パフォーマンスへの報酬も、 「
だけの金をポケットに入れるといった形で、あった口つまり、鑑賞にあたって金額的なシス
テムは徹底していたわけで、はなかったのである。
しかし、 2005 年に再度訪問した折には文化局が仲介に入り、パフォーマンスを行う人
たちも農民たちのみならず、プロの歌舞団の女性踊り手たちが艶やかな衣裳で、ともに踊
るというものであった口外国人には民間的なものよりも、より洗練されたプロフェッショ
ナル的なものをと考える文化局の思惑と、より素朴で在地性の強いものをと望む外国人旅
行客との間で認識のギャップがあることが露呈した状況である。金額設定もまた文化局が
高額な手数料を徴収し
)、楽師たちにはその 1割ほどの金額しか与えていないという実
25
情もあり、一時は文化保存を名目に撮影を禁じられた。
しかし、 2006年以降には、観光客が農民楽師の家へ直接出向き、その民家にてメシュ
ラップを見るといった措置がとられるようになっていた口また、そうした旅行客も、ツア
ーや団体ではなく、バックパッカーや個人旅行を考慮したものが見受けられる。
2008 年 1月の折には、農民楽師の民家の畑が整備され、パフォーマンスを行うための
「踊り場」が設けられている最中であった(図 5) それは政府や文化局からの要請では
0
なく、音楽を原形のままに留め、周囲のパフォーマンス空間も「昔のように中央に焚き火
を起こして踊る設定」を地元農民楽師ら自らで考案した演出方法であった。
2
4
)
1
9
5
1年、メキット県は文工団(現在のドラーン歌舞団)が設立され、自作自演の歌劇l
が主体であった。
しかし、演出は時代遅れとなり、 2005 年、メキット県政府は新たに 「ドラーン民間芸術協会」を設立し、
「ドラーン民間芸術団」として再出発した。
2
5)筆者が 2005年に訪れた際には相場の約 4倍に当たる 2千元もの鑑賞料を徴収された。 しかし、
2007年に直接、楽師たちの民家へ訪問した折には鑑賞請求はなく、筆者の方から 5百元の謝礼を渡
した 。
-1
3
4-
図 5.
官新たに果樹園に建設中の「踊り場」.
I
;
(
2
0
0
9
.
1
2筆者作成)
ただ、この時期は冬であり、演奏された民家も楽器のみで満杯というスペースで、あった
ため、踊りを見ることはできなかった口しかし、彼らの踊りが日常化されている一面は、
冬場でも垣間見られる。民家内で太鼓のリズムが鳴り始めた頃より、近所の人びとが次々
に演奏を行っている民家の部屋へ自発的に集まってきた D つまり、村一帯でドラーンのリ
ズムが、聞こえてくれば、近辺の人びとは、踊ることを前提に自然と集まってくるという
のが、日常化している証拠である。楽師の親戚が、その日は踊るスペースがなく、演奏の
みである旨を謝りながら近所の人びとへ伝えると、落胆した面持ちで、帰っていった光景が
印象深い口
2
. 『専門家 j 『プロ j という概念の相違
周囲の空間における演出方法は、次第に変化を見せ始めたが、「ドラーン ・ブーム J に
よって、専門性やプロフェッショナル(以下、「プロ」)という概念に対する認識の変化
とズレが今日生じている。もともとから演奏を行っていた農民楽師たちに加え、歌舞団や
養成所の出現によりこの「専門家
)」「プロ」に対する認識の逆転が見られる D すなわち、
26
もともとからドラーン・メシュラップを行っていた農民楽師たちを「専門家」とするのか、
後に養成されて出てきた歌舞団員を「専門家」とするのか、相違があるロ訓練を重ねた歌
舞団員が加わったことにより、踊りの形態やリズム感に食い違いが生じたのであった。
26)ウイグル語で、語尾に「・c
h
i
J を付けると、「∼する人」の意となる。
r
q
a
s
p
i
J は「専門」を意とするが、
a
s
p
i
c
h
i (専門家)」という言い回しはウイグル語で、最近になって聞かれる言葉である。
この「 q
・1
3
5-
具体的な例としては、 ドラーン・ムカームの第 4段階で聴かれる 5拍子における特有の
リズムの「ズレ」を感覚的に演奏する農民楽師に対し、整然と美しいフォームで踊る歌舞
団の舞踊家が「リズムがずれている」 と指摘したことである。
もともと、 このドラーン・メシュラップにある「5拍子」 という呼び方は、西洋音楽理
論で使用されるような、ある音符の長さを均等に 5分割(図 6) したものではなく、一定
の音の周期で音が 5つ並んでいるということを意味する。正確な拍子で言えば、 ドラーン
・メシュラップの 5拍子部分は(図 7) のように、 6拍子を 3拍子系に 2分割し、そのう
ちの 3拍子をさらに 2等分( 1
.
5拍)に近く間こえる 27
。
) これは、 日本でいう 「三三七拍
子」や俳句の「五七五」などの呼び方でも同じことである。 こうした拍子の呼び方でも、
地域や民族、国により、拍子の呼び方と賞味のリズムとは必ずしも、西洋音楽理論に当て
はまらず、異なる例は少なくない
長
)
J)
J
,
D
)
J)
J
図 6. 西洋音楽に基づく 8分の 5拍子.
(各拍の間隔が均等に 5分割される)
「 P pp p
』
「I
)
J )
J
J
J
'
J
p pi
1
j F
’
;f
23 4 5B
図 7. ドラーンにおいて聞かれる 5拍子.
(
6拍子のうち後半 4∼6拍自の 3拍が、
2等分されて聞こえる)
2 3 4 5B
このリズムのズレに関して、農民楽師は語る。
これまで伝統的に向じ形態、 同じリズム感で、 自分の身体の一部として行って
きたものを、変えろと言われても困難だ二 あの人たちは番号練を受けたプロだから
すぐそういうこともできるだろうが、 そう簡単に変えられるものではない。
2
8
)
27
)
図 7にて、より実際に聞いたリズムに近く楽譜化したが、このドラーンの踊りで言われるほ拍子J
の「ズレ」は、あくまで彼らが「感覚的」に感じ取っているものゆえに、厳密に楽譜化することは容易
ではない。
2
8)聞き取り実施: 2
0
0
5
.
9
0
-1
3
6
圃
この場合、農民楽師たちがいうプロというのは、歌舞団の人たちを指している。
歌舞団で養成された舞踊家が農民の楽師に対し指摘したのは、こうしたリズムや拍子の
感覚そのものが根本から異なっており、そのために生じた指摘で、あった D これは、踊り手
や演奏を行う基たちが、感覚的、本能的に「違う」と感じるものであるため、いくら譜面
で書いたところで、そこまで綴密な区別は楽譜では表現できないのである。
また、舞踊家と農民たちの歌舞に対する感覚の違いは、リズムのみならず、踊りという
身体的な技法上でも「ズレ」を生じさせたロ ドラーン・メシュラップの終盤において、 1
人 1人が回転を繰り返す場面で、回転数に差が生じた。
Rakhman によれば、「興がのれば各々が疲れてフラフラになるまで回られる J こともし
凶m
an, 1
9
9
1 :1
9
2)、筆者が現地にて実践を試みた際にも、地元農民であ
ばしばあり( Ra
る老人が興奮して回転を繰り返し、文化局の担当者から「そのままだと倒れてしまうから
もう無理をしないで良しリとたしなめられていた。この回転で、地元住民は頭から胴体、
足を同時に回転させていたロまた、その回転方法に何ら疑問も持たず、たとえフラフラに
なって目がまわってしまったとしても、彼らにとってはそうした回転がかねてから自然な
ものであった。
一方、歌舞団で養成された踊り手、特に女性の踊り手たちの回転はフォームが美しく、
西洋のバレエの技術も取り入れられた回転方法を習得していた。これは、胴体と足を先に
回転させ、その後から首から頭にかけて回転させるという方法で、バレエ「白鳥の湖」の
見せ場である 32 回転にも見られるものである c この回転方法の場合、頭部は胴部よりも
後に回されるため、目が回ることもなく、疲れも軽減できるロしたがって、ドラーンでこ
の回転方法を行った場合、回転数にも歌舞団員と農民の踊り手の間で差が生じ、農民たち
が歌舞団員の回転数にあわせようとした場合、体力的に無理が生じてしまうのである。
しかし、ある農民の踊り手は言う。
ワシらはそんな器用に踊ることはできない。いや、器用に揺ることよりも踊ることに
自分で喜びを感じているから踊っているんだ。 しかし、ワシらにも意地がある。
ヲシらは子供の墳から自然にこの踊りを覚え、これまで踊ってきた。 しかし彼女
(歌舞団の舞濡家たちは)器用にいとも簡単にそれを踊り、ヲシらよりも多くの
開
1
3
7-
報酬を得る。踊っているのは楽しいから報酬などは気にしていないが、あそこ
(回転の場)でへたばるわけにはいかない。それは長く伝承されてきたワシらの意地
であり、遠方からきた客をもてなすために踊ってきたワシらのもてなし方だ明。
こうしたドラーン・メシュラップをめぐり、継承してきたという誇りゆえに、農民楽師
たちは、少しでも多く回転を挑もうとしていたのである。そして、一見わからぬ奏法や身
体的技法において、農民たちと歌舞団員、そして民衆の間で「何をプロとするか」という
概念に疑問符が投げかけられる契機となったわけである。
一方、調査前に送られてきたガイド Y 氏からのメールには、「この冬メキットへ行って
も、プロの人たちの演奏は聴けません D プロの人たちは、今フィンランドに演奏旅行へ行
っています。」とされていた。この場合、 Y 氏の言うプロとは歌舞団ではなく、農民楽師
たちのことであるロさらに、カシュガル市やウルムチで、一般のウイグ、ル人に「あなたは
ドラーンの踊りを踊ることはできるか」と聞くと、「一般的に踊られるウイグルの踊りは
できるが、ドラーンの踊りは独特だからすぐには踊れない D しかし、メキットへ行けばド
ラーンの専門家たちがいて、皆で披露してくれる。」と言う。この場合のプロという意味
も、農民たちを指している。すなわち、一般のウイグル人が、伝承者であり、専門知識が
なくとも伝統的に演奏を行ってきた農民楽師たちをプロと考えている一方で、洗練された
踊りを習得し、ミスをおかさず「演じる」歌舞団の面々をプロと考えているという、二分
された現状が浮き彫りになった。
この単なるリズムの食い違いや、プロの概念の認識差には、グローパル化という大きな
背景がある。すなわち、土着のリズム感や回転方法と、西洋クラシック音楽理論に基づく
リズムやクラシックバレエからきた回転方法とのせめぎあいであるロそれまで地元住民に
とって日常的であったリズム感が、グローパル化による現代のリズム感へと吸収される前
)
兆が垣間見られるロそれら西洋の音楽理論や舞踊は、旧ソ連経由でイリへと影響し 30、
新彊各地の歌舞団入国の一基盤となっている。
歌舞団入団時には、西洋の有名バレエ団入団時の条件と同様、技術試験より以前に入団
29
)聞き取り実施: 2
0
0
8
.
l
o
30)特に旧ソ連時代には、ボリショイバレエ団のほかレニングラード、キエフにヨーロッパ有数
のバレエ団があった。
-1
3
8・
希望者の第 2世代前までの体重や体形までが審査対象とされ、日頃の練習はピア ノやカセ
ットを伴奏にレオタード姿で練習が行われる点などが一例であろう 。
そのようなグローバル化の影響が、無名であったドラ.
ーン ・メシュラップが注目さ れ
、
専門家と楽師との意見の相違により、小オアシスのメキットで露わとなったと言えよう 。
第 6節 観 光 化 政 策 の 影 響
上記のようにメキットで、 ドラーンの音楽をめぐり、演奏形態や空間の変容、人びとの
認識の変化、伝承してきた者と養成された者との「専門性」の現象が浮き彫りになった。
こうした中、アクスのアワット県でも、メキットとは異なったドラーンのダンス ・スタ
イルが鑑賞で、きるということを全面的にアピールし、外に発信していこうという動向が見
られる。アワット県はメキット県よりもさらに観光客の間で知名度が低く、「アワット ・
ドラーン」も今日まで表立つたもので、はなかった。これを提唱するため、新たに伝承する
ための歌舞団や養成施設をシステム的に創設させ、大々的な宣伝活動を行った
(
図 8)、(図 9。
)
図 8.アワット県にて設立されたドラーン
歌舞団 ・文化館。
メキットのドラーンの踊りと異なり、
回転はちょうどロボ ッ トのよ うに角張っ
た動きで回る 。
図 9.
アワットのドラーンメシュラッフ。
メキットのドラーンメシュラップのよう
に、皆で円障をつくるというパターンは
アワットのドラーンの踊りには含まれて
おらず、回転のみで終了する 。
・1
3
9-
その結果、今日、アワット県ではサービスカと啓発作用の例に挙げられ、民族文化の市
場化、商業化の発展の一途を辿るまでに至り、メキット県を凌ぐレベルにまで、になったと
される。メキット県との大きな違いは、アワ.ット県の場合、強力な推進を通してドラーン
.メシュラップの商標をコントロールすることよって、ブランド製品としている点である。
アワット県のこうしたアピールは民族文化の市場化と商業化を踏まえた上で行われた口
しかし、そのアワットのドラーン・メシュラップの内容としては、大規模な祝典的な形
態となっている。これは、踊りのスタイルや演奏は原形を留めるものの、外国人向けより
もむしろ中国国内旅行者を意識して制作されたものと考えられる。ここでもまた、半ばシ
ョー的・祝典的な規模のものが増え、農民の素朴な踊りよりも、プロフェッショナル的な
)
踊りの方が、観光客向けには披露される傾向にある 31。
アコースティックな楽器で飾り気が少なく、素朴性・大衆性を好む外国人観光客に対し、
発展をスローガンに掲げている中国では、内陸から来る観光客は、プロフェッショナノレ性
と衣裳や舞台に見るショーアップされた装飾、美しさや発展度の方を好む傾向がある。ま
た、ウイグル人も、素朴性を好む一方で、日常の服装や VCD の画像に至るまで、原色を
好み、漢族もまた同様にカラフルなウイグノレ衣裳に関心を寄せる。しかし、外国人から見
れば、過度なまでの原色で彩られた装飾やステージ、明らかに加工され、配色のバランス
を無視したフレームで縁取られた記念写真などは、逆に興醒めの材料となる D そうした、
価値観の差が、漢族側と外国人側の趣向であることを、現地住民たちはまだ深くは認識し
ていない。
こうした観光対策に関し、阿布都沙技木(アブドサラム)は、メキット県が「ドラーン
・メシュラップへの商業化が消極的で、政府が統ーしている一部署としてのシステムも形
成されていない。よって、メキット県全体の文化管理者は、依然として計画段階時の管理
理念のみに留まっており、外来者が求めるニーズに対し、アワット県の市場化よりも受動
9
3
)
0
的で遅れている」と述べている(阿布都沙技木, 2007:2
また彼は、「かつて注目されなかったメキット県のドラーン音楽が国外でも知られ、農
民楽師たちが国際的にも名声を受けるまでに至ったゆえ、メキットのドラーン・メシュラ
3
1)しかし、メキットが外国の旅行社のツアー・プログラムに入れられているにも関わらず、観光化が、
より進んでいるとするアクス・アワットをツアー・プログラムに入れている外国旅行社は依然として皆
無である。これもまた、発展的かっ積極的に観光化を促進したアワット県の方が観光政策としては最善
という、外国人からすれば中国側の大きな勘違いを裏付けた状況であろう。
回
1
4
0-
ップに関しでも、現在の社会現実からして市場化は不可欠であり、受け身であるよりも、
市場の参入と利用により、外へ向けて積極的に発展の活路を求めるべきである」と提示し
9
3
)0
ている(阿布都沙技木, 2007:2
上記の内容からは、かつて地域社会内で、演じられてきたメキットのドラーン・メシュラ
ップを適切な市場を探して、外へ向けて商品化で利益を得ょうという経済発展の促進の傾
向が見られるロそして、その背後には行政による観光の商品化や市場化および観光政策が
窺える口
ホブズボウムら( 1992)は、伝統や文化に関し、行政や観光客など外部との関わりの中
で創られたと述べている。これに対し、中川は、「行政や観光の動向に対応を迫られなが
ら、創造しつつ継承するとしサ相矛盾した 2つの志向性の両立策を模索している J と論じ
)0 メキットのドラーン・メシュラップにおいても、今日、同様の
ている(中川, 2006:4
模索や、外国人のニーズと中国行政側の観光政策の不一致が窺える。
第 7節観光形態の変化とホスト&ゲストの関係
このような政策に対し、メキットのドラーン農民楽師たちは、どのように考えているの
であろうかロウイグル人には、「ミフマン・ドスト」という、来客の折に食事や踊り、音
楽で客をもてなすという習慣が、今なお残っており、それは前述の楽師たちの聞き取り記
述でも明白である口
確かに、舞踊団員がともに踊ることでの不一致や、文化局の対応に、若干の疑問を感じ
ているものの、ドラーンの農民楽師たちは、観光客であるゆえに、サーピスを行っている
わけではないと言う。
そうした歌や踊りに対する、ウイグル人の心情や認識は、 ドラーンメシュラップの楽師
たちの言葉に凝縮することができる。
お客さんがいなくてもヲシらは楽しむことができる。お客さんがいて、楽しんで
もらえたら尚更嬉しい。大事なのは、誰であれ、どこであれ、ワシらは歌い踊ること
に楽しみを感じていることだ。そうでなければ、誰も喜ばないだろう。ワシらも自分
国
1
4
1-
たちが楽しめない演奏はしたくはない mロ
だが、こうした「もてなし」の習慣としての踊りや食事は、各国各地にもある D 小長谷
は、モンゴルの「もてなし」としての「うたげ」の歌で、接客時にはレトリックや技法と
9
9
1:1
9
3
) こうし
して家畜類を歌詞に盛り込んでいることを例に挙げている(小長谷, 1
0
たもてなしの習慣は、ウイグルに限らず、飲食とともに音楽や歌などと結び、つくことは少
なくない D その結果「ホスト(受け入れ側)とゲスト(訪問側)」の相互関係が成立する。
.スミスの著した中で、詳細に取り上げられてい
「ホストとゲスト」とは、バレーン, L
る。この中でスミスは、観光形態を 5種に分類し、その形態によって人びとが仕事と休養
の狭間の転換時に、あらゆる新たな局面で生活エネルギーの再生産を見出せることを主張
している。
スミスの言う観光形態とは以下の 5種である。
1
)「少数民族観光」
この形態は、「土着の人びとや時として異国情緒をもっ人びとの習慣J が「風変わり
でおもしろしリという理由で、売り込まれるものである。たとえば、地元の民家訪問や
舞踊、儀式見物、素朴な工芸品や骨董品の買い物も含まれる口この形態の傾向としては、
既に観光化されてしまった所を避け、好奇心に駆り立てられた小単位の観光客が主体と
9
9
1:6
)
なる。この場合、ホストとゲストのインパクトは小さくなる(スミス, 1
2
)「文化観光 J
この形態は、人びとの心の中に残る家屋・手織りの織物、馬や牛車、手作りの工芸品
など、消えてしまった生活習慣のなごりの絵画的な美、民族芸能鑑賞など、地方色の豊
かさを求めるものである。この形態は、田園農業地域でリゾート観光客が容易に訪問可
能であり、興味の対象物となる農民の生活や撮影だけの目的ゆえ、非常に多くの観光客
が入りやすい。しかし、ホストとゲストの関係では、最も大きなストレスが生じる。
3
)「歴史観光J
この形態は、過去の歴史的な記念碑やモニュメント、遺跡や古城などをガイド付きで
巡回するものであり、かつての教科書や歴史上のできごと、短編ドラマなどを特別な演
出でコンパクトに見てまわるものである。歴史的観光は教養指向型の観光客が主体であ
32
)聞き取り実施: 2
0
0
8
.
1。
-1
4
2・
り、ホストとゲストの関係は人格より建物などが対象となるため孤立的な傾向がある。
4)「環境観光」
この形態は、少数民族観光に付随する傾向にあり、異国を経験することを目的に、遠
隔地へ送り出す形態である。旅行者は物質的文化がどのように環境に適応しているかを
知ることが可能である。この場合のホストとゲストの関係は多様かっ広範で、地域によ
り評価が異なる。
5)「レクリエーション観光」
この形態は、「そこへ行きたい」と思わせるような美的でリゾート感覚なもので、リ
ラックスと自然、それに付随しスポーツや日光浴、一流のショーなどを主体とした娯楽
的なものである。この場合、ホストとゲストの関係は、上記と同様多様かっ広範で、ある
が、輸入労働力や季節性、土地価格や移転などの影響がある。
このスミスの観光形態に新華とドラーン・メシュラップを観光の変化を考察する。まず、
新彊における観光形態は、主に「タクラマカン沙漠横断ツアー」や「仏教遺跡ツアー」な
ど、「歴史観光」と「環境観光」が主体で、あった
)ロこれは、中国改革・解放後、外国人
33
が入覆しやすくなったことと、 NHK テレビ番組の「シルクロード・ブーム J の影響が起
因している。
1980 年代半ば、新語が外国人に解放され、 1986年頃より旅行社によるツアーも開始さ
れた
)。当初は、まだウノレムチとカシュガノレのみが解放区で、あり、許可証も必要であっ
3
4
9
8
.
6年は、中国と
たが、次第に他のオアシス都市も開放されるようになった。ちょうど 1
パキスタンの国境も開放され、団体ツアー参加者は中国を越え、パキスタンへも観光が可
能となる。
1990年代に入札新彊を訪れる外国人の団体ツアーは増加し、特に一時期は、新彊へ
の観光客数は日本人が最多を占め、バザールへ行けば必ず「ヤボンルックマ?(日本人
か?)」と聞かれるほどで、あった。 1991 年から 2003 年頃までは、そのように日本人を中
心に欧米系の団体ツアー参加者が増え、同時に外国語を話せるガイドを目指すワイグル人
3
3)協力: JTB、近畿日本ツーリスト、日本旅行社、風の旅行社、西遊旅行。
34
)以下の経緯は、国際天馬旅行社の日本語ガイド Y と、カシュガルの旅行社 2軒に所属するガイド 4名
、
9
8
0年代より新彊で留学や一時居住していた日本人ら
および JTB、近畿日本ツーリスト、風の旅行社、 1
からの談を元に記した。各自の談における年代や経緯に不一致はなく、有用なデータと判断した。
帽
1
4
3-
らも増加した時期である。
j
しかし、シルクロード・ブームが去り、現地の観光を望む人びとの年齢層も、今日では
高齢化し、過酷な自然環境ゆえに、上記のような形態の観光は難しくなってきた。
さらに、今日に見る開発や街並みの撤去により、交通事情は以前より良好となったもの
.
5事件以後、渡航危険度が上がり、
の、外国人観光客には物足りなくなった上、 2009年の 7
観光客のキャンセルが相次いだ。現地の観光客を扱う旅行社やホテル、土産物店の人びと
は、困窮に苦しむこととなる。
一方、上記とは対照的に、日本の経済不況とともに、旅行社の団体ツアーを希望する参
加者よりも、個人で訪れるパックパッカーや少人数での観光客が新彊を訪れるようになる。
その要因は、ひとえに国における経済状況の変化である
)。高価な費用を払い団体行動
3
5
を余儀なくされる団体ツアーよりも、低価ながらも、ある程度新彊を訪れる費用には足る
という若者らが、自らのニーズに合った旅行を行うようになっていったのである口
こうして、新彊における観光形態は 1990年代より徐々に変化し、 2000年代には遺跡や
沙漠よりも、街並みや人びとを見ょうとする、「少数民族観光」「文化観光」の形態が見
られ始める。旅行社も今日の新彊の動向で対策を練っており、これまでと異なった視点か
ら新彊の観光を見ようと働きかけた。そのツアーの一環として取り入れられたのが、「小
さな村めぐりメキットのドラーン・メシュラップ鑑賞」を盛り込んだツアーコースである。
その口火を切ったのは、まず日本の K社で、 2004年からメキットをツアーに入れてい
る
。 2007年には、他の旅行社も相次いで、ツアーにメキットを導入しはじめた。新彊の
観光都市では以前より、ホテルの一廓で観光客向けの舞踊ショーも行われていたが、あく
までシーズン中のみであり、ホテル増設のため取り壊された。したがって、民間の農民楽
師を主体として、歌舞芸能を観光として導入したのは、新彊において、メキットが最初の
ことである。
さまざまな悪条件が重なり、観光客が減少した新彊で、メキットのドラーン・メシュラ
。
)
ップは、住民らの認識を変えるだけでなく、観光形態の変化の契機ともなったのである 36
3
5) こ れ ら の 情 報 や 動 向 は 、 実 際 日 本 人 個 人 観 光 客 と 接 し た 日 本 語 現 地 ガ イ ド Y 氏の実体験
によるものである。彼の所属する旅行社では、個人での航空チケット手配もまかない、パ
ックパッカーにチケット請負のみも引き受けているため、そのリストアップされた情報よ
り、確認することができた(聞き取り実施: 2010.1.10。
)
36)2010年 9月には、筆者と K 社 の 間 で 、 新 彊 各 地 の 音 楽 や 芸 能 を 主 体 に し た ツ ア ー も 遂 行
されることとなる。
-1
4
4-
以下の新義における観光形態の変化過程を、中国の動向や音楽事情とともに、観光と
しては以前より盛んである地域と照らし合わせる D 観光と伝統芸能に関し、よく比較され
るのは、インドネシアのパリ島の伝統芸能をめぐる研究である口文化人類学者ギアツの名
著『ヌガラ』( 1990)など、 1960 年代よりフィールドワークにて研究が多数成され、以降
も多岐にわたって考察が行われている
37)。また、パリ島は新彊と同様、観光産業に積極
的な地域で、これは 1969年のデ、ンパサール国際空港の大開発に始まり、 1970年代以降、
。
)
本格的に観光開発が始まる。この開発でインドネシアは世界的な観光地へと成長した 38
そうしたインドネシアの伝統芸能の研究や観光化・グローバル化の進行とウイグルの芸能
の諸相、日本の経済状況や観光事情を照らし合わせたものを(図 10)に示す D
さらに、メキットにおいて、高額に手数料を徴収していた仲介者である文化局の位置づ
けと、楽師、観光客などにおける、ホスト&ゲストの関係を以下の(図 11)に現す。
これらの図より、メキットのドラーン・メシュラップは、外来者が当地へ来る場合と、
楽師が外へ出る場合とでは、ホストとゲストの立場は逆となる c この場合、文化局が仲介
を担うが、今日になり、大幅なシステムの改訂が行政によって制度化されるようになった
(
図 10中太矢印部)
0
これにより多様なシステムのパターンが見られるのが特徴である
まず、 ドラーン・メシュラップにおいては、同集落内周辺の住民との関係では、ホスト
とゲストの関係は成り立たない
D
これは、あくまで、集落内で、かつてより習慣的に行われて
いた名残と考えるべきであろう口前述したように、音楽が鳴り出せば、近隣住民は自発的
に音と踊りのある場へやってくる。この場合、近隣住民にも楽師にも収益は無く、儀礼や
行事の一環として彼らは認識し、ドラーン・メシュラップを行っている口
しかし、集落以外、たとえば他のオアシス地域から来訪したウイグル人たちに関しては、
「客」と扱われ、「もてなし」としてドラーン・メシュラップは演じられる。この場合、
来訪者は同種として、果物や土産を持ってくるという日常からの相互交換が成り立ってい
る。そのため、金額は発生しない。楽師も「遠方から来た同月月」としてもてなし、純粋な
ホスト&ゲスト関係が成り立つ
D
3
7
)論文検索としても、「パリ 芸能」 1
9
4件、「パリ観光Jで 372件、「パリ 芸 能 観 光Jで 7件、「パリ
芸 能 変 容 」 で 2件。このうち社会学や、民族音楽学、観光学などの研究で、 1
9
5
0年代のものも散見される。
これに対し、ウイグノレは「ウイグル芸能j だけでも 2件、「ウイグル芸能観光」や「ウイグル芸能
変容」は 0件で、 2000年代になって初めて論文として見られる。
38)情報提供:風の旅行社、近畿日本ツーリスト、 JTB。
-1
4
5-
図 10. 新 彊 の 情 勢 ・ 芸 能 ・ 観 光 形 態 を め ぐ る 相 関 年 表 図 ( 筆 者 作 成 )
新護の
音楽事情
中回全体の
動向
日本の経済と
新義の
鵠光事情
新穏における観光事情
インドネシ?の
観光事情(例)
文化大革命
1970年代
改革・開放政築
文化観光
シルク口・− f
.ブーム
1980年代
歴史観光
ー新謡、外国人!こ開放
光
観
桜
民
数
少
民間音楽の媒体化開始
1990年代
十
・VCDの普及
−日本人観光客最盛期
2000年
西部大開発計画
F
ν小 ツ
.新たな地域民間音楽の
繰体化
1
2
0
0
8年
2009年
2010年
北 京:
I
f
'
リ
ン
ピ
ッ
フ
ワ5事 件
・
8本人
jパッヴ』
,
/ .,AVJ平 伺 1L
ゆ.
1
1で観光客減少
−ドラーン観光開始
・新たなVCDの発発むし
VCDの発売持関
ー
−観光客激減
仏教遺跡ツア}が主体
環境観光
会ヲラマカン砂漠ツアー
イリ岨ハナス湖観光
経済不況
・
:
・
’
?
−韓国人観光客が
日本人鶴光客を上回る
歴史観光
E ゆ寸−,
.回惇ツアー開始
・中パ国境問披
場カセットヲト山ブ
:
文化観光
ドラ…ン蟹賞−
~数民接観光|民イヒ訪問厚
文{七観光
ドラ·»·•·ン絵画・
トJl-77
ン葡萄祭りなど
;
(リクリエ}ション!
!
観光
I
外から|
方へやって来るスタイル
ゲ ー ス ート
外国人 !
| 中国国内
研究者 11 研究者
中国圏内 i 中国圏内の
の文佑紹介 T
文化紹介
公的行事・
祝典
文i
じ紹介
研究対象
、
時一
の
的問 一
組問
制民
極端 一
1 2一
師住
J
﹂楽
一
ウイグル社会
一
1F
ね一
ン
回
一
二
聞一
ラ楽 一
良 一
スb
ド民 一
q穫の歓迎
としての行為
図 11
. ドラーン ・メシュラップをめぐるホストとゲストの相関図.(筆者作成)
しかし、観光客や外国人研究者の場合、ツアーの人数や現地ガイドのコネクションによ
り、文化局経由か直接楽師の民家へ行くか、経路が 2分される。中国人研究者の場合、調
査団という形で訪問するため、直接楽師の民家へ行くことは容易い口これらは、楽師たち
からすれば、自らの文化を中国や外国人へ紹介できるというメリットと、研究者としては
貴重な研究成果として、観光客としては新彊の中でも独創性ある文化を垣間見られるとい
うメリットが相互に成立するためである。ただし、文化庁経由の場合と、直接民家訪問の
場合では、以前ではコストも徹底されず、外来者(ゲスト)からすれば、ホストは文化局
か、楽師そのものなのかが唆味であった。
一方、楽師たちが、ウルムチや中国内都市部、海外公演を行う場合にも、ホストとゲス
トの関係は逆となるものの、システムは唆昧であった。これらのシステムには必ず、政府
や地方の行政が、絡んでくる。そのため、直接楽師たちにゲストとして依頼することは不
可能で、あり、やはり文化局が仲介者 ・ゲストであり、それを通じて楽師たちが招聴される
というシステムであった。
また、一般の農民である楽師のみを海外へ送り込むことは、中国では容易ではないため、
-1
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限定された招聴人数のうち、半分以上はプロの歌舞団員や政府高官などで、あった。対外進
出のための報酬も文化局がまかない、楽師たちの報酬は上記と同様、一部であった口 ここ
でも楽師たちは海外へ行ける絶好の機会と、 .
自らの文化紹介ができるというメリット、そ
して海外や行政としては、これまで鑑賞が難しかったドラーンの演奏を実際に見られ、強
いては海外に対し中国の文化紹介の一環としてのメリットが成立していたため、国際披露
や政府の公的行事・祝典として遂行されていた D
しかし、文化局の対応で楽師への報酬が、観光化される以前とほぼ変わらない上、多忙
のため、楽師たちの本業である農耕作業にも負担を来す結果となってしまった。
そこで、行った行政の対応としては、楽師への報酬を定額化させ、文化局を通しでも、一
定の報酬が楽師ら入る制度を設けた。その結果、今日ではメキットの楽師たちの生活も安
定してきていることは、家の改築などから窺える。
また、上記の報酬は同集落内でともに踊りに参加する貧困家庭や、楽師同士で分配しあ
うという、良好策が見られるようになった。同時に多量な歌舞団員との共演は最小限の人
数に留められ、今日では歌舞団員内でショーとして、あるいは洗練された「芸術」として、
別活動を行っている。
楽師たちの談では、どの場所 ・立場においても、演奏することに喜びを感じていると筆
者は聞いていた。 しかし、上記の対策を考えた場合、当人たちでは見えない部分で、行政
や政治性のコントロール、そして単なる「もてなし」ではないホストとゲストの対照的な
関係が成立していることになる口
「ドラーン・メシュラップ」において、以前と変わらぬ点は、踊りたい時には踊る D そ
れが政策の下で、あっても、機会さえ許されれば、音楽を楽しむことに対し拒否をすること
はしない口それは、むしろ歌や踊りを職業としている歌舞団団員やプロフェッショナル以
上に、民間人である人びとの方がそうした欲求と楽しさをより強く求めているだろう D
スローガンや政策の材料に利用されやすいウイグルの歌・踊りであるが、もう一方の重
要な側面、すなわち音楽としての本質や、音楽に対する人びとの認識を無視して、全てが
政治的側面のみに基づいてマイナスに動かされているかのように解釈している反中的思想
の人たち考えは極論である、と筆者は考えている D
第 7節 小 括
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以上、 ドラーン・メシュラップのパフォーマンスにおける変化を考察したが、大きな変
化としては、まず他のウイグル人のドラーン人に対する認識を変える契機となった点であ
るc また、一般の農民楽師とプロフェッショナルイじした歌舞団の存在は、リズム感の相違
や、ウイグル人のプロという概念に変化をもたらした口さらに、何より、民間人である楽
師が海外へ出たり、観光用としてツアーに盛り込まれたことは、新轟内では初めての試み
であり 、これによって、観光形態が変わる契機となった上、ホストとゲストの相互関係に
多様性をもたらせた
D
模索状態で、あった観光用の演出方法も、今日では定着しつつある。カシュガルのウイグ
ル・レストランでも内地からの観光客が増え、その折にドラーンの踊りも披露されている。
この場合のドラーンの踊りは、舞踊家の集団によるショーアップされた中国人向けのサー
ビスとして踊られ、華やかな衣装を纏った男女複数が、「美しさ」を見せるために、元来
の 4パターンのステップにはない高度な技法や、 1つのストーリーとも言える所作を展開
させている。
しかし、そのようなショーアップされた模倣的かっ創作的なドラーンの踊りにおいても、
やはり 4パターンの展開部においては、次にどのようなステップを踏むかという過程と所
作は削除されていなし、。これが、観光化における再構築された踊りにおいても、踊りの核
のる要素は遺されている証拠であり、各地で行われるドラーンの踊りでもその核は見られ
るc また、筆者がレクチャーにて注目した核となる所作とも合致している。
ドラーンの踊りは、卑下された時代から珍重されるまでに至るまでに、外的な影響によ
り、幾度となく演出方法の変化や、彼らに対する価値観の変化を余儀なくされてきた。し
かし、常にどのような形態であれ、農民楽師たちは否応無しに演じてきたわけではない口
今日では、その継承者をつくるために、メキットも舞踊学校を設立したが
美しく見せ、洗練された訓練場となっている
D
39)、やはり
しかし、一方で高齢となった楽師たちは孫
たちに孫の玩具として楽器を与え、日常から楽器を身近なものとしている。叩き方も訓練
ではなく、遊びとして叩かせるようにしていた。
楽師たちが演奏を始めるため、孫から太鼓を取り上げようすると、孫は床にうつぶして
号泣しだし、その光景からも楽器への愛着が伝わる。しかし、演奏が始まると孫も大人顔
負けの踊りを即興で行い、同じ発声を真似しようとしていた口孫の踊りも即興であるもの
39)聞き取り実施: 2009.9
。 メキット文化局長ムタリフ氏へのインタビューより。
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の、やはり 4パターンの要素が含まれ、最後の回転の折には転んで再び泣き、周囲からあ
やされていた。
そのように、声帯を損傷するかと思われる発声法や、倒れるほどの回転も、サービス精
神や誇張したパフォーマンスではなく、本来ドラーンの踊りそのものがパフォーマンスで
あると解釈すべきであろう。
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